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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1418

全1418件 781~800 40/71ページ

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No.638:
(7pt)

愛すべきマンネリズム

スケルトン探偵ギデオン・オリヴァー・シリーズ12作目の本作は従来のシリーズキャラクターである妻のジュリーはもとより、FBI捜査官でギデオンの友人であるジョン・ロウも登場する。
このシリーズにおいて一ファン、一読者として期待するのは新たなシリーズ展開だとか転機だとかではなく、いつもように骨に纏わる出来事が発生し、それにギデオンが関わる事で意外な事実が発覚していくというマンネリズムだ。このマンネリズムこそ、本作が安心して読めるシリーズ物の王道である事を表しているといえる。

今回の舞台はハワイのハワイ島。確か以前にも舞台になっていた記憶がある(『楽園の骨』だったかな?)。ハワイの地で牧場を始め、一財を成したスウェーデン移民の子孫の間に残された遺産問題が今回のテーマになっている。
前作『骨の島』の時には骨を検証する事の必然性と事件との関係が乖離しているかのような印象を受けたが、今回はそれは解消されていたものの、かつての作品に見られた骨から解る事実は過去の事件を疑うきっかけとなっているだけで、メインではない。まあ、骨をテーマにした本作であるからネタにも限界があるのだろう。シリーズ物の宿命として受け止めるしかない。

本作は年末に行われる各誌のベストテンやオールタイムベストに挙げられるような派手さのある作品ではない。
しかし、一読者としては前にも述べたように、このマンネリズムが心地よいのだ。出版社が刊行を止めない限り、私は読み続けていこうと思う。

水底の骨 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
アーロン・エルキンズ水底の骨 についてのレビュー
No.637:
(7pt)

力作なのだが、意外にも残らない

山岳小説、そしてSF小説を得意とする谷氏が書いた歴史小説。
扱われる時代は日露戦争終了間もない頃。日本が軍事色を色濃く出していた頃の3人の元軍人らが満州、ロシアを股にかけて時代の荒波に揉まれていく姿を描く。

雪山での熊の格闘から日本軍人がロシア討伐の予備工作としてロシアに潜入し、叛乱分子を煽動させようとするスパイ活動、極寒の中の逃亡劇に、狂気を湛えた男の追走劇、これらの要素を約600ページの本書にぎっしり詰め込んだ本書は、その内容についても仔細を極め、濃い味付けが成されている。
しかし、坂東眞砂子氏の『山妣』を読んでいなかったら、冒頭に展開する美川とマタギの佐七による熊ミナシロの狩猟劇はかなり楽しめたものだろう。またマタギの佐七が狩猟中に美川に教えるマタギの流儀も『山妣』より詳しく、しかもかなり興味深い話ばかりだった。
しかし、物語の熱量としては『山妣』の方が上。そしてプロローグで登場する日露戦争のワンシーンに登場する各登場人物が運命の糸に絡められるかの如く、彼の地満州で邂逅するのも面白いのだが、こういった人間関係の皮肉な繋がりでさえも業の深さを感じさせる坂東作品の方が印象強く残っており、足枷になった。

とはいえ、これはかなりの力作であるのは間違いない。極寒の山中での狩り、列車襲撃シーン、逃亡劇などはこの作者の十八番で、その寒さを肌身に感じさせられるものがある。

しかし、なぜか煮え切らない。

それは恐らく、美川の宿敵と想定された庄蔵の役割があまり物語に寄与していないからだ。武藤を中心に語られる本書では、むしろ美川と庄蔵との因縁対決はエピソードの1つという地位にまで落ちてしまっている。
その自己中心的で傲岸不遜、自己顕示欲の強い庄蔵というキャラクターを本作では十分に活かしきれていない。それは最後の決着のつけ方があまりに一方的に終わっている事からして明らかだし、作中時折挟まれる庄蔵の追跡行は笑劇の体すら漂わせている。
恐らく作者は美川と庄蔵の対決よりも書いていくうちに武藤の話の方に興味が移ってしまったのではないだろうか。『遥かなり神々の座』で息詰まるほどの、身が凍えるほどの緊張感を湛えた追走劇を提供してくれた谷氏だけにちょっと興趣が削がれた思いがした。

上にも述べているように、色々な趣向が凝らされた本書が力作である事を重ねて断言しよう。
しかしなぜか意外にも残る物がないのだ。まあ、こんな時もあるのだろう、不思議な事だが。

凍樹の森 (徳間文庫)
谷甲州凍樹の森 についてのレビュー
No.636: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)
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愚行は今も変わらず

2作目のジンクスという言葉がある。
本作は真保氏にとって江戸川乱歩賞受賞後の第1作、つまり第2作となるのだが、そのジンクスを跳ね返すべく、彼が並々ならぬ精力を本作に注いだのが冒頭から滲み出ている。

まず本作のメインであるマニラでのODA大規模プロジェクトの内偵に主人公伊田が関わる経緯からして非常にミステリアスであり、読ませる。100ページ以上費やして語られる導入部はぐいぐいと興味を引っ張り、ページを繰る手が止められない面白さだ。
そこから展開するマニラでの日本建設業界への潜入捜査、マニラを含め、フィリピン各所で繰り広げられる追跡行を読むに当たって、よくもまあ、これほど詳細に書けるものだと感心することしきりだ。真保氏の取材力の緻密さには定評があるが、確かにこれはすごい!

まず、空港を降り立ってホテルにチェックインするまでの流れは私が今まで何度も経験したその動きをそのまま投影しているかのようだ。しかも建設業界の内幕の様子もさることながら、フィリピンでのビジネスについても作者は熟知しており、終始ニヤリとするとともに、感嘆を禁じえなかった。
そして主人公やその他登場人物が縦横無尽に行動するフィリピンのマニラの街並みの描写も詳細を極めているが、スールーとかバギオなどの通常日本人が行かないようなところにまで踏み込んで舞台にしているところが、単純に小説に使うという名目で作者がフィリピンへ観光旅行したのではなく、明らかに明確な意図を持って入念に取材した事が窺え、この作者の作品に向かう誠実さを感じさせられた。
これがまだ2作めだというのだから恐ろしい。

そしてこの本を読むタイミングというのもまた良かった。建設業界の談合話に加え、小説の舞台がマニラ。これは今現在フィリピンに滞在する私に対し、今読め!と云っているようなものである。
しかし、それでも本作は星10を手放しで与えようとするとどうしても抵抗があるのだ。
それはテーマと中で扱われている内容にどうしようもない乖離を感じたからだ。

私は冒頭のプロローグから第一部の展開までの物語の流れを読んで、愚直なまでに自らの仕事に対して正直な男の復活劇だと期待した。それは一度閑職に追いやられた男が公正取引委員会という仕事が世に蔓延る不正を正し、悪の芽を詰む物だということを自らの信条とする伊田和彦なる男が密命を帯びてフィリピンで行われているODAの大型プロジェクトの不正を暴く、そういう物語だと思っていたからだ。
しかし、蓋を開けてみれば、それは単なる物語の意匠に過ぎなくて、この物語の核心はフィリピンで起きた誘拐事件の探索行、そしてその事件の真相を巡る物語だったのだ。

確かにフィリピンという国を縦横無尽に駆け巡る誘拐事件の解決劇は面白い。2つ起きる誘拐事件のうち、核となる第1の事件は660ページ強の本書の中で300ページ弱と、半分を費やして語られ、それ自体1編の長編に相応しい内容になっている。しかし、そこから私が期待した展開は、そこから伊田の当初の目的である談合の証拠を掴む調査の話だった。しかし、上にも述べたように実はそうでなく、この誘拐事件に隠された真相を巡る物語が展開する。
これがどうしても私には納得が行かなかった。それは本作の主人公伊田と調査の対象となる相手の1人に彼の高校時代の友人遠山順司という人物が設定されていることも一因だ。

この遠山順司というサブキャラクターが非常に魅力的に描かれている。この好男児に対し、伊田が自分の使命と友情の維持という葛藤に対し、どのような決断を下して乗越えるのかに私は非常に興味があった。多くのページを費やして繰り広げられる追跡行も、伊田と遠山の結びつきを強めるガジェットとして受け取っていたのだ。
しかし作者の思惑と読者である私との思惑が一致しなかった。これは非常に残念だと思った。

しかし、これは単純に作者が悪いというわけではない。私が勝手に展開を予想した事による齟齬なのだ。もし私が何の先入観もこしらえずに白紙状態で向き合っていたら、読書の悦楽にどっぷり浸かることができただろう。
真保氏の小役人シリーズはまだ2作しか読んでいない物の、非常に好きなシリーズである。だから私は良い読者でありたい。彼は小役人を主人公にする事でミステリを描く作家だという事を念頭に変な先入観を持たず、次から読む事にしよう。

1992年発表の本書で語られる建設会社の談合事件が26年後の今なお続いているのを見ると、この世の中というのは何も変っていなく、日本という国が根っからの土木国家という事をまざまざと知らされる。
それは本書で述べられるフィリピンもまた同様だ。100ペソ札(現在のレートで220円前後)1枚で賄賂が成り立つ貧困状況、幼児売買、臓器売買が成されている現状(しかも臓器売買は合法化されているとまで云われている)など全く変っていない(本書で述べられる気分の悪くなるような事実に対して、何ら驚かない、既に麻痺した自分がいることにも気付かされた)。故にこの作品が未だに古びれない輝きを放っているのだから実に皮肉なものである。


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取引 (講談社文庫)
真保裕一取引 についてのレビュー
No.635: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

それぞれのフィリップ、あるいはマーロウ

フィリップ・マーロウを主役に当代気鋭のミステリ作家が物語を描いたトリビュート短編集。正に粒揃いの名品ばかりだ。長くなるが、それぞれの作品についてあらすじを述べていこう。

まず冒頭を飾る「完全犯罪」は昨年逝去したマックス・アラン・コリンズの手によるものでマーロウがハリウッド女優ボディガードを引き受ける話だ。
ベンジャミン・M・シュッツの「黒い瞳のブロンド」とジョイス・ハリントンの「グレースを探せ」は共に人探しをテーマにしており、それがそれぞれ家族を連れ戻す物語である。前者は夫が逃亡した妻と子を、後者は妻が失踪した夫と子を、正に表裏一体の設定。しかも明かされる真相もほとんど似通っていたのがちょっと残念。

マーロウがプロレスラーのザ・クラッシャーという大男からボクシングのプロモーターのトマス・ローマにお金を届けるよう否応無く頼まれる所から始まるのがジョナサン・ヴェイリンの「マリブのタッグチーム」。
似たような題名の「悲しげな眼のブロンド」はディック・ロクティによるもので、マーロウが<ラサの頭蓋骨>という宝石を埋め込んだ頭蓋骨を手に入れるよう旧知の女性から依頼されるという一風変った設定。

4Fの旗手サラ・パレツキーは「ディーラーの選択」という作品で参加。マーロウが女性の依頼で、兄の借金の形にした母親の指輪を取り戻すのに借金した相手との交渉を頼まれるというもの。
そして田舎出の娘のような歌手イーヴリン・メリルがしている指輪がマイラ・ヒートレーという未亡人が盗まれた物だというシーンで始まるのがジュリー・スミスの「レッド・ロック」。物語の展開は当然この指輪を巡って繰り広げられる。

パコ・イグナシオ・タイボ二世の手による「国境の南」はマーロウと弁護士に警護を頼まれたアレックス2人のメキシコを放浪する物語で、異色の短編だ。
ロジャー・L・サイモンは赤狩りを背景に物語を展開する掌編「街はジャングル」で参加。

この後のジョン・ラッツの「スター・ブライト」はハリウッドの女優の卵エラ・ルーを巡る物語。
次のロバート・J・ランデージという初耳の作家による「ロッカー246」はマーロウが悪友の残した荷物を受け取りにニューヨークへ行く話。

そしてスチュアート・M・カミンスキーの「苦いレモン」は同じビルに住むウォーレンの妹探しの話。
次はなんとエドワード・D・ホックである!不可能犯罪短編の雄がチャンドラーのトリビュートとして捧げた「東洋の精」は酒場の歌姫からマーロウが銀行強盗と殺人の罪に問われた弟を助けて欲しいと依頼される話。ちなみに彼の作品の特徴である不可能状況、トリックは出てこない。

ジェレマイア・ヒーリイの手になる「職務遂行中に」は保険会社から現金輸送車を襲った事件で殉職した顧客の警備員が実はこの一件を仕組んでないかと調査を依頼される話でなかなか読ませる。
「悪魔の遊び場」はある荒野に建つコーヒーショップで起こった悪人たちの篭城事件を描いたジェイムズ・グレイディという作家の作品。

そして最後は御大チャンドラーの作品「マーロウ最後の事件」。マーロウの事務所を訪れたイッキー・ロッセンという男の依頼は、自分の逃亡を助けて欲しいというものだった。ラスヴェガスのあるマフィアの組織から足を洗った彼は大金を手にして逃亡中であるが、どこに逃げても追っ手の尾行が付きまとい、しかも自分を殺しに殺し屋が今日ロスを訪れるのだという。かなり危険な依頼に難色を示したマーロウだったが、妙に女に優しいこの変ったチンピラを気に入り、依頼を受ける事に。マーロウは、友人の女性アン・リアーダンに手伝いを頼み、無事イッキーを逃がす事に成功するのだが・・・。
“The Pencil”という原題に対し、なぜこのような邦題を付けたのか、訳者の真意はわからないものの、これがチャンドラーのマーロウだ!と云わんばかりの作品だ。
マーロウは常に損をする。それは彼がこだわりを捨てずに自分を納得させるまで仕事を止めないからだ。
この作品では読者になぜそこまでするのか?と思わせながら、最後の最後においてもやはりこのマーロウという人間が十分に理解できないまま終わる(少なくとも私はそう)。しかし、これこそがマーロウなのだなと思う。

チャンドラーの作品を別格として、私の個人的なベスト5はコリンズの「完全犯罪」、カミンスキーの「苦いレモン」、ヴェイリンの「マリブのタッグチーム」、ヒーリイの「職務遂行中に」、ロクティの「悲しげな目のブロンド」か。

コリンズはチャンドラーを正統に受け継ぐかのごとく、マーロウを復活させた。彼の強さ、皮肉っぽさは無論ながら、彼の優しさ、弱さもおしなべて。特に「ぼくはいつもひとりで寝るんだ・・・・・・良心を抱いてね」の台詞には参りました。
カミンスキーは実に正統なチャンドラーの後継者たらんとしているのが解る。特に作品に漂う頽廃的な雰囲気はアメリカ西海岸の光と闇を映し出し、行間から埃の匂いを立ち昇らせるかのよう。出てくる登場人物が全て大なり小なり過去に栄光を得ながら、落ちぶれた生活を送っている。美少年コンテストで優勝したハゲの小男。戦争に行って、怪我を負い、人のために我慢することを諦めた男。警察署長まで登り詰めながら、ある事件で人生の歯車が狂ってしまった男と、その妻。彼らの間を駆けるマーロウは確かに騎士だ。最後の結末の皮肉さといい、全てがチャンドラー・テイストだった。

ヴェイリンの作品は『さらば愛しき女よ』のオマージュで、ザ・クラッシャーはまんま大鹿マロイである。1人の女に愛情を捧げたマロイに対して、本作ではタッグチーム相手のエルモとの友情に厚い人物としてザ・クラッシャーは描かれているが、彼がマロイ同様、愛情に厚いことも明かされる。
ヒーリイは実に堅実なプロットで物語を作り上げた。本作では逆に他の作家がやってきたプロットの逆を敢えて取る形で物語に決着をつけている。フィリップの捜査の流れ、それを牽引する手掛かりが容易に手に入り、淀み無いのが逆にフィリップ物語らしくない印象を与えることになっているのが皮肉だが。
ロクティは自身の作品で、自らがハードボイルドの熱心な研究者である事を証言した。まさかハメットの『マルタの鷹』をマーロウと絡めるとは思わなかった。ハメットをはじめ、フィッツジェラルドやヘミングウェイなど実在の文豪がマーロウの世界に溶け込み、ロクティがこのトリビュート作品に心の底から楽しんで取り組んでいたのが目に浮かぶようだ。

いやいや、みんなフィリップ・マーロウが好きなのだね。そしてチャンドラーの文体が。待っていましたと云わんばかりに精魂注いでそれぞれがマーロウ・ストーリーを存分に描いている。そしてその誰もがマーロウを卑しい街を行く騎士としてきちんと描いているのが嬉しいじゃないか!
そしてそれぞれの作者がチャンドラーのように物語を書きたかったという思いを隠すでもなく前面に押し出しているかのような書きっぷりだ。

例えばロクティとパレツキーの両者の作品に、虫や魚といった小動物を扱った描写が出てくるが、これもそうそう、チャンドラーはこういう描写を入れてマーロウの心中を語るのが上手かったのだと思い出した。ロクティの、事務所に迷い込んだ蝶といい、パレツキーの牧場の池の鯉といい、チャンドラー作品の特徴を上手く捉えている。
あと不思議なのは、破綻せず、きちりと割り切れる割り算のようにかっちりとした作品、またちょっと複雑なプロットの作品ほど、マーロウ物としては似つかわしいと思わされた。チャンドラーの短編で感じたように、マーロウの行動原理が十分には理解できずに終わる、何かモヤモヤした物を抱えたまま終わる物ほど、マーロウの物語として相応しいような気がした。

あと敢えてマーロウの舞台、卑しき街ロサンジェルスからマーロウを飛び出させた作品も印象に残った。タイボ二世の「国境の南」がメキシコ、ランデージの「ロッカー246」がニューヨーク、グレイディの「悪魔の遊び場」はロサンジェルスから遠く離れたサプリーという恐らく架空の街をそれぞれ舞台にしている。
特にタイボ二世は詩的ながらも南米メキシコの焦げるような暑さと、人々の汗ばんだ匂い、そして砂埃が行間から立ち昇るかの如きその文章で、どこかチャンドラーのそれとは違うと思わせながらも、チャンドラーに通ずるペシミズムが溢れている。この作品に出てくるアレックスがテリー・レノックスとだぶるのは、錯覚ではないだろう。

チャンドラー自身の作品も入れ、全16作収録の本書。そこに書かれたフィリップ・マーロウは時に「フィリップ」であり、「マーロウ」である。そのどれもがフィリップ・マーロウなのだが、フィリップとしか呼べないフィリップ・マーロウと、マーロウとしか呼べないフィリップ・マーロウがいるのに気付かされる。
その理由ははっきりとしないのだが、作中、走ったり、格闘を演じたりする若さや躍動感が漲っているのがフィリップ、車であちこち駆け回り、そこで出逢う人に馬鹿にされながら、そして自らを蔑みながらも最後の一線は守るストイックな騎士を行間から感じさせるのがマーロウといったところか。若きフィリップ、老成したマーロウという区別が自分の中で出来ているのかもしれない。

そして私もまたフィリップ・マーロウが読みたいのだと気付かされた。思えば社会人になりたての20代前半、それが私のチャンドラー作品との出逢いだった。あの頃、読んだときの感想は、今でも『長いお別れ』が私の生涯海外ミステリランキングの1位であることからも、かけがえの無い体験だったと思う。しかし、あの頃解らなかった“味”があるのも確か。あれから十数年経った今、マーロウの物語を再読してみると、きっとまた違った“味”を知るだろう。日本に帰ったら再び手に取ってみるのもいいかもしれない。


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フィリップ・マーロウの事件 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.634:
(7pt)

主人公を食う悪党たち

長い間、東京創元社が翻訳権を取得しながらも発行しなかったのだが、21世紀も7年を過ぎてようやく日の目を見ることとなった。とにかく喜ばしいことだ。
とはいえ、1977年発行の本書。レナード作品としては起承転結という小説の定型が守られているのが逆に目新しいと感じた。レナード作品といえば、登場人物たちの“生きた”会話、先の読めないストーリー展開というのが専らの特徴で、本作もその片鱗は覗かせるものの、まだその特徴は顕著に現れていないと思った。

私の抱くレナード作品の最大の特徴というのは、いきなり物語の真っ只中に放り込まれ、主人公やその他脇役と共に街中を歩き回るかのような物語世界に没入させられることだ。一癖も二癖もある連中の中を一緒に歩くような臨場感を伴って逍遥する、それがレナード・タッチと呼ばれる彼独特の小説作法だと思っている。
しかし、30年前に書かれた本書は、まず主人公となるライアンが令状送達人になった成り行きから、ライアンを取り巻く人間達を描き、そしてライアンが人生の転機となる出来事に遭遇するという至極真っ当な物語展開を繰り広げる。
唯一、ライアンがひょんなことで捜索中の人物、デニーズをいきなり再会するシーンが、これこそレナードだ!と思わせられた。

そしてレナード作品の特徴の一つであるどこか憎めない悪党たち。これについては正にこの時点で完成されていると思う。黒人の殺し屋ヴァージルをはじめ、レイモンド・ギダーなる食いしん坊の殺し屋。ムショに入って物事に対する性急さを抑えることを覚えた前者と、ムショに放り込まれながらも物云う前に手が出る正確が変わらなかった後者2人の対比がなかなか面白い。 
しかし、今回主人公を務めたライアン。この登場人物に関して、レナードは決してヒーロー然と描いていない。むしろ、令状送達人という仕事に満足した男が、ある大金を掴むチャンスを得て、自分の能力以上の行動をしようとして、その都度、決断に逡巡する優柔不断な男として描いている。本作ではライアンが特に魅力的ではなく、その周囲の人間が魅力的であることに特徴があると思った。

ライアンの友人で警察官であるディック・スピードはライアンに令状送達人の仕事を紹介した人物。ライアンの捜索人の前妻デニーズは、飲んだくれのあばずれから逆にライアンにとってかけがえの無い存在になるほどの魅力的な女性に転身する。
先に述べたヴァージルとレイモンド。そしてライアンに捜索を依頼するペレス。
これらの登場人物は自分の生き方に信念・信条を持っており、ゆるがない自信を持っている。

翻ってライアンを見ると、ペレスに頼まれた仕事を完遂せずに、捜索人に繋がる重要な情報を敵にウッカリ漏らし、終いには捜索人の妻に惚れ、ペレスを出し抜こうとするがことごとく目論見が先方に見抜かれ、出し抜かれるといった役回りだ。
本作ではむしろ敵役のペレスの方が一枚も二枚も役者が上である。最後、1セントの利益も得られずにライアンから屈辱を与えられながら、ライアンに仕事の依頼をする図太さ。あれこそ本当の男だろう。
自分が何をすべきか解っている男なのだ。

そういった意味で今回の主人公ライアンは私にとっては非常に物足りない。レナードは本作で描きたかったのはしがない男が1枚も2枚も上の人物と渡り合う駆け引きを描きたかったのか?その手法を以って、主人公ライアンを魅力的に描きたかったのか?
恐らく最初の意図はそうであっただろうが、読了後の今、私には敵役のペレスが妙に引立つのを止められないのだった。

他に、作中、白人の女性の旦那が黒人であった事に驚くシーンがあるが、これこそ時代を感じさせ、不自然に思った。こういう叙述を読むと、やはりこの本の発行が遅きに失した感は否めない。
あと蛇足だが、本作においてレナードの恋愛に対する描写がところどころこちらの意中を射ており、非常に印象に残った。曰く・・・

『“隣りの女の子”に隣りの家とはまた別の暮らしをさせると、もはや“隣りの女の子”ではなくなる』
『彼女を抱きしめたいと思う。しかし、実際にそうすると、どれだけ触れても触れたりず、どんなに強く抱いても抱き足りないのだ』

う~ん、正鵠を射てますな。上は恋の妄想が解けた瞬間、下は恋に恋焦がれ、求め合う気持ちが強い上のもどかしさ。いやあ、レナードの作品を読んで、こんな一文に出逢おうとは思わなかった。この作品を書いたとき、レナード御歳52歳。いやあ、若々しいね、感性が!

そして本書のボーナス・トラックは直江明氏の解説だろう。最近『ミステリマガジン』誌上の連載でレナードの小説世界について微に入り、細を穿った解説を展開しているが、本作の解説でも同様で、レナードの小説世界を更に面白く読める内容になっている。レナード作品を連綿と読み続けた私でも新たに気付かされることがほとんどで、興味は尽きない。
各出版社にお頼み申す。全レナード翻訳作品の解説を直江氏にしてもらえないだろうか?そうすることでもっとレナード作品のファンが増えると思うのだが、適わないかなぁ、やっぱり。

身元不明者89号 (創元推理文庫)
エルモア・レナード身元不明者89号 についてのレビュー
No.633:
(7pt)

じっくり味わうには短すぎる

20代後半の若き登山家、加藤武郎とそのパートナー久住浩志2人の登攀を綴った連作短編集。

表題作の「白き嶺の男」は独学で単独登攀を行っていた加藤武郎がある登山会に所属した際に行われたテスト登攀での出来事を綴った話。
続く「沢の音」は加藤とコンビを組む久住と加藤の邂逅の物語。
そして「ラッセル」は「沢の音」で知り合った加藤と久住が北穂高岳の滝谷の岩盤登攀を2人で行う様子を描いた物。
「アタック」は「ラッセル」で述べられたヒマラヤ登攀についての話。
「頂稜(スカイライン)」は再び久住と加藤のヒマラヤ登攀の物語。
最後の1編は「七ツ針」という加藤・久住物ではない山岳ホラー短編。

本短編集では加藤武郎と久住浩志という2人の男たちの関係について訥々と語られていく。当初、所属していた登山会を加藤が辞め、久住の会に入ったことなどが、徐々に語られ、やがてその内容は2人のヒマラヤ登攀にまで至る。
本作の中で面白かったのはやはり雪山登山について語られた作品の中、唯一渓谷のルートを調べる渓谷登攀を語った「沢の音」だ。我々が地図の上で知る山の渓流の道筋などはこういった渓谷登攀を趣味とする、または生業とする人たちによって徐々に詳らかにされていくのかと知的好奇心を刺激させられた。

この短編集には登山の困難さが経験した者でしか解らない迫真のスリルとリアリティで語られるところにある。それぞれの1編は40~50ページぐらいの長さながら、そこに書かれる登山の息苦しさは正に登山が死と隣り合わせのスポーツである事を濃厚に物語る。
しかも、語られるのはそれだけではない。山が、自然が気候の影響により、どのように変わりゆくのかを理路整然と叙述していることも見逃してはならないだろう。

本編の主人公である加藤武郎と久住浩志はそれぞれ次のように性格づけされている。小さい頃から樵であった祖父の手伝いをするうちに独学で山を登る事を学んだ加藤は自然の声を聞く男であり、また怖さを知る男。そして高所では無類の粘り強さを発揮する男である。片や久住は、渓谷登攀を趣味にしつつ、1人で未開の地を発見する事に喜びを見出す排他的な男だが、同じ匂いのする加藤には絶大の信頼を置いている。クライミング技術は加藤も凌ぐ男である。
この2人が色んな登山を重ねるのだが、正直ページ数が限られた短編であるからか、ちょっと消化不良の感が否めなかった。物語を掘り下げていきながら、ページ数の都合により、はいここまで!といった感じが各編に漂っているのだ。最後に添えられた別物の「七ツ針」ぐらいだろう、きちんと終えているのは。だから、この2人の登山家の魅力を存分に味わうというほどではない。

『遥かなり神々の座』では主人公のクライマー滝沢育夫の登山生活のみならず、私生活まで踏み込んで語ったので厚みが出たが、本作では絵に描いた人物を語っているだけに留まった感じがする。題材として非常に面白かっただけに勿体無い気がした。
願わくばこの2人を主人公にした長編を読みたいものだ。手元にその作品があることを切に願う。

白き嶺の男 (集英社文庫)
谷甲州白き嶺の男 についてのレビュー
No.632:
(7pt)

人間臭いスパイの日常

イギリスの諜報機関MI-6のモスクワ駐在員ジョン・イングラムの後任として新人のジェレミー・ブリンクマンが選ばれた。イギリスの外務事務次官の息子である彼は、父親の権力に頼ることなく、MI-6内で優秀な成績を収めており、今回の人事は大抜擢だった。
イングラムの送別会の席で彼はアメリカのCIAの駐在員エディ・フランクリンを紹介される。彼こそはこのソ連駐在の各国の駐在員の中でもとびきりにソ連の政情に精通しており、業界でもその名は知れ渡っていた。聡明なブリンクマンはフランクリンと親密になり、ソ連国内の小麦不足を契機にした米ソ間の政治的緊張の勃発について予見し、MI-6内での評価をどんどん上げていった。
一方、ソヴィエト国連大使を経て帰国したピョートル・オルロフはアメリカ滞在中に知り合った通訳の女性ハリエットとの再会に心焦がしていた。しかし、国連大使での手腕が高く評価され、オルロフはソ連国内で将来の指導者と期待されていた。周囲の評価と自らの恋情に板挟みに苦しむ中、オルロフはアメリカへの亡命を計画する。
また、フランクリンにはワシントンに前妻ルースと息子2人を残しており、現在モスクワで一緒に住んでいるアンは後妻だった。アンはモスクワでの暮らしに退屈しており、フランクリンの異動を今か今かと待ち望んでいた。そんな中、フランクリンの許にルースから知らせが入る。長男のポールが麻薬を求めて強盗を起こし、警察に捕まったというのだった。フランクリンは急遽アメリカへ飛ぶ事に。
そしてその急なアメリカへの出国に対し、ブリンクマンは何かアメリカで事件が起こっていると推測したブリンクマンはその情報を探ろうとアンに近づく。

上に書いた粗筋は実はこの作品のテーマに触れてなく、本作のテーマはCIAとMI-6の諜報員同士のソ連の大物政治家の亡命を巡っての、丁々発止のやり取りである。この展開で物語が動き出すのは全400ページ強の本作に於いて、270ページを過ぎた辺りである。
それまではスパイたちのプライベートライフを綴った物語というべきだろうか。本作で繰り広げられるのは従来のスパイ物に見られる、情報工作、情報収集に危険と隣り合わせで挑むスパイの緊迫感溢れた仕事ぶりよりも、モスクワに送られた各国スパイ達の交流とその夫婦生活と奥さん連中の内緒話、三角関係、遠距離恋愛といった、非常に通俗的な内容になっていた。

そしてスパイも家庭問題を抱えるのだ。息子が非行に走り、急遽勤務先から舞い戻ったりと大変なのだ。
やがて独身者で新進気鋭のブリンクマンがフランクリンの不在中にその妻アンに対して横恋慕を始めるうちに―当初はフランクリンの動きを摑む為に接近したのだが―、私情を絡めた2人の攻防戦が繰り広げられるといった次第だ。ここからがエスピオナージュ作家フリーマントルの手腕が光る諜報合戦と云えるだろう。

さて本作は今までのフリーマントル作品同様、最後に思わぬどんでん返しが待ち受けている。それは最終的にフランクリンが凄腕のCIA諜報員だったことを如実に示す事になるのだが、いささか唐突過ぎるのではないか。
最後の最後まで気の抜けないのがフリーマントル作品の長所であるのだが、どんでん返しを受け入れる布石はやはりところどころに示唆してほしいものだ。

こういうどんでん返しならば、私でも書ける。
今回はどんでん返しというよりも辻褄併せのような感じがした。実にフリーマントルらしくない歯切れの悪い結末だ。



▼以下、ネタバレ感想
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クレムリン・キス (新潮文庫)
No.631: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

“魔球”とは?

東野圭吾初期の代表作である本作は、実に哀しい物語であった。
この高校球児を中心に据えたミステリ。この作品の中心となる謎は、二つの殺人事件の謎でもなく、愉快犯とも云うべき東西電機での爆破未遂事件と社長誘拐事件の謎でもなく、題名となった“魔球”の謎、でもない。
天才投手と云われた須田武志そのものの謎である。

本作はこの須田武志なる人物が実にストイックかつミステリアスに描かれており、この人物無くしてはこの物語の成功はなかったであろう。
他の高校球児と特に仲良く接することなく、常に孤高の存在として振舞う。自らに妥協せず、他者とは違う次元で物事を見据えた眼を常にしている。そして自ら立てた目標に向かって嘘はつかず、また約束は必ず守り、自らを厳しく律する。自ら弱音は決して吐かない。出来ないという言葉は決して使わない。
彼の死の真相を知ったとき、正にこの男は武士であると痛感した。名前は須田武志。東野氏はこの男に武士の魂を託し、“武士の心”という意味を込めて“武志”という名にしたに違いない。

そしてこの須田家を取り巻く家庭事情など、ほとんど巨人の星の世界である。貧乏のどん底から、プロ野球選手を目指して這い上がる男、自らの努力で天才投手の名を恣(ほしいまま)にし、家族の幸せのためには自分を売ることも厭わない。
ここまでべた褒めならば星10個献上したいのだが、あまりに哀しすぎるので、その分、星1つマイナスした。物語半ばで判明する須田武志の死は、私にはあまりにもショッキング過ぎた。こういう奴を応援したいんだよと思っていた矢先の悲劇だったために、プロットのためにここまでするかと脱力感と憤慨を覚えたのである。最後の結末を読んでも、やはりあそこで須田武志は死なせるべきではなかった、そう強く思った。彼を亡くした後の須田家の哀しみを推し量るとどうしてもこの展開には反発心を覚えてしまう(また文庫表紙の朴訥としたイラストが泣かせるのだ)。
そう思うのも、ここまで感情移入してしまう登場人物に久々に出逢ったためで、正に東野氏の術中に嵌ってしまったことは否定しない。先にも書いたが本作ではそれぞれの事件の謎ではなく、この須田武志という人物の謎こそ東野マジックなのだ。

もう少し書こう。

本作でキーとなる題名にもなっているこの“魔球”の正体。この謎も実はなかなかに考えられているのである。
“魔球”というちょっと間違えば陳腐な内容になるこの題材について東野氏は実に面白い解答を用意している。そしてそれはこの“魔球”という二文字の意味がまた別の意味を持って立ち上がってくるのだ。
人が打てない悪魔のような変化を伴うから“魔球”と呼ばれるのが一般的だが、本作にはもう1つの意味が隠されている。これはそれぞれこの本を読んで確認して欲しい。

魔球 (講談社文庫)
東野圭吾魔球 についてのレビュー
No.630:
(5pt)

バカミスとよく云われてますが…

カー版コージー・ミステリとも云うべき、ストーク・ドルイドという小さな街で起こる小さな事件の物語。読中、セイヤーズの『学寮祭の夜』を思い出した。手元に本が無いので不明だが、両書のうち、どちらが先だろうか?
しかし、もしこれがセイヤーズの作品の方が先だとしても、カーが真似をしたとは思えない。作中で語られる、当時ドイツで起きた実在の事件から題材を得ているようなのだ。

で、本作の真相と云えば、いささか首を傾げざるを得ない。肝心の動機が曖昧だからだ。なぜ犯人は悪意のある手紙を出し続け、また密室状態でジェーンに深夜後家が逢いに行ったのかの理由が全く見えない。何度も解決シーンを読み返したが、ある人物の隠された過去の告発をくらますために行ったという解釈しか出来ない。しかしそれでは非常に動機として弱すぎると思う。

セイヤーズの作品では悪戯の背後に隠された悪意に蒼然とさせられたが、本作ではなぜこんな悪戯をしたのか自体が不明だ。
HM卿がバザーで酋長に扮するなど今回もサービス精神旺盛であるが、それも単なる物語の脆弱さを覆い隠すためのガジェットにしか見えなかった。題材が面白かっただけに、残念。

唯一、HM卿の奥さんの名前が判明したのだけがマニア向けの収穫か。


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魔女が笑う夜 (ハヤカワ・ミステリ文庫 6-8)
カーター・ディクスン魔女が笑う夜 についてのレビュー
No.629:
(7pt)

最も神の高みに近づく場所は神秘に満ちている

登山家でもある作者が、登山の時にどうしても感じてしまう神々の存在について著したかったと思われるのが本書。人の生死を左右する極限状態の中、昨日まで、いやつい10分前まで冗談を云い合っていた仲間がクレパスに落ち、ザイルが切れて落下し、物云わぬ屍と化す。かと思えば、絶対助からないだろうと思われる強烈な雪崩の中に巻き込まれながらも、九死に一生を得て生還するようなこの世界、明らかに神の配剤なるものを感じずにいられないのだろう。
ミグマというラマの修行僧を通してまずは曼荼羅に記されたこの世の真理を説き、生死の境で相見える山に住まう神々の存在を知った者たちを通して登山と神との関わりを幻想文学の形で描く。

読中、頭をしきりに過ぎったのは坂東眞砂子氏の『山妣』だ。『山妣』で語られる山神の厳しさは山に敬意を払わない者には鉄槌を下すが、山と共存する者には糧を供給し、異形の者でさえ受け入れる懐の深さが感じられたものだが、谷氏が本作で描く山ヤシュティ・ヒマールは、異世界への通廊を守るために何人(なんぴと)たりとも受け入れない冷徹さがあり、登頂を目指すミグマをあらゆる手法で追い詰める。
もちろん『山妣』とこの作品では日本の山とヒマラヤの山という高さ、急峻さ、自然状況の過酷さの違いはあるだろうが、同じ雪山を舞台にして、これほどまでに違いがあるのかという思いがあった。

しかし、その違いも確かに解る。前者はその雪山を生活の場にしている者達の物語であるのに対し、後者は雪山を登山の対象にしている、つまりそこに住まう期間が非常に短いのだという所にある。
登頂という目的―本作では単純に登頂のみを目的とはしていないが―を達成するために山の気候、形状はその目的を阻害する敵以外何物でもなく、打ち克つべき存在であるのに対し、生活の空間としている者にとってはその過酷さまでも運命として受け入れ、共存していかなければならない存在であるからだ。
しかし、やはり両者に共通するのは、山には神がいるという感覚だ。前にも書いたが、それぞれ人間の死を左右するのに神の悪戯としか思えない不思議な偶然を感じ、またそれを否定しない。根底に流れるのは同じなのである。

本作は同じヒマラヤの登山を舞台にした『遥かなり神々の座』とはガラリと違い、チベットの修行僧を主人公にしたヒマラヤの登山を通して世界の真理を知るという物語であり、主人公ミグマは幽体離脱と、前世回帰を繰り返し、魂の旅路を繰り返す。彼の前世であるナムギャルが果たせなかった世界の中心を司るメール山(須弥山)の登頂を目指し、そこにあるという世界の真理を知る扉を目指すのだ。
その目的を果たすため、ミグマは曼荼羅の謎を解き、更には転生を繰り返す自らの魂の原初となる詩人ミクラパまで魂を遡る。もはや物語において時間や空間といった概念は無意味である。更にミグマは登山家としての経験を物質世界でも積む。

何ともまあ、壮大な物語だ。
物語は更に思弁哲学の様相が濃くなりやがて相対性理論に行き着く。それも西洋数学の知識に基づくのではなく、仏教的世界観を以って、そこにアプローチしていくのが面白い。

そしてミグマが垣間見る異世界への通廊には、世界を統べる法則が全く異なった世界だ。それは私達の世界で理論として確立している万有引力の法則や量子力学なる物がそれぞれの宇宙では全く異なった理論で形成されていると述べているのだ。
これは作者の意見なのか、どこかの学者が述べた理論なのか、寡聞にして知らないが、この箇所を読むに当たり、我々の論理では宇宙の謎は解けないのではないかという思いを強くした。この考えに同調する自分がある。我々人間の描く尺度を全く越えたところに宇宙は存在し、かつ機能している。

作中、山の神としてミグマが乗越えるべき存在として立ちはだかる大いなる存在ヤクティは、それ相応の知識・経験を備えていない者に対して非常に排他的に振舞う。
これはこの非常に思弁性に富んだこの作品を書いた作者の、解る人だけに解ってもらえればいいという態度そのものなのかもしれない。

天を越える旅人 (ハヤカワ文庫JA)
谷甲州天を越える旅人 についてのレビュー
No.628:
(7pt)
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山男には惚れるなよ

「山男には惚れるなよ」という唄があるが、それを地で行く主人公滝沢育夫。定職に就かず、故郷の帰省に費やす交通費を惜しんでまで登山にのめり込む男。挙句の果てに6年待たせた恋人、君子にも愛想を尽かされ、その夜寝る場所にも困るような男だ。
もはや身体も心も快適な日本よりも過酷なネパールやインド、チベットに馴染むようになっている。登山家(クライマー)として一流の登山技術と抜群の高所順応能力を持ちながら、7回の遠征において一度も登頂者(サミッター)になれず、遠征のたびに仲間が死んでいく事から山仲間の間では「死神」という仇名を付けられる。
この人物造形は本書の扉裏に付けられた著者近影にそのままイメージが重なった。著者の谷氏自身、クライマーであるのだが、滝沢=著者という短絡的な想像はやめておいた方がいいだろう。恐らく著者の数ある登山仲間をそれぞれ寄せ集めて作られた人物に違いない。

この滝沢という男が物語で一介のクライマーから殺しを厭わない兵士へと変貌を遂げていく。元々クライマーとしての能力が高く、辺境で生き延びる術を知っている彼。
そして今までの登山で他人の死に直面してきた経験から、瞬き一つせずに殺しを行えるという設定は納得がいく。無論、それがそのまま殺しの才能に結びつくわけでないのは作者も承知の上で、その辺の説明にはぬかりは無い。

そして、この滝沢を巡る2人の女性、君子と摩耶。この2人を物語に導入したことに作者の技量を感じる。
外国への登山遠征を重ねる滝沢に愛想を尽かしながらも、ほっといては置けない母性本能を感じる君子と、ネパールでも現地に溶け込んで暮らしていける女の強さを備えた摩耶。男からの独立を望みながらも依存してしまう女と、男に自分に似た匂いを感じ、パートナーとして対等に扱う女。冒頭に現れるこの2人の女性が物語の終盤に意外な形で滝沢と再会するのだが、それぞれの結末の付け方も憎らしい。

そして忘れてならないのはニマという男。当初滝沢のチームにコックとして同行していた初老の男はしかし、サバイバル経験豊富なゲリラの一員であり、滝沢に兵士としての訓練と生き延びる術を教授するこの男。
物語の終盤で意外な正体が明かされるのだが、これはむしろ蛇足だと思った。ニマがある事実を知ったところで何も起きないことは解っていたからだ。

上に述べた女性の扱い方、そしてこのニマの扱い方から察するに、この作者は人間の間で起こる愛だの情だのといった感情が織成す化学反応に対して、非常にストイックなのだと思う。そこにハッピーエンドだの、哀しい結末だのを持ち込むわけでなく、二人が出会い、そしてまたすれ違うといった具合に敢えて結論を避けているかのようだ。
それはやはり登山の中で人の生死を左右する局面にこの作者自体が何度も直面しているからだと思う。昨日までふざけあって笑いあっていた仲間が、翌日はクレパスに墜ちて還らぬ人となったり、凍死して動かぬ肉塊となっていたりといった諸行無常観があるのではないか。だからこの作者自身、決して他人に対してのめり込むことが無く、人間関係に対して結論を求めぬ距離感を保っているのだろうと思う。
しかし、1人だけしびれるくらいカッコイイ男が居た。それは名も無い君子の結婚相手である。彼の置手紙にはグッと来ました。ベスト・サブキャラクター賞をあげたい。
唯一この作品で結論を求めているのは、登頂者(サミッター)になれるのか否かという事ではないだろうか。人との触れ合いにではなく、登山その物に結論を求めているのはやはりこの作者が登山家でもあるからだろう。

今回不幸だったのは、私がこれを海外生活を送っている今、読んでしまった事。
作中に描かれる日本では考えられない異国での珍騒動-笑顔とたどたどしい日本語で近寄る現地人、空港を降りた途端に群がるタクシーの運転手たち、相場以上の運賃を求めるタクシー、etc-は、全く驚きがない。むしろここでは当たり前の事でしかなく、そこに面白みを感じる事が無かった。ネパールの街中の描写、登山仲間達の現地での過ごし方など、興味を感じる部分もあったが、ふと自分の暮らしている境遇を見て、あまり変わらないなぁと苦笑した次第だ。

さて物語は二転三転事実が裏返る。
ちょっとくどいぐらいだ。冒険小説だから、もっとどんでん返しは少なくていいし、最後にでっかい物を1つ、用意してくれれば満足だったのだが。


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遥かなり神々の座
谷甲州遥かなり神々の座 についてのレビュー
No.627:
(1pt)

レシピ通りに作られた本格ミステリ

「嘘の上塗り」という言葉があるが、この小説の真相が正にその言葉がぴったりだと思った。
二重に仕掛けられた本作のトリック、作者の中では結構自信があったのだろうが、私に云わせれば、無理を通すために道理を引っ込めさせ、強引に驚愕の真相へ持って行ったという感じしかしなかった。

作中で探偵役の一尺屋が持論を確立させるために何度も真相を云い直しているのも気になる。曰く、

「君を見た瞬間、それは叔父さんは驚いたのだろうね。弟に息子がいたなんて知らなかったんだから。そのショックで心臓が止まっても仕方が無い」
「信号音は君が叔父にナイフでも突きつけて聞きだしたのだろう。・・・殺される!という恐怖が叔父を死に至らしめたのかもしれない」

といった具合だ。
この間、1ページも無いのである。

しかも逢ったことのない叔父の家の間取りやら数々の企み、そしてそれらを成功させる数々の仕掛けを遠方で母親の話を聞いただけや関連の書物を読んだだけ、はたまた何度か由布院に訪れただけで解るだろうか?
人間なんて新しい環境に慣れるのでさえ、2ヶ月は最低必要である。東京でフリーターをして日銭を稼いでいる若者に果たしてこれだけの事が出来るのか?現実味の無い話である。

こういった辻褄併せのような論理の積み重ねが読書の興趣をそそるどころか、ああ、無理をしているなぁという苦労が作品の裏側から透けて見え、なんとも痛々しい。
そして、この作家特有の類型的な人物像の乱立。どこに小説としての面白みがあろうか?相変わらず、島田氏の提唱する本格推理小説作法に則っているのだが、なんとも味気ない。心動かされる何かがない。

料理本の云うとおりに料理を作れば、確かにそれなりの物は出来、食べられる代物にもなる。しかし、人に提供して金を取るだけの商品にはならない。そこに料理人としての独特の味付けをしないことには単なる素人の手遊びである。
毎度毎度苦言を呈して申し訳ないが、6作を通じて得た感想はこういった類いの痛罵しか思い浮かばなかった。


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湯布院の奇妙な下宿屋 (光文社文庫)
司凍季湯布院の奇妙な下宿屋 についてのレビュー
No.626:
(7pt)

昔のイギリス裁判は無茶苦茶

英国の犯罪史上のミステリといえば、やはり切り裂きジャックが一番に思い浮かび、本作で取り上げられているエドマンド・ゴドフリー卿殺害事件については日本の読者には馴染みの薄いものであろう。私自身、この本に当たるまで全く知らなかった。
しかし英国ではこの一介の治安判事の殺人事件が当時の国王チャールズ二世と反対勢力であるグリーンリボン・クラブの主導者シャフツベリー卿との大規模な政治闘争の幕開けであり、またプロテスタント主体の英国の中でカトリックを振興する国王チャールズ二世とその弟ヨーク公の失墜を目論んだ宗教弾劾の側面を持つスキャンダラスな背景も手伝って、いくつもの研究本が出ているミステリであるとのことで正直驚いた。

まず本作の登場人物表に記載された人物について触れておこう。なんと全部で75人である!今まで『銀英伝』が最高だったがそれをはるかに上回った。しかしそれにも関わらず、登場人物の混乱は起きなかった。それぞれに個性があり、またカーの書き分けが素晴らしかったのだろう。
カーが本作で取った手法は、まず事件が起こるまでのチャールズ二世とシャフツベリー卿の確執、そしてカトリック教徒のジェズイット派による国王暗殺計画が進行しているという密告があったことなどから始まり、ゴドフリー卿殺害事件の発生、それを引鉄としたカトリック教徒たちへの迫害、そしてチャールズ二世政権の終焉までの、一連の事実を詳細に述べ、その後で、それら事実を検証し、カーが至った真相を自らの推理と共に披露するといったものである。つまり、通常こういった作品で取られる事件そのものの検証に直接当たるのではなく、当時英国で起こった事を膨大な資料の山から取捨選択し、1つの物語として仕上げているので、最初はなかなか核心に触れず、様々な登場人物が織成す政治的策謀を延々と読まされ、しかもその登場人物が非常に多い事から読書が非常に難航した。

しかし、これが後々にこの事件を語る上で非常に重要な部分であることが判明してくる。前にも述べたがこの事件が国王政治とその反対勢力との政治闘争とそれに加え、当時のプロテスタントとカトリックとの一大宗教闘争までに発展するのだから、事件そのものの謎よりも、この事件を誰の仕業にするのかで当時の政治バランスが変わってしまうといった代物だったのだ。

17世紀のイギリスでの容疑者への尋問、刑事裁判の内容についてカーは微細に書いているのだが、これが現代では考えられないほど恣意的であるのに非常に驚いた。
まずチャールズ二世を何とか引きずり落とそうと企むシャフツベリー卿が犯罪調査委員会の委員長に任命され、色々な容疑者を尋問するのだが、これが非常に非人道的なのだ。
なんせこの男、今回の事件を利用して国王一族の凋落を企んでいるのだから、容疑者に自分の役に立つ証言をさせるために平気で脅迫を行う。それに従わなかったらニューゲイト監獄へぶち込むという極悪非道振りである。とにかく事件に関わったもの全て、そして当時事件はカトリック教徒の手によるものだと噂されていたものだから、カトリック教徒であるだけで取り調べられ、監獄に入れられるといった傍若無人ぶりなのである。
そして当時の事件で冤罪者を数多く出す事になったきっかけを作ったタイタス・オーツなる人物。
彼は証言に際して、自分で創作した真相を語り、矛盾点が発覚すると、あの時は事件を思い出すのに連日徹夜で調査していた疲れが溜まっており、正確な判断が下せなかった、云った覚えが無い、などなど愚にもつかない言い訳を行ういい加減なぶり。しかもそれらが当時のカトリック教徒撲滅(=国王失墜)のムードに同調しているがために、裁判官もその曖昧な証言を採用し、被告人に刑を課すのだ!
つまり裁判も公平なものでは勿論なく、証人、被告人が事実を告白しても、その者がプロテスタントではなくカトリックならば、嘘をついている、証言は出まかせだといって取り上げないのだ。
いやはや、ものすごい時代である。そしてまた、それに甘んじて無実の罪を着せられ、死刑に甘んじる英国庶民もまたすごい。当時の階級社会ではお上に逆らう事自体出来なかったという時世なのだろうが、やってもいない罪で死刑を命じられ、刑に服すとは、なんともまあ、滅私奉公の極みともいうべきか。

本作は正確には未解決事件の真相を探るノンフィクション物だとして読むよりも、17世紀のチャールズ二世政権時代を語った歴史書として読む方が正しいだろう。この事件の真相は?というよりもこの事件が当時イギリスに何を起こしたのか?国王は、その政敵は、プロテスタント達は、カトリック達は、そして影で暗躍するフランスは何を行ったのか?を知るには格好の書物である。
カーの、未解決事件の推理力は元より歴史物作家としての技量の高さを知る上でも貴重な作品だろう。


エドマンド・ゴドフリー卿殺害事件 (創元推理文庫)
No.625:
(8pt)

チャーリー・マフィン版『ロミオとジュリエット』

英国情報部のロシア課に勤めていた経歴を買われ、ソ連側に寝返って英国へ情報を流している人物を探るよう要請されたサンプソン、片や英国情報部部長よりサンプソンと共に脱獄し、ソ連に潜入して、英国に情報を流しているソ連高官と接触し、亡命の案内役を務めるよう要請されたチャーリー。
この相反する任務を反目し合う2人のうち、どちらが先に目標に行き着くかという面白さ。それに加え、2人の共通の人物としてベレンコフが絡んでくるあたり、演出効果は抜群である。
特にベレンコフとチャーリーの再会シーンはシリーズ第1作目から読み続けた者にとってみれば、チャーリーらが作中で味わうワイン同様に芳醇な読書の愉悦に浸れる名シーンである。それぞれ敵国随一のスパイながら、お互いを認め合う存在が酌み交わす美酒にそのまま酔いしれる思いがした。

]そしてチャーリーに絡むのはチャーリーの尋問役として配されたKGBの局員ナターリヤ・フェドーワである。この2人の関係は正に恋愛小説の常道で、イギリス古典悲恋劇であるシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を真に踏襲する敵同士の恋愛劇なのだ。
ロシアに潜入したチャーリーをロシアに食い止める楔がナターリヤであり、英国情報部の復帰のために自国へ帰るか、はたまたソ連で得たスパイ学校の講師という役を生活の糧にしてソ連へ留まり、ナターリヤと暮らすか苦悶するチャーリー。

今回の作品の目玉はもう1つある。前にも触れたが、チャーリーがベレンコフの要請により、ソ連のスパイ学校の講師に抜擢され、講義を行うシーンである。
冒頭、刑務所のシーンから始まる本作でのチャーリーはかつて敏腕のスパイであった面影はどこへやら、刑務所連中に溶け込めずにいじける男に過ぎなく、後で入ってきたサンプソンの若さから年取って衰えた自分の肉体に自覚をやむなくされる不甲斐ない男として描かれてき、またソ連に逃亡してからも、英国のスパイ探索に重用されるサンプソンとは対照的に尋問を繰り返される毎日で、異臭のするアパートで陰鬱な毎日を過ごすだけの男だったのが、この講義では実に色めき立つのだ。
いやあ、チャーリー・マフィンという男の敏腕ぶりをフリーマントルはページ狭しとばかりに多種多様に描く。今となってみれば意外性を持たせるある種の常套手段を単に述べただけとも取れるかもしれないが、非常に楽しく読めた。またこのスパイ学校の講義がその後のストーリー展開に重要なファクターとして関わってくるのには、正直、舌を巻いた。

そして上司や権威主義者に対し、常に反抗的な態度を取るチャーリーはその故か、敵国の人物に好かれることになり、またチャーリー自身も自国の人間よりも他国の人物を好きになってしまう傾向がある。それはスパイという職業では通常得られない利害関係を超えた友情や愛情という純粋な部分で触れることになるだろう。
しかし、それが今回では仇になってしまう。これが今後のシリーズ展開にどのような影を落とすのか、非常に気になるところである。

この前の作品『追いつめられた男』でチャーリーはどうやらイタリアで捕まってしまうらしく、この物語はその事件の裁判から幕を開ける。しかし残念な事にその作品は既に絶版で、こっちにも無く、もはや読めることは適わない。
しかしそれでもこの物語が単独で愉しめるという事実に、今後のチャーリー・マフィンシリーズを断続的であっても愉しめる望みが出来たのは嬉しい。ただ、次回はいきなり10年以上もシリーズを飛び越してしまうので、果たして本当に愉しめるかどうか・・・。


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亡命者はモスクワをめざす (新潮文庫)
No.624:
(3pt)

小説未満のミステリ

一尺屋遙シリーズ第4作目。正直、私はこの一尺屋遙という探偵に全く魅力を感じていない。長髪の、ブランド物の服を好んで着る、大分の田舎の農家の息子で花売りのトラックが愛車の、無類の日本茶好き・・・。特徴を持たせようとして、あまりに作りすぎたキャラクターだと思ってしまい、なんだか出来の悪いマンガを読まされているような感じがいつもする。

で、内容はというと、いやあ、これもまた作り物の世界だなぁと悪い意味で思わざるを得ない事件だった。例えば、島田氏の御手洗シリーズはその発想の奇抜さ―奇想―ゆえ、確かに作り物の世界だと思うのだが、その作り物を形成する物語の面白さが読者を惹きつけ、退屈させない。だからこそ、驚天動地の大トリックを披露されても、歓喜こそすれ、落胆する事はないのだ。
しかし、司作品にはその作り物の世界に面白みがないのだ。不可能趣味を形成する諸々の事象が、物語に無理を感じさせるだけになっているのだ。

なぜ、犯人は朱鷺絵に化けなければならないのか?本書の肝と云える水槽密室の、密室にしなければならない意味は?
冒頭の幻想味、事件の奇抜さ、これらを補完する真相があまりに陳腐で、物語の魅力を支えきれていない。推理小説の真相というのは、「なんだ、そんな事か」と思わせるものではなく、「うおっ、そういうことだったのか!」と読者を唸らせるものでなくてはならないのに、謎の特異性のみに腐心して、肝心の真相が腰砕けになっている。これが非常に残念でならない。
そして今回の物語の骨子を支えるのはやはり穂波朱鷺絵という謎めいた女性の存在だろう。事件の全てはこの女性を中心に回っており、作者の意図も、この朱鷺絵という人物に隠されたある特異な性格が本作で訴えたかったテーマだったに違いない。
しかしそれが全く成功していないのだ。
こういった小説作法に関する無頓着さが、私をして司氏の評価を貶めさせているのだ。

そして文章の問題。
前作の『屍蝶の沼』では三人称叙述だったが、このシリーズではワトソン役による一人称叙述に徹するらしく、そのスタイルは変わっていない。で、前作で感じた文章力の向上だが、今作では確かに前3作よりはある程度の味が出てきたものの、やはり物足りない。根本的にこの作家は一人称叙述に向いていないのではないかと思う。
しかもこの作品は純粋な意味で一人称叙述ではない(今までの作品もそうだったが)。登場人物が章ごとに代わるにつれて、三人称になったりもする―そしてその三人称叙述も“神の目”の視点なのに、登場人物の主観的描写が多く、根本的な間違いが多いのだが―。

多分物語の面白さに没頭していれば、こういう粗も全然気にならないのだろう。しかし、ところどころにこの作者の、小説の書き方、物語の語り方に納得がいかないところがあるがために、どうしても瑕として目に付いてしまう。
かなり厳しい事を今まで述べてきたが、やはり金を払って本を買った身としては代価に見合った娯楽は確実に得たい。
もっと精進して欲しい、この作家には。


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悪魔の水槽密室―「金子みすゞ」殺人事件 (光文社文庫)
No.623:
(7pt)

知られざるベストの司作品

今まで読んだ司作品の中で、ベストの1冊。なぜ今までこのような書き方をしなかったのかと首を傾げたくなるぐらいの出来。
今回採用しているのは三人称叙述で、一尺屋シリーズの一人称叙述と違い、文体が格段に進歩していた。同じ三人称叙述の『首切り人魚~』と比べてもその違いは雲泥の差。
今まではストーリーを語るというよりもプロットを語る、つまりパズルを解いているプロセスを説明しているかのような味気ない文章だったが、この作品では、いわゆる「じらし」の手法に磨きがかかり、その抑制した文章には張り詰めた緊張感が一様にあった。

そして物語を彩る登場人物たちも、今までの諸作品には見られなかった個性があった。主人公を務めるしがないルポライターの高野舜と元恋人で「羽室新報」の社員、稲葉菜月の二人と、ほとんどサブキャラクターでしかないが、印象深い上司の松岡を始めとして、一部記憶が無くなるという症状を持つ能面師三村、梨花の担任のサラリーマン教師米沢、幻覚を見るという同級生の間宮弓子、家庭内確執を隠す仮面家族、原嶋一家とその家に勤める家政婦や用務員ともども。今までの作品では単に推理ゲームの駒の1つのようにしか語られなかった登場人物がそれぞれの過去にエピソードを孕ませることで深みを増したように思う。
そして1人の少女の死が、戦後の毒ガス実験に繋がっていくという物語の展開も事件の背後に隠された驚愕の事実という事ではなかなか秀逸だ。

いやあ、とにかくガラッと変わったというのが第一印象だ。
おまけに今回作者目指したホラーと推理の融合という目標は達成していると思う。実際、色が黒ずみ、痙攣を起こし、人相が変形する奇病は恐ろしかったし、羽室町という町が大きなお化け屋敷のように変わっていくのも読みながら手に汗握った。

しかし、しかしである。後半は急ぎ過ぎた。じわじわと雰囲気を盛り上げていった割には最後の真相が駆け足になってしまったようで、なんとも呆気ない。最後もぶつっと切れてしまったような終わり方で、エピローグが欲しかった。
今までの司作品では島田作品ばりのエピローグが特徴的で、時にはお涙頂戴的なそのエピローグが蛇足に感じていたのに、今回は逆にそれがないがために消化不良の感がある。

前にも書いたように今回の文章は別人が書いたかのような出来映えである。が、しかしこれはようやく作品として読むに耐える文章を得たという事に過ぎなく、今からが実質的なスタートラインだろう。次回もレベルを維持している事を期待する。


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屍蝶の沼 (光文社文庫)
司凍季屍蝶の沼 についてのレビュー
No.622:
(4pt)

純粋謎解き物として読めば…

唄う髑髏、白秋の詩に秘められた暗号といったガジェット。衆人環視の中での毒殺事件という不可能犯罪。そして惨劇の舞台は北九州の田舎にある民窯の村で、しかも祖父が愛人を囲い、妻は舌を切られ、原因不明の病に臥せり、腹違いの兄妹たちは遺産相続でいがみ合っている。
つまり扱っている題材は本格ど真ん中であり、舞台設定、トリック共々、申し分ないはずなのだが、やはり物足りない。
小説を読んだというより、長いパズルを解かされたという感慨しか残らないのだ。ここまで来ると呆れるのを通り越して、これこそがこの作者の特徴かと割り切ってしまう。

確かにそれぞれの登場人物には、欲深さとか派手な生活が好きだとか、厭世観を常に抱いているといった性格付けは基より、狭い田舎で繰り広げられる人間関係の罪深い業も設定され、しかもそれにはワトソン役まで一役担わされるのだが、一通りの素材というのは揃っている。しかし、なぜかそれらがストーリーに深みを与えるのではなく、プロットの段階でお披露目しているようにしか思えないのだ。
これほどまでに無個性だと、むしろこの作者は全てが謎解きに寄与する純粋本格推理小説を書くことを目指しているのかもしれない。

前作までは冒頭の幻想的な謎と論理的解決、図解を交えたトリックの種明しといったモチーフから、島田作品の影響をもろに受けていると述べたが、今回は山奥の山村といった閉じられた社会での陰惨な事件、一族の中の確執、唄う髑髏と横溝正史氏の影響が色濃く出ていると思った。
しかしこれら先達と大いに違うのは、物語としての面白さに欠けることだろう。島田氏には島田氏の、横溝氏には横溝氏のテイストという物が確かにあり、それが読書の食指を動かすのである。
司作品は文章にそのテイストという物が無い。心を動かす物語の振り幅が0に等しいのだ。

物語よりもトリックを!といった純粋推理を楽しみたい方には最適の作品だろう。しかし私はといえば、あいにくそれだけでは腹が太らないのである。


さかさ髑髏は三度唄う (講談社文庫)
司凍季さかさ髑髏は三度唄う についてのレビュー
No.621:
(3pt)

蛇遣い座、関係ある?

名探偵一尺屋遙シリーズの本書、オランジュ城館というフランスの城館を舞台にし、見取り図まで付け、しかも冒頭から壁を通り抜けて落下した死体、天を舞う蛇といった島田荘司氏ばりの奇想から幕開け、その後も白髪の狂った老女の登場、飄々とした探偵の登場といった横溝正史の金田一シリーズを髣髴させる幕の開け方、そして城主影平氏の、家電の買い込みと小型トラック1台分の殺虫剤を購入し、庭のあちこちに埋めるといった理解しがたい行動、等々、作者の本作に賭ける並々ならぬ意欲がひしひしと伝わり、正直、「これは!?」といった期待感があったのだが・・・。

真相を読むとどうもアンフェアのオンパレードだという印象が拭えない。
そして最初に起こる殺人事件の真相も実に呆気なく、最終章を迎える前に容易に探偵が種明しをしてしまう。
いや、これはこれでも構わないのだ。その後に起こる事件にもっと魅力があれば。しかし、次に起こる事件は過去に起こった事件と全く同じ物で、読者側にしてみれば同じトリックの使い回しのような感じを受けてしまう。

そして結末は作者の心酔する島田氏の作品に倣うかのように、またもや関係者の手記で幕を閉じる。
もしこの同じ設定を活かして島田氏が書けばどうなるだろうと想像してみる。恐らく、評価は少なくとも星1つは多くなるだろう。私が思うに、この作者には「推理」小説は書けるが推理「小説」は書けないのではないだろうか?つまり、この作者には物語が持つ「熱」を感じないのだ。「熱」とは、物語を読んで、読者が抱く悲哀感、爽快感、高揚感といった物である。これらが一切感じられない。

確かに物語を色濃くするために戦争のどさくさで日本軍が密かに行った物資横流し事件など、単純なパズルゲーム小説には終始していない。それは認めよう。しかし、それが単なる飾りにしかなっていないのだ。島田氏ならば、それ自体が非常に面白い読み物として提供してくれるだろう。ここに作者の力量の差が歴然と出てくるのだ。
奇想を作る才能は感じた。あとはそれに見合う物語力を求める。私は小説を読んでいるのだから。

最後にもう一点。題名の『蛇遣い座の殺人』、最初に出版された時は『蛇つかいの悦楽』という題名だったが、これが全く物語に寄与していない。蛇遣い座は作中では単なるエピソードとしてギリシャ神話の中での成り立ちが語られるだけである。当初、天を舞う大蛇をそのモチーフとして使う意図だったように推測するが、それはほんの末節に過ぎない。こういうところにも小説としてのバランスの悪さを感じてしまうのだ。


▼以下、ネタバレ感想
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蛇遣い座の殺人 (光文社文庫)
司凍季蛇遣い座の殺人 についてのレビュー
No.620:
(4pt)

師匠の壁は厚すぎた

以前住んでいた愛媛の離島を舞台にした作品という事で、期待したが、二時間サスペンスドラマの題材に過ぎない内容でガッカリした。
冒頭の幻想的(?)な謎の提示―首の無い死体が首の代わりに置かれていたマネキンからつかの間の瞬間、髑髏に変わる―、論理的解明、さらには犯人の手記で物語が終わるといった構成は師匠と崇める島田荘司氏の創作作法に則っているのだが、パンチが弱い。

ただし、約240ページの薄さに収められた謎はかなりの量である。先に述べた首の挿げ替えられた謎、同時刻に被害者が20キロ海を隔てた地で目撃されている事、45年前に起きた胴無し死体の謎、骨食らう鬼の正体、更なる首無し殺人事件の発生、といった具合に畳み掛ける。
それを補完するように、戦後の混乱に乗じた御家乗っ取り、閉鎖された離島での因縁深い人間関係、男と女の恋情沙汰なども散りばめられている。しかも主人公の敷島にも小さい頃育った沖縄で米兵と母親との間の苦い思い出のエピソードがあり、キャラクターを印象付けようとしている。
しかし、これらが何か薄い。小説作法の方程式に当て嵌めて、ただ単純に作ったという印象が拭えないのだ。

小説としてのコクはなくとも、じゃあ、謎解き部分はどうだ、というと、これもさほどでもない。確かに色々散りばめられた謎、犯人、どれも私の推理とは違ったが、カタルシスを得られたかというとそうではない。
一番ビックリしたのはいきなり最終章で犯人が犯行について独白し始めた事だ。これは一番嫌な謎解きシーンである。その後の展開から、この犯人は真犯人ではなく、共犯者だという事が解るのだが、はっきり云って興醒めした。このシーンで探偵役の敷島が、単に迷走していただけになってしまったかのような印象を受けた。

この作品も初版はカッパノベルスであり、駅のキオスクで売られるであろう版型である。しかし同じノベルスでも東野作品と比べると、作者の力量の差がいやでも解ってしまう。
酷な云い方だが、ブレイクする作家とそうでない作家の違いが如実に解ってしまうような作品だった。

首なし人魚伝説殺人事件 (光文社文庫)
司凍季首なし人魚伝説殺人事件 についてのレビュー
No.619:
(7pt)

物語が終っても生活は続く

高知の山村、郊外の村を舞台にした短編集で、5編が収められている。

まず表題作の「神祭」と「火鳥」と「隠れ山」の3編は嬉才野村を舞台にした作品。前者は老女由喜の回想譚。畑の物、海の物、山の物を氏神様に捧げて五穀豊穣を願う神祭。とはいえ、親戚一同が会して宴を行うだけの特にこれといって変わり映えのない祭りだったが40年前の神祭で由喜は今も忘れらない事件がある。それは当時男子に恵まれなかった由喜夫婦のために、精がつくと云われる鶏の生血を夫に飲ませようということになり、親戚一同、盛り上がっていた。夫が暴れる鶏を抱え込み、従兄の敬一が首を刎ねたのだが、首の無い鶏はそのまま裏山に飛び込んで消えてしまい、親戚一同で探索するが、見つからないづくだった。その後、由喜は子宝に恵まれたのだったが・・・。
「火鳥」は村にある二畳ほどの広さしかない蔵番小屋に住む未亡人みきの話。その小屋の隣に家を建てて住んでいたみき夫婦はその肉を食べると祟ると云われていた全身真っ赤な鳥ミズヨロロを食べたために火事で家と家族を失ったと専らの噂だった。しかし村の少年竹雄はいつも満ち足りた表情をしているみきを見て、みきが不幸であるとは信じかねるのだった。ある日、竹雄はみきが川で全裸で水浴びをしている所に遭遇する。それは竹雄の性の目覚めであった。それがきっかけでみきと時々交わる事になった竹雄だったが、ある夜、我慢できなくなり、みきに夜這いをかけようとするのだが。
「隠れ山」は北村定一という村役場の課長が突然失踪するという話。家庭菜園と亡き母の墓の世話を唯一の趣味にしている何の特徴の無いこの男らしく、いつものようにふらっと出掛けたまま、それっきり帰らなくなってしまったのだった。村の消防団で山中を捜索するが、どこそこで見たという噂があるだけで、その行方は杳として知れなかった。しかし、失踪1ヵ月後、頭から血を流して佇む定一の姿を見たという人物が現れる。しかし、それは北村定一という男がその後、繰り返す奇行の始まりでしか過ぎなかった。

4編目の「紙の町」は嬉才野村の近くにある白糸町を舞台にし、そこに住む知恵遅れの老女ヒサの一日の散策とそれに伴う生い立ちの回想譚。
最後の「祭りの記憶」は戦後10年目のよさこい祭りで起きた外国人殺害事件を扱った作品。外国人の殺害事件が起こった祭りのとき、田宮良則は現場の近くに居た。その時、不意にすれ違った恍惚な表情を浮かべた若者の顔に見覚えがあった。記憶を辿り、それがかつての教え子村上卓雄だと気付く。隠居前、蓮浜で学校の先生をしていた田宮は当時大人しく、これといって特徴の無かった卓雄が犯人ではないかと思い、蓮浜へ赴く。当時と変わりの無い街並みを歩きつつ、かつての教え子やその親たちと邂逅しながらも当の卓雄には逢えないのだった。数日後、はりまや橋の料亭で働く卓雄の母親を訪れたその足で再び蓮浜を訪れた田宮が見たものは・・・。

土俗ホラー作家として名高い坂東氏だが、本短編集ではホラー色がでているのは最後の「祭りの記憶」ぐらいで、その他は日本昔話や「世にも奇妙な物語」を髣髴させる御伽噺とか「奇妙な味」作品群である。
今までの短編集もそうだが、30~40ページ前後の短編とは云え、その濃厚な筆致は全く薄まっていない。逆に時にどぎつさを感じさせられる情念は成りを潜めている分、その文章は洗練された印象が強い。

5編とも外れはなく、どれも読み応え十分。表題作の首の無い鶏のアイデア、「火鳥」の南国を舞台にした少年の性の目覚めとギラギラした情欲の話、「紙の町」の知恵遅れの女ヒサが辿ってきた人生譚、「祭りの記憶」の引退した教師が遭遇する蓮浜という一見善良な町民が行ったある秘密、等々非常にコクがある。
そして個人的なベスト作品は「隠れ山」。何の特徴もない公務員の男があるとき、ふらっと失踪する。その発端自体は決して珍しい物ではないが、その後の展開に着想の冴えが光る。その定一が出くわした人々に当たるとも遠からずの町民の噂話をしては山へ帰っていくというのが面白い。それが町の混乱を引き起こすのだが、そこでカタストロフィが訪れるのではなく、それをありのままに受け入れる村社会の、懐の深さというか、暢気さが非常にいいのだ。

そして坂東作品に通底する人の起こす物事は性の衝動に起因するという考えはここでも常に述べられており、特に知恵遅れのヒサの口を通して語られる、「下半身にいる別の生き物」や「昼と夜とでは人は変わる」といった表現は痛烈である。
そしてこれらの話は全て何かが解決するわけでもなく、物事は起こった後も、そのまま秘密のままに残される。本格ミステリとは対極に位置するが、これもまたミステリ。謎は謎のままなのが世の常なのだ。

初期の『死国』、『狗神』、『蛇鏡』、『桃色浄土』、『山妣』、そして短編集の『屍の聲』などでは、それぞれの人が抱える人間の業が情念の渦となり、最後の最後にカタストロフィとして、それぞれに人生の終焉や無限に続く不幸を投げかけるといった作風だったが、先の『葛橋』や『道祖土家の猿嫁』以降、本作も含め、物事が起こるが、それで皆が不幸を迎えたり、生活が破綻するではなく、その後も人の営みは続くのだという風に変わっている。これはもちろん創作者としての成熟もあるのだろうが、当時タヒチに在住する著者が異国で体験する事も関係しているのかもしれない。

神祭 (角川文庫)
坂東眞砂子神祭 についてのレビュー