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異邦人
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異邦人の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.43pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全223件 61~80 4/12ページ
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短い簡潔な文章を畳み込むように続けていく本作品は、読んでいて面白かった。内容に関しては賛否両論があるかもしれないが、芸術作品としてみた場合、評価できるのではないかと感じた。いずれにしろ、この様な小品で、大きなインパクトを世界に与えたカミュの才能に敬意を表したい。 | ||||
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自分の文章力の理解のなさなのかもしれないですが、思っていたよりも主人公が狂気じみてなかった気がしました。無宗教が多い日本人にとってはなかなか面白い作品だと思います! | ||||
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この小説は、主人公・ムルソーの母親が死ぬところから始まります。ムルソーは母親が死んだ日付や母親の正確な年齢を覚えておらず、母親の死に対して動揺しません。ムルソーは葬儀の翌日にマリイという女性に再会しますが、マリイに対して性欲を覚えるものの愛してはいません。レエモンはムルソーのことを仲間だと思っていますが、ムルソーはレエモンとの関係をどうでもいいと思っています。ムルソーは神を信じず、野心や結婚に意味を見出だしません。ムルソーは、冷淡で無関心な人間として描かれています。 「(中略)私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。すべてが終わって、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった」(pp.156-157)という格調高い文章で、この小説は幕を閉じます。 ムルソーは、他人や世間一般の価値観に対して無関心な人生を送りました。ムルソーは独房の中で、「無関心な人間である自分」と「自分に対して無関心な世界」が両方とも「無関心である」という点で近しいことに気付くのです。ムルソーは無関心な人間であるからこそ、自分に対して無関心な世界に対して親密な思いを抱くことができたのです。このことは、ムルソーに幸福をもたらしました。 そしてムルソーは、「世界の優しい無関心」だけでなく「人々の憎悪に満ちた関心」すらも得ようと欲します。ムルソーは殺人を犯したことにより、人々の関心や憎悪を集めうる立場になりました。ムルソーは世界と人々、優しさと憎悪、無関心と関心を一身に集めることができる特権を得たのです。ムルソーは特異な人間ですが、すべてを一身に集めることができたので、断じて孤独な人間ではなかったのです。 | ||||
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恋人に愛しているか、結婚したいかと問われ、主人公ムルソー「どちらでも良いことだが、おそらく愛していない」「何の重要性もないが、望むのなら結婚しても良い」。では、他の人から求婚されたらどうすると聞かれ、「おそらく結婚する」。上司にはパリへの転勤を打診されて、「どこで生活していても変わらないし、現状に満足している」と答える。鼻白んだ上司は「君の話はいつも傍にそれる。野心がない」と不本意な表情で呟く。ここまで極端ではないが、思いも寄らない事を言ってくる人は結構身の周りにもいる。今だったらコミュニケーション障害とレッテルを貼られるかもしれない。多様な個性に価値があるとされる現代だが、こういう人が生きづらいのは確かだろう。周囲に同調する事なく存在の孤独からも救われるために、ムルソーは公衆の憎悪の目に晒されながら死刑執行に向かう事を夢想する。鮮やかな情景描写、端的で秀麗な文章スタイル、ずっしりと心に残るストーリー、今後も読み継がれるべき名作だと思う。 | ||||
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わ~ん、ママソが氏んじゃったよ~でも何も感じないやw。仕事休めてラッキー。そーだ、ついでだからワイに好意を持ってるまん様がいるから海でも誘って口説いちゃおう~っと。ママソが氏んだって言えば母性本能出して甘えさせてくれるやろw。こんな感じの冒頭から始まり、すったもんだありゴタゴタに巻き込まれ上級国民だったら無罪になるが、下級国民だったがゆえに厳罰に処されてしまった人間の矛盾、不条理をついた物語です。 | ||||
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意外と評価が高いのは、名声に引きずられていることもあるだろう。正直、小説家としては、お世辞にも上手い語りとは言えない。文章は、ぶつ切れで、流れも悪い。哲学書として見ても、当時としては確かに哲学的価値もあり、輝いていたであろうが、現代のように多彩な角度から深く探究される世にあっては、不条理の提示など当たり前すぎて古臭いとしか言えない。しかし、そうはいっても、このカミュという人、なかなかの策士である。初発の弾丸はさておいて、さらに動かぬ身体に4発の弾丸を撃ち込んだのは、さすがにリアルな想像力が必要である。ここにおいて読者がいかにムルソーになりきれているかどうかが試される。 | ||||
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人間の矛盾、不条理を突いた作品になっています。 最初見た時は何言ってんだこいつ状態でしたが、段々考えていくうちにとても深い小説である事に気付きました。 人を殺すのは悪とされているが、その人を殺せば何千もの生物の命が助かります。だが人間はそれをしようとはしない。それは人間であるから。 主人公以外の全ての登場人物は人間です。 主人公は側からみれば狂人であるが、彼の行動はいたって正常である。 人は理性や常識の正しさに囚われ、思考や行動をしている。 しかしその理性や常識は果たして本当に正しいのか、人間はどうしても一貫した正しさ認める事ができない生き物なのだなと思いました。 | ||||
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本作はフランスの小説家で哲学者であるアルベール・カミュが1942年、一躍世に知られる口火を切った出世作である。 本編は第一部と第二部とに分かれ、世評としては人物の交錯入り乱れる第二部に多くの解釈が寄せられている。 主人公のムルソーは俗に言う感情的な人物とは程遠い存在である。母の死を知るも、動じることはなく、習慣的日常を生き、しばらくすれば恋人とバカンスへと赴く。そんな彼が一人のアラビア人を銃殺してから場面は戯曲的たたみかけへと進んでいく。 タイトルでもある「異邦人」が意味するところのものは、‘自由’である。もちろんそれは精神の‘自由’である。 「異邦人」とは単に社会的マイノリティーであることを意味しないのだ。 第一部とは対照的に、第二部で逮捕されたあとムルソーは名も明かされない弁護士や判事、検事、司祭たちと対峙する。これは特定の登場人物ではない、社会的構成員との対峙である。 社会という不条理、自己を束縛する道徳、それら精神への楔に対する反抗的自由意志の中に、‘エトランジェ(無縁)’の意味が含まれている。(ムルソーはそれを「優しい無関心」と表現する。) 最終盤、憤慨するムルソーはまるで『シーシュポスの神話』で掲げられた標榜である「今ある現実を意識して見つめ続け、それに反抗し続けよ」を実行するかのようである。 自由意志を根源に添える作品は数あるが、本作が世に出た当時から今に至るまでこれほどまでに反響を呼び起こした作品は多くない。 そこには、本作が持つアメリカ文学的な事実描写への徹底、これが、想像以上に作用していると思われる。 (ベルナール・パンゴーは『カミュの「異邦人」』の中で「カミュはこの技法をどこで学んだのであろうか?おそらく、ヘミングウェイからである」という指摘をしている。) 『シーシュポスの神話』で、カミュは「描写すること、これが不条理思想の最終的野心である」と述べている。 芸術作品としての『異邦人』に求められた側面は、あえてムルソーの内面を主張しないことにあった。 ただただ客観的事実を描き、大仰な形容詞は避け、小刻みにされた文が並んでいる。 その描写は決定的な文脈や背景を持たず、いくつもの解釈を可能にさせている。 カミュは客観性の中に「意味の欠落」を見出していたのである。 意味を持たない世界、それこそがムルソーが対峙することになる社会であり、えぐり出されたリアリティーの立役者だった。 意味を描くのではなく、意味を描かないことで、‘自由’の意味を浮き上がらせたかったのだろう。 しかし一方で、本作には‘自由’とは異なる別の価値を、カミュは盛り込んでいる。 「人間は全く不幸になることはない、とママンはよくいっていた。空が色づいてくるときや、暁のひかりが私の独房に忍び込んでくるとき、ママンの言葉はほんとうだと思った。」 「田園のざわめきが私のところまで上って来た。夜と大地と塩のにおいが、こめかみをさわやかにした。」 カミュにとって大いなる自然こそが、真に生きる幸福を与えてくれるものだった。 また、反抗の動機とは、生きる意味を抑圧する市民社会から、自身の精神を守るためでもあった。 この根本精神は、後年の『追放と王国』でつまびらかに綴られていくものであり、本書ではその兆しが垣間見える。 | ||||
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現代の問題にも置き換え可能な、”不条理”を問う名著。殺人の動悸を問われ、答えた言葉はあまりにも有名。私は悔し涙が浮かんだほどである。 私は子供(赤ちゃんも含め)があまり好きではない。苦手だ。でも世の中には、「子供が嫌いな人間は、愛情が欠如した冷たい人間だ」という強力な社会通念がある。そして世の中から “心の冷たい人間”というレッテルを貼られる痛手を負いたくないなら、子供が苦手な人間は子供が好きなフリ(お芝居)をするしかない。好きなフリをすれば、ぎりぎりセーフ、しなければシャットアウト。はたして、子供が苦手という感覚が不条理なのか?それを非人間的だとして排除しようとする社会通念が不条理なのか? この世間の“シャットアウト”を自ら証明したのが、「異邦人」の主人公ムルソー。母親が亡くなって埋葬したとき、ムルソーは涙を流さなかった。それから日を置かず、灼熱のアルジェリアの海岸でアラビア人を銃で殺害、裁判で殺人の動悸を問われ「太陽のせい」と答える。嘘を拒否し、一切の救済を求めない。彼にとって「嘘」は殺人以上の大罪なのだ。確かにあの、焼き尽くされそうな炎天下での殺人場面の文章を読んでいると、魂まで焼き尽くされるんじゃないかと思うほど頭がクラクラする。あのアルジェリアの太陽は、狂気を呼び起こすには十分な強烈さがあったとは思う。でもそれは、”究極の正直者”がついた、”究極の嘘”かもしれない。 そして検事は「母親が亡くなったのに涙を流さないような非情な人間が、“太陽のせい”として殺人まで犯したのだから、躊躇なく死刑を求刑する」として、判事も陪審員も死刑を決定してしまうというという話。無茶苦茶な論理だと思う。 絶望と希望が、こんなに近い距離にあっていいのか、と思った。そして最悪、世の「異邦人」は、フリをして世間に救済を求めるか、社会通念で追いつめられる覚悟をするか、どちらかだと思うと怖い。 | ||||
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高校生の頃に読んで感銘を受けた本。最近ある番組でカミュが紹介されたことがきっかけで、懐かしくてつい購入してしまった。若い頃に読んだ本を大人になって読み返すと、当時とはまた違った側面から作品を捉え直すことができるのが面白い。手元に置いて何度も読み返してみたい。 | ||||
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最初の方は聞いていた評判と違い全く意味のないクソ小説の様にしか読めなかったのですが、この無意味さこそが主人公が殺人を犯してから語られる人生観に繋がる序文であると理解しました。第一部は実際に意味不明ですが、第二部の後半は読み応えがあると思います | ||||
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最近は原文を書き直したGraded Readersの方は充実しており、私もちょくちょく手を出しては楽しんでいる。問題は、それでは物足りなくなった時の対応だ。私が学生の頃は注解本が充実していて、翻訳とこれら注解本と辞書を使ってオリジナルを読破する喜びを味わった。注解本は各社工夫を凝らし、注解を別冊にした英光社のものやペンギンブックスをそのまま使った英潮社のものなど達成感に拍車をかけるものもあった。文学作品が中心だったという点も懐かしい。英文に自己投影出来て楽しかった。カミュのこの作品は英国人Stuart Gilbertの古い英訳で親しみ、何十回も読み返した。Mahtew Wardの米語訳(?)は初め馴染めなかったが、これはこれでいいなあと思えるようになった。1箇所だけ注の間違いを指摘すると、140ページ14行目のfliesが「書類」となっているが「蠅」の間違い。1行目のfileと混同した単純ミスと思われる。 | ||||
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「わがことすべて終わりぬ」なんて言葉どこにも書いてなくね?解説どうした?それとも翻訳?なに?え、これも“太陽のせい”? | ||||
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主人公ムルソーとは「太陽」と「死」の合成語であるそうだ。 「太陽のせい」で殺人を犯し、死刑の判決を受ける人物の名としては 最適ではないか。 「太陽」は作中いくつもいくつも登場しては、その存在を知らしめる。 読んでいるだけで白くギラついた光に目が眩みそうだ。 古典であるし、仏文学であるし、読みやすいとは決して言い難い。 しかしムルソーの乾いた感覚、目線。死刑判決が決まってからの彼の 気持ちの移り変わりは面白い。 一読したい小説である。 | ||||
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息子の学校の課題図書として購入しましたが、結果読まずじまいだったようです。残念です。 | ||||
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語注も丁寧で、核心をついている。 また原文も比較的読みやすく、ペーパーバック式で、取り扱いも容易。 高校三年生であれば十分に読める。これ日本語訳も読めば、長文読解にはもってこいの本。 | ||||
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この小説は自身にとってトップを争うほどの名作である 主人公ムルソーの特徴として虚無的な点が挙げられる ママが亡くなっても、喪に服すことはしない 恋人にプロポーズされても、何の意味もなさない 人を殺しても、何も思わない このように彼は一般的(宗教的)に正しいとされる考え方ができない、行動を取れないのだ 裁判所で彼が問われる内容は殺人についてではなく、ママの喪に服すことをせず、葬式の次の日に女と遊びコメディ映画を見たといった道徳的問題である そして彼は理解不能の狂人と見なされ、アラビア人殺害の罪で本来よりも重い死刑を宣告される 殺人とはなんら関係のないところで彼は評価されたのだ これは現在の世の中でも似たことが見受けられる 芸能人や政治家の不倫問題は実際は彼らの仕事にさほど関係がない 我々は誰が決めたかも知れない礼儀やマナーといった社会のルールに準じなければならない そしてそれに従わなければ欠落した人間と見なされ社会の中では生きていけないのだ 世界はこの小説が書かれた1942年も2017年も一様な社会ままだ 一様であることも認めなければならないがいつになったら多様な社会になるのだろうか と思った次第である | ||||
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主人公の性格は少々私に似ている。 と思ったのは途中までで、中盤からは自分の命がかかっているのに、自分の行動や態度が投げやりすぎじゃあないか? 一挙手一投足に気をつけなければ絞首台は免れない局面だってのに、そこすらもだるそうに、他人事のように捉えている。 異邦人というよりも痴呆人というタイトルのほうがしっくり来る。 文学作品特有の臭いを文体から感じたが、あまり薫陶にはならなかった。 | ||||
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夏になると読みたくなる本の中の1冊。 古くなると買い替えたり…表紙も何度か変わりましたね。 できたら今度は kindle で出してほしい作品です。お願いします。 版権とか著作権だとか問題や障害もあるんですかね? 兄弟本のような「幸福な死」も好きです。 | ||||
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私達の社会はルールに溢れている。社会人にふさわしい身だしなみ、といった外見だけにこれは留まらない。肉親の死にふさわしい喪への服し方、結婚をせまってくる恋人への接し方、上司のお言葉への感謝の仕方、などなど時と場所に応じた気配りまでもが一定のルールに沿って決められている。内心では他の対応をしたいと思っていても、社会から爪弾きにされる方が怖いものだから、社会のルールに自分を合わせる。社会人生活は、正直の美徳とはほど遠いのだ。 本作品の主人公・ムルソーは、正直の美徳を選びすぎて、社会人生活が危うい人物である。木曜日に母が死んだにも関わらず、土曜日には新しい恋人をつくってしまう。葬儀と恋で慌ただしい週末を振り返って、「日曜日もやれやれ終わった。ママンはもう埋められてしまった。また私は勤めにかえるだろう。結局、何も変わらなかった」とひとりごちる。せっかくつくった恋人から結婚を申し込まれても、「それはどっちもいいことだが、マリイの方で望むなら、結婚してもいい」とありのままの心境を述べてしまう。上司が「こうした生活が気に入るはずだ」と出張の多いパリ栄転をすすめると、「どんな場合だって、生活というものは似たりよったりだ」と身も蓋もない答えをする。大人が絶えず気にかけてやまないような人情味あるいは気配りといったものが、どうもこの男は苦手らしい。挙句の果てに、友人の女出入りに関係して殺人までも犯してしまう。 「生きている」とか「社会の一員である」といった現実感覚に乏しいことが、ムルソーの最大の欠点だ。殺人容疑で逮捕され、予審判事の取り調べを受けていても、「以前こうした描写を書物のなかで読んだことがあったが、すべてゲームのように見えた」と述べる。母の埋葬の日は心苦しくなかったかと聞かれれば、「私は自問するという習慣がうすれてしまっているから、ほんとのところを説明するのが難しい」と返している。自分が自分であると感じられるような「ほんとのところ」、感情の内奥といったものをムルソーは掴みきれていない。 自分で自分のことがよく解らず、胸にぽっかりと穴が開いているようなものなのだから、裁判の席でもムルソーに当事者意識は生まれない。まるで他人の裁判を傍聴するかのような気分である。むしろ「自分が何か闖入者みたいに、余計なものだという印象」さえ感じてしまう。加えて、検事や陪審員たちも、ムルソーの心の「ほんとうのところ」には触れようとしない。むしろ、母の死の翌日に女と一緒におり、自己の犯罪に「太陽のせいで」という無意味な言い訳をしてしまうような、「心の空洞」を人々は糾弾する。ムルソーの殺人罪を裁いているのではなく、ムルソーが抱えている虚無的で世間一般とは異なる感覚を裁いている。社会が期待するような良心の呵責を述べず、自己の心中の空洞をあまりにも正直に告白するムルソーが理解できないがゆえに、彼を死刑に処す。ムルソーは心が空っぽなだけでなく、今や死までも宣告された。ここにあるものは絶望である。 それでも、たった一つだけ、この物語には希望がある。それはムルソー自身の死である。死という「ただ一つの宿命がこの私自身を選」んだということである。人はいつか必ず死ぬがゆえにその生が一度きりの貴重なものとなる。そして、いつかは必ず死ぬだろうという確信は、世間が何と言おうと揺るがない。一度きりの自分だけの人生、という確信が空っぽのムルソーの心中にようやく芽生えるのである。だからこそ、ムルソーには「全く生きかえったような思い」が生まれてくる。死までの日々に希望が溢れてくる。個人の感情が踏みにじられる社会の中で、自分だけの「幸福」を見出して、ムルソーの物語は終えられるのだ。 | ||||
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