■スポンサードリンク
Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1433件
閲覧する時は、『このレビューを表示する場合はここをクリック』を押してください。
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
東京創元社によるオリジナル短編集第4集。
収録作は表題作、「カーテン」、「ヌーン街で拾ったもの」、「青銅の扉」、「女で試せ」の短編5編。 表題作の主人公には名がないが、マーロウだというのが定説になっている。これは『大いなる眠り』の原形とされる作品。 「カーテン」は探偵カーマディが、逃亡幇助を頼まれた友人のラリーが結局自分一人で逃げた矢先に殺されてしまった事から、ラリーの関わった友人の捜索に乗り出す。 金持ちの依頼人と蘭の温室で対面するシーンは確かに『大いなる眠り』にも見られたシーン。 「ヌーン街で拾ったもの」はヌーン街で見かけた金髪の女性の代わりに、一台の高級車から落とされた荷物を拾ったことからハリウッドスターとマフィアとのある企みに巻き込まれる話。 「青銅の扉」は夫婦仲の悪いうだつの上がらない亭主が散歩中、出くわした馬車に連れられ、ある骨董商の競売に参加し、そこで青銅の扉を手に入れるところから物語は始まる。この重厚な扉は実は時空の狭間とも云うべき無の空間に繋がる扉で、主人公がこの扉で気に食わない人間を次々に消してしまうという話だ。 「女を試せ」では再びカーマディが登場。ギリシア人の床屋の主人の捜索でセントラル・アベニューを訪れたカーマディが、たまたま出くわした大男スティーブ・スカラに否応無く彼のかつて愛した女ビューラの捜索に巻き込まれる話。 ここで現れる一人の女を追い掛ける大男は大鹿マロイではなく、スティーブ・スカラ。最後の幕引きも同じようなものだったか?凶暴かつ乱暴で野獣のように思われた大男。自分の目的のためには人を殺す事も躊躇わない大男。だのに女にはこの上ない優しさを見せる。自分を撃った女に対して「放っておいてやれ。やつを愛していたんだろう」と慈悲を与える不思議な魅力を持った男だ。こういう男は多分に母親の愛情に飢えていたのだと思われる。 本作では『大いなる眠り』と『さらば愛しき女よ』というチャンドラーの2大傑作の原型となった作品が読める。長編と読み比べてどう変わったのか確認してみるのもまた面白いだろう。 従ってベストは「女を試せ」。次点は変り種「青銅の扉」か。 この東京創元社が編んだ短編集には抜けている作品もあり、これらを全て補完したのが後年早川書房から出た文庫版短編集である。ただあちらはこちらと区別するためか題名が原題のカタカナ表記であり、なんとも味気ない感じがする。チャンドラーの持つ叙情性は日本語の美しさと通じるものがあると私は思っているのだが、それが見事に損なわれている。 表紙も含め、チャンドラーのイメージに合うのはこちらの短編集なのだがチャンドラーの作品を網羅しようと思うと物足りない。チャンドラリアンにとって日本の出版事情とはなんとも具合の悪いことだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
東京創元社によるオリジナル短編集第3集。
収録作は「ベイ・シティ・ブルース」、「真珠は困りもの」、「犬が大好きだった男」、「ビンゴ教授の嗅ぎ薬」、表題作の短編5編。 「ベイシティ・ブルース」は特に上昇志向が強く、降格された恨みから犯罪まで犯すド・スペインのキャラクターの濃さは本短編集でも異彩を放つ。 「真珠は困りもの」は恐らく親の遺産で悠々自適に暮らしているウォルター・ゲイジが婚約者の依頼で探偵を務める話。 このウォルターが坊ちゃんで、自意識過剰、自信家なところが他のチャンドラーの主人公と大いに違い、逆に他の短編に比べて特色が出た。特にウォルターがいきなり盗難の犯人と目したヘンリーに真珠が模造である事を話すところなど素人丸出しで、チャンドラーが他の探偵とウォルターをきちんと書き分けていることがよく解る。 「犬が大好きだった男」は失踪した娘の捜索を頼まれたカーマディが唯一の手掛かりとしてその娘が連れていた犬を追って、獣医、強盗犯、精神病院へと次々と場面展開していく。死人も多く、激しい銃撃戦もあり、一番ハードな作品。しかもカーマディが麻薬を打たれて病院に監禁されてしまうシーンは確か長編でもあったように記憶しているがどの作品だったのか思い出せない。ロスマクのアーチャー物でも同様のシーンがあったように思うのだが。 「ビンゴ教授の嗅ぎ薬」はその題名から本格ミステリを早期させるが違う。これもうだつの上がらない亭主が主人公で、彼がビンゴ教授と名乗る奇妙な紳士から、嗅ぐと透明になるという嗅ぎ薬を手に入れる話。その透明になる薬を利用して妻の浮気相手を殺すのだが、そこから通常の透明人間譚とは違った全く予想外の展開を成す。つまりチャンドラーは警察というのは本格ミステリに描かれるようにおバカではなく、そう簡単に容疑者を信じたりするものではない、あくまで問い詰め、とことんまで追い詰めるのだ。そして自説が間違っている事に気づいても決してそれを認めないのだというアンチテーゼを示したのだとも考えられる。密室殺人とファンタジー風味の透明になれる薬をチャンドラーがブレンドするとこんな話になるのだ。 「待っている」は一夜の出来事を語った物語。それぞれの人物が何かを待っている。静かな夜に流れるラジオの音楽など、ムードは満点。限られた空間で起こる一夜の悲劇。それはトニーをこの上なくやるせない気持ちにさせる。その夜、トニーは兄を失ったが、代わりに何かを得たのか?それは解らない。 本書に収録された作品は実にヴァラエティに富んでおり、収録作には外れがない。通常のプライヴェート・アイ物もそれぞれの探偵に特色があり、面白い(特に「真珠は困りもの」のウォルター・ゲイジが秀逸)。チャンドラーらしくない「ビンゴ教授~」もアクセントになっていて、全4冊の短編集の中でこれがベスト。チャンドラーも意外と手札を持っているのが解る作品集だ。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
東京創元社によるオリジナル短編集第2集。
収録作は「事件屋稼業」、「ネヴァダ・ガス」、「指さす男」、「黄色いキング」の短編4編にエッセイ「簡単な殺人法」。ベストは「ネヴァダ・ガス」、「簡単な殺人法」。以下、かいつまんで感想を述べる。 「事件屋稼業」はけっこう散文的な内容で、犯人はチャンドラーの定番ともいうべき人物。しかし、依頼を受けて最初に訪れたところに死体があるっていうのはもはやチャンドラーの物語のセオリーのようになってきている。殺す対象が違うような感じもし、犯人の動機もちょっと説得力に欠ける。ただ出てくる登場人物が全て特徴的。最初のアンナからジーター、アーボガスト、ハリエットにフリスキーとワックスノーズの悪党コンビ。そしてマーティー・エステルと、一癖も二癖もある人物が勢ぞろいだ。この作品からプロットよりも雰囲気を重視しだしたのかもしれない。 「ネヴァダ・ガス」は他の短編に比べ、いきなり毒ガス車で人が処刑されるシーンという読者を惹きつける場面から幕が開けるのがまず印象深い。この導入部はハリウッド・ムービーを想起させる。この時既にチャンドラーはハリウッドの脚本家として働いていたのだろう。 「黄色いキング」のレオパーディ殺害の真相は、ちょっとアンフェア。もうちょっと何かがほしかった。レオパーディの造形は良かったが、ちょっと物足りない。 ただ1つ印象に残った文章があった。 「(スパニッシュ・バンドが低く奏でる蠱惑的なメロディは、)音楽というより、思い出に近い」 音楽に関して時折感じる感傷的なムードをこれほど的確に表した表現を私は知らない。どう逆立ちしても思いつかない文章だ。 歴史に残る名エッセイは何かと問われれば私はこの「簡単な殺人法」を挙げる。これはチャンドラーが探偵小説に関する自らの考察を述べた一種の評論。論中で古典的名作を評されているA・A・ミルンの『赤い館の秘密』、ベントリーの『トレント最後の事件』、その他作家名のみ挙げた諸作についてリアリティに欠けるという痛烈な批判をかましている。 その前段に書かれている「厳しい言葉をならべるが、ぎくりとしないでほしい。たかが言葉なのだから。」という一文はあまりにも有名。 本論では探偵(推理)小説とよく比較される純文学・普通小説を本格小説と表現している。そしてこの時代においては探偵小説は出版社としてはあまり売れない商品だと述べられており、ミステリの諸作がベストセラーランキングに上がる昨今の状況を鑑みると隔世の感がある。 チャンドラーはこの論の中で、フォーマットも変わらぬ、毎度同じような内容でタイトルと探偵のキャラクターである一定の売り上げを出す凡作について嘆かわしいと語っている。しかし私にしてみれば、チャンドラーの作品もフォーマットは変わらず、探偵や設定、そして微妙に犯行内容が違うだけと感じるので、あまり人のことは云えないのでは?と思ってしまう。 またセイヤーズの意見に関して同意を示しているのが興味深い。その中でチャンドラーは傑作という物は決して奇を衒ったもの、人智を超えたアイデアであるとは限らず、同じような題材・設定をどのように書くかによると述べている。これは私も最近、しばしば感じることで、ミステリとはアイデアではなく、書き方なのだと考えが一致していることが興味深かった。 最後に締めくくられるのは魅力のある主人公を設定すれば、それは芸術足りえる物になるという主張だ。そこに書かれる魅力ある主人公の設定はフィリップ・マーロウその人を表している。その是非については異論があろうが、間違いなくチャンドラーはアメリカ文学において偉大なる功績を残し、彼の作品が聖典の1つとなっていることから、これも文学の高みを目指した1人の作家の主義だと受け入れられる。つまり本作は最終的にはチャンドラーの小説作法について述べられているというわけだ。 本書はこの「簡単な殺人法」を読むだけでも一読の価値がある。世のハードボイルド作家はこのエッセイを読み、気持ちを奮い立たせたに違いない。卑しい街を行く騎士など男の女々しいロマンシズムが生んだ虚像だと云い捨てる作家もいるが、こんな現代だからこそ、こういう男が必要なのだ。LAに失望し、LAに希望を見出そうとした作家チャンドラーの慟哭と断固たる決意をこのエッセイと収録作を読んで感じて欲しい。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
東京創元社は作家の短編を集めた短編集を出版しているが、これが独自に編纂されたものがほとんどだ。数十年後、早川書房が村上春樹氏による『長いお別れ』の新訳版『ロング・グッドバイ』を出版した際、時系列に全ての短編を網羅した短編集を出版した。それらについての感想は後日述べることにする。
収録作は「脅迫者は撃たない」、「赤い風」、「金魚」、「山には犯罪なし」の4編が収められている。後日読んだ感想でしかもはや語れないが、ベストは「金魚」、次点で「赤い風」となる。 正直、1作目の「脅迫者は撃たない」は十分に理解できていないほどの複雑さ、というよりもチャンドラー自身も流れに任せて書いているようで、プロット的には破綻しているように思われた。しかしそれ以外は、最後はきちんと収まり、読後なかなか練られたストーリーだと感心する。その流れるようなストーリー展開から非常に粗筋を纏めるのが難しい作者なのだと気付く。しかしそれでいて読みながら物語と設定が説明なしにするすると入ってくるのだから、やはりチャンドラー、巧い、巧すぎる。 「赤い風」の特色はマーロウ自身が自ら事件に乗り出す趣向を取っている。発端はバーでいきなり殺人事件に巻き込まれるが、それ以降は自ら渦中の女を助け、その女に手を貸すといった具合だ。マーロウの視点で語る本作も、プロットは複雑な様相で物語が流れる。物語の終盤、マーロウの口から語られる事件の顛末は実にシンプルな物であることが解り、チャンドラーのストーリーテリングの妙味がはっきりとわかる。 女のために金にもならない危険を冒すところに他の探偵とは一線を画す設定がある。 また終盤に俄然存在感を増すイタリア系刑事のイバーラが非常にカッコイイ。この作品の影の主役と云えるだろう。全然動じないその物腰と肝の据わった態度はマーロウをまだ駆け出しの探偵のようにあしらう。そうこの作品のマーロウはまだ若きフィリップなのだ。このイバーラ、確か他の作品では見なかったように記憶しているが、たった一編の短編で終えるには実に惜しいキャラクターである。 「金魚」はこれぞハードボイルドだといわんばかりの作品。大人しい題名に舐めてかかると、かなりショックを与えられるハードな好編だ。この作品については『レイディ・イン・ザ・レイク』の感想で存分に述べるのでこれだけにとどめたい。 「山には犯罪なし」はもう典型的なチャンドラー・ハードボイルド・ストーリー。今まで読んできた短編と展開は同じく、探偵は右往左往と迷走しつつ、事件の本質に辿り着く。 一つ含蓄溢れた台詞があったので、ここに抜き出しておく。 「主人はあまりにも秘密を持ちすぎます。女性のまわりで秘密を持ちすぎるのは間違いです。」 これらの作品はマーロウの原型となった探偵たち。「赤い風」、「金魚」に出てくるマーロウは後年チャンドラーによって名前を書き換えられた探偵で元々マーロウではない。しかしあまりその造形は長編のマーロウと変わらないように感じた。 しかし短編でこれだけこねくり回したプロットを使うとは思わなかった。ただ中には果たして最初からこんな複雑な構想だったのかと疑問を感じるものがあるが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
チャンドラーが書いたフィリップ・マーロウシリーズは『プレイバック』が最終巻であるが、その後もチャンドラーは創作意欲を示していたようで、本書は第4章まで書かれた未完の長編をロバート・B・パーカーが書き継いで完成させた。
かなり賛否両論に分かれている(というよりも否の声の方が多いようだが)作品だが、個人的には愉しめた。 何よりもまず驚くのがいきなりあのマーロウの結婚生活から物語が始まるという設定だろう。 結婚相手は『長いお別れ』で知り合ったリンダ・ローリング。しかしチャンドラーが書いた4章で既にこの結婚が破綻しそうな予感を孕んでいる。 そしてチャンドラーが書き残した4章までには事件らしい事件は起こらず、わずかにリップシュルツなる怪しげな男の影を匂わすだけに留まっている。つまり本書のプロットはパーカーによる物なのだ。 リップシュルツなる男からレス・ヴァレンタインなる男の捜索を依頼されたマーロウはその最中に行く先々で謎と死体に行き当たるというマーロウ一連の作品を定型を守った内容だ。 本書の最たる特長はやはりマーロウの結婚生活にあるだろう。探偵稼業という時間が不定期な仕事と結婚生活の両立が上手く行かない事は自明の理であり、パーカーもそれを受け継いで物語を紡いでいる。 この2人の関係にパーカーのスペンサーシリーズの影が見えると云われているが幸いにして私はスペンサーシリーズを読んだ事ないので、かえってパーカーよくぞ書いたと思ったくらいだ。 マーロウの信奉者には卑しき街を行く騎士が結婚生活をしちゃあかんだろうと、夢を覚まさせるような感想が多いが、しかしこれはチャンドラーが残した設定なのだ。 私はいつもにも増して男の女の関係性という側面が盛り込まれ、そこで苦悩するマーロウが人間くさく感じられてよかった。 考えるに今までは介入者として依頼人から受けた依頼を完遂するために他人の家庭に踏み込み、そこに秘められた歪んだ愛情や不幸を見てきたマーロウに実際に家庭を持たすことで家庭内の問題の当事者にしてみようと考えたのがチャンドラーの狙いだったのではないだろうか。しかし理想の男として描いたマーロウはやはり家庭が似合わない男だったことに気づくのではないか?それがチャンドラーの筆を鈍らせていたのではないだろうか。 そういう風に考えると、本作の結末は恐らくチャンドラーが想定していたものとは違うのかもしれない。しかし私はこの結末は好きだ。最後の「永遠に」と呟く2人のセリフは私の中で永遠に残るだろう。 素直にパーカーの仕事に賛辞を贈りたい。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
ミステリで最も印象的な文章は何?と訊かれた時に、真っ先に思いついたのはこの台詞、
「しっかりしていなかったら、生きていられない。やさしくなれなかったら、生きている価値がない」 だった。フィリップ・マーロウの代名詞とも云えるこの台詞が出てくるのはチャンドラー最後の長編である本作なのだ。 マーロウは馴染みのない弁護士からある女性の尾行を頼まれる。弁護士が指示した駅に行くと確かにそこには女がいた。その女は男と会話したり、コーヒーを飲んだり、暇を潰していたが、やがて動き出した。付いた場所はサンディエゴのホテル。マーロウは彼女の部屋の隣に部屋を取り、盗聴する。やがて駅で話していた男が現れ、その女性ベティに無心する。マーロウはベティの部屋に入ってその男を殴るが、逆にベティに殴られてしまう。 その後ホテルを移ったと思われたベティがマーロウの部屋に現れ、無心をした男ミッチェルが移転先のホテルで死体になっているという。しかしマーロウが行ってみると死体はなかった。 長編の中でも一番短い本書はあまり事件も入り組んでいなくて理解しやすい。登場するキャラクターも立っているので十分満足できる。 ただシリーズの最後を飾る作品としては物足りなさ過ぎる。 逆に本作がマーロウシリーズの入門書としてもいいかもしれない。 この頃のチャンドラーはもう精神的にも肉体的にもボロボロだったらしい。『長いお別れ』を発表してからの5年間は愛妻の死、イギリス政府と泥仕合をすることになった国籍問題、そしてそれらが心を蝕んだ故にアルコールに溺れ、治療のための入院など、まさに人生としての終焉を迎えているかのようだ。そんな中で書いたのが本作。だからなんとなくマーロウも“らしくない”。そして本作発表の1年後、チャンドラーは没する。 そしてこの題名。これは全く内容と関係ない。“バック”と付いていることから前向きではなく、後ろ向きであることがうかがえる。これはもしかしたら既に自分の作家としての能力に限界を感じたチャンドラーが昔の全盛期をもう一度と望んだ心の叫びなのかもしれない。 舞台がロスでないなど、マーロウにこだわる読者の中では色々と不満があるようだが、個人的にはやはりあの台詞に出逢えた事がうれしく、十分満足できた。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
『大いなる眠り』の感想でも述べたが、私が最初に手に取ったチャンドラー作品がこの『長いお別れ』だった。
これには理由がある。まず私はハヤカワミステリ文庫版から手をつけていたのだが、チャンドラーの背表紙に付けられた番号が1番であったのが『長いお別れ』だったのだ。順番を意識して読む私は当然刊行された順というのは古い順だろうと思い込んでいたが、それは間違いだった。そして私はいきなりこの名作から手をつけてしまったのだった。 本作の何がすごいかといえば、『湖中の女』、『かわいい女』とあまり出来のよくない作品が続いた。そして『かわいい女』から4年後、ハードボイルドの、いやアメリカ文学史に残る畢生の名作を書く。一説によれば、チャンドラーが『湖中の女』の後、ハリウッドの脚本家に転身したのは作家として行き詰まりを感じていたのだという。そのハリウッドで苦い経験をした後、書いた作品『かわいい女』の評判もあまりよくなく、チャンドラー自身でさえ、「一番積極的に嫌っている作品」とまで云っている。そんな低迷を乗り越えて書いた作品が世紀を超え、ミステリのみならずその後の文学界でも多大なる影響を今なお与え、チャンドラーの名声を不朽の物にしたほどの傑作であることを考えると、単純に名作では括れない感慨がある。 テリー・レノックスという世を儚んだような酔っ払いとの邂逅から物語は始まる。自分から人と関わる事をしないマーロウがなぜか放っておけない男だった。 この物語はこのテリーとマーロウの奇妙な友情物語と云っていい。 相変わらずストーリーは寄り道をしながら進むが、各場面に散りばめられたワイズクラックや独り言にはチャンドラーの人生観が他の作品にも増して散りばめられているような気がする。 「ギムレットにはまだ早すぎるね」 「さよならを言うことはわずかのあいだ死ぬ事だ」 「私は未だに警察と上手く付き合う方法を知らない」 心に残るフレーズの応酬に読書中は美酒を飲むが如く、いい酩酊感を齎してくれた。 チャンドラーはたった7作の長編しか残していないが、その7作でミステリ史上、永遠に刻まれるキャラクターを2人も創作している。1人は『さらば愛しき女よ』の大鹿マロイ。そしてもう1人が本作に出てくるテリー・レノックスだ。 大鹿マロイが烈情家ならばレノックスは常に諦観を纏った優男といった感じだ。女性から見れば母性本能をくすぐるタイプなのだろう。どこか危うさを持ち、放っておけない。彼と交わしたギムレットがマーロウをして彼の無実を証明するために街を奔らせる。 本作は彼ら2人の友情物語に加え、マーロウの恋愛にも言及されている。本作でマーロウは初めて女性に惑わされる。今までどんな美女がベッドに誘っても断固として受け入れなかったマーロウが、思い惑うのだ。 恐らくマーロウも齢を取り、孤独を感じるようになったのだろう。そして本作では後に妻となるリンダ・ローリングも登場する。 本書を読むと更に増してハードボイルドというのが雰囲気の文学だというのが解る。論理よりも情感に訴える人々の生き様が頭よりも心に響いてくる。 酒に関するマーロウの独白もあり、人生における様々なことがここでは述べられている。読む年齢でまた本書から受取る感慨も様々だろう。 そう、私は本書を読んでギムレットをバーで飲んでやると決意した。しかもバーテンダーがシェイカーで目の前でシェイクしたヤツを。そしてそれを果たした。期待のギムレットは意外に甘かった。多分この本に書かれていたドライなヤツではなく、揶揄されている方のヤツだったのだろう。ただギムレットはチャンドラーのせいで、あまりにもハードボイルドを気取った飲物のように受け取られがちだったので、それ以来飲んでいない。 そんな影響を与えたこの作品の評価は実は10点ではない。全然足りないのだ、星の数が。 ×2をして20個星を与えたいくらいだ。 ミステリと期待して読むよりも、文学として読むことを期待する。そうすれば必ず何かが、貴方のマーロウが心に刻まれるはずだ。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
『大いなる眠り』から『湖中の女』までチャンドラーはほぼ年1作のペースでコンスタントに作品を発表していたが、本作は6年と非常に長いスパンを空けて発表されている。
これには理由があって、その間、チャンドラーは脚本家としてハリウッドに招かれ、働いていたのだった。この頃の経験について、チャンドラーはあまりいい印象を持っていないことをエッセイや自伝で吐露しており、それがこの作品に影響がもろに出ている。 余談になるがエラリー・クイーンもハリウッドの脚本家をした後、やはりハリウッドを舞台にした作品をいくつか書いている。やはり当時の作家にとってハリウッドというのは「事実は小説よりも奇なり」を地で行く特殊な世界であり、作品の題材として書かずにはいられない物があったのだろうと思われる。 本書は今までLAを舞台にしながら一切触れる事のなかったハリウッド映画界の内幕が舞台となっている。 若い娘の依頼で兄の捜索を引き受けることになったマーロウは兄のアパートに行くと、そこで管理人が殺されていた。知らない男から電話がかかり、男が指定するホテルに行くと電話の相手と思しき男は殺されており、サングラスをかけ、銃を持った女に気絶させられる。 女の正体はホテル探偵が見ていた車のナンバーから判明する。売り出しの若手女優だった。マーロウはその女優の許を訪れて問い質すが、女優は全てを一切否定する。 事務所に帰るとギャングが訪れ、事件から手を引くように脅される。体よく撃退するが、いつの間にかマーロウは自身がきな臭い事件にどっぷり浸かっていることに気づく。 とにかく複雑な内容の作品。場面転換も多く、プロットも二転三転するのでストーリーを追うのに苦労し、内容について十分理解していない。メモを取りながら再読する必要がありそうだ。 上に書いた内容どおり、どこにでもありそうな探偵を主人公にした映画のような展開を示す。特にハリウッドに関する筆致は終始異様で常識外れな連中が跋扈することをあげつらう形になっており、チャンドラーにとってハリウッドは伏魔殿のようにどうやら映ったようだ。 作品の出来はあまりよくない。本を読まない人がイメージだけで描くハードボイルド小説の典型のような作品である。ただ本書でも隠された人間関係の歪みが最後に解る。今までロスマクへの影響と繰言のように述べていたが、逆にロスマクはチャンドラーの後継者たらんとしたことが解る。 読んでいる最中、本書が一番詰まらなかった。早く終らないかと思いながら読んでいた。確か最後に読んだ長編が本作で、既に飽きが来ていた事もある。でもそんな作品でも最後に琴線に触れる名文が出ることで評価が凡作から佳作へ上がるのだから、まさにこれはチャンドラーマジックと云えるかも。単純に私がチャンドラーの文体が好きなだけだから、万人がそうだとは云えないけれども。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
フィリップ・マーロウは4作目の本作で初めてロスを離れる。化粧品会社の社長から頼まれた妻の失踪事件を追って、彼の別荘があるロス近郊の湖のある山岳地帯の村に入り込む。そこの湖から女性の死体が上がる。その女性こそが社長の妻だろうと思われたが、別の女性の死体だったことが解る。そしてマーロウは別の事件に巻き込まれ、命を狙われる。
本書のテーマは卑しき街を行く騎士を、閉鎖的な村に放り込んだらどのように活躍するだろうかというところにある。しかもその村は悪徳警官が牛耳る村であり、法律は適用されず、警官自体が法律という無法地帯。つまり本書は以前にも増してハメット作品の色合いが濃い。 この閉鎖的な村で関係者を渡り歩くマーロウは今回危機に陥る。この危機はロスマクでも使われていた。 本書の最大の特長は他の作品に比べると実に物語がスピーディに動くことだ。原案となった同題の短編が基になっていることも展開に早さがある一因だろう。 そして事件は解決してみると、死体が3つも上がる。しかもそれは1人の犯人によるもので、けっこう陰惨な話だったことが解る。 しかし上にも書いたが、原型の短編を引き伸ばした感じが否めなかった。最初のスピーディな展開は多分チャンドラー作品の中でも随一なのだが、その後の展開が無理に引き伸ばしたような冗長さを感じた。特に印象に残るキャラがいないせいもあり、出来としては佳作といったところだろうか。 数年後、私はこの原型となった短編を読んだが、これは非常に面白かった。プロット自体はいいのだ。湖から上がった女性の死体と、どこか本格ミステリを思わせるシチュエーション。そして閉鎖的な村に現れたマーロウという名の騎士。ただそれを十分に生かせなかった。 どんな作家もいつもいい作品が書けるとは限らない。全7作を数えるフィリップ・マーロウの物語でちょうど折り返し地点に位置する本書は中だるみの1冊となるようだ。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
『大いなる眠り』、『さらば愛しき女よ』と続いたフィリップ・マーロウ3作目の本書は一転して地味で素っ気無い題名。題名というのは読書意欲を喚起させるファクターとして私は非常に大事だと思っているのだが、文豪チャンドラーの作品とは思えないほど、飾り気のない題名はちょっと残念。
マーロウは盗まれた時価1万ドルと云われる初期アメリカの古銭を探してほしいという依頼を受ける。それはマードック夫人の亡き夫の遺品であり、夫人は息子の嫁で歌手のリンダが盗んだと疑っていた。 事務所に戻ると夫人の息子レズリーがいた。レズリーは妻のリンダのかつての勤め先のナイトクラブのオーナーに借金があり、金に困っていたと話す。マーロウはリンダを探しにそのクラブに行くが、オーナーはおらず、リンダの友達だったその妻と逢う。 さらにマーロウは自分を尾行している探偵フィリップスに気づく。彼はコイン商に雇われていた。彼の話では件のコイン商が所有しているとの事で、マーロウはコイン商に逢い、1万ドルで買い戻す取引をする。 マーロウが金を取りに行く途中でフィリップスのアパートに立ち寄るとそこには彼の死体が転がっていた と、この話は抜き出してみても非常に人が入れ替わり立ち替わりして、訳が解らなくなる。一体この小説のメインプロットは何だったかと、読者は困惑することだろう。要約すれば盗まれたコインを探すうちに、容疑者であるリンダを捜索を端緒に調査を始めると、件のコインに関係する人々が次々に殺され、依頼人に纏わる秘密が浮き彫りになるという内容だ。 しかしチャンドラーは雰囲気で読む作品だ。例えばこんな文章にハッとさせられる。 「家が視界から消えるにつれて、私は奇妙な感じにとらわれた。自分が詩を書き、とてもよく書けたのにそれをなくして、二度とそれを思い出せないような感じだった」 こんな経験は誰でもあるのではないだろうか?こういう言葉にしたいがどういう風に言い表したらいいのだろうかともどかしい思いをチャンドラーは実に的確に表現する。 詩的なのに、直情的。正に文の名手だ。 本作では依頼人の秘書のマールと運転手のキャラクターが鮮烈な印象を残す。 特にマールの存在については現在にも繋がる問題として、読後しばらく考えさせられてしまった。金満家の未亡人の世間知らずな側面が招いた悲劇を描いたこの作品はロスマクにも影響を与えているのではないだろうか。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
チャンドラー長編2作目にして不朽の傑作。
私がこの作品と出逢ったことの最大の不幸は先に『長いお別れ』を読んでしまったことにある。もしあの頃の私がフィリップ・マーロウの人生の歩みに少しでも配慮しておけば、そんな愚行は起こさなかったに違いない。あれ以来、私は新しい作者の作品に着手する時は愚直なまでに原書刊行順に執着するようになった。 そんなわけでチャンドラー作品の中で「永遠の№2」が私の中で付せられるようになってしまったのだが、全編を覆うペシミズムはなんとも云いようがないほど胸に染みていく。上質のブランデーが1滴も無駄に出来ないように、本書もまた一言一句無駄に出来ない上質の文章だ。 マーロウが出逢ったのは身の丈6フィート5インチ(約195センチ)はあろうかという大男。大鹿マロイと名乗ったその男は8年前に殺人罪を犯して刑務所に入っていた。そして出所して早々かつて愛した女ヴェルマを捜していた。マロイはヴェルマを求め、黒人街の賭博場に入るがそこでまたも殺人を犯してしまう。マーロウは否応なくマロイの女ヴェルマを捜すことを手伝うことに。またマーロウは盗まれた翡翠の首飾りを買い戻すために護衛役として雇われる。しかし取引の場所でマーロウは頭を殴られ、気絶する。意識を取り戻すとそこには依頼人の死体が横たわっていた。 事件はいつもの如く、簡単と思われた事件で殺人に巻き込まれ、それがもう一方の事件と関係があることが解り、結末へという道筋を辿るのだが、この作品が他の作品と一線を画しているのはとにかく大鹿マロイの愚かなまでの純真に尽きる。昔の愛を信じ、かつての恋人を人を殺してまで探し求める彼は手負いの鹿ならぬ熊のようだ。そして往々にしてこういう物語は悲劇で閉じられるのがセオリーで、本書も例外ではない。 悪女に騙された馬鹿な大男の話と云えば、それまでだが、そんな単純に括れないと抗う気持ちが残る。 本書でもマーロウは損な役回りだ。特にヴェルマの捜索は無料で引き受けてしまう。だが彼は自分の信条のために生きているから仕方がない。自分に関わった人間に納得の行く折り合いをつけたい、それだけのために自ら危険を冒す。 本書の原形となった短編は「トライ・ザ・ガール(女を試せ)」だが、チャンドラーはそれ以後も大男をマーロウの道連れにした短編を書いているから、よっぽどこの設定が気に入ったのだろう。そしてそのどれもが面白く、そして哀しい。 そしてマーロウのトリビュートアンソロジーである『フィリップ・マーロウの事件』でも他の作家が大鹿マロイを思わせる大男とマーロウを組ませた作品を著している。つまり本書はアメリカの作家の間でもかなり評価が高く、また好まれている作品となっている。 あとなぜだか判らないが、忘れらないシーンとして警察署のビルを上っていくのをマーロウが気づくところがある。この虫はやがて18階の事件を担当する捜査官の机まで来ている事にマーロウは気づく。このシーンがやけに印象に残っている。その理由は未だに解らない。 本作の感想はいつになく饒舌になってしまった。そうさせる魅力が本書には確かに、ある。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
チャンドラーを読んだのは社会人になってからだった。学生の頃、私は敢えて読むのを避けていた。ある程度社会に揉まれてからでないとその面白さが解らないと思ったからだ。
学生の頃、ふいに目覚めたミステリへの興味は尽きることなく、島田荘司を足掛かりにしてその後新本格1期作家から派生していき、やがてガイドブック、『このミス』を片手に自分のミステリの幅を広げていった。そしてどのガイドブックにも書かれているのはハードボイルドというジャンルにおいてハメット、チャンドラー、ロスマクの御三家の名だ。特にチャンドラーの評価は三者の中でも広範囲の書評家に賞賛され、代表作とされる『長いお別れ』は早川書房から当時出ていた『ミステリ・ガイドブック』のオールタイムベストの人気投票で2位か3位に位置していた。 そんなことから社会人になったらチャンドラーを読むぞ!といつの間にか自分の中で目標が出来てしまった。しかし最初に手に取ったのは本書ではなかった。それは『長いお別れ』だった。この辺の経緯については語ると長くなるので、また後日語ることにする。 通常ならば読んだ順に感想を語るのが普通だが、私が読書メモを書く前に読んだ本に関する感想はその本に纏わる私の追想も混じっているので、順番自体に特別に意味はない。従って刊行順に即してチャンドラー作品の感想をこれから述べていきたいと思う。 この『大いなる眠り』はチャンドラーの長編第1作でハンフリー・ボガード主演で『三つ数えろ』という題名で映画化もされた。 既に有名な話だが、チャンドラーはこの『大いなる眠り』を著わす前に既に『ブラックマスク』誌などに短編の数多く発表しており、ほとんどの長編はそれら短編を原型にして組み合わせたような作り方になっている。従って、事件の途中でマーロウの捜査対象が変わり、寄り道をしているようで、その実、最後には最初に追っていた事件と繋がり、関係者に苦い余韻を残して事件が閉じられるというパターンになっている。 またこれらの短編にもマーロウは登場するが、これは後年チャンドラーが主人公をマーロウに書き換えたものだ。従って本書がフィリップ・マーロウ初登場作品である。つまり本書に描かれたマーロウこそ、当初からチャンドラーが構想していた“卑しき街を行く騎士”なのだ。 冒頭の一節からチャンドラーの本作に賭ける意気込みがびしびしと伝わってくる名文が織り込まれている。丘の上に立つ富豪を訪れるマーロウのちょっと緊張気味の仕草などは後のマーロウからは見られない所作で初々しさすら感じる。 端的にいえば金満家の娘に訪れたスキャンダル処理を頼まれたマーロウが自分の納得行くまで調査を行う物語。 ストーリーは難解(というよりも捻くり回されている?)でボガードが原作を読んだ後、「ところで殺したのは誰なんだ?」とぼやいたのは有名な話だ。 本作はアメリカの富裕層の没落を犯罪を絡めて描き、一見裕福に見える家庭が豊かさと幸せを履き違えたために招いた悲劇を卑しき街を行くマーロウという騎士が、自嘲気味の台詞を交え、自身の潔白さをかろうじて保ちながら浮き彫りにしていく。このフィリップ・マーロウ第1作にその後ロス・マクドナルドが追究するテーマが既に内包されている。 私はハヤカワミステリ文庫の清水訳を読んだ後だったので、本書で初めて接した双葉氏の訳は新鮮だった。個人的には清水氏よりもこちらの方が好きだ。 この作品で登場した時のマーロウは33歳。この時代の33歳と現代の33歳では明らかにその成熟さは異なる。なぜなら時代の不便さと治安の悪さゆえに、男が社会で生きていくことの厳しさが違うからだ。それは後年チャンドラーのあの有名な台詞でも証明されている。 そしてその戦いに疲れた男は題名が示す「大いなる眠り」に就くのだ。 ミステリにリアリズムを持ち込み、ハードボイルドという新しいジャンルを確立したのがハメットならば、それを文学に押し上げたのがチャンドラーだ。本書を読んだ後、しばらくの間、書く文章がことごとくなんだか皮肉めいて、そして比喩が多くなった。この偉大なる文豪はそんな風に僕にかなり大きな影響を与えている。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
本作は有栖川氏の『ダリの繭』同様、角川ミステリ・コンペティションの参加作品で文庫書下ろしで刊行された作品。
一読して驚くのは、非常に読みやすい文体と内容になっていることだ。ゴシック趣味溢れる『時のアラベスク』や『罪深き緑の夏』の同一作者とは思えないほど、普通のミステリとなっている。恐らく読者の人気投票で優秀賞が決まるというこの企画に即して、自らの持ち味をあえて殺し、普段本を読まない人でも読めるように意図したのではないだろうか。 出版社を退職し、翻訳者として第2の人生を歩むことに意気揚々としていた森本翠は女性編集者の瑠璃と祝杯を上げたその夜、愛猫の黒猫メロウが行方不明になり、心境穏やかでなくなる。 一方、近所のアパートでは駆け出しの役者鳴海が妻を殺害し、バラバラに解体していた。底に現れた1匹の黒猫。黒猫を必死に探す翠と、瑠璃、そして鳴海の人生が交錯しようとする。 退職した独身女性で唯一の家族が黒猫という60歳の女性、翠の思考がなんだか痛々しい。独り身の寂しさの拠り所が猫というのは、私も飼っていたので猫に対する愛情については理解できるが、やはり常人とはどこかずれていて、狂気さえ覚える。鳴海もボタンの掛け違えのような瑣末な事から起こしてしまった殺人を、どこか夢の中の出来事のように第三者的に捉えながら、その実、自覚せずにどんどん狂気の井戸の底に落ちていく。 そしてまた2人の狂人の緩和剤として挿入された瑠璃もまた、常識人とはちょっと違った特異な考え方を持っている。つまりこれは1匹の黒猫を軸にした3人の狂人たちの遁走曲なのだ。 作者の故服部氏は猫好きとしても有名だったので、どうしても翠と作者がダブって仕方がなかった(ちなみに作者は既婚)。 中身はごく普通のミステリで、結末も皮肉が利いている。前2作の雰囲気が好きな人にはあっさりとしすぎて物足りなさを覚えるだろうが、私は全く逆の立場だったので本作は服部氏の作品では最も評価が高い。 長らく絶版になっており、本書もまた忘れられていく一冊になるのだろう。そんな消えゆく作品を少しでも誰かの記憶にとどめて欲しいために私はこんな風に感想を書いているのかもしれない。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
横溝正史賞受賞後第1作の本書はなんとも幻想味溢れるミステリ。
熱海にある「蔦屋敷」と呼ばれる洋館をひょんなことから訪れた画家の山崎淳はそこで百合という美少女に出会う。12年後、淳の腹違いの兄の婚約者として百合と再会して以来、奇怪な事件が続発する。画廊で火事が起こり、淳の絵が焼失し、画廊の主人が焼死してしまう。さらに百合の兄はドライヴ中に事故を起こし、百合を半身不随にしてしまう。 全編貫かれるのはデビュー作『時のアラベスク』の世界観を更にもっとディープに耽美の方向へ推し進めた幻想的なミステリ。『時の~』はちょっとBL系の香りが漂っていたが、本作ではロリコン趣味を巡る兄弟の狂気の愛という味わい(すみません、こっち系の世界は疎いので、独断と偏見で書いてます。大いに勘違いしていたらゴメンナサイ!)。 森に佇む洋館にそこに住まう美少女という設定からして禁断の匂いを感じさせるし、その彼女に恋する腹違いの兄と父親の弟子と主人公の三つ巴というのも既にカタストロフィの予兆の足音が聞こえてくるのが解る。一種毒気ともいえるこの怪しい世界はなんとも現実離れしている。綺麗なバラには棘があるというが、本書はまさにそれ。 こういうのが好きな人には本書は堪らないかもしれない。秘密の果実の味わいに加えて、ミステリとしての謎と真相が盛り込まれているのだから、没頭すれば没頭するほど、陶酔感とカタルシスが得られるだろう。 しかしやはり私はこういうのはダメ。どうにものめりこめなく、生理的に受け付けない。好きな作家トレヴェニアンでさえ、同趣向の『バスク、真夏の死』は受け付けられなかった。 従って本書の評価は完全に私の趣味と嗜好の違いによる物だ。 本書の表紙も天野氏であるが、既に絶版である。私も既に売ってしまい、手元にない。作者もすでに亡くなっている事から、本書もまた出版界の奔流に飲まれて消え去る1冊になっていくだろう。もし持っている方がいれば、もはや手に入らない1冊なので、私の評価を参考せず、新しい目で読むことを願っている。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
私がなぜこの作家の作品に触れたのか、そのきっかけは今となってはもはや思い出せない。『このミス』でも何度かランクインしている新本格以前のミステリ作家であり、2007年、惜しまれながら夭折した。
本書は角川書店が開催する横溝正史賞を受賞した作品である。 出版記念パーティに寄せられた深紅の薔薇に包まれたナイフとファンの1人と思しき糸越魁なる人物からの脅迫状。作者の深井慶は自作の映画化のために関係者とともに渡欧するが、その最中にロンドンで父が殺される。一行は一旦帰国するが、再び渡欧することになり、再び糸越魁の襲撃に出会う。 非常に読者を選ぶ作品だと思う。少女マンガ的な登場人物と舞台設定は女性読者の方が肌にあっているのかもしれない。今にして思えばどこか『虚無への供物』に似た雰囲気を持った作品だと云えるかもしれない。 で、終始なんとももやもやした、掴み所のない感じで物語は進むが、横溝正史賞の名に恥じないトリックも盛り込まれており、率直な感想を云えば、それだけでも本書を読む意義はあったかと救われた思いがしたものだ。 ミステリとして読んだ私は最後の最後までこの世界観に没頭できなかった。おかげで犯人はすぐに解ったのだが。逆にこの手の作品が好きな人は雰囲気にのめり込めるだろうし、そういう人はミステリ的仕掛けにビックリするのかもしれない。そういう意味では横溝賞受賞というレッテルはもはや邪魔なのかもしれない。 現在は長らく絶版で、今なら電子書籍で読めるようだ。私が持っていた文庫の表紙は天野喜孝で、実に雰囲気とマッチしている。この頃はアルスラーン戦記とかけっこう文庫の表紙は天野氏のイラストが席巻していたんだなぁと関係のない事を思い出してしまった。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
タイトルを見ると綾辻行人氏の館シリーズを思わせるが、さにあらず。叙述ミステリの第一人者折原氏による館物ではなく、叙述ミステリである。
ミステリ講座を開いているロートル作家が再び世に大作を問わんと執筆活動に専念するため、山小屋に閉じこもる。そこへ現れた若く美しい女性。彼女は作家志望者で自分の書いた作品を男に見てもらいたいがためにその小屋を訪れたのだった。 その女性と親しくなり、英気を養った男は活発な創作意欲を発揮し、『螺旋館の殺人』なる自信作を見事完成させ、出版担当者に渡すが、その担当者は電車で移動中に居眠りしてしまい、原稿を紛失してしまう。 後日、ある女性が『サーキュラー荘の謎』という作品で新人賞を受賞する。その女性はなんと男を訪れた作家志望の女性であり、受賞作は彼の『螺旋館の殺人』そのものであった。そして受賞者は浴室で死体となって発見される。 とまあ、『倒錯のロンド』から派生した姉妹編のような作品だ。もともと折原氏は『倒錯のロンド』に始まる「倒錯」シリーズを三部作で構想しており、すでに2作目の『倒錯の死角』まで発表していた。本書はしかしそのシリーズの番外編と位置づけられており、「倒錯」シリーズにカウントされていない(ちなみに3作目は『倒錯の帰結』)。 作中に主人公のロートル作家の手になる『螺旋館の殺人』が断片的に挿入されるが、これが片手間で書かれたとしか思えないレベルの物で、読者の期待に応える出来ではない。一応本家綾辻氏を意識した文体で書かれているが、出来栄えは悪い。これでよく再起を賭けたものだと思うくらいだ。 御得意の作家志望者を軸にした盗作疑惑ミステリはその後、事実が二転三転はするものの、読んでてどうでもよくなってくる。最後のエピローグの落ちは個人的には不要だと思う。綾辻氏張りの館物を期待した読者は全くの肩透かしを食らうだろうし、折原氏の叙述トリックを期待した読者は物足りなさを感じるだろう。 折原氏の作品はどれも設定が似ているので続けて読むには面白みが半減してしまう。あの手の話が読みたいなぁと思った頃に読むのが得策だろう。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
火村・有栖川コンビシリーズの1作。本書はこのシリーズの第1作ではないが、私が読んだのはこれがシリーズ最初の1作だった。
私は基本的に文庫化されないと読まないというのは先の『マジックミラー』の感想にも述べたが、本書は第1作の『46番目の密室』よりも先に文庫で刊行された。 というのもこの作品は当時カドカワ・ミステリ・コンペ(通称「ミスコン」)というイベントで文庫書下ろしで発表された作品。確か10人くらいの作家に書き下ろし作品を書いてもらい、読者から優れた作品を選んでもらうといった内容だったと記憶している。この企画は恐らく好評であれば定期的に行われる予定だったのだろうが、結局1回で終ってしまった。また最終的にこの「ミスコン」でどの作品が1位に選ばれたのか寡聞にして知らない。 サルヴァトール・ダリを心酔する宝飾チェーンの社長が殺された。死体はフローとカプセルの中で発見され、彼のトレードマークであるダリ髭が無くなっていた。この事件に犯罪社会学者火村英生とアリスのコンビが挑む。 まず私はこの火村・アリスコンビは『月光ゲーム』、『孤島パズル』、『双頭の悪魔』のコンビと勘違いしていた。従ってかなり期待値が高かった。なぜなら両方とも作者同名の登場人物が出るので、この勘違いは私だけではないと思う、絶対! そんな大きな勘違いの下、読んでいたせいか判らないが、特に印象は残らなかった。髭が無くなるというのはこの作品の前に読んでいた天藤真氏の『鈍い球音』のトレードマークの髭のみ残して失踪するという逆パターンを想起させ、奇抜さを覚えず、逆に二番煎じだなと思ったくらいだ。 この作品でミスコンなる読者投票型イベントで上位を獲得しようともし作者が考えていたとしたら、自分の人気に胡坐をかいた行為であるとしか思えないのだが。 モチーフとなるダリもあまりストーリーに寄与しているような感じではなかったように思う。もう1つのモチーフ、繭を象徴するフロートカプセルは今でも鮮明に覚えている。 本書を読んだ私は当時大学生であったが、工学部に所属していた私はレポートに追われる毎日で、睡眠不足の毎日を送っていた。そんな中、本書に出てきたフロートカプセルはなんとたった20分浸かるだけで、9時間の熟睡と同じ効果が得られる(確か)という画期的な装置と紹介されており、一読、これはぜひ欲しいと思い、今に至る。またその分読書に時間を当てられると思ったりもした。 この本を読んでもう15年以上は経つが、今でもあるのだろうかこのフロートカプセル。結婚し、自分の時間がなかなか取れない日々、もしあればぜひとも欲しいアイテムではあるのだが。 という風にミステリとしての出来よりもこのフロートカプセルに思考が行ってしまう、そんな作品だ。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
私の有栖川作品初体験はデビュー作の江神・有栖川コンビの『月光ゲーム』ではなく、火村・有栖川コンビの第1作の『46番目の密室』でもなく、このノンシリーズの作品だ。
文庫派である私は単行本、ノベルスで刊行された作品が文庫落ちしてから読むのを習慣としている。この文庫落ちのスパンというのは3~4年が通例なのだが、東京創元社は概ねこの文庫化になるスパンが長く、しかもまちまち。『月光ゲーム』は単行本刊行後5年後で比較的早くはあった。 余呉湖畔の別荘である女性が殺される。それは作家空知がずっと慕っていた女性だった。容疑者と思われた夫は事件当時福岡におり、またその双子の弟は新潟にいてそれぞれのアリバイは完璧だった。空知は亡くなった女性のため、その妹と一緒に独自に事件を調べる。 やがて双子の片割れが頭と手首を切断された死体として発見される。 時刻表トリックに双子の登場、そしてその片割れが頭と手首を切断された死体になるという、まさに本格ミステリ王道を行く設定だ。 新本格組では法月綸太郎氏がクイーンの後継者としてデビューしたが、有栖川氏も熱心なクイーン信奉者であり、さらに自身国名シリーズまで出しているくらいだ。法月氏は早々に後期クイーン問題に直面し、悩める探偵となり、寡作家になってしまったが有栖川氏はデビュー以来着実に作品を刊行し、いまや現代本格ミステリの第一人者になっている。 そんな彼の最初期の作品である本書にはなんと登場人物を介してのアリバイ講義が盛り込まれており、自らの知見の広さを披露するという度胸振りだ。基本的に私はアリバイトリック物のミステリはほとんど読んだことが無かったため、挙げられている作者は私の守備範囲ではないが、それでも興味が湧いた。 そんなガチガチの本格ミステリを展開しながらも、お話としてもほんのりとしたペーソスが施されており、単なるパズル小説・トリック小説に終っていない。一番最初に「おっ」と思ったのはコーヒーか紅茶だったか、喫茶店で角砂糖を入れるところの何気ない描写。ここに他の新本格作家にはない情緒を感じた。 そして最後の緊張感溢れるサプライズは映像的でドラマ化されても十分映えるシーンだ。いやむしろミステリドラマを意識したかのような演出だ。単純に関係者を集めて長々と推理を披露した上で犯人を名指しするというオーソドックスな本格ミステリが多い中、こういう演出は新鮮だった。そしてさらに仕掛けた作者の企み。これをフェアと取るかアンフェアと取るかはその人のミステリ嗜好によるだろうが、私は有りだと思った。 最近になって新装版が刊行されたがそれもまた納得。時刻表ミステリは廃線や廃車となった車種もあるのですぐに時代の流れに風化されやすいが、現代本格ミステリの第一人者の初々しい頃に触れる意味でも、本書を手に取ってみてはいかがだろうか。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
日本推理小説三大奇書の1つと呼ばれている。私は他の2冊、小栗虫太郎氏の『黒死館殺人事件』と夢野久作氏の『ドグラマグラ』は読んでいないが、これだけは読んでいた。
確かきっかけはその頃各種ガイドブックを読み漁っていたのだが、そのどれにも本書が取り上げられ、しかも評価が高かった。そしてたまたま行きつけの書店の平台に青い薔薇の顔をした人物が市松模様の床に佇む表紙をあしらった文庫が置かれているのを見て、惹きつけられる物を感じ、そのまま手に取ってレジに向かったのがきっかけだった。いわゆるジャケ買いというやつだ。 まず驚いたのは非常に読みやすい文章。他の2作品は書店でちらり見をしたことがあったが、なんとも古式ゆかしい文章で、改行も少なく、読み難くて取っ付きにくさばかりが目立ったので敬遠していた(これは今に至ってもそう)。つまり私のミステリマニア度の境界というのはどうやらこの辺にあるらしく、これらの2つは私のマニア境界線の外に位置する作品なのだ。 氷沼家に伝わる因縁話を端緒に、その一家の1人藍司の友人でシャンソン歌手奈々村久生と、ゲイバーに居合わせた久生の友人、光田亜利夫が探偵ごっこよろしく、「ヒヌマ・マーダーケース」と称して勝手に捜査を始めたところ、第1の被害者が現れて、本当の殺人事件に巻き込まれるといった内容。 本書の読みやすさはひとえにこの久生の明るく軽いキャラクターによるところが大きいと思う。ホームズ役を買って出て、友人の亜利夫をワトソン役にしたて、トンデモ推理を披露する。 また本書はアンチ・ミステリと呼ばれており、どうも本書に初めてその名を冠せられたようだ。Wikipediaによればアンチ・ミステリとはその名の通り、作中内で過去の推理小説のトリック・ロジックについてその現実性、必要性などを論議して揶揄することという風に書かれている。今更ながらだが、これは今のミステリ、ミステリ作家ならば誰もがやっていることで、まず私が再びミステリを読み出すきっかけとなった島田氏の『占星術殺人事件』からして、シャーロック・ホームズの作品について痛烈な批判をしているから、これもアンチ・ミステリとなるだろう。アンチ・ミステリって何だろう?と思って本書を手に取ると、何がアンチなのか解らないだろう。実際私がそうで、読み終わった後、あれがアンチなのかと全く別のことで解釈していた。 つまりアンチ・ミステリとはもはや死語であると云っていいだろう。 物語の雰囲気は最初の舞台がゲイバーだったり、シャンソン歌手が登場したり、亜利夫の渾名が「アリョーシャ」だったり(これはけっこう恥ずかしいと思うが)、「サロメ」について語られていたり、幻想的でサイケなムードが横溢しているように感じたが、先に述べたように久生のキャラクターが見事な緩衝材、シンナーとなっていてマニアでなくともとっつきやすくなっている。 そして動機の部分。これは印象に残った。カミュの『異邦人』を思い起こさせる、観念的な動機であるが、私は受け入れることが出来た。私はこの動機がアンチ・ミステリなのかと当時勘違いしていた。なぜならこの動機は今までの捜査で得られたデータからは推理できないからだ。この文学的ともいえる結末は私の好みだった。 この『虚無への供物』に纏わる話はつとに有名なので改めて語らないが、個人的な感想を云えば、あまりに世間の、ミステリ書評家たちの評価が高すぎるような気がする。それが逆に味読の人たちへ過大な期待をかけ、評価を低くしているようだ。歴史的価値というのはその後の亜流が出回ることで時が経つに連れて風化していくものだ。私は本作が「日本三大奇書の1つ」、「アンチ・ミステリの始祖」といった大仰な冠が付けられたゆえに、それが足枷になっている不幸な作品だと思えてならない。既に逝去した作者がもし生きていたら、この現状をどう思うのか。私にはこれらの過大広告が本書に対する「虚無への供物」ではないかと考えてしまうのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
|---|---|---|---|---|
|
本書も『ミスター・マジェスティック』同様、レナード初期の作品。本書も初期作品群の例に洩れず物語は非常にシンプル。
ある事情でアメリカからイスラエルに亡命していた男が3人の殺し屋から命を狙われ、逃亡しまくるお話。 まず舞台はイスラエルとレナード作品の中では異色である。 発表されたのは1977年であり、この頃ハリウッド映画で流行ったロード・ムーヴィー張りのカーアクションとガンファイトが盛り込まれて非常に派手。それゆえに今の作品には無い面白さを兼ね備えている。 特に今回は主人公デイヴィスがカッコよく、最後のセリフも見事決まる。 本当にアクション映画を観ているような作品である。 こういう作品こそ、レナードの真骨頂だと思うのだが、売れなかったからやっぱり捻った作品を書いてしまうのね。まあ、レナードに云わせりゃ、登場人物が勝手に動くだけなんだってことなんだけど。 こうやって一連のレナードの作品に対する私の評価を見てみると、世間の評判と必ずしも、いやほとんど一致していないことが解る。特に『このミス』のランキングとは全く違う。『このミス』では20位圏外に位置しているレナード作品の方が面白く読めた。 まあ、これらの作品を読んだのは20代半ばの頃だから、大人のウィットよりも痛快さ、明快さを求める傾向にあったのかもしれない。 しかし最近刊行されているレナードの新作を読んでも、途中はすごく面白いのに、最後の一捻りがどうも合わない。 だからといってレナード読まなくなることはないんだけど、この『追われる男』のシンプルさと痛快さを知っている私はこの頃の作風の方がやっぱり好みなのである。 |
||||
|
||||
|

