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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数41

全41件 1~20 1/3ページ
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(5pt)

敵は相変わらず強大だが…

久々のクーンツ作品訳出である。最後に訳出されたのが2011年に刊行されたフランケンシュタインシリーズだから実に7年ぶりとなる。
このフランケンシュタインシリーズはその後も書かれていたが、区切りとなる第3作で訳出は打切りとなった。熱狂的なクーンツファンの瀬名氏によれば4作目以降から趣向が変わったとのことで、また売れ行きも芳しくなかったこともその一因だったのだろう。

長らく途絶えていたクーンツ作品の訳出が2018年になって訳出されたのはまたも新しいシリーズが始まったからだ。
FBI捜査官ジェーン・ホークが主人公を務めるクーンツにしては珍しいミステリ仕立ての作品がアメリカで好評だったからによる。

まずクーンツが女性を主人公にしたことが珍しい。シリーズ物のオッド・トーマス然り、フランケンシュタイン然り、今までの作品ではほとんど全て男性が主人公だった。中には印象的なヒロインが登場する作品もあったが、それでもメインは男性だった。

彼がこのジェーン・ホークを主人公にしたのは新機軸でもありつつ、今やヒットチャートもアリアナ・グランデやテイラー・スウィフトといった女性アーティストが席巻する時代である。そんな最近のトレンドもクーンツは盛り込んだのかもしれない。

久々に読んだクーンツは、かつて重厚長大化し、どんどん肥大していく作品傾向にあった2000年代頃に比べて、いわゆるグダグダとした説教的な話が少なくなり、物語展開がスピーディになったことが特徴的だ。特に短い章立てで次から次へと場面転換が行われるのは今までにない特徴と云えよう。3ページだけの章は当たり前で1ページも満たない章もいくつか散見される。

クーンツは導入部が魅力的とよく云われるが、本書でもFBI休職中のジェーンが夫を自殺で亡くした未亡人の許を訪れ、その様子を尋ねているうちに突然その未亡人も銃で自殺する。更にその後訪れた図書館でドローン2機による急襲と刺客たちとのチェイスなど一気にクライマックスへと持ち込む。

さてそんな本書で主人公ジェーン・ホークが立ち向かうのは全米で起きている不可解な自殺事件。
ある日突然普通の生活をしていた人々が突発的に自殺を行う不審死が相次いでいることにジェーンは気付く。そして彼女の夫もまたその中の1人だった。
更にそれを調べていくうちに全米で自殺率が年々上昇していることが明らかになっていく。そしてそれらの自殺がある天才たちによって引き起こされていることが判明する。
しかしその相手は大富豪とノーベル賞候補の大科学者の2人でしかも彼らの息は政府機関や各方面に掛かっており、しかもウェブで常に監視され、少しでも検索しようものならすぐに嗅ぎつけて追跡してくる。しかも彼女の所属するFBIにも息の掛かった人物がいるらしい。
と、相変わらずクーンツは主人公を絶望的な八方塞がり状態に陥れる。

クーンツ作品はどうやっても勝てないだろうと思われる巨大な敵をまず設定し、徐々に主人公に迫りくるその包囲網だったり、圧倒的な強さを持つ敵と絶望的とも思える対決を強いられるパターンが多く、そんな相手にどうやって主人公は立ち向かうのだろうかと読者はドキドキハラハラさせられるわけだが、その割には決着の付け方が淡白で今までの無敵感を誇っていた強さは一体何だったのかと肩透かしを食らう結末は少なくなかった。

その問題の欠点は改善されたかと期待したが、残念ながらそれはなかったというのが率直な感想だ。

やはりクーンツは設定作りは上手いが、物語の畳み方が下手であることを再認識させられるだけになってしまった。

ただ本書はまだイントロダクションといったところか。
ジェーンが全米で起きる不可解な自殺事件という陰謀に加担している大富豪デイヴィッド・ジェームズ・マイケルは無傷のままであり、対峙すらしていない。

そしてジェーンを取り巻く仲間たちも今後の物語に関わってくることだろう。

一人巨大な的に立ち向かうジェーンの唯一の弱点は自殺したニックとの間に生まれた愛息トラヴィス。その息子を預かるのが友人のギャヴィンとジェシカのワシントン夫妻。
ジェシカは9年前陸軍に所属していた際、アフガニスタンにおり、その時に爆弾で両足を失っている。その時に知り合ったギャヴィンと結婚し、今に至る。14カ月前にジェーン夫妻とヴァージニアで開かれた戦傷病者の基金集めのイベントで知り合った。ギャヴィンは元軍人の経験を活かしてフィクション・ノンフィクションの軍事関連の書籍を書いて生計を立てている。

パリセーズ公園での略奪劇でジェーンに加担したアメリカ陸軍の元女軍曹ノーナ・ヴィンセントに、物語後半に多大な協力者となるドゥーガル・トラハーン、そしてジェーンのシェネック邸急襲作戦に協力したヴァレー・エア社のロニー・フエンテスとその姉ノーラといった登場人物たち。

さて本書でジェーンが疑惑を抱くアメリカの自殺率の上昇は実は本書のために作られた話ではなく、どうやら本当のことのようだ。
半分の州で自殺率は30%までにも上っており、ノースダコタ州ではなんと57%も増加したらしい。

音楽業界を再び例に挙げて恐縮だが、確かに2017年にクリス・コーネルが突然自殺し、その後を追うようにリンキン・パークのヴォーカル、チェスター・ベニントンも自殺したのは実にショッキングな出来事だった。

そんな不穏な空気に包まれたアメリカの現状から恐らくクーンツは一連の自殺が何らかの陰謀によって引き起こされているという本書の設定の着想を得たと思われる。

ただ私は何となく本書の内容に乗り切れなかった。短い章立てで進むストーリーはそれがゆえに没入度を低下させ、目まぐるしく切り替わる場面転換にしばしば読み辛さを感じた。
これは全く以て私の憶測だが、昨今SNSでツイッターやフェイスブックなど短いコメントを挙げる風潮があるために、小説に関しても極力短い章立てで読ませることをもしかしたら作者は意識したのかもしれない。

今後ジェーンは一人息子のことを思いながら巧みに変装をし続けて標的であるデイヴィッド・マイケルを目指す。
ほとんど全てのアメリカ人を敵に回して少しの理解者と共に立ち向かう今後はもっとスリリングでじっくり読ませる内容であってほしい。


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これほど昏い場所に (ハーパーBOOKS)
No.40:
(5pt)

歴史を信じちゃいけないよ

『千年紀末古事記伝ONOGORO』に続く、鯨統一郎版古事記伝である。前作では稗田阿礼が巫女の力で感じ取る物語を綴る体裁であったが、続編にあたる本書ではヤマトタケルは“世界”を創るために根源へと遡る。

前作ではコノハナサクヤ姫とニニギとの間に火照命、火遠理命、即ち海幸彦、山幸彦が生まれて、古事記伝は閉じられるが、本書はその続きでこの2人の兄弟の話から始まる。
ちなみにこの山幸彦と海幸彦の話は浦島太郎の原型となったとされる。そこから物語は卑弥呼と邪馬台国の話になり、その後彼女とその仲間イワレビコとイツセノ命兄弟の反乱とナガスネビコとの戦い、そしてイワレビコと卑弥呼が和解し、お互い協力して新しい国を創る。それがヤマトの国の始まりだ。

その後、ヤマトの国の変遷が語られる。ミマキイリヒコは世の中を襲った疫病から蛇神の子を捜し出して国民を救い、眉目秀麗の王イクメイリヒコはその愛妻サホビメを愛するが、サホビメは仲の良い兄サホビコに王を討ち斃すことを頼まれ、兄と夫との愛情の狭間で苦しみ、兄と共にその身を業火に焼かれて死んでいく。イクメイリヒコは遺されたサホビメとの児ホムチワケが成長しても口が利けないことを心配し、博識のタジマモリに頼んで食すれば言葉が喋れるようになると云われている時じくの香の木の実のことを聞く。その実は一方で食すれば時を自由に操る力を得るという人智を超えた霊力も備わる危険性があった。しかしその懸念も取り越し苦労でホムチワケは話すことが出来るようになる。

そしてオオウスとオウスという双子を持つオオタラシヒコの時代では大らかだが、女に目がない兄オオウスと美しい顔立ちをし、剣の達人でもある弟オウスのいずれかに王位を継がせることに悩んでいた王はいつも微笑みを絶やさないオウスを得体のしれない危険な男とみなし、オオウスに継がせることに決めるが、オオウスは自分が妻に迎えようとしていた美人姉妹のエヒメとオトヒメに一目惚れし、父に内緒で自分の妻にしてしまう。それを知ったオオタラシヒコは弟のオウスに何とかするように命令し、兄の許に向かわすが、オオウスは父にその娘たちを返すように云われると断るや否やオウスに首と両手両足を一瞬にして切られてしまう。それを知ったオオタラシヒコは最愛の息子を殺したオウスに決して王位を継がせないよう、無茶な任務を命ずる。

それは無敵の大男と名高いクマソタケルを討つことだった。そしてオオタラシヒコは彼にたった10人の兵を与えて出兵させる。しかしオウスは女装してクマソタケルに近づき、討伐に成功する。その手際に感心したクマソタケルは自分の名前を授け、オウスはヤマトタケルと名前を変える。

ここでようやく冒頭に出てきた主人公ヤマトタケルの登場である。

その後もヤマトタケルは出雲の国の強者イヅモタケルの討伐、東方十二か国の平定を父より命ぜられ、その都度智略と大胆さで切り抜け、次々に任務を果たす。

それだけの功績を成しながらもヤマトタケルは父のオオタラシヒコからは賞賛の言葉が貰えなかった。オオタラシヒコは最愛の長男オオウスを始末したヤマトタケルをどうしても許せなかったのだ。
やがてヤマトタケルは今の三重県に当たる伊吹山に人々を苦しめている荒々しい猪の出現の話を聞いて退治しに出かけるが、猪は今まで国の平定のためとは云え、智略、策略を弄して様々な人を殺してきたヤマトタケルそのものだと述べる。そしてヤマトタケルはかろうじて妻の美夜受姫の助けを借りて猪を退治するが、それまでに吸った瘴気にやられて助からないことを悟り、時を遡る実、時じくの香の木の実を食べ、息を引き取り、白鳥に転生する。

しかしヤマトタケル退場後もその後も子々孫々の物語が綴られていく。今の韓国に当たる新羅と百済を攻めていった後の神功皇后となるオオナガタラシ姫の話、後の応神天皇となるホムダワケのエピソード、現在日本最大の古墳として教科書にも記載されている仁徳天皇となるオホサザキが美しく、身体つきも見事でなおかつ聡明なイワノ姫という妻を持ちながらも漁色家で浮気性で妻の目を盗んでは各地の女や女官に手を出していたという話、その息子イザホワケノ王と兄の座を虎視眈々と狙うスミノエとの戦いの話、等々、後のヤマト時代の天皇となる人物たちのエピソードが語られていく。

歴代の大王たちがなんとも本能の赴くままに振る舞うことよ。
前作では男と女の交合いこそが国創りだと云わんばかりにセックスに明け暮れるという話が多かったが、本書は神々から人間に登場人物が変わっただけあって、神々よりも理性はあるため、自重する面も見られるが、それでも妻がありながらも美しく若い女性、また熟れた肢体を持った女性を見ると見境なく交合う話が出てくる。
東に行っては美しい娘に永遠の契りを誓いつつも西に行ってまたも美しい女性に出会えば后として迎えるとうそぶく。男のだらしなさが横溢している。更には自分こそが一番強いことを証明するため、各地の強者たちと戦い合う。それは身内も同様で王の兄の座を虎視眈々と狙って討ち斃そうとする兄弟げんかも繰り返される。
昔から男は欲望のままに生きる子供っぽい生き物であるのだと殊更に感じる一方、昔の女性の一途さに感銘した。

はっきり云えばそれら歴代の統治者たちの物語にミステリの要素は全くない。前作ではアマテラスと交合うために天の岩屋戸に籠ったスサノヲがアマテラスの背中に短剣を突き立てて殺害しながらも密室の中から忽然と消える密室殺人が盛り込まれていたが、本書ではそんな要素も全くない。せいぜいヤマトタケルが各地の強者を成敗するのに智略や奸計を用いたくらいだ。

従って単純に古事記の解説本のように読んでいたが最後になって本書の意図が判明する。

前作の復習になるが本書の内容は現在伝えられている古事記のそれと微妙に異なる点がある。本書に記載された物語について私はさほど詳しくないのでどこまでが嘘で真実かが解らないのだが、その旨を問い質すと、この世は邪悪な意志を持ったヤマトタケルによって創られた世界だからそのまま真実を書くと邪悪なものになってしまうので太安万侶によって稗田阿礼が口伝えした話を少し改変したものであるというのが本書でも改めて述べられている。

しかし本書ではさらに続きがあり、あるオチ(あえて真相とは云わない)が明かされる。

このオチを是と取るか否と取るかは読者次第。ただ本書における鯨氏の意図は理解できる。

歴史とはずっと研究が続き、その都度生じる新たな発見で内容が改変されていく学問である。従って100人の学者がいれば100通りのの解釈が生まれる。鯨氏はこの歴史の曖昧さ、あやふやさこそがそれぞれの読者が学んできた歴史という先入観を利用してひっくり返すことをミステリの要素としていたのだ。
デビュー作の『邪馬台国はどこですか?』はまさにそれをストレートに描いたもので、本書は逆に古事記のガイドブックのように読ませて、それぞれが知っている古事記との微妙な差異を盛り込むことでミステリとしたのだ。

ただ正直に云って本書は古事記をもとにした黎明期の日本の統治者たちのエピソードを綴り、それをヤマトタケルが造った世界であるという一つの軸で連なりを見せる連作短編集として読むのが正解だろう。
私は1つの長編、そしてミステリとして読んでいたため、どんどん変遷していく時の治世者たちのエピソードの連続に、果たしてどこに謎があるのだろうと首を傾げながら読んだため、読中は作者の意図を汲み取るのに実に理解に苦しんだ。

もしかしたら本書の妙味とはこれを読んで古事記の内容が解ったと思ってはならない、古事記とは異なる点が多々あるからそれは自分で調べなさいと読者に調べて知ることの歓びを与えることなのだろう。だからこそ巻末に記載された参考文献一覧に、「本文読了後にご確認ください」と作者が注釈を入れているのだろう。

解らないことは自分で調べよう、じゃないと嘘をそのまま鵜呑みにするよ。
それが今まで4冊の鯨作品を読んできて感じたこの作者の意図であり、警告であると思うのである。


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新千年紀(ミレニアム)古事記伝YAMATO (ハルキ文庫)
鯨統一郎新千年紀末古事記伝 YAMATO についてのレビュー
No.39:
(5pt)

オカルトかミステリか?フィルポッツは我々を揺さぶる

フィルポッツの再評価が止まらない!
『溺死人』の復刊から続いて新訳刊行された『だれがコマドリを殺したのか?』が望外の好評を以って迎えられたお陰でこれまた長らく絶版状態だった本書が復刊の運びとなった。何とも喜ばしいことだ。

「人を殺す部屋」という怪奇じみた設定は古典ミステリではよく用いられたテーマで、代表的なのはカーター・ディクスンの『赤後家の殺人』だろう。
しかしミステリアスな設定ゆえに逆に真相が判明すると、なんとも肩透かしを覚えるのも事実である。

そんな謎を英国文壇の大御所フィルポッツが扱ったのが本書だ。

過去に2人の死人を出した灰色の部屋。一見ごく普通の部屋だが、宿泊した人物はどこにも外傷がないまま、事切れた状態で発見される。そしてその話を聞いた娘の花婿が周囲の制止を振り切って泊まって絶命し、更に捜査に訪れた名刑事は白昼堂々、部屋の調査中にたった1時間ほどで絶命する。更に花婿の父親は神への強い信仰心を武器に立ち向かうがこれも敢え無く同じ末路に至る。
立て続けに3人も亡くなる驚きの展開である。

この怪異現象に対して文学畑出身のフィルポッツらしく、単なるミステリに収まらない記述が散見される。

特に息子トーマス・メイを灰色の部屋で喪った牧師セプティマス・メイが人智を超えた神の御手による仕業であるから、信仰心の厚い自分が部屋で一晩祈りを捧げて邪悪な物を一掃しようと提案してからの館主ウォルター卿と係り付けの医師マナリングとの押し問答が延々17ページに亘って繰り広げられる。

その後も信仰心の権化の如きメイ牧師と合理的解決を試みる刑事もしくは館主の甥のヘンリーとの問答が繰り広げられる。

一見怪異現象だと思われていた物事が合理的に解明される驚きをもたらしたのがポーでそれがミステリの始まりだとされている。
フィルポッツの最初期に当たる本書では「人が悉く死せる部屋」を題材にし、この謎に対して怪異か犯罪かの両面で登場人物たちが議論を繰り広げるのが上の件なのだ。

この辺はフィルポッツなりのある仕掛けなのかもしれない。
不可解な事件に対して合理的な解決がなされるのかという不安と期待を読者に煽りながら、鳴り物入りで登場した名探偵の誉れ高き名刑事はあえなく屈し、退場する。そして牧師の口から摩訶不思議な事件は過去に死んだ者たちの想念もしくは霊によるものであり、もはや祈りによって解消されるというオカルト的解決が主張され、屋敷の主は洗脳されたかのように牧師の主張に縋り、除霊をお願いする。
この館主ウォルター卿の揺らぎはつまり読者をも揺さぶっているように思える。

オカルトかミステリか?
その両軸で揺れながら物語は進み、結論から云えばミステリとして一人のイタリア人の老人によって合理的に解決がされる。

正直この真相には驚いた。
上に書いたように往々にして怪奇めいた謎は大上段に構える割には真相が陳腐な印象を受けるが、本書は歴史の因果が現代に及ぶもので、しかもそれまでの物語でウォルター卿の人となりとレノックス一家の歴史でさりげなく説明が施されている。
さすが文豪フィルポッツの手になるものだと感心した。

ある意味戦慄を覚える真相である。

しかしそれでも訳がひどすぎた。およそ会話としてしゃべるような言葉でない文章でほとんど占められており、しばしば何を云っているのか解らず何度も読み返さなければならなかったし、また眠気も大いに誘った。
さらに誤字も散見された。そんな記述者の些末なミスや技量不足で本書の評価が貶められていることを考えるとなんとも哀しい。この悪訳ゆえに今まで長らく絶版だったのではないか。
奥付を見ると1985年に3版が出て以来の復刊である。実に30年以上も絶版状態にあったわけだ。

上に書いたように最近になってフィルポッツ作品が別名義の物も含めて初訳刊行、復刊さらに新訳再刊されている。フィルポッツを読んだのは学生時代だったからこの再評価は実に嬉しい。
復刊は喜ばしいことだが、しかしその前に一度刊行する前に中身を読んでいただきたい。その日本語が現在も鑑賞に耐えられるかどうかを見定めてほしい。
そうしないと単なるブームで終わってしまうだろうし、ミステリ読者の古典ミステリ離れ、いや翻訳作品の読みにくさから海外ミステリ全般に亘って手を取らなくなる傾向に拍車がかかるだけである。
出版業が商業のみならず文化の継承と発信を使命としているならばそのことを念頭に置いてほしいものだ。


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灰色の部屋 (創元推理文庫 111-3)
イーデン・フィルポッツ灰色の部屋 についてのレビュー
No.38: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(5pt)

どんどん謎を明かさなくなっていく

シリーズ5作ごとの節目に発表される短編集。本書は第3短編集になる。

まず開巻初頭を飾る「どちらかが魔女」は懐かしのS&Mシリーズの1編。
アシモフの黒後家蜘蛛の会を彷彿とさせる気の置けない仲間たちが集まってミステリの集いで語られるある不思議な現象が本書のテーマ。
しかし謎自体は大したことがなく、真相は思った通りだった。そして再会した2人が結婚するというサプライズも予想どおり。本書ではやはり本家のアシモフの短編のように執事の諏訪野が謎解きをする趣向を愉しむべきだろう。しかしこんな謎が解けない萌絵は劣化したのか?

続く「双頭の鷲の旗の下に」もまたS&Mシリーズ延長戦のような短編。
高校の文化祭というのは一種独特の雰囲気があって私もいい思い出がある。授業とは離れてクラスで一つのことに精を出し、普段話さない人とも色々協力し合って夜遅くまで残って創作に励む、その時しか体験できない、そして永遠に心に刻まれるムードがそこにある。本書を読んでまずそれを思い出した。
本作に登場する謎の正体は至極簡単で、これを実に解りやすく絵解きしているところに本作の妙味がある。その現象を実に解りやすく解説してくれて恥ずかしながら私も同じ専門分野にいながらそのメカニズムを初めて根本的に理解することが出来た。
とはいえ、本書の一番の読みどころは文化祭のシーンでも犀川&喜多コンビによる謎解きでもなく、本編で登場しなかった国枝桃子の夫が初登場するところにあるだろう。国枝桃子の意外な姿と素顔が見られるのが実に貴重だ。

そして次の「ぶるぶる人形にうってつけの夜」では小鳥遊練無が登場する。
学校の怪談とは色々あるが、本書ではぶるぶる人形という奇妙な紙人形の話を検証しに、有志が集まって夜の学内を件の人形を求めて闊歩する。実にこれだけで楽しいお話だ。
ぶるぶる人形の正体は実に呆気ないものだが、フランソワの正体に本書の興趣がある。そして本作はS&MシリーズとVシリーズを結ぶミッシング・リンクを仄めかしている点でシリーズ読者には読み逃せない話となっている。

本書で一番ミステリ風味に溢れているのが「ゲームの国」。副題に「名探偵・磯莉卑呂矛の事件簿1」とあるからシリーズ第1作になるのだろうか。
とにかく横溝正史の金田一シリーズのパロディとも云える世界観の中、名探偵を気取る磯莉卑呂矛が事件を快刀乱麻の如き解決すると思いきや、森ミステリにありがちな実に脱力系のオチ。
つまり本書で森氏がやりたかったのはミステリの雰囲気を盛りに盛って、実にミステリらしい解決を行うという物なのだろうか。とにかく壁本的作品であることには間違いない。

次の「私の崖はこの夏のアウトライン」もまた切れ味が悪い。
改行と短いセンテンスで語られる詩的な文章で語られる幻想的な話だが、オチは実にありがち。陳腐なオチを幻想的に糊塗しようとして明らかに失敗している。

次の「卒業文集」はそのタイトルが示す通り、ある小学校の一クラスの卒業文集の文章で構成された作品だ。
林間学校のこと、クラスで飼った兎のこと、遠足で行った遊園地のこと、学習発表会といった学校生活の思い出や学校の先生、音楽家、小説家、数学者、冒険家といった将来の夢について語っているが全てに共通して語られるのは担任の若尾満智子先生の思い出についてだ。そしてなぜ先生がみんなの思っていることが解るのかと不思議がる。そしてみんなが全て満智子先生が大好きだったことが綴られている。
最後に判明する事実を知って思わず読み返すと満智子先生がやってきたことと彼女に鼓舞された行った生徒たちの全てが初読時よりも鮮烈に胸に飛び込んでくる。ある一クラスのそれはチャレンジングで、そして忘れられない強烈な一念だったことが改めて強く印象付けられるのだ。
これが本書におけるベストだ。

「恋之坂ナイトグライド」はまた雰囲気だけの物語だ。
夜を散歩するかのように恋之坂に向かう2人の男女。恋之坂では最近酔っ払いが凍死したようだった。そして恋之坂でのトリップとはビル風によって起きる上昇気流に乗って飛べることだ。でもとあるどこかで飛べる場所がある、そして上昇気流に乗って飛ぶ2人の男女のイメージは近年になって作られたどこかのCMみたいだ。もしかしたらCM製作者に森作品のファンがいて、この作品のイメージを借用したのかもしれない。

最後の「素敵な模型屋さん」は模型好きな少年がいつもどこかに自分が作りたい模型の部品が売っている夢のような模型屋が出来ないかと待ち焦がれている話。
ここに登場する少年は森氏自身のことだろう。幼い頃からラジコン飛行機に憧れ、鉄道模型、無線と次々と色んなものに興味を持ち、創作意欲を燃やす。自作のロボット模型を学校に持っていくと先生に親に作ってもらってはいけないと叱られたというエピソードも作者自身の苦い思い出だろう。
そんな彼には彼の願望を叶える模型屋が近くになかった。毎日模型雑誌を読んでは思いを馳せる少年。しかしある日突然家の地下室に模型屋が出来ていた。そこはまさに自分が夢見た全ての部品が揃った模型屋だった。
これは森氏自身の老後の愉しみを含めたお話だろう。
誰しもこのような夢を抱くのではないか。本好きの私は自分の気に入った本、もしくはミステリ専門店を開くのが将来の夢である。これはいつまでも子供である男の願望が詰まったお話だ。


森氏の第3短編集である本書はS&Mシリーズの短編2作で幕が明け、Vシリーズの短編1作がそれに続くという、それまでの短編集とは違った作りになっている。

違った作りというのはそれまではノンシリーズの短編でいきなりシリーズ作とは全く雰囲気の違った森ワールドに誘い、悦に浸ったところにシリーズ短編が挟まれるという箸休め的な存在だったのが、いきなり導入部からシリーズ物、しかも完結したシリーズの2編から始まることでいきなりタイムスリップしたかのような錯覚を覚えさせられる。

それら2編は実にファンサービスに富んだ作品で、『数奇にして模型』で潜烈なイメージを残しながらも1作でしか登場しなかった西之園萌絵の従兄、お姉キャラの大御坊安朋が再登場し、その後のエピソードが語られる。更にシリーズ通して印象的な脇役だった国枝桃子の旦那さんも初お目見えと、今までのシリーズキャラに彩りを与えるような趣向が実に微笑ましい。

もう1作は結婚したとされていながら長らくその私生活が明かされなかった国枝桃子の結婚相手が登場する実に貴重な1編。本作のメインの謎である細かく穿たれた穴の真相も専門的見地から見ても実に解りやすく解説されており、読み応えあるが、それよりも慌てて退散する国枝女史の姿が実にチャーミングであり、国枝ファンは一層好きになるのではないだろうか。

シリーズと云えば本書では新しいシリーズキャラクター磯莉卑呂矛が登場する。名探偵らしく振る舞うことを信条とするキャラで、正直彼の登場する「ゲームの国」では森氏の皮肉たっぷりの真相ゆえに実力は未知数のままだ。特にこの作品はミステリ的興趣をふんだんに盛り込みながら、特に解決にも寄与しないという森氏の意地の悪さが前面に出ており、個人的にはいただけない作品である。本当にシリーズ化するのだろうか?

第1、第2短編集では長編では見られない抒情性が豊かで実に私好みの話が多く、俄然期待値が高まったこの第3短編集の内容はしかし、苦言を呈するようだが明らかにレベルが落ちているとしか思えない。
「ゲームの国」などは森氏のミステリに対するスタンスが前面に出ているとは理解できるが、作品の出来としては単純に雰囲気だけを盛って書き殴ったような出来栄えであると云わざるを得ない。どうも森氏の短編の内容が劣化しているように思えてならない。

というよりも物語のメインの謎よりも聡い読者しか気づかない仕掛けに力点が一層置かれており、ますます森氏独特のミステリ趣味が特化してきている。従って、気づかない読者は置いてけぼりを食らってしまうのだ。

例えば「どちらかが魔女」で犀川が披露する壁画に穿たれた釘の穴の謎の答えは作中で明示されない。これは調べなければわからない。
小鳥遊練無が登場する「ぶるぶる人形にうってつけの夜」の仕掛け(これはスゴイ)、個人的には最も嫌いな「ゲームの国」には各所に隠された仕掛け。だから題名は「ゲームの国」なのだろう。

さらに「恋之坂ナイトグライド」は出逢ったばかりの男女の夜中のランデヴーと見せかけながら、実は…という真相も本作では明かされず、解る人だけがその興趣に気付くことが出来るのだ。

つまり前の2つの短編集と比較してもミステリ色が濃くなっているのが本書の特徴と云えよう。

しかし前の2短編集を読んでいる私にとってミステリよりも情緒が前面に出た短編を求めて臨んでだけに今回は実に物足りない味わいになってしまった。

期待に応えたのが「卒業文集」であり、「素敵な模型屋さん」だ。

「素敵な模型屋さん」は趣味を持つ者が誰しも抱く願望を描いた美しい作品。最後に夢のような模型屋に出くわした少年自身が模型屋の老主人になるところは実に心温まる。

また小学生の作文で構成された実験的な作品である「卒業文集」がなかったら本書の評価はかなり下がっただろう。素朴でかつサプライズに満ちたこの作品の良さが逆に本書の評価を押し上げている。

長編ではミステリのガジェットに特化しながらもトリックに尖鋭化して動機に全く固執せず、いわば長い犯人当てクイズのようになってきている森氏。だからこそ短編に期待したのだが、短編もまた叙述ミステリに先鋭化し、さらに読者にそのトリックを明かさないという変則技に出た森氏。

ミステリ好きの私にとってこのどちらの趣向もあまり好ましく思えない。
次回作からの趣向がどのようになっていくのか。期待しない方がいいのではと思う自分がいる。


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今夜はパラシュート博物館へ (講談社文庫)
森博嗣今夜はパラシュート博物館へ についてのレビュー
No.37:
(5pt)

殺し屋ケラー?それとも切手蒐集家ケラー?

前作『殺し屋ケラー最後の仕事』は最後の仕事ではなかった!
殺し屋ケラー再び参上の連作短編集。

「ケラー・イン・ダラス」は1日12時間、週7日働いていたケラーがサブプライムローン問題で仕事がぱったり来なくなったケラーが再び切手収集に精を出すが、今度は先立つものがない。そんなところにドットから殺し屋斡旋業を再開したという知らせが入るところから幕を開ける。
殺し屋ケラー復活の1編。
ただ以前の彼と違い、身分はニコラス・エドワーズというリフォーム会社の共同経営者であり、しかも妻と娘がいる所帯持ち。かつては一匹狼の自由人だっただけに家族という護る物を持ったケラーが再び犯罪の世界に身を置くことにどのような葛藤があるのかが注目されたが、やはりケラーはケラーだった。
ブランクを懸念する不安もあったが、ケラーはターゲットを前にするとかつての勘を取り戻し、任務を遂行する。
ドットとケラーの稼業再開といい、依頼人の心変わりといい、人生とはままならないことを双方で著した好編。

続く「ケラーの帰郷」では政治汚職に加担し、腎臓売買で資金洗浄を行っていた大修道院長の殺害を依頼される。しかしその場所はかつてケラーが根城にしていたニューヨーク。つまりタイトルはかつてのシマに戻るケラーを示している。
前作で大統領候補暗殺の冤罪に問われたケラーはアメリカ全土で指名手配される。しかも数年経ったとはいえ、かつてのホームプレイスであり、彼を見知った人も何人かいる。そんな危険な場所になぜ赴くのかと云えばやはりそれは切手のオークションに出席するためだったからだ。趣味のためにあえて危険を冒すこのケラーの心理は実は私も理解できるところがある。この件については後に述べよう。
彼を知っている人がいるにも関わらず、馴染みの界隈を避けるどころからその後の変化を見たいがために敢えて足を向けるケラー。いつ指名手配の男と指されるかもしれないのに敢えてそこを訪れたくなる複雑な心理が描かれている。
それはかつての自分とは人相が異なっていることもあり、逆に知っている場所を訪れることで誰にも気づかれなかったら今後の彼の人生の安泰は約束されたようなものだ。その安心を得るために彼は敢えてその場所に足を踏み入れるのかもしれない。
そんな彼のターゲット大修道院長は修道院の奥に常日頃潜んでいるため、ケラーもなかなか近づくことが出来ない。しかしケラーはどうにか身分を偽って接触するもその威厳に圧倒され、殺しも未遂に終わる。途方に暮れたケラーに突如ある策が閃く。
120ページ以上の紙数を費やした割には結末が安直で消化不良の感があった。
しかし殺しの仕事の後、幼い愛娘に手に入れた切手の話を愛おしくするケラーは仕事と私生活を見事に割り切っているところに驚いてしまう。これがプロフェッショナリズムなのか。

続く「海辺のケラー」のターゲットも政府の証人保護プログラムが適用された金持ちカーモディだ。
ケラーの本職を知りながらもケラーと結婚し、その仕事を認め、時にはケラーの仕事を想像して欲情する、非常に理解ある(?)妻ジュリアが実際にケラーに同行して殺しの現場に赴く。とはいってもしゃれた1週間の船旅の最中にターゲットを殺害するという極めてのんびりとした依頼で素人が直面する殺伐感や緊張感は全くなく、ケラーの手伝いでターゲットの部屋のスペアキーを手に入れたりもする。
しかし旅が終わって家に帰って殺人事件のニュースを見るにあたって、それまでケラーの話を聞くだけだった殺しの仕事に間接的に自分が関わったことの怖さを知る。このジュリアの反応こそが常人の反応であり、やはりケラーはどこかネジが外れているようだ。
しかしそのジュリアさえもケラーから気持ちの切替方を教えられると回復するのだからやはりこの夫婦はちょっと変わっているのだろう。

「ケラーの副業」ではとうとうケラーは切手収集をサイドビジネスにしてしまう。
上に書いたようにケラーは稼ぎの出ないリフォーム業をさらに追いやり、切手収集を趣味と実益を兼ねた副業にしてしまう。それは主に切手収集家だった夫の遺産を買い取って興味のあるディーラーに売り込む仕事だった。利益は薄い物の、世間体のために何かをして生計を立てているように見せかけるために始めたサイドビジネスだから儲けはほとんど考えておらず、むしろ趣味に没頭するために始めたような商売だ。
そしてどちらかと云えば本作では切手収集家の遺したコレクションをいかに高く売るかがメインとなっており、本職であった殺し屋の仕事は添え物に過ぎなくなっている。切手の仕事を巡る人々の話が大半を占める。

そしてそれを裏付けるようにケラーも切手関係の仕事をメインにして殺し屋稼業を引退しようとこぼす。そしてその決断をしながらも、最後の短編「ケラーの義務」の幕が開く。
殺し屋稼業から足を洗うことを決意したケラーに舞い込んできたのは少年殺しの依頼をした人物を消したいというドットからの依頼だった。
しかも少年は切手収集を趣味にし、年齢にしては豊かな知識を持つ利発的な少年だった。さすがにこんな話を持ち掛けられたらケラーは断れないだろう。


前作『殺し屋ケラー最後の仕事』でケラーはニコラス・エドワーズとして身分を変え、リフォーム会社の共同経営者に収まり、さらに彼とドットを罠にかけたアルへの復讐を遂げ、さらにはジュリアという伴侶を得てその妻との間にかわいい娘ジェニーを儲けたケラー。
通常ならば大団円で一連のケラーのシリーズに終止符が打たれるはずだったが、人生は上手くいかない物でケラーの前にサブプライムローン問題が立ち塞がり、あれほどあったリフォームの依頼がパタリと止んで閑古鳥が鳴く状態に。そんなところからケラーの第2の殺し屋稼業がスタートする。

かつては一匹狼だったケラーが家族という護る物を得て再び命を奪う仕事に就けるのかと正直疑問だった。ケラー自身もしばらくのブランクを懸念し、またかつての自分のように冷静に処置できるのかと自問自答を繰り返すが、逆に妻のジュリアと幼い娘ジェニーの声を聞くことで逆に安堵を覚える。殺し屋稼業に戻ることでそれまでのことが夢ではなかったのかと錯覚したがそうではないことを再確認し、それでもケラーは仕事が実施できたことで再び自分を取り戻す。しかしこの感覚は特殊だ。
家族を持つからこそそれまで出来たことが出来なくなることは多々あるのに。ましてや人の命を奪い、家族に喪失をもたらす仕事である。それは妻ジュリアも指摘するのだが、ケラーは自分の変化を懸念しはしたものの、やはり前の通りに殺しをやれた自分がおり、それは以前と変わらぬ達成感をもたらしたと述べる。
ケラーの精神状態はやはり常人とはちょっと違っているようだ。

リフォーム会社の共同経営者として堅気の仕事に就きながらもその仕事が下火になっていることもあって殺し屋稼業を再開することになったケラーだが、それ以外にも大きな動機としては自分の趣味切手収集が関わっている。彼の狙っている切手がオークションに出される会場とドットの依頼の場所が一致すると趣味と実益を兼ねて依頼を受けるのだ。しかもそれはかつての住まいがあったニューヨークであっても。

全国指名手配され、顔まで知られるようになったケラーが敢えて知り合いが多くいるニューヨークにまで足を運ぶ危険を冒す理由はやはりこの切手収集への拘りが大いに作用しているのだろう。私も趣味の読書のためにいそいそと読みたい本の情報収集と在庫確認のため、東京、大阪、神戸、岡山と自分の足で訪れる。ネットショッピングが発達した今でも出来る限り現物を確認して買う性分は治らない。
ケラーも作中でネットオークションができるようになり、遠隔地でもわざわざオークション会場に赴かなくても参加できるが、やはり現場の雰囲気や競り相手の心理などは現場ではないと解らないから極力会場に足を運ぶようにしていると述べている。
この心理、実によく解る。
ネットショッピングは検索すると目当ての物が出てきて、クリックすれば購入となり非常に手軽なのだが、本がどんな状態で来るのかもわからないため、どうにもなんとも味気なくて実物感がないのだ。
やはり足繁く書店に通って現物を見て、いい状態の本を手に入れた時のあの達成感はネットショッピングでは得られない。これぞ趣味人の拘りであろう。

また逆に仕事のために狙っていた切手のオークションを欠席せざるを得なくなり、落札するに十分と思われる値をつけたにも関わらず、手に入れることが出来なかったことに対してなかなか自分の中で折り合いのつかないケラーの姿も実に共感できる。
大枚をはたいて購入した後悔よりも手に入れられなかった後悔の方が鮮明に残るのだ。
失った金はまた働いて取り戻せばいいが、欲しいものはそれを手に入れるその瞬間というのがあり、それを逃すことが大いなる心残りになるのだ。コレクターとしてのケラーの心理は気に入った作家の本は最大限手に入れ読むようにしている私の心に大いに響いた。

そのせいだろうか、今回は以前にも増してケラーが切手にのめり込む描写が非常に多い。殺しの依頼も切手収集のついでになっている。もはや暮らすのに十分な金があるケラーにとってかつての生業だった殺しから切手収集がメインになって主客転倒しているのだ。

しかし殺し屋の話で始まったこのシリーズが切手収集がメインの話になろうとは誰が想像しえただろうか?
殺しを扱っているのに全く陰惨さがない、実に特殊なシリーズだ。

そしてその切手収集熱はやがてケラーから殺し屋稼業が潮時であると決意させるようになる。アウトローだった彼が妻と娘とリフォーム業と切手転売のサイドビジネスと安定を得た時、もはや彼には殺しをする理由が無くなっていた。

そんな矢先に最終話「ケラーの義務」では依頼が入ってくる。それは今までと異なり、ターゲットとなった少年を護るために依頼人を殺害すること。
それまで依頼の内容にはあまり興味を持たず、ターゲットがどんな人物であろうと仕事をこなしてきたケラーがターゲットに興味を持ち、そして護ることを決意する。それはターゲットの少年が切手収集を趣味にした非常に感じの良い少年だったからだけではないだろう。

ケラーは自分の仕事が終わった後、頭に残ったターゲットの肖像を徐々に小さくして芥子粒のように消し去ることで後腐れの無いようにする。それが殺し屋稼業という陰惨な仕事を続けられるコツなのだろう。
しかし今までのシリーズでも描写されているようにケラーにはどこか常人と異なる感覚がある。殺しの標的を人とみなさず、物として見るというか、感情はあるのだけれど自分に対して興味があり他者にはあまり興味を持たないというか、そんな感覚だ。

妻の助言で切手転売のサイドビジネスを始めてからはもはや殺し屋稼業よりもそちらの方に興味が大きく傾いてくる。それは趣味にさらにのめり込む環境が出来たこともあるだろうが、やはりこちらの方が安全な仕事であること、そして殺しのためにアメリカの各地に出張して家族と一時的に離れることが次第に辛くなってきたことだろう。ケラーの心の中に家族愛という新たな感情が芽生え、その領域がどんどん大きくなってきたのだ。

やがて登場人物たちのトーンも変化してくる。
ケラーの仕事を理解し、あまつさえ殺しをしてきた夫に欲情する変わり者でよき理解者である妻ジュリアは自分がケラーの手伝いをしたことで自分も殺しに加担した事実にショックを受ける。そしてケラーも次第に娘ジェニーに対する愛情が深まってくる。そしてドットとの会話の冗談にもケラーは反応が薄くなってくる。もはや奇妙でおかしな殺し屋コメディでは無くなっているのだ。

殺しを引退したケラーがどんな理由にせよ、ターゲットにアプローチしていく過程、そして依頼を達成するプロセスを書くことがもはやメインではなくなった証拠ではないだろうか。
ケラーの引退を示唆しながらアクロバティックな内容で再び呼び戻したブロック自身もこの先のケラーを描くことに迷った、いやむしろケラー自身が彼の中で動かなかったのかもしれない。

前作『殺し屋最後の仕事』がやはりこのシリーズの幕引きだったのではないだろうか。サブプライムローン問題という新たな経済危機がブロックの中にいたケラーを呼び起こしたのだろうが、本書に収められたケラーの姿を見ると、もはやそこには殺し屋ケラーの姿は薄れ、愛する妻と娘を持ち、切手収集を趣味にしたリフォーム会社の共同経営者ニコラス・エドワーズがいるだけだった。

どんなシリーズにも終わりはある。読者を大いに楽しませるシリーズならばその幕引きは鮮やかであるべきだろう。

本書は家族を持ったケラー=ニコラス・エドワーズのその後を知るにはファンにとってはプレゼントのような短編集だったが、かつてのケラーを期待するファンにとってはどこか物足りなく、そして痛々しさを感じさせる作品だった。


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殺し屋ケラーの帰郷 (二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)
No.36:
(5pt)

東野氏だからこそ出版できた短編集

文庫オリジナルで発刊された短編集。しかし収録作品にはある共通項があり、それは後で明かすことにしよう。

まず「シャレードがいっぱい」はバブル全盛期の頃の話。
メッシー、アッシー、ミツグくん、高級ワインにシャンパン、イタ飯、六本木カローラと呼ばれていたBMW、フェラーリ、そしてクリスマス・イヴに備えて高級ホテルの最上階のレストランとスイートルームを半年以上前から予約する、等々、バブル華やかなりし頃のミステリ。つくづく読んでて思うが、バブル期の日本はみな浮かれていて、無駄な事に大金を費やすことがステータスとなっていた、金の狂人たちの時代だったなんだなぁと思わず懐かしむような思いで読んだ。
主人公の津田弥生はそんなバブルの時代を謳歌している女性の1人で、その頃はどこにでもいた女性の1人なのだが、そんな彼女がどこか怪しいところのある尾藤と名乗る男と恋人の、いや友達以上恋人未満の北沢の死を探るミステリだが、ライトミステリながらもダイイング・メッセージを皮切りにシャレード、文字謎がたくさん含まれた作品。特に遺言状のトリックはなぜ気付かなかったのか、非常に悔しい思いがした。

「レイコと玲子」はタイトルから推測できるように多重人格者を扱った作品。
バブル時代に書かれた作品でベンツ、アルマーニ、セルシオ、グッチの財布と当時席巻していたアイテムがそこここに挟まれて、ライトミステリのように思えるが、読み応えは案外深い。

「再生魔術の女」は1つの部屋で繰り広げられるある復讐の物語。
よくもまあ、こんな恐ろしい発想が生まれる物である。

名作『秘密』の原型となったのが「さよなら『お父さん』」だ。設定はほとんど一緒と云っていいだろう。『秘密』がバスの事故で母の意識が娘に入り込むのなら、こちらは飛行機事故という設定の違いくらいだ。
当初は娘の心に妻の意識が入り込むことで生じる違和感を面白おかしく描くのが目的だったらしいが、本作でも『秘密』に通ずるそこはかとない哀しみが漂っている。本書を下敷きに『秘密』を著したのは正解だった。

ホームズのパロディ譚である「名探偵退場」は隠居生活に入ったかつての名探偵アンソニー・ワイクが自分が手掛けた事件の中で最も難易度が高く、印象深かった魔王館殺人事件の記録を著すところから始まる。
名探偵のジレンマとも云うべき永遠の命題を利用した物語の展開と意外な真相が実に印象的だ。しかしただ単純に面白いだけでなく、本格ミステリが孕む危険性を読者は感じ取ってほしいのだが。

「女も虎も」は題名通りリドル・ストーリーの傑作として名高い「女か虎か」の本歌取り作品。但し舞台は日本の江戸時代らしき設定。
殿様の妾に手を出した真之介が2つの扉ならぬ3つの扉のうち1つを選択することで運命が決まる。1つには絶世の美女が、1つには虎が、そして最後の1つに何が入っているのかは不明だった。そして真之介が選んだ扉には果たして…。
たった10ページのショートショートで、オチもまあ単純と云えば単純。

「眠りたい死にたくない」は監禁物。
睡眠薬を飲まされ、酩酊状態の中で監禁状態になった経緯を思い出す一部始終はある完全犯罪のそれだった。

最後の「二十年目の約束」はある夫婦の物語だ。
これは正直ピンと来なかった。最後の1編にしては今いち締まらなかったなぁ。


収録作品は雑誌に掲載されながらもある理由によって短編集として纏められなかった、作者曰く「わけあり物件」らしい。

例えば掲載されていた雑誌が出版社の倒産によって作品がお蔵入りしたり、有名になってしまった長編の原型だったり、単純に短編集に纏める機会がなかったりと、そんな落穂を拾うかのように編まれたのが本作だ。

だからといって駄作の寄せ集めではなく、そこは東野圭吾氏、水準をきちんと保っている。個人的には「再生魔術の女」の発想の妙を買う。被害者の胎内に残された精液から代理母に子供を産ませ、それを容疑者の養子として送り込み、復讐する。顔立ちが似てくれば容疑者が犯人だったことが解る、遠大な復讐だ。
このトンデモ科学のトリックとでも云おうか、鬼気迫る復讐者の執念、いや情念に畏れ入った。

収録作は89年から95年にかけて書かれた作品で、バブル景気に浮かれる日本を髣髴させるキーワードが物語に織り込まれていて感慨深い。特に顕著なのが、第1編目の「シャレードはいっぱい」と2編目の「レイコと玲子」。あとがきで作者自身が「もはや時代小説だ」というように、「バブルは遥かなりにけり」の感はあるが、これはこれでそういう時代があったことを知る貴重な資料にもなるのではないか。

しかしこのような長い創作活動の中で埋もれてしまった短編が再び日の目を見るように本に纏められるのも東野氏が今や当代一の人気ミステリ作家になったからこそだ。こんな東野作品もあったのだと、今の作品群と読み比べてみるのもまた一興かもしれない。
しかしやはりバブルは強烈だったなぁ。


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あの頃の誰か (光文社文庫 ひ 6-12)
東野圭吾あの頃の誰か についてのレビュー
No.35:
(5pt)
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大人とは単純に大きな人と云う意味でなし

馳星周版『マイン』。一人の幼児を巡って一人の女子高生と一人の刑事が追いつ追われつの攻防を繰り広げる。

まず主人公の刑事友定伸。
暗黒小説の雄、馳星周はただの刑事を主役にしない。悪徳警官と想像するのはたやすいが、主人公友定伸は妻に逃げられた就学前の幼い息子を持つ男で、わが子を虐待することに喜びを感じながら、それが発覚しないように恐れているという人格者と呼ぶには縁遠い唾棄すべき人物だ。

そしてもう1人の登場人物、女子高生の大原妙子は鹿児島出身で柔道をやっていた父親から抑圧と暴力を受け育った女子高生。一刻も早く家を飛び出したいと思っている。

そんな妙子と友定の息子雄介が出遭い、2人で暮らそうと逃げ始める。その失踪した息子を友定が捜すというのがこの物語だ。

つまり馳氏が刑事を主人公にしたのは悪徳警官物を書くわけでもなく、正義を司る刑事という職業の人間が児童を虐待しているというインパクトと児童虐待を知られないようにわが子を取り戻そうと奔走する男の物語を書くのに最も強い動機付けとして刑事と云う職業を選んだに過ぎない。どこまで逃げても追いかけてくる友定を警察官に設定することでわずかな手掛かりから痕跡を辿る術を心得ている人物となっており、それが故に全編に亘って繰り広げられる逃亡劇がジェットコースターサスペンスとなっているのだ。

友定はやがて援助交際をしている大原に近づくために出会い系サイトに登録して妙子とコンタクトを図る。しかし同じ子供を虐待して悩んでいる主婦とそのサイトで知り合い、あまりに似た境遇にのめり込んでいく。

中盤は友定と大原妙子のメールのやり取りと出会い系サイトにのめり込んでひたすらメッセージを取り交わすことがつらつらと続いていく。
一体この小説は何なんだ?という思いが強かった。

幼い子供を虐待するわ、出会い系サイトで主婦とのやり取りにのめり込んでいくわと30を過ぎた大人が、しかも刑事がやるにはなんとも幼くて途中でこんな話を読んでいる自分が情けなくなってきた。

更にその逃亡劇に絡むのが大原妙子の元恋人の知人ヒデこと谷村秀則とその元恋人高木優。谷村はクラブのDJでヤクの売人でもある。ヤクの売り上げが悪いとやくざに睨まれ、300万円を用意しなければ腎臓を売りにフィリピンへ飛ばされると窮地に陥っていた。高木優は元バンドのヴォーカルだが人気は下火でいつ事務所を解雇されるか解らない身だった。つまりお金に窮した2人が大原妙子の子供を利用して友定に身代金を要求する。

一方の友定には出会い系サイトで知り合った人妻加藤奈緒子が協力者となる。家を省みない夫、夜泣きする娘のダブルパンチで虐待を止められない女。

三者三様、いや四者四様の虐待の加害者と被害者の逃亡劇。やがて被害者もまた加害者になる。因果は巡る。

そんな話だからハッピーエンドなど望むべくもない。なんだかんだで虐待は繰り返されるのだ。
本書における最大の被害者は友定の息子雄介だろう。
なんとも報われない人生。これほど虐待を受けた雄介もまた成人すると途轍もない闇を抱えた虐待のモンスターになりうるのだ。

私も子を持つ親。子供に対しムカッと来ることもあり、実際に手を挙げることもあった。
それは行儀が悪かったり、云うことを聞かなかったり(指示を守らない)、他人に迷惑を掛けたりしたときだ。それはつまり己の意志に反することを子供をした時に怒りと云う感情が起こるのだが、それは大人である我々が今まで生きてきて確立された自我や道義を子供に押し付けようとし、それを子供が守らないことに対する反発心なのだと思う。
しかし子供も一人の人間だ。彼らには彼らの考えがあるし、それを聞く姿勢も大切だということを肝に銘じなければならない。もちろんそれが全て正しいことではないからこそ親は子供を躾けなければならないのだが、それを自身のエゴまで及ぶと本書の登場人物たちのようにもはや躾とは関係のない、どす黒い暴力と云う名の衝動に置き換わってしまう。
正直子育ては大変である。風貌は自分たちの生き写しのようだが、全く違う人間ということを理解しなければならない。
そしてやはり本書に登場する友定や奈緒子のように一方に子育てを押付けてはいけない。感情の箍が外れた時に感情を爆発させながらも止めてほしいと心の中では叫んでいるからだ。人間だから疲れている時や別の何かで感情を害している時に理不尽な怒りに駆られることもある。それを躾に転換して子供を叱るのではなく怒りをぶつける時に止めさせて子供を守る人が必要なのだ。
文字通り私も含め「大きい人」というだけの大人もいる。完璧な人格者などいない。だからこそ2人で助け合って生きていかねばならないのだ。
虐待をする大人、もしくはせざるを得ない状況や感情に陥る大人を否定するわけではない。私にもそんな一面があることは正直理解している。それを一歩踏み止まらせているのは妻の存在であり、自分の心の中にある一線を越えてはならないという自制心だ。
馳氏の作品は人がこの一線を踏み越えることを色んな状況や出来事を盛り込んで描いていく物語。今までの闇社会や道を外れた人々の世界を描いてきた作品とは違い、子育てと云う非常に身近な事柄を扱っているだけにここに登場する友定、奈緒子、大原妙子が隣人の誰か、いやいつかなり得る我々だということにうすら寒さを覚える。
児童虐待と云う今日的な社会問題を主軸に警察官と女子高生と云う我々の生活圏に近い人々の物語を書いた本書は馳氏にとって新たな挑戦だと云えよう。しかし人が1人も死なない初の馳作品なのに読後感の悪さは相変わらずだ。

本書の前に読んだ東野作品の『時生』のような親子の絆とは180°違う親子の関係に終始嫌悪感を拭えないが、実は本書の方が案外実際の親と子の関係に肉薄しているのかもしれない。
実にそれは哀しくて恐ろしいことなのだが。


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楽園の眠り (徳間文庫)
馳星周楽園の眠り についてのレビュー
No.34:
(5pt)
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本格ミステリ、ここに極まれり?

国名シリーズで一躍本格ミステリの寵児としてデビューし、その後多くの傑作を物にしたクイーン最後の長編。

その最後の作品は殺意の芽生えから殺人に至るまでを女性の妊娠に擬えている。最後の長編でありながら、新たな生命の誕生に章立てが成されているとは云いようのない歪みを感じる。

物語は一大産業会社を築き上げた大富豪のインポーチュナとその若き妻バージニア、そして彼の若き秘書ピーター・エニスの三角関係が物語の中心となっている。

後期及び最後期のクイーンの作品では、あるテーマに基づいた奇妙な符合を見出して事件の異様さを引き立てる構成が多く採られているが、クイーン最後の長編の本書では、インポーチュナ産業コングロマリットの創始者である、物語の中心人物ニーノ・インポーチュナの人生そして彼の殺害事件後に届く奇妙なメッセージに全て数字の9を絡めているのだ。その絡め方はそれまでのクイーン作品の趣向以上の情報量の多さを誇る。特に171ページ以降は9に纏わる逸話やエピソードのオンパレードである。

そしてまた9は一桁の最後の数字でもある。すなわち本書がシリーズ最後の作品であることを暗に仄めかしていると考えるのは果たして穿ちすぎだろうか?

さてその盲信的なまでに9に纏わるメッセージを集めたエラリイの前に犯人と思しき人物からクイーン警視の許へ送られてくるニーノ・インポーチュナに纏わるエピソードもまた9つの単語で構成されている。全て9尽くし。

さて本書のタイトルだが、この「心地よく秘密めいた場所」とは一体どこの事だったのだろうか?

いずれにせよこれでクイーン関連の書も残りわずか。じっくりと読むこととしよう。


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心地よく秘密めいた場所 (1984年) (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.33:
(5pt)

詩人の超越した視座

エラリー・クイーンは数多のアンソロジーを編んでいるが、本書は詩人が書いたミステリ短編を集めた物。

本書は作者の生年順に作品が収録されており、冒頭を飾るのは『カンタベリー物語』で有名なジェフリー・チョーサーの「免罪符売りの話」だ。
本編は『免罪符売り』という作品からの抜粋だが、非常に上手く抜き取られており、確かに1編の短編のように読める。

2作目はオリヴァー・ゴールドスミスの代表作『ウェイクフィールドの牧師』からの抜粋。書かれたのはなんと1766年!
同書を読んでいないので詳細は解らないが、題名からして詐欺に遭った牧師は恐らく本書の主人公なのだろう。その後の彼らの運命が流転していく余韻を残して物語は閉じられる。年代は18世紀だが、読み物としては21世紀の今読んでも遜色ない。

サー・ウォルター・スコットは「歴史小説の父」として名を馳せているようだ。本書に収められた「ふたりの牛追い」はハイランド人のロビン・オイグとイングランド人ハリー・ウェイクフィールド2人の牛追いたちの友情が崩れる物語。
イングランド人とハイランド人、つまりスコットランド人の人種間の深き溝を感じさせる一編だ。わずかなボタンのかけ違いで悲劇が生まれる。物語冒頭の老婆の予言がスパイスとして効いている。

ジョージ・ゴードン、ロード・バイロンによる「ダーヴェル」はたった9ページの小編。
正直よく解らない話。

次はまさに巨匠、ヘンリー・ワズワース・ロングフェローの「ペリゴーの公証人」はミステリと云うよりも喜劇だ。
医者が教える猩紅熱の症状、「右脇腹に鋭く焼けるような痛み」の正体が笑える。伏線もあるし、やはりこれもミステリ…かな?

次も巨匠ウォールト・ホイットマンの作品「一度きりの邪な衝動!」は亡き父の財産を管理し、それを盾に妹エスターに結婚を迫る悪徳弁護士を殺す兄フィリップの話。話はこのたった一文で済むが、最後の結末が非常に奇妙な味わいを残す。老境に差し掛かって改訂されたらしい本編は作者の達観を示しているようでもある。

W・S・ギルバートはオペラの台本作家とのこと。彼の作品「弁護士初舞台」はなんだか奇妙な話である。
敵は味方にありとはまさにこのこと。何とも不思議なお話である。

トマス・ハーディは詩人というよりも小説家として知られていると思うが、後年はもっぱら詩の制作に勤しんだようだ。彼の「三人のよそ者」は雨天の最中、次女の誕生祝と命名式のパーティを人里離れた一軒家で祝う羊飼いの所へ3人の来客が訪れるというもの。
チェスタトンの短編のような味わいを残す1編。真相を知った上で読み返すと2人目の男が現れた後の彼の振る舞いと旅人の反応がまた違った風に読めるから面白い。実にミステリらしい作品だ。

次はノーベル賞作家のウィリアム・バトラー・イエーツの初期の作品「宿無しの磔刑」だが、これは何とも奇妙な味わいだ。
さすらいの歌人が一夜の宿として立ち寄った大修道院でのもてなしの酷さは確かに同情すべき物がある。パンは黴ており、水は悪臭がして飲めやしない。おまけに布団には蚤が蔓延っていると散々だ。しかしそのために修道士たちに迷惑をかけるというのはいささか子供じみている。磔刑にさせられる道中で色々な小細工をする歌人と取り巻きのようについてくる乞食が布石のように見えるが真相は意外。実に皮肉な結末。

『ジャングル・ブック』は私が小学生の頃、自宅にあった少年少女文学全集に収録されていた作品の一つだったが、その作者ラドヤード・キプリングの作が「インレイの帰還」だ。
ミステリとして比較的定型を成しているのがこの作品。一人の男の失踪が殺人事件へと発展する。しかしトリックの意外性があるわけではなく、あくまでキプリングは未開の地インドの風習と風土ゆえに起こった現地人と白人の価値観の相違が事件を起こしたことをテーマにしている。

ジョン・メイスフィールドの「レインズ法」はいわゆる世間の渡り方を扱った作品。
一行で済む内容だが、これを当事者が成した事を細かに書いたことが新しいか。

ジョイス・キルマーの「恐喝の倫理」は新聞社で働く男の告白の物語。
これはラストが効いている。

コンラッド・エイケンの「スミスとジョーンズ」は奇妙な味わいを残す。なんとも奇妙でちょっと背筋が寒くなるお話だ。こういった普通に振舞っていた関係からふと殺意を抱き、行為に至るというのは唐突過ぎて何とも云えない怖さがある。

マーク・ヴァン・ドーレンの「死後の証言」とオグデン・ナッシュの「三無クラブ」はちょっと理解に苦しむ物語だ。
それぞれの作品は理解できるものの、結末が腑に落ちない。いずれも何かもう一つ上の次元で語られている話と云った理解を超えた展開であり、呆然としてしまった。

ロバート・グレイブズの「シュタインピルツ方式」は何とも珍妙な話ながらも好きな話。
とにかく盲目的に博士の指示に従い、肥料の材料を集めまくる夫婦と云うのが滑稽。しかも材料はおよそ誰もが手を出さないゴミやら動物の死骸やら、とても想像をしたくない物ばかり。最後の結末も効いている。

スティーヴン・ヴィンセント・ベネの「いかさま師」は引退したいかさま師が老人ホームを抜け出して世間のいかさまを暴いていくお話。祭りの夜、花火を見たいがために抜け出した老人がその一夜で遭遇する事件を解決するという老練さに満ちた一編。

最後のミュリエル・ルーカイサーの「仲間」も『世にも奇妙な物語』向けの奇妙な作品。
殺人を過去に犯した者は特別な連鎖に取り込まれてしまうというちょっとオカルト風味でもある。


エラリー・クイーンが詩人たちの創作したミステリ短編を集めたアンソロジー。
最も古いのがチョーサーの作品でなんと1300年代の作品!日本の歴史で云えば鎌倉時代の頃で中国では明王朝の頃と、まさに隔世の感がある。

そのチョーサーの作品「免罪符売りの話」は死神と呼ばれているこれまで千人は人を殺している泥棒を3人の放蕩者が退治してしまおうと乗り出す話から一変して金貨の奪い合いに転じるというお話。同題の長編からの抜粋のため、本筋が解らないきらいはあるものの、たった7~8ページの分量で目的がガラッと変わるというには何とも奇妙な味わいがあった。

続くオリヴァー・ゴールドスミスの作品も彼の代表作『ウェイクフィールドの牧師』からの抜粋で牧師が詐欺に遭う話を書いている。これも1766年の話で日本はその頃徳川幕府で田沼意次が老中だった頃。その頃イギリスは産業革命の真っただ中という激動の時代。

18世紀の詩人はこの次のウォルター・スコットやジョージ・ゴードン・バイロン、ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー、ウォールト・ホイットマン、W・S・ギルバート、トマス・ハーディと並ぶ。まさしく錚々たる面々である。

その後もノーベル賞作家イエーツ、『ジャングル・ブック』のキプリングといった大家の作品が並ぶ。

とにかく最初は読みにくいことこの上なく、また見開き2ページに小さなフォントでぎっしりと文字が詰まった体裁を久しぶりに読んだのでかなり時間を要した。先に進むにつれて、時代が下ってくるので読みやすくはなったが、久々に古典を読んでいるという気分にさせられた。
個人的にはこの古式ゆかしい体裁は大好き。

しかし詩人と云うのはどこか通常の作家と視座が違うのか、収録されている作品は奇妙な後味が残る物が多く、いわゆるミステリと呼べる作品はそれほどあるわけではない。何か事件が起こってその不可解事を解決する、といった定型を取る作品はほとんどといって無い。意外な結末という意味合いでクイーンは有名詩人諸氏の作品を集めたのではないだろうか。

また先だって読んだ『犯罪文学傑作選』もそうだったが、クイーンの他ジャンル作家の手によるミステリ作品のアンソロジーは文学史の勉強になる。今回もウィキペディアを参考にしながら各著者の代表作を知ることが出来た。
逆に云うと自身の不勉強さを露呈することになったわけだが。

さて本書の序文でクイーンはこのアンソロジーが不作為の犯行を犯していると述べている。
この不作為の犯行とは編者曰く、編者としてはアンソロジーとしては完璧を臨んで作品を集めたが編者の目が行き届かずに埋もれた詩人の手によるミステリ短編の傑作が選から漏れていることを指す。それをあらかじめ認めており、そして本書が「決して完成しない」アンソロジーであると述べている。
なるほどある意味これは自分のアンソロジーが不興を買った時に備えての保険のようにも取れるが、編者として潔さを感じる話だ。つまりアンソロジーは編者の権威を恐れず更新されなければならないと説いているのだ。

この詩人たちが書いた小説の意味が全て理解できたかとは云えないが、雰囲気はどこか通ずるものがあった。
先にも書いたがどこか超越した視座で綴られた諸作品。これらを集めたクイーンの偉業をこのたび復刊して確認することが出来た。
東京創元社の志の高さに改めて拍手を贈りたい。


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犯罪は詩人の楽しみ―詩人ミステリ集成 (創元推理文庫)
エラリー・クイーン犯罪は詩人の楽しみ についてのレビュー
No.32:
(5pt)

いよいよゴルフ・ミステリか!と思いきや…

若き女子プロゴルファー、リー・オフステッドのシリーズも早や4作目。4作目にもなるとシリーズの世界も広がってきて、一層面白味を増してくる。

2作目で出演したスキップ・コクランとメアリー・アン・クーパーの2人がテレビの解説と進行役で再登場することも世界の広がりを感じさせるシーンだ。この2人は今回登場人物表に名前が記載されていないのでまさにシリーズ読者のみぞ知る演出だ。

さらに作中で登場するゴールドスタインの詐欺の相関性の法則とは、これはもしかしてスケルトン探偵シリーズの名脇役だったエイブ・ゴールドスタインのことか!?と思わず笑みがこぼれたが、どうも実在の人物でしかも実際にある法則らしい。う~ん、さすがにそこまでのファン・サーヴィスはないか。

さて今回の謎はアメリカチームのキャプテンを務めるロジャー・フィンリーのキャディの殺人事件と、ロジャーのショットの不振の原因である。

実は殺人事件の捜査に関してはいわゆる通常のミステリにありがちな緻密な警察捜査が語られるわけではない。あくまで本書はプロゴルファーのリーが中心になって物語が動いていくため、終始彼女の周囲にいるプロゴルファーたちとのやり取りやゴルフの試合のこと、そしてロジャーの不振の原因探しがメインになってくる。

とこのようにミステリ部分については薄口だが、このシリーズで興味深いのはやはりゴルフにまつわるエピソード。
例えば古参のキャディは専属のゴルファーが調子悪くても決して陰でバカにしてはならないという鉄則があるようだ。それはゴルファーが彼らを食わしてくれているからだ。日本のサラリーマンは上司の陰口を酒の肴にして溜飲を下げる風潮があるのに、なんという気高さだろう。

またスチュワートカップに出場するゴルファーには色々な“特典”があることが明かされる。
プレイ時に使用するゴルフの服装はもとより、スチュワートカップのロゴ入りの旅行鞄にスーツケース、ユニフォームと思しきスーツにシルクのブラウス。さらにドレスシューズにイブニングドレスまでまさに至れり尽くせり。さらには必要経費として5千ドルのトラベラーズチェックまで送られてくる。
いやあ、こんなセレブな世界が本当にあるのだなぁとビックリした。…と思ったら、訳者あとがきによればこれは作者の創作らしい。な~んだ。

そしてようやくリーの恋人グレアムがゴルフに興味を持つようになるのも特筆すべきことだ。それを悟らせるのにリーのティーショットの詳細な描写が大いに寄与している。
ゴルフのショットの美しさと精度の高さ。それが集約された一瞬の断片。この部分を読んでゴルフを楽しむプロアマの人々はゴルフの本質を触れてくれたことに拍手を贈ったのではないだろうか。今まではプロゴルフ業界の裏話を小出しに著されたシリーズがようやく4巻目にしてゴルフという競技そのものを語った思いがした。

しかもリーはスチュワートカップのアメリカチームに勝利をもたらした中心人物として一躍名を馳せ、有名人となった。
これはもう本書でこのシリーズは打切りか?と思いきや、あとがきによれば次作もあるとのこと。

しかし2011年9月に1作目が訳出されてからちょうど1年で4作に上る。これほど頻繁に出版されるってことは人気があるのだろうなぁ。実際書店にこれまでのシリーズ本が陳列されていたし。
個人的にはアーロン・エルキンズ単独のスケルトン探偵シリーズの新訳を読みたいのだが、なんと新作が発表されていないようだ。
う~ん、しばらくはこのシリーズで渇きを癒すか。


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疑惑のスウィング プロゴルファー リーの事件スコア  4 (プロゴルファー リーの事件スコア) (集英社文庫)
No.31:
(5pt)

設定の意外性やアクション満載なのになぜか薄味感

マレル8作目の本作は西洋の古の歴史が絡む、ある暗殺組織の物語。

主人公のドルーことアンドルー・マクレーンは幼き頃に大使館員だった父をテロで亡くし、その後亡父の友人であるレイに引き取られ、彼に連れられて国を転々とし、各々の国の武術を身に着け、そしてテロを未然に防ぐために作られた組織スカルペルの工作員になった男。しかし彼はある任務に天啓を見出し、突如スカルペルを脱退し、彼の友人で同じくスカルペルの工作員であるジェーク・ハーデスティーによって社会的に抹殺されたことになり、厳格な修道院カルトジオ会に入院し、29歳にて隠遁生活を送る男だ。

物語はドルーと彼の協力者で恋人のアーリーン、そして謎の協力者スタニスロー神父ら3人が行方不明のジェークの捜索と、彼が隠遁生活を送っていたカルトジオの修道院を襲った者の正体とその復讐がテーマとなっている。

まず導入部が素晴らしい。
厳格な礼拝形式のカルトジオ修道院での静謐かつストイックな日々が語られる。それ以上でもそれ以下でもない淡々とした描写にふと訪れるドルー襲撃の影。
この静から動への移り方が非常に上手い。

さらに安息を求めて神父へ助けを求めると、神父たちは海兵上がりだったりベトナム帰りだったりといずれも屈強な元軍人たち。そんな彼らがドルーの命を狙うという、いわゆる西洋宗教には疎い日本人にしてみれば予想外の設定と展開が待っている。
まさに息をつく間もないエンターテインメントだ。

デビュー作の『一人だけの軍隊』がそのタイトル通り、一人対集団の物語だったのに対し、本書はドルーとその協力者2名と謎の組織への戦いという小集団対組織へのチーム戦になっている。よくよく考えるとこれは前作『ブラック・プリンス』でもそうであり、しかもそのうち一人が女性であること―しかも両者とも特殊訓練を受けた戦闘能力が高い女性!―も共通しており、この辺はエンタテインメントとしての華やかさも考慮したマレルの演出だろう。
こういった構成はやはり映像化を強く意識した作りだと感じてしまう。

ただ自身の両親をテロで亡くしたドルーが対テロ組織の暗殺組織スカルペルでずば抜けた能力を発揮していたにもかかわらず、突然組織を辞める理由がなんともあやふやな感じがしてしまった。それは自分のミッションで殺した相手の中になんとテロで両親を亡くした頃の自分そっくりの子供を見出したことにより、今の自分こそ幼き頃に激しく憎んだテロリストそのものであるという天啓を得たというもの。
この辺はなんとも首肯しがたいものがある。ドルーが見たのは幻覚だったのか?それとも敢えて組織はこのミッションをドルーにさせることで次なるステップアップを目論んだのか?

そしてタイトルにもある「石の結社」についても触れておかねばならない。その正体は最後の方になってようやく明らかにされる。

またタブーの存在である「石の結社」が物語の結末を予想外の方向へ持っていっている。
まさかこのような結末になろうとは思わなかった。最後の最後でタイトルに冠せられた組織の恐ろしさが見える結末となっている。

しかし『ブラック・プリンス』もそうだったが、現在のテロ組織なり、諜報活動なりが我々が歴史で学んだ出来事なり人物、組織と絡ませるのがマレルのスパイ小説の特徴のようだ。スパイは人類で二番目に最も古い職業と云われているから、このような語り口は実に面白い。これはマレル作品の味だと云っていいだろう。
ただ何かが足りないような気がしてしまう。もっと心に残ってもいいのに、何かが足りない。恐らくはキャラクターの強さだと私は思うのだが。
この辺りはこれからの作品で確認していくことにしよう。


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石の結社 (光文社文庫―海外シリーズ)
デイヴィッド・マレル石の結社 についてのレビュー
No.30:
(5pt)

クイーンがホームズを書くとき

クイーンが伝説の名探偵ホームズに挑む。しかも扱う事件は切り裂きジャック事件!
当時のミステリ界ではこんな煽情的な謳い文句が躍ったのではないかと推測されるが、クイーン作品にしては文庫本にしてたった200ページ強と今まで一番短い小説である本書は、識者によれば映画作品のノヴェライズだという。

ドイルのホームズ譚に切り裂きジャック事件がないのか、いやいや『バスカヴィル家の犬』事件で途中ホームズがいなくなるのは切り裂きジャック事件に取り組んでいたからだ、などとマニア、シャーロッキアンの間ではまことしやかに囁かれていた稀代の名探偵と稀代の殺人鬼の対決がエラリイ・クイーンの手によって実現されたのが本書。
本書はエラリイの許にワトスン博士の未発表原稿と思しき文書がもたらされ、その内容がホームズが切り裂きジャック事件に挑む話だったという作中作で構成されている。
ホームズの物語ではドイルのホームズ譚にまつわる人物や事件、舞台がそこここにあしらわれ、マニア、シャーロッキアンの興趣をくすぐる。

とにかく1章当りの分量が少なく、おまけに1ページ当りの文章量も少ない本書はサクサク読めることだろう。特にホームズ作品に慣れ親しんだ読者ならば実に親近感を持って読めるに違いない。
前述したようにホームズ作品を読んだ者にとって楽しめるネタが仕込まれているし、作中作のホームズ譚はドイルが書いたそれと比べても違和感はない(ホームズ作品が出てくる文章は他の作家の手によるものらしい)。

限られた登場人物たちで繰り広げられる切り裂きジャック事件の鍵となるのはオズボーン家という公爵の爵位を持つ貴族にまつわる忌まわしいエピソードだ。
事件の発端は何者かによってホームズの許へ送られてきた手術道具セット。そこに隠されていたのはシャイアズ公爵オズボーン家の紋章。そこから物語は行方知れずとなった公爵の次男、そしてフランス帰りと思しき白痴の男の登場と通常の切り裂きジャック事件とは変わった切り口から事件とその犯人が明かされる。

そしてやはりクイーン。単にホームズによる事件解決に話は留まらない。
まず送られた原稿がワトスン博士によるものかという真偽の問題から、ホームズの解決からさらに一歩踏み込んで別の解決を導く。
そしてその真相をワトスンの未発表原稿を叙述トリックに用いているのだからすごい。この発想の素晴らしさ。さすがクイーンと認めざるを得ない。

物語として、また一連のクイーン作品群の中においても出来栄えではごく普通の作品に過ぎないかもしれない。しかし上に書いたこの作品が内包する当時の時代背景や世情、さらにこの作品が書かれた背景ーホームズが切り裂きジャック事件に挑むという映画のノヴェライゼーションを頼まれたクイーンが、その映画の内容を作中作にしてエラリイに謎を解かせるという構造に置き換え、さらに真相をも変えてしまったらしい―を考えるとなかなかに深い作品だと云える。
さらに現代の日本のミステリシーンにおいてもしばしば作家によって試みられているテキストによる叙述トリックの走りだと考えるとこの作品の歴史的意義はかなり大きい。


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恐怖の研究 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-10)
エラリー・クイーン恐怖の研究 についてのレビュー
No.29: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(5pt)

どんでん返し前の真相の方が好み

幾何学的な素っ気ないタイトルは三角関係を表している。第四辺とは父アシュトンと母ルーテシア、そして息子デインらマッケル一家の間の三角関係に現れたシーラという愛人のことである。
しかし通常ならば三角関係というのは一人の人物を巡って2人の恋敵が取り合うという関係を示す。従って本来ならば父親の愛人を頂点にした息子と父親の微妙な三角関係を示すことになろう。

事件はこの父の愛人であり息子の恋人であるシーラが何者かに殺害されるというものだ。彼女はマッケル一家が所有するマンションのペントハウスに住んでいる。
そしてまずは容疑者としてアシュトンが逮捕され、裁判にて無罪が確定し、次にルーテシアが逮捕され、同じく裁判で無罪が確定した後、今度は息子のデインが逮捕されるという三段重ねの裁判物となっている。

そして今回エラリイはなかなか登場しない。彼が登場するのは130ページの辺りである。しかも今回のエラリイは映画のエキストラの一員としてスキーで滑っているシーンを撮影中に事故に遭って入院をしている。つまり安楽椅子探偵という設定なのだ。

この3人のマッケル一家だけが容疑者であるという非常に登場人物の少ない事件。そんな事件でもクイーンはロジックを開陳させてみせる。
しかし物語はそのエラリイの鮮やかなロジックで解決した後、また別の真相が控えている。そしてこの作品でも探偵の能力の限界をエラリイは見せつけられてしまう。

さて今までクイーン作品では個性的な女性が出てきた。ニッキー・ポーターやポーラ・ハリスがその代表だろう。それらは過去の本格ミステリに見られがちなか弱き令嬢といった趣ではなく、男と対等に渡り合おうとする独立した女性の姿だった。
本書のシーラは彼女たちからさらに発展した女性像である。ファッション界の新鋭デザイナーとして名を馳せ、すでに金と栄誉を手に入れているので男には隷属せず、また養ってもらおうなどとは露にも思っていない。結婚は特に考えず、その時に好きな男をとことん愛し、お互いのどちらかが飽きるまで付き合う。その恋はある日突然火が着き、そしてまた同じようにある日突然冷めてしまう。常に恋をしなければならない女性。そして恋をしていることで輝きを保っている女性。昨今の女性の考えを持った近代的な女性である。

もう単なるパズラーやロジックで犯人を云い当てる推理ゲームから脱却したクイーンのこの頃の作品は逆にバランスを欠いているように感じ、釈然としない読後感を残す。この作品の真価が私の中で定まるのはまだしばらく時間がかかりそうだ。


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三角形の第四辺 (ハヤカワ・ミステリ文庫 ク 3-24)
エラリー・クイーン三角形の第四辺 についてのレビュー
No.28: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(5pt)

名刺代わりの1作目

アーロン・エルキンズは私の好きな作家の一人で、彼の代表作は云わずと知れたスケルトン探偵ことギデオン・オリヴァーシリーズである。

その彼が新たに書いたシリーズ作品がこの女子プロゴルファー、リー・オフステッドシリーズだ。ただしこれは彼単独の作品ではなく、奥さんのシャーロットとの共作になっている。

今回は第1作ということでまずは自己紹介といった色合いが強く、事件もごくごく普通のミステリに仕上がっている。
ツアーに参加するはずのスター選手ケイト・オブライエンが現れずにツアーが開催される。誰もがケイトを探していたが彼女と連絡が取れない。初日のラウンドの調子が悪かったリーは試合後ショットの練習をしていると、池の中にケイトの死体を発見する。おまけに彼女のクラブの1つがすり替えられ、そのクラブには血糊がついていた・・・というまさに巻き込まれ型の典型というべき作品だ。

さらに主人公リーはプロ1年目でゴルフもアメリカ陸軍時代の配属先のドイツの空軍基地で覚えたという変り種。そして彼女が遭遇するのは地元の警察署に勤めるグレアム・シェリダン警部補という好漢。事件を通じてリーとグレアムは互いに惹かれ合っていくというこれまたロマンス小説の王道。
訳者あとがきによればシャーロット夫人はロマンス小説作家とのことで、エルキンズ作品よりもこの色合いが濃い。このリーとグレアムの関係はスケルトン探偵シリーズのギデオンとジュリーの馴れ初めを想起させるが、キャラクター造形はまだ本家の方が上か。

さらにエルキンズ夫妻はグレアムをゴルフのゴの字も知らない素人と設定することで読者にプロゴルフ界の世界やエピソードを教えることに違和感なく作品に溶け込ましている。

特にそれらのエピソードの中でも女子ゴルファーの生活の厳しさがつぶさに書かれており、まだプロ1年目のリーの、決して裕福でない、いや寧ろ貧困生活の只中で頑張る女性像に胸を打たれるものがあり、感情移入してしまう。

ただハングリーだけでなく、リーの良きゴルフ仲間ペグなどは経営コンサルタントを経営するセミプロであり、ゴルフはあくまで生活の糧でなく趣味の延長に過ぎない。
ゴルフとは金持ちの道楽、そしてプロゴルファーは押しなべて金持ちの子供がやるもんだと先入観を持っていた私にとってこの辺の話は面白かった。

またエルキンズの小説は世界各地をギデオンが色んな形で行く機会を得てその土地のエピソードをふんだんに盛り込んだ観光小説の側面もあるが、このシリーズもまた女子プロゴルファーという各地をツアーで回る職業だから今後のシリーズも同じような特色を持つのだろう。
リーは今はまだ下位の貧乏ツアープロだが、シリーズを重ねるにつれて国外ツアーにも招待され、日本を舞台にした事件に巻き込まれる、なんてこともあるかもしれない。

前にも書いたが起承転結ときっちりと踏まえた普通のミステリだ。リーが窮地に陥るところもスケルトン探偵シリーズの定型を髣髴させる。
しかし当然と云っては失礼だが、まだまだ物語やキャラクター造形に深みが感じさせないので総合的に判断すると普通よりもやや劣る出来栄えに感じてしまう。

『世界ミステリ作家事典』によればこのシリーズは夫人のシャーロットが原稿を書いて夫のアーロンが手を入れるというスタイルを取っているとの事。
スケルトン探偵の新作が心待ちになるほど、いつも彼の世界観とキャラクター造形の巧みさに魅了されるが、次作、次々作と徐々に親近感を増すことを期待したい。

怪しいスライス プロゴルファー リーの事件スコア 1 (プロゴルファー リーの事件スコア) (集英社文庫)
No.27:
(5pt)

読みにくいのが難

いわゆる文豪と云われる非ミステリ作家たちの手になる犯罪を扱った作品を集めたアンソロジー。
1951年に編まれた本書は現在日本で北村薫氏らによって日本の文豪らの手による作品集が編まれ、文化として継承されている。

その初頭を飾るのはノーベル文学賞も受賞したシンクレア・ルイスの「死人に口なし」だ。
在野の詩人の未発表の傑作詩を手に入れた駆け出しの教授とくれば、すぐさま自身の作品として発表し、富と名声を勝ち取るという展開を予想するが、本作ではその在野の詩人の研究者としてどちらが第一人者であるかを競うことがテーマになっているのがなんとも健全と云えよう。主人公わたしが手に入れた在野の詩人の情報を悉く覆す著名な教授のニュースソースを突き止めるのが本書の謎なのだが、最後の結末は冗談話に過ぎないと思うのは私だけだろうか。

次もノーベル文学賞作家の手によるもの。パール・バックによる「身代金」はアメリカの中流家庭に起きた誘拐事件を扱った作品だ。
非ミステリ作家による誘拐物とはなんと捻りのないことか。
本書で書きたかったのはミステリとしての意外な犯人・身代金の手渡し方法・誘拐の意図などではなく、誘拐事件が被害者に及ぼす周囲への疑心暗鬼や不安な日々といった心理面と近所の誰もが容易に犯人になれるというアメリカ社会への警鐘なのだろう。

すでにミステリ作品を物にしているW・サマセット・モームの「園遊会まえ」は実に変わった味わいの物語。華やかな催し事に出席するそれぞれの人々にはそれまでに何か厄介事を抱えているものだ、もしくはどんな厄介事が持ち込まれても人は皆パーティには出席するものだというモームなりの皮肉なのだろうか。

エドナ・セント・ヴィンセント・ミレーの「『シャ・キ・ペーシュ』亭の殺人」も純文学作家らしい奇妙な作品。
モームの作品「園遊会まえ」と封印された殺人が明かされるという意味では同趣向の作品と云えるだろう。

次はまたしてもノーベル賞作家の登場。ジョン・ゴールズワージーの「陪審員」は題名からしてミステリど真ん中の作品と思えるが、やはりそんな予想を覆す物語である。裁判の陪審員として裁判に立会い、妻と離れなければならないことを悲しんで自殺を図る陸軍兵士の被告人に同情して、尊大な義勇軍大佐である主人公が妻への愛を再確認するという、なんだか焼けぼっくいに火が着いたみたいな作品。
男尊女卑として妻に追従を求めるだけだった男がその存在の大切さに気付くというのはいいが、やはりそんな男は不器用で思ったようには上手く思いを表現できないところはリアルといえばリアルだが。

作品を読んだことが無くてもその名前は知っているジョン・スタインベックの作品はその名もずばり「殺人」。こちらの感想はネタバレにて。

ルイス・ブロムフィールドの「男ざかり」もまた語られる主人公ホーマー・ディルワースがなぜ犯罪に至ったかを記した作品だ。
非常に純文学的な内容。妻に尻を敷かれ続けた男に急に訪れたモテ期。そして今よりも若く肉感的な女性と恋の逃避行をし、挙句の果てにその相手を喪うことを恐れて、女性を追ってきた男共々殺してしまう。1900年前半の時代では48歳といえばもはや男としては人生の黄昏時とも云うべき時期で男ざかりの時が訪れた男の動向が本書の読み応えなのだろうが、現代ではまだまだこの年ならば現役だろう。

さて出てくるべくして出てきた文豪チャールズ・ディケンズは保険金詐欺師を扱った「追いつめられて」が収録されている。
生命保険をかけては被保険者が死に、その利益で生きてきた男を陥れる復讐譚とも云うべき作品。色んな仕掛けが施されており、最後に明かされる男の仕返しはそれまでで最もミステリらしい。犯罪小説ならぬミステリも文豪は書けるのだというのを証明したような作品だが、いささか摑みどころがない作品でもあるのが残念。

本書にはノーベル文学賞受賞者だけでなく、ピューリッツァー賞受賞者の作品も数多く収録されているがこのウィラ・キャザーもその1人。
彼女の作品「ポールのばあい」はその容貌と仕草、そして言動から同級生、先生に忌み嫌われている男の物語。彼がそんな境遇で過ごした町をあるきっかけで出て行き、ニューヨークの一角で自分の居場所を見つけ出すというもの。
本書に登場する主人公ポールのように、生理的に風貌が受け付けられない、悪気はないのは解っているがその不躾な言動が非常に気に障るといった輩は確かにいる。そんな彼が抱いていた「ここではないどこか」への思い。そして辿り着いたのがニューヨークの地。彼はそのエキゾチックな地では彼もただ1人の人間だったのだ。
本書で語られる犯罪は横領罪だがもちろんそれが主眼ではない。ここではポールという異端児の人生がテーマなのだ。文体は全然違うがなんだかアイリッシュとの近視感を覚えた。

『トム・ソーヤの冒険』で有名なマーク・トウェインがミステリを書いていたのは有名な話だが、本書では数ある作品のうち、「盗まれた白象」が収録された。
知る人は知っているがマーク・トウェインは実はかなり捻くれた作家である。本書はシャム国からイギリスに贈呈された白象が盗まれ、それを警察が追う話だが、ターゲットである白象は逃げる先々で沢山の公共物や建物を破壊し、また沢山の食料や飲料を消費し、そして沢山の死体の山を築き上げ、助け出す存在が災厄の元凶になっているのが面白い。特に白象について作中、人を食べるだの聖書を食べるだのと、いい加減極まりない記述はトウェイン独自のユーモアであり、そこからもこの作品が笑劇であると宣言しているのが判る。

オールダス・ハックスレーは「モナ・リザの微笑」で妻殺しと冤罪をテーマに扱っている。
やたらともてる優男とそれを取り巻く女達の執着を描いた作品、というほどにはドロドロしていなく、寧ろ最後にサプライズがあるあたり、作者はミステリとして本作を著したように思える。本書では題名にもなっているモナ・リザの微笑を持つ女ジャネットをファム・ファタールとして配したようだが、それほど印象に残る人物として描かれていないのが残念だ。

ホーンブロアーシリーズで有名なC・S・フォレスターによる「証拠の手紙」はその題名の通り、証拠物件である手紙のみで構成された作品である。
そこには事業家の妻がその部下と次第に親密になり、暴君振りを発揮する邪魔な夫を殺害するに至るまでが描かれている。書かれている内容は非常にオーソドックスだが書かれたのが1900年代前半ということを考えると非常に斬新な作品だったと思え、歴史的価値の高い作品と云えよう。

リング・ラードナーの「散髪」は床屋の主人と思しき語り部が町の悪戯好きの男が死に至った顛末を語るというもの。
床屋の主人の一人語りで語られる形式を取った物語はたった20ページの作品ながら出てくる登場人物は個性に溢れ、町の空気や匂いがわかるほどの筆致は実に素晴らしい。謎めいた結末―つまりジムは殺されたのか事故だったのか、そしてそれは誰の企みだったのか―も敢えて曖昧にすることで物語の雰囲気を醸し出している。けっこう好きな作品だ。

ウォルター・デ・ラ・メアの「すばらしい技巧家」は独特の雰囲気を持った作品だ。
物語の発端から非常に状況が解りにくく、最初はハツカネズミが主人公の話かと思ったくらいだ。やがて発覚する故意の殺人を自殺に見せかけようと企むあたりでストーリーが見えてくるが、最後はまた幻想めいた形で終わる。文学的ではあるが、好みではない。

ジェイムズ・サーバー「安楽椅子(キャットバード・シート)の男」は最近入社した同僚を抹殺しようとする男の話。
完全犯罪を企む男の話と思いながら読むと、物語は実に意外な方向に向かう。いやはや邪魔者を消すというのはこういう方法もあるのかと思い知らされた次第。
予想の斜め上を行くこの展開は素直に脱帽。サーバーの着想の妙を褒め称えたい。

『宝島』で有名なロバート・ルイス・スティーヴンソンの「マークハイム」は哲学的な内容の作品だ。
叔父の骨董品を売っては遊び、悪事にも手を出し、決して堅実な人生とは云えない道程を辿ってきた男が殺人を犯して、窃盗を働いていた最中に出逢ったこの世の存在とは思えない男とは一体何だったのか?最初マークハイムが云うように彼の犯罪の幇助をするその男は悪魔だと思ったが、最後にマークハイムが見せた一握りの良心に反応したその男の表情の優しさは彼の良心そのものだったのかもしれない。
しかしそれよりも冒頭に書かれているクイーンの作者紹介でまさかかのスティーヴンソンが闘病生活の中で執筆活動を続けていたという事実に一番驚いた。

次の作品も巨匠の物だ。数多くの傑作を残したH・G・ウェルズは「ブリシャー氏の宝」が収録された。
うだつの上がらなさそうな男が語る過去。それは婚約者と結婚しなかったのが宝物を手に入れたからだという理由だった。
そんな魅力的な導入部からどんどん引っ張られるように物語に入っていくのだが、最後のオチは捻りすぎてなんだか訳が判らなくなった。

聞き慣れない作家デイモン・ラニヨン。しかし彼の「ユーモア感」という作品は現代にも通じる軽快な筆致と意外性を持っていた。
マフィア映画の一編を切り取ったような内容。街の雰囲気とジョーカー・ジョーを筆頭にキャラクターが立っている。たった16ページの作品だが、一気に作品世界に引き込まれるし、最後の痛烈なオチも効いている。本書でのベスト。

またも聞き慣れない作家フランク・スウィナトンの「評決」は3人の女性達の茶飲み話を通じてある女性の裁判の顛末が語られるというもの。
有閑マダム達の茶飲み話という形式で裁判の顛末が語られるというスタイルは今でも斬新だといえよう。ただ夫に無罪判決が下った時に見せた妻の青ざめた表情というのはなかなか面白いのだが、ちょっとパンチに欠けるか。

ファニー・ハーストの「アン・エリザベスの死」は奇妙な味わいを残す。
いわゆるマタニティー・ブルーを扱った作品だが、主役を務めるジェット夫妻のエマ・ジェット夫人の狂気ともいえる情緒不安定さは一種のホラーを思わせる。
魚屋を経営する夫ヘンリー・ジェット氏は仕事柄魚の臭いが染み付いており、妻のために事前に臭いを消す処置を施している。しかし妻はそんな夫の気遣いを不憫に思い、その臭いを気にしないようにしているというおしどり夫婦なのだが、妊娠中にエマは夫を巨大な魚のように幻視し、忌み嫌う。その狂乱振りは戦慄を覚えるほど。
なんともやり切れない作品だ。一種カフカの『変身』のような不条理小説の趣も感じた。

締めの作品はノーベル賞作家ウィリアム・フォークナーによる「修道士(マンク)」。
知的障害ゆえに善悪の区別がわからず、望み望まれるまま犯行を犯した男の話。マンクの人生が幸せだったのかどうか、それは彼自身しか判らない。


なぜ本書が『ミステリ傑作選』ではなく「犯罪文学」と題しているのか?それはここに収められた諸作が犯罪を扱いつつも、ミステリのロジックやトリックなど、サプライズを主眼にした物ではなく、あくまで犯罪を介入することで人々の感情の機微や心境の変化、隠された記憶や振舞いなど、心理面を扱った作品だからだ。

確かにここに挙げられている作品にはそれぞれ犯罪が含まれている。誘拐、殺人、命令違反、現金横領、保険金詐欺、盗難、偽装工作、強盗、窃盗、悪戯。

そして考えなければならないのがクイーンがこのようなアンソロジーを編んだ動機だ。
本書の刊行は1951年。つまりクイーンの作品はすでにライツヴィルシリーズの『ダブル・ダブル』を書き上げた時期だ。その後ライツヴィルはクイーン作品で出てくるものの、添え物に過ぎない。したがってこの時期のクイーンはライツヴィルに実質的に区切りをつけたような心境だったと思われる。
つまり後期クイーン問題のさなか、このアンソロジーは編まれた訳だ。クイーンにとってこの頃ミステリはロジックを扱いながらもパズル的要素に特化した作品ではなく、犯罪が介在することで及ぼす人々の心の変容だとか人間関係の綾、そして罪を暴くことの意義に関心は移っていたことは周知の事実。そんな時期だからこそ世の文豪が物した犯罪小説とはいかな物なのかと収集したのではないだろうか。
いや収集家のクイーンのこと、それらの作品は後期クイーン問題に差し掛かる前にすでに手元にあったのかもしれない。しかし単なる個人的趣味の範疇から逸脱し、それらを編纂し世に出したことに大変な意味を感じる。そしてここに収められた作品の数々は犯罪そのものへの興味よりも前に述べたように犯罪に纏わる人々の心理や及ぼした影響に焦点が当てられている。つまりこれらはクイーンにとってこれから自分達が書く作品とこのような趣向の作品になるのだと宣言するために、出すべきアンソロジーであったのではないだろうか。この推察については今後未読のクイーン作品を読むことで確認したいと思う。

さて全21編中、個人的ベストはウィキペディアにも載っていない作家デイモン・ラニヨンの「ユーモア感」。
その他にはトウェインの「盗まれた白象」、フォレスターの「証拠の手紙」、ラードナーの「散髪」、サーバーの「安楽椅子の男」、スティーヴンソンの「マークハイム」、ハーストの「アン・エリザベスの死」が印象に残った。
これらは犯罪を皮肉ったものや一読考えさせられる内容を持っていたり、また現代でも通じる語り口に工夫が見られるものだ。例えば「マークハイム」や「アン・エリザベスの死」は幻想小説としての趣もあり、犯罪を扱いながらもジャンルを跨った作品になっている。特に後者は家族殺しという犯罪の真相が歪な味わいを残し、被告人の心の傷はちょっと想像がつかないほど痛ましい。

しかし一読して思ったのは押し並べて非常に読みにくいこと。見開き2ページに文字がぎっしり詰まっているのは別段気にはならないものの、訳が悪いのか古いせいか判らないが、非常に頭に浸透するのに時間がかかる。恐らく1ページ1分以上掛かっていることだろう。
復刊してくれたのは嬉しいが、その際は訳も見直して欲しいものだ。


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犯罪文学傑作選 (創元推理文庫 104-25)
エラリー・クイーン犯罪文学傑作選 についてのレビュー
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(5pt)

豪腕が強引になりすぎている

最近の島田作品には多い形式の200ページ前後の中篇を併せた中編集。本書には表題作と『傘を折る女』が収録されている。

表題作は、題名が指すUFO大通りはその名のとおり、夜な夜な行列を成しては現れるUFOと宇宙人の集団戦争話と、密室状態の中、白いシーツを体にぐるぐると巻き付け、オートバイ用のフルフェイスのヘルメットを被り、バイザーも閉め切った上にマフラーを首に巻き、両手にはゴム手袋を死んでいた男の謎についての話である。

う~ん、これは明かされる真相に論理の光明が差すとまでの驚きはないなぁ。逆に普通のことを大げさに比喩したことを謎にしただけという感慨が強い。

続く『傘を折る女』は御手洗が留学する直前の春、1993年頃の事件の話。

島田版『九マイルは遠すぎる』とでもいいたくなる作品。夜中に土砂降りの雨の中に必要不可欠な傘を故意に折る女性の奇妙な行動の話を御手洗が演繹的論理展開から殺人事件の発生を推理するというもの。

さらにラジオの深夜放送の奇妙な話から全てを見通したが如くの御手洗の推理は新たな事実の浮上により、再考を余儀なくされるのだ。
これには読んでいる私も思わず身を乗り出した。御手洗の神の如き推理が覆される趣向に新味を感じたからだ。同じ構成で単にソフトを変えただけの話を読まされるだけかと思っていたが、自作を発展させた次のステップが上乗せされている。
そしてまたもや御手洗の奇妙な推理に眩暈に似た当惑を覚えてしまった。もう読者はこの当惑を理解に変えるために次へ進まざるを得ない。
いやあ、もろに島田氏の術中に嵌ってしまった。

とはいえ、たった少しの事実で事件の背景に隠された雑多な事実をあれほど正確に見抜くのは御手洗の天才ぶりを感じるというよりも、作者が描いたプロットの代弁者になっているだけのように感じ、非常に人為的な物を感じてしまった。


御手洗潔物の短編には奇想がふんだんに盛り込まれているが、本書もとんでもない設定だ。

表題作ではUFOと宇宙人が現れた怪事と実に奇妙な服装と状況で密室状態の部屋で死んだ男の謎を扱っているし、『傘を折る女』ではその題名どおり、土砂降りの雨の中、わざわざ傘を車に轢かせて折る女性の奇妙な行動の謎がテーマだ。

そんな魅力的な謎をいかに論理的に解明するか。これが本格ミステリそして巨匠島田荘司作品を読む最たる悦楽だが、しかし昨今の作品では逆に御手洗の登場と共に色褪せてしまうように感じてしまう。
最近の御手洗物に顕著に見られる“全知全能の神”としての探偵というテーマを強く準えているため、快刀乱麻を断つがごとき活躍する御手洗の東奔西走振りを読者は手をこまねいてみているだけという印象が強くなってしまった。

謎が奇抜すぎて逆に読者が果たしてこの謎は論理的に解明されるのだろうかという心配が先に立ち、明かされた時のカタルシスよりも腰砕け感、これだけ風呂敷を広げといてこんな真相かという落胆を覚えることが多くなった。

また謎を過剰にするが故に、明かされた真相に現実味を感じないようになった。2作目では傘を折る動機はなかなか面白いにしても、その後の現場に別の女性の死体があった真相は話としては面白いが、果たしてここまで奇妙な偶然が重なるだろうか?と疑問を感じてしまう。

本格ミステリの醍醐味はどう考えても不可能な事象や不可解な状況が、至極当たり前の常識でもって腑に落ちていくところに謎が解かれる魅力やカタルシス、そして論理の美しさを感じることだ。しかし本書ならびにこの頃の島田氏の作品は強引にありえなさそうな現象や事実が積み重なって起きたという、作り事の色合いが濃くなってきているように感じ、こんなの思いつくのは島田氏だけだよ的な謎になっているのが残念。

確かに元々その傾向はあり、この作者しか書けないスケールの大きな謎が魅力でもあったのだが、本書などを読むと幻想的な謎を創出しなければいけないあまりに無理が生じてきているように思えてならない。

本書は島田が怒涛の連続出版を行った2006年の出版ラッシュの時の作品でこの頃に出版された一連の作品群は構成が似ている。

特に2編目の「傘を折る女」は御手洗が推理を開陳し、それを裏付ける加害者側のストーリーが展開する。これは『最後の一球』と同じ構成と見てよいだろう。
もっと遡るならば『ロシア幽霊軍艦事件』の構成と同じだ。そしてそれは本格推理小説の始祖アーサー・コナン・ドイルが創出したシャーロック・ホームズの長編と同じ構成でもあるのだ。
すなわち鮮やかな推理で真相と犯人が解明された後の、なぜ犯人は犯罪に至ったのかというサブストーリーを語る2部構成の作品といってよい。これは当時島田氏が提唱した物語性への回帰を実践するものだが、犯人側のストーリーにだんだん比重が置かれ、構成がアンバランスになってきている。
確かに第2部で語られる話は実に面白い。日本人の判官びいき気質を助長する社会的弱者、ボタンを掛け違えたためになぜか人生が上手く転がっていかない者たちの話は犯人を応援したくなる味を持っている。それら犯人側のストーリーに島田氏の社会的弱者への眼差しが強く盛り込まれ、社会の理不尽・不条理さに対する怒りのメッセージが色濃く投影されているが故にそのパートがどんどん長大化してきているのだ。
正直脱稿後読み返しているのかと疑うくらいのバランスの悪さを感じてしまう。

しかし島田氏も冤罪事件に関係することでわが国の裁判における証拠物件の内容や法医学の知識も増え、そして脳生理学への興味からその知識も得ているだけに、短編にそれらの知識を盛り込んでしまうため、昔なら50~100ページ弱で終わっていた短編が膨らみすぎて200ページくらいまで拡大してしまっている。
確かにこの辺の専門分野の話も面白いが、そのために話が無駄に長くなり、スピード感に欠けてきているように感じた。もっと謎に特化した往年の切れ味鋭い作品を期待する。特に昔の奇想溢れる長編が読みたい。

とはいえ、もう60過ぎだからなぁ。難しい注文かもしれないなぁ。


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UFO大通り (講談社文庫)
島田荘司UFO大通り についてのレビュー
No.25:
(5pt)

意外とホームズは嫌われていた?

エラリイ・クイーンが敬愛するドイルが生んだ稀代の名探偵シャーロック・ホームズの1944年当時世の中に流布していたパスティーシュ、パロディ小説の数々を集め、1冊に纏めたアンソロジー。巻頭言によれば本書が世界で初めてのホームズパロディ短編集だそうだ。

全部で4部構成となっており、第1部が探偵小説作家編で、ミステリ作家の手によるホームズのパロディ物。
第2部が著名文学者編でその名の通り、今なお文学史に名を残す偉大な作家達がなんとホームズのパロディを書いていたという物。
第3部がユーモア作家編、そして第4部が研究家その他編とかなりコアな内容になっている。

さてまず第1部探偵小説作家編。
1作目はロバート・バーの「ペグラムの怪事件」。ここで出てくるのはシャーロー・コームズに友人のホワトスン。ロンドンからペグラムに向かう列車で死体となって発見されたバリー・キプスン氏の事件の謎を解くというもの。
依頼人のジャーナリストの話から全てを看過してフィールドワークでその裏付けを取り、推理を強固なものにするといった趣向で、当時まだ本家の最初の短編集が出た翌年に発表された作品とされている。そのためストーリー展開、主人公シャーローの振る舞いや性格付けはかなりシャーロック・ホームズに近いものがある。
しかしせっかくの列車内での殺人事件という魅力的な謎を設定しながら、真相はなんとも腰砕け。

次はアルセーヌ・ルパンシリーズでお馴染みのモーリス・ルブランによる「遅かりしホルムロック・シアーズ」。本書ではホルムロック・シアーズになっているが、後に原典のシャーロック・ホームズに改名されている。
ティベルメスニル館のお宝をルパンが盗み出すというもので、この屋敷に招かれていた名探偵ホルムロック・シアーズが遅れて到着し、最初の邂逅を果たすというもの。ルブランの物語作家としての技巧については認めていたが、イギリス人のホルムロック・シアーズの騎士道精神とフランス人のルパンのエスプリとが対照的に語られているのが上手い。

続く「洗濯ひもの冒険」は探偵小説収集家のキャロリン・ウェルズによるもので、収集家らしく色んな作家の手で生み出された名探偵たちが名探偵協会に所属しており、会長であるホームズからの奇妙な謎について推理合戦を繰り広げるというもの。謎は裏庭を横断する形で窓から窓に張り渡された洗濯ひもになぜ美女がぶら下がっていたのかというもの。これはほとんどお遊びのような作品で、オチもかなり失笑を禁じえないものとなっている。

「稀覯本『ハムレット』」はドイルのホームズ譚のフォーマットに忠実に則った作品で、ドイルの未発表原稿と云われても納得してしまうほどよく出来た作品。
シェークスピア直筆の献辞と署名が入った『ハムレット』の初版本を借り出したシェークスピア収集家が賊に襲われて借用した稀覯本を盗まれてしまうという事件の真相をホームズが解明するというもの。ここに登場するホームズは依頼人の話を聞いて一発で真相を看過するあたりは万能型探偵の典型で、ちょっとホームズからは離れているような印象を受けるが、まあ許容範囲か。

ここからはビッグネームが相次ぐ。

黄金ミステリ時代の推理小説の大家アントニイ・バークリーの手による「ホームズと翔んでる女」も手遊びのような掌編。
プロポーズを受けた女性が一転して相手に婚約破棄された理不尽な行為を覆して欲しいと頼む女性の依頼を受けてホームズが意外な解決をするというもの。これはほとんど冗談のような物語。これってシャーロッキアンはどんな感想を持ったんだろう?

アガサ・クリスティーによる「婦人失踪事件」は冒頭でシャーロック・ホームズの推理能力について触れられているものの、内容的には純然たるトミー&タペンスシリーズ物の1編になっている。
北極遠征から帰還した冒険家が婚約者に合わせてくれない隣人達の不審な行動の意図を解明し、婚約者に合わせて欲しいと依頼する話。真相はまあなんともほのぼのとした感じ。

今なお偉大なる書評家として名を残すアンソニイ・バウチャーによる「高名なペテン師の冒険」は隠居したホームズらしき老人が最近新聞で取沙汰されている自分の正体はドイツ軍からの高名な亡命者だと名乗るホルンという老人についての推理を開陳するという物。
これは実際にあった事件について題材が採られているのか寡聞にして知らないが、恐らくそうであろう。その推理にホームズらしき人物を設定したのがこの作品のミソだろうか。
また当時のイギリスミステリシーンを反映して、スコットランドヤードの警官にはホームズの時代とは違って、フレンチやウィルスンといった有能な刑事たちが揃っていると語らせるのは面白い。

そして編纂者のエラリイ・クイーン自身が著したのが「ジェイムズ・フィリモア氏の失踪」。原典であるホームズの短編「ソア橋」に少しだけ触れられている、“雨傘を取りに自宅に引き返したジェイムズ・フィリモア氏なる男がそれ以来二度と姿を現さなかった”という事件を扱ったもの。
クイーンが面白いところはその同姓同名の末裔がこのホームズ譚で触れられている事件と同じ事件を起こしたという趣向を採っているところだろう。なぜか叙述形式は戯曲形式。ラジオドラマで書き下ろされた作品だろうか?
やっぱりこういう失踪物のアイデアはこの時代ですでに出尽くした感があるのか?後年クイーンとカーが語り合った結果、人間消失こそが最も魅力的な謎と結論づけ、それに触発されてカーが『青銅ランプの呪』を著したが、クイーンはこの魅力的な謎に対して本作では魅力的な真相を提供していないのが辛いところだ。

続く2編はいずれも10ページ前後と非常に短い掌編。「不思議な虫の冒険」はクイーン同様、「ソア橋」の作中に触れられていた不思議な虫の入ったマッチ箱を凝視して発狂したイザドラ・ペルサノの事件を扱っている。
しかしこれが単なる冗談話。医学的なものがまだ市民にまで知られていなかったからこそのオチだ。

次の「二人の共作者事件」はメタな内容。この作者サー・ジェイムズ・M・バリーがコナン・ドイルと共作したオペラ作品について、皮肉っているといった内容。
したがって依頼の内容もなぜ自分達のオペラに客が入らないのかを探るもので、しかもホームズはその2人に存在を握られているというメタミステリ(?)なのだ。この作品はドイル存命中に書かれたもので、この内容をドイルは当時大絶賛している。・・・それほどのものとは思えないが。
なお構成はこのバリーの作品から第2部になっている。

次はアメリカ文学の大家マーク・トウェインによる「大はずれ探偵小説」。これはある恥辱を元結婚相手から受けた女性が、わが子の、犬並みに人の匂いを嗅ぎ分ける能力を活かして、逃げた元夫を探させ、復讐をさせるという話に突如ホームズが絡むというもの。
正直これにホームズを登場させなくても良いかなというくらい、プロットが面白い。冒頭の言葉でクイーン自身も述べているが、マーク・トウェインはおふざけを目指しているのであり、純然たる探偵小説批判をしているわけではない。したがってこの作品でのホームズの推理は悉く覆される。
しかしその推理が反証されることを前提に書かれているから、逆にホームズらしい鮮やかな推理でないことに注目しなければならない。本書で最も長い70ページ強の作品だが、あまり成功しているとは思えない。

次のブレット・ハートの「盗まれた葉巻入れ」は探偵ヘムロック・ジョーンズの持ち物である葉巻入れが盗まれ、その犯人を推理するもの。
しかしこれがなんと本格推理ではなく、心理小説となっている。

そして第2部の最後を飾るのはなんとO・ヘンリー作の「シャムロック・ジョーンズの冒険」。これもシャムロック・ジョーンズの妄想としか思えない独断的偏見に満ちた推理が開陳されるもの。こうやって読むとアメリカ文学の権威たちは推理小説を下に見ており、揶揄はすれどまともに書く気になっていないような感じを受けた。

第3部はR・C・レーマンの「アンブロザ屋敷強盗事件」から始まる。ここに出てくる探偵ピックロック・ホールズもアメリカ文学の大家の作品同様、狂人的な妄想推理を常としているのが実に気にかかる。ただこちらはユーモア作家の手によるものだから、ユーモアであることは判るが。

続く2作はいずれもJ・K・バンクスなる作家の手によるもの。「未知の人、謎を解く」、「ホームズ氏、原作者問題を解決す」は共に黄泉の国でのシャーロック・ホームズ(後者はシャイロック・ホームズとなっている)の活躍を描いており、前者ではホームズの正体が最後の一撃になっているが、これは非常に解りやすい。
後者はシェイクスピアの戯曲を誰が書いたのかをホームズが解明するものであるが、この2作に共通するのはどれも凝ってて解りにくい点だ。あまり記憶に残らない作品だ。

「欠陥探偵」と「名探偵危機一髪」は共にスティーヴン・リーコックという作家の作品。
前者はブルボン王家の子孫と思われるプリンスの誘拐事件を扱っている。
後者もたった2ページの作品で1本の髪の毛から犯人を捜し出す物。これは逆にオチが効いていて、見事なショートショートになっている。

最後の第4部は研究家たちによる作品だが、その内容はホームズに敬意を表するどころか、その超人的推理をあげつらう作品が多い。
まずゼロ(アラン・ラムジイ)による「テーブルの脚事件」は資産家の婆さんに惚れられた男性の息子がどうにか父親が結婚せずにその財産を手に入れる方法を画策しようとしたのに、誤って父親がプロポーズしてしまった謎について名探偵シンロック・ボーンズに依頼するもの。もうこれも脱力物のオチで、まともに読む方が損をするような作品。

R・K・マンキトリックの「四百人の署名」はある夫人の寝室に賊が押し入りダイヤモンドが盗まれた事件がテーマだが、はっきりいってこれは何が面白いのかよく判らない作品。ホームズが犯人に至った推理を開陳するが、全く意味不明。英国人には解るんだろうけど、日本人向きではない。

オズワルド・クロフォードの「われらがスミス氏」はジョン・スミスなる謎の訪問者について名探偵バーロック・ホーンが正体を推理するもの。これもかなり揶揄しており、ホームズの推理とは妄想と紙一重だとこき下ろさんばかり。けっこうキツイギャグの作品。

「天井の足跡」というクレイトン・ロースンの作品を思わせるタイトルの作品はジュール・キャスティエの作品。
なんとシャーロック・ホームズがドイルのもう1人のシリーズキャラクター、チャレンジャー教授の失踪の謎を推理するという、ドイルファンの耳目を惹く作品だが、内容的には正直訳が解らない。推理になっているのかなっていないのかすらも意味不明だ。

「シャーロック・ホームズの破滅」は正体不明の作家A・E・Pなるものの作品。たった6ページのショートショートだが、出来は一番いい。

オーガスト・ダーレスの「廃墟の怪事件」とウィリアム・O・フラーの「メアリ女王の宝石」はホームズ作品の方程式に則ったような正統派作品。
どちらも依頼人が来るまでにワトスンを驚かす小さな推理が披露され、そして依頼人が来てからはその氏素性を難なく云い当ててしまう。依頼人が到着するタイミングまで推理するのも2作とも同じだ。
さてそんな正統派パスティーシュ作品は前者が最近事業家が買った屋敷の近くの廃墟に謎めいた明かりが灯り、またそれに伴って妻の様子が変だという謎の解明をホームズに依頼する。まあ、なんというかホームズの万能振りばかりが披露される読者には解けない類のミステリになっている。
後者は来英したアメリカ人が手に入れた云われのある宝石がホテル宿泊中に何者かに盗まれる事件をホームズに解明を依頼するもの。残された手がかりは犯人の衣類から引きちぎったボタンのみ。これも唐突なまでに犯人が絞られ、ホームズが傲岸不遜なまでに犯人に近づき、勝手に部屋に忍び込んで証拠品を探し当てるという、今なら噴飯物の作品。とはいえ、やはりこれは時代性か、ホームズならばこれらの犯罪行為が許せてしまうのだから不思議だ。

ヒュー・キングズミルの「キトマンズのルビー」はラッフルズとホームズの対決という長編のうち、最後の結末の2章の抜粋という形を取った、ちょっと変り種の作品。ラッフルズが盗み出したキトマンズのルビーを彼の相棒バニーの返還を条件に返却する一幕を、ホームズ、ラッフルズそれぞれの相棒が変に気を回したことで生じる誤算がテーマ。内容的にはよくある話か。

レイチェル・ファーガスンの「最後のかすり傷」は亡くなった父の財産の相続人である双子の弟からの、兄が戻ってきてから周囲で起こる怪異の謎についてホームズに助けを求めるという話だが、これはドイルが著した数々のホームズ譚のエッセンスが盛り込まれており、その演出をほめるべき作品だろう。有名な「まだらの紐」や「ブナ屋敷」などを髣髴させるエピソードが盛り込まれており、最後の一文までそれが行き届いている。

「編集者殺人事件」の著者フレデリック・ドア・スティールはなんとホームズ譚の挿画を描いていた画家で、内容も本人自らが殺人者となり、それをホームズが今までの作者の仕事に恩を感じて彼の冤罪を晴らすというメタフィクション物になっている。しかし内容はなんというか、作者の積年の編集者達への恨みつらみが爆発した内容になっており、結末も含めてあまり面白いものではない。

この作品をホームズ物というにはいささか疑問が残る。なぜならフレデリック・A・クマー&ベイジル・ミッチェルの「カンタベリー寺院の殺人」はシャーロック・ホームズの娘とされるシャーリー・ホームズとジョン・ワトスンの娘とされるジョーン・ワトスンのコンビが事件解決に当たるからだ。
物語は題名通り、カンタベリー寺院で出くわした一見自殺と思われる死体を巡る殺人事件の謎をシャーリーとジョーンのコンビが追うというもの。内容的にはミステリ短編として構成も巧みだが、いささかキャラクターに弱さを感じ、あまり印象に残らなかった。

医学博士までもがホームズ物を書くことに魅力を感じるらしい。ローガン・クレンデニングは医学書以外に「消えたご先祖」でそれを実現した。
ただ内容はたった2ページのショートショートだが、あの世に逝ったホームズが行方不明になったアダムとイヴの捜索に当たるというもので、医学博士らしいオチで短いながらも笑わせてくれる佳作になっている。

リチャード・マリットの「悪魔の陰謀」は全国でピアノのキーが無くなり、サーカスの象の盗難が増加したという怪事にはある秘密結社の陰謀が絡んでいるという内容の作品だが、いまいち掴み処の解らない作品で、特に最後のオチがよく解らない。

戯曲調で書かれたS・C・ロバーツの「クリスマス・イヴ」は無くなった真珠の行方を捜す話。ホームズの超人型探偵の側面のみが色濃く現れており、結末が唐突に訪れる感は否めない。

最後の作品、マンリイ・ウェイド・ウェルマンによる「不死の男」は隠居したホームズの許に訪れたドイツのスパイとの静かな戦いを描いた作品。これを最後に持ってきたところにクイーンのアンソロジストとしての技量を感じる。
ストーリー展開も読み応えがあり、また登場するホームズがすでに老境に入っておりながらも、題名どおり「不死の男」としてドイツのスパイのブラフを鮮やかに見破る件は、ホームズの偉大なる探偵像を思い浮かばせ、重厚感すら感じる。

冒頭にも触れたが本書は1944年当時に世に散在していたホームズに纏わるパロディ、パスティーシュを1冊に纏めたアンソロジーなのだが、それぞれの作品の冒頭にクイーンのコメントが付されており、それを読むと当時でもかなり希少価値の高い作品が集められているのが解る。

主にそれぞれの作家の短編集やアンソロジーからの収集が多いが、中には雑誌に一回こっきり掲載されてそのままになったものや、私家版で刷られた書物のみ現存する作品もあったりと、収集家クイーンの情報収集能力の高さが実感される、実に資料的価値の高いアンソロジーとなっていることが解る。

こういう仕事振りを見せられると、今日本でマニアックなまでに作品を発掘し、アンソロジーとして出版している某収集家兼書評家の魂はこのクイーンの仕事に影響されていることが解る。いやあミステリ収集の血は海を越えて極東の地日本で色濃く残り続けているのである。

しかしそんな偉業とも云える本書だが、収集された作品の内容の出来はそれほどいいものではなく、寧ろ傑作と呼べる作品はなかったというのが率直な感想だ。
クリスティやバークリー、そして編者のクイーン自身の作品もあるが、あまり出来はよくはなく、寧ろ肩の力を抜いて気楽に書き流している感がある。高名な大家、マーク・トウェイン、O・ヘンリーによる作品はなんだかホームズの人気を妬んでいる節も無きにしも非ず。

特に総じて感じるのは、ホームズのパロディの色が濃く、この偉大なる探偵の高名を利用して戯画化している作品が多いことだ。これは世界一有名な探偵ホームズとその作者ドイルへの親しみと敬意の表れと見えるものの、中には悪意すら感じさせるものもあった。

したがってこの4部構成で計33編にも渡るアンソロジーは歴史に埋もれそうになりつつあったホームズのパスティーシュを残すための文学的功績以外、その価値はないだろう。特に文学史にも名を残す大家マーク・トウェインやO・ヘンリーらがホームズ物を書いていたというのは今に至るに知らなかったし、それを知るだけでも価値はあるだろう。
私はホームズに特別な愛情を感じていないから、作品に対する評価は非常にフラットなのだと思っているが、本書をシャーロッキアンが読めば、どのような感想を抱くのか、興味深いところだ。


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シャーロック・ホームズの災難 (上) (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 2‐38))
No.24: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(5pt)

職人技に徹した短編集

政財界のVIPのみを会員とする調査機関「探偵倶楽部」。眉目秀麗な男女のコンビが事件の謎を解く連作短編集。
まずは各短編について寸評を。

まず本書の先鋒「偽装の夜」は探偵倶楽部の導入の意味もあるのか、収録作中最長の88ページの分量がある。
実に東野らしいツイストの効いた短編だ。密室殺人事件の解明ではなく、自殺死体の隠蔽工作という導入も捻りがあり、探偵倶楽部が乗り込んで彼らの工作が暴かれた後でも、実は死体は消失していたと新たな謎が発覚する。
短編でありながらアイデアを重層的に織り込んでいるのがこの作者のサービス精神旺盛なところ。そして今回は今までの会話に犯人を推理するヒントも隠されており、フェアプレイに徹している。それらが実にさりげなく無理なく会話に溶け込んでいるので、なかなか看破できないのだが。
爆発的な驚きはないが、丁寧に作られた佳作である。

続く「罠の中」は匿名の3人による殺害計画の談話から始まるいささか物騒な幕開けだ。
計画が成功したと見せといて実は、被害者は計画者の1人だったという、これもなかなかに捻りが加えられている。あたかもマジックを見せられているような錯覚を受ける。
ただ冒頭に出てくる匿名の共犯者3人は簡単に見当がつきやすいのが弱点か。

本短編集の旧題として使われたのが「依頼人の娘」だ。
容疑者をおびき寄せる電話のトリックは看破でき、家庭内の悲劇を扱った作品かなと思ったが、やはり真相はオーソドックス。ただ明かされる真相はちょっと作りすぎの感が否めない。それぞれの登場人物の動きがあまりに計画的に進みすぎで最近こういうカチッとしすぎる工作に嘘くささをどうしても感じてしまう。

「探偵の使い方」では更にオーソドックスさが増し、探偵倶楽部は浮気調査を依頼される。
事件が発生した途端に事件の成行きが透けて見えるくらい、すごく普通の展開を見せるが、やはりそれが東野の仕掛けたミスリードだった。
とはいえ、この真相はけっこう解りやすい話になるのではないか。さすがに4編目まで来ると、こんな具合にすんなりいくはずがないと警戒心も生まれるし、事実そんな感じで読めた。

最後は「薔薇とナイフ」。
真犯人は実は途中で解ってしまった。
しかしそれでも由里子の妊娠という導入が読者に謎解きへの呪縛をかけており、真相を全て見抜くには至らないだろう。書かれていること全てが手がかりであるというミステリの定石を逆手に取った実に上手いミスリードだと云える。

政財界や富裕な家庭専門の探偵という事で、政略や欲望や愛憎の渦巻く泥沼劇の、ロスマクのような家庭内の悲劇を扱った作品なのかと想像したが、全くそんなものではなく、探偵倶楽部の2人も現実から浮いた戯画的なキャラクターとして創造されている。そして各編に共通してあくまで東野の筆致はライトであり、内容は基本的にオーソドックスで2時間サスペンスドラマ用のストーリーとも云える。私は特に『家政婦は見た!』シリーズのようなテイストを感じた。

通常のシリーズ物と異なる本作独特の特徴はと云えば、シリーズキャラクターである探偵倶楽部の2人は実は物語においてサブキャラクターであり、あくまで主役は依頼人だということだろうか。だから探偵倶楽部の2人はその外的特徴が語られるのみで名前さえも判らない(最後の「薔薇とナイフ」で助手の女性が手掛かりを手に入れるために立倉と名乗るが恐らく偽名だろう)。
つまりシリーズキャラとしては異常に影の薄い存在だ。そして物語は常に依頼人側の視点で語られるため、探偵倶楽部の調査方法は全く謎のままである。

更に「偽装の夜」を除く各編では、事件が起こり、警察が介入して合理的な推理が一旦事件は解決する。そこから探偵倶楽部による新たな真相というのが物語に共通するパターンであり、単純な謎解きに終始していないのがこの作者としてのプライドなのだろう。

各5編に共通するのは動機が全て恋愛沙汰や財産問題というベタな設定であること。
「偽装の夜」では社長の財産が動機であり、更に秘書と内縁の妻江里子が実は愛し合っているという関係。
「罠の中」でも金貸しの叔父に纏わる人間たちの金銭問題、そして物語の終盤では叔母と利彦の秘密の関係が明かされる。
「依頼人の娘」は事件が妻の浮気の末の駆け落ちの阻止。
「探偵の使い方」でも浮気と保険金殺人が主題。
「薔薇とナイフ」はネタバレを参照していただくとして、先にも述べたように2時間サスペンスドラマによく見られるテーマばかりである。

この頃の東野圭吾作品は『鳥人計画』以降、『殺人現場は雲の上』、『ブルータスの心臓』そして本作とノベルスで上梓されたミステリが連続して刊行されており、逆に東野氏はキオスクミステリに徹して軽めの作品を書くことを意識していたようだ。
つまり普段、本を読まない人が旅行や出張といった旅先で軽く読むために駅のキオスクで気軽に買って気軽に読め、車中で読み終えてしまうことのできるミステリである。その事について是非は私個人としてはない。

島田氏がエッセイでも云っていたが新進作家の生活は苦しく、作家活動だけで食べていけるのはほんのわずかの人間である。生活の糧を得るために広く読者を獲得する必要があり、こういうライトミステリに手を出さざるを得ないのが当時の状況であった。
したがってこの手のミステリに読書を趣味とする人間やミステリ愛好者があれこれいちゃもんを付けるというのは全く筋違いという物だろう。

が、あえてその愚を犯すならば、やはりそれでも島田氏の短編にはミステリとしての熱があり、クオリティも高かった。
それに比べると東野氏は各編にツイストを効かせているものの、登場人物の内面描写、風景描写、気の利いたセリフなどを極力排しているがために、小手先のテクニックを弄しているという感が拭えず、職人に徹しているなあと感じてしまう。それも創作作法の1つだが、もう少しミステリとしての熱が欲しかったと思う短編集だ。


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探偵倶楽部 (角川文庫)
東野圭吾探偵倶楽部(依頼人の娘) についてのレビュー
No.23:
(5pt)

事件は雲の上で起きているんじゃない!

新日本航空のスチュワーデス、早瀬英子こと、眉目秀麗かつ聡明なエー子と藤真美子こと、小太りで豪放磊落なビー子の、通称ABコンビが出くわす事件を綴った連作短編集。
まず「ステイの夜は殺人の夜」で幕を開ける。
「忘れ物にご注意下さい」は旅行会社が企画した、赤ちゃん同伴の夫婦もしくは奥さんを対象にしたベビー・ツアーで起こったある忘れ物の話。
道化役のビー子に一目惚れする男性が現れるというのが「見合いシートのシンデレラ」。
「旅は道連れミステリアス」は福岡発東京便の機内でエー子が福岡の和菓子屋『富屋』の主人富田敬三と出くわすところから始まる。
「とても大事な落し物」は機内でトイレで封筒の落し物が見つかるという物。それにはなんと「遺書」の文字。中身を確認するが署名がない。果たして誰が自殺を図ろうとしているのか?
いきなり客室乗務員室の電話が鳴り、エー子が取ると「乗客の1人を殺害した。金を出さないと今後お前のところの乗客を同じように殺していく」と脅迫されるショッキングな幕開けの「マボロシの乗客」。
「狙われたエー子」はシリーズの掉尾を飾る1編。

パズルあり、日常の謎系あり、殺人事件ありと色んなヴァージョンが楽しめる短編集。
しかしスチュワーデス(今ならキャビン・アテンダントだから、この辺は次回重版時に改訂しないのだろうか)の凸凹コンビという主人公と内容の軽さゆえに数日経ったら忘れてしまいそうなキオスクミステリだ。実際旅先、出張先の売店で購入し、片道の車内や機内で読み終わってしまう。

まず「ステイの夜は殺人の夜」はよくあるアリバイトリック物で、これは真相が解った。まずは挨拶代わりに軽いミステリを、といったところか。

「忘れ物にご注意下さい」はこれは自分でもロジックを組み立ててみたが、敢え無く撃沈。作者の解明の方がすっきりしている。作者お得意のパズル物。

「見合いシートのシンデレラ」が個人的にはベスト。最後の真相が面白い。
今の世になって、こういうカップルは珍しくなくなってきてはいるけど、ミステリネタとしてはまだ新鮮。よく考えるとビー子はちょっとかわいそうだ。

「旅は道連れミステリアス」は偶然が架空の心中事件を産み出すという面白い趣向だ。
こんな奇妙な成行きは読者の推理では解けないでしょう。最後に事件をこのまま押し通す富田の妻の毅然たる決意が物語を引き締める。ミステリとしては弱いが、物語としてはなかなか読ませる一編。

「とても大事な落し物」は「自殺志願者は誰?」とある作品へオマージュを捧げる副題を付けたくなる1編。限られた乗客がそれぞれ自殺志願者らしい振る舞いをするが、悉く外れる。しかしこれは肝心要の遺書の持ち主を限定するロジックが弱いような気がする。奇抜さを狙いすぎた感が否めない。

「マボロシの乗客」は事件の展開ほど緊張感がない。逆に作者はコミカルさをずっと出している。まあ、恋すると見境が無くなってしまいますからね。

最後の「狙われたエー子」は東野氏の上手さが光る。何気ない冒頭のシーンに事件の最大の手掛かりが実にさりげなく書かれているのに驚く。軽すぎてすっと流しそうだが、こういうの書こうとすると実に難しい。心憎いほど上手いです、東野圭吾氏。

とまあ、ライトミステリながらもそつの無さを発揮している短編集だが、しかしやはり今までの東野氏の同傾向の作品に比べるといささか軽い感じがする。『ウィンクで乾杯』とか『白馬山荘殺人事件』とかでも密室殺人とか暗号解読とか本格趣味に溢れていたし、『浪花少年探偵団』も同趣向の短編集ながら、1編に1つの事件だけでなく、2つの事件が絡み合うとか、ケーキからナイフが飛び出るといった不可能趣味が加味されており、それに加えて主人公以外のキャラクターが更に物語を盛り立てて相乗効果を上げていた。
しかし本作ではスチュワーデスという職業柄、空港や機内と場所が限定されるせいか、場面のヴァリエーションに乏しく、それがためが総体的に小手先ミステリのような感じが否めない。

そして間の悪い事に『Yの悲劇』を読んだ後だと、非常に物足りなく感じてしまった。物語の熱量が違いすぎた。
まあ、これだけあれば色んな作品もあるわけで、さすがに全てが水準以上とは行かないだろう。次回作に期待。


▼以下、ネタバレ感想
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殺人現場は雲の上 新装版 (光文社文庫)
東野圭吾殺人現場は雲の上 についてのレビュー
No.22:
(5pt)

レナードにしてはちょっと大人しめ

レナードの手による歴史小説。スペイン支配下にある1900年直前のキューバを舞台となっている。
時代的にはアメリカがスペインからの支配から脱却しようとしている反政府軍を支援し、キューバの独立戦争勃発の前後を描いている。

まず気になったのはタイトル。キューバ・リブレとはカクテルの名前で、洒落た題名をつけるレナードが今回キューバを舞台にした小説を書いたので、単純にその名前をタイトルに関したのかと思ったら、さにあらず。その意味は「キューバ自由万歳」であり、テーマとなったキューバ独立戦争において反政府軍のスローガンともなった言葉だった。
しかしレナードが現代ではなく、古き時代を舞台に小説を書くとはなんて珍しいのだろう。知っている限りでは未訳の西部小説以外ではアメリカの禁酒法時代を舞台にした『ムーンシャイン・ウォー』ぐらいだ。

今回の主人公はベン・タイラー。昔ハバナで叔父が製糖工場を経営しており、それが街の有力者に搾取され、ニューオーリーンズに移り住んで、カウボーイをやっていた。過去に銀行強盗をして、刑務所暮らしをした経験がある度胸の据わった人物だ。
人も殺した事もないのに、早撃ちのガンマンである。物語は彼がキューバに自分の馬を売りに行くところから始まる。

このタイラーの後の恋人となるアメリア・ブラウン、そしてタイラーの取引相手ブドローの家僕フエンテス3人が一計を案じてブドローから大金をせしめようとするのが本書の大きな内容。
しかしそこに関わるのはグアルディア・シビルの大佐、ライオネル・タバレラと彼の手先で逃亡奴隷捕獲の名人オスマ。そしてハバナで幅を効かしているアメリカ人富豪ブドローだ。
さらにサブキャラクターとして爆沈したアメリカ軍戦艦“メイン”の生き残った乗組員でタバレラの策略で刑務所に入れられてしまうヴァージル・ウェブスター、キューバ独立派のリーダーでフエンテスの弟イスレロなども関わってくる。

レナードの物語の特徴として先の読めない展開と各登場人物たちの軽妙洒脱な会話。悪人なのにどこか憎めない奴らといった際立ったキャラクター造形が挙げられるが、今回はいつもの作品と違い、なんとも大人しい感じがした。特に軽妙洒脱な会話と、憎めない悪人どもといった部分が成りを潜め、どこか単調な感じがした。
先の読めない展開については健在。まさかフエンテスがあんな事をするなんて思わなかったし、タバレラの最期についても、ああいう形で終わるとは思わなかった。そしてそれらを許してしまう主人公二人の寛容さ。これはレナードの特有の明るさだろう。

今回は特にスペイン人将校を正当防衛で射殺してから入れられるタイラーのムショ生活についての内容が長く、その間ずっとアメリアとフエンテスのタイラー救出工作について延々と語られるあたりで物語のリズムが狂ったように思う。ここはもう少しすんなり行ってほしかった。
というのも目にも止まらぬ早撃ちで鮮やかに鼻持ちならぬスペイン人将校を撃ち殺してから、このベン・タイラーのキャラクター性が際立ってくるのだが、そこから一気に抑圧された刑務所生活、タバレラによる陰湿な尋問の描写が延々140ページに渡って繰り広げられるのだ。これはなかなか忍耐を強いられる読書だった。

確かにこの箇所において漠としたアメリアの、タイラーへの好意が確証されていくし、ヴァージルとタイラーとの友情も確立されていくのだから、重要なパートであるのは間違いないが、ちょっと冗長すぎるという感じがした。これも当時のキューバの不条理さを印象付けたかったのかもしれない。
そしてようやくタイラーは脱獄し、本書でのクライマックスシーンとも云える列車からの身代金強奪へと移っていく。4万ドルという大金を中心にそれぞれの人物がそれぞれの思惑を張り巡らす。金によって人が右往左往し、思いもかけない行動に出るというのはレナードの終始一貫としたテーマなのだろう。本書においてもそうである。特にこの4万ドルの行く末は本当に意外な人物の手中に収まるのだから。

しかし、そんな活劇シーンがあっても、今回のレナードはなんだか大人しいなぁという印象が拭えない。
そして物語後半になってようやく登場する奴隷狩りのプロ、オスマ。こいつこそタイラー最大のライバルと成りえるキャラクターだったのだが、2回も行われる対決シーンはなんとも呆気ないもの。これもちょっと残念。
思えばレナードの主人公の敵役といえば、だいたいボスを倒して成り上がろうとするマフィアの手先とか殺し屋、しかもちょっと変わった趣味や性癖を持つ者で憎めない奴ら。しかし今回は悪徳役人とはいうものの、国側の人間だった事もちょっといつもと違う。だから今回のタバレラはいつもにも増して陰湿な人物像になったのかもしれない。

若島正氏によればレナードの各作品は微妙にリンクしており、しかもそれぞれの登場人物にきちんと時間が流れており、また血縁関係までもが確立されているとのこと。ミステリマガジン誌上で詳細に分析が成されていたが、本書においてもそれは例に洩れていないだろう。
私が気付いたのはタイラーのかつて雇い主デイナ・ムーンという名前。おそらくこれは『ビー・クール』に出てくる歌姫リンダ・ムーンのご先祖様ではないだろうか(いや、待てよ。リンダ・ムーンも本名ではなく、誰かからムーンの姓を拝借したんだっけ?)?手元にないのでそれ以外の人物相関については不明だが、時間が出来た時に誌面を紐解いて調べてみるのもまた一興だろう。


▼以下、ネタバレ感想
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キューバ・リブレ (小学館文庫)
エルモア・レナードキューバ・リブレ についてのレビュー


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