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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
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カーのミステリの特徴として密室がよく挙げられるが、それと双璧を成すほどよく扱われていた題材が毒殺トリック。古来ヨーロッパでは毒殺による殺人事件が頻発しており、しかもそれらが連続殺人事件であることが多かったこと、そして伯爵夫人や公爵夫人といった王侯貴族の夫人達による実行が多く、スキャンダラスな側面を持っていたことが大いにミステリ作家達の創作意欲を刺激したようだ。その中でも多数の毒殺トリックを扱った作品を著したカーはとりわけこの毒殺という犯行に魅了され、独自に研究をしていたように思われる。
というのも本作には『三つの棺』で行われた密室講義に続く毒殺講義がフェル博士から成されるからだ。このことからもカーが密室と毒殺を自身のミステリのテーマとして掲げていたに違いない。 物語は巷で毒入りチョコレートを食べた子供達が死ぬという事件が頻発しているという物騒な事件が起きていることがまず語られる。この事件を犯罪研究家であるマーカス・チェズニイ氏が解明し、その方法を友人や家族の前で実演している最中に覆面を被った何者かが入ってきて、なんとそのまま毒殺されてしまう。しかもその模様を見ていた3人の目撃者の証言はどれも食い違っていたという、非常に面白い題材を扱っている。 さらにこの模様を写したフィルムで彼らの証言を検証する行為がなされ、それに加えて生前チェズニイ氏が用意した10の質問に答えるという趣向も盛り込まれている。この映像による検証が本書のメインであり、最も面白いところだ。 カーが本書を著した際、バークリーの代表作『毒入りチョコレート殺人事件』が念頭にあったことはまず間違いない。識者によればカーがバークリーが長を務めるディテクティヴ・クラブに入会したのが1936年で本作の上梓が1938年。当時バークリーは英国ミステリ界において重鎮であり、しかもエース的存在であった。カーがクラブ入会後、彼と会員のミステリ作家たちの交流を通じて多大に影響を受けたのは知られており、本作は特にバークリーの影響を受けて創られたようだ。 やはり珍しいのは映像を使った心理的トリックだろう。毒殺された犯罪研究家が作った映像とそれに関する問いについて視聴者が喧々諤々の議論と問答を繰り広げるのは面白く、ロジックよりもトリックを主体にしたカーにしてみれば異色ともいえる展開である。 で、これが逆にトラブルとして起きた毒殺事件を複雑化しており、なかなか良く考えられた作品である。失礼な言い方になるが、全てが綺麗に納得でき、しかも精緻すぎてカーの作品ではないみたいだ。 とこのように非常にカー作品の中ではロジックを前面に押し出した作品で、読み応えがあるのだが、当時の私の感想を書いた一言メモでは、どうも多忙の中で読んだようで楽しめなかったとだけ残ってある。しかしそれでも内容についてこれだけ記憶に残っており、読み応えがあったように思えるのだから、やはり私の中ではカーの作品でも上位に来る作品であるようだ。もう一度読み直すべき作品として記憶にとどめておこう。 |
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怪奇性を前面に押し出したような題名だが、中身はそんなオカルト趣味に走っていなく、むしろカーの作風の1つ、ドタバタコメディタッチの色合いの方が濃い。調べてみるとどうやらこの題名は必ずしも正確ではなく、ハヤカワ・ミステリ版の『死人を起す』が正解らしい。
友人との賭けで無銭旅行を南アフリカからロンドンまでしてきた青年が、空腹でホテルの前で休んでいたところ、上からホテルの朝食券が降ってくる。天の恵みとばかり朝食にありつき、ホテルの従業員に勘違いされて、券に書かれていた番号の部屋に案内される。しかしそこにあったのは顔をつぶされた女の死体だった。 本作はこのように巻き込まれ型の事件を扱っており、そのシチュエーションはカー独特のウィットに富んでいて面白い。実際、私は『曲がった蝶番』を読んだ後でカーに対してさらに好印象を持っていたものだから、期待が高まっていた。 が、しかし結論から云えば本作は駄作といわざるを得ない。なぜならほとんどの謎がアンフェアに解かれるからだ。メインの謎が実は××だった、おまけに犯人もあまりに意外すぎて、唖然としてしまう。恐らくカーはこの着想を思いついたときは思わずほくそ笑んだことだろうが、独創的すぎて誰も付いていけないというのが実情だろう。逆にこれだからこそカー!と讃えるファンもいるだろうが、あいにく私はそこまで寛容ではない。もしくはルパンシリーズに触発されたのかとも思ったが、それは勘繰りというものだろう。 しかしカーという作家はどうしてこんなに作品の完成度に差があるのだろう。『帽子収集狂~』で面白さを知ったと思ったら、続く『盲目の理髪師』、『アラビアン・ナイトの殺人』は凡作。どうせ次も同じだろうと思って読んださほど有名でない『曲がった蝶番』が意に反して傑作と、非常に高低差がありすぎる。しかもこれらは1933年~38年という5年間に書かれており、『帽子収集狂~』が33年で『曲がった蝶番』が38年である。つまりほぼ時系列に読んでこれほどの違いがあるのだ。例えばエラリー・クイーンは初期は作品を発表するごとに出来が良くなり、『Yの悲劇』や『エジプト十字架の謎』あたりを頂点としてそこから下り坂に差し掛かり、再度『災厄の町』で盛り返すという、作品のクオリティについて大きな波がはっきりしているが、カーは景気不安定な時の株価指数や為替相場のように作品ごとにそれが乱高下している。 やはり異色の作家だ、カーは。この作品は自身のカーマニア度を測るのに、リトマス試験紙的な役割を果たす作品かもしれない。 |
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もし私がカーの作品(もちろんカーター・ディクスン名義も含めて)の中でベスト5を挙げてと頼まれたら、間違いなく本書はその1つに数えられるだろう。一般的に代表作とされる『三つの棺』、『プレーグ・コートの殺人』、『火刑法廷』などと比べると知名度の低い本書であるが、真相の衝撃度で云えば、カー作品の中でも随一ではないだろうか。
まず発端からして面白い。タイタニック号の事件ですり代わりが行われたと称する男が結婚したばかりのファーンリ卿に偽者の疑いがかかる。そして我こそはファーンリ卿だと主張するのだ。そこからどちらが本物で偽者なのかの真贋をテストするがどれも決定的な証拠が挙がらず、関係者一同、途方に暮れているうちに庭先でファーンリ卿(と思われていた人物)が刺殺されるという事件が起こる。 本作のテーマは衆人環視の庭の中で起こる殺人事件、つまり「開かれた密室」だ。カーにはこのテーマを扱った作品は他にも数あるが、この真相というかトリックは誰もが唖然とするに違いない。かの藤原宰太郎もカーのトリックを自身の推理クイズ本でほとんど暴露しているが、この作品に関してはなかった。それは恐らく載せるのをためらうほど突拍子も無かったからに違いない。そのトリックは仰天するに加え、なおかつその模様を映像で想像するとなんとも怖気が出るような代物なのだ。とにかく怖い。 この題名の意味が今では何を指しているのか、そして結局本物のファーンリ卿はどっちだったのかという真相については全く忘却の彼方だが、この殺人事件のトリックだけはもう読んでから20年近くも経つというのに未だに鮮明に覚えている。物語の導入から最後の真相に至るまで、とにかくリーダビリティに溢れた一作だ。地味な作品だと捉えられがちだが、カー作品の必読本と云えよう。 |
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数あるカーの作品の中でもとりわけ分厚いのがこの作品。調べてみると500ページ以上あり、カーの他の作品でこのくらいの厚さの物は、『ビロードの悪魔』以外思いつかない。しかし『ビロード~』が厚さに比して内容も充実しているのに対し、本作は単に厚いだけと云わざるを得ない。しかしこの作品はどうしてもこの厚さになってしまう。それについては後で話そう。
本作の概要は以下のような物である。 古代アラビアの遺物を陳列する博物館でパトロール中の警官が白い付け髭をつけた不審者に襲われる。その警官はその男を倒し、応援を呼びにいこうと歩みだして、振り返るとその男は姿は消していた。事件の匂いを嗅ぎつけた警官は管理人と共に博物館内を捜査すると案の定、展示品の馬車の中に死体を発見する。なんとそれは警官を襲ったその男であったが、付け髭はなぜか白から黒へ変わっていた。しかもその死体は料理の本を携えていた。 そこへ無人の博物館に招待されたという博物館の主の娘の婚約者が現れる。警官たちは娘ミリアムを探そうとするが、この奇妙な事件はさらに様相を複雑化する。 さてなぜ本作がカーでも随一の大作であるかといえば、本作でカーが試みた趣向とは同一事件を複数の人間がそれぞれの視点で解き明かすことを主眼にしているからだ。恐らくこの趣向は先に書かれた『剣の八』を翻案としているように思われる。『剣の八』では探偵たちがいっぱい出ることで逆に事件がかき回されることを狙っていたが、本作では逆に探偵役を3人出すこと―フェル博士も含めると4人―で、それぞれの主観による錯覚を利用し、事件の意外な側面をその都度浮き彫りにしていくことを狙ったようだ。そしてそれを聞き手のフェル博士が全ての情報を統合して唯一の真実を導き出す。確かに面白い趣向であることに間違いなく、実際アントニー・バークリーの『毒入りチョコレート事件』はこの形式のミステリで傑作として今でも評価が高い。ちなみに『毒入り~』が書かれたのが1929年、本作は1936年の作品であり、カーとバークリーは交流もあったので、カーはその作品が念頭にあったに違いない。 しかし、この作品は同じ趣向を用いながらもなんとも退屈。何度も同じ事件が繰り返し語られるようになり、それがまた面白ければよいのだが、事件に派手さがないため、かなり苦痛を強いられる。しかも物語の大半を関係者の聞き込みに費やしており、さらにそれぞれの犯行が起きる時系列が入り組んでいるので、事件の大要を理解するのもかなりの熟読を要する。この辺は作者が一通りどこかで纏めてくれれば非常に助かるのだが。 やりたいことはわかるがどうにも冗長さを感じざるを得なく、カー作品全作読破を目指す人のみお勧めする作品だ。 |
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『帽子収集狂事件』が私のツボにはまり、嬉々としてすぐさま次の本書に取り掛かったのだが、これが全くの期待はずれだった。とにかく終始ドタバタで途中から何が事件で何を解決しなければならないのかが全く見えなくなってしまい、単純に義務だけの読書になってしまった、つまり最後のページに辿りつくことだけを目的にした流し読みになったことを告白しよう。
一応備忘録的にあらすじを書くと、客船に乗り込んだアメリカ青年の荷物に政治家の醜聞に纏わるフィルムが紛れ込んでおり、それを処分するよう頼まれるが、船内でそれが盗まれ、探しているうちに瀕死の女性が現れ、さらに別の盗難事件も発生し、加えて船内には稀代の悪党「盲目の理髪師」が乗り込んでいて、それら複数の事件が錯綜して船内はやがてパニックに・・・といった感じだ。 カーの作品の特徴の一つに笑劇(ファルス)というのがある。しかし彼のサービス精神は旺盛で、数ある笑劇の中でもとりわけスラップスティックコメディの色が濃くなるわけだが、本書はそれがほとんど全編を覆い尽くしており、非常に物語が散漫な印象を受ける。 この笑劇の要素を好む人、またカーの独特の作風が好きな人はこの味は妙味となって堪らないのだろうが、まだこの頃はカーの作品を読み始めて間もない頃で、単に悪ふざけとしか思えなかった。前作『帽子収集狂事件』でカーの本質が解ったと思っていたが、彼の作風の一面であるこの笑劇趣味が過分に出たこの作品では前作で感じた半ば呆然、半ば感心の域を遙かに越え、呆れてしまった。 初期の作品だが、本書を読むにはある程度カーの作品を通読した方がこの作品の味わいとカーのコメディ作家としての特質がよく解るのかもしれない。実際、本書は本国アメリカでも不評だったというから早すぎた作品だったと云えよう。また日本で“カーキチ”と呼ばれるカー信奉者にはカーの作品で面白かった物として本書を挙げる人もいるくらいだ。 ではカーの作品をほとんど読破した私はと云えば、やはり初読時の悪印象から再度本書を手に取るには二の足を踏んでしまう。尊敬する作家の誰かがどこかで本書を激賞しているのを目にすれば、多少は手に取ろうと気になるかもしれないが、当面その気は起こりそうにない。 |
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フェル博士シリーズ第2作目で私にとって初めてのカー長編。私はこの作品でカーが好きになった。というよりも「カーってこういう作家なんだ」と理解した作品である。
盗まれたポーの未発表原稿の捜索とロンドンで頻発する帽子盗難事件が同時進行的に語られ、やがて帽子盗難事件の犯人と目されている「きちがい帽子屋」を追っていた新聞記者がシルクハットを被った他殺死体として発見されるという、3つの事件が錯綜する非常に贅沢な内容になっている。 実は私はこの殺人事件に関してはほとんど覚えていなく、それ以外のポーの未発表原稿の行方と帽子盗難事件の方が非常に鮮明に記憶に残っている。それほど私にはインパクトがあったのだ。この全く関係ない2つの事件がある接点で結びつく。それはある人は非常にバカバカしいと思うだろうが、私はよくもまあ、こんなことを思いついたもんだと非常に感心した。この着想の妙がツボにはまり、一気にカーが好きになってしまった。 そして乱歩もこの作品を推しており、黄金期ミステリ十傑の中に入っている。しかしカーの他の作品を見渡してみると、この作品以上に出来のよい作品はまだあり、ミステリ読者ならびに書評家の中には「よりによってなぜこれを?」という疑問の声は多い。しかし私はなんとなく乱歩が本作を選んだ意味は解るように思う。ポーの未発表原稿盗難事件と帽子盗難事件という全く接点の無いと思われた事件が、シルクハットを被った他殺体という接点で結ばれる、この着想を買ったのだと思う。私同様、これをバカバカしく思わず、何たる発想と快哉を挙げたに違いない。 ちなみに本書の原題は“The Mad Hatter Mystery”という。現在ならば“Mad Hatter”と云えば、エラリー・クイーンの『Yの悲劇』の方が広く知れ渡っている。後年になって私はクイーンのその作品を読んだが、なんの共通点も見出せなかった。『Yの悲劇』が1932年の作品で本書が1933年の作品であるから“Mad Hatter”という呼称を通じて、イギリスで何かあったのかもしれない。時間があれば今度調べてみたいと思う。 |
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東京創元社によるカーの第4短編集。本書から通常の短編に加え、ラジオドラマの脚本も併載され、ますますマニアのコレクション・アイテム度が増している。
短編は今までの3作で盛り込まれることの無かった、アンリ・バンコラン物がほとんどを占め、それに他の短編集にも収録されていたノンシリーズの歴史ミステリが1編収録されている。私は本書で初めて脚本調の作品を読んだが、これが意外に読みやすく、すんなりと頭に入ったため、案外この短編集は好きな方である。恐らくこれは装飾過多な演出と持って回った文体がシナリオという形であるため、簡略され、一切の無駄がそぎ落とされたせいだからだろう。当時の私はまだカーの訳文に難儀しており、逆にこの簡潔な文章が読書の手助けになった覚えがある。 したがって本書でも記憶に残っているのはバンコラン物を筆頭に収録された短編ではなく、ラジオドラマの方である。ラジオドラマのシナリオでありながら、古くよりカーの良作と云われ、現在でもモチーフにした作品が日本ミステリ作家の間で書かれている「B13号船室」と表題作の2編がそれだ。前者は小さい頃に読んだ本当にあった怖い話とシチュエーションが酷似しており、それが故に鮮明に記憶に残っている。後者は単純に面白かった。こういう先入観を利用したトリックは他にもあったが、これについてはすんなりと嵌ってしまった感があった。これもシナリオ調の文章が一助になったのだろう。 実は最初ラジオドラマの脚本まで収録して短編集を編むことに出版社の卑しき商売根性とマニアの香りを感じたので、嫌悪感を示していたが、結果は上に述べたように存外面白かった。逆に云えば作者のルーツを辿る意味でもこのような作品集も読むべきだと考えを改める契機になった短編集だったと云えよう。 |
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東京創元社によるカーの第3短編集。これも独自に編まれた短編集で、ノンシリーズが2編の他にフェル博士物、マーチ大佐物、HM卿物とカーの作品のほとんどの探偵が出ており、かなり贅沢な印象を持つが、各編の中身はさほどでもない。
この中で印象的だったのは実はノンシリーズの2編だったりする。表題作と「黒いキャビネット」がそれに当たるが、というのも双方とも事件とは別の真相が含まれており、それが私の琴線に触れたところが大きい。具体的に述べると未読者の興を殺ぐから避けるが、現実と虚構のリンクという趣向が当時の私は好きだったのだろう。 その他、岬の突端で死んでいた死体のところには被害者の足跡しかなかった「見えぬ手の殺人」、監視の中で起きた銃殺事件で、犯人はある男を示していたという「ことわざ殺人事件」、針のような物で脳を刺され女性が死んだが凶器が見つからない「とりちがえた問題」、トンネルの中で失踪した女性の謎を描く「外交的な、あまりにも外交的な」、突然奇行を振舞った男の失踪の謎を解き明かす「ウィリアム・ウィルソンの職業」、『赤後家の殺人』の原版とも云える呪われた部屋で起きる事件、「空部屋」。闇から聞こえるささやき声とガス中毒殺人未遂に逢いそうになった女性を助けるHM卿の事件、「奇蹟を解く男」と怪奇色や不思議な事象をモチーフにした短編が多いが、あまりそれらは記憶に残っていない。 というのもまだカーを読み始めて間もないこの頃はそのエキセントリックな作風にまだ馴染めていなく、しかもフェル博士、HM卿といったカーのシリーズ探偵もこの短編集で初めて出逢ったため、性格とその面白さが全くといっていいほど掴めてなかった。また加えて読みにくい訳文(改訳を強く要請する!)も手伝って、あまり楽しめた記憶がない。しかしそれでもこの後、A型気質ゆえの執着心で読み続け、現代に至ってもカーの未読本が復刊、刊行されると手を出しているのだから、三つ子の魂百まで(?)というのはよく云ったものだ。 |
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東京創元社によるカーの第2短編集。日本独自に編まれた短編集だが、本書は各編メリハリがあって好きな方である。
なんと云っても本書は表題作に尽きる。カーの中でも傑作の部類に入る短編だ。20年前神隠しにあったかのように一週間少女が失踪した事件の元となった妖魔の森の家と云われるバンガローに再びその少女がその家に入るといつの間にか姿を消していた。しかも家には鍵がかかっており、周囲はHM卿も含め、ずっと見張られていたのだ。しかも誰も出て行ったものもいないという、扱われるモチーフはカーが得意とする密室物。しかも妖魔の家なる怪奇色も施してぬかりがない。そしてそれを実にすっきりと解き明かす論理はカーにしては(?)非常に整然としており、カーの作品の最たる特徴が出た作品だ。だからこれに比べるともう1つの密室物である「ある密室」がやや強引さが目立ち、やや劣る。 その他収録されている作品のうち、「軽率だった夜盗」は数年後読むことになる『仮面荘の怪事件』の原版となる短編だし、「第三の銃弾」は逆に長編であった原版を省略したカット版で、数年後早川書房から完全版が出版された。 残りの1編「赤いカツラの手がかり」は着想が面白く、あまりのバカバカしさに苦笑を禁じえないが、後の『帽子収集狂事件』に繋がるユーモアがあり、結構好きな方である。 以上、不完全版が2編収録されているが、読んだ当時はそんなことは知らないので気にならず、むしろヴァラエティに富んだ短編集だという印象が残った。しかし本を手にとって浮かぶのはやはり表題作が醸し出す雰囲気。本書はこの1編を読むだけでも価値がある作品集と云えるだろう。 |
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ミステリ黄金期の三大巨匠といえば、クイーン、クリスティ、そしてカーであることは周知の事実である。そのうちカーについては私はミステリを読み始めた早い時期から触れていた。未だに絶版作品が多いので、全ての作品を読破したとはいえないが、ほぼ80%は読破したように思う。
で、本書はそのカーの短編集で収録作10編中6編で探偵役を務めるのがマーチ大佐。本書のタイトルはこのマーチ大佐が所属するスコットランドヤードの部署の名前。もちろん現存しない部署であるのは云うまでも無い。ちなみに基本的にこのマーチ大佐は本書のみで探偵役を務め、他の作品でも出てくるものの、単なる一登場人物に留まっている。 収録作の中で印象に残っているのは「空中の足跡」、「銀色のカーテン」、「もう一人の絞殺吏」、「目に見えぬ凶器」の4編。しかしこの4編が特に優れているというわけではなく、出来不出来を別にして今に至っても記憶に残っている作品。 まず「空中の足跡」は今読むと滑稽だろう。というよりもこれは雪の足跡トリックで誰もが一番に思いつく犯行方法だと思う。特に某作家が編んだ推理クイズ集に必ずこのトリックが収録されていたことでも有名だ。 「銀色のカーテン」は雨の中で行われた殺人事件というイメージが鮮烈に残っており、またそこで使われたトリックも納得できる。後日、同様のトリックがチェスタトンのブラウン神父シリーズのある短編で使われているのを思い出したが、シチュエーションと仕掛け方が違っている。 「もう一人の絞殺吏」は歴史ミステリだが特に読後の味わいがなんともいえない余韻を残す。個人的にはこれが本書のベストだ。ちょっとチェスタトンの作風に似ているかもしれない。 「目に見えぬ凶器」は読後当初、「いくらなんでもそれはわかるだろう!」と眉唾物として捉えていたが、その後、このトリックと似たようなシチュエーションに遭遇し(同様の犯罪が起きたというわけではない)、ああ、やっぱり気づかない物なのかと改めて考え直させられたという意味で印象深い。とはいえ、作品的には並みの部類。 語り口にかなり個性を感じたものの、なんだか子供騙しのトリック、小粒な仕掛けを大げさな表現で糊塗して、過剰に演出しているとしか思えなかった。しかし本書こそ私がカーとの最初の出会いで、以後今に至るまで、カーの未読作品に遭遇すると必ず読んでしまうようになるのだから、縁とは不思議なものである。 |
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以前、綾辻作品の中でもっとも賛否両論分かれる作品だろうと『人形感の殺人』の感想に書いたが、それと双璧を成す、いやもしくはそれ以上に賛否両論分かれるだろう作品が本書である。
吹雪舞う冬山に遭難した劇団“暗黒天幕”の一行は山中に聳え立つ洋館に辿りつく。高級な調度品に装飾された館「霧越邸」に命からがら飛び込んだ一行。しかしそれは惨劇の幕開けであったという、“吹雪の山荘物”そのままの設定。 閉ざされた館で起こる連続殺人事件で作者は綾辻行人となると、館シリーズを思い浮かべるが、本書はノンシリーズである。それについては後述するとしよう。 今回一番目立つのはペダンチックに飾られた霧越邸を彩る一流の調度類について語られる薀蓄だろう。家具、照明器具はもちろん、書斎に置かれた万年筆の類いに至るまで、全てが高級品であり、それらについて事細かに語られる。こういう内容は雑学好きには堪らなく、無論、私もその一人であった。そしてそれらの中には犯罪の煽りを受けて、無残にも壊され、また殺人道具として使用される。この勿体無さは『時計館の殺人』で次々に壊されたアンティーククロックに匹敵する。私は作中人物が、これら職人が精魂込めて作り上げた芸術ともいえる物を躊躇無く壊す、もしくは意図的に壊す行為は、なんだか綾辻氏のある哲学、美学に裏打ちされた行為ではないかと思う。例えばミステリに関する既成概念を打ち砕くとか、過去の偉大なミステリ作家が築き上げたトリックやロジックの砦を敢えて壊して、新たな本格を作るといった意気込みというか。この辺はまだ漠としたイメージでしかないので、また綾辻作品に触れた時に作品と照らし合わせて考察していきたい。 で、この作品に対する私の評価はと問われれば作者のやりたい事は理解できるものの、では作品としてカタルシスを感じられるかと云えば、そうではなく、従ってなんとも中途半端な印象を持ってしまった。ずるい云い方になるが賛成半々、否定半々というのが正直なところ。綾辻氏の持ち味である日本なのにどこか異界を舞台にしたような幻想味と一種過剰とまで思えるロジックの妙、これが実にバランスよく施されているのが館シリーズだが、このうち幻想味の方にウェイトを置いたのが本書。最後にいたり、これが豪壮な館を舞台にしながら敢えて館シリーズにしなかったわけが解る。つまりそこからして綾辻氏は館シリーズからへの分化には意識的だったのだ。とはいえ探偵役島田潔は登場しないものの、文体ならびに作中の陰鬱さを感じさせる抑制された雰囲気は館シリーズと変らないし、また文中、中村青司がデザインしたと匂わせる表現もあり、そこに作者としての迷いも感じられる。綾辻作品世界のリンクであるくらいの内容かもしれないが、私はそれだけとは受け取れなかった。 ミステリの既成概念を打ち砕くために敢えて挑戦した企み、この手の作品には過去にカーのある名作があるが、そこまでには至らなかったと感じてしまった。その後の綾辻氏の諸作で彼がどのような本格ミステリ観に基づいて作品を著していったのか、さらに追っていこう。 |
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一応第2作目が出ているがシリーズと呼ぶには憚れるのが警視庁刑事明日香井叶とその双子の兄で探偵の明日香井響が探偵役を務める殺人方程式シリーズ。
新興宗教の教祖が教壇のビルに篭って、祈りの儀式をしていたはずなのに、他のビルの屋上で頭部と左腕を切断された死体として発見された謎を探るという、本格ミステリ。しかしなんだか法月氏の某作に似ているなぁと思った作品だ。 館シリーズと本作ではどう違うかというと、館シリーズは日本なのにどこか異界に迷い込んだような味わいがあるのに対し、本作では実にオーソドックスな筆運びである。本格ミステリと呼ぶよりも本格推理小説の方が本作のイメージに合うだろう。 しかし小粒感はあるものの、実に端正な本格推理小説で、私はすっかり騙されてしまった。特に犯人を限定するある行動に対する叙述が非常にさりげなかったので、その思いはひとしおだった。 そして本書の特徴は、殺人をなすべく、本当に方程式が登場すること。通常「殺人方程式」という呼称は犯罪者が精緻に組立てた犯罪を表すロジックのことを指し示す。つまりそのロジックが数学の証明問題に類似しているから、そういう風に呼ぶのだろうけれど、本作では犯罪を成すための方程式が登場する。ちなみに方程式は数学ではなく、物理の方程式。そうと聞いて、忌避感を抱く方もいるかもしれないが、非常に有名な方程式で、しかも微分積分とかも使われていない、小学生の算数の知識で理解できますのでご安心を。 しかし、この主人公が非常に「創られた」感じがあり、感情移入できなかった。これは私の性格的な問題もあるのかもしれないが、兄弟なのに名前の呼び方がどちらも「きょう」と同じなのがいただけない。紛らわしいではないか!この辺の作者の価値観が全く解らない。なんとなく同人誌に取り上げられることを狙ったようなキャラクターである。 ぜひとも読んで欲しいとは勧めないまでも、読んで損することは無い程度にお勧めの作品である。 |
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囁きシリーズ第2弾。この作品を読んで、綾辻氏が目指すのはサイコサスペンスの様式で本格ミステリ的サプライズを仕掛けようということがよく解った。
前作が女学園での惨劇ならば本作は双子の美少年の周りで次々と起こる不可解な殺人事件をテーマにしている。これで綾辻氏がこのシリーズで敢えて少女ホラー漫画で取り上げそうなネタを使っているのがさらに補強された形になる。 なぜかように少女漫画チックなモチーフを使うのだろうか。それはつまりそれは美しさには影があり、それは狂おしいほど残酷なものだということだろうか。これは綾辻氏の美学そのものであるのかもしれない。 前作では閉鎖された集団の中でいつの間にか形成される社会とは違った歪んだ常識が、そして本作では子供の独特の世界観で気づかれる価値観が物語の底に流れている。そしてそれらは全てある忌まわしい記憶に起因しており、その正体こそがこのシリーズにおけるサプライズだと云える。 あと本書では綾辻氏のある作品についてリンクがなされており、その作品は未読であったが、すぐに気づき、「おっ」と思ったものだ。館シリーズぐらいしか作品世界に相関性を持たせていないように感じたが、意外と探してみるとあるのかもしれない。 こういう物語が好きな人にはこのシリーズは堪らないのだろうが、私は実はかなり苦手。館シリーズに比べて起伏が少ないストーリー展開と、まだるっこしさを感じる抑制された文体。疲れているときに読むと何度も眠気で中断してしまうように感じた。 だから上の評価は全く以って私の好みに起因する。しかしショックが与える心、記憶への影響というものを理解している今ならば、この障壁は取り除かれて、この評価は高くなるかもしれない。なのでこういうのに興味がある人はぜひ一読してもらいたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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館シリーズと双璧を成すのがこの囁きシリーズだが、私の中では館シリーズよりと比してさほど印象に残っていない。片やど真ん中のバリバリの本格ミステリであるのに対し、このシリーズはサイコサスペンス的要素を備えたミステリであることがその最たる要因だろう。綾辻行人という作家は、どんな作品でもサプライズが無ければならないという持論があり、サスペンス調のこのシリーズもその主義は貫かれており、最後にあっと驚く真相が隠されている。
しかしどうも私はこの幻想風味の文体と物語が苦手で、耽美な美しさとか妖しい魅力などよりも一向に進まない物語へのじれったさの方が先に立ってしまい、あまり楽しめなかった。私はこの手の作品の良い読者ではないのだろう。 本書は女学園で起こる連続殺人事件を事件に主題にし、転校生である主人公に起こる幼少時代の記憶のフラッシュバックが挿入される。この失われた記憶とこの連続殺人事件が大きく絡んでいるのは無論だが、当時の私としてはこの設定がどうしても解せなかった。 本書を読んだ当時は大学生の頃であり、そのときの私の記憶力はそれから十数年経った今とは比べ物にならないくらいよく、自分の子供の頃のことはよく覚えていたのだ。その自分と主人公でしかも自分より若い高校生が子供の頃の記憶を失くすだろうかという拭えない疑問が作品の世界に没入することを妨げていた。あれから酸いも甘いも経験した今なら、過大なショックによる記憶喪失というのは十分理解でき、作者のこしらえた設定も受け入れることはたやすいが、当時はそんな青二才で、しかも意固地なところがあり、全く同調できなかった。 しかし、とはいえ、女学園という舞台と人物設定が百合族物と思わせ、それに加えて学園内でひそかに行われる魔女狩りという内容も、耽美な少女ホラー漫画を思わせ(実際作者は敢えてその世界を狙ったと思うが)、当時の私が親しんでいた世界とは真逆の内容で、生理的嫌悪をも抱いたものだ。 しかしそれでもめげず私はその次の『暗闇の囁き』を読むのだが・・・。 |
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館シリーズ第5作目にして日本推理作家協会賞受賞作である本書は当時全10巻と想定されていた館シリーズの折り返し地点でもあり、それまでの集大成的な趣を備えている。従って前4作を凌ぐ厚さで、内容も濃い。
まず時計館のデザインからして過剰だ。私は文庫で読んだが、文庫表紙の絵では単純に聳え立つ時計塔が描かれているのみで、学校のような感じを受けた。単に時計塔があるから時計館かと思っていたら、そうではなく、時計をモチーフにした円形の館を取り巻くように階段と廊下があり、「おおっ、やるではないか!」と胸躍ったものだ。さらに館には古今東西から集められたアンティーククロックが設えられているという装飾も物語に異様さを与え、私の本格ミステリ熱を掻き立ててくれた。 そしてその内容も前作の不満を一気に解消する面白さだった。第1作で登場した江南くんが中村青司が建てた時計館を訪れ、そこで次々と起こる連続殺人に巻き込まれる。そしてなぜか犯人は犯行と同時に館内のアンティーククロックをことごとく壊していく。そしてシリーズで探偵役を務める島田潔は鹿谷門実と名を変え登場するが、なんと彼は時計館ではなく、その外側にて行動しているのだ。 そして最後に明かされる犯人の動機と時計を壊した意味は、正に私にカタルシスを存分に感じさせる内容だった。「ああっ、そうだったのか!」とこれほど気持ちよく騙される快感もそう味わえない。 やはり読者が綾辻作品に求めるのは、この過剰さにあると思う。現実の日本とはちょっと位相が違った世界のように感じられる館にて、常識で考えると滑稽だと思われる一風変わった主たちとそれを取り巻く一癖も二癖もある反社会的な人物たち。彼ら彼女らが抱く過剰さと特異な館という異世界の過剰さが読者を異界へといざない、大伽藍を描いてみせる。そんな世界で最後に繰り広げられるのはあくまで地球上の法則・論法に則った謎解き。異界が決して魔法とか奇跡とかで解かれるのではなく、凡人が納得できる一般知識で解かれるところにこの気持ちよさがあるのではないだろうか。そしてそれは世界が過剰であればあるほど、ロジックの美しさを描く、そんな気がする。 特に本作で印象的だったのは、犠牲者の一人が館を逃げ出そうとして出口を開けたときに遭遇する、ありえない光景を見るシーンだ。このありえない光景は最後で明らかになるのだが、そのとき犠牲者が目の当たりにしたのは正に狂気の世界なのだ。この現実世界で気が狂わんばかりの光景というのはどういうものか、それを実に鮮やかに納得のいく常識的論理で解き明かす。ここに私は綾辻マジックの真髄を見た。 そしてこの館を覆う大きな仕掛け、つまり館内の時計を次々に壊す理由を知った時、綾辻氏は神ではないかとまで思ってしまった。ネタバレになるので詳しくは書けないが、当時学生だった私は色々世の中について考えを凝らしており、その中で至ったある真理というのがあった。しかしその真理を綾辻氏は操ってしまったのだ。あとがきで作者もこのアイデアの核を思いついたのは正に天啓だったと述べている。天啓という言葉を使うほど、このトリックは神の支配をも超えるすさまじいものだし、私もこのアイデアには恐れ入ってしまった。 いささか散文的で熱くなってしまったが、当時私が本書を読んで抱いた感慨を文章にするとどうしてもそうならざるを得なかった。『十角館~』という処女作の呪縛を私はこれで氏は超え、更なる高みへ行ったと思ったが、意外と世間の本書に対する評価は冷ややかであるのが不思議だ。しかし私は怖気づくことなく、本書は傑作であると声を高くしてここに断言する次第である。 |
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館シリーズ第4作だが、もっとも賛否両論分かれるのが本書だろう。結論から云えば、上の☆評価が示すように私は否の立場。今まで、特に個人的に好きな『迷路館~』の後ということもあり、期待が過大になったこともあろうが、読後の裏切られた感じは作者の企みに理解を示すものの、完全には払拭できなかった。特に当時は本格ミステリはかくあるべし!というような狭量な視野しか持っていなかったのでなおさらアンフェアと感じたように思う。もしミステリを数こなした今再読すれば、この評価もあるいは、と思ったりもするが。
もともと日本家屋を舞台にしているというのも館シリーズでは異色の存在である(と思っていたら、よくよく調べてみるとそこにある別館の洋館が本書のタイトルとなっている人形館だった)。そこに住まうのが飛竜想一という作家で、なんとも情緒不安定な人物である。彼の手記によって進む物語は終始陰鬱で(まあ、館シリーズ自体、トーンが暗いのではあるが、本書はさらに輪をかけて暗く重い)、読書も思うように進まなかった記憶がある。彼の身の回りに起きる不可解な出来事と連続殺人が事件であり、精神的に追い詰められた彼が島田潔に助けを求めるというのがあらすじ。 このように改めて本書の内容を思い起こしてみると、なるほど綾辻氏はあの仕掛けを成立するために伏線を張っていたことは解る。作者の仕掛けるどんでん返しとそれに呼応して読者が得られるカタルシスは同等ではなく、双方の価値観が合意に達した時、初めて成立する物だというのが本書では新たに抱いた感慨だ。恐らく作者は新本格の旗手としてさらにその名を確固たる物にすべく、クリスティーのあの有名作が当時の斯界に投げかけた衝撃を与えんと思っていたに違いない。実際新書版のあとがきでは読者の反応を期待半分、不安半分で楽しみしているといった旨の記述があるくらいだから、この推測は的外れではないだろう。 しかし結果的にはネット上に上げられている世間一般の感想と各書評子の評価から見て、作者の期待に反する物に終ったと云える。 まあ、館シリーズに咲いた仇花として残る作品だと云えよう。 |
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このアンソロジーはシリーズ2冊目だが、確か原稿を公募した出版社の予想を超える応募数があったため、パート1と二つに分けて出版されたものと記憶している。従って本書は同時期の応募作によって編まれた物である。
ただ本書では当時既にミステリ作家であった司凍季氏が作品を寄せているだけで、これといった感慨は無い。が、近年になって短編集として刊行された田中啓文氏の「落下する緑」が93年刊行の本書に掲載されているのが特色といえば特色か。第1集はやはり購入者を惹きつけるためにそれなりの作品を集めたようで、また出来不出来の激しい玉石混交感もあったことで逆に特色が出てたが、第2集の本書は全体的に一定の水準の作品(プロ作家の司氏の作品も含めて)が揃えられており、可もなく不可もなくといった感じか。しかし田中氏の「落下する緑」は頭一つ抜きん出た感がある。先にも書いたが、近年になって編まれた田中氏の短編集の表題に同題が使われており、そのとき、既視感を感じ、『このミス』の解説を読んで「ああ、やっぱり!」と思ったものだった。 絵画を題材にした本格ミステリは1作は初期のこのシリーズに収録されており、そのどれもが秀作だったのを覚えている。この「落下する緑」もまた例に漏れず、味わい深い作品である。素人時代の応募作品ながら既に完成された端正さがある。 このとき(学生時分)に読んだのはこの2冊のみ。というのもその時点ではまだこの2冊しか出ていなかったのである。その後、刊行されるたびに買い続け、とうとう全15巻と特別編集版の3冊、さらにその後、二階堂氏によって引き継がれた『新・本格推理』シリーズまで買い続けた。それらの感想についてはのちほど。 石持浅海氏など、現在活躍する作家の登校時代の作品を読むにつけ、やはり後々作家になる人はその他の人たちは違う何かを感じた。プロになって短編集などに収録されない作品などもあるだろうから、資料的な意義から考えると結構貴重なシリーズなのかもしれない。 |
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島田荘司のミステリで一気にミステリ熱が再燃した私は当時、本格ミステリと名の付く物ならば何でも貪欲に読んでいたが、これもその1つ。光文社が本格ミステリを一般公募して鮎川哲也氏を選者として文庫型マガジンとしてシリーズ化した本書は、当時創元推理文庫の日本人作家作品を堪能していた私にとって、東京創元社が「鮎川哲也と13の謎」と銘打った叢書を刊行し、それに親しんでいたことと、同社が鮎川賞を設立していたこともあって、鮎川哲也=面白い本格という刷り込みがなされており、一も二も無く飛びついたものだった。
しかも当時鮎川氏は立風書房から5巻に渡る本格のアンソロジーを敬愛する島田氏と編んでいたのも、さらなる後押しとなった。今思えば当時この両巨匠は社会派推理小説とエンタテインメント小説に席巻されていた当時のミステリシーンに新本格の旗印の下、本格ミステリの復権のため、このような活動を精力的に行っており、私はその活動に同調し、そのまま乗っていったのだろう。 鮎川氏亡き後、二階堂黎人氏を編者にして『新・本格推理』と名を変え、年1回刊行されていたこのシリーズだが、現在活躍されている作家の中にもここに応募されていた方は多く、後述する以外では大倉崇裕氏、霧舎巧氏、黒田研二氏、蘇部健一氏、田中啓文氏、柄刀一氏、三津田信三氏、光原百合氏などなど、なかなか豪華なメンバーが揃う(以上、Wikipedia参照)。 その記念すべき第1集目の本書にはこのアンソロジーをきっかけにデビューした村瀬継弥氏と後の鮎川賞作家北森鴻氏の作品が掲載されており、その他には前述の島田氏と編んだアンソロジーのうち『奇想の復活』という巻に作品が載せられていた津島誠司氏、すでにプロ作家となって2、3作発表していた二階堂黎人氏、そして一昨年作品集が刊行されたアマチュア作家山沢晴雄氏の作品が盛り込まれている。 その後村瀬氏は2作ほど作品を上梓した後、活動停止状態だが、北森氏の活躍はミステリ読者なら周知の通り。両者の熱心な読者ではないのでこのアンソロジーのみでの判断になるが、読後ほっこりと温かくなる、単純な謎解きに徹していない村瀬氏の作風の方が好みだった。 一方、プロ作家二階堂氏はさすがプロだけに筆達者振りを発揮。ディクスンのHM卿を主人公にしたパスティーシュ作品でその名も「赤死荘の殺人」。 また個人的に注目していた件のアンソロジーに作品が掲載されていた津島氏は期待はずれだった。ちょっと私には受け入れがたいトンデモ本格だった。 その他別の意味で印象に残ったのは太田宜伯という作者の手による「愛と殺意の山形新幹線」。このベタな題名の作品、なんと作者は高校生!従って文章は非常に拙く、人物の性格付けにもぎこちない物を感じた(大の大人が喫茶店に入るのが苦手だという性格はこの作者が高校生だからだろう)。題名から想起されるように時刻表を用いたアリバイトリック物であり、これは選者による鮎川氏の好みと高校生による投稿という意気込みに華を添えたに違いない。 総体的な出来はまあまあというところ。今読むともっと評価は低くなるだろう。なんせこの頃の私は未来の本格ミステリ作家の登場に立ち会えるかもしれないと、かなり新本格にのめりこんでいたのでがむしゃらに手を出していたから、そのときはそれなりに楽しんだ記憶がある。 無論、一度手をつけたシリーズは最後まで読む性質の私。次に刊行された2巻も買ったのは云うまでもない。 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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世の中、傑作と呼ばれる作品はけっこう多いが、これは正真正銘の傑作。週刊文春が募集した20世紀ベストミステリで見事1位にも輝いた作品。とにかく冒頭から最後まで終始予想も付かない展開でしかもコミカルで敵味方双方のキャラクターも立っており、読後、この上なく幸せな気分になれるというけなしようが無い作品だ。
最初私がこの作品に触れたのは岡本喜八監督の映画版で、原作の存在は知らず、テレビで放送された映画を観たらあれよあれよという間に引き込まれてしまった。そして数年後ミステリに再び興味を持った私は『遠きに目ありて』で天藤作品に触れ、そこで彼の代表作が『大誘拐』というのを知った。そのときは昔観た映画と同じ題名だなぐらいしか思わなかったが、書店で探したところ、角川文庫で主人公のとし子刀自を思わせる暖かな微笑を湛えた老婆が正座する版画図とその右隅に“レインボーキッズ”と名乗っていた誘拐団の面々のイラストが小さく描かれており、そこで初めてあの映画と原作と作者が一致したのだった。 映画が面白かったので原作はなお面白かろうと迷わず購入し、読んだところ、期待以上の面白さ。そのときは単純に映画をなぞるような読書だったが、今こうして内容を振り返るとかなり奇抜なアイデアでエンタテインメント性に満ち溢れた作品だというのが解る。 まず和歌山の山林を所有する大地主の柳川とし子刀自が“虹の童子”と名乗る誘拐団に攫われた。が、しかしなぜかその後の犯行計画の指示を出すのは誘拐された当のとし子刀自。しかも身代金まで自分で決める始末。その額なんと100億円!しかも身代金受渡しの模様をテレビ中継しろという前代未聞の要求を警察に出す。事件の捜査の指揮を執るのはとし子刀自に大恩ある井狩警部。しかし誘拐事件のセオリーからことごとくかけ離れた“虹の童子”らの要求に警察、マスコミそして全国民は翻弄されていく。 と、このようにあらすじを書いただけでもその面白さは解ると思う。誘拐された当人が犯行を企て、さらに身代金は破格の100億円!この作品が書かれたのは80年だが、当時から貨幣価値が下がった現代でもその金額は驚嘆するものがある。誘拐事件を扱ったミステリで作品の肝となるのはやはり身代金の受渡し方法だろう。単純に100億と読者を驚かすだけならば簡単に書けるが、80年代当時、インターネットも無かった時代にネットバンキングで画面上の数字を右から左へ動かすだけで金を送金できるわけもなく、当然受渡しは現金。その量、なんとジュラルミンケース67個分!この大量のお金をどう強奪するのか、このアナログ感覚が実にいい! とにかく警察の思惑の裏の裏を行くとし子刀自の指示と全く予想が付かないストーリー展開はかなりミステリを読まれた方々でも面白く読めるだろうし、また結末で明かされるある真相は看破できる人はそういないのではないだろうか。 また映画にも触れたい。概ね小説、マンガの映画化作品というのは原作の出来を上回ることは無く、むしろ原作を阻害したと作品を愛する者たちから激昂を買い、けちょんけちょんにけなされるのが常だが、本作においてはそれは全くない。よく「先に読むか?先に観るか?」と云われるが本作はどちらでもよい。前述したように私は最初に映像から入ったクチだが、逆に原作でそれぞれの登場人物が映画のキャストで想起され、イメージ豊かな読書になった。これは映画版のキャスティングが実に優れており、また原作のテイストを損ねることなく、丁寧に作られた証左だと云える。読書中、とし子刀自は北林谷栄氏であり、井狩警部は緒形拳氏で、くーちゃんは樹木希林氏だった。古い作品なのでレンタルショップにあるかどうか解らないが、もし見かけたらこちらも観る事をお勧めする。 読んで痛快、終って爽快のこの作品、私の読書人生で5本の指に入る傑作だと断言する。 |
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くどくなるが、この作家も創元推理文庫で作品が出ていなかったら、全く手に取ることの無かっただろう。そしてその出会いは私にとって実に有意義な物となった。
本作は脳性麻痺で車椅子生活を強いられている信一少年が成城署の真名部警部が持ち込む捜査が難航している事件を明敏な頭脳で解き明かすという典型的な安楽椅子探偵物の連作短編集。しかし特徴的なのは安楽椅子探偵を務める信一少年が身体障害児であり、それに関する社会問題も提起しているところにあるだろう。収録されている短編の初出はなんと76年と30年以上も前のことながら、90年代になってようやく人々の意識が向きだしたバリアフリー不足の問題など、障害者が社会では生きるのには厳しい状況について触れられているのが興味深い。今その視点で読むと、既に使い古された内容と感じるかもしれないが、私が本作を読んだのは90年代の初めの頃だったので、このような内容は実に新鮮で、けっこう心に響いた記憶がある(まだ純粋だったのだね)。この信一親子にはモデルがあり、なおかつ天藤氏が当時から親交の深かった仁木悦子夫婦との付き合いも手伝って、身障者を主人公にしたミステリを書いたことが解説で触れられている。 で、それだけのミステリかといえばそうではなく、収録されている作品のレベルはなかなかに高い。単純なミステリになっていなく、読後考えさせられる内容もある。 どの作品か忘れたが、特に印象に残っているのは肯定できる殺人はあるかというテーマの作品。殺人は許されるものではないという通念を覆されるような思いをしたものだ。 あとどう考えても本当のような話に思えない証人を探す話は、なぜだか未だに記憶に残っている。 そして全作品に通底するのは天藤氏の人間に対する温かい視線だろう。前にも述べたが身障者に対する社会へのさりげない問題提起に、真名部警部と信一親子との交流(母親に対するほのかな愛情も含めて)と社会的弱者に対する優しさに満ちている。この感覚は宮部みゆき氏の諸作の味わいに似ている。数十年後、作者の写真を拝見する機会を得たが、その顔は優しき微笑を湛えており、この人ならばさもありなんと思ったものだ。 無論のこと、この作家の作品を追いかけることになるが、次に手にした彼の作品が私の読書人生において5本の指に入る傑作との出会いになったのだった。 |
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