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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1433件
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京極夏彦氏鮮烈のデビュー作。綾辻以降の新本格から第2ステージに移行した本格ミステリシーンの時代の転換期の象徴とも云える妖怪シリーズ第1作だ。
とは云え、一読、実に真っ当な本格ミステリというのが率直な感想だ。 元々ミステリとは始祖ポーが、明らかに怪物の仕業である、または説明のつかない怪奇現象の類いであると思われた事象を実に明解な論理で解き明かすことを主眼にした文学形態である。つまり人々が恐れていた謎という闇の部分に論理という光を当て、人智の物とする行為。 この京極堂こと中禅寺秋彦の「憑物落とし」は正にこの行為そのものである。だからこの妖怪シリーズは妖怪というモチーフと物珍しさ、憑物落としという興趣くすぐる演出で新たな本格という風な捉えられ方をしたが、実は黄金期ミステリ時代への原点回帰的作品なのだ。 この現代社会にそぐわない憑物落としを違和感なく作品世界に落としこむために設定した舞台が昭和二十七年という時代設定である。戦後からようやく復興の兆しが見えてきたこの時代、闇夜はまだ怪異の居場所だった。そんな異界と斯界がまだ密接に隣り合っていると信じられていたこの時期こそ自身の作品を成り立たせるのがこの時代であったと後日作者自身が述べている。 そしてそれが時折挟まれる幻想味溢れる眩暈めいた文体も相まって、独特の作品世界を構築する。理詰めで構築される博覧強記の京極堂の薀蓄語りとどこか情緒不安定な“信頼できない”語り手である関口の妄想めいた語り口が程なくブレンドされており、デビュー作とは思えない独自の作品世界と文体を既に確立しているのが素晴らしい。 またこのシリーズがなぜ斯くも人気があるのかがこの1作で解る。 非常にキャラクターが立っているのだ。 古本屋京極堂を営む陰陽師安倍晴明の流れを汲む元神主で憑物落としを副業とする中禅寺秋彦。 三文作家でワトソン役を務める俗っぽい語り手である関口巽。 出版社に勤める活動的な女性で京極堂の妹敦子。 そして眉目秀麗、何をやらせても非凡な才能を持ち、更に人の記憶が見えるという特殊能力を持った薔薇十字探偵社を営む榎木津礼二郎。 関口と榎木津の戦友であり警視庁の刑事である木場修太郎。 第1作から斯くも個性的なキャラクターが総出演し、それを自在に物語に配置し、躍動させる京極氏の筆の冴え。 そして全編に繰り広げられる薀蓄、これまた薀蓄の波。 民俗学から端を発す妖怪、幽霊の存在についての考察から宗教論に錬金術、はたまた大脳生理学から量子力学まで、その内容は幅広く、しかも詳細だ。しかもこれらは単なるガジェットではなく最後の憑物落としに実に有機的に結実するのだから読み落としてはいけない。 なおこれも翻って考えれば、黄金期ミステリを代表するヴァン・ダインのファイロ・ヴァンスに由来している事が解る。先にも述べたがこのシリーズは実に本格ミステリの王道に忠実なのだ。 そしてこれら博学な知識を動員して説かれる論理はなかなか心地よい物がある。幽霊を視認する事と脳の作用に関する考察、歴史上の人物と御伽噺の登場人物の存在として等価性とそれに対する現実と想像との判断基準に関する考察、知性や道徳性が生物の種の保存という本能に及ぼす歪んだ価値観、などなど興味は尽きない。 その中でも特に他人の記憶が視覚化するという榎木津の特殊能力に対する京極堂の論理的推論は非常に面白い物があった。 その榎木津もエキセントリックな風貌も相まって御手洗潔が初登場した時を思い出させる印象的なキャラクターだ。個人的には一番好きなキャラクターである。 そして話が進むにつれて、噂の久遠寺医院は伏魔殿の如き様相を呈してくる。 蛙のような赤ん坊、産まれてまもなくいなくなる嬰児、これら奇妙な噂と謎が実に間然なくロジックで解き明かされる心地よさ。 しかしその真相は実に複層する狂気が折り重なった戦慄の真相。 惑う人ほど弱く、そして自らの視野を狭め、最悪の選択をする。 このあまりに非人道的な行為が今回の失踪事件に繋がるロジックの妙はおぞましさはもとより耽美な美しささえ感じるほどだった。 この業が“姑獲鳥”なる妖怪を生み出してしまったのだ。 とまあ、実に私の好みと合った作品で、ここまで激賞の連続だが、メインの謎に関する真相はいささか期待はずれという感がないわけではない。 二十ヶ月間も妊娠している妊婦、密室から失踪した夫の行方と非常に不可解かつ魅力的な謎を提示しているが、その真相との落差が激しかった。 今まで述べたように、この妖怪シリーズは決して斬新な本格ミステリではなく、むしろ過去のあらゆる分野からモチーフを取り出し、それを咀嚼した上で完成した物語という一枚の絵であることは識者であれば一目瞭然だろう。 しかしそれは全くこの作品を貶める物ではない。逆に温故知新の素晴らしき実践例だと私は褒めたい。 本格ミステリに必須ともいえる謎という暗闇に日本古来より伝わる妖怪という怪異を施したこのシリーズと作者の着想。更には知識欲の充足をも与えてくれる博学な作者のデビュー作とは思えぬ練達の筆捌き。 次作を早く読みたい気分で今は胸がいっぱいだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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死者が見えるという特殊能力を持った青年オッド・トーマスの物語。
オッドは死人が訴えるメッセージを読み取り、彼らの無念の死の元凶となった犯罪者を捕まえる事を厭わない。しかし彼はそれには決して銃を使わない。 オッドは朝起きると、まず今日も生きていた事に感謝し、その日一日奉仕して今日も生き延びられる事を祈る。 これらのオッドの性格付けと見なされていた設定が後半、彼のそれまでの人生に与えた影響によるものだというのが解る。 彼の両親は離婚しており、プレイボーイの父親と美しい母親は今でも健在だ。しかし彼らは社会的常識の欠落者、というよりも利己中心で自己保身の性格が突出した人物、つまり結婚生活に全く適していない人物なのだ。 特に凄絶なのはオッドの母親だ。彼女の場合は精神的不均衡に由来するものだが、自分を守るが故に他者との係わり合いを徹底的に嫌うその性格、そしてそれにより被ったオッドのトラウマを想像すると背筋が寒くなる。子供が風邪や病気で苦しんでいるのに、その世話に関わる事で“要求される事”を嫌い、それに対応する事で自分の何かが奪われていく負担を感じる母親が、オッドの咳を止めさせるために隣りに添い寝し、一晩中銃口を彼の眼に突き付けていたというエピソードは凄まじい。 この一種作り物めいている人物設定だが、実際にいるのではないか。モンスター・ペアレンツと揶揄される自分勝手な親が蔓延る世の中、全くおかしな話ではないと思えるのがなんとも痛ましいところだが。これを筆頭に狂気の90年代と作者が常々訴えている人間の利己主義の暴走が本書でも幾度となく語られる。 このような虐げられた幼少時代を過ごしたオッドがサイコパスにもならず、ダイナーのコックとしてつつましいながら恵まれた生活を送っているのは彼を取り巻く人々の慈愛と、彼の運命の恋人ストーミー・ルウェリンの存在。 特にストーミーはオッドの精神の拠り所であり、彼のこの上もない宝物だ。このキャラクターは白眉であり、理屈っぽいところは数あるクーンツ作品で見られるヒロインの典型なのだが、彼女に対するオッドの深い愛情がそこここに配されていることで、なんとも愛らしい人物になっている。 そして開巻一番驚いたのは今まで作品に挿入されていたクーンツ自作の詩が『哀しみの書』から『歓喜の書』に変わっていたことだ。世界は哀しみに溢れ、彼の描く世界・物語は恐怖の連続であり、登場人物たちはまともに見えて実は狂気と正気の淵でギリギリの均衡を保っている。終わってみればハッピー・エンドだが、物語はほとんど救いが見られない様相を呈しており、クーンツはその絶望を悲しむ、それこそ彼の作品自体が『哀しみの書』となっているように感じられる。 それがしかし本書では『歓喜の書』となっている。この答えは最後になってようやく解ったような気がする。それについては後述しよう。 さて本書を読んで連想するのはハーレイ・オスメント演じる死者が見える少年コール・シアーが登場するM・ナイト・シャマラン監督の映画『シックス・センス』。主人公オッド・トーマスはその少年が成長した姿のようだ。死者が見えるだけでなく、その能力を使って死者の悔いを晴らす、起こりうる惨劇を防止するために行動する彼の信条はあの映画の後の少年だとしても違和感がないだろう。 ちなみに映画は99年の作品で本書は2003年の作品だから、恐らくクーンツはあの映画を念頭に置いていたのではないかと思われる。そしてそれは最後の最後で明かされる、ある事実からもその影響が強く表れている事が解る。 そしてこの2003年という年に注目したい。この頃のアメリカは哀しみが国中を覆い、死の影が誰も彼もに付き纏っていた。それは本書でも語られている2001年の同時多発テロという空前絶後の悲劇によるところが大きい。 そして本書でもショッピングモール内での銃乱射事件というテロが物語のクライマックスになっている。これが本書におけるオッドの使命なのだが、この事件でオッドは最大の不幸を経験する。 物語半ばでもしやと想像していたことであり、でもハッピー・エンドで終わるクーンツだからそれはないだろうと思っていたが、作者は敢えてそれを用意した。 ここでクーンツが本書の冒頭に『哀しみの書』ではなく『歓喜の書』を挿入したのかが私には解った。哀しみを乗越えた後に歓びが訪れる、人はその困難に打ち勝たなければならない。そしてこれこそで哀しみに打ちのめされた人々に対するクーンツからのメッセージだったのだろう。オッドはそれの具現者だというのが最後に解るのである。 しかしなんとも遣り切れない思いが募る。クーンツがこの物語に込めたメッセージは解るがやはりこの結末だけは避けて欲しかったというのが本音だ。 しかしそれが故になぜ本書がオッドによる一人称小説になっているのかもまた読後に解るのだ。それは小説的技巧のみならず、なぜ彼がこの物語を紡ぐ事を友人の作家リトル・オジーに勧められたのか、それが実にストンと心に落ちてくる。そんな多重的な構造を含め、本書は最近のクーンツ作品でも群を抜いて素晴らしく感じるのだから全く皮肉な物である。 オッド・トーマス、君に幸あれ。思わず読後、こう声を掛けたくなる作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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田中氏によるジュヴナイル小説のような読み物。14世紀のドイツならびにバルト海を舞台にした復讐譚。
ときおり挿入される当時のヨーロッパの情勢と風習が薀蓄のスパイスとしてまぶしてあるのはこの作者ならではといったところか。 ただ復讐譚と書いて想像するのは、不当に虐げられた人物が、その怨みを晴らすために情念を募らせるため、感情的な物語を想像してしまいがちになるが、本書においては史実に基づいて著しているせいか『銀河英雄伝説』、『アルスラーン戦記』、『創竜伝』といった、田中氏を代表する一連のシリーズに比べると、その筆致はかなり抑制された物となっている。作者特有の皮肉を混ぜた饒舌さも成りを潜め、淡々とした物語運びだ。だから読後感も非常にあっさりとしている。 そして題名ならびに若き船長という主人公の設定から、私は田中氏初の海洋冒険小説もしくは帆船小説なのかと想像したが、さにあらず、上にも書いたがやはり14世紀のドイツを描いた歴史小説となっている。 あとがきによれば小学生の頃に百科事典で出合った「ハンザ同盟」という言葉がこの物語を書く動機になっているとのことだ。 博学な田中氏のこと、物語に散りばめられた当時の風習や生活様式など、細かな知識、情報は我々が学校の歴史の授業では教わらない事が多く、また断片的に教わった情報を上手く物語に反映する事で、作中人物らの生活が非常にリアルに伝わってくる。 作中人物の中でとりわけ印象に残るのは漂着した主人公を助けるホゲ婆さんなる人物。この女性、数百年生きた魔女などとも呼ばれており、世界各地の豪商、貴族、騎士らがなんらかの形で助けられ、助成を受けた人物それぞれがその正体を憶測し、そのどれもが違っていながらもさもありなんと思わせる謎めいた女性である。 誰でも抵抗なく、すっと読み終わってしまう作品だが、それが故に残る物もあまりない。恐らく1ヵ月後にはどんなストーリーだったかも忘れてしまうのではないか。 小さく纏まったがために、物足りなさが残る作品であるのは残念である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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日本では邦題が示すように国名シリーズに数えられているが、原題は“The Door Between”と全く別。本国アメリカでも国名シリーズからは外されている、なんとも微妙な立ち位置にある本書。
因みに国名シリーズに数えるならば10作目と非常に据わりがいいため、これが故に日本ではシリーズの1作として考えられている節もある。しかし、私見を云わせていただければ、やはりこれは国名シリーズではなく、『中途の家』同様、第2期クイーンへの橋渡し的作品だと考える。 まず単純な理由を云えば、国名シリーズの専売特許とも云うべき「読者への挑戦状」がないからだ。しかしこれはほんの小さな違いといえよう。読み終わった今、この事件を読者が当てることはまず不可能だろうし、もし挑戦状が挿入されていたとしたら、アンフェアの謗りを受けることも考えられるからだ。 私が感じた大きな特徴は次である。 国名シリーズならびに悲劇四部作といったそれまでの長短編は発生した殺人事件に関わる複数の容疑者の中から犯人を搾り出す構成であったのに対し、『中途の家』と本作では事件の容疑者は1人に絞られ、その人物の冤罪を晴らすという構成に変わっている。これは『スペイン岬の秘密』で最後にエラリーが吐露した、自身が興味本位で行った犯人捜しが果たして傲慢さの現われではなかったか、知られない方がいい真実というのもあるのではないかという疑問に対する当時作者クイーンが考えた1つの解答であるのではないか。即ち部外者が犯行現場に乗り込んで事件の真実を探ること、犯人を捜し出すことの正当性を無実の罪に問われている人物への救済へ、この時期クイーンは見出したのではないだろうか。それは最後、真犯人に対してエラリーが行った行為に象徴されているように思う。 そしてもう1つ、敢えて『中途の家』との類似点を挙げると、それは恋愛の要素が物語に織り込まれていることだ。 しかしなんともぎこちない登場人物のやり取りは三文芝居を見せられているようで、上っ面を撫でただけのような感じがするのは否めない。ちょっと背伸びしているような気がする。 本書では犯罪のプロセスを証拠によって辿るというよりも、犯行に携わった人々の心理を重ね合わせて、状況証拠、物的証拠を繋ぎ合わせ、犯罪を再構築する、プロファイリングのような推理方法になっているのが興味深い。そしてその手法は事件が解かれた後にエラリーと真犯人の間で繰り広げられる第2の真相において顕著に見られる。 これは先に述べた物語に恋愛感情を絡めた事に代表されるように、作者クイーンは人間の心理への謎へウェイトを置くようになったのではないかと思う。 特に被害者カーレンの死の真相は、非常に観念的な要素を秘めているのがその最たる特徴だ。 そして文中の脚注でも述べられているが、そのカーレン・リースには実在のモデルがいるとのこと。そのモデルとなった女性エミリー・ディキンソンも女流詩人という文学者で厳格な父親の影響ゆえに、父の死後、自宅から一歩も外出することなく一生を過ごしたのだという。こういう奇異な生活をした人の心理こそエラリーは興味深い謎と思ったのではないだろうか。 これら第3者による事件の真相解明の意義、人間心理への興味については今後の作品を読むことでまた考察していきたい。 しかし10作以上も出しながら未だにクイーンの作品で描かれる警察の捜査には不可解なところがある。 流石にエラリーが殺人現場の持ち物を無造作に手袋もせずに触れる際に「指紋はすべて調べてある」というフォローが入るようにはなったが(それでも現場保存という観点からこの行為は問題ありだが)、今回はエラリーが屑箱からカーレンが死に至った凶器となる鋏の片割れが見つかり、しかもそれをクイーン警視が凶器と認識している箇所があるが、これはどう考えてもおかしいだろう。事件の凶器と見なされる物は重要証拠であり、これらは全て警察によって回収し、保存されなければならない。しかも拭われたとは云え、被害者の血液も付いており、ましてや冤罪に問われようとしているエヴァの指紋さえ付いている可能性もあるのだ。それを凶器と知りつつ、現場に放置しているとは全く別の世界の話だとしか思えない。 クイーン作品の、このような警察捜査に関する無頓着さが未だに解せない。 本書は前述したように「読者への挑戦状」は挿入されていないものの、一応読者が推理できるような作りにはなっている。いつもならば私は一応の犯人と犯行方法を推理するのだが、本書ではしなかった。 というのもある新本格作家の作品を読んだがために、真相を知っていたからである。 本書未読の方のためにその名を挙げておくとそれは麻耶雄嵩氏の『翼ある闇』である。私と同じ不幸に見舞われないための一助になれば幸いである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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既にベテランの本格ミステリ作家として活躍する芦辺氏の鮎川賞受賞作にしてデビュー作。
題名が示すように主要登場人物は二桁にも上る大学のサークル仲間。そのうち8人が死体になるという大惨劇。時刻表トリックに、密室殺人、暗号、毒殺に誘拐事件、更にはダイイング・メッセージと、本格ミステリで用いられるモチーフをふんだんに盛り込んだ贅沢な作品だ。 本書の特徴は冒頭に作者自ら本書で採用したトリックや事件の背景となる事件について断片的に語られていること。作者の弁を借りれば、謎解きの段になって語られる読者には知りえなかった犯行経路、機械的トリック、背後の事実をあらかじめ提示してそのハンデを解消させようというのがその意図であるが、読後の今ではそれもまた前知識になれこそすれ、これらの情報を以って、犯行及び犯人を特定するのは至難の技であるといわざるを得ない。 しかしそれは不満ではなく、これがまた謎解きにカタルシスをもたらす一因になっているのが憎めない。この趣向は古典ミステリにおけるクリストファー・ブッシュの『完全殺人事件』と類似しており、恐らく古今東西のミステリに精通した作者の事、この作品が念頭に置かれていたのは間違いないだろう。 そして物語の大半を登場人物の手記が占められている本作、前述のようにかなり数の事件が起きるだけに、構成はかなり凝っている。 なんと語り手である十沼自身も殺人鬼の毒牙にかかって亡くなってしまうのである。これには度肝を抜かれた。通常ならば物語の語り手とは犯人ではなく、探偵役もしくはワトスン役、更には傍観者という暗黙の了解があるが、それを覆すこの趣向にはニヤリとさせられた。 そしてようやく本作の探偵役である森江春策の登場。なかなか心憎い演出だ。 そして彼の口から開かされる連続殺人事件の構図は複雑で、とても一読者が看破できるような代物ではない。8件もの事件を時系列に並べるだけでも大変だし、読後の今、その込みいった事件の全貌を十全に理解できたかといえば心許ない。 これらふんだんに盛り込まれたトリック、ロジックを過剰だと切り捨てればそれまでだが、これも芦辺氏が敬愛する鮎川哲也史の名を冠した賞を何が何でも受賞したいが故にその時点での全てを盛り込んだ力作だと評価しよう。 しかし今後芦辺氏の数ある諸作でシリーズ探偵を務める森江春策だが、本書で受ける印象はさしたる特徴も無い、明敏な頭脳を持つ探偵である。関西弁をしゃべり、少し気が弱く、また大きめの頭にボサボサに伸びた髪、高からず低からずといった背格好と、エキセントリックという単語とはかなり距離を隔てた人物設定だ。作中人物の言葉を借りて作者は森江をチェスタトンのブラウン神父に擬えているようだが。まあ、このキャラクターも今後の芦辺氏の諸作で際立ってくるのだろう。 ただしかし、なんとも読みにくい文章。学生時代の、知識ばかり蓄え、社会性に乏しい青臭さを文章で表現しているのだが、悪乗りのように感じてしまってなかなかスムーズに読むことが出来なかった。 常に捻りを加えられたその文章は文字を追う目の動きをノッキングさせ、しばし理解に苦しむところがあった。これは奥田哲也氏の諸作を読んだ時と同様の感覚だ。 前述のように、これは作中の語り手である推理作家志望十沼京一の手記だと解るのだが、それでもなお、悪ふざけの極地とも云えるこの文体には参った。ここでかなりの人が嫌悪感を示し、読むのを止めてしまうのではないだろうか。 謎解きを終えて感じるのは作者の本格ミステリへの深い愛情である。古今東西のミステリを読み、さらにその研究を続ける芦辺氏が過去の偉大なる先達の遺産を換骨奪胎し、紡いだ本作からは彼らに対する深い敬意と本格の火を絶やすべきではないという信念が紙面から迸っている。それが故に筆が走りがちになっているのは否めないものの、この意欲と情熱は買える。 個人的には暗号を解けなかったのが悔しかった。以前ある推理クイズで同種の暗号を見抜いただけに。今私が読むと、上のような評価になってしまうが、もし私が新本格に夢中になっていた学生時代もしくは社会人成り立ての頃に読むとこの評価は変わったかもしれない。 彼がデビューした頃、新本格ブームに乗じて数多の作家がデビューし、また消えていった。 その中で生き残り、今なお精力的に作品を発表し、評価が上がりこそすれ落ちる事のないこの作者の作品をこれからも読み続けていこうと思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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非国名シリーズ第1作(?)。
前作『スペイン岬の秘密』で完結した国名シリーズから脱却した作品だが、本書のまえがきで作者自身が述懐しているように、本書はつけようと思えば『スウェーデン燐寸の謎』とつける事も出来たという。確かに本作ではマッチが重要なキーとなり、謎解きに大いに寄与するから、それでも良かったのだが、作者としてはやはり前作で区切りを付けたのだろう。 片や美しい妻を持ちつつも行商人として安物の品々を売る生活、一方で名家の婿になりながらも、相手は年増の性格のきつい女性という二重生活を送っていた被害者。しかしこういった設定にありがちな、周囲の人間関係を探る事で浮かび上がるこの被害者像は不思議な事に立ち昇らなく、犯人捜しに終始しているのが実にクイーンらしい。 そして今回では容疑者は早々に逮捕され、クイーン作品では初めてとなる法廷劇へとなだれ込む。 今までクイーンの作品では現場に残された指紋、血液、唾液といった証拠の類いが一切無視され、遺留品の数々と被害者の奇妙な姿などを基にロジックを組み立てて犯人を究明する趣向が繰り返されていたため、この法廷劇というスタイルは全く合わないだろうと思っていたが、指紋に対する調査結果を基にした証人喚問も成され、一応体裁は整っている。 つまり本作ではロジックゲームの場を現場から法廷へ移したのがクイーンの狙いだと云えるだろう(それでもエラリーは手袋もせず警察が来る前に現場を調査したりするのだが)。 面白いと思ったのは、今まで警部の息子という特権を大いに利用して興味本位で事件に携わっていたエラリーが本作で初めて他者からの依頼で事件の捜査に乗り出す点。今回エラリーは被害者が100万ドルという破格の保険金を掛けていたことで、保険会社からこれが保険金目当ての殺人事件か否かを探るよう要請される。趣味としての探偵でなく、仕事としての探偵に携わるのが新しい。 まあ、恐らくこの理由がなくともエラリーは自分の旧友が事件に関わっているというだけで自ら事件解明に乗り出すのだろうけれど、この辺の新機軸は当時チャンドラーやハメットに「リアリティがない」と揶揄されていた事に対する作者クイーンなりの配慮かなと思ったりもした。 本書でも“読者への挑戦状”は挿入されており、私も一応犯人を想定したがやはり当らなかった。 しかしなんともアンフェアな感じが漂う真相だ。 理詰めで犯人が突き詰められていくが、やはり大前提を無視したロジックはなんとも頭に染み込んでこない。事件自体も一人二役の生活を送っていた被害者という設定の面白さの割にはシンプルであり、全体として小粒である。 本書の舞台である「中途の家」同様、クイーン作品体系の中休みとも云うべき作品なのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本作も前作同様、第一次大戦開戦の火花がいつ起こるか解らない1913年を舞台に歴史上の人物らとシャーロック、マイクロフト、セバスチャン、ワトスンらが共同し、諜報活動に乗り出す。
前回はアメリカが舞台だったが今回はタイトルにもあるように、ロシア。 自由の国の諜報活動とは勝手が違い、社会主義国家のロシアでは警察以外にも総国民が皇帝秘密警察の手先のように、異分子に対して監視の目を配り、何かあれば報告されているという、セバスチャンにとっては四面楚歌状態がさらに強まった困難な任務となった。 しかもまだロマノフ王朝が国を治める時代の話。 しかしレーニン、スターリンら、後のロシア革命の立役者たちの暗躍も同時に語られ、ロシアの歴史の大転換期と第一次大戦が起こるか否かの瀬戸際の非常に緊迫した雰囲気の中にセバスチャンは晒されており、前作にも増して状況はスリリング。 さらに前作同様、皇帝一族の娘とのロマンスもあり、諜報活動に加え、仕事先の恋もありと、イアン・フレミングのジェームズ・ボンド張りの活躍を見せるセバスチャン。 しかしそれでもなお、なんだか割り切れない物を感じてしまう。 シャーロック・ホームズのパスティーシュ物でありながら、エスピオナージュ作家フリーマントルの特性を生かしたスパイ小説という新たな側面を持ったこのシリーズ。前回はホームズ物という先入観から感じた違和感を拭いきれなかったと述べたが、どうも本作を読むに当たり、違和感の正体はどうもそれだけではないことに気付いた。 それは本作で描かれるシャーロック・ホームズ像である。 正典で描かれるホームズとは超然とし、達観した人物像であり、全てを見抜く全能の神的存在であるのだが、本作では息子とうまくコミュニケーションが取れずに苦悩する父親像、自身の叡智を絶対な物と信ずる自信家、躁鬱の気が見られる非常に情緒不安定な人物像が前面に押し出されている。 従って本作のホームズは時に麻薬の力を借りられずにはいられない弱さを持った人物であり、それを息子のセバスチャンは当然のこと、パートナーのワトスン、兄のマイクロフトらが常に心配している。 特に「わたしは失敗によって苦しむという経験をほとんど味わったことのない男だ」といいつつ、セバスチャンを兄に預け、長く別れていた事を悔いていると自戒するのが象徴的だ。鋭敏さよりも他国で危ない橋を渡る息子に心配し、息子との心の和解を望む弱さを持ったホームズ。 つまりフリーマントルの狙いは云わば御伽噺の人物であった正典のシャーロック・ホームズを長所もあれば欠点もあるという現実的な非常に人間くさい人物として描く事にあったと云えるだろう。私見を云えば、もはや世界一有名なこの探偵はもはや偶像視されており、正典のイメージが定着しているので、この手法はやはり合わないのではないかと思う。 世の中にはいわゆる“スター”と呼ばれる人々がいる。ミュージシャンや映画俳優など、多数の人々が崇拝する存在。彼らは私生活が謎めいているのもまた自身の魅力の1つになっていると思う。 もしそのような人物の私生活、家族内での立場などを知らされ、それがもし我々もしくは近所に住んでいる人たちとあまり変わらないものであれば、自らが描いていた偶像が壊れるような失望感を得るのではないだろうか? 本書で抱くのは正にそういった類いの感覚である。 こういうホームズをシャーロッキアンが期待しているのかどうかというと疑問を持たざるを得ない。他の人の意見も訊きたいものだ。 私なりにこの設定を効果的に活かされる方法を考えてみた。それはセバスチャンが何者か知らされず、彼の協力者を叔父マイク、父の友人ジョンといった具合にファースト・ネームや愛称だけの表記にして、物語の最後に実は彼のラスト・ネームはホームズであり、父親はあのシャーロック・ホームズだったと明かされる手法だ。 これだともし作中でシャーロックが上記のように描かれていても、サプライズと共にすんなり受け入れられたように思う。 第一次大戦前のロシアの情勢を詳らかに描く歴史ミステリであり、スパイ小説であり、またホームズ物のパスティーシュでもある本書。確かにこの上なく贅沢な作品なのだが、上記のような理由でどうしても私には手放しに賞賛できなかった。 |
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2007年に亡くなった藤原伊織氏の江戸川乱歩賞受賞作にして直木賞受賞作。こんな説明が要らないほど有名な作品だが、確かにこれはとてつもないデビュー作だ。
まず冒頭の導入部。久々に晴れた日、公園まで散歩する主人公と休日を楽しむ人々の風景。そして突然の爆発。 静から動への反転が素晴らしく、一気に読者を物語世界に引きずりこむ。 主人公はアル中のバーテン島村圭介。それは偽名で元の名を菊池俊彦という。彼は過去園堂優子、桑野誠の3人で活動していたノンセクトの全共闘時代の闘士の1人だった。 彼が現在のように名を変え、人の目から隠れるようなその日暮らし、その場しのぎの生活を送るようになったのはこの全共闘時代に起こした犯罪が基ではなく、その後それぞれの道を歩き出した3人が人並みの生活を送れるようになったその瞬間に訪れたある爆発事故だった。その時の被害者にも警察官がいたという運命の皮肉。 そんな彼を取り巻く人物も血肉を持っている。島村のかつての友人桑野に優子は無論の事、新興の組を束ねるエリートヤクザ浅井に、優子の娘、松下塔子。 彼らに共通するのは栄光を掴みかけた喪失感だろうか。何かに失敗し、また這い上がろうとし、努力を重ね、そして再び成功に似た何かを掴みかけたその瞬間、運命が眼の前でそれを攫っていく。ただ彼らはそれをあるがままに受け入れる。何かのせいにせず、とにかく生き延びる事にだけ執着して。 主人公の島村の場合はそれはボクサーとしての栄光であった。 エリートヤクザの浅井にとって、それはノンキャリアながらも異例のスピードで出世していく警察官だった時だった。 園堂優子にとって、それは彼女が3ヶ月間、島村こと菊池と暮した短い日々だった。 桑野にとって菊池と優子の3人とともに戦った日々であった。 それらを語る文章になんの衒いも飾りもない。ただ少しばかりの感傷を織り交ぜ、物事が、時間が語られる。その行間に隠されているのは彼らが辿った人生の重み、深みだ。 素晴らしい。時間を忘れる読書を久々に体験した。 逃亡生活を送っていた島村を事件と向き合わせたのは偶然がもたらしたかつての友たちの死。彼らへの弔辞の代わりに誰が彼らを殺したのかを探る。 知らなければいい事は確かにある。笑顔で笑いあった日々、その眩しい思い出に隠された本当の心などはそれぞれの胸の内に仕舞い込んでおけばいい。答えを知る事で失う事があることだってあるのだ。 しかし、失う事ばかりではなく、確かに私こと菊池が得た物もあった。それはかつて一緒に暮した女性の娘の恋心だ。それだけが救いか。 10月の長く続いた雨が止んだ土曜日、新宿中央公園で起きた爆破事件。それは物語の始まりであったが同時に彼ら3人の終焉の瞬間であったのだ。 その運命の瞬間に居合わせた人々が形成する曼荼羅はいささか偶然に過ぎる感じもするとも云えるが、まあそれは措いておこう。 本書の題名にあるパラソルという単語は最後の最後にようやく登場する。ある登場人物がこの言葉に込めた意味とは、以前とは変わり果ててしまったある人物の中に最後に見出した少しばかりの優しさだったのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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父親が経営する会社―本書の場合は義理の父親だが―が悪事に加担しており、それを自分が引き継ぐ事になったら・・・という、クーンツ張りの巻き込まれ型サスペンスをフリーマントルが書くと斯くもこのように実に緻密な物語になるといった見本のような作品だ。
この、ある日突然自分の身に降りかかる災禍ほど恐ろしい物はなく、主人公と読者自身を同化させるとそれは尚更肌身に感じられてくるのだが、フリーマントルの場合はそれが一般の市井の人々のレベルではなく、ハイソサエティクラスの人物達の物語であるから、どうしても明日は我が身といった危機感を感じられないのが難点ではある。 物語は大きく分けて2つに分かれる。 まずいきなり人生最悪の状態に陥ってしまったウォール街一流会計事務所の後継者ジョン・カーヴァーの葛藤とマフィアとの戦いの決意をするまでの前半部。ここに絡んでくる2人の女性、妻のジェーンと愛人のアリスはまだ脇役と云っていい。どちらかと云えば独立した女性アリスの方が何かにつけジョンをサポートしており、パートナーの役割を担っている。 そして物語中盤、ジョンが亡くなってからはこの2人の女性の物語となる。ようやく原題の“Two Women”の出番だ。 この2人の立場は2人を追うマフィアの魔手をかいくぐりながら主客転倒して物語は流れていく。特に愛人であるアリスがその存在を知らないジェーンを半ば誘拐する形で連れ出す展開はツイストが効いている。 やがてアリスと亡き夫ジョンとの関係を知らされ、ジェーンにある種の芽生えが生まれてくる。これはお嬢様として育てられ、何不自由なく与えられた女性の自立がテーマになっていると述べたいところだが、どうもそう簡単に一言で済まされない読後感がある。 私が最後読んで思ったのは、女は怖いということだ。 女性は男性に比べて情理のバランスが取れているというのが通説だ。だから男は女には口では敵わないのだと云われるのだが、このジェーンとアリスも1人の男性を巡る正妻と愛人との関係なのだが、どうにもお互いを憎みきれない感情を持っている。それは一緒の男性をお互いに自分なりの方法で愛したからという理由から来ている。通常ならばここから2人お互いに手を組み、共同戦線を張ってマフィアから逃れ、FBIに協力するという形になるのだが、フリーマントルはそんな簡単には物語を運ばない。 こうして見ると本書のテーマとは、やっぱり女の恐ろしさではないかと思える。女性の微笑みの裏に隠された本当の思いとは誰も解らない。 フリーマントルがさほどドロドロとした女の戦いを描かなかっただけに、却ってうすら寒さを感じるのだった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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表題作と「ヘルター・スケルター」2編が収められたノンシリーズの中編集。
「エデンの命題」は正直云えば本作は過去の本人の作品のヴァリエーションの1つに過ぎないと云えるだろう。それは私にとって不朽の名作である『異邦の騎士』だ。 実は読んでいる最中に本書の企みが解ってしまった。というよりも恐らくほとんどの読者が解るのではないか。あまりに露骨過ぎるミスリードである。 原本の『異邦の騎士』がこの上なく好きなだけに、本作での見え見えの作意に憤りさえ感じた。 ただアスペルガー症候群という自閉症の1つに焦点を当てたことが島田氏の社会に目を向けたテーマの探求と今日性を表している。 特に自ら掲げた「21世紀本格宣言」をさらに実践すべく、本作にも最新科学の知識がふんだんに放り込まれている。今回扱われたテーマは遺伝子工学、それも特にクローン技術に焦点を当てたものだ。 これに関しては既に島田氏は自著『21世紀本格宣言』で述べられていたため、これを改めて実作のテーマに採用したに過ぎない。つまりあのエッセイで俎上に上げられた数々の最新科学のテーマは、島田氏が今後テーマに挙げる内容を列記した物だと云える。逆に云えば、島田氏の手による「21世紀本格」を楽しむのならば、同エッセイはむしろ読まない方が十分楽しめると云える。事前にネタを知らずに済むだけに。 この作者の意図は何なのだろうか?最先端の科学知識を導入すれば物語も新たな息吹を与えられることを証明したかったのだろうか?しかしそれは残念ながら失敗していると思う。知識の敷衍に力点が置かれ、物語が薄っぺらいものとなっている。 私が懸念するのは本作を読んだ方が後に『異邦の騎士』を読んで、「なんだ、これあの短編の引き伸ばしヴァージョンだ」などと陳腐な感想を抱くことだ。自らの名作を自らの手で汚してしまった、そんなやりきれない思いのする作品だ。 なお題名の「エデンの命題」というのは、具体的に何を指すという物ではなく、それぞれの人生における守るべき信条、達成すべき大いなる目標といったシンボル的な意味が込められているようだ。つまり自身の安息の地であるエデンを維持するために守るべき原則ということになるだろう。 2編目「ヘルター・スケルター」はトマス・クラウンという記憶喪失者の物語。 これも脳科学をテーマにしたミステリ。本作では脳の各部位、各分泌液の機能が明らかになった2005年当時での最新の知識を活用して人間の性格、趣味・嗜好にどのように作用するかが詳らかに専門的に説明される。 これは『ロシア幽霊軍艦事件』で登場した自らをロマノフ王朝の皇女と名乗る数々の奇妙な行動を起こす老女の行動原理を大脳生理学の視点から分析した手法と同等だ。 本作で取り上げられるトマス・クラウンという男性は、幼少時に動物虐待、万引きや盗難などの非行を行い、その後ヴェトナム戦争に駆り出された後、帰国して婦女暴行殺害で逮捕され、30年間の服役を終えた老人である。この、物語の登場人物としては別段珍しくもない、チンピラの行動原理を同じように彼の人生で負った脳への障害を根拠としてなぜ彼の人生がそのような足取りを辿ったかを明らかにしていく。 この辺の流れはミステリというよりも脳科学を扱った専門書の事例紹介のようにも取れる。もちろん1つ1つ、奇行の原因を解き明かしていく経緯はミステリ的興趣に満ちてはいる。 さて、本書で取り上げられた脳科学に関する記述は先に読んだ瀬名氏の『BRAIN VALLEY』にも取り上げられていることと重複しているものもある。特に1950年代にある科学者がてんかん患者に行った脳機能を分析する実験の話は同書にも取り上げられていた。 確か島田氏が編んだ書下ろしのアンソロジー『21世紀本格』に瀬名氏も寄稿していたように記憶しているから、『BRAIN VALLEY』の感想にも書いたように、島田氏が件の作品を読んで大いに刺激された事は間違いないようだ。そして島田氏は創作の重心があくまで本格ミステリにあるのが両者との違いか。 しかし島田氏や瀬名氏の諸作で説明される大脳生理学、遺伝子工学といった最新の生物工学の最新の研究結果、データを知るたびに私は知的好奇心を揺さぶられると共に云い様の無い不安に襲われる事がある。 本書を例にとってみると、最近解ってきたアスペルガー症候群患者の実態、左利きの人が感情を司る右脳を刺激するがために感情的な行動を取る確率が高いこと、ある脳の分泌液の量の大小、ホルモンの量の大小、摂取する栄養分の大小が犯罪者に特徴的に現れる事。本書では低セロトニン・高インシュリン・低血糖を犯罪者のスリーカードと呼んでいる。 これらが明らかになってくると次に起こるのは選民という行為ではないだろうか。今まで個性と思われていた性格の違いが、精神病の一種として片付けられ、それらを集めて一箇所に隔離する。各人の脳の分析を行って、上に挙げた犯罪を起こす確率の高い症状が現れた場合、脳手術を行って、性格改造を行う、云々。 犯罪率が高まっていくに連れ、それを未然に防ごうとそういう傾向が見られる子供たちにその種の施術を行うという考えが出てくるのもおかしくはなく、しかもそう遠い未来ではないのではないか。特に本書で挙げられた事例には私にもいくつか当て嵌まる事項があり、私ももしかしたら・・・と畏怖せずにいられなかった。受取り方によっては暗鬱になる作品だ。 この島田氏の提唱する21世紀本格というのが未だ実体を伴わないように感じるのは私だけだろうか。 彼の提唱とは、本格ミステリは密室や怪物の成した業としか考えられない不可能状況、アリバイ工作に拘泥ばかりしては衰退する一方なので、これからは脳に焦点を当てるべきだという示唆である。未知なる分野である脳にはこれからの幻想的な謎のアイデアに満ちているというのだ。 しかしこれは本格ミステリ作家に対する創作の示唆である。読者はその作品で敷衍される新知識に対しては無知であり、単に専門的な内容の授業を受けているだけに過ぎなくなってしまい、作者対読者の頭脳ゲームという一面を持った本格ミステリでは、読者は作者とは対等で無くなってしまうからだ。 80年代後半から90年代前半にかけて起きたサイコミステリブームは、「人間の心こそが最も不可解で恐ろしい」という新たなテーマに着目したムーヴメントだった。これを学術的視点から論理的に解明していこうとしているのがこの21世紀本格であるが、その新しい科学の成果に驚きはもたらされるものの、あまりに専門的に走りすぎて読者の推理の介在を許さないものになっている。 ミステリというジャンルにはやはり闇は必要だと思う。ここまで踏み込むか否かは作者の興味に留めるべきであり、読者にまで啓蒙すべきではないと私は思う。 21世紀本格は短命になるのではと以前私は述べたが、今回更にその思いを強くした次第だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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国名シリーズ9作目の本作は非常にオーソドックスな作品と云っていいだろう。
岬の突端に建てられた館。そこには1人のジゴロを中心に愛憎交じり合う娘と母親、そして来客者達。 それぞれに何か胸に秘める複雑な感情が渦巻く中、そのジゴロが殺される。そして捜査が進むうちに判明するのはそのプレイボーイが恐喝屋で、わざと不倫を唆して、その証拠を押さえ、金銭を強請っていたという、古式ゆかしい本格推理小説の典型とも云える作品だ。 しかし、今までのクイーンの国名シリーズではどんな作品でさえ殺人舞台の見取り図が添付されていた物だが、本作ではスペイン岬に立つ屋敷を舞台にした犯行を扱いながら、屋敷の見取り図が一切ない。つまり本書の謎とは屋敷の住人の配置とは関係なく、またそれぞれの部屋に特殊な仕掛けがあるわけでもない、トリックではなくロジックに重心が置かれた作品だと云える。 そんな話だから登場人物の相関関係を調べていくうちに自然と犯行の動機も解り、どのように犯行が成されたのかも解っていく。この辺は何の奇の衒いもなく、半ばで地元警視が開陳する推理と同様に私も考えていた。 しかしその流れにどうしても当てはまらない奇妙な1つの事実が歴然として存在する。それは被害者が全裸という状態で殺されていた事。捜査が進むにつれて関係者それぞれの思惑、関わりからパズルはどんどん完成していくのだが、この奇妙なピース1つだけがどこにも当て嵌まらない。本作の鍵は正にこの1点にあるといっていい。 この動機、犯行の流れが物語が進行するに連れ、徐々に整然と説明が付いていくのだが、どこか奇妙に食い違う箇所があるという味わいはセイヤーズの諸作によくみられる物だ。このプロットに介在する奇妙なピースが当て嵌まる事でガラリと変わる真実こそクイーンが本書で狙ったミスディレクションの妙だと思う。 そうミスディレクションこそ本書でクイーンが試したかったことだろう。 まず冒頭の誤認誘拐事件を仕組んだのは誰かというのはミステリを読み慣れた読者ならば容易に察する事が出来る。しかしこれが実に巧妙なミスディレクションだろうとこなれたミステリ読者ならば深読みしなければならない。 思えば本書の皮切りに神の視点である物語の記述者の手によって誤認誘拐事件の失敗が示唆されているが実はここから作者の巧妙なミスディレクションが始まっていた事に気付かされる。 そして明かされる死体が全裸だった理由はなかなかに興味深い。この奇妙なパズルピースこそ犯人を決定する唯一の糸口だったと云える。 もうお分かりだと思うが、今回の私の挑戦も敗北だった。 私が理論立てられなかった推理を鮮やかにロジックで解き明かすエラリイにここは素直に降参するしかない。逆にオーソドックスだと思われた本作もこの推理で流石はクイーンというべき作品になった。『アメリカ銃~』以降、立て続けに失望させられただけに、ようやく満足の行く作品が出たと安堵した。 しかし不満が残るのは結局のところ、犯人が捕まるのに決定的な証拠が無かったことだ。犯人が誠実な男であったために、自ら非を認め、逮捕に至っただけで、実はエラリイは状況証拠を並べただけに過ぎない。ここに本作の詰めの甘さがある。 また本作では珍しく指紋に関して注意が払われるが、それでもまだ認識が甘い。なぜなら犯行現場であるウェアリング邸でエラリイは所構わず触れるし、あまつさえ犯人が使用した電話をそのまま素手で扱うという不注意な行動を取る。 元々指紋、血痕、唾液といった人物を特定する証拠を基にロジックを組み立てる作品ではないと解ってはいるが、それでもこういう無頓着さにはどうしても嫌悪感を抱いてしまう。 今回、興味深かったのは今回エラリイは犯人を明かした後、後悔の念を示すことだ。なぜならば被害者は悪質な恐喝者であり、彼の死は賞賛されるべきことだった。そして犯人こそ正義があったからだ。 「わたしは人間の公平なんてどうでもいいと公言してきました。だけどそうじゃない、実に大事です!」 泰然自若とする犯人の誠実さにクイーンが初めて見せた苦悩。作品を重ねるにつれて単なる頭脳ゲーム、ロジックパズルゲームとしての推理小説から人を裁く事に対する意味への移り変わりの萌芽がここに見られる。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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なんとフリーマントルの手による、ホームズのパスティーシュ小説。しかし、厳密に云えば純然たるホームズのパスティーシュではない。
通常ホームズのパスティーシュ小説と云えば、そこここに正典へのオマージュなり、パロディなりが挿入されていつつ、ホームズの快刀乱麻の如き名推理を堪能できるような作りになっているものだが、フリーマントルの手になる本書はホームズの登場人物を借りたスパイ小説となっている。 主人公はホームズでもワトソンでもなく、フリーマントルが創作した彼の息子セバスチャン。ウィンチェスターからケンブリッジへ3年飛び級で進学し、史上最年少で数学卒業試験首席第一級合格者となり、その後ソルボンヌ大学、ハイデルブルグ大学も首席で卒業という天才の遺伝子を引く彼の任務は第二次大戦中に中立国の立場にあったアメリカにあるという極秘裏にドイツに武器を売っている秘密組織を探る事。 自然、物語は政治色が濃くなり、シャーロックよりも官職に就いていたその兄マイクロフトの出番の方が多くなっている。実にフリーマントルらしいホームズ譚だ。 フリーマントルが正典のホームズ譚に兄マイクロフトと息子セバスチャンが出てこない理由として、彼らが政府の諜報活動に携わっていたからだという尤もらしい理由を付けているのがこの作家のそつの無いところだ。 その他にも英国から米国へ渡る豪華客船上でのロマンス、大陸横断鉄道を利用しての調査、富豪たちが所有する専用の馬車などなど古き良き時代の優雅さが漂う。 おまけに正典ではなかった旅先での恋まで語られ、濡れ場まで登場する。 更に今回フリーマントルはセバスチャンの諜報活動で欠かせない暗号文の作成にノーションとズィフというウィンチェスター・カレッジに代々伝わる独自の言語を採用している。作者は作中、これについてある程度詳しい説明を行っているが、全く以って複雑で判らない。英語を日常語として使っている私でさえ、理解するには遥かに及ばない領域の言語だ。 いわゆるその学校で話す独特の言葉、例えば眼鏡を掛けた人物の名前がトレヴァーだとするとその名前を取って、トレヴァーがノーションでは眼鏡を意味する、といった具合だ。これは実際にある言語らしく、辞書も出ているらしい。 しかしこのホームズ譚の登場人物によるスパイ小説という手法が果たしてよかったのかどうか、非常に悩ましいところだ。題名に堂々と『シャーロック・ホームズの息子』と謳っているから―因みに原題は“THE HOLMES INHERITANCE(ホームズの継承者、ホームズの遺伝子)”―、どうしてもホームズ譚のような物語を想像してしまう。私は正にそうだった。 元々フリーマントルはエスピオナージュ作家でありながら、本格ミステリ張りのどんでん返しが巧みな作家であるから、本作もその傾向だったと大いに期待したのだが、そうではなかったようだ。 確かにサプライズはある。最後に明かされるドイツ側のスパイの正体だ。そしてそれに関する手掛かりもフリーマントル流のさり気ない描写に挟まれているが、それは「あっ!」というようなものでなく「云われてみればそう読める」といった類いの物だ。つまり本格ミステリに求めるサプライズとはいささか質が違う。 ただホームズは国に乞われて国交間に跨る問題解決をしていた事は確かに正典にも書かれている。どの作品か忘れたが、ホームズがフランスかどこかの国に行ってて、なかなか本題の事件に着手できなかった設定を読んだ覚えがある。だからホームズが諜報活動のプロであり、その息子を後継者として国が採用する事に違和感はないのだが、では正典と本作では何が違うのかというと、それは物語の語り方だろう。 ホームズ譚の諸作は、まず発端に依頼人が自分の身の回りに起きた奇妙な出来事について相談し、その解決をホームズに委ねたところ、それが思いもかけぬ、国家の存亡を揺るがすような事件であった、という、小事から大事への謎の発展であるのに対し、フリーマントル版ホームズでは、最初から国の存亡を賭けた任務を任され、隠密裏に解決するといういきなり大事から幕開けだということだ。しかもセバスチャンはホームズの遺伝子を引き継いだ優秀な頭脳の持ち主であるが、初めての任務でいきなりの大役ということで綱渡りのように右に振れ、左に振れと非常に危なかしい捜査を続ける。ここに違いがある。 ホームズ物では読者は依頼人によって提示される謎という迷宮に放り込まれるが、それをホームズが鮮やかに解き明かす。つまりこれは謎という不安定な状況をもたらされた読者に安定をもたらす存在がホームズという万能の神であるというお約束事があるのだが、本書で読者は駆け出しスパイのセバスチャンと共に、五里霧中、四面楚歌の中、英国からの公的な協力もなく、たった一人で未知の秘密組織を暴かなければならないという終始不安の中に置かれる。つまりセバスチャンは正典における磐石の存在ホームズではないため、読者もセバスチャンが果たして任務を果たせるのかどうか懐疑的な中で物語は進行するのだ。 この小説作法は実は全く悪い事ではない。むしろそういう作品の方がスリリングだろう。しかしホームズの意匠を借りた作品でやるとなんとも違和感を生じてしまうのだ。 読書を十全に愉しむためにこの手の先入観は極力排して臨むべきだと解っていても、やはりこの手のパスティーシュ小説では難しい。 恐らくフリーマントルはチャーチルという英国の歴史に名を残す名政治家とその時代についての作品を著したかったのだろう。 そのプロットを練る過程で、どうせその時代の事を書くのならば、実在の英雄にもう1人の想像上の英雄ホームズをぶつければ、面白い読み物になるではないかと思いついたのではないか。もしくはその逆でホームズのパスティーシュを書く事を想定していて、その時代にチャーチルというかねてから書きたかった実在の人物がいたことに気付いたのかもしれない。 どちらにせよ物語巧者フリーマントルならではの演出である。そして本作ではチャーチルはかなりの策士として描かれ、読者の好意を得られる人物としては決して云えない。政治家について詳しいフリーマントルだから、後書で語られるチャーチルの行為も併せて、恐らく実際チャーチルとはこういう人物だったのだろうと思われる。彼の政治に対するシニカルな視点も手伝って、なかなか濃いキャラクターに仕上がっている。 本書はシリーズ化されており、続編も既に訳出されている。 初めて手に取った本書では上の理由により、面食らってしまい、なかなか物語にのめり込むことは出来なかったが、フリーマントルの意図するところが解った今、次作はもっと楽しめるのではないか。そんな期待をして、続けて読みたいと思う。 |
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世に「理系ホラー」なる新語を定着させた衝撃のデビュー作『パラサイト・イヴ』では遺伝子工学の観点からミトコンドリアを題材にした瀬名氏が今回取り上げたテーマは題名にあるようにずばり脳。
島田荘司氏が21世紀ミステリの提唱として取り上げたのも大脳生理学という脳の研究学問の分野であり、もしかしたら島田氏は本書を読み、本書に書かれた現象の数々に触発されて、新たなる幻想的な謎の創作の端緒を得たのかもしれない。そんなことを感じさせる、とにかく色んな要素が詰まった作品である。 刊行された97年時点での最先端の脳科学研究の内容と日本の関東から東北との境にあると思われる山中の村落、船笠村に昔から続く“お光様”なる民間伝承、そして主人公孝岡が遭遇するエイリアンによる誘拐(アブダクション)体験、さらには臨死体験からサイバースペース内で培養される人工生命へ、そして動物とのコミュニケーションの確立と、理系、文系、そして超常現象、動物行動学とおよそ交わることのないエッセンスが並行に、時に交錯して語られる。私はこの物語は一体どこへ向かおうとしているのか、非常に不安でならなかった。ホラーとして超常現象をあるがままに受け止めるべきか、それともミステリとして合理的解決されるべきとして読み進むべきか、読者としての立脚点をどこに置くか、非常に悩まされた。 しかしそれらはやがて合理的に結び付いていく。これに関しては物語の核心に触れる事になるので後ほど語る事にしよう。 さて自身薬学博士である瀬名氏の作品へのアプローチは常に一研究者の立場として描かれ、作中で開陳される専門分野の説明は他の作者が付け焼刃的に調べて、門外漢である一般読者と同じレベルでの叙述に留まっているのに対し、かなり専門的で説明も細微に渡り、論文を読まされているのと同様の難解さを提示し、読者への理解に苦痛を強いる。 今回も脳科学についてかなりのスペースを割いて読者に本書を理解するための前知識としてその内容を披露しているが、やはりかなり難解だ。主人公の孝岡の言葉を借りて作者が云うには、一応一般読者へ理解しやすいように随分省略しているようなのだが。 しかしその難解な文章を読み解いて、100%とは云わないまでも自分なりに理解できた内容はかなり刺激的なものだった。 私が理解したなりに単的に云えば、孝岡が研究するレセプター(受容体)というのは記憶を司る大脳の海馬、大脳新皮質に刺激を伝達する神経伝達物質グルタミン酸を文字通り受容する云わば門であり、神経細胞間に空いているシナプスと呼ばれる隙間に存在している。これが人間に記憶させる働きを担っており、このシナプスに刺激が多く加わるとレセプターを閉じている栓の役割をしているマグネシウムイオンが解除されて、カルシウムイオンが細胞の中に流れ込み、それがタンパク質を活性化する。そのタンパク質がレセプターを更に活性化させてグルタミン酸に対する感受性をもっと強くし、それが記憶となって脳に焼き付けられるということだ。 そしてその刺激が強ければ強いほど、短期記憶を司る海馬から長期記憶を司る大脳新皮質への伝達が容易になる。そして更に強い刺激は刺激を伝達する隙間シナプスをも増大させる作用があり、シナプスが増えることで刺激は更に伝達しやすくなり、海馬から大脳新皮質への伝達を容易にする。これが記憶のメカニズムだ。 ここで私が閃いたのは傑作、駄作と云われる小説、映画、マンガなどの創作物と佳作と云われるとの違いは脳への刺激への大小にあると云えることだ。未だに長く記憶に留まる名作、例えばミステリで云うならば『占星術殺人事件』のあの驚愕のトリックに『異邦の騎士』の忘れがたいセンチメンタリズムと御手洗の勇姿、『十角館の殺人』のあの世界が壊れる音が聞こえる衝撃の一行、映画で云えば『ショーシャンクの空』の眩しいほどに美しい最後の海岸での邂逅シーン、『E.T.』の人差し指を繋げるシーンなどは我々の脳に刺激を与え、シナプスを増大させる作用があったのだ。 また逆に非常につまらない駄作-弊害が生じるので具体例を挙げるのはあえて避ける―の類いもそのつまらなさが逆に負の刺激になり、シナプスを増大させ長く記憶に留まる。この二律背反が非常に面白いではないか。 逆に可もなく不可もない凡百の作品は刺激も少ないから短期記憶となり、すぐに忘れてしまう。多くの作品がそうであろう。しかし見方を変えればそれら多くの作品が短期記憶の段階で留まっているからこそ、諸々の傑作が記憶の中で煌めいて頭に留まり続けるのだと云える。 しかし私は敢えてこのことについて2点、考えたい。 まず記憶の鍵となるタンパク質を活性化させるにはやはりタンパク質を常に摂取しておかなければならないということだ。読書好きで単に読破した本の冊数を誇るだけならばその限りではないが、一つでも多く読んだ本を記憶の留めたいならば三度の飯よりも読書ではなく、バランスの良い食事が読書の肥しになることを認識すべきだろう。 2つ目は佳作、凡作の類いであれ自分が読んだ本に対して記憶を少しでも多く留めたいのならば、単に読むのではなく、佳作でも凡作でも自分の脳に刺激を与えるような読み方、即ち行間を読むことを心がける事だ。本書で書かれた記憶のメカニズムに基づいて考えるならば、長く記憶しておく事とは即ちその人が刺激を受ける受け皿を常に用意している事によると考える。換言すればそれは好奇心をどれだけ持っていることかということだろう。 本作は単に脳の仕組みについて教えてくれただけでなく、今後も多く読むであろう本を記憶するにはどうしたらよいか―勿論それは読書に限ったことではなく、仕事、私生活、その他全てに当てはまる事だが―のいい指針となった。 知的好奇心を刺激される内容は他にもある。 特に非常に興味深かったのが、脳のメカニズムを科学的見地から突き詰めれば突き詰めるほど、感情や情動といった心の問題に行き当たるところだ。脳の各部位が何を司るのかは長年の研究の蓄積によって解明されつつあるが、では心は一体どこにあるのかという非常に原理的な問いに対してまだこれといった解答が得られていない。 そこには科学が超えられない歴然とした壁のようなものがあり、そこを突き詰めていくといつ人間は信仰を持つようになったのか、神の概念とは、といったような宗教的な論点に行き当たる。科学的に実証しようとしておよそ科学からは縁遠い神の存在へと行き当たるところにこの分野が抱える大きな闇があるといえる。 特にそれを象徴するのが人工生命という存在だ。それらはコンピューターのプログラムというサイバースペースで生きているのだが、プログラマーは単純な指令を2、3つ下すだけでコンピューターの中の生命は実に生物らしい振る舞いを行う。 なぜそれが起こるのかを論理的に説明するとなると研究者の数だけ定義が出てくると筆者は作中で述べている。そして結局のところ最も理解しやすい解釈というのが「機械が生命を模しているのではなく、機械もまた生命なのだ」という理だ。果たしてこれが真理かどうかは解っていないが、数式や論理といった無機質な世界に加え、気配、肌触り、手応えなる生命的直感を合わせて考えることでこの見えない壁が破れるかもしれない。これは茂木健一郎氏がいっている「クオリア」なる概念と何か関係があるかもしれない。 (以下はネタバレにて) ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回の作品は今までになく派手だ。ニューヨークの国連事務局タワーにミサイルが着弾するのを皮切りに、ボートの爆破、ワシントン記念塔の階段爆破、ペンタゴンのコンピューター・セキュリティー・システムを破ってのクラッカーの侵入、そして海を越えてモスクワのアメリカ大使館へのミサイル襲撃と、次から次へと事件が発生する。
フリーマントルの他のシリーズが発端の事件に絡んで政治的駆け引きや国交的な問題、各国の歴史の暗部の隠匿という妨害を主人公が知恵と行動力と大胆さでクリアしていく過程を描き、1つの事件をじっくり描くのに対し、確かにこのシリーズでは捜査中に殺人事件が連続して起きる傾向ではあったが、本作では前2作を上回る大規模テロが連続して起きるところがミソだろう。 これはやはり9・11が影響しているように思う。あの小説を超えた未曾有のテロは内外の作家に多大なショックを与え、それはフリーマントルも例外ではなかっただろう。特に世界のジャーナリズムに精通している彼にとっては。 一応作者本人は本作が9・11の前には既に書き上げられていたと言及しているが、事件後、加筆したともあり、少なくとも、いや大いに影響は受けている物と思われる。従ってあの現実を超えるにはもっと派手な事件を設定しないと現実を凌駕できないという焦りがあったのではないだろうか。それが作家の矜持を奮い立たせたように私は感じた。 本作でアメリカ・ロシアの二国間に渡って次々と襲撃する脅威を一言で云うならば次の一言に尽きるだろう。 テロの分業化。 民間人がテロリストから指示を受け、それぞれの職業を利用して資金調達、物資調達をし、テロに加担する。彼らは罪悪感を持ちながらも普段の生活では決して得られる事のない莫大な収入に目が眩み、止めることが出来ない。 そしてそれを可能にするのが、今やなくてはならないツールであるインターネットである。仮想空間に増殖し続けるサイトに集うハッカー、クラッカー達に法外な報酬をチラつかせて協力を頼む事でそれらはいとも簡単に成立する。本作ではアメリカとロシア2つの国に限定されているが、これらのテロは世界規模で起こる可能性を秘めている。 さてこのシリーズの前2作では割合ロシアのダニーロフ側に物語のウェートが占められていたが、本書では頻発するテロがアメリカという事もあり、カウリー側が前面に押し出されている。冒頭にいきなりカウリーが爆破テロに巻き込まれて重傷を負い、この事件を彼自身の事件として決意するなどと熱い一面を見せるのも今までになかった趣向である。 そしてダニーロフと云えば、前作の活躍により昇進し、ロシア民警の頂点、将軍になっていた。それから来る自信が彼を以前と変えており、泰然自若とし、大統領首席補佐官と内務大臣との権力抗争の狭間に置かれながらもそれを手玉に取るまでの落ち着き振りを見せる。破綻した私生活と愛する同僚の妻との愛情とでウジウジしていた彼の影は、物語の冒頭では見られるものの、最後では雲散霧消してしまう。 また今回から彼ら2人のコンビに新しいメンバーが加わる。パメラ・ダーンリーというFBI捜査官だ。彼女は強い上昇志向の持ち主で、ボート爆破に巻き込まれて瀕死の重傷を負ったカウリーの代行を命ぜられる。これを足がかりに更に上を目指そうとする野心家だ。自分の未熟さを認めつつも、邪魔する者を排除する事を全く厭わない、攻撃的な女性である。 通常フリーマントルはこういった人物を空回りさせ、自滅の道を歩ませるのだが、パメラは大いに彼ら2人に貢献し、更にどんどん活躍の場が増えてくる。シリーズのマンネリ化を防ぐ一つのカンフル剤として彼女を導入したようだが、この扱い方は今までに見られなかった傾向だ。なぜならその押しの強さは恐らく読者全員の好意を得られないだろうから。 しかし物語が終盤に近づくにつれて、彼女のこのシリーズでの役割―ポーリーン去った後のカウリーの公私に渡るパートナー―もはっきりしてくる。 この作品は前作のタイトルどおり、ロシア民警ダニーロフとFBI捜査官カウリー2人の「英雄」の姿が描かれるが、彼らの私生活は共に幸せではない。 カウリーは寄りを戻しつつあった前妻のポーリーンに去られ、ダニーロフは元々上手く行っていなかった妻オリガがこの世を去る。しかもオリガは浮気が基で妊娠し、それを隠すためにダニーロフと寝ようとするが上手く行かず、中絶に失敗して死んでしまうという悲惨さだ。 仕事の出来る双方は温かな家庭に恵まれない。これは万国共通のアイロニーなんだろうか。 さてかなり練られたプロットで、意外性のある共犯者と相変わらずの筆功者振りを見せ付けてくれるのだが、どことなくアメリカの大ヒットドラマ『24』の影がちらついてならない。爆破テロもそうだが、特にペンタゴンの内部スパイの存在、そして次の脅威の萌芽を予兆する終わり方など、すごく既視感を感じた。最後の犯人を捕らえるシーンなどはそっくりだと云える。 どちらが先かという問題もあろうが、件のドラマを観た後で読んだがためにちょっと損な受取り方をしてしまった。 ここまで派手な事件を繰り広げると次作の展開を懸念する向きもあるが、その心配は無用だろう。なぜならそれはチャーリー・マフィンシリーズで既に何度も杞憂となっているから。 だから私は次作も大いに期待して待ちたいと思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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デビュー以来覆面作家として創作を続ける作家北川歩美氏のデビュー作。
ある日目覚めると女になっており、しかもその世界は五年後の世界だったというSFとしか思えないこの設定に論理的解明を試みた野心作。本作は当時日本推理サスペンス大賞に応募され、惜しくも当選を逃したが編集者の厚意により、加筆訂正をした上、出版された。 その選考会に参加したある書評家が某所で述べた、「実は今年最も印象に残った作品は某ミステリ賞に応募された『僕を殺した女』だったりする」というコメントが非常に印象に残っており、それが本作を、そしてこの北川歩美という作家に興味を覚える契機になったのは間違いない。 このどう考えても論理的に解明できない設定をどう料理するか、それを作者は作中人物の僕こと篠井有一の口から色々な推論を繰り広げる。 1995年のヒロヤマトモコと1989年の僕がお互いに異次元の扉を通った際に空間の捩れによって精神が入替ったというやはりSF的な論理展開を皮切りに多重人格論、2人の脳を入れ替えて起きた脳移植という推理。 精神異常者であった2人が精神病院で邂逅し、濃密な関係を築き上げていった際にそれぞれの心にお互いの人格が住み込んでしまった精神共有論。 篠井有一とヒロヤマトモコ2人の精神はそのままでお互いに性転換手術を受けた、などなど、その論理はどんどんこちらの予想を超えてエスカレートしては消去されていく。これは云い換えれば作者自らが合理的解決の選択肢を狭めていっており、かなりハードルの高い趣向をこらしていると云えよう。 特に混乱を誘うのはヒロヤマトモコなる女性の人生がそれまでに存在し、さらに彼女の意識に入り込んだ主人公篠井有一の人生も、失われた5年間の人生も存在するということだ。 さらに彼を取り巻く登場人物らも物語が進むにつれ、隠れた秘密が見えてくる。同性愛者、レイプされた女性から生まれた子供、近親相姦者と、アブノーマルな人間どもが織成すフリーク・ショーのような様相を呈してくる。 本作が刊行された90年代というのは、なぜか世間で自分探しというのが一大ブームとなった。バブル経済という幻想から覚めた人々が、それまで外側に向けていた意識を自分のアイデンティティという内側へ向けだした、そんな時代だった。 他者から見た自分とは一体どんな人間なのか。一番よく知っている自分のことを実はよく知らないのではないか。自然、小説やドラマもそれを扱った物が増えてきた。 特にTVでは『それいけ!ココロジー』という心理テストを扱った番組がちょっとしたブームになり、関連書籍も多く出た。本作も当時ブームだった「自分探し」をテーマにしている事は容易に読み取れる。 ただ謎は魅力的だが、最後に明かされる真相は複雑すぎる。色々詰め込みすぎで、特に後半はどんでん返しが執拗に繰り返され、その都度頭を整理する必要に迫られて、理解に困難を生じてしまうのが惜しいところだ。 方程式が美しく解けていく様を見ているというよりも、複雑で入り組んだ論理を勉強しながら読み解くといった感じか。 やはり魅力的な謎は割り算のようにスパッと割り切れるくらいの明快さを求めたいところだ。実にサスペンスフルな作品だっただけにそれだけが悔やまれる。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は書評家坂東齢人氏改め馳星周氏のデビュー作にしてその年の『このミステリーがすごい!』で1位を獲得した話題作である。
しかしその鳴り物入りの本書だが、発表後数年経った今読んでみると、なぜこれが1位?と首を傾げざるを得ない。 新宿を舞台にした犯罪を扱った小説といえば既に大沢在昌氏の『新宿鮫』という警察小説の傑作がある。 その新宿の代名詞ともいえる作品に怯むことなく新宿を描いた本作『不夜城』は大沢氏が警察の側から新宿を描いたのに対し、彼は犯罪者の側で新宿の更に奥の闇を描く。そこでしたたかに生き抜く在日アジア系外国人社会の混沌を浮き彫りにしていくのだ。本書は劉健一という男のピカレスク小説なのだ。 しかしその基本プロットとしては実にオーソドックスなスタイルを取っている。競合しあう複数の敵の間を直感と知恵、時には大胆なはったりで渡り歩きつつ、彼らを利用して生き残る健一の物語はハードボイルドの源流、ハメットの『血の収穫』以来、何度も使い古された王道の物語構造である。このプロットに新宿という無国籍地帯を舞台に設定し、そこに蔓延るアジア系マフィアで味付けをしている。 しかし私が思うに、馳氏は元々長年新宿のゴールデン街のバー『深夜プラス1』に出入りしていた人であり、新宿の街の、正確にはその夜の、只中にその身を置いていたので、自然にこういう物語が浮かんだような気がする。 後の各誌での彼のインタビューでは「自分で読みたいと思う小説がなかったので自分で書いてみた」と云っているが、自分の読みたい小説の題材が自らが身を置く新宿の街にあったことに気付き、書いてみたというのが正しいところなのだろう。だから『新宿鮫』という傑作があっても新宿という街を別の切り口で書けると踏んだに違いない。 その成果はありありと本書には現れている。 私が特に感心したのは人物配置の巧みさだ。東京を根城にする台湾系マフィアを軸に、その周辺を上海系マフィア、北京系マフィアと池袋を拠点にしながら新宿への侵出を狙っている福建系マフィアという対立構造も当然ながら、最も感心したのは健一と育ての親楊偉民との微妙な関係である。物語初頭では台湾人と日本人との混血児―半々―である健一が母親とともに楊の庇護下に置かれる事になり、その後呂方という獣のような台湾人を少年時に健一が殺す事で民族一家族を信条とする楊から縁を切られるようになった顛末が語られる。 私にはなぜ楊がその後も健一と付き合いを保っているのかが疑問でならなかったが中盤あたりで出てくる同じく半々の周天文が出てくるにいたり、実にこのアンバランスな関係が腑に落ちるのである。愛憎が絡み合うこの三者の三すくみ状態とも云うべき関係を次第に健一が凌駕していく過程は本作で健一が殻を破り、上への大きな一歩を踏み出すのに、ファクターとしてかなり有効に働いている。 ただ主人公とその連れ夏美に馳氏はいろいろ設定を詰め込み過ぎたような気がする。 台湾人の父親と日本人の母親との間に生まれた劉健一は少年時代は母親からの虐待から臆病に育ち、周囲から半々と蔑まれる日々を過ごす。やがて呂方という健一を忌み嫌う台湾人の少年ギャングの殺人を経て、家を出てオカマバーにウェイターとして働くようになる。その時に遭ったある女性との異常な体験、 それから呉富春と二人で組んでの盗難生活の日々、その後、陳綿という台湾の殺し屋に仕えて、白天という殺し屋と過ごした張り込みの夜の悪夢のような出来事、などなど。その1つ1つがかなり重い過去で、それが劉健一という人物を形成したという設定になっているが、個性的なキャラクターを創作するためとはいえ、陳列棚に並べるほど重い過去を連ねる必要が果たしてあったのだろうか? そして小さな頃から多感な時期にかけて、これだけの目に逢えば精神崩壊するかと思うのだが、どうだろう? そして相方の夏美も嘘に嘘を重ねて生きてきた女性。彼女の語る過去は物語が進むにつれ、二転三転し、終いには呉富春の実の妹で近親相姦を繰り返していたことが判明する。 なんというおぞましい設定だろう。普通こういう過去を持つと男性不信に陥り、こう易々と男のところに身を任せるようにはならないと思うのだが。 とこんな風に、印象的なキャラクターを作ることに固執してエピソードを盛り込んだにしては、彼ら2人のキャラクターの現在に過去との大きな乖離があるように感じてしまうのだ。そう他人の聞きかじった過去を自分の物と思い込んで生きている、そんな人物像のように思えてならない。 恐らくこれは「とにかく今ある物全てをこの物語に詰め込んでやる!」というこの作品に賭ける馳氏の意気込みの強さゆえだったのだろう。しかしそれが故に統一感に欠け、なんとも雑多な感じがしてしまう。 私が思うに、こういう手法を取るならば、シドニー・シェルダンがやっていたように、主人公二人の過去を時系列に交互に語っていく方が読者には二人の人格形成の成行きがわかってよかったのではないか。 ただこの小説はその手法は似合わない。本書のように今二人が置かれている状況と過去を同時進行で語るにはやはり1つ、最大でも2つ強烈なエピソードを挿入するに留めるのが無難であるといえる。 健一が語る様々な過去は、普通ならば他の登場人物、本書ならば元成貴、崔虎、周天文、楊偉民と一癖も二癖もある連中に配分する事でキャラが立ち、物語が際立つように思える。だから本書ではその手法で語られた呉富春の方がキャラクターとして一貫性があり、非常に印象に残った。 これが私が本書をして『このミス』1位に疑問を呈した理由なのだが、しかしやはり最後に残る読後の荒廃感、これは買える。騙す方より騙される方が悪いを信条に決して誰も信じることなく、いかに利用して切り抜けるかという社会で生きてきた劉の最後の決断は、これまでの小説とは一線を画すものだとは感じた。 私はこの結末をタブーだとは思わない。なぜならそこに至る健一、夏美の心情がしっかり書き込まれているからだ。裏切りの闘争の果てに残ったのは徒労感と燻り続ける父親同然だった楊への憎悪。そして劉健一は次の段階へと歩みを進める。 手放しで賞賛するには引っかかりを覚えるが、心に何かを残す作品ではある。 上述した不満点が今後の作品でいかに解消され、どのようなノワールを展開してくれるのか、次回作以降、楽しみである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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倉知淳氏のシリーズ探偵猫丸先輩のデビュー作で、同時に倉知氏自身のデビュー作でもある。
本作は連作短編集で、7編の短編+α×2という構成になっている。そう、本作も若竹七海氏や西澤保彦氏の某作品と同じ、各短編に散りばめられたミッシングリンクが最後に明かされる趣向の短編集になっている。 さてそれについては後に述べるとして各編について順繰りに感想を述べていこう。 第1編「空中散歩者の最期」は猫丸先輩のキャラクターを語るのにうってつけの一編と云える。 導入部の幻想味、大掛かりなトリックによる真相と、大御所島田荘司氏が書きそうな作品。この真相については最初は眉唾物でなかなか信じられなかったが、高さと加速がつけば確かにありうるかもと納得。個人的には空中散歩者が宙を飛ぶ原理の着想が面白く、空中散歩者を主人公にした超能力物を読みたいと思った。 2編目の「約束」はガラリと趣向が変わって、ちょっとびっくりした。 子供を主人公にすること自体がもう卑怯とも云える泣ける一編。もう冒頭からその雰囲気満点である。 本作は隠された人間の悪意を看破する物で、若竹七海氏の作風を思わせる。ちょっと作りすぎのような感じもするが、こういう話に本当弱い。 「海に棲む河童」は1編目と同様、ファンタジックな物語で幕を開ける。 これも島田荘司氏の『眩暈』や『ネジ式ザゼツキー』を想起させる、一見ファンタジーとしか思えない話が実は真実であった事を論理的に解明する話。 面白いのは冒頭に付された御伽噺ががものすごい方言で読み難いことに配慮して、作者が本編終了後にその標準語訳を付けているのだが、今度は逆に注釈が多すぎて却って読み難くなっているところ。この辺は海外ミステリの過剰なサービスへの揶揄とも取れ、ブラックユーモアが効いている。 「一六三人の目撃者」は上演中の劇の最中で殺人が起きるという、夏樹静子の『Wの悲劇』を思わせる作品だ。 純粋にロジックで犯人を解き明かす1編。プロバビリティーの追求にのみ焦点を当てた本作は、従って最後に明かされる犯人の動機は一切謎のままに幕が閉じられる。 本作では猫丸が劇団員の1人として登場する。しかもかなりの演技派らしく、いつもと違う猫丸が見れる貴重な1編。 「寄生虫館の殺人」はどこかで見た事のある題名だが、中身は全然違う。 ちょっと強引過ぎるミスディレクションだなぁと思った。 NHKの受信料集金者が怪談のような奇怪事に遭遇するのが「生首幽霊」。 これはプロット創作の裏側が推理を重ねる事で見えてくるぐらいにかなり作り物めいた作品だ。長いアパートという設定で容易にある程度八郎が遭遇した事態の真相も予測はつく。 構成上、最後の短編なのが表題作「日曜の夜は出たくない」。 これは素直に上手いと認めよう。出来としても一番いい。よくあるサスペンス物だが、小技が効いていて、作者のミスリードになかなか抗えないようになっている。 そして明かされる真相も甘酸っぱい恋のノロケのようで微笑ましい。これが本作ではベストかな。 さてこれら7編の後、これらの短編に共通するキーワードがエピローグで明かされるが、これははっきり云って解明不可能、凝りすぎだろう。一応自分なりになんとか解き明かそうとチェックをしていったのだが、これほどまでに細部に渡ってチェックしないと解らない仕掛けだったら、驚愕とか感心とかを通り越して呆れるしかない。 さて本作で探偵役を務める猫丸という人物。その後シリーズ化されているが、確かに面白いキャラクターだ。当初は単なる小さな事件に興味のある素人探偵の域を出ていないキャラだったのが3編目と4編目では船頭のバイトだったり、劇団員だったり、と意表を突くシチュエーションで絡んでくる。 それが私をして猫丸というキャラクターに好感をもたらせることになった。 一番面白かったのはやはり4編目での劇団員としての猫丸だ。他の作品とは違うきびきびとした振る舞いは、俳優としてもその道のプロに演技を認められるほどの技巧派だと評され、そのギャップにニヤニヤしてしまった。 ただ1作目でアマチュア奇術クラブや同人誌、町内会の趣味の会合や断食会にも参加したりとどこにでも首を突っ込むと紹介されている割にはそのヴァリエーションが乏しかったのがちょっとがっかりだ。それについては次作以降に期待しよう。 しかしデビュー作である本書は脱力系でマイペースだと窺っている作者倉知氏の性格とは反比例して1作ごとに趣向を変えるなど意欲的な試みに満ちている。各編の感想にも述べたが島田荘司風ミステリあり、ハートウォーミングストーリーあり、ロジックのみを追究したミステリあり、サスペンスありと様々だ。 おまけに自身もエピローグで述べているように全ての殺害方法が違う。墜落死、凍死、溺死、毒殺、撲殺、絞殺、刺殺。デビューに向け、当時の全てを吐き出したような書きっぷりだ。そしてその努力が報われるように、本書はその年の『このミス』のベスト20にもランクインされ、現在も活躍が続いている。 ただやはり気になるのは読者が推理しようとするにはあまりに情報が少ないことだろう。私は与えられた謎を推理するのが好きなので、本作でも自分で謎解きに挑みながら読んでいったが、全敗してしまった。 しかし真相がぽんっと膝打つものであれば良いのだが、本作では真相に導くためにこじつけているようにしか感じられないのが惜しかった。しかし先に読んだ『占い師はお昼寝中』ではその辺は解消されているので、これはデビュー作ゆえの脇の甘さだろう。 これが私の負け惜しみかどうか、他に本書を読んだ人の意見を聞きたいところだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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第5作の『炎蛹』以降、シリーズの通奏低音ともいうべき存在感で物語の影の部分で暗躍していたロベルト・村上こと仙田勝が今回鮫島の標的となり、とうとうこの時が来たかと一言一句噛み締めるように読んだ。
そして今回の泥棒市場の撲滅に関わってくるのが鮫島のライバルで同期のキャリア香田。 しかし今回香田は今までと違い、公安の立場ではなく組対部の理事官として鮫島と対峙する。それは外国人犯罪者に家族を傷つけられたという個人的な怨恨が原動力となっていた。そしてまた仙田も元公安の人間。香田の真意に鮫島は疑問を募らせる。 今までお互い水と油のように相対し合ってた2人がお互いの正義を振りかざし、真っ向から対抗する。 香田は大局的な見方で、関西の大規模ヤクザの稜知会と手を組み、複雑化する外国人犯罪を根こそぎ掃討し、かつての警察とヤクザの持ちつ持たれつの関係というシンプル化を図る。対する鮫島は法を遵守する側が大局的な視点とは云え、法を破り悪に組する事に疑問を呈し、香田の正義に問いかける。 このシリーズを通してのライバル2人が今まで以上に熱い真剣勝負を交わす。 仙田、そして香田。 このシリーズを通して常に鮫島に立ちはだかった2人のライバルが本書ではクローズアップされる事で、警察が歩んできた歴史の闇と光、功罪を浮かび上がらせる。しばしば何が正義なのかを読者にも問いかける。 社会人も20年過ぎてこのシリーズを読むと、鮫島のかざす正義の旗印という物が実に純粋であることが解ってくる。そしてそれを貫くがために輝かしいキャリアとしての出世街道を外れ、あくまで警察官としての正義、遵法者としての警察官であろうとする鮫島の主張が現実離れしているように思えたことを正直に告白しよう。 香田と鮫島のどちらを選ぶかと問われれば私は間違いなく前者を選ぶだろう。大人になると「自分」を貫くことがいかに困難かを思い知らされる。そんな世の中にこの鮫島という男は貴重だし、彼を求める読者がいるのだ。 かつて第2作『毒猿』では東京で幅を効かせる中国系マフィアと暴力団の一大抗争をテーマにしていたが、18年後の本作では外国人犯罪者と暴力団が協力しあい、複雑な犯罪システムを築き上げている。一日千秋の思いがする。 そんな多様化した犯罪を以前のように単純化するために組対部が画策するのはコピーブランドの摘発を端緒に外国人犯罪者の一掃だったというのが面白い。これが果たして今の警察にとって現実味がある方法なのか、もしくは実際に計画されているかどうかは寡聞にして知らないが、よく考えたものだと感嘆した。 そしてその最高責任者として常に鮫島の前に立ちはだかる存在である香田を配したのが面白い。その動機―自身の家族を自宅で外国人犯罪者にて襲われた―も十分練られていて無理がなく、思わず唸ってしまった。 このように犯罪が複雑化し、細分化されるにつれ、事件も複雑化する。つまりそれはストーリーをも複雑化を招く。 しかし作者大沢氏は練達の筆捌きで同時進行する複数のストーリーを一点に見事収斂させる。毎度の事だが、本当に見事と云うしかない。 ちょっと下世話な話をしよう。本作のキーパーソンである呉明蘭なる中国人の女性盗品鑑定人。恐らくタイトルはこの女性を指したものだろう。 本作には銀座・六本木の夜をホステスとして渡り歩いたこの明蘭の過去を探るに当り、東京のクラブの内情が語られる。この辺は銀座・六本木の夜を颯爽と闊歩している大沢氏の本領発揮とも云うべきで、恐らく連日連夜足繁くクラブに通い、ホステスを口説きながら取材したに違いない。 そしてその“夜のクラブ活動”の成果を作品の緊張感を損なうことなく、淀みなくストーリーに溶け込ませるのはやはり熟練の技。十分経費として落とせる内容になっている。 さて90年に「卑しき街の聖人」という英題を付して現れた「新宿鮫」こと鮫島もなんと45歳を越える年齢になってしまった。 そしてシリーズの巻を増すごとに恋人、晶の存在が希薄になっているが、本作でも彼女の占めるウェートはわずかに過ぎない。この辺りは作者も幾分持て余し気味のような気がしないでもない。この2人の年齢を考えるとそろそろ次作あたりで何らかの決着がつくような気がする。 警官を集団における一つの駒としてではなく、一個の人間として描き、それぞれの正義観の狭間でもがき、葛藤しながらそれぞれが生き方を貫く極上の警察小説、『新宿鮫』シリーズ。 この作品の熱気はまだまだ冷めそうにない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本作の趣向は、狂人の仕業としか思えない奇妙な状況をいかに論理的な説明をつけるかということにあると思う。
しかしそれにしても作者はとんでもない冒険に出たものである。なんせ死体の衣類はもとより、部屋の家具・調度類全ても逆さまにされているというのだから。これにどんな合理的説明が付くのか。本作の焦点は正にそこにあると思う。 こんな手間暇をかけた殺人事件は今までに私も読んだ事がなく、かなり頭を絞った。色んな手掛かり、特に死体の上着の下を潜らせて足先から首まで通してある槍の意味や消えたネクタイの謎、などなど。 私の推理と真相についてはネタバレに語ることとして、ただ本作をこのロジックとトリックだけに注目すると陳腐だと云わざるを得ないが、クイーンの物語の味付けについても語っておこう。 本作は今までの国名シリーズにもましてモチーフとなった国に関するガジェットがふんだんに盛り込まれている。食べられたチャイナ橙の謎から、中国文化に詳しい女性による中国人の奇妙な風習についてのあれこれ、中国の稀少な地方切手の話などなど。特に中国の文化があべこべの文化であるというのはなかなか面白い着眼点だ。 曰く、中国人は人と逢ったときに相手と握手せず、自分と握手する、暑い日には冷たい物を飲まず、熱いお茶を飲む、他所の家でご馳走になるときはわざと大きな音を立てて、げっぷをする、入り口に低い塀―衝立のことだろう―を立てて、悪霊の侵入を防ぐ、云々。 中には首を傾げるような物もあったが、なるほどと思った。 そして本作の事件の底流にあるのは切手収集の世界である。『ドルリイ・レーン最後の事件』では稀覯本が事件の主眼であったが、本作では稀少な切手、それに纏わる収集家の話が散りばめられてあり、またそれが事件に大いに関与している。 特に最後に題名の真の意味が解るのにもこの趣向が大いに関わっており、作者のミスディレクションにニヤリとしてしまった。 と、こんな風に一概に明かされる事件の真相のみで評価するには勿体無い作品ではあるのだが、この謎に対して読者への挑戦状を挿入するクイーンも無茶な事をやるなぁと思わずにはいられない。特に本作では冒頭の謎が格段に奇妙であったため、期待が高くなり、それだけに落差が大きかった。 クイーンの信望者である作家法月綸太郎のデビュー作『密閉教室』に、担任の教師が本作を非難するシーンがある。確か、有名な作品ということで読んでみたが、一体あれは何なんだ、バカバカしいといった感じの非難だった。 読書中、幾度となくそのシーンが想い出されたが、それがそのまま私の言葉になってしまった。 更に本作はアメリカではクイーンの最高傑作と出版当時評されたそうである。なんともアメリカという国の懐の深さを感じるとでもいうか、こういうトンデモない話をユーモアとして解する国民性ゆえの賞賛といおうか、いやはやなんとも理解しがたい話だ。 しかし、クイーンは『ドルリイ・レーン最後の事件』以降の質の低下が気になる。『アメリカ銃の謎』からこの3作は手放しで賞賛できない物ばかりだ。 しかし第2期にまだ名作が残っているとの話。クイーンはまだ終わっていないはずだ。これからもまだ見ぬ傑作との出逢いを信じて、読んでいこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『待たれていた男』では永久凍土から出てきた死体がアメリカ人とイギリス人、そしてロシア人の第2次大戦当時の身元不明死体という設定でチャーリーに再び危機を齎したフリーマントルだったが、今回はモスクワで起きた米露大統領射殺事件―1つは未遂―の現行犯がなんとイギリスからの亡命者の息子だという設定でチャーリーを事件の渦中に巻き込む。いやはやよくもまあ斯くも多彩な設定を思いつくものである。
そしてまたまたフリーマントルは素晴らしい手札を用意してくれている。 亡命者を監理するKGBのベンドール一家に関する資料は一体どこへ消えたのか? ベンドールが火曜日と木曜日に会っていた連中とは誰か? ピーター・ベンドールの日記や書類を持ち去ったKGB職員とは一体誰なのか? ロシア軍に所属していたベンドールに背後に潜む存在が解らない中、発射された銃弾5発のうち、2発と3発は口径が違う事が判明し、他の狙撃手の存在が浮かび上がる。更には銃弾の旋条痕から実は5発ともベンドールが放った物ではない事が浮かび、更に混迷を極める。そして尋問として呼び出されたベンドールの母親が獄中自殺したと思われたのが実は他殺であった事、それを筆頭にベンドールを取り巻く連中が次々と殺されている事。そしてなかなか口を割らないベンドールが時折口ずさむハミングは何の象徴なのか? そもそも何故、軍に所属していた頃から奇行が目立っていたベンドールのような不安定な精神状態の男を敢えてこのような重大な暗殺事件に狙撃手として選んだのか? 様々な事実が大きな組織、それもロシアの政治の一画を担う組織の翳をちらつかせるが、それが何なのかが新事実が解れば解るほど曖昧になっていく。 どんどん複雑化する状況に読者は一体この先どうなるのだろうかと安心する事を保証されない。そしてこの複雑に絡み合った数々の要因が最後ある一つのシンボルを中心にするすると解けていき、最後に明かされる事件の裏に隠された壮大な計画が露わになってくる。 特に冒頭で起きた狙撃手とTVカメラマンとの格闘の一部始終が、最後になって全く別の側面を持っていたことが明らかになるところはカタルシスを久々に感じてしまった。本格ミステリの謎解きそのものと云っていいだろう。そしてこの真相が解って初めて本書の原題”Kings Of Many Castles”の意味が見えてくる。 そして今回もものすごい知能合戦の応酬だ。三国共同捜査という形を取りながらもいずれも自分の地位、自国の優位を得んがために、協力の微笑みの裏でナイフを隠し持つ危うさを持っている。無害かつ見返りとして自分の利益になりそうな情報や証拠は共有化するが、自らの取っておきの武器となりうるものは決して明かさない。 そして各々がそれを隠し持っている事を三国捜査の代表者は笑顔や何気ない言動に隠された合図で知っているのだ。 特に今回は現行犯逮捕されたベンドールの尋問とナターリヤが行う旧KGBの亡霊とも云うべき連邦保安局のトップとの尋問がスリリングだ。 前者はなかなか突破口を見出せなかった尋問から、精神科医の助言を手掛かりにチャーリーが言葉巧みに相手の自尊心をくすぐり、徐々に有効な情報を引き出していくテクニックに感嘆する。 後者はKGBというロシアの高官の誰もが恐れる存在の象徴ともいうべき連邦保安局の長官カレーリンを相手に自らもKGBに所属していたナターリヤが知略の限りを尽くして堅牢なガードを突き崩していく。特にカレーリンは旧KGBでも百戦錬磨の猛者であり、情報戦には長けており、尋問者を手玉に取るように、更にはテストを行うかのように冷徹な微笑を浮かべながら応対する。その自負心を見抜き、相手に誘導されている事を気付かせないように詰め将棋の如く尋問を行うナターリヤ。この尋問に彼女らが背負う大統領代行の威光というのがロシア的で面白い。 ここで彼女らがこの連邦保安局の最高責任者に手玉に取られることは即ち彼女らをバックアップしている大統領代行の強さを挫く事になり、それは代行が大統領に選任された後、連邦保安局に対するその上下関係が継続される事を意味している。この2人のせめぎ合いは本書で最も息が詰まったパートだった。 こういう高度な駆け引きを彼らが出来るのは一様に彼らが自分の感情を制御する訓練を受けているからだ。一番危険なのは感情に左右され、自分を見失うことだ。相手をよく観察し、言葉の抑揚に注意し、発言に隠された意味を嗅ぎ取らなければならない。彼らも人間であるから相手のテクニックに揺さぶられ、感情を露わにするがそれを冷静に観察する第三者の目を持っている。 この辺のテクニックは私も仕事をする上で是非とも身に付けたい技術だ。 そして哀しいかな、彼らはそのような訓練を受けているがために、男女関係の駆け引きにおいても第三者の目を行使し、無防備に相手に身を委ねない。ほとんどこれは職業病と云っていい。 そしてチャーリーの私生活は前作に比べてあまり好ましくない状況にある。前作での事件でナターリヤ自身が彼との危うい均衡の中での生活に疲労を感じており、チャーリーとの心の触れ合いが減じている。例えば成長した二人の娘サーシャが学校で親の職業について友達同士で話すようになったことに過敏に神経をすり切らし、幾度となくチャーリーへの愛情と自分に向けられる愛情の有無を自問する。単にロシア側の情報源として自分との生活を続けているのではないかとあらぬ想像を掻き立てる。しかし常に先読みする能力に長けているチャーリーを頼りにしている自分がいることにも気付くのである。 作中たびたび登場人物の口から出るように本作の事件はダラスで起きたケネディ大統領暗殺事件に酷似している。むしろダラス事件のロシア版といった趣きで、主犯と思われた人物が逮捕された後、それを暗殺する男が出てきて、またその人物も殺され、真相は闇の中、といった具合だ。 ただフリーマントルは本作ではきちんと決着をつける。それはこの作者が私ならケネディ暗殺事件をこのように解決するだろうと声高に叫んでいるかのようだ。 ただ1つ気になるのは、前作『待たれていた男』でも感じたが、もはやチャーリー・マフィンにもはやライバルはいないということ。今思えばナターリヤとの恋の宿敵であった『流出』で登場したポポフが最後のライバルだったように思う。 最大の敵はもはや自分というのがこの2作で共通する事だろうか。イギリスの情報部員という危うい立場でロシア内務省の上級職でしかも民警を取りしきる高職にあるナターリヤとの生活を死守するためにドジを踏まないよう事に当るチャーリーはアメリカとロシアのライバルどもと共同戦線を張りながらもその実、いかに自分が上手く振舞うかに腐心している。 前作と本作が似通っているのは米英露三国共同捜査という設定に加え、チャーリーの生活の維持というのが共通しているからだろう。悪く云えば本作は前作の数あるヴァリエーションのうちの1つとも云える。シリーズに新しい色を加えるためにも『亡命者はモスクワをめざす』で現れたエドウィン・サンプソンのような、一枚も二枚も上を行くライバルが欲しいところだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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