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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1418件
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この頃の東野作品には『宿命』や『変身』といった人間の心や過去の因果によって引き起こされる運命の皮肉を扱ったミステリと、片や『白馬山荘殺人事件』、『仮面山荘殺人事件』など、昔からのトリッキーな舞台設定でペンションや館といった閉鎖空間で繰り広げられるオーソドックスなミステリと、2つの大きな流れがあったように思うが、本書はその題名から連想されるように後者の流れを汲むミステリだ。
かつて愛した人を、その男が実業家の隠し子で遺産を相続する権利があるという理由で無理心中という形で殺された元秘書が、実業家一族と懇意である老婆に変装し、遺言公開が行われる回廊亭という旅館で、犯人を見つけ出し、復讐するというプロットがメインだが、やはり東野氏はそんな通り一辺倒に物語を展開せず、容疑者の目処が付いた時点でその容疑者を殺し、復讐者が警察と一緒になってその犯人を探し出すという物語の転換を見せる。つまり倒叙物に犯人探しを織り込んだ作品だといえる。 実にさらっと書いており、しかもその流れが実に淀みが無いので普通に読んでしまいがちだが、限られた登場人物で捜査が進むに連れて判明する新事実に容疑者が二転三転するこの物語運びはなかなか出来るものではない。 特にその淀みない筆致こそが曲者であり、読んでいる最中、どうにか作者の術中に嵌らないことを念頭に読んでいたが、今回もすんなりと騙されてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『深海のYrr』でミステリ界の話題を攫ったフランク・シェッツィングは第1作は歴史サスペンス、2作目はコージー・ミステリと作風をガラリと変えてきたが、邦訳最新作で実質3作目となる本書は女探偵を主人公にした正々堂々たるミステリ。湾岸戦争の怨念の正体を追う探偵物にして、本格ミステリ風のサプライズまで備えた作品となっている。
ケルンで起きた拷問の末の殺人事件が91年に起きた湾岸戦争で仲間に置き去りにされたスナイパーの復讐劇の始まりのように思わされる導入部。これに纏わって当初は謎めいた捜索願が女探偵の許へ依頼されるという形を取っている。 しかしこの謎は上巻の220ページ弱のあたりで早々に明かされる。 しかし冒頭のプロローグから連想されるプロットに反して、ヴェーラの捜査が進むに連れて、登場人物はどんどん増えていく。お宝に関わった3人以外にも外人部隊、それもZEROと呼ばれる精鋭たちで構成された部隊に所属していた戦争の亡霊たちが次々と事件に関わっていく。 そして復讐者と思われたマーマンも実は湾岸戦争時代の類い稀なる残忍さと拷問の技量を備えたイェンス・ルーボルトの標的である事が解り、物語は混迷を極める。 その混迷は下巻の242ページでようやくすっと霧が晴れるように消失する。 そして本書ではプロットのみではなく、登場人物の描写力も格段に良くなっている。今までは平板でプロトタイプ的な登場人物ばかりで、物語が上滑りしているように感じられたのがシェッツィングの欠点であったが、本書では登場人物の過去が因果となる性格形成をプロファイリングで説明するという手法を取っているからだろうか、なかなか厚みがあった。 ヴェーラの依頼人バトゲはヴェーラのガードを解きほぐす魅力を備えており、また謎めいた物腰がなかなか興味をそそる。 そして災厄の根源ルーボルトも怪物として描かれているが、単純に人智の及ばない怪人物として描かず、彼がなぜ怪物となったのかを生い立ちから語ることで、創造上の人物からどこか現実的にいる人物に感じられるようになっている。 その中でもやはり最も印象に残る人物は主人公である女探偵ヴェーラ・ジェミニだろう。最初はコンピュータに精通した、活きのいい気の強い女性と典型的な女探偵像で語られ、実に画一的な印象を受けたが、下巻、依頼人のバトゲにとうとう身体を許すようになって回想される彼女の結婚生活の失敗のエピソードで彼女の人物像に厚みが出てくる。 かつて同じ警察の鑑識員として働いていた元夫カールと離婚に至るまでに受けた彼女の肉体的、精神的苦痛と残る傷痕。そこで吐露されるヴェーラの男性観がなかなかに鋭く、身につまされる点もあった。カールの、男が社会で気を張って頑張らざるを得ないがために陥った自我の崩壊が理解できるだけに痛い。このエピソードでヴェーラの貌がようやく見えた。 さらに個人的にはほんの少ししか登場しなかったが軍隊時代のルーボルトの上官であったシュテファン・ハルムが印象に残った。こういう端役の人物に深みを感じるようなことは今まで彼の作品を読んで、初めてのことだ。 しかしそれに反して警察の面々は戯画化されたように書かれている。この凄惨な事件を任されたメネメンチやその部下クランツのやり取りは、残忍な事件を語る物語に挟まれる笑劇のようである。特にメネメンチは独身である事を実に悔やんでおり、前回読んだキュッパーもまた長く付き合っていた恋人との別れに愚痴を連ねていた。 シェッツィングはどうも警察官を女々しい人物と描く傾向があるようだ。それは権威的存在である警察官を読者のレベルまで引き下げる事で親しみを持ったキャラクターにしているのかもしれないし、黄金期の作家たちがよくやっていたように、権威を貶める事で読者の溜飲を下げているのかもしれない。 そうそうキュッパーと云えば、本作でカメオ出演しており、プロファイリングを披露する。『グルメ警部キュッパー』を読んだ時はそんなことしたかいな?と首を傾げるような感じではあるのだが、ケルンを舞台にして作品を著す著者にしてみればやはり警察に所属するこの2人が面識がないというのもおかしな物だと思ったのかもしれない。 本書の登場人物に共通するのは自らの存在意義への問い掛けだ。 自分が自分であることはどうやって証明できるのか? また自分はどこから来て、どこへ行くのか? 誰かに見ていられることで自分は存在するのではないか? そういう問い掛けを登場人物は行う。夫の暴力を克服して獲得した自分という物は果たして誰かに必要とされるのかと疑問視し、人に愛される事で自らが存在する事を解りながら、過去の結婚の過ちがトラウマとなり、一歩踏み出せない主人公ヴェーラを筆頭に、厳格な父親に育てられる事で、自分が幼少の頃にされた仕打ちを部下に強いる事で父親の翳を克服しようとするルーボルト、名前を変え、異国に隠れてルーボルトという驚異に怯えて暮し、あえて自らの存在を殺そうと務めるマーマン。現実世界に愛想を尽かし、仮想空間に真実を求めるマーマンの妹ニコラ、などなど。 最後にルーボルトが演説する、メディアに見られてこそ、事件は事件となり、存在は存在として認識されるという言葉は、名前ではなく、エンジニア、運転手、スナイパーと役職だけで語られるプロローグの匿名性を示唆しているようで興味深い。 匿名性と存在に対する他者の認識、そして人ならば必ず抱える自らの存在意義など、本書の主題とこれらのテーマが結び付いて、前作、前々作よりも明らかに出来映えが増している。 本書の後に1作挟んで発表されたのが『深海のYrr』である。ますます期待感が高まる。 しかしやはりこの邦題はどうにかならないだろうか?宣伝効果を煽るために「ゲシュペンスト」なる聞き慣れないドイツ語(「亡霊」という意味らしい)を冠するのはなんともダサい。 逆にドイツ語を知る人はそれほどいないのだから、自由に邦題を付けられるのだから、それを利点にしてもっとしびれるような邦題をつけてほしいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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晴れて浪速大学に合格し、念願のミステリ研に入った吉野桜子とミス研の面々、黒田、清水、若尾ら3先輩が遭遇する日常の謎系ミステリ短編集。
「消えた指輪(ミッシング・リング)」は浪速大学ミス研の面々が合宿先のセミナーハウスにて入浴中に密室状態の脱衣所で起こった財布と指輪の盗難事件の謎を解くという物。 正に軽いジャブのような作品。事件はあまりに単純で犯人も容易に解る。工夫がなされているのは指輪の隠し場所と犯人の動機だろうか。日常の謎系ミステリを作るために少しばかり無理を感じさせる謎である。 表題作はこの短編集を貫く1本の軸のような物語。桜子の大叔父の暗号で書かれた遺言状をミス研の面々が解き明かそうとチャレンジする。しかしこれは発端に過ぎなく、この遺言状の謎を巡って桜子はある決意をする。 インタールード的な作品となろうか、その間に挟まれる2編は実に軽いミステリ。 まずその1編「『無理』な事件」は関西ミステリ連盟交流会、略して関ミス連のイベントでミステリ作家大槻忍先生を招いてのトークショーで起きた、睡眠薬入り緑茶事件を浪速大学ミス研の諸氏が推理する話。 もう1編「忘レナイデ・・・・・・」は小学校の時に転校で別れ別れになった男の子から届いた十年以上も前の暑中見舞い。しかし相手はつい最近交通事故で亡くなっていたという謎を扱う。 1枚の葉書きから男女の三角関係に潜む複雑な心情を推理する本編はどこかケメルマンの「九マイルには遠すぎる」を髣髴させる。 そして物語は再び表題作によって閉じられる。 光原百合氏が創元推理文庫で出版した文庫オリジナルの連作短編集。 彼女の実質的なデビューは東京創元社から単行本の版型で出版された『時計を忘れて森へ行こう』だった。しかしその前に彼女は光文社が主催する鮎川哲也が審査員を務める『本格推理』シリーズに投稿をしており、実際に作品が掲載された。本書にはそのシリーズに掲載された作品(「消えた指輪」)も挟まれている。そして投稿時のペンネームが本書で主人公ならびに語り手を務める吉野桜子でもあった。 浪速大学ミステリ研究会に所属する吉野桜子が出くわすちょっとした謎をミステリ研究会の面々が解決するというスタイルで語られているが、そのメンバーの個性が類型的過ぎて、なんとも少女マンガ的だなぁと苦笑してしまった。 よく似ているなぁと思ったのは田中芳樹氏の『創竜伝』シリーズの主役、竜堂4兄弟である。 例えば黒田はやんちゃな終であり、清水はおっとり型の余、そして若尾は毒舌家の続と家長の始以外、非常に似通ったキャラクター設定である。 ミステリとしての出来映えは中の下ぐらいか。どれもが見え見えの内容で、解けない謎でも真相は想像の範疇、つまり読み手が予想していた選択肢の中に納まっている物である。 しかしこの連作短編集はミステリそのものとして読むよりも語り手の吉野桜子のある成長物語と読むのが正しいだろう。日常の謎系ミステリの先駆者である北村薫氏が描く主人公「私」も確かに物語を重ねるにつれ、純粋な文学少女から大人の女性への階段を上っていく味わいがあるが、それは彼女が出くわす事件を通じて、大人の世界を知っていくといったもので、これといった主軸があるわけではない。 しかし本書では大学受験に合格し、憧れのミステリ研究会へ入会した吉野桜子が本書の表題作に登場するミステリ好きの大叔父との「遠い約束」、大人になったら大叔父と2人でコンビを組んでミステリ作家になる約束のため、いつか作家となる夢に向かう姿が描かれている。自分の身の回りの小さな宇宙を通じて作家になることへの覚悟を固めていく姿が背景になっている。 この吉野桜子が前にも述べたようにかつての光原氏のペンネームであったことから解るように、作者自身を投影した人物であるのは想像に難くない。従ってその文章からは自身がようやく憧れのミステリ作家になれた歓びが満ち溢れているのだが、いささかはしゃぎすぎて苦笑を禁じえないのも確か。 一人称叙述で語られる地の文はライトノベル好きの文学少女が書きがちな、ユーモアと皮肉に溢れており、悪く云えば悪ふざけが過ぎるように感じる。高校生の時に読めば、この手のミステリ愛好者をくすぐるような、ところどころに挟まれる古典ミステリへのオマージュや固有名詞にはニヤリとさせられるのだが、やはり40代の身には、白けて映ってしまう。 しかしそれらはやはりこの光原百合という作家が抱くミステリへの愛の深さゆえの発露であることがひしひしと伝わってくる。読み手から書き手へと脱皮したい衝動を主人公吉野桜子に存分に投影しているし、とりわけラストの大叔父の手紙ではミステリを愛する者が必ず抱く思いが綴られていて、胸を打つ。 こういうのにやっぱり弱いんだな、私は。 斜に構えて評価しようとも思ったが、それはやはりこの作家に対して失礼だと感じた。ミステリを愛する人、特に高校生に読んで欲しい作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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クーンツの犬好きは非常に有名だが、とうとう犬をテーマに小説を著したのが本書。
犬を前面に押し出した作品では既に『ウォッチャーズ』という大傑作があるが、本書ではもっと犬と人間との関わり合いについて書かれている。何しろ主人公はエイミー・レッドウィングといい、<ゴールデン・ハート>というドッグ・レスキューを経営しているのだ。 このドッグ・レスキューとは、その名のとおり、ペット虐待が日常化している家庭などで育てられている犬を買い取ったり、繁殖犬として劣悪な環境で育てられ、生殖機能を酷使され、人間の愛情すら受け付けられなくなった犬を保護したりする職業だ。このような仕事が実在するのか、はたまた犬好きのクーンツの生み出した願望の産物なのか、寡聞にして知らないが、とにかく犬に対する愛情なくては出来ない仕事である。 そして今回の目玉はニッキーという名のゴールデン・レトリーバーの存在。逢うもの全てが魅了され、どこか普通とは違う特別な犬だと悟らされる犬だ。 またも例に出して悪いが、『ウォッチャーズ』のアインシュタインを彷彿させる犬キャラだ。そういえばアインシュタインも同じ犬種ではなかったっけ? そして昨今のクーンツ作品に顕著に見られる裏テーマが幼児虐待だ。『ドラゴン・ティアーズ』で“狂気の90年代”を謳ってから、彼は一貫してこの虐待を扱っているように思う。 今回は幼児のみならず、犬に対する虐待を大きく取り上げ、声高らかに反論する。今回も“仔豚(ピギー)”と呼ばれる母親から虐待を受ける少女が現れる。彼女はダウン症で、母親は娘のせいで幸せが摑めないのだと逆恨みをぶつけて虐待を重ねるのだ。 そんな物語は実に緩慢に流れる。ドッグ・レスキューのエイミーとその恋人ブライアン、そして何か人智を超えた力を感じるゴールデン・レトリーバーのニッキーの話を軸に、ハローとムーンガールという不気味なカップル、そしてエイミーの過去を探る探偵の話が交互に語られる。そしてそれらはやがて一点に収束する。 しかし最近のクーンツ作品にありがちなエピソードを幾層にも積み重ねる語り口からはどうも最初にこのプロットありきとは感じられず、筆の赴くままに物語を書いていった結果、こうなったという印象が強い。 特にそれが顕著に感じられるのは、謎めいた存在を醸し出すゴールデン・レトリーバーのニッキーの謎が最後まで明かされないところ。 しかし本書の冒頭の献辞には、恐らくクーンツ自身が飼っていたであろうガーダ(解説の香山二三郎氏は瀬名氏による『オッド・トーマスの受難』を引用し、トリクシーが犬の名であるとしている)という名の犬―しかもゴールデン・レトリーバーのようだ―への感謝の気持ちが綴られており、どうやらその犬も既にあの世へと行ってしまったようだ。 そして虐待された少女ピギーことホープがニッキーのことを“永遠に光り輝くもの”と呼ぶことからも、これはガーダへ捧げる物語だったのだろう。エイミーが犬と暮した日々の追憶は作者のそれが重なっているに違いない。彼にとってガーダはニッキーであり、だからこそニッキーの謎については触れなかったのかもしれない。 犬を飼っている人にはこの気持ちが解るだろう、そう、クーンツは云っているようにも取れる。 本書の題名は原題をそのまま訳したものである。この「一年でいちばん暗い夕暮れ」とは実は登場人物たちが抱える闇を指しているのではなく、クーンツが経験したガーダを喪ったその日の夕暮れを指しているのではないか。 消化不良感がどうしても残る作品だが、愛犬を亡くしたクーンツを思うと、これは彼が哀しみを乗越えるのに書かねばならなかった作品だと好意的に解釈すれば、それもまた許せるというものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
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前作『災厄の町』から始まった第3期クイーンシリーズだが、この2作に共通しているのは事件が起こる前にクイーンが渦中の家族の中に潜り込み、その過程に隠された秘密を探っていくという趣向にある。これは調査を進めるうちに家庭内にどんどん入り込むチャンドラーのマーロウやロスマクのアーチャーなど私立探偵小説に通ずる展開がある。
もっと下世話に云えばドラマ『家政婦は見た!』のようなワイドショー的な立入り捜査となるだろうか。 今回は6人の息子を持つ靴屋チェーン店をアメリカに展開する老婆の家で起こる殺人事件を扱っている。その6人の息子というのが前夫の間に生まれた3人が気違いであり、現在の夫の間に生まれた3人が優秀でそのうち双子の兄弟は実質的に会社を切り盛りしているといった具合。 そしてこの靴屋の老婆と6人の子供という状況がマザーグースの歌に出てくるのだ。そしてその歌の歌詞を具現化するかのように事件が起きる。 マザー・グースの歌に擬えた殺人事件。この童謡殺人というテーマは古今東西の作家によっていくつもの作品が書かれているが、クイーンも例外でなかった。 しかしクリスティの『そして誰もいなくなった』然り、ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』然りと、他の作家たちのこのマザー・グースを扱った童謡殺人の作品が傑作で有名なのに対して、本書はクイーン作品の中ではさほど有名ではない。 読了した今、それも仕方がないかなという感想だ。 今回の事件というのは、空砲での決闘になるはずだったサーロウとロバートの異父兄弟が実弾が放たれたがためにロバートが死に、そしてまたその双子の弟マクリンも決闘する段になってその前夜、何者かに撃たれて死んでしまうという物。 さらにポッツ一族の長であるコーネリアが死の間際に遺した告発状に自身がそれをやったのかと残されていたが、その告発状は偽物である事が発覚する。 空砲にすり替えたはずの銃弾を誰が実弾にすり替えたのか? そしてマクリンはマザーグースの歌に擬えるが如く、死んだのか? さらにコーネリアの告発状を偽造したのは誰か? これらが謎の焦点になっているのだが、事件としては小粒でいささか牽引力が弱い。 最後の蛇足交じりの重箱の隅を。 ロバートが決闘にて射殺される事件が起きるにいたり、ポッツ製靴会社の社主コーネリアはスキャンダルによる株価下落を予想して自身の所有する株を売りに出すことを命じるが、これは明らかにインサイダー取引だ。 まあ、恐らく本書が刊行された1940年代にはそういったモラルが確立されていなかったのだろうから、インサイダー取引に関する法律も整備されていなかったのだろう。当時の常識を知る意味でもなかなか興味深い一幕だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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切ない。なんとも切ない物語だ。
脳を移植された男が次第に移植された脳に支配され、性格を変貌させていく。 プロットを説明するとたったこの一行で済んでしまうシンプルさだ。しかしこのシンプルさが実に読ませる。 この魅力的なワンアイデアの勝利もあるだろうが、やはり名手東野氏のストーリーテラーの巧さあっての面白さであろう。 実はこの作品にはかつて別の形で接していた。 それはこの作品の漫画化作品で確かヤングサンデーで『HEADS』という題名で連載されていた。作者は『イキガミ』でも名を馳せている間瀬元朗氏。 当時私は東野作品を読むことは全く考えていなかったのですぐに読んだが、脳移植手術を施された主人公が徐々に自分らしさを失っていく当惑と恐怖が次回への牽引力となっていたのをよく覚えている。そしてその作品がきっかけで間瀬氏の作品を読むようにもなった。 しかし幸いにして当時の私はどんな理由だったか解らないが、その漫画を最後まで読むことはなかった。従って結末は知らないままなので、初読のように読めた。また各登場人物のイメージが『HEADS』で描かれた人物像だったのは云うまでも無い。 人の臓器を移植された時点で人はもうその人そのものでなくなってしまう、そんな感慨を抱く人もいるようだ。 そして本書は臓器の中でも人格を形成する脳を移植されるわけだから、アイデンティティに揺るぎが出てくるのは必然だろう。 21世紀になって18年経つ現在、本書に書かれているような脳移植手術は実現していない。現在から遡る事28年前に発表された本書は、脳移植がアンタッチャブルな領域である事をひしひしと感じさせ、その恐ろしさをじわりじわりと感じさせる。 しかし作者は別に警鐘を鳴らしているのではない。本作の前に書かれた『宿命』では脳を対象にした人体実験が物語の隠し味として扱われていたが、本書ではそれを前面に押し出して実験体となった男の行く末を一人称で語っていく。 つまり脳、そしてそれによって形成される自分という物の正体を脳移植というモチーフを使って探求しているようだ。 確かに科学的根拠としてこんな事が起きるのかという疑問はあるだろう。出来すぎな漫画のようなプロットだと思うかもしれない。 しかしそんな猜疑心を持たずに本書に当って欲しい。 90年代に自分探しというのがちょっとしたブームとなった。 自分は一体何者でどこから来たのかというルーツを探る、一人旅をして裸の自分と向き合う、そんな風潮が小説はもとより映画やあらゆるメディアで用いられた。この作品はそんな自分探し作品の変奏曲だ。 失われつつある自分を必死に引きとめようとすることで他者を意識し、自分という存在を意識する。脳移植をモチーフに変身していく男の苦悩と恐怖を描く事で凡百の自分探し作品に落ち着かない作品を描く東野氏。さすがである。 自己のアイデンティティへの問い掛けから最後は人生について考えさせられる本書。 物語の閉じられ方がそれまでの過程に比べ、拙速すぎた感が否めないが、ワンアイデアをここまで胸を打つ物語に結実させる東野の物語巧者ぶりに改めて畏れ入った。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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フランク・シェッツィング第2作目。1作目が13世紀のケルンを舞台にした歴史物で、2作目はグルメ警部が主人公のコージー・ミステリとガラリと趣向を変え、多彩振りを見せている。
文体も1作目に比べると軽妙だが(まあ、訳者も違うのだが)、どうもこの作家の文章は私には合わないように感じた。 今まで私は数多くの海外作品を読んできた。従って普通の読者がよく云うような、人物の名前の区別がつかない、舞台が海外で馴染みがないので解りにくいといったような抵抗感無しに物語に入っていけるのだが、この作家の場合は少しばかり勝手が違うように感じる。 一番感じるのは、本書で作者が前作にも増して散りばめているウィットやユーモアがこちらに頭に浸透してこない事。そのため、各章の最後に書かれた締めの台詞が私にはビシッと決まらず、頭に「?」が浮かんだり、もしくは「ふ~ん」という程度で終ってしまうのだ。 もしかしたらこれは作者のユーモアセンスではなく、ドイツ人共通のユーモアセンスなのだろうか?アメリカやイギリス、そしてフランスの作家の作品を読んできたが、これらの国のユーモアに比べて、洒落てはいるとは思うが、機知を感じるとまではいかない。 ではミステリとしてはどうかというと、2つの殺人事件が起きるわけだが、この真相はなかなかに入り組んでおり、なるほどとは感じた。 さて題名に「グルメ警部」と謳われているように、主人公キュッパーは美味い物に目がないが、この手の作品にありがちな料理に関する薀蓄が展開されるわけでもないため、際立って美食家であるという印象は受けない。 むしろ、普通に美味い物が好きで料理も出来る男が警部だったというのが正確だろう。 また巻末にはケルンの街の有名な店の名前と料理のレシピが載せられているが、これらが作中に登場したのか確信が持てない。読み慣れないドイツ語表記の料理名は私がドイツと料理の双方に疎い事と相俟って、想像を掻き立てられなかった。 そんな私はこの本を読む資格がないと云われれば素直に認めざるを得ないが。 登場人物も個性があり、例えばドイツ人なのに、イギリスの執事に憧れる召使いシュミッツを始めとして―ただこの特異さについては日本人である私にはいささか解りかねるところがある。なぜならドイツも城が多くあり、貴族も多いため(「フォン」とは貴族の称号だし)、執事がいることがさほどおかしいとは感じないのだが―、被害者インカの夫フリッツとその影武者で元俳優のマックス、絶世の美女であるフリッツの秘書エヴァに大富豪の娘でありながら、動物園の飼育係であるマリオンなど、役者は揃っているが、彼ら彼女らの台詞が前述のようにこちらの頭に浸透してこないので、作られた紙上だけのキャラクターとしか映らなかった。 しかしこの作者はきちんとクライマックスシーンをアクションで見せるところに感心する。『黒のトイフェル』にも大聖堂の屋根上での迫力ある格闘シーンがあったし、今回は動物園を舞台に追跡劇とライオンの柵の中での攻防ありと、サービス満点だ。 この2作に共通するのはこれらアクションシーンが非常に映像的だという事。広告業界で働いた経歴を持つ作者だから、こういったお客に“魅せる”手法を常に意識しているのだろう。 まあ、しかしまだ2作目。この作者の真価を問うにはまだ早すぎるか。次の『砂漠のゲシュペンスト』で上に述べたような不満が解消されるのか、はたまた世評高い『深海のYrr』まで待たなくてはならないのか。 ともあれ、過大な期待をして臨むことだけは避けて、次作に取り掛かることにするか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今やバカミスの第一人者として名高い霞流一氏。
彼は動物を作品のモチーフにしているのが特徴だが、本書はその題名が示すように全編に馬に纏わるものが散りばめられている。 まず物語の舞台となるのが岡山県の羅馬田町。勿論これは架空の町である。 そこに纏わる平家の落ち武者伝説に端を発した馬の頭をした馬頭観音に、一瞬にして馬を巻き上げ、落命させる堤場風の伝説から派生したダイバ神。さらに第2の死体はユニコーン像によって撲殺されている、などなど。 そしてそんなガジェットに包まれた事件は死体の周囲に足跡のない不可能犯罪、密室殺人に、袋小路で消え失せた犯人と、本格ミステリの王道を行くものばかり。 それらは実に明確に解き明かされる。その真相は島田氏の豪腕ぶりを彷彿させるような離れ技が多い。 しかし霞氏のコメディに徹した文体が不可能犯罪の謎を薄味に変えているように感じてしまった。 本格ミステリの不可能趣味とはその謎が不可解であればあるほど、魅力的に読者の目には映るわけだが、霞氏の軽い文体はその不可能趣味を茶化しているように感じて、謎の求心力を薄めてしまっているように思えてならない。 従って、私に限って云えば、いつもならば謎解きを考えながら読むのに、今回は物語が流れるままにしてしまった。謎解きを主題とした本格ミステリのフックを感じなかったのだ。 また読者の心に残す物語の主要素の1つ、キャラクターだが、これも設定がマンガ的に留まっており、個性的であるものの、読者の共感や憧れを抱くような血が通った者は皆無である。これは探偵役天倉とそのパートナーで語り手を務める魚間もそうで、非常に記号化された駒のような扱いである。 そのため、最後天倉が謎解きを魚間の前で開陳した後の事件関係者の成行きは後日端的エピソードの域を出ず、そこに関係者の台詞は全く挟まれていない。従っていわゆる一昔前のノベルス版で数多書かれたような本格ミステリという風に私は感じた。 しかし改めて振り返ると本書に挙げられた謎とその真相はなかなか面白いものである。 本書は1999年の書でようやく世間にバカミスなるジャンルを声高にアピールした頃に書かれたものだ。その時期に敢えて馬鹿の字の「馬」を選び、作中人物に事件の状況を指して「バカミステリー」と云わせているところが霞氏の歩む道を謳っているようで興味深い。 初めて彼の作品を読んだ印象としては、彼の言葉遊びの要素、コメディタッチのストーリー運びと戯画化されすぎたキャラクターが逆に損をしていると感じた。 しかし昨今の作者の評判は年々高くなっている。ここはしばらく彼の作品を追ってその真価を確認していこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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久々のチャーリー・マフィンシリーズ。前作『城壁に手をかけた男』でナターリヤとの結婚生活に終止符を打ったチャーリーがまたまたロシアを舞台に暗躍する。
騙し騙され、嵌め嵌められ。全く諜報活動の世界とは何が真実で何が虚構なのか全く予断を許さない。 最後まで読んだ今はそんな思いでいっぱいだ。 今までと一味違うと思ったのはチャーリーが嵌められて、いいようにあしらわれることだ。大使館内のスパイ潜入疑惑の捜査の一環としてチャーリーそのものが嘘発見器にかけられ、危うくナターリヤとの生活がばれてしまうのではないかと恐れを抱く。 また記者会見を開く直前にロシア民警捜査官で、チャーリーの協力者であるパヴロフの部屋に招かれた際の一部始終をVTRに撮られ、全国ニュースにその内容がロシア側に同情を誘うように編集され、世界中の笑い者になるなど、今までのチャーリーに比べるといささか精細さを欠く。 文中で時折挟まれる自身の技能の衰えの有無に関する独白から推定すると、本作では現場を離れた超一流スパイのブランクを描く事が1つの目的であったのではないだろうか。 例えば『待たれていた男』や『城壁に手をかけた男』などは身元不明の死体の正体捜しや暗殺の模様が映された映像の分析や容疑者の尋問など、謎の核心にチャーリーが関係する諸外国の機関との軋轢を乗り越えながら迫っていくものだったが、本作では身元不明の片腕の男の死体があるにもかかわらず、その身元を探るところから始まるのではなく、この死体が英国大使館内で殺されたか否かにまず腐心する。 まあ、大使館内で死体が発見されるというシチュエーションだからこの手続きは定石なのだろうが、どうにか探りを入れて事件に介入しようとするロシア側と事なかれ主義を貫こうとする大使館の面々からの妨害や横やりへ対処することばかりが語られ、一向に被害者の正体探し、犯人探しへ進まない。 まあ、これらはいわゆる役所仕事と揶揄されるずさんな仕事ぶりや1つのことにいろんな部署が介在してたらい回しにされるところも想起させられるのが面白いところではあるのだが、それでも謎解きの牽引力よりも状況の打開策に苦心する姿と、再会したナターリヤとの関係修復に苦悶する姿の繰り返しなのはちょっと引き延ばしているのでは?と上巻を読んでいるときは感じてしまった。 今回の話は物語の冒頭に引用されている2006年に起きた元KGBのアレクサンドル・リトヴィネンコをロンドンで暗殺した容疑者アンドレイ・ルゴヴォイ引渡しを当時のロシア大統領プーチンが拒否した事件をモチーフにしている。グラスノスチ以後、ペレストロイカで資本主義社会にシフトしていったロシアが今なお社会主義的秘密主義に覆われている事を世界に知らしめた事件だ。 フリーマントルはここにエスピオナージュの鉱床を見つけ、更にロシアの暗部と畏怖を掘り下げようとしている。その好敵手として選んだのがロシアで長年海千山千の強者どもを出し抜き、危機を脱して生き残ってきたチャーリー・マフィンだ。 しかしこの引用ですら、実はフリーマントルによるミスディレクションだった事に最後になって気付かされるのである。これについてはネタバレで述べよう。 しかし本当にこのシリーズは一流のエスピオナージュ小説でありながら世のサラリーマンの共感を得る、中間管理職の苦労を痛感させられる作りになっているのが面白い。 例えばチャーリーが派遣されるロシアの英国大使館の警備責任者を含む面々は、歴代の駐在員たちから見れば、信じられないほど楽天的で牧歌的な雰囲気を纏った人物ばかりだ。かつてのロシア駐在員たちはいつ謂れのない理由で民警に逮捕され、監禁されて拷問を受ける恐怖が常に付き纏っていたのに、彼らは壊れた監視カメラの修理でロシア人を何の疑問もなく大使館内に入れ、おまけに再び壊れた監視カメラを直さずに何日も放置しているという体たらくだ。しかもその行為に誰も疑問や危機感を感じない鈍感さも伴っている。しかもチャーリーは派閥争いで劣勢に立っている現部長の地位堅守のため、どうしてもこの事件を解決しなければならないのだ。 これをサラリーマンに照らし合わせると、万年赤字を抱えている地方支店に配属され、そのあまりにひどい現状に幻滅する姿が目に浮かぶではないか。派閥争いに巻き込まれるあたりはもうサラリーマンの苦悩そのままである。 そしてそんなチャーリーが最後の最後に誰もが信じて疑わなかった真実から開眼し、事件の裏に隠された真実を突き止める。 訳者あとがきによれば本作は新たな3部作の第1作目であるとのこと。恐らくチャーリーとナターリヤの関係もこの3部作で結着が着くことだろう。即ちようやくフリーマントルは長きに渡ったチャーリー・マフィンシリーズに終止符を打とうとしているのだ。 本書の評価は上に書いたとおり、個人的には全面的に受け入れ難いため、7ツ星評価に落ち着いたが、三部作の最後を読んだ後ではまた変わるかもしれない。 とにかくフリーマントルのライフワークとも云えるこのシリーズの恐らく掉尾を飾る三部作の最終作を愉しみにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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海外を舞台にすることが多かった薬師寺涼子シリーズだが、本書では前作に引き続き日本の避暑地軽井沢が舞台となっている。不況による取材費の引き締めか。
いや下衆の勘ぐりはよそう。 今までのシリーズ同様、ドラ避けお涼こと薬師寺涼子の自由奔放、傍若無人ぶりは健在で今回も権力の壁を乗越えて、カツカツとハイヒールの音高らかに闊歩する。 今回の敵はアメリカの食品業界を牛耳るUFAのオーナーである女性大富豪マイラ・ロートリッジ。不老不死を夢見るこの女帝は実の娘を若返り用クローンとして育てているというのが今回の趣向。 この自らの延命のためにクローンを育てる金持ちというテーマは21世紀になって数多書かれた物で、内容的には驚きはもたらさない。このシリーズはアイデアの斬新さを求めるのではなく、色んな敵に薬師寺涼子がいかに勝利するか、そのプロセスを愉しむべきだろう。 しかしこのシリーズに放り込むオタク度、マニア度の高いカテゴリーの豊富な事。コスプレ、メイド、女装趣味と現代日本の歪んだ多様性、いわゆる萌え要素があらゆる限り反映されている。 そしてそれらに没入する社会的地位の人間が警察や官僚の高官だったり、医者だったり、実業家だったりとかなり高い地位の人々であるのが皮肉か。ストレス社会と云われる日本の現在を田中氏なりに毒を込めて盛り込んでいるのだろうか。 で、今回いつもにも増して気付かされるのが薬師寺涼子の部下泉田警部補に対する愛情だ。 今までは単純に独善的に泉田を引っ張りまわし引き連れていた感があるが、今回は泉田と共有する時間を敢えて取ったり―冒頭の軽井沢へ向かう列車にわざわざ乗り合わせる―、泉田に女性としての自分を売ったりー交通事故に遭った泉田に食事を手ずから食べさせる―する。 シリーズも7作目になってようやく単なる師従の関係から進展してきた感がある。まあこれは鈍感な私が今までの作品でそれに気付かなかったところもあるかもしれないが。 しかし無敵の美貌を誇る薬師寺涼子はある意味究極のツンデレだ(これももはや死語か)。 とはいえ、やはり読みやすいが故に1ヵ月後には忘れてしまいそうなお話ではある。まあ、嫌いではないので次巻が出たら買うだろうけど。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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第3期クイーンシリーズで後期クイーンの代表とされるいわゆる「ライツヴィルシリーズ」の第1弾が本作。
第1の事件として架空の町ライツヴィルの創設者となったライト家に起きた妻毒殺未遂事件を扱っている。 題名の『災厄の町』とはすなわちライツヴィルを指している。但しこの町に悪党共が巣食い、荒廃しているとか、基幹産業が斜陽になり、過疎化が進んでいるとかそんな類いのものではなく、町の著名人であるライト家に起こった妻毒殺疑惑事件について、町中の人間が伝聞からあらぬ噂を掻き立て、それが歪んだ憎悪を生み、容疑者のジム・ハイトのみならず、被害者のライト一家へも誹謗・中傷を浴びせていくという、1つの事件が町に及ぼす狂気を謳っているのだ。 扱う事件は妻殺し。夫であるジムは金に困り、飲んだくれ、しかも殺人計画を匂わす手紙まで秘匿していた、と明々白々な状況証拠が揃っていながら、当の被害者である妻が夫の無実を信じて疑わないというのが面白い。そしてその娘婿の無実を妻の家族が信じているというのも一風変わっている。 この実に奇妙な犯人と被害者ならびにその家族の関係が最後エラリイの推理が披露される段になって、実に深い意味合いを帯びてくる。 そして特徴的なのはエラリイが敢えて真相を語るのを先送りにし、今までの作品と違い、ごく限られた人物にしか明かさなかったことだ。 『スペイン岬の秘密』でも見られた、真相を明かすこと、犯人を公の場で曝すことが必ずしも正義ではないのだというテーマがここでは更に昇華している。 知らなくてもよいこと、気付かなくてもよいことを知ってしまったがために苦悩している。興味本位や己の知的好奇心の充足という、完全な野次馬根性で事件に望んでいたエラリイが直面した探偵という存在の意義についてますます踏み込んでいる。 さてこの幸せに見えた新婚夫婦の、知られざる狂気と殉教精神が故に起こった悲劇というモチーフはロスマクの諸作を連想させる。 私はそれが故に今までのロジックの妙で驚きを提供していた作品よりも余韻が残る思いがした。 もう1つだけ本書に関して付け加えよう。今回は『中途の家』以来となる法廷シーンが挿入されている。この辺の内容はけっこう手馴れた物で読み物としての面白さがある。通常法廷物であれば法廷シーンで一発逆転劇が繰り広げられるのだが、クイーンの場合は逆に容疑者が更に苦境に追い込まれていく模様が書かれており、逆に危機感を煽り立てるところに特徴がある。 クイーンが法廷シーンを盛り込んだのは当時人気を博し、ドラマにもなったE・S・ガードナーのペリー・メイスンシリーズの影響を受けたからではないだろうか。出版社の要望もあったのかもしれないが、あくまで真相は法廷シーンではなく、古くから一同を集めて館で披露するスタイルを固執しているのがクイーンらしい。 しかし今なおミステリ評論家の間で俎上に上る後期クイーン問題。ようやくその入口に立った喜びは確かにある。 さて悩める探偵クイーンの道程を一緒に辿っていこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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文庫上中下巻という大巻でありながら、世の好評を得た『深海のYrr』。
その作者フランク・シェッツィングの作品を読むに当たって、まずはデビュー作となる本作から読んでみた。 13世紀のドイツ、ケルンを舞台にした貴族の陰謀に巻き込まれた盗人の物語。 『オリヴァー・ツイスト』のような物語を想像したが、濃厚さに欠けるように感じた。 大聖堂の建設が行われるケルンでその建設監督であるゲーアハルトが転落死する。しかしたまたま大司教の林檎を盗みに入ったヤコプは現場を目撃してしまう。事故と思われたその事件にはゲーアハルトに寄添う影があり、ヤコプはそれを捉えていた。 この殺し屋ウルクハートはある陰謀の下、集った貴族の結社が雇った殺し屋。彼はヤコプが目撃した自分の犯行と死に際にヤコプに漏らしたゲーアハルトのメッセージを抹殺せんと執拗に追う。 痛いのは物語の主役を務めるヤコプがさほど聡明ではなく、偶然の連鎖で身に降りかかる災難を避けているに過ぎないことだ。 こういう物語ならばやはり社会の底辺でしたたかに生きてきた盗人が狡猾さと悪知恵で大いなる陰謀を乗越えていく姿を見たいものだ。 そして物語の背景を彩ると思われた大聖堂建設が全く響かないことだ。 物が作られるというのは、物語が作られることの暗喩となる。特に今回のような話では大聖堂の建設が最高潮に達するに従って、貴族らの陰謀もまた最高潮に達するという劇的相乗効果が出来たはずなのだが、シェッツィングはそれをしなかった。これが非常に勿体ない。 大聖堂建設、貴族らの陰謀、そして1人の殺し屋の暗躍と物語を盛り上げるに事欠かない要素をこれだけ盛り込みながら、熱気がほとんど感じさせないとは、ほとんど罪のような小説である。 そしてケルンの貴族連中で結成された結社がなぜゲーアハルトを手に掛けたのか、この謎が曖昧模糊として物語の牽引力になっていないように感じた。少しずつ陰謀の手掛かりを晒しながら徐々に全貌を明らかにしていく語り口を期待していただけに残念。 これがデビュー作なのだからそこまで要求するのは高望みか。 しかしこの物語の主人公はヤコプというよりもこの殺し屋ウルクハートだと云えよう。金髪の長髪を湛えた長身のその男は目に奈落の底を感じさせる。彼の脳裏に時折過ぎるのは暗闇に鳴り響く人のものとは思えない悲鳴の波。元十字軍騎士だった彼がなぜ殺し屋に身を堕としたのかが物語の焦点の1つとなっている。 原題である“Tod Und Teufel”は英語に直すと“Death And Demon”だろうか。ドイツ語には明るくないのでWEB辞書でそれぞれの単語を調べて繋げると「死と悪魔」となる。この悪魔とは即ちウルクハートのことだろう。 しかし『黒のトイフェル』という題名はミステリアスで、読者に「どういう意味だろう?」と食指を動かす魅力はあるが、読み終わってもその意味が伝わらないのは明らかにマイナスだろう。 ドイツ語の「トイフェル」と聞き慣れない一種蠱惑的な響きを敢えてそのままとしたのだろうが。やはり題名というのは人の興味を惹きつけつつ、読了後にその意図が明確になるのが一番だろう。版元はもう少し配慮をして欲しいものだ。 しかしあとがきによれば、本書は本国ドイツでベストセラーを記録したらしい。ドイツにはよほど面白いミステリ・エンタテインメント小説がないのだろう。 まだ見ぬ傑作が山ほどあるドイツ国民はなんとも羨ましい限りだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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いまや本家北村薫と双璧を成す日常の謎系ミステリ作家の地位を確立した加納朋子の鮎川哲也短編賞受賞作を含むデビュー短編集。
本書は児童書「ななつのこ」を読んだ主人公入江駒子が作者にファンレターを送った事をきっかけに、同書に収録されているお話に準えて彼女が出逢ったちょっと不思議な体験について作者の佐伯綾乃に手紙を書き、その返事によって謎が解かれるという体裁を取っている。 まず「スイカジュースの涙」は駒子がある早朝に短大へ通っている時に遭遇した点々と続く血痕の謎について語った物。 散りばめられた事実は雄弁すぎるほどに血痕に隠された事件について語っているため、謎の難度は比較的軽い。作者の世界観と物語の構成に関して紹介を行った軽いジャブといった作品だ。 続く「モヤイの鼠」は渋谷を舞台にしたある奇妙な出来事の話。 題名にあるモヤイ像に群がる鼠たちは果てしてこの物語に何をもたらしているのだろう? しかし渋谷駅は通勤の乗換駅なのでよく行くため、書かれている情景がすぐに解った。こういうのを読むとやっぱりミステリ含め、小説というのは東京ありきなのだなと思う。 「一枚の写真」はある日長年空白だったアルバムの、駒子が3歳前後だった頃の写真が19歳の今頃になって友人から返される理由を推理する。 本格ミステリの賞だということを勘案すればもっといい短編になっていたに違いない。 「バス・ストップで」の謎は自動車教習所に通いだした駒子が遭遇した老婦人と少女の奇妙な行動について。 しかし本作はそんな謎よりも駒子のロマンス相手となりそうなバス停で出逢った男性の出逢いに集約される。バス停でバスを待っている間という場面に加え、突然雨が降り出して傘が必要だと思い、相手に傘を差し出すシチュエーションなど、状況的にかなりベタなのが惜しいところだ。70~80年代の出逢いのシーンといいたいくらい古めかしい。 「一万二千年後のヴェガ」では再びバス停で出逢った青年と駒子が再会する。 「バス・ストップで」で出逢った瀬尾と再会するという、本短編集にロマンス風味が加わってきた作品。従ってメインの謎であるブロントサウルスの移動よりもやはり瀬尾と駒子との触れ合いが物語の主旋律となっている。 本書の中でもとりわけ文学色が強いのが「白いタンポポ」。 謎としては少女がなぜタンポポを白く塗るのかということになるが、それが前面に押し出されているかと云われればそうではなく、やはり主題は真雪と駒子の交流だろう。自分にも同年代の子供がいるせいか解らないが、こういうホッコリするような話が最近特に印象に残る。 そして本書の締めとなるのが表題作「ななつのこ」だ。 連作作品を締めくくるだけあって、それまでの関係者が一同に会し、そしてまた全体の謎が解かれる。 謎は歯医者で治療中の時は2鉢だったペチュニアが、1階の喫茶店から見上げると4鉢に増えているという物と、プラネタリウムの最中に少女真雪が失踪してしまうことだろう。どれも謎の妙味としては実に希薄だが、物語性は逆に濃い。また題名に示されているように「7」に拘ったモチーフがそここにあしらわれている。プレアデス星団、通称昴の第7の星に関するエピソードや7歳の真雪。七話目というのも隠れた7だろう。 北村薫に端を発する日常の謎系ミステリの新たな書き手の誕生と騒がれた加納氏だが、本書に収められた作品は読み進めるにつれて謎のスケールが小さく萎んでいっているように感じた。いや正しく表現するならば、日常の謎よりも駒子を取巻く人物達の物語を描く事に力点がシフトしていったように感じた。 その転換点となるのが、キーパーソンである瀬尾が登場する「バス・ストップで」からだろう。この瀬尾という存在が短大の友人達とで構成されていた駒子の世界が外側へと広がり、他者との関係性が深化していく。 オリジナリティ感じる点はやはり作中作である児童書「ななつのこ」のお話に擬えた駒子が体験する日常の不思議という設定だろう。どちらがニワトリでどちらがヒヨコか解らないが、よくだれずに最後まで貫き通したものだ。 ミステリという視点から論じれば各短編での謎よりもやはり作品全てに共通する児童書「ななつのこ」の作者佐伯綾乃の謎こそがこの短編集で語りたかった謎だ。 先に述べたように鮎川哲也賞受賞作として捉えるならば、首を傾げざるを得ないほどミステリ色は希薄だが、ここはいまどき珍しい純粋かつ甘酸っぱい物語と行間から感じ取れる作者が本作に込めた想いに素直に賞賛を贈って、8ツ星としよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書の紹介には「殺された被害者には一角獣の角で刺されたとしか思えない不思議な傷痕があった」と強調されており、それが題名と相俟って、伝説の獣による殺人というカー得意のオカルト趣味が横溢する作品だと思ったら、これがとんでもない間違いでなんと怪盗物だ。
パリを賑わせている神出鬼没の怪盗フラマンドを捕まえるべく、「島の城」に集まった面々。その最中に上に書いたような傷痕を残した奇妙な死体が衆人環視の中、起こるという物。確かに事件は不可能趣味溢れているが、これがメインというよりも変装の名人フラマンドは果たして誰なのか、そしてフラマンドの宿敵であるパリ警視庁警部ガスケも変装の名人で、それは誰なのかと怪盗探し、犯人探しに加え、探偵探しまで盛り込んだ内容になる。 ところでフランスが舞台となると、やはり怪盗が付き物なのか、本作では神出鬼没のフラマンドなる怪盗が登場する。勿論これはモーリス・ルブランの『怪盗ルパン』による影響が30年代当時、かなり強かったのではないだろうか―というよりもルパンシリーズは世紀を超えてなお世代を問わずに親しまれているのだが―。 その証拠に「島の城」城主のダンドリューが各人の枕元に一夜の友として置いている書物の中に当のルブランの『怪盗紳士アルセーヌ・ルパン』が添えられているのだから、カーも堂々と意識していると謳っているのだ。 しかしそんな趣向満載の設定ながら登場人物が多すぎるのと、犯人・怪盗・探偵探しそれぞれがごちゃまぜになって、整理がつかずに物語が流れ、唐突に終わったような感じがしてしまった。特に最後HM卿の口から延々と開陳される事件のあらましはなんとも複雑であり、ちょっと造りすぎではないかと思われる。 しかしケン・ブレイクが出るシリーズはなぜこうもドタバタになるのだろう。 本書はシリーズ初期の作品であるが、この頃カーはケン・ブレイクを情報員であることを利用して、物語を複雑化する不幸な男としてミステリの味付けにしようと思っていたのだろう。 今回思ったのはやはり作品紹介というのは読み手の先入観を否が応にも刷り込んでしまうことだ。上にも述べたが、紹介は一角獣という実在しない怪物をモチーフにした事を前面に押し出し、一見カーの最たる特徴であるオカルト趣味を纏ったものだと思わせるが、蓋を開けてみればフランスを賑わす怪盗を捕らえる事が主眼の、HM卿の国際犯罪に携わる情報部の長という諜報活動の一面が色濃く反映された作品である。 確かに原題も“The Unicorn Murders”と一角獣と名を冠しているが、やはりこの紹介は間違いだろう。例えるならば、パッケージツアーで伊勢海老料理をメインに謳っておきながらその実、伊勢海老は添え物程度で鍋料理がメインだったような感じと云えば解るだろうか。 読者の作品評価に直結するので各出版社はもっと紹介文に配慮して欲しい。 まあ、感想を云えば、出来は残念といいたいところだが、文中、本格ミステリの謎に対する推理についてHM卿がなかなかに含蓄溢れる言葉を述べているのでそれを抜き出して終わりとしよう。 「人間が仮説をひねくり回しておるのは、その人物が推理しているというわけでは決してない。その人物だったらどうやるか、という事を披瀝しておるだけなのだ。しかし、そこから、その人物の性格がよく掴めるからな。」 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回オッドが対峙する敵はダチュラという名のテレフォンセックス業者。彼女は超常現象マニアでとりわけ幽霊を見る事を切望している。それも連続殺人鬼が殺した犠牲者だったり、性倒錯者の霊だったりと、筋金入りの変態だ。
そして彼女はテレフォンセックス相手でオッドの友人ダニーから幽霊を見ることが出来るオッドの話を聞いてオッドを捕まえ、その能力を取り込もうとダニーを誘拐したのだ。 オッドを殺し、その血肉を得ることで自ら霊視能力者になるという妄想を抱いたダチュラは、なんだかコミック物の悪役そのものである。どうやらクーンツは初のシリーズでアメコミ物に挑戦しているように思える。 そもそも女性の悪役という事自体、クーンツ作品では珍しい。パッと今思いつくのは『対決の刻』に出てくるシンセミーリャ&プレストン・マドック夫妻ぐらいだ。しかもそちらは夫妻であるから共犯だ。 オッドが捜している人や物に引き寄せられるように目的へ達するシックス・センスを持っているのも大きな特徴だが、今回はその能力を逆手に取ってスリリングを増しているのが素晴らしい。 即ちダチュラもまた軽い霊感を備えており、従ってこの能力ゆえにお互いのシックス・センス(ダチュラ曰く、「霊的磁力」)が惹かれ合って、好むと好まざるとに関わらず、出遭ってしまう。つまりオッドは犯罪者の追跡の手から逃れようと思っても、自然に出遭ってしまうのだ。この辺は実に上手い。 また今回オッドは前作で起きたショッピングモール内でのテロ事件を防いだ英雄としてピコ・ムンドではその名を知られるようになっていることが前作と違うところだろう。 従って彼の平穏な生活はいささか破られ、ピコ・ムンド・グリルでの仕事もままならない状態だ。またオッド自身は逆にあの惨劇で救えなかった人々に対して自責の念を抱き、更に失った恋人ストーミーの思い出に引きづられてもいる。 そんな中で起きるのが親友ダニーの誘拐事件。養父のジェサップ医師の幽霊がオッドの許へ現れることを皮切りにオッドは否応なくダニーの捜索に関わっていく。 しかもオッドはモールのテロ事件の傷心を癒すために手記を残している時期にダニーが1年前に癌で亡くした母親への哀しみを癒す手助けが出来なかったことが今回の事件を招いたのだとまで自戒する。 とにかく全編自虐的なまでのオッドの自戒の念に覆われている。 それ故、最後に至ったオッドの選択はなかなかに興味深い。 第2作目となる本作は1作目、いや通常のクーンツ作品と違って冒頭のスペクタクルというのがない。 いや知り合いのジェサップ医師の殺害事件というのがあったが、この話はダニー誘拐事件のきっかけとなる事件だったから純粋に1つの事件のみを語った作品だ。そういう意味ではやはり1作目と比べると落ちるか。 まあ、1作目の瀬名氏の解説によれば、シリーズの中でもこの2作目はそれほど評価が高い作品ではないとのこと。 ならば次作への期待はいつになく高まるものだ。一刻も早く訳出される事を期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本来であれば本書は中編集というべきだろう。表題作の誘拐事件を扱った「帝都衛星軌道」と亡くなった詐欺師との回想に浸るホームレスの男の独白ような「ジャングルの虫たち」という2つの作品が収録されているからだ。
しかし通常の中編集と違うのは、前者の表題作が前後編に別れ、しかも前編と後編の間にもう1つの中編「ジャングルの虫たち」が挿入されるという、極めて特異な特徴を持っていることだ。 ノンシリーズである本書には島田氏のシリーズキャラクターは出ないものの、警察の実捜査を噛み砕いた内容や、詐欺師のありとあらゆる詐欺の手口を会話調で説明する語り口は非常に読みやすく、相変わらずのリーダビリティを誇る。登場人物の仕草や台詞や地の文に織り込まれる心情など、その登場人物の生活レベルに根ざした言葉が選ばれているようで、血が通っているように感じる。 年齢を重ねるごとにその筆致は練達の域に達しているようだ。特に飾り気のある文章ではないが、その人と成りがすっと頭に入っていく自然さを持っている。 そして表題作の後編で立ち昇るのは島田氏のライフワークとも云うべき、冤罪事件と日本の都市論だ。 そして東京の地下鉄はかつて戦時中などに作られた無数の地下経路を結んで作られているという事実。だから東京の地下鉄路線は歪な形をしているのだと島田氏は述べる。私も東京に来て通勤に地下鉄を利用することになり、路線図を眺めて思ったのはなんともおかしなルートをしているなぁということだった。この素朴な疑問に1つの回答が得られた思いがした。 ただ途切れないトランシーヴァーの真相はあまり驚愕を抱かない。 山手線に乗る美砂子との通信が途切れない謎の真相はなるほどとは思った。 しかし2番目の被害者の紺野貞三のマンションへの連絡方法に関する真相はいささか残念な思いがした。 21世紀に生み出された島田作品にはこういうある特殊な知識を持っていないと解けない謎が多いように気がする。この是非については既に述べているのでここでは語らないが、とにかく読者との知的ゲームという観点での本格ミステリであればアンフェアであると認めざると得ない。ただ新たな知識を得るという観点での本格ミステリであれば、肯定も出来るだろう。 また中間に挟まれる中編「ジャングルの虫たち」はミステリではなく、一種のファンタジーともいえるだろう。 表題作の後編を読むとこの中編が後編を補完するような役割を果たしているのが解る。しかし非常にそれとなく書かれているので上のようにある関係性を持っているとも書けるし、全く独立した2編でなぜ表題作の前後編の間に挟んでいたのかが解らない読者もいることだろう。 私は本書を1つの新しい中編、いや長編の形の試みと評価する。成功しているか否かは別にしてやはりこの意欲は買いたい。 御年60を超える島田氏のアイデアを物にするストーリーとプロットを思いつく知性はまだ新しい本格の型を模索する貪欲さがあり、後続の本格ミステリ作家にはまだ負けないという気概さえ感じる。もっと後輩作家、特に新本格作家連中は島田氏を見習ってほしいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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現在、ジャンルを問わず、日本のミステリ・エンタテインメントシーンで毎年精力的に作品を発表し、女流作家としての地位を確立した恩田陸氏。その最初期の作品が本書で、私にとって初恩田体験となった。
一読して上手いと思うのは、誰もが経験した庶民的な風景を映像的に、また世間話のような親しみやすさで語る、その文体にある。 本書の舞台となる谷津は、地方に住む人間なら誰もが持っている故郷の風景、つまりどこかで見たことのある田舎の街並みなのだ。このノスタルジックな高校生の時の心象風景を切り取ったような作品世界は、非常に取っ付きやすかった。 更に扱うテーマも非常に親近感を覚えるもので、いわゆる都市伝説的な学生間に広まる妙な噂やおまじないだ。 本題である5月17日にエンドウという生徒がUFOに攫われるといった噂から、金平糖をばら撒いて好きな人がそれを踏むと両思いとなって結ばれる、木の穴に願い事を録音したテープを入れておくとそれが正しいと見なされたら願いが叶うなどといった物。これらは誰もが学生時代に一度や二度経験した、信憑性もない言い伝えだ。 これらも含め、作品の舞台に横溢する風景や高校生の思春期に感じる想いなどは俗に云う読者の「あるある」感を引き出し、読者の共感を誘う。実際私もそう感じることがしばしばだった。 やがて物語はそういった地方都市のありがちな風景と高校生のありがちな生活から超常的な内容へとシフトしていく。その因子となるのがある能力を持った4人の高校生たちだ。その中の1人、地歴研のメンバーでもある一ノ瀬裕美は霊感の強い高校生として描かれているが、彼女には他の人が見えない物が見え、異質な物を「臭い」で感じる能力を持つ。そしてそれらが日常生活で見えないように自分に「わっか」を被せている。 そしてさらに他の丹野静、潮見忠彦・孝彦兄弟、そして藤田晋という能力者が出てくる。これらのキャラクターはその後恩田氏が書く常野物語という能力者の物語の原点なのだろう。いや、もしかしたら既にこのデビュー間もない本作で一連の構想があり、常野物語でも彼らの家族について触れられているのかもしれない。 とにかくこの頃から既に恩田氏は自身の作品世界を作ることを想定していたように思う。つまり本書には彼女の作家になりたい野心が込められていると云えるだろう。 そして彼ら彼女らが共有しているある世界、「あそこ」がある。そこは暗くて殺伐とした風景が広がっているだけのところなのに、何故か妙に落ち着く場所だ。 それは誰もが思春期の頃に抱く逃亡願望、つまり「ここではない何処か」なのだ。 現在膨大な著書がある恩田氏の作品群に本書の系譜に連なる作品が既にあるのか、寡聞にして知らないが、ここに出てきた谷津の人々、とりわけ主人公でもあるみのりのその後をまた見たいと思わせる、実に瑞々しい作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本作は3部で構成されているが、それぞれ別の事件が起き、一応解決し、完結している。そしてそれら3つの事件を貫くのは“運命の女(ファム・ファタール)”ともいうべきゲイブリエル・レゲットだ。
そしてさらにこれら3つの事件の真相はかなり複雑だ。 まず事の起こりである第一部ダイアモンド盗難事件。 これだけでほとんど短編1本分の分量がある。 そこからまた第2部は宗教団体の神殿に住み込んだゲイブリエルの不可解な行動と彼女の周囲に続発する怪事について語られる。 そして第3部ではゲイブリエルに夫となったエリック・コリントン殺害の容疑が掛かる。 このゲイブリエルという女を中心に実に9人が殺される。正に死の連鎖であり、彼女こそ死の女神で、タイトル通りデイン家という血に呪われているとしか思えない不可解な事柄が起きる。 つまり本書はハードボイルドの意匠を借りたホラーであり、それに合理的な説明が付けられる本格ミステリでもあるのだ。 いや“運命の女(ファム・ファタール)”という観点から云えば、これはウールリッチのようなサスペンスの色合いが強いのかもしれない。 しかしウールリッチと違い、ハメットはこのゲイブリエルという女をさほど印象的に描かない。探偵の私の視点で紡がれるこの物語において、私は常に依頼された仕事をやり遂げるためにゲイブリエルに連れ添っているだけだからだ。周囲の人間が次々と死んでいく境遇に家系の呪いを感じる女性ゲイブリエルは薬物依存の弱い女としか描かれない。 このような作品を読むと、やはり作品の好き嫌いは登場人物に共感もしくは好感を持てるかが大きいのだというのが解る。 そういった意味で云えばハメットはあまりにドライすぎる。単純に仕事として関わっている私よりもやはり自分が納得したいがために仕事を超えて動くマーロウやアーチャーの方が私は好みである。 やはり私にはハメットは合わないのかもしれない。 そして各部で一応の解決を見た事件は最後の最後に意外な黒幕が暴かれ、また別の一面が曝されることになる。 また各部で明かされた真相が最後の最後でまた別の様相を呈すという趣向は現代の本格ミステリにも通ずる複雑な技巧である。 繰り返しになるが、本書はハードボイルドとして読むのではなく、呪われた家系をモチーフにした本格ミステリとして読むのが正しいだろう。 さらに本書が書かれたのは1929年と、まだクイーンが活躍する本格ミステリ盛況の頃。そして後年クイーンもこの示唆殺人を自作で扱っており、またクイーンはハメットらハードボイルド作家をライバル視していたので、この作品に何らかの影響は受けていたのではないだろうか。 しかし重ね重ね云うが事件の構造は複雑である。一読だけでは十分に理解できたとは云えないだろう。 なぜならば関係者がそれぞれ自身が犯罪者だと告白し、それぞれのストーリーを組み立てるのだから、真相が幾重にも折り重なり、何がなんだか解らなくなってくる。そういう意味ではコリン・デクスターの作風にも一脈通じる物があるのかもしれない。 作品としての出来は個人的にはあまり好みではないが、ミステリ史における本書の位置付けを考えると非常に意義深いものがあると読後の今、このように振り返ると思えてくる。 ただ歴史的価値のみで本書を勧められるかといえば、ちょっと頭を抱えてしまうのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回は考古学の世界によくある事件(捏造)をテーマにした構成になっている。これは作中でも語られている実際の事件―ピルトダウン人事件―がモチーフになっているのだろう。
毎回新たな知識を提供してくれるこのシリーズだが、本書でもビックリするような話が続出する。その中でも最たるものはネアンデルタール人が90年代のDNA鑑定によって今の人類の祖先ではなかったということだろう。 私が高校生の時はクロマニョン人から一連の進化のプロセスに盛り込まれていた既成事実が最近の科学では全くひっくり返されてきている。特に恐竜に関しては私たちが子供の頃図鑑で見たそれと現代のそれらは全く趣きが異なっている。つまり考古学は今なお発展途上にあるということだ。 そして我々も子供の頃の知識のままでいるといつの間にか狂言回しのように見られてしまう。知識はやはりこのような書物を読むことでリニューアルされていかなければならないのだ。 さらにギデオンがこの講演会で開陳する知識とは人が二足歩行をするという進化のために出た弊害というもの。四足歩行よりも心臓の位置が高くなったため、静脈瘤が起きやすくなった、十分に足が進化しないうちに二足歩行に移った為、扁平足が生まれた、云々。 中でも最も蒙が啓かれる思いがしたのは直立する事で骨盤が狭まり、逆に頭蓋が発達した事で出産が困難になったということだ。21世紀になってもまだこのような人間の進化に歴史を探る事で新たな知見が得られる。確かに考古学は刺激的だ。 また旅行ガイド的な側面もこのシリーズの特徴で、例えばジブラルタルの空港の滑走路は町の幹線道路と交差しており、時たま車がエンストして飛行機が降りられなくなるなんていう珍事も本書を読まなければ知りえぬエピソードであっただろう。 しかし他方で本来ミステリとして添え物であるべきこれらの情報がシリーズを重ねる事で際立ち、逆に主題である殺人事件の発生が遅くなっているのもこのシリーズの悪い特徴であると云われ、それは間違いではない。 本書ではギデオンの殺人未遂的な事件は早めに起きるものの、殺人事件は174ページでようやく起きる。404ページに物語の最後が書かれているから、おおよそ約半分のあたりである。これはやはり遅すぎるといわざるを得ないだろう。 しかし今回は薄れつつあったミステリ的趣向が改めて見直されるような緻密な伏線に満ちた構成になっている。 前回の『密林の骨』でもアマゾン河という特異な場所を活かしたあるトリックが使われていたが、これはクイズの類いに過ぎず、児戯に等しい物であったから、本書における物語に散りばめられた風景描写と観光ガイド的土地情報が最後のある1つの単語に収斂していくことを考えると実に味わい深いものがある。 今回は実は事件自体が曖昧でミステリ興味が湧かなかったが、最後になってみると、この何かはっきりとはしないが確実に事件は起きている空気の中で見事もやもやとしていた雰囲気が一気に晴れていく妙味はセイヤーズの作品に通じる物があると感じた。 しかし今回はレギュラーメンバーのFBI捜査官ジョン・ロウが出なかったのが物語としての面白みを半減させていると思う。声を出して笑ってしまうほどのウィットがなかったし、ジョンの存在こそがエルキンズのウィットを最大限に引き出すファクターだから、やはり彼の欠場は痛い。 2009年の9月に本国で発表された次作にはジョンが出ていることを大いに期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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題名が表すように本書は『龍臥亭事件』で登場した美少女犬坊里美を主人公にしたスピンアウト作品だ。
当時一登場人物に過ぎなかった彼女がこのような1つの物語の主人公を任されるとは誰が想像しただろうか? しかしこの物語の意図は明確だ。2009年から始まった裁判員制度について、一般の人に馴染みの薄い裁判という仕組みを解り易く噛み砕いて紹介する事だ。 そのために犬坊里美というキャラクターを弁護士の卵とし、その他司法に関わる法律家の卵たちを配して、裁判官、検察官、そして弁護士それぞれの立場と役割を述べていく。 このまだ詳細に知られていない裁判員制度はミステリ作家諸氏にとって新たな鉱脈であるようで、昨今では続々と同類のミステリ作品が発表されている。 しかし私は逆にこういう犯罪に関わる新たな制度を知らしめる事こそ、ミステリ作家の役割であると強く思っているから、このような働きは手放しで奨励したい。 また島田氏はLAに住んでいることもあり、アメリカの陪審員制度にも馴染んでいた事もあって、裁判員制度には早くから着目していた。確かエッセイで日本でも陪審員制度を導入すべきだとも述べていた。 また自ら冤罪事件にも積極的に関わっていたから、日本で犯罪が起き、容疑者が逮捕され、起訴され、法廷で争う一連のシステムには詳しかったはずだ。もしかしたら島田氏はいつかはこのような法廷ミステリを書きたかったのかもしれない。それが裁判員制度導入に伴って当初発表の2006年こそがその時だと決意したのではないだろうか。 2008年から2009年にかけて続々と同種の作品が刊行されたことを思えば、島田氏の先見性は瞠目に値する。 そして裁判に関わる事の意味が色々包含されてもいる。 例えば一度被疑者となった人が冤罪だったとしても、常日頃の素行が悪ければ無実を勝ち取っても社会生活の復帰は難しい故に、敢えて刑務所行きを選ぶ者。世間体を気にするが故に、嘘の証言をする者たち。法廷で犯行の詳細を理路整然と証明するために検察側が嘘でも無理のないストーリーを考え出す事。 それら歪んだ社会の構造、そして日本の弁護士が刑を軽減したいがためにこの手の司法取引に応じる事が逆に真犯人を世にのさばらされているのだと島田氏は登場人物の口を借りて糾弾する。これこそが本書で最も語りたかったテーマだろう。 ただ法曹関係者が本書を読んだ時にどう思うだろうか?メッセージは立派だが、修習生である里美が法廷で弁論を行ったり、最後のシーンの大団円など、夢物語のように思え、失笑を買うのではないだろうか。逆に云えば里美というキャラクター性からこのようなテイストを持ち込んだのかもしれないが、個人的にはいっぱしの法廷ミステリを期待していただけに何か物足りなさを感じる。 しかし本書における死体消失のトリックは前半にエピソードとしてさり気なく書かれた事が実は大いに関わってきて、なかなか面白かった。 やはり島田氏は普通の本格ミステリが合うのだ。 またよく云われる事なのだが、島田氏の描く女性キャラクターは女性から見ると男性が心に描く女性像であり、全く腑に落ちないらしい。 本作における犬坊里美の年齢は27歳であるが、これがとても年相応とは思えないほど落ち着きがなく、涙脆い。とにかく自分の無能さに絶望し、将来を悲観し、何かにつけて泣くのだ。これでは二十歳前後の女性だし、せめて24までというのが正直な思いだ。 また石岡との恋も20代後半の女性とは思えぬほどの純粋さである。横浜という大都市に住んでいてしかも美貌とスタイルの良さを持つ里美に云い寄って来た男は数知れずいるだろうに、この純粋さは高校生の恋愛物を読んでいるようで、なんともむず痒い。 少し気になったのは作中で島田氏は何かと固有名詞を出し、露骨なまでに糾弾していることだ。文科省は落ちこぼれ官僚が行くところだの、倉敷の水島にはコンビナートがあるから腐敗がらみの訴訟の宝庫だのと歯に衣を着せない。 更に検事の法廷取引や事件のあらましを創作するなど、けっこうキツイ内容も含んでいる。これが現代日本の行政・司法の実態だと云わんばかりだ。 しかし内容的にはこれほどのページを費やすべきだったかはやはり疑問。里美という素人から見た起訴から裁判までの流れを描くという趣向はよかったが、里美の泣き虫キャラが悪戯に物語を長く引き伸ばしている感も否めない。 この作品に次があるのかは解らないが、もしあればもっと引き締まった内容の作品を期待する。 |
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