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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1418件
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探偵信濃譲二を擁した「家」シリーズを書いていた歌野氏がいきなり書いたノンシリーズがこれ。とはいえ、本作の前に『ガラス張りの誘拐』という作品も出しているのだが、読んだ順番に沿って書くことにした。
さて本作では今までとガラリと作風を変えている。なんと主人公は江戸川乱歩と萩原朔太郎と実在の人物である。そして内容は乱歩が南紀白浜で出くわした首吊り事件の真相に二人が挑むという物だが、それだけではなく、それが実は乱歩の未発表原稿『白骨鬼』という作品であり、それが本物かどうかを探るという入れ子細工の作品になっている。 さて新本格世代でこのような作中作の意匠を凝らした作品といえば既に綾辻氏の『迷路館の殺人』があったが、歌野氏はこの趣向に乱歩の未発表原稿というさらなるハードルを設けている。単に作中の作品がミステリだけではなく、あたかも乱歩が書いた推理小説でなければならないのだ。今まで新本格デビュー作家1期生の中でも、技術の未熟さ、飛びぬけた作品がないことから、軽んじて見られていた傾向のある彼がいきなりこのような冒険に出たことは当時驚きであった。そしてその試みは成功していると断じていい。実際刊行当時、本書は世の書評家からも絶賛を受けた。なんせあの辛口推理作家佐野洋でさえ、本作を認める発言をしているくらいだ。これではすわ歌野氏もブレイクか!と期待が掛かったが、結局その年の『このミス』や週刊文春の年末ベストランキングには引っかからず仕舞いという結果に終る。 同時期にデビューした他の作家3人が『このミス』を筆頭に、年末の各種ランキング本に選出されるのに対し、歌野氏の作品はデビューして15年後、ようやく『葉桜の季節に君を想うということ』でいきなり『このミス』、週刊文春で1位を獲得し、ランクインする。その後も毎年とは云わないまでも数回ランクインしており、やっとミステリ作家として世間に認知されたような感がある。 前にも触れたが、他の3人に比べるといささか毛色の異なるこの作家がそれまで冷遇されていたように私は感じていたが、どうもそれは作者自身も感じていたようだ。そのようなコメントを『葉桜~』の頃のインタビューで触れている。そして本作は当時歌野氏がかなりの自信を持って世に問うた作品であったようで、これがダメならばミステリ作家を辞めるとまで思っていたらしい。実際彼はこの次の『さらわれたい女』という作品を出した後、長い沈黙に入る。 本書は歌野氏の夢破れた作品という位置づけであるが、上に述べたようにミステリ好きには堪らない趣向が詰まった作品である。ぜひ一度読んでもらいたいものだ。 そして読んだ人は私に教えて欲しい。本書の題名の意味するところを。 |
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前作がどうにも普通だったことを作者自身も反省してか、今作では探偵信濃譲二の死というセンセーショナルな題材を扱って、読者を煽っているのがいい。また劇団マスターストロークの公演に殺人事件が絡むあたりも、1作目のサークルバンド内で起こる殺人事件から発展させた趣向であり、工夫が見られるところも買える。
そして何よりも題名にある「動く家」が事件に絡んでいるところが前作と大いに違うところであり、しかもこの動く家の特徴を活かしたすれすれのトリックはこの手の細密なトリックが好きな人には面白く思えるものだろう。 しかしやはり惜しむらくはやはり作者の技術の未熟さがまだ見られ、登場人物が類型的であること。特に劇団という物語に膨らみをもたらす題材を扱いながらも、印象に残るキャラクターが一切いないのは痛い。ただ本作は冒頭で述べたように探偵信濃譲二の死を扱っており、それにより今まで地に足がついたように思えなかった彼に若干ながらキャラクターとしての特色が出たように思える(よく考えると後に作者の師匠島田氏が某作で同じようなトリックを使っている)。 1点の加点は非常に個人的な理由による。前2作を読んだ時点も判ることだが、歌野氏は自作に洋楽を絡めており、これが洋楽好きの私には少しばかりお気に入りだった。恐らくペンネームも作者自身が洋楽好きであったことに由来していると思われる。そして本作ではまず劇団の名前「マスターストローク」に琴線が響いた。これはもうQueenの2作目のアルバムに収録されている“The Fairy Feller’s Master-stroke(邦題「フェアリー・フェラーの神業」)”から取ったことは間違いない!なぜなら『白い家~』にはQueenの“Is This The World Created?”の歌詞が引用されていることからも、歌野氏がQueenファンであることは窺えるからだ。 また作中で扱われる歌が私の大ファンであるThe Policeの“Every Breath You Take(邦題「見つめていたい」)”だったこと、そして作中でこの歌に関する述懐が非常に的を得ており、私の心に響いたことが大きい。これのみで加点した。 とどのつまり、小説とはそういうものなのだと云える。読者も多種多様で作品のどこに惹かれるかは人それぞれだ。今までの歌野作品は無難にミステリし、無難に小説していた。だから印象に残らなかったのだ。こういうケレン味とまではならないが、サムシング・エルスを読者は求めているし、さらに云えば、感想も作品の出来・不出来だけに留まらずに話題が膨らむことも小説が内包すべき魅力だと考える。 あと非常に上から目線の意見で恐縮だが、未熟ながらも何とかしようという努力が見えるのが好ましい。今まで私も彼の作品に関しては酷評しているが、それなりに彼を買っているのだ。正直に云えば、それは彼を推薦した島田氏を信じていたからだと云える。我が尊敬する島田氏が見出したからには何か光る物があるに違いないからだと思ったからだ。一人の作家が成長し、世に認められるようになる、その過程を共に歩んでいるような気がした。いわゆる下積み時代のバンドやお笑い芸人をファンが育てている、それに似た気持ちで彼の諸作を買い続けているようなものだ。その後、数多の新本格ミステリ作家が現れては消えていったが彼は生き残り、幸いにしてそれは数年後、真実となった。 この後、信濃譲二シリーズは短編集が刊行されてからは新作が発表されていない。多分もう歌野氏はこの探偵を使わないだろう。私はその決断をよしとする。なぜならこの3作の後に読んだ作品の方が読ませるからだ。次からは私が読んだ歌野氏のノンシリーズの2作について触れたいと思う。 |
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歌野氏第2作はクローズト・サークル物、いわゆる“雪の山荘物”だ。しかし本作はほとんど印象に残っていない。確か本作も連続殺人事件で、しかも密室殺人だったようだが、機械的トリックだったので、ガッカリした記憶がある。糸や針金、ロープを使って云々の機械的トリックは説明文で滔々と説明されても理解しがたいし、解りやすく図解されても、なるほどねで終ってしまうからだ。つまり読者に推理する余地がなく、こういうトリックを考えました!という作者の品評会になってしまっているからだ。
そして本書は実にオーソドックスなミステリであるせいか、全く何も残らないという変な特徴を持つ。ほとんど話題に上らない作品でもあるのは、定型すぎて物語にコクがないからだろう。逆に云えば、前作『長い家の殺人』が凡作ながらも読者にある固定した印象を残しているのは、やはり舞台となった「長い家」の特色を活かしたトリックを採用しているからだろう。しかし本作ではそれが全くなく、単なる山中の館で起こる殺人事件に落ち着いてしまっているからだ。つまり極論すれば本作の題名は「白い家の殺人」でも「雪山の家の殺人」でも「木造の家の殺人」でも何でもいいと云える。 またやはり探偵役の信濃譲二も『長い家~』で述べたような、名探偵登場!といった期待感が実に希薄なキャラクターであることも、マイナス要因だろう。 しかし、前作が作家として力量不足を露呈した作品だとすれば、本作は凡作ながらも一連の本格ミステリの方程式に則った作品であるといえ、そういう意味では少し作家として前進したといえるだろう。その後のブレイクを知っている者にしてみれば、その道程を知っている今となっては、これほど作家として成長を作品で見守れる作家も珍しいといえるだろう。 今は変化球が多い彼の作品だが、昔はこういう教科書どおりのミステリも書いていたことを知るにはいい作品かもしれない。 |
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【ネタバレかも!?】
(2件の連絡あり)[?]
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新本格1期デビュー組のうち、この歌野氏は他の三人とはいささかデビューの趣が違う。綾辻氏、法月氏、我孫子氏ら三人が同じ京都大学のミス研出身であり、素人時代からなんらかの形で島田氏と交流を持っていたのに対し、歌野氏は単なる一読者の立場から創作し、島田氏に直接持ち込んだというちょっと変わった経緯がある。この辺については後に述べる。
本作はタイトルどおり、長い家で起こる密室殺人事件を取り扱っている。で、もちろんメインはこの長い家の特性を活かしたトリックにあるのだが、これがもしかしてこれじゃないよなぁと思ったトリックその物だった。誰かは思いつくけど、せいぜい推理クイズぐらいのネタにしかならないと思っていたアイデアで長編を書いたという陳腐な作品だ。一応第2の殺人も起きるが、トリックは同じというのが痛い。連続殺人事件にしてはバリエーションに乏しいが、一度上手く行った手は二度も通じると思うのが犯罪者の心理と捉えると、ある意味リアルなのかもしれない。せめてもの救いはプロローグのミスディレクションがちょっと良かったことか(しかし今こんな隠語を使うのだろうか?)。 物語の裏に隠された内容、犯人の動機だが、最近ニュースで取りざたされている社会問題を扱っているのが興味深い。発表された88年から同じ事件は起きていたのだろうが、それでも単発的な物だっただろうし、現在のように社会人、芸能人、学生を巻き込んでの騒動までにはなっていなかったように思う。だからもし今初めて手に取った読者ならば案外このプロローグのミスディレクションも予想がつくのではないだろうか。ただこの一点を以って、この作品が先駆的であったとか今日性が高いなどというつもりは毛頭なく、これは単なる偶然の産物だったといっても差し支えないだろう。 また他の3人が擁するシリーズ探偵に比べると、本書で探偵役を務める信濃譲二のキャラクターは魅力に欠ける。奇抜な服装を特徴にし、大麻を好むというエキセントリックさを売り物にしているが、どうにも貌の見えないキャラクターだ。大麻を好むのはかの有名なホームズを思い出させるだけだし、なんとなく島田氏の想像した御手洗の影がちらついている。極端に云えば、物語に終止符を付ける安心感というのが感じられないのだ。後の作品でこのキャラクターについて触れることになると思うので、この辺で止めておこう。 さて巷では文庫版の末尾に御大島田荘司による推薦の文章が付せられているのが話題となっているようだ。この文章、本来は解説のための原稿のはずなのだが、作品云々に関してはほとんど(全く?)触れられておらず、歌野氏が島田氏の推薦を受けるまでに至った経緯が細かく記されており、それ自体が1つの物語として面白い物になっているのが特徴的だ。この文章からも冒頭で少し触れた他の作家と歌野氏が一線を画した存在であることがわかる。 なんとなくハンデを背負ってデビューした感のあるこの作家の作品をなぜか私はその頃から中断することなく買い続けて今に至る。2003年に『葉桜の季節に君を想うということ』でいきなり各種ランキング本で1位を獲得した時の感慨はひとしおだった。その辺のことはまた後で触れることにして、このくらいで本書の感想については筆を措くことにしよう。 |
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シリーズ第2弾は長編。あのあと調べてみたら、どうやらこのシリーズは「人形探偵シリーズ」と云われているようだ(このサイトでは人形シリーズ)。
腹話術師朝永嘉夫に恋する保母の妹尾睦月、通称おむつの幼稚園の遠足に朝永と鞠夫の2人(?)が同行したところ、そのバスがハイジャックされ、事件に巻き込まれるという物。 園児の乗った車をハイジャック。日本でも昨今同種の事件が起きていたが、その緊張感はあまりあるものがある。私も三児の父親だけにこのような事件に巻き込まれた親御さんの心情は計り知れないものがある。 とまあ、ちょっと深刻に書いたが、実はそんな子を持つ親の心配とは裏腹に事件はハイジャックという緊張下とは思えぬほどのどかに進む。関西のお笑いをこよなく愛す作者ならではのボケとツッコミを交えながら進行するが、私個人的にはハイジャック物のようなリアルタイムサスペンスはこの作者には合わないと感じた。きつい云い方をすれば作者の技量が追いついていない。場と状況に流されるように、結局終ってしまった、そんな食べ足りなさを感じる作品だ。 で、このシリーズ、実は私はあまり好きではない。ストーリー云々というよりも主人公の朝永嘉夫にどうにも感情移入できないのだ。無口な自分の代わりに人形が雄弁にしゃべらせるというこの人物、一歩引いて見てみると実にアブナイ人間ではないか。これがどうも私には生理的に受け入れ難く、どうも入り込めなかった。 しかし私は付いていくと決めた作家は全作品読むので、その後もこのシリーズの作品は積読本として確保してある。もしかしたら読んでいくうちにこの思いも変わっていくかもしれないが、それはまたそのときにでも。 |
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腹話術師が人形を介して推理を披露するという、キャラクターを作りすぎた感が否めない我孫子氏の第2のシリーズ。しかしこのシリーズはなんと読んでいるのだろう?腹話術師朝永嘉夫シリーズ?それとも腹話術人形鞠小路鞠夫シリーズ?ま、どうでもいいか(ここでは人形シリーズとなってますね)。
本作はその第1弾で4編収録の短編集。軽いイントロダクションといった感じ。 各編のストーリー、真相についてはもう既に忘却の彼方なのだが、それでも2編目の「人形はテントで推理する」は今でも覚えていた。これは発想の転換というか、先入観を利用したミスリードがよく効いている。たしかあとがきか解説でも作者自身お気に入りの1遍であるとの弁が伝えられており、特にチェスタトン張りのトリックが本人はいたく気に入ったようだ。しかしチェスタトンという名前が誇らしげに出てくるところを見ると、やはりミステリ作家はいつかはチェスタトンのような逆説的な作品を物するのが憧れなのかもしれない。 さて元々我孫子氏の作風はライトなのだが、このシリーズではさらにそれが強調されているように感じる。上に述べたように、戯画化が強調された主人公コンビが活躍する点も含め、ライトノベルのようなテイストが強い。だからだろうか、もう一方の速水兄弟シリーズよりもキャラクターが弱いように感じた。設定の割にはあまり残る物がない短編集であった。 |
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急逝した監督の代わりに途中まで制作された映画をスタッフで観て、結末を推理して完成させる。なんとも魅力的な謎ではないか。ミステリにはまだこんなアイデアがあったのかと文庫裏表紙の紹介文を読んでワクワクしたのが本書だ。しかも私は映画好きでもあるので、その期待は否が応にも高まった。
こういう趣向の小説には付き物の、映画に関するトリビア、含蓄はしかし意外とこちらの痒い所に手が届くものではなかった。我孫子氏はクラシック・ムーヴィーのファンらしく、モノクロ映画からカラーに移る頃の映画スターに関する言及が多かった。私はこの時代の映画には疎いのであまり興趣が湧かなかったのが残念なところだ。なんせ本書で初めてフレッド・アステアを知ったくらいなのだから。 そして本書の主眼であるスタッフが推理して完成させた映画の結末は特に意外性も感じなかった。まあ、収まるべくして収まったという感じだ。プロットが抜群だったのに、どんどん尻すぼみしていった、そんな印象の強い残念な作品になってしまった。 やはり映画を題材にしているからには映像ならではのミステリ手法を採用した方が映えるのだろう。本書は特にそう思った。だから私は未完成の映画をみんなで推理して結末を作って完成させるという大枠を生かしたまま、映像化した『探偵映画』を観てみたいものだ。 |
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速水三兄弟シリーズ3作目はミッシング・リンク物。連続殺人が都内各所で行われるが、その被害者はいずれも無関係の他人で、共通点が一切見当たらなかった。果たして速水三兄弟が行き着いた被害者を結ぶミッシング・リンクは常識では考えられない突拍子の無いものだった、と簡単に纏めるとこうなるだろう。
このミッシング・リンクはいい意味でも悪い意味でも、著者の遊び心が出た内容だ。私は前作『0の殺人』が実に鮮やかに騙されたこともあり、今度はどんな面白い仕掛けを見せてくれるのだろうと期待が高まっていたせいか、この真相は肩透かしを食ってしまった。 しかしこの稚気性が高く、非道徳的な真相は逆に云えば、今日性が高いかもしれない。ただこれはあくまで最大限の譲歩であり、やはりワンアイデア物の小品であるといわざるを得ないだろう。 本作以降、この速水三兄弟は我孫子作品にはお目見えしていない。作者のユーモア感覚を代弁するのに最適のキャラクターだっただけに本作で退場してしまうのが惜しまれる。最後に彼ら三兄弟に花道を渡す意味でも、いつかまた再登場願いたいところだ。 |
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シリーズ2作目はいきなり作者からの注意事項が述べられている。それは「容疑者は4人で、さらにその容疑者は減っていく、したがって多くの方はこの事件の真相を見破れるだろうけど、百人に一人は見破れないかもしれない」といった趣旨の文章だ。
もちろん、一ミステリ読者としては見破れらいでか!とばかりに勢い込んで読むながら推理するがいやあ、ものの見事に百人の一人になってしまった。 コメディタッチの軽い文体はクイクイ読み進めてしまうので、推理が組立てられないまま、終わりに向かってしまう。でも本書においては真相を見抜けなかったことが全然悔しくなく、むしろ爽快感が得られる。これほど綺麗に騙されると非常にすがすがしい。読後、誰かに勧めたくなる作品だ。本当はもう一つ付け加えたい賛辞があるが、それをいうと頭のいい人は察してしまうので止めておこう。 しかし思えばこの頃から異色の存在ではあったんだろう、その後の彼のミステリ作家としての道のりはいわゆる新本格作家たちとは違う方向に進む。前述したゲーム『かまいたちの夜』の原作者という他ジャンルへの係わり合い、もう無くなったが電子書籍サイトE-Novelの立上げなど、様々なことにチャレンジしている。他のミステリ作家が本格ミステリの本道を極めんと内側に意識が向かっているのに対し、彼はミステリで何か他に面白いことが出来ないかと本という媒体を越えて興味が外側に向かっているのが特徴的だ。 さて『殺戮に至る病』が未読の私は本作が我孫子氏のベスト。したがって私は躊躇なく10点を献上する。ちょっと最近10点が連発しているが、これはまだミステリ初心者であった私が読んだ作品群であり、その初読の印象に基づいて採点していることによる。つまり島田氏から端を発する綾辻氏、法月氏、我孫子氏、歌野氏の一連の新本格作家達の諸作品が私にとってミステリの黄金体験なのだ。 10点の割には少ない感想だが、これは未読の方はぜひ読んで欲しい。軽~く読んで、スパッと騙されて下さい。 |
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現在ではミステリ作家としての名もさることながら、むしろゲーム『かまいたちの夜』の原作者の方が名の通っている感のある我孫子氏。私が彼の作品に触れたのは大学の頃で、まだこのソフトは発売されていなかった。逆に云えば、先に彼の作品を読んでいたからこのソフトに期待し、実際買いもした。
さて彼の作品の最大の特徴は当時ほぼ同時にデビューした綾辻氏、法月氏、歌野氏にはない、コミカルな作風にあるだろう。一読してビックリするのはものすごい軽さ。しかもページ数も他の3人に比べると格段に少ないので、あっという間に読めた記憶がある。 しかしやはり作風は異色とはいえ、最初のミステリは館物と、定型は守っているようだ。気づいてみれば綾辻氏、法月氏、歌野氏のデビュー作は全て館物だ(法月氏は舞台は学校だが、校舎も一つの大きな館だ)。 さて本作では8の字屋敷という、その名そのまんまの8の字の形をした屋敷で起こる2つの密室殺人を扱っている。 で、実は本作は私がもっとも早く犯人を見破った作品でもある。どの段階でと書くと、それだけでもうネタバレになってしまうので書かないが、もうそれはかなり早い段階だった。 だから第1の殺人に関するインパクトは非常に希薄で、逆に第2の密室殺人の方が強く印象に残っている。シンプルが故になるほど!と思ったトリック(?)だった。 この『8の殺人』はシリーズになっており、その後『0の殺人』、『メビウスの殺人』と続く。このシリーズは速水三兄弟という兄が刑事で弟が喫茶店経営、一番下の妹が大学生という3人が探偵役を務めているが、これがまず設定として成功していると思う。ホームズとワトソン2人ではなく、3人、しかも女性を絡めたのがミソだろう。この3人の掛け合いがボケとツッコミ、イジラレ役と絶妙なトリオをなしており、物語の潤滑油となっている。私は笑いこそもっとも難しい技術だと思っているので、我孫子氏が一番作家としては他の三人よりも長けているなぁと思ったものだ。ライトノベルに親しんだ学生がちょっと背伸びしてミステリに手を出そうとした時、我孫子氏の作品はいい入門書になるだろう。 薄さの割にはカー張りに密室講義も盛り込まれており、このへんがやはり他の新本格ミステリ作家同様、マニアであることを自称しているように取れる。この密室講義では古今東西の密室ミステリに触れられているがネタバレまでには至ってなかったように記憶している。 しかし我孫子氏のデビュー作である本書はミステリの水準から云えば、並程度と云えよう。本作はキャラクター性ゆえにこの作家を追いかけようと思った覚えがある。しかしその思いは次の『0の殺人』でいい意味で裏切られる。 |
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実は大学生の頃に読んだのは『頼子のために』までで、その後別の作家に移った。これは単純にその頃出ていた彼の作品の文庫が『頼子のために』しかなかったからだ。本作を読んだのはかなり後で、数年経った頃。そして本作は『頼子のために』と『一の悲劇』と合わせて悲劇三部作という謳い文句でもあり、しかも先に書いた感想でも解るように、私の中では読後数年を経て、『頼子のために』の記憶は美化されていた。手にした時の期待感は推して量るべしだろう。
まず前知識としてあったのは「悩める探偵法月綸太郎」というキャッチフレーズだ。前作で「後期クイーン問題」に直面した法月氏(この場合、作者と作中登場人物両者を指す)は自らの存在意義を見出せず、苦悶する日々を送っている。シリーズでも最長を誇る本作は、実はこの悩みのためにほとんど進まないといっていい。本作の大半は法月氏の内部葛藤と答えの見えない問いに対する自問自答で覆いつくされている。確か精神錯乱者の書いたような内容が暴走している章もあったように記憶している。 この悩みのため、実は事件そのものに関する記憶が希薄。刺された被害者であったアイドル歌手が失神から回復すると無傷であり、刺した加害者が逆に刺殺体となって横たわっていたというパラドクシカルな発端だったが、結局どんな真相だったのか覚えていない。しかしもしこれを今読むと評価はもっと下がるのは確実だろう。『頼子のために』でも最後に探偵法月が犯人に下した所業について不評の声が上がっているのを目にしたが、本作でも法月警視が行った行為は一警察官とは思えぬ乱暴な行動を取っている。あいにくこの辺については当時全く考慮が届かず、そのまま読み飛ばしてしまったが、もしかなりミステリをこなした今ならば、その時点でもうこの物語を受け入れられないことは間違いない。だからあえて本書は再読しないようにしておこう。ついでに美しい読後感保持のためにも『頼子のために』も同様である。 結局延々と繰り返される法月氏自身の問題は結局答えは出ず、これはなんと『生首に聞いてみろ』が出るまで続いた。そしてどうやら『生首~』では、吹っ切れたように悩める法月の影はなく、淡々と探偵の役割を果たしているようだ(未読なので以上の話は各種の書評から受け取った私の印象)。 調べてびっくりしたのは、本作はなんと絶版になっているらしい。法月綸太郎といえばけっこうネームヴァリューもあると思うのだが、絶版になったりするんだなぁ。これはやはり上に書いた警察官とは思えぬ法月警視の行動によるところが大きいのだろうか。 本作で一応私が読んだ法月作品の感想は全て挙げた。振り返ると大した事書いてないなぁと思わざるを得ない。でもこれはこれでよしとしよう。 |
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今までの法月作品の解説に頻繁に出てきていたのが本作のタイトル。どの書評家も法月氏といえば本作を俎上に上げていた。そこで目にしたのは「ロス・マクドナルド主題によるニコラス・ブレイク風変奏曲」、「法月綸太郎4作目にして早くも後期クイーン問題に直面」という、ミステリマニアならではの表現。ロス・マクドナルドもニコラス・ブレイクも、そしてクイーンさえも当時読んだ事の無かった私にはどんな物かも想像もつかなかったが、なにやら面白そうな匂いはプンプンしていた。
そんなことから期待して読んだ本書だが、読後、これは確かに傑作だと思った。 物語は娘頼子を亡くした父親の復讐譚という手記で始まる。これがなんとも重い話だ。警察の捜査に納得いかない父親が高校生だった娘の死の謎を探り、それが担任教師との肉体関係にあることを突き止め、彼を殺害し、絶望して自殺を図るが未遂に終る。これだけでも重いが、この真相はさらに重い。学校からスキャンダル隠しのため、父親の警視経由で事件の調査を依頼された探偵法月により、愛憎が入り混じった家庭内の悲劇が暴かれる。どの家庭でも起こりそうなよくある事件が、頼子の家庭に落とした翳が、それぞれの心に渇望感を与え、愛を歪めた結果、悪夢のような結果を招く。 昨今の読者諸氏の感想では、あまりに都合的すぎて、しかもなんだか理解できないところが多い、法月は探偵として力量不足だ、などという批判的なコメントをよく目にするが、私はそうは思わない。無論、本作を読んだ時期は私がまだミステリ読者としてそれほどこなれていなかったせいもあるのだろうし、もし今再読すれば、ところどころに粗が見えて、以前よりも素直に賞賛できないかもしれない。しかし、私は当時の読後感を尊重したい。私は本作で新本格という言葉を意識した。確かにコレは新しい本格だなと。 しかし数年後、私はロス・マクドナルドの諸作を触れるに至り、この認識が過ちだったことに気づく。私が新しい本格だと思った事は既にロスマクによってなされていた。そしてロスマクこそはハードボイルド作家ではなく、本格ミステリ作家なのだという思いを強くする。 しかし本作が法月氏のターニングポイントであると云われているように、私にとっても本作がターニングポイントであった。本作がなければ、私は彼の作品を読み続けようと思わなかっただろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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法月綸太郎3作目で・・・、いい加減しつこいので止める。
名探偵法月綸太郎シリーズ2作目は新興宗教グループで起こる教祖の殺人を扱った事件。本作ではくどいくらいに探偵法月による推理のトライアル&エラーが繰り返される。このスタイルは当時現代英国本格ミステリの雄だったコリン・デクスターの作風を踏襲したものだ。前作がカーで、本作がデクスター、第1作目は似非ハードボイルド風学園ミステリと作品ごとに作風と文体を変えていた法月氏。よく云えば器用な作家、悪く云えば決まった作風を持たない軸の定まらない作家である。 こういうトライアル&エラー物は何度も推理が繰り返されることで、どんどん選択肢が消去され、真相に近づくといった通常の手法に加え、堅牢だと思われた推理が些細なことで覆され、現れてくる新事実に目から鱗がポロポロ取れるようなカタルシスを得られるところに醍醐味がある。しかしそれは二度目の推理が一度目の論理を凌駕し、さらに三度目の推理が二度目の論理を圧倒する、といった具合に尻上がりに精度が高まるにつれて完璧無比な論理へ到達させてくれなければならない。それはあたかも論理の迷宮で彷徨う読者へ天から手を差し伸べて救い上げる行為のように。 しかしこのトライアル&エラー物が諸刃の剣であるのは、それが逆に名探偵の万能性を貶め、読者の侮蔑を買うことにもなるのと、論理が稚拙で魅力がないと単なる繰言に過ぎなくなり、読者に退屈を強いることになるのだ。そして本作は明らかに後者。繰り返される推理がどんどん複雑化して読者の混乱を招き、もはやどんな事件だったのかでさえ、記憶に残らなくなってしまった。実際私も本稿に当たる前に記憶を呼び戻すために色々当たってみたら、こんな話だったのかと思い出した次第。したがってこの感想を読んだ方はお気づきのように、今まで私が述べてきた内容は本書の中身に関する叙述が少なく、読後の印象しか滔々と述べていない。とにかく読み終わった後、徒労感がどっと押し寄せてきたのを覚えている。 しかし今回調べてみて読んだ当時気づかなかったことが1つあった。それは事件の当事者である甲斐家と安倍家という2つの家族の名前だ。双子という設定も考慮するとこれは聖書に出てくる「カインとアベル」がモチーフとなっている。そういったバックストーリーを頭に入れて読むと、案外理解しやすいのかもしれない。 お気づきのようにここまでの法月作品に対する私の評価というのはあまり芳しくない。しかしこの評価は次の『頼子のために』で、がらっと変わることになる。 |
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法月綸太郎2作目で名探偵法月綸太郎初登場作品(ややこしい)の本書は実にオーソドックスなミステリ。本格ミステリの趣向の1つにクローズドサークル物を称して“雪の山荘物”と呼ぶが、これは正にそのど真ん中の設定だ。
雪山のペンションに集った人たちにはそれぞれ思惑を秘めており、そして離れの密室で殺人が置き、そこには犯人と思しき足跡が残っているのみだったという、これまた定型中の定型だ。本書は開巻してまもなくエピグラフに確か「白い僧院はいかに改装されたか」なる一文が記してあった記憶がある。これは都筑道夫のエッセイ集『黄色い部屋はいかに改装されたか』の語呂合わせだが、このエピグラフは法月氏が新本格という単語に過敏に反応していたようにも取れる。黄金期の名作を換骨奪胎して新たな本格を、という作者の意気込みが込められていると読み取るのは穿ちすぎだろうか。この時はまだ本家を読んだ事が無いので比べようが無かったのだが、後に本書の原典となっているカーター・ディクスンの『白い僧院の殺人』を読んだ時はそのシンプルな真相に思わず「あっ!」と声を上げるぐらい驚いた。しかし本書についてはそれは全く無かった。ふ~ん、なるほどねというくらいだっただろう。本稿を書くのに、色々調べたのだが、“読者への挑戦状”が挿入されていたことさえ忘れていた。 薄いので記憶を刷新するためにも一度読み直して原典と比べてみるのもいいかもしれない。 |
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法月綸太郎と云えば、クイーン同様、作者と同名の名探偵が活躍(?)する法月綸太郎シリーズが有名だが、デビュー作はノンシリーズの学園ミステリである本作である。本作についてはその後ノーカット版が刊行されたようだがそちらは未読。
まず開巻一番に驚くのは目次に書かれた章題の多さ。確か60くらいあったように思う。綾辻氏の作品を読んでから、新本格ミステリ作家はそれぞれこだわりがあるのだろうと思っていたがこんなところにこだわりがあるのかとちょっと引いた記憶がある。それらの章題もハードボイルド的でなんだかキザな感じを受けた。 中身を読むと確かにキザだ。登場人物全てがなんだか精神年齢が少し高く、自分が高校生の時と比べると老成しているように感じた。しかしどこか青臭さ、高校生特有の全てを悟ったように物事を斜めに見るようなヒネた物の云いようは確かに高校生らしくもあるが、身近にこんな輩が居たら、かならず喧嘩を売っていたに違いない。 さて本書では島田氏が御手洗シリーズで本家シャーロック・ホームズを非難したのと同様に、本書でも法月氏が信奉するクイーンを非難する場面が現れる。それは主人公の担任の口からクイーンの『チャイナ橙の秘密』について痛烈な感想が開陳されるのだが、これを読んだ私はこの件を思い出して、思わず頷いてしまった。「まさになんなんだ、あれは」の作品だったからだ。この辺について語ると脱線してしまうので、ここら辺で止めておこう。 さて本書では教室から出された机と椅子の謎。血まみれの教室、密室の謎などが1人の高校生によって暴かれる。名探偵気取りの主人公(工藤くんだったかな?)がクラスメイトに訊き込みをし、教師と警察の睨みを交わしつつ、真相に肉薄していく(警察いたよな、確か)。 学園ミステリは私は好きなのだが、本作はあまり好きではない。不思議にこの作品を読んで私の高校生活を思い出すことが無かったからだ。初期の東野作品に活写される高校生活、有栖川有栖氏の大学シリーズの大学サークルの描写などノスタルジーに駆られることしばしばだが、本作にはどこか別の国の高校のような気がして、いまいちのめり込めなかった。多分その理由の大半は私が全く主人公に感情移入できなかったことによるだろう。 しかし読んだ当初はあまりこの作品から汲み取れる物は無いと思ったが、あの真相は高校生が読むと案外ショックなのかもしれない。高校生が気づく信頼関係が崩壊する衝撃があると今になって思うのだが、高校生諸君は一体どういう風に思うのだろうか。いつか意見を聞きたいものである。 |
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【ネタバレかも!?】
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迷路館。
この題名を見たときにようやく本格ミステリらしい館が出てきたと思った。しかし表紙絵は記念碑のようなオブジェが森の彼方に見えるだけで「あれ?」と思ったものだが、開巻するやいきなり妙に凝った装丁だったのに驚いた。本の中に本がある、しかも講談社ノベルスを何から何まで模倣したそのデザインにニヤリとした。こういうのを作中作という趣向だというのを本書の解説で初めて知ったのだから、いかに私がまだヒヨッコだったのかが解るだろう。 しかも中に収められた館の間取り図はもう生活すること自体を全く無視した本当の迷路が館の中に組み込まれてあり、逆に私は「コレだよ、コレ!」と喜んだのを覚えている。ここまで奇抜な館を用意するとリアリティ云々は吹っ飛んでしまい、もうその異質な世界で繰り広げられる殺人劇を今か今かと不謹慎ながら待ち受けるだけであった。 建築関係の仕事に進んだ今だとこの館を見てすぐに「ありえない」と一笑に付すだろう。なぜなら日本の現行の建築基準法に全く適っていないからだ。しかもこれが日本で名高い建築家の手になる仕事だというのだから、抱腹絶倒、荒唐無稽とは正にこのことである。しかし当時学生だった私はそんなことは露知らず、純粋に物語に没頭することが出来た。これこそその時が私にとって読むべき時期だったのだと今になって思う。ちなみに私の専攻は土木であり、建築学は全くの門外漢であった。しかし就職すれば会社はそんなことには頓着せず、土木も建築も一緒くたでせざるを得なくなる。まあ、でもこれはいい誤算ではあった。 さてそんな館を用意した綾辻氏はさらに本格ミステリ好きの中枢神経を刺激する設定を放り込んでくる。その館の主は宮垣葉太郎という本格ミステリの巨匠であり、そこで彼の弟子とも云える新進作家たちを読んで競作を行い、優れた作品を書いた者には彼の名前を冠した賞と賞金を送るという設定。いやあ、堪らない設定だ。しかもこのシチュエーションは当時の新本格シーンを牽引し、若い本格ミステリ作家を推薦して次々とデビューさせた島田氏、そしてその推薦を受けた綾辻氏、法月氏、我孫子氏、歌野氏の境遇をそのまま投影したようで、フィクションながら一部ノンフィクションのような錯覚を覚えた。だから作中に出てくるそれぞれの作家、評論家、編集者の実際のモデルは誰なのだろうと空想に耽ったりもした。 しかし、これだけミステリ好きをくすぐる設定は冷静に眺めると非常に異様な光景である。なにしろこの競作は宮垣氏が自殺した状況下で行われるし、こんな住みにくい迷路の家にこもって創作すること自体もまた異様だ。そして連続殺人事件が起こるのだが、それでも逃げ出さず、館に居続け、捜索を続ける彼らは狂気の作家達と云えよう。全てが終わり、事が公になったとき、果たして彼らの社会的評価というのはどうなるのか?などという懸念が今更ながらに湧いてくる。 しかし本書を読むのにそんなことを気にしてはいけない。本書は日本に似たどこか別の国で行われた事で捉えるぐらいの寛容さで臨めばかなり楽しめる作品で、私は館シリーズで2番目に好きな作品である。迷路館という特殊な館を存分に活用したトリックに加え、事件が終った後で判明する真相にはかなり驚いた。館シリーズと呼ばれるこのシリーズで初めて館が主役となった作品だと思う。 ちなみにここで出てくる宮垣氏の畢生の大作『華麗なる没落のために』はその実、鮎川哲也氏の未完の作品『白樺荘事件』を指していたのではないかと私は思っている。まだ見ぬ巨匠の作品を一刻も早く読みたい、そしてそれは巨匠最後にふさわしい傑作に違いないという思いが込められているように感じた。 で、ミステリを数こなした今、この3作を振り返ると綾辻氏はトリックとロジックという本格ミステリの王道と思われがちだが、実は叙述トリックの使い手でもあるということ。その分野では折原氏の名が広く知られているが、この館シリーズ3作は全て叙述トリックが仕掛けられていることに気づくだろう。どこかの対談かコラムで作者自身、叙述トリックこそが本格ミステリにおける最後の砦のようなことも云っていた記憶がある。 叙述トリックはその名自体がネタバレという人もいるが、私は一つの意見として受け取るに留めている。なぜなら優れた叙述トリックはそれを意識しても看破できず驚きをもたらすからだ。 とりあえず綾辻作品は本作で一旦休憩。次の作家に移るとしよう。 |
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『十角館~』で俄然綾辻氏の次の作品への渇望感を感じた私は間髪入れずに本作へ手を伸ばした。いきなり始まる車椅子に乗った仮面の男と美少女という横溝的な設定は、1作目で綾辻氏の、本格ミステリのもっともディープな部分を好む性癖を知っていたので、今回は抵抗無くすんなりを物語世界に入っていけた。
結論を云えば、本作は水準作と云えるだろう。『十角館~』と比べると、などといった枕詞は必要なく、客観的にミステリの一作品として見た正当な評価である。なにしろ私には珍しく物語り半ばで犯人とトリックが解ってしまったので、その後の展開が犯人側の視点で読めた。物語を裏側から眺めるように読めたのは本作ぐらいだった。 しかし本書では異端の建築家中村青司を意識してか、本書の水車館は前作の十角館よりもなかなかにデザインが凝っている。十角館が案外にコテージとあまり変わらない建物だったのに対し、この水車館は城郭のような形をしており、ドラクエに出てきたようなどっかの国の城のようなデザインである。この狭い日本ではこれほど建ぺい率の低そうな個人の屋敷もないなぁと思うような非常に贅沢なつくりである。 かてて加えて、前作が孤島と本土の距離的な断絶、つまり彼岸と此岸で語られていたのに対し、本作では過去と現在という時間の隔離があるのが特徴。そしてその2つの間では微妙に叙述表現が変わっているが、これももちろん真相に大いに関わってくる。 さらに幻視家という特異な職業は(まあ画家の一種なのだが)、当時大学生の私の心を大いにくすぐり、その印象的なエンディングをそのまま使ってクイズを作ったくらいだった。 しかし本書の水車館はミステリとしての出来は普通であり、また水車という屋敷に備えられた印象的なオブジェがトリックにほとんど寄与していないというのが不満。 しかしこの不満は次作『迷路館の殺人』で一気に解消されるようになる。 |
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さて島田氏の御手洗シリーズで本格ミステリに開眼した私は同傾向の作品を読もうと各ガイドブックなどに手を伸ばすようになったり、『このミス』などランキング本を読み漁ったりするのだが、その中で「新本格」という単語に行き当たった。
色々調べてみると、松本清張以後、本格冬の時代と云われていた日本ミステリシーンにかつてのガチガチの本格ミステリを復興させようという動きを新本格といい、なにも今までにない斬新な本格という意味ではなかった。そしてそのムーヴメントの中心にいる人物こそがなんと島田氏その人だというのだから、これは何がなんでも読まなければならぬとそこに名を挙げられていた綾辻氏、歌野氏、法月氏、我孫子氏4氏の諸作を本屋で探し、一気に買い込んだ。 そしてまずは綾辻氏の本書から手を付けることになった。既に私が本作を買ったときには既に『迷路館の殺人』まで文庫は出ており、しかも「綾辻以前綾辻以後」なる形容詞まで付いているのにはびっくりした。 で、そんな前情報が期待を膨らましつつ、開巻したところ、実はお互いをあだ名で呼び合う登場人物たちにドン引き・・・。しかも彼らのあだ名が全て海外古典本格ミステリの大家のファーストネームで、いかにもミステリマニアが書きましたというテイストに、うわぁ、これ読めるのかなぁとすごく心配したが、物語が進むにつれて慣れてきた。 探偵役として現れた島田潔の名前にニヤリとしつつ、奇想の建築家中村青司が設計したというわりには十角館って普通の建物だよなぁなどと思いつつ、読み進めていった。 そして私も驚きましたよ、あの一行に。まさに時間が止まり、「えっ!?」という思いと共に足元が崩れる思いがした。しかもあの一行が目に飛び込んでくる絶妙なページ構成にも唸った。一行に唸ったのは星新一の「鍵」以来だった。 実は犯人はすぐに解った。だから答え合せしたくて早く解決シーンに進みたくて、忸怩しながら読んでいたが、この一行で自分の甘さに気づかされた。というよりも犯人が解ってなお、これほどの驚嘆を読者に与える作品というのがあるのかと心底感心したのだ。そしてまだまだミステリの奥は深い、確かにこれは「新」本格だ、などとミステリをさほど読んでいないのに一人悦に浸っていた。 今でも読み継がれ、新しい読者に驚きをもたらしている本書は歴史に残る傑作といえよう。こうして綾辻氏の名はこの1作で私の脳裏に深く刻まれることになった。 |
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今まで焦らすように引っ張ってきたが、本書が私を島田信奉者にした作品である。そしてこの作品は私の読書人生の中で未だに永遠のベストとして燦然と輝いている。
私が読んだのはハードカバー版で、確か講談社の何十周年かの記念書き下ろしシリーズの1冊として刊行されたらしく、えらく豪奢な装丁だったのを覚えている。 特に西洋画で描かれた馬上の騎士の表紙絵が飛び出してきそうなほど迫力があり、果たしてどんな物語かと胸躍らせた。 しかしこの表紙とは全然無関係の話が展開される。物語の舞台は騎士が出てくるような西洋の街やお城ではなく、関東の公園で記憶喪失の主人公が目が覚めるところから始まる。その後彼は周辺を彷徨い、紆余曲折を経て知り合った石川良子という女性と同居するようになる。そしてこの2人の生活が語られるのだが、これが実に私の心をくすぐった。当時学生だった私にとって彼らの年齢が近いこともあり、そう遠くない将来の生活のように見えたからだ。そしてこの2人の生活は貧しいけれど小さな幸せというありきたりなモチーフながら、私の願望を具現化したような形だった。 そして、物語は意外な方向に進む。それは・・・いや詳細を語るのは止めておこう。思いの強さゆえ、微に入り細を穿つように述べてしまいそうで、これから読む方々の興を殺ぎそうだから。ただ颯爽と現れる御手洗の姿にはきっと快哉を挙げるだろう。これは今でも私には全てのミステリの中でも最高のシーンである。そしてなによりも謎解きを主体としたミステリでこれほど胸を打ち、感動するとは思いもよらなかった。本作で御手洗ファンとなった女性が増えたように、私もこれで御手洗、いや島田ファンになり、こんなミステリを書く人はきっと素晴らしい人に違いないと信奉するまでに至った。これは今でも同じだ。 本書で教えてくれたのは人を愛することの温かさ、苦しい時にこそ助けてくれる友人を持つことが人間にとってかけがえのない宝石だということだ。それを教えてくれた島田荘司こそ、私にとって異邦の騎士その人だと思うのである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書が私の実質的島田作品初体験の作品である。それは私が大学1年の時だった。確かある月曜日の社会学の講義の際にいつもつるんでいた友達のうち、O君が読んでいた本がこの作品だった。なにげに「何、それ?面白いの?」と聞いたところ、「読んでみる?俺もう読んでるからいいよ」と云って貸してくれた。
その授業は本書の最初の1編「数字錠」を読むことに変ってしまった。 結論を云えば、なかなか面白かったというのが本音。それよりも文章の読み易さにびっくりした記憶がある。先にも書いたが、当時私は久々に読む推理小説にブラウン神父シリーズを読んでおり、その読み難い文章に「こんなもんなんだろう」と思いつつ、難解な文章を読み解くことがあえて読書の愉悦をもたらすのだ、と思っていたが、本書を読んでから、実はそれがとんでもない間違いだと気づいた。御手洗と石岡が依頼を受けて捜査するその過程は臨場感があり、云ったことのない東京や横浜の街並みも、異国の風景描写より遥かに理解しやすかった。 その90分の授業で読み終わったのはこの1編のみ。「面白かった!」といって返しそうとしたら、貸してくれるというので遠慮なく借りることにした。思えばこの時既に彼の策略にはまっていたのだ。 で、本作の感想は上の評価の通り。普通に面白いといったところ。一般的に評価の高い「数字錠」だが、私はあまりそれほど感銘を受けなかった。後で御手洗シリーズに没頭しだして、この作品以降、御手洗がコーヒーを飲まなくなったのを改めて知った。 私にとって本書の目玉は2編目の「疾走する死者」である。これはもう御手洗の演奏シーンの素晴らしさに大いに魅了されてしまった。文字で書かれた演奏シーンから超絶技巧のギタープレイが奏でる爆音が、流麗なフレーズが聴こえてくる思いがした。いや実際頭の中では音楽が駆け巡っていた。この作品での御手洗のカッコよさは随一である。 満足の体で読了した私は本を返す際に「他にもない?」と訊いたのは云うまでもない。そしてそのとき既にO君の手には『占星術殺人事件』の文庫が握られていたのだった。 |
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