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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数42件
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フィルポッツによるファンタジー小説という非常に珍しい作品である本書はしかしその予想を大きく裏切る内容である。
題名に示すように登場するのはラベンダー・ドラゴンという美しい鱗に覆われた巨大な古竜でラベンダーの香りを放つことからその名がついた。物語は武者修行中の若き騎士ジャスパー卿が最後に出くわしたこの竜との戦いを描くかと思えば、その予想は大きく裏切られる。 ジャスパー卿は決闘を挑むも古竜に躱され、別の場所と時を告げられる。そしてその決闘の場所に赴くと不意打ちを食らってさらわれてしまう。 そして辿り着いたのはドラゴンが創った理想郷とも云える村。そしてそこにはドラゴンに食われたと思われた人々が実に愉しく暮らしていた。 そこから繰り広げられるのはその理想郷に暮すようになったジャスパー卿とその従者の結婚とラベンダー・ドラゴン、即ちL・Dの長ったらしい講釈の数々だ。 それは理想的な街づくりの話であったり、理想の生き方や思想、教育論など様々だ。 それはさながら仏教の教えのような様相も呈してくる。 即ち万物の命は皆尊いとか謙遜の心が足らない―これは逆に日本人特有の精神だからドラゴンが西洋人に諭すのには思わず苦笑いをしてしまうのだが―、人の非難をする、取り壊すことは容易だが、建設的な話をする方を好む、などなど道徳論や人の道を説くのだ。 これらは一度L・Dの口が開けば延々2〜3ページに亘って語られる。これがずっと続くのだ。 物語の起伏を挙げるとすればドラゴン村に新しい若いドラゴンが迷い込み、L・Dが彼と対話するが、決裂し、飛び去った彼を追ってL・Dもまた1週間いなくなるくらいだ。 それは若いドラゴンが彼の甥だったが、彼は人間たちを奴隷であり、そして食糧であると見なしていた。しかしL・Dは人間は共存している生き物であり、肉食から菜食主義への転換を進めるが、若いドラゴンはそれを聞いてL・Dを罵って最後まで和解できずに去ってしまう。 これはいわば年寄と若者の考え方の相違に対して折り合いがつかないことを示しているのだろう。 巨大で人間以上の知識を持ち、人語も話すが、その気になれば人間などは簡単に殺すほどの力を持ったドラゴン。そんな畏怖すべき存在が穏やかな性格で人間たちの住みよい街を与え、そして人間たちが図りしえない長い年月を生きてきたことで学んだ考えを諭す。 これは当時61歳となったフィルポッツ自身を投影した姿ではないだろうか。 彼が蓄積した知識と思想をラベンダー・ドラゴンを介して語っているように思える。 しかしその内容は正直長い説教でしかなく、非常に退屈極まりない。そして上に書いたようにエンタテインメントとしての体を成していない。 全知全能の存在であるドラゴンをフィルポッツは人間たちが到底敵わないような強大な存在として描かず、人智を超えた経験値を得た、仙人のような存在として描く。 ファンタジーの世界ではドラゴンは最後に勇者が斃すべき強大な存在である。従って最も大きな困難であると云っていいだろう。そして従者のジョージがジャスパー卿に云うように残忍で獰猛なモンスターで人間の安寧を護るためには殺さねばならぬ生き物だとされる。 そんな存在であるべきドラゴンが人間に理想郷を与え、訓示を与え、そしてL・Dなどというニックネームで親しみを以て呼ばれる存在になっているというのがフィルポッツなりの捻りであったのだろうが、何とも広がりの無い物語を作ってしまったものだ。 本書はファンタジーの意匠を借りたフィルポッツの理想論を書いた作品だとするのが正しいだろう。そしてそれは物語の姿を借りずにノンフィクションで出してほしい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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結論から云うと時間の無駄だった。
あまりに広げすぎた内容は収束しないまま終わる。むしろ物語の決着をつけるのを作者が放棄したようだ。 突如悪魔の姿が見えるようになった26歳の若者、牧本祥平が同様の能力を持つ者たちを集め、悪魔の侵略に立ち向かうといった内容だが、作者はその単純なプロットに、一捻りも二捻りも加えることで複雑化し、先の読めないストーリー展開を拵えようとしているが、逆にそのために収集がつかなくなってしまったようだ。 悪魔が見える者たち、本来の姿を隠して人間の姿になり、各界の著名人に成りすまして日本を、いや世界を征服しようと企む悪魔たち。 この二局分離した設定が二転三転、四転五転と立ち替わる。 大企業、自然農法団体、右翼団体、新興政党、新興宗教団体ら、次々と現れる企業、団体があるときは悪魔の巣窟として、または悪魔の対抗組織として主人公の前に現れる。 祥平の話を聞いて賛同し、悪魔と立ち向かう決意をしたかと思えば、彼を精神病者とみなして警察に連絡を入れる者。いつの間にか悪魔となり、祥平を捕まえようとする者。 今日の味方は明日の敵。誰もが信じられない世界へと変わっていく。 これは恐らく何冊か書き続けられる伝奇サスペンス小説として書かれれば、また違った読み応えとなったかもしれない。先の読めない展開に次第に強まっていく悪魔の勢力。侵略物の小説としては定番ながら世界が広がる要素を備えている。 しかし脚本のようにあくまでシンプルで紋切り型な文体に展開が早く、また登場人物もじっくり描写されることもなく、物語を進めるためのキャラクターとして書かれているかのように鯨氏の扱いは実に淡泊だ。 ただ言葉に拘る鯨氏のエッセンスもないわけでない。鯨ミステリの仕掛けも随所に挟まれている。 作者としては自分なりのミステリの特色も出し、依頼の仕事はそれなりに果たしたと思っているかもしれないが、読み手側としては編集者に催促されてささっと書き上げた作品という印象だけが残ってしまう。 書き方によってはもっと面白く書けたと思えるだけに、この結末はまるで某有名少年誌の不人気で連載打切りを云われたマンガのように、唐突で投げやりだ。 最後に語られる読んではいけない悪魔の本の定義。鯨氏のこと、ある実際の本を指して皮肉っていることが推測されるのが、どの本を指しているのか、今のところ思い至らない。 ただし本書もその条件を十分に満たした作品である。 本書の冒頭には作者からのメッセージでこう書かれている。 「あなたにはこの本を読まない権利があります」 実際その通りで、この本は読まないでいい本だった。 本書は書き下ろし作品である。この原稿を受け取った担当者はどのような感慨を抱いたことだろうか。私はある意味冒険だったのではないかと思う。作者の意図が読者に通じるかを試すための。 しかしもしそうだとしてもそんな作者の意図は別にして小説として問題の作品だ。 これを手に取る人は作者の云う権利を行使することを強くお勧めする。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は祥伝社の企画で全て書下ろしの400円文庫のうちの1冊として刊行されたもの。他の作品について読んだのは瀬名秀明氏の『虹の天象儀』のみで、他の作家がどれほどのクオリティの作品を著したのかは解らないが、とにかく鯨氏の手による本書は改行と一行空きが多い分量が少ない作品で、かつ破天荒なストーリー展開が繰り広げられるパラレルワールドを舞台にした物語となっている。
物語は記憶喪失の「あなた」が神が3つの世界のうち1つのみを残して抹消しようとしているとしているのを、どの世界を残すか決定権を持つことが出来る赤、青、黄のキャンディを手に入れるため、それぞれの所有者との戦いに挑むというもの。いわゆるバトル系の物語なのだが、本書はそんなストーリーよりも鯨氏の言葉遊びを楽しむのが正しい読み方だろう。 「あなた」の味方に付く日ペンの巫女ちゃんの部下シャーリーズ・エンジェル、敵のダイオ鬼神、残り2つのキャンディを所有する敵がビッグ伴と阿武能丸、予言者がいる<忘れチッククラブ>、コドモオオトカゲ、キャンディを狙うくノ一華幻嬢女(加減乗除)に根尾那智などどこかで聞いたような名詞がパロディ化されて登場する。 後半に行けば行くほど団地街平行棒、網仮膜下出血、東京ドーモ学園、デルフォイの信託銀行、最古セラピストとどんどんエスカレートし、次にはダライ・マラ、秘打・高山、カップニードル、あゆみの呪いとほとんどダジャレに近い、しかも小学生レベルのネタが続く。 とにかく言葉遊びが全編に亘って横溢しており、正直に云って3つの世界のうち1つを救うための戦いというメイン・ストーリーはもはやどうでもいいくらいで、鯨氏が次から次へと繰り出すナンセンスギャグを楽しむのが吉だろう。 しかし読者自身を現在住んでいる地球とは異なるパラレルワールドに引き込むために二人称叙述を選択したようだが、あまり成功しているとは云えない。なぜなら主人公の主観がかなり物語に入っているからだ。つまり「あなた」という名前の主人公の三人称叙述のようにしか読めなかった。 しかし前回読んだ『千年紀末古事記伝ONOGORO』でもそうだったが、下ネタ、特にセックスネタが鯨氏の作品にはよく登場する。本書でも必ず出てくる女性はグラマラスかつ美人で、物語の分岐点では意味もなくセックスが介在する。安っぽい三文小説を読んでいるかのようだ。 小さい頃に読んだやたらとウンコが登場する意味無しギャグマンガを小説に仕立てたような子供じみた作品か。但し本書はウンコの代わりにセックスが頻出するのだが。 駆け出し作家が出版社からの執筆依頼に全て応えていた頃に書かれた走り書き小説の類というのは酷評過ぎるかもしれないが、正直何を書きたかったのか作者のテーマがはっきりと見えない作品だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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これは奇妙なインスタントラーメンに纏わる奇妙な男女のお話である。
表題作はモラトリアムな生活を送っている大学生相沢愛樹とその先輩小林が相沢の部屋にあったインスタントラーメンを食べることで突如女性に変身してしまう話。 次の「舞い上がる俺たち」は表題作が表ならば裏に当たる話。同人マンガを描いている水星とそれを手伝っている桃木の女性2人がこれまた水星の戸棚の奥にあったインスタントラーメンを食べることで今度は男に成り代わってしまう。 「どうしようもない私たち」の語り手はなんと死者だ。 続く「どうしたの、君たち」は写真を趣味にする孤独な大学生が主人公。 最後の「そこはかとなく怪しい人たち」の主人公は小説家。 冒頭にも書いたように連作短編集のような体裁を持った短編集だが、共通しているのは食べると性別が入れ替わるという不思議な効用のあるインスタントラーメンというアイテムだけだ。 ただだからといって男女のジェンダーの在り様とかそもそも男とは?女とは?といった大上段に構えたような性差論が繰り広げられるわけではなく、全て当事者の一人称叙述で森氏独特のくだらない独り言のような話し方で物語の顛末が語られる。そう、云うなればVシリーズの香具山紫子の独り言が全5編に亘って繰り広げられるとでも云った方が解りやすいだろうか。 1編目は大学生の男2人。 2編目は同人マンガ誌を発行している女性2人。 3編目は会社員の男女2人。 4編目は隣の大学生の日常を観察する大学生。 5編目はヴィジュアル系バンドに熱を挙げる女性小説家。 正直なんだかよく解らないと云うのが率直な感想だ。 なんだかよく解らないと云うのは結末はあるもののそこにオチが特段あるわけではない。 本書はヤマ無し、オチ無し、意味無しの三拍子揃った「やおい本」なのだ。 全編に共通しているのは彼ら彼女らがあるインスタントラーメンを食べると性別が変わることだ。 また一応各話には繋がりがあり、例えば3編目に登場する小さな出版社に勤める塚本がチェックしている原稿は2話目の「舞い上がる俺たち」そのものであり、4話目の主人公細田が執着する大学生は1話目の主人公相沢愛樹で、表題作で小林先輩が中絶したその後が描かれている。 しかしただそれだけだ。ただただ思いつくままに筆を走らせて思いのままにダラダラと文章を連ねてみただけの作品である。 その中で一つ気になったのは「どうしようもない私たち」の最後の一行だ。これは全国の和子さんに失礼だろう。謝罪すべきだ。 とこのように大学助教授という閉鎖的な社会での職業柄か、どうも森氏の作品には世間的な一般常識を踏まえない、道徳観に欠ける部分が見られて思わず眉を潜めてしまう。 他の作品では飲酒運転を平気で作中人物がするなど、今ならば校閲の時点で修正が求められるであろう表現が多々ある。 そして本書の内容はまさにそれが悪い方向に出ているのではないだろうか。 とにかく思いつくまま書いてみました。但しヤマもオチも意味もありません。付いてこられる人だけ付いてきて下さいと云わんばかりの内容だ。 これをまた商業ベースで出した集英社もまたスゴイ。ということはそれを買った私もまたスゴイということか。 タイトル同様、墜ちきるところまで墜ちたのが本書なのか。ここまで墜ちれば、後は浮上するのみである。次作以降に期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は馳氏による初の探偵小説と云えるだろう。
元警官でバブル経済時に土地転がしをして失敗し莫大な借金を抱えたしがない探偵徳永。彼が追うのは警察官僚の娘の失踪。特に冒頭の、高い地位のある、富裕な依頼主を訪れ、失踪した娘の捜索を依頼される件はチャンドラーの『大いなる眠り』を想起させる。 そして文体も全く変わっている。極限まで削ぎ落とし、体言止めを多用した文体から比喩を多用し、諦観と皮肉に満ちた文章はチャンドラーのそれを意識したもののように感じた。 主人公は元警官で今は弁護士事務所に雇われている探偵徳永。バブル時代に機を読み誤り、購入した不動産が値下げし、億単位の借金を抱え、少しずつ返済する日々を送っている。 そんな彼に持ち込まれたのが警察官のキャリアである井口警視鑑。次期警察庁長官と云われている。彼から依頼されたのが失踪した娘を捜し出すことだった。 物語はこの失踪した女性山下菜穂と彼女の趣味仲間田中美代と菜穂の高校時代の友人である和歌子こと菅原舞に彼女の連れ英ちゃん。そしてその趣味の世界では有名な飲食店経営者渡瀬を中心に進んでいく。 そしてまず本書のモチーフにあるのは薔薇。今ではもう幻の存在ではなくなったが、本書で失踪する菜穂は薔薇の生成、それも青い薔薇を生み出すことに執着しているアマチュア栽培家。 題名にもなっている青い薔薇は英語ではありえないことを意味する。 そしてこの薔薇のモチーフは物語半ば過ぎて別の意味を持ってくる。 しかし探偵小説といえどもきちんと馳氏のテイストは盛り込まれている。警察官僚の娘の失踪がいつの間にかキャリア同士の抗争に繋がり、しかもそこには主婦によるSMクラブという淫靡な真実が隠されている。それがやがて警察内部の政治抗争において爆弾のようなスキャンダルに繋がっていく。 なんでも存在する東京と云う都市が生んだ社会の歪みの権化。富裕階級に属する20代後半の若く美しい主婦たちが集う禁断の扉。アマチュア薔薇栽培家が目指していた青い薔薇の実現もいつの間にか2人のSM女王、赤薔薇、黒薔薇というモチーフに変わる。う~ん、実に馳星周氏らしい。 しかし探偵小説の体裁は上巻まで。やはり最後はいつもの馳作品。 人捜しの過程で出逢った人物、菅原舞に惚れてしまった徳永は仕事の途中で舞を喪ってしまう。それが徳永が獣になるトリガーとなった。 狂気と殺戮の宴の始まりだ。 理性と云う箍を外した徳永はもはや味方などは関係なく、己の願望を満たすために他者を利用するだけだ。全てが舞という大切な存在をこの世から消し去った敵としてみなす。 しかしそこから物語が微妙に歪んでくる。 敵側にさらわれた菜穂と英ちゃんを取り戻すために悪鬼の如く、慈悲を捨てて田中美代、渡瀬、公安警察らに挑む徳永だが、依頼元の井口の妻佳代ももはや身の保身のために事件については関心を持たず、徳永を切り捨てるし、肝心の菜穂はスキャンダルの種を恐れた井口にとっては既に敵側の手中に堕ち、出世ゲームからは脱落したものの、警視総監の地位確保のために身の回りの整理をしている。 つまりこの時点で既に徳永は菜穂を奪還する行為自体になんら意味が無くなっているのだ。 彼にあるのはただ単純に舞の命を奪った者への復讐の願望であり、その者たちの正体は解っているのでなぜ菜穂の奪還に固執するのか解らなかった。 つまり理性を失った徳永同様に物語ももはや筋を失い、ただ徳永が暴力を存分に振るうための舞台でしかなくなっているのだ。 作中、主人公の徳永の言葉に暴力への衝動について語られるシーンがある。精神の箍が外れ、暴力それ自身が快感となり、行為を制御できなくなるということだが、それは裏返せば馳氏の創作姿勢の説明ではないか。 どんな舞台、設定、登場人物を使っても行き着くところはどす黒い暴力の渇望。精緻に組立てた物語構造も最後の主人公の狂気の暴走に奉仕する材料にしか過ぎない。それを書きたいがためにそれまで我慢して物語を紡いでいるのだ、と。 また読書中、どうしても拭いきれない違和感があった。 本書の刊行は2006年なのだが、作品の時制は少し前のように感じた。しきりにバブル崩壊の膿やら残滓が謳われ、しかも主人公は携帯電話を使うことも覚束なく、パソコンのインターネットもパソコン通信や電話回線を使ってのネット接続だったり、ポケベルを持っている警官がいたりと、なんとも違和感を覚えることが多かった。 しかもサントリーが生み出した青い薔薇は2004年。つまり本書の刊行前なのだ。作中、いつごろの話か年代が出てこないため、どの時代を想像して物語に没入すべきか最後の最後まで解らなかった。 敢えて苦言を呈せば、本書は実に脇の甘い作品である。徳永が暴力に走る動機となった愛すべき存在、菅原舞を喪うことも、40を過ぎた男に起こった一目惚れからなのだ。 ほんの数時間しか過ごしていない相手にこれほどまでに惚れるのか? 20代の男が年上の女性に惚れるというのなら解るが、人生の酸いも甘いも経験した男が20代後半の女性に一目惚れするというのが実に解せなかった。さらに菜穂を取り戻すことの意味がない中での徳永の決死の任務遂行など物語としての体を成していない。 今までの馳作品らしくない破綻ぶりだ。 正直この結末には唖然とした。もう馳氏にはノワールを構成するネタが枯渇してしまったのだろうか。 先にも書いたがブルー・ローズとは英語で“ありえないこと”という意味でもある。私にしてみればそれは本書の内容こそがブルー・ローズそのものであった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書はミステリ作家ならば誰もが一度は触れたくなるという、いまだにその正体が不明の、1888年のロンドンを恐怖のどん底に陥れた切り裂きジャック譚。
通常切り裂きジャック事件の検証をありとあらゆる文献に残された証拠やデータから推測し、正体を解き明かしていく方法を取るが、本書ではその正体をあらかじめ17歳のイタリア人、アルドゥイーノ・デッラ・アルタヴィッラとして物語る。 アルドゥイーノ、すなわち切り裂きジャックが娼婦達を殺し続ける理由を篠田氏は異国の生活で疲弊していたアルドゥイーノがかつて彼を慕っていた女給マッダレーナを探し求めて徘徊していたこととした。夜の街行く女性をマッダレーナと勘違いし、近づいた途端、その醜悪な姿形を嫌悪し、思わずナイフを振るったというのが切り裂きジャック事件の篠田氏的解釈である。 しかし本書の切り裂きジャック譚は通常のミステリとは違い、幻想小説風味になっている。 まず切り裂きジャックとなるアルドゥイーノは「怪物」と呼ばれ、不死身の肉体を持つ。ナイフで自らの手を切りつけても血一滴流れず、また首を吊っても正気を保ったままである。 重ねて彼を殺人の衝動に駆り立てる内なる「私」の存在。そして全てを見透かしたような謎の女性、そしてアルドゥイーノには身に覚えの無い切り取った臓器を送りつけ、さらに切り裂きジャックと名乗り、世間を恐怖たらしめた彼を見つめる存在といったように、これは前世紀最大のミステリであった切り裂きジャック事件の真相を論理的に解明する謎解きではなく、世に残る切り裂きジャック譚をモチーフにした幻想小説といった方が妥当だろう。 切り裂きジャック=アルドゥイーノの一人称で終始語られるこの物語は、作者の独りよがりの観念的な話が延々と続き、その世界観に浸りこめる読者以外にとっては読後の爽快感を得るところとは対極に位置するものだろう。 不死身の肉体を持つアルドゥイーノの正体は、再生を繰り返しては転生した各時代でその都度自分の永遠の伴侶となる者を探し、出逢い、そして別れを繰り返すという無限の苦行を繰り返す存在だった。魂の枯渇を癒すため、片割れを探し求める手段は彼のその時の時代と身分で異なり、1888年に現れた彼は、娼婦を殺し続けるというものだった。 しかし篠田氏は本当に美しい男性が好きなのだなぁ。彼女のシリーズ建築探偵桜井京介もまたハッとするほど美しい容姿を持った男だし、思う存分作品で趣味に淫している感じがする。 こういうところが私の波長と合わないように感じる。雰囲気を出そうと過分に捏ねくり回した文体もまた読書の波に乗ることを妨げているようにしか思えなかった。 本書で唯一読書の興趣を引いたのは切り裂きジャック事件で当時のロンドン市民がどのように噂をし、どのような悪戯をし、また云われの無い疑いをつけられ、暴力を被ったのかが断片的に語られるところだ。このような知的好奇心がそそられるエンタテインメント性がもっと欲しいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本作は『神の子の密室』がイエス・キリストの復活の真相を探るミステリであったように、ロシアの神秘思想家ゲオルギイ・グルジェフの正体と彼と親交の深かった哲学者ピョートル・ウスペンスキーの関係を探る歴史ミステリである。
双方の作品に共通するのは現代から文献や資料を当って調査・推理するのではなく、その時代を舞台に当時生きていた人物、しかも実在の人物を主人公にして謎を探る趣向になっていることだ。 ただ本作は『神の子の密室』に比べるとかなりエンタテインメント性を排しており、かなり困難を強いる読書になった。 本作で取り上げられているウスペンスキーとグルジェフの2人はイエス・キリストよりも馴染みの薄い人物である事がそれに拍車を駆けていると云えよう。更にはそれを読者に理解させるために、ウスペンスキーがその著書『ターシャム・オルガスム』で提唱した高次元論から、グルジェフの思想である「三の法則」、「七の法則」、それを図象的に表した「エニアグラム」という考え方などなどの哲学の分野の専門知識が作中に横溢しており、小説というよりも小論文に近いものがあるがために、読者の側もそれ相応の知識と理解力を求められている事になっている。 特に16章などは単に時系列的に物事を列挙しただけで小説の体さえ成していない。 上記に述べた本書の内容から鑑みると、小森氏のミステリ創作姿勢はどうも他のミステリ作家と比べるといささか異なっているように感じられる。 概ねのミステリ作家は、あくまで根幹がミステリであることを前提にして、作品の肉付けとなる題材―それはしばしば作者が個人的に興味のある対象である事もあるが―を取材し、ミステリを創作するに対し、どうも小森氏は自身が教授でもあるせいか、自らの研究題材を調べていくうちにこれはミステリとしても創作できるのではないかという、自身の研究からミステリ作品を派生させているような節が感じられる。 したがって作品の主体は自身の研究発表の場のようで、ミステリは付属的なものとして捉えているようだ。 それを裏付けるように本作と趣向が似ているとして例を挙げた『神の子の密室』もそうであったし、本作においてミステリ的趣向である殺人事件はようやく物語も終盤になって起こる。 特に本作における事件は『神の子の密室』と比してもさらに添え物の感が際立っている。 山中の小屋で起きる発砲事に巻き込まれたかのようなある人物の死。しかしちょうどその時を目撃していた主人公オルロフは彼が撃たれたときには窓ガラスが割れていなかったことを気付いていたが、今ではその窓ガラスが割れ、恰も流れ弾に当って死んだかのように偽装されている。そこに居合わせた9人の人物はそれぞれ別の場所にいたという証言があるものの確たるアリバイがない。 この謎をグルジェフのエニアグラムで解き明かすという趣向でこの事件が本作に密接に関わり合いがあるかのように見せているが、本当にそれが元で真相を解明されたなら、かなり乱暴な謎解きだと思った。 が、作者もそれは感じていたようで、一応の論理的解決は成される。しかしそれは推理クイズの問題程度のレベルを脱しえず、本書のメインには全く成りえていない。 とどのつまり、本作におけるミステリとしての主眼は上述のように当時親交の深かった二大思想家ウスペンスキーとグルジェフがなぜ途中で袂を別ったかという謎を小森氏独自の調査で解き明かすところにある。 しかしなんとも観念的な話である。興味のない者については全くどうでもいいような話である。 さらに驚くのは本作は文藝春秋の「本格ミステリーマスターズ」叢書の1冊として刊行されたことである。これほどまでにエンタテインメント性を排した作品をこのシリーズで刊行した同社の担当者は商業性やシリーズの特性を全く無視して刊行したのではないかと勘ぐらざるを得ない。 また小森氏に関して云えば、自らの知的探求の愉悦に浸るがために作品を重ねるごとに読者を突き放す方向に突き進んでいるようにしか見えないのが気にかかる事だ。 とはいえ、それがこの作者の目指す道であり、ワン・アンド・オンリーとしてその道を更に深く追求するのならばあえて何も云うまい。ただ私は彼の作品から手を引くだけだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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人生における闘いをテーマにした、肉体派作家鈴木氏の精神基盤そのものともいえる作品である。
闘い。それは各々の人生に直面した苦難との闘いである。 まず文字通り、格闘技という世界に身を置き、肉体と肉体がぶつかり合う闘いを生業とすることで己を見出す者、それが主人公の1人、真島一馬だ。 そしてもう1人の主人公、社会的地位のある親元で育ち、その後一流大学を卒業して、一流出版社に入社し、そこの編集者という、絵に描いた順風満帆な人生を歩む梅村靖子。彼女の闘いは後で述べるとしよう。 ノンフィクション作家山極恵子は正に生まれた時からが人生との闘いの始まりだった。出産直後、父親に誘拐され、全国を転々とする暮らしを余儀なくされ、終いには父親は仕事上のトラブルで逆上し、取引先の子供を誘拐したかどで地元ヤクザにリンチに遭い、殺されてしまう。 その後母親の許で成長するが、不倫をして子供を宿し、しかも不倫相手は癌で余命幾許もなく、人生を悲観し、自殺。頼る者もないまま、出産を決意し、仕事と家庭の両立で孤軍奮闘。しかも更に数年後同じ過ちを犯し、不倫の子を産み落としてしまう。更には癌にも侵され、仕事と家庭に加え、闘病生活という三重苦に苛まれるという、書こうと思えばこの人物を主人公にするだけで1冊の長編になるのではないかと思われるほど濃密な闘いの人生だ。 これら三人が物語の主軸となるのだが、実は前述で棚上げした靖子のみが闘いに直面していない。 まず彼女にとっての初めの闘いとなったのは、恵子が癌の再発により、入院生活を強いられる段に至り、担当編集者として恵子の息子の世話をする、具体的には高校のお弁当を作ることになったことがそれに当るだろう。 キャリアウーマンである恵子は息子らを溺愛するあまり、子供に家庭の手伝いをさせず、何でも自分でやってしまい、その結果、挨拶といった基本的な礼儀すらも出来ない息子に育ててしまう。靖子はその息子、亮をどうにか自立させようと、お弁当を作りにいくのではなく、自分で作らせる習慣を付けさせようと奮闘する。結果的にはそれは思ったよりも早い段階で成就する。それは亮が真島一馬の熱烈なファンである事を察し、彼の連載記事を担当することでその後、何度となく個人的にも付き合うことになった靖子はそれを糸口に、亮が尊敬する一馬というカリスマを利用して、亮に物事の動機付けを植え付ける。 読んだ時はちょっと安直な流れだなぁとは思ったが、これはこれでまあ、いいだろう。というよりも、子供との会話がない、子供とどう接したらいいか悩んでいる親御さん達には1つのモデルとして参考になる事例でもある。 しかし、その後の靖子はいただけない。 夫と疎遠になり、もはや何の魅力も感じなくなった理由として、夫が彼の人生において常に勝負を避けて言い訳することで逃れてきたことを挙げる。しかし私にしてみれば一流広告会社のエリートサラリーマンとして、高給を取る彼は、社会的にはむしろそれだけの地位を獲得してきたように思えるのだが。靖子はその夫にそういう危難を乗越え、打ち克ってきたことがないから、経験に裏打ちされた言葉というのを持っていない、それが欠点であると指摘する。 しかし、その反面、靖子は離婚を決意しても、夫と直接話し合い、説得することなく、スペインへの出張に旅立つ際、自分の名前を署名し、捺印した離婚届をテーブルに置くだけで、夫が自分の欄を埋めることを期待するのである。 闘いをテーマにしている小説なのに、主人公が闘いを避けていることが、読書中、どうにも腑に落ちなかった。 しかし次第に読み進めると靖子は自分に足りない闘いに向かう覚悟を一馬から得ようとしているのが解る。あまりに他力本願なのだが、まあそれはよしとしよう。 しかし、一度一馬は難敵であるブラジルの柔術家に打ち克っているのだ。そして靖子はそれを聞いて力を得ているのだけれど、結局何も変えようとしない。 終いにはあの結末。 あれを読んだとき、何じゃこりゃ?と思った。 働く女性の立場、格闘家という闘争に身を置く者の話を8年もの歳月を語り、築き上げてきた物語をフイにする結末である。 一瞬壁に打ちつけようかとも思った。 鈴木光司はやはり作家として終わったのだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
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「嘘の上塗り」という言葉があるが、この小説の真相が正にその言葉がぴったりだと思った。
二重に仕掛けられた本作のトリック、作者の中では結構自信があったのだろうが、私に云わせれば、無理を通すために道理を引っ込めさせ、強引に驚愕の真相へ持って行ったという感じしかしなかった。 作中で探偵役の一尺屋が持論を確立させるために何度も真相を云い直しているのも気になる。曰く、 「君を見た瞬間、それは叔父さんは驚いたのだろうね。弟に息子がいたなんて知らなかったんだから。そのショックで心臓が止まっても仕方が無い」 「信号音は君が叔父にナイフでも突きつけて聞きだしたのだろう。・・・殺される!という恐怖が叔父を死に至らしめたのかもしれない」 といった具合だ。 この間、1ページも無いのである。 しかも逢ったことのない叔父の家の間取りやら数々の企み、そしてそれらを成功させる数々の仕掛けを遠方で母親の話を聞いただけや関連の書物を読んだだけ、はたまた何度か由布院に訪れただけで解るだろうか? 人間なんて新しい環境に慣れるのでさえ、2ヶ月は最低必要である。東京でフリーターをして日銭を稼いでいる若者に果たしてこれだけの事が出来るのか?現実味の無い話である。 こういった辻褄併せのような論理の積み重ねが読書の興趣をそそるどころか、ああ、無理をしているなぁという苦労が作品の裏側から透けて見え、なんとも痛々しい。 そして、この作家特有の類型的な人物像の乱立。どこに小説としての面白みがあろうか?相変わらず、島田氏の提唱する本格推理小説作法に則っているのだが、なんとも味気ない。心動かされる何かがない。 料理本の云うとおりに料理を作れば、確かにそれなりの物は出来、食べられる代物にもなる。しかし、人に提供して金を取るだけの商品にはならない。そこに料理人としての独特の味付けをしないことには単なる素人の手遊びである。 毎度毎度苦言を呈して申し訳ないが、6作を通じて得た感想はこういった類いの痛罵しか思い浮かばなかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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カール・スタンフェウスことスリム・マッケンジーは「薄明眼(トワイライト・アイズ)」という不思議な眼を持っていた。彼は人間に化けたゴブリンの正体を見破る事が出来るのだ。
彼は14歳の時に村で次々と村人を殺していた伯父に化けたゴブリンを殺害し、それ以来ゴブリンを退治する旅を続けていた。やがて彼は旅の途中で見つけたカーニバルに潜り込み、そこの従業員となる。カーニバルの見世物のオーナーの一人である美少女ライアの許で働く事になった彼だが、カーニバルはやがて移動のときを迎える。 次なる街はヨンツダウン。そこはゴブリンが市長、警察本部長を勤めるゴブリンの巣窟だった。ゴブリンどもがカーニバル一行の殺戮をたくらむのを肌身に感じたスリムはゴブリンを一匹、また一匹と殺し、カーニバルを守ろうとするのだが。 4年前に上巻のみ手に入れて、ずっと本棚に眠っていた本作品。このたびようやく絶版となっていた下巻を手に入れて喜び勇んで読んだのだが、4年も待った甲斐が全く無い駄作だった。 物語はゴブリンを見分ける特殊な眼を持つ主人公スリムの一人称で語られるのだが、これが17歳の言葉とは思えないほど、格式張っており、しかも回りくどい表現が多くて、かなり疲れた。作者としてはイメージ喚起を促したつもりだろうが、読み手の方としては感情移入を許さない文体だなと思うことしばしばで、なかなかのめりこめなかった。 ゴブリンが人間に化けて人間を殺していくエピソードの数々はなかなか面白いのだが、これがやはり文体のせいでなかなかのめり込めない。 ゴブリンが戦争時代の生物兵器であるという設定はファンタジーだと思っていた矢先のSFへ転換でおっと思ったが、しかしそれまで。 カーニバルの三つ目の巨人ジョエル・タックを始めとしたフリークスたち、カーニバルの総支配人ジェリイ・ジョーダン、ヨンツダウンに住む老人ホートン・ブルイットなど魅力的な人物が出てくるのだが、物語にどうも活かしきれていない。 しかしこのような結末を迎えるのなら、あえて2部構成にする必要はないのではないか。1部のみで十二分にゴブリンとスリム含めたカーニバル一行との全面戦争を語ることに専念すれば、中途半端な物語にならなかったように思うのだが。 しかし、この内容を是として出版したクーンツもすごいと思うが、版元もすごいと思うわ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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イングランドに点在する数少ない古城。弓弦城もその1つだった。
その主、レイル卿が甲冑が数多く並ぶ甲冑室で殺される。しかも出入り口には城を訪れた複数の客が見守っており、裏口は卿自らが当日釘を打ちつけ、開かないようになっていた。 さらに女中のドリスが部屋から転落死するという事件が起き、終いにはレイル卿夫人も自身の部屋で銃殺されてしまう。偶々旅行で近くに訪れていた希代の犯罪学者ゴーント氏がこの連続殺人事件の謎に挑む。 う~ん、冗長すぎるなぁ。まず物語がイメージとして頭に入り込まない。これは作中でも出てくる城の見取り図がこの小説で示されないことによるところ大きく、大いに問題だ。謎解きもこの見取り図がなければ、作者が語るがままに頷くしかなく、全くカタルシスが得られない。 捜査も回り道が多く、一向に進まない。特に狂言回しとして設定されていた城主の息子フランシスが物語を迷走させ、進行を大いに妨げ、忸怩たる思いがした。 カー作品でもかなり初期の本作。唯一の救いは初期の作品からして、カー独特の語り口と物語設定とオカルト趣味が垣間見えたことか。しかし、それも単に物語を冗長にしているのに過ぎなく、切れを無くしていると思えて仕方がないのだが。 今回のカーの狙いはうだつの上がらない人物が実は極悪非道な人物だったという人間の裏面を見せたことか。しかし、物語の引力が弱いのは否めないなぁ。 |
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前回の事件の活躍で名探偵として知られるようになった学生大垣洋司の下に依頼人が訪れる。それは政界の黒幕と云われる高槻貞一郎の秘書である新津省吾という男で、高槻氏の下に脅迫状が届いた、それは4人の人間の殺人を示唆する内容だったので未然に防いで欲しいという依頼だった。大垣は先輩で名探偵である陣内とともに大槻邸を訪れる。そこは直径約200メートルの芝生の真ん中にゆっくりと回転する御堂が設えられ、その四方に館が4つ点在する奇妙な場所だった。そこで高槻の依頼を受けた1時間後、高槻が絞殺死体となって発見される。それは奇妙な事に脅迫状の文言と一致していた。早すぎる死。しかしこれは連続殺人の幕開けに過ぎなかった。
う~、ダメだったわ、これ。あまりに素人じみた文体と本格推理小説の定型を破ろうと努力する痛々しさが行間から立ち上ってきて見苦しさを感じた。 依頼人が会って1時間後に殺される、360ページ強の内容において80ページあたりで早々と挿入される読者への挑戦状(文中では宿題)、探偵の事件放棄など目新しさを狙った努力は解るが、それらがあまりにもぎこちなく感じて物語の腰を折っている感じがした。 登場人物それぞれに魅力がないのも痛いし、なによりも小説を読む物語の醍醐味というものが皆無だ。先日読んだ有栖川作品と比べると雲泥の差が歴然と解る。あまりに登場人物を駒として動かしすぎである。だから感情移入さえもできないのだ。 また犯人は思ったとおりの人物だったし、下世話なライトノベル調文体が妙に鼻につくし、苦痛を強いられた読書だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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大脳生理学者須堂の研究室に助手、牧場典子より「恐怖の問題」という巷で話題になっている都市伝説が持ち込まれる。それは男女もしくは隣人があまりの面白さに狂気に駈られる問題を取り合いになって墓地で取っ組み合いの殺人事件になるという話だった。そんな中、静岡で大地震が起き、崩れた墓場の近くから男女のものと見られる白骨死体が発見される。果たして都市伝説「恐怖の問題」は実話なのか?またその頃、詰将棋を勉強していた須堂の元に親しい藍原教授から詰将棋の盗作の話が持ち込まれるのだった。
竹本健治氏の独特の云い回しにははっきりいって疲れた。雰囲気重視の作家なだけに使用する単語にこだわりが強いのも解るが、独り善がりが過ぎる。この手の幻想小説風味が当方に合わないのも一因だが、読み取りにくい上に、モジュラー型の本格推理小説の形式であるから、なおさら理解しにくい。多分二度目に読むと各章が何を指しているのか解るだろうが、あいにくこちらはそんなに暇じゃない。 真相は大脳生理学者の須堂が解き明かすに相応しいテーマであり、発表された当時'81年の作品としては極めて斬新であった事だろう。しかしただその1点のみ評価が出来るだけで、それ以外は付き合いきれないなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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読者の復刊希望アンケートで上位にランクインし、それを期にこのたび復刊の運びとなった本書は、弁護士バトラーとフェル博士が共演する(バトラーの出演する作品を読むのは初めてなので実は常にフェル博士は出ているのかもしれないが)事を謳い文句にしていたが、意外だったのはバトラーが気障ながらも有能な弁護士でしかも推理力に富み、行動力もあるという美点が強調され、フェル博士が狂言回しの役割に終始していた事。バトラーのプレイボーイ振りが際立っていることもあり、通常のカー作品とは異なり、かなりロマンティシズムが濃い。
テーマはカー特有の毒殺物で、裕福な老婦人を毒殺した廉でその秘書が逮捕され、その法廷場面から始まる。その裁判ではバトラーの活躍で秘書は無罪になるものの、第2の毒殺事件が起こる。しかしこれら2件以外にもここ頻繁に毒殺事件は起こっており、フェル博士は殺人集団の仕業と見て捜査を始めるといった内容。 恐らくカーはこの作品を書いていた頃は過剰なまでのオカルト趣味に嵌っていたように推測する。 登場人物が少なく、事件も地味なせいもあり、真相が判明してもびっくりするような仕掛けもなく、前述にある悪魔崇拝集団という設定も妙に浮いてて、バランスが悪い。次の『眠れるスフィンクス』に期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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とうとうシリーズのどん底を見た。今回は全く印象に残らなかった。
小説である以上、物語を読んだ時の何かが心に残っていいものだが、それが無かった。13編もあって1編もそういったものがないというのも困り物。 最も全く記憶に残らないものがあったわけではない。「不思議と出会った夏」、「うちのかみさんの言うことには2」とかトリックが印象に残ったものもある。 しかし今回各作品に共通するのが推理クイズの域を脱していないこと。自分の創造したトリックに酔って、どうだ、すごいだろと云わんばかりである。似たような設定、似たような展開の連続で辟易した。だいたい吹雪の山荘がそうそうあるものではない。 あと鼻につくのが、シリーズ探偵とも云うべき人物を立てている事。正にミステリ作家になれるもんだと高をくくっているような横暴ぶりである。上にも書いた「うちのかみさんの言うことには2」なんて「1」が掲載されていないにもかかわらず「2」と題している辺り、片腹痛い。 また自分の創出した探偵をアナグラムで紹介した作品が2編ぐらいあったが、マスターベーション以外何物でもない。 もはやこれは一般に売るべき本ではなくコミケで売る同人誌に過ぎないのではないか。 |
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どうしてこんなにもごくフツーのミステリが創元推理文庫で出るのか、それこそがミステリだ。
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もはや本作については島田ファンのコレクターズ・アイテムに過ぎないと断言しよう。作者自身、息抜きで書いた様に述べているし。
ただ息抜きとは云え、トリックを備えた本格物であるところが島田らしい。ただコメディを目指した本作におけるギャグの数々は御寒い限りで、センスの無さを暴露する羽目になってしまった(ただ飛行機の「性別」欄のギャグはタモリが先か、こちらが本家かどちらかは解らないのだが)。 ま、金返せとまでは云いませんがね。 |
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う~ん、とうとう来るべきものが来たという感じ。
今回に関しては各短編全てにおいて興趣を欠いていた。有名な短編としては「瀕死の探偵」が挙げられるが、この話もホームズの馬鹿さ振りを髣髴させるエピソードとして色んな作家の作品中で語られるものなので実は大したことはない(実際、この短編におけるホームズはアホである。それにまんまと引っかかるワトスンもまた斯くや)。 短編集の題名になっている「最後の挨拶」はもはや本格ですらない。これこそドイルがホームズ譚を執筆するのにうんざりしていた証拠になる。 「亢龍やがて堕つべし」というがホームズもまた同様である。まあ『恐怖の谷』が読めただけでもホームズ譚を読む事の収穫は大いにあった。 |
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苦しい読書だった。上下2冊で1,150ページ余り、34編もの短編が集められたアンソロジー。しかも全てが’30年代の黄金時代物だから文体が堅苦しいこと!
半ばうつつの状態で読み進んだ時もあり、今収録作を目次で見返しても覚えていないものが多い。 下巻の最後の方に若干読みやすく、興味を覚えた作品があったが、果たしてこれらが本格黄金期を代表する諸作なのか疑問が残る。特にシリーズものの短編などは読者に予備知識があるものとして語りかける構成のものもあり、戸惑った。 私にもう少し読書のスキルが必要なのか、それとももはや時代の奥底に葬られるべき凡作群なのかは判らないが、十分愉しめなかったのは事実として残った次第である。 |
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