■スポンサードリンク
老人と海
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!
老人と海の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.13pt |
■スポンサードリンク
Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全245件 21~40 2/13ページ
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
中学生の頃に課題図書で読んだ記憶がありますが、 いい歳になって読み直してみました。 登場人物は老人、少年、海、魚、鳥、その他色々・・ とてもシンプルな構造なのに読者をグッと掴んで離さない構成、ストーリーは流石だと思います。 1952年の出版から現在に至るまで読み継がれているのも納得です。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
一人暮らしではあるあるの独り言や、周りの人に助けられて生活している姿は現代と通ずる所がある。読んでいて、大きく感情が動かされることはないが、最後少し物悲しいが、良かったと思える。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
★3.3/2022年26冊目/2月10冊目/『老人と海』(新潮文庫/新潮社)/ヘミングウェイ/P.134/1966年/360円+税 #読了 #読了2022 ノーベル文学賞を受賞したヘミングウェイの代表作の一つ。ページ数は多くないが、癖があるため読むのに時間がかかった。全体の7割前後が、約3日間に亘る1匹のマグロとの戦いというシンプルな物語。”老人”の過去も性格も省き、ただ物語に焦点を当てる。それをベルナール・ファイは「アメリカには単に空間があるだけだ」、訳者の福田氏は「ハードボイルドリアリズム=非常の写実主義」と言う。確かに、ヨーロッパ文学や日本文学とそこは大きく違う点だと気付いた。次に読むヘミングウェイはその点に留意しよう(また苦労しそうだ…)。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
決して大きくない漁船で老人がたった一人でカジキを釣り上げる描写が美しい。カジキを釣り上げてからはカジキを狙うサメとの闘いが始まる。港までたどり着ければ大きな収入になるところ、身はサメに持っていかれる。自然との闘いの前に人間は無力であることを思い知らされる。老人の「あの子がいてくれたらなあ」と何度も呟くのは、自然に対抗する人類の知恵を欲していたのかもと感じた。三日がかりでカジキと格闘した老漁師の物語。それだけなんだけど、自然への畏怖を感じた。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
『老人と海』の主人公サンチャゴは、小舟を浮かべて沖へと出帆する。八十四日の間、不漁がつづき、その後に小魚が数匹釣れても岸にもどらないのをみると、サンチャゴの漁の目的は、食い扶持をつなぐことではなく、生死を賭けた闘争で大魚を獲ること、すなわち勝利と栄光をつかむことにある。 両手に深い傷痕があり、四肢のやせこけた、この老人サンチャゴを勝利と栄光へと駆り立てるものは何か?それはただ生きながらえることの虚しさを老年になると身に沁みて感じるためなのかもしれない。しかしそれよりもなお老人を奮い立たせるのは、漁師としての誇りと少年からの敬慕とであろう。 漁業の世界では、獲得した魚の大小いかんによって勝利者と敗北者とがはっきりと分かれるのであろう。八十四日間の不漁と老年とは、サンチャゴに永遠の敗北を宣告する。それを認めてしまえば漁師の死であり、彼の誇りは完膚なきまでに失われる。漁師としての誇りがなくなれば、少年に慕われることもなくなるだろう。 サンチャゴが海に出帆するかぎりは大魚を獲る勝利者でなければならない。さもなければ彼は永遠に敗北し、ただ一個の人間として、ただ脈拍を安定させるために生きるだけである。むろん相手の大魚とても生死を決する闘いに敗れるわけにはいかない。 海という生命の母体には、こうして勝利への欲動がせめぎ合う。そこでは人間も動物も、原生動物さえも至るところで闘争することになる。だが、なんとも虚しいことだが、いかなる闘争によっても利を得るのは、自分でもなければ闘う相手でもない、傍観する第三者である。つかんだ栄光も長続きはしない。 海に女性を見るサンチャゴは「海はやさしく、とてもきれいだ。だが、残酷にもなれる」という。 老人と海は、永遠の闘争とその虚しさと、そのむごい教えをやさしく説く物語なのだろう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
昔、一度読んだがいまいちピンと来なかった。しかし50代半ばに差し掛かる今、再読してみたら心に沁みた。最近、過去を振り返ることも多くなったが、男というのは歳をとると過去の栄光の積み重ねが築いた自信と自尊を原動力として生きる生き物なのかもしれない。主人公のサンチャゴはそんなことを見せてくれた。またマリンスポーツを趣味とする自分にとっては沖合の海の表現が素晴らしいと思った。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
人生とは何かという問にはこの一冊をお見舞いすればそれで完全な答えになる。 そんな本です。 これを読んでピンと来ない人は、言葉が不自由なのか、心がも人生もすっからかんの空き缶野郎なのでしょう。 前者ならまだ間に合うので、勉強をして急いで人間になってください。 後者は手遅れなので来世にでも期待して、自分は空き缶だという自覚だけは忘れないようにして、心とかの必要ないベルトコンベアの上にならんだネジの向きを整える仕事とかそういうのでもして人間と関わらないで機械的に過ごした方がいい。 私はこの通りに口が悪くて傲慢な人間ですが、それはさておき、老人と海を読んでも「なんか爺さんが魚釣ってて退屈だった」くらいのことしか思い浮かばない上に、それを恥も外聞もなくレビューに記すというのは全くもって、実務上以外の事では完全に生産も消費も出来ない虚無太郎というほか無い。 空白、穴っぽこ、虚無、虚空、ドーナツの穴野郎、それがこれを読んでも何もピンと来なかった上に来なかった自分は「名作っていってもこんなもんなんですね(笑)」と表明出来ちゃうぜ☆ とお考えのアホウの言い換えに相応しい。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
16歳の時、文庫本を購入。半分程読んだが全く面白くなく、腹立ち紛れに本を引き裂きゴミ箱に投げつけた。 あれから数十年、百分で名著で取り上げていたのを観て、今回リターンマッチのつもりで読んでみた。 我は主人公サンチャゴの足元にも及ばない、矮小で意気地の無い、希に見るダメ人間になっていると実感した。 只々自己嫌悪と恥にまみれたクソ人生を生きたクソ人間になってしまったと、穴を掘って入りたい気分である。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
中学の国語の授業で先生から、 「日本語では海(という漢字)の中に母(という字)があるが、フランス語では母をmereと書き、海はmerである。つまり、フランス語では母の中に海がある」 と教わったことを思い出しました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
原作は当然ながら不急の名作。 ただし、日本語訳がひどい。原作の情緒が一切感じられない。 英文科の大学生でももう少し上手く訳すと思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
全編を通じて流れる哀しい通奏低音。圧倒的な描写。深い余韻、名作とういしかないのだろうが、それにしてもラストの1文は上手すぎる完璧なオチだ。あえてテーマを言うなら、1人の老人のマグロ漁を通して、人間と海の尊厳を圧倒的な筆力で描き切ったとでもいうのだろうか。いや、深い余韻の前に、そんなお決まりの言葉は陳腐なだけだと思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
普段あまり難しい読書をしない身でも、カッコイいいジジイの独り言ライトノベルのようにすいすい読めました。また、解説やあとがきにも、かなり詳しく「訳す人の数だけ、物語がある」という状況が書かれていて勉強になりました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
『武器よさらば』から続けて読んだ。それだけに、ヘミングウェイの人生観がより伝わってきた。 本作に登場するのはヨボヨボの老人ではなく、精神的にも肉体的にも壮健な老人。 84日も不漁続きの後の超大物との格闘。2日がかりで仕留めるが、 帰港の間に、サメに襲われ孤軍奮闘するも、最後は、せっかくの大物が骨にされてしまう。 結局骨にされるのにサメと格闘する必要あったのか、もっと言えば、収穫もなく、 漁に出なくても同じだったのでは。 サメと格闘する時、小さい船の中で、どんどん武器として使えるものが減っていく。 それでも老人はあきらめない。手持ちの武器で闘う。 作者の想いは、壁を乗り越え、命の炎を燃やすことに大きな意味がある。 一度きりの命、人生の果実が手からすり抜けていこうとも、生を全うすることが大事なのだ。 というところにあると感じた。 『武器よさらば』の主人公の妻キャサリンもいずれ終わる予感を持ちながら、 2人でのスイス生活を存分に楽しむ。 結果はどうあろうとも、命の火を燃やし続ける。 老人は、獲物を骨にされたが、虚無感の中に、生の充実は感じたであろう。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
話の内容自体はあらすじにもあるように「マグロ、ご期待ください」なのだが、海で1人獲物に向き合う老人と、荒々しい自然を簡潔かつ力強く描いてていて、シンプルなストーリーながらも読みごたえのある作品。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
一番好きなのは短編集ですが、老人と海もおもしろい話です。 さらに、とても読みやすく翻訳されています。 英語の勉強のため、原書と並べて読ませていただきました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
他の訳したものを読んでいない上で言うのもアレですが、最後の解説文にあるように、ほかの訳者のものでは老人は叫んでいたりするそうです。が、確かにこの作品全体を通して読んでいると老人のキャラなども考えて「叫ぶ」という設定がどうもしっくりきません。 ヘミングウェイが著した「老人と海」を訳したものは2021年現在たくさんありますが、最初の1本がこれでとても満足できました。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
読書感想文のために読んだが、文体と表現がとっつきにくく、非常に読みづらい。昔の野球の話をされてもよく分からないので話にのめり込めなかった。 老人が満身創痍で釣り上げたカジキが帰路でサメに食べられる表現も意味が分からない。なんのためにこれまで何十ページと死闘を読んだのか…となった。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
この本で人生の教訓となる何かを得ようとか、何が評価されているのか分からないのという書評もあるが、この本はそういうものではない。 ただ純粋に一人の老人と一匹のカジキマグロとの命をかけた駆け引きと、その舞台となる海の表情を楽しむ本。 そういう意味で、やはりこの本はアメリカ純文学のひとつだと思う。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
読み出したら止まらない。ストーリーは老人が海に漁に出かけ奮闘しするという単純なものであり、それを老人の内面と客観的な事実のみで書かれる、いわゆる「ハードボイルド」の手法で描かれてる。余計な伏線を省いて淡々と、しかし臨場感が洗練された言葉はアメリカ文学の金字塔であり、読者はノーベル文学賞作品の圧倒的な筆力を感じるだろう。 著書はノーベル文学賞作家であるアーネスト・ヘミングウェイだ。1899年イリノイ州生まれで生まれ、第一世界大戦後を経験し、その無意味さ、文明の無力さからアメリカから離れていった。彼もアメリカ社会との繋がりを失った当時の文学者「ロスト・ジェネレーション」の代表的作家の1人である。代表作は『我らの時代に』『日はまた昇る』『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』などだ。 老人は不漁続きの中で孤独に漁に出掛けるが、これは文明からの脱却であり、人間が持つ可能性への挑戦を描いているのだろう。傷だらけになりながら、原始的な方法で大物を獲得し、それを自然の中で不幸にも失ってしまう。そこには、具体的な物は失ってしまったけれど、目には見えないものを信じようとする力、例えば、妻への愛情、共に漁をした友への親しみ、老人の最後まであきらめない気持ちや自然への畏怖といったものが含まれている。物語の後半、老人はマストを背負って坂道を上って戻る場面は、人間の犯した罪を背負うキリストを描写しているかもしれない。最後に、世界的かつ歴史的にこの名作だと言われるのは、これが夢オチであろうとなかろうと、「彼は歳を取っていた。」に始まり、「老人はライオンの夢を見ていた。」に終わることによって、私たちが老人から多くの勇気をもらい、どん底からの希望を抱くからであろう。 本来ならこれは英語で読むべきだろう。大学時代に『我れの時代に(In Our Times)』を原文で読んで、使用される英文の、例えば日本語には表出できない前置詞の空間イメージに衝撃を受けたことを記憶している。機会があれば原文で味わいたいと思っている。 | ||||
| ||||
|
| ||||
| ||||
---|---|---|---|---|
高校生くらいの時に読んだ『老人と海』を改めて読んでみた。当時、現国の問題の模範解答みたいな解説をちらっと読んでもあまり納得がいく内容じゃなかった。 どうもヘミングウェイの文体は、事実としてわかってることは書かない、氷山の一角を書いて全体を各人が味わうみたいな感じらしい。しかも翻訳者によって単語に裏の意味があるかどうか、「aloud」を昔のように「大声で」と訳すか「声に出した(ニュアンス)」にするかで全然違うものになるらしい。これはすごい違いだ。老人の独り言と思考の狭間を行ったり来たりすることもひとつの味わいであるのに大声かつぶやきかの振れ幅が翻訳者のセンスに依存するなんて!!!! 今回読んでみて思ったことは、老人が海上で独り自分と語り合う。そして「あの子」がいればとそれを思って生と死の狭間にいるようなところをふと生に引き戻される感じ。海上のことが本当はハバナの海岸にある新聞紙のベッドの上の出来事ではないかと思うくらいの「独り」の観点。誰も他人はそれが現実だと保証してくれない。長く格闘したマグロや陸まで戦い続けたサメの群れまでもその現実の証人としたいがためか、一種の愛着、仲間意識を感じさせる。結局なにが本当なのかわからないけど、少年が泣いている。老人は独りではない。そして『もっと教えてくれ』と請われている。その時点で老人は「教えるもの」となれる。少年と血縁がなくともその関係性で老人は一眠りして起きたあとも生きていけるのではないかと思う。 どんなみすぼらしく貧しい生活であっても、人に必要とされるのであれば生きていけると思う。老人は生きて還ってきたが、漁師としての結果は敗北だった。完全に負けて楽になったという。それでも彼を必要だという少年がいればそれ以上いらないのではないか。 歳を経て読んでみたら、とんでもなくハッピーエンドな物語に思えた。 | ||||
| ||||
|
■スポンサードリンク
|
|
新規レビューを書く⇒みなさんの感想をお待ちしております!!