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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1426

全1426件 741~760 38/72ページ

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No.686: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)
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つまりはこの真相を受け入れられるか否か

いわゆる新本格ミステリ作家と一線を画したその特異な作風で巷間を賑わせているこの作家。予てより興味があったが、ようやくデビュー作である本作に着手できた。
一読した直後の感想としては、なんとも云えない感慨が押し寄せている。島田荘司氏の『水晶のピラミッド』を読んだ直後のよう、といえば判ってもらえるだろうか。

まず木更津悠也とメルカトル鮎という二人の探偵が同一の事件を扱う、この趣向が彼がデビューするまでの新本格一連の作品になかった趣向だ。今まで探偵の相手といえば、犯人を除き、警察であったが、ここにこの作品の斬新さがある(実は他にもあったのかもしれない。私が寡聞にして知らないだけで)。
そしてキリスト教、正しくはギリシア正教に彩られたペダントリーは小栗虫太郎氏の作風を思わせる。この作風・文章については後に述べよう。
そしてこの二人の探偵の間で繰り広げられる事件の解明が、何層にも入り組んだ真相を一枚一枚剥がすように明らかにされていく。そして最後には第3の探偵によって全てが明らかにされる。しかしそれは真犯人と探偵との間の秘密として闇に葬り去られるのだが。

この小説を読むのに、読者は予備知識を要求される。それは海外古典ミステリを読んでいることだ。でないとこの作品に散りばめられたペダントリー、特に連続殺人に込められたミッシング・リンクの妙は愉しみが半減するだろう。そしてこの一種ミステリマニアのための真相もエピローグにてある兆しがあったことを明かされる。
先に読後は島田荘司氏の『水晶のピラミッド』を想起させると書いたが、これは真の真相の手前に明かされる真相にものすごい魅力があったからだ。これは前代未聞の密室の解明とも云える空前絶後の真相だろう。
死者が甦る世界で死人を出すことの必然性を解いた山口雅也氏の『生ける屍の死』のロジックを遥かに凌駕する真相だ。しかし、作者はこれをいとも簡単に切り捨ててしまう。そんなこと、あるわけないだろ!と自嘲するかのように。

しかし、この驚天動地の真相を覆す最後の真犯人は不要だろう。
というのもここに来て逆に不可能性が増してしまったからだ。
そして麻耶氏はそれについて一切言及しないのだ。
犯人を設定して、意外なミッシングリンクを創案して、連続猟奇殺人で和えて密室事件をトッピングし、瑕となる現実味には触れず、適当に流しました、そんな感じで作られたようですわりの悪さを覚えた。

読者はミステリに何を求めるのだろう?
整然としたロジックの美しさ、驚愕の結末、まだ読んだ事のない未曾有の真相・・・。
この作品に関して云えば、表の真相とされるこの密室の真相こそがまさに未曾有の真相であり、私個人的にはこれが非常に面白かった。だからこそ評価は☆1つ減点なのである。

そしてサブタイトルにあるように本事件は探偵メルカトル鮎の最後の事件である。
謎めいた探偵を出しておき、シリーズが進むごとにその謎に包まれたヴェールを徐々に剥がしていくのがシリーズ物の常套だが、この作者はそれをデビュー作にして見事ひっくり返している。なんとも大胆不敵な趣向である。
そしてこの作家がかつて本格ミステリにおいてタブーとされていたことにあえて触れていることからも本格ミステリの可能性を更に開かんと意欲的・実験的であるとも云える。ネタバレになるのでどのタブーに触れたかどうかは云えないが、裏返せばこの作家が若くして本格ミステリに精通していることの証左となっている。

あと若干21歳のデビューに関して各所で驚愕と云われているが、どこに関してだろうか?
トリック?プロット?文章?

確かにトリック、プロットに関しては驚きはあるだろうがペダントリーに彩られた文章に関して云えば、頭だけで考えて作られた文章の域を脱しておらず、社会に出て触れるであろう、一般常識的な表現が欠如している。
つまりこの作者が十分衒学的であるのは認めるが、使い方が誤っているのに自覚的でない。単純に叙述すればいいところを敢えて普通に使わない単語を使用して、深みを持たせようとしているが、逆に知識の浅はかさを露見している。そしてこういう文章は21歳だからこそ書ける文章であって、逆に成熟すると恥ずかしくて書けない文章だ。実際私がそうだった。こんな持って回ったあらゆる知識を動員し、通常の表現に改革をもたらさんと一人気張って、勘違いの文章をばら撒いていた。
この辺は編集者ならびに出版社の校正部門が直してやらなければならない話なのだが、明らかに怠っている。講談社という大手出版社の仕事の杜撰さも白日の下に晒してしまった。

そして題名の『翼ある闇』。これは舞台となる蒼鴉城のモチーフでもある鴉のことだろう。この作家、数年後にまた『鴉』という題名の作品を書くのだが、よっぽど鴉が好きなのだろうか?
初めて読んだ麻耶作品。確かに一癖も二癖もある作家だ。その存在感はいまだワン・アンド・オンリーを貫いているようだ。次の作品をいつ読めるかは解らないが、また気になる作家が増えてしまった。困った事だ。


▼以下、ネタバレ感想
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新装版 翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件 (講談社ノベルス)
麻耶雄嵩翼ある闇 についてのレビュー
No.685: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

クイーン・ミステリの読み方がようやく解った

国名シリーズ第3弾。
本作に至り、クイーンの推理小説というのは、本当に純然たるロジックゲームなのだなと理解した次第。つまりここに書かれている犯罪の捜査方法というのは実は全く皆無で、犯行が行われた現場に残された証拠―これは痕跡と云った方が妥当かも―、各登場人物のアリバイ、そして各登場人物の過去や人間関係を推理する材料として与え、さあ答えを出しなさいといった類いの純粋な頭脳ゲームなのだ。

だから前作『フランス白粉の謎』で感じた違和感もここでは踏襲されたまま。つまり、本作においても通常警察が犯人を断定すべく行うであろう、指紋の採取、血痕の採取もしくは唾液、髪の毛の採取などの鑑識による捜査が全く行われないのだ。
通常ならばこれほど犯人が犯行の痕跡を残すお粗末な犯行も珍しい。犯行に使った白衣、ズボンならびに靴、そして決定的なのはマスクまで残しているのだ。これだけあれば犯人は明らかになったも同然である。当時指紋による犯罪捜査、血液型検出による犯罪捜査方法は既に確立されていた。つまりこれらの衣類から指紋を採取し、更にはマスクに残った唾液からも犯人の血液型も検出されるので、もう犯人は解ったも同然である。あとは容疑者と目される人物を逮捕して、自白を強要するか、犯行が行われた事実を補完する更なる証拠集めに執心すればいいのだから。

しかしクイーンの推理小説では決してそういうことをしない。前にも述べたように、これはクイーンが考え出した頭脳ゲームの問題であり、読者に対する挑戦状だからだ。この姿勢を受け入れるか否かでこのクイーンに対する評価というのは大きく変わるだろう。
とにかく探偵クイーンが手に入る全ての事実を読者に提供し、その中で唯一犯行が可能であった無二の犯人を絞り込む事に特化しているため、犯行に至る動機が薄弱なのは否めない。よく考えてみればこれは前2作もそうだった。

そしてこういう小説だからこそ、チャンドラーやハメットが、およそ現実味の無い小説だと非難したのが大いに理解できる。
確かに今読むと、これはそれほど犯罪捜査科学が進んでいない、どこか別の世界で行われている犯罪なのだろうと首を傾げざるを得ないからだ。アンチ本格が出てくるのに十分なほどの非現実さがここにはある。

しかし個人的にはこれも是とする。『フランス白粉の謎』では納得行きかねたが、3作目にしてクイーンの小説に対する姿勢という物がわかったからだ。
恐らくそれはクイーン自身も自覚的だったのだろう。作中、クイーン家の召使いであるジプシー少年ジューナがクイーン警視にゆで卵を作ってやったらゆで過ぎて固ゆで卵になってしまったので、捨ててしまい、もう一度作り直した、なぜならクイーン警視は固ゆで卵(ハードボイルド)が好きではないからという件がある。このエピソードは作中では一度作り上げた推理をもう一度最初から作り直したらという意味で挙げられているが、それを示唆するのになぜ固ゆで卵を持ち出したのか。そう考えると思わずニヤリとしてしまった。

いやあ、クイーンは本当、面白い。


▼以下、ネタバレ感想
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オランダ靴の謎【新訳版】 (創元推理文庫)
エラリー・クイーンオランダ靴の謎 についてのレビュー
No.684:
(7pt)

アイデアは十分なのだが

精神病患者をテーマにしたミステリと1、2作目とはまたガラッと変わった作風である。とはいえ、1作目の『楽園』における南海の孤島を舞台にした話といい、2作目の『リング』で超心理学をテーマにした病理学へのアプローチも見られたことから、これらがその2作を基礎にして書かれているのは間違いないだろう。

で、3作目ながらもしっかりした筆致で相変わらず読ませる。入水自殺未遂で病院に担ぎ込まれた謎の女性の正体を、ミステリ仕立てで一枚一枚包まれたヴェールを剥がすかのように突き止めていく進め方はもとより、そこから一転して鍵を握る人物、真木洋一の遠洋漁業を舞台にした物語など、恐らく作者自体が経験したであろうリアリティを伴って語られる。
さらに本作の主人公ともいうべき存在、さゆりの担当医である精神神経科医師望月俊孝の、同僚女医との浮気などサイドストーリーも用意して、膨らみを持たせている。
特に真木とさゆりとの同棲生活の件にて触れられる、狂人の振舞いとも思えるさゆりの不可解な行動、そしてその根源となっている病気の正体(50万人に1人という稀有な遺伝性精神病「ハンティントン舞踏病」というモチーフ)はなかなかに衝撃的だ。久々に知的好奇心をくすぐられる思いがした。

そして最後にもたらされるそれぞれの登場人物の結末。感動な再開シーンの後に語られる皮肉な結末と、最後まで読者を飽きさせない運び方もなかなかだ。
300ページという薄さに展開するこれらの物語。非常にそつが無い。堅実な味わいがある。
しかしそれだからこそ突出した派手さもないとも云える。

しかしこれほどの作品でこういう評価はちょっと酷と云ったものかもしれない。安心して読める1冊、これがこの作品の評価として相応しい。評価は7.5点といったところだけど、やはり『リング』と比べると落ちるので、7ツ星としておこう。

光射す海 (新潮文庫)
鈴木光司光射す海 についてのレビュー
No.683:
(7pt)

悠久の愛の物語

有史以前に引き裂かれた男女の世紀を超えた再会の物語。全3部に分かれた構成は連作短編集のよう。

有史以前のゴビ砂漠周辺にタンガータという砂漠の民の若者の1人ボグドの描いた絵は生命が宿っているかのようだった。彼は同じ種族の娘ファヤウを自分の嫁にすると固く決めていた。
彼は人間を描いてはならぬという部族の法を破って、その思いの強さからファヤウの絵を刻む。人間を描けばその者の命が亡くなるということをあとでボグドは知る。
13歳になり、種族の伝統に従って、ボグドは己の守護霊を得るために狩りに出る。狙うは伝説の赤い鹿。その血肉を食らえば、強靭な精霊が宿るとされていた。ボグドは一計を案じ、見事鹿を射止め、その血肉を食らい、精霊を自らに取り込むことに成功した。
やがてボグドは鹿の精霊を持つことで一族の中でも一目置かれる人物となり、次の首長になる事が確実視されていた。ボグドは自ら宿る鹿の精霊を民の守り神とし、石にその絵を刻んでいった。しかしそんな中、安楽の地を求め、旅する北の部族の族長シャラブがかつてボグドが残したファヤウの絵を認め、ファヤウを妻にすることを決める。
シャラブの部隊に急襲されたタンガータはなす術も無く、シャーマンと女どもを残して全滅する。しかし九死に一生を得たボグドはファヤウを奪い返すべく、シャラブの後を追うが、敢え無く捕まり、船に乗せられ、流されてしまう。
ある土地に漂流したボグドは、必ず自分の妻と子を取り戻すことを決意する。それは世紀を越えた長い旅の始まりだった。

これが第1部で物語の発端。そこから第2、3部と話は展開する。
第2部は一転して18世紀の太平洋上が舞台となる。アメリカの捕鯨船の乗組員が太平洋上の島タロファに流れ着く物語。
第3部は一転して現代のニューヨークが舞台。若き天才作曲家レスリー・マードフが神秘思想家ギルバート・グリフィスと共につい最近発見された巨大地底湖を一緒に訪れ、そこで作曲活動を行うといった話。
各編、コクのある物語で読ませる。

第1部の紀元前の遊牧民の暮らし、そしてボグドとファヤウそれぞれが体験する苦難の旅はよくもまあ、これほど書けたものだと思う。
そして第2部の大航海時代の南の島の話。これが個人的にはベスト。
捕鯨船が漂流する発端から、タロファという南の島の楽園での生活と文化、そして文化的先進国による略奪劇とスペクタクルに富んでいる。ここに出てくるライア、ジョーンズ、タイラー、エド・チャニング、その他途中で亡くなる人物たち全てに特徴があるが、やはり特筆すべきはタイラー。戦いこそ全てというこの人物の生き様に胸打たれた。
そして第3部。最後に音楽を持ってくるのが意外だった。

しかしよく考えてみれば、音は第1部から触れられていたモチーフで、古代の時代から一貫して人間の遺伝子に刻まれているのは音楽だというのが隠されたもう1つのテーマなのだろう。しかし読ませるが、『君の名は』のようにもどかしかった。せっかく舞台は整ったのだから、早く再会させればいいのにと忸怩しながら読んでいた。
そして気になったのが、ダイナモの燃料としてガソリンと書かれているところ。普通発電機は軽油なのだが、アメリカでは違うのか?またガソリンをポリ容器に入れているのも気になった。日本では危険物として禁じられているのに、アメリカではこれもOKなのだろうか?

三つの物語で共通するのは太陽に向かって跳躍する赤い鹿の絵。これが1万年の時を越えて、二人の男女の絆として引き継がれる。そしてその一族の細胞として宿るのはその至上の愛の遺伝子。つまりものすごいロマンティックな物語なのだ。
ボグドとファヤウ。この2人の焦がれるような再会への渇望が現代になってようやく成就する。しかしそれは単純にハーレクインロマンスのような単純な運命論によって描かれた物ではない。この2人の再会の物語を語るのに、作者は世界民族の起源論を展開する。

オセアニアに住むサモア人やアボリジニーを代表する原住民、そしてアメリカのインディアン(今ならネイティヴ・アメリカン)の祖先をモンゴルの大地に住んでいたアジアの民とするという民族起源論がまず作者の頭にあったのだろう。
これに悠久の愛の物語を絡めたというのが真実だろう。
この作家、こういう一見無関係な表題を組み合わせて物語を作るのが非常に巧いと感じた。

これがなんとデビュー作というのだから畏れ入る。そして2作目として、あの『リング』が生まれる。作者としてすでに書くべきテーマがあったのだろう。あとはそれを放出するだけの機会を待っていたという感じだ。
2作を通じて感じるのは、溢れる物語を早く出したいというエネルギー。
このエネルギー、どこまで続くのか、追っていこうと思う。

楽園 (角川文庫)
鈴木光司楽園 についてのレビュー
No.682:
(8pt)

文明機器と超常現象の見事な融合

説明不要のベストセラーホラー。貞子は独立したキャラクターとしてお笑い番組など各種メディアに登場するほどにもなった。

このビデオを観た者は1週間後に死ぬ。
古来からある不幸の手紙の現代版である。これを皮切りに「着信アリ」ほか色んな都市伝説ホラーが生まれたといっても過言ではない。
とにかくこの作品は当時それほどインパクトがあった。

で、私といえば、なんと映画も観たことがなく、この小説が全くの初見。
とはいえ、あれだけTVでCM、さらにTV放映、ドラマ化もされているので、なんらかの先入観は禁じえない。貞子も知っていたし。だから出てくる登場人物に出演俳優がダブってしまうのは避けられなかった。

で、肝心の作品の中身はといえば、やはり面白い。物語の読ませ方も上手い。そして確かに怖い。
書いていることに特別おどろおどろしさはなく、言葉も怖さを助長させるようなオーヴァーな表現は使われていないのだが、なんだか人を不安にさせる空気がこの中にはある。これは確かに映画化されるのもむべなるかな。

まずビデオの映像に描かれたモチーフを、これらがどんな意味を持っているのか、探り当てる。そしてその過程で現れる山村貞子という名の女性の存在。彼女の一族に纏わる因縁は坂東作品のホラーを思わせる(というよりもこちらの方が先か)。
そして山村貞子の存在の忌まわしさ。彼女の類い稀なる美貌にそぐわない報われない生い立ちとその一生、そして彼女に隠された驚愕の事実などなど、作者鈴木光司氏はクーンツのようにこれでもかこれでもかと超心理学、陰陽道、ウィルスなどあらゆる分野から人間の歴史の暗部に纏わる逸話を投入し、読者のページを繰る手を休ませない。

そして呪いを解くオマジナイが成就したと思われた瞬間に訪れる、山村貞子の本当の呪いの正体。この衝撃は今なお戦慄を伴うほど新鮮だ。
冷静になって考えてみれば、これはもう最初から眼の前に出されていたのである。全く以ってこの鈴木光司という名のマジシャンにまんまと騙されてしまった。

本書が発表されたのは1991年とある。まさに本作こそ、日本にモダンホラーの黎明を高らかに宣言する画期的な作品だったに違いない。
ビデオテープという文明の機器。怪異な映像。呪い。超能力。そしてウィルス。これら一見結びつきようのないキーワードを巧みに混ぜ合わせ、これだけのホラーを作り上げたこの作者の力量は、素直に素晴らしいと褒め称えたい。

リング (角川ホラー文庫)
鈴木光司リング についてのレビュー
No.681:
(7pt)

我々の幸せはただ砂上の楼閣過ぎないのか?

結城昌治初体験。私がこの結城昌治という作家に興味を持ったのはどういう経緯だっただろう?当時私は色んなミステリガイドを読み漁り、そこに挙げられた名作(と云われている作品)を読むことを渇望しており、手当たり次第に手を付け、買い求めていった。
その性癖は今でも変わらず、毎年年末のベストミステリランキングが発表されると、そこに名前が出てきた新進作家にどうしても食指が伸びてしまう。自然、未読作家は増えていき、自分の趣味に合うのかどうかも解らないまま、本棚の空きスペースを等比数列的に減らしているといった有様だ。

で、この結城昌治氏だが、何が私にこの作家の名を記憶に留めさせたのだろうか?
確か今も続いている双葉社の日本推理作家協会賞の文庫化シリーズの1冊として彼の『夜の終わる時』がきっかけだったように思う。その時の文庫裏表紙の説明を読み、当時稲見一良や志水辰夫の諸作に惚れ込んでいた私は内容も読まずに購入した覚えがある。
そして当時の出版状況を調べて愕然とする。この直木賞作家であり、既に物故しながらも日本のハードボイルド界の先駆的存在といわれている作者のほとんどの作品が絶版となっていたからだ。それから私の結城作品の果て無き探索の日々が始まる。あれから十数年を経て、なんと光文社文庫から結城昌治コレクションが刊行されるようになった。なんとも嬉しい限りだ(とはいえほんの数ヶ月で刊行は途絶えてしまったのだが)。

さて前口上が長くなったが、初購入から十数年目の着手という事で、その1作として選んだのが本書『幻の殺意』だ。
内容は突然家族を遠ざけるようになった高校生の息子を心配する夫婦が、ある日息子が殺人犯の容疑者として捕まり、その事件の真相を父親が独力で探るという、非常にオーソドックスな設定である。
時代背景は終戦後約20年経ち、ようやくそれぞれが人並みの生活を送れるようにまで復興した昭和の時代だ。本作の物語の根幹は終戦後間もない明日を生きるのもしれぬ喧騒の中、生きるために必死にもがいた1人の男と1人の女の間に交わされた刹那の恋が、あるごく普通の家庭にもたらした悲劇を扱っている。

ミステリとしての味わいとしては特筆するところはあまりない。息子がひた隠す真犯人(と目される人物)の正体、謎の電話の主、藤崎清三の愛人の正体は、中盤辺りで解ってしまった。ただそこから更にもう一捻り加えてあるのだが、これが逆に陳腐さを覚えてしまった。よくあるヤクザ間の面子から生じるいざこざだからだ。
また本書におけるちょっと現実ではありえない警察の不手際に戸惑った。いくら容疑者の父親とは云え、警察が安直に被害者の愛人たちの居場所を教えるだろうか?捜査の守秘義務や関係者の基本的人権を無視した行為だろう。
また主人公の父親の方が知っている被害者の関係者を警察が知らないというのも気になった(しかも警察の知らなかったその人物は後々重要になってくる)。いくらなんでもこれは警察を無能に描きすぎだろう。それともこの頃の時代では、実際警察とはこんな物だったのだろうか?

こういった瑕疵は気になるものの、最後に至る悲劇的結末はかのロスマクを想起させる。題名『幻の殺意』に込められた意味はここで生きてくる。
夫婦の幸せは幻の上に成り立っている―これこそ作者が本作で描きたかったテーマだ。まさに昭和の時代に起きた一家庭の悲劇の典型とも云える。大過無く夫婦生活を終えようとする家庭の中には実はこの幻に潜む醜い秘密が暴かれなかっただけの物もあるだろうと。私も祖父母の話を聞いたことがあるが、それは本当にドラマのような複雑な人間関係の話だった。
最後の方に出てくる一文

「そして幸福は、あるいは愛は、無知の上のみ築かれていくのか」

が痛い。
知らなくてよいことというのは確かにある。しかし本当にそれでいいのか?それは当事者のみが判断する事だろう。虚構の幸せか、現実の悲劇か?私ならどっちを選ぶだろう・・・。

しかし、私はこうも思う。
確かにその幸せは幻だったかもしれない。しかしその幻が解ける前はその幸せは確かに在ったのだと。それは幻でもなく、手応えの在った紛れもない真実だったのだと。
無から生まれ、また無に帰っていく、人の一生そのものが幻とも云える。しかしそれらの幻は確実に何かを残して消えていく。我々はそんな幻の中に生きている。

幻の殺意 (角川文庫)
結城昌治幻の殺意 についてのレビュー
No.680: 8人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

死者が甦る世界における殺人の意味とは?

世評高い山口雅也氏のデビュー作。本ミステリで解き明かされる命題は「なぜ死者が甦る世界で、あえて殺人を犯す必然性とは何か?」という非常に難しい問題だ。
そしてその命題を解き明かすための材料として、本作では終始“死”に関する考察が語られる。
“死”とは一体何なのか?では“生”とは?「肉体の死」と「精神の死」。“死”についてあらゆる角度から、西洋医学、東洋思想、キリスト教、仏教初め、世界各地の宗教における死生観、はたまた死学的見地から山口氏は“死”について考察の翼を伸ばす。

前半部は登場人物の一人、死学博士のヴィンセント・ハースが開陳する薀蓄と生ける屍となったグリンとの問答を通じて、山口氏による“死”に関する論文発表の場となっている。
そしてこれらが、最初に掲げた命題への解答となる論拠として色づいてくる。

ここの解答に至るまで、物語のそこここに散りばめられた伏線が確かに寄与しているのは解る。中には単なる洒脱なやり取りだけとしか思わなかった部分がこのロジックを解き明かす糸口になっていたりしている。
しかし、これはけっこう哲学的、観念的な論理ではないだろうか?

本作に収められた密室殺人、ビデオを利用した殺人犯の追究など、黄金時代の本格ミステリの復活を想起させるガジェットに溢れているのだが、結局のところ、これらは何のトリックも含まれない。実は本当に単なるガジェットに終わってしまっているのだ。これが非常に残念である。
630ページのこの作品に込められた衒学満ち溢れたこの物語の、最後を締めくくるにはこの論理だけでは、いささかパワー不足で、カタルシスを得られなかった。

刊行当時の1989年に、死者が甦る世界を舞台に殺人事件を扱ったミステリというその特異性はかなり目新しい物だったのだろうが、西澤保彦、石持浅海らがいる今ではそういった特殊な条件下でのミステリというのはさほど珍しくなくなってしまっている。そして本作のこの設定に関して、そういう世界観なのだとすんなり入り込め、世の書評家が述べているような、どんな手腕を繰り出すのかという興味はそれほどなかったのも一因だろう。

ところで、本作には希代のミステリマニア(賞賛を含めて敢えてそう呼ばせてもらおう)山口雅也氏のエッセンスが凝縮されている。
まずグリンの仇名の由来にニヤリとした。ロスマクの『象牙色の嘲笑』から来ているというのがいい。代表作の『さむけ』とかではなく、云わばどちらかと云えばマイナーな作品を扱ったところにマニア魂を感じる。もちろんそれはこの作品が死をテーマに扱っている事に十分配慮したからこその選択というのも忘れてはならない。
そして『縞模様の霊柩車』ならぬピンクのポンティアックの霊柩車というところもロスマクへのオマージュを感じていいではないか。
さらに霊安室の名前《黄金の眠りの間(ゴールデン・スランバーズ)》はビートルズの名曲。
チラッと出てくるニュース・キャスター、ドン・ランサーはダン・ラザーのもじりだろう。
またびっくりしたのがグリンとチェシャがトゥームズビルに向かう車中でチェシャが読んでいた本が《探偵実話(トゥルー・ディテクティヴ)》だった事。これ、実はこの前に読んだレナードの『ホット・キッド』に出てくるライター、トニー・アントネッリが寄稿していた雑誌なのだ。なんだかこの作品を読むためにレナードの2008年の新作を読むことが運命付けられていたかのような錯覚を覚えた。
そして棺桶暴走列車や霊柩車同士のカーチェイスなど、カーの笑劇(ファルス)趣味を思わせる趣向もこの作家としては自覚的なのだろう。

とまあ、古典を読んできた私にとって、この作品を読むことは読書の至福を味わうひと時であったのだが、それがゆえに一層勿体無い感じがしてしまうのだ。


▼以下、ネタバレ感想
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生ける屍の死(上) (光文社文庫 や 26-3)
山口雅也生ける屍の死 についてのレビュー
No.679:
(8pt)

老いてなお若き、レナードの筆致!

この前に読んだ『キューバ・リブレ』の時は歴史小説だったせいか、なんだか盛り上がりに欠け、正直期待外れだったが、今回は違う。
レナード節が冴え渡るレナードしか書けない男たちの物語、しかも自身の原点であるウェスタン小説である。
そして今回は早速レナード作品の最たる特徴であるレナード・サーガのリンクが冒頭から出てくる。『キューバ・リブレ』で登場したヴァージル・ウェブスターが、主人公の1人カール・ウェブスターの父親となって登場するのだ。

本作で彼は既に47歳に石油長者となって隠遁生活を送る身になっている。その余裕は死線を潜り抜けた男が見せる余裕だ。『キューバ・リブレ』では戦艦爆破に巻き込まれ、運命に翻弄されるがままだったウェブスターがこんなキャラクターになってお目見えするとはなんとも感慨深い物がある。
そしてそのヴァージルが神経の図太いヤツだと一目置くのが息子カーロスことカール・ウェブスターなのである。

このカール、レナードの作品では今までにないヒーローである。恐怖心という物が抜け落ちたかのように、どんな状況においても常に磐石な自信を湛え、冷静沈着に振舞える男だ。
そして悪党を前にして述べる言葉は
「おれが銃を抜くことになったら、必ず撃ち殺す」
さらに今回特徴的なのは実は彼が真っ当な正義漢ではなく、実は根っからのガンマンなのだという事。
作中でもそれは他者の言葉を借りて表現されている。曰く、
「あなたはなぜ執行官になって銃を携帯する道を選んだのか。人を撃つのが好きだからよ。人を撃つのが楽しいからなんだわ」
そしてカール自身、今度の犯人を撃てば、彼の戦果に加わる事を密かに愉しんでいることを認める。

ただ、ここで留意したいのは彼は血を好む殺人者ではないという事だ。まず先に立つのは正義感。犯罪者を彼は人とは思っていない。そして彼はそれを仕留めるのが自分の使命だと固く信じている。
そしてもう1つ。彼はあくまで他者と純粋に勝負し、勝つ事が好きな男だということ。で、彼が選んだその勝負の方法というのが銃撃戦だということだ。
撃つか撃たれるか、死と隣り合わせの命のやり取りであるが、カールはむしろそれをスポーツの対決のように感じている。それは彼が一種変わった精神構造を持っているからだろう。

上の台詞が出てくる場面のすぐ後で、彼は銃撃戦が終わったときに体の震えているのに気付いたと述べる。ここで注目したいのは、体が“震えた”と書いているのではなく、“気付いた”と書いてあることだ。
つまり何事に対しても、精神と身体を切り離して観ること、行動できる客観的な男なのだ。そうカールこそは根っからの勝負師であり、負ける事を考えない真のタフガイなのだ。

一方ジャック・ベルモントは小さい頃に実の妹を溺死寸前までさせ、脳に障害をもたらしたエピソードを軸に、親の手の付けられない悪童がそのまま大人になった男で、根っからのワルである。
しかし、ワルはワルでもこの男、どこか抜けており、また自覚的でないため、常に自分を大物に見せようと人を小馬鹿にしながら、その実、相手から見下されているという三文悪党として描かれている。

石油王として莫大な富を稼ぐ父親を何とか懲らしめてやりたいと、愛人の誘拐まで行うが、計画の甘さから失敗し、刑務所入りを余儀なくされる。
相棒として雇ったと思われた男からは、実は小物だと思わわれていたことを知り、銃撃戦に紛れて射殺するなど、嫉妬と虚栄心の塊だ。
いわゆる典型的な“俺リスペクト型”で、自分はもっと周囲から恐れられ、名前が売れていいはずだと思っている男、ジャック。

実はこの展開は意外だった。これは今までのレナード作品に出てきた、根っからのワルなんだけど、どこか抜けている悪党と何ら変わらないからだ。
主人公のカールのライバルにしてはどうしても見劣りする。実際作中、何度かジャックとカールは邂逅し、そしてあるときはカールに捕らえられ、刑務所に送られるように、カールはジャックを歯牙にもかけていない。むしろカールは自分に相応しい敵となるべく、その時を待っているかのようだ。

そしてようやく迎える二人の対決シーン。実はこれが意外だった。自分への協力者を容赦なく殺す事で、精神的にもタフとなり、カールのレベルまで登りつつあったジャック。しかし最後の最後まで彼は三文チンピラのままだった。
う~ん、結構難しい。安直に語れない深みがある。これについてはしばらく考えてみよう。

さて物語はこのジャックとカールを中心に語られるが、彼らに纏わる登場人物も今回は出色である。
まずカールとジャックの時代を描写する上で、実際的にはその姿を見せず、あくまで他者の言葉を通じて語られる実在の銀行強盗チャーリー“プリティ・ボーイ”フロイド。
そしてそのチャーリーの追っかけであり、チャーリー・ギャング・グループの仲間を射殺した逸話を持つルーリー・ブラウン。
元FBIで独善的な正義を振り回し、自ら連邦捜査局員を名乗り、KKK団を率いて、黒人やイタリア系移民を狩るネスター・ロット。
学校の教師で30年間に出来た恋人は2人。そしてその2人目の恋人が銀行強盗だった女性ヴニシア・マンソン。
レナードはこれらをトニー・アントネッリという駆け出しの記者がカールないし事件の関係者にインタビューする形で話を紡ぐ。
これがもう独立した短編のように面白い。

特にこのトニー・アントネッリという作中話者を設定したのは今回の大きな効果だと思う。
彼がカールの伝説を作り、無法者ども達の逸話の語り部となり、物語に厚みを持たせている。
そういえば、この前の『キューバ・リブレ』でもニーリー・タッカーなるルポライターが出ていたが、今回はその時よりもさらに発展させ、活用している(面白いのはニーリーとトニーともにハーディング・デイヴィスなる新聞記者の文体に心酔していることだ。実在の人物か知らないが、もしレナードの創作ならば、彼の登場する物語も読んでみたい)。

権力ある者が法律を作り、常にどこかで生き死にのやり取りが繰り広げられる無法の時代に生きるタフで、アブナイ奴らが縦横無尽に動き回るこの作品こそ、私が読みたかったレナードの小説だ。
2005年発表とあるから、当時御年なんと81歳!こんなトンでる老人、日本にはいないだろう!
ゴーストライターがいるかもしれないが、そんな下種な勘ぐりは抜きにして、レナードの若さに乾杯!


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ホット・キッド (小学館文庫)
エルモア・レナードホット・キッド についてのレビュー
No.678:
(7pt)

ヴァラエティ豊かだが、ちょっと疲れました

早川書房におけるチャンドラーの本邦未発表の作品を含めた全短編を、時系列に纏め、全て新訳で編纂された短編集も本作で最終巻。
最終巻の本書は前3集に比べて、もっともバラエティに富んだものとなった。
通常のハードボイルド系ミステリがメインなのは違いないが、それに加え、エッセイ、そして奇妙な味の短編2編に最後は映画用のプロット1編となっている。
下品な云い方をすれば最後の巻なので、チャンドラーが書いた物を余すことなく寄せ集めた雑編集本とも云えるが、3集目において同じような話の繰り返しにいささか辟易としていたので、逆に新鮮だった。

さて通常のハードボイルド系ミステリは表題作、「待っている」、「山には犯罪なし」、「マーロウ最後の事件」、「イギリスの夏」の5編。
表題作「トラブル・イズ・マイ・ビジネス」はフィリップ・マーロウが主人公。
けっこう散文的な内容。しかし、依頼を受けて最初に訪れたところに死体があるっていうのはもはやチャンドラーの物語のセオリーのようになってきている。殺す対象が違うような感じもし、犯人の動機もちょっと説得力に欠ける。
ただ出てくる登場人物が全て特徴的。最初のアンナからジーター、アーボガスト、ハリエットにフリスキーとワックスノーズの悪党コンビ。そしてマーティー・エステルと、一癖も二癖もある人物が勢ぞろいだ。この作品からプロットよりも雰囲気を重視しだしたのかもしれない。

次の「待っている」はホテル探偵トニー・リセックが主人公でちょっと変わった雰囲気の作品だ。
一夜の出来事。それぞれの人物が何かを待っている物語。静かな夜に流れるラジオの音楽など、ムードは満点。限られた空間で起こる一夜の悲劇。それはトニーをこの上なくやるせない気持ちにさせる。その夜、トニーは兄を失ったが、代わりに何かを得たのか?それは解らない。

「山には犯罪なし」の主人公はLAの探偵ジョン・エヴァンズ。フレッド・レイシーなる男から送られた小切手同封の仕事の依頼の手紙から、ある山の保養地で秘密裏に行われている一大偽札事件に巻き込まれるという話。
もう典型的なチャンドラー・ハードボイルド・ストーリー。今まで読んできた短編と展開は同じく、探偵は右往左往と迷走しつつ、事件の本質に辿り着く。違いといえば、偽札に関する事件がナチスの隠し資金の生産という規模の大きな犯罪に至るところか。
とはいえ、最後の結末はなんなのだろうか?凡人の私には理解の出来ない結末だし、それゆえ、失望させられた。
一つ含蓄溢れた台詞があったので、ここに抜き出しておく。
「主人はあまりにも秘密を持ちすぎます。女性のまわりで秘密を持ちすぎるのは間違いです。」

実は今まで語られた短編で出てくるマーロウは初出時は別の主人公であり、純粋にレイモンド・チャンドラーがマーロウを最初から主人公にした短編はこの「マーロウ最後の事件」のみとの事。内容はまさしく満を持してマーロウを投入しただけのある作品となっている。
このシリーズでずっとチャンドラーの短編を読んできたが、ここに至って、ようやくマーロウ登場と思わせる短編に出会えた気がする。ここにいるマーロウこそ、チャンドラーが「むだのない殺しの美学」で最後に述べた理想の探偵象なのだ。女に優しく、惚れもするが、プライドを賭けて中途半端な真似はしない。気に入った依頼人の仕事は命に関わる事だろうが、やりぬく。
そして最後に明かされる真相もなかなかで、しかも今回マーロウの手助けをするアン・リアードンの造形は行間から色気が匂い立つようだ。実はこれ、以前アンソロジーで読んでいるのだが、恥ずかしながら設定のみは覚えていたものの、結末は失念していた。しかもその時感じた感想はほとんど上で述べたのとほとんど同じだ。
しかし、そのアンソロジーではアイキー・ローゼンシュタインはなんとイッキー・ロッセンとなっているのが、疑問。
そしてその時にも感じた不具合な邦題。原題の通り「The Pencil」に即した邦題の方がいいだろう。ちょっと過大広告すぎる。

今回初めて読む「イギリスの夏」は正確にはハードボイルド系ミステリとは呼べないかもしれない。イギリスの田舎町を訪れたアメリカ人が遭遇する愛憎の末のある頽廃的な悲劇を扱っている。
印象はハーレクインのような小説。イギリスの田舎の退屈で退廃した感じの雰囲気の中、全ての登場人物が没落していく。閉じられた社会に限られた人間同士。そこでは微妙な均衡で人間関係を保っているが、一度崩れるとそれは破局に向かう。そこに紛れた異邦人ジョン。彼のイギリスで出くわす一種悪夢めいたひと夏の出来事だ。

今回の短編集で異色なのはチャンドラーが次の2編のような「奇妙な味」とも云える幻想小説が収録されていた事だ。ともに再読なのだが、実は読んだのは学生の頃でもう十数年前。すっかり内容は忘れてしまっていた。
まず「青銅の扉」。
これは夫婦仲の悪いうだつの上がらない亭主が散歩中、出くわした馬車に連れられ、ある骨董商の競売に参加し、そこで青銅の扉を手に入れるところから物語は始まる。この重厚な扉は実は時空の狭間とも云うべき無の空間に繋がる扉で、主人公がこの扉で気に食わない人間を次々に消してしまうという話だ。
もう1篇「ビンゴ教授の嗅ぎ薬」はその題名から本格ミステリを想起させるが違う。
これもうだつの上がらない亭主が主人公で、彼がビンゴ教授と名乗る奇妙な紳士から、嗅ぐと透明になるという嗅ぎ薬を手に入れる話。その透明になる薬を利用して妻の浮気相手を殺すのだが、そこから通常の透明人間譚とは違った全く予想外の展開を成す。
つまりチャンドラーは警察というのは本格ミステリに描かれるようにおバカではなく、そう簡単に容疑者を信じたりするものではない、あくまで問い詰め、とことんまで追い詰めるのだ。そして自説が間違っている事に気づいても決してそれを認めないのだというアンチテーゼを示したのだとも考えられる。密室殺人とファンタジー風味の透明になれる薬をチャンドラーがブレンドするとこんな話になるのだ。

次はプロットを1編。最後に収められた「バックファイア」は本邦初紹介の作品だ。妻を殺された男が知らず知らずに妻を殺した犯人と友情を築く話。そして男が妻殺害の容疑者を知ると・・・。
こういう設定はなかなか面白いと思う。ちなみにこの作品は買い手がつかなかったらしいが、それはそれで疑問に思う。

さて最後はエッセイ「むだのない殺しの美学」と「序文」。
「序文」はまさにある短編集に収められた序文なので、ここではあえて触れない。というよりも何もここまで収録しなくても・・・というのが正直な感想。ここまで収録するならば、チャンドラーが諸々の作家の作品に書いた解説も収録すべきだろう。あるかどうかは知らないが。

さて元に戻って「むだのない殺しの美学」だが、これはチャンドラーが探偵小説に関する自らの考察を述べた一種の評論。論中で古典的名作を評されているA・A・ミルンの『赤い館の秘密』、ベントリーの『トレント最後の事件』、その他作家名のみ挙げた諸作についてリアリティに欠けるという痛烈な批判をかましている。
その前段に書かれている「厳しい言葉をならべるが、ぎくりとしないでほしい。たかが言葉なのだから。」という一文はあまりにも有名。
本論では探偵(推理)小説とよく比較される純文学・普通小説を本格小説と表現している。そしてこの時代においては探偵小説は出版社としてはあまり売れない商品だと述べられており、ミステリの諸作がベストセラーランキングに上がる昨今の状況を鑑みると隔世の感がある。

チャンドラーはこの論の中で、フォーマットも変わらぬ、毎度同じような内容でタイトルと探偵のキャラクターである一定の売り上げを出す凡作について嘆かわしいと語っている。しかし私にしてみれば、チャンドラーの作品もフォーマットは変わらず、探偵や設定、そして微妙に犯行内容が違うだけと感じるので、あまり人のことは云えないのでは?と思ってしまう。
またセイヤーズの意見に関して同意を示しているのが興味深い。その中でチャンドラーは傑作という物は決して奇を衒ったもの、人智を超えたアイデアであるとは限らず、同じような題材・設定をどのように書くかによると述べている。これは私も最近、しばしば感じることで、ミステリとはアイデアではなく、書き方なのだと考えが一致していることが興味深かった。

最後に締めくくられるのは魅力のある主人公を設定すれば、それは芸術足りえる物になるという主張だ。そこに書かれる魅力ある主人公の設定はフィリップ・マーロウその人を表している。その是非については異論があろうが、間違いなくチャンドラーはアメリカ文学において偉大なる功績を残し、彼の作品が聖典の1つとなっていることから、これも文学の高みを目指した1人の作家の主義だと受け入れられる。つまり本作は最終的にはチャンドラーの小説作法について述べられているというわけだ。

ようやくチャンドラー短編集もこれで終わり。去りがたいというよりもやっと終わったかという一種の徒労感がある。
2集目までは十数年ぶりのチャンドラー作品との再会を喜び、悦に浸っていたが、3集目まで来ると、なんだか同じような話を何度も読まされた感を払拭できず、辟易した。
で、この4集目は長編『大いなる眠り』以後ということで、若干ワンパターンが改善されたように感じた。以前は見られなかった「青銅の扉」、「ビンゴ教授の嗅ぎ薬」なる探偵に拘泥しない奇妙な短編も創作されているし、そしてやはり「マーロウ最後の事件」は全短編の中で随一の出来映えだ。

しかし、今までの全短編を含めて、総じてその難解なストーリー展開は結構苦痛を強いると思う。好きでないとなかなか浸れないだろう。そしてこの心境の変化に私自身、正直驚いてもいる。
文章は確かに素晴らしい。数ある文学者の中でもそれは至高の位置にあるだろう。しかしストーリーを語るのが上手いかと云われれば、イエスとは云い難い。もちろんクイクイ読めて、叙情豊か且つ爽快感をもたらす作品もいくつかある。しかし、展開はバリエーションに乏しい。これがチャンドラーの弱点だと思う。
あの頃の記憶は美しいままの方が良かったのかと思うが、今の年齢でチャンドラーを読みたかったという気持ちがあった。これがまた十数年後に読むと心持ちも変わるのだろうか?


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トラブル・イズ・マイ・ビジネス―チャンドラー短篇全集〈4〉 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.677:
(7pt)

なにゆえバンクーバー?

薬師寺涼子の怪奇事件簿シリーズ第5弾。第3作目の『巴里・妖都変』以来、もはや薬師寺涼子のパワーは日本では収まらないと見えて舞台を海外に設定する事になったが、本作ではカナダはバンクーバーが舞台となっている。
パリ、香港と来て、意外や意外、バンクーバーなのかというのが正直な感想。世界の主要都市といえば他にニューヨーク、ロンドン、シドニー、ベルリンなど他にもあるのに、なぜこの国?と思ってしまった。

ということで今回の敵は黒蜘蛛。もうハリウッドのB級ホラー映画なみの設定である。そしてそれは作者も自覚的で、グレゴリー・キャノン一世が往年のB級ホラー作プロデューサーでカルト的人気を誇る設定を用意し、なおかつ作中作で一本のホラー映画のシナリオを展開し、それが設定に大いに絡んでくるといった内容だ。
そして今回も薬師寺涼子の無敵ぶり、傍若無人ぶりは健在。というよりも以前にも増して拍車が掛かっている。ここまで来るともう涼子は単に運動神経抜群、才気に溢れ、更に超絶美人というありがちなキャラクターからさらに一歩抜きん出た存在となり、リアリティ云々を超越したキャラクターとなっている。

そして涼子の周囲を取り巻く連中も更にキャラクターに魅力を伴ってきた。涼子の天敵でメガネ美人の室町由紀子。その部下でオタクキャリアの岸本警部補。涼子の従者かつ戦闘員であるメイド、マリアンヌとリュシアンヌなど、オタクが萌える要素がどんどん投入され、ライトノベルの王道を闊歩していくようだ。実際、オタクたちにとってこのシリーズはどのような受け取られ方をしているのだろうか?
今回涼子が敵地に乗り込むのに扮したコスチュームはぴったりとした漆黒のボディスーツにマントとなんとアイマスク!これを読んで、私は『ヤッターマン』のドロンジョ様を思い浮かべてしまった。う~ん、どうしたんだろう、田中芳樹氏。
しかし、冒頭で話した今回の舞台バンクーバーならではという設定、ストーリーの妙味というのは無かった。今回ハリウッドの超大物プロデューサーを敵役に設定し、舞台を黒蜘蛛島という架空の島に設定した事から必然的に決まったような節がある。ここら辺が残念だ。

ともあれ、第5作もその破天荒ぶりは健在。ただシリーズも第5作を迎えると転機が欲しくなる。泉田がピンチになるとか、涼子のオーナー会社が乗っ取りに遭うとか、無敵のお涼の根幹を揺るがし、冷や汗をかかせるような話を用意してほしい。
でも田中氏はどうもこの作品でストレスを解消しているようなので、良くも悪くもマンネリできっとこのまま行くんだろうな。

黒蜘蛛島 薬師寺涼子の怪奇事件簿 (講談社文庫)
No.676:
(7pt)

バイプレイヤーたちの魅力

チャンドラー新訳短編集第3集。今回は長編『湖中の女』の原形となった短編の表題作が初読の作品。もっとも題名もそのままで、本作では原題そのまま。

まず最初はマーロウ登場の「赤い風」。本作ではマーロウはこの作品のみの登場だ。
後で述べる他の作品と違い、本作での特色はマーロウ自身が自ら事件に乗り出す趣向を取っている。発端はバーでいきなり殺人事件に巻き込まれるが、それ以降は自ら渦中の女を助け、その女に手を貸すといった具合だ。
マーロウの視点で語る本作も、プロットは複雑な様相で物語が流れる。物語の終盤、マーロウの口から語られる事件の顛末は実にシンプルな物であることが解り、チャンドラーのストーリーテリングの妙味がはっきりとわかる。
女のために金にもならない危険を冒すところに他の探偵とは一線を画す設定がある。

次の「黄色いキング」ではホテルで用心棒をやっているスティーヴ・グレイスが主人公。
スティーヴの設定はタフで、女にもてると典型的なハードボイルド・ヒーローといったところ。この一作ではまださしたる特徴があるようには思えなかった。
そしてレオパーディ殺害の真相は、ちょっとアンフェア。まあ、本格推理物ではないので良しとするか。もうちょっと何かがほしかった。レオパーディの造形は良かったが、ちょっと物足りない。
ただ1つ印象に残った文章があった。
「(スパニッシュ・バンドが低く奏でる蠱惑的なメロディは、)音楽というより、思い出に近い」
音楽に関して時折感じる感傷的なムードをこれほど的確に表した表現を私は知らない。どう逆立ちしても思いつかない文章だ。

さて続く2編は短編「スマートアレック・キル」と「翡翠」に登場した探偵ジョン・ダルマスが主人公。
「ベイシティ・ブルース」、「レディ・イン・ザ・レイク」共に、ロサンジェルスで探偵稼業を営むジョニー・ダルマスの許にロスの保安官ヴァイオレッツ・マッギーから依頼の電話が掛かる形で物語は始まる。
まず前者はマッギー知り合いの探偵マトスンを助ける依頼。
後者はハワード・メルトンという化粧品会社支社長の失踪した妻の捜索が依頼。
「ベイシティ・ブルース」は最後に明かされる意外な犯人、複雑ながらもすっきりとする事件の構成など、完成度がかなり高い作品だ。
逆に「レディ・イン・ザ・レイク」は定型を脱していない感じ。
前者と後者でのダルマスの印象はけっこう違う。以前はダルマスもマーロウの原形のように感じていたが、「ベイシティ・ブルース」では減らず口と窮地を脱するのに他人に成りすましてドジを踏むところ、腕っぷしもさほど強くないところなど、若さが目立ち、ちょっと別の探偵という感じがした。
翻って「レディ・イン・ザ・レイク」では、むしろマーロウに近いといった印象。唯一異なるのはあくまでマーロウが己の教義のために依頼を果たすのに対し、ダルマスは仕事の最中に依頼人に金を吊り上げるよう要求したりするように金に卑しいところか。

さて最後は「真珠は困りもの」。遊蕩探偵?ウォルター・ゲイジが主人公。
実は本短編集ではこれが一番面白かった。恐らく親の遺産で悠々自適に暮らしているウォルター・ゲイジが婚約者の依頼で探偵を務める話。
このウォルターが坊ちゃんで、自意識過剰、自信家なところが他のチャンドラーの主人公と大いに違い、逆に他の短編に比べて特色が出た。特にウォルターがいきなり盗難の犯人と目したヘンリーに真珠が模造である事を話すところなど素人丸出しで、チャンドラーが他の探偵とウォルターをきちんと書き分けていることがよく解る。
最後の清々しい幕切れといい、本作でのベスト。

本短編集で特徴的なのは主人公を務める探偵を食ってしまうようなバイプレイヤーがいることだろう。
まず「赤い風」は終盤に俄然存在感を増すイタリア系刑事のイバーラが非常にカッコイイ。この作品の影の主役と云えるだろう。全然動じないその物腰と肝の据わった態度はマーロウをまだ駆け出しの探偵のようにあしらう。そうこの作品のマーロウはまだ若きフィリップなのだ。このイバーラ、確か他の作品では見なかったように記憶しているが、たった一編の短編で終えるには実に惜しいキャラクターである。
また「ベイシティ・ブルース」では後半事件に関わってくるド・スペインのタフガイぶりが際立っており、ダルマスが食われた感じがした。特に上昇志向が強く、降格された恨みから犯罪まで犯すド・スペインのキャラクターの濃さは本短編集でも異彩を放つ。
そして「レディ・イン・ザ・レイク」では引退した保安官ティンチフィールドが物語に渋さをもたらす。事件の中を模索するダルマスに的確なアドヴァイスを与える老練な男だ。
そして「真珠は困りもの」では途中で仲間になるヘンリー・アイケルバーガーがまた素晴らしいキャラクター。強面で威丈夫の大男。腕に自信のあるウォルターを一蹴しながらも、協力を申し出る好漢だ。大鹿マロイといい、その原形であろう「キラー・イン・ザ・レイン」のドラヴェック、「トライ・ザ・ガール」のスティーヴ・スカラなどチャンドラーの描く大男キャラクターは総じて魅力的な輩ばかりである。チャンドラー自身、これらのモデルになった優しき大男との交流があったのかもしれない。

さて冒頭に述べたように短編集も3冊目。前短編集『トライ・ザ・ガール』の感想では、毎度同じような展開ながらも飽きずに読めると書いていたが、さすがにチャンドラーといえどもこれだけ似たような話を読まされると、疲れてきた。
曰く、事の発端→トラブル発生→死体と遭遇→関係者の間を渡り歩く→真相解明→乱闘シーンで死者が出る、とほとんどこのパターン。
細部の演出は異なるが、話の流れは全てこの流れで進められるため、読後の今振り返ってもどれがどんな話だったのか、ちょっと混在してしまう。

ここにいたって思うにチャンドラーはストーリーテラーとしてはあまりヴァリエーションを持っていなかったようだ。ストーリーの流れは常に定型を守り、そこに女や無頼漢、タフガイを絡め、物語に味付けを施すといった感じだ。そしてそれらキャラクターが途轍もない光彩を放つ時、傑作が生まれるのだろう。『さらば愛しき女よ』然り、『長いお別れ』然り、『大いなる眠り』然り。
最初の頃に見られた卑しき街をしたたかに生きる者どもの姿がここにいたって定型に落ち着いてきているのが、非常に辛いところ。今回の作品群には今までの短編に見られた叙情が薄まっているようだ。技巧で書いているような気がした。調べてみると本作までの短編が第1長編『大いなる眠り』以前に書かれた物らしい。このころおそらく短編に限界を感じたのかもしれない。次々と浮かぶプロットは複雑さを増すが枚数の限られた短編ではある程度妥協点を見出さなければならない。だからこそ長編へと創作姿勢が移行していったのではないだろうか。

今回はほとんどが典型的な話だったので、☆5つぐらいだなぁと思っていたが最後の「真珠は困りもの」が思わぬ拾い物だった。
よってかろうじて☆7つとしよう。


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レイディ・イン・ザ・レイク―チャンドラー短篇全集〈3〉 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.675:
(5pt)

レナードにしてはちょっと大人しめ

レナードの手による歴史小説。スペイン支配下にある1900年直前のキューバを舞台となっている。
時代的にはアメリカがスペインからの支配から脱却しようとしている反政府軍を支援し、キューバの独立戦争勃発の前後を描いている。

まず気になったのはタイトル。キューバ・リブレとはカクテルの名前で、洒落た題名をつけるレナードが今回キューバを舞台にした小説を書いたので、単純にその名前をタイトルに関したのかと思ったら、さにあらず。その意味は「キューバ自由万歳」であり、テーマとなったキューバ独立戦争において反政府軍のスローガンともなった言葉だった。
しかしレナードが現代ではなく、古き時代を舞台に小説を書くとはなんて珍しいのだろう。知っている限りでは未訳の西部小説以外ではアメリカの禁酒法時代を舞台にした『ムーンシャイン・ウォー』ぐらいだ。

今回の主人公はベン・タイラー。昔ハバナで叔父が製糖工場を経営しており、それが街の有力者に搾取され、ニューオーリーンズに移り住んで、カウボーイをやっていた。過去に銀行強盗をして、刑務所暮らしをした経験がある度胸の据わった人物だ。
人も殺した事もないのに、早撃ちのガンマンである。物語は彼がキューバに自分の馬を売りに行くところから始まる。

このタイラーの後の恋人となるアメリア・ブラウン、そしてタイラーの取引相手ブドローの家僕フエンテス3人が一計を案じてブドローから大金をせしめようとするのが本書の大きな内容。
しかしそこに関わるのはグアルディア・シビルの大佐、ライオネル・タバレラと彼の手先で逃亡奴隷捕獲の名人オスマ。そしてハバナで幅を効かしているアメリカ人富豪ブドローだ。
さらにサブキャラクターとして爆沈したアメリカ軍戦艦“メイン”の生き残った乗組員でタバレラの策略で刑務所に入れられてしまうヴァージル・ウェブスター、キューバ独立派のリーダーでフエンテスの弟イスレロなども関わってくる。

レナードの物語の特徴として先の読めない展開と各登場人物たちの軽妙洒脱な会話。悪人なのにどこか憎めない奴らといった際立ったキャラクター造形が挙げられるが、今回はいつもの作品と違い、なんとも大人しい感じがした。特に軽妙洒脱な会話と、憎めない悪人どもといった部分が成りを潜め、どこか単調な感じがした。
先の読めない展開については健在。まさかフエンテスがあんな事をするなんて思わなかったし、タバレラの最期についても、ああいう形で終わるとは思わなかった。そしてそれらを許してしまう主人公二人の寛容さ。これはレナードの特有の明るさだろう。

今回は特にスペイン人将校を正当防衛で射殺してから入れられるタイラーのムショ生活についての内容が長く、その間ずっとアメリアとフエンテスのタイラー救出工作について延々と語られるあたりで物語のリズムが狂ったように思う。ここはもう少しすんなり行ってほしかった。
というのも目にも止まらぬ早撃ちで鮮やかに鼻持ちならぬスペイン人将校を撃ち殺してから、このベン・タイラーのキャラクター性が際立ってくるのだが、そこから一気に抑圧された刑務所生活、タバレラによる陰湿な尋問の描写が延々140ページに渡って繰り広げられるのだ。これはなかなか忍耐を強いられる読書だった。

確かにこの箇所において漠としたアメリアの、タイラーへの好意が確証されていくし、ヴァージルとタイラーとの友情も確立されていくのだから、重要なパートであるのは間違いないが、ちょっと冗長すぎるという感じがした。これも当時のキューバの不条理さを印象付けたかったのかもしれない。
そしてようやくタイラーは脱獄し、本書でのクライマックスシーンとも云える列車からの身代金強奪へと移っていく。4万ドルという大金を中心にそれぞれの人物がそれぞれの思惑を張り巡らす。金によって人が右往左往し、思いもかけない行動に出るというのはレナードの終始一貫としたテーマなのだろう。本書においてもそうである。特にこの4万ドルの行く末は本当に意外な人物の手中に収まるのだから。

しかし、そんな活劇シーンがあっても、今回のレナードはなんだか大人しいなぁという印象が拭えない。
そして物語後半になってようやく登場する奴隷狩りのプロ、オスマ。こいつこそタイラー最大のライバルと成りえるキャラクターだったのだが、2回も行われる対決シーンはなんとも呆気ないもの。これもちょっと残念。
思えばレナードの主人公の敵役といえば、だいたいボスを倒して成り上がろうとするマフィアの手先とか殺し屋、しかもちょっと変わった趣味や性癖を持つ者で憎めない奴ら。しかし今回は悪徳役人とはいうものの、国側の人間だった事もちょっといつもと違う。だから今回のタバレラはいつもにも増して陰湿な人物像になったのかもしれない。

若島正氏によればレナードの各作品は微妙にリンクしており、しかもそれぞれの登場人物にきちんと時間が流れており、また血縁関係までもが確立されているとのこと。ミステリマガジン誌上で詳細に分析が成されていたが、本書においてもそれは例に洩れていないだろう。
私が気付いたのはタイラーのかつて雇い主デイナ・ムーンという名前。おそらくこれは『ビー・クール』に出てくる歌姫リンダ・ムーンのご先祖様ではないだろうか(いや、待てよ。リンダ・ムーンも本名ではなく、誰かからムーンの姓を拝借したんだっけ?)?手元にないのでそれ以外の人物相関については不明だが、時間が出来た時に誌面を紐解いて調べてみるのもまた一興だろう。


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キューバ・リブレ (小学館文庫)
エルモア・レナードキューバ・リブレ についてのレビュー
No.674:
(7pt)

突き抜けずに終わった

今度の題材は劇場型猟奇的連続殺人事件。ギリシア神話に出てくる怪物をモチーフにした見立て殺人事件。
そして主人公の刑事深町のアドバイザー役として、かつてハリウッドで活躍した日本人怪優、団精二という人物を設定している。

団精二。この作品では日本人のイメージを覆す怪演でアメリカ映画界の人々に記憶を残し、俳優業に留まらず、前衛的な映画や演劇の創作を精力的に行うが、その内容のあまりの過激さに日本ではタブー視され、黙殺され続けた男、そして同性愛者でもある彼が、“恋人”の殺人事件の容疑者として逮捕されて以後、第一線から退いたと描かれている。この設定を見ると、すぐに思い浮かぶのがトマス・ハリスの『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクター博士だろう。
ストーリーは深町の捜査線上に次々と現れる斬られた頭部を内臓をほじくり出された胴体に埋め込んだ死体が各所に現れる有様と、深町と団との間に繰り広げられる推理、そして茅野美智子が招待されたパーティ、つまり殺人事件場面の3つの場面が並行して語られる。特に物語を彩るのが団と深町との間で交わされる推理談義における、ギリシア神話の数々。そして章題もまたギリシア神話をモチーフにしている。

そして明かされる事件の真相はなかなかなもの。今までの彼の作品では一番の物ではないか。しかし明かされる真相全てではなく、やはりこの猟奇殺人の動機だろう。特に“なぜ犯人は死体の首を斬り、胴体に嵌めて処理したのか?”の真相について、思わず「おおっ」と声を挙げてしまった。
この動機についてはもしかしたら鋭い人は気付くかもしれない。しかし私はこの作者の読みにくい文章に目眩ましを食らい、もろに嵌ってしまった。
なかなか戦慄を覚えた。一番恐れていたこういう猟奇的犯行の動機、死体細工の動機がこのように驚きを持って明かされて、ほっとしたというのが正直な感想。

とはいえ、疑問が残ることも結構ある。
犯人は時間をかけて死体をばら撒いているが、これは本当に必要だったのか?
それから連想していくと、なぜ犯人は犯行現場から逃げ出さなかったのだろうかという疑問に行き当たる。
そんなことを考えたら、この物語は成り立たないよ、という人もいるかもしれないが、そこまで補完してこその本格ミステリだ。同じ劇場型猟奇的犯罪を扱った島田荘司氏の『占星術殺人事件』がその好例だ。

また前の作品の感想でも述べているが、この作者の云い回しは非常に理解がしにくく、突然の場面描写の変化に突っかかる事しきり。なぜこうも解りにくいのかと考えると、視点が急に変るからだ。例えば、相手と正面を向いて話している視点が、いきなり相手の背中から自分を見ている視点に変る、また主人公に起こった事をその主人公の主観に基づいて描くので、登場人物同様、読者にもいきなり何が起こったのかが解らなくなる。2番目については何がおかしいのか解らないと思うから例を挙げてみよう。
例えば、街をぶらついている男がいきなり開いたマンホールに落ちてしまうシーン。

タケシは少し時間があったので銀座をうろつくことにした。
特に目的はなく、ウィンドー・ショッピングで店を冷やかしていると、余所見をしていた彼は眼の前のマンホールの蓋が開いている事にも気づかず、そのまま落ちてしまった。

これをこの作者風に書くと、

タケシは少し時間があったので銀座をうろつくことにした。
特に目的はなく、ウィンドー・ショッピングで店を冷やかしていたが、次の刹那、気付いてみると、周囲は真っ暗だった。
周囲には饐えた臭いが立ち込み、臀部には鋭い痛みがあった。ふと顔を見上げるとそこには丸い形に空が刳り抜かれていた。
タケシは落ちたマンホールの底で恥ずかしげに周囲を見回した。誰もいるはずがないのに。

とこんな具合だ。これくらいだったらまだましだが、数行に渡って、いきなりの場面転換について叙述され、「な、何!?」と疑問符付で読み進むうち、ああ、こういうことだったのかとようやく解るのだ。別段、他の作家も使うのだろうが、普通ならそれはアクセントとして、読者の興味を一層惹きつけたい場面でのこと。この作者の場合は普通に読むべきところで方々あるのだから、突っかかって仕方がなかった。

そして最後の結末の呆気なさ。しかしなんとも読み甲斐のない結末だ。
これで奥田作品は最後。やはり消えゆく作家はそういう運命にあったのだと知らされた。“化ける”作家とそうでない作家の違いはほんの紙一重なんだろうけど、この作品で化けきれなかった奥田氏の浅さを見てしまった。


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冥王(ハーデース)の花嫁 (講談社文庫)
No.673:
(3pt)

<俺>と俺との相性は良くなかった

現在も続くススキノ探偵シリーズの第1弾。そしてこれが作家東直己氏のデビュー作である。
一読後の率直な感想としては若書きの三文芝居のようだというのが本音。

まず主人公が28歳という設定に微妙なずれを感じた。私の28歳像はようやく社会の仕組という物が解り始めたばかりの青二才である。大学を中退し、早くから飲み屋街を根城に、色んなトラブルを片付ける便利屋稼業で糧を得ている俺が、いくら世間の風にすでに揉まれていたとしても、ヤクザにも一目置かれるような存在になるとは思えない。
確かに時代はまだソープランドがトルコ風呂という名前だった昭和50年代後半か昭和60年あたりだろうか。確かにその頃の若者は今の平成の世のそれと違い、精神年齢も高く、成熟していたかもしれないが、ちょっと想像つかない。

それは作中に語られる妙に時代がかった風俗描写も、私が作品世界から隔絶されているように感じたからかもしれない。
ヤクザの着る物について、ゴルフ・ウェア、白ベルト、ローファー、ファスナーで締める厚手のカーディガン。スケタン、ナハナハナハという笑い声。今ではもう想像できる人がいるか解らないファッションや、流行語・俗語が古き良き時代のハードボイルドというよりも、その時代でしか楽しめない風俗小説といった色合いを濃く感じさせ、古びた感じを抱かせる。
そして確かに主人公<俺>は若い。一人称描写で初めから終わりまで語られる文章に織り込まれる<俺>の皮肉や自嘲めいた台詞が、非常に青臭く感じた。時にマンガで行われるような表現を文章で行う事もあり(例えば頭の中でふざけた俺と冷静な俺、さらに熱血な俺が出てきて言い争いをするシーン)、なんか勘違いしていないか?と思うことが多々あった。

タイトル『探偵はバーにいる』がまずいけなかったのだと思う。このタイトルだと主人公は、酒を片手に周囲の友人や街の弱者のトラブルを片付ける、酸いも甘いも知った30代後半の男を想像してしまう。
しかし東氏が設定した主人公は最近大学を中退したアル中の男で、やっていることは単なるチンピラの小遣い稼ぎと変りはしないという物。おまけに常に斜に構える、減らず口を叩くのだけは一人前。夜の街を徘徊するから友達には事欠かない、といったちょっと相容れない人物なのだ。
単純に云って、私と<俺>は合わないのだ。

あと文体。ススキノの夜を一生懸命に生きる底辺層の人々を描きつつ、時折、<俺>の社会の落伍者に同情する感傷を挟むことで男のペシミズムを語りながら、なおかつ軽妙洒脱さを狙ったのだろう。
小説には極上の旨みを感じさせる美文、しっとりとした質感などの綺麗な文章も大事だが、やはり外連味も必要である。しかし、この小説は外連味しかない。だから非常に俗っぽくて情緒が感じられなかった。なんだか風俗ルポを読んでいるような気がした。これもハードボイルドを読むと期待しただけに一層居心地の悪さを感じた。
北海道最大の繁華街ススキノ。そこを舞台にし、その街とそこに住む人を描こうとした趣向は買うが、ちょっと変に力が入りすぎたようだ。

そして肝心の事件だが、大学の後輩の失踪した恋人捜しから、ラブホテルで起きた殺人事件の犯人捜し、そしてススキノの夜の天使の捜索へと移りいく。これらのプロットはそれぞれがきちんと関連しており、淀みは無い。ただもうちょっと何か欲しかった。サプライズもそうだが、心に響く何かが・・・。軽めの文章だっただけに印象も軽くなってしまった。
とまあ、第1作の印象は非常に悪く、正直このまま読むのを躊躇ってしまいそうだ。しかし現在も続くこのシリーズ、人気があるのだろうから、その後何かが変ったのかもしれない。ちょっと間を置いて、第2作も読んでみるか。

探偵はバーにいる (ハヤカワ文庫JA)
東直己探偵はバーにいる についてのレビュー
No.672: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(5pt)

色々ツッコミます!

国名シリーズ第2作。読了直後、正直戸惑っている。

今回、エラリー・クイーンがやりたかったのは最後の一行で犯人が判明する趣向だろう。したがって、50ページ強にも渡り、得られた手掛かりから推理した事件の経緯が延々と語られる。エラリーは「演繹に演繹を重ね」と述べているが、どちらかといえば「帰納法に帰納法を重ね」だろう。
というのも推理方法は散りばめられた数々の事実を基に、何が起こったのかを再現しているのであり、しかもそれが最後にクイーン警視が述べるように「法的証拠はな」く、「山勘があたった」だけなのだから。二つの関連する真実から新たな真実を生み出す演繹法とは全く違う方法だ。なぜなら演繹法によって得た真実には矛盾や例外が存在しないからだ。
つまりこれこそエラリーが演繹法で推理したわけでなく、帰納法及び消去法で推理した事の証左だ(ほとんど全ての本格推理小説は帰納法による真相解明になるのだと思うのだが)。

かてて加えて、捜査方法についても2,3つ疑問がある。
恐らくこれらは1930年当時アメリカの犯罪捜査において、まだそこまで科学が進歩していなかった、そんなに気にしていなかったことだろうと思う。

まず、現場に残された煙草の吸殻を見て、エラリーがその特徴的な銘柄から、所有者であるバーニスが現場にいたと示唆する点。
これは現在ならば、早計という物だろう。DNA鑑定はなかったにしろ、唾液から血液鑑定をして人物を特定するのがセオリーだ。この頃はまだ唾液からの血液鑑定方法は確立されていなかったのだろうか?そして推理は終始この銘柄と煙草の吸い方による違いについて語られ、決定的な証拠となる血液型については言及されない。

次に鑑識による指紋の調査において、現場にクイーン警視の指紋が残されていたというシーンだ。これは明らかにおかしいのでは?
指紋による人物の特定方法が確立されていたのならば、捜査官は自分の指紋を現場につけないよう手袋をするが常識である。これは犯罪を題材に扱いながら、クイーンが、実際の警察の捜査状況を全く知らなかったのではないだろうか?それともこれが当時は常識だった?

3番目は殺害場所の特定方法について。今回の被害者は致命傷である部位が、損傷したら多量の出血を伴うのに、現場には血痕がさほど残っていなかった事で、他の場所で殺されて、発見現場に遺棄されたことになっている。殺害現場として目星をつけたアパートに行くのだが、全くルミノール反応を使った捜査が行われないのだ。
この頃、まだルミノール液が発明されていなかったのか、それともクイーンが知らなかったのか、どちらなんだろう。結局エラリーは自らの推理で殺害現場を特定する事になる。

ほとんど苦言で終始した感想になってしまったがこれはエラリー・クイーンへの期待値が高い事によるためだ。特に1作目の鮮やかな推理に比べ、本作は殺人事件に加え、麻薬組織まで絡んでおり、風呂敷を広げすぎたような感じがする。
シンプルな感想といえば、最後の犯人に面食らい、いまだにクエスチョン・マークが拭えないということなんだけど。


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フランス白粉の謎【新訳版】 (創元推理文庫)
エラリー・クイーンフランス白粉の謎 についてのレビュー
No.671: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

天才を見事に描いてはいるのだが…

今回の謎は大きく分けて三つある。
まずは通常のミステリに倣い、楡井殺害に関する謎。どうやって楡井に毒を飲ませたのか?犯行の動機は?
二番目は峰岸を犯人だと告発する者の正体。これは犯人側峰岸が探る謎だ。どうして告発者は自分が犯人である事を見破ったのか?
そして最後は題名にもあるように、本編のモチーフであるスキージャンプに関する謎。日星自動車の杉江翔は一体どのようなトレーニングをして飛躍的にジャンプ能力を伸ばしているのか?

東野氏のミステリの優れたところはこういったモチーフが非常に魅力的な謎を伴っているところにある。今まで色んなスポーツを物語に扱ってきた東野氏だが、本格的にそれをミステリに融合させたのは『魔球』だったように思う。須田武志が最後に放った魔球の正体とはなんだったのか?これが一連の殺人事件と平行して語られる。
『魔球』は今にして思えば、本作へ先鞭を付ける足がかり的な作品だったのかもしれない。今回はジャンプを高感度カメラによる連続飛形モデルの加速度経時変化の力学解析、それを基にした水平方向、鉛直方向の加速度推移グラフといった科学的データを実際に提示して謎の解明を行う。魔球は一種特異体質とも云うべきその人しか出来ない球の握り方という具体的ながらも科学的根拠不明瞭なところに留まっていたのに対し、今回はかなり実践的な領域まで踏み込んでいるのが大きい。だからといって『魔球』が決してその真相について肩透かしを食らうような物ではなく、本作を読んだあとではこちらの方がより具体的に謎解きを行っていると云っているだけだ。

今回読んだのは角川文庫版で、どうやら新潮文庫版から一部改訂されたらしい。どの部分が改訂されたのかは読み比べてみないと解らないが、恐らくこの科学的分析は原版でもあったのだろうと思われる。
また平成の世になり、スポーツ工学の進歩は目覚しい物がある。マンガ『Dream』でも変化球に対するメカニズム―シームと呼ばれる縫い目の握り方による回転のかけ方の違い、それによる空気抵抗の流れ、抵抗力により減速していく際に生じる球の不規則性、etc―が具体的に書かれるくらいだ。恐らく『魔球』発表当時はまだそこまで変化球に関する考察・分析が具体的に成されていなかった事は容易に推察できる(なんせ昭和63年の作品だ)。
おっと横道に逸れてしまった。本題に戻ろう。

日星自動車のチームが導入した方法というのは「サイバード・システム」と呼ばれるシミュレーション装置。これは擬似ジャンプ台で、5mの長さの板にローラーが付いてあり、これが角度を自在に変えられるようになっている。被験者はローラースキーを履いてクレーンで吊られた状態でこの上に乗り、そのまま滑空する。ジャンプ台はその速度・時間に合わせて角度を変え、あたかも本物のスキージャンプ台のようになり、踏み切りまでできるという物だ。
しかし、この装置の目玉はそんなところにない。理想形とされるジャンパーの飛形をインプットし、被験者に信号を送ることで矯正し、理想のジャンプを形成する事が出来るのだ。しかしその矯正方法に問題がある。理想飛形と異なる姿勢が発生すると被験者に不協和音が奏でられ、不快感をもたらす。被験者はこれを聞きたくないために矯正せざるを得ない。しかしその不協和音は人間の無意識の領域に記憶され、ラジオの音波の雑音で突発的行動を起こす副作用がある、とまあ、これが東野圭吾氏が考えた「鳥人計画」なのである。
電気系の大学を卒業し、電機メーカーに就職した東野氏の特色が非常に色濃く出た発想、テーマではないか。

そして本作発表から20年を経た21世紀の現代、このような訓練方法は採用されているのだろうか?このような大掛かりな装置が果たしてあるのだろうか?
私は意外に在ってもおかしくないと考える。
私はこれを読んだ時に映画『ロッキー4』を思い浮かべた。ソ連のサイボーグボクサー、イワン・ドラゴだ。彼もまた当時の科学の粋を結集して“作られた”ボクサーだ。東野氏の造語に倣って云えば、“サイボクサー”だ。育てる選手の身体に無数に付けられた電気コード、これはまさにこの映画で行われたドラゴのトレーニング風景そのものである。恐らく東野氏はこの映画をヒントにこのストーリーを考えたに違いない。『ロッキー4』の公開が85年、つまり昭和60年であるから、一応符合する。またこの映画では筋肉増強剤も併用されていた。

本作にて作者が云うように、一流のスポーツ選手というのは完璧無比なる強さを求める。それが故にドーピングなんかに手を出すのだが、彼ら・彼女らは確かに「バレなければやってもいい」、「みんなやっている事だ」といった割り切りがあるのだろう。競争心が歪んだ形で欲望に変異していくのだ。それはもはやスポーツが一個人の理想の追求や求道精神だけに納まらない莫大な利益を生む一大産業となっているからだ。
フローレンス・ジョイナーが早死にしたのも、当時“バレなかった”ドーピングの副作用によるものだろう。それでも人は強さを求める。そのために自分の身体がどうなろうが、構わないのだ。

世の中、要領のいい奴はいる。私などコツコツやるタイプだから、労力をかけずに上手くやる人間や、人の結果をそのまま転用して自分の成果とする人間に対して確かに悔しい思いがする。「何なんだ、あいつは」と確かに思う。
しかし殺意とこれとは別だ。それは私が犯人のようにある物事に人生を賭けていないかもしれないが、それでも他人は他人、俺は俺だと云い聞かせる自分がいるように思う。そこがどうしても共感できなかった。犯人が恐れたのは自分の人生の意味の喪失であり、片やこの私は普通、人生に意味などない、自分に迷いや悩みが生じたときこそ、人は人生に意味を求めるという観点に立っているから、これは当然の結果だろう。この共感の度合いこそが作品に抱く思いの強さに比例するから、本作はしたがって星7ツなのだ。

また唯一本作において推理に参加できる告発者の謎(実はこれも2つあるが前者の方)だが、これが解けなかったのが残念。うっかり読み通してしまい、最後の方で十分読み返すことが出来なかった。これは素直に悔しい。

最後に本作にて語られる楡井の人物像について。この不世出のジャンプの天才が天性の陽気さを放つ人物として語られる。周りにかけられるプレッシャーをそれとも気付かず笑い飛ばす、一種天然ともいえる陽気さ、そして常に話している内容は論理的でなく、イメージ先行型で、周囲の人は理解が出来ない。しかしここにこそ私は東野氏の上手さを感じた。
元巨人の長嶋茂雄氏が高橋由伸氏が入団したての頃、バッティングの指導をしたエピソードを思い出した。長嶋氏の指導は身振りを交えて次のようなコメントしたという。
「バッと来た球をバッと打つんだ」
そして高橋氏はそれが解ると云ったらしい。
天才には詳しい説明など要らないのだ。天性の感覚で感知するイメージを伝えるだけで天才同士は通じるのだ。そしてその感覚は私も解る。いや私が天才だといっているわけではない。あるレベルにいる物が体験するゾーンという物がどんなものにも存在する。それは決して説明のできる物ではない。感じるものなのだ。

そんな部分も含めてこの本はかなり色んな要素が込められている。
しかし惜しむらくはそれでもなお、こちらの意にそぐわなかった事。それはほんのちょっとの違いなんだけど。


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鳥人計画 (角川文庫)
東野圭吾鳥人計画 についてのレビュー
No.670:
(7pt)

高学歴の人々たちが繰り広げる高水準のディベートゲーム

最高の頭脳ゲーム!高学歴、高水準のディベートゲームを堪能した!
国際的犯罪阻止の協力に対し、自国に今後の利益拡大をもたらすべく、いかに有利に展開すべきか、いかに恩を着せるかを高度な駆け引きで展開するこの上ないディベートの嵐である。

常に勝利の道を模索しつつ、そして自らの保身のために逃げ道も確保しながら、相手を雲に巻きつつ、出し抜くチャーリー。
ロシアという社会主義の風潮残る国で、自らの特権を出来うる限り長引かせるために、常に身の保身を第一義に考えながらいざという時に責任の擦り付け合いで勝利する事に腐心する周囲の中で、孤軍奮闘するナターリヤ。
下院議員の甥という立場で上司やFBI長官からも疎んじられている明朗活発かつ猪突猛進な若さ溢れるケスラー。
そしてチャーリーの恋敵で軍人気質で常に作戦の先頭に立ち、指揮する事を欲する、完璧を自負する男ポポフ。
これらがそれぞれの思惑と自説の正当性を主張しながら、核物質流出事件に当る。

そしてさらに後半魅力的な人物が物語を彩る。頭脳明晰でFBI随一の核の専門家でありながら、一流モデル張りのスタイルと美貌、さらに自分の欲望に素直な女性ヒラリー・ジェミソン。これが下巻からモスクワに渡ってチャーリーとパートナーを組む辺りからまた面白くなってくる。
そしてこれら複雑な頭脳ゲームを恐らくキーボード上を踊るが如く美麗なメロディを奏でるように読者の眼前に提供してくれるフリーマントルの知性と筆の冴え。毎回思うが本当、この人の話は面白い。

しかし、今回はイギリス、ロシア、アメリカの三国に加え、ドイツがさらに加わっての合同作戦というのはいささかキャラクターの過剰出演を招いたようだ。
当初物語の主眼と思われた再会した2人、チャーリーとナターリヤの成り行きが、後半のヒラリーの投入で影が薄くなってしまった。
特にこの2人は作戦会議の場で初めて再開したときに交わされる会話の時のお互いの心理状態のやり取り、ポポフとチャーリーとの微妙な関係や、その後の2人の逢瀬など結構読み処があっただけに残念な思いがした。

更に若きFBI捜査官ケスラーがその未熟さからチャーリーに師事することで次第に捜査官としてのスキルを挙げていく成長過程も物語のサブストーリーとしてよかったのだが、これもまたヒラリーの登場で影が薄くなってしまった。
恐らくヒラリーというキャラクターがフリーマントル自身、非常に気に入ってしまい、またこのキャラクターがフリーマントルの意に反してひとりでに動き出してしまったため、その流れに委ねることになったのではないだろうか。

しかし、だからといって物語の構成が破綻したわけでなく、最後にサプライズをきちんと準備して物語が閉じられるのだから、やはり大した物である。
とはいえ、今回のサプライズは解ってしまった。やはり続けて読むとフリーマントルの手法も見えてくるということだろうか?

最後にもう1つ。
この前に読んだ同じ作者のダニーロフ・カウリーシリーズの『猟鬼』では、マールボロの箱をかざす事でタクシーが容易に止まる事を書いているが、本作でチャーリーが同じことをしようとすると、いつの時代の話ですか?とケスラーに気色ばめられるシーンがある。
『猟鬼』の原書発表が92年。本作の原書発表が96年と4年もの差がある。これはこの4年の間にロシアがそれほどまでにアメリカにおもねることなく、自立していった事の証左か、はたまた『猟鬼』におけるこの描写に対する不適当性に関する批判がフリーマントルにあったのか、定かではないが、なかなか面白いシーンだと思った。


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流出〈上〉 (新潮文庫)
ブライアン・フリーマントル流出 についてのレビュー
No.669:
(3pt)

タイトル、人物設定、ほとんど関係ありません

奥田哲也作品3作目。意外にオーソドックスだったというのが正直な感想。1年前に起こった殺人事件と現代に起きた殺人事件の犯人探しが美術学院職員という狭い人間関係の中で300ページ強に渡って展開されていく。

奥田氏の提示する謎は不可能趣味ではなく、セイヤーズの作品のように、事件はシンプルだが、なんだかおかしい、その奇妙な違和感を解き明かす類いの、トリックよりもロジック志向型になるだろう。しかし、セイヤーズがシンプルな謎であるのにも関わらず、最後の解決に鮮烈なイメージを与えて物語を閉じるのに対し、奥田氏の謎は、ああそういうことだったのねと単純に納得するだけに終わっている。
それは真相を解明する“殺し文句”とでも云うべき衝撃の事実がないからだろう。

セイヤーズはシンプルな謎に隠されたバックグラウンドを物語の進行に合わせて一つずつ丁寧に解き明かし、最後どうしても残る違和感がたったの一言でばっと眼の前の霧が晴れていくように解決される心地よさがあるのだが、奥田氏の作品においては最後の最後においても複数の謎が残ったまま、しかし探偵役は全ての謎が解けているという趣向であり、終わりの方の章で延々と数学の証明問題を解くかのような長い解説が行われる。
これが私にとってはあまり面白くない。こういうのはメインの謎が解けた後、その他残る細かな謎を逐一説明するために行えばいいのであって、メインの謎解きに適用するべきではないだろう。
今回も最後の25章から28章にかけて刑事と探偵役の主人公との問答によって謎が解かれていく。三章に渡って解かれていくその謎は淡々としており、“最後の一撃”らしきものもなく、ようやく辻褄が合った程度の物であり、カタルシスも感じなかった。

あとこの作者、意外に言葉に対して意識的かつ無自覚である。
まず文章をなぜかスムーズに読み進む事が出来ない。読み進もうとすると袖口を引っ張られるような引っ掛かりを覚える。
では文章が特殊なのかといえば、全然そうではなく、むしろ平板。『三重殺』で見られた斜に構えたような文体はなく、普通の人々の会話と私生活がごく普通に語られるようなのだが、なぜかふと立ち止まる事が多い。

なぜこうなるか、ちょっと考えてみると、まず場面転換の唐突さが1つ特徴としてあるだろう。
主人公の内面をまず語る形で場面の転換がなされるのだが、作者の癖なのだろうか、前のストーリーの流れからは飛躍した内容で文章が始まり、5,6行進んだあたりで、主人公が今どこにいる、もしくは奇妙な夢を見た、そんな事実が語られるのである。

それは謎解き部分でのロジック展開でも出ており、戸惑ってしまった。
ネタバレにならない程度に書くが、今回の第1の殺人での謎の1つにタイムカードの紛失というのがある。これが第2の殺人の真相解明の問答において何の脈絡もなく出てきて面食らってしまった。思わず何ページも遡って読み直してみたが、やはりそれまでの論理展開にはタイムカードには触れてなく、しかも第2の被害者がタイムカードを所持しているなんて事も書いていない。その事は5ページ後に出てきて、ここに来てようやく事件の脈絡が繋がるわけだが、この5ページの間は何を登場人物は語っているのかさっぱりだった。

あと妙に凝った文章表現が文章のリズムを壊しているように感じた。恐らく作者の意図としては無味に流れていく文章にアクセントをつけるために選んだ言葉だろうが、ちょっと大袈裟すぎる。
それは各章題にも現れており、何となく鼻につくきらいが無いでもない。いきなり第1章の章題は「呑気な蜘蛛」である。これは何かというと、サブキャラの刑事の風体の比喩であり、この章における主題でもなんでもないのである。その他にも「魂を塗りこめた男」、「水槽のなか」といった章題なんかも単純にその章に用いた比喩をそのまま章題として使っており、何か居心地の悪さを感じた。素人がちょっと普通の人よりもヴォキャブラリーが多いということを見せつける、文章表現の引き出しが多いことを自慢しているかのようだ。
かなりきつい物言いになるが、作者が自らこの文章を一度読み直したのか、気になるところだ。

あといやに中身が淡白なのだ。タイトルの『絵の中の殺人』は、もう全く以って的外れである。本作の謎を象徴する印象的な絵が出てくるわけでもなく、また絵がトリックに活用されるわけでもない(絵ではなく額縁が活用されるがあれはかなり無理を感じる)。また絵画の世界、業界をモチーフにするならばもっとそれに関するエピソードがほしいところだ。登場人物の学院の職員達は絵を描くという設定で、その中には筆を折った者もいたが、絵画という芸術の世界に片足でも突っ込んでいる人物達にしてはごく普通であり、単純にどこかの会社、学校の事務員と変らない。物語を彩るガジェットに欠けているのだ。
それは人物設定もまた然り。主人公に元プロ野球選手を持ってきた割にはそれを活かした活躍シーンが何も無い。元プロ野球選手だからこそ出来ることがあるのに、ただの男になっている。

P.D.ジェイムズやレンデル、真保裕一など、作品ごとに色んな職種を題材に扱う作家は物語の餡子を包む皮も美味しいからこそ、読んで満足を得られる。この辺をもう少し意識してほしい。
本を読む側としては内容に入る前にタイトル、表紙を見て、どんな物語が展開されるのか想像を巡らすのだから。

絵の中の殺人 (講談社文庫)
奥田哲也絵の中の殺人 についてのレビュー
No.668:
(4pt)

なんとも中途半端なデビュー作

これが奥田氏の第1作目なのだが、先に読んだ『三重殺』で見られた軽妙洒脱な文体とは打って変わって寂れゆく街の中、陰鬱なムードで物語は流れる。

炭坑の閉山に伴い、すたれいく街で久寿里市の三分の一の産業を担う釧久グループ。しかし各々はこの街がもうかつての盛況を取り返すことの無いことを知っていた。しかしそれぞれの事情を抱えてこの街にしがみつくしかない彼らは残滓のように残る僅かばかりの繁栄に身を委ねて日々の鬱憤を晴らしている。
主人公を務めるのは署長からつまみ弾かれたはぐれ者の刑事4人。森村、川崎、喜多見、佐々木の面々はそれぞれの個性を発揮しながら事件を追っていく。しかしこれらの刑事像が実に刑事らしくない。大学の推研サークルの輩が殺人事件を前に推理ゲームを展開しているかのような、青っぽさを感じるのだ。この辺がやはりデビュー作における作者の若さだろう。
そして事件を取り巻く関係者それぞれの事情。陰鬱であり、上っ面の人間関係に隠れたそれぞれの思惑などじっくり書いているのだが、それに重きをおいたせいか肝心の事件の印象が非常に薄い物になってしまった。

本書は80年代後半に起きた新本格ブーム一連の流れでデビューした作家群の1冊として刊行されたはずである。だからジャンルで云えば本格推理小説となるのだが、おそらく綾辻氏、法月氏らがデビューした当初にさんざん叩かれた「人間が描けてない」の批判を受け、作者奥田氏は十分考慮した上で、本書のように登場人物それぞれのストーリーを描くに至ったのだろう。そのために本格推理小説としての味わいが薄れてしまったようだ。
実際、この小説で明かされる真相はアンフェアに近い。ストーリーを読むうちに推理できる材料がほとんど提示されないのである。読者に推理する余地を与えず、残りのページも少なくなっていきなり真相を告げられた感が否めない。

そして元の題名『霧の町の殺人』だが、これは全く以ってほとんど意味を成していない。当時の新本格作品の1冊ならば、街に漂う霧が、事件に一役買って霧が無ければ成立し得なかったトリックやロジックを期待してしまうはずだ。
しかし単に霧は舞台設定に終わってしまって何の関係も果たさない。霧は登場人物の心中に澱のように溜まっていく諦観を現しているだけのものになっている。だから題名を『霧枯れの街殺人事件』と変えたのだろうが、これもまた片手落ちのような感じがする。

しかし2作目の『三重殺』を読んだ限りでは、作者の力量はこの後、向上しているので、次に読む3作目が楽しみでもある。基本的には2作目のテイストが好きなので、これが活かされていることを望む。

霧枯れの街殺人事件 (講談社文庫)
奥田哲也霧枯れの街殺人事件 についてのレビュー
No.667: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

貴方も一緒に旅に出よう、本書で

自転車旅行を題材にしたロードノベル。作者が行った東京~青森間自転車走破の実体験に基づいているらしい。つまり桐沢=作者というわけだ。

短文と体言止め、そして愚痴とも減らず口とも取れる独白を織り交ぜた一見ぶっきらぼうとも思える桐沢の一人称で語られる文体は主人公の人と為りを雄弁に語り、読者の心に美酒が五臓六腑に染み渡るように刻まれていく。この無粋な男桐沢が妙に人を惹きつける抗いがたい魅力を備えており、知らず知らずに青森への単独行を応援したくなる。
恐らくこういう男が会社の部下もしくは同僚にいると扱いにくいだろう。多分私の性格上、この桐沢みたいな男は上手く付き合えない人間なのだ。しかし、それでも彼は私を惹きつけて止まなかった。それは男ならば誰もがこういう生き方を一度は望むからだ。

しがないグラフィック・デザイナーながら気に入らない仕事は断る。金儲けよりも心の自由に重きを置く。宿酔いならぬ三六五日酔いと自分で認める重度のアル中で酒が切れると何も出来なくなる。人付き合いは上手い方ではないが困った奴を見捨てるほど冷酷ではない。
桐沢はいつかこうありたいと願う一人の男の姿だ。だからこそ惹きつけて止まないのだろう。

そして途中旅の道連れとなる高校中退の若者との出逢い、乞食のような風貌だが断固たる決意を胸に秘めた眼差しを持つ男、計画書奪還のため桐沢に接触する自衛隊の藤井三尉、そして同じく計画書奪還のために桐沢に接触し、次第に桐沢に魅了されていく尾崎、旅の先々で出逢う旅館の女将やトラックのドライバーなど、これらが読者をたちまち旅の愉悦に引き込んでいく。
また桐沢の旅の障壁となる自衛隊の計画書奪還作戦。その中核となる「三田北方作戦」の内容もなかなか凝っていて面白い。
狂人とも云われていた三田一等陸佐が立てたソ連侵攻に対する北海道封鎖作戦なるものに画された驚愕の真実。果たしてこれが本当に現実味があるのかどうかは眉唾だが、作者があらゆるデータを使ってその信憑性を固めていくプロセスは面白かった。ロードノヴェルに単純な味付けをしただけに留まっていないのが良い。

しかし何といっても本作の主眼は自転車旅行そのものにある。読んでいて非常に気持ちがいい。作者と同様に暑さに汗を滴らせ、坂道を苦行僧のように身体を苛めながら一心不乱に登り、体を切る風を感じるかのようだ。そして汗と共に桐沢の中から余分な物がどんどん流れ落ちていく。
当初、友人の青森行の話を聞いて負けてなるものかと奮起した旅だったが次第にその目的は単純に青森へ行きたい、その一念のみとなる。雑念やら妙な矜持やら余計な物がどんどん削られて洗練されていき、一種悟りの境地へと至る。

さらに自転車への想い。思い出の品など歯牙にもかけない桐沢が共に旅した自転車を見て妙な愛着を覚え、手放せないと思うこの気持ち、非常によく解る。私も25歳くらいまで自転車を足に使っていた。小学校の時から中学、高校、大学、そして社会人になってまでずっと自転車が交通手段だったからこそ解る。
思い出の品?いや全然そうじゃない。一緒に色んなところを駆け巡り、旅し、転び傷つき、その都度治療した、云わば“戦友”だ。

とにかく何度も涙が出そうになった。それは自分の力のみで成しうる旅への羨望もそうだろう。
日本を離れた今、桐沢が訪れる東北の街のエピソードが旅愁というよりも郷愁に近い感傷となって押し寄せてくる。やはり日本はいい。適わないことだが、私もいつかこのような旅をしたい。いや旅ではない、冒険なのだ。かつて子供の頃、眼前に広がっていた未知の世界へ乗り出す、あの面白さ、それがここにある。
自分の中にまだ“少年”がいるのならば是非とも読んでほしい小説だ。

男たちは北へ (ハヤカワ文庫JA)
風間一輝男たちは北へ についてのレビュー