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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1418件
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新聞記者の前に鎮座する泥棒、藪医者、殺人者そして反逆者からなる4人の重罪人たちが自分達の過去を打ち明けていくという構成で物語は語られる。
第1話目「穏便な殺人者」はエジプトに隣接したポリビアと呼ばれる国で起こった総督射殺未遂事件をテーマにしている。犯人であるジョン・ヒュームは人が撃たれることを妨げる為にその人物を撃ったという奇妙な動機を話す。 非常に状況設定が判りにくい話。なかなか進めないストーリーにいつ起きたのか解りかねるうちにいつの間にか事件が起きていたという漠然とした展開でしか読み取れなかった。 しかし作中で出てくる単眼鏡をつけた巨躯の大男グレゴリーはどう考えても作者自身のように思われる。どちらもイニシャルはGだし。自作にカメオ出演するというのはヒッチコックが自身の映画でよくやっていたことだが、実はそれに先駆けてチェスタトンがやっていたとは思わなかった。一種の読者サービスといったところか。 次の「頼もしい藪医者」は古くからある古い大木を庭に持つ画家兼詩人であるウォルター・ウィンドラッシュ氏とジャドスン医師2人の物語。 これも非常に解りにくい展開の話だ。自分の庭の大木を愛す芸術家ウォルター・ウィンドラッシュ氏と若く、妙に自分の論理に固執するジャドスン医師との交流が描かれ、さらにそこにウィンドラッシュ氏の娘イーニッドが加わるという流れが、いきなり精神病院送りの展開が訪れ、さらには殺人容疑の話にまで発展していく。 作者は二重三重の解明を用意しており、私もこの真相の一歩手前の真相と医師が氏を精神病院に入院させた意図が判ったときには思わずニヤリとしてしまった。しかしエピローグでさらにどんでん返しが行われるのだが、これといった衝撃度は薄い。 しかしチェスタトンの話で使われる樹には一種独特の雰囲気がある。私の好きな短編に「驕りの樹」があるが、本作の巨木も奇妙で歪な形をし、文中の表現を借りるならば「足を一杯に広げた蛸あるいは烏賊にそっくり」で強い印象が残る。この樹が正に物語のキーで、なんとなく「桜の木の下には死体が埋まっている」という、美しいもの、生命力に溢れるものにはそれに伴う犠牲があるものだ、といった日本人的観念に通じるものを感じた。 「不注意な泥棒」は本書の中での個人的ベスト。 逆説のチェスタトン。実に先の読めない展開で読者の予想の裏を常に行く物語展開の真骨頂が本作だと感じた。数年ぶりに島送りにされたオーストラリアから戻ってきた放蕩息子アランの、家名を汚すことに執着するかの如き犯罪行為に隠された真意は、多分納得できる人はさほどいないのではないだろうか。 最後の1人は「忠義な反逆者」。 本書の唯一ミステリらしい趣向である包囲された一軒家から一瞬の間で4人もの人間が消失するという謎の真相は人の先入観を利用したものでなかなか面白かった。 風評や噂で人は簡単に権威者を創り、有名人を創っていく。実体の無い物を有難み、敬うという奇妙な群集心理を痛烈にチェスタトンはこの作品で批判している。 本書をミステリとして捉えるか、寓話の形を借りた啓蒙書として捉えるか、ひとそれぞれ抱き方は違うだろう。私はそのどちらでもなく、その両方をミックスした書物、即ちミステリの手法で描いた啓蒙書として捉えた。 しかし約80ページ前後で語られる各編の内容はなかなか要旨を理解しがたい構成を取っている。舞台設定の説明はあるが、事件、というか出来事は筍式にポツポツと語られ、それが物語の総体をなす。つまり探偵役、犯人役が不在のため、物事を思うがまま、起こるがままに筆を走らせているように取れた。 しかし最後にチェスタトン特有の皮肉と警告がきちんと挟まれているのはさすが。特に先にも書いたが「不注意な泥棒」についてはまさかあんな自らの過去(ネタバレに記載)をフラッシュバックさせるような話が読めるとは思えなかった。 常人には全く理解できない各編の登場人物の行動が最後になって腑に落ちるのは実に鮮やか。21世紀の今でもその特異性は十分通じる。 しかし知の巨人チェスタトンよ、もう少しすっきりとした文体で書けなかったものだろうか?情報過多で実に読むのに苦労した。 この齢にもなると理解する力も衰えてきたようで、学生の頃に読んだようにはなかなか読めなかった。訳者の苦労も窺えるが、もう少し柔らかい日本語で読みたかったかな。 しかし最近筑摩書房は過去に単行本で出版されて絶版となっていた作品を落穂拾いのように文庫化して再販してくれる。チェスタトンに関してはこの次は是非とも「マンアライブ」もしくは「知りすぎた男」の文庫化を期待したい。 頑張れ、筑摩書房! ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書はミステリ作家ならば誰もが一度は触れたくなるという、いまだにその正体が不明の、1888年のロンドンを恐怖のどん底に陥れた切り裂きジャック譚。
通常切り裂きジャック事件の検証をありとあらゆる文献に残された証拠やデータから推測し、正体を解き明かしていく方法を取るが、本書ではその正体をあらかじめ17歳のイタリア人、アルドゥイーノ・デッラ・アルタヴィッラとして物語る。 アルドゥイーノ、すなわち切り裂きジャックが娼婦達を殺し続ける理由を篠田氏は異国の生活で疲弊していたアルドゥイーノがかつて彼を慕っていた女給マッダレーナを探し求めて徘徊していたこととした。夜の街行く女性をマッダレーナと勘違いし、近づいた途端、その醜悪な姿形を嫌悪し、思わずナイフを振るったというのが切り裂きジャック事件の篠田氏的解釈である。 しかし本書の切り裂きジャック譚は通常のミステリとは違い、幻想小説風味になっている。 まず切り裂きジャックとなるアルドゥイーノは「怪物」と呼ばれ、不死身の肉体を持つ。ナイフで自らの手を切りつけても血一滴流れず、また首を吊っても正気を保ったままである。 重ねて彼を殺人の衝動に駆り立てる内なる「私」の存在。そして全てを見透かしたような謎の女性、そしてアルドゥイーノには身に覚えの無い切り取った臓器を送りつけ、さらに切り裂きジャックと名乗り、世間を恐怖たらしめた彼を見つめる存在といったように、これは前世紀最大のミステリであった切り裂きジャック事件の真相を論理的に解明する謎解きではなく、世に残る切り裂きジャック譚をモチーフにした幻想小説といった方が妥当だろう。 切り裂きジャック=アルドゥイーノの一人称で終始語られるこの物語は、作者の独りよがりの観念的な話が延々と続き、その世界観に浸りこめる読者以外にとっては読後の爽快感を得るところとは対極に位置するものだろう。 不死身の肉体を持つアルドゥイーノの正体は、再生を繰り返しては転生した各時代でその都度自分の永遠の伴侶となる者を探し、出逢い、そして別れを繰り返すという無限の苦行を繰り返す存在だった。魂の枯渇を癒すため、片割れを探し求める手段は彼のその時の時代と身分で異なり、1888年に現れた彼は、娼婦を殺し続けるというものだった。 しかし篠田氏は本当に美しい男性が好きなのだなぁ。彼女のシリーズ建築探偵桜井京介もまたハッとするほど美しい容姿を持った男だし、思う存分作品で趣味に淫している感じがする。 こういうところが私の波長と合わないように感じる。雰囲気を出そうと過分に捏ねくり回した文体もまた読書の波に乗ることを妨げているようにしか思えなかった。 本書で唯一読書の興趣を引いたのは切り裂きジャック事件で当時のロンドン市民がどのように噂をし、どのような悪戯をし、また云われの無い疑いをつけられ、暴力を被ったのかが断片的に語られるところだ。このような知的好奇心がそそられるエンタテインメント性がもっと欲しいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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舞台はメキシコのテオティトラン・デル・バリェ。メキシコが舞台となったのは第5作目の『呪い!』以来、実に20年ぶり。
そして期待どおり、その時に地元警部として出てきたハビエール・マルモレーホが再登場する(ちなみに私が持っているミステリアス・プレス文庫版ではハーヴェア・マーモレホとなっている。訳者は同じ青木久恵氏なのだが)。 本作はこのシリーズの原点回帰ともいうべき作品と云えるだろう。スケルトン探偵シリーズと銘打っているだけに、本書の最たる特徴そして魅力は形質人類学教授ギデオン・オリヴァーの学術的な骨の鑑定にある。それが最近の諸作では観光小説の色合いが強く出ており、それがおざなりになっていた感がある。特に前々作の『密林の骨』では骨の鑑定そのものが添え物でしかなかったくらいだ。 それが本書では3つも骨の鑑定が盛り込まれている。 1つはミイラ化した身元が解っている死体の死因についての鑑定。 もう1つは白骨化した身元不明の死体の性別・年齢を解き明かす鑑定だ。 そして3つ目は最後の最後に本書の真相解明として大きく寄与する博物館に展示されている古代サポテク族の頭蓋骨の鑑定。 しかもこれら全てが専門家に一度検分され、身元が推定された物であり、それらをギデオンが鑑定することにより、覆されるという複雑な特色を持った骨ばかり。正に題名に相応しく専門家達を「騙す骨」なのだ。 また1つ目の鑑定は早くも80ページで行われ、昨今長々と舞台となった外国の観光ガイド的な情報とエルキンズお得意の魅力あるキャラクターの説明に紙面が割かれる傾向とは全く異なり、スケルトン探偵シリーズの特色が色濃く現れた作品で、久々にギデオンの緻密な鑑定を存分に堪能した。 そして魅力あるキャラクターは本書でも健在。 エルカンターダ農場の面々、ジュリーの従妹のアニーとその父親カールのテンドラー父子に、オーナーのトニーと会計係のジェレミーのギャラガー兄弟に、無愛想ながらも極上のメキシコ料理を提供するシェフ、ドロテアに、文句ばかり云うホセーファ・ガリェゴスなどはもちろんのこと、特に印象が強かったのは地方の警察署長であるフラヴィアーノ・サンドバール。 この任期満了を間近に迎えた事なかれ主義のノミの心臓持ちの警察署長が、自らの不運を呪いながらもギデオンに協力していくところが非常にいい。事件を穏便に済ませようと願いながらも決して自らの権力で揉み消そうとせず、正義を貫こうとする健気さが実に好ましい。個人的に本書の助演男優賞を捧げたい。 同じメキシコを舞台にしながらウィンズロウの殺伐とした殺戮と麻薬の日々を描いた『犬の力』とは打って変わって終始牧歌的な調子で物語が進むエルキンズのギデオン・オリヴァーシリーズ。その心和む作品世界は第16作になっても衰えるところが無く、慣れ親しんだところに帰ってきた感があり、非常に読んでいて心地がよい。 ミステリとして一読忘れ難いトリックやロジック、そしてどんでん返しがあるわけではないが、ユーモア溢れる文体とコミカルで愛すべきキャラクターが常に登場し、なおかつ骨やギデオンが訪れる地方ならではの知識が得られるこの雰囲気は離れがたい魅力がある。 愛すべきキャラとの再会を喜ぶ人がいるからこそ現在なお訳出され続けているし、私もそれを愉しみにしている人の一人だ。 またこの素晴らしきマンネリ作品の新作を待たなければならないのは、なんとも云えず待ち遠しいではないか。 解説によれば現時点での次作の原書の刊行もまだとのこと。 エルキンズ御齢75歳。ファンのエゴかもしれないがまだまだ健筆を奮っていただきたいなぁ。 |
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現代気鋭のヒットメーカー、ジェフリー・ディーヴァーの最初期の作品でルーン三部作とされるシリーズ物の第2作。
第1作は『汚れた街のシンデレラ』という邦題で早川書房から訳出されていたが、現在絶版。3作目は未訳と数あるディーヴァー作品の中でも不遇な扱いを受けているのがこのシリーズ。特に早川書房は早く復刊して欲しい(全くの余談だが、最近の早川書房の絶版の速さは驚くものがある。出版不況の中、余剰在庫を抱えるのはリスクであるのは承知しているが、出版業が文化事業だという意識の欠落が感じられる。トールサイズという独自の規格で本屋さんを泣かせてもいるし、最近すごくエゴとサーヴィスの低下を感じるのだが)。 さてジェフリー・ディーヴァーと云えばどんでん返しと云われているが、最初期の本書も正にそう。なかなか予断を許さない展開を見せる。 ハリウッドに数多ある映像プロダクションに勤める駆け出し社員ルーンが遭遇するポルノ映画館の爆破事件。その時たまたま上映されていた映画の主演女優シェリー・ロウに興味を覚え、この爆破事件のドキュメンタリーを撮ることを決意する。しかし爆破現場には<イエスの剣>なるテロ組織の犯行声明文が残されていて、続く犯行を予見させる。 ポルノ業界のみならず映像業界、しかもハリウッドスターが彩る華やかな銀幕の世界ではなく、弱小のプロダクション会社の日々を綴り、さらにそこに爆発物処理班の生活を絡める。 これら描かれる映像業界の内幕と爆発物処理班の日常そして爆発物処理の過程は確かに読み物として読み甲斐はあるものの、読書の愉悦をそそるまでには届かなかった。説明的で食指が動くようなエピソードに欠けた。あくまでストーリーを修飾する添え物の領域を出ず、プロットには寄与していない。 この辺はまだ作家としてのスキル不足を感じた。 また登場人物たちがステレオタイプで、あまり印象に残る人物がいないのが気になった。主人公のルーンは好奇心旺盛のやんちゃ娘タイプだが、読書中、なかなか貌が見えなかった。ルーンという中性的な名前のせいか、読む前はてっきり男性の主人公だと思っていたので、女性と解った時はびっくりした。ハウスボートに住むなど個性的な設定もあるが、作り物の感じは否めなかった。 彼女の相手役となる爆発物処理班のサム・ヒーリーやルーンが一連の爆発事件の容疑者として一方的に疑っているマイケル・シュミット、ダニー・トラウヴ、アーサー・タッカーもどこか類型的だ。 一つだけ鮮烈な印象を残すのは爆発事件の犠牲者となったシェリー・ロウだ。 爆発事件を彼女にスポットを当ててドキュメンタリーを作ることにし、ようやく撮影が始まった矢先に死んでしまったシェリーに共感を覚え、彼女の死の謎を追うことにしたルーンが辿る彼女の関係者から聞かされるシェリーの人となりはポルノ女優という卑しき職業に就きながらも気高く聡明さを感じさせ、掘り下げられるうちにその存在感が鮮烈さを増してくる。彼女の才能が類稀であることが解っていくにつれ、映像業界がポルノ映画、すなわちブルームービーへの強い偏見と嫌悪を抱いている現状と才能あるポルノ女優の恵まれない環境が読者の頭に次第に刷り込まれていく過程は見事だ。 それゆえにラストの余韻が生きてくる。詳しくは書けないのでこれくらいにしておこう。 しかし一方で他の登場人物の色合いがくすんで見えてしまったのは計算違いだったのではないだろうか。 といったようにこの作家が売れるようになった『静寂の叫び』やリンカーン・ライムシリーズを未読なので比較はできないが、若書きの印象を強く抱いた。 ただこの作者のミスリードの上手さは本書でも味わえる。後の作品の物と比べれば、それはあまりに当たり前すぎる手法かもしれないけれど。 逆に私はこの作品からどのように今、常に絶賛を以って新作が迎えられるようになったか、つまり“化ける”ようになったかを発表順に追っていくことで見ていこうと思う。 |
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久々のクーンツのスピード感と畳み掛けるサスペンスが冴え渡る良作だ。本書はクーンツの数ある作品の中で1つのジャンルを形成している“巻き込まれ型ジェットコースターサスペンス”の1つだ。
今まではとにかく訳が判らなくて命を狙われるという展開だったが、本書の主人公、突然の災禍の被害者ビリーの場合は、自身に被害が及ぶのではなく、警察に連絡するか、もしくはしなくても誰かが殺されるという脅迫を受けるのだ。つまり問われるのはビリーの良心なのだ。 最初は関係のない人たちが殺され、次のターゲットは友人のラニーに。そして自分にも被害が及びつつ、犯人は自らが行った殺人をビリーにかぶせようと周到な用意をする。やがてメッセンジャーが告げたのは自分に関係のある人の中から一人殺す奴を選べという衝撃の言葉。 真綿で首をじわりじわりと締めるようにビリーの生活は侵されていく。しかしビリーには気を休める暇もない。題名の“速さ”が示すように次から次へと犯人から残酷な要求が襲ってくるからだ。 さらに正体の解らぬ犯人が勝手に連続して殺しを行うだけでなく、全てがビリーを犯人だと示唆するかのように偽造証拠を残し、さらに犠牲者とビリーとの関係性が徐々に狭まっているところが恐ろしい。 しかし多作家のクーンツだが、よくもまあアイデアが尽きないものだ。彼の作品はワンパターンだという評価が巷間では囁かれている。確かに物語の構成は確かにそうだ。 絶望的なまでに強力な悪の存在に突然主人公が襲われ、それにいかに立ち向かい、勝利するかというのが物語の骨子だ。 しかしそのヴァリエーションの豊富さには目を見張るものがある。毎回よくこれほど悪意溢れるサイコパスを生み出せるものだ。これほどまでの人非人を考え付くものだと作者の創造力に恐れすら覚えるくらいだ。 実際の事件に題を取ったのか判らないが、彼の小説を見て同じ事を真似しようと考える犯罪者が現れないか心配すらしてしまう。 それは犯人だけでなく、例えば保安官のジョン・パーマーも同様だ。ビリーが14歳の時の彼との間のエピソードは人の悪意をまざまざと見せつける。しかもとにかく容疑者を犯人に仕立てようとする保安官なんて、こういう人間がいそうだから恐ろしい。 また物語の肉付けとなるエピソードの豊かさと小道具の良さにも注目したい。 腸卜なんていう占いがあったなんて知らなかった。これは作者の想像の産物なのだろうか?動物の死骸の内臓の配置から未来を読み取るなんて、実に奇抜で異色かつグロテスク。小学校の頃、よく食用蛙や猫の轢死体を見かけたが、あの腹を引裂かれて内臓が四方八方へ飛び散った死体を凝視するなんてちょっと想像するだに怖気が出る。 作者のオリジナルだとすれば、それもまたその創造力に感心する。 そして溶岩トンネル。これが非常によい。苦境に陥ったビリーの唯一の拠り所と云ってよいだろう。これがどのように使われるのかは作品を当ってもらいたい。 さらに物語のキーパーソンとなるビリーの恋人で植物人間のバーバラ。彼女が昏睡状態に陥った原因となるヴィシソワーズの缶詰が不良品だったというエピソードなど、当時の米社会で問題となった事件から材を得ていると推測されるが、食の安全を脅かし、明日は我が身である問題の身近さが忘れがたい印象を残す。 しかしこのバーバラの使い方は実に上手い。昏睡状態の彼女が呟く寝言の意味など、物語的にはさほど重要性はないと思っていたが、この意味が判明し、最後の感動的なエンディングに繋がっていくのだから、クーンツの物語作家としての余裕が感じられて非常によい。 本書と似たようなジェットコースターサスペンスに『ハズバンド』があったが、それと比べると断然出来はこっちの方がよい。あの作品は主人公が絶体絶命の犯罪者として仕立て上げられる状況がどんどん重なっていくのに、敵を倒したらいきなり何のお咎めもないエンディングを迎えるのに面食らったが、本書ではビリーを犯人とする偽造証拠を回収し、さらにあのハッピーエンドを用意している。 しかも今回のエンディングは読者の予想をいい意味で裏切る希望的な結末であるのがよい。最近の傑作『オッド・トーマスの霊感』と比肩すると云えば云いすぎかな。 まあ、でもクーンツに興味を持った読者が取っ掛かりとして読むにはバランス的にちょうどいい作品だろう。 クーンツはモダン・ホラー界のジョン・ディクスン・カーと個人的に思っているので、その出来は玉石混交。しかも昨今の作品ではその長大さとは裏腹な内容の薄さと回りくどい云い回しが目に付き、金額に見合ったパフォーマンスを見せてなかったと感じていたので、本書の物語のサスペンスの高さと長さ(総ページ数600ページ弱で上下巻なのが納得しかねるが)はお勧めだ。 クーンツ作品のスピード感(ヴェロシティ)を是非とも感じていただきたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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最近の島田作品には多い形式の200ページ前後の中篇を併せた中編集。本書には表題作と『傘を折る女』が収録されている。
表題作は、題名が指すUFO大通りはその名のとおり、夜な夜な行列を成しては現れるUFOと宇宙人の集団戦争話と、密室状態の中、白いシーツを体にぐるぐると巻き付け、オートバイ用のフルフェイスのヘルメットを被り、バイザーも閉め切った上にマフラーを首に巻き、両手にはゴム手袋を死んでいた男の謎についての話である。 う~ん、これは明かされる真相に論理の光明が差すとまでの驚きはないなぁ。逆に普通のことを大げさに比喩したことを謎にしただけという感慨が強い。 続く『傘を折る女』は御手洗が留学する直前の春、1993年頃の事件の話。 島田版『九マイルは遠すぎる』とでもいいたくなる作品。夜中に土砂降りの雨の中に必要不可欠な傘を故意に折る女性の奇妙な行動の話を御手洗が演繹的論理展開から殺人事件の発生を推理するというもの。 さらにラジオの深夜放送の奇妙な話から全てを見通したが如くの御手洗の推理は新たな事実の浮上により、再考を余儀なくされるのだ。 これには読んでいる私も思わず身を乗り出した。御手洗の神の如き推理が覆される趣向に新味を感じたからだ。同じ構成で単にソフトを変えただけの話を読まされるだけかと思っていたが、自作を発展させた次のステップが上乗せされている。 そしてまたもや御手洗の奇妙な推理に眩暈に似た当惑を覚えてしまった。もう読者はこの当惑を理解に変えるために次へ進まざるを得ない。 いやあ、もろに島田氏の術中に嵌ってしまった。 とはいえ、たった少しの事実で事件の背景に隠された雑多な事実をあれほど正確に見抜くのは御手洗の天才ぶりを感じるというよりも、作者が描いたプロットの代弁者になっているだけのように感じ、非常に人為的な物を感じてしまった。 御手洗潔物の短編には奇想がふんだんに盛り込まれているが、本書もとんでもない設定だ。 表題作ではUFOと宇宙人が現れた怪事と実に奇妙な服装と状況で密室状態の部屋で死んだ男の謎を扱っているし、『傘を折る女』ではその題名どおり、土砂降りの雨の中、わざわざ傘を車に轢かせて折る女性の奇妙な行動の謎がテーマだ。 そんな魅力的な謎をいかに論理的に解明するか。これが本格ミステリそして巨匠島田荘司作品を読む最たる悦楽だが、しかし昨今の作品では逆に御手洗の登場と共に色褪せてしまうように感じてしまう。 最近の御手洗物に顕著に見られる“全知全能の神”としての探偵というテーマを強く準えているため、快刀乱麻を断つがごとき活躍する御手洗の東奔西走振りを読者は手をこまねいてみているだけという印象が強くなってしまった。 謎が奇抜すぎて逆に読者が果たしてこの謎は論理的に解明されるのだろうかという心配が先に立ち、明かされた時のカタルシスよりも腰砕け感、これだけ風呂敷を広げといてこんな真相かという落胆を覚えることが多くなった。 また謎を過剰にするが故に、明かされた真相に現実味を感じないようになった。2作目では傘を折る動機はなかなか面白いにしても、その後の現場に別の女性の死体があった真相は話としては面白いが、果たしてここまで奇妙な偶然が重なるだろうか?と疑問を感じてしまう。 本格ミステリの醍醐味はどう考えても不可能な事象や不可解な状況が、至極当たり前の常識でもって腑に落ちていくところに謎が解かれる魅力やカタルシス、そして論理の美しさを感じることだ。しかし本書ならびにこの頃の島田氏の作品は強引にありえなさそうな現象や事実が積み重なって起きたという、作り事の色合いが濃くなってきているように感じ、こんなの思いつくのは島田氏だけだよ的な謎になっているのが残念。 確かに元々その傾向はあり、この作者しか書けないスケールの大きな謎が魅力でもあったのだが、本書などを読むと幻想的な謎を創出しなければいけないあまりに無理が生じてきているように思えてならない。 本書は島田が怒涛の連続出版を行った2006年の出版ラッシュの時の作品でこの頃に出版された一連の作品群は構成が似ている。 特に2編目の「傘を折る女」は御手洗が推理を開陳し、それを裏付ける加害者側のストーリーが展開する。これは『最後の一球』と同じ構成と見てよいだろう。 もっと遡るならば『ロシア幽霊軍艦事件』の構成と同じだ。そしてそれは本格推理小説の始祖アーサー・コナン・ドイルが創出したシャーロック・ホームズの長編と同じ構成でもあるのだ。 すなわち鮮やかな推理で真相と犯人が解明された後の、なぜ犯人は犯罪に至ったのかというサブストーリーを語る2部構成の作品といってよい。これは当時島田氏が提唱した物語性への回帰を実践するものだが、犯人側のストーリーにだんだん比重が置かれ、構成がアンバランスになってきている。 確かに第2部で語られる話は実に面白い。日本人の判官びいき気質を助長する社会的弱者、ボタンを掛け違えたためになぜか人生が上手く転がっていかない者たちの話は犯人を応援したくなる味を持っている。それら犯人側のストーリーに島田氏の社会的弱者への眼差しが強く盛り込まれ、社会の理不尽・不条理さに対する怒りのメッセージが色濃く投影されているが故にそのパートがどんどん長大化してきているのだ。 正直脱稿後読み返しているのかと疑うくらいのバランスの悪さを感じてしまう。 しかし島田氏も冤罪事件に関係することでわが国の裁判における証拠物件の内容や法医学の知識も増え、そして脳生理学への興味からその知識も得ているだけに、短編にそれらの知識を盛り込んでしまうため、昔なら50~100ページ弱で終わっていた短編が膨らみすぎて200ページくらいまで拡大してしまっている。 確かにこの辺の専門分野の話も面白いが、そのために話が無駄に長くなり、スピード感に欠けてきているように感じた。もっと謎に特化した往年の切れ味鋭い作品を期待する。特に昔の奇想溢れる長編が読みたい。 とはいえ、もう60過ぎだからなぁ。難しい注文かもしれないなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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前作『犬の力』は同じマフィアの話でも麻薬を軸にしたメキシコマフィアの話だったが、本作はアメリカの裏社会を題材にした小説の定番ともいうべきイタリアマフィアのお話。
加えて齢60を越える元凄腕の殺し屋が命を狙われる本書はウィンズロウ色が色濃く溢れたオフビートな作品。しかも主人公フランクの趣味はサーフィンと私の好きな『カリフォルニアの炎』の主人公ジャック・ウェイドと同じだから期待せずにはいられない。 そしてその期待は見事に適えられた。 とにかく主人公フランキー・マシーンことフランクがカッコいいのだ。 どんなタフな奴が来ても動じない度胸と対処すべき術を心得ている。よくよく考えるとウィンズロウ作品の主人公というのは自身の信ずる正義と矜持に従うタフな心を持った人物だったが、腕っぷしまでが強い人物はいなかった。つまり本書はようやくタフな心に加え、腕っぷしと殺人技術まで兼ね備えた無敵の男が主人公になった作品なのだ。 今まで伝説の殺し屋と噂されるキャラクターは色んな小説に出てきたが、その強さを知らしめるのは単に1,2つのエピソードだけでお茶を濁される作品がほとんどだった。しかしウィンズロウはその由縁をしっかりと描く。だから読者は彼がまごう事なき伝説の殺し屋であることを理解し、その伝説を保たれるよう応援してしまう。 物語はフランクがフランキー・マシーンになった「成り立ち」とフランクを殺そうとする者たちを探索する現代の話とが平行して進む。フランクが過去を回想するたびに、殺した人間の係累に思いを馳せ、もしやそれが現状の引鉄かと推測し、そこへ向かうといった具合だ。 『犬の力』では30年以上にも亘る麻薬捜査官とマフィアとの闘争を描き、上下巻併せて1,000ページを超える大著であったが、本書はフランクの回想シーンが1963年の19歳だった頃から始まることを考えれば、62歳の現代から振り返れば43年分の歴史が語られているわけだが、上下巻併せても630ページ弱で『犬の力』よりも長い。しかも字の大きさは『犬の力』よりも大きい(昨今の出版状況の厳しさが偲ばれる)から、1冊にまとまるくらいのコンパクトな長さである。 つまり本書がいかにスピード感あふれ、なおかつエッセンスが詰まった作品であるかが解ると思う。 そして抜群のストーリー・テラーであるウィンズロウ、この過去のパートそして現代のパートが共に面白い。 このイタリア・マフィアの悪党どもがそれぞれの思惑を秘めて絡み合うジャムセッションは全くストーリーの先を読ませず、以前から私が云っているエルモア・レナードのスタイルを髣髴させる。特に本作は悪役の描き方といい、ストーリーの運び方といい、そして女性の描き方も付け加えて、さらにレナードの域に近づいているように感じた。元々“生きた”文章を書くことに長けたウィンズロウだったが、本書はさらに磨きがかかっている。ここぞというところにこれしかないという台詞や一文がびしっと決まっているのだ。 さらになかなか解らないのがなぜフランキー・マシーンを消そうとしているのか?そしてそれは誰の企みなのか?というメイン・テーマだ。殺し屋稼業だから、過去の恨みは数知れなく、フランクは思いつく限り現代に禍根を残す人物たちに接触を図る。浮かんでは消え、接触しては否定される動機の数々。 それらを通じて語られるのはマフィアの世界の非情さ。使える者はとことん利用してあぶく銭を得てのし上がっていく。それを面白く思わない輩が武力を以って横取りしようと画策する。勝ち残るには権力とそれを保つ勢力が必要。だから下っ端は顔になろうと姑息な手段と殺しを請け負い、ボスへの信頼を得ていく。 前作『犬の力』では“犯罪はペイする”という言葉を立証するかの如く、メキシコの麻薬組織が他国の政府に資金援助をして磐石の組織基盤と資金システムを築いていくのに対し、本作のイタリア・マフィアはポルノ産業や賭博産業、高利貸し、クラブ経営といった浮世商売で一攫千金を狙い、他組織からの妬みと裏切りと麻薬とで崩壊していく。 フランクの元相棒マイク・ペッラが死に際に放つ「マフィアの世迷い言なんぞ、もうたくさんだ。そう、何もかも世迷い言だった。名誉も忠誠もあるもんか。初めっからなかった。おれたちは自分をだましてたんだ」述懐が象徴的だ。 そしてウィンズロウ作品の特徴の1つにプロットに政治が絡むことが挙げられる。表向きの目的に隠された政治的工作や陰謀、もしくは犯罪が絡む政治的倫理。それは初期のニール・ケアリーシリーズから盛り込まれていた。 特に本書ではその現在の腐ったアメリカ政治に対する作者の怒りとも嫌悪とも取れる“魂の叫び”が作品の最後の方にフランクの台詞として述べられている。その、政府が犯罪組織を撲滅したがるのは彼らが商売敵だからだという過激な論調は数々の職を転々としながら、自身も裏社会に通じてきたウィンズロウしか云えない言葉だろう。 というよりもこの部分がよくも検閲に引っかからなかったものだとアメリカ出版業界の懐の深さに感心する。 そしてまだまだ尽きないキャラクターのアイデア。本当に個性的だ。 主人公フランクは先に述べたとおりだが、彼のサーフィン仲間でFBI捜査官であるデイヴ・ハンセン。彼もある意味影の主役といえよう。『カリフォルニアの炎』のジャック・ウェイドを思わせる自分の信念と正義のために上司からの圧力にも屈しない不器用な男である。 そしてフランクの元相棒マイク・ペッラ。彼はフランクが抑制していた強欲を象徴する人物といえよう。フランクが長いこと彼と相棒そして友人として付合っていたのは彼の中に己の戒めるべき姿を見ていたからに違いない。久しぶりに見たマイクの凋落振りに自分の未来像なのかとフランクが絶句するところが象徴的だ。 また伝説の殺し屋フランキー・マシーンを殺して自らの伝説を築こうと息巻く若きマフィア、ジェームズ“ジミー・ザ・キッド”ジャカモーネも忘れられない男だ。ヒップホップに嵌り、エミネムのファッションを真似る男は組織のボスや幹部達を老いぼれと軽蔑し、かつてのイタリアマフィアの隆盛を取り戻そうと野心を募らせている。伝説の殺し屋を畏怖する人物が多い中で唯一恐れない男だ。 さらにフランクの別れた妻パトリシア、フランクの若き頃のボス、バップことフランク・バプティスタ、ラスヴェガスの高利貸しハービー・ゴールドスタイン、元警官でいくつものクラブを経営していたホレス“ビッグ・マック”マクマナスなどなど、フランクの過去に関わり、通り過ぎていった人物たちそれぞれも重ねられたエピソードが実に味わい深いゆえに鮮烈な印象を残す。 個人的にはフランクが標的として追っていたカジノの金を持ち逃げした警備主任のジョイ・ヴォールヒーズのエピソードの印象が最も強い。ほんの末節に過ぎないこのエピソードに追う者と追われる者の奇妙なシンパシーと逃亡人生の末路の悲惨さが痛烈に込められ、忘れがたい。こんなエピソードが書けるウィンズロウはどんな人生を歩んできたのだろうか? 今までウィンズロウの作品で唯一不満だったのは物語の閉じ方だ。ペシミスティックで感傷的な終わり方はどの作品も魅力ある主人公を書いているだけに、同じ物語の世界を旅してきた読者の一人として、なんとも不完全燃焼な感じを抱いていた。ニール・ケアリーしかりジャック・ウェイドしかり。 しかし本書はこれこそ私が待ち望んだ結末といわんばかりの、静謐さと希望が入り混じった思わず笑みが零れる極上の終わり方だ。だから私は迷わず星10を献上する。ウィンズロウ作品初の星10を。 |
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エラリイ、再びハリウッドの土を踏む。
国名シリーズとライツヴィルシリーズの架け橋的な存在だったいわゆるハリウッドシリーズと云われている『悪魔の報酬』、『ハートの4』、『ドラゴンの歯』以来、実に約12年ぶりにハリウッドを舞台にしたのが本書。ロジックとパズルに徹した国名シリーズからの転換期で方向性を暗中模索していた頃の上の3作と違い、ライツヴィルを経た本作ではやはりロマンスやエンタテインメント性よりも人の心理に踏み込み、ドラマ性を重視した内容になっている。 今回も宝石商を営む裕福な家庭に隠された悪意について語るその内容はロスマクを思わせ、なかなか読ませる。 半身不随の夫に美人の妻、そして好男子の秘書、そして裸で樹上に設えた小屋に住む巨人ほどの体躯を持つ息子に自然と戯れる妻の父と、明らかに何か含みがありそうな一家が登場する。しかしロスマクと違うのは、事件は毒殺未遂に蛙の死骸散布と、本格のコードを踏襲した奇想で、ぐいぐいと読者を引っ張っていくところだ。 特に今回は作者クイーンのなみなみならぬ謎に対する異常なまでの迫力を感じた。 犬の死骸、砒素の混じったマグロのサラダ、何百匹もの蛙の死骸、札入れ、焼き捨てられた本、無用になった株券、見えない脅迫者から送られてくる箱の中身は脈絡のないものばかり。 これだけの材料を与えられながら、読者は犯人の正体とその意図を推理することは出来ないだろう。逆に混乱を招いてしまって一つの筋道を見つけることが困難になっていると云った方が適切か。 つまり本書もまた『九尾の猫』との類似性を感じるのだ。 『九尾の猫』は連続して殺されていく被害者を結ぶ手がかり、つまりミッシングリンクを探る物語だった。翻って本書は被脅迫者へ脅迫者が次々と送ってくる品々が意味するところを推理する物語である。つまりこれもミッシングリンクを探る物語なのだ。 つまり『ダブル・ダブル』と本書は『九尾の猫』を要の位置としてそれぞれ連続殺人物、ミッシングリンク物と『九尾の猫』が備えているエッセンスを解体して、別の手法で作り上げた作品のように感じられた。 また本書では今までクイーン作品ではあまり語られることのなかった当時の世情についても触れられている。エルロイ作品で有名なブラック・ダリア事件に朝鮮戦争の勃発と、暗い世の中の状況が出てくるのが意外だった。 そして特に朝鮮戦争では明白に大量殺人の中で名もなく埋もれてしまう何万人もの人間の死に対する憤りを感じた。1人の死に対して推理に推理を重ねて苦労する一方で、兵器によって簡単に何百人もの人間が殺されていくことの不合理さ。 笠井潔氏が現在もなお揺るがない「大量死と密室」論が本書でも同等の意味で語られている。寧ろ1990年代に至るまでなぜこのエラリイの述懐に気付かなかったのかが不思議に感じた。 さて本書の舞台がハリウッドであることの理由について作中でちらりと触れられている。映画の都ハリウッドでは世間の一般基準から逸脱した者たちさえも個性ある人物として逆に評価される、従ってこの夢の都では何が起きても不思議ではないというわけだ。 今後エラリイの活躍の場がホームタウンのニューヨークからこの地へ移るのか解らないが、なるほどなと思わされた。 人間の心理へ踏み込み、探偵が罪を裁くことに対する苦悩を描いてきたこの頃のクイーン。 前作『ダブル・ダブル』では作品の軸がぶれて、殺人事件なのかどうか解らなかったところがあったが、本書では次々と起こる奇妙な出来事の連続技で読者をぐいぐい引っ張ってくれた。 しかしその内容と明かされる真相および犯人の意図は現実的なレベルから云うとやはりまだ魅力的な謎の創出に重きを置き、犯行の必然性とマッチしないところがあって、手放しで賞賛できないところがある。 しかしミステリに対するエラリー・クイーンの凄みを感じる作品だったので今後の作品に期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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最愛の人が政情不安定な異国の危険地帯で拉致されたら貴方はどうしますか?
本書の主人公ジャネット・ストーンはCIAや関連組織に連絡を取ってもなしのつぶてだったため、マスコミと政治家を味方につけ、世論を巻き起こし、さらに若き女性のみでありながら単身、現地へ乗り込むことを選択する。 そうした時に起こりうる利害関係者が取る対応について知るのにうってつけの小説と云えるだろう。CIAの慇懃無礼な対応や現地大使館、現地警察の圧力など非常にリアルに迫ってくるものがある。 過去に夫を肝臓癌で亡くし、そのときに何もしてやれなかった無力感がジャネットのレバノン行の原動力となっているのはわかるものの、非常に脇の甘い女性だなぁと終始思ってしまった。 レバノン渡航へのつてを得ようと、現地の詐欺師に簡単に騙され、一万ポンドのもの大金を簡単に渡してしまうわ、漁師たちの船に若い女性の身でありながら単身で乗り、強姦されそうになるわと、作中でキプロスの刑事がいうように「甘やかされた、金持ちの、愚かな女」で、「安っぽい小説の主人公のようにふるまっている」のだ。 この台詞は本書が安っぽい小説だと作者が自虐的に述べているようにも読み取れるがさすがにそれは穿った読み方か。 しかしハーレクインとして発表されてもおかしくないほど典型的なロマンスミステリではないか。フリーマントルが別名義で発表した作品かと思ったが、調べてみると違っていた。 ジャネットの年齢は明記されていないが、前夫との死別を経験していることから、おそらくは20代後半から30代前半と推測できる。つまりは分別のついた大人の女性であるはずなのだが、何かにつけ女性蔑視だと決め付け、それに対し激しく嫌悪し、激怒する。特に微妙な国際間の緊張を孕んでいるだけに無難かつ穏当に拉致事件を処理したい政府側に対して常に喚き、強引に関わろうとする。 さらに読み進めるにつれ、ジャネットはジョンの救出に力を貸すフリージャーナリストデイヴィッド・バクスターと恋に落ち、愛を重ねるようになるのだ。この辺、それまでのジャネットが経験してきた辛い仕打ちを考えれば、ようやく辿り着いた拠り所となるのだから判らないでもないが、救出するのが婚約者であることを考えると、どうにも共感できかねる背徳行為だと云わざるを得ない。 フリーマントルには『ディーケンの戦い』という誘拐された妻のために夫が奮闘するという小説があるのだが、本書の展開はその作品のやるせなさと救いのなさを思わせる。このような似た趣向の趣向の作品を2作も書いているフリーマントルは男女の真実の愛なんてものは存在しないとはなどと鼻であしらっているように思える。 以上のような性格だから、このジャネット・ストーンはなかなか読者の共感を覚えるキャラクターではなく、境遇は解るものの、物分りの悪い上昇志向の自意識過剰のヒステリックな女性としか見えず、応援しようと思えないのが本書の欠点だろう。 さて本書のタイトル『裏切り』。実に素っ気無い題名だが、この本には数々の裏切りが含まれている。 まず夫ジョンのジャネットに対する裏切り。職業が実はCIA工作員だったことを婚約者ジャネットに隠す。 まあ、これは裏切りと捉えるかは微妙なところだろう。文中にもあったがスパイは職業柄家族にも自らの職業については伏せておくようだから。 さらにジャネットの金を狙って次々と協力を装い、大金をせしめようとする詐欺師ども。これも裏切りだ。 そして最大の裏切りはジャネットのバクスターへの愛情だ。その他ストーリーが進むにつれてCIAのジャネットを利用した作戦やバクスターが実はモサドの工作員で自分達の捕虜を奪還する為にジャネットの愛情を利用して取引する作戦など、裏切りとも取れる物は数々ある。 しかしこういった諜報物にはこの手の二重三重のカバーストーリーは付き物だから、上のように書いていてもしっくりこない。通常諜報物にはFBI、CIA、KGBやSISなど情報を操作することに長けた人物達しか出てこないが、本書はそれらの人物に素人の女性が関わっているところが特徴なのだろう。 つまり一般人にとって彼らのやる情報戦やカバーストーリーは裏切り行為としか取れないのだ。 が、やはりタイトルの真の意味は最後にジョンが語る、自身を正気に繋ぎ止めておいたジャネットへの想いを読むと、ジャネットの浮気以外何ものでもないことは明白だ。 さて冒頭に書いた問いかけの答えとなりうる手法がここには書かれているが、マスコミ、政治家を利用するというのは実に普通だったなと思ったものだ。もう少し捻りが欲しかったが、一個人が同様の事態に陥ったときに取るべき行動の指南書としては参考になるだろうと思う。 しかしどうしてフリーマントルはこういう後味の悪い作品を書くのだろう?英国人はこういう苦いジョークが好きなのだろうか。不思議でならない。 |
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一大麻薬王国メキシコ。中米の麻薬カルテル組織の壊滅に闘志を燃やす男アート・ケラーと、メキシコ巨大麻薬組織の長アダン・バレーラとの約30年に亘る闘争の歴史を描いた物語。
それは血よりも濃い忠義の絆で結束される世界があり、そこにはアイルランド系マフィアもイタリア系マフィアも絡む惨劇の物語だ。 麻薬。この現代の錬金術とも云える、人を惑わす物質はそれに関わる人々の人生を流転させる。 正義を謳い、悪を征する側に付いていた者は賄賂と便宜にまみれた一大情報ネットワークを構築し、巨大組織を殲滅せんとする。が、しかしそのネットワークが次なる麻薬王誕生の足がかりとして悪用され、正義が巨悪へと転ずるのだ。 フリーマントルはかつて自身の著書で「犯罪はペイする」と唱えたが、正にそう。ここに登場する人々はペイするがゆえに危ない橋を渡り、巧妙な麻薬密輸ルートと販売網を確立する。発展途上の国では警察を含め、役人は薄給に不満を持っており、誰もがその制服と肩書きが持つ力を悪用し、賄賂という“副収入”を得ようとする。 しかしそれは自らが逃れられない粛清の鎖に絡め取られる端緒となることに気付かないのだ。いや気付きはすれど貧しさゆえに目先の収入に抗うことが出来ないのだ。そして誰もがその恩恵に与ろうと待っているのだ。 そしてそれは麻薬の密輸ルートの確保を生み出す。地続きの大陸だからこそ起こるこれほどまでに巨大な密輸作戦。なんせ中南米の貧しい国々は北に向ければ莫大な消費力を誇るアメリカがすぐ近くにある。この巨大なマーケットは実に魅力的。ハイリスクハイリターンの典型的なモデルだ。 このメキシコを中心とした中南米の麻薬戦争の一大叙事詩。本書のドン・ウィンズロウは最初からフルスロットルだ。ゴッドファーザーといえばイタリア系マフィアが有名だが、ウィンズロウはメキシコ人の血よりも濃い“家族(ファミリー)”の絆を描く。赤茶けた砂漠と土塊で作られた建物が林立する埃立つ町並みが、常に汗ばみ、黒々と日に焼けた皮膚で佇む男どもの体臭が、そして灼熱の太陽が行間から立ち上ってくるようだ。 暑さが人の心を狂わせるように、麻薬を摑んで一攫千金を狙う男達の心は次第に歪んでいく。それは権力だったり、愛だったり、憎しみだったり、そして麻薬そのものだったりする。それは悪を狩る者でさえそうなのだ。 捜査官アートは自らの正義を重んじ、自らの矜持に従い、どんな権力にも屈せず、単純に悪党どもを殺さず、法の手に委ね、裁きを受けさそうとするが、そこで直面するのはアメリカの政治原理の壁。中米の共産主義国ニカラグアを第2のキューバに、つまりソ連の属国にさせないためにコントラを配備し、その資金源をなんとメキシコ麻薬組織に頼っていたのだ。 持ちつ持たれつのこの関係にアートは一度屈するが、部下のエルニーの凄惨な拷問死に直面し、鬼となる。そこにはもはやかつて正義と使命に燃えていたアートはいず、不可侵の復讐鬼がいるのみだった。正義をなす為にあえて悪の手に染める。毒には毒を以って制さねばならないという、弱肉強食の原理が存在するだけだった。 麻薬の利権争いが拡充するにつれて、覇権争いも次第にエスカレートしていく。 下克上の世の中、身内が身内を売り、部下がボスを売り、のし上がる。そんな欺瞞と裏切りの日々の連続であり、狩る側狩られる側双方が情報を操作して内乱を起こさせようと企む。そしてついには彼らの家族にまで手をかける。 キリスト教圏の国でありながら、姦淫そして父親殺し、子供殺しなど、その内容は罪深いことばかり。麻薬王国の礎にはどれだけの屍が必要なのか、目を塞ぎたくなる光景が続く。それは正に殺戮の螺旋とも呼ぶべき血みどろの戦いの連続だ。 そんな凄惨な物語ゆえに、登場人物たちもウィンズロウならではの個性的な面々が出てくるが、裏切りと疑心の生活にまみれた者たちばかりなので、自然に各々の性格は歪んでくる。 CIA勤めからヴェトナム戦争を経験し、復員して犯罪を撲滅しているリアルを感じたいがためにDEAへ志願した主人公アート・ケラーも麻薬組織そしてその長で近しい者たちの仇でもあるアダン・バレーラら巨悪を壊滅するために自ら悪の道へと堕ちていく。 敵役のアダン・バレーラは血を見ることを嫌う麻薬組織の王だという面白い性格付けがなされている。 そして後半物語の牽引役となる美貌の高級娼婦ノーラ・ヘイデン。類稀なる美貌を持ちながら、男の心を読み、なおかつ何年もの間メキシコ麻薬王のそばで密告者として潜入する度胸を備えている。 その他風変わりな司教ファン・パレーダ、本能の赴くままに生きるアイルランド人の殺し屋ショーン・カラン、無頼派捜査官アントニオ・ラモス、などなど個性の強い人物が登場する。ただそこに道化役がいないのだ。 話は変わるが、ウィンズロウという作者の名を聞いたときにどんな作品を思い浮かべるだろう。私はシンプルな導入部から次第に錯綜する組織の利害関係が絡み合う複雑な構図を持ったプロットを、減らず口まじりの軽妙な会話とペーソスの入り混じった叙情を持たせた文体で語る作品を真っ先に思い浮かべる。 恐らくこの作家の読者の大半はそうではないだろうか? そしてこの麻薬が生み出す凄惨な物語は一部ウィンズロウお得意の軽妙な語り口が混じってはいるものの、基本的にはハードヴァイオレンス路線の作品である。そして今までの作品の中でも最も長い上下巻合わせて1,000ページ以上にもなる大著は、面白いとは思うものの、世評の高さほどには愉しめなかった。 先にハードボイルド路線に徹した作品『歓喜の島』というのがあるが、私が楽しめなかった作品の1つでもある。この作品の出来栄えの素晴らしさは認めるものの、5ツ星を与えるほどの何かを残す作品ではなかった。 しかしこれは全く好みの問題。恐らく『ゴッド・ファーザー』が好きな人は本書を21世紀版のそれとして読み、愉しむことが十分出来る濃厚な作品である。 とにかく一口では語れない色々な内容を含んだ作品だ。本書に書かれた麻薬密輸の証拠の獲得方法―飛行場で待っているよりも偽装の滑走路を設けて逆に敵を引き寄せる―、コカインが通貨として成立する社会の話、隠密裏になされた“赤い霧”作戦、“コンドル作戦”、などなど書き足りないことは数多ある。 最後にこのなんとも素っ気無い題名「犬の力」について。 これは旧約聖書に謳われた悪を行使する心の奥底から立ち上る力のことだ。悪を滅するためにあえて悪に染まるアートの断固たる決意をメインに謳われている。もはや純然たる正義は存在しないのだ。 今までの作品でも正悪が反転し、価値観を惑わすプロットを駆使したウィンズロウが心底抱いた滾りを本書にて前面に押し出したといっていい。血と金なき正義はもはや存在しないのだとウィンズロウの叫びが感じ取れる。しかしやっぱりそれでもニール・ケアリーもしくはジャック・ウェイドの再登場を願ってしまうのだった。 |
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実に摑みどころの無い事件である。
最初に心臓病で死んだ隠遁生活を送っていた老人に端を発した事件はその後、実業家の自殺へと続き、“町の乞食”もしくは“町の呑んだくれ”と称されていた男は行方不明になっているが、追いはぎに殺された可能性が高い。“町の泥棒”と呼ばれた男は揉み合ううちに銃の暴発により死亡する。そして“町の聖者”とも呼ばれる清貧の医者は交通事故で死んでしまう。 これら自殺を除けば、不運な事故の遭遇もしくは人命を全うしたとしか思えない連続する死亡事件。また雇われる先々で雇い主が奇妙な死を迎える“町の哲人”ハリイ・トイフェルの存在もオカルト風味をもたらしている。つまりこれら殺人事件とも思えない連続的な事故に対し、エラリイは誰かの作為が介在して意図的に起こされた殺人なのだと固執して事件の関連性を調査するというのが、本作の主眼なのだが、上に書いたようになんとも地味な内容なのだ。 そしてエラリイが周囲の反対を押し切って捜査を続ける理由が、“金持ち、貧乏人、乞食に泥棒・・・”と歌われる童謡どおりに事件が起きている事実、それのみ。 人智を超えたところで作用する避けられない巨大な意図が今回のエラリイの敵、それがテーマなのだろうか? つまり偶発的に連続する死亡事故にも実は論理の槍を付きたてて事件性を見出すというのが作者クイーンが語りたかったことなのだろうか。 話は変わるが、本書はクイーン作品としては珍しく素っ気無い題名だ。これは事件に纏わる二という数字から来ている。 まずはエラリイが述べる「物事には二通りの見方がある」という台詞から端を発している。 その後、この二の符号は広がり、上に述べた童謡には二通りの文句が存在すること―“金持ち、貧乏人、乞食に泥棒。お医者に弁護士、インディアンの酋長”と“金持ち、貧乏人、乞食に泥棒。お医者に弁護士、商人のかしら”―、さらにその二つ目の文句には句点の入れ方で二通りの解釈が出来ること、などなど。 二が二を生み、どんどん拡散していく。その他にも二に纏わる符号は出てくるが、それは本書を読んで確認して欲しい。 今回、エラリイは明敏な探偵ではなく、迷える名探偵という位置づけだ。この作品の前の作品に当たる『九尾の猫』でもリアルタイムで起こる無差別殺人に手をこまねいていたエラリイだったが、本書でもそのスタンスは変わらない。 しかし後期作品のエラリイは事件に翻弄される役回りばかりだ。初期のエラリイは事件を高みから眺め、全てを見抜く、全知全能の神のごとく振舞う存在だったのがはるか昔のことのように感じる。 唯一の救いは今までの作品では真実を知ることで失う代価の多さから打ちひしがれる姿が多かったのが、本書では清々しく閉じられていることだ。 前作のエラリイの探偵廃業を決意するまでに絶望に落ち込んだ彼は一体何だったんだと叫びたいくらい、立ち直りが早い。まあ、これはよしとして次作がもっと面白いであろうことを期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『浪花少年探偵団』から5年。あのしのぶセンセが帰ってきた。
本書も前作同様、しのぶセンセこと竹内しのぶと彼女の元教え子の2人が主要登場人物の連作短編集となっている。そしてタイトルが示すとおり、本書がシリーズの幕引きとなる一冊でもある。 まずは復活の一発目「しのぶセンセは勉強中」。 本書が刊行されたのは1993年だから本編が発表されたのはそれ以前であろう。当時はまだ私も学生の身だったので、その頃のパソコンの普及率を考えると世の中の変化についていけない者が出てきて、社会に淘汰されていくというニュースも出ていた記憶がある。 時代と共にやはり内容も古びてしまう。それでも今なお本書が当時の内容で刊行されているのは東野人気のためだろうが。 続く「しのぶセンセは暴走族」ではしのぶセンセは子供達に交通事故の恐ろしさを教え、守ろうという動機から自動車教習所へ通って免許取得にチャレンジ中。 恐らく読者のほとんどが経験しているであろう自動車教習の部分がやはり面白い。確かに金払っているのにあれだけ傲慢に振舞い、罵倒されなきゃならない境遇は珍しい。私もそう毅然と云えればよかったが、やっぱり無理だよね。謎としては小粒か。 次の「しのぶセンセの上京」は文字通りしのぶセンセ東京進出の話。 前作で新藤の恋敵役だった本間義彦再登場。彼は大阪から東京に転勤しており、しのぶセンセの東京ガイドという役回り。とはいえ、やはりここに新藤が絡まないと単なる道化役にしかなっていないのが惜しいところだ。 さすがのしのぶセンセも病気には勝てなかった。「しのぶセンセは入院中」では急性虫垂炎で入院したしのぶの所にも事件は訪れる。 ここは素直に登場人物たちのやり取りと小出しに発生する事件に頭を捻りながらストーリーに身を委ねて、愛すべき登場人物たちが織り成す笑劇に浸るのが吉。 とうとう学生生活から先生へ復帰するしのぶセンセは実家に戻ることを決意する。「しのぶセンセの引っ越し」では住んでいたアパートに最近越してきた母子が、新藤が担当する強盗殺害事件に絡む。 非常に狭い範囲で展開する物語。真相は小粒で、安西と松岡老人とのミッシングリンクを探る物であるが、本格ミステリ度はやはり低く、読者が推理して解明できるプロットではない。真相を知ることで加害者と被害者どちらが悪いのかという正義のあり場を考えさせられる話だが、シリアス度はさほど感じられない。 そしてシリーズの最後を飾るのが「しのぶセンセの復活」。 シリーズ最後の本編は原点回帰ともいうべき、しのぶのクラスで起きる事件を描いたもので刑事事件でもなく、虐めの萌芽と馴染んでくれない生徒達に何とか立ち向かうしのぶの姿が描かれる。したがってこの短編にはレギュラーメンバーである田中と原田は登場しない。それこそしのぶセンセの新たな出発の象徴といえよう。 シリーズ1作目同様、肩の力を抜いて楽しく読めるキャラクター小説である。こちらの独断かもしれないが、物語の構成が手がかりを提示した本格ミステリの風合いから次々と事件が起きて読者を愉しませるストーリー重視の犯罪物に変わっているように思う。 それぞれの短編の雑誌掲載時期が載せられていないので、どの作品がいつ頃書かれたか解らないため、これが東野氏の作風の変遷と同調しているのかが解らないのが残念なところだ。 しかしあとがきにも作者自身が作風の変化を自覚していることを述べているからこの推察は間違いないだろう。読者の推理の余地がないので、本格ミステリ度は薄いが、逆に東野氏のストーリーテリングの上手さと、関係のないと思われた事象がどのように繋がっていくのかを愉しんで読める作品になっている。 従って推理するという作品ではなく、しのぶセンセとレギュラーメンバーである浪花少年探偵団(といってもたった2人だが)こと田中鉄平と原田郁夫、そいて新藤刑事に恋敵本間義彦らが織り成す涙と笑いのミステリ風大阪人情話なのだ。 そして今回しのぶセンセは教師ではなく、兵庫の大学に内地留学している身である。 これが本作にどう影響しているかというと、教え子が絡む小学校に関係する事件ではなく、しのぶセンセを取り巻く環境で起きた事件を題材にしている。そして前作でレギュラーだった田中鉄平と原田郁夫が元教え子として絡む。従って自由度は以前よりも上がっているから事件も学校・生徒という限定空間から外側に広がっている。 各短編の出来は平均的といってよく、駄作もなければ傑作もない。強いてベストを挙げるとなるとやはり最後の「しのぶセンセの復活」となるか。子供の跳び箱事故からある家族の家庭事情に繋がり、教師の転勤へと繋がっていく話の妙はさすがだが、この短編の読みどころは教師生活にブランクを置いたしのぶの再起する姿にある。シリーズの終焉に相応しい好編だ。 大阪弁を前面に出した軽妙なストーリー運びと下町の姉ちゃんと呼べる威勢のいい女教師のこのシリーズ、シリアスな作品が多い東野作品の中でも異色のシリーズだっただけにたった2冊でシリーズを終えるのは惜しいものだ。 現在押しも押されぬ国民的人気作家となった東野圭吾氏がこのシリーズを再開するのは限りなく0%に近いだろうけど、執筆活動の気晴らしとしてまたぼつぼつと書いて欲しいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回の主人公は火災査定人。なんでも作者ウィンズロウ自身が保険調査員だった時の経験を基に書いたのだそうだ。
そして内容も経験した者でしか書けないディテールに満ちている。特にジャックが火災現場で火元を調査する詳細な件は実に精緻でリアルに満ちている。科学的根拠に基づいたその調査は素人の好奇心を掴んでやまないほど、面白い。 さらに保険に纏わる数々の信じられないようなエピソードが読書の興趣をそそる。 保険会社を変えてはスプーンの盗難を訴え、保険金をせびるオリヴィア・ハサウェイ老婦人のエピソードも面白いが、何といってもアメリカで保険金詐欺が続出している件が非常に興味深かった。 何しろ不景気になると保険金を目当てにした偽装火災が増加するのだそうだ。好景気の時に将来の収入を見込んで、ちょっと背伸びをした金額の家を購入するが、不況の波で給料が削られ、「こんなはずではなかった」状態に陥り、減少する給料に比例せずにローンは一定の金額で出て行く。そんな苦境に陥ったとき、自ら火災を起こし、全てを無に帰し、一からやり直そうとするのだそうだ。その額、なんと1年で80億ドル!80億「円」ではなく、80億「ドル」なのだ。そしてこの手の犯罪は1年に約8,600件起きており、つまり1時間に1件起きていることになる。まさに保険会社はこれら詐欺事件との日々戦いだといっていいだろう。 また保険会社内の力関係についてもウィンズロウは詳らかにしている。契約を取ってくる外務部門。社に利益をもたらすよう保険率の算定を行う引受部門。そして保険金を支払う補償部門。 どこの会社でもそうだが、利益を生み出す部門が社内では発言権が大きく、また優先される。補償部門に所属するジャックは自身の会社の大口契約の顧客であるニッキーの不正を暴こうとするのだが、そうすることで大口の契約を失う外務部門の担当者や引受部門の協力者たちの妨害に逢う。 う~ん、サラリーマンを主人公にしながら、これほどマーロウを想起させる孤高の騎士を生み出す業界があっただなんて、いやはやウィンズロウはいいところに目をつけたものだ。 そして何といっても外せないのはウィンズロウが描くキャラクターの魅力だ。主人公のジャック・ウェイドはカリフォルニア火災生命の中でも腕利きの保険査定人として知られているが、実は過去は郡保安局の火災調査部のトップの調査員だった。しかしある事件をきっかけに職場を離れなければならなくなり、サーフィンと仕事に明け暮れる日々を過ごしている。その正義感の強さが彼の魅力であり、また弱点でもある。 この世渡り下手な男は上にも書いたが私に云わせればフィリップ・マーロウそのもの。以前よりウィンズロウの作風がレイモンド・チャンドラーに近づきつつあることを云っていたが、本作でその思いをさらに強めた。減らず口を叩くところはデミルのジョン・コーリーに類似しているが彼ほど型破りでもなく、また女たらしでもない。 そして敵役のニッキー・ヴェイルの造形も見事。KGBの工作員でアメリカにロシア・マフィアの一味になって不法に外貨を流出させることを命令され、マフィアの元締まで昇りつめたが、アメリカの自由に魅了され、アメリカ人の実業家となることを決意した男。彼の歪んだ心理構造が彼の想像を絶する過酷な生立ちを語ることで肉付けされていく。 その他、ジャックを保安局から追い出す要因となった天敵のブライアン・<失火>ベントリー、良き理解者である上司の<こんちきしょう>ビリー。元恋人のレティ・デル・リオ、そしてジャックが義憤を燃やす被害者のニッキーの妻パミラ・ヴェイル、その他登場人物表に名前が記載されていない人物も実に個性的で読者に感情移入を否応なくさせられる。 特に今回はウィンズロウが主要登場人物の過去にページ数をかなり割いて丹念に掘り下げているため、これまでの諸作よりもさらに登場人物たちの造形は深みを増している。 ウィンズロウの作品の根底に流れるテーマに“父性”がある。ニール・ケアリーシリーズでは彼を探偵に育て上げたグレアムがその象徴だし、ノンシリーズでも『ボビーZの気怠く優雅な人生』では主人公のティムが実の子供ではないキットを我が子のように扱い、父子の絆を築き上げていく。また先だって読んだ『歓喜の島』でも主人公ウォルターの回想にモノローグの如く、父親の訓示が挿入されていた。 すなわち作者ウィンズロウにとって父親という存在は自己を形成する上でかなり影響を受けた人物であり、また自身の息子に対し、こうありたいという理想像を作品に投影しているのではないだろうか。そして単に説教になりがちな父親の存在と言葉が全く騒音にならず、寧ろそれがあるために登場人物に深みが増し、読者の親近感を誘うのはこの作者の上手いところだ。 しかし本作では父親の蔭はそれまでの作品に比べると成りを潜めているようだ。主人公ジャックの頭に過ぎる父親の言葉は物語の冒頭部分にしか現れない。 これは父性からの脱却なのだろうか?つまりジャックを今までの主人公とは違う、より自立し、独りで考え、直面した問題を克服する男として描きたかったのだろうか? 確かにこのジャックは保険査定人として一流でありながら、“自分”が有りすぎるために妥協せず、そのために罠に嵌り、巨大な壁に何度も直面する。それを粘りと不屈の精神で乗り越えていく。 このジャックの姿勢を見ると、確かに上に考えたようなことが当て嵌まるように思える。これは後の作品でも注目していこう。 そしてウィンズロウの十八番である読者の予想の斜め上を行く意外な真相は本書でも健在。訴訟社会と云われるアメリカの立証第一主義の裁判が明らかな殺人の痕跡を“血の粛清”でもみ消し、またそれを逆手に取って莫大な損害賠償を求める訴訟を生み出す。そんな自縄自縛な保険業界のジレンマをまざまざと見せ付けられる哀しい結末だ。 これほどまでに絶賛しておきながら評価が8ツ星なのは、物語の閉じ方に不満を感じるからだ。 なぜだか解らないが、ウィンズロウの作品にはハッピーエンドが少ない。そして本書もなんとも報われなさを醸し出す読後感をもたらすのだ。 あのニール・ケアリーも最後は孤独だった。これはウィンズロウの人生観なのだろうか?男はすなわち行き着くところは孤独なのだ、と。それとも次の再開を仄めかす終わり方なのだろうか? 最後に苦言。 こんなに面白い作品なのに、表紙で大いに損をしている。この生っちょろいイラストではこれが不屈の男の生き様を描いた作品だということは想像つかないだろう。表紙に引かず、是非とも手にとって欲しい。保険業界の仕組みや裏側も判り、なによりもジャック・ウェイドという、この上ない魅力ある主人公に出逢えるのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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建築探偵桜井京介シリーズ第3作。
本作にてようやく京介が所属している研究室の主である、神代宗教授が登場する。名探偵の師匠とはいえ、快刀乱麻を断つが如くの、八面六臂の活躍を見せるわけではなく、かといえば、迷える京介に道を示す標の役割をするわけでもない。京介を取り巻く蒼、栗山深春のコンビに新たな脇役が加わっただけの役割でしかない。そのため、絵に描いた英国紳士を髣髴させる三つ揃えが似合うダンディの風貌に、べらんめえ調の下町言葉を使うという戯画化された人物像となっている。 この作者のこの辺りの安易なキャラクター造形にどうしても馴染めないのだが。 そしてなぜか毎回のめり込めない作品世界に加え、今回は非常に複雑な姻戚関係の一族の内紛が物語の中心であったため、いつもよりもさらに作品世界に入れなかった。登場人物の中には姻戚でありながら、冒頭に附せられた家系図に乗っていない人物もあり、途中で理解するのを投げ出してしまった。 しかしやはりそれよりもこの作家の登場人物の描き分け方に問題があると思う。上に書いた神代教授に繋がることだが、どこかで見たようなマンガの登場人物のような感じがして、なんとも印象に残らないのだ。つまり貌が想像できない登場人物が多すぎる。 したがって本書のように複雑な家系を持つ同じ苗字を持つ者たちの区別がつかず、それぞれの人物に関わる因果関係が頭に描けなかった。またもや記憶の残らない本を読んでしまったという感じだ。 またミステリの根幹を成す事件とその謎も読書の牽引力としては非常に弱い。登場人物がどれも同じに見えるから、誰が犯人でも全く驚きをもたらさないし、とりわけ酷いのはこの物語は何を解決しようとしているのか、しばしば失念してしまうほど、無駄に長いと思わされてしまった。 特に今回は専門分野の小さな勘違いがそんな悪印象に拍車を掛けた。 建築探偵という通常の名探偵物とは一線を画し、事件そのものよりも建物に纏わる謎を解くことを目的としているこのシリーズ。当然のことながら建物に関する専門的な知識が求められるわけだが、やはり図書館やネットで調べられる範囲のことしか書かれていないというのが正直な感想。 細かい仕上げの部分などは素人目を通じての解釈が見られ、記述の間違いが散見させられた。この辺のリサーチは近くの工務店とかに訊けばすぐにわかるのだが、なまじっか門外漢よりも知っているだけに、自分だけの論理が形成されてしまい、その正誤性の裏付けを取ることなく、公的な作品として記述してしまったようだ。 「砕石をまぜて粗く仕上げた大柱~」という件が特にそれを裏付けている。「砕石をまぜて」という表現がすでにコンクリートが何で出来ているのか知らないことを公言しているし、建築物の作り方の本質を机上でしか理解していないことを露見させている。 なんともミステリとして読むべきなのか、キャラクター小説として読むべきなのか、非常に判断の困るシリーズである。どっちの方向にも中途半端な印象を受けるため、読む側も軸足をどちらに置くべきか非常に迷う。 はっきり云ってミステリとしては凡作である。 したがってコミケで桜井京介らの同人誌が一時期隆盛を誇ったという背景からやはりこのシリーズはキャラクター小説として読むべきなんだろう。好きな人は好きなんだろうな、この少女マンガ的探偵譚が。 3作読んで今のところ、しっくり来る作品は皆無である。とにかく早く手元にあるシリーズ作品を読み終えてしまいたいというのが現在の本音だ。今後の作品でこれがプラスの方向に変わることを祈る。 |
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ウィンズロウのノンシリーズ物の長編だが、本書の主人公ウォルター・ウィザーズは実はニール・ケアリーシリーズの『ウォータースライドをのぼれ』に登場した落ち目の探偵。
あの時の凋落振りからは想像も出来ないほどのやり手の調査員として登場。なにしろ腕利きの元CIA工作員であり、調査会社に転職しても、FBI、イタリアンマフィア、その他アメリカの暗部に顔が利く人物たちにも対等に渡り合うほどの人物なのだ。 そして文体も1950年代の夜霧の雰囲気漂うハードボイルド調と、またしてもウィンズロウの新たな一面に触れられる作品である。古き良きアメリカ。まだ夢が夢として存在し、誰もが成功する可能性を秘めていた時代がセピア色の文体で語られる。行間には常にジャズが流れ、男と女は本心を揺蕩わせながらその日を生きるムードが漂っている。 そして事件はやはり男と女の間で起きる。マルタ・マールンドという女優で上院議員の浮気相手を軸に上院議員婦人のマデリーンはもとより、ウォルターの恋人アンまでもが関わっていることを知らされる。 魔性のような男には抗い難い女の周りで起こる不協和音。そして次期大統領候補を落としいれようとするスキャンダルの渦。 探偵ニール・ケアリーシリーズならばニールの減らず口をメロディに軽快に語られていた同種の事件が、ウォルターが主人公の本書では哀切と退廃を伴って語られる。 レイモンド・チャンドラーを意識しているのか、物語はウィンズロウの作品らしく常に核心に触れながら展開するのではなく、色んな登場人物をウォルターが渡り歩き、なすべきことが明確になってもそこに急進していかない。寧ろ彼は自らの恋人アンとのことが気がかりで、仕事よりも彼女との関係に腐心することが多い。 そして物語のアクセントとして使われるのが酒。夜の酒場をウォルターは彷徨する。 しかしそんな回り道も全てが一連の事件に収束していくのが最後の方で判明する。いやあ、この手際にはちょっと驚いた。 また折に触れ、ところどころに挿入されるウォルターの父親からの警句がまた実に効いている。豊かな人生経験に裏打ちされた含蓄溢れるその言葉はいちいち頷くことしきり。 全てノートにメモって自身の人生の教訓、または道標にしたいくらいだ。 やがてウォルターは次期大統領候補をスキャンダルの汚辱にまみれる決定的な証拠を摑むがゆえに、敵味方から襲われる存在になる。この絶対的な状況を打破する最後のカードが実に巧妙。 これはまさにエドガー・フーヴァーなるFBI長官という影の大物の脅威に50年代のアメリカが包まれていたことを示すわけだが、いやあ、本当に最後までどうなるんだろうと思いました。 そんなウィンズロウの新境地を切り開く作品だが、それでもやはり今までの作品と同様に政治家のスキャンダルが物語の要素だというのもそろそろ飽きてきた。 思えば第1作の『ストリート・キッズ』もこの次期大統領候補と目される上院議員の、スキャンダルを未然に防ぐだめに不肖の娘を確保するという内容だった。この政治的スキャンダルはウィンズロウ作品にはけっこう取り扱われているテーマであり、純粋にスラップスティック・アクションに徹した『砂漠で溺れるわけにはいかない』からウィンズロウの新境地への幕開けと思っていただけに本書のプロットは期待とは違ってしまった。 しかしこれは私の捻くれた感想であることを忘れないでいただきたい。本書はそんな政治的策略が巧妙に絡んだ、ハードボイルドを主体とした優れた作品であることは間違いない。ただこちらが期待した物が違ったというだけなのだ。 ウィスキー片手に50年代の煙る街ニューヨークを舞台にジャズが漂う男と女が交錯するハードボイルド小説を読んで、浸りたい方にはお勧めの1作だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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エラリイ・クイーンが敬愛するドイルが生んだ稀代の名探偵シャーロック・ホームズの1944年当時世の中に流布していたパスティーシュ、パロディ小説の数々を集め、1冊に纏めたアンソロジー。巻頭言によれば本書が世界で初めてのホームズパロディ短編集だそうだ。
全部で4部構成となっており、第1部が探偵小説作家編で、ミステリ作家の手によるホームズのパロディ物。 第2部が著名文学者編でその名の通り、今なお文学史に名を残す偉大な作家達がなんとホームズのパロディを書いていたという物。 第3部がユーモア作家編、そして第4部が研究家その他編とかなりコアな内容になっている。 さてまず第1部探偵小説作家編。 1作目はロバート・バーの「ペグラムの怪事件」。ここで出てくるのはシャーロー・コームズに友人のホワトスン。ロンドンからペグラムに向かう列車で死体となって発見されたバリー・キプスン氏の事件の謎を解くというもの。 依頼人のジャーナリストの話から全てを看過してフィールドワークでその裏付けを取り、推理を強固なものにするといった趣向で、当時まだ本家の最初の短編集が出た翌年に発表された作品とされている。そのためストーリー展開、主人公シャーローの振る舞いや性格付けはかなりシャーロック・ホームズに近いものがある。 しかしせっかくの列車内での殺人事件という魅力的な謎を設定しながら、真相はなんとも腰砕け。 次はアルセーヌ・ルパンシリーズでお馴染みのモーリス・ルブランによる「遅かりしホルムロック・シアーズ」。本書ではホルムロック・シアーズになっているが、後に原典のシャーロック・ホームズに改名されている。 ティベルメスニル館のお宝をルパンが盗み出すというもので、この屋敷に招かれていた名探偵ホルムロック・シアーズが遅れて到着し、最初の邂逅を果たすというもの。ルブランの物語作家としての技巧については認めていたが、イギリス人のホルムロック・シアーズの騎士道精神とフランス人のルパンのエスプリとが対照的に語られているのが上手い。 続く「洗濯ひもの冒険」は探偵小説収集家のキャロリン・ウェルズによるもので、収集家らしく色んな作家の手で生み出された名探偵たちが名探偵協会に所属しており、会長であるホームズからの奇妙な謎について推理合戦を繰り広げるというもの。謎は裏庭を横断する形で窓から窓に張り渡された洗濯ひもになぜ美女がぶら下がっていたのかというもの。これはほとんどお遊びのような作品で、オチもかなり失笑を禁じえないものとなっている。 「稀覯本『ハムレット』」はドイルのホームズ譚のフォーマットに忠実に則った作品で、ドイルの未発表原稿と云われても納得してしまうほどよく出来た作品。 シェークスピア直筆の献辞と署名が入った『ハムレット』の初版本を借り出したシェークスピア収集家が賊に襲われて借用した稀覯本を盗まれてしまうという事件の真相をホームズが解明するというもの。ここに登場するホームズは依頼人の話を聞いて一発で真相を看過するあたりは万能型探偵の典型で、ちょっとホームズからは離れているような印象を受けるが、まあ許容範囲か。 ここからはビッグネームが相次ぐ。 黄金ミステリ時代の推理小説の大家アントニイ・バークリーの手による「ホームズと翔んでる女」も手遊びのような掌編。 プロポーズを受けた女性が一転して相手に婚約破棄された理不尽な行為を覆して欲しいと頼む女性の依頼を受けてホームズが意外な解決をするというもの。これはほとんど冗談のような物語。これってシャーロッキアンはどんな感想を持ったんだろう? アガサ・クリスティーによる「婦人失踪事件」は冒頭でシャーロック・ホームズの推理能力について触れられているものの、内容的には純然たるトミー&タペンスシリーズ物の1編になっている。 北極遠征から帰還した冒険家が婚約者に合わせてくれない隣人達の不審な行動の意図を解明し、婚約者に合わせて欲しいと依頼する話。真相はまあなんともほのぼのとした感じ。 今なお偉大なる書評家として名を残すアンソニイ・バウチャーによる「高名なペテン師の冒険」は隠居したホームズらしき老人が最近新聞で取沙汰されている自分の正体はドイツ軍からの高名な亡命者だと名乗るホルンという老人についての推理を開陳するという物。 これは実際にあった事件について題材が採られているのか寡聞にして知らないが、恐らくそうであろう。その推理にホームズらしき人物を設定したのがこの作品のミソだろうか。 また当時のイギリスミステリシーンを反映して、スコットランドヤードの警官にはホームズの時代とは違って、フレンチやウィルスンといった有能な刑事たちが揃っていると語らせるのは面白い。 そして編纂者のエラリイ・クイーン自身が著したのが「ジェイムズ・フィリモア氏の失踪」。原典であるホームズの短編「ソア橋」に少しだけ触れられている、“雨傘を取りに自宅に引き返したジェイムズ・フィリモア氏なる男がそれ以来二度と姿を現さなかった”という事件を扱ったもの。 クイーンが面白いところはその同姓同名の末裔がこのホームズ譚で触れられている事件と同じ事件を起こしたという趣向を採っているところだろう。なぜか叙述形式は戯曲形式。ラジオドラマで書き下ろされた作品だろうか? やっぱりこういう失踪物のアイデアはこの時代ですでに出尽くした感があるのか?後年クイーンとカーが語り合った結果、人間消失こそが最も魅力的な謎と結論づけ、それに触発されてカーが『青銅ランプの呪』を著したが、クイーンはこの魅力的な謎に対して本作では魅力的な真相を提供していないのが辛いところだ。 続く2編はいずれも10ページ前後と非常に短い掌編。「不思議な虫の冒険」はクイーン同様、「ソア橋」の作中に触れられていた不思議な虫の入ったマッチ箱を凝視して発狂したイザドラ・ペルサノの事件を扱っている。 しかしこれが単なる冗談話。医学的なものがまだ市民にまで知られていなかったからこそのオチだ。 次の「二人の共作者事件」はメタな内容。この作者サー・ジェイムズ・M・バリーがコナン・ドイルと共作したオペラ作品について、皮肉っているといった内容。 したがって依頼の内容もなぜ自分達のオペラに客が入らないのかを探るもので、しかもホームズはその2人に存在を握られているというメタミステリ(?)なのだ。この作品はドイル存命中に書かれたもので、この内容をドイルは当時大絶賛している。・・・それほどのものとは思えないが。 なお構成はこのバリーの作品から第2部になっている。 次はアメリカ文学の大家マーク・トウェインによる「大はずれ探偵小説」。これはある恥辱を元結婚相手から受けた女性が、わが子の、犬並みに人の匂いを嗅ぎ分ける能力を活かして、逃げた元夫を探させ、復讐をさせるという話に突如ホームズが絡むというもの。 正直これにホームズを登場させなくても良いかなというくらい、プロットが面白い。冒頭の言葉でクイーン自身も述べているが、マーク・トウェインはおふざけを目指しているのであり、純然たる探偵小説批判をしているわけではない。したがってこの作品でのホームズの推理は悉く覆される。 しかしその推理が反証されることを前提に書かれているから、逆にホームズらしい鮮やかな推理でないことに注目しなければならない。本書で最も長い70ページ強の作品だが、あまり成功しているとは思えない。 次のブレット・ハートの「盗まれた葉巻入れ」は探偵ヘムロック・ジョーンズの持ち物である葉巻入れが盗まれ、その犯人を推理するもの。 しかしこれがなんと本格推理ではなく、心理小説となっている。 そして第2部の最後を飾るのはなんとO・ヘンリー作の「シャムロック・ジョーンズの冒険」。これもシャムロック・ジョーンズの妄想としか思えない独断的偏見に満ちた推理が開陳されるもの。こうやって読むとアメリカ文学の権威たちは推理小説を下に見ており、揶揄はすれどまともに書く気になっていないような感じを受けた。 第3部はR・C・レーマンの「アンブロザ屋敷強盗事件」から始まる。ここに出てくる探偵ピックロック・ホールズもアメリカ文学の大家の作品同様、狂人的な妄想推理を常としているのが実に気にかかる。ただこちらはユーモア作家の手によるものだから、ユーモアであることは判るが。 続く2作はいずれもJ・K・バンクスなる作家の手によるもの。「未知の人、謎を解く」、「ホームズ氏、原作者問題を解決す」は共に黄泉の国でのシャーロック・ホームズ(後者はシャイロック・ホームズとなっている)の活躍を描いており、前者ではホームズの正体が最後の一撃になっているが、これは非常に解りやすい。 後者はシェイクスピアの戯曲を誰が書いたのかをホームズが解明するものであるが、この2作に共通するのはどれも凝ってて解りにくい点だ。あまり記憶に残らない作品だ。 「欠陥探偵」と「名探偵危機一髪」は共にスティーヴン・リーコックという作家の作品。 前者はブルボン王家の子孫と思われるプリンスの誘拐事件を扱っている。 後者もたった2ページの作品で1本の髪の毛から犯人を捜し出す物。これは逆にオチが効いていて、見事なショートショートになっている。 最後の第4部は研究家たちによる作品だが、その内容はホームズに敬意を表するどころか、その超人的推理をあげつらう作品が多い。 まずゼロ(アラン・ラムジイ)による「テーブルの脚事件」は資産家の婆さんに惚れられた男性の息子がどうにか父親が結婚せずにその財産を手に入れる方法を画策しようとしたのに、誤って父親がプロポーズしてしまった謎について名探偵シンロック・ボーンズに依頼するもの。もうこれも脱力物のオチで、まともに読む方が損をするような作品。 R・K・マンキトリックの「四百人の署名」はある夫人の寝室に賊が押し入りダイヤモンドが盗まれた事件がテーマだが、はっきりいってこれは何が面白いのかよく判らない作品。ホームズが犯人に至った推理を開陳するが、全く意味不明。英国人には解るんだろうけど、日本人向きではない。 オズワルド・クロフォードの「われらがスミス氏」はジョン・スミスなる謎の訪問者について名探偵バーロック・ホーンが正体を推理するもの。これもかなり揶揄しており、ホームズの推理とは妄想と紙一重だとこき下ろさんばかり。けっこうキツイギャグの作品。 「天井の足跡」というクレイトン・ロースンの作品を思わせるタイトルの作品はジュール・キャスティエの作品。 なんとシャーロック・ホームズがドイルのもう1人のシリーズキャラクター、チャレンジャー教授の失踪の謎を推理するという、ドイルファンの耳目を惹く作品だが、内容的には正直訳が解らない。推理になっているのかなっていないのかすらも意味不明だ。 「シャーロック・ホームズの破滅」は正体不明の作家A・E・Pなるものの作品。たった6ページのショートショートだが、出来は一番いい。 オーガスト・ダーレスの「廃墟の怪事件」とウィリアム・O・フラーの「メアリ女王の宝石」はホームズ作品の方程式に則ったような正統派作品。 どちらも依頼人が来るまでにワトスンを驚かす小さな推理が披露され、そして依頼人が来てからはその氏素性を難なく云い当ててしまう。依頼人が到着するタイミングまで推理するのも2作とも同じだ。 さてそんな正統派パスティーシュ作品は前者が最近事業家が買った屋敷の近くの廃墟に謎めいた明かりが灯り、またそれに伴って妻の様子が変だという謎の解明をホームズに依頼する。まあ、なんというかホームズの万能振りばかりが披露される読者には解けない類のミステリになっている。 後者は来英したアメリカ人が手に入れた云われのある宝石がホテル宿泊中に何者かに盗まれる事件をホームズに解明を依頼するもの。残された手がかりは犯人の衣類から引きちぎったボタンのみ。これも唐突なまでに犯人が絞られ、ホームズが傲岸不遜なまでに犯人に近づき、勝手に部屋に忍び込んで証拠品を探し当てるという、今なら噴飯物の作品。とはいえ、やはりこれは時代性か、ホームズならばこれらの犯罪行為が許せてしまうのだから不思議だ。 ヒュー・キングズミルの「キトマンズのルビー」はラッフルズとホームズの対決という長編のうち、最後の結末の2章の抜粋という形を取った、ちょっと変り種の作品。ラッフルズが盗み出したキトマンズのルビーを彼の相棒バニーの返還を条件に返却する一幕を、ホームズ、ラッフルズそれぞれの相棒が変に気を回したことで生じる誤算がテーマ。内容的にはよくある話か。 レイチェル・ファーガスンの「最後のかすり傷」は亡くなった父の財産の相続人である双子の弟からの、兄が戻ってきてから周囲で起こる怪異の謎についてホームズに助けを求めるという話だが、これはドイルが著した数々のホームズ譚のエッセンスが盛り込まれており、その演出をほめるべき作品だろう。有名な「まだらの紐」や「ブナ屋敷」などを髣髴させるエピソードが盛り込まれており、最後の一文までそれが行き届いている。 「編集者殺人事件」の著者フレデリック・ドア・スティールはなんとホームズ譚の挿画を描いていた画家で、内容も本人自らが殺人者となり、それをホームズが今までの作者の仕事に恩を感じて彼の冤罪を晴らすというメタフィクション物になっている。しかし内容はなんというか、作者の積年の編集者達への恨みつらみが爆発した内容になっており、結末も含めてあまり面白いものではない。 この作品をホームズ物というにはいささか疑問が残る。なぜならフレデリック・A・クマー&ベイジル・ミッチェルの「カンタベリー寺院の殺人」はシャーロック・ホームズの娘とされるシャーリー・ホームズとジョン・ワトスンの娘とされるジョーン・ワトスンのコンビが事件解決に当たるからだ。 物語は題名通り、カンタベリー寺院で出くわした一見自殺と思われる死体を巡る殺人事件の謎をシャーリーとジョーンのコンビが追うというもの。内容的にはミステリ短編として構成も巧みだが、いささかキャラクターに弱さを感じ、あまり印象に残らなかった。 医学博士までもがホームズ物を書くことに魅力を感じるらしい。ローガン・クレンデニングは医学書以外に「消えたご先祖」でそれを実現した。 ただ内容はたった2ページのショートショートだが、あの世に逝ったホームズが行方不明になったアダムとイヴの捜索に当たるというもので、医学博士らしいオチで短いながらも笑わせてくれる佳作になっている。 リチャード・マリットの「悪魔の陰謀」は全国でピアノのキーが無くなり、サーカスの象の盗難が増加したという怪事にはある秘密結社の陰謀が絡んでいるという内容の作品だが、いまいち掴み処の解らない作品で、特に最後のオチがよく解らない。 戯曲調で書かれたS・C・ロバーツの「クリスマス・イヴ」は無くなった真珠の行方を捜す話。ホームズの超人型探偵の側面のみが色濃く現れており、結末が唐突に訪れる感は否めない。 最後の作品、マンリイ・ウェイド・ウェルマンによる「不死の男」は隠居したホームズの許に訪れたドイツのスパイとの静かな戦いを描いた作品。これを最後に持ってきたところにクイーンのアンソロジストとしての技量を感じる。 ストーリー展開も読み応えがあり、また登場するホームズがすでに老境に入っておりながらも、題名どおり「不死の男」としてドイツのスパイのブラフを鮮やかに見破る件は、ホームズの偉大なる探偵像を思い浮かばせ、重厚感すら感じる。 冒頭にも触れたが本書は1944年当時に世に散在していたホームズに纏わるパロディ、パスティーシュを1冊に纏めたアンソロジーなのだが、それぞれの作品の冒頭にクイーンのコメントが付されており、それを読むと当時でもかなり希少価値の高い作品が集められているのが解る。 主にそれぞれの作家の短編集やアンソロジーからの収集が多いが、中には雑誌に一回こっきり掲載されてそのままになったものや、私家版で刷られた書物のみ現存する作品もあったりと、収集家クイーンの情報収集能力の高さが実感される、実に資料的価値の高いアンソロジーとなっていることが解る。 こういう仕事振りを見せられると、今日本でマニアックなまでに作品を発掘し、アンソロジーとして出版している某収集家兼書評家の魂はこのクイーンの仕事に影響されていることが解る。いやあミステリ収集の血は海を越えて極東の地日本で色濃く残り続けているのである。 しかしそんな偉業とも云える本書だが、収集された作品の内容の出来はそれほどいいものではなく、寧ろ傑作と呼べる作品はなかったというのが率直な感想だ。 クリスティやバークリー、そして編者のクイーン自身の作品もあるが、あまり出来はよくはなく、寧ろ肩の力を抜いて気楽に書き流している感がある。高名な大家、マーク・トウェイン、O・ヘンリーによる作品はなんだかホームズの人気を妬んでいる節も無きにしも非ず。 特に総じて感じるのは、ホームズのパロディの色が濃く、この偉大なる探偵の高名を利用して戯画化している作品が多いことだ。これは世界一有名な探偵ホームズとその作者ドイルへの親しみと敬意の表れと見えるものの、中には悪意すら感じさせるものもあった。 したがってこの4部構成で計33編にも渡るアンソロジーは歴史に埋もれそうになりつつあったホームズのパスティーシュを残すための文学的功績以外、その価値はないだろう。特に文学史にも名を残す大家マーク・トウェインやO・ヘンリーらがホームズ物を書いていたというのは今に至るに知らなかったし、それを知るだけでも価値はあるだろう。 私はホームズに特別な愛情を感じていないから、作品に対する評価は非常にフラットなのだと思っているが、本書をシャーロッキアンが読めば、どのような感想を抱くのか、興味深いところだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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てっきり学園青春ミステリとは縁を切ったと思っていた東野圭吾氏が久々に学生、しかも高校生を主人公にして書いたミステリが本書。しかもデビュー当時の瑞々しさは失わずに、寧ろ豊かな経験を重ねた分、人物像にさらに厚みが増し、そしてプロットの切れ味が増しているという、東野氏のこの手の作品が好きな人にはまさに堪らない一品となっている。
何しろ主人公の西原荘一はじめ、彼を取り巻く高校生たちがなんとも瑞々しい。親や先生の云うことを聞く、聞き分けのいい生徒ではなく、彼らはすでに自分達の世界を持ち、恋にスポーツに受験に明け暮れているのだ。 この歳になると、高校時代とか大学時代という、世の中のしがらみに囚われずに一所懸命何かに取り組めた頃を懐かしむ傾向に私はあるようだ。 技巧派である東野が本書で主人公西原の一人称叙述を用いたことで学校で起こる恋人の交通事故死と妊娠騒ぎ、そして教師の自殺に同級生の自殺未遂とショッキングな事件が連続する事件の数々を、高校生の青臭さと純粋さを持った視点から同世代の友達との交流も合わせて語らせて、あえて難しくない事件を解りにくく書かせることに成功している。 そしてまた冒頭のエピローグで語られる先天的に心臓に異常を抱える妹春美に纏わるもう一つの物語の軸を煙幕で覆い隠すことにも成功している。 ただ非常に危うい設定の作品であると云わざるを得ない。 主人公の行動に矛盾がありすぎるのだ。 特に恋人宮前の死の真相を明かすべく、クラス全員の前で自分がお腹の子の父親だと公言し、その死因に教師の過剰な生活指導に原因があると糾弾する。しかしこういうことをしながらも自身の所属する野球部が地区大会に出られるように事を大きくすることを危ぶむ。 自分で騒ぎを大きくしておきながら、この心配がどうにもちぐはぐな印象を受ける。高校生の考えること、そう考えれば納得は行くかもしれないが、世を斜に構えた姿勢で見る、あの頃特有の生意気さと背伸びした大人の素振りを見せる主人公がこのような行為をすることがどうしても結びつかない。 しかしこれらは推理小説として捉えればの話であり、青春小説として捉えれば、この主人公の行動も理解が出来る。要するに自分に正直に生きることを信条とするがゆえの若気の至りなのだ。 最後に至って西原の真意が明かされるに当たり、それが明確に見えてくる。これは若さゆえの何物でもないな、と。こういう心情を書ける東野圭吾氏の若さを本作では買いたい。 しかし毎回思うがこの作者の筆致の淀みの無さはいったい何なんだろう?全く退屈を感じさせること無く最後まで読ませる。しかも巧みに物語に謎を溶け込ませ、読者に推理を容易にさせない。推理するためにページを繰る手を止めるよりもストーリーが気になって先に進めることを選択せざるを得ないのだ。 そして最後の一行のカッコ良さ。青臭さを感じる生意気な高校球児である主人公西原荘一のお株をグンと挙げるキメ台詞だ。 人を教育することに信念を持つ先生という大人と、大人と子供の境で日々を生きる高校生という人種が交わる閉鎖空間、高校。 この特異な空間で歪められた人間関係が生み出した悲劇。 個人的には悪人は誰もいなかったように思う。誰もが己の正義を貫こうと、己の護るべき物を護ろうとした結果ゆえに、これほどまでに捩れてしまったのだ。 成熟の域に達した東野氏が久々に放った青春学園ミステリは、やはり上手さの光る逸品であった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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探偵ニール・ケアリーシリーズでデビューしたウィンズロウが、同シリーズを“一旦”終了させて書いたノンシリーズが本書。探偵学入門編という体裁を取りつつ、娼婦の母親に育児放棄された形でストリート・キッドとして生きていかなければならなかったニールの、ちょっと触れれば壊れてしまいそうなナイーヴさを特徴に、潜入捜査を通じて人生の哀しみを知り、成長していく姿を描いていたが、後半はスラップスティックコメディからロードムーヴィーのような追跡劇へと、ニールの内面の掘り下げからユーモアを前面に押し出すような展開を見せていた。
そして本書で選んだのがロードムーヴィーアクション。伝説的サーファー兼麻薬王ボビーZの替え玉に選ばれたティムが、生き残るために、そしてボビーZが遺した子供のためにしつこく手強い追跡者達を迎撃しながら逃走していく。 いやあ、すごいね、これは。 題名は「気怠く優雅な人生」だが、中身は全く正反対。ニール・ケアリーシリーズと違って死体が出るわ出るわ。確かに同シリーズの3作目『高く孤独な道を行け』でもクライマックスにアクション要素をふんだんに織り込んだシーンがあったものの、こちらは全編に渡ってそれ。 特に登場人物表に載せられた人物がバッタバッタと死んでいき、全く先が読めない。たった310ページ強の作品なのに、今までの作品よりも出てくる死人の数が多い。 しかし血生臭さを感じるけれども、それよりもやはりアクションシーンが眼前へ蘇る。それはなんとも迫真に満ちている。 人を殺した者にしか解らない心の機微や感触を実感を伴わせて描写する。 しかし単なる殺し合いのエンタテインメント小説にしていないのがこの作者のいいところ。 ボビーZに成りすましたティムが道連れにするのはボビーZの隠し子であるキットという子供。彼との逃亡劇がキットにとって父親との失われた交流を取り戻す時間となり、ティムは他人の子供ながら我が息子と同様に慕い、やがて親子の絆を築き上げる。 そしてエリザベスというかつてボビーの恋人として振舞うキットの世話役の絶世の美女の存在もこの物語にアクセントを与えている。麻薬王ドン・ウェルテーロの下に入りながらも、ボビーZことティムに加担する彼女は高級娼婦で男性を手玉に取る器量を持ちながら、情に厚いところもあるファム・ファタール的存在だ。 ニール・ケアリーシリーズのヒロイン、カレンといい、本当にウィンズロウの描く女性像は魅力的だ。 上に書いたように物語の構造自体は伝説の麻薬王ボビーZの替え玉となったティムが自らに降りかかる色んな災厄から逃亡するという実にシンプルなのだが、ティムを追う敵たちが多種多様でそれらが見事に絡み合い、アンサンブルを奏でる。 ティムを替え玉にした麻薬取締捜査官グルーザから始まり、過去のある恨みからボビーを亡き者にせんとするメキシコの麻薬王ドン・ウェルテーロ。それにティムの刑務所時代の敵役だったヘルズエンジェルの面々。そしてボビーの腹心であったがボビーの財産に目が眩み、我が物にするため、ボビーを亡き者と画策する“僧侶(ザ・モンク)”。 それらを軸に登場人物表に記載されていないのが不思議なくらい個性的なキャラクターがボビーZことティムに関わってくる。たった320ページ弱の中にこれだけ面白い交錯劇をよくも編込んだものだと、改めてこの作家の技量には感服する。 本書は1997年発表の10年後、ハリウッドでポール・ウォーカー主演で映画化された。確かにこれだけアクションシーンが多く、しかも先を読ませないストーリーと絶妙なプロットを備え持つ作品であれば映画化されてもおかしくはない。 興行成績的にどうだったのかは寡聞にして知らないが、それにして映画化までけっこう長くかかったものだ。 しかしやはりニール・ケアリーシリーズを比べるとくいくい読めるものの、心に何かを残すのには軽すぎたように思う。確かにティムとキットの交流は特に物語の終盤に胸を熱くさせるシーンはあるが、ニール・ケアリーシリーズで見られたほどにはトーンは低く設定してあるようだ。 『砂漠で溺れるわけにはいかない』から続いて出版された本書に共通するのはそれまで上梓された作品に比べて非常にページ数が少ないことだ。この頃の作者は過剰に書き込まずにスピード感持った作品を書くことを目指していた、もしくはそういう物を書けるように訓練していた風にも取れる。前作にも書いたがなんだかエルモア・レナード作品を読んでいるような感じも受けた。 色々書いたがこの作者の作品が面白くないわけでは決してない。寧ろ何も考えずに面白い話を読みたいという人や時には最適の一作だろう。 |
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御手洗・石岡コンビ若き日の事件。やっぱり彼らはこうでなくてはならない。
初期の御手洗シリーズのテンポ、御手洗の奇矯ぶり、そして2人の漫才のような掛け合いが戻ってきた。開巻してすぐ私はこの快哉を挙げた。初期シリーズに見られたユーモアも織り込まれ、一気に御手洗ワールドに引き込まれた。 この頃の島田氏は物語の復興を唱えていた。ミステリはトリック、ロジックも大事だが、まず小説でなければならない、コナン・ドイルの時代から描かれてきた物語がなければならない、確かそのようなことを提唱していたと記憶している。そして本書が出た2006年は月刊島田荘司と銘打たれたように、6ヶ月連続で新刊(一部加筆訂正も含む)が発表され、気炎を吐いていた。 特に本書ではコナン・ドイルへの影響が顕著で、事件の発端となった日の御手洗・石岡コンビの日常が語られるあたりは全くホームズシリーズの導入部と似ている。そして奇妙な依頼と事件発生、解決、そして事件に至るまでの犯人の長いエピソードなど、構成は全くもってホームズシリーズの長編と瓜二つだ。 そう、ミステリ始祖に敬意を表した原点回帰がこの頃の島田氏の活動指針だった。 本書はしかしミステリとしてどうかと云われるとその出来映えについてはやはり首を傾げざるを得ない。御手洗が登場するのは全277ページの物語のうち、たった76ページぐらいで、その後はある野球選手の半生と事件に至るまでの経緯が手記の形で語られるのである。したがって御手洗の推理らしきものはほとんどない。 まあ、確かに御手洗は超人型探偵で事件に遭遇しただけで全て見極めてしまうのだが。しかし事件の真相はこの手記で明かされており、一応御手洗はその手記で出て来はするものの、間接的に事件の真相を見抜いたようにしか書かれていない。つまりこれはもはや推理小説ではないわけで、読者は事件が起きた後、犯行手記を延々と読まされるだけなのだ。 これは構成上、大いに問題だろう。ホームズでも犯人究明の推理はなされていた。それが故に彼は今なおミステリ界に君臨するキング・オブ・ディテクティヴなのだ。 しかし本書ではその推理すら披露されない。全てを見抜いた御手洗の暗示的な台詞が仄めかされるだけなのだ。ちょっと物語に比重を置きすぎたバランスの悪い作品と云える。 しかしそんな構成上の不満はあるものの、やはり島田氏のストーリーテラーぶりは素晴らしい物がある。 少しの才能でプロ野球選手を目指した貧しき男と、天性の才能で見る見るうちに球界を代表する選手にまでなった全てを手に入れた男の友情物語は、はっきり云ってオーソドックスな浪花節以外何ものでもないが、くいくいと読まされる。作者の揺ぎ無い創作姿勢とも云える弱者への優しい眼差しも一貫されている。 つくづくこの作家は物語を語るのが上手いと感じた。 ただ現代本格ミステリ界の巨人としてはやはり上記の理由から凡作といわざるを得まい。100ページ足らずの短編をエピソードで無理矢理引き伸ばした長編、もはやテクニックだけで書いている作品だなぁと一抹の寂しさを感じてしまった。 |
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とうとうこの時が来た。ニール・ケアリーシリーズ最終巻。
元々最終巻は前作『ウォータースライドをのぼれ』だったようだが、本作はファンの要望に応えて書かれた後日譚と云われている。そのせいか、他の作品と比べて総ページも約250ページと約半分の分量である。しかしそれでもやはりウィンズロウ、しっかり仕事をしてくれている。 毎回このシリーズには印象的なキャラクターが登場するが今回は何といってもニールが家へ連れ戻す老人、元コメディアン、ナッティ・シルヴァーことネイサン・シルヴァースタインのキャラが秀逸。 今までの作品でのウィンズロウのウィットに富んだ文体で彼のユーモアのセンスは解っていたつもりだが、コメディアンをメインに据えた本書ではそれが全開。今まで我慢していたギャグを大放出しているかのようだ。そしてそれがほとんど面白い。 それがまたナッティのキャラクターの造形を色濃くしている。そしてその飄々とした好々爺の風格が古き良き時代のアメリカン・コメディアンそのものであり、眼前にナッティがしたり顔でジョークを連発するのが目に浮かぶくらいの存在感を放っている。 この分量であるから、前4作に比べるとすごくシンプルな作りになっていると感じるのは否めないが、内容的には思う存分愉しめた。7ツ星評価は今までのシリーズに比べての相対評価であり、もしこの内容でノンシリーズだったり、第1作目であれば8ツ星を献上しただろう。 3作目から登場したカレンだが、実にいい女性だと思う。大人に成りきれないニールの純粋さを受け入れて愛する姿勢、しかし決して盲目的に献身に徹するのではなく、気風のいい姐御であり、常にニールと対等に振舞う。いやあ、カレンは個人的には今まで読んだ小説でも一、二を争う最高のヒロインだ。 特に今回は作者自身も愉しんで書いていることが窺える。ナッティとニールのやり取りはもちろんのこと、ニールとカレンの会話、時折挿入されるホープの日記、保険会社と弁護士との往復書簡、サミとハインツの通話の記録など、いくつもの文体を駆使して、それらが全て笑いに直結している。 もうウィンズロウは全開でギャグを放り込んでいたんだろうなと容易に想像できる内容だ。 解説によれば作者はシリーズ再開を考えているらしい。 いや1999年時点の話だから、既に出ているかもしれない。実に嬉しいことではないか。一ファンとしてはそれが早く形になり、そしてさほどのタイムラグが生じないように訳出されることを願って、感想の締めとしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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