■スポンサードリンク


Tetchy さんのレビュー一覧

Tetchyさんのページへ

レビュー数1426

全1426件 361~380 19/72ページ

※ネタバレかもしれない感想文は閉じた状態で一覧にしています。
 閲覧する時は、『このレビューを表示する場合はここをクリック』を押してください。

No.1066:

氷菓 (角川スニーカー文庫)

氷菓

米澤穂信

No.1066: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

現代ミステリ旗手の片鱗

2001年に角川スニーカー文庫で発刊され、現在では角川文庫で刊行されて今なお版を重ねている米澤穂信氏のデビュー作はその人気ぶりが頷けるほど読みやすく、またキャラが立っており、しかもミステリ興趣に満ちている。

主人公の折木奉太郎はやらなくていいことはやらない、やらなければいけないことは極力手短にがモットーの省エネ人間、つまり事なかれ主義者なのだが、海外を放浪する合気道と逮捕術を会得したスーパー女子大生の姉供恵の命により廃部寸前の古典部に入部する。

部員の千反田えるは神山の四名家の1つである千反田家の出で、お嬢様ながら好奇心旺盛。友人の福部里志は減らず口の似非粋人でいつも笑みを浮かべている。幼い顔と低めの背丈で男子の耳目を集める伊原摩耶花は七色の毒舌を誇る女子、と古典部の部員は実に個性豊かだ。

しかしそれだけならば単なる読んで楽しい学園生活を追体験できるラノベに過ぎないのだが、本書の素晴らしい所は本格ミステリとして非常にレベルが高く、そしていわば理想の本格ミステリとなっていることだ。

ジャンルとしては北村薫氏に代表される「日常の謎」系だ。物語のメインの謎は33年前に神山高校の古典部のOBだった千反田えるの伯父、関谷純に幼き頃千反田が尋ね、大泣きしてしまった古典部に纏わる話の謎だ。この謎を主軸に物語には様々な小さな謎が散りばめられている。

入部初日になぜ千反田えるは鍵を掛けられて部室に閉じ込められたのか?毎週金曜日に昼休みに借りて放課後の返される本の目的は?

神山高校の文化祭はなぜカンヤ祭と呼ばれているのか?

以前は古典部の部室であったが、今は壁新聞部の部室となっている生物講義室で部長の遠垣内はなぜ折木たちを歓迎しないのか?

たった210ページ前後の分量しかないのに、ほとんど全ての内容が謎に絡んでくる、実に濃厚な本格ミステリである。これが理想の本格ミステリだと前述した理由でもある。

デビュー作にしてミステリとしても実に高度なレベルに達した作品を放った米澤穂信氏が今なぜこれほどまでに評判が高いのかがこの1作で理解できる。

また技術だけでなく、物語としても心に響くものがある。特に物語最後に判明する本書の題名でもあり、古典部の文集の名前でもある『氷菓』に託した千反田えるの伯父で33年前に退学を余儀なくされた古典部OB、関谷純の思いは何とも云えないほど切ない響きを湛えていた。

幼き頃に関谷純にある質問をして号泣した千反田えるが長く抱えていた謎に十分応えるだけの重みがある。

さて本書ではまだまだ語られるべきエピソードが残っている。千反田家を除く神山の地の四名家、荒楠神社の十文字家、書肆百日紅家、山持ちの万人橋家とそれに続く地位を持つ病院長入須家はまだ名のみが出たばかりだし、さりげなく学校史『神山高校五十年の歩み』の1972年の出来事に書かれた古典部顧問の大出先生と同姓の人物の死などなど。
これらはおいおいシリーズの中で触れられていくことだろう。

とにかく何事もなく日常を過ごすことを至上としている省エネ高校生、主人公折木奉太郎が古典部の面々と彼らが持ってくる謎に関わることで彼の中で変化が起きてくる。何かに一生懸命になってエネルギーを費やすことに理解が出来なかった彼が千反田の旺盛な好奇心によって否応なく関わりを持たされることで彼もそんな仲間に加わりたくなる。
これは折木奉太郎が変わるための物語でもあるのだろう。

さてこれから古典部の面々がどんな事件に遭遇し、解決していくのか、最初からこのクオリティだと期待しないでおくなんて絶対できないではないか。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
氷菓 (角川スニーカー文庫)
米澤穂信氷菓 についてのレビュー
No.1065:
(9pt)

本書を読めば世界が色づく

待ってました!
現代の数寄者、佛々堂先生が一風変わった風流を求めて全国を巡り、それに関わった人々のちょっといい話が並ぶ極上の短編集第2弾。いよいよとばかりにページをめくった。

本書では春夏秋冬の四季をテーマに4編収められている。まず始まりはやはり春。「縁起 春 門外不出」は奈良が舞台。
東大寺のお水取り、伊豆の韮山の氷割れの竹、利休竹など初っ端から風流が横溢する世界が繰り広げられ、佛々堂ワールドに一気に引き込まれる。

「縁起 夏 極楽行き」では佛々堂先生は全国を駆け巡る。
田辺に秘密の花園を見せるために仕組んだ佛々堂先生の物々交換の旅は宇都宮のサービスエリアで移動養蜂家かられんげの種を手に入れ、それを基にれんげ米コシヒカリなるれんげを鋤き込んだ米をつくる魚沼の農家からワラを仕入れ、さらにそのワラを金沢の畳床の職人と魚籠に交換し、それを福井の山中で石屋を訪れ、石と交換し、その石を松江のいま如泥と呼ばれる名工に渡して、伝説の盃と交換するという、実に愉しい行脚の旅を佛々堂先生と愉しめる贅沢な作品となっている。
そして田辺の亡き妻が夫に見せたかった場所とは白蓮が咲き誇るとある沼だった。花開く音は田辺のみが聞いた生命の力強さの象徴だったのかもしれない。

「縁起 秋 黄金波」は箱根の山中で植物と戯れる。
箱根の雄大な自然は実は人の手が悠久の時を経て作った風景であり、自然が創り上げたものではないことがまず驚きだ。
特に薄の話は実に興味深い。なるほど昔の移動手段であった馬が道中で活力を得るための餌として人為的に植えられたものだったとは。
箱根に生育する植物を愛でるあまり、外来種を毛嫌い、在来種の保存に精を出す友樹の母知加子はその熱意が高じて人の敷地に入っては手入れのされていない草木を失敬していた。彼女の夢である自然をありのままに再現した広大な原野が欲しいという望みとその持ち主である樺島浪美子の息子の願望を一気に解決するこれしかないという案は佛々堂しか成し得ないことだっただろう。

さて最後の短編「縁起 冬 初夢」では骨董界1年の締めくくりである納会が絡んでくる。
いやはや世の中にはまだまだ知らぬことがあるものだと感じ入った。鳩に図画の認識能力があるとは。視覚の優れた鳩は訓練で一流の鑑定士となるのである。粋人風見龍平が娘に託した鳩は利休の真筆を長年見させて真筆と右筆の違いを見分けることを可能にした鳩だった。
しかし利休の書状に右筆、つまり代筆が多数存在するというのも知らなかった。350通以上にも上る書状が市場に出てくるたびにその真贋が話題になっていることも。
さらには大福帳についての薀蓄も面白い。元々は商人の帳簿で取引記録を残す物だが、それゆえに揉め事が起きた時の貴重な証拠となり、大福帳は至極大事に保管されていた。それがために生半可な用紙で破れたり記録が水で読めなくなってはいけないため、長く消えずに残る墨で気球の材料にも使われた西ノ内和紙で書かれていた。そんな日本人古来の知恵と技を自己流で学んで遺した風見龍平という人物もまた一流の職人だといえよう。


“平成の魯山人”、佛々堂先生は今日も古びたワンボックス・カーで全国各地を駆け巡り、東に困っている人いればアドバイスを与え、西に悩んでいる人がいれば、粋な仕掛けを施していく。しかも自分も愉しみ、また消えゆく逸品を後世に遺すために。
そんな本書は四季折々の風流を織り込んだ日本の美意識を感じさせる短編集。

それぞれの短編が昔話をモチーフにされているのが面白い。
「門外不出」は『かぐや姫』こと『竹取物語』を、「極楽行き」では『わらしべ長者』が、「初夢」はなんとノアの方舟で有名な『創世記』である。

2作目ながらも全くその興趣溢れる彩り豊かな和の世界は衰えず、まさに文字で読む眼福といったところ。

東大寺の春の一大法要、お水取りに始まり、夏は蓮の開花、秋は箱根の山中、そして一年の締めくくり冬は骨董商の納会に除夜の鐘。
そんな四季折々の風景や祭事に織り込まれるのは正倉院で写経に使われていた円面硯、利休竹にれんげ米、如泥の盃、利休の書状、鏑木清方作の羽子板、西ノ内和紙などなど、ここには書ききれないほどの日本の技と美の結晶が隅々まで紹介され、物語を彩る。
特に本書は利休に始まり、利休に終わる。それはやはり風流人である利休の功績ゆえだろうか。

また前作にも負けず衰えず興味深い薀蓄が散りばめられているのが本書の素晴らしい所。
例えば東大寺のお水取りの松明にはそのための松明山が伊賀にあること、山椒は花山椒、実山椒、青山椒、割山椒に粉山椒と花から実まで1年を通じて味覚を楽しませてくれること、水底の土中に埋まっている種子は埋土種子といい、数十年経っても日の目を見れば発芽すること、寺の鐘には黄鐘(おうしき)、双調(そうじょう)、平調(ひょうじょう)、壱越(いちこつ)、盤渉(ばんしき)と5つの音色があること、などなど。
我々が何気なく使っている日用品や観ている景色、草木や花1つとっても実に深い世界が古来より備わっている。前述したように薄1本でさえ、歴史に裏付けされたその時代を生きた日本人の事情と知恵が由来している。そんな忘れ去られそうになる知識をトリビア、つまり役に立たない知識に風化させないためにも服部氏は佛々堂を生み出したのかもしれない。

しかし衣服に書架、食に植物、骨董だけでなく、色んな事物に詳しく理と真を知る佛々堂の博識ぶりには毎度頭が下がる。いやこれは作者服部氏の博識ぶりでもあるわけだが、今回もまた知らない世界を見せてくれた。
そしてこのような知識を得ることで今まで我々がいかに物を知らずに生きてきたかを痛感させられる。知識があるのと無いのとではこれほどまでに物が違って見えるのか。知らず知らず我々は無知ゆえに失礼な事や取り返しのつかないことをしているのかもしれないと思うと、恥ずかしくなる。
そしてそんな理を知る人が確かにいるのである。そんな世界を知らなかったことがなんとも悔しいではないか。

また本書では4編中3編に人の恋沙汰が隠し味となっている。「門外不出」では会社の上司の秘められた恋心が一連の課題に、「極楽行き」は亡くなった妻の隠された恋の話と、亡き妻が夫に託した思いが、「黄金波」ではプロポーズされた未亡人のある秘密とそれぞれの抱えた秘密や事情を佛々堂が意外な方向からアプローチし、解決する。
そしてまた風流人たる佛佛堂もそれに乗っかって自分の欲しいものを手に入れるのである。そして表題に掲げられた縁起とはすなわち仏教用語でいう因果論を指しつつも、あることが起こる兆しと云う意味を指す。つまり佛々堂こそが縁起“者”なのである。

さて本書では前作『清談 佛々堂先生』の1話目で登場した雑誌編集者の木島直子が登場するのだが、これは物語として輪が閉じることを暗示しているのだろうか?
1ファンとしては筆の続く限り、このシリーズを書き継いでほしいものである。

そして一人でも多くの読者が本書を読んでくれることを願いたい。読んだ後、身の回りの風景が1つ変わって見える事、保証しましょう。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
極楽行き 《清談 佛々堂先生》 (講談社文庫)
服部真澄極楽行き: 清談 佛々堂先生 についてのレビュー
No.1064:
(7pt)

これは真実か、それとも彼女の創作か?

本書はジェームズ・M・ケインが生前に遺した幻の遺作であり、よくぞ訳出してくれたとまずは新潮社の仕事に敬意を表したい。

私が唯一読んだケイン作品は『郵便配達は二度ベルを鳴らす』で14年前に読んだ印象は愛欲ゆえに殺人を犯す2人の男女の話ながらも淡々としてあまり残っていない。
しかし本書のこの牽引力はどうだろう。特に派手な事件が起こるわけでもないのに、若き未亡人で周囲からも夫殺しの疑いを掛けられ四面楚歌となっているジョーンの健気さと一本芯の通った強さがどんどんページを繰らせる。

若き未亡人ジョーンがカクテル・ウェイトレスと云うちょっと露出度の高い制服を着て給仕をする職につくことで富豪の老人に出遭い、状況が好転していく様は『マイ・フェア・レディ』や『プリティ・ウーマン』の系譜に連なるシンデレラ・ストーリーとして読ませる。

しかしそこはケイン。「そしてジョーンはお金持ちと結婚して幸せになりました」的なお伽噺のようには物語は展開しない。
念願適い、富豪の妻となったジョーンはホワイト氏の情欲溢れる愛撫に耐えられなかった。人として好きなのだが、男としては単なる醜悪な老人としてしか接しきれなかったのだ。そしてホワイト氏と結婚した大きな目的である息子タッドを取り戻すことに失敗してからはさらにその気持ちに拍車がかかり、ハンサムな青年トム・バークリーへの恋情が募るばかりとなる。

しかし通常のケイン作品ならばここでトムと共謀して富豪を殺す計画を立て、巨万の富を2人占めにしようとするのが定石のように思えるが、ジョーンはあくまで自分を崩さず、ホワイト氏を富豪ではなく、一介の老人として毅然とした態度で振舞うのだ。

この主人公ジョーンは一見ダメな男に騙されて結婚を失敗した世間知らずの女性として登場しながらも弁護士の娘として紳士録にも載っているという家柄の良さなのか、彼女にレディとしての芯の強さを感じさせる。決して自分を安売りしない、強い女性像がジョーンには感じられた。

しかしそんな彼女を世間は、そして彼女の関わる周囲は悪女として悪意ある視線で見つめる。
まずは暴力夫が偶然事故によって亡くなることで妻による計画的犯行と思われる。その次はきわどい制服で店に出ていたところを富豪の老人に見初められ、結婚するが、老人には狭心症を患っており、老人はそれが元で亡くなり、またもや彼女は財産目当てで結婚したと思われる。
そしてさらに葬儀の後に訪れた一度関係を持ったハンサムな男性の許を訪れ、一夜を明かすという愚行を起こし、更にはその男性が亡くなることで連続夫殺しの汚名を着せられる。

正直主人公ジョーンにも周囲に誤解を招くような行動があることは否めない。幾度となく独白される自身の欠点、自制心が弱く感情に任せて云いたいことやつい手が出てしまうがためにさらに周囲への誤解に拍車がかかるのだ。

数々のファム・ファタール、悪女を描いてきたケインが最期の作品で書いたのはその容姿と状況ゆえに図らずも悪女に祭り上げられ、マスコミや周囲の好奇の的とされる不遇な女性の物語だった。不遇な女性の立身出世のシンデレラ・ストーリーはケインの手によるとこんなダークな色合いに変わる。

人の噂や風聞とは怖いものだ。対象となる人や物の実態を知らない者たちが心無い人の発言により口コミで伝達され、瞬く間にイメージが作られていく。
本書はそんな状況に巻き込まれた女性の手記の形で綴られている。

確かに手記ならばジョーンの告白には虚偽が挟まれている可能性もあるだろう。つまりジョーンは自らの犯行を隠ぺいするためにこの手記をしたためた、いわゆる信頼のおけない書き手であるかもしれない。
しかし私はそこまで読み込む、いや疑いの眼差しで読むことはしなかった。
本書をそのまま受け入れ、単なる伝聞での上っ面だけの情報だけでなく、その目で確かめて本質を見極めた上で自身の考えで判断なされよ。そんなメッセージが込められているように感じた。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
カクテル・ウェイトレス (新潮文庫)
No.1063:
(7pt)

スパイはやはり道具でしかないのか…

フリーマントルがジャック・ウィンチェスター名義で発表した本書は実にフリーマントルらしい運命の皮肉に満ちたスパイ物語となった。

オーストリアのユダヤ人であるフーゴ・ハートマンは多数のユダヤ人の例に漏れず、ナチに拉致され強制収容所で屈辱の日々を過ごした過去を持つ。そして解放後彼はKGBとCIAの二重スパイとして今に至る。

それが彼の類稀なる才能を引き出すことになった。つまり図らずも二重スパイはハートマンにとっては天職だったのだ。しかし人波の幸せを願う彼はこの稼業に終止符を打ちたがっていた。
これは優秀な二重スパイがいかにして国にボロボロになるまで利用され、果てには国の秘密を保持するために抹殺される運命から逃れる物語である。

たった270ページしかない作品ながら、ここには物語巧者であるフリーマントルによるサプライズが複数用意されている。

まずは主人公ハートマンと息子デイヴィッドとの確執である。

もう1つはラインハルト殺害時にハートマンが思わず溢す妻ゲルダに対してのある思いだろう。

そして最後のサプライズは後述する事にしよう。

原題は“The Solitary Man”。つまり世捨て人だ。ハートマンはCIAとKGBの二重スパイを辞めるために自らを葬り去ろうとする。この題名はこれから来ている。
通常のフリーマントルの諸作品に倣えば「自分を葬ろうとした男」といった具合になろうか。従って今回の邦題はあながち間違っていないながらもロマンチックに過ぎるような気がしないでもない。

物語の結末の皮肉さはフリーマントル作品を読み慣れた者ならばあながちサプライズとは感じないだろう。
決して幸せになれない人がいる。そんな男に対するフリーマントルの筆は今回も容赦はなかった。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
スパイよさらば (新潮文庫)
No.1062:
(10pt)

このタイトルこそ優れた短編の秘訣

長編のみならず短編の名手でもあるローレンス・ブロックの第2短編集。

まず奇妙な味わいの1編「雲を消した少年」で幕を開ける。
虐待を強いられた子供は何か特別な力を得るとそれを精神の背骨とせず、今までの虐待から脱却するための力として行使しようとする傾向にあるようだ。
屑のような存在から何か特別な存在になったと錯覚し、それを誰かに試してみようと思う。今まで特に心入れることなく観ていた周囲の風景や人々が突然色づき始め、彼にとって意味を持ってくる。
しかしそれは必ずしもいい意味ではない。彼にとって生まれながらに持って与えられた底辺の生活から脱するための餌食に見えてくるのだ。
果たしてジェレミーの得た雲を消す力は他に応用できたのか?不穏な空気をまとって物語は閉じられる。

「狂気の行方」はおかしな振る舞いで精神病院に入れられた男の話。

「危険な稼業」は実にブロックらしい短編だ。
もしかしてこれはブロック自身の物語なのか?

「処女とコニャック」はある医者が主人公に語る奇妙な話。
なんとも人を食ったようなお話だ。ライバルとも云える2人の取引の間を取り持つ男が見事な知恵で上手く出し抜くという話は古来昔話やお伽噺などでよくあるが、まさか処女とコニャックがその対象とは実にブロックらしい。

もはやブロックの短編には欠かせない存在となった悪徳弁護士マーティン・エレイングラフが登場するのは「経験」。
依頼人の無実を晴らす為ならば手段を選ばない。悪徳弁護士エレイングラフのまさに典型とも云うべき作品。しかし単なる典型に陥らず、作者は意外なオチを用意している。

旅行に帰ってきたら空巣に入られて我が家が荒らされていた。「週末の客」はそんなシチュエーションで始まる。
いくつか貴重品も無くなっていたがいつまでもくよくよしてはいられない、とばかりに家の主人エディは早速同僚と仕事に出かける。被害を少しでも取り返すために…と、泥棒が自宅に盗みに入られるという間抜けなシチュエーションを扱った物。

「それもまた立派な強請」もまた奇妙な味わいの物語だ。
デイヴィッドが行ったのは困っているかつての恋人を助ける騎士道精神からだろうか?
彼の中で何かが変わったことは確かだ。読者はデイヴィッドの姿に一種の願望を見出すのかもしれない。

さらに輪をかけて奇妙なのは「人生の折り返し点」だ。
ロイスは狂人なのか?
とにもかくにもある日自分の年齢に気付いて愕然とする瞬間と云うのは誰しもあるのだろう。その時今までの人生で自分は何かを成し得たのかと考える時が訪れるのかもしれない。そしてごく普通の生活を送り、そしてこの後の人生もまた同じことの繰り返しだと気付いた時、人は何を思い、そして何を決意するのか?
「終わりなき日常」に嫌気が刺し、一念発起して自分が生きた証を遺そうとする者、もしくは今まで出来なかったことをやろうと決意する者。本作の主人公ロイスは明らかに後者だ。
ある一線を超えた者の悟りを描いているのだが、そんな重い話ではなく、作者自身の声とも呼べる地の文のツッコミがとにかく面白く、独特な作品となっている。

「マロリイ・クイーンの死」はブロックによる本格ミステリだ。
ブロックによる本格ミステリと書いたが、その実態はアメリカ推理文壇をモデルにしたパロディミステリ。
そこここにモデルとなった作家や評論家が登場し、彼らが容疑者となって一堂に会する。そして狙われるのは雑誌発行人で、彼女は確かに書店やエージェント、作家たちの恨みを買うようなことをその権限で行っている。そして衆人の前で殺害された発行人の事件のあまりにも意外な真相は本格ミステリそのものを皮肉っているかのようだ。
ブロック特有のブラックユーモアの詰まった1作だ。

「今日はそんな日」もまた本格ミステリ趣向の作品。
これはある意味物事の本質を云い当てた作品なのかもしれない。現実に起こる出来事の真相はほとんど明らかにされることはない。従ってミステリとははっきりとした答えの出ない現実の不満を解消するために書かれ、読まれている物だと解釈できる。

何とも云えない味わいを残すのが全編手記という形で書かれた「安らかに眠れ、レオ・ヤングダール」だ。
しかしどこか実に人間臭い。

表題作「バランスが肝心」は公認会計士の許に一通の封筒が届くことから幕を開ける。
う~ん、実にバランスの取れた作品だ。

「ホット・アイズ、コールド・アイズ」はそのスタイルと美貌故にいつも男の視線を感じてしまう女性の話だ。
昼の貌と夜の貌。その風貌故に人の視線を感じる女性と云うのはいることだろう。そういう女性はそんな視線を厭わしく思うのだろうか?
それは視線の主次第だろう。彼女は昼は貞淑な女性を務めているが夜はむしろ派手になり、男の視線を浴びることを快感に思うようになる。そしてさらに彼女には秘密があった。
ある意味ユーモアにも転じることが出来るプロットで、今までの流れからも感じる視線のオチとは他愛もないものだろうと思っていただけにこの結末は意外だった。女性のミステリアスな部分がさらに深まる短編だ。

風来坊の主人公がダブリンに住む作家の身の回りの世話をする「最期に笑みを」はまた一種変わったテイストだ。
街の長老と化したミステリ作家が簡単に事故として処理されそうになった事件の真実を解き明かそうと身の回りの世話をする青年を助手して捜査をする。しかしその様はいわゆる探偵小説のようなものではなく、あくまで淡々と街の人たちと会い、世間話をして様子を訊き、それを作家に報告するだけ。そして作家はその話を訊き、また指示を出す。それは死期が迫った老人の話を聞く青年との暖かい交流を思わせるのだが、次第に様相は変わり、最後はなんとも苦いものとなる。
センチメンタリズム溢れる好編だ。

一転して「風変わりな人質」では軽妙な誘拐劇が繰り広げられる。
現代っ子に掛かれば誘拐事件も一種のゲームのようになるのか。誘拐されたキャロルの立場は絶望的ながらも決してシリアスにならず、寧ろ状況を愉しんで犯人を出し抜くために知恵とそして女の武器を使って乗り越えようとする。なかなか痛快な1作だ。

続くは短編集でのシリーズキャラクターとなっている悪徳弁護士マーティン・エイレングラフの本書での2作目「エイレングラフの取り決め」では珍しく国の制度で斡旋される容疑者の弁護に携わる。
エイレングラフは有罪明白と思われる事件の裁判を未然に防ぐために容疑者の周囲の人々、事件の関係者と逢って真相をでっち上げ―作中では明白にでっち上げられたことは書かれてないが―真犯人の告白と自殺で事件を解決させ、高額な報酬を得るのが常套手段。本作もその例に漏れないが、まずは高額な報酬が望めない国の斡旋する貧しい容疑者の弁護を受けるところから異色。
しかしエイレングラフは動じない。彼はまた自分の信念に従って依頼人を無罪にするのだろう。

「カシャッ!」はシンプル故に最後の幕切れが強烈な作品。
最初の「ある意味では」というところから布石が始まっている。その被写体だけで戦慄の結末を悟らせるこの上手さはブロックしか書けない。

「逃げるが勝ち?」は浮気相手が大金を手にした暁に夫を殺害して海外へ高飛びしようと画策する話。しかしそこはブロック、巧みなどんでん返しが用意されているが、これは予想の範疇であったかな。

そして最後は本書中最も長い「バッグ・レディの死」。マット・スカダーが登場する中編だ。
これはマットじゃないと務まらない最上のセンチメンタリズムが横溢した作品だろう。
しばらく考えないと思い出せないくらい縁の薄い女性ルンペンからの突然の遺産相続という導入部のインパクトの強烈さ。そしてマットはそんな薄い繋がりが街の片隅で何者かに無残に何か所も刺され、死んだ事件の真相を、1,200ドルの遺産を依頼金として彼女が遺産を遺した他の相続人たちを渡り歩いて犯人捜しを行う。
こんなミステリの定型をある意味台無しにする結末なのだが、それを十分読者の腑に落ちさせるのはやはりマットの、自分に関わった人たちに対する誠実さゆえだろう。これはブロックの、しかもマット・スカダーシリーズでないと書けない事件であり、物語だ。


ブロックの第2短編集である本書はまたもや実にヴァラエティに富んだ内容となった。
まずファンタジーから始まるのが実に意外。そこから殺人、叙述トリック、詐欺、強請、狂気、本格ミステリのパロディ、リドルストーリー、小咄、サイコパス、探偵物、奇妙な味に更にはジャンル別不可能な物とよくもまあこれだけのアイデアが出るものだと読んでいる最中もそうだったが、今振り返って改めて感嘆する。

そしてここにはブロックしか書けない作品が揃っている。「処女とコニャック」、「それもまた立派な強請」、「人生の折り返し点」、「安らかに眠れ、レオ・ヤングダール」、「バランスが肝心」、「バッグ・レディの死」などがそうだ。

そんな極上の作品が並ぶ中で個人的ベストを敢えて挙げるとすると「人生の折り返し点」と「バッグ・レディの死」の2作になろうか。

「人生の折り返し点」は勝手に寿命を悟り、残りの半分の人生をもっと楽しく生きるために思い切ったことをやると決意した男の狂気を作者と思しき語り手の神の視点での語り口が物語に面白味を与えている。とにかくブロックにしか書けない作品の最たるものだ。

そして「バッグ・レディの死」はマット・スカダーが登場する1編。彼に遺産を遺したバッグ・レディ、つまり女性ルンペンの死を探る物語だが、最後に犯人が自らマットの許を訪れて自白して事件が解決する結末はある意味これはミステリの定型から脱した物語だろう。
しかしマットがあてどなく被害者である身寄りのない知的障害者の中年女性が遺産を遺した市井の人々を巡ることで誰もが彼女を思いだし、彼女を懐かしがり、死を悼むようになるがゆえにこの結末は実に納得のいく物になるのだ。そしてそれはうらびれた街角でボロ屑のようにめった刺しにされ、打ち捨てられるように亡くなった一人の女性に名を与え、警官でさえ捜査を辞めた事件を甦らせることで彼女の一人の人間にし、その死に尊厳を与えることになった。

また一種忘れがたいのは「安らかに眠れ、レオ・ヤングダール」。10数ページの小品でその内容は単なるバカ話にしか過ぎない話なのだが、こういう話こそ折に触れ繰り返し語られる不思議な力を持っているものだ。偶然の織り成すおかしみというものがこの作品にはある。

しかしなぜこうも印象に残る作品が多いのか。それは確かにアイデア自体も秀逸だが、ブロックの語り口がまた絶妙だからだろう。
例えば火曜日の朝に郵便物が届く事だけで、郵便物がその曜日の朝に届くこととはどういうことなのかを書く。こんな我々の日常にでも起こるようなことについてブロックは実に興味深く考察し、物語に投入し、読者は改めてそのおかしみに気づかされ、一気に物語にのめり込んでいくのだ。

さらにブロックは物語の結末を明白に書かず、読者の想像に委ねていることもまた強い余韻を残すのだろう。特にエイレングラフ物は決して彼が手を下したとは書いていないのに読者の心には彼が依頼人の無罪を勝ち取るならば殺人をも厭わない悪徳弁護士であると印象付けられている。
また「今日はそんな日」の何とも云えない曖昧な結末や「カシャッ!」の最後に一行の意味などは全てを語らないのに実に強烈な印象を残す。物語の幕引きのタイミングを心得ているのだね。

この第2短編集は第1短編集の『おかしなことを聞くね』よりも世間の話題を集めていないが、それに勝るとも劣らないほど素晴らしい内容だ。
限られた枚数でこれだけのヴァリエーションとアイデアに絶妙なオチをつける、まことに短編は「バランスが肝心」だ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
ローレンス・ブロック傑作集〈2〉バランスが肝心 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ローレンス・ブロックバランスが肝心 についてのレビュー
No.1061:
(7pt)

白銀の斜面を滑るかのようにスピーディ

おっさんスノーボーダーである東野圭吾氏が存分に自分の趣味を全面に押し出したのが本書だと云えよう。冬季オリンピックを題材にしたエッセイ『夢はトリノをかけめぐる』で述べられていたスノーボードをテーマにした作品『フェイク』とは本書のことではないだろうか。

しかし実業之日本社文庫創刊の起爆剤として文庫オリジナルで発表された本書は単行本で出してもコストパフォーマンスはよかっただろうと思われるクオリティに満ちている。

物語は新月高原スキー場に爆弾を仕掛けた犯人と経営者側の攻防を主軸に、1年前に起きた北月エリアでのスキー客死亡事故、その事件で閉鎖状態にある北月エリアの煽りをもろに受けて不況に苦しむ北月町の人々、そして間近に控えたクロス大会とそれぞれの事情を盛り込んで繰り広げられる。

この全てが見えない糸で導かれるかの如くに解き明かされるこのカタルシス。
いやいやこれが文庫オリジナルなんてどうしてどうして!物凄くコスパの高い作品ではないか!

物語の結末はちょっと苦い。

今回珍しく思ったのは全編にスキー、スノーボードの専門用語や俗語が横溢していながらもそれらについての細かい説明などはなかったことだ。それは日本人ならば当然だろうと、ウィンタースポーツの門外漢を置き去りにするが如くで、とにかく「俺はこれが書きたかったんだ」と作者が愉しんで執筆していることが行間から滲み出てくるほどだ。
物語の最初から終わりまで、まさにスキー、スノーボードの疾走感を覚えるが如く一気読み必至の1冊だ。
ドラマ化されたのも頷けるほどの出来栄え。録画しとけばよかったなぁ、ドラマ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
白銀ジャック (実業之日本社文庫)
東野圭吾白銀ジャック についてのレビュー
No.1060:
(7pt)
【ネタバレかも!?】 (2件の連絡あり)[]   ネタバレを表示する

新しいものを生み出しても繰り返される愚かさ

20世紀は情報化社会と云われて久しいが、服部真澄氏がこの高度情報化社会をテーマに小説を書くとこんなにも我々の想像を凌駕した世界が広がるのかと唖然、いや驚愕した。
今やウェラブル・カメラが販売されるようになった現在。その6年も前にほくろサイズの超小型ウェラブル・カメラと15テラバイトもの大容量記憶端末を体内に埋め込んで一生分の目にした画像を記憶する“ヴィジブル・ユニット”なる装置を創造した服部氏の慧眼にまず物語冒頭から開いた口が塞がらないほどの衝撃を受けた。
常に時代の先端を予見し、我々のまだ見ぬ世界を見せてくれる服部氏だが、今回もその期待は裏切らず、いやはるかに超えた高度情報化社会の光と影を見せつけてくれた。

ただこのヴィジブル・ユニットに関しては個人的には魅力を感じなかった。なぜなら365日24時間自分の行動が記録されることは自身の恥部や秘密なども記録されるからだ。
誰がそんなものを過去に残しておこうと思うのか?この価値観の違いに共感を覚えられなかったのは本書を読むのに終始違和感を抱く要素となった。

その違和感は物語の後半である大きな陰謀へと繋がるのだが、それについては後述する。

さてどんな一般人でもその人が一生の中で同時期に体験したことが貴重な情報となり、それが思いもかけない金のなる木になる可能性を秘めている。だからこそ企業は個人情報を欲しがり、不法な手段を使ってまでも手に入れようとするのだ。

しかしそんな文字上だけの情報ではなく、一人一人が目にした画像が一生分記録され、それがデータとして蓄積され、観ることが出来たら?
そんな所から本書のアイデアは生まれている。いやもはやこれは世界の最前線に詳しい服部氏が既に得た確度の高い情報が基礎となっているのかもしれない。

今まで古い書物や残された手記、更には写真と云った媒体を介してでしか当たることのできなかった歴史。それが映像として記録され、再現されることになったのはまだ前世紀の後半になってからだ。そして物語の舞台となった2025年では誰もが歴史の生き証人となり、その目の当たりした画像が貴重な情報となっていく。
しかし企業はそれを買うのではなく、寧ろ料金を徴収してストックするサービスを行う。それは誰もが生きていた証を後世に遺したいという欲望を持っているからだ。この人間の原理に着眼し、新たなビジネスを創造した作者の発想の妙。
しかしいつもながら何と云う事を考え付く人なのか、服部氏は。

しかしそんな新しいビジネスにも影が潜んでいる。いつもながら服部氏は巨大企業のサービスの裏に潜む企みを一般市民の我々に痛烈に突き付けてくれる。甘い話には裏があるというが、この世の中には建前のカバーストーリーがあり、企業の真の目的は個人のプライヴァシーまで踏み込んで私腹を肥やすことにある。

上にも書いたが、あらゆる情報の中で個人情報ほど貴重な物は無いからだ。

人々が望んで自らの体内にカメラを埋め込み、自らの生活の一部始終を記録してくれることになった世の中で、そんな貴重なデータ蓄積装置を開発した会社が黙って放置するわけがない。それらは無料回収というリサイクル事業の名の下、企業に吸い取られ、蓄積され、個人が丸裸にされていく。知られたくない過去や性癖だけでなく、携わったプロジェクトや組織の公には見せたくない醜い争いと云ったものまでが白日の下に曝されるのだ。

高度情報化社会が進んだ行く末路の多大なる危険性を本書は警告してくれる。

しかし驚きはそれだけに留まらない。
思い出は美化されるの言葉の如く、人が記録した画像もまた美化されるように改竄される技術が生まれる。つまり記録された個人の動画から史実を再現する事さえもまた嘘に糊塗されてしまう可能性が生まれるのだ。

2025年から2119年の94年という永いスパンで語られる本書は高度化する技術の果てしのない騙し合いがいつの世でも繰り返される虚しさを物語っている。歴史の証言者たろうとした者が遺した記録媒体は100年後では改竄が当たり前になった世の中で真実であることさえも疑われる。真贋を判定するソフトにかけないと情報の真偽でさえ、偽の画像がリアルすぎるがゆえに判断できなくなってしまっている。
これぞテクノロジーのジレンマではないだろうか。
我々は人々のニーズに応えて色んな物を生み出してきたが、それは果たして本当に正しいものだったのか?ニーズがあるからそれがいけないことだと知りつつも開発され、生み出された物もある。しかしそれを求める人間、いや発想し具現化する者がいる限り、このテクノロジーの果てしのない愚かなゲームは終わらない。

『ポジ・スパイラル』でも服部氏は地球温暖化を解決する新たなビジネスモデルを案出したが、それに伴う危険性もまた容赦なく提示した。そして本書もまた今までにないビジネスモデルを創出しながらも、それが行き着く虚しいまでの袋小路と警鐘を示した。
とにかくその想像力の豊かさゆえにその先を見通す眼力は只者ではない。これは恐らく同じことを考えている人々に対する警告と利用するであろうユーザーへの警告を促しているのかもしれない。

我々はどこに向かい、そして何を得るのか。本書を読んでそんな思いを抱いた。

エクサバイト (角川文庫)
服部真澄エクサバイト についてのレビュー
No.1059:
(7pt)

モンドリアンが多すぎる!

泥棒探偵バーニイ・ローデンバーシリーズ第5作目の本書では抽象画モンドリアンが事件の中心に据えられている。

4作目ともなるとシリーズキャラクターが定着して読者はローデンバーの住む世界に還ってきた気になり、物語にすっと入り込める。
レズで泥棒のパートナーでもあるキャロリン・カイザーを始め、前回の事件で知り合った画家のデニーズ・ラファエルソンも再登場し、端役だった前回とは違い、本書では絵画がテーマでもあって、かなり重要な役割を果たすことになる。そして腐れ縁の警察官レイ・カーシュマンももちろん健在だ。

さてそんな連中が一堂に会する本書の事件とは意外にもキャロリンから端を発する。
キャロリンの愛猫アーチーが何者かに誘拐され、バーニイはキャロリンの力になるうちにモンドリアンの絵を盗むことになる。そんな最中に巻き込まれるのがモンドリアンの絵の所有者であり、バーニイに古書の鑑定を依頼したオーダードンク氏の殺人容疑に、町の芸術家ターンクウィスト殺害の容疑だ。バーニイは実際にオーダードンク氏の住む難攻不落と云われるセキュリティ厳重のアパートメント、シャルルマーニュに、別の盗みで忍び込んだ経緯もあって、またもやバーニイは自分の真の犯罪を隠すために殺人の容疑を晴らさなければならなくなるのだ。

しかしそんな本書の事件の真相は実に複雑。蓋を開けてみれば名画を巡る贋作、また贋作が飛び交う名画詐欺の全貌が見えてくる。

そんな事件の間に飛び交うのはなんと6枚のモンドリアン。そのうち5枚は贋作で1枚が真作。その5枚はもうどこにどれが行ったのか正直完全に理解していないほど複雑に人から人へと渡っていく。
そして真作の1枚はどこへ行ったのか。それは本書を読んでのお楽しみだ。

しかしシリーズを重ねるごとに事件の構造が複雑になってきて、読者側も理解するのに最後の解決シーンではかなりの頭脳労働を強いられてくる。
それもそのはずで、本書のもう1つの楽しみは古書店主であるバーニイの特徴ゆえに随所に古典ミステリに関する薀蓄やウィットが散りばめられている。それらがクイーンだったり、カーだったりスタウトだったりと日本の本格ミステリファンにはお馴染みの名前や作品が上がってくるのだ。特に最後ではキャロリン自身がレックス・スタウトの作品みたいに“モンドリアンが多すぎる”と称するのには思わずニヤッとしてしまった。まさにこれこそが本書に相応しい題名だろう。

しかし泥棒バーニイにとって巻き込まれる事件は2件の殺人事件の冤罪とよくよく考えるとかなり重い内容となるのに、このバーニイの軽快さは一体何なのだろう。危機を危機と思わずむしろ嬉々として状況を愉しんでいるかのように思える。
事件が重なるごとに彼の状況はさらに複雑になってきているが、次回もまた泥棒の七つ道具を右手に、そしてユーモアを左手に持って我々に楽しい本格ミステリと物語を見せてくれるに違いない。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
泥棒は抽象画を描く (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.1058:
(7pt)

アラフォー男性の本音だと思われたくない!

本書は妻と一人の娘を持つ男の不倫の物語である。
しかしそこは東野圭吾氏、単なる男の道ならぬ恋を描かない。そこにはやはりミステリが織り込まれている。
建設会社に勤める主人公渡部の不倫相手仲西秋葉は高校時代に自宅で殺人事件の第一発見者となっており、その事件の時効が直前に迫っていた。そして彼女は殺人事件の真犯人だと睨まれていた。

しかしこれは世の女性が読めば男に対する嫌悪感が否応なしに増す物語だろう。妻子ある男が自分を正当化して浮気し、不倫まで発展していく様子と、それを上手く隠して家庭を守ろうとする姿に憤りを覚える女性は少なくないだろう。
奥さんに罪悪感あるのなら不倫しなければいいじゃん!と本書を読みながら声高に唱える女性読者の姿が目に浮かぶようだ。

さらに火に油を注ぐかの如く不倫相手の派遣社員仲西秋葉が実に都合のいい女性として描かれている。30代、165センチのすらっとした鼻筋の通った眼鏡美人。しかも渡部の家庭を崩すことは考えておらず、週に一度デートとセックスをしてきちんと家に帰すというまさに世の男が理想とする不倫相手なのだ。しかも渡部の奥さんの有美子は夫の不倫を疑っていない(ように描かれている)。

特に渡部の主観から映る有美子の様子は世の女性ならばそんな嘘はすっかり奥さんにはお見通しなのよ!とばかりにすごい剣幕で読んでいるのではないか。

このまさに男にとって実に都合のいい話はしかし最後でどうにか救われる。

さて渡部のこの不実な言動は解らなくもない。誰だって綺麗な女性を目にすれば何かしら接触を持ちたいと思うのが本音だ。頭では既婚者であることは解っていてもまだ自分の男ぶりを試したいという気持ちがあるのが男だろう。

しかしだからといって同性である男性が共感する話かと云えば決してそうではない。私はこの主人公渡部の身勝手な言動に終始腹を立てていた。
本書はアラフォー既婚男性である渡部の一人称叙述で語られており、この渡部の言葉や思想がいやに断定的でこれが世の中の男性の思いを代弁しているかのように書かれているのが非常に腹立たしかった。

曰く、妻とのセックスはときめきはなく、ただ外的な刺激に反応しているだけ。
世の中の夫婦の大多数はもはや男と女ではない。
結婚式と結婚は違う。
結婚は安心を得るためにし、その安心を得るために払った代償は大きかった。
いい母親はかつてのように恋人の対象ではない、セックスしたい対象でもない、かつて愛した女性とは別物。

こうやって挙げていくだけでも非常に失礼甚だしい渡部語録のオンパレードだ。一緒にすんな!と何度も声に出してしまったことか。

また不倫相手の秋葉が家庭を大事にする自分に気を遣って嘘をついてまで家庭のイベントを優先させることに気を揉んで、とうとう一線を超えた発言を勢いでするなど、非常に考えの浅いところが鼻についた。
責任を取る、後悔はしない、させないとその場で半ば意地になって断言し、その後の秋葉の態度や云ったことの重大さに押しつぶされそうになり、どんどん家庭崩壊へのカウントダウンが始まっていく。特に残酷なのは奥さんである有美子が良妻賢母で夫の不倫を一切疑っていないことだ。どうしてこんなにいい奥さんを持って不倫が出来るのか、それが恋愛だと云われても良識あるアラフォーの男の発言だとは思えないほど浅薄だ。

結婚後数年経っても恋愛感情を持つ夫婦はいる。それが私だ。
私は嫁さんが大好きである。とにかくこれだけ自分の為に尽くしてくれる嫁さんには感謝の気持ちしかないし、本当に逢えてよかったと思っている。
だから女性の読者は渡部の考え方が妻帯者の一般論だと絶対誤解しないで貰いたい。

しかし渡部の言動は離婚をした東野氏の本音なのか?そして理想の不倫相手を描くための妄想の産物なのか?
浮気の隠し方やアリバイ工作などあまりにリアルで実体験が伴っているようにしか思えないのだが。逆に想像でもそんなリアルを感じさせるのが作家なのだと開き直られそうな感じもするが。

また渡部の生活にもリアルさがないのが気になった。建設会社の主任クラスで移動にタクシーを頻繁に使い、銀座や横浜のバーで飲み食いし、さらにはホテルをとって毎週情事に浸るなんて、およそ一介のサラリーマンの懐事情とはかけ離れた生活をしているのが非常に気になった。
こんな生活が出来るほど貰ってないだろう。ましてや家のローンも残っているだろうし、そんなときに真っ先に減らされるのが夫の小遣いなのだから、この辺のリアルさに欠ける描写の数々は東野作品らしくなくて非常に気になった。

そんな不快感を終始覚えた本書は最後の事件の真相が明らかになってどうにかギリギリのところで踏み止まってくれた。
やはりこれはミステリだった。事件の関係者がたった4人でしかも特に不可能趣味がある犯罪ではないのに、意外な真相と人の心の裏面を描き出してくれた本書はクイーンの後期の作品に通ずるエッセンスを感じたというとほめ過ぎだろうか。

しかしとはいえ、やはり不倫を正当化する男の話は読みたくないものだ。同性としてなんとも情けなくなってくる。これ1冊で勘弁してもらいたい。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
夜明けの街で (角川文庫)
東野圭吾夜明けの街で についてのレビュー
No.1057:
(8pt)

冷戦に対するある種の解答

本書はアメリカとソ連、すなわちCIAとKGBの永い冷戦の歴史を数奇な運命を辿ったアメリカとソ連に別れて育てられた2人の異父兄弟の生き様に擬えて語った一大叙事詩だ。いやもっと端的に云うならば米ソ二大国を巻き込んだ壮大な兄弟ゲンカとなるだろう。

しかし戦争や民族抗争が生む業というのはどうしてこうも深いのだろう。ただユダヤ人に生まれたというだけで狂った政府は粛清を行う。有名なのはナチス・ドイツだが、本書ではスターリン政権下のソ連が舞台で狂えるスターリンもまたユダヤ人が自身の命を狙っているとしてユダヤ人を次々と処刑していった。

そんなユダヤ人の中に詩人トーニャ・ゴルドン=ヴォルフがいた。そして一方ソ連のKGBにはボリス・モロゾフと云う常に哀しみを讃えた眼差しを持つ男がいた。その2人が出逢ったが故に、この数奇な運命を辿る兄弟の物語は始まる。

アレクサンドル・ゴルドンとジミトリー・モロゾフ。2人の兄弟の生い立ちはアメリカとソ連が辿った冷戦の歴史そのままだ。アメリカに渡って伯母の許で育てられ、西洋の文化に触れ、アメリカ側からソ連の有様を知るアレクサンドル。

一方ソ連に留まり、孤児院で荒んだ生活を送りながらKGBに所属するジミトリー。父親の死を知らされることでユダヤ人を憎むようになる彼は深く深く憎悪の闇へと堕ちるような人生を送る。

この対照的な二人の生き様はまさに陰と陽。それはそのままアメリカとソ連の辿る歴史の行き様でもある。

我々はアレックスとジミトリーの生涯を通してアメリカとソ連、そして1960年代から90年代にかけての世界情勢の暗部を知ることになる。
スターリンのヒットラー信望から端を発するソ連国内での大量ユダヤ人虐殺、いつ失脚し、粛清を受けるか解らない極限の緊張下に置かれたソ連政府の高官や軍人たちは秘密裏に西側諸国へ亡命を企て、ソ連政府は情報漏洩を阻止すべくKGBの工作員たちを派遣し、次々と粛清していく。

物語のキーを握るCIA工作員フランコ・グリマルディのソ連での潜入任務を通じて、日々の生活でさえ、絶えず周囲の監視の目を意識して送らねばならない雰囲気は途轍もない重圧を行間から感じる。

そして運命の2人が邂逅した時こそ彼らの人生を流転させる瞬間でもあった。最初は長年適わなかった再会を喜び、それぞれがそれまで辿った道のりを語り、空白を埋めていこうとするのだが、それぞれが育った文化の違いゆえにやがてそれは衝突を迎える。
母を尊敬する兄アレックスに対し、KGB工作員となった弟ジミトリーはKGB将校だった父親が処刑される原因をユダヤ人の母であるとし、憎悪している。そしてお互いの国の政治やシステムについて語るにつれ、その溝は深まっていく。そして決定的なのは2人が同じ女性を愛してしまったことだ。

諜報活動の駒として捕まえたロマノフ家の末裔タチアナにいつの間にかその姿態に絡め取られ、KGBの権力で征服を強調するジミトリーに対し、学問のみならず芸術にも造詣が深く、人間的な魅力でお互いに惹かれ合うアレックス。アメリカとソ連でそれぞれ育った兄弟の戦いはタチアナと云う1人の女性を巡る愛もしくは欲望から始まる。

アレックスは彼女を弟から奪い、それを知ったジミトリーは自身の手でタチアナを暗殺する。しかもそれはフランコ・グリマルディがアレックスをCIAに引き込むためにわざとリークした情報だった。

このタチアナの死こそが2人の永い戦いの始まりのトリガーとなる。この1人の女性を巡る兄弟の復讐と殺戮の連鎖はCIAとKGBという2大スパイ勢力の戦いにまで発展する。

こんな業深き2人の兄弟の生い立ちに深く関係するジミトリーの父親ボリス・モロゾフとはどのような人物だったのか。

ボリス・モロゾフの業は亡き妻の叔父を処刑したことから始まる。ソ連の敵対国であったポーランドは妻の生まれ故郷であり、しかもポーランド軍に彼女の叔父がいたのだった。そしてソ連軍によって捕虜となったポーランド兵を次々と処刑する任務に就いていたボリスの許に捕まった叔父がいたのだ。彼はモロゾフの名を連呼したことが功を奏してモロゾフと処刑寸前に逢う事が適うが、ソ連において上を目指すモロゾフは彼の存在を出世の足枷とみなし、その場で射殺してしまう。

そんな非道な行為の報いか、彼は愛する妻と娘2人を進攻したドイツ軍によって連れられ、処刑されてしまうのだ。傷心の彼の前に現れたのが亡き妻の面影を持つユダヤ人女性トーニャ。その出逢いがまた彼を狂気に駆り立てる。

彼女の夫であるユダヤ人男性を、証拠を捏造して反政府分子の1人に仕立て上げ、無理矢理逮捕して強奪したKGB捜査官ボリス・モロゾフもまたソ連という絶対秘密主義社会の歯車であることを利用して得られた権力を利己的に揮うがゆえに、雁字搦めに追いやられ、次第に破滅の道を辿っていく。

欲望、烈情、支配欲、出世欲、権力。これらのうち誰しもが1つは駆られる感情だ。
但しある特殊な環境で育った兄弟2人にとってはその出自自体が政治的醜聞の要素を色濃く湛えているがために、周囲から苛められ、また疎外される環境に否応なく追いやられてしまった。生まれた時からマイナスの状況であった2人にとって周囲を見返すために成り上がることは必然的な感情の発露だった。
ただアメリカとソ連、それぞれ共産主義と民主主義を看板に掲げる国にそれぞれ育った2人はおいそれとその道程も変わってくる。先にも書いたがまさに陰と陽、カードの表と裏といった環境で育った兄弟にとって陰であり裏であった弟は陽であり表であった兄を当然の如く忌み嫌うようになる。

この兄弟が殺戮の狂宴を国家権力を用いて繰り広げる絶望的な展開のなか、どう転んでも悲劇的な結末でしかあり得ないだろうと思われた読者の予想をバー=ゾウハーは軽々と覆してくれた。

いやはや何と云う物語を紡いだものだ、バー=ゾウハーは!まさに世界の表と裏を知り尽くした彼しか書き得ない叙事詩だ。

例えばジミトリーの生い立ちを通じて仔細に語られるKGB訓練学校の場面などはどうやってここまで書けるのか。
海外で潜入工作員として暮らしていくために行われる語学、文化、習慣についての授業に加え、尾行術、戦闘術に武器の使い方、そして暗殺の方法などについて教えられる場面が詳らかに描写される。作者の取材の賜物か、もしくは想像の産物なのかは解らないが、驚愕を覚えずにいられない。

本書は2人の兄弟の生き様を通じて描かれた米ソの冷戦の遍歴であると同時に世界を緊張下に長らく至らしめたあの冷戦とは一体何だったのかという命題に対し、作者なりに総括するために書かれた作品でもあるのだろう。

最近は寡作であるバー=ゾウハーはこの後に書かれた作品は『ベルリン・コンスピラシー』の1作のみで、しかも15年も経った2010年になっての作品だ。
巷間から忘れ去られるには非常に勿体のない作家だけに、これほど新作を期待する作家もないのではないか。
世界は彼の新作を待っているはずだ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
影の兄弟〈下〉 (ハヤカワ文庫NV)
マイケル・バー=ゾウハー影の兄弟 についてのレビュー
No.1056:
(7pt)

映画化を意識しすぎでは?

マクリーン7作目の本書は豪華貨客船上で起こる数々の不審死とミステリ風味溢れる設定で幕が開ける。

いつも通りに行われるだろう出港は小型核兵器を盗んで失踪した科学者の捜索のため、アメリカ海軍の調査で足止めされ、さらには突然の乗客の要請で棺桶をニューヨークまで運ぶ羽目になった豪華貨客船。そんなトラブルでも航海は上々と思われたが、スチュワード長の失踪を皮切りに首席通信士、四等航海士が遺体となって発見される。

そんな展開はまさに船上の密室状態で繰り広げられる本格ミステリなのだが、物語の半ば170ページ前後で犯人は判明し、一味を取り押さえる事に成功して物語は一件落着の様相を呈するのだが、そこはマクリーン、単なるミステリでは終わらない。

そこからはまさに怒涛の展開。船内に忍び込んだテロリスト一味の仲間によって船は制圧され、主人公のジョニー・カーターも機関銃によって太腿を撃ち抜かれ、重傷を負う。

テロリストの狙いは金塊を載せたタイコンデロガ号と接触し、金塊とその報酬を交換すると見せかけて小型核兵器を積み込ませ、爆破して金塊をせしめようという計画だった。その金額なんと1億5千万ドル。
その企みを知ったジョニー・カーター一等航海士は満身創痍の中、単独で核兵器の軌道阻止と乗客の命を救うため、奮闘する。

題名『黄金のランデブー』とはこの金塊のやり取りが成されるカンパーリ号とタイコンデロガ号のランデブーを示しているが、読後の今ならばその「黄金」の意味が全く違ったものに変わってくる。

極寒の海、難攻不落の要塞、周囲を敵に囲まれた戦線の只中と人の極限状態を引き出すシチュエーションで不屈の闘志で苦境を切り抜ける人々の姿を描いてきたマクリーンだが、この頃になると自然との闘いというシチュエーションから孤島の中の基地、豪華貨客船という限られた場所で起こる事件に変化してきている。それでも1作から一貫しているのは戦艦や石油採掘基地、ミサイルといった特殊な乗り物や設備の詳細な描写だ。それらが素人がちょっとした取材で付け焼刃的な似非専門家になった程度の浅薄なものではなく、物事の本筋を知り尽くした玄人はだしであるのが毎度感嘆させられてしまう。

それは逆に極限状態の環境でなくてもスリラーは成立することをマクリーンは証明したことを意味する。本書では豪華貨客船での優雅な航海が一転してテロリストたちによるシージャックによって制圧され、また彼らの計画によって通常迎える予定ではなかったハリケーンに出くわすことになるのだ。

そしてそんな荒波の中、太腿に三発もの銃弾を負った主人公ジョニー・カーターはテロリストたちに立ち向かうべく、ヒロインの富豪の娘スーザン・ベレスフォードと共に奮闘する。

よくよく考えるとこれは今現在採用されているハリウッドの一大アクション映画のシチュエーションではないか。

平穏な時間が流れ、誰もが歓談に興じるような優雅な時間が流れる中に突如として起こる非常事態。静から動への突然の反転。

そして特筆なのは映画を意識したかのようなハッピーエンドまで用意されていることだ。
この明るいまでのエンディング、特にスーザン・ベレスフォードというコメディエンヌ役までしつらえた本書を読んで、当時出版すれば映画化が定番となったマクリーンも映像化を意識した創作に移行していったことを気付かされたのは何だかさびしい思いがした。
これが後期の作品の質を低からしめる要因になったのではないかと思うのだが、それは今後の作品を読むことで判断したい。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
黄金のランデヴー (ハヤカワ文庫 NV 153)
No.1055:
(10pt)

こうすれば未来はもっと明るくなる!

文庫版の本書の帯には「地球を温暖化から救う『秘策』がこの小説にある!」と謳われているが、これは決して誇張ではない。
陸海空に渡って環境破壊が叫ばれて久しい閉塞感と危機感で将来不安を抱えている人類に輝かしい未来の姿が本書には描かれている。

今回服部真澄氏がその切っ先鋭いペンのメスを入れるのは地球温暖化と農林水産省、国土交通省などの利権によって侵食された海洋汚染。このテーマはいつかは取り上げるだろうと思っていたので、とうとうやってくれたという感が強い。

そして数多ある国の愚かな政策によって壊滅的な打撃を受けたかつては豊穣だった海のうち、作者が注目したのはテレビでもセンセーショナルな閉門劇が繰り広げられた諫早の水門。この禍々しい水門をこじ開けてやろうではないかと云うのが物語のメインターゲットだ。

国の主導で閉ざされた水門をどうやってこじ開けるのか?それは世論を変えることだ。
服部氏が選んだ手法は国民的タレントの久保倉恭吾をホストにした環境番組を作ることで世間の目を温暖化が着々と進む現状とその根源を詳らかに明らかにし、その解決策を提示することだった。

国土の73%が山地でありながら、もはやCO2を削減できるほどの森林を増やせず、かといってバイオ燃料にするための穀物も耕せない国土の狭さがネックであった日本においてCO2削減と進んでいく海水汚染を一気に解決する手立てとして注目したのが菱。
海辺に自生する菱は海外ではウォーターチェスナット、すなわち「海の栗」と云われ、その実を食糧のみならずバイオ燃料も作ることが出来、しかも伐採しても焼酎も作ることが出来る事から確実に採算が取れ、しかも育成するのにほとんど手間がかからないまさに魔法の植物。

そしてそれをクローズアップさせ、国民や各自治体、さらには省庁をも目を向かせた上で、諫早湾を含む有明海で菱が自生していることを気付かせ、海水と淡水が混じり合う汽水域を作ればさらに菱の生育が活発になることから世論を水門開門へと傾けさせていく。しかも諫早湾で確認された菱こそは極秘裏に久保倉たちが種を蒔いた物であった。

愚かな政策で自然を破壊し、自身たちの利益のために無駄な開発を推し進める行政を懲らしめる展開のなんと痛快なことか!

菱のみならず、アオサ、ホンダワラと海藻類がもたらす恵みの恩恵はバイオ燃料や地球温暖化の緩和、死にゆく海の再生に留まらず、それらが一大産業として資源のない日本に新たな資源をもたらすこと、更にはそれらがバイオエタノールのみならず重油、ガソリン化も可能で、石油業界もまたその恩恵に与り、OPECで牛耳られ、価格を乱高下させている原油に頼らずとも自国でその原料が採れること、魚介類の産卵場となって漁業も活発化する事、などなどまさに夢のような未来が書かれているのだ。
久々に胸のすく気持ちのいい話を読んだ気がした。

ただいいこと尽くしで終わっていないのが本書の素晴らしい所だ。
新たなビジネスはまた新たなを生み出し、さらに予想外の生態系への弊害をも生み出すかもしれないと説く。すなわち人工的に増やした物はあくまで自然のセオリーに則ったものではないため、それによって害を被る生物や産業もあり得ることを警鐘として鳴らしている。

また海洋汚染問題に取り組んだ人々もその大きな流れによって人生をも変えられようとしている。

一タレントから始まった久保倉はそのカリスマ性と政治と地球温暖化問題への取り組みから都知事候補に推薦され、アドバイザーだった住之江は副知事の佐分利の講師役から恋人になり、一躍時の人となる。
佐分利も住之江の講義で海洋問題に詳しくなり、一副知事から海洋政策担当大臣へと昇格し、新しい日本の未来の舵取り役を担う。
時代の転換期は関わった人の人生をも変えていくのだ。

今までの服部作品では巨大企業や勢力によって牛耳られようとしている世界の構図をまざまざと見せつけられ、巨象、いや巨大な鯨のような存在にミジンコほどの個人が対抗するといった構成が多く、それらは痛快ではある物の、やはりどこか無力感が漂い、些細な抵抗といった感が否めなかった。

しかし本書はそのタイトルが示すように、希望の持てる再生の物語であるのが特徴だ。
高度経済成長期以来行われてきた海洋開発によってもはや死の海となりつつある日本の海。それは温暖化を助長させ、もはやどうにもならない所まで行きつつある。
しかし海はゆっくりながらも着実に再生していることが示され、干潟や浅瀬を取り戻すことで日本の海、とりわけ東京湾を昔の豊穣な海に戻そうという動き、そして暴力的なまでに生命線を遮断するが如く次々と閉ざされた諫早湾の水門をこじ開け、かつての有明海を取り戻そうとする物語展開が絶望から再生へと向かう希望の物語になり、読んでいてものすごく気持ちがいいのだ。

時代の大きな変換点を創り出した人々とそれを目の当たりにしている人々のなんと清々しくも眩しい事か。
複雑化したシステムと利権の絡み合いで雁字搦めになっている日本の政治と世界各国とのバランス、そんなしがらみばかりの現代の中で子供たちに安心な未来を授けるための秘策が本書には詳細につづられている。あらゆるケーススタディを行い、トラブルシューティングを重ねることで、夢物語ではない、地球温暖化とそれに伴う各産業界の弊害をも解決する方策がここにはあるのだ。

今までその綿密で緻密な取材力とそれを材料にこれから起こるであろう時代の出来事、産業界の動きなどを悲観的に描き、我々を心胆寒からしめた服部氏が、その作者の強みを存分に発揮し、「こういう風にすれば未来はもっと良くなる」と示す本書はこれまでの作風とは全くもって真逆のものであり、実に爽快な読後感を残してくれる。

題名の通り、未来は明るいのだと思わせる本書を、政治家、官僚の全てに読んでもらいたい。
我々は本書に描かれている日本を待っている。

ポジ・スパイラル (光文社文庫)
服部真澄ポジ・スパイラル についてのレビュー
No.1054:
(7pt)

ワンアイデアミステリの実験室

エラリイ・クイーンの中短編集。

まずはダイイング・メッセージ物の中編「菊花殺人事件」はしかも舞台はライツヴィル。
相も変わらずクイーン印の1編。ダイイング・メッセージ“MUM”の意味、菊(マム)収集家び殺人事件はMUMにそれぞれが何らかの関係を持っている。そしてあらゆる所に散りばめられたダブルの符合(ただしこれは強引)。
このようなガジェットに彩られた犯罪はライツヴィルが舞台になると色合いを増す。それは何か見えない手に導かれるかのように人々が犯罪に巻き込まれているかのようだ。そしてまたエラリイも訪れると必ず事件が起きるということで災厄の使徒のような存在になっている。

次は「推論における現代的問題」というカテゴリーで4編が収録されている。題名からは解りにくいが、それぞれ教育問題、交通問題、住宅問題、がテーマに盛り込まれている。

まず「実地教育」はエラリイが知り合いの女性教師に請われて講演を頼まれたところ、教室内で起きた盗難事件に出くわすという物。
エラリイの論理的思考はあるものの、なんといっても生徒相手に推理を手間取るエラリイの焦燥感が本書のキモといって云いだろう。

「駐車難」は知り合いの女優の前に突如現れた3人の求婚者。そんな矢先、彼女はアパートで何者かによって撃たれてしまう。
しかしこれは果たして推理はいるのだろうか?求婚者の状況を考えればおのずと真相も見えてくるとは思うが。

「住宅難」はクイーン警視が追っている密告者の居所を突き止め、駆けつけてみるとそこには悪名高い詐欺師が撃たれて倒れており、そこには銃を持った金髪の女性が佇んでいたという現場の背景から犯人を突き止める話。
これはかなりアクロバティックな作品だ。それぞれの登場人物をもっと掘り下げて長編ネタとしても十分よかったのではないか。

この項最後の短編「奇跡は起こる」では昨今日本でも問題となっている介護問題がテーマか。
これは犯人は解ってしまった。誰もがみな金に困っているのが華やかなりしアメリカの実状であり、それは今なお日本も彼方も変わっていない。

次は変わって「新クイーン検察局」。そう、短編集『クイーン検察局』で警察のそれぞれの課が担当する事件にエラリイが挑むという趣向の短編がまたもや登場。

まずは<賭博課>が担当の「さびしい花嫁」。
クイーンお得意のダイイング・メッセージ物(メッセンジャーは亡くなっていないが)。

続く2編は<スパイ課>の事件。まず「国会図書館の秘密」は麻薬の取引現場を抑えるためにエラリイが狩り出される。国会図書館の本を暗号に取引の内容を連絡しており、書物に造詣の深いエラリイに白羽の矢が立つという趣向。
これはまさに作者クイーンが趣味で作った作品だろう。
書物が暗号になる。それは題名だったり、内容だったりとその時々でさまざまに変わるという作者が嬉々として取り組んだのが解る作品だ。
しかしエラリイが挑む謎の解答がそれまでの謎に比べてしょぼく感じたのが実に勿体ない。こういう作品は世の書物愛好家には堪らないものがあるのだろうな。

もう1編「替え玉」は死んだ潜入捜査官が遺したスパイの名をダイイングメッセージから探るという物。
これはなかなか秀逸。しかしこんなことばかり考えているのだろうなぁ、ミステリ作家とは。

次は<誘拐課>の「こわれたT」も文字が手掛かりになる短編だ。
言葉遊びが好きなクイーンの小編とも云うべき作品か。アンジェラと云う魅力的な女性と誘拐劇で彩って物語にする着想を褒めるべきか。

さてミステリでお馴染みの<殺人課>が扱う事件「半分の手懸り」では薬屋の主人の命を実の娘と息子、そして義理の息子までもが襲うという穏やかではない家庭が登場する。
これはやはり作者を褒めるべきだろう。

こんな課があるのか甚だ疑問の<匿名手紙課>が扱う事件は「結婚式の前夜」。ライツヴィルの出演者総出の感がある、コンクリン・ファーナムとモリー・マッケンジーの結婚式前夜に起きた事件にエラリイが挑む。
この真相を日本人が見破るのはほとんど不可能だろう。よほど英米の文化に造詣が深くないとこの違いは分からないし、そこからまた犯人を特定するのも至難の業だ。

続く<相続課>が担当する「最後に死ぬ者」ではもはや絶滅状況にあるとされている執事が極秘裏に設立した執事だけが会員になれるクラブで数十年の歴史があるが、既に会員の執事も2人を残すのみになり、最後の会員がクラブの資金の全てを手に入れることが出来る。
アナログ時代であるが故の推理、といいたいところだが、これは現代でも通じる論証だ。でもこれは案外解ってしまったが。

増補版クイーン検察局最後の1編は<犯罪組織課>が担当する「ペイオフ」はクイーンお得意のダイイング・メッセージ物。
これは単純にクイズのような作品だ。しかしこんなワンアイデアさえも短編に仕上げるクイーンの創作意欲には頭が下がるというか…。

続くはパズル・クラブ物2編が収められている。
まずはエラリイがパズル・クラブに入会するための試験が行われる「小男のスパイ」は第2次大戦のあるスパイがどこに秘密文書の内容を隠し持ったのかが謎。これもクイーンが好んで使った消去法物の1編だが、いささか現実味が乏しいのではないかと思われる。奇を衒い過ぎた解答だろう。

パズル・クラブ物もう1編はなんと大統領さえもクラブ会員に勧誘してしまうパズル・クラブの懐の深さを感じさせる「大統領は遺憾ながら」。
これは日本人には辛い解答だろう。しかしクイーンは古今東西のような知識を競う言葉遊びが好きに違いない。

最後は歴史ミステリ「エイブラハム・リンカンの鍵」はリンカーンとエドガー・アラン・ポーが署名したとされる『盗まれた手紙』の書物を巡るミステリだ。
たった3文字の手懸りから推理を巡らし、隠し場所を推理する。メッセージ物としては極限まで切り詰められた作品だ。
しかし本編の冒頭ではこの隠し場所の暗号は実際にリンカンが考案した物なのか。どこまでが史実なのだろうか。


題名こそ『クイーンの犯罪実験室』だが、中身はミステリとしては作品を支えるには乏しいワンアイデアを基に作られた短編を集めた物。ほとんど推理クイズの域を出ない物ばかりだが、逆に云えばそんなアイデアでもミステリが書けるのかという命題にチャレンジした実験短編小説集と云えよう。

まずはダイイング・メッセージ中編ということで「菊花殺人事件」から本書は幕を開ける。
クイーンと云えばダイイング・メッセージと云われるくらい、そのヴァリエーションは豊富だが、この作品は通常犯人特定の手がかりとなるべきダイイング・メッセージを逆手に取っている。
通常死者が死の間際で遺すメッセージとは自分の事よりも家族のことではないだろうか。そういう意味では最も真実に近いダイイング・メッセージだと云えよう。

テーマ「推論における現代的問題」の各編で特徴的なのは真相が容疑者の背景に関わっていることだ。
「実地教育」では貧しい家の子供がやっているアルバイトの内容であり、「駐車難」では求婚者の家庭状況、「住宅難」も居住者それぞれの事情から絡み合う関係によって事件が入り組み、「奇跡は起こる」は格差社会と介護問題が介在する。

続く「新クイーン検察局」は別の短編集『クイーン検察局』でもテーマに挙げられた色んな犯罪を題材にしたミステリが綴られている。それら犯罪を担当する課はそれぞれ賭博課、スパイ課、誘拐課、殺人課、匿名手紙課、相続課、犯罪組織課ととてもありそうでないものばかり。
この辺についてはもはや突っ込むのは止すが、続編が作られたということはよほどこの趣向が気に入っていたのか。

そして『間違いの悲劇』に収録されていたパズル・クラブシリーズが本書で初お目見えだったのを知ったのは思わぬ収穫だった。しかしたった2編とはあまりに少ない。
しかしパズル・クラブ物は物語風味のクイズで構成された、クイーンコンビの知的遊戯でまさに趣味の世界であることが解った次第。

最後は歴史ミステリで占められる。これは恐らく歴史上のエピソードにクイーンが挑んだ作品だと信じよう。

先にも書いたが長編ミステリを著すにはネタとして弱いが、短い話ならば書けるワンアイデアを活かした短編が並ぶ。その中には英米、米仏など異国の文化の違いから生まれる違和感からエラリイが推理する短編もあり、日本人が十分楽しめる知的ゲームとなっていないものもある。しかしそれらは恐らくダネイとリーはいつも2人でこんなアイデアを話して、ミステリの種を探していたのだろうなと云うのがよく解る、知的パズルのような趣を感じる。
逆に云えばどんなアイデアでもミステリ短編に仕立てる雑誌編集者の魂というか、商業根性を感じてしまったが。

特に多いのがダイイング・メッセージ物で、特に短い単語や名前から隠されたメッセージを推理する趣向の作品が非常に多い。実に16編中7編と半分近くがそれに類する。
そしてそれらが単純な犯人特定の手懸りになるわけではなく、そこからまた謎が深まる、もしくはミスリードとして使われているというヴァリエーションも見せつける。

なるほど確かに本書は犯罪実験室だ。恐らくは言葉遊びや知識を競う遊びをして思いついたアイデアの数々。それらを犯罪に応用することが出来るのかがクイーン2人の試みを示したのが本書。
ちょっとした頭の体操をするにはちょうどいい作品が、そして少しだけ感心してしまうアイデアの妙が詰まった作品が揃っている。
そんなアプローチで復刊しませんか?早川書房さん!


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
クイーン犯罪実験室 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 2-26))
エラリー・クイーンクイーン犯罪実験室 についてのレビュー
No.1053:
(9pt)

短編とはこういうことを云うのだ

今なお珠玉の短編集として名高い本書。その評価は読んでみるとだてではなかったことが解る。

第1編目「食いついた魚」は湖で釣りをする男が出逢った見知らぬ男を描く。
背筋が寒くなってくる1編。鍛えられた体格の大男。釣った魚を食糧にして旅して暮らしている男が唐突に話したある時の殺人の話。それは実は大男にとって人の道を踏み外す禁断の扉を開ける行為だった。

「成功報酬」は短編のみ登場するシリーズキャラクター、悪徳弁護士エイレングラフ物の1編。
この男、どこまで本当なのか?と読者の興味をそそる非常に魅力的な悪徳弁護士エイレングラフ。
一気にこの1編でエイレングラフという弁護士が頭に刻み込まれてしまった。

その題名はある有名な作品をモチーフにしている。「ハンドボール・コートの他人」は原題を“Strangers On A Handball Court”という。そう“Strangers On The Train”、パトリシア・ハイスミスの作品であり、ヒッチコック映画の傑作でもある『見知らぬ乗客』だ。
上に書いたように本編はパトリシア・ハイスミスの作品をモチーフにした交換殺人物。ただしそこはブロック、一捻りした皮肉な結末が用意されている。

「道端の野良犬のように」は国際テロリストを扱った話。
ただこのオチは正直なんでもよかったのではないか?

ブロック作品での泥棒と云えばバーニイ・ローデンバーが殊の外有名だが、この短編に登場する泥棒は彼ではない。「泥棒の不運な夜」では忍び込んだ家で主に見つかり、逆に命を狙われてしまう。
なおこの作品はブロックの前書きによれば本編は『泥棒は選べない』より前に書かれた物でバーニイの原型かもしれないとのこと。泥棒の最中に他の犯行に巻き込まれるシチュエーションからすれば確かにそうかもしれない。

「我々は強盗である」はアメリカ映画でよく見る砂漠の中にポツンとあるガソリンスタンドとドライヴインを舞台にした1編だ。
これは前書きによればブロック自身が実際に出くわした悪質なガソリン・スタンドでのぼったくりに着想を得た作品とのこと。つまり作者はこの作品を著すことで溜飲を下げたわけだが、本作には色々な教訓が込められている。
まずはぼったくるのもほどほどにすべきであり、度が過ぎると痛い目に遭ってしまうという教訓。もう1つは人間腹が据わればどんなことでも出来るという教訓だ。
しかしブロック、ただでは起きない。

「一語一千ドル」は作家の多くが思っていることだろう。
窮鼠猫を噛む。どんなに気の弱い人も追い詰められれば何をするか解らない。

「動物収容所にて」はある意味、共感を覚えると云ったら驚かれるだろうか?
目には目を、歯には歯を。この思い。完全に否定できない自分がいる。

再び悪徳弁護士エイレングラフ登場。「詩人と弁護士」では無一文の詩人を救うために一肌脱ぐ。
「成功報酬」では高額の報酬の為には犯罪も厭わないとばかりの悪徳弁護士ぶりを見せつけたエイレングラフだが、なんと本編では無報酬で無名の詩人の釈放に一役買う。
何か裏があるのだろうと思っていると、実に意外なことに気付かされる。
いやはやこのエイレングラフと云う男、実に奥深いではないか。この男のシリーズ物が読みたくなった。

「あいつが死んだら」は奇妙な味の短編だ。
神が降りてきたかのような1編。
突然見知らぬ者から送られてくる手紙。そこに書かれているのは見知らぬ男の名前で彼が死ねば金をくれるという物。しかし主人公が手を下さずとも標的の男たちは病死し、金が転がり込む。しかも男にとってその報酬は自分の年収の数分の一もの金額。さらに手紙が来るたびに報酬が上がっていく。そんな手紙が来れば人間はどうなるのか?
よくもこんなことが思いつくものだ。

本格ミステリのおける連続殺人事件をブロックが書くとこうも素晴らしいものになる見本のような作品が次の「アッカーマン狩り」だ。
ニューヨークでアッカーマンと云う名の人物が次々と殺される。犯人の動機は皆目見当がつかない。
物語は犯人の独白で終わるわけだが、ゲームの内容が公表された犯人は次の新たなゲームを考え出す。その時のさりげない台詞のなんと恐ろしいことよ!
実に上手い!

語り手が珍妙な兄弟2人の顛末を語る異色の1編、「保険殺人の相談」はスラップスティックコメディの傑作だ。
作者と思しき語り手が実に軽妙な語り口でこの間抜けで愛らしき兄弟たちの顛末を語るストーリー運びはチャップリンの喜劇を観ているような錯覚を覚えて実に面白い。
歯車がちぐはぐに絡み合うかの如く、常に兄弟のやることは裏目に裏目に出て、とにかく上手く行かない。しかしなぜか2人には高額な保険金が掛けられている。終わり方は実にこの間抜けな兄弟らしい玉砕で、作者が云うように収まるところに収まり、一件落着!

表題作はたった10ページの物語ながら無駄を削ぎ落としたような切れ味を持つ。
う~ん、まさに都市伝説。世の中には色々疑問に思っていることがあるが、恐らくアメリカでは誰もが一度は思っているのだろう、古着のジーンズはどうやって仕入れるのか?という疑問をモチーフにブロックが紡いだのは実にブラックな解答だった。
しかし物語でははっきりとその答えが書かれていない。しかしもう雰囲気と行間、そしてある決定的なある単語で読者に恐ろしい想像を掻き立てるのだ。
これは秀逸かつ切れ味抜群の上手さを誇る1編だ。

そしてとうとうバーニイ登場。「夜の泥棒のように」は三人称で語られる泥棒探偵バーニイの短編だ。
ロマンティックな男と女の奇妙な出逢いを描きながら、最後に意外な真相を持ってくる実に贅沢な逸品。再登場してほしいものだ、このアンドレアという女性は。

「無意味なことでも」は友人の子供が誘拐されるお話。
かつて一人の女性を取合った男達。今では友人同士で何でも相談し合える仲。そんな相棒の娘が誘拐される。
ディーヴァー作品のようなどんでん返しがある作品なのだが犯人の一人称で物語が展開されるゆえにアンフェアなところがあるのが気になる。
ちょっと技巧に走り過ぎたか。

「クレイジー・ビジネス」とは殺し屋稼業の事。新進気鋭の殺し屋が伝説の殺し屋に彼の逸話を聴きに行くというお話。
これは先が読めてしまった。

「死への帰還」はハートウォーミングな話。
子供は大きくなり、実業家として会社を運営し、一応の成功を収めた男。しかし実情は妻との関係は冷え切り、愛人がおり、しかも会社の資産は減りつつあった。そんな矢先に訪れた災難。その犯人捜しをするため、男は妻、共同経営者、愛人、子供たちと逢っていく。
正直この物語の犯人が誰であろうが、そこに主眼はないだろう。

最後はマット・スカダーが登場する「窓から外へ」はお馴染みアームストロングの店のウェイトレスに纏わる話だ。
ポーラと云うウェイトレスは本編で出てきたのか、記憶は定かではないが、マットにとって彼の人生に関わった知り合いが死に、そしてその死の真相を突き止めたい依頼者が現れたならば彼の腰も挙げざるを得ない。
50ページほどの分量だが、その内容はシリーズ1編の読み応えがある。
死に携わる人間に対する眼差しは相変わらず厳しい。


今や短編集ではジェフリー・ディーヴァーが挙げられるが、それまではブロックのこの短編集が非常に完成度の高い短編集として挙げられており、今なお本書を読むべき作品として挙げる作家もいるほどだ。

ジェフリー・ディーヴァーの短編集がどんでん返しに重きを置いているものとすれば、ローレンス・ブロックのそれはどんでん返しにホラーにサイコ、クライム、悪徳弁護士、対話物、連続殺人鬼、ファンタジー、ネオ・ハードボイルドと実にヴァラエティに富んでいるのが特徴的だ。特に「食いついた魚」や「成功報酬」、表題作などは想像を掻き立て、その何とも云えない余韻が印象的。

またどんでん返しを加えながらも心温まる、思わず微笑みを浮かべてしまう余韻を残す「夜の泥棒のように」や「死への帰還」もこの作家ならではだろう。

個人的ベストは「あいつが死んだら」、「アッカーマン狩り」、「保険殺人の相談」、表題作、「夜の泥棒のように」。
「あいつは死んだら」はその着想の妙を買う。
「アッカーマン狩り」は最後3行目の台詞に、そして表題作は古着のジーンズ卸し会社の本当の社名が秀逸。それらが暗示する恐ろしさといったら…。
「夜の泥棒のように」はバーニイが登場する作品だが、他人の目から見たバーニイが新鮮で、しかもストーリーもきちんとオチが付いているという絶妙な作品。

とにかく精選された単語、言葉遣いを短いセンテンスで入れるため、一言に凝縮されたその意味が実に濃厚。表題作の会社名、「アッカーマン狩り」の犯人がふと漏らす一言など実に効果的。しばらくこれらは私の脳裏から離れられないだろう。

短編と云うのはこういうことを云うのだと云わんばかりの名品揃い。ブロックと云う作家の全ての要素を出し切った作品集と云えよう。
特に作家たちはこの本をお手本にすべきだろう。ストーリーの語り口に運び方、言葉選びなど多く学ぶべきエッセンスに満ちている。

しかしどうして本書も絶版なのだろう。本書こそプロ、アマチュア全てに読まれるべき作品であるのに。実に勿体ない。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
おかしなことを聞くね ローレンス・ブロック傑作集1 ローレンス・ブロック傑作選
No.1052: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

誠意こそ心のしこりへの特効薬

前作『赤い指』が作者自身60作目の作品で、これだけ数々の作品を著した東野圭吾氏だが、意外にも医療ミステリというのは本書が初めて。
大学病院を舞台に脅迫犯による大動脈瘤切除手術の妨害工作と医師たちの必死の救命劇、そして刑事と犯人との息詰まる攻防を描いたサスペンス作品となっている。

刑事と医師と脅迫犯の三つ巴の攻防を描いた本書はミスによる死が生んだ奇妙な復讐劇である。

万引きをしたところを警察に見つかった少年は追いかけられたパトカーから逃げようとして交通事故に遭い、亡くなった。

大動脈瘤を患った父親は簡単な手術だと聞かされ、名医と云われている執刀医を迎えたが、手術に失敗して亡くなってしまった。

仕事中に瀕死の重傷を負った彼女は搬送中の救急車が欠陥車による渋滞で病院に運ばれるのが遅れ、治療が間に合わず、亡くなった。

それらは間接的に命を奪う行為であり、その過程に問題はなかったか、なぜそんなことが起きたのかという原因などが焦点になる。しかし命を奪われた被害者に関わる人々は亡くなった人を思い、問題が解決されても心にしこりを残し、一生消えない傷を負う。

加害者側は論理的に問題を分析し、正当性を見出そうとするが、人を亡くした人には論理よりも感情が先に立つ。そこがこういった外的要因による人の死の加害者と被害者に横たわる深い溝なのだろう。

そしてそれら情念の炎が消えないままで、自分の大切な人の命を間接的に奪った人が目の前に、手の届くところに現れたら、その人はどうするだろうか?

息子の命を喪うことになった事故の当事者が目の前に患者として、現れる。

重傷を負った彼女が病院に搬送するのが遅れた原因を作った欠陥車を作った会社の社長が手術を受けようとしている。

そんな時、その人はどうするだろうか?

本書はそんな心のしこりを抱えた人々が奇妙な縁で絡み合う物語だ。

その心のしこりを霧消させるのもまた人の誠意ある言動だろう。物語の最後で判明する西園医師による氷室健介の執刀ミスの真相は、手術前に西園から氷室に息子の件の事を告げ、お互い話し合うことで心のしこりを溶かした。

翻って直井穣治によるアリマ自動車社長島原総一郎への復讐は島原が到底実現できそうにないノルマを従業員に課して品質管理を省略化させ、商品の安全を不十分な状態にしたまま市場に流通したがために再燃した。つまり誠意のない言動を取ったがための事件だった。

『殺人の門』、『さまよう刃』、『容疑者xの献身』と東野圭吾氏はやむにやまれず殺人を犯さずにいられなかった人々の姿を描く。そのいずれも大事な物を奪われた者に対する復讐だったり、自らの安心を得るために思わず犯してしまった殺人だったりと、よんどころない事情で犯さざるを得なかった犯罪だ。
そのため、その物語を読む読者は犯罪者側が捕まらずに本願成就することを望むかのように応援するような心理に陥ってしまう。

本書の直井穣治もそんな復讐者の一人だ。

但し一方で復讐が成就されることを望みながら、彼の行う犯罪で犠牲になろうとする患者がいることで読者に迷いを生じさせる。つまり犯罪はどんな動機であれ、許されるべきではないことをきちんと東野氏は描く。この辺の微妙な匙加減が非常に上手い。

ところで本書ではいくつか疑問点がある。
まずは脅迫者直井穣治が病院に2度目の脅迫状を受付の診療申込書に紛れて来客に見つけさせるシーンだが、なぜ警察は監視カメラをチェックしないだろうか?監視カメラがないわけではなく、実際に脅迫犯が小火騒ぎを起こした時は監視カメラを増やして強化するという記述があるくらいだ。しかも小火騒ぎの時でさえ、監視カメラを見ようとしない。これは警察の捜査としては明らかに手抜かりだろう。

次の疑問点はネタバレになるのでそちらに書く。

とまあ、少々の疑問は残るものの、しかし東野圭吾氏の作劇術には頭が下がる。
動脈瘤手術で命を喪った氷室夕紀の父親健介。その医者は自分の母親となぜか親しげだった。そんな疑惑から当時の執刀医である西園を疑い、自ら医師となって西園医師の執刀がミスではなかったのかを調べるのが夕紀の目的だった。

そして脅迫騒ぎが起きて捜査に携わることになった七尾という刑事は健介が刑事だった頃の部下でもあった男で、夕紀は初めて父親が警察を辞めるきっかけとなった事件を聞かされる。それは万引きをした少年たちがバイクで逃げた際にパトカーで追いかけ、バイクの少年が交通事故に遭って亡くなったというものだった。

そしてさらに西園には昔亡くなった息子がおり、その息子が実はバイクで逃走中にパトカーで追いかけられている最中に亡くなってしまったという事実。

つまりここで西園が息子の敵とばかりに健介を故意のミスで死なせたのではないかという疑惑が沸々と起こってくる。このあたりの物語の展開が非常に上手く、特に西園の息子が亡くなったエピソードを読んだところで思わずアッと声に出してしまった。

果たして医師は故意に父親を殺したのかという疑惑が夕紀の中でさらに強まってくるが、その答えをクライマックスの手術シーンに持ってくるあたりが実に上手いのだ。
いくら口で云っても理解されないことはある。ましてや心に残るしこりというのは頭で解っても心の底から納得できないことが多い。
心に残るしこりは行動で態度で示し、目の当たりにするのが一番の回答になる。百の説得よりも一の行動こそが真の和解を生む。

だからこそ本書では普段我々が意識する事のない「使命」という言葉が頻繁に出てくる。
人は何かの使命を持って生まれ、それを信じて全うする事こそが人生なのだと夕紀の父健介は娘や部下に説き、また夕紀の上司西園も医師と云う職業に患者の命を救う使命という旗印の下で懸命に全力を尽くす。
私達の日常で使命と云う二文字を頭に描くことがあるだろうか?しかし目的や目標を持ってそこに向かう人こそ、強く、また人から尊敬されるのだ。

私はどんな使命を持って日々生きているのか。改めてこの重い二文字に考えさせられてしまった。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
使命と魂のリミット (角川文庫)
東野圭吾使命と魂のリミット についてのレビュー
No.1051:
(7pt)

アラビアのロレンスの裏側

第一次大戦中、パレスチナで活躍したユダヤ人諜報組織NILIの中にトルコ軍の情報をイギリス軍に流し続けた1人の女性スパイがいた。バー=ゾウハーがこの隠れた史実を元に構成したのが本書である。

モデルとなった女性スパイ、サラ・アーロンソンとなるのは考古学者の娘ルース・メンデルソン。彼女はイギリス軍のスパイである元ロシアのレジスタンスという経歴を持つサウル・ドンスキーのために自身もまたイギリス軍へトルコ軍の情報を送っていた。

しかし彼女はスパイであることをトルコ軍に知られ、父親の命と引き換えにイギリス軍の進攻を阻止するために逆にスパイとなってカイロに派遣される。

そして一方のサウルはルースらメンデルソン一家がトルコ軍の司令官ムラドによって惨殺されたことを知らされる。そしてトルコ軍がカイロに女性スパイを送ったことを知り、報復とばかりにその女性スパイの正体を暴いて捕らえる事に執念を燃やす。

本書が史実に基づいていることもあってか、第一次大戦中に名を馳せた実在の人物たちが登場し、登場人物たちと絡み合う。

例えば映画にもなって今なお伝説視されている“アラビアのロレンス”ことロレンス少佐はサウル・ドンスキーとイギリス軍のパレスチナ進攻作戦で論を交わす。

また図らずも女スパイに仕立て上げられたルースの連絡係エンマ・アルトシラーはかつて稀代の女性スパイ、マタ・ハリと共にコンビを組んでいたスパイであり、新任のルースを事あるごとにマタ・ハリと比較して毒づく。

特にロレンスについてはかなり筆が割かれ、また物語のサブキャラクターとしても重要な位置を占めている。

その中で驚いたのはルースによってロレンスがガザへ攻め入ることを知らされ、それを聞いたムラドが彼を捕らえ、カマを掘られるという映画『アラビアのロレンス』でも描かれたシーンがきちんと描かれていることだ。
これは今ではロレンスによるデマだと云われているが、それでもかなりセンセーショナルなシーンであり、やはり作者も避けては通れなかったのだろうか。

この国を跨る巨大な宗教、民族が複雑に絡み合う状況こそ、パレスチナ問題やアラブ諸国が抱える紛争の数々の火種なのだ。
大学時代にこの複雑なイスラム諸国の状況については講座を取ったが、やはりいまだに十分に理解できない。それは信仰に対してさほど意識が薄い日本人には次元の違う問題なのだろう。なんせ第二次大戦では大量にユダヤ人を虐殺するドイツがユダヤ人保護を訴えているくらいなのだ。

そんな複雑な中東諸国の抗争の巻き添えとなったのがルースらメンデルソン家だ。単なる考古学者を家長としているこのユダヤ人の一家がロシア人の諜報員と懇意になった娘がイギリス軍のスパイ活動の手伝いをしたことで、数奇な運命に翻弄される。
そのために弟は目の前でトルコ軍によって銃殺され、父親は囚われの身となり、獄中死する。そしてまだ男を知らない娘はスパイに仕立て上げられ、望まぬまま男に体を与え、処女を喪う。家族を救う、それだけのために。

大義という大きなことをなすために多少の犠牲は必要だというが、その大義のために人生を狂わされた家族がある。ルースたちもまた歴史の犠牲者なのだ。

ところで本編で登場するオーストラリア軍のジェフリー・ソーンダース中佐だが、作者の初期2作で主役を務めていたCIA工作員ジェフ・ソーンダースとは無縁なのだろうか?各登場人物のその後を語るエピローグにそのことについては触れられていないものの、冷戦時に活躍したスパイの父親が実は歴史的な出来事に関わっていたというのは作者のファンサービスだと捉えているがどうだろうか?

主にナチスにまつわる歴史の暗部を描いてきたバー=ゾウハーだが、本書では第一次大戦を舞台にし、自身が政治にも携わった中東諸国について描き、もはや歴史上の出来事とされているイギリス軍のエルサレム侵攻の裏側に隠されたある女スパイの物語を描いた。敵同士に別れた男と女というハーレクインロマンスを髣髴とさせる設定には面喰いつつも、それでもやはりそれぞれの国々が抱える複雑な情勢を的確にとらえる筆致は見事だ。
しかしこの作家の良さはスピード感とスパイという職業が抱える業のようなものを陰影深く描くところに定評があると思うので、次作は恋愛は別にしてもっと魂震える作品を期待したい。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
悪魔のスパイ (ハヤカワ文庫NV)
マイケル・バー=ゾウハー悪魔のスパイ についてのレビュー
No.1050:
(10pt)

一級の工芸品のような作品集

稀代の目利きと名高い、通称“佛々堂先生”に纏わる古美術をテーマにした連作短編集。

まず「八百比丘尼」は椿画で一躍名の売れた関屋次郎という画家のエピソード。
彼の代表作“八十八椿図屏風”は彼の代表作であり、まだ在野の素人画家であった関屋次郎の許に訪れた画商によって頼まれて製作した作品だった。一躍その大作で世に知られるようになった関屋は今や京阪神の女将連中が訪れては作品をたくさん頼まれるほどの人気画家となっていたが、関屋はある絶望を抱えていた。
元々“八十八椿図屏風”は百椿図として頼まれたが依頼人からの知り合いの米寿のお祝いに送りたいという突然の変更により、八十八になった経緯があった。そのことに不満を覚えた関屋は当時内縁の妻であり、送られてきた椿を生けて絵のモデルに仕立て上げていた可津子と別れてしまった。そしてそれ以来彼は同じ椿を構図を変えて書いているだけなのだと告白する。そして最後に書かれた白寿という椿は依頼人だった佛々堂先生への当て付けの意味を込めて書いたのだと、品評会に来た美術雑誌の記者、木島直子に話すのだった。
その話をそのまま佛々堂先生に伝えると先生はある一計を案じる。

続く「雛辻占」はある離島の小さな和菓子屋で幕が開く。
とある神社の門前町で和菓子屋を営んでいた「もろたや」は数年前の火事で店を焼失し、漁師町のある離島で小さな店舗を開いては細々と商いを続けていた。
そんなある日古いワンボックス・カーで訪れた客が店の看板商品である蛤辻占3/1~4にかけて一日200袋収めてほしいと奇妙な依頼があった。既に老境に入った父が焼く蛤の最中は以前の店でも好評だったが、島に移ってからは火事のショックで気力も萎え、一日売れる分だけを焼くのみだったが、その父の後押しで引き受けることにした。
一方新進気鋭の陶芸家小布施千紗子は父親であり高名な陶芸家でもある康介の2世だと云われることに嫌気が差していた。その満ち溢れるエネルギーは創作意欲を沸々と滾らせるほどに十分なのにその作品はどこか父親の作風に似てしまうのだった。
そんな矢先友人で彫金をしている小松啓子から3/1に大阪のとある某所へ一緒に行かないかと誘われる。しかもきちんとした和装で来るようにと念を押されてしまった。
当日駅で待ち合わせをしていると、続々と和装の女性の姿が行き交っているのに千紗子は気付く。駅にいた一人の男に何があるのかと尋ねると佛々堂先生という風流人の家が3/1~4の間、一般開放され、がらくたフェアが開かれているのだという。これらはみなそこに向かう人波だった。


飛騨高山で料亭を営む「かみむら」は店を切り盛りしていた兄の死で急遽東京の会社を辞め、店を引き継ぐようになった上村寛之。3編目の「遠あかり」では佛々堂先生によってこの料亭が盛り返す。
店を引き継いだものの、右も左も解らぬ独身者である寛之は父と兄が遺した数々の工芸品や着物をどのように活用したらよいか解らない。そんな折、店を訪れた上客が寛之に着物の着付の指南を買って出る。
客の云われるままに和装をしたため、蔵に眠る飾り物の印籠を身につけられるうちに寛之は垢抜けた粋な料理人に早変わりする。その後も手紙や電話で客のアドバイスを訊いては店の調度品や自身の着こなしが洗練されるにつれ、口コミで客が増え、「かみむら」は危難を脱出することが出来た。
寛之は客にお礼をしたいと申し出るが、決してその客は受け取らず、強引に品物を送っても、それ以上の高価な物で還ってくるのだった。
そんなある日、客から着付けをした時の印籠を貸してほしいと依頼される。寛之はすぐさま送るが、それはまたすぐに送り返されるのだった。年に一回、そんなことが幾年か続いた後、今度は寛之に印籠をつけてこちらに来てほしいと云われるのだった。

最後を飾る「寝釈迦」は実に気持ちのいい作品だ。
和田家は信州の旧家角筈家が所有する山の手入れを任されている山守りで民宿も経営している。和田克明は脱サラをして親の手伝いをするうちにこの山守りという仕事にのめり込んでいった。
そんなある時、角筈家の当主が土地の一部を手放して家を美術館に改装するという噂が立っており、その中にどうやら謂れのある山が入っているというのだった。その山は克明の父が1人で手入れをしている山だったが、昔松茸が取れると云われて買わされた不毛の土地だった。しかしその噂が立ってから克明の父は腰が悪いと云って急に母親と湯治に出たまま、なかなか帰ってこなかった。
そしてなぜか佛々堂先生がこの土地に乗り込んできた。どうやら角筈家が美術館に改装するのに一肌脱ぎに来たらしいのだが…。


服部真澄氏と云えば国際謀略小説やコン・ゲーム小説、そしてビジネスの世界に焦点を当てたエンタテインメント小説のジャンヌ・ダルク的存在だが、古美術や骨董品の目利きとして名高い通称“佛々堂先生”が登場する連作短編集はそれまでの彼女の作風を180°覆す、日本情緒溢れる古式ゆかしい物語だ。

佛々堂の由来は仏のような人だから佛の字をあてたとも、いつもぶつぶつと文句を云っているからと2つの説があり、どちらが正しいかは先生と関わった人によって違うだろう。

扱われる題材は日本画、和菓子、焼き物、和食に山守りと日本に昔から伝わる伝統の物や仕事。そしてそれらが抱える問題は先細りする産業であることだ。
いい腕やセンスを持っているのにそれに気付かない製作者がいる、才能はあるのに一皮剥け切れない芸術家がいる、止むを得ない事情で店をたたまざるを得ない名店がある、
佛々堂先生はその本質を見極める目を持って、彼ら自身ではどうしようもできない見えない壁を突き抜けるお手伝いをする。
ある意味再生の物語であると云えるだろう。

そして話中に挟まれる名品の数々に目が奪われる。殊更に贅を尽くしているわけでもないのに、手に入れるのさえ難しいとされる名品が実にさりげなく佛々堂の広大な自宅には配置されており、その筋の目を持った人でないと気付かないほどの自然さだ。
しかもきちんとそれらが使われていることがこの佛々堂先生が粋人である証拠だ。元々使われることを目的に生み出された工芸品や陶芸品が、いつの間にか目の保養とばかりに飾られ、触るのさえ憚れるようになり、それを鼻高々で己の権力の具現化した物のようにしたり顔で来客に見せびらかすような厭味ったらしいことは一切しない。道具は使われることが本望であり、素晴らしいものは使われてこそ活きることを知っている物事の本質を見極めた人物なのだ。

そして各話に挟まれる薀蓄がこれまた面白い。椿が品種改良しやすく、1万を超える品種があるとは初めて知ったし、木の実を指で潰して残った香りと共に盃の日本酒を飲むという飲み方のなんと粋なことか。

しかしこれほどまで作風がガラリと変わるものだろうか?
作者名を知らずに読むと、例えば泡坂妻夫氏あたりの作品だと思う読者がいることだろう。

元々作者には海外を舞台にした作品が多いため、作品にはカタカナが多用されているが、本書ではそれらを封印するかの如く、漢字とひらがなで表記することで情緒やわびさびと云った粋な世界を感じさせる。

泡坂作品を例に挙げたのは2編目の三角籤に関するトリックが披露されたマジシャンでもあった泡坂氏の作風そのものに感じたからだ。

ただ違う点があるとすれば、泡坂氏が江戸の粋を描いたならば、服部氏は上方の粋を描いたところだ。

この違いは例えば泡坂氏の描く登場人物はどこか衰退しつつある職人の道を愚直なまでに突き通し、それが女性に対する思いを正直に伝えらない不器用さに繋がっているような、いわば熱き思いを胸に秘めた人物が特徴的に語られるように思えるが、本書の佛々堂先生は古びれたワンボックス・カーに道具や資材を積み込んで、とにかく「これは!」と思った物を手に入れ、または廃れさせぬよう自ら動いて後押しする、能動的で行動的なところが特徴的だ。最後の1編では自分が守ろうとしている場所に立ち入ろうとする悪徳鑑定人を一喝するほどの気負いをみせるほどだ。

そして作者が本書のような作品を綴ったのには恐らく佛々堂先生が溢す言葉にもあるように、昔なら常識とされたことが世代間の伝達が途切れてしまったために、物事を知らない人が多すぎることに危機感を抱いたからだろう。私も実は年配の方が常識と思っていることを知らないことに気付かされ、失笑を買うことがある。日本人が古来、その知恵によって生み出した機能美を21世紀に残すため、伝えるためにこの作品を著したと私は思ってしまうのである。

服部作品では約260ページと最も分量が少ないのに、実に濃厚で深みを感じさせる短編集。そして今まで服部作品で弱みとされていたキャラクターの薄さが本書の佛々堂先生で一気に払拭されてしまった。

これはまさに掘り出し物の逸品だ。
作家服部真澄氏が扱う主題からストーリー、プロットを丹精込めて練り込んだそれこそ一級の工芸品のような物語の数々である。

正直に告白しよう。
私は本書が服部作品の中で一番好きな作品である。既に手元にある続編を読むのが非常に愉しみだ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
清談 佛々堂先生 (講談社文庫)
服部真澄清談 佛々堂先生 についてのレビュー
No.1049:
(7pt)

泥棒だって人間だい!

泥棒探偵バーニイ・ローデンバーシリーズ2作目の本書でまたまたバーニイは泥棒に入った家で殺人事件に出くわしてしまう。

行きつけの歯科医クレイグ・シェルブレイクから突然頼まれた元妻クリスタルの所持する宝石類を盗み出してほしいという依頼を受けたバーニイはクリスタルが男漁りに外出している安心感からか、思わず長居をしたために(なんと1時間17分もの盗みに没頭していた)、当人が帰ってきたためにタイトルが示す通り、クロゼットに隠れて情事の最中に出くわし、更には殺人事件にも居合わせてしまうという何ともおかしな巻き込まれ方だ。

そして事件はバーニイが想定する悪い方向に動いていく。クレイグは自身の釈放の為にバーニイを警察に売ったのだ。
そしてバーニイは今回の事件が贋札事件に関わってくることを突き止める。

いやはや実に読ませる作品だ。
典型的と云えば典型的、マンネリと云えばマンネリだが、それでも安心印で面白く読めるのがこのシリーズのいい所。

しかしそれでも本格ミステリの妙味がこの作品には溢れている。

スラップスティックな調子なのに、そんな状況でさえ本格ミステリの妙味に変えてしまうシェフ、ローレンス・ブロックの腕前。なんて素晴らしいんだ。

そして今さらながらだが、泥棒探偵バーニイは自身が犯罪者である故に、いつも警察に睨まれているマイナス面がある。そのため、自身の身に降りかかった災難を自ら潔白を証明する必要があるところに従来の名探偵と一線を画する面白味があることに気付いた。
正直この着想はなかなか生まれるものではない。

さて数あるブロックの諸作の中でも、泥棒探偵バーニイ・ローデンバーシリーズはその全てが絶版状態であり、今では新刊では手に入れることは不可能でブックオフなどで古本で買うしかなかったのだが、シリーズ2作目の本書は手に入れることが適わず、渋々飛ばして3作目以降を読んでいたが、電子書籍で読めることを突き止め、このたび楽天koboのアプリでiPhoneにて読んでみた。私自身初めての電子書籍が本書となったわけだ。

基本的に私は感想を纏めるためにところどころ付箋を貼っていくのだが、電子書籍ではこれが出来ない。
Kindleではそういった場所に付箋を貼る機能があるようだが、楽天koboではそれがなく、指でなぞったところをハイライト機能を使ってメモするという方法で代用した。これがなかなか馴れず、初日はもういつ投げ出そうかとイライラすること終始だった。

しかし絶版のスピードが加速する昨今、特に海外小説の絶版スピードの速さは凄まじい物があるので、これら貴重な資産を電子書籍と云う形で買えるようにするというのは一つの策であろう。
しかし電子書籍の開発者たちはもっと読書を趣味とする人々の嗜好や読書方法を研究する必要があるのではないか。正直本書を読む限りではよほどのことがない限り、電子書籍での読書は控えたいというのが本音だ。電子書籍が想定したよりもはるかに普及していないことが体感したことで解ったのはある意味意義のある読書だったと思う。

ただやはり電子書籍でしか読めない絶版作品があれば今後も読んでいきたいと思う。
でもやっぱり紙の本の方が読みやすいなぁ。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
泥棒はクロゼットのなか (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 146-5))
No.1048: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

親にとって子はいつまでも子

人にとって家族とは何なのだろうか?
そして人にとって死に際に何が胸に去来し、そして残された者たちはその人にしてやれる最良の事とは一体何なのだろうか?

『容疑者xの献身』で直木賞を受賞し、ミステリ界のみならず出版界全体の話題になった後の第1作目。それはもう1つのシリーズ、加賀刑事物の本書だった。
そんな期待値の高い中で発表された作品はそれに十分応えた力作だ。

まず驚くのは最初に出てくるのは加賀恭一郎ではなく、父親の隆正であり、しかも病床にいて明日をも知れぬ命だという状況。しかも彼の世話をしているの甥の松宮という警察官。

そして場面は変わり、いきなり登場人物は照明器具メーカーに勤めるサラリーマンの前原昭夫のある1日について語られ始める。
家族を省みず、なんとなく結婚した夫婦で一人息子と実家をリフォームした家に帰る日々。中学生の息子とは会話もなく、しかも痴呆症を患った母親の世話で妻はストレスを溜めている。

そんなどこにでもある、会話や家庭の温かみのない冷え切った家庭で、もはや父親は給料を運んでくるだけの役割でしかない一家に訪れる突然の災厄。
それは息子が幼い児を家で殺害したという事件だった。

そしてその後の夫婦の会話、息子の実に自分勝手な言い分が繰り広げれ、読み進めば進むだけ、この一家に腹を立て、あまりの自分勝手さ、特に妻の八重子の言動の独善さに、救いようのなさに情けなくなってくる。

読む最中、様々な思いが頭を駆け巡る。
まず本書が中学生による幼女殺害事件、即ち未成年による犯行だということだ。東野圭吾氏は未成年によって我が娘を蹂躙された上、殺害された父親の側からの復讐を描いた『さまよう刃』という何とも遣る瀬無い作品があるが、本書では逆に殺人を犯した未成年の息子をどうにか捜査の手から守ろうと奮闘する普通の家庭を描いている。
但し東野氏は今回を同情の余地のある犯行とせず、犯罪者の直巳をあくまでどうしようもない身勝手な社会不適合者とし、さらにその愚息を守ろうとする母八重子も実に身勝手で自己中心的な人物として描き、読者に感情移入をさせない。

更に犯行隠蔽のために父昭夫が思いついたあるトリックは先の『容疑者xの献身』のそれの変奏曲と云える。

もしかしたら本書は『容疑者xの献身』の批判的な意見に対しての作者なりのアンサーノヴェルなのかもしれない。

慎ましいながらもひとかどの幸せな家庭を築き、息子を立派に就職させ、家庭も持たせ、孫も生まれ、もう一人の娘も無事結婚し、奮闘しながら立派に生活している。
そんなごくごく普通の人生を歩んできた老婆が認知症の夫を介護し、痩せ衰えながらもその最期まで看取ることが出来、その後は息子の家庭に引き取られることになったが、そこで直面した息子夫婦の家庭は何とも冷え切り、温かみのないことか。
そんな環境で人生の最期まで過ごさざるを得なくなった老婆がよすがとしたのは幸せだったころの想い出とその品。
そしてもはや人として大事な物さえ失いつつある息子夫婦のまさかの行為。
老婆の想いはいかほどのことだったのだろう。
しかし善悪や好き嫌いで単純に割り切れない、長年連れ添った家族の絆という人生の蓄積が人の心にもたらす、当人しか解りえない深い愛情に似た感情を、東野氏は加賀の父親との関係を絡ませて見事に描き切った。
今までのシリーズで断片的に加賀と父親隆正の不和は加賀の若い頃にあった父の母親に対する仕打ちが原因だということは語られていたが、本書では松宮という正隆の甥でしかも同じ警察官の目を通じてその根が思いの外、深いように知らされる。しかし最後の最後で上に書いた当人同士しか解りえない絆や理解を披露してくれたことで、この陰鬱な物語が実に心が晴れ渡るような読後感をもたらしてくれた。

こんなたった300ページの分量で、しかもどこにでもありそうな事件からどうしてこんなに深くて清々しい物語が紡ぎ出せるのか。
東野圭吾氏はまだまだ止まらない。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
赤い指 (講談社文庫)
東野圭吾赤い指 についてのレビュー
No.1047:
(7pt)

マクリーン版007か

今度のアリステア・マクリーン作品はイギリス情報部員ジョン・ベンタルが挑む潜入捜査だ。オーストラリアで起こっている技術者たちの謎の失踪事件をベンタル自身が燃料工学の専門家に扮して一連の事件の謎を探るという話だ。

舞台は南国の島国フィジー。オーストラリア渡航の乗換のため、宿泊したフィジーのホテルで拉致されるが、機転を利かせて脱出したベンタルとマリーの男女の情報部員が流れ着いたのは考古学者が研究のため逗留する小さな島ヴァルドゥ島。

ヤシの実に白い砂浜、肌を撫でる貿易風に揺られながらハンモックで昼寝をする。およそ諜報活動とは無縁の世界で繰り広げられるのは楽園に隠されたイギリスの秘密基地。しかも今回は男女の情報部員による任務ということでどこか007を思わせる設定だ。
作者マクリーンも意識的なのか、偽装した夫婦として任務を課せられたマリーとベンタルが当初は反目し合いながらも次第にお互いを想いあうようになる。下手をすればハーレクインロマンスと見紛うかのような内容だ。

それもそのはずであとがきによれば本書はイアン・スチュアート名義で書かれた作品とのこと。つまり従来のマクリーン作品とは一線を画した舞台設定と登場人物を想定した作品なのだ。

そんな中で深手を負った科学者を装いながら島の周囲を探るベンタルが察知した真の任務とはイギリスがフィジーの小島で隠密裏に “黒い十字軍(ダーク・クルーセイダー)”という最新式のロケット開発を進めている科学者たちが連れて行った妻たちの行方を探るという物。

真相を読むに至って私はますますこれはマクリーンがスパイアクション小説を想定して書いた作品だという思いを強くした。
それを裏付けるかの如く、今まで硬質な文体で、読む者にさえ苦難を強いることを感じさせられたマクリーンの文体が本書では実に軽みを帯びている。特にベンタルの独白は凄腕の情報部員ながらもグチと減らず口を叩き、特にパートナーのマリーに対する感情をところどころ吐露する辺りは今までのマクリーン作品の主人公とは思えない優男ぶりが垣間見える。

そんなマクリーンの手によるスパイアクション小説はしかし突飛な小道具や秘密兵器といった物は一切出ず、ベンタルが次第に傷を負い、ボロボロの身体で満身創痍になりながらもどうにか新型兵器ダーク・クルーセイダーの持ち出しを阻止しようと奮闘する。
主人公が何でも一流の腕でこなすスーパーマンのような男ではなく、敵と味方の反感を買いながら、自分が死ぬことなど厭わない不屈の心を持っているところがマクリーンらしい。

珍しく軽さを感じる文章でクイクイ読ませる作品だったが、結末はかなり苦いものだった。
しかしこの読みやすさは今後もあってほしい。


▼以下、ネタバレ感想
※ネタバレの感想はログイン後閲覧できます。[] ログインはこちら
黒い十字軍 (ハヤカワ文庫NV)
アリステア・マクリーン黒い十字軍 についてのレビュー