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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
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いつもと変らぬ日が続くものと思っていた矢先の突然の異常事態。
今回のクーンツは怪物が登場するわけでもない、超能力を持った人間が出るわけでもなく、妻の誘拐という日常を襲う突然の凶事をテーマにしているので、逆にいつも以上に逼迫感があった。 クーンツは導入部が巧いとよく云われるが今回もその評判にたがわぬ求心力を持っている。いきなりの誘拐犯からの電話から始まり、そして街を歩いていた人がいきなり撃たれて死亡する。そして現れた警察は明らかに自分を疑っている。のっけからどんどん主人公を追い込んでいく。 そして兄から明かされる誘拐事件の真相。一介の庭師に訪れた凶事が実は犯罪に手を染めていた兄に起因しているとは。しかも偏狂的な教育者の両親に育てられ、半ば性格を歪められた兄弟の中でも優秀で人を惹きつける魅力溢れた兄その人が実は狂える犯罪者だったという事実。ここら辺の畳み掛けはクーンツのもはや独壇場だろう。よくこんな設定思いついたものだと感心した。 その後も主人公ミッチェルは息つく暇もないほど追い詰められる。手の汚れた資産家によって、離れた荒野に連れられ、始末されそうになったり、尊敬していた兄に打ち勝ち、金を得るも、その直前でタガートの訪問を受け、気絶させたり、そしてそのために警察に追われたり、逃亡の際に車を盗もうとしたのがばれて、警察に包囲網を敷かれたりと色んな仕掛けを用意してくれる。 ここまで主人公を窮地に追い詰めながらも、常に物語はハッピーエンドに締めるのがクーンツの特徴なのだが、今回はその物語の収束の仕方があからさまに唐突だったのにビックリした。 奥付を見ると2006年の作品であるから新作であるのには間違いないのだが、この飛躍的な物語の決着のつけ方はかつてのクーンツの悪い癖を彷彿させた。アメリカを代表する作家のやる仕事ではないのではないかと率直に思う。 今回の作品の底に流れているのは、人は愛のためにどこまで出来るのかというテーマだ。物語も大きく3章に分かれており、それぞれ「愛のために何をするか」、「愛のために死ねるか。人を殺せるか」、「死がふたりを分かつまで」という風に愛を至上としてどこまで自己犠牲出来るかと謳っている。 そして今作品のタイトル『ハズバンド』に込められているのは、妻が愛の誓いを立てた者は夫のみなのだという思いだ。これは結婚式によくある誓いの言葉なのだが、これを単なる台詞でなく、主人公の行動の原動力としているところがすごい。あんな常套句を元にこういう物語を考えるのだから、それはそれでクーンツの非凡なところなんだろうけど。 とどのつまり、ひっくり返せば本作においては愛の名の下では、何をやっても許されるのだと開き直っている感じがしないでもない。だから最後に物語を剛腕でねじ伏せたのか。それともこれはクーンツが実の妻に宛てたラヴレターの一種なのか。う~ん、変に勘ぐってしまうなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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なんとカー作品で怪盗物が読めるとは思わなかった。しかもその怪盗が実に変っている。銃を携帯しているが人は殺さず、唯一2人だけ怪我を負わせた程度。そして最たる特徴は猿の顔の意匠がついた鉄の箱を常に携えているというのだ。
そして本作の謎はこの怪盗アイアン・チェストが何者なのか、そしてコリアーがほんの数秒の間にどうやって鉄の箱とダイヤ原石の山を部屋から消したのかが焦点となっている。 今回のカーはかなりフェアプレイに徹したと思う。文章をよく読めば、アイアン・チェストの正体は解るし―実際、2人に絞っていたが最後の対決シーンで私も解った―、そこから最後に明かされる鉄の箱の真相もなるほどと納得が行くのである。 しかし、それでもやはり怪盗が嵩張る鉄の箱を携えているという設定には無理を感じる。HM卿はそれを怪盗の顔を忘れさせるためのガジェットだと論じているが、盗みに入る者が逆にそんな目立つ物を持ってくるだろうか?ただでさえ、帰りには盗品という荷物が加わるのに。こう考えていくと、本作ではまず鉄の箱のトリックが先にあったのではないかと思う。これを利用したいがために怪盗物の物語を肉付けしたのではないかと思えるのだ。実際、本作においてこの鉄の箱消失トリックはなかなかに面白く、そしてカー以外、考え付かないだろうというバカバカしさも孕んでいるのだ。 今回の物語の舞台はタンジールという北アフリカの国(市?)であり、ここではスペイン語、フランス語、アラビア語が公用語として使われている。英語は教育を受けた人たちでもわずかでしか喋る事が出来ないところであり、警視総監のデュロック大佐の勘違い英語も本作におけるギャグの1つになっている。 そしてHM卿の登場シーンは回を重ねる毎に派手になり、しかもよりドタバタコメディの度合いを強めているが、今回は本当に傑作!なんせお忍びで来たはずの―しかもハーバート・モリソンなる偽名まで使って!―訪れた旅先で、一国の大統領差ながらの手厚いセレモニー付きのお迎えと遭遇するのだから抱腹絶倒ものだ!しかもこれが事件の一連の捜査に密接に関わっているのだから、驚きだ。いやはやカーの隙のない演出に感嘆してしまった。 そしてこの異国の地において、HM卿は新たな一面、いや二面、三面を見せてくれる。まずは出鱈目なアラビア語を駆使してムーア人の心を摑むだけでなく、アラビア人の扮装をして、聖者さながら輿に乗って街を練り歩く。更には暗闇から襲い掛かるアラビア人の刺客を身軽に交わし、何の躊躇もなく、喉を掻っ捌くし、ボクシングの野試合ではレフェリーをも演じると、今まで観たことも、聞いたこともない設定が続々と登場する。特に本作においては従来の滑稽なデブのおっさんではなく、数々の修羅場を潜り抜けた百戦錬磨の人物として描かれている。 今まで述べたように、本作ではHM卿の色々な面を見せつつ、密室からの大きな鉄の箱の消失とたくさんのアイデアが放り込まれているのだが、総じて考えるとやはり全体のバランスに欠いているように感じる。それは前にも述べた怪盗が鉄の箱を携えて盗みに入るという設定に非常に無理を感じるのだ。 更に加えてこの題名。題名に書かれている赤い鎧戸とは怪盗の相棒コリアーがタンジールで借りた部屋の目印として宿主に塗らした鎧戸のことだ。この影で行われた事が謎の中心だとカー自身、断っているのだろうが、ちょっとそぐわない感じがする。 それも含めて考えると本作はやはり佳作の域を出ないだろう。 |
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いやあ、いいね、この世界観。大友克洋氏の『アキラ』に通ずるものがある。
谷氏のSF小説は初めて読んだが、実に躍動感があり、物語世界の構築がしっかりしている。山岳冒険小説よりもこちらの方が好みだ。映像化するなら押尾学、マンガ化するなら、士郎政宗氏か先に挙げた大友克洋氏あたりだろう。 何よりも登場人物が非常に魅力的だ。 男から性転換したエリコを筆頭に、類い稀なる怪力を誇るエリコの幼馴染みでルームメイトの女、胡蝶蘭(カチョーラス)。20世紀から生きているという噂のある情報屋、源爺。姑との軋轢であえて老婆に変る手術を受けた30歳の“老婆”、咲夜姫。長髪で中性的な容貌を持ちながらも、強引な捜査で危険の香りを漂わせる刑事、愛甲ヨハネ(これはいささか少女マンガ趣味ともいえるが)。エリコのクローンでありながら、残虐な貌とかつての弱かった男性時代の性格を併せ持った慧人ことワイレン。倒錯性交ショーの司会者でありながら、エリコを支援しつつ、寺尾医師との愛に身を投じるミズ・ヤンことシャオチン。風体の上がらぬ風貌で、ぼやきを呟きながらも警察たちを出し抜く探偵、棚橋。 彼らに加え、動物の組織を埋め込む違法な手術を受けた改造人間(フリークス)が横行する。サイの角と怪力を移植された一角獣。犬の鼻と脳を移植された殺し屋、などなど。 そして舞台は大阪、上海、東京から月面研究都市クラヴィウスと移っていく。 谷氏の描く未来像は派手派手しくなく、淡々と描写するからすっと頭に入っていくように感じた。月面へ降り立つシーンからクラヴィウスの景観など、よくある作者独自の逞しい想像力で構築した未来テクノロジー理論を熱く語り、どうだ、すごいだろうといわんばかりに読者をその世界観に引き入れようといった肩肘張った印象がなく、そこにあるかの如く語る筆致には好感が持てた。これは数多存在する少し先の未来を描いた映像が横行しているおかげなのか、それとももはやここに書かれていることが絵空事でなく、そう遠くない未来であるように認識できているからかもしれないが。 この物語において一番意表を突かれたのは主人公エリコ、その人だ。男から性転換した娼婦という設定ならば、通常は美人でありながら腕っぷしも立つ、そう田中芳樹氏のシリーズキャラクター、薬師寺涼子のようなイメージを抱いていたが、谷氏はあえて逆を行った。北沢慧人という男でありながら女性として生きる道を選んだエリコは、虐げられていたひ弱な過去と、どこか自分が普通とは違う違和感に対して正直に向き合った結果であり、女性となり、類い稀なる美貌と絶妙なプロポーションを持ちながらも、逆に元男ということで美女に対して引け目を感じるようになっているのだった。 なるほど、そういえばそうなのかも知れない。男として劣っている事を認め、女性になる事を決意したエリコはいわば、逃避者なのだ。 そして見た目も心も女でありながらも、やはり女ではないことに時折気付かされ、心を痛める。その痛めた心を癒す拠り所は男勝りの腕力を誇る女性、胡蝶蘭の豊満な胸の中に抱かれるその時なのだ。これこそエリコの不完全さを表している。女性でありながらも女性の母性を求める、このアンバランスさはどうだろうか。 谷氏はあえてエリコを強いキャラクターとして描いていない。元男でありながらも華奢なその体はあらゆる敵から自分の身を守る術を知らない。胡蝶蘭、愛甲ヨハネ、シャオチン、棚橋らの助けがなければ全然苦難を乗越えられないのだ。 しかし、物語の終盤、エリコは自分が完全に女性になった事に気づく事で強さを得る。それは正に「母は強し」ともいうべき、精神的強さだ。男が完全に男を捨て去った時に強くなる。本書はエリコにこういう設定を持ってきたことが非常に特徴的なのである。 そして物語の後半に現れる巨敵、弘田という政治家。極端な選民主義者であり、他者を自分の野望を達成するための道具としてしか見ない男―家族までもだ!―。その男が唱えるスローガンに美しい日本人を目指すというのがあり、非常によく似た人がいることに気付き、苦笑した。1999年に書かれた本書において谷氏はこういう政治家が数年後に出てくることを予想していたかのようだ。 最後に、本書に出てくる「クラヴィウス事例」なる設定について。 端的に述べれば、月面都市に移住した各国の子供たちの中で突出した才能を発揮し、リーダーシップと執るのが日本人だというのがこの事例の内容だが、これはなかなかに面白い。過去の歴史と現在の世界を振り返れば、世界に散らばり、成功しているのはユダヤ人と華僑と云われる中国人であるのだが、ここで敢えて谷氏は月面で力を発揮するのは日本人とした。 私はこの設定を読んだ時に、ある話を思い出した。日本人というのは西から流れて最後に極東の地に辿り着く事が出来た民族だから強いのだという説があるそうだ。山岳登山家でもある谷氏がたびたび極限状態に陥ったときに垣間見た日本人の粘りとか強さなどもこの設定には反映されているのかもしれない。 |
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山岳冒険小説、SF小説の旗手、谷甲州が手がけたホラー短編集。山岳小説をモチーフにしたもの、SFをモチーフにしたものもあるが、この作者には珍しく、日常を舞台にしたものが多かった。
まず作者お得意の山岳やネパールを舞台にしたのが「背筋の冷たくなる話」と「猿神(ハヌマン)」。前者は雪山登山中に雪洞で一夜を過ごす事になった2人の男が怪異譚を語るうちにある物が現れてくる話で、後者はネパールの辺境の村を訪れた男が遭遇する奇妙な風習に男自身が狂気に囚われてしまう話。後者はネパールに伝わる猿神伝説も織り込まれて宗教を題材する作者ならではの短編。 その他はいわゆる純然たるホラー。妊娠や恋愛、または家庭や親族のしきたりなど家族をモチーフにしたものが多い。それらに土俗的な風習や呪いを絡ませてホラーに仕上げているのが目立つ。 特に「武子」は、「武子」と書いて「たけし」と読む名前を与えられた男の日常で困った事の話から、意外な方向へと進む構成は思いもよらない展開だった。 収録作の中では「鏡像」と「三人の小人と四番目の針」が個人的には評価が高い。 まず「鏡像」は恐らく誰もが子供の頃に抱いた鏡の向こうには鏡の世界があるといった原初体験を扱っているのが面白い。 「三人の小人と四番目の針」はよくもまあ、こういうことを考えたものだと感心した。時計の針をそれぞれ家族構成に当て嵌め、語る様は非常にしっくり来ていて面白かった。大人の夜の営みさえも時計の針の動きに擬えるのには笑ったが、そこから最後にぞくりと来るオチに持ってくるのがなかなか上手いと思った。 その他短編というよりはショートショートになる「おとぎ話」、タダ電話を掛ける男に降りかかる都市伝説のような出来事「制裁」―しかしこの中で堂々とNTTという実在の会社名を出しているのにびっくりしたが―が面白かった。 この前に読んだ井上氏の短編集『あくむ』がどこか歪に物語を閉じるのとは違い、谷氏の短編はどれもきちんと閉じられる。 しかしそれ以上に谷氏が山岳冒険小説やSF小説だけじゃなく、こんなのも書けるぞ!と高らかに唱え、証明した事が本短編集における収穫だろう。特に子供を主人公に書かせるとこんなに面白い物が出来るのかと驚いた。この路線の作品ももっと読みたいと思った次第だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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幻聴、幻視、白昼夢、幻覚、正夢といった5つの“悪夢”を集めた短編集。
冒頭の「ホワイトノイズ」はエアバンド・レシーバーという電波傍受機器を購入したぼくが盗聴を繰り返すうちにやがて柳原美嶺子という名の女性が浮気相手からの執拗な電話に困っている会話を傍受し、美嶺子を助けようと一大決心をするが・・・といった話。 次の「ブラックライト」は交通事故に遭った画家が、入院に見せかけた誘拐ではないかと疑い、脱出を試みる話。 吸血鬼を主人公に据えた「ブルーブラッド」は数学教師として普通の人間として暮らす野津原は、血を吸いたいという欲望を夢の中でのみ満たしていたが、同僚の女性教師とデートする長い夢を見るうちに現実と区別がつかなくなるといった話。 「ゴールデンケージ」は財閥の御曹司のエリートの兄と不良の弟を主人公に据えた話。 そして最後の「インビジブルドリーム」はエキストラで日銭を稼ぐ劇団員のカップルに訪れた奇妙な出来事を語る。それは相手の見た夢が正夢となって男に降りかかるのだった。次第にそれはエスカレートしだし・・・。 それぞれの短編はヴァラエティに富んでおり、作者が終始ホラーに徹したのが軸がぶれずによかった。しかし、内容はホラーというよりも“奇妙な味”といった方が正確だろうか。作者の用意した結末やストーリー展開はどこか歪だ。 というのもここに収められた短編の主人公全てが自らに起こった錯覚に対して自覚的ではない。夢や幻覚であることを認めない、もしくは逆に悪い現実を悪夢としてしか認めないのだ。だから作品は全てどこか夢心地のまま、終わる。 特に「ゴールデンケージ」の結末はなんともいえない後味の悪さが残る。 出来のよい兄と不良の弟のよくある設定を据え、不良の弟を主人公に据えながら物語が展開するかと思いきや、一転してエリートの賢介のストーリーが始まる。物語はこの兄に訪れる幻覚がメインなのだが、導入部に据えられたナイフで自傷する血まみれの兄の真相よりもそれがもたらす兄弟たちへの影響が残酷。救いようがないとは正にこのことだ。この作品に本書のタイトル「あくむ」が象徴的に表れているように感じた。 各5編のうち、ベストは「ブルーブラッド」か。いきなり導入部から自身が吸血鬼である事を明かしている事で、その設定を受け入れやすかったのも一因だが、何よりも夢として語られる女性教師とのデートシーンがかつての自分を思い出させ、むずむずするやらワクワクするやらで非常に面白かった。とはいえ、本書のタイトルの方向性を違えることなく、結末は悲劇的なのだが・・・。 「インビジブルドリーム」も設定自体は面白いが、最後の最後で不条理小説になってしまったところに戸惑いを覚えた。 こういったことからも作者の拵えた設定・世界にノレるかノレないかで評価が分かれる作品集だろう。私は五分五分といったところだろうか。 |
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『遥かなり神々の座』から6年。再び滝沢育夫が還ってきた。
しかし、前作の滝沢の人物像と今回のそれとはなんだか異なる印象を受けた。 まず、とにかく冗長というのが上巻を読んだ時の印象だった。 前作『遥かなり神々の座』では一流の登山家からチベット・ゲリラの参謀ニマと共に死線を潜り抜けた事で一人の戦士となった滝沢。しかし、本書では人生の敗北者となってうじうじした男の独り言が繰り返されるようなストーリー展開。特に導入部となっているアイガー北壁登攀の一部始終が意外に長く、また川原摩耶との再会もかなりの筆を費やしてそこに至るまでの経緯が語られている。 小説というのは足し算と引き算のバランスが肝心である。作者が語りたい事を緻密に語り、それがまた読者を未知なる世界へと導き、興趣をそそる訳だが、一方で物語としてのバランス、小説世界内の時間経過に対する匙加減も大事である。 熱く語るべきところは厚く叙述し、かつ物語の進行を円滑にするために読者の想像で補えるところは削ぎ落とす、これが私の云う足し算と引き算なのだが、本書においては、導入部のアイガー北壁登攀はもとより、スイスからネパールへ至るまでの道中、そしてネパールからチベットまで至る道中、これら全てが詳細・緻密に語られているがために、非常に冗長な印象を受けた。 これらは恐らく全て作者の実地体験に基づいているのだろうが、とにかく知っている事全てを語りたいという思いが強すぎて、非常に物語のバランスが悪い。各新人賞に規定枚数があるのも、こういった取捨選択の技術が作家には必要だという事を示しているのだろうから、そういった意味ではこの作品をもし各新人賞へ応募しても規定枚数超過で落とされるだろう。つまり、私にはそれほど無駄が多いなと感じたのだ。 そして今回煮え切らないのが滝沢が頻繁に見せる優柔不断さ。冒頭から導入部にかけての自分のこれからの人生の身の置き所を探すような彷徨、そして摩耶の再会を渇望するが故の焦りからその都度、思いくれ惑う様は納得できるが、しかし滝沢は終始迷うのだ。 ようやく迷いが抜けるのはクライマックスのチョモランマ登攀において戻るかそのまま進むかを選択するところ。しかもそれにはリンポチェの助言無くては出来なかった。 終始、迷う滝沢に関して、私はかなり違和感を覚えた。というのも前作では一流のクライマーとして描かれていた彼なのに、今回ではことごとく方針を変え、そのために仲間を死に至らしめ、そしてまた迷う。この繰り返しだからだ。前作とは別人のような気がした。 しかし、次第に、山を登る事はこういう迷いの連続なのだなという思いが私の中に芽生え出した。一流のクライマーといえども、相手は自然。これが正しいといった方程式はないのだ。 しかも判断を誤ると、自分だけでなく他人の命をも亡くしてしまうのだから、その選択はかなりの重責だろう。そういった意味では前作がニマという教師を得て兵士として覚醒する滝沢を描き、純粋に冒険小説を描いたのに対し、今回は登山家滝沢としてのその心中にまで深く踏み込んで描いたともいえる。 しかし、個人的にはリンポチェのキャラクターに惹かれるものがあった。三人称描写とはいえ、滝沢の行動を通して語られる本書において、彼と別行動をするリンポチェのシーンが少ないのは仕方ないのだろうが、私としては逆に滝沢がこの出逢いを通しての変化を期待したのだが、それが最後の決断だけに留まったのが残念だった。 山岳小説、冒険小説、その両方を兼ね備えた本書。 しかし滝沢のスイスからカトマンドゥ、ネパール国内の摩耶探索行、そこから国境近くでのリンポチェの探索行、中国軍からの逃亡行、テムジン隊との合流行から再度リンポチェたちの救出行、そして再度リンポチェたちとの合流行からチョモランマを越えての越境行と、今回は滝沢の旅程小説といった方がしっくり来るようだ。しかもそのほとんどが自らの足で歩いたものである。だから小説全体を漂うのは滝沢と摩耶の苦行僧のような道行きの描写の連続。つまり何度も同じ話を読まされたような気がしてならない。 前にも述べたが、この辺の足し算・引き算を上手くすれば、これほどの枚数も必要なく、くどく感じなかったのではないか。しかし、その苦痛こそが作者の語りたかった事の1つであるのなら、致し方ないのだが。 |
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久々に真っ当なハードボイルド小説を読んだ気がした。
香納諒一氏デビュー作の本書はハードボイルド小説を書く事に真摯に向き合っている姿勢が感じられ、作者の作家になることに対する並々ならぬ決意という物を感じた。 第1作目にして、作者は結構複雑なプロットを用意している。暴力団の影がちらつく余命幾許も無い老人の頼みとその老人が記録上、シベリア抑留者の死亡者リストに上がっていること、老人が何故麻薬と金を持ち逃げしたのか、逃亡する老人を複数の暴力団のみならず、ロシア人もなぜ追いかけるのか、などなどなかなか読ませる。 物語の進め方も一つ一つ手掛かりが解るたびに更に謎と新たな関係者が登場し、事件の裾野がどんどん広がっていく構成になっており、飽きさせない。 そしてこの作者の魅力として、しっかりとした描写力と人物像の造形深さが挙げられる。主人公碇田の一人称描写で語られる本書において視線のブレがなく、また時折挟まれる自然描写の雅さなど、物語を形成する風景についても筆を緩める事がない。一つ一つの言葉を慎重に選んでいるのが実によく判る。 そして魅力ある登場人物の数々。付き添いの看護婦の弥生、悪友ともいうべき安本兄弟の兄、兵庫県警の綿貫刑事、敵役の恩田庄一など、それぞれに癖があり、物語に膨らみを与えている。 特に碇田の敵役である安本兄弟の兄と恩田のキャラクターが際立っている。河合組側の人間、安本と敵対する森田組側の人間、恩田。しかし、その2人は吉野老人を中心に動いており、それぞれが違った形で主人公碇田をサポートする(いや正確には、サポートを余儀なくされるのだが)。この辺の敵味方が入り乱れる構成がそれぞれのキャラクターを惹き立てる事に成功している。 さて、結局のところ、本作は『血の収穫』を思わせる構成となっている。 『血の収穫』といえば、ハードボイルドの始祖ダシール・ハメットの代表作である。このことからも作者が、自分はハードボイルド作家としてこれからやっていくのだと宣言している風にも取れる。俺はこういう小説が書きたいのだ!と声高に叫ぶ声が聞こえてくるかのようだ。 傑作とはまで行かないまでも佳作であることは確か。語弊があるように聞こえるだろうが、正に典型的なハードボイルド小説、プライヴェート・アイ小説である。 しかし、これがデビュー作であるのならば上出来の部類だろう。この時、作者香納諒一氏30歳か。また一人応援したくなる作家が出来てしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東京創元社のコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ以外の隠れた短編を集めた傑作集もこれで3冊目。
しかし前巻が出たのが2004年の12月であるから2年半後の刊行である。正直なところ、発行部数が伸び悩んで打ち切りになったと思っていた。 1,2巻は以前読んだ新潮文庫の傑作集と重複する物もあったが、本作に収められた5作の中短編は手元にそれらの文庫が無いのではっきりしないが、記憶に残っている限り、初めて読む作品群だ。 今回の中短編にはある一貫したテーマがある。それはアジアを中心とした諸国に古くから信仰されている古代宗教に伝わる呪術をモチーフにした怪異譚であること。 まず冒頭の「競売ナンバー二四九」はオックスフォード大学近くにある下宿屋に住む学生の1人がエジプトで発掘したミイラをある秘法によって操る話。 次の「トトの指輪」は不死の能力を手に入れた古代エジプト人が永遠の死を模索する話。 「血の石の秘儀」はイギリスはウェールズの山奥の村である夫婦が体験したドルイド教の生贄の儀式の話で、続く「茶色い手」は彷徨えるインド人の霊魂の話。最後の表題作はインド高僧を殺害したかどで夜毎死の恐怖に怯えるイギリス将校の話。 上記に述べたようにこれら作品に使われているモチーフは21世紀のこの世においてもはや手垢のついたテーマ以外何物でもない。実際、読後した今、これらを読んだ事で新たなる驚き、衝撃が走るような物は1つも無かった。 しかし、これら中短編群はドイルという作家の一側面を語るのに貴重である事は確かだ。 この中に語られている古代宗教に対するドイルの考察は19世紀後半当時、かなり刺激的ではなかったのではないだろうか?特に欧米人にとって未知の領域とされていたエジプト文化、インドのヒンドゥー教に関する記述に関してはかなり詳細に記載され、それを怪異譚に結びつけ、作品へと結実したところにドイルという作家の価値があると思う。 特に最後200ページ弱の分量で以って語られる表題作「クルンバーの謎」は将校が何に怯えて堅牢な城郭を拵えるのかという物語の主題よりもその物語を飾り立てるインド宗教に関する薀蓄の詳細さに驚いた。しかも本作では他の作品が怪異を怪異のままで終わらせているのに対し、何故そのような怪異が起こりえたのかを当時得られたであろう最高の研究成果を基に叙述している。それがこの物語の成功に寄与しているか否かは別として、この中身の精緻さはドイルが如何にこの分野に興味を深く示し、また造詣が深かったかを表している。 そういえば晩年のドイルは心霊学に傾倒し、神秘研究に没頭していたと聞く。何年か前にフェイクである事が発覚したコティングリー村の妖精騒動もドイルがその信憑性を補完する発言を行ったことでつい最近まで真実だと信じられていた。そういった背景も考えるとやはりドイルは古代宗教の研究においても権威であり、当時この作品群は読者たちの注目を集め、またドイルの名を高める一助になっていたに違いない。 2巻目までの感想は単なるコレクターアイテムとしてこの作品に付き合っていこうというぐらいの気持ちでしかなかったが、本作を読むとなかなか面白いし、まだまだドイルの未読作品も捨てた物ではないなと感じた。出版元の東京創元社には根気よくシリーズの刊行を続けて欲しいものだ。 |
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スケルトン探偵ギデオン・オリヴァー・シリーズ12作目の本作は従来のシリーズキャラクターである妻のジュリーはもとより、FBI捜査官でギデオンの友人であるジョン・ロウも登場する。
このシリーズにおいて一ファン、一読者として期待するのは新たなシリーズ展開だとか転機だとかではなく、いつもように骨に纏わる出来事が発生し、それにギデオンが関わる事で意外な事実が発覚していくというマンネリズムだ。このマンネリズムこそ、本作が安心して読めるシリーズ物の王道である事を表しているといえる。 今回の舞台はハワイのハワイ島。確か以前にも舞台になっていた記憶がある(『楽園の骨』だったかな?)。ハワイの地で牧場を始め、一財を成したスウェーデン移民の子孫の間に残された遺産問題が今回のテーマになっている。 前作『骨の島』の時には骨を検証する事の必然性と事件との関係が乖離しているかのような印象を受けたが、今回はそれは解消されていたものの、かつての作品に見られた骨から解る事実は過去の事件を疑うきっかけとなっているだけで、メインではない。まあ、骨をテーマにした本作であるからネタにも限界があるのだろう。シリーズ物の宿命として受け止めるしかない。 本作は年末に行われる各誌のベストテンやオールタイムベストに挙げられるような派手さのある作品ではない。 しかし、一読者としては前にも述べたように、このマンネリズムが心地よいのだ。出版社が刊行を止めない限り、私は読み続けていこうと思う。 |
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山岳小説、そしてSF小説を得意とする谷氏が書いた歴史小説。
扱われる時代は日露戦争終了間もない頃。日本が軍事色を色濃く出していた頃の3人の元軍人らが満州、ロシアを股にかけて時代の荒波に揉まれていく姿を描く。 雪山での熊の格闘から日本軍人がロシア討伐の予備工作としてロシアに潜入し、叛乱分子を煽動させようとするスパイ活動、極寒の中の逃亡劇に、狂気を湛えた男の追走劇、これらの要素を約600ページの本書にぎっしり詰め込んだ本書は、その内容についても仔細を極め、濃い味付けが成されている。 しかし、坂東眞砂子氏の『山妣』を読んでいなかったら、冒頭に展開する美川とマタギの佐七による熊ミナシロの狩猟劇はかなり楽しめたものだろう。またマタギの佐七が狩猟中に美川に教えるマタギの流儀も『山妣』より詳しく、しかもかなり興味深い話ばかりだった。 しかし、物語の熱量としては『山妣』の方が上。そしてプロローグで登場する日露戦争のワンシーンに登場する各登場人物が運命の糸に絡められるかの如く、彼の地満州で邂逅するのも面白いのだが、こういった人間関係の皮肉な繋がりでさえも業の深さを感じさせる坂東作品の方が印象強く残っており、足枷になった。 とはいえ、これはかなりの力作であるのは間違いない。極寒の山中での狩り、列車襲撃シーン、逃亡劇などはこの作者の十八番で、その寒さを肌身に感じさせられるものがある。 しかし、なぜか煮え切らない。 それは恐らく、美川の宿敵と想定された庄蔵の役割があまり物語に寄与していないからだ。武藤を中心に語られる本書では、むしろ美川と庄蔵との因縁対決はエピソードの1つという地位にまで落ちてしまっている。 その自己中心的で傲岸不遜、自己顕示欲の強い庄蔵というキャラクターを本作では十分に活かしきれていない。それは最後の決着のつけ方があまりに一方的に終わっている事からして明らかだし、作中時折挟まれる庄蔵の追跡行は笑劇の体すら漂わせている。 恐らく作者は美川と庄蔵の対決よりも書いていくうちに武藤の話の方に興味が移ってしまったのではないだろうか。『遥かなり神々の座』で息詰まるほどの、身が凍えるほどの緊張感を湛えた追走劇を提供してくれた谷氏だけにちょっと興趣が削がれた思いがした。 上にも述べているように、色々な趣向が凝らされた本書が力作である事を重ねて断言しよう。 しかしなぜか意外にも残る物がないのだ。まあ、こんな時もあるのだろう、不思議な事だが。 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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2作目のジンクスという言葉がある。
本作は真保氏にとって江戸川乱歩賞受賞後の第1作、つまり第2作となるのだが、そのジンクスを跳ね返すべく、彼が並々ならぬ精力を本作に注いだのが冒頭から滲み出ている。 まず本作のメインであるマニラでのODA大規模プロジェクトの内偵に主人公伊田が関わる経緯からして非常にミステリアスであり、読ませる。100ページ以上費やして語られる導入部はぐいぐいと興味を引っ張り、ページを繰る手が止められない面白さだ。 そこから展開するマニラでの日本建設業界への潜入捜査、マニラを含め、フィリピン各所で繰り広げられる追跡行を読むに当たって、よくもまあ、これほど詳細に書けるものだと感心することしきりだ。真保氏の取材力の緻密さには定評があるが、確かにこれはすごい! まず、空港を降り立ってホテルにチェックインするまでの流れは私が今まで何度も経験したその動きをそのまま投影しているかのようだ。しかも建設業界の内幕の様子もさることながら、フィリピンでのビジネスについても作者は熟知しており、終始ニヤリとするとともに、感嘆を禁じえなかった。 そして主人公やその他登場人物が縦横無尽に行動するフィリピンのマニラの街並みの描写も詳細を極めているが、スールーとかバギオなどの通常日本人が行かないようなところにまで踏み込んで舞台にしているところが、単純に小説に使うという名目で作者がフィリピンへ観光旅行したのではなく、明らかに明確な意図を持って入念に取材した事が窺え、この作者の作品に向かう誠実さを感じさせられた。 これがまだ2作めだというのだから恐ろしい。 そしてこの本を読むタイミングというのもまた良かった。建設業界の談合話に加え、小説の舞台がマニラ。これは今現在フィリピンに滞在する私に対し、今読め!と云っているようなものである。 しかし、それでも本作は星10を手放しで与えようとするとどうしても抵抗があるのだ。 それはテーマと中で扱われている内容にどうしようもない乖離を感じたからだ。 私は冒頭のプロローグから第一部の展開までの物語の流れを読んで、愚直なまでに自らの仕事に対して正直な男の復活劇だと期待した。それは一度閑職に追いやられた男が公正取引委員会という仕事が世に蔓延る不正を正し、悪の芽を詰む物だということを自らの信条とする伊田和彦なる男が密命を帯びてフィリピンで行われているODAの大型プロジェクトの不正を暴く、そういう物語だと思っていたからだ。 しかし、蓋を開けてみれば、それは単なる物語の意匠に過ぎなくて、この物語の核心はフィリピンで起きた誘拐事件の探索行、そしてその事件の真相を巡る物語だったのだ。 確かにフィリピンという国を縦横無尽に駆け巡る誘拐事件の解決劇は面白い。2つ起きる誘拐事件のうち、核となる第1の事件は660ページ強の本書の中で300ページ弱と、半分を費やして語られ、それ自体1編の長編に相応しい内容になっている。しかし、そこから私が期待した展開は、そこから伊田の当初の目的である談合の証拠を掴む調査の話だった。しかし、上にも述べたように実はそうでなく、この誘拐事件に隠された真相を巡る物語が展開する。 これがどうしても私には納得が行かなかった。それは本作の主人公伊田と調査の対象となる相手の1人に彼の高校時代の友人遠山順司という人物が設定されていることも一因だ。 この遠山順司というサブキャラクターが非常に魅力的に描かれている。この好男児に対し、伊田が自分の使命と友情の維持という葛藤に対し、どのような決断を下して乗越えるのかに私は非常に興味があった。多くのページを費やして繰り広げられる追跡行も、伊田と遠山の結びつきを強めるガジェットとして受け取っていたのだ。 しかし作者の思惑と読者である私との思惑が一致しなかった。これは非常に残念だと思った。 しかし、これは単純に作者が悪いというわけではない。私が勝手に展開を予想した事による齟齬なのだ。もし私が何の先入観もこしらえずに白紙状態で向き合っていたら、読書の悦楽にどっぷり浸かることができただろう。 真保氏の小役人シリーズはまだ2作しか読んでいない物の、非常に好きなシリーズである。だから私は良い読者でありたい。彼は小役人を主人公にする事でミステリを描く作家だという事を念頭に変な先入観を持たず、次から読む事にしよう。 1992年発表の本書で語られる建設会社の談合事件が26年後の今なお続いているのを見ると、この世の中というのは何も変っていなく、日本という国が根っからの土木国家という事をまざまざと知らされる。 それは本書で述べられるフィリピンもまた同様だ。100ペソ札(現在のレートで220円前後)1枚で賄賂が成り立つ貧困状況、幼児売買、臓器売買が成されている現状(しかも臓器売買は合法化されているとまで云われている)など全く変っていない(本書で述べられる気分の悪くなるような事実に対して、何ら驚かない、既に麻痺した自分がいることにも気付かされた)。故にこの作品が未だに古びれない輝きを放っているのだから実に皮肉なものである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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フィリップ・マーロウを主役に当代気鋭のミステリ作家が物語を描いたトリビュート短編集。正に粒揃いの名品ばかりだ。長くなるが、それぞれの作品についてあらすじを述べていこう。
まず冒頭を飾る「完全犯罪」は昨年逝去したマックス・アラン・コリンズの手によるものでマーロウがハリウッド女優ボディガードを引き受ける話だ。 ベンジャミン・M・シュッツの「黒い瞳のブロンド」とジョイス・ハリントンの「グレースを探せ」は共に人探しをテーマにしており、それがそれぞれ家族を連れ戻す物語である。前者は夫が逃亡した妻と子を、後者は妻が失踪した夫と子を、正に表裏一体の設定。しかも明かされる真相もほとんど似通っていたのがちょっと残念。 マーロウがプロレスラーのザ・クラッシャーという大男からボクシングのプロモーターのトマス・ローマにお金を届けるよう否応無く頼まれる所から始まるのがジョナサン・ヴェイリンの「マリブのタッグチーム」。 似たような題名の「悲しげな眼のブロンド」はディック・ロクティによるもので、マーロウが<ラサの頭蓋骨>という宝石を埋め込んだ頭蓋骨を手に入れるよう旧知の女性から依頼されるという一風変った設定。 4Fの旗手サラ・パレツキーは「ディーラーの選択」という作品で参加。マーロウが女性の依頼で、兄の借金の形にした母親の指輪を取り戻すのに借金した相手との交渉を頼まれるというもの。 そして田舎出の娘のような歌手イーヴリン・メリルがしている指輪がマイラ・ヒートレーという未亡人が盗まれた物だというシーンで始まるのがジュリー・スミスの「レッド・ロック」。物語の展開は当然この指輪を巡って繰り広げられる。 パコ・イグナシオ・タイボ二世の手による「国境の南」はマーロウと弁護士に警護を頼まれたアレックス2人のメキシコを放浪する物語で、異色の短編だ。 ロジャー・L・サイモンは赤狩りを背景に物語を展開する掌編「街はジャングル」で参加。 この後のジョン・ラッツの「スター・ブライト」はハリウッドの女優の卵エラ・ルーを巡る物語。 次のロバート・J・ランデージという初耳の作家による「ロッカー246」はマーロウが悪友の残した荷物を受け取りにニューヨークへ行く話。 そしてスチュアート・M・カミンスキーの「苦いレモン」は同じビルに住むウォーレンの妹探しの話。 次はなんとエドワード・D・ホックである!不可能犯罪短編の雄がチャンドラーのトリビュートとして捧げた「東洋の精」は酒場の歌姫からマーロウが銀行強盗と殺人の罪に問われた弟を助けて欲しいと依頼される話。ちなみに彼の作品の特徴である不可能状況、トリックは出てこない。 ジェレマイア・ヒーリイの手になる「職務遂行中に」は保険会社から現金輸送車を襲った事件で殉職した顧客の警備員が実はこの一件を仕組んでないかと調査を依頼される話でなかなか読ませる。 「悪魔の遊び場」はある荒野に建つコーヒーショップで起こった悪人たちの篭城事件を描いたジェイムズ・グレイディという作家の作品。 そして最後は御大チャンドラーの作品「マーロウ最後の事件」。マーロウの事務所を訪れたイッキー・ロッセンという男の依頼は、自分の逃亡を助けて欲しいというものだった。ラスヴェガスのあるマフィアの組織から足を洗った彼は大金を手にして逃亡中であるが、どこに逃げても追っ手の尾行が付きまとい、しかも自分を殺しに殺し屋が今日ロスを訪れるのだという。かなり危険な依頼に難色を示したマーロウだったが、妙に女に優しいこの変ったチンピラを気に入り、依頼を受ける事に。マーロウは、友人の女性アン・リアーダンに手伝いを頼み、無事イッキーを逃がす事に成功するのだが・・・。 “The Pencil”という原題に対し、なぜこのような邦題を付けたのか、訳者の真意はわからないものの、これがチャンドラーのマーロウだ!と云わんばかりの作品だ。 マーロウは常に損をする。それは彼がこだわりを捨てずに自分を納得させるまで仕事を止めないからだ。 この作品では読者になぜそこまでするのか?と思わせながら、最後の最後においてもやはりこのマーロウという人間が十分に理解できないまま終わる(少なくとも私はそう)。しかし、これこそがマーロウなのだなと思う。 チャンドラーの作品を別格として、私の個人的なベスト5はコリンズの「完全犯罪」、カミンスキーの「苦いレモン」、ヴェイリンの「マリブのタッグチーム」、ヒーリイの「職務遂行中に」、ロクティの「悲しげな目のブロンド」か。 コリンズはチャンドラーを正統に受け継ぐかのごとく、マーロウを復活させた。彼の強さ、皮肉っぽさは無論ながら、彼の優しさ、弱さもおしなべて。特に「ぼくはいつもひとりで寝るんだ・・・・・・良心を抱いてね」の台詞には参りました。 カミンスキーは実に正統なチャンドラーの後継者たらんとしているのが解る。特に作品に漂う頽廃的な雰囲気はアメリカ西海岸の光と闇を映し出し、行間から埃の匂いを立ち昇らせるかのよう。出てくる登場人物が全て大なり小なり過去に栄光を得ながら、落ちぶれた生活を送っている。美少年コンテストで優勝したハゲの小男。戦争に行って、怪我を負い、人のために我慢することを諦めた男。警察署長まで登り詰めながら、ある事件で人生の歯車が狂ってしまった男と、その妻。彼らの間を駆けるマーロウは確かに騎士だ。最後の結末の皮肉さといい、全てがチャンドラー・テイストだった。 ヴェイリンの作品は『さらば愛しき女よ』のオマージュで、ザ・クラッシャーはまんま大鹿マロイである。1人の女に愛情を捧げたマロイに対して、本作ではタッグチーム相手のエルモとの友情に厚い人物としてザ・クラッシャーは描かれているが、彼がマロイ同様、愛情に厚いことも明かされる。 ヒーリイは実に堅実なプロットで物語を作り上げた。本作では逆に他の作家がやってきたプロットの逆を敢えて取る形で物語に決着をつけている。フィリップの捜査の流れ、それを牽引する手掛かりが容易に手に入り、淀み無いのが逆にフィリップ物語らしくない印象を与えることになっているのが皮肉だが。 ロクティは自身の作品で、自らがハードボイルドの熱心な研究者である事を証言した。まさかハメットの『マルタの鷹』をマーロウと絡めるとは思わなかった。ハメットをはじめ、フィッツジェラルドやヘミングウェイなど実在の文豪がマーロウの世界に溶け込み、ロクティがこのトリビュート作品に心の底から楽しんで取り組んでいたのが目に浮かぶようだ。 いやいや、みんなフィリップ・マーロウが好きなのだね。そしてチャンドラーの文体が。待っていましたと云わんばかりに精魂注いでそれぞれがマーロウ・ストーリーを存分に描いている。そしてその誰もがマーロウを卑しい街を行く騎士としてきちんと描いているのが嬉しいじゃないか! そしてそれぞれの作者がチャンドラーのように物語を書きたかったという思いを隠すでもなく前面に押し出しているかのような書きっぷりだ。 例えばロクティとパレツキーの両者の作品に、虫や魚といった小動物を扱った描写が出てくるが、これもそうそう、チャンドラーはこういう描写を入れてマーロウの心中を語るのが上手かったのだと思い出した。ロクティの、事務所に迷い込んだ蝶といい、パレツキーの牧場の池の鯉といい、チャンドラー作品の特徴を上手く捉えている。 あと不思議なのは、破綻せず、きちりと割り切れる割り算のようにかっちりとした作品、またちょっと複雑なプロットの作品ほど、マーロウ物としては似つかわしいと思わされた。チャンドラーの短編で感じたように、マーロウの行動原理が十分には理解できずに終わる、何かモヤモヤした物を抱えたまま終わる物ほど、マーロウの物語として相応しいような気がした。 あと敢えてマーロウの舞台、卑しき街ロサンジェルスからマーロウを飛び出させた作品も印象に残った。タイボ二世の「国境の南」がメキシコ、ランデージの「ロッカー246」がニューヨーク、グレイディの「悪魔の遊び場」はロサンジェルスから遠く離れたサプリーという恐らく架空の街をそれぞれ舞台にしている。 特にタイボ二世は詩的ながらも南米メキシコの焦げるような暑さと、人々の汗ばんだ匂い、そして砂埃が行間から立ち昇るかの如きその文章で、どこかチャンドラーのそれとは違うと思わせながらも、チャンドラーに通ずるペシミズムが溢れている。この作品に出てくるアレックスがテリー・レノックスとだぶるのは、錯覚ではないだろう。 チャンドラー自身の作品も入れ、全16作収録の本書。そこに書かれたフィリップ・マーロウは時に「フィリップ」であり、「マーロウ」である。そのどれもがフィリップ・マーロウなのだが、フィリップとしか呼べないフィリップ・マーロウと、マーロウとしか呼べないフィリップ・マーロウがいるのに気付かされる。 その理由ははっきりとしないのだが、作中、走ったり、格闘を演じたりする若さや躍動感が漲っているのがフィリップ、車であちこち駆け回り、そこで出逢う人に馬鹿にされながら、そして自らを蔑みながらも最後の一線は守るストイックな騎士を行間から感じさせるのがマーロウといったところか。若きフィリップ、老成したマーロウという区別が自分の中で出来ているのかもしれない。 そして私もまたフィリップ・マーロウが読みたいのだと気付かされた。思えば社会人になりたての20代前半、それが私のチャンドラー作品との出逢いだった。あの頃、読んだときの感想は、今でも『長いお別れ』が私の生涯海外ミステリランキングの1位であることからも、かけがえの無い体験だったと思う。しかし、あの頃解らなかった“味”があるのも確か。あれから十数年経った今、マーロウの物語を再読してみると、きっとまた違った“味”を知るだろう。日本に帰ったら再び手に取ってみるのもいいかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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長い間、東京創元社が翻訳権を取得しながらも発行しなかったのだが、21世紀も7年を過ぎてようやく日の目を見ることとなった。とにかく喜ばしいことだ。
とはいえ、1977年発行の本書。レナード作品としては起承転結という小説の定型が守られているのが逆に目新しいと感じた。レナード作品といえば、登場人物たちの“生きた”会話、先の読めないストーリー展開というのが専らの特徴で、本作もその片鱗は覗かせるものの、まだその特徴は顕著に現れていないと思った。 私の抱くレナード作品の最大の特徴というのは、いきなり物語の真っ只中に放り込まれ、主人公やその他脇役と共に街中を歩き回るかのような物語世界に没入させられることだ。一癖も二癖もある連中の中を一緒に歩くような臨場感を伴って逍遥する、それがレナード・タッチと呼ばれる彼独特の小説作法だと思っている。 しかし、30年前に書かれた本書は、まず主人公となるライアンが令状送達人になった成り行きから、ライアンを取り巻く人間達を描き、そしてライアンが人生の転機となる出来事に遭遇するという至極真っ当な物語展開を繰り広げる。 唯一、ライアンがひょんなことで捜索中の人物、デニーズをいきなり再会するシーンが、これこそレナードだ!と思わせられた。 そしてレナード作品の特徴の一つであるどこか憎めない悪党たち。これについては正にこの時点で完成されていると思う。黒人の殺し屋ヴァージルをはじめ、レイモンド・ギダーなる食いしん坊の殺し屋。ムショに入って物事に対する性急さを抑えることを覚えた前者と、ムショに放り込まれながらも物云う前に手が出る正確が変わらなかった後者2人の対比がなかなか面白い。 しかし、今回主人公を務めたライアン。この登場人物に関して、レナードは決してヒーロー然と描いていない。むしろ、令状送達人という仕事に満足した男が、ある大金を掴むチャンスを得て、自分の能力以上の行動をしようとして、その都度、決断に逡巡する優柔不断な男として描いている。本作ではライアンが特に魅力的ではなく、その周囲の人間が魅力的であることに特徴があると思った。 ライアンの友人で警察官であるディック・スピードはライアンに令状送達人の仕事を紹介した人物。ライアンの捜索人の前妻デニーズは、飲んだくれのあばずれから逆にライアンにとってかけがえの無い存在になるほどの魅力的な女性に転身する。 先に述べたヴァージルとレイモンド。そしてライアンに捜索を依頼するペレス。 これらの登場人物は自分の生き方に信念・信条を持っており、ゆるがない自信を持っている。 翻ってライアンを見ると、ペレスに頼まれた仕事を完遂せずに、捜索人に繋がる重要な情報を敵にウッカリ漏らし、終いには捜索人の妻に惚れ、ペレスを出し抜こうとするがことごとく目論見が先方に見抜かれ、出し抜かれるといった役回りだ。 本作ではむしろ敵役のペレスの方が一枚も二枚も役者が上である。最後、1セントの利益も得られずにライアンから屈辱を与えられながら、ライアンに仕事の依頼をする図太さ。あれこそ本当の男だろう。 自分が何をすべきか解っている男なのだ。 そういった意味で今回の主人公ライアンは私にとっては非常に物足りない。レナードは本作で描きたかったのはしがない男が1枚も2枚も上の人物と渡り合う駆け引きを描きたかったのか?その手法を以って、主人公ライアンを魅力的に描きたかったのか? 恐らく最初の意図はそうであっただろうが、読了後の今、私には敵役のペレスが妙に引立つのを止められないのだった。 他に、作中、白人の女性の旦那が黒人であった事に驚くシーンがあるが、これこそ時代を感じさせ、不自然に思った。こういう叙述を読むと、やはりこの本の発行が遅きに失した感は否めない。 あと蛇足だが、本作においてレナードの恋愛に対する描写がところどころこちらの意中を射ており、非常に印象に残った。曰く・・・ 『“隣りの女の子”に隣りの家とはまた別の暮らしをさせると、もはや“隣りの女の子”ではなくなる』 『彼女を抱きしめたいと思う。しかし、実際にそうすると、どれだけ触れても触れたりず、どんなに強く抱いても抱き足りないのだ』 う~ん、正鵠を射てますな。上は恋の妄想が解けた瞬間、下は恋に恋焦がれ、求め合う気持ちが強い上のもどかしさ。いやあ、レナードの作品を読んで、こんな一文に出逢おうとは思わなかった。この作品を書いたとき、レナード御歳52歳。いやあ、若々しいね、感性が! そして本書のボーナス・トラックは直江明氏の解説だろう。最近『ミステリマガジン』誌上の連載でレナードの小説世界について微に入り、細を穿った解説を展開しているが、本作の解説でも同様で、レナードの小説世界を更に面白く読める内容になっている。レナード作品を連綿と読み続けた私でも新たに気付かされることがほとんどで、興味は尽きない。 各出版社にお頼み申す。全レナード翻訳作品の解説を直江氏にしてもらえないだろうか?そうすることでもっとレナード作品のファンが増えると思うのだが、適わないかなぁ、やっぱり。 |
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20代後半の若き登山家、加藤武郎とそのパートナー久住浩志2人の登攀を綴った連作短編集。
表題作の「白き嶺の男」は独学で単独登攀を行っていた加藤武郎がある登山会に所属した際に行われたテスト登攀での出来事を綴った話。 続く「沢の音」は加藤とコンビを組む久住と加藤の邂逅の物語。 そして「ラッセル」は「沢の音」で知り合った加藤と久住が北穂高岳の滝谷の岩盤登攀を2人で行う様子を描いた物。 「アタック」は「ラッセル」で述べられたヒマラヤ登攀についての話。 「頂稜(スカイライン)」は再び久住と加藤のヒマラヤ登攀の物語。 最後の1編は「七ツ針」という加藤・久住物ではない山岳ホラー短編。 本短編集では加藤武郎と久住浩志という2人の男たちの関係について訥々と語られていく。当初、所属していた登山会を加藤が辞め、久住の会に入ったことなどが、徐々に語られ、やがてその内容は2人のヒマラヤ登攀にまで至る。 本作の中で面白かったのはやはり雪山登山について語られた作品の中、唯一渓谷のルートを調べる渓谷登攀を語った「沢の音」だ。我々が地図の上で知る山の渓流の道筋などはこういった渓谷登攀を趣味とする、または生業とする人たちによって徐々に詳らかにされていくのかと知的好奇心を刺激させられた。 この短編集には登山の困難さが経験した者でしか解らない迫真のスリルとリアリティで語られるところにある。それぞれの1編は40~50ページぐらいの長さながら、そこに書かれる登山の息苦しさは正に登山が死と隣り合わせのスポーツである事を濃厚に物語る。 しかも、語られるのはそれだけではない。山が、自然が気候の影響により、どのように変わりゆくのかを理路整然と叙述していることも見逃してはならないだろう。 本編の主人公である加藤武郎と久住浩志はそれぞれ次のように性格づけされている。小さい頃から樵であった祖父の手伝いをするうちに独学で山を登る事を学んだ加藤は自然の声を聞く男であり、また怖さを知る男。そして高所では無類の粘り強さを発揮する男である。片や久住は、渓谷登攀を趣味にしつつ、1人で未開の地を発見する事に喜びを見出す排他的な男だが、同じ匂いのする加藤には絶大の信頼を置いている。クライミング技術は加藤も凌ぐ男である。 この2人が色んな登山を重ねるのだが、正直ページ数が限られた短編であるからか、ちょっと消化不良の感が否めなかった。物語を掘り下げていきながら、ページ数の都合により、はいここまで!といった感じが各編に漂っているのだ。最後に添えられた別物の「七ツ針」ぐらいだろう、きちんと終えているのは。だから、この2人の登山家の魅力を存分に味わうというほどではない。 『遥かなり神々の座』では主人公のクライマー滝沢育夫の登山生活のみならず、私生活まで踏み込んで語ったので厚みが出たが、本作では絵に描いた人物を語っているだけに留まった感じがする。題材として非常に面白かっただけに勿体無い気がした。 願わくばこの2人を主人公にした長編を読みたいものだ。手元にその作品があることを切に願う。 |
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イギリスの諜報機関MI-6のモスクワ駐在員ジョン・イングラムの後任として新人のジェレミー・ブリンクマンが選ばれた。イギリスの外務事務次官の息子である彼は、父親の権力に頼ることなく、MI-6内で優秀な成績を収めており、今回の人事は大抜擢だった。
イングラムの送別会の席で彼はアメリカのCIAの駐在員エディ・フランクリンを紹介される。彼こそはこのソ連駐在の各国の駐在員の中でもとびきりにソ連の政情に精通しており、業界でもその名は知れ渡っていた。聡明なブリンクマンはフランクリンと親密になり、ソ連国内の小麦不足を契機にした米ソ間の政治的緊張の勃発について予見し、MI-6内での評価をどんどん上げていった。 一方、ソヴィエト国連大使を経て帰国したピョートル・オルロフはアメリカ滞在中に知り合った通訳の女性ハリエットとの再会に心焦がしていた。しかし、国連大使での手腕が高く評価され、オルロフはソ連国内で将来の指導者と期待されていた。周囲の評価と自らの恋情に板挟みに苦しむ中、オルロフはアメリカへの亡命を計画する。 また、フランクリンにはワシントンに前妻ルースと息子2人を残しており、現在モスクワで一緒に住んでいるアンは後妻だった。アンはモスクワでの暮らしに退屈しており、フランクリンの異動を今か今かと待ち望んでいた。そんな中、フランクリンの許にルースから知らせが入る。長男のポールが麻薬を求めて強盗を起こし、警察に捕まったというのだった。フランクリンは急遽アメリカへ飛ぶ事に。 そしてその急なアメリカへの出国に対し、ブリンクマンは何かアメリカで事件が起こっていると推測したブリンクマンはその情報を探ろうとアンに近づく。 上に書いた粗筋は実はこの作品のテーマに触れてなく、本作のテーマはCIAとMI-6の諜報員同士のソ連の大物政治家の亡命を巡っての、丁々発止のやり取りである。この展開で物語が動き出すのは全400ページ強の本作に於いて、270ページを過ぎた辺りである。 それまではスパイたちのプライベートライフを綴った物語というべきだろうか。本作で繰り広げられるのは従来のスパイ物に見られる、情報工作、情報収集に危険と隣り合わせで挑むスパイの緊迫感溢れた仕事ぶりよりも、モスクワに送られた各国スパイ達の交流とその夫婦生活と奥さん連中の内緒話、三角関係、遠距離恋愛といった、非常に通俗的な内容になっていた。 そしてスパイも家庭問題を抱えるのだ。息子が非行に走り、急遽勤務先から舞い戻ったりと大変なのだ。 やがて独身者で新進気鋭のブリンクマンがフランクリンの不在中にその妻アンに対して横恋慕を始めるうちに―当初はフランクリンの動きを摑む為に接近したのだが―、私情を絡めた2人の攻防戦が繰り広げられるといった次第だ。ここからがエスピオナージュ作家フリーマントルの手腕が光る諜報合戦と云えるだろう。 さて本作は今までのフリーマントル作品同様、最後に思わぬどんでん返しが待ち受けている。それは最終的にフランクリンが凄腕のCIA諜報員だったことを如実に示す事になるのだが、いささか唐突過ぎるのではないか。 最後の最後まで気の抜けないのがフリーマントル作品の長所であるのだが、どんでん返しを受け入れる布石はやはりところどころに示唆してほしいものだ。 こういうどんでん返しならば、私でも書ける。 今回はどんでん返しというよりも辻褄併せのような感じがした。実にフリーマントルらしくない歯切れの悪い結末だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾初期の代表作である本作は、実に哀しい物語であった。
この高校球児を中心に据えたミステリ。この作品の中心となる謎は、二つの殺人事件の謎でもなく、愉快犯とも云うべき東西電機での爆破未遂事件と社長誘拐事件の謎でもなく、題名となった“魔球”の謎、でもない。 天才投手と云われた須田武志そのものの謎である。 本作はこの須田武志なる人物が実にストイックかつミステリアスに描かれており、この人物無くしてはこの物語の成功はなかったであろう。 他の高校球児と特に仲良く接することなく、常に孤高の存在として振舞う。自らに妥協せず、他者とは違う次元で物事を見据えた眼を常にしている。そして自ら立てた目標に向かって嘘はつかず、また約束は必ず守り、自らを厳しく律する。自ら弱音は決して吐かない。出来ないという言葉は決して使わない。 彼の死の真相を知ったとき、正にこの男は武士であると痛感した。名前は須田武志。東野氏はこの男に武士の魂を託し、“武士の心”という意味を込めて“武志”という名にしたに違いない。 そしてこの須田家を取り巻く家庭事情など、ほとんど巨人の星の世界である。貧乏のどん底から、プロ野球選手を目指して這い上がる男、自らの努力で天才投手の名を恣(ほしいまま)にし、家族の幸せのためには自分を売ることも厭わない。 ここまでべた褒めならば星10個献上したいのだが、あまりに哀しすぎるので、その分、星1つマイナスした。物語半ばで判明する須田武志の死は、私にはあまりにもショッキング過ぎた。こういう奴を応援したいんだよと思っていた矢先の悲劇だったために、プロットのためにここまでするかと脱力感と憤慨を覚えたのである。最後の結末を読んでも、やはりあそこで須田武志は死なせるべきではなかった、そう強く思った。彼を亡くした後の須田家の哀しみを推し量るとどうしてもこの展開には反発心を覚えてしまう(また文庫表紙の朴訥としたイラストが泣かせるのだ)。 そう思うのも、ここまで感情移入してしまう登場人物に久々に出逢ったためで、正に東野氏の術中に嵌ってしまったことは否定しない。先にも書いたが本作ではそれぞれの事件の謎ではなく、この須田武志という人物の謎こそ東野マジックなのだ。 もう少し書こう。 本作でキーとなる題名にもなっているこの“魔球”の正体。この謎も実はなかなかに考えられているのである。 “魔球”というちょっと間違えば陳腐な内容になるこの題材について東野氏は実に面白い解答を用意している。そしてそれはこの“魔球”という二文字の意味がまた別の意味を持って立ち上がってくるのだ。 人が打てない悪魔のような変化を伴うから“魔球”と呼ばれるのが一般的だが、本作にはもう1つの意味が隠されている。これはそれぞれこの本を読んで確認して欲しい。 |
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カー版コージー・ミステリとも云うべき、ストーク・ドルイドという小さな街で起こる小さな事件の物語。読中、セイヤーズの『学寮祭の夜』を思い出した。手元に本が無いので不明だが、両書のうち、どちらが先だろうか?
しかし、もしこれがセイヤーズの作品の方が先だとしても、カーが真似をしたとは思えない。作中で語られる、当時ドイツで起きた実在の事件から題材を得ているようなのだ。 で、本作の真相と云えば、いささか首を傾げざるを得ない。肝心の動機が曖昧だからだ。なぜ犯人は悪意のある手紙を出し続け、また密室状態でジェーンに深夜後家が逢いに行ったのかの理由が全く見えない。何度も解決シーンを読み返したが、ある人物の隠された過去の告発をくらますために行ったという解釈しか出来ない。しかしそれでは非常に動機として弱すぎると思う。 セイヤーズの作品では悪戯の背後に隠された悪意に蒼然とさせられたが、本作ではなぜこんな悪戯をしたのか自体が不明だ。 HM卿がバザーで酋長に扮するなど今回もサービス精神旺盛であるが、それも単なる物語の脆弱さを覆い隠すためのガジェットにしか見えなかった。題材が面白かっただけに、残念。 唯一、HM卿の奥さんの名前が判明したのだけがマニア向けの収穫か。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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登山家でもある作者が、登山の時にどうしても感じてしまう神々の存在について著したかったと思われるのが本書。人の生死を左右する極限状態の中、昨日まで、いやつい10分前まで冗談を云い合っていた仲間がクレパスに落ち、ザイルが切れて落下し、物云わぬ屍と化す。かと思えば、絶対助からないだろうと思われる強烈な雪崩の中に巻き込まれながらも、九死に一生を得て生還するようなこの世界、明らかに神の配剤なるものを感じずにいられないのだろう。
ミグマというラマの修行僧を通してまずは曼荼羅に記されたこの世の真理を説き、生死の境で相見える山に住まう神々の存在を知った者たちを通して登山と神との関わりを幻想文学の形で描く。 読中、頭をしきりに過ぎったのは坂東眞砂子氏の『山妣』だ。『山妣』で語られる山神の厳しさは山に敬意を払わない者には鉄槌を下すが、山と共存する者には糧を供給し、異形の者でさえ受け入れる懐の深さが感じられたものだが、谷氏が本作で描く山ヤシュティ・ヒマールは、異世界への通廊を守るために何人(なんぴと)たりとも受け入れない冷徹さがあり、登頂を目指すミグマをあらゆる手法で追い詰める。 もちろん『山妣』とこの作品では日本の山とヒマラヤの山という高さ、急峻さ、自然状況の過酷さの違いはあるだろうが、同じ雪山を舞台にして、これほどまでに違いがあるのかという思いがあった。 しかし、その違いも確かに解る。前者はその雪山を生活の場にしている者達の物語であるのに対し、後者は雪山を登山の対象にしている、つまりそこに住まう期間が非常に短いのだという所にある。 登頂という目的―本作では単純に登頂のみを目的とはしていないが―を達成するために山の気候、形状はその目的を阻害する敵以外何物でもなく、打ち克つべき存在であるのに対し、生活の空間としている者にとってはその過酷さまでも運命として受け入れ、共存していかなければならない存在であるからだ。 しかし、やはり両者に共通するのは、山には神がいるという感覚だ。前にも書いたが、それぞれ人間の死を左右するのに神の悪戯としか思えない不思議な偶然を感じ、またそれを否定しない。根底に流れるのは同じなのである。 本作は同じヒマラヤの登山を舞台にした『遥かなり神々の座』とはガラリと違い、チベットの修行僧を主人公にしたヒマラヤの登山を通して世界の真理を知るという物語であり、主人公ミグマは幽体離脱と、前世回帰を繰り返し、魂の旅路を繰り返す。彼の前世であるナムギャルが果たせなかった世界の中心を司るメール山(須弥山)の登頂を目指し、そこにあるという世界の真理を知る扉を目指すのだ。 その目的を果たすため、ミグマは曼荼羅の謎を解き、更には転生を繰り返す自らの魂の原初となる詩人ミクラパまで魂を遡る。もはや物語において時間や空間といった概念は無意味である。更にミグマは登山家としての経験を物質世界でも積む。 何ともまあ、壮大な物語だ。 物語は更に思弁哲学の様相が濃くなりやがて相対性理論に行き着く。それも西洋数学の知識に基づくのではなく、仏教的世界観を以って、そこにアプローチしていくのが面白い。 そしてミグマが垣間見る異世界への通廊には、世界を統べる法則が全く異なった世界だ。それは私達の世界で理論として確立している万有引力の法則や量子力学なる物がそれぞれの宇宙では全く異なった理論で形成されていると述べているのだ。 これは作者の意見なのか、どこかの学者が述べた理論なのか、寡聞にして知らないが、この箇所を読むに当たり、我々の論理では宇宙の謎は解けないのではないかという思いを強くした。この考えに同調する自分がある。我々人間の描く尺度を全く越えたところに宇宙は存在し、かつ機能している。 作中、山の神としてミグマが乗越えるべき存在として立ちはだかる大いなる存在ヤクティは、それ相応の知識・経験を備えていない者に対して非常に排他的に振舞う。 これはこの非常に思弁性に富んだこの作品を書いた作者の、解る人だけに解ってもらえればいいという態度そのものなのかもしれない。 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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「山男には惚れるなよ」という唄があるが、それを地で行く主人公滝沢育夫。定職に就かず、故郷の帰省に費やす交通費を惜しんでまで登山にのめり込む男。挙句の果てに6年待たせた恋人、君子にも愛想を尽かされ、その夜寝る場所にも困るような男だ。
もはや身体も心も快適な日本よりも過酷なネパールやインド、チベットに馴染むようになっている。登山家(クライマー)として一流の登山技術と抜群の高所順応能力を持ちながら、7回の遠征において一度も登頂者(サミッター)になれず、遠征のたびに仲間が死んでいく事から山仲間の間では「死神」という仇名を付けられる。 この人物造形は本書の扉裏に付けられた著者近影にそのままイメージが重なった。著者の谷氏自身、クライマーであるのだが、滝沢=著者という短絡的な想像はやめておいた方がいいだろう。恐らく著者の数ある登山仲間をそれぞれ寄せ集めて作られた人物に違いない。 この滝沢という男が物語で一介のクライマーから殺しを厭わない兵士へと変貌を遂げていく。元々クライマーとしての能力が高く、辺境で生き延びる術を知っている彼。 そして今までの登山で他人の死に直面してきた経験から、瞬き一つせずに殺しを行えるという設定は納得がいく。無論、それがそのまま殺しの才能に結びつくわけでないのは作者も承知の上で、その辺の説明にはぬかりは無い。 そして、この滝沢を巡る2人の女性、君子と摩耶。この2人を物語に導入したことに作者の技量を感じる。 外国への登山遠征を重ねる滝沢に愛想を尽かしながらも、ほっといては置けない母性本能を感じる君子と、ネパールでも現地に溶け込んで暮らしていける女の強さを備えた摩耶。男からの独立を望みながらも依存してしまう女と、男に自分に似た匂いを感じ、パートナーとして対等に扱う女。冒頭に現れるこの2人の女性が物語の終盤に意外な形で滝沢と再会するのだが、それぞれの結末の付け方も憎らしい。 そして忘れてならないのはニマという男。当初滝沢のチームにコックとして同行していた初老の男はしかし、サバイバル経験豊富なゲリラの一員であり、滝沢に兵士としての訓練と生き延びる術を教授するこの男。 物語の終盤で意外な正体が明かされるのだが、これはむしろ蛇足だと思った。ニマがある事実を知ったところで何も起きないことは解っていたからだ。 上に述べた女性の扱い方、そしてこのニマの扱い方から察するに、この作者は人間の間で起こる愛だの情だのといった感情が織成す化学反応に対して、非常にストイックなのだと思う。そこにハッピーエンドだの、哀しい結末だのを持ち込むわけでなく、二人が出会い、そしてまたすれ違うといった具合に敢えて結論を避けているかのようだ。 それはやはり登山の中で人の生死を左右する局面にこの作者自体が何度も直面しているからだと思う。昨日までふざけあって笑いあっていた仲間が、翌日はクレパスに墜ちて還らぬ人となったり、凍死して動かぬ肉塊となっていたりといった諸行無常観があるのではないか。だからこの作者自身、決して他人に対してのめり込むことが無く、人間関係に対して結論を求めぬ距離感を保っているのだろうと思う。 しかし、1人だけしびれるくらいカッコイイ男が居た。それは名も無い君子の結婚相手である。彼の置手紙にはグッと来ました。ベスト・サブキャラクター賞をあげたい。 唯一この作品で結論を求めているのは、登頂者(サミッター)になれるのか否かという事ではないだろうか。人との触れ合いにではなく、登山その物に結論を求めているのはやはりこの作者が登山家でもあるからだろう。 今回不幸だったのは、私がこれを海外生活を送っている今、読んでしまった事。 作中に描かれる日本では考えられない異国での珍騒動-笑顔とたどたどしい日本語で近寄る現地人、空港を降りた途端に群がるタクシーの運転手たち、相場以上の運賃を求めるタクシー、etc-は、全く驚きがない。むしろここでは当たり前の事でしかなく、そこに面白みを感じる事が無かった。ネパールの街中の描写、登山仲間達の現地での過ごし方など、興味を感じる部分もあったが、ふと自分の暮らしている境遇を見て、あまり変わらないなぁと苦笑した次第だ。 さて物語は二転三転事実が裏返る。 ちょっとくどいぐらいだ。冒険小説だから、もっとどんでん返しは少なくていいし、最後にでっかい物を1つ、用意してくれれば満足だったのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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「嘘の上塗り」という言葉があるが、この小説の真相が正にその言葉がぴったりだと思った。
二重に仕掛けられた本作のトリック、作者の中では結構自信があったのだろうが、私に云わせれば、無理を通すために道理を引っ込めさせ、強引に驚愕の真相へ持って行ったという感じしかしなかった。 作中で探偵役の一尺屋が持論を確立させるために何度も真相を云い直しているのも気になる。曰く、 「君を見た瞬間、それは叔父さんは驚いたのだろうね。弟に息子がいたなんて知らなかったんだから。そのショックで心臓が止まっても仕方が無い」 「信号音は君が叔父にナイフでも突きつけて聞きだしたのだろう。・・・殺される!という恐怖が叔父を死に至らしめたのかもしれない」 といった具合だ。 この間、1ページも無いのである。 しかも逢ったことのない叔父の家の間取りやら数々の企み、そしてそれらを成功させる数々の仕掛けを遠方で母親の話を聞いただけや関連の書物を読んだだけ、はたまた何度か由布院に訪れただけで解るだろうか? 人間なんて新しい環境に慣れるのでさえ、2ヶ月は最低必要である。東京でフリーターをして日銭を稼いでいる若者に果たしてこれだけの事が出来るのか?現実味の無い話である。 こういった辻褄併せのような論理の積み重ねが読書の興趣をそそるどころか、ああ、無理をしているなぁという苦労が作品の裏側から透けて見え、なんとも痛々しい。 そして、この作家特有の類型的な人物像の乱立。どこに小説としての面白みがあろうか?相変わらず、島田氏の提唱する本格推理小説作法に則っているのだが、なんとも味気ない。心動かされる何かがない。 料理本の云うとおりに料理を作れば、確かにそれなりの物は出来、食べられる代物にもなる。しかし、人に提供して金を取るだけの商品にはならない。そこに料理人としての独特の味付けをしないことには単なる素人の手遊びである。 毎度毎度苦言を呈して申し訳ないが、6作を通じて得た感想はこういった類いの痛罵しか思い浮かばなかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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