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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1433件
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20代後半の若き登山家、加藤武郎とそのパートナー久住浩志2人の登攀を綴った連作短編集。
表題作の「白き嶺の男」は独学で単独登攀を行っていた加藤武郎がある登山会に所属した際に行われたテスト登攀での出来事を綴った話。 続く「沢の音」は加藤とコンビを組む久住と加藤の邂逅の物語。 そして「ラッセル」は「沢の音」で知り合った加藤と久住が北穂高岳の滝谷の岩盤登攀を2人で行う様子を描いた物。 「アタック」は「ラッセル」で述べられたヒマラヤ登攀についての話。 「頂稜(スカイライン)」は再び久住と加藤のヒマラヤ登攀の物語。 最後の1編は「七ツ針」という加藤・久住物ではない山岳ホラー短編。 本短編集では加藤武郎と久住浩志という2人の男たちの関係について訥々と語られていく。当初、所属していた登山会を加藤が辞め、久住の会に入ったことなどが、徐々に語られ、やがてその内容は2人のヒマラヤ登攀にまで至る。 本作の中で面白かったのはやはり雪山登山について語られた作品の中、唯一渓谷のルートを調べる渓谷登攀を語った「沢の音」だ。我々が地図の上で知る山の渓流の道筋などはこういった渓谷登攀を趣味とする、または生業とする人たちによって徐々に詳らかにされていくのかと知的好奇心を刺激させられた。 この短編集には登山の困難さが経験した者でしか解らない迫真のスリルとリアリティで語られるところにある。それぞれの1編は40~50ページぐらいの長さながら、そこに書かれる登山の息苦しさは正に登山が死と隣り合わせのスポーツである事を濃厚に物語る。 しかも、語られるのはそれだけではない。山が、自然が気候の影響により、どのように変わりゆくのかを理路整然と叙述していることも見逃してはならないだろう。 本編の主人公である加藤武郎と久住浩志はそれぞれ次のように性格づけされている。小さい頃から樵であった祖父の手伝いをするうちに独学で山を登る事を学んだ加藤は自然の声を聞く男であり、また怖さを知る男。そして高所では無類の粘り強さを発揮する男である。片や久住は、渓谷登攀を趣味にしつつ、1人で未開の地を発見する事に喜びを見出す排他的な男だが、同じ匂いのする加藤には絶大の信頼を置いている。クライミング技術は加藤も凌ぐ男である。 この2人が色んな登山を重ねるのだが、正直ページ数が限られた短編であるからか、ちょっと消化不良の感が否めなかった。物語を掘り下げていきながら、ページ数の都合により、はいここまで!といった感じが各編に漂っているのだ。最後に添えられた別物の「七ツ針」ぐらいだろう、きちんと終えているのは。だから、この2人の登山家の魅力を存分に味わうというほどではない。 『遥かなり神々の座』では主人公のクライマー滝沢育夫の登山生活のみならず、私生活まで踏み込んで語ったので厚みが出たが、本作では絵に描いた人物を語っているだけに留まった感じがする。題材として非常に面白かっただけに勿体無い気がした。 願わくばこの2人を主人公にした長編を読みたいものだ。手元にその作品があることを切に願う。 |
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イギリスの諜報機関MI-6のモスクワ駐在員ジョン・イングラムの後任として新人のジェレミー・ブリンクマンが選ばれた。イギリスの外務事務次官の息子である彼は、父親の権力に頼ることなく、MI-6内で優秀な成績を収めており、今回の人事は大抜擢だった。
イングラムの送別会の席で彼はアメリカのCIAの駐在員エディ・フランクリンを紹介される。彼こそはこのソ連駐在の各国の駐在員の中でもとびきりにソ連の政情に精通しており、業界でもその名は知れ渡っていた。聡明なブリンクマンはフランクリンと親密になり、ソ連国内の小麦不足を契機にした米ソ間の政治的緊張の勃発について予見し、MI-6内での評価をどんどん上げていった。 一方、ソヴィエト国連大使を経て帰国したピョートル・オルロフはアメリカ滞在中に知り合った通訳の女性ハリエットとの再会に心焦がしていた。しかし、国連大使での手腕が高く評価され、オルロフはソ連国内で将来の指導者と期待されていた。周囲の評価と自らの恋情に板挟みに苦しむ中、オルロフはアメリカへの亡命を計画する。 また、フランクリンにはワシントンに前妻ルースと息子2人を残しており、現在モスクワで一緒に住んでいるアンは後妻だった。アンはモスクワでの暮らしに退屈しており、フランクリンの異動を今か今かと待ち望んでいた。そんな中、フランクリンの許にルースから知らせが入る。長男のポールが麻薬を求めて強盗を起こし、警察に捕まったというのだった。フランクリンは急遽アメリカへ飛ぶ事に。 そしてその急なアメリカへの出国に対し、ブリンクマンは何かアメリカで事件が起こっていると推測したブリンクマンはその情報を探ろうとアンに近づく。 上に書いた粗筋は実はこの作品のテーマに触れてなく、本作のテーマはCIAとMI-6の諜報員同士のソ連の大物政治家の亡命を巡っての、丁々発止のやり取りである。この展開で物語が動き出すのは全400ページ強の本作に於いて、270ページを過ぎた辺りである。 それまではスパイたちのプライベートライフを綴った物語というべきだろうか。本作で繰り広げられるのは従来のスパイ物に見られる、情報工作、情報収集に危険と隣り合わせで挑むスパイの緊迫感溢れた仕事ぶりよりも、モスクワに送られた各国スパイ達の交流とその夫婦生活と奥さん連中の内緒話、三角関係、遠距離恋愛といった、非常に通俗的な内容になっていた。 そしてスパイも家庭問題を抱えるのだ。息子が非行に走り、急遽勤務先から舞い戻ったりと大変なのだ。 やがて独身者で新進気鋭のブリンクマンがフランクリンの不在中にその妻アンに対して横恋慕を始めるうちに―当初はフランクリンの動きを摑む為に接近したのだが―、私情を絡めた2人の攻防戦が繰り広げられるといった次第だ。ここからがエスピオナージュ作家フリーマントルの手腕が光る諜報合戦と云えるだろう。 さて本作は今までのフリーマントル作品同様、最後に思わぬどんでん返しが待ち受けている。それは最終的にフランクリンが凄腕のCIA諜報員だったことを如実に示す事になるのだが、いささか唐突過ぎるのではないか。 最後の最後まで気の抜けないのがフリーマントル作品の長所であるのだが、どんでん返しを受け入れる布石はやはりところどころに示唆してほしいものだ。 こういうどんでん返しならば、私でも書ける。 今回はどんでん返しというよりも辻褄併せのような感じがした。実にフリーマントルらしくない歯切れの悪い結末だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾初期の代表作である本作は、実に哀しい物語であった。
この高校球児を中心に据えたミステリ。この作品の中心となる謎は、二つの殺人事件の謎でもなく、愉快犯とも云うべき東西電機での爆破未遂事件と社長誘拐事件の謎でもなく、題名となった“魔球”の謎、でもない。 天才投手と云われた須田武志そのものの謎である。 本作はこの須田武志なる人物が実にストイックかつミステリアスに描かれており、この人物無くしてはこの物語の成功はなかったであろう。 他の高校球児と特に仲良く接することなく、常に孤高の存在として振舞う。自らに妥協せず、他者とは違う次元で物事を見据えた眼を常にしている。そして自ら立てた目標に向かって嘘はつかず、また約束は必ず守り、自らを厳しく律する。自ら弱音は決して吐かない。出来ないという言葉は決して使わない。 彼の死の真相を知ったとき、正にこの男は武士であると痛感した。名前は須田武志。東野氏はこの男に武士の魂を託し、“武士の心”という意味を込めて“武志”という名にしたに違いない。 そしてこの須田家を取り巻く家庭事情など、ほとんど巨人の星の世界である。貧乏のどん底から、プロ野球選手を目指して這い上がる男、自らの努力で天才投手の名を恣(ほしいまま)にし、家族の幸せのためには自分を売ることも厭わない。 ここまでべた褒めならば星10個献上したいのだが、あまりに哀しすぎるので、その分、星1つマイナスした。物語半ばで判明する須田武志の死は、私にはあまりにもショッキング過ぎた。こういう奴を応援したいんだよと思っていた矢先の悲劇だったために、プロットのためにここまでするかと脱力感と憤慨を覚えたのである。最後の結末を読んでも、やはりあそこで須田武志は死なせるべきではなかった、そう強く思った。彼を亡くした後の須田家の哀しみを推し量るとどうしてもこの展開には反発心を覚えてしまう(また文庫表紙の朴訥としたイラストが泣かせるのだ)。 そう思うのも、ここまで感情移入してしまう登場人物に久々に出逢ったためで、正に東野氏の術中に嵌ってしまったことは否定しない。先にも書いたが本作ではそれぞれの事件の謎ではなく、この須田武志という人物の謎こそ東野マジックなのだ。 もう少し書こう。 本作でキーとなる題名にもなっているこの“魔球”の正体。この謎も実はなかなかに考えられているのである。 “魔球”というちょっと間違えば陳腐な内容になるこの題材について東野氏は実に面白い解答を用意している。そしてそれはこの“魔球”という二文字の意味がまた別の意味を持って立ち上がってくるのだ。 人が打てない悪魔のような変化を伴うから“魔球”と呼ばれるのが一般的だが、本作にはもう1つの意味が隠されている。これはそれぞれこの本を読んで確認して欲しい。 |
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カー版コージー・ミステリとも云うべき、ストーク・ドルイドという小さな街で起こる小さな事件の物語。読中、セイヤーズの『学寮祭の夜』を思い出した。手元に本が無いので不明だが、両書のうち、どちらが先だろうか?
しかし、もしこれがセイヤーズの作品の方が先だとしても、カーが真似をしたとは思えない。作中で語られる、当時ドイツで起きた実在の事件から題材を得ているようなのだ。 で、本作の真相と云えば、いささか首を傾げざるを得ない。肝心の動機が曖昧だからだ。なぜ犯人は悪意のある手紙を出し続け、また密室状態でジェーンに深夜後家が逢いに行ったのかの理由が全く見えない。何度も解決シーンを読み返したが、ある人物の隠された過去の告発をくらますために行ったという解釈しか出来ない。しかしそれでは非常に動機として弱すぎると思う。 セイヤーズの作品では悪戯の背後に隠された悪意に蒼然とさせられたが、本作ではなぜこんな悪戯をしたのか自体が不明だ。 HM卿がバザーで酋長に扮するなど今回もサービス精神旺盛であるが、それも単なる物語の脆弱さを覆い隠すためのガジェットにしか見えなかった。題材が面白かっただけに、残念。 唯一、HM卿の奥さんの名前が判明したのだけがマニア向けの収穫か。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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登山家でもある作者が、登山の時にどうしても感じてしまう神々の存在について著したかったと思われるのが本書。人の生死を左右する極限状態の中、昨日まで、いやつい10分前まで冗談を云い合っていた仲間がクレパスに落ち、ザイルが切れて落下し、物云わぬ屍と化す。かと思えば、絶対助からないだろうと思われる強烈な雪崩の中に巻き込まれながらも、九死に一生を得て生還するようなこの世界、明らかに神の配剤なるものを感じずにいられないのだろう。
ミグマというラマの修行僧を通してまずは曼荼羅に記されたこの世の真理を説き、生死の境で相見える山に住まう神々の存在を知った者たちを通して登山と神との関わりを幻想文学の形で描く。 読中、頭をしきりに過ぎったのは坂東眞砂子氏の『山妣』だ。『山妣』で語られる山神の厳しさは山に敬意を払わない者には鉄槌を下すが、山と共存する者には糧を供給し、異形の者でさえ受け入れる懐の深さが感じられたものだが、谷氏が本作で描く山ヤシュティ・ヒマールは、異世界への通廊を守るために何人(なんぴと)たりとも受け入れない冷徹さがあり、登頂を目指すミグマをあらゆる手法で追い詰める。 もちろん『山妣』とこの作品では日本の山とヒマラヤの山という高さ、急峻さ、自然状況の過酷さの違いはあるだろうが、同じ雪山を舞台にして、これほどまでに違いがあるのかという思いがあった。 しかし、その違いも確かに解る。前者はその雪山を生活の場にしている者達の物語であるのに対し、後者は雪山を登山の対象にしている、つまりそこに住まう期間が非常に短いのだという所にある。 登頂という目的―本作では単純に登頂のみを目的とはしていないが―を達成するために山の気候、形状はその目的を阻害する敵以外何物でもなく、打ち克つべき存在であるのに対し、生活の空間としている者にとってはその過酷さまでも運命として受け入れ、共存していかなければならない存在であるからだ。 しかし、やはり両者に共通するのは、山には神がいるという感覚だ。前にも書いたが、それぞれ人間の死を左右するのに神の悪戯としか思えない不思議な偶然を感じ、またそれを否定しない。根底に流れるのは同じなのである。 本作は同じヒマラヤの登山を舞台にした『遥かなり神々の座』とはガラリと違い、チベットの修行僧を主人公にしたヒマラヤの登山を通して世界の真理を知るという物語であり、主人公ミグマは幽体離脱と、前世回帰を繰り返し、魂の旅路を繰り返す。彼の前世であるナムギャルが果たせなかった世界の中心を司るメール山(須弥山)の登頂を目指し、そこにあるという世界の真理を知る扉を目指すのだ。 その目的を果たすため、ミグマは曼荼羅の謎を解き、更には転生を繰り返す自らの魂の原初となる詩人ミクラパまで魂を遡る。もはや物語において時間や空間といった概念は無意味である。更にミグマは登山家としての経験を物質世界でも積む。 何ともまあ、壮大な物語だ。 物語は更に思弁哲学の様相が濃くなりやがて相対性理論に行き着く。それも西洋数学の知識に基づくのではなく、仏教的世界観を以って、そこにアプローチしていくのが面白い。 そしてミグマが垣間見る異世界への通廊には、世界を統べる法則が全く異なった世界だ。それは私達の世界で理論として確立している万有引力の法則や量子力学なる物がそれぞれの宇宙では全く異なった理論で形成されていると述べているのだ。 これは作者の意見なのか、どこかの学者が述べた理論なのか、寡聞にして知らないが、この箇所を読むに当たり、我々の論理では宇宙の謎は解けないのではないかという思いを強くした。この考えに同調する自分がある。我々人間の描く尺度を全く越えたところに宇宙は存在し、かつ機能している。 作中、山の神としてミグマが乗越えるべき存在として立ちはだかる大いなる存在ヤクティは、それ相応の知識・経験を備えていない者に対して非常に排他的に振舞う。 これはこの非常に思弁性に富んだこの作品を書いた作者の、解る人だけに解ってもらえればいいという態度そのものなのかもしれない。 |
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【ネタバレかも!?】
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「山男には惚れるなよ」という唄があるが、それを地で行く主人公滝沢育夫。定職に就かず、故郷の帰省に費やす交通費を惜しんでまで登山にのめり込む男。挙句の果てに6年待たせた恋人、君子にも愛想を尽かされ、その夜寝る場所にも困るような男だ。
もはや身体も心も快適な日本よりも過酷なネパールやインド、チベットに馴染むようになっている。登山家(クライマー)として一流の登山技術と抜群の高所順応能力を持ちながら、7回の遠征において一度も登頂者(サミッター)になれず、遠征のたびに仲間が死んでいく事から山仲間の間では「死神」という仇名を付けられる。 この人物造形は本書の扉裏に付けられた著者近影にそのままイメージが重なった。著者の谷氏自身、クライマーであるのだが、滝沢=著者という短絡的な想像はやめておいた方がいいだろう。恐らく著者の数ある登山仲間をそれぞれ寄せ集めて作られた人物に違いない。 この滝沢という男が物語で一介のクライマーから殺しを厭わない兵士へと変貌を遂げていく。元々クライマーとしての能力が高く、辺境で生き延びる術を知っている彼。 そして今までの登山で他人の死に直面してきた経験から、瞬き一つせずに殺しを行えるという設定は納得がいく。無論、それがそのまま殺しの才能に結びつくわけでないのは作者も承知の上で、その辺の説明にはぬかりは無い。 そして、この滝沢を巡る2人の女性、君子と摩耶。この2人を物語に導入したことに作者の技量を感じる。 外国への登山遠征を重ねる滝沢に愛想を尽かしながらも、ほっといては置けない母性本能を感じる君子と、ネパールでも現地に溶け込んで暮らしていける女の強さを備えた摩耶。男からの独立を望みながらも依存してしまう女と、男に自分に似た匂いを感じ、パートナーとして対等に扱う女。冒頭に現れるこの2人の女性が物語の終盤に意外な形で滝沢と再会するのだが、それぞれの結末の付け方も憎らしい。 そして忘れてならないのはニマという男。当初滝沢のチームにコックとして同行していた初老の男はしかし、サバイバル経験豊富なゲリラの一員であり、滝沢に兵士としての訓練と生き延びる術を教授するこの男。 物語の終盤で意外な正体が明かされるのだが、これはむしろ蛇足だと思った。ニマがある事実を知ったところで何も起きないことは解っていたからだ。 上に述べた女性の扱い方、そしてこのニマの扱い方から察するに、この作者は人間の間で起こる愛だの情だのといった感情が織成す化学反応に対して、非常にストイックなのだと思う。そこにハッピーエンドだの、哀しい結末だのを持ち込むわけでなく、二人が出会い、そしてまたすれ違うといった具合に敢えて結論を避けているかのようだ。 それはやはり登山の中で人の生死を左右する局面にこの作者自体が何度も直面しているからだと思う。昨日までふざけあって笑いあっていた仲間が、翌日はクレパスに墜ちて還らぬ人となったり、凍死して動かぬ肉塊となっていたりといった諸行無常観があるのではないか。だからこの作者自身、決して他人に対してのめり込むことが無く、人間関係に対して結論を求めぬ距離感を保っているのだろうと思う。 しかし、1人だけしびれるくらいカッコイイ男が居た。それは名も無い君子の結婚相手である。彼の置手紙にはグッと来ました。ベスト・サブキャラクター賞をあげたい。 唯一この作品で結論を求めているのは、登頂者(サミッター)になれるのか否かという事ではないだろうか。人との触れ合いにではなく、登山その物に結論を求めているのはやはりこの作者が登山家でもあるからだろう。 今回不幸だったのは、私がこれを海外生活を送っている今、読んでしまった事。 作中に描かれる日本では考えられない異国での珍騒動-笑顔とたどたどしい日本語で近寄る現地人、空港を降りた途端に群がるタクシーの運転手たち、相場以上の運賃を求めるタクシー、etc-は、全く驚きがない。むしろここでは当たり前の事でしかなく、そこに面白みを感じる事が無かった。ネパールの街中の描写、登山仲間達の現地での過ごし方など、興味を感じる部分もあったが、ふと自分の暮らしている境遇を見て、あまり変わらないなぁと苦笑した次第だ。 さて物語は二転三転事実が裏返る。 ちょっとくどいぐらいだ。冒険小説だから、もっとどんでん返しは少なくていいし、最後にでっかい物を1つ、用意してくれれば満足だったのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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「嘘の上塗り」という言葉があるが、この小説の真相が正にその言葉がぴったりだと思った。
二重に仕掛けられた本作のトリック、作者の中では結構自信があったのだろうが、私に云わせれば、無理を通すために道理を引っ込めさせ、強引に驚愕の真相へ持って行ったという感じしかしなかった。 作中で探偵役の一尺屋が持論を確立させるために何度も真相を云い直しているのも気になる。曰く、 「君を見た瞬間、それは叔父さんは驚いたのだろうね。弟に息子がいたなんて知らなかったんだから。そのショックで心臓が止まっても仕方が無い」 「信号音は君が叔父にナイフでも突きつけて聞きだしたのだろう。・・・殺される!という恐怖が叔父を死に至らしめたのかもしれない」 といった具合だ。 この間、1ページも無いのである。 しかも逢ったことのない叔父の家の間取りやら数々の企み、そしてそれらを成功させる数々の仕掛けを遠方で母親の話を聞いただけや関連の書物を読んだだけ、はたまた何度か由布院に訪れただけで解るだろうか? 人間なんて新しい環境に慣れるのでさえ、2ヶ月は最低必要である。東京でフリーターをして日銭を稼いでいる若者に果たしてこれだけの事が出来るのか?現実味の無い話である。 こういった辻褄併せのような論理の積み重ねが読書の興趣をそそるどころか、ああ、無理をしているなぁという苦労が作品の裏側から透けて見え、なんとも痛々しい。 そして、この作家特有の類型的な人物像の乱立。どこに小説としての面白みがあろうか?相変わらず、島田氏の提唱する本格推理小説作法に則っているのだが、なんとも味気ない。心動かされる何かがない。 料理本の云うとおりに料理を作れば、確かにそれなりの物は出来、食べられる代物にもなる。しかし、人に提供して金を取るだけの商品にはならない。そこに料理人としての独特の味付けをしないことには単なる素人の手遊びである。 毎度毎度苦言を呈して申し訳ないが、6作を通じて得た感想はこういった類いの痛罵しか思い浮かばなかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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英国の犯罪史上のミステリといえば、やはり切り裂きジャックが一番に思い浮かび、本作で取り上げられているエドマンド・ゴドフリー卿殺害事件については日本の読者には馴染みの薄いものであろう。私自身、この本に当たるまで全く知らなかった。
しかし英国ではこの一介の治安判事の殺人事件が当時の国王チャールズ二世と反対勢力であるグリーンリボン・クラブの主導者シャフツベリー卿との大規模な政治闘争の幕開けであり、またプロテスタント主体の英国の中でカトリックを振興する国王チャールズ二世とその弟ヨーク公の失墜を目論んだ宗教弾劾の側面を持つスキャンダラスな背景も手伝って、いくつもの研究本が出ているミステリであるとのことで正直驚いた。 まず本作の登場人物表に記載された人物について触れておこう。なんと全部で75人である!今まで『銀英伝』が最高だったがそれをはるかに上回った。しかしそれにも関わらず、登場人物の混乱は起きなかった。それぞれに個性があり、またカーの書き分けが素晴らしかったのだろう。 カーが本作で取った手法は、まず事件が起こるまでのチャールズ二世とシャフツベリー卿の確執、そしてカトリック教徒のジェズイット派による国王暗殺計画が進行しているという密告があったことなどから始まり、ゴドフリー卿殺害事件の発生、それを引鉄としたカトリック教徒たちへの迫害、そしてチャールズ二世政権の終焉までの、一連の事実を詳細に述べ、その後で、それら事実を検証し、カーが至った真相を自らの推理と共に披露するといったものである。つまり、通常こういった作品で取られる事件そのものの検証に直接当たるのではなく、当時英国で起こった事を膨大な資料の山から取捨選択し、1つの物語として仕上げているので、最初はなかなか核心に触れず、様々な登場人物が織成す政治的策謀を延々と読まされ、しかもその登場人物が非常に多い事から読書が非常に難航した。 しかし、これが後々にこの事件を語る上で非常に重要な部分であることが判明してくる。前にも述べたがこの事件が国王政治とその反対勢力との政治闘争とそれに加え、当時のプロテスタントとカトリックとの一大宗教闘争までに発展するのだから、事件そのものの謎よりも、この事件を誰の仕業にするのかで当時の政治バランスが変わってしまうといった代物だったのだ。 17世紀のイギリスでの容疑者への尋問、刑事裁判の内容についてカーは微細に書いているのだが、これが現代では考えられないほど恣意的であるのに非常に驚いた。 まずチャールズ二世を何とか引きずり落とそうと企むシャフツベリー卿が犯罪調査委員会の委員長に任命され、色々な容疑者を尋問するのだが、これが非常に非人道的なのだ。 なんせこの男、今回の事件を利用して国王一族の凋落を企んでいるのだから、容疑者に自分の役に立つ証言をさせるために平気で脅迫を行う。それに従わなかったらニューゲイト監獄へぶち込むという極悪非道振りである。とにかく事件に関わったもの全て、そして当時事件はカトリック教徒の手によるものだと噂されていたものだから、カトリック教徒であるだけで取り調べられ、監獄に入れられるといった傍若無人ぶりなのである。 そして当時の事件で冤罪者を数多く出す事になったきっかけを作ったタイタス・オーツなる人物。 彼は証言に際して、自分で創作した真相を語り、矛盾点が発覚すると、あの時は事件を思い出すのに連日徹夜で調査していた疲れが溜まっており、正確な判断が下せなかった、云った覚えが無い、などなど愚にもつかない言い訳を行ういい加減なぶり。しかもそれらが当時のカトリック教徒撲滅(=国王失墜)のムードに同調しているがために、裁判官もその曖昧な証言を採用し、被告人に刑を課すのだ! つまり裁判も公平なものでは勿論なく、証人、被告人が事実を告白しても、その者がプロテスタントではなくカトリックならば、嘘をついている、証言は出まかせだといって取り上げないのだ。 いやはや、ものすごい時代である。そしてまた、それに甘んじて無実の罪を着せられ、死刑に甘んじる英国庶民もまたすごい。当時の階級社会ではお上に逆らう事自体出来なかったという時世なのだろうが、やってもいない罪で死刑を命じられ、刑に服すとは、なんともまあ、滅私奉公の極みともいうべきか。 本作は正確には未解決事件の真相を探るノンフィクション物だとして読むよりも、17世紀のチャールズ二世政権時代を語った歴史書として読む方が正しいだろう。この事件の真相は?というよりもこの事件が当時イギリスに何を起こしたのか?国王は、その政敵は、プロテスタント達は、カトリック達は、そして影で暗躍するフランスは何を行ったのか?を知るには格好の書物である。 カーの、未解決事件の推理力は元より歴史物作家としての技量の高さを知る上でも貴重な作品だろう。 |
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英国情報部のロシア課に勤めていた経歴を買われ、ソ連側に寝返って英国へ情報を流している人物を探るよう要請されたサンプソン、片や英国情報部部長よりサンプソンと共に脱獄し、ソ連に潜入して、英国に情報を流しているソ連高官と接触し、亡命の案内役を務めるよう要請されたチャーリー。
この相反する任務を反目し合う2人のうち、どちらが先に目標に行き着くかという面白さ。それに加え、2人の共通の人物としてベレンコフが絡んでくるあたり、演出効果は抜群である。 特にベレンコフとチャーリーの再会シーンはシリーズ第1作目から読み続けた者にとってみれば、チャーリーらが作中で味わうワイン同様に芳醇な読書の愉悦に浸れる名シーンである。それぞれ敵国随一のスパイながら、お互いを認め合う存在が酌み交わす美酒にそのまま酔いしれる思いがした。 ]そしてチャーリーに絡むのはチャーリーの尋問役として配されたKGBの局員ナターリヤ・フェドーワである。この2人の関係は正に恋愛小説の常道で、イギリス古典悲恋劇であるシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を真に踏襲する敵同士の恋愛劇なのだ。 ロシアに潜入したチャーリーをロシアに食い止める楔がナターリヤであり、英国情報部の復帰のために自国へ帰るか、はたまたソ連で得たスパイ学校の講師という役を生活の糧にしてソ連へ留まり、ナターリヤと暮らすか苦悶するチャーリー。 今回の作品の目玉はもう1つある。前にも触れたが、チャーリーがベレンコフの要請により、ソ連のスパイ学校の講師に抜擢され、講義を行うシーンである。 冒頭、刑務所のシーンから始まる本作でのチャーリーはかつて敏腕のスパイであった面影はどこへやら、刑務所連中に溶け込めずにいじける男に過ぎなく、後で入ってきたサンプソンの若さから年取って衰えた自分の肉体に自覚をやむなくされる不甲斐ない男として描かれてき、またソ連に逃亡してからも、英国のスパイ探索に重用されるサンプソンとは対照的に尋問を繰り返される毎日で、異臭のするアパートで陰鬱な毎日を過ごすだけの男だったのが、この講義では実に色めき立つのだ。 いやあ、チャーリー・マフィンという男の敏腕ぶりをフリーマントルはページ狭しとばかりに多種多様に描く。今となってみれば意外性を持たせるある種の常套手段を単に述べただけとも取れるかもしれないが、非常に楽しく読めた。またこのスパイ学校の講義がその後のストーリー展開に重要なファクターとして関わってくるのには、正直、舌を巻いた。 そして上司や権威主義者に対し、常に反抗的な態度を取るチャーリーはその故か、敵国の人物に好かれることになり、またチャーリー自身も自国の人間よりも他国の人物を好きになってしまう傾向がある。それはスパイという職業では通常得られない利害関係を超えた友情や愛情という純粋な部分で触れることになるだろう。 しかし、それが今回では仇になってしまう。これが今後のシリーズ展開にどのような影を落とすのか、非常に気になるところである。 この前の作品『追いつめられた男』でチャーリーはどうやらイタリアで捕まってしまうらしく、この物語はその事件の裁判から幕を開ける。しかし残念な事にその作品は既に絶版で、こっちにも無く、もはや読めることは適わない。 しかしそれでもこの物語が単独で愉しめるという事実に、今後のチャーリー・マフィンシリーズを断続的であっても愉しめる望みが出来たのは嬉しい。ただ、次回はいきなり10年以上もシリーズを飛び越してしまうので、果たして本当に愉しめるかどうか・・・。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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一尺屋遙シリーズ第4作目。正直、私はこの一尺屋遙という探偵に全く魅力を感じていない。長髪の、ブランド物の服を好んで着る、大分の田舎の農家の息子で花売りのトラックが愛車の、無類の日本茶好き・・・。特徴を持たせようとして、あまりに作りすぎたキャラクターだと思ってしまい、なんだか出来の悪いマンガを読まされているような感じがいつもする。
で、内容はというと、いやあ、これもまた作り物の世界だなぁと悪い意味で思わざるを得ない事件だった。例えば、島田氏の御手洗シリーズはその発想の奇抜さ―奇想―ゆえ、確かに作り物の世界だと思うのだが、その作り物を形成する物語の面白さが読者を惹きつけ、退屈させない。だからこそ、驚天動地の大トリックを披露されても、歓喜こそすれ、落胆する事はないのだ。 しかし、司作品にはその作り物の世界に面白みがないのだ。不可能趣味を形成する諸々の事象が、物語に無理を感じさせるだけになっているのだ。 なぜ、犯人は朱鷺絵に化けなければならないのか?本書の肝と云える水槽密室の、密室にしなければならない意味は? 冒頭の幻想味、事件の奇抜さ、これらを補完する真相があまりに陳腐で、物語の魅力を支えきれていない。推理小説の真相というのは、「なんだ、そんな事か」と思わせるものではなく、「うおっ、そういうことだったのか!」と読者を唸らせるものでなくてはならないのに、謎の特異性のみに腐心して、肝心の真相が腰砕けになっている。これが非常に残念でならない。 そして今回の物語の骨子を支えるのはやはり穂波朱鷺絵という謎めいた女性の存在だろう。事件の全てはこの女性を中心に回っており、作者の意図も、この朱鷺絵という人物に隠されたある特異な性格が本作で訴えたかったテーマだったに違いない。 しかしそれが全く成功していないのだ。 こういった小説作法に関する無頓着さが、私をして司氏の評価を貶めさせているのだ。 そして文章の問題。 前作の『屍蝶の沼』では三人称叙述だったが、このシリーズではワトソン役による一人称叙述に徹するらしく、そのスタイルは変わっていない。で、前作で感じた文章力の向上だが、今作では確かに前3作よりはある程度の味が出てきたものの、やはり物足りない。根本的にこの作家は一人称叙述に向いていないのではないかと思う。 しかもこの作品は純粋な意味で一人称叙述ではない(今までの作品もそうだったが)。登場人物が章ごとに代わるにつれて、三人称になったりもする―そしてその三人称叙述も“神の目”の視点なのに、登場人物の主観的描写が多く、根本的な間違いが多いのだが―。 多分物語の面白さに没頭していれば、こういう粗も全然気にならないのだろう。しかし、ところどころにこの作者の、小説の書き方、物語の語り方に納得がいかないところがあるがために、どうしても瑕として目に付いてしまう。 かなり厳しい事を今まで述べてきたが、やはり金を払って本を買った身としては代価に見合った娯楽は確実に得たい。 もっと精進して欲しい、この作家には。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今まで読んだ司作品の中で、ベストの1冊。なぜ今までこのような書き方をしなかったのかと首を傾げたくなるぐらいの出来。
今回採用しているのは三人称叙述で、一尺屋シリーズの一人称叙述と違い、文体が格段に進歩していた。同じ三人称叙述の『首切り人魚~』と比べてもその違いは雲泥の差。 今まではストーリーを語るというよりもプロットを語る、つまりパズルを解いているプロセスを説明しているかのような味気ない文章だったが、この作品では、いわゆる「じらし」の手法に磨きがかかり、その抑制した文章には張り詰めた緊張感が一様にあった。 そして物語を彩る登場人物たちも、今までの諸作品には見られなかった個性があった。主人公を務めるしがないルポライターの高野舜と元恋人で「羽室新報」の社員、稲葉菜月の二人と、ほとんどサブキャラクターでしかないが、印象深い上司の松岡を始めとして、一部記憶が無くなるという症状を持つ能面師三村、梨花の担任のサラリーマン教師米沢、幻覚を見るという同級生の間宮弓子、家庭内確執を隠す仮面家族、原嶋一家とその家に勤める家政婦や用務員ともども。今までの作品では単に推理ゲームの駒の1つのようにしか語られなかった登場人物がそれぞれの過去にエピソードを孕ませることで深みを増したように思う。 そして1人の少女の死が、戦後の毒ガス実験に繋がっていくという物語の展開も事件の背後に隠された驚愕の事実という事ではなかなか秀逸だ。 いやあ、とにかくガラッと変わったというのが第一印象だ。 おまけに今回作者目指したホラーと推理の融合という目標は達成していると思う。実際、色が黒ずみ、痙攣を起こし、人相が変形する奇病は恐ろしかったし、羽室町という町が大きなお化け屋敷のように変わっていくのも読みながら手に汗握った。 しかし、しかしである。後半は急ぎ過ぎた。じわじわと雰囲気を盛り上げていった割には最後の真相が駆け足になってしまったようで、なんとも呆気ない。最後もぶつっと切れてしまったような終わり方で、エピローグが欲しかった。 今までの司作品では島田作品ばりのエピローグが特徴的で、時にはお涙頂戴的なそのエピローグが蛇足に感じていたのに、今回は逆にそれがないがために消化不良の感がある。 前にも書いたように今回の文章は別人が書いたかのような出来映えである。が、しかしこれはようやく作品として読むに耐える文章を得たという事に過ぎなく、今からが実質的なスタートラインだろう。次回もレベルを維持している事を期待する。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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唄う髑髏、白秋の詩に秘められた暗号といったガジェット。衆人環視の中での毒殺事件という不可能犯罪。そして惨劇の舞台は北九州の田舎にある民窯の村で、しかも祖父が愛人を囲い、妻は舌を切られ、原因不明の病に臥せり、腹違いの兄妹たちは遺産相続でいがみ合っている。
つまり扱っている題材は本格ど真ん中であり、舞台設定、トリック共々、申し分ないはずなのだが、やはり物足りない。 小説を読んだというより、長いパズルを解かされたという感慨しか残らないのだ。ここまで来ると呆れるのを通り越して、これこそがこの作者の特徴かと割り切ってしまう。 確かにそれぞれの登場人物には、欲深さとか派手な生活が好きだとか、厭世観を常に抱いているといった性格付けは基より、狭い田舎で繰り広げられる人間関係の罪深い業も設定され、しかもそれにはワトソン役まで一役担わされるのだが、一通りの素材というのは揃っている。しかし、なぜかそれらがストーリーに深みを与えるのではなく、プロットの段階でお披露目しているようにしか思えないのだ。 これほどまでに無個性だと、むしろこの作者は全てが謎解きに寄与する純粋本格推理小説を書くことを目指しているのかもしれない。 前作までは冒頭の幻想的な謎と論理的解決、図解を交えたトリックの種明しといったモチーフから、島田作品の影響をもろに受けていると述べたが、今回は山奥の山村といった閉じられた社会での陰惨な事件、一族の中の確執、唄う髑髏と横溝正史氏の影響が色濃く出ていると思った。 しかしこれら先達と大いに違うのは、物語としての面白さに欠けることだろう。島田氏には島田氏の、横溝氏には横溝氏のテイストという物が確かにあり、それが読書の食指を動かすのである。 司作品は文章にそのテイストという物が無い。心を動かす物語の振り幅が0に等しいのだ。 物語よりもトリックを!といった純粋推理を楽しみたい方には最適の作品だろう。しかし私はといえば、あいにくそれだけでは腹が太らないのである。 |
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名探偵一尺屋遙シリーズの本書、オランジュ城館というフランスの城館を舞台にし、見取り図まで付け、しかも冒頭から壁を通り抜けて落下した死体、天を舞う蛇といった島田荘司氏ばりの奇想から幕開け、その後も白髪の狂った老女の登場、飄々とした探偵の登場といった横溝正史の金田一シリーズを髣髴させる幕の開け方、そして城主影平氏の、家電の買い込みと小型トラック1台分の殺虫剤を購入し、庭のあちこちに埋めるといった理解しがたい行動、等々、作者の本作に賭ける並々ならぬ意欲がひしひしと伝わり、正直、「これは!?」といった期待感があったのだが・・・。
真相を読むとどうもアンフェアのオンパレードだという印象が拭えない。 そして最初に起こる殺人事件の真相も実に呆気なく、最終章を迎える前に容易に探偵が種明しをしてしまう。 いや、これはこれでも構わないのだ。その後に起こる事件にもっと魅力があれば。しかし、次に起こる事件は過去に起こった事件と全く同じ物で、読者側にしてみれば同じトリックの使い回しのような感じを受けてしまう。 そして結末は作者の心酔する島田氏の作品に倣うかのように、またもや関係者の手記で幕を閉じる。 もしこの同じ設定を活かして島田氏が書けばどうなるだろうと想像してみる。恐らく、評価は少なくとも星1つは多くなるだろう。私が思うに、この作者には「推理」小説は書けるが推理「小説」は書けないのではないだろうか?つまり、この作者には物語が持つ「熱」を感じないのだ。「熱」とは、物語を読んで、読者が抱く悲哀感、爽快感、高揚感といった物である。これらが一切感じられない。 確かに物語を色濃くするために戦争のどさくさで日本軍が密かに行った物資横流し事件など、単純なパズルゲーム小説には終始していない。それは認めよう。しかし、それが単なる飾りにしかなっていないのだ。島田氏ならば、それ自体が非常に面白い読み物として提供してくれるだろう。ここに作者の力量の差が歴然と出てくるのだ。 奇想を作る才能は感じた。あとはそれに見合う物語力を求める。私は小説を読んでいるのだから。 最後にもう一点。題名の『蛇遣い座の殺人』、最初に出版された時は『蛇つかいの悦楽』という題名だったが、これが全く物語に寄与していない。蛇遣い座は作中では単なるエピソードとしてギリシャ神話の中での成り立ちが語られるだけである。当初、天を舞う大蛇をそのモチーフとして使う意図だったように推測するが、それはほんの末節に過ぎない。こういうところにも小説としてのバランスの悪さを感じてしまうのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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以前住んでいた愛媛の離島を舞台にした作品という事で、期待したが、二時間サスペンスドラマの題材に過ぎない内容でガッカリした。
冒頭の幻想的(?)な謎の提示―首の無い死体が首の代わりに置かれていたマネキンからつかの間の瞬間、髑髏に変わる―、論理的解明、さらには犯人の手記で物語が終わるといった構成は師匠と崇める島田荘司氏の創作作法に則っているのだが、パンチが弱い。 ただし、約240ページの薄さに収められた謎はかなりの量である。先に述べた首の挿げ替えられた謎、同時刻に被害者が20キロ海を隔てた地で目撃されている事、45年前に起きた胴無し死体の謎、骨食らう鬼の正体、更なる首無し殺人事件の発生、といった具合に畳み掛ける。 それを補完するように、戦後の混乱に乗じた御家乗っ取り、閉鎖された離島での因縁深い人間関係、男と女の恋情沙汰なども散りばめられている。しかも主人公の敷島にも小さい頃育った沖縄で米兵と母親との間の苦い思い出のエピソードがあり、キャラクターを印象付けようとしている。 しかし、これらが何か薄い。小説作法の方程式に当て嵌めて、ただ単純に作ったという印象が拭えないのだ。 小説としてのコクはなくとも、じゃあ、謎解き部分はどうだ、というと、これもさほどでもない。確かに色々散りばめられた謎、犯人、どれも私の推理とは違ったが、カタルシスを得られたかというとそうではない。 一番ビックリしたのはいきなり最終章で犯人が犯行について独白し始めた事だ。これは一番嫌な謎解きシーンである。その後の展開から、この犯人は真犯人ではなく、共犯者だという事が解るのだが、はっきり云って興醒めした。このシーンで探偵役の敷島が、単に迷走していただけになってしまったかのような印象を受けた。 この作品も初版はカッパノベルスであり、駅のキオスクで売られるであろう版型である。しかし同じノベルスでも東野作品と比べると、作者の力量の差がいやでも解ってしまう。 酷な云い方だが、ブレイクする作家とそうでない作家の違いが如実に解ってしまうような作品だった。 |
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高知の山村、郊外の村を舞台にした短編集で、5編が収められている。
まず表題作の「神祭」と「火鳥」と「隠れ山」の3編は嬉才野村を舞台にした作品。前者は老女由喜の回想譚。畑の物、海の物、山の物を氏神様に捧げて五穀豊穣を願う神祭。とはいえ、親戚一同が会して宴を行うだけの特にこれといって変わり映えのない祭りだったが40年前の神祭で由喜は今も忘れらない事件がある。それは当時男子に恵まれなかった由喜夫婦のために、精がつくと云われる鶏の生血を夫に飲ませようということになり、親戚一同、盛り上がっていた。夫が暴れる鶏を抱え込み、従兄の敬一が首を刎ねたのだが、首の無い鶏はそのまま裏山に飛び込んで消えてしまい、親戚一同で探索するが、見つからないづくだった。その後、由喜は子宝に恵まれたのだったが・・・。 「火鳥」は村にある二畳ほどの広さしかない蔵番小屋に住む未亡人みきの話。その小屋の隣に家を建てて住んでいたみき夫婦はその肉を食べると祟ると云われていた全身真っ赤な鳥ミズヨロロを食べたために火事で家と家族を失ったと専らの噂だった。しかし村の少年竹雄はいつも満ち足りた表情をしているみきを見て、みきが不幸であるとは信じかねるのだった。ある日、竹雄はみきが川で全裸で水浴びをしている所に遭遇する。それは竹雄の性の目覚めであった。それがきっかけでみきと時々交わる事になった竹雄だったが、ある夜、我慢できなくなり、みきに夜這いをかけようとするのだが。 「隠れ山」は北村定一という村役場の課長が突然失踪するという話。家庭菜園と亡き母の墓の世話を唯一の趣味にしている何の特徴の無いこの男らしく、いつものようにふらっと出掛けたまま、それっきり帰らなくなってしまったのだった。村の消防団で山中を捜索するが、どこそこで見たという噂があるだけで、その行方は杳として知れなかった。しかし、失踪1ヵ月後、頭から血を流して佇む定一の姿を見たという人物が現れる。しかし、それは北村定一という男がその後、繰り返す奇行の始まりでしか過ぎなかった。 4編目の「紙の町」は嬉才野村の近くにある白糸町を舞台にし、そこに住む知恵遅れの老女ヒサの一日の散策とそれに伴う生い立ちの回想譚。 最後の「祭りの記憶」は戦後10年目のよさこい祭りで起きた外国人殺害事件を扱った作品。外国人の殺害事件が起こった祭りのとき、田宮良則は現場の近くに居た。その時、不意にすれ違った恍惚な表情を浮かべた若者の顔に見覚えがあった。記憶を辿り、それがかつての教え子村上卓雄だと気付く。隠居前、蓮浜で学校の先生をしていた田宮は当時大人しく、これといって特徴の無かった卓雄が犯人ではないかと思い、蓮浜へ赴く。当時と変わりの無い街並みを歩きつつ、かつての教え子やその親たちと邂逅しながらも当の卓雄には逢えないのだった。数日後、はりまや橋の料亭で働く卓雄の母親を訪れたその足で再び蓮浜を訪れた田宮が見たものは・・・。 土俗ホラー作家として名高い坂東氏だが、本短編集ではホラー色がでているのは最後の「祭りの記憶」ぐらいで、その他は日本昔話や「世にも奇妙な物語」を髣髴させる御伽噺とか「奇妙な味」作品群である。 今までの短編集もそうだが、30~40ページ前後の短編とは云え、その濃厚な筆致は全く薄まっていない。逆に時にどぎつさを感じさせられる情念は成りを潜めている分、その文章は洗練された印象が強い。 5編とも外れはなく、どれも読み応え十分。表題作の首の無い鶏のアイデア、「火鳥」の南国を舞台にした少年の性の目覚めとギラギラした情欲の話、「紙の町」の知恵遅れの女ヒサが辿ってきた人生譚、「祭りの記憶」の引退した教師が遭遇する蓮浜という一見善良な町民が行ったある秘密、等々非常にコクがある。 そして個人的なベスト作品は「隠れ山」。何の特徴もない公務員の男があるとき、ふらっと失踪する。その発端自体は決して珍しい物ではないが、その後の展開に着想の冴えが光る。その定一が出くわした人々に当たるとも遠からずの町民の噂話をしては山へ帰っていくというのが面白い。それが町の混乱を引き起こすのだが、そこでカタストロフィが訪れるのではなく、それをありのままに受け入れる村社会の、懐の深さというか、暢気さが非常にいいのだ。 そして坂東作品に通底する人の起こす物事は性の衝動に起因するという考えはここでも常に述べられており、特に知恵遅れのヒサの口を通して語られる、「下半身にいる別の生き物」や「昼と夜とでは人は変わる」といった表現は痛烈である。 そしてこれらの話は全て何かが解決するわけでもなく、物事は起こった後も、そのまま秘密のままに残される。本格ミステリとは対極に位置するが、これもまたミステリ。謎は謎のままなのが世の常なのだ。 初期の『死国』、『狗神』、『蛇鏡』、『桃色浄土』、『山妣』、そして短編集の『屍の聲』などでは、それぞれの人が抱える人間の業が情念の渦となり、最後の最後にカタストロフィとして、それぞれに人生の終焉や無限に続く不幸を投げかけるといった作風だったが、先の『葛橋』や『道祖土家の猿嫁』以降、本作も含め、物事が起こるが、それで皆が不幸を迎えたり、生活が破綻するではなく、その後も人の営みは続くのだという風に変わっている。これはもちろん創作者としての成熟もあるのだろうが、当時タヒチに在住する著者が異国で体験する事も関係しているのかもしれない。 |
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チャーリー・マフィンシリーズ第4作目。いやあ、痛快、痛快。
『ディーケンの闘い』、『黄金をつくる男』など、ノン・シリーズにおけるフリーマントルもいいが、やはりこのシリーズでの筆致は一線を画すほどの躍動感がある。 チャーリー・マフィンの常に人を喰ったような策士ぶりは健在。いや、それどころか組織に属していない分、上司に縛られていないので、むしろ更に狡猾さが増した感がした。特にFBIのテリッリ捕縛作戦にロマノフ王朝切手コレクションがダシに使われることを摑んでからのFBIとのやり取りと、その作戦に一役噛んでいる上院議員コズグローブとのやり取りの面白い事、面白い事。 権力ある者に屈せず、むしろその権力を嵩に横暴を貪る者達を嘲笑するように振舞うチャーリーの姿には、上司-部下の上下関係に逆らえないサラリーマンの、こうでありたいという姿であり、溜飲が下がる気持ちがした。 そして今回、チャーリーの敵役のペンドルベリーも、いやはやなかなか面白い人物である。常によれよれのスーツを着、時には食べこぼしたケチャップの染みを付けて、上役の面前に登場したり、また必要以上に領収書を徴収して、必要経費を搾取する一見冴えないこの男は、FBI版チャーリー・マフィンであり、チャーリー自身も自分と同じ匂いを嗅ぎ取る。この男の水をも漏らさない計画に穴を開けるのが、このチャーリーというのがまた面白い。丁々発止の頭脳戦は似た者同士の騙し合い合戦そのものであり、これが今回の物語のメインディッシュとしてかなり美味しいものだった。 そして1,2作に登場し、大きな役割を果たしていたソ連のカレーニン将軍も大いにこの物語に寄与しているのも非常に楽しい。ソ連の旧王朝ロマノフ王朝の遺産であるから、ソ連が関与する事に違和感はなく、むしろこのKGBの上官が関係することで、クライマックスのテリッリ邸での銃撃戦へとなだれ込むのだから、フリーマントルのストーリーテリングの上手さには改めて感服した。 そして結局本作では活躍しなかった潜行工作員(スリーパー)のジョン・ウィリアムスン。ただのアメリカ人としか見えないこのKGB工作員のその後も大いに気になるところである。 ソ連のカレーニン、ベレンコフ、そしてかつての上司の息子であり友人であるルウパート・ウィロビーに加え、彼の妻クラリッサとこのウィリアムスン。どんどんシリーズの世界が広がっていく。今後のシリーズの行く末が非常に愉しみだ。 |
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復讐者による連続殺人譚。タイトルにある「11文字」とは復讐者の手による「無人島より殺意をこめて」という1文に由来し、ケメルマンの『九マイルには遠すぎる』など、11文字に込められた謎を追うものでなく、単純に復讐のテーマだけの意味でしかない。
いきなりちょっと肩透かしを食らった感がしたが、もしかしたら、当初東野氏が予定していたこの作品の没タイトルだったかもしれない。 初版はカッパノベルスということで、前の『白馬山荘殺人事件』でも感じたが、このノベルスで発刊される作品は作者自身、読者層は駅のキオスクで購入して、車中で読み終わる程度の読み易さを心がけているような気がして、文章は軽妙だ。しかし、今回はなかなか読ませる。事件の構造も単純ながらも真相は最後で二転三転し、私なぞは映画『戦火の勇気』を想い起こした。 復讐者の正体はモノローグ4においてようやく解った。海難事故の遭遇者の中で唯一現れなかった古沢靖子についても途中で解った。この辺の難易度もやはり駅売りノベルスという事を配慮してか、軽めに設定している感じがした。 今回は今まで東野作品で扱われていた密室殺人が一切無く、本格的要素は最後の殺人でのアリバイ工作がある程度。海難事故で起こった事に関する謎を主題にしており、トリックよりもストーリーとプロットで勝負した感がある。 しかし、やはり二時間サスペンスドラマ小説と云った雰囲気は拭えない。主人公への脅迫の仕方もそうだが、特に肉体を求めるといった内容が出てきた時には時代の古さを感じたものだ。昭和の頃の作品だからまだこういう物が横行していたのだろうから仕方がないのかもしれないが思わず苦笑いしてしまった。 しかしまだ5作目で、外れはない。東野作品、お楽しみはこれからだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1946年発表の本書、扱われているテーマは連続殺人鬼物。文中にも言及されているが、1800年末から1900年当初にわたって、イギリスを初め、各国ではクリッペンやスミス、ドゥーガル、ソーン、ディーミング、マニング夫妻、ランドリュー、グロスマンといった連続殺人犯の手による犯行が頻発しており、本作はそれらの事件に影響を受けているらしい。そして本作では予め連続殺人鬼の正体は明かされた上で、11年後、それが一体誰なのかという視点で物語は展開する。
このテーマについてカーの行った料理法は絶品である。新進気鋭の演出家の許に送られてきた匿名の脚本を契機に、俳優に田舎の町に行かせて、ロージャー・ビューリーなる殺人鬼になりすまして、殺人鬼の心理を摑ませようというのである。 いやあ、面白いね。しかもその俳優ブルースが、ホテルの記帳の際に、ロージャーとわざと書いて、消すような素振りを見せる演出の凝りようだから、徐々に読者はブルースが本当はロージャーの仮の姿では?と疑いを抱くようになっていくのだ。 そして町中に殺人鬼がどうやら来ているらしいという噂が流れ、惚れられた娘の父親に殺人鬼では?と疑われる中、ホテルの部屋に死体が現れる。しかもその死体が11年前の唯一の殺人の目撃者ミルドレッド・ライオンズというサプライズ。 この辺まではもうはっきり云って作者の術中にまんまと嵌り、クイクイとページを捲らされた、のだが・・・。 そこから煩雑になってしまったなぁ。 死体を前にそれぞれの登場人物が好き勝手に動き回って―それ自体はいいのだけど―、収拾がつかなくなり、最後には軍の戦闘訓練施設跡なんかがいきなり舞台になって、カー特有の怪奇色に彩られた中での悪党との対決。いきなり本格推理小説から通俗小説に移った感がし、戸惑った。 ロージャーの正体はいつもながらこちらの予想と違ったが、カタルシスが得られるほどでもなかった。本作で私が求めたのは、犯人がいかにしてミルドレッドの死体をブルースの部屋に運んだかという点にあったのだが、本作ではそこに主眼は無く、ミルドレッドがどこで殺され、どこに隠されていたかに置かれていた。このトリックこそ、カーが使いたかったものだろうけど、真相としては小さい。 設定の面白さに結末が追随できなかった。 作中で演出家が殺人鬼を扱った匿名の脚本の結末に納得が行かないと述べているが、ある意味、この小説に関するメタファーかなと思ってしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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この小説は猿に似た風貌から猿嫁と呼ばれた蕗の一生を明治中頃から現代に至るまで日本の歴史の移ろいを重ねて語ったもの。そこには自由民権運動から始まり、日露戦争、太平洋戦争、東京オリンピックなどが蕗の人生に織り込まれ、彼女の人生に色んな影響を与えていく。
また作者の緻密な筆致は健在で、吹きぼぼ小屋、若者の間で行われた和歌の会などの当時の風俗、火振村の伝統行事である七夕祭りに、その時に行われる女房担ぎなる駆け落ち、「女の家」という風習、道祖土家の先祖を讃える玄道踊りなどを交え、エピソードに事欠かない。 火振村の大地主の長男の嫁として迎えられた蕗は、予想に反して大地主の嫁として村に一目置かれる存在として扱われずに、家内では舅、姑、そして夫にこき使われ、半ば下女のように使われる。家族に隠れて飲む酒を唯一の愉しみにして、明日をまた生きるのだ。 そんな彼女にも転機は訪れる。 一度目は夫を亡くして実家に帰ってきた義姉の蔦の父知らずの子を引き取ると決めた時。そこに母親としての強さが芽生えるのだった。 二度目は後に火振合戦と呼ばれる警官と自由民権運動を支持する者達の戦いにおいて、夫と家族を助けるために、牛馬を放ち、警官達を一網打尽にする。 しかし、それらは蕗にとっては一時の転機に過ぎず、蔦の子、秋英は学生時分に家出して、音信不通となり、火振合戦で牛馬を放つきっかけとなった大楠からの啓示から家に植わる大楠を生き守様と拠り所にして、報われない日々を生きていくのだ。 そう、この主人公はいやに報われない。村の者達から猿嫁と馬鹿にされ、家では下女同然の扱いを受け、老境に入ってからも戦争で若い労力を取られることでなかなか隠居できずに家事に追われる始末。そして、子供4人のうち、1人は家出して行方知れず、1人は台風に河に落ちて死亡。さらに将来を期待された孫、辰巳に関しては太平洋戦争でビルマへ出兵し、そのまま還らぬ人に(最後にサプライズあるが)。 こういった境遇はもちろんながらも、最も酷いと感じたのは、蕗がセックスにおいて女性の悦びを知らずに死んでしまったことだ。92歳になって始めて孫夫婦の交わりを目の当たりにし、夫婦の営みとはかくも心地よい悦楽を得られるものかと愕然とするその事実。その股座に手を当てても渇ききってしまっており、もはや潤いは沸かない。その事実に蕗は涙を流すのだ。 この扱いは確かに残酷だと思う。ここに蕗の人生の答えが出ていると私は思った。 人生、楽しい事は僅かしかなく、大抵が辛い事だろう。価値観が多様化した今、全ての人がそうであるとは云わないにしても、ほとんどがそうだと思う。 しかし、そんな毎日の中に、確かに幸せを感じる瞬間はある。実際、自分の人生を振り返っても、幸せの時というのは頻繁にはないにせよ、決して少なくはない。そんな事を思い浮かべながら、老後に、人生楽しかったと感じるのではないだろうか? しかし、この蕗の人生はどうだろう? 道祖土家の知り合いの紹介で断るに断りきれない気まずさから結婚した夫清重は、蕗との間に夫婦愛というものを介在せず、単純に身の回りの世話をし、時に欲情を覚えた時には一方的に交わるだけの女としてしか蕗を見ない。最初は猿に似た風貌を注視するのを避けて向き合っても視線を宙に浮かして喋るほどだ。 夫婦間との関係がそんな状態だから、蕗は常に居るべき所にいず、居てはいけない所に腰を据えている居心地の悪さを常に感じながら、とうとう生まれ故郷の狭之国に還ることなく、一生を終える。 一度、離縁を決意して里帰りを決行した時もあるが、結局は引止めに来た夫に負けてそのまま還ってしまった。もしあの時故郷へ帰っていたらという思いが最期の間際でも過ぎる蕗。これは人生のターニング・ポイントを見過ごした者の行く末を描いた小説なのだろうか。 いや、必ずしもそうではない。作者は道祖土家に残った蕗を中心に道祖土家の血縁者ら、蕗の子供ら、孫らのそれぞれの旅立ちを描くが、彼ら・彼女らが決して幸せになったという風には書いていないのだ。 作者のメッセージは終章に出てくるある人物からの手紙に書かれている、「常に自分の真の故郷は(中略)母と子供のいる場所だ」の一文になるのだろう。 とすると、作者は蕗の一生は幸せだったと云っているのか?幸せとはこういうものだと云っているのだろうか? ここに来て私は、またもや首を傾げてしまうのだった。 |
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フリーマントルの手による経済小説である本書は、従来、彼の得意とするエスピオナージュの手法を存分に取り入れており、主人公である多国籍企業の会長を縦横無尽に世界中を駆け巡らせ、丁々発止の駆け引きをさせる。
主人公のジェイムズ・コリントンは孤児院の出で、生まれながらにして勘が鋭く、英国国鉄のポーター、陸軍を経て、南アフリカに金鉱山を複数持つ巨大企業の会長の座へと着いたという正に絵に描いたようなアメリカン・ドリーム男である。 金を主に扱う南ア社が、独自に金の取引を出来ないというのがまず面白い。各鉱山は金を産出するが、その販売権は国である南アフリカ政府によって一手に任せられている。したがって取引先の新規開拓というのははっきり云ってタブーである。しかし、サウジアラビアがドルによる取引で石油を売っており、その売り上げが不安定なドルレートによって非常に左右されることに目を付け、相場の安定している金でエネルギー不足に悩む南アフリカと取引させようというのが大きな粗筋である。 しかし、石油と金という巨額の富を生み出す資源の世界的な取引が単純に二国間だけの話で済まされるものではなく、また米ドル為替の安定を目指して国際的信用を高くしようと企むアメリカも南アフリカの動きを察知して、南ア社の鉱山を襲撃して株の暴落を図ろうとする。そしてもう1つの大国ソ連は名目上の生産量を下回る金を何とか確保して、アメリカからの穀物の安定供給を図るため、これまた南アフリカの金に手を延ばす、といった風に非常に各国・各要人入り乱れて、物語は錯綜する。 おまけに南ア社内部ではアフリカーナの取締役とイギリス人の取締役たちとの間で確執があり、どうにかイギリス人の会長であるコリントンを失墜させようとする。 これらを一気に打破するために若き“会長”コリントンは不眠不休で世界中を駆け巡り、情報を収集し、状況を好転させるのだ。 いやあ、すごいね、この会長は。西へ東へ、北へ南へとよく飛び回るものだ。こんなに働くものかね、多国籍企業の会長というものは。 正直、読んでいる最中、このコリントンのあまりのスーパーマンぶりに失笑を禁じえなかったが、その辺はフリーマントル、危ういところで読者との距離感を埋めている。仕事はすごいが、女性と家庭には不器用な男という肖像をきちんと描いており、なかなかである。 今までのエスピオナージュ物では、組織の大ボスとそれに振り回される男の様相を描いていたのだが、今回は組織の大ボス同士の、一歩間違えれば破滅寸前の駆け引きを描いており、これが非常に面白かった。フリーマントルの、ディベート能力の高さに舌を巻いた。 また世界経済の情勢を知る上でも―'80年初頭というかなり古い時代ではあるが―かなりの情報が詰め込まれており、非常に勉強になった。 久々に面白い物語以上の物を得て、清々しい思いがした。 題名の『黄金(きん)をつくる男』というのは単純にコリントンが金鉱山の会長であることを現しているのではなく、現代の錬金術である株価の上昇、そして更なる世界資源の取引の開拓という多様な意味合いが込められている。 恐らくはこんな男はいないとは思うが、たまにはこういう男の話を読むのも一ビジネスマンとしてカンフル剤となっていいものだと思った次第だ。 |
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