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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1418件
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カーは後年歴史ミステリを数作著しているが、本書もそのうちの1冊。しかしカーの歴史ミステリというのは他の作家とは違った特徴がある。
通常歴史ミステリとはその時代の実在の登場人物、もしくは架空の登場人物を探偵役にしてそのときに起こった事件の謎を解く、もしくは現代の人物が過去の文献や資料を当たって、歴史の闇に新たな見解を示す物と大きく2つに分かれるだろう。 カーの歴史ミステリはこの2つのジャンルミックス的なものといえる。彼の作風は現代の人物がタイムスリップしてその時代に云って騒動自体に巻き込まれて事件を解き明かすという一風変わった特徴がある。 さて事件の内容はといえば、ロンドン警視庁の警視がタクシーに乗っていたらいつの間にかそれが二輪馬車に変わっており、1829年のロンドンにタイムスリップし、創立間もないスコットランド・ヤードの一員となって、不可解な射殺事件を解き明かすといったもの。 私は英国史はもとより世界史にもさほど精通していないため、本書でどのような歴史的事実が盛り込まれ、活用されたのかは寡聞にして解らない。が、しかしカーの歴史ミステリの主眼は従来の作家が採る歴史上の謎となっている事件を持論を以って開陳するものではなく、その時代でしか成立しなかった犯行・トリックを使うがために歴史をさかのぼっている節がある。現代の日本人ミステリ作家でたとえるならば、二階堂黎人氏の二階堂蘭子シリーズや京極夏彦氏の妖怪シリーズが正にその設定を採用し、自己薬籠中の物として次々と作品を生み出している。 で、その結果、カーは時代を退行することによって生じる読者への先入観を上手く引き出し、成功しているといえよう。本書の射殺事件に使われた物こそ、この時代あってこそのものであり、それを上手くミスディレクションとして使っている。 それに加え、当時の風俗、風景描写に躍動感があり、正に水を得た魚のような筆致である。元々カーは若い頃から歴史物やノンフィクションを著しており(『深夜の密使』、『エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件』)、このジャンルに興味があったようだ。 ただこの特異な趣向が万人向きかと云えば、全面的に肯定できないところがある。タイムスリップという非論理的な趣向と事件を論理的に解き明かすという趣向が混じっているため、物語のスタンスが一定しておらず、なんだかちぐはぐな印象を受けるかもしれない。それは私も同様で、本作に対する評価があまり高くないのもこれがフィルターとなってしまったことによる。 物語について寛容になった今ならば、この作品は改めて楽しく読めるのかもしれない。時間があれば再読することも頭に入れておこう。 |
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カーのベストを挙げよと云われたら『火刑法廷』か本作かというくらい評価の高い作品だが、私個人の評価はさほどでもない。
本作はカーが密室物の大家としての名を確固たる物とした作品と云われている。それは2つの密室殺人が盛り込まれ、そのどれもが不可能性が高く、さらにとどめは有名なフェル博士による密室講義が挿入されていることによるからだろう。特に後者は世の本格ミステリファンの密室好きの琴線に触れ、後年多くの作家がこの講義を下地に改訂作業を行っている。 第1のはグリモー教授の部屋での密室殺人。犯人と思われた謎の男ピーター・フレイは銃声が聞こえてすぐさま駆けつけたにもかかわらず、姿を消していた。 第2の棺は街の袋小路で起きたそのピーター・フレイ殺害。雪の降り積もる中、しかも袋小路の只中で残されていたのは被害者のみの足跡。 しかし不思議なことにこの事件は同時間に行われていた。ピーター・フレイはなぜ同じ時間に全く離れた場所に存在できたのか? この非常に魅力的な謎が解明されるが、一読した後では十分に理解できないだろう。それはあまりに複雑すぎ、さらに危ういまでに偶然が作用しており、しかもこれらの不可能状況が実に微妙なバランスの上で成り立っていることが解るからだ。 カーが本作に密室講義を盛り込んだことからも本作を彼の数ある密室殺人物の集大成と捕らえていたのは間違いなく、本書に盛り込まれたトリックはそれまでカーが使っていたあらゆる物を盛り込み、実現させている。 しかしそれは解るのだが、盛り込みすぎて実にギリギリのところで成り立っているとしか思えず、読んだ後は「こんなに上手く行くのかな」と首を傾げてしまった。 もう一方の特徴、密室講義は読む価値ありだ。これは1935年当時、既に数多創作された密室を類別し、整理して非常に参考になり、また読みやすい。ただその性質上、他作家の密室物の真相を暴いている(作品名は出されていない)のは致し方ないところ。個人的に面白かったのはフェル博士が「我々は小説内の登場人物なのだから・・・」云々とメタ的発言をするところだ。 力作であるのには間違いなく、こういうトリックの応酬が好きな人には堪らない1冊だと思うが、私としては張り切りすぎて、やりすぎだという苦笑を禁じえなかったのである。 |
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カーのベストを募ると必ず選出される本書は実はノンシリーズの1冊。
出版社の編集員が作家ゴーダン・クロスの書いた実在の毒殺魔ブランヴィリエ夫人の物語を読み、そこに付せられた肖像画と自分の妻とのあまりの近似性に驚愕する。それ以来、妻がブランヴィリエ夫人の生まれ変わりであることを示唆する噂と奇妙な事件が彼の身の回りに起こる。 『緑のカプセルの謎』でも書いたが、カーは密室物と同じくらい毒殺物を著しており、本書もその1冊。今気づいたが後年読んだ『死が二人をわかつまで』と非常によく似たシチュエーションである。但し私の中ではこちらの方が評価は上。 もしかしたら本書を読んでもそれほど驚かない人もいるかもしれない。この趣向を取り入れた設定の作品は今たくさんあるからだ。しかしこれこそがそれらの作品の祖だと考えればかなりエポックメイキングな作品であることに気づくだろう。つまりポーが開祖としたミステリ、つまり人外の闇の部分に論理の光を照らして人智の物とするという新しい文学形態にさらにその形態を下敷きにして新たなるスタイルを確立したとまで云っても過言ではない。 特に読まれる方は全編に散りばめられた台詞や仕掛けに留意してもらいたい。出来れば結末を知った上で読めば、カーが含ませた数々のダブルミーニングに気づくはずだ。本書は例えば、列車に乗っているときに遭遇する進行方向から見る広告と逆方向から見る広告が角度によって全く違っている看板のようだと云えば解ってもらえるだろうか? ただし、ではカーのお勧めは?と未読の方に問われて、この作品を推奨するのはいささか抵抗がある。なぜならば本書はカーがこのような作品を書いたことに大きな意義があるからだ。HM卿、フェル博士シリーズなどを数多く著してきたカーだからこそ本作が光るのだ。 ぜひとも読んでいただきたい傑作だが、ぜひともそれまでにカーの作品を何点か当たっていただきたい。素直に勧められないこのもどかしさをどうか理解して欲しい。 |
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本書はカーによる歴史ミステリの1冊。創元推理文庫ではカー一連の作品で最後の方に位置しているが、本書はカーが晩年に書いた一連の作品群ではなく、1934年に別名義で書かれた作品。1934年と云えば、傑作と云われている、『プレーグ・コートの殺人』、『白い僧院の殺人』が書かれた年で、ようやくカーの作者としての油が乗り出す時期だったと云えよう。しかし一方でその年には『剣の八』、『盲目の理髪師』といった、首を傾げるような作品もあり、おいそれと作品の質が保証されないところがある。果たして本書の場合はというと・・・。
今まで書いてきたように、この頃読んだ一連のカー作品の評価はあまりよろしくない。特に『亡霊たちの真昼』のように、退屈な作品を読まされた(この表現は実は好きではない。なぜなら本に読まされることはなく、選んだ自身が“読んだ”のだから。しかしいかんともしがたい欲求不満が募る時はついこういう表現を使ってしまう。ご容赦願いたい)時には、なんとも読む意欲をそそられない物だと思ったものだ。 その予想通りに前半の展開は非常に冗長だ。1670年にロデリック・キンズミアなる男が遺産相続のためにロンドンを訪れ、そこで殺人事件、国家的陰謀に巻き込まれていくというのが物語の骨子だ。この国際的陰謀に際して、国王からフランスへ密使を頼まれることになるのだが、ここまでが異様に長く感じられ、なかなか動き出さない物語に忸怩たる思いをした。 が、そこはカー。その後の展開は悪くなく、このロデリックという男が次第に好きになっていく。こういう冒険譚が上に書いた頃の作品群と非常に対照的であるため、逆に云えば本作でカーの冒険小説、歴史小説に対する飢えを癒した感が受け取れる。 期待しなかった分、逆に面白く読めた作品である。今でも本棚にその書影を見かけると「意外と面白かったな、これ」と当時の読後感を思い起こす。 |
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カー晩年の作品。なんと云ったらいいんだろう、題名のようにぼんやりしたような作品だ。
一応ブレイクという名前の作家が同姓の下院議員候補への取材行で起こる不可思議な出来事と、彼の旧友が自殺と思われる状況で死んでしまうという事件を扱っている。 事件自体にあまり魅力もなく、しかも物語もミステリの謎そのものよりも1912年当時のニューオーリンズの風俗や謎の女の登場とその女と主人公とのロマンスなども描かれる。が、これが逆に物語に厚みをもたらすというよりも、冗長さを感じさせ、単なる贅肉のようにしか思えない。これも謎自体にあまり興趣が注がれないことが一番大きいのだろう。 またカーの歴史ミステリはそのサービス精神と迫真のアクションシーンなども挿入され、実に読み応えのある作品となっているのだが、本作はもうアイデアの出枯らしのようになっており、リーダビリティさえもなくなっている。 本書は『ヴードゥーの悪魔』、『死の館の謎』と併せて“ニューオーリンズ三部作”と位置づけられている。『死の館の謎』の出来もさんざんだったので、果たしてこれらが書かれるべき作品だったのかどうか、今になると判断に苦しむところがある。 作家は引き際も肝心だなと痛感する作品である。 |
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この作品は正直十分理解したと云えない所がある。カーの作品の中でも随一の難解さを誇る作品だからだ。それは視点人物が誰なのか、非常に判りにくいこと、事件もなんだかぎくしゃくしていること、そしてなによりも冒頭にアンフェアとも取れる表現があることだ。
一応事件を要約すると以下のようになる。 フェル博士が友人のメルスンと共にカーヴァー邸を訪れると、巡査が急いだ様子でカーヴァー邸に入るところだった。不穏な空気を察知した2人が邸に入ると、死体と銃を持った同居人ボスクーム、その友人の警部スタンレーの姿があった。しかし死体には銃創はなく、大時計の針が突き刺さっていた。ハドリー警部が駆けつけ、死体を見た途端、その正体がエイムズ警部だと判明する。彼はデパートで起きた殺人事件の捜査中でもあった。彼エイムズは事件の有力な情報を掴んで、カーヴァー邸を訪れたようで、焦った容疑者が彼を殺害したようだった。 事件は明白のようだったが、奇妙な凶器がそれを阻んでいた。 とにかく人の出入りが激しく、内容は件のデパートの事件も語られ、頭の中を整理するのが非常に困難な作品である。そして皮肉なことにメインの事件よりも語られるデパートの事件の方が面白いのだ。 そして先にも述べたがアンフェア感漂う表現。これはミスリードとは呼べないだろう。単に意外な犯人をこしらえるために、故意にそう書いたように思える。原文がどのように書かれているか解らないが、この文章にどこに力点が置かれているかによって、フェアかアンフェアか判断が分かれるところだろう。ミステリが犯人当てをメインとし、本書もまたその趣向の作品であることを考えると、作者の意図と反して、これはやはり嘘をついたとしか私には思えない。 バランス、叙述、そして内容など全てにおいて、カーの中では出来の悪い作品であると云えよう。 |
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題名からスポーツミステリのような雰囲気があるが、そこはカー、いわゆる一般的なスポーツミステリではなく、雨上がりのテニスコートの真ん中で発見された死体の謎を扱っている。
雨上がりのテニスコートに横たわる死体には発見者の婚約者の足跡しか残されていないという「開かれた密室」を扱っている。 この事件に加えもう1つ事件が起きるが、本書のメインはやはりこの事件のトリックにあると云えよう。この「開かれた密室」物もしくは「足跡トリック」物ではすでにカーは『曲った蝶番』や『白い僧院の殺人』という傑作を物にしており、既読であればその先入観から、本作も斯くやとばかり期待が膨らむに違いない。 しかしこのトリックは、なんというか、噴飯物である。私はこのトリックの真相を読んだ時に浮かんだのはキン肉マンの超人がリング場で繰り広げる荒唐無稽な必殺技である。特に浮かんだのはザ・ニンジャの技(マニアックですみません)。そのくらい現実味がないトリックだと思った。多分実行は不可能ではないだろうか?そしてまたこれがテニスコートの中央で殺すことになんの意味をもたらしていないのが痛い。こんな危ない橋を渡るならばもっと簡単に毒殺なり直接的に手を下すなりした方がまだ無難である。まさにトリックのために作られた作品だ。 犯人はかなり意外だが、トリックがアレなので、これも意外性を狙いすぎたと穿った見方になっていまうのはしょうがないところだろう。 しかし一方、島田荘司の豪腕トリックには逆に狂喜する私がいることも白状しなければならない。では本作のトリックと島田氏のそれとは何が違うのかと問われれば、なんと答えたらよいか解らないところではあるのだが。自分自身でもよく解らないこの心情、なんとも不思議なことである。 |
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カーによる当時アメリカで人気を博していたアニメ『トムとジェリー』を主人公にしたミステリのノヴェライズ版・・・ではもちろんない。妙な題名だがれっきとしたフェル博士シリーズである(ちなみにWikipediaで調べてみると、『トムとジェリー』はなんと1940年に既に放映開始されており、本作の発表が1942年だから符合はする)。
事件はアイアトン判事という被疑者に容赦なく死刑を判決する判事が娘の婚約者を殺したかどで自身が被疑者になるという、なかなかドラマチックな内容である。 題名の話に戻るが早川書房のポケミス版では英国版の原題を忠実に訳した『嘲るものの座』となっている。意味は解りにくいものの、まだましだ。本書の題名は文中にある容疑者となる判事が「猫が鼠をいたぶるように」被疑者を追い詰めるという表現から来ている。しかしもう少し何とかならなかったものだろうか。全く読む気をそそらない題名である。 で、本書のメインは殺人現場にいたのが判事と被害者のみという状況の中、フェル博士は本当に判事が殺ったのか否か、解き明かせるかという至極シンプルな問題だ。ここで注目したいのがあくまで容疑者の冤罪を証明するのが誰からも嫌われている人物だというところだろう。こういう趣向の作品では往々にして価値観の逆転が起こるもので、ドラマとしては読み応えがあるのだが、ここで敢えて云えば、その期待は裏切られる。カーが以前より作品に盛り込んでいた人間の予期せぬ行為が不可能・不可解状況を生むという趣向はありはするが、作品にプラスアルファに働いているかといえば、そうでもない。 後々気づくのだが、本作でカーがやりたかったのは『ユダの窓』の別ヴァージョンではないだろうか。敢えてこのような結末を取ったのはカーとしてはその作品があってこそのひねりだったと思い、自身はほくそ笑んでいたのかもしれない。が、作品としては凡作にすぎず、最後に読み終わった率直な感想は、ちょっと際どい表現になるが単純な事件を単にこねくり回して遠回りさせられただけだという感慨でしかない。恐らく読み終わった時、全ての読者が私と同じ表情をするのではないだろうか。その光景だけが目に浮かぶ。 |
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フェル博士シリーズ第1作目。設定的には『連続殺人事件』や『プレーグ・コートの殺人』や『赤後家の殺人』などでよく使われる昔から因縁のある建物で起こる怪事件を扱った作品である。
舞台は集団コレラによって閉鎖された監獄跡、通称「魔女の隠れ家」。そこには監守の末裔は25歳の時にたった一人で監獄の長官に入り、そこの金庫の中に入ってある文章を確認しなければならないという儀式があるというシチュエーション。さらに一族に纏わる古き因縁からの呪いの逸話。そして期待を裏切らずにそこで起こる密室殺人事件。どこをどう取ってもカー印のミステリである。 しかしカーの初期の作品である本書は実にオーソドックスに展開する。とはいえ、凡作というわけではなく、事件が起こる舞台の背景事情、殺人も1つではなく2つ起こる点、さらにその2つともがよく練られていることなど、色んな仕掛けが盛り込まれているのはこの作家の若さゆえの創作意欲の発露だろう。しかしやはり記憶にとどめるだけのパンチ力がないというのが率直な感想だ。 しかし最後の犯人の往生際の悪さはカー作品の中でも群を抜く。言い訳とみっともなさをこれほどまで犯人に盛り込んだのは、その頃、カーの身辺にモデルとなるような人物でもいたのだろうかと勘繰るほどだ。まさかねぇ。 私はこの作品と傑作短編「妖魔の森の家」とをよく混同してしまう。なんとなく雰囲気といい、題名といい、類似性があると思うのは私だけだろうか? |
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カーのデビュー作で、カー初期の作品で主役を務めていた探偵アンリ・バンコランが主人公。人狼の異名を持つ殺人鬼の噂漂うパリを舞台にした、カーの怪奇趣味が横溢した作品だ。奇妙な題名だが、これは人狼と呼ばれる殺人鬼が夜に犯行を起こしていたに起因する。
デビュー作にその作者の全てがある、とよく云われるが、正にこの作品は正鵠を得ており、前述したカーの怪奇趣味、そして事件も密室殺人とその後のカーの作家業の本質が既に表れている。 当時私は文庫の発行順に読んでいた関係で、すでにこの作品を読む前にここまで感想を挙げてあるカーの諸作を読んでおり、自分なりにカーの(というか訳者の)文体に慣れ、またそれらが醸し出すカー独特の作品世界の雰囲気を掴んでいたつもりだったが、それでもなおこの作品はなんとも云い様の知れぬおどろおどろしさを感じ、難儀した記憶がある。小さい頃にテレビで観た横溝正史の『八ツ墓村』の重苦しさに似た感じとでも云おうか。しかも本作で主人公を務めるバンコランも悪魔のような雰囲気を備えているという非情さを持った人物で、それまで読んでいたフェル博士とは全く違ったキャラクター設定であることもこの思いに拍車を掛けたように思う。 またデビュー作だからか、妙に文章も力んだところがあり、精緻に描写するあまり、全体がよく掴めない所も多々あった。まあこれは訳が古いことも大きいのだが。 そんなこともあり、本作はあまり印象に残っていない。そのせいで私の中ではバンコラン自体、カー作品の中ではもっとも影の薄いキャラクターになってしまった。探偵らしからぬ非情さのみが強く心に残っているぐらいだ。 この作品も読み返すべきかもしれないなぁ。 |
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『曲がった蝶番』の感想においてカーの作品の私的ベスト5に入ると書いたが、本作も同じく私的ベスト5に入る作品である。フェル博士物でもHM卿物でも、はたまたバンコラン物でもないノンシリーズのこの作品は実に整然とした美しさを持っている。それが故にケレン味がないということでカー信奉者からはカーらしくないというほとんど言い掛かりのような批判を受けている作品でもある。
再婚を控えた女性の許にある夜前夫が訪れる。彼女イヴの家は婚約者トビーの家の通りを隔てた真向かいにあり、その目を気にして明かりを消した。しかし前夫ネッドはわざと窓際に立って離れようとしなかった。そのうちネッドはトビーの家で誰かがトビーの父親モーリスの部屋から出て行こうとしていると告げる。イヴが覗くとなんとモーリスが殺されているように見えた。驚いたイヴはネッドと共にモーリス宅へ行こうとするが、色んなごたごたに巻込まれるうちに、イヴ自身が加害者の如き、状況を呈していく。 本書は『死者はよみがえる』で見られた巻込まれ型が非常に上手く事件に溶け込みあっており、それが主人公イヴをどんどん窮地に陥れていく。思わぬアクシデントでネッドの鼻血が付くことで血痕が出来ることを皮切りに、どんどん運命の歯車がイヴにとって最悪の方向に転がり、殺害者の容疑がどんどん濃くなっていくところは見事なストーリー展開だ。 さらに本作では人間の思い込みを巧みに利用することで、ありえないと思われた犯人が実に説得力を持って納得させられる。しかもそれが作者のご都合主義ではなく人間って確かにこんな間違いをするよなと納得させられる類いのものであるから、アンフェア感が全くない。逆に同じ過ちを読者も思い知らされることだろう。『連続殺人事件』の時にも書いたが、登場人物を一つの駒と見ず、意思を持った人間として扱うカーの長所がいかんなく発揮された紛れもない傑作である。 そして本書にはミスディレクションが数多く盛り込まれていることも見逃してはならない。最も大きなミスディレクションはここに記すことは出来ない。なぜならこれは真相に大いに関わってくるからだ。敢えて云うならば全編に散りばめられた「会話」そのものがミスディレクションになっている。そしてそれが絶妙に読者にある錯覚を引き起こさせているのだ。 しかし実はよく見落としがちなのだが、実は最も巧妙なミスディレクションは本書の題名であろう。この題名こそが読者に抗えない先入観を与え、サプライズに大きく寄与している。いやあ、ここまで来ると単なるミステリ作家の枠を超え、策士とまで云いたくなるほどだ(もちろんいい意味で)。あまりカーの作品を読んで好感触を得られず、読むのを止めてしまった読者に、カーの最盛期とはこれほどまでにすごかったのだと教える意味でもぜひとも読んで欲しい作品だ。 |
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なんとも素っ気無い題名だが、実際のところ、この題名は正確ではない。原題は“The Case Of The Constant Suicides”といい、『連続自殺事件』が正しい題名。
スコットランドの田舎町にあるシャイラ城。この城には昔の城主が塔から自殺したという言い伝えがあった。しかもそれは亡霊によって起きたという別の言い伝えもあった。そしてまたキャンベル一族の長アンガス・キャンベル氏が塔から墜落死するという事件が起こる。事件当時、部屋は密室であったことから自殺のように思われたが、いくつかおかしい点があった。実はアンガスは直前に多額の生命保険に加入しており、自殺では保険が下りないこと。事件当夜に友人のフォーブスと言い争いをしていたこと、さらにベッドの下に見慣れない犬用のケースがあったこと。これらの状況から親族の間では他殺ではないかと思うようになり、知り合いのフェル博士に事件の調査を依頼する。 事件を再現しようと遺産相続人のコーリンが同じ状況で塔の頂上の部屋で一晩過ごすと、アンガスと同様に飛び降りてしまう。一命はとりとめたが、今度は容疑者であるフォーブスが自宅で首吊死体として発見される。 とこのように事件は全て自殺のような状況であり、これを考えると邦題はほとんどネタバレである。とはいえ、たいていのミステリ読者ならば人の死を扱った小説、しかもミステリが自殺で終るわけではないことは暗黙の了解であるから、タイトルが誤訳でしかもネタバレなどと糾弾するほどのものではない。 本作はよくカー入門書として最適だと云われている。事件の怪奇性に加え、カー特有のファルスも織り込まれており、さらには中心人物の男女2人によるラブコメ要素も盛り込まれていることから、カーのエッセンスが詰まった作品と云え、確かにその意見には頷けるところがある。 が、しかし本作には事件の解決に関わる致命的なミスがあり、これが当時でも話題になり、現在でもこの作品はその一点が汚点として残っている。 私も読んだ当初、この真相に対して不満を持った一人で、それが上の評価に表れている。もしカーを多数読んだ今、本作を読んだとしてもこれについてはカーだからという寛容さを示すことなく、今なお変わらない評価を下すだろう。 事件が不整合性を伴い、なんともちぐはぐな状況で起きたことが、実は被害者自身の意図が介入した故に起こったことという趣向は前に読んだ『緑のカプセルの謎』もそうだが、カーの作品には多数あり、それが傑作に繋がっている。つまりあくまで完全なロジックの構築で事件を解決したクイーンと違い、カーは登場人物をミステリを構成する駒ではなく、意思を持った人間として描いたからだろう。本作にもその考えが盛り込まれており、それが故、あたかも自殺事件が連続したかのように見えたという結果を生み出している妙味が味わえるだけに、このミスは非常に勿体無い。 |
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カーのミステリの特徴として密室がよく挙げられるが、それと双璧を成すほどよく扱われていた題材が毒殺トリック。古来ヨーロッパでは毒殺による殺人事件が頻発しており、しかもそれらが連続殺人事件であることが多かったこと、そして伯爵夫人や公爵夫人といった王侯貴族の夫人達による実行が多く、スキャンダラスな側面を持っていたことが大いにミステリ作家達の創作意欲を刺激したようだ。その中でも多数の毒殺トリックを扱った作品を著したカーはとりわけこの毒殺という犯行に魅了され、独自に研究をしていたように思われる。
というのも本作には『三つの棺』で行われた密室講義に続く毒殺講義がフェル博士から成されるからだ。このことからもカーが密室と毒殺を自身のミステリのテーマとして掲げていたに違いない。 物語は巷で毒入りチョコレートを食べた子供達が死ぬという事件が頻発しているという物騒な事件が起きていることがまず語られる。この事件を犯罪研究家であるマーカス・チェズニイ氏が解明し、その方法を友人や家族の前で実演している最中に覆面を被った何者かが入ってきて、なんとそのまま毒殺されてしまう。しかもその模様を見ていた3人の目撃者の証言はどれも食い違っていたという、非常に面白い題材を扱っている。 さらにこの模様を写したフィルムで彼らの証言を検証する行為がなされ、それに加えて生前チェズニイ氏が用意した10の質問に答えるという趣向も盛り込まれている。この映像による検証が本書のメインであり、最も面白いところだ。 カーが本書を著した際、バークリーの代表作『毒入りチョコレート殺人事件』が念頭にあったことはまず間違いない。識者によればカーがバークリーが長を務めるディテクティヴ・クラブに入会したのが1936年で本作の上梓が1938年。当時バークリーは英国ミステリ界において重鎮であり、しかもエース的存在であった。カーがクラブ入会後、彼と会員のミステリ作家たちの交流を通じて多大に影響を受けたのは知られており、本作は特にバークリーの影響を受けて創られたようだ。 やはり珍しいのは映像を使った心理的トリックだろう。毒殺された犯罪研究家が作った映像とそれに関する問いについて視聴者が喧々諤々の議論と問答を繰り広げるのは面白く、ロジックよりもトリックを主体にしたカーにしてみれば異色ともいえる展開である。 で、これが逆にトラブルとして起きた毒殺事件を複雑化しており、なかなか良く考えられた作品である。失礼な言い方になるが、全てが綺麗に納得でき、しかも精緻すぎてカーの作品ではないみたいだ。 とこのように非常にカー作品の中ではロジックを前面に押し出した作品で、読み応えがあるのだが、当時の私の感想を書いた一言メモでは、どうも多忙の中で読んだようで楽しめなかったとだけ残ってある。しかしそれでも内容についてこれだけ記憶に残っており、読み応えがあったように思えるのだから、やはり私の中ではカーの作品でも上位に来る作品であるようだ。もう一度読み直すべき作品として記憶にとどめておこう。 |
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怪奇性を前面に押し出したような題名だが、中身はそんなオカルト趣味に走っていなく、むしろカーの作風の1つ、ドタバタコメディタッチの色合いの方が濃い。調べてみるとどうやらこの題名は必ずしも正確ではなく、ハヤカワ・ミステリ版の『死人を起す』が正解らしい。
友人との賭けで無銭旅行を南アフリカからロンドンまでしてきた青年が、空腹でホテルの前で休んでいたところ、上からホテルの朝食券が降ってくる。天の恵みとばかり朝食にありつき、ホテルの従業員に勘違いされて、券に書かれていた番号の部屋に案内される。しかしそこにあったのは顔をつぶされた女の死体だった。 本作はこのように巻き込まれ型の事件を扱っており、そのシチュエーションはカー独特のウィットに富んでいて面白い。実際、私は『曲がった蝶番』を読んだ後でカーに対してさらに好印象を持っていたものだから、期待が高まっていた。 が、しかし結論から云えば本作は駄作といわざるを得ない。なぜならほとんどの謎がアンフェアに解かれるからだ。メインの謎が実は××だった、おまけに犯人もあまりに意外すぎて、唖然としてしまう。恐らくカーはこの着想を思いついたときは思わずほくそ笑んだことだろうが、独創的すぎて誰も付いていけないというのが実情だろう。逆にこれだからこそカー!と讃えるファンもいるだろうが、あいにく私はそこまで寛容ではない。もしくはルパンシリーズに触発されたのかとも思ったが、それは勘繰りというものだろう。 しかしカーという作家はどうしてこんなに作品の完成度に差があるのだろう。『帽子収集狂~』で面白さを知ったと思ったら、続く『盲目の理髪師』、『アラビアン・ナイトの殺人』は凡作。どうせ次も同じだろうと思って読んださほど有名でない『曲がった蝶番』が意に反して傑作と、非常に高低差がありすぎる。しかもこれらは1933年~38年という5年間に書かれており、『帽子収集狂~』が33年で『曲がった蝶番』が38年である。つまりほぼ時系列に読んでこれほどの違いがあるのだ。例えばエラリー・クイーンは初期は作品を発表するごとに出来が良くなり、『Yの悲劇』や『エジプト十字架の謎』あたりを頂点としてそこから下り坂に差し掛かり、再度『災厄の町』で盛り返すという、作品のクオリティについて大きな波がはっきりしているが、カーは景気不安定な時の株価指数や為替相場のように作品ごとにそれが乱高下している。 やはり異色の作家だ、カーは。この作品は自身のカーマニア度を測るのに、リトマス試験紙的な役割を果たす作品かもしれない。 |
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もし私がカーの作品(もちろんカーター・ディクスン名義も含めて)の中でベスト5を挙げてと頼まれたら、間違いなく本書はその1つに数えられるだろう。一般的に代表作とされる『三つの棺』、『プレーグ・コートの殺人』、『火刑法廷』などと比べると知名度の低い本書であるが、真相の衝撃度で云えば、カー作品の中でも随一ではないだろうか。
まず発端からして面白い。タイタニック号の事件ですり代わりが行われたと称する男が結婚したばかりのファーンリ卿に偽者の疑いがかかる。そして我こそはファーンリ卿だと主張するのだ。そこからどちらが本物で偽者なのかの真贋をテストするがどれも決定的な証拠が挙がらず、関係者一同、途方に暮れているうちに庭先でファーンリ卿(と思われていた人物)が刺殺されるという事件が起こる。 本作のテーマは衆人環視の庭の中で起こる殺人事件、つまり「開かれた密室」だ。カーにはこのテーマを扱った作品は他にも数あるが、この真相というかトリックは誰もが唖然とするに違いない。かの藤原宰太郎もカーのトリックを自身の推理クイズ本でほとんど暴露しているが、この作品に関してはなかった。それは恐らく載せるのをためらうほど突拍子も無かったからに違いない。そのトリックは仰天するに加え、なおかつその模様を映像で想像するとなんとも怖気が出るような代物なのだ。とにかく怖い。 この題名の意味が今では何を指しているのか、そして結局本物のファーンリ卿はどっちだったのかという真相については全く忘却の彼方だが、この殺人事件のトリックだけはもう読んでから20年近くも経つというのに未だに鮮明に覚えている。物語の導入から最後の真相に至るまで、とにかくリーダビリティに溢れた一作だ。地味な作品だと捉えられがちだが、カー作品の必読本と云えよう。 |
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数あるカーの作品の中でもとりわけ分厚いのがこの作品。調べてみると500ページ以上あり、カーの他の作品でこのくらいの厚さの物は、『ビロードの悪魔』以外思いつかない。しかし『ビロード~』が厚さに比して内容も充実しているのに対し、本作は単に厚いだけと云わざるを得ない。しかしこの作品はどうしてもこの厚さになってしまう。それについては後で話そう。
本作の概要は以下のような物である。 古代アラビアの遺物を陳列する博物館でパトロール中の警官が白い付け髭をつけた不審者に襲われる。その警官はその男を倒し、応援を呼びにいこうと歩みだして、振り返るとその男は姿は消していた。事件の匂いを嗅ぎつけた警官は管理人と共に博物館内を捜査すると案の定、展示品の馬車の中に死体を発見する。なんとそれは警官を襲ったその男であったが、付け髭はなぜか白から黒へ変わっていた。しかもその死体は料理の本を携えていた。 そこへ無人の博物館に招待されたという博物館の主の娘の婚約者が現れる。警官たちは娘ミリアムを探そうとするが、この奇妙な事件はさらに様相を複雑化する。 さてなぜ本作がカーでも随一の大作であるかといえば、本作でカーが試みた趣向とは同一事件を複数の人間がそれぞれの視点で解き明かすことを主眼にしているからだ。恐らくこの趣向は先に書かれた『剣の八』を翻案としているように思われる。『剣の八』では探偵たちがいっぱい出ることで逆に事件がかき回されることを狙っていたが、本作では逆に探偵役を3人出すこと―フェル博士も含めると4人―で、それぞれの主観による錯覚を利用し、事件の意外な側面をその都度浮き彫りにしていくことを狙ったようだ。そしてそれを聞き手のフェル博士が全ての情報を統合して唯一の真実を導き出す。確かに面白い趣向であることに間違いなく、実際アントニー・バークリーの『毒入りチョコレート事件』はこの形式のミステリで傑作として今でも評価が高い。ちなみに『毒入り~』が書かれたのが1929年、本作は1936年の作品であり、カーとバークリーは交流もあったので、カーはその作品が念頭にあったに違いない。 しかし、この作品は同じ趣向を用いながらもなんとも退屈。何度も同じ事件が繰り返し語られるようになり、それがまた面白ければよいのだが、事件に派手さがないため、かなり苦痛を強いられる。しかも物語の大半を関係者の聞き込みに費やしており、さらにそれぞれの犯行が起きる時系列が入り組んでいるので、事件の大要を理解するのもかなりの熟読を要する。この辺は作者が一通りどこかで纏めてくれれば非常に助かるのだが。 やりたいことはわかるがどうにも冗長さを感じざるを得なく、カー作品全作読破を目指す人のみお勧めする作品だ。 |
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『帽子収集狂事件』が私のツボにはまり、嬉々としてすぐさま次の本書に取り掛かったのだが、これが全くの期待はずれだった。とにかく終始ドタバタで途中から何が事件で何を解決しなければならないのかが全く見えなくなってしまい、単純に義務だけの読書になってしまった、つまり最後のページに辿りつくことだけを目的にした流し読みになったことを告白しよう。
一応備忘録的にあらすじを書くと、客船に乗り込んだアメリカ青年の荷物に政治家の醜聞に纏わるフィルムが紛れ込んでおり、それを処分するよう頼まれるが、船内でそれが盗まれ、探しているうちに瀕死の女性が現れ、さらに別の盗難事件も発生し、加えて船内には稀代の悪党「盲目の理髪師」が乗り込んでいて、それら複数の事件が錯綜して船内はやがてパニックに・・・といった感じだ。 カーの作品の特徴の一つに笑劇(ファルス)というのがある。しかし彼のサービス精神は旺盛で、数ある笑劇の中でもとりわけスラップスティックコメディの色が濃くなるわけだが、本書はそれがほとんど全編を覆い尽くしており、非常に物語が散漫な印象を受ける。 この笑劇の要素を好む人、またカーの独特の作風が好きな人はこの味は妙味となって堪らないのだろうが、まだこの頃はカーの作品を読み始めて間もない頃で、単に悪ふざけとしか思えなかった。前作『帽子収集狂事件』でカーの本質が解ったと思っていたが、彼の作風の一面であるこの笑劇趣味が過分に出たこの作品では前作で感じた半ば呆然、半ば感心の域を遙かに越え、呆れてしまった。 初期の作品だが、本書を読むにはある程度カーの作品を通読した方がこの作品の味わいとカーのコメディ作家としての特質がよく解るのかもしれない。実際、本書は本国アメリカでも不評だったというから早すぎた作品だったと云えよう。また日本で“カーキチ”と呼ばれるカー信奉者にはカーの作品で面白かった物として本書を挙げる人もいるくらいだ。 ではカーの作品をほとんど読破した私はと云えば、やはり初読時の悪印象から再度本書を手に取るには二の足を踏んでしまう。尊敬する作家の誰かがどこかで本書を激賞しているのを目にすれば、多少は手に取ろうと気になるかもしれないが、当面その気は起こりそうにない。 |
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フェル博士シリーズ第2作目で私にとって初めてのカー長編。私はこの作品でカーが好きになった。というよりも「カーってこういう作家なんだ」と理解した作品である。
盗まれたポーの未発表原稿の捜索とロンドンで頻発する帽子盗難事件が同時進行的に語られ、やがて帽子盗難事件の犯人と目されている「きちがい帽子屋」を追っていた新聞記者がシルクハットを被った他殺死体として発見されるという、3つの事件が錯綜する非常に贅沢な内容になっている。 実は私はこの殺人事件に関してはほとんど覚えていなく、それ以外のポーの未発表原稿の行方と帽子盗難事件の方が非常に鮮明に記憶に残っている。それほど私にはインパクトがあったのだ。この全く関係ない2つの事件がある接点で結びつく。それはある人は非常にバカバカしいと思うだろうが、私はよくもまあ、こんなことを思いついたもんだと非常に感心した。この着想の妙がツボにはまり、一気にカーが好きになってしまった。 そして乱歩もこの作品を推しており、黄金期ミステリ十傑の中に入っている。しかしカーの他の作品を見渡してみると、この作品以上に出来のよい作品はまだあり、ミステリ読者ならびに書評家の中には「よりによってなぜこれを?」という疑問の声は多い。しかし私はなんとなく乱歩が本作を選んだ意味は解るように思う。ポーの未発表原稿盗難事件と帽子盗難事件という全く接点の無いと思われた事件が、シルクハットを被った他殺体という接点で結ばれる、この着想を買ったのだと思う。私同様、これをバカバカしく思わず、何たる発想と快哉を挙げたに違いない。 ちなみに本書の原題は“The Mad Hatter Mystery”という。現在ならば“Mad Hatter”と云えば、エラリー・クイーンの『Yの悲劇』の方が広く知れ渡っている。後年になって私はクイーンのその作品を読んだが、なんの共通点も見出せなかった。『Yの悲劇』が1932年の作品で本書が1933年の作品であるから“Mad Hatter”という呼称を通じて、イギリスで何かあったのかもしれない。時間があれば今度調べてみたいと思う。 |
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東京創元社によるカーの第4短編集。本書から通常の短編に加え、ラジオドラマの脚本も併載され、ますますマニアのコレクション・アイテム度が増している。
短編は今までの3作で盛り込まれることの無かった、アンリ・バンコラン物がほとんどを占め、それに他の短編集にも収録されていたノンシリーズの歴史ミステリが1編収録されている。私は本書で初めて脚本調の作品を読んだが、これが意外に読みやすく、すんなりと頭に入ったため、案外この短編集は好きな方である。恐らくこれは装飾過多な演出と持って回った文体がシナリオという形であるため、簡略され、一切の無駄がそぎ落とされたせいだからだろう。当時の私はまだカーの訳文に難儀しており、逆にこの簡潔な文章が読書の手助けになった覚えがある。 したがって本書でも記憶に残っているのはバンコラン物を筆頭に収録された短編ではなく、ラジオドラマの方である。ラジオドラマのシナリオでありながら、古くよりカーの良作と云われ、現在でもモチーフにした作品が日本ミステリ作家の間で書かれている「B13号船室」と表題作の2編がそれだ。前者は小さい頃に読んだ本当にあった怖い話とシチュエーションが酷似しており、それが故に鮮明に記憶に残っている。後者は単純に面白かった。こういう先入観を利用したトリックは他にもあったが、これについてはすんなりと嵌ってしまった感があった。これもシナリオ調の文章が一助になったのだろう。 実は最初ラジオドラマの脚本まで収録して短編集を編むことに出版社の卑しき商売根性とマニアの香りを感じたので、嫌悪感を示していたが、結果は上に述べたように存外面白かった。逆に云えば作者のルーツを辿る意味でもこのような作品集も読むべきだと考えを改める契機になった短編集だったと云えよう。 |
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東京創元社によるカーの第3短編集。これも独自に編まれた短編集で、ノンシリーズが2編の他にフェル博士物、マーチ大佐物、HM卿物とカーの作品のほとんどの探偵が出ており、かなり贅沢な印象を持つが、各編の中身はさほどでもない。
この中で印象的だったのは実はノンシリーズの2編だったりする。表題作と「黒いキャビネット」がそれに当たるが、というのも双方とも事件とは別の真相が含まれており、それが私の琴線に触れたところが大きい。具体的に述べると未読者の興を殺ぐから避けるが、現実と虚構のリンクという趣向が当時の私は好きだったのだろう。 その他、岬の突端で死んでいた死体のところには被害者の足跡しかなかった「見えぬ手の殺人」、監視の中で起きた銃殺事件で、犯人はある男を示していたという「ことわざ殺人事件」、針のような物で脳を刺され女性が死んだが凶器が見つからない「とりちがえた問題」、トンネルの中で失踪した女性の謎を描く「外交的な、あまりにも外交的な」、突然奇行を振舞った男の失踪の謎を解き明かす「ウィリアム・ウィルソンの職業」、『赤後家の殺人』の原版とも云える呪われた部屋で起きる事件、「空部屋」。闇から聞こえるささやき声とガス中毒殺人未遂に逢いそうになった女性を助けるHM卿の事件、「奇蹟を解く男」と怪奇色や不思議な事象をモチーフにした短編が多いが、あまりそれらは記憶に残っていない。 というのもまだカーを読み始めて間もないこの頃はそのエキセントリックな作風にまだ馴染めていなく、しかもフェル博士、HM卿といったカーのシリーズ探偵もこの短編集で初めて出逢ったため、性格とその面白さが全くといっていいほど掴めてなかった。また加えて読みにくい訳文(改訳を強く要請する!)も手伝って、あまり楽しめた記憶がない。しかしそれでもこの後、A型気質ゆえの執着心で読み続け、現代に至ってもカーの未読本が復刊、刊行されると手を出しているのだから、三つ子の魂百まで(?)というのはよく云ったものだ。 |
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