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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1418件
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1960年に刊行されて以来、長らく絶版となっていたフィルポッツのまさに幻の作品がこの2015年に新訳で刊行されるとは一体誰が想像していただろうか?
ちなみに1960年刊行の同書をAmazonで調べてみるとなんと7,700円という価格が付いているのには驚いた。 幻の名作というのは実際のところ眉唾物であることが多い。名作ならば版を重ね、現代にまで読み継がれているべきものだからだ。それが初版から55年も経ってようやく新訳で再販されるとは、刊行当時さほど話題に上らずに淘汰されてしまったからだと考えるのが普通だろう。 しかし皮肉なことにその稀少価値ゆえに古書収集家の間で高値で取引され、今にその名を留める結果になったのだろう。つまり内容ではなく本そのものに価値がある作品なのだ、と読む前は思っており、さほど期待せずに読んだのだが、これが意外と、いや実に面白かったのである。 いやはや読み始めと読み終わりの抱く印象がこれほどガラリと変わる作品も珍しい。 まず開巻直後は若き医師ノートン・ペラムと教会の大執事の箱入り娘ダイアナ・コートライトの衝動的なまでの初恋と結婚までの道のりが描かれる。恋は盲目というが魂の結び付きと感じた2人は周囲の反対を押し切って結婚に向けて駆け抜けていく。ダイアナは準男爵のベンジャミン・パースハウス卿からプロポーズを受け、裕福な暮らしが約束されているにも関わらず、好きになったら止まらないとばかりにノートンと結ばれるのだ。 しかしそんな衝動的な結婚生活も長くは続かない。 安定を約束された生活よりも深い愛を選んだダイアナはしかし世間知らずのお嬢様で最初は自炊や洗濯をする生活に新鮮さを感じていたが、器用に思われた自分が意外と家事が苦手だと知るに至り、やがてノートンが将来資産家の伯父から受け取るであろう財産が毎日の質素な生活の中での光明となっていく。 しかしノートンは伯父の反対を押し切った結婚だった故に財産贈与を約束されなくなっていたことを妻に話せずにいた。その事実を自ら伯父を訪問することで知ったダイアナは嘘をついていた夫を深く憎悪するのだ。 愛情は深ければ深いほど、裏切りを感じた時に抱く憎悪はそれにも増して深くなっていくのだ。ダイアナはいつしかノートンに復讐心を抱くようになる。 そこから物語は急変する。 もはやぎくしゃくとした夫婦生活を送るダイアナとノートンの日々が描かれ、家庭に収まることを是としないようになったダイアナは女優を目指すようになるのだが、いきなり体調が悪くなっていく。そこからベンジャミン卿と結婚した姉マイラにも不慮の事故で子供が産めない身体になり、身体に障害を持ってしまう。 そしてダイアナは夫ノートンに毒を盛られていると姉夫婦に告げると、その予言どおりに亡くなってしまう。 そして彼女の死後1年半後、夫が妻殺しで逮捕され、友人たちがノートンの無実の証明のために事件の調査に乗り込む。 いわばミステリの根幹とも云える殺人事件が起きるのが約330ページ中200ページの辺りだ。 若き美しき男女の恋物語が一転してボタンの掛け違いでお互いを恨むようになった夫婦の憎悪の話、そして謎の妻の死とその罪を着せられる誠実な夫の無実を証明する話と、本書は紹介分にあるようにまさに万華鏡のような変幻自在な物語の展開を見せる。 そしてこのどうしようもなく上手く行かなくなった若夫婦の道程から妻の死に至るまでの物語と妻が死んでから死に立ち会った姉夫婦ベンジャミン・パースハウス卿の物語が、最後の最後で想像を超える真相へと繋がるのだ。 正直この真相には戦慄した。 冒頭にもこれほど印象が変わる話も珍しいと書いたが、それは物語の色合いのみならず、登場人物像もまたそうだ。 まずは何と云ってもダイアナだ。思慮浅く、人生経験も薄いと思われていた彼女だったが読み進むにつれて男女の愛に対する洞察の深さや心の移り変わりに思わずのめり込んでいくのには驚いた。 例えば当初家事もしたことのない世間知らずのお嬢様として、しかも夫ノートンが得るであろう伯父の多額の財産を生活の励みしていた、打算合っての愛ゆえに結婚した浅薄な女性と思われたが、伯父の反感を買って財産を相続できない夫の嘘を知ると、財産を得ることが適わないことを恨むのではなく、正直に事実を打ち明けない夫の態度に憎悪を抱くところに、ノートンとの恋愛が一時の烈情ではなく、貧しくも2人で生きていく覚悟あっての事だと気付かされて、見方が変わってしまった。 そして自らが信じた道を邁進する決意の強さこそが実は彼女の本性だと云えよう。 衝動的な結婚も自らの判断の正しさを信じたゆえの結果であり、また結婚後も優しいノートンを引っ張るが如く、生活の舵を取る。夫が渋るのであれば自らが伯父に逢いに行く行動力。しかしその行動力がまた自分が万能であることを過信させることにもなり、また復讐と云う負の方向へと突き進む原動力にもなってしまうのだが。 一方翻って世の女性たちは主人公ノートン・ペラムに対してどのような感情を抱くのだろうか? 誰もが振り返る美男子の医師とくれば玉の輿を狙う女性たちの垂涎の的だろう。 しかし一皮剥けば貧しい自分の境遇にコンプレックスを抱き、投資家で資産家の伯父の財産を当てにして自分の将来の安定を約束している、いわば他力本願の男。さらには伯父の同意が得られないことを知るといつまで経ってもその事実を妻に打ち明けず、妻の愛を逃したくないがためにずるずると先延ばしにしている男だ。さらには自分を慕う女性に自らの結婚の話をする無神経さも兼ね備えている。 私は正直顔がいいだけのダメ男だと何度もレッテルを貼ってしまった。 特に嘘をつかれながらもどうにかノートンと暮らし、貧しい生活の中に自分の張り合いを見つけようとする妻の行動力を制御しきれず、もはや妻は自分には目を向けておらず、愛情はとうに消えてしまったと愚痴をこぼす辺りでは、あまりの女心への無知ぶりに呆気に取られたものだ。妻に冤罪を着せられて刑務所暮らしをさせたくなるほど恨まれても仕方のない男だと思う。 つまり優しいだけの男なのだ。 そしてこの作品で最も好意を抱くのはノートンの婚約者として登場した彼の伯父の秘書を務めるネリー・ウォレンダーではないか。 ノートンを慕いながらも、もはや結婚目前まできながら、ノートンの口から他の女性との結婚を打ち明けられる。しかしそれでも気丈に振舞い、ノートンの幸せを祝福する懐の深さを見せ、更には自分との結婚が破棄になることで財産を渡さないと断じた彼の伯父の説得まで試みる女性なのだ。 社会的に自立し、物事をバランスよく見る人物なのだが、正直現代でもこんなにいい女性はいないだろう。 しかしこのような善人ほど辛い目に遭うのだ。ダイアナの死後1年半後にようやく心の傷が癒えたノートンと晴れて結ばれた結婚式の日に妻殺しの容疑で伴侶が逮捕されてしまうのだから。 う~ん、なんて意地が悪いのだ、フィルポッツは。 さてこの題名だが、実は我々団塊の世代の子供たちの世代では実は翻訳された“コマドリ”よりも英単語の“Cock Robin”の方に親しみがある。それはアニメ『パタリロ』の主題歌『クックロビン音頭』のフレーズ「だれが殺したクックロビン」で耳に焼き付いているからだ。 作者の魔夜峰央氏はミステリ好きとして有名だが、さすがに本作から取ったフレーズではなく、マザーグースの一節から取られており、この題名も同様なのだ。 しかしあまりに日本人にとってお馴染みなフレーズであるため、もしかしたらこの作品が語源では?と勘違いする読者もいるのかもしれないがウェブで調べると出典は萩尾望都の作品に由来するとのことだったのであしからず。 しかしたった330ページの分量ながら、男女の愛憎劇にとんでもないサプライズまで仕掛けられている本書が50年以上も絶版だったのは何とも不思議だ。 正直高を括っていたが、今でも本書に描かれる男女の機微、運命の皮肉、そして最後に感じられる女性の恐ろしさは現代でも十分読ませる内容だ。 今こうやって新訳で読める事の幸せを改めて嬉しく思う。この機会を逃すと次に手に入るのはまた50年後かもしれないので、ぜひとも多くの人に読まれ、版を重ねて絶版とならないようになることを強く祈るばかりだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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フリーマントルのデビュー作である本書はイギリスに亡命してきたソ連の宇宙科学者を尋問する聴取官の物語だ。
その主人公の聴取官エィドリアン・ドッズは決して魅力的な人物として描かれていない。 外見は痩せ気味のこれといって特徴のない男で35歳にして妻に愛想を尽かされた挙句、レズビアンの彼女の許に逃げられ、毎日のワイシャツとスーツのアイロンがけも儘ならず、しわくちゃのままに着用して秘書の眉を顰めさせ、その年配の秘書には手玉に取られ、遅刻や早退を思うが儘にされており、さらには完全に禿げ上がった頭髪を気にして周囲の人のみならず街ですれ違う人々のカツラを見破ることに専心しているという、およそ読者の共感を得られにくいキャラクターだ。 しかしこの男が尋問者として亡命者の前に立つと他に比肩する者がいないほどの洞察力と判断力を発揮する。12ヶ国語を話し、亡命者の専門とする分野の知識も身に着け、安易に会話の主導権を握らせない。 しかしアメリカ政府から早く2人の宇宙技術者を渡すよう圧力をかけられているイギリス政府内ではイギリス首相エベッツの巧みな話術に翻弄され、自らの地位を危うくしてしまう。 このうだつは上がらないが、仕事をすれば切れ者でありながら、自分の仕事に対する実力へのプライドが高いがゆえに、常に他者との駆け引きを重んじて自身の地位の安泰と出世のためにあらゆることを利用しようとする上層部からの受けが悪いエィドリアンの姿はどこか我々サラリーマンに通ずるところがある。 しかし我々日本人のサラリーマンと違うのはもはや最後通牒が突きつけられる段になっても自らの正当性を主張し、上司であれ首相であれ、反撃して説き伏せさせようとする根性だ。 1973年の作ではあり、当時の日本のサラリーマン社会には詳しくはないのだが、このエィドリアンの抵抗は当時も驚きだったのではないだろうか。 そして最新作『魂をなくした男』で終結した三部作でも描かれていたのはロシアのKGB高官の亡命劇なのだから、文体、プロットともフリーマントルは変わっていないことに気付かされた。 更には『魂をなくした男』でも亡命を目の前にぶら下げた人参として亡命先の国から逆に情報を得ようとする実に狡猾なロシアのブラフを驚愕のサプライズと共に読者の前に示してくれたが、デビュー作の本書でも旧ソ連一流のブラフを見せてくれる。 まさに想定の斜め上を行くソ連の描いたプランの恐ろしさと巧みさ。家族を大事に思うパーヴェルの性格を利用して、恐らくは家族を人質に強要されたのだろうが、それを微塵とも感じさせないパーヴェルの狡猾さ。 第1章から各章の終わりに挟まれる委員長カガノフを中心としたソ連の秘密委員会の怪しげな会話、真意が読めないパーヴェルの行動などの本当の意味が最後になって明かされる辺りに新人作家でありながら既にデビュー当時からミステリマインドを持った作家だったことが解る。 しかし三つ子の魂百までとはよく云ったもので、この主人公を主体にしたメインストーリーが繰り広げる中で章の終わりにインタールードのように挿入されるソ連の秘密委員会たちによる謎めいた会議の様子は本書ではサプライズのために実に有機的に機能しているが、これはフリーマントル作品ではお馴染みの構成で既に本書においてフリーマントルのスタイルとして確立されているのに驚いた。 さらにはチャーリー・マフィンシリーズを筆頭に描かれるイギリス人への痛烈なる皮肉。 上にも書いたが常にロシア人は物事の深淵を透徹した視野で物事を考え、イギリス人は目の前に駆引きに終始して、物事の本質を見極められないというイギリス政府蔑視の姿勢が既に本作で確立されているのには苦笑してしまった。 重ねて云えば先にも述べたように最新作『魂をなくした男』とデビュー作の本書が奇妙に題材が酷似していることもその裏付けだと云えるだろう。 そう考えれば自分の禿げ頭にコンプレックスを抱いてカツラ愛用者を見破ろうとしている奇妙な性格のエィドリアン・ドッズは危機を感知すると幅広な形の足が痛むチャーリー・マフィンの原型だったのかもしれない。 また本書は題名がいい。 原題は“Goodbye To An Old Friend”でこれが最後の1行として現れ、実に切ない余韻を残す。 そして邦題は『~した男』とフリーマントル翻訳作品の題名のフォーマットを踏襲しながら原題を活かし、読後にその真意に気付かされる、ミステリのお手本のような翻訳だ。 ただデビュー作ということもあってか、本書は珍しく皮肉屋のフリーマントルらしくなくサプライズと深い余韻を重視したエンディングになっている。正直に云えばいつもこのような形で終わればいいのにと思うのだが。 さて冒頭にも書いたが、本書はフリーマントルが37歳の時に「デイリー・メイル」紙の外報部長時代の頃に通勤中の車内で書いた物で、これが好評を以て迎えられた、フリーマントルの作家活動のきっかけとなった作品である。こういう物語を通勤中に書くことも凄いが(多分多少誇張も入っているだろうが)、37歳で部長職に就いていることだ。 日本の会社では一流の新聞社では恐らく考えられないことだが、実力主義のイギリスではこのような人事もあり得るのだろうが、現代の大作家は勤め人としても凄かったということか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『墓場への切符』から始まったいわゆる“倒錯三部作”を経たマット・スカダーシリーズも第11作目では圧倒的な悪との戦いから解放され、以前のシリーズの趣を取り戻したような様子で幕を開ける。
今回の事件はある弁護士の死の真相を探るという物。しかしその犯人はすぐに逮捕されて証拠もあるのだが、犯人の弟から事件の再調査を依頼される。 弁護士を殺害したとされる容疑者はジョージ・サデッキというヴェトナム帰還兵の精神障害者。戦争の後遺症で定職に就くことが出来ず、マットの住むクリントン地区界隈で浮浪者の如く生活している生活困窮者だ。 つまり弁護士と云う社会的地位の高い者を殺害したのは世間ではさして関心も持たれない社会の底辺生活者。この社会的弱者の無実を晴らすためにスカダーは勝ち目のない戦いに挑むのだ。 そして捜査が進むうちにこの四方八方から見て全く以て健全だと思われた被害者の弁護士グレン・ホルツマンには何か隠された謎があることが解ってくる。 小さな出版社の顧問弁護士というさほど高給な報酬を受け取っていなかった男がニューヨークの高級コンドミニアムの28階という実に長めのいい部屋をキャッシュで買い、クロゼットの中には30万ドルもの現金が隠されていた。この身分不相応な金の出処に事件の鍵をマットは嗅ぎ付ける。 このグレンが謎の大金を手に入れる秘密の真相は実に意外な物だった。 さて暗鬱な“倒錯三部作”を経た本書はそれまでのシリーズには見られなかった軽妙さがそこここに感じられる。それは前作でマットが決意したエレインと結婚を意識しているためか、どこか二人の掛け合いにそれまでにない薔薇色めいた華やかさを感じるのだ。 そして今や名バイプレイヤーとなったマットの助手TJの活躍も文体の軽妙さに一役買っていると云っていいだろう。前作『獣たちの墓』で大活躍したTJが本作でも事件の目撃者捜しという大役に大いに貢献する。 アル中探偵で警官時代の過去の事件でトラウマを抱えて1人孤独に社会の底辺で生きる人々の間を渡り歩いていたマットだが、もはや彼は一人ではなく、チームが出来上がっていたのだ。これが物語のトーンを変えているアクセントとなっているのは間違いない。 しかし本書にはどこか死の翳が付きまとう。 それはシリーズが進むにつれて確実にマットもエレインも齢を取っているからだ。 さらにマットは被害者である弁護士の妻リサとも関係を持ってしまう。それは幸せな家庭を理不尽な仕打ちで唐突に壊された未亡人に対するケアなのか、それとも恋をしてしまったのか、マット自身も解らない。 しかし時々無性に電話をし、逢いたくなる。それはエレインに対する裏切りであることを知りつつも辞められない、ミック・バルーの台詞を借りればいわゆる“男の性”なのだ。 かつては世間では取るに足らない存在に過ぎない人間の尊厳を守るために生前親しんでいた依頼人のために事件を探っていたが、今では死が全てを忘れ去ってくれるかのごとく、依頼人も固執せずに容易に依頼を真相が解らぬままで断ち切る。 時代が移ろい、人の心も移ろうのだ。 それはマットとて例外ではない。 1人ではなく、護る者が出来たマットが辿る静かな足取りながらも味わい深い物語をこの後も期待する事にしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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島田荘司氏のノンシリーズである本書は読者の予断を常に超え、全く想像のつかない展開で物語が進んでいく。
それはあらゆる学問や知識が動員された奇妙な、しかしそれでいて実に説得力のある話が展開したかと思えば、奇想に満ちた世界が連続する。 まず開巻一番、御手洗シリーズに負けず劣らずにセンセーショナルな事件が繰り広げられる。 木に吊るされた2人の女性の死体。1人は性器の周囲を抉られ、内臓が垂れ下がり、もう1人は腹を一文字に裂かれ、骨盤が真っ二つに割られ、前に腹が引き出されているという、まさに島田氏ならではの読者の想像をはるかに超える凄まじい有様だ。 この猟奇的事件を追うのはワシントン東警察署のロン・ハーパーとウィリー・マクグレィという2人の刑事。この人智を超えた殺人事件の謎を追う展開は海外ミステリの警察小説のような色合いをまとっている。 そんな犯行の動機が理解し難い事件の謎はこれまた理解し難い手掛かりをきっかけに犯人に辿り着く。それはある大学院生が書いた恐竜滅亡の謎について考察した論文だ。この内容が実に興味深い。 なぜ2億5千万年前に出現した巨大な恐竜が1億3,500万年もの長き間に亘って繁栄し生き長らえたのかを現代科学の知識から解き明かしていく。その一つ一つが新たな見地を開いており、まさに蒙が啓かれる思いがした。ちょっとかいつまんで書き並べていこう。 現在生存する生物の視点から考えると恐竜のスケールの大きさやその骨格の不自然はどうにも生存するには不便であり、恐らく自重によって内臓が圧迫され、長くは生きられなかったとするのが当然であり、また草食の首の長い恐竜も胃までの十数メートルもの距離をベルトコンベアのような機能を備えていないと食物を運ぶことは到底不可能であることやバランスを取るために長い頸部と尻尾を平行にして歩行したと推測されているが、これらは構造の観点から云えば、かなりの負荷が頸と尻尾の付け根に課せられ、現代では吊り橋のような構造にしないと長期に亘って支えられないことも挙げられている。 また5トンもの体重があると想定されるティラノサウルスが同等の体重を持つ象が4つ足歩行しかできないのに、2足歩行が出来たのか? それを解決する1つの方法がカンガルーのようにジャンプしながら移動していたのではないかという説。 さらには翼竜など飛行する恐竜たちもまた今の鳥類のスケールから考えても到底空を飛べたとは思えないほどの大きさと重さを持っているのになぜ飛ぶことが出来たのか。 他にも太陽系の惑星に関する自転周期の奇妙な事実など単なる生物学を超えて物理学、構造力学、天文学の観点から疑問を投げかけているのが実に興味深い。 そしてこれら不可解な事実を一転して理解可能とするのが、恐竜たちが棲息していた時代は重力が今よりも軽かったとする説。それが故に最も自転によって生じる遠心力が最も大きい赤道周辺に恐竜がいたこと、そして現在の重力になったのは巨大隕石による衝突の衝撃によるものだという実に画期的な説だ。 この実に知的好奇心溢れる学説は全く以て知らなかった。どうやらこの説は前から出ていたそうだが、ウェブで調べるとトンデモ学説と断ざれたり、支持する声もあったりと様々だ。私はこのコペルニクス的転回であるこの重力説を支持したい。 ここまでが上巻の展開だ。そこから物語は文字通り目くるめく展開を見せる。 これはまさに島田氏しか書けない物語だ。題名が示すようにこれはまさに幻想物語だ。 第2次大戦下のアメリカを舞台に古代生物学、物理学に構造力学、天文学といった知識がふんだんに盛り込まれ、空想の世界を補強し、このとんでもない空想物語がさも実存するかのように島田氏は語る。 5つに分かれるこの壮大な幻想譚は1章では行間から血の臭いまでもが匂い立つほどの迫真性に満ちた人智を超えた猟奇的事件を語り、2章では重力論文なる、現代科学において規格外とされる巨大な生物、恐竜の存在とその絶滅の謎に対する学術的な話が展開し、3章ではアルカトラズ刑務所を舞台にした刑務所生活と手に汗握る脱獄劇が、そして4章では一転して島田ワールドとも云える空想世界の物語だ。 それは『ネジ式ザゼツキー』で語られた「タンジール蜜柑共和国」を髣髴とさせる「パンプキン王国」なる不思議の国の話。そしてそんなメルヘンとしか思えない世界が最後のエピローグで意外な真相と共に明かされる。 まさにこれはそれまでの島田作品のエッセンスを惜しみもなくふんだんに盛り込んだ集大成的作品と云えるだろう。 世のミステリ作家の想像の遥か彼方の地平を進む本格ミステリの巨匠の飽くなき探求心とその豪腕ぶりに今回もひれ伏せてしまった。 島田氏はまたしても我々が読んだことのないミステリを提供してくれた。 ミステリの地平と明日はまだまだ限りなく広く、そして遠いことをこの巨匠は見せてくれたのだ。まさに孤高という名に相応しい作家である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(5件の連絡あり)[?]
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ローレンス・ブロックの第3短編集。長編のみならず短編の名手であるブロック。今回もヴァラエティに富んだ作品集となっている。
まずはスカダー物の1編である表題作で幕を開ける。 ブロック自身がまえがきで述べているように本作は『聖なる酒場の挽歌』で起きる3つの事件の中の1編だ。このエピソードに2つの事件を肉付けしたのが『聖なる酒場の挽歌』であり、この作品がきっかけとなって『八百万の死にざま』で終焉を迎えようとしたマット・スカダーシリーズが再開されたのだから、ブロックにとってはマイルストーン的な作品となるのだろう。 「夢のクリーヴランド」は「世にも奇妙な物語」に使われていそうなおかしみのある1編だ。 夢の中でドライヴしているために寝た気がしないという実に奇妙な相談とそれを解決するこれまた実に奇妙な方法。そしてそれだけで終わらず友人も同じ夢を毎晩見て疲れている。しかもそれが毎晩3人の美女の夜の相手をするためにクタクタになっているという男の願望が詰まったような次の展開。 しかし他人の夢で起きたことが自分の夢で体験できるとは限らないのに男って奴は…。 「男がなさねばならぬこと」は奇妙な味わいを残す1編。 法の網をかいくぐり、暗躍する悪党たちに対して法の遵守者である警察は無力である。犯罪を犯したことは明白であるのに決定的な証拠がないばかりに逮捕できない。マット・スカダーでもその手の類の犯罪の容疑者がよく現れ、その都度マットを惑わしてきた。 そんな法で裁けない真の悪党たちを次々と暗殺する殺し屋を目の前にした警官が選択したのは法律的には許されないが、道徳的に実に納得のできる決断。こういうことは実際起きているのではないだろうか。 後のシリーズキャラクターである殺し屋ケラーが初お目見えするのがこの「名前はソルジャー」だ。 初登場の殺し屋ケラーのこの顔合わせともいうべき作品ではまだ彼がどういった人物かは解らない。依頼により、証人保護プログラムで身分を変えた男を見つけてもすぐには始末せず、いつも食事を共にし、また街をぶらぶらして満喫する。しかし彼が勝手に抱いていた妄想が崩れると、まるで夢から覚めたかのように非情なまでにターゲットを屠る。実に気まぐれな殺し屋である。 ケラーの為人については今後の作品群で理解していくことにしよう。 「魂の治療法」も実に皮肉な物語だ。 殺人を犯したという妄想に悩まされる男。それが妄想だと証明する刑事。 慣例や先入観と云うのは実に恐ろしい物だと笑い話では済まされない奇妙な味わいを残す1編だ。 短編集に必ず登場するシリーズキャラクター、悪徳弁護士エイレングラフは今回も例に漏れず登場だ。「エイレングラフの選択」では愛人殺しの容疑で捕まった女性の弁護を担当する。 相変わらずブラックな味わいを残す。 「胡桃の木」はなんとも暗鬱な物語だ。 レンデルの作品を髣髴させる、とても痛々しい夫婦の物語。 育った環境の、両親の影響で諍いを起こす衝動に駆られる夫婦。この負のパターンを打ち崩すべく妻が選択したのは夫を殺害する事だった。 寂寥感がただただ漂う1編だ。 さて泥棒バーニイ・ローデンバーは「泥棒はプレスリーを訪問する」で奇妙な依頼を受けることになる。 「エルヴィスはまだ生きている」とは有名な都市伝説の1つだが、彼の生家グレースランドが観光地となっており、この2階が観光客はおろかスタッフですら入れない万人禁制の聖域であるらしい。人は秘密があれば色んな想像を巡らせるが、この誰もが入れない2階でエルヴィスは生活しているのではないかと噂が立っているようだ。 実在する部屋の秘密を暴くのはさすがにブロックも躊躇らわざるを得なかったようだ。 「交歓の報酬」は誰もが抱く旅先の開放感を描いた作品。 海外旅行と云う非現実な空気に包まれるマジック・アワー。そんな時間や日々は日常の殻を破って冒険したくなるのが心情と云うもの。 旅先で親しくなった夫婦がスワッピングを愉しみたくなる甘美で淫靡なムードにほだされるが、物語は意外な結末を迎える。 しかしそれもまた白昼夢のような出来事。何が真実で何が虚構なのか、誰にもわからない。 「死にたがった男」はツイストの効いた一編。 想像の斜め上を行く結末に思わず唸ってしまった。アメリカの警察のずさんな捜査ならばこの方法は完全犯罪になりそうだ。 マット・スカダー2編目の「慈悲深い死の天使」は実に考えさせられる物語だ。 物語はちょうどエイズウィルスが突如流行した90年代初頭の世相を反映している。この未知の不治の病に苦しむ同性愛者たちに安らかな死と云う眠りを授ける女性はその苦しみから患者たちを解放するための言葉を授ける。 しかし物事は必ずしも上手く行かない。どんなに言葉を掛けようとなかな死出の旅に赴くことが出来ない患者もいるのだ。そんなとき、彼女は…。 スカダーはその事実を当人から聞かされながらも敢えて依頼人には話さない。それは彼女がやっていることが慈悲だと思うからだ。自らの保身やエゴの為に死を与える輩はどんな人物でさえも許さないマットだが、他者を思って行う殺人には寛大のようだ。 法律では裁ききれないことがある。彼女のやっていることは善か悪か解らないがマットにとっては悪い事のように思えなかったようだ。 「タルサ体験」は季節ごとにアメリカ国内旅行に出かけている仲の良い兄弟の旅行記。 犯罪大国アメリカならばありそうな話だけに怖さがひしひしと伝わってくる。 「いつかテディ・ベアを」も何ともおかしな話だ。 年に何回もアバンチュールを愉しむプレイボーイの映画評論家はテディ・ベアのぬいぐるみを抱かないと眠れないという設定は面白い。 同族意識が芽生えた二人は結婚するのだろうか? 「思い出のかけら」も奇妙な味わいを残す作品だ。 人に対する警戒心が強いアメリカなのに、大学の掲示板で車でシカゴまで乗せてくれる人を募り、誰とも知れない見ず知らずの相手の車に同乗するとはなんと無防備な女性だろうと思ったが、案の定、募集に応募した男性は快楽殺人者だった。 しかしそれだけでは物語は終わらず、とにかく奇妙な作品だ。 「ヒリアードの儀式」もなんと評してよいか解らない作品だ。 人生何をやっても上手く行かない時もあれば、何事も上手く進む時もある。アトゥエルというシャーマンが施す儀式はその人の持つ運を開放するきっかけを後押しすることかもしれない。 一見何の関係のないことがきっかけで運命が好転する、そんな人生の不思議さを語った作品なのか。とにかくヒリアードが受けた儀式で突然彼の生活が薔薇色に変わる根拠は全く解らないが、それでもなぜか納得させられる不思議な小説である。 本書での2度目の登場となる「エイレングラフの秘薬」では妻殺しの容疑者の弁護を引き受けることになる。 依頼人の冤罪を晴らすために別の角度から犯罪を捏造し、それによって依頼人を不起訴にし、別の犯人を仕立て上げる。 しかし有罪と無罪の境とはなんとも曖昧な物かとエイレングラフ物を読むと痛感させられる。 「フロント・ガラスの虫のように」もまた善悪の境を揺るがされる作品だ。 人は実はギリギリのところで善の境に踏み止まっていると思わされる作品だ。特に自動車の運転と云う非常に身近な行為にテーマを持ってきたところが上手い。 乱暴な運転をして、こちらに被害を被るような危ない目に遭った時、「いっそぶつけてやろうか」と思ったことは誰しもあるのではないか。長距離トラック運転手と云うストレスが溜まりがちな職業ゆえにその境界をいつ超えてもおかしくないのだ。そしてウォルドロンもまた…。 「自由への一撃」は銃を持ったある平凡な男がそのことで力を得た気になり、徐々に性格が変わっていく物語。 その男の心情は解るものの、なんと評していいか解らない作品だ。 たった7ページと本書で最も短い「どんな気分?」は動物虐待をしているのを見かねた男がその飼い主に制裁を加えていく。 老馬に激しく鞭打つ御者を同様に鞭打ち、飼い犬を蹴り飛ばす飼い主を安全靴で完膚なきまでに蹴り飛ばす。 ブロックのストーリーテリングの上手さが光る1編だ。 最後を飾るのはまたもやマット・スカダー登場の1編「バットマンを救え」はマットが探偵事務所に雇われて海賊版のバットマン商品を町の露天商から回収する仕事に就く。しかしマットは言葉もろくに話せないアフリカ人たちから回収する行為に腑に落ちない物を感じていた。 本作も正しいことをすればそれにより不利益を被る人がいる。それらが社会的弱者であるとマットはどうしても非情になれないのだ。それが法律的に正しいことであっても社会の底辺で半ば犯罪に手を染めながらも必死に生きている人々と付き合いが深いだけに、いやそこにかつてアル中だった自分を重ねてしまうのかもしれない。 マット・スカダーと云う男の本質を謳った物語だと思う。 ローレンス・ブロック短編集第3集の本書はシリーズキャラクターであるマット・スカダー物3編、泥棒探偵バーニイ・ローデンバー物が1編、エイレングラフ物が2編、そして以後シリーズキャラクターになる殺し屋ケラー物が1編含まれた全20編で構成された実に贅沢な短編集である。 今回の作品では前の2集とは異なり、何とも云えない後味を残す作品が多い。 その何とも云えなさは大別すると次の3つに分かれる。 法律と道徳の狭間で善と悪の境が曖昧になる物。 例えば「男がなさねばならぬこと」、スカダー物の「慈悲深い死の天使」、「フロント・ガラスの虫のように」がそれに当たるだろう。 次に人間の衝動の怖さを知らされる物。「魂の治療法」や「タルサ体験」、「思い出のかけら」が該当するか。 そしてとにかく煙に巻かれたような思いで終わる物。これは殺し屋ケラー初登場の「名前はソルジャー」、「いつかテディ・ベアを」、「ヒリアードの儀式」、「自由への一撃」になろうか。 収録作が80年代末から90年代に掛けての物が多いせいか、当時の流行を反映してサイコパス物や人間の不思議な習慣や行動に根差した作品が多く感じた。 これが発表当時、世紀末だったことに起因する特異性なのか解らないが、奇妙な味わいを残すオチが多い。割り切れなさとでも云おうか。 従ってウィットの効いたオチや切れ味鋭いオチを期待するといささか肩透かしを食らった感じがするかもしれない。 実際そういった類の作品は「夢のクリーヴランド」、「死にたがった男」、「どんな気分?」ぐらいしかなく、大半が敢えて結末をはっきりと書かないことで余韻を残すような書き方をしている。 これはブロックに限った話ではなく、国内作家でも見られる形で、いわゆる大団円的なフィナーレやスパッとした切れ味といったカタルシスを残す遣り方は少なくなってきており、登場人物たちの人生という1本の線のある時期を切り取った描き方をして、今後も彼らの時間が続いていくような区切のつかない終わり方が多くなってきている。これは物語の在り様の変化なのだろう。 さてそんな短編集の個人的ベストは「胡桃の木」、「慈悲深い死の天使」、「フロント・ガラスの虫のように」、「どんな気分?」の5つを挙げる。 これら4作品に共通しているのは先にも述べた世紀末特有の厭世観がもたらす法律による善悪よりも道徳としての善悪、つまり死に値すべき者、そして死を望む者に敢えてそれを施す行為がなされていることだ。特に「胡桃の木」はDVに悩まされる暗鬱な夫婦関係と遺伝と云う家系の業をひたすら重く語り、最後にサプライズを仄めかす、まるでレンデルが好んで描く抗えない血の呪いといった運命の悪戯が描かれており、ブロックの新たな境地を垣間見たような気がした。 本集の前の2短編集よりも全体としての評価は落ちるが、だからといってクオリティが低いわけではなく、本書もまた短編のお手本ともいうべき作品のオンパレードである。 ただ扱っている題材やプロットが前2作とは異なっており、例えようのない余韻を残す。 世紀末だからこそ書かれた作品群と思えば、本書は今後文学史を語る上で貴重な資料となり得る短編集と云えよう。こんな短編集が絶版で手に入らないのは誠に勿体ない話である。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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マクリーン16作目の舞台は厳寒の北極海。ベア島なる孤島に向かうハリウッドのロケ隊の一行。主人公はその映画会社オリンパス・プロダクションに雇われた医師マーロウ。
今までのマクリーン作品の読者ならば、厳寒の海が舞台であればまたも過酷な環境と苦難の連続の航海が一行に待ち受けているだろうと想像するが、本書はそんな読者が抱く先入観を裏切り続けて物語は進行する。 まず一行を運ぶモーニング・ローズ号、この豪華客船はかつてトロール船として海を馳せた老船である。そんなもはや老朽化という言葉を超えた船の乗客や乗組員が直面する災難は荒々しい波濤や物の数秒で凍てつくブリザードでも、触れるだけで大破するほどの絶望的な大きさを誇る流氷などが現れる極寒の環境ではなく、なんと激しい船酔いなのである。 この船酔いは主人公の医師マーロウによって集団食中毒であることが判明する。さらに死亡者が出るに至り、それは何者かによる毒殺事件へと発展する。 そんな不穏な空気を助長するかのように船内で連続して不審死や失踪事件が発生する。そして無線機も何者かによって壊され、疑心暗鬼の中、船は目的地であるベア島に到着する。 ここまでが物語の中盤だ。 物語の後半はベア島が舞台となる。そこでもたとえば『ナヴァロンの要塞』で我々読者をそこまでしなくてもいいだろうと思わせるほど危難に次ぐ危難、肉体の限界を超えた戦いが登場人物たちには待ち受けているわけではない。 まず到着早々にマーロウと親しくしていた航海士スミシーが失踪する物々しい幕開けを見せるが、実は航海士スミシーは主人公の医者マーロウと同じ組織に属するイギリス政府から派遣された者であることが判明する。彼らは第二次大戦中にナチスが各国から略奪し、世界中に隠した金、宝石、絵画、有価証券の在処を探る任務に就いており、映画製作者の1人で脚本家のヨハン・ハイスマンがその一人であることを突き止め、彼のそばについて隠し場所と思われるベア島のロケに同行したのだった。 そしてベア島に着くと一行は島にある観測隊が以前使用していた小屋に落ち着くが、いきなり第一の殺人が起こる。それを皮切りに次々と関係者が一人また一人と不審死を遂げる。犯人は島にいる関係者の中にいるというシチュエーション。 つまり厳寒の島で繰り広げられるのは何と本格ミステリでいうところの“嵐の山荘物”なのだ。しかしなんと島に留まっているのは主人公のマーロウを含めて22人にも上る。なんとも容疑者の多すぎる孤島物ミステリだ。 とこのように本書は極寒の海と島を舞台にしながらも従来のマクリーン作品の定型を全く裏切った展開を見せる。 そして物語は事件の謎を追いかけるうちに関係者たちに隠された過去を掘り出し、またマーロウの目的である盗まれた金の在処を探る冒険もあり、そして最後にはそれらの謎に加え、真犯人の思惑などサプライズが複層的に織り込まれている。そして最後には関係者を一堂に集めてマーロウによる推理が開陳され、黄金期の本格ミステリを髣髴させる。 しかし私が最も意外だったのは主人公マーロウの設定だ。ロケに同行する医師と見せかけて政府の者というのは確かにマクリーン作品の常套手段ともいうべき手法だが、今までの作品では掴みどころのない性格で一見軽薄そうな人物が実は情報部の諜報員だったという、素早い判断力と超人的な運動神経で危難を幾度となく克服するヒーローという設定だったのに対し、本書のマーロウと中盤で仲間だと知れる航海士のスミシーはスーパー・エージェントではなく、大蔵省の役人でしかない。 彼らは銃を持たず、また格闘術を教わっているわけでもなく、ましてや肉体の限界を超えて自然に立ち向かうストイックさもない。いわゆる我々のような一般人ぐらいの体力しかないのである。 このあたりからもマクリーンが新機軸を打ち出そうとしているのが行間からひしひしと伝わってくる。 さて毎回アイデア豊富のマクリーンだが、本書では彼の得意とする武器、兵器、機械や乗り物の専門知識や過酷な環境下で起こる災厄の詳細な描写はなりを潜めている。しかしマクリーン作品の中でも全450ページ弱という比較的厚い本書には第二次大戦後の世情やマクリーンの体験が盛り込まれているように感じる。 例えば映画会社の面々が登場人物の中心になっていることが本書では特徴的だ。 これはやはり出せば映画化と当時人気絶頂だったマクリーンが自作の映画化の際に接した映画会社の人々のその特異性が非常に印象に残っていたのではないか?元教師であるマクリーンにとって、何もかもが破天荒で常識外れが当たり前のエンタテインメント界の不条理さこそ、きな臭い陰謀を持つ組織の隠れ蓑として最適だと気付いたに違いない。 また本書の犯人の1人で中心的人物であるヨハン・ハイスマンはシベリアに囚われの身であり、そこから脱走して映画会社に入ったという異色の経歴を持つ。彼は第二次大戦中に二重、三重のスパイとしてソヴィエトとドイツを股にかけて活躍していたという彼の設定も昔アメリカ映画界を席巻した赤狩りの遺児を思わせ、また映画界で有名な人物が実は元スパイだったというのもキム・フィルビーを想起させる。 さて旧ナチスが隠した金の在処を巡って発生する連続殺人など一連の事件の真相はかなり複雑であるが、しかし、これらの謎が一気にマーロウの口から述べられるのはいささかバランスが悪いように思える。 確かにこれらは本格ミステリの典型であろう。マクリーンが本書で目指したのが本格ミステリであるならばそれも受け入れるが、マーロウが述べる内容は読者の前に伏線として提示されていない物も多く、マーロウが潜入する前に仕入れた情報に基づく内容の比重が大きい。 つまり意外な真相が明かされるものの、アンフェア感が拭えないのだ。 さらに登場人物の多さ。前述したように最終的に島に残る人物だけでも22人もいるのである。物語の前半はこれにモーニング・ローズ号の乗組員も加わり、大方30名前後の登場人物が出てくるのだ。 これだけ登場人物がいればやはり登場人物表は必要だろう。特に今回は船員のみならず映画会社という特殊な職業の人間たちばかりなのだから、人物紹介も容易であろう。 したがってそれらがないばかりに各登場人物たちの意外な素顔が最後で明かさされても、人物像がなかなか結び付かなく、サプライズを満喫できなかった。今回登場人物表を省いたのは出版社の怠慢と云わざるを得ない。 ただやはりマクリーンはサプライズを好む作風であるのだが、どうもそれがうまく機能していないように感じる。 今回は主人公のマーロウがそれほど思わせぶりではなく、また物語の中盤で自身の正体を明かすため、ほどなく物語に入り込めたものの、最終章で一気呵成にマーロウの口から新事実が次々に明かされる構成はやはりバランスが悪く、作者の独りよがりだという感は否めない。専門知識や機器の詳細などの微細な描写や説明、そして不屈の精神を持った人物の描写などは抜群に上手いのだが、物語を書くのがそれほど上手くないのだ。 本書のようにミステリ趣向の作品を読むと如実にそれが表れてくる。手掛かりや伏線の出し方の匙加減が下手だと云ってもいいだろう。 しかし後期に属する本書は世の書評家がいうほど出来が悪いとは思えなかった。 先に書いたように冒険小説と見せかけて実は本格ミステリ的という読者の先入観を裏切る作品であり、意欲的だ。恐らく北上次郎氏のような当時の書評家はリアルタイムでその時代の冒険作家の作品を読んできたがために、時代の変化に対応して作風を変え、新たなテーマを見つけ、変化し続けている作家たちに比べて相も変わらず同じ作風で不屈の主人公を描いているマクリーンがつまらなく思えたのだろう。それ故に後期のマクリーン作品の評判が悪いのではないか。 実際北上氏の『冒険小説論』ではそのように書かれている。しかし裏返せばそれは常に軸がぶれなかった作家だという証拠でもある。いわゆる北上氏がいうところの欧米の冒険小説家が直面した『70年代の壁』は今の読者にとっては壁でもなんでもない。『女王陛下のユリシーズ号』も『ナヴァロンの要塞』もこの『北海の墓場』も全て同じマクリーン作品なのだ。だから時代性に囚われず、純粋に作品の良し悪しで判断できる状況にあるのだ。 恐らく今後読むマクリーン作品の私の評価は世の中の評判とは異なることになるだろう。しかしそれこそ今過去の作品を読む意義ではないか。 後世の今、本書もまた全く話題に上らない作品だが、マクリーンが冒険小説と見せかけて本格ミステリ的手法で旧ナチスの財宝探しを描いた本書は定型を裏切っただけに私にとって案外印象に残る作品なのである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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S&Mシリーズもまずは5作目を経て一休みと云ったところか。本書はノンシリーズの連作短編集。
冒頭を飾る「虚空の黙禱者」は夫に突然失踪された1人息子を抱えた女性に纏わる物語。 夫の失踪の謎が最後に明かされる。残酷な行為はしかし田舎の牧歌的な風景でゆったりとした時間の中、明かされる。 詩のように紡がれる物語「純白の女」は一日に電車が一本しか止まらない田舎にある白い建物を訪れた一人の女性の物語。 ファンタジーのような世界観を乙女チックな詩のような文章で綴られる本作は物語の最後でサイコの様相を成す。90年代に流行したサイコ物の森ヴァージョンといった作品。 敏腕女性刑事物と思いきやそれが作中作であることが解る「彼女の迷宮」もまたサイコ物の変奏曲である。 「真夜中の悲鳴」では大学内での事件を扱ったオーソドックスなミステリ。 まず大学での実験風景が実に懐かしい。私は理論研究だったので実験室に籠っての卒業論文の作成を経験をしていないのだが、それでも大学の授業で体験した実験の匂いが漂ってくる。しかも主人公のスピカたちがしているのは深夜の実験。実に魅力的ではないか。 そんな中で発生している学内での連続暴行事件と実験で発見される奇妙な現象。それらが連続暴行事件の犯人に繋がる展開は実にオーソドックスで、主人公のスピカが犯人によってピンチに陥るのも定型と云えば定型。しかし最後の数行が効いている。 次の「優しい恋人へ僕から」は漫画同人誌仲間であるスバル氏と篠原素数が出逢った2日間を描いた作品。この内容は森氏の奥方が佐々木スバル氏であることを考えると半自伝的な小説だろうか。最後のオチは作者が見せた照れ隠しと取っておこう。 続く2編「ミステリィ対戦の前夜」と「誰もいなくなった」は本編ではあまり語られることのない西之園萌絵のミステリ研究会での活動を描いた作品。 前者はミス研の合宿に初参加し、そこでなんと殺人事件に巻き込まれる、と見せかけて…、といった話。 後者はミス研が学校でのイベントで仕掛けたある謎を巡る物語。学校の記念講堂で突如現れた焚火の周りで踊る30人のインディアンがどこから現れ、どこに消えたのかという謎をミス研が仕掛ける。しかし10組の参加者は誰も解らなかったのだが、犀川がその話を聞いた途端に謎を解き明かすという物。犀川の天才性を再認識させる短編だ。 ジャンル的には幻想小説になるだろうか。「何をするためにきたのか」は退屈な大学生活を送る甲斐田フガクが主人公。 因果律の物語。一見何の関係のない人間と事象が次々と連なることで運命の扉が開けるという一種人生の構図を表したような物語だ。 S&Mシリーズの『冷たい密室と博士たち』で犀川が云う、「役に立たないものだからこそ面白い」ことを突き詰めた作品だ。 「悩める刑事」は意外な結末が面白い作品だ。 どんでん返しが鮮やかに決まった作品。これは上手さを素直に認めよう。 「心の法則」は教授である森氏ならではの思弁的な小説と思わせてこれまた意外な展開を見せる。 幻想的な物語だ。どこまでが夢でどこまでが真か、その境界線があいまいになっていく。 最後の「キシマ先生の静かな生活」は大学の異端児であったキシマ先生と主人公の想い出を語った物語だ。 これはミステリではなく、回顧録といった方が正確だろう。その天才性故に大学で孤立した存在であったキシマ先生と彼が助手として所属していた研究室の院生だった私だけが知るキシマ先生の人物像。彼の我が道を進む人生は誰も侵すことのできない世界を形成している。最後はそこはかとない寂しさが過ぎる作品だ。 S&Mシリーズでデビューし、その後連続して『封印再度』の5作まで全て同シリーズを著してきた著者による初めての短編集、となるとてっきりS&Mシリーズの連作短編集かと思いきや、なんとシリーズとは離れたノンシリーズの短編集だった。全く人を食った作風の森氏らしい計らいだ。 しかしこれほどまでに短編を書き溜めていたとは思わなかった。その作風は実にヴァラエティに富んでいる。 景色を丹念に書き綴った田舎風景が印象的な作品もあれば、一転してファンタジックな詩を思わせる作品もある。そして奇妙な味のような作品もあれば、S&Mシリーズを髣髴させる大学を舞台にしたサスペンス物もあり、半自伝的な恋愛物もあったり、作中作に幻想小説と物語のエッセンスがふんだんに盛り込まれている。 森氏の作品の特徴である現役教授ならではの大学風景の瑞々しいまでの描写が本書でも見事に活かされている。 「真夜中の悲鳴」、「ミステリィ大戦の前夜」、「誰もいなくなった」、「何をするためにきたのか」、「キシマ先生の静かな生活」など11作品中5作品と約半分がそれらに該当する。 またそれまでのS&Mシリーズでもその片鱗が見られる幻想的な趣向が短編では全面に押し出されており、作者の自由奔放さが溢れている。「純白の女」、「何をするためにきたのか」、「心の法則」がそれらにあたるだろう。 そしてさらには理系の教授ならではの学問に特化した内容が実に専門的に語られているのも特徴的だ。その内容はもう理解できない者は置き去りにすることも厭わないほど容赦がない。しかしそれを理解できる自分がいるのがどこか誇らしくも思えたりする。 しかし一番面白いのは森博嗣という作家そのものだろう。なんせ現役の建築学科の教授、つまり理系の教授がこれほどまでに色んな物語を書いていることだ。特に1作目の「虚空の黙禱者」の匂い立つような田舎の風景描写には驚かされてしまった。 正直に話せばS&Mシリーズは大きな謎1つで400~500ページの長編を引っ張る構成に冗長さを覚えていたが、短編では森氏独特の奇抜なワンアイデアを中だるみなく楽しめることが出来、この作家は短編向きではないかと思った。 さて次からはS&Mシリーズ後半戦に突入する。とにもかくにも西之園萌絵の存在が私にはシリーズに没入する障害となっているので、今後の変化に期待したい。それとも私が萌絵に馴れるべきなのだろうか? さて本書のタイトルは『まどろみ消去』。 私は本書を読むことで眠気も覚めるという作者の自信を森氏ならではの文体で表現した物だと理解していたが、英題は“Missing Under The Mistletoe”、直訳になるが『寄生木の下での消失』といささか幻想めいたタイトルである。この英題から想起させられるのは明るい日差しの中、寄生木の下で読んでいるといつの間にか異世界に連れて行かれた、そんなイメージだ。どちらにせよ、実に森氏らしいタイトルである。 さて貴方の眠気は覚めるだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
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海外放浪から帰ってきたばかりの当時京大の医学部の学生の頃の御手洗潔がサトルという京大を目指す予備校生に京大近くの進々堂で語った話を集めた連作短編集。
まず「進々堂ブレンド 1974」は軽いイントロダクションの物語。 若き思春期の苦い恋の想い出話。これはミステリではなく青春物語といったところだろう。 「シェフィールドの奇跡」は知的障害者の物語。 21世紀になって島田氏は脳生理学の分野を積極的に物語に取り入れ、精神異常者のみならず学習障害者、アスペルガー症候群など、現代細分化されている様々な知的障害者をテーマにした作品を著しているが、本書は知的障害者が被ってきた社会的差別、虐待を扱っている。 ギャリーと云う学習障害者が唯一の取り柄である他者より抜きん出た体格の良さと発達した筋力を活かして重量挙げの選手として成功していく物語はしかしそれまでに彼が強いられた数々の苛めや虐待、社会的差別が詳らかに語られ、胸が痛む。私自身、次男が軽度の知的障害者であるが故、無縁の話とは思えないだけに痛切に胸に響いた。 さすがに21世紀の今では本作の時代である1970年代の社会よりも同じ境遇にいる人々への研究と理解が進んでいる為、作中に書かれているほど厳しい現実ではないが、それでも自分たち夫婦が同化する錯覚を覚えた。恐らくそのような身内を持たない人々にとっては典型的な感動の物語なのだろうが、私にとっては応援歌のような物語であった。 続く「戻り橋と悲願花」でもマイノリティに対する虐待の歴史が題材に扱われている。 戦時下の朝鮮人が受けた迫害の歴史は島田氏にとって昔からのテーマの1つだった。あの名作『奇想、天を動かす』はその最たるものだった。 本書もまた日本に渡って豊かな生活を夢見た貧しい姉弟が辿った数奇な運命と太平洋戦争で行われた風船爆弾という史実と島田氏ならではのミラクルストーリーが混然一体となっている。 路傍の花としてよく見かける彼岸花をモチーフにその球根が毒性を持つこと、実は生物学的にも特異な物であることを京都の一条にある戻り橋が持つ歴史の由来を上手く交えながら感動的な物語に昇華する。まさに物語作家島田の独壇場とも云える作品である。 最後の「追憶のカシュガル」は春の嵐山を訪れた御手洗がサトルに語る、中央アジアに位置するウイグル族の街カシュガルで出逢ったある老人の話だ。 路傍の賢者とも云うべき風貌と学識を備えた浮浪者。しかし町の人々は彼を無視し、彼の歩く周囲から遠ざかる。そこには老人が悔やんで悔やみきれない若き日の過ちがあったからだ。 カシュガルと云う数々の民族によって侵略され、数々の民族が混在して世界侵略の要となった都市ゆえに時代の流れに翻弄された男の悔恨の物語だ。 日本の古都京都はその永き歴史ゆえに様々な言い伝えや伝承が今なお息づいており、点在する名所や史跡にはそれらが成り立った理由や逸話が残っている。 そんな古都にまさか御手洗潔が住んでいたとはミタライアンでも驚愕の事実であっただろう。しかも京大の医学部出身だったとは。 横浜の馬車道を住処にしていた御手洗が関西ならば神戸辺りが適所だと思うが、京都とは意外だった。そんな京大時代に御手洗は休学し、海外放浪をしていた。そして京大を目指す予備校生サトルを相手にその時に出遭った人々の話を始めるというのがこの連作短編集だ。 島田氏の物語作家としての手腕はいささかも衰えていない。 一軒だけ異世界のように存在するアメリカの雰囲気を湛えたスナックがある寒々しい日本海の漁師町の風景、イギリスのある都市に住む知的障害者を子に持つ親子を取り巻く街の社会事情、戦時下の日本に夢と希望を抱いて日本に渡った朝鮮人兄弟が辿った苦難の日々、そして最後は浮浪者として町の人々に忌み嫌われるようになった老人の過ちなど、実に心に痛く響く物語が収められている。 同じような経験をしたことがないのに、それぞれの物語の主人公の心象風景色鮮やかに眼前に繰り広げられるのはこの作家の筆力の凄さだろう。 そして特徴的なのは御手洗潔の短編集でありながら本書では御手洗潔は推理をしない。つまりミステリとしての謎はなく、御手洗はあくまで彼が海外放浪中に出逢った人々から聞かされた話をサトルに語るだけなのだ。 謎を解かない御手洗の姿がここにある。 しかしこれら彼が経験した出逢いは御手洗にとって人間を知る、歪んだ社会の構図を知る、そして島国日本に留まっているだけでは理解しえないそれぞれの世界のルールを知り、その後快刀乱麻の活躍ぶりを発揮する名探偵としての素地を形成するための通過儀式のように思える。社会的弱者に対する優しき眼差しはこの放浪で培ったものなのだ。 強い道徳心が差別を生む。 息子が知的障害者と知ってショックで子育てを放棄し、失踪する親がいる。 知的障害者というだけでスポーツ選手の代表になることを嫌う社会がある。 移民というだけで迫害する社会がある。 一見平和だと思える現代の裏には実はこのような昏い時代があったのだ。 今や社会は弱者に対して優しくなったと思う。バリアフリーは進み、知的障害者に対する理解も増え、学校では支援学級が必ず存在するようになった。 また外国人への規制も緩くなりつつあるし、さらにはトランスジェンダーへの理解も広がり、性同一障害者がテレビをにぎわすほどにもなった。 しかしそんな社会もかつて虐げられた人々の犠牲の上にごく最近になって築かれてきた理解の賜物であることを忘れてはならない。この御手洗潔が語る弱者への容赦ない仕打ちこそがほんの10年位前にはまだ蔓延っていたのだ。 本書は御手洗の海外放浪記であるとともに世界の歴史の暗部を書き留めておく物語でもある。 人間の卑しさを知った御手洗がその後弱者の為に奔走する騎士となる、そんなルーツが知れるだけでもファンにとっては読み逃してはならない作品集だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『片腕をなくした男』から始まる三部作の完結編である本書は相変わらずそれぞれの部門長の椅子の安泰と自らの進退を賭けたディベート合戦で幕が開く。
しかし前作『顔をなくした男』から3年弱も経っているので正直どんな話だったのかは失念していた。 しかしそこは筆巧者のフリーマントル。前作でチャーリー・マフィンがロシアの空港で撃たれるというスキャンダルを利用して危機管理委員会を開き、そこで議長の口を通して今までの事件のおさらいをしてくれる。 事件の発端となったモスクワ駐在イギリス大使館構内で発見された身元不明の片腕の死体。その事件の捜査のため、チャーリー・マフィンがロシアに派遣され、見事解決するが、一方で同時期に行われていたロシア大統領選挙で立候補していたステパン・ルヴォフ候補が実はCIAのスパイとされながら実はロシア側の二重スパイだったこともチャーリーは暴露してしまう。つまり片腕の死体の正体がルヴォフがKGB時代の同僚であり、彼がCIAに情報を提供しようとしたために抹殺されたのだが、ロシアはその秘密を暴かれる前にルヴォフの恋人と名乗るイレーナ・ノヴィコワという女性スパイを送り込み、陽動しようとした。 しかしそれをチャーリーが看破し、彼女は陽動の為ロンドンに送り込まれながらアメリカ側に移ることを選択し、CIAの手に渡る。しかしイギリスはロシア連邦保安局副長官という大物マクシム・ラドツィッチを亡命させ、手中に入れることに成功する。 しかしチャーリーは一方で妻のナターリヤ・フェドーワと娘のサーシャをイギリスへ亡命させるため、ラドツィッチの亡命を陽動作戦に使うが、ラドツィッチ亡命をなんとしても成功させようとするMI5部長ジェラルド・モンズフォードの陰謀によって暗殺させられそうとなり、凶弾に倒れる。 ただしこれら複雑な様相を呈する一連の事件の真相が解る3部作の完結編という重要な位置にある作品にしては実に動きのない話である。何しろ展開されるのはまず亡命したマキシム・ラドツィッチへのMI6による尋問と同じく亡命したイレーナ・ノヴィコワに対するCIAによる尋問、そしてナターリヤ・フェドーワに対するMI5からの尋問、そしてロシアに拘束されたチャーリーのロシア連邦保安局による尋問、そして英国官房長官アーチボルト・ブランドを議長にする危機管理委員会におけるMI5部長オーブリー・スミスとMI6部長ジェラルド・モンズフォードを中心としたそれぞれの立場と自尊心を賭けたディベート合戦なのだ。 まず尋問シーンではそれぞれの尋問者が有効な手掛かりと情報を被尋問者から訊き出すための試行錯誤、手練手管が繰り広げられるが、被尋問者は自分の立場を有利に保つためにやすやすと情報開示しないため、延々と同じようなシーンが繰り返される。 また危機管理委員会も同じく日常的にいがみ合っているMI5とMI6との駆引きに終始紙幅が費やされる。特にチャーリー暗殺を企て、未遂と云う失敗に終わったモンズフォードはその事実を露見させないよう嘘八百を並べ、時に有意に立ち、時に八方ふさがりの状況に陥る、その繰り返しだ。 しかしやはり三部作の最後を飾る本書はそんな退屈なシーンを我慢するに値するサプライズが待ち受けている。下巻の230ページで明かされる衝撃の一行。 そこからの展開はまさに怒涛。五里霧中状態で暗中模索しながらチャーリー・マフィンをいかに救出する方策を決めあぐねていたイギリスの危機管理委員会がFBIとCIAと共同戦線を敷いてロシア側を欺こうと奮起する。 尊大に振舞っていたラドツィッチとFBIの尋問官を手玉に取っていたイレーナは一人の凄腕尋問官の軍門に下っていく。 その尋問官の名はジョー・グッディ。下巻の後半で登場しながらも堅牢なロシア側スパイの防御を切り崩し、ひれ伏せさせる尋問のプロ中のプロ。彼の登場で一気に物語が加速する。 その爽快さはそれまでの実に退屈な物語を我慢してきた甲斐があったと十分思わせるほどの物だった。 さらにチャーリーが解放された後の振舞いもまたチャーリー・マフィンと云う男の深さを改めて再認識させられる。 通常ならば監禁生活を強いられた者ならば解放される否や何をさし措いても家族と会うものではないだろうか。しかし完璧無比な諜報員であるチャーリーはその実に人間的な感情を敵国ロシアが利用していることを察して敢えてそれを味方にも悟られずに振舞う。それは彼の体内に追跡装置が埋め込まれていたからだ。チャーリーがそれを確信するシーンもさりげなく物語に溶け込ませているのだから、フリーマントルという作家の筆巧者ぶりには畏れ入る。 そしてナターリヤの過剰な疑心暗鬼ぶりも最後の最後でその真意が明かされる。 ただし、それでも小説全体の評価は傑作とまではいかなかった。それはやはり前述したように物語自体が全体的に動きに乏しかったこともそうだが、今回の訳は日本語として体を成していない文章がところどころ目立ったことも大きな一因である。 訳者は昨今のフリーマントル作品の訳を担当している戸田裕之氏なのだが、中学生や高校生が教科書に書かれた構文をそのまま訳しているような、実に解りにくい文章が散見させられた。例えば次のような文章だ。 (前略)いまは拒否している大使館との面会と、どうしても必要となる導きを得ることが出来るかもしれない。 あなたがわたしたちに協力し、あなたが心を開いて話してくれているとわたしたちが示すことが出来るかもしれない本当の何かを私たちに提供してくれ、(後略) こんな実に読みにくい文章が続くのだ。しかも上の2つの文章は登場人物たちの独白である。 こんな言葉を話す人などいやしない。行間を読むような話し方をするインテリジェンスに携わる人々の特殊な会話を表現する意図があったのかもしれないが、このような文章では決して成功しているとは云えないだろう。 例えば私ならば上の文章は次のように訳す。 (前略)いまは大使館との面会は拒否しているが、いずれ必要となるきっかけが得られるかもしれない。 あなたがわたしたちに協力し、信用して話しているという確証めいた物が得られれば、(後略) 原文がどう書かれているかは知らないが、せめて日本語として文章を書くのであれば作者の意図する内容を噛み砕いてほしいものだ。 しかし最後の最後まですっきりとしない物語だ。 諜報活動には終わりがない。常に騙し騙されるかの戦いだ。結局本書でも何が本当で何が虚構なのか解らないまま物語は閉じられる。 私はこの三部作こそが長きに亘って書かれたチャーリー・マフィンシリーズの終幕として著された作品と思われたが、どうやらそうではないらしい。 窓際の凄腕スパイ、チャーリー・マフィンを世界は必要としている。“Show Must Go On.” ▼以下、ネタバレ感想 |
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『倒錯三部作』の掉尾を飾る本書では2人組のレイプ・キラーをマットが見つけ出す物語。レバノン系の麻薬ディーラー、キーナン・クーリーの妻フランシーンを誘拐し、40万ドルの身代金をせしめた後、バラバラ死体として送り返した倒錯者だ。
彼らは常習犯で過去に起こした事件も凄惨を極めている。マリー・ゴテスキンドという女性は度重なる性暴行を受けた後、無数の致命傷となる刺し傷を受け、切断された指を膣と直腸に突っ込まれた状態で発見された。 レイラ・アルヴァレスという女性は切られた指を尻に突っ込まれ、おまけに乳房を切り取られていた。 そしてこの悪魔の2人組から唯一生きて逃れたパム・キャシディも片方の乳房を切除されるという残酷極まりない仕打ちを受ける。 そんな陰惨な事件に今回は前回登場したスラムに住む少年TJが大活躍する。電話会社から公衆電話の番号を訊き出す方法だったり、ジミー・ホングとデイヴィッド・キングという凄腕ハッカーを紹介して犯人の行動範囲を限定したりとする。 特に次の誘拐事件が起きた時には犯人の顔と車のナンバーを抑えるなど八面六臂の活躍を遂げる。 正直前作に登場した時はただの小生意気なスラムの少年だとしか思えなかったが、この活躍で一気に彼が好きになった―特に400ページのTJの台詞はこの暗鬱な物語の中で思わず笑い声を挙げたほど爽快な一言だ―。 今回ミック・バルーは警察からの嫌疑を免れるため、アイルランドに逃亡中で不在であったため、物語の面白味が薄れるかと思いきや、TJがその代役を果たしてくれた。 マット・スカダーを取り巻く世界はますます濃厚になっていく。 これら三部作で語られる事件は魂が震え上がる残酷な事件ばかりだ。従って事件も展開もアクティブになっていく。 私は『墓場への切符』の感想で“静”のスカダーから“動”のスカダーに切り替わったと述べたが、それはただ人に便宜を図る程度の捜査ではこれら社会に蔓延る強烈な悪意の塊のような輩には到底立ち向かえないからだ。だからこそマットも動き、人と人との間を歩くのではなく、駆けずり回らなくてはならない。特に本書ではハッカーを使ってまで犯人の行動を摑んでいく。これは以前のスカダーシリーズでは全く考えられなかったことだ。 そしてもはやこれほどまでに強大な悪には1人の力では立ち向かえない。前作ではミック・バルーと云う犯罪者の力を借りて敵を討った。そして今回は麻薬ディーラーの持つ闇の繋がりを以て敵と相見える。 悪を以て悪を征する構図は本書でもまた引き継がれたのだ。 原題の“A Walk Among The Tombstones”とは即ちマット達被害者である悪党たちの混成チームがこの2人組と対峙する場面を表したものである。それはさながら西部劇に見られるガンマンたちの決闘シーンを髣髴させる。 しかし決定的に違うのは西部劇では悪党たちが金や町の支配権を握りたいという比較的単純な動機を持っているのに対し、発表当時の20世紀ではもはや理解し難い動機を持った怪物となっていることだ。 快楽殺人主義者である彼らのうち、首謀者であるレイモンド・カランダーはマットがこんな殺人を繰り返すのかと云う問いに次のように答える。 彼らにとって女と云う物は己の欲望を満たす存在にすぎず、おもちゃなのだ。従って彼らの手中に陥った時はもはや人間ではなく、単なる肉塊に過ぎないのだ、と。 こんな考えを持つ人間が実際に存在する世の中はもはや狂ってしまっている。“狂気の90年代”とはクーンツが当時盛んに取り上げたテーマだったが、1992年に書かれた本書もまた同じだ。 『倒錯三部作』とは時代が書かせた作品群だったのだろう。 もはや一人で生きていくのが危険になった時代に見せた一筋の光明。それは長らく独り身だったマットがついにエレインと結婚する決意を打ち明けることだ。 離婚の後、連れ合いを求めることなどなかったマットの前に現れたジャン・キーンという女性と『八百万の死にざま』で別れて、しかもアルコールとも訣別して以来、マットの傍にいたのはエレイン・マーデルだった。彼女はシリーズの最初からいたが、マットの物語が進むにつれて疎遠になっていた。しかし『墓場への切符』でエレインに訪れた災禍を機にマットとエレインは急接近していく。 私はこれら3作が『倒錯三部作』と日本の書評家たちが勝手に名付けたことがどこか心に引っかかっていたが、それはこれらの3作品が性倒錯者による陰惨な犯罪にマットが立ち向かう作品群であり、個の戦いから仲間と巨悪との戦いへの変遷であると書いてきた。しかし本書を読んでからはエレインとの再会で始まり、エレインへのプロポーズで終わる三部作でもあるのだと気付かされた。 全ては地続きで繋がっている。このマット・スカダーシリーズを読むとその感慨が一層強くなる。 1作目から読んできたからこそ味わえるマットに訪れた安寧を我が事のように思いながらしばし余韻に浸りたい、そんな気分だ。 |
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北上次郎氏の『冒険小説論』によればマクリーンは冒険小説に謎解きの要素を加えた作家であるとのこと。
確かにそうだが、以前から感想で述べていたようにマクリーンは読者をいきなり物語の渦中に投じ、人物背景や設定などを一切語らずにストーリーを進め、それら自体が謎となっているため、開巻してしばらくは非常にすわりの悪い読書を強いられるが、本書もまたその手法に則って書かれているおり、ジプシーのキャラバン隊の指揮者チェルダが一員のアレクサンドルを追跡の末、殺害する顛末が描かれるプロローグはこのチェルダという男がただの巡礼者でなく、ある秘密の目的を持っていることが分かるものの、いきなり彼らジプシーたちに命を狙われることになるネイル・ボーマンの逃走劇に何の前知識もないまま付き合わされることになる。 その逃走劇自体は非常に映像的でわかりやすく、なおかつスリリングであるのだが、やはり物語の前置きがなく、状況がよく解らないままに進むため、なんとも居心地の悪い思いをしながらの読書となった。 まず主人公のネイル・ボーマンだが登場シーンでは親が遺した数億という財産で何不自由なく生活している有閑人であると紹介されるが、滞在地に訪れたジプシーたちに接触したことでいきなりジプシーたちに命を狙われることになる。 彼がジプシーと接触したのは暇を持て余した金持ちの余計なおせっかいにすぎないのか、それとも有閑人を隠れ蓑にした秘密組織のエージェントなのかはページに至るまで判明しない。したがって読者はそれまではボーマンを自らトラブルに首を突っ込む世間知らずの道楽息子のようにしか見えない。つまり彼が巻き込まれるトラブルは彼が行った余計なお世話で自ら招いた災いである―実際登場人物の1人セシル・デュボアのそのように揶揄する―ため、軽薄かつ軽率な男として映り、なかなか彼に共感を覚える読者はいないのではないだろうか。 しかし読む進めるうちに彼がどこかのエージェントのようであり、そして軽口を叩きながらも正義を重んじる性格であることが解ってくる。つまり道楽者は仮初めの姿であり、キャラバン隊の指揮者チェルダが秘密裏に行っている事を探るために派遣されたようだ。 彼が美女の相棒セシル・デュボアとこの悪徳キャラバンの企みを阻止しようとするのだが、時に彼はセシルに結婚することを仄めかしながら、その実セシルがその気になると一線を引いて自分が冷酷な人間であることを示し、距離を置こうとする。軽薄な仮面の下には卑劣な行為を断じて許さない強い芯を持った意志が潜んでいるのだ。 そしてこの物語で最もキャラが立っているのは自称ジプシー研究家のクロワトール公爵なる人物。大食漢の巨躯と怪力を誇る偉丈夫で、ボーマンを落ちぶれたボクサー紛いの男と揶揄し、歯牙にもかけず、どんな脅しにも状況の変化にも動じない太い肝を持つ。なぜかジプシーたちに同行する彼がいったい何者なのかも物語の大きなキーだ。 さて彼らの標的であるジプシーキャラバン隊の指揮者チェルダは秘密を守るためには命を奪う事も、若い娘の背中の皮を剥ぐことも厭わない残虐な性格の持ち主だが、物語では心底の悪人のようには見えない。 まずは彼らのボスとして振舞っているクロワトール公爵の押しの強い性格に翻弄されて、ほとんど顎で使われているようになっていること。また秘密を守るために部下たちを連れてボーマンを亡き者にしようと執拗に追いかけるが、いつも出し抜かれ、そのたびに部下が返り討ちに遭って大怪我を負っていくことで、どこか憎めないドジな悪役のようなイメージになってしまうからだ。 そんな彼らが人を殺めてまで守ろうとした秘密の任務はまさに冷戦時代の作品だからこその真相である。 また本書で特徴的なのはヒロインが2人もいることだ。 まずは旅先でボーマンと知り合った美女セシル・デュボア。彼女は美しさと機転の速さを武器にボーマンの無理難題をこなし、立派なパートナー役を務めあげる。 もう1人はクロワトール公爵に気に入られ、彼のジプシー研究に同行する事になったリラ・デラフォントだ。 彼女は豪胆な公爵に翻弄されながらもなぜか愛想をつかずに同行する。 今ではマクリーンは『ナヴァロンの嵐』を最後に、作品の質は下り坂を辿り、後期の作品には読むべき物はないとされている。 北上次郎氏は前掲の評論で自身の作風に固執して時代の流れに乗りきれなかった作家として切り捨てている。 特に冷戦の緊張緩和、CIAのスキャンダル発覚でもはやスパイやエージェントがヒーローで無くなった時代になってもなおエージェントを描いて空回りしているのがまさにこの頃のマクリーンで、確かに本書も当時の時代背景を考えると一種お伽噺のような感がしないでもない。 しかしそれでもなお絶壁での逃走劇に荒ぶる巨牛との闘牛シーン、さらにはボートによる海上での戦いなど随所に盛り込まれるアクションシーンの迫真性はやはりこの作家ならではのりアリティに溢れている。 終わった作家とされていたマクリーンの以後の作品を冒険小説界に新風を巻き起こした作家としてではなく、1人の冒険小説家として今後の作品を読んでみることでその中にある宝石を探ってみたいと思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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S&Mシリーズ5作目の本書ではまたもや密室殺人と1つのパズルが謎として提示される。密室殺人は過去と現代に起きた全く同じシチュエーション。
過去の密室は昭和24年に起きた蔵の中で死んだ仏画家の死。明らかに自殺と思われたが狂気が見つからなかったという物。 もう1つの密室は密室状態から消えた仏画家が近くの橋の下で遺体となって発見されるという物。密室状態から開け放たれた部屋では大量の血痕が発見されていた。しかも凶器は昔の事件と同じく凶器は見つからなかった。 なぜ蔵は閉じられていたのか? なぜ被害者は河原で見つかったのか? その2つの密室に共通するのは「無我の匣」という鍵の掛かった箱と「天地の瓢」という入口よりも大きな鍵の入った壺。1つのパズルとは、どうやってこの壺に鍵を入れたのかという謎だ。 これらの謎の解答はなかなかに興味深い内容だった。 しかし壺の中の鍵のトリックはそれで論理的に合っているとはいえ、実現の可能性としてはこれまた首を傾げざるを得ない。 しかしながらやはりこの西之園萌絵というキャラクターがどうしても好きになれない。 叔父が愛知県警の刑事本部長と云う地位を利用して他人の殺人事件に土足でずかずかと入り込んでくる無神経さがどうも気に入らない。いや押しなべてミステリに登場する探偵とはそのような物だが、西之園萌絵の場合は本部長の叔父が快く思っていないのにこそこそと事件に関わってくること、自分の容姿が他人の目を惹くことを知っているため、それを利用して事件に介入すること。 これが相性と云う物なのか。 シリーズを追うごとに作品のページ数は増えていくが、それが謎の複雑さに起因しているかと云えばそうではない。 その内容は探偵役である犀川が事件の解決に積極的でないため、西之園萌絵の試行錯誤に付き合わされているだけなのだ。 そのため事件が発生してから季節は移ろい、大学はセンター試験や研究室選びなどの行事を迎える。さらには犀川と萌絵の妙なラヴコメも挿まれていたりと何とも間延びした感は否めない。ファンならばこの辺の2人の間の進展は物語のアクセントとして愉しめるのかもしれないが、上に書いたようにどうにも相性が合わない当方にとっては苦痛以外何物でもない。 シリーズも5作目になって萌絵が不治の病に罹っており、それが契機で犀川が萌絵との結婚を決意するなど、シリーズのターニング・ポイントとなる物語かと思われたが、それは単なる世間知らずのお嬢様の悪意ある悪戯だったという脱力感溢れる物だったり、謎とトリックの真相が実に魅力的なのに、被害者の動機が非常に曖昧だったりと失望が禁じ得ない作品であった。 しかし本書の題名は実に優れている。邦題の『封印再度』は過去に起きた密室事件が現代に起こる意味と壺の中から取り出された鍵とそれによって開けられた箱は再び封印されたという二重の意味があり、更には英題の“Who Inside”は橋の下で死体となって発見された林水の部屋に、ではいったい誰がいたのかと謎の核心をついている。 同じ発音をしながら意味は違えどどちらも物語の本質をついているまさに見事な題名。言葉の魔術師だなぁ、森博嗣は。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『墓場への切符』に続く『倒錯三部作』の第2作。
前作ではマットとエレインがかつて刑務所に送り込んでいた殺人鬼との決闘を描いたが、本書ではスナッフ・フィルム、即ち殺人の一部始終を映したポルノフィルムが扱われている。その内容も過激で思わず怖気を震ってしまった。 それまでしっとりと町の片隅で生きる人々に起こった警察にとっても捜査する価値のない社会の落伍者たちの死や人捜しを描いてきたシリーズが一転して殺人鬼と対決したり、殺人を映したフィルムとディープな世界に入ったりと動のシリーズに変わったのがこの『倒錯三部作』と云われる所以だ。 事件は2つ。 1つは妻を強盗によって殺されたリチャード・サーマンが計画的に妻を殺害したとしてその妻の兄から事件の真相を突き止めることを依頼される。 もう1つはAAの集会のメンバー、ウィル・ハーバマンから渡されたビデオテープに収録されていたスナッフ・フィルムの犯人を、そのリチャード・サーマンが主催したボクシングの試合で見かけたことから探し求める。 そしてこの2つの事件は繋がる。それもとてもおぞましい内容を伴って。 とにかくこのスナッフ・フィルムの犯人バーゲン・ステットナーとその妻オルガの造形が凄まじい。世の中にこれほどまで人格が捻じ曲がった夫婦がいるのかと思えるほど、理解し難い人物だ。 自分の欲望と快楽の追究のため、少年や娘をさらっては強姦して殺害し、普通の夫婦をスワッピングし、倒錯した性の世界へ誘い、それまでの価値観を、常識を失くさせていく。彼ら2人の取り込まれた者は背徳の世界にのめり込み、禁忌の興奮を得、エクスタシーを求め狂うようになるのだ。 こんな世界をブロックはマット・スカダーの叙情的で淡々とした筆致で描いてなお、読者の心の奥底に冷たい恐怖を植え付けていくのだから畏れ入る。 そしてとにもかくにもマット・スカダーの世界は実に円熟味が増してきている。『聖なる酒場の挽歌』で登場した殺し屋ミック・バルーはもはやマットの相棒であり、なくてはならない存在だ。 そして『八百万の死にざま』で登場したコールガールの元締めチャンスも本書で再登場し、ますます広がりを見せている。それは恰も我々読者がマット・スカダーであり、彼の世界の広がりを自身のそれと重ねあわせているかのように錯覚してしまうほど、鮮やかだ。 それを象徴するのが物語の中盤、13章のミックとマットとの会話だ。延々33ページに亘って繰り広げられる一夜の語り合いは実は物語には全く関係がないことばかりが2人の間で取り交わされる。 しかしこれはこの物語にとって必要であった語らいなのだ。 殺し屋と元警官という奇妙な関係がその親交をさらに深め合うために、そしてこのシリーズが更なる深みと奥行きを増していく。2人がそれまでの人生に経験した数々のエピソードは即ち2人それぞれの流儀を我々読者の心にじんわりと浸透させていく。 この章を読み終わった瞬間、我々の心にはミック・バルーという男とマット・スカダーという男が実存性をもって住み着いていることに気付かされる。 もはやこのシリーズを読むことは読者にとって行きつけの酒場に行くような、いつまで経っても変わらずにそこにあり続ける物語であり、人たちとなったのだ。そしてこの実に芳醇な会話が物語の終盤にマットの取る行動原理に密接に結びついてくるのだから驚かされる。 バーゲン・ステットナーという快楽殺人者を目の前にしながらも、警察が司法の手に委ねることのできないことを知ってとうとうマットは一線を超える。彼は法で裁かれない悪人を自らの手で裁くため、ミック・バルーと組み、この倒錯者と対峙する。 しかしなんとも息苦しい世の中になったものである。罪なき者を冤罪から守るために作られた法律が罪深き者を裁きから守るために壁となって立ちはだかる。 人々が安心して暮らしていけるように整備された法がいつしかそれぞれの正しいことを成すために障壁となっている、この社会の矛盾。 この認めざるを得ない暗鬱な現実が己の正義を貫こうとするマットに一線を超えさせた。法が悪を裁かないなら、逆に法を上手く逃れている者たちと組んで自分の法の執行者になろう、と。 この決断をマットは酒に溺れることなく、素面で下したところに驚愕がある。 ここで今までのシリーズを振り返ってみると、『聖なる酒場の挽歌』までのマットは依頼者の災いの種を頼まれるがままに探り、問題を解決してきた。時には己の正義に従って鉄槌を下すこともあったが、それはあくまで彼が関わってきた他者のためだ。またそれらは依頼者の過去に向き合い、忘れ去られようとしている事実を掘り起こして白日の下に曝す行為であった。それはまた物語に謎解きの妙味を与え、意外な犯人、意外な真相と云ったミステリ趣向も加味されていた。 そして前作『墓場への切符』では一転して彼の過去の亡霊が現代に甦って自身とエレインに立ち塞がり、それを打破するために立ち向かう物語だった。 つまり彼自身の事件であり、彼を取り巻く世界に現れた脅威との戦いの物語だった。従ってそれまでとは違い、敵は明確であり、物語はどのようにマットが決着を着けるのかが焦点となった。 そして本書はそれまでのシリーズの持ち味を合わせた内容となっている。過去に見たスナッフ・フィルムが今マットが依頼された事件と交錯し、意外な像を描く。そして彼の眼の前に明確な敵が現れ、マットはそれと対峙していく。 しかしこの敵はマット個人とはなんら関係がない。むしろ関わりを持たずに暮らすことも全く可能だった。しかしマットはたまたまAAの集会のメンバーから渡されたビデオテープで見てはならない社会の醜悪な病理を知ってしまい、その根源と出遭ってしまったことで、無視できなくなってしまった。そう、本書でマットが向き合った相手は複雑化する社会が生み出したサイコパスだったのだ。 この社会の敵に対してマットは最後、次のように吐露する。 世界を善人と悪人に分けたら、彼は悪人の部類にはいるだろう。しかし、そもそも世界を善と悪とに分けることが出来るかどうか―私も昔はできたよ。でも今はそれが昔よりずっと難しくなった もはや法でさえ裁くことのできなくなった一見善人と見えるシリアル・キラーを目に前にしてマットはミック・バルーと云う悪人の手を借りる。もはや彼個人では解決できなく悪に対し、もう1つの悪を以て制裁を下すことにしたのだ。 自分の正義に従ってきたマットが本書で行き着いたのは社会で裁かれない悪を悪で以て征することだった。そしてマットは決して傍観者に留まらず、自らもその渦中に飛び込み、そして自身も手を血に染める。それは自身の正義の為に友人のミックだけを血に塗れさせないために彼が選んだ行為だった。 このようにマット・スカダーシリーズは作を追うごとに新たなる試みと進化と深化を遂げていく。 『八百万の死にざま』でアル中探偵マットが酒を止めるという大きな変化に到達し、その後マットの古き良き時代の物語『聖なる酒場の挽歌』を経て、シリアル・キラーとの対決と云う新たなる進化を遂げた『墓場への切符』をさらに本書で越えてみせたブロック。 1作ごとに新たなる高みに向かうこのシリーズが次にどこに向かうのか、その答えが本書の最後の1行にある。これこそ作者自身にも解らないほどの物語を紡いでしまった感慨の表れだろう。 しかし幸いなことに我々はこの後もなおシリーズが進化していくのを知っている。私はローレンス・ブロックと云う作家の凄みを目の当たりにして歓喜に震える自分を感じている。 さて三部作の最終作『獣たちの墓』でどんな物語を見せてくれるのだろうか。とても愉しみでたまらない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野作品が次々とドラマ化、映画化されているのは昨今の流れだが、通常ならば文庫化になってから映像化されるのが常だったのに対し、本書は単行本刊行直後に連続ドラマ化されたのが驚きだった。
つまりはそれほどストーリーがドラマチックであることを示しているのだろうが、開巻してすぐにそれもなるほどと思った。 まず幼い3兄妹の親に内緒で流星群を見に行き、雨の中、寝てしまった幼き妹をおんぶして帰る兄が家で観た凄惨な両親惨殺の風景。警察の捜査が描かれ、迷宮入りのまま、数年が流れ、兄妹は成長し、なんと詐欺グループになってお金を騙し取っていた、という導入部としては実に申し分ないドラマの1話目だ。ドラマを観ていなくてもその映像が目に浮かぶようだ。 幼き頃に両親を殺され、児童養護施設に入れられた男2人女1人の三人兄妹たちが誓ったのは犯人を見つけた時に自らの手で殺すこと。 これだけならば凡百の復讐劇に過ぎないが、東野氏はそこに妹があろうことか復讐のターゲットの息子に惚れてしまうというアクセントを加える。 さらには事件が起きる前、主人公たちの両親が借金をしていた節があり、口座から200万が引き出されていたこと、そして妻の塔子が事件前日の昼間に図書館で目撃されていたこと、4年前に摘発された横浜のノミ屋の名簿に功一たちの父親の名があったこと、さらには実は有明家は入籍しておらず、両親は内縁の関係であったことなど色々と不可解な事を挟みつつ、小さな洋食屋を営んでいた気の良い夫婦の実像にミステリアスな風味を加えている。 またストーリーは単純ではあるが、プロットは実に用意周到だ。 特に唸らされたのは功一たちの生業が詐欺師であることだ。これが実に効果的に物語に働きかけている。即ち両親を殺した真犯人と思える戸神に近づいたのはそもそも偽の宝石を売り付けて1千万もの大金をせしめるためで、戸神政行を14年前の事件の犯人だと通報すれば自分たちの詐欺行為も捜査線上に上がってくる危険性が高い。従って主人公の3人は容易に警察に協力を求められないのだ。 この辺の必然性は実に上手い。 しかしこれほどまでに緊密なストーリー展開を見せながらも、唯一腑に落ちない点があった。それは功一たちの両親を殺害した犯人の捜査で近くのコンビニに訊き込みをするシーン。商売の邪魔だと疎ましく感じている店長に当日の防犯カメラのテープを借りることを全く申し出ないのだ。 その後も泰輔の目撃証言で作成した似顔絵を持って聞き込みをするものの、一切防犯カメラには触れない。これは明らかにおかしい。 『使命と魂のリミット』でも病院の受付用紙の中に犯人のメッセージが潜り込んでいたシーンでも当然大病院にあるであろう防犯カメラについては一切触れなかった。防犯カメラは東野ミステリ世界では存在しないかのようだ。一工夫理由を考えればクリアできると思うのだが、どうしてだろうか? 物語の約1/3の辺り、泰輔が幼き頃に見た犯人を戸神政行だと視認した後の物語の疾走感は半端ではなかった。 積年の恨みを晴らすために3人兄弟のブレイン功一が策を練り、カメレオン俳優の泰輔と静奈がそれを演じ、接近していくがなかなか上手く進まない展開に忸怩たる思いを抱きながらも、先の読めない展開にハラハラし通しだった。詰将棋のように戸神を犯人に仕立てるために仕掛けを施していく3人兄弟のマジックが、静奈の魅力に盲目的になったと思われた戸神行成が突然静奈に詰問する側に転じる521ページ辺りからはまさに怒涛の展開だ。 そして戸神行成が功一たちの味方になると、読者はまさに東野氏の掌の上で踊らされるだけになってしまう。 それだけに事件の真相が悔やまれる。 しかし本書はかつて功一らの両親を殺害した犯人を突き止める事が主題ではない。 また有明3兄妹がいかにして犯人を逮捕させるかを綴ったものでもない。 本書は異父兄妹の絆の強さを描いた物語なのだ。 血の繋がっていない妹を2人の兄がいかに大切に育ててきたかを知る、絆の物語なのだ。だからこそ本書の結末は東野作品には珍しく悲劇的ではなく、ハッピーエンドになっているのだ。 人に騙して辛酸を舐めてきた兄妹が、人を騙す側に回って大金を得るようになったが、心底善人である戸神行成という男1人のためにそれらが瓦解してしまった。 しかしそれは間違いなくいい意味での瓦解だ。 罪を償い、まっさらな心と体になった有明3兄妹に本当の幸せが訪れるのはこれからだ。 こんなに爽快な読後感だからこそ、事件の真相と真犯人の始末の仕方が安易だったことが悔やまれてならない。 このあともう一歩感が私をしてこの渇きを癒すために次の東野作品へと駆り立てられるのである。全く困ったものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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作戦チームの中に裏切者、いやもしくはナチのスパイがいる!疑心暗鬼の中、極寒の地での救出作戦は続いていく。
難攻不落の要塞への進入行と云えばやはり『ナヴァロンの要塞』を思い起こさずにはいられないだろう。再びマクリーンが極寒の地にある要塞を舞台にした物語は拉致されたアメリカ高官の救出劇。 作者も『ナヴァロンの要塞』との区別をつけるために色んな特色を出している。 まず物語の目的は『ナヴァロンの要塞』が巨大な砲台の破壊だったのに対し、本書は上に書いたような救出劇であり、しかも『ナヴァロンの要塞』が男ばかりのチームだったのに対し、本書は女性のメンバーも加えていることが目新しい。 さらに吹雪の中でケーブルカーの屋根に捕まって要塞に潜入したり、また同様に敵と戦かったり、さらにはバスで豪快に脱出したりとまあ、何とも映画化を意識した作りになっている。 さてそんな物語はとにかく瀕死の状況で頑なに愚直なまでに任務を遂行していく『ナヴァロンの要塞』のようなストイックさもあるのだが、それらは寧ろ色を潜めており、スミス少佐の謎めいた思惑が秘められたまま、進行する。 後期のマクリーン作品は評論家によればスパイ・冒険小説と謎解きの融合が特徴であるらしく、唐突に物語が始まり、主人公の意図、目的が示されないまま、進行し、中盤以降でようやく主人公の意図が見えてくるという趣向もまたミステリの様式を汲んだものとして捉えられるが、今まで書いてきたように、個人的には成功しているように思えず、手放しで評価できなかった。 しかし本書の前に読んだ『北極基地/潜航作戦』は特にその色合いが濃く、前半は極寒の地での潜入劇、後半は潜水艦内で起きる連続殺人の犯人を突き止めるという本格ミステリのテイストが盛り込まれていた。 本書はその流れに沿うような形で、極寒の山頂に聳え立つ難攻不落の要塞への潜入劇とその任務の中で起きる仲間の不審死の謎と構造は全く以て同じと云っていいだろう。 もはや第2期に差し掛かったと云えるマクリーン作品のそれぞれを一つのエンタテインメント作品としてまっさらな心で読むように心掛けていきたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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競争心。
それはお互いのプライドと克己心を育て、向上心を伸ばす。しかしそれが行き過ぎると斯くも歪んだ大人になってしまうのかをこの作品は思い知らせてくれる。 イタリア系移民の家族に育てられたユダヤ人エディ・フランクスとその家族の長男ニッキー・スカーゴウ、この2人のある原初体験が物語の軸となっている。 ナチスの、執拗なユダヤ人狩りからの逃亡生活の末、アメリカに流れ着いたアイザック・フランコヴィッチの息子エドマンド・フランコヴィッチはエディ・フランクスと名を変え、エンリコ・スカーゴウに引き取られて、彼の実息のニッキーと常に競わされ、比較されながら育てられた。そのため彼にはニッキーに対して拭いきれない劣等感を抱えており、いつか彼を見返してやるというのが彼の成功の原動力となった。 これはイタリア系民族の、父親が絶大なる権威を誇る典型的な家系ゆえの慣習なのだろうが、この原初体験が逆にエディとニッキーの生活を脅かす結果になる。 幼き頃は全てに上回るニッキーが疎ましく思っていたエディはイギリスで有数の投資家として成功する。一方ニッキーはニューヨークのウォール街を舞台に仕事をする法律事務所に勤める弁護士となっていた。 しかしニッキーは成功者であるエディに負い目を感じ、それが故にエディに犯罪の片棒を担がせることになってしまう。 つまり2人を競い合わすことで相乗効果を狙った父親の教育は、2人の少年期に歪んだ劣等感を抱かせることになったのだ。 そこからはそれぞれの出自、つまり民族性がお互いの方向性を二分する。 ナチスのユダヤ人狩りで逃げ惑いながらも、イギリスで諜報活動に身を置き、敵と戦った父を見て育ったエディはマフィアとの戦いに挑む。 一方、マフィアが政府を牛耳る腐敗政治の只中で育ったイタリア人であるニッキーとエンリコはマフィアの容赦ない報復を恐れ、全てをなかったことにして穏便に済まそうとする。 ある意味、それはそれぞれの身を置く社会、国民性においてどちらも正しい選択なのだろう。迫害の歴史の中で生き延びた民族とマフィアが政治を牛耳っており、彼らが法であることが常態化している民族の軋轢がこの家族のそれに繋がっている。 さてこのエディ・フランクスと云う男、全てを自分の眼で、耳で確認しないと信じない慎重な性格であり、しかも買収した会社は全て有限非公開会社として株式を後悔せず、妻と自身の名義とする、排他的な男だ。正直最初はなんとも魅力のない男だと映っていた。 しかしマフィアに彼の会社が乗っ取られようとしたときに彼が見せた男気は物語のヒーローとして実に相応しいものだった。 勿論私はエディを応援し、どのような展開が起きるのかを愉しみにしていたが、一方で皮肉屋のフリーマントルが何とも後味の悪い結末を用意していないかと不安にもなった。 その懸念通り、エディは正義感を発揮してマフィアたちに対してあらゆる対抗手段を講じるが全てが裏目に出てしまう。 ビジネス界の雄としてヨーロッパに名を馳せている男がFBI捜査官に協力したり、会社を解散させたりとその判断は間違っていないように思えるが、訴訟の世界になるとそれらが全てエディが犯罪に関与していたことを認めて、それを隠匿しようとした行為にしか見えなくなってしまう。 道徳的観点からすればエディの選択は決して間違っていないが、法律家たちからすれば、それらが全て隙のある行為であるのだから、法律の世界は実に恐ろしい。ここにブライアン・フリーマントルならではの意地の悪い皮肉があるのだ。 しかし彼らも長年の仇敵である悪徳マフィア3人組を司法の手によって罰する事を欲していた地方検事とFBIはエディに無罪放免を餌に協力を申し出る。しかしそれは証人保護プログラム(作中では証人保護計画と書かれており、訳者あとがきでは当時このシステムを知らなかったようだ)を適用して、フランクス一家に全く別人の人生を選ぶことを条件にしたものだった。 正直この内容には無理があるように思う。 アメリカの法律に詳しくないが、エディは世界でも有数の投資家であり実業家である。たとえ有罪となったとしても罰金を払って釈放されるのではないだろうか? またエディが巻き込まれた背景を鑑み、情状酌量の執行猶予付の判決もあり得るのではないだろうか? この辺が実に腑に落ちない展開だった。 さらにエディ・フランクスが正義を貫くために払った犠牲は多大な物だった。 このエディ・フランクスという男の精神構造は実に不思議だ。 私ならば連続する凶事に気も狂わんばかりになるだろうが、エディはむしろ情事に耽るのだ。これは彼の強さの源が家族の支え、とりわけ妻のタイナにあったのか? 有限非公開会社として常に会社を切り回してきた彼は全て自分の判断で経営を進め、自分で問題を解決してきた。役員たちは他会社と兼務する雇われ経営者に過ぎなく、経営に対する決定権や裁権を持たない。つまりかなりのワンマンである。だからこそ彼の拠り所は家族に、妻に在ったのか。 それは幼き頃にナチスにさらわれて行方知らずになった母の温もりを知らぬがゆえに育ったエディの母性への飢えなのかもしれない。従って一緒に危難を乗り越えようと誓った妻タイナがノイローゼで自分を批判するようになる一方で、既に未亡人となって、夫を喪ったマリアの強さと包み込むような慈しみが彼の拠り所になったのだろうか。 そして物語はクライマックスの法廷への戦いに向かう。エディと地方検事、FBIのチームは積年の敵であるパスカラ、デュークス、フラミーニを司法の裁きで有罪にできるのか。 この法廷シーンは結構手に汗握る展開であり、被告側の弁護士とフランクスとの討論シーンは法廷慣れした凄腕の彼らの弁舌にたじたじとなる一方、持ち前の度胸でフランクスがやり返すところなど、エンタテインメント性も高い。 本書が書かれた1987年とは奇しくも世に法廷小説という一ジャンルを築いたスコット・トゥローの『推定無罪』が発表された年である。もしかしたらフリーマントルは同書に触発されて本書を著したのかもしれない。 さて本書の狙いとは一体何だったのだろうか? 成功した実業家がいつの間にか犯罪者によって利用され、犯罪の片棒を担がされ、しかも巧妙に主犯者となってしまう、現代社会の恐ろしさか。 それとも犯罪に巻き込まれた成功者の家庭が海千山千の強者であるマフィアと孤独な戦いの望むことで色んな物を失いながらも勝利する姿か。 もしくは個人の都合などは巨悪を滅ぼすためにその命さえも利用される歪んだ正義とそれを執行する検察とFBIの底知れぬ恐ろしさか。 恐らくはそれら全てが狙いであり、上述の3つの狙いが下に行くにしたがって包み込んでいく重層的な構造を成していることだろう。 日本人ならば2番目の狙いを物語の結末に持って来てほろ苦い美談として終える事だろう。多分ネルソン・デミルも同様の結末を採るはずだ。 しかしこれはフリーマントルによる物語。やはり一筋縄ではいかなかった。 『ディーケンの戦い』然り、『暗殺者オファレルの原則』然り、『スパイよ さらば』然り。本書もそれら一連の作品の系譜に連なるものだろう。 しかし一方で『ネーム・ドロッパー』のような快作もあるのだから、ある意味ハッピーエンドこそがフリーマントル作品の意外な結末のようになってしまったようだ。 母国イギリスでは“スパイ小説界のルース・レンデル”と呼ばれていないのだろうか。 しかしため息が出る結末だ、本当に。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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S&Mシリーズ第4作目の本書もまた密室殺人を扱ったものだ。もしかしたらこのシリーズは密室殺人事件のみを扱っているのだろうか。
もしそうであるならばシリーズの専売特許とも云える密室の謎だが、本書では3つの密室殺人が発生し、そのうち2つの密室殺人は物語の冒頭でいきなり起きるのにも関わらず、なんと全12章で構成されている物語のわずか第3章でそのトリックは明らかになる。 そしてさらに3番目の密室殺人は学園祭真っただ中のN大学の実験室で起きる。半地下のコンクリート試験室でまたもや下着1枚着けた状態で女性の死体が見つかる。そして肌には「A」の文字とも読み取れる三角形が書かれていた。 さらには同室にあるコンクリートのノッチタンクから一連の事件の容疑者とされたN大学を退学になったロックミュージシャン結城稔の遺体が入っていたというもの。 3つの密室に4つの遺体。連続殺人事件として実に申し分ないボリュームに満ちている。 それらの物語を構成するのがN大学生でありながらロックミュージシャンとして名を馳せている結城稔。そしてその兄、寛は大学院生で西之園萌絵が所属するミステリ研のメンバーであり、さらにはS女子大の助手、杉東千佳と結婚している。さらに同じくN大学生でありながら結城稔のマネージャーをしている篠崎敏治が加わる。 そして本書では密室の謎がメインではない。先にも書いたように冒頭2つの密室は早々に解かれる。 本書のメインの謎とはこれら密室を作るための至極面倒な手順を何故犯人は行い、密室を形成したのか?だ。 そしてその謎の解は常人の理解を超えるものだった。 精密なパズルを見ているかのようなトリックとロジック。心地よい頭脳労働を強いられる内容だ。 さて本書では建築学科に所属する学生が関わる事件であるせいか、密室のトリックに建築の専門知識がふんだんに盛り込まれているのが特徴的だ。 特に大学の建築学科の教授である森氏によるこのミステリで描かれる建物が他のミステリとは一線を画しているのはやはり現行の建築基準法に則って建物が作図されているところだ。動線が考えられた部屋の配置に二方向避難を考慮したドアの配置など、今までの作品でもきちんと考えられていることが同業者として実に座り心地のいい思いがした。 そして本書では数多あるミステリに登場する建物や館の珍妙さを専門家の視点から嘆いているのが実に面白い。特に推理小説は建築基準法や消防法のない世界なのだと萌絵が吐露する件は思わず何度も頷いてしまった。 4作目の本書で世間に流布する密室ミステリに対する痛烈な皮肉が開陳されるようになったのはシリーズが世間に認められた故にようやく常日頃云いたいことを思い切って述べるようになったのからかもしれない。 そういう意味で考えれば本書における密室殺人は全て建築の知識を用いて成された物。つまりはきちんとした建築の知識があれば密室などはいとも簡単に作れるということを暗に示しているように感じた。建築業界にとっては至極当たり前のことを本書では素人相手に示したことに意義があるのだ。 さて今回も今までのシリーズ同様、西之園萌絵は自身のちょっと行き過ぎた行動故に危難に陥る。この展開ももはやシリーズの定番となってしまった。 敢えてこの定型を崩さない森氏はもしかしたら『水戸黄門』シリーズなどに見られる「偉大なるマンネリ」の信奉者なのかもしれない。 しかしそんな典型的なストーリー展開でありながらもシリーズとしてはやや進展が見られる。 本書の主人公の1人、西之園萌絵は叔父が県警本部長である特権を大いに利用して事件に介入し、人の生き死に対して哀惜や喪失感と云った通常の人間が見せる感情とは無縁に、死者と犯人、関係者を単なる駒としてみなさずに事件のトリックやロジックを嬉々として推理する、無神経で厚顔無恥ぶりを発揮していた。本書でもその傾向はまだ完全に拭えないものの、彼女の中で心境の変化が見られてくる。それは事件の捜査に夢中になるのは自分が事件に興味を持っているわけではなく、事件を解き明かすことで敬愛する犀川に認められたいという願望ゆえだったことに気付かされる。それは自分が犀川に子供のように甘えていただけだったことでもあった。 この辺はシリーズの読者ならば早々に気付いていただろうし、これゆえに私が西之園萌絵を好きになれないのだが、ようやく気付いたのかと思わず苦笑してしまった。 そして萌絵は犀川に認められるために大学院への道を目指すと決意する。学生と教授の関係、大人と子供の関係から脱しようと奮闘するそれが萌絵の決意だった。 果たしてこの後、2人の関係はどのように展開していくのか。それがこのシリーズの読みどころであると解っているのだが、やはり西之園萌絵はまだ私には受け入れ難く、やたらと犀川にべたべたするのにはいささか食傷気味になってきた。 シリーズ物はいかにキャラクターに親近感を覚えるかがカギなので、この先のシリーズで萌絵が成長してほしい。私に免疫が出来るのとどちらが先だろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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あのディーヴァーが世界的有名なスパイアクションシリーズである007シリーズを手掛けるニュースを聞いた時は正直期待半分不安半分だった。私自身007は映画は観ていたものの、小説は未読だったのもあったし、ライムシリーズやキャサリン・ダンスシリーズと云う2つの看板シリーズを持っているディーヴァーにそれらと差別化できる特色が出る作品が果たして可能なのかと疑問視していた。
しかしそれは杞憂だった。 ここには007シリーズを想起させながらも新たなジェームズ・ボンドがいる。若々しく、スマートフォンとアプリを使いこなす現代のスパイとしてのボンド像をディーヴァーは創り出した。 そうでありながらも彼のボスはMであり、スパイグッズの発明家Qも出てくるし、ボンドカーと彼を取り巻く美女がきちんと配され、ファンが期待するボンドの定番も忘れられていない。 だがやはり現代を代表するエンターテインメント作家ディーヴァーは単なるパスティーシュとしての007の新作を書いてはない。ディーヴァーならではのアイデアが放り込まれている。 まず原典との大きな違いはボンドの所属する組織がMI6ではなく英国秘密機関である海外開発グループODGのエージェントであることだ。そしてMI5やMI6よりも立場の低い、権限の制限された組織となっている。 そして独自性を出しながらもディーヴァーはファン・サービスも忘れていない。現代の若者として設定されたボンドながらも父親の名は原典と同じくアンドルーであるし、極秘文書に付せられる“フォー・ユア・アイズ・オンリー(For Your Eyes Only)”には思わずニヤリ。 そして何よりも日本の読者には嬉しいのはボンドカーにスバルのインプレッサWRX STIが選ばれていることだ。あのレーシング仕様のマシンをボンドが操るとは、似つかわしくも若々しい。 また原典を未読なので解らないが、登場人物表に記載されていないが、ジェームズ・ボンドに協力する人々や彼の回想に出てくる人物名なども007愛好家の方々には思わずニヤリとする内容が含まれていることだろう。 さてディーヴァー版ジェームズ・ボンドの相手となる敵は巨大ゴミ収集企業グリーンウェイ・インターナショナルの代表取締役セヴェラン・ハイトとその相棒で冷酷な殺し屋ナイアル・ダン。 今なお創られる007シリーズ映画の敵はもはやソ連の秘密組織や戦争を企む武器商人などではなく、世界を牛耳る巨大企業による、その得意分野に特化した世界征服の野望を持つ狂える企業人であるが、本書もその流れを汲む物だ。 しかしただのゴミ回収業を営む一企業人がスーパー・エージェント、ジェームズ・ボンドの敵になり得るのかと疑問を持つだろうが、そこはやはりディーヴァー、この業界が実に世界を脅かす恐るべき存在になり得ることを見事に示した。 まず今回は死体愛好家であるセヴェラン・ハイトが相棒のナイアル・ダンと企む「ゲヘナ計画」が何であるかを突き止めるのが今回のボンドの使命。それは近いうちに行われるある大量虐殺計画を示唆しているが、場所も日時も不明。ボンドはアフリカ各地で行われている民族大量虐殺の跡地を“クリーン”にする事業を請け負っているダーバンの起業家ジーン・セロンに成りすましてハイトに近づき、計画の正体を探ろうとするのが物語のメインだ。 そして明らかになるのは我々の想像を超える恐るべき計画だった。詳細はネタバレに記載するが、実現可能と思われるだけに実に恐ろしい物をディーヴァーは考えたものだ。 しかしそこから続く更なる隠し玉はいささかインパクトが弱く感じてしまった。ディーヴァーの読者を最後まで飽きさせないサービス精神が裏目に出てしまったようだ。 さて題名の白紙委任状とはジェームズ・ボンドにODGから渡される作戦指示書のような物。それがつまり白紙である、つまりミッションの全権を委ねられており、ボンドは自らの判断で施設への潜入から破壊、そして殺人をも遂行できる。つまり原典でボンドに与えられた殺人許可証に当たるものだ。この白紙委任状はかなりの効力を持つようで、これが与えられているがゆえにジェームズは世界各国でその地の政府直属の機関の協力を得て活動できるのだ。 さて世界で活躍するジェームズ・ボンドだが、前述したようにディーヴァーの描く彼は実に現代的だ。 スマートフォンのアプリを使いこなして読唇術や追尾、盗聴を行う。実際にこれらのアプリが某国の情報局によって開発されているように思うが、反面、情報漏洩のセキュリティの脆弱さから本当にスパイがこんなことをしているのかとも疑ってしまう。実際我々の仕事で情報オペレーションシステムを扱う会社にヒアリングした際、パソコン上のデータをタブレット端末で共有して現場でもチェックできるようにできないかと質問したところ、可能だがセキュリティ上の問題が解決していないと云っていたことを考えると、あまりにも不用心すぎると考えるのは穿ちすぎだろうか。 さてリンカーン・ライムシリーズは個性的な連続殺人鬼と現代のシャーロック・ホームズであるリンカーン・ライムとの一騎打ちならば、007シリーズは巨大企業の陰謀を阻止する政府の秘密エージェントの戦いを描いた物であり、同じ悪との戦いを描きながらもそのスケールは全く違うと云っていいだろう。 恐らくディーヴァーは個対個の物語から組織対組織、もしくは組織対個という国家規模の犯罪との戦いを描きたいがために007シリーズの新作の依頼を快諾したのではないだろうか。 ただリンカーン・ライムシリーズももはやシリアル・キラーとの対決からテロリストとの戦いと巻を重ねることにスケールアップしているのは事実。それが故にもっとスケールの大きい悪との対決を描きたかったのかもしれない。 ディーヴァー版007。その出来栄えはまずは及第点と云ったところか。 アクション満載のスーパーエージェントの活躍が愉しめるものの、ディーヴァー特有のどんでん返しが今回はあまりストーリーの面白さに寄与しなかったように思えたのが痛かった。 このシリーズの続編の話はまだ聞かないが、この経験を活かしてリンカーン・ライムシリーズやキャサリン・ダンスシリーズがさらに面白くなることを一ファンとして望む。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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極寒の地での冒険小説はもはやマクリーンお得意のシチュエーションであり、最も彼の筆致が生きる題材と云えよう。
本書は突然消息を絶った北極の気象観測基地の作業員たちを救うべく、アメリカ最新鋭の原子力潜水艦で極寒の地に赴くという、これぞマクリーン!とも云うべき作品だ。 しかし本書はそれに加え、ゼブラを、ドルフィン号を襲う謎の魔の手がいる。つまり本書には犯人捜しと云う謎解き興味も盛り込まれているのだ。 まずは過酷な状況下で不可能とされる任務を遂行しようとする主人公カーペンターと彼の協力者である潜水艦の乗組員の苦闘はいつもながら心胆寒からしめる迫真性に満ちており、10作目になってもマクリーンのアイデアは尽きることがない。 氷原の氷を切り刻み、針のように尖らせ、渦を巻いて荒れ狂う氷嵐は保護ゴーグルをしていながらもゴーグル自体を傷だらけにし、視界を奪っていく。そしてそれら氷の針は冷たい麻酔薬のように人間の体温を奪い、肌の感覚を麻痺させる。 そんな視界ゼロの世界で頼りとなる磁気コンパスは最北の地ではぐるぐると回るだけで正確な方位を指し示すことがない。そして瞬く間に全て凍てつかせる氷点下の世界では双眼鏡を使えば、目の周りに皮が剥けて痛々しい血の眼鏡をかたどらせる。 かといって当時の先端技術の粋を集めた最新鋭の原子力潜水艦も安息の場ではない。分厚い氷山の下を航行する間に火災が起これば、換気が出来ず、たちまち煙と一酸化炭素に包み込まれた漆黒の地獄と化す。 そんな死線上を彷徨うかの如き状況の中で泰然自若として常に冷静さを失わない艦長のスワンソン。彼の信奉者である副長のハンセンにザブリンスキーにローリングズの巨躯でお人よしのコンビがカーペンターを支える。 とこのように我々が想像できない世界で目の当たりにする最悪のケースをマクリーンは実に見事に物語に溶け込ませ、それらの危難に立ち向かう乗組員と主人公を極限状態の中でも諦めることの知らない漢たちの姿を読者の心に刻み込んでいくのだ。 極限状態の中にあって、一歩間違えば死の状況に幾度も遭い、満身創痍の状態になりながら軽口を叩いて、眼前の危難を乗り越えていく。 さらには本書には連続殺人を犯す犯人探しの興趣さえも盛り込まれている。 繰り返しになるが、本書は私が期待していた「これぞ、マクリーン!」と快哉を挙げたくなる作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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