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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1418

全1418件 721~740 37/71ページ

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No.698:
(7pt)

ミステリな日常の序章?

中堅どころの建設会社に勤めるOL若竹七海が突然社内報の編集長を仰せつかり、しかもその社内報に小説を載せたいという無理難題を命じられて、大学の先輩に助け舟を出したところ、その友人が匿名で短編小説を連載する事に協力する事になる、といった、これまでにないアイデアで纏められた連作短編集。
若竹七海が編集長に任ぜられたのは1年間で、各短編もそれぞれその時の季節に合わせた内容になっている。それらの中身はその匿名作家が自身の体験に基づく話で、先輩や街で出会った人から聞いた話に隠された真相を解き明かすアームチェア・ディテクティヴの体裁を取っている。

まず創刊号の4月号では花見を舞台に展開する「桜嫌い」。
その次の「鬼」はちょっとぞっとする話だ。
一転して6月号に掲載された「あっという間に」は、商店街の草野球チームが織成す下町風味のミステリ。
社内報も7月ということで怪談めいたミステリが登場。「箱の虫」がそれ。
そして続く8月号も怪談仕立て。というよりもこの「消滅する希望」はホラーそのものである。
9月号の「吉祥果夢」も「消滅する希望」を引き継ぐかのような幻想的なミステリ。
10月号掲載の「ラビット・ダンス・イン・オータム」は持病の療養で有意義な放蕩生活を満喫していたぼくが社会復帰をするところから始まる。
11月号は「写し絵の景色」。
12月号の「内気なクリスマス・ケーキ」はやはり定番のクリスマス・ストーリー。
新年を迎える1月号では「お正月探偵」が掲載。しかし題名とは裏腹に結末は重く、暗いものだった。
2月号の「バレンタイン・バレンタイン」は今までの構成とはガラリと変え、作品のほとんどが会話文で構成された黒崎緑氏の『しゃべくり探偵』を思わせる作品となっている。
最後3月号は「吉凶春神籤」。

まず短編集であるからには短編に関する感想から述べよう。
設定が社内報に掲載する短編であることから、作者はプロローグでの先輩との往復書簡でも書いているように1編原稿用紙30~40枚程度という制限を課しており、これが逆に各作品のクオリティにバラツキを与えている。特に「写し絵の景色」などは明らかにこの枚数では足りないような内容であり、中編向きである。また全編主人公の「ぼく」の閃きが逆に謎解きの性急さを感じさせた。

ちょっと気になるのは短編の中には展開するそれぞれの登場人物たちの立ち位置が解りにくいものもあった。1作目の「桜嫌い」の桜木荘の間取りと各登場人物の配置、「箱の虫」の箱根のロープウェイにおける乗客の位置関係や交通機関の連絡関係など、文章のみではかなり把握しづらい。
ただ全体を通して文章に伏線や布石をさりげなく散りばめる手腕は素直に上手いと思う。風景描写や人物描写として語られる一文が実に謎解きに有機的に働くのは読んでて小気味よかった。

収録作品中、ベストはやはり「内気なクリスマス・ケーキ」で、その他「あっという間に」と「お正月探偵」がそれに続くか。
「内気なクリスマス・ケーキ」はシクラメンの持つ性質の二面性といい、見事に引っかかってしまった。これこそこの作者のさりげない描写が十分に発揮された成果であろう。往々にしてクリスマスを題材にしたミステリにはハートウォーミングなストーリーが多いが、これもそう。色々な仕掛けが随所に散りばめられた好編。
「あっという間に」はオーダーメニューが相手チームに渡す情報のヒントというのまでは解ったが、この解答が思いつかなかった。
「お正月探偵」はざらりとした読後感が印象的。夜中に架かってくる電話という導入部から暗鬱な話だと連想されるが、内容はぼくの素人尾行の顛末。坊野という元野球部のスポーツマンタイプの男を設定し、カラッとした内容で物語は展開するが、明らかになる真相は逆にその軽妙さとのギャップがボディブローとして重く効いてくる。
「鬼」はぞっとする話だが、この人の心に潜むざらりとした感情を描くことこそ、この作者が持つ本質なのかもしれない。

逆にワースト2を云えば「ラビット・ダンス・イン・オータム」と「バレンタイン・バレンタイン」の2編となるか。
ワーストとは特別悪いという事ではないが、前者は謎は謎でもミステリというよりもクイズだろう。しかもある程度の知識を持っていないと解けないクイズで、非常に高度。まあ、納得はいくが。
後者は中身としては軽いミステリ。特に最後の設定は入らないでしょう。

その他佳作として、ミステリならぬ幻想小説仕立ての「吉祥果夢」が印象に残った。幻聴は幻聴として起こるという前提での謎解きで、この設定を高野山という霊験あらたかな地を舞台にしていることで、納得させている。最後の結末はちょっとやりすぎかなとも思ったが。

とまあ、上に書いたように正直な感想を云えば、各短編それぞれの謎のクオリティと、物語としての面白さには出来不出来の差がはっきりあり、全てが手放しで賞賛できるものではない。
しかし、この一種未完成とも筆足らずとも思える短編が最後になって一枚の絵を描く時、それらが単なるある1つの事件を告発する材料に過ぎないことが解る。そういった意味で云えば、やはりこの短編集は普通の短編集にはない1つ秀でた何かを持っているのは認めざるを得ない。
毎回わざわざ社内報の目次が載ることに最後に各短編が1つに繋がるヒントが隠されているであろう事は解ったのだが、それでもやはり私の眼はその謎を解き明かすには節穴だった。

そして全体を通して判明するこの短編集の意図は、やはりここでは後の読者の事を考えてあえてどんな物かは詳らかにすべきではないと思うが、かなり魂の冷える話だ。少なくとも私はそう感じた。
これほど読書前と読後の印象が変る作品も珍しいのではないか?

日常のなんでもない謎、あるいは謎ともいえないちょっと理解しがたい事象を主人公のぼくが独自の視点から思わぬ解答を披露する軽妙洒脱なミステリ、これが読中の印象だったが、最後の編集後記ならびに匿名作家からの手紙を読み終わると、闇の奥底に人の悪意なるものが息を潜めて狙っている、そんな冷えた読後感を得た。
冒頭でも話したとおり、これらミステリ短編が匿名作者自身の体験に基づく内容であるからこその題名『ぼくのミステリな日常』だというのが大方の感じ方だろうが、読後の今、私は実は匿名作者にとって本当の「ミステリな日常」が始まるのではないかと思えてならない。それも怖い意味で。

ところで作中で出てくる「ぼく」のニックネーム、「ちいにいちゃん」がどうしても解らないのだが、誰か解る人いるだろうか?


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ぼくのミステリな日常 (創元推理文庫)
若竹七海ぼくのミステリな日常 についてのレビュー
No.697:
(7pt)

もはやホームズの影は見えない、好短編集

東京創元社によるドイルコレクション第4集。
今回は非常にバラエティに富んだ内容となっているのが特徴だ。それぞれテーマがボクシング、狩猟、クリケット、海賊物とに分かれている。
順を追って各編に触れていこう。

まず最初の4編はボクシング小説。「クロックスリーの王者」は苦学生が学費を稼ぐためにボクシングの野試合に出るというもの。
次の「バリモア公の失脚」は同じボクシングを扱いつつも、ちょっと毛色の変わった内容だ。
ドイルのホームズ物を除く短編の特徴として怪奇譚が多いのが挙げられるが、これにボクシングをブレンドしたのが続く「ブローカスの暴れん坊」。
最後の「ファルコンブリッジ公―リングの伝説」はボクシングに男女の憎悪を絡めたもの。

ドイルの手によるボクシング小説というのは意外に思えるが、この手の格闘小説を書くというのは実はホームズシリーズにおいても第2部の事件の背景を語る物語でこのような話はあったから、なんら不思議には感じなかった。むしろそっちの方が水を得た魚のような躍動感溢れる筆致で書いていた印象がある。
「クロックスリーの王者」もボクシングに試合に出るまでの顛末から、ボクシングの試合描写の詳細さまで、手を抜くことなく書いている。結末もモンゴメリーの男意気を上げるようなもので爽快だ。
2編目の「バリモア公の失脚」は宿敵を失脚させるために甥が選んだ方法というのが女装して、バリモア公ならびにその用心棒を打ちのめすという趣向がウィットに富んでいる。
「ブローカスの暴れん坊」はやはりこれはよくあるパターンであると思わざるを得ない。
「ファルコンブリッジ公」も謎で引っ張るだけになかなか面白かった。

これらに共通しているのが減量・トレーニングの様子、そして負けても相手を讃えるフェアプレイの精神、倒れた相手には手を出さない騎士道精神といった英国紳士の気高さが表されていること。これらが選手の内面にも掘り下げられており、登場人物とともに試合前の緊張感、不安感を感じることが出来る。特にボクサーの肉体美を讃える描写が必ず挟まれており、ボクシングに対する思いがなみなみならない事を行間からも窺わせる。そして各編ともテーマはボクシングなれど設定はヴァラエティに富んでおり、逆にこういうのがドイルも書けるのかと新たな発見をした思いがした。

続く「狐の王」は狩猟小説。
狐狩りという狩猟をモチーフに有閑青年の教訓話が繰り広げられる。作品のプロットは凡百のものと云えるものだが、当時イギリスで行われていた狩猟シーンの描写が白眉で非常に写実的。また狩りのためなら他人の敷地に入ることも辞さず、またそれが許されていたというのも時代を感じさせ、面白い。

「スペティグの魔球」はなんとクリケット小説。
一介の無名の素人選手が、特異な球を投げられるというだけで、国際試合の投手として抜擢されるドリーム・ストーリーで、非常に映画に向いている話だ。クリケットについては無知であったが、それでも十分楽しめる。定番だが、やはりこういう話は面白い。

「准将の結婚」は短い喜劇のような話。プライドの高い軽騎兵隊の准将が遠征に訪れたフランスの自作農の娘に惚れ、結婚する話。とはいえ、兵士である彼は明日の命を知れぬ自分の職業柄、結婚には前向きではなかったのだが、逢瀬の帰り道に出逢った巨大な牡牛から逃げることで偶然にもプロポーズに至るという、笑い話。イギリス人、軍人のプライドの高さが他のストーリーでは登場人物らに一種の崇高さを与えているのに、この話では逆にユーモアを助長しているというのが面白い。

続く3編は海賊シャーキー物の短編が収められている。
「セント・キット島総督、本国へ帰還す」は悪名高いシャーキーが処刑される事になり、その採決を下した総督をひょんなことからロンドンまで乗せて帰ることになったジャック・スカロウ船長、最初はいやいやながら引き受けたが、次第に総督の人となりに他の船員達も打ち解け、また船長も総督に親しみを抱くようになっていくが・・・という話。
「シャーキー対スティーヴン・クラドック」は傾船手入れをしているシャーキーを彼の似た船を使って騙し、一網打尽にしようと企む元悪党スティーヴン・クラドックとシャーキー船長の騙しあいを描く。
「コプリー・バンクス、シャーキー船長を葬る」はタイトルどおり、かつての豪商コプリー・バンクスが妻と子供をシャーキーに殺され、復讐を企てる話。
スティーヴンスの『宝島』に代表されるようにかつては一大ジャンルを築いていた海賊物。いわゆる悪漢小説の類いとなるが、それが一時期隆盛を誇ったのも解る気がする。
ルパンに有名な怪盗物とならび、文字通り海千山千の強者が鎬を削り、騙し合いが日常茶飯事に行われる荒くれ者の日々、これが小説の題材として非常に魅力的なのは間違いなく、本作品もその例に洩れない。確かに小説のストーリー、プロットには斬新さは見られないものの、そこはかとないロマンが作品には漂う。男はやはり海が好きだということかもしれないが。

最後は表題作「陸の盗賊」。小村の野道を訪れる車を次々と襲う追い剥ぎの目的とは?といった内容。
この真相はいささか無理がある。ちょっとこれは意外性を狙いすぎだろう。

短編集も4集目を迎えて、さらにドイルの作家としての奥深さが解ってきた感じがする。ボクシング、狩猟、クリケットはまさにドイル自らが趣味として嗜んでいたものだからだ。
つまりこれらの短編を読んでいく事で作家ドイル自身の人となりが詳らかになっていくことになるのだ。

そして昔の英国紳士が持っていた騎士道精神なるものが作品には通底しており、これがまた非常に清々しい。更に今回気付いたのはドイルの風景描写の精緻さである。特に「狐の王」では姿の見えない狐を追っていくシーンが延々と綴られるが、その流れるような英国の田舎風景は正に写実的かつ映像的で、主人公とともに馬を駆って野山を一緒に駆け巡っている錯覚を覚えた。
更には当時の英国風俗・慣習を知ることにもなり、それらを補完する原書の挿絵が詳細で、資料的にも価値が高いように思える。

確かにストーリー・プロットは現代小説に比べれば、一昔も二昔も前の古めかしさを感じるのは否めないが、それ以外の付加価値が高い短編集だと思った。
予定で行けば次の第5集が最後らしい。次はどんな作品が読めるのか、楽しみになってきた。


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陸の海賊―ドイル傑作集〈4〉 (創元推理文庫)
アーサー・コナン・ドイル陸の海賊 についてのレビュー
No.696:
(7pt)

やめられない、止まらない

スケルトン探偵ギデオン・オリヴァーシリーズも本作でなんと13作目である。
ここまで終始一貫して骨をテーマにしたミステリを展開しているエルキンズ。前作の『水底の骨』、前々作の『骨の島』ではそれぞれ辛口の評価を下したが、今回はもうかつてのシリーズの最盛期を思わせる、骨の検証と事件とがガッチリ結びついた好編となっている。

そう、上に述べたようにシリーズは13作目なのである。13作目にして、さらに骨に関して新しい見識・見解が本作で繰り広げられるのにまず脱帽。
今回、浜辺に埋められていた骨の正体について、その身体的特徴から死者の生前の職業を云い当てるのだが、これが見事。
よく考えると、詳らかになった事実を予め用意した設定に当て嵌めているようにも読め、他にこれらの身体的特徴を持つ職業って本当にないのかしらと疑問に思ってしまうが、それはそれ、野暮というものだろう。ここは素直にスケルトン探偵が一枚一枚覆われたヴェールを剥ぐが如く、展開していく推理に身を委ねるのが一番だろう。

そしてさらに現在において起きた殺人の解剖にギデオンが立ち会うことになるのだが、そこで開陳される解剖学における知識についても新たに開眼させられる思いがした。脳の損傷におけるクー損傷とコントルクー損傷について。なんと脳みそは止まっている状態で打撃を与えられた場合と、頭が動いた状態で静止した物に頭をぶつけた場合では、脳に受ける損傷が違うのだという。前者をクー損傷といい、これは打撃を受けた箇所が脳は損傷するのに対し、後者のコントルクー損傷とは、例えば落下して地面に頭を打ち付けるなどという事象では、脳は打撃を受けた箇所の反対側を損傷するというのだ。
さらに骨に関して云えば、クー損傷を起こす事象では骨は打撃を受けた箇所が陥没骨折を起こすのに対し、コントルクー損傷では、線状骨折となり罅が入るのだという。
私もミステリを長年読んできたが、こういった事実は初めて知った。いやはやまだまだ知らぬ事が多いことだ。特にこの辺の叙述は日本のミステリ作家にとっても大いに興味を引く箇所ではないだろうか。

そして今回嬉しいことに、250ページの辺りで犯人が解ってしまった。正確に云えば、浜辺に埋められていた骨の正体が誰かと解った時点で、そこから推測して犯人が解った次第。
今までこのシリーズを読んだ者ならば、このエルキンズという作家の創作手法から、犯人を推測できるのは想像に難くない。ここで“推理”と云わず、“推測”というのは、まさしくその通りだからだ。

21世紀の現在、日本を除いて、作中に散りばめられた事実から真実を推理する真の“推理小説”はもはや書かれていない。いや、正確にはフランスのポール・アルテなど、本格ミステリマニアから作家になった人たちがいるものの、それらはかなりの少数派だ。
これら少数派の作家以外の手によるミステリでは、読者のページを捲る手を牽引するために、新たに事件を発生させる、サスペンス型、昔で云うところの通俗推理小説がほとんどである。そして犯人は自身の蛇足による自滅によるところが大きく、動機などは最後の辺りで犯人の独白や人生背景などで語られることがほとんどである。
哀しいかな、このスケルトン探偵シリーズも現れた骨からギデオン・オリヴァーが遺体がどんな人物なのかを推理するところに主眼があり、犯人当てはそのイベントを彩る味付けとなっている。

しかし、この作者の良いところはあくまでフェアなこと。
全く関係のないと思われたエピソード―主にプロローグ―がきちんと事件に関連しており、そしてそれが最後のサプライズに寄与している。この作家のミステリマインドが他の作家と違い、昔の本格ミステリのテイストを微かながらに残していることが、シリーズの人気を長く保っている秘密なのではないかと私は思っている。特に今回はさりげなく犯人を推理するヒントが散りばめられており、犯人当てを趣向として愉しめるようになっていると思う。

そしてシリーズの長寿化はそれだけが理由ではない。やはりキャラクターの魅力もその大きな要因だ。
今回も読後感のなんと爽やかな事。出てくるキャラクター全てが気持ちよい。小説のキャラクターを印象付けるため、なかなかいそうでいない人物像を創作するのが、作家の手腕の見せ所だが、このエルキンズという作家は、そのハードルを楽々クリアする上に、しかも全てが善人で、本を閉じる頃には別れを名残惜しむくらい、キャラクターが立ち上がってきている。
コンソーシアム主催者のコズロフや、博物館長のマデリン、特殊能力犬訓練士のヒックスなどもいいが、何といっても今回は墜ちた英雄として描かれるマイク・クラッパー巡査部長とその部下ロブ巡査の造形が見事。この二人のその後について、絶対シリーズで描いてほしい。本作で終えるには勿体無い好漢たちである。

いささか疑問に残るのは邦題である。今回はシリー諸島のセント・メアリーズ島にあるスターキャッスルなる古城がコンソーシアムの主催者コズロフの持ち家であり、確かにこの城がギデオンらの常宿ともなっているわけだが、『骨の城』となるほど、骨には密接に関わっておらず、むしろ出てくる骨は島の浜辺からである。ここは『浜辺の骨』ぐらいが適当ではないか。確かにそれだとインパクトにかけるかも知れぬが。

そして原題の“Unnatural Selection”普通に訳せば「不自然な選択」となるが辞書でこの対義語を調べると”Natural Selection”で「自然淘汰」という意味らしい。この言意で考えれば原題の意味は「不自然淘汰」、つまり「殺人」ということになるわけだ。
作中、自然動物に関する保護運動がしばしば語られ、これが本作の底を流れるテーマともなっており、またメインではないものの、自然界における淘汰についても触れられており、この原題が実に知性とウィットに満ちたものであることが判る。

ともあれ、いやあ、やはりこのシリーズ、やめられない。そんな気にさせてくれる好シリーズだ。


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骨の城 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
アーロン・エルキンズ骨の城 についてのレビュー
No.695:
(7pt)

『ループ』の不満を若干解消

『リング』、『らせん』、そして『ループ』で登場した高野舞、山村貞子、杉浦礼子という3人の女性の物語を描いた連作短編集。内容的にはこれら3作で語られなかったエピソードを補完するような内容となっている。

まず冒頭の「空に浮かぶ棺」は呪いのビデオテープを見ることで、山村貞子を懐胎してしまい、不遇の死を遂げた高野舞の物語。それも内容は山村貞子再誕の“あの時”の話。
続く「レモンハート」は特に『リング』において浅川と新聞社時代の同僚吉野が探った山村貞子の劇団員時代の若き日の物語。語り手を遠山というかつての劇団員の仲間であり、また貞子の恋人でもあった男に設定し、彼を吉野が訪ね、その時の話を聞くという構成になっている。
最後の「ハッピー・バースデイ」は『ループ』の主人公二見馨の子供を宿すことになった杉浦礼子の、『ループ』以後の話。ループプロジェクトの研究員の天野から馨がどのような運命を辿り、そして現在彼がどこにいるのかを聞かされつつ、お腹に宿った新たな生命を生み出すまでの話となっている。

これらの短編は連作短編となっており、各短編の時間の流れも正にこの順番どおりとなっている。そして無論の事、それらの作品世界は本編3部作を踏襲しており、「空に浮かぶ棺」、「レモンハート」を包含するような形で「ハッピー・バースデイ」が存在する。
正直、最初の2編を読んだ時は改めて短編として描くようなエピソードだったのかという疑問が残った。ここに書かれた内容は確かに『リング』、『らせん』では明確に書かれていなかったが、特別に短編として書き出すほどの目新しさを感じなかった。

「レモンハート」も劇団員時代に貞子の周囲で起きた怪異譚を描いているが、この遠山という人物が貞子の呪縛に絡め取られ、死んでいく話もあえて必要だったのかと疑問が残る。確かに劇場の音効室に隠された神棚とそこにあった干からびた臍の緒、そしていずこともなく音響カセットに入り込む赤子の声と貞子の官能的な愛の囁きと、ホラー要素ど真ん中の作品なのだが、どうも心の底から怖く感じない。逆に当たり前のモチーフを用いて、印象が浅くなってしまった。これは逆に『ループ』を読んでしまった後だけに、貞子という存在が希薄になってしまった事によるからかもしれない。

しかし、最後の「ハッピー・バースデイ」では、この報われなさが救われた。先にも書いたように『ループ』の後日譚である本作は、どうにか消化不良だった『ループ』に最後のピースがカチッと収まった、そういう風に感じさせてくれる作品だった。
馨の子供を孕んだ礼子がその子を産むまでの話なのだが、それを仮想空間「ループ」に入った馨のその後、リングウィルスのその後、そして増殖した山村貞子という個体のその後がきちんと語られ、そして最後に新しい生命の誕生と、実に清々しい気分にさせてくれる好編だ。出産をテーマにした本作は主夫作家鈴木氏の小説テーマのど真ん中なのだが、今回はそれがいい方に働いた。それは自分も三度我が子の出産に立ち会ったという経験から来る、作者への共感によるところが大きいのかもしれないが。

いまだに『ループ』という作品の内容については納得は行かないものの、この短編を読むことで、欲求不満が若干解消されたのは確か。逆にこの1編がなかったら、この短編集は単なるリングファンの手によるファンジンぐらいの価値しかなかっただろう。
最後に馨が生まれたてのわが子に投げかける言葉。それはそのまま私が生まれた子供らに向けて投げかけた言葉に等しい。あのときの思いを思い出させてくれた。それだけでこの1編だけは他人がけなそうが私にとっては良作になっている。

バースデイ (角川ホラー文庫)
鈴木光司バースデイ についてのレビュー
No.694: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

作者は本当に続編を書きたかったのか?

『リング』、『らせん』シリーズの最終作『ループ』。
しかしこの作品の評判が非常に悪いのが気になっていた。実際映画化されたのも『らせん』止まりだし、あれだけ世間で大ブームを起こしたこれらの作品に比して、この『ループ』は一種のタブーめいた扱いを受けているような気がした。
そしてそれは確かにその通りであると認めざるを得ない物であることが解った。

それはまず『ループプロジェクト』の内容がわかる135ページ当たりから、非常に嫌な予感となって現れた。そしてそれは的中してしまった。
作者鈴木氏は前2作で積み上げてきた山村貞子なる恐るべきキャラクターが起こした一大カラミティを大胆にも解体し、箱庭の中に封じ込めてしまった。
そしてさらに馨がフォーコーナーズの研究所跡で体験する仮想空間「ループ」の件を読むに至って、さらに不安は増す。それはあって欲しくない予想だったが、果たしてその通りだった。

またこの『リング』シリーズを通して解ったこと、痛感したことがある。
やはりホラーというジャンルは恐怖の根源についてある程度の謎解きは許せても、全てを解明するとなんともまあ陳腐になるということだ。それはシリーズが続くにつれ『リング』>『らせん』>『ループ』とどんどん面白さが希薄になっていくからだ。

始まりは「ビデオを観た人が1週間以内に死ぬ」というシンプルな設定だった。しかし、シンプルだからこそ、物語の方向性はまっすぐであり、読者はその方向に登場人物と共に身を委ねて突き進めた。
しかしこの設定をどんどん理詰めで解明しようとしたのがまずかったように思う。恐らく作者は当初続編を書こうなんて気は毛頭無かったのではないか?それは『リング』前後に書いたこの作者の作品がファンタジー、ミステリと作品ごとにジャンルが違っている事からもわかる。

しかし世間は『リング』の面白さを受け入れ、あらゆるメディアに『リング』ブームは拡がる。そして『リング』を読んだ・観た者達は当然の如く続編を求めた。
そしてそれは出版社も恐らくそうだろう。この『リング』ブームを単発で終わらすには勿体無い、ブームを継続させるには続編が必要だ、それはファンも望んでいる、と。そしてこの作者は通常ならばこういうホラーの続編にありがちな手法、つまり限られた登場人物での出来事から、山村貞子を化け物として、大多数の人間を襲う、というような安直な方法を採らず、怪異の現象を科学的に解明しようとする方法を採ったのだ。
それはクローン技術同様、天に唾吐く行為だったのだと思う。確かに作者はかなりそれを実現させるために努力している。遺伝子工学、暗号学、物理学という理系学問に加え、アメリカの民間伝承にまでその思弁の手を伸ばしている。しかし、逆にそれがために作者自身が自縄自縛に陥る様を見ているように感じられた。

作中、主人公馨が仮想空間ループの中で繰り広げられる第1作『リング』の設定―ビデオが貞子の念写によって作られた―を観て、こんなことを溢す。
「よくできているけれども、いくつかの幼稚な設定が鏤められた映画を観ているような気分になってきた」
この件はどういう意味なんだろう?

今回の巻末に書かれた参考文献の膨大な量からして、当時『リング』を物した時とは比べようも無いほど、作家として成熟している。あの頃はなんと無邪気に小説を書いていたことかと省みているのだろうか?
それともあんな幼稚な設定で始めた話がこんな話にまでなってしまった、俺はこんな続編を作りたかったわけじゃないんだと吐露しているのだろうか?
私は上に感想に述べたように後者のように思えてならないのだが。

また本作には2作目『らせん』に引き続き、またも『リング』そして今度は『らせん』の内容を要約するパートが出てくる。
『らせん』でも感じたが―あれは後でこの要約部が必要だった事が解るが―、これらがかなり詳細であり、同じ話を何度も読まされている気になり、退屈だった。私はこれらのシリーズを続けて読んでいるからかもしれず、実際このシリーズは刊行にインターバルがある(『リング』91年、『らせん』95年、『ループ』98年)ので、読者に対して―あるいは作者自身に関しても―おさらいの意味があったのかもしれないが、これは作品としてページ数の水増しにもとれ、どうも承服しかねる。

ただ今回モチーフとなっているガンに関して述べられている中で、面白いと思った部分がある。ガン細胞が不老不死である事は周知の事実であり、この細胞こそに不老不死のカギが隠されていると、云われている。しかし作者は作中である宗教家の戯言と一刀両断しており、代わりにこのガン細胞こそ実は人間が次の進化を行うために新たなる臓器を生み出すために生まれた物ではないかと述懐している。
作中でも述べられているが、生物の進化の歴史はそれこそ悠久の年月が費やされており、1000年単位どころか1万、10万、100万年単位がほとんどである。そしてたかだか人間の歴史という物のはそのうちのたった数千年に過ぎない。そしてガンと医学の闘いは21世紀の今においても根本的な解決は見られていない。普通、人間の身体を蝕むものに対して、戦い、打ち克つことを考えるが、この作者はこのガン細胞と共存し、次世代の人間が生まれるのではないかと想定する。
これは私自身、新しい視点であり、こういうところはなかなかユニークな事考えるなぁと思った。

作者は本作において作者なりの神話体系なる物を書きたかったのか?
最先端の科学の分野の知識を導入し、それを突き詰めていく先で辿り着くのはやはりこの世には人智を超えた存在による介入が無い事には今の進化はありえなかったという結論。そしてその人智を超えた存在までをも創造する事で一連の山村貞子が引き起こしたカラミティを豪腕で以って解決に導いた本作。しかし、上で述べたように、明るい場所で見るお化け屋敷ほど、陳腐な物はない。
お疲れさん、というくらいの感想しか浮かばないのが本音だ。


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ループ (角川ホラー文庫)
鈴木光司ループ についてのレビュー
No.693:
(7pt)

書名と内容の不一致が気になる

タイトルどおり、生と死をテーマにした作品を集めた短編集・・・といいたいところだが、読後感はちょっと違う。

「紙おむつとレーサーレプリカ」と最後の「無明」は作者本人と思われる人物が主人公の私小説的作品。
神経衰弱に侵された妻と暮らす私は娘の誕生を機に勤めを辞め、主夫がてらスポーツジムのインストラクターのバイトと家庭教師のバイトをしていた。家庭教師先の生徒がこの頃サボるようになった。一緒に成績を上げるべく頑張ってき、実際テストの結果も徐々に上がってきたのだが、期待した通信簿は前と変わらぬ1の連続だったことに消沈したらしい。今日も生徒に会えずに、途中で買った紙おむつを後部に結びつけたレーサーレプリカのバイクで帰る道すがら、一台のセリカが幅寄せをしてきて、転倒してしまう。バイクは大破し、あわや命を失うかというほどの事故だったが、紙おむつがクッションになりかすり傷程度で助かる。遠くに停まったセリカの後部座席に家庭教師の生徒の姿があった。
「無明」はこの続きと云える作品だ。
娘の通っていた保育園の父母同士で毎年キャンプを行っていた。今回は一日遅れで参加することになったが、その場所が元幹事の会社の同僚が建てたログ・キャビンであり、仙丈ヶ岳の奥まったところにあるというだけのファックスが頼りだった。そこの山の霊気に触れることに思いを馳せる私は過去何度か訪れたこの地で経験した大自然、特に山が与える云い様の無い力について思い出していた。確たる自信がないまま、見当をつけた未舗装の道を車で行くうちに、私たち家族はとんでもない光景に出くわす。
ここで語られる勤めていた出版社を辞め、マグロ船に乗ったこと、主夫業に専念している事、ウェイトリフティングの大会に出るほどの体躯の持ち主など、ほとんど作家をする前の作者の姿と思える。家庭教師をやっていたのは本当だろうが、こういう事故があったのかどうかは定かではないが、どうにも本当のように思える。
しかし、同じく登山を経験し、途中、修験僧と出会い、滝にうたれたことなどを書いた「無明」も作者の体験したことなのだろうが、最後に出てくる誰かが死体を山中に処理しようとしてるところに出くわすというショッキングな体験は、この物語のためのものだろう。その恐怖についての描写はリアルさを感じるが。
しかし幕切れは強制的に連載終了されたマンガを思わせるほど、消化不良だ。

次の「乱れる呼吸」は集中治療室を舞台にした小品。
クモ膜下出血で病院へ搬送された妻は集中治療室にいた。その傍らで目が開くのを待つ私。そのとき人工呼吸器の調子がおかしいことに気付く。看護婦を呼んでみると首を傾げつつ、何度か機械を叩いたところ正常に直った。こんな機械に妻の命が委ねられているのかと驚愕しつつ、うとうとした私はまたもや人工呼吸器の調子がおかしいことに気付く。半ば怒りを伴いながら看護婦を呼びつけるとまたも同じ処置。機械を換えてくれと訴える私だったが、看護婦は涙を浮かべて、外に出るように促す。
これは実際にありそうな話。以前肺ガンで亡くなった患者の意思が乗り移ったかのように、人工呼吸器の動きが乱れる。常に生か死か、命のやり取りが行われている病院ではこういう不思議なことは案外あるのだろう。

「キー・ウェスト」は幻想小説。
交通事故で妻と長男を亡くした美術教師渥美達郎は娘と二人、ロスアンジェルスからニューヨークを長距離バスで横断する旅に出ていた。途中、手違いでスーツケースが紛失したのを機に、レンタカーを借りて、フロリダのキー・ウェストに一泊することにした。島を繋ぐハイウェイを通っている際、ある島が目に入る。既視感を感じた渥美はふとあの島に泳いで渡ろうと思いつく。トランクス一丁で島に渡った渥美は足元に得体の知れないおぞましさを感じつつ、島を散策すると、そこにはかつて人が住んでいたと思われる集落跡と不似合いな廃客車があった。
これは『楽園』で出てきた太平洋の島での話、それに加えて絡み合う二匹の海蛇をDNAの二重螺旋に喩える辺りは『らせん』で用いた表現で、こういう似たようなテーマ、モチーフが気にかかる。内容的には可もなく不可もなくといったところ。

「闇のむこう」は何気ない日常を突如襲う理不尽な悪戯をテーマにしている。
やっとの思いで手に入れたマンションに深沢良明と絵梨子夫婦は喜んでいた。しかしそんな生活も束の間、奇妙ないたずら電話が掛かってくることに。電話魔は絵梨子のことを知っているようで、その内容は酷い誹謗・中傷に満ちていた。妻に心当たりを問い質すが、皆目見当がつかない。しかしいたずら電話は毎日架かってき、絵梨子は精神的不安定から難聴を来たす。途方に暮れる夫婦だったが、ひょんなことから犯人の糸口が見つかる。
個人的にこれがベスト。こういう悪意あるいたずら電話が起こす非日常体験というのが誰もが経験する可能性があるだけに怖い。そして誰とも知らない人物が電話番号という個人情報を手に入れる方法としてあまりに普通の事なので逆に恐怖を駆り立てる。特にいたずら電話は自らも経験があるだけにドキドキしながら読んだ。

離婚したシングルマザー理英子が主人公の「抱擁」。
理英子は5日前に取引先の東京のアパレルメーカーの営業担当の藤村から誘いを受けていた。5日前はホテルに連れ込まれる寸前まで来たが、難聴の1歳の娘が気になり、断った。その週の土曜日に9時に電話すると行って別れた。果たして藤村は約束どおり電話してきた。清水市に住む理英子のためにわざわざ東京から車を飛ばしてきたらしい。理英子は藤村を家に上げることを承諾する。5日前の再開とばかりに親密な雰囲気に包まれるが、その時娘が泣き出した。なかなか寝ない娘をあやす間、藤村は自分が娘を突然死で亡くしたことを語りだす。
この結末の呆気なさはなんだろう。シングルマザーの情事を描くかと思えば、そうではなく、そこでは情事の相手が抱えるある闇が語られる。

人が死ぬ事、生き延びること、その違いとは一体何なのか?それについて語った作品集といいたいところだが、「闇のむこう」と「無明」はそのテーマから外れているだろう。
確かにこれらの作品でも死が扱われているが、それは副次的な物であり、主体ではない。いたずら電話の犯人のちっぽけな死。山奥に遺棄される誰とも知らない男の死体。そこに生死を分ける何かが語られているわけではない。

しかしあとがきを読むと、なんと父性と母性をテーマにしているあるではないか。しかしそれもなんだか腑に落ちない。
「キー・ウェスト」そして「無明」はその父性と母性については触れられていない。それらには危うく冥土に行きかけた男がこの世に引き寄せられたもの、山での霊的体験について語られており、それらは生死、魂などといった見えない力に関するものだからだ。結果、私の中ではなんとも統一性のない短編集だという感が残ってしまった。

ところで『仄暗い水の底から』以降の作品に見られるテーマの重複が異様に気になる。南の孤島、洞窟、DNA、マグロ船などがそうだ。確かに同じテーマを扱うのはいいが、その再利用の仕方が、初めて使った作品をなぞるかの如く似通っているのが気になる。つまり同じ話を主人公と結末を変えて語っているだけのような気がする。そしてそれは逆に作者の懐の浅さを露呈している。もしかして昨今のこの作者の活躍を聞かないのはこういうところにあるのではないだろうか。

4作目にして翳りが見えてき、5作目の本書でもそれが拭えない。もっと書ける作家だと思ったのだが。


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生と死の幻想 (幻冬舎文庫)
鈴木光司生と死の幻想 についてのレビュー
No.692: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

『リング』ブームを自嘲した作品?

大ヒットホラー『リング』の続編である。これも映画化されたので云わずもがなではあるが。
『リング』で想像された山村貞子という忌まわしき存在。『リング』では超能力者の怨念に現代ツールであるビデオテープを組合し、全く新しいホラー小説を生み出した。これこそ日本におけるモダンホラーの幕開けだとその時の感想に書いた。

そしてその続編である本書では、山村貞子というウィルスの存在を遺伝子工学を中心に、あらゆる見地から解き明かし、更なる深化を目指している。
だからといって山村貞子が増殖するというメカニズムを詳らかにし、それを糸口として山村貞子の殲滅が成就する、といった構成になっていないところが面白い。むしろそのメカニズムが解ってからこそ、真の恐怖が生まれる趣向になっている。

特に興味深いのが、科学の最先端分野である遺伝子工学が、いまだ五里霧中の最中で手探り状態であることが本書を読むと解ってくる。特に生命の根源を突き詰めていけば、禅問答のように無限のクエスションが生まれていき、ロジックの深淵へと入り込んでいくのがよく解る。例えば「見る」という行為に対して、このメカニズムを突き詰めていくと
 「人間は見る」→「なぜ?」→「目があるから」→「なぜ目があると見えるのか」→「目には角膜と瞳孔があり、それで物体を投射できるから」→「なぜ投射できると見えるのか」→「それを像として脳に認識させる視神経があるから」→「なぜ視神経と脳は繋がっているのか?なぜ角膜と瞳孔という物があるのか」→「・・・」
といった具合である。
つまり目のない生物と目のある生物との境、そして目を構成する複雑な組織がどういう進化の過程で、細胞から変異したのかについてはまだ解っていない。そして(本書が出版された1995年当時の)現在では、それは“心”が作用している、つまりそれを望む「意志」の力が影響していると述べられている。その例としてストレスで胃に穴が空くという話が出てくるが、なるほどと思った。この辺の話は非常に興味深く読んだが、あまり長く書くと感想を大きく逸脱するのでここいらで止めよう。

あと本作では暗号が都合2回出てくる。これが実に凝った暗号で、最初の暗号はさしたる頭脳労働はなかったものの、2回目の暗号はかなり本格的。読んでいる途中で投げ出してしまった。幸いにもどうにか理解は出来たが、遺伝子情報を暗号に見立てるそのアイデアからして、やはりこの鈴木光司という作家は単なる物書きに終始していないことがよく解る。
そしてこの作家の最も大胆なところは、本作が実は世に興った『リング』ブームのパロディであることだ。自身が生み出した『リング』という作品が各メディアにて映画、ドラマ、CDブック、コミックへと色んなメディアへ文字通り“増殖”していく過程をそのまま山村貞子が人類社会へ増殖していく現象へと擬えているのが非常に面白い。
ある箱根の保養施設で偶然写りこんだ奇妙な名も無いビデオテープから、それを観た者が1週間、自分の命を救うために奔走した体験記へ、そしてそれが死後、遺族の手を借りて『リング』という名の小説となり、人類へと蔓延る、正に作者独自の大いなる皮肉である。なんとも大胆不敵だ。
しかし今回はいささか大風呂敷を広げすぎた感は否めない。次作『ループ』がどのような話になるのか、非常に不安である。

最後に本書が出版された95年という年に注目したい。実はこの年、日本ホラー小説大賞が初の受賞作を生み出している。それは『パラサイト・イヴ』。ご存知のようにこれも遺伝子を扱ったモダンホラーである。そしてこの作品も日本に“理系ホラー”を生み出すきっかけとなった。この年がそういう転換期であったと今になって思える。
そういえばこの前に読んだ本、篠田節子氏の『絹の変容』も遺伝子操作を扱ったパニック・ホラーだった。これは91年の作品だった。そして本書の前作『リング』はなんと91年出版である。
当方としてみれば単純に本棚の積読本の山から順番どおりに未読本を抜き取っているに過ぎない。単なる偶然だろうが、読書を続けると、なぜかこういう云い様の無い大きな流れというのを感じてしまう。確かにこの世にはこういう説明のつかない事がまだあり、それがあるからこそ、こういうホラーも成り立つのだろう。



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らせん (角川ホラー文庫)
鈴木光司らせん についてのレビュー
No.691:
(7pt)

展開の速さが玉にキズ

篠田節子デビュー作。たった200ページにも満たないパニック小説であるが、中身は薄っぺらな物ではなく、仕上がりも堅実である。

一枚の絹織物から、その繭を作る蚕の養殖、そしてほんの小さな過ちから派生するパニックが、絹織物、養蚕、バイオテクノロジーの専門知識を読者の興味を損なわない程度に付け加えながら、必然性を持って発生するプロセスを淡々と描いていく。
特に蚕がどんどん怪物化していく過程は例えば、よくある怪物小説で放射線が当たって遺伝子に異常が起きた、特殊な薬品・ガスがこぼれて、それを吸ったがために進化した、などと理由にならない理由をつけて突然変異させる物が多い中、この小説では芳乃の独創的な改良手法を逐一述べることで読者に怪物が出来ていく様を知らせていくところが、非常に好ましい。蚕の糸が蛋白質で出来ていることから、餌を桑の葉から鶏肉に、そして豚の血を混ぜた餌を食べさせるなんて発想には驚いた。

そして登場人物も三人と非常に少ないのがこの本の特徴。これは映画『ザ・フライ』を思わせる。
虹のような光彩を放つ絹に魅せられ、それにかつての夢を賭けようとする主人公長谷康貴は、包帯工場の若旦那であり、また整った風貌から遊び人のように見られ、事実、そのような自堕落な生活を送っていた人物。とにかく包帯工場を継ぐのがいやで、何か華やかな仕事を始めたいと友人に持ちかけるが、その飽きっぽい性格ゆえ、一つとして物にならないまま、30手前まで来ているというよくある現代の若者の1人とも云える。
確かにこの康貴の考えはとても社会人であるとは思えないほど甘い。夢はでかいがそれを実現するために何をしなければならないかが全くわかっていない男である。

そして康貴の持ち込んだ絹織物に同様に魅せられ、閑職で燻っていた研究心を再燃する有田芳乃。とはいえ、この女性は専門に特化した女性として描かれ、人間味を感じさせない人物となっている。
しかし、それは自身の仕事に対するプライドの高さゆえと、それが及ぼす影響力を肌身で知っているからこその態度・姿勢であり、これをおぼっちゃんである康貴の甘さとの対比でそれが際立っているに過ぎないことが解ってくる。

そして康貴の持ち込んだ絹織物に新しい商売の匂いを嗅ぎつけ、金銭面と商業面で協力する大野。通常ならばこういう人物は金の亡者のような描き方をされるが、本作ではそうではなく、社会人である私の眼から見れば、真っ当な経営者である。
投資するに見合うだけのビジネスチャンスがあるかを算段し、それを成功させるためには金を惜しまない。ビジネスを世に公開すべきタイミングを嗅ぎ分ける嗅覚、そして不測の事態に対する迅速な処理も非常にそつが無い。もしこの本を学生のころに読んでいたらこの大野という人物に嫌悪を感じていたかもしれないが、社会人も10年を過ぎた今となっては、大野が非常にバランスの取れた経営者だと認められる。
特に育てた蚕が人体に悪影響を及ぼすことを妻の死で知った康貴が、何もしてやれなかった妻への罪滅ぼしというその感傷的な理由から事業の撤退を大野に告げた際の大野の反論は至極最もであり、康貴という人物の甘さに腹が立つくらいだった。

品種改良した蚕が人間を襲うパニック小説。それを発端から結末まできちんと描いているにもかかわらずコンパクトに纏め、総ページ200ページ弱と非常に薄い本書だが、やはり新人の若書きという感じがしないでもない。
確かに200ページで済むような内容を、色々贅肉を施して倍、もしくはそれ以上の分量にしたりして冗長を感じさせるのも困るが、あまりにあっさりしすぎるのも物足りない。
特に今回思ったのはその展開の速さである。シナリオを読んでいるかのごとく物語はとんとんと進み、時間経過も5年もの月日が流れているとは思えないほど早い。やはり小説には外連味や人物に厚みを持たせるエピソード、つまり味わいが必要である。そこに読者の心情は移り、共感や嫌悪感を得るのである。
特に本書では、やはり芳乃と康貴との心の揺れ、康貴と父親との確執についてもっと掘り下げて欲しかった。康貴が父親から栗林を譲り受けるシーンは親子の確執があるにしてはあっさりとしすぎだ。
まあ、後に直木賞を受賞する作家であるから、これからの小説にはその小説の旨みというのが加わるのだろう。

最後に1つ。タイトルはもう少しどうにかならなかったのだろうか?
品種改良され、化け物と化した蚕という意味でつけた題名だろうが、『絹の変容』という言葉からはとてもそんな内容は想起できない。呉服屋を舞台にした恋愛小説や群像小説のような感じがする。もう少し、熟考したらよかったと思うのだが。


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絹の変容 (集英社文庫)
篠田節子絹の変容 についてのレビュー
No.690: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

クイーンのチャラ男ぶりが見れる本格ミステリ

シリーズ4作目での趣向はトライアル&エラー、つまり複数の推理による事件の解決である。つまり今回、エラリーは一度誤った推理を犯し、二度目は父親である警視の推理に出し抜かれ、三度目にしてようやく真相に辿り着く。
この趣向を行うために作者は時代を遡り、エラリー最初の事件としている。そしてその趣向のため自然ページ数も最大となってきている。つまりそれほどこの作品には自信があるということだ。

で、その自信作はというと、いやあ、確かに素晴らしい出来映え。またもやものの見事に騙された。今回は真に完敗である
正直に云えば、犯人が明かされたとき、驚きよりも懐疑が勝っていた。この真相はちょっと狙いすぎだろうと。しかし40ページに渡って繰り広げられるエラリーの推理を読んで、その心境は喝采に変わった。実に素晴らしいどんでん返しだと。正にこれはクイーンがこれだけのページを費やすに値する自信作だ。

本書における真犯人は第4の犯人であるが、読者への挑戦は第3の犯人が提示される前に挿入されている。この第3の犯人を立証する論理が非常に穴だらけで、何だ、これは?とこぼしてしまったが、それを洗い流すだけのカタルシスが最後に得られた。

しかし、本書において1つだけ腑に落ちない論理がある。それは第1段階の推理で判明する被害者の従弟が色盲であるという事実を証明するシーンだ。
その従弟は緑が赤に見え、赤が緑に見えるという。これがちょっとおかしい。本書ではこの色盲を部分的色盲と述べているが、例えば赤が緑に見えるのは解るにしてもその逆が成り立つかどうか甚だ疑問である。
そしてこの推理にはもう1つの解釈が出来る。このギリシアから呼ばれた従弟は白痴であり、それゆえに単語を覚える段階で「赤」を「緑」と覚え、「緑」を「赤」と間違って覚えたという解釈だ。こっちの方が理論的にすっきりすると思うのだが。

あと事件の発端ともいうべき、紛失した遺言書をいかに盗んだかについて何ら解明されていない事だ。誰かが盗んだのは出てくるにしても、執事がうたた寝しながらも金庫の前に鎮座していたという状況下でどのように盗んだのか興味があったのだが、結局それについては流されてしまった。事件の捜査が進むに連れ、この無くなった遺言書についてはそれほど重要視されなくなったのも気になった。
あとタイプライターについての推理は、読者、特に日本の読者には推理しようにも出来ない代物だ。どこのタイプライターか、特定する材料として£(英国ポンド)のキーがある珍しいタイプという述懐があるが、解明の糸口となる電報の件でもポンドはカタカナ表記だし、これは正に騙し打ちの感がある。まあこれは海外ミステリの抱える一種の業のようなものだから仕方ないか。

また、この時代を遡るという設定は今までの作品と違って、エラリーの理解者である父親のクイーン警視や地方検事のサンプトンらが、エラリーの存在を疎ましく思っている効果を生み出し、それが面白い。とはいえ、他の名探偵物に比べるとやはり警視の息子ということで特別扱いをされている感は否めない。
明らかに捜査の邪魔となるエラリーの気紛れな所作は、激昂の上、退場を命ぜられてもおかしくないものばかりだし、また大学出たてのくせに周囲の大人にタメ口をきく無礼さ―まあ、これは翻訳の綾かもしれないが―も寛容に受け止められている風がある。

それ以外に、時代性を感じさせる表現があったので、ここに書きとめておこう。
書中でおやっと思ったのは事件のキー・パーソンとなっているハルキス氏の秘書ジョアン・ブレット女史が自分の年齢が22で、結婚年齢が過ぎたと述べていること。これは早すぎではないか?というより、この1930年代とはそういう風潮だったのか?今の日本の結婚適齢期を考えると、ものすごい隔世の感がある。
そしてエラリーは明らかにこのジョアン女史に色目を使っている。ちゃらちゃらしてますね、彼。そして初対面時のくどき文句がすごい。
「僕が、あなたについて、たとえ予備知識をもっていなかったとしても、僕の循環組織が、それを教えてくれるとは、お考えになりませんか」
つまり、要約すると、「貴女の事について、何も知らなかったとしても、いきなり胸がドキドキしたってこと、解ります?」ってことなんだろう。これをわざわざ回りくどい表現を使うクイーン。まあ、大学ぽっと出の、頭でっかちな時にしか浮かばないセリフだな。

今回は密室状況下での殺人とかダイイング・メッセージとか、衆人環視での殺人、人物消失などといった不可能趣味というよりも色々出てくる事実に辻褄が合う1つのストーリーはこれだ!といった類いのミステリだったので、決定的な証拠があるわけでもなく、読者への挑戦まで堅牢な自分の推理というのが持てなかったのが、悔しい。が、やはりこれほどまでにロジックに彩られたミステリはやはり面白いものだ。
そして最後の中島河太郎氏によって明かされる本書に隠された趣向もまた素晴らしい!いやあ、やるねぇ、クイーン!


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ギリシャ棺の謎【新訳版】 (創元推理文庫)
エラリー・クイーンギリシア棺の謎 についてのレビュー
No.689:
(7pt)

既にローテクなハイテク捜査

ユーロポール心理分析官クローディーン・カーター・シリーズ3作目。今回は小児性愛者グループによる幼児誘拐を扱っている。
そして本作では犯人グループがたまたま誘拐したのが将来の大統領候補とも云われるベルギー駐在アメリカ大使の娘であるところがミソ。あえてその娘をテロ行為として誘拐したのではないところがフリーマントルらしい味付けだ。

今回クローディーン・カーターのライヴァルとして設定されているのがFBI人質交渉主任のジョン・ノリス。登場シーンから彼がいかなる凄腕の交渉人であり、しかも変人であるかが雄弁に語られるのだが、ここにフリーマントルの作家としてのあざといまでのテクニックが見られる。
実際語られるノリスの交渉はクローディーンがプロファイルするように自分が偉大な人間だと妄信する単なる勘違い男に過ぎないのだが、フリーマントルはクローディーンと邂逅させるまでに彼が実に切れ者の交渉人であるかをCIA、FBIのスタッフその他と会見させる事で述べる。しかしそれらのやり取りは直裁に語られず、会見後に零す彼らの、例えば「あのくそ野郎は現実の人間なのか」といったコメントによって人物像を形成させられているに過ぎない。つまりこのノリスを強敵と見せ、それをクローディーンに論破させることでフリーマントルはクローディーンの有能さを読者に刷り込もうとしているのが解る。こういう職人的テクニックが最近は頂けないと思うのだ。

特にジョン・ノリスが初めてクローディーンと論争をする際にあからさまに対抗されることに慣れていないという描写があって、あれっ?と私は思ってしまった。人質交渉主任として凄腕ならば数々の事件の修羅場を経験しており、その中には一切、人の話を聞かないでゴリ押しする犯罪者もいたはずである。そういう輩も相手にしてきているわけだから、こういうあからさまな抵抗を受ける事に慣れていないというのはおかしいではないか?
そしてこのノリスは結局自らを追い詰める形で途中退場してしまうのだが、この辺どうも消化不足だなぁと思ってしまった。

また前作ではクローディーン、フォルカー、ロセッティといった多国籍エキスパートチームが少数精鋭で活躍している痛快さがあったが、本作ではアメリカ大使の娘の誘拐という事で、事件の起こったベルギーの警察のみならずフリーマントル作品ではおなじみのFBI・CIAそしてユーロポールの混合チームとなって捜査に当るところが特徴的だ。
というよりもこれによりユーロポールという新進気鋭の組織の特徴が減じられ、特に事件の責任所掌において各要人が自らの保身のために腐心する様子は正にチャーリー・マフィン・シリーズとなんら色が変わらなくなってしまったような気がした。

そしてクローディーンのチームにも変化が訪れる。前作まで無敵のトライアングルを形成していたこの3人に綻びが生じる。それは新たにパートナーになったピーター・ブレークなるイギリスの元スパイの存在。彼の抱えるトラウマが、クローディーンに彼を身近な存在に感じさせたのは間違いない。
また植物人間と化した妻の復活を待つロセッティにクローディーンが疲れを感じていたのも二人の接近を許す事になってしまった。今後これら三角関係がどのようになるのかを匂わせて物語は閉じられる。

前作でもあったが、本作でもクローディーンは自らのプロファイリングに絶大なる自信を持ち、捜査を推し進める。それは自らの正しさを信じることで捜査を確実な方向に導かなければならないというプレッシャーの裏返しでもある。さらにその有能さゆえに自らが抱える孤独に苛まれる。
敵に勝つために自信の鎧を身につけ、それゆえに誰もが不可侵である存在感をも身にまとってしまうことの寂しさ。有能な人間ほど自らの幸福に縁遠くなってしまう。現代の女性の抱える問題をクローディーンは具現化しているようだ。

最後にもう1つ。本作は1998年の作品となっている。捜査ではインターネット、Eメール、携帯電話も登場し、それらの逆探知も行われているが、ドラマ『24』を観た者にとっては時代遅れの感は否めない。なぜにこれほど逆探知に時間が取られるのか、Eメールの発信元探知の遅さ、そしてそれらに対して敵側が何らかのファイアウォールも設定していない事など時代錯誤感を感じた。
10年前の作品だが、やっている事はそれ以上の月日が経っているように感じてしまった。これもハイテク捜査を扱う作品の哀しい宿命を感じずにはいられない。

虐待者〈上〉―プロファイリング・シリーズ (新潮文庫)
ブライアン・フリーマントル虐待者 についてのレビュー
No.688:
(4pt)

永い説教、永い主張ばかりで

とにかく苦痛の強いられる読書だった。途中何度も投げ出そうと思った。
プロットに比べその書き込みの量ゆえに物語の進行が途轍もなく遅い本書はクーンツ作品には珍しく疾走感を欠いている。それは本書ではクーンツが詰め込みたかったエピソードを存分に詰め込んでいるからだ。

今回は『ドラゴン・ティアーズ』でサブテーマとして語られていた“狂気の90年代”という、本来抱くべき近親者への愛情が個人の欲望の強さに歪められ、異常な行動を起こす精神を病んだ人々が主題となっている。つまり本書で語られるのが全編胸の悪くなる異常な話ばかりだ。
特に同時に進行する3つの話の中でも本書の主軸となっているミッキーとレイラニのパートで語られるレイラニのジャンキーな母親シンセミーリャとUFOが異常者を癒すと信じ、生命倫理学なる学問を確立し、障害者ならびに社会不適合者、老い先短い老人たちを淘汰する事でよりよい社会が生まれるという選民思想を掲げるその夫プレストン・マドックの所業の数々は観たくも無い、聞きたくも無い人間の残酷さを見せ付けられ、何度もくじけそうになった。特に障害を持って生まれたレイラニたちを生まれた瞬間から負け犬と独白する辺りは気分が悪くなった。

そしてレイラニとその亡き兄ルキペラがなぜ障害を持って生まれたかを母親が嬉々として語る件は、寒気と吐き気を覚えるほどだ(妊娠中にドラッグを多用し、そうすることで奇跡の子が生まれると信じて疑わなかったというとんでもない母親なのだ)。
後半に至り、今まで他人の目を通して語られていたプレストンが主観的に語られるにいたり、彼の歪んだ心理とあまりに独善的な哲学にも身の毛がよだつほどだ。先に述べた生命倫理学を説きながら、その実、プレストンは妻の妊娠中にドラッグを服用させ、不具者を生まれさせようとする。それは自らの殺人願望を満たすためだからだ。

そしてカーティス・ハモンドのパート、これも辛かった。特に逃亡者であるカーティス・ハモンド少年というのがなんとも“空気の読めない”少年で、気の利いたことを云おうとして人の神経を逆なでする、この繰り返しだからだ。あらゆる学問や映画・音楽といった文化的知識には精通しているものの、人との付き合い方となると、スラングや慣用表現に疎く、常に言葉尻を取って反問する、普通で云えば友達にはなりたくない男の子である。
しかしこれも上巻の最後に至り、ようやく納得できるのだ。この少年自体が宇宙人であり、クーンツはカーティスのパートを追われる宇宙人側から描いてきたのだ、と。そしてカーティスがキャスとポリーのグラマラスな双子の姉妹と出逢うに至り、人類と宇宙人の理解が生まれ、ギクシャクしていた物語の進行がスムーズになっていく。

そして3つの話のうち、比重がやや軽い探偵ノア・ファレルのパート。彼も少年の頃に叔母に家族を惨殺され、自身も撃たれるという苦い過去を持つ男だ。そしてそこで語られるエピソードもまた“狂気の90年代”そのものである。彼は妹を預けている保養施設にて、狂った慈愛の心を持った看護婦に妹を殺されたことで探偵業を辞めてしまう。しかしそこに現れるのがレイラニを救うべく立ち上がったミッキーで、ここで彼らの人生が交わる。
また残るカーティスはキャスとポリーのスペルケンフェルター姉妹らとともに訪れたフリートウッドのキャンプ場で、そこに停泊していたレイラニ一家のトレーラーハウスに出くわす事で彼らの人生が交わる。

しかしそこから実にクーンツらしく、物語はじれったく進行していく。共通の宿敵であるプレストンを退治するまでが非常に長い。そして物語はそれが解決する事で収束に向かい、もう一つ大きな主題であったカーティスと追っ手との攻防はなんと棚上げされたように処理される。これこそクーンツの悪い癖でテーマを盛り込みすぎて、片手落ちになってしまっている。

しかも今回はよほど色んな情報を得たのだろう、とにかくプレストンの行った悪行、彼の異常なまでに歪んだ選民思想、ミッキー、ジェニーヴァ、シンセミーリャ、ノア、キャス、ポリーそれぞれの登場人物の語り口が長い、長すぎる。なんとも説教臭い話になってしまっているのだ。
クーンツの、この現代人が抱える精神病に関してリサーチした結果、そしてそれに関する自身の考察の発表の場になっているようにしか思えず、先にも述べたように詰め込みすぎだという印象は拭えない。上下巻1,130ページも費やして語られる物語は至極簡単な物で、70%はこれら長ったらしい主張で埋められているかのようだ。しかも1つの物語は決着がつかないままである。

またクーンツ作品の特徴の1つに犬との交流というのがあるが、今回は最もそれが顕著だ。なんと宇宙人を介してとうとう犬の思考の中まで入り込んでしまうことになり、各登場人物全てが最終的に犬を飼うとまでなってしまう。犬好きの自分が描く理想の友人付き合いの姿ともいうべき結末で、しかも犬の思考についてはかなり善意的に書いてあり、本当かな?と首を傾げざるを得ない。なんとも自分の趣味嗜好をここまで押し出していいものかなと疑問を持ってしまう。

唯一の救いはやはりレイラニの存在だろう。ジャンキーの母親に大量殺人者であり、幼児虐待嗜好者の義父に連れられ、UFOとの遭遇を求め、全国を駆け巡り、10歳になる前に義父の狂った論理ゆえに殺される運命を抱えながらも、自らをミュータントと定義し、物事を斜めに観ることで笑いに変え、辛い現実を直視することを避け、どうにか生きようとするこの少女の造形は何よりも素晴らしい。
『テラビシアにかける橋』でヒロインを演じたアナソフィア・ロブをイメージして読んだ。特にカーティスとの邂逅シーンで呟く「きみはキラキラしてる」は心に残る名セリフだ。

原題の“One Door Away From Heaven”とは作中幾度かジェニーヴァから問われる「天国の一つ手前のドアの奥には何がある?」という謎かけから取られている。その答えは意外に完結でなく、けっこう説教じみた物だ(心を閉ざしていれば何も見えず、心が開かれていればそこには貴方と同じように道を探している人が見える。貴方はその人と一緒に光に繋がるドアを見つけるの)。
こういう説教事で埋め尽くされた作品を読むと、今後のクーンツはどの方向に進むのか不安でならない。

対決の刻(上) (講談社文庫)
ディーン・R・クーンツ対決の刻 についてのレビュー
No.687:
(7pt)

既にもうネタ切れ感が…

7編の水をテーマにした連作短編ホラー集。神奈川県に住む老婆が孫娘に朝の散歩時に一週間お話をするという構成になっている。

まず「浮遊する水」はかつて角川ホラー文庫で編まれたホラーアンソロジーで読んでいたもの。夫との離婚を機に港区の埋立地に建てられたマンションに引っ越した母子家庭の一家が出くわす怪異譚。
埋立地、水道水といったじっとりしたイメージを喚起する文体は、粘っこさを感じさせる。これを読んだ後は社宅の水を飲むのが嫌になったくらいのおぞましさを感じた。切れ味素晴らしい短編。

続く「孤島」からは全て初読。大学時代の友人が第六台場という都会の無人島に女を捨てたという。その友人は夭折し、数年後、理科の教師となった主人公がひょんなことから第六台場の調査に参加する事に。そしてそこで出くわした物とは・・・というお話。
物語は読者の予想通りの展開を見せるが、東京のど真ん中、しかもお台場という地にある無人島を舞台にこういう物語を紡ぐという発想を買う。なんとも云い難い読後感を残す。

「穴ぐら」はあなご漁で生計を立てている漁師の妻が朝起きると失踪したという話。散歩がてら妻を捜すが見当たらない。戻っているかもと思い、家に帰ってみるがやはりいなかった。昨夜は酔っ払って早々に寝たはずだが、記憶が定かではなかった稲垣はその日はそのまま寝て、翌朝漁に出発した。
「浮遊する水」の変奏曲のような作。母子家庭から父子家庭(この場合は妻が失踪して一時的に父子家庭になったというものだが)という構成も似ている。しかしここで最も気になったのが主人公の稲垣裕之は幼い頃に親から暴力を受け育った男で、親となった今、同じことを子供にしているという点。暴力は遺伝すると昨今問題になっているものだ。そしてこれは自分にも思い当たる節があるだけに、いっそう印象に残った。

「夢の島クルーズ」は主人公が高校のOB会で知り合った男に誘われ、ヨットで東京湾クルーズに行ったことから物語は始まる。よくあるマルチ商法の勧誘だったことが解り、うんざりした主人公は夫妻の話に取り合わず、夢の島マリーナへの到着を今か今かと待ちわびていた。だがマリーナまで数キロというところでヨットがいきなり止まってしまう。スクリューを見ると、子供の靴が片方絡まっていた。それを除けてみたが、やはり動かない。キールに何か絡まっているのだろうと判断したオーナーは潜って取り除く事に。しかし浮上した男は顔面蒼白で、溺れかけていた。
都市伝説ホラー。ぶつっと切れるような形で物語は終えるが、ちょっとベタな感じ。それよりも知り合いに誘われてヨットのクルーズに参加か・・・。自分にも同様の経験があるだけに、主人公の心理が痛いように解った。

「漂流船」はなんと長編『光射す海』で登場した第七若潮丸、しかもあの主人公の一人真木洋一が参加していた漁の後日譚である。あの作品はホラー味はなく、一人の女性の正体を探るミステリだったが、これは古来からある海洋ホラーとなっている。
漁を終え、日本への帰路に出くわした一台のクルーザー。中には誰もいない。結局海保との相談で漁船が曳航することに。乗り込んだ機関士白石が遭遇したものとは?
作中でも書かれているがかの有名なマリー・セレスト号事件をモチーフにしている。しかしこれは純然たるホラー。怪異の正体がわかるまでは日誌の内容などぞくぞくすることしきりだったが、正体が解ると意外に陳腐な印象。

次の「ウォーター・カラー」は問題作。気鋭の小劇団がかつてバブル時代に活況を呈した複数階で構成されたディスコの跡地を利用しての公演中に水漏れというアクシデントに見舞われる。古参の劇団員で、演出家との意見の食い違いから直前になって役を降ろされた神谷が原因を突き止めにいくことに。
廃屋となったディスコの跡地のトイレ一面に流れる水、排水口に大量に詰まった色とりどりの髪の毛、と古来からホラーに欠かせないモチーフを使い、実際ドキドキしながら読んだのだが、最後のオチに愕然。これはちょっと奇を衒いすぎたといわざるを得ない。明かされる真相はホラーという読者の予想を裏切り、超えるものであるが、これをいい意味か悪い意味で裏切ったのかは読者によるだろう。
私は悪い意味でとった。

ラストの「海に沈む森」は感動の一編。洞窟探検を趣味している主人公が多摩川の源流を友人と遡るうちに前人未到と思われる洞窟を発見する。すでに結婚し、子供もいる主人公は人生守りに入り、躊躇うが友人にそそのかされ、入ることに。そして・・・という展開的には予想通りとなるのだが、そこからが素晴らしい。時代設定を1975年とし、そこから主人公が手紙を認め、放流する。そして20年後、成長した息子が訪れるといった展開を見せる。父と子の血の絆を感じさせる力強い一編だ。
そして語り部として設定されている老婆もこの手紙が実は老婆の生きる源となっているというのが最後になって解る。

この7編で舞台となるのは東京一円だ。港区の埋立地、第六台場、富津岬、東京湾に、鳥島周辺―ここも確かに東京だ―、芝浦運河沿岸に立つ雑居ビル、そして多摩川の源流。ほとんどが東京圏に住む読者ならば目にする、訪れている、もしくは行こうと思えば行ける場所だ。つまり作者は読者のすぐそばに怪奇は潜んでいると告げている。
そして全編を通して語られる水もホラーの要素としては欠かせないものだ。水の雫の落ちる音から、人智の及ばない海や未開の地下水まで様々だ。恐らくこれは作者自身が水と密接に関わっていることに起因するのだろう。特に漁、クルーズといった航海に関するものが多い。これは『光射す海』でも使われていたマグロ漁を作者自身が経験することで得た知識であり、自然そちらへ題材を取ることが多くなったのだろう。

ただ残念なのは、この短編が今までの長編に見られた題材のアレンジでしかないこと。漁やクルーズなど船に纏わる話、鍾乳洞探検、そして劇団の話などは『楽園』、『光射す海』の作品を物するのに取材した、もしくは自身で体験したものだろう。
しかし4作目にして、似たような印象を受けるのは意外と作者の引き出しが少ないのではないかと危惧してしまう。確かに読ませるが、初めてこの短編を読むならば、また印象は違っただろうが、続けて作者の作品を読んでいる身にしてみれば、またこの話か、と思ってしまうのは否めない。
次作の題材が新しいことに期待したい。


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仄暗い水の底から (角川ホラー文庫)
鈴木光司仄暗い水の底から についてのレビュー
No.686: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
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つまりはこの真相を受け入れられるか否か

いわゆる新本格ミステリ作家と一線を画したその特異な作風で巷間を賑わせているこの作家。予てより興味があったが、ようやくデビュー作である本作に着手できた。
一読した直後の感想としては、なんとも云えない感慨が押し寄せている。島田荘司氏の『水晶のピラミッド』を読んだ直後のよう、といえば判ってもらえるだろうか。

まず木更津悠也とメルカトル鮎という二人の探偵が同一の事件を扱う、この趣向が彼がデビューするまでの新本格一連の作品になかった趣向だ。今まで探偵の相手といえば、犯人を除き、警察であったが、ここにこの作品の斬新さがある(実は他にもあったのかもしれない。私が寡聞にして知らないだけで)。
そしてキリスト教、正しくはギリシア正教に彩られたペダントリーは小栗虫太郎氏の作風を思わせる。この作風・文章については後に述べよう。
そしてこの二人の探偵の間で繰り広げられる事件の解明が、何層にも入り組んだ真相を一枚一枚剥がすように明らかにされていく。そして最後には第3の探偵によって全てが明らかにされる。しかしそれは真犯人と探偵との間の秘密として闇に葬り去られるのだが。

この小説を読むのに、読者は予備知識を要求される。それは海外古典ミステリを読んでいることだ。でないとこの作品に散りばめられたペダントリー、特に連続殺人に込められたミッシング・リンクの妙は愉しみが半減するだろう。そしてこの一種ミステリマニアのための真相もエピローグにてある兆しがあったことを明かされる。
先に読後は島田荘司氏の『水晶のピラミッド』を想起させると書いたが、これは真の真相の手前に明かされる真相にものすごい魅力があったからだ。これは前代未聞の密室の解明とも云える空前絶後の真相だろう。
死者が甦る世界で死人を出すことの必然性を解いた山口雅也氏の『生ける屍の死』のロジックを遥かに凌駕する真相だ。しかし、作者はこれをいとも簡単に切り捨ててしまう。そんなこと、あるわけないだろ!と自嘲するかのように。

しかし、この驚天動地の真相を覆す最後の真犯人は不要だろう。
というのもここに来て逆に不可能性が増してしまったからだ。
そして麻耶氏はそれについて一切言及しないのだ。
犯人を設定して、意外なミッシングリンクを創案して、連続猟奇殺人で和えて密室事件をトッピングし、瑕となる現実味には触れず、適当に流しました、そんな感じで作られたようですわりの悪さを覚えた。

読者はミステリに何を求めるのだろう?
整然としたロジックの美しさ、驚愕の結末、まだ読んだ事のない未曾有の真相・・・。
この作品に関して云えば、表の真相とされるこの密室の真相こそがまさに未曾有の真相であり、私個人的にはこれが非常に面白かった。だからこそ評価は☆1つ減点なのである。

そしてサブタイトルにあるように本事件は探偵メルカトル鮎の最後の事件である。
謎めいた探偵を出しておき、シリーズが進むごとにその謎に包まれたヴェールを徐々に剥がしていくのがシリーズ物の常套だが、この作者はそれをデビュー作にして見事ひっくり返している。なんとも大胆不敵な趣向である。
そしてこの作家がかつて本格ミステリにおいてタブーとされていたことにあえて触れていることからも本格ミステリの可能性を更に開かんと意欲的・実験的であるとも云える。ネタバレになるのでどのタブーに触れたかどうかは云えないが、裏返せばこの作家が若くして本格ミステリに精通していることの証左となっている。

あと若干21歳のデビューに関して各所で驚愕と云われているが、どこに関してだろうか?
トリック?プロット?文章?

確かにトリック、プロットに関しては驚きはあるだろうがペダントリーに彩られた文章に関して云えば、頭だけで考えて作られた文章の域を脱しておらず、社会に出て触れるであろう、一般常識的な表現が欠如している。
つまりこの作者が十分衒学的であるのは認めるが、使い方が誤っているのに自覚的でない。単純に叙述すればいいところを敢えて普通に使わない単語を使用して、深みを持たせようとしているが、逆に知識の浅はかさを露見している。そしてこういう文章は21歳だからこそ書ける文章であって、逆に成熟すると恥ずかしくて書けない文章だ。実際私がそうだった。こんな持って回ったあらゆる知識を動員し、通常の表現に改革をもたらさんと一人気張って、勘違いの文章をばら撒いていた。
この辺は編集者ならびに出版社の校正部門が直してやらなければならない話なのだが、明らかに怠っている。講談社という大手出版社の仕事の杜撰さも白日の下に晒してしまった。

そして題名の『翼ある闇』。これは舞台となる蒼鴉城のモチーフでもある鴉のことだろう。この作家、数年後にまた『鴉』という題名の作品を書くのだが、よっぽど鴉が好きなのだろうか?
初めて読んだ麻耶作品。確かに一癖も二癖もある作家だ。その存在感はいまだワン・アンド・オンリーを貫いているようだ。次の作品をいつ読めるかは解らないが、また気になる作家が増えてしまった。困った事だ。


▼以下、ネタバレ感想
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新装版 翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件 (講談社ノベルス)
麻耶雄嵩翼ある闇 についてのレビュー
No.685: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

クイーン・ミステリの読み方がようやく解った

国名シリーズ第3弾。
本作に至り、クイーンの推理小説というのは、本当に純然たるロジックゲームなのだなと理解した次第。つまりここに書かれている犯罪の捜査方法というのは実は全く皆無で、犯行が行われた現場に残された証拠―これは痕跡と云った方が妥当かも―、各登場人物のアリバイ、そして各登場人物の過去や人間関係を推理する材料として与え、さあ答えを出しなさいといった類いの純粋な頭脳ゲームなのだ。

だから前作『フランス白粉の謎』で感じた違和感もここでは踏襲されたまま。つまり、本作においても通常警察が犯人を断定すべく行うであろう、指紋の採取、血痕の採取もしくは唾液、髪の毛の採取などの鑑識による捜査が全く行われないのだ。
通常ならばこれほど犯人が犯行の痕跡を残すお粗末な犯行も珍しい。犯行に使った白衣、ズボンならびに靴、そして決定的なのはマスクまで残しているのだ。これだけあれば犯人は明らかになったも同然である。当時指紋による犯罪捜査、血液型検出による犯罪捜査方法は既に確立されていた。つまりこれらの衣類から指紋を採取し、更にはマスクに残った唾液からも犯人の血液型も検出されるので、もう犯人は解ったも同然である。あとは容疑者と目される人物を逮捕して、自白を強要するか、犯行が行われた事実を補完する更なる証拠集めに執心すればいいのだから。

しかしクイーンの推理小説では決してそういうことをしない。前にも述べたように、これはクイーンが考え出した頭脳ゲームの問題であり、読者に対する挑戦状だからだ。この姿勢を受け入れるか否かでこのクイーンに対する評価というのは大きく変わるだろう。
とにかく探偵クイーンが手に入る全ての事実を読者に提供し、その中で唯一犯行が可能であった無二の犯人を絞り込む事に特化しているため、犯行に至る動機が薄弱なのは否めない。よく考えてみればこれは前2作もそうだった。

そしてこういう小説だからこそ、チャンドラーやハメットが、およそ現実味の無い小説だと非難したのが大いに理解できる。
確かに今読むと、これはそれほど犯罪捜査科学が進んでいない、どこか別の世界で行われている犯罪なのだろうと首を傾げざるを得ないからだ。アンチ本格が出てくるのに十分なほどの非現実さがここにはある。

しかし個人的にはこれも是とする。『フランス白粉の謎』では納得行きかねたが、3作目にしてクイーンの小説に対する姿勢という物がわかったからだ。
恐らくそれはクイーン自身も自覚的だったのだろう。作中、クイーン家の召使いであるジプシー少年ジューナがクイーン警視にゆで卵を作ってやったらゆで過ぎて固ゆで卵になってしまったので、捨ててしまい、もう一度作り直した、なぜならクイーン警視は固ゆで卵(ハードボイルド)が好きではないからという件がある。このエピソードは作中では一度作り上げた推理をもう一度最初から作り直したらという意味で挙げられているが、それを示唆するのになぜ固ゆで卵を持ち出したのか。そう考えると思わずニヤリとしてしまった。

いやあ、クイーンは本当、面白い。


▼以下、ネタバレ感想
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オランダ靴の謎【新訳版】 (創元推理文庫)
エラリー・クイーンオランダ靴の謎 についてのレビュー
No.684:
(7pt)

アイデアは十分なのだが

精神病患者をテーマにしたミステリと1、2作目とはまたガラッと変わった作風である。とはいえ、1作目の『楽園』における南海の孤島を舞台にした話といい、2作目の『リング』で超心理学をテーマにした病理学へのアプローチも見られたことから、これらがその2作を基礎にして書かれているのは間違いないだろう。

で、3作目ながらもしっかりした筆致で相変わらず読ませる。入水自殺未遂で病院に担ぎ込まれた謎の女性の正体を、ミステリ仕立てで一枚一枚包まれたヴェールを剥がすかのように突き止めていく進め方はもとより、そこから一転して鍵を握る人物、真木洋一の遠洋漁業を舞台にした物語など、恐らく作者自体が経験したであろうリアリティを伴って語られる。
さらに本作の主人公ともいうべき存在、さゆりの担当医である精神神経科医師望月俊孝の、同僚女医との浮気などサイドストーリーも用意して、膨らみを持たせている。
特に真木とさゆりとの同棲生活の件にて触れられる、狂人の振舞いとも思えるさゆりの不可解な行動、そしてその根源となっている病気の正体(50万人に1人という稀有な遺伝性精神病「ハンティントン舞踏病」というモチーフ)はなかなかに衝撃的だ。久々に知的好奇心をくすぐられる思いがした。

そして最後にもたらされるそれぞれの登場人物の結末。感動な再開シーンの後に語られる皮肉な結末と、最後まで読者を飽きさせない運び方もなかなかだ。
300ページという薄さに展開するこれらの物語。非常にそつが無い。堅実な味わいがある。
しかしそれだからこそ突出した派手さもないとも云える。

しかしこれほどの作品でこういう評価はちょっと酷と云ったものかもしれない。安心して読める1冊、これがこの作品の評価として相応しい。評価は7.5点といったところだけど、やはり『リング』と比べると落ちるので、7ツ星としておこう。

光射す海 (新潮文庫)
鈴木光司光射す海 についてのレビュー
No.683:
(7pt)

悠久の愛の物語

有史以前に引き裂かれた男女の世紀を超えた再会の物語。全3部に分かれた構成は連作短編集のよう。

有史以前のゴビ砂漠周辺にタンガータという砂漠の民の若者の1人ボグドの描いた絵は生命が宿っているかのようだった。彼は同じ種族の娘ファヤウを自分の嫁にすると固く決めていた。
彼は人間を描いてはならぬという部族の法を破って、その思いの強さからファヤウの絵を刻む。人間を描けばその者の命が亡くなるということをあとでボグドは知る。
13歳になり、種族の伝統に従って、ボグドは己の守護霊を得るために狩りに出る。狙うは伝説の赤い鹿。その血肉を食らえば、強靭な精霊が宿るとされていた。ボグドは一計を案じ、見事鹿を射止め、その血肉を食らい、精霊を自らに取り込むことに成功した。
やがてボグドは鹿の精霊を持つことで一族の中でも一目置かれる人物となり、次の首長になる事が確実視されていた。ボグドは自ら宿る鹿の精霊を民の守り神とし、石にその絵を刻んでいった。しかしそんな中、安楽の地を求め、旅する北の部族の族長シャラブがかつてボグドが残したファヤウの絵を認め、ファヤウを妻にすることを決める。
シャラブの部隊に急襲されたタンガータはなす術も無く、シャーマンと女どもを残して全滅する。しかし九死に一生を得たボグドはファヤウを奪い返すべく、シャラブの後を追うが、敢え無く捕まり、船に乗せられ、流されてしまう。
ある土地に漂流したボグドは、必ず自分の妻と子を取り戻すことを決意する。それは世紀を越えた長い旅の始まりだった。

これが第1部で物語の発端。そこから第2、3部と話は展開する。
第2部は一転して18世紀の太平洋上が舞台となる。アメリカの捕鯨船の乗組員が太平洋上の島タロファに流れ着く物語。
第3部は一転して現代のニューヨークが舞台。若き天才作曲家レスリー・マードフが神秘思想家ギルバート・グリフィスと共につい最近発見された巨大地底湖を一緒に訪れ、そこで作曲活動を行うといった話。
各編、コクのある物語で読ませる。

第1部の紀元前の遊牧民の暮らし、そしてボグドとファヤウそれぞれが体験する苦難の旅はよくもまあ、これほど書けたものだと思う。
そして第2部の大航海時代の南の島の話。これが個人的にはベスト。
捕鯨船が漂流する発端から、タロファという南の島の楽園での生活と文化、そして文化的先進国による略奪劇とスペクタクルに富んでいる。ここに出てくるライア、ジョーンズ、タイラー、エド・チャニング、その他途中で亡くなる人物たち全てに特徴があるが、やはり特筆すべきはタイラー。戦いこそ全てというこの人物の生き様に胸打たれた。
そして第3部。最後に音楽を持ってくるのが意外だった。

しかしよく考えてみれば、音は第1部から触れられていたモチーフで、古代の時代から一貫して人間の遺伝子に刻まれているのは音楽だというのが隠されたもう1つのテーマなのだろう。しかし読ませるが、『君の名は』のようにもどかしかった。せっかく舞台は整ったのだから、早く再会させればいいのにと忸怩しながら読んでいた。
そして気になったのが、ダイナモの燃料としてガソリンと書かれているところ。普通発電機は軽油なのだが、アメリカでは違うのか?またガソリンをポリ容器に入れているのも気になった。日本では危険物として禁じられているのに、アメリカではこれもOKなのだろうか?

三つの物語で共通するのは太陽に向かって跳躍する赤い鹿の絵。これが1万年の時を越えて、二人の男女の絆として引き継がれる。そしてその一族の細胞として宿るのはその至上の愛の遺伝子。つまりものすごいロマンティックな物語なのだ。
ボグドとファヤウ。この2人の焦がれるような再会への渇望が現代になってようやく成就する。しかしそれは単純にハーレクインロマンスのような単純な運命論によって描かれた物ではない。この2人の再会の物語を語るのに、作者は世界民族の起源論を展開する。

オセアニアに住むサモア人やアボリジニーを代表する原住民、そしてアメリカのインディアン(今ならネイティヴ・アメリカン)の祖先をモンゴルの大地に住んでいたアジアの民とするという民族起源論がまず作者の頭にあったのだろう。
これに悠久の愛の物語を絡めたというのが真実だろう。
この作家、こういう一見無関係な表題を組み合わせて物語を作るのが非常に巧いと感じた。

これがなんとデビュー作というのだから畏れ入る。そして2作目として、あの『リング』が生まれる。作者としてすでに書くべきテーマがあったのだろう。あとはそれを放出するだけの機会を待っていたという感じだ。
2作を通じて感じるのは、溢れる物語を早く出したいというエネルギー。
このエネルギー、どこまで続くのか、追っていこうと思う。

楽園 (角川文庫)
鈴木光司楽園 についてのレビュー
No.682:
(8pt)

文明機器と超常現象の見事な融合

説明不要のベストセラーホラー。貞子は独立したキャラクターとしてお笑い番組など各種メディアに登場するほどにもなった。

このビデオを観た者は1週間後に死ぬ。
古来からある不幸の手紙の現代版である。これを皮切りに「着信アリ」ほか色んな都市伝説ホラーが生まれたといっても過言ではない。
とにかくこの作品は当時それほどインパクトがあった。

で、私といえば、なんと映画も観たことがなく、この小説が全くの初見。
とはいえ、あれだけTVでCM、さらにTV放映、ドラマ化もされているので、なんらかの先入観は禁じえない。貞子も知っていたし。だから出てくる登場人物に出演俳優がダブってしまうのは避けられなかった。

で、肝心の作品の中身はといえば、やはり面白い。物語の読ませ方も上手い。そして確かに怖い。
書いていることに特別おどろおどろしさはなく、言葉も怖さを助長させるようなオーヴァーな表現は使われていないのだが、なんだか人を不安にさせる空気がこの中にはある。これは確かに映画化されるのもむべなるかな。

まずビデオの映像に描かれたモチーフを、これらがどんな意味を持っているのか、探り当てる。そしてその過程で現れる山村貞子という名の女性の存在。彼女の一族に纏わる因縁は坂東作品のホラーを思わせる(というよりもこちらの方が先か)。
そして山村貞子の存在の忌まわしさ。彼女の類い稀なる美貌にそぐわない報われない生い立ちとその一生、そして彼女に隠された驚愕の事実などなど、作者鈴木光司氏はクーンツのようにこれでもかこれでもかと超心理学、陰陽道、ウィルスなどあらゆる分野から人間の歴史の暗部に纏わる逸話を投入し、読者のページを繰る手を休ませない。

そして呪いを解くオマジナイが成就したと思われた瞬間に訪れる、山村貞子の本当の呪いの正体。この衝撃は今なお戦慄を伴うほど新鮮だ。
冷静になって考えてみれば、これはもう最初から眼の前に出されていたのである。全く以ってこの鈴木光司という名のマジシャンにまんまと騙されてしまった。

本書が発表されたのは1991年とある。まさに本作こそ、日本にモダンホラーの黎明を高らかに宣言する画期的な作品だったに違いない。
ビデオテープという文明の機器。怪異な映像。呪い。超能力。そしてウィルス。これら一見結びつきようのないキーワードを巧みに混ぜ合わせ、これだけのホラーを作り上げたこの作者の力量は、素直に素晴らしいと褒め称えたい。

リング (角川ホラー文庫)
鈴木光司リング についてのレビュー
No.681:
(7pt)

我々の幸せはただ砂上の楼閣過ぎないのか?

結城昌治初体験。私がこの結城昌治という作家に興味を持ったのはどういう経緯だっただろう?当時私は色んなミステリガイドを読み漁り、そこに挙げられた名作(と云われている作品)を読むことを渇望しており、手当たり次第に手を付け、買い求めていった。
その性癖は今でも変わらず、毎年年末のベストミステリランキングが発表されると、そこに名前が出てきた新進作家にどうしても食指が伸びてしまう。自然、未読作家は増えていき、自分の趣味に合うのかどうかも解らないまま、本棚の空きスペースを等比数列的に減らしているといった有様だ。

で、この結城昌治氏だが、何が私にこの作家の名を記憶に留めさせたのだろうか?
確か今も続いている双葉社の日本推理作家協会賞の文庫化シリーズの1冊として彼の『夜の終わる時』がきっかけだったように思う。その時の文庫裏表紙の説明を読み、当時稲見一良や志水辰夫の諸作に惚れ込んでいた私は内容も読まずに購入した覚えがある。
そして当時の出版状況を調べて愕然とする。この直木賞作家であり、既に物故しながらも日本のハードボイルド界の先駆的存在といわれている作者のほとんどの作品が絶版となっていたからだ。それから私の結城作品の果て無き探索の日々が始まる。あれから十数年を経て、なんと光文社文庫から結城昌治コレクションが刊行されるようになった。なんとも嬉しい限りだ(とはいえほんの数ヶ月で刊行は途絶えてしまったのだが)。

さて前口上が長くなったが、初購入から十数年目の着手という事で、その1作として選んだのが本書『幻の殺意』だ。
内容は突然家族を遠ざけるようになった高校生の息子を心配する夫婦が、ある日息子が殺人犯の容疑者として捕まり、その事件の真相を父親が独力で探るという、非常にオーソドックスな設定である。
時代背景は終戦後約20年経ち、ようやくそれぞれが人並みの生活を送れるようにまで復興した昭和の時代だ。本作の物語の根幹は終戦後間もない明日を生きるのもしれぬ喧騒の中、生きるために必死にもがいた1人の男と1人の女の間に交わされた刹那の恋が、あるごく普通の家庭にもたらした悲劇を扱っている。

ミステリとしての味わいとしては特筆するところはあまりない。息子がひた隠す真犯人(と目される人物)の正体、謎の電話の主、藤崎清三の愛人の正体は、中盤辺りで解ってしまった。ただそこから更にもう一捻り加えてあるのだが、これが逆に陳腐さを覚えてしまった。よくあるヤクザ間の面子から生じるいざこざだからだ。
また本書におけるちょっと現実ではありえない警察の不手際に戸惑った。いくら容疑者の父親とは云え、警察が安直に被害者の愛人たちの居場所を教えるだろうか?捜査の守秘義務や関係者の基本的人権を無視した行為だろう。
また主人公の父親の方が知っている被害者の関係者を警察が知らないというのも気になった(しかも警察の知らなかったその人物は後々重要になってくる)。いくらなんでもこれは警察を無能に描きすぎだろう。それともこの頃の時代では、実際警察とはこんな物だったのだろうか?

こういった瑕疵は気になるものの、最後に至る悲劇的結末はかのロスマクを想起させる。題名『幻の殺意』に込められた意味はここで生きてくる。
夫婦の幸せは幻の上に成り立っている―これこそ作者が本作で描きたかったテーマだ。まさに昭和の時代に起きた一家庭の悲劇の典型とも云える。大過無く夫婦生活を終えようとする家庭の中には実はこの幻に潜む醜い秘密が暴かれなかっただけの物もあるだろうと。私も祖父母の話を聞いたことがあるが、それは本当にドラマのような複雑な人間関係の話だった。
最後の方に出てくる一文

「そして幸福は、あるいは愛は、無知の上のみ築かれていくのか」

が痛い。
知らなくてよいことというのは確かにある。しかし本当にそれでいいのか?それは当事者のみが判断する事だろう。虚構の幸せか、現実の悲劇か?私ならどっちを選ぶだろう・・・。

しかし、私はこうも思う。
確かにその幸せは幻だったかもしれない。しかしその幻が解ける前はその幸せは確かに在ったのだと。それは幻でもなく、手応えの在った紛れもない真実だったのだと。
無から生まれ、また無に帰っていく、人の一生そのものが幻とも云える。しかしそれらの幻は確実に何かを残して消えていく。我々はそんな幻の中に生きている。

幻の殺意 (角川文庫)
結城昌治幻の殺意 についてのレビュー
No.680: 8人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

死者が甦る世界における殺人の意味とは?

世評高い山口雅也氏のデビュー作。本ミステリで解き明かされる命題は「なぜ死者が甦る世界で、あえて殺人を犯す必然性とは何か?」という非常に難しい問題だ。
そしてその命題を解き明かすための材料として、本作では終始“死”に関する考察が語られる。
“死”とは一体何なのか?では“生”とは?「肉体の死」と「精神の死」。“死”についてあらゆる角度から、西洋医学、東洋思想、キリスト教、仏教初め、世界各地の宗教における死生観、はたまた死学的見地から山口氏は“死”について考察の翼を伸ばす。

前半部は登場人物の一人、死学博士のヴィンセント・ハースが開陳する薀蓄と生ける屍となったグリンとの問答を通じて、山口氏による“死”に関する論文発表の場となっている。
そしてこれらが、最初に掲げた命題への解答となる論拠として色づいてくる。

ここの解答に至るまで、物語のそこここに散りばめられた伏線が確かに寄与しているのは解る。中には単なる洒脱なやり取りだけとしか思わなかった部分がこのロジックを解き明かす糸口になっていたりしている。
しかし、これはけっこう哲学的、観念的な論理ではないだろうか?

本作に収められた密室殺人、ビデオを利用した殺人犯の追究など、黄金時代の本格ミステリの復活を想起させるガジェットに溢れているのだが、結局のところ、これらは何のトリックも含まれない。実は本当に単なるガジェットに終わってしまっているのだ。これが非常に残念である。
630ページのこの作品に込められた衒学満ち溢れたこの物語の、最後を締めくくるにはこの論理だけでは、いささかパワー不足で、カタルシスを得られなかった。

刊行当時の1989年に、死者が甦る世界を舞台に殺人事件を扱ったミステリというその特異性はかなり目新しい物だったのだろうが、西澤保彦、石持浅海らがいる今ではそういった特殊な条件下でのミステリというのはさほど珍しくなくなってしまっている。そして本作のこの設定に関して、そういう世界観なのだとすんなり入り込め、世の書評家が述べているような、どんな手腕を繰り出すのかという興味はそれほどなかったのも一因だろう。

ところで、本作には希代のミステリマニア(賞賛を含めて敢えてそう呼ばせてもらおう)山口雅也氏のエッセンスが凝縮されている。
まずグリンの仇名の由来にニヤリとした。ロスマクの『象牙色の嘲笑』から来ているというのがいい。代表作の『さむけ』とかではなく、云わばどちらかと云えばマイナーな作品を扱ったところにマニア魂を感じる。もちろんそれはこの作品が死をテーマに扱っている事に十分配慮したからこその選択というのも忘れてはならない。
そして『縞模様の霊柩車』ならぬピンクのポンティアックの霊柩車というところもロスマクへのオマージュを感じていいではないか。
さらに霊安室の名前《黄金の眠りの間(ゴールデン・スランバーズ)》はビートルズの名曲。
チラッと出てくるニュース・キャスター、ドン・ランサーはダン・ラザーのもじりだろう。
またびっくりしたのがグリンとチェシャがトゥームズビルに向かう車中でチェシャが読んでいた本が《探偵実話(トゥルー・ディテクティヴ)》だった事。これ、実はこの前に読んだレナードの『ホット・キッド』に出てくるライター、トニー・アントネッリが寄稿していた雑誌なのだ。なんだかこの作品を読むためにレナードの2008年の新作を読むことが運命付けられていたかのような錯覚を覚えた。
そして棺桶暴走列車や霊柩車同士のカーチェイスなど、カーの笑劇(ファルス)趣味を思わせる趣向もこの作家としては自覚的なのだろう。

とまあ、古典を読んできた私にとって、この作品を読むことは読書の至福を味わうひと時であったのだが、それがゆえに一層勿体無い感じがしてしまうのだ。


▼以下、ネタバレ感想
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生ける屍の死(上) (光文社文庫 や 26-3)
山口雅也生ける屍の死 についてのレビュー
No.679:
(8pt)

老いてなお若き、レナードの筆致!

この前に読んだ『キューバ・リブレ』の時は歴史小説だったせいか、なんだか盛り上がりに欠け、正直期待外れだったが、今回は違う。
レナード節が冴え渡るレナードしか書けない男たちの物語、しかも自身の原点であるウェスタン小説である。
そして今回は早速レナード作品の最たる特徴であるレナード・サーガのリンクが冒頭から出てくる。『キューバ・リブレ』で登場したヴァージル・ウェブスターが、主人公の1人カール・ウェブスターの父親となって登場するのだ。

本作で彼は既に47歳に石油長者となって隠遁生活を送る身になっている。その余裕は死線を潜り抜けた男が見せる余裕だ。『キューバ・リブレ』では戦艦爆破に巻き込まれ、運命に翻弄されるがままだったウェブスターがこんなキャラクターになってお目見えするとはなんとも感慨深い物がある。
そしてそのヴァージルが神経の図太いヤツだと一目置くのが息子カーロスことカール・ウェブスターなのである。

このカール、レナードの作品では今までにないヒーローである。恐怖心という物が抜け落ちたかのように、どんな状況においても常に磐石な自信を湛え、冷静沈着に振舞える男だ。
そして悪党を前にして述べる言葉は
「おれが銃を抜くことになったら、必ず撃ち殺す」
さらに今回特徴的なのは実は彼が真っ当な正義漢ではなく、実は根っからのガンマンなのだという事。
作中でもそれは他者の言葉を借りて表現されている。曰く、
「あなたはなぜ執行官になって銃を携帯する道を選んだのか。人を撃つのが好きだからよ。人を撃つのが楽しいからなんだわ」
そしてカール自身、今度の犯人を撃てば、彼の戦果に加わる事を密かに愉しんでいることを認める。

ただ、ここで留意したいのは彼は血を好む殺人者ではないという事だ。まず先に立つのは正義感。犯罪者を彼は人とは思っていない。そして彼はそれを仕留めるのが自分の使命だと固く信じている。
そしてもう1つ。彼はあくまで他者と純粋に勝負し、勝つ事が好きな男だということ。で、彼が選んだその勝負の方法というのが銃撃戦だということだ。
撃つか撃たれるか、死と隣り合わせの命のやり取りであるが、カールはむしろそれをスポーツの対決のように感じている。それは彼が一種変わった精神構造を持っているからだろう。

上の台詞が出てくる場面のすぐ後で、彼は銃撃戦が終わったときに体の震えているのに気付いたと述べる。ここで注目したいのは、体が“震えた”と書いているのではなく、“気付いた”と書いてあることだ。
つまり何事に対しても、精神と身体を切り離して観ること、行動できる客観的な男なのだ。そうカールこそは根っからの勝負師であり、負ける事を考えない真のタフガイなのだ。

一方ジャック・ベルモントは小さい頃に実の妹を溺死寸前までさせ、脳に障害をもたらしたエピソードを軸に、親の手の付けられない悪童がそのまま大人になった男で、根っからのワルである。
しかし、ワルはワルでもこの男、どこか抜けており、また自覚的でないため、常に自分を大物に見せようと人を小馬鹿にしながら、その実、相手から見下されているという三文悪党として描かれている。

石油王として莫大な富を稼ぐ父親を何とか懲らしめてやりたいと、愛人の誘拐まで行うが、計画の甘さから失敗し、刑務所入りを余儀なくされる。
相棒として雇ったと思われた男からは、実は小物だと思わわれていたことを知り、銃撃戦に紛れて射殺するなど、嫉妬と虚栄心の塊だ。
いわゆる典型的な“俺リスペクト型”で、自分はもっと周囲から恐れられ、名前が売れていいはずだと思っている男、ジャック。

実はこの展開は意外だった。これは今までのレナード作品に出てきた、根っからのワルなんだけど、どこか抜けている悪党と何ら変わらないからだ。
主人公のカールのライバルにしてはどうしても見劣りする。実際作中、何度かジャックとカールは邂逅し、そしてあるときはカールに捕らえられ、刑務所に送られるように、カールはジャックを歯牙にもかけていない。むしろカールは自分に相応しい敵となるべく、その時を待っているかのようだ。

そしてようやく迎える二人の対決シーン。実はこれが意外だった。自分への協力者を容赦なく殺す事で、精神的にもタフとなり、カールのレベルまで登りつつあったジャック。しかし最後の最後まで彼は三文チンピラのままだった。
う~ん、結構難しい。安直に語れない深みがある。これについてはしばらく考えてみよう。

さて物語はこのジャックとカールを中心に語られるが、彼らに纏わる登場人物も今回は出色である。
まずカールとジャックの時代を描写する上で、実際的にはその姿を見せず、あくまで他者の言葉を通じて語られる実在の銀行強盗チャーリー“プリティ・ボーイ”フロイド。
そしてそのチャーリーの追っかけであり、チャーリー・ギャング・グループの仲間を射殺した逸話を持つルーリー・ブラウン。
元FBIで独善的な正義を振り回し、自ら連邦捜査局員を名乗り、KKK団を率いて、黒人やイタリア系移民を狩るネスター・ロット。
学校の教師で30年間に出来た恋人は2人。そしてその2人目の恋人が銀行強盗だった女性ヴニシア・マンソン。
レナードはこれらをトニー・アントネッリという駆け出しの記者がカールないし事件の関係者にインタビューする形で話を紡ぐ。
これがもう独立した短編のように面白い。

特にこのトニー・アントネッリという作中話者を設定したのは今回の大きな効果だと思う。
彼がカールの伝説を作り、無法者ども達の逸話の語り部となり、物語に厚みを持たせている。
そういえば、この前の『キューバ・リブレ』でもニーリー・タッカーなるルポライターが出ていたが、今回はその時よりもさらに発展させ、活用している(面白いのはニーリーとトニーともにハーディング・デイヴィスなる新聞記者の文体に心酔していることだ。実在の人物か知らないが、もしレナードの創作ならば、彼の登場する物語も読んでみたい)。

権力ある者が法律を作り、常にどこかで生き死にのやり取りが繰り広げられる無法の時代に生きるタフで、アブナイ奴らが縦横無尽に動き回るこの作品こそ、私が読みたかったレナードの小説だ。
2005年発表とあるから、当時御年なんと81歳!こんなトンでる老人、日本にはいないだろう!
ゴーストライターがいるかもしれないが、そんな下種な勘ぐりは抜きにして、レナードの若さに乾杯!


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