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冷血
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冷血の評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点3.76pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全109件 21~40 2/6ページ
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犯人はすぐにわかるし、早々に逮捕される。いわゆる推理物ではない。 犯人の動機探しというか、警察的・検察的な動機付け、とでもいおうか。 途中、確かに「これは、合田刑事である意味はあるのか?」と問いながら読んで、 匙を投げかけた時もあったが、我慢して下巻まで読了して、 「なるほどこれは合田でなければならなかった」と納得。 そして、「冷血」のタイトルにも疑問がわきつつ・・・ この後は下巻のレビューで書きたい | ||||
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下巻は、ほぼ、合田と同じ目線でただひたすら調書を読む。 彼と同じように、犯人を知りたい気持ちがわいてくる。 タイトルに疑問もわいた。 犯人は4人殺した「冷血」な奴らだったろうか。 「真相」とでもつけた方がよかったのではないか。 真に冷血だったのは、冷血な犯人像を描きたかった検察、国の方ではないのか。 決して犯人に同情しているわけではないが、このまま彼らを殺してしまってよいのかとも思った。 <少しネタバレ> 上巻では合田である必要性に疑問を感じていたが、 ギンリョウソウのシーンで、ああ、この作品は合田でなければならなかったと納得した。 不必要に感じていた医療過誤の捜査も、犯人の葉書のセリフのためにだけ、必要だったのだとこれも納得。 | ||||
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確かに高村さんの作品は難解だったり読み進め難い点もあります。でも、好きな作家さんだったらまず読んでみようよ、と思うんですが・・。最近ここのレビューを見てつい買うのをためらう事が多々あるので。冷血は合田刑事が出てくるから一瞬おおーっ!と思って買われる方もあるのでしょうが、一家4人が惨殺され、その犯人を巡る心の動き、合田ありきではなく、事件そのものを描いているんだと思って読んでみたらどうでしょうか。最新作の我らが少女Aでも合田さんが出てきますが、私は最後の最後、あのたった一行に涙し、やはり高村作品はいいなぁと感動しました。 | ||||
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たびたび利用する書店で安心してます。 | ||||
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よく購入する書店で安心です。 | ||||
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評価が分かれているのが意外だが、紛れもなく高村薫の作品として非常に高いレベルで完成されており、例えば村上龍のように過去の傑作との落差にがっかりさせられることは決してない。ただし、リヴィエラやマークスのような分かりやすいミステリーでないことは確かであり、読者としてはそれなりの覚悟は必要。2000年代のまだ余裕を残しつつ明らかにピークを過ぎつつあった日本社会の状況と合わせてじっくり噛み締めたい一作。それにしても高村作品は文庫化が遅すぎる! | ||||
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被害者側と加害者側で余りにも違い過ぎる世界。 この小説が発表されてからまた年月が経ちましたが、移民も増えてくるであろうこれからの日本は更にこのような犯罪が増えてくるかも知れません。合田、そしてこの小説の主たる読者は被害者側の世界にいるのだろうと思い至ります。 世田谷の事件を思い出させますが、それは違うほうが良かったかも。そのために減点です。 | ||||
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この本は一家皆殺し強盗事件の顛末を描く。 犯人たちが小さな偶然によって大それた犯罪へと転がって行くその様は、現代では多くの犯罪が動機すらあいまいなままに引き起こされているのかも知れないと感じさせる。そうしたリアリティを、ある意味では十分に描いているとも言える。 本書は犯行の渦中の同時進行的に描写される心理、逮捕されてからの取り調べへの応答、犯人の周囲の人たちによる生い立ち等の証言で構成されているが、検察の求める、あるいは裁判所が求める動機・犯意・犯行態様などは、所詮は「責任」という虚構を満たす「物語」でしかなく、それに気付く刑事・合田の葛藤も分からないでもない。 その点はぼくの中では、小説ではないが以前読んだ小坂井敏晶『責任という虚構』とも重なる。 その上で、本書に対して感じたことを少し書きとめておく。 第一の点。 まず、ぼくは帯などの事前情報をあまり読まないで、あるいは映画などでも予告や内容を示唆するコピーなどはあまり見ないまま、いきなり読みはじめたり観はじめたりするタイプである。あまり先入観は持ちたくないからだ。 そして、本書を読み始めると歯科医一家の様子が筑波大附属に通う中学1年生の長女の視点から描かれる。それはかなりの分量におよび、明らかにその少女に感情移入するように描かれているのだ。 それが、いきなり家族全員皆殺しである。 帯で予告されているのだから、当然と言えば当然かもしれないが、普通だったら皆殺しにされる側の少女に、ここまで感情移入するような描き方はしない。 たとえて言えば、宮部みゆきの『ソロモンの偽証』で、主人公の女子中学生一家が、第一巻の真ん中あたりで突然皆殺しにされるような感覚なのである。 もちろん、そうして感情移入させておいて、皆殺しにされる理不尽さを描いたといえばそれまでだが、まあ何というか不全感が強い。 第二の点。 その少女の一人称の描写において「いいえ」という言葉が連発される。これは、一段落の内に5つも6つ現れ、ある命題を述べたのちに続けて「いいえ」とそれを自分で否定する形で思念がまわっていく形をとっている。こういう書き方をするからこそ、その少女に読者は感情移入をするわけである。 これは『新リヤ王』において、老人である福澤栄に頻発させた『ああいや』が、中1の少女では「いいえ」に変わっただけのことであるのだが、つまり、これは高村節であるということで、この作者がともかく前面に出てきてしまう感じが強いのである。 第三の点。 作者が前面出てきてしまうのは、犯行に至る経緯での犯人の心理描写も然りである。彼らの何と観念過剰で饒舌であることか。「何も考えていない」彼らの観念過剰もまた高村節である。 こうしたあげつらいつつ、しかし、それでも読ませてしまうのは、この作者の凄いところで、それは全く否定しないのだが、昨年から『晴子情話』『新リア王』『太陽を曳く馬』『冷血』と上下2巻本を8冊も読んでくると、少しは文句も言いたくなるw まあ、それでも彼女の次の長編もきっと読むのだろうなぁ。 | ||||
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それぞれの登場人物の心情描写に深みがあります。読んだ後に何のための事件だったのか、それぞれ何のための人生だったのか虚しく、暗くなってしまいました | ||||
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上巻は本屋で買ったですが、その続きで読んでいます。警察の調書がながいですが、193ベージに「一人一人歴史の小石になる」との部分は、刑事の矜持を感じる。作者のほかの作品も同様だが、時代、社会、権力などの高説はべつとして、細かい所に光っている石を拾えるのが好きです。 | ||||
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言わずとしれたカポーティの傑作「冷血」をフィクションに翻案した、非常に挑戦的な作品なのだろうが、高村薫 にしても、果たしてそれが成功したかはやや疑問である。 ノンフィクションのもつ圧倒的なリアリティを、フィクションで構成、再現するには、どだい無理があったのかも しれない。 主人公、合田刑事は犯人の行動の軌跡を辿りながら何度も自問を繰り返すが、そのたびに読者は少しづつその心情 から遠ざかってしまうような気がする。 | ||||
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上下巻読みましたが、重かったです。まず、文章が硬いですね。歯医者一家4人殺人の犯人2人と合田雄一郎刑事の絡みがテーマなんでしょうね!被害者一家の日常、事件の発端となる犯人二人の出会いがイントロで、その数日後に残忍な殺人事件がおきてしまう。それからは合田雄一郎刑事登場で、警察内の上下関係、部署関係、検察も含めて詳しく書かれていく。ミステリーとして読み始めましたが、犯人達の性格や事件のきっかけが、なぜなぜで追及されて社会小説?かと思いました。犯人と刑事のやり取りの短い若者言葉。30を過ぎてる大人の言葉と思えません。その犯人達が、合田刑事に手紙を書いてくるのですが、そこで初めて小説らしくなります。こんな見事な文章を、パチスロの店員が書けるものでしょうか?パリ、テキサスというアメリカ映画も引用されて、ザラついた犯人の生活感を浮き彫りにします。これ重要。ひとつの殺人事件で、巻き起こる加害者、被害者を取り巻く人間関係から、社会の動き、それらが調書にまとめられ事務的に何度も書かれて、それで重くなっていくのでしょうかー犯人達と合田刑事がそこまで深く付き合ってしまうものでしょうかー色々考えてしまいました。ただ、横須賀市の隣に住むわたしにとっては、米が浜、馬堀海岸と全国区ではない地名が事件のピースの一部になっていて、作家の取材力の凄さを実感しました。 | ||||
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久しぶりの高村薫である。主人公の合田も懐かしい。 上巻の構成として、やがては惨殺される運命である13歳の女の子の手記を混ぜて いるところが目を引いた。下巻では合田、警察、検察、犯人達との絡み合いだけが 展開されていく前に、被害を受ける前の被害者の独自が展開されるという構成は 僕は寡聞にして他の例をしらない。 では効果はどうだったのか。 高村が女の子の独自を置いた理由は、その後の犯罪の悲惨さを強調する為だけでは ないと考えることが本書を読むということだと思う。むしろ、多くの犯罪小説が 加害者にばかり焦点が行ってしまう中で、高村は「被害者も被害を受けるまでは生きて いたのだ」という、ある意味当たり前の事を、我々に気が付かせるためにその 構成を選んだのではなかろうか。 多くの犯罪や犯罪小説において、人は被害者に寄り添うかのように見えるが、実際には そうでもない気がする。所詮良く知らない人の話だ。しばらくすると忘却してしまわないか。そうして 加害者の裁判や刑ばかりが注目されていないだろうか。 その中で本書のように被害者の生前の声をしっかり書き込まれると、読者としての 我々としても、きちんと被害者に気持ちが行く。 その上で本書は下巻になだれこんでいくのである。 | ||||
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「照柿」の書評にて以下を書いた。2004年11月の事である。もう14年前だ。 「マークスの山までは 彼女はミステリー作家というジャンルで大活躍する作家『だけ』であったと思う。但し 彼女の硬質な文体から立ち上る文学性に酔っていた僕として この『照柿』で完全に彼女の『野心』が分かったと思った。即ち 現代のドストエフスキーとも言うべき 一大文学者魂がベールを脱いだ瞬間である。」 14年たった現在として当時の僕の直観は間違っていなかったと本書を読んで思った ところである。 本書は犯罪小説ではあるものの、謎解きから程遠い作品である。高村はしばしば犯罪を 舞台としているが、それは犯罪というものが極めて人間的であるからだと僕は解して いる。「人間的」という言葉は曖昧な言葉だ。本作ではまさに主人公の合田は犯人二人 と対峙し、彼らの「人間」というものにいかに迫ろうかということが、合田も含めた 「人間くささ」の中で語られている。 合田は犯人を「理解」しようとしている。その志の高さには感銘を受ける一方、 なぜ合田がそうしたいのかを考えることが僕ら読者側の仕事である。今回取り扱った 残虐な一家惨殺事件は、その動機において最後まで不明となっている。単純にお金目的 だったと整理してファイルにしまってしまえばそれで済む話だ。犯人達は確定しており 刑に処せば終わりである。 但し、合田はそこで腹落ちしない。人が人を意味もなく殺してしまうという ことが有り得るという事態に驚愕しているようにも見える。合田が犯人達の心の 底に少しづつ降りていく中で見つけたものは、平凡なものばかりであり、それが 惨殺事件に繋がってしまうのかどうかは合田には理解不能だったのではないか。 もっというと合田は自分の中に彼らに似たものも見えたのではないか。そのように 考えていくことが本書を読む醍醐味ではなかろうか。 そんな合田を描くことで高村は何を言いたいのか。僕としてまだ言葉に出来る 段階ではない。14年前の直観があり、今回の一冊がある。次回はいつ,どこで、どのように 高村と出会うのだろうか。これが同時代の作者を読む愉しみである。 | ||||
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過去作品にはなかった著者の多すぎる言い回し「とまれ」が気になって、文中に「とまれ」が出てくるたびに気が削がれる思いがした。作品自体も「マークスの山」や「レディジョーカー」「リヴィエラを撃て」などの作品と比べると、全体的なテーマの輪郭が朧な印象を持った。 | ||||
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たまたま手に取った、初めての高村薫。トルーマンカポーティの冷血とは無関係だろうと思って読んでいたが、 ストーリー自体はかなり踏襲していた。 第一印象、内容の割に長い、くどい。上下巻に分けずとも、本作の主題は読者に伝わるのではないだろうか。 加害者の生い立ちにスポットを当て、凶悪犯罪を紐解こうとしても、全く同情はできないし、やはり許せない。 ただ、こういう動機も反省も後悔もない殺人マシーンのような人間が徐々に増える可能性もある。 極端に言えば、AIロボットが殺人事件を起こすと、壊すことになるだろう、だが、ロボットに罪の責任は問えないし 問う意味も無い。殺人の責任を問うということを改めて考えさせられた。 作者のメッセージは、死の他者感、だろうか。自分の知らないところでの死は、もちろんのこと、 身近な死であったも、いずれ風化していく。良いとか悪いとかではなく、だからこそ人は生きていける。 犯人たちの悲惨な少年時代を読むにつけ、子供は愛情持って育て、大人になって誰かの幸せになってほしいなと、 改めて感じた。 合田刑事が病床の戸田の見舞いで、一人語りのように戸田に話しかけるシーンが印象に残った。 | ||||
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上巻は一週間と一日をかけてやっと読んだが、この下巻は三日間をかけて読み干した。 とまれ、毎日繰り返される「未来の死刑囚」への刑事たちの取り調べを統括する合田警部の主眼は、犯人たちのほんの一瞬の心の動きに移って行く。否、移って行かざるを得ない。死刑相当の犯罪の事実認定は明らかでも、犯意、計画性、殺意認定は、判決に必要だからである。 何故、2002年末に行われた犯罪の顛末が、2012年末に刊行されたのか。 ひとつ、どんな死刑囚であれ、犯行、逮捕、起訴、判決、死刑執行に至るまで、最短でも(一審で確定したとしても)、ここにあるように2008年までの6年間はかかるのであり、その総てを見せて刊行するまでは、これぐらいの(サンデー毎日の)連載開始が必要だったということなのだろう。 ひとつ、私だけの感想で他のレビューには一切出てこないが、犯人たちのまるで思いつきのような、「勢いで」「眼が合ったから」殺害に至るようことは、2003年から死刑執行の頃まで、イラクで同時並行で行われていたファルージャ掃討作戦に付随して無数に行われたイラク市民への殺害の場面でもあったのではないか、と思うからである。金銭目的でもなく、殺意もあったかどうかはわからない、年少の頃のトラウマを引きずり、「決着を着けたい」という想いで「やり過ぎてしまう」兵士たちは、ハリウッド映画で明らかにされているように無数にあっただろう。小説は、どこまでも内面に潜り込んで、それを我々に見せる。作者の意図はどうであれ(それを匂わす文は一切なかったが)、私はそこに、この小説の意義を見出すのである。 『新リア王』『太陽を曳く馬』の文庫化を飛び越えて、何故『冷血』が文庫化されたのか。 これも、作者の意図は知らず、私の単なる推察なのだが。 ひとつ、『新リア王』(2005年発行)は栄と優の原発論議をそのまま改訂を入れずに文庫化するのに躊躇する部分が、何処かにあった。『太陽ー』(2009年刊行)は、今年オウム死刑囚の死刑執行が行われるまで、やはり躊躇する部分があった。ということなのではいか。 ひとつ、それでも合田雄一郎を世間に出しておきたかった。それは即ち、もう一度、原発事故以降、関東平野で野菜つくりに精を出す合田を我々に見せたいために、この文庫化を急いだのではないか?つまり、合田雄一郎は、また書き始められているのではないか? もうひとつだけ、云っておきたいことがある。作者とは預かり知らぬところで、文庫本編集者の書いた巻末の『晴子情歌』文庫本煽り文句に対してである。「『冷血』に繋がる圧倒的長編」という文字は、殆ど詐欺である。私は文庫本を読んでいないので確定的ではないが、全く「繋がらない」はずだ。次の重版のときには消去して貰いたい。 2018年11月22日読了 | ||||
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合田刑事の情動が描かれた人間ドラマ『照柿』の続きを期待すると、それは裏切られる。そこに登場するのは、警察調書をどのように過不足なく書こうか苦心する能吏でしかなく、そこでドラマを成立させるのは難しい。警察調書や公判記録を延々と読まされても感動などあろうはずもない。収斂しようもない理屈や観想が無限に広げられるのも、冗長な印象を残している。本筋とは無関係の医療過誤事案も必要だったのか。はたして、合田刑事をここに登場させる必要があったのか。『冷血』なるタイトルは、ふさわしいのか。接続詞的に「否、」の多用も気になり、専門用語の頻出も本書を読みづらくしている一因でもあろう。 | ||||
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第一章を読み終えるのに、毎日義務の様に読んで実に一週間かかった。読んでも、読んでも、ページを捲るのが身毒なって已めて終う。歯科医師一家四人殺害事件。犯人は2人の男。それだけは、嫌でも事前に情報が入る。 高村薫なのだ。始まりは、事件一週間前の被害者の娘の一人称の述懐。そして、2人の犯人の夫々の述懐と続く。ここまで読んだならば、何が待っているかは容易に想像がつく。一般のミステリーではない。高村薫なのだ。一人称述懐タイプの描写は詳細を極める。被害者の娘、中学一年生の歩(あゆむ)は徒らに純粋で生意気で聡明だ。実際、数学オリンピックをを目指す子供はそうなのかもしれない。犯人たちは、あまりにも短絡的に犯行を繰り返す。次第と運命の日に近づいてゆく。最近のゲーム世代の小説家のように、大量猟奇殺人鬼をキャラとして描いたりはしないのだ。 高村薫の粘菌のような描写が続く。読んでいられない。もう止めろ、と私の中の臆病が叫ぶ。もう辛抱が切れかけていた頃、突如スイッチが切り替わるように第二章「警察」に変わった。 久しぶりの合田雄一郎。私は単行本の「太陽を曳く馬」も読んでいない。「新リア王」から「太陽を曳く馬」に続き合田雄一郎も登場するこれらの文庫本化を飛び越えて、高村薫は何故こちらの文庫本化を急いだのか?本書を読んだところで、雄一郎の捜査のように「答」がひとつ出てくる見通しは何一つ無いが、また何故この物語が2002年に設定されているのかも、何一つ見通しは立たないけれども、ひとつ事実としてあるのは、第一章にきっちり7日掛かった私は、第二章はきっちり1日で済ませたということだ。もちろん、雄一郎の因縁の元妻が2001年の9.11で亡くなっていたことなどを見逃す粗い読書はしなかった。義兄との関係は、進んでいるのか?いないのか?それはわからなかった。 事件は、想定内の経過を経て犯人逮捕に向かう。これでやっと物語の半分。一切見通しは立たない。合田雄一郎シリーズ、いったい何処に向かうのか。 2018年11月12日読了 | ||||
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待ちに待った著者傑作作品の久しぶりの文庫化で、読み始めたが、予想通りの面白さで、いっき読み、あいかわらずのくどいくらいの登場人物の心理描写表現だが、それが作品に重厚さを持たしている、読み応えの感動を読者に与えている。 | ||||
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