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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
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2007年に亡くなった藤原伊織氏の江戸川乱歩賞受賞作にして直木賞受賞作。こんな説明が要らないほど有名な作品だが、確かにこれはとてつもないデビュー作だ。
まず冒頭の導入部。久々に晴れた日、公園まで散歩する主人公と休日を楽しむ人々の風景。そして突然の爆発。 静から動への反転が素晴らしく、一気に読者を物語世界に引きずりこむ。 主人公はアル中のバーテン島村圭介。それは偽名で元の名を菊池俊彦という。彼は過去園堂優子、桑野誠の3人で活動していたノンセクトの全共闘時代の闘士の1人だった。 彼が現在のように名を変え、人の目から隠れるようなその日暮らし、その場しのぎの生活を送るようになったのはこの全共闘時代に起こした犯罪が基ではなく、その後それぞれの道を歩き出した3人が人並みの生活を送れるようになったその瞬間に訪れたある爆発事故だった。その時の被害者にも警察官がいたという運命の皮肉。 そんな彼を取り巻く人物も血肉を持っている。島村のかつての友人桑野に優子は無論の事、新興の組を束ねるエリートヤクザ浅井に、優子の娘、松下塔子。 彼らに共通するのは栄光を掴みかけた喪失感だろうか。何かに失敗し、また這い上がろうとし、努力を重ね、そして再び成功に似た何かを掴みかけたその瞬間、運命が眼の前でそれを攫っていく。ただ彼らはそれをあるがままに受け入れる。何かのせいにせず、とにかく生き延びる事にだけ執着して。 主人公の島村の場合はそれはボクサーとしての栄光であった。 エリートヤクザの浅井にとって、それはノンキャリアながらも異例のスピードで出世していく警察官だった時だった。 園堂優子にとって、それは彼女が3ヶ月間、島村こと菊池と暮した短い日々だった。 桑野にとって菊池と優子の3人とともに戦った日々であった。 それらを語る文章になんの衒いも飾りもない。ただ少しばかりの感傷を織り交ぜ、物事が、時間が語られる。その行間に隠されているのは彼らが辿った人生の重み、深みだ。 素晴らしい。時間を忘れる読書を久々に体験した。 逃亡生活を送っていた島村を事件と向き合わせたのは偶然がもたらしたかつての友たちの死。彼らへの弔辞の代わりに誰が彼らを殺したのかを探る。 知らなければいい事は確かにある。笑顔で笑いあった日々、その眩しい思い出に隠された本当の心などはそれぞれの胸の内に仕舞い込んでおけばいい。答えを知る事で失う事があることだってあるのだ。 しかし、失う事ばかりではなく、確かに私こと菊池が得た物もあった。それはかつて一緒に暮した女性の娘の恋心だ。それだけが救いか。 10月の長く続いた雨が止んだ土曜日、新宿中央公園で起きた爆破事件。それは物語の始まりであったが同時に彼ら3人の終焉の瞬間であったのだ。 その運命の瞬間に居合わせた人々が形成する曼荼羅はいささか偶然に過ぎる感じもするとも云えるが、まあそれは措いておこう。 本書の題名にあるパラソルという単語は最後の最後にようやく登場する。ある登場人物がこの言葉に込めた意味とは、以前とは変わり果ててしまったある人物の中に最後に見出した少しばかりの優しさだったのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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父親が経営する会社―本書の場合は義理の父親だが―が悪事に加担しており、それを自分が引き継ぐ事になったら・・・という、クーンツ張りの巻き込まれ型サスペンスをフリーマントルが書くと斯くもこのように実に緻密な物語になるといった見本のような作品だ。
この、ある日突然自分の身に降りかかる災禍ほど恐ろしい物はなく、主人公と読者自身を同化させるとそれは尚更肌身に感じられてくるのだが、フリーマントルの場合はそれが一般の市井の人々のレベルではなく、ハイソサエティクラスの人物達の物語であるから、どうしても明日は我が身といった危機感を感じられないのが難点ではある。 物語は大きく分けて2つに分かれる。 まずいきなり人生最悪の状態に陥ってしまったウォール街一流会計事務所の後継者ジョン・カーヴァーの葛藤とマフィアとの戦いの決意をするまでの前半部。ここに絡んでくる2人の女性、妻のジェーンと愛人のアリスはまだ脇役と云っていい。どちらかと云えば独立した女性アリスの方が何かにつけジョンをサポートしており、パートナーの役割を担っている。 そして物語中盤、ジョンが亡くなってからはこの2人の女性の物語となる。ようやく原題の“Two Women”の出番だ。 この2人の立場は2人を追うマフィアの魔手をかいくぐりながら主客転倒して物語は流れていく。特に愛人であるアリスがその存在を知らないジェーンを半ば誘拐する形で連れ出す展開はツイストが効いている。 やがてアリスと亡き夫ジョンとの関係を知らされ、ジェーンにある種の芽生えが生まれてくる。これはお嬢様として育てられ、何不自由なく与えられた女性の自立がテーマになっていると述べたいところだが、どうもそう簡単に一言で済まされない読後感がある。 私が最後読んで思ったのは、女は怖いということだ。 女性は男性に比べて情理のバランスが取れているというのが通説だ。だから男は女には口では敵わないのだと云われるのだが、このジェーンとアリスも1人の男性を巡る正妻と愛人との関係なのだが、どうにもお互いを憎みきれない感情を持っている。それは一緒の男性をお互いに自分なりの方法で愛したからという理由から来ている。通常ならばここから2人お互いに手を組み、共同戦線を張ってマフィアから逃れ、FBIに協力するという形になるのだが、フリーマントルはそんな簡単には物語を運ばない。 こうして見ると本書のテーマとは、やっぱり女の恐ろしさではないかと思える。女性の微笑みの裏に隠された本当の思いとは誰も解らない。 フリーマントルがさほどドロドロとした女の戦いを描かなかっただけに、却ってうすら寒さを感じるのだった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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表題作と「ヘルター・スケルター」2編が収められたノンシリーズの中編集。
「エデンの命題」は正直云えば本作は過去の本人の作品のヴァリエーションの1つに過ぎないと云えるだろう。それは私にとって不朽の名作である『異邦の騎士』だ。 実は読んでいる最中に本書の企みが解ってしまった。というよりも恐らくほとんどの読者が解るのではないか。あまりに露骨過ぎるミスリードである。 原本の『異邦の騎士』がこの上なく好きなだけに、本作での見え見えの作意に憤りさえ感じた。 ただアスペルガー症候群という自閉症の1つに焦点を当てたことが島田氏の社会に目を向けたテーマの探求と今日性を表している。 特に自ら掲げた「21世紀本格宣言」をさらに実践すべく、本作にも最新科学の知識がふんだんに放り込まれている。今回扱われたテーマは遺伝子工学、それも特にクローン技術に焦点を当てたものだ。 これに関しては既に島田氏は自著『21世紀本格宣言』で述べられていたため、これを改めて実作のテーマに採用したに過ぎない。つまりあのエッセイで俎上に上げられた数々の最新科学のテーマは、島田氏が今後テーマに挙げる内容を列記した物だと云える。逆に云えば、島田氏の手による「21世紀本格」を楽しむのならば、同エッセイはむしろ読まない方が十分楽しめると云える。事前にネタを知らずに済むだけに。 この作者の意図は何なのだろうか?最先端の科学知識を導入すれば物語も新たな息吹を与えられることを証明したかったのだろうか?しかしそれは残念ながら失敗していると思う。知識の敷衍に力点が置かれ、物語が薄っぺらいものとなっている。 私が懸念するのは本作を読んだ方が後に『異邦の騎士』を読んで、「なんだ、これあの短編の引き伸ばしヴァージョンだ」などと陳腐な感想を抱くことだ。自らの名作を自らの手で汚してしまった、そんなやりきれない思いのする作品だ。 なお題名の「エデンの命題」というのは、具体的に何を指すという物ではなく、それぞれの人生における守るべき信条、達成すべき大いなる目標といったシンボル的な意味が込められているようだ。つまり自身の安息の地であるエデンを維持するために守るべき原則ということになるだろう。 2編目「ヘルター・スケルター」はトマス・クラウンという記憶喪失者の物語。 これも脳科学をテーマにしたミステリ。本作では脳の各部位、各分泌液の機能が明らかになった2005年当時での最新の知識を活用して人間の性格、趣味・嗜好にどのように作用するかが詳らかに専門的に説明される。 これは『ロシア幽霊軍艦事件』で登場した自らをロマノフ王朝の皇女と名乗る数々の奇妙な行動を起こす老女の行動原理を大脳生理学の視点から分析した手法と同等だ。 本作で取り上げられるトマス・クラウンという男性は、幼少時に動物虐待、万引きや盗難などの非行を行い、その後ヴェトナム戦争に駆り出された後、帰国して婦女暴行殺害で逮捕され、30年間の服役を終えた老人である。この、物語の登場人物としては別段珍しくもない、チンピラの行動原理を同じように彼の人生で負った脳への障害を根拠としてなぜ彼の人生がそのような足取りを辿ったかを明らかにしていく。 この辺の流れはミステリというよりも脳科学を扱った専門書の事例紹介のようにも取れる。もちろん1つ1つ、奇行の原因を解き明かしていく経緯はミステリ的興趣に満ちてはいる。 さて、本書で取り上げられた脳科学に関する記述は先に読んだ瀬名氏の『BRAIN VALLEY』にも取り上げられていることと重複しているものもある。特に1950年代にある科学者がてんかん患者に行った脳機能を分析する実験の話は同書にも取り上げられていた。 確か島田氏が編んだ書下ろしのアンソロジー『21世紀本格』に瀬名氏も寄稿していたように記憶しているから、『BRAIN VALLEY』の感想にも書いたように、島田氏が件の作品を読んで大いに刺激された事は間違いないようだ。そして島田氏は創作の重心があくまで本格ミステリにあるのが両者との違いか。 しかし島田氏や瀬名氏の諸作で説明される大脳生理学、遺伝子工学といった最新の生物工学の最新の研究結果、データを知るたびに私は知的好奇心を揺さぶられると共に云い様の無い不安に襲われる事がある。 本書を例にとってみると、最近解ってきたアスペルガー症候群患者の実態、左利きの人が感情を司る右脳を刺激するがために感情的な行動を取る確率が高いこと、ある脳の分泌液の量の大小、ホルモンの量の大小、摂取する栄養分の大小が犯罪者に特徴的に現れる事。本書では低セロトニン・高インシュリン・低血糖を犯罪者のスリーカードと呼んでいる。 これらが明らかになってくると次に起こるのは選民という行為ではないだろうか。今まで個性と思われていた性格の違いが、精神病の一種として片付けられ、それらを集めて一箇所に隔離する。各人の脳の分析を行って、上に挙げた犯罪を起こす確率の高い症状が現れた場合、脳手術を行って、性格改造を行う、云々。 犯罪率が高まっていくに連れ、それを未然に防ごうとそういう傾向が見られる子供たちにその種の施術を行うという考えが出てくるのもおかしくはなく、しかもそう遠い未来ではないのではないか。特に本書で挙げられた事例には私にもいくつか当て嵌まる事項があり、私ももしかしたら・・・と畏怖せずにいられなかった。受取り方によっては暗鬱になる作品だ。 この島田氏の提唱する21世紀本格というのが未だ実体を伴わないように感じるのは私だけだろうか。 彼の提唱とは、本格ミステリは密室や怪物の成した業としか考えられない不可能状況、アリバイ工作に拘泥ばかりしては衰退する一方なので、これからは脳に焦点を当てるべきだという示唆である。未知なる分野である脳にはこれからの幻想的な謎のアイデアに満ちているというのだ。 しかしこれは本格ミステリ作家に対する創作の示唆である。読者はその作品で敷衍される新知識に対しては無知であり、単に専門的な内容の授業を受けているだけに過ぎなくなってしまい、作者対読者の頭脳ゲームという一面を持った本格ミステリでは、読者は作者とは対等で無くなってしまうからだ。 80年代後半から90年代前半にかけて起きたサイコミステリブームは、「人間の心こそが最も不可解で恐ろしい」という新たなテーマに着目したムーヴメントだった。これを学術的視点から論理的に解明していこうとしているのがこの21世紀本格であるが、その新しい科学の成果に驚きはもたらされるものの、あまりに専門的に走りすぎて読者の推理の介在を許さないものになっている。 ミステリというジャンルにはやはり闇は必要だと思う。ここまで踏み込むか否かは作者の興味に留めるべきであり、読者にまで啓蒙すべきではないと私は思う。 21世紀本格は短命になるのではと以前私は述べたが、今回更にその思いを強くした次第だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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国名シリーズ9作目の本作は非常にオーソドックスな作品と云っていいだろう。
岬の突端に建てられた館。そこには1人のジゴロを中心に愛憎交じり合う娘と母親、そして来客者達。 それぞれに何か胸に秘める複雑な感情が渦巻く中、そのジゴロが殺される。そして捜査が進むうちに判明するのはそのプレイボーイが恐喝屋で、わざと不倫を唆して、その証拠を押さえ、金銭を強請っていたという、古式ゆかしい本格推理小説の典型とも云える作品だ。 しかし、今までのクイーンの国名シリーズではどんな作品でさえ殺人舞台の見取り図が添付されていた物だが、本作ではスペイン岬に立つ屋敷を舞台にした犯行を扱いながら、屋敷の見取り図が一切ない。つまり本書の謎とは屋敷の住人の配置とは関係なく、またそれぞれの部屋に特殊な仕掛けがあるわけでもない、トリックではなくロジックに重心が置かれた作品だと云える。 そんな話だから登場人物の相関関係を調べていくうちに自然と犯行の動機も解り、どのように犯行が成されたのかも解っていく。この辺は何の奇の衒いもなく、半ばで地元警視が開陳する推理と同様に私も考えていた。 しかしその流れにどうしても当てはまらない奇妙な1つの事実が歴然として存在する。それは被害者が全裸という状態で殺されていた事。捜査が進むにつれて関係者それぞれの思惑、関わりからパズルはどんどん完成していくのだが、この奇妙なピース1つだけがどこにも当て嵌まらない。本作の鍵は正にこの1点にあるといっていい。 この動機、犯行の流れが物語が進行するに連れ、徐々に整然と説明が付いていくのだが、どこか奇妙に食い違う箇所があるという味わいはセイヤーズの諸作によくみられる物だ。このプロットに介在する奇妙なピースが当て嵌まる事でガラリと変わる真実こそクイーンが本書で狙ったミスディレクションの妙だと思う。 そうミスディレクションこそ本書でクイーンが試したかったことだろう。 まず冒頭の誤認誘拐事件を仕組んだのは誰かというのはミステリを読み慣れた読者ならば容易に察する事が出来る。しかしこれが実に巧妙なミスディレクションだろうとこなれたミステリ読者ならば深読みしなければならない。 思えば本書の皮切りに神の視点である物語の記述者の手によって誤認誘拐事件の失敗が示唆されているが実はここから作者の巧妙なミスディレクションが始まっていた事に気付かされる。 そして明かされる死体が全裸だった理由はなかなかに興味深い。この奇妙なパズルピースこそ犯人を決定する唯一の糸口だったと云える。 もうお分かりだと思うが、今回の私の挑戦も敗北だった。 私が理論立てられなかった推理を鮮やかにロジックで解き明かすエラリイにここは素直に降参するしかない。逆にオーソドックスだと思われた本作もこの推理で流石はクイーンというべき作品になった。『アメリカ銃~』以降、立て続けに失望させられただけに、ようやく満足の行く作品が出たと安堵した。 しかし不満が残るのは結局のところ、犯人が捕まるのに決定的な証拠が無かったことだ。犯人が誠実な男であったために、自ら非を認め、逮捕に至っただけで、実はエラリイは状況証拠を並べただけに過ぎない。ここに本作の詰めの甘さがある。 また本作では珍しく指紋に関して注意が払われるが、それでもまだ認識が甘い。なぜなら犯行現場であるウェアリング邸でエラリイは所構わず触れるし、あまつさえ犯人が使用した電話をそのまま素手で扱うという不注意な行動を取る。 元々指紋、血痕、唾液といった人物を特定する証拠を基にロジックを組み立てる作品ではないと解ってはいるが、それでもこういう無頓着さにはどうしても嫌悪感を抱いてしまう。 今回、興味深かったのは今回エラリイは犯人を明かした後、後悔の念を示すことだ。なぜならば被害者は悪質な恐喝者であり、彼の死は賞賛されるべきことだった。そして犯人こそ正義があったからだ。 「わたしは人間の公平なんてどうでもいいと公言してきました。だけどそうじゃない、実に大事です!」 泰然自若とする犯人の誠実さにクイーンが初めて見せた苦悩。作品を重ねるにつれて単なる頭脳ゲーム、ロジックパズルゲームとしての推理小説から人を裁く事に対する意味への移り変わりの萌芽がここに見られる。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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なんとフリーマントルの手による、ホームズのパスティーシュ小説。しかし、厳密に云えば純然たるホームズのパスティーシュではない。
通常ホームズのパスティーシュ小説と云えば、そこここに正典へのオマージュなり、パロディなりが挿入されていつつ、ホームズの快刀乱麻の如き名推理を堪能できるような作りになっているものだが、フリーマントルの手になる本書はホームズの登場人物を借りたスパイ小説となっている。 主人公はホームズでもワトソンでもなく、フリーマントルが創作した彼の息子セバスチャン。ウィンチェスターからケンブリッジへ3年飛び級で進学し、史上最年少で数学卒業試験首席第一級合格者となり、その後ソルボンヌ大学、ハイデルブルグ大学も首席で卒業という天才の遺伝子を引く彼の任務は第二次大戦中に中立国の立場にあったアメリカにあるという極秘裏にドイツに武器を売っている秘密組織を探る事。 自然、物語は政治色が濃くなり、シャーロックよりも官職に就いていたその兄マイクロフトの出番の方が多くなっている。実にフリーマントルらしいホームズ譚だ。 フリーマントルが正典のホームズ譚に兄マイクロフトと息子セバスチャンが出てこない理由として、彼らが政府の諜報活動に携わっていたからだという尤もらしい理由を付けているのがこの作家のそつの無いところだ。 その他にも英国から米国へ渡る豪華客船上でのロマンス、大陸横断鉄道を利用しての調査、富豪たちが所有する専用の馬車などなど古き良き時代の優雅さが漂う。 おまけに正典ではなかった旅先での恋まで語られ、濡れ場まで登場する。 更に今回フリーマントルはセバスチャンの諜報活動で欠かせない暗号文の作成にノーションとズィフというウィンチェスター・カレッジに代々伝わる独自の言語を採用している。作者は作中、これについてある程度詳しい説明を行っているが、全く以って複雑で判らない。英語を日常語として使っている私でさえ、理解するには遥かに及ばない領域の言語だ。 いわゆるその学校で話す独特の言葉、例えば眼鏡を掛けた人物の名前がトレヴァーだとするとその名前を取って、トレヴァーがノーションでは眼鏡を意味する、といった具合だ。これは実際にある言語らしく、辞書も出ているらしい。 しかしこのホームズ譚の登場人物によるスパイ小説という手法が果たしてよかったのかどうか、非常に悩ましいところだ。題名に堂々と『シャーロック・ホームズの息子』と謳っているから―因みに原題は“THE HOLMES INHERITANCE(ホームズの継承者、ホームズの遺伝子)”―、どうしてもホームズ譚のような物語を想像してしまう。私は正にそうだった。 元々フリーマントルはエスピオナージュ作家でありながら、本格ミステリ張りのどんでん返しが巧みな作家であるから、本作もその傾向だったと大いに期待したのだが、そうではなかったようだ。 確かにサプライズはある。最後に明かされるドイツ側のスパイの正体だ。そしてそれに関する手掛かりもフリーマントル流のさり気ない描写に挟まれているが、それは「あっ!」というようなものでなく「云われてみればそう読める」といった類いの物だ。つまり本格ミステリに求めるサプライズとはいささか質が違う。 ただホームズは国に乞われて国交間に跨る問題解決をしていた事は確かに正典にも書かれている。どの作品か忘れたが、ホームズがフランスかどこかの国に行ってて、なかなか本題の事件に着手できなかった設定を読んだ覚えがある。だからホームズが諜報活動のプロであり、その息子を後継者として国が採用する事に違和感はないのだが、では正典と本作では何が違うのかというと、それは物語の語り方だろう。 ホームズ譚の諸作は、まず発端に依頼人が自分の身の回りに起きた奇妙な出来事について相談し、その解決をホームズに委ねたところ、それが思いもかけぬ、国家の存亡を揺るがすような事件であった、という、小事から大事への謎の発展であるのに対し、フリーマントル版ホームズでは、最初から国の存亡を賭けた任務を任され、隠密裏に解決するといういきなり大事から幕開けだということだ。しかもセバスチャンはホームズの遺伝子を引き継いだ優秀な頭脳の持ち主であるが、初めての任務でいきなりの大役ということで綱渡りのように右に振れ、左に振れと非常に危なかしい捜査を続ける。ここに違いがある。 ホームズ物では読者は依頼人によって提示される謎という迷宮に放り込まれるが、それをホームズが鮮やかに解き明かす。つまりこれは謎という不安定な状況をもたらされた読者に安定をもたらす存在がホームズという万能の神であるというお約束事があるのだが、本書で読者は駆け出しスパイのセバスチャンと共に、五里霧中、四面楚歌の中、英国からの公的な協力もなく、たった一人で未知の秘密組織を暴かなければならないという終始不安の中に置かれる。つまりセバスチャンは正典における磐石の存在ホームズではないため、読者もセバスチャンが果たして任務を果たせるのかどうか懐疑的な中で物語は進行するのだ。 この小説作法は実は全く悪い事ではない。むしろそういう作品の方がスリリングだろう。しかしホームズの意匠を借りた作品でやるとなんとも違和感を生じてしまうのだ。 読書を十全に愉しむためにこの手の先入観は極力排して臨むべきだと解っていても、やはりこの手のパスティーシュ小説では難しい。 恐らくフリーマントルはチャーチルという英国の歴史に名を残す名政治家とその時代についての作品を著したかったのだろう。 そのプロットを練る過程で、どうせその時代の事を書くのならば、実在の英雄にもう1人の想像上の英雄ホームズをぶつければ、面白い読み物になるではないかと思いついたのではないか。もしくはその逆でホームズのパスティーシュを書く事を想定していて、その時代にチャーチルというかねてから書きたかった実在の人物がいたことに気付いたのかもしれない。 どちらにせよ物語巧者フリーマントルならではの演出である。そして本作ではチャーチルはかなりの策士として描かれ、読者の好意を得られる人物としては決して云えない。政治家について詳しいフリーマントルだから、後書で語られるチャーチルの行為も併せて、恐らく実際チャーチルとはこういう人物だったのだろうと思われる。彼の政治に対するシニカルな視点も手伝って、なかなか濃いキャラクターに仕上がっている。 本書はシリーズ化されており、続編も既に訳出されている。 初めて手に取った本書では上の理由により、面食らってしまい、なかなか物語にのめり込むことは出来なかったが、フリーマントルの意図するところが解った今、次作はもっと楽しめるのではないか。そんな期待をして、続けて読みたいと思う。 |
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世に「理系ホラー」なる新語を定着させた衝撃のデビュー作『パラサイト・イヴ』では遺伝子工学の観点からミトコンドリアを題材にした瀬名氏が今回取り上げたテーマは題名にあるようにずばり脳。
島田荘司氏が21世紀ミステリの提唱として取り上げたのも大脳生理学という脳の研究学問の分野であり、もしかしたら島田氏は本書を読み、本書に書かれた現象の数々に触発されて、新たなる幻想的な謎の創作の端緒を得たのかもしれない。そんなことを感じさせる、とにかく色んな要素が詰まった作品である。 刊行された97年時点での最先端の脳科学研究の内容と日本の関東から東北との境にあると思われる山中の村落、船笠村に昔から続く“お光様”なる民間伝承、そして主人公孝岡が遭遇するエイリアンによる誘拐(アブダクション)体験、さらには臨死体験からサイバースペース内で培養される人工生命へ、そして動物とのコミュニケーションの確立と、理系、文系、そして超常現象、動物行動学とおよそ交わることのないエッセンスが並行に、時に交錯して語られる。私はこの物語は一体どこへ向かおうとしているのか、非常に不安でならなかった。ホラーとして超常現象をあるがままに受け止めるべきか、それともミステリとして合理的解決されるべきとして読み進むべきか、読者としての立脚点をどこに置くか、非常に悩まされた。 しかしそれらはやがて合理的に結び付いていく。これに関しては物語の核心に触れる事になるので後ほど語る事にしよう。 さて自身薬学博士である瀬名氏の作品へのアプローチは常に一研究者の立場として描かれ、作中で開陳される専門分野の説明は他の作者が付け焼刃的に調べて、門外漢である一般読者と同じレベルでの叙述に留まっているのに対し、かなり専門的で説明も細微に渡り、論文を読まされているのと同様の難解さを提示し、読者への理解に苦痛を強いる。 今回も脳科学についてかなりのスペースを割いて読者に本書を理解するための前知識としてその内容を披露しているが、やはりかなり難解だ。主人公の孝岡の言葉を借りて作者が云うには、一応一般読者へ理解しやすいように随分省略しているようなのだが。 しかしその難解な文章を読み解いて、100%とは云わないまでも自分なりに理解できた内容はかなり刺激的なものだった。 私が理解したなりに単的に云えば、孝岡が研究するレセプター(受容体)というのは記憶を司る大脳の海馬、大脳新皮質に刺激を伝達する神経伝達物質グルタミン酸を文字通り受容する云わば門であり、神経細胞間に空いているシナプスと呼ばれる隙間に存在している。これが人間に記憶させる働きを担っており、このシナプスに刺激が多く加わるとレセプターを閉じている栓の役割をしているマグネシウムイオンが解除されて、カルシウムイオンが細胞の中に流れ込み、それがタンパク質を活性化する。そのタンパク質がレセプターを更に活性化させてグルタミン酸に対する感受性をもっと強くし、それが記憶となって脳に焼き付けられるということだ。 そしてその刺激が強ければ強いほど、短期記憶を司る海馬から長期記憶を司る大脳新皮質への伝達が容易になる。そして更に強い刺激は刺激を伝達する隙間シナプスをも増大させる作用があり、シナプスが増えることで刺激は更に伝達しやすくなり、海馬から大脳新皮質への伝達を容易にする。これが記憶のメカニズムだ。 ここで私が閃いたのは傑作、駄作と云われる小説、映画、マンガなどの創作物と佳作と云われるとの違いは脳への刺激への大小にあると云えることだ。未だに長く記憶に留まる名作、例えばミステリで云うならば『占星術殺人事件』のあの驚愕のトリックに『異邦の騎士』の忘れがたいセンチメンタリズムと御手洗の勇姿、『十角館の殺人』のあの世界が壊れる音が聞こえる衝撃の一行、映画で云えば『ショーシャンクの空』の眩しいほどに美しい最後の海岸での邂逅シーン、『E.T.』の人差し指を繋げるシーンなどは我々の脳に刺激を与え、シナプスを増大させる作用があったのだ。 また逆に非常につまらない駄作-弊害が生じるので具体例を挙げるのはあえて避ける―の類いもそのつまらなさが逆に負の刺激になり、シナプスを増大させ長く記憶に留まる。この二律背反が非常に面白いではないか。 逆に可もなく不可もない凡百の作品は刺激も少ないから短期記憶となり、すぐに忘れてしまう。多くの作品がそうであろう。しかし見方を変えればそれら多くの作品が短期記憶の段階で留まっているからこそ、諸々の傑作が記憶の中で煌めいて頭に留まり続けるのだと云える。 しかし私は敢えてこのことについて2点、考えたい。 まず記憶の鍵となるタンパク質を活性化させるにはやはりタンパク質を常に摂取しておかなければならないということだ。読書好きで単に読破した本の冊数を誇るだけならばその限りではないが、一つでも多く読んだ本を記憶の留めたいならば三度の飯よりも読書ではなく、バランスの良い食事が読書の肥しになることを認識すべきだろう。 2つ目は佳作、凡作の類いであれ自分が読んだ本に対して記憶を少しでも多く留めたいのならば、単に読むのではなく、佳作でも凡作でも自分の脳に刺激を与えるような読み方、即ち行間を読むことを心がける事だ。本書で書かれた記憶のメカニズムに基づいて考えるならば、長く記憶しておく事とは即ちその人が刺激を受ける受け皿を常に用意している事によると考える。換言すればそれは好奇心をどれだけ持っていることかということだろう。 本作は単に脳の仕組みについて教えてくれただけでなく、今後も多く読むであろう本を記憶するにはどうしたらよいか―勿論それは読書に限ったことではなく、仕事、私生活、その他全てに当てはまる事だが―のいい指針となった。 知的好奇心を刺激される内容は他にもある。 特に非常に興味深かったのが、脳のメカニズムを科学的見地から突き詰めれば突き詰めるほど、感情や情動といった心の問題に行き当たるところだ。脳の各部位が何を司るのかは長年の研究の蓄積によって解明されつつあるが、では心は一体どこにあるのかという非常に原理的な問いに対してまだこれといった解答が得られていない。 そこには科学が超えられない歴然とした壁のようなものがあり、そこを突き詰めていくといつ人間は信仰を持つようになったのか、神の概念とは、といったような宗教的な論点に行き当たる。科学的に実証しようとしておよそ科学からは縁遠い神の存在へと行き当たるところにこの分野が抱える大きな闇があるといえる。 特にそれを象徴するのが人工生命という存在だ。それらはコンピューターのプログラムというサイバースペースで生きているのだが、プログラマーは単純な指令を2、3つ下すだけでコンピューターの中の生命は実に生物らしい振る舞いを行う。 なぜそれが起こるのかを論理的に説明するとなると研究者の数だけ定義が出てくると筆者は作中で述べている。そして結局のところ最も理解しやすい解釈というのが「機械が生命を模しているのではなく、機械もまた生命なのだ」という理だ。果たしてこれが真理かどうかは解っていないが、数式や論理といった無機質な世界に加え、気配、肌触り、手応えなる生命的直感を合わせて考えることでこの見えない壁が破れるかもしれない。これは茂木健一郎氏がいっている「クオリア」なる概念と何か関係があるかもしれない。 (以下はネタバレにて) ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回の作品は今までになく派手だ。ニューヨークの国連事務局タワーにミサイルが着弾するのを皮切りに、ボートの爆破、ワシントン記念塔の階段爆破、ペンタゴンのコンピューター・セキュリティー・システムを破ってのクラッカーの侵入、そして海を越えてモスクワのアメリカ大使館へのミサイル襲撃と、次から次へと事件が発生する。
フリーマントルの他のシリーズが発端の事件に絡んで政治的駆け引きや国交的な問題、各国の歴史の暗部の隠匿という妨害を主人公が知恵と行動力と大胆さでクリアしていく過程を描き、1つの事件をじっくり描くのに対し、確かにこのシリーズでは捜査中に殺人事件が連続して起きる傾向ではあったが、本作では前2作を上回る大規模テロが連続して起きるところがミソだろう。 これはやはり9・11が影響しているように思う。あの小説を超えた未曾有のテロは内外の作家に多大なショックを与え、それはフリーマントルも例外ではなかっただろう。特に世界のジャーナリズムに精通している彼にとっては。 一応作者本人は本作が9・11の前には既に書き上げられていたと言及しているが、事件後、加筆したともあり、少なくとも、いや大いに影響は受けている物と思われる。従ってあの現実を超えるにはもっと派手な事件を設定しないと現実を凌駕できないという焦りがあったのではないだろうか。それが作家の矜持を奮い立たせたように私は感じた。 本作でアメリカ・ロシアの二国間に渡って次々と襲撃する脅威を一言で云うならば次の一言に尽きるだろう。 テロの分業化。 民間人がテロリストから指示を受け、それぞれの職業を利用して資金調達、物資調達をし、テロに加担する。彼らは罪悪感を持ちながらも普段の生活では決して得られる事のない莫大な収入に目が眩み、止めることが出来ない。 そしてそれを可能にするのが、今やなくてはならないツールであるインターネットである。仮想空間に増殖し続けるサイトに集うハッカー、クラッカー達に法外な報酬をチラつかせて協力を頼む事でそれらはいとも簡単に成立する。本作ではアメリカとロシア2つの国に限定されているが、これらのテロは世界規模で起こる可能性を秘めている。 さてこのシリーズの前2作では割合ロシアのダニーロフ側に物語のウェートが占められていたが、本書では頻発するテロがアメリカという事もあり、カウリー側が前面に押し出されている。冒頭にいきなりカウリーが爆破テロに巻き込まれて重傷を負い、この事件を彼自身の事件として決意するなどと熱い一面を見せるのも今までになかった趣向である。 そしてダニーロフと云えば、前作の活躍により昇進し、ロシア民警の頂点、将軍になっていた。それから来る自信が彼を以前と変えており、泰然自若とし、大統領首席補佐官と内務大臣との権力抗争の狭間に置かれながらもそれを手玉に取るまでの落ち着き振りを見せる。破綻した私生活と愛する同僚の妻との愛情とでウジウジしていた彼の影は、物語の冒頭では見られるものの、最後では雲散霧消してしまう。 また今回から彼ら2人のコンビに新しいメンバーが加わる。パメラ・ダーンリーというFBI捜査官だ。彼女は強い上昇志向の持ち主で、ボート爆破に巻き込まれて瀕死の重傷を負ったカウリーの代行を命ぜられる。これを足がかりに更に上を目指そうとする野心家だ。自分の未熟さを認めつつも、邪魔する者を排除する事を全く厭わない、攻撃的な女性である。 通常フリーマントルはこういった人物を空回りさせ、自滅の道を歩ませるのだが、パメラは大いに彼ら2人に貢献し、更にどんどん活躍の場が増えてくる。シリーズのマンネリ化を防ぐ一つのカンフル剤として彼女を導入したようだが、この扱い方は今までに見られなかった傾向だ。なぜならその押しの強さは恐らく読者全員の好意を得られないだろうから。 しかし物語が終盤に近づくにつれて、彼女のこのシリーズでの役割―ポーリーン去った後のカウリーの公私に渡るパートナー―もはっきりしてくる。 この作品は前作のタイトルどおり、ロシア民警ダニーロフとFBI捜査官カウリー2人の「英雄」の姿が描かれるが、彼らの私生活は共に幸せではない。 カウリーは寄りを戻しつつあった前妻のポーリーンに去られ、ダニーロフは元々上手く行っていなかった妻オリガがこの世を去る。しかもオリガは浮気が基で妊娠し、それを隠すためにダニーロフと寝ようとするが上手く行かず、中絶に失敗して死んでしまうという悲惨さだ。 仕事の出来る双方は温かな家庭に恵まれない。これは万国共通のアイロニーなんだろうか。 さてかなり練られたプロットで、意外性のある共犯者と相変わらずの筆功者振りを見せ付けてくれるのだが、どことなくアメリカの大ヒットドラマ『24』の影がちらついてならない。爆破テロもそうだが、特にペンタゴンの内部スパイの存在、そして次の脅威の萌芽を予兆する終わり方など、すごく既視感を感じた。最後の犯人を捕らえるシーンなどはそっくりだと云える。 どちらが先かという問題もあろうが、件のドラマを観た後で読んだがためにちょっと損な受取り方をしてしまった。 ここまで派手な事件を繰り広げると次作の展開を懸念する向きもあるが、その心配は無用だろう。なぜならそれはチャーリー・マフィンシリーズで既に何度も杞憂となっているから。 だから私は次作も大いに期待して待ちたいと思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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デビュー以来覆面作家として創作を続ける作家北川歩美氏のデビュー作。
ある日目覚めると女になっており、しかもその世界は五年後の世界だったというSFとしか思えないこの設定に論理的解明を試みた野心作。本作は当時日本推理サスペンス大賞に応募され、惜しくも当選を逃したが編集者の厚意により、加筆訂正をした上、出版された。 その選考会に参加したある書評家が某所で述べた、「実は今年最も印象に残った作品は某ミステリ賞に応募された『僕を殺した女』だったりする」というコメントが非常に印象に残っており、それが本作を、そしてこの北川歩美という作家に興味を覚える契機になったのは間違いない。 このどう考えても論理的に解明できない設定をどう料理するか、それを作者は作中人物の僕こと篠井有一の口から色々な推論を繰り広げる。 1995年のヒロヤマトモコと1989年の僕がお互いに異次元の扉を通った際に空間の捩れによって精神が入替ったというやはりSF的な論理展開を皮切りに多重人格論、2人の脳を入れ替えて起きた脳移植という推理。 精神異常者であった2人が精神病院で邂逅し、濃密な関係を築き上げていった際にそれぞれの心にお互いの人格が住み込んでしまった精神共有論。 篠井有一とヒロヤマトモコ2人の精神はそのままでお互いに性転換手術を受けた、などなど、その論理はどんどんこちらの予想を超えてエスカレートしては消去されていく。これは云い換えれば作者自らが合理的解決の選択肢を狭めていっており、かなりハードルの高い趣向をこらしていると云えよう。 特に混乱を誘うのはヒロヤマトモコなる女性の人生がそれまでに存在し、さらに彼女の意識に入り込んだ主人公篠井有一の人生も、失われた5年間の人生も存在するということだ。 さらに彼を取り巻く登場人物らも物語が進むにつれ、隠れた秘密が見えてくる。同性愛者、レイプされた女性から生まれた子供、近親相姦者と、アブノーマルな人間どもが織成すフリーク・ショーのような様相を呈してくる。 本作が刊行された90年代というのは、なぜか世間で自分探しというのが一大ブームとなった。バブル経済という幻想から覚めた人々が、それまで外側に向けていた意識を自分のアイデンティティという内側へ向けだした、そんな時代だった。 他者から見た自分とは一体どんな人間なのか。一番よく知っている自分のことを実はよく知らないのではないか。自然、小説やドラマもそれを扱った物が増えてきた。 特にTVでは『それいけ!ココロジー』という心理テストを扱った番組がちょっとしたブームになり、関連書籍も多く出た。本作も当時ブームだった「自分探し」をテーマにしている事は容易に読み取れる。 ただ謎は魅力的だが、最後に明かされる真相は複雑すぎる。色々詰め込みすぎで、特に後半はどんでん返しが執拗に繰り返され、その都度頭を整理する必要に迫られて、理解に困難を生じてしまうのが惜しいところだ。 方程式が美しく解けていく様を見ているというよりも、複雑で入り組んだ論理を勉強しながら読み解くといった感じか。 やはり魅力的な謎は割り算のようにスパッと割り切れるくらいの明快さを求めたいところだ。実にサスペンスフルな作品だっただけにそれだけが悔やまれる。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は書評家坂東齢人氏改め馳星周氏のデビュー作にしてその年の『このミステリーがすごい!』で1位を獲得した話題作である。
しかしその鳴り物入りの本書だが、発表後数年経った今読んでみると、なぜこれが1位?と首を傾げざるを得ない。 新宿を舞台にした犯罪を扱った小説といえば既に大沢在昌氏の『新宿鮫』という警察小説の傑作がある。 その新宿の代名詞ともいえる作品に怯むことなく新宿を描いた本作『不夜城』は大沢氏が警察の側から新宿を描いたのに対し、彼は犯罪者の側で新宿の更に奥の闇を描く。そこでしたたかに生き抜く在日アジア系外国人社会の混沌を浮き彫りにしていくのだ。本書は劉健一という男のピカレスク小説なのだ。 しかしその基本プロットとしては実にオーソドックスなスタイルを取っている。競合しあう複数の敵の間を直感と知恵、時には大胆なはったりで渡り歩きつつ、彼らを利用して生き残る健一の物語はハードボイルドの源流、ハメットの『血の収穫』以来、何度も使い古された王道の物語構造である。このプロットに新宿という無国籍地帯を舞台に設定し、そこに蔓延るアジア系マフィアで味付けをしている。 しかし私が思うに、馳氏は元々長年新宿のゴールデン街のバー『深夜プラス1』に出入りしていた人であり、新宿の街の、正確にはその夜の、只中にその身を置いていたので、自然にこういう物語が浮かんだような気がする。 後の各誌での彼のインタビューでは「自分で読みたいと思う小説がなかったので自分で書いてみた」と云っているが、自分の読みたい小説の題材が自らが身を置く新宿の街にあったことに気付き、書いてみたというのが正しいところなのだろう。だから『新宿鮫』という傑作があっても新宿という街を別の切り口で書けると踏んだに違いない。 その成果はありありと本書には現れている。 私が特に感心したのは人物配置の巧みさだ。東京を根城にする台湾系マフィアを軸に、その周辺を上海系マフィア、北京系マフィアと池袋を拠点にしながら新宿への侵出を狙っている福建系マフィアという対立構造も当然ながら、最も感心したのは健一と育ての親楊偉民との微妙な関係である。物語初頭では台湾人と日本人との混血児―半々―である健一が母親とともに楊の庇護下に置かれる事になり、その後呂方という獣のような台湾人を少年時に健一が殺す事で民族一家族を信条とする楊から縁を切られるようになった顛末が語られる。 私にはなぜ楊がその後も健一と付き合いを保っているのかが疑問でならなかったが中盤あたりで出てくる同じく半々の周天文が出てくるにいたり、実にこのアンバランスな関係が腑に落ちるのである。愛憎が絡み合うこの三者の三すくみ状態とも云うべき関係を次第に健一が凌駕していく過程は本作で健一が殻を破り、上への大きな一歩を踏み出すのに、ファクターとしてかなり有効に働いている。 ただ主人公とその連れ夏美に馳氏はいろいろ設定を詰め込み過ぎたような気がする。 台湾人の父親と日本人の母親との間に生まれた劉健一は少年時代は母親からの虐待から臆病に育ち、周囲から半々と蔑まれる日々を過ごす。やがて呂方という健一を忌み嫌う台湾人の少年ギャングの殺人を経て、家を出てオカマバーにウェイターとして働くようになる。その時に遭ったある女性との異常な体験、 それから呉富春と二人で組んでの盗難生活の日々、その後、陳綿という台湾の殺し屋に仕えて、白天という殺し屋と過ごした張り込みの夜の悪夢のような出来事、などなど。その1つ1つがかなり重い過去で、それが劉健一という人物を形成したという設定になっているが、個性的なキャラクターを創作するためとはいえ、陳列棚に並べるほど重い過去を連ねる必要が果たしてあったのだろうか? そして小さな頃から多感な時期にかけて、これだけの目に逢えば精神崩壊するかと思うのだが、どうだろう? そして相方の夏美も嘘に嘘を重ねて生きてきた女性。彼女の語る過去は物語が進むにつれ、二転三転し、終いには呉富春の実の妹で近親相姦を繰り返していたことが判明する。 なんというおぞましい設定だろう。普通こういう過去を持つと男性不信に陥り、こう易々と男のところに身を任せるようにはならないと思うのだが。 とこんな風に、印象的なキャラクターを作ることに固執してエピソードを盛り込んだにしては、彼ら2人のキャラクターの現在に過去との大きな乖離があるように感じてしまうのだ。そう他人の聞きかじった過去を自分の物と思い込んで生きている、そんな人物像のように思えてならない。 恐らくこれは「とにかく今ある物全てをこの物語に詰め込んでやる!」というこの作品に賭ける馳氏の意気込みの強さゆえだったのだろう。しかしそれが故に統一感に欠け、なんとも雑多な感じがしてしまう。 私が思うに、こういう手法を取るならば、シドニー・シェルダンがやっていたように、主人公二人の過去を時系列に交互に語っていく方が読者には二人の人格形成の成行きがわかってよかったのではないか。 ただこの小説はその手法は似合わない。本書のように今二人が置かれている状況と過去を同時進行で語るにはやはり1つ、最大でも2つ強烈なエピソードを挿入するに留めるのが無難であるといえる。 健一が語る様々な過去は、普通ならば他の登場人物、本書ならば元成貴、崔虎、周天文、楊偉民と一癖も二癖もある連中に配分する事でキャラが立ち、物語が際立つように思える。だから本書ではその手法で語られた呉富春の方がキャラクターとして一貫性があり、非常に印象に残った。 これが私が本書をして『このミス』1位に疑問を呈した理由なのだが、しかしやはり最後に残る読後の荒廃感、これは買える。騙す方より騙される方が悪いを信条に決して誰も信じることなく、いかに利用して切り抜けるかという社会で生きてきた劉の最後の決断は、これまでの小説とは一線を画すものだとは感じた。 私はこの結末をタブーだとは思わない。なぜならそこに至る健一、夏美の心情がしっかり書き込まれているからだ。裏切りの闘争の果てに残ったのは徒労感と燻り続ける父親同然だった楊への憎悪。そして劉健一は次の段階へと歩みを進める。 手放しで賞賛するには引っかかりを覚えるが、心に何かを残す作品ではある。 上述した不満点が今後の作品でいかに解消され、どのようなノワールを展開してくれるのか、次回作以降、楽しみである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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倉知淳氏のシリーズ探偵猫丸先輩のデビュー作で、同時に倉知氏自身のデビュー作でもある。
本作は連作短編集で、7編の短編+α×2という構成になっている。そう、本作も若竹七海氏や西澤保彦氏の某作品と同じ、各短編に散りばめられたミッシングリンクが最後に明かされる趣向の短編集になっている。 さてそれについては後に述べるとして各編について順繰りに感想を述べていこう。 第1編「空中散歩者の最期」は猫丸先輩のキャラクターを語るのにうってつけの一編と云える。 導入部の幻想味、大掛かりなトリックによる真相と、大御所島田荘司氏が書きそうな作品。この真相については最初は眉唾物でなかなか信じられなかったが、高さと加速がつけば確かにありうるかもと納得。個人的には空中散歩者が宙を飛ぶ原理の着想が面白く、空中散歩者を主人公にした超能力物を読みたいと思った。 2編目の「約束」はガラリと趣向が変わって、ちょっとびっくりした。 子供を主人公にすること自体がもう卑怯とも云える泣ける一編。もう冒頭からその雰囲気満点である。 本作は隠された人間の悪意を看破する物で、若竹七海氏の作風を思わせる。ちょっと作りすぎのような感じもするが、こういう話に本当弱い。 「海に棲む河童」は1編目と同様、ファンタジックな物語で幕を開ける。 これも島田荘司氏の『眩暈』や『ネジ式ザゼツキー』を想起させる、一見ファンタジーとしか思えない話が実は真実であった事を論理的に解明する話。 面白いのは冒頭に付された御伽噺ががものすごい方言で読み難いことに配慮して、作者が本編終了後にその標準語訳を付けているのだが、今度は逆に注釈が多すぎて却って読み難くなっているところ。この辺は海外ミステリの過剰なサービスへの揶揄とも取れ、ブラックユーモアが効いている。 「一六三人の目撃者」は上演中の劇の最中で殺人が起きるという、夏樹静子の『Wの悲劇』を思わせる作品だ。 純粋にロジックで犯人を解き明かす1編。プロバビリティーの追求にのみ焦点を当てた本作は、従って最後に明かされる犯人の動機は一切謎のままに幕が閉じられる。 本作では猫丸が劇団員の1人として登場する。しかもかなりの演技派らしく、いつもと違う猫丸が見れる貴重な1編。 「寄生虫館の殺人」はどこかで見た事のある題名だが、中身は全然違う。 ちょっと強引過ぎるミスディレクションだなぁと思った。 NHKの受信料集金者が怪談のような奇怪事に遭遇するのが「生首幽霊」。 これはプロット創作の裏側が推理を重ねる事で見えてくるぐらいにかなり作り物めいた作品だ。長いアパートという設定で容易にある程度八郎が遭遇した事態の真相も予測はつく。 構成上、最後の短編なのが表題作「日曜の夜は出たくない」。 これは素直に上手いと認めよう。出来としても一番いい。よくあるサスペンス物だが、小技が効いていて、作者のミスリードになかなか抗えないようになっている。 そして明かされる真相も甘酸っぱい恋のノロケのようで微笑ましい。これが本作ではベストかな。 さてこれら7編の後、これらの短編に共通するキーワードがエピローグで明かされるが、これははっきり云って解明不可能、凝りすぎだろう。一応自分なりになんとか解き明かそうとチェックをしていったのだが、これほどまでに細部に渡ってチェックしないと解らない仕掛けだったら、驚愕とか感心とかを通り越して呆れるしかない。 さて本作で探偵役を務める猫丸という人物。その後シリーズ化されているが、確かに面白いキャラクターだ。当初は単なる小さな事件に興味のある素人探偵の域を出ていないキャラだったのが3編目と4編目では船頭のバイトだったり、劇団員だったり、と意表を突くシチュエーションで絡んでくる。 それが私をして猫丸というキャラクターに好感をもたらせることになった。 一番面白かったのはやはり4編目での劇団員としての猫丸だ。他の作品とは違うきびきびとした振る舞いは、俳優としてもその道のプロに演技を認められるほどの技巧派だと評され、そのギャップにニヤニヤしてしまった。 ただ1作目でアマチュア奇術クラブや同人誌、町内会の趣味の会合や断食会にも参加したりとどこにでも首を突っ込むと紹介されている割にはそのヴァリエーションが乏しかったのがちょっとがっかりだ。それについては次作以降に期待しよう。 しかしデビュー作である本書は脱力系でマイペースだと窺っている作者倉知氏の性格とは反比例して1作ごとに趣向を変えるなど意欲的な試みに満ちている。各編の感想にも述べたが島田荘司風ミステリあり、ハートウォーミングストーリーあり、ロジックのみを追究したミステリあり、サスペンスありと様々だ。 おまけに自身もエピローグで述べているように全ての殺害方法が違う。墜落死、凍死、溺死、毒殺、撲殺、絞殺、刺殺。デビューに向け、当時の全てを吐き出したような書きっぷりだ。そしてその努力が報われるように、本書はその年の『このミス』のベスト20にもランクインされ、現在も活躍が続いている。 ただやはり気になるのは読者が推理しようとするにはあまりに情報が少ないことだろう。私は与えられた謎を推理するのが好きなので、本作でも自分で謎解きに挑みながら読んでいったが、全敗してしまった。 しかし真相がぽんっと膝打つものであれば良いのだが、本作では真相に導くためにこじつけているようにしか感じられないのが惜しかった。しかし先に読んだ『占い師はお昼寝中』ではその辺は解消されているので、これはデビュー作ゆえの脇の甘さだろう。 これが私の負け惜しみかどうか、他に本書を読んだ人の意見を聞きたいところだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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第5作の『炎蛹』以降、シリーズの通奏低音ともいうべき存在感で物語の影の部分で暗躍していたロベルト・村上こと仙田勝が今回鮫島の標的となり、とうとうこの時が来たかと一言一句噛み締めるように読んだ。
そして今回の泥棒市場の撲滅に関わってくるのが鮫島のライバルで同期のキャリア香田。 しかし今回香田は今までと違い、公安の立場ではなく組対部の理事官として鮫島と対峙する。それは外国人犯罪者に家族を傷つけられたという個人的な怨恨が原動力となっていた。そしてまた仙田も元公安の人間。香田の真意に鮫島は疑問を募らせる。 今までお互い水と油のように相対し合ってた2人がお互いの正義を振りかざし、真っ向から対抗する。 香田は大局的な見方で、関西の大規模ヤクザの稜知会と手を組み、複雑化する外国人犯罪を根こそぎ掃討し、かつての警察とヤクザの持ちつ持たれつの関係というシンプル化を図る。対する鮫島は法を遵守する側が大局的な視点とは云え、法を破り悪に組する事に疑問を呈し、香田の正義に問いかける。 このシリーズを通してのライバル2人が今まで以上に熱い真剣勝負を交わす。 仙田、そして香田。 このシリーズを通して常に鮫島に立ちはだかった2人のライバルが本書ではクローズアップされる事で、警察が歩んできた歴史の闇と光、功罪を浮かび上がらせる。しばしば何が正義なのかを読者にも問いかける。 社会人も20年過ぎてこのシリーズを読むと、鮫島のかざす正義の旗印という物が実に純粋であることが解ってくる。そしてそれを貫くがために輝かしいキャリアとしての出世街道を外れ、あくまで警察官としての正義、遵法者としての警察官であろうとする鮫島の主張が現実離れしているように思えたことを正直に告白しよう。 香田と鮫島のどちらを選ぶかと問われれば私は間違いなく前者を選ぶだろう。大人になると「自分」を貫くことがいかに困難かを思い知らされる。そんな世の中にこの鮫島という男は貴重だし、彼を求める読者がいるのだ。 かつて第2作『毒猿』では東京で幅を効かせる中国系マフィアと暴力団の一大抗争をテーマにしていたが、18年後の本作では外国人犯罪者と暴力団が協力しあい、複雑な犯罪システムを築き上げている。一日千秋の思いがする。 そんな多様化した犯罪を以前のように単純化するために組対部が画策するのはコピーブランドの摘発を端緒に外国人犯罪者の一掃だったというのが面白い。これが果たして今の警察にとって現実味がある方法なのか、もしくは実際に計画されているかどうかは寡聞にして知らないが、よく考えたものだと感嘆した。 そしてその最高責任者として常に鮫島の前に立ちはだかる存在である香田を配したのが面白い。その動機―自身の家族を自宅で外国人犯罪者にて襲われた―も十分練られていて無理がなく、思わず唸ってしまった。 このように犯罪が複雑化し、細分化されるにつれ、事件も複雑化する。つまりそれはストーリーをも複雑化を招く。 しかし作者大沢氏は練達の筆捌きで同時進行する複数のストーリーを一点に見事収斂させる。毎度の事だが、本当に見事と云うしかない。 ちょっと下世話な話をしよう。本作のキーパーソンである呉明蘭なる中国人の女性盗品鑑定人。恐らくタイトルはこの女性を指したものだろう。 本作には銀座・六本木の夜をホステスとして渡り歩いたこの明蘭の過去を探るに当り、東京のクラブの内情が語られる。この辺は銀座・六本木の夜を颯爽と闊歩している大沢氏の本領発揮とも云うべきで、恐らく連日連夜足繁くクラブに通い、ホステスを口説きながら取材したに違いない。 そしてその“夜のクラブ活動”の成果を作品の緊張感を損なうことなく、淀みなくストーリーに溶け込ませるのはやはり熟練の技。十分経費として落とせる内容になっている。 さて90年に「卑しき街の聖人」という英題を付して現れた「新宿鮫」こと鮫島もなんと45歳を越える年齢になってしまった。 そしてシリーズの巻を増すごとに恋人、晶の存在が希薄になっているが、本作でも彼女の占めるウェートはわずかに過ぎない。この辺りは作者も幾分持て余し気味のような気がしないでもない。この2人の年齢を考えるとそろそろ次作あたりで何らかの決着がつくような気がする。 警官を集団における一つの駒としてではなく、一個の人間として描き、それぞれの正義観の狭間でもがき、葛藤しながらそれぞれが生き方を貫く極上の警察小説、『新宿鮫』シリーズ。 この作品の熱気はまだまだ冷めそうにない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本作の趣向は、狂人の仕業としか思えない奇妙な状況をいかに論理的な説明をつけるかということにあると思う。
しかしそれにしても作者はとんでもない冒険に出たものである。なんせ死体の衣類はもとより、部屋の家具・調度類全ても逆さまにされているというのだから。これにどんな合理的説明が付くのか。本作の焦点は正にそこにあると思う。 こんな手間暇をかけた殺人事件は今までに私も読んだ事がなく、かなり頭を絞った。色んな手掛かり、特に死体の上着の下を潜らせて足先から首まで通してある槍の意味や消えたネクタイの謎、などなど。 私の推理と真相についてはネタバレに語ることとして、ただ本作をこのロジックとトリックだけに注目すると陳腐だと云わざるを得ないが、クイーンの物語の味付けについても語っておこう。 本作は今までの国名シリーズにもましてモチーフとなった国に関するガジェットがふんだんに盛り込まれている。食べられたチャイナ橙の謎から、中国文化に詳しい女性による中国人の奇妙な風習についてのあれこれ、中国の稀少な地方切手の話などなど。特に中国の文化があべこべの文化であるというのはなかなか面白い着眼点だ。 曰く、中国人は人と逢ったときに相手と握手せず、自分と握手する、暑い日には冷たい物を飲まず、熱いお茶を飲む、他所の家でご馳走になるときはわざと大きな音を立てて、げっぷをする、入り口に低い塀―衝立のことだろう―を立てて、悪霊の侵入を防ぐ、云々。 中には首を傾げるような物もあったが、なるほどと思った。 そして本作の事件の底流にあるのは切手収集の世界である。『ドルリイ・レーン最後の事件』では稀覯本が事件の主眼であったが、本作では稀少な切手、それに纏わる収集家の話が散りばめられてあり、またそれが事件に大いに関与している。 特に最後に題名の真の意味が解るのにもこの趣向が大いに関わっており、作者のミスディレクションにニヤリとしてしまった。 と、こんな風に一概に明かされる事件の真相のみで評価するには勿体無い作品ではあるのだが、この謎に対して読者への挑戦状を挿入するクイーンも無茶な事をやるなぁと思わずにはいられない。特に本作では冒頭の謎が格段に奇妙であったため、期待が高くなり、それだけに落差が大きかった。 クイーンの信望者である作家法月綸太郎のデビュー作『密閉教室』に、担任の教師が本作を非難するシーンがある。確か、有名な作品ということで読んでみたが、一体あれは何なんだ、バカバカしいといった感じの非難だった。 読書中、幾度となくそのシーンが想い出されたが、それがそのまま私の言葉になってしまった。 更に本作はアメリカではクイーンの最高傑作と出版当時評されたそうである。なんともアメリカという国の懐の深さを感じるとでもいうか、こういうトンデモない話をユーモアとして解する国民性ゆえの賞賛といおうか、いやはやなんとも理解しがたい話だ。 しかし、クイーンは『ドルリイ・レーン最後の事件』以降の質の低下が気になる。『アメリカ銃の謎』からこの3作は手放しで賞賛できない物ばかりだ。 しかし第2期にまだ名作が残っているとの話。クイーンはまだ終わっていないはずだ。これからもまだ見ぬ傑作との出逢いを信じて、読んでいこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『待たれていた男』では永久凍土から出てきた死体がアメリカ人とイギリス人、そしてロシア人の第2次大戦当時の身元不明死体という設定でチャーリーに再び危機を齎したフリーマントルだったが、今回はモスクワで起きた米露大統領射殺事件―1つは未遂―の現行犯がなんとイギリスからの亡命者の息子だという設定でチャーリーを事件の渦中に巻き込む。いやはやよくもまあ斯くも多彩な設定を思いつくものである。
そしてまたまたフリーマントルは素晴らしい手札を用意してくれている。 亡命者を監理するKGBのベンドール一家に関する資料は一体どこへ消えたのか? ベンドールが火曜日と木曜日に会っていた連中とは誰か? ピーター・ベンドールの日記や書類を持ち去ったKGB職員とは一体誰なのか? ロシア軍に所属していたベンドールに背後に潜む存在が解らない中、発射された銃弾5発のうち、2発と3発は口径が違う事が判明し、他の狙撃手の存在が浮かび上がる。更には銃弾の旋条痕から実は5発ともベンドールが放った物ではない事が浮かび、更に混迷を極める。そして尋問として呼び出されたベンドールの母親が獄中自殺したと思われたのが実は他殺であった事、それを筆頭にベンドールを取り巻く連中が次々と殺されている事。そしてなかなか口を割らないベンドールが時折口ずさむハミングは何の象徴なのか? そもそも何故、軍に所属していた頃から奇行が目立っていたベンドールのような不安定な精神状態の男を敢えてこのような重大な暗殺事件に狙撃手として選んだのか? 様々な事実が大きな組織、それもロシアの政治の一画を担う組織の翳をちらつかせるが、それが何なのかが新事実が解れば解るほど曖昧になっていく。 どんどん複雑化する状況に読者は一体この先どうなるのだろうかと安心する事を保証されない。そしてこの複雑に絡み合った数々の要因が最後ある一つのシンボルを中心にするすると解けていき、最後に明かされる事件の裏に隠された壮大な計画が露わになってくる。 特に冒頭で起きた狙撃手とTVカメラマンとの格闘の一部始終が、最後になって全く別の側面を持っていたことが明らかになるところはカタルシスを久々に感じてしまった。本格ミステリの謎解きそのものと云っていいだろう。そしてこの真相が解って初めて本書の原題”Kings Of Many Castles”の意味が見えてくる。 そして今回もものすごい知能合戦の応酬だ。三国共同捜査という形を取りながらもいずれも自分の地位、自国の優位を得んがために、協力の微笑みの裏でナイフを隠し持つ危うさを持っている。無害かつ見返りとして自分の利益になりそうな情報や証拠は共有化するが、自らの取っておきの武器となりうるものは決して明かさない。 そして各々がそれを隠し持っている事を三国捜査の代表者は笑顔や何気ない言動に隠された合図で知っているのだ。 特に今回は現行犯逮捕されたベンドールの尋問とナターリヤが行う旧KGBの亡霊とも云うべき連邦保安局のトップとの尋問がスリリングだ。 前者はなかなか突破口を見出せなかった尋問から、精神科医の助言を手掛かりにチャーリーが言葉巧みに相手の自尊心をくすぐり、徐々に有効な情報を引き出していくテクニックに感嘆する。 後者はKGBというロシアの高官の誰もが恐れる存在の象徴ともいうべき連邦保安局の長官カレーリンを相手に自らもKGBに所属していたナターリヤが知略の限りを尽くして堅牢なガードを突き崩していく。特にカレーリンは旧KGBでも百戦錬磨の猛者であり、情報戦には長けており、尋問者を手玉に取るように、更にはテストを行うかのように冷徹な微笑を浮かべながら応対する。その自負心を見抜き、相手に誘導されている事を気付かせないように詰め将棋の如く尋問を行うナターリヤ。この尋問に彼女らが背負う大統領代行の威光というのがロシア的で面白い。 ここで彼女らがこの連邦保安局の最高責任者に手玉に取られることは即ち彼女らをバックアップしている大統領代行の強さを挫く事になり、それは代行が大統領に選任された後、連邦保安局に対するその上下関係が継続される事を意味している。この2人のせめぎ合いは本書で最も息が詰まったパートだった。 こういう高度な駆け引きを彼らが出来るのは一様に彼らが自分の感情を制御する訓練を受けているからだ。一番危険なのは感情に左右され、自分を見失うことだ。相手をよく観察し、言葉の抑揚に注意し、発言に隠された意味を嗅ぎ取らなければならない。彼らも人間であるから相手のテクニックに揺さぶられ、感情を露わにするがそれを冷静に観察する第三者の目を持っている。 この辺のテクニックは私も仕事をする上で是非とも身に付けたい技術だ。 そして哀しいかな、彼らはそのような訓練を受けているがために、男女関係の駆け引きにおいても第三者の目を行使し、無防備に相手に身を委ねない。ほとんどこれは職業病と云っていい。 そしてチャーリーの私生活は前作に比べてあまり好ましくない状況にある。前作での事件でナターリヤ自身が彼との危うい均衡の中での生活に疲労を感じており、チャーリーとの心の触れ合いが減じている。例えば成長した二人の娘サーシャが学校で親の職業について友達同士で話すようになったことに過敏に神経をすり切らし、幾度となくチャーリーへの愛情と自分に向けられる愛情の有無を自問する。単にロシア側の情報源として自分との生活を続けているのではないかとあらぬ想像を掻き立てる。しかし常に先読みする能力に長けているチャーリーを頼りにしている自分がいることにも気付くのである。 作中たびたび登場人物の口から出るように本作の事件はダラスで起きたケネディ大統領暗殺事件に酷似している。むしろダラス事件のロシア版といった趣きで、主犯と思われた人物が逮捕された後、それを暗殺する男が出てきて、またその人物も殺され、真相は闇の中、といった具合だ。 ただフリーマントルは本作ではきちんと決着をつける。それはこの作者が私ならケネディ暗殺事件をこのように解決するだろうと声高に叫んでいるかのようだ。 ただ1つ気になるのは、前作『待たれていた男』でも感じたが、もはやチャーリー・マフィンにもはやライバルはいないということ。今思えばナターリヤとの恋の宿敵であった『流出』で登場したポポフが最後のライバルだったように思う。 最大の敵はもはや自分というのがこの2作で共通する事だろうか。イギリスの情報部員という危うい立場でロシア内務省の上級職でしかも民警を取りしきる高職にあるナターリヤとの生活を死守するためにドジを踏まないよう事に当るチャーリーはアメリカとロシアのライバルどもと共同戦線を張りながらもその実、いかに自分が上手く振舞うかに腐心している。 前作と本作が似通っているのは米英露三国共同捜査という設定に加え、チャーリーの生活の維持というのが共通しているからだろう。悪く云えば本作は前作の数あるヴァリエーションのうちの1つとも云える。シリーズに新しい色を加えるためにも『亡命者はモスクワをめざす』で現れたエドウィン・サンプソンのような、一枚も二枚も上を行くライバルが欲しいところだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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日本の新人文学賞でも屈指の難関と云われる日本ホラー大賞初の受賞作である本書はそれが単なる飾りでない事を証明する濃い内容の作品だ。というよりもこの作品が基準となり、同賞が難関となったと云っても間違いではないだろう。
発表当時大学の薬学部で博士課程だった瀬名氏。その専門分野をいかんなく本作に導入しているがために、中身は専門用語が縦横無尽に横溢してあり、門外漢である私はしばし内容を理解するのにページを捲る手を休めざるを得ない状況に陥った。 しかし、それでもリーダビリティが落ちなかったのは、作者の高度に計算された物語運びの妙にある。 主人公永島利明のパートでは死亡した妻聖美の細胞を培養するプロセスが事細かに書かれ、聞き馴れない専門設備・器具の名称や専門用語の応酬に怯むものの、そのパートでは迫り来る得体の知れない何かに対する危機感めいた物がきちんと挿入されている。さらに話は腎臓移植を受けた麻里子のエピソードやその経過、そして生前の聖美と利明との馴れ初めなどが絶妙にブレンドされ、読み物として退屈を呼び込んでこない。実にバランスの良いストーリー運びである。 本作のプロットは実に単純である。人間にとって寄生して生存していると思われたミトコンドリア自身が寄生体そのものを凌駕し、逆に征服し、次世代知的生物に成り代わるというものだ。 本書が他のホラー作品と比べて一歩抜きん出ているのは、まずその壮大な嘘を博識な専門知識によって理論武装し、本当にありえそうな恐怖を齎したこと、そして従来人間に寄生し、征服しようとする存在は地球外生物が多かったのに対し、瀬名氏は元来全ての生物に備わっているミトコンドリアという存在に着目したこと、この2点にあるだろう。 そして本書が突拍子のなさを持っていないのは、寄生体であるミトコンドリアが人間のDNAを逆支配するという可能性がゼロではないことだ。現代の最新研究ではまだその証明がなされていないが、これから先、科学の分野が発展するにつれてこれら机上の空論であった事実が実はかなりの必然性を持った可能性となることもあるかもしれない。 そんな潜在的恐怖を抱かせてくれるところに瀬名氏の作品の特色があると思う。 それはやはり専門家としての瀬名氏の博学な知識がそれを裏付けているし、またそれが彼の作家としての他の作家と一線を画する特質であろう。 私が本書において特に驚嘆したのは腎臓移植手術に関する事細かな叙述である。例えば臓器提供者(ドナー)と臓器受容者(レシピエント)との間を取り持つ移植コーディネーターなる存在があることもその1つだ。 なによりも腎移植手術の件が特に興味深かった。メスを入れるところから、腎臓を摘出するまでのプロセスとそこから移植手術に移るまでの時間との闘いといった一連の流れが精緻な叙述で眼前に映像が浮かぶかのごとく描かれる。素人考えで恐縮だが、薬学部である瀬名氏が医学部の学生でも立ち会わないだろう内臓移植手術をかくも迫真性を以って描いていることに驚く。しかもこれはベテランの作家によるものではなく、新人賞に出された原稿なのである。取材費なども出ない作品の制作にここまでよく取材した物だと感心した。 そして瀬名氏が理系研究者が陥りがちな説明調文章を多用するわけでなく、作家として物語を形成する技量にも長けていることが本作ではよく解る。 本作は3つの大きな話が同時進行で語られるが、私が一番印象に残ったのはサブストーリーとも云える、腎臓移植を受けた麻里子のパートだ。娘とのギクシャクしたコミュニケーションに悩む父親と、麻里子自身が負った心の傷のエピソードについつい親の視点で読んでしまい、自分ならどう対処するかと考えさせられた。 また移植手術がレシピエントにとって必ずしも喜びをもたらすものではない事を本作では教えてくれる。 元々成功率が低い手術であるのに、患者は術後は普通の生活に戻れるものだと100%思い込む。それがゆえに拒絶反応が出て摘出しなければならなくなったときの落胆振り。更に麻里子の場合は、腎移植が仇になりいじめの対象になってしまう。特に彼女の、死体から摘出した腎臓を移植する嫌悪感からくる「わたしはフランケンシュタインじゃない」という悲痛な叫びが胸を打った。 こういう細かい人間描写が本作を単なるホラー作品ではなく、小説として真っ当な読み物にしている。 と、全面これ、賞賛の嵐となっているが、やはりエンタテインメントとしての勢いを減じているのが先ほどから述べているその圧倒的な量を誇る専門知識と専門用語だ。 これを語るにはこの知識が、この作業にはこういう装置が必要だ、だからそのことを説明するにはこの分野について触れておかねばならない、といった瀬名氏の読者に対する配慮が行間からも解るのだが、その親切すぎる配慮ゆえに情報量が多すぎ、読者の理解力をことごとく試すような物語の流れになっているのが惜しい。そういった理解しがたいパートについては読み流せばよいのだろうが、当方はそれがどうしても出来ず、理解するために何度も読み返してしまった。 この辺の匙加減がやはり若書きの至りというものだろうか。しかしそれを第1作目で求めるのは酷というものだろう。日本ホラー大賞の黎明を告げた本書はその賞に恥じない、力作である事は間違いない。 |
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本作は『神の子の密室』がイエス・キリストの復活の真相を探るミステリであったように、ロシアの神秘思想家ゲオルギイ・グルジェフの正体と彼と親交の深かった哲学者ピョートル・ウスペンスキーの関係を探る歴史ミステリである。
双方の作品に共通するのは現代から文献や資料を当って調査・推理するのではなく、その時代を舞台に当時生きていた人物、しかも実在の人物を主人公にして謎を探る趣向になっていることだ。 ただ本作は『神の子の密室』に比べるとかなりエンタテインメント性を排しており、かなり困難を強いる読書になった。 本作で取り上げられているウスペンスキーとグルジェフの2人はイエス・キリストよりも馴染みの薄い人物である事がそれに拍車を駆けていると云えよう。更にはそれを読者に理解させるために、ウスペンスキーがその著書『ターシャム・オルガスム』で提唱した高次元論から、グルジェフの思想である「三の法則」、「七の法則」、それを図象的に表した「エニアグラム」という考え方などなどの哲学の分野の専門知識が作中に横溢しており、小説というよりも小論文に近いものがあるがために、読者の側もそれ相応の知識と理解力を求められている事になっている。 特に16章などは単に時系列的に物事を列挙しただけで小説の体さえ成していない。 上記に述べた本書の内容から鑑みると、小森氏のミステリ創作姿勢はどうも他のミステリ作家と比べるといささか異なっているように感じられる。 概ねのミステリ作家は、あくまで根幹がミステリであることを前提にして、作品の肉付けとなる題材―それはしばしば作者が個人的に興味のある対象である事もあるが―を取材し、ミステリを創作するに対し、どうも小森氏は自身が教授でもあるせいか、自らの研究題材を調べていくうちにこれはミステリとしても創作できるのではないかという、自身の研究からミステリ作品を派生させているような節が感じられる。 したがって作品の主体は自身の研究発表の場のようで、ミステリは付属的なものとして捉えているようだ。 それを裏付けるように本作と趣向が似ているとして例を挙げた『神の子の密室』もそうであったし、本作においてミステリ的趣向である殺人事件はようやく物語も終盤になって起こる。 特に本作における事件は『神の子の密室』と比してもさらに添え物の感が際立っている。 山中の小屋で起きる発砲事に巻き込まれたかのようなある人物の死。しかしちょうどその時を目撃していた主人公オルロフは彼が撃たれたときには窓ガラスが割れていなかったことを気付いていたが、今ではその窓ガラスが割れ、恰も流れ弾に当って死んだかのように偽装されている。そこに居合わせた9人の人物はそれぞれ別の場所にいたという証言があるものの確たるアリバイがない。 この謎をグルジェフのエニアグラムで解き明かすという趣向でこの事件が本作に密接に関わり合いがあるかのように見せているが、本当にそれが元で真相を解明されたなら、かなり乱暴な謎解きだと思った。 が、作者もそれは感じていたようで、一応の論理的解決は成される。しかしそれは推理クイズの問題程度のレベルを脱しえず、本書のメインには全く成りえていない。 とどのつまり、本作におけるミステリとしての主眼は上述のように当時親交の深かった二大思想家ウスペンスキーとグルジェフがなぜ途中で袂を別ったかという謎を小森氏独自の調査で解き明かすところにある。 しかしなんとも観念的な話である。興味のない者については全くどうでもいいような話である。 さらに驚くのは本作は文藝春秋の「本格ミステリーマスターズ」叢書の1冊として刊行されたことである。これほどまでにエンタテインメント性を排した作品をこのシリーズで刊行した同社の担当者は商業性やシリーズの特性を全く無視して刊行したのではないかと勘ぐらざるを得ない。 また小森氏に関して云えば、自らの知的探求の愉悦に浸るがために作品を重ねるごとに読者を突き放す方向に突き進んでいるようにしか見えないのが気にかかる事だ。 とはいえ、それがこの作者の目指す道であり、ワン・アンド・オンリーとしてその道を更に深く追求するのならばあえて何も云うまい。ただ私は彼の作品から手を引くだけだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は前書きにも書かれているように小森氏が調査に携わっている1945年にエジプトのナグ・ハマディで見つかった古文書群のうち、イエス・キリストについて書かれた雑記を基に物語形式にされたものだ。小森氏によれば、他の記録に関しては公表されているのに、このイエスに関する記録については50年経った今(1997年当時)も公開される模様がないので彼はミステリという体裁を取って公表しようとしたのが本書に当るとのことだ。
したがって本作は厳密な意味ではミステリではないだろう。 前の『ネヌウェンラーの密室』でも書いたが“ミステリ”というよりは“ミステリー”に近い。すなわちキリスト復活という非常に有名な奇跡の謎について書かれたものだ。 本作で語り手を務めるエジプトの通商隊の通訳兼雑用係の私はそのまま件の古文書の記録者であるらしく、この物語で書かれた彼がイエスについて様々な人々から聴取した内容は事実であるらしい。 その内容は商売の理解者、東方思想の伝達者、医者、弱者の味方、神に愛される者という賛美の意見から、手品師、臆病者、夢見人、詐欺師と卑下する意見がほぼ同数であり、それぞれの属する立場による己の規範での評価で見方が変わる人物像であったようだ。 そして物語の主眼は磔刑によって死刑にイエスがどのように復活したのかに移っていく。これが本書の謎のメインなのだが、これがどうも魅力的とは映らなかった。 キリストの復活とは西暦の始まり頃の話である。この悠久の時を超えて明かされる謎にしてはいささかチープな印象を受けるのだ。 確かに書かれている内容は当時の各宗教の習慣や常識が詳細に記され、それに基づいた考察がなされ、理論的であり興味深いのだが、それが逆に仇にもなっているように感じてならない。 そして物語はその後、移送されたイエスが閉じ込められた安置所から如何にして消え失せたのかという謎へ移る。これこそ本書の題名となっている密室の謎なのだが、これも解ってしまえばなんともチープ。 さて小森氏が冒頭で述べたいつまでも公表されないイエスの復活についての記述だが、私はこれは関係者同様、公表は控えた方がいいと思う。謎は謎である方が魅力的だというが、まさしくこのイエスの復活の謎についてはそれが当てはまる。もしこれが事実だとして世界に公表されれば、世界中のキリスト教徒の猛反発を受けるのではないか。 明るいところで観るお化け屋敷ほど陳腐なものはない。まさしくこの謎はそっとすべき謎だと私は云いたい。 学者は歴史の謎を明らかにするのが仕事なのは解るが、その逆もまた学者の仕事なのではないか。小森氏が崇高なる使命感で小説という形で発表したこの謎は、その意気込みとは全く逆に、蛇足を連ねただけのように感じてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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鮎川賞に応募した『慟哭』でデビューした貫井氏の『症候群』シリーズ第1作。
貫井氏といえば、『必殺仕事人』に代表される“必殺”シリーズの大ファンであるが、本作はその趣味を存分に活かしたシリーズと云えるだろう。ただ現代を舞台にしているので、同趣向の『ハングマン』シリーズの方が近似性が高いかもしれない。とにかく環敬吾率いる彼のチームのメンバーの召集シーンからニヤニヤしてしまった。 本作に登場する環率いるチームのメンバーは、平常時は土方をやっている倉持真栄、托鉢僧の武藤隆、そして警察の職を追われ、探偵業を営んでいる原田柾一郎である。 で、本作ではリーダーの環ではなく、メンバーの1人、原田にスポットを当て物語は進行する。原田が担当した失踪人、小沼豊の捜査と彼の家庭が抱える問題が交互に語られる。そしてこのサブストーリーとも云える原田の問題が環たちが捜査している事件と関連性が持ってくる。 この原田が抱える問題とは高校生になる娘の反抗期である。家族と一緒に過ごさなくなり、夜毎ライブハウスに友達と出入りし、帰りは夜遅く、久々に会ってみれば化粧をしている。さらには不登校が発覚するという、いわばどこにでもあるような反抗期なのだが、今や子を持つ親の身とすれば他人事とは思えず、私ならどう対処しようと頭に描きながら読んでしまった。 やがて事件は複層する失踪事からやがて若者達に蔓延しているイリーガルドラッグへと重心が移っていく。 特に注目したいのは本作に登場する犯罪の片棒を担いだ人々というのが、実は私たちとなんら変わりのない、ごく普通の人々だということだ。 彼らは現状に不満を抱きつつ、毎日を過ごし、その現状から脱出したいがために、一線を少しだけ越えてしまった人々なのだ。その一線というのが、誰しも抱く「このくらいなら大丈夫だろう」という軽い気持ちで始めた犯罪行為というのが非常に心苦しい。なぜならここに書かれている人々は自分かもしれないからだ。 こういう作品を読むと、我々の安定した暮らしというものがいかに危うい日常のバランスの上で成り立っているかが実感させられる。 失踪した彼ら・彼女らも毎日親や近所、会社の上司から与えられるプレッシャーから逃れるために自ら選んだ道であり、実際、事件の真相解明を依頼されたチームを束ねる環はこの一連の失踪事件に関しては主謀者である馬橋の改心を促しただけに留め、本質的な解決をもたらしていない。真相を解明し、後は当事者に判断を委ねるという形を取っている。 更に加えて、この馬橋という男が、昨今の大不景気で続出する首切り問題の対象となっている契約社員という立場が故にこのような犯罪に手を出したという事情も同情できるだけに切ない。 群衆の中の孤独。 東京ほどこれほどぴたりとくる街もないだろう。日本最大の人口を誇りながらも人はその群れの中でいとも簡単に掻き消えてしまう。小市民である彼らはそんな中で、限られたコミュニティにアイデンティティを見出しながらひっそりと暮らしている。 海外で暮らす今、失踪人たちの矮小さが痛切に響いた。 初の貫井作品だったが筆致は堅実で迷いがない。ただ器用すぎて派手さに欠けるとも思った。 あと失踪人捜しという物語の軸足がいつの間にかドラッグ密売グループの摘発に移っているのも、ぶれている感じさえある。 更には冒頭に述べたように作者自身がファンであるドラマシリーズを感じさせるため、物語や構成もドラマの場面が浮かぶきらいもあるが、純粋に愉しめはしたので及第点というところか。本棚に並ぶ彼の作品を次に読むのが楽しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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国名シリーズ7作目の本作は今までとは違う怪奇趣味を押し出した異色作だ。
カナダへの休暇旅行からの帰り道で出くわした山火事のため、山の頂上に聳え立つ屋敷に泊まらざるを得なくなるクイーン親子。そしてそこにはなんだか怪しげな雰囲気を身にまとう住人たち。そしてクイーン警視自らも巨大な蟹のような化け物の幻想を見るという、今までにない不思議な導入である。 もっとも特徴的なのは山火事で周囲から隔離された《矢の根荘》で起きた殺人事件にクイーン親子たった2人で事件に挑まなければならないという「雪の山荘物」だということだ。こういういつもとは違う状況のためか、エラリーはいつもより饒舌で、自らの推理が確固たる物になる前から推理を披瀝し、悉く間違えを犯すという一面を見せている。 さらにもう1つの大きな特徴は“読者への挑戦状”が挿入されていないということだ。事件は密室でもなく、館にいる誰もが成しえるような状況であったが、2つ起きる殺人事件のいずれの死体の手には半分に切り裂かれたトランプが握られており、本作のメインの謎がこのダイイング・メッセージにあるに違いないと思われ、それに関して推理を巡らす事もできるので、私はなぜ挑戦状が入っていないのか不思議に思っていた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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運命の悪戯、そうとしかいいようのない三人の運命、いや文字通り“宿命”を描いた作品。
晃彦、勇作、美佐子の抱えるやり場のない感情の行方、お互いの間を交錯する想いが届きそうで届かないもどかしさが読み進むにつれて胸に痛切に響いてくる。 小学校からのライバルであった瓜生晃彦と和倉勇作。片や地元有力企業の創立者の息子の御曹司であり、片や一介の警察官の息子。 しかし勇作は天性のリーダーシップと知性で学年の人気者になるが、どこか世の中を嘲笑っている晃彦は孤高の存在として誰にも取り成す事もなく、我が道を行く。しかしそんな彼が唯一気にしていた存在が勇作であり、事ある毎に勝負してきた。そして勇作は晃彦に小学校、中学校、高校とずっと勝てないでいた。 やがて2人は同じ統和医科大学を受験するが、晃彦は受かり、勇作は不合格で浪人生活に。その浪人中に美佐子と知り合い、再び同じ大学を受験しようとする。今度こそ合格確実という時に父親が脳溢血で倒れ、受験できなくなる。バイトをしながら受験勉強をするが、耐え切れなく、警察学校に入学する苦渋の選択をする。 典型的な勝ち組と負け組を描いた対照的な2人の人生。自然、読者は勇作を応援する側に回ってしまうだろう。 しかしこれこそ東野圭吾氏が仕掛けたマジックなのだ。 家族のみならず妻の美佐子にも決して心の内を打ち明けず、いつも一人超然と佇む晃彦。彼の真意が終章に至ってようやく読者の眼前に明かされる。このとき、東野氏がマジックを解くのに、指をパチンと鳴らした音が聞こえたような気がした。 とにかくこの3人の人生に纏わる奇妙な結び付きが、冒頭からモヤモヤとした形で少しずつ眼前に差し出されるが、それは眼の前の靄を晴らすのではなく、新たなる靄を生み出し、更に読者を物語の深い霧の中へといざなうようで、居心地の悪ささえ感じた。しかしこれこそ東野ミステリの特徴であり、私はこういう趣向のミステリを待っていた。 本作は三角関係という恋愛小説の色も持ちながら、青春小説の側面もあり、なおかつ明かされる三人の過去には科学が生んだ悲劇という通常相反する情理が渾然一体となって物語を形作っているのが特徴的だ。この絶妙なバランスは非常に素晴らしい。 特に科学の側面を全面的に押し出さず、あくまで人間ドラマの側面を押し出して物語を形成したのは正解だろう。やはり「推理小説」はあくまで小説であるから、物語がないと読者の心に響かない。 個人的には勇作と美佐子が若かりし頃に交際していた件がベタながらも鼻にツンとくるような甘酸っぱい感慨を抱かせ、非常に印象に残ったエピソードだ。読んでいる最中、尾崎豊の”I Love You”が頭の中を流れていた。 しかし東野氏の熱すぎず、かといって冷めすぎない抑制の効いた筆致がありがちな過剰演出を抑え、逆に読者の心に徐々に一つ一つの事実が染み込んでいく。そして最後に明かされる真実が哀切に響いてくる。 ミステリを書く上で、これは最大の長所であり、続けて読んでもくどさが無く、飽きが来ない。これこそ彼の最たる特質だろう。 考えるに、本作は東野氏の第2期の始まりを告げるものではないだろうか。 デビュー以後、一貫して学生・学校を舞台に紡いだ青春ミステリを『学生街の殺人』で以って一旦結着し、その後『魔球』、『鳥人計画』といったスポーツミステリ、『浪花少年探偵団』、『犯行現場は雲の上』、『探偵倶楽部』といったライトミステリ、『十字屋敷のピエロ』、『ブルータスの心臓』といったオーソドックスなミステリを経て、再び青春小説のテイストとそれまでに培った科学知識を応用したミステリのハイブリッドを目指した人間に焦点を当てた東野ミステリの始まり、本書はそんな作品のような気がしてならない。 デビュー当時の青春ミステリと違うのは既に大人になった彼ら・彼女らが過去を振り返るところにある。そして事件の鍵がその過去に因縁に深く根差しているところにこの第2期の特徴があるように思う。 また本作が刊行された90年というのは一世を風靡した『羊たちの沈黙』が訳出された一年後である。つまりサイコホラー元年の翌年、世にはこの手のサイコホラー系ミステリが横溢していた。 そして本作もまたこの類いの影響下にあったに違いない。人の心こそ最も怪奇、恐ろしいというこのジャンルは当時画期的であり、東野氏はその側面に脳科学の分野にスポットを当て、独自のアプローチをしたに違いない。そして恐らく本作は後の『変身』に続く里程標的作品になっているだろう。 しかし本作はなんといっても文庫版の表紙のイラストに尽きる。この何の変哲もない屋敷のイラストが開巻前と読了後では全く印象が変わってみえる。 本書がスティーヴン・キングの代表的サイコホラー、『シャイニング』の表紙に酷似しているのは単なる偶然ではないのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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とにかく冷静に読めない小説だ。なぜならあまりにリアルすぎるからだ。
老化が一気に進む恐るべき奇病のパンデミック(世界的大流行)を扱った本書。 前書きでも言及されている鳥インフルエンザから進化した新型インフルエンザのパンデミックが恐れられている昨今、正にタイムリーな小説だった。とはいえ、本作が書かれたのはなんと16年前の2002年。この頃、既に現在の新型インフルエンザの発症は実は予見されていることに驚いてしまった。 本作ではフィクションの形を取っていながらも実はかなり真実に近い内容だという。地球温暖化で北極・南極の氷が溶け出し、その厚い氷に眠っているのは古代に流行した未知の病原体であったというのが発想の素になっているが、実際にこういう事実は発見されているのだという。 本書の中には前書きにも言及されている、クジラやアザラシなどの海洋動物ではありえなかったインフルエンザの発症、世界最新の湖、バイカル湖に眠る紀元前数万年前の汚泥に潜むウィルスなど、世界的な異変の実体についても物語に盛り込まれており、これが絵空事とは思えない迫真性をもたらしている。 そしてこの時点でこんな小説が書かれているのにも関わらず、パリ協定から離脱宣言をしたアメリカはなんとバカな国だろうと義憤に燃えずにいられなかった。無論、フリーマントルはその事も念頭に置き、地球温暖化を否定したアメリカが、それが原因としか思えない未知の病原体の発症を認めるという一流の皮肉を使っている。これを物語の発端にすることこそ、フリーマントルが実施したアメリカへの痛烈な罵倒であろう。 しかしこの作家が凄いのはそのアメリカのシンクタンクの連中ならばこういうストーリーで温暖化を認め、逆にそれを糧にして更に世界のリーダーシップをアピールするに違いないときちんとシミュレーションし、淀みなく物語に溶け込ませているところだろう。本書を読んだアメリカ人のなんとも云い難い顔が目に浮かぶようだ。 裏を返せばフリーマントルがアメリカにパリ協定の同意をさせるにはどうしたらよいかを示した一つの指針であるとも云える。 あの国の巨大産業と政治との癒着が根源と成っている愚行を正すにはこういう人類を滅ぼすぐらいの奇病が発生し、それが地球温暖化が原因である事を認めさせるくらいでないと、あの国は決してその重い腰を上げないし、固い頭を柔らかくしないだろうと声高に叫んでいるように読めた。もし同様のことが起きた場合に、こうすればあの国も協定に同意するだろうというプロセスを、詳らかに記した一例とも云える。 そしてこういうパニック小説を書きながらもフリーマントルは内外の政治的駆け引きを盛り込む事を忘れない。調査の主導権を握ったアメリカではこの機会を利用して成り上がろうと野心を燃やすアマンダとポールのせめぎ合い、協力国の1つ、イギリスではクーデターに失敗した科学相ピーター・レネルが再度首相の支持者を略奪すべく、画策する。 はたまたそれらの国々が病原体撲滅が成功した暁に、世界中からの賞賛を得、国際的信用と影響力を獲得するために、また逆に病原体が世界中に蔓延し、戒厳令がもはや意味を成さなくなった時の事態に備え、責任逃れをすべく、政治的交渉・策略に頭脳の全てを傾ける。 未知の病原体の正体の解明、そしてそれを自身の地位向上に利用しようと画策する政治家たちの陰謀、これらが50:50の割合で絶妙にブレンドされて物語が進行していく。 意外だったのは今までのフリーマントルの諸作では最も人非人として描かれていたロシア人が、最も人道的な考えを持っていることだ。 曰く、哀しい事に、こういった各国の協調姿勢が医学的観点から観て世界保健機関WHOに警告を与える事は絶対に必要だという議論が一切無く、彼ら全てが真っ先に個人への反発もしくは政治的反動を最小限に抑えることに専心している。 逆に云えば、この小説が出るまで、なぜ今までのパニック小説にはこういった政治的駆け引きの一切が考慮されていなかったのだろうかと疑問を持ってしまう。それらはあえて添え物でしかなく、常に物語の核心は敵であるパニックの正体に注がれていた。 翻せばこれこそフリーマントルでしか書けないパニック小説という事なのかもしれない。 しかし畏れ入るのは、およそ門外漢である遺伝子学、ウィルス学、病理科学の分野に関して、かなり詳細な考察を述べていることだ。同じくこれら専門知識に関して無知である一般読者に理解させるために、それぞれの調査・検査のプロセスを事細かに、秩序立って述べる様は一朝一夕で仕入れた付け焼刃的な知識では到底書けない域にまで達している。 しかもこの未知の病原体の正体を数々の症例、世界中から寄せられた感染の情報を手掛かりにして、一流の頭脳集団がディスカッションを重ねて解き明かす様は、謎を解き明かすミステリになっているのだから脱帽である。この作家の取材力とそれを噛み砕く理解力の凄さを改めて思い知らされた。 そして本作ではこういうパニック小説にありがちなハッピーエンドが用意されていない。これはこのフリーマントルという作家が時折見せる非情などんでん返しである。正に衝撃のラストである。これは手遅れになる前に行動を!と叫ぶフリーマントルが投げかけた冷徹なる警告であろう。 しかし本書を読むには今が最適の時期だと改めて思う。今、正に新たなる未知の病原体の恐怖という危機に直面しているからこそ、多くの人に読んでもらいたい作品だ。 |
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