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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1426

全1426件 501~520 26/72ページ

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No.926:
(7pt)

これが完全版?

本作は一度1979年に出版されたが改稿と短縮を余儀なくされたものであり、それを1994年にリライトされた完全版である。

一作目がヴァイオレンス・アクション小説ならば二作目の本書はパニック・ホラー小説と趣をがらりと変えている。

かつて鉱山町として栄えた人口二万人ほどの町、そこにはかつてヒッピーたちと村人との間に死者が出るという忌まわしい過去があった。そして町の人々から信頼を得ている警察署長、そんな町に起こった雄牛が血の一滴も残すことないまま切り裂かれる怪事が起こる。やがて同種の被害が住民たちの間にも起こっていく。

とまあ、典型的なハリウッド映画的パニック物語である。
デビュー作『一人だけの軍隊』も実際に『ランボー』として映画化されたが、マレルという作家は実に映画向きの題材を扱う。

狂犬病と思しき症状を呈した犬が見つかり、そして野獣のようになった少年が現れ、それを皮切りに襲われた人々が同じような病に侵され、徐々に恐怖が町全体を覆っていく。奮闘するのはデトロイトから来た警察署長ネイサン・スローター。

そこに絡むのが編集長の命令で過去を回顧する記事を題材を訪ねに来たしがないアル中の雑誌記者ゴードン・ダンラップ。

そしてポッターフィールドを長く統治する市長パーソンズ。

街の治安を守ろうと孤軍奮闘する者と、落ちぶれた雑誌記者から何かスクープを手に入れて再起を図るジャーナリストと1970年代に起きたヒッピーとの抗争という忌まわしき過去を吹っ切り、安定を維持しようとする者。
それぞれがそれぞれの事情を抱えながら、彼ら3人を中心に物語は進行する。

そんな物語にサブストーリーとして加わるのが1960年代のフラワームーヴメント。ヒッピーのリーダー、クイラーが1970年にポッターフィールドの山奥に50エーカーもの広大な土地を購入して理想郷を築く。
彼らはしかし村人たちに厭われ、次第に忘れられていく。このサブストーリーが物語の終盤に大きくかかわっていく。

さてフラワームーヴメントに翳を落とすのはやはりヴェトナム戦争だ。デビュー作『一人だけの軍隊』もまたヴェトナム戦争帰りの軍人の物語。マレルはヴェトナム戦争を自身の小説のテーマとしているようだ。
この辺は彼の作品を読み進むうちにおいおい判ってくることだろう。

さて元々1979年発表の作品だが、その頃の小説の特徴なのか物語の合間合間に挿入されるエピソードが実に色濃い。
それは端役にしか過ぎない登場人物がポッターフィールドという田舎町に住むようになった経緯の話だったり、その町の歴史だったり、町にある文化財にまつわる逸話、狂犬病に関する知識だったりと様々だ。しかもその内容が箸休め程度ではなく、突然に延々と10ページも割かれたり、はたまた1章を費やしたりとやたらに長い。しかしそれでも内容は濃いため、実に読ませる。まるでサーガを読んでいるような気分になる。
改稿と短縮を余儀なくされたのはこの辺のエピソードの数々だったのかもしれない。

特に作者の創作であろうポッターフィールドの成り立ちが非常に読ませる。恐らくどこにでも存在するアメリカの僻地の旧鉱山町がモデルになっているのだろうが、マレルはその歴史を克明に描く。恰も実在の町であるかのごとく詳細に書く。

そういえば『一人だけの軍隊』の舞台もアメリカのマディソン郡にある片田舎の閉鎖的な町が舞台だった。そんな排他的な土地に紛れ込んだヒッピーという得体のしれない存在は何も危害を加えなくとも住民たちにとっては脅威だった。
そんな相互理解が及ばない状況だったからこそ起きた殺戮の幕開け。つまりマレルは閉鎖的な町も物語の主要因として考えているのだろう。だからこそできる限り詳細に描くのか。

本作で印象的なのは主人公の警察署長スローターだ。“屠殺者”という意味のラストネームで、大柄な体躯を持ち、デトロイト警察を引退して牧場を開こうとポッターフィールドに引っ越し、結局警察職に復帰した男。射撃の腕前は一流で、部下の信頼も厚い。いわゆる理想の上司なのだが、彼が臆病であることをひたすら隠しているところに興味を惹かれた。
彼はある事件(コンビニ強盗を働いた少年に散弾銃で撃たれ、瀕死の重傷を負った)で恐怖心を抱き、実は警察稼業を辞めて山奥で牧場でもやろうかと逃げてきた男だったのだ。しかし警察官しかしたことのない男には畜産業は無理で、周囲に求められるがままに警官に復帰したのだった。そんな彼の本当の姿を知られずに今までタフで理解ある、部下からの信望の厚い警察署長を務めてきたのだった。
つまりこのようなパニック小説で主役を張る人物が全て万能ではないのだということをマレルなりに皮肉っているのかもしれない。

さて町を恐怖のどん底に陥れた未知の狂犬病。その発祥の源はヒッピーのリーダー、クイラーが築いた理想郷のさらに奥、昔鉱山町だった跡地にあった。一念発起した住民たちはそこを一掃しようと乗り出していく。さらに途中にリーダーシップを放っていたスローターは市長パーソンズの策略で留置場に入れられてしまう、となかなか面白い展開を見せる。

(以下ネタバレへ)


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トーテム 完全版〈上〉 (創元推理文庫)
デイヴィッド・マレルトーテム についてのレビュー
No.925:
(7pt)

深すぎるダイイングメッセージ

クイーン後期の作品だが、ダイイングメッセージと意外な犯人、と少しも本格スピリッツは衰えていないことを示した佳作。

複数の女性を浮名を流す、石田○一のようなジゴロ、カーロス・アーマンドがいかにして前妻グローリーを殺したか?というのが今回の事件。
このカーロスがものすごい女たらしであり、さらには何故かほとんどの女性は彼の手に落ちてしまうという凄腕テクニックの持ち主。そして彼の殺人計画の片棒を担いだのがすみれ色のヴェールを被った謎の女。クイーンと相棒のスコットランド人の私立探偵ハリー・バークは事件のカギを握るこの「幻の女」を探し出そうと躍起になる。

つまり本書はいつもと趣向が変わっている。主犯が明らかになっているのだが、実行犯である共犯者を探し出すという物語なのだ。しかしこの趣向は物語が終わってから気付かされるのであり、今までのクイーン作品を読んだ読者ならば犯人捜しがメインだと思わされるのだ。

例えば『災厄の町』などの諸作に見られる価値観の転換という手法をクイーンはよく取る。従って今回も早々に判明する夫の妻殺害計画もまたこの価値観の転換により覆るのではないかと思わされるからだ。往年の読者でさえも自らの作品傾向を利用してミスディレクションする、というのは穿ちすぎだろうか?

さらに今回は今までの作品で見られた趣向が織り交ぜられているにも気づかされる。トリックに関してもそうだが、それは他の作品を読んでない読者の興を削ぐのでやめておくが、特に近似性を感じたのが『ドラゴンの歯』。今回タッグを組むハリー・バークは『ドラゴン~』で相棒を務めたボー・ランメルだ。
両者が事件の関係者と恋に落ちるところなどもそうだが、更によく読めば今回の登場人物の名前の一部が『ドラゴン~』でも出てくるところなんかもそうだ―容疑者“カーロス”・アーマンドと執事のエドマンド・デ・“カーロス”―。

さらには被害者グローリー・ギルドの姪ロレット・スパニアが公演をするローマン劇場は第一作『ローマ帽子の謎』の舞台ローマ劇場と思われるし、物語の終盤に登場するJ・J・マッキューは初期クイーン作品で語り手を務めたJ・J・マックであろう。つまりこれは原点回帰の作品ともいえる。

『盤面の敵』(これは純粋にはシオドア・スタージョンとフレデリック・ダネイの合作だが)と本作と晩年のクイーンはいわゆる後期クイーン問題を経て、改めて原点に戻ったパズラー志向を目指したようだ。それには初期の荒唐無稽さはなりを潜め、中期から後期にかけて人の心の謎を織り交ぜ、地味ながらもあくまでロジックで事件を解き明かすことを追求している。この頃、ようやく自分の足元を見つめて自らの書きたい作品を書くことを再認識したのではないだろうか?

しかし、とはいえ今回の真相には首を傾げざるを得ない。

またクイーンはダイイングメッセージが好きでよく作品で使われているが、本作のメッセージは実にシンプル。なんせ“face(顔)”の一語。しかもなんともありふれた単語だ。このメッセージに込められた意味はしかし実に深い。

この謎解きを読んだ時に、いくらなんでも死の間際にここまで機転を利かせたメッセージを残せるだろうかとはなはだ疑問だったが、ここで物語の初期に登場する同じ単語が浮かび上がる日記の白紙のページに浮かび上がる“face”の文字という伏線が生きてくる。

さて今回やたらと当時の風俗を忍ばせる固有名詞が頻出する。NASAやビートルズ、ジョーン・バエズ、プレイボーイにポップ・アート、etc。
もしかしたら今までもこのような固有名詞は出てきていたのかもしれないが、自分が知っている、いや地続き感を覚える固有名詞は初めてである。それまではるか昔の作家だと思っていたが、ここにきてようやく私の時代に繋がった、そんな思いがした。

しかし余談だがかつてのクイーン作品で女性のバストに注目した小説はあっただろうか?いやに出てくる驚くべき胸のふくらみという描写。これも当時活況を呈したグラヴィアの流行なのだろうか。前述の固有名詞の頻出と云い、今まで以上に現代風味に溢れた内容になっている。

シンプルな謎、そしてたった一つの殺人事件ながらも謎解きは複雑で、おまけにアイリッシュを髣髴させる「幻の女」探しと、晩年の作品ながらもミステリ趣向溢れる作品なのだが、ネタバレに書いた理由により、肝心の真相に納得がいかなかった。

本書巻末に添えられた著作リストによればクイーン作品はあと4作。そこに私が感じるミステリがあるのか。期待してみよう。



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顔 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 2-23))
エラリー・クイーン についてのレビュー
No.924: 8人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

私は最後このように思いました

東野圭吾氏の第一のブームを生み出すことになったのが本書『秘密』である。広末涼子主演で映画化され、更に2010年にはドラマ化もされたのは記憶にも新しいことだろう。

この作品を読むまで、やはりこういった「入れ替わり」物は映画に向いているのだろうなぁ、ぐらいにしか考えていなかったが、さすがは東野氏、凡百の入れ替わり物とは一味も二味も違った味わいを感じさせてくれる。

上手い、上手すぎる。ため息が出るほどにいい作品だ。こんな話が読みたかったと強く思わせられた。

特筆するのはやはり娘と妻の意識が入れ替わったというのが一番大きいだろう。娘の頭の中に妻の意識が宿ることでこれほど父、いや夫側の苦悶が生まれるとは思わなかった。
そしてその娘の年齢を思春期を迎えつつある小学6年生に設定したところが上手い。女性が初めて経験する大人へのステップ、生理や恋人など、男親が戸惑うことが起きる年齢だからだ。
さらに夜の営みについてまで東野氏は書く。いやこれこそが本書のテーマと云っていいだろう。
娘の身体に妻の意識が宿った時、夫婦なのか?親子なのか?実にリアルにこの命題について生活感を持って語られていく。

もしこの設定が逆だったらどうだろうか?つまり妻の身体に娘の意識が宿ったら?
これもまた面白いだろう。なぜなら思春期の娘は父親を生理的に嫌悪するからだ。
ただその場合はこのような鮮やかな結末は生み出せなかっただろう。文庫版『毒笑小説』収録の京極夏彦氏との巻末対談で東野氏は元々『秘密』はコメディ小説を目指したと述べている。もしかしたら設定を逆にすれば東野氏は本来書きたかった小説を書けたのかもしれない。
しかし読者はこの誤算を大いに喜ぶべきだ。なんせこれだけ素晴らしい話に巡り合うことが出来たのだから。

第2期の東野作品はそれまでのトリックやロジックを駆使した本格ミステリから人の心の謎にテーマを求めた作品を書くようになってきた。それらの作品は『宿命』、『変身』、『分身』、『悪意』と二文字の題名になっているのが特徴的である。この『秘密』もその系譜に連なる作品であり、さらに云えばそれまでの一連の作品の集大成的な作品であると云えるだろう。
娘の心に妻の意識が宿る。このたった一行で済まされる物語のテーマを軸にその事実に直面した夫と妻の心の機微が詳らかに描かれる。淡々とした文体で日常の所作から実に細かく描写を重ね、実生活感を滲ませ、ごく普通の家庭で起きた不可解事を見事に生活に溶け込ませている。そして男性ならば平介の立場を自らに重ね合わせ、自分ならどうするだろう?と煩悶し、女性ならば直子の立場に自らを同化させ、私ならどうするだろう?と自問することだろう。

さらにそんな苦悶の日々にすっと一筋の光が平介の心に降りてくるのが、サブストーリーで描かれるバス運転手がなぜ残業までして前妻に仕送りしていたのかという謎の真相なのだ。
なんていう上手さなんだろう。全く無駄がない、卒がない。これこそが人の心の謎を上手く物語に溶け込ませた瞬間である。まさに至高のストーリーテラーである。

さて余談になるが本を読むと奇妙な偶然に出くわすことがある。全く無作為に選んだ作品なのに扱っているテーマが似ていたり、現実に起こった事件と同種の事件を扱った作品を読むことになったり。私はそれをシンクロニシティと呼んでいるのだが、今回もそれを感じさせることがあった。

主人公の平介が妻と娘を失う危険にあったのがスキーバスの転落事故なのだが、これはまさに昨今起きている夜行バスの事故を髣髴させる。
作中で繰り広げられる被害者の会の内容などは今まさにその事故の遺族や当事者が直面している問題なのだろう。

『天空の蜂』でも東日本大震災に端を発する原発事故がシンクロし、単なる読み物とは思えなかったが、本書もまさにそうだった。東野氏がいかに普遍的な事件を幅広く扱っているのが解る。

閑話休題。

物語のラストに賛否両論があったという声を聞いたが、それはなぜだろう?

本書のタイトルは『秘密』。
もちろんこの秘密とは杉田家が抱えた秘密であり、またラストの書かれた永遠の秘密のことだろう。
さらに私は重ねたいのは物語の真相こそが作者が最後まで取っておく読者に対する秘密だということだ。
秘密であっていいこともある。本書の秘密もまたそんな秘密の1つだ。


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秘密 (文春文庫)
東野圭吾秘密 についてのレビュー
No.923: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

結局行き着く先は同じ

今までは東京の裏社会に暗躍する外国人の世界を舞台にしていたが、今回は逆に異国の街の暗黒世界に身を置く男を描き、生き抜くために喘ぐ姿を活写する。
それまでに発表されていた作品と180°設定と舞台を変えたのが本書である。

そして扱う世界はなんと台湾野球界。しかしそこは馳氏、ただのスポーツ小説を書くはずがない。
彼がテーマに選んだのは台湾野球にはびこる八百長。野球賭博を牛耳る黒道というマフィアが野球選手のみならず球団関係者をも買収して八百長―放水というらしい―を取り仕切っているのが台湾プロ野球界の現状らしい。

そしてその八百長の元締めを務めるのが日本人投手加倉。かつて鳴り物入りでプロ野球チームに入団し、ノーヒットノーランも達成したが、肩を故障してから調子を崩し、引退後会社を興すも倒産し、莫大な借金を抱えて誘われるまま台湾野球に逃げ込んだ男だ。

その加倉がどんどん人殺しの螺旋に堕ちていくのが今回の話。

加倉は頑なに自分が八百長に加担していないと主張するが、次第にそれが通じなくなっていく。どうにか自分が潔白の身であることを信じ込ませるために足掻くが足掻けば足掻くほど泥沼に陥り、一人、また一人と自分の立場を危うくする人を殺さざるを得なくなる。

しかし加倉が落ちぶれていながらも、そして実際に八百長に加担していながらも世間向けには無実である姿を死守しようとするのは何故だろうか?
それは台湾にいる日本人野球選手で八百長に加担している者がいないからだ。日本人選手は台湾野球界の実状に絶望し、帰国してしまう。加倉は唯一台湾野球界の暗部にどっぷり浸かった人間なのだ。
そんな加倉が潔白の身であろうとするのはひとえに日本野球界の名誉を汚さずにおこうとする意地なのだろう。かつて大型投手として期待されながら故障によって日本球界を去らざるを得なかった加倉の心に最後に残った一握りのプライド。それは彼が日本人の野球選手だということなのだろう。
その本人さえも気付かなかった思いがずしりとのしかかるのは所属チームの社長から解雇通告を受けた時だ。水商売の経営、八百長の元締め、そして殺しと野球以外での活動が忙しかった加倉が解雇通告を受けて激しく動揺する。
自分から野球を取ったら何も残らない、と。野球こそ彼の拠り所であり、全てであった。だから自らプロ野球を汚しておきながらもどこかで大切な守るべき部分であったことに気付かされるのだ。

ただ刑事の王が加倉を手下として使うことになった理由について納得がいかない。刑事の王は物語半ばで加倉が生き別れた弟邦彦だったことが解り、王東谷は加倉の元母親の再婚相手だったことが判明する。
それ自体は特に驚きがない。王の執拗な加倉への憎悪は過去に大きな禍根を残したことによるものだろうと推察できたし、かつて元黒道だった王東谷が献身的に加倉の助けになるのも恐らく過去に加倉にまつわる何かがあっただろうことは容易に推察できたからだ。

しかしその後王が加倉の話を全部聞いた上でをスパイにして徐の情報を手に入れようとするのが解らない。理由として王は逮捕した犯人が実は兄だったと判明することで自分の刑事生命も危うくなるからだと述べているが、初めて加倉に逢った時から王自身はそれを知っていたはずである。その上で加倉が八百長に関わり、また俊郎を殺した犯人であると疑い、逮捕への執念を燃やしていたのはどうにも矛盾を感じる。
この辺については物語の終盤で何か説明があるのかと思っていたが、特に明確な答えには行き着かなかった。せいぜい憎悪する徐を始末せんがために利用したというぐらいしか語られなかった。

今回最も印象に残るキャラクターは加倉の通訳であり、良き理解者でありながら元黒道だった王東谷だろう。平時は善人ながらも窮地に陥った時は落ち着いた態度で迅速に対処する。そして自分が元黒道だった過去を忌まわしく思いながらもその過去に振り回される。
かつて山村輝夫という名だった在日台湾人の彼は加倉を支え、また加倉を助けるのに協力を惜しまない。その理由は物語半ばで判明するが、何よりも彼が植民地時代に受けた日本人教育の影響で日本人の精神をこの上なく尊敬しているのが彼の最たる特徴だろう。大和撫子と結婚し、陛下のために益丈夫を育てることが夢だったとまで述べている。
小林よしのりのゴーマニズム宣言シリーズの『台湾論』に詳しく述べられていたが、台湾人は日本の植民地時代に当時台湾に住んでいた日本人に生活を豊かにしてもらった経験があり、新日派が多い。その後中国からの侵略を受け、台湾には中国からの移民組、外省人と生粋の台湾人、本省人の対立は根深い。王は本省人でしかも日本人の精神を学び、自らを天皇の民、皇民と誇りを持って自称する。そんな人物がかつては黒道という台湾やくざの一味であったというギャップ。

それは彼の純粋さ故だ。日本人を尊敬し、日本人でありたいと願うばかりにいざ結婚した日本人妻が子供の産めない身体だったと知ると烈火のごとく怒り狂い、暴力も辞さない。

題名となった夜光虫とはつまり台湾の闇に蠢く加倉、王東谷、王國邦、徐栄一ら手を赤く染めた人たちを指しているのだろう。しかしそれはいつもの物語設定であり、この物語だけに当て嵌まる題名ではない。
登場人物、舞台設定などはリアルであるのに語られる物語がいつも同じというのは非常に勿体ない。馳氏の新しい物語を期待する。


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夜光虫 (角川文庫)
馳星周夜光虫 についてのレビュー
No.922:
(8pt)
【ネタバレかも!?】 (2件の連絡あり)[]   ネタバレを表示する

悲劇なのに爽やかなのはなぜ?

ジョー・ヒル待望の新作。傑作短編集『20世紀の幽霊たち』以来だから実に4年ぶり。
日本での訳出は逆だったが本国では前作に当たる『ハートシェイプト・ボックス』から5年ぶりの新作である。

いやあ、さすがはジョー・ヒル。どのジャンルにも属さない素晴らしくも奇妙な味わいの作品を読ませてくれる。

朝起きると角が生えていたというカフカの『変身』を思わせる発端から、角が生えたイグに逢う人物はことごとく腹に溜まっていた悪意の言葉を口にすることが解る。
これがもうとても聞きたくない話ばかり。普通の隣人や知り合いが実は腹の中でどんな風に思っているのか。それが制限なく毒を垂れ流すが如く溢れ出る。なんというか、まともな人間はいないのかとまで思わされる。
そして触れた者の秘密事が一瞬にして解る能力も授かる。この秘密事も知られたくはない性癖だったり悪事だったりする。しかしこんな能力は願い下げだ。

そして彼らよりも輪をかけて悪いのはイグの友人リー。とにかく今回はこの敵役のリー・トゥルノーの下衆野郎ぶりに尽きる。なんとも自分勝手な利己主義者であることか。
他人の善意を利用し、全てを自分の都合のいいように解釈する。友人は全て利用する物、全ての女性は自分に抱かれたいと思っている、そんな傲慢な性格の持ち主だ。

日本の小説ならばここまで書くと…というブレーキがかかるところをジョー・ヒルはとことん描く。人間の嫌な部分をあからさまに謳う。
この辺の筆致はクーンツに出てくる唾棄すべき悪役に似ている。

物語はイグに角が生えた現在と、イグが恋人メリンと出逢った少年の頃の時代の話、そしてメリンが殺された夜の話が交互に語られる。

イグ、兄テリー、そして親友のリーとの出会いと日常を語る過去の章は青春小説の趣があり、マーク・トウェインの『トム・ソーヤの冒険』を髣髴させるほど色鮮やかでノスタルジックだ。実にアメリカ的な物語である。

特にイグとメリンが最初に会話を交わすシーンなんかは眩しくて美しすぎるくらいだ。本当にこういうのを書かせるとジョー・ヒルは上手い。

そして私が特にジョー・ヒル作品で好きなのは物語に挟まれるサブカル、特に音楽に関する薀蓄や冗談。突然歌詞の一部が地の文に挿入され、思わずニヤリとさせられるし(この辺は洋楽ファンの特権だ)、平気で物語の登場人物に実在のアーティストを絡ませたりもする(ちなみに今回はローリング・ストーンズのミックとキース)。
そしてその最たる物はやはりこの物語の要となる設定だ。頭に角が生えるという着想はさすがジョー・ヒル!と思わせる奇抜な発想だと思ったが、いやはやAC/DCのアンガス・ヤングだったとはね!そのネタが解った頃からイグの風貌はアルバム・ジャケットで角を生やしているアンガスのそれとなってしまった。やはりジョー・ヒルの作品と音楽は切っても切り離せない要素であるようだ。

しかし本書は哀しい物語である。
優しい者同士がお互いを強く愛するがゆえに起こった悲劇。
そうこの物語は悲劇から始まる。
そしてジョー・ヒルは悲劇から始まった彼らに対して安直な救いは用意しない。物語の結末としては苦い物ばかりなのだが、なぜかその喪失感こそが爽やかだ。
全てを燃やし切った彼らの心地よい徒労感が行間から漂う。
そして題名『ホーンズ』のもう1つの意味が最後に解る、この演出もまた憎い。

もう少し削ればこの物語は傑作になりえただろう。ジョー・ヒルの長編を読んで残念に思うのは全てを語らんとする冗長さだ。この辺をもう少しそぎ落とし、行間で語れるようになればもっとすごい作家になるに違いない。


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ホーンズ 角 (小学館文庫)
ジョー・ヒルホーンズ 角 についてのレビュー
No.921:
(7pt)

映画のイメージを覆す原作

ハリウッドアクション大作『ランボー』の原作である。
同映画が公開されたのがまだ小学生だった頃。当時ワクワクしながら観たのを覚えている。とにかくアクションがすごいというだけで観たため、詳細なストーリーや設定は頭に入っていなかった気がする。

さてその原作がマレルの手によるものだというのは知っていた。発表されたのは映画より10年も前の1972年。なんと私の生まれた年である。
映画化から37年経って読んだ原作。なんだか感慨深いものがある。

一読して驚いたのはランボーの敵役の警察署長ティーズルがいわゆる田舎町を牛耳る悪徳署長などではないことだ。

ランボーを町から追い出そうとしたのも身元不明で怪しい身なりの人物が町をうろつくことで住民が不安を覚え、治安が乱れるのを防ぐためだし、またランボーを追うことになったのも彼が目の前で自分の部下を殺したからだ。また彼は朝鮮戦争を経験した後に警察署長としてマディソンに戻ってき、警察機構として機能していなかった署の改善に尽力してきた人物でもある。
つまり至極まっとうな人物なのだ。

片やランボーはヴェトナム戦争で捕虜になり、そこから生還した元グリーンベレー。名誉勲章も得たが捕虜になった時の経験で心が壊れた状態になっている。
従って署に運ばれた時に髪を切り、ひげを剃られる時に捕虜で受けた拷問を思い出し、とうとう耐え切れなくなり警官から剃刀を奪って殺害し、逃亡してしまうのだ。
そこからはグリーンベレー時代のことを思い出し、人を殺すことへの罪悪感も薄らぎ、逆に追ってくるティーズルら一味を皆殺しにすることを決意する。

そう、通常の物語構造から云えばランボーは元グリーンベレーでヴェトナム戦争の時に抱えたトラウマでおかしくなった殺戮マシーンであり、それを追い出そうとする警察署長ティーズルらは彼のターゲットとなり、善と悪で云えばティーズルが善、ランボーが悪なのだ。
これは映画の構造と全く逆で驚いた。まさに価値観の転換である。

そして単なる一人対多勢の戦闘小説に終始しない。ランボーが生き抜くためのサヴァイバル小説でもあり、はたまた冒険小説の要素も兼ね備えた内容になっている。

そして読中、しきりに頭を過ったのはレンデルの『ロウフィールド家の惨劇』だ。この全く色合いの違う作品だが、物事の発端は全く以て同じだ。

先にも書いたが、ティーズルは不審者である男を尋問し、町から出るよう警告したのだが、相手が何者であるかを知らなかった。というよりも理解しようとしなかった。
だから彼は通常犯罪者に行うように裸にして、洗浄したり、個室に入れて取り調べをしようとした。しかしランボーはヴェトナム戦争で捕虜としてひどい扱いを受け、閉所に対して深いトラウマを持っていたため、それが彼の生存本能を引き起こしてしまった。

片やランボーは署長の警告を無視した。彼はそれまで何度も行く先々で同じような仕打ちを受けており、うんざりしていた。彼は戦争の英雄であり、ティーズルのような小物に指図されるような男ではないと思っていた。そして彼は逃げ出した時に元来持っていた闘争本能が目覚め、自分がどれほど強い男なのかを知らしめようと思ってしまったのだ。
お互いがそれぞれの思惑を通そうとしたが故のボタンの掛け違え。それが大量殺戮を生み、1つの町を殲滅する寸前の大事にまで発展してしまうのだ。

最終的にこの小説はあらぬ疑いを受け、いわれのない虐待を受けた戦争帰りの男の復讐譚ではなく、町の治安を守るために不安要素を排除しようとした町の署長が一人の男によってそれまで築き上げてきた地位や安定、全てを失う物語であり、ヴェトナム戦争で捕虜となって奇跡的に生還した男が再び闘争心を甦らせ、無敵の戦士になる物語であるのだ。
そう、これはランボーとティーズル2人の物語なのだ。あまりにも有名になってしまった映画のためにこの作品の本質は多くの人間が誤解を招いてしまっているように感じる。斯くいう私もまたその一人なのだ。

しかし映画と小説は別物だという主張もある。ハリウッドはこの作品の設定を借りて映画史に残るアクションムーヴィーを作り、成功した。
作者の意図や希望がそれに合致したかどうかは寡聞にして知らないが、それもまた良作故の功罪か。
『ジュラシック・パーク』がクライトンの作品から一人歩きをしたように、この作品にもまたそのような道を辿ったのかもしれない。

とはいえ、続くシリーズ2作、3作もマレルによって書かれているのだから上のような判断は早計というようなもの。果たしてマレルの真意はどこにあったのか。
これについてはそれらも読んで判断していこう。


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一人だけの軍隊 ランボー (ハヤカワ文庫)
No.920:
(5pt)

クイーンがホームズを書くとき

クイーンが伝説の名探偵ホームズに挑む。しかも扱う事件は切り裂きジャック事件!
当時のミステリ界ではこんな煽情的な謳い文句が躍ったのではないかと推測されるが、クイーン作品にしては文庫本にしてたった200ページ強と今まで一番短い小説である本書は、識者によれば映画作品のノヴェライズだという。

ドイルのホームズ譚に切り裂きジャック事件がないのか、いやいや『バスカヴィル家の犬』事件で途中ホームズがいなくなるのは切り裂きジャック事件に取り組んでいたからだ、などとマニア、シャーロッキアンの間ではまことしやかに囁かれていた稀代の名探偵と稀代の殺人鬼の対決がエラリイ・クイーンの手によって実現されたのが本書。
本書はエラリイの許にワトスン博士の未発表原稿と思しき文書がもたらされ、その内容がホームズが切り裂きジャック事件に挑む話だったという作中作で構成されている。
ホームズの物語ではドイルのホームズ譚にまつわる人物や事件、舞台がそこここにあしらわれ、マニア、シャーロッキアンの興趣をくすぐる。

とにかく1章当りの分量が少なく、おまけに1ページ当りの文章量も少ない本書はサクサク読めることだろう。特にホームズ作品に慣れ親しんだ読者ならば実に親近感を持って読めるに違いない。
前述したようにホームズ作品を読んだ者にとって楽しめるネタが仕込まれているし、作中作のホームズ譚はドイルが書いたそれと比べても違和感はない(ホームズ作品が出てくる文章は他の作家の手によるものらしい)。

限られた登場人物たちで繰り広げられる切り裂きジャック事件の鍵となるのはオズボーン家という公爵の爵位を持つ貴族にまつわる忌まわしいエピソードだ。
事件の発端は何者かによってホームズの許へ送られてきた手術道具セット。そこに隠されていたのはシャイアズ公爵オズボーン家の紋章。そこから物語は行方知れずとなった公爵の次男、そしてフランス帰りと思しき白痴の男の登場と通常の切り裂きジャック事件とは変わった切り口から事件とその犯人が明かされる。

そしてやはりクイーン。単にホームズによる事件解決に話は留まらない。
まず送られた原稿がワトスン博士によるものかという真偽の問題から、ホームズの解決からさらに一歩踏み込んで別の解決を導く。
そしてその真相をワトスンの未発表原稿を叙述トリックに用いているのだからすごい。この発想の素晴らしさ。さすがクイーンと認めざるを得ない。

物語として、また一連のクイーン作品群の中においても出来栄えではごく普通の作品に過ぎないかもしれない。しかし上に書いたこの作品が内包する当時の時代背景や世情、さらにこの作品が書かれた背景ーホームズが切り裂きジャック事件に挑むという映画のノヴェライゼーションを頼まれたクイーンが、その映画の内容を作中作にしてエラリイに謎を解かせるという構造に置き換え、さらに真相をも変えてしまったらしい―を考えるとなかなかに深い作品だと云える。
さらに現代の日本のミステリシーンにおいてもしばしば作家によって試みられているテキストによる叙述トリックの走りだと考えるとこの作品の歴史的意義はかなり大きい。


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恐怖の研究 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-10)
エラリー・クイーン恐怖の研究 についてのレビュー
No.919: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

探偵ガリレオ初お披露目

ガリレオこと帝都大学理工学部物理学科第十三研究室助教授湯川学が活躍する探偵ガリレオシリーズ。
福山雅治が主役でドラマを演じ、一世を風靡し、その後現在に至るまでの東野ブームを作った『容疑者Xの献身』へと続く加賀恭一郎と並ぶ東野圭吾のシリーズキャラクターだ。これはその湯川の初登場作となった短編集。

まず冒頭の「燃える」はいきなり発火して焼死した男の謎を湯川学が解き明かす。
トリックは比較的単純でミステリを読み慣れた者ならばすぐに解るに違いない。しかし犯人については非常に上手いミスディレクションがなされている。冒頭と途中に挟まれるエピソードが叙述トリックになっているのが憎い。
また町工場に置かれた製作機械について湯川が色々と会話するシーンは久しぶりに元エンジニア東野氏の面目躍如といったところか。

次の事件「転写(うつ)る」ではリアルなデスマスクが中学の文化祭で発見され、それが失踪した歯科医の物だと判明する。
これは半分当たり、半分外れたといったところか。
結末はオカルトチックにまとめられていてなかなか面白い。

続く「壊死(くさ)る」では風呂場で怪死した事件を扱っている。
物語は倒叙物として描かれる。同居を迫るスーパーの社長を嫌悪するホステスが自分に惚れる男の話に乗って殺人を犯す。しかしその犯行方法が解らないのが通常の倒叙物とは違っている。

さて次の「爆ぜる」はいきなり海水浴場の沖合でビーチマットに乗った女性が爆死するという衝撃的なエピソードから始まる。
この事件の構造は複雑。まず最初の犠牲者は湘南海岸の沖合で爆死する。次に一人暮らしの男性の変死体がアパートで見つかる。第2の被害者は帝都大学のOBで就職していた会社を辞め、斡旋した教授や大学に只ならぬ感情を抱いていた。
この2つの事件が意外な糸で結びつくのだが、これは最初の被害者の女性が帝都大学で事務をしていたことが終盤になって解るのはアンフェアだろう。

最後のエピソードは「離脱(ぬけ)る」。幽体離脱した少年がたまたま殺人事件の被疑者になった男が停めていた車を見たという不思議な現象を扱っている。
これも科学の実験で証明される。正直この作品が一番どうやって解決するのかが解らなかった。そしてその種明かしも知らない現象だった。しかし本作はそれにとどまらず、フリーライターを生業にしている父親が息子の現象を利用してひと山当てようと画策する卑しい心がテーマとなっている。


天下一大五郎シリーズ『名探偵の掟』、『名探偵の呪縛』の後に刊行されたのが本書。その内容はバリバリの理系本格ミステリ。前述の作品で本格ミステリへの訣別宣言とも取れる文章を書きながら、直後に発表された。

さて本書の中で最も古いのはオール読物1996年11月号に発表された物。片や『名探偵の掟』収録作品で最も新しいのは1995年に書かれており、『名探偵の呪縛』は1995年10月に書き下ろしで発表されている。

ん?

ということは訣別宣言の後に書かれていることになる。つまり『~呪縛』で書かれた作者自身と思われる主人公の発言は本格ミステリからの訣別ではなく、もう1段上を目指した本格ミステリを書くという宣言だったのかもしれない。

さてそんな東野氏が目指した本格ミステリ連作短編とはいかなるものか。
それは科学の現象を利用した犯罪を暴くという物。

事件の不可思議さの反面、それぞれの犯行の動機は実に普通の他愛もない。これらは人の心の謎へミステリの要素をシフトしていった当時の東野氏にしてはびっくりするほど普通のミステリである。

しかし本書の狙いはそれらの動機ではなく、理工学系の大学教授を探偵に配して科学の知識を利用した犯行方法を解き明かすことに焦点を当てている。つまりHowdunitを追求した作品集なのだ。

さて本作はこの後続く湯川学シリーズ、いやガリレオシリーズの第1作目。いわばお披露目用の短編集といった趣。従って読み心地も軽く、ミステリとしては佳作といった内容だろう。
しかし奇妙だったのはガリレオの由来が明確に書かれていないことだ。突然最終話の「離脱る」で草薙刑事の同僚、上司がガリレオ先生と綽名をつけて呼んでいることが判明する。
当時はあまり深く考えていなかったのかもしれないが、上述したようにガリレオシリーズは東野作品を代表する柱の1つになっているから、この呼び名の由来はきちんと補完してほしい。

さて傑作『容疑者Xの献身』に向けてガリレオシリーズを読んで同作をもっと深く楽しめるために次の『予知夢』も読んでおこう。

最後に全くの蛇足だが、本書の解説は佐野史郎氏。彼の文章によれば主人公の湯川はなんと佐野氏がモデルだったとのこと。
現在では福山雅治がガリレオ像を作ってしまったが―不思議と私は読書中脳内変換されなかったが―、当時ドラマ化されたときの佐野氏の心境はいかなものだったのか?
それは触れると野暮というものであろう。


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探偵ガリレオ (文春文庫)
東野圭吾探偵ガリレオ についてのレビュー
No.918: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

振り返ればかなり重層的

久々のカー作品。しかもハヤカワ・ミステリでしか刊行されていなかったバンコラン物の作品で、さらに新訳と来ている。
海外ミステリ不況が叫ばれる今、このような慈善文化事業めいた出版がなされようとは思わなかった。東京創元社の志の高さを褒め称えたい。

本作はまだカーの2大シリーズ探偵HM卿とフェル博士が出る前の1932年の作品と、最初期のものだが、物語は実に深く練られている。

まず冒頭の半人半獣サテュロス(上半身が人間の男性で下半身が山羊という牧神パーンに似た風貌)の蠟人形に抱かれるように死んだ女性の遺体の発見というカー得意の怪奇的演出から始まり、その蠟人形館が身分の高い紳士淑女たちの密会クラブへ通ずる秘密の進入口へとなっていることが判明することで淫靡な趣を呈し、さらにはその経営者の一人である暗黒街の大物エティエンヌ・ギャランへつながっていく。
このギャランがかつてバンコランに痛めつけられ自慢の容姿を台無しにされた因縁の相手であり、ライバルの登場と物語の展開がドラマチックで淀みがない。
また語り手のジェフが仮面を被って秘密クラブへ潜入するというサスペンスも加味され、なんとサーヴィス精神旺盛な作品かと感嘆した。

特にバンコランが蠟人形館の館主オーギュスタンを呼び出したがために蠟人形館がいつもより早く閉まってしまい、そのためにいつも蠟人形館からクラブへ出入りしていたジーナが入れなくなって躊躇することになり、彼女が蠟人形館に入り込むことで事件を複雑化していく。
まさにシチュエーションの妙。
後の『帽子収集狂事件』、『皇帝のかぎ煙草入れ』などの傑作に通ずる偶然ゆえに起こった不可解時がこの時すでに確立されている。

事件の発端となったオデット・デュシェーヌ殺しは早い段階で事の真相が明らかにされる。

そしてクローディーヌ殺しの真犯人は実に意外だった。

そしてこの真相を知った後でバンコラン達がマルテル大佐邸を訪れた第9章を読み返すと実に全ての内容が腑に落ちることになっている。
これを推理の材料として繋げるのは至難の業だが、カーはあくまでフェアであったことが解る。
仲良し三人組と思われた関係には実は陰湿な感情が蠢いていたこと、名家のお嬢様クローディーヌが家の風習を嫌悪し、自由な放蕩生活を手に入れたがゆえに同じく名家の出であるオデットが名家の規律を重んじ、人好きのするお嬢様であることに対する嫌悪、一方で名家を重んじる厳格な血筋の持ち主、そして富裕層の密会クラブである色つき仮面クラブへの秘密の出入り口の役割を蠟人形館が担っていたこと、そしてその蠟人形館にはあまりにリアルな蠟人形が数多く展示され、その中には恐怖の回廊と呼ばれる古今の有名な犯罪事件の1シーンが展示されていたこと、そういった要素が複雑に絡み合い、今回の事件に至る。
振り返るとなんと重層的なプロットだったことかと改めてカーの才能に感嘆する。

しかしとはいえ、主人公のバンコランにはどうも好感が持てない。
元々メフィストフェレスのような風貌をした冷血な予審判事という触れ込みで登場しているが、無断で家宅捜索したり、盗聴器を仕掛けたり、更には警察に嘘の情報を流して誤導したりとやっていることは現在ならば不当捜査として捜査は無効になり、逆に告発されるほど滅茶苦茶である。
悪漢判事もここに極まれり。どちらが犯罪者か解りやしない。これが今回の評価に大いにマイナスになった。

さて東京創元社は以前からカー作品の新訳改訂版の文庫刊行を進めていたがこれはまだ続くようだ。本当に素晴らしい。
これからもカーのみならずクイーンやウールリッチ、ロスマクなど、このまま絶版で埋もれるにはまことに惜しい巨匠たちの名作を続々と新訳で出してほしいものだ。
頑張れ、東京創元社!


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蝋人形館の殺人 (創元推理文庫)
No.917:
(4pt)

シリーズ読者ならではの愉悦はあるものの、堂々巡りです

前作『片腕をなくした男』で身元が割れたチャーリーは保護プログラムの保護下でMI5の監視下に置かれ軟禁状態での生活をしている状態。つまり工作員としてほぼ引退に近い状態で暮らしている。
そんな最中に降って沸いたのが長年のナターリヤとの関係が知られるという事実。

そんなチャーリーとロシアのロシア情報機関の№2と目される人物の亡命の手助けを中心に対内情報機関であるMI5と対外情報機関であるMI6がお互いの優位性を巡って手練手管を尽くした画策が繰り広げられる。

お互いが協力の握手を右手でしている裏では左手にナイフを持って寝首をかこうと手ぐすね引いているやり取りが延々繰り広げられる。それはいつもながら高度なディベート合戦と智謀を尽くした暗闘なのだが、MI5部長オーブリー・スミスとMI6部長ジェラルド・モンズフォードがお互いの地位とプライドを守らんがために虚勢を張りあう姿と相俟って非常に稚拙に滑稽に映るから面白い。

今回のチャーリーはロシアの長年にわたる壮大な作戦を台無しにした張本人として指名手配されている身。そんな彼がやらなければならないのがロシアに住むナターリアとサーシャの身の安全。ロシアにチャーリーとの関係を知られる前に彼女たちをイギリスに亡命させなければならない。このあくまで私的な任務と敵からそして味方から自分の身を守らなければならないという薄氷の上を渡るような状態。

本書のメインストーリーはMI6が企むロシア情報機関の№2であるマキシム・ラドツィッチの亡命とMI5が支援するチャーリーの妻子の亡命という2つの亡命を成功させることだ。しかし物語で語られるのは冒頭にも書いたMI5とMI6の稚拙な意地の張り合い、権力闘争に終始する。
とにかく事あることに対立する二人。尊大でエゴイストなモンズフォードに表情を変えないながらもモンズフォードに対抗意識を燃やすスミス。彼らの責任の擦り付け合いがこの物語の大半を示しており、しまいには退屈さえ覚えてしまった。

前作の感想にも書いたが、この2作では物語の核心に迫るわけではなく、その周辺の事情や政治的駆引きを重視しており、なかなか進まないのだ。語られるのは亡命を今か今かと待ち侘びているラドツィッチの不満であり、とにかく仲間うちから離れ、スタンドプレイに走るチャーリーの姿である。この繰り返しは何とも辛い。
諜報活動が慎重に慎重を重ね、あらゆるケーススタディを成した上で行われるのは重々承知しているものの、それと物語とはまた別の話。読者は次から次へめまぐるしく変わる展開を読みたいのだ。従って今回の話は全体としては小粒。

作中、チャーリーがMI5部長オーブリー・スミス、同次長ジェイン・アンバーサム、MI6部長ジェラルド・モンズフォードから尋問を受ける際、ナターリヤとの関係の一部始終を語るシーンがあるが、これはまさに今までのシリーズの良き復習となった。この内容を懐かしいと読める読者がどれほどいることか。
そして私はそれを懐かしいと思える読者であることに喜びを覚えた。そしてこれはまた作者フリーマントルが本当にこのシリーズに決着を付けようとしている証左でもある。

さて謎は謎として残されたまま、本書は幕を閉じる。
長きに亘ったシリーズの行く末がようやく決まる。それを心して待とう。


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顔をなくした男(上) (新潮文庫)
No.916: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

眠れる人形は何を指す?

『ウォッチメイカー』で初登場した尋問の天才キャサリン・ダンスが主役を務めるスピンオフ作品。とはいえこの後彼女が主人公の『ロードサイド・クロス』も刊行されているから、新シリーズの幕開けといった方が正解だろう。

新シリーズの主人公をあらかじめ他のシリーズ作品にゲストとして登場させる、このディーヴァーの目論見は当たっていると思う。他のノンシリーズの作品に比べてはるかに物語に移入しやすい。
ダンス以外は全くの初対面の人物ばかりだがダンスがいるだけでライムシリーズの延長のような錯覚に陥り、すんなり物語世界に入っていけた。

今回ダンスが相手をするのはダニエル・ペル。10年前にIT企業家一家を殺害した事件で捕まったカルト集団のボスだ。このダニエル・ペルは人の心を読み、コントロールする能力に長けている。その場の状況、相手によって自分の境遇や過去を偽り、共通点を見出させ、共感を覚えさせ、同族意識を植え付けるのだ。服役中も看視員をその手法で取り込み、囚人に禁じられているインターネットの閲覧なども秘密裏に許可させたりもする男だ。従って彼の尊敬する人物もヒトラー、ラスプーチン、スヴェンガリといったカリスマ性を持った人心掌握術に長けた人物ばかりだ。彼は人の心をコントロールすることに喜びを覚えているため、彼の支配下に置けない人物は“排除”しようとする。
ダンスは最初の尋問で逆に彼の心をコントロールしたため、逆に脅威となってしまう。しかしそんなダンスでも彼の真の目的が解らないのだ。

『ウォッチメイカー』で颯爽と登場したキャサリン・ダンスから受ける印象はどの読者も、“すべての嘘を見破る歩く噓発見器”と思っていたに違いないが、本書ではキネシクスのエキスパートであっても見抜くのが困難な嘘つきもいることが述べられている。それは情報を出さずに真実を回避する者や嘘を真実とみなせる狂信者などだ。
当初、味方であった人物が敵だったり、そのまた逆であったりといったディーヴァーお得意のどんでん返しが起こった時になぜ彼ら彼女らが行う芝居、嘘を見抜けなかったのかと懐疑的になったがどうもキネシクスも万能ではないようだと気付かされ、それで納得がいった。

またこのダンスのキネシクスを生かした尋問方法は諸刃の剣であることが解る。それは彼女は嘘を見抜くがゆえにそれぞれの人間の立場を守ろうとする嘘まで見抜き、丸裸にしてしまうからだ。それは彼・彼女らにとってはキャリアの終焉を意味する。もちろんダンス自身もそれは承知しており、時に苦い思いを抱く。知らなくてもよい真実が見えてしまうこともまたキネシクスの特徴なのだ。

さてライムシリーズが現場に残された物的証拠から推理して犯人の行動を読み取るのに対し、尋問の天才キャサリン・ダンスはキネシクスを駆使して動作や身振りからその人の本当の心理状況を見抜き、また関係者から得た犯人の情報から推理して犯人の行動を読み取る、云わばプロファイリングに似た手法を取る。
物質のライムに精神のダンス。ディーヴァーはまさに魅力的な二巨頭のシリーズキャラクターを創造したわけだ。

そしてやはり読者の期待通り、アメリアとライムのカメオ出演があった。その役割は実に他愛のない物で直接にキャサリンの事件の手助けになったわけではないが、やはりこういうサービスはシリーズ読者には嬉しいものだ。
恐らくディーヴァーは敢えて彼らに重要な役回りをさせないようにしたに違いない。これはあくまでキャサリンの事件であるからだ。しかし「ウォッチメイカー事件」のその後も語られ、まだ彼が暗躍しているのが解ったのも収穫だ。

さて今回の題名は敵役ダニエル・ペルが投獄されることになったIT企業家一家惨殺事件の唯一の生き残り、当時9歳だったテレサ・クロイトンに付けられた呼び名に由来する。事件当日、玩具の山に埋もれるように寝ていたため事件に巻き込まれることがなかったのだ。

しかしこのスリーピング・ドールという題名は読後の今、実は当時ペルに与した仲間の女性たちのことを指していることが解る。
ペルという人の心を操るのに長けた人物によって人生を狂わされたリンダ、レベッカ、サマンサ、そして共犯者であるジェニー。この4人の女性こそがペルの呪縛によって眠らされていたスリーピング・ドールだったのだ。そしてその呪縛が解けた後のそれぞれの生き様が四者四様であるのが興味深い。特にサマンサとジェニーの変わり様が印象に残った。

余談だがペルが襲撃していた際に眠っていたとされるテレサがその実起きていたというのが実に面白い。彼女はペルの一家惨殺事件の被害者でありながら、実は彼女自身には何の心的外傷を得ていなかったのだ。従ってやはりスリーピング・ドールとはテレサのことではなく、彼女ら4人のことだったと解釈するのは妥当だろう。
しかもその文脈で考えるとこの題名自体もミスディレクションであると云えよう。

物語の核であるペルの脅威が収まるのは下巻の340ページ辺り。まだ約100ページが残っている。
哀しいかな、書物という物はこの後の残りページ数でこれで事件が解決したものと思わないように物理的に教えられる。これが映画館で観る映画ならこんなことはないのだが。
従って読者は残りのページで起こるであろうどんでん返しを想像することになり、驚愕の結末もこれでは薄れてしまうであろうから困ったものだ。

さて最後になったがやはりこのシリーズに登場した人物たちにも触れておこう。

キャサリンの仕事上の好パートナーであり、私生活でもパートナーとなるのではと思わされたモンテレー郡保安官代理のマイケル・オニールはダンスのよき理解者であり、またよき相談相手である。しかし妻帯者である彼とダンスの今後の関係はどのように変化していくのか、非常に気になるところだ。

そしてダンスの有能な部下TJ・スキャンロンはCBI捜査官らしからぬカジュアルな服装とどこでも思わずついて出る軽口が特徴の人物。しかしその働きは有能でダンスの痒い所に手が届く捜査をしてくれる。

最後にチャールズ・オーヴァービー。新任のCBI支局長であり、ダンスの上司だが、早く功績を立てて出世したがっており、その種の人物同様、保身のために部下を売ろうとすることも考えている。一見無能な人物と見せながら物語の最後には意外な決断を下すという実に読めない人物。

とこのように有能な人材で構成されるライムチームとは違った個性的な人物を配してディーヴァーはまたまた面白い物語を紡いでくれるようだ。

本書はまだ軽いジャブといったところ。今後のキャサリン・ダンスの活躍に大いに期待しよう。


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スリーピング・ドール
No.915: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

作者不遇の時代の実験的小説

『名探偵の掟』の名探偵天下一が再登場する長編。しかし作者東野氏自身と思われる作家が図書館に迷い込むうちに自分が天下一になってしまうというファンタジーな設定になっている。そのためか実に内容はメタフィクショナルだ。

常に読者の目を意識した天下一の言動は前作『~の掟』を踏襲した本格ミステリの約束事を意識的に揶揄したものだし、またその言葉は作者東野圭吾氏の生の声でもある。

そのために本格ミステリの特異性を際立たせるために本格ミステリのない世界を設定したのが素晴らしい。つまりそこでは本格ミステリの約束事がそのまま普通に暮らす人々にとっては訳の解らない思考であることが逐一書かれる。

例えば最初に出てくる事件では初めて密室殺人事件に遭遇した登場人物たちは殺人を犯すのになぜ密室を作る必要があるのかが全く理解できない。
さらに当たり前すぎる動機では読者に罵倒されると思わず漏らす主人公などなぜ普通の理由で、普通の方法で人を殺していけないのかが改めて問われる。この辺のやり取りは実に面白かった。

そして読み進むにつれ、これは東野氏の本格ミステリからの訣別宣言を表した書だということが解る。かつて江戸川乱歩賞でデビューした作者はその後もトリックを駆使した密室殺人をいくつも著していたが、もはやそんな物に興味を失ってしまったと吐露する。しかしそれが完全なる訣別ではなく、またいずれは帰ってくる場所であることも書かれている。

以前から書いているが『宿命』を契機に誰が殺したとかどうやって殺したといった推理クイズのような楽しさよりも人間の心情の謎について書くことに興味が移ってしまった東野氏だが、その後も探偵ガリレオシリーズなども書き継いでいることから、初期作品からブラッシュアップされた本格ミステリを書くことを心掛けているのが解る。
訣別しようと思いながらも本格ミステリが持つ独特の魔力に抗えない、そんな心情を東野氏はこの作品で見事に表している。つまり本書は小説の形を借りながら東野氏の本格ミステリへの思いを綴ったエッセイであると云えるだろう。

さて本書が刊行されたのは1996年。つまりもう23年も前の作品であるのだが、そのため今読むと興味深い記述も見られる。
特に冒頭の図書館のシーンで自分の作品を発見し、貸し出し状況を見ようと思ったがその結果が怖くて結局見ないことにしたという一節があるが、今の東野フィーバーの状況を考えると隔世の感がある。確かにこの頃はミステリ読者からは好評は得ていたものの、売れていたとは決して云えない状況だったのだ。

そんな観点で読むとまた当時の東野氏の作家としての立ち位置なども垣間見え、最近ファンになった人々も興味深く読めるのではないだろうか。
ただやはり本書はある程度本格ミステリを読んでからにしてほしい。そうでないと解らない面白味に溢れているのだから。

名探偵の呪縛 (講談社文庫)
東野圭吾名探偵の呪縛 についてのレビュー
No.914: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

残虐性のインフレ現象

馳星周氏のデビュー作『不夜城』の続編。この後『長恨歌』が書かれ、新宿の中国系マフィアの暗闘を描いたこのシリーズは三部作として幕を閉じられる。

前作の主人公劉健一は新宿の一角にカリビアンという会員制のバーを開いて故買屋稼業をしながら新宿の中国系マフィアの情報を仕入れているという存在。
前作はほぼ彼の一人称という形だったのでその心情が色濃く書かれていたが、本書ではあくまで第三者という立場で得体のしれない存在感を醸し出している。常に何かを知り、のし上がる好機を窺っているような、獲物を見張っている豹のような存在とでもいおうか。
彼の存在は物語の終盤で如実に増してくるのだがそれはここでは敢えて触れない。

物語の主軸は楊偉民の子飼の凶手、郭秋生と元刑事で北京マフィアの頭目崔虎の下で糊口を凌いでいる滝沢誠の2人だ。

郭秋生はかつて義姉と義父を殺し、その2人の死体のそばで横たわって半死半生の状態だったところを楊に拾われて、台湾の海軍に預けられ格闘術と武器の扱いといった殺人の技術を習得した凶手。殺した義姉真紀に想いを寄せ、それがトラウマになっている。

一方の滝沢はかつて新宿署防犯課に所属しており、相棒の鈴木と共に歌舞伎町に巣食う売春婦、やくざ、売人を食い物にしていた悪漢警官だったのを2年前の劉健一がもとで起こった中国系マフィア同士の抗争に巻き込まれて刑事の職を辞することになった男。ただその性癖はいわゆる変態で暴力の衝動に駆られ、相手を痛みつけることにこの上ない快感を覚える男だ。

この滝沢、秋生、そして秋生がボディガードを務める上海マフィアのボスの情婦楽家麗、そこに劉健一が絡み、誰かが死ななければならない状況まで差し迫っていく。

混沌とした中国系マフィアの勢力争い。新宿歌舞伎町というごくごく狭い繁華街に上海、北京のマフィアが勢力を伸ばし、そのバランスを保とうと台湾のマフィアの長が策を施す。そんな絵図を俯瞰し、いつか彼らの喉笛に食らいつこうと虎視眈々とその時を窺う劉健一。そんな中国人だらけの街を取り戻そうと蠢く日本のやくざ。

誰もが他者を出し抜こうとし、誰もが他者を貶めようとする。
権力という安定を求め、仲間を作るが、その仲間さえも敵と天秤にかけ、平気で寝返る。
敵が味方になり、追う者は追われる者になる。
窮地に陥った人間が窮鼠猫を噛むが如く、ぎりぎりのところで口八丁手八丁の逆転をし、どうにか生きながらえる。
しかしそんな付け焼刃の云い逃れも上手くいくわけもなく、どんどん死の淵へと追いやられていく。

これは新宿歌舞伎町という日本一の繁華街を舞台にした人生劇場。いや明日をも知れぬ地獄絵図を描く者たちの鎮魂歌とでも云おうか。
私が歩いていた新宿の少し筋を外れたところでこんな人が簡単に人の命を奪う生き死にの戦いが繰り広げられているのか。そう思わされるほどこの物語はリアルである。

それは我々普通の生活をしている者にとっては想像もつかないような世界。誰もがプライドが高く、ギラギラした目を持ち、底なしの欲望にまみれて、犯罪を犯すことを厭わない。碌でもない男女たちばかりが登場する。

ふと思ったのはこれまでの馳作品の主人公にはある共通項があることだ。それは『不夜城』の劉、『漂流街』のマーリオ、本書の郭とも混血児であることだ。劉は台湾人と日本人の、マーリオはブラジル人と日本人の、郭は中国人と台湾人の混血。
彼らに共通するのは心に深い闇、憎悪といっていい感情を持っていることだ。馳氏は暴力的衝動、心に暗黒を宿すファクターとして混血児というモチーフを用いているようだ。

さて物語は前作『不夜城』で最愛の者を殺さざるを得なかった劉健一が新宿界隈の中国人コミュニティを牛耳る楊偉民に対する壮大な復讐劇だったことが判明する。楊の権力を殺ぎ、自身が新宿界隈の中国人コミュニティのボスに成り代わって楊を抹殺すること。その目的のために凶手郭、元刑事の滝沢は駒の1つであり、劉の掌上で踊らされていたにすぎないことが判明する。

通常このような権力争いの勢力を己の画策でぶつけ合わせて破滅させる、というハメットの『赤い収穫』のような物語は画策する人物の視点で書かれることが多かったが、馳氏はこれを駒となる人物たちの視点で描くことで画策した人物の恐ろしさを上手く表現している。これはまさにアイデアの勝利だろう。

ただやはり結局馳氏の作品はどの人物も死んでいく運命にあり、主要たる人物も最終的には屍の山の一角に過ぎなくなる。これがなんとも読んでいて残念なのである。
この辺は大いに好みの問題なのだろうが、生死の瀬戸際ギリギリで足掻く人物たちが結局死んでしまうことが解っているので何とも途中で白けてしまうのだ。

本書でも滝沢の変態性、郭が恋い慕う楽の扱いなど凌辱系ポルノビデオのような内容でこれ以上の物を書くとどんどんエスカレートしてこちらの感覚が麻痺していくように思えてならない。
どこまで突き進んでいくんだ、馳星周は?

鎮魂歌(レクイエム)―不夜城〈2〉 (角川文庫)
馳星周鎮魂歌(レクイエム): 不夜城2 についてのレビュー
No.913:
(8pt)

三人の青春物語であり叙事詩であり伝説

読み終わって大きな息が思わず出てしまった。
怒涛の展開で連打の如く畳み掛ける言葉の嵐。今回の物語で要した章は289にまで上る。正味460ページ足らずの分量でこの章の多さ。いかに切りつめられた章立てであるかが解るだろう。

ウィンズロウの文体はもはや詩である。
短文の連発で散文的に書かれた語り口は彼独自のリズムで物語が展開する。固有名詞(62章を見よ!)に略語にスラングの応酬で綴られるその文章にはまぎれもなく行間から“声”が聞こえてくる。
つまりはこの声を生かしたままで日本語に訳している東江氏の素晴らしい仕事ゆえに私達はウィンズロウが耳元で囁くかの如きライヴ感溢れる文体に酔うことが出来るのだ。

ただそれがあまりに過剰になりすぎて、読者の理解を超えたところで鳴り響いている感じもする。恐らくこれはウィンズロウがあえて実験的に取り組んだ文体だろうが、この波は少々じゃじゃ馬すぎて、上手くライディングするのにはかなりの時間が必要だった。

今回扱っているテーマは麻薬商戦。相手はメキシコの大麻薬カルテル。そう、主題としては『犬の力』と一緒なのだが、『犬の力』がDEA(麻薬取締局)と一大麻薬カルテルとの血で血を洗う凄惨な戦いを描いたのに対し、本書は独立経営でやっている麻薬商業者ベンとチョンと一大麻薬カルテルとの戦いを描いたもので、ベンとチョン、それに彼ら2人の恋人Oが加わったオフビートな味わいの物語になっている。

このベンとチョン、そしてOの造形が素晴らしい。
精神分析医の両親を持ち、自身も精神療法のクリニックを経営しながらも独学で育てた大麻をチョンと共同で売って生計を立てているベンは何かにつけ、人の行動を分析する傾向にある。そして根っからの非暴力主義者で時にふっと世界のどこかで弱者を救いにボランティアに出かける、そんな人間だ。

片やベンのパートナーであるチョンはその名前からアジア系アメリカ人を想像するが生粋の白人。いつの間にか本名のジョンがチョンに変化してしまい、そのままで通している。海軍に所属し特殊部隊員となり、“スタンの国”で戦争の最前線に行き、いくつもの修羅場を潜り抜けてきた男。感情を表に出すことはなく、誰かに優位に立たれるのを好まない武闘派。

そしてベンとチョンの恋人オフィーリアことO。美貌を誇る母親から生まれたOは自由奔放な精神の持ち主。知識は少ないがベンとチョンは彼女が頭がいいことを知っている。2人のオアシスで帰るべき家ともいうべき存在。

この三人には他者が入れない強い絆で結ばれている。兄弟よりも濃い関係なのだ。

そんな彼らに立ちふさがるのがバハ・カルテル。中でもその恐怖の象徴であるのがラド。元々麻薬対策特務組織の一員だったが、終わりのない戦いと一方で肥え太る麻薬組織の連中を見るにつけて仕事に嫌気が差し、カルテル側に移った人間。チェーンソーで人の首を切るのを何とも思わない冷徹な男。どんな嘘も見抜き、粛清を下す。組織の恐怖の掟が具現化した男だ。

さてそんな彼らが登場する物語、オフビートテイストが最後まで続かないのが最近のウィンズロウ作品の特徴。前作の『夜明けのパトロール』同様、物語は次第に暗い様相を帯びてくる。ベンとチョン2人の麗しの君Oにバハ・カルテルの魔の手が伸び、誘拐されてしまうのだ。云うことを聞かなければチェーンソーでの死刑が待っている。
大麻栽培と販売という犯罪と貧民国を訪れボランティア活動を行う慈善家の二足のわらじは上手く両立できると信じていたベンの信念に揺らぎが生じ、片や野蛮なる世界の怖さを知る武闘派チョンの暴力への信念はますます研ぎ澄まされていく。非暴力主義を貫けなくなったベンは全てを擲ってOを救おうとする。オフビートな犯罪小説から暗黒小説へ次第に物語はシフトしていく。

『犬の力』でも散々見られた惨たらしい拷問シーンは今回もふんだんに盛り付けられている。書かれた文字から否が応にも想像が働くその映像に目を背けたくなる。そんな暗鬱になりがちな展開の中で誘拐されたOの茶目っ気ぶりが一服の清涼剤になる。

淀みと気楽さ。
なんとこれは麻薬ではないか?
もしかしてウィンズロウは文章という名の麻薬を実現しようとこのような実験的な文体を採用したのだろうか?

やがて物語はハメットの有名な作品『血の収穫』で見せた二大勢力の麻薬戦争の様相を見せ、ベンとチョンがたった2人で巨悪に立ち向かう様が繰り広げられる。

これは彼ら三人の青春物語であり叙事詩であり伝説。
こんな物語、ウィンズロウにしか書けないわ!


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野蛮なやつら (角川文庫)
ドン・ウィンズロウ野蛮なやつら についてのレビュー
No.912: 8人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)
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リンカーン・ライム最大のライバル登場!

リンカーン・ライムシリーズ7作目にしてもう1人のシリーズキャラクター、キャサリン・ダンス初登場作。
2008年版『このミス』で堂々1位に輝いた。ネットでの評判もすごく、傑作との文字がそこここに見られる。期待に胸躍らせながら書を開いた。

いやはやウォッチメイカー事件とはこういう事件だったのか、というのが正直な感想。つまり殺し屋ウォッチメイカーとはその名の通り、時計を動かす複雑な構造を備えた犯罪計画を立てる―作中では複雑機構(コンプリケーション)と述べられている―殺し屋という意味なのだ。
特徴的なのは今回3つの事件が並行して語られること。ウォッチメイカー事件に警察の汚職が絡んだ会計士の自殺偽装事件。そして同じバーの常連だったメインテナンス会社の経営者の強盗殺人事件。従って捜査メモも3種類書かれる。

そしてこの複雑な事件を見破るには何よりもキャサリン・ダンスが登場したというのが大きいだろう。カリフォルニア捜査局の捜査官でボディ・ランゲージや言葉遣いを観察して分析し、尋問する相手の心理と読み取るキネクシスのエキスパート。とにかく相手を観察し、何を考え何を隠しているのかを読み取ることが何よりも好きな“人間中毒者”だ。
今回は彼女の尋問で目撃者が何をどこで見たかが絞り込まれ、サックスの現場検証の精度が増す効果が得られている。

また中盤ウォッチメイカーの相棒ヴィンセントが捕まるのも彼女のキネクシスによる尋問からだし、そこからウォッチメイカーの正体さえも割り出していく。

つまりキャサリンには嘘が通じないのだ。どんな嘘をついても悟られてしまう。そんな尋問のエキスパートに嘘をつくことが自覚的でないウォッチメイカーをいきなりぶつけるところにディーヴァーのネタを出し惜しみしない潔さを感じる。
常に新作におよそ考えうる難問を導入する旺盛なサービス精神には毎度これを超える作品が次書けるのかと妙な心配すらしてしまうほどだ。

特に今回注目したいのはライムシリーズ1作目の『ボーン・コレクター』が内容に大いに関わっていることだ。詳しくは未読の方の興を削ぐので書かないが、こういう趣向はシリーズ物を愉しむ読者にとっては縦軸だけでなく横軸への広がりを見せ、大きな絵を描くように世界観が楽しめる。
逆に読者は記憶力をさらに試されることになるわけで、今まで他作品の主人公のカメオ出演だけでなく、事細かに設定されたリンカーン・ライムワールドを熟読しておくべきだろう。そうすればますますこのシリーズが楽しめるに違いない。

本書の題名は殺し屋ウォッチメイカーだが、原題は“The Cold Moon”。「冷たい月」を表すこの言葉はウォッチメイカーが現場に残した手紙に書かれた詩の一節であると同時に、太陰暦を意味する言葉。これはウォッチメイカーが現場に残した置時計が太陰暦も表示されることも関係している。
ただ今回はあまり原題は物語に有機的に関わっていないようだ。邦訳のウォッチメイカーの方が殺し屋の名前という単純な意味だけでなくてしっくり来る。

また前作ではセリットーが恐怖心に見舞われるというアクシデントが起きたが、今回はサックスにある事実がもたらされる。
それは尊敬して止まない元警官の亡き父が不正を働いていたという事実。街を仕切るギャングと懇意になり、商店主や土建業者から金を強請り取っていたのだった。サックスの元恋人の警官も不正で捕まった過去があるだけに警官の汚職にひどい嫌悪感を抱いていたサックスだったが、自分が警察官となるアイコンでもあった父親がそれに加担していたというアイデンティティが侵される事態に陥る。サックスは警察を辞する決意までする。

そんなサックスを上手くサポートするのが前作から登場した“ルーキー”ロナルド・プラスキーだ。彼もサックスの部下として時に警官、時に鑑識課員の卵として共に現場検証に当たるようになる。新人ゆえの熱心さと柔軟な物の考え方でライムたちの思いもつかなかったような助言もするようになり、前作に比べて格段に成長しており、キャラクターにも厚みが出てきた。
また一人ライムチームに魅力的なキャラが加わった。

他にもウォッチメイカーの相棒だったヴィンセント・レノルズの忌まわしい過去などはディーヴァーの騙りの上手さに少なからず驚いたのに、そんなことがもう忘れてしまうほどサプライズに満ちている。
本当にディーヴァーという作家は読者の心を上手く誘導するのが上手い。彼こそ本当の“魔術師”ではないだろうか。

全くこれからもますます目が離せない。


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ウォッチメイカー
No.911: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(5pt)

どんでん返し前の真相の方が好み

幾何学的な素っ気ないタイトルは三角関係を表している。第四辺とは父アシュトンと母ルーテシア、そして息子デインらマッケル一家の間の三角関係に現れたシーラという愛人のことである。
しかし通常ならば三角関係というのは一人の人物を巡って2人の恋敵が取り合うという関係を示す。従って本来ならば父親の愛人を頂点にした息子と父親の微妙な三角関係を示すことになろう。

事件はこの父の愛人であり息子の恋人であるシーラが何者かに殺害されるというものだ。彼女はマッケル一家が所有するマンションのペントハウスに住んでいる。
そしてまずは容疑者としてアシュトンが逮捕され、裁判にて無罪が確定し、次にルーテシアが逮捕され、同じく裁判で無罪が確定した後、今度は息子のデインが逮捕されるという三段重ねの裁判物となっている。

そして今回エラリイはなかなか登場しない。彼が登場するのは130ページの辺りである。しかも今回のエラリイは映画のエキストラの一員としてスキーで滑っているシーンを撮影中に事故に遭って入院をしている。つまり安楽椅子探偵という設定なのだ。

この3人のマッケル一家だけが容疑者であるという非常に登場人物の少ない事件。そんな事件でもクイーンはロジックを開陳させてみせる。
しかし物語はそのエラリイの鮮やかなロジックで解決した後、また別の真相が控えている。そしてこの作品でも探偵の能力の限界をエラリイは見せつけられてしまう。

さて今までクイーン作品では個性的な女性が出てきた。ニッキー・ポーターやポーラ・ハリスがその代表だろう。それらは過去の本格ミステリに見られがちなか弱き令嬢といった趣ではなく、男と対等に渡り合おうとする独立した女性の姿だった。
本書のシーラは彼女たちからさらに発展した女性像である。ファッション界の新鋭デザイナーとして名を馳せ、すでに金と栄誉を手に入れているので男には隷属せず、また養ってもらおうなどとは露にも思っていない。結婚は特に考えず、その時に好きな男をとことん愛し、お互いのどちらかが飽きるまで付き合う。その恋はある日突然火が着き、そしてまた同じようにある日突然冷めてしまう。常に恋をしなければならない女性。そして恋をしていることで輝きを保っている女性。昨今の女性の考えを持った近代的な女性である。

もう単なるパズラーやロジックで犯人を云い当てる推理ゲームから脱却したクイーンのこの頃の作品は逆にバランスを欠いているように感じ、釈然としない読後感を残す。この作品の真価が私の中で定まるのはまだしばらく時間がかかりそうだ。


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三角形の第四辺 (ハヤカワ・ミステリ文庫 ク 3-24)
エラリー・クイーン三角形の第四辺 についてのレビュー
No.910: 5人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

“人間を描く”ミステリ

これはすごい傑作ではないか!
なぜ当時ほとんど巷間で話題にならなかったのかが不思議でならないくらい、ミステリとしても読み物としてもすごいレベルに達した作品である。

本書で描かれる事件はある作家の死。一応鍵が掛かった部屋での殺人事件なのだが、そこにトリックなどもなく謎解きもあっさりとしており、あまつさえ犯人は全体の3分の1にも満たないところで加賀によって捕えられてしまう。

しかし本書のメインはそこからである。なぜ犯人、被害者日高邦彦の親友であり、同級生であった野々口修が彼を殺すに至ったかが本書の謎なのだ。

東野作品の転機は『宿命』からだというのは周知の事実である。彼は今までトリックやロジックにこだわった本格ミステリを書いていたのだが、人の心の謎こそが魅力的な謎だと着目し、それを意識して著したのが『宿命』だった。

その後東野氏は様々な手法を使って人の心の謎をテーマにした作品を紡いでいく。そして本書で扱われる人の心の謎とはすなわち「悪意」。ストレートな題名でそれを謳っている。

この作品は実は発表当時はさほど話題にならなかったが、ウェブ、書評家そして東野ファンの間では隠れた名作と云われている。
特に『赤い指』、『新参者』、『麒麟の翼』と昨今立て続けに発表された加賀恭一郎シリーズのクオリティが高く、人気が出た現在では同シリーズを遡って読む読者が増え、その中で再評価が高まっている。ちなみに講談社から出版された『東野圭吾公式ガイド』の読者人気投票ランキングでも16位に選ばれ、人気も高い。

さて横道に逸れるのはここまでにして、この悪意というのは犯罪を扱うミステリにおいてなくてはならない物、いや殺人や窃盗、詐欺、これら全ての犯罪は悪意から成り立っていると云える。
悪意と一言で云っても様々な悪意があり、私もさて本書で書かれている悪意とは一体何なのだろうかと思いながら読み進めた。

特に目立つのは被害者日高邦彦の悪意だ。
犯人野々口修が前妻初美と共謀して命を奪おうとしたことをネタにゴーストライターを強要した悪意。野々口の才能に嫉妬し、なかなか出版社に紹介しないという悪意。
自分本位で身勝手な人物像が描かれる。

また日高が盗作をしていたことがマスコミに知られ、遺族である妻の許へかかってくる悪戯電話、誹謗・中傷の手紙、はたまた野々口が受け取るべきだったと主張する野々口の親戚による訴え、これらも悪意と云えるだろう。

そして野々口の動機を調べるにあたり、加賀は彼と日高の学生時代に行われた「いじめ」に行き当たる。
直接暴力に訴える積極的ないじめもあれば無視して無関係性を装う消極的ないじめもある。さらにはいじめ仲間に加わらなければ自らがいじめられるということで加わるいじめもあれば、面白がって仲間になり、さほど罪悪感もなく加わるいじめもあったりと様々だ。

悪意が恐ろしいのはそれが当事者にはそれが悪意だと気づかずに行動の原動力となってしまうことだ。いやもしくは悪意、それと気付いていながらもその悪意の持つ悦楽のような物に酔わされ、止められない蠱惑的な魅力を備えていることだ。
しかしここに書かれた悪意はもうどうしようもない。この誕生を止めるのは小さな頃から負の感情を持たせず善意を養わなければならないだろう。
読後私はなんともやるせない気持ちになった。

このようにストーリーは読み応え抜群でしかも深い余韻を残す結末でありながらさらに本書がすごいのはミステリの技巧として優れていることだ。
いや文学の技巧としても優れているといった方が正しいかもしれない。

さらに加賀ファンにとっては加賀の教師時代の暗い過去が明かされることでも興味深いだろう。私も実に興味深く読んだ。警察官である父親に反発して教師になった加賀がなぜその職を辞したのかが本書では描かれる。
優秀な刑事としてまた優秀な探偵として、また人格者として描かれる加賀の弱さを知った。

昨今の高評価も頷ける、いやもっと高く評価されてもいい作品だ。最近増え続ける東野読者にも早く本書を読んで感想を聞かせてほしい。
私は上に書いたように大絶賛である。


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悪意 (講談社文庫)
東野圭吾悪意 についてのレビュー
No.909:
(7pt)

どす黒い暴力の連鎖

『不夜城』で衝撃のデビューを果たした元書評家坂東齢人氏こと馳星周氏。本書は彼の4作目に当たる作品。
今回も主人公のマーリオは日系3世のブラジル人で純粋な日本人ではない。鹿児島から移住してきた祖父太一の許で育てられ、厳しい教育と家督制度を叩き込まれ、そして激情家の太一の血を色濃く受け継いだ彼は日本人ともブラジル人ともどっちつかずの風貌、そして時折卑下したかのように呼ばれる“あいのこ”という言葉にどす黒い憎悪を抱き、押え切れない暴力的衝動を常に抱えている。

彼が行く所には屍の山が築かれ、そして彼に関わった人間は押しなべて不幸になる。胸に抱えたどす黒い憎悪、欲望が次第に肥大し、理性で押え切れなくなっていく。
彼の憎悪の根源は日本人なのに日本人として認められない血の呪いと彼を育てた日本人移民の祖父太一の存在だ。

彼の祖父佐伯太一は鹿児島からブラジルに移り、昔ながらの厳格な家長制度を重んじる男。彼が家族の全てであり、彼に従わない者は家族ではないという性格の持ち主。だから彼に歯向かう者には容赦はしない。そうやってマーリオの母と父は死に至った。
暴力は暴力を生む。これは昨今定説になっているがマーリオは祖父を憎むがゆえ、また彼もまた祖父と同じ性格になっていった。マーリオの行き着く先は闇。これはそんな真っ黒な物語。

そのマーリオが地獄への道行きを辿るきっかけが大金とヤク。それが本書のメインストーリー。
鬱屈した日常に嫌気が差したマーリオがひょんなことから漏れ聞いた関西のやくざと中国マフィアとのデカい取引の金を強奪し、あらゆる追手から逃げるというものなのだが、この強奪に至るまでが非常に長い。取引の情報を手に入れるのが49ページとストーリーの中でも非常に早い段階なのにもかかわらず、実際に実行に至るのは470ページあたりなのだ。

この間色んなしがらみに拘束されるマーリオの日常が描かれる。とにかく長い。
マーリオが犯罪に至るまでの心理を描くためなのかもしれないが、ストーリーには必要のない殺人やブラジルが日本に負けた腹いせに六本木のバーで勝利に浮かれる日本人サポーターたちを襲撃するシーンがあったりととにかく寄り道が多い。

しかしそれが退屈かと云われれば、そうではないと認めざるを得ない。文庫本にして770ページ弱の厚みを一気に読ませる求心力を持っている。
とにかく全編に亘って語られる内容は金とドラッグ、セックスと暴力の連続。憎悪と怒りの応酬だ。誰もがギラギラしており、誰かを利用しようと手ぐすね引いて待っている。

残忍かつ凶暴な性格で兄貴分すらコケにして憚らない伏見。恨みは絶対に忘れない中国人マフィアのコウ。その体と美貌を武器にして世間を上手く渡り、マーリオを虜にしていくデリヘル嬢のケイ。マーリオと同じブラジル移民であり、東京に住む外国人と強固なネットワークを持つリカルド。元極道で銃の密売でしのぎを削っている山田。荒んでいるマーリオの心や外国人たちの心を安らがせる歌声を持つ盲目の少女カーラ。他にもデリヘルクラブの社長有坂、極上のプロポーションを持つコロンビア娼婦のルシアなど一癖も二癖もある人物が己の欲望のため、または他者の企みに巻き込まれて翻弄され、入り乱れる。

この暗黒の群像劇を描く馳氏の筆致はものすごい熱量で読者の眼前に言葉を畳み掛け、叩き付ける。
いつの間にか時間を忘れ、ふと顔を挙げると大きく息を吐く自分に気付く。掌は汗をかいているのに指先は冷たくなっている。そんな魔力を秘めている。

だからこそ最後の物語の収束の仕方に不満が残る。

全てが上手くいくと見せかけ、やはり世の中そんなに甘くはないと思い知らせることがノワールなのか?
“あいのこ”と呼ばれることを嫌悪し、そのたびに心にどす黒い憎悪をもたげさせながらもどうにか自制し、生きてきたマーリオの最期に全く美学がない。
こういうと「美学を求めるなら他の小説を読んでくれ。こちとらそんな小説は書きたくないんでね」と恐らく馳氏はそう嘯くことだろう。しかしやはりそこまでの物語と心をつかんで離さない文章があるだけに勿体なさを感じるのだ。

しかしこれもまた物語。しかし私が『不夜城』を読んだ時の違和感や不快感は本書でもまだ解消されなかった。
果たして私は馳氏のよき読者になれるのか。今後彼の作品を読むことで試してみよう。


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漂流街 (徳間文庫)
馳星周漂流街 についてのレビュー
No.908:
(7pt)

これがエルキンズ流

女子プロゴルファー、リー・オフステッドシリーズ第2弾。前作第1作の9月の刊行から早々と2冊目が刊行された。

前作では“アーロン”エルキンズの作品という先入観があったため、妻のシャーロットのロマンス小説風味付けの濃さに戸惑った感があったが、今回は免疫が出来ていたこともあって、前作よりも物語の世界にすっと入ることができた。

今回の事件は憎まれ、殺したいと周囲に思われた人物が落雷に遭って事故死するが、実はそれは巧妙に仕組まれた殺人だったという物。そして第2の殺人として衆人環視の下で毒殺が行われる。
いずれも本格ミステリ的不可能趣味に溢れている謎なのだが、このシリーズの特色はそこにはない。

アーロン・エルキンズ作品の特徴である、特定の人物で形成されるコミュニティの中で嫌われ者である人物が事故に見せかけて殺される、もしくは明らかに何者かによって殺される状況が生まれ、関係者の誰もが一応の動機を持っている手法が本書でも採られている。
そして忘れてならないエルキンズの長所が魅力あるキャラクター。今回も前作から引き続いて登場のペグを筆頭にコットンウッド・クリーク・ゴルフコース理事の面々の個性的なこと。相変わらず実に読んでいて心地よいコージー・ミステリだ。

そんなミステリだからトリック云々を議論するよりもコミュニティの中で誰が一番動機を持ち、また機会があったかについてリーとグレアムの議論は費やされる。ここら辺は堅苦しいロジックのやり取りではなく、まさに好奇心旺盛なカップルが事件についてあれやこれや話し合うといったようなトークの趣があり、和やかだ。
特に第2の殺人については不特定多数の人がいる中でどうやって被害者だけに毒を飲ますことができたか?などということは一切語られず、誰が被害者を殺す動機があったかについてしか語られない。これがエルキンズの作風なのだと初めて本書を手にした本格ミステリファンは理解しなければならないことをここでは述べておこう。

2作目にして地方の警察官であったグレアムとツアープロであるリーの恋が成就するには困難なシチュエーションだったのが一気に解消される。この辺は実にご都合主義的な感じがするが、ロマンスミステリなんてものはこんなものだろう。
こういう風に書いているが、たまにはこんな夢物語的なミステリも読みたいのだ。

ただ主人公リー・オフステッドの風変わりな経歴―元米国陸軍所属―が単に奇抜さだけでしかなく、十分に活かされていないのが難だが、これもシリーズを重ねるにつれて持ち味が出てくることを期待している。

エルキンズのスケルトン探偵ギデオン・オリヴァー物の最新作を読みたいのが本音ではあるが、しばらくはこの夫妻の手によるこのシリーズでその渇きを癒すことにしよう。


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悪夢の優勝カップ プロゴルファー リーの事件スコア 2 (プロゴルファー リーの事件スコア) (集英社文庫)
No.907: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

物語として上質

リンカーン・ライムシリーズ第6作目。
今まで『エンプティー・チェア』以外は題名に殺し屋の名前が冠されていたが、本書では殺し屋トムソン・ボイドが現場に残した遺留品の1つ、タロットカードに由来している。タロットカードの12番目のカードとは、作品の表紙にもなっている「吊らされた男」だ。このカードの持つ意味はその絵から連想する苦しみや拷問などというネガティヴなものではなく、それら暴力や死とは無縁であること。つまり精神的な保留と待機を表している。
なぜこれが題名になったのか。それは最後まで読むと明らかになる。

今回の敵は通称“アベレージ・ジョー”と呼ばれる殺し屋トムソン・ボイド。その異名はあまりに平均的な風貌と平均的な人物が身に着ける服装、乗る車とあらゆる個性を殺した男だ。したがって目撃者はいるもののさして記憶に残らないという特徴を持つ。つまり特徴のないのが特徴なのだ。
前作『魔術師』の殺し屋のインパクトが強かっただけにこの“アベレージ・ジョー”はその設定もあって地味なのだが、今までの殺し屋と違い、彼には家庭があることが特徴だ。それは彼が刑務所での日々で無くしてしまった感情―作中では無感覚と書かれている―が恋人とその連れ子を養うことでをかつてのように取り戻す一助になるのではと考えているからだ。風貌や持ち物はごく普通でありながら職業、感情は普通ではない。彼は心底普通になりたがっている殺し屋と云える。

また物語の趣向もこれまでとは違っていることに気付く。今まではシリアルキラーがどんどん人を殺していくのをライムチームが追うという構成だったのだが、今回はジェニーヴァ・セトルという女子高生を殺し屋の手から守るという構成になっている。守る側のいつ敵が襲ってくるか解らない恐怖が今までのシリーズと違った読み所と云えよう。

さらになぜ一介の高校生ジェニーヴァが殺し屋に狙われるのか?その理由が1868年にジェニーヴァの祖先チャールズ・シングルトンが関わったある歴史的事件に関係しているのだ。つまり今回は通常のジェットコースターサスペンスに加え、歴史ミステリ的要素も加わっている。

そして今回はレギュラーメンバーのロン・セリットーがスランプに陥る。事情聴取中に目の前で人が殺されてしまったことでPTSDになってしまい、殺し屋“アベレージ・ジョー”の影に終始怯えながら捜査に携わり、恐怖のあまり誤ってアメリアを射殺してしまいそうになるくらいだ。今回このセリットーがいかに再生するかが物語のサイドストーリーとなっている。

『ボーン・コレクター』で登場したリンカーン・ライムは現代に甦ったシャーロック・ホームズだというのは世のミステリ書評家もそして作者自身も認めているのだが、今回それが改めて強く認識させられた。それは殺し屋トムソン・ボイドの前職について。
捜査を進めるにしたがってどんどん増えていくメモの記述。そこに明らかにヒントが隠されているのに全く気付かなかった。ボイド自身が語る刑務所生活で失っていった感覚、つまり無感覚の境地に陥った話も含め、実に素晴らしいミスディレクションだ。

またミスディレクションと云えばディーヴァーの語りならぬ“騙り”の上手さが今回も光る。

そんな読者を驚かすことに腐心したエンタテインメントに徹しながらも底流に強いメッセージが込められているのだから畏れ入る。
最後に至り、冒頭に書いた「吊るされた男」のカードの意味がじわじわと胸に迫ってくる。カードの意味は精神的な保留と待機。つまり機が熟するのを待ち、それに備えているという意味だ。
そしてその時が来たのだ。

さてもはやお馴染みとなった他作品のキャラクターのカメオ出演だが、今回は前作『魔術師』で登場したカーラと『悪魔の涙』で主役を務めたパーカー・キンケイドが登場する。
特にパーカーは前作『魔術師』に次いで二度目の登場。相変わらずほんの数ページでの客演に過ぎないが、やはりこういう演出は嬉しいものだ。このファンサービスは継続してほしいが、未訳のノンシリーズのキャラが出ていないか気になる。版元はノンシリーズもかつてのように訳出してほしい。

また作者もパーカーをこれほど気に入っているのならばカメオ出演という形ではなく、ライムとパーカーがコンビを組む作品を書いてもらいたいものだ。

リンカーン・ライムシリーズで一般的に人々の口に上るのは『ボーン・コレクター』、『コフィン・ダンサー』やこの前作である『魔術師』で、本書はどちらかといえば地味な印象を持った作品だ。
しかし読後の今、私の中では本書はシリーズの中でも上位になる作品となった。最後に訪れるリンカーンのある変化も含め、希望に満ち溢れた結末が余韻を残す。
まだまだ衰えないなぁ、このシリーズは。天晴、ディーヴァ―!


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12番目のカード〈上〉 (文春文庫)