■スポンサードリンク
Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数170件
閲覧する時は、『このレビューを表示する場合はここをクリック』を押してください。
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
Gシリーズ4作目の本書ではそれまでの事件と違い、リアルタイムで進行する。なんと加部谷と山吹2人のメインキャラクターが那古野市への帰りのバスでバスジャックに遭ってしまうのだ。
本書はまさにそれだけの話と云っていいだろう。加部谷と山吹が巻き込まれたバスジャックを中心に外側では西之園萌絵と愛知県警の面々と国枝桃子を加えたグループ、探偵の赤柳と海月のコンビ、そしてたまたま東京に出張に行っていた犀川に警視庁の沓掛が接触し、このバスジャック事件の背景が語られる。 赤柳はGシリーズ2作目の『θは遊んでくれたよ』から一連のギリシャ文字に纏わる事件がネット上で若者向けに繰り広げられている布教活動のようなものを行っている集団が今回は「イプシロンに誓って」という奇妙な集団名の下、集められた人たちによってバスジャック事件が起こされたとの情報は得ていたようだ。 一方バスジャックの車中で山吹といる加部谷もなぜ自分たちがこうも事件に巻き込まれるのかを疑問に思い始める。 『φは壊れたね』というタイトルのついたビデオテープに纏わる殺人事件から始まり、「シータは遊んでくれたよ」というメールが関係する連続殺人事件、そして「τになるまで待って」というラジオドラマの聴者が殺される事件に出くわすこともあった。こうした一連の、1大学生たちがあまりに高すぎる頻度で殺人事件に遭遇することに疑問を持ち始める。 この件は正直面白いと思った。なぜならミステリのシリーズキャラクターというのは得てして他の一般人と比べても事件に遭遇する頻度は高くなるし、そうでないとシリーズとして成り立たないからだ。この不自然さについてシリーズキャラクターに疑問を持たせることが素直に面白い。 一方で犀川創平は警視庁の国家公安委員会に勤める沓掛という警部から協力を依頼される。それは今回のバスジャックと都内各所に仕掛けられた爆弾テロに真賀田四季が関わっている可能性があり、彼女のことをよく知っている犀川が適任だと判断したからだった。 ところでこのシリーズの中心人物の1人である海月及介はいつもは自身の推理を開陳するとき以外は無口かつ反応が薄いのが特徴なのだが、本書では赤柳と一緒にいる最中、やたらと雄弁と自身の考えを語るシーンがある。 彼の世間一般の人とは一歩引いた視座から見た意見にはなかなか興味深いものがある。 例えば犯罪についてどうして動機を知る必要があるのかと彼は尋ね、それを聞くことで被害者の家族は憎しみを増すだけだろうし、また未成年だからとか心神喪失状態だったという理由で酌量がなされれば猶更だろうと話す。 動機を知ればそれを改善すれば犯罪も減っていくのではと述べる赤柳に対して海月は単に大衆が動機を知って理解したい、納得したいだけで収まりを付けたいだけだと述べる。そしてそんな海月に対して冷めているねと赤柳は云うがそれもまた赤柳が納得したいだけでしょうと述べる。何ともクールな性格だ。 そして今回もまた数々の謎を残して物語が終える。 あと興味深かったのは真賀田四季と犀川との会話で彼女が生と死の狭間が美しいと述べていることだ。 恐らくこのGシリーズはシリーズ全体を通してようやくそれぞれの事件の真相、裏側に隠された意図や出来事が判明するのだろう。 つまりそれぞれのシリーズ作品はそれら1つの大きな事件を構成する断片にしか過ぎないのではないか。従ってこれら解明されなかった謎の真相がどこかで一気に説明がなされるのではないだろうか。 しかしそれは非常に読者にストレスを感じさせる。 通常の大河小説ならば前作に残された謎は継承され、そして新たな謎が生まれるような、読者の好奇心を牽引していくようなスタイルであるのに対し、このGシリーズはその作品で残された謎は放置されたままだからだ。本書でも赤柳が読者の思いを代弁するかのようにそのことについて言及しているが、だからと云って本書で保留された謎のうちの1つが解明されるわけではない。 謎はどんどん深まるばかりである。 この事件そのものが全体像の中でいったいどんな意味合いを持つのだろうか? そういえば今回は物語の性質だからか、εというギリシャ文字の用途や意味についての考察が全く成されなかった。それほど本書はシリーズ中でも異色作だろう。 この辺は《εに誓って》の団体の中で生き残った柴田久美と榛沢通雄、そして倉持晴香が生き残ったことからこの3人を糸口に判明していくのだろうか。 エピローグで加部谷が呟くように問題は先送りにされるのだろう。それが生きるということだと述べる。これはまさに森氏の実に現実的なスタンスだ。 しかし謎が解決されてこそミステリなんだけどなぁ。やっぱり今回もモヤモヤが残ってしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
東京創元社が編んだ日本オリジナル短編集。本書に収録されている「高慢の樹」と「裏切りの塔」はそれぞれ「驕りの樹」と「背信の塔」という題名で『奇商クラブ』に収録されていたため、既読済みなので今回の感想から省くとして残りの2編「煙の庭」と「剣の五」と戯曲「魔術―幻想的喜劇」について述べる。
「煙の庭」はロンドンの外れにある医者と詩人夫婦の庭で起きた事件の話だ。 チェスタトンにしては実にオーソドックスな本格ミステリだ。 ロンドンの外れの屋敷に生真面目な医者と結婚して移り住む著名な女性詩人を悲劇が襲う。薔薇好きの彼女は阿片の常習犯でもあった。てっきり薬物の過剰摂取による事故死かと思われたが、検視の結果、短剣のような鋭い切っ先で刺されて毒殺されたことが判明する。そして短剣を持っていたのは知り合いの船長だったことから容疑が一気に掛けられる。 「剣の五」はフランス人とイギリス人のコンビが登場する短編だ。 その時に話題になっていることが目の前で本当に起こるというのは案外あることで、主人公のフランス人とイギリス人の友人同士が決闘のことを話しているとちょうど決闘で命を落としたイギリス人が倒れている現場に出くわす。 状況からみて遊び好きのイギリス人がトランプ遊びでイカサマだと罵った末の決闘であったとほとんど傾き始めたところに意外な真相が明らかになる。 本作では価値観の逆転を謳った作品だが、逆説王チェスタトンにしては実にオーソドックスな展開だ。 最後に収録された戯曲「魔術―幻想的喜劇」はミステリでもない、喜劇というべき作品だろう。 とある町の公爵家の娘が出くわした奇妙な男の正体を巡る話とで云ったいいだろうか。元々夢見がちなその娘が連れてきた男は彼女の前では妖精だと名乗ったが、彼女の知己の連中の前に現れると自身を奇術師だと名乗る。1人の男の正体を巡って色んな階級の、医者や牧師や公爵や実業家が右往左往する様を描いた戯曲である。 最後に夢見がちな娘が見知らぬ男の正体が判明したときに御伽噺が終わって現実になったと話すのは彼女の大人の女性への成長を示唆しているのだろうか。なぜなら彼女はその彼に求愛されたのだから。 日本で、いや東京創元社独自で編まれたチェスタトンの短編集は他の短編集である『奇商クラブ』に収録されていた2編と論創社の単行本版の『知りすぎた男』に収録されていた2編と本邦初訳の戯曲1編からなっている。その内容はまさにコレクターズアイテムとも云うべきディープである。 先の述べたように既読の『高慢の樹』と『裏切りの塔』についての感想は控えるが、それでも初読時のインパクトからは結構落ちたことは正直に告白しよう。 特に表題作である後者の真相には本来それら宝石を護るべき者が行っている狂気を肌寒く感じたが、本書はそれがなかったことに驚いた。真相を知っていたからかとも思ったが、それは未読の3作についても同様だった。 まず『煙の庭』は実にオーソドックスなミステリだと感じた。雰囲気はあるものの、幻想味や逆説の妙を感じさせなかったからだ。 ただ本作の犯人である博士の心情は私も理解できる。きっちりと生活をしている人ほど秩序を重んじ、そしてそれが適正に保たれていることを好む。しかしそれが叶わない時は心的疲労を抱えて尾を引くのだ。 そしてこの作品のミソは粗野な船長と知的階級の博士2人と並べているところだろう。本書のパラドックスを挙げるとすれば、この2者のイメージギャップということになるだろうか。 そして「剣の五」もチェスタトンにしてはいささかパンチが弱いと感じた。 価値観の逆転として昨今ミステリ小説のみならず子供向けのファンタジーやドラマでもよく使われているため、今となってはインパクトが弱く感じた。 そして本邦初訳の戯曲だが、これはミステリではなく、サブタイトルにあるように幻想的喜劇だ。上に書いたように妖精や魔法を信じていた若き女性が森の中で出くわした男性が自らを妖精と名乗り、そして奇術師であると告白し、実は魔術師だったと正体を二転三転させていく。 最後、その娘に自分が恋をしたことを告白するが、娘は逆に彼の正体を知り、それまで彼女の中で育んできた御伽噺の終焉を悟る。これは即ち彼の求愛を受け入れて、もう箱入り娘のような生活ではなく、伴侶として生きていくことを選択し、そして決意したと云う意味ではないか。つまり彼女はようやく大人になったのだ。つまりこれは幻想的喜劇と見せかけて幻想的ロマンスが正確だろう。 しかし今回も痛感したのは古典作品の読みにくさ。いや自分の理解のしにくさと云った方が正解か。 とにかく改行がなく、古い云い回しが続く古典作品は本書のように新訳での刊行となってもその内容をきちんと把握するためには1回きりの読書では十分理解できないだろう。 またチェスタトンは各課題に対するヒントを実に上手く物語に散りばめているが、最初に読んだだけではそれが煙に巻かれたかのように頭に入らないのだが、『知りすぎた男』の時にも感じたように、物語を要約するために読み返すことで手掛かりが判り、本来の物語が見えてくるのだ。つまりはチェスタトン作品を十二分に堪能するには二度読み必須であることを再度感じた。 しかしこの21世紀も20年以上過ぎてチェスタトンやカーの諸作や古典ミステリを新訳で刊行する東京創元社の出版スピリットには頭が下がる思いがする。それは恐らくは20世紀に埋没させずに21世紀に引き継いで読まれることを期待しての出版だろう。 出版業は文化事業だとよく云われるが東京創元社はまさにそれ。 今回あまり相性は合わなかったが、チェスタトン作品は21世紀でも末永く読み継がれるべき作品だと思うので、今だからこそブラウン神父シリーズ以外の作品を新規出版して遺していってほしい。 そんなことが出来るのは東京創元社くらいだろうから、大いに期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
完結した『スカイ・クロラ』シリーズでは語られなかったエピソードを描いた短編集。
「ジャイロスコープ」はクサナギが既にエースパイロットから会社の宣伝塔になった頃の話だ。 飛行機乗りとして空を飛ぶことが楽しくてしょうがないクサナギに逢える一編だ。それはパイロットとして最高の技術を持つクサナギと整備士としてより速く、性能の良い機体を作り上げることを突き詰めるササクラ2人だけの心の交流の物語だ。それはお互い飛行技術と整備技術と畑は違えど戦闘機散香という共通のアイテムを通じて分かち合える最高レベルでの相通ずるもの分かち合う対話だ。 そして何よりも本作はクサナギからのササクラへのプレゼントであることが解る。 整備士はパイロットが安全に飛べるために機体の整備に余念がないが、ササクラは整備士でありながら飛行機の性能を上げることにもまた貪欲だ。それは整備士としてはある意味冒険である。飛行機が平常通りに安全に飛ぶように整備するのが要求されるのに対し、自分が整備した飛行機が自分の腕と知識でどこまで速く飛べるか手を加えることは失敗するかもしれない実験を伴うからだ。 しかしクサナギはそれをササクラに許し、そして通常ならば遠く離れた地での空中戦でしかササクラの改造の成果が解らないが、PR撮影のために飛行場近くでその成果を披露できる機会を存分に利用して彼女の飛行技術を全て駆使してまでササクラに自身の整備した散香の飛行具合を披露するのだ。初めて自分が仕上げた機体が最高の技術を持つパイロットによって最高の飛行をする様子を見られたササクラの感慨はいかほどだっただろうか。 またPR撮影のために営業スマイルとはいえ、笑顔を見せられるクサナギが新鮮だ。その後どんどん絶望へと沈み、営業スマイルすら見せなくなる彼女の生末を知っているだけに、その笑顔が眩しく感じる。 次の「ナイン・ライブス」はクサナギの許を去り、後に大敵となるティーチャの物語だ。しかし物語と云っても特段ストーリーがあるわけではない。彼が赤ん坊を認知し、扶養手当が認められるところが語られる。そして彼にはモナミという同棲している女性がいるが、もちろんそれまでのシリーズを読んだ者ならその赤ん坊が彼とモナミとの間にできた子でないことは判っている。そう、ここではティーチャとクサナギとの間に生まれた子がどのように育てられたかが判るのだ。 そして最後彼が長じてまで空を飛ぶ理由が語られる。彼は単に命の取り合いをしたい訳ではない。ただ空で戯れたい、自由に空を飛んで遊びたいから飛ぶのだ。そこに命のやり取りが介在しているだけなのだ。そして遊びに行くからこそ死んでもしょうがないかと思えるのだ。なぜなら存分に楽しませてくれたのだから。 「ワニング・ムーン」は空中戦で被弾し、海上へ不時着したパイロットのエピソード。 正直よく判らない物語だ。海のミステリに連なる作品なのか。 「スピッツ・ファイア」は軍人たち御用達のフーコの店での一幕か。 女性はクサナギであることは判るが、男性は誰だろうか?カンナミ・ユーヒチかクリタ・ジンロウか。 とにかくこの2人はフーコの店の前に座っている老人から神の話を聞いて、なぜか基地への道中に神に追いかけられているかのような錯覚を覚える。それはいつもは上空で重力から解放された彼らが地上で飛行機ほどではないが、スピードの出る乗り物に乗っているときに感じる重力の重みなのかもしれない。 「ハート・ドレイン」はクサナギを会社の宣伝塔に仕立て上げたカイが初めてクサナギと邂逅する話だ。 最年少で軍の情報部の階段を上る上昇志向の強いカイの物語。彼女がクサナギと出会ったきっかけの物語だが、出世街道を上るカイの第一歩の物語だ。 「アース・ボーン」はある意味『スカイ・クロラ』シリーズの影の主役かもしれないフーコのエピソードだ。 歴代のパイロットと浮名を流したフーコ。 彼女の新たな門出に乾杯。 シリーズ第1作の謎が解かれるのが「ドール・グローリィ」。 本作はこれまで曖昧になっていたことのほとんどを補完する作品だと云えるだろう。 この言葉でこれまでモヤモヤしていたことが全て判明する。 しかしこのことで再び疑問が生じる。 2つの噂が証明され、そして新たな2つの疑問が生まれた短編だった。 その2つの疑問のうちの1つの回答が得られるのが最後の短編「スカイ・アッシュ」だ。 明確に書かれていないが、クサナギ・スイトの退院後のその後を描いた作品だ。 『スカイ・クロラ』本編では語られなかったエピソードを集めた短編集。その中にはシリーズの内容を補完する物もあれば、他愛のない日常を切り取ったスナップ写真のような作品もある。 そう各編で語られるのは起承転結のない日常風景だ。いわば日記のようなものだ。 しかし登場人物たちの日常を描くことでシリーズには書かれなかった部分が徐々に明らかになってくる。そしてそれまで曖昧なままで閉じられていたシリーズの謎がほとんど解かれることになる、重要な短編集ではある。 一方で飛行機乗りしか判らないようなリアルな描写もある。 例えば空を飛ぶとき、重力から解放されている彼らは少し酩酊状態にある。従って地上に降りて重力を感じるようになると現実感が起こり、そしてもし仲間が亡くなっていたりすると重い失望感に襲われていく。 またパイロットは地上ではケンカしないと述べる者もいるが、これは嘘だ。血気盛んなパイロットは映画でも殴り合いのケンカを繰り広げているではないか。永遠の若さと命を持つキルドレだからこその心情だろう。彼はその永遠の子供であることに絶望しており、唯一死ねる場所、空での交戦を楽しんでいる。それは彼ら彼女らにとってケンカではなく、ゲームであり、ダンスなのだ。 そう命の取り合いや争いをしている感覚はない。ただ単純に戯れているだけだ。 そしてその結果命を落とそうが悔いはない。いや寧ろ死ねるからこそ空を飛ぶことを愛するのだ。 従って空では自分たちが行っている空中戦が命の取り合いだと彼らは思っていない。しかし地上でリアルに人を撃ち殺すと自分が殺人を犯したと暗鬱になる。人を殺すという意味では同じなのに空と地上とでは全く異なる。 それは空では戦闘機という機体を介しての殺人であるのに対し、地上での殺人は生命そのものと相対するからだろう。これはキルドレだけでなく、飛行機乗り全てに共通する感覚なのかもしれない。 あと興味深かったのが整備士ササクラの心情が垣間見れたことだ。パイロットから絶大な信頼を受ける腕を持った整備士のササクラもまた影の主役と云える人物だろう。 彼だけがエース・パイロットのクサナギの散香を整備することができることを知らされる。またそれは自分が整備した機体が戻ってくる確率が高いことを意味する。 丹念に整備した戦闘機が必ずしも無事に生還するかは解らない。どれだけ手を加えても戻ってこなかったら無になるからこそ帰還の確率が高いエース・パイロットの機体の整備や改造は実に遣り甲斐がある仕事であることが解る。 しかしPR撮影に臨むクサナギに眼帯を付けた方が宣伝効果が高いだろうと思ったササクラはエヴァンゲリオンの綾波レイのファンなのだろうか? さて最初私は本書を『スカイ・クロラ』シリーズを補完する短編集だと書いたが、読み続けるにつれて感じたのは森氏が発見したお話ではないだろうかということだ。 シリーズは完結したが彼の中でクサナギ・スイト、ササクラ、ティーチャ、カンナミ・ユーヒチらは生きており、彼らの語られなかった物語を発見したのだ。そしてそれをここに綴ったのではないだろうか。 正直、中には書かれなくてもよかった話もある。 ただ後半はシリーズの後日譚だ。フーコのその後。成長したクサナギ・スイトの異父妹ミズキのその後。そしてクサナギのその後の物語。 率直に云えば本編を補完するにはこの最後の3編だけがあればいいのではないか。いや「ドール・グローリィ」と「スカイ・アッシュ」2編だけで本編の登場人物たちの謎は氷解する。 森氏が代表作だと意識している『スカイ・クロラ』シリーズだと述べていることは既に知られている。つまりシリーズを補完する2編以外の、それぞれの登場人物の生活の点描や本編で一行、一文だけ書かれた何気ないエピソードについて膨らませて書いたのは作者自身が抱いたこの世界から離れがたい名残惜しさだからではないだろうか。 最後の短編「スカイ・アッシュ」で再会したクサナギとフーコがお互い呟く。 夢みたいだ、夢のようだという言葉はこのシリーズそのものについて作者が抱いている感慨ではないか。 飛行機好きの趣味を思う存分、自分の美意識の中で書き、そして最後まで書けたこと自体に対する思いがまさに「夢のよう」であること。 そして森氏の多くのシリーズ作品では他作品へのリンクが見られるがこの『スカイ・クロラ』シリーズは永遠の子供キルドレという設定ゆえか、全く独立したシリーズである。つまりこのシリーズの物語そのものが作者が見た夢そのものであったのではないか。 独特の浮遊感と力の抜けた、敢えて足さない文章で浮世離れした感のある登場人物たちで織り成されたこのシリーズそのものが常に夢見心地だったように思う。 本書の表紙の色は真っ黒だ。それは星一つない夜空を示しているかのようだ。 夜の訪れは一日の終わりを指す。夢のようなシリーズだっただけにその終わりは夜空が相応しいだろう。 読者も作者もそして登場人物たちも同じ空を飛び、同じ夢を見たようなシリーズだった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
新しいシリーズ、即ちGシリーズの開幕である。Gは恐らくギリシャ文字がタイトルに冠せられているからGreekのGの意味か。
しばらく退場していた西之園萌絵と犀川創平が再登場しているのでこのシリーズでは主役を務めるらしいと思いきや、探偵役は別の人物だった。 物語の中心人物はN大の生徒ではなく、国枝桃子が助教授として勤めているC大学の学生で国枝の研究室に入っている大学院生の山吹早月と同じ大学の2年生で加部谷恵美と海月及介の3名が務める。 このうち、加部谷恵美が西之園萌絵と繋がりがある。確かS&Mシリーズの『幻惑の死と使途』にちらっと登場していたように記憶している。調べてみたらその時はまだ中学生だった。 因みに西之園萌絵はN大学の大学院でD2であり、明確には語らないが既に犀川創平とは結婚しているようだ。 西之園萌絵は彼らが遭遇する密室殺人事件にいつものように興味本位から関わるが、実際に探偵役を務めるのではない。 彼女は愛知県警との太いパイプを活かし、これまた再登場の鵜飼と近藤、三浦たち捜査官から捜査状況を提供してもらい、それを要求に応じてこの3人に提供する。そしてその中の1人である海月及介が真相を解き明かす。 この3名の役割は山吹早月(因みに男性)が語り手を務め、加部谷恵美はコメディエンヌとしてこの3人の中で色々な推理を開陳しつつ、袖にされながらもめげずに2人についていく。Vシリーズでの香具山紫子のような位置づけで、少々ウザい。 そして探偵役である海月及介は大学2年生でありながら、実は山吹の中学時代の同級生である。2年ほど世界を旅していた後に大学に入学した変わり種。いつも本を読んでおり、必要以上のことはしゃべらず、また頷くといったジェスチャーもそれと気付かないほど小さな男でとにかく無駄を極限的に排除する性格の持ち主。周りが事件のことを話していても積極的に関わったりしない反面、必要なことは聞いており、真相を看破する。つまり常に頭は思考でいっぱいという人物だ。西之園萌絵曰く、犀川創平に似ているとの評。 さてそんな彼らが初めて遭遇する事件は森博嗣ミステリではお馴染みとなった密室殺人事件だ。 マンションの一室で広げた両手を紐で吊らされて、作り物の翼を身に着けた状態でナイフを胸に刺されて殺されたN芸大学生の他殺事件だ。マンションは鍵が掛かっており、しかも管理人代理をしていた山吹が鍵を開けると立て掛けて積み上げられていた箱が倒れてきたのでそこからの脱出は不可能。そしてその他の出入り口として考えられるベランダも鍵が掛けられた状態という完全なる密室。しかし両手を吊るされた被害者は自分の胸を刺すことは出来ないため、明らかに他殺としか考えられない。 しかもマンションの鍵は電子ロックで簡単に合鍵が作れず、居住者の被害者が持っている2つの鍵は両方とも室内にあった。 そして奇妙なことに室内にはビデオカメラが据えられており、被害者発見時の様子が録画されていた。 そしてそのテープには「Φは壊れたね」という奇妙なタイトルが付けられていた。 以上が今回の事件だが、真相を読めば何とも思わせぶりだけで終わったミステリだったというのが正直な感想である。 事件の真相はもはや森ミステリ定番となったように全てが明かされることはない。 そして山吹が事件の真相を解明した海月と話していた時に駅のフォームから突き落とされたのは正直蛇足でしかないだろう。山吹が事件の真相を見抜いたわけでないし、また突き落とされたのが海月だったとしても犀川創平が真相を見抜いていたようなので犯行が明るみに出るのも時間の問題だ。 彼らを排除することで事件の真相を分からなくしたようだが、全く何の意味もなさない。恐らくは素人が殺人事件に関わることの危うさをアクセントとして加えたのかもしれないが。 そんなモヤモヤとした気分で読み終えた本書だが、この森ミステリ特有のスッキリしない感は海月の台詞に垣間見られる。これが森氏のミステリに対するスタンスであると私は感じた。 ミステリに登場する素人探偵は警察に頼まれずに勝手に推理して事件をさも解明したかのように振る舞うが、それは推論であり、事件を直接解決したことにはならない。それはあくまでその人本人による解釈であり、1つの予測、予感に過ぎない。そして犯人を指摘することは極めて原始的で一種の犯罪であると考えても間違いないだろう。 つまり素人探偵が解き明かす真相というのはあくまで1つの解釈に過ぎない。それを真相だとするのはおかしいし、暴論であり、それが元で犯人が捕まるなんてことは現実問題としてあり得ない。証拠があり、証人がいて初めて事実が犯人を決定するのだということだ。 そしてそんな本当のことなど解りはしないのだというのが森氏のミステリ観なのだろう。 しかしそれはあまりに現実的な話だ。 現実社会で何か事件が起こり、もしくは納得のいかないことがあってもそれが数学のようにきちんと割り切れた形で終わるのはごくごく少数に過ぎない。大半はうやむやな形で幕引きされる。誰も責任を取りたがらないからだ。 しかしだからこそ物語の世界ではきちんと割り切れてほしいのだ。決着が着き、結論が出てほしいのだ。 モヤモヤした思いが残った新シリーズの幕開け。 果たして彼ら3人はかつてのシリーズキャラを超える活躍を見せてくれるのだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
奇作『翼ある闇』でデビューした麻耶雄嵩氏の第2長編が本書。文庫本にして700ページを誇る大著である。当時はとにかく重厚長大な作品が多く刊行され、皆競うように原稿用紙○千枚の超大作と云った文句が帯に踊っていたものである。
更に本書は当時も今も読んだ人が一様に真相にぶっ飛んだと述べていた曰く付きの作品でもある。原著刊行後26年経った今、幸いにしてその“驚愕の真相”を知らないまま、本書を紐解くことができた。 そして読後の今、正直なんと評したらよいか解らない。物語のゲシュタルト崩壊とも云うべき結末に大きな戸惑いを覚えている。 一旦これは整理して受け入れるべきものは受け入れて物語を再構築していかなくてはならないだろう。 まず登場人物から整理していこう。 真宮和音という伝説の女優を崇拝し、和音島で20年前に1年間の共同生活をした6人。 京都の呉服屋の次男、結城孟、貿易商を営む村沢孝久とその妻尚美。元医学生でその後カソリックに帰依して神父となっているパトリク神父。そして使用人の真鍋夫妻の3人で和音島にある洋館和音館を護っている大富豪、水鏡三摩地。尚美の兄で全てを真宮和音に捧げた武藤紀之は20年前に亡くなった真宮和音の後を追って亡くなっている。 そして20年ぶりにその島に集まって行われる真宮和音を偲ぶ会とも云うべき同窓会で和音の命日である8月10日に彼らが作った真宮和音の唯一の主演映画『春と秋の奏鳴曲』を観賞するのがメインイベントである。 それを取材するのが京都の出版社に準社員として勤める如月烏有とアルバイト生で烏有にその出版社を紹介した不登校の高校生舞奈桐璃。ただ舞奈桐璃は彼らが信奉する真宮和音に瓜二つだった。 しかしメインイベントを待たずに館の主、水鏡三摩地が真夏に降り積もった雪の只中で首無死体として館から50メートル離れたテラスで見つかる。しかもそこに至る足跡はない、いわば密室状態だった。そしてその事件が起きた時点で使用人の真鍋夫妻は島に碇泊していた小型ランチで逃亡していなくなる。 更に結城孟も溺死体として見つかり、舞奈桐璃もまた左の眼球を抉られるという被害に遭う。更に村沢尚美もクロゼットの中で喉を切られた遺体として見つかる。 事件が続くにつれ、第三者の存在を、20年前に死んだ真宮和音、もしくは武藤紀之が生きていて復讐をしているのではという疑惑が生まれてくる。 でその真相はと云うと・・・・。 これを素直に受け入れられる読者は果たしてどのくらいいるだろうか? 私は正直認めない。今回はいくらなんでもといった感じは否めない。 これが麻耶氏のミステリなのだ。 豪快な論理的展開を重視するあまり、犯行の現実性や発生の確率の低さなどは全く頓着しない。 この規格外の本格ミステリに通底するテーマは偶像崇拝ということになるだろうか。 ただ1作の主演映画を遺して若くして夭折した女優、真宮和音。彼女に心酔した6人の若者がとある島に渡り、1年間の共同生活をした後、女優の死によってそのコミュニティは解散となるが、20年後に再び同窓会という形で再会する。彼ら及び彼女はこの真宮和音のために1編の主演映画『春と秋の奏鳴曲』を作った仲間たちで、ファン以上に彼女を慕い、そして崇拝していたのだった。 彼らにとって真宮和音は“神”に近い存在、いや“神”そのものだった。 今でもネットでカリスマ性のあるアイドルや女優に対して“神”と呼ぶ風潮があるが、まさにそれと同じようなものだ。というか26年前と今でもさほどこの偶像崇拝という趣向は変わっていないようだ。 ところで麻耶氏はカラスがよほど好きなのだろうか。デビュー作『翼ある闇』の舞台となるのは蒼鴉城と鴉の文字があしらわれており、この如月烏有もその名に烏を冠す。 その後もそのものズバリ『鴉』という長編を著している辺り、どうもカラスは麻耶氏にとって何か特別なモチーフであるようだ。この漆黒の羽根と毛に覆われた闇を司る、どちらかといえば忌み嫌われている鳥を麻耶氏が好む理由を今後麻耶作品を読みながら考えるのも一興かもしれない。 とにかく色んなテーマを孕んだ作品であることは理解できるが混乱が先に立ち、上手く整理が出来ない。 実存主義、偶像崇拝、時空を超えたシンクロニシティ、ドッペルゲンガー、虚像と実像、運命論、因果応報、そんなものがふんだんに盛り込まれていることは頭にあるのだが、作品としてミステリとして考えた場合、これらは破綻しているが幻想小説として読めば本書の理解は更に深まり、また変わってくるだろう。 本書にやたらと取り上げられているキュビスムで描かれた肖像画は時間の連続性をも描いた手法だと語られている。このキュビスムで描かれた真宮和音はしかし書けば書くほど相対して空虚なものがあることを認めざるを得なくなることに気付く。つまり彼らの頭の中にある真宮和音を措定していくうちに彼女が実在しないという空虚さをも措定していくことになると解釈すればいいのだろうか。 従っていつまで経っても彼らの中の真宮和音はまだ完成していかなかった。だから彼らは1年後島を捨て共同生活に終止符を打ったのだ。 しかしそこに舞奈桐璃という彼らの真宮和音を具現化した女性が登場した。それは彼らが肖像画のみに表した存在が3次元で“展開”したのだ。3次元の存在である舞奈桐璃こそ真宮和音であり、それを2次元に“展開” するために彼女が必要だったのだ。 私の解釈は以上の通りになる。正直これが合っているかどうかは解らないし、もっとこのキュビスムについて知り、学ばないと十全に理解したとは云えないだろう。 しかし想像上の理想の女性が実際に現れた時、人はどうするのかというのがそもそも本書が内包するテーマであると思う。 夢で見た女性、常に頭に描いている女性の理想像。それをどうにか具現化するために1年間共同生活を送った彼らが20年後にその存在に出くわした時、どうするだろうか。 やはりそれは独り占めにしよう、他の誰にも触られたくない自分のためだけの唯一無二の存在にしたいと思うのではないか。 ただしかし麻耶氏は最後の最後でこの解釈をも覆す。 また本書の英題は“Parzival”となっており、これはワーグナーの楽劇“パルツィファル”に出てくる英雄の名前だ。“汚れを知らぬ愚か者”の騎士と称される。しかしその純真さと無智ゆえに彼は敵の誘惑を乗り越え、使命を全うする。つまり取り立てて取り柄の無い如月烏有を指しているのだ。 うーん、真と偽のスパイラル。この物語の決着はまだまだ着きそうにない。当分私の頭を悩ませそうだ。 どこかで辻褄を合わそうとするとどこかが合わなくなる。それはこの一見直線的に見えながら歪んでいる本書の舞台和音館そのもののようだ。 麻耶雄嵩、なんという捻くれた作家だ。 正直好きにはなれないが、拒みようのない魅力を孕んでいることも確かだ。 孤高の本格ミステリ作家の作品はまだ2作目。この後の彼の作品はどんな幻惑を施しているのだろうか。楽しみよりも不安が先に立つ作家だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
久々のクーンツ作品訳出である。最後に訳出されたのが2011年に刊行されたフランケンシュタインシリーズだから実に7年ぶりとなる。
このフランケンシュタインシリーズはその後も書かれていたが、区切りとなる第3作で訳出は打切りとなった。熱狂的なクーンツファンの瀬名氏によれば4作目以降から趣向が変わったとのことで、また売れ行きも芳しくなかったこともその一因だったのだろう。 長らく途絶えていたクーンツ作品の訳出が2018年になって訳出されたのはまたも新しいシリーズが始まったからだ。 FBI捜査官ジェーン・ホークが主人公を務めるクーンツにしては珍しいミステリ仕立ての作品がアメリカで好評だったからによる。 まずクーンツが女性を主人公にしたことが珍しい。シリーズ物のオッド・トーマス然り、フランケンシュタイン然り、今までの作品ではほとんど全て男性が主人公だった。中には印象的なヒロインが登場する作品もあったが、それでもメインは男性だった。 彼がこのジェーン・ホークを主人公にしたのは新機軸でもありつつ、今やヒットチャートもアリアナ・グランデやテイラー・スウィフトといった女性アーティストが席巻する時代である。そんな最近のトレンドもクーンツは盛り込んだのかもしれない。 久々に読んだクーンツは、かつて重厚長大化し、どんどん肥大していく作品傾向にあった2000年代頃に比べて、いわゆるグダグダとした説教的な話が少なくなり、物語展開がスピーディになったことが特徴的だ。特に短い章立てで次から次へと場面転換が行われるのは今までにない特徴と云えよう。3ページだけの章は当たり前で1ページも満たない章もいくつか散見される。 クーンツは導入部が魅力的とよく云われるが、本書でもFBI休職中のジェーンが夫を自殺で亡くした未亡人の許を訪れ、その様子を尋ねているうちに突然その未亡人も銃で自殺する。更にその後訪れた図書館でドローン2機による急襲と刺客たちとのチェイスなど一気にクライマックスへと持ち込む。 さてそんな本書で主人公ジェーン・ホークが立ち向かうのは全米で起きている不可解な自殺事件。 ある日突然普通の生活をしていた人々が突発的に自殺を行う不審死が相次いでいることにジェーンは気付く。そして彼女の夫もまたその中の1人だった。 更にそれを調べていくうちに全米で自殺率が年々上昇していることが明らかになっていく。そしてそれらの自殺がある天才たちによって引き起こされていることが判明する。 しかしその相手は大富豪とノーベル賞候補の大科学者の2人でしかも彼らの息は政府機関や各方面に掛かっており、しかもウェブで常に監視され、少しでも検索しようものならすぐに嗅ぎつけて追跡してくる。しかも彼女の所属するFBIにも息の掛かった人物がいるらしい。 と、相変わらずクーンツは主人公を絶望的な八方塞がり状態に陥れる。 クーンツ作品はどうやっても勝てないだろうと思われる巨大な敵をまず設定し、徐々に主人公に迫りくるその包囲網だったり、圧倒的な強さを持つ敵と絶望的とも思える対決を強いられるパターンが多く、そんな相手にどうやって主人公は立ち向かうのだろうかと読者はドキドキハラハラさせられるわけだが、その割には決着の付け方が淡白で今までの無敵感を誇っていた強さは一体何だったのかと肩透かしを食らう結末は少なくなかった。 その問題の欠点は改善されたかと期待したが、残念ながらそれはなかったというのが率直な感想だ。 やはりクーンツは設定作りは上手いが、物語の畳み方が下手であることを再認識させられるだけになってしまった。 ただ本書はまだイントロダクションといったところか。 ジェーンが全米で起きる不可解な自殺事件という陰謀に加担している大富豪デイヴィッド・ジェームズ・マイケルは無傷のままであり、対峙すらしていない。 そしてジェーンを取り巻く仲間たちも今後の物語に関わってくることだろう。 一人巨大な的に立ち向かうジェーンの唯一の弱点は自殺したニックとの間に生まれた愛息トラヴィス。その息子を預かるのが友人のギャヴィンとジェシカのワシントン夫妻。 ジェシカは9年前陸軍に所属していた際、アフガニスタンにおり、その時に爆弾で両足を失っている。その時に知り合ったギャヴィンと結婚し、今に至る。14カ月前にジェーン夫妻とヴァージニアで開かれた戦傷病者の基金集めのイベントで知り合った。ギャヴィンは元軍人の経験を活かしてフィクション・ノンフィクションの軍事関連の書籍を書いて生計を立てている。 パリセーズ公園での略奪劇でジェーンに加担したアメリカ陸軍の元女軍曹ノーナ・ヴィンセントに、物語後半に多大な協力者となるドゥーガル・トラハーン、そしてジェーンのシェネック邸急襲作戦に協力したヴァレー・エア社のロニー・フエンテスとその姉ノーラといった登場人物たち。 さて本書でジェーンが疑惑を抱くアメリカの自殺率の上昇は実は本書のために作られた話ではなく、どうやら本当のことのようだ。 半分の州で自殺率は30%までにも上っており、ノースダコタ州ではなんと57%も増加したらしい。 音楽業界を再び例に挙げて恐縮だが、確かに2017年にクリス・コーネルが突然自殺し、その後を追うようにリンキン・パークのヴォーカル、チェスター・ベニントンも自殺したのは実にショッキングな出来事だった。 そんな不穏な空気に包まれたアメリカの現状から恐らくクーンツは一連の自殺が何らかの陰謀によって引き起こされているという本書の設定の着想を得たと思われる。 ただ私は何となく本書の内容に乗り切れなかった。短い章立てで進むストーリーはそれがゆえに没入度を低下させ、目まぐるしく切り替わる場面転換にしばしば読み辛さを感じた。 これは全く以て私の憶測だが、昨今SNSでツイッターやフェイスブックなど短いコメントを挙げる風潮があるために、小説に関しても極力短い章立てで読ませることをもしかしたら作者は意識したのかもしれない。 今後ジェーンは一人息子のことを思いながら巧みに変装をし続けて標的であるデイヴィッド・マイケルを目指す。 ほとんど全てのアメリカ人を敵に回して少しの理解者と共に立ち向かう今後はもっとスリリングでじっくり読ませる内容であってほしい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
『千年紀末古事記伝ONOGORO』に続く、鯨統一郎版古事記伝である。前作では稗田阿礼が巫女の力で感じ取る物語を綴る体裁であったが、続編にあたる本書ではヤマトタケルは“世界”を創るために根源へと遡る。
前作ではコノハナサクヤ姫とニニギとの間に火照命、火遠理命、即ち海幸彦、山幸彦が生まれて、古事記伝は閉じられるが、本書はその続きでこの2人の兄弟の話から始まる。 ちなみにこの山幸彦と海幸彦の話は浦島太郎の原型となったとされる。そこから物語は卑弥呼と邪馬台国の話になり、その後彼女とその仲間イワレビコとイツセノ命兄弟の反乱とナガスネビコとの戦い、そしてイワレビコと卑弥呼が和解し、お互い協力して新しい国を創る。それがヤマトの国の始まりだ。 その後、ヤマトの国の変遷が語られる。ミマキイリヒコは世の中を襲った疫病から蛇神の子を捜し出して国民を救い、眉目秀麗の王イクメイリヒコはその愛妻サホビメを愛するが、サホビメは仲の良い兄サホビコに王を討ち斃すことを頼まれ、兄と夫との愛情の狭間で苦しみ、兄と共にその身を業火に焼かれて死んでいく。イクメイリヒコは遺されたサホビメとの児ホムチワケが成長しても口が利けないことを心配し、博識のタジマモリに頼んで食すれば言葉が喋れるようになると云われている時じくの香の木の実のことを聞く。その実は一方で食すれば時を自由に操る力を得るという人智を超えた霊力も備わる危険性があった。しかしその懸念も取り越し苦労でホムチワケは話すことが出来るようになる。 そしてオオウスとオウスという双子を持つオオタラシヒコの時代では大らかだが、女に目がない兄オオウスと美しい顔立ちをし、剣の達人でもある弟オウスのいずれかに王位を継がせることに悩んでいた王はいつも微笑みを絶やさないオウスを得体のしれない危険な男とみなし、オオウスに継がせることに決めるが、オオウスは自分が妻に迎えようとしていた美人姉妹のエヒメとオトヒメに一目惚れし、父に内緒で自分の妻にしてしまう。それを知ったオオタラシヒコは弟のオウスに何とかするように命令し、兄の許に向かわすが、オオウスは父にその娘たちを返すように云われると断るや否やオウスに首と両手両足を一瞬にして切られてしまう。それを知ったオオタラシヒコは最愛の息子を殺したオウスに決して王位を継がせないよう、無茶な任務を命ずる。 それは無敵の大男と名高いクマソタケルを討つことだった。そしてオオタラシヒコは彼にたった10人の兵を与えて出兵させる。しかしオウスは女装してクマソタケルに近づき、討伐に成功する。その手際に感心したクマソタケルは自分の名前を授け、オウスはヤマトタケルと名前を変える。 ここでようやく冒頭に出てきた主人公ヤマトタケルの登場である。 その後もヤマトタケルは出雲の国の強者イヅモタケルの討伐、東方十二か国の平定を父より命ぜられ、その都度智略と大胆さで切り抜け、次々に任務を果たす。 それだけの功績を成しながらもヤマトタケルは父のオオタラシヒコからは賞賛の言葉が貰えなかった。オオタラシヒコは最愛の長男オオウスを始末したヤマトタケルをどうしても許せなかったのだ。 やがてヤマトタケルは今の三重県に当たる伊吹山に人々を苦しめている荒々しい猪の出現の話を聞いて退治しに出かけるが、猪は今まで国の平定のためとは云え、智略、策略を弄して様々な人を殺してきたヤマトタケルそのものだと述べる。そしてヤマトタケルはかろうじて妻の美夜受姫の助けを借りて猪を退治するが、それまでに吸った瘴気にやられて助からないことを悟り、時を遡る実、時じくの香の木の実を食べ、息を引き取り、白鳥に転生する。 しかしヤマトタケル退場後もその後も子々孫々の物語が綴られていく。今の韓国に当たる新羅と百済を攻めていった後の神功皇后となるオオナガタラシ姫の話、後の応神天皇となるホムダワケのエピソード、現在日本最大の古墳として教科書にも記載されている仁徳天皇となるオホサザキが美しく、身体つきも見事でなおかつ聡明なイワノ姫という妻を持ちながらも漁色家で浮気性で妻の目を盗んでは各地の女や女官に手を出していたという話、その息子イザホワケノ王と兄の座を虎視眈々と狙うスミノエとの戦いの話、等々、後のヤマト時代の天皇となる人物たちのエピソードが語られていく。 歴代の大王たちがなんとも本能の赴くままに振る舞うことよ。 前作では男と女の交合いこそが国創りだと云わんばかりにセックスに明け暮れるという話が多かったが、本書は神々から人間に登場人物が変わっただけあって、神々よりも理性はあるため、自重する面も見られるが、それでも妻がありながらも美しく若い女性、また熟れた肢体を持った女性を見ると見境なく交合う話が出てくる。 東に行っては美しい娘に永遠の契りを誓いつつも西に行ってまたも美しい女性に出会えば后として迎えるとうそぶく。男のだらしなさが横溢している。更には自分こそが一番強いことを証明するため、各地の強者たちと戦い合う。それは身内も同様で王の兄の座を虎視眈々と狙って討ち斃そうとする兄弟げんかも繰り返される。 昔から男は欲望のままに生きる子供っぽい生き物であるのだと殊更に感じる一方、昔の女性の一途さに感銘した。 はっきり云えばそれら歴代の統治者たちの物語にミステリの要素は全くない。前作ではアマテラスと交合うために天の岩屋戸に籠ったスサノヲがアマテラスの背中に短剣を突き立てて殺害しながらも密室の中から忽然と消える密室殺人が盛り込まれていたが、本書ではそんな要素も全くない。せいぜいヤマトタケルが各地の強者を成敗するのに智略や奸計を用いたくらいだ。 従って単純に古事記の解説本のように読んでいたが最後になって本書の意図が判明する。 前作の復習になるが本書の内容は現在伝えられている古事記のそれと微妙に異なる点がある。本書に記載された物語について私はさほど詳しくないのでどこまでが嘘で真実かが解らないのだが、その旨を問い質すと、この世は邪悪な意志を持ったヤマトタケルによって創られた世界だからそのまま真実を書くと邪悪なものになってしまうので太安万侶によって稗田阿礼が口伝えした話を少し改変したものであるというのが本書でも改めて述べられている。 しかし本書ではさらに続きがあり、あるオチ(あえて真相とは云わない)が明かされる。 このオチを是と取るか否と取るかは読者次第。ただ本書における鯨氏の意図は理解できる。 歴史とはずっと研究が続き、その都度生じる新たな発見で内容が改変されていく学問である。従って100人の学者がいれば100通りのの解釈が生まれる。鯨氏はこの歴史の曖昧さ、あやふやさこそがそれぞれの読者が学んできた歴史という先入観を利用してひっくり返すことをミステリの要素としていたのだ。 デビュー作の『邪馬台国はどこですか?』はまさにそれをストレートに描いたもので、本書は逆に古事記のガイドブックのように読ませて、それぞれが知っている古事記との微妙な差異を盛り込むことでミステリとしたのだ。 ただ正直に云って本書は古事記をもとにした黎明期の日本の統治者たちのエピソードを綴り、それをヤマトタケルが造った世界であるという一つの軸で連なりを見せる連作短編集として読むのが正解だろう。 私は1つの長編、そしてミステリとして読んでいたため、どんどん変遷していく時の治世者たちのエピソードの連続に、果たしてどこに謎があるのだろうと首を傾げながら読んだため、読中は作者の意図を汲み取るのに実に理解に苦しんだ。 もしかしたら本書の妙味とはこれを読んで古事記の内容が解ったと思ってはならない、古事記とは異なる点が多々あるからそれは自分で調べなさいと読者に調べて知ることの歓びを与えることなのだろう。だからこそ巻末に記載された参考文献一覧に、「本文読了後にご確認ください」と作者が注釈を入れているのだろう。 解らないことは自分で調べよう、じゃないと嘘をそのまま鵜呑みにするよ。 それが今まで4冊の鯨作品を読んできて感じたこの作者の意図であり、警告であると思うのである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
御歳81歳のフリーマントルが2015年に発表したのはなんとサイバー空間を利用した対テロ工作を駆使するNSAのエリート局員ジャック・アーヴァインが率いる面々の活躍を描いた本作だ。当時79歳の高齢にもかかわらず、最先端の情報端末を駆使したこのような作品を書くフリーマントルの創作意欲の旺盛さにまず驚いた。
冒頭でも語られているがオサマ・ビン・ラディンが率いていたアルカイダが情報交換のツールとして使用していたのは今や誰もが利用しているSNSのフェイスブックだった。この全世界数億人が利用するSNSは彼らにとって絶好の隠れ蓑になっていたことが本書でも語られている。 なんとアメリカの一企業が、正確には一青年が開発したSNSが敵対者であるアラブ系テロリストにとってこの上ない便利な通信手段になっていたとはなんとも皮肉なことである。 さて今回の物語の中心人物はアメリカの若きエリートであり、コンピュータの天才でテロリスト同士を相討ちさせる<サイバー・シェパード作戦>の立案者であるジャック・アーヴァインと、ヨルダン人の母とイギリス人の父親との混血でアラビア語にも長けているMI5の切れ者でありながらモデル並みのスタイルと美貌を持つサリー・ハニングの2人だ。これら2人のエリートにありがちな高慢で不遜な性格を持ち、常に優位に立とうとしているところが共通で、今回の米英共同のテロ阻止計画を通じてお互いが魅かれ合うという、なんとも典型的な展開が繰り広げられる。 このありきたりな、いやセオリーにのっとり過ぎる展開はどうにかならなかったものだろうか。 しかしこの2人には意外な繋がりがあり、大使だったアーヴァインの父親はレバノン赴任時に強引な外交が基で部下をテロリストで死なせ、危うく中東戦争を引き起こしかけた過去を持ち、そしてサリーの両親もまた外交官で彼が死なせた部下だった。つまりアーヴァインは一種サリーの両親の仇の息子であるのだが、その辺についての微妙な心の揺れ動きについてはあまり言及が成されない。そういったことを割り切って考えられる人たちだとも云える。 さて物語の中心に据えられている<サイバー・シェパード作戦>。これはサイバー空間でテロリストの一味に成りすまし、テロリスト同士を情報操作によって戦わせて共食いさせるという、いわば現代版『血の収穫』である。しかしそのためには政府の職員であるNSA職員が隠密裏にハッカー行為をして他国のサーバーに侵入するという違法行為を犯すという実に危うい作戦であり、その事実が発覚すれば各国からの非難は免れない代物だ。 本書ではイランの諜報機関のサーバーに侵入してテロリストの動向を監視し、CIAが取り逃がしたテロリスト、アル・アスワミーの足取りを探っているが、これは実際に起きたCIA、NSA局員であったエドワード・スノーデン―ジャック・アーヴァインのモデル?―による2013年にNSAや英国のGCHQがマイクロソフト、グーグル、フェイスブックを監視していたことが発覚した<プリズム計画>、<テンポラ作戦>事件に着想を得ていることだろう。作中でもそのことについては言及されているが、それを踏まえながらも同様のことをしていることが結局米英政府は懲りていないということで、我々は今なお監視下に置かれていることが仄めかされている。 ただそれも致し方ないかなと思ったりもする。テロリストの足取りを追ってサイバー空間を逍遥するNSAの連中にアクセスするのは下位サイトに誘って武器の密売を促す者がいたり、自爆テロの志願者を募っていたりと不穏この上ない。実際、中国が日本政府の尖閣諸島を領土として主張してすぐにデモの呼びかけが成され、中国国内のデパートを破壊する煽情的な投稿が相次いだりした。 我々の知らないところで世界ではこんな恐ろしいやり取りが簡単に、気軽に行われているのだ。 しかしこんなにも短気な連中ばかりが出てくる小説だっただろうか、フリーマントルの作品は。 ディベートや会議のシーンでは常に自分の保身のために相手を罵倒し、責任転嫁の怒号が飛び交う。会話文にはエクスクラメーション・マークが散見され、心中で悪づく地の文が必ずと云って挟まれている。ほとんど建設的な意見が見られず、失敗が起きた時のために着かず離れずの状態にしておきたい連中ばかりだ。 それはアメリカ側のみならずイギリス側も同様で、自分を通さずに話が上に成されることに腹を立て、足を引っ張ろうと画策する。外部に敵あれば内部にも敵ありの状態。更にお決まりの如くCIA中心の捜査にFBIも介入してきて水を差し、更にCIAの面々の頭に血を登らせ、怒鳴り声が乱舞する。 そんな中、失敗の責任を取らされ、無能の烙印を押され、権力の座から落とされる者、有事の時の責任転嫁のためだけに事務屋として窓際にいることを強いられる者と落伍者たちが増えていく。 内部抗争と、ライバル視する国同士の争いに筆が注がれ、本来の敵であるアルカイダのリーダーはなかなか捕まらないという、なんとも不毛な展開が続く。 フリーマントルも歳を取って癇癪が過ぎるようになったのだろうか。とにかくページを捲ればケンカや諍いばかりで、正直読んでいて気分が良くなかった。 昔のスパイ行為として行われていたのが盗聴ならば現代ではサーバー内の情報を入手するスパイウェアである。冷戦時代からスパイ小説を書いてきた作者が時代の潮流に遅れずに最先端の諜報工作をきちんと描いていることに感服する。 しかし本書ではそんな最先端のスパイ技術を扱いながらも一方で冒頭で出てきた暗号の解読に難儀する様子が延々と描かれる。最初に現れ、スンニ派のテロリストと共食いさせられたシーア派のテロリスト、イスマイル・アル・アスワミーを取り逃がしてから、彼の足取りをイラクに仕込んだスパイウェアを手がかりに探るのだが、一向に足を出さず忸怩するNSAとCIA、そしてMI5とGCHQの、アメリカ側とイギリス側の情報争奪戦の様子がずっと描かれている。 そしてその暗号解読のとっかかりが判明するのが下巻の180ページ目辺り、つまり終盤に差し掛かった頃だ。これは私も物語の半ばで気付いていた。 さらに暗喩で繰り広げられるテロリストたちとのメールのやり取りについてもその内容については意に介さなかったことが解せない。 サリーがその内容に注目するのはサイバー空間で取り逃がしてしまうアスワミーの計画を暴くための最後の手段としてなのだ。そのメールの内容に計画の鍵があることが判明するのだが、裏返せば答えは既に出ていたことになる。これらことわざや警句に最終段階で注目するとは正直に云って米英の頭脳の精鋭たちが集う情報部員たちの頭も大したことないなと思ってしまった。 イギリスとアメリカとの間の優位性の天秤が左右に触れながらアメリカでのCIAとNSAの合同チームとFBIとの内部抗争、また自身の組織内での権力ゲームも繰り広げられながら、寄せては返す波のように一進一退するテロリストとの接触は上に書いたように最終的にアスワミーの奸智に長けた策略によって失敗するが、一連のメッセージと最後にアスワミーが残した嘲笑めいたメッセージからサリーはアラブ人の思考形態に即して、テロ実行の日を特定する。 題名の『クラウド・テロリスト』はクラウドコンピュータのあるサイバー空間を利用したテロリストであるという意味でありながら、最後にクラウドサーバーそのものを破壊するテロリストであるというダブルミーニングが解る辺り、巨匠の矜持を感じる。 行く行くはアメリカ政府の最高機関に上りつめるであろう若き天才の末路はなんとも遣る瀬無い。フリーマントルの皮肉は今回も一切揺るがない。 しかしサイバー空間での諜報活動とテロリストとの攻防を描きながらも、上に書いたように内部抗争の権謀詐術の数々に筆が割かれているのはいつもと同じである。いや逆に今回は情報戦であるがゆえにいつもよりも情報が多く、それに下らない抗争が上乗せされている分、かなり苦痛を強いられた。 敢えて苦言を呈するならば、やっていることは同じで題材と登場人物を替えただけであるとの思いが強く残ってしまった。 このサリー・ハニングとジャック・アーヴァインの2人、もしくはいずれか1人が今後新たなシリーズ・キャラクターとして登場するのかは解らないが―作者の年齢を考えるとほぼあり得ないと思うが―、若さゆえの融通の利かなさと、サリー自身が独白しているように何の根拠もなく、その明敏な頭脳で組み立てた論理をごり押ししようとする強引さとヒステリックな性格はあまり読者の、いや私の好感を得られなかった。 また色んな事が置き去りに、棚上げされたままのような読後感である。情報が多すぎて作中でも処理しきれなかった印象がある。 テロとの戦いには終わりがなく、本書の結末は長いテロとの戦いの単なる1章にしか過ぎない。 80歳を迎えて健筆を振るうフリーマントルの創作意欲には感服するが、もし次作があるなら、爽快な、もしくは少しは心温まる結末を迎える物語を読みたいものである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
人形探偵シリーズ3作目の本書は前作に続いて長編物。
正直読んだのがはるか昔なため、ストーリーは朧げに覚えているものの、作品のトーンは忘れてしまった。しかし本書はそれまでのシリーズとは一線を画してシリアスなムードが漂う。 それというのも本書では冒頭で鞠小路鞠夫誕生秘話が語られるのだが、これが結構重い話だからだ。 潜在的に友人を疑ったことで人柄ゆえかなかなか本心を出せない朝永自身が敢えて思いのままをさらけ出す存在として鞠夫が生まれた。 友達を疑うという罪悪感、または友人を疑うことへの拒否感、そして人を殺していながらも普通に振る舞う、いやあまつさえその死を悼む姿をさらけ出す友人に対する不信感に対して、良心の呵責に耐え切れずに生れ出た存在、そのように解釈もできるだろう。やがて鞠夫は朝永自身が「見て」いても「観て」いなかったことについても語るようになり、一つの人格を形成するようになる。 つまり主体である朝永が認識しなくとも鞠夫という人格が主体的に認識することで朝永と鞠夫との間で会話が生まれるのだ。腹話術師とその人形というコミカルな設定だが、その実、二重人格、多重人格物が横行した当時だからこそ生まれた興味深いキャラクターである。 さて1991年に刊行された本書。開巻直後の舞台は銀座での立食パーティに2次会が六本木でのディスコ、そして三高の男子―ところで今“三高”なんて言葉が解る人がいるのだろうか。背が“高く”、“高”学歴、“高”収入の意味なのだが―、スポーツカーに乗って海辺の道をドライブし、プレゼントは赤いバラの花束にティファニーのネックレス―やはりオープンハートか?―と非常にバブルの香りが漂う内容である。当時の世相を表しているという意味では非常に貴重な資料にもなりうるだろう。 また時代が変われば価値観も変わるのか、睦月の恋愛感情について今の女性では一種理解しがたい部分が出てくる。 絵に描いたように三高の男性関口になぜか気に入られるようになった睦月。朝永のことを思っていることもあり、関口の誘いを断り続けるが、それでもしつこく関口はモーション―この言葉ももはや死語だなぁ―を掛けてくる。どうやって調べたか解らないアパートの電話番号に毎日の如く電話をし、なかなか逢えないと見るや近所と思えるスーパーの前の喫茶店に有休を採ってまで張り込みをして3日目にとうとう睦月を待ちかまえて捕まえる。 自分なんかのためにそんな苦労を掛けたと睦月は関口に対して心が揺れるのだが、これは現代ではもはやれっきとしたストーカーだろう。現代の女性ならば気味悪がって身の危険を感じるはずであるのに、逆に睦月は心を動かれるのだ。これはもはや喜劇である。 妹尾睦月に付きまとう関口という世の女性の理想を形にしたような男性の心理も不思議だが、本書のメインの謎は連続する放火事件だ。 それ以外にも朝永の大学時代の友人で美人腹話術師柿沼遥が涙を浮かべて朝永の家から出ていった真相は不明だが、それが睦月に朝永宅へお泊りを決意させるトリガーになった。しかし、この牧歌的ミステリにはそんな大人の恋愛では描かれるはずの男女の一夜は省略される。 このシリーズはあと1冊の短編集が最終巻となっている。作者もそれを意図してか人形を介して推理を披露する腹話術師という奇抜さが先行した朝永嘉夫のルーツも描いており、戯画的なキャラクターから友人の犯罪を機に二重人格を持つようになった哀しい過去を持つ一人の男として人間味を与えている。 加えてそれまでただ何となく一緒に行動を共にするような感じでしかなかった妹尾睦月との関係もより踏み込んでいっている。 しかしこれらは云わば物語の縦の軸でありバックストーリーである。主軸となるミステリの部分、色々散りばめられた謎の部分が全く別々に進んで実に纏まりに欠けている。何とも散漫な印象しか残らなかった。 しかしさすがにバブル臭漂うこの物語は今読むとかなり辛いものがある。 軽めのミステリであるが、バブル時代の浮ついた感じと朝永嘉夫と妹尾睦月という大の大人2人が腹話術人形の鞠小路鞠夫にいじられているだけであり、何か物語として心に残る芯がないのである。『人形は眠れない』もそれまでのシリーズのタイトルと比べるとシリアスで意味深だが、読み終わった今、結局何を意味しているのかがよく解らない。 全てにおいてちぐはぐな印象で何か一つ突き抜けないミステリだった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
フィルポッツの再評価が止まらない!
『溺死人』の復刊から続いて新訳刊行された『だれがコマドリを殺したのか?』が望外の好評を以って迎えられたお陰でこれまた長らく絶版状態だった本書が復刊の運びとなった。何とも喜ばしいことだ。 「人を殺す部屋」という怪奇じみた設定は古典ミステリではよく用いられたテーマで、代表的なのはカーター・ディクスンの『赤後家の殺人』だろう。 しかしミステリアスな設定ゆえに逆に真相が判明すると、なんとも肩透かしを覚えるのも事実である。 そんな謎を英国文壇の大御所フィルポッツが扱ったのが本書だ。 過去に2人の死人を出した灰色の部屋。一見ごく普通の部屋だが、宿泊した人物はどこにも外傷がないまま、事切れた状態で発見される。そしてその話を聞いた娘の花婿が周囲の制止を振り切って泊まって絶命し、更に捜査に訪れた名刑事は白昼堂々、部屋の調査中にたった1時間ほどで絶命する。更に花婿の父親は神への強い信仰心を武器に立ち向かうがこれも敢え無く同じ末路に至る。 立て続けに3人も亡くなる驚きの展開である。 この怪異現象に対して文学畑出身のフィルポッツらしく、単なるミステリに収まらない記述が散見される。 特に息子トーマス・メイを灰色の部屋で喪った牧師セプティマス・メイが人智を超えた神の御手による仕業であるから、信仰心の厚い自分が部屋で一晩祈りを捧げて邪悪な物を一掃しようと提案してからの館主ウォルター卿と係り付けの医師マナリングとの押し問答が延々17ページに亘って繰り広げられる。 その後も信仰心の権化の如きメイ牧師と合理的解決を試みる刑事もしくは館主の甥のヘンリーとの問答が繰り広げられる。 一見怪異現象だと思われていた物事が合理的に解明される驚きをもたらしたのがポーでそれがミステリの始まりだとされている。 フィルポッツの最初期に当たる本書では「人が悉く死せる部屋」を題材にし、この謎に対して怪異か犯罪かの両面で登場人物たちが議論を繰り広げるのが上の件なのだ。 この辺はフィルポッツなりのある仕掛けなのかもしれない。 不可解な事件に対して合理的な解決がなされるのかという不安と期待を読者に煽りながら、鳴り物入りで登場した名探偵の誉れ高き名刑事はあえなく屈し、退場する。そして牧師の口から摩訶不思議な事件は過去に死んだ者たちの想念もしくは霊によるものであり、もはや祈りによって解消されるというオカルト的解決が主張され、屋敷の主は洗脳されたかのように牧師の主張に縋り、除霊をお願いする。 この館主ウォルター卿の揺らぎはつまり読者をも揺さぶっているように思える。 オカルトかミステリか? その両軸で揺れながら物語は進み、結論から云えばミステリとして一人のイタリア人の老人によって合理的に解決がされる。 正直この真相には驚いた。 上に書いたように往々にして怪奇めいた謎は大上段に構える割には真相が陳腐な印象を受けるが、本書は歴史の因果が現代に及ぶもので、しかもそれまでの物語でウォルター卿の人となりとレノックス一家の歴史でさりげなく説明が施されている。 さすが文豪フィルポッツの手になるものだと感心した。 ある意味戦慄を覚える真相である。 しかしそれでも訳がひどすぎた。およそ会話としてしゃべるような言葉でない文章でほとんど占められており、しばしば何を云っているのか解らず何度も読み返さなければならなかったし、また眠気も大いに誘った。 さらに誤字も散見された。そんな記述者の些末なミスや技量不足で本書の評価が貶められていることを考えるとなんとも哀しい。この悪訳ゆえに今まで長らく絶版だったのではないか。 奥付を見ると1985年に3版が出て以来の復刊である。実に30年以上も絶版状態にあったわけだ。 上に書いたように最近になってフィルポッツ作品が別名義の物も含めて初訳刊行、復刊さらに新訳再刊されている。フィルポッツを読んだのは学生時代だったからこの再評価は実に嬉しい。 復刊は喜ばしいことだが、しかしその前に一度刊行する前に中身を読んでいただきたい。その日本語が現在も鑑賞に耐えられるかどうかを見定めてほしい。 そうしないと単なるブームで終わってしまうだろうし、ミステリ読者の古典ミステリ離れ、いや翻訳作品の読みにくさから海外ミステリ全般に亘って手を取らなくなる傾向に拍車がかかるだけである。 出版業が商業のみならず文化の継承と発信を使命としているならばそのことを念頭に置いてほしいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
シリーズ5作ごとの節目に発表される短編集。本書は第3短編集になる。
まず開巻初頭を飾る「どちらかが魔女」は懐かしのS&Mシリーズの1編。 アシモフの黒後家蜘蛛の会を彷彿とさせる気の置けない仲間たちが集まってミステリの集いで語られるある不思議な現象が本書のテーマ。 しかし謎自体は大したことがなく、真相は思った通りだった。そして再会した2人が結婚するというサプライズも予想どおり。本書ではやはり本家のアシモフの短編のように執事の諏訪野が謎解きをする趣向を愉しむべきだろう。しかしこんな謎が解けない萌絵は劣化したのか? 続く「双頭の鷲の旗の下に」もまたS&Mシリーズ延長戦のような短編。 高校の文化祭というのは一種独特の雰囲気があって私もいい思い出がある。授業とは離れてクラスで一つのことに精を出し、普段話さない人とも色々協力し合って夜遅くまで残って創作に励む、その時しか体験できない、そして永遠に心に刻まれるムードがそこにある。本書を読んでまずそれを思い出した。 本作に登場する謎の正体は至極簡単で、これを実に解りやすく絵解きしているところに本作の妙味がある。その現象を実に解りやすく解説してくれて恥ずかしながら私も同じ専門分野にいながらそのメカニズムを初めて根本的に理解することが出来た。 とはいえ、本書の一番の読みどころは文化祭のシーンでも犀川&喜多コンビによる謎解きでもなく、本編で登場しなかった国枝桃子の夫が初登場するところにあるだろう。国枝桃子の意外な姿と素顔が見られるのが実に貴重だ。 そして次の「ぶるぶる人形にうってつけの夜」では小鳥遊練無が登場する。 学校の怪談とは色々あるが、本書ではぶるぶる人形という奇妙な紙人形の話を検証しに、有志が集まって夜の学内を件の人形を求めて闊歩する。実にこれだけで楽しいお話だ。 ぶるぶる人形の正体は実に呆気ないものだが、フランソワの正体に本書の興趣がある。そして本作はS&MシリーズとVシリーズを結ぶミッシング・リンクを仄めかしている点でシリーズ読者には読み逃せない話となっている。 本書で一番ミステリ風味に溢れているのが「ゲームの国」。副題に「名探偵・磯莉卑呂矛の事件簿1」とあるからシリーズ第1作になるのだろうか。 とにかく横溝正史の金田一シリーズのパロディとも云える世界観の中、名探偵を気取る磯莉卑呂矛が事件を快刀乱麻の如き解決すると思いきや、森ミステリにありがちな実に脱力系のオチ。 つまり本書で森氏がやりたかったのはミステリの雰囲気を盛りに盛って、実にミステリらしい解決を行うという物なのだろうか。とにかく壁本的作品であることには間違いない。 次の「私の崖はこの夏のアウトライン」もまた切れ味が悪い。 改行と短いセンテンスで語られる詩的な文章で語られる幻想的な話だが、オチは実にありがち。陳腐なオチを幻想的に糊塗しようとして明らかに失敗している。 次の「卒業文集」はそのタイトルが示す通り、ある小学校の一クラスの卒業文集の文章で構成された作品だ。 林間学校のこと、クラスで飼った兎のこと、遠足で行った遊園地のこと、学習発表会といった学校生活の思い出や学校の先生、音楽家、小説家、数学者、冒険家といった将来の夢について語っているが全てに共通して語られるのは担任の若尾満智子先生の思い出についてだ。そしてなぜ先生がみんなの思っていることが解るのかと不思議がる。そしてみんなが全て満智子先生が大好きだったことが綴られている。 最後に判明する事実を知って思わず読み返すと満智子先生がやってきたことと彼女に鼓舞された行った生徒たちの全てが初読時よりも鮮烈に胸に飛び込んでくる。ある一クラスのそれはチャレンジングで、そして忘れられない強烈な一念だったことが改めて強く印象付けられるのだ。 これが本書におけるベストだ。 「恋之坂ナイトグライド」はまた雰囲気だけの物語だ。 夜を散歩するかのように恋之坂に向かう2人の男女。恋之坂では最近酔っ払いが凍死したようだった。そして恋之坂でのトリップとはビル風によって起きる上昇気流に乗って飛べることだ。でもとあるどこかで飛べる場所がある、そして上昇気流に乗って飛ぶ2人の男女のイメージは近年になって作られたどこかのCMみたいだ。もしかしたらCM製作者に森作品のファンがいて、この作品のイメージを借用したのかもしれない。 最後の「素敵な模型屋さん」は模型好きな少年がいつもどこかに自分が作りたい模型の部品が売っている夢のような模型屋が出来ないかと待ち焦がれている話。 ここに登場する少年は森氏自身のことだろう。幼い頃からラジコン飛行機に憧れ、鉄道模型、無線と次々と色んなものに興味を持ち、創作意欲を燃やす。自作のロボット模型を学校に持っていくと先生に親に作ってもらってはいけないと叱られたというエピソードも作者自身の苦い思い出だろう。 そんな彼には彼の願望を叶える模型屋が近くになかった。毎日模型雑誌を読んでは思いを馳せる少年。しかしある日突然家の地下室に模型屋が出来ていた。そこはまさに自分が夢見た全ての部品が揃った模型屋だった。 これは森氏自身の老後の愉しみを含めたお話だろう。 誰しもこのような夢を抱くのではないか。本好きの私は自分の気に入った本、もしくはミステリ専門店を開くのが将来の夢である。これはいつまでも子供である男の願望が詰まったお話だ。 森氏の第3短編集である本書はS&Mシリーズの短編2作で幕が明け、Vシリーズの短編1作がそれに続くという、それまでの短編集とは違った作りになっている。 違った作りというのはそれまではノンシリーズの短編でいきなりシリーズ作とは全く雰囲気の違った森ワールドに誘い、悦に浸ったところにシリーズ短編が挟まれるという箸休め的な存在だったのが、いきなり導入部からシリーズ物、しかも完結したシリーズの2編から始まることでいきなりタイムスリップしたかのような錯覚を覚えさせられる。 それら2編は実にファンサービスに富んだ作品で、『数奇にして模型』で潜烈なイメージを残しながらも1作でしか登場しなかった西之園萌絵の従兄、お姉キャラの大御坊安朋が再登場し、その後のエピソードが語られる。更にシリーズ通して印象的な脇役だった国枝桃子の旦那さんも初お目見えと、今までのシリーズキャラに彩りを与えるような趣向が実に微笑ましい。 もう1作は結婚したとされていながら長らくその私生活が明かされなかった国枝桃子の結婚相手が登場する実に貴重な1編。本作のメインの謎である細かく穿たれた穴の真相も専門的見地から見ても実に解りやすく解説されており、読み応えあるが、それよりも慌てて退散する国枝女史の姿が実にチャーミングであり、国枝ファンは一層好きになるのではないだろうか。 シリーズと云えば本書では新しいシリーズキャラクター磯莉卑呂矛が登場する。名探偵らしく振る舞うことを信条とするキャラで、正直彼の登場する「ゲームの国」では森氏の皮肉たっぷりの真相ゆえに実力は未知数のままだ。特にこの作品はミステリ的興趣をふんだんに盛り込みながら、特に解決にも寄与しないという森氏の意地の悪さが前面に出ており、個人的にはいただけない作品である。本当にシリーズ化するのだろうか? 第1、第2短編集では長編では見られない抒情性が豊かで実に私好みの話が多く、俄然期待値が高まったこの第3短編集の内容はしかし、苦言を呈するようだが明らかにレベルが落ちているとしか思えない。 「ゲームの国」などは森氏のミステリに対するスタンスが前面に出ているとは理解できるが、作品の出来としては単純に雰囲気だけを盛って書き殴ったような出来栄えであると云わざるを得ない。どうも森氏の短編の内容が劣化しているように思えてならない。 というよりも物語のメインの謎よりも聡い読者しか気づかない仕掛けに力点が一層置かれており、ますます森氏独特のミステリ趣味が特化してきている。従って、気づかない読者は置いてけぼりを食らってしまうのだ。 例えば「どちらかが魔女」で犀川が披露する壁画に穿たれた釘の穴の謎の答えは作中で明示されない。これは調べなければわからない。 小鳥遊練無が登場する「ぶるぶる人形にうってつけの夜」の仕掛け(これはスゴイ)、個人的には最も嫌いな「ゲームの国」には各所に隠された仕掛け。だから題名は「ゲームの国」なのだろう。 さらに「恋之坂ナイトグライド」は出逢ったばかりの男女の夜中のランデヴーと見せかけながら、実は…という真相も本作では明かされず、解る人だけがその興趣に気付くことが出来るのだ。 つまり前の2つの短編集と比較してもミステリ色が濃くなっているのが本書の特徴と云えよう。 しかし前の2短編集を読んでいる私にとってミステリよりも情緒が前面に出た短編を求めて臨んでだけに今回は実に物足りない味わいになってしまった。 期待に応えたのが「卒業文集」であり、「素敵な模型屋さん」だ。 「素敵な模型屋さん」は趣味を持つ者が誰しも抱く願望を描いた美しい作品。最後に夢のような模型屋に出くわした少年自身が模型屋の老主人になるところは実に心温まる。 また小学生の作文で構成された実験的な作品である「卒業文集」がなかったら本書の評価はかなり下がっただろう。素朴でかつサプライズに満ちたこの作品の良さが逆に本書の評価を押し上げている。 長編ではミステリのガジェットに特化しながらもトリックに尖鋭化して動機に全く固執せず、いわば長い犯人当てクイズのようになってきている森氏。だからこそ短編に期待したのだが、短編もまた叙述ミステリに先鋭化し、さらに読者にそのトリックを明かさないという変則技に出た森氏。 ミステリ好きの私にとってこのどちらの趣向もあまり好ましく思えない。 次回作からの趣向がどのようになっていくのか。期待しない方がいいのではと思う自分がいる。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
前作『殺し屋ケラー最後の仕事』は最後の仕事ではなかった!
殺し屋ケラー再び参上の連作短編集。 「ケラー・イン・ダラス」は1日12時間、週7日働いていたケラーがサブプライムローン問題で仕事がぱったり来なくなったケラーが再び切手収集に精を出すが、今度は先立つものがない。そんなところにドットから殺し屋斡旋業を再開したという知らせが入るところから幕を開ける。 殺し屋ケラー復活の1編。 ただ以前の彼と違い、身分はニコラス・エドワーズというリフォーム会社の共同経営者であり、しかも妻と娘がいる所帯持ち。かつては一匹狼の自由人だっただけに家族という護る物を持ったケラーが再び犯罪の世界に身を置くことにどのような葛藤があるのかが注目されたが、やはりケラーはケラーだった。 ブランクを懸念する不安もあったが、ケラーはターゲットを前にするとかつての勘を取り戻し、任務を遂行する。 ドットとケラーの稼業再開といい、依頼人の心変わりといい、人生とはままならないことを双方で著した好編。 続く「ケラーの帰郷」では政治汚職に加担し、腎臓売買で資金洗浄を行っていた大修道院長の殺害を依頼される。しかしその場所はかつてケラーが根城にしていたニューヨーク。つまりタイトルはかつてのシマに戻るケラーを示している。 前作で大統領候補暗殺の冤罪に問われたケラーはアメリカ全土で指名手配される。しかも数年経ったとはいえ、かつてのホームプレイスであり、彼を見知った人も何人かいる。そんな危険な場所になぜ赴くのかと云えばやはりそれは切手のオークションに出席するためだったからだ。趣味のためにあえて危険を冒すこのケラーの心理は実は私も理解できるところがある。この件については後に述べよう。 彼を知っている人がいるにも関わらず、馴染みの界隈を避けるどころからその後の変化を見たいがために敢えて足を向けるケラー。いつ指名手配の男と指されるかもしれないのに敢えてそこを訪れたくなる複雑な心理が描かれている。 それはかつての自分とは人相が異なっていることもあり、逆に知っている場所を訪れることで誰にも気づかれなかったら今後の彼の人生の安泰は約束されたようなものだ。その安心を得るために彼は敢えてその場所に足を踏み入れるのかもしれない。 そんな彼のターゲット大修道院長は修道院の奥に常日頃潜んでいるため、ケラーもなかなか近づくことが出来ない。しかしケラーはどうにか身分を偽って接触するもその威厳に圧倒され、殺しも未遂に終わる。途方に暮れたケラーに突如ある策が閃く。 120ページ以上の紙数を費やした割には結末が安直で消化不良の感があった。 しかし殺しの仕事の後、幼い愛娘に手に入れた切手の話を愛おしくするケラーは仕事と私生活を見事に割り切っているところに驚いてしまう。これがプロフェッショナリズムなのか。 続く「海辺のケラー」のターゲットも政府の証人保護プログラムが適用された金持ちカーモディだ。 ケラーの本職を知りながらもケラーと結婚し、その仕事を認め、時にはケラーの仕事を想像して欲情する、非常に理解ある(?)妻ジュリアが実際にケラーに同行して殺しの現場に赴く。とはいってもしゃれた1週間の船旅の最中にターゲットを殺害するという極めてのんびりとした依頼で素人が直面する殺伐感や緊張感は全くなく、ケラーの手伝いでターゲットの部屋のスペアキーを手に入れたりもする。 しかし旅が終わって家に帰って殺人事件のニュースを見るにあたって、それまでケラーの話を聞くだけだった殺しの仕事に間接的に自分が関わったことの怖さを知る。このジュリアの反応こそが常人の反応であり、やはりケラーはどこかネジが外れているようだ。 しかしそのジュリアさえもケラーから気持ちの切替方を教えられると回復するのだからやはりこの夫婦はちょっと変わっているのだろう。 「ケラーの副業」ではとうとうケラーは切手収集をサイドビジネスにしてしまう。 上に書いたようにケラーは稼ぎの出ないリフォーム業をさらに追いやり、切手収集を趣味と実益を兼ねた副業にしてしまう。それは主に切手収集家だった夫の遺産を買い取って興味のあるディーラーに売り込む仕事だった。利益は薄い物の、世間体のために何かをして生計を立てているように見せかけるために始めたサイドビジネスだから儲けはほとんど考えておらず、むしろ趣味に没頭するために始めたような商売だ。 そしてどちらかと云えば本作では切手収集家の遺したコレクションをいかに高く売るかがメインとなっており、本職であった殺し屋の仕事は添え物に過ぎなくなっている。切手の仕事を巡る人々の話が大半を占める。 そしてそれを裏付けるようにケラーも切手関係の仕事をメインにして殺し屋稼業を引退しようとこぼす。そしてその決断をしながらも、最後の短編「ケラーの義務」の幕が開く。 殺し屋稼業から足を洗うことを決意したケラーに舞い込んできたのは少年殺しの依頼をした人物を消したいというドットからの依頼だった。 しかも少年は切手収集を趣味にし、年齢にしては豊かな知識を持つ利発的な少年だった。さすがにこんな話を持ち掛けられたらケラーは断れないだろう。 前作『殺し屋ケラー最後の仕事』でケラーはニコラス・エドワーズとして身分を変え、リフォーム会社の共同経営者に収まり、さらに彼とドットを罠にかけたアルへの復讐を遂げ、さらにはジュリアという伴侶を得てその妻との間にかわいい娘ジェニーを儲けたケラー。 通常ならば大団円で一連のケラーのシリーズに終止符が打たれるはずだったが、人生は上手くいかない物でケラーの前にサブプライムローン問題が立ち塞がり、あれほどあったリフォームの依頼がパタリと止んで閑古鳥が鳴く状態に。そんなところからケラーの第2の殺し屋稼業がスタートする。 かつては一匹狼だったケラーが家族という護る物を得て再び命を奪う仕事に就けるのかと正直疑問だった。ケラー自身もしばらくのブランクを懸念し、またかつての自分のように冷静に処置できるのかと自問自答を繰り返すが、逆に妻のジュリアと幼い娘ジェニーの声を聞くことで逆に安堵を覚える。殺し屋稼業に戻ることでそれまでのことが夢ではなかったのかと錯覚したがそうではないことを再確認し、それでもケラーは仕事が実施できたことで再び自分を取り戻す。しかしこの感覚は特殊だ。 家族を持つからこそそれまで出来たことが出来なくなることは多々あるのに。ましてや人の命を奪い、家族に喪失をもたらす仕事である。それは妻ジュリアも指摘するのだが、ケラーは自分の変化を懸念しはしたものの、やはり前の通りに殺しをやれた自分がおり、それは以前と変わらぬ達成感をもたらしたと述べる。 ケラーの精神状態はやはり常人とはちょっと違っているようだ。 リフォーム会社の共同経営者として堅気の仕事に就きながらもその仕事が下火になっていることもあって殺し屋稼業を再開することになったケラーだが、それ以外にも大きな動機としては自分の趣味切手収集が関わっている。彼の狙っている切手がオークションに出される会場とドットの依頼の場所が一致すると趣味と実益を兼ねて依頼を受けるのだ。しかもそれはかつての住まいがあったニューヨークであっても。 全国指名手配され、顔まで知られるようになったケラーが敢えて知り合いが多くいるニューヨークにまで足を運ぶ危険を冒す理由はやはりこの切手収集への拘りが大いに作用しているのだろう。私も趣味の読書のためにいそいそと読みたい本の情報収集と在庫確認のため、東京、大阪、神戸、岡山と自分の足で訪れる。ネットショッピングが発達した今でも出来る限り現物を確認して買う性分は治らない。 ケラーも作中でネットオークションができるようになり、遠隔地でもわざわざオークション会場に赴かなくても参加できるが、やはり現場の雰囲気や競り相手の心理などは現場ではないと解らないから極力会場に足を運ぶようにしていると述べている。 この心理、実によく解る。 ネットショッピングは検索すると目当ての物が出てきて、クリックすれば購入となり非常に手軽なのだが、本がどんな状態で来るのかもわからないため、どうにもなんとも味気なくて実物感がないのだ。 やはり足繁く書店に通って現物を見て、いい状態の本を手に入れた時のあの達成感はネットショッピングでは得られない。これぞ趣味人の拘りであろう。 また逆に仕事のために狙っていた切手のオークションを欠席せざるを得なくなり、落札するに十分と思われる値をつけたにも関わらず、手に入れることが出来なかったことに対してなかなか自分の中で折り合いのつかないケラーの姿も実に共感できる。 大枚をはたいて購入した後悔よりも手に入れられなかった後悔の方が鮮明に残るのだ。 失った金はまた働いて取り戻せばいいが、欲しいものはそれを手に入れるその瞬間というのがあり、それを逃すことが大いなる心残りになるのだ。コレクターとしてのケラーの心理は気に入った作家の本は最大限手に入れ読むようにしている私の心に大いに響いた。 そのせいだろうか、今回は以前にも増してケラーが切手にのめり込む描写が非常に多い。殺しの依頼も切手収集のついでになっている。もはや暮らすのに十分な金があるケラーにとってかつての生業だった殺しから切手収集がメインになって主客転倒しているのだ。 しかし殺し屋の話で始まったこのシリーズが切手収集がメインの話になろうとは誰が想像しえただろうか? 殺しを扱っているのに全く陰惨さがない、実に特殊なシリーズだ。 そしてその切手収集熱はやがてケラーから殺し屋稼業が潮時であると決意させるようになる。アウトローだった彼が妻と娘とリフォーム業と切手転売のサイドビジネスと安定を得た時、もはや彼には殺しをする理由が無くなっていた。 そんな矢先に最終話「ケラーの義務」では依頼が入ってくる。それは今までと異なり、ターゲットとなった少年を護るために依頼人を殺害すること。 それまで依頼の内容にはあまり興味を持たず、ターゲットがどんな人物であろうと仕事をこなしてきたケラーがターゲットに興味を持ち、そして護ることを決意する。それはターゲットの少年が切手収集を趣味にした非常に感じの良い少年だったからだけではないだろう。 ケラーは自分の仕事が終わった後、頭に残ったターゲットの肖像を徐々に小さくして芥子粒のように消し去ることで後腐れの無いようにする。それが殺し屋稼業という陰惨な仕事を続けられるコツなのだろう。 しかし今までのシリーズでも描写されているようにケラーにはどこか常人と異なる感覚がある。殺しの標的を人とみなさず、物として見るというか、感情はあるのだけれど自分に対して興味があり他者にはあまり興味を持たないというか、そんな感覚だ。 妻の助言で切手転売のサイドビジネスを始めてからはもはや殺し屋稼業よりもそちらの方に興味が大きく傾いてくる。それは趣味にさらにのめり込む環境が出来たこともあるだろうが、やはりこちらの方が安全な仕事であること、そして殺しのためにアメリカの各地に出張して家族と一時的に離れることが次第に辛くなってきたことだろう。ケラーの心の中に家族愛という新たな感情が芽生え、その領域がどんどん大きくなってきたのだ。 やがて登場人物たちのトーンも変化してくる。 ケラーの仕事を理解し、あまつさえ殺しをしてきた夫に欲情する変わり者でよき理解者である妻ジュリアは自分がケラーの手伝いをしたことで自分も殺しに加担した事実にショックを受ける。そしてケラーも次第に娘ジェニーに対する愛情が深まってくる。そしてドットとの会話の冗談にもケラーは反応が薄くなってくる。もはや奇妙でおかしな殺し屋コメディでは無くなっているのだ。 殺しを引退したケラーがどんな理由にせよ、ターゲットにアプローチしていく過程、そして依頼を達成するプロセスを書くことがもはやメインではなくなった証拠ではないだろうか。 ケラーの引退を示唆しながらアクロバティックな内容で再び呼び戻したブロック自身もこの先のケラーを描くことに迷った、いやむしろケラー自身が彼の中で動かなかったのかもしれない。 前作『殺し屋最後の仕事』がやはりこのシリーズの幕引きだったのではないだろうか。サブプライムローン問題という新たな経済危機がブロックの中にいたケラーを呼び起こしたのだろうが、本書に収められたケラーの姿を見ると、もはやそこには殺し屋ケラーの姿は薄れ、愛する妻と娘を持ち、切手収集を趣味にしたリフォーム会社の共同経営者ニコラス・エドワーズがいるだけだった。 どんなシリーズにも終わりはある。読者を大いに楽しませるシリーズならばその幕引きは鮮やかであるべきだろう。 本書は家族を持ったケラー=ニコラス・エドワーズのその後を知るにはファンにとってはプレゼントのような短編集だったが、かつてのケラーを期待するファンにとってはどこか物足りなく、そして痛々しさを感じさせる作品だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
『失われた世界』で登場したチャレンジャー教授のシリーズ2作目はいきなり人類滅亡の危機に見舞われる。なんと全ての生命が絶命する毒ガス帯に世界が覆われるのだ。チャレンジャー教授の機転で酸素ボンベで生き長らえた一行が直面するのは全てが死に絶えた世界。まさにデストピア小説だ。
毒ガスが一様に世界を撫でた後に残されたのは生きとし生ける物が横たわった死の世界。ドイルはそれぞれの死にざまを描写しながら人類の営みとは何と呆気なく、不安定なバランスの上で成り立っていることを述懐する。 今回の有毒なエーテルが地球を通過した事に対して人間とは何と無力であったことか、世界を支配しているかと過信していた人類の存在のなんとちっぽけなことかと思い知らされ、決して敬虔さを失ってはならないと教訓を説く。人間の驕りに対する警告の小説とみるべき作品だろう。 続く「地球の悲鳴」はチャレンジャー教授が大いなる地球にちっぽけな人間の存在を知らしめるために、ボーリング技師を招いて地殻を突き破り、地球の深淵に触れるプロジェクトを描いた作品。 単純にこれは誰もが子供の頃から疑問に抱いている「地球の真ん中には何があるのか」という疑問にドイルなりの解釈を披露した作品と云えるだろう。 最後の「分解機」は男とチャレンジャー教授が対峙する話。 今回は博識の名声高いチャレンジャー教授が珍しく狼狽える、驚愕の発明が登場する。原子レベルまで物体を分解してさらに再生する事の出来る分解機だ。 チャレンジャー教授物は初めて読んだが、これはドイルの芳醇な空想力が遺憾なく発揮されたトンデモ科学読み物とでも云おうか、本書はドイル自身が愉しんで書いているような節のある作品が収録された作品集である。 「毒ガス帯」は当時のイギリスの小説、特にミステリに対する人々と作者の捉え方が散見されて実に興味深く感じた。 例えば毒ガス帯の接近に対して警告したチャレンジャー教授は知己の友人に酸素ボンベを持参するように忠告するが、いざ毒ガスが来るとそれら友人たちと自身及び夫人たちが部屋に立てこもって酸素を共有するが、その一方で窓からゴルフに興じる人々や赤ん坊を抱いた夫人が毒ガスによって斃れる様を淡々と観察するという傍観者の不気味さがここにはある。特にお抱え運転手のオースティンが自分の屋敷の庭でそのまま息絶えるのを黙って見ているどころか、炭鉱のカナリアのように実験体としてその死にゆくさまを冷静に観察する薄情さに驚かされる。 これはやはり下僕と知識人の身分の違いが当時色濃く残っており、下僕は救助の対象にはならない上流階級の冷たさがその当時は至極当然だったことがこのエピソードから読み取れる。 さらに夥しい数の死者を目の当たりにして登場人物の1人が、胸に穴をあけられて殺された男を見るとその個人に対して胸がむかつく思いがするが、数千、数万単位の死者となるともはや1人の人間ではなく、集団の塊になり、特定の人間の死として捉えることが不可能になると述べる。 この件は笠井潔氏が唱えた「大量死理論」を裏付ける文章であり、やはり戦争による大量死で人の死に対する感覚が麻痺しているからこそ、人の死に注目が集まるミステリが生まれたことの裏付けのように思えた。 さらに「地球の悲鳴」では宇宙のエーテルを地球は内部に注ぎ込み、活力を得ていると教授が持論を述べ、また「分解機」でもエーテル波が引き合いにされる。 とにかく当時はこの光が伝播するための媒質だと思われていた物質が小説家の想像力をたくましくさせ、勘ぐれば全てのトンデモ理論はエーテルを引き合いに出せば信憑性が増すと信じられていたのだろう。特殊相対性理論などで21世紀の現代ではもはや廃れた理論であるだけに隔世の感があった。 とにもかくにもアイデア自体はやはり一昔、いや二昔前の空想物語であることは否めない物の、書きようによっては物語としてはもっと広がりが出来たように思え、導入部の衝撃に比べて結末が尻すぼみであるのは勿体ない。 最も長い表題作は地球上の全ての生命が死に絶えた世界を舞台にドイル自身が展開を持て余したようにも思える。唯一一番短い「分解機」が皮肉な結末と物語として成立しているくらいだろう。 しかしシャーロック・ホームズではホームズの観察眼と類稀なる推理力で実存レベルでの犯罪の謎を解き明かすのに対し、チャレンジャー教授では教授の破天荒な理論から物語が展開する趣向が取られている。 しかし繰り返しになるが物語としての出来はやはりホームズの方が上。チャレンジャー教授物は既にホームズシリーズ発表後の作品であったため、魅力的な謎を現実的な話に落とし込まなければならないミステリを書き続けるのにうんざりしたドイルがとにかく面白い思いつきを物語にしたくて書いた作品群ではなかろうか。それは物語のそこここに性急さが目に付くことからも判断される。 まあ、売れたからこそできる作家の我儘と捉え、好意的に読むこととしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
チャーリー・マフィンシリーズ2作目の『再び消されかけた男』に続く3作目が本書。実に懐かしい気分で読むことが出来た。
まず非常に読みやすいことに驚いた。『魂をなくした男』の、学生に頼んだ下訳のような日本語の体を成さないひどい日本語ではなく、実に滑らかにするすると頭に入っていく文章が非常に心地よい。 そしてこれもまた『魂をなくした男』と比べて恐縮だが、二分冊になるような長大さがなく300ページ強と通常の厚みでありながらスピーディに展開していくストーリー運びもまた嬉しい。若さを感じる軽快さだ。 さて本書ではチャーリーは前作同様英国情報部を追われる身でロンドンに潜伏していたところをルウパートに自身の保険会社が抱えた巨額の保険金支払いを回避してほしいと依頼される。 ルウパートの会社が抱えた保険金とは香港の大富豪ラッキー・ルーの所有する豪華客船が中国人によって放火され、爆発した事故の保険金600万ポンド。しかも容疑者は逮捕され、裁判中に殺害されてしまう。 そんな圧倒的不利の中でチャーリーは過去のルウパートの父親の恩義のために動き出す。 最近のシリーズ作に比べると非常に構造がシンプルだ。 したがって特にサプライズも感じずに、「えっ、もうこれで終わり?」的な唐突感が否めなかった。 また最近のシリーズ作では既に忘却の彼方となっているが、前作で妻イーディスを喪ったチャーリーは彼女の想い出と悔恨に苛まれて日々を暮している。従って折に触れチャーリーのイーディスへ向けた言葉と当時の下らないプライドを後悔しているシーンが挿入される。折に触れチャーリーは自身の行為が生前イーディスが話していた台詞が裏付けていたことを思い出す。疎ましく思っていた存在を亡くしてみて気付く愛しさと妻こそが最大の理解者であったことを自戒を込めてチャーリーは改めて確認するのだ。 う~ん、この辺は実に教訓になるなぁ。 さて本書では保険調査員に扮し、そのまま無事に難関をクリアしたチャーリー。特にピンチもなく―以前出逢った外交官と思わぬ再会をするというハプニングはあったが―物語は終えたため、よくこのシリーズが現在まで続いたものだなぁと不思議でならない。 この後は『罠にかけられた男』ではまたもやFBIと保険調査員として見えることになり、実に痛快に活躍するのだから本書はシリーズの動向をフリーマントル自身が探っていた小編だったとも考えられよう。 とにもかくにもチャーリー・マフィンシリーズの空白を埋めていくことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
薬師寺涼子シリーズも9作目。しかし8作目からのインターバルは長く、なんと5年ぶりの登場だ。
涼子とその部下泉田くんが今回赴くのはロシア。しかしモスクワといった大都市ではなく、シベリアの辺境の地だ。連続殺人鬼日下公仁がロシアに潜伏しているという情報を得た警視庁に涼子たちが派遣される。 そして彼らに同行したのは阿部真理夫と貝塚さとみのもはや涼子ファミリーとも云うべき一味。そして例に漏れずライバルの室町由紀子も加わり、その部下でキャリアでオタクの岸本もおまけとして付いてくる。 誇大妄想狂の政治家に、精神倒錯者の連続殺人鬼。 これほど物語の舞台としては背筋を寒からしめる材料が揃っているのに、薬師寺涼子には全く危機が訪れない。日下公仁と4人の精神倒錯者という大敵と絶滅したはずのサーベルタイガーの群れと、通常の小説ならば絶望的な状況であるのに、涼子は冷や汗すらかかない。 特に日下公仁は女性に対して肉体的、精神的苦痛を与えて愉しむ倒錯者であり、彼の秘密都市に囚われているという四面楚歌状態ならば、さすがの薬師寺涼子も無傷ではすまないのではないかとハラハラさせられたのだが、むしろ相変らず日本のみならず世界の、とりわけアメリカの政治・政策・思想に対する鋭い舌鋒による口撃が大半を占めるのみで、連続殺人鬼も涼子や室町由紀子、そして部下の貝塚さとみという、拷問するにはこの上ない材料が揃ったと述懐しているのにもかかわらず、捕えて拷問しようという素振りさえ見せないのだ。 これは読者に対する配慮、つまり薬師寺涼子は普通のヒロインなら陥るべき危機などとは全く無縁の、絶対的存在として君臨してほしいという女王崇拝的興趣を削がないためのストーリー展開なのだろうか(実際タイトルの女王陛下はてっきり秘密都市を治めているカリスマ的女性リーダーの存在を想像していたのだが、全く女性キャラは現れず、薬師寺涼子その人を指す単語だった)? だとしたらは過剰な読者サービスで、物語作家としては失格だろう。そうだとしたらどんな強敵が現れても、常に薬師寺涼子はピンチに陥らなく、エンタテインメント小説の物語の要素として挙げられる「絶体絶命のピンチ」がこの小説には大きく欠けているからだ。例えれば雨霰のように降り注ぐ銃撃戦の中で涼しい顔をして歩いても、決して弾が当たらず、むしろ弾が避けているような存在になってしまっている。 特にこのシリーズが作者の他のシリーズと大きく異なるのは物語の軸となる大きな縦軸が設定されていないところにある。 当初この縦軸を担うのは薬師寺涼子と泉田との関係だと思っていたが、9作目になっても全く進展を見せない。むしろ物語としては舞台と敵を変えただけで同じ話を読まされている気がして、パターン化されているのだ。 確かにそんなシリーズは多々あり、いわゆるミステリの探偵物は事件発生~探偵登場~事件の調査~推理~解決と一定のフォーマットがあって、いわゆる大いなるマンネリが繰り返されているのだが、ミステリでは謎にヴァリエーションがあって一種不可解な謎をどのように解き、そしてどんな真相が現れるのかという求心的興味があるのに対して、このシリーズはそういった核となる謎もなく、敵が現れ、涼子が対峙し、撃退するという実に単純な構造である。 これは昔の連続ヒーローアニメ物に見られるパターンであり、昨今これほど物語に変化のないシリーズも珍しいのではないか。 『銀英伝』、『アルスラーン戦記』、『創竜伝』と数々の傑作シリーズを作ってきた田中芳樹氏がなぜ今頃こんなシリーズを続けているのだろうか? その問いに対する答えは実は1作目のあとがきにある。解説にもあるが、シリーズ1作目はもともと文庫書き下ろしで刊行されたものだった。当初からサブタイトルに「薬師寺涼子の怪奇事件簿」と冠せられていたことから多分シリーズ化の頭はあったのだろうが、恐らく数巻ぐらいの構想だったのではないだろうか。 それが予想以上の好評を以て迎えられたのか、今に至るまでシリーズは続いている。そしてその1作目のあとがきに書かれているように1作目は作者のストレス解消の一環として書かれたものだった。これを字義どおりに受け取るか、冗談と取るかは読み手の判断だが、作中で繰り広げられる涼子の鋭い舌鋒に対する政治批判を読むとどうも本音のようだ。 本書が刊行されたのは2012年6月。東日本大震災から約1年3ヶ月経ってからの刊行だが、実際に書かれたのはおそらく1年後かそれ未満の頃だろう。とにかく本書では全編に東日本大震災での放射能漏れに対する日本政府への痛烈な批判と皮肉に満ちた記述に満ちている。 そのことからも解るようにこのシリーズは不甲斐ない、もしくは自分の求める理想や道徳的に悖ることが世の中に起きると、それを痛烈に罵倒するためのもので、やはり作者のストレス解消のために書かれているのだろう。これら国家権力に屈しない至高の存在である薬師寺涼子はいわば作者の代弁者で、つまり政治に、行政に不満がなければこのシリーズも新作が生まれないし、新作が生まれるときは日本の政治がおかしいと作者が感じたときなのだ。 そういう意味ではこのシリーズは今後も登場人物らに変化が訪れるような縦の発展はないだろう。年も取らず、常に同じような事件に合間見える横への展開が繰り返されるだけだ。 次の薬師寺涼子も絶対無比の無敵振りを発揮するだけだと思うと次作への興味も薄れてしまうのだが。でも恐らく次が出ても読むのだろうな、私は。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
文庫オリジナルで発刊された短編集。しかし収録作品にはある共通項があり、それは後で明かすことにしよう。
まず「シャレードがいっぱい」はバブル全盛期の頃の話。 メッシー、アッシー、ミツグくん、高級ワインにシャンパン、イタ飯、六本木カローラと呼ばれていたBMW、フェラーリ、そしてクリスマス・イヴに備えて高級ホテルの最上階のレストランとスイートルームを半年以上前から予約する、等々、バブル華やかなりし頃のミステリ。つくづく読んでて思うが、バブル期の日本はみな浮かれていて、無駄な事に大金を費やすことがステータスとなっていた、金の狂人たちの時代だったなんだなぁと思わず懐かしむような思いで読んだ。 主人公の津田弥生はそんなバブルの時代を謳歌している女性の1人で、その頃はどこにでもいた女性の1人なのだが、そんな彼女がどこか怪しいところのある尾藤と名乗る男と恋人の、いや友達以上恋人未満の北沢の死を探るミステリだが、ライトミステリながらもダイイング・メッセージを皮切りにシャレード、文字謎がたくさん含まれた作品。特に遺言状のトリックはなぜ気付かなかったのか、非常に悔しい思いがした。 「レイコと玲子」はタイトルから推測できるように多重人格者を扱った作品。 バブル時代に書かれた作品でベンツ、アルマーニ、セルシオ、グッチの財布と当時席巻していたアイテムがそこここに挟まれて、ライトミステリのように思えるが、読み応えは案外深い。 「再生魔術の女」は1つの部屋で繰り広げられるある復讐の物語。 よくもまあ、こんな恐ろしい発想が生まれる物である。 名作『秘密』の原型となったのが「さよなら『お父さん』」だ。設定はほとんど一緒と云っていいだろう。『秘密』がバスの事故で母の意識が娘に入り込むのなら、こちらは飛行機事故という設定の違いくらいだ。 当初は娘の心に妻の意識が入り込むことで生じる違和感を面白おかしく描くのが目的だったらしいが、本作でも『秘密』に通ずるそこはかとない哀しみが漂っている。本書を下敷きに『秘密』を著したのは正解だった。 ホームズのパロディ譚である「名探偵退場」は隠居生活に入ったかつての名探偵アンソニー・ワイクが自分が手掛けた事件の中で最も難易度が高く、印象深かった魔王館殺人事件の記録を著すところから始まる。 名探偵のジレンマとも云うべき永遠の命題を利用した物語の展開と意外な真相が実に印象的だ。しかしただ単純に面白いだけでなく、本格ミステリが孕む危険性を読者は感じ取ってほしいのだが。 「女も虎も」は題名通りリドル・ストーリーの傑作として名高い「女か虎か」の本歌取り作品。但し舞台は日本の江戸時代らしき設定。 殿様の妾に手を出した真之介が2つの扉ならぬ3つの扉のうち1つを選択することで運命が決まる。1つには絶世の美女が、1つには虎が、そして最後の1つに何が入っているのかは不明だった。そして真之介が選んだ扉には果たして…。 たった10ページのショートショートで、オチもまあ単純と云えば単純。 「眠りたい死にたくない」は監禁物。 睡眠薬を飲まされ、酩酊状態の中で監禁状態になった経緯を思い出す一部始終はある完全犯罪のそれだった。 最後の「二十年目の約束」はある夫婦の物語だ。 これは正直ピンと来なかった。最後の1編にしては今いち締まらなかったなぁ。 収録作品は雑誌に掲載されながらもある理由によって短編集として纏められなかった、作者曰く「わけあり物件」らしい。 例えば掲載されていた雑誌が出版社の倒産によって作品がお蔵入りしたり、有名になってしまった長編の原型だったり、単純に短編集に纏める機会がなかったりと、そんな落穂を拾うかのように編まれたのが本作だ。 だからといって駄作の寄せ集めではなく、そこは東野圭吾氏、水準をきちんと保っている。個人的には「再生魔術の女」の発想の妙を買う。被害者の胎内に残された精液から代理母に子供を産ませ、それを容疑者の養子として送り込み、復讐する。顔立ちが似てくれば容疑者が犯人だったことが解る、遠大な復讐だ。 このトンデモ科学のトリックとでも云おうか、鬼気迫る復讐者の執念、いや情念に畏れ入った。 収録作は89年から95年にかけて書かれた作品で、バブル景気に浮かれる日本を髣髴させるキーワードが物語に織り込まれていて感慨深い。特に顕著なのが、第1編目の「シャレードはいっぱい」と2編目の「レイコと玲子」。あとがきで作者自身が「もはや時代小説だ」というように、「バブルは遥かなりにけり」の感はあるが、これはこれでそういう時代があったことを知る貴重な資料にもなるのではないか。 しかしこのような長い創作活動の中で埋もれてしまった短編が再び日の目を見るように本に纏められるのも東野氏が今や当代一の人気ミステリ作家になったからこそだ。こんな東野作品もあったのだと、今の作品群と読み比べてみるのもまた一興かもしれない。 しかしやはりバブルは強烈だったなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
今回のマクリーンが題材にするのはスコットランド沖で暗躍する海賊たちと情報部員フィリップ・カルバートの戦いだ。但し極限状態の自然との闘いはなく、狡猾で悪賢い海賊一味たちに徒手空拳で一人の情報部員が戦いを挑むという、これまたアクション映画のような作品だ。
この主人公カルバートに襲いかかる危難はまず潜入した船で四方に敵を囲まれた状態から機転を利かせて逃れるところから始まり、消失した船を捜すために乗り込んだヘリコプターが海賊たちに撃ち落されて、これまた命からがら脱出、さらには相棒を船で亡くし、おまけに敵は世界有数の富豪で警官も含め町全体が彼の手先になっているという四面楚歌の状態。 さらにはヘリコプターに乗っては撃ち落され、命が1つでは到底足らないくらいの危難に見舞われる。 本書はいきなり主人公カルバートが銃を突き付けられるシーンから始まるが、映画のオープニングにしては申し分ないクライマックスシーンさながらの脱出劇が繰り広げられる。 しかしいきなり物語の渦中に放り込まれた読者は一体何のために主人公がこのような状況に追い込まれ、そしてなぜ主人公がそんな危険な船に潜入したのかがなかなか明らかにされないまま、物語は進む。 マクリーン作品をもう8冊目になるが、この小説作法にはなかなか慣れなく、しばらく据わり心地の悪さを強いられる。 この暗中模索の中、物語が進むのは非常に居心地が悪く、カルバートと伯父アーサーの行動原理が解らない為、感情移入も出来ず、また馴れないスコットランド沖を舞台にしていながら、略地図も付されていない為、主人公たちがどこをどう行っているのかまったく位置関係が解らなく、単に読み流すだけになってしまった。 また最後に怒涛の如く明かされるバックストーリーもあまりサプライズをもたらさなかった。なんせ物語の背景が解らないまま、渦中に追いやられているため、序盤から仕掛けられたカルバートと伯父アーサーの仕掛けも、単純に「へぇー」と感心するに留まってしまった。 『最後の国境線』以来、どうもこのなかなか物語の粗筋が見えぬままにいきなり話が進んでいくスタイルをマクリーンは取っているのだが、これが非常に私には相性が悪く、全く物語に没入できなくなっている。本書も含め『最後の国境線』、『恐怖の関門』、『黄金のランデブー』などガイドブックでは高評価の作品として挙げられているが、いまいち物語にのれないのだ。 あまり凝ったプロットは正直期待してはいない。『女王陛下のユリシーズ号』や『ナヴァロンの要塞』のように、明快かつ至極困難な目的に向かって満身創痍の状態で極限状態の中、任務に邁進し、その道中で挟まれる意外なエピソードを交える構成の作品が私にとってのマクリーン作品なのだろう。 しかしそのような先入観を持たず、まっさらな心で次作も手に取ることにしよう。免疫が出来ていればいいのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
デビュー以来戦争物を書き、冒険小説作家としての地位を不動のものとしたマクリーンが4作目で書いたのはスパイ小説。ロシアに囚われた弾道学の権威である博士をイギリスに取り戻す任務を与えられた特別工作員マイケル・レナルズの物語だ。
しかしこの特別工作員レナルズ、最初に説明があるようにあらゆる感情に左右されずしかも格闘術に長け、人殺しの技を身に着けた危険な男とされているが、協力者ジャンシの部下サンダーに致命的な一撃を与えるものの、びくともしないし、博士と接触した時は盗聴器に気付かずにそれが元で作戦成功に大きな打撃を与える困難を生みだし、さらにジャンシの娘に惑わされたりと、どこが凄腕のスパイなのか解らないほど、間が抜けているのだ。しかも幾度となく彼の前に現れるAVOことハンガリー秘密警察の一員である巨漢のココとの最後の対決では打ちのめされ、サンダーにいいところを持って行かれてしまう。 これが不屈の魂で満身創痍の中、人間の極限を超えて任務を遂行した『女王陛下のユリシーズ号』や『ナヴァロンの要塞』を描いた作者によって創作されたヒーローとはとても思えないのだが。 かえって不屈の魂を垣間見せるのがレナルズの協力者ジャンシだ。 ウクライナ国民軍の司令官であった彼は母と姉と娘と、そして妻を喪い、さらに拷問に次ぐ拷問の日々を耐え、両の掌はもはや原形を留めぬほど変形しているが、そんな人生を歩みながら人類みな兄弟とばかりに人間を狂気に追いやる政府と宗教と、そして犯したその人の罪を憎むさえすれ人そのものには温情を抱く。さらに刑務所で敵の陥穽に嵌り、これまでにない精神崩壊を招く自白剤を摂取されながらも強靭な精神でそれを耐え抜き、軍門に陥ろうとするレナルズを叱咤激励する心の強さを持つ男だ。 彼こそマクリーンが描いてきた極限を超える負荷を与えられながらも明日を信じて乗り越えようとする男の肖像だ。 しかも彼ジャンシの両手に刻まれた凄惨な傷痕は彼の昏い人生を行間で語らせている。して実際に彼が受けた仕打ちは残酷ここに極まれりと云うべき極悪非道の所業がこれでもかこれでもかと語られる。およそ人間が思いつく限りの、いやそれ以上の拷問方法だ。 最近昔のヨーロッパ諸国のスパイ小説を読む機会が増えたのだが、こういう歪んだ社会の構図が生み出した、この世界の歴史の暗部の惨たらしさには心底震えあがらせられる思いが読むたびにする。 しかし今回は久々に苦痛を伴う読書だった。というのも、ハンガリーとロシアの極寒の地の中で時には敵の追手をかいくぐりながら博士奪還のために吹雪の中を疾駆する列車の屋根に上り、連結器を外すというアクションも盛り込みながらも、ところどころに挟まれるジャンシがレナルズに語る政治論が実に濃密過ぎて物語のスピード感を減速してしまったのは否めない。この内容の濃さはほとんど作者マクリーンが抱く政治論そのものであろうが、3ページに亘って改行も一切なく語られてはさすがに疲れを強いるものであった。 マクリーン初のスパイ小説ということもあって作者の独自色を出すための構成なのかもしれないが、国家の原理原則論についてこれほどまでに弁を揮うとなると、もはや小説ではなく大説である。作家としての気負いが勝ってしまったのかもしれないが、これはいささかやり過ぎ。この手の主張は小説ではなく、また別のノンフィクションなどで語るべきだろう。 次作はマクリーンらしい人間ドラマと我々の想像を絶する逆境の中で極限状態に陥りながらも歯を食いしばり、自身の教義を貫いて使命を果たす迫力ある小説であることを望みたい。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
ルブランと云えばやはり怪盗紳士ルパンシリーズが最も有名だが、本書はノンシリーズ。しかもSF長編だ。
ある時突然発明家の研究室の壁に現れた3つの目のような三角円。まるで生身の目のように脈動するそれは歴史上の有名な出来事を映画のように映しだす。 この3つの目を巡って金儲けを企む輩が現れ、博士は殺害され、彼の代子の女性もさらわれてしまう。 この不思議な現象は博士の長年の太陽熱に関する研究の副産物でありながらも金を生む卵となりえたのだが、同時に悪党どもの群がる餌にもなってしまったことを考えると災いの種でしかないように思える。 この歴史上のシーンを再現する3つの目の正体はある若き技師の手によって暴かれる。 しかしこの荒唐無稽さも21世紀の今に照らし合わせてみるとあながち人智を超えた発想ではないことが分る。 こんな理論を1920年に想像していたルブランに驚愕せざるを得ない。そして本書が訳出された1987年当時でも本書の突飛な発想に読者や書評家は理解する頭を持っていなかったのではないだろうか?そんなことを考えると本書は実に早すぎた書なのだと云える。 本書の物語はこの3つの目を核にしてその秘密を乗っ取ろうとする悪党どもと発明した博士の代子である娘と主人公である東洋学者がせめぎ合う冒険活劇となっている。やはりルブランはルパンの手法をSFでも用いているのだ。 しかしだからいわゆる一般的なSFとはどこか味わいが違う。ルブラン作品には欠かせない主人公とヒロインの恋物語も盛り込まれており、それがバランスよく溶け合っていればいいのだが、どうもごった煮のような印象しか残らなかった。 この物語を語るにはどうしても奇異な3つの目に興味が行きがちだが、一方でその目が映し出す歴史上の出来事や過去の世紀に生きた人々の営みが実にリアルに、生き生きと活写されていることにも注目しておきたい。ルブランはSFの手法を用いて、歴史をリアルに映し出すことに挑戦しているのだ。 しかしドイルも数々のSF長短編を著しているが、ホームズシリーズに匹敵する人気を誇り、今なお読み継がれているルパンシリーズを著したルブランもまた同様にこのようなSF作品を残していたのは決して驚くべきことではないだろう。 しかしドイルのSF作品は未知なる存在との戦いや恐怖を描いた作品が多く、至極単純な構図であるのに対し、本書は上にも書いたようにルブランならではの創作手法を取り入れたことでもやもやとした読書感が残ってしまう。特に3つの目の謎を解き明かす手法として技師の研究論文という体裁で15ページも亘って説明しているのは小説としてのバランスの悪さを感じてしまう。 ルブランの描く物語は単純なジャンル小説に留まらず、恋あり冒険あり活劇ありと読者を愉しませる要素を惜しげもなく投入するところに魅力があるのだが、本書は逆にそれが仇になってしまったようだ。 しかし21世紀の今でこそ解るルブランの先見性も垣間見られ、なかなか捨て難い作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
1961年に発表された本書の舞台は1907年のイギリス。しかもHM卿やフェル博士と云ったシリーズ探偵が登場しないノンシリーズのミステリ。
物語の主人公、つまり探偵役はデイヴィッド・ガースと云う最近売り出し中の精神科医。さらに副業で覆面作家「ファントム」を名乗り、ミステリをシリーズで出版している。 そして彼と張り合うように捜査を担当するのはトウィッグ警部。ネチッこい尋問と勿体ぶったやり口が鼻につく嫌な警官だ。 物語の中心となる謎は2つ。1つはセルビー大佐の家政婦であるモンタギュー夫人の首を絞めていた女性は地下室に逃げ込み、いかにしてそこから脱出したのか? もう1つは砂浜に囲まれた脱衣小屋で起きた殺人、しかし周囲には犯人と思しき足跡がなかったという物。 この2つの謎に関わる女性が本書のヒロインであるベティ・コールダーの姉であり、数ある男と浮名を流しては財産を略奪する悪女グリニス・スチュークリーだ。 まず引き潮の只中で周囲が濡れた砂浜に覆われた家の中で女性を殺した犯人は周囲に足跡を残さずにいかにして犯行を実行したのかという謎は『白い僧院の殺人』の変奏曲のように感じる。 犯人だけを見れば実にシンプルな事件だが、ただこの真相は実に複雑すぎる。 そして本書でなぜHM卿やフェル博士と云ったシリーズ探偵を使わずにデイヴィッド・ガースという精神科医を探偵役にしたのかは真相が明らかになって初めて分る。 しかし未読の方に注意していただきたいのは本書を読むにはある条件を満たしておく必要があることだ。 それはガストン・ルルーの『黄色い部屋の謎』を読んでいること。なぜなら本書ではその真相が詳らかに明かされているからだ。本書では『黄色い部屋~』の謎解きが真相解明に一役買っているように語られるためだが、正直ここまで他の作家の傑作と云われている作品の真相をここまで詳しく書く事はミステリの作法として正しいのかが甚だ疑問だ。 とにかく場面転換が唐突過ぎて戸惑う事しきりだ。行動していたかと思えばいきなり回想シーンに入って昔のことを語り出すし、会話をしていたと思えば、これまた突然の電話や来客で打ち切られ、結局何をしていたのかが分らなくなる。ストーリーを時系列的に追うのにかなり困難だった。 かてて加えて真相の複雑さ。これは二度読みが必要なのかもしれない。 今回なかなかハヤカワ・ミステリ文庫で復刊されないことに業を煮やして図書館に所蔵されていたポケミス版で読んでみたが、訳や仮名遣いが古く感じたので、カーの新訳出版が続く現在、今度はぜひとも新訳で読みたいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|