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冷血
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冷血の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.76pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全109件 81~100 5/6ページ
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高村薫でこれまでに読んだのは、『レディ・ジョーカー』と『マークスの山』だけだと思う。 この『冷血』については、テレ朝のニュース番組で取り上げられたのを偶然観てしまって、男性キャスターの大げさな反応には鼻白んだが、前に読んだものは面白かったという記憶があったし(『マークス』は映画も観た。名取裕子って、そんなに興味のある女優じゃないけど、異様にHだった)、時々TVに登場して社会問題などにコメントする高村薫という人に、その言葉の出所が読み切れなくて不思議な異物感のような違和感のような何かを感じていたので、読んでみた次第。 ま、読み通せたし、退屈はしなかったのだが、そんなに出来のいい小説だとは思えなかった。 帯を見れば話の筋は大体分かるし、通常の意味での推理小説的な謎解きで勝負してる内容でもないので、その辺りはあんまり気を遣わずに言えば、やはり被害者一家の描写が何であんなに長いのか、小説の設計として理解できなくはないが、効果を上げていたかどうか疑わしい。 2人の犯人についても、逮捕されてからの尋問場面や手紙では、それなりにチンピラ風の言葉を遣わせながらも、相当に高度な言語能力を感じさせて、作品冒頭で問題の事件が起きる直前までに展開される描写との落差が大きすぎる。しかも冒頭の描写は2人の間で視点を往復させながら半ば主観的になされており、読者としては犯人を内側から覗いてしまった感覚なので、逮捕後の第3者視点からの描写で延々と続く犯人の動機や心情解明の堂々巡りに、もどかしさばかり感じてしまう。 また全体に会話の言葉が生硬で、ちょっと高橋和己の小説の読み味さえ思い出してしまった。『レディ・ジョーカー』や『マークスの山』ではそんな風に感じなかったから、ある意味で以前より下手糞な、少なくとも無骨な小説になっているワケで、そこは著者の現在の境地として受け止めるべきなのだろう。その辺が見通しきれないので「つまらない」と切って捨てる気になれず、これはTVで観る著者の異物感とも通じている気がして、最後まで読み通してしまった。 | ||||
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高村氏は昔から「自分はサスペンス小説を書いていると言う覚えはない」と仰っていたようだが、本当にサスペンス小説でなくなってしまいました。この救いのない荒涼とした世界を彷徨うのは合田裕一郎でないとダメなのか…?合田を含め、空しさを抱えつつ淡々と事件に応対する警察官僚達だけがリアリティを感じさせる本作…うーん、私にはもう良さが解りません。 | ||||
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高村氏は昔から「自分はサスペンス小説を書いていると言う覚えはない」と仰っていたようだが、本当にサスペンス小説でなくなってしまいました。この救いのない荒涼とした世界を彷徨うのは合田裕一郎でないとダメなのか…?合田を含め、空しさを抱えつつ淡々と事件に応対する警察官僚達だけがリアリティを感じさせる本作…うーん、私にはもう良さが解りません。 | ||||
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前編は、久しぶりの高村薫と合田登場に期待を込めて星4つを付けました。 後編は一気読みで確かに面白いのですが、高村氏の小説は非常に作家本人の思想が反映される部分が濃いため どうしても軽く読めない部分があり、その垣間見得る思想面や描き方に今回は同意出来ず。 こういう題材なら、マークスの山のようにエンターテイメント小説として書いた方がすんなり行ったと思う。 カポーティの冷血が凄いのは、カポーティ自身があちら側の加害者に共鳴しきった所にある。 "私達は同じ家にいた。私は表から出て、彼は裏から出た" カポーティは後年語っている。作家として冨も名声も得てはいたけれど、加害者サイドに表層的な共感とか感化ではなく、"同じ人種"の匂いを感じ、のめり込んだ。 高村薫は生まれも育ちも、現在も、歯科医側の人である。 こちら側=歯科医側がいかに逸脱しようと、地獄に惹かれようとも苦悩しようとも、その壊れかたは、あちら側とは異なり、ものの見方は交錯することはない。 高村薫には、井上のような人間はわからない。それはそれでいい。が、カポーティの題材で創作する必要はあったのだろうか。 ちょっと合田好みに、アンドレジイドのコンゴ紀行でも読みそうな知的レベルを井上に付け足して、合田が如何にも興味を持ちそうなキャラに加害者を設定して、わからない、と投げ出す。 聡明さと狂気と境遇の不運さのミックスが如何にも作り物で、リアリティあふれる現場検証は面白かったのに、合田が出て絡みはじめた途端に一気に安っぽくなってしまった。 カポーティは実感、体感としてあちら側の人間とコンタクト出来たからこそ 淡々としているのに真の恐ろしさと不条理が全編を覆っていたが、この作品は全編の臨場感のおもしろさを、合田メインの後半で白けさせている。 高村氏には、不幸な生い立ちと成育の井上や戸田の人生をなぞる事は出来ても そこに、自身好みのインテリ風味を付けない限り人間として描写出来ない作家なんだと思う。 本当に人生の底辺を這う人間を見る目が、深く見せかけてる分だけ浅くかんじる。 高村薫は凄い一流の作家ですが、合田イコール高村薫自身であり、その合田に全く魅力をかんじなかったのがこの本の限界でしょうか。 | ||||
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読了した日に3死刑囚の刑執行。 しばし合田雄一郎になる。 時として臨界に達したかのようにこの世界の裂け目を垣間見せる異形の殺人事件は いったん宙吊りにされ、そのリアルは傲然たる指示機能を標榜する司法言語に回収され着地する。 国家の操る司法言語が個の抹消の根拠を僭称することは自明でありながら、 リアルは国家の言語領域に解体され死刑相当のリアルに転位するのだ。 合田は国家の司祭の系列にありながらその言語体系そのものに殉じることができない。 個の直接性には個の直接性をもって当たるしかないだろう。 合田はそのエッジを彷徨する。諦念や断念というふうにではない仕方で。 死刑も証拠捏造も医療過誤も厳密性という錬金術の迷路の中にある。 そこからリアルを拾い上げようとする我が主人公が、 湖北への小旅行をつつがなく終えたことを祈るのみである。 | ||||
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レディジョーカー以来の、高村薫。 ちりばめられる実在の固有名詞と土地が 戸田と井上という二人に血肉を与え、16号線の風景が、どこかで目にしているあの荒涼感、コンクリートと 人々の貧しくはないのに漂う底辺の土の臭いが、戸田と井上の会話から浮き上がってきます。 一家4人殺害という大事件ながら、その決定的場面は上巻での描写はなくひたすら、戸田と井上の事件前の数日を綿密に追い、その寂漠とした日常と訪れる場所の描写で、あー彼等の空洞はやばい、じわじわとくるのです。 一方の被害者サイドの地に足をつけた社会的地位とその生活、その本物の豊かさと 井上たちが日常的に見る光景との差は、読んでいる側に静かに迫って来る 日本の真実の、本物の身分の差。 けれども人は自分の土地に親しみ、そこで生きて、その風景と折り合いをつけて誰もが逸脱せずに、一生を終えるものです。 なのになぜ、いきなりこの二人は殺人までにいたるのか。 太陽の光が眩しくて... 思い出すのはカミユの一節。 そんな漠然さ、曖昧さをもったまま、合田登場、警察の捜査の章にはいり 怒涛の如く展開、逮捕で上巻は終わります。 これはサスペンスでもなんでもなく、ドストエフスキーの世界なんですね。 出世した合田は相変わらずの一面もありますが、かつての魅力はなく、諦観という鎧を身につけ 静かに傍観者としてそこにいます。 渇ききった土地と人間を目の当たりにして、重くページを閉じた上巻でした。 面白い、やはり高村薫は凄い。 | ||||
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物語の流れには、最後に決着がついていなければならない、なんてことはないと思わせられた珍しい作品だろう。 合田雄一郎は、この物語の中で、特に自身の主張を強める訳でなく、かと言って流されもしない。 主要登場人物が強烈な存在感を放つのではなく、ほぼ偶然に近い要素によって、関係を持たされざるを得なくなった人間たちの様相が、淡々と描かれる。 犯行の「動機」って、実際どの程度のものなのか、と考えざるを得なくなった。 実に微妙な線を衝こうとし、実際に文章化した作者の勇気を称賛したい。 | ||||
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あまり小説を読まなくなった評者が、新作を楽しみとしている数少ない小説家のひとりが「高村薫」。 硬質な作家だ。 かつては「桐野夏生」もその一人だった。「悪意」を描き続ける桐野だが、悪意の頂点が、シリーズ物の主人公「村野ミロ」を壊してしまったといえる「ダーク」だったと思う。 しかし、その後発表されるのは、悪意の縮小再生産を繰り返した作品ばかりとなってしまった。 高村薫は、縮小再生産に陥った桐野とは異なり、その小説世界からは徐々にエンタメ的要素が排除され「純化」していった。そして、前作「太陽を曳く馬」を読み終わるに至っては、読者を置き去りにしているのか、とさえ思った。 正直、合田の姿を借りた著者の宗教観を理解できているのかがわからず、レビューを書くこともできなかった。現在に至るまで3回読んだが、その思いは今でも変わらない。 ただ、それでも次作が待ち遠しかった。読むのが楽しみということもあるが、それ以上に、高村薫はどこに向かっていくのか、そして、その世界に自分はついていけるのか、という楽しみみたいなものの方が大きい。 自分の中では高村薫の小説は、居住まいを正して読むべき小説となっている。読み始めたら止まらないが、一文一文をじっくり読まなければならず、ストーリーを流して読むことが許されない(もったいない)という強迫観念みたいなものがあるからだ。だからなのか、本作も発売直後に購入したが、なかなか読み始めることができなかった。 刑罰の目的には、犯罪者への報復であるとする「応報刑」思想と、日本のように犯罪者を教育改善し社会的脅威を取り除くという「目的刑」思想の二つの考えがある。本作での犯人は、どちらの考えに立脚しても現在の日本では「死刑」だろう。 ただし、本作の犯人には動機がない、というか犯人にも動機がよくわからない。「目的刑」における目的がないのだ。 高村薫は死刑廃止論者という事実は知っていたが、その拠り所となる考えが、一般的に知られる「目的刑思想」にあるのかどうかまでは知らない。 ただ、わかるのは、自身の主張を織り込んで小説を書くにも拘わらず、自らを困難な状況(設定)を選んで書いているな、ということだ。 縮小再生産的を繰り返している桐野夏生との大きな違いだと思う。そうして書き上げた高村薫の作品は、好き嫌いは別にしても読者を圧倒してしまう、ということだ。 振り切られるかもしれないが、これからもついていこうと思う。 | ||||
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高村作品を読む都度に私は自らの前に忽然と開かれる奈落のような作品世界に慄然とさせられる。よくある「作品と一体となって楽しめた・悲しんだ」ではない。明確なテーマまた命題が、しかし如何なるヒントもなしに、安易あるいは月並みな一般論を許さぬ厳粛な塊として、読み手である私に突きつけられる。おそらくは「照柿」の時だったろう。その輝くような赤に彩られた塊に、私は何の根拠もなく奈落を感じた。作品まるごとに突き落とされて、その命題への解に一生彷徨させられるような畏怖を感じて、そこから貪るようにラストまで読み続ける。 その気持ちを、やはり本作でも味わった。本作は、至近数作と比べれば、テーマ・命題は極めて明確と思う。あたかも自明にして当然のものと思われている「生」そして、自らの意志そして同時に他人の意志によってももたらされないと思い込まれる「死」。その意味が極限に近い形で問いかけられている。人為的あるいは生業として「死」に関わりうる者達−警察、検察、殺人犯、そして医師−、そして、何であれ「死」に関わってしまった者−被害者、そして警察、検察もまた、そして、遺族に連なる者達−、人の手による「死」の果てに、人は初めて己の「生」の意味を考え始める。そこでは「生きろ、生きろ」というどこからかの声を言葉通りに思うような愚かはない。その証左として、本書は、「死」と「生」に関わる言葉が積み重なってのラスト数十頁に、慄然とする言葉が用意されている。そして、それでもなお、私はやはり言葉を見つけられないでいる。 実際、存在しないであろう言葉−2人の犯人による4人の殺害動機−を、半ば存在しないと分かりながら合田刑事も含めた警察・検察が延々とそれを追い求める部分が下巻の過半を占めている。2人の犯人の過去、また、上巻ではその位置付けが分からなかった合田刑事の本来業務である医療過誤事件の顛末が、その追求の虚しさを浮き彫りにしていく。 更には、会話とも対話とも言い難い合田刑事と犯人達との間で交わされる言葉が交わりきらない中で、ラスト100頁の中で示される、虚構の塊のようなこの事件を描いた言葉、そして、ラストで唐突にぶつけられる恐ろしい幾つかの想い・・・ もっともらしい言葉で纏めたくない気持ちと纏められないモドカシサで今はいっぱいである。 人の「生」「死」過去に無数の作品がモチーフとしたテーマについて、高村薫は、凡百の言葉を伏すことを許さぬままに、また一つ大きな金字塔あるいは越え難くも登りたい誘惑をこらえられる高い峰を築いたのだと思う。 なお、新たな事件を迎えるごとに、その役割が変容していく合田刑事だが、本作では一種トリックスターのようにまでなっている。でありながらも、116頁のように投げつける彼の言葉は、やはり重い。 | ||||
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面白いし、高村さんの小説としては読みやすいのだが、 筑附、豊島病院.....といった固有名詞の頻出が気になり、「それ違うでしょ!」と、ツッコミを入れたくなってしまう。 エリートの代名詞として筑附を選んだのだろうが、(東京の受験ママなら誰でも知っているが)筑附小は、数十倍の抽選と3倍?くらいの学力考査で入学が決まる。 被害者の姉弟ともに、筑附小なら、ものすごく運の良い子たちであり、即エリートというわけではない。 夫は豊島病院口腔外科勤務という設定だが、歯科医師であり、入院病棟もないことから、当直はありえない。 あと、5億以上の財産を持っているなら、北区に住んでいるという設定にも、首を傾げてしまう。(北区在住の方、ごめんなさい) 医師の居住地は(勤務地は別にして)、かなり偏在しており、この機を見るに敏な歯科医師夫婦も、子供の学校や母校を考えれば、文京区あたりに居住していなければ不自然な気がする。 車やパチスロについてはよくわからない。 これらはあくまで瑣末な『記号』であり、著者のテーマとは異なるのは承知の上なのだが、 ひっかかって没入できなかったのは、残念であった。 | ||||
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当たり前だが、分冊の一部だけで作品全てを語ることは出来ない。それにしても、本作品の上巻ほど、作品全体のテーマに進んでいないものも珍しいのではないか。 本作品は、カポーティの「冷血」に高村薫が正面から堂々と挑み切った大作であり、その味わいは下巻で圧倒されるわけだが、上巻ではその圧巻の想いには全くヒットしない。これは、上巻に魅力がないということではなく、高村作品の中でもとりわけ、前半ではテーマの外縁をジックリと描く、いわば出汁づくりに費やされているからだろう。 上巻の1章は事件当事者3名の事件に至るまでの主観的な心理描写が延々と続く。そして、2章でようやくに合田刑事登場となって、事件後の警察の動向が刻々と伝えられる。敢えて、これまでの作品より合田の内心が淡々としているのは、上巻というか犯罪とは直面しても、犯人とは直面していない故だろう。 上巻の中では、たとえば延々とジャラジャラピーが続くパチスロ描写や警察無線をひらすら重ねる手法は、通俗的なのだが、高村薫にかかると、これ以上ないほどに効果的に人物の心理や警察の動きを読者に伝えるところであり、やはり感心させられる。 それにしても、事件のビフォー・アフターを、事件の当事者と警察という対峙する立場に切り分けて、全く異なる手法で描き出し、しかし、本作品のテーマには敢えて触れずに、読者を飢餓状態にして、下巻を貪るように読ませる(注:一気読みとは意味が違う)。そして、貪りつつも、深く心で読み尽させる高村文学の新たな最高点が下巻には待っている。 さて、「橋下」問題だ。本作品には、間接的な登場人物として「橋下」という覚醒剤常習者のヤクザが登場する。橋下という苗字はマイナーかつ特殊なものである。従って、部落問題に関心があるものはもちろん、最近の週刊朝日での事件を知る者も、この苗字が部落由来と知っているし、高村薫を知る読者なら、彼女が極めて左寄りの政治認識を持ち、橋下氏を批判して来たことを知っているだろうし、大阪生まれ・大阪育ちの彼女が部落問題を知らないことはなく、むしろ「レディジョーカー」で部落を題材としたことで部落解放同盟の抗議を受けたことも、最近では宮崎学が著してもいる。 つまり、本書の読者は、その知識・情報次第だが、高村薫が、「橋下」(これがハシモトと読むのか、本来のハシシタと読むのかは不明)という人物をヤク中のヤクザに名付けたことは、少なくとも橋下大阪市長への意趣を含むこと、あるいは部落由来の名前をヤクザにつける認識などを、感じずにはいられないだろう。 しかし、私は、これを糾弾・批判する者ではない。高村薫がそんな浅墓なことで橋下という苗字を使うことなどありえないと考えるからだ。書評等でも触れ難い部分(本作を論じる上で全く意味がないし)だが、高村薫という文学者を考える上では、興味を持つところだ。 | ||||
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さしたる展開の変化も見せず、意外性も無く、ただ、ダラダラ続く。 いつか展開が見られるのかと思っていたが、そのまま読了してしまった。 相変わらず裁判員裁判の裁判員感覚は最後まで続く。 始めて合田雄一郎刑事と接する読者(私も)は合田刑事の透明感はそのままで終わる。 妻が9.11のニューヨークの被害者というエピソードと畑いじりが趣味と言う以外は全く何者か分からない。 合田刑事に人間味が感じられない。 容疑者と文通する状況は共感できない。 容疑者が弁護士やジャーナリストと文通する話は良く聞くが、本を一冊くれただけの刑事(事情聴取を担当している訳でもない)と延々と文通するリアリティーの無さは不満が残る。 本来のストーリーと関連しない人種差別的発言を登場人物にさせている点もしっくり来ない。 不要なエピソードを混ぜる必然性が感じられない。 連載を担当したサンデー毎日編集部への疑問も湧く。 とにかく長い。 せめて半分程度にまとめられた様に思う。 そうすれば半額の1600円程度で済んだ。 興味のある読者は上下2巻で3200円(税別)を払うより、文庫化を待つのも良いだろう。 | ||||
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上巻を読んで。 高村氏の文章はとにかく長い。 詳細過ぎる文章にだれる。極めつけは、パチスロの描写。 延々と2ページ近くも、蛙がどうした、スロットの回る音がどうした、とダレル。 現在の事件を想定して(世田谷の事件の高村解釈が入るが)、読者を裁判員裁判の裁判員へいざなう。 あなたが裁判員裁判の裁判員に選出されたら、こういう被告・被害者・現場と対峙するのよ、というメッセージを受けている様な気分になる。 気になるのは、合田雄一郎の透明感だ。 まったく生物感が無い。 人の批判や論評はするが、彼の日常・欲望が描かれていない。 裁判員裁判の裁判官役に感じる。 今下巻読書中だが、とりあえず、上巻の読後感をまとめておく。 | ||||
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前作『太陽を曳く馬』は刑事合田が尋問をとおして、行住坐臥、縦の重力に貫かれた人間の極限にある、死と背中合わせの自由を追求して、どこかカントの、理性の言葉で理性の極限を論証し、そこに自由存立の根拠を提示したあの徹底性のごときものが、まちがいなく極まったかたちであって圧倒的、感動的でしたが、その前作を縦の墜落の物語というならば本作は、あえて深みを排して、横へと連なり広がる意図をもった物語といえるでしょうけれど、しかし前作にあったような極限性、徹底性はあきらかに後退していて、とうぜん比較されるであろう(連載時は『新冷血』であったという)カポーティの大名作『冷血』のもつ、あらゆる事実関係を、一見したところ無関係であるようなことまでも、丹念、細緻に拾いあげ、視点、時空を自在に断片的に紡いでいくその徹底性ともすれ違っていて、なんとも肩透かしな出来であるといわざるをえません。 端的にいえば、合田がこの事件に限って刑事失格であるからといえます。かつては容赦なく、根掘り葉掘り尋問していた(それは反射して自問自答ともなった)かれは、いまや有能な事務機械となって連絡調整に徹し、加害者たる容疑者にじかに向きあうことなく、つまり取調べ、尋問することもなく、まるで聴聞僧のように問訊(合掌低頭の作法)している。さいごはほとんどそうなって死刑囚に相対している。だが刑事である以上、かれがなすべきは問訊ではなく訊問です。自問自答のすえに答えのなさに放念(心)する、そんな坐禅ではなく、全身で物証、心証を捜索する行脚です。本作の第一の魅力が、告訴事案の医療過誤事件の部分であるのは、かれが行動し訊問しているからです。 とはいえ、第二章の特捜本部での捜査活動の描写はあいかわらず、捜査本部内の人間関係や犯人追跡の趣向や奥行、ダイナミズムを極力排し、あえて散文的に平板、殺風景に徹していてなかなか凄味があります。わたしにとっての読みどころはそのへんでした。 どうやらテーマとしているらしい、動機なき殺人を辻褄合わせにおちいることなくリアルにいかに描きつくすかは、カポーティの『冷血』の視座を参考にした(あとがきにそうある)というわりには新機軸どころか(第一章の意識の流れふうのクロスカッティングがそうなのかな)、お手本の足下にも及ぶべくもなく、大失敗というしかない。 おそらくそれは『黄金を抱いて翔べ』や『レディー・ジョーカー』のように、犯行の動機がせんじつめれば金ではなくロマンというところにオチて、物語構想の迫力のわりには動因を欠き、中折れ気味であったように、本作もその線でうすらぼんやりとおちついている。なんとも中途半端です。 しかし動機Xというのは、ロマン(想像力=構想力)ではなく、あくまで理念=原因(超越論的仮象)としてあつかうべき実在性であり、ロジックで論証して目指されるべきものなのであって、そのような問いの形而上学的追求は『太陽を曳く馬』、形而下的には『マークスの山』『照柿』で、どれもたしかな強度をもって果たされているとはいえる。ただXをXとして一個の人格(その境遇)に還元できないものと躊躇して、全方位的な果てない追求へと踏みだしたとき、まさにカポーティの視座が問題となるでしょう。 一見して行きずりの、出会い頭な、身も蓋もない陰惨な犯罪がなぜ起きてしまったのか。その偶発性、偶有性をけして損なうことなく、だがそうでしかありえなかった運命のごとき固有性、かけ替えのなさをどう発光させることができるか。そこで犯罪は、光子が粒子でありかつ波であるような量子力学的様相を帯びる。カポーティの『冷血』はそんなみごとな一達成です。犯行現場の被害者と加害者から波及するそのさざ波は、その諸家族、諸過去だけでなく、隣人、捜査陣(の家族)へ、そして最後にはほんのちょっとかかわっただけのゆきずりのひと、馬、猫、にまで波動微かにおよばせつつ、かつ最終的には死刑執行、墓地にみごとに収縮する。これは、犯人らの車にひとときヒッチハイクした老人をつれた少年とか、町の広場に居ついた番の野良猫とか、そんなささいながらも、したたかにある様々な人生の輝きが細部に宿ってこそのものなのです。 やはり比較して提起しておきたいのは、カポーティのラストが死刑執行後の被害者の墓地(そこをおとずれた捜査員の眼で、第一発見者であった成長した少女との再会が点描される)であったのにたいして、高村においては被害者への墓参りは簡単にふれただけで、厳然とした死刑執行でもって物語を終えている、その違いです。犯人の造形についていえば、カポーティのほうが圧倒的です。殺害の実行犯は、無頼に生きつつも、雲散した家族の憎むべき記録だけはずっと大事にとっていました(それが逮捕のきっかけとなる)。だがなによりもいうべきなのは、犯人しか知りえない秘密の暴露(物的かつ心理的)が、ここぞという尋問でみごとに呈されているからでしょう。殺された娘がためていた一ドル銀貨が、それです。それが転がり落ちることで、ふたつの幸不幸の家族が一瞬透視され、そのとき動機というならそのXが鈍く白熱したのです。その鮮やかな細部は、いまでも覚えています。たとえ行きずりであったとしても、犯罪の真相は、加害者の心理、人生行路だけを根掘り葉掘りしても解明できはしないのです。残念ながら、高村作には、かような(被害者と)犯人しか知りえない物的かつ心理的脈絡の追及、発見はみられません。なぜ四人もの殺しが起きてしまったのか。刑事合田は部下の主任に丸投げして慨嘆しているだけです(いや、文庫本を犯人に利益供与さえしている)。これではまるで風が吹けば桶屋がの因果、ああ無常の風が吹く、ではないか。 カポーティの『冷血』には、一面の麦畑に案山子がひとつ、被害者のように加害者のようにか、ちょっとゆがんで、風におんぼろ衣服を躍らせて佇んでいる、そんな点描があったかとおもう。作品全体の世界観をふっと垣間見せるそれにたいして、本作のそれが合田の矢切の畑のキャベツっていうのが、高村ファンとしてちょっと(いやあまりに)悲しい。まあ、そんな人殺しとキャベツとパチスロと『パリ、テキサス』……と明滅、短絡するフラットな世界が、われらの現代だっていうことなのかもしれませんがね(そういえば、わたしも早稲田松竹で『パリ、テキサス』を見た口です)。むろんこんな世界、わたしは不同意です。 | ||||
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新リヤ王は上下巻買ったのに上の数ページでまったく読めなくなった。それ以来高村薫は敬遠していましたが、今回合田雄一郎がでるとの内容紹介に引かれ購入。一気に読めました。確かにミステリーではなく、被疑者と合田の心理描写がえんえんと描かれているので、犯人探しとかフツウノミステリーを期待するなら読む価値はまったく0でしょう。 ただわたしはここにでてくる戸田というひとを自分なりに想像した時に、表面的ではあるかもしれないけれど、ずっと孤独で来たまじめな人が、初めて自分を待ってくれる友人と言うものを得たと思ったときに、そこから受け取ることができるちょっとしたこころの浮き立ちとか、あってほんの数日しかたたないのにその人に感じてしまったかもしれない義理とか、そういうのになんかやられてしまった。 けど最終的には救いのない話だったけれど。 でもきっとそれが現実に一番近いのかもとかおもってしまったりする。 なのでずっと敬遠してたけれど、今日は「太陽を曳く馬」上下巻を注文してしまった。その結果がザンネンなものだとしても、「冷血」はそれをおぎなってあまりある後味を残してくれたように思う。 | ||||
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久しぶりの新刊でしたが、ファンとしては「何かが足りない」という読後感です。今回は比較的読みやすい印象を受けましたので、高村さんの著書を初めて手にした方は面白いと思ったかもしれません。もちろんそれはそれでよし、です。ですが、今までの高村さんの作品を読み、心打たれたファンとしては、物足りなかった。他のレビューにもでていますが、死刑制度に異議を唱えるということが前提であれば、合田はもっともっと悩まなくてはならないだろうし、同時に被害者側からの死ということにももっと向き合う必要があるように思います。 「マークスの山」から「レディー・ジョーカー」にいたる三部作、「晴子情歌」から「太陽を曳く馬」にいたる三部作など一通り読んでいるファンとしては、読者の心を抉るような描写が少なかったように思います。「晴子情歌」を読んだときの「レディー・ジョーカー」からの大きな転換に驚かされ、「新リア王」でも同様に表現の力強さ、深さに心打たれ、「太陽を曳く馬」での表現しにくい事象を言葉で伝える挑戦(といえばよいのでしょうか)みたいな印象ももちませんでした。 構成、語り口についても以前に使用した手法がとられているように感じ、斬新さに欠けると感じました。手紙で心情を伝えることで人間の内面を描写するというのは「晴子情歌」「太陽を曳く馬」で既出。残虐な殺人事件とそれに関する死刑までの流れも「太陽を曳く馬」で既出です。 高村さんの作品はいつも読んだ後に何かを重く、強く感じることが多かったので期待しすぎなのかもしれません。ですが、ファンだからこそ、☆2つです。次を期待して。 | ||||
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上巻で空白のまま残された事件自体の実情は、「言葉」というものの限界をつきつけられた『』の事件よりも空虚で、ありていに言ってしまうとしようもない運転手による交通事故のような印象を受けました。カポーティーの冷血を、この本に影響を受けて読み始めましたがやはり同じような印象です。 しかし、そのポッカリと空いた闇に対して法律と警察の言葉で埋めようとするも届かないことを知りながら、それでもなお、職務を超えた犯人達との葉書という言葉のやり取りに拘る合田刑事は、 出世したことで『』や『』のときのような臨場感を失いながらも、『』で到達した語り得ぬものの地平にもまだ倒れず立ち続けているようで、何というか久しぶりの旧友の変化が実はたいしたものでなかった時のような、なんとも言えない奇妙な安堵感がありました。 想像していたよりも事件の実情は味気なく、それゆえに不気味さと言葉で人間に迫ることの限界とそれでも可能性を示してくれました。この下巻の最終章は2005年夏〜とあり、最後の一文は2007年(平成19年)になっています。そこから5年経ち、ソーシャル・ネットワーク上での私的言葉の拡散、リーマン・ショック等や日中韓のナショナリズムで言葉以外に揺らぐ世界に立つ合田刑事が、次はどのような言葉を紡ごうとするのか、今から次回作が楽しみです。 | ||||
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上巻で空白のまま残された事件自体の実情は、「言葉」というものの限界をつきつけられた『太陽を曳く馬〈上〉』の事件よりも空虚で、ありていに言ってしまうとしようもない運転手による交通事故のような印象を受けました。カポーティーの冷血を、この本に影響を受けて読み始めましたがやはり同じような印象です。 しかし、そのポッカリと空いた闇に対して法律と警察の言葉で埋めようとするも届かないことを知りながら、それでもなお、職務を超えた犯人達との葉書という言葉のやり取りに拘る合田刑事は、 出世したことで『マークスの山 (ハヤカワ・ミステリワールド)』や『レディ・ジョーカー〈上〉』のときのような臨場感を失いながらも、『太陽を曳く馬〈下〉』で到達した語り得ぬものの地平にもまだ倒れず立ち続けているようで、何というか久しぶりの旧友の変化が実はたいしたものでなかった時のような、なんとも言えない奇妙な安堵感がありました。 想像していたよりも事件の実情は味気なく、それゆえに不気味さと言葉で人間に迫ることの限界とそれでも可能性を示してくれました。この下巻の最終章は2005年夏〜とあり、最後の一文は2007年(平成19年)になっています。そこから5年経ち、ソーシャル・ネットワーク上での私的言葉の拡散、リーマン・ショック等や日中韓のナショナリズムで言葉以外に揺らぐ世界に立つ合田刑事が、次はどのような言葉を紡ごうとするのか、今から次回作が楽しみです。 | ||||
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ido not wanna read the book called cold blood. 私は暖かい血という本が読みたいです。 | ||||
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前作「太陽を曳く馬」とは違ったかたちで著者が投げかける問題は非常に難しいものであリます。難解なのではありません。著者の問題提起に対する読者としての回答が難しいのです。この作品では、一般的に認知される人々(被害者・合田雄一郎を除く捜査陣・検察)と通常では理解しにくい人々(被疑者もしくは被告)の両方が描かれていますが(もっとも、作品の明確な意図なのでしょう、被害者からの視点は描かれていませんが)、犯罪構成要件(犯意・動機・殺意)が非常に曖昧で、かつ被疑者あるいは被告はその曖昧さに後ろめたさを感じてはいないことに対して、違和感を抱いたままラストへと連なっていきます。捜査陣も違和感は感じるものの、どうしようもないまま、しかしながらいつの間にか、それはそれで仕方のないこととして起訴し、裁判もそれはそれで仕方がないということで進んでいきます。「それはおかしいだろう?」という捜査陣からの光を、被疑者は吸い込んでしまうためで、犯罪自体は成立しており、且つ容疑も完全に認めているので、捜査や裁判の進行に大きな障害はないのです。合田雄一郎は今作では実質的な捜査主導者となっており、前作までの歩を進めては立ち止まり、苦悩する姿を浮き立たせてはいません。終始違和感を持ち続けながら、被疑者もしくは被告に対し、その人物の内面に光をあてるような手紙のやり取りや対話を行ないます。ところがそうして得られた返答には、むしろ非常に人間臭い要素があるのでした。 不可解なものへの接近を描いた前作を、高村薫がどうつなげるのか非常に楽しみでしたが、今作ではあなたならどう考え、どう行動するか?という鋭い問いを投げかけて来ているように思えてなりません。合田雄一郎が前作までの彼と比べて、言わば淡々と描かれている理由は、合田雄一郎が苦悩すればするほど読者が彼に引き寄せられるからであり、そうではなくて今作では「もっと冷徹に考えてみよ、このような事は我々の身の回りに普通に起こっており、それを普通に理解したつもりで忘れているのではないか?」と言われているようです。非常に回答するのが難しい真の問題作だと思います。 | ||||
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