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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1433件
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現在も続くススキノ探偵シリーズの第1弾。そしてこれが作家東直己氏のデビュー作である。
一読後の率直な感想としては若書きの三文芝居のようだというのが本音。 まず主人公が28歳という設定に微妙なずれを感じた。私の28歳像はようやく社会の仕組という物が解り始めたばかりの青二才である。大学を中退し、早くから飲み屋街を根城に、色んなトラブルを片付ける便利屋稼業で糧を得ている俺が、いくら世間の風にすでに揉まれていたとしても、ヤクザにも一目置かれるような存在になるとは思えない。 確かに時代はまだソープランドがトルコ風呂という名前だった昭和50年代後半か昭和60年あたりだろうか。確かにその頃の若者は今の平成の世のそれと違い、精神年齢も高く、成熟していたかもしれないが、ちょっと想像つかない。 それは作中に語られる妙に時代がかった風俗描写も、私が作品世界から隔絶されているように感じたからかもしれない。 ヤクザの着る物について、ゴルフ・ウェア、白ベルト、ローファー、ファスナーで締める厚手のカーディガン。スケタン、ナハナハナハという笑い声。今ではもう想像できる人がいるか解らないファッションや、流行語・俗語が古き良き時代のハードボイルドというよりも、その時代でしか楽しめない風俗小説といった色合いを濃く感じさせ、古びた感じを抱かせる。 そして確かに主人公<俺>は若い。一人称描写で初めから終わりまで語られる文章に織り込まれる<俺>の皮肉や自嘲めいた台詞が、非常に青臭く感じた。時にマンガで行われるような表現を文章で行う事もあり(例えば頭の中でふざけた俺と冷静な俺、さらに熱血な俺が出てきて言い争いをするシーン)、なんか勘違いしていないか?と思うことが多々あった。 タイトル『探偵はバーにいる』がまずいけなかったのだと思う。このタイトルだと主人公は、酒を片手に周囲の友人や街の弱者のトラブルを片付ける、酸いも甘いも知った30代後半の男を想像してしまう。 しかし東氏が設定した主人公は最近大学を中退したアル中の男で、やっていることは単なるチンピラの小遣い稼ぎと変りはしないという物。おまけに常に斜に構える、減らず口を叩くのだけは一人前。夜の街を徘徊するから友達には事欠かない、といったちょっと相容れない人物なのだ。 単純に云って、私と<俺>は合わないのだ。 あと文体。ススキノの夜を一生懸命に生きる底辺層の人々を描きつつ、時折、<俺>の社会の落伍者に同情する感傷を挟むことで男のペシミズムを語りながら、なおかつ軽妙洒脱さを狙ったのだろう。 小説には極上の旨みを感じさせる美文、しっとりとした質感などの綺麗な文章も大事だが、やはり外連味も必要である。しかし、この小説は外連味しかない。だから非常に俗っぽくて情緒が感じられなかった。なんだか風俗ルポを読んでいるような気がした。これもハードボイルドを読むと期待しただけに一層居心地の悪さを感じた。 北海道最大の繁華街ススキノ。そこを舞台にし、その街とそこに住む人を描こうとした趣向は買うが、ちょっと変に力が入りすぎたようだ。 そして肝心の事件だが、大学の後輩の失踪した恋人捜しから、ラブホテルで起きた殺人事件の犯人捜し、そしてススキノの夜の天使の捜索へと移りいく。これらのプロットはそれぞれがきちんと関連しており、淀みは無い。ただもうちょっと何か欲しかった。サプライズもそうだが、心に響く何かが・・・。軽めの文章だっただけに印象も軽くなってしまった。 とまあ、第1作の印象は非常に悪く、正直このまま読むのを躊躇ってしまいそうだ。しかし現在も続くこのシリーズ、人気があるのだろうから、その後何かが変ったのかもしれない。ちょっと間を置いて、第2作も読んでみるか。 |
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国名シリーズ第2作。読了直後、正直戸惑っている。
今回、エラリー・クイーンがやりたかったのは最後の一行で犯人が判明する趣向だろう。したがって、50ページ強にも渡り、得られた手掛かりから推理した事件の経緯が延々と語られる。エラリーは「演繹に演繹を重ね」と述べているが、どちらかといえば「帰納法に帰納法を重ね」だろう。 というのも推理方法は散りばめられた数々の事実を基に、何が起こったのかを再現しているのであり、しかもそれが最後にクイーン警視が述べるように「法的証拠はな」く、「山勘があたった」だけなのだから。二つの関連する真実から新たな真実を生み出す演繹法とは全く違う方法だ。なぜなら演繹法によって得た真実には矛盾や例外が存在しないからだ。 つまりこれこそエラリーが演繹法で推理したわけでなく、帰納法及び消去法で推理した事の証左だ(ほとんど全ての本格推理小説は帰納法による真相解明になるのだと思うのだが)。 かてて加えて、捜査方法についても2,3つ疑問がある。 恐らくこれらは1930年当時アメリカの犯罪捜査において、まだそこまで科学が進歩していなかった、そんなに気にしていなかったことだろうと思う。 まず、現場に残された煙草の吸殻を見て、エラリーがその特徴的な銘柄から、所有者であるバーニスが現場にいたと示唆する点。 これは現在ならば、早計という物だろう。DNA鑑定はなかったにしろ、唾液から血液鑑定をして人物を特定するのがセオリーだ。この頃はまだ唾液からの血液鑑定方法は確立されていなかったのだろうか?そして推理は終始この銘柄と煙草の吸い方による違いについて語られ、決定的な証拠となる血液型については言及されない。 次に鑑識による指紋の調査において、現場にクイーン警視の指紋が残されていたというシーンだ。これは明らかにおかしいのでは? 指紋による人物の特定方法が確立されていたのならば、捜査官は自分の指紋を現場につけないよう手袋をするが常識である。これは犯罪を題材に扱いながら、クイーンが、実際の警察の捜査状況を全く知らなかったのではないだろうか?それともこれが当時は常識だった? 3番目は殺害場所の特定方法について。今回の被害者は致命傷である部位が、損傷したら多量の出血を伴うのに、現場には血痕がさほど残っていなかった事で、他の場所で殺されて、発見現場に遺棄されたことになっている。殺害現場として目星をつけたアパートに行くのだが、全くルミノール反応を使った捜査が行われないのだ。 この頃、まだルミノール液が発明されていなかったのか、それともクイーンが知らなかったのか、どちらなんだろう。結局エラリーは自らの推理で殺害現場を特定する事になる。 ほとんど苦言で終始した感想になってしまったがこれはエラリー・クイーンへの期待値が高い事によるためだ。特に1作目の鮮やかな推理に比べ、本作は殺人事件に加え、麻薬組織まで絡んでおり、風呂敷を広げすぎたような感じがする。 シンプルな感想といえば、最後の犯人に面食らい、いまだにクエスチョン・マークが拭えないということなんだけど。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回の謎は大きく分けて三つある。
まずは通常のミステリに倣い、楡井殺害に関する謎。どうやって楡井に毒を飲ませたのか?犯行の動機は? 二番目は峰岸を犯人だと告発する者の正体。これは犯人側峰岸が探る謎だ。どうして告発者は自分が犯人である事を見破ったのか? そして最後は題名にもあるように、本編のモチーフであるスキージャンプに関する謎。日星自動車の杉江翔は一体どのようなトレーニングをして飛躍的にジャンプ能力を伸ばしているのか? 東野氏のミステリの優れたところはこういったモチーフが非常に魅力的な謎を伴っているところにある。今まで色んなスポーツを物語に扱ってきた東野氏だが、本格的にそれをミステリに融合させたのは『魔球』だったように思う。須田武志が最後に放った魔球の正体とはなんだったのか?これが一連の殺人事件と平行して語られる。 『魔球』は今にして思えば、本作へ先鞭を付ける足がかり的な作品だったのかもしれない。今回はジャンプを高感度カメラによる連続飛形モデルの加速度経時変化の力学解析、それを基にした水平方向、鉛直方向の加速度推移グラフといった科学的データを実際に提示して謎の解明を行う。魔球は一種特異体質とも云うべきその人しか出来ない球の握り方という具体的ながらも科学的根拠不明瞭なところに留まっていたのに対し、今回はかなり実践的な領域まで踏み込んでいるのが大きい。だからといって『魔球』が決してその真相について肩透かしを食らうような物ではなく、本作を読んだあとではこちらの方がより具体的に謎解きを行っていると云っているだけだ。 今回読んだのは角川文庫版で、どうやら新潮文庫版から一部改訂されたらしい。どの部分が改訂されたのかは読み比べてみないと解らないが、恐らくこの科学的分析は原版でもあったのだろうと思われる。 また平成の世になり、スポーツ工学の進歩は目覚しい物がある。マンガ『Dream』でも変化球に対するメカニズム―シームと呼ばれる縫い目の握り方による回転のかけ方の違い、それによる空気抵抗の流れ、抵抗力により減速していく際に生じる球の不規則性、etc―が具体的に書かれるくらいだ。恐らく『魔球』発表当時はまだそこまで変化球に関する考察・分析が具体的に成されていなかった事は容易に推察できる(なんせ昭和63年の作品だ)。 おっと横道に逸れてしまった。本題に戻ろう。 日星自動車のチームが導入した方法というのは「サイバード・システム」と呼ばれるシミュレーション装置。これは擬似ジャンプ台で、5mの長さの板にローラーが付いてあり、これが角度を自在に変えられるようになっている。被験者はローラースキーを履いてクレーンで吊られた状態でこの上に乗り、そのまま滑空する。ジャンプ台はその速度・時間に合わせて角度を変え、あたかも本物のスキージャンプ台のようになり、踏み切りまでできるという物だ。 しかし、この装置の目玉はそんなところにない。理想形とされるジャンパーの飛形をインプットし、被験者に信号を送ることで矯正し、理想のジャンプを形成する事が出来るのだ。しかしその矯正方法に問題がある。理想飛形と異なる姿勢が発生すると被験者に不協和音が奏でられ、不快感をもたらす。被験者はこれを聞きたくないために矯正せざるを得ない。しかしその不協和音は人間の無意識の領域に記憶され、ラジオの音波の雑音で突発的行動を起こす副作用がある、とまあ、これが東野圭吾氏が考えた「鳥人計画」なのである。 電気系の大学を卒業し、電機メーカーに就職した東野氏の特色が非常に色濃く出た発想、テーマではないか。 そして本作発表から20年を経た21世紀の現代、このような訓練方法は採用されているのだろうか?このような大掛かりな装置が果たしてあるのだろうか? 私は意外に在ってもおかしくないと考える。 私はこれを読んだ時に映画『ロッキー4』を思い浮かべた。ソ連のサイボーグボクサー、イワン・ドラゴだ。彼もまた当時の科学の粋を結集して“作られた”ボクサーだ。東野氏の造語に倣って云えば、“サイボクサー”だ。育てる選手の身体に無数に付けられた電気コード、これはまさにこの映画で行われたドラゴのトレーニング風景そのものである。恐らく東野氏はこの映画をヒントにこのストーリーを考えたに違いない。『ロッキー4』の公開が85年、つまり昭和60年であるから、一応符合する。またこの映画では筋肉増強剤も併用されていた。 本作にて作者が云うように、一流のスポーツ選手というのは完璧無比なる強さを求める。それが故にドーピングなんかに手を出すのだが、彼ら・彼女らは確かに「バレなければやってもいい」、「みんなやっている事だ」といった割り切りがあるのだろう。競争心が歪んだ形で欲望に変異していくのだ。それはもはやスポーツが一個人の理想の追求や求道精神だけに納まらない莫大な利益を生む一大産業となっているからだ。 フローレンス・ジョイナーが早死にしたのも、当時“バレなかった”ドーピングの副作用によるものだろう。それでも人は強さを求める。そのために自分の身体がどうなろうが、構わないのだ。 世の中、要領のいい奴はいる。私などコツコツやるタイプだから、労力をかけずに上手くやる人間や、人の結果をそのまま転用して自分の成果とする人間に対して確かに悔しい思いがする。「何なんだ、あいつは」と確かに思う。 しかし殺意とこれとは別だ。それは私が犯人のようにある物事に人生を賭けていないかもしれないが、それでも他人は他人、俺は俺だと云い聞かせる自分がいるように思う。そこがどうしても共感できなかった。犯人が恐れたのは自分の人生の意味の喪失であり、片やこの私は普通、人生に意味などない、自分に迷いや悩みが生じたときこそ、人は人生に意味を求めるという観点に立っているから、これは当然の結果だろう。この共感の度合いこそが作品に抱く思いの強さに比例するから、本作はしたがって星7ツなのだ。 また唯一本作において推理に参加できる告発者の謎(実はこれも2つあるが前者の方)だが、これが解けなかったのが残念。うっかり読み通してしまい、最後の方で十分読み返すことが出来なかった。これは素直に悔しい。 最後に本作にて語られる楡井の人物像について。この不世出のジャンプの天才が天性の陽気さを放つ人物として語られる。周りにかけられるプレッシャーをそれとも気付かず笑い飛ばす、一種天然ともいえる陽気さ、そして常に話している内容は論理的でなく、イメージ先行型で、周囲の人は理解が出来ない。しかしここにこそ私は東野氏の上手さを感じた。 元巨人の長嶋茂雄氏が高橋由伸氏が入団したての頃、バッティングの指導をしたエピソードを思い出した。長嶋氏の指導は身振りを交えて次のようなコメントしたという。 「バッと来た球をバッと打つんだ」 そして高橋氏はそれが解ると云ったらしい。 天才には詳しい説明など要らないのだ。天性の感覚で感知するイメージを伝えるだけで天才同士は通じるのだ。そしてその感覚は私も解る。いや私が天才だといっているわけではない。あるレベルにいる物が体験するゾーンという物がどんなものにも存在する。それは決して説明のできる物ではない。感じるものなのだ。 そんな部分も含めてこの本はかなり色んな要素が込められている。 しかし惜しむらくはそれでもなお、こちらの意にそぐわなかった事。それはほんのちょっとの違いなんだけど。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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最高の頭脳ゲーム!高学歴、高水準のディベートゲームを堪能した!
国際的犯罪阻止の協力に対し、自国に今後の利益拡大をもたらすべく、いかに有利に展開すべきか、いかに恩を着せるかを高度な駆け引きで展開するこの上ないディベートの嵐である。 常に勝利の道を模索しつつ、そして自らの保身のために逃げ道も確保しながら、相手を雲に巻きつつ、出し抜くチャーリー。 ロシアという社会主義の風潮残る国で、自らの特権を出来うる限り長引かせるために、常に身の保身を第一義に考えながらいざという時に責任の擦り付け合いで勝利する事に腐心する周囲の中で、孤軍奮闘するナターリヤ。 下院議員の甥という立場で上司やFBI長官からも疎んじられている明朗活発かつ猪突猛進な若さ溢れるケスラー。 そしてチャーリーの恋敵で軍人気質で常に作戦の先頭に立ち、指揮する事を欲する、完璧を自負する男ポポフ。 これらがそれぞれの思惑と自説の正当性を主張しながら、核物質流出事件に当る。 そしてさらに後半魅力的な人物が物語を彩る。頭脳明晰でFBI随一の核の専門家でありながら、一流モデル張りのスタイルと美貌、さらに自分の欲望に素直な女性ヒラリー・ジェミソン。これが下巻からモスクワに渡ってチャーリーとパートナーを組む辺りからまた面白くなってくる。 そしてこれら複雑な頭脳ゲームを恐らくキーボード上を踊るが如く美麗なメロディを奏でるように読者の眼前に提供してくれるフリーマントルの知性と筆の冴え。毎回思うが本当、この人の話は面白い。 しかし、今回はイギリス、ロシア、アメリカの三国に加え、ドイツがさらに加わっての合同作戦というのはいささかキャラクターの過剰出演を招いたようだ。 当初物語の主眼と思われた再会した2人、チャーリーとナターリヤの成り行きが、後半のヒラリーの投入で影が薄くなってしまった。 特にこの2人は作戦会議の場で初めて再開したときに交わされる会話の時のお互いの心理状態のやり取り、ポポフとチャーリーとの微妙な関係や、その後の2人の逢瀬など結構読み処があっただけに残念な思いがした。 更に若きFBI捜査官ケスラーがその未熟さからチャーリーに師事することで次第に捜査官としてのスキルを挙げていく成長過程も物語のサブストーリーとしてよかったのだが、これもまたヒラリーの登場で影が薄くなってしまった。 恐らくヒラリーというキャラクターがフリーマントル自身、非常に気に入ってしまい、またこのキャラクターがフリーマントルの意に反してひとりでに動き出してしまったため、その流れに委ねることになったのではないだろうか。 しかし、だからといって物語の構成が破綻したわけでなく、最後にサプライズをきちんと準備して物語が閉じられるのだから、やはり大した物である。 とはいえ、今回のサプライズは解ってしまった。やはり続けて読むとフリーマントルの手法も見えてくるということだろうか? 最後にもう1つ。 この前に読んだ同じ作者のダニーロフ・カウリーシリーズの『猟鬼』では、マールボロの箱をかざす事でタクシーが容易に止まる事を書いているが、本作でチャーリーが同じことをしようとすると、いつの時代の話ですか?とケスラーに気色ばめられるシーンがある。 『猟鬼』の原書発表が92年。本作の原書発表が96年と4年もの差がある。これはこの4年の間にロシアがそれほどまでにアメリカにおもねることなく、自立していった事の証左か、はたまた『猟鬼』におけるこの描写に対する不適当性に関する批判がフリーマントルにあったのか、定かではないが、なかなか面白いシーンだと思った。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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奥田哲也作品3作目。意外にオーソドックスだったというのが正直な感想。1年前に起こった殺人事件と現代に起きた殺人事件の犯人探しが美術学院職員という狭い人間関係の中で300ページ強に渡って展開されていく。
奥田氏の提示する謎は不可能趣味ではなく、セイヤーズの作品のように、事件はシンプルだが、なんだかおかしい、その奇妙な違和感を解き明かす類いの、トリックよりもロジック志向型になるだろう。しかし、セイヤーズがシンプルな謎であるのにも関わらず、最後の解決に鮮烈なイメージを与えて物語を閉じるのに対し、奥田氏の謎は、ああそういうことだったのねと単純に納得するだけに終わっている。 それは真相を解明する“殺し文句”とでも云うべき衝撃の事実がないからだろう。 セイヤーズはシンプルな謎に隠されたバックグラウンドを物語の進行に合わせて一つずつ丁寧に解き明かし、最後どうしても残る違和感がたったの一言でばっと眼の前の霧が晴れていくように解決される心地よさがあるのだが、奥田氏の作品においては最後の最後においても複数の謎が残ったまま、しかし探偵役は全ての謎が解けているという趣向であり、終わりの方の章で延々と数学の証明問題を解くかのような長い解説が行われる。 これが私にとってはあまり面白くない。こういうのはメインの謎が解けた後、その他残る細かな謎を逐一説明するために行えばいいのであって、メインの謎解きに適用するべきではないだろう。 今回も最後の25章から28章にかけて刑事と探偵役の主人公との問答によって謎が解かれていく。三章に渡って解かれていくその謎は淡々としており、“最後の一撃”らしきものもなく、ようやく辻褄が合った程度の物であり、カタルシスも感じなかった。 あとこの作者、意外に言葉に対して意識的かつ無自覚である。 まず文章をなぜかスムーズに読み進む事が出来ない。読み進もうとすると袖口を引っ張られるような引っ掛かりを覚える。 では文章が特殊なのかといえば、全然そうではなく、むしろ平板。『三重殺』で見られた斜に構えたような文体はなく、普通の人々の会話と私生活がごく普通に語られるようなのだが、なぜかふと立ち止まる事が多い。 なぜこうなるか、ちょっと考えてみると、まず場面転換の唐突さが1つ特徴としてあるだろう。 主人公の内面をまず語る形で場面の転換がなされるのだが、作者の癖なのだろうか、前のストーリーの流れからは飛躍した内容で文章が始まり、5,6行進んだあたりで、主人公が今どこにいる、もしくは奇妙な夢を見た、そんな事実が語られるのである。 それは謎解き部分でのロジック展開でも出ており、戸惑ってしまった。 ネタバレにならない程度に書くが、今回の第1の殺人での謎の1つにタイムカードの紛失というのがある。これが第2の殺人の真相解明の問答において何の脈絡もなく出てきて面食らってしまった。思わず何ページも遡って読み直してみたが、やはりそれまでの論理展開にはタイムカードには触れてなく、しかも第2の被害者がタイムカードを所持しているなんて事も書いていない。その事は5ページ後に出てきて、ここに来てようやく事件の脈絡が繋がるわけだが、この5ページの間は何を登場人物は語っているのかさっぱりだった。 あと妙に凝った文章表現が文章のリズムを壊しているように感じた。恐らく作者の意図としては無味に流れていく文章にアクセントをつけるために選んだ言葉だろうが、ちょっと大袈裟すぎる。 それは各章題にも現れており、何となく鼻につくきらいが無いでもない。いきなり第1章の章題は「呑気な蜘蛛」である。これは何かというと、サブキャラの刑事の風体の比喩であり、この章における主題でもなんでもないのである。その他にも「魂を塗りこめた男」、「水槽のなか」といった章題なんかも単純にその章に用いた比喩をそのまま章題として使っており、何か居心地の悪さを感じた。素人がちょっと普通の人よりもヴォキャブラリーが多いということを見せつける、文章表現の引き出しが多いことを自慢しているかのようだ。 かなりきつい物言いになるが、作者が自らこの文章を一度読み直したのか、気になるところだ。 あといやに中身が淡白なのだ。タイトルの『絵の中の殺人』は、もう全く以って的外れである。本作の謎を象徴する印象的な絵が出てくるわけでもなく、また絵がトリックに活用されるわけでもない(絵ではなく額縁が活用されるがあれはかなり無理を感じる)。また絵画の世界、業界をモチーフにするならばもっとそれに関するエピソードがほしいところだ。登場人物の学院の職員達は絵を描くという設定で、その中には筆を折った者もいたが、絵画という芸術の世界に片足でも突っ込んでいる人物達にしてはごく普通であり、単純にどこかの会社、学校の事務員と変らない。物語を彩るガジェットに欠けているのだ。 それは人物設定もまた然り。主人公に元プロ野球選手を持ってきた割にはそれを活かした活躍シーンが何も無い。元プロ野球選手だからこそ出来ることがあるのに、ただの男になっている。 P.D.ジェイムズやレンデル、真保裕一など、作品ごとに色んな職種を題材に扱う作家は物語の餡子を包む皮も美味しいからこそ、読んで満足を得られる。この辺をもう少し意識してほしい。 本を読む側としては内容に入る前にタイトル、表紙を見て、どんな物語が展開されるのか想像を巡らすのだから。 |
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これが奥田氏の第1作目なのだが、先に読んだ『三重殺』で見られた軽妙洒脱な文体とは打って変わって寂れゆく街の中、陰鬱なムードで物語は流れる。
炭坑の閉山に伴い、すたれいく街で久寿里市の三分の一の産業を担う釧久グループ。しかし各々はこの街がもうかつての盛況を取り返すことの無いことを知っていた。しかしそれぞれの事情を抱えてこの街にしがみつくしかない彼らは残滓のように残る僅かばかりの繁栄に身を委ねて日々の鬱憤を晴らしている。 主人公を務めるのは署長からつまみ弾かれたはぐれ者の刑事4人。森村、川崎、喜多見、佐々木の面々はそれぞれの個性を発揮しながら事件を追っていく。しかしこれらの刑事像が実に刑事らしくない。大学の推研サークルの輩が殺人事件を前に推理ゲームを展開しているかのような、青っぽさを感じるのだ。この辺がやはりデビュー作における作者の若さだろう。 そして事件を取り巻く関係者それぞれの事情。陰鬱であり、上っ面の人間関係に隠れたそれぞれの思惑などじっくり書いているのだが、それに重きをおいたせいか肝心の事件の印象が非常に薄い物になってしまった。 本書は80年代後半に起きた新本格ブーム一連の流れでデビューした作家群の1冊として刊行されたはずである。だからジャンルで云えば本格推理小説となるのだが、おそらく綾辻氏、法月氏らがデビューした当初にさんざん叩かれた「人間が描けてない」の批判を受け、作者奥田氏は十分考慮した上で、本書のように登場人物それぞれのストーリーを描くに至ったのだろう。そのために本格推理小説としての味わいが薄れてしまったようだ。 実際、この小説で明かされる真相はアンフェアに近い。ストーリーを読むうちに推理できる材料がほとんど提示されないのである。読者に推理する余地を与えず、残りのページも少なくなっていきなり真相を告げられた感が否めない。 そして元の題名『霧の町の殺人』だが、これは全く以ってほとんど意味を成していない。当時の新本格作品の1冊ならば、街に漂う霧が、事件に一役買って霧が無ければ成立し得なかったトリックやロジックを期待してしまうはずだ。 しかし単に霧は舞台設定に終わってしまって何の関係も果たさない。霧は登場人物の心中に澱のように溜まっていく諦観を現しているだけのものになっている。だから題名を『霧枯れの街殺人事件』と変えたのだろうが、これもまた片手落ちのような感じがする。 しかし2作目の『三重殺』を読んだ限りでは、作者の力量はこの後、向上しているので、次に読む3作目が楽しみでもある。基本的には2作目のテイストが好きなので、これが活かされていることを望む。 |
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自転車旅行を題材にしたロードノベル。作者が行った東京~青森間自転車走破の実体験に基づいているらしい。つまり桐沢=作者というわけだ。
短文と体言止め、そして愚痴とも減らず口とも取れる独白を織り交ぜた一見ぶっきらぼうとも思える桐沢の一人称で語られる文体は主人公の人と為りを雄弁に語り、読者の心に美酒が五臓六腑に染み渡るように刻まれていく。この無粋な男桐沢が妙に人を惹きつける抗いがたい魅力を備えており、知らず知らずに青森への単独行を応援したくなる。 恐らくこういう男が会社の部下もしくは同僚にいると扱いにくいだろう。多分私の性格上、この桐沢みたいな男は上手く付き合えない人間なのだ。しかし、それでも彼は私を惹きつけて止まなかった。それは男ならば誰もがこういう生き方を一度は望むからだ。 しがないグラフィック・デザイナーながら気に入らない仕事は断る。金儲けよりも心の自由に重きを置く。宿酔いならぬ三六五日酔いと自分で認める重度のアル中で酒が切れると何も出来なくなる。人付き合いは上手い方ではないが困った奴を見捨てるほど冷酷ではない。 桐沢はいつかこうありたいと願う一人の男の姿だ。だからこそ惹きつけて止まないのだろう。 そして途中旅の道連れとなる高校中退の若者との出逢い、乞食のような風貌だが断固たる決意を胸に秘めた眼差しを持つ男、計画書奪還のため桐沢に接触する自衛隊の藤井三尉、そして同じく計画書奪還のために桐沢に接触し、次第に桐沢に魅了されていく尾崎、旅の先々で出逢う旅館の女将やトラックのドライバーなど、これらが読者をたちまち旅の愉悦に引き込んでいく。 また桐沢の旅の障壁となる自衛隊の計画書奪還作戦。その中核となる「三田北方作戦」の内容もなかなか凝っていて面白い。 狂人とも云われていた三田一等陸佐が立てたソ連侵攻に対する北海道封鎖作戦なるものに画された驚愕の真実。果たしてこれが本当に現実味があるのかどうかは眉唾だが、作者があらゆるデータを使ってその信憑性を固めていくプロセスは面白かった。ロードノヴェルに単純な味付けをしただけに留まっていないのが良い。 しかし何といっても本作の主眼は自転車旅行そのものにある。読んでいて非常に気持ちがいい。作者と同様に暑さに汗を滴らせ、坂道を苦行僧のように身体を苛めながら一心不乱に登り、体を切る風を感じるかのようだ。そして汗と共に桐沢の中から余分な物がどんどん流れ落ちていく。 当初、友人の青森行の話を聞いて負けてなるものかと奮起した旅だったが次第にその目的は単純に青森へ行きたい、その一念のみとなる。雑念やら妙な矜持やら余計な物がどんどん削られて洗練されていき、一種悟りの境地へと至る。 さらに自転車への想い。思い出の品など歯牙にもかけない桐沢が共に旅した自転車を見て妙な愛着を覚え、手放せないと思うこの気持ち、非常によく解る。私も25歳くらいまで自転車を足に使っていた。小学校の時から中学、高校、大学、そして社会人になってまでずっと自転車が交通手段だったからこそ解る。 思い出の品?いや全然そうじゃない。一緒に色んなところを駆け巡り、旅し、転び傷つき、その都度治療した、云わば“戦友”だ。 とにかく何度も涙が出そうになった。それは自分の力のみで成しうる旅への羨望もそうだろう。 日本を離れた今、桐沢が訪れる東北の街のエピソードが旅愁というよりも郷愁に近い感傷となって押し寄せてくる。やはり日本はいい。適わないことだが、私もいつかこのような旅をしたい。いや旅ではない、冒険なのだ。かつて子供の頃、眼前に広がっていた未知の世界へ乗り出す、あの面白さ、それがここにある。 自分の中にまだ“少年”がいるのならば是非とも読んでほしい小説だ。 |
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初エラリー・クイーンである。30も半ばを越えて(当時)ようやく着手である。当初古めかしく感じた訳も思いの外、クイクイ読めた。
実は最初は非常に不安だった。この齢までなるとかなりの本も読んできたすれっからしの読者であるから、世評高いクイーンの諸作を純粋な気持ちで楽しめるのか、心配していたのだ。ホームズシリーズやルパンシリーズで感じた失望、最適な時に読むべき本を逃した喪失感、そんな感慨をまた抱くのではないかと。 しかし、杞憂とは正にこのこと!十分愉しめた。大人が読むに耐える小説になっている。 そして私、犯人解っちゃいました!Ⅱ-11章で天啓の如く、閃きました。正にこれしかない!といった感じでした。 ・犯人はなぜシルクハットを持ち去らなければならなかったのか? ・シルクハットはどこに隠されたのか? ・シルクハットを持ち去っても不審がられない人物とは一体誰なのか? この3つの疑問について完璧に解答できた。う~ん、気持ちがいい!このカタルシスこそ正に本格推理小説の醍醐味だ。 そして犯人が判ってから読むとクイーンの作品は非常にフェアプレイである事が判る。最後の謎解きの辺りでは、センター試験の答え合せをする時のようにドキドキした。なるほど、極上の知的ゲームである。 しかし、惜しむらくは作中でも書かれているように事件の真相が推理のみであり、物的証拠が得られず、しかも最後は犯人に罠を掛けないと逮捕できなかった点だ。世紀の名探偵エラリー・クイーンのデビュー作は磐石の推理と証拠の提示による解決ではなかったとは意外だった。 しかし、それを於いても久々に毎日本を読むのが楽しみだという気持ちになれた。推理小説に夢中だった小さい頃の想いが甦るようだ。推理小説とはこんなにも楽しいものだったのかとこの年になってさえ思わせてくれる。クイーンの作品は本当に素晴らしい。未来永劫読み継がれてほしい作家だ。 一般的には佳作の部類に入るであろう本作だが、本格ミステリの愉悦を再燃させてくれたことから8ツ星評価としたい。 後に着手する更なる傑作に思いを馳せつつ、この感想を閉じたい。 |
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加賀刑事シリーズ第1作。そして加賀恭一郎シリーズ第2作。今まで作品ごとに主人公を変えていた作者が初めて採用したシリーズキャラクター、それは第2作で主人公を務めた加賀恭一郎だった。
そして、率直な感想、ビリビリ来た!もう心が震えた! 私にとって名作とは2種類ある。 それは万人が認める世評高い本当の名作と、全く期待していなかったのに、予想以上に自分の心に残ってしまう作品だ。そしてこの本は私にとって後者に当たる名作となった。 正に不意打ちだった。何のガードもしてなかった。だから非常に打ちのめされた。ああ、悔しい!東野氏にここまであからさまに翻弄された、そしてそれが正直心地よい。それが偽らざる感想だ。 冷静に考えると、本作は推理小説としては決して歴史に残る名作とは云い難い。本格ミステリとしては、普通の部類に入るだろう。東野氏お得意の密室殺人や見立て殺人といった意匠も無い。犯人も途中で解るだろう。私でさえ、途中で疑いを持ったくらいだ。明かされる真相は意外ではあるにしろ、衝撃の事実というほどの物ではないと思う。 しかし、この作品には小説としての熱がある。単なるパズルの解答を提示するだけに留まらない小説としてのドラマがある。確かにある意味、これほどの事で心打たれるのかという意見もあるかもしれない。でも嵌ってしまったのだ、東野氏の策略に。それはパズルを解き明かす計算を超えた熱情を行間から感じたのだ。 実は最後を読む前に書いていた感想がある。それは東野氏の小説家としての技能について賞賛を述べたものだった。 しかし、こんな物語を読んだ後では自分の心情にそぐわないと思い、削除した。この作品にはそんな小説作法を物ともしない小説家としての気概を感じたからだ。それは東野が初めてシリーズキャラクターを採用した事からも想像できる。東野氏は『卒業』で登場させた加賀というキャラクターを育てようと決心したのだと思う。あの作品を世に送り出したときに、彼の中で一度きりにするのは惜しいと感じたに違いない。そしてそれは成功していると思う。 本作を要約すると次のようになるだろう。 始まりは普通の物語。普通の正当防衛による事件のお話。しかしやがてそれは立派な大輪の花を咲かせるかのような素晴らしい話へと結実する。 そして心に残るこの1行。 “君だけのために、俺はいくらでも語りかけるだろう―。” この台詞の素晴らしさ!今まで抑えていた愛に似た感情が迸る瞬間だ。この素晴らしさは自分で本書を手に取って確かめてほしい。 加賀刑事に読者が惚れる理由が解った。そして加賀という男を知るためにシリーズを順を追っていきたいと思う。 |
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ダニーロフ&カウリーシリーズ第1作目。
アメリカの政治原理とロシアの政治原理が交錯するやり取りは正にフリーマントルの真骨頂なのだが、今回はそれだけでなく、全編に事件解決の手掛かりが周到に散りばめられている、一種本格ミステリの要素も含まれているのだ。ここにフリーマントルのこのシリーズに賭ける意気込み、並々ならぬ創作意欲の迸りをびしびし感じた。まさに記念すべき新シリーズの幕開けだと云える1作だ。 図らずも第2作『英雄』から本シリーズに入ってしまった私。その時の感想に、『英雄』には前作の犯人と真相が明からさまに書かれていると述べてあるのだが、本書ではその人物がどのような者かは朧気ながら覚えていたものの、誰かまではすっかり忘れていた。 しかし、この前知識が今回の真犯人を当てる一助になった事は間違いないだろう。しかし、それでも巻末で繰り広げられるカウリーの謎解きに謳われたある文中の違和感には気付いたのだから、よしとしよう。 まあ、そんなことはさておき、今回、作者フリーマントルがロシア民警の警官とFBIエージェントを組ませて捜査を行うこの設定を思いついたのは単純に犬猿の仲とも云える相反する両国のミスマッチの妙と、水と油の関係の二国のそれぞれに属する者同士が国の利害を超え、結ばれる友情を描きたかった、それだけではないだろう。 90年代後半に起きたソ連の民主化政策、グラスノスチとペレストロイカという二大ムーヴメントによってもたらされた欧米的生活様式と価値観。それはまた同時に犯罪の欧米化を促す事でもあったのだ。従って、今まで官吏が独裁的に行う犯罪捜査では解決しえない類いの犯罪も頻発する可能性があり、それを解決すべく東側もアメリカ式の犯罪捜査システムの導入が必要になる。こういった洞察からこの二国間のそれぞれの腕利きが協力し合うという構想が具体化していったに違いない。これこそ、フリーマントルの素晴らしき慧眼だといえる。 そして本書を彩るのが登場人物たちの複雑な人間関係だ。 かつての同僚であり、友人の妻と不倫関係にあるダニーロフ。同じくかつての同僚で親友に妻を奪われ、そしてモスクワの地でその2人に再開することになったカウリー。 ダニーロフは不倫相手の夫婦の家に招待され、危うく不倫がばれそうになるし、カウリーは再びパートナーとなった元妻の略奪者と仕事に私情を挟まないよう、終始注意を払う。そして同じくパートナーの夫婦に食事に招待され、元妻への思いが再燃する。 そしてこの2人の色恋の挿話に対して、特に印象に残った箇所がある。 まずダニーロフは妻に不倫を疑われ、不倫相手のラリサに別れを告げるシーン。彼は最初はほんの遊びのつもりだったのが、なぜこれほどまでに深入りしてしまったのかと自問する。そして得た答えというのが、それが安心の裏づけだというもの。その気になればまだ美しい女を物に出来るという自尊心の裏づけなのだという述懐だ。 ここで私ははたと立ち止まる。男はいつでも自分を若いと思い、そして若く見せようと努力する。 かくゆう私もそう。それは老け込みたくないという気持ちから来るものなのだが、潜在的にはこのダニーロフが云うようにいつまでも女性の目を惹きたい、いつでも俺は現役なのだという自負心を抱きたいからだ。そして不倫はそれを裏づける何よりも証拠、男としての現役の証明なのだ。不倫は文化だ、などと触れ回る男もいたが、そんな軽薄な言葉よりもこちらの方がもっと真実味がある。 そしてカウリーはパートナーのバリー夫妻に自宅に招待され、夕食をご馳走になった後、一人考え込むシーン。元妻ポーリーンに「あなたは奥さんがいなくちゃならないタイプだもの」と云われたことを振り返り、激しく動揺するシーンだ。彼はその言葉で1人で生きていく事は大したことではないと思っていた矢先に常に孤独を感じていたことに気付かされる。しかし、結婚はその孤独を癒すためにする物とは違うとも解っている。では何なのかという自問に対する答えをカウリーは得ていない。 そこで私は考える。それは単純に失望なのだと。カウリーは元妻にまた一緒になりたいという言葉をかけてほしかったのだが、返ってきた言葉が、再婚していないのが意外だという意味の言葉だったからだ。まだ続いていると思っていたお互いの想いが他方では既に決着が着いていたのだと知らされた言葉に激しく動揺したのだ。その事に気付かず―敢えて目を向けず?―、自分が孤独を感じていることに向き合ってしまったのは、カウリーの未練を表している。これは振られたことのある男にしか解らない気持ちなのかもしれませんね。 さらにダニーロフはかつてある地区の署長をやっていた際に得た密売組織との“密接な関係”によって得た特権を異動によって破棄し、家庭の電化製品はもとより、その日着ていくスーツやYシャツにも困るような逼迫した生活を強いられている。皺の寄れた衣服が、スクラップ寸前のくたびれた電化製品の数々がダニーロフの眼に妻をも使用済みのように映らせている、この辺のフリーマントルの筆致の上手さにも唸らされた。 『英雄』を読んだ時に思ったのは、カウリーよりもダニーロフに関する叙述が多かった事だが、今回モスクワを舞台にした本書でもその比重は変らないように思う。確かにカウリーはアメリカ人であり、異国の地で勝手違う捜査を強いられる存在ながらも、ロシア語も堪能で、FBIロシア課の課長という役柄、ロシアにも精通しており、そのギャップが少ないように感じた。むしろロシアという特異な文化の中でのダニーロフの生活や性格が興味深く語られ、作者自身、取材の成果を存分に揮って楽しんで書いているように思えた。やっぱりダニーロフの方が好きなのだろう。 しかし今回のこのタイトル、フリーマントルの作品とは思えないセンセーショナルな題である。一瞬大沢在昌の『新宿鮫』シリーズの1作かと思った。 訳者の松本剛史氏がこのシリーズのファンなのだろうか。それともこの後シリーズの邦題は『英雄』、『爆魔』と二文字で続くからディック・フランシスの諸作のファンなのかもしれない。まあ、どうでもいいことだが。 |
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奥田哲也氏の小説は初めて読んだ。ちょっと斜めに構えた主人公の刑事の減らず口を織り交ぜた文体に最初はちょっと辟易したが、慣れてくるとなかなか面白い。
チャンドラーのマーロウを気取っていながら、あくまで三枚目であるという点が買える。我孫子武丸氏とはまた違った面白さがあった。 300ページに満たない本書はこの刑事の語りでほとんど全編ロジックが展開される。事件の渦中にある3人の男、加害者と目される片島青次、被害者と目される矢萩利幸、そして矢萩のボディガードとして事件に巻き込まれた新発田護のうち、誰が被害者で加害者なのかを3つの殺人事件でひたすらロジックの俎上で試行錯誤が繰り返される。 この非常に少ない人間関係を用いて語られる謎というのが矢萩利幸という名の人物が三度も殺人事件の被害者として挙げられるという点にある。関係者は3人。被害者も3人。では最後の犯人は?と謎を畳み掛けてくる。正にアイデアの勝利といった感じだ。 そして今回の主人公、名も無き私が実によい。後輩に見くびられないよう精一杯肩肘張って生きている三十代独身の刑事。毎晩遅く帰る生活で唯一の安らぎが読書。時たま近所の友人と場末のスナックで酒を嗜む。 一般的な刑事物に出てくる刑事とは一線を画す、小市民の生活が物語に時折織り込まれる。刑事ずれしていない刑事像をユーモア交えて語っている。 それは命のやり取り、人の人生に入り込んでいくような仕事をする人間ではなく、私も含めたあるサラリーマンの人生の一シーンのようだ。人の生き死にを生業としながらも、その実体はあくまで普通の人間なのだというところに好感が持てた。 と肩肘張った読み取り方を上に書いたが、作者の本質はもっと別なところにあるだろう。こういう刑事もいいもんでしょ?と読者に片目をつぶって微笑みかける、そんな作者の顔が目に浮かぶようだ。 非常に寡作な作家、奥田哲也氏。新本格ブームで次々と作家が頻出した90年のデビュー以後、発表作品はたったの5作。恐らく兼業作家なのだろう。 そして98年以降新作は発表していないようだ。ブームの衰退と共に消えていった数多の作家の中の1人、現状を鑑みるとそう結論付けられてしまうのは否めない。 しかし、佳作ながらも一読忘れ難い印象を残すこの作品。消え去るには勿体無いと心底思った。 |
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二階堂作品初体験。古き良き探偵小説の香り漂う本格推理小説だ。
そして本作は本格探偵小説信望者である二階堂氏本人が読みたくて渇望していた小説なのだろう。誰も書かないならば俺が書くという気迫が行間から湧き出てくるようだ。 この本の献辞は鮎川哲也氏に捧げられているが、乱歩作品へのオマージュである事は想像するに難くはない。 「地獄の奇術師」という人智を超えた殺人鬼の設定とネーミング、逆さ吊りにした女性の顔の皮を剥ぎ取っていく残虐な処刑シーン、警察監視下の中で起こる麗しき女性への傷害事件、毒殺事件に、三重密室殺人、密室内での銃殺事件、屋根裏を徘徊する殺人鬼、などなど、『魔術師』、『緑衣の鬼』、『屋根裏の散歩者』といった乱歩の名作のモチーフのオンパレードである。 そしてそれらの云わば時代錯誤な作品世界に現実味をもたらせるために二階堂氏は時代設定を昭和42年という、まだ日本の街に暗闇が残る時代を選んだ。 また探偵役の女子高生二階堂蘭子と語り役の高校生二階堂黎人が刑事事件に関わることが出来る設定として父親を警視庁警視正であるところ、蘭子が過去の事件を新聞と雑誌を読んだだけで犯人を指摘したことから警察も一目置くことになったところも、現代ならば現実味がないが、この時代ならば許容範囲かと思わせるギリギリの設定かなと苦笑した。こういうご都合主義も古き良き探偵小説ならでは、ということで案外許せてしまう。 上に述べたように、本作は不可能状況、不可能犯罪の連続なのだが、案外と作者の意図と犯人は透けて見えたように思う。尤もトリックは想定していたものとは違い、それについては作者に軍配が上がったのだが。 しかし、終章に蘭子の口から語られる神学的推理、形而上学的推理ははっきり云って蛇足だと感じた。あまりに抽象的過ぎるし、観念的過ぎるからだ。 二階堂氏は敬愛するカーのオカルティズムをも本作に持ち込もうと腐心したのだろうが、これは逆に本格探偵推理小説の狂信者といった印象を私に与えさせ、なかば呆れてしまった。熱意は買うが、自分の趣味に走り過ぎると読者はついていけなくなるからだ。 しかし、デビュー作にしてこれだけ書けるとは素直に感心した。随所に挟まれる過去のミステリを中心にした薀蓄も―多少目障りな感じがしなくもないが―造詣の深さを感じさせてくれた。 ただ昭和42年(1967年)に刊行されていない作品もあるのではないかと重箱の隅を突きたくなるきらいもあるが、そこは触れないのが華だろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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早川書房のチャンドラー改訳短編集の第2弾。本作も前作同様、未読の短編があったため、購入した次第。
で、その未読短編というのが冒頭の「シラノの拳銃」と最後の「翡翠」。「シラノの拳銃」に出てくるテッド・カーマディが収録作7編のうち、4編において主人公を務める。 「シラノの拳銃」はボクシングの八百長試合の約束を破ったボクサーへのマフィアの報復から話から、ある上院議員の隠し子のスキャンダルまで発展し、それが狂言だったという結構奥が深い話。題名の<シラノ>はカーマディが自分の所有するホテルで出会ったボクサーの女が勤めるナイトクラブの名前。 本作は何と云っても最後のシーンが忘れがたい。ナイトクラブの女ジーンが笑みを浮かべながら眠りに就くシーンにしみじみと心打たれた。 「犬が好きだった男」は失踪した娘の捜索を頼まれたカーマディが唯一の手掛かりとしてその娘が連れていた犬を追って、獣医、強盗犯、精神病院へと次々と場面展開していく。題名の素朴さとは裏腹にカーマディの行くところ、死屍が累々と残されていき、激しい銃撃戦が二度も出てくるハードな内容だ。 しかもカーマディが麻薬を打たれて病院に監禁されてしまうシーンは確か長編でもあったように記憶しているがどの作品だったのか思い出せない。ロスマクのアーチャー物でも同様のシーンがあったように思うのだが。 「カーテン」ではカーマディは逃亡幇助を頼まれた友人のラリーが結局自分一人で逃げた矢先に殺されてしまった事から、ラリーの関わった友人の捜索に乗り出す。 物語の展開から予想だにしない結末に至る本作。真相はかなり意外。金持ちの依頼人と蘭の温室で対面するシーンは確かに『大いなる眠り』にも見られたシーン。しかし、真相がこじつけのように思えた。よくよく考えると、なんかおかしい。 カーマディ物最後は表題作「トライ・ザ・ガール」だ。ギリシア人の床屋の主人の捜索でセントラル・アベニューを訪れたカーマディが、たまたま出くわした大男スティーブ・スカラに否応無く彼のかつて愛した女ビューラの捜索に巻き込まれる話。 そう、これこそ正に名作『さらば愛しき女よ』の原形。 ここで現れる一人の女を追い掛ける大男は大鹿マロイではなく、スティーブ・スカラ。最後の幕引きも同じようなものだったか?凶暴かつ乱暴で野獣のように思われた大男。自分の目的のためには人を殺す事も躊躇わない大男。だのに女にはこの上ない優しさを見せる。自分を撃った女に対して「放っておいてやれ。やつを愛していたんだろう」と慈悲を与える不思議な魅力を持った男だ。こういう男は多分に母親の愛情に飢えていたのだと思われる。 そしてこの話の裏テーマというのは8年ぶりに出所した男が直面した、馴染みの店と好きだった街の雰囲気、そしてかつて愛した女、それら全てが変ってしまったことに対する戸惑いと哀しみなのだ。彼は居心地の悪さと居場所の無さを感じていたに違いない。そしてそうした彼の唯一の拠り所がかつて愛した女ビューラだったのだ。あまりに切ない物語。 この4編を通じて主人公を務めるカーマディという男の魅力も捨てがたい物がある。議員だった父親の遺産で悠々自適に暮らしている元探偵というチャンドラー作品には珍しい設定ながらも金持ちが故に抱える彼独自の哀しみ。親が汚職で残した汚い金を拒む事も出来ずに自嘲気味にその日を暮らす毎日。 しかしカーマディは2作目以降、「シラノの拳銃」の印象とはだいぶん違ってくる。むしろマーロウに近い感じだ。なぜチャンドラーがカーマディを主人公に長編を著さなかったのかが不思議なくらいだ(この感想を書いた後、解説で木村二郎氏が「シラノの拳銃」のテッド・カーマディとその他3編のカーマディは別人で、後の3編のカーマディはマーロウの原形だったと述べている。正に私の抱いた感想は正しかったわけだ)。 さて残りの3編について。 「ヌーン街で拾ったもの」は麻薬潜入捜査官ピート・アングリッチが主人公。ヌーン街で見かけた金髪の女性の代わりに、一台の高級車から落とされた荷物を拾ったことからハリウッドスターとマフィアとのある企みに巻き込まれる話。 ハリウッドスターの売名行為で裏街のボスの手を借りるというのがちょっといただけない。あとで強請られるのが解っているのに、安直では?タイトルはダブル・ミーニングだろう。ヴィドリーが落とした包みではなく、金髪の女トークン・ウェアこそ「ヌーン街で拾ったもの」だろう。 「金魚」は我らがヒーロー、マーロウ登場の物語。元婦警の友人キャシー・ホーンから行方知れずになっているレアンダー真珠の在り処について有力な情報を教えるから探してほしいと頼まれるマーロウ。報酬は保険会社から支払われる2万5千ドル、これを情報提供者であるピーラー・マードと3人で分け合うという取り決めだった。マードの許を訪れたマーロウはそこで拷問に遭い、ショック死したピーラーの死体に出くわす。ピーラーの家を後にしたマーロウは保険会社を訪れ、正式な代理人として雇ってもらう。事務所に帰ったマーロウに知らない女から電話が掛かり、悪徳弁護士のラッシュ・マダーの許へ訪れるよう脅迫される。 レアンダー真珠を巡る丁々発止のやり取り。ハメットの『マルタの鷹』を換骨奪胎したかのような物語。 とにかく悪役の女性キャロルがいい!ストーリーの運びは定型なんだが、彼女の存在が物語に色彩を与えている。最後のサイプの妻がマーロウに仕掛けるフェイクなど、最後まで楽しめる作品。最後のシーンでビリー・ジョエルの”Honesty”の歌詞が浮かんだ。 “誠実、なんて寂しい言葉だろう” 最後の「翡翠」は「スマートアレック・キル」で主人公を務めたジョン・ダルマス再登場作品。社交界の名士リンドリー・ポールから彼の女友達が盗まれた希少な翡翠のネックレスを探し出すよう頼まれるという話。相変わらず入り組んだストーリー展開だが、霊能者が登場したりといささか意匠に懲りすぎた感も否めない。そのため、なんだかバタバタした展開になっている。 本作では「シラノの拳銃」、「犬が好きだった男」、「トライ・ザ・ガール」そして「金魚」の4編が秀逸。1つに絞るならばやはり「トライ・ザ・ガール」か。 今まで2冊の短編集を通じて感じるのは、20~30年代後半のアメリカを覆った荒廃感が物語の雰囲気を覆っていることだ。それは禁酒法統治下もしくはその余波が澱のように残る20~30年代のアメリカを覆う鬱屈感に他ならない。そんな世の中で誰もが心に病を抱えている。善人は不器用であり、暮らしは楽にならなく、器用な奴は相手を出し抜く事にその器用さを発揮し、誰もが悪人だ。 そしてチャンドラーが描く探偵マーロウ、カマーディらはそんなすさんだ街の中で減らず口を叩きながらも、どこか人を信じることを止めきれない、自分に正しくあろうと自嘲気味に生き抜く男たちだ。彼らは探偵という仕事を自らの糧を得るためのみならず、仕事に関わった自分を納得させるために損得抜きで夜を走っている。それはこの街に失われたと思われた何かがまだ残っている事を信じたいがために真実を追っているかのように思える。 そしてそれを表現するチャンドラーの描写力、文章力の凄さ、改めて痛感した。危険と隣り合わせの人間が配る視線や仕草をとっても、それら人物や状況を語る視点が違うのだ。少なくとも私にはこういった“眼”は無い。 そしてその文章に加えて、質が上がったストーリーとプロット。全てがそうだとは云えないまでも、入り組んだストーリーも単純に捏ね繰り回されているだけでなく、計算づくの上での展開だというのがよく解る。 毎度同じような展開だと思いながらも、なぜだか飽きずに読めるのが不思議だ。 未読短編だけを読むために買ったこのシリーズだが、チャンドラーの凄さを再認識するのに格好の機会になった。残る2冊も買うつもりだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野圭吾はただでは転ばない、これが読後の率直な感想だった。
読者を楽しませるのにこれほど貪欲なのかと改めて感嘆した次第。あくの強い押しでぐいぐい迫るクーンツのエンタテインメント性とは違い、淡々と物語を綴りながらも最後に思いもかけない真相が作者の手元から次々と現れてくる。 正にこれはトランプの神経衰弱に似たカタルシスだ。数字の判らない同じマークのトランプを徐々に捲る事で、何がどこに隠されているかが次第に解り、ゲーム終盤、怒涛の如く、バタバタバタと裏返っていく、あの気持ちのよさに似ている。 題名が示すように物語の舞台は十字屋敷と呼ばれる奇妙な作りの館と悲劇を呼ぶピエロの人形が物語を彩る。正に本格ミステリの舞台設定ど真ん中である。 2ヶ月前の不可解な死、四十九日のために一同集まった中で起こる殺人事件。密室でもない殺人事件。しかもピエロの一人称描写の段落で語られる事件の顛末から正直今回の内容は小粒だと思っていた。 しかし、東野圭吾はやはり只者ではなかった。ページ数にして320ページの長さながらもかなりの満腹感を提供してくれた。 特にデビュー以来、何かと作中で登場するピエロの存在を今回は物語の中心に据えたことからも作者の企みに期待していたが、きちんと応えてくれている。ピエロの人形の一人称という奇抜な設定に面食らい、多少の不安は感じたが、雲散霧消してくれたし、この企みがきちんと成功していることを付記しておこう。 数ある東野作品の中において、ベストに挙げられる作品ではないものの、一読忘れがたい余韻が残る良作だ。 出版後、18年以上経って今なお重版されるにはやはりそれなりの訳があるのだ。 |
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タイトルが示すように、エスピオナージュ作家フリーマントルが紡いだ怪奇短編集。これが実にヴァラエティーに富んだ短編集となった。
冒頭の「森」はどちらか云えばオーソドックスな怪奇譚だろう。ルーマニアの小さな集落を舞台にした残虐な領主の圧政に苦しむ村人が復讐を遂げた後に訪れる怪事である。 次の「遊び友だち」もオーソドックスな部類の怪奇譚だ。名声高いブロードウェイの脚本家が買った古い屋敷で起こる怪奇現象。屋根裏の子供部屋に大人には見えない子供がいるという話。 「ウェディング・ゲーム」は英国屈指の名門の2つの財閥のある結婚式の時に訪れた悲劇を扱っている。嫉妬に駆られた花婿の弟の犯行、最後のオチなど、目新しさは無いものの、演出効果は抜群だろう。最後のシーンは映像が目に浮かぶよう。 そして本編で語られる花嫁の惨劇は江戸川乱歩の「お勢登場」を想起させる。死にゆく者の生への執着と死の恐怖を濃密に描いた乱歩に対し、事象を語りつつ、その後の展開に見事なオチをつけたフリーマントルという2人の特徴が出て面白い。 更に続く「村」は第二次大戦にドイツ軍に所属していた主人公が名を変えて身を潜めて余生を暮らした末に、公式記録上で自分が大量虐殺を行ったとされるチェコの村を訪れる物語。 投資家夫婦と降霊術という相反する物を結びつけたのが「インサイダー取引」だ。インサイダー取引で巧みに財を成してきた投資家夫婦のうち、妻の突然死で失意に暮れた夫が霊媒師の力を借りて、亡き妻との交流を果たし、妻の助言で、どんどん投資を成功させ、億万長者となっていくという話。 これと「ゴーストライター」が個人的にはベスト。こちらの方はコメディアン志望の男が死後コメディライターとして名声を成すという話。特にこの2編はタイトルが秀逸で、最後に抜群の切れ味を放つ。 そして株式をテーマにホラーを書くという発想も斬新だが、もっと驚いたのはフリーマントルが「お笑い」をテーマに短編、しかも幽霊譚を書いたこと。まさに脱帽だ。 それに加えてこんなのも書けるのか、フリーマントル!と唸ったのが「ゾンビ」と「洞窟」。前者はカトリック宣教師が布教のために派遣された神父を奪還するためにゾンビを生み出す呪術が支配するカメルーンの奥地の村に乗り込むといった話。 後者はフランスにある世界最大の洞窟でガイドする一族の話。自らの子供と妻が洞窟に入ったまま行方知れずになった男が友人の子供の捜索に乗り出す。 この2編で驚かされるのが宗教や呪術、そして洞窟ガイドという職業の特徴を詳述しているところだろう。この作家の懐はどこまで深いのかと驚嘆した作品だ。 一風変った幽霊譚なのが「魂を探せ」。何しろベルリンでの任務中に暗殺されたCIAとKGBの工作員2人の幽霊が、死後のユートピア<あの世>に行くために自らの魂を探すという物語。しかしこのオチはブラック・ジョーク以外何物でもないな。 「愛情深い妻」、「デッド・エンド」はそれぞれ殺人事件を扱った恐怖譚。前者は病院の院長が不倫相手と再婚すべく妻を不治の病と見せかけて毒殺するが・・・といった話。 後者は場末の宿で発見された女性の刺殺死体の犯人を捜す物語。現場に残された指紋、遺物などから状況的に夫の犯罪と思われたのだが、当の夫は自信満々に自分の犯罪ではないといいきり、逆に警察に犯人のヒントを与え・・・という話。 どちらも幽霊を扱っているのが共通。特に前者は妻の幽霊に苛まれる主人公の苦悶がちょっと理解できなかった。元妻は愛人との交際を認めているのに、なぜ主人公は愛人と愛を交わせないのか?私なら・・・とここで止めておこう。 最後12編目「死体泥棒」はいつの間にか人殺しに加担していた善なる医師の話。生真面目すぎるが故に陥った狂気の領域を皮肉とユーモアを交えて語っている。 ざっと概要を上に書いてみたが、冒頭述べたように題材が実にヴァリエーション豊かである事が解ると思う。自分の得意分野だけで勝負していないところなんかはフリーマントルのストーリーメーカーとしての矜持を感じさせる。もしフリーマントルにお題を提供してホラーを書けと頼むと、何でも書けるのではないだろうか。 そしてこのようなホラー・ストーリーはもはや出尽くした感があり、確かにここに語られる恐怖譚の中には目新しさは無い物もある。では何が読者の興趣を誘うかというとやはりそれは作者の語り口にあるだろう。 そしてフリーマントルが筆巧者であり、その定型化した恐怖譚をコクのある料理に変身させる腕前を備えていることを再認識させられた。 正直云ってこれほどの短編集を絶版のまま埋もれさせるのは勿体無い。どうにか復刊ならないだろうか。 |
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松濤禎という男の波乱万丈人生劇場とでもいおうか。とにかく色んな要素が詰まった作品である。
上越国境での鉱山採掘現場からストーリーは端を発し、酷寒の信州の山中での逃亡行。信州の寒村で鍬形とともに逃げ出した妾のサトの家に辿り着き、そこから北海道の小樽へ移り、そして一路ロシアのウラジオストクへ渡る。しかしそこでも探し求める人物には逢えず、国境警備隊の一員となり、朝鮮独立運動に加担する反乱軍の討伐を頼まれ、やがてソ連内で勃発する複数の民族間闘争の荒波に否応無く飲み込まれていく。 また敵役も移ろいゆく。飯場頭の河西重蔵を皮切りに、特攻くずれの野槌の田岡、軍隊時代の知り合い、清浦謙治、そして敵か味方かも解らぬ国境警備隊の氷川。更には俘虜の1人で松濤に憎悪の視線を向ける同行者辻川。ロシアの中国人組織を牛耳る男、郭大人。 そして松濤の捜索の支援をする人物も移ろいゆく。サトの実家で知り合い、道連れとなった小田切千佳、小樽の町で知り合った香坂蘭子と名乗る中国系の武器密輸行商人、そして「少尉」と呼ばれる千佳の面影を湛えた男。中国人組織に敵対するロシア警察の副署長カマロフと切れ者の部下ゼレージン。そして氷川に協力するブリヤート兵の長テンゲル。 明日の敵が今日の味方―正確には松濤を利用する側なのだが―、昨日の味方が狙うべき標的に目まぐるしく変わる。密かに慕う綾乃の、鍬形を捜してほしいというたった一人の願いで、松濤はソ連を取り巻く抗争の荒波に翻弄される。しかし、そんな松濤の行動原理は鍬形の捜索というかつて愛した女性綾乃の依頼よりも途中で出逢った小田桐千佳の存在によるところが大きい。 『君の名は』の如く、逢いたくてもなかなか逢えない2人。そんな2人が困難の末、ようやく逢えたというカタルシスを得られるシーンが少ないのが物足りない。ストイックな松濤がかなり年下の千佳に遠慮して自分の愛情を表に出さず、内心忸怩たる思いをしているのもこの長丁場を持たせるには結構きつい物があった。 上中下巻合わせて総ページ1,500弱の大作。上に述べたように主人公松濤の運命も起伏に富んでいるが、なぜか読後のコクが薄いように感じた。 それは物語の舞台が上越から小樽、そしてソ連国内の各所と次々に移るにしても、全てそれらは極寒の地。つまりそれぞれの追跡行が極寒の山中のシーンばかりなのだ。つまりこれこそが谷氏の得意とする分野なのだが、こう何度も続くと単調さは拭いきれない。発端→極寒の山中→新たな出逢い→極寒の渡海→捜索→極寒の中でのドライブ→極寒の山中での逃走・・・と終始こういった具合だ。 これほどの大作となるとやはりもっと色んなジャンルがミックスされた展開を期待してしまう。いや確かに山岳小説、エスピオナージュ、歴史小説といった側面を備えてはいる。が、上に述べたように本作は似たようなシーンの繰り返しで冗長な感じを受けてしまった。表現も今までの山岳小説に見られたものが使い回されていたのも気になった。 さらに先に述べたが、松濤と千佳との2人のシーンが松濤の内面描写だけで、2人の意思が通じ合うシーンが表立って出てこなかったのもやはり大きい。 私はロマンス小説は読まないが、やはりここまで松濤の一途な思いを描けばそういうシーンを求めるのが普通だろう。作者の照れ故か解らないが、プロローグにあれだけロマンティックなシーンを用意したならば、それに応えるエンディングも必要なのではないか。そうする事で題名の意味も補強されるだろうし。 しかし同じようなシーンが続くとはいえ、これだけ展開の目まぐるしい小説は韓流ドラマのような趣きを感じた。案外テレビでドラマ化すれば受けるかもしれない。 |
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数々の山岳小説を物してきた谷氏が今回取り組んだテーマは戦前の立教大学山岳部を扱ったドキュメンタリー小説。日本人で初めてヒマラヤ登頂を成功したチームの物語である。
これは当時TVで流行っていた『プロジェクトX』を髣髴とさせる内容だ。しかし決定的に違うのはこれは小説であるという事だ。したがってあのTVの手法をそのまま小説に持ち込めばなんとも味気ないものになる。そしてこの作品はそれをやってしまって、全体的に淡白な印象を受けるのだ。 事実を扱ったドキュメンタリーであっても、小説家のフィルターを通れば自然、物語に熱を帯びてくるものだが、本作においてはそれが見られない。 立教大学山岳部の成り立ちと初のヒマラヤ登攀挑戦に向けての数々の苦難、ようやくヒマラヤに着いてからの未知の世界・習慣に対する戸惑い、そしてやはり世界の屋根ヒマラヤが持つ、他の山々の追随を許さない過酷な環境。これら一通りの事は語られるのだが、非常に淡々としており、苦労が真に迫ってこないのだ。 物語を面白く材料は多々ある。やはり立教大学山岳部の個性豊かな面々、特に本作の主人公ともいえる最年少登頂者浜野の親友であった「雷鳥」こと中島雷二のエピソード、そして部外者ながらもヒマラヤ登攀グループの一員に加わる事になった毎日新聞社の竹節記者、金持ちの出の奥平。彼らがヒマラヤ登攀の選抜隊に加わるか否かのやり取りなど、もっと色濃く描写できたはずである。 しかしこれが素っ気無い。例えば、竹節の参加を巡っての諍いとか、財政面でどうしても参加できなかったメンバーが「いっそ子供と女房と別れてまでも参加しようと思った」とか「参加できるお前が正直憎い」といった人間の内面をむき出しにするドラマがここにはない。みな紳士で、優しく、お行儀がいいのだ。つまり読者の心にあまり振幅をもたらさない。これが物語としての熱がないという意味だ。 そして通り一辺倒に立教大学山岳部が発足からヒマラヤ登攀に至るまでのストーリーを語るがために、全てが平板に語られている印象があり、物語の焦点が見えない。谷氏がこの物語でどこに重きを置いたのかが解らないのだ。 冒頭のプロローグではヒマラヤ登攀シーンで失敗をするところが描かれている。ここからもこの物語の焦点はヒマラヤ登攀シーンなのだろう。しかしこれが今までの谷氏の山岳冒険小説とどう違うのかが解らなかった。むしろ作り物である諸作品の方が、もっと人間の限界ギリギリの苦闘を描いていたように思える。ドキュメンタリーだから嘘は書けないだろうが、資料のない部分は作者の想像力で補っていいはずである。そこに本作の詰めの甘さがあるように思う。 もしこの作品が谷氏の山岳小説の第1作であったならば、立教大学山岳部の成り立ちからヒマラヤ登攀までの一連の出来事を綴ったこの内容で十分満足できただろう。 しかし、既に何作か山岳冒険小説を出している作者が今頃になってこういう作品を著すのならば、そこにはやはり物語作家としての+αを求めるのが読者の性だし、それに応えるのが作者の力量であろう。 きつい苦言になるが、遅きに失した作品、もしくは内容不十分の作品と云わざるを得ない。 |
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デビュー作にしてこのクオリティ。この原尞氏はまさにチャンドラーの正統なる後継者だ。
物語の導入部にある大富豪更科の邸への訪問は正にチャンドラーのマーロウシリーズ第1長編の『大いなる眠り』へのオマージュそのものだ。そして冒頭と終盤に現れるあの男は『長いお別れ』のテリー・レノックスだろう。こういう舞台設定からして、チャンドラーを愛する者としては(自分のことをチャンドラリアンとまで評するほど、私はまだ判っていない)胸がくすぐられる思いがする。 さらに加えてプロットにはロスマク的家庭の悲劇も加味されている。権力に溺れゆく人々の狂った歯車がぎしぎしと音を立てて、沢崎によって一つ一つ解体されていく。 そして登場人物たち。悪友ともいうべき新宿署の錦織、「カイフ」とだけ名乗って去っていった男、渦中の更科一家はもとより、中盤以降事件の焦点となる都知事の向坂、その弟で俳優の向坂晃司。特に向坂知事はその描写からして元都知事の石原慎太郎氏をモデルにしているとしか思えない。この作品当時、まだ新宿都庁は出来ておらず、当然の如く都知事も違う。まるで原氏はこうなる事を予見していたかのようだ。 しかし正直に云えば、双子の兄弟でありながらある事情で苗字が違う仰木弁護士、失踪した佐伯を密かに慕う辰巳玲子、失踪した男の世話をしていた海部雅美などの登場頻度の少ない脇役の方が妙に印象に残った。 とどめはかつての沢崎のパートナーだった渡辺。手紙のみの登場をしなかった彼が今後シリーズにどのように関わってくるか、興味深い。 しかし何と云っても圧倒的存在感を放つのが主人公である探偵沢崎だ。その他者の侵入を容易に許さぬ姿勢、上下関係や権力者特有の主従関係など全く意に介さず、どんな相手にも自分の態度を崩さず対面する男。背伸びせず、粋がりもせず、かといって卑屈にもならない。読者の眼の前にいつの間にかあるイメージが上がっていく。 しかし、気付いたであろうか?文中、沢崎の人と成りを表した描写など一切ないことを。原は沢崎の台詞と仕草、動きだけで読者にそれぞれの沢崎像を作らせているのだ。この筆致の凄さは並々ならぬものがある。 さらに文章。チャンドラーの正統なる後継者と先に述べたが、その文章はチャンドラーの諸作に見られるような大仰な比喩が頻出するわけでもなく、きざったらしい台詞が出てくるわけでもなく、派手派手しいわけではない。しかし、この本にはノートに書き写しておきたい美文に溢れている。真似したい減らず口がある。 かつてチャンドラーを読んでいた時に駆られた、「私もこんな文章で物語が書きたい」と思わせる雰囲気がある。日常特に感慨もなく見ている風景が語る人によってこれほど印象深く描写されるのか、そう気づかされる事しばしばだった。 そしてやはり古典は読むべきである。名作ならば尚更だ。この沢崎シリーズを十二分に楽しむためにもやはりチャンドラーの諸作、少なくとも全ての長編には当たるべきだろう。そしてそうした私は正解だったと今更ながらに気付かされた。 今夜の酒はきっと美味いに違いない。 |
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・・・読後、しばらく声がでなかった。
最近読んだ本の中では、最も後味の悪い結末だ。 何を語りたくてあのような結末にしたのか、全く以ってフリーマントルの意図が理解できない。この作品を著した当時、家族間に何か問題があったのか、そう勘ぐってしまうほどの結末だ。 もともとフリーマントル作品の特徴に、最後に皮肉な結末が必ずといっていいほど用意されていることが挙げられる。特にチャーリー・マフィンシリーズでは、時にそれは行き過ぎでは、と思ってしまうほどの悲惨な結末もあるが、それはやはり主人公であるチャーリーが色々な難関を乗越えた末の相手に行った仕返しといった一種の痛快感が伴っているから、許容できたわけなのだが、今回はそれがない。もう本当に救いがない。 主人公オファレルだけではなく、敵役であったリベラの遺族に対しては輪を掛けて悲惨な幕引きが用意されている。これは作者が民主主義と社会主義の暮らしの違いを最後に提示した一種の叙述に過ぎないのかもしれないが、特に子を持つ親の立場である今では、とても正視に耐えない結末だ。 そして、主人公であるオファレル。 当初題名から連想していたのは映画『レオン』のレオンの如く、日々の日課を欠かさず、1つのフォーミュラのように固持して生活する内省的な暗殺者を思い浮かべていたが、さにあらず、家族みんなに頼りにされる模範的な父親・夫という人物だったのが意外だった。 そしてこのオファレルという男は表面上は、動揺を見せないが―それは工作員として訓練を受けているからだが―実は、不惑の年は既に過ぎているのに大いに惑うのである。 オファレルが46歳という暗殺工作員としては高齢とも云える年齢に差し掛かってなお、まだ現役でやれると不安を押し殺して信じていたのは、かつて保安官だった曾祖父の存在があるからだ。 自分と同じ年に見える写真の曾祖父の自信に満ちた姿は自分もかくありたい、自分も負けてはいられないと奮い立たせる精神的基盤になっている。そしてその曾祖父の存在は自分の仕事である暗殺という行為を正当化する象徴でもあるのだ。 オファレルは「暗殺は人命を救う」という己の教義に従って自分の仕事に誇りを持ってきた。それは法の網の目をかいくぐってのうのうと暮らす悪人、巨大な権力を行使して私腹を肥やす悪人たちを制裁するのに暗殺こそが有効な手立てだと信じてきた。 そしてその信義を支える存在としてこの曾祖父の存在がある。自分のしてきたことに間違いはないのか?時折いいようのない恐れに涙を流したくなる時にこの曾祖父の姿を思い浮かべ、保安官は決して泣かないと呟き、夜を過ごす。 そしてまた彼には、両親が無理心中して亡くなったという暗い過去がある。ラトヴィア人である母がソ連兵士にレイプされ亡くなった事が原因で、鬱病を患っていた母。朝鮮戦争に出兵し、勲章を受けながらも片腕を失った父。そしてやがて母はある夜、父を撃ち殺し、自分も自殺する。 このオファレルという暖かな家庭を持ち、規律正しい生活を信条とし、なおかつ潔癖とまで云える正義感を備えた暗殺者というこの設定がこの作品に厚みを持たせている。通常の小説で語られる精密機械のような感情の持たない暗殺者、人殺しに無上の喜びを感じる歪んだ性格の持ち主ではなく、このような生真面目な人物を設定したところにフリーマントルのアイデアの冴えを感じる。 その他にも、ハッと気付かされることはあった。 例えば麻薬の運び屋でベトナム戦争経験者であるチンピラ風のパイロットが主張するベトナム戦争で得た彼の人生哲学の話。この話がオファレルの仕事に対する信条に揺るぎをもたらした一因といっても間違いではないだろう。 正義のために戦いに行って、知りえた事は自分の利益を如何に守るかだ。帰還兵に対して何の恩恵も与えなかった政府への憤り。何のために戦っているかも解らなくなる極限状態の中で開眼した彼の唯一の真実。それは自らの正義に基づいて暗殺を行ってきたオファレルにとって自分の信義よりも現実味のある内容だったに違いない。そしてイギリス人であるフリーマントルがこういう意見を登場人物の口から云わせることからも、他国から見てあの戦争が如何に無意味であったのかを知らされるシーンだと思った。 そして、ビリーの台詞。知らず知らずに麻薬の運び屋として利用されていた孫のビリー―後に知らず知らずではなく、薬の売人から脅迫を受けて已む無く手伝わされた事を白状するが―が、不正な仕事で得た金の使い道を泣きながらオファレルに語るシーン。 こういうシーンに私は弱い。自分の子供がダブってしまう。ずっと新しい物が買えなかったママにプレゼントするために使わずに貯めていた、こういう話に弱いのである。 しかし、これら小説的技巧の巧さがあっても、あの結末でかなりのマイナスは否めない。どう考えても受け入れがたいのだ。この本、面白いから読んで、とは絶対薦められない1冊だ。 結局、暗殺は不毛だというメッセージなのかもしれないが、この本の結末自体があまりに不毛すぎる。 |
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前作『龍臥亭事件』に引き続き、業の深さが主題になっている。
閉鎖された村社会に伝わる因習。妄信のように今に伝わる差別。主従関係の厳格さから生じる男と女の色の縺れ。 そして御手洗シリーズの定番となっている物語を彩る逸話ともいうべきエピソードが今回も添えられており、それこそが森孝伝説、そして森孝魔王といった話だ。 森孝伝説は島田氏が常々テーマに挙げている日本の歪な上下関係・主従関係を扱った悲しい物語。さらに挿入される森孝魔王の物語も悪徳代官が百姓をいたぶる話だ。 森孝伝説の内容を受け、死体に森孝の霊が乗り移り、甲冑を身に纏い、代官に処刑を下すといった内容だ。虐げられた弱者を救済するために、人智を超えた存在が現れ、惨殺する。 同様の挿話は『魔神の遊戯』にも見られたが、この弱者救済の話はデビュー以来、島田氏が一貫して扱ってきたテーマだ。 そして本作ではこの森孝に纏わる話に加え、他に第二次大戦中の日本軍が秘密裏に行った人体実験の話などの戦時日本の暗部、そして獣憑き、獣子といった村社会独特の妄信による人種差別についても述べられている。 特に気のいいお手伝いとして登場した斉藤櫂が、その過去には小さい頃に獣憑きの疑いがあって里子に出された、先祖が首切り役人で呪われた家系だった、引き取られた両親と反りが合わず、子供を置いて夫と共に逃げた、といった業の深い人生を歩んできたことに驚いた。最後の方で明かされるこの女性の凄まじいまでの虐待の日々は、本作のもう1つのテーマだろう。 この櫂の人生を通して語られる、村人の、その村に強く根付いた独特の道徳観に基づく嫁婿夫婦への躾なども、深く考えさせられる重い内容だ。 物語はこの他にも日本の鎧に関する薀蓄、からくり人形の歴史と江戸との係わり合いなど、興味深いエピソードが物語を彩る。 とは云え、前作に比べると比較的内容は明るいようだ。犬坊家は特に前作に見られた一家の業の深さなどは微塵も描かれず、犬坊里美の若者特有の軽さや寺の住職日照、神社の神主二子山などの漫才の掛け合いのような方言交じりの会話などで重苦しい雰囲気を淡くしている。 事件自体は非常に陰惨なのだが、特にこの日照と二子山の語り口の面白さがそれを軽減している。 そして石岡も以前に見られた情けなさから幾分復調して、女々しさが消えている(それでも好きな女性に振られて、ストーカーになるのかと自問した時に、自分にはそんな事やる元気がないと云ったのには苦笑したが)。 また加納通子が娘を歌手にしてステージママになりたがっているなんていう意外なエピソードも面白い。 そのほか、里美が語る日本の司法試験とその採用制度の話も面白かった。裁判官が司法試験の成績上位者しかなれないなんて初めて知った。 しかし、本作の目玉と云えば、やはり島田荘司氏2大シリーズの主役、御手洗と吉敷のコラボレーションだ。 この趣向は両シリーズを読み通して来た者にとって、なんとも感慨深い、心憎い演出である。『涙流れるまま』以降、吉敷と通子のその後をこんな形で知らせてくれるとは思わなかった。これこそ一級のファンサービスだろう。 そして吉敷は事件の1つを解決して去っていく。それも石岡から御手洗の残したヒントを聞いて。 両者のファンの中にはこのコラボレーションに物足りなさを感じる者もいるだろう。しかし、私はもうこれだけで十分だ。強烈な個性の2人が一所に集まるよりも、石岡という緩衝材を間に介する必要があった方がいいと感じた。 そしてこの2人と石岡が挑む事件、これも豪腕島田氏の健在振りを強くアピールするものだ。 地震で起きた地割れで厚いコンクリートの下から出て来た死体。2つのバラバラ死体を合わせ、甲冑を着せた死体が甦り、悪を討つ。そして最後には100年前に行方不明となった森孝が現れる。 今回はもうほとんど論理的解決は不可能だと思っていた。実際、日照とナバやんの2つの死体を合わせて甦った森孝魔王の真相は石岡も解明できず、手記にて真相が暴かれる。 で、これら3つの大きな謎の真相だが、大いに偶然が重なっているなあとの印象が強い。『暗闇坂の人喰いの木』、『疾走する死者』、『北の夕鶴2/3の殺人』らに共通する豪腕ぶりだ。実に島田氏らしくて呆れるというより微笑ましく思った。まだこういう物を堂々と書く、その若さが嬉しく思った。 そう、そしてこの死体を繋ぎ合わせて1つの魔王を甦らせるというのは奇しくもデビュー作である『占星術殺人事件』のモチーフとなったアゾートを連想させる。これは御手洗と吉敷を一同に会するために敢えて原点に戻ったということなのだろうか? これら謎の真相については首肯せざるを得ないが、やはり島田氏の物語の力は素晴らしいと思った。どんどんその世界に引き吊り込まれていく。そして必ず胸に去来するものがある。こういうのを読むと推理小説は驚愕のトリックも大切だが、やはり物語があってのものだと実感する。 推理小説界の巨人とも云うべき存在においてその精神を失わない島田氏。いやだからこそ巨人とも云うべき存在なのか。 もう一生ついていくぞ! ▼以下、ネタバレ感想 |
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