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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1433

全1433件 261~280 14/72ページ

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No.1173:
(3pt)

なんだか纏まらない読書だった

フリーマントルのノンシリーズである本書はKGB内で台頭する2人の実力者による暗闘を描いた作品だ。
昨日の友は今日の敵という言葉がぴったりのかつて親友同士で今や憎むべき相手となったヴィクトル・カジンとワシーリ・マリクがそれぞれ相手を破滅させようと陰謀を張り巡らす。

今までのフリーマントル作品と異なり、私にとってなかなか全体像が見えない作品だった。
たまたま一時帰国の休暇中で読書に適さない状況だったとはいえ、従来のフリーマントル作品よりも仄めかしや作戦の核心が曖昧に表現されているため、なかなか焦点が絞れないように感じ、非常にもどかしい読書になった。
KGBのCIAへスパイを潜入させるためにレヴィンを亡命させるが、事情を知らずに父親に反発する息子ピョートルが不思議と自分と重なった。

KGB第一管理本部アフガニスタン担当局長アガヤンス暗殺、ソ連の“スリーパー”、エフゲニー・レヴィンのCIA潜入計画、CIAソ連担当アナリストジョン・ウィリックの亡命計
画と3つの主流な作戦の中心にいるのがカジンであり、その裏にある彼の工作を見破ろうとするのがワシーリ・マリクとその息子ユーリという構図。
しかしカジンの策略によってワシーリはカジンの刺客パンチェンコによって交通事故死として暗殺されてしまう。そこからユーリの単独捜査が始まるわけだが、彼もまたKGBの描いた大きな構図の中に取り込まれてしまう。

しかし一方でソ連の壮大な計画、ソ連のスパイ、レヴィンをCIAへ潜入させる計画を理解できなかったレヴィンの息子ピョートルは最後FBIエージェントになることを希望する。

本書で描きたかったのはゴルバチョフ政権によって情報公開、民主化が進もうとするソ連、KGBの軋轢とそんな中でもソ連はしたたかに工作員をアメリカに潜入させている逞しさだったのか。
上に書いたようにフリーマントルにしてはサプライズも甘く、物語の焦点が定まらない作品であった。残念。


▼以下、ネタバレ感想
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終りなき復讐 (新潮文庫)
No.1172: 7人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)
【ネタバレかも!?】 (2件の連絡あり)[]   ネタバレを表示する

我々は人の命を重んじることで実はとんでもない過ちを犯しているのかもしれない。

介護という日常的なテーマを扱った本書で日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した著者のデビュー作。新人とは思えぬ堂々の書きっぷりで思わずのめり込んで読んでしまった。

介護。
それは誰もが必ず1度は直面する問題で2000年に我が国も介護保険制度が導入されたが、今なお介護が抱える問題や闇は払拭されていない。

介護ビジネスと云われるように富める者と貧しい者が受けるその制度の恩恵に雲泥の差があるからだ。

資産を持つ裕福な者は高級な老人ホームに入り、24時間体制の厚い介護システムを受け、VIP待遇のように扱われるが、安い老人ホームは定員オーバーで入居待機を強いられ、場所によっては収容所のような環境で虐待もされているという。

さらにそこにも入れない日々の生活をぎりぎり行っている人たちは自宅介護で身のやつれる経験をし、いわゆる介護疲れで精神をすり減らし、明日の見えない日々を送らなければならない。

さらに介護ビジネスに携わる人々の環境も劣悪だ。人の身体を扱う重労働と長時間労働の上に手取りは少なく、今最も離職率が高い事業だと云われている。

本書にはそんな介護の厳しい現実がまざまざと突きつけられる。

作者はそれを介護サービスを施す側と受ける側にそれぞれ対照的な登場人物を配置して介護の厳しい現状を語る。

介護を施す側の人物は佐久間功一郎と斯波宗典。
佐久間はいわば介護ビジネス経営側の人間で政府が施行した介護保険制度の改正で軋みを立てるビジネス経営の苦しみの只中に立たされている。

一方斯波は現場サイドの人間で介護業が抱える苦しさと離職率の高さを実感している。

そしてサービスを受ける側の人間は大友秀樹と羽田洋子。
大友は有料の高級老人ホームの素晴らしさに感嘆し、介護ビジネスの光を垣間見るが、同様に法改正によって岐路に立たされている現実も知る。

羽田洋子は実母の介護で苦汁の日々を送るいわば典型的な介護疲れのロールモデルだ。

この離婚して実家に出戻りした羽田洋子の地獄のような介護生活の日々は最初に痛烈に印象に残る。
最初は帰ってきた娘と孫との暮らしを喜んでいた母親がふとしたことで怪我をして、寝たきり生活を余儀なくされる。次第に悪態をつくことが多くなり、そして認知症が進んで娘と孫すらも認識できなくなる。罵倒されながら実母の世話と糞尿の始末を負わされ、さらには昼夜仕事に出る洋子の生活は実に重く心に響く。

そしてこの介護老人連続殺人事件の真相を暴くのもまた大友秀樹だ。
彼は幼い頃から裕福な家庭で育った彼は性善説を信じる厚いクリスチャンでもある。しかし彼はその原初体験ゆえに人は誰しも罪悪感を抱き、改悛するものだと固く信じてやまない。逆に云えば己の考えが強すぎて融通が利かないとも云える。

一方彼の高校時代の友人佐久間功一郎は常に勝ち続けてきた男だ。
成績優秀、スポーツ万能、何をやらせても一流だった彼は常に人を見下してきた。勝てば官軍を信条とし、勝つためならば何をやってもいいと思っている男。介護事業のフォレストが社会的制裁を受けた時に顧客名簿を盗み出して振り込め詐欺産業に乗り出す。

この大友と佐久間はこの作品における光と闇を象徴している。

このように作者は色んな対比構造を組み込んで物語に推進力をもたらせている。

介護する側される側。
助かる者と助からない者。
富める者と貧しい者。
善人と悪人。

しかし究極の光と闇はやはり大友と<彼>である。これについては後に述べよう。

重介護老人を自然死に見せかけて計43人もの犠牲者を出した<彼> の所業を暴くプロセスが実に論理的だ。

本当のデータによる犯人の特定であった。これをデビュー作で既に独自色を出すとは恐るべき新人である

作者はこの作品を応募するにあたってかなりミステリを読み込み、研究していたように思える。

しかしこの物語は上に書いたように新人作家の一デビュー作であると片付けられないほど、その内容には考えさせられる部分が多い。

介護生活は今40代の私にとってかなり現実味を帯びた問題になっている。実際母親は更年期障害で入退院を繰り返し、義母に至ってはつい先月末に脳梗塞で倒れ、半身麻痺の状態で入院中だ。本書に全く同じ境遇の人物が出てきて私は大いに動揺した。
そう本書に書かれていることはもう目の前に起こりうることなのだ。

また介護制度のみならず、幼稚園の待機児童の問題もある。
なぜこれほど人々の生活を支援するシステムほど理想と現実がかけ離れているのだろうか。社会の歪みと云えばそれまでだがそれは実に曖昧で端的に切り捨てた言葉に過ぎない。
作中で登場人物が云うようにこの社会には穴が空いているのだ。もっと具体的に問題を掘り下げていかないと日本はどんどん廃れていくだけである。

高齢化社会と少子化問題。この2つは切っても切れない問題ではないだろうか。
日本は今自分で作ったシステムの狭間で悲鳴を挙げている。

果たして<彼>は悪魔だったのか天使だったのか。人を殺すという行為は最もやってはいけないことは解っていても心のどこかで<彼>の行為を認める私がいる。

羽田洋子の心の叫び、“人が死なないなんて、こんな絶望的なことはない!”は現代の医療やケアが向上したが故の延命措置のために犠牲となった人が誰しも抱く真の嘆きではないだろうか?

もはや彼ら彼女らは生きていると云えるのだろうか?
実の子供すらも認識できず、罵倒さえする。そんな人たちに病気だから悪意で云っているのではないと自らに念じ、献身的に尽くす家族たち。これが介護ならまさに地獄だ。

そんな地獄に光明を授ける<彼>が名付けるロスト・ケア、喪失の介護、即ち日々の介護で心身をすり減らす人たちを介護の対象を葬ることで解放する介護。それは単なる恣意的な殺人であることは認めるが、それで救われる人が必ずいることは否定できない。

しかし一方で長く我が子を育てるために身を粉にして働いた親たちを自分たちの都合で葬っていいとも思わない。
ただそのために人の尊厳が失われていいとも云えない。
全てはバランスなのではないか。
誰かを生かすために誰かが必要以上に犠牲を強いられ、終わりなき日常に苦しめられる人がいるのなら、それを救済するのもまた必要ではないだろうか。

我々は人の命を重んじることで実はとんでもない過ちを犯しているのかもしれない。

人を殺すことは悪だと断じる大友も実は人を多く殺したから死刑を求刑する自分もまた間接的な殺人者であることを犯人に論破され、動揺する。つまり人を殺すことは悪い事だと云いながら、社会は治安を守るために殺人を行っているのだ。
しかしそれは必要悪だ。この世は単純に善と悪の二極分化では割り切れないほど複雑だ。
しかし実は自然でさえその必要悪を行っている。自然淘汰だ。自然は、いや地球は生態系を脅かす存在を滅ぼすような人智を超えたシステムによってバランスを保っている。
私は本書の犯人の行ったことは自然淘汰に似ていると思った。誰もが最低限の幸せな生活を送る権利があるが、それが実の両親もしくは義理の両親によって侵される人々がいる。
そんなアンバランスはあってはならない。それを生み出した日本のシステムを変えるために<彼>は制裁を行ったのだ。

東野圭吾氏の『さまよう刃』でも思ったが、人は殺してはいけないが死刑のように社会の治安を守る、つまりはシステムを維持するための必要悪としての殺人は存在しうるのではないのだろうか。
実に考えさせられる作品だった。日本の介護制度の想像を超える悪しき実態を知ってもらうためにもより多くの人に読んでもらいたい作品だ。


▼以下、ネタバレ感想
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ロスト・ケア (光文社文庫)
葉真中顕ロスト・ケア についてのレビュー
No.1171: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

貴方は何を相談しますか?

時空を超える相談屋ナミヤ雑貨店を舞台にしたハートフル・ストーリーで連作短編集のような体裁の作品である。

とにかくナミヤ雑貨店には色々な悩みが相談される。

勉強せずに百点を取る方法、ガメラはなぜ回って空を飛んでいるのに目を回さないのかと下らない物もあれば、当事者の人生を左右する悩み事まで様々だ。

オリンピック代表選手候補の女性が抱える、難病を患った愛する人を取るべきかそれとも代表選考合宿に臨んでそのまま走り続けるべきか。

ミュージシャンを目指して家業の魚屋を継がずに上京した息子は祖母の葬式で故郷に戻った際、父親もまた心臓を患い、体調が悪いことを知る。長く目が出ないミュージシャンの夢を絶って家業を継ぐべきかそれとも夢を諦めず続けるべきか。

妻子ある男性との道ならぬ恋に落ちた女性はその男の子を孕んでしまい、生むべきか中絶すべきか悩んでいる。かつてその女性は医者から子供を産みにくい体質だと云われていたが。

親の事業が失敗して夜逃げを計画している一家。しかし一人息子は環境の変化を嫌い、また社員を捨てて逃げ出そうとする親に嫌悪を抱いて付いていくべきか辞めさせるべきか悩んでいる。

社会人になったのはいいものの高卒女子では大した仕事を与えられないので水商売でスカウトされたところ、非常に有意義な仕事だと思ったのでどうやって穏便に退社できるか。

さらには何も書いていない白紙の手紙でさえナミヤ雑貨店は回答する。

特段変わった悩みではないが、誰もが自身もしくは周囲の人々の誰かが抱えている普遍的でかつ明確な回答を見いだせないものばかり。

物語は社会の脱落者である3人組の軽犯罪者がひょんなことから成り行きでそんな悩みに彼らなりのスタンスで回答していくものから、元々の被相談者である浪矢雄治自身の真摯に臨んだ回答まである。

3人組の回答は実にシンプルでそのあまりに明らさまで小ばかにした回答ゆえに相談者が憤慨する場面もあるが、逆にその率直さが相談者の迷いに踏ん切りをつけさせることにもなる。

しかし相談したからと云って解決するわけではない。作中浪矢雄治が述べるように、結局そのアドバイスを活かすのはその人自身なのだ。ただ聞いて安心しただけではなく、それをステップにして次にどうするか、もしくは意にそぐわなかった回答を発奮材料にしてどう困難に立ち向かうか、全てはその人たちの覚悟なのだ。

これまた作中の浪矢雄治の台詞になるが、基本的に相談事を持ち掛ける人は自分なりの結論を持っていてそれが正しいのか否かを後押ししてほしいからこそ相談する、つまり同意を求めているわけだ。
しかし案に反した回答、もしくは想像を超えた回答を浪矢氏もしくは3人組から貰うからこそそこにやり取りが生まれる。そしてそれがまた彼もしくは彼らにとってはやりがいを感じる。

元々の被相談者浪矢雄治は妻に先立たれ、生きる気力を失いつつあったところにひょんなことから子供の他愛ない相談に回答したことによってたちまち町の、世間の評判になり、週刊誌にも取り上げられ一躍ユニークな雑貨店として知られることになる。そしてそれは消沈していた雄治に生きる張り合いをもたらした。

一方しがない空き巣狙いを繰り返していた敦也、翔太、幸平の3人組はいわば社会の脱落者だ。彼らは誰からも必要とされず、むしろ見放されて生きてきたのだろう。
そんなときに偶然にも自分たちに相談を持ち掛ける手紙が迷い込んできた。それに応えることは奇妙なことに彼らにとって悪くない出来事になった。

つまり人は誰かに求められてこそ初めて生きる気力を持てるのだ。この4人に共通しているのはそれだ。
誰かを必要とし誰かに必要とされることで人は生き、また生かされている。だからこそ人生を有意義に送れるのだ。

そして相談者、被相談者が紡いだ思いは未来へ受け継がれる。

1章は現代の相談される3人の小悪党側から、2章では時空を超えて小悪党どもに相談を持ち掛ける側から、3章では元祖相談役の浪矢雄治側から、4章ではその浪矢雄治に相談した側が過去と現在にてナミヤ雑貨店を訪れ、そして最後は再び3人の小悪党の側から描かれる。

とにかく小憎らしいほど読者を感動させるファクターが散りばめられている。東野圭吾氏が本気で“泣かせる”物語を書くとこんなにもすごいクオリティなのかと改めて感服した。
上に書いたようにテーマが普遍的であり、読者それぞれに当事者意識をもたらせ、登場人物に自身を投影させる親近感を生じさせるからだろう。

そしてかつて『手紙』という作品では本来貰って嬉しい手紙が刑務所に服役中の兄から送られることで主人公の未来を閉ざす赤紙のような忌まわしい物に転じていたのに対し、本書では悩み事を記した手紙が人の心と心を繋ぎ、実に温かい物語になる。
映画『イルマーレ』も過去と現在の時空を超えた手紙のやり取りの話だったが、その要素を取り入れているからなおさらだ。読み終わった後、しばらくジーンとして動けなかった。

ちょうど今自身も公私に亘って難局に直面しており、叶うなら私もナミヤ雑貨店に色々相談したいとさえ思ってしまった。

とにかく語りたいエピソードの嵐である。が思いが強すぎて何を語ればいいのか解らない。それほど心に響いた。特に浪矢雄治の人柄が実に素晴らしく、なぜこの人はここまで人に対して興味を持ち、また真摯に向くことができるのだろうかと感嘆した。

またもや東野圭吾氏に完敗だ。しかもとても清々しくやられちゃいました。


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ナミヤ雑貨店の奇蹟 (角川文庫)
東野圭吾ナミヤ雑貨店の奇蹟 についてのレビュー
No.1170:
(3pt)

先見性に満ち満ちて、理解が伴わない

森作品ノンシリーズ2作目。中国とチベットの境だと思われる、何らかの意思によって作られた完全に独立したコミュニティを舞台にしたミステリ。

森氏独特の価値観が横溢したルナティック・シティの文化や価値観は我々の社会とは一線を画し、非常に興味深いものがある。

人口わずか300人で形成された100年都市。そのうち約半数は「永遠の眠り」に就いており、全てが自給自足で賄えられている。さらにエネルギーは100年前に開発された大型の自家発電設備によって満たされ、住民一人一人がそれぞれ役割を与えられている。
四方を高い壁に囲われた、明らかに人為的に作られた閉ざされたコミュニティに迷いこんだフリーライターと思しきサエバ・ミチルが事件の解決に乗り出すというのが本書の骨子だ。

死や殺人という概念のない世界ではいわゆる我々の社会における死というものが単なる永遠の眠りとされ、何年後かに復活するチャンスが与えられると信じられているため、彼らは全ての住民の亡骸を保存する施設を保有している。さらに死自体が事件ではないため、警察という機構を有さない。
さらには人を裁くというルールもない。コミュニティにいる医者も死因を突き止める役割は果たさず、永遠の眠りに就くための儀式を滞りなく行う、指導者のような立場に過ぎない。

さらに女王デボウ・スホは宮殿の部屋から出ず、女王の務めを果たすだけに存在する。しかも風貌は20代でありながら実年齢は52歳と最近よく話題になる美魔女でもある。彼女の若さの秘密は1年の半分を冷凍睡眠で過ごしていることであった。
しかし現在ならば前述のように案外自制して若さを保っている女性もいるので(20代の風貌はさすがにないが)、この秘密は時代を感じてしまった。

一方現代社会の象徴として異世界に送り込まれたサエバ・ミチルだが、彼の住む世界は我々の住む時代より先の2113年の設定になっている。

まず彼の相棒ロイディはウォーカロンと呼ばれる人型のアンドロイドで全く人間と変わらない風貌をしており、人間のサポートをする。外部との通信を果たすルーターでもあり、また人の言葉の記録をしたり、調べ物をしたりと、いわばスマートフォンのアンドロイド版のようなものだ。

またミチルが常時つけているゴーグルは今ようやく販売されたウェアラブル通信ツールであり、全ての情報はそのゴーグルを通じて検索され提供される。そして全てがデジタル化しているその世界では図書館というものはなく、書物はそれを好んで形にする人たちの記念品や贈答品としてしか存在しない。
いつもそうだが、2000年に書かれた本書で既にウェアラブル通信ツールや電子書籍の存在を予見しているのは改めて驚きに値する。

そのサエバ・ミチルが捜し求めているマノ・キョーヤという人物との関係が本書のサブストーリーとなっている。本書の冒頭では取材旅行で道に迷ったと述べているが、実は彼はマノ・キョーヤという探し人がいた。そして彼もまたルナティック・シティに迷い込んでいたことが判明する。
この謎めいた人物とミチルとの関係は意外にも物語の中盤で仄めかされる。

そして謎の騎士の存在。
馬に乗り、枯れた植物を寄せ集めたような衣装をまとい、黄色と黄緑色と紫色のリボンを身につけ、頭に2本の角と灰色の長い毛、赤いリングが幾重にも重なる手首に光る顔。ルナティック・シティにおいて見てはいけない、語ってもいけない不可侵の存在。このシティの秩序を管理する者として現れる。

この、完全に支配されたシステムを敢えて壊したくなるという衝動は一連の森ミステリの共通項だろう。
先に読んだ『そして二人だけになった』も全く同じ動機だった。完璧だからこそ壊し甲斐があり、また完璧の物が壊れる姿もまた完璧に美しいものだと思っていたのかもしれない。

思えば森氏は閉鎖された特殊空間で起きる事件を主に扱っていた。デビュー作の『すべてはFになる』然り、またその作品から始まるS&Mシリーズでも大学の研究室や実験室というこれもまたいわばそれを研究する者にとって恣意的に作られた空間である。

『有限と微小のパン』に出てくるユーロパークもまたそうであり、さらに『そして二人だけになった』のアンカレイジもそうだろう。
しかしそれらはまだどこか現代と地続きであったのだが、とうとう本書では2113年という未来を設定し、中国とチベットの辺りにある完全に秩序化されたルナティック・シティという世界を作り上げてミステリに仕上げた。これぞ森氏が望んでいた箱庭だったのだろう。
そしてこのルナティック・シティはまだまだこれから出てくる森氏が神として作り出した世界のほんの足掛かりに過ぎないことだろう。『笑わない数学者』で犀川が「人類史上最大のトリック……?(それは、人々に神がいると信じさせたことだ)」と呟いたが、まさしく森氏は自身が神になることで最大のトリックを考案しようとしたのではないだろうか。

閉鎖空間、秩序、システム、そして崩壊が森ミステリの共通キーワードと云えよう。
あとはそれに読者がフィットするか否か。私はややピースとして当て嵌まらないようだった。
しかしそれもまた慣れるかもしれない。次の作品に期待しよう。


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女王の百年密室―GOD SAVE THE QUEEN (新潮文庫)
森博嗣女王の百年密室 GOD SAVE THE QUEEN についてのレビュー
No.1169:
(8pt)

あの頃のあの女性に思いを馳せて乾杯

マット・スカダーシリーズ17作目の本書はなんと時代は遡って『八百万の死にざま』の後の事件についての話。
幼馴染で犯罪者だったジャック・エラリーの死についてスカダーが調査に乗り出す。マットが禁酒1年を迎えようとする、まだミック・バルーとエレインとの再会もなく、ジャン・キーンがまだ恋人だった頃の時代の昔話だ。

AAの集会で再会した幼馴染ジャック・エラリーの死にマットが彼の助言者の依頼で事件の捜査をするのが本書のあらすじだ。

マットは警察という正義の側の道を歩み、翻ってジャックはしがない小悪党となってたびたび刑務所に入れられては出所することを繰り返していた悪の側の道を歩んできた男だ。

かつての幼馴染がそれぞれ違えた道を歩み、再会する話はこの手のハードボイルド系の話ではもはやありふれたものだろう。そしてマットが警察が鼻にもかけないチンピラの死を死者の生前数少なかった友人の頼みを聞いてニューヨークの街を調べ歩くのも本シリーズの原点ともいうべき設定だ。

今回の事件は禁酒者同士の集まりAAの集会で設定されている禁酒に向けての『十二のステップ』のうち、第八ステップの飲酒時代に自分が迷惑をかけたと思われる人物を書き出し、償いをする活動がカギとなっている。ジャックがその段階で挙げた人物たちに過去の謝罪と償いをしていたことからそのリストの5人が容疑者として浮かび上がる。

しかし彼らの中には犯人がいないという意外な展開を見せる。
さらに容疑者の1人の元故買屋マーク・サッテンスタインが殺され、ジャックの助言者グレッグも殺される。マットはジャックの部屋から第八ステップで書いたジャックの全文を見つけ、ジャックがかつて行った強盗殺人の顛末とそこに書かれたE・Sなる相棒の存在に気付く。

そしてマットも意外な形で真犯人の襲撃に遭う。ホテルの部屋に戻るとそこにバーボン、メーカーズマークの瓶とグラスが置かれ、さらにベッドのマットと枕に同じバーボンがぶち撒かれ、部屋中一帯にアルコールの臭いが充満していたのだ。
禁酒1年目を迎えようとする直前でマットはまたもアル中になるのかと恐怖に慄く。禁酒中のアル中を殺すのに刃物も銃もいらないのだ。ただそこに強い誘惑を放つアルコールがあればいいのだ。 本書の原題である“A Drop Of The Hard Stuff(強い酒の一滴)”だけでも十分なのだ。

しかしなぜここまで時代を遡ったのだろうか?
ブロックはまだ語っていないスカダーの話があったからだと某雑誌のインタビューで述べているが、それはブロックなりの粋な返答だろう。

恐らくは時代が下がり、60を迎えようとするマットがTJなどの若者の助けを借りてインターネットを使って人捜しをする現代の風潮にそぐわなくなってきたと感じたからだろう。
エピローグでミック・バルーが述懐するようにインターネットがあれば素人でも容易に何でも捜し出せる時代になった今、作者自身もマットのような人捜しの物語が書きにくくなったと思ったのではないだろうか。

しかしそれでもブロックはしっとりとした下層階級の人々の間を行き来する古き私立探偵の物語を書きたかったのだ。
それをするには時代を遡るしかなかった、そんなところではないだろうか?

そして忘れてならないのは『死者との誓い』で病で亡くなったジャンとの別れの物語だろう。
お互い幸せを感じながらもどこかで負担を感じつつある2人。暗黙の了解であった土曜日のデートが逆に自由を拘束されるように感じ、デートに行けない理由を並べだす。これといった理由もないが、どこかで2人で幸せに暮らす情景に疑問を持ち、避け合う2人の関係。
大人だからこそ割り切れない感情の揺れが交錯し、そして決別へと繋がる。どことなく別れたジャンとマットの関係をきちんと描くのもまたブロックがこのシリーズで残した忘れ物を読者に届けるために時代を遡って書いたのかもしれない。

2013年からシリーズを読み始めた比較的歴史の浅い私にしてみても実に懐かしさを覚え、どことなく全編セピア色に彩られた古いフィルムを見ているような風景が頭に過ぎった。
私でさえそうなのだから、リアルタイムでシリーズに親しんできた読者が抱く感慨の深さはいかほどか想像できない。これこそシリーズ読者が得られる、コク深きヴィンテージ・ワインに似た芳醇な味わいに似た読書の醍醐味だろう。

物語の事件そのものは特にミステリとしての驚くべき点はなく、ごくありふれた人捜し型私立探偵小説であろう。
しかしマット・スカダーシリーズに求めているのはそんなサプライズではなく、事件を通じてマットが邂逅する人々が垣間見せる人生の片鱗だったり、そしてアル中のマットが見せる弱さや人生観にある。

そして物語に挟まれるマットが対峙した過去の事件のエピソード。そして最後のエピローグで本書の物語に登場した人物や店のその後がミックとの会話で語られる。それらのいくつかはシリーズでも語られた内容だ。
とりわけジャンの死は。

古き良き時代は終わり、誰もが忙しい時代になった。ニューヨークの片隅でそれらの喧騒から離れ、グラスを交わす老境に入ったマットとミック2人の男の姿はブロックが我々に向けたシリーズの終焉を告げる最後の祝杯のように見えてならなかった。

しかし私のマット・スカダーは終われない。『すべては死にゆく』を読んでいないからだ。
二見書房よ、ぜひとも文庫化してくれないか。私にケリをつけさせてくれ。


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償いの報酬 (二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック償いの報酬 についてのレビュー
No.1168:
(3pt)

なぜこれほどまでに美女ばかり出る!?

久々のマクリーン。海外赴任先の書棚に眠っているこの作品を手に取ることができたのは実に奇遇と云えよう。

イギリスに流入する麻薬ルート殲滅のために国際刑事警察シャーマンがその源であるオランダはアムステルダムに潜入して捜査を行うというのがあらすじだ。

知っての通り、オランダはドラッグの使用が合法化されている。誤解をしないように説明するとあくまでそれはハシシやマリファナといったソフトドラッグに限られたことであり、ヘロイン、コカイン、モルヒネ、LSDといったハードドラッグについては規制がされている。
現在の法律の基礎となったオランダアヘン法の改正がなされたのは1976年。本書が発表されたのは1969年とあるから合法化以前の物語である。

しかしながら相変わらずマクリーンの文体は読みにくい。いきなり主人公シャーマンの長々とした不平不満の独白から展開する物語は、またもいきなり主人公が渦中に投げ込まれ、逃走劇から始まる。
彼の素性が解るのは導入部のチャプター1の終わり、20ページの辺りからだ。それまでは何の情報もなく、ストーリーが流れる。
これはアクション映画としての常套手段であり、実に映画的な作りであると云えよう。

さらにその後も場面展開が目くるめくように切り換わるがその内容も説明的でありながら光景を思い浮かべるのが困難で、やはりマクリーンは文章はあまり上手くなかったのではと結論せざるを得なくなった。

そしてやたらと美女が出てくるのは映画化を意識してのことだろうか。
まず主人公シャーマンの部下マギーとべリンダはそれぞれ黒髪と金髪の美人捜査官。そしてシャーマンの相棒だったジミー・デュクロの恋人アストリッド・ルメイもまたオランダ人とギリシャ人の混血美人。麻薬中毒者のファン・ゲルダーの娘トルディもまた人形のような美人。さらに教会の尼さんは美人揃いとどれだけファンサービスに努めるのかと思うばかり。

先に読んだウィンズロウの『ザ・カルテル』でもそうだったが、決して司法の側の人間がクリーンではなく、麻薬カルテルに買収された一味であるのはお約束のようだ。しかし同じ題材を扱いながら作品に籠る熱が全く違う。
『ザ・カルテル』は作者の麻薬社会に対する怒りの情念のようなものが文章から溢れんばかりだったが、マクリーンのこの作品は映画化を意識したかのようなスリルとサスペンスとアクションを盛り込んだエンタテインメントに徹している。
しかしサプライズを意識するあまり、読者は暗中模索の中で物語を読み進める。毎度のことながらこれが非常に気持ち悪くてなかなか没入できなかったのだが。

本書のようなヒーロー小説は主人公に共感できるか否かで読者の感想は全く異なってくる。
私はポール・シャーマンというこの国際刑事警察の捜査官は実に平板で深みを感じず、好きになれなかった。とても『女王陛下のユリシーズ号』など初期の作品で濃厚な人物像を組み上げた同じ作者とは思えないほどの薄っぺらさだ。

作品を量産する手法に気付いたベストセラー作家の作りの粗さに気付かされた作品だ。
私が好んで読んだマクリーンはここにはなかった。なんとも哀しいことだ。


▼以下、ネタバレ感想
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麻薬運河 (ハヤカワ文庫 NV 139)
アリステア・マクリーン麻薬運河 についてのレビュー
No.1167: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(3pt)

土木技術者として動機が甚だ疑問

S&Mシリーズ、Vシリーズとシリーズ作品を書いてきた森氏による初のノンシリーズ作品。
本州と四国を結ぶ明石海峡大橋をモデルしたと思われるA海峡大橋にある吊り橋のワイヤーを固定する地面に打ち付けられた巨大なコンクリート構造物アンカレイジ内に設えた極秘の居住設備≪バルブ≫で起きた連続殺人事件を扱ったミステリ。

閉鎖空間で1人、また1人と殺される、アガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』に代表される典型的な“嵐の山荘物”だ。

しかも登場人物は主人公を含め、たった6人。しかも主人公2人以外は全536ページ中327ページ辺りで殺害されるという展開の速さ。正直残り200ぺージも残してどんな展開になるのかと変な心配をしたくらいだ。

そしてさらに388ページ目で外界への脱出に成功する。
正直ここからの展開は全く以て読者の予想のつかないところに物語は進む。

トリック自体はなかなか興味深いが問題はなぜこんなまどろっこしいことをしたのか?

これに対しての解はまたも予想を超える。

殺人の動機について従来森ミステリは明らかにされない。それは殺すには理由があり、それは殺人者以外には理解しえぬことだというのが作者のスタンスだからだ。
本書もその例に漏れない。このあたりの人の命を単なるモノとしか見ない森ミステリの殺人者の傾向にいつも嫌気が差す。文学的な風合いを装った単なるエゴイストの詭弁に過ぎないではないだろうか。

さらに短文による改行の多い文章が途中続くが、それが逆に物語に大雑把な印象を与えている。

本書に登場する勅使河原潤も若き天才の有名人であるという設定であるが、納得のいかなさを天才であるが故の常人の理解を超えた動機と片付けられると少々、いや非常に雑な感じを受ける。
つまりそれでは実に幼稚な動機でも構わないとなってしまうではないだろうか。

本書はそれまでのシリーズ作品にもまして学術的記述が多く、特に森氏の専門分野である土木・建築関係の専門知識が多く盛り込まれているのが特徴的だ。私も一介の土木技術者であるので既知の物もあれば、巨大構造物特有の知識なども披露されており、非常に興味深く読んだ。

大きな橋を造ることは日本の土木技術の挑戦の証であり、更なる困難なプロジェクトを乗り越えるための礎になるのだ。そうやって日本の土木技術は発展したきたことを忘れていやしないだろうか。

もちろん、これはただのミステリであり、ある種技術者ならば一度は描く願望を描いた作品だということは恐らく作者の根底に流れていることは理解はできるが、やはりそれでも納得のいかない自分がここにいる。

全てがすっきり解決しないのが森ミステリの特徴であるが、動機、真相ともに実にすっきりしない作品だったことは非常に残念。
他の作品で森氏はミステリを舐めていると痛烈に批判する感想を目にしたが、本書はとうとう私にそう感じさせた作品として苦く記憶に残るものとなった。


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そして二人だけになった Until Death Do Us Part (講談社文庫)
森博嗣そして二人だけになった についてのレビュー
No.1166:
(8pt)

嗚呼、人生喜劇

今や『このミス』の常連となりつつあるミステリ作家長岡弘樹氏。本書は彼のデビュー作が収められた短編集である。

まず表題作は元市立中学校の校長だった老人のある出来事を綴った物。
物忘れに苦慮する老人が元校長というプライドから周囲にばれないようにどうにか取り繕う日々を送るさまが綴られる。そしてそのプライドの高さがかえって変な気遣いを自らに課せさせ、事態が思わぬ方向へと転ずるというスラップスティック・コメディの様相を湛えながら、忘れ物が見つかったことでふとある事実に気付かされるというツイストが憎い。
ほのぼのと心温まる1編だ。

続く「淡い青のなかに」はシングルマザーと不良の息子というよくある取り合わせの母子の物語。
仕事に専念するがために家庭を、自身では疎かにしていないとは思いながらも以前よりは子供の面倒を見ることが少なくなったシングルマザーの、どこにでもある家庭であろう。
そんな矢先に車で人を撥ねるというアクシデント。その日は課長に昇進した日。キャリアウーマンとして躍進の第一歩を踏み出した彼女が動揺する中、不良息子が身代わりになる、しかも刑法にも引っかからない。
なんともまあ誰もが陥りそうな悪魔の甘い囁きを作者は用意したことか。当事者だったら、息子の提案に従う人もあるのではないか?
しかし私なら息子に罪を負わすよりも正直に警察に届け出ることを選ぶと思う。なぜならばそんな親に子供になってほしくないからだ。
そして本書でも思わぬツイストがある。つまり被害者はいったい何者だったのか?
しかし本書もまた謎の男の正体に読みどころがあるわけではない。この男の正体をファクターとして不和の母子に関係修復の機会が訪れるところがそれなのだ。
またも温かい気持ちになれる作品だ。

しかしそんな温まる話ばかりではない。次の「プレイヤー」はある人物の隠された悪意に気付かされる。
市役所の駐車場で起きた転落死。しかも柵の横棒が外れていたため、事故死と判断される。通常ならば新聞の三行記事にしかならないような事件を警察の側からでなく、当事者である市役所々員の側から描くという着想が面白い。
そしてその所員は春の人事異動で昇進が有力的だったから、自分の不祥事を免れようと必死に事件を独自に調べる。サラリーマンである私にとっても自分の人事のために殺人事件に必死になる主人公という着想はなかった。
そして徐々に明らかになってくる被害者の不自然な行動から、主人公の崎本は自殺ではないかと推理し、それを裏付ける状況証拠を見つけるのだが、唯一の発見者である同じ市役所々員唐木の証言でなかなか事件が覆らない。なぜ唐木は嘘めいた証言をするのか?
公務員の歪みと切なさが漂う作品だ。

「写心」は他の作品とは異なり、誘拐という犯罪を前面に押し出した作品。
誘拐犯が逆に脅迫されるというアイデアが面白い。そこには夫に逃げられた水落詠子が抱える心の闇があるのだが、本作の焦点はまさにその闇の正体を探ることだ。
元報道カメラマンの守下が誘拐計画のために水落詠子の日常を観察しているときに一瞬捉えた彼女の笑顔の正体はいったい何だったのか?
ただ本作のもう1つのサプライズである事実はさすがに気付くのが遅すぎる。この鈍感さは常に被写体に向き合うカメラマンとしては失格だろう。

「淡い青のなかに」では関係が上手くいっていない母と子が主人公だったが最後の「重い扉が」ではしこりを抱えた父と子の物語。
一緒にいた親友が重体になり、敵討ちを誓った息子が突然捜査に協力したくないと云った理由。そして事件現場の商店街の通りを間違えた理由、さらに過去祖父を亡くし、自身もサッカー選手の夢を途絶えさせることになった交通事故の真相がある1つのことですべて氷解する。
それらを承知し、また自分で調べて理解する克己の人格の素晴らしさが際立つ。よくできた高校3年生だ。そしてそれぞれが抱えていた確執が氷解する。実によく出来たストーリーだ。


今や現代を代表する短編の名手ともされる長岡弘樹氏。
彼のデビュー作は読者の町にもいるであろう人々が出くわした事件、もしくは事件とも呼べない出来事をテーマにした日常の謎系ミステリの宝箱である。

物忘れがひどくなった老人が必死にそれを隠そうとする。

自身のキャリアを高めるために必死に働くがために一人息子を問題児にしてしまったキャリアウーマン。

卒なく業務をこなし、出世の道を順調に上がろうとする公務員。

同僚にケガをさせたことで自責の念から職を辞し、実家の写真屋を受け継ぐが資金難に四苦八苦する元報道カメラマン。

ある事件から息子との関係が悪くなった荒物屋の店主。

全て特別な人たちではなく、我々が町ですれ違い、また見かける市井の人々である。そしてそんな人たちでも大なり小なり問題を抱えており、それぞれに隠された事件や出来事があるのだ。

これら事件や出来事を通じてお互いが抱いていた誤解が氷解するハートウォーミングな話を主にしたのがこれらの短編集。
中に「プレイヤー」のような思わぬ悪意に気付かされる毒のある話もあるが。

気付いてみると5編中4編はハートウォーミング系の物語であり、しかもそれらが全て親子の関係を扱っているのが興味深い。

「陽だまりの偽り」はどことなくぎこちない嫁と義父の、「淡い青のなかに」と「写心」は母と子の、そして「重い扉が」はと父と子の関係がそれぞれ作品のテーマとなっている。

それはお互いがどこか嫌われたくないと思っているからこそ無理に気を遣う状況が逆に確執を生む、どこの家庭にもあるような人間関係の綾が隠されていることに気付かされる。
逆に正直に話せばお互いの気持ちが解り、笑顔になるような些末な事でもある。

人は大人になるにつれ、なかなか本心を話さなくなる。むしろ思いをそのまま口にすることが大人げないと誹りを受けたりもするようになり、次第に口数が少なくなり、相手の表情や行動から推測するようになってくる。そしてそれが誤解を生むのだ。
実はなんとも思っていないのに一方では嫌われているのではと勘違いしたり、良かれと思ってやったことが迷惑だと思われたり。逆に本心を正直に云えなくなっていることで大人は子供時代よりも退化しているかもしれない。

作者長岡弘樹氏はそんな物云わぬ人々に自然発生する確執を汲み取り、ミステリに仕立て上げる。恐らくはこの中の作品に自分や身の回りの人々に当て嵌まるシチュエーションがある読者もいるのではないだろうか。

私は特に中学生の息子を持つがゆえに「重い扉が」が印象に残った。
いつか来るであろう会話のない親子関係。その時どのように対応し、大人になった時に良好な関係になることができるのか。我が事のように思った。

しかしこのような作品を読むと我々は実に詰まらないことに悩んで自滅しているのだなと思う。ちょっと一息ついて考えれば、そこまで固執する必要がないのに、なぜかこだわりを捨てきれずに走ってしまう。歪みを直そうとして無理をするがゆえにさらに歪んでしまい、状況を悪化させる。他人から見れば大したことのないことを実に大きく考える。
本書にはそんな人生喜劇のようなミステリが収められている。

全5作の水準は実に高い。正直ベストは選べない。
どれもが意外性に富み、そして登場人物たちの意外な真意に気付かされた。実に無駄のない洗練された文体に物語運び。
デビュー作にして高水準。今これほど評価されているのもあながち偽りではない。
また一人良質のミステリマインドを持った作家が出てきた。これからも読んでいこう。


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陽だまりの偽り (双葉文庫 な 30-1)
長岡弘樹陽だまりの偽り についてのレビュー
No.1165:
(7pt)

ドイル最後の作品はヴェルヌ張りの海底冒険物語だ!

ドイル晩年のSF冒険譚。ウィキペディアで調べる限り、これがドイル最後の小説のようだ。
空想冒険小説ではチャレンジャー教授がシリーズキャラクターとして有名であるが、本書では海洋学者マラコット博士が主人公を務め、冒険の行き先は大西洋の深海だ。

潜降函なる金属の箱でカナリア諸島西にある、自身の名が付いたマラコット海淵から深海調査に乗り出したマラコット博士とオックスフォード大学の研究生サイアラス・ヘッドリーとアメリカ人の機械工ビル・スキャンランの3人が大蟹に潜好函が襲われてそのまま海底に遭難してしまうが、なんと独自の科学技術で深海で生活しているアトランティス人たちに助けられるという、ジュヴナイル小説のような作品だ。

もともとドイルは海に関する短編を数多く発表しており、新潮文庫で海洋奇談編として1冊編まれているくらいだ。そして深海の怪物に関する短編もあり、もともと未知なる世界である海底にはヴェルヌなどのSF作家と同じように興味を抱いていたようだ。

そしてそれを証明するかのようにマラコット博士一行が海底でアトランティス人たちと暮らす生活が恐らく当時の深海生物に関する資料に基づいてイマジネーション豊かに描かれている。

まずアトランティス人たちが海底で暮らすために透明なヘルメットを被っており、そこに空気が送られて一定時間活動できるというのは今の潜水服そのものだ。
調べてみると1837年にはイギリス人のシーベによってヘルメット潜水器の原型が発明されており、1871年には日本にも導入されているから本書が書かれた1929年では既に既知の技術だったことは間違いない。

しかし空気や水、食糧、ガラス材料などを作る装置が備わった海底でも暮せる防水建築という概念は今でも新鮮であり、さらに思ったことが映像として出てくるスクリーンなどは今でも発明されていない。

さらに彼らの生活を支えるエネルギー源が海底に豊富に眠る石炭であり、それらを採掘して動力にしているとなかなか抜け目がない。

またドイルが描く深海生物も特筆で博士たち一行を海中に追いやったエビと蟹の中間の大ザリガニのような化け物から、毛布のように人を包んで海底にこすり付けて食べるブランケット・フィッシュ、樽のような形をした電波で攻撃する海ナメクジ、群れで活動し、血の匂いを嗅ぎつけると集団で襲い掛かり、白骨になるまで食い尽くすピラニアのような魚、1エイカーほどの大きさを持つ大ヒラメなど、今なお未開の地である海底にいてもおかしくない生物たちが描かれている。

しかし物語のクライマックスと云える邪神バアル・シーパとの戦いは果たして必要だったのか、はなはだ疑問だ。

この戦いをクライマックスに持ってくるよりもやはり物語の中盤で描かれる、彼らの生還を詳細に書いた方がよかったのではないか。

唯一おかしいのは水圧に関する考察だ。本書では深く潜っても水圧が高くなるのは迷信であるとして彼らの深海行の最大の難関を一蹴している。
今ではそのような理屈だと物語の前提から覆るのだが、ドイルはどうしても深海冒険物語を書きたかったのだろう。最後の作品でもあるのでそこら辺は大目に見るべきだろう。

しかし最後の作品でも子供心をくすぐる冒険小説を書いていることが率直に嬉しいではないか。読者を愉しませるためには貪欲なまでに色んなことを吸収して想像力を巡らせて嬉々としながら筆を走らせるドイルの姿が目に浮かぶようだ。
翌年ドイルはその生涯を終えた。

最後の最後まで空想の翼を広げた少年のような心を持っていた作家であった。
合掌。


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マラコット深海 (創元SF文庫)
No.1164:
(10pt)
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もはや一大産業となった麻薬ビジネスの厳しい現実

メキシコの麻薬社会の凄まじい現実を見せつけた『犬の力』。あの大長編を要して語ったアート・ケラーとアダン・バレーラの戦いはまだ終わっていなかった。

まず冒頭の著者による前書きに戦慄する。
延々3.5ページに亘って改行もなく連なる名前の数々。この段階で私はこれから始まる物語が途轍もない黙示録であることを想像した。

アダンが捕まった後のメキシコの麻薬勢力地図は数々のカルテルが生まれ、それぞれが勢力を拡大している群雄割拠の様相を呈していた。本書は複数のカルテルをアダン・バレーラとセータ隊の二大勢力が統合していく凄まじい闘争の物語だ。云わば日本のかつての戦国時代の構図であるのだが、それが生易しいものであると思わされるほど、内容は凄惨極まる。

まず物語は復讐の念を募らせたアダンの反撃で口火を切る。そして養蜂家として隠遁生活を送っていたケラーもアダンの復活と共に戦地へと赴く。賞金首になりながらもDEAの捜査官に復帰し、自らメキシコに入り、現地の組織犯罪捜査担当次長検事局(SEIDO)のルイス・アギラルと連邦捜査局(AFI)のヘラルド・ベラと共同してアダン逮捕に踏み切るのだ。

お互いに復讐の念を募らす2人だが、一旦現場を離れた2人の思惑通りにはことは進まなかった。アダンがいない間に勢力を伸ばしたカルテルたちはアダンに対して服従の意志を見せるどころか立場の逆転を誇示する。

一方DEA、SEIDO、AFIはアダン逮捕に踏み切ったものの、アダンの勢力がかつてほどでないと知るや否や、他の大きな勢力壊滅に力を注ぐ。すでに時代は2人の物ではなく、アダンとアートそれぞれが昔語りの主人公になってしまっている。
麻薬抗争は権力ある頭目たちが手下たちを使って報復と粛清を繰り返しながら勢力を拡大している構図は一緒ながらもその手下たちが元軍人や元警官もしくは現職警官だったりといわゆる戦いのプロたちによる私設軍となり、さらにエスカレートしている。湾岸カルテルには元軍人のエリベルト・オチョア率いるセータ隊、アダンの朋友ディエゴ・タピアはロス・ネグロス、フアレス・カルテルはラ・リネア。
報復が報復を生み、またお互いの利害が一致すれば敵同士も協定を結んで味方になる。そして利害にずれが生じればその逆もまた然り。
昨日の敵は今日の友であり、今日の友は明日の敵でもあり、さらに部下がボスを殺して自らがのし上がる下剋上が当たり前の世界でもあるのだ。

しかしこれほど麻薬ビジネスが国民と政府機関に浸透した国メキシコで麻薬の取り締まりをすることにどれほどの意味があるのだろうかと読みながらこの思いが錯綜した。なんせお隣のアメリカですら国家安全保障会議とCIAとホワイトハウスがメキシコの麻薬カルテルを利用してニカラグアの新米反共勢力コントラに資金援助しているのだから。
おまけにアメリカとメキシコの間で結ばれた北米自由貿易協定(NAFTA)は両国間を数万台のトラックが行き来することを許可した。それは両国の流通を活発にする目的だろうが、数年来から麻薬大国として知られるメキシコに対してどうしてアメリカはこんな無謀な協定を結んだのか?
NAFTAはもはや北米自由“麻薬”貿易協定とさえ呼ばれているようだ。アメリカとメキシコの背景とはこんなものである。

さらには大統領選の資金までもが麻薬カルテルの売り上げから供与されている。しかもその仲介役がAFIの幹部の1人なのだ。

こんな世界では彼らDEA、SEIDO、AFIの戦いほど空しいものはないのではないだろうか。既にその協同作戦に参加するアート・ケラーは両機関の代表者ルイス・アギラルとヘラルド・ベラに対して不信感を抱いている。

麻薬カルテルに恩恵を受けている市民たちは掃討作戦で潜んでいる最中に周辺住民よりターゲットに通報され、もしくは捜査側にもカルテルの息のかかった連中がいるのを証明するかの如く、作戦を無視してわざと騒音を立てて注意を惹かせる者もいるくらいだ。

彼らはそんなことがバレても共犯として留置所に送り込まれるだけで、逆にカルテルからは情報提供者として報酬を貰える。それも一生彼らが手にすることの出来ないくらいの大金をだ。

そんな犯罪こそがビッグビジネスであるメキシコで何が正義なのかが読んでいるうちに解らなくなってくる。
社会を回しているのは司法の側なのか、麻薬カルテルの側なのか。これこそ単純に正義対悪では割り切れない複雑な社会の構図なのだ。

従って正義の側のケラーもこの善悪が混然一体と混じり合ったメキシコの現状を利用して情報操作をし、アダン側を翻弄する。
上に書いたように昨日と今日、今日と明日で味方と敵が入れ替わる団結力の弱い組織同士の結び付きを利用して、亀裂を生じさせる。身内を重んじるがゆえに他者を軽んじるメキシコ人の気質がどんなに勢力を拡大させようと決して一枚岩になり切れない脆弱さを無くしきれない。そこにケラーの付け入る隙があるのだ。

そして物語の中盤、裏切者が判明する。

メキシコ海兵隊FES指揮官ロベルト・オルドゥーニャ提督と隠密裏にホワイトハウス直下の組織として麻薬カルテル撲滅軍を組織する。敵の首領を索敵し、速やかに襲撃して命を奪う。頭を喪っても次の頭が生まれるだけという論理から、頭を次から次へ襲撃することで成り手を無くすという論理で敵との戦いに臨む。
最も懸念されるのが組織内に生まれるスパイの存在は高報酬と襲撃した敵からの押収品の略奪を合法化して奨励することで賄賂を受け取らない人材にする。つまり毒を以て毒を制する組織と云えよう。

さらにケラーが疑心暗鬼に陥った前協同者たちと違い、オルドゥーニャにはケラーと同じくカルテル達に私怨を持っていることだ。つまり任務を超えて天敵に対する復讐の念が強いこと。それが2人の絆を強固にする。
私怨は使命感を超える。ケラーとオルドゥーニャ、ここに最強のタッグが誕生した。

また本書で忘れてならないのは女傑たちの登場だ。

モデル並みの美貌を持つマグダ・ベルトラン。彼女はかつての情夫の指示で麻薬の運び屋をさせられた際に捕まり、刑務所に入れられたところをアダンに見初められ、彼の情婦となって共に脱獄する。そして情婦からアダンのビジネスパートナーとなって麻薬の元締めになり、ヨーロッパへの密輸ルートを展開する。

ケラーがパーティーで知り合った女医マリソル・サラサール・シスネロス。メキシコシティーで開業していたが、麻薬カルテルとの癒着が強い国民労働党が大統領選挙で勝つと、失望感から故郷のバルベルデに戻り、診療所を開設した後、政治の世界に参加し、町長となってセータ隊と戦う。

マリソルを慕って未成年ながらバルベルデの女性警察署長になるエリカ・バルデス。常にマリソルに付き添い、彼女のボディガードをしながら、セータ隊に蹂躙されているバルベルデの治安を守ろうと孤軍奮闘する。

延々と続く麻薬闘争。1つの大きな組織(カルテル)が壊滅してもまた新たなカルテルが生まれ、しのぎを削り、利益と勢力を伸ばし続ける。これはメキシコの果てることのない暗黒神話だ。

またこの戦いはカルテル対メキシコ捜査機関とアメリカの捜査機関だけでなく、麻薬カルテルの横行を許す政府への警告を発するマスコミたちの戦いでもあるのだ。
シウダドファレスの地元紙≪エル・ペリオディコ≫の編集者オスカル・エレーラを筆頭に新聞記者パブロ・モーラ、アナ、カメラマンのジョルジョは敢然とカルテル達の暴虐ぶりを紙面で非難する。しかし次々とセータ隊はジャーナリストたちの屍の山を築き、その毒牙がジョルジョに及ぶに至ってとうとう報道を自粛せざるを得なくなる。

そしてメキシコ人の母親を持つアメリカ人のケラーはこの混沌社会のメキシコを大いに利用しようとするアメリカそのものを象徴しているようだ。彼は自身に流れるメキシコの血で彼らの考えを理解し、先読みしながら、アメリカ人の頭脳で情報攪乱を生じさせ、手玉に取る。
アダン・バレーラ対アート・ケラーの戦いは実はメキシコ対アメリカの代理戦争を象徴しているのかもしれない。

後半はもう殺戮の嵐だ。

5人が10人、10人が15人、20人、30人、50人…。屍の山が累々とメキシコ各地でセータ隊によって築かれる。もはや死亡者数はメキシコの人々にとって単なる数字でしかなくなり、町中で転がる死者も市民にとっては単なるモノでしかなくなり、死に対する感覚が麻痺し、死体を跨いで出勤する風景が日常的に行われるようになる。何の罪もない一般市民が突然セータ隊に呼び止められ、セータ隊に従うか否かではなく、従うかもしくは死を選ばざるを得なくなる。

主要登場人物もその宴の犠牲になる。

そしてクライマックスのセータ隊を殲滅するグアテマラへの潜入作戦で物語はようやく結末を迎える。

作中でもはや麻薬産業は撲滅すべき悪行ではないと述べられている。世界に金融危機が起きる時、もっとも盤石なのが麻薬マネーだからだ。
軍需産業と麻薬産業。この世界で最も大きな負の遺産が実は経済の底支えをしているという皮肉。従ってアメリカはもはや麻薬カルテルを殲滅しようと考えていない。彼らにとって最も不利益なカルテルを殲滅しようとしているだけなのだ。これほどまでに世界は複雑化し、また脆弱化してしまったのだ。

そして本書の題名“ザ・カルテル”は単に麻薬カルテルを示しているわけではない。作中、無残に殺害された新聞記者パブロ・モーラの言葉を借りて作者のメッセージが伝えられる。麻薬カルテルの横行を許す富裕層、権力者、警察、政府、資本家たち全てが「カルテル」だ、と。あぶく銭で私腹を肥やし続ける者たち全てがカルテルなのだ。

アダン・バレーラが復活してアート・ケラーが現場に復帰した2004年からセータ隊そしてアダン・バレーラがこの世を去るまでの2012年までの、8年間の血生臭いメキシコ暗黒史。メキシコを牛耳ろうとした麻薬カルテル達の戦国時代絵巻。前作『犬の力』にも決して劣らない、いやそれ以上の熱気とそして喪失感を持った続編。
ウィンズロウは前作同様、いやそれ以上の怒りを込めて筆をこの作品に叩きつけた。

しかしアダン、セータ隊死後もなお新たな麻薬カルテルが横行している。メキシコの暗黒史は今なお続いている。
世界は実に哀しすぎる。


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ザ・カルテル (上) (角川文庫)
ドン・ウィンズロウザ・カルテル についてのレビュー
No.1163:
(7pt)

仮面、仮面というけれどこの世は仮面舞踏会のようなもの

ホテル・コルテシア東京に勤めるホテル・ウーマン山岸尚美と警視庁捜査一課の“ルーキー”新田浩介。
本書は2人が連続殺人事件で出会う前に経験したそれぞれの“事件”を綴った短編集。

「それぞれの仮面」ではまだ就職して4年と間もない山岸尚美が出くわしたある事件の話。
山岸尚美若き(?)日のエピソードといった導入部としてはなかなかな物語だ。入社5年目で毎日孤軍奮闘している様子を描きながらもホテル・ウーマンとしてお客様の細やかな観察眼が日々養われていることもきちんと書かれてあり、山岸尚美が後に『マスカレード・ホテル』で一流のホテル・ウーマンぶりを発揮する片鱗がそこここに散りばめられている。
ところで本作に登場する元プロ野球選手大山将弘は大阪弁と“大将”というニックネームからやはりあの男をどうしても想起してしまうし、またモデルであるだろう。従って宮原が彼の不倫を糊塗しようと奮闘するその理由が52ページで語られるのだが、麻薬事件が生々しいだけに余計に痛切に響いた。

次の「ルーキー登場」はもう一方の主人公新田浩介の若き頃の話。
ルーキー、即ち新田浩介の若き日(?)の捜査を描いた作品。都内で起きた実業家殺人事件に潜む人間の醜悪さを描いた作品だ。日常の何気ないシーンから事件の糸口を結びつける新田の思考はどこか加賀恭一郎を想起させる。
物語のツイストはもはや東野作品での常とう手段なので今更の驚きはないが、敢えてそれが解決に結びつかず、新田の苦い捜査経験の1つとして刻まれるようにしている。

もう1つの山岸尚美の物語は「仮面と覆面」は東野氏自身も経験したのだろうか、作家のホテルカンヅメを扱った短編。
覆面作家のホテルのカンヅメ中に熱狂的ファンが訪れ、ホテルは秘密を阻止すべく彼らとの駆け引きを繰り広げる。しかしその作家当人にも不審な点があるとなかなか面白い話である。特にファンの一目作家に会いたいという思いの強さは強烈で正直ここまでするのかと驚いた。
そして覆面作家のサプライズを逆手に取った真相も面白い。しかしこの正体を出版社も知らないわけだから、もしかして世間に出回っている覆面作家の中にも同様の人がいるのかも?
またホテルの部屋の電話トリックも半ばで解った。しかし本当にできるのかな。今度やってみよう。
ちなみに本作で『~笑小説』で登場する出版社『灸英社』が出るのは作者のファンサービスだろう。

そして最後の表題作は山岸尚美と新田浩介の2人の人生が間接的に交錯する前日譚だ。
『マスカレード・ホテル』で覆面捜査官としてホテル・クラークに扮した新田浩介とその教育指導を務めた山岸尚美に意外な接点があったというのがこの作品。大阪に出来た支店に応援に来ていた山岸尚美が意外な形で新田の担当する事件に関わるというのがあらすじだ。
また本作で登場する穂積理沙という女性警官がなかなかいい味を出している。ちょっとがっしりしたタイプの女性で体力と粘り強さが取り柄の元気溌剌娘だ。
『マスカレード・ホテル』では新田の新人ホテルマンぶりが物語のアクセントとなったが、それ以前に新田にも応援者を教育する機会があったのだ。ベテランと新人のミスマッチの妙が本作でも発揮されている。まあ、新田はベテランというにはまだ若すぎるのだが。
事件は教授殺しの重要容疑者である准教授が殺人の容疑を晴らせるのにもかかわらずなぜか大阪での情事について黙秘を続けるという謎を探る物語となっている。こういう人の感情が作る一種の割り切れなさというか不整合性を扱わせると東野氏は抜群にうまい。
そんな事件の真相は女性の怖さを知らされる物語だ。
そしてこの人妻、畑山玲子と夫の義之の関係もちょっと特殊だ。お互いが存在を尊重しながらも夫婦生活は疎遠で、夫は妻の浮気をも甘受する。本作では仮面夫婦と述べているが、ちょっと違うだろう。同じ目的を持った同士といった関係に近いだろうか。
ちなみに事件の舞台となる泰鵬大学は『疾風ロンド』で炭疽菌が盗まれた大学である。事件の多い大学だ。


山岸尚美と新田浩介。本書は『マスカレード・ホテル』の文庫化を期に文庫オリジナルで刊行された名(迷?)コンビの2人の前日譚。

彼らの初々しさを髣髴させるエピソード集と云えるだろう。

例えば今ならば一流のホテル・ウーマンとなった山岸尚美ならばお客様に仮面を着けているなどとは心では思いこそすれ口には出さないだろう。1作目の「それぞれの仮面」の最後の方で元恋人宮原隆司と元プロ野球選手の不倫相手である女性に対して慇懃ながらも本心をオブラートに包んでチクリと皮肉を云うなどとは決してあるまい。
こういうところに未熟さを交えるところが東野氏のうまいところか。

そして「ルーキー登場」で捜査一課に配属になったばかりの新田の活躍が描かれる。これも若さゆえの青さを感じさせる物語だ。

また本書の美味しいところは山岸尚美のパートでは日常の謎系ミステリを、新田浩介のパートでは警察小説と2つの味わいが楽しめることだ。これらを卒なくこなす東野氏の器用さこそが特筆すべき点であるのだが。

この山岸尚美と新田浩介が登場シリーズは共通する題名から「マスカレードシリーズ」とでもいうのであろうか。
そもそもこのマスカレードは非日常体験を提供する一流ホテルの従業員山岸尚美が客は日常とは違う仮面を被ってホテルへ集う、そしてその従業員もまた仮面を被って接しているのだというホテルはマスカレード=仮面舞踏会の舞台のようなものだというところから来ているが、本書に収録されている作品はつまりこの世は全て仮面舞踏会に過ぎないのだと云っているように思える。

山岸尚美が接した元プロ野球選手の大山将弘も不倫相手との密会でホテルを使うが、その彼も実は外では皆に夢を与えるスポーツ選手としての仮面を被り、自らの真意は決して顔に出さない。

新田浩介が事件で出会った田所夫妻は結婚3年目の仲睦まじい熟年夫婦と思わせながら、自分は哀れな妻を演じる。そしてその仮面が剥がれそうになっても若い刑事を嘲笑うかの如く決して仮面を脱ごうとせずにのうのうと人生を生き抜く。

そして覆面作家の仮面を被る中年男性。

ただ題名にマスカレードと冠しているためか、仮面、仮面と強調しているのはいささか煩わしい。
押しなべてミステリの登場人物はいずれも仮面を被っているもの。最初には思いもかけなかった動機と犯人の素顔が明かされるのがミステリのカタルシスなのだから、何もホテルに来る人物はいつも仮面を被っているなどと強調しなくてもいいのだ。
ホテルに来る人だけでなく、我々は皆仮面を被っている。公的な仮面と私的な場面における素顔、いや私的な場面においても仮面を被って演じなければならない時もある。それが我々人間の営みなのだから。

しかし改めて新田に再会してみると、上にも書いたように若さに任せた行動力と自分に対する甘さを持っているのが彼の特徴だが、東野作品の代表キャラクター加賀恭一郎とのキャラクターの棲み分けが上手くいっていないように思えて仕方がない。
事件に対する着眼点は鋭く、また父親がシアトルで日系企業の顧問弁護士を務める、いわば上流家庭の出で麻生十番に住んでいるというサラブレッドであることから、高級調度品への造詣が深いのも特徴的だが、アメリカ帰りの金持ちのボンボンといった印象も否めない。そこに新田の個性を持たせているようだが、ちょっとまだ印象としては弱い。

しかしホテル・コルテシア東京のデラックス・ダブルのデポジットが7万円。プレジデンシャル・スイートが1泊18万円!我々庶民には泊まれない高級ホテルである。

さらに新田の登場シーンもホワイトデーの夜に都内のホテルで女性と一夜を過ごしたシーンから幕を開ける。さらに上に書いたような新卒の刑事とは思えない裕福な暮らしぶり。
う~ん、双方バブリーの香りがしてちょっと時代錯誤な印象があるなぁ。

ともあれ、日常の謎を含んだホテル・ウーマンのお仕事小説と初々しい若さ溌剌のルーキー、新田浩介が活躍する軽めの警察小説という万人に受けやすいブレンドコーヒーのような作品で、じっくり読むというよりも息抜きで軽く読める読み物といったテイストである。
思えば探偵ガリレオシリーズもそうであったが、果たしてこの2人の今後の活躍に我々の胸を打つような重く味わい深い作品に出会えるのか。

いやそれよりもまだシリーズは続くのか、そっちの方が心配だ。


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マスカレード・イブ (集英社文庫)
東野圭吾マスカレード・イブ についてのレビュー
No.1162:
(7pt)

何とも不思議な余韻を残す殺し屋物語

殺し屋ケラー4作目の本書は長編でケラーに最大の危機が訪れる。
第2作品も長編だったが、構成としては連作短編集のような作りであったのに対し、本書はケラーが州知事殺しの犯人として追われるという逃亡劇が全編に亘って繰り広げられる。

今回は前短編集のうち「ケラーの遺産」と「ケラーの適応能力」に登場した謎の依頼人アルが本格的にケラーを抹殺しようとする物語だ。
不穏な空気を纏わせた正体不明のアルが本性を現してケラーたちに牙を剝く。それは実に用意周到に計画された罠で、ケラーは依頼で訪れたオハイオ州で州知事暗殺の冤罪を着せられるのだ。犯行にはケラーの指紋がべったり付いたグロッグが使われ、それが警察に凶器として押収される。そして全米にケラーの顔写真が貼り出される。

さらに衝撃的なのはケラーの相棒であったドットの死だ。頭に銃弾を2発撃ち込まれた挙句にホワイトプレーンズの自宅を放火され焼死体となって発見される。
正直この展開には目を疑った。死体は人違いではないかと何度も繰り返して読んだほどだ。それほどまでにシリーズにとって衝撃的な出来事だった。

おまけにケラーの自宅にも魔の手が伸び、彼の唯一の趣味だった切手のコレクションが軒並み押収される。つまりケラーの住まいも安全ではないため、彼は逃亡生活に踏み切るのだ。

そして流れ着いたニューオーリンズでレイプされそうになった女性を助けたことでその女性、地元で教師をしているジュリア・エミリー・ルサードの協力を得て、ニコラス・エドワーズと名乗って建築業の仕事にありつき、別の人生を歩みだす。

どうだろう、この教科書通りの起承転結の物語運び。まさに無駄のないストーリーテリングでしかも読者の予想通りにはいかないのだ。

そんなストーリーの中にはケラーという人物を改めて再認識させるエピソードが散りばめられている。

例えば自宅の切手コレクションを盗まれることに気付くシーン。通常ならばこんな状況になればコレクターならば誰もが多大なる喪失感に襲われるだろう。しかしケラーは事実は事実として受け入れるだけなのだ。
おまけに250万ドルもの資産もドットがいなくなったことで引き出せなくなるのだが、それに対しても大して執着しない。普通悪に手を染めた人間ならば金に対する執着心が人一倍強いはずなのに、ケラーにはそれがなく、あるがままに受け止め、他人事のように処理する。

これは殺し屋であるケラーが標的に対して感情移入せずに常にドライに対処することから来ているのだろう。つまり殺しをただの仕事として捉え、人の命を奪うという行為に罪悪感を覚えないのだ。
ならばケラーは精神異常者かと云えばそれも違うような気がする。但し殺しのスキルは身についており、レイプされそうになったジュリアを救うためにレイプ犯を何の躊躇いもなく殺害するのだから、心の置き方が人とは違うのだろう。麻痺しているというのが正しいのかもしれない。

しかしそんな彼でさえ、今回自身が標的となって全米で追われる身になって初めてこれまで殺害してきた人物に思いを馳せる。
特にこのシリーズの第1話とも云える証人保護プログラムで身元を変えた人物を殺害した件に関してはニコラス・エドワーズという別の人物に成りすましたことで自身のことのように彼のことを考えるのである。単なる仕事のための標的でしかなかった人々に初めてケラーは自身の感情を向けるのである。
また逃亡中にショッピングカートを回収する仕事をしている少年を見て、殺し屋稼業に就いた自分の人生について初めて過ちだったと後悔したりもする。

さらには赤の他人には決して明かさなかった自分の名前を初めてジュリアに打ち明ける。もうケラーはニコラス・エドワーズとして生き、ジュリアと2人幸せに過ごして暮らす覚悟がついていたのだ。

さらにケラーを追いつめる宿敵はアル、作中ではミスター“私のことはアルと呼んでくれ”とも表記されているが、恐らくこれは原文では“You Can Call Me Al”ではないだろうか。つまりポール・サイモンのヒット曲のタイトルである。
そんな風に考えて読むのもまた一興か。

閑話休題。

ケラーが逃亡者の境遇に置かれることで過去の仕事で始末した人々を回想するシーンがたびたび挿入されるため、本書はシリーズの総決算的な作品のように読める。
特にドットが亡くなった時点でブロックがこのシリーズにけりをつけようとしているのだと強く思った。

しかしそんな読者の感傷めいた思いを見事にユーモアで翻すのがブロックの筆さばきの妙だ。

しかしこの殺し屋を主人公にしながらも終始落ち着いた雰囲気で展開するこの物語はなんとも不思議な余韻を残す。

今まで書いてきたように今回ケラーは州知事暗殺の犯人に仕立て上げられ、全米に顔写真が出回り、指名手配され、逃亡の身となる。
しかしそれでもケラーには次から次へと危難が訪れるわけではない。見知った顔のマンションのドアマンには賄賂を渡して口封じをし、立ち寄ったガソリンスタンドで独り身の経営者に面が割れるくらいだ。それまでは終始逃亡者としてのケラーの猜疑心と過去に葬ったターゲットに対する思いが延々と綴られる。

やがて全米指名手配にもかかわらず、ケラーの周りにはとうとう警察の捜査の手は及ばず、ニューオーリンズでケラーの新パートナーとなるジュリアに出会ってからは髪型と色を変え、眼鏡をかけて人相が若干変わり、また新しい身分を手に入れたことで解決してしまう。

直接的にせよ関わりがないにせよ7人もの死人が出る物語である。これだけ人の生き死にも扱っていながら熱を帯びない作品も珍しい。血沸き肉踊らない殺し屋の物語なのだ。

しかしだからといって面白くないわけではない。エキサイティングには程遠いが読み進めるうちにケラーの足取りと読者自身の思いが同調するが如く、先の読めない展開を味わいながら愉しむのだ。
そう、美味しい酒をチビリチビリと呑み、悦に浸る味わいが本書の持ち味なのだ。


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殺し屋 最後の仕事 (二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)
ローレンス・ブロック殺し屋 最後の仕事 についてのレビュー
No.1161: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

本格ミステリの幻想味そのままに

Vシリーズ第3作。本書では前作『人形式モナリザ』で小鳥遊練無と共にペンションでバイトしていた森川素直が阿漕荘に引っ越してくる。さらに同じく前作で登場した瀬在丸紅子の元夫林の恋人である祖父江七夏もまた登場する。シリーズを重ねるにつれてメインキャストも増えていくようだ。

そしてまたもや事件は密室殺人。1作目はヴァリエーションの中の1つだったが、2作目は衆人環視という密室。そして本書では鍵の掛けられた部オーディオ・ルームでの殺人と正真正銘の密室である。

このオーディオ・ルームが周囲の建物と構造が切り離されているのが通常の密室と違うところだ。
音の振動を壁に伝えない、つまり完全に防音するために別構造としているのだが、建築に携わる私は解るものの、素人にこの内容が十分伝わっているだろうか?簡単な図解があれば理解がしやすいと思うのだが。

さてそんな密室で服がズタズタに引き裂かれ、周囲は血塗れでさんざんに引き摺り回された跡がある。さらに被害者の直接の死因は頭を何か重い鈍器のようなもので激しく叩かれ、出血はそれによって生じたものだった。そして遺体の手首・足首には何か獣ような物が噛み付いた跡が残っており、なぜか部屋の一部は水で濡れていた。

本書では物語のガジェットとして月夜のヴァンパイアやオオカミ男が現れる屋敷といったオカルティックな噂がかけられているものの、物語のテイストは全くそのような雰囲気とは無縁でいつもの雰囲気。決しておどろおどろしいものではない。読中は正直何のためのガジェットなのか解らなかったが、真相を読むとこれこそが森氏なりのミスリードであることが解る。

彼のエッセイを読むと解るがいわゆる熱心な本格ミステリファンではない。従って彼はいわゆる本格ミステリのお約束事に頓着せず、自身の専門分野の視点からミステリを考える。
そして殺人の動機に頓着しないのも、結局人の心なんて解らないし、人間の行動や事象全てのことに意味を持たせることが愚かであると自覚的であるからだ。
それは確かに私も同感なのだが、現実社会がそうであるからこそ、ロジックで物語が収まるべくところに収まる美しさをせめてミステリの世界で読みたいのだ。それが読書の愉悦であるというのが持論なのだが、森氏はどうもそこに創作の目的を持たないようだ。

さらに加えていただけないのは小鳥遊練無達一行が飲酒運転をするシーンだ。これは今ならば校正で一発で撥ねられるだろう。
理由として非常事態、すなわち「小事にこだわりて大事を怠るな」と云っているが、作中人物とはいえ、こういうことをさせる作者の倫理観に大いに問題がある。またこのまま内容を修正せずに出版した講談社の倫理観もいかがなものかと甚だ疑問である。版を重ねる際はぜひとも修正願いたい。

このVシリーズはいわゆるミステリのお約束事を逆手に取って、読者の予想を裏切る真相が特徴的だと感じる。

また瀬在丸紅子も決して読者の共感を呼ぶキャラではない。美しい容貌ながら冷徹さと周囲とは別の次元で生きているような浮世離れした雰囲気を持ち、また元夫を巡って恋敵の刑事祖父江七夏へは決して歩み寄らない。女の怖さと扱いにくさの極北にいるような人物である。
しかし今まで述べたように小鳥遊練無と香具山紫子の存在がそんな陰の側面を彼らの陽の部分で埋め合わせている。

登場人物たちの関係に歪みと不安定さを備えたシリーズ物としては実に奇妙な風合いを持つVシリーズだが、特に瀬在丸紅子と保呂草潤平の2人の関係はどうなるのか?
恋愛パートではなく、好敵手同士としての2人の行く末が少し気になる。


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月は幽咽のデバイス (講談社文庫)
森博嗣月は幽咽のデバイス についてのレビュー
No.1160: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

そして物語の謎は未知なる海原へ

2010年のミステリシーンに突如現れた新星梓崎優氏。その年末の各種ランキングで上位を獲得した珠玉の短編集が本書。
本書が特徴的なのは全ての短編が海外を舞台にしており、その国の、その土地の風習や文化で醸成された日本人の価値観から離れた尺度での考え方に立脚した論理で構成されている点にある。

彼のデビューのきっかけとなったミステリーズ!新人賞受賞である冒頭の短編「砂漠を走る船の道」だ。
砂漠の民にとって何が大事か。それが本書の謎を解くキーとなる。
人殺しを最凶最悪の犯罪とみなす先進国の考え方は警察も介入することのない砂漠では一切通用しない。迷うと即死に繋がる過酷な状況下では生きることすら困難である。

続く「白い巨人(ギガンテ・ブランコ)」の舞台はスペイン。
冒頭の1作目に比べると謎解きの妙味、論理の斬新さというのは独自性を感じない。
むしろ本作では斉木の学友サクラが失恋を乗り越えていく過程とハッピーエンドに転じる物語に焦点がある。苦い青春の1ページは1年後の幸せのための一種の試練だったのだ。

斉木が取材で向かった先はロシア。「凍えるルーシー」は南ロシアにある修道院に祀られている250年前より変わらぬ姿で眠っているリザヴェータという不朽体を列聖、つまり聖人認定の調査のため、司祭に同行していた。
これも修道院という特殊な環境と風習ゆえに起こる錯誤がうまく物語に溶け込んでいる。
そして一種独特の環境で成り立つ狂気の論理はチェスタトンのそれを彷彿とさせる。重苦しく、ストイックな雰囲気も抜群である。

再び斉木は熱いところへ取材に赴く。「叫び」は先住民族の取材のため、アマゾン川に今なお生息する部族のうち、ボランティアの医師アシュリー・カーソンに同行してデムニという名の人口50人程度の小さな部族を訪れる。
先史時代的な生活を送る部族がアマゾンの地にはまだ複数存在するらしい。本作はそんな部族の1つをテーマにした物語。
これぞまさに梓崎節とも云える日本人の尺度では測れない彼らの価値観によって殺人の動機が看破される。
エボラ出血熱に侵された部族。もう僅かばかりの生存者も感染の疑いがあり、ほぼ全滅することが決定的だ。そんな死を間近に控えた部族の中で生存者が次々と殺される。なぜ待てば死にゆく者たちを敢えて殺すのか?
この発想の違いはかなり斬新だった。これこそが私が本書で求めていた論理なのだ。

そして物語は最後の短編「祈り」で閉じられる。
最後は斉木本人の物語。世界を巡る物語に相応しい1篇だ。


2016年の現在(当時)、たまたま海外に住んでいる私にとってここに書かれている独特の論理や倫理観は全く特別なことではない。日本人の考え方は世界のグローバルスタンダードではなく、先進国となり、儒教の教えが今なお残っている日本の長い歴史で培われた独特の考え方であることを再認識させられる。

本書もまたそうで、国、地域そして宗教の数だけ独特の考え、倫理観がある。

砂漠という過酷な環境で生活せざるを得ない人々にとって何が一番大事なのか?

聖女の存在を信じた修道女にとって聖人とは決して腐敗しない存在でなければならなかった。

強烈な伝染病に侵された部族が滅ぶしかない状況の中で敢えて連続殺人が起こる理由とは?

これらの問いの答えが明らかになる時、我々に刷り込まれた人の命を尊ぶ道徳観が脆くも崩れ去る。先進国に住む平和な我々には想像できないほど明日への保証のない後進国では自身が生きるために他者を殺すことなど平気でするのだから。人の死もまた自分の生活のために利用するのが彼らの論理だ。

また梓崎氏がミステリシーンにもたらしたのはこのような海外の国々で醸成された倫理観や価値観を導入しただけではない。
携帯電話の普及や最先端の科学を応用した警察捜査が横行する現代にあってまだそれらが介在できない状況があることを示したのもまた本書の大きな成果の一つだ。

目の前に広がるのは砂の海ばかりという砂漠の只中や携帯は圏外となるアマゾンの奥地では人が死んでも容易には警察は来られない。この事実には目を開かされる思いがした。
21世紀の今でも警察が介入できない状況があることを梓崎氏は斬新な手法で我々に示してくれたのだ。それはやはり日本だけで物語を繰り広げていては嵐の中の山荘程度の発想しか出来なかっただろう。世界へと外側へミステリを開いていったことがこの成果に繋がったのだ。

そして平和な日本では測れない尺度で物事が進行し、容易に人の命でさえ奪われる環境に身を置いた斉木もまたこれらの物語に取り込まれていく。彼が記憶を無くす物語「祈り」で彼が抱えた心の傷の深さがしみじみと伝わってくる。

そしてこういう作品を最後に持ってきた作者の手腕に感嘆する。
創元推理文庫で上梓される新人の短編集は最後の1編で今までの短編に隠されたミッシングリンクが明かされるのが常だが、それが時にキワモノめいてやりすぎの感が否めないものもあった。
しかし本書では主人公斉木が回復するファクターとして用いられる。

最後まで読むとなぜ本書のタイトルが『叫びと祈り』なのかが解る。
世界を巡る斉木は人間にとって生きることが困難な世界の残酷さとそこで生きざるを得ないために残酷な道を選ぶ人々に対して叫んだのだ。しかしそれでも世界は美しいと信じたいがために祈りを捧げる。明日を信じてまた斉木はまだ見ぬ世界へと旅立つのだろう。

日本の本格ミステリよ、新たな論理を求めて海の外へ繰り出そうではないか。まだまだ未知なる謎と論理の沃野は果てしなく広がっているのだから。
本書を読むとそんな風に思わせてくれる。


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叫びと祈り (創元推理文庫)
梓崎優叫びと祈り についてのレビュー
No.1159:
(7pt)

あまりにも有名なデビュー作は実にシンプルな構造

モダンホラーの巨匠スティーヴン・キングのデビュー作にして幾度も映画化された有名作。

本書がこれほど好評を持って受け入れられたのは普遍的なテーマを扱っていることだろう。
いわゆるスクールカーストにおける最下層に位置する女生徒が虐められる日々の中でふとしたことからプロムに誘われるという光栄に浴する。しかし彼女はそこでも屈辱的な扱いを受ける。ただ彼女には念動能力という秘密があった。

この単純至極なシンデレラ・ストーリーに念動能力を持つ女子高生の復讐というカタルシスとカタストロフィを混在させた物語を、事件を後追いするかのような文献や手記、関係者のインタビューなどの記録を交えて語る手法が当時は斬新で広く受けたのではないだろうか。

さてとにもかくにも主人公キャリーの生き様の哀しさに尽きる。
狂信的な母親に育てられ、過剰なまでの清廉潔白ぶりを強要され、日に何度もお祈りを捧げる日々を送らされ、母の意志にそぐわなければ即刻クローゼットに閉じ込められる。そんな家庭環境であるがために一般常識的な知識さえもまっとうに与えられず、初潮という生理現象さえも知らないために自身の陰部から血が出ることでパニックになり、学校でクラスメートからタンポンを投げつけられる始末。従って幼少の頃はまるで人形のような整った顔立ちだったのが今ではニキビと艶のない髪の毛で、作中の表現を借りれば「白鳥の群れに紛れ込んだ蛙」のような有様だ。

そしてとにかく主人公キャリーの母親の狂信ぶりが凄まじい。
姦通することを何よりも忌み嫌い、自分が妊娠したことすらも穢れとする。そして自身の娘キャリーを男たちの誘惑の手から遠ざけるため、キャリーに他者との関わりを絶つことを強いる。もし自分の意志に背こうものならば、折檻をした上でクローゼットに何時間も、時には一日中閉じ込めて悔い改めさせる。
とても親とは思えない所業だ。

しかしそれまで母親に服従するしかなかったキャリーにある芽生えが生まれる。それが念動能力だった。
最初の兆候は彼女が幼い頃。折檻を受けたキャリーは突然氷の雨と石の雨を降らせる。しかしそれは常に起こるわけではなかった。そしてキャリーが初潮を迎えた後、その能力が開花する。そして彼女の思春期による親への反抗心と相俟って、彼女はついに母親からの逸脱を試みる。それがプラムへの参加だった。

初めて彼女が母親の反対を押し切り、自分の意志で選択した行動。それが大惨事の引き金になるという皮肉。報われなかった女性にキングは壮絶な復讐と凄絶な死にざまを与える。

ここでやはり注目したいのはキャリーの親の束縛からの自立だろう。
異様なまでの執着心で母親の支配を受けていた彼女が抵抗し、ついに自由を得る困難さは途轍もない大きな壁だっただろう。彼女に念動能力が無ければ叶わなかったことではないだろうか。親という大きな壁への抵抗というこの非常に身近な人生の障害もまた万人に受け入れられた要素なのかもしれない。

さらに本書が特異なのは女性色が非常に濃いことだ。
それは主人公キャリーが女性であることから来ているのだろうが、キャリーを虐めているのは男子生徒ではなく女子生徒ばかりでキャリーの生活の障壁となっているのも前述のように狂信的な母親だ。

さらに生理という女性特有の生理現象がキャリーの念動能力の発動を助長させ、またキャリーの死を看取ったスージー・スネルがその直後生理になっているのも新たなる物語という生命の誕生を連想させ興味深い。

これはキング本人が母子家庭で育ったからかもしれない。キングにとって母親は自分を女手一つで育ててくれた偉大で尊敬すべき存在だったことだろう。
つまりキングの成長には常に母親という強い女性の存在があった。それがゆえに女性の強さ、そして怖さというのを知っていたのではないだろうか。男にはない生理という現象すら毎月血を流しながらも家計を支える逞しさに何か人間以上の存在を感じていたと考えるのは穿ちすぎだろうか。

ところでキングがボストン・レッドソックスの大ファンだというのは公然の事実だが、このデビュー作で既にレッドソックスが出ているのには笑ってしまった。キャリーをプロムに誘ったトミー・ロスの死に関して同チームの監督がコメントを残しているのだ。三つ子の魂百までとはまさにこのことか。

閑話休題。

既に物語の舞台であるメイン州チェンバレンで大量虐殺が行われたことは物語の早い段階で断片的に語られる。
従って読者は物語の進行に伴い、訪れるべきカタストロフィに向かってじわりじわりと近づいていくのだ。しかしながら1974年に書かれた本書で描写されるキャリーの虐殺シーンはいささかおとなしい印象を受ける。

プロムの舞台となった体育館で突然扉が閉められ、スプリンクラーが回り、バンドたちの楽器のアンプなどから電気のコードが自然に放たれ、見る見るうちに感電していく。そして電気の発火による火災が起き、体育館は火の海に包まれる。

さらに外に出たキャリーは消火ができないように消火栓を次々と破壊しては水を大量に放出し、ガソリンスタンドやガスタンクに引火していく。

そして電線を切断しては街行く人たちを感電させる。いわば歩く無差別テロの様相を呈しているのだが、今日のこのあたりの描写はもっと強烈だろう。
血の匂い立つような細かくねちっこい描写や痛みを感じさせるほどの迫真性に満ちた生々しさが本書には足りない。

前後見境なくなったキャリーはチェンバレンの町を練り歩くのだが、その所業を町の人たちはなぜかキャリーの仕業だと認知する。私はここにキングの先駆性を見た。
いわば念動能力という脳内で発動する能力が活性化するとその者の意識は外側に放たれ、それを他者が感知することを示唆しているのだ。いわば外に開かれた意識の共有化ともいえる現象をこの1974年の時点で描いていることに驚嘆を覚えた。

440名もの死者と18名の行方不明者を出し、町は崩壊する。そしてキャリー自らも母親から受けた傷と恐らくは酷使しすぎた能力の反動で命を落とす。彼女は一身に背負った不幸を町中にばらまいたのだ。

そして物語は第2のキャリーの誕生をほのめかして終わる。この惨劇はあくまで一過性の物ではないとして。もしかしたら貴方の町にもキャリーはいるのかもしれないとメッセージを残して。

今では実にありふれた物語であろう。
が、しかし物語にちりばめられたギミックや小道具はやはりキングのオリジナリティが見いだせる。“to rip off a Carrie”などという俗語まで案出しているアイデアには思わずニヤリとした。

識者によればキングの物語にはあるミッシングリンクがあるという。本書を皮切りにそのリンクにも注意を払いながら読んでいくことにしよう。


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キャリー (新潮文庫)
スティーヴン・キングキャリー についてのレビュー
No.1158:
(8pt)

KGBのチャーリーへの畏怖を十二分に感じる物語

チャーリー・マフィンシリーズ5作目の本書は前作『罠にかけられた男』同様、チャーリーは保険会社の調査員という役職でローマに赴くことになる。

そしてとうとうチャーリーは英国情報部の手に堕ちてしまう。彼が組織に大打撃を与えて3作目で、作中時間では7年目のことだった。

全てはKGB議長ワレーリ・カレーニン将軍が仕組んだ罠だったのだ。一連の英国情報部員暗殺、ローマ駐在イギリス大使館盗難事件はチャーリー・マフィンという男を社会的に抹殺するために入念に仕組んだ罠だった。つまりそれほどカレーニンはチャーリーという男を恐れていたことになる。
これはその後の作品でもそうで、KGBが関わる工作にチャーリーの影を見るとカレーニンと彼の親友ベレンコフの頭には危険信号が灯るのだ。
本物を知る男は本物を知る。権謀詐術でKGBのトップまで上り詰めた男はチャーリーの頭脳明晰さと策士ぶりを何よりも恐れていた。つまりそれほどチャーリーは優秀なのだ。

また本書ではチャーリーが英国情報部の工作員になるまでの経歴が紹介されている。まずチャーリーの最初の職業が百貨店の社員であったことが意外だった。その時代に妻イーディスと結婚し、その後情報部の試験を受け、そこで才能が開花したのだった。
またチャーリーの悩みの種であり、また彼に危機を知らせるシグナルの役目をする不格好な横に平たい足は軍隊時代に重い長靴で長時間歩き回された結果だったことも判明する。
ここに彼の行動原理の源流があると私は思う。つまり彼の足はいわゆるマチズモ色濃い上下関係に対する反発の象徴なのだ。だからこそチャーリーは他の工作員とは違い、自らを犠牲にして国に使えるのではなく、自らが生き残るために国さえも犠牲にするのだ。

この親友ルウパート・ウィロビーの妻クラリッサの存在はそういう意味では忘れらない存在となった。彼女はチャーリーが妻イーディスを喪った後に彼に執着し、チャーリーを追ってローマに向かう。
うだつの上がらない風体でキャリアウーマン風女性からは決して親しまれる風貌をしていないチャーリーなのだが、なぜかモテる。この次の作品『亡命者はモスクワをめざす』彼はシリーズ全体を通してなかなか結ばれない運命の女性ナターリヤ・フェドーワと出会うのだが、クラリッサはその出会いまでの―失礼な書き方になるが―前菜といった感じだろうか。逆にクラリッサのような女性がいるからこそナターリヤとの恋が真実味を持ちうるのかもしれない。

さて本書で第1作から8作『狙撃』までのチャーリー・マフィンシリーズがようやく私の中でつながり、未訳の9作目を飛び越して残るは10作目の『報復』のみとなった。ここまで読んできたことでこのシリーズもある変容が見られることが分かった。

第1作目と2作目は対となった作品で属する組織に裏切られたチャーリーが復讐を仕向ける話でいわば半沢直樹のように“倍返し”をする話だ。
続く3~5作目は親友ルウパート・ウィロビーが経営する保険会社の調査員として事件に出くわすチャーリーでこれは逆に作者自身がシリーズの動向を手探りしていた頃の作品だろう。
そして6作目で再び諜報戦の世界に舞い戻ったチャーリーはその後もKGBとFBI、CIA、さらにはモサドとも丁々発止の情報戦、頭脳戦を繰り広げていく。これこそがこのシリーズの本脈だろう。
つまり本作はチャーリー・マフィンを諜報戦の世界に戻すために必要だった物語であったのだ。訳者あとがきにもあるように作者自身シリーズを終焉させようと思いながら書いた本書が起死回生の作品となったことが推測される。

さて未訳作品以外で残る未読のシリーズ作品はあと1作。私のチャーリー・マフィンを追いかける旅もようやく彼と肩を並べるところまで来そうだ。実に楽しみだ。


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追いつめられた男 (新潮文庫―チャーリー・マフィンシリーズ)
No.1157:
(7pt)

描いたのは未知の恐竜ワールドではなく…

シャーロック・ホームズに次ぐドイルのシリーズキャラ、ジョージ・チャレンジャー教授第1作目の本書は今なお読み継がれる冒険小説だ。

未開の地アマゾンの奥地に隆々と聳え立つ台地の上に独自に発展した生態系があり、そこには絶滅したとされた恐竜が生息していた。

この現代に蘇る恐竜というモチーフは現代でもなお様々な手法で描かれているが、今なお映画化されているクライトンの『ジュラシック・パーク』の原典が本書であると云えよう。

しかし本書ではイグアノドンやステゴサウルス、もはやおなじみといえるティラノサウルスなどの恐竜のみならずブドウ大ほどもある吸血ダニに、翼を広げると優に6mはあろうかと思える翼竜たち、魚竜のイクチオサウルスに巨大テンジクネズミのトクソドン、そして進化の過程に存在したと思われる猿人たちなど非常にヴァラエティに富んだ生物が数々登場して読者を飽きさせない。

しかし最も特筆すべきは冒険の舞台であるメイプル・ホワイト台地の精密な描写である。あたかもジュラ紀に舞い込んだジャングルの風景を詳細に描写する様はまさに目の前に映像が浮かび上がってくるようで、しかもそれらの映像は先に述べた映画『ジュラシック・パーク』シリーズの映像で補完されるがごとくである。
ジャングルの蒸し暑さと未知の世界を行く登場人物の緊張感の迫真性はとても1912年に発表された小説とは思えないくらい、リアリティを持っている。ドイルの想像力の凄さを改めて思い知らされた。

そして何より忘れてはいけないのは主人公チャレンジャー教授の特徴豊かなキャラクター性だろう。がっしりとした幅広い樽のような図体の上には語り手の新聞記者マローンが見たことのないほど巨大な頭が乗っており、ゲジゲジ眉毛を備えた雄牛そっくりの面構えは高慢な雰囲気を醸し出しており、とてもお近づきになりたい人物ではない。それを裏付けるように喧嘩っ早く、同業者や無知蒙昧な素人に対して口論ならびに毒舌を吐き、しまいには怪力で暴力を振るうという、とても主人公とは思えないほど性格の悪い人物だ。

しかし物語が進むにつれてこの傲岸不遜なチャレンジャー教授に好感を覚えてくるのが不思議だ。彼がたとえ英学会で干され、無視されようとも自分が正しいことを曲げずに主張するという一貫性に満ちているからだ。彼はどれだけ反論されようが決して諦めない、不屈のジョンブル魂を持った孤高の人物であるのが次第に解ってくる。

今やその原題“The Lost World”が全ての失われた秘境冒険物語の代名詞ともなっているまさに原型とも云える本書は現代の冒険スペクタクル小説に比べれば多少の見劣りはするが、上に述べたようにドイルの想像力が横溢して読者を退屈させない。

さて上にも述べたように本書は秘境冒険小説の原型とも云える記念碑的作品であるが、実は本書でドイルが最も語りたかったのは男の成長譚ではないだろうか?

特に語り手である弱冠23歳の新聞記者エドワード・マローンが野心だけが大きな実のない男から苦難の冒険を経て他者に認められる男として帰ってくるための物語、そんな気にしてならない。

そしてまた学会で異端児として扱われているチャレンジャー教授が自説を証明するための苦難の道のりを描いた物語でもある。
つまり権威として認められるには男は冒険をすべきだというのが本書の真のテーマではないだろうか?

それが特に最終章に現れている。
南米で原始の時代から生息する生物のみならず独自の進化を遂げた生物の発表をするために舞台に立ったチャレンジャー教授、ジョン・ロクストン卿、サマリー教授、そしてエドワード・マローンのなんと晴れやかなことよ!困難に立ち向かい打ち勝った男の晴れ晴れとした姿こそドイルが書きたかったものではないだろうか。

あくの強い面々によってなされた冒険譚。失われた世界に生きる生物の神秘よりもこれら愛すべき男たちの成長にエッセンスが込められていることに気づいたのが本書を読んで得た大きな収穫だった。


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失われた世界 (ハヤカワ文庫SF)
アーサー・コナン・ドイル失われた世界 についてのレビュー
No.1156: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

お仕事小説とミステリの美事なコラボレーション

東野圭吾作家生活25周年記念として3冊の作品が2011年に発表された。

1つは加賀恭一郎シリーズ『麒麟の翼』、もう1つは探偵ガリレオシリーズ『真夏の方程式』、そして最後が本書だ。
そして本書は東野作品2大シリーズと並んで新シリーズと謳われている。

このシリーズ第1作は昨今流行りのお仕事小説にこれまた昨今ブームとなっている警察小説を見事にジャンルミックスした非常にお得感のある小説となっているのが特徴だ。

まず導入部で一流ホテルウーマン山岸尚美の有能ぶりを小さなエピソードで読者に紹介し、一方で新田浩介の粗削りながらも一刑事としての有能さをまたもや小さなエピソードで読者に浸透させる。
人を笑顔で迎え、常に感謝の気持ちを忘れないと心がけるホテルウーマンと常に人を疑ってあらゆる可能性を考える刑事という職業のミスマッチの妙を実に上手く物語にブレンドしている。東野氏が書くと実にたやすく感じるが、実はこのような真逆の分野を無理なく溶け込まして物語を進行させる技量の高さを感じさせないところが東野圭吾氏の凄さだろう。いやはや東野圭吾氏の着眼点の鋭さには恐れ入る。

また本筋の殺人事件の捜査とは別に本書ではホテルを舞台にしていることでヴァラエティに富んだ珍客が登場するのがいいアクセントとなっている。

妙齢の老婦人はなぜ目が見えないふりをして、不可解なクレームをつけるのか?

写真の男を決して近づけないようにホテル従業員に強要する女性。

新田を名指しして不可解なクレームをつける年齢不詳の小男、などなど。

これらの謎が解き明かされた時にまた1人1人の客が様々な思いを抱えてホテルという非日常空間に来ていると知らされる。

これらはいわば日常の謎である。
こんなエピソードをちりばめながら水と油の存在だった山岸尚美と新田浩介の関係を近づけていく。そして後々にこれらのエピソードもメインとなる事件に有機的に関わってくるのだからまさに抜け目のない出来栄えだ。

山岸尚美と新田浩介。
この相反する2人がそれぞれのプロ意識をお互いに認めながら次第に打ち解けあうのはこのようなミスマッチコンビ物語の常ではあるが、東野圭吾氏はそこに組織の問題をうまく挟んでそう易々と名コンビを誕生させない。

さて今回山岸尚美と新田浩介という二大主人公のキャラが立っているのが本書の面白みの1つであるが、彼らを支えるバイキャラクターの存在も忘れてはならない。

まず1人目はコルテシア東京の総支配人藤木。
山岸をホテルウーマンになろうと決心させた上司で彼女を一流のホテルウーマンに育て上げた人物でもある。常にお客の安全と満足を考え、今回の捜査で何かが起これば辞職も辞さない決意を持った生粋のホテルマン。

もう1人は能勢という所轄の刑事だ。
最初に起きた品川の事件の捜査で新田と組むようになった中年太りの髪の薄い、一見うだつの上がらなさそうな風体の刑事だが、刑事コロンボのように相手を油断させておいて常に鋭い目で人間を見つめている有能さを備えている。特に若くして捜査一課の刑事の抜擢された新田の本質を見抜き、ヴェテラン刑事が素質ある有望な若手を育てようとする温かみが感じられる好キャラクターだ。

これらのバイキャラクターの存在が山岸と新田の人物像に厚みを持たせ、物語に深みをもたらしている。

さてこのようにまさに面白い小説の良いお手本のような本書であり、まさに完璧だと思われるのだが、1点だけどうしても気になるところがある。

それは監視カメラについて警察があまり言及がなされないことだ。
例えば犯人が毒入り(と思われる)ワインを送った際、警察は購入先を捜査し、コンビニで買ったことを突き止めるが、対応した従業員による聞き込みしかせずに防犯カメラの映像を確認すらしない。そこに違和感を覚えるのである。
他にも監視カメラや防犯カメラを使えばいつどこに誰がいるか、もしくはいたかが解るにも関わらずである。
クライマックスシーンの山岸尚美の行き先についてもそうだ。候補として挙げられた部屋番号が判明しているのだから、当該階にあるホテルの廊下に設置されている防犯カメラを調べればいいのである。
昨今のTVドラマでは防犯カメラの映像が実に効果的に使用されており、また他の警察小説でも同様の手法を取り入れているのに、なぜか東野作品における防犯カメラを警察が活用する頻度が実に低いのである。
特に本書の場合、携帯電話を使った電話番号差し替えのトリックや闇サイトにおける重層的な交換殺人と実に現代的な犯行計画が用いられているのに、捜査側のアナログ感が非常にアンバランスだと感じた。これは作品にとっては瑕疵にすぎないかもしれないが、他の作品でも同様に感じたことでなかなか改善がなされないので今回も敢えて挙げさせてもらった。

さて上にも書いたように本書は新シリーズ1作目ということですでに2作目の本書の前日譚である『マスカレード・イヴ』が発表され、それは本書の事件以前の山岸尚美と新田浩介の物語とのこと。しかしそうそう刑事がホテルと関わり合いを持つことはないだろうから、3作目『マスカレイド・ナイト』がどんな形になるのか気になるところだ。
個人的には名バイキャラクター能勢と新田のコンビの復活を願いたいところだ。まあ男2人の、しかも一方は小太りで髪の薄い中年オヤジだから絵としては実に栄えないのだが。

しかし25周年記念作品で『麒麟の翼』、『真夏の方程式』、そして本書といずれもクオリティが高いのがすごいところだ。一体どこまで行くのだ、この作家は。


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マスカレード・ホテル
東野圭吾マスカレード・ホテル についてのレビュー
No.1155:
(8pt)

思わず人生をなぞらせてしまった

恋に破れた女性の心の旅路。

このジェレミーとカーチャの再会は私自身同じような経験をしたことがあるだけに痛切に胸に響いた。
それは悲しみではなく、懐かしさだ。私もかつて愛した女性への未練が断ち切れず、別れた約3ヶ月後に一緒に食事に行った。その時は別れたことが何か間違いであって、もう一度顔を合わせて話せば寄りが戻るはずだという期待を込めた再会だったが、彼女の吹っ切れた笑顔に彼女の中で自分のことはもう整理がついたことを思い知らされ、逆に私の中で彼女に対するわだかまりが無くなったのだった。
あれは私にとって必要な再会だったと今でも思う。ジェレミーとカーチャもまた同じだったに違いない。

しかし人と人との間に生まれるドラマを描かせるとやはりブロックは上手い。決して特別なことを書いているわけではなく、むしろドラマとしては典型的であろう。
しかし一つ一つのエピソードが読者の人生に擬えられ、共感を覚える。
別れた女性への未練、子の親への反発、振られることで迎える狂おしい日々などは私もかつて経験しただけに痛切に心に響いた。こんな経験をして今の私があるのだなと再認識させられた。

分量としては1時間もあれば読み切れるが、心に残る印象は今までの人生が一気に蘇ってくるほど濃い。
新しい恋をするために自らの人生を磨いたエリザベス。
これは決して甘くはない大人の恋の物語。実力派の描いた物語は実に極上でした。


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マイ・ブルーベリー・ナイツ (扶桑社セレクト)
No.1154: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

Vシリーズにはどこかアダルトな香りが漂う

Vシリーズ第2弾の舞台は長野県の別荘地蓼科(ちなみにシリーズの“V”は瀬在丸VENIKOのVから来ているらしい)。そこにある人形博物館で殺人事件が起きる。
調べてみたがこの人形博物館は実在せず作者の創作らしい。

さて今回の事件は大きく分けて3段階に分けられる。

まずは劇場で上演されていた人形文楽の最中に出演者が襲われ、もしくは殺される事件。
一方が毒を呑まされ、その騒ぎの間隙を縫って何者かが櫓上の老婆に近づき、背中から刺殺する。

もう1つは2年前に起きた悪魔崇拝者岩崎亮が何者かによって刺殺された事件。
死体発見者の妻麻里亜は3メートルを超す馬頭人身と人頭馬身の2種類の悪魔が現れ、神の白い手によって殺害されたというオカルティックな事件。

最後は瀬在丸紅子が巻き込まれた真夜中の人形博物館で起きた館長岩崎毅の毒殺事件と密室状態の病院に何者かによって喉を切られた麻里亜殺害未遂事件。

上に書いたように事件は3段階で起きるが、事件の種類は大きく2つに分かれる。
毒殺と刺殺。
毒殺は未遂も含めて岩崎麻里亜と岩崎毅の2人。刺殺は未遂も含めて岩崎亮と岩崎雅代と岩崎麻里亜の3人。
どちらの事件にも遭遇しているのが岩崎麻里亜でしかもいずれも未遂である。この辺がキーだと思われる。

しかし森ミステリのもはや定番ともいうべきか、本筋の殺人事件の真相には驚きがなく、むしろサブストーリーの謎やガジェットの真相の方に実は大きなサプライズがあるが、本書も例外ではなかった。

本書はタイトルにもあるように人形がモチーフとなっている。
世界中の人形を集めて展示している人形博物館にそこで上演されている人形を操って劇を行うばかりか演者自らが人形となって演じる乙女文楽なる伝統芸能。さらに著名な彫刻家が遺した千を超えるモナリザ人形と数々の人形が物語を彩る。
しかし人間こそが操られた人形ではないかと保呂草は最後に辿り着く。
誰かに操られているという意識は実は自らを苦難から解き放つのに最適の思い込みなのかもしれない。

さてこのVシリーズ、S&Mシリーズと違い、男女の恋のもつれ合いが前面に押し出されている。前シリーズでは西之園萌絵が准教授の犀川にアピールするものの、犀川が知らぬふりをしてさらりとかわす一方で、萌絵のピンチになると命を擲ってでも彼女を救おうとするギャップがファンには受けていたが、このシリーズでは主人公の瀬在丸紅子に離婚歴があり、その元夫林は愛知県警の刑事でダンディーな風貌で女性にもて、結婚中に部下の女性刑事と愛人関係にあったというドロドロとした愛憎劇が底流に含まれている。

かてて加えて本書の登場人物の岩崎家も乙女文楽の創始者岩崎雅代の夫の家族と彼女が愛人だった彫刻家江尻駿火との間に生まれた子供たちの家族とが混在している奇妙な関係性がある。つまり通常の家族の形とは違ういびつな関係の人々が物語を形成しているのだ。

前作のシリーズを踏襲しているのは惚れやすい香具山紫子と保呂草潤平との関係だろうか?
保呂草に恋心抱く紫子が冗談交じりでモーションをかけるのに対し、保呂草は常にクールに切り返すが、相手にしないわけではない。そして保呂草はどこか瀬在丸紅子を気にしているといった奇妙な三角関係にある。
女装癖のある小鳥遊練無はそれらの関係の中ではニュートラルな位置にあり、紫子のグチ相手となってこの奇妙な4人の関係の緩衝役といったところだろうか。

しかしどこか浮世離れしたシングルマザー瀬在丸紅子の特異なキャラクターに、謎めいた探偵保呂草潤平に紅子の元夫で刑事の林とどこか善人とは云いきれない怪しい魅力に満ちた登場人物が主役であることで実際何が起こるか解らないミステリアスな雰囲気に満ちている。
それを中和するのが小鳥遊練無と香具山紫子のコミカルな2人。実に面白いバランスで成り立っている。

あらゆる意味で先行きが興味津々なこのシリーズ。次作も非常に愉しみだ。


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人形式モナリザ―Shape of Things Human (講談社文庫)
森博嗣人形式モナリザ についてのレビュー