■スポンサードリンク
Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
閲覧する時は、『このレビューを表示する場合はここをクリック』を押してください。
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
『大いなる眠り』から『湖中の女』までチャンドラーはほぼ年1作のペースでコンスタントに作品を発表していたが、本作は6年と非常に長いスパンを空けて発表されている。
これには理由があって、その間、チャンドラーは脚本家としてハリウッドに招かれ、働いていたのだった。この頃の経験について、チャンドラーはあまりいい印象を持っていないことをエッセイや自伝で吐露しており、それがこの作品に影響がもろに出ている。 余談になるがエラリー・クイーンもハリウッドの脚本家をした後、やはりハリウッドを舞台にした作品をいくつか書いている。やはり当時の作家にとってハリウッドというのは「事実は小説よりも奇なり」を地で行く特殊な世界であり、作品の題材として書かずにはいられない物があったのだろうと思われる。 本書は今までLAを舞台にしながら一切触れる事のなかったハリウッド映画界の内幕が舞台となっている。 若い娘の依頼で兄の捜索を引き受けることになったマーロウは兄のアパートに行くと、そこで管理人が殺されていた。知らない男から電話がかかり、男が指定するホテルに行くと電話の相手と思しき男は殺されており、サングラスをかけ、銃を持った女に気絶させられる。 女の正体はホテル探偵が見ていた車のナンバーから判明する。売り出しの若手女優だった。マーロウはその女優の許を訪れて問い質すが、女優は全てを一切否定する。 事務所に帰るとギャングが訪れ、事件から手を引くように脅される。体よく撃退するが、いつの間にかマーロウは自身がきな臭い事件にどっぷり浸かっていることに気づく。 とにかく複雑な内容の作品。場面転換も多く、プロットも二転三転するのでストーリーを追うのに苦労し、内容について十分理解していない。メモを取りながら再読する必要がありそうだ。 上に書いた内容どおり、どこにでもありそうな探偵を主人公にした映画のような展開を示す。特にハリウッドに関する筆致は終始異様で常識外れな連中が跋扈することをあげつらう形になっており、チャンドラーにとってハリウッドは伏魔殿のようにどうやら映ったようだ。 作品の出来はあまりよくない。本を読まない人がイメージだけで描くハードボイルド小説の典型のような作品である。ただ本書でも隠された人間関係の歪みが最後に解る。今までロスマクへの影響と繰言のように述べていたが、逆にロスマクはチャンドラーの後継者たらんとしたことが解る。 読んでいる最中、本書が一番詰まらなかった。早く終らないかと思いながら読んでいた。確か最後に読んだ長編が本作で、既に飽きが来ていた事もある。でもそんな作品でも最後に琴線に触れる名文が出ることで評価が凡作から佳作へ上がるのだから、まさにこれはチャンドラーマジックと云えるかも。単純に私がチャンドラーの文体が好きなだけだから、万人がそうだとは云えないけれども。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
フィリップ・マーロウは4作目の本作で初めてロスを離れる。化粧品会社の社長から頼まれた妻の失踪事件を追って、彼の別荘があるロス近郊の湖のある山岳地帯の村に入り込む。そこの湖から女性の死体が上がる。その女性こそが社長の妻だろうと思われたが、別の女性の死体だったことが解る。そしてマーロウは別の事件に巻き込まれ、命を狙われる。
本書のテーマは卑しき街を行く騎士を、閉鎖的な村に放り込んだらどのように活躍するだろうかというところにある。しかもその村は悪徳警官が牛耳る村であり、法律は適用されず、警官自体が法律という無法地帯。つまり本書は以前にも増してハメット作品の色合いが濃い。 この閉鎖的な村で関係者を渡り歩くマーロウは今回危機に陥る。この危機はロスマクでも使われていた。 本書の最大の特長は他の作品に比べると実に物語がスピーディに動くことだ。原案となった同題の短編が基になっていることも展開に早さがある一因だろう。 そして事件は解決してみると、死体が3つも上がる。しかもそれは1人の犯人によるもので、けっこう陰惨な話だったことが解る。 しかし上にも書いたが、原型の短編を引き伸ばした感じが否めなかった。最初のスピーディな展開は多分チャンドラー作品の中でも随一なのだが、その後の展開が無理に引き伸ばしたような冗長さを感じた。特に印象に残るキャラがいないせいもあり、出来としては佳作といったところだろうか。 数年後、私はこの原型となった短編を読んだが、これは非常に面白かった。プロット自体はいいのだ。湖から上がった女性の死体と、どこか本格ミステリを思わせるシチュエーション。そして閉鎖的な村に現れたマーロウという名の騎士。ただそれを十分に生かせなかった。 どんな作家もいつもいい作品が書けるとは限らない。全7作を数えるフィリップ・マーロウの物語でちょうど折り返し地点に位置する本書は中だるみの1冊となるようだ。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
『大いなる眠り』、『さらば愛しき女よ』と続いたフィリップ・マーロウ3作目の本書は一転して地味で素っ気無い題名。題名というのは読書意欲を喚起させるファクターとして私は非常に大事だと思っているのだが、文豪チャンドラーの作品とは思えないほど、飾り気のない題名はちょっと残念。
マーロウは盗まれた時価1万ドルと云われる初期アメリカの古銭を探してほしいという依頼を受ける。それはマードック夫人の亡き夫の遺品であり、夫人は息子の嫁で歌手のリンダが盗んだと疑っていた。 事務所に戻ると夫人の息子レズリーがいた。レズリーは妻のリンダのかつての勤め先のナイトクラブのオーナーに借金があり、金に困っていたと話す。マーロウはリンダを探しにそのクラブに行くが、オーナーはおらず、リンダの友達だったその妻と逢う。 さらにマーロウは自分を尾行している探偵フィリップスに気づく。彼はコイン商に雇われていた。彼の話では件のコイン商が所有しているとの事で、マーロウはコイン商に逢い、1万ドルで買い戻す取引をする。 マーロウが金を取りに行く途中でフィリップスのアパートに立ち寄るとそこには彼の死体が転がっていた と、この話は抜き出してみても非常に人が入れ替わり立ち替わりして、訳が解らなくなる。一体この小説のメインプロットは何だったかと、読者は困惑することだろう。要約すれば盗まれたコインを探すうちに、容疑者であるリンダを捜索を端緒に調査を始めると、件のコインに関係する人々が次々に殺され、依頼人に纏わる秘密が浮き彫りになるという内容だ。 しかしチャンドラーは雰囲気で読む作品だ。例えばこんな文章にハッとさせられる。 「家が視界から消えるにつれて、私は奇妙な感じにとらわれた。自分が詩を書き、とてもよく書けたのにそれをなくして、二度とそれを思い出せないような感じだった」 こんな経験は誰でもあるのではないだろうか?こういう言葉にしたいがどういう風に言い表したらいいのだろうかともどかしい思いをチャンドラーは実に的確に表現する。 詩的なのに、直情的。正に文の名手だ。 本作では依頼人の秘書のマールと運転手のキャラクターが鮮烈な印象を残す。 特にマールの存在については現在にも繋がる問題として、読後しばらく考えさせられてしまった。金満家の未亡人の世間知らずな側面が招いた悲劇を描いたこの作品はロスマクにも影響を与えているのではないだろうか。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
チャンドラー長編2作目にして不朽の傑作。
私がこの作品と出逢ったことの最大の不幸は先に『長いお別れ』を読んでしまったことにある。もしあの頃の私がフィリップ・マーロウの人生の歩みに少しでも配慮しておけば、そんな愚行は起こさなかったに違いない。あれ以来、私は新しい作者の作品に着手する時は愚直なまでに原書刊行順に執着するようになった。 そんなわけでチャンドラー作品の中で「永遠の№2」が私の中で付せられるようになってしまったのだが、全編を覆うペシミズムはなんとも云いようがないほど胸に染みていく。上質のブランデーが1滴も無駄に出来ないように、本書もまた一言一句無駄に出来ない上質の文章だ。 マーロウが出逢ったのは身の丈6フィート5インチ(約195センチ)はあろうかという大男。大鹿マロイと名乗ったその男は8年前に殺人罪を犯して刑務所に入っていた。そして出所して早々かつて愛した女ヴェルマを捜していた。マロイはヴェルマを求め、黒人街の賭博場に入るがそこでまたも殺人を犯してしまう。マーロウは否応なくマロイの女ヴェルマを捜すことを手伝うことに。またマーロウは盗まれた翡翠の首飾りを買い戻すために護衛役として雇われる。しかし取引の場所でマーロウは頭を殴られ、気絶する。意識を取り戻すとそこには依頼人の死体が横たわっていた。 事件はいつもの如く、簡単と思われた事件で殺人に巻き込まれ、それがもう一方の事件と関係があることが解り、結末へという道筋を辿るのだが、この作品が他の作品と一線を画しているのはとにかく大鹿マロイの愚かなまでの純真に尽きる。昔の愛を信じ、かつての恋人を人を殺してまで探し求める彼は手負いの鹿ならぬ熊のようだ。そして往々にしてこういう物語は悲劇で閉じられるのがセオリーで、本書も例外ではない。 悪女に騙された馬鹿な大男の話と云えば、それまでだが、そんな単純に括れないと抗う気持ちが残る。 本書でもマーロウは損な役回りだ。特にヴェルマの捜索は無料で引き受けてしまう。だが彼は自分の信条のために生きているから仕方がない。自分に関わった人間に納得の行く折り合いをつけたい、それだけのために自ら危険を冒す。 本書の原形となった短編は「トライ・ザ・ガール(女を試せ)」だが、チャンドラーはそれ以後も大男をマーロウの道連れにした短編を書いているから、よっぽどこの設定が気に入ったのだろう。そしてそのどれもが面白く、そして哀しい。 そしてマーロウのトリビュートアンソロジーである『フィリップ・マーロウの事件』でも他の作家が大鹿マロイを思わせる大男とマーロウを組ませた作品を著している。つまり本書はアメリカの作家の間でもかなり評価が高く、また好まれている作品となっている。 あとなぜだか判らないが、忘れらないシーンとして警察署のビルを上っていくのをマーロウが気づくところがある。この虫はやがて18階の事件を担当する捜査官の机まで来ている事にマーロウは気づく。このシーンがやけに印象に残っている。その理由は未だに解らない。 本作の感想はいつになく饒舌になってしまった。そうさせる魅力が本書には確かに、ある。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
チャンドラーを読んだのは社会人になってからだった。学生の頃、私は敢えて読むのを避けていた。ある程度社会に揉まれてからでないとその面白さが解らないと思ったからだ。
学生の頃、ふいに目覚めたミステリへの興味は尽きることなく、島田荘司を足掛かりにしてその後新本格1期作家から派生していき、やがてガイドブック、『このミス』を片手に自分のミステリの幅を広げていった。そしてどのガイドブックにも書かれているのはハードボイルドというジャンルにおいてハメット、チャンドラー、ロスマクの御三家の名だ。特にチャンドラーの評価は三者の中でも広範囲の書評家に賞賛され、代表作とされる『長いお別れ』は早川書房から当時出ていた『ミステリ・ガイドブック』のオールタイムベストの人気投票で2位か3位に位置していた。 そんなことから社会人になったらチャンドラーを読むぞ!といつの間にか自分の中で目標が出来てしまった。しかし最初に手に取ったのは本書ではなかった。それは『長いお別れ』だった。この辺の経緯については語ると長くなるので、また後日語ることにする。 通常ならば読んだ順に感想を語るのが普通だが、私が読書メモを書く前に読んだ本に関する感想はその本に纏わる私の追想も混じっているので、順番自体に特別に意味はない。従って刊行順に即してチャンドラー作品の感想をこれから述べていきたいと思う。 この『大いなる眠り』はチャンドラーの長編第1作でハンフリー・ボガード主演で『三つ数えろ』という題名で映画化もされた。 既に有名な話だが、チャンドラーはこの『大いなる眠り』を著わす前に既に『ブラックマスク』誌などに短編の数多く発表しており、ほとんどの長編はそれら短編を原型にして組み合わせたような作り方になっている。従って、事件の途中でマーロウの捜査対象が変わり、寄り道をしているようで、その実、最後には最初に追っていた事件と繋がり、関係者に苦い余韻を残して事件が閉じられるというパターンになっている。 またこれらの短編にもマーロウは登場するが、これは後年チャンドラーが主人公をマーロウに書き換えたものだ。従って本書がフィリップ・マーロウ初登場作品である。つまり本書に描かれたマーロウこそ、当初からチャンドラーが構想していた“卑しき街を行く騎士”なのだ。 冒頭の一節からチャンドラーの本作に賭ける意気込みがびしびしと伝わってくる名文が織り込まれている。丘の上に立つ富豪を訪れるマーロウのちょっと緊張気味の仕草などは後のマーロウからは見られない所作で初々しさすら感じる。 端的にいえば金満家の娘に訪れたスキャンダル処理を頼まれたマーロウが自分の納得行くまで調査を行う物語。 ストーリーは難解(というよりも捻くり回されている?)でボガードが原作を読んだ後、「ところで殺したのは誰なんだ?」とぼやいたのは有名な話だ。 本作はアメリカの富裕層の没落を犯罪を絡めて描き、一見裕福に見える家庭が豊かさと幸せを履き違えたために招いた悲劇を卑しき街を行くマーロウという騎士が、自嘲気味の台詞を交え、自身の潔白さをかろうじて保ちながら浮き彫りにしていく。このフィリップ・マーロウ第1作にその後ロス・マクドナルドが追究するテーマが既に内包されている。 私はハヤカワミステリ文庫の清水訳を読んだ後だったので、本書で初めて接した双葉氏の訳は新鮮だった。個人的には清水氏よりもこちらの方が好きだ。 この作品で登場した時のマーロウは33歳。この時代の33歳と現代の33歳では明らかにその成熟さは異なる。なぜなら時代の不便さと治安の悪さゆえに、男が社会で生きていくことの厳しさが違うからだ。それは後年チャンドラーのあの有名な台詞でも証明されている。 そしてその戦いに疲れた男は題名が示す「大いなる眠り」に就くのだ。 ミステリにリアリズムを持ち込み、ハードボイルドという新しいジャンルを確立したのがハメットならば、それを文学に押し上げたのがチャンドラーだ。本書を読んだ後、しばらくの間、書く文章がことごとくなんだか皮肉めいて、そして比喩が多くなった。この偉大なる文豪はそんな風に僕にかなり大きな影響を与えている。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
本作は有栖川氏の『ダリの繭』同様、角川ミステリ・コンペティションの参加作品で文庫書下ろしで刊行された作品。
一読して驚くのは、非常に読みやすい文体と内容になっていることだ。ゴシック趣味溢れる『時のアラベスク』や『罪深き緑の夏』の同一作者とは思えないほど、普通のミステリとなっている。恐らく読者の人気投票で優秀賞が決まるというこの企画に即して、自らの持ち味をあえて殺し、普段本を読まない人でも読めるように意図したのではないだろうか。 出版社を退職し、翻訳者として第2の人生を歩むことに意気揚々としていた森本翠は女性編集者の瑠璃と祝杯を上げたその夜、愛猫の黒猫メロウが行方不明になり、心境穏やかでなくなる。 一方、近所のアパートでは駆け出しの役者鳴海が妻を殺害し、バラバラに解体していた。底に現れた1匹の黒猫。黒猫を必死に探す翠と、瑠璃、そして鳴海の人生が交錯しようとする。 退職した独身女性で唯一の家族が黒猫という60歳の女性、翠の思考がなんだか痛々しい。独り身の寂しさの拠り所が猫というのは、私も飼っていたので猫に対する愛情については理解できるが、やはり常人とはどこかずれていて、狂気さえ覚える。鳴海もボタンの掛け違えのような瑣末な事から起こしてしまった殺人を、どこか夢の中の出来事のように第三者的に捉えながら、その実、自覚せずにどんどん狂気の井戸の底に落ちていく。 そしてまた2人の狂人の緩和剤として挿入された瑠璃もまた、常識人とはちょっと違った特異な考え方を持っている。つまりこれは1匹の黒猫を軸にした3人の狂人たちの遁走曲なのだ。 作者の故服部氏は猫好きとしても有名だったので、どうしても翠と作者がダブって仕方がなかった(ちなみに作者は既婚)。 中身はごく普通のミステリで、結末も皮肉が利いている。前2作の雰囲気が好きな人にはあっさりとしすぎて物足りなさを覚えるだろうが、私は全く逆の立場だったので本作は服部氏の作品では最も評価が高い。 長らく絶版になっており、本書もまた忘れられていく一冊になるのだろう。そんな消えゆく作品を少しでも誰かの記憶にとどめて欲しいために私はこんな風に感想を書いているのかもしれない。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
横溝正史賞受賞後第1作の本書はなんとも幻想味溢れるミステリ。
熱海にある「蔦屋敷」と呼ばれる洋館をひょんなことから訪れた画家の山崎淳はそこで百合という美少女に出会う。12年後、淳の腹違いの兄の婚約者として百合と再会して以来、奇怪な事件が続発する。画廊で火事が起こり、淳の絵が焼失し、画廊の主人が焼死してしまう。さらに百合の兄はドライヴ中に事故を起こし、百合を半身不随にしてしまう。 全編貫かれるのはデビュー作『時のアラベスク』の世界観を更にもっとディープに耽美の方向へ推し進めた幻想的なミステリ。『時の~』はちょっとBL系の香りが漂っていたが、本作ではロリコン趣味を巡る兄弟の狂気の愛という味わい(すみません、こっち系の世界は疎いので、独断と偏見で書いてます。大いに勘違いしていたらゴメンナサイ!)。 森に佇む洋館にそこに住まう美少女という設定からして禁断の匂いを感じさせるし、その彼女に恋する腹違いの兄と父親の弟子と主人公の三つ巴というのも既にカタストロフィの予兆の足音が聞こえてくるのが解る。一種毒気ともいえるこの怪しい世界はなんとも現実離れしている。綺麗なバラには棘があるというが、本書はまさにそれ。 こういうのが好きな人には本書は堪らないかもしれない。秘密の果実の味わいに加えて、ミステリとしての謎と真相が盛り込まれているのだから、没頭すれば没頭するほど、陶酔感とカタルシスが得られるだろう。 しかしやはり私はこういうのはダメ。どうにものめりこめなく、生理的に受け付けない。好きな作家トレヴェニアンでさえ、同趣向の『バスク、真夏の死』は受け付けられなかった。 従って本書の評価は完全に私の趣味と嗜好の違いによる物だ。 本書の表紙も天野氏であるが、既に絶版である。私も既に売ってしまい、手元にない。作者もすでに亡くなっている事から、本書もまた出版界の奔流に飲まれて消え去る1冊になっていくだろう。もし持っている方がいれば、もはや手に入らない1冊なので、私の評価を参考せず、新しい目で読むことを願っている。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
私がなぜこの作家の作品に触れたのか、そのきっかけは今となってはもはや思い出せない。『このミス』でも何度かランクインしている新本格以前のミステリ作家であり、2007年、惜しまれながら夭折した。
本書は角川書店が開催する横溝正史賞を受賞した作品である。 出版記念パーティに寄せられた深紅の薔薇に包まれたナイフとファンの1人と思しき糸越魁なる人物からの脅迫状。作者の深井慶は自作の映画化のために関係者とともに渡欧するが、その最中にロンドンで父が殺される。一行は一旦帰国するが、再び渡欧することになり、再び糸越魁の襲撃に出会う。 非常に読者を選ぶ作品だと思う。少女マンガ的な登場人物と舞台設定は女性読者の方が肌にあっているのかもしれない。今にして思えばどこか『虚無への供物』に似た雰囲気を持った作品だと云えるかもしれない。 で、終始なんとももやもやした、掴み所のない感じで物語は進むが、横溝正史賞の名に恥じないトリックも盛り込まれており、率直な感想を云えば、それだけでも本書を読む意義はあったかと救われた思いがしたものだ。 ミステリとして読んだ私は最後の最後までこの世界観に没頭できなかった。おかげで犯人はすぐに解ったのだが。逆にこの手の作品が好きな人は雰囲気にのめり込めるだろうし、そういう人はミステリ的仕掛けにビックリするのかもしれない。そういう意味では横溝賞受賞というレッテルはもはや邪魔なのかもしれない。 現在は長らく絶版で、今なら電子書籍で読めるようだ。私が持っていた文庫の表紙は天野喜孝で、実に雰囲気とマッチしている。この頃はアルスラーン戦記とかけっこう文庫の表紙は天野氏のイラストが席巻していたんだなぁと関係のない事を思い出してしまった。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
タイトルを見ると綾辻行人氏の館シリーズを思わせるが、さにあらず。叙述ミステリの第一人者折原氏による館物ではなく、叙述ミステリである。
ミステリ講座を開いているロートル作家が再び世に大作を問わんと執筆活動に専念するため、山小屋に閉じこもる。そこへ現れた若く美しい女性。彼女は作家志望者で自分の書いた作品を男に見てもらいたいがためにその小屋を訪れたのだった。 その女性と親しくなり、英気を養った男は活発な創作意欲を発揮し、『螺旋館の殺人』なる自信作を見事完成させ、出版担当者に渡すが、その担当者は電車で移動中に居眠りしてしまい、原稿を紛失してしまう。 後日、ある女性が『サーキュラー荘の謎』という作品で新人賞を受賞する。その女性はなんと男を訪れた作家志望の女性であり、受賞作は彼の『螺旋館の殺人』そのものであった。そして受賞者は浴室で死体となって発見される。 とまあ、『倒錯のロンド』から派生した姉妹編のような作品だ。もともと折原氏は『倒錯のロンド』に始まる「倒錯」シリーズを三部作で構想しており、すでに2作目の『倒錯の死角』まで発表していた。本書はしかしそのシリーズの番外編と位置づけられており、「倒錯」シリーズにカウントされていない(ちなみに3作目は『倒錯の帰結』)。 作中に主人公のロートル作家の手になる『螺旋館の殺人』が断片的に挿入されるが、これが片手間で書かれたとしか思えないレベルの物で、読者の期待に応える出来ではない。一応本家綾辻氏を意識した文体で書かれているが、出来栄えは悪い。これでよく再起を賭けたものだと思うくらいだ。 御得意の作家志望者を軸にした盗作疑惑ミステリはその後、事実が二転三転はするものの、読んでてどうでもよくなってくる。最後のエピローグの落ちは個人的には不要だと思う。綾辻氏張りの館物を期待した読者は全くの肩透かしを食らうだろうし、折原氏の叙述トリックを期待した読者は物足りなさを感じるだろう。 折原氏の作品はどれも設定が似ているので続けて読むには面白みが半減してしまう。あの手の話が読みたいなぁと思った頃に読むのが得策だろう。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
火村・有栖川コンビシリーズの1作。本書はこのシリーズの第1作ではないが、私が読んだのはこれがシリーズ最初の1作だった。
私は基本的に文庫化されないと読まないというのは先の『マジックミラー』の感想にも述べたが、本書は第1作の『46番目の密室』よりも先に文庫で刊行された。 というのもこの作品は当時カドカワ・ミステリ・コンペ(通称「ミスコン」)というイベントで文庫書下ろしで発表された作品。確か10人くらいの作家に書き下ろし作品を書いてもらい、読者から優れた作品を選んでもらうといった内容だったと記憶している。この企画は恐らく好評であれば定期的に行われる予定だったのだろうが、結局1回で終ってしまった。また最終的にこの「ミスコン」でどの作品が1位に選ばれたのか寡聞にして知らない。 サルヴァトール・ダリを心酔する宝飾チェーンの社長が殺された。死体はフローとカプセルの中で発見され、彼のトレードマークであるダリ髭が無くなっていた。この事件に犯罪社会学者火村英生とアリスのコンビが挑む。 まず私はこの火村・アリスコンビは『月光ゲーム』、『孤島パズル』、『双頭の悪魔』のコンビと勘違いしていた。従ってかなり期待値が高かった。なぜなら両方とも作者同名の登場人物が出るので、この勘違いは私だけではないと思う、絶対! そんな大きな勘違いの下、読んでいたせいか判らないが、特に印象は残らなかった。髭が無くなるというのはこの作品の前に読んでいた天藤真氏の『鈍い球音』のトレードマークの髭のみ残して失踪するという逆パターンを想起させ、奇抜さを覚えず、逆に二番煎じだなと思ったくらいだ。 この作品でミスコンなる読者投票型イベントで上位を獲得しようともし作者が考えていたとしたら、自分の人気に胡坐をかいた行為であるとしか思えないのだが。 モチーフとなるダリもあまりストーリーに寄与しているような感じではなかったように思う。もう1つのモチーフ、繭を象徴するフロートカプセルは今でも鮮明に覚えている。 本書を読んだ私は当時大学生であったが、工学部に所属していた私はレポートに追われる毎日で、睡眠不足の毎日を送っていた。そんな中、本書に出てきたフロートカプセルはなんとたった20分浸かるだけで、9時間の熟睡と同じ効果が得られる(確か)という画期的な装置と紹介されており、一読、これはぜひ欲しいと思い、今に至る。またその分読書に時間を当てられると思ったりもした。 この本を読んでもう15年以上は経つが、今でもあるのだろうかこのフロートカプセル。結婚し、自分の時間がなかなか取れない日々、もしあればぜひとも欲しいアイテムではあるのだが。 という風にミステリとしての出来よりもこのフロートカプセルに思考が行ってしまう、そんな作品だ。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
私の有栖川作品初体験はデビュー作の江神・有栖川コンビの『月光ゲーム』ではなく、火村・有栖川コンビの第1作の『46番目の密室』でもなく、このノンシリーズの作品だ。
文庫派である私は単行本、ノベルスで刊行された作品が文庫落ちしてから読むのを習慣としている。この文庫落ちのスパンというのは3~4年が通例なのだが、東京創元社は概ねこの文庫化になるスパンが長く、しかもまちまち。『月光ゲーム』は単行本刊行後5年後で比較的早くはあった。 余呉湖畔の別荘である女性が殺される。それは作家空知がずっと慕っていた女性だった。容疑者と思われた夫は事件当時福岡におり、またその双子の弟は新潟にいてそれぞれのアリバイは完璧だった。空知は亡くなった女性のため、その妹と一緒に独自に事件を調べる。 やがて双子の片割れが頭と手首を切断された死体として発見される。 時刻表トリックに双子の登場、そしてその片割れが頭と手首を切断された死体になるという、まさに本格ミステリ王道を行く設定だ。 新本格組では法月綸太郎氏がクイーンの後継者としてデビューしたが、有栖川氏も熱心なクイーン信奉者であり、さらに自身国名シリーズまで出しているくらいだ。法月氏は早々に後期クイーン問題に直面し、悩める探偵となり、寡作家になってしまったが有栖川氏はデビュー以来着実に作品を刊行し、いまや現代本格ミステリの第一人者になっている。 そんな彼の最初期の作品である本書にはなんと登場人物を介してのアリバイ講義が盛り込まれており、自らの知見の広さを披露するという度胸振りだ。基本的に私はアリバイトリック物のミステリはほとんど読んだことが無かったため、挙げられている作者は私の守備範囲ではないが、それでも興味が湧いた。 そんなガチガチの本格ミステリを展開しながらも、お話としてもほんのりとしたペーソスが施されており、単なるパズル小説・トリック小説に終っていない。一番最初に「おっ」と思ったのはコーヒーか紅茶だったか、喫茶店で角砂糖を入れるところの何気ない描写。ここに他の新本格作家にはない情緒を感じた。 そして最後の緊張感溢れるサプライズは映像的でドラマ化されても十分映えるシーンだ。いやむしろミステリドラマを意識したかのような演出だ。単純に関係者を集めて長々と推理を披露した上で犯人を名指しするというオーソドックスな本格ミステリが多い中、こういう演出は新鮮だった。そしてさらに仕掛けた作者の企み。これをフェアと取るかアンフェアと取るかはその人のミステリ嗜好によるだろうが、私は有りだと思った。 最近になって新装版が刊行されたがそれもまた納得。時刻表ミステリは廃線や廃車となった車種もあるのですぐに時代の流れに風化されやすいが、現代本格ミステリの第一人者の初々しい頃に触れる意味でも、本書を手に取ってみてはいかがだろうか。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
日本推理小説三大奇書の1つと呼ばれている。私は他の2冊、小栗虫太郎氏の『黒死館殺人事件』と夢野久作氏の『ドグラマグラ』は読んでいないが、これだけは読んでいた。
確かきっかけはその頃各種ガイドブックを読み漁っていたのだが、そのどれにも本書が取り上げられ、しかも評価が高かった。そしてたまたま行きつけの書店の平台に青い薔薇の顔をした人物が市松模様の床に佇む表紙をあしらった文庫が置かれているのを見て、惹きつけられる物を感じ、そのまま手に取ってレジに向かったのがきっかけだった。いわゆるジャケ買いというやつだ。 まず驚いたのは非常に読みやすい文章。他の2作品は書店でちらり見をしたことがあったが、なんとも古式ゆかしい文章で、改行も少なく、読み難くて取っ付きにくさばかりが目立ったので敬遠していた(これは今に至ってもそう)。つまり私のミステリマニア度の境界というのはどうやらこの辺にあるらしく、これらの2つは私のマニア境界線の外に位置する作品なのだ。 氷沼家に伝わる因縁話を端緒に、その一家の1人藍司の友人でシャンソン歌手奈々村久生と、ゲイバーに居合わせた久生の友人、光田亜利夫が探偵ごっこよろしく、「ヒヌマ・マーダーケース」と称して勝手に捜査を始めたところ、第1の被害者が現れて、本当の殺人事件に巻き込まれるといった内容。 本書の読みやすさはひとえにこの久生の明るく軽いキャラクターによるところが大きいと思う。ホームズ役を買って出て、友人の亜利夫をワトソン役にしたて、トンデモ推理を披露する。 また本書はアンチ・ミステリと呼ばれており、どうも本書に初めてその名を冠せられたようだ。Wikipediaによればアンチ・ミステリとはその名の通り、作中内で過去の推理小説のトリック・ロジックについてその現実性、必要性などを論議して揶揄することという風に書かれている。今更ながらだが、これは今のミステリ、ミステリ作家ならば誰もがやっていることで、まず私が再びミステリを読み出すきっかけとなった島田氏の『占星術殺人事件』からして、シャーロック・ホームズの作品について痛烈な批判をしているから、これもアンチ・ミステリとなるだろう。アンチ・ミステリって何だろう?と思って本書を手に取ると、何がアンチなのか解らないだろう。実際私がそうで、読み終わった後、あれがアンチなのかと全く別のことで解釈していた。 つまりアンチ・ミステリとはもはや死語であると云っていいだろう。 物語の雰囲気は最初の舞台がゲイバーだったり、シャンソン歌手が登場したり、亜利夫の渾名が「アリョーシャ」だったり(これはけっこう恥ずかしいと思うが)、「サロメ」について語られていたり、幻想的でサイケなムードが横溢しているように感じたが、先に述べたように久生のキャラクターが見事な緩衝材、シンナーとなっていてマニアでなくともとっつきやすくなっている。 そして動機の部分。これは印象に残った。カミュの『異邦人』を思い起こさせる、観念的な動機であるが、私は受け入れることが出来た。私はこの動機がアンチ・ミステリなのかと当時勘違いしていた。なぜならこの動機は今までの捜査で得られたデータからは推理できないからだ。この文学的ともいえる結末は私の好みだった。 この『虚無への供物』に纏わる話はつとに有名なので改めて語らないが、個人的な感想を云えば、あまりに世間の、ミステリ書評家たちの評価が高すぎるような気がする。それが逆に味読の人たちへ過大な期待をかけ、評価を低くしているようだ。歴史的価値というのはその後の亜流が出回ることで時が経つに連れて風化していくものだ。私は本作が「日本三大奇書の1つ」、「アンチ・ミステリの始祖」といった大仰な冠が付けられたゆえに、それが足枷になっている不幸な作品だと思えてならない。既に逝去した作者がもし生きていたら、この現状をどう思うのか。私にはこれらの過大広告が本書に対する「虚無への供物」ではないかと考えてしまうのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
本書も『ミスター・マジェスティック』同様、レナード初期の作品。本書も初期作品群の例に洩れず物語は非常にシンプル。
ある事情でアメリカからイスラエルに亡命していた男が3人の殺し屋から命を狙われ、逃亡しまくるお話。 まず舞台はイスラエルとレナード作品の中では異色である。 発表されたのは1977年であり、この頃ハリウッド映画で流行ったロード・ムーヴィー張りのカーアクションとガンファイトが盛り込まれて非常に派手。それゆえに今の作品には無い面白さを兼ね備えている。 特に今回は主人公デイヴィスがカッコよく、最後のセリフも見事決まる。 本当にアクション映画を観ているような作品である。 こういう作品こそ、レナードの真骨頂だと思うのだが、売れなかったからやっぱり捻った作品を書いてしまうのね。まあ、レナードに云わせりゃ、登場人物が勝手に動くだけなんだってことなんだけど。 こうやって一連のレナードの作品に対する私の評価を見てみると、世間の評判と必ずしも、いやほとんど一致していないことが解る。特に『このミス』のランキングとは全く違う。『このミス』では20位圏外に位置しているレナード作品の方が面白く読めた。 まあ、これらの作品を読んだのは20代半ばの頃だから、大人のウィットよりも痛快さ、明快さを求める傾向にあったのかもしれない。 しかし最近刊行されているレナードの新作を読んでも、途中はすごく面白いのに、最後の一捻りがどうも合わない。 だからといってレナード読まなくなることはないんだけど、この『追われる男』のシンプルさと痛快さを知っている私はこの頃の作風の方がやっぱり好みなのである。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
一度作品が売れ出すと、各出版者がこぞってその作家の作品の版権を買い漁り、うちも一儲けしようとするのは商売の原理。作品数は限られているので、各出版社はとにかく実弾を持っていないと、と初期の作品までさかのぼって青田買いの如く訳出されるのは世の常である。こういうのは色々と問題があるのだろうけど、未訳作品が読めるのは一ファンとして素直に嬉しい。
そしてこの作品もそのうちの1つで、レナード不遇時代の1974年に書かれた作品。以前他の作品でも書いたが初期のレナード作品は非常に物語構成がシンプルなのが特長で、本書も一言で云うならば 「おれのメロンの収穫を邪魔するんぢゃねぇ!!」 と一行で要約できるくらいだ。 殺し屋の逆恨みを受けた農場主ミスター・マジェスティック。しかし彼はそんなことよりも自分の育てたメロンの収穫が気になって仕方なく、それを邪魔する輩と容赦なく立ち向かうことに。 最初の殺し屋との係わり合いに捻りがあるものの、基本的な物語は実にストレート。最後の対決まで一気呵成に突き進む。 この最初の殺し屋とメロン農場主がどうして対決するのか、その成行きは現在のレナードの先の読めないストーリー展開の下地として既に見られるのが興味深い。 とにかくミスター・マジェスティックがカッコいい。 こんな農場主、日本にはいない! なんでもこの作品は映画化されたそうで、主人公のミスター・マジェスティックはチャールズ・ブロンソンが演じたそうだ。これはまさに適役だなぁ。レンタル店に行った時にちょっと覗いてみよう。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
この『グリッツ』もレナードのレナードの傑作の1つとされている。
マイアミ・ビーチ警察のヴィンセント・モーラは強盗に撃たれ、プエルトリコで療養中だったが、そこである女性アイリスと懇意になる。一方、以前モーラが刑務所にぶち込んだテディが出所し、復讐を企んでモーラの身辺をうろつくようになった。 やがてアイリスはモーラの制止も聞かず、カジノ・ホテルへホステスになるために向かうが、2週間後、ビルから不審な転落死を遂げる。 確かにいきなり主人公が撃たれる導入部は一気に物語に放り込まれ、怪我の静養中の主人公を襲う殺し屋の存在などハラハラする要素もあるが、なんせこの主人公がやたら女にモテるので、あまり感情移入できない。 タフではあるが、それほどいい男に見えないだけどなぁ。 レナード物では珍しく刑事が主人公なのだが、その特長を十分に活かしているようには思えず、いつものレナードストーリーが繰り広げられるだけだ。 面白くなる予感はずっとあったんだけど、その予感だけで最後まで行ってしまった、つまりレナード作品にありがちな肩透かしを食らった、そんな感じだ。 どうもレナード作品に関しては世間の傑作という下馬評と私の求めている物とは大きな隔たりがあるようだ。残念。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
『このミス』の過去のランキングを見ると、ランクインしたレナード作品の多くは文藝春秋社から出版されたものが多い。文春文庫のレナード作品を手に取ったときは扶桑社→創元推理文庫→HM文庫→角川文庫と渡り歩いてようやく本道に入った感があったものだ。
文春文庫のレナード作品は本作で出てくる主役の1人スティックが出てくるその名も『スティック』という作品が刊行番号が1番となっているが、当時私がレナードに手を出した時点で既に絶版となっており、これについては未だに入手できていない。数年後、私が海外に赴任して初めてその作品と遭遇する。先人の残した書籍の山にあったのだ。その感想については既に述べているのでそちらを参照されたい。 で、本作は文庫刊行番号2番の作品で、『スティック』の1つ前の作品となる。つまり原書の刊行は『スワッグ』の後に『スティック』となっているわけだ。エルキンズの作品の時にも述べたが、日本の出版社は手っ取り早く固定客を掴むために、その作家の有名作やベストセラーの作品を最初に訳出するという、シリーズ物を順番に読むことを好む読書好きにとっては非常に嫌な販売戦略がある。商売の原則から云えば、確かにそれが正しいのだろうけど、書籍販売が文化事業の一環であるとの認識から通常の商売の原理をそのまま適用するのとはちょっと違うところがある。まあ、この辺について語ると返本精度や価格固定販売にまで論が広がる恐れがあるのでこの辺で止めておこう。 ひょんなことで知り合った自動車泥棒スティックとフランク。一番手っ取り早く大金を稼ぐ方法を考えていたフランクはまた“成功と幸福をつかむための十則”という独自の成功哲学を持っていた。そして大金を稼ぎ、なおかつその十則を適用した酒店やスーパーを標的にした武装強盗を2人で組んで乗り出すことになる。 これが予想以上に上手く行き、たちまち生活が豊かになる2人。やがて野心家のフランクはさらにでかい勝負に出ようと特別なプランをスティックに明かすのだが、それが運命の分かれ目だった。 この武装強盗というアイデアはなかなか面白く、彼らがたちまち小金持ちになっていくあたりは痛快だった。しかし物語はレナードのこと、このままでは行かず、またもや予想外に、ひねって歪んで展開する。 ピカレスク小説としてこのまま描いて欲しかったというのが本音だが、それをレナードに求めてはやはりいけないのだろう。 また主人公の1人フランクに、感情移入できなかったのも私が本作の評価を低くすることにもなった。なんせ私のお気に入りキャラ、チリ・パーマーを読んだ後だから、その落差が激しかった。 しかしフランクという名前も多いな、レナード作品には。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
数あるレナード作品の中で最も好きな人物を挙げよと云われたら、私は迷うことなく本書の主人公チリ・パーマーを挙げる。
本作は映画化もされ、ヒットしたレナードの大傑作! マイアミの高利貸し屋チリ・パーマーは飛行機事故で亡くなった男の遺族から金を取り立てることになったが、なんとその男は生きていることを知る。偽装死亡による保険金詐欺をまんまと成功させたその男はラスヴェガスに逃げていることを知らされる。しかしさらにその男はラスヴェガスで大儲けした後、LAに高飛びしていた。チリは借金を取り立てるため、ハリウッドに乗り込む。しかしそこで出会ったのは借金を抱えた映画プロデューサーと売れない女優。映画好きのチリは彼らとともに映画でひと山当てようと企み、ハリウッド映画界の内幕に入り込んでいく。 『五万二千ドル~』の感想でも述べたがレナードの映画好きはつとに有名で、本書ではその趣味が実に物語と融合して痛快な1作に仕上っている。レナード自身、脚本家でもあり、また自作の映画化作品などでハリウッド映画業界に携わったことがあるため、業界の内幕には詳しく、暴露話が織り込まれている。これが作品のテーマと非常に密接に関わり、相乗効果を上げている。 この設定に「おれの目を見ろ」が殺し文句のはったりで世間を渡り歩くタフガイ、チリの造型がマッチして、非常に小気味よい。さらにかつての栄光をもう一度と願う冴えない映画プロデューサー、ハリー(またこの名前だ)とかつてホラームーヴィーで絶叫女優としてひっぱりだこだったキャレン、さらにセレブ俳優マイケルと出てくるキャラクターは他のレナード作品と比べても豪華。私が持っているのは映画化の際に出版された物で表紙は同映画の宣伝ポスターのような装丁になっており、ハリーがジーン・ハックマン、キャレンがレネ・ルッソ、マイケルがダニー・デビートとキャスティングさえも頭に浮かびやすくなっていた。とにかくこんなに面白い本があるのかとずっと思いながら読んでいた。 そしてあわやチリの語る数々の逸話が映画の脚本として採用されそうになるのだが、そこはレナード、全く予想も付かない結末に導く。 しかもこの結末はもう物語の神様がレナードに下りてきたかのように散りばめられた布石がカチッと嵌る。私は最後の方で思わず声を挙げたくらいだ。 作者もチリ・パーマーをよほど気に入ったのであろう、続編『ビー・クール』も書かれている。 なお、題名の意味は「あのチビを手に入れろ」。 チビの正体はすぐ解るが、それも素人が遭遇する芸能界のあるギャップを表していて面白い。 なお、往々にしてレナードの映画化作品は出来が悪く、不満が残り、また作者自身も公然と不平をぶちまけているが、バリー・ソネンフェルド監督による本作の映画は原作同様、実にいい仕上がりになっている。初めてレナードが手放しでその出来栄えを誉めたくらいだから、それからも解るだろう。映画版は本書とは別の結末で閉じられる。これについては賛否があるようだが、私個人としてはそれもまた秀逸と思っている。 興行成績も良かったようで、この映画からレナードの作品が次々と映画化されだした。 先の読めないストーリー、個性的なキャラクターにレナード個人の趣味が実に有機的に混ざり合った傑作だ。こういう作品があるからレナードはやめらない。 比較的手に入りやすいし、初心者には本書から入ることをお勧めしたい。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
この奇妙な題名は英語ではなく、イタリア語。意味は“もしもし”。そう、電話に出る時に云うあの“もしもし”だ。レナード作品の舞台といえば、フロリダのある南アメリカやメキシコなどの中南米が多いが、本書では海を越えたイタリア。しかし地中海に面したこの国はヨーロッパでも温暖な気候であり、ラテン系民族が多くて国民性は陽気だから、扱う人物達もそう変わらないのだろう。
スポーツ賭博師であるハリー・アーノウは65歳で引退し、イタリアの地で晩年を過ごそうと計画していた。しかし儲けをくすねていたことが元締めにばれた上、FBIが元締めを逮捕するために張った罠のおかげで、命を追われるようになった。保釈されたハリーは早速憧れの地イタリアに飛び、恋人を呼び寄せるが、元締めの手下と警官も彼の後を追ってきて・・・。 主人公が66歳というのがまず驚く。1993年の作品である本書を著わした時のレナードの年齢は68歳だから、同じ年代の人物を主人公にしたようだ。このハリーは実在した詩人エズラ・パウンドに心酔しており、彼のゆかりの地であるイタリアで隠居生活を送ることを理想としているのだが、面白いことに心酔する詩人の詩をちっとも理解していないのだ。こういうミーハー心というのは日本人も往々にしてあることで、映画・ドラマや音楽や小説・エッセイなどをろくに読んでなくても「ファンです」と公言する輩はかなりいる。 大抵のアメリカ人は引退後の生活をフロリダで暮らしたがるそうだ。人生残りの日々を南国でお気楽に暮らしたいというパラダイス願望というのがあるのだろう。無論私もそういう生活に憧れるのだが、何もせずに暮らすというのが出来ないのが日本人の特徴で、退職してもなお働きたいという人が多くいる。この辺は全くアメリカ人は理解できないらしい。 このハリーの願望がそのままレナードのそれを投影しているかどうかは解らないが、風光明媚なヨーロッパというのはやはりアメリカ人にとっても憧れではあるようだ。エルキンズなんかは特にその作品を読むとその傾向が強いことがよく解る。しかし物書きとしてなかなか踏み切れないところがあるだろう。まあ、当っているかどうかも解らない勘繰りはこの辺で止めておこう。 本書でも個性的な面々が本作は出ているのだが、なんか全体的に話が散漫に感じた。レナードには珍しく、主人公のハリーがなかなか動かないキャラクターだった。賭博師という裏社会を渡り歩いた彼の老獪さはあるものの、やはり従来のレナード作品に出てくるような元シークレットサービス、元特殊部隊、警官、刑事らとは違い、肉体的な動きが少なく、知謀知略、いや正確な書き方をするならば悪知恵を働かせて戦うのではなく生き延びることを模索するキャラクターというのはある意味レナードにとっても挑戦だったのかもしれない。が、しかし本書を読むには成功しているとは思えない。 本書は当初ハードカヴァーで出た。けっこうな分量もあり、それなりに値段も高かったように思う。これは文藝春秋がレナード作品を同じ版型で出していたことを受けての出版だったのだろうが、本書が訳出された94年では既に文藝春秋は文庫へと版型を移行しており、角川書店は遅きに失したようだ。私は文庫版で本書を読んだが、実際この後同会社から出たレナード作品は『ゲット・ショーティ』以降、文庫で出版されているから、本書はあまり売れなかったのだろう。これは世の流れを読み誤った出版社側のミスでもあり、版型を決める際に中身を吟味すべきだったと思う。 海外ミステリの不況が嘆かれる昨今だが、昔から海外ミステリの出版状況を見ていた私にしてみれば、本書のようなコストパフォーマンスの低い作品をハードカヴァーで出して利益を得ようとした出版社側の怠惰も大いにあるのではないかと強く思う。 そういう意味では罪深い一冊ではないだろうか(ちょっと云い過ぎ?)。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
MWA賞受賞作であり、一般的にレナードの代表作とされている。さて、この本に至るまで私の中でのレナードの評価はうなぎ上り。しかもそれらは何の賞も受賞していない作品であった。従って本書への期待は否が応にも高まった。
元シークレットサービスの捜査官で今は写真家のジョー・ラブラバ。陽光煌くマイアミに暮らしていた彼はそこで1人の女性と知り合う。それは彼が少年の頃、憧れていた銀幕のスター、ジーン・ショーだった。ジーンは年を取っていたが、ちっとも魅力は衰えていなかった。その頃の憧憬が甦り、ラブラバはジーンに近づき、懇意になる。しかし彼女の周りにはならず者や脱獄犯などきな臭い連中がなぜか集まる。彼らは彼女の財産を狙っていたのだ。憧れの君を救わんべく、ラブラバが悪党ども相手に立ち回る。 結論から云えば、下馬評の割にはちょっと期待はずれ。 主人公の名ジョー・ラブラバは一連のレナード作品に登場するタフガイで、しかも元シークレット・サービスという職業柄、知性も感じさせる。 このラブラバがかつての銀幕スターでラブラバの憧れの人に逢い、騎士役を買って出るというのは実にレナードらしい心憎い演出だ。 が、しかしなんとものめり込めない。 理由は3つあって、1つは全編に散りばめられた40~50年代映画の薀蓄。ヒロインが元映画スターだからこれは仕方ないだろうし、逆にレナードがかなりの映画ファンだというのは周知の事実であるから、逆に云えばレナードは自分の薀蓄を曝け出したいがためにこの設定を持ち込んだのではないかと思われるくらいだ。しかしこの40~50年代の映画というのが当時20代の私にはさっぱり解らない。自分もかなり映画好きだが、この辺のクラシック・ムーヴィーは守備範囲外。従って何がそんなに楽しいのか、全く解らなかった。1つでも知っている映画があるとまた違うのだろうけど。 もう1つはジーンという年増女性がヒロインだということだ。当時の私は大学出立ての社会人。当然合コンなどもあり、実際毎月参加していた。そんな年頃だから、もっぱらの興味は同年代の女性だったし、逆にジーンと同年代の女性は職場にしかいなく、申し訳ないが全く恋が芽生えるなどという気になったことはなかった。ちなみに『五万二千ドル~』同様、作中に出てくるジーンの写真と思しき物が文庫表紙にあしらわれており、ジーンという女性がどんな女性か、イメージしやすくなっている。ハヤカワ・ミステリ文庫の表紙は素晴らしいね。 しかし今ならばこのラブラバの気持ちも理解できるだろう。アンチエイジングという言葉がさかんにメディア上で発信される中、ジーンの年代(たしか40代だったと思うが)の女性は綺麗だし、熟女などという言葉も流布しているくらいだからだ。別に私にそういう興味・趣味があるわけでないが、齢も近くなり、この年代の女性の美しさ、魅力というのが解る年頃になったということだ。そういう意味ではちょっと早すぎた作品だったのかもしれない。 しかし最大の理由はこのタフガイと思われたラブラバの見せ場が意外に少なかったこと。タフガイなんだけど、なんだか活躍の場がないままで、逆にジーンが物語をかっさらってしまったような感じだった。その名が題名にもなっているのにもなんとも影の薄い主人公なのだ。 ということで、題名と中身が一致しないなぁというのと、これで受賞?という懐疑が先に立ってしまい、私の中では佳作という位置づけになっている。 思えばこれがレナードテイストなんだろう。逆に云えばアメリカ探偵クラブの方々はこの妙なツイスト感が当時新鮮に移ったのかもしれない。定石どおりに物語が進まない展開が。あと、考えられるのはもしかしたら審査員の方々がレナードと同年代、もしくは近い年代で作中で語られる映画の薀蓄がツボにはまったのかもしれない。 現在、クライム・ノヴェルの巨匠という名声を得ているレナード。それに対して否定はしないが本作を代表作とするには異議がある。各種ガイドブックはもっと他の作品も取り上げてほしいものだ。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
ハヤカワ・ミステリ文庫で出版されているレナード作品はこれと『ラブラバ』の2作しかないが、後者はMWA賞受賞作であり、その頃流布していた各種ミステリ・ガイドブックにはレナードの代表作として必ずといっていいほど、『ラブラバ』が取り上げられていた。
『ムーンシャイン~』から『野獣の街』、『スプリット・イメージ』と立て続けにレナードの痛快クライム・ノヴェルを読んで、さらにこの上があるのかと期待が高まる中、その前に文庫の背表紙番号の若い順ということでこの作品を読んでみた。 浮気の一部始終を撮られたフィルムをネタに実業家のハリーは強請りを受けるが、断固として拒否する。しかし脅迫者は強請りの手を緩めず、それは次第にエスカレートしていく。苦悩するハリーはしかし、自分の中で何かが目覚めるのに気づく。 結論。面白い!非常にわかりやすいストーリーで非常に気持ちがいい。こちらも初期の作品で主題がはっきりしており、しかも展開がスピーディかつ荒々しさを備えている。 特に当初浮気がバレて恐喝される冴えない中年男だった主人公が昔、戦争時にパイロットだった時の狼の牙を思い出して、逆に恐喝者たちを返り討ちにしようとするプロットは、よくある話だけれども非常に胸の空く展開だ。 この主人公ハリー・ミッチェルに私は「結婚したマーロウ」という感慨を抱いた。 被害者が必ずしも弱いわけでなく、誰もが隠れた牙を持っているのだとレナードは示したかったのか。それとも被害者ハリーの戦争体験が彼の行動原理となるあたり、当時まだヴェトナム戦争の翳が覆っていたアメリカの狂気がレナードをしてハリーという男を生み出させたのか。 表紙にヌードの女性をあしらっているのは本書に出てくる情事のフィルムの一場面を切り取っているかのようで、それが視覚的効果を高めている(決して表紙が裸の女性だからいいという意味ではない)。 しかしレナードの作品はハリーという名前の男が多いな・・・。 |
||||
|
||||
|