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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
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法月綸太郎3作目で・・・、いい加減しつこいので止める。
名探偵法月綸太郎シリーズ2作目は新興宗教グループで起こる教祖の殺人を扱った事件。本作ではくどいくらいに探偵法月による推理のトライアル&エラーが繰り返される。このスタイルは当時現代英国本格ミステリの雄だったコリン・デクスターの作風を踏襲したものだ。前作がカーで、本作がデクスター、第1作目は似非ハードボイルド風学園ミステリと作品ごとに作風と文体を変えていた法月氏。よく云えば器用な作家、悪く云えば決まった作風を持たない軸の定まらない作家である。 こういうトライアル&エラー物は何度も推理が繰り返されることで、どんどん選択肢が消去され、真相に近づくといった通常の手法に加え、堅牢だと思われた推理が些細なことで覆され、現れてくる新事実に目から鱗がポロポロ取れるようなカタルシスを得られるところに醍醐味がある。しかしそれは二度目の推理が一度目の論理を凌駕し、さらに三度目の推理が二度目の論理を圧倒する、といった具合に尻上がりに精度が高まるにつれて完璧無比な論理へ到達させてくれなければならない。それはあたかも論理の迷宮で彷徨う読者へ天から手を差し伸べて救い上げる行為のように。 しかしこのトライアル&エラー物が諸刃の剣であるのは、それが逆に名探偵の万能性を貶め、読者の侮蔑を買うことにもなるのと、論理が稚拙で魅力がないと単なる繰言に過ぎなくなり、読者に退屈を強いることになるのだ。そして本作は明らかに後者。繰り返される推理がどんどん複雑化して読者の混乱を招き、もはやどんな事件だったのかでさえ、記憶に残らなくなってしまった。実際私も本稿に当たる前に記憶を呼び戻すために色々当たってみたら、こんな話だったのかと思い出した次第。したがってこの感想を読んだ方はお気づきのように、今まで私が述べてきた内容は本書の中身に関する叙述が少なく、読後の印象しか滔々と述べていない。とにかく読み終わった後、徒労感がどっと押し寄せてきたのを覚えている。 しかし今回調べてみて読んだ当時気づかなかったことが1つあった。それは事件の当事者である甲斐家と安倍家という2つの家族の名前だ。双子という設定も考慮するとこれは聖書に出てくる「カインとアベル」がモチーフとなっている。そういったバックストーリーを頭に入れて読むと、案外理解しやすいのかもしれない。 お気づきのようにここまでの法月作品に対する私の評価というのはあまり芳しくない。しかしこの評価は次の『頼子のために』で、がらっと変わることになる。 |
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法月綸太郎2作目で名探偵法月綸太郎初登場作品(ややこしい)の本書は実にオーソドックスなミステリ。本格ミステリの趣向の1つにクローズドサークル物を称して“雪の山荘物”と呼ぶが、これは正にそのど真ん中の設定だ。
雪山のペンションに集った人たちにはそれぞれ思惑を秘めており、そして離れの密室で殺人が置き、そこには犯人と思しき足跡が残っているのみだったという、これまた定型中の定型だ。本書は開巻してまもなくエピグラフに確か「白い僧院はいかに改装されたか」なる一文が記してあった記憶がある。これは都筑道夫のエッセイ集『黄色い部屋はいかに改装されたか』の語呂合わせだが、このエピグラフは法月氏が新本格という単語に過敏に反応していたようにも取れる。黄金期の名作を換骨奪胎して新たな本格を、という作者の意気込みが込められていると読み取るのは穿ちすぎだろうか。この時はまだ本家を読んだ事が無いので比べようが無かったのだが、後に本書の原典となっているカーター・ディクスンの『白い僧院の殺人』を読んだ時はそのシンプルな真相に思わず「あっ!」と声を上げるぐらい驚いた。しかし本書についてはそれは全く無かった。ふ~ん、なるほどねというくらいだっただろう。本稿を書くのに、色々調べたのだが、“読者への挑戦状”が挿入されていたことさえ忘れていた。 薄いので記憶を刷新するためにも一度読み直して原典と比べてみるのもいいかもしれない。 |
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法月綸太郎と云えば、クイーン同様、作者と同名の名探偵が活躍(?)する法月綸太郎シリーズが有名だが、デビュー作はノンシリーズの学園ミステリである本作である。本作についてはその後ノーカット版が刊行されたようだがそちらは未読。
まず開巻一番に驚くのは目次に書かれた章題の多さ。確か60くらいあったように思う。綾辻氏の作品を読んでから、新本格ミステリ作家はそれぞれこだわりがあるのだろうと思っていたがこんなところにこだわりがあるのかとちょっと引いた記憶がある。それらの章題もハードボイルド的でなんだかキザな感じを受けた。 中身を読むと確かにキザだ。登場人物全てがなんだか精神年齢が少し高く、自分が高校生の時と比べると老成しているように感じた。しかしどこか青臭さ、高校生特有の全てを悟ったように物事を斜めに見るようなヒネた物の云いようは確かに高校生らしくもあるが、身近にこんな輩が居たら、かならず喧嘩を売っていたに違いない。 さて本書では島田氏が御手洗シリーズで本家シャーロック・ホームズを非難したのと同様に、本書でも法月氏が信奉するクイーンを非難する場面が現れる。それは主人公の担任の口からクイーンの『チャイナ橙の秘密』について痛烈な感想が開陳されるのだが、これを読んだ私はこの件を思い出して、思わず頷いてしまった。「まさになんなんだ、あれは」の作品だったからだ。この辺について語ると脱線してしまうので、ここら辺で止めておこう。 さて本書では教室から出された机と椅子の謎。血まみれの教室、密室の謎などが1人の高校生によって暴かれる。名探偵気取りの主人公(工藤くんだったかな?)がクラスメイトに訊き込みをし、教師と警察の睨みを交わしつつ、真相に肉薄していく(警察いたよな、確か)。 学園ミステリは私は好きなのだが、本作はあまり好きではない。不思議にこの作品を読んで私の高校生活を思い出すことが無かったからだ。初期の東野作品に活写される高校生活、有栖川有栖氏の大学シリーズの大学サークルの描写などノスタルジーに駆られることしばしばだが、本作にはどこか別の国の高校のような気がして、いまいちのめり込めなかった。多分その理由の大半は私が全く主人公に感情移入できなかったことによるだろう。 しかし読んだ当初はあまりこの作品から汲み取れる物は無いと思ったが、あの真相は高校生が読むと案外ショックなのかもしれない。高校生が気づく信頼関係が崩壊する衝撃があると今になって思うのだが、高校生諸君は一体どういう風に思うのだろうか。いつか意見を聞きたいものである。 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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迷路館。
この題名を見たときにようやく本格ミステリらしい館が出てきたと思った。しかし表紙絵は記念碑のようなオブジェが森の彼方に見えるだけで「あれ?」と思ったものだが、開巻するやいきなり妙に凝った装丁だったのに驚いた。本の中に本がある、しかも講談社ノベルスを何から何まで模倣したそのデザインにニヤリとした。こういうのを作中作という趣向だというのを本書の解説で初めて知ったのだから、いかに私がまだヒヨッコだったのかが解るだろう。 しかも中に収められた館の間取り図はもう生活すること自体を全く無視した本当の迷路が館の中に組み込まれてあり、逆に私は「コレだよ、コレ!」と喜んだのを覚えている。ここまで奇抜な館を用意するとリアリティ云々は吹っ飛んでしまい、もうその異質な世界で繰り広げられる殺人劇を今か今かと不謹慎ながら待ち受けるだけであった。 建築関係の仕事に進んだ今だとこの館を見てすぐに「ありえない」と一笑に付すだろう。なぜなら日本の現行の建築基準法に全く適っていないからだ。しかもこれが日本で名高い建築家の手になる仕事だというのだから、抱腹絶倒、荒唐無稽とは正にこのことである。しかし当時学生だった私はそんなことは露知らず、純粋に物語に没頭することが出来た。これこそその時が私にとって読むべき時期だったのだと今になって思う。ちなみに私の専攻は土木であり、建築学は全くの門外漢であった。しかし就職すれば会社はそんなことには頓着せず、土木も建築も一緒くたでせざるを得なくなる。まあ、でもこれはいい誤算ではあった。 さてそんな館を用意した綾辻氏はさらに本格ミステリ好きの中枢神経を刺激する設定を放り込んでくる。その館の主は宮垣葉太郎という本格ミステリの巨匠であり、そこで彼の弟子とも云える新進作家たちを読んで競作を行い、優れた作品を書いた者には彼の名前を冠した賞と賞金を送るという設定。いやあ、堪らない設定だ。しかもこのシチュエーションは当時の新本格シーンを牽引し、若い本格ミステリ作家を推薦して次々とデビューさせた島田氏、そしてその推薦を受けた綾辻氏、法月氏、我孫子氏、歌野氏の境遇をそのまま投影したようで、フィクションながら一部ノンフィクションのような錯覚を覚えた。だから作中に出てくるそれぞれの作家、評論家、編集者の実際のモデルは誰なのだろうと空想に耽ったりもした。 しかし、これだけミステリ好きをくすぐる設定は冷静に眺めると非常に異様な光景である。なにしろこの競作は宮垣氏が自殺した状況下で行われるし、こんな住みにくい迷路の家にこもって創作すること自体もまた異様だ。そして連続殺人事件が起こるのだが、それでも逃げ出さず、館に居続け、捜索を続ける彼らは狂気の作家達と云えよう。全てが終わり、事が公になったとき、果たして彼らの社会的評価というのはどうなるのか?などという懸念が今更ながらに湧いてくる。 しかし本書を読むのにそんなことを気にしてはいけない。本書は日本に似たどこか別の国で行われた事で捉えるぐらいの寛容さで臨めばかなり楽しめる作品で、私は館シリーズで2番目に好きな作品である。迷路館という特殊な館を存分に活用したトリックに加え、事件が終った後で判明する真相にはかなり驚いた。館シリーズと呼ばれるこのシリーズで初めて館が主役となった作品だと思う。 ちなみにここで出てくる宮垣氏の畢生の大作『華麗なる没落のために』はその実、鮎川哲也氏の未完の作品『白樺荘事件』を指していたのではないかと私は思っている。まだ見ぬ巨匠の作品を一刻も早く読みたい、そしてそれは巨匠最後にふさわしい傑作に違いないという思いが込められているように感じた。 で、ミステリを数こなした今、この3作を振り返ると綾辻氏はトリックとロジックという本格ミステリの王道と思われがちだが、実は叙述トリックの使い手でもあるということ。その分野では折原氏の名が広く知られているが、この館シリーズ3作は全て叙述トリックが仕掛けられていることに気づくだろう。どこかの対談かコラムで作者自身、叙述トリックこそが本格ミステリにおける最後の砦のようなことも云っていた記憶がある。 叙述トリックはその名自体がネタバレという人もいるが、私は一つの意見として受け取るに留めている。なぜなら優れた叙述トリックはそれを意識しても看破できず驚きをもたらすからだ。 とりあえず綾辻作品は本作で一旦休憩。次の作家に移るとしよう。 |
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『十角館~』で俄然綾辻氏の次の作品への渇望感を感じた私は間髪入れずに本作へ手を伸ばした。いきなり始まる車椅子に乗った仮面の男と美少女という横溝的な設定は、1作目で綾辻氏の、本格ミステリのもっともディープな部分を好む性癖を知っていたので、今回は抵抗無くすんなりを物語世界に入っていけた。
結論を云えば、本作は水準作と云えるだろう。『十角館~』と比べると、などといった枕詞は必要なく、客観的にミステリの一作品として見た正当な評価である。なにしろ私には珍しく物語り半ばで犯人とトリックが解ってしまったので、その後の展開が犯人側の視点で読めた。物語を裏側から眺めるように読めたのは本作ぐらいだった。 しかし本書では異端の建築家中村青司を意識してか、本書の水車館は前作の十角館よりもなかなかにデザインが凝っている。十角館が案外にコテージとあまり変わらない建物だったのに対し、この水車館は城郭のような形をしており、ドラクエに出てきたようなどっかの国の城のようなデザインである。この狭い日本ではこれほど建ぺい率の低そうな個人の屋敷もないなぁと思うような非常に贅沢なつくりである。 かてて加えて、前作が孤島と本土の距離的な断絶、つまり彼岸と此岸で語られていたのに対し、本作では過去と現在という時間の隔離があるのが特徴。そしてその2つの間では微妙に叙述表現が変わっているが、これももちろん真相に大いに関わってくる。 さらに幻視家という特異な職業は(まあ画家の一種なのだが)、当時大学生の私の心を大いにくすぐり、その印象的なエンディングをそのまま使ってクイズを作ったくらいだった。 しかし本書の水車館はミステリとしての出来は普通であり、また水車という屋敷に備えられた印象的なオブジェがトリックにほとんど寄与していないというのが不満。 しかしこの不満は次作『迷路館の殺人』で一気に解消されるようになる。 |
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さて島田氏の御手洗シリーズで本格ミステリに開眼した私は同傾向の作品を読もうと各ガイドブックなどに手を伸ばすようになったり、『このミス』などランキング本を読み漁ったりするのだが、その中で「新本格」という単語に行き当たった。
色々調べてみると、松本清張以後、本格冬の時代と云われていた日本ミステリシーンにかつてのガチガチの本格ミステリを復興させようという動きを新本格といい、なにも今までにない斬新な本格という意味ではなかった。そしてそのムーヴメントの中心にいる人物こそがなんと島田氏その人だというのだから、これは何がなんでも読まなければならぬとそこに名を挙げられていた綾辻氏、歌野氏、法月氏、我孫子氏4氏の諸作を本屋で探し、一気に買い込んだ。 そしてまずは綾辻氏の本書から手を付けることになった。既に私が本作を買ったときには既に『迷路館の殺人』まで文庫は出ており、しかも「綾辻以前綾辻以後」なる形容詞まで付いているのにはびっくりした。 で、そんな前情報が期待を膨らましつつ、開巻したところ、実はお互いをあだ名で呼び合う登場人物たちにドン引き・・・。しかも彼らのあだ名が全て海外古典本格ミステリの大家のファーストネームで、いかにもミステリマニアが書きましたというテイストに、うわぁ、これ読めるのかなぁとすごく心配したが、物語が進むにつれて慣れてきた。 探偵役として現れた島田潔の名前にニヤリとしつつ、奇想の建築家中村青司が設計したというわりには十角館って普通の建物だよなぁなどと思いつつ、読み進めていった。 そして私も驚きましたよ、あの一行に。まさに時間が止まり、「えっ!?」という思いと共に足元が崩れる思いがした。しかもあの一行が目に飛び込んでくる絶妙なページ構成にも唸った。一行に唸ったのは星新一の「鍵」以来だった。 実は犯人はすぐに解った。だから答え合せしたくて早く解決シーンに進みたくて、忸怩しながら読んでいたが、この一行で自分の甘さに気づかされた。というよりも犯人が解ってなお、これほどの驚嘆を読者に与える作品というのがあるのかと心底感心したのだ。そしてまだまだミステリの奥は深い、確かにこれは「新」本格だ、などとミステリをさほど読んでいないのに一人悦に浸っていた。 今でも読み継がれ、新しい読者に驚きをもたらしている本書は歴史に残る傑作といえよう。こうして綾辻氏の名はこの1作で私の脳裏に深く刻まれることになった。 |
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今まで焦らすように引っ張ってきたが、本書が私を島田信奉者にした作品である。そしてこの作品は私の読書人生の中で未だに永遠のベストとして燦然と輝いている。
私が読んだのはハードカバー版で、確か講談社の何十周年かの記念書き下ろしシリーズの1冊として刊行されたらしく、えらく豪奢な装丁だったのを覚えている。 特に西洋画で描かれた馬上の騎士の表紙絵が飛び出してきそうなほど迫力があり、果たしてどんな物語かと胸躍らせた。 しかしこの表紙とは全然無関係の話が展開される。物語の舞台は騎士が出てくるような西洋の街やお城ではなく、関東の公園で記憶喪失の主人公が目が覚めるところから始まる。その後彼は周辺を彷徨い、紆余曲折を経て知り合った石川良子という女性と同居するようになる。そしてこの2人の生活が語られるのだが、これが実に私の心をくすぐった。当時学生だった私にとって彼らの年齢が近いこともあり、そう遠くない将来の生活のように見えたからだ。そしてこの2人の生活は貧しいけれど小さな幸せというありきたりなモチーフながら、私の願望を具現化したような形だった。 そして、物語は意外な方向に進む。それは・・・いや詳細を語るのは止めておこう。思いの強さゆえ、微に入り細を穿つように述べてしまいそうで、これから読む方々の興を殺ぎそうだから。ただ颯爽と現れる御手洗の姿にはきっと快哉を挙げるだろう。これは今でも私には全てのミステリの中でも最高のシーンである。そしてなによりも謎解きを主体としたミステリでこれほど胸を打ち、感動するとは思いもよらなかった。本作で御手洗ファンとなった女性が増えたように、私もこれで御手洗、いや島田ファンになり、こんなミステリを書く人はきっと素晴らしい人に違いないと信奉するまでに至った。これは今でも同じだ。 本書で教えてくれたのは人を愛することの温かさ、苦しい時にこそ助けてくれる友人を持つことが人間にとってかけがえのない宝石だということだ。それを教えてくれた島田荘司こそ、私にとって異邦の騎士その人だと思うのである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書が私の実質的島田作品初体験の作品である。それは私が大学1年の時だった。確かある月曜日の社会学の講義の際にいつもつるんでいた友達のうち、O君が読んでいた本がこの作品だった。なにげに「何、それ?面白いの?」と聞いたところ、「読んでみる?俺もう読んでるからいいよ」と云って貸してくれた。
その授業は本書の最初の1編「数字錠」を読むことに変ってしまった。 結論を云えば、なかなか面白かったというのが本音。それよりも文章の読み易さにびっくりした記憶がある。先にも書いたが、当時私は久々に読む推理小説にブラウン神父シリーズを読んでおり、その読み難い文章に「こんなもんなんだろう」と思いつつ、難解な文章を読み解くことがあえて読書の愉悦をもたらすのだ、と思っていたが、本書を読んでから、実はそれがとんでもない間違いだと気づいた。御手洗と石岡が依頼を受けて捜査するその過程は臨場感があり、云ったことのない東京や横浜の街並みも、異国の風景描写より遥かに理解しやすかった。 その90分の授業で読み終わったのはこの1編のみ。「面白かった!」といって返しそうとしたら、貸してくれるというので遠慮なく借りることにした。思えばこの時既に彼の策略にはまっていたのだ。 で、本作の感想は上の評価の通り。普通に面白いといったところ。一般的に評価の高い「数字錠」だが、私はあまりそれほど感銘を受けなかった。後で御手洗シリーズに没頭しだして、この作品以降、御手洗がコーヒーを飲まなくなったのを改めて知った。 私にとって本書の目玉は2編目の「疾走する死者」である。これはもう御手洗の演奏シーンの素晴らしさに大いに魅了されてしまった。文字で書かれた演奏シーンから超絶技巧のギタープレイが奏でる爆音が、流麗なフレーズが聴こえてくる思いがした。いや実際頭の中では音楽が駆け巡っていた。この作品での御手洗のカッコよさは随一である。 満足の体で読了した私は本を返す際に「他にもない?」と訊いたのは云うまでもない。そしてそのとき既にO君の手には『占星術殺人事件』の文庫が握られていたのだった。 |
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さて『占星術殺人事件』で颯爽と登場した御手洗潔だが、第2作目の本書は本格ミステリの王道とも云うべき館物だ。そして奇想島田氏はやはり普通の館では勝負を仕掛けない。タイトルにあるように全体が斜めに傾いだように建てられた斜め屋敷なのだ。この斜め屋敷、その特異な建てられ方故に滞在する人は遠近感がとりにくいという錯覚を覚える。よく遊園地などにあるびっくり舘と名づけられたアトラクション内で見られる、同一線上に立った大人と子供の背の高さが逆転するというあれだ。そんな話が本作には盛り込まれているのだが、実はそれこそ島田氏のミスリード。この館が建てられた目的こそ、ここで起きる殺人事件の真相に大いに関わっているのだが、これがもう唖然とする。常人であれば理解できない目的だ。この真相ゆえに「世紀のバカミス」とまで云われているが、この評価は致し方あるまい。恐るべき執念というよりも金持ちの道楽としか・・・おっとこれ以上はネタバレになるのでよそう。
本書に関する評価は案外高いが、私はこれに首を傾げてしまう。確かにこのトリックは読者の想像を超える物だが、ミステリとしてどうかと問われれば、佳作かなぁと思う。あの『占星術殺人事件』に続く2作目として発表された御手洗物という称号がどうしても付き纏う本書は、前作と比べざるを得ない運命にある。それと比べるとなんだか普通に物語は流れ、結末までミステリの定型を保って進行する。物語としての熱が前作に比すると減じているように感じるのだ。確かに誰しも初めての小説というのは今後の人生を大きく変える分岐点と成り得る可能性を秘めているのだから、自然、気迫がこもるのも無理はないだろう。しかし作家には1作目よりも2作、3作目としり上がりによくなる作家もいるわけで、そういったことを考えれば、この作品はもう少し推敲すべきではなかったかと思う。しかしこれは単なる私の個人的な嗜好によるものなのだろう。過去何度も行われたオールタイムベストでも100位以内に本書は選ばれているのだから。 あと、意外に他者の感想で語られないのは本書の文体。前作が通常の物語の文章に加え、冒頭のアゾート製作の手記、そして最後の犯人の告白文と複数の文体を駆使していたのに比べ、本作はなんだか文章が幼いような印象を受けた。小学校の教科書で読むような物語の文体、極端に云えばそんな感じだ。しかしネットで色々な感想を読んでもそのことには触れられていないので、もしかしたらこれも単純に私の嗜好によるものなのかもしれない。 本書でも犯人や塔の模様の謎(これは簡単だったね)は解ったものの、トリックは解らなかった。ただ本格ミステリでは真相が明かされた時に読者が感じる思いは概ね4種類に分かれると思う。 1番目はそのロジック、トリックの素晴らしさに感嘆する物。これこそが本格ミステリの醍醐味である。 2番目は解らなかったものの、特段感銘を受けなく、なるほどねのレベルで終わる物。ほとんどこのミステリが多い。 3番目は解らなかったものの、なんだこりゃ?と呆気に取られるもの。バカミスと呼ばれる作品がこれには多い。 4番目は真相が読者の推理どおりだったもの。これもまた作者との頭脳ゲームに勝利したというカタルシスが得られる。 で、本作はこの4分類のうち、3番目に当てはまる。しかしギリギリ許容範囲かなと思えるのが救いだ。実際本当にこのトリックが成り立つのか一度実験したいとは思うが。特に天狗・・・おっとヤバイヤバイ。 しかし雪上での殺人や屋敷の中での密室殺人など、好きな人には堪らない作品だと思う。また本作は後々のことも含めて、御手洗シリーズで読んでおいた方がいい作品ではある。その理由はここではあえて云わないでおこう。 |
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私がミステリをここまで本格的に読むようになったのは、この島田荘司との出逢いがきっかけであった。つまり島田のミステリが私にミステリ読者の道へと導いた。だから私にとって島田の存在というのはかなり大きく、神として崇めているといっても過言ではない。一生追い続けると決めた作家、それが島田だ。
とはいっても本作が私にとって初めて触れる島田ミステリであったわけではなく、最初は『御手洗潔の挨拶』であった。その経緯については『~挨拶』の感想に譲るとして、本作はその次の島田作品だった。 実際私は『~挨拶』を楽しく読み、面白いからもっと貸してとその友人に頼んだところ、持ってきたのが本書。まず最初の印象は、題名に引いたというのが正直なところ。いまどき『○○殺人事件』というベタなタイトルと、古めかしいイラストが描かれた文庫表紙は、もし私が本屋でその本を見ても手を伸ばさない類いのものだったし、本屋でその友達に「この作品面白いよ。お勧め。買って読んでみて」と云われても決して買わない代物だった。ちなみにこの時借りた文庫の表紙は新たなイラストでノベルス版(書影がそれですね)が出版されたが、今現在でもそのままだったように思う。私が後に買った文庫版も同じ表紙だ。 ということで、その表紙とタイトルのせいもあり、実は借りるのには前向きにならなかったのだが『~挨拶』が面白かったので読んでみるかと軽い気持ちで手に取った。 本書を途中で断念した読者の中には冒頭のアゾートの話がかなり読みにくい文章だったという人がけっこういるらしい。しかし海外の古典を読んでいた私にとってはこのくらいの文章は全然大丈夫で、むしろ読みやすいくらいだった。前に挙げたブラウン神父シリーズと比べてみれば一目瞭然だろう。 さてこの6人の娘のそれぞれ美しい部位を繋げて至高の美女アゾートを作るというこの冒頭の怪しくも艶かしいエピソードはいきなり私の読書意欲を鷲掴みにし、ぞくぞくとした。昔乱歩の小説で読んだ淫靡さを感じたものだ。 その後、名探偵御手洗登場。この昭和11年に起き、その後何年間も解決できなかったという事件に御手洗が挑む。 で、この本を読んだ当初、この事件は実際にあった話だったのかというのが友達の間で話題になった。本を貸してくれたO君は実際にあったと云っていたがその真偽は今でも定かではない。その後の島田作品にはこういう虚実を混同させるような叙述があるので、私は創作だと思っている。というのもその後乱歩、海外古典を読んでいくと、本作のように「明敏なる読者諸氏ならばご存知であろう、あの世間を騒がし、国民を恐怖のどん底に陥れた忌まわしい事件」という件が続々と出てくる。さながら探偵小説ならびに推理小説の枕詞として当然付けなければならないコピーのようだ。 さてこのアゾート事件を捜査する御手洗は当初自信満々で、京都の人形師の許を訪れたりとかなり活発な動きを見せる。しかしやがて捜査は行き詰る。この辺の相棒石岡の絶望感をそそる語り口がいい。 そして真相に思い当たり快哉を挙げ、狂喜乱舞する御手洗にかなり笑ってしまった。 そして挿入された「読者への挑戦状」に戸惑ってしまった。なぜなら私はこのとき犯人までしか推理できていなかったのだ。 私は何故かトリックやロジックが解らなくても、なぜか犯人が解るということがよくある。本作もどうしてか解らないが犯人は多分こいつだろうと解った。読んでいる最中に貸してくれた友達が「犯人誰か解った?」と訊いた時に「多分○○だと思う」といった時に、感心したような顔をしていたのを今でも覚えている。まあ、軽い自慢話だが。 二度目の挑戦状でもまだ私は解らなかった。そして明かされるトリックの美事な事。私も思わず快哉を挙げた。これはすごいと本当に思った。 そしてその後も物語は全ての疑問を回収し、決着を付け、犯人の手記で閉じられる。哀感漂う物語の閉じ方はブラウン神父の純粋にロジックとトリックの素晴らしさから得られるカタルシスに加え、物語を読むことの醍醐味が心に刻まれる思いがした。 この作品で私は島田作品をもっと読みたいという衝動に駆られた。そして再び友達に次の島田作品を所望した。 もし本作を読んでいない方、もしくは途中で諦めた方は是非とも読んで欲しい。彼によって新本格は作られ、今の本格ミステリの隆盛の創世となったのが本作なのだから。 その方々に老婆心ながら注意点を云っておく。 まず無造作にパラパラと本書を捲ってはいけない。本書の肝であるトリックの図解が目に入ってしまうから。 そしてこれが一番重要なのだが、マンガ「金田一一の事件簿」は決して読んではいけない。なぜなら本書のトリックを丸ごとパクっているからだ。私はあの時大いに憤慨したものである。幸いにして本書を読むのが先だったが。 しかし私が島田氏を神と崇めるようになったのは本作ではない。それについてはまた別の機会に。 |
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『詩人と狂人たち』の出来栄えに失望した私は本作に関してはチェスタトンコンプリート達成(当時出版されていた分に関して)のための一里塚として惰性的に本書を手にしたのだが、これが当たりだった。
先に書いたようにブラウン神父シリーズでもチェスタトンが得意とする逆説を利用した短編は数多く収録されていたが、本書はその名の通り、逆説ばかりを集めたミステリ短編集である。 ブラウン神父シリーズの時に若干この逆説に慣れというか、飽きにも似た感慨を抱いていたが、そんなときでもこの短編集に収録されている逆説は斬新さに溢れた煌めきがあった。 どんな逆説か以下に挙げてみよう。 「三人の騎士」:死刑執行の中止を伝える伝令が途中で死んでしまったために、囚人は釈放された。 「博士の意見が一致すると・・・」:二人の男が完全に意見が一致したために、一人がもう一方を殺した。 「道化師ポンド」:赤い鉛筆だったから、黒々と書けた。 「名指せない名前」:国民から好かれていた思想家は政府から忌み嫌われていたが追放されなかった。 「愛の指輪」:ガーガン大尉は誠実な人がゆえに、不必要な嘘をつく。 「恐るべきロメオ」:明らかにその人だと思われる影法師ほど見間違えやすい物はない。 「目立たないのっぽ」:背が高すぎるために目立たない。 と、ちょっと読んだだけでは???と首を傾げる逆説ばかりだが、これらの逆説がポンド氏によって非常に合理的に解説される。 中にはその逆説が成立する状況を想定しやすいものもあるが、そのほとんどは謎という魅力に満ちている。特に1編目の「三人の騎士」は「ああ、そういうことだったのか!」と膝を打ってしまった。そしてこの1篇で私はこの逆説ミステリ集に取り込まれてしまった。 そして本書は最後に読んだだけあって、私の中でチェスタトンの評価を決定付けた作品集とも云える。最後が『詩人と狂人たち』だったら、今もこれほどにチェスタトンという名前は私の中に深く刻まれていたか、微妙ではある(でも『~童心』があるから、チェスタトンはやはり忘れられない作家ではあっただろうけど)。 現在この作品は絶版だが、この作品と『奇商クラブ』はぜひとも復刊して、多くの人に読んで欲しい短編集だ。 光文社が『木曜日だった男』みたいに古典新訳文庫で上梓してくれると一番いいのだが。 |
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題名どおり、この作品の主人公は詩人で画家のガブリエル・ゲイルが狂人が起こす事件を解き明かすというロジックに特化した短編集。しかし『木曜の男』に引き続いて主人公の職業が詩人。本当にチェスタトンは詩人が好きだ。
90年初頭にトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』が起爆剤となって、サイコホラーが一大ブームを巻き起こしたが、いわゆるそれは人間の心こそ怖いということに気づいたからだった。そしてそれは今まで理解不可能であった狂人の行動・心理が狂人にも彼らなりの理論と哲学の下で行動していることがこれらの作品群で解り出した事も一因だろう。本作はそれに先駆けること60年も前に発表された狂人が狂人の不可解な行動を狂人の視点で解き明かすという非常にエキセントリックな短編集なのだ。 しかし本作はその過剰なエキセントリックさゆえに私の中ではもっとも評価の低い短編集になっている。ブラウン神父、ガブリエル・サイム、バジル・グラントと今までチェスタトンの主人公は非常に個性的で、普通に付き合うには遠慮したい人物ではあるが、一般的な常識は備えている人物ではあった。しかし本書における主人公ゲイルは彼自身が狂人であるため、彼の言動には面食らってしまい、ついていけないことが多かった。 これに拍車を掛けるように各編もこちらの常識・理解の枠外を振り切っていて、もう訳が解らんわぁと何度もなってしまった。 これを読んだのはやはり大学生の時でそれなりの知識はあった頃だったが、そのときの印象は上述のようにすこぶる悪い。しかし他者の感想ではなかなか興味深い趣向が盛り込まれているとのことなので(この趣向についてはもはや頭に一片も残っていない)、機会があればもう一度読み直してみたいなぁとは思っている。機会があれば、ね。 |
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本書は短編集だが、ブラウン神父物ではなく、この1巻だけ活躍するバジル・グラントが探偵役を務める連作物だ。構成は語り手である私が「奇商クラブ」という誰もがやったことのない商売を手がける人たちと邂逅することで出くわす不思議に挑むという連作物だ。そして本作が出来としてどうかというと、これはかなりイイのである。
ちらっと調べてみると、本作はあの大傑作『ブラウン神父の童心』に先駆けること6年前の1905年に出版されており、先に大絶賛した『木曜の男』と同じ年に出版されている。つまりこの頃のチェスタトンにはかなり語るべき逆説、奇想が頭の中に湛えてあり、その奇想のすごさに驚く。発表後1世紀以上も経っているのに、似たようなネタを見た事がない。とにかく常人には発想できない珍妙な商売ばかりなのだ。 どんな商売なのかをここで明らかにするとネタバレになるのであえて止すが、とにかく21世紀の今でもない商売ばかりだ。つまり云い換えれば、商売として成り立たないであろう物ばかりだと云える。それもそのはず、ほとんど狂人の商売としか思えないものばかりなのだ。 そしてそれら奇妙な商売の謎を解き明かすバジル・グラントという人物もそれ相応に変な探偵なのだ。元裁判官だったが、裁判中に法廷で突然発狂して職を辞したという、エキセントリックな人物。つまり毒は毒をもって制す、ならば狂人には狂人をといった趣向の作品集なのだ。 本作には6編の「奇商クラブ」譚が収録されているが、その中でお気に入りには「家屋周旋業者の珍種目」と「チャッド教授の奇行」が特に秀逸。前者は映像化すれば、最後の真相が実に生えるに違いない1編であり、後者はもうスゴイの一言。云い意味でも悪い意味でもチェスタトンしか思い浮かばないトンデモ商売(?)なのだ。 ただし本作における真価は実はこの「奇商クラブ」にはない。実は創元推理文庫版ではノンシリーズ物の短編「背信の塔」と「驕りの樹」が併録されているのだが、この2編がすごい作品なのだ。 両者とも物語のトーンは幻想小説風だが、最後に明かされる真相はそれが故に実に絵的であるし、戦慄すら覚える。一見不合理だと思える狂える人たちの行為が狂人なりの合理的な理由によってなされていることが解るという趣向では「奇商クラブ」とは同趣向だが、物語の迫力というか風格が違う。「背信の塔」は物語冒頭で語られる主人公の当初の目的を読んでいる最中忘れてしまう熱気に溢れ、最後にそれが予想を超えた真相で知らされる。「驕りの樹」は一本の奇妙な樹を巡る話が二転三転し、これも最後に明かされる真相で汗ばんだ手にさらに汗を握らせる。あえて詳しくは書かないでおこう。 本作を読んだ頃はまだ世間を知らない大学生。今読み返せばその不思議な世界観に包含されたチェスタトンのメッセージが読み取れるかもしれない。それほど深い2編だ。 本作はこの2編があるが故に私の中では大傑作の短編集となっている。 |
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光文社古典新訳文庫から本書の新訳版『木曜日だった男』が出版されたことを知った時は驚いた(書影もそちらになってますね。私が読んだのは創元推理文庫版)。あれほど癖の強い、あくの強い作品を新訳版で出す光文社の編集部の見識をまず疑った。この光文社のシリーズは商業的にも意義的にも世の読書家に好評をもって迎えられているらしく、その余勢を買ったあまりの無謀な行為ではと疑ったのである。
しかしネットでの書評を読むと意外と良好のようで、不評コメントは私が調べた限りでは見当たらなかった。 で、本作は間違いなく傑作である。しかし残念ながら万人に推奨できる傑作ではない。これを初チェスタトンとして選ぶとしたら、その後その人はチェスタトンと訣別するのではないだろうか。なぜならば一読しても、訳が解らないからだ。 物語はガブリエル・サイムなる詩人が無政府主義者と論争になるところから始まる。主人公詩人!しかも相手は無政府主義者!もうこれだけでクラクラだ。 この「クラクラ」には二種類の意味がある。 1つは文字通り、理解不能という意味でのクラクラ。もう1つはこのチェスタトンならではの人物設定に対する酩酊感のクラクラである。 実は私はこの本を2回読んでいる。したがって上述のクラクラ感は正に私が抱いた感覚なのである。 さて物語はサイムが「日曜」と名乗る人物が議長を務める無政府主義者集団に加わる。実はサイムはロンドン警視庁の公安警察官であり、彼はこの無政府主義者集団を壊滅するために送られたスパイなのだ。 そして彼は「日曜」から「木曜」と名づけられる。そう、他のメンバーにはお察しの通り、「月曜」から「金曜」という委員会がいるのだ。そしてサイムはこのメンバーと接触していくのだが、実に意外な展開が待っている。 そして最後に残った議長「日曜」を追い詰めるサイム。しかしそこで明らかになる驚愕の事実!そして・・・。 このオチ―あえて真相と云わない―を知ったその瞬間、読者はきっと呆気に取られるだろう。そして唐突に訪れるカタストロフィに似た結末に呆然とせざるを得ない。 通常ならば駄作のレッテルを貼られるべき作品なのだが、チェスタトンの作品を読んできた者ならばこの作品は甘美な麻薬の如き魅力に満ち満ちているのだ。 上で述べたプロットを彩るのは全編これ、チェスタトンの哲学、逆説、宗教論とあらゆる思想論だ。サイムをチェスタトンの代弁者にし、事ある毎に登場人物と議論を重ねる。リアリティという観点から極北の位置に存在する人物たちはもちろんそんなサイムを変な奴だと一笑に付せず、論破しようと議論でもって対決する。この議論が実に面白い。いや正直に云えば1回目の読書では全く読みにくくてしょうがなかった。さらにその難解な文章の合間を縫うように展開するストーリーもまた曲者であり、何がなんだか解らないうちに1回目の読書は終ったと云えよう。 しかし2回目に読むとこの難解さが逆に心地よくなってくるのだから不思議だ。恐らくそれは免疫が出来たのだろう。だからチェスタトンが読者に放つ悪夢としか思えないクライマックスシーンも実に愉しめるようになる。特に本書では一般大衆と警察が入り混じって大勢サイムを追いかけるシーンは悪夢さながらも一歩間違えば喜劇である、そんな余裕まで感じられるようになる。 つまりこれはチェスタトンしか書けない奇書なのだ。それを愉しめるかどうかはまず本書を当たる前に「ブラウン神父シリーズ」を先に当たってもらいたい。その後なおチェスタトンを読みたいのであればこれは本当に読むべき作品である。 数少ないチェスタトンの長編という意味でも貴重な1冊。当時私は創元推理文庫版の難解な訳にてこずったが、今は光文社から新訳版が出ている。今からこの作品に遭遇する人はなんと恵まれた人たちなんだろうと私は思わずにはいられない。 |
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センセーショナルな題名が付けられたシリーズ最終巻。
さて本作では今までの短編集では2、3編の割合で収録されていた思い込みを逆手に取ったチェスタトンならではの逆説を取り扱った作品が数多く収録されている。 未読の方に先入観を与えて読書の興を殺ぐことを避けるために、あえて具体的な題名は挙げないが、収録作8編中5編と約6割をこの趣向の作品が占める。 これほど連続すればさすがに食傷気味と云いたくなるが、それでもまだ名作といえる作品がある。 その本を開いた者は神隠しに遭い、消失してしまうという呪いの古書。そしてその言い伝えどおりに本を開いた者が次々と消えていくという抜群に魅力的な謎を扱った「古書の呪い」は人間消失のトリックとチェスタトンの逆説が見事に融合した傑作だ。 その他白眉な作品として「とけない問題」を挙げる。世界でも有名な箱が修道院にやってくる。しかしそれを有名な盗賊が狙っているので助けて欲しいと請われたブラウン神父とフランボウは修道院に向かうがその最中に祖父が死んだので助けて欲しいという婦人から連絡が入り、その家に立ち寄ることに。そこでは既に祖父と思しき老人は木から首を吊って死んでおり、しかも体には剣が刺さっていた。さらに木の周辺にはその老人の物と思える手足の跡が散乱していた。この不可解な事件をブラウン神父が見事真相を突き止めるという話だが、これはある意味、推理小説の定型を打ち破った作品といえるだろう。 シリーズを読み通した者の性なのか、2作目の『~知恵』以降、事あるごとにクオリティが下がっているという言を連発しているが、それはやはり最初に『~童心』を読んでしまったからだろう。やはり第1作は傑作すぎた。もしこのシリーズを未読の方が取っ掛かりとしてこの第5作目から手に取ったならば、恐らく面白いと思うだろう。今になって思えば、チェスタトンはクオリティは保っていたのだ。ただ私は常に『~童心』クラスを求めてしまっていた。それだけのことだ。 さてこのブラウン神父シリーズ全5集を読むことで私の中で“チェスタトン”という1つのジャンルが出来てしまった。それはミステリを読む書評家も同様で、奇妙な論理、逆説が導入された作品を読むと「チェスタトン風」という枕詞が挿入されることからも明らかだろう。 この後、私はチェスタトンを追いかけることを決め、当事絶版本だったブラウン神父シリーズ以外の作品を求める長い逍遥が始まるのである。 |
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本作はまず「ブラウン神父の秘密」という短編で幕を開け、最後に「フランボウの秘密」という短編で閉幕する。内容的には神父が自身の推理方法について語り、その実施例として神父が解決した9つの事件が語られるという構成になっている。アルバムでいうところのコンセプト・アルバムのような内容になっている。神父の推理方法については後で述べることにしよう。
さて本作は第4短編集ということもあり、寛容に捉えてもネタ切れの感があると当時は思っていた。例えば、「大法律家の鏡」はもろ「通路の人影」の別ヴァージョンと云える作品だ。作者が得意とする思い込みを利用した逆説を用いた作品(「顎ひげが二つある男」、「マーン城の喪主」)もあり、連続して読んだ身としては小粒感は否めなかった。強いて挙げるとすれば「世の中で一番重い罪」と「マーン城の喪主」が一つ抜きん出いるだろうかというくらいで、それも『~童心』に入っていれば普通くらいの出来だと感じていた。 しかし今回諸作について内容を調べてみると、学生当時に読んだ印象とはまた違った印象を持つ作品もあった。特に「メルーの赤い月」で開陳される山岳導師なる隠者の特殊な心理は、海外で暮らすようになった今では理解できるが、当時はまだ海外はまだしも社会人にもなっていない頃だったので、何なんだこれは!と激昂したに違いない。 また本作には後の黄金期のミステリ作家、特にカーに影響を与えたと思しき作品も見られる。中でも「顎ひげの二つある男」のシチュエーションはあの作品を、「マーン城の喪主」のトリックはあの作品と思い当たる物がある。 しかし本書の注目すべき点は冒頭にも述べたブラウン神父の推理方法だ。彼は自分こそが犯人だという。それは彼が推理する時は自分も犯人になって考えるからだ。彼が犯人だったらこうするだろうと犯人の心理と同化することで事件の真相を見抜くと告げる。 なんとこれは現代の犯罪捜査でいうところのプロファイリングに他ならないではないか。本作が出版された1926年の時点で既にチェスタトンはこの特殊な犯罪捜査方法について言及していることが驚きである。勘繰れば、このチェスタトンの推理方法からプロファイリングが生まれたようにも考えられる。 小学校の時、児童版の名探偵シリーズでお目見えした時は、単に人物が神父というだけで、ホームズやミス・マープルその他と変らないという印象でしかなかったが、本作で神父の推理方法が明かされるに至り、その印象はガラリと変ってブラウン神父という探偵の特異性が見えた。神父ゆえの宗教的観点からの謎解きだけでなく、犯罪者の心理と同化するブラウン神父の推理は全く以って他の探偵とは一線を画するものだ。 確かに各編のクオリティは落ちている(それでも水準はクリアしているが、こっちの期待値が大きいばかりについついこのような云い方になってしまう)が、本作はこの、正に“ブラウン神父の秘密”が判るだけでも意義が高い。 |
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さて第3短編集である。
本作はいきなり「ブラウン神父の復活」というセンセーショナルな題名の短編で幕を開ける。本稿を著すために色々調べた際に知ったのだが、前作『~知恵』からなんと12年のブランクを経ての刊行だったようだ。そういう背景を知るとこの短編の意味するところも解る。2作で辞めるつもりだったチェスタトンの復活宣言だったのだろう。 で、その「ブラウン神父の復活」だが、いきなり神父が死ぬという展開が衝撃的だ。短編集の初頭にいきなり主人公が死ぬ話である。とはいえ、結局は単なるファース(笑劇)に終わってしまうのだが。この趣向からも作者が愉しんで書いていこうという姿勢が現れている。 本作で個人的ベストを挙げるとすれば続く「天の矢」と「犬のお告げ」となる。 しかし「天の矢」はカーも某作で使っているトリックであり、日本作家の作品でも見られるほど有名なトリックだ。私は確かこのトリックを藤原宰太郎氏の推理クイズ本(綾辻氏も云っていたが、本当にこの本の犯した罪は重い。今は全て絶版になっているようだが)で知っていたという前知識があったので看破したが、それでもなお面白いのはトリックを彩る物語・設定の妙だろう。 「犬のお告げ」は最初意味が解らなかった。特定の出入り口しかない建物で起きた密室殺人を扱っているが、その犯行が犬のお告げとも云うべき鳴き声で暴かれてしまうという内容。しかし再読してみて、この重層的な構成の面白さがじわじわとこみ上げてきた。偶然に頼った部分も大きいが、こんな事を考えるのはやはりチェスタトンぐらいだろう。 名高い「ムーンクレサントの奇跡」は複層階の最上階で起きた人間消失と全く違う場所で見つかった消失した人間の死体というすこぶる魅力的な謎だが、前述の推理クイズ本に図解で解説されていた記憶があり、その時点でもう興趣は削がれるが、全く知らないとなると案外楽しめるのではないか。今でも記憶に鮮明に残っている作品だし。しかしこの真相に納得できるかどうかは別だが。 「金の十字架の呪い」はその題名の示すとおり、オカルティックなムードが横溢しているが、真相はなんとも子供騙しといった感じ。 「翼ある剣」はもう1つの「シーザーの頭」とも云える作品。ある資産家に養子として迎えられた男がその後その夫婦に3人の子供が生まれたため、追い出され、遺産相続できなくなった恨みを3人兄弟のたった1人の生き残りの兄弟を殺して晴らし、遺産を手に入れようとする話。この作者ならではの逆説的解明が成されるが、かなり犯行は際どい。 7代ごとの当主は午後7時に自殺する呪いがあるというカーの諸作を思わせる「ダーナウェイ家の呪い」。そして午後7時に当主が死ぬのも定石どおり。明かされる真相はなかなか心理的錯覚を利用していて面白い。 最後の「ギデオン・ワイズの亡霊」は死んだと目されていたギデオン・ワイズをその後街で見かけたという男が現れ、その男は亡霊に悩まされるならばということで自分が殺したと自白する。しかしその後、当のワイズが転落した崖の裂け目から現れ、その男を許すといい、事態は一件落着かと思われたが・・・という話。明かされる裏側のストーリーはけっこう複雑だ。 さて本作は全般的に奇抜なトリックが目立つが、理論派のチェスタトンらしからぬ実現性の低い物が散見される。代表作とされる「ムーンクレサントの奇跡」をはじめ、「翼ある剣」、「ダーナウェイ家の呪い」など。 とはいえ、「犬のお告げ」や「天の矢」といった名実ともに傑作と云える作品も収録されており、全体的に観て水準以上の短編集となっている。すなわちチェスタトンの復活は成功したと云えるだろう。 率直に云えば、この3作を通じて解ってくるのはチェスタトンのミステリというのは与えられた状況を読者が推理して真相を云い当てることは出来ない。クイーンに代表される知恵比べの要素よりも、異様な舞台設定で起こる事件を解き明かすチェスタトン独特の理論を愉しむところにある。それは恐怖の対象である闇をチェスタトンが知性の光で照らし、白日の下に晒してくれるような効果がある。そして私自身、こうしたチェスタトン独特のロジックに対する渇望感が芽生え、そのロジックと独特な世界観に浸れる事自体が楽しい。だから私の評価はもしかしたら偏愛が篭もっているのかもしれず、正当な評価に成りえていないのかもと思ったりもする。従って合わない人もいるかもしれない。しかしこのシリーズを読むことなく、一生終えるのは勿体なぁと思う。是非とも1冊は手にして欲しい。 |
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さて第1短編集の余勢を買って、私は次の日には5冊のシリーズ全てを本屋で買ってしまった。ずらりと並んだ5冊のブラウン神父シリーズに満悦の笑みをこぼしたものだった。
が、しかし本作は総合してみると『~童心』よりは落ちるという評価になる。というよりも『~童心』が凄すぎたということでもあるが。 しかしそれでもなお、本作には後のミステリ・シーンに多大なる影響を与えた作品が収録されている。 収録作12作中、白眉なのは「ペンドラゴン一族の滅亡」と「銅鑼の神」と「ブラウン神父の御伽噺」。 「ペンドラゴン~」は祖先が船乗りで海賊でもあったペンドラゴン家に伝わる因縁をバックグラウンドにしており、ブラウン神父らが同家の屋敷を訪れたところ、ちょうど若き当主が航海から帰ってくるところだった。しかしその夜、同家にある塔が火事になる。ジプシーの協力で危うく消し止めたブラウン神父が語った真相に驚嘆した。 「銅鑼の神」は冒頭からなにやらおどろおどろしい印象が強く、特にブラウン神父らがひょんなことから台座の下に隠された死体を発見し、街中の人間に追い掛け回されるというシチュエーションが怖かった。そして明かされる真相もオカルティックで寒気がした。 そして短編集最後を飾る「~御伽噺」は公民の報復を恐れて城から一歩も出ない独裁者がなぜ城の外で射殺されたのかという謎を扱っており、これが見事に裏返って不可解な状況が納得のいく論理、しかも想像を超えた内容であったのが実に印象に残った。 最後の「~御伽噺」のチェスタトン的逆説とも呼べる論理はこれ以降も様々なヴァリエーションで繰り広げられる。そしてこの3編に共通する、一種狂人の論理とも云うべき内容は日本の作家、特に泡坂妻夫氏の作品に多々見られる。 その他については寸評を。 女性が話していたグラス氏という男性。しかし部屋を覗いてみるといつもそこには女性しか折らず、彼は忽然と姿を消していた。そしてある日グラス氏は女性の婚約者を紐で縛り、そのまま逃走してしまう。果たしてグラス氏とは何者なのかという謎は魅力的な「グラス氏の失踪」だが、真相はかなり腰砕けでジョークとしか思えない。でも今でも記憶に残っているのはやはりインパクトがあったのか。 「泥棒天国」は山越え途中で起きた馬車強盗事件に隠された裏のストーリーが実にチェスタトンらしい。 無音火薬の発明家とそれを中傷する愛国者の決闘という、実にチェスタトンらしいシチュエーションの「ヒルシュ博士の決闘」もミステリ初心者だった当事の私にはあっと驚く結末だった。 殺人犯の目撃者の証言が全て食い違っているという「通路の人影」も蓋を開けてみればほとんど子供騙しなトリックでビックリするが、こういう誰もが思いつくけれど敢えてそれを推理小説のネタにしないような物まで作品に投影するチェスタトンの貪欲さにかえって感心してしまう。 「器械のあやまち」は嘘発見器が犯した過ちを扱ったもので、これにインスパイアされて乱歩は「心理試験」を創作したのか、などと勘ぐったりしてみる。 「シーザーの頭」は遺産相続された3人兄妹に起きる恐喝事件の意外な真相を、「紫の鬘」は同様に紫の鬘を被った男の意外な正体を、独特のロジックで解き明かす。 そして自分の作ったサラダで危うく毒殺されそうになる「クレイ大佐のサラダ」もそこに至るまでのシチュエーションが特異だし、「ジョン・ブルノワの珍犯罪」も殺された卿が死に際に残したメッセージから犯人が最初から解ってはいるものの、そこに隠された意外な論理はチェスタトンが得意とする逆説だ。 単なるワンアイデア物なのに退屈しないのは全編これペダントリーに満ちていて、愉悦の読書を提供してくれるからだ。正直云って、トリックは推理クイズの域を脱しない物も多いが、それを包む物語のガジェットが実にヴァリエーション豊かであることがその陳腐さを上手く覆い隠している。これはやはりチェスタトンという博学者ならではの芸当だ。そして読みにくい訳も相まって、読み終わった後になんだか読む前よりもえらくなった気がするのもこのシリーズを読む理由になったのかもしれない。 そんな興奮を持ちながら私はこのあともシリーズを読み続けるのである。 |
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私がこの本を手にしたのは本当に何気ないことだった。家から自転車で10分くらい離れたところにある書店に大学帰る際に立ち寄るのが日課となっていた私は、いつものように立ち読みを済ました後、コミックコーナーを散策し、ふらりと文庫本コーナーに行ってみると、そこにブラウン神父シリーズ5作が並んでいた。しかも装丁を刷新したようで、なにげに惹かれるものがあった。
久々に推理小説を読むのもいいなぁと思った私はとりあえず1冊手に取り、レジに向かった。A型で几帳面な私はシリーズ第1作が本作であることを調べておいた。 久々に読む推理小説ということで、長編は抵抗あったが、これは短編集だったのもこれを買う動機の一助になっていたように感じる。隣にはアシモフの黒後家蜘蛛の会シリーズも並んでいたが、そちらは興味を沸かなかった。今にして思えばそちらも刷新された装丁であったようで現在も同じ装丁だが、なんだか食指が沸かないイラストだった。このシリーズは今もまだ読んでいない。 さてまずびっくりしたのはこの上ない読みにくさ。シリーズ開幕の1作目「青い十字架」は全編に宗教論が横溢しており、その難解さにいきなり面食らった。最後に明かされる真相はなるほどという域を脱しておらず、しかも半分くらいしか理解できなかった宗教論自体も真相に関与していたことも解り、うわ~、読み通せるかなぁと非常に不安になった。 翌日2作目の「秘密の庭」を読んだ。この真相にはかなり驚いた。久々に推理小説を読んだ当時の私にとってはものすごい真相だった。この真相はもし今初めて読んだとしても驚愕するだろう。この2編目で私の中でこの短編集の評価は一気に高まり、読み続ける決意を固めた。 そこからはもう目くるめく読書体験の連続だった。 ホテルで神父が滞在する部屋のドアの外から聞こえる異なるペースで行ったり来たりを繰り返す足音を扱った「奇妙な足音」。 パーティーで催された劇の最中で盗まれたダイヤモンドの犯人をブラウン神父が見事に当てる「飛ぶ星」。 殺人予告を受けた男は衆人環視の中、なぜ殺されたのかという謎が魅力的な「見えない男」。 領主の居なくなった屋敷を管理する元召使が集める奇妙な品物の数々の意味を探り当てる「イズレイル・ガウの誉れ」。 「狂った形」はブラウン神父とフランボウが訪れた詩人の家で起きた詩人の自殺の裏側に潜む事件を看破する。 決闘を挑まれ、敗れて死んだ公爵の意外な真相が実にチェスタトンらしい逆説に満ちている「サラディン公の罪」。 「神の鉄槌」は庭で殺された男は頭蓋骨を粉砕されるほどの力で頭を割られ、骨の欠片が胸部にまでのめりこんでいたという殺害方法が奇怪だ。まあ、これは今ではちょっと確率的にありえないトリックだと解っているが、当時は面白かった。 エレベーターの開口部に転落死した盲目の女性を殺したのは姉か、それとも被害者の信望する宗教の教祖か。最後にツイストが効いている「アポロの眼」。 なぜ名将名高い将軍は無謀な戦闘を仕掛け、自軍を壊滅させたのかが実にチェスタトンらしい論理が冴える「折れた剣」。 ピストル、ナイフ、ロープ。三つもの凶器が在って、なぜ卿は窓から墜落死したのかを奇想としか云えない論理で解き明かす「三つの凶器」。 この中で心理的に盲目になる錯覚を利用した「見えない男」と「葉っぱを隠すなら森の中。では・・・」のフレーズで知られる「折れた剣」は今でもミステリの王道ロジックとして活用されるくらい有名な作品。 読んだ大学生当初は「見えない男」の論理は、眉唾物のように感じたが、社会人になって出逢う人の数が飛躍的に増えると確かに頷けた。 「奇妙な足音」の実に奇妙な真相にうすら寒さを感じ、「イズレイル・ガウの誉れ」、「サラディン公の罪」、「三つの凶器」の、自分の想像の範囲を超えたロジックにカタルシスを感じ、「神の鉄槌」の宗教的なシチュエーションに目くらまされた思いを感じた。 チェスタトンが逆説の大家であることを知ったのはこの後のことで、とにかく彼の独特の論理は今までの私の既成概念を打ち砕いてくれる思いがした。 本作では最初盗賊として登場していたフランボウが神父に諭されて改悛して、神父の相棒となるという展開も新鮮だった。 本作は冒頭でも述べたように当時超訳に慣れ親しんだ後もあって、実に訳が読みにくかったのが特に印象に残っている。ただその難解な訳文を我慢して読み通すと、間違いなく得られるカタルシスがあった。また難解な話を読むことで自分の知的レベルが向上する思いもした。 あれから数知れず海外ミステリ、国内ミステリを読んでいるが、それでも本作が極上の短編集であることは今でも私の中で揺るぎない。 |
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本作は私にとって最後のシェルダン作品となった。既にこの時は社会人となっており、シェルダン以外の海外作品もそれなりに数を読んでいた。
そしてアカデミー出版の超訳という訳し方が実は書評家たちにはかなり不評で、しかも円滑な訳文のために原文を削除していることやさらには物語の構成自体も変えていることも知った。 また今まではそれほど読書に熱心ではなかったが、この頃になると島田荘司の諸作とも出逢い、個人的に所有する本が飛躍的に増えることになった。そんなことも契機になり、ハードカバーで出ていたシェルダン作品はこれが最後になってしまった。 さて本作では作者自身も脚本家として関わった銀幕の世界、世界のショービズ界の頂点ともいえるハリウッドを舞台にスーパースターを夢見る青年トビーが波乱万丈の物語が繰り広げられる。ハリウッドの内幕を描いた作品だと記憶があり、確かこのトビーという青年はコメディアンを目指していたと思う。そしてエンタテインメント界に付き物の人を狂わせる魔力という物に取り付かれ、手当たり次第に女性に手を付けるんではなかったかな?なかったかな?というのは、実はこの作品についてはもうほとんど忘却の彼方にある。当時この本について一行感想というのを残していたが、それには「コメディアンを主人公にしているのにギャグが寒すぎるのは致命的」とだけあった。 まあ内容に触れた感想ではないので楽しんだのかどうかは解らないが、こういう否定的な意見を残していることからも私がシェルダン作品に飽きを感じていたのがわかる。 結局、ここまで読んで振り返るとシェルダン作品は『真夜中は別の顔』をピークとしてそこから下っていったように思う。だが外国作家の作品を読むこと自体が初めてだった(ホームズ物の児童用リライト版は除いて)私にとってシドニー・シェルダンの作品は私に海外作品への門戸を開いてくれた。今の私の海外ミステリ好きの礎は間違いなくシェルダンによって築かれたと云えるだろう。 すでにこの世を去り、ほとんどの人が過去の作家と思っているだろうし、それは私も同じだ。今更彼の未読作品を読む気にはなれない。 しかし忘れ去られるには勿体無い作家だ。なぜなら彼の作品は面白いからだ。ドイルやルブラン、クイーンやカーが没後の今でも読まれるように彼の作品も後世に残してほしいものだ。 ありがとうシェルダン。合掌。 |
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