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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1418

全1418件 641~660 33/71ページ

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No.778:
(7pt)

浪漫風少女漫画的ミステリ

前作『琥珀の城の殺人』の時代背景が1775年のオーストリアで、今回は1670年のイタリア。またも中世ヨーロッパを舞台にしたミステリである。
そして舞台は前作が古の塔を抱いた山奥に聳え立つ古城であったの対し、本作では僻地の村に存在する豪奢な庭園。
登場人物は伝説の美女とまで謳われたエレオノーラの美貌を受け継ぐ美少女エルミオーネと、その婚約者である美丈夫アントーニオ。そして亡きエレオノーラに誘惑され、その妖艶かつ魔女めいた美貌に魅了されながらも、拒絶し続けた現侯爵ジューリオ。その養女で、自分の平凡な容姿と内気な性格に嫌悪を感じる、劣等感の固まりようなチェチーリア。語り手はチェチーリアの侍女で対照的に明るく奔放な娘オルテンシアが務め、探偵役はその家庭教師でありながら、一張羅の擦り切れた黒外衣と踝まであるマントを着込んだ一見風采の上がらぬ青書生グエルチーノと、なんともまあ、細い線で描かれた美麗な絵が目に浮かぶ少女マンガを読んでいるような舞台設定、登場人物設定だ。
そして探偵役のグエルチーノは上に書いた人物描写からすぐに連想したのは横溝正史の金田一耕助。ルネッサンス文化のゴシック調の舞台設定に典型的な探偵像とこれまた本格ミステリのコードに忠実に則った作品である。

本書で起きる殺人事件は4つとこれまた非常に多い。そのうち3つが毒殺である。その3つの毒殺で使われるのは作中アコニトゥムと呼ばれるトリカブトである。
しかし本作では毒殺トリックで主眼になる誰がどのようにどの時に毒を盛ったのかという謎解きについてはあまり言及されない。

本格ミステリでは殺人事件が起きたときに警察が介入しない条件としていわゆる「嵐の山荘物」と呼ばれる設定がある。つまり自然現象もしくは人為的妨害行為、もしくは関係者達の拠所なき事情によって外部との交通手段、通信手段が絶たれ、閉鎖空間で次々と事件が起き、当事者自身で犯人と殺害方法の謎を解かねばならない設定だ。
しかし篠田氏は時代設定をまだ警察捜査が成熟していない中世、さらに警察の介入の手を容易に無視できる高貴な階級社会を舞台にしているところが他の本格ミステリと一線を画している。

しかし逆に云えばこれは警察が行う犯罪捜査のセオリーを完全に無視できるということ。即ち現場の保存や死体の検死、鑑識による指紋やその他証拠の捜索といった一連の作業を取っ払い、当事者達は平気で事故現場を忌まわしいと云って清掃し、死体も片付けてしまう。しかしこれは作者自身が警察捜査に精通していないことを逆説的に露呈してしまっているようで、なんとも素人気分が抜けないように感じられないでもない。

また本書では『琥珀の城の殺人』でも採られた叙述方法が用いられている。前作ではジョルジュという登場人物の手記を交えて物語が語られたが、本書でも養女の侍女オルテンシアの手記が挿入され、彼女が素人探偵役として事件の整理を行う。

しかしこの少女マンガ的本格ミステリも2回目であったせいか、読み難さは相変わらずあるにせよ、慣れもあり、以前よりも浸れた。
最後に明かされる祝福の庭に隠されたメッセージは殺人事件以上の謎解き妙味に満ち、作者が書きたかったテーマがこちらにある事が容易に解る。そしてそれらメッセージの数々は欧州文化の豊かさと欧州人の洒脱さの蓄積であり、こういう薀蓄が好きな私にとっては逆にこの謎解きがあることで救われた思いがした。

物語全編に陰として存在するエレオノーラが生涯通じて真に愛した相手とはジューリオだったのだが、彼がそんなに愛情を注がれるほど魅力的な人物として描かれていないので、最後に立ち昇るエレオノーラの献身的愛情にいささか違和感を持たざるを得ないのが勿体ない。
とはいえ、最後にドミノ倒し的に解明される庭園に秘められた彼女のメッセージには胸を打つものがあった。少女マンガ趣味といえばそれまでかもしれないが、私は敢えてこれは欧州人的愛情表現だと理解しよう。

前作の作者あとがきでもあったが、この特異な舞台設定は単純に作者がこの時代のヨーロッパに造詣が深く、また慣れ親しんだ世界であったからとのこと。
しかしそれは云い換えれば自分が好きな物を書き散らかしているだけとも云える。
続く建築探偵シリーズが篠田氏が読者を意識し、寄添った作品群とすれば上に並べた不満は今後解消されていると期待したい。もうしばらくはこの作者の作品を追っていくことにしよう。


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祝福の園の殺人 (講談社文庫)
篠田真由美祝福の園の殺人 についてのレビュー
No.777: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

気負い過ぎたか、デビュー作

本書は篠田真由美氏のデビュー作。鮎川哲也賞の最終選考まで残り、受賞は逃したがその後改稿の上に刊行された作品だ。

異色なのは18世紀の東ヨーロッパという日本ではなく異国、しかも現代ではなく中世を舞台にしている点だろう。
この頃の価値観は現在とは全く違い、疑わしき者を公然と犯人に仕立て上げ、処刑する事が罷り通っていた時代である。それはカーの『エドマンド・ゴッドフリー卿殺害事件』でも理不尽な裁判の様子が詳細に描かれており、冤罪などは当たり前だった。
そういう風潮ゆえに成し得うる、このシチュエーション。つまり身元不明の部外者を犯人に仕立て上げ、その無実を晴らすために探偵役を買って出る事になる状況はなかなかに斬新である。

またデビュー作の本書では既に稀代の吸血夫人エリザベート・バートリが既に物語を飾るガジェットとして使われている。
先に読んだ『ドラキュラ公』では吸血鬼ドラキュラのモデルとなったヴラド・ツェペシュの伝記的歴史小説を著していることからも、作者が中世の、特に東ヨーロッパに伝わる忌まわしき負の歴史に大いに興味を示しているのが解る。ロンドン、フランス、イタリア、ドイツ、スペインといった一般的に知られている国々ではなく、ほとんどの日本人がその歴史に疎い東ヨーロッパにスポットを当てているのがこの作者の特徴だろうか。

その頃多く刊行された本格ミステリの例に洩れず、本書でも1つだけでなく、連続殺人事件が発生する。
先に述べた吸血夫人バートリ・エルジェベトから引き継がれたという呪われし深紅の琥珀の首飾り、夜な夜な館の周囲を徘徊する亡き前妻の亡霊、消失した伯爵の死体と、甲冑を着た伯爵に襲われ、瀕死の重傷を負う侍従などなど、幻想味溢れる謎の応酬に作中に散りばめられた奇行と伝説めいた逸話が最後に謎の因子の1つ1つとなって表層からは見えなかった真のブリーセンエック伯爵家の姿、犯人解明、そしてさらに真犯人の解明、更に本書でしきりにその存在を謳われた琥珀の存在意義が溶け合って明らかに真相と、本格ミステリのコードに実に忠実に則った作品である。

しかし何故かそれらは上滑りで物語は流れていくように感じた。
中世、しかも東ヨーロッパという馴染みのない時代及び世界ゆえなのかと思ったが、坂東眞砂子氏の中世のヨーロッパを舞台にした『旅涯ての地』という上下巻800ページを超える作品に没頭し楽しめたのだから、そこに原因はない。やはり両者の作品と決定的に違うのは「物語の力」だろう。
デビュー作と坂東氏の傑作の1つを比べるというのはいささか酷ではあるが、人の心に物語を浸透させるフックのような物を感じなかった。ベルンシュタインブルクという古の塔を囲んだように造られた古城という魅力的な舞台を設定しながらもその魅力が刻まれるような勢いを感じなかった。
更に忌まわしき言い伝えをもつ琥珀の首飾り、そして今では静電気で知られる当時未知の力であったエレクトリシタスなど、知的興味に尽きる題材には事欠かない。しかし読了後感じたのは、そこに城があり、湖があり、庭園があり、別邸があり、それらの舞台を使って事件を起こしてみました、それだけだ。忌まわしき逸話もステレオタイプでどこかで聞いたような話でしかない。没入する魔力に欠けているのだ。
そう、何となく一昔前の低迷期の少女マンガを読んでいるよう、そこまで云うと酷だろうか。

しかし、本書ならびに『ドラキュラ公』で見せた中世の東ヨーロッパという他の作家の例を見ない舞台を活用して物語を紡ぐのはこの作者の長所である。この知識を活かして、もっと行間から匂い立つような物語の世界に酔わせてくれることを願う。

琥珀の城の殺人 (講談社文庫)
篠田真由美琥珀の城の殺人 についてのレビュー
No.776: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

これもまた歴史

地下1階にあるカウンターのみのバー『スリーバレー』に通う常連3名。某私立大学教授の三谷氏にその美人助手、早乙女静香。そして雑誌のライターで在野の研究家宮田。
この3人が一同に会する時、宮田が常識を覆す珍説が開陳し、喧々諤々の歴史談義が花を咲かす。

本書は発表当時『このミス』でも8位にランクインするなど、予想外の好評を以って迎えられた連作歴史ミステリ短編集。

5W1Hで語られる歴史の謎6編―正確に云えば4編目の“WHAT”は動機を尋ねているから“WHY”と同じなのだが―。歴史は覆されるとは別な意味で使われるが本書は正にこの言葉がぴったりの逸品。

今までそういう風に教わっていた事は実はよくよく考えてみるとおかしな部分がある、というのは良くある事で、本作は誰もが常識、通念として捉えていた歴史的事実に潜む矛盾に論理の一突きを食らわす知的興味溢れる歴史ミステリだ。

歴史学者や考古学者、古典文学研究家など、古代史に携わる人々によって確立されてきた歴史的事実。しかし実はこれらが口承や伝聞でしかないことも確かで、それが恰も既成事実として語られ、いつの間にか我々の常識になっている。それはやはりその道の権威ほど通説、定説に目を眩まされてしまうからだ。
象徴的なのは表題作と3編目の「聖徳太子はだれですか?」だ。

日本史の研究者達は昔から伝わる書物を解明の手掛かりに歴史の謎を探る。つまりそこに書かれている意味を見出す事で歴史の空白を埋めていく作業を行うわけで、つまり歴史書の類いを鵜呑みにしがちである。
しかしこの2編では邪馬台国について書かれている「魏志倭人伝」を、聖徳太子の事が書かれている「日本書紀」の記述を疑う事でそれぞれの真相に迫っていく。これら2つの書物は学校の教科書にも出ている有名な物で、これを疑うという行為自体、かなりの冒険的なのだが、本書の面白さはそういった権威を疑い、覆す事にある。

また面白いのは日本語の意味の解釈の仕方によって事実の捉え方が変わることだろう。なるほど、日本語の意味が時代と共に変わっていっているのは知られているが、現代の意味で紀元前や1000年以上前の記述をそのまま訳すとまったく違った解釈になる。これが本作での肝である。

仏陀が王族の息子と捉えられていた事実は、学校に通っているという事実から王家の者ならば自宅に先生を呼びつけるはずだという常識的観点から矛盾するし、卑弥呼が占いによって人心を惑わせていたという記述は「惑わせる」という言葉は昔は「摑む」、つまり信頼を得ていたという意味だったということで卑弥呼の統治に対する印象がガラリと変わる。

これら珍説を肯定するために書かれたたった50ページ前後の短編に注ぎ込まれた知識の膨大さ、調査内容の豊富さを考えると作者鯨氏が費やした時間と労力に賞賛を贈らざるを得ない。本書で検証されていくプロセスは世に知られる歴史書の数々に記載された記述はもとより、在野の研究者や作家たちの検証結果にも及び、単に読者へ驚きをもたらすためだけでは済まされない物がある。なんとも誠意溢れる仕事だ。
恐らく作者の本懐はそういう裏方仕事を想像せずにただ愉しんでもらえればそれでいい、それだけかもしれないが、私はこれを面白かった!だけで済ますことが出来ない。
巻末に記された各短編における参考文献の数は最低でも5冊を数える。短編1作を著すにしては異例の数だろう。

しかし作者の本質がここにあるのならば、この調査自体は生みの苦しみではなく、自らの知的好奇心の探求と自説の啓蒙というカタルシスを得るがために行った、実に楽しい頭脳労働だったのではないかという気がする。
在野の一研究者であった鯨氏が満を持して放った論説集。正直云えば最後の方の作品には息切れを見え、完成度は落ちると感じたが、私は十分に愉んだ。


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邪馬台国はどこですか? (創元推理文庫)
鯨統一郎邪馬台国はどこですか? についてのレビュー
No.775:
(7pt)

スパイ小説はいわば本格ミステリである

実によどみの無いストーリー展開。まるでスパイ映画の大作を観ているかのように物事が流転する。それも際どいスリルを伴って。

緊張感溢れるソ連でのエージェントの任務失敗、それによってKGBに知られるCIAエージェント、<パンドラ>の存在。その正体を仄めかす文書が手違いから諜報活動の歴史的文書を研究している大学院生に渡り、たまたま同棲していたフランス人学生シルヴィーの手に渡る。
当然血眼になって文書を追うKGBのエージェントの襲撃に遭い、隠れ家を転々とし、危うく捕まりそうになったところに現れたのがジェームズ・ブラッドリーなる謎の男。彼こそCIAが遣わせたエージェントであったが、文書の文面を読んだシルヴィーへの抹殺指令が下され、それを拒否する。
そして行く先々で出くわすKGBエージェントの魔の手からCIAの上層部にもまたエージェントがいることを知る。CIAはジェームズの思わぬ造反から急遽パンドラを亡命させる事にする。そしてパンドラを巡ってCIAとKGBの攻防戦が始まる。

『エニグマ奇襲指令』は敵の只中に潜入して暗号機エニグマのありかを探るという物語だったが、今回は典型的な巻き込まれサスペンスだ。しかし『二度死んだ男』がかつて死んだとされた男の死に隠された謎を探る物語であったこと、更に『エニグマ~』では絶妙なコンゲームの果てに知らされる驚愕の真相と、エスピオナージュでありながらも本格ミステリ張りのサプライズを提供するバー=ゾウハー。今回もやってくれた。
そして真相が判明した後に今まで書かれていた内容の意味が全く別の側面を持っていた事が解る。上手い、実に上手い。

しかし本格ミステリをこよなく愛する読者ならば、本書の仕掛けに対し、抵抗感を示すかもしれない。
しかしこういう常人の考えを、想像を超える特殊な原理・思考というのは諜報活動には往々にしてある物だ。本作を読むにはある程度この手の作品に馴染んでおくのが良いのかもしれない。

しかし諜報活動とはインテリジェンスを駆使した騙し合いであり、いかに信用されるか、いかに疑問をもたれずにいるかに常に腐心する活動である。従って職業自体がミスリードの連続であるから、スパイ小説やエスピオナージュというのは本格ミステリに一脈通じるエッセンスがあると私は感じずにいられない。
故にフリーマントルも単なるドキドキハラハラのサスペンスに留まらず、最後に何がしかのどんでん返しを施す。
最初私はこれらスパイ小説作家の作品を読むのに抵抗があったのだが、今では読むのを非常に愉しみにしている。それは何度も述べたがこれらが非常に高度な知的ゲームであるからだ。確かに政治的思惑や外交的駆引きというのが織り込まれており、それらに興味のない人には敷居は高く感じるかもしれないが、彼らスパイ小説家が持っているのはミステリマインドなのだ。
しかもハリウッド映画が好んで作る娯楽作品とはこのジャンルの作品であり、それらに一級のエンタテインメントが数多くあるのは既知の事実だろう。

そして3作通じて読んでバー=ゾウハーという作家は更にも増してこのミステリマインドに溢れている作家だと強く認識した。

『二度死んだ男』では謎また謎の連続、『エニグマ~』では怪盗ルパンのパスティーシュとも云うべき暗号機エニグマを巡るコンゲーム、そして本作におけるスパイ<パンドラ>を巡る争奪戦と“動”のミステリを繰り出す。

この“動”のミステリというのがこの作家の仕掛けるサプライズに多大なる効果をもたらしていると私は思う。
3作読んで抱く感慨は実に“淀みない”進行だ。危機また危機、謎また謎の連続で中だるみさえも感じず、また主要登場人物に関しては行動原理、堅固な絆の契機となった過去も織り込ませておりながら、物語の舞台も1箇所に留まらず複数の国々に跨り、なおかつ対立する勢力それぞれの内情も書き込みながら300ページ前後に纏める手腕。この手際の良さが読者のページの繰る手を休めずに物語世界を疾走させるため、あれよあれよという間に次々とサプライズが展開していく。
これが昨今の作家だと過去を語るのに1章を費やしたり、本筋とは関係ないエピソードに50ページ以上割き、その結果読者に考える時間を与え結末に達するまでに真相が見えたりする。
しかしバー=ゾウハーではその絞り込まれた物語が彼の仕掛けを引き立てるのに非常に貢献している。読者は考える暇も与えられず、本から伸びた手に引っ張られるかの如く、ぐいぐい読み進まされていく。

しかしもっとこの作家の作品が読みたいものだ。絶版になった作品はもとより、果たして90年以降の作品というのは皆無なのだろうか。
この極上のエンタテインメント作品を提供してくれる作家の作品を訳さずに放置するのはなんとも勿体無いと思って仕方がないのだが。


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パンドラ抹殺文書 (ハヤカワ文庫NV)
No.774:
(7pt)

クイーンの長編の素

映画オリジナル脚本を小説にリライトした「消えた死体」、「ペントハウスの謎」の2編を収録した中編集。

「消えた死体」は推理作家志望のニッキー・ポーターなる女性が登場するが、後期クイーンでパートナーを務めることになる同姓同名の人物とは別人である。
この「消えた死体」は長編『ニッポン樫鳥の謎』の原形だろう。同一のアイデアで別の話を作っただけで、物語の構成は全く一緒だ。もう少しアレンジが欲しいところだ。
ただなぜ犯人が死体を隠すのかという理由はさすがに秀逸。
物語のスピード感といい、適度な長さといい、『ニッポン樫鳥の謎』が無ければ、クイーンの作品としても上位の部類に入っただろう。

もう1つの中編「ペントハウスの謎」は「消えた死体」同様、ニッキー・ポーターの友人が絡む。
中国の抵抗組織の資金繰りのためにアメリカ人の腹話術師が資金援助のための宝石を密輸する手助けをするが、その情報を嗅ぎ付けた日本のスパイや詐欺師たちとの攻防が発端となり、殺人事件に発展したという、クイーンの作品にしては異色とも云える派手な事件である。
腹話術師と同じ船に乗り合わせた身元詐称の人物たち、消えた宝石の謎など色々エッセンスを放り込んでいるが、逆に謎の焦点が曖昧になり、最後の切れ味に欠ける。特に犯人を限定する決め手となったあるしるしの正体は全く解らないだろう。
容疑者一同を集めて謎解きという、古典的な手法に則った解決シーンだが、カタルシスは得られなかった。

本編で登場するニッキー・ポーターは前のパートナーであったポーラ・パリスとは違い、実に行動派のお転婆娘として描かれている。推理作家を目指し、日夜創作に励むが、かつて熱中したエラリー・クイーンの諸作の影響から抜け切れず、四苦八苦している。彼女が書く作品の題名も『ペルシアじゅうたんの謎』とか『羽飾り帽子の謎』と、どこかで聞いた風なのが面白い。

自作がクイーンの諸作に酷似していることを編集者に云われ、エラリーを逆恨みしているというシチュエーション。いがみ合っていた相手に次第に惹かれるというのはラヴ・ストーリー物の定番だが、ポーラの場合はエラリーの一目惚れから始まり、ポーラの外出恐怖症を熱心にかき口説くことで克服させて付き合いが始まる。
つまりエラリーは能動態であったわけだが、ニッキーの場合はかつての1ファンであり、謂れのない恨みを買っている側から次第に好かれていくという受動態に変わっているところがミソか。
そういえばエラリーは結婚願望はないものの、常に美人に対しては弱かったので、この展開は新しいのかもしれない。

特に2編ともロマンスの誕生を思わせながら、ジョークで閉じられる結末からもクイーンが明らかに惚れられるエラリーの立場を愉しんでいるのが解る。

そしてニッキーの存在は今まで単なるパズル小説に終始していたエラリー・クイーンの諸作にファルスを持ち込む要素になっている。
例えばニッキーが容疑者になってエラリーに匿われた際、新しく雇った家政婦としてした事もない料理に孤軍奮闘するシーンなどはアメリカのホームコメディドラマの1シーンを観ているかのような面白みがある。ニッキーの役割はコメディエンヌで物語に彩りを与えているのだ。
これは親しかったカーの影響があるのかもしれない。カーも過剰とも云えるHM卿のドタバタシーンを導入して笑いを自作に取り込んでいた。
2人は交流があったからお互いのミステリにあり、自分のミステリにはない物を積極的に取り入れようとしていたのだろう。

ところで今回は今までの訳者井上勇氏ではなく青木勝氏であるせいか、エラリーの口調が今までよりもぞんざいである事が気になった。
リチャード・クイーン警視を「お父さん」と呼ばず、「おやじさん」と呼び、時には「あんた」とも呼ぶ。話し方も粗野でぶっきらぼうである。なんだか別人を見ているようだ。逆に叙述トリックなのかとも思うくらいの変わりようだ。
青木氏にどんな意図があったのか知らないが、個性を出しすぎて逆にイメージを損なっているように感じた。

ここまでクイーンの短編集を3冊読んできて思ったのは、短編が長編の原形のように同じアイデアを用いられていることだ。これはチャンドラーやカーでもあったことなので、クイーンに限ったことではないのだが、あまりに多すぎると感じた。
当時はペンで生計を立てるためにとにかく作品を数多く書くことが主流だったのだろう。従って短編を無理矢理引き伸ばして長編に仕立てることも常識だったのかもしれない。それが故にかえってこれらの短編が今では作者の創作の足跡を追うような資料となっている感じがする。
資料的価値として意義はあるかもしれないが、一読者として独立した作品として楽しめないことに一抹の寂しさを感じる。
この後も色々な短編集があるが、同様の失望を感じるのならば、なんだか哀しくなってしまう。



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エラリー・クイーンの事件簿 1 (創元推理文庫 104-22)
No.773: 6人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

仮面の在処は最後に

その題名からいわゆる“嵐の山荘”物を連想するが、確かに本書はそのジャンルに類いする物である。
が、しかし館の関係者が外部に出られない状況というのが突然の強盗の襲撃と篭城という非常に特異なシチュエーションであるのが、この作家を他のミステリ作家と一線を画する存在にしている。そんな緊張状態の中での殺人劇という、実にアクロバティックな手法を繰り出す。

強盗襲撃という心的疲労に加え、殺人事件の勃発とさらに関係者の心労は募る。従って次第に人格者であった彼ら・彼女らの精神状態も脆くなり、泥沼のやり取りが繰り広げられる。
まさしく「仮面」を被った者たちの饗宴だ。

しかしそれらは典型的な密室劇のフォーマットに則った展開とも云える。
しかし東野氏はさらに読者の想像の上を行く。最後10ページ弱の中で明かされる大どんでん返しに読者はしばし呆然とするに違いない。

最初私は、“嵐の山荘物”といい、題名といい、あまりに本格ミステリど真ん中の内容にちょっと面食らった。
というのもこの前に発表した『宿命』から人の心の謎に焦点を当てた第2期東野ミステリの幕開けを確信しており、それ故、今回も人間関係の綾と心の謎がメインのミステリになると思ったからだ。
しかし最後の真相に至り、やはり東野氏の興味はそこにあるのだということを再度確信した。

正に「嵐の山荘物東野風変奏曲」とも云えるこの作品。ここは素直に作者の入念な企みに拍手を贈ろう。


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仮面山荘殺人事件 新装版 (講談社文庫)
東野圭吾仮面山荘殺人事件 についてのレビュー
No.772:
(7pt)

ドラキュラ譚の新たな側面

建築探偵桜井京介シリーズで知られる篠田真由美氏による、ヴラド・ツェペシュの生涯を語った歴史小説。

『吸血鬼ドラキュラ』のモデルとして有名な東ヨーロッパのハンガリーの国境に位置するワラキアの公王ヴラド・ツェペシュ。彼の血塗られた人生はしばしば小説やマンガのモチーフとなり、それらは全て忌むべき怪物や残虐王という風に描かれていた。つまりは悪の象徴である。

本書はそのヴラド・ツェペシュがオスマン・トルコの捕虜であった青年期からワラキア国奪還を果たし、王に返り咲き、勇名を馳せるに至る道筋を描いた物語だ。

しかし本書で描かれるヴラドはこの手の歴史小説にありがちな、後世に伝えられている人物像を覆すというものではない。やはり彼に纏わる数々の忌まわしい伝説は事実として述べられる。

祭りを愉しむ人々をいきなり攫って奴隷にし、鞭打って城を建てさせる、生木の杭による串刺し刑、建物に何百人もの人間を閉じ込め、生きたまま建物ごと焼き尽くしたり、云う事を聞かないジプシーの長を斬殺し、その肉を仲間への料理として提供し、食べさせる。またはかつての宿敵の息子を捜し出し、自らの墓穴を掘らせて殺す。トルコの使者が自身の前で脱帽しなかった無礼を咎め、釘で頭蓋に縫いつけ送り返す、等々。

本書では今まで単なる大量虐殺を好んだ狂人という側面で描かれていたヴラドがなぜこのような残虐行為を行ったのかというところを語っているところが他の関連書と一線を画する。

彼には従者だった老人を見せしめのために杭で串刺しにされた過去があったこと。捕虜として各地を転々とし、その都度クーデターや戦争に巻き込まれ、逃走を強いられたこと。そして民と家臣を統率するには恐怖を以ってするのが一番だということ。更に小国ワラキアを強くするためには兵を増やし、強化する必要があったこと。
これらの行動原理に基づき、彼は臣下の者も含め、絶対服従を求めた。

しかしそれでもやはりこれらの行為は過剰だったと思う。人の命を弄ぶかの如き残酷な仕打、処刑の数々をしてもなお、ヴラドが自分を見誤らず、正気を保ち、己の信条を貫けたのはシャムスという従者の存在だ。
アラビア語で太陽を意味する名を与えられた彼はオスマン・トルコの侵略で故郷を奪われ、逃げ延びた1人の青年。死に場所を求め、馴れない剣を振って、兵士になろうと志願したところをヴラドに拾われる。彼は女のような風貌と体格を持ち、戦闘で役に立つわけではないが、ヴラドと同じ心を持つ。つまりヴラドの考えを一番理解できるのが彼なのだ。ヴラドは己の心が暗黒面に落ちぬための楔として太陽たる彼を常に連れゆくのだ。

しかしやはり恐怖は嫌悪を生み、離反の種となる。たった3万に満たない戦力で20万のトルコ軍を追い払った歴史上名高い彼の功績は彼の絶頂期であったがために、それ以後は下るだけだった。盛者必衰の言葉の如く、龍の息子、悪魔の子として恐れられて小国の梟雄にも栄光の黄昏が訪れる。

彼の生涯はずっと強国オスマン・トルコへの復讐一筋だったと云える。
東ヨーロッパの小国ワラキア公の父と共にオスマン・トルコの捕虜となり、戦場に駆り出されて憤死した父と兄の無念。従者であり、眼の前で串刺し刑で殺された老爺。そして保身のために男娼としてトルコの司令官に取り入り、スルタンの側近となった弟ラドゥ。
そしてその道は正に死屍累々が連なる血道だった。その静かなる激情の凄さは織田信長を感じさせると、作者は述べる。両者とも栄光の半ばで命を落としたことは共通している。しかしその生き様は今なお語り継がれている。

ヴラド・ツェペシュがこのような悲劇の梟雄であったのか、はたまた現在流布している拷問と虐殺を好む血まみれの狂王だったのか、真実は定かではない。
作者あとがきによれば、ヴラドを讃えるのはルーマニアに伝わる昔話のみでドイツやロシアの文献ではやはり残虐な側面や裏切り者というレッテルを貼られて伝えられているようだ。これはいかにヴラドをモデルにしたブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』のインパクトが強かったかを知らしめる証左でもある。それ故、吸血王とまで呼ばれ、今に伝わる彼に新たな側面から物語を紡いだ篠田氏の仕事の意義が高く思える。

この中世ヨーロッパのゴシック風の物語を当時の風俗と慣習を丹念に調べ上げ、しかもそれらを一切説明口調でなく物語に溶け込む形で読者に理解させる上手さは田中芳樹氏の作風と異なり、実に自然だ。
どっちが彼女の本道か解らないが、次は著作の多くを占めるミステリを読んでみる事にしよう。

ドラキュラ公―ヴラド・ツェペシュの肖像 (講談社文庫)
No.771:
(10pt)

痛快な怪盗劇の最後に訪れる歪んだ大国の闘争原理

これは傑作!正に掘り出し物だ。
予想以上に面白かった!ドキドキハラハラの連続活劇だ。

エニグマ強奪の任を受けてドイツ支配下のパリ潜入行を行うベルヴォアールが、盗賊時代の仲間達の協力を得ながらドイツの包囲網を常に相手の想定の斜め上を走りながら潜り抜けていく。
一歩遅れれば囚われの身となり、拷問に晒される状況下、時には鮮やかに、時にはギリギリの所で、はたまた敵の目前で包囲網をかいくぐるスリリングな展開が目白押しだ。

そんな物語を彩る登場人物たちの個性が際立っている。

まず主人公の盗賊、自らを男爵と名乗るフランシス・ド・ベルヴォアールの造形が素晴らしい。
フランス人で大泥棒の父と駆け落ちした鉄道王の娘との間に生まれたこの男は幼い頃から父の稼業を手伝いながら盗賊としての腕を着々と磨き、世界中で盗みを働く。サイゴン、マカオ、香港の東南アジアで活躍し、その後エチオピア、コンゴ、アルジェリアと西アジアから北アフリカを蹂躙。そして生まれ故郷のヨーロッパに戻り、大仕事を幾度と無く成功させ、ゲシュタポの金塊強奪事件で英国で捕まるまで一度も逮捕された事がない。変装を得意とし、人殺しは無論の事、銃器を使わぬことを信条とし、大胆不敵さと情の厚さを兼ね備えたその性格は、周囲の人物を魅了し、次々と仲間―女性の場合は恋人―に引き込み、協力者のネットワークを世界中に築き上げている。

彼の標的である暗号機エニグマを所有するドイツ軍にあって、彼の宿敵とされるのはルドルフ・フォン・ベック大佐。厳格なる職業軍人の血筋に生まれた生粋の軍人である彼は34歳にして軍情報部の大佐の地位にあり、ドイツ軍の本道を進むエリートである。
しかし彼は幼き頃からジュール・ヴェルヌの冒険小説を好み、バイロン卿やラファイエットといった自由のために戦ったロマンティックな勇士に憧れる心を持ち、またフランスの華やかな文化を愛でるロマンティストでもある。そして彼はベルヴォアールの波乱万丈の人生を読んで、かつて叶えられなかった理想の人生を彼に見る。敵でありながら憧れであるベルヴォアールを尊敬の心でもって相見える。

さらにパリでベルヴォアールを助けるブリュノー・モレールを中心としたかつての仲間たちも個性的であり、彼らは敵のドイツ軍、特にゲシュタポのパリ本部長クルト・リマーの残酷さが物語の闇の部分を際立たせ、陽と陰が適度にブレンドされ、読者のハートをゆすぶる。
彼リマーの残忍な手口によって拷問に晒され、命を落としていくレジスタンスにイギリス軍の協力者達。第2次大戦時のドイツ占領下におけるパリの明日をも知れない緊迫したムードが、このコンゲームにスリルをもたらしている。

さて、上に書いたベルヴォアールの経歴を読んで、何か連想しないだろうか。
そう、フランス人の大泥棒ベルヴォアールはもうルパンそのものである。これはバー=ゾウハーの手による怪盗ルパン譚、パスティーシュでもあるのだ。

本家ルパンが書かれた時代は第1次大戦から第2次大戦時の動乱の最中である。作者ルブランは篤い愛国者であり、実際ルパン物で自国フランスを救うエスピオナージュを書いている。しかしそれはあくまで怪盗ルパンの活躍を中心にした創作であり、全面的に政治的側面を押し出したものではない。
翻ってバー=ゾウハーによる本書はまずV-2ミサイルというドイツの脅威の新兵器がありきで、その侵攻を阻止するために暗号機エニグマの強奪という側面が浮かび上がってくる。つまりルブランの創作姿勢とは全く逆なのだ。
従ってバー=ゾウハーの書く怪盗ベルヴォアールの活躍は非常に現実的であり、緊張感溢れるスパイ小説としても読めるのだ。
いやあ、スパイ小説でありながら、ピカレスク小説でもあり、さらにルパンのパスティーシュでもあるという、非常に贅沢な作品だ。そしてそれを難なく作品として纏めているバー=ゾウハーの手腕に改めて感服する。

そして明かされる事実は情報戦の非情さを象徴するが如く、皮肉な物だった。
大局的勝利のために少数の犠牲を出すことも厭わない戦時中の歪んだ闘争原理。バー=ゾウハーはそんなパワー・ウォーに巻き込まれた尊い命の数々を描いたのだ。

しかしこの邦題はなんとも魅力がない。このガチガチの国際謀略小説を思わせる堅苦しい題名を見てこのようなドキドキハラハラの冒険譚を想像するだろうか。
バー=ゾウハーの多くの作品が絶版になった中で、なぜ1980年に訳出された本書が21世紀も18年過ぎた今なお刊行されているにはやはりそれなりの訳があるのだ。
それを想像させるにはこの題名が足を引っ張っているように思えてならない。


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エニグマ奇襲指令 (ハヤカワ文庫 NV 234)
No.770: 7人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

今だからこそ云える、壮大なシリーズの幕開けだと。

京極夏彦氏と同時期にデビューした、今や超人気作家となった森博嗣氏のデビュー作。
この犀川・西之園萌絵が登場する通称“S&M”シリーズが森の人気を不動の物にし、話題作を連発している講談社のメフィスト賞は本書を刊行するために創られたとまで云われている。

今までの本格ミステリ作家と森氏が決定的に違うのは、彼が理系の人間であり、現役の大学助教授であることだ(当時)。
さらにその専攻が建築学であることから、物語で語られる館については建築基準法に則した書き方がされ、奇抜でありながらも荒唐無稽ではない。特にガラスが1枚も無い真賀田研究所の避難経路に関する説明など、建築に精通した人間が配慮する書き方になっており、同じ建築の仕事に携わる身としては好感が持てた。

本書に登場する人物は恐らく森氏の知人、同僚、もしくは作者自身の断片が散りばめられているのだろう。研究所に住まう人間達は年相応に老けておらず、どこか子供の心を持った稚拙さがあるという描写があるが、これもやはり研究者という人間が社会の風に対して免疫が無い事から来る性癖なのだろうし、頷けるところがある。特に研究所の人間の個室にはレーシングカーの模型があったり、動物の模型があったり、はたまたアニメオタクにガンダムオタクがいたりと、何かに執着する性質があることが書かれている。
また主人公の犀川の研究室にはアクロバット機の写真が飾られているという描写があり、これも作者の航空機好きが反映されている。

さらに作中で出てくるヴァーチャルリアリティ空間内でカートに乗って一堂に会するシーンは森氏のカート好きとコンピューター好きが嵩じた当時の理想を描いた物だろう。21世紀の今の「セカンドライフ」を髣髴させて、なかなか興味深い。

そしてそれは主人公たちにとっても例外ではない。特に犀川教授は非常に合理主義的な人間である。とにかく委員会、会議といったものが嫌いで、人と係わり合いをもたずに研究に没頭する環境に憧れており、正にその環境が整った真賀田研究所を理想郷であると嘆息するのだ。
しかしこの教授が例えば生物学とか薬学、もしくは数学の研究者であればそれは構わないだろうが、建築学科の助教授がこのような個人主義、孤立主義的な環境を望むのはお門違いではないだろうか。建築とはいわば人間の居住空間であり、生活空間なのだ。人間との触れ合いを持たずして何が研究者だろうかと、私は憤慨する。
恐らくこれは同じく建築学科の助教授である作者の心境を代弁したものだろう。叶わぬ理想とは云え、なんとも大人気ない発言だと思う。しかしこういう普通では云えない事を云いたいがためにこういった小説内人物を通じて本音を吐露したのかもしれない。

そして最も鮮烈なイメージを残すのは真賀田四季という天才。数年後にその名も『四季』という作品が春夏秋冬の4部作として著されているほど、森氏のお気に入りのキャラクターのようだ。
情報工学の第一人者、真賀田左千朗博士と言語学の最高権威の1人だった真賀田美千代博士の娘で9歳でプリンストン大学のマスターを授与され、11歳でMITの博士号を取得し、12歳からMF社の主任エンジニアを務め、14歳の時に両親を殺害した罪を問われたが、心神喪失状態だったという事で無罪となり、以来、孤島にある真賀田研究所に15年間外出せずに地下2階の自室で天才プログラマーとして活躍しているという、マンガのような設定の人物。
しかし私はこの類い稀なる天才の描き方について私はどうも物足りなさを感じる。天才、天才と作中で謳われている割には目から鱗が取れるような思いもよらない発想とか考え方が開陳されるわけでもなく、そういう考え方もあるわなといったレベルの思考でしかなかったからだ。
具体的なことははぐらかされ、全てが曖昧のまま、思わせぶりに結論付けずに終わってしまう。天才の考える事は常人には解らない、そんな持ち味を出したかったのだろうが、それは成功しているとは思えず、先に書いたように、誰もがそういう風に考えてはいるが、人道的・道徳的に口に出すことを憚っている類いの合理主義的思想を述べられているに過ぎないように感じた。

例えば、西之園萌絵などはお嬢様育ちで世間、社会に馴れていないせいか、嫉妬すること、腹を立てていることの理由が解らず、第三者的な視線で自分がそうしていることを自覚する描写が時折挿入されるが、この辺は確かに理解できる。
が、彼女が天才である描写で3桁、4桁の暗算を素早くするというシーンが何回か織り込まれるが、これを以って彼女を天才だと演出するにはなんとも稚拙なのだ。しかも犀川はその天才西之園が初めて自分より頭のいい人がいると意識した人物と書かれているが、上に書いたような人とちょっと変わった考え方をする人物とでしか思えなかった。
この齢にもなると、小説におけるキャラクター設定に関して穿った見方をしてしまうので、おいそれと書かれている説明を記述どおりに鵜呑みに出来なくなってしまっている。従ってもう少し彼らが本当に天才であるなぁと感嘆するようなエピソードが欲しかった。

本書では1つの密室殺人と2つの殺人が盛り込まれている。特に1つ目の密室殺人の謎がメインと云えるだろう。365日24時間記録し続ける監視カメラが見張っている上に、コンピューター制御されたセキュリティシステムで管理された室内で起きた密室殺人。しかもカメラには誰も部屋を出入りした人物が映っていない。
この堅牢なる密室殺人の謎解きは完璧と思いがちなコンピューターの盲点を突く真相で、実に鮮やかだったが、犯行に関しては私が推理していた範疇だった。

本書はこれから続くこのシリーズの序章に過ぎないことが最後に解る。毀誉褒貶折混ぜて感想を書いたが、彼ら真賀田四季と犀川・西之園という天才たちの造形もこれからシリーズを重ねていくに連れて厚みを増していくのだろう。
とどのつまり、作品を好きになるか否かはキャラクターを気に入るかどうかによる。現時点ではまだこの3人は戯画化されてて、またその考え方も首肯し難いところがあるので、手放しで好きだとは云えないが、今後この3人の物語がどのように展開していくのかこれからシリーズを追って確認していく事にしよう。


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すべてがFになる―THE PERFECT INSIDER (講談社文庫)
森博嗣すべてがFになる についてのレビュー
No.769:
(7pt)
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スピーディなスパイ小説

自身、戦争の闘士であったイスラエル作家マイケル・バー=ゾウハー1975年の作品で本書が私にとって初めての彼の作品である。

実に淀みが無いエスピオナージュ作品。正味250ページ強という薄さながら、舞台はイタリア、イギリス、ハイチ、スペイン、フランス、ソ連、オーストリアと目まぐるしく移り変わる。
それに加え、次から次へ現れる謎に、それに呼応して判明する諜報工作の数々。しかしどこまでが本当でどこからが虚偽なのか判らない。

現代エスピオナージュ小説の巨匠ブライアン・フリーマントルと違うのはこのスピード感だろう。
フリーマントルの作風は数カ国間に跨る国際犯罪、または第二次戦時下の亡霊の如く湧き上がってくる死体などをモチーフにどの国が主導権を握り、優位性を保つかという政治戦略的駆引きと上昇志向の高いエリートたちの高度な騙し合いに筆が費やされる。そのためあらゆるケース・スタディがなされ、自然厚みは増してくる。

しかしバー=ゾウハーは次から次に解ってくる事実が謎を呼び、その謎の鍵を握る土地、人物へと向かう。そしてその先には主人公の命を狙う影が潜んでおり、主人公の行く手には屍が転がっていく。つまり非常にオーソドックスなエスピオナージュだと云える。

このように実に淀みなく物語が進むのは、この物語が書かれた1975年当時が米ソの冷戦下という国際的な緊張関係あった事がもっとも要因として高いだろう。つまりその頃は敵の存在は明らかであり、物語はその敵とどのように戦い、もしくは逃れるかを焦点にしていたからだ。本書でも物語の発端となる「二度殺された男」の犯人は早々にKGBであると明かされる。

しかしソ連崩壊後の現代ではこの敵が明確ではなくなった。従って世のエスピオナージュ作家は敵を作り出すのに尤もらしい理由を考えなければならなくなったのだ。また先進国と他国との差が縮まってきた事により、国家間の政治的交渉も単純なパワーゲームでは済まされなくなり、高度な駆引きが要求され、そのためにプロットは複雑化し、物語は増大していったのだろう。

と、ここまで書いて気付くのは、実際のところ、物語の長大化を招いているのはワープロ、パソコンの普及もあるだろう。原稿用紙に手書き、もしくはタイプライターで書いていた頃は修正するにも大変であり、加筆もまた困難であった。しかしこの技術革新の賜物はそれらを容易にし、書いている最中、執筆が終盤に至っても、また校正後も手軽に追記・修正が出来る。しかしこれではなんとも味気ない理由ではあるのだが。

閑話休題。

先に物語は淀みなく進み、最初の死体の犯人も早々と明かされると書いたが、事件の構造は実に複雑で重層的だ。
本作で多用されるこのような価値観の逆転というミスディレクションはほとんど本格ミステリその物である。つまりこの諜報員たちの騙し合いというのは虚実交えた情報操作の応酬であり、それらの情報の中から正しい物をいかに摘み取って判断するか、そしてその判断が間違えば、全く違う話になってしまうという高度な情報ゲームである。
これは正に本格ミステリの創作作法ではないか。表と思っていたことが裏で、裏だと思っていたことが表となって反転する。つまり彼らはミステリの世界に常に身を置いているのだと云える。従ってインテリジェンスの世界に身を置いた人物がミステリを書くことは必然だったのだろう。

現在新作の声が聞かれないマイケル・バー=ゾウハー。その著作も絶版が多く、今、書店で入手できるのはわずか3作しかない。冷戦下のスパイ小説は確かに21世紀の今、時代錯誤的な感触を持つかもしれないが、本書を読んだ限りでは全くそうではなく、本格ミステリに通じる味がある。
今回は海外の赴任先の本棚に埃まみれになっていた本書を見つけて読んだが、なにかの切っ掛けで彼の諸作が復刊されることを強く望む。


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二度死んだ男 (1978年) (ハヤカワ文庫―NV)
マイケル・バー=ゾウハー二度死んだ男 についてのレビュー
No.768: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

事件はポーラ・ハリスとのデート中に起きる!?

『エラリー・クイーンの冒険』に続く第2短編集。まずクイーンの傑作中編とされる「神の灯」から始まる。
これは確かに傑作。ワンアイデア物だがクイーンの特徴が実によく表れている。また120ページ強という長さの中編だったことも良かった。逆にこれが長編であればこのアイデアで延々引っ張るには冗長さを感じさせるものとなったろう。確かにこれは忘れえぬ作品だ。

「宝捜しの冒険」は元軍人バレット少将宅で起きた真珠の首飾り盗難事件をエラリーが捜査するもの。使用人を全て元部下で固め、さらに軍隊時代の風習を守っているというこの特異な状況を利用した隠し場所だ。
しかしこれはまさかこれではないだろうなと思っていた方法がほとんど当っていたのでびっくりした。

「がらんどう竜の冒険」は在米日本人宅で起きたドアストップ盗難事件をクイーンが捜査するもの。題名はこのドアストップが竜の形を模した物であることから由来する。
ドアストップが小さいものであるから片手で摘んでおくようなものを想像していたら、なんと死体を海に沈めるための重しの代用となるほど大きな物だというのが解り、これもびっくりした。確かに寸法と重さが書かれているが、日本人にはフィートとポンドは馴染みが薄く、なんとも想像しがたい。しかしこれは逆にドアストップという単語から連想する先入観をあえて利用したのかもしれない。
『ニッポン樫鳥の謎』でも披瀝したエラリーの日本人観が本作でも開陳される。どうもエラリーは日本人の考え方は自身のロジックには当て嵌め難いらしく、苦手意識があるように思える。あと作中に出てくるシントーなる日本人独特の道徳観というのは一体何を指すのだろうか?

「暗黒の家の冒険」は遊園地にある真っ暗な部屋、通称「暗黒の家」の中で起こった殺人事件を扱っている。
何も見えない暗闇で犯人はどうやって離れた場所から銃弾を撃ち込めたのか?典型的な推理クイズ的作品。複数の容疑者がいて、その中から犯人を搾り出す。これは容易に解った。

異空間のような貴族の屋敷のある島で繰り広げられるのが異色作「血をふく肖像画の冒険」だ。
なんとも評し難い作品。有閑貴族の邸宅で繰り広げられる気だるい雰囲気の中で起きる言い伝えを擬えたような事件。
しかし真相はなんとも珍妙。幻想的な謎を準備してそれに都合のいい事件と真相を当て嵌めた、そんな歪な感じを受けた。

「人間が犬をかむ」からはなんと『ハートの4』で知り合ったポーラ・パリスと付き合っているエラリーの事件簿だ。
衆人環視の中での殺人というのは『アメリカ銃の謎』でもあったが、作中の注釈にも書かれているようにいつかヤンキースタジアムを舞台に同趣向の作品を書きたいというのがクイーンにはあったようで、それを叶えた一編。観客席でサイン会の後での毒殺事件を扱っている。
一見至極トリックと犯人は簡単に解りそうだが、そこはクイーン、一筋縄ではいかない。特にエラリーから明かされる真相は蓋然性の面からしても、ホット・ドッグに仕込む方が高いので、疑問に思っていたが、最後の皮肉がそれを帳消ししている。

次の「大穴」ではタイトルどおり競馬場が舞台。
これも衆人環視での事件で、状況的にはあからさまに犯行は見えるが、一捻りがやはりある。これはマジックで使われるミスリードの一種だと考えればこの犯行方法はギリギリ許容範囲か。また結末が題名とマッチして洒落ている。

続いて「正気にかえる」ではボクシングのタイトルマッチが舞台。
この真相は見抜けなかった。

最後の「トロイヤの馬」はアメリカン・フットボールの大学対抗試合での事件だ。
盗品の隠し場所については解ってしまった。

まず本作の大きな特徴は2部構成になっていることだ。
前半の「~冒険」という名の付けられた一連の作品は第一短編集からの流れをそのまま受け継ぐ純粋本格推理物だが、後半の「人間が犬をかむ」からの4編はクイーン第2期のハリウッドシリーズに書かれた物でエラリーは『ハートの4』で知り合ったポーラ・パリスとコンビを組む。

まず第1部とも云うべき前半部は、傑作と名高い「神の灯」から始まり、これが正に本格ミステリど真ん中の奇想を扱った作品。それ以降も元軍人のみが住まう館を舞台にした「宝捜しの冒険」、「ニッポン樫鳥の謎」の流れを引き継ぐような在米日本人宅で起こる事件を扱った「がらんどう竜の冒険」など、国名シリーズの衣鉢を継いだようなロジックに特化した作品が続く。

しかし「人間が犬をかむ」以降の後半から物語の舞台も球場、競馬場、ボクシングヘビー級タイトルマッチの会場、フットボール競技場とエンタテインメント性が高い場所になり、しかも物語の彩りとしてそれら試合の模様も書かれ、更に当時の著名人、有名人なども続出し、印象は実に華やかだ。

つまり本作を読むことで、第1期クイーンと第2期クイーン作品のそれぞれの特色が目に見えて解るのだ。

謎の要素としては「神の灯」を除いて各編の難度はそれほど高くない。トリックは案外解りやすい。しかしそれを成す犯人を焙り出すまでのロジックはやはりさすがはクイーンといったところだ。特に最後の2編に至る犯人が上着を着なければならなかった理由と、宝石の隠し場所から導き出されるロジックはこちらの想像を超えた物があり、感心してしまった。

個人的には純粋本格推理小説に特化した前半の5編よりも、後半のハリウッドシリーズの延長線上にある4編の方が好みである。
例えば「人間が犬をかむ」では野球観戦に夢中になるというエラリーの人間くさい一面が見られるし、何よりも各編でパートナーを務めるポーラ・パリスの存在が物語に彩りを添えている。

今までクイーン作品に登場する女性たちは容姿は端麗でも、どうにもステレオタイプでクイーンの男性的主観が大いに入った頼りない女性像が描かれ、個性が全く感じられなかった。唯一主役を務めたペイシェンス・サムが、男性社会で孤軍奮闘する女性として描かれていたくらいだ。
このポーラも初登場の『ハートの4』ではエラリーがこの世の美しさとは思えないと一目惚れするほどの容姿を持っていたが、作中で「人混み恐怖症」と書かれた軽い群衆恐怖症を患っているキャラクターであった。そのため、浮世離れしたイメージがあり、現実味に乏しいキャラクターであったのだが、ここではクイーンの恋人としての地位で振る舞い、なんとも躍動感に満ちたキャラクターになっていたので驚いた。
この2人が織成すやり取りは物語にコミカルさと男女の化学反応を感じさせ、エラリーが今までの作品に比べてもかなり人間くさく感じて好感が持てる。単なる気取り屋、頭でっかちの素人探偵というイメージを覆して、なかなか新鮮である。長編では『ハートの4』の次作となる『ドラゴンの歯』で既にポーラの姿は無いことから、恐らく本書がポーラの見納めになるようだ。なんとも勿体無い話だ。

第1短編集では純粋なロジックの面白さを堪能させてくれたクイーンだが、この第2短編集はそれに加え、エラリーの新たな側面を見せてくれた。
よく考えると法月綸太郎の第1短編集『法月綸太郎の冒険』も全く同じ構成だ。あの短編集も前半はロジック一辺倒の作品で後半は沢田穂波とのコンビであるビブリオ・ミステリシリーズだった。ここにクイーンの意志を継ぐ者の源泉があったのか。ここでまた私は現代本格ミステリに繋がるミステリの系譜を発見したのかと思うと感慨深いものがある。


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エラリー・クイーンの新冒険【新訳版】 (創元推理文庫)
No.767: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

読みやすさゆえの功罪

東野氏の短編集はこれまでにも『浪花少年探偵団』、『犯行現場は雲の上』、『探偵倶楽部』などが発表されていたが、それらは全て連作短編集で意外にもノンシリーズの短編集はこれが初である。

そんな短編集の幕を明けるのが高校を舞台にした「小さな故意の物語」だ。
東野氏得意の学園ミステリ。事件はシンプルでたった50ページの短編ながら図解を加えたトリックを入れ、更にどんでん返しをも含ませているのはこの作者ならではのサービス精神だ。
人の心の謎まで踏み込んだ真相はなかなか読ませる。この動機も昔の日本人女性ならば思いも付かなかったことだろう。現代女性の独立心ゆえに抱く一瞬の魔。単なる駄洒落のように見える題名も二重の意味―片思いの笠井の悪戯心と佐伯洋子が一瞬抱いた悪意―を持たせ、題名に無頓着だと思っていた偏見を覆すような見事さだ。

続く「闇の中の二人」も中学生とその担任教師が物語の中心。
この真相は解った。お昼のメロドラマが好んで採用したがるような内容だ。
物語に散りばめられたさり気ない伏線は実に作者らしいが、ちょっと単純だったか。それでもなお戦慄を抱くような冷たい肌触りを感じるのは巧い。

「踊り子」もまた中学生が主人公の作品。
なんともほろ苦い真相。「闇の中の二人」同様、思春期の衝動が運命に悪戯をしたかのような皮肉である。

「エンドレス・ナイト」からは学生から一般人に主要人物はシフトする。
真相も普通で、1時間の刑事ドラマを思わせるほどのベタな内容。ま、中にはこういうのもあるのは仕方ないか。

「さよならコーチ」はデビュー作『放課後』で扱われたアーチェリー部が舞台。しかし『放課後』が高校の部活であったの対し、こちらは社会人クラブである。
凄いシンプルな導入部でどこに謎が潜んでいるのか解らないほど自然な流れで進むうちに、隠された真相が見えるという技巧の冴えを感じる一編。
直美というアーチェリー一筋に若い時間を捧げた女性の絶望と愛情は同じようにスポーツの第一線で活躍した女性らには身に沁みるものがあるだろう。哀しい物語だ。

最後の表題作は凝った叙述が特徴的だ。
事件当夜と隠蔽工作を貫こうとする今の2つの時間軸で構成される作品。一人称叙述が非常に効果的に活きた作品。

冒頭にも述べたように、統一キャラクターで繰り広げられる連作短編集はキャラクター偏重の趣きが強いが、本作ではそれらを排し、トリックよりもロジック、さらに理論よりも理屈では割り切れない感情、人間の心が生み出す動機について焦点を当てているように感じた。

「小さな故意の物語」では嫉妬心から来る悪戯心と与えられる愛情に対する疲労感を、「闇の中の二人」では思春期にありがちな欲望と嫉妬心を、「踊り子」では淡い恋心を、「エンドレス・ナイト」はトラウマを、「白い凶器」は現実逃避から来る狂気を、「さよならコーチ」は人生を捧げたよすがを失った女性の絶望を描く。
唯一表題作が実にトリッキーな作品で動機も今までの東野ミステリにありがちな天才肌の犯罪者による、利己心だ。

ただ短編であるからか書込みが少なく、それ故それらの動機についてはちょっと踏み込みが足りないように感じた。「踊り子」、「エンドレス・ナイト」、「白い凶器」あたりは「小さな故意の物語」や「闇の中の二人」のような解決の後の真相をもたらすような二重構造が欲しかったところだ。

今回の作品集を読んで浮かんだ作家は連城三紀彦氏だ。特に表題作で明かされる真相には頭に描いていた既成概念を覆され、眩暈に似た感覚を覚えた。

以前にも書いたが、東野氏の最大の特徴は読みやすい文体にある。開巻して一行目からすっと違和感無く物語に入っていける透明感がある。従って読者はするりと物語の流れるままに身を委ね、登場人物と同化し、作中で起こる出来事をありのままに受け入れてしまい、気づいた時には思いもよらない展開の只中に晒されるような感覚を抱く。これはこの作家の最たる長所だろう。

個人的良作は「小さな故意の物語」と「さよならコーチ」。次点で表題作となるが、後日思い起こして話題に出るほどではない。技巧の冴えが目立つ故に軽く感じてしまう諸刃の剣のような短編集だ。


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犯人のいない殺人の夜 新装版 (光文社文庫)
東野圭吾犯人のいない殺人の夜 についてのレビュー
No.766:
(8pt)
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早すぎたエンタテインメント作品

瀬名秀明氏が『パラサイト・イヴ』で通称“理系ホラー”で鮮烈にデビューし、理科系作家によるミステリ・ホラーのブームの引鉄となったのが1995年。それに先駆けて1993年、既に梅原氏は本書を以って理系ホラーを世に出していた。
しかし版元が朝日ソノラマと認知度がさほど高くない会社であったためか、この作品は一部の読書通のみ知られる存在に留まり、彼の作家としての評価は次作『ソリトンの悪魔』が発表される瀬名氏デビュー同年の1995年まで待つ事になる。それも恐らく瀬名氏そして角川ホラー大賞が起こしたホラームーヴメントに牽引される形だったのではないだろうか。

ともかくも本書はなぜ発表当時に注目されなかったのかが不思議なくらい、よく出来た理系エンタテインメント作品である。
本書は端的に云えば、最新のバイオテクノロジーの知識をふんだんに盛り込んだ、仮面ライダーや秘密戦隊ゴレンジャーなどに繋がる、イントロンから生み出された生命体GOOと超人間UB、即ちアッパー・バイオニックで組織された部隊との戦いの物語だ。それを上下巻併せて1,000ページ以上の厚みで語りつくす。
作者梅原氏が考案した、人間を超人化するNCS機能、即ち<神経超伝導>という現象は壮大な嘘なのだが、それを裏付ける専門的科学知識が精緻に詳細に説明され、読者にさもありなんと思わせる。この一連の創作作法は瀬名氏の『パラサイト~』も同じ。本書はそれと相似形を成す作品だといえる。

瀬名氏はミトコンドリアを、梅原氏はイントロン配列と双方とも怪物の根源を元々人間が、生物の中に備わっていたある組織に着目しているところが全く同じだ。だが、梅原氏は瀬名氏よりもエンタテインメントに徹しており、とにかく次から次へ読者を愉しませるアイデアを放り込み、読者にページを繰る手を休ませようとはしない。

野心溢れる科学者の挫折から端を発したイントロンから生み出された怪物GOOとC機関という隠密部隊の闘い。そしてUBという超人の誕生から、更にはUBとGOOとのお互いの存続を賭けた世界規模での戦いへと物語はどんどんスケールアップする。
従って本書に挙げられる専門的知識は遺伝子工学、生命工学の分野に留まらず、軍事兵器・銃火器にも渡り、しかもそれぞれが詳細かつ緻密である。生半可な知識では到底書けない類いの物ばかりで、この梅原克文という作家の懐の深さ・資質をこの1作で存分に思い知る事ができる。


途轍もない大きな球体が転がり、触手を伸ばして次々に生物を捕まえては同化し、吸収していくという、この地獄絵図のような様子を読んで思い出したのは石ノ森正太郎の『幻魔大戦』だ。他にもまだ本作に繋がるモチーフは見つかるのかもしれない。
恐らくこの作品にはクトゥルー神話と『幻魔大戦』といった梅原氏の好きな作品がいっぱいモチーフとして詰め込まれているのだろう。

逆に本書から後世の複数のジャンルに渡って影響を与えたのではないかと思われる作品がいくつか連想される。

1つは発売されるたびに人気を博し、ハリウッドで映画化もされたTVゲーム『バイオハザード』だ。
本書でもこの単語は使われているが、この「生物災害」という意味のこの単語は本来ならば、感染性の強い開発中のウィルスによる災害を指し、本書でもこのGOOとの闘いはバイオハザードとは見なされていない。しかしゲームは本書で取り上げられた実験で生み出された未知の生命体によって起こされる災厄そのものを示している。本書の内容の近似性と両社に共通する「バイオハザード」という単語から類推するに、恐らくあの大ヒットゲームはこの小説に着想を得ているのかもしれない。

サイバースペースでの戦いは映画『マトリックス』を想起させる。特に超人間UBという、人間の限界を超越した存在は同映画の主人公たちがダブる。

そんな本書だが、一貫してモチーフとして作中にも登場するのがちらっと触れたがラヴクラフトのクトゥルー神話だ。生命体GOOはかつて“CTHULHU”の頭文字を取って“C”と名づけられており、深尾の前に何度も立ち塞がるGOOのコードネームはダゴン102。サイバーホラーに古典ホラーであるクトゥルー神話をハイブリッドした作品なのだ。
元々クトゥルー神話自体、その世界観を複数の作家で共有し、物語世界を広げていくシェア・ワールド構想が成された物であるから、この作品もまたクトゥルー神話大系の一作品となるのだろうし、恐らく作者の意図もそこにあるに違いない。

さてこの未曾有のエンタテインメント作品で梅原氏が採用した文体はなんと主人公深尾による一人称叙述。このようなパニックホラーを描くとすればこの選択は非常に珍しい。多面的構造を採用せず、主人公深尾を常に戦場の第一線に置くという設定だからこそ、この文体を採用したのだろう。
その判断は正しかったようで、主人公の逡巡、苦悩が直截に響き、また常に闘いの最前線に置かれる深尾と共に一寸先に潜む危険を探る臨場感に溢れている。

この深尾という男は、作中でも語られるようにいつか1人で会社を興し、成功者を夢見る野心に満ちた遺伝子科学者だったが、自ら引き起こした惨劇を苦に政府の機関である遺伝子操作監視委員会に所属するエージェントに身を窶している。そのようなエリートにありがちな自分の実力に絶大な自信を持つナルシスト的側面と周囲を見下す視線を持ち、一匹狼を気取り、上司に歯向かう姿勢を備えて、また過去の過ちに常に自責の念を抱き、自ら危険に踏み込む自殺的思考―本書ではアープ症候群と呼ばれている―の持ち主だ。一緒に仕事をするにはいわゆる「イヤな奴」なのだが、その性格に合わせたハードボイルド調の語り口がマッチしていて嫌味を感じずに物語を読むことが出来る。

この文体は大いにチャンドラーを意識した物と思われる。多用される比喩がそれを特に裏付けている。しかしチャンドラーのそれとは違い、深尾が元科学者という特徴を出すためか、使われる例えも例えば「出会っただけで超伝導マイスナー効果のように反撥する」とか「全身のシナプスがアセチルコリンの分泌を停止したみたいだった」といった理系的専門用語を意図的に多用しているようだ。
この辺は物書きとして第一歩を踏み出した作家にありがちな、肩に力の入りすぎた感じが否めないのだが、私個人としてはそれほど悪くは感じなかった。

逆によくもこれほどのパニックホラーを一人称叙述で書き切ったものだと感心した。破綻無く進むストーリーテリングは重ねて云うが、梅原氏が既に作家としての実力を備えていることを見事証明している。

最新(1993年当時に構想のみされていたものも含めた)のバイオテクノロジーからダーウィンの進化論、そして恐竜の絶滅から新約聖書、サイバースペースなどなど、多種多様なジャンルを盛り込み、壮大なスケールで描いたスペクタクルホラー。
一言で云おうとすると、修飾語が多く付きすぎて収拾が付かなくなるほど、盛り沢山のエンタテインメント作品。
先に述べたように、本書の影響を受けたと思われる作品が好評を博している今、少し早すぎた作品だったのかもしれない。勿体無い。



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二重螺旋の悪魔 完全版 (クトゥルー・ミュトス・ファイルズ)
梅原克文二重螺旋の悪魔 についてのレビュー
No.765:
(7pt)

饒舌さは父よりもクーンツ似?

絶賛を持って迎えられた短編集『20世紀の幽霊たち』の作者ジョー・ヒルの初の長編は幽霊の復讐譚を扱ったホラーだ。

主人公は54歳のロックスター、ジュード・コイン。彼は厳格なる父親からの反発からロックスターになり、そして成功を収めて、今では半隠居状態だ。それはバンドメンバー3人のうち、2人を事故と病気で亡くしたことが彼から音楽活動の火を絶やしてしまったようだ。そして娘ほど歳の離れたゴスロリ系のファンを捕まえては同棲生活を送るという生活を送っている。
そしてジュードが今付き合っている女性がジョージアことメアリベス・キンブル。ストリッパーの身からジュードに拾われ、同棲している。この2人に降りかかる災厄が、過去ジュードの付き合った女フロリダことアンナの姉から送られてきた霊能力者だった義父の幽霊が取り憑いたスーツから始まる。

家族を間接的に失った遺族の復讐が動機と思われた怪異はしかし意外なバック・ストーリーが後半明かされる。
ジュードとジョージアの幽霊との闘いという図式で展開する物語はその実、別れた元彼女フロリダことアンナ・マクダーモットの物語でもあることに気付かされる。

またもう1つ、この小説が内包しているのはロックスターという特異な職業を持ち、人とは違った半ば自堕落な生活を送った男の回想だ。
父親に反発する事で家を飛び出し、ロックスターとして名を馳せ、生活に困らない金を既に稼ぎ、4年も新曲を発表していないのに未だにコンサートやTV出演の依頼が来る、人間として成功したという現状に翳を指すのは、自分の前を去っていった、あるいは自分から去っていった人々に対する喪失感だ。
自分のコレクションの1つ、スナッフ・フィルムを観たことで離婚した元妻が持っていた、自分勝手な行動に不平不満を云うことなく常に許してくれていたその包容力。
アメリカ全土のほか、世界をライヴツアーで一緒に駆け巡った今は亡き元バンド仲間。
とっかえひっかえベッドに誘ったグルーピーたち。
その中で数ヶ月間一緒に生活を共にした過去の女たち。
ずっと質問ばかりし、別れた後、浴槽の中で手首を切って死んだフロリダ。
恐らくこれらはロックスターには付き物のゴシップの数々だろう。人の数倍もの早いスピードで文字通り人生を駆け抜けるが如く、生きるスター達の心情とはいかなるものか。
来る者拒まず、去る者追わず。
ジュードは今まで護るということを求められるとその結果を考えず、なんでも受け入れすぎてきたのではないかと述懐する。一般人には想像できないスターの心境に対するこの心理描写は1つの解答例のようだ。

『20世紀の幽霊たち』の感想にも書いたが、読んでいる間、クーンツ作品を読んでいる既視感を感じた。主人公の心情と信条をくどいまでに細かく叙述する語り口、登場人物が幼少の頃に親から受けた迫害というトラウマ、そして何よりも物語のキーを握る存在が犬という共通性。
父キングの作品は読んだ事が無いので一概に比べられないが、クーンツの影響がそこここに見られた。

特に幼児虐待、家庭内暴力、近親相姦、親の死に立ち会わない子供ら・・・。
本書に挙げられる現代社会が抱える家族問題の問題はクーンツが最近よく取り上げる題材だ。そしてどの登場人物に関係するのは父親という存在に対する畏怖。これもクーンツが昔からトラウマの如く語り続けてきたテーマだ。
特にヒルの父親がキングである事実から類推するとこの登場人物たちが抱く父親への思いに注目していたが、意外にもジュードが幼い頃に抱いた父という障壁を乗越える手段はなんとも直接的であり、肉体的であった。二度と帰らないと決めた実家に戻って対峙した父親という精神的な壁の克服という側面をあえて避けたのか、それとも物語の都合上、ああいう形になってしまったのか解らないが、期待していただけにあの決着のつけ方は残念だった。

そして主人公に脅威をもたらす幽霊クラドックはクーンツが生み出す、主人公に絶望的なまでの無力感を感じさせる悪魔のような怪物ほど怖くは無い。共通するのは異常なまでの執着心と蛇が蛙をいたぶるが如き醜悪さ。それでも悪役の造型にはやはりクーンツに一日の長がある。
まあ、デビュー仕立ての作家をホラーの大御所クーンツと比べる事自体が過大な要求なのだろうけれど。

また本書の献辞は父親に捧げられている。アメリカ現代文学を代表する作家となった父キングを『20世紀の幽霊たち』を著す事でその呪縛から逃れ、改めて父親に向き合い、初の長編作品を世に、父に届ける事が出来たという自負が窺える。
とはいえ、私の感想としてはいささか饒舌すぎ、あと一滴のエモーションが欲しかったところだ。

本書は娘の自殺の逆恨みから生じた幽霊の復讐譚と、ホラーとしてはオーソドックスな題材だったが、『20世紀の幽霊たち』で見せたようにこの作家の持ち味は物語のヴァリエーションが非常に豊かなところだ。

その最たる特徴を活かして今後この作家でしか書けない長編ホラーが現れることを強く期待したい。


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ハートシェイプト・ボックス (小学館文庫)
No.764:
(8pt)

またも奇想のオンパレード

島田荘司氏、数年の沈黙を破っての大作。文庫版670ページ強を費やして語られる事件は御手洗シリーズの新作を待望していた読者の渇きを癒すのに十分な内容だ。
なんせ事件がすごい。

舞台はニューヨークのアパート、セントラルパーク・タワー。物語の導入部で語られる元女優が死の間際に話したたった15分のうちに34階の部屋から停電中に1階の住民を拳銃で殺して戻ってくる不可能状況から始まり、スーツを着た骸骨の顔を持った男が、ロックされたゲートを通り抜けて住民を射殺する事件。

さらに物語は53年前に遡り、そこで起こる不可解な連続殺人事件。3つの密室内で自殺したとしか思えない事件。さらに時計塔の大時計の長針の針を利用しての演出家の断頭殺人。そしてハリケーンの夜に突如起こったアパートのほとんどの窓が爆発した最中の建築家の転落死。貨物用エレヴェータに佇み、奇声を発する骸骨。それらの事件の陰に蠢くファントムという名の仮面を付けた怪紳士。
往年の島田氏のセンス・オブ・ワンダーが溢れんばかりに盛り込まれた奇想の応酬である。

そして本書に登場するのは若き日の御手洗潔。まだ石岡と出逢う前の、アメリカのコロンビア大学に留学していた頃の彼だ。
従ってここに出てくる彼は全知全能の神ではない。不可能状況・夢幻としか思えない奇妙な現象に惑わされ、思考する一個の探偵なのだ。石岡が主役を務める『龍臥亭事件』、『龍臥亭幻想』やレオナが主役を務める『ハリウッド・サーティフィケイト』などのスピンオフ作品に電話のみで登場して全てを解き明かしてヒントを与えるような超天才型探偵でまだないところがいい。

したがって非常に若々しい。『眩暈』までの作品でよく見られたフィールドワークに嬉々として没頭する彼の姿がここにはある。
なんとも嬉しいではないか。やはり御手洗はこうでないといけない。

さらに本書では舞台であるマンハッタンに纏わる様々な都市伝説が開陳される。マンハッタンの摩天楼が巨大な岩盤に作られていることは有名だが、その摩天楼が出来るに至った高層ビル競争の歴史、その地下には摩天楼に勝るとも劣らない巨大空間が広がっている都市伝説、そしてセントラルパークに纏わる逸話の数々。歴史の浅い国アメリカの中で最も急激に発展し、ロンドン、パリをも凌ぐ大都会となったマンハッタンという特殊な都市の秘密がストーリーに絡めて語られていく。
これこそ島田ミステリの真骨頂。本当に久々の本家御手洗シリーズを堪能した。

特にマンハッタンの地下王国についてはかなり信憑性が高いようで、マンハッタン界隈のホームレスの数が年々減っているようだ。しかもこれについては『モグラびと』なる本も出版されており、それに詳しく記載されている。

さて島田作品には従来からシャーロック・ホームズの影響が強く見られるのは知られているが、もう1つ特徴的に見られるのは乱歩の影。
今回は特に連続殺人事件の1つ、セントラルパーク・タワーの大時計の長針を利用した断頭殺人は乱歩作品でも幾度となく使われた殺人方法であった。

そして題名、連続殺人事件に現れては消える謎の存在ファントム、さらには物語の中心となるのが女優であることから容易に連想されるある有名な作品がある。そうガストン・ルルーのあの名作だ。これは島田流『オペラ座の怪人』なのだ。
ただあとがきにも述べられているが、本家が怪人と美女との悲恋の物語であるのに対し、本書はあくまでも不可能趣味、怪奇趣味を前面に押し出していること。従ってファントムが恋焦がれて止まないジョディ・サリナスなる女優がそれほど生涯を賭して守るほどの愛らしさ、崇高さを備えているとは思えなかったきらいはある。

とはいえ、さすが島田氏、最後に忘られぬ驚愕の真相を用意してくれる。
確かに摩天楼を形成するビルの頂上にはガーゴイル像など意匠を凝らした装飾が成されているのは映画でもよく見られたが、これを更に一歩押し進めたこの島田の奇想はなんともロマンティックだ。

そして物語全体に散りばめられた謎は今回も御手洗の閃きによって暴かれるが、果たしてこれを本格ミステリと呼んでいいものか疑問が残る。
確かに手掛かりとなる暗号もあれば、事件現場の見取り図も読者に提示されている。が、しかしそれでもこの真相を看破できる読者は皆無であろう。

また今回のメインの謎とされるたった15分間―その後物語が進むにつれてそれは10分間と更に短縮されるが―で1階から34階までいかに移動して殺人を成しえたかという謎の真相もまたある専門知識、いや薀蓄を知っていないと解けないものだ。唯一おぼろげながら真相が解ったアパートの窓が一斉に爆発した謎の真相もまた専門知識が必要であり、門外漢には全く解けないものだろう。

こうして振り返ってみると、もはや御手洗シリーズは読者との推理合戦の領域を超越し、作者の奇想の発表の場になってしまったのだなと一抹の寂しさを感じる。
しかしその作者の奇想が読者の予想をはるかに超え、実にファンタスティックである故に、私のような固定ファンがいつまでもいるのだ。この作風が許せる島田氏はやはり日本の本格シーンの中では唯一無二の別格的存在だといえよう。

久々の重厚長大の御手洗シリーズ。本作は往年の物と比べると勢いはやや劣る物の、その豪腕ぶり、斬新な奇想はまだまだ健在だと証明するに十分すぎる作品だ。


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摩天楼の怪人 (創元推理文庫)
島田荘司摩天楼の怪人 についてのレビュー
No.763:
(9pt)

未完の大器の奇想集

スティーヴン・キングの息子である新進気鋭のホラー作家の短編集。

まずシークレット・トラックとして謝辞に「シェヘラザードのタイプライター」が収録されている。
この短編集に対する暗示めいた作品だ。果たしてこれは作者不詳のタイプライターが紡いだ作品がこれから披露される短編なのだろうか、そんな謎めいた予感をももたらす小品だ。

「年間ホラー傑作選」はホラー小説アンソロジストが出くわす悪夢の物語。
ホラーを読み尽くした編集者がいつの間にかホラー映画の主人公になり、自滅の道を歩んでいくという内容でプロットとしては実にオーソドックスだが奇妙な肌触りの読後感がある。作中に梗概のみ語られる「ボタンボーイ」のグロテスクさとピーターを始めとするキルルー兄弟のフリークたちの饗宴ともいうべき邂逅のひと時は悪夢のような幻想味に満ちている。

「二十世紀の幽霊」は街の映画館に現れる幽霊の話。
名作映画『ニューシネマパラダイス』を髣髴とさせるようなセピア色に彩られた郷愁を誘う物語。幽霊が出るといってもホラーではなく、その幽霊イモージェンは『オズの魔法使い』公開中に脳内出血で死亡した女性であり、映画好きな幽霊。そして何よりも最後にアレックがイモジェーンと再会するシーンが美しい。絶妙にラストシーンへの伏線が効いている、実にアメリカ的なロマンティック・ホラーだ。

粗筋が書けないストーリーもこの中には収められていて、それは「ポップ・アート」と「うちよりここのほうが」がそれに当る。この2つに共通するのは親密な2人の交流を綴った内容だということだ。
「ポップ・アート」は個人的ベストだ。風船人アーサー・ロスことアートと主人公「おれ」が過ごした十代の楽しかった日々を描いた短編。これについては粗筋を書くよりも素直に読んでそしてジョー・ヒルの描くおかしく奇妙ながらも清々しく美しい友情譚に浸るべし。風船人という実にマンガ的なアイデアが見事に少年時代のキラキラした出逢いと別れの物語に昇華した傑作。
片や「うちよりここのほうが」は大リーグの監督アーニー・フィルツとその息子ホーマーの日常を描いた短編。事件らしい事件として公園で散歩中に浮浪者の死体をホーマーが見つける件があるが、そこはなんともするりと交わされている。なんとなく作者の父親キングとヒルの幼き頃の思い出といった感じがしないでもない。

小説や物語が書かれて幾千年も経った今、未だ読んだ事のない作品を生み出すということは太平洋に落とした結婚指輪を見つけ出す以上に不可能に近い。そんな現在でも傑作と呼ばれる作品が生み出されているのはひとえに小説家たちが既存の物語や過去の名作を独自にアレンジした新しい視点、趣向を取り入れて、可能性を広げているからだ。例えば本書で云うならば「蝗の歌をきくがよい」と「アブラハムの息子たち」がそれに当るだろう。
前者は朝起きたら巨大な昆虫になっていたフランシス・ケイの奇妙な2日間を描いた作品。この設定を聞いただけでほとんどの読者がカフカの名作『変身』を想起するに違いない。
しかしカフカが昆虫になり、戸惑いながら生きるグレゴールと突然の変異がありながらも日常を保とうとする不条理を描くことを主眼にしているの対し、ヒルは主人公フランシスが逆にこの事実を好意的に受け入れ、周囲がパニックに陥るという全く逆に設定で物語を切り出す。つまりカフカは不条理小説として人が巨大な虫になる設定を用い、ヒルは凡百の怪物が出てくるパニック小説に人が巨大な虫になる設定を用いているところが違う。現代の感覚ならばヒルのプロットの方が至極当然だろう。
しかしヒルが本家のオマージュとしてこの物語を捧げていると確実に云える。なぜならカフカのファーストネームはフランシスだからだ。

後者の「アブラハムの息子たち」は吸血鬼を扱った物語。主人公である2人の子供マックスとルーディの父親アブラハムはオランダから逃げるようにアメリカに移住した家族で、ラストネームはヴァン・ヘルシング。そう有名なヴァンパイア・ハンターのその後の物語をヒルなりに創造した作品だ。
しかし本書は吸血鬼が出てくるわけではなく、またヒーローだったヴァン・ヘルシング教授は厳格で戒律を守らない子供らに容赦なく暴力を振るう恐ろしい父親として描かれている。つまりドメスティックヴァイオレンス物として描いているのが斬新なところ。ヒーローの末期が必ずしも幸せとは限らないという実に皮肉な物語。

「黒電話」は監禁物だ。
本書の中では比較的定型的な作品と云えるだろう。失踪事件の多いアメリカの世相を反映した作品と云え、ある意味同様の事件に遭遇した大人たち、そして将来同様の事件に巻き込まれる可能性のある同世代の子供たちに向けるエールのような作品と見るのはいささか穿ちすぎか。
本作には最後に削除された最終章が併録されている。作者はこの作品を極力削ぎ落として完成させたかったようで、30ページに収めるべく、終いに最終章を丸々削除したようだ。
個人的な感想を云えば、この最終章があった方が好きだ。物語が引き締まる。削除前の作品では黒い風船を姉が見つける件が全くストーリーに寄与していないのも気になっていたので、この最終章はあってしかるべきだと思う。

いかに素晴らしい短編集といえども、全てが全て良作であるとは限らない。例えば「挟殺」と「マント」がそうだ。
「挟殺」はレンタルビデオ屋のバイトで母と2人暮らしをしているワイアットという青年が、バイトを馘になった直後に出くわすある事件現場での顛末を描いた小編。「マント」は子供の頃に母親に作ってもらったマントを着ていたら実際に宙に浮かぶ事が出来た男が、数年後マントと再会する話。
両方の短編の主人公は共に定職に就かずブラブラしているニートが主人公であること。彼らには思想も無く、従ってモラトリアム人間ではない。事件は起こるが、なんとも収まりの悪い締め方がされ、読者はどのような感慨を抱いていいのか、しばし途方に暮れる。

不思議な話続きでは次の「末期の吐息」の方が私の好みだ。死者の末期の吐息を集めた博物館の話。そこを訪れた家族に降りかかる災難と最後のセリフが絶妙。星新一のショートショートに似た質感を持ちながら、味わいは星氏の作品ほどドライではなく、叙情に満ちている。

で、次の「死樹」はわずか3ページのショートショートだ。樹木の幽霊について主人公の語りから始まり、最後になんともいえない余韻を残す。

「寡婦の朝食」は一読、トム・ソーヤの冒険、もしくはジェームス・ディーンの映画を想起させる話だ。
なんというか、この作品も特に何か起こるわけでもない作品なのだが、妙に心に残る。長編の1シーンを切り取った作品といった方が適切だろう。この後キリアンの旅にこの女性がどんな影響を及ぼすのか、逆にその後の話が読みたくなる作品だ。

「ポップ・アート」がベストなら、次の「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」はそれに次ぐ作品と云えるかもしれない。
アメリカン・グラフィティに彩られた在りし日の青春に戻るセンティメンタルな一編。映画『ゾンビ』の撮影現場でお互い死人の特殊メーキャップをしたままで再会するというシチュエーションがアイデアとして素晴らしい。よくこんな事考え付くものだ。
そしてこの作品がいいのは最後のセリフが絶妙だからだ。映画撮影という場面設定と2人の関係が見事にマッチしたセリフ。いや、好きだ、こういうの。

ここに収められている作品の多くは幻想小説の類いだが、その中でも「おとうさんの仮面」は読後、不安に掻きたてられる云い様の無い得体の知れなさを感じる。
旅に出て、いつもと違うところで過ごすというのは日常から逸脱した非日常性からどこか足元が宙に浮いているような落ち着かない感覚が付き纏う物だが、この作品は現実なのにどこか現実の位相とはずれた世界にいらされている旅先で抱くその落ち着きの無さを終始感じさせられる。
子供の視点から語ることで大人だけの間で交わされる密約のような物が行間から立ち昇り、表現のしようのない不安が胸にざわめく。森で出逢った2人の子供は恐らく僕の母親と父親の若かりし頃の姿だろうし、骨董品の鑑定士は冗談交じりに語られていたトランプ人間なのだろう。置き去りにされた父親は子供心に底知れぬ喪失感を抱かせるし、その理由は母親しか知らないというのも、誰もが子供時代に経験する知らないままにされていた事を連想させる。

約100ページと収録作品中最も長い「自発的入院」は本書の冒頭を飾った「年間ホラー傑作選」に似たようなホラーだが、出来は数段上。
ジョナサン・キャロルの作品に似た味わいと云えるだろうか、大人になった主人公が今なお忘れられない事件とそれに纏わる友と弟の不思議な失踪事件の顛末を告白した手記という体裁の作品。モリスによって地下室に築かれる段ボールの地下迷宮が独特の魔力を持ち、現実から異世界へ結ぶ入り口となるのも、モリスという不思議なキャラクターのせいか、説得力がある。乱歩の『パノラマ島奇譚』にも一脈通じる物があると感じるのは私だけだろうか。

実質的に最後の短編となる「救われしもの」はそのタイトルとは裏腹に読後、心に寂寥感が差し込むような作品だ。
結局「救われた」のは一体誰だったのか?非常に疑問の残る作品だ。誰もが不幸を抱えたままで物語は閉じられる。

そして「黒電話」の削除された最終章を経て、作者自身の手によるこれらの短編の創作秘話が語られ、この本は終わる。

結論から云えば、玉石混淆の短編集で、総体的な出来映えとしてはやはり佳作と云えるだろう。実質的な収録作品数が17作品というのが多すぎて、逆に総体的な評価を下げているとも云える。

個人的に好きな短編を挙げると、「二十世紀の幽霊」、「ポップ・アート」、「蝗の歌をきくがよい」、「アブラハムの息子たち」、「末期の吐息」、「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」、「自発的入院」の7編。次点として「うちよりここのほうが」、「黒電話」―但し最終章も含んだ―、「寡婦の朝食」、「おとうさんの仮面」の4編。そうつまりこれら11編で本書が編まれたとするとこの作品の評価はもう1つ、いや2つは挙がるかもしれない。

ここに述べられた作品群を読むに当たり、読者はある程度の知識が必要である。しかしその知識というのは決して学問的、専門的な分野に関した内容ではなく、映画や音楽、ホラー小説といった大衆文化、ポップカルチャーに親んでいれば自ずと得られる知識である。

例えば「年間ホラー傑作選」ではある程度ホラー映画やホラー小説を読んで、お決まりのパターンを知っている事が前提としてあるし、「20世紀の幽霊」では過去の名作映画、特に『オズの魔法使い』が最後のシーンになくてはならないエッセンスとなっている。また「ボビー・コンロイ~」もロメロ監督を知らなくても楽しめるが、知っている人にとってはゾンビ映画撮影の内幕とロメロ監督の人となりを知ることができ、楽しめるだろう。

が、しかし逆に云えば、これらが未経験であったとしても本書を読むことでこの物語の真の結末のカギがそれらの実作に込められている事から本書の後でそれらに当る事で更に本書の味わいが増すとも云える。前知識として知っておくに越した事はないが、逆に本書でそれを知ってフィードバックして見る・読むのもまた一興だろう。

しかし、このジョー・ヒルという作家、非常に独特な雰囲気を持っている。最初の「年間~」を読んだ時は、世間の評価に対し、眉を潜めたものだが、続く「20世紀~」、「ポップ~」と読むうちに、尻上がりに良くなっていき、この微妙に最後を交わす語り口が堪らなくなってくるのだ。全てを語らない事で逆に読者に胸に迫る物を与えてくれる。カエルの子はカエルというが正にそれは真実であると云えよう。

しかしヒル自身はそのあまりに偉大な父親の名声がかえって足枷になっているような節が本作からも見られる。まずあえて「キング」という苗字を使わずにデビューした事が父親に阿っていない事を示している。が、しかしこれはヒルの一作家としての矜持だといえよう。父親の名声に頼らず、まず自分が作家として世に通用するのか試したいという挑戦意欲の発露というのは容易に受取れる。
が、しかしやはりヒルには父親の影に疎ましさを感じていることが窺える象徴的な1編がある。それは「アブラハムの息子たち」だ。
この物語は有名なヴァンパイア・ハンター、ヴァン・ヘルシング教授と息子との軋轢を描いた1編であり、その物語の終わり方がヒルとキングとの親子関係を暗示させる。有名な父親をどの子供らも尊敬しているとは限らない、むしろそれが永年の苦痛であったという告白文書として読み取れるところが非常に興味深い。
そしてこの作品を著すことで、さらにこの作品が世に賞賛を以って迎えられたことでヒルはキングの呪縛から解き放れたと解釈できよう。この作品は彼が書かなければならなかった物語なのだ。

また物語の語り手にティーンネイジャーが多いのが特徴的だ。純然たるティーンネイジャーが語り手を務める作品を挙げてみるとシークレット・トラックの「シェヘラザードのタイプライター」から始まり、「ポップ・アート」、「蝗の歌をきくがよい」、「アブラハムの息子たち」、「うちよりここのほうが」、「黒電話」、「寡婦の朝食」、「おとうさんの仮面」、そして成長した主人公が10代の頃を回想して語る話として「二十世紀の幽霊」、「挟殺」、「マント」、「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」、「自発的入院」と収録作品17作中13作品と実に大半を占める。
それらに共通するのはちょっと現実とは少しずれた感覚・世界だという事だ。子供の頃というのは毎日が冒険であり、全てが新しく瑞々しかった。そういう風に映るフィルターを通して日々を過ごしていた、そんな感覚がある。
翻って大人になって過ごす日々は現実そのものであり、そこには何の不思議も新鮮味も無いのが大半である。このジョー・ヒルという作家は子供が抱く大人とは違って見える毎日の風景と子供が大人の世界から感じる違和感を表現するのが非常に巧みだ。子供だった私が知らないところで進行している何か、その解らなくてもいいのだが、知らないことがなんだかとてもむず痒くなるような云い様の無い焦燥感、不安を実に上手く言葉に表す。
いや正確にはそうではない。このむず痒さの根源となる「一体なんなのか、はっきりしてくれ」という答えを知りたがる読者の性癖を巧みに操作するような書き方をするのだ。だから作品によっては読者の抱く感慨というのは実に様々だろう。
特に「マント」、「死樹」、「おとうさんの仮面」なんかは中高生に読ませて読書感想文を書かせると色んな解釈の仕方が生まれてよいテキストになるのではないか。そういった意味ではエンタテインメント系の作家としてはこの人は文学よりだと云えるだろう。

ただ饒舌さを感じさせる文体はまだまだ刈り込める要素が多く、1作品における登場人物や舞台背景に対して非常に雄弁である。これは近年のクーンツ作品を連想させる。日本人作家が敢えて語らない事で怖さを助長させるのに対し、この作家は雄弁に語り、最後に語るべき内容をさらりと交わすことで読者への想像力に委ねるという手法を取る。ただ読み直すとまだまだページ数は減らせると思う。少なくともあと100~150ページは減らせるのではないか。

昨年のミステリシーンに一躍注目を浴びる存在となったジョー・ヒル。確かに彼は“書ける”作者である事は認めよう。ただ未完の大器だという感が強い。この後、彼がどのような奇想を提供してくれるのか、非常に興味深いところだ。
また追いかけたくなる作家が増えてしまった。困った物だ。



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20世紀の幽霊たち (小学館文庫)
ジョー・ヒル20世紀の幽霊たち についてのレビュー
No.762: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

ハリウッドがクイーンに与えた影響

ハリウッドシリーズ第3弾の本作は『ハートの4』でも精力的に導入されていた恋愛が事件に大いに絡んでいる。
従ってまずは事件ありきでその後探偵による捜査が続く本格ミステリの趣向とは違い、2人の遺産相続人の一方に起こる殺人未遂事件の数々が同時進行的に語られ、物語の設定はサスペンスになっている。

今回の主役はエラリーよりもその代役として活躍するボー・ランメルだろう。弁護士の資格を有する知性を持ちながら、ロンドンきっての伊達男ボー・ブランメルと名がそっくりだということでからかわれ続け、その都度腕っぷしに物を云わせて相手を黙らせ、職を転々とした無頼漢だ。
その彼がエラリーと組んで探偵事務所を設立する、『静』のエラリーに対し、『動』のボーという名コンビが生まれた。

また久方ぶりにクイーン警部とヴェリー部長が登場する。『悪魔の報酬』が未読なのでそこで登場しているかは解らないがもしそうでないとすると、『ニッポン樫鳥の謎』以来の登場だ。

そして本書にしてようやくクイーンは事件現場に対する常識的な配慮をしている。手袋をして現場検証に臨む事だ。しかしそれでも犯人の存在を証明する証拠を秘匿しようとしたり、犯行現場に自身の煙草の吸殻を置いたままにしたり―理由が吸殻だけではクイーンが現場にいた事は判らないというが、唾液の付いたフィルターが残っていたら判るんですけど―とまだまだ常識外れなところがあるのだが。

こういうシーンを読むと、探偵が警察と犬猿の仲になったのかが解るという物だ。
勝手に現場に入り込んで、傍若無人にやたらめったら触りまくり、あまつさえ有力な証拠を隠そうとする。現状保存を第一とする警察の捜査とは全く相反する行動であり、迷惑極まりない事この上ないだろう。これ以来、日本の本格ミステリでも探偵が同様の行為を現在に至ってなお行っているのはもしかしたらこのクイーンの影響が大きいからではないだろうか?

本作の奇妙な題名『ドラゴンの歯』とはギリシャ神話に出てくるカドマスという青年が蒔いたドラゴンの歯に起因している。恐らくこのドラゴンの歯とは災いの種という意味だろう。それは遺言状を作るときにデ・カーロスを大いにからかったカドマスの所業に起因し、これが基で今回の事件が起こったということになっているが、どうもしっくりこない。
やはり全体的にバランスの悪い作品だと云わざるを得ないだろう。


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ドラゴンの歯 (創元推理文庫 104-20)
エラリー・クイーンドラゴンの歯 についてのレビュー
No.761:
(8pt)

ロボットが日常化する、少し未来のお話

ロボットが人間の生活に入り込んだ、今より少し先の世界をテーマにした短編群に「WASTELAND」という、ロボットのみが生存する近未来の地球を描いた短編が間奏曲のように語られる。

表題作「ハル」は愛玩用ペットロボットの名前が題名になっており、これにヒューマノイドが絡んだちょっと不思議な手触りのする作品だ。
人間が作った人工物が理論を超えた進化を遂げるというのは瀬名氏の過去の作品でも取り上げられていたが、これもそのテーマに沿った一編。ここではロボットに魂は宿るかという命題に取り組んでいる。近い将来、ロボットが単なる玩具や客寄せパンダではなく、一大産業として社会に本格的に盛り込まれていくであろう未来への警告か。

「夏のロボット」は子供の頃にロボットと不思議な人物と出会った出来事が語られる。
ロビタという人工知能を備えた学習型ヒューマノイドと娘の菜都美とのコミュニケーションで次第にロビタが人間に近くなっていくことに気付いた恵が至る真理が「ハル」とは同じなのにその受取り方が逆なのは面白い。片や畏怖や嫌悪感を抱くのに対し、恵は新たなる知性の出現の萌芽に地球上の唯一の知的生命体である人間が孤独感から解放されると喜びを示す。この感覚は理解できる。

個人的に好きなのは「見護るものたち」と次の「亜希への扉」だ。
前者の舞台はタイ。災害救助ロボット、地雷探査ロボットなど前2編にもまして現実味を帯びている題材である。リーというタイの寒村に住む女の子と犬とロボットの交流という、泣かせる要素を全て盛り込んだ作品である。読んでいる途中でリーの行く末が解ってしまった。
しかしここで語られるのはその悲劇を超えて尚且つロボット開発に挑むのかという杵島の覚悟を確認する物語。主人公はあくまで杵島というロボット技術者の挫折と再生の物語なのだ。
彼は災害救助にロボット技術者として携わるたびに、自分の開発したロボットが想像していた以上に役に立たない事に直面し、挫折感と徒労感を味わう。果たして自分は社会に貢献しているのだろうか、人間の役に立っているのだろうかと。しかし最後にパートナー岡田がかける言葉に救われる。
ロボットというのは希望の装置なのだという。誰もがロボットに希望を抱く。それは未来の象徴だからだ。だからその分失敗すると挫折感も大きい。恐らくロボット開発というのはその繰り返しだろう。しかしそれでもなお貴方はロボット開発は止めないだろう。それこそが大事だ。その努力を続ける事こそ理想に近づけく唯一の道なのだ。
このメッセージは瀬名氏がロボット技術者全てに送る励ましの言葉と私は受取った。
余談だが、地雷探査犬の名前アインシュタインに思わずニヤリとしてしまった。クーンツファンである瀬名氏の茶目っ気だろう。

そして「亜希への扉」はなんとも甘いラヴストーリー。
物語の冒頭で断っているようにこの作品はメルヘンだ。といっても模型が生命を宿してしゃべったり、動物がしゃべったりするような類いのものではなく、出来すぎたラヴストーリーと云えるだろう。
しかしこういうベタな作品もまたいいのではないか。それよりもこの作品で述べられる、成長期にある子供がロボットと交流して育ち、やがてロボットのAIを凌駕して成長してしまったときに直面する魔法が解けたときのような喪失感、そして永久的に動き続けるロボットに死のプログラムが必要になるというある人物の考えなど、実に興味深い。そこまで瀬名氏は考えているのかと驚嘆した。
また題名だがこれはハインラインの傑作をもじった物。これも作者の茶目っ気か。

そして本書の主題ともいうべき作品が最後の「アトムの子」だ。
各短編、そして幕間で挿入される掌編「WASTELAND」、これらに共通する1つの軸とも云うべき存在がある。それは鉄腕アトムである。マンガの神様手塚治虫が創作した人型ロボットこそ、日本のロボットの研究の始まりであり、究極形であり、ロボット研究者が至る道だという風に瀬名氏は述べている。その思いが結実したのがこの最後の短編だろう。ここで語られるのは非常に哲学的な話だ。

果たしてロボットに正義を教える事が出来るのか?
そしてまた正義とは一体何なのだろうか?

本書の登場人物の一人の口から語られるロボットが正義を信じる理由が実に哀しいながらも腑に落ちる。人間でも機械でもない継子である彼らがアイデンティティを失う代わりに彼らは正義をアイデンティティとして生きるのだというのは実に興味深い考察だ。

これらの短編群は直接的には関わりは持たないものの、全てが地続きであり、同一の世界で語られ、呼応している。ファンタジックな装いの幕間劇「WASTELAND」もまた最終編「アトムの子」で地続きとなる。

そして本書に挙げられているロボットは実に多彩。愛玩用ロボット、学習型ヒューマノイド、対話型AIを備えた受付ロボット、災害救助ロボットに地雷探査ロボットなどなど。
これらのロボットと人間が共存する世界、そしてロボットを介して築かれる人間同士の絆がまずテーマの1つと云えよう。ロボットがコミュニケーションツールとして、生活のサポーターとして、はたまたパートナーとして人間の生活の中に介入する世界が描かれている。そしてそれらロボットを通じて得られる人間同士の新しい絆もまたそうだ。人間が作ったロボットによって生かされる人間もまたあること。ロボットがいたからこそ知り合えた人々の物語がここには綴られている。

そしてもう1つは人造物がある日突然人間の理解を超えた行動をするだろうという予見だ。特にある日突然飛躍的に発達・進化するという発想はデビュー作の『パラサイト・イヴ』以来、瀬名氏が必ず作品のテーマに盛り込んできた内容だ。
本書では人口の産物ロボットが人間が持ちうる雰囲気、気配といったプログラムできない、抽象的な部分を次第に身に付けていくこと、そして自らの死に際を求め、いずこへと消えてしまうといった都市伝説的事象などが語られている。

ここが瀬名氏という作家の面白いところと云えよう。自身博士号を持つ科学者であるのに、彼の面白いところは論理や理屈では説明できない存在を受け入れている。理科系作家でありながら精霊などといった超常現象を導入するファンタジーを創作するところにこの人の特異性があると思う。

しかし瀬名氏は2002年時点でのロボット工学の最新技術を取材し、それから類推される人々の生活への影響、意識の変化などをしっかり足が地に着いた物語を紡ぎ、ロボットを扱った作品にありがちな人間がロボットに支配される社会を描くデストピア型の作品を書いていないところが素晴らしい。
しかしそれでもロボットが発展する上で直面するだろう云い様の無い畏怖を抱くこともきちんと描いている。

本書に収められたメッセージはそのまま瀬名氏からロボット研究者たちへのエールと云っていいだろう。ロボットが果たして未来に役立つのか、単なる道楽で終わってしまうのか、研究者たちは絶えずその悩みと直面しているに違いない。瀬名氏は現在のロボット技術の進捗とその未来を作品として著す事で彼らの後方支援をしているのだ。

本書の舞台は2001~2030年という近未来。2002年に発表された当時、瀬名氏はこの頃既にロボットは人間生活に入り込み、無くてはならない物と想像していたようだが、2018年の今、残念ながらその予兆はあるものの、この予見はまだ先のことになりそうだ。
果たしてここに語られるような未来は来るのか、まだ先は見えないが、こんな未来はまんざら悪くないなぁと思わせる、心温まる作品群だ。

ハル (文春文庫)
瀬名秀明ハル についてのレビュー
No.760:
(7pt)
【ネタバレかも!?】 (16件の連絡あり)[]   ネタバレを表示する

香港返還も幾久しく

新人とは思えぬ完成度と筆致で鮮烈にデビューした服部真澄氏の話題作。発表当時、世界に通用する国際謀略小説の書き手が現れたと、世の書評家が絶賛したが、読了した今、確かにその言葉に全面的に賛同できる。

まず文体が明らかに他の新人作家、いや日本人作家と違う。日本の小説でありながら外国人が多数登場する事で、海外作品の翻訳本のような錯覚を覚えるきらいはあるかもしれないが、それだけではなく、私が読んでいるフリーマントルの諸作に通じるテイストがある。
特徴的なのは実在する社名、雑誌や企業を何の抵抗も無く使用していることだ。日本人作家は自身の作品が与える影響を考慮してか、実在する会社と似たような社名をあてがって登場させる。例えば「毎朝新聞」などといった類いである。しかし服部氏は逆に実名を使用することで物語にリアリティを与える事に成功している。扱っている題材が1982年の中国とイギリスとの間に交わされた調印に起因する1997年の香港返還という歴史的事実と今回作者がそれに絡めたある設定に真実味を持たせるためだろう。

また場面切替の速さが他の作家と一線を画している。後でも書くが、非常に多くの利害関係者がこの作品には登場している。それらを同時進行的に動かすために服部氏はそれぞれの進行を映画でよく使われるカメラの切り替えのように、小刻みに切り換えていく。印象的な場面で一旦引き、次のシーンでは別の組織でのこれまでの進捗と次の動きが語られる。これが物語に牽引力を生み、また加速感を生み出している。
日本人作家ならば1章に1つのグループの成行きを書き、他のグループに書く場合は章を切り換える傾向が強いし、このような手法はクライマックスで取られることが多いが、服部氏は頻繁にこの切替を扱う。

従って扱う物語の構造も複雑だ。香港を軸にアジアに関与するあらゆる人物、組織が1997年の中国への変換に向けて脈動する。
本書の主人公である外交官沢木喬を皮切りにハリウッドオスカー女優アディール・カシマ、『ワシントン・ポスト』の敏腕雑誌編集員メイミ・タンに彼女の秘蔵っ子であるフリージャーナリストのダナ・サマートン。上海香港銀行の総帥包輝南(パオ・フェイナム)、同頭取エドワード・フレイザー、表向きは通信会社である中国側の諜報機関新華社、日本の某一流電気メーカーをモデルにしたハイパーソニック社長西条亮に10年前の火災事故から奇跡的に生還したコードネーム<チャーリー>と呼ばれるCIA諜報員。
これら様々な職種の関係者が香港に集結し、野心のゲームに戯れる。

これら策謀のゲームの裏を大きく包み込むのはゴルトシルト家という古来から世界経済を支配するイギリスの大財閥である。恐らくロックフェラーなり実在の財閥がモデルになっているかと思われるが、このゴルトシルト家が画策するのは香港返還を解消して、唯一まだその支配下にないアジアの経済への侵略を行うために香港を拠点とすることだった。香港がイギリス政府へ譲渡される事になったアヘン戦争もこの財閥による物であり、それはアジア経済支配の第一歩であったというのだ。
それを阻止すべく中国とゴルトシルト家の間で毛沢東の密約と称される香港返還解消の旨を記した文書の争奪戦が繰り広げられる。そしてゴルトシルト家のアジア経済侵略は日本経済への脅威でもあることから外務省もそれに関与するという大きく分けて三つ巴の争奪戦が物語の骨子となる。

また本書で書かれている事象が作者の空想の産物なのかそれとも史実なのか判断に迷うところだ。というのも今の日本が服部氏が本書を発表した1995年に想定した最悪のシナリオのとおりに進んでいるからだ。
日本の借金は1,071兆円にまで膨れ上がり、国民1人辺りの負担額はなんと約850万円にも上る。そして本来アジアの絆を強くすべく韓国と中国とは手を結ばなければならないのに未だに反日感情が強く、そして反日教育が成されている。ありもしなかった歴史を捏造され、中国はますます日本に対して嫌悪感を示している。
それは経済大国日本をじわりじわりと蝕むように得体の知れない大きな力が実際に働いているかのように思える。そして嘆かわしいのは今この窮状を打破するような強力な指導者足りうる政治家が日本にいないことだ。従って本書で書かれた脅威が全く絵空事ではなく、日本の暗い将来を暗示しているようにしか取れないのが恐ろしい。

そんな観点からも本書は情報小説としても非常に密度の濃い物であり、さらに中国、イギリス、日本の三つ巴にそれぞれ個人的な利害が絡んで様々な人間が密約文書を奪い合う緻密な構成(正直なことを云えば登場人物表が欲しかった)、結末に向けて徐々に高まる緊張感など、とても新人とは思えない筆運びである事は認めるにやぶさかではない。
しかし哀しいかな、私はフリーマントルの読者であり、同じ国際謀略小説を発表している同作者と比べるとやはりフリーマントルに一日、いや数年の長があることを認めなければならない。なぜならフリーマントルにはそれらに加えて、ミステリマインド豊かなサプライズがあるからだ。この有無の差はやはり大きい。

片や作家生活数十年のベテランと比べるとはなんとも手厳しい評価ではないかと思うなかれ。これは私が服部氏にそれほど期待をかけていることの表れだと思って欲しい。それほどのクオリティがある作品であると宣言しよう。

龍の契り (新潮文庫)
服部真澄龍の契り についてのレビュー
No.759:
(10pt)

埋もれさすには惜しい傑作

旅先での一人旅の女性とのアヴァンチュール。そんな珍しくもない、誰にでも起こりそうな情事が思いもよらぬ災厄をもたらす。
そんなありきたりな設定に被害者を身分詐称を生業とする詐欺師に持ってきたところにフリーマントルのストーリーテラーとしての巧さがある。

特に今回はアメリカでももはや死滅状態であるクリミナル・カンヴァセーションという特殊な法律を持ってきたことが大きい。アメリカの州でもほとんどの州が既にこの法律を撤廃しているが、たまたま情事の相手の出生地がノースカロライナ州でそこにまだ現存していた事が主人公ハーヴェイに更なる災いをもたらしている。
よく他国の法律でこんな物を見つけたものだと感心した。

そして新聞であれば数行で済まされるような事件が当事者達には先進的苦痛を伴い、煩雑で不安な毎日を強いられる事をフリーマントルは事細かく書いていく。これこそ記事の裏側にある本当の事実なのだ。

そして法廷に突き出された者はそのプライヴェートが白日の下に晒され、何もかもが真っ裸にされる。私生活は無論の事、隠しておきたい過去、信条、既往症に他人に対する秘めたる思いまで、全てが暴露されていく。
特に本書で論点となっているのはクラジミアという性病である。どちらかといえばこれは密室で医者と患者のみで話されるべき内容であり公に開けっ広げに話されるようなことではない。しかし裁判では被告側の4人と原告側の4人、更には裁判官に陪審員に傍聴者らに自らの隠しておきたい恥ずべきプライヴェートを大の大人が誰がどのように性病を移したのかと熱弁が振るわれる。その様子は想像するだに滑稽である。こうなると裁判というのはもし勝訴したとしても、後に残るのは全てを世間に知られた個人であり、果たしてそれで何を得るのか、疑問に思ってしまう。
アメリカは訴訟王国と云われて久しいが、気に食わないことがあったからと云って、社会的制裁を加えるために容易に訴えを起こすより、それによって被る不利益、失う物を考えた方がいいのではないか、法廷ミステリではそう警鐘を鳴らしているようにも取れる。

しかし皮肉な事にその法廷シーンが実に面白い。下巻冒頭から繰り広げられる裁判シーンは本書の白眉と云えるだろう。
とどのつまり、一時期法廷ミステリが活況を呈したのは、一般人にはなじみが無い世界である珍しさもさることながら、他人のプライヴェートがどんどん暴露されてしまうことを知る読者の野次馬根性を大いに刺激している事も認めざるを得ないだろう。結局のところ、他人の不幸ほど面白い物はないということか。

本書でもその例に洩れず、法廷シーンで繰り広げられる原告側、被告側双方がやり取りする揚げ足の取り合い、トラップの仕掛け合いはものすごくスリリングである。言葉の戦争だとも云えよう。
元々フリーマントル作品には上級官僚が自らの保身、自国の保身のために行う高度なディベートが常に盛り込まれており、すごく定評がある。このフリーマントルのディベート力が裁判という舞台に活かされるのは当然であった。逆に云えばなぜ今までフリーマントルが法廷物を書かなかったのかが不思議なくらいだ。

さて読んでいて思ったのは、今回の主人公ハーヴェイ・ジョーダンはチャーリー・マフィンに非常に似ているということだ。身分窃盗という詐欺師を生業にしているが故に、公に顔を知られてはならないところはチャーリーがスパイであるという職業柄、同様の禁則を持っているのと同じだし、自ら保身のために自分が雇った弁護士以上の分析力を発揮し、逆に弁護士に突破口の糸口のアドバイスを送る。それは自分だけではなく、情事の相手アリスを守るためでもある。この点はチャーリーが英国のスパイでありながら、内縁の妻であり、ロシア民警の総元締め的立場にあるナターリアを同時に救うことに腐心するところを非常に似ている。
そして自らの生活を脅かす人物に必ず復讐を持って制裁することもチャーリーと非常に似ている。双方に共通するのは共に英国人であるということ。つまりこの自らの保身だけでなく、愛する女性を守らなけらばならないという騎士道精神が根底にあるからではないだろうか。

本書のタイトルであるネーム・ドロッパーとは有名人の名前を借りて、恰も自らが非常に親しい友人のように振舞う人を差す言葉らしく、ここでの意味は他人の名前を自分の名前のように使い、その存在を他者に認めさせるように使う人として使用されているようだと訳者は述べている。
ここで思い当たるのは果たして名前とはなんだろうかという事だ。
他人の名を借りて身分を偽り、それが偽造パスポートや偽造運転免許証、さらに社会保障番号を知ることで他人に成りすます事が出来る社会。しかしそれは結局他人の人生でしかなく、非常に空虚な物であると私は思う。なぜなら他人に成りすまし、それが社会で認められ、金融取引も出来てしまう反面、では一体本当の自分とは何なのだというアイデンティティが揺るぐような根本的な命題に行き着くからだ。
本書は身分窃盗であるジョーダンが本人であるハーヴェイ・ジョーダンとして訴えられることで、改めて借り物の人生を過ごしてきた自らについてアイデンティティの再認識が成される。だからこそのあの最後のセリフが活きるのであろう。
最近のフリーマントルは長く生きてきたせいか、人生に対して斜に構えた見方をしがちで、最後に英国人流の皮肉を以って物語を閉じる傾向があったが、本書は主人公が詐欺師という犯罪者にもかかわらず、非常に胸の空くエンディングが用意されている。
私はフリーマントルにこういう小説を書いて欲しかったのだ。
世間では全く俎上に上がることが無かった本書だが、それが不思議でならない。『殺人にうってつけの日』もフリーマントルを最初に手にするのに適していると書いたが、本書はこの結末も含めて、更にお勧めの1冊だ。近年のフリーマントル作品の中でもベストだとここに断言したい。

ネームドロッパー〈上〉 (新潮文庫)