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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数87件
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ジェイムズ・ヒルトンといえば代表作は『チップス先生、さようなら』や『失われた地平線』になろうか。前者は一教師の生涯を通じて戦争下の社会情勢を描いた作品であり、後者は今なお使われるシャングリラという理想郷を創出した作品である。
で、本書はといえば趣向は『チップス先生、さようなら』の系譜に連なる物になろうか。 牧師の息子として生まれたエインズリー・ジャーグウィン・フォザギル、通称“A・J・”という男の数奇な運命を通じて日露戦争からロシア革命の頃のロシア情勢を語った作品だ。 このフォザギルという男。特段何か特技や特徴があるわけでもない、ごくごく平凡な男である。 しかしなぜか彼の周りには人が集まり、そしてそのたびに彼は名を変え、身分を変え、そして国籍さえも変えて窮地を脱するのだ。 最初は自分の世話をしてくれた裕福な叔父の秘書フィリッパに惚れるが、彼女は彼の世話人の叔父ヘンリー郷と結婚してしまう。失意のうちにそれまで書評欄を担当していた『彗星』紙に自ら志願して戦争特派員としてロシアに行き、日露戦争の取材をするが、彼はそこで飲んだビールが不衛生なもので体を壊したことで入院し、ロシア語をマスターし、ロシア人とコミュニケーションをとるに至り、戦況よりも戦時下で病院に働く人々や恵まれない生活環境などをテーマに送るようになるが、そんな情報は望んでいない新聞社は彼の代わりの特派員ファーガソンを派遣する。 イギリスに帰る列車の中でたまたま食堂車で隣り合わせた紳士に話しかけると、その人物がとあるロシアのロストフという町の小学校の校長先生で彼の流暢なロシア語に感動して彼に学校の英語教師の職をオファーし、A・J・はそれを受けてロシアに留まることになる。 これが彼のロシアでの数奇な運命の始まりだったのだと云えよう。確かに社に志願して戦争特派員としてロシアの地に赴いたのが彼のロシア生活の始まりではあるが、それは新聞社の社員としてであるため、彼はいわばまだ単に組織の一員に過ぎない。この英語教師への転身がこのA・J・フォザギルという男の運命のスタートラインだ。 しかしこれはまだ端緒に過ぎない。この時の彼はまだ運命という川に翻弄される1艘の笹舟に過ぎないのだ。 そして英語教師に着任した1年後に彼の保護者であったヘンリー卿が亡くなる。つまりこのことが彼を更に束縛から解き放つ。 その後彼はペテルブルグに移って英語の著作物をロシア語に翻訳し、校正する仕事に就く。ただその仕事でロシア皇帝の私生活に触れている箇所があることが見つかり、彼を雇った人物の取り計らいでとりあえず最悪の事態は回避するが、1週間以内にロシアを立ち退くよう通告を受ける。 それ以降も彼の運命は流転する。英国諜報部の嘱託員となり、ペテル・ヴァレシヴィッチ・ウラノフと名乗り、以後ずっとロシアではロシア人として通すことになる。 それから内務大臣暗殺を企ている革命クラブと接触したり、警察に逮捕され、収監されるが、ロシア革命の恩赦で釈放され、移動の列車の中で知り合った大学教授夫妻のために食堂車に紛れ込んで食糧を盗んだところを見つかり、銃殺されそうになったところを返り討ちにして逆にその政府高官に成りすます。 そしてその際に知り合った女囚との出遭いが彼の運命を大きく変える。その女性マリー・アレクサンドリア・アドラクシン伯爵夫人は彼の一生愛すべき存在になるのだ。 ところで人はいつ自分の使命を知るのだろう? いや自分の生きる使命を知る人間がどれだけいるのだろう? 自分がここに生きる意味、誰かのために生きている、もしくは生かされていると悟る人はそれほどいるとは思えない。 このエインズリー・ジャーグウィン・フォザギルという男は最初は我々のようなごく普通の人物に過ぎなかった。 これが次第に人間味を帯びてくる。彼がそれまでただ成り行きに身を任せ、どうしてか判らないがとんとん拍子に物事がうまく運ぶ、流されキャラだったのがアドラクシン伯爵夫人との邂逅で変わっていく。 最初彼は彼女を赤軍に引き渡すために彼女の旅程の助けをしているだけだったが、次第に彼女の魅力にほだされ、そして彼女と共に生き延びたいとまで思うようになる。 そこから彼は主体性を以て動き出す。彼の生きざまにアドラクシン伯爵夫人と云う軸ができるのだ。 この貴族の出の夫人は達観した考えの持ち主で運命に身をゆだねる人物だった。常に気丈に明るく振舞い、生き延びるために身ずぼらしい農婦の服装を身に着けることをいとわず、むしろその状況を愉しみさえする。 さらにはA・J・が兵士に殺されそうになると銃で彼らを撃つことも躊躇わない度胸を示す。 そして彼女の存在はA・J・の物の見方に彩りをも与える。 それまでの彼は自分のことながらもどこか客観的に物事を見つめ、自分の言動ももう1人の自分が見ているような主体性の欠いた状態で受け入れていたが、初めて彼は彼女のために生き、そして無事にロシアを脱出しようと決意するのだ。 やがてアドラクシン伯爵夫人をダリーと呼び、お互い相思相愛の仲になる。 そんな彼らの逃亡行は貴重な出会いの連続だ。 A・J・とダリーの道行きはそれでもしかし苦難の道のりだった。何度も危ない目にあっては機転や稀有な親切な存在に助けられる。 奥ゆかしくも運命に流されながら、時に抗い、生きてきたエインズリー・ジャーグウィン・フォザギルという男の波乱万丈の人生物語だ。 彼はジャーナリストとして夢を抱いてロシアに飛ぶが、求められた記事を書かなかったことで帰国を命じられる。その後はただ出遭う人の申し出に乗って色んな職に就き、また時には周囲の勘違いから政府の役人になったという偶然の連続で生き延びた男だった。 そう、彼は自ら選んだ道では上手く行かず、周囲の要請や提案に従ったことが彼を生かした。 何とも奇妙な男である。 当時のロシア革命真っただ中の、赤軍と白軍、つまり社会主義派と反革命派がそれぞれの街で拮抗する特異な情勢の中でその場その場を潜り抜けるには流れに身を任せるのが唯一の生存手段だったのかもしれない。 自分の意志を貫こうとすれば叶わず、周囲に流されることで自分が生かされた男フォザギル。 なんと虚しい男であることか。 題名の鎧なき騎士とは彼のことを指すのだろうが、個人的にはいささかピンと来ない。 虚しき騎士の物語、それがこの物語に相応しいと思うがどうだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は子供向けのミステリ叢書として講談社によって編まれたミステリーランドシリーズの中の1作である。しかしその内容は子供向けと云うにはヘビーなものだ。
物語は僕こと馬場新太少年が夏休みに遭遇した探偵伯爵と共に子供の失踪事件を追い、解決するひと夏の思い出だ。 探偵伯爵ことアールは夏にも関わらず長袖の背広を着てネクタイをした、髭を生やした男性である。まあ現在はクールビズといってYシャツにノーネクタイでジャケット無しで仕事に行くサラリーマンも多いが、一昔前のサラリーマンはみんなこんな風だったからさほど珍しいものでもない。 彼はある事件を追って少年の町に来ていた。それは東京で起きた子供たちばかりを狙った無差別殺人事件であることが判明する。 ジャンケンにちなんだ名前の少年、石田、平手、千代木の3人を殺した犯人がこの町に来ているのを知って訪れたのだった。 彼はアール探偵社の社長だったが、この事件を追うためにその座を辞してこの町に来ていた。その理由は後程判明する。 物語は馬場新太の手記、ワープロの練習を兼ねた事件記録めいた日記、いや素人小説のような体裁で語られる。そこには語彙が豊かでない少年の聞き間違いや勘違いなどが散りばめられている。 テレビに出てくるような悪人は現実社会には存在しない。なぜなら明らさまに怪しいと疑われるからだ。 またどうして正義の味方よりも悪人の方が年寄りなのか。普通は年寄りが若者を叱るのだから逆ではないか。 などなど、聞けばなるほどという子供ながらの着眼点に満ちた独り言が散りばめられている。 私が一番感心したのは伯爵が少年に云う情報交換という言葉のおかしさだ。 交換ならば手元から無くなるはずだが、情報は無くならないから交換にならない。情報共有が正しい言葉だと云う件。思わずなるほどと思った。 子供の手記によるいささか寓話めいた探偵物語は例えば探偵伯爵の宿敵に怪盗男爵がいるなどといったガジェットも散りばめられているが、冒頭に述べたように内容は案外重い。 いやはや何とも暗鬱な物語だ。正直これを少年少女に読ませ、理解させることには躊躇を覚える。 そしてこの本を読んで面白かったと子供が感想を述べた時に親はどんな顔をしたらよいのか。 こんな暗鬱とさせられる子供向けミステリの解説をしているのはなんとアンガールズ田中なのは驚きだ。しかも感じている内容は同じなのだが、解説を引き受けた手前か心地いい余韻に浸れたと書いているのには無理を感じた。 決して心地いいものではない、本書は。 森氏は子供向けのミステリでさえ我々に戸惑いを与える。それは読者と云う立場だけでなく、子を持つ親としての立場としてもだ。 これはさすがにやり過ぎなのでは。 本書に限らずこのミステリーランド叢書は子供に読ませるには眉を顰めてしまうものも多い。出版元はもっと内容を吟味して子供向け作品を刊行してほしいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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もはや監禁物はキングの数ある作品群の中で1つのジャンルを形成したと云えるだろう。
『クージョ』、『ミザリー』に続き、キングが用意したシチュエーションは子供のいない弁護士と元教師の夫婦が別荘で拘束プレイに興じようとして、抵抗した挙句に夫が心臓発作で亡くなってしまい、一人ベッドに手錠につながれた状態で取り残された妻の話だ。まあ、何とも苦笑を禁じ得ない状況であるが、直面した当人にとっては生死にかかわる大問題である。 正直シチュエーションはこれだけだ。これだけのシチュエーションでキングはなんと約500ページを費やす。 妻ジェシーが夫に抵抗して心臓発作を起こして亡くなってしまうのが30ページ目。つまり残りの470ページを使って拘束された妻の必死の脱出劇を語るのだ。 しかしよくこんなことを小説にしようとしたものだ。 この実に動きのない状況の中にもかかわらず、それだけのページを費やしているのはやはりキングの豊富な想像力によって生み出される次から次へと降りかかる危難、困難の数々と拘束されたジェシーの頭の中で巻き起こる妄想や回想の数々だ。 まずは空腹の捨て犬が開いていた裏口から迷い込み、ジェラルドの死体から放たれる肉の匂いに抗えず、なんと亡くなった夫を食べ始めるのだ。 この状況は何とも凄まじい。たとえすでに死んでいるからと云っても死後犬の餌になるなんて最悪の死に様である―というか、犬ってやっぱり人肉も食べるのかとショックだった―。 特に犬がジェラルドの右腕を食いちぎろうと激しく揺さぶるのをベッドの上から見つめるジェシーには夫がダンスを踊る様に見える描写は恐ろしさと共に滑稽さが合わさり、実に妙な気分になった。こういう描写を書かせるとキングは実に上手い。 さらに喉の渇きを覚えたジェシーが夫がセックスの前にベッドの棚に置いた氷の入った水のコップを取り、そして口に運ぶのも大いなる苦行となる。 手錠に繋がれたまま、コップに手を伸ばし、棚を傾けさせて自分の方に引き寄せて取るまでに16ページを費やし、そしてコップを手にしたものの、今度は手錠の鎖のために口にまで持って行けないため、落ちていたDMを拾ってそれを丸めてストロー代わりにして飲むまでに18ページを費やす。このコントでもありそうな様子がジェシーにとっては生きるか死ぬかの死活問題なのだ。 コップの水を飲むだけで30ページ以上も費やされるのはその一部始終のみが語られるだけではないからだ。その試行錯誤を行う際、彼女は常に彼女の内部と対話している。それは彼女の頭の中にいる友人たちとの対話だ。 最も頻繁に登場するのは悪友ルース・ニアリーだ。 人とは違った価値観を持つ彼女は学生時代、たびたびジェシーを怒らせた。したがってジェシーの脳内に登場するルースもまた彼女に期待を抱かせることとは真逆のことを―ある意味現実的な線ではあるが―述べ、彼女を絶望の淵に追いやる。 次によく登場するのがグッドワイフ・バーリンゲーム。 そう、ジェシーが外部の人達に取り繕う良き妻である自身の人格だ。彼女はグッディと呼ばれ、彼女はジェシーの現実逃避をたしなめ、そして時に現実を見定めさせ、また時にいい方向に考えが及ぶようにジェシーを説得する。そう、あくまでジェシーが汚れなき良き妻であろうとするために。 さらに彼女のセラピスト、ノーラ・キャリガンも登場する。 彼女はジェシーが気が触れそうになった時、絶望に陥りそうになった時に呪文のように唱えるマントラを授けた女性でジェシーが正気を保つのに役立つ存在だ。 そしてジェシー自身も登場する。 彼女がまだ少女だった頃の、パンキンと呼ばれていた自身だ。実は彼女がジェシーの、こののっぴきならない状況から脱出するヒントを与える重要な役割を果たすのだ。 登場人物表はこのジェシーとジェラルド夫妻の2名しか記されていないが、実は本書ではこのジェシーの脳内登場人物がたびたび登場し、彼女を悩ませ、混乱させ、そして封印していた記憶を呼び覚ます。 その1つは父親トム・マハウトを巡る母サリーとの確執だ。いやこれは一方的に夫が娘に愛情を注ぐ姿に妻が嫉妬しているだけと云えよう。 しかしその父親も10歳になるジェシー、つまりパンキンと2人で皆既日食を見ていた時に自身の娘に対して性的興奮を覚え、彼女のドレスに射精するという“事件”を起こす。 ジェシーはそんな忌まわしい過去をこの拘束状態で思い出すのだ。 さてこの絶体絶命の中、ジェシーはどうにか与えられた条件の中で状況を打開しようと奮闘する。 本書でキングが描いた、もしくは描きたかったのは次の2点なのではないだろうか。 まずはたった1人で取り残された状況で人の思考はいろんな方面に及び、そして過去を掘り返す。それは封印していた忌まわしい記憶でさえも。本書ではその忌まわしい記憶が主人公を窮地から救う手立てを与えるヒントになっているのが皮肉だが。 いやむしろ思い出したくない記憶にこそ、ヒントがあり、それを乗り越えたからこそこれからも窮地に直面しても乗り越えられるという意味だろうか。 もう1つは自分1人しかいないはずの家の中で誰かがいる気配を感じることはないだろうか。よくあるのは一人暮らしの部屋でシャンプーしているときに誰かが後ろに立っていると感じるというあの感覚。 主人公ジェシーも同様に奇妙な男の存在を感じる。しかし彼女が気を喪って目が覚めると誰もいなくなっており、しかも自分に害が及んでいないことから気のせいだと思い出すが、最後の最後で実際にいたことが判る。 つまり自分1人しかいないはずの部屋に誰かがいるという錯覚を覚えながら、実際に誰かがいたという恐怖だ。 この何とも云えない気持ち悪さがしこりとして残り、そしてジェシーはたびたびその幻影に惑わされる。 最後に1つだけ。 本書の最大の犠牲者はジェシーでもなく、ジェラルドでもない。それはプリンスと名付けられた野良犬だ。そうジェラルドの死体を餌にした野良犬だ。 彼は元々は飼い犬だったが勝手な事情で捨てられ、そして餌も与えられずにカシュウォカマク湖近辺を空腹で彷徨っていた犬だ。結局彼はジェシーの家の捜査に入った警察に撃ち殺される。 コロナ禍の在宅勤務中に寂しさからペットを買う人が増えたが、在宅勤務が終わって世話を出来なくなってペットを捨てる人が増えているという。プリンスは今なお増え続けているのだ、人間たちの勝手な都合で。そういう人達は本書を読んで猛省してほしい。 本書は1963年7月20日に起きた皆既日食を軸にしたもう1作『ドロレス・クレイボーン』と対になる物語らしい。つまり本書に散りばめられ、謎のままに終わった部分についてはそっちで判明するのだろうか。 とにかく『荒地』に続いて放り出された感じで終わった本書の後味は何とも奇妙なものだった。 知名度で云えば本書よりも高い『ドロレス・クレイボーン』を早く読んでこのもやもやを払拭したいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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スカイ・クロラシリーズ第5作目にして最終巻の本書は飛ばないキルドレの話だ。
主人公僕の第一人称で語られる本書は病院から脱け出した僕の逃避行が主に語られ、本書の専売特許である空中戦はなかなか出てこない。 さて主人公の僕は薬の影響で記憶を喪い、ぼやっとした印象で覚えのある人物を頼る。 最初に頼るのはフーコだ。病院を抜け出したクリタは前作でも親しい仲であった彼女を頼って匿ってもらう。そして彼女の提案で旅に出るのだが、彼が記憶を思い出して連絡を取る相手は相良亜緒衣。キルドレの秘密を研究する医者だ。 しかし主人公の僕は薬の影響下にあり、自分の名前を思い出せないでいる。そして薬の効果が薄れるにしたがって、記憶が断片的に戻り、自分を取り巻く人々の名前を徐々に思い出す一方で、時折フラッシュバックのように幻覚が現れる。 それは脱走した彼を追ってきた草薙水素の姿であり、彼は幻の草薙に撃たれたり、もしくは逆に幻の彼女に撃ってほしいと頼まれたりする。主人公の僕が望んでいるのは死。 そして幻覚の中では彼はカンナミ・ユーヒチだったりと一向に存在が定まらない。 本書の最たる特徴は上にも述べたように空中戦のシーンがなかなか出てこないことだ。逃亡中の彼の夢想の中で空を飛ぶシーン、ティーチャと戦うシーンが断片的に語られるが、実際に主人公の僕が操縦桿を握って空へ飛び立ち、敵機と戦うのは2回。 まずは相良亜緒衣の家を急襲してきた追手たちから逃れるために彼女の持っていた飛行機で逃げ、追手のヘリコプタを振り切るシーン。これが何と239ページで登場する。 次は相良亜緒衣の同志たちのアジトを追ってきた会社の戦闘機と戦うために彼らが所有していた散香を操縦して迎え撃つシーン。これが293ページ目だ。 つまりキルドレという永遠の子供である飛行機乗りを主人公に据えたシリーズの最終巻が最も飛行シーンが、空中戦が少ない作品となったのである。 また相良亜緒衣はキルドレ達が属する会社にとっては危険人物であることが本書では強調される。彼女は初めてキルドレの謎を解き明かした科学者であるとされており、永遠に子供であるキルドレ達から呪縛を解き放して普通の人間にしてあげようと思っているのだ。その彼女の考えに同調する人物たちがいたことが本書では判明する。 さて今までこのシリーズの文庫版の表紙は単色で飾られており、その色を実際の空の色に擬えてそれぞれの作品への思いを馳せてきたが、本書の表紙の色は黄土色だ。 これは即ち空ではなく、土の色だ。 上に書いたように本書は空ではなく、大地を駆けるキルドレがずっと描かれている。つまり飛ばない、いや飛べないキルドレの物語だった。従って本書は今まで空を飛んできたキルドレが長く移動してきた大地の色に擬えているのだろうと思う。 そして題名の“Cradle the sky”。ここで使われるCradleは通常ならば「ゆりかご」という名詞として使われるが、skyという目的語があるため、動詞扱いになる。従って直訳すれば「空をあやす」となろうか。 しかしそれは何ともおかしい。やはり「空のゆりかご」と訳す方が正しいのだろう。 薬によって記憶が曖昧になった主人公の僕は散香に乗って空に飛び立ち、再び戦闘機乗りとなって復活する。つまり空に飛び立つことで彼はまた生まれ変わったのだ。本来の戦闘機乗りのキルドレとして。つまり空こそ彼が生まれ変わるゆりかごであった、そう捉えるのが妥当だろう。 そしてこの永遠の子供であるキルドレという設定をなぜ作者が盛り込んだのか。その理由を垣間見えるエピソードがある。 早く大人になりなさいと云われる常識は即ち大人こそが人間の完成形のように云われているが、それは大人にとって子供が目障りな存在だからだ。子供は大人の大事にしている原則を覆すからだという件だ。 これは恐らく今なお趣味に没頭する子供のような作者自身の思いを反映したエピソードだろう。なぜ子供っぽくてはいけないのだと抗議しているように思える。 また興味深かったのが年を取るにつれて忘れっぽくなることについて述べられた部分だ。それは単純に脳が退化しているのではなく、同じルーチンが増え、無意識に処理するようになり、脳を介さずに短絡的に処理しているから記憶に残らないのだ、と。つまり朝を起きたら顔を洗う、ご飯を食べる、歯を磨くなどが無意識で行っていることで記憶されず、時にあれ、顔洗ったっけ、ご飯食べたっけと思い出せなくなるというのだ。 これはかなり納得した。正直このように思うことが多々あるからだ。次のことや他の事を考えて行動するから、寧ろそのことを意識せずに他のことを考えながらルーチンが出来るからこそ忘れてしまうのだ。 いやあ、この考えは面白い。いつかどこかで使いたい論理である。 さて本書はスカイ・クロラシリーズの最終巻であるが、1冊だけ実は残されている。短編集の『スカイ・イクリプス』だ。それは恐らく外伝的な内容かと思われるが、そのような短編集は本編では語られなかったエピソードである傾向が強く、従って本編を補完する内容であると思われる。 本書で抱いた謎について補完されることを期待して、正真正銘の最後の1冊に臨むことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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作者森氏の日常と心情と思考が最も反映された作品集といっても過言では無い、水柿助教授シリーズ。本書はその第2弾に当たる。
本書では水柿助教授がミステリィ作家としてデビューする顛末を描いている。 1話目「「まだ続くのか?」「命ある限り(高笑)」的な悪ふざけからいかにしてミステリィに手を染めたのか着メロを鳴らす」は作者≒水柿助教授が小説を書くに至った経緯が語られている。 それは珍しく水柿氏の札幌で行われる学会に奥さんの須磨子氏が同行することになり、そこで須磨子氏が持ってきた本がミステリィだったことから2人でミステリ談義が始まる。正直この作品は2人のミステリに関するやり取りで構成されており、札幌出張はそれがなされるための舞台装置に過ぎない。従って札幌の描写や2人の札幌行に関するエピソードは皆無に等しい。 2人の会話で交わされるミステリについては有名なものであり、例えば須磨子氏が持参したミステリィはクレーンの単語1つで赤川次郎氏の『三毛猫ホームズの推理』であることが解るし、その他エラリイ・クイーンの『チャイナ橙の謎』や法月綸太郎氏の『密閉教室』も出てくる。 また物理的謎と心理的謎、物理的解決と心理的解決といったミステリ区分について語られたり、またミステリィとは納得の度合いが大きいオチ、更に意外性がありつつもこれはなかなか盲点だったと読者を感心させる絶妙な匙加減が必要であると云った記述は単なるトリックやロジックの展覧会に興じる素人ミステリィ作家に是非とも読んでもらいたい件である。 そして妻須磨子氏にほだされて水柿氏は小説を書くことになる。これが作家水柿氏(森氏?)の第一歩になるようだ。 しかし本書で出てくる単語「着メロ」はさすがに時代を感じてしまった。今はもうこんな風には呼ばないもんな。 さて続く第2話「いよいよやってきた人生の転機を脳天気に乗り越えるやいなやラットのごとく駆け出してだからそれは脱兎でしょうが」では第1話からの続きで水柿助教授が本格的にミステリィを創作を始める話。 うーん、まさに森氏デビュー実録といった内容だ。まず森氏≒水柿君の世間知らずぶりが物凄い。 原稿用紙〇枚という募集要項に対して、この原稿用紙の定義が解らないと来ている。また工学部助教授であり、それまでいくつか専門書を発表していたので出版に関しては経験済みであったが、その弊害で原稿は全て横書き。しかし水柿君は横書きのまま出版社にファイルして送りつけるのだ。 そんな自由な間口を開いたのが本書でK談社と称される講談社。そしてその雑誌こそはメフィストだ。この自由度の高さが稀代の作家森氏を生み出すことになったのだ。 天才は普通のことができない。 だったらそれをこっちで補ってやろうではないか、このスタンスがその後も話題の作家を生み出す要因となったのだろう。 また本作で興味深く読んだのが出版社独特の文化だ。彼らの云う締切はかなりタイトな物ばかりだが、それは締切通りに原稿が収められないことが多々あるためのサバを読んでいるためだ。逆に締切をきっちり守っていると暇人だとみなされるとのこと―この辺は作者のジョークかも―。 この前読んだ井上夢人氏の『おかしな二人』ではかなり無理を強いられた締切に追われたためにコンビ解消に至った彼らがこのような慣習をもっと前に知っていたらまた結果は違ったものになっただろうと思うと何とも哀しい。 いやはや出版社とは作家を食い物にする企業であると少し憤りを感じたエピソードである。 今回面白かったのは「滝に打たれたかのようなショック」についての記述。いやまさか滝という人にホームランを打たれたショックと置き換えるとはね。思わず笑ってしまった。 さて今回の収穫は水柿君のフルネームが水柿小次郎であることが判明したこと。これって今作が初紹介だと思うのだけど。 さて続く「小説家として世界に羽ばたくといって本当に羽ばたいていたら変な人になってしまうこの不思議な業界の提供でお送りします」では物語はほとんどないといっていいだろう。 中身は作者森氏が小説のネタとして浮かびながらもボツとなった話が2つほど挿入されているが、ボツにするだけあって大したものではない。 今回最も興味を惹いたのは小説家以前の水柿夫妻の生活の模様だ。趣味にお金を惜しみなく費やす水柿君を尻目に須磨子さんは欲しい服も買わず、気に入った服を見かけたらそれを凝視して記憶し、家に帰って自分で縫製して出来得る限り再現して拵えてきたのだった。更には奥様連中で買い物に行った際に途中で喫茶店に寄ろうものならば、用事があるからと断って切り上げなければならなかった。更に水柿君は家計簿をエクセルで付けてていて、消費傾向を折れ線グラフで示して、増加傾向にある項目について須磨子さんにもっと節約するように促す。しかもその中には水柿君自身の趣味に使う費用は含まれていないのだ。 まあ、何とも献身的な妻ではないか。それまでの須磨子さんは自由奔放で思ったことをそのまま夫に云うだけの天然キャラとしか描かれていなかったが実は陰で夫に尽くしていたことが本作で明かされる。天然奥様を持った、どんな失礼や無理難題を云われても決して怒らないニュートラルな夫として描かれていた水柿君のあまりのマイペースぶりにそれまでの印象を変えさせられるエピソードだ。 婦唱夫随ならぬ夫唱婦随だったのね。おっ、これってある意味叙述トリックなのかも。 次の「サインコサインタンジェント マッドサイエンティストサンタクロース コモエスタアカサカサントワマミー」では(しかしタイトルはますます意味不明になってきているな)小説家となった水柿君に初めて講演とサイン会の依頼が来る。しかも場所は京都。そしてこの京都行にまたもや須磨子さんが同行することになる。大学助教授で講演はお手の物と思っていた水柿君はしかしいつも行っている講義とは異なる熱量に圧倒される。そしてまだまだ新人作家の自分にはそれほどサインを求める人はいないだろうと高を括っているとなんと講演出席者のほとんどの人々が列をなして待っているのに更に驚く。そして水柿君ははたと気付く。作家用のサインなど準備していなかったことに。どうする、水柿君!? 一市民がプロの作家になったことで次から次へと訪れる初体験のエピソードを実に忠実になぞって描かれている。本作では講演とサイン会がメインのテーマであるが、大学で行う講義では約1/3の人間が寝ており、起きている学生も眠たいのを我慢して死んだ目をしているのがほとんどで真面目に聴いているのは全体の1割程度であることを経験してきた水柿君にとって出席者の大半が熱心に自分の講演に聴き入っていることにまず驚く。 更にサイン会ではそれまで色紙や自著にサインなどしたことがない水柿君が初めてそれなりのサインを書くことを真剣に考える。 彼が思い付いたアイデアは相手の名前と日付、そしてトレードマーク的に羽根のイラストを添えることだった。正直云って前段はサイン会の常識だが世間知らずの水柿君はそんなことも知らなかった。またサイン会に須磨子さんの姉妹も訪れるというあるある的エピソードも織り込まれる。 水柿君は大学の講義でOHP(今ならパワポだろう。この辺歴史を感じる)を使っているので今回の講演でもOHPを作成して講演するのだが、逆にOHPなしで講義すると相手の顔を見なければならないので敢えて使っているらしく、研究者の中には結婚披露宴のスピーチをOHPを使ってやったのもいるらしい。ホントかね。 本書で最も興味深かったエピソードは須磨子さんとの“読者への挑戦状”についての談義。挑戦状を出すということは作者は挑戦者であり、格としては読者の方が上なのかという水柿君の理論とミステリィは真相を当てる方が面白いのか、上手く騙される方が面白いのか、もし上手く騙される方が面白いのだったら挑戦状に対して真剣に検討しない方がいいのではといった内容。 読者と作者、どちらが格上かという議論は非常に面白い視点だが、読者も考えて読めよという作者からの警告であると同時にやはり読者はお金を払って買っていただくお客様だから立場としてはやはり上ではないだろうか。 また私は自分で推理して真相を見抜けた方が面白い。 確かに上手く騙されるのも楽しいがミステリィは考える文学だと思っているので私は絶対に謎を解きたい方だ。 また水柿君≒森氏は私よりも年上なのだが、手紙を書くという習慣がないのでファンからのメールには返信するが手紙には返事を書かないとのこと。 ここでは基本的に文字を手で書く習慣がないと書いているが、年賀状では宛先を手書きにしている拘りがあり、矛盾が見られる。ほとんど推敲せずに書いているな、こりゃ。編集者もチェックをきちんとしてないようだし、ますますいい加減になってきている。 最後の「たまには短いタイトルにしたいと昨夜から寝ないで考えているうちに面白い夢を見てしまった。ああ、そろそろ秋だなあ。そこで一句。短めにタイトルつけたら秋かもね」では更に小ネタに走る。 更にエピソードの他愛の無さは拍車がかかる。そして意外なことに出す小説が売れに売れたことで水柿君夫婦は金持ちになり、車を買い、土地と家を買い、それでもまだ金が余ったので更に土地を買った。子供のいない水柿夫婦はそれぞれ気の向くまま趣味に没頭する日々が綴られる。 それに加えて森氏の小ネタ集が延々と続く。一発ギャグの応酬であるそれはなんと16ページも続くのだ。もはややりたい放題である。編集者は一体何をやってんだ! 本書ではサイン会をその後一切行わなくなったことが明かされる。本作の前話で初めての体験だったサイン会の大変さに嫌気が差したのだ。水柿君、つまり森氏は趣味で小説を書いているようなもので職業としての作家では―まだこの時点では―ないため、本来行うべきファンサーヴィスについては全く無頓着なのだ。それでも本が売れているのだから、まさに悠々自適である。ちょっとこの辺については思うことがあるのでまた後ほど触れよう。 水柿助教授シリーズ第2作目。 前作に劣らず、本書でも森氏は自分の思いの丈を存分に語っている。これほど作者の嗜好が、思考がダダ洩れしている作品もないだろう。まさに気の向くまま、思いつくままに書かれている。これは作者に全てを委ねることを許した幻冬舎だからこそ書けた作品集である。 いやあ、実際作者に好き勝手やらせ過ぎである。本書の出版に際して編集会議がきちんとなされたのか甚だ疑問だ。 いやもしくは当時そんな反対意見を差し込めないほどに森氏の作家としての権威が既に高かったということなのか。 今回全体を通して読むと、やはり本書は森氏の私小説と云えるだろう。第1話では理系思考の作者がなぜミステリィ作家になったのか、そのギャップを埋めようと云う意図で書かれているとさえ吐露している―しかしあまりに自由奔放に書き過ぎて全く成功していないようだが―。 結局この企みは成功せず、物語の主軸は一大学の一助教授だった森氏が経験した小説家になったことでの生活のギャップが綴られていく。 締切を平気で破りながらもきっちりパーティーは出て、趣味に興じる作家たちの常識と逆に締切を護って書いていることで暇人扱い、更にはバカにされたりもするという、社会人としての常識が非常識に転じる文壇界の不思議への戸惑い。 また作家になって出版社の人と行動するようになってそれまで電車やバスを利用していたのに少しの移動でもタクシーを利用するようになったこと。これは車内で打合せが出来るというメリットかららしい。 また自分の作品に対する様々な感想。昔ながらのファンレターからネット書評に水柿君自身に届くメール。またまた社会人である水柿君はこのメール全てに律義に返信していたら100通余りになってしまったが、ある上限に達すると増えなくなる不思議になんだかよく解らない内容や主旨の感想の類。 そして作品の若い女性ファンが来ることで妻の機嫌が悪くなったり、また印税が沢山転がり込んでそれまで貧乏暮らしが続いていた水柿家が潤い、奥様の須磨子さんは好きな服が買えるようになり、そして念願のミニクーパーまで買うことになり、更に水柿君は趣味にお金をかけることが出来るようになり、何百万円もする模型をいくつも買うことが出来るようになり、庭には人を乗せて走ることのできる機関車用のレールを引ける家も購入し、それでもなおお金が余ったので更に広大な土地を買うことがで来たりとこの第2編目では水柿君≒森氏が小説家になったことで訪れた環境の変化が主に描かれている。それは恰も森氏自身の私小説でありながら備忘録でもあるかのようだ。 こんなハイペースで作品を著し、更に大学助教授の仕事もこなしていた森氏、いや水柿君は小説はあくまで家に帰ってから書き、大学で書くことはなかったとも云っている。それはモードが違うから出来ないらしい。つまりスイッチを場面で切り替えているのだ。この辺はかなり解る。私も仕事とプライヴェートはきちっと分ける方だからだ。一方が他方を侵食すると思考が混ざり合ってしまうのだ。 また本書の中での水柿君のある心境の変化が興味深い。助手時代は好きなことをして賃金ももらえるなんて幸せだと思っていたのに、助教授になって研究以外の仕事が増え、特に会議が増えたことで苦痛を覚え、これだけ我慢して嫌な時間を過ごしているのだからお金を貰えて当然だと思うようになったこと。 ただ助手時代は好きなことができたが給料は安かったのに対し、助教授では助手時代の2倍以上の給料をもらうようになったのは嫌なことをしなければならない対価が増えたのだと考えているところだ。 私は労働報酬とは嫌なことを我慢してやったことへの対価であり、生活のためにその我慢をしているのであるという考えの持ち主なのでこの水柿君の後半の考えには全く同意だ。 一方で社会人になって一度も好きなことをさせてもらってその上給料まで貰って幸せだ、なんて思ったことは一度もない。かつて勉強させてもらった上に給料も貰っているんだから幸せだと云っていた上司がいたが、当時はサーヴィス残業当たり前の風潮だったので何云ってんだ、コイツと思ったものだ。 おっと作者の心情ダダ洩れの作品だっただけに私の心情も思わず露出してしまったようだ。 さて上に書いたように本書は大学の助教授だった水柿君が奥様の須磨子さんの何気ない提案から小説を書くようになり、それが出版社に認められ、あれよあれよという間に売れっ子作家になって貧乏から脱け出し、お金持ちになったところで幕が引く。 しかし私はこの件を読んで、売れる作家と売れない作家の境界とは一体何なのだろうかと考えてしまった。 ここではもう敢えて水柿君と呼ばず森氏と呼ぶことにするが、森氏が特に小説家になりたいと願ったわけでもなく、偶々手遊びで小説を書いたらそれが編集者の目に留まって一躍売れるほどになった。しかも森氏は自分が小説を書きたいと思って書いてるわけではなく、依頼が来るから書いていると非常にビジネスライクだ。 一方で小説が好きでいつか自分も小説家になりたいと願い、何度も複数の新人賞に応募して落選を繰り返し、ようやくその苦労が実を結び、晴れて作家になれて、自分の創 作意欲が迸るままに作品を書いて発表しながらもさほど売れない作家もいる。 熱意があってもその作家の作品が売れるとは限らないが、逆にさほど熱意もないのに書いたら売れている作家がいるというのは何とも人生とはアンフェアだなと感じざるを得ない。それは森氏は天才であり、このような書き方は森氏しかできないことなのだ。つまり一般人が、いや少しばかり才能があっても天才には敵わない現実を知らされた思いが本書を読んでするのである。 確かに森氏のデビュー作『すべてがFになる』が店頭に並んだときのインパクトは強かった。しかしそれ以降、一定のファンを獲得し、1つのシリーズに固執せず、次から次へとシリーズを生み出し、そして壮大な仕掛けを仕掛けているのが読めば読むほど分かってくる、この凄さこそが森氏の非凡さなのだろう。 だからこそこんな、およそ小説とは呼べない水柿助教授シリーズでさえも書物として刊行され、そして売れるのだろう。 本書を冷静に読める作家は果たして何人いるのだろうか。私が同業者ならば自分の境遇と照らし合わせて身悶えするはずだ。ある意味本書は作家殺しのシリーズだ。 さて残りはあと1冊。しかし宣言通りに3作書き、それがきちんと刊行されたということはそれなりに売れたということか。売れる作家は何書いても売れる。やはり作家殺しだ、この本は。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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軽めの題名に軽めの登場人物とポップなイラストがふんだんに盛り込まれた作品だが、描かれている物語はなかなか凄惨で重苦しい。
某国立大学を舞台に起きる連続殺人事件。その大学の化学工学科の面々を中心に物語は進む。 スージィこと内野智佳はアルバイトで雇われた秘書だが仕事が早くて有能。彼女は自分が同じ大学の情報工学科助教授の三枝と結婚していることを周囲に隠している。 ホリこと堀江尚志は同学科の助手。しかし彼はいわゆるロボットオタクで自己中な性格。しかもシステム管理者という立場を悪用して学科内のメンバーのメールを盗み見ている。 イエダこと家田恒雄は同学科の教授。教授という立場上、単位を欲しがる女子大生が彼の許を訪れることもあり、それを彼は一応拒まない。 サトルこと遠藤学は同学科の助教授。この中では最もまともな人間で堅実ゆえに最も目立たない。 サエグサこと三枝洋侑は先にも述べたように情報工学科の助教授で、まだ34歳。どうもモテる風貌をしているよう。 最後がルナこと鈴木奈留子。彼女は化学工学科の図書室の司書をしているが、今回一番の被害者である。なんと3度も襲われるのだから。 それに加えて謎のXという人物が学内に暗躍し、次から次へと大学の人たちを襲っていき、とうとう殺人事件にまで発展する。 上に書いたように装丁から登場人物設定などポップな印象だが、各章はほとんど各登場人物を中心に書かれ、そこに書いてある心情が実に暗鬱で内省的。 この頃は『四季』4部作を発表した時期と重なり、同4部作で見られた観念的な記述が本書でも踏襲されている。詩的で抽象的で観念的で、独善的。自分の世界に入り込み、ますます排他的になっている印象を持つ。 内容は一応ミステリでサプライズもある。 インターネットの普及によりいわゆるネット人格が叫ばれてきたことだ。二重人格、三重人格という人たちはかつて精神異常者の中でも最上級の物として恐れられてきたが、インターネットが普及することでほとんどの人が匿名性のあるハンドルネームを持つことになり、それによってネット社会という非日常を手に入れることで内面から湧き出る新たな人格が生まれた。 つまり本書はこの新たなツールによって誰しもがネット人格という別人格を持つことができ、それがサイコパスに発展する危うさを描いていた作品と捉えることも可能だろう。 当時森氏の人気は絶大でまさに引く手数多の状態。そんな状況で流石に筆の早い森氏でもやっつけ仕事の1つや2つはあったことだろう。本書はそんな感じを受ける作品だ。 内容の薄さと恐らく何でもいいから書いてくださいと云う編集者の言葉を真に受けて自分の好きなように文章を綴り、そして自分の好きなイラストレーターに頼んでふんだんにイラストを盛り込んだように思える。 カラー印刷を多用し、それを存分に活かす上質の紙で作られた本書はまさに森氏の趣味が横溢した1作だろう。 恐らく森氏個人は出来栄えに満足しただろうが、私にとって創作者と読者との埋まりようのないギャップを感じた作品となった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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数々のホラー作品、近未来小説、ダークファンタジーを書いてきたキングが今回手を伸ばしたのはSF。なんと地下に埋まっていた空飛ぶ円盤が掘り起こされたことで町が侵略されていく話だ。
しかし題名のトミーノッカーズはそんなSF敵設定とは程遠い内容だ。 キングの前書きによればその名の“トミー”がイギリスの昔の兵士の糧食を指す俗語であることからイギリスの兵卒を指す言葉となっており、トミーノッカーズはそこから食料と救助を求めて壁を叩き続けながら餓死した坑夫の亡霊を指すようだ。その他トンネル掘りの人喰い鬼といった意味もあるようで、いわゆる幽霊とか化け物に類いする怪物を指す言葉であり、空飛ぶ円盤とは全く真逆の物だ。 一方でキングが本書で語るのは宇宙から来た存在が徐々にアメリカの田舎町の住民たちの頭の中に侵入し、意のままに操っていく侵略の恐ろしさだ。 この得体のしれない未知の存在を人々は古来から伝わる亡霊トミーノッカーズと名付けた。 SFと亡霊譚という全く真逆なものを結び付けたことがキングのアイデアだろう。 人が見ていぬ間に悪戯を仕掛けるレプラコーンという妖精の話があるが、この目に見えない妖精のような存在の宇宙人は題名ともなっている上に書いたトミーノッカーズという亡霊に擬えられているが、私は本書で初めて知ったその亡霊よりも子供の頃からファンタジーで親しんでいるレプラコーンの方が実にしっくり来る。 そしてこの宇宙人たちが人間たちに施す悪戯は何とも残酷だ。 3Dのイエスの肖像画が突然動き出し、浮気の夫を懲らしめるために妻にお仕置きの装置を作らせるが、それが感電死に繋がる代物であることに気付いた妻は夫もろとも亡くなってしまう。 IQテストで高得点を獲った、少し変わった少年ヒリー・ブラウンは祖父からプレゼントされたマジックセットでマジックショーを行うが、完璧ではなかったので天啓を得て物体を消失し、元に戻す装置を発明するが、マジックショーの最中、その装置で弟を消してしまうが、その弟は二度と戻ってこなくなる。 これら物語のエピソードの中心人物に共通するのはトミーノッカーズによって閃きを得て何かを得体のしれない機械を作ることだ。 空飛ぶ円盤を掘り出したボビ・アンダーソンは太陽のように輝く光球と空飛ぶ(かもしれない)トラクター、そして頭に浮かんだことを自動的に文章にするタイプライターを作り出す。 郵便配達人の妻ベッカ・ポールソンは夫の浮気を懲らしめるため、テレビを電源を付けると電流が流れるようなお仕置き装置に改造する。 その浮気相手である郵便局員のナンシー・ヴォースは郵便物の自動仕分け機を発明する。それはトミーノッカーズによって意図的に町外から来た配達したくない物を削除する機械だとも知らずに。 ヒリー・ブラウンは物体消失し再度出現させる装置を発明。 ジャスティン・ハードは近くに高周波振動を起こさせる装置を発明。 現実世界に穴を開け、どこかの異世界へ転送するラジオで町を訪れた部外者たちを次々に“転送”する人々。 町をトミーノッカーズの支配から救おうとした治安官ルース・マッコースランドは公会堂時計塔が吹っ飛ぶほどの爆弾を作り、トミーノッカーズたちが憑依した自分のコレクションである人形たちと共に自害する。 そしてボビ・アンダーソンは人間を動力源にする人間電池を発明し、愛犬のピーター、ヒリー・ブラウンの祖父でトミーノッカーズの支配から免れたエヴ・ヒルマンと彼女の実の姉で宿敵でもあるアン・アンダーソンを電池の水溶液に浸して動力を吸い取る。 そして物語の最終はこれらの機械たちと町を救おうとするジム・ガードナーとの戦いが繰り広げられる。 人を襲う芝刈り機、火を発射するテレビ受像機、炎を周囲に放ち、一瞬にして焼け野原にするパラソル、フリスビーのように空中を飛んで殺傷能力のある超音波を発する煙感知器、などなど。 これらはキング初期の短編に登場した“意志ある機械”のオンパレードだ。 またトミーノッカーズが町の人たちに憑依するとそれぞれの思考が読み取れるようになる。つまりテレパシーで会話が出来るようになる。 更にはなぜか次々と歯が抜けていく。彼らはそれを“進化”の過程だと告げる。 人々は抜けた歯を見せるように笑顔を見せる。歯の抜けた人が笑うとき、我々はどこかその人が白痴のように見えてしまう。そしてそれはどこか狂人めいた感じも受ける。 この何気ない設定が街の人々が徐々に侵略され、狂人へと変わっていく様子を如実に描いているように思われる。こういう何気ない設定を持ち込むのがキングは抜群に上手い。 やがてヘイヴンの町の人々はお互いの考えが読み取れるようになり、“進化”を阻もうとする町民たちを排除しようとする。 それはさながらウイルスの蔓延のように急激に広がっていく。いやある意味、カルト宗教の信者のように実に排他的になり、トミーノッカーズを受け入れない者たちを粛正するのも厭わなくなる。 都会よりも田舎の町の方が恐ろしいと云う。それは1人の権力者によって牛耳られ、そこに独自の法が成り立ち、町民たちはそれに従わざるを得なくなる。 その権力者が町民たちを恐怖で縛る場合と、絶大な信頼を得て確固たる支持を得て権力の座を維持する場合の二通りがあるが、厄介なのは後者の方だ。なぜならその場合は町民からの反発がない。つまり反抗勢力が生まれず、その権力者が外部にとって敵であったも町民たちにとっては外部からの圧力を退ける英雄としか映らない。 トミーノッカーズの侵略はまさに後者に当て嵌るだろう。彼らはボビ・アンダーソンという1人のリーダーの許に来たるべき“進化”を成し遂げるために他を排除しようとする。この異変に気付いた者は懐柔されようとするか、異分子として排除されるかいずれかだ。前半の治安官ルース・マッコースランドの抵抗はこの田舎の町の集団意識の恐ろしさをむざむざと知らしめている。 そして物語の後半は外部の人間は立ち入りさえも出来なくなってくる。 ヘイヴンを訪れた人たちは青い顔し、嘔吐し、頭痛を感じ、体調がどんどん悪くなっていく。町民たちが何ともないのとは対照的に。これが宇宙船の掘り出しが進むにつれてどんどんひどくなっていき、終いには人間だけでなく車両から飛行機までも変調を来たし、全く以て侵入が出来なくなる。 本書はキングのキャリアの中でも不調であった頃に書かれた作品としてつとに有名なのだが、それを裏付けるように妙にバランスを欠き、かつ妙に粘着質に長々と語るエピソードが織り込まれている。 例えば主人公ボビ・アンダーソンの元恋人ジム・ガードナーがスポンサーの女性の前で大失態を演じるシーンで語られる原発の恐ろしさを泥酔しながらも滔々と語るシーンは異常なまでに長く、そしてしつこすぎるほど内容がくどい。なんと20ページ以上に亘って語られるのである。悪酔いした酔っ払いの戯言の体を装いながらその内容は政府の陰謀論といった狂人めいた発言になっており、妙な迫真性がある。 本書が発表されたのは1987年。そして世界を震撼させた旧ソ連のチェルノブイリ原発事故が起きたのが前年の1986年4月であるから作者もこの事故にはかなり関心を持ち、そして衝撃をもたらされたに違いない。 とここまで書いて私は本書における宇宙船の登場により、人々が“進化”と呼ぶ変化が訪れる諸々の事象はどこか既視感を覚えた。 即ち歯が突然ポロポロと抜け出すこと、目から出てくる血の涙、耳から血が出る、主人公の1人でヘイヴンの異変に取り込まれず、頭の中を読まれることなく、抵抗できる外から来た人物ジム・ガードナーがしかし嘔吐物の中に血が混じっていること、髪の毛が抜けだすなどの描写から連想されるのはボビ・アンダーソンが掘り出した宇宙船とは即ち放射能漏れを起こす原子力発電所のメタファーである。つまり原子力発電所こそは人間が手を出してはいけないパンドラの箱なのだという作者のメッセージが読み取れる。 上に書いた異常現象はそのまま被爆者の症状に繋がる。そして目に見えないが確実に人々に蔓延っているトミーノッカーズは放射能その物のようだ。 更にヘイヴンの町に訪れる人たちが一様に頭痛を訴え、身体の各所に異変を覚える。さながら原発事故が起きたチェルノブイリのように。 つまりキングの本書におけるテーマとは核の、原発の恐ろしさを訴えているのだ。 そしてキングは物語の終盤で明らさまに臨界、チェルノブイリという原子力に纏わる用語を使っている。やはりこの推察は正しかったのだ。 そしてチェルノブイリの原発事故がどんどん拡大し、刊行当時も収束の目途が立っていない、世界の終わりを暗示させる不安感をそのまま作品に持ってきたかのように、キングはどんどんヘイヴンの町を孤立させ、他所からの来訪者を排除する。 しかしこの上下巻併せて1,240ページにも及ぶ大著である本書は、それまでの大作と異なり、やはりかなり困難を感じた読書になった。 先に書いたようにキングが本書でやりたかったこと、訴えたかったメッセージは判るものの、それがスムーズに物語に結実していなく、また鬱病患者特有の長々とした説教めいた、狂人の主張が折々に挟まれていることでバランスを欠き、物語としてなんともギクシャクとした印象を受けるのだ。 例えば物語の主人公の2人、ボビ・アンダーソンとジム・ガードナー。それぞれ2人の設定はウェスタン小説家と詩人であること、またジム・ガードナーは離婚歴があり、これが酒を飲んだ挙句に口論となった妻の頬を拳銃で撃ち抜いたという凄まじい過去がある。しかしこれらがあまり物語に寄与していない。 ガードナーが唯一トミーノッカーズの侵略を免れた理由は頭に手術によって金属板が埋め込まれていることで思考を周囲から読み取られることができないからだが、この設定も唐突に表れ、違和感を誘う、というのもガードナーは一度はボビ・アンダーソンとテレパシーで会話が出来るようになっているからだ。 このように何とも後付けされたかのような設定が続く。 恐らくは、私も記憶しているがチェルノブイリ原発事故は未曽有の危機だった。原子力という未知のエネルギーが及ぼす影響を、恐ろしさを初めて知った事故だった。 そしてまだ事故の収束が見えなく、被害が拡大し、我々の生活にどのような影響があるのかも見えない刊行当時、作者自身も今まで経験したことのない不安と恐怖を覚えたことだろう。 その動揺が本書には垣間見れる。だからこそ纏まりに書けるのかもしれない。 キングはとにかく書かなければならなかったのだろう。この未知なる恐怖を克服するためにも。 いや作中にガードナーがボビに云うように彼は何かによって書かされたのかもしれない。天から降ってきたアイデアによって。そんな衝動と動揺の産物が本書なのかもしれない。 さて本書の舞台メイン州のヘイヴンはキングに創作による架空の田舎町だが、他の作品で登場した町とのリンクがあり、例えば『IT』の舞台となったデリーはこの田舎町の住人が時折遊びに行く繁華街となって描かれる。また“IT”ことペニーワイズもカメオ出演するというサーヴィスぶりだ。 また昏睡状態から目覚めたら超能力者になっていたジョン・スミスという青年のエピソードが出てくるがこれも『デッド・ゾーン』の内容だ。そして異変が起きているヘイヴンの記事を書く新聞記者デイヴィッド・ブライトはジョン・スミスのことを記事にした男である。 そして物語の終盤に出てくる“店(ショップ)”という政府機関は『ファイアスターター』でチャーリー親子が逃げ出した超能力者たちの研究所である。 つまり過去の作品へのリンクをこれほど導入し、これだけのページを費やした本書はある意味キングが紡ぎ出してきた世界観を継承する大作という位置付けだと思われるのだが、キングにしては珍しく精彩を欠いた内容になった。 しかし本書に書かれている物は後のメディアやキング自身の作品に影響を与えた萌芽が見られる。 例えばボビ・アンダーソンが作り出したおぞましい人間電池の機器は後の映画『マトリックス』で出てくる人間電池そのものを想起させるし―世間では『攻殻機動隊』からのインスパイアと書かれているが、多分に本書も影響していると思われる。なぜならこの映画の主人公ネオの最初の登場時の名前はトーマス・“アンダーソン”だからだ!―、町の外側からの来訪者を徹底して拒むため、一旦入ってくると頭痛と吐き気などを及ぼす“障壁(バリア)”を張るヘイヴンの町は町の人がドームによって外に出ることが出来なくなる後のキングの大著『アンダー・ザ・ドーム』の裏返しだ。 また物語のクライマックスでボビ・アンダーソンの住まいの森から火事が発生するのは小野不由美氏の『屍鬼』のそれを想起させる。 本書はキングのキャリアの中でも絶不調だった時期に書かれた作品と云われているだけに確かに今までの作品に比べると冗長な語り口が目立ち、そしてチェルノブイリ原発事故に影響された記述が過剰な熱を帯びて空回りしているきらいがあり、作品としての纏まりに欠ける部分は否めない。 確かに本書よりも長い作品はあった。 しかしそこに書かれているエピソードはキャラクター達に、物語に深みを与え、実に有機的に機能していたように思える。寧ろそれらエピソードを読むことが楽しかった。 しかし本書はとにかく書きたいことが整理される前にマシンガンの如く書き連ねられているだけで、ストーリーとしても一貫性に欠けるきらいがある。引き算が全くなされてないのだ。 しかしそれでも本書は上に書いたように後の映画や小説に与えた影響―キング自身の作品も含めて―を考えるとそれなりに無視できない作品ではある。 今は2021年。 チェルノブイリ原発事故や東海村の臨界事故、1999年のノストラダムスの大予言、それらを経験しながらも我々は今、世紀末を乗り越え、ここにいる。 しかし1987年に刊行された本書は世界の終わりを感じたキングの絶望と恐怖が如実に表れた作品となった。 あの事故が起きた時、人々はどう思ったのか。 そんな歴史の足跡の、証言として本書を捉えるとまた違って見えるが、しかしキングの名を冠するのであれば、やはり改稿して再刊すべきではとの思いが拭えない、そんな思いを抱いた作品であった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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四季シリーズ最終作。遥かな未来に向けての物語か。
本書はVシリーズとS&Mシリーズへの橋渡しとなった『秋』を経て、そこから未来の世界を描いた百年シリーズへと繋がっていくのが本書。 つまり百年シリーズの主人公サエバ・ミチルがいかにして生まれたか、そして彼(彼女?)が生まれることになった真野強矢による殺人事件の捜査の協力を真賀田四季が依頼されていたことが書かれている。 しかしとはいえ、私が粗筋を書いていないように、本書のストーリーはよく解らない。時代もいつの頃を描いているのかもよく解らない。 物語の構成はそれぞれのエピソードが断片的に語られ、シリーズ1作目の『春』同様、四季と其志雄の対話、四季の思弁的な述懐が続く。 そして真賀田四季の傍にはパトリシアというウォーカロンが既に存在しており、彼女の世話をしている。そのパトリシアも試作品ではなく、人と見分けがつかないアンドロイドとなっている。 また真賀田四季を狙う謎の組織も現れ、彼らの名前はイニシャルで書かれるのみ。 彼女にとって生きることとは病気であり、死こそが安らぎであるからだ。 彼女は云う。 「死を恐れている人はいません。死に至る生を畏れているのよ」と。 そして眠ることは心地よく、起こされることは不愉快、生まれてくる赤ちゃんは不快だから泣くのよ、と。彼女は彼らに安らぎを与えたに過ぎないのだ。 ウィキペディアによれば本書からこの後に書かれるGシリーズ、Xシリーズ、Wシリーズへと繋がっていくとのことだ。 つまり本書は一旦『秋』でそれまでのシリーズとの結び付きを語ったことでリセットされ、これからの物語のための序章というべき作品として位置づけられるようだ。 従って今まで本書までに刊行されてきた森作品を読んだ私でさえ、本書に描かれている内容は曖昧模糊としか理解できていない。 本書が刊行されて15年経った今だからこそ上に書いたシリーズへと繋がっていくことが解るのだが、刊行当初は読者は全く何を書いているのか戸惑いを覚えたことだろう、今の私のように。 真賀田四季が望んだ犀川創平との再会。 100歳を超える天才科学者久慈昌山。 これらが今後のシリーズのファクターとなり、徐々にまたその詳細が明らかになってくるのだろう。 冬は眠りの季節。 ほとんどの動物が冬眠に入り、春の訪れを待つ。本書もまた新たなシリーズの幕開けを待つ前の休憩といったことか。英題「Black Winter」は眠るための消灯を意味しているように私は思えた。 そして真賀田四季。『四季 春』で生を受けたこの天才はしかし以前のような無機質な天才ではなくなっている。いっぱいやらなくてはならないことがあるために人への関与・興味をほとんど持たなかった天才少女は娘を生み、外の世界に飛び出して自分で生活をしたことで感受性、母性が備わり、慈愛に満ちた表情を見せるようになっている。 頭の中の演算処理が上手く行っている時にしか笑わなかった彼女が人の死に可哀想と思い、花を見て綺麗と感じ、空を見て色が美しいと思うようになっている。 そして真賀田四季研究所で娘が死んだ時に腕を切断した際のことを語る四季は突然涙を流す。彼女にとって死んだ人はもはや物でしかないはずなのに、やはり心の奥底では娘の死を悼んでいたのだ。 犀川は四季に問う。「人間がお好きですか」と。 そして四季は「ええ……」と答える。綺麗な矛盾を備えているからと。 論理的であることを常に好む彼女が行き着いたのは愛すべき矛盾の存在。それこそが人だったのだ。 真賀田四季はまだその生命を、いや存在を残してまだまだ色々とやることがあるようだ。 但しその彼女は今までの彼女ではなく、人への興味を持ち、そして自らにその人格を取り込んで生きている。もはや時間を、空間をも超越し、終わりなき思弁を重ねる1人の類稀なる天才が神へとなるプロセスを描いたのがこのシリーズなのだ。 そしてそれはまだ途上に過ぎない。 但し解るのはそこまでだ。それは仕様がない。なぜなら私のような凡人には天才の考えることは解らないのだから。 今後のシリーズで本書で生れた数々の疑問が解かれていくのだろう。その時またこの作品に戻り、意味を理解する。 ある意味本書が全ての森作品が行き着く先なのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2005年に亡くなった覆面作家トレヴェニアン。これは彼の遺作となる、2005年に発表された小説。
ニューヨーク州オールバニーの、貧民層が暮すパールストリート238番地を舞台とした、主人公の少年ジャン=リュック・ラポアントの一人称で語られる、彼の少年時代の回想記。 しかしその内容からジャン=トレヴェニアン本人と推察される。つまりこれは彼自身の回想記とも云える自伝的小説だ。 私がまず驚いたのは主人公の少年のラストネームがラポアントだということだ。そう、私がトレヴェニアンの中でも傑作と思っている『夢果つる街』の主人公の警官クロード・ラポアントと同じ苗字なのである(厳密に云えば『夢果つる街』の主人公は「ラポワント」だが、原書の綴りは一緒であろう)。 珍しい名前なので私はてっきり『夢果つる街』が関係しているかと思ったが、単に苗字が同じだけのようだ。寧ろ最後にこの苗字を作者が自伝的小説の主人公のラストネームとして選んだのは、やはり『夢果つる街』が作者にとっても特別な作品だったのかもしれない。 恐らく作者自身が死期を悟り、最期に残す作品として自身の生い立ちを綴りたかったのではないかと思われる。 ただ、その内容は思いつくままに語られ、小説としてのいわゆるストーリーがなく、ジャンが人生で出くわした出来事や人々たちの思い出をその時に思い出したかのように語っている形式となっている。従って本書の内容について概要をまとめると非常に取り留めのないものになり、いや正直に云えば、概要をまとめることができないほど、その内容は縦横無尽だ。 まず題名となっているパールストリートのクレイジー女たちとは主人公ジャンの母親ルビー・ルシルも含めたとりわけ個性的な女性たちのことだ。 パールストリートというスラム街に住みながら、まるで掃きだめの中の鶴のように、他の母親たちとは一線を画す美しさと活発さ、そしてフランス人とインディアンの混血という特殊な血筋の荒々しさで街でも目を惹いた母親ルビー・ルシル。しかしその荒々しく、頑なな性格は周囲の人々との軋轢を繰り返し生み、ジャンと妹のアン=マリーはそれに苦労させられる。 近所に住むミーハン家のミセス・ミーハンはミーハン一族の中で唯一血の繋がりのない女性で知的障害者の施設から連れられて、そのまま一族たちの家事をすることになった女性。彼女は時々物から手が離せなくなるという奇妙な問題が発生する。 戦地に行った夫を待つミセス・マクギヴニィ。彼女は街の雑貨屋ケーンの店に行く以外、ほとんど外出せず窓から街を眺めて一日を過ごす。その彼女とジャンはひと時交流を持つ。クッキーとココアを用意してジャンと取り留めのない話をするのが彼女の人生に少しばかりの彩りを与えることになるが、幼いジャンはそれが次第に憂鬱に感じ、ある日彼女の呼びかけを完全無視してしまう。それが彼女との交流の幕切れだった。 そんな“普通じゃない”パールストリートでジャンを中心に物語は進む。 チビなジャンがスラムに生き抜くために知恵を絞り、一目置かれるようになったこと、女性への目覚めやラポアント家の生い立ちのこと―インディアンとの混血であることから差別意識が激しかった当時、彼の祖母がそんな祖父と結婚したことで街の人々から避けられていたことやそれを解決するために祖父が行った殴り込みのエピソードは心に残る―、アパートの最上階に住み着いた流れ者のベンと母との馴れ初め―性格はいいのに、酒を飲むと暴力的になることで数々の失敗をやらかすベンは物語後半の主要人物だ―、やがて訪れる第2次大戦とベンの出兵、そして彼の帰還と母との結婚を機に生まれ育ったパールストリートを離れ、新天地カリフォルニアでの新生活の幕開け、そして挫折と新たな旅立ち。 そんな中、ところどころに挿入される、少年ジャンの視点でのノスタルジックな描写はどことなく心をくすぐる。 女の子のする縄跳びには暗黙の性的タブーによって男の子たちは加われないとか、ラジオは部屋を暗くしてダイヤルだけが琥珀色に光る中で聴くのが最高だとか、プチ家出を繰り返している最中に気付く、自分が将来漂流者になるであろうという悟り、一人空想ごっこに耽る日々、そしてある日目覚める幼年期からの目覚め、等々。 とにかく自分の生きている間に少しでも多くのことを語り、そして記録しようとしているのか、改行が非常に少なく、見開き2ぺージに亘って文字がぎっしりと埋め尽くされている。1ページを1分以上掛けて読む小説に出逢ったのは久々だ。 読むのにかなり手こずったことを正直に告白しよう。そして読んでいる最中はあまりに書き込まれたディテールとあちこちに飛ぶジャン=リュックの話に気疲れがしたことも。 しかし読み終わった後に振り返ると、トレヴェニアンの生い立ちと重ねることで興味深いエッセンスが散りばめられていることに気付かされる。 まず先に挙げた『夢果つる街』の舞台となる街「ザ・メイン」。これは主人公ラポワントの名前も含めてパールストリートがモデルになっているのは想像に難くない。、これは読んでいる間、ずっと思っていた。 また物語の途中で起きる第2次大戦。 最初はドイツの猛攻が語られていたが、この時はまだアメリカは参戦しておらず、対岸の火事のようだったが、日本軍が真珠湾攻撃をしたことでアメリカは参戦するため、従って本書の中で日本人は当時使われていた差別用語であるジャップ呼ばわりされ、またジャン=リュックもまた日本人を敵とみなし、軽蔑している。更にカリフォルニアへの移動の車中で新聞でヒロシマとナガサキに原爆が落とされ、多数の犠牲者が出たことを知り、居合わせた帰還兵と共に驚喜する。 そんな彼が後に日本人の禅の精神とわび・さびをテーマにした『シブミ』を著す。彼にとってこの第2次大戦における日本人への感情は決していいものではなかっただけにこの日本人独特の精神性を敬い、そして深い造詣を示すこの作品を書くようになった心境の変化はいかがなものだったのだろうか。それが語られていないだけに実に興味深い。 それらを含めてなぜこのような取り留めのない自伝的小説をトレヴェニアンは書こうとしたのか。正直云って私にとってこの内容はそれまでの彼の作品に比べても出来が良いとは云えず、散文的で纏まりを感じない。この纏まりの無さは上に書いたように、どうにか生きている間により多くの、自分の人生を語り尽くしたいという思いからだろうが、この分量は異様だ。 私はトレヴェニアンが―ほとんどその正体は知られていたとはいえ―覆面作家だったことが主要因ではないかと考える。このラストネームだけのペンネームでスパイ・冒険小説、幻想小説、詩情溢れるハードボイルド系警察小説、ウェスタン小説など、その都度思いもかけないジャンルを選択し、物語を紡いでいた彼が最後に残そうとしたのは自分の人生の証、痕跡だったことは想像に難くない。母のこと、父のこと、母の再婚相手のこと、妹のこと、そして彼の家族を取り巻く人々のことも含めて。 作品は知られているが、その実態を知られていない彼が、最期にトレヴェニアン自身を作品にしたのだ。 トレヴェニアン。本名ロドニー・ウィリアム・ウィテカー。覆面作家の厚いヴェールの下にはこんな人生が隠されていた。 正直万人に勧められるほど、物語として面白いわけでは無いが、彼の作品に親しんだ一読者としてけじめをつけるために読むべき作品だったと読み終わった今、そう思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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とある国立大学の工学部建築学科の、建築材料を専門としている、どっかで聞いたことのあるような水柿助教授が出くわす、日常の謎系のミステリ短編集。
「ブルマもハンバーガも居酒屋の梅干しで消えた鞄と博士たち」は水柿助教授が奥さんの須磨子さんとの会話、そして学会出席のために訪れた金沢で起きたある出来事について語るミステリである。 例えばまずブルマの謎は家の地区にある中学・高校一貫教育の私学、S女学園がこのたびブルマを廃止して短パンにしたことについて奥さんとの間に齟齬が生まれる話であり、ハンバーガの話は2つ買ったはずのハンバーガが家に帰るといつの間にか無くなっていたという謎、出張先の金沢で学生たちと入った居酒屋では呼んでもいないのに注文を取りに来る店員と逆に呼出ボタンを押したのになかなか店員が来ない奇妙な状況について語られ、梅干しは水柿助教授の上司、高山教授が昔ホテルで起こしたロビーに梅干しを散乱させた顛末が語られる。そして最後の消えた鞄は高山教授の鞄がホテルの部屋から忽然と姿を消した謎のことだ。 そのどれもがミステリの謎としては実に弱く、例えばブルマとハンバーガの件はミステリにもなっていないネタだ。 とまあ、実に散文的な話で、誰かの一人語りのような地の文からしてまだ当初は連作ミステリとして書かれることを想定していなかったようにも取れる内容だ。とりあえず書いてみて、また機会とネタがあれば続きを書いてみるか、そんな具合の、イントロダクション的作品。 第2話「ミステリィ・サークルもコンクリート試験体も海の藻屑と消えた笑えない津市の史的指摘」は水柿君がまだ三重県にあるM大学の助手だった頃の話で物語の舞台は題名にも謳われている津市である。 本作でも色んな謎となり得るエピソードが書き連ねてあるが、メインの謎は水柿君が修論のテーマにしていた鋼繊維補強コンクリートの試験体を使っての海水暴露実験がなぜ成功しなかったかというものだ。 海の近くに旧水門跡に置かれた試験体は嵐の日にそのまま海に流されてしまったが、大学の研究等の屋上にも置かれた100個もの試験体が無意味になるという事件が起こる。 その他学校の実験室の前にある空き地に突如現れたミステリィ・サークルの謎、はたまた好立地の水柿君の借家の家賃がなぜ破格に安かったのか、そんな大小、いや小さな謎が散りばめられている。 因みに本作のテーマは物理トリック、化学トリックとのこと。訊いてみれば他愛のないことだが、上の謎を提示された時に、この他愛のない真相に気付いた人はどれだけいるだろうかと森氏は投げかけている。 そうそう、酒豪の高山先生がいきなり生徒の目の前で自転車に乗ったまま消え失せたトリックはすぐに解りました。同じような風景を私も見たことがあるので。 はてさて困ったことにここに書かれているのは微罪や重罪にもなる犯罪の証拠だ。 しかし最後に森氏は書いている。あくまでも、これは小説なのだと。ウソつけ! とここまではどうにかミステリ風味が施されていたが、次の「試験にまつわる封印その他もろもろを今さら蒸し返す行為の意義に関する事例報告及び考察(『これでも小説か』の疑問を抱えつつ)」にはそのミステリ風味すらなく、水柿君が試験担当になったそれらにまつわるエピソードが語られる。 試験と云っても色々ある。通常の中間・期末試験、センター試験、そして二次試験。大学側の人間である水柿君が体験したそれらの試験で割り触られる諸々の役割、担当についてのお話だ。 試験の監督官になった時は大勢の受験者が思っている以上にカンニングしている様子が手に取って解ること、大学入試の監督官は事前に予行演習があり、ありとあらゆることを想定してケーススタディが行われていること。しかしそれでも想定外の事態が起こること。 試験監督者には2種類あり、教室で問題用紙の配布と監視を行う役ともう1つは控室で待機し、いざというときに出向く役があること。 採点委員というのがあり、試験問題の解答を作ることが要請されたり、また受験者たちの回答用紙を採点するが、筆記問題では回答の妥当性について話し合ったりして配点を決めたりすること。 そして問題作成委員があり、試験問題を作る役割があること。これは6月から始まり、決して秘密厳守でいなければならないこと、等々、我々一般人の多くが体験する大学受験、定期試験にまつわる、学校側のエピソードのそれらは、誰もが受ける側として経験しているのに試験を出す側のことは解らないものだなぁと案外面白い。 特に奇妙な受験者の話はどこまでが本当なのかと目を疑うものもあった(試験中に暑いといって服を脱ぎ出し、下着になって受けようとするのを止められて別室で受けたのは作戦だろうか。また着ぐるみを着ないと受験できない受験者はカンニングを隠すためなのでは?などと考えるのも面白い。私が()の中でこのように語るのは本作が故意にこのように演出している影響なのかもしれない)。 他には案外カンニングが成されていることに驚く。大学の先生というのはいい加減で、試験中に自分の論文を書いたりする先生や助手もいるようだが、自分の大学にもそんな人はいたかしらと思い出してみれば、確かにひたすら読書をしている教授がいたような記憶がある。堂々とノートと教科書を持ち込んでいい試験もあったりするらしいが自分の時はなかったと思う。 あとは現国の長文読解の問題の長文に妙に読み耽ってしまう、なんてあるあるネタは思わず同意してしまう。私は志賀直哉の「出来事」がいまだに印象に残っている。 だがしかし、全然ミステリがない。ほとんどエッセイである。「これでも小説か」と思わず自分で書くほどに何やら奇妙な話である。 更にミステリ風味は薄まっていく。次の「若い水柿君の悩みとかよりも客観的なノスタルジィあるいは今さら理解するビニル袋の望遠だよ」では若かりし頃の水柿君と妻須磨子との新婚時の話が出てくる。 今の妻須磨子さんが7番目に付き合った女性であること、それまでに付き合った女性のエピソードも語られる。その中の1人は大手貴金属商の娘で大金持ち。それがS&Mシリーズの西之園萌絵のモデルらしい。 更に合コンのエピソードにそれにまつわる大学の研究室のおかしな面々の話、そして須磨子との新婚の話が語られる。これらはもはや水柿君=森氏の懐かし話である。ミステリとしては先輩の鞄が合コンの夜、大学付近の歩道の真ん中になぜか置かれていたという謎が提示されるが、これが実話らしく、結局その原因は解らない。 最後の「世界食べ歩きとか世界不思議発見とかボルトと机と上履きでゴー(タイトル短くしてくれって言われちゃった)」では森氏、もとい水柿君の出張にまつわるエピソードに触れられている。 海外でも模型屋によることは欠かせなかったり、自分のお土産はすぐ開封するのに、妻への土産は1週間も放置したままだったり(こんなことあり得る?)、はたまた学校にまつわる全国の不思議事が紹介されたりしているが、もはや雑談と化している。 これら5話を通じて思うのは本書は森氏による、ちょっとしたミステリ風味を加えた自伝的小説なのか(これは反語表現である)。某国立大学工学部建築学科の水柿助教授はそのまま森氏に当て嵌まりそうな人物像である。 何しろ専門が建築材料であり、模型工作を趣味とし、読書とイラストを趣味にしている奥さん須磨子さんがおり、更に後々ミステリ作家になってデビューすることまでが1話目から語られるのだ。 これほど作者自身と類似した設定の人物は他にないのではないか。そして話が進むごとにミステリ風味も薄まり、どんどん水柿君と森氏が同化していく。 つまり本書は自分の教授生活の周囲で起きる出来事や見聞きしたエピソードの類を盛り込み、時々それらのエピソードに日常の謎系ミステリの味付けを加えた小説なのだ。 しかしその内容は、思いつくまま気の向くまま、取り留めのない日々雑感と云った趣で、建築学科の助教授水柿君の日常に起こっていることにミステリの種は結構あるんじゃないの?と書き連ねている体の話である。 しかしその傾向は正直第2話までで、第3話からはどんどん内容が水柿君の内側に、過去のエピソードに潜っていく。それらはミステリでは無くなり、本当に水柿助教授の日常話になってくるのだ。それは作者も確信的で最終話ではミステリィと見せかけてどんどんミステリィ風味を薄めていく、そういう「どんでん返し」を仕掛けていると述べている。 そして作中作者は事あるごとに「これは小説だ」、「これはフィクションだ」と述べているが、嘘つきが「嘘はついていない」というのと同様の信憑性しかない(と作者自身も書いていたような)。 つまり本当のことを語りつつ、それらの中には未だ事項になっていない軽犯罪、微罪、そして重犯罪になり得る危うさを孕んでいるからこそ、そのように作り話だと主張しているようにも取れる。その割に固有名詞が多く、イニシャルもほとんど本当の場所が特定できるほど安易な物であるのだが。そのあまりの自由闊達ぶりに正直苦情など来ていないのだろうかと思ったり。特に津市に関する記述はここまでこき下ろして大丈夫なのだろうかと無用の心配すらしてしまう。 やはりこれは水柿君の日常としながら、これらは全て同じN大学の建築学科の教授である作者自身が助手、助教授時代に経験した大学生活の思い出話、エピソード集なのだろう。従って水柿君の日常は「すべてが森になる」のだ。 ファンならば水柿君を通して森氏の過去が垣間見れるエピソードを愉しめるだろう。 しかしそうでない者にとっては文体、構成含め、単なる作家の悪乗りにしか取れない。この時期はS&Mシリーズで確固たるファン層を築き、そして続くVシリーズも好調で、おまけにブログも閲覧者数が凄かったから、何を書いても許されるだろう、何を書いても売れるだろうと思っていたのではないか。しかし書く方も書く方だが、それを許し、出版した幻冬舎の商業主義丸出し感にも腹が立つ。 既に本書において三部作構想も書かれており、恐らくは冗談だったのだろうが、それは形になっている。つまりこの後2つも続編が書かれたということはこの作風が世間に受け入れられたことだろう。商業ベースで成り立ったということである。 そう考えると作品の質よりも信奉者を作れば、その作者の全てを知りたいと思う読者が日本にはいることを示している。斯く云う私も注目作家の作品は全て買う、読む気質で、無論続編の2作も購入済みなので何も云えない立場なのだが。 小説ともエッセイとも判断しかねる奇妙な本書。従って読み方についてはかなり戸惑ったが、このテイストであることが解った今、次作からはそれなりに愉しめるかもしれない。 あくまでそれなりに。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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折原一氏のデビュー作『七つの棺』(デビュー時は『五つの棺』)のシリーズキャラ黒星警部の『鬼面村の殺人』に続く長編第2弾が本書。但し次作の『丹波家殺人事件』を先に読んでいるので私にとっては長編3作目に当たる。
本格ミステリ好きが高じて密室好きになり、どんな事件も密室に結びつけてしまう変わり者の警部が主人公とあってやはり今回も密室殺人事件がテーマになっている。しかも横須賀の沖に浮かぶ猿島に唯一ある西洋風住居、猿島館で起きた密室殺人事件だ。 まず第1の密室殺人は館の主人猿谷藤吉郎が自身の書斎で額を割られて絶命する事件。部屋は内側から鍵が掛かっており、唯一部屋から行き来できるのは部屋にある暖炉の煙突のみで、それも小柄な人間しかできない。そして死に際に主人は「猿が殺した」と云い遺して絶命する。 第2の殺人は密室では無いが、第3の殺人は密室状態の同じ書斎で2人の男、藤吉郎の息子誠一と不動産屋の水野がショック死する事件。藤吉郎の遺言状を探すため、書斎に鍵を掛けて籠っていた2人。目立った外傷もない死体だったが、暖炉にはとぐろを巻いたマムシが2匹いた。どうやら2人はマムシに咬まれて絶命したようだった。 これらの内容から連想するのはある有名なミステリ作品だ。これについては後ほど述べることにしよう。 この黒星警部シリーズはカッパノベルスから刊行されたシリーズであり、当時のカッパノベルスが駅のキオスクにも置かれ、出張もしくは長時間通勤のサラリーマンや普段ミステリを読まない大人の旅行のお供という色合いが濃いことから、折原氏も自覚的に書いているように感じる。 ただ他の本格ミステリ作家に比べて年輩の折原氏は自身サラリーマン生活を送っているだけに、それらの読み物に多生のお色気があった方がいいと思っている節があり、本書でも遠慮なくヒロインの葉山虹子のヌードが何度となくお披露目される。さらに本書では虹子がお世話になる猿島館の主人猿谷藤吉郎が美女好きの好色家として描かれており、自身の書いたポルノ小説が登場したり、また酔っ払った虹子があわや藤吉郎に襲われそうになったりと、色物の要素が以前にも増して導入されている。前作比1.5倍程度にはあるのではないだろうか。 まあ、『鬼面村の殺人』を読んだ時は学生であったが既に私も40代になっているので読者のターゲットに入っているので、1作目を読んだ時よりは寛容に受け止めることが出来たのだが、果たしてこのサーヴィスは必要かなとこの歳になっても違和感は多少覚えたことを正直に云っておこう。 また折原一氏と云えば叙述トリックの雄として知られているが、翻ってこの黒星警部シリーズは密室物ミステリを扱う、本格ミステリど真ん中の設定である。上に書いたように本書もまた密室ミステリであるが、以前より作者は新しい密室ミステリは生まれず、これからは過去のトリックをアレンジした物でしかないと公言しており、密室物を売りにしたこのシリーズではいわゆる過去の名作ミステリの本歌取りが大きな特徴となっている。 先にちらっと触れたが、本書ではまずポオの「モルグ街の殺人」がメインモチーフになっているが、その後もドイルの「まだらの紐」をモチーフにした密室殺人が起きるなど、複合的に過去のミステリのトリックがアレンジされて導入されている。 しかしさすがに3作目ともなると作者もこの設定自体にミスディレクションを仕掛けており、上に掲げたミステリをモチーフにしながら、実はもう1つクイーンの名作の本歌取りでもあったことが最終章で明かされる。1作目はクイーンの中編「神の灯」であったことを考えるとやはりこの作者は根っからのクイーン好きらしい。 しかしこの過去の名作ミステリから本歌取りすることを明言し、そこから新たなミステリを生み出すことに対しては異論はないのだが、黒星警部シリーズの一番困ったところは本歌取りした原典のトリックや犯人を明らさまにばらしていることだ。 本書でもいきなり「モルグ街の殺人」の犯人を明かし、更に「まだらの紐」のトリックも躊躇いもなく明かしているし、更には上に書いたクイーンの原典についても伏字ではあるが、伏字の意味がないほど明確に書かれている。また前作『鬼面村の殺人』でも「神の灯」のトリックを図解で説明している。 これらは恐らくあまりにも有名過ぎて本書の読むミステリ読者ならば既知の物だろうと作者自身が判断した上の記述だろうが、やはりどんな判断に基づこうがミステリのネタバレは厳禁である。特に他のミステリのネタバレを公然とすることに大いに抵抗を感じるのだ。 現代のミステリ読者は島田荘司氏の作品や新本格と呼ばれる綾辻氏の作品以降のミステリから触れることが多く、過去の名作、特に黄金期の海外ミステリを読まない傾向にあると云われて久しい。そんな背景も考慮して折原氏は今の読者が読まないであろう過去のミステリのネタバレをしているのかもしれないが、それでもやはりそれはミステリを書く者が読者に対して決して犯してはいけない不文律であると私は強く思うのである。 特にこの黒星警部シリーズは上に書いたようにカッパノベルスから刊行されたサラリーマンがキオスクで気軽に出張中に読むような類いのものであるから、そんな一般読者にさえネタバレをしているのである。 本歌取りをすることに是非はない。しかしその内容に問題がある。ネタバレをするのであれば、まずはその断りを書くべきだし、いやもしくはネタ元を明かす必要もないのではないかと思う。解る人には解ればいいのであって、別に明確にネタ元を示す必要もないと思う。 恐らく作者は無類の密室好きという黒星警部のキャラを際立たせるために、すぐに事件が起これば彼が耽溺している過去の密室ミステリに擬えることを強調するがために明らさまにネタ元を書いているのだと思うが―あとは作者自身がそうしたがっているか―、それも例えば“密室ミステリ好きな黒星警部は事件の状況からある有名な密室ミステリを思い起こしたが”とか作者の名前まで出して作品まで言及しないとか、そういった配慮をすべきであると私は考える。 そしてそんな私の不満を見越していたかのように本書の真相はこれらミステリ好きの志向が作用したものとなっている。 ただ原典ほど鮮やかであるかどうかはまた別の話なのだが。従って副題のモンキー・パズルもパズルと云うほどロジックを愉しめたかというと微妙なところだ。 ミステリのネタバレを事件の真相に組み込んでいることからも折原氏自身もネタバレに対して激しい抵抗感と嫌悪を示すミステリファンの心理が解っているはずである。であるにも関わらず、このシリーズで思い切りネタバレをするところに作者の創作姿勢に疑問を強く覚えてしまう。 あと最後にそもそも埼玉県白岡署の黒星警部が神奈川県の江の島動物園から逃げたチンパンジーを探す担当になることが実におかしい。 神奈川県警の所轄なのになぜ埼玉県の警部が担当するのか? 書中では白岡には東武動物公園があるからと理由になっていない理由で駆り出されているが。この辺の非現実的な設定も気になった。現在のミステリならば必ず突っ込まれるところだろう。 さて本書の舞台となった猿島は実は実際に存在し、刊行時は無人島で大蔵省(刊行当時)関東財務局の管理地であり、立入禁止で渡し船もないと書かれているが、実は今では猿島公園として開放されている。最近は昔の軍の要所の史跡としてよりもジブリ作品の『天空の城ラピュタ』を彷彿とさせる風景として人気のスポットとなっており、案外今回の葉山虹子の取材は時代を先駆けた現実味のある話だったようだ。 また本書に書かれている猿島の由来となった日蓮に纏わる伝説も実際に伝えられており、元宮司の一族だった猿谷家のような血筋もどこかにいるかもしれないと、案外荒唐無稽な話でないところが面白い。 本当に久々の黒星警部シリーズだったが、本格ミステリ風味はさほど感じられないものの、この密室好きの巨躯の警部とお色気担当の葉山虹子のコンビはちょっと時代遅れの感があるにせよ、改めて読むと独特の味わいがある。本書では2人がお互いに悪く思っていないような節も見受けられ、今後2人がくっつくのかというミーハー的な面白さも孕んでいるようだ。 とはいえ、本書が刊行されたのが1990年ともう30年も前であることが驚きで、自分の積読本の多さを再認識し、我ながら呆れてしまった。 しばらくはこんなペースなのだろうが、シリーズ読破は生きているうちに果たしていきたいと思わされた作品だった。 但し次回からはネタバレ無しでお願いしたいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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どうにも煮え切らない小説である。いわゆるダメ男小説、人生の落伍者のお話である。
主人公ドーズは高速道路の延伸工事のため、自分の自宅と自身の勤めるクリーニング工場の立ち退きを迫られるが、頑なにそれを拒む。移転のための費用も出るし、また工場もいい条件を提示する不動産会社もあるのに、ドーズはそれに一切関与しようとしない。 彼は高速道路の延伸自体を認めたくないのだ。そして移転することは政府の勝手な申し出に屈することになる、そうドーズは考えている。 しかし彼の行動は正直褒められたものではない。妻には移転先の物件を探しているふりをして、いつも嘘を云って誤魔化し、会社の上司にも不動産会社が紹介する物件に多数の不備があり、購入後は多額の修繕費が掛かると、調べてもいないのに嘘八百を並べ、終いには期限が過ぎればもっと価格を下げて提示してくるとまで云いのける。 更に勝手に保険を解約して3,000ドルの保険金を受け取り、妻に内緒で銃を買い込み、爆薬まで闇ルートで手に入れようとする。そして会社を辞めるのも唐突で妻に何の相談もしない。 確たる根拠もないのに全てが自分の思い通りに事が運ぶと信じる。いや現実から目を背け続けている弱い男なのだ。 しかし長らく勤めていたクリーニング工場の責任者という地位と職業も失い、更には妻にも逃げられながらも、一体何がこのバート・ドーズをそうさせるのか? 土地に固執する人々の大きな特徴として帰属意識の強さが挙げられる。先祖代々の土地を人様に渡すことを極端に嫌う、昔からその土地で生きている人たちにその特徴は顕著だ。 ドーズは先祖代々住み着いた土地ではないが、彼にとってウェストフィールドは思い出の地なのだ。時折挟まれる妻メアリーとの思い出が非常に眩しいのもそのためだ。 まだ食うのもやっとな若い2人が内職してテレビを購入するエピソード、一人目の子の死産を乗り越えて、ようやくできた2人目の息子チャーリーとの思い出とその死。 そんな困難もありながら、ささやかだけど幸せな時間を妻と共に過ごしてきた思い出の家を法律を盾に奪おうとする行為が許せなかったのだろう。ドーズは思い出に生きる男なのだ。 そして恐らくドーズは一方で安定を壊したかったのではないか。 自宅のみならず自分の勤める工場の移転も強いられ、意のそぐわぬことをしてまでの安定に何の意味があるのかと常に自問自答していたのではないか。常人であれば普通に選択すべきことを敢えてしなかったのはそんな鬱屈した日常を破壊したかったのではないだろうか。 つまり伸びてくる高速道路は彼の鬱屈した心の象徴でそれを壊すこと、もしくは誰もが従った土地買収に抗うことが彼にとって一皮剝けた新たな自分を生み出すことだと信じていたのではないだろうか? だから工場閉鎖を機に他の仕事を宛がわれた元同僚の安定した職について変なアドバイスをする。 映画館の館長となった元同僚が自分で上映したい作品を選ぶことすらせず、ただ食料品の注文と管理のみで映画館を経営していると述べ、優越感に浸るさまを見て、一生飼い殺しになるくらいなら今のうちに辞めた方がいいと助言し、殴られる。 このことからも解るように彼バート・ドーズは単に上司の云う通りに仕事をするのを嫌い、自分の考えと意見を主張して、自分の色を出したがる男である。それは正しいが逆に彼の場合は自分の考えに固執しすぎてそれに同調できない人を癇癪のあまり、こき下ろして罵倒する感情のバランスが崩れやすい人物でもあるのだ。 彼にとって高速道路の延伸工事に屈することはもう「どうにもたまらなかった」ことなのだ。 彼バートン・ジョージ・ドーズにはもはや世界など意味がなかった。 独りよがりな理屈と自分勝手な行動と自分のことを棚に上げて人を怒鳴り、または訳の分からない説教をしようとする男バート・ジョージ・ドーズ。どうやっても共感を得られる人物像ではない。狂える、そして女々しい男だ。 キングは本書を「もっとも愛着のある作品」と称しているらしいが、私にはやはり単なる狂人が迷い彷徨い、そして崩壊するだけの話としか読めなかった。 本書の時代はベトナム戦争が終わった後の1973年だ。アメリカという国中にどこか鬱屈した空気が流れていた時代だろう。だからこそ戦争に負けた政府に従わない男をキングは書こうとしたのかもしれない。 本書を著すことがベトナム戦争に負けたアメリカに対するキングのささやかな「最後の抵抗」だったのではないだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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日本の古事記には隠された謎があった!
本書ではその謎を解き明かすという趣向のミステリなのだが、物語の舞台はその古事記を編纂する稗田阿礼と太安万侶がいる飛鳥~奈良時代である。 神の誕生から日本を作ったとされる伊邪那岐と伊邪那美の登場。そして伊邪那美が黄泉国に行ってからのエピソード。更にスサノヲ、アマテラス、ツクヨミの誕生にヤマタノヲロチ討伐、等々我々が古事記で知った内容が描かれる。 さほど古事記、日本書紀に詳しくない私でも昔話等で語られる天照大御神が天岩戸に閉じこもる話、ヤマタノヲロチ討伐の話、因幡の白兎の話についてはある程度知識があったが、本書ではそれらが微妙に異なっている。 しかし物語はどんどん進む。 どんどん神々は誕生し、どんどん時代が過ぎ去っていく。 稗田阿礼が全てを語り終えた時、そこからが古事記の真相が判るのだ。 しかしこれらもまた最後の一行で全てが冗談であったことが明かされる。 しかし私は本書はまた別の目的で書かれたのではないだろうかと推察する。 稗田阿礼によって語られる神々の営みはほとんど全てが男女との交合(まぐわ)いによって構成されているからだ。 とにかく神の世界はセックスに満ちていると云うのが率直な感想である。 不完全な神として神の世界である高天原から追放された伊邪那岐と伊邪那美。余計な物を持つ伊邪那岐と足らない箇所がある伊邪那美がお互いに不足する物を接合することで神を生み、世界中に神で満たそうとする。 日がな一日、来る日も来る日もセックスに明け暮れ、子を産んではまたセックスと、交合ってばかりだ。 次第に神も余計な物を敢えてつけて伊邪那岐が寝ている最中に伊邪那美と交合う。更に伊邪那美は自分の生んだ神々とも交合い、更に子を産む。 またスサノヲは亡き母を偲び、その面影を実の姉アマテラスに見出し、立ち向かう千人もの兵士を切り捨て、更に制止する兄を殺してまで姉と交合う。何か事が起きる根源が全てセックスと子作りによって片付けられている。 まだ秩序などない神々が住まう世界。従って彼らは本能の赴くままに生きている。美しい女がいれば素直に交合いたくなる。それが人の妻であっても交合いたいのだからしょうがない。 実の兄弟であっても好きになった女を取られれば嫉妬に駆られて殺したくなる。なぜなら憎くて仕方がないからだ。 現代の我々は人間らしい生活を送るために長年培われてきた知識と秩序について小さい頃から教育されているがゆえにこのような本能的な感情を抑えて理性的に振る舞うことが成されているが、神々の世界ではまだこのような概念すらないため、実に自由奔放に欲し、そして生きているのだ。 しかし姦通罪、近親相姦、同性愛、etc、奔放な性活動のオンパレードだ。 私は神の物語と称して一種のポルノ小説を書くことが鯨氏の本当の狙いだったのではないかというのが感想である。 ミステリ要素もある。 本書は入れ子細工とした歴史ミステリではあるが、作中話として語られる神々の話の中に密室殺人が登場する。それは姉のアマテラスと交合うために天の岩屋戸に立て籠もったスサノヲが岩屋戸を開けると髪を切られ、背中に短剣を突き立てられたアマテラスの死体を残して忽然と消え失せるというものだ。 しかし金田一耕助を思わせる思金神によってその密室殺人の謎は早々に解明される。 ここにおける本格ミステリ要素は単に添え物に過ぎないことがこれで解るだろう。 やはり本書は歴史ミステリの意匠を借りたポルノ小説であることが鯨氏の真意ではないだろうか。 問題作?いやいや鯨氏特有の壮大な冗談話でしょう。 しかも物凄い量の知識と情報を収集した上で語られるジョークだ。 この作品の登場人物を全て確認したとき、鯨氏がこの冗談話に費やした労力に恐れ入ることだろう。これぞバカミスの真髄とも云うべき作品か。労力の割には評価に繋がらないところが非常に残念ではあるのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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フリーマントルのノンシリーズである本書はKGB内で台頭する2人の実力者による暗闘を描いた作品だ。
昨日の友は今日の敵という言葉がぴったりのかつて親友同士で今や憎むべき相手となったヴィクトル・カジンとワシーリ・マリクがそれぞれ相手を破滅させようと陰謀を張り巡らす。 今までのフリーマントル作品と異なり、私にとってなかなか全体像が見えない作品だった。 たまたま一時帰国の休暇中で読書に適さない状況だったとはいえ、従来のフリーマントル作品よりも仄めかしや作戦の核心が曖昧に表現されているため、なかなか焦点が絞れないように感じ、非常にもどかしい読書になった。 KGBのCIAへスパイを潜入させるためにレヴィンを亡命させるが、事情を知らずに父親に反発する息子ピョートルが不思議と自分と重なった。 KGB第一管理本部アフガニスタン担当局長アガヤンス暗殺、ソ連の“スリーパー”、エフゲニー・レヴィンのCIA潜入計画、CIAソ連担当アナリストジョン・ウィリックの亡命計 画と3つの主流な作戦の中心にいるのがカジンであり、その裏にある彼の工作を見破ろうとするのがワシーリ・マリクとその息子ユーリという構図。 しかしカジンの策略によってワシーリはカジンの刺客パンチェンコによって交通事故死として暗殺されてしまう。そこからユーリの単独捜査が始まるわけだが、彼もまたKGBの描いた大きな構図の中に取り込まれてしまう。 しかし一方でソ連の壮大な計画、ソ連のスパイ、レヴィンをCIAへ潜入させる計画を理解できなかったレヴィンの息子ピョートルは最後FBIエージェントになることを希望する。 本書で描きたかったのはゴルバチョフ政権によって情報公開、民主化が進もうとするソ連、KGBの軋轢とそんな中でもソ連はしたたかに工作員をアメリカに潜入させている逞しさだったのか。 上に書いたようにフリーマントルにしてはサプライズも甘く、物語の焦点が定まらない作品であった。残念。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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森作品ノンシリーズ2作目。中国とチベットの境だと思われる、何らかの意思によって作られた完全に独立したコミュニティを舞台にしたミステリ。
森氏独特の価値観が横溢したルナティック・シティの文化や価値観は我々の社会とは一線を画し、非常に興味深いものがある。 人口わずか300人で形成された100年都市。そのうち約半数は「永遠の眠り」に就いており、全てが自給自足で賄えられている。さらにエネルギーは100年前に開発された大型の自家発電設備によって満たされ、住民一人一人がそれぞれ役割を与えられている。 四方を高い壁に囲われた、明らかに人為的に作られた閉ざされたコミュニティに迷いこんだフリーライターと思しきサエバ・ミチルが事件の解決に乗り出すというのが本書の骨子だ。 死や殺人という概念のない世界ではいわゆる我々の社会における死というものが単なる永遠の眠りとされ、何年後かに復活するチャンスが与えられると信じられているため、彼らは全ての住民の亡骸を保存する施設を保有している。さらに死自体が事件ではないため、警察という機構を有さない。 さらには人を裁くというルールもない。コミュニティにいる医者も死因を突き止める役割は果たさず、永遠の眠りに就くための儀式を滞りなく行う、指導者のような立場に過ぎない。 さらに女王デボウ・スホは宮殿の部屋から出ず、女王の務めを果たすだけに存在する。しかも風貌は20代でありながら実年齢は52歳と最近よく話題になる美魔女でもある。彼女の若さの秘密は1年の半分を冷凍睡眠で過ごしていることであった。 しかし現在ならば前述のように案外自制して若さを保っている女性もいるので(20代の風貌はさすがにないが)、この秘密は時代を感じてしまった。 一方現代社会の象徴として異世界に送り込まれたサエバ・ミチルだが、彼の住む世界は我々の住む時代より先の2113年の設定になっている。 まず彼の相棒ロイディはウォーカロンと呼ばれる人型のアンドロイドで全く人間と変わらない風貌をしており、人間のサポートをする。外部との通信を果たすルーターでもあり、また人の言葉の記録をしたり、調べ物をしたりと、いわばスマートフォンのアンドロイド版のようなものだ。 またミチルが常時つけているゴーグルは今ようやく販売されたウェアラブル通信ツールであり、全ての情報はそのゴーグルを通じて検索され提供される。そして全てがデジタル化しているその世界では図書館というものはなく、書物はそれを好んで形にする人たちの記念品や贈答品としてしか存在しない。 いつもそうだが、2000年に書かれた本書で既にウェアラブル通信ツールや電子書籍の存在を予見しているのは改めて驚きに値する。 そのサエバ・ミチルが捜し求めているマノ・キョーヤという人物との関係が本書のサブストーリーとなっている。本書の冒頭では取材旅行で道に迷ったと述べているが、実は彼はマノ・キョーヤという探し人がいた。そして彼もまたルナティック・シティに迷い込んでいたことが判明する。 この謎めいた人物とミチルとの関係は意外にも物語の中盤で仄めかされる。 そして謎の騎士の存在。 馬に乗り、枯れた植物を寄せ集めたような衣装をまとい、黄色と黄緑色と紫色のリボンを身につけ、頭に2本の角と灰色の長い毛、赤いリングが幾重にも重なる手首に光る顔。ルナティック・シティにおいて見てはいけない、語ってもいけない不可侵の存在。このシティの秩序を管理する者として現れる。 この、完全に支配されたシステムを敢えて壊したくなるという衝動は一連の森ミステリの共通項だろう。 先に読んだ『そして二人だけになった』も全く同じ動機だった。完璧だからこそ壊し甲斐があり、また完璧の物が壊れる姿もまた完璧に美しいものだと思っていたのかもしれない。 思えば森氏は閉鎖された特殊空間で起きる事件を主に扱っていた。デビュー作の『すべてはFになる』然り、またその作品から始まるS&Mシリーズでも大学の研究室や実験室というこれもまたいわばそれを研究する者にとって恣意的に作られた空間である。 『有限と微小のパン』に出てくるユーロパークもまたそうであり、さらに『そして二人だけになった』のアンカレイジもそうだろう。 しかしそれらはまだどこか現代と地続きであったのだが、とうとう本書では2113年という未来を設定し、中国とチベットの辺りにある完全に秩序化されたルナティック・シティという世界を作り上げてミステリに仕上げた。これぞ森氏が望んでいた箱庭だったのだろう。 そしてこのルナティック・シティはまだまだこれから出てくる森氏が神として作り出した世界のほんの足掛かりに過ぎないことだろう。『笑わない数学者』で犀川が「人類史上最大のトリック……?(それは、人々に神がいると信じさせたことだ)」と呟いたが、まさしく森氏は自身が神になることで最大のトリックを考案しようとしたのではないだろうか。 閉鎖空間、秩序、システム、そして崩壊が森ミステリの共通キーワードと云えよう。 あとはそれに読者がフィットするか否か。私はややピースとして当て嵌まらないようだった。 しかしそれもまた慣れるかもしれない。次の作品に期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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久々のマクリーン。海外赴任先の書棚に眠っているこの作品を手に取ることができたのは実に奇遇と云えよう。
イギリスに流入する麻薬ルート殲滅のために国際刑事警察シャーマンがその源であるオランダはアムステルダムに潜入して捜査を行うというのがあらすじだ。 知っての通り、オランダはドラッグの使用が合法化されている。誤解をしないように説明するとあくまでそれはハシシやマリファナといったソフトドラッグに限られたことであり、ヘロイン、コカイン、モルヒネ、LSDといったハードドラッグについては規制がされている。 現在の法律の基礎となったオランダアヘン法の改正がなされたのは1976年。本書が発表されたのは1969年とあるから合法化以前の物語である。 しかしながら相変わらずマクリーンの文体は読みにくい。いきなり主人公シャーマンの長々とした不平不満の独白から展開する物語は、またもいきなり主人公が渦中に投げ込まれ、逃走劇から始まる。 彼の素性が解るのは導入部のチャプター1の終わり、20ページの辺りからだ。それまでは何の情報もなく、ストーリーが流れる。 これはアクション映画としての常套手段であり、実に映画的な作りであると云えよう。 さらにその後も場面展開が目くるめくように切り換わるがその内容も説明的でありながら光景を思い浮かべるのが困難で、やはりマクリーンは文章はあまり上手くなかったのではと結論せざるを得なくなった。 そしてやたらと美女が出てくるのは映画化を意識してのことだろうか。 まず主人公シャーマンの部下マギーとべリンダはそれぞれ黒髪と金髪の美人捜査官。そしてシャーマンの相棒だったジミー・デュクロの恋人アストリッド・ルメイもまたオランダ人とギリシャ人の混血美人。麻薬中毒者のファン・ゲルダーの娘トルディもまた人形のような美人。さらに教会の尼さんは美人揃いとどれだけファンサービスに努めるのかと思うばかり。 先に読んだウィンズロウの『ザ・カルテル』でもそうだったが、決して司法の側の人間がクリーンではなく、麻薬カルテルに買収された一味であるのはお約束のようだ。しかし同じ題材を扱いながら作品に籠る熱が全く違う。 『ザ・カルテル』は作者の麻薬社会に対する怒りの情念のようなものが文章から溢れんばかりだったが、マクリーンのこの作品は映画化を意識したかのようなスリルとサスペンスとアクションを盛り込んだエンタテインメントに徹している。 しかしサプライズを意識するあまり、読者は暗中模索の中で物語を読み進める。毎度のことながらこれが非常に気持ち悪くてなかなか没入できなかったのだが。 本書のようなヒーロー小説は主人公に共感できるか否かで読者の感想は全く異なってくる。 私はポール・シャーマンというこの国際刑事警察の捜査官は実に平板で深みを感じず、好きになれなかった。とても『女王陛下のユリシーズ号』など初期の作品で濃厚な人物像を組み上げた同じ作者とは思えないほどの薄っぺらさだ。 作品を量産する手法に気付いたベストセラー作家の作りの粗さに気付かされた作品だ。 私が好んで読んだマクリーンはここにはなかった。なんとも哀しいことだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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S&Mシリーズ、Vシリーズとシリーズ作品を書いてきた森氏による初のノンシリーズ作品。
本州と四国を結ぶ明石海峡大橋をモデルしたと思われるA海峡大橋にある吊り橋のワイヤーを固定する地面に打ち付けられた巨大なコンクリート構造物アンカレイジ内に設えた極秘の居住設備≪バルブ≫で起きた連続殺人事件を扱ったミステリ。 閉鎖空間で1人、また1人と殺される、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』に代表される典型的な“嵐の山荘物”だ。 しかも登場人物は主人公を含め、たった6人。しかも主人公2人以外は全536ページ中327ページ辺りで殺害されるという展開の速さ。正直残り200ぺージも残してどんな展開になるのかと変な心配をしたくらいだ。 そしてさらに388ページ目で外界への脱出に成功する。 正直ここからの展開は全く以て読者の予想のつかないところに物語は進む。 トリック自体はなかなか興味深いが問題はなぜこんなまどろっこしいことをしたのか? これに対しての解はまたも予想を超える。 殺人の動機について従来森ミステリは明らかにされない。それは殺すには理由があり、それは殺人者以外には理解しえぬことだというのが作者のスタンスだからだ。 本書もその例に漏れない。このあたりの人の命を単なるモノとしか見ない森ミステリの殺人者の傾向にいつも嫌気が差す。文学的な風合いを装った単なるエゴイストの詭弁に過ぎないではないだろうか。 さらに短文による改行の多い文章が途中続くが、それが逆に物語に大雑把な印象を与えている。 本書に登場する勅使河原潤も若き天才の有名人であるという設定であるが、納得のいかなさを天才であるが故の常人の理解を超えた動機と片付けられると少々、いや非常に雑な感じを受ける。 つまりそれでは実に幼稚な動機でも構わないとなってしまうではないだろうか。 本書はそれまでのシリーズ作品にもまして学術的記述が多く、特に森氏の専門分野である土木・建築関係の専門知識が多く盛り込まれているのが特徴的だ。私も一介の土木技術者であるので既知の物もあれば、巨大構造物特有の知識なども披露されており、非常に興味深く読んだ。 大きな橋を造ることは日本の土木技術の挑戦の証であり、更なる困難なプロジェクトを乗り越えるための礎になるのだ。そうやって日本の土木技術は発展したきたことを忘れていやしないだろうか。 もちろん、これはただのミステリであり、ある種技術者ならば一度は描く願望を描いた作品だということは恐らく作者の根底に流れていることは理解はできるが、やはりそれでも納得のいかない自分がここにいる。 全てがすっきり解決しないのが森ミステリの特徴であるが、動機、真相ともに実にすっきりしない作品だったことは非常に残念。 他の作品で森氏はミステリを舐めていると痛烈に批判する感想を目にしたが、本書はとうとう私にそう感じさせた作品として苦く記憶に残るものとなった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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チャレンジャー教授シリーズである本書ではドイル自身も晩年傾倒した心霊主義を前面にテーマにした作品である。
自分の見た物しか信じなく、持論を疑おうとする人物を徹底的なまでにこき下ろすチャレンジャー教授はもちろん本書では心霊術を疑っており、頭ごなしに非難する。心霊術を肯定するドイルが真逆の人物を主人公に据えて心霊術をテーマにしたことが実に興味深い。 また本書では1920年前後の心霊術に対するイギリスの冷たい反応と司法による魔女狩りさながらの弾圧裁判の様子が描かれているのも当時の世相を反映した貴重な資料となっている。 新聞記者マローンの目を通して本書では恐らく当時方々で行われた心霊術の会合やエクトプラズムの実体化の有様が語られていく。それらは心霊の存在とそれを視認できる霊媒師の特殊な能力が実在したかのように迫真性をもって描写させられる。 シャーロック・ホームズシリーズにおいては不可解事を論理的な解明がなされるのに対し、このチャレンジャー教授シリーズでは超常現象はそのまま超常現象として語られる。 そしてこのシリーズの進行役である新聞記者エドワード・マローンがチャレンジャー教授に霊媒師に引き合わせ、霊の存在を信じさせようと決心してからが実に長い。142ページでマローンが決心した後、ようやくチャレンジャー教授が重い腰を挙げるのが264ページと、実に120ページが費やされる。 この幕間に何が書かれているかと云えば、マローンが重ねる交霊会の模様と心霊術信者たちが当時被った警察による不当な逮捕の数々である。キリスト教やカトリックと云った神の存在を信じる一方でイギリス人は霊の存在を否定し、詐欺だとして魔女狩りめいた弾圧を行うのが矛盾しているのだが、見えない何かを信じる事、また産業革命以来、科学の最先端を行く時代において、いかがわしい物を信じることが異端であり、また潜在的に恐ろしく思っていたのだろう。 さてこの120ページ強の話を経てようやくチャレンジャー教授のお出ましとなるのだが、実は彼の登場こそがこの物語のクライマックスであったのだと気付かされる。 正直物語としてはこれだけの話なのだが、ドイル作品の中では文庫本にして約340ページとかなりの分量を誇る。 これはドイルがいかに世間一般に交霊会を信じさせることに腐心したかを思い知らされる。つまり本書はドイルにとって心霊術布教の書であるのだ。 そして頑なに心霊術を信じず、撥ね退けてきたチャレンジャー教授こそ作者ドイル自身を投影させたキャラクターだったと気付かされる。つまりチャレンジャー教授のようにドイルもまたなかなか霊の存在を信じようとしなかったのだろうか。 このチャレンジャー教授シリーズは超常現象を題材にしたSF古典とジャンル分けされている。 しかしホームズシリーズと違って、謎が論理的に解明されるカタルシスに欠けている。ただ頑迷な教授が霊の存在を信じるに当たり、娘のイーニッドが霊媒になるという展開は予想外であり、また心変わりするのに十分説得力のある設定だった。 しかしながら―シリーズ第1作目が未読なので正しい理解とは云えないだろうが―このシリーズは物語の構成として起承転結の結が実にすっきりせずに終えてしまうのが実に残念だった。 ただ題材は面白いので、誰かが設定を借りて新しいチャレンジャー教授物語を映像化してくれることを願いたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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マクリーンも後期になると戦争物やスパイ物といった冒険小説の王道から離れ、F1レースの世界やサーカス団員を主役にした奇抜な潜入行といった様々なヴァリエーションの物語設定を拡げているが、本書は王道のハリウッドアクション映画さながらの、テロリストによる政府高官を人質にした緊迫の籠城劇である。
まず大統領、アラブ産油国王らを乗せた専用バスがターゲットの金門橋に辿り着くまでのゼロ時間に向けてテロリストのピーター・ブランソン側の準備の模様が描かれる。 そしてゼロ時間が訪れた時の騒動の一部始終、息詰まるテロリストたちと人質連中、救出対策本部との攻防戦とセオリー通りに物語は進む。 この実に解りやすさがデビュー作の『女王陛下のユリシーズ号』を髣髴とさせる。変に仄めかすような描写やサプライズのために状況説明を省いた書き方をして、妙にやきもきさせるよりも、ストレートに物語が運ぶ方が実に心地良い。 金門橋で陣取ったテロリスト、ブランソンは政府に5億ドルもの身代金を要求する。大統領を筆頭に国賓として招かれていたアラブ産油国々王らVIPの身代金に加え、爆弾を仕掛けられた金門橋の身代金が上乗せされていた。 爆弾は上空を飛行するヘリに乗ったテロリストの1人がリモコンを持っていつでも爆破できるようになっている。 この一分の隙のない計画の中、唯一の誤算は人質の中にFBIエージェントで主人公のポール・リブソンがいたことだった、とまるで一級のアクション映画の煽り文句のような状況設定でありながら、物語が進むにつれて色んな綻びが見えてくる。 特にブランソンの片腕ファン・エッセンはマクリーン作品定番の背の低い、がっしりとした身体つきの、いわば汚れ役を担うキャラクターだと思われたので、リブソンにとって最後まで大敵となると思っていただけに、簡単に拉致され、しかもブランソンの余裕を挫くために裏切者として扱われるに至っては、読んでいるこちらも複雑な思いがした。 つまりヒーロー役のリブソンとテロリスト役のブランソン一味の力の差が歴然としているのだ。 これほど苦難に陥らない主人公も珍しく、血腥くない籠城劇も珍しい。さらに上でも述べたファン・エッセンを筆頭に、囚われの身となったアラブ産油国々王や王子たちも物語に大きく影響を与えることもなく、その他大勢の1人に過ぎなくなっており、せっかくのキャラクターを活かし切れていない。 またマクリーン作品の最たる特徴である専門知識も鳴りを潜め、金門橋に関しての薀蓄もたった2ページが費やされているだけである。最盛期のマクリーンならば金門橋を取り巻く周辺特有の霧の濃さに関する地形的な特徴などを延々と語り、また濃霧に縁のない人々を唸らせる思いも寄らない弊害なども盛り込まれ、サスペンス性をどんどん重ねていったことだろう。 舞台は一流でありながら、進行は牧歌的という実にアンバランスな内容を読むに、やはり往年のヴァイタリティは枯れてしまったマクリーンの作家としての衰えを激しく感じてしまった1作だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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マクリーンも後期になるとレーサーなど色々なヴァリエーションが見られるが、なんと本作ではサーカスの世界。原題も“Circus”とそのものズバリ。
しかし舞台はサーカスではない。 その題名は今回の主人公ブルーノ・ワイルダーマンがサーカス随一の曲芸師であり、メンタリストであることに由来する。彼は難攻不落の研究所への進入と重要機密書類奪取をCIAから依頼されるのだ。それは一流の曲芸師である彼でなければ達成しえないほど鉄壁の防御網によって守られた研究所だからだ。 24時間監視状態で窓には鉄棒が嵌められた上に盗難報知器が取り付けられている。2つしかない入口はタイムロックが仕掛けられている。さらにビルの屋上には四方に2000ボルトの電圧が流れるフェンスが巡らされ、しかも四隅には監視塔が備えられ、警備兵が機関銃を持ち、サーチライト、警報サイレンまでもある。さらにビルの中庭には獰猛なドーベルマンが放し飼いになっている。 この映画“ミッション:インポッシブル”を髣髴とさせる不可能状況が逆に曲芸師ブルーノの心に火を着ける。 しかし彼の心に火を着けたのはそれだけではなかった。 かつての故郷で亡くした最愛の妻の敵がそこにいるからだった。そしてさらに彼には秘密があることが物語の最終に判明するのだが、それはまた後で語る事にしよう。 ところで上にも書いたが、本書は映画“ミッション:インポッシブル”のような難攻不落の研究所への進入に加え、サーカス団員であるナイフ投げの名手マヌエロ、無双の怪力を誇るカン・ダーン、投げ縄の名人ロン・ローバックといった一芸に秀でた個性豊かな仲間がブルーノを助ける。 さらには一見ペンにしか見えない麻酔銃と毒ガス銃が登場したりとエンタテインメント色が実に濃い。 本書が1975年発表であることを考えると前掲の原型であるアメリカのスパイドラマ『スパイ大作戦』やイアン・フレミングの007シリーズの影響をマクリーンも受けていたのではないかと勘繰らざるを得ない。 ただマクリーンが上手いのはそれを小道具に終わらせていない事だ。この秘密兵器が実はこの任務の裏に隠されたある秘密に密接に関わっているのだ。 難攻不落の研究所に2000ボルトの発電所から渡されたワイヤ1本を伝って進入する稀代のサーカス曲芸師という実に奇抜なアイデアの本書の結末は何とも尻すぼみ感が否めないものだった。 次の作品もこうなのかと一抹の不安を覚えてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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