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ダブル・ダブル
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ダブル・ダブルの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.82pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全17件 1~17 1/1ページ
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他作品と比べて、エラリーが物的証拠や論理的思考でなく直感に頼っている感じがする。犯罪現場や遺体の描写なども最小限で、(ミスリードも含めて)読者が推理する余地が少ない。それだけ「痕跡を残さない優れた犯罪者」なのかもしれないが。 読む人はそれを理解したうえで割りきったほうが良いです。 | ||||
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後期エラライ・クイーンの作品は「9匹の猫」以外は冗長で、これもそう。クイーンはX4部作があまりに素晴らしく、それとの差が大きすぎる。 | ||||
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この期に及んでエラリイ・クイーンを読もうなどとは思いませんでしたが、越前敏弥さんによる新訳が出たと知って、「ダブル・ダブル "Double, Double"」(エラリイ・クイーン ハヤカワ・ミステリ文庫)を読むことになりました。 1950年リリースの古典。舞台は、ライツヴィル。古典とは言えパズラーですからネタバレを控えて、ライツヴィルの住人たちの中、金持ちが亡くなり、貧乏人が死に、物乞いが行方不明になり、泥棒が殺害され、それは何かの思し召しかと疑うエラリイ・クイーンがいて、そして幾人かが犠牲になる連続殺人事件が展開されます。<Who-Done-It>以上に<Why-Done-It>がすこぶる魅力的な一篇だと思います。その論理は堅固きわまりなく、パズラーに付き纏う違和感の少なさには驚きを禁じえない。 周辺の話をしましょう。 クイーンと物乞いの娘・リーマの会話の中、チャンドラー、ケイン、ガードナーが言及されています。篇中、新聞社社主のマルヴィーナは、このパズラーの中では浮き上がった存在として登場しますが、そのことについてクイーンが意図したことは何だったのか?これもまた、私にとってはダブル・ダブルでした(笑)。 そして、このミステリの最大の魅力は、自然児でありながら教養人でもあるリーマの存在にあります。「緑の館」、「ピュグマリオン」(「マイ・フェア・レディ」と言ってもいい)、加えてそのリーマの姿は「ザリガニの鳴くところ」のカイアのキャラクターに継承されているような気さえします。 様々な二面性、二元論が統合されてパズラーの「論理」を凌駕する時、物語はジャンルを越えてこの世の<善きもの>を私たちに与えてくれるようです。 | ||||
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今回のヒロイン、リーマは、野性的に育ったため、ピュアで世間知らず、森の妖精のような女性です。けれど、美しさと知性は備わっており、エラリーを悩ましくさせます。ライツヴィルで起きる連続死亡事件の捜査に乗り出したエラリーは、病院内にリーマを潜入させ、院長の秘密を探らせるのでした。最初は、「ん?この殺人での受益者ってこの人しかいないよね?単純な事件?」と思いましたが、そこはどんでん返しありです。童謠にもとづく連続殺人だとエラリーは推理しますが、当初から計画された殺人ではなく、真犯人が途中から乗っかったものでした。 | ||||
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ライツヴィルという架空の町を舞台に、名探偵エラリイ・クイーンが四たび難事件に挑む。今回は、無秩序に起きた変事が、いかにも互いに関連があるように匂わせた匿名の手紙が送られてくるところから幕を開ける。その相関関係はけっこうややこしく、まずは読者は状況設定をしっかり頭に入れておく必要がある。 話が進むに従って、毛玉がほぐれるように童謡殺人というテーマが浮き彫りになっていく。しかしすべては偶然なのか? それともやはり殺人なのか? 茫としたまま物語はクライマックスへとなだれ込み、九死に一生を得たエラリイは意外な犯人を追い詰める。そして一連の事件の全容が明らかになるのであった…。 と、あらすじばかり書いても仕方ないけれど、個人的にはちょっと盛り上がりポイントがつかめず、乗り切れないまま読み終わったのが正直なところだ。しかしこれはあくまでほかの童謡殺人ものと比べてみて…ということに、後になって気づいた。そうなのだ、本作にはサスペンスがほとんどないのである。 実は、これこそが本作の特徴なのかもしれない。本来、童謡殺人はサスペンスの醸成が主なねらいだと思うが、論理派のクイーンはそれをあっさり捨てている。代わりにクイーンが挑んだのは、童謡殺人の必然性の追求だ。そして犯人の意図が予期せぬ自然の法則に乗っ取られる不思議を描くことで、作品世界に広がりを持たせようと試みている。 | ||||
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状況描写が丁寧で、エラリイの人物が浮き出てきている様子がわかります。 エラリイが犯人を指摘します。 証拠や犯人たる根拠が薄く、推測の域をでません。 なぜ?と感じてしまいます。 推理小説としては、残念な内容です。 | ||||
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私が読んだ中でのライツヴィル物の第4作目でしたが、前の3作がとても良かったので、この作品に関しては残念感が否めません。ハリウッド物と同等くらいかな~という感じでした。☆3とつけましたが、本当は☆2.5といったところでしょうか・・・。エラリー物は期待感が大きいだけに、普通にミステリーとしては十分なのでしょうが、どうしても他の秀作と比べると、この作品は劣ると思います。読むのにも中々進まなかったですねぇ・・・。次に読む作品に期待します! | ||||
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この作品への賞賛は、もう既に数々のお歴々が記されているので、ここではただ一点、納得しかねる点のみを指摘する。瑕瑾に過ぎないかも知れないが、やはり棘のようにひっかかる。それは終盤の謎解きで、被害者の一人が真犯人の「動機」を読み取り、それをタネにゆすったため消される、というEQの説明の中にある。そのタネは、別の被害者の遺言書が翌日書き改められ、元の遺言書が発覚すれば、真犯人の殺人動機が明らかになる、というものなのだが、何とも脅迫材料としては心許なく、動機の存在が明るみに出るだけでは、証拠もない以上、その人物を犯人と断定できないはずである。そのようなあやふやな材料だけで、その被害者のような知的な人間が脅迫に踏み切るとは、とても思えない。ただ、ゆすられた後は真犯人も、万一を考えるから、口ふさぎの殺害は十分納得できる。問題はあくまで、その前提の説明の不備(あるいは故意のごまかし)にある。クイーンのものにはままあることだが、辻褄が合わないところは、説明なしになんとなくぼやかす(笑)。またやったのね、というところ。ところが、この曖昧さのため、EQが直後に開陳する、すべての犯行を通じての動機そのものが、何となくぼやけて、納得できるようなできないような印象を持たされてしまうので、やはり「瑕瑾」として見逃すこともできかねる次第。複数の犯行のうち、ただ一件のみが「本命」で、あとはずるずると運命の裁きに導かれるように、犯人が事件そのものに「ひきずりこまれる」という収斂の仕方は舌を巻くほどに見事なだけ、もう少し細部をきっちり詰めてくれれば、というのは所詮高望みか。クロフツのフレンチ警部ように、地味でもそれこそ一点の不備も見逃さない追及の仕方になじんだ読者には、やはりクイーンは……ということになるのだろう。 | ||||
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架空都市ライツヴィルを舞台にしたシリーズの4作目(1950年)。論理的解決の欲求を満たす高度なパズル性と、人間心理への深い傾倒が 内包された高い文学性を融合して推し進めてきた結果・・・・この過程。 思うに他の作家なら発明や記念碑的作品になるものもクイーンにとっては過程でしかない。練りに練られながらも過程、実にピカソ的な わけだが、その過程が常に緻密な造形・豊かな着想となって、後進の創作へのプロセス・刺激になってるところが凄いの。 統一の中の二元的原理の二分化による統一、、まさにダブル・ダブルなお話しなんだけど(笑)、でも笑いごとじゃなくあまりにも 本質に迫りすぎて恐い作品なんだ。 童謡の数え唄という法則・方式がありながらなぜか無定型、、犯罪の匂いが確かにあるのにどれも自然死・事故死ともとることができて 常にダブルの解釈、ダブルの可能性。 偶然の二律背反と、必然の二律背反というそれ自体がダブル・ダブルの本質めいた二元的原理がなめらかに回転することによって生まれる まさに二律背反でしかない本質。それを引き起こしてしまう二人。。 完璧な本質主義者と、完成された本質主義者。物事ってのは皮肉になっていて完璧にすればするほど決して完成しないし、もう完成してる なら唯一できない相談が完璧にこなすこと。 前者は進んで始まりと向き合い続ける、後者は進んで終わりと向き合い続ける、前者は求め続ける、後者は与え続ける、しかしそれぞれ 求めて与える存在でありながらそれ自体が揺るぎなくもあり他を寄せ付けないところは共通だろう。必要性の問題。 前者は常に一人で事を起して始めていけばいいわけだし、後者にとって事象は常に過ぎ去っているんであって誰に言い訳をする必要もない。 あらゆるレベルにおいてこの両者のバランスが取れてる時ってのはそんなに得体の知れないことは起こらないのかもなあ。時代的風潮で 考えてみれば、今はまさにこっち寄りだが後者を無視してしまうと(性質上正確にいえば無視させないってことだが)、個々個々でなんとも 気持ち悪いことが頻発してしまうかわり全体として揺るぎない。ゆえに後者に対して澱んだ同情の過剰供給を行う、ゆえに与えたいという 欲求を去勢する、そもそも揺るぎなさすぎて与える余地がない。その分、前者に根拠があって力を発揮する。一方でやれなさ過ぎ、一方で やり過ぎだ。絶望を知ってるから壊せる。背景を逆にすれば、後者の根拠のない満足感が充満して横溢することによって全体として揺れるが、 個々は団結してる。しかし前者にとっては選択の余地を剥奪されるに等しく、求めることすらできない。絶望を体験してるので作れる。 両極端の特徴だけを抽出して観察してみれば、やり過ぎなのに求めれる、やれなさ過ぎなのに与えれる、何を求める?形のあるもの。 何を与える?形のないもの。また皮肉が作用し、やればやるほど形が追いつかず孤独になる。与えれば与えるほど集まってきて形に縛られる。 この矛盾!だからいうならば絶対的な本質主義者とは絶対的な男性性と絶対的な女性性が同居して綯い交ぜになってるんだが、当然この 絶対的な男性性と女性性もそれぞれダブルであり、よって本質はダブルのダブルで構成されてると証明して、こじつけて(笑)、終わり。 | ||||
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金持、貧乏人、乞食、とマザーグースの唄の順に起こる謎の死。果たしてこれは、何者かによる連続殺人なのか? 趣向は面白かった。作者もクリスティーみたいにひとつの唄で起こる連続殺人ものを書いてたんだね。 ただ、その謎の解答を論理的に導き出すことが不可能な点はやや不満。 また、エラリイがリーマの小屋を訪ねようとしたところ、リーマの挙動が不審で「なにかあったに違いない」と思わせぶりに書いて読者に目くらませしておきながら、結局何があったのかの説明がなかったのは、ちょっとずるいと思う。 たぶん、作者が忘れてただけなんだろうけどね。 | ||||
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金持、貧乏人、乞食、とマザーグースの唄の順に起こる謎の死。果たしてこれは、何者かによる連続殺人なのか? 趣向は面白かった。作者もクリスティーみたいにひとつの唄で起こる連続殺人ものを書いてたんだね。 ただ、その謎の解答を論理的に導き出すことが不可能な点はやや不満。 また、エラリイがリーマの小屋を訪ねようとしたところ、リーマの挙動が不審で「なにかあったに違いない」と思わせぶりに書いて読者に目くらませしておきながら、結局何があったのかの説明がなかったのは、ちょっとずるいと思う。 たぶん、作者が忘れてただけなんだろうけどね。 | ||||
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本書はライツヴィルもの第4作。ただ、私は他のライツヴィルものは読んだことがなく、本書を読もうと思ったのは『靴に棲む老婆』に続くマザー・グースものだったためである。 本書では金持、貧乏人、乞食、お医者に弁護士...とマザー・グースの唄の順に続く死を扱っている。 作者はクリスティーの『そして誰もいなくなった』と同趣向の作品を思いついたが先を越されてしまった経緯があり、とりあえず寄せ集めの唄による『靴に棲む老婆』でお茶を濁した感があったが、おそらくどうしても『そして誰も〜』のようにひとつの唄で起きる連続殺人ものを書きたかったのだろう。 その点、横溝正史が童謡殺人という点で『獄門島』で満足できなくて『悪魔の手毬唄』を書いたのと同じようなものだと思っている。 私は多少なりとも真犯人を疑いつつも、別の人物が一番疑わしいと思っていたので見事にだまされた。(その人物の死体は行方不明のアンダースンとすり替えられたものと疑っていたのだが) また、アンフェアな『靴に棲む老婆』よりずっと楽しめた。 なお、本書で使われたマザー・グースはアメリカのもので、本家本元のイギリスでは次の歌詞で唄われている。 鋳かけ屋 仕立て屋 兵隊 船乗り 金持ち 貧乏人 乞食 (訳:藤野紀男) 作者はアメリカ人だからイギリスのマザー・グースは知らなかったのだろうが、ここにもイギリスの唄か、アメリカの唄かという「ダブル」が存在するのである。 | ||||
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本書はライツヴィルもの第4作。ただ、私は他のライツヴィルものは読んだことがなく、本書を読もうと思ったのは『靴に棲む老婆』に続くマザー・グースものだったためである。 本書では金持、貧乏人、乞食、お医者に弁護士...とマザー・グースの唄の順に続く死を扱っている。 作者はクリスティーの『そして誰もいなくなった』と同趣向の作品を思いついたが先を越されてしまった経緯があり、とりあえず寄せ集めの唄による『靴に棲む老婆』でお茶を濁した感があったが、おそらくどうしても『そして誰も〜』のようにひとつの唄で起きる連続殺人ものを書きたかったのだろう。 その点、横溝正史が童謡殺人という点で『獄門島』で満足できなくて『悪魔の手毬唄』を書いたのと同じようなものだと思っている。 私は多少なりとも真犯人を疑いつつも、別の人物が一番疑わしいと思っていたので見事にだまされた。(その人物の死体は行方不明のアンダースンとすり替えられたものと疑っていたのだが) また、アンフェアな『靴に棲む老婆』よりずっと楽しめた。 なお、本書で使われたマザー・グースはアメリカのもので、本家本元のイギリスでは次の歌詞で唄われている。 鋳かけ屋 仕立て屋 兵隊 船乗り 金持ち 貧乏人 乞食 (訳:藤野紀男) 作者はアメリカ人だからイギリスのマザー・グースは知らなかったのだろうが、ここにもイギリスの唄か、アメリカの唄かという「ダブル」が存在するのである。 | ||||
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1950年作品。いわゆる『ライツヴィルもの』の最後の長編。『ライツヴィルもの』は1942年の『災厄の町』に始まり、『フォックス家の殺人』→『十日間の不思議』→『ダブル・ダブル』と続き、『クイーン検察局』や『クイーンのフルハウス』に含まれる短編いくつか、そして1970年の長編『最後の女』があるが、この頃はクイーンは監修のみ行っていて、別人が書いている。よって最終は本作で、ライツヴィルの登場は、『帝王死す』の最後でライツヴィルに戻るシーンなのだろう。(●^o^●) 『ライツヴィルもの』の最後を飾る本作は他の作品と趣向がかなり変わっている。常に新しい取り組みを止めないクイーンの意志が感じられる。とくに本作ではエラリィの執着心を描いた後半がスゴイ。双子のワルドーにおかまないなしで詰め寄るクイーンにご注目。(●^o^●) | ||||
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1950年作品。いわゆる『ライツヴィルもの』の最後の長編。『ライツヴィルもの』は1942年の『災厄の町』に始まり、『フォックス家の殺人』→『十日間の不思議』→『ダブル・ダブル』と続き、『クイーン検察局』や『クイーンのフルハウス』に含まれる短編いくつか、そして1970年の長編『最後の女』があるが、この頃はクイーンは監修のみ行っていて、別人が書いている。よって最終は本作で、ライツヴィルの登場は、『帝王死す』の最後でライツヴィルに戻るシーンなのだろう。(●^o^●) 『ライツヴィルもの』の最後を飾る本作は他の作品と趣向がかなり変わっている。常に新しい取り組みを止めないクイーンの意志が感じられる。とくに本作ではエラリィの執着心を描いた後半がスゴイ。双子のワルドーにおかまないなしで詰め寄るクイーンにご注目。(●^o^●) | ||||
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クイーンにおけるマザーグース童謡殺人事件二重の二重という原題が指し示すところは・・・童謡殺人も連続殺人も犯人の意図しているところではないのにどんどん深みにはまってしまいという苦しみが中心 | ||||
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クイーンにおけるマザーグース童謡殺人事件 二重の二重という原題が指し示すところは・・・ 童謡殺人も連続殺人も犯人の意図しているところではないのに どんどん深みにはまってしまい という苦しみが中心 | ||||
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