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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1418件
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実業家マントリング卿の屋敷では「後家の部屋」と呼ばれる開かずの間があった。その部屋で1人で過ごすと必ず亡くなってしまうという呪われた部屋で150年間で4人が犠牲になっていた。アラン・マントリング卿はゆかりの者達にくじ引きで当たった者が2時間過ごしてみるというゲームを行う事にした。
客人として訪れていたベンダーが当選者となり、その部屋で2時間過ごす。15分おきにドア越しから返事が聞こえていたのだが、2時間後部屋を開けるとベンダーは絶命していた。しかも死亡推定時刻は1時間以上も前だという。死体は毒殺の体を成しており、毒もクラーレというアフリカの原住民が吹矢に使用するもので、服用しても何ら危険は無く、皮下注射などで直接血液に混ざらないと効果が出ないものであった。事件に立ち会ったH・M卿も困惑する中、第2の殺人が起きる。 人を殺す部屋とか昔の毒針仕掛け箱の話などガジェットは非常に面白いのだが、いかんせん冗長すぎた。シンプルなのに、犯人が意外なために犯行方法が複雑すぎて、犯人を犯人にするがためにこじつけが過ぎるような印象を受けた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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原書が刊行されたのが'77年、訳出されたのが'79年。40年近くも前の作品である。確かに携帯電話とかインターネットとか無い時代で、ローテクであるのは致し方ないが、この頃の小説はひたすらキャラクターとプロットの妙味で読ませている。つまり作家としての物語を作る技量が高く、本書が放つ輝きはいささかも衰えているとは思えない。
本書の主人公チャーリー・マフィンはかつてロシアのスパイ網の大元であるベレンコフの逮捕という快挙を成しえたベテランの切れ者スパイ。15年も第一線で働き、無事にいるというプロ中のプロだ。しかしそのうだつの上がらない風采と、異動で新しく来た軍人出身の上司カスバートンとの反りが合わなく、ベルリンでのミッションでは暗殺されそうになる。無事に帰還したマフィンを待ち受けていたのは降格と減棒と事務員への異動だった。 そんな中、英国情報部ではベレンコフの次の大物カレーニンの亡命の情報を入手していた。カスバートンは自分の子飼いの部下ハリスンとスネアをカレーニンの下へ送り、接触をさせるが、ハリスンは処刑、スネアは逮捕され、獄中で発狂してしまうという失敗を重ねていた。そこで苦々しくもカスバートンはマフィンにカレーニン亡命を助ける事を任命する。 これはチャーリー・マフィンシリーズの第1作である。この第1作を読んで、これがシリーズ物になるのかと正直驚いた。それほどびっくりする結末である。 この結末を読むとチャーリーが色んな人と交わす会話、地の文に現れる独白が別の意味を持ってくるから面白い。この結末を前提にもう一度読み返すのも一興だろう。 そして興味深いのはニュースで報じられる政治ニュースの裏側を垣間見せてくれる事。特に各国首脳の訪問にはかなりパワー・バランスが作用しているのだという事を教えてくれた。本書ではCIAがカレーニン亡命劇に一役買うことが出来なくなりそうになると大統領の各国訪問から英国を外すように働きかけ、情報部へ圧力をかける件はなるほど、こういう駆け引きが裏に隠されているのかと感心した。 私がこの本に手を出すまでに想像していたシリーズの展開は本書の結末によって、もろくも崩れ去り、次回からどのような展開になるのかが全く想像つかなくなった。非常に次作が楽しみだ。 |
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今回のアンソロジーで際立っていたのは投稿者の文章力の向上。ほとんどがプロと比肩して遜色がない。いや、名前を伏せて読めばプロ作家のアンソロジーだと勘違いしてしまうだろう。
これは神経質なまでに原稿の字組から指導した編者二階堂黎人氏の執念の賜物だろう。ただプロとアマとの大きな隔たりがあるのは否めない。それは過剰なまでの本格どっぷりに浸かったパズル志向である。その最たるものは「水島のりかの冒険」と「無人島の絞首台」と「何処かで気笛を聞きながら」である。 まず「水島のりかの冒険」は留学先のボストンで知り合ったカップルが新婚旅行先のホテルで殺人事件に出くわす物語。(感想はネタバレにて) 次の「無人島の絞首台」はインドネシアに旅行で訪れたカップルが事故により無人島に漂着し、サバイバルの日々を送るうちに、あたかもつい最近処刑が行われたかのような痕跡があった絞首台を見つけ、他人の存在に恐々とする話。これは無人島に漂流したという内容だけで50ページ以上も読ませる筆力は素晴らしいと思う。 そして「何処かで気笛を聞きながら」は幼い頃、誘拐された話を聴いていた夜ノ森静が、そのわずかな手掛かりからどこで起きた事件であるかを探り、命の恩人を探し出すというもの。これはもはや鉄道マニアのためのミステリで、常人にはこの謎は解けません。 この3作品に共通するのは100ページの短編の中にアイデアを詰め込みすぎていること。上にも上げたようにモチーフとなった作品はいずれも長編である。ワンアイデアを借りているだけという意見もあろうが、読んでいる身にしてみれば作者の言葉遊びに無理矢理付き合わされている感じは拭えなかった。 そんな中、傑作といえる作品が「コスモスの鉢」、「モーニング・グローリィを君に」、「九人病」の三作品。 「コスモスの鉢」は半身麻痺の資産家が自宅の2階から落ちて死亡する事件が起き、その事件の容疑者となった妻を検事不二子が調査するといった話。 平凡な事件に少ない登場人物。はっきり云ってこの作品は地味なのだが、地味な分、足元がしっかり地に着いており、読み物として濃い味わいがある。もちろん本格推理を募集したアンソロジーだからトリックはある。それが地に足が着いた検事を主人公にした話と違和感無く融合する程度だから、さほどすごいものではないのだが、場面展開といい、話の合間に挟まれる人物描写や検事の仕事の解説といい、全てが読ませる。 「モーニング・グローリィを君に」は今までも「窮鼠の悲しみ」、「金木犀の香り」と全て私がベストに推している鷹将純一郎氏の作品。 介護のバイトをしていた女子大生が介護先の老人の家で強姦の末、殺されるという事件を長きに渡って捜査する刑事と介護されていた老人たちの物語。 今回の事件の真相は実はほとんど推理できた。にもかかわらず優秀作に推すのはこの人の文章のためである。濃密でドラマ性があり、人間ドラマが際立っており、非常に読ませる。ただ本格に拘泥するあまり、最後に出てくる車のトランクの中での機械トリックが非常に浮いた感じがする。この人の本質はこんなトリックにないと思うので活躍の場を移せばいいのにと強く思った。 そして今回のベストは「九人病」。この作者青木知己氏も過去に名作「Y駅発深夜バス」と佳作「迷宮の観覧車」を送り出している優れた資質を持った人だ。 雑誌社に勤めている和久井が特集記事の取材のため訪ねた北海道の辺境の温泉で相部屋となった男から聴いた四肢が抜け落ちるという奇病「九人病」のお話。 この作品、純粋な意味で本格ミステリではなくホラーだろう。しかしそんな事がどうでも良くなるほど面白い!まず「九人病」というネーミングが秀逸で、なんとも読書意欲をそそられる。そして土俗ホラーの陰鬱な文章とこの九人病のアイデアが素晴らしく、読んでいて非常に楽しかった。これぞ物語の醍醐味である。 そして今回、今まで二階堂黎人氏が望んでいた「空前絶後の推理小説求む!」の声に応える作品が来た。その作品、高橋城太郎氏の「蛙男島の蜥蜴女」と「紅い虚空の下で」はそれぞれ蛙の面を被った男たちの住む島で起きた蜥蜴女の殺人事件とスカイフィッシュ(作中ではメタルフィッシュ)が人間界で起きた殺人事件を解くといういずれも幻想小説テイストの作品。漫画『ジョジョの奇妙な冒険』を思わせるアクの強い文章(きっとこの作者は荒木飛呂彦のファンですな)とピーター・ディキンソンを思わせる悪夢のような作品世界は非常に読者を選ぶ。つまり二階堂氏が望んだ小説がこういうのだということが解り、がっかりした次第だ。 このシリーズは決別の意味を込めて今まで読んできたのだが、この高橋氏の作品に対する編者の喜びを読んで、その意を強くした。 しかしこのアンソロジーを読むことは決して無駄ではなかった。特に二階堂氏に編者が代わってからのこのシリーズの充実振りは目を見張るものがあった。このアンソロジーからデビューした作家が私の今後の読書体験の線上に上る事を願いつつ、このアンソロジーから本書を以って別れを告げたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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妻アルバータを「天使の顔(エンジェル・フェイス)」と呼んで愛でる夫カークはいつの頃か、妻をそう呼ばなくなった。妻は気付いていた。夫が浮気している事を。しかしいつか夫は戻ってきてくれるものだと信じていた。
だが夫が荷造りをしたスーツケースを隠しているのを知ったアルバータは浮気相手である女優ミアのところへ怒鳴り込んでいく。しかし既にミアは死体となっていた。そして挙げられた容疑者は夫カーク!アルバータはミアのノートに記されていた4人の男と接触し、夫の無実を証明する証拠を摑もうとするのだった。 泣けた。静かに泣けた。夜の切なさに包まれたかのようだ。やはりウールリッチはすごい。 『喪服のランデヴー』に代表される連作短編集のように物語を紡ぎだすウールリッチのスタイルは健在。今回は夫の冤罪を晴らすべく浮気相手の4人の男と妻アルバータの物語として描かれる。 1人目はミアに魂を抜かれた元夫で人生のどん底の貧民街で暮らす男の話。次はミアを麻薬の運び屋に使っていた違法医師の話でスリラータッチのこの話がもっともぞくぞくした。3人目の男は資産家の遊び人だがとても魅力的な男との話。そして最後の男はナイトクラブを経営する裏稼業に足を突っ込んだ男の話。 最初の2人目まではおろおろしながらも勇気を振り絞って犯人かどうかを探る初々しさと危うさが出ていたアルバータだが、3人目からは百戦練磨の女詐欺師の如く、恋は売っても愛は売らず、冷えた頭で犯人かどうかを洞察する女性に成長しているのが面白い。そして一人称で語られるがゆえにその人と成りが実は男を狂わすほどの美貌を持っている事を徐々に悟らせる事となる。 アルバータという主人公の魅力はこの美貌を備えているのにも関わらず、天使の如く純粋な心を捨てきれないところにある。浮気をした夫を刑務所から出すために犯罪まで犯す彼女の不器用なまでの純粋さは、夫の愛を超えた女の意地というものも感じられ、興味深い。 特に白眉なのは3人目の男、ラッド・メイソンの章である。この男は心底アルバータを愛し、またアルバータも心を許した存在となる。しかし彼女は彼が犯人でない事を知ると去っていくのだ。犯人でない事を願いつつ、それが証明されると去らなければならないジレンマ。お互いが魂で通じ合っているのに女だけが始まった時から別れがあるのを知っているという事実は胸を苦しませる。 しかし自分が窮地に陥ったときに助けを求めたのが彼だったことから、深く愛していた事を知る。そして衝撃の事実と結末。切ない。切なすぎる。 メイソンの喪失感は特にふられた事のある者―特に男(もちろん私もそう)―なら痛切に判るだけに胸に鉛のように沈み込んでいく。 そして今回は今まで以上に特に名文が多かったと感じた。ところどころではっとさせられた。 そんな数ある名文の中から最も印象が残ったのはこの文章。 「(前略)ただ上を見るだけ―」(中略)憶い出が行く場所は下ではなく、上なのだ。 私はこの文章にこう続けたい。 だから私は上を向く。でないと涙がこぼれてしまうのだ。 誰もがロマンティストになる小説だと思った。本当にウールリッチは素晴らしい。 |
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正直云って、島田荘司氏は迷走してます。皆が云うように島田信望者に祭り上げられて浮かれていたんではないだろうか?そう思わざるを得ない今回の作品集。
なんせ御手洗潔が幼稚園児のときと小学2年生に既に刑事事件を解決していたというお話である。特に御手洗潔が幼稚園児のときの話「鈴蘭事件」では、幼稚園児にして明察な頭脳と観察力を持っていたという設定で、もはや小説中の人物でしかありえないスーパーマンぶりにがっかりした(なんせ幼稚園児の時点でモーツァルトを弾き、因数分解をしていたというから驚きだ)。もう何でもいいや、何が来ても驚かないぞという感じがした。 里美の大学に幼少時代の御手洗の写真と彼を語った文章が記された資料があるとの知らせから始まる「鈴蘭事件」は当時御手洗を好いていた女の子、鈴木えり子の父親が事故死した寸前、彼女の家のお店であるバーの透明グラスのみがことごとく割られているという事件を扱っている。 御手洗潔小学2年生の時の事件は表題作「Pの密室」。横浜市長賞という小・中学生を対象に毎年開かれる絵のコンクールの審査員をしている画家、土田富太郎が自宅で殺されるという事件が起きた。しかも現場は密室で愛人と噂されていた弟子の天城恭子とともにめった刺しにされ、絶命していたという。しかも奇妙な事に室内にはびっしりとコンクールの応募作が敷き詰められ、それら全てが真っ赤に染められていたというのだった。 小学2年生の時点で御手洗潔が事件の全容を最初から掴んで、刑事達を煙に巻いている、しかも刑事の中には協力的なものもいる、この現実性の無さというか、ご都合主義に呆れた。もしこれが「鈴蘭事件」同様のただの本格推理小説ならば、今回は5ツ星だったろう。 しかし、またしても島田氏のストーリー・テラーの才能にやられた。これがあるから島田氏は見捨てられないのだ。 題名の「Pの密室」の意味はパズラー純度100%だが、犯人の事情はまたしても私の心に残るだろう。よって+2ツ星の7ツ星としよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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う~ん、前作品集で小貫風樹氏という才能が出てきたことで俄然このアンソロジーのシリーズのレベルが上がったと思ったのだが、今回は退化した印象は否めない。全体的に小粒というか二番煎じのような印象を受けた。
というのも今まで採用された作者の作品が載っているのだが、それらの作品の傾向が前作と似ており、アレンジが違うだけとどうしても思ってしまった。どの作品も諸手を挙げて絶賛できるものでもなく、何らかのしこりが残るので、カタルシスまで届かないのだ。 本作品集で秀逸だったと思うのは、「迷宮の観覧車」、「殺人の陽光」、「ありえざる村の奇跡」、「金木犀の香り」の4編。しかしそのどれもがしこりが残る。 まず「迷宮の観覧車」。観覧車に乗った釣り人が降りてくる時には背中を刺され、血まみれになって横たわり絶命していた。しかも両手の指全てが切り取られた形で。11年後、ある学校の転校生が転校二日目から登校拒否をしていた。担任である若い女性教師家庭訪問に訪れるとその生徒が住むマンションは事件の起きた観覧車が見渡せた。過去の事件と何か関係があるのか? この作者は前巻で「Y駅発深夜バス」が掲載され、『世にも奇妙な物語』を思わせる冒頭から一転して意外な真相へと繋がるという秀逸な作品を残していたのだが、今回はあまりにも人間関係の偶然が重なっていると思った。出来すぎたドラマのようだといわざるを得ない。そのせいで衝撃をもたらすと用意していた結末が逆に陳腐に感じたし、やりすぎだなと辟易もした。 次に「殺人の陽光」。青年実業家が全身に画鋲を打たれた上に出刃包丁で心臓を一突きにされるという殺人事件が起きた。非常勤のソーシャル・ワーカー綿貫の元に3ヶ月ぶりにカウンセリングに来た鶴岡愛美は自分の父親がその犯人だと云う。しかし父、栄司にはアリバイがあった。 この作者も過去に作品が掲載されており、そのどれもが高水準で、印象に残っている。特に文体が非常に引き締まっており、今回もその例に洩れず、全体を通して大人の小説だという香りが漂っている。それがためにちょっとおおげさな機械トリックがアンバランスで失望を禁じえなかった。全てを語らず、態度や描写で示す筆致はもはやプロ級なのに、惜しい。 そして「ありえざる村の奇跡」。岩手県の寒村で高さ100mの風車の上で生首が見つかるという事件が起きた。死体の正体はその村にUMAが現れるという知らせを受け、取材しに来たTVディレクターだった。そのUMAは高さ7mの窓を乗越え、100mを5秒台で走り、50mを15秒で泳ぐという。 この作者、島田氏の『眩暈』がよほど気に入っているのか、前作「東京不思議DAY」という作品で不思議な手記を用いた作品を書いていたが、今回もその趣向で、さらにグレードアップして臨んでいる。この目くるめくおかしな手記の連続は悪夢を見ているようだったが、最後に解き明かされる真相はなかなか面白かった。 最後に「金木犀の香り」。医者である異母兄の葬式で実家を数年ぶりに訪れた私は中学時代にほのかに恋心を抱いた女子中学生に思いを馳せる。しかしその女子中学生は当時公園で他殺死体として発見された。あの事件の犯人は一体誰だったのかと私は思い出とともに推理を巡らす。 ノスタルジーというかペシミズム溢れる筆致は読ませるが、あまりに内省的な内容は作者自身のセラピーを付き合っているようでちょっと疲れる。この家庭内の悲劇を語る感傷的な筆致といい、二転三転する過去の殺人事件の真相といい、もろ作者はロスマクを意識しており、文体の与えるノスタルジーとは裏腹に語っている内容は結構ドロドロだった。しかし目立った瑕はなかったし、これが本作でのベスト。 この4編を特に評価するのは制限枚数100枚を十分に活用して、事件のみならず、周辺のドラマを語り、単なる「推理」小説になっていないこと。テクニックはほとんどプロの作家と変わらないと思うし、物語としても非常に面白い。 その他の作品では人工知能AIが組み込まれた部屋(密室)を語り部に設定した異色の作品「吾輩は密室である」が敢闘賞といった感じで、それ以外は自分の趣味に走りすぎて、自己満足の域を脱していないと思う。選者の琴線には触れたかもしれないが。 選者二階堂黎人氏がちょっと趣味に走ってきた感じが今回はした。前作で面白くなるだろうと思っていただけに残念だった。次回はどうだろう? ▼以下、ネタバレ感想 |
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アイリッシュの短編は同じ趣向の作品が多く、テクニックは目立つものの、印象に残る作品は少なかった。しかし最後の最後でかなり印象深い作品が揃った。
最初の2作、「三時」と「自由の女神殺人事件」は都会が生み出す人間心理の歪み、タイムリミットサスペンス、皮肉な結末と典型的な作品だったので今まで同様、水準作ではあるが突出したものはないなと思っていた。 しかし、3作目の「命あるかぎり」からガラリと印象が変わった。まずこの作品、題名から連想する悲哀がこもった感動作では全然ない。夫の暴力に怯える女性の逃亡譚だが、結末はあまりに救いがなく、ゾクッとする。文体はアイリッシュの美文が連続する詩でも読んでいるかのような流れる文章であるがゆえ、最後のインパクトは強烈に印象に残った。 この作品で心動かされたためにもはや作者の術中にはまったも同然で、続く「死の接吻」の、打って変わって軽妙な文章は小気味良く感じられ、内容もコン・ゲーム風クライムノベルと読ませる。去年物(ラスト・イヤー)と呼ばれる主人公の女性がたくましく、じわじわっと来る読後感がたまらなかった。 次の表題作ははっきりいって文体に癖がありすぎて内容を十分に把握できなく、全くストーリーが頭に入ってこなかったが、その次の「特別配達」は貧乏人の善行を語る昔話的なお話で、非常に私好みだった。最後の台詞もよく、非常に微笑ましい。 その他にも娘の恩人が数年後、殺人犯人となって助けを乞いに来る「借り」は長編にしてもおかしくないほどの濃密な内容だった。設定から語り口まで全てが一級品だと思ったし、主人公が刑事として最後に取った決断は予想と違い、結末も最後の台詞も良かった(特に冒頭の車が湖へ落ちていくシーンの描写は短く簡潔なのにすごく写実的。贅言を尽くすクーンツに読ませたいくらい)。 「目覚めずして死なば」は少年の視点で誘拐事件の顚末を語る話。少年少女の世界を書いてもアイリッシュは上手く、普通ではちょっとおかしいだろうと思わせる状況を巧みに説得させる筆致もすごい。少年の視点で語っているがために主人公の無力感が伝わり、久々にドキドキした。なぜ刑事の父親が子供達の居場所を知ったのかが不明だが、愛嬌という事で。 「となりの死人」と「ガムは知っていた」は典型的なアイリッシュ節で、中休み作品といった感じ。しかし最後の3編がまた素晴らしかった。 まず「さらばニューヨーク」。前短編集収録の「リンゴひとつ」から派生したような話。あの話の登場人物の1つに同じ都会で貧困に喘ぐ夫婦が出てきたが、あれの別ヴァージョンのように貧困に喘ぐ夫婦がお金のために(それもたった500ドル!)殺人を犯してニューヨークを脱出しようとする話。 「ハミングバード帰る」も読後がすごかった。盲目のママ・アダムスには何年か前に出て行った息子がいた。ラジオから息子が出て行った先で銀行強盗があったことが報じられていた。その矢先、鼻歌を歌いながら息子が突然帰ってくる。相棒と共に。どうも銀行強盗の犯人は息子らしい。怯えるママ・アダムスは息子を警察の手に引き渡す事を決意する。 たった15ページで語られる話は濃密な物語だった。主人公が盲目であるための感覚的な筆致も素晴らしいし、なによりも最後に息子を信じたママ・アダムスを裏切る結末はどこか物哀しかった。 そして最後の「送って行くよ、キャスリーン」。刑務所から出所した男が昔の恋人と最後の別れをするために逢いに行ったがために起こる悲劇を描いている。 主人公の男を助ける刑事が調査をする辺り、冤罪を着せられた男をある男が救うために奔走する『幻の女』を思わせるが、こちらは正統派。バークという主役の男の人生を彩る哀しさ、彼を助ける刑事ベイリーの行動力に深く感動した。読後にこの題名が痛切に心に響き、アイリッシュの詩人ぶりを再認識させられた。 本作が今までの作品集に比べ、好印象を持ったのは前述したように意外な結末だけでなく、主人公の心理に同調できるような作品が多かったこと。 特に不安を掻き立てられる作品が2つも載ったことは短編を連続して読む身には心を大きく振幅させられた。本短編の作品順は出版元である東京創元社が決めたのだろうが、この並べ方はかなり良かった。短編集は作品の並べ方で傑作集と凡作集との評価が大きく分かれるのだろうと強く思った次第。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本短編集は島田作品の中では御手洗シリーズに位置づけられるのだろうが、『龍臥亭事件』同様、御手洗は電話のみの登場で実際は石岡と『龍臥亭事件』で知り合った犬坊里美二人の顚末を描いた連作短編集となっている。
まず冒頭を飾るのは犬坊里美が広島の大学から横浜のセリトス女子大に転入して、上京してきて石岡と共に一日横浜見物をする顚末を語る「里美上京」から始まる。これは非ミステリ作品だが、石岡の『異邦の騎士』事件の良子の思い出が里美との横浜散策中にフラッシュバックするあたり、こちらも胸に去来する熱い思いがあった。特に横浜は何度も訪れているので以前『異邦の騎士』で読んだ時よりも鮮明にイメージが蘇り、あたかも里美とデートしているようだった。 その後、幕末に起こった薩摩の大飢饉に遭遇した酒匂帯刀と寂光法師がなぜ生き延びることができたのかという謎を解明する「大根奇聞」と続き、クリスマスに起きた悲劇を語る表題作「最後のディナー」で幕を閉じる。 「大根奇聞」はこちらが考えていた解答の上を行く解決だったが、いささか印象としては弱いか。しかし挿入される「大根奇聞」という読み物の部分は今までの島田作品同様、読ませる。やはり島田氏は物語を書かせると本当に巧い。 「最後のディナー」は今思えば『御手洗潔の挨拶』に所収された「数字錠」を思わせるペシミスティックな作品。 石岡が里美に誘われ、英会話教室に通うくだりはギャグ以外何物でもなく、石岡がこれまで以上に惨めに描かれているのがなんとも情けない。大田原智恵蔵という老人の隠された過去とかその息子の話とか色々な哀しい要素はあったが、今一つパンチが弱かったか。モチーフは良かったのに十分に活かしきれなかった感が強い。これはやはり石岡では力量不足だという事なのかもしれない。 気になったのは「大根奇聞」と「最後のディナー」で石岡がちょこっと話しただけで真相が解る御手洗の超人ぶり。正直やりすぎだろうと思う。これは逆に御手洗というキャラクターの魅力にならなく、あまりに現実離れした架空の人物というにしかとれない。 本作品で見せる石岡の極端なまでの鬱状態はそのまま当時の島田氏の精神状態を表しているのではないだろうかという推測は下衆の勘ぐりだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『新・本格推理』シリーズも3冊目になって、今回は一種の転機のようなアンソロジーになったようだ。
というのもなんと前シリーズ『本格推理』でも成しえなかった一人の作者による複数掲載、しかも3作というからすごい。その作者の名は小貫風樹。その3作に共通するのはダークなロジックともいうべきチェスタトンの逆説や泡坂のロジックを髣髴とさせる悪魔のロジックだ(実際アンケートでこの作者は尊敬する作家の中にこの2者を含めている)。彼の書いた3作からまず感想を述べていきたい。 まずこのアンソロジーでも冒頭を飾る「とむらい鉄道」から。最近「全国赤字路線安楽死推進委員会会長」と名乗るテロリストの手による廃線寸前の鉄道の鉄橋爆破事件が頻発していた。その事件に巻き込まれて死んだ叔父の葬式に出た帰りに駅でまどろんでいた春日華凜は久世弥勒なる妖しい雰囲気を纏った人物に出逢い、宿泊先へ案内される。宿屋で寝ていた華凜が目覚めた時に弥勒が持っていたのはなんと爆弾だった。弥勒はテロリストその人なのだろうかというストーリー。 弥勒の、男性とも女性ともつかぬキャラクターや犯罪を止めるのならば殺人も厭わない冷酷さは今までの応募作品にはないダークな感じがして良い。最後の結末は詰め将棋のような精緻さと冷酷さで衝撃的だった。「解決」と「解明」の違いについて論じるところは、なるほどと得心が行くところがあり、面白かった。 次に「稷下公案」。これは古代中国を舞台にした作品で「とむらい鉄道」とはガラリと舞台設定、雰囲気を変える。稷下という今で云う学園都市で起きた事件。学士の楽園とされる稷下では孟嘗君に代表される食客とが入り乱れていた。そんな中、学士の青張と食客の青牛が街中で喧嘩をしていた。実の兄弟であるため、ただの兄弟喧嘩であろうと思ったが刀の名手である青牛は激昂のあまり、刀を抜きだす。そこへ現れた学士淳于髠が見事にその場を収めてしまう。騒動の一部始終を一緒に見ていた知叟と愚公はその後行動をともにするが、そこでものすごい音響と共に自分の家の厩で淳于髠が圧死した現場を目の当たりにする。 要約するのが難しいほど情報量が詰まった作品。古代中国の世界ならびに当時の思想家の思想を詳細に描くこの作者の懐は十分に深く、そのあまりに見事な筆致にプロの覆面作家ではないかと邪推してしまうほどだ。「とむらい鉄道」にも見られた「悪は悪を以って制する」、「人を殺めた者は処刑を以って罰する」という精神はここでも健在。特に前半、善人と思われていた孟嘗君のどす黒い嫉妬が明らかになる辺りは読んでて戦慄を覚えた。 そして最後は「夢の国の悪夢」。これも現代を舞台にしながら「とむらい鉄道」とはガラリと趣きを変えた作品。ディズニーランドを思わせるウイルスシティーというテーマパークで起きたマスコット、ウイルスラットの首切断事件。それは一瞬にして起きた突然の事件だった。犯人はどのようにして首を切断したのか? ここでは「とむらい鉄道」で探偵役を務めた久世弥勒が再登場する。3作の中では出来は最も劣るものの、ディキンスンを髣髴とさせる異様な世界で繰り広げられる闇の論理がまたしても読後不気味に立ち上がってくる。 2017年のミステリ界ではまだ見ぬこの名前。もしかして既に別名義でデビューしているのか気になるが、もし作品が上梓されれば買ってみたいと思う。 その他5作でよかったのは「Y駅発深夜バス」が文句なしだ。接待で終電に乗り遅れた坂本は、妻が教えてくれた深夜バスに乗る事にした。陰気な雰囲気のバスは果たして予定通り家の近くに着いた。0:10の便に乗り遅れ、1:10の便に乗った坂本は翌朝妻から、その便は日曜は運休だと告げられる。 冒頭の深夜バスに乗り込む件は『世にも奇妙な物語』テイストでかなりいい。一部、二部構成も必然性があるのだが、最後のオチは、まあ、歴然たる証拠の1つではあるのだが、私の好みではない。 その他、前回「湾岸道路のイリュージョン」の続きである「悪夢まがいのイリュージョン」、チェスタトンの「見えない人」に挑んだ「作者よ欺むかるるなかれ」、共に孤島物である「ポポロ島変死事件」、「聖ディオニシウスのパズル」も水準作であるのだが、今回は小貫風樹という1人の天才の前に霞んでしまった感が強い。 ロジックに精緻さを感じるものの、心情に訴える魅力を感じなかったのだ。 今回はこの天才の才能に素直にひれ伏して9ツ星を捧げよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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実に久々のエルキンズ作品、スケルトン探偵ギデオン・オリヴァー教授シリーズである。ほとんど翻訳打切りだと思っていた。
このシリーズ、各国の観光案内も含まれており、単にミステリだけに終始していないところとやはりジュリーとギデオン夫婦のウィットに富んだ会話、また彼らを取り巻く人々の特徴あるキャラクターが気に入っており、正直非常に期待していた。 今回の舞台はイタリア。プロローグは1960年9月のイタリアで最後の貴族と評されたデ・グラツィア家当主ドメニコが相続する嫡男に恵まれず、姪に自らの精子で人工授精を依頼する話から始まる。この作戦は成功したが、姪のエンマは子供を渡すものの目覚めた母性本能から鬱状態に陥る。そこでドメニコは妊娠した使用人からその息子を買い取り、エンマの子供として渡すのだった。 舞台は転じて現在。デ・グラツィア家の当主はこのとき生まれたヴィンチェンツォになっていた。息子のアキッレが学校に行く途中、運転手が殺され、誘拐されるという事件が起きる。憲兵隊大佐カラヴァーレは警察署長の依頼の元、事件の捜査に乗り出す。折りしもギデオン・オリヴァー教授は友人のフィルとともにこの地を訪れており、バカンスを楽しんでいた。フィルが家族に会いに行くので一緒に来ないかと誘われ、気が乗らないながらも同行すると、そこはデ・グラツィア家の城がある島だった。フィルはエンマの息子だったのだ。 事件の捜査が進む中、ヴィンチェンツォの会社アウローラ建設の工事現場で掘削中に骨が見つかる。その骨の正体はなんと前当主ドメニコの骨だった。 エルキンズの登場人物をコミカルに描く筆致は健在。どの登場人物に血が通っており、本音を見せるエピソードを盛り込ませる事で登場人物に親しみを持たせる手法はもはや云う事がない。 個人的にはカラヴァーレが自宅で着替えをしている時に妻に洩らす「制服を着ていない俺はサラミソーセージを売っている方がお似合いだなぁ」という台詞、そしてギデオンがキャンプで出逢うやけに人類学に詳しく、さらにギデオンの知らない地球外生命体について議論を吹っかけるポーラ・アードリー-アーボガストが気に入った。ポーラは今後も定番脇役として出演してほしい。 とはいえ、プロットは今回なんだかちぐはぐな印象を受けた。誘拐事件と骨を絡めるのがやや強引、こじつけのような気がしたのだ。(その理由はネタバレにて) 久々のスケルトン探偵シリーズ、ちょっとネタ切れの感がしたのは否めない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回収められた9編を読むとアイリッシュの作風は単なるサスペンス・スリラー作家という安直なフレーズでは収まらずに、サスペンス・スリラーの手法を用いた都会小説という思いを強くした。
まず最初の「高架殺人」は高層ビルひしめく都市の間を縫うように走る高架列車で起きた殺人であり、これは都会でなければ起き得ない事件。 「わたしが死んだ夜」は都会にしか存在しない浮浪者が殺人に関与しているし、「リンゴひとつ」は1つのリンゴが人から人へ渡る物語。その人たちは都会で生きていくのに明日の食事さえも摂れるかわからない人たちが大勢出る。1つのリンゴは隣り合う人々の手に渡るが彼らには全く関係性がないのも都会の人の繋がりの希薄さを示して非常に印象的。 「コカイン」も都会の膿が生んだ麻薬が引き起こす事件。「葬式」は冒頭の買い物から逃亡劇へと移るシーンで路地裏の複雑さを描いているし、「妻が消えた日」もひょんなことで怒った妻の行方が判らなくなる物語で、妻がいなくなることはその夫のみの事件であり、周辺に住んでいる人物は誰も事件には関わっていない。正に群衆の中の孤独である。 9編中、最も良かったのは「リンゴひとつ」と「日暮れに処刑の太鼓が鳴る」の2編。 「リンゴひとつ」は以前『晩餐後の物語』に収録されていた「金髪ごろし」という作品があったが手法的にはあれと似ている。「金髪ごろし」は金髪美女が殺されるという見出しのついた新聞を買う人々それぞれのドラマを描いた物語で、新聞売り場一点を定点観測していたが、今回は対象をリンゴに移して、その1つのリンゴが渡る様々な人々の物語を描いた作品。そのリンゴというのが宝石泥棒が宝石を盗むのに細工をしたリンゴで薄皮一枚の中に5万ドル相当の宝石が眠っている。これが盗みの手違いで傲慢な夫人や会社の金を横領し、その埋め合わせが出来なくて苦悶している夫婦、浮浪者などに渡っていく。 こういった作品の場合、アイリッシュは貧しき者に救済の手を差し伸べるのがパターンなのだが、今回はそうではなく、あくまで洒落た結末に着地している(この結末がいいかは別の話)。この作品でアイリッシュは「貧しい者たちにもチャンスは平等に訪れてはいる。ただそれに気付くのが難しい」と云うメッセージをこめているように思った。 「日暮れに処刑の太鼓が鳴る」は非常に贅沢な一品。中南米を思わせるサカモラスという架空の国を舞台に物語は語られる。 その国ではたった今政権交代が起き、新しい政府の頭には双子のエスコバル兄弟が鎮座する事となる。元市長を人質に大金をせしめようとするが、元市長の娘と息子がその将軍の下へ訪れた翌日、双子の片割れがナイフで刺されて死んでいるのが発見される。そのナイフは元市長の娘がかどわかされようとして抵抗した際に将軍に取られたナイフだった。激情したもう1人のエスコバルはその兄妹を処刑しようとするが、その場に居合わせたアメリカの刑事が犯行時間にずれがあることを示し、真犯人を捕らえようと乗り出す。 これは『暁の死線』や『幻の女』を思わせるデッドリミットサスペンスの手法を取っているが、それだけではなく、わずか60ページ足らずの中にクーデター物、ウェスタン小説、そして最後のアメリカから来ている刑事が容疑者の有罪を証明するための捜査行も洞窟を舞台にして、宝探しのテイストを持ち込んでおり、冒険小説の要素も入っている。 しかし、それら以上に興味深かったのが、アイリッシュが想定した架空の国サカモラスである。この警察とか裁判とかいうものがない国での殺人事件の捜査という趣向が非常に面白かった。サカモラスでは将軍が疑う者が犯人だと決まる。つまり「疑わしき者を罰する」という考え方。そこに居合わせたアメリカから来た刑事オルークは当然、容疑者は証拠を出して有罪を証明しなければならないという刑事捜査の原理に基づいて行動する。この概念自体から彼らに教えなければならないというのが非常に面白く、野蛮な国に近代の考えを持ち込むミスマッチの妙を半ばコミカルに描いている。アイリッシュでは異色の部類に入る作品だ。 また今回も前回の『シルエット』で感心した、物語を途中から始める手法は健在で、特に今回は極力情報を排して物語のスピードに留意した作品があった。 それは「葬式」と「死ぬには惜しい日」の2編。他の作品が50~60ページであるのにこの2編はそれぞれ30ページ、20ページと非常に少ない。しかしそれがゆえに物語のスピード・テンポは非常に特徴的だった。 「葬式」はチャンピオン・レインという全米指名手配犯のFBIからの逃走を描いた短編でいきなりチャンプの妻が買い物の最中にFBIに勘付かれた事に気付き、逃げ出すシーンから始まる。最初の2ページではハメットを思わせる状況のみを語った三人称で街角によく見られる買い物風景を描写しているが、女性が周囲の男性の正体に気付くや否やスピード感溢れる逃亡劇に変わり、物語が一気にアップテンポへシフトチェンジする。そこから怒涛の銃撃戦と息つく暇もないほどだ。この辺の手際が見事。 そしてこの物語ではチャンプが何を犯したのか、そういった説明を一切省いている。そういう意味では大きな物語の起承転結の「起」「承」自体が省かれていると云える。 そして「死ぬには惜しい日」。こっちは自殺を決意した女性ローレルが主人公。 ローレルが自殺を決意したその日、いざ実行しようとすると間違い電話が掛かってきたので気が散ってしまい、気分転換に外を散歩する事にした。公園のベンチで休んでいるとカバンを置き引きに取られてしまったが若い男性が捕まえてくれた。ドウェインというその男と何となく話すようになり、道々話しているとお互い気が合うのが解った。恋めいた感情が生まれ、やがて家の前に着いた時、ローレルは死ぬのを辞めようと決意するのだが。 最初の自殺を行おうとするローレルの自殺を行う事自体億劫な感じを与える倦怠さから気晴らしに散歩に出て男性を知り合い、部屋の前で交わす会話までの物語は非常のスロー・テンポだが、最後1ページで突きつけられる皮肉な結末はそれまでのスロー・テンポを完膚なきまでに破壊するほどの衝撃。長い「静」のシーンからいきなり落雷の如く訪れる激しい「動」のシーン。読者は無情なまでに物語の只中に置き去りにされるような感じがした。 この作品ではローレルの自殺を決意した直接の原因は語られない。そういう意味では「葬式」同様、大きな物語の「起」、「承」の部分を排除している。 同じ構成を用いて、2種類の物語のテンポチェンジを見せる、アイリッシュの手腕に感心する。 その他については簡単に寸評を。 「高架殺人」はスリムな体型でニックネームが「はずむ足どり(ステップ・ライヴリー)」なのに動きは鈍重、階段の上り下りさえも嫌うというライヴリーはユニークな設定なのだが、ちょっとした面白みがあるだけでストーリーに寄与していないのが勿体無い。 「わたしが死んだ夜」、「コカイン」、「夜があばく」と「妻が消えた日」は正にアイリッシュサスペンスならではといった作品。妻との保険金詐欺を働いた男に訪れる皮肉な結末、コカインを吸った記憶が曖昧な男が犯した殺人事件が本当にあったのかを捜査する話、夜中にいなくなる妻が放火魔なのかどうかと疑惑が募る話、実家に帰った妻が行方不明になる話とバリエーションは豊かだ。 どれもこれも内容は濃い。ただこの辺はアイリッシュ作品を読みなれているがゆえに新鮮さを感じなかった。こういう贅沢な感想が云えるのもアイリッシュのレベルが高い故なのだが・・・。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回は光文社から本格ミステリ作家としてデビューした東川篤哉氏、加賀美雅之氏両氏の作品も掲載され、初期の『本格推理』シリーズに芦辺作品と二階堂作品が掲載していた事を思い出させた。
さて今回収録された8編、これらが全て良作かといえばそうではなかった。前回は50ページから100ページへ制約枚数が増大した分、作品それぞれの物語性が上がった事を喜んだが、2巻目の今回はそれは既に必要十分条件となっている。つまり今までに比べてさらにプロの出来映えに近いくらいの完成度を読み手が要求する事になっているだろうし、実際、私がそうだった。 そんな期待値が高い中、8編中、傑作と思ったのは2編。「窮鼠の哀しみ」と「『樽の木荘』の惨劇」の2編だった。 「窮鼠の哀しみ」は松本清張氏など社会派作家を想起させる誘拐事件を扱った作品。ある鉄工会社の社長の息子が誘拐され、脅迫状の文面から当初は狂言誘拐だと思われたが、犯人からの電話からどうやら本物らしい。二億円の身代金に対し、社長は一億しか都合がつかなかったが、残りの一億は偽装して誘拐犯の要求に臨むことにする。誘拐犯は携帯電話にて色々場所を移動するよう指示した後、あるトラックにカバンを置くように指示する。警察が見張っているとピザの宅配が来て、その車に乗り込み、エンジンを掛けたところを取り押さえるが、犯人ではなかった。心配になってカバンを開けてみると身代金は本物だけが空っぽだった。トラックの側面とその隣の店のシャッターが空いており、そこから金を持ち出したらしい。その後犯人から再度身代金の要求はあるものの、接触は無く、息子は死骸となって発見される。 正にこの2時間サスペンスドラマを読んでいるような感じを与える作品は、最初どこが本格なのか終始首を傾げていたが、最後に哀しいトリックの真相が待ち受けていた。文体といい、警察の捜査の模様といい、この作者は「書ける」人であることは間違いない。警察が真相を暴けない結末は『絢爛たる殺人』で読んだ昔の本格探偵小説を思い出した。 「『樽の木荘』の惨劇」はあの加賀美雅之氏の手になるもので、なんとまたもや「わが友アンリ」の物語に繋がる作品。作者曰く、これと「わが友アンリ」と「暗号名『マトリョーシュカ』」と並んで三部作となるという。これは3作全てが採用されないと成されない偉業。そしてその偉業は単に選者である二階堂黎人氏の贔屓目によるものでなく、確かに確固たる実力に裏付けたされたことであることがこの作品を読むと解る。 物語の舞台は1942年、満鉄の大連駅から始まる。大連駅に降り立った仮面の男。樽の木荘と呼ばれるフェイドルフ老人邸では殺人事件が起こった。雪の降った後、足跡が一組しかないその屋敷の中で老人は殺害され、現場となった書斎の窓の外の向こうには仮面と外套が中身のないまま、放置されていた。しかもそこに至る足跡もないままに。 本作が書かれたときは加賀美氏はまだ素人作家。そして名前も本名らしい素朴な名前。その事を考えると、もはやこの時から素人の域を超えている。そして今回登場人物として出てくるのはなんと若き日の鮎川氏!存命の時の作品だから、ご本人はどのように思ったのだろう。もう、文句のつけようが無いくらい素晴らしい。あまり気にも留めなかった加賀美氏の名前は、しっかりと私の胸に刻まれた。 その他6編中、佳作だと思われるのは「湖岸道路のイリュージョン」ぐらいか。この轢き逃げ犯人を追う夜の追走劇に仕掛けられた車消失トリックは単純であるがゆえに驚かされる。こういうロジックは結構好きだし、書き方もフェアでミスディレクションが非常に巧いと素直に感心。小粒なのでどちらかといえば頭脳パズルの領域を出ないのだが、あまり大仰しい作品ばかりだと疲れるので、こういう作品も入っているのがいい。 その他は専門知識に難があり、作風が肌に合わなかったり、内容が浅かったりとところどころ瑕疵があった。 今や本格ミステリ作家として活動する東川篤哉氏の手からなる「十年の密室・十分の消失」は前回の「竹と死体と」で登場した素人探偵コンビが出ているが、やはりこの軽い作風は好みに合わないし、丸太小屋消失事件については作者の建築知識の無さが露呈しており、これもマイナス要因となった。 「恐怖時代の一事件」はフランス革命直後のフランスを舞台にした作品。やっぱり前回の「ガリアの地を遠く離れて」といい、一連のルパンシリーズといい、どうもフランスの耽美な世界が合わない。二階堂氏が評しているように登場人物それぞれの書き分けが甘いのも気になった。 「月の兎」はトリックと犯人が解った。バニーガールが登場し、色々奇妙な話をする御伽噺めいたつくりはまだ許せるが、全体的にレベルは他の作品よりも下と感じた。 「ジグソー失踪パズル」は全体的に叙述内容とかに仕掛けがあり、ミスディレクションもなかなか。でも全体的に印象が薄い。 「時計台の恐怖」は女子高を舞台にした消失トリックもの。事件の目的とかトリックとかは及第点だったのに橘高が探偵事務所の一員になる最後の終わり方があまりにもベタすぎる。もうこれはライトノベルの世界。 前述のように確かに読み手の要求するハードルの高さは高くなった。だからこそ次はどんな作品、トリック、世界を読ませてくれるのかが非常に気になる。 プロの作品の出来を求めないよう、こちらも気をつけなければならないのか。それとも商業として成り立つべき最低ラインをクリアしていなければならないと厳しい目で見るのか。難しいところだ。 |
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鮎川哲也氏が編集していた一般公募の『本格推理』シリーズを編者を二階堂黎人氏に交代してリニューアルしたのがこの『新・本格推理』シリーズ。前シリーズは鮎川氏が全て読み、その時の気分で作品を選んでいたような玉石混交のアンソロジーの様相を呈したが、今回は他の新人賞のように予め複数の審査員が下読みをし、その1次予選を突破したものを二階堂氏が読んで選考するというスタイルに変わった。また、制限枚数が50枚から100枚へと倍になった。
結論から云えば、このことはかなり大きく作品の質を向上させた。選考スタイルの変更は作品の出来のバラツキが少なくなり、かなりレベルが高くなっているし、枚数の倍増は物語がパズルゲーム一辺倒になりがちだった作品群が中心となるトリック・ロジックを肉付けする物語性を高め、推理「小説」として立派に成り立っている。 そんな様変わりを経た中で選ばれた8編の中でも特に印象に残ったのは「水曜日の子供」、「暗号名『マトリョーシュカ』」、次点で「風変わりな料理店」とであった。 特に「水曜日の子供」はこれが本格ミステリなのかと思わせるほどの文章力に圧倒された。キャリアウーマンである妻との無味乾燥な生活に嫌気をさしたしがない推理小説家の妻殺しの一部始終を倒叙形式で語った作品。 何しろ文体が非常に格調高く、凡百のプロを凌駕する出来。訥々と男が犯罪を如何に成したかを一種の諦観と力の抜いたユーモアを交え、ゆったりと語っていく手法は気持ちよく物語世界に没入できたし、それが故に最後の怒涛の謎解きから物語のスピードが一気に加速するので脳内速度がシフトチェンジするのに戸惑ったが、至極簡単に解き明かしてくれるので理解も出来た。ジャズのエピソードなど物語にセピア調の彩りを備える辺り、只者ではない。 そして「暗号名『マトリョーシュカ』」。これは恐らく現在本格ミステリ作家として活動する加賀美雅之氏の公募時代の作品だろう。前回の『わが師アンリ』もカーのアンリ・バンコランを扱ったものだし、オマージュとした海外作品・作家は無いものの今回も外国を舞台にし、非常に濃密な作品世界を繰り広げている。 日露戦争の真っ只中、ロシアではウリャーノフ率いるレジスタンスの動向が気になっていた。数年前からスパイとして送り込んでいた「マトリョーシュカ」にウリャーノフの暗殺命令が下る。ウリャーノフを取り囲むメンバーの中にそのスパイがいるとの情報が伝わってきており、つい最近仲間入りしたアバズレスという男がその正体ではないかと云われていた。そんな折、窓から焼死体が飛び降りるという怪事が起きた。果たしてこれはマトリョーシュカの仕業なのか? 日露戦争時代を舞台に、ロシア革命を織り込んだ物語の創り方が「水曜日の子供」同様、本当にプロも真っ青な凝ったストーリーで、時代背景を実によく調べ上げている。カーばりの本格ミステリが好きな人らしく、大掛かりなトリックには苦笑いするところもあったが(はっきり云ってこのトリックを看破する人はいないだろう)、実在人物をストーリーに絡め、前回入選作も取り込むという懲りよう。常々素人作品のシリーズ探偵物には辟易していたがこれはその嫌味がない。正にプロ級の力作。 次点の「風変わりな料理店」も前半は格調高い物語世界、落ち着いた文体など非常に酔わせる書き手だと思った。鳥取の片田舎の温泉宿に逗留に来た推理作家が元刑事の老人から小説のネタにと、過去のある事件の顛末を聞き、その真相を暴くという安楽椅子探偵物。 フランス料理店のシェフが一万人目サービスとして肉料理を振舞う偶然に遭遇した刑事二人はその店が他の客にも一万人目サービスとして無料で料理を振舞っていることに気付いた。しかしその料理には女性の髪の毛や爪の一部が混入されていたり、不審な点があった。同僚の刑事である久瀬からは実はあのシェフがたびたび妻に暴力を振り、警察に助けを求められているという情報もあった。果たしてこの料理に供されている肉の正体とは・・・といった奇妙な味を思わせる作風。 ミスディレクションなど本格ミステリの醍醐味を十二分に味わさせてくれる、と思ったのだが、真相解明の説明にご都合主義が見られるのが非常に残念だった。 あと唐突に探偵小説に関するマニアックな知識が挿入されるのに違和感を覚えた。恐らく作者自身の本格ミステリ愛をアピールしたいが故の行動なのだろうが。 その他の5編も悪くない。というよりも以前のシリーズの中では1,2位を争うものばかりだろう。 二・二六事件を上手く推理の因子として扱った「竹と死体と」は竹を曲げて首を吊る事の必然性が判らないし、途中で挿入される自己紹介、安楽椅子探偵物に対する作者の考えを述べるのはリズムが悪く、同人誌を読まされている感じがした。 「ガリアの地を遠く離れて」は第一次大戦中のフランスを舞台にしたアイリッシュの『幻の女』を想起させる物語。耽美な文体・物語世界は上手いと感じはしたが、全編に作者の陶酔感が漂っているようであいにく私の好みには合わなかった。 その他カーの「B13号船室」をモチーフにした、題名の意味が未だに判らない「白虎の径」、同じく島田荘司の『眩暈』を大いに意識したと思われる「東京不思議DAY」は若干不満が残るものの、やはり面白くは読めた。 一番異色な「時刻表のロンド」はこんな作品がこの硬派にリニューアルしたシリーズに選ばれたこと自体が嬉しい。友達から送られた時刻表トリックを題材にした作品を解き明かす趣向のこの作品。奇想というに相応しい発想を買う。あまりに奇抜すぎて他の作品と同列に評価するのを憚られるが、私個人的には許容範囲。この稚気もまたミステリの醍醐味だと思った。 このシリーズに至り、ようやく最近新勢力の本格ミステリ作家の作風、趣向、原点が見えてきた。光文社は二階堂黎人氏を編者にしたことで幸せな結婚をしたと思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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編者は鮎川氏が監修となっているが実質芦辺氏が95%は掲載作品を決定しているであろうアンソロジー。兎にも角にもマニア垂涎という形容がぴったりの濃厚な内容で、逆に自分が本格ミステリマニアでないのを知った次第。
収録された作品は5作。まずペダントリー趣味溢れる「ミデアンの井戸の七人の娘」から幕を開ける。このフリーメーソンをモチーフにした館物の連続殺人事件は小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』を意識しているところかなり大で作者が小栗氏に負けじとばかりに衒学趣味を十二分に発揮して健筆を振るっているが、これが私を含め、平成の読者にはかなり重く、正直、目くるめく物語世界に文字通り目くるめいて混乱する始末。 名探偵の名が秋水魚太郎、あまりに古めかしいゴシック調本格ミステリ、全編に散りばめられたユダヤ教の意匠、そして怪人物アイヘンドルフのアナグラム、これら全てが専門的過ぎ、読者を選ぶ作品となっていた。しかしおかしなものでシャム双生児の真相はそれでも驚きに値するものであったのは素直に作者の技量の高さを認めるべきだろう。 次に続く宮原龍雄氏、須田刀太郎氏、山沢晴雄氏三者による合作「むかで横丁」。これはかなり無理を感じた。それぞれのパートで明らかに文体・構成が変わり、戸惑いを禁じえないし、なぜか最後に出てくる星影龍三も単なる狂言回しとしか扱われない粗雑さが読後感として残った。 「ニッポン・海鷹(シーホーク)」もやはり、倭寇の時代から江戸時代まで活躍していた日本の海賊をモチーフにペダントリー趣味を横溢させている。どうも私はこのペダントリー趣味が合わないらしく、作品から立ち上る作者の熱気に反比例するかの如く、興味は薄らいでいった。 そんな中、ベストと準ベストを上げるとやはり「二つの遺書」と最後の「風魔」となる。 「二つの遺書」は失明した戦争から帰還兵、本條時丸が妻を心臓麻痺で亡くし、人生に絶望し、自殺する旨を記した遺書めいた手記から物語が始まる。しかし実際に密室状態で発見された死体は異母弟の柳原康秀で、手記の筆者である本條は行方不明となっていたというもの。冒頭の遺書の裏側のストーリーを語る二番目の遺書という趣向が良く、プロットがしっかりしていた。あまりにストレートすぎる題名も他の作品に比べシンプルで好感が持てた。 しかし密室の機械的トリックは字面での説明のみであまり理解できなかったのは事実。この辺がやはり読者を選ぶことになると思う。 「風魔」は雰囲気を買う。他の4作品は先にも述べたように重苦しい雰囲気で、読書の楽しみよりも混乱を目的としていると邪推できるほど、読者を突き放したものだったが、本作は推理作家毛馬久里と相棒のストリッパー美鈴、それに加え、したたかな刑事、菅野の3者の掛け合いがユーモラスで物語に彩りを添えており、娯楽読み物としてきちんと性質を備えている。 内容は台風の夜、池の真ん中にある小島で起きる殺人事件を扱っており、この島が動くトリックには正直奇想天外すぎて呆然とした。小島に建物が建っていること、四面にドアのある一軒家など専門的見地から見るとご都合主義を押し着せられるような感じがして素人考えの浅はかさを感じずにはいられないのだが、前にも述べたように登場人物のキャラクター性といい、娯楽読み物という性質を鑑みてギリギリ許容範囲とした。 しかし、これら昭和初期の本格推理(探偵)小説を読んで意外だったのは、真相が名探偵によって暴露されるのではなく、犯人の独白や手記によって暴かれる事。名探偵はある人物が犯人であることの外堀を固めていきはするが、犯行の動機・トリックなどの事件の核心は犯人に語らせている。 これは欧米の名探偵ホームズ、ポアロ、ブラウン神父などがあまりに神がかり的に事件を看破することに対する彼らなりの問い掛けなのか、それともそれら有名な名探偵たちに対する遠慮なのだろうか?その辺の言及が編者から一言も無かったのが悔やまれる。 |
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これほど続けてサスペンスを読むとやはり設定にヴァラエティを凝らしているとはいえ、展開が読めてくるのが悲しい現実。
恐らく現在続々と出てくる小説で語られる話というものは実は既に世の中で語られた物語の焼き直しに過ぎない。今まで観たことのない、読んだことのない物語は果たして生まれないのではないかとも云われている。で、そんな中、傑作と呼ばれる作品は他の類似作品と何が違うのか、今回はその答えの1つを見つけたような気がする。 今回収められた作品9編のうち、最も印象に残ったのは「秘密」。都会の片隅に住むケンとフランシス夫婦の物語。 熱烈な恋愛を経て結婚した二人。ケンはプロポーズのときにフランシスに自分は過去、人を殺したことがある、それも意図的にと告げる。しかしそんなことは2人にとってなんら障害ではなかった。2人の生活は順調だったが、ある日ケンの上司が変わったことから生活が一変する。新しい上司パーカーとそりが合わないケンは給料を減額されたりと冷たい仕打ちを受けていたがついに不満が爆発して上司を殴り、解雇される。折りしも世間は不況。仕事を探すが見つからない。しかし元上司の伝手で新しい仕事を紹介され、勢い込んで面接に行ったがパーカーからの紹介状により不採用となる。絶望したケンは突発的にその夜、出かける。翌朝の新聞にはパーカー殺害の記事が。果たして夫の仕業なのか?というのが大まかなストーリー。 この作品の良さは都会の片隅に静かに暮らす若い夫婦に訪れる不幸や不遇が、夫ケンがそりの合わない上司殺人の動機と有機的に絡み合う色づけになっている。凡作と傑作の違いはこういった味付けがしっかりしているか否かにあるとつくづく感じた。 その味付けの最も濃い部分は夫ケンが失業して得たバイトが半身裸になって商品の宣伝をドラッグストアのショーウィンドウで実演するもの。技術者の彼が二束三文を得るためにプライドを捨ててまで仕事に打ち込む姿を見て涙する妻。こういった情に訴えるエピソードが物語の厚みを増す。あまりにも皮肉なラストはケンが過去に殺人を犯したという最初の告白が伏線となって不幸な夫婦をさらに不幸にする。物語のエッセンスが凝縮されている。全てが有機的に働いた、いい作品だ。 準ベストは「生ける者の墓」だ。これも独特の設定で読むものを恐怖へ追い込むがオリジナリティがあるとは全面的には云えない。 かつて自分の父親が生きたまま棺桶に入れられ、苦悶の表情で死ぬのを見てから葬式に出くわすと棺桶の死体が生きていると思ってしまうというトラウマがあり、それを克服しようとしていたところ、生きながら埋葬され、そこでわずかばかりの酸素で死を克服する団体に行き当たり、強制的に入会させられ、埋葬させられることが決まった。逃げようとするがその団体の包囲網は細かく、四六時中見張られていた。結婚を決意した彼女とニューヨークかイギリスへ逃亡することを決意したが、捕まってしまう。しかしなぜか釈放され、彼女は来ない。どうも彼女は私の身代りに埋葬されたらしいのだ。早く助けなければならない。彼女が死ぬまでに果たして間に合うのか?警察の必死の捜索が始まった。 これはチェスタトンの『木曜の男』を想起させる。乱歩はこの最初のエピソードから材を得て『お勢登場』を書いたのではないかとも思え、作家たちの物語のアイデアが連鎖的に繋がっているように感じる作品。 この作品はその構成の上手さにある。冒頭に墓を掘り起こす男を持ってきて、どういう理由でそんな行為をやっているのかを徐々に明らかにさせ、しまいには予想もつかない奇妙な犯行団体の話に着陸する。時系列に語っても物語の牽引力はあるのにこれを変えることでさらに読者を先へ先へと引っ張らせる。これも傑作と凡作の大きな違いだ。 他に良かった水準作を簡単に述べていくと、まず「毒食わば皿」。気弱な男がのっぴきならない状況に追い詰められ、殺人を重ねていくノワール調のストーリー。詩的な文体で語るアイリッシュの手に掛かると不思議と男が殺人を重ねるのに必然性が生まれてくる。最後の妻の一言もツイストが利いている。 「死の治療椅子」もいい。殺人の疑いをかけられた友人の歯科医の無実を晴らす刑事の捜査物語。本格ミステリ並みのトリックも入っているが、これは一読瞭然。しかし主眼はこれにあらず、自らにこの罠を仕込ませて証拠を確保する刑事の心境をサスペンス豊かに語るのがやはりアイリッシュ。チープな本格にせず、サスペンスとして処理したアイデアがよい。なかなかこうは行かない。 他の「青ひげの七人目の妻」、「殺しのにおいがする」、「シルエット」は数あるアイリッシュサスペンスの1つとしてのみ記憶が残る程度か。アイリッシュが用意する手持ちのカードのうち、今回はこの結末を選んだ、それくらいの範疇で終わっている。 戦争による精神障害の男の話「窓の明り」、パリに訪れた悪漢二人の誘拐解決劇「パリの一夜」も詩的な文体が横溢しているがちょっと合わなかった。 前述にあるように続けてアイリッシュサスペンスを読んでいるものでいささか食傷気味になっているのは否めないが、それでもなお、読ませる作品を提供するこの作者の底力を思い知らされた短編集。限りなく8ツ星に近い7ツ星。 |
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ヒッチコック映画であまりにも有名な「裏窓」をタイトルに冠して編まれた短編集。今回秀逸なのはやはり表題作と「いつかきた道」、「じっと見ている目」、「ただならぬ部屋」の4編を挙げる。
表題作については贅言をつくす必要はないだろう。裏窓から人間観察をすることで毎日を過ごす男がある日、病弱の妻が住む一角に妻が現れないことが気になって犯罪の発生を疑うというもの。 ヒッチコック作品をじっくり観たことはないが、何かで植えつけられた先入観のせいか、覗き見をする男ハルは貧弱で一握りの勇気しかない男だと思っていた。しかしこの作品では元刑事の不屈の男だった。覗かれている男が覗いている男に気付いて追い詰めていくというストーリーも実は全くの逆であったことも今回判った。アパートの窓の数だけ生活があるという書き方は群像劇が得意のアイリッシュらしい書き方だ。でも今のご時世ではこのハルの行為は全くの犯罪だなぁ。 「いつかきた道」は異色の作品。ある先祖を尊敬する少年がやがてその先祖そっくりに成長し、旅に出たときに初めて来る地にもかかわらず、細かなことまで判ってしまう。それはあたかも先祖が乗り移ったかのようだったというもの。 つまりは先祖が乗り移り、かつて先祖が愛した女性を迎えに行くという話なのだが、時世は現代で恋人は待ち人というのがちょっと理解できない。でも決闘シーンなどメタ歴史物とでもいう設定も手伝い、ロマン溢れる一篇になっている。 「じっと見ている目」は全身麻痺で息子夫婦の世話になりながら暮らす老女が妻の企てる殺人計画を聞き、どうにか息子に伝えようとする。しかし、犯罪は成就し、妻は愛人と再婚するがそこに現れた無一文の青年が老女の世話をしだすことで犯罪が露見し始める。 典型的なアイリッシュ作品。全身麻痺で口も聞けない老女がどうにか息子に殺人計画を伝える辺りは文章の力を強く感じた。刑事が手掛かりを掴むのが早いような気がするが、短編だから仕方ないか。 「ただならぬ部屋」はホテル探偵ストライカー物の一篇。これがシリーズ物なのかは現時点では知らないが、アイリッシュには珍しく密室殺人を扱った本格ミステリとなっている。 セント・アンセルム・ホテルでは913号室に宿泊する客が相次いで自殺するという怪事が続いていた。ホテルの保安係を務めるストライカーは警察の雑な捜査に業を煮やし、自らの身を以って真相を明かそうと宿泊客に変装して913号室で一夜を明かそうとするのだが。 他の短編と違い、飛び降り自殺に見せかけた殺人が都合4件起きるのだが、これをかなりのタイムスパンで100ページもの分量を費やして語る。これはストライカーの人と成りを示すために必要だったのだろうか?でもストライカーの執念とか物語の怪奇性とかは読ませるし、次作が愉しみな好編だ。 しかし以上の4編以外がつまらないというわけではない。「死体をかつぐ若者」は余命いくばくもない父親が浮気性の妻を殺害した事件を息子がアリバイ工作にて上手くごまかそうとするもの。アイリッシュの「遺贈」という作品では死体が車に乗っていたがために逮捕される窃盗犯の話を書いたがこれはその別パターン。 世評でよく聞く「踊り子探偵」は親友のダンサーの殺人犯人をダンサーが突き止めようとする話。アイリッシュの台詞の上手さが光る一品。世間では認知度高いが内容はさほどではなかった。 「殺しの翌朝」も最後の幕切れがアイリッシュの上手さを現している。不眠症の刑事が気付かないうちに殺人を起こしていたという話。アイリッシュ・サスペンスの、どう考えても窮地に陥った主人公の犯行としか思えない状況に追い詰めていき、アクロバットなトリックで実は・・・という常道をあえてそのままストレートに落ち着かせた。 「帽子」は帽子の取り違いから起きた殺人事件の話。殺害される男が帽子を店員に預けるのを断るのに「外は風が強く、帽子がないと風邪を引いてしまうからだめだ」というのには笑った。この辺の無理が最後までのめり込めなかった一因だった。 「だれかが電話をかけている」は 10ページにも満たないショートショートといってもいいくらいの作品。単純なストーリーであるがゆえに最後のオチが効いている。 前作が読み捨て小説の書き殴り感を強く感じたのに対し、今回は物語に起伏があり、読み応えがあった。昔の作品だという感覚は拭えないのは仕方はないにせよ、もう1つ心に残る作品があれば傑作になっていたと思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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あの『ゲット・ショーティ』の続編である本書は、やはりあのクールな元高利貸しチリ・パーマーが活躍するエンタテインメント作品。
前回高利貸しから見事映画プロデューサーに転身し、映画を製作してヒットさせたチリが今回扱うのはロックのインディーズレーベル。前回同様、芸能業界を題材にクールなチリが度胸を武器に常識を破っていく。 チリ・パーマーは個人的に数あるレナード作品に登場する主人公の中では最も好きな人物である。タフを地で行く彼にはどんなギャングが脅しにかかろうと動じない。持ち前の度胸と悪知恵で修羅場を乗り越えていく。あの「おれの目を見ろ」の台詞も健在だった。 そしてチリを彩る登場人物たちは今回も当然魅力的だった。ギャングの出身でリンダ・ムーンのマネージャーを務めていたラジの小物さ、そのラジのボディガード兼相棒のホモのエリオット・ウィルヘルム―この名前でサモア人の血が混じっている事自体、レナードのセンスが光る―、今回のヒロイン、リンダ・ムーンももちろん魅力的だった。 しかしなんといってもロシアマフィアのボス、ロマン・バルキンが出色の出来。初登場シーンの彼に対するチリの印象は今まで読んだどの小説よりも面白い。明らかにカツラとわかる男が車から降りてきた、何故あれほど頭よりもデカいカツラをヤツはつけているのだ?これには笑った。しかも似合わないカツラを被っているちゃんとした理由があるのがすごい。レナードの筆致は老いてなお、冴えわたる。 さらに今回は御齢75歳のレナードが随所に現代アメリカン・ポップス(原書が出版された1999年当時の)を縦横無尽に語るのがすごい。なんとスパイス・ガールズを語り、しかも彼女らの歌の好みについても語るのだ。俺の周りにはこんな75歳いないぞ!! 今回、興味深いのはチリの言葉を借りて、自らの創作姿勢を語っている点である。 「最初にプロットを描かず、まず登場人物たちを描き、彼らが動き出すのをそのままなぞる」 正に先の読めないレナード作品の真髄がこの創作作法にある。 しかし、今回はいささかやり過ぎた点があるのも否めない。あまりに映画化を意識した作りになっていること。 エアロスミスを作中に出させたのもその1つ。正に映画における特別出演メンバーではないか! またストーリーがリンダのデビューをテーマに映画を作ることから、映画化された時のフィクションとノンフィクションとの境の錯覚、つまりメタ化を図っていることこそ映画化画策を露呈させている。 アメリカエンターテインメント界を題材として扱うチリ・パーマーシリーズは面白いことは面白いのだが、今回はちょっとあざとかった。 |
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アイリッシュの独特の設定、シチュエーションは短編でも遺憾なく発揮されており、ドラマや映画のネタに困ればアイリッシュを読めば、そこに斬新なアイデアが詰まっているとでも云いたいくらいだ。
特に表題作はボクシング試合中の射殺事件を扱ったもので、映画『スネーク・アイズ』を想起させる。 今回収められた7編は全て水準作であり、可もなく不可もないといったところ。これは前半のサスペンスが一級品であるのに対し、後半の結末、特に真相解明になるといやに陳腐な印象を受ける。 まず最初の「消えた花嫁」はよくある失踪物だが、名作『幻の女』を髣髴させるほどのサスペンスで関係した誰もが花嫁など見なかったというあたりはホラーに近い。また主人公のジェームズの恋の盲目ぶりもあまりに間抜けすぎた。 またよく理解できなかったのが「殺人物語」。主人公の作家タッカーは何故自らの犯行声明を表した作品取っておいたのか?皮肉は結末はアイリッシュならではなのだが、ここら辺の登場人物の心理の掘り下げがもう少し欲しかった。 「チャーリーは今夜もいない」は街で連続して起こる煙草屋強盗事件の犯人が実は捜査する刑事の息子ではないかというサスペンス物。これは途中で作者の意図が見えた。 本格ミステリ色強いのは「検視」と「街では殺人という」の2編か。 「検視」は馬券宝くじから始まる夫の殺人計画発覚ものだが、再婚した夫の犯行の証拠がいささか貧弱か。作者の隠れた意図が見え見えであるのは痛い。 「街では殺人という」はアイリッシュの得意中の得意とでも云うべき、男と女の愛の友情物。弁護士がかつて惚れた女性の無罪を晴らすために立ち上がるというもの。この設定でかなり惹かれたが最後の列車の走行を利用した大トリックにはびっくりした。 今回最もアイリッシュュ色が濃いのは「墓とダイヤモンド」だろう。孤独な老女の遺品であるダイヤモンドを街の悪党チックとエンジェル・フェースが盗もうと画策するクライムノヴェル物。これはまず冒頭の老女の孤独さがそれ1つで短編となっており、そこから悪漢たちのクライムノヴェル、そしてアイリッシュ特有のアイロニー溢れる結末。仕掛けは凝ってはいないもののその分シンプルで愉しめた。 今回の作品は物語の構成はいいものの、最後のアイデアがいただけない。パルプ作家時代の早書きの特徴みたいなものが見受けられた。しかし、冒頭でも述べたように、設定は素晴らしい。現代作家も見習うべきだと強く思った。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本作品ほど、クーンツは傑作を物するのに仕損じたと大いに感じたことはない。
物語の構造は単純だ。幼き頃に虐待を受けたアグネスが授かった子供バーソロミュー。彼は量子力学を理解し、体現する神童であり、奇跡の理を知っていた。10代にしてレイプされたセラフィムはその子供エンジェルを産む。この子もまたバーソロミュー同様、奇跡の理を知る子供であった。 一方彼らが産まれた同じ頃、自分をこよなく愛する妻を衝動的に崖から突き落とし、事故に偽装して死なせた男ジュニア。彼はこの後、狂気の論理で殺人を重ねて行く。 そしてその彼を殺人鬼とみなし、付き纏う刑事ヴァナディアム。ジュニアは自分を潜在的に脅かすバーソロミューを探し、また死してなお、脅かすヴァナディアムから逃れながら殺戮の旅を続ける。そしてこの4者が数奇な運命を重ね、ブライトビーチで邂逅するとき、ある奇跡が起きる。 クーンツの長所として ①ページを繰る手を休ませない物語の展開の早さ ②読者を退屈させない斬新なアイデアの数々 ③どんなに窮地に陥ってもハッピーエンドに終わる という3点が挙げられるが、今回はこのうち③を特化して物語を閉じればかなりの傑作になったのではないだろうか?なぜテーマを1本に絞れなかったのか? 物語の終盤で形成されるアグネス・ランピオンを中心にしたファミリーの歴々のそれぞれが重ねた人生の悲哀、喜びなどを描くことに専念した方が、ミステリ性・エンタテインメント性は落ちるものの物語の深みはかなり上がっただろう。 今回最も印象に残ったのはアグネスの再婚相手となるポール・ダマスカスのエピソードで、ポリオで全身麻痺に侵された妻との死別するシーンはかなり胸を打った。またジュニアがいなくなってから語られるアグネス・ファミリーのその後がこの小説で一番醍醐味を感じた。最後の最後で数々の奇跡がバーソロミューに対し、実を結ぶ巧さもクーンツならではだと思う。だからこそジュニア・パートが宙に浮くような印象を強く受けるのだ。 余談だが物語中でジュニアの独白で語られるアクション映画・小説の鉄則が面白かった。暴走列車が尼僧を乗せたバスと激突したときにカメラないしペンが追うのは尼僧の生死ではなく、あくまでも暴走する列車の行方であるということ。これがエンタテインメントの鉄則であり、小説作法なのだと改めて認識した次第。 やはり西洋人の作家だなあと感じたのはジュニアが寝言で知りもしないバーソロミューの名を連呼することに対する答えを論理的に用意していたというところ。恐らく日本のホラー作家ならば説明のつかない超常現象めいたことを種にするだろうが、クーンツはしっかりとその理由についても論理的に用意していたのが興味深かった。 正直な話、今回は物語がどのような展開を見せるのかが全然検討がつかなく、これがページを繰る手を止まらせないといったようないい方向に向かえば文句なしなのだが、迷走する様を見せつけられているようにしか受け取れなく、何度も本を置こうと思った。1965年から2000年にかけてのバーソロミューの半生を描くサーガという趣向なのは解るけれども1,200ページ以上をかけて語るべき話でもなかったというのは確か。最後の最後でじわっとさせられるものがあったけれども終わりよければ全て良しとはいかず、やはりそれまでが非常にまどろこしかった。クーンツ特有の勿体振った小説作法がマイナスに出てしまった。 最後に重箱の隅を1つ。ジュニアが看護される看護婦相手に連想を起こす映画『ナイン・ハーフ』は1986年の作品であり、連想をする1965年には上映もされていない。実はこの矛盾のために今回は結構白けてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『本格推理』シリーズも今回が最終巻。とはいえ、このあと編者が二階堂黎人氏に代わり、『新・本格推理』シリーズが始まるのだからあまり感慨は無い。
15冊も巻を重ねて、その中には目を見張るもの、プロ顔負けの巧さが光るもの、素人の手遊び、独りよがりのものと玉石混交という四字熟語が相応しいシリーズだった。 で、今回はといえば、はっきり云って小説として読めたのは石持浅海氏の「利口な地雷」のみだったという印象が強い。もうこれはこの時点においてプロの筆致である。題材も対人地雷禁止条約をプロットに絡ませるなど、他とはオリジナリティが群を抜いており、読み物として非常にコクがあり別格の出来映えだ。 その他には読み物として「六人の乗客」が読み応えがあった。バスの横転事故の際に耳を切られそうになるという奇事に見舞われ、それが悪夢となって夜毎うなされる1人の女性。顔は知りつつも名前も知らないいつも乗り合わせる乗客たちがなぜ事故の時に憎悪に満ちた顔で彼女の耳を取ろうとしたのかというのがこの物語の焦点。正直、六人の乗客の造形、書き分け方が見事であり、ホラー仕立ての先の読めないストーリーにわくわくしたが、耳を切ることの必然性が全然無くてがっかりした。さんざん耳の切断の謎で引っ張っておいてあの真相はないだろう。 その他、やや感心したものの全面的に納得できなかったものを挙げていく。 「情炎」は二重三重に真相が明かされるのはなかなかなのだが、溶剤を隠したいという理由がよく判らなかった。具体的にどんな溶剤を使っていてなぜそれが犯人究明の手掛かりになるのか、明確にしてほしかった。あとこの作者は文章が上手いと自負しているようだが、自分に酔っており、それが鼻についた。 「丑の刻参り殺人事件」は犯行時刻に容疑者がTV局の隠し撮りに遭っていたというシチュエーションは最高だったが、大掛かりな機械トリックにがっかり。 特筆するのは実は13編中これだけなのだ。 以前から感想で述べているように未だに素人なのにシリーズを作り、しかも名探偵を設定するマスターベーションが続いている。これが実に不愉快。金出して読む者に対し、無神経さを感じる。 辛辣すぎるかもしれないが、シリーズ最後で有終の美を飾れなかったというのが正直な感想である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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