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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1418

全1418件 221~240 12/71ページ

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No.1198: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

コロナ禍の今こそ読まれるべき大作

全5巻。総ページ2,400ページ弱を誇る超大作である本書は1978年に発表されたが、当時約400ページもの分量を削られた形で刊行された。
そしてキングは再び1990年に拡大版として当時削られた分を復刻させ、発表したのが本書である。その際にカットされた全てを加えたものではなく、内容を吟味して加味したとのこと。しかし内容にはほとんど手を加えていないというのがキングの弁。
但し内容を見ると1990年を舞台にしている辺り、時代に関しては修正が加えられているようだ。しかしほとんど発表当時に書かれた物であることから、今回読むことにした。

まず1巻目を読んだときに思ったのは本書が軍によって開発された新種のインフルエンザがある事故によって外部に流出し、それがアメリカ全土を死の国に変えていくというパンデミック・ホラーだということだ。

軍が開発した新型インフルエンザ<キャプテン・トリップス>。それは感染率99.4%を誇る死の病でそれまで存在しなかった病原体だけに人間に抗体がない。そして万が一、抗体を生み出してもウィルス自身が変異し、人間を蝕んでいく、無敵の病原菌だ。

しかしそんな最凶最悪のウィルスが蔓延しながらも感染しない人物たちが登場する。
ステュー・レッドマン、ニック・アンドレス、ラリー・アンダーウッド、フラニー・ゴールドスミス、ロイド・ヘンリード、ランドル・フラッグ、ドナルド・マーウィン・エルバート。
彼らそして彼女に共通するのはなぜか唐突に一面に広がる玉蜀黍畑が現れ、自分が何かを探しているが、そこには何か恐ろしいものが潜んでいるという奇妙な夢を見ることだ。

彼らそして彼女はそれぞれの場所で同じくウィルスに感染しなかった道連れを伴い、旅に出る。
ここでいわゆるパンデミック・ホラーと思っていた物語が転調する。通常ならば被害が拡大していくところに一筋の光のように病原体の正体とそれへの対抗策が生まれ、人類は救われるというのが一般的なのに対し、本書ではそこからアメリカが死の国になってしまうのだ。

つまり約500ページを費やされて描かれた恐ろしき無敵のウィルスがアメリカ全土に蔓延り、ほとんどの人々が死滅していく1巻はこの後に続く壮大な物語の序章に過ぎない。
そして2巻目はそんな荒廃したアメリカを舞台にしたディストピア小説になる。
騒動を鎮圧するために派遣された軍がやがて武器を振り回して小さな国の王になろうとし、殺戮を始める。メディアを使って公開死刑をし出す。略奪を繰り返し、本能の赴くままに行動する。その中にはウィルスに侵されて死を待つだけの者もいる。そんな無秩序な世界が繰り広げられる。

通常このようなディストピア小説ならば、全てが死滅した後の世界を舞台にし、なぜ世界が滅び、荒廃したかは単にエピソードとしてしか紡がれない。しかしキングは敢えてその経過までを詳細に書いた。なぜならそこにもドラマがあるからだ。
普通の生活をしていた国民が突然新種のインフルエンザに見舞われ、次々と死んでいく理不尽さ。これをたった数ページの昔語りで済ませることをキングは拒んだのだろう。
今日もまた昨日のように日常が続き、そして明日が訪れると信じて疑わなかった人々が、実はその人生に幕を引かなければならなかった突然の災禍。誰もがただの悪質な風邪に罹っただけだと信じて疑わなかったという我々の日常の延長線上に繋がるようなごくごく普通の現象がカタストロフィーへの序章だったというリアルさを鮮明に、そして手を抜くことなく描くことが本作を著す意義。これこそがキングが込めた思いだった。だからこそどうしても1978年発表当時の無念を晴らすことが必要だったのだ。

しかしデビュー6作目にしてこれほどの分量の物語を書くという心意気が凄い。本当に物語が次から次へと迸っていたことがその筆の勢いからも解る。

神は細部に宿るという言葉がある。
本来はドイツの建築家ミース・ファンデル・ローエが云った言葉で、何事も細部まで心を込めて作れという意味であるが、それを実践するかの如く、物語の創造主であるキングもまたディテールを積み重ねていく。キングは作家もまた神であることを自覚し、本書の登場人物たちを丹念に描く。

これだけの分量を誇るだけあって込められた物語は5作分以上の内容が込められている。
両親を亡くし愛する妻をも結婚18か月で亡くした孤独な男。
しがないギタリストがひょんなことから自分の作った曲が全米でヒットしていき、人生を狂わせつつある男。
町でも男たちが振り返るほどの美人の娘が妊娠してしまい、母親との軋轢に悩む。
聾唖の青年がアメリカの放浪の旅の途中で助けられた保安官によって保安官代理を務める。
マフィアのヤクを奪い、逃走中のチンピラが立ち寄ったガソリンスタンドで反撃に遭い、ブタ箱に押し込められる。
色んな犯罪に名を変えて関わってきた“闇の男”。

1冊の本が書けるほどの個性的な登場人物たちが軍が開発したウィルスによって崩壊したアメリカを舞台に会する。

人々が死別した町で奇跡的に生き残った人たちが何をするか。これが非常に俗っぽくて逆にリアリティを作品に与えている。
ある者はヤンキースタジアムに行って裸でグラウンドに寝っ転がるのだと息巻く。
人から嫌われていた社会学者はようやくやりたくもない人付き合いから解放され、自分の好きなことに没頭できると喜ぶ。
人がいなくなった世界を存分に楽しむ者も出てくるのだ。

その他感染せずに生き長らえた人々の人生の点描をキングは書く。
病気を乗り越えたからといって人は死なないわけではない。九死に一生を得た後で自転車事故や感電事故、銃の暴発などで死ぬ人々。それは人生が喜劇であり皮肉で満ちていることをキングは謳っているかのようだ。

更に物語は変転する。各地の生存者たちは約束の地を目指すかの如くその町を離れる。そしてその道行でそれぞれに道連れが出来る。
サヴァイヴァル小説、もしくはロードノヴェルの様相を呈してくるのだ。

この第2部から1章当たりの分量が増大するのも大きな特徴だ。
社会に蔓延したウィルスによってもたらされた大量死により個の物語に特化してきた第1部が第2部になって生存者たちがそれぞれ邂逅し、新たなグループを形成しだす。それは即ち小集団の社会を生んでいく。大なり小なりの社会が生まれていく様子を大部のページを割いてキングは語っていく。

小説とは大きな話の中でどこかにクローズアップして語る物語だ。従ってたった1日の出来事を数百ページに亘って書く物もあれば、人の一生を語る物、百年、いや数百年の歴史を語る物、それぞれだ。何巻、何十巻と費やして書かれる大河小説もあれば、1冊に収まる小説もある。それらはどこかに省略があり、メインの、作者が語りたい部分を浮き彫りにして描かれるが、本書は全てが同じ比重で描かれている。だからこそこれほどまで長い物語になっているわけだが、キングはやはり書きたかったのだろう、全てを。頭に住まう人々のことを余すところなく描きたかったのだろう。

ステュー・レッドマンはオガンクィットからストーヴィントンの疫病センターを目指すフラニーとハロルドたちと合流する。

聾唖の青年ニック・アンドレスは知的障害の青年トム・カレンと旅程を共にする。

ミュージシャンラリー・アンダーウッドは女性教師のナディーン・クロスと彼女が拾った口の聞けない少年ジョーと出逢い、旅に出る。

それぞれが出逢いと別れを繰り返し、仲間を増やし、また仲間を喪いながら、ある目的地、ネブラスカにいるマザー・アバゲイルの許へと向かう。

皆が一同に会する安住の地はコロラド州ボールダー。そこを彼らは<フリーゾーン>と呼び、コミュニティが形成されていく。無法地帯と化したアメリカの再生の地、そして彼らを付け狙う<闇の男>に対抗する力を持つべく、彼らは町を復興させ、そして主たるメンバーで委員会を発足させ、秩序を、社会を再構成しようとする。

最終巻5巻はラスヴェガスで次第に闇の男の勢力が弱まっていく様が語られる。
善と悪。
この表裏一体の存在は一方が弱まると他方もまた同様に衰退していく、そんな不可解な原理が働くようだ。そして物語は善と悪との直接対決へと向かう。

キングは本書でもたらしたのは複雑化してしまい、もはや何が悪で善なのか解らない世界を一旦壊してしまうことで人々が善と悪に分かれて戦う、この単純な二項対立の図式だ。
そう、これは世紀末を目前にした人類による創世記なのだ。善対悪、天使対悪魔の全面戦争の現代版なのだ。

善の側の中心人物がネブラスカに住む108歳の老女マザー・アバゲイルことアビー・フリーマントル。彼女は“かがやき(シャイニング)”と呼ばれる特殊能力、予知能力を有する女性だ。そう、『シャイニング』で少年ダニー・トランスが持っていた同じ能力だ。

一方悪の側の中心人物はランドル・フラッグ。闇の男の異名を持ち、生存者の夢に現れては恐怖を与え、時に目を付けた人物の悪意を唆す。従って善の側にいる人々の中にも新たに生まれたコミュニティ生活の人間関係に苦しみ、また憎悪が芽生え、その心の隙間にランドルは囁きかける。
フラニーに惚れて共に行動しながら同行者となったステューに嫉妬するハロルド・ローダーとラリーを欲しいと願いながらも純潔を守り通そうとする屈折した感情を抱く元教師ナディーン・スミスがランドルの標的となっている。

この2人だけが超越した人間として書かれている。2人に共通するのは生存者たちの夢の中に出現することが出来ることだ。しかしランドル・フラッグは実に謎めいている。
マザー・アバゲイルが“かがやき”を備えていることが説明されているのに対し、ランドル・フラッグは特殊な“目”を持ち、千里眼の如く遥か彼方の出来事を見通すことが出来、さらに各地へ飛ぶことが出来るという説明があるだけだ。“かがやき”が善なる力ならば彼の能力は悪の力でまだ名前がないだけなのかもしれない。
しかし彼はどこにでも行けると思わせながらもマザー・アバゲイルたちが住む<フリーゾーン>へは赴かない。いや誘惑したナディーンたちの前に現れてはいるが実体化しているかどうかは解らない。彼の行動範囲には限りがあるということなのか。彼の領域があり、その中で自由自在に動けるということなのかもしれない。

人は未曽有の災害を生んで、ほとんどが亡くなり、また大いなる悪に打ち勝ってもまた同じことを繰り返すのだ。
人間社会はその繰り返しである。本書の言葉を借りれば、まさに回転する車輪の如きもので、歴史は常に繰り返される。それは即ち過ちをも。

また興味深いのはスパイとして潜入したデイナが闇の男が統治するラスヴェガスの方が規則正しい生活が成されていることに気付き、驚きを感じるシーン。
それは闇の男の機嫌を損ねぬように生きているからこそ、つまり恐怖が規律を育てているという皮肉。これは現代社会の規律を皮肉っているようにも取れる。
我々は何かを恐れているがゆえにシステムに固執し、それを守ることでうまく機能を社会にもたらせている、そんな風にキングは指摘しているように感じた。

色んな人生を読んだ。そして彼ら彼女らはいつしか自分を変えていった。

その中で私が最も印象に残ったキャラクターはトム・カレンとハロルド・ローダーだ。

トム・カレン。本書では言及されていないが彼もまた“かがやき”を備えた知的障害者だ。ニック・アンドレスと出逢う前の彼はパンデミックで人々が亡くなる前は両親とともに暮らすただ障碍者で、災厄の後では一人町に取り残された弱者に過ぎなかった。しかし彼は自分が何者かを知っていた。だから誰も彼を馬鹿にしなかった。彼がただ他の人よりもちょっと足らないだけだ。従って彼は愚直なまでに命令に忠実だ。その愚直さが実に微笑ましく、また感動を誘う。
そして彼はトランス状態に陥ると“かがやき”を備えたかのように先を見通せるようになる。最後まで底の見えない好人物だった。

ハロルド・ローダー。
美人で優等生の姉と常に比較され、劣等感を抱えて生きてきた彼は知識を蓄えることで自らをヒエラルキーの頂点に持っていこうとするが、持っていた劣等感ゆえに尊大さが目立ち、人を見下すようになる。パンデミック後も町でたった2人で生き残った憧れの君フラニーと親しくなることを期待するもすげなく断られ、道中で一緒になったステューに彼氏の座を奪われる。そこから憎悪がねじ曲がり、表向きは快活な笑顔を振る舞って協力的な態度を示しながらも<元帳>と書かれた日記には自分の憎悪の丈をぶつけ、日々復讐心を募らせる。

彼は常に人に認められたいと願った男だった。しかしいつも誰かと比較され、そして貶められていた。そのことがどうしても我慢ならなかった。しかし彼は自分が認められる道を見つけたのだ。嘘でも笑顔で振る舞い、皆の注目と関心を得るために嫌な仕事も率先してやることでとうとう欲しかった信頼、仲間を得たのだ。
しかしその頃にはもうすでに彼の心は病んでしまっていたのだ。彼はもうその安住の地に留まることを潔しとせず、初心貫徹とばかりに自らの憎悪に固執してしまったのだ。
人は変われるのに敢えて変わることを選ばなかった男、それがハロルドだ。彼の許を訪れ、情婦となったナディーンがいなかったらハロルドはそのまま<フリーゾーン>に留まっただろうか?
私はそうは思わない。彼が抱えた闇は簡単には晴れなかった、そして彼は自分の性分に正直に生きた、それだけだ。

ところで題名『ザ・スタンド』の意味するものとはいったい何なのだろうか?
本書では最後に闇の男が甦った際に「拠って立つところ」とされている。
なるほど、全てが喪われた世界でそれぞれがどんな拠り所を、己の立ち位置を見つける物語という意味なのか。善に立つか悪に立つか。しかし私は立ち上がる人々、即ち蜂起する人々という意味も加えたい。
最終巻、いや最終の第3部に至って挿入される引用文の1つにあの有名なベン・E・キングの歌“Stand By Me”の歌詞が引用されている。貴方が傍にいるから怖くない、と。だから私も立つのだ。

しかしキングはよほどこの歌が好きなようだ。ご存知のようにこの歌の題名をそのまま使い、映画化もされて大ヒットした短編を後に書いてもいる。歌い手の名が同じ苗字を冠していることもその一因なのだろうか。

こんな長い物語を読み終えた今、胸に去来するのはようやく読み終わったという思いではなく、とうとう終わってしまったという別れ難い思いだ。

2,400ページ弱の物語が長くなかったかと云えば噓になるが、それでもいつしか彼らは私の胸の中に住み、人生という旅を、戦いを行っていた。

通常これだけの大長編を書いた後では虚脱状態になってしばらくは何も書けない状態になるのではないだろうか。読み終わった私でさえ、半ばそのような状態である。
洋の東西問わずそのような事例の作家が少なからず思い浮かぶが、キングはその後でも精力的に大部の物語を紡ぎ続けているところだ。彼の創作意欲は留まるところを知らない。
キングの頭の中には今なお外に出たくてひしめき合っているキャラクターが潜んでいるのだろう。天才という言葉を軽々しく使いたくないが、現在まで年末のランキングに名を連ねる彼はまさしく小説を書くために生まれてきた正真正銘の天才だ。

また本書ほど読む時期で印象が変わる物語もないだろう。
上に書いたように2,400ページ弱を誇る大部の物語はキングの色んな要素を内包している。本書が1978年に発表された当時にカットされた分を付け足した1990年に刊行された増補改訂版であるのは冒頭に述べた通りだが、この作品を1978年当時の作品として読むか、1990年発表の作品として読むかで変わってくる。
前者であればその後のキングの諸作のエッセンスが詰まっている、いわばキング作品の幹を成す作品と捉えるだろう。しかし後者ならばそれまでに発表された『IT』を凌ぐキングの集大成的作品として捉えた事だろう。
解説の風間氏がいうように私は前者の立場で読んだ。従って私の中ではキングはまだ始まったばかり。本書がこの後紡ぎ出した数々の作品にどのように作用しているのかを読むことが出来るのだ。

実はまだまだ語りたいことが沢山ある。なにせ色々な物が包含され、またそのままの状態で終わった物語であるからだ。
ナディーン・クロスに寄り添っていたジョー、即ちリオ・ロックウェイのこと、本書で登場する玉蜀黍畑は短編「トウモロコシ畑の子供たち」でも意志ある存在として不気味なモチーフで使われていたが、アメリカ人、いやキングにとって玉蜀黍畑とは何か特別な意味を持っているのだろうか、等々。

しかしそれはおいおい解ってくるのかもしれない。今後の壮大なキングの物語世界に浸ることでそれらの答えを見つけていこう。


▼以下、ネタバレ感想
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ザ・スタンド(上)
スティーヴン・キングザ・スタンド についてのレビュー

No.1197:

CANDY (祥伝社文庫)

CANDY

鯨統一郎

No.1197:
(1pt)

これをどう読めばいいのか?

本書は祥伝社の企画で全て書下ろしの400円文庫のうちの1冊として刊行されたもの。他の作品について読んだのは瀬名秀明氏の『虹の天象儀』のみで、他の作家がどれほどのクオリティの作品を著したのかは解らないが、とにかく鯨氏の手による本書は改行と一行空きが多い分量が少ない作品で、かつ破天荒なストーリー展開が繰り広げられるパラレルワールドを舞台にした物語となっている。

物語は記憶喪失の「あなた」が神が3つの世界のうち1つのみを残して抹消しようとしているとしているのを、どの世界を残すか決定権を持つことが出来る赤、青、黄のキャンディを手に入れるため、それぞれの所有者との戦いに挑むというもの。いわゆるバトル系の物語なのだが、本書はそんなストーリーよりも鯨氏の言葉遊びを楽しむのが正しい読み方だろう。

「あなた」の味方に付く日ペンの巫女ちゃんの部下シャーリーズ・エンジェル、敵のダイオ鬼神、残り2つのキャンディを所有する敵がビッグ伴と阿武能丸、予言者がいる<忘れチッククラブ>、コドモオオトカゲ、キャンディを狙うくノ一華幻嬢女(加減乗除)に根尾那智などどこかで聞いたような名詞がパロディ化されて登場する。

後半に行けば行くほど団地街平行棒、網仮膜下出血、東京ドーモ学園、デルフォイの信託銀行、最古セラピストとどんどんエスカレートし、次にはダライ・マラ、秘打・高山、カップニードル、あゆみの呪いとほとんどダジャレに近い、しかも小学生レベルのネタが続く。

とにかく言葉遊びが全編に亘って横溢しており、正直に云って3つの世界のうち1つを救うための戦いというメイン・ストーリーはもはやどうでもいいくらいで、鯨氏が次から次へと繰り出すナンセンスギャグを楽しむのが吉だろう。

しかし読者自身を現在住んでいる地球とは異なるパラレルワールドに引き込むために二人称叙述を選択したようだが、あまり成功しているとは云えない。なぜなら主人公の主観がかなり物語に入っているからだ。つまり「あなた」という名前の主人公の三人称叙述のようにしか読めなかった。

しかし前回読んだ『千年紀末古事記伝ONOGORO』でもそうだったが、下ネタ、特にセックスネタが鯨氏の作品にはよく登場する。本書でも必ず出てくる女性はグラマラスかつ美人で、物語の分岐点では意味もなくセックスが介在する。安っぽい三文小説を読んでいるかのようだ。

小さい頃に読んだやたらとウンコが登場する意味無しギャグマンガを小説に仕立てたような子供じみた作品か。但し本書はウンコの代わりにセックスが頻出するのだが。

駆け出し作家が出版社からの執筆依頼に全て応えていた頃に書かれた走り書き小説の類というのは酷評過ぎるかもしれないが、正直何を書きたかったのか作者のテーマがはっきりと見えない作品だった。


▼以下、ネタバレ感想
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CANDY (祥伝社文庫)
鯨統一郎CANDY についてのレビュー
No.1196: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ライトからディープへと見事な戦略の勝利!

2011年に刊行されるや一気にブームとなった古書店を舞台にしたライトノヴェル。ドラマ化もされたので本を読む人以外でもその名を知っているほどの有名な作品をようやく手にしてみた。
第1巻である本書は4つの短編で構成された短編集である。

主人公は五浦大輔と篠川栞子。
五浦大輔は大学を卒業したものの就職先が決まっていない就職浪人。篠川栞子は北鎌倉に店を構える「ビブリア古書堂」を亡き父の跡を継いだ店主。この2人が出逢う話が第1話目の「夏目漱石『漱石全集・新書版』(岩波書店)」である。
シリーズの幕開けを告げる本作はいわばビブリア版『マディソン郡の橋』とも云うべき適わぬ恋の物語だ。昭和の女性として飲む打つ買うの三拍子好きだった祖父にひたすら耐えるように連れ添った厳しかった祖母が棺まで持って行ったたった1つの本当の恋愛が死後1年経って、その蔵書から解かれる。
平凡と思われた家族にも何かしら隠された秘密はあるものだ。
そして五浦はこの事件がきっかけでしばらく古書堂のお世話になることになる。

第2話「小山清『落穂拾ひ・聖アンデルセン』(新潮文庫)」は五浦がビブリア古書堂で働き出して3日目の事件を扱っている。
本作のミソは依頼人の志田が盗まれた本が新潮文庫だったという点だ。
これを大切なプレゼントの応急処置としたところが作者の着眼点の妙だろう。本作で挙げられている作品『落穂拾ひ』が本書の話と絡むのは当然のことながら、文庫をこのような小道具としたところを賞賛したい。本に纏わる話を考えていると取り上げる作者の経歴とかテーマとなる話そのものから物語を考えるので、なかなか本作のような発想は思いつかないものである。天晴れ。

3話目「ヴィノグラードフ・クジミン『論理学入門』(青木文庫)」はある夫婦に纏わる話だ。
紳士の暗い過去を知られないために本を処分するという動機の方が味わい深いと思わせながら、最後にさらに夫婦の仲が深まるエピソードに落とすあたりはなかなか。
謎と云い、物語と云い、小粒感は否めないが、それは本作が最後のエピソード「太宰治『晩年』(砂子屋書房)」への橋渡し的な役割を果たしているからだ。
古書に纏わる事件と云えば狂信的な収集家が起こす事件が定番だが、ラノベである本書では敢えてそのディープな内容を避け、本に纏わる日常の謎について語ってきたのだが、最後の事件になってようやく核心的な謎について触れられている。
1冊の本のために数百万もの大金を出し、手に入らないと解れば持ち主を殺してでも奪おうとする狂信的な書物愛こそが古本マニアの本質だ。最後に登場した栞子の宿敵とも云える大庭葉蔵の正体は正直意外だった。
また掉尾を飾るエピソードとあって、それまでの話に出ていた登場人物が登場する。2話目で志田と親しくなった女子高生小菅奈緒はビブリア古書堂の常連に、3話目に登場した坂口夫婦も登場し、更に1話目で判明した五浦の出自も意外な形で物語に関わってくる。
しかしこのコレクター魂こそが収集狂の典型とも云える。


冒頭にも書いたように既にドラマ化もされ、文庫も版を重ねたベストセラーシリーズの第1弾。旬も過ぎたかと思われたこの頃になってようやくその1巻目を手に取ることにした。

私は熱心なライトノヴェル読者ではないのでそれほど同ジャンルの作品を数多く読んでいる訳ではないのだが、色んなメディアから見聞きした昨今の業界事情から考えるとキャラクター設定としては決して突飛なものではなく、ミステリを中心に読んできた私にしてもすんなり物語に入っていけた。

人見知りが激しいが、いざ書物のことになると饒舌になり、明敏な洞察力を発揮する若き美しい古書店主というのは萌え要素満載だが、いわゆる“作られた”感が薄いのが抵抗なく入っていけた点だろう。また古書店主というのが本読みたちの興味をそそる設定であることもその一助であることは間違いでないだろう。

しかし扱っているテーマは古書というディープな本好きには堪らないが普段本を読まない中高生にはなんとも馴染みのない世界であるのになぜこれほどまでに本書が受け入れられたのだろうか。

上にも書いたがこういった古書ミステリに登場する古書収集狂は最後のエピソードにしか出てこないことが大きな特徴か。
本に纏わる所有者の知られざる過去が判明する第1話。
その文庫しかないある特徴を上手く利用した、本自体を物語のトリックとして使用した第2話。
夫が大事にしていた本を突然売ることになったことでそれまで隠されていた過去が判明する第3話と、1~3話まではいわゆる本を中心に生きてきた狂人たちは一切出てこらず、我々市井の人々が物語の中心となっていることが特徴的だ。従って古書を扱っていながらも所有者の歴史を本から紐解くという趣向がハートウォーミングであり、決してディープに陥っていない。

しかしそれでも1話目から作者自身が恐らく古書、もしくは書物に目がないことは行間から容易に察することができる。従って作者は話を重ねるにつれて読者を徐々にディープな古書の世界へと誘っていることが判ってくる。
例えば1,2話では現存する出版社の本であるのに対し、3話目からは青木文庫、砂子屋書房と今ではお目に掛かれない出版社の書物を扱ってきており、そこからいわば古書ミステリのメインとも云える収集狂に纏わる事件となっていく。

しかしそれでも作者自身もこれほどまでに世間に受け入れられるとは思っていなかっただろう。なぜならば本書にはシリーズを意図する巻数1が付せられてなく、また話も五浦の出生に纏わる過去が最後で一応の解決が成され、更に五浦がビブリア古書堂を去るとまでなっていることからも本書で一応の幕が閉じられるようになっていたことが判る。

しかしその作者の予想はいい方向に裏切られ、現在7巻まで巻を重ね、人気シリーズとなっている。これはビブリオミステリ好きな私にとっても嬉しいことだ。

そしてそのことが拍車をかけたのか、作者も古書の世界をさらにディープに踏み入り、そしてミステリ興趣も盛り込むことで『このミス』にランクインするほどまでにも成長した。

ラノベという先入観で手に取らなかった自分を恥じ入る次第だ。このシリーズがたくさんの人々に古書の世界への門戸を開くためにバランスよく味付けされた良質なミステリであることが今回よく解った。
次作も手に取ろうと思う。
栞子さん目当てでなく、あくまで良質なビブリオミステリとして、だが。


▼以下、ネタバレ感想
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ビブリア古書堂の事件手帖―栞子さんと奇妙な客人たち (メディアワークス文庫)
No.1195:
(7pt)

フリーマントルですら舞台を中国にするのは難しいようだ

本書の裏表紙の概要にはシリーズ第9作というのは実は間違いで本書は10作目に当たる。9作目の“Comrade Charlie”は未訳なのだ。そしてどうもそれがいわゆるそれまでのシリーズの総決算的な内容で、正直本書からはシリーズ第2部とばかりにキャラクターも刷新されている。

まずチャーリーのよき理解者であったイギリス情報部々長のアリスター・ウィルソン卿は2度の心臓発作により部長職を退き、ピーター・ミラーが上司となり、さらに直接の上司として女性のパトリシア・エルダーがチャーリーの指導に当たる。

また相手側も実際に解体されたソ連からロシア連邦となっており、まだ政治的な混沌の中での国際的対応が強いられている様子。そしてシリーズ1作目から登場していたチャーリーの宿敵ベレンコフが既に失脚しているという状況。
第8作ではベレンコフがチャーリーと縁のあるナターリヤを使って罠を仕掛けようと不穏な空気を纏った中で物語が閉じられるので、いきなりのこの展開には面食らった。なぜ第9作が訳されなかったのだろうか。これは大罪だなぁ。

そんなソ連が解体された時代1993年に発表された本書の舞台は中国。
まだ西欧諸国にとって未知で理解不能、しかも明らかに容貌が違うためにどこに行くのにも目立ってしまう西洋人にとって自分たちの原理原則論が全く通じないワンダーランドである中国に潜伏しているフリーランスのエージェントに中国の公安の者と思われる人物より嫌疑がかけられているとの情報を得て、チャーリーが育てた新任のジョン・ガウアーが単身中国に乗り込む。

まず最初の読みどころはチャーリーが教師となって新人の局員ガウアーを教育するくだりだ。
優秀な成績を修め、自信満々で乗り込んできたガウアーの出鼻を挫くかの如く、悉く彼のやり口を否定するチャーリーの鋭敏さが小気味よい。チャーリーが教えるのはそれまで彼が長年の諜報活動で培ってきた生きる術、即ち彼独自で編み出した「生存術」だ。それは人間の心理、スパイの定石を知り尽くした彼だからこそ教えることが出来る現場における実践術だ。
しかしそんなチャーリーの生存術も風貌が西洋人と全く異なる中国では通用しないようだ。なぜならあっという間に彼は中国の公安部にスパイ容疑で拉致されてしまうからだ。

さて北京オリンピック後の中国を知る今となっては西洋人がかの国に多数いても驚きはしないのだろうが、当時はまだ経済的に発展しておらず、また西洋人に珍しい眼を明らさまに向ける国民ばかりだからスパイ活動というのは得てしてやりにくかったに違いないし、また中国政府側も目立つ西洋人の常に監視している、なかなかに緊迫した状況で物語は進む。

そしてジョン・ガウアーが拉致され、劣悪な状況で監禁と尋問を繰り返される辺りは意外にも手ぬるいと感じてしまった。
いや確かに自身がそのような境遇に置かれるともう2日と持たないだろうと思うのだが、今まで読んできたいわゆる監禁を扱った小説に比べると実に生温く感じるのだ。決して肉体的な苦痛を与えられるわけでなく、蠅がびっしりたかり、穴からネズミがはい出てくるトイレ、混ぜると何かが浮いてくる食事、口に含むだけで下痢となる水、誰かの体臭が染み付いた囚人服といったアイテムには嫌悪感は増すものの、もっと凄まじい環境が今まで読んできた小説にあったのは確か。それらと比べるとなんとも大人しいなぁと思ってしまった。
ただそれでもどうにか自身の正体を偽り、生き延びようとするガウアーの姿は胸を打つ。これが諜報の世界の厳しさだ。

また一方でロシア側も情報局の新局長となったナターリヤの昇進を快く思っていない次長のチュージンによる執拗な上司の身辺調査により、彼女と前夫との間に出来た不肖の息子エドゥワルドが麻薬や闇物資の密輸の主犯としてロシア民警に拘束されている情報をキャッチする。ナターリヤは自らのキャリアの保身のために民警と情報局双方にとって最善の道を模索するが、それを権力の私的濫用としてナターリヤを陥落させようとチュードルが画策する。

またチャーリーも現場復帰が適わず、新人の情報部員の教育係という閑職に甘んじている現状が我慢できず、新上司2人の身辺を洗い、2人が不倫関係にあることを突き止めるが同時にロシア人と思われる情報員たちの監視対象になっていることも偶然突き止めてしまう。

情報を扱う任務に携わっている人々は自らの保身、また昇進という野心のために上司の身辺を調査することが英露両国とも共通しているのが面白い。
日本でも上位職の人たちの人事に目を配り、どこのポストに空きが出来、そしてそこに収まった時に誰が上司になっているのかと想像を巡らすサラリーマンはいるものだが、本書に出てくる登場人物がどこまでのリアリティを持っているかは解らないけれど、常に虚実の入り混じった情報を相手にし、国際政治を左右する状況に置かれている任務に携わっている人々はこのように自分の職場での立場を少しでも優位にするために上司のプライヴェートまで踏み込んでいくのかもしれない。
いやはや人間不信にたやすく陥る職業である。

またチャーリーが今回宛がわれた業務が新人のスパイ教育であり、今まで現場の最前線で世界を股にかけて仕事をしてきたチャーリーがこれを閑職とみなして腐っているが、実は上司たちは彼のスパイとしての数々の実績を評価しており、またその高い生存率にも注目した上での配属であるのだ。なにせ一度自国の情報局員として勤務しておきながら、自分を消そうとした組織に仕返しをして自ら辞職した後、スパイとして旧ソ連に捕まっていながら見事に元の英国情報部に返り咲いたという異色の経歴の持ち主である。
そんな数奇な運命を辿りながら現職のスパイであるチャーリーのスパイ術を後進の者たちに伝授するのは組織にとっても有益なのだから全く以て閑職ではないのだ。

しかし私が勤務する製造現場を持つ会社でも年を取っても現場がいいという人間はおり、出世して本社や支社勤務になるとデスクワークばかりが耐えられないという。
従ってチャーリーの抱く窓際感は解らなくもないが、実際諜報活動では若い頃のように動けないこと、年々衰える記憶力によって失敗することで大きな国際問題に発展しかねない職場であるから、ヴェテランはある時期が来たら管理部門に異動して現場から離れるべきだろう。つまり今現在でも続くこのシリーズで既に老境に入ったチャーリーが現場の最前線に立つこと自体が諜報の世界では異常なのだ。

そして本書のメインであるチャーリーの中国潜入が始まるのはなんと下巻の170ページ辺り。つまり上下巻合わせて約660ページの本書においてなんと75%が過ぎたあたりからチャーリーのお出ましとなるわけだ。

それに至るまではまさに上に書いたように管理的仕事に回されたチャーリーのグチと上司の監視、またロシアでのナターリヤに訪れる地位陥落を企む部下のチュージンとの覇権争いが繰り広げられる。

フリーマントル作品の醍醐味の1つに高度なディベート合戦が挙げられるが、本書でもその期待が裏切られることはない。鉄壁の防御を誇る情報局部長と次長の秘書のガードをどうにか崩していくチャーリーの駆け引きなども含めて大小様々なディベートが繰り広げられるが、本書の白眉はやはり息子の逮捕によって窮地に陥ったナターリヤの審問会の場面だろう。
息子に便宜を図ろうとしていたところを危うく部下のチュージンに嗅ぎつけられ、それを証拠として局長の座から陥落させようと企む彼が付きつけるあらゆる証拠を僅かに残された糸のように細い手掛かりを手繰りながら自らに降りかかった嫌疑を晴らしていくプロセスは実にスリリング。インテリジェンスを扱う者はそれを武器にする者とそれに溺れる者とに分かれるがまさにこのナターリヤとチュージンの2人の構図はそれをまざまざと見せつけてくれる。

ということで考えるとチャーリーの中国潜行がメインと書いたが、ストーリーにおける全体の25%に過ぎないとなるともはやメインではないだろう。
本書は中国での英国の諜報活動、ロシア連邦という新体制下で情報局の局長に就任したナターリヤの動向と新体制の英国情報部のお披露目といったインタールード的要素を持ちながら、その実チャーリーが中国に乗り込むまでのそれぞれの状況全体に仕掛けた叙述トリック的作品とも読める。

ただ今まで東ドイツ、旧ソ連と東側の大敵を相手にしてきたフリーマントル作品が、東西ドイツ統合、旧ソ連の解体と歴史的転換期を迎えたことで確固たる敵を見失っているような感じが行間から感じられた。

今回フリーマントルが選んだ新たな敵は中国であるのだが、この全く風貌の異なるアジアの国で西洋人がスパイ活動をすることの難しさが述べられるだけで小説としてはなんとも実の無さをストーリー展開に感じざるを得ない。つまりこの中身の薄さは作者自身が中国の情勢と文化に造詣があまり深くないからではないだろうか。

それを裏付けるように本書の前後に書かれたのは米国のFBI捜査官とモスクワ民警の警察官が手を組む新シリーズカウリー&ダニーロフがあり、本書の次のチャーリー・マフィンシリーズ『流出』はロシアを再び舞台を移して西側への核流出を阻止するために米露の情報部と手を組むという、自らの得意領域に再び戻っているからだ。

この後も中国を舞台にした作品が見受けられないことを考えるとやはり冷戦後の安定期に移りつつある世界情勢でスパイ小説の書き手たちが題材に迷っていたが、フリーマントルも例外ではなかったということのようだ。

何はともあれ、ようやく未訳作品を除いて本書にて全てのチャーリー・マフィンシリーズを読むことが出来た。2006年1月25日に第1作の『消されかけた男』を手に取って足掛け約11年。実に長い旅であった。
『魂をなくした男』以降のシリーズ作品が出るかは作者の年齢との相談にもなるだろうが、とことん最後まで付き合っていくぞ!


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報復〈上〉―チャーリー・マフィンシリーズ (新潮文庫)
ブライアン・フリーマントル報復 についてのレビュー
No.1194: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

キング作品を読み解いていく上でも羅針盤となる短編集

短編集『深夜勤務』と合わせて二分冊で刊行されたキング初の短編集のこちらは後半部分。

「超高層ビルの恐怖」はマフィアの妻を寝取った元テニス・プレーヤーの男が巻き込まれたある賭けについての話だ。
ロアルド・ダールの有名な短編「南から来た男」を彷彿とさせるシンプルかつ人生を賭けた危うい賭けという題材。たった5インチ幅の手摺の上を歩いてビルを一周するというアイデアもさることながら、主人公を妨害しようと嘘をついていたと話したり、リンゴをビルから落としてグシャリと割れる音を聞かせたり、癇癪玉を突然鳴らしたりと心理的に追い込む相手の策略や既得権を発揮し、主人公に襲い掛かる鳩の存在などシンプルな題材で置いてもアイデアが尽きない。
しかしその割にはちょっと詰めが甘いかな。

次の「芝刈り機の男」は実にシュールだ。
よくもまあこんなこと考えつくよなぁというのが素直な感想だ。業者に芝刈りを頼んだら芝刈り機が独りでに庭中を駆け巡り、男が素っ裸になってその後を追って刈った草を次から次へと食べていく…。悪夢のような光景である。
このシュールさは実にジョジョ的だ。いやキングが本家なんだけど。
しかし前巻の「人間圧搾機」といい、「トラック」といい、キングは意志を持つ機械にそこはかとない恐怖を覚えるようだ。

そのジョジョ、いや荒木飛呂彦がいかにも書きそうな話が次の「禁煙挫折者救済有限会社」だ。
薬も使わない、集団催眠に掛けるような説教も行わない、特別な食餌療法もしない、更には1年間煙草を吸わなくなるまでは一切料金はいらないという実に摩訶不思議な禁煙専門会社の療法は、その人物の良心に訴えるものだった。
しかもそれが冗談ではなく、実際に成されるのだから、怖い。
更に職員が24時間監視しており、それも期間が過ぎるにつれて、監視の頻度も薄まるが、いつどこで誰が見張っているのかは対象者は解らないため、常に見られているという強迫観念の下、生活を強いられる。それでも成功率98%というのだから、残り2%の顧客は家族や自分の生活の平穏よりも喫煙を選んだ人がいるのだから、煙草の中毒性の恐ろしさが判るという物だ。
そしてそんな不利益を自分だけ被るのは面白くないとばかりに顧客は喫煙者にその会社を口コミで知らせるようになる。
特に最後の一行が本書では効いている。
しかし喫煙を始めなければこんなことも起こることはなかろうに。

女性にとって理想の男性とは?「キャンパスの悪夢」はある女子大学生の前に彼女の望むものを全て適えてくれる男性が現れる話だ。
今でいうストーカーの話。自分の好みを知り、いつも期待に応え、願望を叶えてくれる、そんな理想の相手が現れたら、男であれ女であれ心惹かれてしまうだろう。なぜなら共感を持てる人物に人は惹かれるからだ。本作で登場するエド・ハムナーは黒魔術を使って彼女の心を読み、また彼女と自分が付き合うのに障害となる物や人を排除して彼女と近づくことに成功した。それは小学生の頃からの淡い恋心が生んだ情念のようなものの産物だったのだが、私はこの事実を知らなければエリザベスはエドと幸せに暮らせたのではないかと思う。
つまり幸せとは知らなくていいことが潜んでいるものであるとキングは本作で暗に示しているのではないだろうか。

「バネ足ジャック」はその名から連想されるように切り裂きジャックをモチーフにした短編。
う~ん、なんとも微妙な終わり方だ。
バネ足ジャックと云えば藤田和日郎氏による黒博物館シリーズに挙げられており、そちらを連想したが、正直藤田氏の作品の方が怖かった。
しかしバネ足ジャックという都市伝説は実際に切り裂きジャックが登場する数十年前にあったらしい。それを知っただけでも収穫か。
ちなみにイチゴの春とは冬の寒さがまだ抜けやらぬ春を指すらしい。

表題作はいわゆる田舎町の得体のしれなさを描いた物語だ。
人っ子一人いない田舎町。アンファンテリブルと思しき薄気味悪い子供たち。そしてなぜか雑草も害虫もいない繁茂したトウモロコシ畑。
正直トウモロコシ畑に馴染みのない私たちにはいまいちピンとこない恐怖なのだが、バーボンを生み、映画『フィールド・オブ・ドリームス』のように切り開いてグラウンドにしたトウモロコシ畑に往年の野球選手が集うようなマジックが物語として語られる国であるから、トウモロコシ畑には日本人には理解できない畏怖や幻想味があるのだろうか。
なかなか腑に落ちないのだが。

一風変わって次の「死のスワンダイブ」は抒情的な作品だ。
何とも云いようのない余韻を残す作品だ。
美しかった妹は美人が陥る不幸せな結婚を経て、身持ちを崩していく。やがて大好きだった兄とも疎遠になり、数年ぶりに兄が目にした記事に踊っていた文章は「コールガール、死のスワンダイブ」という記事。やがて彼の許に届いた手紙には幼き頃に兄に助けてもらった納屋での事件の時に死んでいた方がマシだったという悔恨の一文。
特に本作では幼い兄弟が両親に内緒で納屋に積まれてある干し草の上に70フィートもの高さ、つまり21メートルもの高さから飛び下りる遊びに興じていた思い出とそれにまつわる事故のエピソードが眩しいだけに切ない。
あの時、兄が咄嗟の判断でどうにか助かるように壊れた梯子にぶら下がる妹の下にかき集めては敷いた干し草のことには全く気付かずにダイブした妹の心中には兄ならば何か助けてくれるに違いないという確信があった。だからこその決死のダイブだった。
彼女にとって兄は妹を助けてくれるスーパーマンだったのだ。しかし現実にはそんなスーパーマンはいない。
何ともやるせなさの残る作品である。

その男は道行く人が振り返るほどハンサムで、なおかつ幸せに満ちた顔をしていた。その通り彼は恋人のノーマに逢いに行くところだった。途中、花売りのところで店のおじさんのお勧めの花束を携え、彼は足取り軽く恋人のところに向かっていた。道すがら誰もが彼を祝福するかのように見たが彼の目には何も映らなかった。そして彼女のところに行く着くと、確かにそこにはノーマがいたので、彼は声を掛けた。
こんな風に休日の昼、幸せそうな男の風景を描いた「花を愛した男」はキングらしい皮肉な結末を迎える。

“呪われた町”<ジェルサレムズ・ロット>の恐怖はまだ終わらない。次の「<ジェルサレムズ・ロット>の怪」は再びあの吸血鬼に支配された町が舞台となる。
前巻でも長編『呪われた町』を舞台にした短編「呪われた町<ジェルサレムズ・ロット>」は吸血鬼ではなくドルイド教という邪教に傾倒する一族によって支配されていた町という設定だったが、こちらは長編と同じ吸血鬼に支配された町であり、スピンオフ作品となっている。
既に町は無くなっているから長編のその後の物語であることは間違いないが、今なお吸血鬼は健在で時折訪れる人々を襲っては渇きを癒しているようだ。ベンが決着を付けに来るその日までジェルサレムズ・ロットの恐怖は収まらない。

最後の「312号室の女」は胃癌を患った母親を看取る息子の心情がつとつとと語られる。
本書の中で最も現実的な問題を扱った作品だ。あとはただ死に向かうだけの寝たきり生活を強いられた母親に安楽死を与えようと逡巡する息子の心情が語られる。
もはや回復の見込みがなく、ただ死ぬその時までの時間を苦しみながら生きていくだけになった実の親に安らかな死を与えることは罪なのか。いや今後いつまで続くか解らない母親の世話に疲弊していく自分を救うことは過ちなのか。
先般読んだ『ロスト・ケア』同様、この答えの出ないジレンマは70年代当時から東西問わずに抱えられた問題であるようだ。


キング初の短編集『ナイト・シフト』の後半に当たる本書は前半にも増してヴァラエティに富んだ短編が揃っている。

未来に賭けて超高層ビルの手摺を一周回ることに同意した男。

奇妙な雰囲気を漂わせた芝刈り業者の男。

98%の確率で禁煙が成功する禁煙を専門に扱う会社。

常に自分の望むものを叶えてくれる不思議な学生。

バネ足ジャックと呼ばれた連続殺人鬼。

生い茂ったトウモロコシ畑を持つゴーストタウン。

幼い頃、共に干し草の上にダイブして遊んだ美しい妹の末路。

恋人に会いに行く幸せそうな男。

豪雪で忌まわしき村に迷い込んだニュージャージーから来た家族。

死の間際にいる母親を看る息子の胸に去来するある思い。

前巻も含めて共通するのは奇妙な味わいだ。特段恐怖を煽るわけではないが、どこか不穏な気持ちにさせてくれる作品が揃っている。

ただ前巻では全ての物語が怪物、超常現象、邪教といったSF的、オカルト的趣向に根差し、つまり現実的には起こりえない設定の上で物語が紡がれていたのに対し、後半の本書では現実でも起こりうる現象、事件または主人公が抱く悪意などを描いているところに違いがある。

超高層ビルの手摺を一周回ることの恐怖、町を震撼させた連続殺人鬼の正体、美しかった妹が自殺した真相、サイコパス、病気の母親を看取る息子にほのかに生まれた悪意、などが相当する。

まあ、本書は前巻を合わせて1冊として刊行されていたものを日本が独自に分冊して刊行しただけなので、実は1冊のうちにそれら虚構と現実を併せ持った趣向の短編が満遍なく収められていることにはなるのだが。

またクーンツ作品とは決定的に違うのは災厄に見舞われた主人公が必ずしもハッピーエンドに見舞われないことだ。生じた問題が解決されることはなく、また主人公が命を喪うこともざらで、救いのない話ばかりだ。

それは―どちらかと云えば―ハッピーエンドに収まった作品でも同様だ。
何かを喪失して主人公は今後の人生を生きることになる。人生に何らかの陰を落として彼ら彼女らは今後も生きていくことを余儀なくされるのだ。

個人的ベストは「禁煙挫折者救済有限会社」か。
煙草は案外アメリカでは根深い社会問題になっているみたいで『インサイダー』なんて映画が作られたほどだ。作中にも書かれているが、刑務所で煙草の配給を廃止しようとしたら暴動が起きただの、昔ドイツで煙草が手に入りにくくなったときは貴族階級でさえ、吸い殻拾いをしていただのと中毒性の高さが謳われている。

そんな代物を辞めさせるには家族を巻き込まないことには無理!というのが本書に含まれたブラック・ジョークだ。
しかし本書の面白いところはその手段が喫煙者に単なる脅しではなく、行使されるものであるところだ。
つまり本書は煙草を辞めることはこれぐらいしないとダメだと痛烈に仄めかしているところに妙味がある。しかし本当にこんな会社があったら怖いだろうなぁ。

次点では「死のスワンダイブ」を挙げたい。
これはとにかく田舎で農家を営む両親の下で育った兄弟の、納屋での、70フィートの高さから干し草の上にダイブする禁じられた遊びのエピソードがなんとも胸を打つ。そしてそのダイブで起きた事故で兄の咄嗟の機転によって奇跡的に助かった美しい妹が大人になるにつれて辿る不幸な人生とのコントラストがなんとも哀しい。そして彼女が最後に頼ったのはあの時助けてくれた兄だった。もう人生に落胆した彼女はまた兄が助けてくれることを信じてもう飛ぶしかなかったのだ。そんな切なさが胸を打った。

また前巻と合わせて本書でも『呪われた町』の舞台となったジェルサレムズ・ロットを舞台にした短編が収められている。
2編は外伝と異伝のような合わせ鏡のような作品だが、どうやら本書においてこの忌まわしい町に纏わる怪異譚については打ち止めのよう。その後も書かれていないことを考えるとキングが特段この町に愛着を持っているというよりも恐らくはアマチュア時代から書き溜めていたこの町についてのお話を全て放出するためだけに収録されたのではないだろうか。

本書と『深夜勤務』は『キャリー』でデビューするまでに書き溜められていた彼の物語を世に出すために編まれた短編集だと考えるのが妥当だろう。とするとこのヴァラエティの豊かさは逆にキングがプロ作家となるためにたゆまなき試行錯誤を行っていたことを示しているとも云える。
単純に好きなモンスター映画やSF、オカルト物に傾倒するのではなく、あらゆる場所やあらゆる土地を舞台に人間の心が作り出す怪物や悪意、そして人は何に恐怖するのかをデビューするまでに色々と案を練ってきたことが本書で解る。
つまり本書と『深夜勤務』には彼の発想の根源が詰まっているといえよう。特に『呪われた町』の舞台となるジェルサレムズ・ロットを舞台にした異なる設定の2つの短編がそのいい証拠になるだろう。あの傑作をものにするためにキングはドルイド教をモチーフにするのか、吸血鬼をモチーフにするのか、いずれかを検討し、最終的に吸血鬼譚にすることを選んだ、その発想の道筋が本書では追うことが出来る。そんなパイロット版を惜しみなく提供してくれる本書は今後のキング作品を読み解いていく上で羅針盤となりうるのではないかと考えている。

しかし本書を手に入れるのには実に時間と手間が掛かった。なぜなら絶版ではないにせよ置かれている書店が圧倒的に少ないからだ。
現在でも精力的に新たな作風を開拓しているこの稀有な大作家が存命中であるにも関わらず過去の作品が入手困難であるのはなんとも残念な状況だ。既に絶版されている諸作品も含めて今後どうにか状況改善されることを祈るばかりである。



▼以下、ネタバレ感想
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ナイトシフト〈2〉トウモロコシ畑の子供たち (扶桑社ミステリー)
No.1193: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(3pt)

問題作?いやいや壮大な冗談話でしょう!

日本の古事記には隠された謎があった!
本書ではその謎を解き明かすという趣向のミステリなのだが、物語の舞台はその古事記を編纂する稗田阿礼と太安万侶がいる飛鳥~奈良時代である。

神の誕生から日本を作ったとされる伊邪那岐と伊邪那美の登場。そして伊邪那美が黄泉国に行ってからのエピソード。更にスサノヲ、アマテラス、ツクヨミの誕生にヤマタノヲロチ討伐、等々我々が古事記で知った内容が描かれる。

さほど古事記、日本書紀に詳しくない私でも昔話等で語られる天照大御神が天岩戸に閉じこもる話、ヤマタノヲロチ討伐の話、因幡の白兎の話についてはある程度知識があったが、本書ではそれらが微妙に異なっている。

しかし物語はどんどん進む。
どんどん神々は誕生し、どんどん時代が過ぎ去っていく。

稗田阿礼が全てを語り終えた時、そこからが古事記の真相が判るのだ。

しかしこれらもまた最後の一行で全てが冗談であったことが明かされる。

しかし私は本書はまた別の目的で書かれたのではないだろうかと推察する。

稗田阿礼によって語られる神々の営みはほとんど全てが男女との交合(まぐわ)いによって構成されているからだ。

とにかく神の世界はセックスに満ちていると云うのが率直な感想である。
不完全な神として神の世界である高天原から追放された伊邪那岐と伊邪那美。余計な物を持つ伊邪那岐と足らない箇所がある伊邪那美がお互いに不足する物を接合することで神を生み、世界中に神で満たそうとする。

日がな一日、来る日も来る日もセックスに明け暮れ、子を産んではまたセックスと、交合ってばかりだ。
次第に神も余計な物を敢えてつけて伊邪那岐が寝ている最中に伊邪那美と交合う。更に伊邪那美は自分の生んだ神々とも交合い、更に子を産む。

またスサノヲは亡き母を偲び、その面影を実の姉アマテラスに見出し、立ち向かう千人もの兵士を切り捨て、更に制止する兄を殺してまで姉と交合う。何か事が起きる根源が全てセックスと子作りによって片付けられている。

まだ秩序などない神々が住まう世界。従って彼らは本能の赴くままに生きている。美しい女がいれば素直に交合いたくなる。それが人の妻であっても交合いたいのだからしょうがない。

実の兄弟であっても好きになった女を取られれば嫉妬に駆られて殺したくなる。なぜなら憎くて仕方がないからだ。

現代の我々は人間らしい生活を送るために長年培われてきた知識と秩序について小さい頃から教育されているがゆえにこのような本能的な感情を抑えて理性的に振る舞うことが成されているが、神々の世界ではまだこのような概念すらないため、実に自由奔放に欲し、そして生きているのだ。

しかし姦通罪、近親相姦、同性愛、etc、奔放な性活動のオンパレードだ。
私は神の物語と称して一種のポルノ小説を書くことが鯨氏の本当の狙いだったのではないかというのが感想である。

ミステリ要素もある。
本書は入れ子細工とした歴史ミステリではあるが、作中話として語られる神々の話の中に密室殺人が登場する。それは姉のアマテラスと交合うために天の岩屋戸に立て籠もったスサノヲが岩屋戸を開けると髪を切られ、背中に短剣を突き立てられたアマテラスの死体を残して忽然と消え失せるというものだ。

しかし金田一耕助を思わせる思金神によってその密室殺人の謎は早々に解明される。

ここにおける本格ミステリ要素は単に添え物に過ぎないことがこれで解るだろう。
やはり本書は歴史ミステリの意匠を借りたポルノ小説であることが鯨氏の真意ではないだろうか。

問題作?いやいや鯨氏特有の壮大な冗談話でしょう。
しかも物凄い量の知識と情報を収集した上で語られるジョークだ。
この作品の登場人物を全て確認したとき、鯨氏がこの冗談話に費やした労力に恐れ入ることだろう。これぞバカミスの真髄とも云うべき作品か。労力の割には評価に繋がらないところが非常に残念ではあるのだが。



▼以下、ネタバレ感想
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千年紀末古事記伝ONOGORO (ハルキ文庫)
鯨統一郎千年紀末古事記伝 ONOGORO についてのレビュー
No.1192:
(1pt)

これを商業ベースで出したのが凄い

これは奇妙なインスタントラーメンに纏わる奇妙な男女のお話である。

表題作はモラトリアムな生活を送っている大学生相沢愛樹とその先輩小林が相沢の部屋にあったインスタントラーメンを食べることで突如女性に変身してしまう話。

次の「舞い上がる俺たち」は表題作が表ならば裏に当たる話。同人マンガを描いている水星とそれを手伝っている桃木の女性2人がこれまた水星の戸棚の奥にあったインスタントラーメンを食べることで今度は男に成り代わってしまう。

「どうしようもない私たち」の語り手はなんと死者だ。

続く「どうしたの、君たち」は写真を趣味にする孤独な大学生が主人公。

最後の「そこはかとなく怪しい人たち」の主人公は小説家。

冒頭にも書いたように連作短編集のような体裁を持った短編集だが、共通しているのは食べると性別が入れ替わるという不思議な効用のあるインスタントラーメンというアイテムだけだ。
ただだからといって男女のジェンダーの在り様とかそもそも男とは?女とは?といった大上段に構えたような性差論が繰り広げられるわけではなく、全て当事者の一人称叙述で森氏独特のくだらない独り言のような話し方で物語の顛末が語られる。そう、云うなればVシリーズの香具山紫子の独り言が全5編に亘って繰り広げられるとでも云った方が解りやすいだろうか。

1編目は大学生の男2人。

2編目は同人マンガ誌を発行している女性2人。

3編目は会社員の男女2人。

4編目は隣の大学生の日常を観察する大学生。

5編目はヴィジュアル系バンドに熱を挙げる女性小説家。

正直なんだかよく解らないと云うのが率直な感想だ。

なんだかよく解らないと云うのは結末はあるもののそこにオチが特段あるわけではない。

本書はヤマ無し、オチ無し、意味無しの三拍子揃った「やおい本」なのだ。

全編に共通しているのは彼ら彼女らがあるインスタントラーメンを食べると性別が変わることだ。

また一応各話には繋がりがあり、例えば3編目に登場する小さな出版社に勤める塚本がチェックしている原稿は2話目の「舞い上がる俺たち」そのものであり、4話目の主人公細田が執着する大学生は1話目の主人公相沢愛樹で、表題作で小林先輩が中絶したその後が描かれている。

しかしただそれだけだ。ただただ思いつくままに筆を走らせて思いのままにダラダラと文章を連ねてみただけの作品である。

その中で一つ気になったのは「どうしようもない私たち」の最後の一行だ。これは全国の和子さんに失礼だろう。謝罪すべきだ。

とこのように大学助教授という閉鎖的な社会での職業柄か、どうも森氏の作品には世間的な一般常識を踏まえない、道徳観に欠ける部分が見られて思わず眉を潜めてしまう。
他の作品では飲酒運転を平気で作中人物がするなど、今ならば校閲の時点で修正が求められるであろう表現が多々ある。

そして本書の内容はまさにそれが悪い方向に出ているのではないだろうか。
とにかく思いつくまま書いてみました。但しヤマもオチも意味もありません。付いてこられる人だけ付いてきて下さいと云わんばかりの内容だ。

これをまた商業ベースで出した集英社もまたスゴイ。ということはそれを買った私もまたスゴイということか。

タイトル同様、墜ちきるところまで墜ちたのが本書なのか。ここまで墜ちれば、後は浮上するのみである。次作以降に期待しよう。


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墜ちていく僕たち (集英社文庫)
森博嗣墜ちていく僕たち についてのレビュー
No.1191: 6人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

まさしく“盲が啓かれる”

2014年の江戸川乱歩賞受賞作にしてその年の『このミス』で第3位、週刊文春の年末ランキングで第2位と新人としては望外の高評価で迎えられたのが本書だ。

本書の軸は大きく分けて2つある。

まず主人公村上和久が視覚障碍者であることだ。健常者、本書の表現を借りれば晴眼者である我々が想像できない視覚障碍者の不自由な日常が詳細に語られる。

人間は視覚から約85%の情報を得ているという。つまり一日の大半は目に頼って我々は生活しているのだ。そんな重要な器官が不自由になるとどうなるのか。

白杖で周囲に触れてその音で何があるのかを判断しながら歩く。物を食べる時は健常者の助けを借りる場合は健常者は物の位置をクロックポジション、つまり時計の時刻の位置で示して教える。お札は区別が着くよう、紙幣の種類別に折り畳んで財布に入れておく。またタクシーでは1割引きの控除が得られる。
この辺りの情報は作者の念の入った取材の賜物だろう。

また全盲になったことで起こりうる家族の不幸もまた読み逃せない。
幼き頃の満州の過酷な生活環境による栄養失調が祟り、41歳で突如失明した彼はその後の人生で家族を頼り、ままならない生活に対して周囲に八つ当たりをし、自分を世話して当然だと振る舞う。その結果妻は離婚して逃げ出し、残された娘も甲斐甲斐しく世話をするが、娘に頼り切って生活している和久は彼女の結婚を望もうとせず、悉く追い出す。しまいには娘の精神も限界が来て逃げ出し、現在の一人暮らしに至る。また娘もシングルマザーで一人娘は腎臓を患い、定期的に透析をしなければ生きられない。しかしそれも長くなく、一刻も早い腎臓移植が必要である。この適合者を見つけることが主人公和久の今回の行動の原動力となっている。
実に上手い設定だ。

もう1つの軸は村上和久の家族が満州から帰国した日本人であることだ。中国残留孤児が抱える問題が色濃く描かれている。

満州侵略に乗り出した日本の仇花的存在とも云える中国残留孤児。いわば日本国自身が歴史の汚点と考えているかのように、彼らの待遇、処遇は実に冷たく、今でも中国から帰れない日本人がいる。しかしどうにか中国から戻ってきても既に初老に差し掛かった人々は母国語である日本語が話せず、まともな生活保護も受けられずに不自由な日常生活を強いられているという。そんな窮状が物語全体に亘って随時語られていく。

そしてメインの謎である目の見えない主人公の兄は本当の兄なのかという疑惑は中国残留孤児たちのコネクションを辿って色々な人から話を聞くうちに二転三転する。

ある人は腕に火傷の跡がないのならそれは本人ではないと請け負い、またある人は逢って話したことがあるが記憶もしっかりしており、間違いないと断言する。

ある人は国に対する補償を巡る裁判にとって偽中国残留孤児であるという風評が流れると悪影響を及ぼすから調査を辞めるように説得する。

訪ねる人それぞれの云い分があり、また証言も食い違うことから主人公も戸惑ってばかりだ。

やはり本書の最たる特徴は盲目の主人公が私立探偵張りに兄の素性調査を行うところだ。
主人公和久の一人称叙述で書かれているため、目が見えないことによる情報量の不足がそのまま読者にとっても情報量の不足に繋がり、いつも読んでいるミステリと比べて非常に居心地の悪さを感じた。これが本書における最大の売りであることは解るものの、どうにもまどろっこしさを感じた。

また物語の節目節目に挿入される、匿名の人物から送られる点字で書かれた俳句の内容も暗鬱なものばかり。しかも主人公の身に覚えのないことばかりと、終始落ち着かない気分で読み進めることになった。

そんな居心地の悪さや違和感は物語の最終局面に一気に開放される。

上に書いたように盲目の主人公による調査行は非常にまどろこっしく、また中国残留孤児が現在抱える問題もまた重い物ばかりで正直読んでいる間は辟易する部分もあった。
しかし最後になってみると作者が実に上手くその設定を活かして、盲目であるがゆえに成り立つトリックを巧みに織り交ぜてあることに気付かされる。点字で書かれた俳句についても点字を使った暗号という斬新さが際立つ。
そして最後の真相が明かされると、読者もまた主人公と同化していたかの如く、自らの盲が開かれる思いがした。

本書の核となるミステリはずばり“家族”である。
戦時中の日本政府の政策で満州に移住し、新天地で生きていく希望を与えられた日本人が敗戦によって逆に祖国に帰ることが困難になり、帰りうる者と帰られない者とが引き裂かされた悲劇が生じた家族に生まれた謎だ。
いわば戦争秘話とも云うべき物語だったが、現在なお日中の間に横たわる中国残留孤児問題の中に実際に本書のような話が実在するのかもしれない。

正直自分の中ではかつて喧しく報じられていた中国残留孤児の問題は次から次へと報じられる国際問題、例えば中国慰安婦問題、北朝鮮による拉致被害者問題などに埋没してしまい、もはや過去の出来事となっていた感がある。2014年に乱歩賞を受賞した本書によってこの問題が再び喚起されたのは実に意義深いことだ。

戦後日本はまだ終わりぬ。そんな感慨を抱いた作品だった。



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闇に香る嘘 (講談社文庫)
下村敦史闇に香る嘘 についてのレビュー
No.1190:
(8pt)

美人ってどうして幸せに恵まれないのだろう?

これは東西ドイツ統一という時代の変換期に、自らの恋愛を翻弄されたなんとも哀しい女の物語だ。

仕事は優秀で見た目も美人だが、既に38歳となり結婚適齢期は過ぎてしまったキャリアウーマンであるエルケ・マイヤー。昔付き合った男との間に生まれた自閉症の娘ウルスラを精神病院に預け、毎週日曜日に訪問しては絶望に暮れる日々を送っている。従って結婚願望はおろか、もう長らく男性との火遊びからも遠ざかっている、いわゆる日干し女だ。

独身生活が長いせいで単調な生活の繰り返しに安定を見出している。決まった手順で行動し、いつもの場所に駐車し、いつもの店のいつもの席でいつものメニューを食べ、いつもの時間に出勤する。食事中に愛車が傷つけられていないか不安で周囲を確認し、何もないことで安堵する。
これら一連の“儀式”を重んじ、そこに安心を覚える、半ば強迫観念に縛られたような性格の持ち主である。

一方翻って彼女の姉のイーダはうだつの上がらない郵政省に勤める夫と結婚して2人の子供を持つ母親だが、女性としての魅力を保っており、パーティでは夫の仕事仲間から云い寄られてきたりもする。社交的で人目を惹くことからエルケはひそかに憧れと嫉妬を抱いている。そして2人の関係は一見フラットでありながら精神的優位性が姉にある。

そんな彼女に目を付けたKGBが放ったセックス・スパイ(昨今ではもはやハニー・トラップでこの存在が珍しくなくなってきたが。ちなみに男性のセックス・スパイは“カラス”と呼ばれ、女性のそれは“ツバメ”と呼ぶらしい)オットー・ライマンはかつて東ドイツへのスパイ作戦で成功を収めたリーダー、ユッタ・ヘーンの部下であり、そして現在は夫で結婚後もKGBで働いている。かつての部下と上司の関係から妻ユッタはオットーに対して常に精神的優位性を示し、夫が服従することを好んでいる。オットーはそれに表向きはそのことに不満を示していないが、時折公私に亘って妻が見知らぬことを知ることで優位に立つことに喜びを感じている。

KGBの狙いはベルリンの壁が崩壊した後の東西ドイツ統一に向けてドイツ側、とりわけ西ドイツの中枢であるボン政府が社会主義側だった東ドイツとどのように協調していくのかを探ることだった。特にNATOとワルシャワ条約機構との結合を試みて新たなる政治的脅威になるのかが焦点であった。

特に物語の中盤以降、ソ連側がオットーに渡した3ページ以上に亘る膨大な調査内容のリストは―真実かどうかわからないが―当時のソ連がかつて第二次大戦で猛威を奮ったドイツの復活をいかに恐れていたかを示唆している。

この2人が出逢うのはなんと180ページを過ぎたあたりから。物語としてはおよそ1/3辺りである。それまでは延々とエルケの日常とオットー・ライマンの作戦準備が語られる。
一流のスパイとして女性を籠絡させる術を知り尽くしたオットー・ライマンの内面心理描写は女性心理、いや女性に限らずあらゆる人の心理を自由に操る術が豊富に織り込まれている。じっくり対象を観察し、あらかじめイメージを作り上げ、そのイメージがするであろう振る舞いや受け答えを想定し、対応する。そして自分が望む方向に導くのだ。

エルケの心の隙に付け入るべく、彼女の厳格なまでの単調な生活の繰り返しによる心の安定を切り崩して刺激を与えていく。例えば連絡先を教えても、掛かってきた電話には応えず、逆に自分の都合で連絡し、安堵を与える。必ず約束の時間には遅れていくし、相手がもう少し一緒にいる時間を延ばしたいと察すると理由をつけて退場する、2人の関係に絶対の自信を持たせない、自身の存在を当たり前に感じることは許さない、といった具合だ。今なら一流のメンタリストといったところか。

そんな駆け引きをしてようやくオットーがセックス・スパイの本領を発揮するのが物語も半分を過ぎた375ページ辺りだ。なかなかに長い前戯ではないか。

また面白いのはそれまで男に縁がなく、平日は仕事と自宅の往復、土曜日は姉とのランチ、日曜日は自閉症の娘への訪問と一つたりとも違うことなく、同じことの繰り返しだった灰色のエルケの日常がオットーとの出逢いを境に好転していくことだ。

まず首相府事務次官付きの秘書の立場から閣僚委員会の一員に抜擢され、更に政府の中枢に加わるようになり、昇進する。

さらに上司の事務次官ギュンター・ヴェルケの好意を買うことになり、たびたびデートに誘われるようになる、といった具合に一気にエルケの人生が色めき立つのだ。“あげまん”という言葉は知っているがオットー・ライマンはその逆の“あげちん”である(本当にこんな俗語があるらしい)。

そして当然ながらエルケが変わるように相手側も変わる。
あくまでプロフェッショナルを貫き、エルケを対象物として捉えていないと自負していたオットーはエルケの精神的拠り所になった後でも彼女に自分がスパイであり、自分なしでは生きられないのなら情報を漏洩しろと強制することを拒む。あくまでエルケとは恋人同士の関係で接しながら彼女の小出しにする情報を基にドイツ側の内情を構成し、報告するにとどめる。そしてもはや妻ユッタに愛情を感じず、エルケを心底愛するようになっていく。

またオットーの妻ユッタもあくまで仕事と割り切りながら、かつて部下と上司の関係だった立場が逆転したのを気付かされ、オットーに依存するようになる。そしてオットーの標的相手に嫉妬を覚えるようになるのだ。

やはりこれが人間なのだ。
仕事と割り切ってクールに振る舞えないからこそ人間なのだ。
そこに感情が、特に愛情が絡むことで論理的に組み立てられた作戦は綻びを生み出す。人間が介在するからこそ古今東西の作戦が失敗に終わり明るみに出ることになっているのだ。

しかし読み進むにつれて主人公エルケがだんだん可哀想になってくる。

以前のエルケならば自分に自信がないために、自分の魅力のなさを責め、すぐさま諦観の境地に陥るところだったが、今や東西ドイツ統一のための閣僚委員会の一員となり、記念すべき歴史的転換の只中にいるという彼女の自負が彼女の心を強くさせ、これは一人の男を賭けた対決なのだと自分に云い聞かせる。

もし仕事で見せる鋭敏さがこの時の彼女にあればライマンの行動のおかしさに疑問を持ち、嫉妬も手伝って再度彼の身の上調査に踏み切ったことだろう。
しかしせっかく掴んだ幸せを逃したくないがためにエルケの明晰さを恋が盲目にしてしまった。この辺は実にエルケが可哀想で仕方がなかった。

恋愛を武器にした諜報活動は物語が始まった時から誰かが傷つく結末になるのは約束されていた。
しかし登場人物に対して容赦のないフリーマントルは全ての登場人物に不幸を負わせる。

相思相愛でありながら政府の最高機密に携わっていた孤独な女性と、一流のセックス・スパイでありながら恋に落ちてしまった男。
このハーレクインロマンス的な設定も皮肉屋フリーマントルが描くと現実の厳しさと運命の皮肉さがたっぷり盛り込まれた、なんとも苦さの残る話へと料理される。
仕事のために嘘をつき続けた男とスパイであることを教えてくれればいくらでも情報漏洩をしたと誓った女。男は別れを恐れるために嘘をつき、女は別れたくないために真実を知りたがった。
これが男と女の違いであり、だからこそ悲恋の物語が今なお書かれ、尽きることがないのだろう。

ふと考えてみると本書はKGB側も描いており、作戦決行までのゼロ時間への準備段階から描かれているが、逆に書き方次第では実に面白いミステリになったかもしれない。

描写をエルケ側に絞って無味乾燥した毎日を描いたところに、かつて付き合っていた男とそっくりの男性との偶然の出逢いからラヴロマンスに至り、そこから急転してスパイ物に変転する語り方もあったのではないか。
しかしそれをやるともはや本当のロマンス小説になってしまうのか。だからフリーマントルは敢えて正攻法で臨んだのかもしれない。

しかし重ね重ねエルケが不憫でならない。人目を惹く容姿で仕事もできるバリバリのキャリアウーマンであり、それ相応の男の好意を惹き付けながら、なぜかその恋が成就しない。人生のボタンを常に掛け違えてしまう女性である。
孤独を紛らすために決まった時間、決まった場所、決まったイベントをこなすことで精神の安定を覚えている。

彼女はまたこの無味乾燥した毎日を過ごすかと思うとなんとも遣る瀬無い気分になってしまうのだ。
いつか彼女が正しくボタンを掛けられることを願って本書を閉じよう。


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嘘に抱かれた女 (新潮文庫)
No.1189:
(7pt)

創作意欲が滾々と湧き出ているのが解るよう

キング初の短編集。日本では本書と『トウモロコシ畑の子供たち』の二分冊で刊行された。

まずは長いはしがきで幕を開ける。初の短編集であるせいか、はしがきでさえ熱がこもっており、キングの物語に懸ける思いの強さが漲っている。

そんな思いが詰まった第1編「地下室の悪夢」は独立記念日の週に行われる地下室の大掃除を扱った物。
夜の熱気にさらされたのか、学生のホールは自ら危険を求めるかのように異常発達したネズミと、それらが突然変異したかのように見える大きなコウモリの巣窟へと主任を誘って自ら降りていく。鼻持ちならない主任を懲らしめるための思い付きだったのかもしれないが、ホール自身も暗闇と巨大ネズミたちの大群で次第に正気を失っていくのが解ってくる。
暗闇によって引き起こされる感覚の麻痺と従業員に不遜に振る舞う上司への反抗心が生んだ、奇妙な味わいの作品だ。

次の「波が砕ける夜の海辺で」はある長編の断片を切り取ったような作品だ。
たった26ページで語られる物語は新種のインフルエンザによって人類が死滅しつつある世界。そんな世界の一シーンを切り取ったかのように唐突に物語は始まり、そして唐突に終わる。
彼らの行く末はどうなるか解らない。しかし明日に希望を持たないモラトリアムな若者たちにとってそれはどうでもいいことだった。そんな若者の倦怠感を謳った作品。しかし大きなラジカセを担いだ若者の姿が時代を感じさせる。

一見少年殺害の現場を偶然見た男の告白と思わせて意外な展開を見せるのが「やつらの出入口」だ。
本書が書かれた70年代はアメリカとソ連の宇宙開発競争がまだ激化している時であり、また本書発表の1978年は映画『スターウォーズ』公開の翌年で一大SFブームの真っ只中でもある。逆にそんなブームの中で宇宙開発に警鐘を鳴らすキングの特異性が浮き彫りになる短編だ。

さて次の「人間圧搾機」はキング独特の根源的な恐怖を扱っている。
クリーニングの機械が人間の血の味を覚え、それ以来意志をもって人間を意図的に巻き込んでミンチにする。そんな狂える機械の恐ろしさを語ったのが本書だ。
しかし本書ではその機械の圧倒的な力に人々は屈するしかないというバッド・エンディング。
命を持たない機械が意志を持って人間に襲い掛かるとどうなるのか。人間の作業を楽にする機械が牙を人間に向けた時の怖さを本書では十二分に語っている。

次の「子取り鬼」も奇妙な作品だ。
ブギーマンと云えば映画『13日の金曜日』のジェイソンの原型とも云える映画『ハロウィン』に出てくる連続殺人鬼ブギーマンを想起してしまうのが私の世代だが、本書で初めてブギーマンが子取り鬼とも称されていることを知った。
物語は奇妙な味わいのホラーである。言葉にすることで具現化するという言霊の恐ろしさを描いた作品とも取れるだろう。

冬の酒場を舞台にした「灰色のかたまり」もまた昔ながらのホラーストーリーだ。
本書で書かれるように不定形の怪物というのは理解を超えた恐ろしさを持っており、実際のゲームのようには易々と倒せるような相手ではないように思える。
本書で恐ろしいのは怪物に変化している男ではなく、父親がどんどん変わってしまう少年の心を襲う大いなる不安だろう。働きもせず、ただただビールを飲んで家じゅうを真っ暗にしてテレビを見ているだけの父親に対しておかしいと思いながらも従順に従う息子のティミーが愛おしい。彼の抱いた哀しみの深さと恐怖こそが本書の最も恐ろしい部分だろう。

「戦場」はどこかで読んだような話だ。
まさにこれは『ジョジョの奇妙な冒険』の第4部『ダイヤモンドは砕けない』の虹村形兆のスタンド「バッド・カンパニー」である。というかその元ネタがこれだったのか。
人によっては『トイ・ストーリー』の方を思い浮かべるかもしれないが、内容はまさに『ジョジョ』。

次の「トラック」もまた予想外の物語だ。高速道路のサービスエリアにいるのは若い男女とトラックの運転手にレストランのカウンター係に男性2人。彼らはそこに閉じ込められていた。
いきなりトラックやバスなどの大型車両が自ら意志を持って人を殺し始める。
どこからそんな着想が来るのか、全くキングの想像力は不思議だ。いやあるいは我々が子供の頃に玩具のトラックでまるでそれらが生き物であるかのように口で擬音を発しながら、ぶつけ合っている、そんな遊び心をそのままホラー小説に仕立て上げたかのような作品だ。
誰もが経験した遊びをこんなデストピア小説へと結びつけるキングの発想力にはただただ驚くばかりだ。

皆さんは小さい頃、悪ガキ連中に絡まれたことはないだろうか?もしあるならばその時の怖さを覚えていることだろう。「やつらはときどき帰ってくる」はそんな誰もが持っている少年の頃の苦い思い出が恐怖となって襲い掛かる物語だ。
少年時代の不良グループやいじめっ子たちから暴力を振るわれたり、カツアゲをされたりする経験は当時としては恐怖以外何ものでもなく、絶望の日々を送るような思いをしたことは誰しもあるのではないだろうか。しかし普通そのような思い出は大人になれば懐かしい思い出となり、同窓会で彼らと再会しても笑い話として済ませ、当時の恐怖が甦ることはよほどのことがない限りないだろう。
しかしもしも当時の不良たちが同じ悪意を持ってそのままの姿で現れたら?
これは確かに恐怖以外何ものでもない。彼らは精神的に成熟しておらず、自らの思うがままに振る舞い、他者の迷惑など顧みず、相手を虐め、苦痛を与えることに快楽を見出す悪意の塊だ。そんな大人の道理が通じない輩ほど怖い物はない。そんな誰しもが持っている根源的な恐怖をまざまざと蘇らせる、実にリアルなホラーだ。

さて本書の掉尾を飾るのは「呪われた村<ジェルサレムズ・ロット>」。キング2作目の長編『呪われた町』と同じ名前だが、舞台はどうも違うようだ。
長編ではジェルサレムズ・ロットに訪れた吸血鬼が徐々に町民たちを吸血鬼に変えていく侵略の物語だったが、本作はチャールズ・ブーンという男のボーンズという友人に宛てた手紙と彼の友人で付き添い人でもあるカルヴィン・マッキャンの手記によって構成されている。
本作で描かれるのはジェルサレムズ・ロットにある教会に纏わるブーン家の忌まわしい過去の話。ジェルサレムズ・ロットが先祖のジェイムズ・ブーンなる怪僧の近親結婚者たちによって形成されたおぞましい村であったこと。そしてジェイムズはドルイド教に傾倒しており、数々の魔術的な儀式を行っていたことが語られる。
そんな先祖の負の遺産を清算するために手紙の送り主であるチャールズ・ブーンが出くわした怪物との戦いが描かれている。
最後の最後まで気の抜けない作品だ。


はしがきにも書かれているようにデビュー作『キャリー』以来、『呪われた町』、『シャイニング』と立て続けにベストセラーのヒットを叩き出した当時新進気鋭のキングが、その溢れんばかりに表出する創作の泉から紡ぎ出したのが本書と次の『トウモロコシ畑の子供たち』に分冊された初の短編集である。

今まで自分の頭の中で膨らませてきた空想の世界が世に受け入れられたことがさらに彼の創作意欲を駆り立て、兎にも角にも書かずにいられない状態だったのではないだろうか。

その滾々と湧き出る創作の泉によって語られる題材ははしがきで語っているように恐怖についてのお話の数々だ。

古い工場の地下室に巣食う巨大ネズミの群れ。

突如発生した新型ウィルスによって死滅しつつある世界。

宇宙飛行士が憑りつかれた無数の目が体表に現れる奇病。

人の生き血を吸ったことで殺戮マシーンと化した圧搾機。

子取り鬼に子供を連れ去られた男の奇妙な話。

腐ったビールがもとでゼリー状の怪物へと変わっていく父親。

殺し屋を襲う箱から現れた一個小隊の軍隊。

突然意志を持ち、人間に襲い掛かるトラック達。

かつて兄を殺した不良グループが数年の時を経て再び現れる。

忌まわしき歴史を持つ廃れた村に宿る先祖の怨霊。

これらは昔からホラー映画やホラー小説、パニック映画に親しんできたキングの原初体験に材を採ったもので題材としては決して珍しいものではない。ただ当時は『エクソシスト』やゾンビ映画の『ナイト・オブ・リビングデッド』といったホラー映画全盛期であり、とにかく今でもその名が残る名作が発表されていた頃でもあった。

そんなまさにホラーが旬を迎えている時期に根っからの物語作家であるキングが同じような恐怖小説を書かずにいられるだろうか。

その溢れ出る衝動の赴くままにここでは物語が綴られている。

はしがきでも述べられているが本書の諸作では特にキングが少年時代に数多く作られた巨大な昆虫や突然変異した怪物が人々を襲うパニック映画の影響が大きいようで必ず異形の物が現れて、人々を恐怖に陥れるパターンが多い。10編のうち6編がそれに相当するだろう。

しかしこの着想のヴァラエティには驚かされる。
上にも書いたが、今ではマンガや映画のモチーフにもされている化け物や怪異もあるが、1978年に発表された本書がそれらのオリジナルではないかと思うくらいだ。

例えば『ジョジョの奇妙な冒険』の作者荒木飛呂彦はキングのファンである事で知られているが、私は『シャイニング』を読んだときに遅まきながらそのことに気付いた。そして本書には彼のアイデアの源泉がキングにあることを改めて知らされるのである。

特に顕著なのは「戦場」という短編だ。この小さな玩具の兵隊が意志を持って人間を襲うのは『ジョジョ~』のスタンドでも使われている。さらにそこから想像を広げると例えば「灰色のかたまり」の父親は同じく『ジョジョの奇妙な冒険』の第4部に登場する、「弓と矢」で怪物と化した虹村兄弟の父親を想起させる。

本書の個人的ベストは「やつらはときどき帰ってくる」だ。この作品は少年時代にトラウマを植え付けられた不良グループたちが教師になった主人公の前に再びそのままの姿で現れ、悪夢の日々が甦るという作品だが、扱っているテーマが不良たちによる虐めという誰もが持っている嫌な思い出を扱っているところに怖さを感じる。
無数の目が体に現れたり、小さな兵隊が襲ってきたり、トラック達が突然人を襲うようになったりと、テーマとしては面白いがどこか寓話的な他の作品よりもこの作品は誰もが体験した恐怖を扱っているところが卓越している。

また最後の短編「呪われた村<ジェルサレムズ・ロット>」は長編とは設定が全く異なることに驚いた。一応長編の方も再度確認したが特にリンクはしていないようだ。ただ後者は全編手記によって構成されるという短編ゆえの意欲的な冒険がなされ、最後の一行に至るまでのサプライズに富んでおり、長編の忍び来る恐怖とはまた違った味わいがあって興味深い。

さて本書は最初に述べたようにキング初の短編集でありながら、次の『トウモロコシ畑の子供たち』と分冊して刊行された。いわば前哨戦と云ってもいいかもしれない。それでいて現在高評価されている漫画家へも影響を与えたほどの作品集。
次作もキングの若さゆえのアイデアの迸りを期待したい。


▼以下、ネタバレ感想
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ナイトシフト〈1〉深夜勤務 (扶桑社ミステリー)
スティーヴン・キング深夜勤務 についてのレビュー
No.1188: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(5pt)

どんどん謎を明かさなくなっていく

シリーズ5作ごとの節目に発表される短編集。本書は第3短編集になる。

まず開巻初頭を飾る「どちらかが魔女」は懐かしのS&Mシリーズの1編。
アシモフの黒後家蜘蛛の会を彷彿とさせる気の置けない仲間たちが集まってミステリの集いで語られるある不思議な現象が本書のテーマ。
しかし謎自体は大したことがなく、真相は思った通りだった。そして再会した2人が結婚するというサプライズも予想どおり。本書ではやはり本家のアシモフの短編のように執事の諏訪野が謎解きをする趣向を愉しむべきだろう。しかしこんな謎が解けない萌絵は劣化したのか?

続く「双頭の鷲の旗の下に」もまたS&Mシリーズ延長戦のような短編。
高校の文化祭というのは一種独特の雰囲気があって私もいい思い出がある。授業とは離れてクラスで一つのことに精を出し、普段話さない人とも色々協力し合って夜遅くまで残って創作に励む、その時しか体験できない、そして永遠に心に刻まれるムードがそこにある。本書を読んでまずそれを思い出した。
本作に登場する謎の正体は至極簡単で、これを実に解りやすく絵解きしているところに本作の妙味がある。その現象を実に解りやすく解説してくれて恥ずかしながら私も同じ専門分野にいながらそのメカニズムを初めて根本的に理解することが出来た。
とはいえ、本書の一番の読みどころは文化祭のシーンでも犀川&喜多コンビによる謎解きでもなく、本編で登場しなかった国枝桃子の夫が初登場するところにあるだろう。国枝桃子の意外な姿と素顔が見られるのが実に貴重だ。

そして次の「ぶるぶる人形にうってつけの夜」では小鳥遊練無が登場する。
学校の怪談とは色々あるが、本書ではぶるぶる人形という奇妙な紙人形の話を検証しに、有志が集まって夜の学内を件の人形を求めて闊歩する。実にこれだけで楽しいお話だ。
ぶるぶる人形の正体は実に呆気ないものだが、フランソワの正体に本書の興趣がある。そして本作はS&MシリーズとVシリーズを結ぶミッシング・リンクを仄めかしている点でシリーズ読者には読み逃せない話となっている。

本書で一番ミステリ風味に溢れているのが「ゲームの国」。副題に「名探偵・磯莉卑呂矛の事件簿1」とあるからシリーズ第1作になるのだろうか。
とにかく横溝正史の金田一シリーズのパロディとも云える世界観の中、名探偵を気取る磯莉卑呂矛が事件を快刀乱麻の如き解決すると思いきや、森ミステリにありがちな実に脱力系のオチ。
つまり本書で森氏がやりたかったのはミステリの雰囲気を盛りに盛って、実にミステリらしい解決を行うという物なのだろうか。とにかく壁本的作品であることには間違いない。

次の「私の崖はこの夏のアウトライン」もまた切れ味が悪い。
改行と短いセンテンスで語られる詩的な文章で語られる幻想的な話だが、オチは実にありがち。陳腐なオチを幻想的に糊塗しようとして明らかに失敗している。

次の「卒業文集」はそのタイトルが示す通り、ある小学校の一クラスの卒業文集の文章で構成された作品だ。
林間学校のこと、クラスで飼った兎のこと、遠足で行った遊園地のこと、学習発表会といった学校生活の思い出や学校の先生、音楽家、小説家、数学者、冒険家といった将来の夢について語っているが全てに共通して語られるのは担任の若尾満智子先生の思い出についてだ。そしてなぜ先生がみんなの思っていることが解るのかと不思議がる。そしてみんなが全て満智子先生が大好きだったことが綴られている。
最後に判明する事実を知って思わず読み返すと満智子先生がやってきたことと彼女に鼓舞された行った生徒たちの全てが初読時よりも鮮烈に胸に飛び込んでくる。ある一クラスのそれはチャレンジングで、そして忘れられない強烈な一念だったことが改めて強く印象付けられるのだ。
これが本書におけるベストだ。

「恋之坂ナイトグライド」はまた雰囲気だけの物語だ。
夜を散歩するかのように恋之坂に向かう2人の男女。恋之坂では最近酔っ払いが凍死したようだった。そして恋之坂でのトリップとはビル風によって起きる上昇気流に乗って飛べることだ。でもとあるどこかで飛べる場所がある、そして上昇気流に乗って飛ぶ2人の男女のイメージは近年になって作られたどこかのCMみたいだ。もしかしたらCM製作者に森作品のファンがいて、この作品のイメージを借用したのかもしれない。

最後の「素敵な模型屋さん」は模型好きな少年がいつもどこかに自分が作りたい模型の部品が売っている夢のような模型屋が出来ないかと待ち焦がれている話。
ここに登場する少年は森氏自身のことだろう。幼い頃からラジコン飛行機に憧れ、鉄道模型、無線と次々と色んなものに興味を持ち、創作意欲を燃やす。自作のロボット模型を学校に持っていくと先生に親に作ってもらってはいけないと叱られたというエピソードも作者自身の苦い思い出だろう。
そんな彼には彼の願望を叶える模型屋が近くになかった。毎日模型雑誌を読んでは思いを馳せる少年。しかしある日突然家の地下室に模型屋が出来ていた。そこはまさに自分が夢見た全ての部品が揃った模型屋だった。
これは森氏自身の老後の愉しみを含めたお話だろう。
誰しもこのような夢を抱くのではないか。本好きの私は自分の気に入った本、もしくはミステリ専門店を開くのが将来の夢である。これはいつまでも子供である男の願望が詰まったお話だ。


森氏の第3短編集である本書はS&Mシリーズの短編2作で幕が明け、Vシリーズの短編1作がそれに続くという、それまでの短編集とは違った作りになっている。

違った作りというのはそれまではノンシリーズの短編でいきなりシリーズ作とは全く雰囲気の違った森ワールドに誘い、悦に浸ったところにシリーズ短編が挟まれるという箸休め的な存在だったのが、いきなり導入部からシリーズ物、しかも完結したシリーズの2編から始まることでいきなりタイムスリップしたかのような錯覚を覚えさせられる。

それら2編は実にファンサービスに富んだ作品で、『数奇にして模型』で潜烈なイメージを残しながらも1作でしか登場しなかった西之園萌絵の従兄、お姉キャラの大御坊安朋が再登場し、その後のエピソードが語られる。更にシリーズ通して印象的な脇役だった国枝桃子の旦那さんも初お目見えと、今までのシリーズキャラに彩りを与えるような趣向が実に微笑ましい。

もう1作は結婚したとされていながら長らくその私生活が明かされなかった国枝桃子の結婚相手が登場する実に貴重な1編。本作のメインの謎である細かく穿たれた穴の真相も専門的見地から見ても実に解りやすく解説されており、読み応えあるが、それよりも慌てて退散する国枝女史の姿が実にチャーミングであり、国枝ファンは一層好きになるのではないだろうか。

シリーズと云えば本書では新しいシリーズキャラクター磯莉卑呂矛が登場する。名探偵らしく振る舞うことを信条とするキャラで、正直彼の登場する「ゲームの国」では森氏の皮肉たっぷりの真相ゆえに実力は未知数のままだ。特にこの作品はミステリ的興趣をふんだんに盛り込みながら、特に解決にも寄与しないという森氏の意地の悪さが前面に出ており、個人的にはいただけない作品である。本当にシリーズ化するのだろうか?

第1、第2短編集では長編では見られない抒情性が豊かで実に私好みの話が多く、俄然期待値が高まったこの第3短編集の内容はしかし、苦言を呈するようだが明らかにレベルが落ちているとしか思えない。
「ゲームの国」などは森氏のミステリに対するスタンスが前面に出ているとは理解できるが、作品の出来としては単純に雰囲気だけを盛って書き殴ったような出来栄えであると云わざるを得ない。どうも森氏の短編の内容が劣化しているように思えてならない。

というよりも物語のメインの謎よりも聡い読者しか気づかない仕掛けに力点が一層置かれており、ますます森氏独特のミステリ趣味が特化してきている。従って、気づかない読者は置いてけぼりを食らってしまうのだ。

例えば「どちらかが魔女」で犀川が披露する壁画に穿たれた釘の穴の謎の答えは作中で明示されない。これは調べなければわからない。
小鳥遊練無が登場する「ぶるぶる人形にうってつけの夜」の仕掛け(これはスゴイ)、個人的には最も嫌いな「ゲームの国」には各所に隠された仕掛け。だから題名は「ゲームの国」なのだろう。

さらに「恋之坂ナイトグライド」は出逢ったばかりの男女の夜中のランデヴーと見せかけながら、実は…という真相も本作では明かされず、解る人だけがその興趣に気付くことが出来るのだ。

つまり前の2つの短編集と比較してもミステリ色が濃くなっているのが本書の特徴と云えよう。

しかし前の2短編集を読んでいる私にとってミステリよりも情緒が前面に出た短編を求めて臨んでだけに今回は実に物足りない味わいになってしまった。

期待に応えたのが「卒業文集」であり、「素敵な模型屋さん」だ。

「素敵な模型屋さん」は趣味を持つ者が誰しも抱く願望を描いた美しい作品。最後に夢のような模型屋に出くわした少年自身が模型屋の老主人になるところは実に心温まる。

また小学生の作文で構成された実験的な作品である「卒業文集」がなかったら本書の評価はかなり下がっただろう。素朴でかつサプライズに満ちたこの作品の良さが逆に本書の評価を押し上げている。

長編ではミステリのガジェットに特化しながらもトリックに尖鋭化して動機に全く固執せず、いわば長い犯人当てクイズのようになってきている森氏。だからこそ短編に期待したのだが、短編もまた叙述ミステリに先鋭化し、さらに読者にそのトリックを明かさないという変則技に出た森氏。

ミステリ好きの私にとってこのどちらの趣向もあまり好ましく思えない。
次回作からの趣向がどのようになっていくのか。期待しない方がいいのではと思う自分がいる。


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今夜はパラシュート博物館へ (講談社文庫)
森博嗣今夜はパラシュート博物館へ についてのレビュー
No.1187: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ミステリ度数はかなり高いのだが…

Vシリーズ5作目は再び那古野市に舞台を戻し、阿漕荘と瀬在丸紅子といったお馴染みの面々が事件に巻き込まれる。
今回の舞台は航空ショー。衆人環視の中、なんと演技中の飛行機の中でパイロットが射殺されるという、これまでにない非常に限定的な密室殺人を扱っている。

しかしそれにも増して正体不明の美術専門窃盗犯であった保呂草潤平に危機が訪れるのが面白い。
各務亜樹良というジャーナリストの強引な依頼でエンジェル・マヌーヴァという特大のエメラルドを埋め込まれた短剣を盗み出すことを依頼された保呂草が飛行機の中の密室殺人の容疑者となった各務を助けたことで自身も警察から追われる身になってしまう。

また被害者宛てに送られたエンジェル・マヌーヴァを魔剣と称する詩めいた内容のカタカナで書かれた脅迫状の存在に、加えて発生する見習パイロットがホテルの一室で射殺事件。そこにはまた同じようなカタカナで書かれた一行のメッセージが残されていた。また機内で射殺されたパイロットの口の中からヒューズが発見されるという異常な事実も発覚する。
ヘルメットを被った状態で口の中から異物が発見される。最小の密室状態で更なる不可解事の発生。それに加えて保呂草の逃亡と本格ミステリとサスペンスが融合した、森氏にしてはミステリ色の濃い作品である。

また本書ではサブストーリーとして小鳥遊練無の過去についても語られる。
事件の中心となるエアロバティックス・チームの一員である関根杏奈が彼の憧れの存在であり、練無が少林寺拳法を始めたのも彼女の影響であることが判明する。さらに女装も杏奈の影響によるものであることが解る。女装が趣味で少林寺拳法の有段者という個性の強いキャラクターだけの存在だった―個人的には漫画ハンター×ハンターのビスケをイメージとして重ね合わせていたのだが―が、今回は女装をせずに物語に登場する。

物語後半で明かされる関根朔太と西崎勇輝、そして関根杏奈出生の秘密は非常にオーソドックスな真相だろう。

関根杏奈がスカイ・ボルトは人の命を奪うほど価値があるものなのかという祖父江七夏の問いに対して頷き、その後にこのように云う。

「人の命なんて、大したものではない。命をかけるものが、あるからこそ、人は生きているんです」

この言葉はそのまま彼女の母親の生き様に繋がる。奇しくも2人は同じ覚悟を持って人生を生きていることに気付かされる。ここに2人の強い絆を感じた。

たった2人しか入ることの出来ない飛行機のコクピットという極限的に狭い密室殺人でこのようなすっきりとした解答が得られる森氏のミステリスピリットは非常に素晴らしいと思うのだが、また今回も犯人の動機が不明なまま終わるのが不完全燃焼でがっかりである。
多分森氏が「人が人を殺す理由は他人には到底わかるものではないから敢えて書かない」というスタンスを崩さない限り、私は彼の作品を高く評価することはしないだろう。
前にも書いたがそれは我々が生きる社会の中では至極当たり前であるが、せめて作り物の物語の中くらいははっきり答えが出てもいいではないかと思うからだ。割り切れない世の中を生きているからこそ答えのある世界を欲しているのだ。

今まで書いてきたように本書は森作品の中でもミステリ色が濃い作品である。
10億円は下らない特大の宝石が埋められた短剣の行方、密室殺人、脅迫状、ダイイング・メッセージとミステリど真ん中のシチュエーションと小道具が散りばめられているし、また保呂草の逃亡劇というサスペンス要素も加わっている。さらに瀬在丸紅子が最後に警察に持ってくるウィスキーのボトルに付いた指紋の件は刑事コロンボの『二枚のドガの絵』を彷彿とさせる演出だ。

しかしそんな盛り上がってしょうがないと思われる材料を実にあっさりと料理してしまうのだ。
例えば保呂草が依頼された宝剣エンジェル・マヌーヴァの在処も特に謎解き要素があるわけでもなく、最後に仄めかすに留まるし、保呂草の逃亡劇の顛末も瀬在丸紅子の推理ですっきり解消してしまう。
またカタカナで書かれた脅迫状は特に暗号でも何もないままに処理されるだけだ。

この辺のあっさりさがどうにも腑に落ちない。せっかく色々な設定を施しながら全てが中途半端な感じで終わるのが残念なのだ。

恐らくは関根朔太の数奇な運命こそがこの物語の主眼だったのかもしれない。
人が命をかけるからこそ人は生きている。このテーマを書いたところで森氏にしてみれば物語の目的は達成したのかもしれない。それ以降は物語を畳むための作業に過ぎなかったというと云い過ぎだろうか。

またシリーズも5作目となって次第に各登場人物のキャラクターに踏み込んだ内容が書かれるようになった。
小鳥遊練無の憧れの存在関根杏奈は彼が唯一惚れた女性だ。そして林と紅子が別れた件もほんの少しだが明かされる。
本書はシリーズの折り返し地点でもあるから、後半になると更にみんなの過去が明かされるだろうと期待しよう。

さて本書の隠されたテーマは全ての章題に付せられた「形」というキーワードか。森氏はエッセイでも述べているように無類の飛行機好きでその形に機能美を超えた美しさを感じているようだ。その心情は本書のプロローグで遺憾なく開陳されているが、本書では飛行機の形だけでなく、家族の形、過去の形、友人たちの形と人と人を繋いで形成されるものを指しているのではないだろうか。
保呂草が冒頭に述べる多少の演出を交えた形が本書の物語であり、最後に瀬在丸紅子の笑顔を求める形と述べている。つまりそれらの形がその人の生き様を、人生を作る。即ち人生とは形の集合体であるということだろうか。

そうであるならばまだ形は変わっていく。今回の形はこの事件が起きた時の形だ。シリーズが最終作に至る時、どんな形を描くのだろうか。その形こそがこのシリーズの最大のミステリなのかもしれない。


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魔剣天翔―Cockpit on Knife Edge (講談社文庫)
森博嗣魔剣天翔 についてのレビュー
No.1186:
(10pt)

圧倒的な物語の強さに酔いしれる

2015年は発表されるなり各書評で大絶賛されていた米澤穂信氏の『王とサーカス』がその年の『このミス』で上位を、いやかつて誰もなしえなかった2年連続1位を成し遂げると予想されており、実際その通りになったのだが、その下にある第2位の『戦場のコックたち』という書名とその作者深緑野分氏という全く知らない名前を見て驚いた。それもそのはずで2013年に刊行された本書でデビューしたばかりの新人であり、『戦場のコックたち』はまだ第2作目に過ぎなかったのだ。

しかしその斬新な設定とアイデアは読者の耳目を集め、予想外の好評を持って迎えられた。
私も全くノーマークの作家だっただけにこの結果には衝撃を受け、彼女を作品を読みたいと強く思った。そして私のみならず巷間のミステリ読者の期待の雰囲気が察してか、東京創元社がその願望に答えてくれた。それがこの本書である。

ミステリーズ!新人賞で佳作に輝いた表題作から本書は幕を開ける。
読後思わずため息をつき、茫然とどこかを見つめざるを得なかった。たった60ページで書かれた物語はそれほど中身の濃い、哀しくもおぞましい物語だった。
彼女たちは外部との接触を一切禁じられ、自由はあるものの私設から一歩も出ることはもちろん、手紙を送ることさえも許されていなかった。そして集められた少女たちは一様にどこかに障害を持っていた。
オーブランの忌まわしき過去を語る物語はマルグリットと名付けられた、血液の病気で収容された少女の手記で語られるが、これが後の管理人老姉妹の妹になる。そこで仲良くなったミオゾティスと名付けられた美しい、しかし左足が悪いために鋼鉄の歩行具をつけることを余儀なくされた少女こそが管理人老姉妹の姉にあたる。
何かの秘密を湛えたサナトリウムは私も人身売買のための不具者を集めた施設かと予想していたが、作者はそんな読者の予想に敢えて導いて意外な正体を用意していた。
ゴシック的で耽美な、そして情緒不安定な少女たちのどこか不穏な空気を纏った物語は戦争という狂気が生んだ悲劇へと導かれる。
ここにまた傑作が生まれた。

表題作の舞台は第二次大戦下のフランスだったが、次の「仮面」は19世紀末のイギリスが舞台。
朴念仁で長年女性に縁のなかった不器用な医師アトキンソンを中心に語られる一連の計画殺人に至るまでの顛末は一転して女の情念の恐ろしさを知らされる物語へと転じる。特に社会的弱者として描かれ、傲慢な有閑マダムに折檻されて日々暮らしているという不遇な女性像をアトキンソンへ刻み付けたアミラの隠された生きる意志の強さが最後に立ち上る辺りは戦慄を覚える。
いつの世も男は女性には敵わないものだと思い知らされる作品。
そしてまた女性同士もまたお互いに出し抜き合い、したたかに生きていることを知らされる。特に恵まれない境遇だと思われた醜いメイドのアミラに秘められた過去に興味が沸く。恐らくは美しく人目を惹く風貌であったと思われる彼女がなぜ顔の皮膚を焼き、そして鼻を曲げ、唇をナイフで切り裂いたのか。なぜ彼女は身分を隠してしたたかに生きる道を選んだのか。
彼女の過去は明らかにされないがまたどこかで彼女に纏わる話が語られるのだろうか。非常に興味深い。

翻って「大雨とトマト」は場末の食堂を舞台にした大雨の日に起きたある出来事の話。
3作目の舞台はなんと現代の日本。しかもどこかの町にある冴えない安食堂が舞台。
嵐の中訪れた2人の客。一方は十年以上も通ってくれているが名も知らない常連客。一方は初めてやってきた少女。しかしその少女は一度の浮気相手の女性に似ていたため、男は隠し子騒動に動揺する。
いわゆる日常の謎系の物語だが、判明するのは店主の間抜けぶりと常連客と少女の意外な正体という、ちょっぴり毒気が混じった内容だ。これもまたこの作者の持ち味なのかもしれない。

次の「片想い」も舞台は日本だが、時代は昭和初期で創成期の高騰女学校が舞台となっている。岩本薫子と水野環という2人の女子高生の友情の物語だ。
昭和初期の高等女学校という実にレトロな雰囲気の中、ちょっと百合族的な危うい雰囲気を纏って展開する物語はいわば深緑野分風『王子と乞食』となるだろうか。
本書の主眼は2人の女学生の友情物語であることだ。思春期という多感な時期に同じ屋根の下で暮らす女性2人の間に芽生え友達以上恋人未満にも発展した深い深い友情は切なくも苦く、限られた時間であるがゆえに眩しい。作者の長所がいかんなく発揮された作品だ。

最後の「氷の皇国」は北欧と思しきユヌースクという国が舞台の物語だ。
極寒の小国ユヌースク。そこを統治する残虐な王と彼が溺愛する美しい皇女ケーキリアと無邪気で残酷な王子ウルスク。そしてかつて近衛兵で妻を王の乗せた馬車に轢かれて亡くしたヘイザルと娘エルダトラ。ヘイザルの親友でガラス細工職人のヨンに彼の娘でエルダトラの親友のアンニ。これらの人物たちに訪れたある悲劇の物語だ。
首のない死体が流れ着き、それに涙する老婆というだけで悲劇が約束されたような物語である。冷たい皇女の企みを軟禁状態だった皇后が突如現れ、見事な推理で暴く。しかし公然と彼女を犯人にするわけにはいかず、最も彼女が苦しむ選択を下す。
誰もが多大なる苦痛を抱きながら、最小限の犠牲で皆を救う選択をした皇后はある意味最も政治家として正しいものだったのかもしれない。尊い犠牲の上で安住の地に流れ着いた彼女たちは果たして幸せだったのか。複雑な感傷を抱かせる作品だ。


いやはやこれまたすごい新人が現れたものだ。
洋の東西を問わず、しかも現代のみならず近代から中世まで材に取りながらも、まるで目の前にその光景があるかのように、さらには色とりどりの花木や悪臭などまでが匂い立つような描写力と、それぞれの時代の人間たちだからこそ起きた事件や犯罪、そして悲劇を鮮やかに描き出す深緑野分氏の筆致は実に卓越したものがある。

プロットとしては正直単純であろう。表題作は美しい庭に纏わるある悲劇の物語で、次の「仮面」は偽装殺人工作。「大雨とトマト」はある雨の日の出来事で「片想い」は女子高生の淡い友情物語。そして「氷の皇国」は流れ着いた死体に纏わるある悲劇の物語。既存作品に着想を得て書かれたものだとも解説には書かれている。

しかしこれらの物語に鮮烈な印象を与えているのは著者の確かな描写力と物語を補強する数々の装飾だ。そして鮮烈な印象を残す登場するキャラクターの個性の強さだ。
従って単純な話であっても読者は作者の目くるめくイマジネーションの奔流に巻き込まれ、開巻すると一瞬にしてその世界の、その時代の只中に放り込まれ、時を忘れてしまう。濃密な時間を過ごすことが出来るのだ。

それはまるで作者が不思議な杖を振るって「例えばこんな物語はいかがかしら?」としたり顔で微笑みながら見せてくれるイリュージョンのようだ。

収録された5編は全て甲乙つけ難い。どれもが何らかのアンソロジーを組めば選出されてもおかしくないクオリティに満ちているが、敢えて個人的ベストを選ぶとすると表題作の「オーブランの少女」と「片想い」の2作になろう。

表題作はオーブランという美しい庭を管理する2人の老姉妹に突然訪れたある衰弱した女性による殺人事件と、後を追うように自殺した妹の死に隠されたある悲劇の物語という非常にオーソドックスな体裁ながらも、かつてそこにあったある施設が読者の予想の斜め上を行く真の目的と、寂しさゆえに取り返しのつかない過ちを犯してしまった主人公が招いたカタストロフィが実に心に深く突き刺さる。

後者の「片想い」はまだ設立間もない東京の高等女学校を舞台にした、長野の病院のお嬢様に隠されたある秘密が暴かれる物語だが、何よりも主人公であるルームメイトの大柄な女性の純心がなんとも心をくすぐる。なんともまあ瑞々しい物語であることか。

この2作に共通するのは女性の友情を扱っている点にある。
表題作は戦火を潜り、まさに死線を生き長らえた2人の女性が決意の上、秘密の花園を生涯かけて守り抜き、そして彼女たちに悲劇を与えようとした女性の長きに亘る復讐という陰惨さがミスマッチとなって得難い印象を刻み込む。

後者は何よりもなんとも初々しい昭和初期の女子高生たちが築いた友情が実に眩しくて、郷愁を誘う。

多感な時期に得た友情は唯一無比で永遠であることをこの2作では教えてくれるのだ。

他の3作も上で述べたように決して劣るものではない。
「仮面」ではわざと美しい顔を傷つけ、身元を隠してしたたかに生きるアミラという女性に隠された過去に非常に興味が沸き、「大雨とトマト」の場末の安食堂の主人の家族に起こるその後の騒動を考えると、嵐の前の静けさと云った趣が奇妙な味わいを残す。掉尾を飾る最長の物語「氷の皇国」の北の小国で起きたある悲劇の物語も雪と氷に囲まれた世界の白さと氷の冷たさに相俟って底冷えするような余韻をもたらす。

そしてこれら5作に共通するのは全て少女が登場することだ。それぞれの国でそれぞれの時代で生きた少女の姿はすべて異なる。

死線を共に潜り抜け、死が訪れるまで共に生き、死ぬことを誓った少女。

美しい妹を利用し、貧しいながらも人を騙して生きていくことを選んだ少女。

一時の好奇心で図らずも妊娠してしまい、居ても立ってもいられずにその自宅に衝動的に訪れたものの、これからの将来が見えずに途方に暮れる少女。

共に学業に励み、恋心に似た感情を抱きながらも隠していた感情を爆発させ、瑞々しい友情を築いていく少女たち。

父親の犠牲の上に自由を得、そして悠久の時間を経て父親と再会した少女。

ある意味これらは少女マンガ的題材とも云えるが、繰り返しになるが一つ一つが非常に濃密であるがゆえに没入度が並大抵のものではない。どっぷり物語に浸る幸せが本書には詰まっているのだ。

物語の強さにミステリの謎の強さが釣り合っていないように思えるが、それは瑕疵には過ぎないだろう。
私は寧ろミステリとして読まず、深緑野分氏が語る夜話として読んだ。ミステリに固執せず、この作者には物語の妙味として謎をまぶしたこのような作品を期待したい。

もっと書きたいことがあるはずだが、今はただただ心に降り積もった物語の濃厚さと各作品が脳内に刻んだ鮮烈なイメージで頭がいっぱいで逆に言葉が出てこないくらいだ。

こんな作者がまだ現れ、そしてこんな極上の物語が読めるのだから、読書はやめられない。
そしてこれからこの作者深緑野分氏の作品を追っていくのもまた止められないのだろう。実に愉しい読書だった。


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オーブランの少女 (ミステリ・フロンティア)
深緑野分オーブランの少女 についてのレビュー
No.1185:
(7pt)

先入観を排して読むこと!

スティーヴン・キングがもう1つの筆名リチャード・バックマン名義で発表した作品。これがバックマン名義での第1作となる。

オーランドのナイトクラブで銃乱射事件が発生したようにアメリカのハイスクールでの無差別銃乱射事件は多く、一番有名なのは映画にもなった1999年に起きたコロンバイン高校の銃乱射事件だろう。本書はそれに先駆けること1977年に発表されている。
これは1966年に起きたテキサスタワー銃乱射事件を材に取ったと思われるが、その後コロンバイン高校の惨劇を想起させるということでキング本人が重版を禁止した作品でもある。過激な内容を扱いながらも無差別銃乱射事件を美化したような内容が逆に同様の事件を助長させていると作者自身が懸念したからかもしれない。

そう、美化したような内容というのはいわゆる銃社会アメリカでたびたび起きているような無差別殺人を本書が扱っていない点にある。
ライフルを持った一人の頭のおかしい生徒が同級生たちを人質にして教室に立て籠もる。そう聞くと息詰まる警察と狂人の駆け引きと、1人、また1人と生徒たちが亡くなっていくデスゲームのような荒寥感を想起させるが、本書はそんな予想を裏切って、籠城状態の教室という特殊空間の中で高校生たちの日常生活に隠された仮面を次第に剥がして本音をさらけ出して語り、もしくはぶつけ合うという実に意外な展開が広がるのだ。

正直この発想は全くなかったため、非常に驚いた。

事件を引き起こしたチャールズ・デッカーは実は取り立てて目立つような存在ではない高校生だ。しかし彼は元軍人で時々暴力的衝動に駆られる父親と規律と礼儀を重んじる、優しくも厳格な母親の許で育った。好奇心旺盛で衝動的な破壊行動を抑えられない彼は悪戯をしては父親の衝動的暴力の犠牲に遭い、それがもとで父親に対して憎悪を常に抱くようになる。また頭がよく、ディベート能力に優れ、大人たちの説教も煙に巻く弁舌を振るう。そんな彼が教室を支配することでクラスの様相が変わっていく。

とにかく色んな読み方の出来る小説だ。
読了後まず想起するのはスクールカーストの変転を扱った実に特異な小説と読めることだ。

一見銃を手にした一生徒の反逆の物語と見せかけながら、彼の行った籠城行為によって生徒たちが大人への反発心を開花させる物語でもあるのだ。
原題の“Rage”は主人公チャールズ・デッカーの反逆だけでなく、彼の同級生全ての大人に対する反逆心の芽生えも指している。

また学校一の人気者が、同級生による銃を持った立て籠もりという異常な状態ゆえに、日常的に抑えてきた感情が非日常によって解放されたことで通常ならば触れるべきでないことを告白しだす。
それは彼らの両親が行っているクラスメイトの両親に対する噂話だったり、初体験の告白だったり、そんな秘密の暴露がされる中で学校一の人気者が丸裸にされ、その地位が陥落する様は実に面白い。

一方、変わり者としてみなされていた主人公チャールズ・デッカーはいきなり銃を持ち込んで先生を2人撃ち殺し、降伏するよう説得を試みる校長先生、学校担当の精神科医、そして駆け付けた警察署長らを見事に出し抜くことで人質である生徒たちの尊敬を集めていく。

そういう意味ではストックホルム症候群を扱った小説ともいえる。この症候群の名の由来となったストックホルムで起きた銀行人質立てこもり事件が1973年。そして本書が発表されたのが1977年だから当時キングがこの起きたばかりの事件に由来した新たな症候群を知っていたかどうかは疑わしい。
もし知らなかったとすると同様の状況を扱った本書の、いやキングの先駆性は驚くべきものがある。

鬱屈した高校生の反逆の物語。スクールカーストが無残にも崩れ去る物語。犯人に同調する集団意識の変転の恐ろしさを描いた物語。

そのどれもが当て嵌まり、どれもが正解だろう。

しかし私はここからさらに次のように考える。

これは意味のないところから意味を生み出した物語なのだ、と。

まずセンセーショナルな幕開けとなるチャールズ・デッカーの銃立て籠もりの顛末はチャールズが授業中に校長先生に呼び出され、説教をされたことに腹を立て、ロッカーに隠し持っていた銃を持ち出していきなり先生2人を殺したことで始まる。
これは今まで暴力的な父親に虐げられてきた彼が物理の授業で先生を衝動的に傷つけたために精神科医によってカウンセリングを受けるようになったことについてねちねちと云われることが気に食わないために起きたことで正直ここには短気で暴力的衝動が常に潜んでいるチャールズ・デッカーの衝動以外、理由がない。

従って彼は教室に立て籠もるものの、誰一人生徒を殺そうとしない。自分を理解してほしいと云わんばかりに自分のことを語り出し、そしてクラスメイトの話を聞く。それはそれまでお互いに云えなかった打ち明け話をするだけの行為だ。

チャールズの行った籠城には何の意味もなかったのだが、クラスメイト達が思い思いに胸の内を打ち明け、それぞれが抱えていた秘密を暴露することで共通の敵を見出すという意味を持ち、それに復讐する目的を確立する。

たった300ページ足らずの、しかも舞台は高校の教室内で繰り広げられるというのになんとも中身の濃い小説ではないか。
但し現代のような銃立て籠もり事件が頻発する昨今、犯人であるチャールズ・デッカーを反逆のヒーローとして描く本書は確かに読んだ者の心に危うい発想を生み出す危険性を孕んでいることは頷ける。

現在絶版であるのは非常に惜しいと思いながらも、それを決断したキング本人の想いもまた理解できる、読んでほしいにも関わらず復刊することには躊躇を覚えるジレンマに満ちた作品である。

私は本書を古本で手に入れたが、もし興味があるならばぜひとも読んでほしい。本書を読んでどのように受け取るかはあなた次第だ。


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バックマン・ブックス〈2〉ハイスクール・パニック (扶桑社ミステリー)
No.1184:
(7pt)

勝者のいないマネーゲーム

フリーマントルがジョナサン・エヴァンス名義で発表した企業小説。新進気鋭のホテル・チェーンがイギリスの格調高い由緒ある豪華ホテル・チェーンの買収に乗り出すマネーゲーム小説だ。

アメリカの新興ホテル・チェーン≪ベスト・レスト≫を取り仕切るのは若き会長ハリー・ラッド。妻を出産の事故で亡くしたことをきっかけにその哀しみを忘れるために仕事に没頭した結果、たった10年でボストンの取引高300万ドルのモーテル・チェーンを年商5億ドルの国際レジャー産業に仕立て上げた、ウォール街でも噂の男だ。

一方イギリスの≪バックランド・ハウス≫は誰もがその名を知っている5ツ星の最高峰のホテル・チェーンだが、その経営は創始者一族にて代々引き継がれてきた一族経営で、内情は経営体制のない、伝統に胡坐をかいた経営母体で権威とブランドのみで運営しているような会社だ。
その経営を担う現会長サー・イアン・バックランドは祖父と父親の遣り方を単にまねているだけの凡庸な経営者だとみなされており、その実ギャンブルと愛人との情事に耽り、会社の小切手で自身のギャンブルの借金を清算していたことを財務担当から糾弾されるほどのおぼっちゃんでもある。

飛ぶ鳥を落とす勢いの新興ホテル・チェーンの会長というイメージから想起されるのは生気に溢れ、半ば強引な方法で欲しいものを手に入れてきた傲慢不遜を滲ませた辣腕経営者というイメージを抱くが、≪べスト・レスト≫会長のハリー・ラッドはむしろその逆だ。
小柄で何事も慎重に事を運ぶ男でギャンブルはやらず女性には奥手で恋人はいるが身体の関係を特に望むわけではない。まだ若い頃に今の会社の社長であるハーバート・モリスンの1人娘と結婚したが、結婚を好ましく思わなかった義父の画策によって乗っ取りを仕掛けている≪バックランド・ハウス≫の象徴的存在ベリッジ・ホテルに修行に出されていた時に妊娠で妻と子供共々亡くしてしまうという苦い過去を持つ。それ以来その哀しみを忘れるために仕事に打ち込んできたような男で、仕事一筋の、どちらかと云えば一昔前の日本人ビジネスマンに近い人物像だと云える。

億単位、いや数十億単位の金が動くマネーゲーム。誰もが甘い汁をすすろうと金のあるところに集る。

有力な対抗馬が出た政治家は地元の票を集めるため、ホテルを誘致しようとすればそのついでに政治資金が欲しいと新興ホテル・チェーンの会長にせびる。

由緒と伝統と格式のみが唯一の拠り所となった世界最高峰のホテル・チェーンの会長は愛人との情事とギャンブルに狂い、会社の金を使う放蕩ぶり。知らぬ間に会社の財政は火の車となっていることに気付かず、銀行が経営に介入するのを阻止するため、必死になって金策に走る。

新興ホテル・チェーンの会長はその勢力を拡大しようとテキサス州の議員から持ち出された誘致の話を自分の有利な形に持ってこようと手練手管を駆使する。そしてサウジアラビアの王子に持ち込まれた名門ホテル乗っ取りを機に世界一のホテル王になる夢を抱く。

あまり詳しく語られていないが、ハリーはかつて買収先の≪バックランド・ハウス≫の旗艦的ホテルであるベリッジ・ホテルで働いていたこともあり、その経験がいつかは自分もこのような由緒あるホテルのオーナーになりたいという原初的な欲求が今回の買収には働いていたのかもしれない。

しかし今まで数々のプロジェクトを成功に導いてきたハリーに今回は様々な危難が降りかかる。


そして女性に対して朴念仁であったハリー自身が予想外なことに買収先のホテル・チェーン会長の妻と不倫関係になってしまう。

また買収工作が発覚すると取引銀行のハッファフォード銀行もカウンター・ビッドを画策する。

そんな金の亡者の集まる魑魅魍魎と化した世界にラッドは文字通り身銭を切って破産寸前にまで追い込まれながら≪バックランド・ハウス≫株の買収を進めるが、最後の6パーセントの壁を超えることができない。そしてその最後の障害は意外な形で解決を見るが、それはネタバレ感想にて述べることにしよう。

さてフリーマントル作品の醍醐味は目の覚めるようなアクションではなく、やはり知と知のぶつかり合いの高度なディベート合戦にある。企業小説である本書では役員会議や非公開の役員同士の密談などが多々挿入されているが、株主総会とラッドが仕掛ける会社登録法違反の裁判が本書の白眉であろう。

まず株主総会ではギャンブルでの損失を会社の小切手で返金し、家族の友人を愛人として会社の所有する宿泊施設で囲っていることを暴かれた≪バックランド・ハウス≫会長イアン・バックランドの解任を求められるが、圧倒的な不利の中、完璧な理論武装と弁護士を同席させるというラッド提案の奇手によって有利に進め、見事提案を退ける。
こういう議論のシーンが実にフリーマントルは上手い。ただそこには大口株主のファンド・マネージャーの支持が少なかったというスパイスも忘れない。ここに一流のジャーナリストだったフリーマントルのシビアな視点を感じる。このような茶番劇では海千山千の投資家の目はごまかせないと暗に示しているのだ。

そしてそれを証明するかのように一転して乗っ取りを仕掛けたラッドによる会社登録法違反の疑義を申し立てる起訴裁判では株主総会で雄弁に切り抜けたバックランドの答弁はメッキが剥がれるが如く、次々と論破されていく。残されたのは由緒ある貴族階級の一族の裏に隠された数々のスキャンダルの山。伝統と格式に飾られたバックランド一族の装束は容易に剝ぎ取られ、ギャンブルと女遊びにうつつを抜かす一人の裸のお坊ちゃんがいるだけとなる。

後半は株主総会、役員会議、裁判のオンパレードだ。企業小説であり、しかもやり手の若手会長が自社と買収先の株価の大幅下落というリスクを負いながらも血眼になって買収を成立させようと東奔西走する作品であるから仕方がないかもしれないが、ディベート合戦がフリーマントル作品の妙味だと云ってもこの繰り返しはいささか辟易した感じがある。

本書のサイド・ストーリーとして仕事一辺倒だったラッドが買収先のホテルの会長の妻マーガレットと道ならぬ恋に落ちる物語が展開する。それは近い将来敵対的存在となる自分にとって決して取ってはならぬ選択肢だったが、若き頃に亡くした妻の面影を見たラッドにとってマーガレットは仕事だけに目をくれていた彼の目を向けさせる運命の女性だった。

そして彼女との逢瀬はやがて彼女との安らかな生活を望むようになる。そんな背景を織り交ぜてフリーマントルがラッドに差し出した究極の選択は彼女を取るか最後の6パーセントの株を取るかだった。

しかし己の上昇志向に任せて踏み切った今回の乗っ取り工作は実に不毛なものだった。彼は得たものもあるが、心の充足はなかったのではないか。
勝者のいないマネー・ゲーム。やはり今回もフリーマントルは決して甘い夢を見させてはくれなかった。


▼以下、ネタバレ感想
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名門ホテル乗っ取り工作 (新潮文庫)
No.1183: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

負の遺産に向き合う者もいる

本書でも書かれているが、飲料会社のサントリーが青いバラを開発して話題になったが本書では現在存在しない新種の黄色いアサガオを巡るミステリだ。
そしてタイトルの夢幻花もこの黄色いアサガオの異名から採られている。追い求めると身を滅ぼすという意味でそう呼ばれているらしい。

しかし黄色いアサガオはかつては存在したようで、本書にも取り上げられているように江戸時代にはアサガオの品種改良が盛んで黄色いアサガオの押し花が現存している。
ではなぜ現代では無くなったのか。それもまた興趣をそそる。本書ではその謎についても書かれているが、それについてはネタバレ感想にて。

そんな花にまつわる謎を孕んだミステリは一見関係のなさそうな2つのプロローグから始まる。

まずは東京オリンピックを控えた時代で、1人の生まれたばかりの娘を持つある夫妻に訪れた突然の災禍が語られる。

そして次に語られるのは思春期を迎えた中学生蒲生蒼太が、家族恒例の行事で朝顔市に行ったときに出遭った伊庭孝美という同い年の中学生との淡い恋と失恋のエピソード。
その2つを経てメインの事件である新種の花を巡った殺人事件が語られる。

まず一番胸に響いたのは冒頭のエピソードの中学生蒲生蒼太のエピソードだ。
毎年恒例の家族行事となっている朝顔市で出逢った同い年の中学生伊庭孝美に一目惚れし、メアドの交換を行って頻繁に出逢う様子は私も経験したことで当時を思い出して胸を温かくしたが、父親にメールを見られ、交際を禁じられた直後に彼女から突然の別れを切り出される件はさらに胸に響いた。
これも自分に同様の経験があるからだ。あの時の苦くて苦しい思いが甦り、とても他人事とは思えなかった。

各登場人物の設定も興味深い。とくに本書では2つの家族がメインとなって物語に関わる。

主人公の秋山梨乃はかつてオリンピック代表として将来を有望視されていた水泳選手だったが、原因不明の眩暈に襲われたことで水泳を辞め、大学と高円寺のアパートを往復する無為な日々を送っている。

また冒頭従兄の鳥居尚人は成績優秀、スポーツ万能、多種多芸な、何をやっても一流という理想の人物であり、大学を中退してプロのバンドになる道を選び、その夢も実現が間近に迫っていながら突然自殺してしまう。

さらに彼女たちの祖父秋山周治はかつて食品会社の商品開発の研究部に携わっていたが、そこで新種の花の開発を行っていた。そして退職して6年後、黄色いアサガオの開花に成功した矢先、何者かによって殺害されその鉢を奪われてしまう。

もう1人の主人公蒲生蒼太の家庭も特異な状況な家族構成である。

要介と蒼太という2人の年の離れた兄弟がおり、父親の真嗣は元警察官。そして妻志摩子という典型的な4人家族だが、実は要介は前妻との間に出来た息子であり、蒼太は後妻である志摩子との間の息子であった。従ってどこか蒼太は父親と要介に距離を感じており、それがもとで東京の家を出て大阪の大学に通っている。

更に捜査を担当する所轄署の早瀬亮介も被害者秋山周治とは縁があった。息子の裕太が巻き込まれた万引き事件で冤罪を晴らしてくれたのだ。
しかし彼は自身の浮気がもとで現在は妻と息子とは別居中という身。しかし裕太から自分の恩人を殺した犯人を絶対に捕まえてほしいと頼まれ、それが彼の行動原理となっている。つまり妻に愛想を尽かされたダメ親父の奮起の物語の側面も持っているのだ。

メインの物語はこの早瀬亮介側の捜査と秋山梨乃と蒲生蒼太の学生コンビの捜査が並行して語られるわけだが、とにかく秋山梨乃と蒲生蒼太の人捜しの顛末が非常に面白かった。今どきの学生らしくメールやグーグルなどのITツールを駆使し、友人のネットワークを使って秋山周治の死に関係する黄色いアサガオの謎と蒼太の初恋の女性伊庭孝美の行方を追っていく。特に秋山梨乃の大胆さには蒲生蒼太同様に驚かされた。

高校時代に友人の伝手で伊庭孝美の所属する大学と研究室を突き止めた蒼太がその後の行動に悩んでいたところ、いきなり研究室に行ってドアを開けて孝美のことを尋ねる行動力。
そしてアドリブでテレビ番組の取材だと云いのける不敵さ。
梨乃の突飛な考えと行動はこの物語にある種ユーモアをもたらしている。そしてこの若い2人の探索行が読んでいて実に愉しい。もし自分が彼らと同世代だったらこのように行動できただろうかとそのヴァイタリティに感心してしまった。

そんな2人の探索行も含めて思うのは相変わらず東野氏は物語運びが上手いということだ。次から次へと意外な事実が判明してはそれがまた新たな謎を生み、ページを繰る手が止まらなくなる。
以前私はある東野作品を謎のミルフィーユ状態だと評したが、本書もまさにそうだ。従って上の概要もどこで区切ったらいいのか解らないほど魅力的な謎がどんどん出てきて、ついつい長くなってしまった。

後半になってもその勢いは止まらず先が気になって仕方がない。
祖父の死をきっかけに彼の遺した黄色いアサガオの写真の謎を追うと、謎めいた男蒲生要介と出逢い、捜査を辞めるように忠告され、それがきっかけで蒲生蒼太と出逢い、ひょんなことから彼の初恋の相手を捜すようになる。そして足取りを辿っていくとなんと蒼太自身の母親の出生に関わる連続殺人事件に行き当たるという、まさに謎の迷宮に迷い込んだかのような複雑な様相を呈してくる。

そして秋山梨乃と蒲生蒼太側が追いかける謎も殺人事件が解かれると共に蒲生要介によって明かされる。

あまりにスケールが大きすぎて読後の今でも消化できないでいる。

しかし改めて思うが、実に複雑かつ壮大な物語である。一見無関係な要素を無理なく絡ませて読者を予想外の領域に連れていく。実に見事な作品だ。

このような複雑な謎の設計図を構築する東野氏の手腕はいささかも衰えを感じない。識者が作成したリストによれば本書は80作目とのこと。これだけの作品を重ねてもなおこんなにも謎に満ちた作品を、抜群のリーダビリティを持って著すのだから驚嘆せざるを得ない。
特にそれまで東野作品を読んできた人たちにとって過去作のテーマが色々本書に散りばめられていることに気付くだろう。原子力の件では『天空の蜂』が、被害者秋山周治の実直な性格は『ナミヤ雑貨店の奇蹟』の浪矢雄治の面影を、秋山梨乃と蒲生蒼太のコンビやホテルの描写では『マスカレード・ホテル』の舞台と山岸尚美と新田浩介の2人の影を感じるなど、それまでの蓄積が本書でも活かされている。

本書は特に年末に開催される各ランキングでは特段話題に上らなかったが、それが不思議でならないほどミステリの面白さが詰まった作品だ。
実際、『流星の絆』や『マスカレード・ホテル』、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』など『このミス』ランク外の東野作品の方が面白く感じる。恐らくはあまりに映像的なストーリーゆえに投票者がミーハーだと思われるのを避けて敢えて選ばなかった結果かもしれない。
本書もまたドラマにするのに最適な題材であるが、この面白さはもっと正当に評価されていいだろう。

印象に残るのは蒲生蒼太と伊庭孝美の恋の結末だ。
大人になって謎が全て解かれて、ようやく彼女はそれまでの経緯を話す。中学の時に一目惚れし、突然消えた伊庭孝美。その後も現れては消え、消えてはまた意外な場所で姿を見かける彼女は蒲生蒼太にとっての夢幻花だった。だからこそ2人はお互いの出逢いをいい思い出にしたのだろう。

2014年10月10日、サントリーが青いバラに続いて黄色いアサガオの再現に成功するというプレスリリースがなされた。はてさてこの夢幻花に対して警察はどのように動くのか。
本書を読んだ後では手放しで喜べなくなる。そんな錯覚を覚えてしまうほど面白いミステリだった。


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夢幻花(むげんばな)
東野圭吾夢幻花 についてのレビュー
No.1182: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

未来版『新宿鮫』と呼ぶに相応しい

シリアスな国際犯罪警察小説に少年たちの心をくすぐるパワードスーツを絡ませたらどんな物語になるか。
それを実証したのがこの『機龍警察』である。まさにこれこそ大人の小説と少年心をマッチングさせた一大エンタテインメント警察小説なのだ。

まず物語のガジェットとして強烈な印象を残す龍機兵、通称ドラグーンは以下の3機。

姿俊之の操る龍機兵は市街地迷彩が施されたアイルランドに伝わる原始の巨人の名に由来する『フィアボルグ』。
ユーリ・オズノフが操るのはイングランドに伝わる妖犬の名が与えられた漆黒の竜騎兵『バーゲスト』。
ライザ・ラードナーのそれは「死を告げる女精霊」である『バンシー』の名を冠せられた一点の曇りもない純白の龍機兵だ。
もうこういう設定だけでも少年心をくすぐって仕方がない。

また各登場人物の謎めいた過去もまた読者をひきつける。

まずは龍機兵に乗り込む雇われ警察官、姿俊之、ユーリ・オズノフ、ライザ・ラードナーの3名にどうしても興味が行く。

早々に苦い過去が判明するのがユーリ・オズノフだ。
元モスクワ民警の刑事でありながら在職中に殺人その他の容疑で指名手配になり、国外へ逃亡しアジアの裏社会を転々とした後、警視庁に雇われる。元警察出身者であるため、考え方は他の2人と比べて警察に対する仲間意識が高く、冒頭の突入作戦で殉職したSATの突入班長荒垣の葬儀に唯一人出席したりもする。
しかし忌み嫌われる特捜部では他の警察官からは罵倒と中傷を浴びされられ、さらに雇われ警察官という立場から特捜部でも白い眼で見られる存在であることが警察官の心を持つことで強いジレンマを抱えている。

姿俊之はかつて『奇跡のディアボロス』、『黄金のディアボロス』と評された超一流の傭兵部隊の生き残り。軽口を叩き、どんな状況においても動ぜず、冷静に物事を見据える男。本書は彼のかつての戦友王富国と王富徳が今回の敵として現れ、彼の過去が断片的に語られる。

そして名を変え、警視庁の雇われの身になっているライザ・ラードナーは元IRFのテロリスト。自身を落伍兵と呼び、特捜部に入ったのも自らの死に場所を選ぶためで、常に虚無感を湛えた表情をしている。

そして龍機兵の整備を担当する特捜部技術主任の鈴石緑は幼い頃に両親をIRFのテロ行為で亡くし、テロリストに対する憎しみを拭えないでいる。

さらに特捜部を仕切る沖津は外務省出身の謎めいた存在で常にシガリロを吹かし、冷静沈着さを失わない。

彼の許に城木、宮近の両理事官と夏川、由紀谷両主任が控える。この両理事官、両主任ともがそれぞれ対照的な性格と人物像を備えているのが特徴的だ。城木と由紀谷が独身でかつ痩身の優男であり、常に冷静に物事を見て判断する傾向がある。しかし由紀谷はかつて荒れていた過去があり、時折氷のような冷徹さが垣間見える。

宮近、夏川は感情を表に出す性格で、宮近は上昇志向が強く、特捜部に配置されたことを快く思っておらず、他の部署へひそかに情報をリークさせる、いわばスパイであり、またお堅い警察組織を具現化したような存在でもある。一方夏川は柔道を嗜む日に焼けた典型的な体育会系の男で、警察官であることに誇りを持つ熱血漢でもある。

これら個性的な面々が揃った特捜部とは実は警察内で仇花的存在となっている。
「狛江事件」という密造機甲兵装に搭乗した韓国人犯罪者によって起きた3名の警察官殉職と人質の男子小学生を亡くすという痛ましい事件。それも神奈川県と東京の県境で双方の縄張り争いも一因だったという不祥事ともいえる事態がきっかけとなって設立された外部の傭兵と契約し、最先端の機甲兵装龍機兵を供与され、銃の携行を許された特捜部SIPD。

しかし外部の、しかも素性が解らぬ犯罪者まがいの傭兵を招聘し、そんな彼らに警察官の誰もが乗りたいと願う最先端の機甲兵装を奪われ、さらには特捜部に入った警察官は無条件で階級を挙げさせられるため、警察内部では異分子扱いされ、特捜部に入った者はかつての同僚のみならず周囲から裏切者扱いされるという孤立した組織になっている。

特に本書では特捜部主任の夏川と由紀谷の2人が馴染みの店に飲みに行くと後から来た後輩や先輩からも疎まれ、さらには店の女将からも迷惑だから来ないでくれと云われるエピソードがあり、それが特捜部員の孤独感を一層引き立てる。

いわばこれは21世紀の『新宿鮫』なのだ。大沢在昌によって生み出された警察のローン・ウルフ、鮫島を組織として存在させたのがこの『機龍警察』における特捜部SIPDであるとも云えよう。

本書の敵は龍機兵の操縦者の1人姿俊之の元戦友、王富国と王富徳。かつての仲間が敵となる。姿はビジネスライクにそれが我々傭兵たちの仕事であり、珍しい事ではないと割り切って応えるが、挿入されるモノローグで語られるかつて同じ戦地で闘い、死線を潜り抜けてきた敵2人との関係はその自嘲的な言葉とは相反する感情を示している。それでも姿という男がぶれないことでこの人物の強さが非常に強く印象付けさせられた。

警察官でありながら、警察から白い眼で見られ、明らさまに罵られたり、行きつけのお店からも追い出される。そんな確執を抱えながらも日々過激化する機甲兵装を使ったテロリストたちと命がけの戦いを強いられる特捜部たちの姿が骨太の文体で頭からお尻まで緊張感を保ったまま語られる。
つまり本書は機甲兵装というパワードスーツが暴れる犯罪者たちを最先端の技術を駆使して生み出した警視庁のパワードスーツが打倒するという単純な話ではなく、このSF的設定が見事に組織の軋轢の狭間で額に汗水たらして捜査に挑む警察官たちの活躍と結びついた一級の警察小説なのだ。
更にその警察機構の中に外部から雇った傭兵、警察崩れ、そして元テロリストという異分子を組み込み、戦争小説の側面もあるという実に贅沢な物語である。しかもそれらが見事に絶妙なバランスで物語に溶け合っている。この1作に注いだ作者の情熱と意欲は見事に現れており、読者は一言一句読み逃すことができないだろう。

ただ嬉しいことに本書はまだシリーズの序章に過ぎない。

そして三人の雇われ警察官、姿俊之、ユーリ・オズノフ、ライザ・ラードナーたちと警察機構の中で忌み嫌われる存在特捜部SIPDの沖津部長、城木、宮近両理事官、夏川、由紀谷両主任、そして鈴石技術主任らのイントロダクションを果たすのに十分すぎる役割を果たす作品である。

さてこれからのシリーズの展開が待ち遠しくてならない。
『機龍警察』は21世紀の『新宿鮫』となるか。
この1作を読む限りでは十分その可能性を秘めて、いや既にその実力を持っていると断言しよう。


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機龍警察〔完全版〕 (ハヤカワ文庫JA)
月村了衛機龍警察 についてのレビュー
No.1181: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

御手洗の未発表事件を知りたかったら読むべし!

御手洗潔の非ミステリ系短編集。

まず「御手洗潔、その時代の幻」はアメリカに留学中の御手洗が読者からの質問に答える作品。そこで挙げられる質問の数々はそれまでの作品に登場したエピソードに因んだものが多く、まさにファンサービスの1編。
ここで父親について質問が成され、御手洗の父親に関するあるエピソードが語られる。普段飲んだくれの父―これは予想外!―が駅のホームでの若者同士のケンカによって当時5歳だった御手洗潔がホームに転げてしまうというちょっとした事故が遭い、それに激昂した父親の姿が意外だったという話だが、それが次の短編「天使の名前」に繋がっていく。

その「天使の名前」の主人公は御手洗潔の父直俊。
御手洗潔の父親直俊が「御手洗潔、その時代の幻」で飲んだくれ親父だったという衝撃の事実の真相がほんの僅かだが明らかになる本書で最も長い1編。
第二次世界大戦前、外務省に勤める御手洗直俊がどうにか日本とアメリカとの戦争を食い止めようと奔走する姿が描かれるが、周知の事実のように日本の真珠湾攻撃を発端としてアメリカと開戦してしまう。そのゼロ時間までの御手洗直俊の奮闘と愚直なまでに日本国の勝利を信じる軍部との確執。そしてなぜか忠告したとおりに日本の敗色が濃厚になっていくのを不吉なことを云うからだと一手に責任を負わされ閑職に追いやられる直俊の姿は従来島田氏が作品で語っていた日本人の面子を重んじる権威主義の犠牲者である。
やがて直俊は友人を訪ねて神戸の三宮に渡るが、空襲により買い出しに行っている最中に友人一家全てが犠牲になり、教会の伝手でかつて東京で知り合った椎名悦子を訪ね、広島に行くがそこで御手洗は原爆投下直後の広島の姿を見て絶望する。
戦時の日本政府の愚かさと志半ばで挫折した一人の男と戦争の惨たらしい現実を幻想的に仕上げた1編。

次の「石岡先生の執筆メモから」もファンサービスの1編。犬坊里美によるとある雑誌に依頼されたエッセイという体裁だが、書かれている内容は御手洗潔の未発表事件の紹介という、これまたファン垂涎の内容となっている。
本作は「INPOCKET」誌の1999年10月号にて発表された、実に17年前の作品であり、その後実際に発表された作品も挙げられているが、未発表の作品もまぎれており、実に興味深い。
特に『ハリウッド・サーティフィケイト』の最後の一行で言及されている次の事件「エンジェル・フライト」事件に興味を持った。あの陰惨な事件が単なる序章に過ぎないと云わしめたこの事件はどのような物なのか。御手洗が死をも覚悟した事件とはどれほどの物なのかと非常に気になる作品だ。
あと「A Mad Tea Party Under The Aurora」は『魔神の遊戯』だと思われる。その他「ケルトの妖精」事件、「マンモス館の謎」、「伊根の龍神」事件、「ライオン大通り」事件は未発表作品に属するだろう。
全ての事件について今後書かれるかは解らないがまだまだ御手洗物のネタは尽きていないと解っただけでも大収穫の1編だ。
しかし犬坊里美の文章はどうにかならないかね。

続く「石岡氏への手紙」もファンサービスの1編。
御手洗が国外へ飛び出した後、馬車道で一人暮らしを続ける石岡の許に届いた手紙の主は御手洗かと思いきやハリウッド女優として活躍している松崎レオナからの物だった。彼女の近況と御手洗への想い、そして映画の都ハリウッドの現状と映画界の内幕が語られる。
しかし彼女が吐露する内容は一部作者島田氏本人の心情が混ざっているのではないだろうか。本作が発表された2000年は恐らく島田氏がLAに滞在していた時期ではないだろうか。従って松崎レオナによる手紙の体裁を借りて島田氏がLAで感じる異邦人ゆえの孤独感や日本でのバッシングを遠き異国の地で知っても何もできない無力感を覚えたことがこの作品で松崎レオナの言葉を借りて思わず出てしまったのではないだろうか。
「手紙を書くことで自分の気持ちが見えた。他人に誹謗中傷されてもびくともしない心のよりどころ、強く太い柱がほしい」
このあたりの件はまさに作者の本心の表れだと思うのだが。

次の「石岡先生、ロング・ロング・インタビュー」はなんと作者島田本人が石岡和巳に直接逢い、読者からの質問に答えるというメタフィクショナルな1編だ。
インタビューの場所が山下公園のコンビニの前というのが可笑しい。しかも独身の石岡の食事はコンビニ弁当で最初に質問はコンビニに入って好きな弁当の紹介から始まる。その後普段の暇つぶし方法や好きな絵、音楽といった個人的な話から、過去の作品に纏わる話が島田を通じて語られる。
『異邦の騎士』の事件で失われた記憶はまだ戻っていないこと、「数字錠」で登場した宮田君が無事刑務所から出所したこと、「糸ノコとジグザグ」のある場面について、そして外国へ発った御手洗に対する気持ちなどシリーズファンにとっても関心の高い内容が語られる。
しかし全編通じて感じるのは石岡氏が人生を楽しんで生きているわけではないということだ。コミュニケーション障害を持った大人で常に自分の存在を卑下している。何度も島田氏が励ますも効果がないほど人生に諦観を抱いている。女性にとっては母性本能がくすぐられるタイプなのかもしれないが、同性としてはなんとも情けない男だなぁと感じてしまう。
とはいえ、御手洗去った後の彼の境遇が不憫でならない。そんな風に感じさせる1編でもあった。

続く「シアルヴィ」は物語の中に盛り込まれるぐらいのエピソードともいうべき1編。スウェーデンのウプサラ大学の教授となった御手洗が医学系教授の集まりでスウェーデンのメーラレン湖の湖畔に建てられたシアルヴィ館に飾られた異形の十字架に纏わる話を語る。
北欧神話をモチーフにしたシアルヴィ館の意匠に込められたエピソードの数々は設計者の想いを解きほぐすような面白さがある。解る人にはすぐに解る謎解きでちょっとした箸休めのような1編と云えるだろう。

そして最後の「ミタライ・カフェ」はスウェーデンへと発った御手洗のパートナーとなったハインリッヒによる御手洗のウプサラ大学での日々が紹介されるが、いつものようにとも云うべきか、話は御手洗が研究する大脳生理学の研究テーマへ脱線し、その専門的な話に少々辟易した。
また最後に本作の前の短編「シアルヴィ」で登場したシアルヴィ館でのお茶会で御手洗が週末の金曜日に豊富な殺人事件の探偵談を語ることから本作のタイトルとなっている「ミタライ・カフェ」と呼ばれるようになったことが明かされる。つまりこの二作は同じ場所を違う名前で指し示していることになる。
しかしハインリッヒは御手洗のスウェーデン時代の活躍の語り部、つまりスウェーデンの石岡和巳であり、この短編では御手洗は彼の地でも色々と事件を解決しているようなのだが、あまり発表されているようには感じていないのだが。後々これらも発表されるのか、それとも島田氏の頭の中に留まるだけなのかもしれないが。


本書は冒頭に書いたように同文庫で刊行された『御手洗潔と進々堂珈琲』同様、御手洗潔が登場する非ミステリの短編集。シリーズの中心人物御手洗潔と石岡和巳に直接読者からの質問をぶつける、もしくは近況を語らせるというメタフィクショナルな内容がほとんどで、唯一の例外が御手洗の父親直俊が外務省に勤めていた第二次大戦の頃の話が語られる「天使の名前」だ。

この作品も非ミステリではあるが、元々物語作家としても巧みな筆を振るっていた作者のこと、実に読ませる物語となっている。
日本の敗戦を予想し、首脳陣へ戦線の拡大を留まらせようと粉骨砕身の努力を傾注したにもかかわらず、無視され、謂れなき誹りを受けて外務省を後にせざるを得なかった直俊の不運の道のりが描かれ、胸を打つ。特に島田氏が常々自作で披露していた日本の縦社会に根付く恫喝を伴う権威主義への嫌悪感がこの作品でも横溢しており、その犠牲者として直俊が設定されているのはなんとも哀しい限り。
しかし戦中は報われなかった彼の最大の功績は御手洗潔をこの世に生み出したことであると声を大にして云ってあげたい。それが彼にとっての救いとなることだろう。

それ以外のファンサービスに徹した作品では読者からの質問に回答したり、未発表御手洗作品について触れられていたり、登場人物の近況が報告されたり、御手洗がウプサラ大学教授時代の彼の博識ぶりを彷彿とさせるエピソードがあったりと御手洗と石岡が実在するかのような語り口である。特に作者島田氏自身が石岡に読者への質問をぶつける作品では錯覚を覚えるくらいだった。
しかし石岡君はどうしたものかねぇ。

本書は2016年6月に新潮社にて文庫オリジナルとして編集された作品であるが、収録作品は1999年から2002年に各種媒体で発表されたもので14~7年前と比較的古い話ばかりである。従って収められている話では2016年の今日ではすでに実現されている物もあり、興味深く読むことが出来た。

一例を挙げれば「御手洗潔、その時代の幻」と「ミタライ・カフェ」で語られるある特殊な細胞の話は現在のiPS細胞のことであろう。
御手洗潔シリーズ未発表の事件を列記した短編では現時点でも発表されていない作品もある代わりに「パロディ・サイト」事件や「大根奇聞」、「UFO大通り」などその後きちんと発表された作品名を挙がっていることから99年の段階で構想があったことにも感嘆してしまった。

今では日本を代表する名探偵シリーズにまで成長した御手洗潔が逆にそれほどまで支持されるようになったのは本書のように事件のみに挑む彼の姿以外の素顔を折に触れあらゆる媒体で作者が語ってきたことが要因であろう。一作家の一シリーズ探偵として登場した御手洗潔が今日これほどまでに人気があるのはこのような地道なファンサービスの賜物であろう。一瞬で事件の構造を看破する天才型の探偵という浮世離れした御手洗潔に血肉を与えることに見事に成功している。

しかし作者がすでに還暦を超えており、即ち御手洗もまた同じような世代であることを考えるとこれからのシリーズは御手洗の過去の活躍を紹介するような形になるのではないだろうか。そしてそれらの事件がまだまだ眠っていることが解っただけで本書は読む価値のある1冊なのかもしれない。


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御手洗潔の追憶
島田荘司御手洗潔の追憶 についてのレビュー
No.1180: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

科学者が必ず直面する倫理との戦い

探偵ガリレオシリーズ第8作目である本書は一度「猛射つ(う)」という題名で短編として発表されたものに加筆して文庫化の際に長編として発表された。
長編での探偵ガリレオ作品は湯川の葛藤を中心に描かれた物語となっているが、本書もまたその例にもれず、母校の後輩が事件に絡んでいる。

本書の中心人物となる古芝伸吾はかつて高校時代に自分の所属するサークル物理研究会がサークル員が自分1人になったことで存続の危機に立たされて際、新入生の入部勧誘のためのパフォーマンスを行うために先輩たちに助けを求めたところ、学生時代に同じサークルに所属していた湯川が一肌脱いで古芝の手伝いをしたことが縁で、湯川を尊敬し、努力の末に湯川が所属する帝都大学に入学した好青年だ。

さらに彼は両親を亡くし、9歳年上の姉と一緒に暮らしている苦労人でもある。

そんな背景の中で、たった一人の肉親である姉が突然亡くなったことで念願の大学を辞め、町工場に就職するという、既にここで読者の心に遣る瀬無さを誘う設定が織り込まれている。

更に湯川は古芝の入学を喜んでおり、時折彼と連絡を取っていた間柄でもあった。そんな古芝がある事件をきっかけに突然失踪し、東京各所で起きる怪現象にかつて湯川が古芝に授けた部員勧誘のパフォーマンスに使われた技術が関わっていることが判明する。

一人の真面目な青年が身寄りの死によってこれから開けるであろう明るい未来への扉を閉ざされてしまう。本書は初めから人生の皮肉さによって読者の心を鷲掴みにする。

しかしそれが表向きの理由だったことが次第に解ってくる。例えば冒頭に挙げられる偽名を使って東京のシティホテルに宿泊していた女性が翌日に大量の血を流して死体となって発見される。そこに古芝伸吾の許に掛かってくる姉の死を知らせる電話。そして謎の失踪。

作中、科学技術は扱う人の心次第で禁断の魔術にもなると湯川が語るシーンがある。機械の技術者で世界を飛び回っていた亡き父を尊敬し、そして高校時代に出逢った先輩湯川に憧れ、機械工学の道に進んだ彼、古芝伸吾はそのまっすぐな性格ゆえに自分には復讐する武器と知識があることに気付き、復讐の道へ進む。
純粋であるがゆえに人生に折り合いを付けられない。そこに古芝伸吾の哀しさがある。

そして湯川も含め科学者とはその道を究めんとする純粋さが必要なのではないだろうか。古芝伸吾は高校の時に湯川から励まされた言葉

「諦めるな。一度諦めたら、諦め癖がつく。解ける問題まで解けなくなるぞ」

を胸に抱いてきたからこそ難関校である帝都大学に合格した自負がある。つまり求道心が強いからこそそのベクトルが殺人という誤った方向であっても軌道修正が出来なくなるのではないだろうか。
悪は悪であるから裁かれなければならない。
もちろんそうだろう。しかし罪に問われない人物に事情はどうあれ復讐するのはおかしいのだ。求道心は道徳―それが受け入れがたいものであってもーをも凌駕するのかもしれない。

東野氏は『手紙』、『さまよう刃』、『容疑者xの献身』など一貫してこの法律では割り切れない部分を描き、犯罪に走らざるを得ない社会の犠牲者の辛い立場を描いてきた。
古芝伸吾もまたその系譜に連なる犠牲者の1人と云えるだろう。

そしてその古芝が師である湯川から授かった技術がレールガン。これは本当に実在するらしい。米軍で開発も進んでいるという。
私がこの武器の存在を知ったのはゲーム『メタルギア』でかなりずいぶん前だった。確かあのゲームでは連発していたが、実際は一日に1発しか打てない代物で、撃った後も研磨などの整備に何日もかかるらしく、軍事用には向いていないのが湯川の弁だ。しかし数キロ離れたところから標的を捉えられることから実用化すれば恐ろしい兵器になるに違いない。
そんな武器を高校を卒業したての青年が姉を見殺しにした相手の復讐心で完成させる。それは純粋さゆえの過ちだった。

しかし今回最も辛かったのは湯川自身だったのかもしれない。自分が目を掛け、将来を期待した年の離れた後輩が突然の不幸から道を踏み外し、科学を悪用する立場になってしまった。しかも自分が教えた技術で以って。

「科学は世界を制す」が口癖だった古芝の父親はそれが我が子たちに向けたメッセージでありながらも実は科学は使う者によって善にもなり悪にもなる、世界を制するのも豊かな社会にして制する、もしくは軍事的に使われて制するという二律背反性を備えた禁断の魔術師なのだと自身に刻み込んだ戒めの言葉だったことが最後に解る。

300ページ足らずの長編で、元は短編に加筆した作品だったがそこに内包されたメッセージ、とりわけ科学者とはどう生きるべきかという根源的な命題を刻み込んだ作品で中身は濃かった。
そして今までは科学を悪用した相手に博識でトリックを看破してきた湯川だったが、今回初めて自身で授けた技術の悪用と愛すべき後輩に対峙した湯川の心境はいかばかりだったのか。
この事件を経て湯川はさらに人間的な魅力を備えて我々の許に還ってくるに違いない。


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禁断の魔術 (文春文庫)
東野圭吾禁断の魔術 についてのレビュー
No.1179: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

本書における本当の恐怖とは

もはやキングの代名詞とも云える本書。スタンリー・キューブリックで映画化され、世界中で大ヒットしたのはもう誰もが知っている事実だろう。

コロラド山中の冬は豪雪のため営業停止する≪オーバールック≫ホテル。その冬季管理人の職に就いたジャック・トランスと彼の癇癪と飲酒癖の再発を恐れる妻ウェンディ、そして不思議な能力“かがやき”を持つ少年ダニー達3人の一冬の惨劇を描いた作品である。

とにかく読み終えた今、思わず大きな息を吐いてしまった。
何とも息詰まる恐怖の物語であった。
これぞキング!と思わず云わずにいられないほどの濃密な読書体験だった。

物語は訪れるべきカタストロフィへ徐々に向かうよう、恐怖の片鱗を覗かせながら進むが、冒頭からいきなりキングは“その兆候”を仄めかす。

ホテルの冬季管理人の職に就いた元教師ジャック・トランス。彼は自粛しつつも酒に弱い性格でしかも癇癪もちであり、それが原因で教師を辞職させられた。

更にその息子ダニーは“かがやき”と呼ばれる特殊能力を持つ少年だ。人の心の中が読めたり、これから起こることが解ったりする予知能力のような力を指し、この“かがやき”はホテルのコック、ハローランも持っており、ダニーは強い“かがやき”を持っているという。
さらに彼にはイマジナリー・コンパニオン―想像上の友達―トニーがおり、それまでは孤独なダニーの遊び相手であったが、≪オーバールック≫へ来ると彼を悪夢へ誘う導き手となる。

この“かがやき”が題名のシャイニングの由来である。いわゆる第6感もそれにあたるようで、理屈では説明できない勘のようなもの、そこから肥大した第7感を示しているようだ。

そして舞台となる≪オーバールック≫ホテルもまた過去の因縁と怨念に憑りつかれた建物であることが次第に解ってくる。
1900年初頭に建てられた優雅なホテルはロックフェラーやデュポンなどの大富豪、ウィルスン、ニクソンなどの歴代大統領も宿泊した由緒あるホテルだが、その後オーナーが頻繁に入れ替わり、何度か営業停止をし、廃墟寸前まで廃れた時期もあった。しかし大実業家のホレス・ダーウェントによって徹底的に改築され、現代の姿になり、いまや高級ホテルとして名実ともに堂々たる雄姿を湛えている。

しかしジャックは地下室で何者かによって作られたこのホテルに纏わる記事のスクラップブックを発見し、ホテルの歴史が血塗られた陰惨な物であることを発見する。

そして決して開けてはならない217号室の謎。そこにはハローランでさえ恐れ、また支配人のアルマンでさえ誰にも触れさせようとしない開かずの間。

それ以外にも≪オーバールック≫には人の死に纏わる事件が起こっている。やがてそれらの怨念はこの古き屋敷に宿り、住まう者の精神を蝕んでいく。

優雅な装いに隠された暗部はやがてホテル自身に不思議な力を与え、トランス一家に、ことさらジャックとダニーに影響を及ぼす。

誰もが『シャイニング』という題名を観て連想するのは狂えるジャック・ニコルスンが斧で扉を叩き割り、その隙間から狂人の顔を差し入れ「ハロー」と呟くシーンだろう。
とうとうジャックは悪霊たちに支配され、ダニーを手に入れるのに障害となるウェンディへと襲い掛かる。それがまさにあの有名なシーンであった。
従ってこの緊迫した恐ろしい一部始終では頭の中にキューブリックの映画が渦巻いていた。そして本書を私の脳裏に映像として浮かび上がらせたキューブリックの映画もまた観たいと思った。この恐ろしい怪奇譚がどのように味付けされているのか非常に興味深い。キング本人はその出来栄えに不満があるようだが、それを判った上で観るのもまた一興だろう。

映画ではジャックの武器は斧だったが原作ではロークという球技に使われる木槌である。またウィキペディアによれば映画はかなり原作の改編が成されているとも書かれている。

≪オーバールック≫という忌まわしい歴史を持つ、屋敷それ自体が何らかの意思を持ってトランス一家の精神を脅かす。それもじわりじわりと。
特に禁断の間217号室でジャックが第3者の存在を暴こうとする件は既視感を覚えた。この得体のしれない何かを探ろうとする感覚はそう、荒木飛呂彦氏のマンガを、『ジョジョの奇妙な冒険』を読んでいるような感覚だ。頭の中で何度「ゴゴゴゴゴゴッ」というあの擬音が鳴っていたことか。
荒木飛呂彦氏は自著でキングのファンでキングの影響を受けていると述べているが、まさにこの『シャイニング』は荒木氏のスタイルを決定づけた作品であると云えるだろう。

しかしよくよく考えるとこのトランス一家は実に報われない家族である。
特に家長のジャックは父親譲りの癇癪もちでアルコール依存症という欠点はあるものの、生徒の誤解によって自身の車を傷つけられたのに激昂して生徒を叩きのめしてしまい懲戒処分となり、友人の伝手で紹介されたホテルが実に恐ろしい幽霊屋敷だったと踏んだり蹴ったりである。自分の癇癪を自制し、苦しい断酒生活を続けているにもかかわらず、何かあれば妻から疑いの眼差しを受け、怒りを募らせる。教師という職業から教養のある人物で小説も書いて出版もしている、それなりの人物なのに、家庭で暴君ぶりを発揮した父親の影響で自身も暴力と酒の性分から抜け出せない。

また妻のウェンディも何かと人のせいにする母親から逃れるように結婚し、そのせいかいくら優しくしても父親にべったりな息子に嫉妬し、かつての暴力と深酒による失敗からか愛してはいても十二分に夫を信用しきれない。彼女もまた親の性格による犠牲者である。

そして最たるはダニーだ。彼も“かがやき”という特殊な能力ゆえに友達ができにくく、常に父親が“いけないこと”をしないか心配している。さらにホテルに来てからは毎日怪異に悩まされるたった5歳の子供。

普通にどこにでもいる家庭なのに、運命というボタンを掛け違えたためにとんでもない場所に導かれてしまった不運な家族である。

ところで開巻して思わずニヤリとしたのは本書の献辞がキングの息子ジョー・ヒル宛てになっていたことだ。本書は1977年の作品で、もしジョー・ヒルがデビューしたときにこの献辞に気付いて彼がキングの息子であると解った人はどのくらいいるのかと想像を巡らせてしまった。

そしてよくよく読むとその献辞はこう書かれている。

深いかがやきを持つジョー・ヒル・キングに

つまり『シャイニング』とは後に作家となる幼きジョー・ヒルを見てキングが感じた彼の才能のかがやきに着想を得た作品ではないだろうか。そしてダニーのモデルはジョー・ヒルだったのではないだろうか。
そして時が経つこと36年後、息子が作家になってから続編の『ドクター・スリープ』を著している。これは“かがやき”を感じていた我が息子ヒルをダニーに擬えて書いたのか、この献辞を頭に入れて読むとまた読み心地も違ってくるのではないだろうか。

1作目では超能力者、2作目では吸血鬼、3作目の本書では幽霊屋敷と超能力者とホラーとしては実に典型的で普遍的なテーマを扱いながらそれを見事に現代風にアレンジしているキング。本書もまた癇癪もちで大酒呑みの性癖を持つ父親という現代的なテーマを絡めて単なる幽霊屋敷の物語にしていない。
怪物は屋敷の中のみならず人の心にもいる、そんな恐怖感を煽るのが実に上手い。つまり誰もが“怪物”を抱えていると知らしめることで空想物語を読者の身近な恐怖にしているところがキングの素晴らしさだろう。

そう、本書が怖いのは古いホテルに住まう悪霊たちではない。父親という家族の一員が突然憑りつかれて狂気の殺人鬼となるのが怖いのだ。

それまではちょっとお酒にだらしなく、時々癇癪も起こすけど、それでも大好きな父親が、大好きな夫だった存在が一転して狂人と化し、凶器を持って家族を殺そうとする存在に変わってしまう。そのことが本書における最大の恐怖なのだ。

読者にいつ起きてもおかしくない恐怖を描いているところがキングのもたらす怖さだろう。
上下巻合わせて830ページは決して長く感じない。それだけの物語が、恐怖が本書には詰まっている。


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シャイニング〈上〉 (文春文庫)
スティーヴン・キングシャイニング についてのレビュー