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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数85件
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コナリー31作目の本書は久々のボッシュシリーズ。前作に引き続きサンフェルナンド市警の予備警察官として無給で働いている。
御年65歳のボッシュが相手にするのは過去。彼が30年前に逮捕した強姦犯が最近のDNA調査により他の強姦犯の精液だったことが判明し、逆にボッシュが損害賠償請求の的になる恐れが生じる。その金額は7桁にも上る見込みで大学に進学中のマデリンを養うボッシュにとって破産宣告とも云える仕打ちが待ち受ける。 いやはや65歳と云えば日本では定年延長も終える年だ。長年働き、社会に尽くしてきた終末の時に逆に自分の仕事で訴えられ、そして余生を生きることもできなくなるような多額の賠償金を背負わされそうになるとは作者コナリーはボッシュを年老いてもなお窮地に陥れる筆を緩めない。 そんなボッシュの許に知らされるのはショッピングモールにある薬局で起きた経営者親子殺害事件。今まで過去の未解決事件ばかりを捜査してきたサンフェルナンド市警にとって久々の殺人事件だ。周囲をロサンジェルス市に囲まれたわずか6.5万km2の自治体サンフェルナンド市。このことからもボッシュが送られてきた市が犯罪都市LAの中でも比較的平穏な場所であることが解るというものだ。 さてまずボッシュにいきなり災厄が降りかかる。 30年前に逮捕した強姦犯プレストン・ボーダーズは当時売れない俳優であったが、そんな俳優の卵にありがちなバイトで生活費を稼ぎながら日々オーディションを受けるような苦労人ではなく、両親からの仕送りで生活しており、さらにクレジットカードの請求先も親の口座という、親のすねかじりのお坊ちゃんだ。 一方彼が殺害したとみられたダニエル・スカイラーは妹ダイナと共にフロリダのシングルマザーに育てられ、地元の美人コンテストでの成功とハイスクールの舞台での称賛から女優を目指してハリウッドに出てきた女性。レストランのウェイトレスをしながら日々際限なくオーディションを受けては落ち、受けては落ちを繰り返し、片手で足りるほどの端役での出演をしただけ。しかし彼女の精力的な活動により幅広い人脈が出来、キャスティング・エージェントの受付係の職を得る。 そんな凡百の苦労人である彼女が無残にレイプされ殺された事件だ。 彼の有罪がひっくり返される結果になったのはボーダーズの証拠品を収めたボックスに入っていた被害者のパジャマのズボンから容疑者のDNAではなく、ルーカス・ジョン・オルマーという他の連続強姦犯のDNAが見つかったためだ。しかも証拠品のボックス開封の模様はビデオに収められており、ボッシュのサイン入りの封印が解かれるのもバッチリ映っているという堅牢さ。 そしてその結果、ボーダーズ違法拘束の申し立ての審理が行われ、和解交渉中だが、それが決裂すれば当時ボーダーズを逮捕し、ムショに送ったボッシュを訴追でき、彼は7桁の賠償金を支払う羽目に陥る。 通常ならば市法務局が糾弾される一個人を保護しようとするが、ボッシュはロサンジェルス市と不当退職の訴訟を起こして莫大な賠償金をせしめたことでそんなことはありそうになかった。そうまたもボッシュは自身の行った正義のために自縄自縛状態になる。 もう1つはショッピングモールの薬局で起きた経営者親子殺害事件は捜査が進むにつれて次第にスケールが大きくなっていく。 そしてその捜査の過程でかつての相棒ジェリー・エドガーと再会する。彼は薬事犯罪の現状を調査するMBCの職員に転職しており、ボッシュとそのパートナー、ルルデスに事件の背後に潜むアメリカ全土に亘る一大薬物犯罪の実情について説明し、サポートする。 そしてボッシュはなんと薬物依存症者に扮して囮捜査員になることになる。それはボッシュが65歳という高齢であることが条件に合致したからだ。 いやはやまだまだ走って戦う姿を見ていただけになかなか意識されなかったが、世間一般ではボッシュは既に高齢者であるのだ。 しかしまだ若いと思っているボッシュは何度も年寄りのように見られることにムッとしだすのが面白い。 しかしいつの間にボッシュシリーズはディック・フランシスの競馬シリーズのような題名をつけるようになったのだろうか。 前作『訣別』に引き続き、本書は『汚名』である。これは今回ボッシュが直面する30年前の事件が冤罪の疑いがあり、ボッシュがその件で訴追される恐れがあることを示しているのだろう。 原題は“Two Kinds Of Truth”と実にかけ離れた邦題である。これは作中に出てくる2種類の真実を意味する。1つは人の人生と使命の変わらぬ基盤となる真実、もう1つは政治屋やペテン師、悪徳弁護士とその依頼人たちが目の前にある目的に合うよう曲げたり型にはめたりしている可塑性のある真実を指す。つまり前者はありのままの真実であり、後者は全てを明らかにせず都合のいい真実だけを並べた恣意性の高い真実、つまり「嘘は云っていない」類の真実だ。 こうやって考えるとやはり本書の題名は原題に即してせめて『それぞれの真実』とか『真実の別の顔』とかにならなかったのだろうか。まあ、後者はシドニー・シェルダンの小説の題名みたいだが。 しかし今まで古今東西の薬物事件を読んできたが、とうとうアメリカはここまで来たかという思いを抱いた。 ウィンズロウは社会に蔓延する麻薬を売りさばく側を描いているのに対し、コナリーは薬物を売りさばく方に利用され、廃人にさせられていく薬物中毒者を色濃く描いている。特にボッシュ自身を囮にして詳細にシステムの一部始終を描いている件は迫真性があり、本書の中盤のクライマックスシーンと云えるだろう。 またその囮捜査の過程でボッシュは自身が囮捜査員になるのを避けていた理由に直面する。 通常の捜査は犯罪は行われた後であり、犯人を捕まえることで己が成した正義を実感できるが、囮捜査は自身が仲間であると演じる必要があるため、犯行が目の前になされても捜査継続のために看過せざるを得ない。それは悪を一刻も早く排除したいボッシュにとっては耐えがたきことなのだ。 さて結局本書でボッシュは結局3つの事件を解決する。 齢65歳にして八面六臂の大活躍を見せるボッシュ。 ボッシュに定年退職はあっても引退はなく、一生刑事であり、そして昼夜を問わず寝食も頓着しない全身刑事であり続けるだろう。 そしてボッシュは今回それらの事件で数々の世の中の不条理に直面する。 信念に基づいて強姦犯を突き止め、有罪にもこぎつけたにも関わらず、己の私欲のために証拠を捏造して誤認逮捕の汚名を着せられる世の中。 人生は皮肉に満ちている。 これまで刑事として数々の割り切れなさ、遣り切れなさを経験しながらもボッシュは改めて人間というものの恐ろしさ、そしてそれぞれの欲望が招いた業の深さを思い知る。 本来生きるべき者が死に、また報われていい働きをした者が謗られる世の中の不条理。企業が嘘をつき、大統領までもが嘘をつく今のアメリカ。そんな不条理の中で未だに己の正義に愚直に生きる気高きヒーローのためにボッシュはまだ戦う決意を固める。 そして実感されるのは時は確実に流れていることだ。 30年前の事件に自身の立場を追われそうになり、さらに15年間行方不明の母親が見つからずにいる一方でかつてボッシュが所属していたハリウッド分署に殺人担当部署はなくなり、ウェスト方面隊の刑事が所轄の殺人事件を担当する。 そしてかつての相棒ジェリー・エドガーも転職し、カリフォルニア州医事当局に勤め、薬剤の消費者問題の担当になっている。 そんな長き時を刑事として生きてきたボッシュが自分の正しい道を歩んできたことを上司のトレヴィーノに称賛されて顔を赤らめるボッシュの姿は、今まで一匹狼として誰にも称賛されずに生きてきた茨の道の長さを感じさせ、可笑しいやら悲しいやら複雑な思いを抱かせる。 今回製本上の都合か訳者による解説と未邦訳作品を含めた作品リストが付されていなかったが、ボッシュは本書の後に発表された2作でも登場し、なんと両作において『レイトショー』に登場した女性刑事レネイ・バラードと共演するそうだ。 本書はコナリー31作目の作品である。これほどの冊数を出しながらもこのハイクオリティ。 そしてさらにそのクオリティを次も凌駕しようと魅力的なアイデアを放り込んでくるコナリーの創作意欲の高さと構成力の確かさにはファン読者になったことへの喜びを常に感じさせてくれる。 あとは訳出が途切れぬよう一読者として願うばかりだ。彼の作品を読み続けるためなら身銭を払って買うだけの価値があり、見返りはある。 ボッシュが一生刑事なら私も一生コナリーファンであり続け、彼の作品を買い続けよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2018年の海外ミステリランキングを総なめにした『カササギ殺人事件』はフロックではなかったことを証明したのが本書である。本書もまた2019年の海外ミステリランキングで4冠を達成した(因みに『カササギ殺人事件』は7冠)。
本書の最たる特徴は作者アンソニー・ホロヴィッツ本人が登場することだ。 しかもカメオ出演などではない。作者と同姓同名の探偵などでもない。 ホロヴィッツが作者自身として登場するのだ。従って読んでいるうちに奇妙な感覚に囚われていく。 果たしてこれはドキュメントなのかフィクションなのか、と。 まず物語の発端でホロヴィッツはこの事件に関わったのがコナン・ドイル財団から依頼されたホームズの新作長編『絹の家』を書き終えた頃となっている。元々ホームズの熱烈なファンであることもさながら、それは少年冒険小説作家から脱却しようと考えていた時のオファーだったことでよい起爆剤になると思ったのも依頼を受けた理由の1つだったとされている。それは年齢的に子供向けの小説を書くのが困難になってきた事もあり、少年スパイ、アレックス・ライダーシリーズもそろそろ幕引きの頃合いだと考えていたとある。 そしてそのタイミングでスティーヴン・スピルバーグがプロデューサーとなり、ピーター・ジャクソンが監督で『タンタンの冒険2』の企画が進行しており、ホロヴィッツがその脚本家に抜擢されて打合せしたりする。 しかもその打合せの場にホーソーンが乱入して、ホロヴィッツを被害者の葬儀に駆り出す。 被害者の1人、俳優のダミアン・クーパーが通っていた王立演劇学校でホロヴィッツは『刑事フォイル』の主人公フォイル役を務めたマイケル・キッチンの役作りのエピソードもあれば、本書に登場する俳優の1人は『パイレーツ・オブ・カリビアン』でオーランド・ブルームが射止めたウィル・ターナー役を惜しくも逃したと話す。 このように作家自身が登場し、更に自身が手掛けたドラマのアドバイザーの元刑事と共に事件を追う本書はそんな現実とも創作とも判断の着かない世界の狭間を行ったり来たりするような感じで物語は進んでいく。これが読者に実話なのかもと錯覚を引き起こさせるのだ。 特に作者が死体を目の当たりにするシーンなどは実にリアルだ。 例えば殺されたばかりの死体が死後硬直が進むにつれて声帯も硬直し出して呻き声のような音を発するといった描写は実に生々しいし、実際に見てきたかのような迫真性がある。 従って本書の探偵役を務める元ロンドン警視庁の刑事で今は顧問をしているダニエル・ホーソーンも実在しているのか、もしくは作者による創作なのか、終始曖昧なままで進む。 何しろホーソーンと知り合ったのはホロヴィッツが脚本を手掛けたドラマ『インジャスティス』のアドバイザーになった時だ。 このドラマは実在するため、ホーソーンも果たして実在するのか? そしてこのホーソーンは一言で云うならば、マイペースなイヤなヤツだ。正直云って自ら進んで関わり合いたいと思わない人物だ。ホーソーンと共に行動する主人公の作家ホロヴィッツの心の動きが面白い。 例えば彼の元同僚でクーパー夫人殺しの事件の指揮を執るメドウズ警部はホーソーンがロンドン警視庁の中でも一匹狼であり、一緒に仕事できる刑事はいなかったと述べる。そして彼は独自の勘と捜査方法で勝手に進め、結局最終的に彼のやり方が正しかったことを思い知らされるのだと。 そしてまだこの犯罪実録を書こうか迷っているところにホーソーンは1冊目のタイトルは何にするかとシリーズ化まで考えていることを話し、今後もこんな仕事をさせられるのかとゾッとする―ちなみに題名の付け方についてホロヴィッツが007シリーズのタイトルの付け方が一級品であるとイアン・フレミングを称賛しているのが興味深い―。 更にホロヴィッツは途中で他の作家と組んでりゃ良かったとまで貶される。ホーソーンが複数の作家に自分の自伝を書く企画を持ち込んだが悉く断られたことを明かすのだ。 しかしそこまでされてもホロヴィッツは彼が有能で頭の切れる人物であると認めている。 頭の回転の速さ、正直者と思われた掃除婦がこっそり夫人のお金を盗んでいたことを見抜き、消えた猫についての推察も見事だ。 それはまさに長年積み上げてきた刑事の観察眼とそれを結び付ける直感に長けているからだ。 だから幾度となくホーソーンの性格の悪さを、同性愛者に対する率直なまでの嫌悪を目の当たりにしてその場を立ち去ろうと、受けた仕事を断ろうと思うが、結局ホロヴィッツはその場に留まる。 彼は逡巡しながらも彼の追う、自らの葬儀の手配をしたその日に殺された資産家夫人の事件の捜査の過程と明かされる真相への興味に抗えないからだ。それはまさに作家としてのジレンマであり、性(さが)だろう。 そして彼はこう考えることにする。 この決して人好きのしない元刑事の為人を観察して理解しようと。 つまり探偵自身を探偵することを決意するのだ。 私は『カササギ殺人事件』を「ミステリ小説をミステリするミステリ小説」と評したが、やはりその観点は間違っていなかったとこの一文を読んだ時に確信した。 ホロヴィッツはミステリそのものに興味を持っているのだ。つまりミステリ自身が持つ謎を。 だからこそそれ自身について探偵するのだ。 『カササギ殺人事件』がミステリ小説そのものに対してであるのに対し、本書は探偵役そのものに対して。 また一方でホロヴィッツはミステリ作家の端くれとばかりに自身も事件について推理し、ホーソーンに先んじようとする。 犯人が判明してからはとにかく伏線回収の応酬だ。 ホロヴィッツの許を訪れたホーソーンが語る事件解決に至るまでの彼の推理で作者が周到に犯人を示唆する伏線と手掛かりを散りばめていたことが明らかになる。 この回収は『カササギ殺人事件』でも見られたが、毎度のことながら、よくもまあここまでと感心させられるし、読者が伏線・手掛かりと気付かないほどそれらはさりげなく物語に記述されているのが解る。 本格ミステリのケレン味を感じさせ、感嘆させられた。 登場人物の陰影などもしっかり描き込まれており、余韻を残す。 一方で『カササギ殺人事件』同様に読者が一定の教養を持っていないと解らない伏線もある。 私が本書を読み終わった時、正直年間ランキング2年連続1位獲得するほどの作品とは思わなかった。 確かに上に書いたように最後に畳み掛けるように明かされる伏線回収の美しさは海外ミステリ作家には珍しいほど本格ミステリの端正さを感じさせるし、ホーソーンとホロヴィッツが苦手意識を持ちながらも時に親近感を持ちながらやり取りし、事件解決に向けて関係者を渡り歩く様など昔ながらのホームズ&ワトソンコンビのような妙味もある。 しかしこのホームズシリーズの手法に則った本書だが作者自身が語り手を務めることに対して何か仕掛けがあるのではないかと思っていただけに、案外すんなりと物語が閉じられたことになんだか肩透かしを食らったような感覚を覚えてしまったのだ。 先にも書いたが本書は作者本人がワトソン役を務め、探偵を探偵するミステリである。つまりダニエル・ホーソーンとは一体何者なのかを明かすミステリでもある。 しかしそれだけでは何ともこの小説が年間ランキング1位を獲るだけのインパクトには欠ける。なぜ本書が斯くも賞賛を持って迎えられたのか? それはやはり日本の書評家たちが自分たちの住まう世界の話が好きだからではないか。 『カササギ殺人事件』も英国のミステリ作家の世界を描いた作品である。実在の人物まで出演して物語に関わってくるし、そして何よりもクリスティ作品の良きオマージュとも云えるアティカス・ピュントシリーズ最終作が丸々1冊入っていること、そしてそれ自体が物語のトリックにもなっている事など実に精緻を極めた作品だった。 本書は英国ミステリ作家ホロヴィッツ自身が語り手を務めることで英国ミステリ文壇の内輪話や作家の創作方法や心情について生々しいまでに吐露されている。 こういう作家稼業の内輪ネタが日本の書評家には堪らなく面白いのだろう。それが本書が称賛を以て迎えられた大きな理由ではないだろうか。 しかし本書の一番の魅力はやはりこの一言に尽きるだろう。 この話、どこまで本当なの? ホロヴィッツがこの質問をされた時、恐らくはニヤリと笑ってこう答えるのではないだろうか? 「それはみなさんの想像にお任せします。なんせ本書の『メインテーマは殺人』なのですから」 ▼以下、ネタバレ感想 |
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第4回日本ホラー大賞受賞作で貴志氏の本質的なデビュー作となり、そして映画化もされた本書。
ホラーと云えば怪異現象、超常現象を扱った物が多い中、保険会社員が顧客の訪問先で子供の首吊り死体に出くわし、更にその保険金を巡って遺族であるその両親との陰湿で執拗な催促に取り乱される、そんな風にストーリーの概要を理解していた私 本書は正真正銘のホラーである。それもとても他人事は思えないほどの迫真性を孕んだ怖さがある。それはどこかにはいるであろう、少し変わった隣人が本書の元凶であるからだ。 まず題材が実に一般的だ。怪我や入院、そして人の死を日常的に取り扱う保険会社が舞台。 自殺した子供の保険金を巡ってその両親との確執にて主人公に降りかかる災厄が本書の内容で、従って物語の細部に保険会社の業務や保険業界の裏話などが丹念に織り込まれており、非常にそれが読み応えのある内容となっている。 主人公の若槻慎二は入社当初は東京本社の外国債券投資課に配属になり、投資関係の仕事を扱っていたが、昨年春の人事異動で大学の時に住んでいた京都に異動になり、そこで本来の仕事である保険業務に携わるようになった。その日常はまず人の死に纏わる死亡保険金の請求書類といった類の書類のチェックから始まる。彼は入社5年しか経っていないが、早くもそんな暗鬱な内容で業務が幕を開ける保険会社の仕事に嫌気が差してきている。 次から次へと送られる保険請求の書類の詳細な内容のチェック、保険の窓口にいつもクレームを付けに来る客への対応の仕方、自殺で保険は下りるのかといった一般人が抱くような疑問に対する応対、わざと異なる印鑑を持ってこさせ、貸付が断られると、そのことで手形が不渡りになって会社が倒産したと賠償金を請求されたり、または交通事故でムチ打ち症でずっと入院して給付金を貰い続けて、期限が切れそうになると新たな症状で診断書を書いてもらって更に延長する、病院とグルになって詐欺を行う者、また一方でそんな詐欺に対抗すべく保険会社でも「潰し屋」と呼ばれるヤクザまがいの人間を雇っていたりすること、毎年11月は『生命保険の月』と云って過大なノルマが課され、それによって審査のチェックが甘くなること、などなど、生命保険会社に勤務していた作者が知る業界の内輪ネタに事欠かない。 そんな保険会社の裏事情が放り込まれ、我々読者の眼前に本書メインの事件の発端となる主人公若槻への災厄の始まりを告げる事件が幕を開けるのは物語が始まって70ページが過ぎてから。それは副長の葛西が受けた1本の電話が若槻を指名したことから始まる。 自分を名指しで指名してきた顧客。しかしその菰田幸子と重徳という名前には心当たりが全くない。不思議に思いながら家を訪ねてみると嵐山付近という高級住宅街にありながら周囲に全くそぐわない黒い家で荒れ放題で中には異臭が漂っている。案内されるとなんとそこで…。 恐らくはこのショッキングな展開もまた生命保険会社時代に聞いたエピソードの1つであろう。それを貴志氏はサイコパスと結び付け、ホラーへと昇華させたのだ。 つまり自分の顧客が次から次へと身内を殺し、また傷をつけ保険金を請求するサイコパスであった。本書はこのワンアイデアのみと云っていいだろう。 しかし物語はシンプルなものこそ面白い。本書はまさにそれを具現化した作品だと云える。 公共の場での対面が対会社ではなく一個人を標的にしてどんどん私生活へと侵入してくる怖さがここにはある。 作者は真綿で首を絞めるように主人公若槻を、読者を恐怖の底へと導く。 そんな具合に実に計算尽くしで書かれた本書は、日本ホラー小説大賞の受賞作であることから、その内容はいわゆる賞を獲るために必要不可欠な小説の要素が教科書通りに放り込まれていることが解る。 まず作者自身が生命保険会社に勤務していた強みを活かし、保険業界のエピソードをふんだんに盛り込み、その業界ならではの内輪話、蘊蓄で読者の興味を惹きつけながら、更に忌まわしい過去を設定している。 主人公若槻はあるトラウマを持っており、そのトラウマが顧客に対して不信感を抱き、調べる原動力となっているのだ。 原因と結果という因果をきちんと設定し、物語を淀みなく進める磐石さを持っている。 更に物語に心理学、生物学などの専門知識を放り込み、読者の知的好奇心を刺激し、次から次へと事件を連続させ、ページを繰る手を止めさせない見事な筆捌きを見せる。 もう、受賞のためのファクターが過不足なく盛り込まれており、戦略と戦術を立てて応募されたことが如実に判るのである。 そんな作者の恣意的な創作作法が見えながらもやはり本書は実に面白い。あざとさの一歩手前で踏み止まるバランス感覚に優れているのである。 しかし保険業界とはまさに世に蔓延る魑魅魍魎共を相手にするような職業であることが本書でよく解る。お金が人間の欲望と直結して駆り立てるものであるがために人の生死をお金で取引するシステムに人はどうにか旨い汁を吸ってやろうとたかるのだ。 また生保業界も契約を取れれば天国、取れなければ虫けらのように扱われる極端な成果主義となっていることも慈善事業ではなく金満事業となっている歪みが生じているのだ。 本来突然の死に見舞われた時に遺された者が安心して生活を続けられるように作られたシステムであるのにそこに蓄えられた金をどうにか騙して手に入れようとする詐欺師たちが横行するからこそ保険会社もまた支払いにはより一層慎重となり、そしてなかなか支払いが行われなくなるのだろう。 通常その業界に身を置いている者はそういった業界の特異な状況が常識となり、奇異に感じなくなってくる。 しかし貴志氏は保険業界に身を置きながらも一般人の感覚を持ってそのおかしさ、恐ろしさに気付いたのだ。そして彼は自分たちの日常業務こそホラーそのものだと発見したのだ。 但しそれでもまだ小説としては疵も目立つ。 前作『十三番めの人格―ISOLA―』でも気になった男女の関係の書き方だ。若槻慎二と黒沢恵の2人の関係がなんとも稚拙すぎる。 繊細で傷つきやすい性格である黒沢恵が菰田幸子に襲われ、危うく一命を取り留めた後、両親に庇護されることについて自分を2人の思い通りに動く人形のようにならないと決意するくだりがあるが、これも思春期の子の台詞ではないかと思ったくらい成熟味がない。また若槻が彼女を欲するあまりにその思いをぶつけるのもいつの頃の話だと思ったくらいだ。 この辺の男女関係の機微をもう少し違和感なく書くと引っかかることはないのだが。いや寧ろ物語の彩りのために無理矢理恋愛のエピソードを入れる必要もないのだ、物語が面白くさえあれば。 第1作目が多重人格、大賞受賞の第2作の本書がサイコパスと貴志氏がホラーの題材として選んでいるのは常に人間そのものが持つ怖さだ。その後の諸作のテーマを見ても常に作者が人間の心に潜む悪意や宿る狂気に目を向けてその怖さに注目しているのが解る。 本書はまさに受賞するための法則に則って書かれたような教科書的作品であり、怖さを感じる反面、その端正さが逆に気になった。 しかし受賞する目的のために書かれた作品は本書にて終わった。これ以降の作品は貴志氏が思う存分自分の書きたいテーマを扱い、型にはまらない面白さを追求した作品があると信じたい。それまで5つ星の評価はとっておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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リンカーン弁護士シリーズも5作目を数えるようになった。前作『証言拒否』では民事訴訟を扱い、最後は地方検事長選に出馬するとの決意表明をして物語は閉じられた。
本書はその選挙の1年後に当たる。結局ハラーは選挙には破れ、再び刑事裁判を扱うようになった。いわば振出しに戻ったような形だ。 今回ハラーが扱う事件はアンドレ・ラコースというデジタルポン引きの殺人容疑の弁護で、奇妙なことに彼は殺害された娼婦当人からハラーが優秀な弁護士だと勧められたという。そしてその娼婦の名はジゼル・デリンジャー。ハラーは全く心当たりがなかったが調べていくうちにかつての依頼人グローリー・デイズことグロリア・デイトンであることが判明する。 私はこの名前をかすかに覚えていた。第1作『リンカーン弁護士』の中で麻薬所持で起訴されそうになっていたのをハラーによって助けられた売春婦でトラブルメイカー的な存在として書かれていた。そしてその後ハワイに送ってそこで過去と断ち切った生活を送っていると思われていた女性。しかし彼女は名を変え、アメリカ本土に戻り、また売春婦の仕事をしていた。 それがきっかけでハラーはラコースの弁護を引き受けることになる。そして調査を進めていくうちにこのラコースが無実であり、嵌められたことが明らかになってくる。グロリアが麻薬取締捜査官ジェイムズ・マルコのタレコミ屋、そして手先として飼われていたことが明らかになる。そしてグロリアによって身に覚えのない火器を自分の物だと証拠づけられ、終身刑で服役することになった麻薬王ヘクター・モイアの存在も浮かび上がりつつも、事件はこのマルコによって仕組まれた罠だったことが判明する。 つまり法の番人である麻薬取締局が今度の相手という巨大な相手をハラーはしなければならなくなる。 コナリーの作品の特徴の大きな1つとして過去の作品の因果が新たな事件に大きな要因として作用してくることが挙げられるが、今回もまたその例に漏れない。 上に書いたようにグロリアの初登場シーンは麻薬所持で起訴をされそうになったところをハラーに助けを求めるシーンだ。つまりグロリアは既に麻薬取締局の手先になっていたことが仄めかされている。 この何気ないエピソードの1つでこのような壮大な物語を描くコナリーの着想にまたもや唸らされた。 そればかりでなく、今回は原点回帰であるかのように第1作の登場人物がやたらと出てくる。 まずハラーの元調査官で事件の調査中に殺害されたラウル・レヴンの名。その名を想起させたのはその事件を当時捜査していたグレンデール市警殺人課の刑事リー・ランクフォードが再登場する。彼は刑事を辞め、検察側の調査官となっており、ラコース事件を担当する検察官ウィリアム・フォーサイスの調査官となり、ハラーの前に立ち塞がる障壁という重要人物になっている。 また運転手も2作目で雇われた元サーファー、パトリック・ヘンスンではなく、1作目に登場したアール・ブリッグスだ。彼は今回運転手以上の働きを見せ、ハラーのミーティングにも参加するようになる。 そしてハラーが1作目に使っていた保釈保証人フェルナンド・バレンズエラも登場する。 なぜこれほど1作目の登場人物が登場するのか? それはハラーが前作の最終で立候補した地方検事長選に敗れたことに起因する。一旦は弁護士から検事の側へ移ることを決意しながらも叶わなかったハラーは民事弁護士ではなく再び刑事弁護士として再出発する。そしてこの地方検事長選の敗北で被った被害がハラー自身に留まることではなかったことも明かされる。これについてはまた後で述べよう。 一方でこれまでのシリーズで新たに加わったメンバーも更にキャラクターが濃くなり、シリーズとしての醍醐味も増してきた。 頼れる調査官シスコはもうハラーには無くてはならない存在でその有能ぶりを遺憾なく発揮する。高度な調査能力と腕っぷしを誇る彼はしかし、裏切者を容赦なく制裁する麻薬カルテルのボス、そして自分の利益のためならば無実の人でさえ罪を着せる冷酷な悪徳捜査官を相手にする今回の裁判で妻ローナはこの屈強な夫もラウル・レヴンのような危難に遭うのではないかと心配する。それはラウル殺害事件を捜査したランクフォードの登場が起因しているのだろう。 そしてブロックスことジェニファー・アーロンスンもハラーの片腕として申し分ない一人前の弁護士となっている。ハラーも自分を超えるのもさほど遠くないと云わしめるほど頼りになる存在だ。 そして今回初登場のデイヴィッド・“リーガル”・シーゲルを忘れてはならない。彼はハラーの父親の弁護士事務所の共同経営者で弁護の戦略を立てていた人物であり、またハラーの弁護士としての師匠でもあった。 50年近いキャリアを持つ彼はまさに生きる伝説の弁護士であり、あらゆる手法に精通した人物だ。『スター・ウォーズ』で云うところのヨーダ的存在だ。 またハラーの家族も出てくるが、あまりよろしくない状態となっている。 ボッシュとマデリンの親子がシリーズを経るにつれ、信頼を深めている一方、ハラーとヘイリーの親子関係は悪化の一途を辿っていることが書かれている。ヘイリーは悪人を弁護する父親の職業に嫌気が差し、またそれによって彼女自身も学校の友達から中傷を受けるようになって転校する被害を被るに至り、今まで隔週で水曜日と週末にハラーの家に泊る取り決めも事実上なくなっていた。更に地方検事長選で落選したために、ハラーを支援していた元妻のマギーは文書整理担当という閑職に追いやられ、心機一転ヴェンチュラ郡地区検事局に転職することになり、ますますハラーの住むLAから間遠になってしまう。 ハラーも悪人を刑務所に送り込む刑事のボッシュと悪人―といっても無実の人かもしれない人―を刑務所から釈放する弁護士という職業の自分とを比較し、その差について落胆をする始末だ。 しかしボッシュが刑事という職業に誇りを持ち、悪に制裁を加えることを使命と感じているように、ハラーも無実なのに刑に処されようとしている人を救う職業だと誇りを持って、仕事に臨めばこのような罪悪感に苛まれることはないのだ。 今回の事件でハラーが対峙する麻薬取締局捜査官ジェイムズ・マルコと彼と組む元刑事で検察側の調査員リー・ランクフォードは自分の目的のためならば平気で凶器や麻薬を仕掛け、恰もそれをターゲットの人物が所持していたかのように見せかけて不当逮捕を平気で行う悪徳捜査官だ。このような正義の名の下で自分の利己心を優先して無実の人に刑を与えようとする法の番人がいるからこそ、弁護士もまた必要なのだ。 本書は原点回帰のような作品だと上にも書いたが、それを踏襲するかのように本書ではラウル・レヴンに匹敵する犠牲者がハラーの仲間に出てしまう。 コナリーの作品には以前も書いたが3つの大きな要素がある。 1つは警察やその他捜査機関の連中が決して清廉潔白な人物ではなく、彼らもまた犯罪者になりうると謳っていること。 もう1つは娼婦が関わる事件が多い事。 そして最後の1つは過去の作品の因果が大きく作用していることだ。 正直3つ目の過去の因果については既に述べたのでここでは書かない。 やはり特徴的なのは1つ目と2つ目だ。1つ目はこの要素を作品に持ち込んだことでコナリーはいつも我々に驚きと何とも云えない荒廃感漂う読後感を与え続けていることだ。パターンと云えばパターンだが、これがまた不思議と盲点となり、そして常に苦い気持ちを抱かせてくれる。 もう1つの娼婦についてはボッシュが娼婦の息子であると云う設定から事あるごとに物語に登場する職業だと云っていいだろう。この頻度の高さは正直異常である。 前にも書いたかもしれないが、娼婦という職業を選ばざるを得なかった生活に貧窮した女性たちを描くことと、そんな社会の底辺でも逞しく強かに生きていく彼女たちを描くことでアメリカ社会の現実を知らしめようとしているようにも取れる。特に今回ハラーが裁判の調査の過程で知り合ったケンドール・ロバーツは元高級エスコート嬢から足を洗い、ヨガ教室の先生として生計を立てた女性で、過去を捨てて生きていく彼女の姿勢と美しさに魅かれ、彼は彼女と付き合うようになる。 また一方でケンドールと一緒に働き、今もエスコート嬢をしているトリナ・ラファティとの対比させることで変われる女性と変われなかった女性の有様をまざまざと見せつける。誰もがチャンスに恵まれていることではないことも現実的に突き付ける。 しかしコナリーがハラーをして娼婦のグロリアを「放っておけない女性」とし、また彼の新恋人に元娼婦を選んだのも彼なりにこの職業の女性たちにどこか親近感を抱き、そして亡くなっても歯牙にもかけられることのない彼女たちへエールを送っているのかもしれない。 さてここでちょっと話題を変えて私の心に留まったエピソードを書き留めておきたい。 ハラーによれば自身を主人公にした映画がヒットしたことでリンカーンに乗る弁護士が増えたようだ。従って自分の車がどれか解らなくなり、誤って他の車に乗り込むシーンさえもある。本当ならば実に面白いことだ。 また右脳と左脳との関係で人は自分の左手にいる人の意見に賛成するものらしい。これはちょっと試してみようと思う。 またハラーが日本酒好きになっていたことも明かされる。世界で日本酒が好まれ、現在消費が拡大しているが、まさかハラーまで飲んでいるとは。 いやこれは正確には作者コナリー自身の話ではないか。彼の写真は酒焼けしているかのように顔が赤いからかなりの酒飲みではないかと私は睨んでいるのだが。 さて本書のタイトル「罪責の神々」はハラーの父親が陪審員たちに与えた呼称だ。彼らは自分たちの生活基盤に基づいて罪を決める。従ってその判断基準は多種多様だ。いかにこの神々を説得し、納得させるかが裁判の鍵となるのだと。 それを意識してかハラーは陪審員の中のキーパーソンを意識して裁判を進める。自分の意を組む神を見つけ、そしてあるべき結果に導くようにと。 しかし今までの例に漏れず、今回の裁判も苦い結果に終わる。 しかし裁判も恐ろしいものだ。本来悪を罰するために行われる裁きが、弁護士、検事の口八丁手八丁で歪められていく様、また証拠不十分であれば罰せられない現実から、証拠を捏造して狙った獲物を刑務所に送り込もうとする捜査官も存在する。 またそれを隠匿するために麻薬を無実の人の家に忍ばせ、不当逮捕を企む。更には裁判で敗色が濃厚になると他の服役囚に襲わせ、無効化させようとする。 罪を裁くために行われる裁判が高等なロジックの上に成り立ち、また公平さを重んじるあまり、法律や規則にがんじがらめになって罰せられるべき者が罰せられず、無実の人が罪を着せられ、刑務所に送られるようになる。 手段が目的となっており、悪を征するために正義が悪を成すと云う本末転倒な社会に、システムになり、そしてそんな危険な思想が横行している。それが現代社会なのだ。 世の中全てが正しく解決されることは限らない。寧ろ現実世界はうやむやになって人々の記憶から忘れ去られる事件ばかりだ。 そんな世の中だからこそ我々は答えが出るミステリを読むわけだが、コナリーは実に現実のシビアさを突きつける。まあ、今日はこれくらいで良しとしようといった具合にはカタルシスを与えるかのように。 さてリンカーン弁護士という非常に特徴的なキャラクター設定で登場したミッキー・ハラーを通じてコナリーは時に弁護士側、検事側、刑事裁判に民事裁判と多面的にアメリカの法曹界を描いてきたが、ここに来てようやくシリーズの本流を刑事裁判に絞ることに決めたようだ。 本書の結びにはかつてのように刑事裁判を続けることへのハラーの疑問や悪を裁く側の検事長への立候補するなどと云った意外な展開、悪く云えばハラーの心情のブレがない。最後の決意表明はボッシュ同様に弁護士としての使命感に溢れ、まさに決意表明と云った感がある。 次作はまたボッシュと組んで事件に取り組むようだ。色んな犠牲の上に今の自分があると悟ったハラーの次の活躍が非常に愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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いつものように出社し、その日もいつもように仕事を終え、家に帰って家族といつものように変わらぬ会話と小言を繰り返し、寝床に就いてまた同じような朝を迎える。
そんな日常が繰り広げられるはずだったところに突然転機となる事件が起こったら、貴方はどうするだろうか? レンデルのノンシリーズ作品となる本書はそんな日常から突如切り離された4人の男女の話だ。銀行強盗がきっかけで人生が変わりゆく男女4人の人生の転機の物語だ。 イギリスで一番小さい銀行支店で働く、1人の妻とその義父、そして自分と同じくらい所得のある不動産会社に勤める息子と15歳なのに夜な夜な出歩いては、しかしきちんと門限の10時半に戻ってくる娘をもつ38歳の男アラン・グルームブリッジ。アングリア・ヴィクトリア銀行のチルトン支店に勤める銀行員。 もう一人の銀行員は20歳のジョイス・M・カルヴァという女性。どちらかと云えば自由気ままな毎日だが、それは退屈の裏返しでもある。 アラン・グルームブリッジは人生が決められたことを成すためだけに存在しているかのような平凡な男だ。 18歳の若さで結婚したのは妻パムと一夜の過ちで子供が出来たために結婚し、愛情を感じる前に一緒になった間柄。しかも妻以外の女性とそれまでに性交渉をしたことがない。お客が来たらいつでも振る舞う酒を飾っているが、そうしたことはなく、その酒を飲みたいのだが、寸でのところでいつも留まる。 庭に植えた花を愛で、詩を読むのを好み、その後は男は宵に新聞を読むものだから新聞を読み、結婚したら子供を産むものだとしたからそうした、そんな風に思っている男だ―実際は子供が結婚の動機なのだが―。 その銀行の話をあるきっかけで知り、銀行強盗を企てるのはマーティ・フォスターとナイジル・サクスビイの2人。 マーティは農業労働者の子供で母親の駆け落ちがきっかけで家を出て色んな職を転々とし、ロンドンに出てナイジルと知り合う。 ナイジルは医者の一人息子であり、長身でハンサムで見た目は教養ある青年に見えるが、将来に陰りが見えるとロンドンに出て、コミューンのようなところに潜り込み、その日暮らしをしているところをマーティと知り合った。いわば2人は人生の落伍者である。 この2人の行き当たりばったりの銀行強盗が4人の人生を変える。 ごくごく平凡な男だったアラン・グルームブリッジは灰色だった人生が一転してバラ色に変わる。 ジーパンすら履いたこともなかった彼は手に入れた金を元手に若さを取り戻すかのように今まで銀行員ゆえの常にスーツを着ていたアランはカジュアルな服装に着替え、「変身」する。 そして美術館や劇場に入り、豪華な食事を採り、行ったことのないパブで酒を愉しみ、偶然出会った女性に声を掛け、生まれて初めてタクシーに乗り、下宿人を募集していた家を訪れ、新たな生活を始める。それまでの借りを返すかのように人生を謳歌するのだ。 銀行で目にした男の名前ポール・ブラウニングと名乗り、そこで家主のユーナ・イングストランドと同じく間借り人のシーザー・ロックスリーとの共同生活を始める。 やがてアランは家主のユーナを愛するようになり、アラン・グルームブリッジの人生を捨て、2人で暮らすことを決意する。 一方ジョイスの方はアランに比べるといささか不幸だ。 人生の落伍者2人に監禁された状態が続く。 一方は最下級の出身で学もなく、その日暮らしをしているマーティ・フォスターともう一方は医者の息子と上流階級の出身でありながら社会のシステムに則って生きることを良しとせず、大学を飛び出し、コミューンでの暮らしを続けているうちにマーティと出逢ったナイジル・サクスビイ。彼は見た目もハンサムで知的に見えることから相棒のマーティを、いや周囲を常に見下して生きている。 こんな倫理観の欠けた2人にジョイスは小汚いアパートの一室に閉じ込められたままの生活を強いられる。最初は持ち前の明るさと気の強さでこの2人を手玉に取り、虎視眈々と脱出の機会を窺う大胆さを見せていたが、ナイジルが持っていた銃が本物であることが解ると急に心が萎え、彼ら、特にナイジルに従うようになる。 銃。 それは即ち圧倒的な暴力の象徴だ。 ジョイスにとって最初この2人は自分に手出しの出来ない臆病者だと見下していたことが、ナイジルの隙を見て弄んでいた銃から弾丸が出てしまったことから、ジョイスはこの暴力の象徴に圧倒されてしまうのだ。彼女の気の強さはそれまでそんな野蛮な物とはかけ離れた生活をしていた環境によって築かれたものであり、銃という生命与奪の権利を有する、それまでの人生にはなかった暴力が介入することでジョイスは初めて犯罪の恐ろしさを知るのである。 この2人の対照的な境遇は王子と乞食、天と地の開きを感じ、人生の皮肉を感じざるを得ない。これこそレンデル節たる所以なのだが。 そしてこの2人の人生の転機はしかし急展開を迎える。 それは天国を手に入れかけた男アラン・グルームブリッジその人によってだ。彼が自分の上向きの人生を変えたのは彼自身が持っていた真面目さゆえの罪悪感だった。 そして忘れてならないのはアランが惚れたユーナ・イングストランド。 ハンサムで女性遊びに奔放な夫スチュアートに半ば捨てられるような生活で、そんな夫に赤ん坊を不注意で亡くされ、失意のどん底にいたところを夫の父親に拾われ、自宅を間借りして生計を立てている、まだ32歳の女性。彼女はアランことポール・ブラウニングの求愛に応え、新たな人生に踏み出そうとするが…。 私はこのユーナ・イングストランドという女性のことを思うとどうしても切なくなってくる。 けなげに生きながらもなぜか幸福に恵まれない女性がいる。ユーナ・イングストランドはそんな女性だ。 ハンサムすぎるがために女性たちが次から次へと寄ってき、そしてまたそれに応えるがために家を離れて他の女性と暮らす夫。そんなだらしのない夫の女性遊びのせいでかけがえのない1人娘を火事で亡くし、絶望に苛まれ、義父の助けによって立ち直った彼女は一旦は人生を諦めたのだろう。だから彼女はまだ32という女の盛りなのに化粧もせず、余所行きの服にも着替えず、擦り切れ、くたびれた服装で出かけても何も思わなくなっていた。 しかし彼女は人を嫌いになったわけではなかった。だから部屋を貸して生計を立てることにしたのだ。人と関わることを捨てなかった彼女の前に現れたアランは最初ただの、身なりの正しい男に過ぎなかったのだろう。しかし彼から求愛された時に彼女は女を取り戻したのだ。 しかしそれもまたアラン・グルームブリッジという男によって作り出された幻に過ぎなかった。 恐らく彼女は再び殻に籠って生きていくのだろう。今度こそ何も期待せずに生きることを誓いながら。 原題“Make Death Love Me”、「死神が私に惚れるほどに」という題名は実は主要人物4人を指すのではなく、このユーナの心情を指すのではないか。彼女が辿り着いた心の叫びのように聞こえてならない。 そしてまたユーナをこのような状況に招いたアラン・グルームブリッジがまた悪い人間ではなく、いい人だから困ったものだ。 彼は最初ローズという女性に恋をする。彼にイングストランドの家を知らせることになった店を紹介した魅力ある女性。アランはそのお礼として彼女を食事に誘い、彼女はそれを快諾するが、彼女の美しさに身分不相応だと恐れをなし、なんと彼女を自分が間借りしている家に招待し、女家主のユーナを紹介がてら夕食を共にしたいと誘うのだ。 勿論彼女はそれを断り、それによってローズとの縁は切れる。それが逆にアランの目をユーナに向けるようになり、彼はユーナと恋に落ちるのだ。 人生に“もし”はないが、本書はその“もし”の連続の物語だ。 “もし”アランの娘が夜遊び好きでなかったら? “もし”その娘の友達が悪人でなかったら? “もし”アランがここではないどこかへ行きたいと思わなかったら? “もし”アランがローズと付き合っていたら? “もし”ジョイスが銃を弄ばずにこっそりと脱出していたら? この“もし”の選択肢の中で我々は生きている。 本書はその選択肢の1つを選び間違えたが故の歩むべきでなかった人生の道筋の物語。平凡な毎日は選択を一歩間違えばこんな悲劇が待っている。心にずっと痛みが残るような出来事はちょっとしたタイミングや心に差す魔によって起こるのだ。 実にレンデルらしい皮肉に満ちた作品だ。最後にある有名な曲の一節を引いてこの感想を終えよう。 「誠実さ、なんて寂しい言葉なんだろう」 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ススキノ探偵シリーズ第2作目。映画化された『探偵はBARにいる』第1作の原作が本書である。
正直1作目は何とも調子に乗った、おちゃらけ気味の主人公<俺>の独特な台詞回しに若書きの三文芝居といった酷評を挙げたが、あれから11年経ったことで私の中で何かが変わったのか、それとも免疫ができたのか、今回はさほど気にならなかった。 いや勿論所々演出過剰気味の云い回しは本書でも散見されるが、<俺>を一度体験した後ではこの斜に構えることでいっぱしのタフガイを気取る若気の至り的態度に対してどうやら寛容に捉えられるようになったらしい。 また本書の物語が実にミステリアスに進むことも以前よりも抵抗なく読み進む理由の一つとして挙げられる。 コンドウキョウコとだけ名乗る女性から10万円が口座に振り込まれて依頼されるのは何とも奇妙な物ばかり。ある人に会って○月○日に誰かはどこにいたかを尋ねろとか誰かを喫茶店に呼び出してその時の態度を見てほしいといった掴みどころのない依頼だ。 しかし最初の依頼でなんと主人公の俺は電車のホームから突き落とされ、危うく死にそうになる。更に調べていくうちに1年前の不審火の火災事故で近藤京子という女性が死んでいることに気付く、といった具合に次から次へと謎が連続し、それがページを繰らせるのだ。 そしてストーリーが進むうちに見えてくるのは右翼団体とやくざの関係。更にそこから立ち上る霧島敏夫という男性のいたたまれない死。 また本書で映画で良き相棒を務めた北大の大学院生で空手の達人高田が登場する。バーを根城にススキノの夜を西へ東へ、そこに住まう人々の便利屋稼業をやっていた<俺>が1人の卑しき騎士―というよりも未熟なタフガイと云った方が正解か―から、1人の背中を預けられる相棒を得たバディ物へ転換する。 この方向転換は率直に云って成功している。前作で抱いた<俺>に対する嫌悪感が高田の存在で和らぎ、寧ろススキノのトラブル請負人の2人を応援したくなるのだ。 小説はキャラクターだと最近大沢在昌氏はインタビューで応えていたが、まさにそれを具現化したような好例である。 そう、本書の特徴はキャラクター造形に秀でたところにある。特に霧島敏夫という人物は印象的だ。 彼は直接的には物語に登場しない。拉致されそうになった女性を救おうとして暴走族たちに立ち向かい、逆に返り討ちに遭って命を落とす60前のこの男は物語の時間では既に存在しておらず、<俺>が関係者の話を聞いていくうちにその肖像が出来てくる。その手際は実に見事。 そして最後に忘れてならないのは沙織という女性だ。 誰からも愛されたい人もいれば、たった1人、自分を愛してくれる人がいれば、他がどう思っても構わないと思う人もいる。沙織は後者の女だ。 誰もが振り向き、自分の女にしたいと思わせる容姿と雰囲気を漂わせ、それを自覚し、女の武器として使うことを厭わないこの女性。 しかしそのような外見は両刃の剣で、逆に周囲の嫉妬を買い、敵を作りやすい。沙織はまさにそんな女だった。 しかし彼女にはそれを苦にしない拠り所があった。それが霧島敏夫という男だったのだ。 日本で最も北に位置すると云っても過言ではない繁華街ススキノ。そこでは人知れずこんなドラマが起こっている。 北海道を愛し、そして専らススキノを愛する作者はそれを青臭くもセンチメンタルに描く。 第1作目を読んだ時はこの作者の作品を読むのに躊躇いを覚えたが、そんな懸念はこの2作目で払拭された。 またいつか作者の描くススキノを訪れよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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二階堂作品で初めて『このミス』ランクインしたのが本書。二階堂蘭子シリーズとしては3作目に当たるが文庫刊行順としては2冊目なのでこちらを先に手に取った次第。
第1作目の『地獄の奇術師』は乱歩の世界が横溢した作風で、昔ながらの本格ミステリ復興への意欲が迸った作品だったが、見え見えのミスディレクションに見え見えの犯人、そして最後に後出しジャンケンのように出される観念的な動機の応酬に辟易したので、この作者に対する印象はいいものではなかった。 そして第1作目読了から11年が経った今、ようやく2冊目を手に取ったわけだが、一読非常に読みやすく、更に本格ミステリ趣味に溢れていながらも警察の捜査状況も、慣例事項など専門的な内容も含めてしっかり書かれており、意外にも好感が持てた。 文庫本にして約600ページ弱に亘って繰り広げられる本書には本格ミステリのありとあらゆる要素がぎっしりと含まれている。 世俗とは一線を画すカトリック文化の中で生活をする修道院の面々。 その中で起きるヨハネ黙示録に擬えた連続見立て殺人。 過去の情事という過ちで出来てしまった娘に逢いに来たアメリカ人司教は首を切断された上に全裸で枝垂桜に吊るされている。 ≪修道院の洞窟≫と呼ばれる門外不出の文書が収められた地下洞窟。 数々出てくる暗号はそれを解くことで地下洞窟に導かれる秘密の抜け穴へと繋がる。 そして暗号の解がなければ一度迷い込めば出ることが叶わぬ地下の大迷路。 夜な夜な繰り広げられていたとされる修道院長による悪魔的儀式。 その儀式に使われていたとされる、イエス・キリストの遺骨とも云われている幻の水晶の頭蓋骨。 さらに3つにも上る暗号。 江戸川乱歩や横溝正史、はたまたジョン・ディクスン・カーが織り成すオカルティックな本格ミステリの世界観を見事に盛り込んだ作品を紡ぎ出している。 ケレン味という言葉がある。 それは物語をただ語るだけでなく、作者独特の世界観に読者に導くはったりや嘘のような演出のことだ。先に挙げた乱歩や正史、カーや島田荘司氏などの作品はこのケレン味に溢れている。 そしてまた二階堂黎人氏もまたケレン味の作家である。上に書いたガジェットの数々は自分が面白いと感じた古今東西のミステリの衣鉢を継ぐかのように過剰なまでにケレン味に溢れた作品世界を描き出す。 しかし残念なのは探偵役の二階堂蘭子がまだまだ類型的なキャラクターに感じられることだ。 警視庁副総監を父親に持つことで一大学生が警察の捜査に介入できる特権を持っているというご都合主義の設定に、昭和40年代で200万円以上の高値で取引される画家二階堂桐生を叔父に持つ。 この辺りの設定は二階堂蘭子及び黎人2人の主人公たちをいけ好かないブルジョワ階級の、我々庶民である読者とは隔世の存在としているため、どこか親近感を抱くのを阻んでいる感じがある。 とはいえ昨今の本格ミステリは有栖川有栖氏の臨床犯罪学者火村然り、警視を親に持つ法月綸太郎然り、どこも似たような感じであるから、受け入れるべきなのだろう。 しかし今回この万能推理機械のように思われた二階堂蘭子に弱点が発覚する。そのことで本書で初めて二階堂蘭子が類型的な万能探偵から一歩抜きんでた思いがした。 さてその蘭子たちが出くわす聖アウスラ修道院に纏わる謎は二階堂氏のケレン味溢れたサーヴィスによって実に多彩だ。 まずは物語の発端である、二階堂蘭子たちが聖アウスラ修道院に招聘されることになった密室状態の≪尼僧の塔≫から落下した太田美知子という生徒の転落死。 突如落盤した≪修道士の洞窟≫で生き埋めとなって亡くなった前修道院長マザー・エリザベス。 枝垂桜に首なし死体となって逆さ吊りの状態で遺棄されたトーマス・グロア司教。 ≪尼僧の塔≫の再び密室状態の≪黒の部屋≫から火を着けられたまま何者かに落とされて亡くなったシスター・フランチェスコ。 水車に巻き込まれて亡くなった厨房係の梶本稲。 トーマス・グロア司教殺害の容疑者とされていたその息子梶本建造は突然の失踪するが地下の≪修道士の洞窟≫の中の棺の中で遺体となってみつかる。 しかしこれらの事件がそう簡単な構造でないことは読み進むにつれて明らかになってくる。 終わってみればまさに惨劇であった。 ただ本書はこれら連続殺人だけを語るわけではない。これら一連の事件を彩るケレン味が面白いのだ。 更に地下洞窟にその道筋を辿る暗号解読の妙味と、作中でも引用される二階堂氏がこよなく愛する古典ミステリの傑作へのオマージュがとことん詰め込まれている。 ど真ん中の本格ミステリをこよなく愛するがゆえに、その愛が深いだけに亜流や境界線上の本格ミステリに対して「○○は断じて本格ミステリではない!」、「本格ミステリとは斯くあるべきだ」と持論を強硬に展開するあまり、本格ミステリ論争まで仕掛けて、論破されそうになると正面からの抗議を避け、外側の部分で議論を煙に巻くという愚行に出た二階堂氏。私はこの「『容疑者xの献身』本格ミステリ論争」における氏の無様な姿に大いに失望した。 更にその後島田荘司氏を旗頭として掲げつつ、『本格ミステリ・ワールド』というムックを立ち上げ、いわゆる『俺ミス』と揶揄されるようになる、自身の認める本格ミステリを「黄金のミステリー」と題して選出するようになった。 その結果、このムックはほどなく休刊に至る。 ミステリという宗教の中で本格ミステリのみを信奉し、それ以外のミステリを排するようになり、そして世間の目がやがて自身の好む本格ミステリから外れた作風へ嗜好が変化しそうになると、それを認めず、自分好みのミステリ選出をしてご満悦に至る。 折角これほどまでにたくさんの本格ミステリガジェットと豊富な知識を盛り込んだ面白い作品を書けるのに、それを他に強いるのは愚の骨頂である。 作者は己の信じるものを自身の作品で語ることで答えにすればよいだけだ。それを絶対的真理や定理のように強要するのは決してやるべきでない。 聖アウスラ修道院の惨劇は数年後に自らが招いた二階堂黎人氏の惨劇になってしまった。 彼があの日あの時、本書を読んでいたらあのような愚行は避けられたのではないか。 未来の自分を予見したのは実はあの論争を引き起こす12年前の自分であった。実に皮肉な話である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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前作でロス市警に復帰し、未解決事件班に配属されたボッシュは本書でもそのままキズミン・ライダーとコンビを組んで過去の未解決事件に当たる。それは折に触れ独自で再捜査を重ねていたマリー・ゲスト失踪事件。それは1993年に当時ジュリー・エドガーと共に担当し、衣類まで見つかりながら彼女自身が見つからずに今に至っている事件だ。それが思わぬ方向から犯人と思しき男が浮上し、ボッシュは否応なくその捜査に加わることになる。
たまたま深夜に職質されたことで車内にあったゴミ袋に2人の女性のバラバラ死体が入っていたことで捕まったレイナード・ウェイツが2件の未解決事件の犯人であることとまだ表出していない9件の殺人事件の犯人であることを供述する代わりに死刑を免れるよう司法取引を申し出る。そのうちの1つがマリー・ゲスト殺害だったというもの。 つまりボッシュは13年間追ってきた事件の犯人を思いも寄らぬことで知ることになるのだが、それは彼に正統なる法の裁きを与えないことで解決するという、皮肉なものだった。 さて前作から恐らく作品世界内では1年くらいしか経っていないと思われるものの、色んな変化が見られるのが特徴だ。 まず未解決事件班の頼れる班長であるエーベル・プラットはなんと4週間後に25年間の警察勤務から引退し、カリブ諸島のカジノの警備関係の職を得て第2の人生について思いを馳せているところ。従って前作よりも警察の仕事にあまり身が入っていない印象を受ける。 そして前作でロス市警からの退職を余儀なくされたアーヴィン・アーヴィングはなんと市議会選挙に立候補し、恨みを晴らさんとロス市警の改革を選挙公約として掲げている。 また本書を前に刊行されたリンカーン弁護士ことミッキー・ハラーも本書の事件の最有力容疑者であるレイナード・ウェイツの過去の事件の担当弁護士として名のみだが登場する。 またリンカーン弁護士がらみで云えば、ハラーが弁護を請け負うことになったルーレイの顧問弁護士セシル・ダブスもボッシュがマリー・ゲスト殺しの容疑者と睨んでいるアンソニー・ガーラントの父親、石油王トマス・レックス・ガーラントの顧問弁護士事務所として登場する。 更に最も忘れてはならないのは『天使と罪の街』でボッシュとコンビを組んだFBI捜査官のレイチェル・ウォリングが登場し、ボッシュの捜査をサポートすることだ。 件の作品で干されていたレイチェルがFBIのロス支局へと栄転したが、その事件でお互い分かち合えた2人は一旦物別れする。しかしボッシュはレイナード・ウェイツと面会するに当たり、彼の為人を知るためにプロファイラーであったレイチェルの助けを借りるのが再会のきっかけとなる。 一旦ボッシュからウェイツの資料を預かり、概要的なプロファイルを行ってその夜ボッシュの家を訪れ、資料の返却と彼女のプロファイリング結果を話した後、なんと2人は寄りを戻してベッドインするのだ。 前回はレイチェルが意図的に仕組んだあることで自らボッシュの前を去った彼女はやはりボッシュへの好意は尽きていなかったのだ。この2人は似た者同士で魂で引き合っている人間なのだ。 さてそのボッシュとレイチェルが対峙するのは絶対的な悪である。レイナード・ウェイツは良心の呵責など一切感じない、人を殺すことが自分をより高みに上げると信じる、正真正銘の悪人だ。しかも深夜にたまたま職質されるまで、それまで行ってきた9人もの女性の殺人が発覚しなかった慎重かつ狡猾なシリアルキラーだ。 このレイナード・ウェイツは本書の前に書かれた『リンカーン弁護士』に登場するルイス・ロス・ルーレイに通ずるものがある。 そして捜査を進めるうちにボッシュはその絶対的悪人こそがもう1人の自分であったことに気付かされるのだ。 ボッシュはレイナードをもう1人の自分であると悟る。YES/NOの分岐点で分かれることになったもう1つの人生こそがレイナード・ウェイツだったのだと。 闇の深淵を覗き込む者はいつしか向こうから自分が覗かれていることに気付く。 これはこのシリーズで一貫したテーマだが、まさに今ボッシュは自分の人生で抱えた闇を覗き込んで向こうから自分を見る存在と出逢ったのだ。 ハリー・ボッシュという男を彼が担当する事件を通じて彼が決して逃れない闇を背負い込んでいる、業を担った存在として描くのは12作目にしても変わらぬ、寧ろまだこのような手札を用意していることに驚きを禁じ得ない。コナリーのハリー・ボッシュシリーズに包含するテーマは終始一貫してぶれなく、それがまたシリーズをより深いものにしている。 さて今回の題名『エコー・パーク』はロサンゼルスに実在する街の名だ。このエコー・パークはかつて貧困地区であり、再開発によって中公所得者層が住まう、カフェや古着屋や食料雑貨店や魚介料理屋がひしめく、おしゃれな街へと変貌していった場所で、かつての主であった労働者階級とギャングたちが追いやられた街だ。 なぜこの街の名を本書のタイトルに冠したのか、私はずっと考えていた。確かにその場所は長らくシリアル・キラーとして女性を殺害していたサイコパスの連続強姦魔レイナード・ウェイツが初めて警察に捕まるミスを犯した場所である。 深夜自身の経営する清掃会社の名前を付けた車でエコー・パークを通りかかったために不審に思った警官が職務質問をし、その際に車内を調べた後、そこに2人の女性のバラバラ死体の入ったゴミ袋が見つかったことが彼の逮捕に至った。 しかし彼はそこから更に9件の、警察の知らない殺人事件を犯していると云っていることから、今まで巧みに警察に知られぬように暗躍していた狡知に長けた殺人鬼だったとみなされていた。 また彼の生い立ちを調べていくうちに孤児だった彼を引き取った里親のうち、最も長くいたのが、彼が偽名として使っていたサクスン夫妻の家で、その家があるのがエコー・パークだった。そして彼が殺害した数多の女性死体を隠匿していたのがそのサクスン夫妻の家のガレージの奥に作ったトンネルだった。 狡猾な連続殺人犯が偶然ながら捕まった場所であること、孤児の時に最も長く住んだところ、そして彼が殺害した女性を埋め、また装飾したトンネル、つまり彼の王国があったところ。エコー・パークこそウェイツが辿り着いた園(パーク)だったのだ。 そして一方で単なる地名でありながら、本シリーズ第1作で作家コナリーのデビュー作である『ナイトホークス』の原題 “Black Echo”と同様に“Echo”という単語を使用した題名でもある。 “Black Echo”とは即ちボッシュがヴェトナム戦争時代にトンネル兵士だった頃に経験した地下に張り巡るトンネルの暗闇の中で反響する自分たちの息遣いのことを指す。 そしてボッシュは逃亡したウェイツと対峙するために彼が拵えた死体を隠し、埋め、また装飾した隠れ家兼王国であるトンネルに入る。ヴェトナム戦争でヴェトコンと対峙したのと同じように今度は連続殺人犯と対峙し、そこに捕らわれているまだ息のある女性を取り戻すために。 この類似性は敢えて意図的にしたものか。私は本作でFBI捜査官レイチェルがサポートして捜査するボッシュの構造と同じくFBI捜査官だったエレノア・ウィッシュと共同で捜査する第1作がダブって見えて仕方がなかった。 やはり同じ“Echo”という名を冠したことにコナリーは意図的であった、そう私は思いたい。 また本書ではボッシュの相棒キズミン・ライダーが瀕死の重傷を負うショッキングな展開がある。現場検証の際にオリーヴァスの銃を奪って逃走したウェイツに彼女は撃たれて頸動脈に傷を負い、一時は生死の境をさまよう危ない状況に陥る。 意識を取り戻した彼女がボッシュに告白するのは思いもかけない内容だった。 ボッシュが自分の復職の条件として自分の相棒となるよう要請したほど刑事としての資質を認めていた彼女の弱さを思い知らされたシーンだ。これはシリーズ読者にとっても驚きの告白だった。 そして事件の真相はまたも衝撃的だった。 未解決事件、いわゆる“コールドケース”と呼ばれる事件の関係者たちは何年経っても事件の記憶は消えず、その中に家族が当事者である人々にとっては犯人が見つかるまでは終わらないもので、ボッシュも13年間追い続け、その都度事件の捜査経過を家族に連絡していることが描かれている。 失踪したマリーの母親アイリーンはその連絡の後、ボッシュに「幸運を」と投げ掛ける。それはボッシュが無事犯人を見つけられるようにでもあるし、自分たちの娘が無事、もしくは最悪の形であれ見つかることを祈念してのメッセージだろう。 FBI捜査官という緊張を強いられる仕事で安らぎを与えてくれる存在を求めていた彼女は同じ魂の匂いを感じるボッシュにそれを見出すが、彼が逃亡したウェイツの居所を発見して応援要請を待たずに犯人の待つ暗いトンネルへと突き進むのを見て、レイチェルは彼が現場でやっていることを目の当たりにする。それは彼女にとっては安らぎを得られるものではなく、寧ろその帰りをいつも心配して待たねばならない姿だったからだ。まさに似ているからこそ一緒になれない存在だ。 コナリーの作品を読むと人と人の間には絶対はないと思わされる。特にボッシュの場合、その執念とまで云える悪に対する憎悪が周囲の人を慄かせるから、彼が真剣に取り組めば取り組むほど人が離れていってしまうという皮肉を生み出している。 シリーズはまだ続く。毎回思うが、次作への興味が本当に尽きないシリーズだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ボッシュシリーズ記念すべき10作目はこれまでコナリーが発表してきたノンシリーズが、本流であるボッシュシリーズと交わる、いわばボッシュ・サーガの要をなす作品となった。恐らく作者も10作目という節目を迎え、意図的にこのようなオールスターキャスト勢揃いの作品を用意したのだろう。
ノンシリーズで登場した連続殺人鬼“詩人(ポエット)”が復活し、その捜査を担当したFBI捜査官レイチェル・ウォリングが再登場し、また『わが心臓の痛み』で登場して以来、『夜より暗き闇』で共演した元FBI心理分析官テリー・マッケイレブが交わる。しかしなんとそのテリー・マッケイレブは既に亡く、ボッシュが彼の死の真相を探る。 とにかく全てが極上である。 味のある登場人物たち、物語の面白さ、謎解きの妙味。 ミステリとしての謎解きの味わいを備えながら、シリーズ、いやコナリー作品全般を読んできた読者のみ分かち合えるそれぞれの登場人物の人生の片鱗、そして先の読めない、ページを繰る手を止められない物語自体の面白さ、それらが三位一体となって溶け合い、この『天使と罪の街』という物語を形成しているのだ。 まず触れておきたいのは自作の映画化についてのことだ。 テリー・マッケイレブと云えばクリント・イーストウッド監督・主演で映画化された『わが心臓の痛み』(映画題名『ブラッド・ワーク』)が想起され、今までコナリー自身が作中登場人物にその映画について再三触れているシーンがあったが、本書では更にそれが加速し、随所に、なんとそれぞれ映画で配役された登場人物がこの映画について触れている。 また本書は前作に引き続き、ボッシュの一人称叙述が採られているが―レイチェル・ウォリングのパートは三人称叙述とそれぞれの章で使い分けがされている―、その中でも映画がさほどヒットしなかったこと、イーストウッドとテリー・マッケイレブの歳が離れすぎていたことなどが吐露されている。これは作者自身の不満であると思え、なかなか面白い。 私は幸いにして『わが心臓の痛み』読了後、BSで放送のあったこの映画を観ていたのでこれらのエピソードを実に楽しく読めた。 ボッシュ(=コナリー)が云うように、私自身大きな賛辞を贈った原作が映画になると何とも淡白な印象になるものだなと残念に思っていたからだ。 更にFBI捜査官側のモハーヴェ砂漠で見つかった大量死体の謎にテリー・マッケイレブが絡んでいることが発覚すると、しきりに「あの映画を観ていたら解るのだが」といった映画での引用が所々出てくる(さすがにマッケイレブの葬式にクリント・イーストウッドが出席していたという件はやり過ぎかと思ったが)。 もう1つ加えるならば砂漠に埋められた遺体の1つから発見されたガムの噛み跡があの稀代のシリアルキラー、テッド・バンディの物と発覚し、更にロバート・バッカスとレイチェル・ウォリングが彼の聴取をしていたという件も登場する。 この自作が映画化された事実、さらに実在のシリアルキラーと自作の登場人物を絡ませてメタフィクショナルな作りになっているのが本書の大きな特徴の1つと云えるだろう。 上に書いたように本書はレイチェル・ウォリングと新聞記者のジャック・マカヴォイが挑んだシリアルキラー“詩人”に、レイチェル・ウォリングが再戦し、そこにテリー・マッケイレブとハリー・ボッシュが挑むという実にサーヴィス精神旺盛な作品となっている。 例えるならば東野作品で稀代の悪女が登場する『白夜行』、『幻夜』の犯人に加賀恭一郎と湯川学の2人が挑む、それくらいのサーヴィスに匹敵する内容だ。 更にボッシュがラスヴェガスに長期間滞在しているモーテルの隣人ジェーン・デイヴィスはその様子から『バッドラック・ムーン』の主人公キャシー・ブラックだと思われ、繰り返しになるが、これまで以上にオールスターキャスト登場の趣を見せる。 そしてそれがサーヴィスに留まらず、物語の、いや本書の謎解きの主軸となっているところがまた凄いのである。 詩人に敗れ、命を落としたマッケイレブの遺品と遺したメモを手掛かりにボッシュは犯人の足取りを辿るのだが、それらは断片的に遺された、ほとんど暗号に近い内容だ。 それをじっくりと読み解いていくプロセスはまさにミステリにおける謎解きの醍醐味に満ちている。物語の中盤、上巻から下巻にかけて詩人がどのように被害者たちを狩っていたのか、その足取りを辿る件は久しぶりに胸躍る思いがした。 そうそう、忘れてはならないのが、テリーの相棒バディ・ロックリッジ。彼もまた例によって例の如く、自身が好むミステリの登場人物たちのようなヒーロー願望を前面に押し出し、ボッシュの捜査に絡んでいく。 しかしこのバディ・ロックリッジが、ボッシュにとっても面倒な男だと思われているのは思わず苦笑いしてしまった。彼はやっぱり誰にとってもうざい存在のようだ。 また気になるのはボッシュとエレノアのその後の関係だ。 前作では長く別居生活を送っていたエレノアとの再会し、更には実の娘がいたという、実に晴れやかなラストを迎え、本書ではてっきり幸せな結婚生活が再開されているものと思われた。 それを裏付けるかのようにボッシュはとにかく愛娘にぞっこんで、彼女と電話して話をしたり、また寝顔を見るためだけにエレノアの家を訪れる。 そう、彼は娘と逢いにエレノアの家に通っているのだ。つまり再び別居生活を送っているのだ。 前作では警察を辞め、LAに留まる理由が無くなり、エレノアへの渇望感、愛情再燃の様相さえあったボッシュ。実際彼が自身をLAに留めているのが単に再会することで失うものを恐れていたのだが、LAを捨て、エレノアのいるラスヴェガスに向かい、同居生活を試みたものの、上手くいかなかった。 それはエレノアがもはやラスヴェガスで名うてのギャンブラーとして生計を立てているため、そこを離れられないのだが、ボッシュはこのギャンブルとエンタテインメントを生業にする町は娘を育てるのにいい環境だとは思わなかったため、そのことでエレノアとは衝突を繰り返し、関係がぎくしゃくしていたのだった。 男と女。その考えは常に異なる。それは古来から伝わる世の常である。 世の夫婦はお互い、それぞれの価値観との相違によって生じる衝突を繰り返し、時にはぶつかり、そして時には妥協し、折り合いを付けて共に人生を歩んでいく。それが夫婦なのだ。 しかしボッシュとエレノアはそれが出来ない。彼らはお互いに愛し合いながらもそれぞれの主張が、主義が強すぎ、折り合いを付けられてないのだ。 愛し合いながらも離れていた方がいい男女の関係と云うのは確かにある。それは時には強い斥力で以ってお互いを突き放すが、時間が来るとお互いどうしようも抗えない引力によって引き合う、磁石のような存在となる。 元刑事のボッシュと元FBI捜査官のエレノア。それぞれ強くなくてはいけない世界で生きていたことで、相手に譲歩することが出来なくなってしまっているのだ。 そのボッシュとタッグを組むレイチェル・ウォリング。『ザ・ポエット』では活躍した彼女はしかし、8年前のその事件を解決した後のFBIでの道のりは決していいものではなかった。 その事件の後、ノースダコタのマイノットという捜査官1人、つまりレイチェル唯一人の部署に異動させられ、その後も、いわゆるお荷物捜査官の巣窟へと異動させられた、出世街道の梯子を外された存在である。 彼女がそのような左遷を繰り返される閑職に追いやられたのは詩人の事件がきっかけだった。自分の上司が連続殺人鬼でそれを取り逃がしたことも一因だが、それよりも彼女はその事件の捜査の最中でFBIの天敵である新聞記者ジャック・マカヴォイと寝たことが知れ、FBIの厄介者になってしまったのだった。 この似た者同士の2人が手を組み、お互いを認め合う。背中を預けられる存在として。特にボッシュは無意識のうちに彼女をエレノアと呼び間違えるまでになる。 バッカスの仕掛けた爆弾で危うく吹き飛びそうになった2人は、恐怖を共有した者同士が生き長らえたことで共通の生存意識が芽生え、お互いを求め合う。 死を乗り越えた人間は生きている歓びとそして死んだかもしれない恐怖を分かち合い、性にしがみつくために将来の生を残そうとするかのように躰を求め合うのだ。レイチェルはエレノアとの関係が上手くいかないボッシュの新たなパートナーとなりそうな雰囲気を醸し出して物語は進む。 邦題の『天使と罪の街』はボッシュが住むLAとエレノアと最愛の娘マデリンが住むラスヴェガスを指している。前者が天使の街で後者が罪の街とボッシュは語る。 いやそうではないのかもしれない。天使と罪の街とは即ちLAとラスヴェガス両方を指すのかもしれない。 ボッシュが罪の街と呼ぶギャンブルが主な収入源となっているラスヴェガスはしかし彼にとっての天使マデリンが住んでいる。一方その名に天使を宿すLAは文字通り天使の街だが、長年そこで刑事をやってきたボッシュにとっては彼が捕らえるべき犯罪者が巣食う街だ。 罪を犯す者が住む天使の街、そして天使が住む罪の街。その両方を行き来するボッシュは再び刑事としてLAへ還っていく。 一方原題の“The Narrows”は「狭い川」を指す。普段は小川だが、暴風雨が降るとたちまちそれは濁流と化し、人を飲み込む大蛇へと変貌する。このナローズこそは普段はFBI捜査官の長として振る舞いながらも実は連続殺人鬼だったバッカスそのものを指し示しているのだ。 彼に対峙する直前ボッシュは母が頻りに云っていた「狭い川には気を付けなさい」の言葉を思い出す。 相変わらずコナリーは含みのある題名を付けるのが上手い。 なおコナリーは2003年から2004年に掛けてMWA、即ちアメリカ探偵作家クラブの会長を務めていた。本書は前作『暗く聖なる夜』と本書がまさに会長職にあった頃の作品だが、ウィキペディアによれば前作がMWAが主催するエドガー賞にノミネートされたものの、会長職にあるとのことで辞退している。 また本書ではイアン・ランキン、クーンツのサイン会が書店で開かれたことや、初期のジョージ・P・ペレケーノスの作品は手に入れにくい、などとミステリに関するネタが盛り込まれている。これはやはり当時会長としてアメリカ・ミステリ普及のために、細やかな宣伝行為を兼ねていたのではないだろうか。 そういえば前作ではロバート・クレイス作品の探偵エルヴィス・コールが―その名が出ていないにしても―カメオ出演していた。こういったことまで行うコナリーは、自分の与えられた仕事や役割を、個性的なアイデアで遂行する、几帳面な性格のように見える。 物語の冒頭、ボッシュの語りでこう述べられている。 真実が人を解放しない。 その真実とはマッケイレブの死の真相のことだろう。 そのことに気付いていたレイチェルはマッケイレブの遺族のために隠すことにしたのだが、それをボッシュに悟られたことでレイチェルは敢えてボッシュと決別する。 その直前まで彼女はボッシュが移り住んだLAの自宅を訪れ、自分の異動先をLAに希望するとまで云っていたくらい、彼女はボッシュが気に入っていたのだった。しかし似た者同士はあまりに似ているため、同族憎悪をも引き起こす。相手に自分の嫌な部分まで見てしまうがゆえに、一度嫌悪を抱くとそれは過剰なまでに肥大する。 似ているがゆえに共になれない。ボッシュとレイチェルはボッシュとエレノアの関係によく似ている。 読み終えて思うのは本書はハリー・ボッシュ、レイチェル・ウォリング、テリー・マッケイレブ、そしてロバート・バッカス4人の物語だったということだ。そして彼らは人生に訪れた困難・苦難を乗り越えて生きてきた人たちでもあった。 ボッシュはそのアウトローな独断的な捜査方法ゆえに検挙率はトップでありながら常に辞職の危機に晒されてきた。その都度ギリギリのところで踏み留まり、困難をチャンスに変えてきた男だ。 レイチェル・ウォリングは8年もの長きに亘って島流しに晒されたFBI捜査官だったが、彼女はいつかの再起を信じ、決して腐ることはなかった。以前よりも生気が失われたと思われた目にはまだ野心が残っており、そして部外者扱いされながらも捜査の中心に我が身を置いて、8年前に自分を閑職に追いやった因縁の相手に決着をつけた。 テリー・マッケイレブはFBI引退後も過去の事件に向き合い、未解決の事件の犯人逮捕に執念を燃やし続けた。彼は心臓病という大きな病を抱えながらもそれを続けた。 そしてロバート・バッカス。彼の苦難は幼少時代に途轍もない暴力を父親から振るわれ、それを母親が助けてくれなかった過酷な境遇だ。 しかし彼はそれを乗り越える、最悪な方法で。 彼は父親からの暴力の鬱憤を小動物を殺すことで晴らし、やがてその行為が父親に及んで事故死に見せかけることに成功する。その歪な成功体験が彼を稀代の殺人鬼へと変えた。FBIの行動分析課の長として捜査に携わりながら、その地位を利用して自分に捜査の手が及ばないように犯行を重ねた。 彼も困難をバネに生きてきた男だ。ただ彼はダークサイドに陥ってしまったのだが。 ボッシュとレイチェル、そしてマッケイレブ。彼らは人間の闇の深淵を覗いてきた人々だ。しかし彼らはバッカスにならなかった。ただそれは、今はまだ、というだけの差しかないのかもしれない。 悪の側と善の側を隔てる線。その線引きを自ら行えるうちは大丈夫だろう。しかしその一線を超えたら、彼ら彼女らもまたバッカスになり得るのだ。 今回もコナリーは期待を裏切らなかった。 ただ惜しむらくは本書はあまりに『ザ・ポエット』の続編の色を濃く出しているため、作者が明らさまに『ザ・ポエット』の内容と真相、真犯人を語っている。従って『ザ・ポエット』の内容を知りたくないならば本書を読む前に是非とも読んでおきたい。 まあ、実に入手が難しい作品であるのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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日常の謎系ミステリ、即ち日常生活における些細な違和感の裏に隠された謎を解き明かすミステリを生み出した北村薫氏。それは「人の死なないミステリ」とも呼ばれていたこの「円紫師匠と私」シリーズだが、シリーズ初の長編にして3作目の本書で初めて人の死が扱われた。それも女子高生という若い命が喪われる事件。文化祭の準備の最中に起きた屋上からの墜落死に潜む謎に私と円紫師匠が関わるミステリだ。
人の死というのは押しなべて非常にショッキングな印象を与えるが、特に若い命が喪われるそれは殊更に人の心に響く。 本書では3つも年が違い、中学、高校時代には一緒の学校にいることのなかった後輩の死が扱われるわけだが、それでも「私」にとって小学生時代に同じ登校班にいた記憶がいまだに鮮明であり、そして何よりも自分より若い子の死が心に響いてくる。 幸いにして私は高校生の頃に友人の死に直面したことがない。大学生の時にも経験がないわけだが、就職して2年目の頃に私は友人の死をニュースで知った。 大学を卒業して就職の道を選んだ私と違い、成績優秀で実直かつ努力家の彼は当然の如く大学院に進んだ。皆が認める勤勉家だった彼が、卒業旅行先の台湾で落石事故に遭遇し、朝のニュースで報道されたのだ。私は当時同姓同名の人物かと思ったが彼のことだった。 その時初めて同世代の近い死を知り、そして世の無情さを思い知ったのだ。何か偉業を成し遂げるほどの才能を持った人物が、いつも勉強ばかりしていた友人がほとんどしない旅行、しかも卒業旅行でそんな目に遭う、この世の不条理さに茫然とした覚えがある。 本書の津田真理子の死も主人公の私にとって同じように思ったことだろう。特に人格者である津田真理子の造形が私のその亡くなった友人とダブらせるかのようだった。 更に誰もが経験したであろう高校生活。だからこそ事件が起きた高校の描写は私を含めて読者をその時代へと引き戻してくれることだろう。特にテーマが文化祭と云うのが憎らしい。あの特別な時間は今なお記憶に鮮明に残っている。 進学校に進んだ私は高校時代は登下校に1時間以上費やしたため、敢えて部活動をすることを選ばなかった。従っていわゆる帰宅部の一員だったわけで、その日の就業が終れば友人たちと家路に帰っていた。 しかし私の通っていた高校は文化祭やら体育祭などのイベントに力を入れる校風であり、帰宅部であった私もその頃になると必然的に学校に居残って皆と一緒に準備に明け暮れていた。その時のもうすでに暗くなっているのに、各教室にはまだ明りが点いて、一生懸命に何かを作っている、もしくは息抜きに歓談している、あの独特の風景を未だに思い出す。あの雰囲気は何ものにも代え難い思い出だ。 本書はそんな雰囲気を纏って私の心に飛び込んでくるから、なんとも云えないノスタルジイに浸ってしまうのである。 本書に描かれる高校生活は何とも瑞々しく、読んでいる最中に何度も自身の思い出に浸らせられた。それは良き思い出もあれば、後悔を強いる悪い思い出もある。読中、何度自分のやらかしたことを思い出し、読む目を止めたことか。 高校時代に大学時代、それぞれの時代が本書を読むことでシンクロし、とても冷静に読めなかった。理系の工業大学に進んだ私は主人公の「私」ほど本を読んでたわけではないが、専攻した学問を突き詰めるという意味ではやはり似ている何かを感じた。 そんな「私」を通じて得られる色んな含蓄はもはや北村作品の定番と云っていいだろう。 子供の頃の読書のいかに楽しかったことか。知識がない時代に読む本はいつも発見の毎日だったこと。 誰かの話を聞いてさも自分が体験したかのように錯覚し、誰かの評判を鵜呑みにしてそれを食べ、その通りだと盲目的に信じることを耳食ということ。これは何とも頭の痛い話だった。 そして文学部専攻の彼女の毎日はいつも本があり、いつも彼女は本を読む。 確かに普通に生活して日々を過ごすのもまた生き方の1つだろう。しかし本書の主人公の「私」のように自分の興味の赴くまま、文学の世界に身を委ね、そして時に喜び、感心し、そして時に思いもよらなかった価値観に怯えるのもまた生き方だ。 同じ時間を過ごすのにこの差は非常に大きいと思う。そんな読書生活の日々で得られる日常のきらめきが詰まっているのも本書の最たる特徴だ。 さて日常の謎系のミステリにおいて初めて人の死が扱われたわけだが、だからと云ってそのスタンスはいつもと変わらない。 探偵役を務めながらも「私」はごく普通の女子大学生だ。だから探偵や警察のように事故の起きた現場、つまり津田真理子が墜落した場所へは怖くて行きたいと思わないし、身分を偽って学校を訪れ、ずかずかと人の心のテリトリーに分け入るわけでなく、あくまで自然体に接する。彼女は昔から知っている子の先輩として憔悴する和泉利恵を助けたいがために行動しているに過ぎないのだ。 そんな本書の焦点となる津田真理子の死。 いきなり彼女の死で始まる本書は死後彼女を知る人物から彼女の為人を聴くことで彼女のキャラクターが形成される。それは包容力を持ちながらも芯の強さを持った女子高生の姿だった。 まだセカイが狭い高校生活の中で、自分が生きている時間が長い人生の中の一片に過ぎないことを自覚し、その時その時を生きること、そしてどんなに辛いことに直面してもそれは月日が経てば思い出として「いつかきっと」消化されること、そんな達観した視座の持ち主、それが津田真理子の肖像だ。 しかし運命はそんな彼女にいつか来る将来をもたらさなかった。彼女が信じた「いつかきっと」は来なかった。 高校生は忙しい。勉強に部活、そして友達関係。小学校、中学校に比べて断トツに生徒数が多く、従って人間関係も広がる世界である。 だから彼ら彼女らはその日を、そして目前にある中間・期末試験を乗り切るのに精一杯だ。少なくとも私はそうだった。 進学校に進んだ私はきたる試験で絶対に取りこぼさないよう、更に上に、最低でも現状維持を目指して常に勉強をしていた。最もきつかったのが高校生活であったが、同時に最も楽しく、印象に残っているのもまた高校時代である。なぜなら彼ら彼女たちはそんな見えない明日を生きる同志だったからだ。 そんな近視眼的な高校生においてこの津田真理子の視座は特殊と云えよう。 彼女はいつか来る遠い未来を信じたが、それ以外の高校生は今を、そして明日をどうするかのみに生きた人々だ。そんな時間軸の違いがこの悲劇を生み、そして彼女はその犠牲者となったのだ。 秋は夏に青く茂った葉が色褪せ、散り行く季節である。そして木々たちは厳しい冬を迎える。 しかしそんな秋にも咲く花はある。秋桜しかり、そして秋海棠もまた。 本書の題名となっている秋の花とは秋海棠を指す。その別名は断腸花と何とも通俗的な感じだが、人を思って泣く涙が落ちて咲く花と最後に円紫師匠から教えられる。 津田家の秋海棠は親友の和泉理恵の涙を糧にして美しく咲くことだろう。それが既にこの世を絶った津田真理子の意志であるかのように。 秋海棠の花言葉を調べてみた。 片想い、親切、丁寧、可憐な人、繊細、恋の悩みと色々並ぶ中、最後にこうあった。 未熟。 高校生とは身体は大人に変化しながらも心はまだ大人と子供の狭間を行き交う頃だ。大人びた考えと仕草を備えながら、一方で大人になることを拒絶している、そんな不安定で未熟な人々。 津田真理子と和泉利恵。 亡くなった津田真理子はいつか来る明日を信じて、今の苦しみを乗り越えられる強い女子高生だった。そしてその力を和泉理恵にも分け与え、彼女たちの直面する困難を、先が見えない未来を一緒に克服しようとする、女神のような子。 一方和泉利恵は明るい性格だが、脆さを持ち、誰かの支えを必要としている子。彼女にとって津田真理子は親友であり、そして心の大きな支えだった。 ただ彼女たちはまだあまりにも若すぎた。若すぎるゆえに先生たちに怯え、そして若すぎるゆえにまだ子供だった。そんな幼さが起こした過ちは取り返しのつかない物になってしまった。 若くして親友を亡くす、和泉利恵の将来は「その日」の前とこれからとは異なるだろう。 我々は大人になる過程で色んなことを味わう。 楽しい事、辛い事、孤独、哀しみ。 日常の謎を扱いながらもそんな日常に潜む些細な齟齬から生じる悪意を浮かび上がらせ、あくまで優しさのみで終わらないこのシリーズの、人生に対する冷ややかな視線を感じた。 例えば思わず「私」が出くわす中学の時の同級生のバイクの後ろに乗ったことを正ちゃんに話した際に、正ちゃんがその無防備さを非難し、どこまでも悪い解釈をして無邪気な私を問い詰めるシーン。普通に見れば中学の頃の同級生の成長と、既に大人の男と女になった2人がぎこちないながらも交流する温かなシーンでさえ、疑ってみれば実に冷ややかな物へと変貌することを示唆している、印象的なシーンだ。 そんなことが本当に起きないとは限らない世の中になってしまったことの作者の嘆きとも取れるこのシーンは単純にこの世は優しさだけでは成り立たないことを突き付けているかのようにも思える。 そんな人の心の脆さを嘆きながらも、やはり最後は人の善意を信じて、いつか会う良き人が自分の生まれた場所を実に素敵で美しいと褒めてくれることを信じて生きていいのだと円紫師匠は私に伝える。 最後に和泉利恵が眠りに就いたことを津田真理子の母から告げられて物語は終わる。少女はようやく苦しみから解放され、眠りに就いたのだ。 彼女にどんな将来が待っているかは解らないが、目が覚めた後の世界は、決してあの頃には戻れない世界だろうけれどもきっとその前よりもいいはずだ。津田真理子ならばそう云うに違いない。 この作品は是非とも高校生に読んでほしい。貴方たちの世界はまだまだ小さく、そして未来は無限に広がっていること、そして「生きる」とはどういうことかを知ってほしい。 若くして亡くなった津田真理子は明日を無くしただけだったのか?彼女が生きた証はあるのか?という問いに対する答えがここに書いてある。 ただ生きると云うだけでその人の言葉や表情、仕草が心に残るのだ、と。 そしてそれは真実だ。私には前述の夭折した友人のことが今でも記憶に鮮明に残っている。 だから精一杯生きて青春を、人生を謳歌してほしい。苦いけれど哀しいけれど、本書は高校生たちに贈るこれからの人生への餞の物語だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『犬の力』、『ザ・カルテル』で犯罪のどす黒さを存分に描いたウィンズロウが次に手掛けたのはニューヨーク市警特捜部、通称“ダ・フォース”と呼ばれる荒くれ者どもが顔を連ねる市警のトップ中のトップの野郎たちの物語。つまりは昔からある悪漢警察物であるが、ウィンズロウが描く毒を以て毒を制す特捜部“ダ・フォース”には腐った現実を直視させるリアルがある。
従って通常の警察小説とは異なり、文体や雰囲気はハードボイルド然としておらず、オフビートなクライム小説の様相を呈している。 音楽に例えるなら、同じ警察を描いているマイクル・コナリーがジャズの抒情性を感じさせるとすれば、ウィンズロウの本書はどんどん速さを増すアップテンポの、畳み掛けるような怒りにも似た激しいヒップホップのビートを感じさせる。だから原題“The Force”をそのまま日本語にした邦題が『“ザ”・フォース』でなく、『“ダ”・フォース』なのだ。 そう思っていたら、やはり主役のマローンはジャズよりもラップを、ヒップホップを好む男だと描かれる。彼の生きている世界には抒情よりも本音をぶつけてくる攻撃的な音楽が似合うからだ。 ノース・マンハッタンで王として君臨する“ダ・フォース”の面々。その王たちを仕切る王の中の王デニー・マローンは、悪人には容赦しない暴力を平気で振るうが弱者にはとことん優しい男で、上層部の弱みや市長に関しても脅迫の材料を持った、“顔役”である。9・11のツインタワー崩壊時に消防士だった弟リアムを亡くしている。 その彼の親友で“ダ・フォース”の一員であるフィル・ルッソは幼い頃から兄弟のように共に生きてきた男だ。お互いに人生の節目には相談し合い、そして支え合った魂の友。リアムが亡くなった時も真っ先に崩れ行くツインタワーに駆け付けて捜し出そうとした男。死に目に遭ってもマローンにはルッソが、ルッソにはマローンがいるから死なずに済んだ。そしてお互いのためなら命を惜しまずに捨てることが出来る、強い絆で結ばれている。 ビッグ・モンティことビル・モンタギューもデニーとフィルが絶大の信頼を置く、巨躯の黒人刑事だ明晰な頭脳を持つ、大学教授然としたエリート風の服装を好む男。しかしプライヴェートでは息子と妻を愛する良き家庭人だ。 もう1人のメンバー、ビリー・オーことビリー・オニールはチーム最年少だが、動きは敏捷でガッツもある恐れ知らずの男。しかし犬が大好きだった彼は麻薬ディーラーへの手入れの際、犬がいたためばかりにピットブルを殺すことが出来ず、傷だらけの顔にヘロインを浴びてそのまま殉職した男。彼には妊娠した未婚の妻がおり、マローン達が妻と一緒に面倒を見ている。 そんな彼らは決してクリーンではない。先の事件で大きな話題となったドミニカ人麻薬組織の親玉ディエゴ・べニーナから押収した100キロものヘロインと駄賃ついでにせしめた300万ドルを等分して着服している。彼らにとって何かあった時の担保として隠し持つようにしたのだ。 更に彼らは賄賂は受け取らないが、ヤクの売人の上前をはねたりはする。我々にとって悪人からお金をもらっていることには変わりはないが、彼らにとっては賄賂を貰うことは下請けになることで、上前をはねることは支配する側であることの違いがある。 前述したようにデニー・マローン率いる“ダ・フォース”は社会の毒を浄化するための毒だ。必要悪とも云える。 濃度の高い酸は濃度の高いアルカリでないと中和できない。それはどちらも人体にとって毒となる。それが彼ら“ダ・フォース”だ。 彼らには法を超えた法がある。単に悪人を逮捕するだけではダメなのだ。 彼らが相手にしている悪は道徳的観念に欠けた正真正銘のワルばかりだ。無学でヤクを売りさばくことでしか、人を安い金で殺すことでしか生活できないチンピラから、商売敵、無能な部下、いや有能すぎて自分の地位を虎視眈々と狙う部下を疑い、殺すことでしか生きていけない無法のディーラーたちこそが彼らの相手。そんな人の命をクズとしか思わないやつらに道徳は通じない。 だから彼らは逮捕した時に徹底的にボコボコにする。顔の形が変形するほどに。そうしないと舐められるからだ。なんだ、逮捕されてもこの程度か、と。全然大したことないな、と。 “ダ・フォース”の面々が生きる世界は力こそが正義であり、そして治安のみならず自分の身を護る鎧なのだ。そんな世界をウィンズロウは色々なエピソードを交え、語っていく。 だからまたこの“ダ・フォース”の仲間たちは警察バッジを持ったマフィアのように描かれる。“ザ・カルテル”で描かれた麻薬カルテルファミリーたちを語る雰囲気と彼らのそれはほとんど同義だ。 しかし唯一違うのは彼らがそんな力で制する正義を誇示しながらも、一方で悪のために亡くなった人々を哀しみ、そして正義を守るための暴力がマスコミに槍玉にあげられないか、細心の注意を払っているところだ。自分の法律、流儀に従い、街を守る彼らを街の住民たちは褒め称えるが、その方法が過剰すぎると上層部やマスコミ、政府のお偉い方達は眉を潜め、しっぽを掴もうとする。FBIは警察の不法な取り締まりに対して目を光らせ、いつでも手ぐすね引いて挙げようと狙っている。 マフィア、麻薬ディーラーといった外部の敵と、上層部、マスコミ、FBIと内部の敵。 “ダ・フォース”は無敵に見えて実はとんでもない敵と常に戦っている。 『ザ・カルテル』の時も衝撃を受けたが、本書でも冒頭で5ページに亘って警察官の名前が連ねられている。それはウィンズロウが本書を執筆中に亡くなった警察官の名前である。 これほどの警官が命を落とすアメリカ。アメリカでは警察官になることは戦争に行く兵士同様、いつ死ぬか解らない命を賭けた職業であることがまざまざと見せつけられる。 それを裏付けるかの如く、本書には実に荒んだ現実が次々と述べられる。 コナリーのハリー・ボッシュシリーズでも取り上げられた黒人の不当逮捕と過剰暴力を振るった警官が無罪放免になったことで、街中が警官の敵になったこと。440人もの警官が殺害され、しかもそれには9・11で犠牲になった警官の数は含まれていない。 警察官は被害者に同情し、犯人を憎む。しかし憎しみすぎるとほとんど犯人と変わらなくなる。 やがて2つに分かれる。 被害者を守れなかった自分を責め苛むか、被害者に対して憎悪するようになるか。 無防備すぎる、弱すぎる、みなクソ野郎ばかりだ…。 肥大化する麻薬ビジネス撲滅のために麻薬ディーラーに潜伏する囮捜査官たちは次第に自身がヤクに溺れるようになる。 ジュリアーニ市長によるニューヨーク浄化政策により、マフィアが一掃されそうになった時に起きた9・11事件。その瓦礫撤去工事に絡んでいたマフィアが法外な費用を吹っかけ、それを資金にしてマフィアが復活する皮肉。 そんな国だからこそ、警察もクリーンなだけでは太刀打ちできないのだと、安全にはコストがかかるのだとマローンは述べる。それを裏付けるのが冒頭の犠牲になった実際の警察官の名前たちだ。 しかし毒はどんな理由であっても毒に過ぎない。 これは王の凋落の物語。 しかしその王は汚れた血と金でその地位を築き、恐怖で支配していただけの王だった。従ってその恐怖に亀裂が入った時、堅牢と思われた牙城は脆くも崩れ去る。 デニー・マローン達は確かに正義の側の人間。彼が取り締まっていたのは通常の遣り方では捕まえることの出来ない者ども。 しかし上にも書いたように、ただ捉え方が違うだけで実質的にはやっていることは同じ。同じ穴の狢だったのだ。 それからの展開は非常に辛い。最高の、そして最強のチーム“ダ・フォース”は分解をし始める。 昨日の友は明日の敵。友情は厚ければ厚いほど、裏切られた時の失望と怒りもまた深い。 作用反作用の法則。命を預けられるほどの信頼で結ばれた仲間の絆は深く、そのために絆が剥がれる時、お互いの命を蝕むほどに根深く、そして傷つけるのだ。 やはり悪い事はできないものだと思いながらも、それまでどうにか切り抜け、ネズミになりながらも矜持を失わないように踏ん張るマローンを応援する自分がいた。 そして彼が自分の悪行を悟って初めて彼もまた悪人である、毒であったことを知らされた。つまりはそれまで彼らの悪行を正当化するほどにこのデニー・マローン初め、フィル・ルッソ、ビッグ・モンティ、デイヴ・レヴィンの面々が魅力的だったということだ。 いやそれだけではない。 汚いことをやりながらもマローン達は自分たちの正義を行ったことだ。マローンはこの町が大好きで、人を愛し、空気を、匂いを愛したのだ。だからこそどんなことをしてでも町の平和を護ってやる、それが王の務めだと思っていたからだ。 後悔先絶たず。そんなことはいつも自分の心を隙間を突かれて堕ちていく人間が最後に行き着く凡百の後悔の念に過ぎず、謂わば単なる言い訳である。 しかしそんな弱さこそがまた人間なのだ。 作中、マローンの恋人クローデットがこんなことを呟く。 「人生がわたしたちを殺そうとしている」 生きると云うことは苦しく、厳しいものだ。いっそ死ねたらどんなに楽か。 本書では登場人物たちの生死によってその後の運命を見事に分っている。 悪行の報いと云ったらそれまでだろう。自分たちだけの正義を貫き、まさに生死の狭間に生きている警察官という仕事。そんな彼らに対する待遇が恵まれていないからこそ、このような負の連鎖に陥るのだ。 悪い事をしている奴らが使いきれないほどの金を持っており、一方それを捕まえる側は子供の養育費でさえヒイヒイ云いながら賄っている、この割の合わなさ。 そんな現実が良くならない限り、この“ダ・フォース”達は決してなくならないのだ。 それでも自分の正義を信じて生きていく彼らはまさに人生の殉教者。 いや警察官だけではなく、我々にも当て嵌まるこの言葉。 我々は生きているのか生かされているのか。今自分の足元を見て、ふとそんなことを思った。 人種の壁、どんどん町に蔓延る大量の麻薬、捕まえても捕まえても次々と出てくる大物麻薬ディーラーたち、そしてディーラー間の抗争。 ニューヨークの、いやアメリカの平和は少しでも衝撃を与えれば壊れてしまう薄氷の治安とバランスの上で成り立っている。そんな現代の深い絶望を感じさせる異色の警察小説だった。 そして私の中に流れる音楽がヒップホップからいつしか胸に染み入るバラードへと変わっていたことに気付いた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ケーブルカーと云えばLAではなくサンフランシスコのそれが有名だが、LAにもあり、それが本書で殺人の舞台となるエンジェルズ・フライトだ。実は世界最短の鉄道としても有名だったが、2013年に運行を停止していたらしい。しかし2016年の大ヒット映画『ラ・ラ・ランド』の1シーンで再び脚光を浴びて運行が再開したようだ。
1冊のノンシリーズを挟んでボッシュシリーズ再開の本書は奇遇にも最近再開されたケーブルカー内で起きた、LA市警の宿敵である強引な遣り口で勝訴を勝ち取ってきた人権弁護士の殺人事件に突如駆り出されたボッシュが挑む話だ。 作者はやはりボッシュに安息の日々を与えない。今度のボッシュはまさに否応なしにジョーカーを引かされた状況だ。 警察の天敵で、何度も幾人もの刑事が苦汁と辛酸を舐めさせられた弁護士の殺人事件を担当することで、世論は警察による犯行ではないかと疑い、刑事も当初はその疑いを免れるために強盗によって襲われたものとして偽装する。現場の状況は警察が偽装した痕跡が認められた上に、射撃の腕前がプロ級であることから容疑者が射撃の訓練をしてきた人間である可能性が高いため、警察関係者にいる可能性も高まる。そしてボッシュはそんな事件を担当する刑事たちに嫌悪され、刑事と思しき人物から脅迫電話まで受け取る。 おまけに被害者は黒人であるのが実は大きな特徴だ。本書はスピード違反で逮捕された黒人をリンチした白人警官が無罪放免になったいわゆるロドニー・キング事件がきっかけで起きた1992年のロス暴動がテーマとなっている。作中LA市警及びハリウッド署の面々にとってもその記憶もまだ鮮明な時期で、エライアス殺人事件がロドニー・キング事件の再現になることを恐れており、少しでも対応を間違えば暴動になりかねない、まさに一触即発の状況なのだ。 作者自身もこのロドニー・キング事件を強く意識した物語作りに徹している。上に書いたように黒人であるロドニー・キングをリンチした白人警官が無罪放免になったのには陪審員が全て白人で構成されていたことが要因として挙げられている。一方エライアスが担当していたマイクル・ハリス事件もまた、事件に関わった警察及び検察官が全て白人であった。コナリーは実際の事件をかなり意識して書いていることがこのことからも窺える。 従って本書では特に白人と黒人の反目が取り沙汰されている。ボッシュ達がこの微妙な、いや敢えて地雷を踏まされたような事件を担当するのも、ボッシュのチームに黒人の男女の刑事がいることが一因であることが仄めかされている。しかしボッシュはそんな市警の上層部の意向に嫌悪感を示し、記者会見に彼の部下を同席することを良しとしない。2回目の記者会見でLA市警の誠実さを示すためだけに同席を強いられたエドガーとライダーはそうすることを命じたボッシュに対して反発心を見せる。彼らは1人の刑事であり、決して特別な「黒人の」刑事ではない。しかしそれを世間に示さなければならないほど、世紀末当時のLAはまだ根深い人種差別が横たわっていたことが描かれている。 ついでに云えば被害者の弁護士ハワード・エライアスの息子の名が黒人解放運動の牽引者である人物の名前がそのまま入ったマーティン・ルーサー・キング・エライアスであることも象徴的だ。 ところで本書ではエピソードとして2つの事件が挿入されている。1つは最近ボッシュが解決して有名になったハードボイルド・エッグ事件。もう1つはエライアスがLA市警強盗殺人課相手に裁判を控えていたブラック・ウォリアー事件だ。 前者の事件は自殺と思われた事件が冷蔵庫に冷蔵されていた固ゆで卵に書かれた日付によってそんなことをする人間が自殺するわけがないと閃いて犯人を捕まえた事件でそれはロサンジェルス・タイムズにシャーロック・ホームズ張りの名推理として紹介され、有名になったのだ。そして犯人だったストーカーは自分の犯行の証拠となる被害者の手記を後生大事に持っていた。 後者は誘拐された自動車販売王として有名なジャクスン・キンケイドの息子サムの一人娘ステーシーが捜査の甲斐虚しく、遺体として発見され、その発見場所がかつて住居侵入と暴行の罪で前科のあるマイクル・ハリスの近くだったことから容疑者として逮捕されたもの。当初はこの被害者家族に世間の目は同情的だったが、裁判でサム・キンケイドがサウス・セントラル地区に販売代理店がない理由を、1992年に暴動が起きた場所に店を構えるつもりなど毛頭ないと応えたことで黒人差別の気運が高まり、無罪判決で釈放された後、ハリス側が今度は自身がが不当な拷問を捜査官から受けたことに対してLA市警を訴えた事件である。そしてこの事件の裁判の直前に担当弁護士で辣腕を誇るエライアスが殺害されるのである。 この事件が実はエライアス殺害事件に大いに関わってくる。むしろボッシュはこの事件を解くことがエライアス殺害事件を解く鍵と信じ、捜査に協力するFBIの方にエライアス殺害事件の方を任せて、自分たちはその事件を追う。 余談になるが、アーヴィングと本部長の取り計らいでこのエライアス殺害事件の捜査はFBIと合同で行うようになる。それに派遣されるFBI捜査官がロイ・リンデルであるのが今回のサプライズでもある。彼はシリーズ前作『トランク・ミュージック』で登場したあの潜伏捜査官。なるほど、こんな手をコナリーは繰り出してくるのかと驚いたものだ。 もう1つFBIで云えば、本書では前作『わが心臓の痛み』が映画化されたことにも触れられており、しかもテリー・マッケイレブはかつてボッシュも一緒に仕事をしたことがあると述べている。これも思わずニヤリとするコナリーの演出だ。 話は変わるがネオ・ハードボイルド小説の代表作の1つにアル中探偵ローレンス・ブロックのマット・スカダーシリーズがある。1976年に始まったこの次世代ハードボイルドシリーズも90年になるとIT化の波には逆らえず、スカダーの仲間の1人TJがパソコンを駆使して彼をサポートするが、このボッシュシリーズでも同様に本書ではボッシュのチームのメンバーの1人、女性刑事のキズミン・ライダーが買春のウェブサイトから隠れサイトであった小児ポルノのサイトへのアクセスし、事件が急転回する。 しかしデビュー作ではまだポケベルで連絡を取り合い―それは本書でもまだ続いている―、その後携帯電話をボッシュが使うようになるが、とうとうインターネットまで登場するようになったとは。 本書は1999年発表だからそれは全くおかしなことではないのだが、ボッシュとインターネットというのがなんともそぐわなく、本書でもボッシュはネット音痴でキズミンがかなり噛み砕いてインターネットのウェブサイトの仕組みについて説明しているのに隔世の感を覚える。世紀末のあの頃のインターネットの認知度はまだそんなものだったのだ。 また今まで色んな苦難に直面させられてきたボッシュだが、『トランク・ミュージック』で新たなチームのリーダーとなり、またグレイス・ビレッツという理解ある上司に恵まれ、しかも運命の女性と感じていたエレノア・ウィッシュと結ばれ、ようやく人生の春を迎えつつあった。しかし本書でまたもや危難に見舞われる。 警察の敵を殺害した犯人の捜査だ。しかも犯人は警察の中にいるかもしれず、お互い理解しあったとされたかつての宿敵アーヴィン・アーヴィングは昔に戻ったかのようにボッシュをマスコミの生贄の山羊に捧げるかのように管轄外にも関わらず呼び出し、特別任務として捜査のリーダーに命じる。 味方の中にも敵がいるかもしれない、そんな四面楚歌の状況にボッシュはいきなり追いやられる。 更にエレノアとの結婚生活もまた破綻しかけている。元FBI捜査官でありながら、前科者という経歴で彼女はなかなか新たな職に就けないでいた。ボッシュも人脈を使って逃亡者逮捕請負人の仕事を紹介したりするが、エレノアはかつて捜査官として抱いていた情熱をギャンブルに向けていた。ラスヴェガスでギャンブラーとして生計を立てていた頃に逆戻りしていたのだ。 ボッシュはエレノアに安らぎと全てを与える思いと充足感を与えられたが、エレノアはボッシュだけでは充たされない空虚感があったのだ。 本書で特に強調されているのは「すれ違い」だろうか。事件の舞台となったケーブルカー、「エンジェルズ・フライト」をコナリーは上手くボッシュの深層心理の描写に使っている。 彼が夢でこのケーブルカーに乗っている時、まず最初に反対側のケーブルカーに乗っていたのはエレノア・ウィッシュだった。しかし夢の中の彼女はボッシュの方を見向きもしないまま、そのまま下っていく。 2回目の夢の時は反対側のケーブルカーではなく、同じケーブルカーに通路を挟んで相手は乗っている。それはブラック・ウォリアー事件の被害者ステーシー・キンケイドだ。彼女は悲しげで虚ろな目でボッシュを見つめている。 一度は近づきながらもやがて離れていくケーブルカー。これを出逢いと別れを象徴している。 一方同じ車両に通路を隔てて乗っている2人の関係性。これは同じ方向に進みつつも2人には何か見えない隔たりがある。 ケーブルカーをボッシュが関わる女性との関係性に擬えるところにコナリーの巧さがある。 夢で見たようにエレノアはボッシュを十分愛せない自分に耐え切れなくなり、しばらく距離を置くため家を出る。ボッシュはエレノアといることに至上の幸せを見出していたのに、それが一方通行でしかなかったことを知り、心が引き裂かれそうになる。 上に向かっていくケーブルカーに乗っていたボッシュとは裏腹にエレノアの心は下降線を辿って行ったのだ。 そしてステーシー・キンケイドもまた同様だ。今度は同じ車両に乗りながら通路を挟んで見つめ合う2人。 我々は同じ車両に今乗っている。ただまだそちらのシートには近づけない。そこにはまだ通路分の隔たりがあるのだと。 すれ違いと云えば、被害者エライアスの家族もそうなのかもしれない。 人権弁護士として貧しき黒人たちの救世主として名を馳せた辣腕の黒人弁護士。しかし彼はその名声ゆえに近づいてくる女性もおり、それを拒まなかった。元人権弁護士でLA市警の特別監察官となっているカーラ・エントリンキンもまたその1人だった。 しかしエライアスの妻ミリーは女性関係については夫は自分に誠実であったと信じていますと告げる。決して誠実だったとは云わず、自分は信じているとだけ。 これはつまりすれ違いをどうにか防ごうとする妻の意地ではないだろうか。世間に名の知れた夫を持つ妻の女としての矜持だったのではないだろうか。つまり彼女とハワード・エライアスのケーブルカーはそれぞれ上りと下りと別々の車両に乗ってはいたが、行き違いをせずにどうにかそのまま同じところに留まっていた、そうするように妻が急停止のボタンを押し続けていた、そんな風にも思える。 今回も多くの人々がボッシュの目の前から消え去る。 娘を亡くした忌まわしい過去を一刻も早く消し去りたいがために引っ越しながら、移転先では2人の死体が残され、そして以前の家では1人の死体が残され、そして誰もいなくなってしまった。 皆が集まる家もあれば、なぜか人が居着かない家もある。ずっと孤独を抱えていたボッシュの家は後者になるのか。 そしてアメリカの政財界にまで影響を与える自動車販売王の家もまた張り子の家庭だけが存在する、不在の家なのか。 事件を調べる者と調べられる者と対照的な2つの家に私はなんとも奇妙な繋がりを覚えずにはいられなかった。 コナリーは刑事を主人公としながら実は警察小説を書くのではなく、あくまでハードボイルドで警察に盾突く卑しき街を行く騎士としてボッシュを描いていることに今ようやく思い至った。 世紀末を迎えたアメリカの政情不安定な世相を切り取った見事な作品だ。 実際に起きたロス暴動の残り火がまだ燻ぶるLAの人々の心に沈殿している黒人と白人の間に跨る人種問題の根深さ、小児に対する性虐待にインターネットの奥底で繰り広げられている卑しき小児ポルノ好事家たちによる闇サイトと、まさしく描かれるのは世紀末だ。 では新世紀も17年も経った現在ではこれらは払拭されているのかと云えば、更に多様化、複雑化し、もはやモラルにおいて何が正常で異常なのかが解らなくなってきている状況だ。人種問題も折に触れ、繰り返されている。 そういう意味ではここで描かれている世紀末は実は2000年という新たな世紀が孕む闇の始まりだったのかもしれない。 そう、それは混沌。 死に値する者は確かに制裁を受けたが、それは果たして正しい姿だったのか。そして友の死の意味はあったのか。向かうべき結末は誰かが望み、そしてその通りになりもしたが、そこに至った道のりは決して正しいものではない。 結果良ければ全て良しと云うが、そんな安易に納得できるほどには払った犠牲が大きすぎた事件であった。 自分の正義を貫くことの難しさ、そして全てを収めるためには嘘も必要だと云うことを大人の政治原理で語った本書。その結末は実に苦かった。 そして本書では解かれなかった謎がもう1つある。それはマスコミ、TV屋のハーヴィー・バトンとそのプロデューサー、トム・チェイニーに警察の内部情報をリークしていた人物についてだ。つまり今後も警察内部に情報源を抱えて仕事をしていかなければならないことを強いられるわけだ。 ボッシュの息し、働き、生活する街ロス・アンジェルス。天使のような美しい死に顔をして亡くなったステーシーがいた街ロス・アンジェルス。 まさに天使の喪われた街の名に相応しい事件だ。 その街にあるケーブルカーの名前は「エンジェルズ・フライト」、即ち「天使の羽ばたき」。 しかし天使の喪われた町での天使の羽ばたきは天に昇るそれではなく、地に墜ちていく堕天使のそれ。 最後にボッシュは呟く。チャステインの断末魔は堕天使が地獄へ飛んでいく音だったと。 エンジェルズ・フライトの懐で亡くなったエライアスはこの堕天使によって道連れにされた犠牲者。 世紀末のLAは救済が喪われたいくつもの天使が墜ちていった街。そんな風にLAを描いたコナリーの叫びが実に痛々しかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『恐怖の四季』と題して春夏秋冬それぞれの季節をテーマにキングが綴った中編集が春夏編と秋冬編の2分冊で刊行された。本書はそのうちの前編に当たる春夏編である。
冒頭を飾るのは『ショーシャンクの空に』(傑作!)として映画化された「刑務所のリタ・ヘイワース」だ。 あまりにも映画が有名なため、そして私がベストの映画の1つとして挙げることもあって、物語は既に解っていたが、改めて読むとアンディーというエリートと調達屋のレッド2人の囚人の友情がなんとも眩しい。 妻と愛人殺しの冤罪に問われ、刑務所に入れられることになった元銀行の副頭取のアンディー・デュフレーン。入所したのが1948年。そして脱獄して出所するのが1975年だから、何と28年間も囚人生活を強いられていたことになる。 いつも穏やかな笑みを浮かべ、ほど良い距離感を保って囚人たちと接する彼は、刑務所名物の男色家たちの的になりながらも必死で抵抗し、やがて看守を味方につけることで完全に自分の身を護ることに成功する。 そんな彼の囚人生活を刑務所特有の異様な文化や風習、そして劣悪な環境で行われる囚人たちへの惨たらしい仕打ちなどが折に触れて挟まれながら、180ページもの分量を費やして語られる。 1人の男が入所して28年後に脱獄するまでの刑務所生活を語るキングの筆致は、舞台が固定されているにも関わらず、全く退屈せずに読み進めさせられる。魅力的な登場人物と刑務所と云う特異な空間。このたった2つのアイテムでぐいぐい読者を引っ張る。囚人たちに纏わる色んなエピソードを絡め、停滞しがちな話に見事に抑揚をつけて飽きさせない。 アンディーが刑務所に入れられることになった裁判の一部始終、彼がレッドと知り合う顛末。彼が刑務所内でひとかどの人物として成り上がっていく劇的な事件とその過程、更にそれまで常に泰然自若としていた彼が自分が冤罪となった事件の真犯人を知ることで取り乱し、手に入れた刑務所内の安定生活を失っていく様、そしていつか出所した時にメキシコの海沿いの町で小さなホテルを建てて過ごす夢を語り、その夢にレッドを誘うエピソード、そして訪れる脱獄の日。 アンディーの過ごした28年が彼の親しいムショ友達だったレッドの手記の形で語られていく様は不器用ながらも味わいがある。 アンディーの28年は常に理不尽と絶望との戦いだったことだろう。若くして銀行の副頭取にまで登り詰めたエリートが図らずも冤罪によって刑務所に入れられてしまう。自分の無実を信じながらもささくれだった劣悪な環境下でも自分を保っていた彼が、なぜ自分を見失ずにいられたかが脱獄方法1つで腑に落ちていく辺りはキングが物語巧者であることを感じずにはいられない。 しかし自分の信念だけがアンディーの精神的支柱だったわけではない。やはりレッドの存在もまた彼が彼であり続けるために必要不可欠だっただろう。 最初は恐らくただの何でも調達屋で、自分の脱獄を実現するために利用しただけかもしれない。しかしやがてレッドはアンディーの中で存在感を増していったことだろう。 人間、なかなか自分の胸に秘める思いを隠してはおけないものだ。それも20年以上となれば尚更だ。そんなアンディーが唯一心を許し、夢をも語ることを許したのがレッドだったのだ。この2人の男の友情物語のなんと美しいことか。なかなか余韻が冷めない。 夏を司る次の表題作「ゴールデンボーイ」もまた映画化された作品だ。私は未見だが旧ナチスの老人と少年の異常な交流を扱った作品というのだけは知っている。 元ナチスの老人と少年の奇妙な交流を描いた作品だ。ひょんなことから第2次大戦中のナチスが行った数々の所業に興味を持った少年トッド・ボウデンが偶然町で見かけた老人が戦争実話雑誌に掲載されていた写真に写っていたアウシュビッツ収容所の副所長クルト・ドゥサンダーであることに気付き、警察に通報しない代わりにナチス時代の話を話すよう強要する。 老人にとってナチス時代は悪夢であり、彼自身世界中をユダヤ人の追手から逃れてきた末に今のアメリカのカリフォルニアの町サント・ドナートに辿り着き、株の配当金で細々と隠遁生活を送っていたところだった。しかしやがて老人も自分の過去を話すことでかつて収容所の副所長として鳴らした威厳が蘇ってくるようになる。その引き鉄となったのがドットが興味本位で持ってきたレプリカのSSの制服を着せられたときだった。 やがてドットも老人の戦争時代の話に没入するにつれ、悪夢を見るようになり、勉強に集中できなくなり、瞬く間に成績が下がっていく。それをもはやかつて数多くのユダヤ人やドイツの同胞を見てきたドゥサンダーは見逃さずに逆に少年を支配し出す。 少年の成績が下がったことが親にバレることは避けたい。しかし一方でそのことは否応なく老人の正体を話すことに繋がる。つまり二人は運命共同体となるのだ。 そして老人は少年の祖父に成りすましてカウンセラーの面談に赴き、少年の両親の仲たがいが成績不振の原因であると吹き込み、少年が5月に落第点のカードを貰ったらカウンセリングを受けることを約束する。つまり老人は自らの進退も賭けて少年の成績を上げることを決意し、彼の家庭教師を務めるのだ。 このいびつな主従関係、いや共棲関係が実に自然に展開する辺り、キングの筆の凄さを感じる。しかし何よりもよくもこんな物語を思いつくものであると感心してしまう。 そして一方でドットはドゥサンダーの指導によって成績が上がっていくものの、それが彼の自尊心を傷つけ、老人に殺意を覚える。思春期真っ只中の権威への反抗心が、老人の過去に魅了されながらも憎悪するという複雑な心境を描き出す。 1人の老人のナチス時代の過去を共有することで2人が同じ行動を取っていくのが興味深い。つまり2人は非常に似た者同士であり、彼らの関係は近親憎悪なのだ。それも針の振り切った。 それを裏付けるかの如く、それぞれの正体が明かされていくのも同時だ。 お互いの運命がシンクロし合うように破滅へと進んでいくのだ。 少年の老人の交流をキングが描くとこれほど不思議な話になるのかと読了後、思わずため息が出た。 敵対し、互いに支配しようと相克し合っていた2人がいつの間にか同調し、奇妙な形で支え合う。それはお互いの心に眠る殺人への限りない衝動が老人の陰惨なナチス時代の話を通じて首をもたげ、そして発動する。ナチス時代の話を共有することと、お互いが殺人を犯している行為もまた2人にとって共通の秘密となり、2人でしか成立しない世界を作り上げたことだろう。 キングの中編集『恐怖の四季』はその名の通り、それぞれの四季がテーマになっている。キング版枕草子とも云える本書は4編中3編が映画化され、しかもそのいずれもが大ヒットしていることが凄い。それほどこの中編集には傑作が揃っていると云っていいだろう。 まず物語の四季は春から明ける。この季節をテーマに語られるのは「刑務所のリタ・ヘイワース」。副題に「春は希望の泉」と添えられている。まさしくその通り、これは希望の物語である。 この作品に対して私は冷静ではない。上にも書いたように本作を原作として作られた映画『ショーシャンクの空に』は私の生涯ベスト5に入るほどの名作だからだ。 静謐なトーンでじんわりと染み入るように進む物語に私は引き込まれ、そして最後の眩しいばかりの再会のシーンにこの世の黄金を見るような気になったからだ。本作でレッドが仮釈放され、アンディーの跡を追う一部始終は、人生の大半を刑務所で過ごした人たちが身体に染み付いた刑務所の厳格な生活リズムという哀しい習性とそれを逆に懐かしむ危うさに満ちていて、思わずレッドの平静を願わずにはいられない。 そして希望溢るるラスト5行のレッドの祈りにも似た希望は映画のラストシーンとはまた違った余韻を残す。その希望が叶うことを本作の副題が証明しているところがまた憎い。 さて次は「転落の夏」と添えられた表題作。元ナチス将校の老人と誰もが思い描くアメリカの好青年像を備えた少年の奇妙で異様な交流を描いた作品だ。 その副題が示すように一転して物語はダークサイドへ転調する。アメリカの善意を絵に描いたような少年が元ナチス将校の老人の過去を共有することで心に秘められていた殺人衝動を引き起こす話だ。 少年は老人を支配しようとするがかつてユダヤ人を大量虐殺してきた百戦錬磨の老人もまた逆に少年を支配し出す。やがて2人にはナチスの陰惨な過去の所業の話を共有することで奇妙な親近感を覚えていく。悪夢を呼び起こされた老人は夜な夜なうなされるようになるが、そこに昔の、全てを掌握していたかつての自信ある自分の姿を見出し、まだまだやれるのだと浮浪者たちを殺していく。 一方少年もまた老人の話から思春期特有の想像力を働かせて悪夢にうなされながらも内に眠る殺人への強い衝動を目覚めさせ、同じように浮浪者たちを狩っていく。 転落していく2人はやがてお互いが生き長らえるために必要な不可欠な存在へとなっていく。成績が下降した少年は老人の助けを借りて再生を果たす。その後の彼は優秀な成績を修め、更にスポーツでも万能ぶりを発揮し、地区の代表選手にも選ばれるようになる。転落から一気に運命は上昇するかに思えたが過去の過ちは決して彼らを逃さず、やがて破滅へと向かっていく。 逢ってはいけない2人が逢ってしまったことで転落していく、実に奇妙な老人と少年の交流を描いた作品はキングしか描けない話となった。前にも書いたが、よくもまあこんな話を思いつくものだ。 ところでこの2つの作品には繋がりがある。表題作に登場する元ナチス将校の老人アーサー・デンカーが生計を立てているのは株の配当金。その株の手続きをしたのが銀行員時代のアンディー・デュフレーンなのだ。こうやって考えると残りの2編もこれら2編と何らかの繋がりがあるのは間違いないだろう。 また「刑務所のリタ・ヘイワース」で語り手を務めるレッドが刑務所に入ることになった事件の記事が書かれている新聞の会社はキャッスル・ロックにある。これは『デッド・ゾーン』で登場した連続殺人鬼フランク・ドッドがいた町であり、また『クージョ』の舞台となった町だ。 それ以外にもリンクがあるのか、次の後編はそれを見つけるのもまた一興だ。 さてそれぞれの原題だが、まず「刑務所のリタ・ヘイワース」は原題をそのまま訳すと「リタ・ヘイワースとショーシャンクの救済」となり、逆にこれは邦題のシンプルさを買う。映画の題名もまたあれはあれで映画の雰囲気とマッチしているが、やはり小説ではこちらの方が合っているだろう。 表題作の方は「利発な生徒」とシンプルながら含蓄な題名である。これは確かに作品の本質を表しているが、ちょっと地味すぎるだろう。トッドの利口さとそして老人の心理へも同調してしまい、共に奈落へ堕ちるほど彼は利発だったということだ。 一方で邦題の「ゴールデンボーイ」もまた色々と考えさせられる。これはトッドの風貌、金髪の好青年をそのまま表しているようにも思えるし、金の卵という、輝かしい未来に満ちた少年という風にも取れる。 このあまりに煌びやかな題名と内容とのギャップが読後の暗鬱な余韻を助長しているように思えるので、私は邦題に軍配を捧げたい。 『恐怖の四季』と冠せられた中編集の前半の2編はそれぞれ二律背反な関係にあると云えるだろう。 「刑務所のリタ・ヘイワース」は28年もの長きに亘って冤罪で自由を奪われた男が自由を勝ち取る物語。 一方「ゴールデンボーイ」は30年近く逃亡生活を続けてきた老人が最後に自由を奪われ、自決する物語。 彼らが重ねた歳月は苦しみの日々だったが、その結末は見事に相反するものとなった。前者は自由への夢を見続けたが、後者は自分の行った陰惨な所業ゆえに悪夢を見続けた。 次の後編はあの名作「スタンド・バイ・ミー」が控えている。 キングが綴った四季折々の物語。全て読み終わった時に心に募るのはその名の通り恐怖なのか。それとも感動なのか。 その答えはもうすぐ見つかることだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ハリー・ボッシュシリーズ3作目はボッシュのキャラクターを形成するエピソードとして描かれていた、彼がロス市警のエースから下水と呼ばれるハリウッド署に転落することになったドールメイカー事件。本書ではなんとこのボッシュの過去の瑕とも云うべき事件がテーマである。
彼が解決したと思われた事件の犯人は別にいた? それを裏付けるかの如く、かつての手口と同じ形で新たな死体が見つかる。更にボッシュは彼が射殺した犯人の家族から冤罪であったと起訴されている身である。 最初からどこをどう考えてもボッシュにとっては不利な状況で幕が開く。 特に被害者の一人が殺害された時間に容疑者が友人のパーティーに出席していたビデオを証拠として出された場面ではボッシュの誤認逮捕への嫌疑は最高潮に達するのだが、その疑問を実に鮮やかに本書はクリアする。 ただそこからが本書の面白いところで、当時記者にも隠していたドールメイカーの犯行の特徴を模倣犯がほぼ忠実に擬えていたことから捜査に関わっていた人物、すなわち警察関係者に容疑者が絞られることになる。 警察仲間の中に快楽殺人鬼がいる。 この油断ならぬ状況はさらに事件に緊迫度をもたらす。 またボッシュはこの裁判を通して過去に母親を亡くした忌まわしい過去を白日の下に曝され、直面せざるを得なくなる。 それまでの作品にも断片的に描かれていた母親。彼に実在する画家と同じ名前を付けた元娼婦だった女だ。 彼女マージョリー・フィリップス・ロウはレイプされた絞殺死体として発見された。そしてボッシュは施設に入れられた。その過去から娼婦やポルノ女優を襲ったドールメイカーに個人的な恨みを抱くようになり、ノーマン・チャーチという無実の男を怒りに任せて射殺したのではと原告側の弁護士ハニー・チャンドラーに詰問され、ハリーは動揺する。それまで一度も考えたこともなかった心理だが、彼自身も潜在的にもしかしたらそうだったのではないかと思うようになる。 濃密な人間関係が物語が進むにつれて形成されていたことが判り、更に物語世界が深化する。この世界に没頭できる感覚とサプライズは何ものにも代え難い至福だ。勿論やり過ぎると鼻白む気はあるが。 また前作『ブラック・アイス』で知り合ったシルヴィア・ムーアとの関係がまだ続いていることが本書では書かれている。しかもほぼ同棲状態で共に食事をし、寝泊まりして愛を交わすほどの仲になっている。かつて警官の妻であったシルヴィアは警察官相手の距離感を心得ており、ボッシュにとって帰るべき家といった存在にまでなっている。 ただ以前の夫の過去を敢えて問わないことで結婚生活に失敗したシルヴィアは愛するボッシュを話したくないがために彼の昏い過去をも知ることを欲する。しかし過去を捨てようとして生きてきたボッシュはその過去を思い出すことを拒む。 本書では2人の性格を的確に捉えている印象的な文章がある。 シルヴィアは物事の中に美を見出すが、ボッシュは闇を見出す。天使と悪魔の関係だ。 教師という職業に就き、人の清濁を理解した上で美点を見出し、そこを延ばそうとする女性に対し、常に人を疑って隠された悪を見出して数々の犯人を検挙してきた男。どちらもそれぞれの職業に、生き方に必要な才能を持ちながら水と油のように溶け込まないでいる。唯一共通するのはお互いが求めあっていることだ。 しかし法廷劇の濃密さはどうだろう! 百戦錬磨の強者弁護士ハニー・チャンドラーの強かさは男性社会の中で勝ち抜くことを自分に課した逞しい女性像を具現化したような存在だ。裁判に勝つために自らの容姿、敵の中に情報源を隠し持つ、更には被告側の隠したい過去をも躊躇なく暴く、容赦ない女性だ。 後にコナリーは弁護士ミッキー・ハラーを主人公にしたシリーズを書くが、早くも3作目でこのような法廷ミステリを書いているとは思わなかった。 1作目が典型的な一匹狼の刑事のハードボイルド小説ならば2作目はアメリカとメキシコに跨った麻薬組織との攻防と思わぬサプライズを仕掛けた冒険小説、そして3作目が法廷ミステリとコナリーの作風のヴァラエティの豊かさとそしてどれもがストーリーに深みがあるのを考えると並外れた才能を持った新人だと思わざるを得ない。 さて本書の原題は“The Concrete Blonde”、即ちボッシュの誤認逮捕を想起させるコンクリート詰めにされて発見されたブロンド女性の死体を指している。 一方で邦題の『ブラック・ハート』はヒットした2作目の『ブラック・アイス』にあやかって付けたという安直な物ではない。いや多少はその気は出版社にもあったかもしれないが、本書に登場する司法心理学者が書いた本のタイトル『ブラック・ハート―殺人のエロティックな鋳型を砕く』に由来する。 即ちブラック・ハートこと“黒い心”とは誰もが抱いている性的倒錯であり、それが砕けるか砕けないかという非常に薄い壁によって犯罪者と健常者は分かたれているだけで、誰もが一歩間違えば“黒い心”に取り込まれて性犯罪を起こしうると述べられている。 恐らく原題も最初はこの『ブラック・ハート』としていたのではないだろうか? というのも第1作『ナイトホークス』の原題が“Black Echo”で2作目が邦題と同じ“Black Ice”。それらはいずれも作中で実に印象的に扱われている言葉でもある。その流れから考えるとコナリー自身もボッシュシリーズの題名は“Black ~”で統一しようと思っていたのだが、それまでの題名に比べて“Black Heart”はいかにもありきたりでインパクトがなさすぎるため、エージェントもしくは出版社が本書でセンセーショナルに描かれるコンクリート詰めのブロンド女性の死体を表す「コンクリート・ブロンド」にするよう勧めたのではないだろうか。 しかし本書の題名はそのどちらでも相応しいと思う。邦題の『ブラック・ハート』は本書の焦点となるドールメイカーの追随者を正体を探る作品であることを考えると、その犯人の異常な、しかし誰もが持つ危うい心の鋳型を指すこの単語が実に象徴的だろう。 一方で『コンクリート・ブロンド』ならば、新たに現れたドールメイカーの追随者による犠牲者たちを衝撃的に表した単語であることから、それもまた事件そのものの陰惨さを指す言葉として十分だろう。 しかもコナリーはこの言葉にもう1つの意味を込めている。 今回のボッシュの宿敵となって立ち塞がる原告側の弁護士ハニー・チャンドラー。コナリーが敬愛する作家のラストネームを冠したこの女性こそが「コンクリート・ブロンド」だったのではないか。 彼女は裁判所にある正義の女神テミスの像を指して、これこそが“正義”である、被告人の話を聞かず、姿も見ない、気持ちも解らないし、話しかけもしないコンクリート・ブロンドとボッシュに話す。自分で信じた正義のためにはどのような手を使ってでも戦い、勝利を勝ち取ると誓った、コンクリートのように強く揺るがない意志を持ったブロンドの戦士。 卑しき犯罪者を糾弾する自分だけは自分の正義を守ろうとしたのが彼女だとしたら、だからこそコナリーは彼女にその名を与えたのではないだろうか。 一方でボッシュはこのチャンドラーに公判中、怪物を宿した刑事だと糾弾される。そして自身もまた自分の中にその怪物がいるのかと自問し出す。自分もまた“黒い心”の持ち主であり、チャーチを撃ち殺した自分は彼らとなんら変わらないのではないかと。 つまり原題がボッシュの宿敵を指すのであれば邦題はボッシュ自身をも指示しているとも云えるだろう。 ハリー・ボッシュがロス市警の花形刑事から下水と呼ばれるハリウッド署へ転落させられたドールメイカー事件。彼の刑事人生で汚点ともなる疑惑の事件が今回見事に晴らされた。1作目からのボッシュの業は1つの輪となって一旦閉じられることになるとみていいだろう。 次作からは再び己自身の過去に向かい合う作品となるだろう。 そして最後に彼の許に戻ってきたシルヴィアとの関係も決して十分だと云えない。お互い愛し合っているからこそ、続けるのが困難な愛もある。危険に身を投じるボッシュは彼のせいでシルヴィアもまた危険に巻き込むかもしれないと恐れ、一方でその姿勢を高貴なものと尊敬しながらも、以前警察官だった夫を喪ったシルヴィアは再び同じような失意に見舞われるのを恐れている。 最後にボッシュが呟いたように、少しでも関係が続くよう、もはや願うしか手がないのだろう。最後の台詞に“Wish”という言葉が入っていることに私はボッシュのもう1人の女性のことを思い出さずにはいられなかった(この最後の台詞はまさに珠玉!)。 つくづくこのシリーズは数珠繋ぎだと思わされる。次作『ラスト・コヨーテ』は本書の裁判でも取り上げられたボッシュの母親に纏わる話なのだという。このように作者コナリーは実に周到にボッシュという一人の刑事の人生を魅力あるエピソードで語り出していく。 さらに本書で登場したホームレスの弁護士トマス・ファラディも記憶しておかねばならない人物の1人かもしれない。彼が凋落したエピソードは語られたものの、一連のボッシュサーガに再び登場するやもしれないからだ。 巻を重ねるごとに深みを増すハリー・ボッシュシリーズ。 もう読むことを止めることは私にとって実にこの上ない苦痛に感じることを正直に告白してこの感想を終えよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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どんでん返しの王と云えば現代の海外ミステリ作家ならばジェフリー・ディーヴァーだが、日本では最近中山七里氏の名が挙がるようになった。実際「どんでん返しの帝王」という異名もついているらしい。
本書はそんな彼がデビューするに至った第8回『このミステリーがすごい!』大賞受賞作である。 まさに新人離れした筆致とストーリー展開であれよあれよという間に物語に引き込まれる。 主人公は不動産会社の社長を祖父に持ち、ピアノの特待生として高校の音楽科に入学した香月遥。このように書くと遥はいいとこのお嬢様のように思えるが、彼女の一人称叙述で展開されるその内容からはどこにでもいる普通の女子高生のようにしか映らない。 突然の火事で全身大火傷を負うが、医者の必死の大手術の末、ほぼ全身に亘って皮膚移植を施されるが、火事の影響で気管を焼かれ、しゃがれ声しか出せなくなる。懸命のリハビリと岬洋介という名ピアニストという師を得て、不可能と思われたピアノの演奏をたった二週間で弾けるようになるという驚異的な回復を見せる。しかしそれが全く絵空事のように思えず、この岬というピアニストの指導の許であれば可能であると納得させられるような説得力のある説明と描写。 またそれ以外にも登場人物を取り巻く色々なエピソードに纏わる情報や知識がしっかりとしており、単なるモチーフになっていない。スマトラ島沖地震の詳細、高校進学に必要な経費の公立高校と私立高校との差、火傷に関する情報にその治療に関する細かい内容、相続税対策を考慮した遺産相続の方法など我々の実生活に直接関係のある事柄がつぶさに書かれており、一つとしておざなりに書き流されていない。 また描写と云えば本書に織り込まれたクラシックの曲調に対する描写が実に絵的で美しく、頭の中で音が奏でられるように錯覚する。 私はクラシックには疎いのだが、それでも聞いたことのある題名から知らない曲名までもがなぜかその描写によって曲が自動再生させられていく。音の躍動感、またきらびやかさが粒のように空気に舞い、弾け、そして溶け合い、人々の耳に余韻として残る。それら一つ一つの音符やメロディに感じるのは中世・近代の名のある音楽家たちが譜面に込めた情熱や美、そして常に新しい技を生み出そうとする研鑽の姿だ。 そしてそれらを譜面を通じて理解し、どうにか再現しようと、そしてそのメッセージと喜びを観客と共に分かち合おうとする演奏者の思いが神々しいほどに美しい描写に込められている。常に頭の中で音楽が奏でられ、思わず眼前にリサイタルが成されているかの如く錯覚に陥ってしまった。 後でその題名でググって実際の曲を聴いてみると全く違っているのが常だが、中には合っているものもあったりして、この作家の表現力の豊かさを頭ではなく心で感じる思いがしたものだ。 そんな物語である本書はミステリというよりもなんとも清々しい青春小説、いやビルドゥングス・ロマンなのだろうという思いで読んだ。 やはりなんといっても主人公香月遥が全身大火傷という重傷を負ってから学校代表としてピアノコンクールに出場するまでの岬洋介との血のにじむようなレッスンの様子が非常に読ませる。特に常に包帯を巻き、松葉杖を突いて学校生活を営む彼女に対して周囲がそれぞれの立場で好奇心、功名心、そして妬みや嫉みを彼女にぶつけてくる様が生々しく、単なる不具者の美談となっていないところがいい。 学校の校長は障碍者としての彼女がピアノコンクールに出場するまでになったことを自分の高校のいい宣伝材料として彼女を客寄せパンダとして利用しようとして隠さないし、金持ちの家のお嬢さんでその上に同情心を買おうと勝手に思い込んでいるクラスの同級生の悪意ある言葉など障害者が取り巻く世間の厳しさをまざまざと見せつける。 そんな現実があるからこそ彼女の強さが引き立つわけだが、むしろ障碍者の人々への社会の理解が十分になされてなく、登場人物の岬の言葉を借りれば、世界はまだ悪意に満ちているのだ。 そう、これは戦いの物語なのだ。 突然業火に包まれ、全身大火傷という重傷を負い、皮膚移植をされた上に他人に成りすますことを強いられた一人の女子高生が、ピアノを通じて松葉杖を突き、5分以上の演奏ができない不具の身体でコンクールを勝ち抜く。社会の障害者に対する偏見と好奇の目に晒されながらも敢えてその逆境に挑み、岬洋介という素晴らしいピアニストを師に迎えて音楽という雄大に広がる宇宙を具現化させることに執着し、そしてその世界観を一人でも多くの聴者に届けようと苦心する一人の女子高生の戦いだ。 そしてまた彼女の師、岬洋介もまた戦う男だった。 法曹界にその名を轟かせた凄腕の検事正を父に持ち、また自身も司法試験でトップ合格するほどの頭脳と適性を持ちながらピアノの夢を捨てられずに片耳が不自由とハンデを持ちながらも再び音楽家の道を歩み、新進気鋭のピアニストとなった男。ハンデを持つがゆえに世間の残酷さを知っているからこそ、障碍者の遥にも甘い言葉を掛けず、社会の厳しさを教え、その覚悟を常に問う。お坊ちゃん風の穏やかな風貌をしながらも心の中に太くて強い芯を持つ男だ。 彼は音楽を究めんとしようとする者を後押しし、援助を拒まない。 本書はこの2人の音楽の求道者がそれぞれ抱えた肉体的ハンデと戦い、そして世間と戦う物語なのだ。 そして最後の一行として掲げられる本書の題名は再出発するための手向けの言葉なのだ。 音楽用語で模された各章題を並べてみよう。 ~嵐のように凶暴に~ ~静かに声をひそめて~ ~悲嘆に暮れて苦しげに~ ~生き生きと高らかに響かせて~ ~熱情を込めて祈るように~ これらはまさに主人公香月遥が本書で辿った生き様を見事に表しているが、と同時に突然障害者となった人々がその後の人生で辿る生き方をも示しているように思える。 障害者となる事故や事件はまさに嵐のように凶暴に自身に降りかかってくるだろうし、その後静かに息をひそめて今後のことを考えつつ、悲嘆に暮れて苦しみながら己の身に降りかかった不幸を嘆き悲しむことだろう。 しかしそれが逆に新たな人生を生きるチャンスを、健常であった頃よりももっと一日一日を大切に生きることを教えてくれたと思えば生き生きと高らかに生きていることの喜びを響かせ、そして“今この一瞬”を熱情を込めて祈るように大切に生きていくことだろう。 本書が殺人を扱いながらも実に清々しいのはこの章題に込められた作者の障害者への思いゆえだ。 これほどまでに犯人に対して憎しみどころか潔さや気持ちの良さを感じたミステリはない。 本書の本当のどんでん返しはこの気持ちよさにあると思う。 全くなんというデビュー作なのだ、本書は。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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マイクル・コナリーデビュー作にしてMWA賞の新人賞に輝いた今なお続くハリー・ボッシュシリーズ第1作の本書は読後そんな感慨が迫りくる物語だ。
さてこれほどまでに長くシリーズが続くハリー・ボッシュという人物。その人物像はこの1作目でかなり詳細に書かれている。 本名ヒエロニムス・ボッシュ。孤児院で育った徹頭徹尾の一匹狼。 当時40歳の彼はヴェトナム戦争時代にトンネル兵士として参戦し、その後、ロス市警に入署し、パトロール警官からたった8年で刑事へ、そして花形の強盗殺人課へとエリートコースを辿る。その活躍はスター刑事として本も数冊書かれ、さらに彼を主人公にしたTV映画やTVシリーズが作られ、新聞も日夜彼の活躍を報じるも、ドールメイカー事件で誤って容疑者を殺害した廉で1か月の停職処分と下水と呼ばれるハリウッド署への左遷を食らう。 自身は戦争の後遺症で時々不眠症に悩まされ、その影響で人を撃つことと暴力に対して抵抗がなく、躊躇わずに人を殺せる性格である。 風貌は身長6フィートプラス数インチでさほど背は高くなく、やせぎすだが筋肉質で針金のように細くて丈夫だと評されている。目は茶色がかった黒色で髪には白いものが混じり出している。 さて彼が関わる事件はかつて自分がヴェトナム戦争に従軍していた頃、同じようにトンネル兵士として戦友だったウィリアム・メドーズという男がハリウッド湖のパイプで薬物過剰摂取で死んでいるのが発見されるが、ボッシュはこれが事故死に見せかけた殺人だと信じ、捜査する。やがて彼が銀行の貸金庫強盗の容疑者となっていることが判り、その事件をFBIが扱っていることから一度は拒否されるも、強引な手を使って一転FBIとの合同捜査に切り替わる。 このボッシュという男、とにかく内外に敵の多い人物だ。単独捜査を好み、犯人検挙率も高いため、TVシリーズが作られるほどのスターぶりを発揮するが、その活躍を妬む周囲の反感を買い、虎視眈々と失墜するネタを狙われている。 ボッシュ本人は自分が正しいと思ったことを決して曲げず、事故死として処理されそうだった事件も数々の証拠を挙げることで殺人事件として周囲に納得させる執念を持っている。また事件解決のためには小事よりも大事を重んじる性格で、捜査のパートナーとなったエレノアの杓子定規な性格―つまりどんな微罪であっても犯人を逃さない―と反目し合いながらもいつしかお互いに魅かれ合っていく。 一匹狼の刑事、ヴェトナム戦争のトラウマ、男と女のロマンス。 このように本書を構成する要素を並べると実に典型的なハードボイルド警察小説である。しかしどことなく他の凡百の小説と一線を画するように思えるのはこのボッシュという人物に奥行きを感じるからかもしれない。 仕事の終わりに片持ち梁構造の、金持ち連中が住まう一軒家でハリウッドの景色を眺めながらジャズを流してビールを飲むことを至上の愉しみとしている。読書にも造詣が深く、自分の名前の由来が高名な画家であることがきっかけかもしれないが、絵画にもある程度の知識を持つ。ボッシュがエレノアと魅かれるのも彼女の自宅にある蔵書と彼女の家に掛かっている一幅の絵のレプリカが自分との精神的つながりを見出すからだ。こんな描写に単純なタフガイ以上の存在感を印象付けられる。 捜査が進むにつれて時に反目し合い、時に長年の相棒のように振る舞いながらボッシュとエレノアは長く2人でいる時間の中でお互いの人間性を確認し合い、そして個人的なことを徐々に話し出していく。 2人での語らいのシーンは数多くあるが、その中で私は2人で強盗グループが襲撃すると目される富裕層相手の貸金庫会社に張り込んでいる時に車中で訥々と語り合うシーンが好きだ。その時の2人は長く流れる時の隙間を埋めるための会話を考えるような関係ではなくなり、沈黙が心地よくなっている関係となっている。張り込みの最中でお互いの人生の分岐点になった過去の出来事を語り、そしてその出来事で自らが思いもしなかった心情について述べられる。そして初めてその時にボッシュはエレノアを仕事上のパートナーから人生のパートナーとして意識し、その責任感に身震いする。一匹狼の敏腕刑事の男が連れ合いを意識したときに初めてそれを守っていく勇気と怖さを目の当たりにするのである。何とも味わい深いシーンだ。 そして彼の率いる元ヴェトナム兵士による銀行強盗が貸金庫に押し入ってからの攻防が実に写実的だ。本書のクライマックスと云っていいシーンだ。 そしてボッシュは彼らが侵入した貸金庫会社の下にある地下下水道の中に飛び下り、追跡する。それはまさに彼がヴェトナム戦争時代に経験したトンネル兵士の再来だった。真っ暗闇の中、いつ銃弾が飛んでくるか解らない緊張の下、ボッシュは過去と対峙しながら犯人を追う。 この一連の流れは実に映画的であり、また手に汗握るシーンだ。1作目から主人公の過去とマッチしたクライマックスシーンをきちんと用意している辺り、新人離れした構想力を持っているように感じた。 つまり本書に登場する人々に全て共通するのはヴェトナム戦争だ。 かの戦争で普通の生活が出来なくなり、犯罪に関わる生活を繰り返す者、混乱に乗じて一攫千金を得る者、またそれに一役買って社会的地位を得た者、その渦中に取り込まれて無残な死を遂げた者、愛する者を喪った者、もしくはそんな過去を振り払い、己の正義を貫く者。 十人十色のそれぞれの人生が交錯し、今回の事件に収束していったことが判る。 本書では最初の犠牲者となったウィリアム・メドーズという人物を忘れてはならないだろう。 暗闇の中でいつ敵が襲い掛かってくるか解らないトンネル兵士を担いながら、ボッシュを含めた他の兵士とは異なり、いつも躊躇なく穴蔵に飛び込み、暗闇で戦闘を繰り返してきた男ウィリアム・メドーズ。暗闇の中でヴェトコンどもを次々と殺し、戦利品としてその片耳を持ち帰っていた。その数は最高で33個にも上った。彼はヴェトナム戦争後も彼の地に留まり、戦闘に従事していた。そしてアメリカに戻ってからも水道局や水道電力局に就職し、またもや地下に潜る死後淤に従事していた。ヴェトナム戦争の経験で地下こそが彼の居場所になってしまっていた男。ただそこには安らぎはなく、しばしば麻薬に染まり、入出所を繰り返していた男でもある。 本書の原題は“Black Echo”。これはボッシュがヴェトナム戦争時代にトンネル兵士だった頃に経験した地下に張り巡るトンネルの暗闇の中で反響する自分たちの息遣いを示している。何とも緊迫した題名だ。 トンネル兵士とはヴェトナム人が村の下にトンネルを張り巡らしており、家と家、村と村、ジャングルを繋いでおり、そのトンネルの中に潜ってヴェトコン達と戦う工作兵のことを指す。 翻って邦題の“ナイトホークス”とは画家エドワード・ホッパーが書いた一幅の絵のタイトル“夜ふかしする人たち”を指す。街角のとある店で女性と一緒にいる自分を一人の自分が見ているという絵だ。この絵のレプリカが捜査のパートナーとなるFBI捜査官エレノア・ウィッシュの自宅に飾られており、しかもボッシュ自身も好きな絵であった。そしてその訪問がきっかけとなって2人が急接近する。 つまり原題ではボッシュがヴェトナム戦争の暗い過去との対峙と、かつて戦友だったウィリアム・メドーズとの、忌まわしい戦争と一緒に潜り抜けた男への鎮魂が謳われているのに対し、邦題では事件を通じてパートナーとなるボッシュとエレノア・ウィッシュとの新たな絆を謳っているところに大きな違いがある。 そしてこのパートナーの名前がウィッシュ、つまり“望み”であることが象徴的だ。邦訳ではしきりに「ボッシュとウィッシュは」と評され、決して「ハリーとエレノアは」ではない。それはまだお互いがファーストネームで呼び合うほど仲が接近していないことを示しているのだろうが、一方でボッシュの捜査には、行動には常に“望み”が伴っているという風にも読み取れる。 原文を当たっていないので正解ではないのかもしれないが恐らくは“Bosch and Wish ~”とか“Bosch ~ with Wish”という風に表記されているのではないだろうか。そう考えると本書は下水と呼ばれる最下層のハリウッド署に埋もれる“堕ちた英雄”の再生の物語であり、その望みとなるのがエレノアというように読める。 つまりエレノア・ウィッシュこそはハリー・ボッシュの救いの女神であったのだ。だからこそ邦題はエレノアとボッシュの関係を象徴する一幅の絵のタイトルを冠した、そういう風に考えるとなかなかに深い題名だと云える。 つまり原題ではボッシュとメドーズとヴェトナム戦争との関係を謳い、邦題ではボッシュとウィッシュの繋がりを謳っている。 その後に刊行される作品が『ブラック・アイス』に『ブラック・ハート』であることを考えると統一性を持たせるために『ブラック・エコー』とすべきだろうが、私は邦題の方が本書のテーマに合っていると思う。最後のエピローグがそれを裏付けている。 いわゆるハリウッド映画やドラマ受けしそうな典型的な展開を見せながらも、実はそのベタな展開こそが物語の仕掛けである強かさこそが数多ある刑事小説と、ハードボイルド小説と一線を画す要素なのかもしれない。とにかく作者コナリーが本書を著すに当たって徹底的に同種の小説のみならずエンタテインメントを研究しているのがこのデビュー作からも推し量れる。 さて本書はこの後長く続くハリー・ボッシュサーガの幕開けに過ぎない。これ以降の作品が世の海外ミステリファンの胸を躍らせ、作品を出すたびに今なお年間ランキングに名を連ねているのはご存知の通りだ。 まずは本書で言及されているボッシュが降格人事を受け入れることになったドールメイカー事件に彼の母親が関わっていたという事実が気になる。新しいシリーズを、それも世評高いシリーズを読み始めるというのはなんとも胸躍ることか。 次巻以降のボッシュの長い道行をじっくり味わっていこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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加賀恭一郎の父親との確執は彼が初登場した『卒業 雪月花殺人ゲーム』の時点で明らかになっており、その原因が仕事に没頭し、家庭を顧みない父の母親の仕打ちに対する嫌悪であったことは書かれていた。しかし父隆正との確執については書かれるものの、離婚した母親のことはほとんど何も書かれなかった。そして今回初めて離婚して消息知れずとなった加賀の母親、田島百合子に焦点が当てられた。
旅行で行った時の印象が良かったというそれだけの理由で何の伝手もなく仙台に身を落ち着けた百合子。瓜実顔の美人ですぐにスナックの経営者に気に入れられ、ママに落ち着き、彼女の評判で店も繫盛し出した百合子の人生はしかし一般女性の幸せとは程遠いものだ。たった1Kの部屋で16年も過ごした彼女の心の謎はいかばかりか。 そして田島百合子の人生に一時のみ交錯した綿部俊一という男性。それが現在加賀の捜査する事件と密接に絡み合う。 謎めいた母親の過去と滋賀の1人の女性の東京での不審死。この何の関係のない事件が16年の歳月を経て交錯する。決して交わることのないと思われた2つの縦糸が1人の謎めいた男性を横糸にして交わっていく。 実質的な捜査担当者である捜査一課の刑事で加賀の従兄の松宮と図らずも母の過去の男と対峙することになった加賀。彼らが事件の細い繋がりを1本1本解きほぐしていくごとに現れる意外な人間関係。次々と現れる新事実にページを捲る手が止まらない。この牽引力はいささかも衰えず、まさに東野圭吾氏の独壇場だ。 物語が進むにつれてさらに人生が織り成す奇縁という深みに捜査の手は入り込んでいく。 犯行の犠牲者となった押谷道子。彼女が訪ねてきた女優の角倉博美。特に角倉博美が背負ってきた人生が実に重い。 気の弱い父親が貰った若い母親は町の小さな洋品店で一生を過ごすことに嫌気が差し、男を作って逃げていく。しかも家の実印を持ち出し、家族に多額の借金を負わせる。もはや店の経営も成り立たなくなった父親は絶望して飛び降り自殺し、角倉博美こと浅居博美は施設に預けられ、そこで観た演劇に感動して女優の道を進むことを決意し、上京して見事夢を成就させ、現代では演出家としての地位も確立しようとしている。 まさに夢のようなサクセスストーリーだ。 しかしそこには隠しておいた苦い過去があった。それは彼女の父親が深く関わっている。 そしてこの変転する1人の奇妙な男の人生の影に原発が絡んでいる。 『天空の蜂』で当時ほとんどの人が注目していなかった原発の恐ろしさを声高に説き、その18年後、改めて東野圭吾氏は原発の恐ろしさを別の側面で説く。 身元不詳の誰もが簡単に原発で働けていたという怖さと彼ら原発従事者が一生抱える後遺症の恐ろしさを。 実は私にはここに書かれなかったもう1つの真実があると思うのだ。 なぜ加賀の母親田島百合子は亡くなったのか?その死因については語られない。彼女の後見人であった宮本康代の話で綿部俊一と付き合うようになってから体調を崩すようになり、店も休みがちになった、そしてとうとう彼女は衰弱死してしまうとだけ書かれている。 私は田島百合子は原発作業者の綿部と付き合うことで自らも被曝したのではないかと察する。しかしこれは職業差別に通じるので敢えてそこまで作者は書かなかったのではないかと思う。 また作中で登場人物の一人が述べる台詞が辛辣だ。 「原発はウランと人間を食って動くんだ(中略)作業員たちは命を搾り取られている」 事件の真相はまたもやなんとも哀しい。 加賀が日本橋署配属となり、そしてそれまでの捜査スタイルから町に溶け込もうとする、云わば地域に根差した巡査のような役割を担っていたのが『新参者』からの特徴だったが、それがまさか亡き母と生前親しくしていた人物を捜すためだったというのは驚きだった。 この辺の構成が実に巧い。 そして加賀シリーズには他の東野作品にない、一種独特の空気感がある。 自身の肉親が事件にも関わっているからか、従弟の松宮も含め、家族という血と縁の濃さ、そして和らぎが物語に備わっているように感じるのだ。だからこそ物語が胸に染み入るように心に残っていく。 この和らぎは加賀が抱えていた父隆正への蟠りが『赤い指』にて解消されたからではないだろうか。 彼は家族の中の問題に踏み込むことこそが事件を真に解決するのだと『赤い指』で述べる。そして父に逢わずに看護師の金森登紀子を介して将棋を打つ。それが彼が父と最後にした「対話」だった。 そして今回もやはりすれ違いが生じた夫婦に纏わる哀しい物語だ。 田島百合子と加賀隆正夫婦、浅居忠雄と厚子夫婦。 その2人が離婚する理由の違いはあれど、どちらも夫婦仲がこじれた結果の悲劇だ。 しかしその2人の道のりに数多くの人間が巻き込まれ、その1人として加賀恭一郎がいた。人生とはなんとも奇妙な旅なのだと思わされる。 そしてこの2人が望んだのは我が子の幸せ。わが子の幸せを願わない親はいない。ただ同じ1つの思いでこれほどまでに境遇が変わる。それもまた人生。 また橋の謎の真相がこれまた泣かせる。 そう、加賀恭一郎シリーズが持っている独特の空気感にはどこか昭和の匂いが漂うのだ。 人形町、水天宮、日本橋、そして明治座。日本橋署に“新参者”として赴任してきた加賀が相対してきたのは過ぎ去りし昭和の風景、忘れ去られようとしている情緒や風情だ。 そして今回の事件の発端となった角倉博美の人生を変えるようになった事件が起きたのは30年前。まだぎりぎり昭和だった時代だ。このシリーズはまだ地続きで残っている昭和の残滓を加賀が自分の家族のルーツと共に探る物語となっている。 今回も東野劇場による演目に感じ入ってしまった。 登場人物たちの人生は傍から見れば不幸にしか見えない。 狭い部屋で必要最低限の物だけを持ち、日々を暮らしてきた。人生を思わぬ形で踏み外した2人が思いもかけない形で巡り合う。そんな不幸な境遇だからこそ悔恨にまみれた中で唯一自分たちの子供の成長を幸せの拠り所になった魂の充足。それ以外何もいらなかった2人。 でもたとえ幸せを感じていたとしても哀しすぎるではないか。そんな割り切れなさが本書の幕が下りた時、残った。 加賀はまたどんな事件と遭遇し、どんな人生とまみえるのか。 いやそれに加え、父の死を看取った金森登紀子を1人の女性として、伴侶として迎えるのか。そしてその時の加賀は?次作への興味は尽きることがない。 暗い事件が多いから、哀しい人々が多いから、父と母の死を乗り越えた加賀の明るい未来に希望を託そう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2014年の江戸川乱歩賞受賞作にしてその年の『このミス』で第3位、週刊文春の年末ランキングで第2位と新人としては望外の高評価で迎えられたのが本書だ。
本書の軸は大きく分けて2つある。 まず主人公村上和久が視覚障碍者であることだ。健常者、本書の表現を借りれば晴眼者である我々が想像できない視覚障碍者の不自由な日常が詳細に語られる。 人間は視覚から約85%の情報を得ているという。つまり一日の大半は目に頼って我々は生活しているのだ。そんな重要な器官が不自由になるとどうなるのか。 白杖で周囲に触れてその音で何があるのかを判断しながら歩く。物を食べる時は健常者の助けを借りる場合は健常者は物の位置をクロックポジション、つまり時計の時刻の位置で示して教える。お札は区別が着くよう、紙幣の種類別に折り畳んで財布に入れておく。またタクシーでは1割引きの控除が得られる。 この辺りの情報は作者の念の入った取材の賜物だろう。 また全盲になったことで起こりうる家族の不幸もまた読み逃せない。 幼き頃の満州の過酷な生活環境による栄養失調が祟り、41歳で突如失明した彼はその後の人生で家族を頼り、ままならない生活に対して周囲に八つ当たりをし、自分を世話して当然だと振る舞う。その結果妻は離婚して逃げ出し、残された娘も甲斐甲斐しく世話をするが、娘に頼り切って生活している和久は彼女の結婚を望もうとせず、悉く追い出す。しまいには娘の精神も限界が来て逃げ出し、現在の一人暮らしに至る。また娘もシングルマザーで一人娘は腎臓を患い、定期的に透析をしなければ生きられない。しかしそれも長くなく、一刻も早い腎臓移植が必要である。この適合者を見つけることが主人公和久の今回の行動の原動力となっている。 実に上手い設定だ。 もう1つの軸は村上和久の家族が満州から帰国した日本人であることだ。中国残留孤児が抱える問題が色濃く描かれている。 満州侵略に乗り出した日本の仇花的存在とも云える中国残留孤児。いわば日本国自身が歴史の汚点と考えているかのように、彼らの待遇、処遇は実に冷たく、今でも中国から帰れない日本人がいる。しかしどうにか中国から戻ってきても既に初老に差し掛かった人々は母国語である日本語が話せず、まともな生活保護も受けられずに不自由な日常生活を強いられているという。そんな窮状が物語全体に亘って随時語られていく。 そしてメインの謎である目の見えない主人公の兄は本当の兄なのかという疑惑は中国残留孤児たちのコネクションを辿って色々な人から話を聞くうちに二転三転する。 ある人は腕に火傷の跡がないのならそれは本人ではないと請け負い、またある人は逢って話したことがあるが記憶もしっかりしており、間違いないと断言する。 ある人は国に対する補償を巡る裁判にとって偽中国残留孤児であるという風評が流れると悪影響を及ぼすから調査を辞めるように説得する。 訪ねる人それぞれの云い分があり、また証言も食い違うことから主人公も戸惑ってばかりだ。 やはり本書の最たる特徴は盲目の主人公が私立探偵張りに兄の素性調査を行うところだ。 主人公和久の一人称叙述で書かれているため、目が見えないことによる情報量の不足がそのまま読者にとっても情報量の不足に繋がり、いつも読んでいるミステリと比べて非常に居心地の悪さを感じた。これが本書における最大の売りであることは解るものの、どうにもまどろっこしさを感じた。 また物語の節目節目に挿入される、匿名の人物から送られる点字で書かれた俳句の内容も暗鬱なものばかり。しかも主人公の身に覚えのないことばかりと、終始落ち着かない気分で読み進めることになった。 そんな居心地の悪さや違和感は物語の最終局面に一気に開放される。 上に書いたように盲目の主人公による調査行は非常にまどろこっしく、また中国残留孤児が現在抱える問題もまた重い物ばかりで正直読んでいる間は辟易する部分もあった。 しかし最後になってみると作者が実に上手くその設定を活かして、盲目であるがゆえに成り立つトリックを巧みに織り交ぜてあることに気付かされる。点字で書かれた俳句についても点字を使った暗号という斬新さが際立つ。 そして最後の真相が明かされると、読者もまた主人公と同化していたかの如く、自らの盲が開かれる思いがした。 本書の核となるミステリはずばり“家族”である。 戦時中の日本政府の政策で満州に移住し、新天地で生きていく希望を与えられた日本人が敗戦によって逆に祖国に帰ることが困難になり、帰りうる者と帰られない者とが引き裂かされた悲劇が生じた家族に生まれた謎だ。 いわば戦争秘話とも云うべき物語だったが、現在なお日中の間に横たわる中国残留孤児問題の中に実際に本書のような話が実在するのかもしれない。 正直自分の中ではかつて喧しく報じられていた中国残留孤児の問題は次から次へと報じられる国際問題、例えば中国慰安婦問題、北朝鮮による拉致被害者問題などに埋没してしまい、もはや過去の出来事となっていた感がある。2014年に乱歩賞を受賞した本書によってこの問題が再び喚起されたのは実に意義深いことだ。 戦後日本はまだ終わりぬ。そんな感慨を抱いた作品だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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シリアスな国際犯罪警察小説に少年たちの心をくすぐるパワードスーツを絡ませたらどんな物語になるか。
それを実証したのがこの『機龍警察』である。まさにこれこそ大人の小説と少年心をマッチングさせた一大エンタテインメント警察小説なのだ。 まず物語のガジェットとして強烈な印象を残す龍機兵、通称ドラグーンは以下の3機。 姿俊之の操る龍機兵は市街地迷彩が施されたアイルランドに伝わる原始の巨人の名に由来する『フィアボルグ』。 ユーリ・オズノフが操るのはイングランドに伝わる妖犬の名が与えられた漆黒の竜騎兵『バーゲスト』。 ライザ・ラードナーのそれは「死を告げる女精霊」である『バンシー』の名を冠せられた一点の曇りもない純白の龍機兵だ。 もうこういう設定だけでも少年心をくすぐって仕方がない。 また各登場人物の謎めいた過去もまた読者をひきつける。 まずは龍機兵に乗り込む雇われ警察官、姿俊之、ユーリ・オズノフ、ライザ・ラードナーの3名にどうしても興味が行く。 早々に苦い過去が判明するのがユーリ・オズノフだ。 元モスクワ民警の刑事でありながら在職中に殺人その他の容疑で指名手配になり、国外へ逃亡しアジアの裏社会を転々とした後、警視庁に雇われる。元警察出身者であるため、考え方は他の2人と比べて警察に対する仲間意識が高く、冒頭の突入作戦で殉職したSATの突入班長荒垣の葬儀に唯一人出席したりもする。 しかし忌み嫌われる特捜部では他の警察官からは罵倒と中傷を浴びされられ、さらに雇われ警察官という立場から特捜部でも白い眼で見られる存在であることが警察官の心を持つことで強いジレンマを抱えている。 姿俊之はかつて『奇跡のディアボロス』、『黄金のディアボロス』と評された超一流の傭兵部隊の生き残り。軽口を叩き、どんな状況においても動ぜず、冷静に物事を見据える男。本書は彼のかつての戦友王富国と王富徳が今回の敵として現れ、彼の過去が断片的に語られる。 そして名を変え、警視庁の雇われの身になっているライザ・ラードナーは元IRFのテロリスト。自身を落伍兵と呼び、特捜部に入ったのも自らの死に場所を選ぶためで、常に虚無感を湛えた表情をしている。 そして龍機兵の整備を担当する特捜部技術主任の鈴石緑は幼い頃に両親をIRFのテロ行為で亡くし、テロリストに対する憎しみを拭えないでいる。 さらに特捜部を仕切る沖津は外務省出身の謎めいた存在で常にシガリロを吹かし、冷静沈着さを失わない。 彼の許に城木、宮近の両理事官と夏川、由紀谷両主任が控える。この両理事官、両主任ともがそれぞれ対照的な性格と人物像を備えているのが特徴的だ。城木と由紀谷が独身でかつ痩身の優男であり、常に冷静に物事を見て判断する傾向がある。しかし由紀谷はかつて荒れていた過去があり、時折氷のような冷徹さが垣間見える。 宮近、夏川は感情を表に出す性格で、宮近は上昇志向が強く、特捜部に配置されたことを快く思っておらず、他の部署へひそかに情報をリークさせる、いわばスパイであり、またお堅い警察組織を具現化したような存在でもある。一方夏川は柔道を嗜む日に焼けた典型的な体育会系の男で、警察官であることに誇りを持つ熱血漢でもある。 これら個性的な面々が揃った特捜部とは実は警察内で仇花的存在となっている。 「狛江事件」という密造機甲兵装に搭乗した韓国人犯罪者によって起きた3名の警察官殉職と人質の男子小学生を亡くすという痛ましい事件。それも神奈川県と東京の県境で双方の縄張り争いも一因だったという不祥事ともいえる事態がきっかけとなって設立された外部の傭兵と契約し、最先端の機甲兵装龍機兵を供与され、銃の携行を許された特捜部SIPD。 しかし外部の、しかも素性が解らぬ犯罪者まがいの傭兵を招聘し、そんな彼らに警察官の誰もが乗りたいと願う最先端の機甲兵装を奪われ、さらには特捜部に入った警察官は無条件で階級を挙げさせられるため、警察内部では異分子扱いされ、特捜部に入った者はかつての同僚のみならず周囲から裏切者扱いされるという孤立した組織になっている。 特に本書では特捜部主任の夏川と由紀谷の2人が馴染みの店に飲みに行くと後から来た後輩や先輩からも疎まれ、さらには店の女将からも迷惑だから来ないでくれと云われるエピソードがあり、それが特捜部員の孤独感を一層引き立てる。 いわばこれは21世紀の『新宿鮫』なのだ。大沢在昌によって生み出された警察のローン・ウルフ、鮫島を組織として存在させたのがこの『機龍警察』における特捜部SIPDであるとも云えよう。 本書の敵は龍機兵の操縦者の1人姿俊之の元戦友、王富国と王富徳。かつての仲間が敵となる。姿はビジネスライクにそれが我々傭兵たちの仕事であり、珍しい事ではないと割り切って応えるが、挿入されるモノローグで語られるかつて同じ戦地で闘い、死線を潜り抜けてきた敵2人との関係はその自嘲的な言葉とは相反する感情を示している。それでも姿という男がぶれないことでこの人物の強さが非常に強く印象付けさせられた。 警察官でありながら、警察から白い眼で見られ、明らさまに罵られたり、行きつけのお店からも追い出される。そんな確執を抱えながらも日々過激化する機甲兵装を使ったテロリストたちと命がけの戦いを強いられる特捜部たちの姿が骨太の文体で頭からお尻まで緊張感を保ったまま語られる。 つまり本書は機甲兵装というパワードスーツが暴れる犯罪者たちを最先端の技術を駆使して生み出した警視庁のパワードスーツが打倒するという単純な話ではなく、このSF的設定が見事に組織の軋轢の狭間で額に汗水たらして捜査に挑む警察官たちの活躍と結びついた一級の警察小説なのだ。 更にその警察機構の中に外部から雇った傭兵、警察崩れ、そして元テロリストという異分子を組み込み、戦争小説の側面もあるという実に贅沢な物語である。しかもそれらが見事に絶妙なバランスで物語に溶け合っている。この1作に注いだ作者の情熱と意欲は見事に現れており、読者は一言一句読み逃すことができないだろう。 ただ嬉しいことに本書はまだシリーズの序章に過ぎない。 そして三人の雇われ警察官、姿俊之、ユーリ・オズノフ、ライザ・ラードナーたちと警察機構の中で忌み嫌われる存在特捜部SIPDの沖津部長、城木、宮近両理事官、夏川、由紀谷両主任、そして鈴石技術主任らのイントロダクションを果たすのに十分すぎる役割を果たす作品である。 さてこれからのシリーズの展開が待ち遠しくてならない。 『機龍警察』は21世紀の『新宿鮫』となるか。 この1作を読む限りでは十分その可能性を秘めて、いや既にその実力を持っていると断言しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2010年のミステリシーンに突如現れた新星梓崎優氏。その年末の各種ランキングで上位を獲得した珠玉の短編集が本書。
本書が特徴的なのは全ての短編が海外を舞台にしており、その国の、その土地の風習や文化で醸成された日本人の価値観から離れた尺度での考え方に立脚した論理で構成されている点にある。 彼のデビューのきっかけとなったミステリーズ!新人賞受賞である冒頭の短編「砂漠を走る船の道」だ。 砂漠の民にとって何が大事か。それが本書の謎を解くキーとなる。 人殺しを最凶最悪の犯罪とみなす先進国の考え方は警察も介入することのない砂漠では一切通用しない。迷うと即死に繋がる過酷な状況下では生きることすら困難である。 続く「白い巨人(ギガンテ・ブランコ)」の舞台はスペイン。 冒頭の1作目に比べると謎解きの妙味、論理の斬新さというのは独自性を感じない。 むしろ本作では斉木の学友サクラが失恋を乗り越えていく過程とハッピーエンドに転じる物語に焦点がある。苦い青春の1ページは1年後の幸せのための一種の試練だったのだ。 斉木が取材で向かった先はロシア。「凍えるルーシー」は南ロシアにある修道院に祀られている250年前より変わらぬ姿で眠っているリザヴェータという不朽体を列聖、つまり聖人認定の調査のため、司祭に同行していた。 これも修道院という特殊な環境と風習ゆえに起こる錯誤がうまく物語に溶け込んでいる。 そして一種独特の環境で成り立つ狂気の論理はチェスタトンのそれを彷彿とさせる。重苦しく、ストイックな雰囲気も抜群である。 再び斉木は熱いところへ取材に赴く。「叫び」は先住民族の取材のため、アマゾン川に今なお生息する部族のうち、ボランティアの医師アシュリー・カーソンに同行してデムニという名の人口50人程度の小さな部族を訪れる。 先史時代的な生活を送る部族がアマゾンの地にはまだ複数存在するらしい。本作はそんな部族の1つをテーマにした物語。 これぞまさに梓崎節とも云える日本人の尺度では測れない彼らの価値観によって殺人の動機が看破される。 エボラ出血熱に侵された部族。もう僅かばかりの生存者も感染の疑いがあり、ほぼ全滅することが決定的だ。そんな死を間近に控えた部族の中で生存者が次々と殺される。なぜ待てば死にゆく者たちを敢えて殺すのか? この発想の違いはかなり斬新だった。これこそが私が本書で求めていた論理なのだ。 そして物語は最後の短編「祈り」で閉じられる。 最後は斉木本人の物語。世界を巡る物語に相応しい1篇だ。 2016年の現在(当時)、たまたま海外に住んでいる私にとってここに書かれている独特の論理や倫理観は全く特別なことではない。日本人の考え方は世界のグローバルスタンダードではなく、先進国となり、儒教の教えが今なお残っている日本の長い歴史で培われた独特の考え方であることを再認識させられる。 本書もまたそうで、国、地域そして宗教の数だけ独特の考え、倫理観がある。 砂漠という過酷な環境で生活せざるを得ない人々にとって何が一番大事なのか? 聖女の存在を信じた修道女にとって聖人とは決して腐敗しない存在でなければならなかった。 強烈な伝染病に侵された部族が滅ぶしかない状況の中で敢えて連続殺人が起こる理由とは? これらの問いの答えが明らかになる時、我々に刷り込まれた人の命を尊ぶ道徳観が脆くも崩れ去る。先進国に住む平和な我々には想像できないほど明日への保証のない後進国では自身が生きるために他者を殺すことなど平気でするのだから。人の死もまた自分の生活のために利用するのが彼らの論理だ。 また梓崎氏がミステリシーンにもたらしたのはこのような海外の国々で醸成された倫理観や価値観を導入しただけではない。 携帯電話の普及や最先端の科学を応用した警察捜査が横行する現代にあってまだそれらが介在できない状況があることを示したのもまた本書の大きな成果の一つだ。 目の前に広がるのは砂の海ばかりという砂漠の只中や携帯は圏外となるアマゾンの奥地では人が死んでも容易には警察は来られない。この事実には目を開かされる思いがした。 21世紀の今でも警察が介入できない状況があることを梓崎氏は斬新な手法で我々に示してくれたのだ。それはやはり日本だけで物語を繰り広げていては嵐の中の山荘程度の発想しか出来なかっただろう。世界へと外側へミステリを開いていったことがこの成果に繋がったのだ。 そして平和な日本では測れない尺度で物事が進行し、容易に人の命でさえ奪われる環境に身を置いた斉木もまたこれらの物語に取り込まれていく。彼が記憶を無くす物語「祈り」で彼が抱えた心の傷の深さがしみじみと伝わってくる。 そしてこういう作品を最後に持ってきた作者の手腕に感嘆する。 創元推理文庫で上梓される新人の短編集は最後の1編で今までの短編に隠されたミッシングリンクが明かされるのが常だが、それが時にキワモノめいてやりすぎの感が否めないものもあった。 しかし本書では主人公斉木が回復するファクターとして用いられる。 最後まで読むとなぜ本書のタイトルが『叫びと祈り』なのかが解る。 世界を巡る斉木は人間にとって生きることが困難な世界の残酷さとそこで生きざるを得ないために残酷な道を選ぶ人々に対して叫んだのだ。しかしそれでも世界は美しいと信じたいがために祈りを捧げる。明日を信じてまた斉木はまだ見ぬ世界へと旅立つのだろう。 日本の本格ミステリよ、新たな論理を求めて海の外へ繰り出そうではないか。まだまだ未知なる謎と論理の沃野は果てしなく広がっているのだから。 本書を読むとそんな風に思わせてくれる。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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