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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数688件
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あのお騒がせ集団ZOKUが還ってきた。しかしどうも時制は前作よりも遡るらしい。なぜなら前作のメンバー、ロミ・品川とケン・十河、そしてバーブ・斉藤が初対面であるからだ。
そして組織の名前はZOKUではなく今回はZOKUDAM。そう、あの国民的巨大ロボットアニメを彷彿させるように本書では巨大ロボットが登場する。 ロミ・品川とケン・十河、バーブ・斉藤と黒古葉博士が一堂に会するのが第1話「For fair against despair 絶望にあっても美のために」で、これはイントロダクション的な話だ。 舞台設定的なお話であり、まだZOKUDAMとTAIGONの直接的な対峙はないが、いわゆるキャラ設定がこの話で充分確立している。 続く第2話「Hardship incident to justice 苦難は正義のために」はタイトルは非常に立派だが、何のことはない、大雨で地下にあるZOKUDAMの基地が雨漏りにより水浸しになっていくのをロミ・品川とケン・十河が悪戦苦闘とするお話である。 しかし本作で判明するのは正義を行う側がZOKUDAMであり、木曽川大安博士が率いるTAIGON側が世界征服を建前に彼らのできる範囲で社会混乱を巻き起こそうと企む悪側の組織であることだ。つまり前作『ZOKU』とは設定が180°変わっているのだ。 また本作は雨漏りに対処するエピソードの中に様々な巨大ロボット物やヒーロー物の話を現実レベルに落とした場合に生じる不都合や疑問などが数々挙がって興味深い。これらについてはまた後ほど触れることにしよう。 第3話「Running into trouble expected 想定される困難のために」はさらに輪をかけて何も起きないのだから驚きだ。 しかしこの退屈を脱力的に1つの短編に仕上げる森氏の筆力には逆に感心してしまう。 第4話「Shaking off the temptation 誘惑に打ち勝つために」ではとうとうZOKUDAMの2人とTAIGONの2人が直接対峙する。 いやはやようやくライバル同士の巨大ロボット対決かと思いきや、なんとロボコンでの対決へと縮小される。しかもロミの冴えない玩具屋の倅の同級生宇多川まで組織に加入してロボコン優勝を目指すという、何か別の物語の展開へと発展していく。 そして初めて本書でロミ・品川とケン・十河のZOKUDAMコンビと永良野乃と揖斐純弥のTAIGONコンビが相まみえる。ロボコンの前夜祭のパーティ会場で女同士の戦いが繰り広げられるのだ。 ZOKUDAMの2人のチームワークを乱すためにロリータファッションでケン・十河の気を惹く永良野乃は作戦が的中し、ロミ・品川の嫉妬心を駆り立てるが、なんとその後は女の欲望が再燃したロミ・品川がケン・十河に必死にモーションを掛けるのだ。 理系男子に惚れた女性の切なさが沁みる話である。 そして最終話「Consciousness is half the battle 自覚があれば勝ったも同然」ではいよいよZOKUDAMとTAIGONの巨大ロボットの直接対決に至る。 このZOKUDAMとTAIGONの対決が幼馴染で有力者の2人、黒古葉博士と木曽川博士の巨額を掛けた壮大なお遊びであるのは1作目の『ZOKU』と同様。 しかしその終止符を打つためにお互いのロボットを完成させ、そして操縦士も訓練させ、最終決戦をしてから畳むことにしたのは潔い。 そしてそれまで決戦の時が来たと何度も云われ、そのたびに訓練とロボットの修正を繰り返す日々にうんざりしていたロミ・品川とケン・十河―彼はロミほどではないが―が目的が明確になったことでそれまでの煩悩から解き放たれ、巨大ロボット操縦士、いわば戦士としての意識に目覚め、感覚と風貌が研ぎ澄まされていく。その姿は実に尊く美しいのだ。 ケン・十河は巨大ロボットの訓練とその都度生じる不具合の修正について行われる技術者たちとのコンファレンスでそれまで単純に巨大ロボットの操縦に憧れていたマニアから戦闘そのものが人間たちにとって究極のアミューズメントであり、それを現実的に行うとすれば周辺住民への危害を最小限度に抑えるために飛び道具や火器の使用は控えるべきだ、そして行き着くところは大きな図体して二足歩行というバランスの悪い人間型ロボットよりも戦闘機や戦車のように武器をそのまま取り込んだものが最もバランスがいいのだとそれまでの考えを覆すような境地に至る。 一方ロミ・品川もそれまでマニュアルばかり読まされ、実機訓練でも事あるごとに不具合が生じて修正作業ばかりを繰り返してた日常にうんざりしていたのが屋外での実戦練習で感覚が研ぎ澄まされ、自分が求められて巨大ロボットの操縦士になり、そして澄み渡った空気と自然と満天の星空の下、仲間たちと一つの目標に向かって進んでいくことに充実感を覚え、戦士としての自覚が生まれるのだ。 そんな2人が悟りの境地に至って迎える最終決戦は、実に森氏らしい結末だ、とだけここでは評しておこう。 『ZOKU』の続編(実にややこしい表現だが)である本書は上にも書いたように前作の前日譚に当たる作品のようだ。 いやしかしどうも読み進めると同じ設定と人物を使った別の世界の作品のようにも思えてくる。なぜなら前作が森博嗣版『ヤッターマン』的な風合いをした善と悪の対決物であったが、ZOKUがいわゆるドロンボーサイドでTAIがヤッターマンサイドであったのに対し、本作ではTAIGONの方が悪で、ZOKUDAMの方が善と設定が入れ替わっているからだ。これは即ち3人組の悪党たちと2人組の男女の正義の味方という設定だけを踏襲したタツノコプロアニメと同様、人物設定だけを同一にした全く別の話だと思うのが正しいようだ。 そして今回巨大ロボット戦闘物の本書は物語が進むにつれて次第に設定がぶれていく。 例えば当初は怪獣を倒すためにZOKUDAMは2機の巨大ロボットを開発したことになっており、そしてその怪獣の1匹がTAIGONが敵情偵察のために送り込んだ捨て犬のブラッキーだと第1話では仄めかしているのだが、結局この犬は途中退場し、TAIGONのロボットとの対決という図式に切り替わるのだ。 しかしその後巨大ロボットと怪獣が戦う設定のロボット物と思わせながら、実は怪獣との戦闘シーンはおろか、TAIGONとZOKUDAMそれぞれの巨大ロボット同士の戦いも出てこない。描かれるのは巨大ロボットに乗って操縦することを任命された2人のサラリーマンが出くわす不満と日常風景である。つまり本書は巨大ロボット物の設定の下で描かれる日常小説なのだ。 そしてそんな特殊状況下にある2人が直面する問題や日常風景が妙にリアルで面白い。 例えば巨大ロボットアニメでは普通主人公がいきなりロボットを操縦して敵を次々と他倒していくが、実際12メートルもの巨大なロボットはその機構自体が複雑であるため、マニュアルが存在するのは想像に難くない。そして本書ではまず操縦士の2人はその膨大なマニュアルを読んで理解することから強いられるのだ。 まず1000ページ弱の初級マニュアルから始まり、次に2冊のインストール編、そして4冊のカスタマイズ編に3冊のメインテナンス編、2冊のトラブル編と次から次へと読むべきマニュアルが渡されるのだ。まあ、多少(?)の悪ふざけが入っているだろうが、これが現実と云えよう。 また秘密基地で雨漏りが起きてもその場所が秘密であるために容易に修理屋を呼べないというのも妙にリアルだ。 そしてロボットが安定して二足歩行するためのバランス装置についても詳細に述べられていたり、電極を身体中に貼って操縦士の身体の動きを感知してロボットが動くと云うシステムも頭を掻いたり、目にゴミが入って思わず掻いたりすると自身で損傷してしまわないかとか、ロボットが自分で自分のことを殴ってしまわないように自己接触防止機能があるのなら、2体の仲間がそれぞれの機体を殴ろうとしているのも止められるようにするとどうなるのかを真剣に検討したりと変に細かなところでリアルなのだ。 あと特撮ヒーロー物に対する考察も面白い。 例えば世界征服を謳いながらも辺鄙な場所にしか現れず、しかも外国だと同時多発的に攻撃を仕掛けるのに対し、日本では一気に敵を多数送りださず、いつも1体のみであるのはやはり武士道的一騎打ちの精神が残っているからだとか、今まで考えもしなかったことを真面目に考察していて興味深い。 またTAIGONの2人、永良野乃と揖斐純弥は典型的な森作品の男女キャラと云えよう。理系男子に少し心惹かれる女子という設定はデビュー作のS&Mシリーズと全く変わっていない。少女漫画を自作していた作者にとってこの男子のツンデレ設定は王道なのだろう。 そしてZOKUDAM側が操縦者が搭乗して巨大ロボットを操るのに対し、TAIGON側は遠隔操作で操るタイプである。 また揖斐純弥は敵のロミ・品川とケン・十河の結束にヒビを入れるため、永良野乃にケン・十河の興味を引き付ける作戦に出るが、それがロリータ的メイド服のようなものを着せて思いっきり趣味に走る。 そして最終話に至っていよいよ決戦の火蓋が落とされる。それまで状況に翻弄され、何が悲しくてOLをしていた自分が巨大ロボットに乗って敵と戦わなければならないのかと環境の犠牲者とばかりに嘆いていたロミ・品川も決戦の日が近づくにつれ、訓練の充実度が増し、そしてケン・十河に抱いていた悶々とした欲望やバーブ・斉藤たちに抱いていた嫌悪感などが次第に雲散霧消していき、敵と戦うちいう1つの目標に心身が純化していくところは実に清々しい。 もはや悟りの境地にまで達した2人にとって戦いの結果などはもうどうでもいいのだろう。したがって 最後の連載打ち切り感的な結末も敢えて狙ったものだろう。私はこの結末に対して残念感や嫌悪感を抱かなかった。寧ろこれでよかったと純粋に納得してしまった。 最後まで読むと本書は結婚適齢期を逃し、会社の人事に翻弄されたロミ・品川という女性の物語だったことに気付く。だからこそ彼女がそれまで抱え込んでいた人生の鬱屈や煩悩が消え去り、純化されたことでこの物語は終わりなのだ。 我々ヤッターマン世代はヤッターマン2号のアイちゃんよりもドロンジョ様の方が好きなのだ。従って実はロミ・品川の方を応援したくなるのは必定だろう。 案外私は森作品の中でもこのシリーズが一番好きなのかもしれない。次の『ZOKURANGER』も愉しみだ。 もうタイトルからして今度はアレのパロディなのだろうから、またもや世代ど真ん中なのである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『ラプラスの魔女』に登場した羽原円華の前日譚とも云える本書は連作短編集とも云うべき構成で彼女のその驚異的な能力を活かした物語と『ラプラスの魔女』で彼女と関わり合いを持つ泰鵬大学准教授青江修介の名刺代わりの事件が繰り広げられる。また『ラプラスの魔女』で雇われるボディガード役の武尾徹とお目付け役の桐宮玲も登場する。
今回羽原円華の不思議な能力の一端に直面するのは鍼灸師の工藤ナユタ。彼は80歳を迎える師匠が抱える顧客の依頼を受けると日本全国出張して鍼を打っているのだが、その行く先々で羽原円華と出くわす。 工藤ナユタが体験する羽原円華とのエピソードは以下の通りだ。 ピークを過ぎ、引退を控えたスキージャンプ選手の見事な復活劇。 現代の魔球ナックルボールを投げる投手の球を受ける後継者候補の捕手が抱えるイップスを治す方法。 高校の恩師が川での遭難事故で植物人間になった息子に向き合うために行う事故の検証。 パートナーを喪った原因が自分がカミングアウトしたことだと自責の念に囚われるゲイの作曲家の再起を促すために探るパートナーが亡くなった登山中の事故の真相。 そして工藤ナユタが中学生の時に出演した映画で抱えたトラウマの克服。 それら4つのエピソードに加えて最後は『ラプラスの魔女』へと繋がっていく。 これら上に書いたエピソードを読んで思い出してほしいのはこれらはかつて東野氏自身が初期の作品でテーマとして扱った題材であるということだ。 スキージャンプは『鳥人計画』、ナックルボールを投げる投手と捕手の物語は『魔球』、植物人間となった息子に対する両親の思いを描いたのは『人魚の眠る家』、性同一性障害を描いた作曲家のエピソードは『片思い』をそれぞれ想起させる。 ただそれらが二番煎じになっていないところに東野氏のストーリーテラーとして卓越ぶりを感じさせる。 例えば扱っている題材の専門的な知識やアプローチが真に迫っていることだ。 1章の往年のスキージャンパーの不調ぶりを映像解析するシーンでは好調期と不調期のジャンプを映像で見比べて円華がほんのわずかな差異に気付いて「上体の突っ込みが早い」と指摘して、右足を怪我して全体的にバランスが悪くなっていると語れば、2章のナックルボールについては回転していないボールが不規則に揺れて落ちていくメカニズムを詳細に語る。 またそのナックルボールの取り方についても仔細に語られる。ナックルボールは急いで捕りに行こうとせずにじっくり球筋を見て捕球する必要があるが、一方で捕球まで時間がかかるので盗塁しやすくなる。そして捕手は盗塁を抑えようと早くナックルボールを捕りに行こうとして落球してしまい、それがためにミスがかさんでいつしか普通の球も捕れなくなる、捕手イップスに陥る。 特にナックルボールについては私もこれまでその仕組みに興味を持っていたことから、今回非常に専門的な内容を東野氏が実に素人にも解りやすい平易な文章で語ってくれているので深く理解することが出来た。 回転していないボールがわずかに盛り上がっているボールの縫い目に風の抵抗を受けることで回転し、それによって再び他の方向から風の抵抗を受けてボールが不規則に揺れて、予測不能の方向へと落ちていく。さらに揺れずに回転しないまま進むナックルボールもあるらしく、それは初めて聞いた。 また面白いのは流体の流れを正確に把握する羽原円華がそれぞれのエピソードでスーパーコンピュータ並みに計算して解き明かす一方で、最終的にそれぞれの登場人物の問題を解決するのはそんな数式やロジックではなく、各々の心に発破をかけて思いの力で克服させる、いわば論理よりも感情に働きかけていることだ。 スキージャンパーに妻と息子へ自身の最高のジャンプを見せるために円華はジャンパーの妻にジャンプの合図をさせれば、最盛期のようなジャンプができるだろうと確信してその役割を託す。 引退を控えた捕手の後継者がナックルボールを捕ることが出来ないことからイップスになってしまったのを、若い娘である自分でも青痣作るほど猛練習すれば捕れるようになるのに逃げてばかりで情けないと叱咤する。 川に落ちて溺れて一命を取り留めるも植物人間になってしまった息子をすぐさま泳ぎの得意な妻が飛び込めばもしかしたら助かったかもしれないと悔恨の日々を送る父親をくよくよ考えても仕方がないと諫める。 自分の決断の遅さで植物人間となった息子が妻と同様に自分を恨んでいるだろうと思い込む父親に息子と自分が遊んでいた時の音声を流すと脳が反応することを示して薄子が会いたがっていると教える。 大学の非常勤講師をしていたパートナーが登山の事故で亡くなったことが自殺であると悲嘆に暮れていたゲイの音楽家にそれが彼が受けた依頼のドキュメント番組のテーマソングを作るための素材収集としてその山特有の地形によって生み出される大地の息吹のような風音を録音するために訪れたことであることを証明する。 それらは結局物事と云うのは論理や計算などでなく、困難を克服しようとする人の心の持ちようなのだと、いや人の心の力は論理や計算を凌駕する力を持っているというのが円華からのメッセージなのだ。 円華は自分が他の人にはない能力を持っているからこそ、それぞれのエピソードに登場する人物のタレントを状況のせいにして容易に諦めることが我慢ならないのだと思う。 最盛期を過ぎたベテランスキージャンパーが小さい息子が往年の活躍を知らないため、ピザの宅配が仕事だと思われており、このまま怪我のせいにして本領を発揮できないまま、その勘違いを抱かせたまま、選手生命を終えることに腹を立てる。 今まで誰もなしえなかったナックルボーラーを自分の球が捕れるキャッチャーがいないからという理由で引退しようとするピッチャーにキャッチャーの後継者候補を一緒に育てようと鼓舞する。 聴く人が胸を打つ音楽を次々と生み出す作曲家が自分のせいでパートナーガ自殺したと思い込んで創作意欲を無くすことを勿体ないと思い、真相を明らかにする。 このように連作短編集のような構成になっている本書だが、一応全体を貫く縦軸の物語はある。それは羽原円華が自身の母親を巨大竜巻の事故で亡くした苦い過去から竜巻のみならず、ダウンバーストなどの異常気象のメカニズムを解き明かすために乱流の謎を解き明かすため、北稜大学の流体工学の准教授筒井利之の許を訪れていることと、『ラプラスの魔女』へのつなぎ役となっていることが判明する工藤ナユタの再生だ。 そして青江修介登場のエピソードとも云える最終章「魔力の胎動」は温泉地で硫化水素中毒死した家族の死の真相を彼が解き明かす話だ。 硫化水素濃度が濃いため、立入禁止区域となっていたエリアになぜ温泉旅行に来ていた家族はわざわざ立入り、そして中毒死したのか? そして調査に来た青江達に何かと絡んでくる会社経営者の初老の夫婦は事件のせいでキャンセルが多いこの温泉街にわざわざ来たのか? 上記の2つの謎のうち、1つ目は子供想いの家族たちがボタンの掛け違いで起きてしまった哀しい事件だったことが判明する。家族旅行した親子が子供のために仕組んだ宝探しの地図に描かれた宝の在処を示した×印があろうことか立入禁止を示した簡素な×印とを勘違いしてしまったために起きた何とも云いようのない真相だった。 また会社経営者の男は以前からこの温泉街を訪れており、火山ガスが有害であることを知っていた。そして彼の経営する会社の業績が悪化しており、自分に掛けた生命保険金を家族や周囲の人間たちのために残そうと事故と見せかけて自殺しようとしたのだった。 しかし直前になってその温泉で一家心中のような事故が起きたため、今度は知り合いのホステスに頼んで自殺志願者を演じてもらい、彼女を助けるために誤って死んでしまったように見せかけようとしたのだった。 連作短編集のような本書を読んだ感想はこの羽原円華の特殊能力を活かした物語をシリーズ化するのは五分五分と云ったところだろうか。彼女の自然現象を論理的に解析して予測する能力を活かしたエピソードが本書では5つのエピソードのうち2編のみであることを考えると、ヴァリエーションはいくつか出来るものの、シリーズ化となると流石に厳しいのではと思ってしまった。 しかしもっと成立条件に制約のあるマスカレードシリーズについては東野氏は光明が見えたと述べているから、もしかしたらこの羽原円華の物語もシリーズ化するかもしれない。 万物の理を見切る特殊能力者を主人公に据えた東野作品としては珍しい設定であり、彼女に関わる人間の心を動かす、情理の両輪を両立させた物語だけに新たな作品がどんなものになるのか、大いに期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今度のスティーヴン・キングが舞台にしたのはネヴァダ州の砂漠にある小さな鉱山町デスペレーション。チャイナ・ピットと呼ばれるアメリカ最大の露天掘りの銅鉱山の町だ。
そこにいる狂える警官によって狩られる旅行者たちの物語だ。 そう、本書はキングのもはや一ジャンルとなったサイキック・バッテリー物である。但し『シャイニング』や『ペット・セマタリー』のようなホテルや家ではなく、町そのものである。 物語はしかし最初は田舎の町を独裁する警察官の横暴の数々が描かれるため、悪徳警官小説だと思われた。 よく田舎の町ほど恐ろしいところはないという。なぜなら田舎には町を牛耳る権力者がいれば、その者こそがその町の秩序であり、法となり全てを思いのままに支配することが出来るからだ。つまりいわゆる世間一般の常識が通用しなくなる。 そしてこのデスペレーションでは警官コリー・エントラジアンこそが法である。彼は自分の好きなように旅行者に絡んで職務質問をしたかと思うと有罪となる証拠を見つけ―もしくはでっち上げ―ると痛めつけた後、自身が統治するデスペレーション警察に連れて行き、牢屋に監禁する。彼は決して彼ら彼女らを殺さず、じわじわと嬲って愉しむ。 しかし物語が進むにつれてこの巨漢の悪徳警官が次第にこの世ならざる者、即ち異形の者であることが判明していく。 その予兆はまずその警官が放つ意味不明な言葉から始まる。彼は旅行者を尋問する際に時折「タック!」という言葉を放つ。尋問された旅行者はその意味不明な言葉に戸惑い、被害者の1人マリンヴェルは思わず意味を問うが、コリーはそれは自分が云ったのではなく、貴方が云ったのだとまともな返答をしない。 やがてそれは「タック・オー・ラ!」や「タック・オー・ウォン!」、「ミ・ヒム」、「エン・タウ!」などの理解不能な言葉が出てくるにつれ、コヨーテやハゲタカ、隠者蜘蛛やガラガラ蛇、クーガーなどを使役する呪文の類だと思わされる。 物語の半ばで判明するのは鉱山町デスペレーションのある黒歴史だ。銅鉱だけでなく、金や銀も取れていた時代にさらに深く坑道を掘り進めるために緩い岩盤の中を掘っていくのを恐れた白人の鉱夫たちの代わりに雇った中国人労働者たちが落盤事故のために生き埋めになってしまったのだった。その数は白人の現場監督と工程主任を入れた57人。そして鉱山技術者とオーナーたちは救出のために落盤事故を誘発するのを恐れ、結局発破をかけて坑道を閉じてしまったのだった。そう、チャイナ・ピットの名は数多くの中国人の犠牲者が出たことに由来しているのだ。 その後2人の中国人たちが酒場に乱入して7人を撃ち殺すという事件が起きた。犠牲者の1人は坑道を塞ぐことを決めた鉱山技師だった。そしてその中国人たちは捕まった時に中国語で喚いていたが、なぜか周囲の人たちには生き埋めにされた中国人たちが復讐しに戻ってくると云っているのが判ったという。 しかしそれは後ほど捻じ曲げられた言い伝えであることが判明する。呪われた坑道から命からがら逃げ延びたチャンとシンのルーシャン兄弟がキャン・タによって狂ってお互いに殺し合う中国人たち―その中には兄弟の婚約者もいた!―を自身でツルハシを使って落盤を起こさせ、事故として報告したのだった。しかし結局彼らもキャン・タに取り憑かれてしまい、悲惨な末路を辿ることになる。 そしてこの得体のしれない悪と戦う囚われの旅行者たちの中で切り札となるのがデヴィッド・カーヴァーという少年だ。彼は家族旅行でラスヴェガスとタホー湖を訪れた道中でコリー・エントラジアンが仕掛けたハイウェイ・カーペットによって車のタイヤを全てパンクさせられてパトカーに乗せられてデスペレーションまで連れられたカーヴァー家の長男だ。 彼は前年の11月に親友が登校中に車に轢かれて重体に陥るという災禍に見舞われた。デヴィッドはその日たまたまウィルス性疾患に罹って休んでおり、友ブライアン・ロスのみが悲劇に見舞われたのだった。ブライアンは頭が変形するほどの重傷で意識不明の状態でもはや助かる可能性はゼロに近いと思われたが、デヴィッドは神に祈ることでブライアンが奇跡的に意識を取り戻して一命を取り留め、普通の生活を取り戻すまでになる。 それ以来彼はカトリックのマーティン師の許に通って信仰を深め、神に祈りを捧げることを日課とする。やがてそれは神との対話を実現することになる。そして彼が神と繋がった人物であることを示すように囚われの身となった仲間たちを救う導き手となる。 つまり本書は善なる神と邪悪な神との戦いへと変貌していくのだが、それはキング作品ではこれまで見られなかったほど、伝奇的色合いが濃くなっていく。鉱山という特殊な舞台ゆえか田舎町に残る言い伝えや呪いの類が本書の恐怖の根源となっている。恐らくは世界各地にある鉱山に纏わる逸話なども盛り込まれているのだろう。 昔の鉱業は死と隣り合わせの危険な仕事だった。いつ崩れるか判らない岩盤をツルハシやハンマーとノミなどで砕きながら掘進し、少しでも多くの鉱石を昼夜問わず、まとも立つこともできないような坑道の中で長時間、熱気と不自由な姿勢を強いられながら掘っていく鉱夫たち。やがて坑道の大きさが小さくなるにつれて体格の大きいアメリカ人たちにはもはや掘り進める作業には耐え切れず、呼び寄せた大量の中国人労働者が変わってどんどん休みなく掘り続ける。そして彼らは知らずに脆い岩盤の下に達し、落盤事故に遭ってある者は死に、またある者は生き埋め状態になってしまう。しかし経営者たちにとって当時は変わりはいくらでもおり、寧ろ救出しに行って二次災害とこの鉱山がもはや危険であるとの判断から救出せずに無駄死にすることを望む。 そんな忌まわしい歴史が今再び花開くことになったのは採掘再開をして忌まわしい石像たちが並んだ空洞を発見してしまったことだった。これこそが全ての元凶である。 この呪いの象徴として登場する小さな石像は様々な形状があり、奇妙にねじれた頭部と飛び出た目を持つ狼像や舌が蛇になっている狼像、その他蛇に片方の翼が欠けたハゲワシ、後ろ足で立ち上がったネズミなど、そんな醜悪な形をしている。そんな石像がチャイナ・ピットと呼ばれる露天掘りの坑道から出てきたことで人々は狂い始める。 そして今回の悲劇の発端が廃鉱になったと思われていたチャイナ・ピットの採鉱再開を計画し、そしてそれに見合う利益をもたらす鉱石を発見した鉱山会社に全てが集約されるだろう。 パンドラの箱を開けてしまった鉱山会社の愚行の産物。しかし同じ鉱山会社に勤める身としてはこの鉱山会社には同情を禁じ得ない。 世界各国の有望な鉱山がどんどん採掘権を取られ、寡占化している事に危機感を覚えるからだ。そして資金力のない鉱山会社にとって新たな鉱山開発は想定よりも鉱石が出なかった場合は、莫大な借金を抱えることになり、倒産の憂き目に遭ってしまう。私の勤める会社もそれまでは採算性の悪さから処分していた低品位の鉱石からメタルを取り出していることを考えると、他人事とは思えなくなってくる。 さて本書のテーマとして合言葉のように交わされるのは「神は残酷だ」のセリフ。 祈ることで奇跡を起こしたデイヴィッドは一方で神が全てを叶える訳ではないことを悟る。彼は神と繋がることで逆に神の意志を知り、神が誰かを助けるために犠牲を強いることを知る。全ての救いは等価交換であることを知るのだ。 彼は生き残りの仲間の最年少だが、神と繋がる能力のためにリーダーシップを発揮する。しかしその代償として最も犠牲を強いられた者でもある。 デイヴィッドはその都度神に問いかける。なぜそんなことを自分に強いるのかと。 そして小説家マリンヴェルは自身がデイヴィッドと同様に特別な存在であると悟りながらもその運命に逆らおうとする。それは自身にとってハッピーエンドにならないことが朧気に見えているからだ。 全ては神が仕組んだものだったのか。それは正直判らない。 ただ最後デスペレーションを去るデイヴィッドが手にした早退許可証の紙片は彼がオハイオの学校で去年の秋に木に打ち込んだ釘に突き刺したものだ。なぜそれがマリンヴェルの手に渡ったのかは判らない。 しかしそこにはマリンヴェルの、〈神は愛なり〉という聖書の言葉を信じて生きていけという激励のメッセージが添えられていた。 残酷な神の仕打ちによってその人生の幕を閉じた小説家がどうやってこの少年に紙片を渡したのかは判らないが、最後に彼が手向けたのは神を信じろという言葉だったのは深い。 実は鉱山業と神は縁が深い。 山には山の神がいると信じられ、今なお山の神に家族と事業の無事を祈る儀式が行われている。それは採掘作業が死と隣り合わせであり、一度崩れた岩盤から閉じ込められた人々を救い出すのが実に困難であるからだ。 そういう意味で云えばタックは邪な山の神なのではないか。鉱石という自然の物を山の身を削って掘り出そうとする人間たちに呪いをかける邪神、それがキャン・タックであったのではないだろうか。そんな不遜な人間から山を護るために彼はコヨーテやハゲタカ、隠者蜘蛛やガラガラ蛇、クーガーを操り、締め出そうと威嚇し、また時に殺戮を行ったのではないだろうか。つまり人間が踏み込んではいけなかった領域こそがキャン・タックの住処だったように思える。そこが〈絶望〉という名の町なのは皮肉というよりも必然であったように思える。 今思えば色んな暗喩に満ちた作品だったように思える。 環境破壊の元凶とも云われる鉱山業の人々に鉄槌を下すキャン・タックは山の神の怒りであるように思える。 しかし正直この最後の結末を含めて私は本書を十分理解できなかったように思える。さて次は本書の姉妹編であるリチャード・バックマン名義の『レギュレイターズ』を読んで本書で腑に落ちなかった部分を補完してみよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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クーンツ自身が大の犬好きであるためか、彼の作品ではしばしば犬が登場し、重要な役目を果たす物が多くあるが、その中でも最も評価が高いのは高いIQを持つ犬アインシュタインとアウトサイダーの戦いを描いた『ウォッチャーズ』だろう。
そしてそのアインシュタインを彷彿とさせる人語を解する知能の高い犬が再び登場するのが本書である。しかもそれは1匹だけでなく、何頭も登場する。ごく僅かな人間しか知られていない高度な頭脳を有する犬たち、すなわちミステリアムが存在する世界を描いている。 作中、ミステリアムの1匹キップを飼っていたドロシーがこの犬たちについて遺伝子工学の産物ではないかと話すシーンがある。彼女は画期的な実験で生み出された犬が研究所から逃げ出したのではないかと述べる。 『ウォッチャーズ』は知性ある犬アインシュタインの子供たちが生まれ、主人公がそれら遠くへ巣立っていき、そしてアインシュタインの子孫が広がっていくと述べて閉じられることから、このミステリアム達の存在はアインシュタインの子孫たちと思って間違いないだろう。従って本書は『ウォッチャーズ』から33年を経て書かれた続編と捉えることが出来よう。 クーンツはもしかしたらキングが『シャイニング』の続編『ドクター・スリープ』が36年後に書かれたことに触発されて本書を著したのかもしれない。クーンツはいつもキングを意識しているように思えるので。 さて本書は高度自閉症の少年ウッディことウッドロウ・ブックマンとその母メーガン、そしてミステリアムのキップと成り行きでこの犬をブックマン家に連れて行くことになった元海軍特殊部隊隊員ベン・ホーキンスと、以前の飼い主で資産家のドロシー・ハメルから彼女の全財産と共にキップの飼い主の座を譲り受けた住み込みの看護師ローザ・レオンらが導かれるようにブックマン家で一堂に会して、一種のチームとなる。そんな彼女たちを、自身の会社の研究所で培養していた古細菌を体内に取り込んで人獣化しつつある元CEOでメーガン・ブックマンの元恋人のリー・シャケットと、父親のヘリコプター墜落事故死が彼の上司で巨大コングロマリット、パラブル社のCEOドリアン・パーセルによる陰謀だったのではないかと彼のアカウントをハッキングしていたウッディを見つけて抹殺しようとする殺し屋集団〈アトロポス&カンパニー〉が抹殺しようと襲撃する。 この善と悪の戦いの物語なのだ。 善の側の登場人物の中心はなんといってもウッドロウ・ブックマンことウッディだろう。自閉症で生れ、11年間生きてきてこれまで一度も言葉を発したことがない。生まれて2,3年は泣き声を挙げていたがそれ以降はそれさえも無くなったと母メーガンの独白にはある。そして彼はIQ186を持つ天才少年で4歳で本を読み始め、7歳の時にはもう大学レベルの本を読んでいた。そして彼は天才ハッカーでもあり、自分の父親ジェイソンの死を上司による策略と疑って、2年近くに亘って書き溜めた『息子による復讐―忠実に編纂された怪物的巨悪の検証』を書きあげる。 そして彼こそはミステリアムと人間を結び付ける鍵となる。キップ達ミステリアムは〈ワイアー〉と呼ぶ独自の遠隔通信能力で会話をし、仲間たちと連絡を取ることが出来る。幕間に彼らの情報発信の中心犬であるベラが全米で発見されたミステリアムの仲間たちについて常に発信している〈M通信〉が挿入される。そしてウッディはこの〈ワイヤー〉を使ってミステリアムと通信できる能力を持った人物なのだ。 これによってミステリアムのキップは引き寄せられ、途中で知り合った元海軍特殊部隊隊員のベン・ホーキンズを連れてウッディ達ブックマン親子と合流することになるのだ。 また彼の母親メーガンも自立した強い女性として描かれる。 3年前に巨大IT会社パラブル社に勤めていた夫を事故で亡くした後は大学後からも続けていた絵描きの才能を磨いて、絵を売って生計を立てている。しかも彼女の絵は評価が高く、ニューヨーク、ボストン、シアトル、ロサンゼルスに支店を持つ大手画廊と契約を結んでいるのだ。 また彼女は言葉を発しないウッディにこの上ない愛情を注ぐ。母親として何か声を掛けてもらいたい気持ちを抑え、100パーセント気持ちを分かち合えないことに胸を痛めながらも、息子が時折見せる笑顔を癒しとして生きる女性だ。そのため、ウッディが初めて言葉を発したときの彼女の感動が目に浮かぶようだ。 ただその言葉が「ちがうよ、キップっていう名前なんだ」と突如現れた犬に関する説明だったことは少しばかり母親としては残念だったのではないだろうか。しかしその後ウッディは母親にずっと感謝していたこと、愛していたことを矢継ぎ早に告白するのだ。その時の万感の思いが推し量られるというものだ。 ちなみに本書の原題は“Devoted”つまり「献身」だ。つまりこのメーガンの献身こそが本書のメインテーマなのだろう。 さらに彼女は悪玉のリー・シャケットが寄りを戻したくなるほど、また捜査を担当する保安官ヘイデン・エックマンが顔を思い浮かべて部下でもある自分の恋人のリタ・キャリックトンとセックスに興じるほど、そしてキップを連れてきたベン・ホーキンスが惹かれるほどの美貌を持った女性でもある。 一方でその美貌ゆえに同性からあらぬ憎しみを受けることもあるようで、リタ・キャリックトンはメーガンが男を手玉に取る女だと決めつけたりもする。 一方敵方リー・シャケットはクーンツ作品ではおなじみのいつもエゴと自尊心が肥大した登場人物で、困ったほどに俺リスペクトの性格が増長している。メーガンと過去に付き合って、ちょっと気に入らないことがあったので気を惹くために他の女性と付き合っている最中に有人のジェイソン・ブックマンに取られたことを根に持ちながら、今でもメーガンが自分のことを好きであると信じて疑わない男だ。それはジェイソンとメーガンとの間に生まれた子が自閉症の少年であったことで彼は彼女がジェイソンとの結婚を後悔していると決めつけているからだった。 彼は自分の会社リファイン社のスプリングヴィルの研究所が親会社のCEOドリアン・パーセルの命令によって行っていた古細菌を適用する不老不死の研究によって起きた火災事故から一人逃亡した人物だ。92人の社員を犠牲にして一人逃げ出した彼はその際に古細菌を吸い込み、逃亡資金として1億ドルを持ってメーガンと共にコスタリカに高跳びしようと彼女の許に向かう。それは夫を喪った彼女ならかつて自分と付き合っていた自分と一緒になりたいと思うだろうし、またコスタリカに自分が行きたいから彼女も従うだろうと何とも身勝手な理由ばかりを並べて行動なのだ。 また彼の上司ドリアン・パーセルもIT界の寵児で世界を制する者と称されながら社交的な活動は一切せずに冷凍ピザや冷凍ワッフルにアイスクリームなどを好み、数多くのゲーム機器を備え持ち、1000枚近いハードコアポルノのDVDを所有するという思春期真っただ中の大人になり切れない大人である。 クーンツは昨今のIT業界のトップは子供のまま大きくなった大人ばかりだと揶揄しているようだ。 しかし何とも呆気ない幕切れである。 またもやクーンツの悪い癖が出てしまったように感じる。 しかし今後クーンツはこのミステリアムの連中が活躍する物語は書かないのだろうか? 例えばキップが述べている最高に賢いソロモンとブランディという犬のカップルも登場せぬままである。『ウォッチャーズ』の世界観を再起動させた本書によってクーンツはもしかしたら続編を書くかもしれない。 しかしやっぱりクーンツはとことんハッピーエンドの作家であると再認識した。 以前熱心な読者だった私はスティーヴン・キング作品を一つも読んでいなかったのでクーンツ作品を存分に楽しめたが、キング作品を読んでいる今ではクーンツ作品の粗さがどうしても目立ってしまう。 上に書いた纏め方もそうだ。ハッピーエンドに拘りすぎて、あまりに拙速、あまりに強引すぎるのだ。深みや余韻を感じられないのだ。 例えばメーガンがリー・シャケットに魅かれず、ベン・ホーキンスに興味を持ち、結婚するに至るが、これもリーが頭もよく、気も効くが感受性に乏しく、彼女の自閉症の息子が足枷になっているとしか思えなく、また彼女の描く絵も理解できないのに対し、ベン・ホーキンスが彼女の絵を見て感動し、そして彼女の美しさよりもこのような美しい絵が描ける内面の美しさに惚れる違いが描写されるが、これに準えるならばリー・シャケットがクーンツ作品であり、ベン・ホーキンスがキング作品とでも云おうか。 この差が今のキングとクーンツの訳出作品の数の差になっていると思うし、キングが何を書くか、どう描くかを熟考しているのに対し、クーンツはテーマやモチーフを変えて単に読者を愉しませるためだけの技巧とフォーマットに当てはめているだけのように感じてしまう。 それはこの前に読んだ田中氏の『髑髏城の花嫁』に登場する当時の人気作家ディケンズとサッカレーのエピソードと同じだ。そしてキングはディケンズに倣って分冊形式で『グリーン・マイル』を刊行したことを考えるとやはりこの2人は現代のディケンズとサッカレーの関係のように思える。 ただ2人が彼らほど仲が悪いかは不明だが。つまりキングが後に残る作家だとしたら恐らくクーンツ作品は後に残らないだろう。それはクーンツの既刊作のほとんどが絶版になっていることからも明らかである。 しかしこの作家は今後もこの道を進むのであろう。改めてクーンツ作品の読み方を認識させてくれた作品だ。 しかし今回は題材が良かっただけに本当に勿体ない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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田中芳樹氏の新シリーズ、ヴィクトリア朝怪奇冒険譚シリーズ第2作が本書。
田中氏のシリーズ物はなかなか完結しないので有名だが、本書においては三部作と決まっており、しかも最終巻も珍しく既に刊行済み。1作目の『月蝕島の魔物』が2007年、本書が2011年で最終巻の『水晶宮の死神』が2017年に刊行と本当に田中氏のシリーズ作品としては実にスピーディに完結しているのは奇跡に近い。 今回エドモンド・ニーダムとメープル・コンウェイが訪れるのはイギリス北部のノーザンバーランドに聳える髑髏城が舞台。但し1作目もそうだったようにこのシリーズは田中氏オリジナルの味付けがなされた怪物が登場するのが特徴で、本書も同様。 まず物語の発端として十字軍の遠征がプロローグとして語られるが、それが7回に亘って行われた十字軍の遠征のうち、歴史上「キリスト教史上の不名誉」とか「十字軍の恥さらし」と呼ばれている第4回十字軍のエピソードである。 本来聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣されているのに資金難のため、ベニスの商人に多額の借金をすることになり、地中海の商業権を独占しようと企む彼らに唆され、同じキリスト教徒である東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに攻め入った無様な軍なのだ。そしてコンスタンティノープルを陥落させた後、その悪行三昧が問題になり、北方の辺境への遠征を命じられ、あえなく撃沈することになった十字軍のたった1人の生き残りユースタス・ド・サンポールを、ダニューヴ河畔に聳える髑髏城の主、永遠の命を持つ絶世の美女ドラグリラ・ヴォルスングルが見初めたことがニーダムたちの敵となる新フェアファックス伯爵ライオネル・クレアモントに繋がる。 さて髑髏城と聞いて私はすぐにディクスン・カーの『髑髏城』を想起した。カーの髑髏城は本書のダニューヴ河畔ではなくライン河畔、本書ではかつての東ローマ帝国が舞台なのでルーマニアになろうか。そしてカーはドイツで微妙に位置は異なるがほぼ似たような地方である。 そして本書の髑髏城の主ドラグリラはワラキアの貴族であり、ワラキア公国と云えば、吸血鬼ドラキュラのモデルとなった串刺し公ヴラド・ツェペシュである。つまり吸血鬼の系譜であるのだが、敢えて田中氏はそう安直な方向に進まないという田中氏なりの矜持なのか。 さて本書ではシリーズ1作目の後での出来事であり、直接的には関係ないのだが、1作目のアンデルセンとディケンズの旅のその後も語られる。 なんとアンデルセンがディケンズの家に泊まりに行き、親切にしてくれたことを吹聴したことで小説家志望の人間やファンの連中がアンデルセンに紹介状を書いてもらってディケンズの家まで押しかけ、自分の原稿を読むことを強要したり、出版社への紹介や家に泊めてくれと頼んだりとかなり迷惑したことが書かれている。アンデルセンがディケンズの家に泊まりに行ったことが史実だったことを考えるとこれもまた史実なのだろう。 また1作目に続いてウィルキー・コリンズが幕間でしばしば登場する。彼も直接物語には関わらなく、当時彼は人気作家だったらしいが、よほど田中氏はこの作家を気に入っているのだろうか。 そして田中作品には歴史上の蘊蓄が語られるのが常だが本書も例外ではない。例えば、ディケンズとサッカレーが当時仲が悪かったのは有名な話のようで、彼ら2人がインドカレー店でお互いに激辛カレーの我慢比べをするシーンでそれが強調される。 これは上の2大作家が犬猿の仲で会ったことに加え、インドから戻ってきたイギリス人によってインドカレーがイギリスで親しまれ、広く食べられるようになったことを示している。 またインドに赴任した総督は当時のイギリス大臣の5倍の年俸をもらっていたようだ。私の海外勤務中は1.8~2倍でそれでも多いと思っていたが、まさかこれほど差があるとは。 ただやはり向こうの気候や風土に合わなくて赴任中や帰任して死去する総督も多くいたらしい。 侵略者の彼らが行った功績の1つに「サティーの禁止」がある。当時インドでは夫が妻より早く死ぬと妻は一緒に夫と共に生きていても火葬にされなければならなかったらしい。常々インド人は家長の権力が強すぎて、それに逆らう者は家族であっても命を奪う思想が今でも残っているらしいが、非人道的な物凄い風習である。 またダニューヴ河口に全世界の7割のペリカンが繁殖のために集結し、ペリカンは大きな口で一気に魚を食べてしまうから当地の漁師たちに嫌われているいわば害鳥でもあるらしい。 しかしよくよく考えると基本的に鳥が空を飛べるのは自身の身体が軽く、尚且つ空を飛ぶほどの翼を動かす筋肉が発達しているからだが、水も含めてそれだけの魚を口に含んでも空を飛べるペリカンの筋力は物凄いのではないだろうか? つまりペリカンは案外食べると美味いのでは? またニーダムと戦友のマイケル・ラッドがライオネル・クレアモントを髑髏城に送る道中のダニューヴ河で大ナマズに襲われ、格闘するシーンが登場するが、この河には本当にヨーロッパ大ナマズという体長2mを超すナマズが今でも生息しているらしく、しかも人間を襲うこともあるらしい。単に冒険活劇のために設えた生物ではないようだ。 また本書ではスコットランド・ヤードの創設者の1人でイギリスで最初の刑事でもあるウィッチャー警部も登場するのだが、私がかねてより思っていたロンドン警視庁がなぜスコットランド・ヤードと呼ばれているのかが本書で語られる。スコットランドがまだイングランドと別の国だった頃にスコットランド王室の御用邸があり、両国が統合され、御用邸が無くなった広大な跡地に警視庁が建てられたことが由来のようだ。 こういった教科書では習わないエピソードが私にとっては非常に興味深く、面白い。 ただ本書に登場する岩塩の山をくり貫いて髑髏の形に仕立て上げた髑髏城はさすがに作者の創作のようだ。上に書いたように吸血鬼伝説の色濃いルーマニアを舞台にしているからこそさもありなんと思わされるが。 東欧の歴史は私が世界史を専攻していなかったせいかもしれないが、さほど日本人には知られていないように思われ、今回1907年の東欧を舞台であることから彼の地が歴史上いかに混沌としているかが解ってくる。19世紀には次々と正体不明の人物が国王を名乗っていたとのことで、更に本書の敵フェアファックス伯爵はそれらを統合するヴラヒア国王になるとの野心を抱いている。 上述のようにフェアファックス伯爵ことライオネル・クレアモントは髑髏城の主ドラグリラ・ヴォルスングルとユースタス・ド・サンポールとの間に生まれた子であり、髑髏城の最初の主はイエス・キリストや仏陀やモーゼさえも生まれていない昔からスカンジナビアに住んでいたナムピーテスというバイキングの有力な一党の一族で、その中の1人ハルヴダーン・ナムピーテスであった。このナムピーテスという名前はナウビトゥルというスカンジナビアの古い言葉に由来し、その意味は「死者をついばむ者」である。 そしてこのナムピーテス族は勇猛かつ残酷で他のバイキングからも一目置かれていた。そして彼らが東ローマ帝国の都コンスタンティノープルに渡り、そこで産出される琥珀を運ぶ商隊の警護をして目覚ましい活躍を見せたのでヴラヒア国王の称号を授かったのだった。 ただ本書の物語の展開は唐突感が否めない。なんせニーダムとメープルはライオネル・クレアモントの依頼でノーザンバーランドの荘園屋敷に図書室や書斎を作るために訪れたのにいきなりそこで集めた血族たちを殲滅して富と権力を独占しようという大量虐殺に巻き込まれる展開が理解し難かった。 目的の異なる人物たちをなぜ一堂に集める必要があるのか。つまり手段と目的の辻褄が合わないのだ。 そんなちぐはぐな印象の中で一気に物語は荘園屋敷で殲滅作戦が行われ、それに巻き込まれたニーダムとメープルの2人が自身の生き残りを賭けて、ライオネルと対決するようになり、物語が一気に結末へと向かう。ここら辺はどうもやっつけ仕事のように感じてしまった。 あと今回登場するクリミア戦争時の戦友マイケル・ラッドの存在がほとんど生きてない。口が達者なお調子者のラッドはクリミア戦争が終わった後もスクタリ野戦病院でナイチンゲールの手伝いで戦傷者たちの世話をしていたが、衰弱したライオネルをダニューヴ河畔にある髑髏城に現地除隊証明書を渡すという条件で共に連れて行った仲である。ライオネルは無事髑髏城へ送ってくれた謝礼にそれぞれに2500ポンドを渡したが、ラッドはニーダムに金貨50枚を渡しただけで自身の分も含めて5000ポンドせしめた、何ともしたたかな男である。 またイギリス最初の刑事ウィッチャー警部も、ラッド同様にさしたる活躍も見せないままである。 とまあ、様々な役者が登場しながらも結末はいささか肩透かしを食らった感は否めない。 というよりも主人公のエドモンド・ニーダムはクリミア戦争のバラクラーヴァの激戦を生き残った銃の名手というキャラ付けがなされているものの、書中の挿画に描かれた穏やかな風貌の英国紳士というイメージが怪物たちと渡り合うタフなヒーローへ結びつかないのだ。そして好奇心旺盛なこよなく書物を愛する姪のメープル・コンウェイもまたその書物愛とジャーナリスト志望という芯の強さだけが特色で、苦境を乗り越える線の太さを感じない。 つまり一般人に少しばかり特徴づけられた主人公2人に対して、相対する出来事が怪物や人外の者との遭遇と戦いというスケールの大きさと釣り合わない違和感をどうしても覚えてしまう。 とはいえ、本書ではその辺のバランスの悪さにこだわるよりもやはり田中氏の博識に裏付けられた裏歴史のエピソードや次々と登場する歴史上の人物、しかもこれまたイギリス文壇の著名人やウィッチャー警部ら学校では習わない有名人たちとの織り成す物語に素直に浸る方がいいのだろう。 さて最終巻の2人の関係にも何か進展があるのだろうか。 しかし彼ら2人は小父と姪の関係であり、近親過ぎて結婚はできないはずだ。なので2人の間での色恋沙汰は期待できないだろう。 果たして田中氏はどんな結末を持ってくるのか。ただ単に後日談が語られるだけの味気ないものにならないよう祈りたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ジェフリー・ディーヴァーの久々のノンシリーズ作品である本書は実に変わった構成の作品だ。なんと終章36章から始まるのだ。
そう、本書は物語を逆行して語られる。従ってなかなか物語の全容が見えにくい。 しかしこれがまたこれまでにない先入観をことごとく覆す展開になっていく。 いわば本書は時間を逆行することで物語の前提条件や人物設定が後から判明していき、先入観が覆される構成になっている。本書はそんな小技の効いたどんでん返しが数々散りばめられている。 しかしそれでもやはりこの作品は読みにくかった。時系列を逆行することで前章の結末から次章への繋がりがスムーズになされないからだ。 例えば30章が終わると次の29章の始まりはその30章へとつながる箇所の数分前とか1時間前に設定されているため、物語の展開が唐突すぎて頭に素直に入っていきにくいからだ。 このような最後の最後で計画の全容が判明する物語は数多あり、特にスパイ小説の類では複雑怪奇な構図が明かされるわけだが、その構成とほぼ同じである。 いわば本書は敢えて時系列を遡ることを想定して書かれた物語であると云えよう。 あと最後に付される目次に書かれた各章題を見ながら、各章の写真を見るとまた別の意味が立ち上ってくるのも憎らしい演出だ。特に第9章の馬の写真と章題「サラ」は1章を読んだ後だと笑えるし、第14章の骸骨が砂の中から出ている写真と章題「ダニエルの最初の仕事 一九九八年ごろ」を照らし合わせると228ページ3行目からのエピソードが別の意味を伴ってくる。 とこのように様々な仕掛けが読後に立ち上ってくる作品である。従って本書は読み終わった後に色んな読み方ができる作品だと云えよう。 例えば今度は1章から読むと感じ方も変わるだろうし、また同じように第36章から読み返すとさりげない伏線や描写の数々にほくそ笑むことだろう。 また目次の章題を照らし合わせながら読むとそれまで気付かなかった写真や文章の意味合いに気付かされることだろう。 ただやはり本書はアラフィフの自分には場面転換、時間軸の巻き戻しに頭を慣らすのが難しかった。機会があればもう一度読んでみると、上の評価もまた変わるのかもしれないが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は御手洗潔シリーズの1冊であり、京大時代の若かりし御手洗が解き明かした11年前、昭和39年に起きた密室殺人事件の謎を解き明かすミステリである。
さて最近の島田氏は実在する企業をモデルにしている作品が多く、例えば『ゴーグル男の怪』では臨界事故を起こしたジェー・シー・オーを、『屋上』ではお菓子会社のグリコをモデルにしているが、その会社が関係する場所は前者が東海村であるのに対し、福生市にしていたり、後者が大阪道頓堀でありながら川崎にしていたりと微妙に細工を加えているのが特徴だが、本書の舞台は鳥居が両脇の建物の壁を突き破って突き刺さっている京都の錦天満宮そのものを事件現場として、しかも鳥居が突き刺さっている両方の建物を密室殺人事件の舞台としている。 実在する場所をピンポイントで殺人現場にしているのだから、きちんと許可を取っているのか気になるところではあるが。 一方でもう1つ宝ヶ池駅近くにある振り子時計が多く飾られている喫茶店「猿時計」は作者の創作らしい。 さてそんなリアルな場所で起こる出来事は3つ。 1つは昭和39年のクリスマスイヴに起こる妻殺害事件。密室状態の中で家主の半井肇の妻澄子が絞殺された事件だ。 もう1つは同じ日の同じ家の2階で寝ていた娘楓に初めてクリスマス・プレゼントがサンタクロースから届けられる出来事。しかもそれは当時8歳だった楓がほしかったものだが、誰にも話してなかったという。 そしてもう1つは半井肇の姉美子が経営する喫茶店「猿時計」の壁一面に飾られている振り子時計は全て止められているのだが、そのうちの1つ、ヘルムレ社の高級振り子時計のみがいつの間にか動き出すという怪事。しかも両親を亡くして引き取られた楓は夜中に小さな猿が入って動かしているというのだった。 さてこの密室殺人は正直解ってしまった。 しかしなんとも身悶えしてしまう事件である。いわばこれは献身の物語でもある。島田版『容疑者xの献身』ともいうべきか。 しかし本書の舞台を御手洗潔の若き日にしたことで、昭和という時代性が色濃く出ている。 つい先日テレビの番組で昭和時代の常識について触れることがあった。 それは例えば信じられないほどの満員電車での通勤風景だったり、また分煙化が成されていない時代での駅のホームの煙だらけの風景やオフィスの机に灰皿が堂々と置かれている状況だったり、はたまたテレビ番組中に出演者自身が煙草を吸いながら進行している映像だったりと今の常識とでは眉を顰めるような違和感が横行していた。 しかしそんな時代だったのだ、昭和は。 本書においてもいわば男尊女卑の意識が根強い家父長制度が横行しているそれぞれの家庭のことが書かれている。 夫が怒るからクリスマスプレゼントは上げられないと云った夫の暴力を恐れて自己催眠を掛ける妻の意識だったり、親の選んだ道を行くことを子供は望まれ、本当に進みたい道を選べなかったり、夫の稼ぎよりも自分の自営の仕事の方が収入がいいことを認めると夫が機嫌を悪くするので敢えて黙っていたり、もしくはそれを夫があてにして乱費するのを黙って我慢したりと女性は常に男に従って生きてきた、そんな時代だ。 それらは確かにこの令和の時代にも残っている考え方や風習だろう。しかしそれらが古臭く感じるのもまた事実なのだ。 特に私が心を痛めたのは国丸信二の母親のエピソードだ。 男に騙され、結局肉体労働の土工をせざるを得なくなり、女手一つで息子を育てるために、街歩く女性が距離を置くほど汗まみれ、泥まみれで働き、そして工務店のつてで東京オリンピックの開会式のチケットをもらうが無理が祟ってその後半年で死亡する。 そしてその貰ったチケットで入場しようとした国丸はそれがその時各地で出回っていた偽物のチケットであることを知らされる。貧乏人はとことん報われないと思わされるエピソードだ。 ただ本書では解き明かされない謎も存在する。 まずプロローグで語られる夜中に集団で跋扈する落ち武者の霊の群れや楓が榊夫婦にヘルムレ社の振り子がひとりでに動き出す現象について夜中に小さな猿が忍び込んで動かしていると云った事の真意についても解らぬままだ。 今までの御手洗シリーズ、いや島田作品では全ての些細な謎まで合理的な解答がなされていただけに、不明なままで終わるこの2つの謎については違和感が残ってしまった。 とはいえ齢70にしてまだ密室殺人事件を扱う作品を書く島田氏の本格スピリットには畏敬の念を抱かざるを得ない。 私でさえ年を取れば読書の傾向は変化していき、昔はガチガチの本格が好きだったのが、ハードボイルドや警察小説などトリックよりも人の心の綾が生み出す物語の妙にその嗜好は変わっていきつつあるが、島田氏は一貫して本格ミステリへの愛情が尽きていない。 そして私が彼の作品を今なお読み続けるのは彼が物語を重視するからだ。物語の復興こそ今必要なのだと単にトリックやロジックを重視しがちな本格ミステリ作家ではない存在感を示しているところに魅了されるからだ。 本書の構成もドイルのシャーロック・ホームズの長編の構成を踏襲している。事件を探偵が解き明かすパートと犯人側の事件に至った背景の物語が描かれている。率直に云えば事件解決のパートだけならば中編のボリュームだろうが、犯人側のパートを描くことで物語に厚みを与えているのだ。 そう、島田氏は本格ミステリを書いているのではなく、本格ミステリ小説を書いているのだ。このドイルから連綿と続く文化を継承しているからこそ、私は彼の作品を読まずにいられないのだろう。 島田氏が綴る市井の昭和年代史ともいうべき作品だ。私も昭和生まれだが、いつの間にか平成時代の方が長く生きていることになった。 そして今は新たな元号令和の時代だ。昭和は既に遠くなりつつある。 本書で京大時代に御手洗が知り合った予備校生サトル君は京大を落ち、同志社大学に合格して入学した。大学入学後にサトル君と御手洗との交流が続いているかは不明であり、今後ヤング御手洗の事件簿が書き継がれるかは不明だが、昭和という時代に生きた日本人の価値観を今後に語り継ぐ意味でも本書のような作品は書かれ、そしていつまでも読み継がれてほしいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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寡作家で知られる梅原克文氏だが、発表される作品は実にスケールの大きな話で知られている。デビュー作の『二重螺旋の悪魔』はバイオテクノロジーによって生み出された生命体と超人間との戦いを描いた上下巻1,000ページを超えるSFエンタテインメント大作であった。
そのデビュー作はしかし巷間の話題にはさほど上らなかったが、一部の目利き読者に注目されることになり、その余波を受けて本書は96年版の『このミス』で8位にランクインした。 そして作風が実に派手派手しく、映像的、いやハリウッド的なのが特徴的である。デビュー作は改造手術を受けたいわゆるヒーロー物からサイバースペースに舞台を移す映画『マトリックス』を彷彿とさせたが、本書もまた同様である。そのことについては後に触れることにしよう。 さてデビュー作のタイトル「二重螺旋」の意味するところは即ちDNAのことでバイオハザードを扱ったものだが、本書の「ソリトン」とは海が舞台であるからギリシア神話に登場する海神トリトンのことを指しているかと私は思ったが、違っていた。 ソリトンとは粒子性を持つ孤立波のことである。減衰もせず、形も崩れない、そして粒子性であるがゆえにソリトン同士が衝突しても打ち消しあわずにそのまま通り抜ける、バランスの取れた半永久的に存在する波動である。そして今回主人公たちや東シナ海にある海洋建造物や油田採掘設備、潜水艦や軍用艦などと戦いを繰り広げる相手がこの波で出来たソリトン生命体なのだ。 作中にも書かれているが、地球の陸地面積は表面全体の29%に対し、海が71%を占める。また陸地の高さの平均は840メートルに対し、海の水深の平均値は3,800メートルと圧倒的に面積及び容積は海が勝っているのだ。 つまり海の全容はまだまだ謎が多く、未知の領域であることから考えると本書に登場するソリトン生命体のように地上の生物の尺度をはるかに超えた生物がいてもおかしくないのだ。 一応その成り立ちについても本書の中で述べているのはやはりこの作者が根っからのSF脳であるからだろう。 さて本書で主人公の倉瀬厚志らヘリオス石油に所属する海底油田基地の面々と海上自衛隊に所属する潜水艦〈はつしお〉の富岡艦長ら乗組員とそのチームから離脱した山田三佐と西たちが遭遇するソリトン生命体は全長約100メートルほどの巨大な平べったい蛇のような外形から通称〈蛇(サーペント)〉と呼ばれる物と直径200メートル、高さ100メートルもの冷水塊の表面を覆いつくすゲル状の生物タイタンボールが登場する。 そして今回の敵、即ちタイトルにもなっている「ソリトンの悪魔」となるのが〈蛇〉だ。 この敵はとにかく破壊によって生じる正弦波を食糧にして生きるため、海洋構造物である海底プラットフォームや潜水艦や潜水艇、軍用艦や海上支援船をマッハディスクという衝撃波を放って破壊しまくる。 さて先ほどから述べているが、本書の主要舞台となる石油採掘の海底プラットフォーム〈うみがめ200〉は2021年現在実現していない。本書でも述べられているが、石油採掘プラットフォームには海上型プラットフォームと浮遊型プラットフォーム、そして海底型プラットフォームの3種類に大きく分かれる。現在前記の2種類のみがあるが、それは海底型プラットフォームのコストが膨大であり、またリスクが高いことに起因するからだ。メリットとしては台風や嵐に全く左右されずに採掘できることだが、本書でも述べられているように非常にトラブルが多く、それを推奨した主人公の倉瀬厚志ですらその選択は誤りだったと認めるくらいだ。 また本書でもう1つ登場するのは海上に建造中の5km四方の規模を持つ海上都市〈オーシャンテクノポリス〉だ。 正直この構造物が多額の費用をかけてどれほどのメリットを日本にもたらすのか全く以て理解ができないが、当初この物語の主戦場となるだろうと思っていたこの巨大建造物が早々と〈蛇〉によって崩壊させられるのには度肝を抜かれた。昨今のハリウッド大作にはクライマックスに相当する派手派手しいシーンを冒頭に持ってきて観客の興味を鷲掴みする傾向にあるが、まさにこの〈オーシャンテクノポリス〉崩壊はその超大作的幕開けの供物として捧げられた感がある。 そして本書で欠かせないのは海上自衛隊の潜水艦〈はつしお〉が備える最新鋭のホロフォニクス・ソナー、略してホロソナーだ。ホロフォニクスとは立体的音響効果をもたらす音響技術―なお本書ではイタリアの神経生理学者ヒューゴ・ズッカレリ氏が発明したと書いてあるのに対し、Wikipediaによればアルゼンチンの技術者ウーゴ・スカレーリとあるが、彼がミラノ工科大在学中に発明したと書かれているから恐らく同一人物だろう。もしくは微妙に変えたのかもしれないが―だが、この技術を適用してコンピュータ処理した精密な立体音響像を人間の脳に送り込むハイテク機器とされている。本書ではヘルメット型でアイソナーと呼ばれるアイシールドを落とすことで海底内をまるで自分自身が泳いでいるかのように見ることが出来る代物となっている。 本書はこのソナー無くしては物語が成立しないほど重要な役割を果たす。 本書は海底を舞台にした作品であることからそれに関する知識や独特の常識がふんだんに盛り込まれているのが興味深い。 まずは水圧の違いだ。海底プラットフォームの〈うみがめ200〉は28気圧に保たれており、また潜水艦や潜水艇それぞれの気圧が異なることから単純に乗り移れないことが説明される。減圧して身体を慣らすのに1,2日単位の時間を要するなど、正直想像を絶する。 またHPNSという現象も面白い。ハイ・プレッシャー・ナーバス・シンドローム、即ち高圧神経症候群と呼ばれる超高気圧な場所に置かれた人間が被る幻覚症状だ。これがあるがために海底内で繰り広げられるソリトン生命体との遭遇やコンタクトなどを海上の人間に正直に話したとしても、彼らは先入観でHPNSに罹ったんだなと解釈して精神異常を起こしたとみなされてしまうことになる。従って〈うみがめ200〉のクルーは海上の助けを借りられずに自ら乗り越えることを余儀なくされるのだ。 それのみでなく海洋生物の生態についても詳しく述べられているのも実に興味深く読めた。 私が特に関心を持ったのがクジラの狩りの方法だ。 ザトウクジラは額から出す超音波ビームで餌となる魚の群れを探知して、複数のザトウクジラと連携し、ニシンの大群をクジラたちが描く円の中心へ追い込み、それをどんどん縮めてニシンの塊を作り、その塊の下に潜り込んで口をいっぱい開いてその群れに突っ込んで大量のニシンを食らうのだ。 一方マッコウクジラは強烈な超音波ビームを相手を気絶するために使ってダイオウイカといった大物を食糧とすると同じクジラでも狩りの仕方が全く異なるのだ。 さて本書の舞台は2016年の世界。そして本書が刊行されたのが1995年。そう、本書は近未来小説なのである。そして今更ながらに本書を読んだ私は既に2016年を5年も前に経験しており、哀しいかな、近未来小説にありがちな相違点に思わず苦笑せざるを得なかった。 まず台湾が地下鉄を作らずに光ケーブル・ネットワーク網を発展させ、国民のほとんどが在宅勤務を行っており、オフィスビルは空きがたくさんあり、朝の交通ラッシュもほとんど見られなくなっていると書かれている。これは日本人も同様らしいが、さすがにまだそこまで至っていないが、2020年のコロナ禍で日本の東京など大都市では在宅勤務が推奨され、実際に行われている事実があることを考えると実に先見的な話である。 そして日本では在宅勤務が定着して若い日本人がいわゆる3K仕事を選びたがらなくなっているとの記述はもしかしたらそう遠くない未来の日本の姿なのかもしれない。 また本書によれば2016年の時点では既に北朝鮮はとっくに無くなってしまっているらしい。 そして21世紀ではコンピュータの操作にはもはやマウスは使われず、多関節アームで固定された3Dペンを使って立体的映像の中で3次元的に操作しているとあるが、これもまだそこまでは行っていない。マウスはまだ健在である。 エイズ予防のCMが流れているのにも苦笑してしまった。 また台湾も反日派の中国から流れてきた国民党の台頭が21世紀になって世代交代によって勢力が衰えたとあるが、2021年の現在ではまだまだそんな平和は訪れていない。 但し、一方で作者の先見性や知識に驚くべき点はいくつかあり、例えば光ケーブルによるネットワーク網が発達していると書かれている点。 今では当たり前だが、1996年の時点ではまだADSLの前のIDSNが普及している時代である。ADSLが2000年に普及し、ブロードバンド元年と云われたそのまだ前にその次の光回線をこの時点で謳っていることがすごい。 更に軍用艦の内部のディスプレイにLEDが使われているとの記述だ。20世紀でLEDがディスプレイ照明の主流になっていると既に考えていることに驚嘆した。 また倉瀬厚志の娘美玲が8歳にしてオンラインでリカちゃん人形フルセットとデコレーションケーキを勝手に注文しているシーンが登場するが、これが今では、いや2016年の時点では全く以ておかしくない現代っ子あるあるであることに驚かされる。 さて私は梅原氏の作風が実にハリウッド映画的であると述べたが、このソリトン生命体のイメージをハリウッド映画『アビス』として想起した。 ポリウォーターと称される年度の高い水に変異するソリトン生命体は『アビス』に登場する不定形の未知の生命体のようだ。ちなみにこのポリウォーターは実際に旧ソ連の科学者ボリス・デルヤーギンが発表した新物質であるが、再現できなかったため現在では存在が否定されている。 つまりこの存在しないであろう物質を作品世界で再現した、当の科学者にとっては科学者冥利に尽きる設定である。 またこれら未知なる深海の生命体との戦いを描く海洋アクション小説である側面と、一方で未知なる生命体とのコンタクトに成功する映画『未知との遭遇』を彷彿とさせるようなハートウォーミングな側面を持っている。 また戦う敵は〈蛇〉で彼らが仲間に引き入れるのはタイタンボール。人類はタイタンボールを味方にして〈蛇〉と戦う。 そう、これはさながら『ゴジラ』シリーズを彷彿とさせる。 ただ変則的なのはタイタンボールには争うという概念がないため、実際に手を下すのは人間である。しかもコンピュータを介して精神をソリトン生命体に移送させた人間、主人公倉瀬厚志が戦うのである。これもまた映画『マトリックス』を彷彿とさせる。 そう、梅原氏は日本古来のエンタテインメントとハリウッドの大規模予算が投じられる超大作を結び付けるようなアイデアが得意なのだろう。 さてホロソナーはこの物語に重要な役割を果たしていると先述したが、このタイタンボールと人類がコンタクトするキーとなるのがホロソナーから発せられるリファレンス・トーンなのである。このソナーを介して最初はモールス信号でコミュニケーションを取り、やがて文字をディスプレイに映して文章で会話をするまでになる。 一方、今回の敵である〈蛇〉もまたホロソナーによって生み出されたことが判ってくる。実はこの敵は海上自衛隊の潜水艦〈はつしお〉が行ったホロソナーの高出力テストによって気が狂わされ、凶暴化したタイタンボールだったのだ。 ゴジラが人間の水爆実験で生み出された怪獣であるのと同様、〈蛇〉もまた人為的に生み出された怪物なのだ。 そして下巻になるとそれまで海底にいた〈蛇〉は海上へ浮上していく。ザトウクジラの群れを襲った〈蛇〉は海上へ逃げるザトウクジラによって崩された海の中に出来る水の層によって海上へ浮上するのだ。 そして今度は海上にいる軍用艦や支援船〈うみねこ130〉を襲い、その破壊行為によって生じる正弦波を餌にしだす。 一方それを成すすべなく、見ているしかない〈うみがめ200〉の人員はタイタンボールに自分たちの代わりに浮上して〈蛇〉を退治するよう提案するが、彼らはいわゆる争いという概念がないため、仲間同士で戦うことが出来ないといって拒否する。 この辺はゴジラとは異なり、単に味方につけた怪物同士が戦うといった構図にならないところがこの作品のアクセントだろう。 とまあ、次から次へと危機また危機を畳みかけながら、それに対してアイデアで難局を乗り越えていく、しかも何気ないエピソードが伏線となって機能するといった緻密な構成さえも感じさせるエンタメ要素満載の本書だが、登場人物それぞれにあまり好感が持てないのが難点だ。 まず海上自衛隊の潜水艦〈はつしお〉の富永艦長。彼は潜水艦に憧れて自衛隊に入った人物であり、通常海自では潜水艦乗りは早く卒業したいと思う部署だけに非常に珍しい人物である。そのため自分が愛する〈はつしお〉を降りること、即ち艦長の任を解かれることに恐れを抱き、そのためには任務遂行責任意識が高いとはいえ、自衛隊の最高機密であったホロフォニクス・ソナーと〈蛇〉の存在を知られることになった自分の部下の山田三佐や民間人の倉瀬達に対して演習と称して魚雷を放つ人非人である。 そして何よりも主人公倉瀬厚志とその別れた妻劉秋華の人物像はその最たるものだ。 倉瀬は直情型であり、また好奇心旺盛で自分が知らないでいることに耐え切れず、なんでも知りたがるタイプだ。 特に沈んだ潜水艇内にいる娘を助けるために海上自衛隊に援助してもらったにもかかわらず、彼らが禁じた事項に対して、納得がいかないためにガンガン扉を叩いて、ソリトン生命体の〈蛇〉をおびき寄せたり、軍の最高機密であるホロフォニクス・ソナーを無断で使用し、更にはそのことで〈蛇〉の存在を知ることで逆に海上自衛隊の潜水艦〈はつしお〉の富永艦長に情報漏洩防止として魚雷で命を狙われそうになれば、また最高機密を民間人に洩らしたことで援助のために派遣された副艦長の山田とその部下の西を辞職にまで追い込む。 いわばトラブルメイカーなのだ。 しかもそのトラブルは物語が進むにつれて単に個人の問題から他者の辞職問題まで発展させ、国家機密にまで及び、周囲の人々の命を脅かすだけでなく、甚大な自然破壊災害まで引き起こすという風にどんどんエスカレートしていく。 このような人物が企業の要職に就いている事が甚だ疑問だ。 更に元妻劉秋華も気の強い女性で事あるごとに別れた夫を罵倒し、余計な口を叩いては激昂させる。さらに思い通りにいかないと癇癪を起こし、自分に責任の一端があってもすぐに倉瀬のせいにしたりする。また倉瀬がソリトン生命体になる前も彼が娘を助けさせたくないという感情から自らソリトン生命体になろうとするが、精神が耐え切れずに挫折する。 つまりお互いが娘の親権を巡って常にマウンティングを取り合う、まさに夫婦としては最悪の2人なのである。 正直本書の評価はこの2人の主人公のパーソナリティに足を引っ張られたと云っていい。 彼と彼女が物語に没入し、そしてその活躍を応援したくなる好人物であったら本書は私にとって傑作となりえただろう。 作者梅原氏の科学に関する知識とそれを応用した未来像は魅力的であり、その想像力と創造力には素直に感心する。これで登場人物が魅力的であったらなぁとそればかりが残念でならない。 しかし本書はハリウッドのSF超大作に匹敵する、アイデアが豊富に溢れた一大エンタテイメント小説であるのに、今なお映像化の話が浮上しないのは残念でならない。現代技術で2016年ではなく、もっと未来の日本を舞台にしたこの作品の映像作品を見てみたいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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日本人読者向けに編んだ『世界傑作推理12選&ONE』がよほど好調だったのか、続いて編まれたのが本書。但し前回の「&ONE」に当たる編者クイーン自身の短編は収録されておらず、代わりに日本人作家、当時日本を代表していた夏樹静子氏と松本清張氏からそれぞれ1編ずつ収録されているのが特徴的だ。
このアンソロジーの幕開けを担うのが執事ジーヴスシリーズが本書刊行20数年後に大ブレイクを果たしたP・G・ウッドハウスの「エクセルシオー荘の惨劇」だ。 イギリスの下宿屋で突然亡くなった船長の死因はコブラの毒によるものだった。21世紀の現代ならさほど珍しいとは思わないが本作が書かれた1914年はコブラのような毒蛇に噛まれると云う死因はあり得なかったのだろう。だからこそホームズの「まだらの紐」のトリックが当時は斬新であったがゆえに今なお語り継がれているのだろう。 被害者はその毒舌ぶりから決して周囲から好かれているわけではない船長だが、どうやってコブラの毒が彼に回ったのかは判らない。 正直事件の中身は小粒だが、事件を解き明かす意外な探偵役を立てた功績は大きい。 次は短編の名手エドワード・D・ホックの「三人レオポルド」。 流石短編の名手ホックである。上手い!そしてそつがない。 面白いのは通常ならば偽名を使った犯人を突き止めるというプロットになるのに、本作は逆に犯罪者が自分を逮捕しようとしている警官を突き止めようとする、しかもそれがシリーズキャラクターであるレオポルドであるところだ。しかしホックはミステリに求める水準をいつもクリアする安定した作家であると再認識した。 私は彼女は長編も書けるが短編もまた書ける作家だと思っていたが、それを証明してくれたのがルース・レンデルの「生まれついての犠牲者」だ。 いやあ、やはりレンデルは上手い! いつもながら我々の周囲にいそうな「ちょっと困る人」をミステリのテーマに取り入れ、そして全てが犯罪に向かうように実に上手く物語を運ぶ。 本作では村に突如引っ越し来た発展的な都会派の女性ブレンダが実は自分の話とは異なり、それほど情事を重ねて訳でもなく、実は普通の女性だったことが発覚する。しかし妻に悪影響を与える前に最近起きた強盗殺人事件に見せかけて殺してしまおうと企む。 事件は上手く行くのだが、結末はいつものレンデルらしい皮肉を見せながら予想外の方向へ進む。 最後の運命の皮肉とも云うべきラストに読者が納得する形で結実するところがすごい。 やはりこの作家も選出されていた。EQMMの常連作家で短編の名手ヘンリー・スレッサーの「世界一親切な男」は本当に親切な男の話だ。 妻を過失とはいえ、死なせてしまった男たちに夫が仕組んだことは過剰なまでの恩返しだった。飲む・打つ・買うにそれぞれ執着する者たちに断酒をしようと決意すれば高級なお酒をしこたま送り付けて重度のアル中にし、女好きの男が自分にとって最高の女と結婚したかと思った矢先に、それをはるかに上回る美貌の女性を送り込んで、情事を起こさせ、妻を逆上させ、ギャンブル好きな男には定期的にギャンブル資金を送ってマフィアに借金までさせる。そう、それぞれが最も好む方法で人生を破綻させるのだ。 あまり知られていない作家だが、クイーンは別のアンソロジー『クイーンズ・コレクション』にも彼の作品を選出している。ハロルド・Q・マスアは当時現役の弁護士でもあった作家で「受難のメス」も裁判を扱ったミステリだ。 手術の失敗の訴訟から脱税容疑へと僅か30ページ足らずの作品なのに目まぐるしく展開が変わる本作は現役の弁護士の作品ともあって裁判や訴訟内容にリアルを感じさせ、実に読み応えがある。 本作で起きる殺人事件は半分以上も過ぎてであり、正直その犯人は見え見えのミスディレクションでミステリ読者なら容易に想像がつくだろうが、最後の一行は洒落ている。内容的にも小説としての面白みを感じる作品だ。 ジョイス・ポーターはシリーズキャラのドーヴァー警部が登場する「臭い名推理」が選出された。 正直云ってワンアイデア物である。確かにこの着眼点は面白いが、アンソロジーに選ぶほどの物かと云えば、ちょっと疑問だ。 パット・マガーことパトリシア・マガーはトリッキーな本格ミステリが特徴的だが、「完璧なアリバイ」はオーソドックスな題材のミステリだ。 上手い!起承転結がはっきりとし、しかも詰将棋の如く無駄なく妻殺しへと物語が収束していき、そしてツイストの利いた皮肉なラストへつながる。これぞミステリのお手本とも云うべき作品だ。 ビル・プロンジーニの「朝飯前の仕事」はシリーズ探偵“名無しのオプ”が登場する。 私は“名無しのオプ”シリーズの読者ではないので詳しいことは解らないが、てっきりハードボイルドもしくはサスペンス系の作風と思っていたら、本格ミステリで、しかも機械的トリックを使った非常に原理主義的など真ん中の内容であったことに驚いた。 しかし本書の読みどころは上流階級と下流階級の溝を扱っているところだろう。上流階級の者たちは下流階級を蔑み、また逆に下流階級は顎で使う上流階級を妬み、そんな2つの階級に横たわる断層を皮肉っている。 ドナルド・オルスンは初めて読む作家だが、その作品「汝の隣人の夫」は選ばれるだけの出来栄えだ。 これはウールリッチの有名作「裏窓」と編者クイーン自身の『中途の家』をうまくブレンドさせた佳作である。 月の半分も出張している夫エドワードとその間家を守る妻セシル。やがて隣に若夫婦が越してきて、しかも隣人の夫は若くてハンサムでいつも庭で筋トレをして逞しい身体を晒している。これが子供もいなくて不在がちな夫を持つ人妻の好奇心をそそらざるを得ない。 しかしそこで情事に至るのではなく、妻の妄想上の恋が日記に綴られていく。つまり実際に浮気は起きないのだが、いつも隣人夫との情事を想像しているがゆえにセシルは彼を意識して普通に接することができなくなる。 本作で書かれているのはミステリとしては実にありきたりなシチュエーションや動機なのだが、物語を一人家に籠りがちな妻の視点を中心に描き、彼女が書く妄想常時日記の内容に上手く読者を惹きつけることでサプライズを演出している。つまりそれほど奇抜な動機や登場人物の設定を案出しなくても書き方を工夫するだけで十分読み応えのあるミステリが書けるのだと証明した、良いお手本のような好編だ。 かつてはミステリランキングの常連作家だったピーター・ラヴゼイの「レドンホール街の怪」は捻りの効いた作品だ。 1979年に書かれた本作は前年に『マダム・タッソーがお待ちかね』でCWA賞を受賞し、まさに脂ののった時期に書かれた作品であり、たった20ページ強の作品なのにツイストを利かせた作品となっている。 素性の知らない紳士が間借人となっているが、彼を警察が訪ねて来て彼のことに疑惑が生じる。さらに追い打ちを掛けるように彼の借りている部屋は家具などが一切ないがらんどう状態。 家主は犯罪者に貸したのではないかと気を揉みながら警察が来たことを話すと、なんと1枚500ポンドから1,000ポンドほどの値がつく希少な切手ブラック・ペニイとブルー・タペンスを昔の間借人が壁紙代わりに一面に貼り付けたという逸話があり、彼はそれを手に入れるために部屋を借りたのだという。そしてそれは確かに存在し、自分はもう十分にお金を手に入れたので残りは全て家主に差し上げると述べる。 反転に次ぐ反転でしかも最後は詐欺なのか果たして真実なのかと疑問を投げかける抜群の結末を見せる。いやあ、まさに最上のミステリではないか。 クイーンの日本人推理作家のアンソロジーでは常連の1人である夏樹静子の「足の裏」は本当にありそうなお話である。 色々と考えさせられる話だ。人口3万5千人ほどの小さな市で起きた銀行強盗を端緒に由緒ある寺で昔から行われていたスキャンダルが暴かれることになる、まさに社会問題を扱ったミステリだ。 今でも行われているのか知らないが、本作ではお賽銭を寺の住職や僧や事務員たちも含めて山分けする慣習があるらしい。つまり新聞やニュースで報道されるお賽銭の金額は予め見積もられた金額であり、それよりオーバーした金額については関係者で山分けする習慣があるとのこと。タイトルはこの金銭を足の裏と呼ばれていることに由来する。 本作は昭和時代の作品だが、今にも通ずるテーマであり、令和の世でもあるのだろう。全く人間とは金銭に関しては成長していない動物なのだと思い知らされる。 さてアンソロジーの最後を飾るのはもはやクイーンにとってもお気に入りの作家となった感のある松本清張氏の「証言」だ。 愛人を囲うある会社の課長が逢瀬の時にたまたま家の近所の人間と出くわす。昭和のどこか淫靡な雰囲気漂うシチュエーションに、近所の人間が後日殺人事件の容疑者として逮捕され、自分の証言で無実になると究極の選択を迫られる。こんな時、あなたならどうすると読者自身の倫理観を問われるような作品だ。 今でも愛人報道は後を絶たず、ワイドショーの格好のネタとして大々的に報じられているが、昭和も平成も令和も男と女は変わらないことを思い知らされる。 そしてそんな窮地に陥っても主人公は逢っていないと自らの保身のために嘘をつきとおす。 本作の狙いは世の中嘘で凝り固まってできているという皮肉だ。それぞれが嘘で塗り固められた生活を送っていると警鐘を鳴らしているのだ。 これが冤罪の構図なのだろう。曖昧だった記憶が警察の執拗な事情聴取でやがて頭の中で事実にすり替わっていく。たとえそれが嘘であっても自分が信じたい方向へと脳が働きかけるからだ。 とにもかくにもついた嘘は自分に返ってくるという戒めの物語だ。 訪問すれば本格ミステリの巨匠として手厚くもてなされる日本人はクイーンにとっては実に愛すべき読者、ファンだったのだろう。日本人読者向けに『世界傑作推理12選&ONE』の続編として編まれたのが本書だ。 しかも収録作品はクイーンのアンソロジーに含まれた作品は―私の知る限りでは―ゼロであり、また前のアンソロジーとは異なって日本人作家の作品がたった12の席のうち2席をも占めるまでになったのは日本人読者に対するサーヴィス精神の表れだろう。 その中身は今回もまたヴァラエティに富んでいる。 殺人事件の犯人捜し、自分を逮捕する潜入捜査官探し、復讐譚に脱税、浮気相手との結婚を考えた妻殺し、窃盗、主婦の妄想恋愛、詐欺、そして冤罪。様々なヴァリエーションを駆使して質のいいミステリを提供している。 クイーンが日本人ミステリ読者のために向けて編んだアンソロジーだけあって実に粒揃いであるが、その中でベストを挙げるとすればルース・レンデルの「生まれついての犠牲者」とピーター・ラヴゼイの「レドンホール街の怪」、夏樹静子氏の「足の裏」になるか。 「生まれついての犠牲者」は名作『ロウフィールド家の惨劇』を彷彿とさせる、その事件の犯人が最初の一行目で解る導入部に始まり、登場人物全ての設定が最後の皮肉な結末へ結実する。 実に計算された作品だが、その人物設定が我々の周囲にいる誰かを彷彿とさせるため、じつにリアルに感じられるのだ。つまり情理のバランスが実に上手くとれている作品なのだ。 「レドンホール街の怪」が上手いのは最後のオチで真相の2パターンが想定されることだ。 しかもこの作品、たった24ページなのだ。う~ん、実に濃い内容だ。 「足の裏」は寺の住職たちの賽銭横領と云う社会問題を扱ったミステリ。とにかくこのスキャンダラスな真相が発覚するまでのプロセス、そしてそれを補強する物語の舞台設定が実に緻密なのである。 日本のどこかにありそうな全国で知られる有名な寺を観光資源として抱える小さな市という舞台設定とそこで起きた銀行強盗の事件という発端が最後の真相に寄与するきめの細かい物語運びに感嘆した。そして明かされる最後の真相については今でも行われているのではないかと考えさせられるものであった。 次点でドナルド・オルスンの「汝の隣人の夫」とを挙げる。前者の最後のオチはこの手の出張しがちな夫に対して最初に抱きやすい疑惑なのだが、それを妻の妄想を中心に描いたことで見事にミスディレクションに成功しているからだ。また本作はある意味、編者の『中途の家』の変奏曲な構成であるのも興味深い。 特に面白く感じたのはまだこの頃は機械的なトリックを扱った本格ミステリが書かれていたことだ。 また意外性を放つどんでん返しの作品、特に運命の皮肉めいた作品が多くあり、そしてそれらのアイデアは秀逸である。 クイーンは数多のアンソロジーを編んでいるが本書のようにEQMMに掲載した、自身が掲載検討した作品に基づくものが多々あったように思える。 しかし精選されたとはいえ、EQMMは月刊誌であり、現在も刊行が続いている雑誌である。従ってかなりの量の選から漏れた短編が蓄積されているはずだ。 隔月刊行されている早川書房のミステリマガジンでさえ、EQMMに掲載された短編は網羅されていないだろう。つまりかなりの数の埋もれた短編がEQMMにはあるはずなのだ。 エラリー・クイーン亡き後、それらが日の目を見ないのは悲しすぎる。やはりクイーンの衣鉢を継ぐアンソロジストの登場を望みたい。 本書収録作品は1976年から1980年と古典と呼ぶにはまだ早い時期の作品群が連ねているが、この頃はまだアイデアがそれぞれの作家で潤沢にあったのだろう。ほとんどの作家が鬼籍に入ったアンソロジーは、かつての名声を馳せた作家たちの最盛期の実力を知るにもってこいだった。 そして現代もまだこの流れは続いていると思いたい。短編集は売り上げが落ちると云われているが、これに懲りず、ミステリ好きな読者たちを唸らせる短編のアンソロジーを刊行する習慣は続けてほしいものだ。 しかしクイーンのアンソロジーに日本人作家の作品が2作も選ばれたことを考えると、日本のミステリも一旦は世界に認められ、世界に近づいたのだ。 しかし現代の日本人作家のミステリが劣るかと思えば、必ずしもそうではない。クイーンのような世界に発信する人物が欠如しているだけなのだ。 世界のどこかで本書のようなアンソロジーが編まれるとき、そこに日本人作家の作品が収録され、やがて日本人作家の作品ばかりで編まれたアンソロジーが世界で広まることを夢見て、本書の感想を終えよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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クイーンはいくつものアンソロジーを編んでおり、その中に『黄金の12』というものがあるが、本書はなんと日本読者のために編まれた新たな12編に自身の短編1編を加えたものだ。これだけで生前のクイーンがいかに親日家だったかが推し量れる。
そして恐らくは来日したときに交流した日本ミステリ界の関係者たちとの歓談から日本人読者が古今東西のミステリを満遍なく楽しむ気質であることを察したのであろう、本書は古典から編まれた1977年当時の現代ミステリまで、更にアメリカのみならず西欧のミステリも対象に幅広く短編が選出されている。 まず開巻一番の作品はエドナ・セント・ヴィンセント・ミレーの「『魚捕り猫』亭の殺人」だが、これは『犯罪文学傑作選』に選出された「『シャ・キ・ペーシュ』亭の殺人」という短編で、既読済みなので敢えてここでは触れないでおく。 その題名はこの作家よりも別の作家の雄名作を想起するのではないか。「世にも危険なゲーム」はギャビン・ライアルの長編ではなくリチャード・コンルの短編だ。 マンハント物は今でも数多く書かれており、様々な趣向が凝らされてはいるものの、だいたい生き残りを賭けた鬼気迫る戦いであったり、強者どもが一堂に会してバトルを繰り広げるゼロサムゲームであったりと概ね構成は似ている。本作も全く以てその域を出ていないが、なんと本作が書かれたのは1925年なのだ。前掲のライアルの近似題名作が刊行されたのが1963年となんと40年弱も先んじている。つまり本作はこのサバイバルゲーム物の源流なのだ。 まさに命を懸けたチェスゲームが繰り広げられる。その内容は長編ネタといっていいほど濃いもので短い話の中に凝縮されており実に面白い。 最後の結末も洒落ており、今なお鑑賞に値する傑作だ。 アガサ・クリスティは英国ミステリの女王だが、本書収録の「うぐいす荘」は本格ミステリではなく、サスペンス物だ。 クリスティによる青ひげ譚。 奇妙な余韻が残る作品だ。 次の2編は題名のみかなり前から知っていた作品だ。 今なお現代作家がその真相を解き明かそうと数々の著作が出されている切り裂きジャック事件をモチーフにしたのがトマス・バークの「オッターモール氏の手」だ。 これは明らかに切り裂きジャック事件をモチーフにしているというよりも作者なりの切り裂きジャック事件の犯人の推理の披露ではないか。今に通ずるサイコパスの怖さを思い知らされる1編だ。 そしてヒュー・ウォールポールの「銀の仮面」は1933年に書かれた古典ではあるが、その内容は現代に通ずる怖さを持っている。 そう、これはアカデミー賞を受賞したある有名な作品そのものだ。このモチーフは荒木飛呂彦氏もマンガで扱っていた。本当の悪党は微笑みながらやってくる。そして善人はいつの時代も悪人たちの餌食にされるのだということをまざまざと描く。 ドロシー・L・セイヤーズといえばピーター卿シリーズだが、本書収録の「疑惑」はノンシリーズの1編だ。 イギリスの古典には毒殺物が多い。それはかつて毒殺魔と呼ばれる稀代の殺人鬼、しかも医師だったり、婦人だったりと、とても殺人を犯しそうにない人物が行っていたセンセーションなギャップがよほどミステリ作家陣にも受けたのではないだろうか。 本作もまたその毒殺魔、いや毒殺婦の系譜に連なる作品になる。少ない登場人物で繰り広げられる疑惑劇だが、今ならば特に意外な展開ではないオーソドックスな作品だ。 一方ベン・ヘクトの「情熱なき犯罪」は完全犯罪がほんの些細なことで崩れるという典型的な話だが、こちらは捻りが実に効いている。 いやあ、完全犯罪がもろくも崩れ去る小説をこれまでいくつも読んできたが、最後にそれが自分を容疑のど真ん中に陥るという反転の鮮やかさは技巧の冴えを感じる。 次のウィルバー・D・スティールの「人殺しの青」は曰く付きの馬を手に入れた牧場一家に訪れた悲劇を扱った作品だ。 人を殺して手に入れた馬は実は人を襲う荒くれ馬だという反転からさらに作者はもう1つ反転を仕掛ける。田舎の閉鎖された空間では何でもないことが狂気を生み出すということだろうか。 まさかこの作品が読めようとは思わなかった。世評高いスタンリー・エリンの「特別料理」はいわゆる乱歩が称した「奇妙な味」の代表作だ。 実に上手い短編である。正直題名からどんな結末か解るような内容だが、エリンはそれを状況を仄めかせ、そして敢えて書かないことで読者に行間を読ませ、「特別料理」の正体がなんであるかを悟らせる。エリンはこの作品でエラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジンのコンテストで最優秀処女作特別賞を獲ったとのことだが、まさにそれに相応しい1編だ。 シャーロット・アームストロングの「敵」は『黄金の13/現代篇』で既読済みなので感想は割愛する。 どちらかというと私立探偵小説作家の色合いが強いジョー・ゴアーズだが、クイーンのお眼鏡に適ったのが「ダール アイ ラブ ユ」だ。 1962年の作品のため、パソコン通信やインターネットがない時代であるため、情報のやり取りの手段はごく一部の機関にあったテレタイプであるが、本作の内容は現代に通ずるものだ。 突然夜中に一通の入電があり、それは彼のことを慕う女性からの物。思わず浮き立つチャーリーは相手の気を引こうとなんと上司を失脚させる暴挙に出る。 それが原因で上司が散弾銃で自殺すると彼女の居場所を必死になって突き止めるが・・・。 ある意味当時の時代を考えれば本作は意外な結末を持ったSFだろう。 う~ん、この内容はSNSや出会い系サイトなどが発展した今こそ実に身に染みる作品ではないだろうか。 『サイコ』で有名なロバート・ブロックの「ごらん、あの走りっぷりを」はある脚本家の手記で語られる作品だ。彼は統合失調症なのか被害妄想の気がある。彼は精神科医のカウンセリングを受けているが自分が不当に虐げられていると思ってやまない。また彼は女優の妻を持っているが、彼女のことも疑っている。脚本家とは結び付きそうもない奇妙な題名は彼が思い出した童謡『三匹のめくらねずみ』の中の歌詞の一節である。 今となっては特に珍しくない狂える男の末路である。 最後のエラリイ・クイーン自身の短編「三人の未亡人」は『クイーン検察局』所収の「三人の寡婦」で既読済みなのでここでは感想は省くことにする。 エラリー・クイーンが―というよりも既に片割れのマンフレッド・リーは鬼籍に入っていたため、正しくはフレデリック・ダネイだが―来日して日本のミステリ作家と交流を持ち、親日家になったことは有名で、その後3冊もの日本のミステリ作家の作品で傑作選を刊行するまでになった。 幸いにして私はそれを読むことが叶ったが、更に日本の読者のために海外ミステリ作家の12選を編んだことは偶然古本屋で見かけるまで知らなかった。調べてみると日本のために組んだ独自のアンソロジーは『日本文芸推理12選&ONE』と『新世界傑作推理12選』があるようだ。 パズラー作家のイメージがあるクイーンだが、本書では本格ミステリに拘泥せず、スリラー、ホラー、奇妙な味系と多種多彩な作品が収録されており、クイーンのアンソロジストとしての腕前を存分に披露する形となっている。 更に年代も幅広く、古くは1923年の物から新しいもので1973年と50年に亘る作品群の中からセレクトされている。 但しここに収録されている作家はどちらかと云えばクイーンの数あるアンソロジーでは常連ともいうべき作家が多く、クリスティ、セイヤーズ、ベン・ヘクト、エリン、アームストロング、ゴアーズ、ロバート・ブロックがそれに当たる。また全てが初選出作ではなく、3作が私にとって既読の作品であった。 但し、本書はこれまでのアンソロジーの中でもかなりレベルの高さを誇った。従ってベスト選出には実に迷わされた。 例えばベン・ヘクトの「情熱なき犯罪」は殺人犯がある特性を活かして、偽装工作を細密にしていくのが面白いし、その工作が自分のミスで逆に自分の犯行動機を裏付ける証拠になってしまう反転が見事だ。 また世評高いスタンリー・エリンの「特別料理」も噂に違わぬ傑作だ。 今まで食べたこともない極上の「特別料理」の正体は、さすがに似たような作品が流布している現代では容易に想像できるが、エリンの優れたところは敢えて核心に触れず、周囲の状況を主人公2人の会話で仄めかせ、徐々に読者に悟らせていくところにある。まさに引き算が絶妙になされた作品なのだ。 そんな傑作ぞろいの中で選んだベストは2つ。リチャード・コンルの「世にも危険なゲーム」だ。もはや数多書かれたマンハント物だが、実は1925年に書かれた本作がそれらの源流なのだろう。そして原点である本作は今なお読むに値するほど趣向が凝らされている。 普通の狩りでは満足しなくなった狩猟狂の将軍が人間を狩ることに快感を覚え、わざと獲物が自分が所有する島に迷い込むように暗闇の灯火を照らして島の岸壁に激突させ、島に流れ着いた船員たちを捕えて、獲物にする。しかもその方法は3時間先に逃げさせ、将軍が彼らを追って狩るというもの。3日間逃げおおせたら自由を与えるが、将軍は切羽詰まると犬を放って探すなど、決して獲物を逃がそうとはしない。 そんな殺人ゲームに巻き込まれた冒険家の1対1の戦いはわずか40ページ足らずの作品で語るには読み応えのある内容で短編であるのが勿体ないくらいだ。 最後に対峙する二人の決闘シーンの結末の付け方も実に上手い省略の仕方で逆に勝負の行方が際立ち、カタルシスを感じる。作者のコンルは本作含め2作しかミステリーを書いていないというから驚きだ。 もう1作はヒュー・ウォールポールの「銀の仮面」だ。 まさにアカデミー賞を受賞した映画と同じような侵略譚が繰り広げられる。その入り込み方が実に巧みでマダムの人の良さに上手く付け入り、あれよあれよと取り入って監禁にまで至る様は実に恐ろしい。昨今問題になった洗脳事件を彷彿とさせる。 今なお脈々と続くマンハント物、ゼロサムゲーム物の原典を生み出した偉大なる先達と現代社会に今なお蔓延る侵食する一家の恐ろしさを生み出した先達に敬意を払ってこれら2作品をベストとする。 現在エラリー・クイーン作品の再評価が始まっており、これまでの作品の新訳が精力的に進んでいる。 角川文庫の国名シリーズの新訳版が表紙を美男子化されたクイーンを配することで購買層が広がり、そして今は早川書房がライツヴィルシリーズまでが新訳刊行されており、この私も長らく絶版で手に入らなかった作品を新訳で入手できる恩恵に預かっている。 一方アンソロジーも東京創元社が復刊フェアで折に触れ復刊しており、これまた恩恵に預かっている。 しかしこの光文社文庫で刊行されたクイーンのアンソロジーはそのような兆候は全く見えない。 本格ミステリ作家としてのクイーンの再評価が高まる今、アンソロジストとしてのクイーンにもスポットライトを当て、復刊してはどうだろうか? クイーン自身の評価ではなく、彼が紹介した今でも読むに堪えうる傑作がこのまま埋もれていくことは何とも惜しいのだ。 ミステリの遺産を、文化を継承していくためにも節目節目で復刊活動はされなければならないだろう。 しばらくクイーンのアンソロジーからは離れていたが、本書を読むことでまた再燃してしまった。次はもう1つの『新世界傑作推理12選』にも可能であれば手を伸ばしたいと思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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4分冊で刊行された短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”も本書でとうとう4冊目を迎える。
最終巻の劈頭を飾るのは「第五の男」。 なんと開巻して始まるのはホラーでもファンタジーでもない、エルモア・レナードやドン・ウィンズロウを彷彿とさせるクライムノヴェルだ。 現金輸送車を襲い、大金を手に入れた強盗一味のうちの1人、友人を殺された男が彼らに復讐する物語だ。 実に真っ当なクライムノヴェル。これと云ってキングならではといった特色がないとも思えるが、主人公が服役していた刑務所がショーシャンクであったのが唯一のキングテイストか。 次の「ワトスン博士の事件」はその題名からも判るようにキングによるホームズ譚だ。 いやあ、まさかキングがホームズ物のパスティーシュを書いているとは思わなかった。本作はしかし作者がキングとは解らない、真っ当なパスティーシュである。 またホームズ譚であるだけでなく、これはキングによる本格ミステリでもある。しかも王道の密室殺人事件であるところも憎い。きちんと伏線とトリックが仕掛けられているところも堂に入っている。 家族の個性を活かしたトリックとホームズ物のアンソロジーに選出されても遜色ない出来栄えだ。 ホームズ譚の中にキング作品のメインモチーフである家庭内の支配的な存在として振舞う父親が盛り込まれており、さらに事件の真相はクリスティのある有名作品を彷彿とさせる。そういえば構造的には「メイプル・ストリートの家」と同じではないか。 しかし最も驚いたのは密室であることの必然性にも言及されていることだ。密室内で明らかに他殺と見える殺され方をした場合、実は関係者にとっては不利にしかならない。密室で死んだ場合、事故死もしくは自殺に見せかけることが自分たちを容疑の外へ置くことになるからだ。この密室が密室殺人に切り替えざるを得なかったというところもキングは本格ミステリの何たるかを理解していると云えよう。 このように本作は実に綿密に設定されたホームズ譚なのだ。やるなぁ、キング! 「アムニー最後の事件」はチャンドラー張りのハードボイルド物、と思いきや意外な展開を見せる。 今度はキング版フィリップ・マーロウの登場かと思いきや、やはり一筋縄ではいかない。 1939年頃のヒットラーの写真が新聞の一面を飾る時代、つまり第2次大戦時代を舞台設定にしたハードボイルド小説を10年間書いてきた作者サミュエル・D・ランドリは5冊のアムニーシリーズを著し、好評を得ていたが、5冊目を書いた後に現実世界では息子のダニーがブランコから落ちて頭を打って、大量の出血があったので輸血したところ、その血液の中にエイズウイルスが入っており、間もなく息子は亡くなってしまう。妻は息子の死で鬱病になり、1年後の息子の命日に自殺、作者自身は全身を侵す帯状疱疹に悩まされてしまう。 恐らくこの物語は長編ネタとして考えていたのではないか。物語は広がりを見せることも可能だったろう。しかしキングはこの物語にあっさりと決着をつけてしまう。 突飛な設定すぎて何とももやもやの残る作品となった。もっとうまく書きようがあっただろうに。 最後の「ヘッド・ダウン」はキングの息子オーウェンが所属するリトル・リーグの野球チーム、バンゴア・ウェストが18年ぶりに州選手権に出場し、勝ち上がってその年のメイン州のリトル・リーグ・チャンピオンになるまでを綴ったノンフィクションである。 これが何とも面白い。小さな町のまともなユニフォームさえもない一少年野球チームが個性を発揮し、3人のコーチの指導と采配の許で名うての強豪チームたちと立ち向かい、勝ち上がっていく展開はなんともドラマチックだ。 そして12歳の少年たちで構成されるリトル・リーグの少年たちのなんと瑞々しいことか。メンバー1人1人に個性があり、キングはそれを実に上手く描き分けている。 普段は普通の少年たちである彼らは時に四つ葉のクローバーを見つけてチームのムードを良くしたり、また週刊誌の乳癌検査の広告に出ている女性の乳房の写真に興奮するませたガキたちでもあるが、コーチの熱心な指導を従順に聞き、一心不乱に野球に打ち込む純粋さがある。 特にコーチの1人が話すエピソードが印象的だ。普通の学校生活を送っているだけならば知り合うこともなかった子供たちが裕福な家庭の者も、貧しい地区で育った者も隣り合って笑い合うことができる。それが同じチームで同じスポーツに励んで汗水流すことでそんな奇跡が起こるのだと。 丸いボールが丸いバットに当たることの奇跡とそれを実現することを許された者たちが起こす感動とその奇跡を現実のものにしようと子供たちに指導する熱心なコーチと抜きん出た才能と選手としての心を持つ少年たちがいることで成し得た勝利の数々。彼らは勝ちたいからこそ頑張っているだけだ。その姿と過程が親たちの、いや野球を愛する者たちの心を動かすのだ。 そして野球が、いやベースボールがアメリカ人にとってかけがえのないスポーツである様がバンゴア・ウェストが勝ち上がる顛末やそのチームに関わり、熱意を持って指導するコーチたちの姿から立ち上ってくる。 州のチャンピオンになった瞬間、少年たちの親たちが涙を流しながらフェンス越しにみな手を伸ばして、子供たちに触れて祝福してやりたくて仕方ない様は胸を打つ。 以前はベースボールがアメリカの国技だったが、今はアメフトとなっている。しかし私は本作を読んでベースボールはアメリカ人にとってソウル・スポーツ、即ち魂が求めてやまないスポーツではないかと感じた。 それは表題作「ブルックリンの八月」を読んでさらに強くなる。この作品はキングによる詩であり、内容は野球賛歌だ。56年6月のエベッツ・フィールドの1シーンを描いた詩である。 そして本書には最後にボーナストラックとともいうべき短編がキング自身による解説の後に収録されている。最後の短編「乞食とダイヤモンド」は童話だ。 さてこの話の教訓とは何なのだろうか。 冒頭でも述べたように本書は短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の最終巻である。 モダンホラーの帝王と評されるキングだが、本書はそれまででもホラー以外の様々なジャンルの短編が収録されていたが、最終巻の本書でもそれは変わらない。 クライムノヴェルあり、ホームズ物のパスティーシュ(!)あり、ハードボイルドあり、そしてノンフィクションあり、そして詩に童話とこれまでで一番ヴァラエティに富んだ作品集となった。 何しろキングの十八番であるホラーが1編もないのだ。 そしてそれらはまさにその道の作家が憑依したかのような出来栄えである。いやはやキングの才能の豊かさに驚かされるばかりだ。 特に本書では偉大なる先達たちのオマージュの作品が複数あるのが特徴的だ。 「第五の男」はレナードを彷彿させるクライムノヴェルだし、世界一有名な探偵ホームズに「アムニー最後の事件」では作中の人物がレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウシリーズのキャラクターから引用していると述べている。 さて本書のベストは「ヘッド・ダウン」を挙げたい。ホラーでもなく、フィクションでもない、作者自らがエッセイと述べているノンフィクション作品は自分の息子が所属していたリトル・リーグ・チーム、バンゴア・ウェストが勝ち上って1989年度のメイン州リトル・リーグ・チャンピオンになるまでの足取りを描いた作品だ。 時にスポーツはフィクションを超える感動をもたらすが、本作もそうで、まともなユニフォームさえもない地方の一少年野球チームがコーチ3人の指導の許、勝ち上がっていく様子が実に楽しい。 そしてこんな劇的な出来事を目の当たりにしたキングはこのことを書かずにはいられなかったのだろう。記憶に留めるだけではなく、記録に留め、そして親バカと云われようが、作家と云う特権を活かして読者に触れ回りたかったに違いない。 まさに親バカ少年野球日誌。 しかしそれがまた実に面白いのだから憎めない。 次点として「ワトスン博士の事件」を挙げる。キングによるホームズ物のパスティーシュである―おまけに密室殺人事件を扱った本格ミステリ!―という珍しさもあるが、実によく出来た内容で驚かされた。 ホームズ物のパスティーシュでは正典で書かれなかった理由もまた1つの趣向であるが、本作はそれもまたきちんと設定されており―まあ、ありきたりではあるが―、内容もなかなかに読ませる。キングの文体は情報量が多いのが特徴だが、それが逆に改行の少ない古典ミステリにマッチして違和感を覚えさせなかった なぜキングが売れないとされている短編集を4分冊にて刊行されるほどの分量までに著すのかが解った気がする。 それはキングという作家のネームバリューで求められる作品以外の物語を彼が書きたいからだ。長編にするには短い話が彼の中にはまだまだたくさん潜んでおり、それを出してしまいたいからだ。 今回これほどまでにヴァラエティに富んだ短編群を読んでキングのどうにも止まらない創作意欲の熱をますます感じてしまった。そしてホラーやファンタジーだけのキングよりも私は短編群で見せた様々なジャンルの彼の作品が好きである。 やっぱりキングは短編もいいよなぁと思わされた。この後も短編集は分冊形式で訳出されているが、願わくばこの流れは決して止めないでいただきたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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何とも不思議な小説である。
毎回行くたびに場所が変わる店名のない料亭。そこは女将だけが応対し、1人が切り盛りしているように思える。そしてそこで毎回異なる女性と主人公が食事をする。 たったこれだけのシチュエーションの話が繰り返される。水戸黄門の方がもっとヴァリエーションあると思ってしまうほど毎回同じ展開なのだ。 しかしこれがなぜか面白い。そして読んでいる私もこんな料亭があれば行ってみたいと思わされるのである。 この名もなき料亭には次のルールがある。 決して誰かを連れて行ってはいけない。1人で訪れなければならない。 一緒に食事をする女性の名前や個人情報を尋ねてはいけない。但し向こうから話すのは問題ない。 一緒に食事する女性と別の機会に会う約束をしてはいけないし、連絡先を交換してはいけない。 そして不思議なことに大学の教官である主人公の小山が突然店に行きたいと云っても必ず空いている。 そして行くたびに場所は異なり、どこかの家だったり、ビルの地下にあるかつて料亭だった店舗だったり、小規模な旅館だったり、街中によくある1階がレストランになっているアパートを改装した1室だったり、郊外の奥まった森の中にある亡くなった芸術家の家だったり、廃校になった郊外の小学校でも営業したりする。そして鉄塔の足元にある大きな屋敷だったりもする。 またそこで出される料理は全て女将にお任せである。主に和食だが、洋食の時もある。味はいいのだが、それがよくある美食小説で繰り広げられるような読んでいるこちらが思わず食べたくなるような描写は特にない。 そしてその奇妙な料亭を切り盛りする女将も実に整った顔立ちをしているがあまり特徴的ではなく、すぐに忘れてしまい、街中であってもそのまま通り過ぎてしまうような印象だ。 そんな料亭での一番のご馳走であり、読みどころであるのは小山が毎回一緒に食事をする女性たちなのだ。 それは大学生のような普段着の女性だったり、眼鏡をかけた知的な若い女性だったり、30を越えた女性だったり、地味な女性だったり、異国風の女性だったりと様々だ。そしてその誰もが接客を仕事にしているような女性ではないように見えるのが共通している。 最初のうち、小山は現れる女性たちの食事をする美しい所作に見とれてしまう。いやそれもまたご馳走の一部として味わうのだ。 私が本書の中で一番印象に残ったのは「ほんの少し変わった子あります」の「ほんの少し変わった子」である黒いセータに黒いジーンズを履いた短めの髪型の長身のボーイッシュな女性だ。 20代前半と思われる彼女は本書で唯一小山と会話をしない女性だった。しかし彼女の食事をする所作はそれまでに出会った女性の中で最も美しく、優雅で洗練された動作で食事をする。言葉は交わさずともその仕草が小山にとってはご馳走であり、ただ淡々に食事をする静けさと相まって奇跡とも云える安らぎの空間を提供するのだ。その沈黙と究極までに美しい所作で能弁に会話をしているかのような濃密な空間がそこにある。そして小山は女性と一緒に食事をすることに意味があると見出す。 そしてまた最後が素晴らしい。 私は思わずため息が出た。なんて素晴らしいのかと。 この究極なまでに研ぎ澄まされた無駄を一切排除した能弁な沈黙と空間の濃密性に羨ましさを感じられずにはいられなかった。 ただそこにいるだけ。 ただ一緒に食事をしているだけ。 しかし相手が洗練され、無駄がなく優雅であるならばもうそれだけで胸がいっぱいになり、心は、魂は充足されるのである。 幻のようなあのひと時。 しかしそれは彼にとって永遠なのだ。こんな思いを久々に抱かせてくれたこの女性のエピソードに乾杯。 またこの通り一辺倒の物語で描かれるのは女将の店と女性だけではない。上に書いたようにほとんど会話がないのはまれでなにがしかの話が出てくる。 そしてそれらを聞いて小山は自分の考えに耽る。 いや実は女将の店に行くきっかけはいつも自分の生活や仕事に対する思索に耽り、ふと思いついたように店に行きたくなるのだ。 それは小山が一人考えることでその孤独を紛らわしたいからだ。 つまり孤独を愛しながらも実は誰かを必要としているのだ。 しかし作中で小山はあの店は「孤独増幅器」だと述べる。孤独を紛らわすために女性に逢いに行くがその女性はその時限りなのだ。そしてふと気づけば一人の自分がいる。つまり誰かと過ごす時間が濃密なほど孤独は助長されることに小山は気付く。 そして再びその孤独を紛らわすために彼は女将の店に行くのだ。 その都度彼は何かを得て、また何かを失うような思いを抱く。 私が印象に残っているのは過去を振り返った時に何を成しえたかと考えるとき、思い付くのはその代償として失ったものばかりだと述べる件だ。 50も過ぎた私もまた同じ思いを抱く。小山は50代にもうすぐ届きそうな年だと述べているからまさに少し前の私と同じくらいの年齢だろう。 私は折に触れ自分のこれまでの人生のそれぞれの場面が唐突に頭に浮かぶことがよくある。 それは実は自分の失敗したエピソードだったり、なぜあの時もっとこうすればよかったと後悔するシーンばかりだ。そんな時私は何ともやるせない気持ちに苛まれ身悶えしてしまう。あの日あの時それは今の自分ではない自分になれるチャンスだったのではないかと。 本書は森氏の思弁小説だろう。 小山と磯部と云う2人の大学の教官の口を通じてその時々の考えが述べられる。 そしてその考えに呼応するように女将の店で女性に遭い、2人で過ごした時間や聞いた話を思い出し、思索に耽るのだ。時にはあまりに色んな話を聞き過ぎてあれは幻だったのかと思ったりもする。多すぎる話は逆に印象に残らないということだろう。 実は私は女性と食事するのが大好きなのである。かつて若かりし頃は合コンをいくつも経験し、個人的に食事にも行ったりもした。 実は男同士で食事に行くよりも女性と食事する方が実りがあると思っている。 従ってこの小説のシチュエーションが実に面白かったのはまさに私の趣向にマッチしていたからだ。 様々な女性の様々な性格、様々な生き様や様々な事情。 それらを共有する時間のなんと愉しいことか。そして時に心揺さぶられることのなんと愉しいことか。 しかし最後に本書では女性の得体の知れなさを感じさせる。 本書に登場する女性の共通するキーワードは題名にもなっている「少し変わった子」であることだ。 男は実はこの少し変わった子に弱い。 女性と食事をすることの愉しさと怖さを知らされる小説だ。 できれば怖さは知らぬままにいたい。 そう、夢は夢のままが一番いい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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芦辺拓氏の鮎川哲也賞受賞作『殺人喜劇の十三人』に登場した森江春策はその後シリーズキャラクターとなり、今なお書き継がれているが、本書はその2作目にあたる。
1作目では学生だった彼はその後新聞記者となったが脱サラし、司法試験を受けて弁護士資格を取り、刑事事件専門の弁護士となったが、有罪率99.9%の日本の裁判に勝つために自ら真犯人を突き止める探偵業も副業としているという設定だ。 この森江春策は芦辺作品のいわばメインキャラクターであり、現在では数々のシリーズ作品が書かれている。それは即ち数々の事件を解決してきた名探偵であるが、他の名探偵とは異なり、周囲からは頼りなく、また要領悪い弁護士のように見られ、元同僚の新聞記者来崎四郎の評によれば「冴えない学生だった森江春策はその後冴えない記者になり、そして今は冴えない弁護士となっている」とされている。私が抱いていた名探偵像からは乖離したキャラクターだ。 本書は1995年、つまり平成7年に刊行された作品だが、この題名『歴史街道殺人事件』とはなんとも古めかしく昭和のノベルス全盛期に刊行された推理小説群を彷彿させる。 本書も最初はトクマ・ノベルスの版型で刊行されたことから、恐らくはかつての島田荘司氏がそうであったように、当時新本格ブームで続々とデビューする新米作家たちに少しでも固定読者を付けようと敢えて俗っぽい『〇〇殺人事件』の名をつけ、そしてトラベルミステリ風に味付けしたものを版元が要求したように思われる。そしてあとがきではまさにそのことが書かれていた。このベタな題名が生んだ功罪についても。 本書は宝塚、天王山、奈良、伊勢でバラバラに切断された死体が発見されるショッキングな内容でこの殺人ルートを解明するミステリである。 それらを結ぶのが題名にもなっている歴史街道、本書では伊勢―飛鳥・斑鳩―奈良―京都―大阪―宝塚―神戸を結ぶルートでそれぞれ≪古代史ゾーン≫、≪奈良時代ゾーン≫、≪平安・宝町ゾーン≫、≪戦国・江戸時代ゾーン≫、≪近代ゾーン≫と区分けされており、このルートを辿ることで二千年の歴史を体感できるとされている。 この歴史街道は実際に歴史街道推進協議会によってPRされており、現在もホームページで情報が更新されている。関西に住んでいる身としては実に興味深い内容で個人的に巡ってみたいと思った次第である。 しかしこの歴史情緒溢れるルートを舞台に本書では死体がばら撒かれ、そして加えて2つの殺人事件が起こる。そしてその中心には森江の高校時代の友人、味原恭二がいて彼が最有力容疑者となる。 この味原恭二という男は本書では決して好感の持てる人物として書かれていない。主人公の森江をして「自分の興味あるものに他人を巻き込んで散々利用した後にすぐに他の物に興味が移って顧みもしない」男と評されている。森江自身も高校時代に彼に誘われて演劇グループに所属し、最後の公演に向けて準備に明け暮れていた矢先に既に演劇に興味を失った味原は受験生へと転身し、逆に森江達にまだそんなことをやっているのかと歯牙にもかけない仕打ちを受けていた。 それは大人になってからも続き、劇団≪ストゥーパ・コメッツ≫に所属するといつの間にか牛耳るようになり、そして有名した後は興味が尽きたのかデザイン企画会社に転身し、現在に至っている。そしてその資金は彼の恋人でバラバラ殺人事件の被害者である川越理奈の父親から出資してもらっているのだ。まさに他人の土俵で相撲を取っては後を濁してばかりいる男だ。 従って彼の周りにいた人物も次第に去っていき、その肉親や知り合いは味原に対して嫌悪もしくは憎悪に似た感情を抱いている。 共同事業者の稲荷克利と新規コンピューターソフトを一緒に作ろうと巻き込んだ新進気鋭のゲームクリエイター白崎潤が森江の捜査の過程で殺人事件の犠牲者となっていく。 本書にはいくつか物理的なトリックが登場するが令和の今では懐かしさを感じさせる。 しかしこの犯行の内容が意外にも凄惨だったことに驚いた。 いやはや読んでててこの件は何とも背筋が寒くなる思いがした。上に書いたように本書はサラリーマンが通勤中に読むようなノベルスで刊行された推理小説だが、この犯行内容は通勤中に読むにはショッキングすぎるではないか。 しかし事件の真相から立ち上るのは味原恭二、白崎潤、稲荷克利、本庄静夫という4人の男の中心にこの事件の最初の被害者川越理奈という女性がいたことだ。そして彼女は非の打ちどころのない、知り合えば魅了されてしまうほどの魅力を備えた女性だったということだ。 歴史街道を軸に1人の女性に魅せられた男たちと1人の男性の才能に魅せられた1人の女性の物語であったのだ。 しかしその周囲の男性を翻弄する女性の心を射止め、なおかつ1人の女性が心酔する才能を持つ男を引き込んだのが全く好感の持てない味原と云う男なのは人間関係の綾というか人の心の不可解さを感じさせる。そしてそういう人が実際に自分たちの周りにいるのだからまいってしまう。 ところで本書では事件解決の直前にあの阪神淡路大震災が発生する。しかしこの震災が事件に何か影響を及ぼすわけでもなく、単純にその時期にこの事件が起きたということだけのことで描写されるのだ。正直この件は必要だったのかと首を傾げざるを得ない。 本書には他にも死体をより集めて作られた絶世の美女を贈られた貴族、紀長谷雄のエピソードなども盛り込まれ、歴史街道で起きた殺人事件を彩る。その他にも様々な伏線が散りばめられ、それらが確実に事件の真相に結びつき、実に細やかな作りになっている。 多分刊行直後に読めば当時まだ20代だった私には単なる通勤時の時間つぶしに読むキヨスクミステリとして片付けていたであろうが年齢を重ね、史跡や歴史遺産に興味を抱いた今ならば歴史街道と云う魅力的なコンテンツがあることを知っただけでも本書を読んだ価値を感じてしまう。 日本の二千年の歴史を感じるこの街道にいつか必ず足を運んでみることにしよう。 ただその時は本書の陰惨な事件を忘れた状態で、だが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『ドランのキャデラック』、『いかしたバンドのいる街で』に続く短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の3冊目の訳書である。
「かわいい子馬」は祖父から孫への最後の訓示のような話だ。 題名の「かわいい子馬」はその祖父が時間を具現化したイメージであり、アドバイスを受けた孫同様に読者である私も正直云って腑に落ちるものではない。ただそこに書かれている時間に関するこの老人の話は実に興味深い。 かくれんぼで隠れそびれたのは鬼役の子が1分数えるのが早かったからだと云って老人は孫を慰める。それを証明するために自分の懐中時計を与え、かくれんぼ鬼と同じようなペースで60を数えたときに何秒経っているかを確認させて、実際には35秒しか経っていなかったことで決して孫がとろくさくて隠れそびれたわけではないと教える。 そして人間の生涯には3種類の時間があると説く。 子供の頃は時間は長く感じて、例えば新学期が始まった時は夏休みなんて永久に来ないんじゃないかと思い、夏休みが来たら新学期なんてはるか先のことだと思うだろうと。子供時代の時間は、一日は長くてワクワクに満ちている。 そして我々が現実の時間の長さを感じるのが14歳くらいから60歳くらいだと老人は云う。時間の感覚が身に付き、長さを正確に知って行動できる。そしてその現実の時間こそが「かわいい子馬」で仲良く付き合っていけと諭す。 そして年老いてくると時間は早く過ぎていく。朝かと思ったらすぐに昼になり、そして夜になる。それを意識しだすのは40歳くらいで人々は夏になったかと思えばお店ではハロウィンの準備をしだし、そしてすぐにクリスマスの準備をしだすと。 確かにこれはその通りだ。「かわいい子馬」という概念は別にしてもこの時間に対する感じ方はみな同様に抱いていた気持ちではないだろうか。 そして老人はその子に時間の概念を教えたかっただけでなく、今日みたいに友達から虐められるようなことが起きても自分がそばにいると勇気づけたかったのだろう。祖父祖母にとって孫とは何とも可愛くて愛おしい存在なのだから。 次の「電話はどこから……?」は珍しく脚本形式で書かれた作品である。 聞き覚えのある女性の泣き声が受話器から聞こえ、パニックになるが、その声の主が解らない。これはそんな物語だ。 「十時の人々」は奇妙な侵略物である。 一般的には私たちと同じ人間にしか見えないが、ある特定の条件下の人間だけがその蝙蝠人なる異形の怪物の真の姿を見ることができるという侵略者たちの脅威を描いた作品だが、キングはこの特定の条件を何とも細やかな設定にしている。そんな人々を主人公が〈十時の人々〉と呼んでおり、それが題名の由来である。 次の「クラウチ・エンド」もまた「十時の人々」同様、我々の世界と異形の物の住まう世界は隣り合わせだと警告している物語だ。 物語の舞台はキングにしては珍しくイギリスはロンドンの片田舎クラウチ・エンド。そこはしかし異次元との境が最も薄い地域であった。そしてたびたびそこでは異形の物たちが蔓延っては生贄を攫っていく。そこに住んでいる友人宅を訪れた旅行中のアメリカ人夫婦はその異界へと紛れ込んでしまう。そしてそんな体験をした女性は失踪したままの夫を残して帰国し、自殺未遂を図り、療養所で過ごした後、退院してもなおある奇行をしないと落ち着かない日々を送る。 最後の表題作はキングによく登場する家庭を制圧する父親に怯える子供たちが主人公だ。 これはキングらしからぬ痛快な物語だ。不思議な金属が現れ、侵食する話と云えばあの陰鬱な駄作(敢えて云おう)『トミー・ノッカーズ』を想起させるが、本作はあの作品のように迷走せず、実にシンプルに展開する。 自分たちの家の中に金属があり、それが日々広がっていく。訳が分からないまま、カウントダウンを続ける計器が見つかり、“その時”が来るのが判る。 一方で反りの合わない継父との生活に日々心身をすり減らしている母親と子供たちがいる。そんな現状打破のためにこのカウントダウンを利用する。 結末は実に痛快! 敢えて色々な説明を省いて“その時”までを描いたキングの技巧を素直を褒めたい。 キングの短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”も本書で3冊目。その内容はさらにヴァラエティに富むようになった。 初頭を飾る「かわいい子馬」は純文学とまでは云わないが、普通小説である。 祖父はかくれんぼで遊んでいた孫が一人隠れそびれたのを参加していた友達に嘲笑われていたのを見て、彼に自分の懐中時計を託し、そして時間に関する話をする。その内容については既に上の感想で述べているので、ここでは別の話を書こう。 祖父から孫への最後の時間に関する話というテーマながら、作中で祖父が自嘲気味にすぐに横道にそれてしまいがちだと云うようにキング作品らしく、物語は色んなエピソードが含まれている。それは少年の無垢なる心では大人のやることが全て新鮮に見えたことやどこにでもあるアメリカの一般家庭の風景が断片的に挿入されており、何とも瑞々しい。 少年は祖父が親指の爪に擦り付けてマッチに点火するのをまるで手品を見ているかのように驚いて眺め、さらにその火が強風にも関わらず消えないのに、逆に振るだけでマッチが消えることを魔法だと感じる。 6歳年上の姉が男の人とは一生付き合わないと云った2カ月前に彼は姉がバスルームで1人全裸になって鏡で自分の姿を見ていて泣いていたことを彼は知っている。 また姉が悪戯で少年に“ちんちんつねり”をするのを彼は嫌っているが時々姉が愛犬にするように優しく撫でるときは寧ろ気持ちがいいことを黙っている。 父親が出張旅行に行っているとき、母親は病気の友達の見舞いに行くことがあって、少年はどうして父親の出張の時にいつも母さんの友達の病気が重くなるのか不思議がる。 そんなごく普通のアメリカ家庭でありながら、少年が祖母祖父の許で暮らしていることや断片的に語られる両親や姉のエピソードで、はっきりとは書いていないがその家族に何かあったであろうことを悟らせる。 次の「電話はどこから……?」はジャンル的にはホラーだが、なんと脚本形式で書かれている。 しかしなぜこの話を脚本形式で書いたのか? それはワンアイデアの物語を依頼された枚数まで膨らますためにキングが編み出した一種の荒技だったのか。 「十時の人々」はキングの好きなモンスター小説かと思ったが、侵略物と考えるとSF小説に分類されるか。 人々の知らないうちに通称“蝙蝠人”と呼ばれる怪物たちが人間に化けて社会的地位の高い人間に成りすましていた。通常彼らの姿は人間としか見えないが、ある特定の条件を備えた人物だけが彼らの正体を見ることが出来る。 この設定はある協会に依頼されて書いたような設定が妙なおかしみを感じさせる。 しかしこの蝙蝠人の精緻かつ醜悪な描写はまさにキングの独壇場だ。蝙蝠人というネーミングながら、決して蝙蝠の頭をした人間として描かれているわけではなく、大きな目と牙を備え、頭部には肉塊が蠢いて膨張しては膿を噴き出し、1本の黒くて太い血管が脈打っていると想像するだに気持ちの悪い風貌だ。そして彼らの正体が見えない一般人は普通の人々に見えるので、そのグロテスクな肉塊に頬にキスを交わすという吐き気を催すような描写も出てくる。 「クラウチ・エンド」はキングにしては珍しくアメリカではなくロンドンの片田舎を舞台にした物語。 クラウチ・エンドとはその舞台となる町の名前でセイラムズ・ロットやキャッスルロック、デリーと云ったキングお得意の不穏な雰囲気を孕んだ街の話だが、驚くことにこのクラウチ・エンドは実在する街のようだ。キングの友人ピーター・ストラウヴが住んでいた町で一度訪れたことがあるようだ。 しかし「十時の人々」と「クラウチ・エンド」は表裏一体のような話だ。 前者は希望を残した終わり方だが、後者は諦観が込められている。 最後の表題作はキングの持ち味である高圧的な父親の支配という恐怖を描きながらも、最後はSF的結末に至る作品だが、これはとにかく主人公となる4人兄妹たちがいい。愛情の欠片も感じさせない継父を嫌悪しつつも恐れながら、日々神経を衰弱させる母親を気遣う子供たち。そんな中、自分たちの家の壁の中に金属が入っているのを見つけ、それが次第に広がっているのに気付く。しかもカウントダウンしている計器を発見するに至り、どうやら何かが起こることを察し、彼らはこの怪事を利用して継父を一掃しようと企むのだ。 この4人兄妹はキングの名作「スタンド・バイ・ミー」の少年たちを彷彿させる。 普通小説、ホラー、モンスター小説、侵略物のSF小説、ジュヴナイル。しかし各編は左に書いたジャンルを見事にミックスさせて一括りにできない作品に仕上げている。 いやだからといって全くストーリーは複雑ではない。寧ろシンプルだ。しかしシンプルなストーリーに複数のジャンルを放り込んでいるのだ。 さて本書におけるベストは表題作の「メイプル・ストリートの家」だ。なかなか懐けない継父との確執が募る4人の兄妹たちの鬱屈を、何とも豪快な結末に溜飲が下がった。 あとは「十時の人々」の発想の面白さを挙げたい。 同じ習慣を持つ人々がいつも同じ場所で顔合わせ、顔馴染みであるがお互い挨拶も交わさず、名前も知らない人たち。そんな人たちはみないるのではないか。 本書では休憩時間の10時と3時に一服をしに出てくる人たちだが、例えば同じ通勤電車の同じ車両で乗り合わせる人たちやいつも行く馴染みの店で出くわす人々などなど。 この作品が面白いのはそんな人たちがみな共通して特殊な能力を持っていたという設定だ。この発想が実に面白かった。 また「電話はどこから……?」も過去の過ちを自分が過去の自分に教えてやれたらよかったのにと、これまた誰もが抱く心理に基づいた作品だ。しかしそうは上手く行かないのがキングらしい。 とにかくキングはどんなジャンルの話も書けるのだという思いを強くした。この短編集では普通小説も収録されている。これは逆に他の作品も読める短編だからこそ著したのだろう。さすがにキングのビッグネームでもこの手の普通小説は長編では盛り上がりに欠けて売れ行きも芳しくならないだろう。 さて“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”もあと1冊。次はどんな悪夢が、どんな風景を見せてくれるのだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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森氏の第5短編集。森氏の短編は長編に比べて抒情的な作品が多く、また作中で解かれない謎が隠されている。
はてさて今回はどうだろうか。 幕開けの「ラジオの似合う夜」はある人物の海外出張で出くわしたある不思議な事件の話だ。 一人称叙述でどこかの会社員の体で語られる本作は物語が進むにつれて、あることが判明する。 彼が相手をした外国の研修生X・Jは1年の研修で主人公に惚れてしまったようでこの研修でもその想いを隠さない。 そして彼が出張に来た彼女の国はやたらと秘密が多く、宿泊先のホテルでは監視カメラで監視され、捜査の見学をしに来たのに警察署にも行けず、そして唐突に帰国させられるといったもの。 事件は一応答えが出されるが、残された別の指紋については正直アンフェア感を拭えない。 なかなか考えられた展開ではあるが、本作の味わいはそんな窮屈な国で優秀な捜査員として生きるX・Jと主人公の間に生まれた愛のようなものがそんな政治事情で引き裂かざるを得なかった悲哀であることだ。やはり森氏の短編はセンチメンタルだ。 次の「檻とプリズム」は観念的な話だ。小さい頃から檻に入れられて育てられた少年はやがて近所の1人の少年と親しくなる。しかし彼に関心を持つ少女が現れ、街で起きている幼女殺人事件の犯人ではないかと彼を疑っていると打ち明けられる。 物語はこの3人のなんとも微妙な関係が語られる。少女は少年の3つ年上の友人を殺人犯として疑い、少年は友人にそのことを打ち明けようか迷う。 少女はもしかしたら彼の友人に気があったのかもしれない。もしくは少年自体に気があり、友人から離そうとしたのかもしれない。少年は友人に結局そのことを話すが、友人は彼女こそ危険な空気をまとっていると少年に話す。 いわば奇妙な三角関係を感じさせる。 少年が友人と交わす会話の中で彼が全ての生き物はかつて植物で動物もそうだったが、大地から離れることを選んだので植物より早く死ぬようになったというなかなか面白い話がある。そして主人公は動物たちが以前持っていた幹や枝や根はどうしたのかと訊くと、学者たちによればそれはすっかり無くなってしまったというが友人はまだあると信じてそれを調べていると話す。。 また一方タイトルの檻は少年が子供の頃に閉じ込められていた檻も指すが、みんなが檻から出たがっているという精神的な檻をも指す。つまり常識でいることは檻に入っているようなものだという意味だ。少女が少年の友人に関心があるのは友人が彼女にとって恐れるものでありながらも興味が尽きない存在であるからでその一歩が踏み出せないのは彼女が檻から、普通という名の檻から出る必要があると少年は説く。 まあ、なんとも観念的な話である。 次からはショートショートが5作続く。 まず「照明可能な煙突掃除人」は星新一作品を想起するショートショート。最後のオチは同氏のある有名作を想起させる。 2つ目の「皇帝の夢」は夢で聞いた囁きが中国の皇帝の名だと知り、その皇帝の墓を訪れた無職の男の話だ。 3つ目の「私を失望させて」は退屈しのぎに面白い話を始めた女ともだちの話。それは桃太郎を題材にした現代風の内容だったのだがというもの。童話桃太郎の話に潜む違和感に突っ込みを入れつつ、またおじいさんとおばあさんをおにいさんとおねえさんに変えたり、桃太郎が必ずしも鬼退治をしに出掛けたわけでなく、たまたま海水浴に行った無人島に鬼がいたのでついでに説教したという現代風(?)にアレンジされているのだが、何とも脱力的なオチ。これなら題材は正直なんでもいいではないか。 4つ目の「麗しき黒髪に種を」は子供会のピクニックの時のある思い出を語ったもの。 この物語は長い黒髪を持つ女性に纏わる苦い思い出について不意に思い出す内容で、なんだか作者の実体験のように感じられる。最後にそんな事態になってしまったことを悔む自身の心情が描かれている。最後のどうでもいいようなオチは作者自身を出し過ぎたゆえの照れだろうか。 5つ目の「コシジ君のこと」は小学生の時のクラスメイトが大人になって毎日夢の中に登場するという話だ。コシジ君というそのクラスメイトは華奢で虐めの対象になっていた。そんな彼が大人になって夢に現れても実に冴えない。そしてある日小学校の建物が取り壊されることになったのでお別れ会が開かれ、そこで久しぶりに当時担任だった先生に逢って、コシジ君の話をしたら、コシジ君はふざけて遊んでいたサッカーゴールの下敷きになって死んだことを思い出す。そしてそれ以来彼は夢に出てこなくなった。この喪失感はグッとくる。 次は短編と云っても少し長めのショートショートと云えるか。「砂の街」は久しぶりに故郷の街に主人公が帰ってみると街中が砂に覆われていたという実に奇妙な設定だ。 家路に至るまでに主人公はどこもかしこも砂だらけな風景を目にする。そして奇妙な砂をまき散らす丸い装甲車みたいな車が通っているのを目にする。そして家に着いてみると鍵が閉まって入れないので裏口から回って入ろうとしたところに隣家の昔馴染みの鎌谷さんというおじさんに見つかり、電話を貸してやると云われてお邪魔するとなぜかそのままお茶を出されて自分と同じように大学院に通っている姪を紹介される、と全く先行きが読めない話が続く。 「刀野津診療所の怪」はGシリーズ物の短編だ。 これはまさに収穫の1作。もやもやしていたGシリーズの中で一番面白い話かもしれない。 島の診療所で起きたと噂される怪異現象について全ては説明されないが、これが読後に話を整理していくとだんだん見えてくるからまた面白い! ところで「刀つのPQR」の意味は何か?これだけが解らない!あ~、もどかしさが止まらない! 最後の短編「ライ麦畑で増幅して」もまたもどかしさが残る作品だ。 「午前と午後が背中合わせ。それが小川君のものだ」 本書の謎は実は上の遺言の意味にある。そしてそれについては明かされないのだ。このもどかしさが森ミステリの歯がゆくも面白いところだろう。これはネタバレサイトでググるしかない! ところでこの小川令子とこの後に出てくる美術鑑定士の椙田泰男は自分の記憶ではこれまでの既出作には出てきてないキャラクタだが、今後出てくるかもしれないので記憶しておこう。 森氏5冊目の短編集はシリーズは彼が手掛ける全10作のシリーズの5作目と10作目の次に出される周期になっていたが、4作で完結の四季シリーズからGシリーズ3作目で出版されたもので周期が異なっている。もうその辺にはこだわらなくなってきたのだろうか。 しかし5冊目となる本書は上に書いたように既に4つのシリーズを経ており、従って収録された短編もそれらのシリーズキャラが登場するものが増え、それぞれのシリーズのボーナストラック的な内容となっており、ファンには嬉しい贈り物となるだろう。 従って本書では10作品中シリーズ物の短編が2つ入っており、従来入っていたS&Mシリーズ物はなく、VシリーズとGシリーズ物になっている。但しGシリーズは犀川と萌絵が再登場しているシリーズなのでどちらかと云えばS&MシリーズはGシリーズに移行したと考えるのが妥当だろう。 1作目の「ラジオの似合う夜」は主人公の一人称叙述で始まるため、最初は不明だが物語が進むにつれてVシリーズのある人物が語り手であると解ってくる。 「檻とプリズム」はノンシリーズ物で、云うならばアンファンテリブル物だ。 幼女が殺される事件が連続して起きており、それが主人公の友人ではないかと忠告する少女が現れる。 檻は自分の中にある心の殻であり、プリズムはその少女の瞳を指す。そして少女と2人の少年の関係は疑いを持ちつつも関心を抱く微妙な心模様が読みどころか。 また5つのショートショートが載っている。 「証明可能な煙突掃除人」は亡くした父との邂逅を、「皇帝の夢」は成人した大人のある様子を、「私を失望させて」は桃太郎を現代風にアレンジした内容を、「麗しき黒髪に種を」は長い黒髪を持つ女性に纏わる自分の過去の苦い思い出を、「コシジ君のこと」は小学校の同級生が毎日夢に出てくる話が語られる。 「私を失望させて」は単なる一人の人形劇である、いわば作中作ネタなのだが、それ以外は過去や忘れていた思い出を奇妙な形で思い出させる、もしくは出くわさせられるといった作品である。 そして奇妙なのは「砂の街」だ。これは主人公が帰郷すると故郷の街が砂だらけになっていたというもの。少しでも歩くと砂が立ち上り、口や目の中に入り込んで難儀する。作中でも少し触れられているが鹿児島の桜島付近で住む人たちは火山灰によってこのような生活を強いられているのだろうかと同情してしまう。 ただこの作品は実に奇妙な形で物語が進む。主人公がコンビニの自動販売機で飲み物を買おうとしていると―というかコンビニに自販機があることが奇妙なのだが―店員がネットオークションで前日に競り合った電気機関車のモデルを送り出すところに出くわして忸怩したり、家の中に入ろうとすると昔から知っている隣のおじさんに呼び止められ、お茶を勧められたかと思うと自慢の姪を勧められ、二人きりにさせられたり、その姪は昔からなりたかったので妹と思ってほしいと頼んだりとシュールな展開が繰り広げられる。 また砂をまき散らす砂連隊なるものも出てきて、日本ではないどこかの話のように思わされる。ラストは色々な意味合いを含んで何ともこの作者のやり口が憎たらしいったらありゃしない。 そして「刀津野診療所の怪」はGシリーズ物の短編だが、実はこれには嬉しいサプライズが詰まっていた。これについては後に述べるが、それまで微妙な感じだったGシリーズのキャラクタに一気に親近感を覚える結果となった。 そして最後の「ライ麦畑で増幅して」はネタバレサイトでこれが後のXシリーズに出てくるキャラクタ2人だというのが判明した。またもこの短編集は別のシリーズへの橋渡し的役割を果たしていたわけだ。 そしてあの謎めいた「午前と午後が背中合わせ。それが小川君のものだ」の意味は解らなかった悔しさよりもカタルシスが先に立った。 本書のベストを挙げると「コシジ君のこと」と「刀津野診療所の怪」になる。 前者は実にシンプルで泣かせに来ているのは判っていても、こういう話に私は弱い。コシジ君をかつての自分の同じようなクラスメイトに重ねてしまうからだ。 そして彼が夢の中でも冴えない風貌で冴えない仕事を一生懸命している姿が主人公に自分のことを訴えかけているように思えた。 後者はもうこれまでのシリーズが見事なまでに結びつく、特にまだVシリーズとS&Mシリーズの関係性を知らなかった頃に読んだ短編「ぶるぶる人形にうってつけの夜」が伏線となっていたことが判明するこのカタルシスが堪らなかった。 森博嗣氏はシリーズ読者を裏切らない! いや寧ろ幸せにしてくれる! そう感じた短編だ。 あと珍しく犀川の駄洒落が聞いていた。「ふうん」「何ですか、ふうんって」「漢字変換する前」は実に見事! 爆笑してしまったし、佐々木睦子の「カナダの首都みたいな顔をしている」「トロントしている」も誤ってはいるが実に面白い! またGシリーズの登場人物の素性も少しずつ明かされたのも収穫の1つか。山吹の実家が人口200人くらいの離島で旅館をやっており彼に寛奈という姉がいたこと。そしてそのことで彼らの誕生月と両親の名前の付け方が分かったことなどなかなか面白い肉付けがされていた。 とまあ、さすがに短編集も5集目になると1集目のようなそれぞれの短編に込められた濃度の高さは低くなったが、逆にここまで来るとシリーズ読者、いや森作品読者にとってのサプライズと思いがけないプレゼント、即ち読んできた者だけが判るご褒美をシリーズの短編で感じるようになった。 しかし毎回思うが以前書かれた作品の伏線が数年後に活かされ、そしてそれらが矛盾やパラドックスなく繰り広げられる物語世界の広さと深さを思い知らされる。 森作品は1作1作のミステリの深度は浅いが、作品を重ねるごとに著作全体に仕掛けられた謎やリンクが立ち上り、むしろそちらの深みこそが醍醐味だろう。 森作品は1作1作がコラージュの1片1片に過ぎなく、それらが集まって壮大な絵が描かれるのだ。 読めば読むほど天才性が際立つ作家だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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江戸川乱歩賞受賞作がそのままその年の直木賞受賞作となる、実にセンセーショナルなデビューを飾った藤原伊織氏。そんな彼のまさに世間が待ちわびていた2作目が本書である。ファン・ゴッホの未公開のひまわりの絵画を巡る美術ミステリだ。
1997年刊行の本書。28年前の、しかも前世紀の作品。その時既に社会人だった私にとってはさほど前の話のように思えなかったが、やはりところどころに時代を感じさせる。 例えば本書ではオリックスではイチローがまだ活躍しており、デザイン会社での記憶媒体ではMOが主流となっている。いやはや懐かしい。 USBメモリーやSDカードが主流になっている現在、MOなんてもう時代の遺物だ。私も当時使用していたが、今の若い子たちはMOなんて知っているだろうか。 更に驚いたのは携帯電話の最初の3桁が030であり、そして番号が10桁であることだ。PHSが050だったっけなどと思い出した。 またタクシーに自動車電話がついてるなどという描写もあり、私もずいぶん昔から生きている者だなぁと思い知らされた。 さてそんな時代性を感じさせる物語の主人公秋山秋二はかつてデザイン会社で新進気鋭のデザイナーとして働いていた男だ。若くして才能を評価され、自身の作った広告が日本アートディレクター協会のJADA賞―なおこれは日本グラフィックデザイナー協会JAGDAがモデルだろう―のグランプリを当時最年少で受賞したほどの才能を持つ。勤め先を若くして独立するまでになる。 そんな彼が全ての名声と才能を放棄し、世捨て人のような生活を送っているのは彼の妻英子が他界したからだ。しかも自殺し、さらにはその時身籠っていたことが判っている。 しかも夫の秋山は大学生の頃に罹ったおたふく風邪の後遺症で無精子症となっている。つまり彼の妻英子は死ぬ前に夫ではない誰かの子供を身籠っていたのだ。 その後彼は渡米し、そこで射撃に夢中になり、腕を磨く。留学ビザも取り、長くいるつもりだったが1年後に父の死をきっかけに日本に戻って現在に至る。 そんな彼を今回の事件に巻き込むきっかけを作ったのはかつて彼が勤めていたデザイン会社の元専務、村林だ。今の社長井上と共にデザイン会社京美企画を立ち上げ、その後将来性のあるインダストリアルデザイナーの道に進むことを選んで京美企画から独立し、今はその方面で一流デザイナーとして名が通るまでになった人物だ。 彼は京美企画在籍時代に秋山が異常な博打の才能を持っていたことを思い出し、彼が手に入れた500万円を摩る為に彼をカジノに誘う。 そして村林に連れられて行ったカジノで遭遇した若い女性加納麻里が本書のヒロインと云えよう。秋山は彼女に亡き妻英子の面影を見出す。 しかし私は今回この加納麻里という人物像に藤原氏らしくない、作り物感を抱いてしまった。 父親と二人暮らしで育ち、しかもその父親は腎不全で臥せっており生活保護を受けながら極貧生活を送っていた。たまたま買った宝くじが当たり、100万円が入ると生活保護を打ち切られるような社会のシステムに嫌気が差し、ヘルスのバイトで自分で金を稼いで生活を支え、そしてその一部を大学の入学金に当て、奨学金をもらって大学に入った苦労人だ。 しかしその大学も中退し、ヘルスを本業にしていたところ、週刊誌に美人ヘルス嬢としてグラビア紹介されたのが仁科老人の目に留まり、スカウトされ秘書になった。そして仁科に連れられたカジノで秋山と出遭ったのだ。 しかしこのたった21歳の彼女に作者はかなりの要素を盛り込んでいる。 全米ライフル協会の帽子を知っていて被っていたことやPC、ポリティカリー・コレクトネス、政治的正当性といった耳慣れない言葉と意味を知っている。さらにはフランス語も理解して書物も読める。 ヘルスのバイトをして学費を稼ぎながら、アメリカ社会における全米ライフル協会の微妙な立ち位置を理解し、さらにフランス語を読める元女子大生。しかも21歳と云えば大学3年、いや4年生かもしれないが、こんな知識を持つ女子大生は東大生や有名私立大といった上位の学生しかいないだろう。 さらにヘルス嬢時代に実の父親が客として訪れた暗い過去をも持っている。 美人過ぎるインテリヘルス嬢でそんな痛々しい過去を持つなんて人物に陰影をつけるとはいえ、理想を押し付けすぎやしていないだろうか。 また途中で秋山に近づき、彼の味方となるカジノのマネージャー原田邦彦もまたミステリアスな男だ。一流ホテルの支配人と見まがうかのような優雅な身のこなしと礼儀を知り、なおかつ記憶力がよく、さらに全体像を見通す視野の広さを持っている。 さらにやくざにも太刀打ちできる戦闘能力もあり、修羅場に置かれても一切動じず、相手が無礼なことをしても、さらには重傷を負っても顔に笑みさえ浮かべる男。 おまけにゲイであり、一流電機会社の役員と大物実業家仁科とで取り合いをさせるほどの魅力を備えている。 この原田と加納麻里を従えるのが仁科忠彦という実業家だ。若かりし頃は画家の道を選んだが、自分の才能に限界を見出し、実業家の道を進み、金融関係の仕事やカジノの経営、画商やさらに民間の美術館まで手広く事業を展開している老人でしかもバイセクシャルでもある。 このように複雑な絵を描きながら展開するこの物語はゴッホの知られざる8枚目のひまわりの絵を巡る美術ミステリであり、冒険小説でもあるが、読み終わった今、実に類型的な作品であるなとの印象が拭えなかった。 まずゴッホの知られざるひまわりの絵の存在を巡るまでの道のりは本格ミステリ的興趣もあり、実に面白い。 主人公秋山秋二のモラトリアムな生活に突如介入してきた、かつての上司村林のカジノへの誘いをきっかけに彼の周りで彼を見張る者たちが現れたり、また自殺した妻に似た女性が絡んできたりと主人公の身に何が起きているのか不明な点が学芸員をしていた亡き妻英子の遺品に遺されていたメモからゴッホの知られざる8枚目のひまわりの存在に至る、この見事な展開はそれまで何が謎なのかが解らなかっただけに、目の前の靄が一気に晴れる思いがした。 さらにゴッホが8枚目のひまわりを書いていた可能性についてもゴッホ生前の創作姿勢から可能性の高い“あり得る話”だと思わされるし、何よりも主人公の亡き妻英子とゴッホ8枚目のひまわりの存在をアメリカ人美術コレクター、ナタリー・リシュレとの交流から繋げていく流れは実に読み応えがあり、まさに歴史秘話的な興趣に満ちている。 恐らく藤原氏は美術が好きで造詣が深いのだろう。でないとこんな話は浮かばない。 ただここからがいけない。登場人物たちやプロットが非常に類型的になっているのだ。 モラトリアムな主人公が事件に巻き込まれ、望むと望まざるとに関わらず、銀座の中心に住みながら家とコンビニの往復でしか毎日を過ごさなかった日々から一転して赤坂のカジノや京都の亡き妻の弟の家まで行く羽目になり、そこから晴海の倉庫で銃撃戦へと展開していく。 原田という謎めいたカジノのマネージャーが味方に付き、記憶力と洞察力が高い上に身なりは優雅、さらに格闘能力も高く、おまけにゲイであるというなんとも作られたような便利な登場人物に、亡き妻の英子に似たヒロイン加納麻里は上述のように21歳の若さにしては世間だけでなく、アメリカ社会のことまで知っており、フランス語まで解する。 敵も不動産投機に失敗し、大量の借金を抱えた融会社の社長田代誠介がやくざと組み、知られざるひまわりの絵を奪おうと執拗に追ってくる。 その社長は秋山が以前勤めていたデザイン会社と取引の厚い一流電機メーカー、アイバ電機工業の社長の息子で元広報宣伝部長で都落ちの身。彼を取り巻くのは元アイバ電機社員の鷺村修で依願退職後、暴力団の八雲会に所属しており、その八雲会で幅を利かせているのが曽根で会の武闘派である。風貌は平凡な男だが、平気で人を撃ち、刃物で人を刺すことのできる男だ。 しかしこの曽根は元々中古車ディーラーをやっており、村林が広告会社時代に私語をしくじった顧客だった。その時、お詫びに上がったのが村林と社長の井上で彼は激昂する曽根に殴られるままに殴られ、瀕死の重傷を負った上に多額の賠償金を支払った過去がある。 一介の元サラリーマンが暴力団と手を組み、さらに一介の零細中古ディーラー元社長が一流の拳銃使いとなっている。 とにかくそれぞれの登場人物に設定を盛り込みすぎなのだ。 年齢と持っている能力の高さ、成熟度が釣り合わない気がした。いわばプロットを成立させるために登場人物たちに設定を押し込めている感じだ。 また人間関係も狭すぎる。このバランスの悪さが読書中、常に頭に付きまとってしまった。 惜しかったのは秋山の妻の英子の肖像だ。 まず主人公秋山と英子の出逢いの場面が何とも瑞々しい。高校2年の秋山に新入生の英子が話しかけるシーンは久々に青春物の恋愛小説を読んだ清々しさを感じた。秋山の才能に惚れ、そして結婚するにまで至った2人の関係はまさに運命が引き合わせた2人だ。 物語のもう1つの謎はそんな彼女の自殺の原因だ。秋山を慕い、才能に惚れ、ついてきた彼女がなぜ自殺したのか。それも他人の子を孕んで。 でもやっぱりどう考えても英子の自殺のエピソードはいらなかったように思う。これは単に枯れた中年男の恋愛願望ではないか。 また導入部で秋山秋二の特殊な博打の才能に関してその後見せ場が出てこなかったのはなんとももったいない。 特に渡米時代に肖像画を描いたお礼としてもらったライフルを帰国の際に預け荷物に入れてそのまま日本に持ち込めることができた件には、いくら分解して詰め込んだといえど、その現実感のなさに驚いた。 このように中の餡子は非常に美味しいのに昔子供の頃に食べた質の悪い外側の皮がパサパサな饅頭のような作品になったのは誠に残念だ。まさに昭和の味わいといった古めかしさを感じた。 既に鬼籍に入っており、今はもう数限りある残された作品を愉しむしか術はないが、江戸川乱歩賞受賞後、直木賞受賞後の1作としてはこのプロットはなんとも類型的すぎる。 刊行年の年末ランキングにランクインしなかったのも頷ける。 彼の作品は全て持っているのでそれらが藤原伊織という名を刻むだけの価値あることを強く望みたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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最近では老境に入ったこともあり、それまでずっと棚上げされてきたシリーズの完結に勤しんでいる田中氏だが、本書はその前に書かれた19世紀のヨーロッパを舞台にした、実在の人物を登場させた冒険活劇が描かれていたが、本書もそのうちの1つ。作者あとがきによればこの後『髑髏城の花嫁』、『水晶宮の死神』と続き、全部で三部作となるようだ。
で、私はこの田中氏の19世紀のヨーロッパを舞台にした冒険活劇は実に楽しみにしている作品である。なんせこの前に読んだ『ラインの虜囚』が無類に面白く、久々に胸躍る童心に帰って冒険活劇の躍動感に胸躍らせたからだ。 さてそんな期待を抱きながら繙いた本書もまた『ラインの虜囚』とまでもいかないまでも実に楽しい冒険小説となっている。 まず本書にはあの有名な文豪チャールズ・ディケンズと童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンが登場する。デンマークの作家アンデルセンがディケンズの許に遊びに来ているという設定で、なんとこれは作者自身のあとがきによれば史実のようだ。 その2人の冒険に巻き込まれるのは語り手であるエドモンド・ニーダムとその姪メープル・コンウェイの2人だ。 ニーダムはクリミア戦争からの帰還兵で元々ジャーナリストであったが帰還後、彼の勤めていた会社は既に倒産しており、幸いにしてその社長が紹介してくれた貸本会社ミューザー良書倶楽部の社員に姪と一緒に雇われることになる。この2人が実在の人物であるかは不明である。 そんな2人が社長の命でディケンズの世話をすることになり、そしてディケンズのスコットランドのアバディーンへの旅行に随伴することになる。そしてその地でディケンズと因縁深いゴードン大佐と再会し、彼の所有する月蝕島に行くことになる。そしてそこで彼ら街の権力者であるゴードン大佐とその息子クリストルと対決することになるのだ。 まず貸本屋が当時一大産業として成り立っていたというのに驚く。主人公2人が就職するミューザー良書倶楽部は会員制の貸本屋で客層は上流階級で会員費で潤沢な資金を得て話題のある、内容的にも評価の高い本を扱っていた。19世紀当時はまだ本は買うものではなく借りる物だったのだ。 従って作家連中は自作を貸本屋に置いてもらわないと死活問題であったため、貸本屋は売れる本を書くよう作家に指示できる立場であったのだ。いわば編集者も兼ねていたとのことだ。また逆に売れる作家に対しては将来への投資として旅行費の立替なども行い、まさに今の出版会社と変わらぬ役割を果たしていたようだ。 さて今回ニーダム一行が月蝕島を訪れるきっかけとなったのは新聞で氷山に包まれたスペインの帆船が流れ着いたというニュースが入ったからだ。しかもその帆船は16世紀にイギリスに攻め入って返り討ちに遭い、帰国の途中に行方知れずとなったスペインの無敵艦隊の1隻だともっぱらの、しかし確度の高い噂が流れていたからだ。 ここでまた田中氏によってこのスペインの無敵艦隊について蘊蓄が語られるわけだが、イギリス侵略に失敗したスペインの無敵艦隊は西方の英仏海峡にイングランド艦隊が待ち受けていた関係でなんと東からグレートブリテン島を北上し、アイルランドへ回って帰還するしかなかったと述べられている。そしてそれほどの距離を航行する予定ではなかったため、食糧が尽き、おまけに北の暴風と嵐に巻き込まれて130隻中67隻が帰還し、残りの63隻のうち35隻が行方不明のままだったとのこと。 つまり田中氏はこの史実に基づいて氷山に包まれたスペインの無敵艦隊が200年の時を経てスコットランド沖の月蝕島に流れ着くという実に劇的なシーンを演出する。 そしてこの月蝕島の成り立ちがまたすごい。 この島の領主リチャード・ポール・ゴードン大佐は暴君とも云える存在で財力に物を云わせ、農民から土地を巻き上げ、借地料や借金を払えない農民たちを強制移住させて追い出していた。さらに安い賃金で雇い長時間労働をさせて過労で次々と死なせていた。また月蝕島を買い取ると島民たちが生業にしていたガラスの材料となる海藻取りを、海の中まで自分の土地だと宣言して禁じ、貧困にあえがせていた。それは彼の目的のためだった。 やはり都会よりも歪んだ思想を持つ権力者が幅を利かせる田舎の方が怖いというがまさにゴードン大佐の支配するその街はその典型だ。 ちなみに私は昔からイギリスの小説で大佐という肩書の登場人物が出ることに違和感を覚えていたが、今回の田中氏の説明でその疑問が解消できた。 貴族や爵位の持たないが、広大な土地を所有する大地主などを「郷紳(ジェントリー)」と呼ぶらしく、そしてそういう身分の人物が敬称で呼ばれたいときに使うのがコロネルという位であり、これを「大佐」と訳していたわけだ。つまり大佐とは決して軍人の階級を示すわけではないのだ。 しかしこれは今回初めて知ったが、やはり大佐という肩書は軍人を想起させるので解ったと云えど違和感は当分払拭できそうにないだろう。 またこの悪辣な親にして子もまた同じく心底悪党である。 次男のクリストルは長身でハンサムだがプライドが高く、またすぐに女性が自分になびくものだと思っており、メープルに対して異様な執着を持つ。さらに剣の名手であり、力量の劣る敵を自らの剣で思う存分傷つけ、嬲り殺そうとする異常な性格の持ち主だ。 さらには気に入った女性を島まで連れて行ってはお気に入りの服を着させてもてあそび、飽きてしまえば殺してはまた新しい女性を物色して連れてくるを繰り返していた卑劣漢だ。 そんな悪党親子と立ち向かうディケンズ一行の面々もまた個性的だ。 ディケンズは貧しい家庭の出であることにコンプレックスを抱いているが、情に厚く、自分が気に入った者たちへの支援を怠らない人物だ。 翻ってアンデルセンは大人になって子供で少しのことで狼狽え、嘆き、そして喜ぶ。ちょっとした知的障碍者のように描かれている。 そしてメープル・コンウェイはおじのニーダムに憧れ、将来ジャーナリスト志望の若き娘で作家の悪筆を見事に読み取る能力があり、それを買われてミューザー良書倶楽部に雇われる。そして女性の地位向上、識字率向上に努力を惜しまず、また悪党クリストルにも一歩も引かない気の強さを見せつける。 そして主人公のニーダムは案外深みのあるキャラクターであることが次第にわかってくる。 彼は戦争から帰還後貸本屋の従業員として雇われ、また姪に対して気の良い兄的存在のいわば“いいお兄さん”的存在なのだが、クリミア戦争の後遺症で神経症を患っていることが明かされる。 とまあ、ヒーローとヒロイン、ボス的な存在であるディケンズと道化役のアンデルセンと冒険仲間としては典型的でありながらも申し分ない面々以外にも『カラブー内親王事件』の張本人メアリー・ベイカーも加わる。さらに周辺では先に述べた桂冠詩人アルフレッド・テニスンや『月長石』の作者ウィルキー・コリンズなど実在の人物が登場するのもこの田中氏の19世紀冒険活劇の特徴である。 とまあ、実在する人物が実にのびのびと動き、さらに胸をむかむかさせる悪党が登場し、意外な人物の正体が明かされながら、なじみのない西洋の近代史の蘊蓄も散りばめられ、エンタテインメントてんこ盛りの作品だ。 そして本書の隠れたテーマとはやはり教科書で学んだ歴史の裏側や教えられない当時の人々の生活やイギリスの社会や風習などを事細かく盛り込み、そしてその時代の人々に命を与えることだろう。 例えばゴードン大佐は急速に発展したイギリスの産業革命によって生み出された、一大財を成し、その資金力を己のエゴのためだけに使ってきた悪魔のような権力者であり、社会の高度経済成長の暗部でもある。 また教科書では決して学ばない当時の人々の生活様式や風習を書き残すことで読者が興味を持ち、次世代の歴史小説家が生まれることを期待しているのではないだろうか。 本書を書いた当時、作者田中氏は59歳。そしてこれが三部作の第1作目であることを考えると、やはり後続のまだ見ぬ作家の卵たちに向けた花束ではないだろうか。 本書の巻末には本書の登場人物が生まれる1789年から1907年の年表と数えきれないほど膨大な量に上る参考文献が載っている。やはりこのことからも田中氏が自分の趣味だけでこのシリーズを書いているわけではないことが判るというものだ。 このシリーズ、作者あとがきによれば「ヴィクトリア怪奇冒険譚」三部作と銘打たれているようだ。そしてこのあとがきにも本書に登場した実在の人物やイギリスの通貨の単位や長さや面積の単位などについても触れられている。 『銀河英雄伝説』という歴史を紡いだ田中氏が晩年に着手したのは英国の歴史を舞台にした冒険活劇三部作。 それまでの19世紀西洋冒険活劇譚も併せて、彼が遺そうとしている田中芳樹版歴史の教科書。それは単に勉強ではなく、かつて胸躍らせて本を繙いた少年少女の心をくすぐる作品群になるに違いない。 幸いにしてこの後残りの2作も近いうちに刊行されるようだから、楽しみにして待つことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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リンカーン・ライムシリーズ12作目の本書ではリンカーンはNY市警を辞め、大学で鑑識技術の講義を行っている。
従っていつものようにアメリア・サックスとコンビを組んでの捜査とはならず、それぞれがそれぞれの事件を追っている。 アメリア・サックスが追っているのは未詳40号と付けられた、異様に背の高く、痩せた風貌の殺人容疑者だ。しかしリンカーンの手助けを借りれないアメリアは遅々として進まないNY市警の鑑識結果にイライラしながら、それまでの捜査で培ってきた洞察力で容疑者を追っていく。 一方リンカーンはそのアメリアが偶然出くわした容疑者を尾行中に入ったショッピングセンターで起きたエスカレーターの事故の調査を行っている。上りのエスカレーターの上り口の乗降板が開き、そこに落ち込んだ店の従業員がモーターに挟まれて圧死した原因を突き止め、残された家族のために賠償金を請求するための証拠集めを強引に休暇を取らせた相棒メル・クーパーと講義の熱心な聴講生である、同じく四肢麻痺の生涯を持つ、元疫学研究者のジュリエット・アーチャーと共に当たる。 この2つの捜査(調査)はやがて1つへと繋がっていくのだが、これまで読んだリンカーン・ライムシリーズとは異なり、非常にじっくりと時間をかけて進むのだ。 今まで彼らが相手にしてきた犯人は次から次へと犯罪を、殺人を繰り返し、事件を未然に防ぐために証拠類と奮闘するリンカーンとの秒刻みの戦いが醍醐味だったが、アメリアが捜査する未詳40号は、彼の犯罪が発覚した被害者トッド・ウィリアムズ以降の殺人がなかなか起きないでいる。 またリンカーンサイドも自室内に実物大のエスカレーターのモックアップを設けてまで、事故を起こしたメーカーのエスカレーターの調査を行うが、彼らが想定する誤作動の原因探しは試行錯誤の連続で、なかなか捗々しく進まない。 これほどじれったく長く続くこの2人の捜査も珍しい。 この並行する2人の捜査は300ページを過ぎたところでようやく交わる。アメリアの追う未詳40号とライムの調べるエスカレーターの事故が繋がる。 エスカレーターの事故は内蔵されたスマートコントローラーを意図的に遠隔操作した者の仕業だった。その人物こそが未詳40号だった。 いつもながらディーヴァーは色んなテーマを扱い、我々の生活と彼の対峙する敵の犯罪が実に近いところで繋がっていることを知らしめてくれるが、本書ではさらにその距離が縮まっている。 今回の敵、未詳40号が殺人に利用するのは我々の生活を便利する通信技術だ。スマートフォンのアプリで遠隔操作するシステムの穴から潜り込み、誤作動を起こさせて人を殺す、なんとも恐ろしい敵だ。 まずはエスカレーターの乗降板を意図的に開放させ、人を落としてモーターに巻き込んで殺害。 次に家庭のガスコンロを意図的にガス漏れさせ、ガスが室内に充満したところで点火し、住民を丸焼きに。 そして大型テーブルソーを誤作動させて腕をスパッと切るかと見せかけて電子レンジの出力を何倍にも上げておいて温めていた飲み物とマグカップの中に含まれている水分を水蒸気爆発させる。 さらには自動車の制御システムも遠隔操作して猛スピードで逆走させ、衝突事故を起こさせて渋滞を招き、アメリアの追跡を交わす。 生活が発展し、便利になるとそれを悪用する輩も出てくる。スマートフォンのアプリで色んなことができ、色んなものとリンクすることが可能になったが、ウィルスを侵入させて壊したり、スパイウェアを侵入させて個人情報を搾取したりと枚挙にいとまがない。 しかしディーヴァーは過去に『ソウル・コレクター』で他人の情報を奪って成りすまして犯行を行う犯人を描いていたが、今回は便利さを利用して人を殺すという誰もが被害に遭いそうな犯行方法を生み出した。 何とも恐ろしい犯行を、犯罪者を生み出したものである。あまりにリアルすぎて背筋が寒くなる。 更には街ですれ違って自分を罵倒した弁護士の素性を調べ上げ、アパートのセキュリティシステムに侵入して、幼児誘拐まがいの悪戯を仕掛けることもできる。 また恋人との情事を盗み聞きしていた隣人を防犯カメラで捉え、自分たちのプライベートを汚したことで殺害する。 題名の「スティール・キス」とはこれら便利な物たちの誘惑を比喩した“鋼鉄のキス”という未詳40号の比喩に由来する。 また一方でアメリアも刑務所に服役していた元警官で恋人だったニック・カレッリが再び彼女の前に姿を現す事態に出くわす。彼は強盗事件に関わった容疑で逮捕され、服役していたが、実は冤罪でそれは彼の弟のやった事件で彼は弟の身代わりになったというのだった。しかしその弟も今は亡く、彼はやり直すために当時の事件の資料を調べ、潔白を証明したいとサックスに協力を求める。 そしてサックスもかつてと変わらぬニックに心を傾けていく。 またロナルド・プラスキーはプライベートでヤクの売人と接触し、独自の調査を行っている。 そんな複数のエピソードを交え、今回も大なり小なりのどんでん返しを見せてくれた ディーヴァーだが、ある程度パターン化してきた感は否めない。 行く末が逆に判っているからこそヒヤヒヤさせられることも無くなってきた。そう、免疫がついてきてしまった。 あといささかあざとい仕掛けも感じた。 そんな風に思っていたら、なんと今回の結末は意外にもリンカーンとアメリアにとっても苦いものとなる。 人生全てが順調ではなく、万全ではない。生きていれば一度や二度、挫折もし、苦汁を舐めさせられることもある。 しかしそれを乗り越えて生きてこそ、人はまた成長し、そしていつかは笑って話せる過去へと消化できるよう、心が鍛えられるのだ。 転んでもただでは起きない者もいる。 今回色々な悪が描かれてきた。 巨大企業のビジネス優先主義によって製品の欠陥を隠匿しようとした悪。 その犠牲になり、復讐のために次々と人を殺してきた悪。 自らの犯行を正当化し、かつての友人や恋人を騙してまで大金をせしめようとした悪。 それぞれの悪が円環のように巡り、そして殺しの連鎖を導く。人が利己的にならなくなった時に犯罪は無くなるのだろうか。 スティール・キス。 それは便利さの裏側に潜む甘美な罠。 もう我々はスマートフォンなしでは生活できなくなってきている。我々の便利な生活が危険と隣り合わせであることをまざまざと痛感させられた。便利と危険は比例することを肝に銘じよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『ドランのキャデラック』に続く短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の2冊目の訳書である。
本書は「献辞」で幕を開けるが、これはいわゆる本の冒頭に書かれるそれを指すのではなく、れっきとした短編の題名である。しかしその内容はまさに本の冒頭に掲げられる献辞についてのお話だ。 蛙の子は蛙という言葉もあれば、トンビが鷹を生むという言葉もあるように、時にはこの親にしてこの息子と云った至極当たり前な子供ではなく、突然変異的に秀でた子供が生まれることがある。本書は黒人の最下層の夫婦の間に生まれた子供が小説家になった理由を実にキングらしい生々しさで語る。 本作ではそれ以外にもこのベストセラー作家の創作の苦悩など作家ならではのエピソードに溢れていてなかなか興味深く読んだ。その辺についてはまた後ほど述べることにしよう 次の「動く指」は実にキングらしい奇妙で恐ろしい話だ。 ある日突然排水口から人間の指が現れたら、どうする? そんなシュールなシチュエーションをホラーにしたのが本作だ。 手指というのは不思議な物で、神経が集中し、細かで繊細な動きが出来ることから、手指の動きだけで感情すらも表現出来る。実際多彩なフィンガージェスチャーがあり、自分の感情を表すのを強調するために手指で補う。例えば映画『アダムス・ファミリー』で登場する手首だけの存在ハンドなんかはその好例だろう。 洗面所からにょっきり飛び出して来る1本の人間の指。いつも見慣れた物で自身も持っている物なのに、なぜそんなところから1本だけ出てくるとこれほどまでに気持ちが悪いのか? ただそれは神経を逆撫でするようにカリカリと音を立てる。気持ち悪い上に気に障るため、次第に主人公の精神を苛む。しかも意地が悪いことに主人公が洗面所にいるときだけ姿を現し、彼の妻の前には現れない。 主人公は自分だけが見る幻覚かと思うが、やがて劇毒物である排水口クリーナーと電動植木鋏で立ち向かう。 そこからの展開はキングの独壇場だ。もだえ苦しむ薬傷した指はいくつもの関節を持ち、どんどん伸びてくる。このアイデアは実に秀逸。人間の指から異形の物へと変わる瞬間だ。 しかしワンアイデアでよくもここまで凄まじい作品を書くものである、キングは。 「スニーカー」は都市伝説ような作品だ。 アメリカのトイレのブースは扉の下部が大きく空いているのが特徴だが、そこから人の靴を見て使用中かを判断する慣例になっているようだ。 この主人公は3階のトイレの一番手前のブースに1組の薄汚れた白いスニーカーがあることに気付くが、それがいつ行ってもその持ち主が入っているので気になりだす。そしてそれが怪事であることを示唆するように周囲に虫の死骸が増えていく。 今回この奇妙な現象にキングは理由を付けている。 また本作では音楽業界の裏話などもあって、洋楽好きな私にとっては面白く読めた。ショックだったのは本書が発表された1993年の時点で主人公がロックはもうかつての栄光を取り戻す力がないという意味の言葉を放っていることだ。確かに90年代からヒップホップが台頭してきたが、この時点でもうそんな境地だったとは。 更にバンドの中でもベース・ギタリストの存在についての話も面白い。華やかさに欠けるゆえに慢性的に人手不足らしい。 またローリング・ストーンズのビル・ワイマンが演奏中に居眠りしてステージから転げ落ちたという逸話は本当だろうか。そして個人を名指しして大丈夫なんだろうか? また地味でないベース・ギタリストとしてポール・マッカートニーを挙げているけど、スティングも忘れないように。 トイレのブースからいつも見えるスニーカーからこんな話を紡ぎだすキングの着想の冴えを感じる作品だ。 ところで物語の主要人物のファーストネームがジョンとポールとジョージィなのは意図的なんだろうか? 「スニーカー」は音楽業界が舞台だったが次の表題作はさらにその色を濃くする。 ドライブ旅行で道に迷った挙句に辿り着いた街は普通ではなかった。 これは数あるホラーの中でも使い古された物語で、作中登場人物も意識的に自分たちが『トワイライト・ゾーン』の世界に紛れ込んだんじゃないかと自嘲気味に話す。 しかしこのありふれた物語の設定にキングは実に面白いアイデアを注ぎ込んだ。 それは私にとってはまさに夢のような街なのだが、うまい話は簡単に転がっていなかった。 夢はその瞬間を愉しむから楽しいであって、これが夜ごと続く、しかも強制されると悪夢でしかないのだろうな。 「自宅出産」はその地味なタイトルから全く予想もつかない展開を見せる。 アメリカの、メイン州の沖合に浮かぶ島で暮らす漁師の夫婦の苦難の生活が描かれたと思いきや、いきなり物語は転調する。 そして物語の主人公マディー・ペイスはかつて一家の長として頼りにしていた夫が蘇るに至り、マディーは身籠った子供を護るためにかつて愛した夫を撃退するのだ。寄る辺のない妻から一人逞しく生きていくことを決意した母親の誕生である。 この内容と全くそぐわないタイトルはこんな状況の中だからこそ自宅出産を決意するという一人で生きていくことを選んだ女性の決意表明なのだ。パニック小説とヒューマンドラマをミックスした、なんとも云えない味わいとなっている。 本書の最後はまたもやシュールな作品「雨期きたる」だ。 キングファンである荒木飛呂彦氏の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』にも大量のカエルが降ってくるエピソードがあったが、これがネタ元だったのか、それともちょうど連載前公開された映画『マグノリア』がネタ元だったのか、定かではないが、しかしカエル以外にも魚やオタマジャクシなどが空から降ってくる怪異現象は実際に起きているようで、その原因は竜巻で空に巻き上げられたそれらが降ってくると考えられている。 恐らくキングもその怪異現象を聞きつけ、この作品の着想に至ったと思われるが、やはりキング、そんなニュースさえもホラーに変える。 なんとも奇妙な物語である。 短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の2冊目の本書は6作が収録され、総ページ数は330ページ強。1冊目が7作収録で320ページ弱だったから2冊合わせて13作と650ページほどの分量だ。 しかもまだ半分なのだから、キングの短編集の分厚さには驚かされる。 2冊目の本書には貧困層の黒人夫婦の息子が作家になった秘密、洗面所から出てきた動く指に悩まされ、格闘する男の話、トイレの決まったブースに入っている白いスニーカーの持ち主に纏わる話、迷った挙句に辿り着いた街の恐怖、一家の長を喪った女性の一大決心と世界の終末の話、田舎町を訪れた若いカップルを襲った怪異現象の正体などがテーマになっている。 そしてそれぞれの物語のアイデアは単なる思い付きに過ぎないものも多い。 ろくに教育も受けていない両親から生まれた子供が作家になった。 もし排水口から人間の指が覗いていたら怖いなぁ。 いつもあのトイレのブースに同じ靴があるんだよな。 折角の旅行だから知らない道を通って“冒険”しようじゃないか! 我が身に起きた不幸のために世界の終りだと感じた時、本当の世界の終りが来たら? 空から雨じゃない物が大量に降ってきたら気持ち悪いよな。 それらは我々の周囲にもよくある話だったり、またふとしたことで頭に浮かぶふざけ半分のジョークのような思い付きだったりする。 しかしキングがすごいのはその思い付きからその周辺を肉付けしてエピソードを継ぎ足して立派な読み物にすることだ。 そんなことが起こる人々、そんな奇妙なことに直面する人たちはどんな人だったら物語が生きるか、その人たちは職業に就き、どんな生い立ちを辿ってきたのか、独身か結婚しているのか、家族と暮らしている子供か、それとも一人暮らしなのか恋人と同棲しているのか、とどんどん肉付けしていく。そして普通の生活をしている我々同様に彼らは自分たちに襲い掛かる災厄に対して信じようとせず、一笑に附することで最悪な結末を迎えることになるのだ。 また一方で日々を懸命に生きる人々への救済を感じさせるものもある。 例えば最初の1編「献辞」では最下層の黒人夫婦の息子が作家になる話だが、学もない夫婦から生まれた子供がそんな知的階級の仲間入りをするわけがないことに対して、キングはある仕掛けで人生の転機を、チャンスを掴むことを示唆する。 アメリカはチャンスの国と云われており、社会の底辺の人間が子供に自分のようになってほしくないとの理由で教育を施して、立身出世をする話はよくあるが、キングはあるチャンスの素なるものを加えた。 チャンスは誰にでもある、そしてその時に行動することが大事なのだと云っているようだ。 自身が作家を目指し、ごみ箱に捨ててあった原稿を妻が投稿したことでデビューすることになったキングにとってこのチャンスの素は夫人だったのだろう。 あとこの母親が間接的に作家のDNAを受け継ぐベストセラー作家のピーター・ジェフリーズは素晴らしい作品を書くのに、その人物像はろくでなしで人種差別者であると書かれているが、これは実際のモデルがいるに違いないと思っていたら、ちゃっかりあとがきに書かれていた。 また「動く指」はキングには珍しく狂気と正気の境の曖昧さを描いている。排水口から蠢き出てくる複数の関節を持った動く指と格闘して血塗れになる主人公はある瞬間にプツンと神経が切れて狂気に陥ったかと思えば、警官が来た時には自分の名前と職業をきちんと答える冷静さを見せる。 「いかしたバンドのいる街で」に出てくる主人公クラーク・ウィリンガムに自分の姿を重ねてしまった。 遠出をした時についついナビにない道を通って“冒険”したくなる性癖が私にもあるのだ。そんな時、妻は呆れていつも制止しようとする。本作はそんな私にとって戒めなのだろうか。 「自宅出産」は本書における個人的ベストだ。まずは典型的な父長制である家族が頼りにしていた父親が死に、その代わりとなる夫もまた死ぬことで身重である女手一人で生きていくファミリードラマ風の展開から一転して全く予想もつかない展開に思わず声を挙げた。 こんな奇妙な女細腕奮闘記、キングにしか書けないだろう。 また本書でも恐怖のイマジネーションを喚起させるキングならではの描写が目立った。 「動く指」の関節がいくつもある長い指が排水口から蠢き出てくるイメージや「スニーカー」の1つの鳩目に紐を通し忘れている描写も何気ないがトイレに行くといつも見えるスニーカーを気にするとそんな些細な事が気になって仕方なくなる心理状態、そして「自宅出産」の海から蘇った腐乱死体と化した夫の手からお腹の中の子を護るために、その子のために靴下を編んでいた編針を眼窩に刺したことで網かけの靴下が骸骨の鼻先でぶらぶらと揺れるシーンなど、よくもまあ思い付くものである。 「雨期きたる」の次から次へと降っては湧いてくるヒキガエルたちを次々と潰す描写と雨上がり後のヒキガエルが溶けていく様もまたグロテスクである。 これほどまでに物語を紡ぎながらも我々の心の奥底にある恐怖を独特のユーモアを交えて掻き立てるキングの筆致はいささかも衰えていない。 さてようやく半分の折り返し地点である。次はどんなイマジネーションを見せてくれるのだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ある日目覚めると女になっており、しかも5年の月日が流れていたというトリッキーな作品『僕を殺した女』でデビューした北川歩実氏の3作目が本書。デビュー作同様に「自分探し」、即ち自分の存在意義そのものがミステリという作品になっている。
本書の謎は1点に尽きる。 それは木野杏菜と名乗る女性は本物なのか? この木野杏菜という女性は4年前に殺害されたはずの女性なのだが、再び娘を殺された親たちの許に姿を現す。しかもその登場の仕方は10年前と同じで、彼女の育ての親、木野茜によって指定のホテルのレストランで待ち合わせる。 しかし彼女は連続婦女暴行犯江尻静夫によって彼女の友人森島美緒、日田麻夜らと共に殺害されたはずだった。しかし過去を調べていくうちに木野杏菜は江尻の恋人であり、それが原因でクラスの中でも孤立し、親しかった美緒と麻夜たちから避けられていた節があり、彼女はそんな2人に対して復讐するために江尻と狂言誘拐を図り、そして江尻と共に2人を殺し、自分の身代わりを仕立てて杏菜自身も殺されたと見せかけようとしたとの疑いが出る。 しかし一方で事件の4年後に再び木野茜によって美緒と麻夜の親である森島とその息子政人と日田、そしてかつて杏菜が養子として世話に預けられた外川家の長男大樹らに引き合わされた木野杏菜は交通事故で記憶を亡くした別人の三原理香子という女性であると彼女の親で精神科医の西浦義明という人物が出てくる。彼は娘を亡くしたショックで心神喪失状態だった彼女の生みの親、外川円夏の依頼で自分の娘理香子を円夏に与えて彼女を第2の杏菜にしたのだという証言まで出てくる。 そのどれもが信憑性があり、そしてそのどれもが疑わしい。 この1人の女性、木野杏菜の正体が本人なのか、それとも木野杏菜の記憶を刷り込まれて作られたコピー、即ち模造人格を植え付けられた別人なのかがはっきりしないのは渦中の人物である木野杏菜が記憶喪失であるからだ。 謎自体はシンプルながらデビュー作同様、とにかくこの北川歩実という作家はこの1つの謎をこねくり回す。 再び現れた木野杏菜、即ち外川杏菜は本人ではなく、木野茜が外川の遺産を横取りするため外川杏菜の記憶を刷り込ませた別人だ。 いや、4年前に殺された杏菜は別人で、彼女こそは交通事故で記憶喪失になった本当の外川杏菜だ。 この2つの選択肢を行ったり来たりする。 上に書いたようにこの2つの選択肢をそれぞれ真実として補強するために関係者が現れ、新たな事実が判明していく。 しかし驚かされるのはたった1人の女性の正体を突き止めるのにかなり多くの人物が関わっていることだ。 最初は子供に恵まれない夫婦木野茜と鹿島幸平の2人に杏菜という赤ん坊が授けられた。 この赤ん坊は木野茜が懇意にしていた小学校時代の先生だった山内ミサと夫で診療所を経営する順次から紹介された。未成年の少女が身ごもって生んだ子供がその赤ん坊だった。 しかし夫と別れた茜に代わって杏菜を育てる人物が現れる。その人物外川円夏は実は山内夫妻の娘で杏菜の実の親だった。 木野杏菜は外川仁という医者と彼の連れ子である大樹を加えた4人家族の一員となり、外川杏菜となる。 そして外川家と親しい同じく医者の日田昭夫とその娘麻夜、弁護士の森島治郎とその息子政人と娘の美緒が加わり、杏菜は政人に恋をし、麻夜と美緒と友人になる。 そしてこのグループに亀裂が入る原因となったのが森島が弁護を担当していた連続婦女暴行犯江尻静夫が杏菜と美緒と麻夜を誘拐して殺害することで狂ってくる。そしてその中には会田由紀子という別に誘拐された少女もいた。 更に西浦義明という精神科医が加わり、彼の娘で交通事故で記憶喪失になった三原理香子という女性が木野杏菜のコピーか否かという謎へと展開する。 1人の人物の記憶を巡り、その波紋がどんどん大きくなり、そして影響を及ぼしていく。 それは単純に人助けではなく、外川家の資産を巡る金儲けの側面を孕んでくる。 さてこれほどまでにこねくり回された木野杏菜を巡る事の真相は一応解決されるが、我々の記憶というものは何とも薄弱なものだろうかという思いが残る。 これは単に物語の上での話ではない。 例えば仕事でも自分のミスを認めようとしたくないがために、やっていないことをやったと記憶をすり替える。 また声の大きい人が語った根拠もない話を事実だと受け止めようとする。 それほど我々の記憶というのは薄くて弱くて脆いものなのだ。 では自我を形成する人格とはいったい何によって立脚しているのだろうか? 自分が自分であることの根拠はそれまで歩んできた人生という記憶ではないか。 しかしその記憶が薄くて弱くて脆いものであるならば、いとも簡単に人の人格は変えられてるのではないか。 これが本書の語りたかったことだろう。 もし貴方が貴方であると訴えても周囲が信じようとしなかったら、貴方は貴方であることを自分自身が信じていられるだろうか? 結局我々の現実というのは自分だけの確信だけで成り立っておらず、それを支持する他者の意見によって補強され、そして確立しているのだ。 どれだけ自分を信じてもそれを他人が受け入れなければ、そして他人が頑なに信じたことを押し付けれれば、そしてそれが多数を占めれば我々一己の存在などすぐにでも上書きされてしまう。 なんともまあ、恐ろしいことを見せつけてくれたものである、北川歩実氏は。 この作品を読んだ後、貴方は確かに貴方自身であると胸を張って証明できるだろうか。 正直私は自信が無くなってきた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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