■スポンサードリンク


Tetchy さんのレビュー一覧

Tetchyさんのページへ

レビュー数1433

全1433件 1301~1320 66/72ページ

※ネタバレかもしれない感想文は閉じた状態で一覧にしています。
 閲覧する時は、『このレビューを表示する場合はここをクリック』を押してください。
No.133:
(9pt)

最強の農場主!

一度作品が売れ出すと、各出版者がこぞってその作家の作品の版権を買い漁り、うちも一儲けしようとするのは商売の原理。作品数は限られているので、各出版社はとにかく実弾を持っていないと、と初期の作品までさかのぼって青田買いの如く訳出されるのは世の常である。こういうのは色々と問題があるのだろうけど、未訳作品が読めるのは一ファンとして素直に嬉しい。

そしてこの作品もそのうちの1つで、レナード不遇時代の1974年に書かれた作品。以前他の作品でも書いたが初期のレナード作品は非常に物語構成がシンプルなのが特長で、本書も一言で云うならば
「おれのメロンの収穫を邪魔するんぢゃねぇ!!」
と一行で要約できるくらいだ。
殺し屋の逆恨みを受けた農場主ミスター・マジェスティック。しかし彼はそんなことよりも自分の育てたメロンの収穫が気になって仕方なく、それを邪魔する輩と容赦なく立ち向かうことに。

最初の殺し屋との係わり合いに捻りがあるものの、基本的な物語は実にストレート。最後の対決まで一気呵成に突き進む。
この最初の殺し屋とメロン農場主がどうして対決するのか、その成行きは現在のレナードの先の読めないストーリー展開の下地として既に見られるのが興味深い。
とにかくミスター・マジェスティックがカッコいい。
こんな農場主、日本にはいない!
なんでもこの作品は映画化されたそうで、主人公のミスター・マジェスティックはチャールズ・ブロンソンが演じたそうだ。これはまさに適役だなぁ。レンタル店に行った時にちょっと覗いてみよう。

ミスター・マジェスティック (文春文庫)
No.132:
(3pt)

世間の感覚と合わないのだろうか?

この『グリッツ』もレナードのレナードの傑作の1つとされている。

マイアミ・ビーチ警察のヴィンセント・モーラは強盗に撃たれ、プエルトリコで療養中だったが、そこである女性アイリスと懇意になる。一方、以前モーラが刑務所にぶち込んだテディが出所し、復讐を企んでモーラの身辺をうろつくようになった。
やがてアイリスはモーラの制止も聞かず、カジノ・ホテルへホステスになるために向かうが、2週間後、ビルから不審な転落死を遂げる。

確かにいきなり主人公が撃たれる導入部は一気に物語に放り込まれ、怪我の静養中の主人公を襲う殺し屋の存在などハラハラする要素もあるが、なんせこの主人公がやたら女にモテるので、あまり感情移入できない。
タフではあるが、それほどいい男に見えないだけどなぁ。
レナード物では珍しく刑事が主人公なのだが、その特長を十分に活かしているようには思えず、いつものレナードストーリーが繰り広げられるだけだ。
面白くなる予感はずっとあったんだけど、その予感だけで最後まで行ってしまった、つまりレナード作品にありがちな肩透かしを食らった、そんな感じだ。
どうもレナード作品に関しては世間の傑作という下馬評と私の求めている物とは大きな隔たりがあるようだ。残念。

グリッツ (文春文庫)
エルモア・レナードグリッツ についてのレビュー
No.131:
(3pt)

どうしてここまで捻るのか

『このミス』の過去のランキングを見ると、ランクインしたレナード作品の多くは文藝春秋社から出版されたものが多い。文春文庫のレナード作品を手に取ったときは扶桑社→創元推理文庫→HM文庫→角川文庫と渡り歩いてようやく本道に入った感があったものだ。
文春文庫のレナード作品は本作で出てくる主役の1人スティックが出てくるその名も『スティック』という作品が刊行番号が1番となっているが、当時私がレナードに手を出した時点で既に絶版となっており、これについては未だに入手できていない。数年後、私が海外に赴任して初めてその作品と遭遇する。先人の残した書籍の山にあったのだ。その感想については既に述べているのでそちらを参照されたい。
で、本作は文庫刊行番号2番の作品で、『スティック』の1つ前の作品となる。つまり原書の刊行は『スワッグ』の後に『スティック』となっているわけだ。エルキンズの作品の時にも述べたが、日本の出版社は手っ取り早く固定客を掴むために、その作家の有名作やベストセラーの作品を最初に訳出するという、シリーズ物を順番に読むことを好む読書好きにとっては非常に嫌な販売戦略がある。商売の原則から云えば、確かにそれが正しいのだろうけど、書籍販売が文化事業の一環であるとの認識から通常の商売の原理をそのまま適用するのとはちょっと違うところがある。まあ、この辺について語ると返本精度や価格固定販売にまで論が広がる恐れがあるのでこの辺で止めておこう。

ひょんなことで知り合った自動車泥棒スティックとフランク。一番手っ取り早く大金を稼ぐ方法を考えていたフランクはまた“成功と幸福をつかむための十則”という独自の成功哲学を持っていた。そして大金を稼ぎ、なおかつその十則を適用した酒店やスーパーを標的にした武装強盗を2人で組んで乗り出すことになる。
これが予想以上に上手く行き、たちまち生活が豊かになる2人。やがて野心家のフランクはさらにでかい勝負に出ようと特別なプランをスティックに明かすのだが、それが運命の分かれ目だった。

この武装強盗というアイデアはなかなか面白く、彼らがたちまち小金持ちになっていくあたりは痛快だった。しかし物語はレナードのこと、このままでは行かず、またもや予想外に、ひねって歪んで展開する。
ピカレスク小説としてこのまま描いて欲しかったというのが本音だが、それをレナードに求めてはやはりいけないのだろう。
また主人公の1人フランクに、感情移入できなかったのも私が本作の評価を低くすることにもなった。なんせ私のお気に入りキャラ、チリ・パーマーを読んだ後だから、その落差が激しかった。

しかしフランクという名前も多いな、レナード作品には。

スワッグ (文春文庫)
エルモア・レナードスワッグ についてのレビュー
No.130: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

レナード作品一の主人公登場!

数あるレナード作品の中で最も好きな人物を挙げよと云われたら、私は迷うことなく本書の主人公チリ・パーマーを挙げる。
本作は映画化もされ、ヒットしたレナードの大傑作!

マイアミの高利貸し屋チリ・パーマーは飛行機事故で亡くなった男の遺族から金を取り立てることになったが、なんとその男は生きていることを知る。偽装死亡による保険金詐欺をまんまと成功させたその男はラスヴェガスに逃げていることを知らされる。しかしさらにその男はラスヴェガスで大儲けした後、LAに高飛びしていた。チリは借金を取り立てるため、ハリウッドに乗り込む。しかしそこで出会ったのは借金を抱えた映画プロデューサーと売れない女優。映画好きのチリは彼らとともに映画でひと山当てようと企み、ハリウッド映画界の内幕に入り込んでいく。

『五万二千ドル~』の感想でも述べたがレナードの映画好きはつとに有名で、本書ではその趣味が実に物語と融合して痛快な1作に仕上っている。レナード自身、脚本家でもあり、また自作の映画化作品などでハリウッド映画業界に携わったことがあるため、業界の内幕には詳しく、暴露話が織り込まれている。これが作品のテーマと非常に密接に関わり、相乗効果を上げている。
この設定に「おれの目を見ろ」が殺し文句のはったりで世間を渡り歩くタフガイ、チリの造型がマッチして、非常に小気味よい。さらにかつての栄光をもう一度と願う冴えない映画プロデューサー、ハリー(またこの名前だ)とかつてホラームーヴィーで絶叫女優としてひっぱりだこだったキャレン、さらにセレブ俳優マイケルと出てくるキャラクターは他のレナード作品と比べても豪華。私が持っているのは映画化の際に出版された物で表紙は同映画の宣伝ポスターのような装丁になっており、ハリーがジーン・ハックマン、キャレンがレネ・ルッソ、マイケルがダニー・デビートとキャスティングさえも頭に浮かびやすくなっていた。とにかくこんなに面白い本があるのかとずっと思いながら読んでいた。
そしてあわやチリの語る数々の逸話が映画の脚本として採用されそうになるのだが、そこはレナード、全く予想も付かない結末に導く。

しかもこの結末はもう物語の神様がレナードに下りてきたかのように散りばめられた布石がカチッと嵌る。私は最後の方で思わず声を挙げたくらいだ。
作者もチリ・パーマーをよほど気に入ったのであろう、続編『ビー・クール』も書かれている。
なお、題名の意味は「あのチビを手に入れろ」。
チビの正体はすぐ解るが、それも素人が遭遇する芸能界のあるギャップを表していて面白い。

なお、往々にしてレナードの映画化作品は出来が悪く、不満が残り、また作者自身も公然と不平をぶちまけているが、バリー・ソネンフェルド監督による本作の映画は原作同様、実にいい仕上がりになっている。初めてレナードが手放しでその出来栄えを誉めたくらいだから、それからも解るだろう。映画版は本書とは別の結末で閉じられる。これについては賛否があるようだが、私個人としてはそれもまた秀逸と思っている。
興行成績も良かったようで、この映画からレナードの作品が次々と映画化されだした。
先の読めないストーリー、個性的なキャラクターにレナード個人の趣味が実に有機的に混ざり合った傑作だ。こういう作品があるからレナードはやめらない。
比較的手に入りやすいし、初心者には本書から入ることをお勧めしたい。

ゲット・ショーティ (角川文庫)
エルモア・レナードゲット・ショーティ についてのレビュー
No.129:
(4pt)

罪深い一冊?

この奇妙な題名は英語ではなく、イタリア語。意味は“もしもし”。そう、電話に出る時に云うあの“もしもし”だ。レナード作品の舞台といえば、フロリダのある南アメリカやメキシコなどの中南米が多いが、本書では海を越えたイタリア。しかし地中海に面したこの国はヨーロッパでも温暖な気候であり、ラテン系民族が多くて国民性は陽気だから、扱う人物達もそう変わらないのだろう。

スポーツ賭博師であるハリー・アーノウは65歳で引退し、イタリアの地で晩年を過ごそうと計画していた。しかし儲けをくすねていたことが元締めにばれた上、FBIが元締めを逮捕するために張った罠のおかげで、命を追われるようになった。保釈されたハリーは早速憧れの地イタリアに飛び、恋人を呼び寄せるが、元締めの手下と警官も彼の後を追ってきて・・・。

主人公が66歳というのがまず驚く。1993年の作品である本書を著わした時のレナードの年齢は68歳だから、同じ年代の人物を主人公にしたようだ。このハリーは実在した詩人エズラ・パウンドに心酔しており、彼のゆかりの地であるイタリアで隠居生活を送ることを理想としているのだが、面白いことに心酔する詩人の詩をちっとも理解していないのだ。こういうミーハー心というのは日本人も往々にしてあることで、映画・ドラマや音楽や小説・エッセイなどをろくに読んでなくても「ファンです」と公言する輩はかなりいる。
大抵のアメリカ人は引退後の生活をフロリダで暮らしたがるそうだ。人生残りの日々を南国でお気楽に暮らしたいというパラダイス願望というのがあるのだろう。無論私もそういう生活に憧れるのだが、何もせずに暮らすというのが出来ないのが日本人の特徴で、退職してもなお働きたいという人が多くいる。この辺は全くアメリカ人は理解できないらしい。
このハリーの願望がそのままレナードのそれを投影しているかどうかは解らないが、風光明媚なヨーロッパというのはやはりアメリカ人にとっても憧れではあるようだ。エルキンズなんかは特にその作品を読むとその傾向が強いことがよく解る。しかし物書きとしてなかなか踏み切れないところがあるだろう。まあ、当っているかどうかも解らない勘繰りはこの辺で止めておこう。

本書でも個性的な面々が本作は出ているのだが、なんか全体的に話が散漫に感じた。レナードには珍しく、主人公のハリーがなかなか動かないキャラクターだった。賭博師という裏社会を渡り歩いた彼の老獪さはあるものの、やはり従来のレナード作品に出てくるような元シークレットサービス、元特殊部隊、警官、刑事らとは違い、肉体的な動きが少なく、知謀知略、いや正確な書き方をするならば悪知恵を働かせて戦うのではなく生き延びることを模索するキャラクターというのはある意味レナードにとっても挑戦だったのかもしれない。が、しかし本書を読むには成功しているとは思えない。

本書は当初ハードカヴァーで出た。けっこうな分量もあり、それなりに値段も高かったように思う。これは文藝春秋がレナード作品を同じ版型で出していたことを受けての出版だったのだろうが、本書が訳出された94年では既に文藝春秋は文庫へと版型を移行しており、角川書店は遅きに失したようだ。私は文庫版で本書を読んだが、実際この後同会社から出たレナード作品は『ゲット・ショーティ』以降、文庫で出版されているから、本書はあまり売れなかったのだろう。これは世の流れを読み誤った出版社側のミスでもあり、版型を決める際に中身を吟味すべきだったと思う。
海外ミステリの不況が嘆かれる昨今だが、昔から海外ミステリの出版状況を見ていた私にしてみれば、本書のようなコストパフォーマンスの低い作品をハードカヴァーで出して利益を得ようとした出版社側の怠惰も大いにあるのではないかと強く思う。
そういう意味では罪深い一冊ではないだろうか(ちょっと云い過ぎ?)。

プロント (角川文庫)
エルモア・レナードプロント についてのレビュー
No.128:
(7pt)

MWA賞受賞作ではあるが…。

MWA賞受賞作であり、一般的にレナードの代表作とされている。さて、この本に至るまで私の中でのレナードの評価はうなぎ上り。しかもそれらは何の賞も受賞していない作品であった。従って本書への期待は否が応にも高まった。

元シークレットサービスの捜査官で今は写真家のジョー・ラブラバ。陽光煌くマイアミに暮らしていた彼はそこで1人の女性と知り合う。それは彼が少年の頃、憧れていた銀幕のスター、ジーン・ショーだった。ジーンは年を取っていたが、ちっとも魅力は衰えていなかった。その頃の憧憬が甦り、ラブラバはジーンに近づき、懇意になる。しかし彼女の周りにはならず者や脱獄犯などきな臭い連中がなぜか集まる。彼らは彼女の財産を狙っていたのだ。憧れの君を救わんべく、ラブラバが悪党ども相手に立ち回る。

結論から云えば、下馬評の割にはちょっと期待はずれ。
主人公の名ジョー・ラブラバは一連のレナード作品に登場するタフガイで、しかも元シークレット・サービスという職業柄、知性も感じさせる。
このラブラバがかつての銀幕スターでラブラバの憧れの人に逢い、騎士役を買って出るというのは実にレナードらしい心憎い演出だ。
が、しかしなんとものめり込めない。

理由は3つあって、1つは全編に散りばめられた40~50年代映画の薀蓄。ヒロインが元映画スターだからこれは仕方ないだろうし、逆にレナードがかなりの映画ファンだというのは周知の事実であるから、逆に云えばレナードは自分の薀蓄を曝け出したいがためにこの設定を持ち込んだのではないかと思われるくらいだ。しかしこの40~50年代の映画というのが当時20代の私にはさっぱり解らない。自分もかなり映画好きだが、この辺のクラシック・ムーヴィーは守備範囲外。従って何がそんなに楽しいのか、全く解らなかった。1つでも知っている映画があるとまた違うのだろうけど。
もう1つはジーンという年増女性がヒロインだということだ。当時の私は大学出立ての社会人。当然合コンなどもあり、実際毎月参加していた。そんな年頃だから、もっぱらの興味は同年代の女性だったし、逆にジーンと同年代の女性は職場にしかいなく、申し訳ないが全く恋が芽生えるなどという気になったことはなかった。ちなみに『五万二千ドル~』同様、作中に出てくるジーンの写真と思しき物が文庫表紙にあしらわれており、ジーンという女性がどんな女性か、イメージしやすくなっている。ハヤカワ・ミステリ文庫の表紙は素晴らしいね。
しかし今ならばこのラブラバの気持ちも理解できるだろう。アンチエイジングという言葉がさかんにメディア上で発信される中、ジーンの年代(たしか40代だったと思うが)の女性は綺麗だし、熟女などという言葉も流布しているくらいだからだ。別に私にそういう興味・趣味があるわけでないが、齢も近くなり、この年代の女性の美しさ、魅力というのが解る年頃になったということだ。そういう意味ではちょっと早すぎた作品だったのかもしれない。

しかし最大の理由はこのタフガイと思われたラブラバの見せ場が意外に少なかったこと。タフガイなんだけど、なんだか活躍の場がないままで、逆にジーンが物語をかっさらってしまったような感じだった。その名が題名にもなっているのにもなんとも影の薄い主人公なのだ。
ということで、題名と中身が一致しないなぁというのと、これで受賞?という懐疑が先に立ってしまい、私の中では佳作という位置づけになっている。

思えばこれがレナードテイストなんだろう。逆に云えばアメリカ探偵クラブの方々はこの妙なツイスト感が当時新鮮に移ったのかもしれない。定石どおりに物語が進まない展開が。あと、考えられるのはもしかしたら審査員の方々がレナードと同年代、もしくは近い年代で作中で語られる映画の薀蓄がツボにはまったのかもしれない。
現在、クライム・ノヴェルの巨匠という名声を得ているレナード。それに対して否定はしないが本作を代表作とするには異議がある。各種ガイドブックはもっと他の作品も取り上げてほしいものだ。

ラブラバ〔新訳版〕 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
エルモア・レナードラブラバ についてのレビュー
No.127:
(8pt)

内なる獣が目覚める男の物語

ハヤカワ・ミステリ文庫で出版されているレナード作品はこれと『ラブラバ』の2作しかないが、後者はMWA賞受賞作であり、その頃流布していた各種ミステリ・ガイドブックにはレナードの代表作として必ずといっていいほど、『ラブラバ』が取り上げられていた。
『ムーンシャイン~』から『野獣の街』、『スプリット・イメージ』と立て続けにレナードの痛快クライム・ノヴェルを読んで、さらにこの上があるのかと期待が高まる中、その前に文庫の背表紙番号の若い順ということでこの作品を読んでみた。

浮気の一部始終を撮られたフィルムをネタに実業家のハリーは強請りを受けるが、断固として拒否する。しかし脅迫者は強請りの手を緩めず、それは次第にエスカレートしていく。苦悩するハリーはしかし、自分の中で何かが目覚めるのに気づく。

結論。面白い!非常にわかりやすいストーリーで非常に気持ちがいい。こちらも初期の作品で主題がはっきりしており、しかも展開がスピーディかつ荒々しさを備えている。
特に当初浮気がバレて恐喝される冴えない中年男だった主人公が昔、戦争時にパイロットだった時の狼の牙を思い出して、逆に恐喝者たちを返り討ちにしようとするプロットは、よくある話だけれども非常に胸の空く展開だ。
この主人公ハリー・ミッチェルに私は「結婚したマーロウ」という感慨を抱いた。
被害者が必ずしも弱いわけでなく、誰もが隠れた牙を持っているのだとレナードは示したかったのか。それとも被害者ハリーの戦争体験が彼の行動原理となるあたり、当時まだヴェトナム戦争の翳が覆っていたアメリカの狂気がレナードをしてハリーという男を生み出させたのか。
表紙にヌードの女性をあしらっているのは本書に出てくる情事のフィルムの一場面を切り取っているかのようで、それが視覚的効果を高めている(決して表紙が裸の女性だからいいという意味ではない)。

しかしレナードの作品はハリーという名前の男が多いな・・・。

五万二千ドルの罠 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エルモア・レナード五万二千ドルの罠 についてのレビュー
No.126:
(10pt)

レナードによるサイコキラー物の傑作

80年代後半から90年代前半にかけてサイコサスペンスが一世を風靡した。このブームはトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』に端を発したものだが、こぞってアメリカのミステリ作家はこの新しい分野にダイヤの原石を見出したかのように、みなサイコキラー物を書き出した。その影響は日本のミステリ界にも波及し、その中には傑作も少なくない。
が、それに先駆けて、レナードは81年の本書でサイコキラー物と著わしている。しかし同年、ハリスは『羊たちの沈黙』に繋がるレクター博士が初登場する『レッド・ドラゴン』を上梓しており、ここに何らかの符号があるのかもしれない。

金も権力もあり、地位も名声もあり、なおかつ女どもが振り向きたがる容姿も備えた男は、人を殺してみたくてしょうがなかった。そしてその欲望は日増しに肥大し、悪徳刑事を抱きこんである殺人計画を実行に移そうとしていた。しかしそんな2人に目を向ける1人の刑事がいた。

金持ちで権力もあって、しかも容姿端麗という、最強のサイコキラーだが、レナードが描く犯人像はいわゆる完璧な優等生タイプとして描かず、精神の歪んだ側面と成功した人間にありがちな失敗にもろい性格を前面に押し出し、この犯人をどんどん厭なヤツにしていく。
しかし『野獣の街』と共通するのはそれが決して滑稽ではなく、いつ実行に移すのか、じわりじわりと緊張感が飽和していく、その絶妙な筆致にある。
とにかくふとしたことで人を殺しそうなまでに肥大した彼の殺人願望が非常に怖く、ギリギリに引き絞られた矢がいつ放たれるのかという危うさに溢れている。
そして読者の予想を裏切らない殺戮シーン。起こるべくして起こるようにレナードはストーリーをキャラクターを動かしていく。いや、彼に云わせれば登場人物がそういう風に動いているのだろう。
この怒涛の展開にはカタルシスは得られる物の、しかし私は結末のある部分に呆気にとられてしまった。今になって思うとこれこそがレナードなりの味付け、つまり物語というものはそう絵に描いたようには上手く行かないのだという彼なりの皮肉なのだろうが、ちょっとこの結末は予想していなかっただけに大いに戸惑った。まあ、それぐらい物語に没入していたということだろうが。

とはいえ、読後には爽快感も得られたので、総合的に見てレナード作品群の中では上位に来る作品だ。後のレナード作品にはもっと呆気に取られる展開・結末の作品が出てくるのだから、まだまだ許容範囲と云える。
この頃のレナードは本当に面白かったなぁと思う。やはり収まるべきところに収まる面白さというのがあるのだ。これをレナードに求めるのはファンとしてご法度なんだろうか、やはり。


スプリット・イメージ (創元推理文庫)
No.125:
(10pt)

野獣どもの狂宴

本書は個人的レナードの最高傑作である。読み終えたとき、これこそ私が求めていたクライム・ノヴェルだと思った。そしてここにレナードの真骨頂を見た。

金持ちのアルバニア人の財産を狙うため、尾行していたクレメント・マンセルは、それを邪魔した車に腹が立ち、運転していた黒人を射殺する。しかしそれはその街の悪徳裁判官だったのだ。通りがかりの犯行で証拠らしき物は残していないと確信するクレメントだったが、1人の刑事がその事件を追っていた。

基本的にレナード作品のプロットは複雑ではない。ほとんどワンアイデアといったところだろう。
例えば、『キャット・チェイサー』ならば、元特殊部隊員がトラウマを克服するためにかつての戦地に訪れたらそこにかつての恋人がいて、既に人妻になっているのに、恋が復活した、怒った夫は復讐するといった物だし、『マイアミ欲望海岸』も莫大な財産を継承した美人の未亡人には制約があって、それに男達が絡む。また『ザ・スイッチ』は冷え切った夫婦の片割れが誘拐されるというもの。
レナードの創作作法とはとにかくキャラクターを思いのままに動かすことで、物語を進めるというもの。つまりプロットとはそれらキャラクターを動かすお膳立て、もっと平たく云えば単なるきっかけに過ぎない。キャラクターを集めて、さてあなた達の境遇とはこれこれこういうものですよ、さあ、あなた達ならばどうしますか?ハイ、動きなさい!といった感じだろう。
レナードは彼の頭の中で動き出すキャラクターをそのまま文章にしているといった感じなのだ。だからストーリーが読めないし、現実の事件、問題が終始丸く収まるのが珍しいのと同様に結末もすっきりしないものも多い。

しかし本書は殺したのが裁判官という人物だとレナードの相変わらずオリジナリティ溢れる導入はもとより、悪役のクレメントが心臓に毛が生えた、根っからの悪党であり、また敵役の刑事レイモンド・クルースも凄腕で肝の据わった男であり、この2人の対決に向けて全てが収束していく。特に11章の警察署内でのやり取りは歴史に残る名シーンと云えるだろう。
血沸き肉躍るとは正にこのことを云う。
「野獣」たちが集い、戦う物語。脇役、端役に至るまで全てが生きている。これ以外の題名はありえないと云っても過言ではない。
特に本書ではラストにある捻りも加わっており、それでレナードが単純に思いつきで書いているわけではないというのがはっきり解る。
いや、レナードは既にある物語を“発見”し、それを紙に書き写したのかもしれない。とにかくそれくらいこれはよく出来た作品だ。本書の存在が私をレナードファンにしてしまった。
カタルシス溢れるクライマックスといい、いやあ、堪能したわ。

野獣の街 (創元推理文庫 (241‐1))
エルモア・レナード野獣の街 についてのレビュー
No.124:
(8pt)

レナードらしからぬストレートな語り口。しかし面白い!

レナードのデビューはクライムノヴェルではなく、実はウェスタン小説。本書はその頃に書いたウェスタン小説の一部だが、意外と、いやすごぶる面白い。

物語の舞台は禁酒法統治下のアメリカ。
幻の密造酒を巡って禁酒法取締官、密売人、そして禁酒製造者たちの戦争が始まる。

レナードの作品は読者が予想もしないストーリー展開と、実在するかのごとく「生きた」登場人物と彼ら・彼女らの会話の妙というところにある。これについては後々もっと詳しく語りたいと思う。
しかし初期の作品である本書はストーリーが一直線に進む。すなわち悪人登場、嫌がらせが行われ、彼らとの対決に向け、じわりじわりと雰囲気が盛り上がり、やがて闘争へ・・・。
登場人物たちは起こるであろうゼロ時間に向けて、それぞれの信条、恨み、怒りを募らせ、突っ走るだけだ。これが非常に小気味よかった。シンプルなだけに解りやすく、また初めて読んだウェスタン小説という珍しさも手伝って、予想外に面白く読めた。

さて本書の題名になっているムーンシャインだが、これは禁酒法取締官に見つからないように密造者が月明かりの下で蒸留酒を作っていたことから、そのお酒を称した呼び名である。そして密造者はムーンシャイナーと呼ぶ。なんとも詩的な表現ではないか。やっていることは当時の法律に照らし合わせれば犯罪なのだが、闇夜に紛れて作る酒という無骨な物にこんなにロマンチックな呼称を付けるアメリカ人の稚気と心意気に乾杯したくなる。

この評価はこの前に読んだ『マイアミ欲望海岸』、『ザ・スイッチ』が個人的には不評だったことで、レナードに対する期待値が下がった上での意外性というのも多分に加味されているだろうけれど、そんな西部時代の男のロマンがピリッと織り込まれた薀蓄も面白く、また酒好きにどんな味なのか想像を掻き立てさせるレナードの密造場面の描写も加え、本書は数あるレナード作品でもお気に入りの部類に入る。
数年後、レナードは『ホット・キッド』という新たなウェスタン小説を発表する。これも実に面白く読めたが、ラストはやはりクライムノヴェルのレナードらしく、予想もしない捻った結末だった。翻って初期の本書はラストも鮮やか。個人的には逆にこの頃のレナードを取り戻してほしいなぁと思ってしまった。

ムーンシャイン・ウォー (扶桑社ミステリー)
No.123:
(3pt)

まだまだ発展途上の作品

レナードの作品にはある一定のテーマパターンがあって、その1つには夫婦関係というものがある。『マイアミ欲望海岸』では既に夫婦という関係が失われた後で、その呪縛に縛られる未亡人が物語の中心だったが、外から見るには何不自由ないと思われる夫婦、家族の間は実は冷え切っていて、そこに非日常性、つまり事件が介入することで今まで知らなかった自分、もしくはかつてそうであった自分を取り戻す、というのが隠れたテーマになっている。
で、この『ザ・スイッチ』はまさにその典型。

不動産会社を経営して裕福ながらもその関係は冷え切ってしまっていた夫婦。その妻が前科者2人組に誘拐される。2人の悪党は巨額の身代金を要求するが、事態は思わぬ方向へ進む。

まあ、冷え切った夫婦の片方が誘拐され、巨額の身代金が要求された時に夫はどうするかという、非常に人間くさいところを上手く突いたところが面白い。今の日本人ならば案外同調するところがあるかもしれないが、個人主義の発達したアメリカ人ならではの展開というところか。
そしてこの事件をきっかけに妻も変わる。題名どおり「スイッチ」が入るが如く。身内しか解らない夫の秘密を暴き、逆に攻め側に転じるのだ。
こういう物語のツイストこそレナードの真骨頂。しかしまだこの作品では本領が発揮されていないように感じた。

本書に出てくる悪党オーディルとルイスは後のレナード作品にも登場する。この三文悪党がけっこう気に入ったらしいが、私自身はどうにもピンとこなかった。はったりばかりが強くて、一本芯が通っていない、いわゆる背骨の無い連中だなぁというのが漠然とした印象。レナード作品に登場する悪党には妙なこだわり、マニアックな趣味という物を備えていて、それがキャラクター造形に一役も二役も買っているのだが、この2人にはそれが希薄。
誘拐事件をこのように展開するレナードの妙には感心はしたが、キャラクターが弱かった。『キャット・チェイサー』の後、続けて読んだ2作があまり琴線に響かなかったので、このときの私の心には微妙な空気が流れていたのだった。

ザ・スイッチ (サンケイ文庫―海外ノベルス・シリーズ)
エルモア・レナードザ・スイッチ についてのレビュー
No.122:
(1pt)

これはいただけない

クライムノヴェルの大御所と呼ばれるレナード。私にとってクライムノヴェルは初体験であり、合うかどうか不安な状態で読んだら、これが当りだったので、勢い込んでとりあえず当時出ていた全てのレナード作品を買い込んで、しばらくレナード漬けになることにした。
『キャット・チェイサー』の面白さに機嫌よくした私は引き続いてこの作品を読んでみた。

亡くなった元ギャングのボス、フランクの未亡人が莫大な遺産を相続することになった。そしてそういう輩の奥さんというのは得てして美人というのが相場だが、このカレンもそう。美人でしかも金持ちとくれば、男達が群がるのも当然だが、フランクは遺産管理者に命じてカレンをフロリダから出してはいけないこと、浮気をしてはいけないことを条件に遺産を相続させることとし、しかも用心棒をつけて男どもを近づけさせないようにさせた。しかしそれでも言寄ってくるタフな男2人、ローランドとマグワイア。この2人の争奪戦の行方は?

タフな男、一攫千金、美女というのはレナード作品の三本柱だというのが後々作品を読んでいくうちに解ってくるのだが、本書はまさにその典型だといえる。それらのキャラクターが織り成す権謀詐術、プライドを賭けたやり取りが物語にツイストを与え、全く予想もつかないストーリー展開を見せるところにレナードの真骨頂があるのだが、この作品はなんだかグダグダ。
カレンの天然とも思えるあっけらかんとしたキャラクターはよしとしても、レナード作品で要とも云える一流、二流、三流の悪党たちの造形がなんとも響かない。
そしてあんぐりのラストは途中で作者がストーリーを変えたのか、いやもっと云えば途中で放棄してしまったとしか思えなかった。
題名もすごくチンケだし(ちなみに原題は“Gold Coast”。マイアミの海岸とカレンの遺産をかけたらしい)、それも含めやっつけ仕事としか思えない駄作だ。

マイアミ欲望海岸 (サンケイ文庫―海外ノベルス・シリーズ)
エルモア・レナードマイアミ欲望海岸 についてのレビュー
No.121:
(8pt)

最強の間男

私とレナードとの出会いは特別な物があったわけではなく、海外ミステリを多数取り扱っている東京創元社、早川書房のミステリ作品に触れたので、次にその頃、どんどん海外ミステリの新刊を出していた扶桑社のミステリーにも手を付けるかということで、『このミス』の過去のランキング作品の作家名と文庫目録を眺めていて、目に付いた作家がレナードだったという実に単純な動機による。
私がレナード作品を読もうと思った95年ごろは既にレナードは文藝春秋を中心に各社がどんどん翻訳出版を行っており、ちょっとしたブームになっていた。しかし、この『キャット・チェイサー』という題名の本は当時はもとより、今でも各種のミステリガイドブックの類いでその名が挙げられることもなく、またなんとも珍妙な題名―なんせ「猫追跡者」である―から、全く食指をそそられなかった。

主人公はマイアミでホテルを経営するモラン。彼は昔、題名の基になっている海兵の特殊部隊、通称「キャット・チェイサー」に所属していた。隊員時代、彼はサント・ドミンゴのゲリラ戦に参加した際、少女兵士に狙撃され、止めを刺されずに見逃された経験があり、それがトラウマとなって夜な夜な夢に見て、苦しんでいた。この悪夢を克服するため、モランは彼の地に訪れることを決意するが、その際、かつての同僚が流れ者としてホテルを訪れたのが気に懸かっていた。そして訪れたサント・ドミンゴではかつての恋人と再会する。かつての想いが再燃し、二人は関係を持つが、それが災厄の始まりだった。

率直な感想を云えば、本書は面白かった。予想外に展開するストーリーが全くページをめくる手を休めず、どんどん先が気になって読み進んでいった。上に書いているようなストーリーだと、てっきり悪夢の地で落ち合うのは少女兵士の成長した姿であり、それが見違えるほど美人なって、悪夢の対象に惹かれる自分に気づく、という展開が考えられ、しかもそういう展開も非常に面白いのだが―なんせかつての元凶が恋の相手になるんだからね!―レナードはそんな方法は取らず、なんとそこでかつての恋人との再会と恋の再燃を演出し、その夫による脅迫劇に転じるのだから、いやはや参るね。
どのように自ら蒔いた災厄をいかに乗り切るかがストーリーの主眼になる。通常一般小説ならばこのような間男というのは非常に情けなく、泥臭く立ち回り、そういうダメ男の苦悩とか悪あがきが読者の共感を得たりもするのだが、なんせ間男モランは特殊部隊出身だから、肝は据わっており、しかも凄腕。こういうところが非常に面白いのである。
結末は実に皮肉。最初に読んだ時はなんとも痛快なコン・ゲームを読んだ爽快感を感じたが、今なおレナードを読んでいる身にしてみれば、これは典型的なレナード作品だったなぁと思う。しかしレナードという作家を知るには本作は取っ掛かりとして非常によかったと思う。

しかし元兵士のトラウマというテーマを扱いながら、それはあまり重視されず、記憶に残るのは中南米のひりつくような暑さとマイアミの常夏の中で非常に緩やかに展開される物語だ。この南部小説とも云うべき犯罪者達のどこか明るいやり取りがレナードの持ち味だと気づくのはこれ以後、巻を重ねるにつれて解ってるのだが、このときはまだそんなことは全く考えもしなかった。

キャット・チェイサー (サンケイ文庫―海外ノベルス・シリーズ)
No.120: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ちょっと穿った感想になっちゃいました(^^)ゞ

今までのミステリプロパー以外の作家によるミステリとは文壇に既に名を成していた作家の手遊び的な物が多かったが、本書の作者ヒルトンはちょっと違う。私は今まで彼の作品に本作以外触れたことがないので、よくは知らないのだが、ヒルトンはイギリス文学界のみならず世界的文豪と呼ばれるくらい著名らしい。が、本書はその彼がまだその名声を得る前の不遇時代に別名義で書いた唯一のミステリである。有名になった後は1つも書いていない。こういうシチュエーションだと、これほどの作家ならば若気の至りということで、その作品は抹消して「なかった事」にするものだが、死後今なおこうして残っているというのはその出来栄えに世に出しても、後世に残しても恥ずかしくないというそれなりの自負があるからだろうと思う。
今でこそ学園ミステリというのは国内外ともに多く書かれているが、私の拙いミステリの知識では黄金期に書かれた学校を舞台にしたミステリというのはセイヤーズの『学寮祭の夜』以外、ちょっと思いつかない。そのセイヤーズの『学寮祭~』(傑作!)が書かれたのは1935年のことで、本書はその3年前の1932年ということになる。

漫画の世界でも新人作家が手っ取り早く人気を得るために取るのが学園物だというのはもはや定石となっているが、それは学校という特殊な環境に対して誰もが特別な思いを抱いているからだろう。
まずどの人もすべからく学校生活を経験しているという共通性がある。したがって読者は作品世界で起こっている出来事に対して自分の想い出を重ねて追体験し、またあるいは主人公ら登場人物を介して、自分がしたくて出来なかった体験を面白く読めるところがまず大きいだろう。つまりかつてあった青春時代の追体験が出来るというのがまず最大の魅力だろう。
さらにその外部から閉鎖された独自の共同生活圏が形成されているというのも特徴的だ。学校という空間には外部社会とは別の独自のルールがあり、一種治外法権的な色合いが非常に濃い。学校に通う者同士でしか通用しない冗談や言葉が必ず存在する。そんな小社会性もこのジャンルが持っている蠱惑的な魅力である。
前置きが長くなったが、その題名が指すように学校を舞台にした本書もまた青春ミステリのような青さと甘さを持っており、それが本書の魅力の一端となっている。

学校で起きた一見、事故死とも思える事件を文学青年レヴェルが校長から調査を依頼される。過去にとある紛失事件を見事解決した手腕を買われての依頼だった。そして発見された遺言状からその事件は奇妙な様相を呈し、やがて第2の事件が起こるというもの。
ミステリとしてはオーソドックスと云えるだろう。元々ミステリプロパーでなく、また初期の作品であることからプロットそのものも入り組んでいなく、物語は実に教科書どおりに進む。が、しかし人物描写、学校生活のみずみずしい描写はやはり後に文豪の名声を獲得する萌芽を感じる。
そして確かに本書には後世に残すだけの美点が確かにあった。最後の展開はなかなかに面白い。単にとっつきやすさだけで学校という舞台を選んだのではなく、きちんと意味合いを持たせていることも解るし、また登場人物の1人の動かし方にちょっと感心した。不遇の時代だからこそ早く売れたいという意欲ゆえのこのサムシング・エルスなのかもしれない。

さて主人公の文学青年レヴェルは詩人でもあり、最初と最後に彼の詩が挿入されている。詩人で探偵というと浮かべるのはP・D・ジェイムズのアダム・ダルグリッシュ警視だ。もしかしたらその人物設定の根幹にはこのレヴェルという人物がジェイムズの頭にはあったのかもしれない。あっ、今気づいたが、この作者のファーストネームはジェームズであり、ジェイムズと一緒ではないか!やはりここにダルグリッシュの源泉はあったのだ(いや、単なる偶然でしょう)!

学校の殺人 (創元推理文庫 M ヒ 3-1 Sogen Classics)
ジェームズ・ヒルトン学校の殺人 についてのレビュー
No.119: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(1pt)

後出しジャンケン感満載の作品

ミステリ黄金期にはミステリプロパー以外の作家もミステリを発表する動きがあったことは以前述べたが、このメースンもその中の1人。
元々は彼は劇作家であり、そちらの方の分野の小説は現代でも高い評価を受けており、21世紀になって彼の書いた“Four Feathers”が『サハラに舞う羽根』と題され再映画化されたのにはビックリした。私は同原作も読み、そちらは予想以上に面白く読めた。

で、そのメースンが創作した探偵が本書に出てくるアノーだ。第1作は国書刊行会にて訳出された『薔薇荘にて』で、本書は第2作に当る。しかしながらこのアノーはフランス人という特長以外、特段特筆すべき個性を備えていないというのが私の印象。特に古典ミステリの探偵役は往々にして論理や状況をこねくり回す傾向にあり、そのくせ掴んだ証拠や閃いた推理はもったいぶって最後まで開陳しないという、実際にいたらあまり付き合いたくない人種なのだが、このアノーもその例に洩れず、それゆえ、英国人作家によるフランス人名探偵というとクリスティのポアロがつとに有名だが、一説によるとポアロのモデルはこのアノーらしい。しかしながら後世の評判から推し量るに亜流が元祖を上回ったようだ。

本書で語られる事件は実にオーソドックス。フランスにある館「グルネル荘」の主人が亡くなり、その遺産が養女に相続されるが、それを不服に思った義弟がその養女を毒殺したかどで告発する。その無実を晴らすべく、養女が救いを求め、名探偵名高いアノーに白羽の矢が立つといった内容。

事件の調査を依頼されたアノーはセオリーどおりに捜査を展開する。既にあった事件を調べるだけという純粋な推理小説である本作は舞台が館のみでほとんど展開すること、続いて事件が起こらないことから、現在のミステリを読み慣れた読者にはかなり退屈に感じるだろう。また登場人物も凡百の小説同様、非常に類型的だ。
そしてその退屈な読書の末に明かされる真相は、それまでの苦難を解消されるとは決して云いがたく、言葉が過ぎるかもしれないが時間を無駄にしたと思われること必定だろう。
私が本書を手にした経緯は歴史に残る名作という謳い文句に惹かれてのことだったが、読後の今ではこれは全くの嘘だと断言する。本書は歴史に残すだけの価値はほとんどない。
特に私は最後に明かされるある仕掛けにすごくアンフェア感を覚えた記憶があるこの仕掛けは読者に推理する材料が十分与えられているわけではないので、読者が看破する余地がない。それが最大の不服なのだが、実は島田荘司の某作でも同様の仕掛けが盛り込まれていた。しかしこちらの場合は確かに、手がかりはあるものの読者が全てを推理して見抜けるものではなかったが、それを補って余りある物語世界を展開してくれている。つまり逆にこの仕掛けが作者の想像力に思わず感嘆してしまうほどの内容であるから、全く不満を抱くことがないのだ。
しかし本書の場合は事件は地味な上に、明かされる真相も地味。それに輪をかけて読者の推理が介在しない仕掛けを持ち込んでいるがために、傷口にどんどん芥子を塗りこむが如く、悪い方向へ行っている風に取れてしまう。
さらに明かされる犯人も私があまり評価しないカーの某作を思わせ、それが本書の悪印象に拍車を掛けてしまった。
また最後に犯人を糾弾する段階にいたって、アノーが「実は最初から犯人は解っていた」というような言葉を吐くにいたり、この後出しジャンケン的な割り切れの無さも不快感を及ぼした。
もし読んでみようかなと思っている方がいたら、止めておいた方がいい。ミステリ研究家、マニアの方のみお勧めする。


矢の家 (創元推理文庫 113-1)
A・E・W・メイスン矢の家 についてのレビュー
No.118: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

実は金田一耕助のモデルなんです。

ディズニーキャラクターは今なお根強い人気を誇っているが、その中の1人(1匹?)、くまのプーさんはこのミルンが原作者である。
ミステリ黄金期には他ジャンルの作家もミステリを書いていると既に述べたが、なんとミルンのような童話作家でさえ、ミステリを書いているのだから、当時のミステリに対する文壇の注目度、興味の高さが計り知れよう。しかも館物である。今でいうならば、『アンパンマン』の作者やなせたかしが綾辻氏ばりに「~館の殺人」なるミステリを書くようなものか(ちょっと誇張しすぎ)。

旧友べヴリーを訪ねにふらりと彼の宿泊する「赤い館」に立ち寄った放蕩児アンソニー・ギリンガム。田園風景広がる田舎に立つその館ではなんと客の1人が何者かに殺害されるという事件が起きていた。その客は館の主の兄で嫌われ者のロバートだった。さらに当の館主は行方をくらましていた。
アンソニーはべヴリーと共に素人探偵よろしく事件の捜査に挑む。

くまのプーさんの作者によるミステリという先入観を抜きにして、本書はおよそ殺人事件を扱ったミステリとは思えないほど牧歌的にストーリーは進む。周囲に広がるのが田園風景というのもそれを助長しているが、さらに加えて素人探偵アンソニー・ギリンガムと友人ベヴリーのやり取りが面白半分に探偵ごっこをしているような感じで、緊張感の無い会話と共に捜査を進めるのがさらにその雰囲気に拍車を掛けている。
しかし本書で探偵役を務めるこのアンソニー・ギリンガムが横溝正史が生んだ名探偵金田一耕助のモデルであるというのはミステリ識者にはつとに有名である。確かにふらりと現れた放浪者がおよそ知性とはかけ離れた雰囲気を持ちながら事件を解決するというのは確かに金田一と共通するところがある。
またこのように殺人事件という忌まわしい出来事が起きていながらものどかに物語が進むというのは天藤真の作風をも想起させる。直接的・間接的にこのミルンの作風というのは今の一部のミステリ作家に何らかの影響を与えているようだ。

そして本書で明かされる真相及び犯人はけっこう驚愕するだろう。特にミステリを読み慣れた人ならばなおさらこの仕掛けは有効に働くに違いない。ミステリプロパー以外の作家だからこそこのような思いついたアクロバティックなプロットだと云える。
ただ本書は作者としては非常に不本意な形で有名である。それはハードボイルド作家かつアメリカ文学の文豪の1人と称されるレイモンド・チャンドラーが自身のエッセイ「むだのない殺しの美学」で本書を取り上げて散々にこき下ろしているからだ。曰く、リアリティに全く欠けると痛罵とさえ云える苛烈な批判である。
が、しかしながら現代の目を持って本書を読むとそれもむべなるかなと思う。

既に述べたように、ごっこのように探偵趣味に興じる二人の態度もそうながら、一番痛いのは肝心のトリックを成立させることが実に非現実だということだ。ネタバレになるので詳しくは書かないが、今のミステリ作家ならば決して犯さないであろう大きなミスを本書では犯している。それゆえこのトリック自体が成立すること自体不可能ということになっているのだ。
つまり本書はミステリプロパーが精通していない警察の捜査というものを頭の中で描き、しかも当時、そして今でも見られる道化役としての警察を物語に導入して、とりあえずこんな形のミステリを書いてみたといった感じの作品となっているのだ。

ただ上に書いたようにその作風もさることながら、日本を代表する名探偵のモデルが本書にあるだけでも少なくとも日本のミステリシーンに影響を与えているのは間違いなく、また偉大なる文豪に批判ではあるが作品を取り上げられたことでも歴史に残る1作といえよう。
ただ、この訳文の読みにくさはどうにかならないものだろうか?幾度と版を重ねている本書の歴史的意義を讃えているならば、版元はそれなりの改善をすべきだと思うのだが。


赤い館の秘密【新訳版】 (創元推理文庫)
A・A・ミルン赤い館の秘密 についてのレビュー
No.117: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

歴史的意義はあっても現代ならばごく普通の作品

ミステリ黄金期と呼ばれる1920年代から30年代にかけてはミステリプロパー以外の他分野の作家も積極的にミステリ作品を発表している。有名なところではフィルポッツの『赤毛のレドメイン家』、ミルンの『赤い館の秘密』などなど。そしてこのベントリーもその中の1人。
とはいえ、本作はその黎明期における1913年での発表であることから、厳密に云えば彼の作品は黄金期以前のものとなるが、それゆえに現在でもなおこの作品の歴史的意義が高いものとして評されていると推察される。

物語は自分の屋敷の庭で射殺体となって発見された財界の巨人と称される大物の死の真相と犯人を探偵トレントが探る物。
まず誰もが驚くのがそのタイトル。1作目にして「最後の事件」と冠されている事だ。現在のミステリファンならば「~最後の事件」とついた作品ならば誰もが名探偵の死を連想することだろう。これはネタバレにならないので敢えて述べるが、本作では探偵トレントが死ぬわけではない。この題名の由来は単純に作者ベントリーがこの作品を彼にとって最初で最後のミステリにしようと考えていたからに過ぎない。しかし現代も作品が残されていることからも解るように、望外の好評を以って作品は受け入れられ、結局ベントリーはその後も作品を著わし、結局3編創られた。

本書はミステリの歴史上、画期的な作品として評価されている。それはミステリに恋愛の要素を持ち込んだからだ。それまでの探偵は知的好奇心と探究心が突出した奇人・変人の類いのように描写され、ミステリ作家は読者に印象付けるためにその特異性のみを追求していた。それゆえ、「思考機械」と呼ばれるほどの無機質な人間までが登場することになった。しかしベントリーは探偵に恋をさせ、あまつさえ一度推理を見誤らせさえもする。つまり紙上の作り物めいたキャラクターから感情を持った、読者と変わらぬ1人の人間として描いたところにこの作品の歴史的価値がある。

しかし発表から既に100年近く経った21世紀の今、本書を読むと他の古典ミステリとの差異は見出せないかもしれない。私は大学生当時本書を読んだが、その時は幸いなことに上の事実には気づいた。おまけに古典ミステリにおいて初めて本書で感情を表す文章描写で犯人を絞り込むことが出来たくらいだ。
今あるミステリ、例えば後年クイーンがエラリーを悩める探偵にした萌芽がこの作品にあるとすれば確かに本書の歴史的意義は高いだろう。しかし、だからといってぜひとも読むべき作品であるとは声高には云えない。ミステリ好きが高じて、その源泉を辿る興味を持たれた方は読んでしかるべき作品だということに留めておこう。


トレント最後の事件【新版】 (創元推理文庫)
E・C・ベントリートレント最後の事件 についてのレビュー
No.116: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

この題名が秀逸でしょう!

一瞬ゲーム小説かと思われる本書は実に意欲的な作品だ。
どこの書評欄や文庫の背表紙の梗概にも書かれている「レベル7まで行ったら戻れない」という一文がまず印象的だ。人の記憶に残る秀逸なCMコピーのごとく、思わず手にとってしまいたくなる蠱惑的な魅力を備えている。
2人の記憶喪失の男女がわずかな手がかりを基に自分の正体を探る話と、行方不明の家出少女を探す話の2つの軸が交互に語られながら、「レベル7」という謎めいた言葉に隠された意味が明かされていく物語だ。
まず記憶喪失の2人の男女の腕に刻印された「レベル7」という文字がなんともミステリアスだ。SF的でもあり、当然のことながらTVゲームをも想起させる。

本書が発表された90年当時といえば、ドラゴンクエストやファイナルファンタジーといったRPGが全盛であり(とはいえ、現代でもなお人気が高い)、発売日の行列は社会現象にまでなったことは記憶に鮮明に残っていることだろう。ゲーム好きで名高い宮部氏が本書を書くに至り、これからインスピレーションを受けたのは恐らく間違いないだろう。
とはいえ、舞台は現代であり、当然のことながら、モンスターも魔法も出てこない。物語の進め方はRPG的だと感じた。周辺に散りばめられた手がかり、例えばメモやマッチなどを端緒として、捜索の旅に出る。そして旅の目的はもちろん世界を支配する魔王といった類いではなく、一方は失った記憶、すなわち「自分」であり、他方は家出した少女だ。このもつれた糸が徐々にほぐれていくようにわずかな手がかりから物語が判明していく様相はRPGに似ているなぁと思ったものだ。多数の小説、特にハードボイルドなどの私立探偵小説を読んだ今となってはこの手法はありふれたものであるのは解っているが、読んだ当初はこの手のいわゆる「失踪人捜し」系の小説を読んだ経験は浅く、また特徴的な題名からこのような連想が生まれ、今に至っている。

物語は並行して語られる2つの話が漸近していくに従い、ある巨悪の存在も浮かんでくる。この辺の構成は非常に巧みなのだが、やはり「レベル7」という魅力的なキーワードに対する期待値が大きかったせいか、最終的に小さくまとまったなというのが正直な感想だ。非常に無難に手堅く纏められているが、最初の謎の魅力が大きすぎて、色んなことが解っていくごとにそれが徐々にしぼんでいくというような錯覚に陥るのだ。この評価は私のみだけでないようで、ブログやHPでの感想もそういった内容の感想が多く、また当時我孫子武丸氏が「なんてすげぇ物語だと最初は思った」といったようなコメントを残している。
あとやたらと分厚いのもまたそれを助長したようだ。今となってはこのくらいの分量の小説はゴマンとあるので別段珍しくも無いが、当時としてはかなりの分量であり、恐らく作者本人もその段階における集大成的な作品という意欲を持って著したのかもしれない。しかしやはり冗長すぎると認めざるを得ないだろう。なかなか接近しない2つの物語にじれったさを覚える人はけっこういると思う。
また別のパートで語られる共通するある人物の描写が別人かのように語られるのも非常に気になった。ストーリーの構成上、恐らくこのAはこっちのBなのだろうと推測するのだが、どうも一致するような人物のように思えず、この辺の違和感と最後にやっぱり一致した時に感じた叙述に関するアンフェア感がどうしても拭えなかった。

とはいえ、この本を読んで15年以上は経っているのに、未だに最後の一行は覚えているのだから、やはり自分の中では案外鮮明に印象に残った本なのだろうなとは思う。そういったことからも着想の面白さを十分に活かしきれなかったことが非常に悔やまれてならないと思う1冊である。


レベル7(セブン) (新潮文庫)
宮部みゆきレベル7 についてのレビュー
No.115: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

新聞の三行記事の裏側を描いた佳作

第2回日本推理サスペンス大賞受賞作。ちなみに第1回は受賞作は無しで優秀賞で乃波アサ氏が、続く第3回は高村薫氏が受賞している。このメンバーを見ても解るように新潮社主催で行われていたこの新人賞は現在でも第一線で活躍する作家を多く輩出しており、たった七年という短命な賞であったがその功績は非常に意義高い。
第1回では大賞無しという結果だったので、実質的に本作が大賞第1作目となるが、その栄誉に恥じない出来である。

都内各所で起こる女性の3件の自殺事件。一見何の関係もないそれらの死には実はある関係が隠されていることをある女性は知っていた。そして次のターゲットが自分だということも。
その3つの死の1つ、女性の飛び込み事故で加害者となったタクシー運転手の甥、日下守は微力ながら叔父を助けるべく、独自に事故の調査をしていくうちに真相に近づいていく。

なんとも地に足のついた小説だというのが第一の印象。通常新聞で三行記事として処理される瑣末な女性の自殺事件、そして交通事故。毎日洪水のように報道される数多の情報に埋没されてしまう事件はしかし、当事者には暗い翳を落とすのだ。たとえ事件が解決されても、適切に処理されても被害者、加害者の双方には一生消えない心の傷を残す。そんな誰もがいつ陥ってもおかしくない状況を一般市民の、当事者の視座から宮部氏はしっかりと描く。
私が感心したのはこの書き方だった。本格ミステリでも事件が起きる。死人も出るし、魔法で成されたとしか思えない不可解な状況での死体も出る。そこに警察が介入し、登場人物は予定を変更され、警察に拘束された毎日を過ごすはめになる。しかしそれらはどこか絵空事の風景としてか捉えることがなく、現実味に乏しかった。なぜなら本格ミステリそのものが読者と作者との知的ゲーム合戦の色合いを持っているからだ。だから読者は「そのとき」が起こった後に及ぼす当事者の状況には忖度しない。犯人と殺害方法が判明し、警察が逮捕されて事件は解決、そこで物語が閉じられるのがほとんどだからだ。
しかしこの小説は事件は普通によくある交通事故。その事故が及ぼす当事者達の生活への影響などを克明に書く。そのため、作中で起きている状況が読者の仮想体験として感じさせ、現実感が非常に色濃く出ているのだ。

それに加え、主人公を務める日下守という少年の造形が素晴らしい。幼い頃に父親が失踪―昔流行った言葉で云うならば“蒸発”―し、その影響で亡くなった母親の姉に引き取られることになったという境遇にある。しかも父親は会社の金を持ち逃げしたという噂があり、周囲からは「泥棒の子供」だと揶揄されているという、なんともつらい生活を送っている少年なのだ。が、しかし彼はそんな状況にも負けないタフなハートを持っており、おまけに特殊な特技を持っている。ネタバレにならないのでここで書いてしまうが、それは開錠の技術である。「おじいちゃん」から小さい頃に教えてもらった技術だが、これが実に物語に有機的に働く。この技術が日下少年に他人とは違うという自信を持たせ、さらにこれらの不幸な境遇が周囲の子供らよりも一段大人びた性格を持つに至ったという人物設定は非常に頷けるところがあり、もうこの日下少年という主人公だけで、私の中では本書は傑作になると確信していた。

が、しかしその後物語は私の思惑とは意外な方向に進む。
このギャップが私の中ではとても気持ち悪く、それが故に本書は佳作という評価に落ち着いてしまった。
確かに作者はこの突飛な技術を読者に納得させるように活用法に工夫を凝らし、詳細に説明を加えて、納得させようとしているが、物が物なだけになかなか現実感を伴って腑に落ちてこなかった。したがってクライマックスに訪れる日下少年の試練もまた深く心に浸透してこなかったのが非常に残念である。

さて発表から20年経ち、科学の発展と共に色んなことが解明され、新事実も発見されているが、果たして今本書を読んで手放しで賞賛できるかといえばそうとは思えない。それはやはりこの小説が備えている前半の現実感と後半の非現実感の乖離ゆえに。
ただしその一点は致命傷ではないようだ。なぜなら数十年経った今なお、本書は版を重ねて出版され、しかも新装版まで出版されているくらいだからだ。つまりは単に好みの問題ということだ。
『パーフェクト・ブルー』、『我らが隣人の犯罪』と比べてもその出来は数段よいことから、本書から宮部みゆきの今が始まったと云っても過言ではないだろう。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
魔術はささやく (宮部みゆきアーリーコレクション)
宮部みゆき魔術はささやく についてのレビュー
No.114: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

ミステリ初心者にうってつけの短編集

宮部氏はデビュー当時、出版各社の開催する新人賞を複数受賞しており、一体どれが実質的なデビューなのか迷うところがある。
いわゆる一作家として作品が単独で刊行されたのは『パーフェクト・ブルー』が最初であるが、それ以前にオール読物新人賞の短編部門を本書に収められている表題作にて受賞しており、実質的なデビューはこの作品と云われている。
しかしその後『魔術はささやく』で当時新潮社が開催していた日本推理サスペンス大賞を受賞して、これが世間的認知度が高かったことから、『魔術~』をデビュー作だと思っている人が多いくらいだ。実力のある人というのはこのようにあらゆる賞を獲得する物だから非常にややこしくなっている。
とまあ、好事家的な詮索はこれくらいにして、本書の話題に移ろう。

本書には5編の短編が収録されている。
受賞作である表題作が最も長く、個人的にはそれほど評価は高くない。世間の評判どおり、私もこの短編集でベストなのは『サボテンの花』。
いやあ、学校物に弱いのもあるが、実に教科書的な本格ミステリ的物語に加え、最後にホロリとさせる人情話がマッチして、今でも強く印象に残っている。ちなみに私は某雑誌の投稿欄に宮部氏の最も好きな作品でこの短編を取り上げ、一行感想を書いて送って採用されたことがある。
その他の作品で印象に残ったのは『気分は自殺志願』くらいか。これはストーリーやプロットそのものよりも味覚障害という残酷な症状に冒された登場人物が鮮烈に記憶に残っている。私自身、おいしい物を食べることに目がなく、なんと恐ろしい病気だろうと恐怖に震えたものだ。
その他「その子誰の子」は当時ちょっと話題になった社会問題を反映した内容。
「祝・殺人」は最後のバラバラ殺人の意図がちょっと面白いとは感じたが、普通のミステリか。この理由に使われているあるシステムは当時精力的に導入され始めていたのだろう。そういう観点から読むと、当時の世相を反映していてなかなか興味深い。

当時私は事ある毎にこの本を勧めていた。しかし推薦する対象は読書好きの人ではなく、普段本を読まなくて、読書でも始めようかと思っている人たちだ。
「暇だから本でも読もうと思うんだけど、何か面白い本ない?」
と聞かれるたびにこの本を勧めていた。中には一緒に書店に行って買ってやった人もいる。それくらいミステリの布教活動に勤しんでいた時期があったのだ。
この本はそういう読書初心者、ミステリ初心者には入門書として内容の軽さといい、読みやすさといい、まさにうってつけの作品だった。今振り返って見ると、なんと刊行は1990年、文庫版は1993年だからもう20年近く前の作品だから、今では勧めるには古さを感じるかもしれない。
あ、ちなみに勧めた人たちは全部女性です、念のため。

我らが隣人の犯罪 (宮部みゆきアーリーコレクション)
宮部みゆき我らが隣人の犯罪 についてのレビュー