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異邦人
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異邦人の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.43pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全196件 1~20 1/10ページ
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かつて読んだ本です。 私の中には、ムルソー的なものもあるから気に入って読んでいました。 最近、私に、 きょう、ママンが死んだ。 日がやってきました。 告別式、 参列者の中に、しきたりや、儀式、世間一般が大好きな人が居て、やりきれない気持ちになったのです。 御香典返しは、四十九日の後が常識であると言ってきたから… いろいろ考えて この本も一緒に贈ることにして、購入したのです。 貴方の中にも、ムルソーはいるかも知れないんだよ? レールから落ちないように上手く生きる人間は楽でいいよね… 夏はまだ終わらないし、うってつけ! 太陽は今日も輝き暑い。 | ||||
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我々が「異端」だと思っているものは、自分も持っているに見ないことにしてるだけなのかもしれない。 アルジェリアに住むムルソーは、ひょんなことから友人の女性トラブルに関わる。そしてトラブルの関係者を突如ピストルで殺してしまう。一発の銃弾で倒した後、倒れた身体にもう四発撃ち込んで。 ムルソーが殺人を犯すまでの前半はのっぺりと進んでいく。彼の母が養老院で亡くなったことも、かつての同僚マリイとデートして関係を持ったことも、仕事も、近所の人々との会話も、すべて同じ温度で語られていく。もちろん殺人もだ。前半だけ読むと彼には感情がないようにもサイコパスなのかとも思える。 後半は独房と裁判のパートだ。彼が収監され、裁判にて死刑判決を受け執行を待つ日々を書いている。 独房での生活にどんどん適応していって何にも感じなくなる様には、彼が独房という特殊な環境も前半部のような温度感で生きていけるようになったことを示唆している。 彼は自分の裁判を第三者のように淡々と眺めている。自分の話なのに自分のことを問われてる気がしないのだ。思えば弁護士や検事との会話が噛み合わなかったのも、彼らがそれぞれ裁判に勝つべく思い思いのムルソー像に彼を当てはめようとしたからだろう。 そして、司祭との対話を通して彼は己の感情をむき出しにし、死刑執行を待つだけの自分が幸福であることに気づき物語は終わる。 殺人に対する後悔の様子もなければ、自分は幸せだともいう。自分が助かろうと裁判を戦ってる雰囲気もしない。ムルソーという男はまさに「異質」だ。 だが、本当にそうなのか。 母が亡くなったとき、その死に顔を本当に見なくてはいけないのか。死の翌日に誰かと遊んで映画を見ちゃいけないのか。これらの行為をしないのは死を悲しんでいるのではなく、「死を悲しむ」ポーズをしてるのに過ぎないのではないだろうか。 裁判ではムルソーが母の死を本当に悲しんでいることが大きく問われていた。だが母が亡くなったときの振る舞いが殺人とどんな因果があるというのか。 検事や司祭は神を持ち出してムルソーに告白を迫る。しかし神を持ち出しさえすれば自分の思惑通りの言葉を相手から引っ張り出せると思ったら大間違いだ。 確かに外面はよくない。「なんとなく」やっておいた方がいい行為かもしれない。でもムルソーの振る舞いはその「なんとなく」の欺瞞を意図せず突きつけている。 仮に人を殺すことがなくても誰もがムルソー的な要素を持ち合わせているのではないだろうか。「なんとなく」よしとされているものは、実をいうと本質と関係ない。それらを欺瞞として拒否して思うままに振る舞う感情こそ、皆が心に買っているムルソーだ。 タイトルの「異邦人」とはおそらくムルソーのことだろう。しかし彼は本当に異邦の者なのか。仮に異邦だとしたら、我々だって異邦の感情は持ち合わせてるに違いない。 | ||||
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短いので気軽に読めるし、内容も濃い。 | ||||
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ムルソーの思考は自分そのもののようでゾッとした。その場その場の感覚に身を委ね行動する青年。実に素直な青年。自分らしくあることが世間様には受け入れられず死刑判決へ。社会的、また(当時の社会で)神を信じない宗教的異端者の物語。異邦人、という邦題だが、異端者、のほうがしっくりくる。 刑務所生活さえもその思考特性で幸福に変えられる。 今このときを大切にする人物か。 世間的には不思議な男、だが、私は親しみを覚えた。私も彼の言う死刑囚だ。世間様にとっては異端者かもしれない。 …愛する母親が死んだら、必ず泣かなきゃいかんのかね?必ず、深く悲しむものかね?愛してるが、その死への反応など、様々だろう?今、今この輝く太陽と海を愛して何が悪い。通常の論理的な一貫性が失われている男、などと背表紙の要約には書かれているが、私にはそうは思えない。 | ||||
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と、読み始めた。 なのに頁数の割に読み進めない。 始めて読むわけでもないのに。 40年ほど前、夏休みの読書感想文で妹から相談を受け "本が薄い=短いから"とヘミングウェイ『老人と海』を進めたら 皆、考えることは同じと見えて 《売り切れだった》・・・・と、替わりに買ってきたのが カミュの「異邦人」だった。今にして思えば『老人と海』だって決して感想書きやすい本とは言い切れないけれど、ど~せいちゅうねん⁉ 冷や汗流し流し読み込んで、自主上映の16㍉で観たヴィスコンティの映画の記憶まで動員し 青息吐息で書き上げた感想文。 先生からのジャッジは《むずかしい本をよく読みこなしています》だった・・・とか。 イロイロな意味で思い出深い一冊。また読みたい。 | ||||
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よく分からなかった | ||||
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この社会で死刑を宣告されるおそれがある…世間一般と同じ振る舞いが演技出来ない人間は弾かれる。ムルソーは死と太陽の合成語らしい。全く影を残さない真実の象徴である「太陽」。太陽のように純粋に生きた人間がこじれにこじれて「死」に向かう…社会的批判を感じる小説。身近な隣人が瞬間に罪人として処断されるてゆくような怖さを感じた。ちなみに自分もムルソー同様「朝、明るい夕べ、 灼熱 の午後」が好きだが、残念ながら演技ができてしまう小心者である。 | ||||
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読書好きのフランス人に薦められて読んでみた 物語としては悲惨な結末と言えるが、そこに含まれたメッセージはむしろ真逆のことを意味しているのかもしれない 夏のアルジェの空気感、登場人物とのやり取り、主人公の率直で冷淡な内面描写など、いつの間にか独特の世界観に惹き込まれ、なんとも言えない読後感の残る作品である | ||||
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人間は言葉を持って以降、自然から乖離し、あらゆる出来事に意味を見出し、喜怒哀楽に翻弄されながら生きてきた。 人間同士が暗黙のうちに想定する文脈の食い違いが、時に笑いや憎しみを生む。そこから様々な小説のテーマが生まれてきたといえる。 この小説では、アルジェリアの海と太陽の中で、自然に同化して生きる人物が主人公になっている。 いま目の前にある世界にのみ関心を寄せ、過去を振り返ることのない男。 羨んだり、恨んだり、悲観したりといったこととは無縁の人生。 無限の海と太陽が、彼に満ち足りた気分を与えてくれる。 しかし、こうした自然に同化した人間の存在を許さない「社会の掟」が主人公の前に立ちはだかる。 「母の死」「キリストの苦しみ」といったことに関心を示さないことが、社会の掟を無視する危険な人物と解釈され、死刑を宣告されるに至る。 文脈を共有しない異邦人は、罪人同様に敵視されるのが人間社会の本質なのか。 象徴や文脈といったものから脱却し、リアルな自然に没入することを許さない人間社会の一面を描き出した小説。 また、その不条理に対峙し、それでも自然のままに生きる/死ぬことを選択した男の生き様を浮かび上がらせた小説。 | ||||
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薄い本なのに冗長で読み飛ばしたところもあるが、それでも読み進めたい力があった。 私は自分も条件が重なればこうなるかもしれないと感じた。やってしまった現実に気持ちが追いつかない感じ。 母親の年齢が分からない人も、葬儀で無表情な人もたくさん居ると思う。その中で殺人をする人はほとんどいないが。 母親の死後わざと焦点をぼかして生きている時にピストルを持っていて、真夏の炎天下にいたら? 犯罪者の大半が極悪人というより、このタイプの人かもしれない。極悪人の方がまだマシで、普通の人が無自覚なまま殺すから怖いのだと思う。 こうして人々を深く考えさせる小説を生々しく書けるカミュはやはり凄い、今更。 | ||||
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高校生の時に読みました。 私が最も好きな小説です。 主人公のムルソーは自分の感情に正直にあるがままに生きているのです。 これが一番の重要点です。 普通の人は世間の目を気にしますから、正直に生きることはできない。 一生嘘をつきながら体面を保とうとします。 その結果、自分の人生とは言えない他人のための一生を送ります。 しかし、ムルソーはそういったブレが全くないです。 世間とは完全に独立した本当の人間です。 母親が亡くなっても無感情だったり、太陽が眩しくて暑かったからアラビア人を銃殺した。 全て自分に正直に生きているからこうなるのです。 彼は「暑い」という肉体的な苦痛から逃れるために、事を早く済ませようとしてアラビア人を撃ったのです。 だからそれは「太陽のせい」なのです。 私はムルソーのような人が大好きで、自分自身もこうありたいと思っています。 この作品はなるべく多くの人に読んでほしいと思います。 生きるとはどういうことなのか。 この作品こそが、その一つの回答だと思います。 | ||||
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* 最後に死刑で終わるというのは、よくあるパターンなのかなと思った。 * 『赤と黒』も、自称優秀な青年が最後死刑で終わる。 * 殺人をしても、どこか他人事というか、ちょっと主人公が何を考えているのかがわからなかった。 * モヤモヤする作品。 * 母が死んでから、人格が崩壊?過去に生きている感じ? * 死刑を告げられても、絶望する訳でもなく、神に助けを求める訳でもない。 * それ以降、自分の心臓が止まることが信じられないとは言うものの、生に対する執着などがある訳でもない。 * 何か大事なものが無くなっている感じがした。 * 最後に自分が死刑になる時に、聴衆が憎悪を示すことが望みという、最後の文章が共感できなかった。 * 歪んでいると感じた。 * そこに自分の生を見つけようとすることがわからない。 * 母が死んでから、悲しくないと嘘吹き、空虚なまま殺人まで起こす。 * しかし、自分の時間は母が死んでいるところで止まっており、それ以降は何をしても空虚なまま進んでいく。 * 殺人しても、裁判にかけられても、死刑を告げられても、どこかに自分じゃない自分がいて、目的もなく、訳もなく、時間が過ぎて行く。 * 世の中の不条理を説いている。 * キリスト教や実存主義、共産主義など、世の中の思想を全て否定している。 * その人物こそ、異邦人である。 | ||||
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表題の如く、歴史的名著とされています。教養を深めたいと思い読んでみました。 この作品の作者、アルベール・カミュ(仏・1913-1960)はノーベル文学賞を受賞しており、wikipedia曰く、受賞したのはこの作品によるところが大きいみたいです。以下感想。 まず、結論ですが、考えさせられる作品ではありましたが、面白くはなかったです(笑) 国も違えば時代も違うので、理解するのに時間がかかる描写が多い点や翻訳がまわりくどくい点など、いかにも小難しい海外名著と言ったところです。 故に150ページ位ですが、読むのに時間がかかりました。小説というよりはどちらかというと哲学書を読むようなイメージです。ドラマティックなストーリーなどを求めてはいけません。一人の変わった男(主人公)の心情描写が大半を占めます。ですので、エンタメを期待する方には全くおススメできません。 ※ネタバレ注意 さて、ここからは少し考察を述べたいと思います。 この小説の主人公、ムルソーという男はかなり変わった男として描かれます。一般的な良識が欠如した、今風に言えばサイコ野郎と言ったところでしょう。 主なサイコポイントとしては ・母親が死んでも悲しむ素振りがない。死んだ次の日に女性と遊ぶ。 ・結婚に「愛」は必要ないと恋人関係同然の女性に向かって平然と言い放つ。 ・神を否定。 ・基本虚無的。共感力に欠如した描写が多い。「私にはどうでもいい事だが」、「私には理解ができない」など。 ・知人以上友人以下みたいな男の依頼を深く考えずに受け入れ、最終的に人を撃ち殺すという大事件に発展する。射殺した理由は、「太陽が眩しかったから」と法廷で発言。 ・死刑を宣告されても割と平然としている。死刑の際に罵声を浴びせられることを望む。 など。 これを皆さんはどうお思いになられるでしょうか? 僕は、「まぁ確かにサイコ気味ではあるけど、言うほどでもないよね。」と思いました。 例えば、母親が死んでも場合によっては悲しまないでしょう。「愛」や「神」を信じ、語る人間が現代にどれだけいるでしょう?生きる意味を見出せずに虚無に悩んでいる人間なんていくらでもいるでしょう?流石に射殺は行き過ぎにしても、ムルソーは現代において、そこまでアブノーマルな存在ではないのではないでしょうか? よくいるリバタリアンの一人くらいに思ってしまいます。 びっくりしたのが、親が死んで悲しむ素振りを見せなかった事が、裁判で不利になるという点。しかも養老院(今でいう老人ホーム)に母親を入れる事がものすごく問題になり、人でなしと罵られる。いや、別に普通だろ(笑)。 時代が違えば価値観も大分異なるのだなぁとびっくり。 ムルソー曰く、母とは特に話すこともなく、養老院に入れた方が同年代の人達とも触れ合えるし良いかなと思ったみたいな事が書いてあったような気がしますが、僕もその考え方は合理的だし、別におかしくはないと思います。 カミュが生きた時代は、まさに激動の時代。資本主義が世界のスタンダードになり始め、社会主義との角逐の真っただ中。実存主義やらマルキシズムやら、様々なイデオロギーが唱えられ、人間は新しい時代に対して何を指標に生きていけば良いのかを真剣に模索していました。偉大な思想家、哲学者が多く生まれた時代。そんな中、キリスト教的封建主義も根強く、この小説は彼ら(旧価値観)に対して一撃を喰らわしてやりたいというカミュの想いが伝わってくるように思いました。 「親が死んだら、悲しまなければならない。」 「神を信じなければならない。」 いや、勝手に決めないで!俺には俺の考えがあるから! みたいな。 この小説のラスト、死刑執行が目前に迫ったムルソーのもとに神父が現われ、「神に祈りなさい」みたいな説教をはじめるのですが、とうとうムルソーはブチぎれます。もう、びっくりするくらいブチぎれます(笑) うるせぇ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! みたいな感じで。ここが一番の見所です。 「神父」という封建主義の象徴的な存在とさえ言える人物に激昂するこの一幕にこの小説でカミュが伝えたかった事が凝縮されているように思いました。 | ||||
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太陽が眩しかったから、という有名な一説に引きずられがちだけど、 そんなのは実はあまり重要ではない。 私は、仏教について学んでいながは悟りとはどういう境地かいまいち分からないでいる。 その勉強の隙間に本作を読んでいたのだが、 ムルソーの変化に、悟りに近いものをどうしても感じてしまう。 仏教関係者各位からお叱りを受けそうですけどね。 彼はいっさいの社会のよしなしごと、規範、センチメンタリズムから自由なのは確かで、 それを幸福と見るかどうかは各々が決めればよい。 少なくとも私は、クライマックスで完全に針が振り切れてからの彼を支持したいと思う。 | ||||
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我々が皆、 今よりちょっと、いきやすさを求める心に正直になったらきっと 人類皆ムルソー | ||||
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本作は、生きることに何の意味も見出していない主人公ムルソーが殺人を犯すに至るまでの第1部と、その事件の裁判により死刑宣告を受け1つの観念に到着するに至るまでの第2部からなっている。 そして本作は、ドイツのカフカの作品や、フランスの同時代人サルトルの作品と並んで、「不条理性」を描いた作品として高い評価を得ている。 ただ一言に「不条理」と言っても、カフカ、サルトル、カミュではそれぞれ「不条理」の捉えた側面、描いた側面が別物だ。 カフカは、全く説明のつかない事象が突然主人公を襲う世界を描いた。 サルトルは『嘔吐』で、事物の存在形式に対する説明のつかなさとそれへの嫌悪感を描いた。 それではカミュの描いた「不条理」とは。 『異邦人』の主人公ムルソーの価値観には、「人間は誰しも死にゆく存在であり、死が遠かろうが近かろうが、死を控えた人生には何の意味もない」という認識がある。 このようにカミュはムルソーを「意味のない人生」という認識のもと一切に興味関心を失った人物として描いたが、実はムルソーは人生の否定者ではない。 「無関心」と「否定」は概念としても別物であり、何よりムルソーの振る舞いは決して否定的なものではない。 ムルソーには他愛もない快楽があり、肉欲があり、人との交わりがある。 たとえそこに理由がなくとも、生のエネルギーは確かに存在する。 そして物語の終盤において、ムルソーは死(死刑執行)を現実のものとして捉え恐怖することで、「無意味な(無意味だった自分の)人生を愛する」境地に至ったものとして描かれる。 本編の最後に、「このしるしと星々とに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた」という不思議な一節がある。 私にはこれは、「この意味のない人生、この意味のない世界を愛する」境地を表現したものだと映った。 カミュは本質的に生の肯定者なのだろうと思う。 そしてそれ以上に、「無意味・無価値の肯定を伴わない人生観など虚飾に過ぎない」というメッセージがあるように思う。 『異邦人』は物語としては悲劇な展開を迎えるが、そこには人生に対する強い肯定意識が伺える作品であるように思えてならない。 | ||||
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再読のために購入しました。不条理と不合理。 | ||||
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「寝ながら学べる構造主義/内田樹」にて紹介された名著。 この小説において、作者は主人公の行動や発言を高みから「説明」したり、「内面」に潜り込んだりすることをきびしく自制し、その結果、そこには事実だけを淡々とかつ的確に記述する、乾いた、響きのよい文体が奇跡的に成立しました。 読み始めて最初の頃、ムルソー(主人公)は女だと思っていた。それくらいフラットな文体だった。 態度も言動も行動も全て一貫していて、その場の気分だけで生活すると、他人によからぬ誤解を与え、主観的にはすごく不条理にことが進んでいくことを感じた。 主人公はその場その場を深く考えていない。 だからといって馬鹿ではない。正直にものごとを率直に捉え、率直に返しているだけだった。この作品は、あらすじを読むだけでストーリーは把握できる。 しかし、あらすじの内容に至るまでのプロセスがこの小説の醍醐味になっている。 なぜ死刑判決となったのか、ムルソーは死刑を待ち望むに至るか、端的で明快な描写がこの本の評価に反映されている。 己を信じ、社会の通説や風潮を無視した主人公の「思考」、それを最後に司祭に言語化したことで思考を消化し、世界と一体化した。 俺は俺、それを認めない社会を認める。だから俺が処刑されるときは憎悪を上げて迎えてきてよい。と境地に達した主人公を感じた。 | ||||
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ムルソーは世の中の慣例的な行為と乖離した人物だ。現象のみを抽出する特異な目を持っている。 太陽は輝き、波は打ち寄せ、砂浜はきらめき、殺人を犯す。それらはみなムルソーにとって同列である。外部に対するスタンスは「どちらでも同じことだが…」なのだが、これはポーズではない。ムルソーは嘘をつかないのだ。 しかし、ムルソーは生きている。慣例的で紋切り型の人生を生きている者たちよりも確実に生きている。そうムルソーは自信を持って言い切ることができる。 なぜなら、「まだやってこない未来の底から来たるべき『死』」その真理から目を逸らさず、『死』が自分を捕らえているのと同じように自分も『死』を捕らえる、それがムルソーにとって生きているということだからだ。 ムルソーの目を通してみた世間はその『死』から意識を逸らして、『死』の存在を誤魔化して、虚妄の生活を送っている、欺瞞に満ちた罪人なのである。 そう初めて他者を断罪して憤怒したとき、断罪される自己と断罪した他者は、無関心な世界の下では互いに同じものとして融和し、ムルソーはさらなる一体感を求めるゆえ、人々が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることを望む。 | ||||
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アルベール・カミュ(1913~1960年)は、仏領アルジェリアに生まれ、第二次世界大戦中に発表した本作品(1942年)、エッセイ『シューシュポスの神話』などで「不条理」の哲学を唱えて注目され、戦後発表した小説『ペスト』はベストセラーとなった。1957年には史上二番目の若さでノーベル文学賞を受賞したが、1960年に自動車事故で46歳の若さで死去。 上記の通り、カミュの作品は「不条理」という概念で特徴付けられるが、日本大百科全書では、「不条理」とは「人間と人間、人間と世界との関係が条理・道理にあわないこと。つまり、必然的な根拠が不在であり、すべては偶然に基づくということである。フランス語のアプシュルディテabsurditéの訳で、この語の現代的な用法はカミュに端を発する。彼は『異邦人』において、現代の不条理の状況、現代的な不条理の人間を小説の形で提示し、さらに『シジフォスの神話』においてそれに哲学的、論理的な解明を与えた。」と説明されている。 本作品は、二部構成となっており、第一部は、主人公ムルソーが、ママンの死を告げる電報を受け取ってから、アラブ人を殺害するまでの18日間の経緯、また、第二部は、ほぼ1年に亘る獄中生活と裁判の様子が、記されており、各所に「不条理」(≒偶然)が散りばめられている。 例えば、母の葬儀の数日後、隣人レイモンに“偶々”会って、殺人事件の発端となる手紙を書くことになる件や、レイモンと共に友人の別荘へ行き、三度目に一人で散歩をしていたときにアラブ人に“思いがけずに”会い、ピストルで撃ってしまう件(ムルソーが、それを「太陽のせいだ」と答えたのは、我々人間はその偶然に抗えないのだということを意味している)、更に、裁判の審理が、ムルソーが起こした犯罪そのものではなく、ママンの葬儀やその後数日間のムルソーの様子や行為に関して為されているかのような“不条理”、等々である。 そして、死刑が確定した後、司祭がやってきて神による魂の救済を説くが、無神論者のムルソーは、「君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、すべてについて、君より強く、また、私の人生について、来るべきあの死について。そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捕らえているのと同じだけ、私はこの真理をしっかり捕らえている。・・・私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう。私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。」と叫び、不条理な世界の中で神に反抗し、地上の生を肯定して、物語は終わるのだ。 (尚、本書は昭和29年の窪田啓作訳であるが、さすがに読み難く、新訳が出ることを期待したい) | ||||
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