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成吉思汗の秘密
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成吉思汗の秘密の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.28pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全43件 1~20 1/3ページ
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もう少し紙焼けがなかったらよかった | ||||
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何度、読んでもロマンがあり、おもしろいです! | ||||
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迅速な発送感謝します | ||||
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マッドフラッド-タルタリア帝国の存在を知り、信憑性増加の本書再読。同国は現ロシア中心の巨大帝国(北海道も一部)、DSローマに敗れ歴史上抹殺(マッドフラッド等で遺物の多くを喪失、但し世界各地に建物が残る)。前は良く出来た小説と考えたが、今回は充分な可能性ありと思い読んだため著者の真剣な思いが伝わって来た。後書きにあるが高木氏はこの説を真実と信じ(半ば神懸り)読者に伝わる様丹念に書き込んでいる。こちらも真剣に読み、前とは捉え方が全く異なって著者の推理が正しいと判断する様になった。タルタリアに見るように現在の歴史は捏造と知れば、本書価値は倍増。本書(著者最高傑作)はカッパ版に他文章が加わりお薦め、日本人必読。 | ||||
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学生時代に文庫で読み,今回KINDLEで再読. 若いころは楽しんで読んだが,今回の再読では神津恭介の論の立て方のずるさばかりが目立った. 神津は「成吉思汗が義経である」を証明しなければならないはずなのに「「成吉思汗が義経でない」とは言い切れない」という主張と「「成吉思汗が義経である」ことを補強する材料と言えなくない材料がある」という提示を行うのみである.それにもかかわらず,定説を指示する学者には「「成吉思汗が義経でない」を証明せよともとめる.これでは悪魔の証明をもとめているようなものである.できるとしたら確実に義経の遺体であると考えられるものを国内で発見することぐらいか?(それでも,モンゴルで死んだ後に,日本に運ばれたとの詭弁も可能か・・・) 事実,神津は「成吉思汗が義経である」ことの証明をできていない.本来その時点で神津の負けである.思考ゲームとして小説を楽しむのが正しいのだろうが,それにしては神津があまりに攻撃的,独善的,恣意的で学問にたいするリスペクトがなく,読み手に反感を与える切り口になっているのは,高木彬光の作風だからやむを得ないということか・・・ | ||||
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40年くらい前に読んで、最近の大河ドラマにもつられて読み返しました。今読んでも面白い内容です。 最初読んだ時はインターネットなど無い時代で、もし内容を検証しようとすると図書館まで足を運ぶ必要がありました。現在では検索しながら楽しむことが出来ます。時代は変わりましたが、義経がジンギスカンか否かという真実はひとつ。これを読みながらご自分で検証してみると、新たな真実が発見できるかもしれません。ロマンだな。 | ||||
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良い。 | ||||
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古典ミステリーを渉猟しているうちに高木彬光に行き着きました。刺青殺人事件→人形はなぜ殺される→呪縛の家→わが一高時代の犯罪、と読んで、有名ですが未読のこの作品にチャレンジ。さいわい、「時の娘」は去年読んでいました。長い作品でしたが、一気に読めました。私には時の娘より面白く感じられました。病室内の3人の会話だけなら単調になるところを場所を変えたり人を変えたり、ロマンス要素をはさんだりして飽きさせないように工夫してあります。ラストは運命の輪廻に持っていってロマンチックな終わり方でした。おまけの章がたくさんついていてサービス満点。次は邪馬台国と古代天皇に挑戦したいがレビューによると成吉思汗には劣るらしいのでテンション下がりますね。 | ||||
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最初に読んだのは中学生の時だったか。余りの力技に興奮して徹夜で読破した記憶が有ります。 今読み返しても面白い、再読に耐え、時代を超越する探偵小説(敢えて推理小説とは言いません。)は多くない。論理の弱さや矛盾点を吹き飛ばす面白さ。神津恭介のベッドディテクティブシリーズの最高峰。 | ||||
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『成吉思汗の秘密』は、名探偵神津恭介が歴史の謎に挑むベッド・デテクティヴを特徴とした歴史ミステリー小説である。本作『成吉思汗の秘密』、『邪馬台国の秘密』、『古代天皇の秘密』と合わせてベッド・デテクティヴ三部作となっている。 「最初、百五十枚の中編として書かれたという『成吉思汗の秘密』は、長編化されて(中編バージョンは未発表)推理小説専門誌「宝石」に1958年5月から9月まで連載、同年10月に光文社より単行本として刊行された。ただし、初出、単行本とも、「天城山輪回の第二部」の章までである。…『成吉思汗の秘密』のさまざまな反響のなかで、作品そのものに大きな影響をもたらしたのが、仁科東子からの、手紙だった。…1960年に刊行されたカッパ・ノベルス(光文社)版では、その仁科東子の論を全面的に取り入れた最終章が加筆されていた」(解題より)。 いわば、私たちが今現在読んでいる『成吉思汗の秘密』は完成版ということになる。私自身、あらためて本作を読んでみてわかったのは、最終章の有無で作品が全く違ったものになるということである。仁科東子の論を取り入れて最終章が加筆されたことで『成吉思汗の秘密』は、より奥行きのある作品になったということだ。 最終的には、源義経=ジンギスカン説は本作のなかで否定されてはいない。むしろ、成吉思汗は源義経なりとする結論は従来の推理小説の枠からは大きく逸脱するものにほかならない。しかし、そこにこそ本作の魅力はあるのだろうし高木彬光の真骨頂があると言わざるを得ない。 源義経=成吉思汗という奇説を扱いながらも、それを批判する定説をぶつけながらフェアな謎解きが行われているので、否定派も十分に楽しめる作品。ぜひとも神津恭介の推理を堪能してください。 (2022.3.31記) | ||||
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「邪馬台国」よりも楽しかった。安楽椅子探偵だけでなく、現役歴史学者とのバトルなど、「時の娘」よりも工夫がなされていて面白い。このサービス感覚が二作目以降失われてしまったのが残念。 | ||||
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今から、40年程前の高校生の時、手にして、その内容に引き込まれた。自分の読書コレクションの中では別格の存在。 | ||||
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実際、世の圧倒的多数の人たちは「義経=成吉思汗説はトンデモ」と言っていて、私自身はそれに異議申し立てを出来るほどの知識は無いが、それでもちょっと待って欲しい、 この本の中で、真偽はともかくとして、ジンギスカンの人生というか伝記に不可解なことが書かれていて、それを義経&弁慶の二人一役説で考えてみると案外説明出来てしまう、形式になっている。 その「ジンギスカンの不可解な伝説、伝承」それ自体がデタラメなのか、とりあえず現地で言われていることは確かなのか、そのことだけでも「義経=成吉思汗説はトンデモ」言ってる人は断言出来るのだろうか? 本格的に調べている人は現地の当時の言葉にも精通しているんでしょう(皮肉)、堂々と「トンデモだ」と言えるんでしょうけど、「専門家が言ってるんだからトンデモに決まってる!」と決めつけている人、その後の漢民族統治による中華圏の言葉から研究している人の「トンデモに決まっている!」にどれだけ信憑性があるのか。 圧倒的な「トンデモに決まってる!」の人たちは、これにきちんと答えることは出来ないだろう。 私が覚えているのは「ジンギスカンは死後急速に身長が縮んだ」という伝承に対して作者は 「先に弁慶が大陸に渡りカリスマ性を発揮した、その後義経が大陸に渡り、二人一役を演じて身長が高いように見せかけていたんだろう、身長が高い人が低い人を演じるのは無理だが、身長が低い人が高い人を演じるのは、できないことではない」というくだり。 「トンデモだ!」言う人は、義経と弁慶はまぁいい、「ジンギスカンは死後急速に身長が縮んだ」という部分が、少なくとも現地で言われていることは本当なのか、それとも時代が経つにつれて書き加えられた虚偽なのか、それは知ってる上で「トンデモだ!」言ってるんだろうな? こういう、自分の力で調べているわけでもなく「偉い人が言ってるんだからそうに決まってる!」という人の本性を暴くには、この本は結構面白いです。 | ||||
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ようやく手に入れ、十分楽しみました | ||||
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発送も早くて、綺麗な状態でした。 | ||||
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「成吉思汗の秘密」は、1985年12月にNHK-FMのラジオドラマ「アドベンチャーロード」で放送され、これを聴いたのが最初の出会いです。探偵・神津恭介がベッド・ディテクティヴで「義経=ジンギスカン説」に挑むという構成になっています。 初出は1958年ですので、今改めて読み返してみると時代背景の古さを感じさせます。歴史の謎というか伝承に題材をとった小説ゆえの宿命でしょうか、義経がジンギスカンになったと「論理的に」証明することは出来ず、あくまでも傍証を積み上げていく、または情緒的な説明にとどまってしまうのが難点です。もっとも学術論文ではないので、仕方のないところですが。最後の結末には英雄の物語にふさわしい、ロマンチックな味わいがあります。あまり目くじらを立てずに読んで楽しむ作品でしょう。 | ||||
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この本はもうかれこれ5冊以上は買いました。 ロマンを語れる御仁にプレゼントして、ああでもない・こうでもない、こうかもしれない。 などと義経ロマンに花咲き乱舞、楽しいです。 | ||||
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ずっとずっと昔読んだのですが、また読みたくなって購入しました。 改めて文の構成、表現力や緻密な調査の上に成り立っている文章に息つく間もなく読み終わったという感じです。 実は先日平泉を訪れて義経北行伝説に触れたのがきっかけでした。 以前より今回の方がより一層高木彰光のすばらしさを実感しました。 | ||||
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スケールの大きな 物語で 私は 成吉思汗と義経は 同一 人物と信じました 推理小説の展開で 恋らしき話もあり 面白く 引き込まれていきます 戦後 直ぐの本で 設定が 古いが 若い人こそ 読んで 考えて欲しい | ||||
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小生は数十年前に購読したが、古くなったので本書を再度購読したが、本書は東大法医学助教授の神津恭介がユニークなベッド・ディテクティヴの推理スタイルで「成吉思汗=源義経説」に挑むという体裁の歴史推理小説である。 異母兄の頼朝に追われた義経が秀衡の遺言に従って北方ルートにより奥州平泉から蝦夷地へ、更にシベリア経由してモンゴル高原に辿り着き、蒙古の諸部族を統合して成吉思汗に即位し、遂には中国全土のみならず中央ユーラシアにまで及ぶモンゴル大帝国を建国していくストリーは、いつ読んでも壮大な歴史ロマンを感じさせてくれる戦後日本推理小説界を代表する高木彬光氏の代表作品ですね。 当然ながら「成吉思汗=源義経説」は間接的傍証のみで学術的には正確な検証も及ばないスケールの話ですが、義経が蝦夷地へ逃れていく途中の八戸で儲けたという鶴姫の椿山心中悲恋物語が、その後遥かな時空を越えて現代の天城山心中事件に繋がっていくという展開は衝撃的で、高木彬光氏もこの事件にある種の啓示を感じて本書の執筆を決意されたようですが、これは成吉思汗=源義経の霊魂が高木彬光氏に降臨して執筆させた本書かもしれませんね。 結果的に成吉思汗の秘密は、「図書輯勘禄」における清朝六代皇帝、乾隆帝自身の序文「朕の姓は源、義経の裔なり。その先は清和に出ず。ゆえに国を清と号す」と、成吉思汗の名前の2つに絞られるが、前者は清国の門外不出の秘録であり清国滅亡時の混乱で原本は所在不明の可能性がある。 それに対して、後者の成吉思汗の名前は、汗の字をさんずいと干に分け、漢語として読み下すと、吉成りて水干を思う(吉野山の誓成りて静を思う)となる。 また、成吉思汗を万葉仮名として読み下せば、なすよしもがな(昔を今になすよしもがな)を意味し、鎌倉八幡宮若宮堂での静御前の歌への見事な「返し」となることから、成吉思汗の名前の秘密こそが「成吉思汗=源義経」の決定打ではないかと思われますね。 「成吉思汗=源義経説」は江戸時代からいろいろな人々に唱えられ、本書が出版されて40年以上経過するが、成吉思汗の墓が発見されて検証されるまで今後も何度となく唱えられると思われるが、本書並びに関連する様々なブログ情報(Electronic Journalの源義経=成吉思汗論など)で感じた疑問・賛同・感動した事柄についてまとめて列挙するので、今後の購読者の参考になれば幸いです。 (1)「衣川偽戦」こそが藤原秀衡の遺言だった! 藤原秀衡は錦の袋に納めた遺書2通を出して、1通は泰衡に、もう1通は義経に渡して、「この錦の袋に納めたものは入道(秀衡)の遺書でござる。進退きわまるときに開いて見られよ。卿らの胸中は雲霧を払うがごとくひらけるであろう。」と述べたと言われている。 その遺言に従い、泰衡の仕掛けた衣川の戦いは偽戦であって、義経を討ったことにしてその焼き首を鎌倉に届けて時間を稼ぎ、義経主従は文治5年4月以前に平泉を離れ、蝦夷地に落ち延びている多くの史料があり、このことはもはや動かし難い事実である。 義経の首は首実検のため奥州から鎌倉まで送られたが、奥州~鎌倉約130里を43日かけている。 衣川の合戦は6月中旬、鎌倉についたのは8月初め、物の腐敗が一番早い時期のため、首が原型をとどめていたか疑問で、首は影武者の杉目小太郎行信ではなかったかという疑惑があるが、焼き首だったので誰の首でもよかったのではないかとも思われる。 (2)義経主従は藤原秀衡の遺言により北方ルートで蝦夷・大陸に渡った! ●秀衡は宋朝の天子に一万五千貫(純金56トン相当)という常ならざる量の黄金を贈り、その見返りとして大量の経文や仏像を手に入れている。●1184年奈良の東大寺を復興する時に鎌倉の頼朝は1000両を寄進したが、鎮守府将軍の秀衡は5倍の5000両を出し、鎌倉は秀衡の財力に圧倒されてしまった。●金山の開発が進歩した後の時代になっても奥州にそのような金山が発見されたという記録はなく、もし奥州に金山があったとすれば、奥州を平定した頼朝はもっと裕福になってもいいはずだが、そういう気配はない。 従って、平泉・中尊寺金色堂に代表される藤原三代の富貴栄華の源泉である莫大な黄金の原産地は、蝦夷、樺太というよりも、昔から有名な砂金産地の黒竜江下流域のシベリア地方ではなかったかと思われる。 藤原氏は秀衡の時代までに、当時は全く未開拓のシベリア方面まで勢力を広げており、そのために藤原氏は津軽海峡、宗谷海峡、間宮海峡を渡るレベルの航海技術をマスターしており、これは平泉から大陸に至る北方ルートがあったことになり、義経主従はそのルートを伝わって大陸に渡ったことになる。 つまり、秀衡が義経と泰衡に渡した遺言の入った錦の袋には、その北方ルートを示す地図が入っていたのではないかと思われる。 義経を擁して頼朝に対抗しようとした肝心の秀衡が不治の病いにかかってしまい、「もはやこれまで」と考えた秀衡は、予てから黄金の運搬ルートとして確保してあった北方ルートを義経と泰衡に教え、一族の一部を義経とともに平泉から落ち延びさせ、時期を伺う作戦に切り換えたのではないかと思われる。 ●『松前福山略記』には「文治五年五月十二日に源義経、藤原忠衡、武蔵坊弁慶、常盤坊海尊、亀井六郎など主従百人余蝦夷地渡海す・・・韃靼国に渡る。」とある。 ●『新撰陸奥国誌』には「文治五年義経十三壇林寺に来る。主従7人。十三より海に航し,西蝦夷に住了にヲカムイ岬より満韃の地に渡る。」とある。 (3)「源義経=成吉思汗」成立の年齢&活動条件はクリア 「源義経=成吉思汗」が成立する条件は、①義経と成吉思汗の両者はほとんど同じ年に生まれている ②義経が活動しているとき、成吉思汗は活動していない ③成吉思汗が活動しているとき、義経は活動していないことである。 義経は平治元年生まれで西暦では1159年です。 成吉思汗の場合は当時の蒙古は記録が完備しておらず学者の推定でしかないのですが、1158年、1161年、1162年という3つの説があるので、義経と同年代であることです。 成吉思汗という人物について記述されている書物は極めて限られており、次の3つが根本史料とされています。 ●『元朝秘史』;13世紀にモンゴル語で編纂 ●『集史』;14世紀にペルシャ語で編纂 ●『元史』;中国が明代(14世紀)編纂 死亡年齢は『元史』では66歳、『集史』は72歳と相違しています。 『元史』の66歳を基にして生年月日を算出すると、66歳は数え年であるので、生年月日は1162年ということになります。 1159年生まれの義経と3年の誤差がありますが、ほぼ同年代の人物と考えてよいと思います。 『元朝秘史』は、歴史書というよりも壮大なる叙事詩的物語となっており、テムジンが蒙古の諸部族からカン(汗)の位に推されて成吉思汗になる1206年に至るまでの歴史の記述は伝説と文学の世界といえます。 ここまでの分析により、「源義経=成吉思汗」が成立する基本条件はクリアできたようです。 ●源義経;前半生(史実) 後半生(伝説) ●成吉思汗;前半生(伝説) 後半生(史実) (4)テムジン2回即位の真相 第1次即位の時期は高麗チャガンを破った1192年頃で、第1次即位のときのテムジンは弁慶であると考えても不思議はないわけです。 これがテムジンは「容貌魁偉にして身長巨大」という説を生んだのです。 1202年にタタール部族とケレイト部族の攻略戦いからは義経自身が全軍の指揮をとりナイマン王国を攻略して1206年にオノン河上流にてクリルタイを開催し、義経が成吉思汗に即位するのです。 これが第2次即位と呼ばれるのです。 ドルジという学者の『成吉思汗伝』には、「成吉思汗の崩御の際にはその玉体は漸次縮小した。 まことに奇異にたえなかったが、古今未曾有の大英雄の最後には、このような奇跡も当然起こりうるとものと信じ、遺体はそのまま黄金の棺におさめ・・・。」とある。 「玉体は漸次縮小」とは裏の成吉思汗である義経が死んだと考えれば、何も不思議はないのです。 これについて小谷部全一郎氏は、成吉思汗がテムジンと名乗っていたときは弁慶がその役を演じ、成吉思汗になってからは義経に代わったのではないかと考えている。 (5)成吉思汗即位の九旒の白旗 岩波文庫「蒙古史」より、成吉思汗即位の儀式「興安嶺上に麾下に従う各種族の首長等を呼び集め、総会議を招集し、九旒の白旗を嶺の上にひるがえした。」の「白旗」は源氏の旗印であり、「九旒」は九郎判官を意味するものと考えられる。 それに紋所の笹竜胆もからんできているのですべて源義経と一致する。 (6)成吉思汗の母の名前は「ホエルン・イケ=池ノ禅尼」 成吉思汗の母の名前は「ホエルン・イケ」です。蒙古語で「イケ」は母、「ホエルン」は雲という意味です。後に成吉思汗は母親に対して、「センシ皇后;ホエルン・イケ・センシ」という名前を贈っています。 こうなると連想されるのは「池ノ禅尼」です。 池ノ禅尼は、平清盛の養母です。 平治の乱の直後に清盛を説得して、頼朝や義経たちの命を助けたのが池の禅尼です。 結果的にそれが平家一門の滅亡を招いたのですが、少なくとも義経にとって池の禅尼は命の恩人なのです。 (7)オボー祭と義経忌の偶然 モンゴルでは八月十五日を成吉思汗の忌日として「オボー祭」という祭りを催し、その霊をなぐさめている。鞍馬山でも八月十五日に義経忌という法要がおこなわれている。 代々の管長が秘密に行っていたものらしいが、最近公開するようになった。 「オボー」というのは郡境に立つ小塔という意味ですが、こんな偶然があるでしょうか。 「われこの天命をうけたれば、死すとも今は憾みなし。ただ、故山に帰りたし」これは成吉思汗の遺言として伝えられているが、「ただ、故山に帰りたし」は、まことに意味深なことばである。 (8)成吉思汗の名前の秘密 1206年の第2次即位のとき、テムジン(鉄木真)は自らを「成吉思汗」と名乗っている。 当時のモンゴルには文字というものはなかったが、成吉思汗=義経と考えると、義経は自らの意思で、この名前を選んだと考えてよいと思われる。 「汗」とは王位を指す名称であり、帝位は「大汗」と称するが、この「大汗」の称号は成吉思汗が即位してはじめてできたものであり、成吉思汗自らが創始したものと考えてよいと思われる。 「汗」は分解すると「サンズイに干」でスイカンと読むことができる。「スイカン」とは白拍子の衣装であり、水干は白拍子、すなわち、静御前を指しているのではないかということです。 つまり、「成吉思汗」とは漢文読みをすると、「吉」「成」りて「水干」を「思」う、つまり、「吉」とは「吉野山」であり、「水干」を静御前と考えると、「成吉思汗」という称号は「吉野山の誓い成りて、静(しずか)を思う」の意味に取れるのです。 静に関しては有名な話があります。 鶴岡八幡宮の若宮堂が完成したときに祝いの儀を執り行うことになって、鎌倉武士の間から名高い白拍子の静に祝いの舞を舞ってもらったらどうかという声が出たので、頼朝は政子に静に舞を披露するよう伝えるよう命じたのです。 政子は恐らく静は断ってくると考えたのですが、静は舞を舞うことを了承するのです。 そのとき静は、この舞を通じて義経にメッセージを伝えたいと考えたのです。 そして、鎌倉若宮堂で、大将軍頼朝の権威に何ら臆せず、次の自作の歌を詠じながら舞を舞ったのです。 しずやしず、しずのおだまきくりかえし、むかしを今に、なすよしもがな 吉野山、峰の白雪ふみわけて入りにし人の、あとぞ恋しき これは明らかに義経を思う恋の歌だったのです。頼朝は謀反人を偲ぶ歌を歌うとは・・と露骨に不快感を示したのですが、政子は「見事!」と褒めたといわれます。 実は「成吉思汗」という名前は、義経の静の歌に対する返しであるといわれているのです。 それは「成吉思汗」を万葉仮名として読み下せば、「なすよしもがな」になるからです。 このように「成吉思汗」という名前は、和漢両様の読み方で、静御前の歌への見事な「返し」となっているのです。果たして、これが牽強付会のこじつけといえるでしょうか。 (9)天城山心中と椿山心中の輪廻転生 義経は八戸滞在中、地元の豪族佐藤家の娘と深い仲になり、娘は鶴姫を産む。 義経が既に北へ旅立った後の話である。 歳月が流れて成長した姫が恋に落ちる。 相手は地元の阿部七郎という武士である。 しかし、阿部家は頼朝に仕える身であり義経の遺児との結婚など不可能。 思い余った2人は話にだけ聞く義経を慕って蝦夷地への逃避行を図ろうとする。 そして夏泊半島(青森県東津軽郡)の椿山まで来たとき追っ手が迫ったので、2人は半島の絶壁で胸を刺し違えて海に飛び込んだのである。 昭和32年12月10日、静岡県伊豆半島の天城山でピストル心中した大久保武道(当時20歳)は八戸出身であり、女性の愛新覚羅慧生(えいせい・当時20歳)は愛新覚羅溥儀の姪、溥儀の弟の溥傑と嵯峨侯爵家から嫁いだ愛新覚羅浩との長女です。 大久保は慧生の実家が嵯峨家という名家であり、慧生との交際が快く思われていないことから、このままでは成就しない「叶わぬ恋」と心中を決意したものと思われます。 大久保の一途さに慧生が魅かれ、大久保に引きずられる形で慧生も死を選んだというのが実状のようです。 天城山心中と椿山心中の男性はいずれも八戸出身であり、女性はいずれも源義経につながるのです。 天城山心中の愛新覚羅慧生は清国の末裔ですし、椿山心中の鶴姫は義経の忘れ形見です。 清朝は成吉思汗=源義経につながるのです。 あまりにも酷似しているのです。 しかも、伊豆の天城山は、源氏のゆかりの土地なのです。 (10)シーボルトの「義経はチンギス・ハーン」説 江戸時代、林羅山や新井白石が「義経の北方逃避行」説を支持し、徳川光圀は検証のため、蝦夷に探検隊を派遣しました。 幕末には、新井白石の説を翻訳で読んだシーボルトが、著書『日本』で義経が大陸に渡って成吉思汗になったと主張します。 明治11年、北海道を調査旅行したシーボルトの次男が『蝦夷見聞記』に詳細を記録しています。 ●韃靼の海岸に漂着し、1703年に帰国した日本人が、北京の清朝廷で義経の肖像を見たというが、それはチンギス・ハーンの肖像画だった。●中国の史書には1189年、テムジンが「汗(ハン/カン)」に承認され、チンギス・ハーンとして白い旗を掲げたとある。白い旗は源氏の象徴で、「カン」は日本語の「守(かみ)」からきたものだ。●テムジンと義経は同い年である。●モンゴル帝国の風習は和風のものが多く、日本風の長い弓矢が初めて使われはじめた。こうして徐々に「義経はチンギス・ハーン」という説が広まっていきます。 (11)小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』 「源義経=チンギス・ハーン説」を定説に変えたのが、大正13年(1924)に大ベストセラーとなった小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』です。 陸軍通訳だった小谷部は、旧満州や蒙古・シベリア方面まで徹底調査して回ります。 ある日、小谷部はモンゴルでラマ教の高僧に出会い、「『源義経汗』を発音してみよ」と頼みます。 すると、高僧は日本風の「ゲン・ギ・ケイ・カン」ではなく、「チン・キ・セー・ハン」と発音したのです。 まさに「チンギス・ハーン」と聞こえます。 小谷部が蒙古のラマ寺から手に入れた『成吉思汗伝』には、チンギス・ハーンは「丁亥の年(1227年)7月」に66歳で死んだとありますが、これは日本の「安貞元年丁亥の年」と同じ干支なのです。 実は、日本とモンゴルの干支は一緒で、これこそ、義経がモンゴルに日本の干支を導入した証拠だというのです。 小谷部は探検家としてもっとも奇異に感じたことを、『成吉思汗ハ源義経也』にこう記しています。 《東部西比利亜(シベリア)、及び満洲等を旅行して、彼(かの)地に日本式の古き神社の在(あ)ること、及び笹竜胆(ささりんどう=源氏の家紋) の紋章を用いること、かつ満洲人に姓を源と名乗る者の多きを賭聞する》 この本には、ほかに、●ジンギスカンとなった「テムジン」は「ニロン」族の出身だが、これは「日本」族の「天神」のなまりである。●チンギス・ハーンは別名「クロー」と称したが、これは「九郎判官」である。●モンゴル帝国の「元」は「源」から来ている。●モンゴル文字に平仮名からヒントを得たとしか考えられない文字が存在する。●相撲、乗馬、緑茶、服など共通の文化が数多い。などなど、多くの傍証が記されています。 『成吉思汗ハ源義経也』は、大ベストセラーとなりました。 それは「判官びいき」という庶民の心情の上で、日露戦争後の大陸への拡大政策と重なっていきます。 そして、大陸への侵攻は正しいのだという「大東亜共栄圏」建設の夢につながっていくのです。 (12)「図書輯勘禄」における清朝六代皇帝、乾隆帝自身の序文 対馬出身の国学者・森助右衛門は、清国の乾隆帝の時代に編纂された『欽定古今図書集成』の『図書輯勘録』第百三十巻に皇帝自身による序があって、そこには「朕の姓は源、義経の裔、其の先は清和に出ずる、故に清国と号す」と書かれている、という珍説を発表した。 『欽定古今図書集成』自体は、日本の八代将軍・吉宗の時代に絵図160巻のみがきて、宝歴13年(1763年)に全巻がきているはずなのです。 時の老中・田沼意次は書物奉行に諮問したうえで、紅葉山文庫に収蔵したとされています。 その閲覧許可が出た桂川中良は『欽定古今図書集成』のすべてを閲覧したが肝心の皇帝の序が出ているという『図書輯勘録』はなく、総目録にもなかったそうです。 この『図書輯勘録』という書物は発見されなかったという事実をもって、「そんなことはありえない妄説」とされてしまっています。 しかし、この書物は清国にとって秘録であり、門外不出の文献なのです。 乾隆帝の子孫の皇族や臣下たちにとって、自分たちの大清帝国の愛新覚羅氏の祖先が、微々たる東方の小国、日本の一武将の裔などということを広く知られたくはなかったのは当然です。 従って、それは北京の宮殿(紫禁城)秘庫に深く収められ、専門の史官によって厳重にかん口令をしかれたに決まっているのです。 しかし、清国滅亡時の混乱によって所在不明となったかもしれないが、今後見つかる可能性があり、それに期待したいと思っています。 (13)「大日本人名辞書」の謎 「義経蝦夷に逃れ、支那に渡り、清帝の始祖となる。」このことにつき、海音寺潮五郎の「弁慶と義経」には経済雑誌社の『大日本人名辞書』の源義経の項目にある記事として詳細不明の古老の談が記載されている。 ある古老の談に曰く、「徳川氏の初めにあたり、鄭成功が支那の南方に拠り、大いに清廷を悩ましたるおり、鄭氏の母は日本人なれば、その縁により、日本政府の鄭氏を助けんも測り難しと、清廷の有司は懼れを懐き、為に1介使を送りて、わが皇の祖先は貴国の人にて、わが皇は実にこの後裔なれば、爾後は隣交を結び、名は両国の帝なれど、誼は兄弟のごとくなるべしと、文書礼物を供えて、幕府に贈り、かつ、これは我が祖先の着用せしものにて、伝家の重宝なり。しかれども、いま前言を証するため、これを贈ると、古き日本おどしの鎧の草摺一片を添え越したるよし。その草摺ならびに文書は、久しく幕府の庫中に秘めおきしが、明治中、徳川家より宮内庁へ献納せりと聞く。果たして然からば奇談というべし。」とある。 1616年に満州女真族の愛新覚羅のヌルハチ(太祖)が「明」を滅ぼし、国号を「後金」として建国した。 1636年に2代太宗が国号を「清」と改称し、中国最後の王朝(1616~1912)であるが、そもそも「清」の建国については不明な点も多く歴史の謎である。 英国公使のデビス著『清国総録』によれば、成吉思汗の孫、忽必烈(フビライ)の子孫は「元」(1271~1368)滅亡後、明朝のために放逐されて、蒙古の故地及び満州に逃れ、その地で族長の娘と婚して諸公子を産んだ。 彼らは朔地に割拠して勢威をふるい、後にその一人が「清」の祖ヌルハチで大挙して明朝を滅ぼし、国を「清」と号した。 清帝を成吉思汗の孫、忽必烈の後裔とするのは、けだし、このためであるとある。 これがいわゆる「源義経=清朝先祖説」である。 もしも、これが本当ならば、代々の清朝の皇帝たちの命をうけ編まれた歴史書物「図書輯勘禄」の清朝六代皇帝、乾隆帝自身の序文「朕の姓は源、義経の裔なり。その先は清和に出ず。ゆえに国を清と号す」が理解できる。 日本は、「清」最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を擁立して満州国を建国したが、それによって世界から孤立していた。 しかし、満州の地に初めて国家を築いたのが成吉思汗=義経の子孫であれば、世界は満州国を認めないわけにはいかなくなる。 満州はそもそも「日本の国土」だったのだからだ。 (14)北京の清朝宮殿(紫禁城)に「和」の字がついているものが多い 太和殿、保和殿、中和殿、擁和宮、協和門・・。清朝時代には日本人を和人といっていた。 清朝皇帝がその宮殿(紫禁城)の名前にこの「和」1字を選んだことは単なる偶然か? 第一回中国革命で中華民国が生まれたとき、第一代大総統になった袁世凱はまず、こういう宮殿の名前を大和殿は承運殿、保和殿は建極殿、中和殿は体元殿、協和門は経文門というように書き換えた。 袁世凱はなぜ、執拗にこの「和」の字にこだわったのか? ひょっとしたら、袁世凱は「図書輯勘禄」における清朝六代皇帝、乾隆帝自身の序文「朕の姓は源、義経の裔なり。その先は清和に出ず。ゆえに国を清と号す」を知って、宮殿(紫禁城)の名前を書き換えたのではないだろうか。。。。つまり、モンゴル帝国「元」は清和源氏の一字「源」に、さらに「清」の国号は清和源氏の一字「清」に由来するが、宮殿(紫禁城)に「和」の字がついている建物が多いのは両方合わせると「清和」になるように命名されたようだ。 (15)「成吉思汗=源義経説」登場の歴史的経緯 源義経生存説がはじめて登場したのは江戸時代の中期ですが、それから昭和にかけて成吉思汗=源義経説が大きな話題となったことは、次の5回ほどあります。 ① 江戸時代/正徳2年 (1712)・義経は蝦夷地に脱出し、アイヌに神として崇められる ② 江戸時代/享保2年 (1717)・蝦夷地に脱出後、金国に入り、皇帝として厚遇される ③ 江戸時代/天明3年 (1783)・義経は蝦夷地から韃靼に渡り、やがて清国を建国する ④ 明治時代/明治18年(1885)・義経は蝦夷から韃靼を経てモンゴルに入り成吉思汗に ⑤ 大正時代/大正13年(1924)・小谷部の『成吉思汗は源義経也』がベストセラーズに ⑥ 昭和時代/昭和33年(1958)・高木彬光『成吉思汗の秘密』 のベッドディテクティヴ | ||||
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