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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1433

全1433件 1381~1400 70/72ページ

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No.53:
(8pt)

古き良き冒険小説

ようやく「これは!」という作家を見出した私は早速各社の文庫目録でトレヴェニアンの作品をチェックした。非常に寡作な作家であり、その時点で入手可能な作品はハヤカワノベルスの『シブミ』と河出文庫の本作と『ルー・サンクション』の3作のみ。『このミス』1位の『夢果つる街』は絶版で長らく手に入らず、98年の復刊企画にてようやく手に入れることが出来た。この作品の感想については後日述べることにしよう。最近桜庭一樹氏が角川文庫の月間編集長になった際、新装丁で復刊されたので以前より触れやすいのでは。未読の方はぜひ読んでみて下さい。傑作です。

話は戻って、当時文庫目録に記載されていたこの作品も入手困難だった。河出文庫は老舗なのだが、書店における棚の占有率は低いため、あまり置かれていない。したがって、これも当時書店に注文して入荷してもらった。同時に『ルー・サンクション』も注文したが、目録に載ってあるにもかかわらず既に絶版だった。しかし『ルー・サンクション』は約11年後、思わぬ形で遭遇するのである。それについても後日感想に述べてよう。

さて、本書だが、いかにも昔の文庫という表紙で、しかも装丁も当時の河出文庫のデザインの1つ前の物だった。このいかにも昔の文庫という表紙とは、猛々しい筆使いの力の入ったイラストで、しかも主人公と思われる人物がまんまクリント・イーストウッド。後で知ったのだが、本作はイーストウッド主演で映画化されていたのだった。
で、感想はといえば、注文してまで手にした甲斐があった。いやあ、これぞ冒険小説だと云わんばかりの内容。優れた登山家にして美術鑑定家ジョナサン・ヘムロックはさらに殺し屋でもあるという、インディ・ジョーンズみたいな人物造形。彼が所属しているCIIに依頼されたのはアイガー北壁の登山隊に合流して、その中の裏切り者を殺せという物。いやあ、シンプルかつスリル溢れる設定ではないか。
シンプルな設定をいかに読ませるかは作者の筆運びにかかっているのだが、このトレヴェニアンという作家は非常にそれが巧みだ。『シブミ』のニコライ・ヘルとは対極にある、洒脱な主人公とそれを取り巻く特徴的かつ魅力的なキャラクター。そして実際作者自身も登山家ではないかと思わせるほどの準備段階での訓練の緻密さ、そしてもちろんアイガー登攀シーンの迫真性。自然という脅威に加えてそこに裏切り者がいるという二重の困難を織り交ぜることで、さらに物語をエキサイティングにしている。これは確かに映画向きだし、表紙の絵も手伝って、私の中でヘムロックはイーストウッドになっていた。

しかし私の貧弱な記憶力ではここまで。誰が裏切り者だったか覚えてません(爆)。しかしそれでも面白かったという余韻は未だに残っている良作である。通常ならば9点を献上するところだが、私は同作者の『夢果つる街』を読んでしまっているのでそれと同列に並べることが出来ないんですね。それくらい『夢果つる街』はお勧めです(あれ、最後は別の本の感想になっちゃった)。

アイガー・サンクション (河出文庫)
トレヴェニアンアイガー・サンクション についてのレビュー
No.52:
(8pt)

日本人より日本人らしい主人公

私の現代海外ミステリへ出発はあまりいいものとは云えなかった。気を取り直して今度はもう一方の海外ミステリ出版の老舗、早川書房の本に手を着けることにした。今度は失敗しないようにとどれにしようと迷ったが、やはりここは『このミス』に頼るのが一番だろうと、紐解くことにした。ちょうど私が『このミス』を買い出したのが’94年版で、なんとこの年は過去の『このミス』の国内・海外のランキング20位までが載せられていたので、それを参考にすることとした。で、『このミス』第1号の1988年の1位の作品が『夢果つる街』であり、その作家がトレヴェニアンだったのだ。そして彼のハヤカワ文庫の作品がこの『シブミ』である。
この奇妙な題名の作品。実は原題もそのまま“Shibumi”である。そう、これは日本の「シブミ」を体得した殺し屋ニコライ・ヘルが主人公の物語なのだ。この上下巻に分かれた作品は、まずニコライが日本の軍人と碁の名人に育てられ、日本の精神を学ぶところが上巻で描かれる。とにかくこのあたりの日本人の精神までに入り込んだ内容が実に素晴らしく、これは本当に外国人が書いたのかと何度も疑った。特に題名となっている「渋み」の極意についての説明は実に的確だ。ちょっと抜き出してみよう。

「シブミという言葉は、ごくありふれた外見の裏にひそむきわめて洗練されたものを示している。この上なく的確であるが故に目立つ必要がなく、激しく心に迫るが故に美しくある必要がなく、あくまで真実であるが故に現実の物である必要がないことなのだ」

この内容を十全に解釈することはなかなか難しいだろう。しかし何を云わんとしているかは日本人であればそれぞれ理解できるはずだ。私は「侘び・寂び」の精神だと解釈した。
またニコライは日本人の妻を娶り、自宅に庭園を持っている。この庭園とはニコライ自身がこつこつ作っている日本庭園なのだ。この日本庭園に関する作者なりの解釈も素晴らしい。
曰く、1つ1つを捉えてみれば、それは完成しているようには思えないが総体として捉えると見事な調和を醸し出している。
和の心をこれほどまで掘り下げた作家は、数年後クーンツのある作品を読むまで全く出逢ったことなかった。

そして下巻は一転してニコライの趣味ケイヴィング(洞窟探検)から始まる。つまりこれは上巻が静であったのに対し、動の下巻が始まりますよという作者からのメッセージなのだ。そしてこれが崩壊への序曲。書き忘れたが物語の骨子はローマ空港で虐殺されたユダヤ人報復グループの生き残りの女性が殺し屋ニコライに助けを求めるという物だ。この生き残りの女性ハンナの敵というのがCIAをも傘下に治めるマザー・カンパニーという巨大組織なのだ。「個」対「組織」の戦いは自然、安定した暮らしの崩壊をもたらす。
ニコライは家も日本庭園もマザー・カンパニーに破壊され、日本人の妻も失明する。
もちろんこれこそニコライが敵に報復するための行動原理になるわけだが、上巻で彼の生い立ちと彼の所有物がたっぷり詩情にも似た情感を持って語られるだけに大きな喪失感を読者に与える。これこそ作者の狙いなのだろうが、やはりなんとも哀しいものだ。
しかし、『このミス』1位は伊達ではなかったとの思いを強くした。このトレヴェニアンは寡作家でもあったので、ちょうど集めるには良かったのである。が、しかし目的の『夢果つる街』は実はこのとき絶版であったのだが・・・。

シブミ〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)
トレヴェニアンシブミ についてのレビュー
No.51:
(7pt)

もう記憶が曖昧で…。

実はこの話は『湾岸の敵』と混同しているような気がする。というのも『湾岸~』と同じく物語の舞台が艦内であり、しかも調べてみるとなんと『湾岸の敵』の前日譚だというではないか。これは全く記憶にない。ただ本作では『湾岸~』が灼熱の地アラブだったのに対し、今度は極寒の地。こういう極寒の地を舞台にした物語の例に洩れず、そのトーンは重苦しく、陰鬱だ。もともと暗い筆致の作者だけになおさら重く感じた。しかし『湾岸の敵』で上がったクオリティをそのままに本作も重厚かつ精緻な描写で、読ませる内容だった。

その後、本国アメリカでは“The Passage”という作品が刊行されたらしいが、訳出はされていない。どうやらとうとう打ち切られたようだ。あまり売れなかったのだろう。4作目にして最後の訳出本となってしまった。

氷海の嵐〈下〉 (創元ノヴェルズ)
デイヴィッド・ポイヤー氷海の嵐 についてのレビュー
No.50:
(7pt)

水を得た魚のような筆致

初の上下巻でしかも確かそれぞれ400ページぐらいの厚さだったが、とにかく読み終わるのに何日もかかった記憶がある。元々このポイヤーという作家はこの手の軍事小説が得意だったらしく、『冬山の追撃』は彼にとっては異色作であったようだ。なぜなら本作ではさらに事細かに軍用艦の設備やら装備やら操船用語などの専門用語が頻出し、しかも相変わらず文字は見開き2ページが真っ黒になるほど埋め尽くされていた。
この題名は90年に起きた湾岸戦争を大いに意識しており、本作の中の敵もイラクである(刊行は96年)。当時のこういう軍事小説ではもはや湾岸戦争を語らずにはいられなかったといえよう。

軍用艦の乗組員のサブストーリーなども手を抜かずに書かれていたので、次第にページが多くなったと思う。とにかく前2作とは格段の進歩の出来であったことは記憶に残っている。専門分野を扱ったせいか、水を得た魚のようにディテールが細かくなるに連れ、人物造形も増してきた。確か本書だったと思うが、変わった書き方をしていた。それは三人称叙述ながらある人物の視点を中心に物語が進行するのだが、次の章になるとこれがまた他の登場人物の中心視点に変わるという書き方だった。これだけ聞くと、物語の視点が統一されずに読みにくいのではないかと思われるが、そうではなく、例えば、その人物がある部屋に入って誰かと話していたとしよう。そこに新たに入ってきた人物でその章が終る。そして次の章ではその新たに入ってきた人物の視点で物語が進行するといった具合に、案外場面展開がスムーズだったような記憶がある。またこれが他の人から見た当の人物の印象なども判り、なかなか面白い話運びだなと思った。この手法で物語が進行すると、脇役のキャラクターの心情にも踏み込むことになるから自然、それぞれの人物像にも厚みが出てくる。だから本作を読んだ時は、これからこの作家は伸びてくるのではと思わせる期待感をもたらしてくれたが、そうは簡単には行かなかったのだった。

湾岸の敵〈上〉 (創元ノヴェルズ)
デイヴィッド・ポイヤー湾岸の敵 についてのレビュー
No.49:
(7pt)

1作目の反動?

懐疑的ながらもとりあえず読み続けることにしたポイヤー。2作目は極太の海洋小説。サルベージ業を営む主人公のところに、第二次大戦中に撃沈させられたUボートの回収の依頼が来るが、もちろんそれはただの依頼ではなく・・・というのがあらすじだ。
今では、といっても案外前になるが、映画、ドラマ化もされた『海猿』やマンガ『我が名は海師』や『トッキュー!』など、海で働く職業について描かれた作品も多くなったが、当時、その手の類いのマンガは皆無に等しかった。いやこれは視野の狭い私が知らなかっただけかもしれないが。ということで本書の主人公が営むサルベージ業というのも、最初はなんだか解らなかった。逆に本書でサルベージ業なる仕事が海での救助や引揚げ業であることを知った。とにかく見開き2ページを文字で埋め尽くされたこの作品。未知の世界の専門用語がどんどん出てきて理解するのに苦労した覚えがある。

しかしそれでもなかなか楽しめたように思う。1作目がアレだっただけに、これは案外読めた。案の定、引揚げるUボートには第二次大戦というどさくさに紛れたある物が積まれてあり、主人公はその争いに巻き込まれていく。第一、引揚げるものが当時ナチスのUボートだというから非常に安直な設定であるし、こういう系統の作品ではもはや王道というべき展開。
今では記憶も希薄となっているが、この本でスキューバ・ダイビングに関する知識や前述のサルベージ業に関する知識を浅いながらも知ったように思う。そういう意味では得る物はあったのではないかと思う。
こういうのを冒険小説って云うのだろうなと思いつつ、もしかしたらこういうのが好まれる作品なんだろうかと世間の書評が気になったが、さほど話題にはならなかった。しかし、案外面白く読めたので、この後も彼の作品を買い続けることにしたのだった。

ハッテラス・ブルー (創元ノヴェルズ)
No.48:
(1pt)

現代海外ミステリデビューは苦かった。

私がミステリ読書の羅針盤として活用した色んな情報誌の中に、恐らくミステリ読者ならば避けては通らない『このミステリーがすごい!』があったのは今まで述べてきたとおりだが、このムックにはご存知のように国内ミステリと海外ミステリの2つのカテゴリーでランキングが記載されている。海外ミステリのランキングを読んでいるうちに、海外ミステリ、それも現代作家のミステリも読んでみようかなと思うのにはそう長くはかからなかった。なんせ当時は海外ミステリの投票者の方が多かったのである。10人くらいの開きはあったように記憶している。現在ではこれが逆転していた。まあ、あまり大した差ではないのだが。
その頃の私は高校の頃の空隙を埋めるべく、古典ミステリを読むことに腐心し、さらに島田荘司作品を始め、新本各作家と呼ばれていた新進のミステリ作家達の諸作を追いかけていたのは既に述べたと思う。これは久々に読んだブラウン神父シリーズが非常に刺激になったことが大きく、今まで読まなかったことを後悔したことによる。国内作家は感想にも書いたように友達が貸してくれた島田作品との出逢いがきっかけになった。今思うと、この読み方は非常によかったと思う。新本各作家たちは古典ミステリにも精通しており、有名作品を換骨奪胎した作品群が多く、それを知ることで自然に原典である古典ミステリにも興味を覚えることが出来、十数年経った今、系統だったミステリの読み方が出来るようになった。これは思わぬ副産物だった。しかし現代海外ミステリまでには手が伸びてはいなかった。
当時、書評家の中には日本のミステリと海外のミステリとは10年の開きがある、まだまだ国内ミステリは海外作品には到底及ばないなどとのたまう人もいて、へえ、そんなにいいもんかね?と懐疑的だったが、そこまで云うのならば読まないのも、人生の損失だからいっちょ読んでみるかと一念発起した次第。
それでまずどこから手をつけようかと悩んだところ、やはりブラウン神父シリーズでミステリに回帰したからには、老舗の東京創元社から始めるのが妥当だろうということで、近くの本屋に行ったところ、そこの平台に置かれていたのが本書だった。

しかし本書は創元推理文庫ではなく、今は無き創元ノベルスという、当時東京創元社が新たに始めた冒険小説を中心にした文庫シリーズだった。まずこのブランドからは今なお傑作といわれるボブ・ラングレーの『北壁の死闘』が上梓されたこと、その名作とシチュエーションが似ていること、そして本作がこの作者の邦訳第1弾であったこと、といった簡単な理由で手にした。しかしその期待は見事に裏切られる。もうほとんど内容は覚えていないのだが、たしか本作は冬山で息子を亡くした男の復讐譚というべき内容で、狩りかなんかに巻き込まれて死んだ息子の敵を取るため、父親がその連中を殺すべく冬山へ銃を手に乗り込む、そんな内容だったように思う(違ってたらゴメンナサイ)。
復讐譚といえば、法月綸太郎の『頼子のために』で既に経験済みで、しかも面白く読めたので、これは面白いだろうと思い、読んでみたが、大いに期待外れだった。
もうほとんど印象とでしか残っていないが、終始陰鬱で動きに乏しい話だった。銃を持った復讐譚という割には活劇も少なく、いつ面白くなるんだろうと思いながら読んだ印象がある。
確か最後の方にちょろっとそういう活劇めいた物があっただけで、それがそれまでの退屈を埋め合わせるには全然足りなかったように記憶している。

とまあ、最初の現代海外ミステリデビュー(ちなみにシドニー・シェルダンはミステリとして読んでいなかったので、デビューと考えていない)はさんざんな思いがした。しかし、私は諦めの悪い男で、一度手にした作家は最後まで付き合うことにしている。特に先に挙げた3つの理由のうち、青田買いともいうべき最後の理由で、いつかこの作家が日の目を見るに違いないと思い、とりあえずこの作家の作品を買い続けることにした。今思えば、ポイヤー作品は私のミステリ読書歴の中でも仇花ともいうべき存在。一応この後刊行された全ての作品を読んでいるが、記憶も不鮮明だということもあり、今後感想を挙げていくかどうか非常に迷っているのである。

冬山の追撃 (創元ノヴェルズ)
デイヴィッド・ポイヤー冬山の追撃 についてのレビュー
No.47:
(7pt)

続編の文庫化求む!

この作品も創元推理文庫でなければ購入しなかった。しかもこの作品は当時文庫目録には載っていたものの、どこの書店に行ってもその書影を拝めることすら出来ず、やむを得ず、御取り寄せの注文をして、ようやく手に入れた本だった。まだインターネットがそれほど普及していなかった頃の時代である。
私は興味を持った物は全て集めないと気がすまない性質でこれは今でも変わっていない。書店から注文の品が届いた旨の連絡を受けた時は喜び勇んで本屋に向かい、手にした本を見てなぜ入手困難だったか納得したものだ。
昔の創元推理文庫の背表紙には男の顔、猫、銃などのシルエットを模したマークが付けられており、それがジャンルを示していたのだが、本書はその昔の装丁だったのだ。だから案外この本を持っている人は少ないんじゃないかと思っている。
したがって例によってこの笠原卓という作家の前知識を全く持たず、ブランドへの信頼とまたぞろ収集癖の虫が騒いだがための衝動的な出会いだったのだが、これが思いもよらぬ拾い物だった。

その題名が示すとおり、本書の骨子は詐欺師たちのコンゲーム小説なのだが、それだけではない。手形詐欺を巡る詐欺師達の饗宴ならぬ競演に加え、なんとこういうコンゲーム小説には似つかわしい密室殺人と、通常私達が思っている本格推理小説とは一味違った趣があったのを覚えている。学生の時に読んだので、正直に云って手形詐欺の手口の件は十分理解したとは云えないまでも、最後に明かされる主人公の本当の目的なども含め、尻尾までしっかりアンコが詰まった鯛焼きのような小説だったと記憶している。数年後、同じ作家の手による『仮面の祝祭2/3』という作品を読むのだが、そのときの印象は本書を読んだ印象と全く変わらなかった。非常に堅実な筆致で、展開は地味ながらも内容は実にアクロバティックで、ロジックに徹した作品で非常に好感が持てた。

ここでの評価は当時読んだ時の感慨を基にしている。前にも書いたように当時学生だった私は本書を十分理解できたわけではないために、このような評価に落ち着いた。その後、私も『ナニワ金融道』や『クロサギ』といった書物(マンガかよ!)や昨今の振込め詐欺に代表される様々な詐欺の実態を知り、以前読んだ時とは知識の量が違っているので、もっと評価は上がるかもしれない。本書はそういう意味では再読の必要がある作品だ。
ところで東京創元社はかなり昔に単行本で上梓した同氏の続編『詐欺師の紋章』を未だに文庫化していない。作品の出来はわからないが、ぜひとも文庫化してほしいものだ。2年前ならばドラマ化された『クロサギ』の煽りを受けて、ある程度の部数の販売が見込めたものを。いや相変わらず商売下手な出版社である。

詐欺師の饗宴 (創元推理文庫)
笠原卓詐欺師の饗宴 についてのレビュー
No.46:
(7pt)

横溝ファンは必読?

一連の創元推理文庫の日本人作家作品に入っていたのがこれ。まだ日本のミステリシーンに疎かった私は無論の事、この作家についてはなんら知らず、紀田氏同様、創元推理文庫だから大丈夫という先入観で購入した。
本書は「探偵の四季4部作」と名のついた、世に知られる有名探偵小説シリーズの本歌取り作品シリーズの第一弾である。で、題名から解るように本書では横溝正史の金田一シリーズがベースになっている。なんでもあとがきに書かれているように元々この作者は横溝ファンであり、自身のペンネーム「正吾」も横溝「正史」の「し」を数字の4と読み換えて、それに1つ足したのだと述べられている(だから読み方は「しょうご」ではなく「せいご」が正しい)。

そんな作品だから、正典である金田一シリーズを読んでいる方が作者の散りばめた横溝作品に纏わるガジェットなり、稚気なりを楽しめるだろう。私は当時も今も横溝作品には映像作品でしか触れた事はなく、したがってここに収められているパロディの数々はそれと気づかず、この作品における演出だと思っていた(「きちがいじゃが・・・」というのも横溝作品では有名なフレーズらしいが、未だに本歌のどこにどのようにして云われているのか知らない)。

しかしそれでも楽しめた。それは私が本作でのあるトリックを看破できたから、なおの事、楽しめたのを覚えている。冒頭に挿入された図面をじっくり見て、作者のトリックを見破ることが出来たあの瞬間を今なお最近の事のように覚えている。
が、もし今本作を読むと、上のような評価には至らないだろう。トリックはあるとはいえ、ミステリとしての出来については今では恐らく凡作の類いになるだろうと思われる。私がまだミステリ初心者だった頃に読んだからこその7点評価だと断言できる。

その後私は彼の作品が文庫化されるたびに買ってはいたが、あまり出来が良くなかったので辞めてしまった。元々寡作な作家であり、その後買った作品も2冊ぐらいだったし、それらを読む頃にはこなれたミステリ読者になっていたため、本作で気づかなかった粗が目に付いてしまった。現在このシリーズは3部まで出ているようだが、その評判はあまり聞かない。
本書は駆け出しミステリ読者だった頃の仇花として私の記憶に残る作品となった。

探偵の夏あるいは悪魔の子守唄 (創元推理文庫)
岩崎正吾探偵の夏あるいは悪魔の子守唄 についてのレビュー
No.45: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

ビブリア古書堂シリーズの原型

『11枚のとらんぷ』が非常に面白かったので創元推理文庫は私にとって信頼のブランドとなった。したがってまたムラムラと読書の虫と収集欲が頭をもたげてきて、とりあえず当時出ていた創元推理文庫の日本人作家の作品を手当たり次第、手をつけることにした。
その頃の日本人作家の文庫は今と違ってさほど点数も少なく、だいたい一作家一作品ぐらいの冊数だったので比較的容易に揃えることが出来た。まず手にしたのが本作。\1,000近くもする分厚い文庫本に怯んだが、古本屋探偵という魅惑的なタイトルに惹かれて読むことにした。

本書はその名の通り、神田神保町で古本屋を営む主人公が、仕事の傍ら、顧客が求める古本を探す探偵業も行っており、古本に纏わる色んなエピソードがふんだんに盛り込まれた好作品集となっている。とにかく何事も収集家の世界というのは一種の狂気を孕んでいるが本もそれに洩れず、とにかくすごい話ばかりだ。古本で家庭崩壊した者、幻の古書を求めて、終いには気が狂ってしまった者、本の重みで家が倒壊してしまった者などなど、世の読書家には身につまされる話もあり、他人事と思えず、一歩間違えば、これは自分かも?と妙な親近感を抱いたりもする。しかもこれらのエピソードは実際のモデルや実話も少なからずあるというのだからまことに本の道は奥深い。
また博学の紀田氏によって織り込まれる稀少本の逸話も興味深い。本書で挙げられる探索本はミステリの類いは確か1冊もないのだが、それでも本好きならば興味を持たずにいられない魅力を備えており、一体どんな本なんだろう、一度見てみたいと思わずにいられない。そしてそれらの本の来歴なども紀田氏の含蓄ある説明で面白く読め、こういう未知の知識を得ることを至上の悦びとしている私にはご馳走以外何物でもなかった。

本書の主人公が経営する古本屋の名前は「書肆・蔵書一代」という。これは古書収集というのは家族の理解を得られることは絶対になく、その蔵書は一代限りであるというところから来ているが、まさしくこれは私にも当てはまるなぁと思った。私が自分の読書量を度外視して次々に本を買うのを呆れて家内が見ている風景が目に浮かんだ。また新聞を読むときに必ず死亡欄から読むという話も面白かった。そこにもし名の知れた古書収集家の名があれば、家族はその書物の処分に困るだろうからお悔やみを云いがてら、引取りの約束を取り付けるというのだ。いやあ、もうこれは収集家の性ですな。
他にもデパートでの古本市の内輪話や神保町の古書店組合内で開催される競りの模様など、古書に纏わることなら満遍なく盛り込まれた作品群に、お値段以上、本の厚み以上の満足感を得ることができた。これをきっかけに紀田氏の古本ミステリを私は買い続けることになる。

多分創元推理文庫で出ていなかったら、紀田順一郎という作家の作品も決して手にしなかっただろうし、またこのシリーズとも無縁だっただろう。島田氏から新本格作家と、新進の作家の方へ向けられていた私の目は創元推理文庫によって、ベテランの作家たちにもまだまだ面白い作品があることを知り、私のミステリ道はさらに深く深く潜っていくのであった。

古本屋探偵の事件簿 (創元推理文庫 (406‐1))
紀田順一郎古本屋探偵の事件簿 についてのレビュー
No.44: 7人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

画期的且つ先駆的ミステリ

島田氏の作品で当時の本格ミステリに目覚めた私は早速彼の推薦する新進の新本格ミステリ作家の綾辻氏、法月氏、我孫子氏、歌野氏の諸作に手を伸ばしたのは先に述べたとおりだが、その延長線上で各所ガイドブック等で調べていくと、東京創元社も同様のムーヴメントを起こしている事実に行き当たった。当時同社が独自に編纂した『鮎川哲也と十三の謎』という叢書は、全く未知の作家の本格作品を続々と発表しており、しかもそれが世のミステリシーンに好評をもって迎えられているらしい。その筆頭は有栖川有栖氏、北村薫氏であったわけだが、この二者に興味を持たないはずがなく、私の次のターゲットはまもなく東京創元社のミステリ作家達に決まった。確かその頃はまだ乱歩や横溝正史、小酒井不木など、戦前戦後の推理作家の全集として気味の悪い人形の絵が描かれた分厚い文庫が刊行されたばかりで、今では創元推理文庫の棚にずらりと並んだベージュの背表紙の日本人作家の文庫はさほどではなかった。そしてそこに着目した私は有栖川氏と北村氏両氏の文庫版を探したのだが、全くなく失望してしまう。今では改善されてはいるが、東京創元社の単行本作品が文庫落ちするスパンは他社が3~4年であるのに対し、非常に長く、また作品によってまちまちであった。確か私が当時のミステリシーンに着目した当時は既に『~十三の謎』が刊行されてから6年くらいは経っていたと思うが、その時点でもまだ両氏の文庫作品は出ていなかった。で、その数少ない創元推理文庫の日本人作家の諸作で目に付いたのが泡坂氏の『11枚のとらんぷ』だった。当時既に泡坂氏はミステリ作家として名を馳せており、ミステリ初心者の私にとっては雲の上のような存在であり、多分かなり作品もあるだろうから、ということで敬遠していたのだが、日本の本格ミステリに飢えていた私はそこで線を引く事になる。せめて創元社で刊行される泡坂氏の作品だけでも読んでいこうかと。その栄えある第1作が本作であった。

とかなり前置きが長くなったが、本作はまず街の文化会館で行われるマジックショーの風景が描かれる。地元のマジック同好会による公演の模様は自身マジシャンである泡坂氏の独壇場とも云える臨場感があり、一気に物語世界に引き込まれた。そうこうしているうちに殺人が起き、ミステリの定石に倣えばそこから警察の介入、現場検証、容疑者への事情聴取となるわけだが、本書ではなんとそこから『11枚のとらんぷ』と名づけられたショートショート集へと移る。つまり本書は『11枚のとらんぷ』という長編の中に作中人物が自主出版した『11枚のとらんぷ』という題名のショートショート集が織り込まれている作中作ミステリなのだ。そしてその内容も1編1編マジックに纏わる謎とオチがきちんと付けられたれっきとしたショートミステリになっているのも素晴らしい。今思えば、この中の作品は北村薫氏に先駆けること何年も前の日常の謎系ミステリではないだろうか。
そのショートショート集が終ると解決編に移るわけだが、世間の評判ではこの解決編で明かされる真相があまりよろしくない。特に本作の主眼となっている、被害者の女性の死体の周辺に置かれたアイテム類がそれぞれショートショート集『11枚のとらんぷ』で取り上げられたマジックの小道具であること自体が容疑者を限定してしまうことにこだわる声が多いようだ。さらに動機が弱い、という声もあった。
しかし私の中では本書は燦然と煌いている。これはミステリに、小説に何を求めるかという個人個人の趣向によると思う。ミステリならば驚愕のトリック、美しさを感じるまでのロジックの妙が占めるウェートが高いだろう。小説ならば魅力ある登場人物、涙を誘うストーリー、芳醇な物語世界、その類いであろう。しかし私はこれに作家の遊び心を付け加えたい。作品としての出来を損なってでも、誰もが考えなかった工夫や趣向が凝らしている作品に私はこの上ない魅力を感じるのである。その先駆者こそがこの泡坂氏である。その後私が出逢った『しあわせの書』、『喜劇悲奇劇』、『生者と死者』といった作品は彼だけしか成し得ない作品だった。作品の出来云々よりもこういう稚気を私は買う。改めてその死が惜しまれる。
で、本作を読み終わった後、開巻前の打算的な考えは消し飛んでしまう。その日から私の泡坂全作品捜索の旅が始まったのだった。

11枚のとらんぷ【新装版】 (創元推理文庫)
泡坂妻夫11枚のとらんぷ についてのレビュー
No.43:
(7pt)

あのサブキャラも捨てたもんぢゃない

『斜め屋敷の犯罪』で御手洗に翻弄される道化役の刑事を演じた牛越刑事が主役を務めるスピンオフ作品。あの牛越刑事が粘り強い捜査で犯人を突き止める社会派推理小説だ。読んだのは『火刑都市』の方が先だが、刊行されたのは本作のほうが先だったらしい。

道警の、札幌署に勤務する牛越刑事がトランクに入れられたバラバラ死体となった一家の父親の犯人探しに、出稼ぎ先の関東(確か千葉の銚子あたりだったように思う)まで赴き、地道に足で捜査を重ねる。私は先に御手洗シリーズを読んで随分経ってから本書を読んだが、『斜め屋敷の犯罪』での無能ぶりに牛越刑事なんかが主人公で大丈夫かいな?と思っていた。が、不器用で決してスマートといえないその捜査過程は実に我々凡人に近しい存在であり、極端に云えば読者のお父さんが素人張りに奮闘して捜査しているような親近感を抱いた。思わず頑張れ!と口に出して応援してしまう、そんなキャラクターだ。
先に読んだ『火刑都市』は物語が内包する島田氏の都市論、日本人論が犯人を代弁者にして色々考えさせられる重厚感があったが、本作はそれとはまた違った重みがある。特に本作で描かれる房総半島の淋しげな風景は私の千葉に対するイメージを180°覆す物であった。九州の田舎から就職して四国の田舎に住んだ身にとって、千葉のイメージとはディズニーリゾートや成田空港など、大都会東京の延長線上にある発展した県という意識が強かったが、本書にはその姿はなく、昭和の雰囲気を漂わせる重く苦しい風景だ。八代亜紀の演歌が聞こえてきそうな荒涼感さえ漂う。特に銚子は学生の地理の授業で習った醤油の名産地、漁業の発達した街というイメージが強く、栄えているのだと思っていたが、あにはからずそんな明るいムードは全くなかった。

トランクに詰められた死体というとやはり鮎川哲也氏の『黒いトランク』が思い浮かぶだろう。実は私は鮎川作品を読んだことないのだが、多分に島田氏は意識して書いたに違いない。思えばデビュー以来島田氏は何かと過去の偉大なる先達にオマージュを捧げるような同趣向の作品を書いている傾向が強い。本作もどうもその一環だと云ってもいいだろう。
で、ミステリとしてはどうかというと名作の誉れ高い『黒いトランク』のようには巷間の口に上るほどのものでもないというのが率直な感想。しかし牛越刑事の愚直なまでに直進的な捜査は読み応えがあり、その過程を楽しむだけでも読む価値はある。島田氏の登場人物が織り成す彼の作品世界を補完する意味でも読んで損はない作品だ。

死者が飲む水
島田荘司死者が飲む水 についてのレビュー
No.42: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)
【ネタバレかも!?】 (1件の連絡あり)[]   ネタバレを表示する

二度目の方が楽しめるかも。

本作は一風変わった小説である。4章で構成された作品だが、それぞれの章は全く独立した話(のように読める)。それぞれ島田氏特有の幻想的な謎が用意されており、主人公も違う。
まず第1章「丘の上」では東京の高級住宅街に住んでいるある主婦が隣りの老人の奇行に興味を抱く話。その老人は庭に出て大量の笹を集めたり、鏡で丘の上の家を照らしたりと奇妙な行動をしている。やがて主婦はそれは何か老人がただならぬことを企んでいるかと邪推しだすのだが・・・。
続く「化石の街」は新宿駅の地下に出没するピエロの話。そのピエロは街を徘徊しては怪しげな行動を繰り返している。やがてある男がそのピエロの行動に何か意図があるのではないかと思い、後を追ってみるが結局特別なことは起きなかった。しかし彼はその翌日に同じコースを辿る老紳士を発見し、声を掛けて、何をしているのかと訊くと「宝探しだ」という意味不明な答えが返ってきたのだった。
3章「乱歩の幻影」は実家が写真館である女性が昔現像を頼んだまま取りに来なかった客のフィルムを現像したところ、なんと江戸川乱歩その人の写真だったという、ミステリファンなら俄然興味が出るような展開を見せる。彼女はそのフィルムを持ち込んだ和装の女性に興味を抱く。
そして最終章「網走発遙かなり」は網走で起きた事件譚である。主人公の男性の父親はかつて有名な作家であったが、戦中北海道に疎開した時に、飲み屋の女性と懇意になり、道内を電車で旅行した際にその女性の恋敵に車内で射殺されてしまったのだ。しかし男性は当時の文芸誌に報じられた事件のあらましに腑に落ちないものを感じ、独自に捜査を始めるが・・・。

が、しかし本作に対する当時の私の評価は上で語るほど高くない。読書中、何度も「これ、長編だよな~?」と裏の紹介文を何度も読み返しながら半信半疑で読んでいた記憶がある。そんななんとなく腑に落ちない感じでの読書だったので、最後に全てが繋がるときに驚くというよりもなんだか狐につままれた感じがした。しかし前述したように短編のような各章は独立した作品としてもクオリティが高いのは断言できる。逆にそれがためにそれぞれの作品のベクトルが一定方向になく、個性の強さをお互いに発揮してしまった故に最後の纏まりとして統一感が欠けたように感じたのかもしれない。とはいえ、この感想は今になって云える事で、当時はやはり私自身が読者として未熟だったのだろうと素直に認めよう。


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網走発遙かなり 改訂完全版 (講談社文庫)
島田荘司網走発遥かなり についてのレビュー
No.41: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

島田流社会派ミステリ

東京各所で発生する連続放火事件を扱った本書は、それまでの作品でも顔を覗かせていた島田氏の都市論、日本人論が前面に押し出された島田版社会派推理小説だ。本作で主人公を務めるのが中村刑事。御手洗シリーズの短編「疾走する死者」で登場し、さらにもう1つのシリーズ、吉敷シリーズにも登場している刑事だ。御手洗シリーズに出ていた刑事が主人公を務めるのはこの他に『斜め屋敷の犯罪』に登場した牛越刑事の『死者が飲む水』があるが、両シリーズに跨って出ているのはこの人物だけだったのではないだろうか(後にある作品では御手洗シリーズのある人物と吉敷シリーズのある人物が邂逅するが、それはまた別として)?
とはいえ、この中村刑事は主役を務めるほど特徴的な人物かといえばそうではなく、むしろ人物としては地味。確か画家のようなベレー帽を被っているという叙述があったぐらいだと記憶している。したがってもちろん閃き型の天才型探偵ではなく、地道に靴底をすり減らして現場百遍を実践する努力型探偵だ。私は読んだことないが、クロフツのフレンチ警部シリーズのような人物像といえるのではないか。

さて物語はある警備員の焼死体発見から、彼が勤務中に睡眠薬を飲んでいたため、気づかずにそのまま焼け死んだという職務怠慢のレッテルを貼られた不名誉な死に対して、中村刑事が疑問を持ち、捜査するうちにある女性に行き当たり、その女性が鍵を握っていると判断し、その女性を追うという展開を見せる。そして東京各所で頻発する連続放火事件の捜査も同時並行的に行われる。
やがて浮かび上がってくる犯人の動機はどちらかといえば観念的である。ただこの常人に理解しがたい、一種狂気を感じさせる動機もこういう作風に妙にマッチしてあり、個人的には納得できた。
そしてこのような渋い社会問題を内包した作品であっても、島田氏はトリックを挿入することを忘れない。私はこういう社会派的な主題を掲げた作風にはこういった本格ど真ん中のトリックはミスマッチなのであまり好きではなく、この頃は特にその傾向が強かった。その後同氏の吉敷シリーズを読み続けていくうちに、その抵抗も少なくなり、むしろこれこそが島田社会派の味わいだと思うようになった。後に読んだ島田氏のエッセイの中に、大仰なトリックは今では忌避されがちだが、昔の社会派と呼ばれる松本清張氏や森村誠一氏の代表作にも大胆なトリックが使われていたのだ、だから何もおかしいことはないのだという文章を読んでから、島田氏が意図的にトリックを採用していることを知った。

さて本作で開陳される弱者へのまなざし、そして江戸と現在の東京を比較した都市論はその後島田氏の作品で頻繁に語られることになる。今まで島田氏が東京という大都会に対して持っていた不満をぶつけた最初の作品だと云っていいだろう。御手洗シリーズでは見ることのない、渋みの効いた語り口を体験するにはうってつけの好編だとお勧めする。


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改訂完全版 火刑都市 (講談社文庫)
島田荘司火刑都市 についてのレビュー
No.40:
(4pt)

ちょっと無理している感が…。

島田氏の御手洗シリーズについては感想を書いたが、その他の作品についてはすっかり忘れていたので、これから触れていくことにする。

さてガチガチの本格ミステリの御手洗物と違い、本作は女性が巻き込まれるサスペンスミステリを扱っている。
しかもなんと導入は主人公の女性がテレフォン・セックスに耽っているという、三文ポルノ小説的な設定なのだから、ビックリした。新境地を開こうと躍起になって島田氏は背伸びをしすぎているのではないかと思ったくらいだ。もはや本作の内容はうろ覚えでしかないのだが、このテレフォン・セックスが趣味という設定の割には官能的ではなかったように記憶している。後の『涙流れるままに』の方が、もっと内容的には官能小説に近かった。この辺は作者がまだミステリ作家になりたてだったこと、そしてミステリに対してストイックであったことに因るのかもしれない。

物語はこの趣味にのめりこんだ女性が夜毎、不特定の人に電話することで、ある日突然人が殺される瞬間の家にかけてしまった事から事件に巻き込まれてしまうといった物だ。人には云えない秘密の趣味がやがて自らを窮地に追い込むという点ではコーネル・ウールリッチの有名な短編「裏窓」を髣髴させる。あれが視覚的だったのに対し、島田氏は聴覚的なサスペンスを狙っているところが工夫した点といえるだろう。そしてさらに島田氏はこの偶然に対してある仕掛けを盛り込んでいる。ミステリにおける登場人物の役割という概念に新しい視点をもたらしているとも云える仕掛けだ。

しかし電話というのは古今東西ミステリによく扱われる題材だ。だから携帯電話が出た時にはあまりの便利さ、汎用性にミステリ作家達はどう処理していいものか、非常に困ったという。固定電話が被害者ならびに容疑者に犯行当時、現場不在の証明として有効に機能していたこと、文字通り顔の見えない相手とのやり取りであるという不確実性、これがミステリの効果を盛り上げていたからだ。しかし携帯電話があると、特にどこでも電話が掛けられるということで、アリバイを簡単に偽装できるし、また拉致された者が簡単に救いを求めることも出来るという利便性がサスペンス性を減じてしまっている。文明の進化とミステリとは常に犬猿の仲なのだ。さすがに最近はミステリ作家も心得ていて携帯電話があっても成立つサスペンス、逆に携帯電話だからこそ出来るサプライズなどを盛り込んだ秀作も出てきている。

脱線してしまったので話を戻すが、上に書いたように平凡なサスペンスに終始しがちな本作のような作品でも彼なりに工夫しているのが、ミステリに対する思いの強さと作家としての志の高さを感じさせるが、やはり御手洗物の後に読むと凡作と感じてしまう。本自体も薄くてすぐに読めてしまう手軽さもその一助になっているようだ。島田氏の作品をコンプリートしたいという人のみ勧める作品だ。
しかしもうそろそろ題名に付けられている「ダイヤル」の意味が解らない人達が出てきていることだろう。そんなことも含めて時代の流れを感じる作品ではある。

殺人ダイヤルを捜せ (講談社文庫)
島田荘司殺人ダイヤルを捜せ についてのレビュー
No.39: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

案外好きな作品ではあるが…。

さて歌野氏がシリーズ物を排して望んだノンシリーズ第1弾がこの『ガラス張りの誘拐』だ。本書の特徴はまず最初に第二の事件があって、第三の事件、そして最後に第一の事件が語られるという構成の妙にある。時系列に敢えて沿わずに進行する物語はそれ自体トリッキーであり、私は当時観た映画タランティーノの『パルプ・フィクション』を思い浮かべたものだ。
また語られる誘拐事件も犯人が警察を呼べとか、マスコミに知らせろなどと通常タブーとしていることを逆に被害者に強いるところがなかなかトリッキー。読者はその裏に隠された企みを推理しながら読み進めるがなかなか先が読めない。私もその一人だった。

一見何の関係もなさそうな事件が最後になって関連性を持って一つの事件になるというのは現在、連作短編集でよく使われている手法だが、あの手の作品にはちょっとこじつけというか強引さが目立つし、仕掛けが細かすぎて単に作者の自己満足に終っているきらいがないでもない。しかし本作では長編なのにそれぞれの章が独立している短編集のようだという全く逆の味わいがあり、私はこっちの方を好む。読了後私はすぐさま島田荘司氏の『網走発遥かなり』を思い浮かべた(あっ、そういえばこの作品の感想を書いていないや)。というよりも一読、これはこの作品へのオマージュに違いないと確信した。
逆に云えば、先にそちらを読んでいただけに本作における歌野氏の企みというか試みが二番煎じに感じてしまったのが非常に残念だ。『網走発~』と比べると、どうしても消化不良感が否めなかった。第ニ、第三の事件がもやもやとした形で括られることもあるし、なんだかやはりアイデアを支える技量が不足していると思った。

今までの感想にあったように私もどちらかといえば歌野氏を完成されていない作家として見ており、その成長を見守っているスタンスであるので、どうしても上から目線で批評してしまう姿勢が拭えなかった(これは今ではどうなのか解らない)。そのためもあり、彼の諸作については先達の作品の影がちらついて作品そのものへの正当なる評価が出来ていないように感じることがある。これは反省すべき点だと私も感じている。
さて私が歌野作品から遠ざかってかなりの年数が経ってしまった。そろそろ彼の作品に触れるべきかも知れない。あの頃と違って私もミステリを数こなし、作品ごとに作者の意図すること、行間に込めたメッセージ、テーマ性、そして当時の社会的背景などを考慮して論じることが、未成熟なりにも出来てきた。次の作品から一読者と一ミステリ作家として対等に取り組んで見ようと思う。

ガラス張りの誘拐 (角川文庫)
歌野晶午ガラス張りの誘拐 についてのレビュー
No.38: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

不遇の時代の力作

探偵信濃譲二を擁した「家」シリーズを書いていた歌野氏がいきなり書いたノンシリーズがこれ。とはいえ、本作の前に『ガラス張りの誘拐』という作品も出しているのだが、読んだ順番に沿って書くことにした。

さて本作では今までとガラリと作風を変えている。なんと主人公は江戸川乱歩と萩原朔太郎と実在の人物である。そして内容は乱歩が南紀白浜で出くわした首吊り事件の真相に二人が挑むという物だが、それだけではなく、それが実は乱歩の未発表原稿『白骨鬼』という作品であり、それが本物かどうかを探るという入れ子細工の作品になっている。

さて新本格世代でこのような作中作の意匠を凝らした作品といえば既に綾辻氏の『迷路館の殺人』があったが、歌野氏はこの趣向に乱歩の未発表原稿というさらなるハードルを設けている。単に作中の作品がミステリだけではなく、あたかも乱歩が書いた推理小説でなければならないのだ。今まで新本格デビュー作家1期生の中でも、技術の未熟さ、飛びぬけた作品がないことから、軽んじて見られていた傾向のある彼がいきなりこのような冒険に出たことは当時驚きであった。そしてその試みは成功していると断じていい。実際刊行当時、本書は世の書評家からも絶賛を受けた。なんせあの辛口推理作家佐野洋でさえ、本作を認める発言をしているくらいだ。これではすわ歌野氏もブレイクか!と期待が掛かったが、結局その年の『このミス』や週刊文春の年末ベストランキングには引っかからず仕舞いという結果に終る。
同時期にデビューした他の作家3人が『このミス』を筆頭に、年末の各種ランキング本に選出されるのに対し、歌野氏の作品はデビューして15年後、ようやく『葉桜の季節に君を想うということ』でいきなり『このミス』、週刊文春で1位を獲得し、ランクインする。その後も毎年とは云わないまでも数回ランクインしており、やっとミステリ作家として世間に認知されたような感がある。

前にも触れたが、他の3人に比べるといささか毛色の異なるこの作家がそれまで冷遇されていたように私は感じていたが、どうもそれは作者自身も感じていたようだ。そのようなコメントを『葉桜~』の頃のインタビューで触れている。そして本作は当時歌野氏がかなりの自信を持って世に問うた作品であったようで、これがダメならばミステリ作家を辞めるとまで思っていたらしい。実際彼はこの次の『さらわれたい女』という作品を出した後、長い沈黙に入る。
本書は歌野氏の夢破れた作品という位置づけであるが、上に述べたようにミステリ好きには堪らない趣向が詰まった作品である。ぜひ一度読んでもらいたいものだ。

そして読んだ人は私に教えて欲しい。本書の題名の意味するところを。

死体を買う男 (講談社文庫)
歌野晶午死体を買う男 についてのレビュー
No.37: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

トリックよりもストーリーよりも扱われている洋楽が最高!

前作がどうにも普通だったことを作者自身も反省してか、今作では探偵信濃譲二の死というセンセーショナルな題材を扱って、読者を煽っているのがいい。また劇団マスターストロークの公演に殺人事件が絡むあたりも、1作目のサークルバンド内で起こる殺人事件から発展させた趣向であり、工夫が見られるところも買える。
そして何よりも題名にある「動く家」が事件に絡んでいるところが前作と大いに違うところであり、しかもこの動く家の特徴を活かしたすれすれのトリックはこの手の細密なトリックが好きな人には面白く思えるものだろう。

しかしやはり惜しむらくはやはり作者の技術の未熟さがまだ見られ、登場人物が類型的であること。特に劇団という物語に膨らみをもたらす題材を扱いながらも、印象に残るキャラクターが一切いないのは痛い。ただ本作は冒頭で述べたように探偵信濃譲二の死を扱っており、それにより今まで地に足がついたように思えなかった彼に若干ながらキャラクターとしての特色が出たように思える(よく考えると後に作者の師匠島田氏が某作で同じようなトリックを使っている)。

1点の加点は非常に個人的な理由による。前2作を読んだ時点も判ることだが、歌野氏は自作に洋楽を絡めており、これが洋楽好きの私には少しばかりお気に入りだった。恐らくペンネームも作者自身が洋楽好きであったことに由来していると思われる。そして本作ではまず劇団の名前「マスターストローク」に琴線が響いた。これはもうQueenの2作目のアルバムに収録されている“The Fairy Feller’s Master-stroke(邦題「フェアリー・フェラーの神業」)”から取ったことは間違いない!なぜなら『白い家~』にはQueenの“Is This The World Created?”の歌詞が引用されていることからも、歌野氏がQueenファンであることは窺えるからだ。
また作中で扱われる歌が私の大ファンであるThe Policeの“Every Breath You Take(邦題「見つめていたい」)”だったこと、そして作中でこの歌に関する述懐が非常に的を得ており、私の心に響いたことが大きい。これのみで加点した。

とどのつまり、小説とはそういうものなのだと云える。読者も多種多様で作品のどこに惹かれるかは人それぞれだ。今までの歌野作品は無難にミステリし、無難に小説していた。だから印象に残らなかったのだ。こういうケレン味とまではならないが、サムシング・エルスを読者は求めているし、さらに云えば、感想も作品の出来・不出来だけに留まらずに話題が膨らむことも小説が内包すべき魅力だと考える。

あと非常に上から目線の意見で恐縮だが、未熟ながらも何とかしようという努力が見えるのが好ましい。今まで私も彼の作品に関しては酷評しているが、それなりに彼を買っているのだ。正直に云えば、それは彼を推薦した島田氏を信じていたからだと云える。我が尊敬する島田氏が見出したからには何か光る物があるに違いないからだと思ったからだ。一人の作家が成長し、世に認められるようになる、その過程を共に歩んでいるような気がした。いわゆる下積み時代のバンドやお笑い芸人をファンが育てている、それに似た気持ちで彼の諸作を買い続けているようなものだ。その後、数多の新本格ミステリ作家が現れては消えていったが彼は生き残り、幸いにしてそれは数年後、真実となった。
この後、信濃譲二シリーズは短編集が刊行されてからは新作が発表されていない。多分もう歌野氏はこの探偵を使わないだろう。私はその決断をよしとする。なぜならこの3作の後に読んだ作品の方が読ませるからだ。次からは私が読んだ歌野氏のノンシリーズの2作について触れたいと思う。

新装版 動く家の殺人 (講談社文庫)
歌野晶午動く家の殺人 についてのレビュー
No.36: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

別に白くなくても…。

歌野氏第2作はクローズト・サークル物、いわゆる“雪の山荘物”だ。しかし本作はほとんど印象に残っていない。確か本作も連続殺人事件で、しかも密室殺人だったようだが、機械的トリックだったので、ガッカリした記憶がある。糸や針金、ロープを使って云々の機械的トリックは説明文で滔々と説明されても理解しがたいし、解りやすく図解されても、なるほどねで終ってしまうからだ。つまり読者に推理する余地がなく、こういうトリックを考えました!という作者の品評会になってしまっているからだ。
そして本書は実にオーソドックスなミステリであるせいか、全く何も残らないという変な特徴を持つ。ほとんど話題に上らない作品でもあるのは、定型すぎて物語にコクがないからだろう。逆に云えば、前作『長い家の殺人』が凡作ながらも読者にある固定した印象を残しているのは、やはり舞台となった「長い家」の特色を活かしたトリックを採用しているからだろう。しかし本作ではそれが全くなく、単なる山中の館で起こる殺人事件に落ち着いてしまっているからだ。つまり極論すれば本作の題名は「白い家の殺人」でも「雪山の家の殺人」でも「木造の家の殺人」でも何でもいいと云える。

またやはり探偵役の信濃譲二も『長い家~』で述べたような、名探偵登場!といった期待感が実に希薄なキャラクターであることも、マイナス要因だろう。

しかし、前作が作家として力量不足を露呈した作品だとすれば、本作は凡作ながらも一連の本格ミステリの方程式に則った作品であるといえ、そういう意味では少し作家として前進したといえるだろう。その後のブレイクを知っている者にしてみれば、その道程を知っている今となっては、これほど作家として成長を作品で見守れる作家も珍しいといえるだろう。
今は変化球が多い彼の作品だが、昔はこういう教科書どおりのミステリも書いていたことを知るにはいい作品かもしれない。

白い家の殺人 (講談社文庫)
歌野晶午白い家の殺人 についてのレビュー
No.35: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(2pt)
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まさかまさかのトリック

新本格1期デビュー組のうち、この歌野氏は他の三人とはいささかデビューの趣が違う。綾辻氏、法月氏、我孫子氏ら三人が同じ京都大学のミス研出身であり、素人時代からなんらかの形で島田氏と交流を持っていたのに対し、歌野氏は単なる一読者の立場から創作し、島田氏に直接持ち込んだというちょっと変わった経緯がある。この辺については後に述べる。

本作はタイトルどおり、長い家で起こる密室殺人事件を取り扱っている。で、もちろんメインはこの長い家の特性を活かしたトリックにあるのだが、これがもしかしてこれじゃないよなぁと思ったトリックその物だった。誰かは思いつくけど、せいぜい推理クイズぐらいのネタにしかならないと思っていたアイデアで長編を書いたという陳腐な作品だ。一応第2の殺人も起きるが、トリックは同じというのが痛い。連続殺人事件にしてはバリエーションに乏しいが、一度上手く行った手は二度も通じると思うのが犯罪者の心理と捉えると、ある意味リアルなのかもしれない。せめてもの救いはプロローグのミスディレクションがちょっと良かったことか(しかし今こんな隠語を使うのだろうか?)。
物語の裏に隠された内容、犯人の動機だが、最近ニュースで取りざたされている社会問題を扱っているのが興味深い。発表された88年から同じ事件は起きていたのだろうが、それでも単発的な物だっただろうし、現在のように社会人、芸能人、学生を巻き込んでの騒動までにはなっていなかったように思う。だからもし今初めて手に取った読者ならば案外このプロローグのミスディレクションも予想がつくのではないだろうか。ただこの一点を以って、この作品が先駆的であったとか今日性が高いなどというつもりは毛頭なく、これは単なる偶然の産物だったといっても差し支えないだろう。
また他の3人が擁するシリーズ探偵に比べると、本書で探偵役を務める信濃譲二のキャラクターは魅力に欠ける。奇抜な服装を特徴にし、大麻を好むというエキセントリックさを売り物にしているが、どうにも貌の見えないキャラクターだ。大麻を好むのはかの有名なホームズを思い出させるだけだし、なんとなく島田氏の想像した御手洗の影がちらついている。極端に云えば、物語に終止符を付ける安心感というのが感じられないのだ。後の作品でこのキャラクターについて触れることになると思うので、この辺で止めておこう。

さて巷では文庫版の末尾に御大島田荘司による推薦の文章が付せられているのが話題となっているようだ。この文章、本来は解説のための原稿のはずなのだが、作品云々に関してはほとんど(全く?)触れられておらず、歌野氏が島田氏の推薦を受けるまでに至った経緯が細かく記されており、それ自体が1つの物語として面白い物になっているのが特徴的だ。この文章からも冒頭で少し触れた他の作家と歌野氏が一線を画した存在であることがわかる。
なんとなくハンデを背負ってデビューした感のあるこの作家の作品をなぜか私はその頃から中断することなく買い続けて今に至る。2003年に『葉桜の季節に君を想うということ』でいきなり各種ランキング本で1位を獲得した時の感慨はひとしおだった。その辺のことはまた後で触れることにして、このくらいで本書の感想については筆を措くことにしよう。

長い家の殺人 (講談社文庫)
歌野晶午長い家の殺人 についてのレビュー
No.34:
(3pt)

なにか合わないんだよなぁ。

シリーズ第2弾は長編。あのあと調べてみたら、どうやらこのシリーズは「人形探偵シリーズ」と云われているようだ(このサイトでは人形シリーズ)。

腹話術師朝永嘉夫に恋する保母の妹尾睦月、通称おむつの幼稚園の遠足に朝永と鞠夫の2人(?)が同行したところ、そのバスがハイジャックされ、事件に巻き込まれるという物。
園児の乗った車をハイジャック。日本でも昨今同種の事件が起きていたが、その緊張感はあまりあるものがある。私も三児の父親だけにこのような事件に巻き込まれた親御さんの心情は計り知れないものがある。

とまあ、ちょっと深刻に書いたが、実はそんな子を持つ親の心配とは裏腹に事件はハイジャックという緊張下とは思えぬほどのどかに進む。関西のお笑いをこよなく愛す作者ならではのボケとツッコミを交えながら進行するが、私個人的にはハイジャック物のようなリアルタイムサスペンスはこの作者には合わないと感じた。きつい云い方をすれば作者の技量が追いついていない。場と状況に流されるように、結局終ってしまった、そんな食べ足りなさを感じる作品だ。

で、このシリーズ、実は私はあまり好きではない。ストーリー云々というよりも主人公の朝永嘉夫にどうにも感情移入できないのだ。無口な自分の代わりに人形が雄弁にしゃべらせるというこの人物、一歩引いて見てみると実にアブナイ人間ではないか。これがどうも私には生理的に受け入れ難く、どうも入り込めなかった。
しかし私は付いていくと決めた作家は全作品読むので、その後もこのシリーズの作品は積読本として確保してある。もしかしたら読んでいくうちにこの思いも変わっていくかもしれないが、それはまたそのときにでも。

人形は遠足で推理する (講談社文庫)
我孫子武丸人形は遠足で推理する についてのレビュー