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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1433件
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【ネタバレかも!?】
(2件の連絡あり)[?]
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これは喪った物を取り戻そうとして奪った男と、奪われた物を取り戻そうとして奮闘し、奪還したが、喪った物までは取り戻せなかった男たちの、哀しき兄弟の話だ。
ランボーと云う戦闘マシーンのような主人公、CIA捜査官、暗殺組織・秘密結社の工作員と常人よりも戦闘に長けた能力を持つ、映像向きな主人公を添えることが多いマレルだが、本書の主人公ブラッド・デニングは一介の建築家。アウトドアもしたこともなければ銃も撃ったこともない、ごく普通の妻子持ちの男である。 そんな男が家族を奪った男に家族の奪還と復讐を誓うのが本書だ。しかもその相手は実の弟となかなかツイストの効いた設定である。 小さい頃、野球を友達としに行くのについてくるのを鬱陶しいと思ったことで追い返した弟がそのまま何者かによってさらわれてしまうという、悔いの残る傷を心に負った男ブラッド。しかしその彼は建築家になり、自分の設計した家がテレビ番組で紹介されたことでその弟と数十年ぶりに再会する。 その空白の時間を埋め合わせるために彼とその妻と息子との心温まる交流が実に眩しい。そしてそんな不遇の時代を過ごした弟ピーティも自らの境遇によって心を病んでいる様子でもなく、むしろどんな状況をも愉しむかのような磊落な性格を見せ、ブラッドの息子ジェイソンの良き遊び相手にもなっていた。 そんなごく普通の家庭に新たに加わった家族との微笑ましいエピソードが続く中、突然災厄が訪れる。 この反転は正直かなり衝撃的だった。裏表紙の紹介文を読まなかったらもっと驚いていただろう。 神隠しに遭っていた弟が数十年ぶりに出逢ったら復讐者となっていた。 この設定だけでも衝撃的なのに、マレルはさらに物語にツイストを仕掛ける。即ちブラッドが弟と思っていた男は実はレスター・ダントという犯罪常習者だったという物だ。 しかしブラッドは自分がテレビに出た時に失踪した弟のことを紹介されたがために数多くの嘘つき電話に悩まされていたが、そんな不埒な輩とは違う、弟しか知り得なかった情報を知っていたことでそれを容易に信じない。写真がレスターであることや周囲の人間がそれを証言しようとも頑なに信じず、弟の仕業であると固執する。それは赤の他人の犯罪者ならば連れ去った妻と子供が邪魔になって容赦なく殺害することを恐れていたからだ。まだ妻子が生きていることを信じるために彼は誘拐者の男を弟と信じるのだ。 FBIと警察による捜査が捗々しくなくなり、そして捜査チームが解散して事件から1年経ったときにブラッドはようやく自分で犯人を、弟と妻子を探すことを決意する。自分の経営する会社を畳み、フィットネスクラブで体を鍛え、射撃の教室に通って銃の腕を磨き、護身術のクラスにも通う。そして腕利きの元FBI捜査官の探偵に捜査術と偽りの身分を手に入れる方法を学ぶ。 通常ならばその件は一介の建築家が凄腕の復讐者に生まれ変わるシーンだが、マレルは意外にあっさりと描く。ほんの20ページにも満たない。従って読者はブラッドが生まれ変わったようには思えないのだ。 それを裏付けるかのようにブラッドのその後の捜索もどこか空回りしているように思える。犯人が弟のピーティであることを想定して当時の足取りを探るのだが、それも彼が弟に成り切ったように振る舞って自分の考えで進むだけである。 そこには何の根拠もなく、現場に漂う雰囲気で、もし自分が弟だったらそうしたであろうという薄弱な根拠で突き進むだけなのだ。 おまけに否定していたレスターの存在も意識し、彼の生家のある町に向かう。それはブラッドが弟と生まれ育ったオハイオ州の町の近くであったことから立ち寄ることにするのだが、そこで昔のことに詳しい神父に聞かされるダント家の異常な家庭環境が目を惹く。 このレスター・ダントのおぞましい過去もかなり衝撃的だが、この一見単なる回り道と思われたエピソードが実は意外な物語に意外な展開をもたらす。 物語の結末は苦い。 数十年ぶりに行方知れずとなった実の弟を家族の一員として温かく迎えたブラッドとその妻と息子の末路がこれほどまでに悲惨な変容を遂げたことがなんとも哀しい。 またピーティを無くしたデニング一家も、ブラッドの父親が酒浸りになって会社を首になり、交通事故で亡くなり、母親と2人になったブラッドは他の市へ引っ越して小さなアパートで暮らすようになる。毎年失踪者の絶えないアメリカではこんな悲劇が幾度も繰り返されているのかもしれない。 しかしこのような話を読むと、子供の頃の何気ない弟への仕打ちが起こした代償の重さを感じてしまう。こんなことが起こり得るアメリカの治安の悪さが恐ろしく感じる物語だった。 さて本書は2002年の作品で1972年にデビューしたマレル作品では後期に当たる。その頃の作品に該当するのは本書の2作前が『ダブルイメージ』で本書の次の作品が『廃墟ホテル』とどちらも奇妙な展開を見せる異色の作品なのだ。 『ダブルイメージ』も何が本当の敵かがなかなか解らない、一言で云い表せない非常に特異な作品であったが、『廃墟ホテル』はマレルにとっては全くの異色作でありながら、実に面白い作品であった。 主人公が凄腕のエージェントや元軍人でもない一介の建築家であることも『ダブルイメージ』の主人公が同じく一介のカメラマンであることに通ずるものがある。 この意外に一筋縄でいかないマレル作品、久しぶりに読むと他の作家では味わえない奇妙な味わいがある。 既に彼の作品が訳出されなくなって久しいが、この独自のテイストは年一冊のペースで読むとなかなか面白く感じる。特に後期の『廃墟ホテル』、奇妙な味の短編集『真夜中に捨てられた靴』などは『このミス』にランクインするほど再評価の気運が高まっていただけにこのブランクはさみしい限りである。 『苦悩のオレンジ、狂気のブルー』をまずは文庫化してほしいとしつこく述べてこの感想を終えよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『恐怖の四季』と題して春夏秋冬それぞれの季節をテーマにキングが綴った中編集が春夏編と秋冬編の2分冊で刊行された。本書はそのうちの前編に当たる春夏編である。
冒頭を飾るのは『ショーシャンクの空に』(傑作!)として映画化された「刑務所のリタ・ヘイワース」だ。 あまりにも映画が有名なため、そして私がベストの映画の1つとして挙げることもあって、物語は既に解っていたが、改めて読むとアンディーというエリートと調達屋のレッド2人の囚人の友情がなんとも眩しい。 妻と愛人殺しの冤罪に問われ、刑務所に入れられることになった元銀行の副頭取のアンディー・デュフレーン。入所したのが1948年。そして脱獄して出所するのが1975年だから、何と28年間も囚人生活を強いられていたことになる。 いつも穏やかな笑みを浮かべ、ほど良い距離感を保って囚人たちと接する彼は、刑務所名物の男色家たちの的になりながらも必死で抵抗し、やがて看守を味方につけることで完全に自分の身を護ることに成功する。 そんな彼の囚人生活を刑務所特有の異様な文化や風習、そして劣悪な環境で行われる囚人たちへの惨たらしい仕打ちなどが折に触れて挟まれながら、180ページもの分量を費やして語られる。 1人の男が入所して28年後に脱獄するまでの刑務所生活を語るキングの筆致は、舞台が固定されているにも関わらず、全く退屈せずに読み進めさせられる。魅力的な登場人物と刑務所と云う特異な空間。このたった2つのアイテムでぐいぐい読者を引っ張る。囚人たちに纏わる色んなエピソードを絡め、停滞しがちな話に見事に抑揚をつけて飽きさせない。 アンディーが刑務所に入れられることになった裁判の一部始終、彼がレッドと知り合う顛末。彼が刑務所内でひとかどの人物として成り上がっていく劇的な事件とその過程、更にそれまで常に泰然自若としていた彼が自分が冤罪となった事件の真犯人を知ることで取り乱し、手に入れた刑務所内の安定生活を失っていく様、そしていつか出所した時にメキシコの海沿いの町で小さなホテルを建てて過ごす夢を語り、その夢にレッドを誘うエピソード、そして訪れる脱獄の日。 アンディーの過ごした28年が彼の親しいムショ友達だったレッドの手記の形で語られていく様は不器用ながらも味わいがある。 アンディーの28年は常に理不尽と絶望との戦いだったことだろう。若くして銀行の副頭取にまで登り詰めたエリートが図らずも冤罪によって刑務所に入れられてしまう。自分の無実を信じながらもささくれだった劣悪な環境下でも自分を保っていた彼が、なぜ自分を見失ずにいられたかが脱獄方法1つで腑に落ちていく辺りはキングが物語巧者であることを感じずにはいられない。 しかし自分の信念だけがアンディーの精神的支柱だったわけではない。やはりレッドの存在もまた彼が彼であり続けるために必要不可欠だっただろう。 最初は恐らくただの何でも調達屋で、自分の脱獄を実現するために利用しただけかもしれない。しかしやがてレッドはアンディーの中で存在感を増していったことだろう。 人間、なかなか自分の胸に秘める思いを隠してはおけないものだ。それも20年以上となれば尚更だ。そんなアンディーが唯一心を許し、夢をも語ることを許したのがレッドだったのだ。この2人の男の友情物語のなんと美しいことか。なかなか余韻が冷めない。 夏を司る次の表題作「ゴールデンボーイ」もまた映画化された作品だ。私は未見だが旧ナチスの老人と少年の異常な交流を扱った作品というのだけは知っている。 元ナチスの老人と少年の奇妙な交流を描いた作品だ。ひょんなことから第2次大戦中のナチスが行った数々の所業に興味を持った少年トッド・ボウデンが偶然町で見かけた老人が戦争実話雑誌に掲載されていた写真に写っていたアウシュビッツ収容所の副所長クルト・ドゥサンダーであることに気付き、警察に通報しない代わりにナチス時代の話を話すよう強要する。 老人にとってナチス時代は悪夢であり、彼自身世界中をユダヤ人の追手から逃れてきた末に今のアメリカのカリフォルニアの町サント・ドナートに辿り着き、株の配当金で細々と隠遁生活を送っていたところだった。しかしやがて老人も自分の過去を話すことでかつて収容所の副所長として鳴らした威厳が蘇ってくるようになる。その引き鉄となったのがドットが興味本位で持ってきたレプリカのSSの制服を着せられたときだった。 やがてドットも老人の戦争時代の話に没入するにつれ、悪夢を見るようになり、勉強に集中できなくなり、瞬く間に成績が下がっていく。それをもはやかつて数多くのユダヤ人やドイツの同胞を見てきたドゥサンダーは見逃さずに逆に少年を支配し出す。 少年の成績が下がったことが親にバレることは避けたい。しかし一方でそのことは否応なく老人の正体を話すことに繋がる。つまり二人は運命共同体となるのだ。 そして老人は少年の祖父に成りすましてカウンセラーの面談に赴き、少年の両親の仲たがいが成績不振の原因であると吹き込み、少年が5月に落第点のカードを貰ったらカウンセリングを受けることを約束する。つまり老人は自らの進退も賭けて少年の成績を上げることを決意し、彼の家庭教師を務めるのだ。 このいびつな主従関係、いや共棲関係が実に自然に展開する辺り、キングの筆の凄さを感じる。しかし何よりもよくもこんな物語を思いつくものであると感心してしまう。 そして一方でドットはドゥサンダーの指導によって成績が上がっていくものの、それが彼の自尊心を傷つけ、老人に殺意を覚える。思春期真っ只中の権威への反抗心が、老人の過去に魅了されながらも憎悪するという複雑な心境を描き出す。 1人の老人のナチス時代の過去を共有することで2人が同じ行動を取っていくのが興味深い。つまり2人は非常に似た者同士であり、彼らの関係は近親憎悪なのだ。それも針の振り切った。 それを裏付けるかの如く、それぞれの正体が明かされていくのも同時だ。 お互いの運命がシンクロし合うように破滅へと進んでいくのだ。 少年の老人の交流をキングが描くとこれほど不思議な話になるのかと読了後、思わずため息が出た。 敵対し、互いに支配しようと相克し合っていた2人がいつの間にか同調し、奇妙な形で支え合う。それはお互いの心に眠る殺人への限りない衝動が老人の陰惨なナチス時代の話を通じて首をもたげ、そして発動する。ナチス時代の話を共有することと、お互いが殺人を犯している行為もまた2人にとって共通の秘密となり、2人でしか成立しない世界を作り上げたことだろう。 キングの中編集『恐怖の四季』はその名の通り、それぞれの四季がテーマになっている。キング版枕草子とも云える本書は4編中3編が映画化され、しかもそのいずれもが大ヒットしていることが凄い。それほどこの中編集には傑作が揃っていると云っていいだろう。 まず物語の四季は春から明ける。この季節をテーマに語られるのは「刑務所のリタ・ヘイワース」。副題に「春は希望の泉」と添えられている。まさしくその通り、これは希望の物語である。 この作品に対して私は冷静ではない。上にも書いたように本作を原作として作られた映画『ショーシャンクの空に』は私の生涯ベスト5に入るほどの名作だからだ。 静謐なトーンでじんわりと染み入るように進む物語に私は引き込まれ、そして最後の眩しいばかりの再会のシーンにこの世の黄金を見るような気になったからだ。本作でレッドが仮釈放され、アンディーの跡を追う一部始終は、人生の大半を刑務所で過ごした人たちが身体に染み付いた刑務所の厳格な生活リズムという哀しい習性とそれを逆に懐かしむ危うさに満ちていて、思わずレッドの平静を願わずにはいられない。 そして希望溢るるラスト5行のレッドの祈りにも似た希望は映画のラストシーンとはまた違った余韻を残す。その希望が叶うことを本作の副題が証明しているところがまた憎い。 さて次は「転落の夏」と添えられた表題作。元ナチス将校の老人と誰もが思い描くアメリカの好青年像を備えた少年の奇妙で異様な交流を描いた作品だ。 その副題が示すように一転して物語はダークサイドへ転調する。アメリカの善意を絵に描いたような少年が元ナチス将校の老人の過去を共有することで心に秘められていた殺人衝動を引き起こす話だ。 少年は老人を支配しようとするがかつてユダヤ人を大量虐殺してきた百戦錬磨の老人もまた逆に少年を支配し出す。やがて2人にはナチスの陰惨な過去の所業の話を共有することで奇妙な親近感を覚えていく。悪夢を呼び起こされた老人は夜な夜なうなされるようになるが、そこに昔の、全てを掌握していたかつての自信ある自分の姿を見出し、まだまだやれるのだと浮浪者たちを殺していく。 一方少年もまた老人の話から思春期特有の想像力を働かせて悪夢にうなされながらも内に眠る殺人への強い衝動を目覚めさせ、同じように浮浪者たちを狩っていく。 転落していく2人はやがてお互いが生き長らえるために必要な不可欠な存在へとなっていく。成績が下降した少年は老人の助けを借りて再生を果たす。その後の彼は優秀な成績を修め、更にスポーツでも万能ぶりを発揮し、地区の代表選手にも選ばれるようになる。転落から一気に運命は上昇するかに思えたが過去の過ちは決して彼らを逃さず、やがて破滅へと向かっていく。 逢ってはいけない2人が逢ってしまったことで転落していく、実に奇妙な老人と少年の交流を描いた作品はキングしか描けない話となった。前にも書いたが、よくもまあこんな話を思いつくものだ。 ところでこの2つの作品には繋がりがある。表題作に登場する元ナチス将校の老人アーサー・デンカーが生計を立てているのは株の配当金。その株の手続きをしたのが銀行員時代のアンディー・デュフレーンなのだ。こうやって考えると残りの2編もこれら2編と何らかの繋がりがあるのは間違いないだろう。 また「刑務所のリタ・ヘイワース」で語り手を務めるレッドが刑務所に入ることになった事件の記事が書かれている新聞の会社はキャッスル・ロックにある。これは『デッド・ゾーン』で登場した連続殺人鬼フランク・ドッドがいた町であり、また『クージョ』の舞台となった町だ。 それ以外にもリンクがあるのか、次の後編はそれを見つけるのもまた一興だ。 さてそれぞれの原題だが、まず「刑務所のリタ・ヘイワース」は原題をそのまま訳すと「リタ・ヘイワースとショーシャンクの救済」となり、逆にこれは邦題のシンプルさを買う。映画の題名もまたあれはあれで映画の雰囲気とマッチしているが、やはり小説ではこちらの方が合っているだろう。 表題作の方は「利発な生徒」とシンプルながら含蓄な題名である。これは確かに作品の本質を表しているが、ちょっと地味すぎるだろう。トッドの利口さとそして老人の心理へも同調してしまい、共に奈落へ堕ちるほど彼は利発だったということだ。 一方で邦題の「ゴールデンボーイ」もまた色々と考えさせられる。これはトッドの風貌、金髪の好青年をそのまま表しているようにも思えるし、金の卵という、輝かしい未来に満ちた少年という風にも取れる。 このあまりに煌びやかな題名と内容とのギャップが読後の暗鬱な余韻を助長しているように思えるので、私は邦題に軍配を捧げたい。 『恐怖の四季』と冠せられた中編集の前半の2編はそれぞれ二律背反な関係にあると云えるだろう。 「刑務所のリタ・ヘイワース」は28年もの長きに亘って冤罪で自由を奪われた男が自由を勝ち取る物語。 一方「ゴールデンボーイ」は30年近く逃亡生活を続けてきた老人が最後に自由を奪われ、自決する物語。 彼らが重ねた歳月は苦しみの日々だったが、その結末は見事に相反するものとなった。前者は自由への夢を見続けたが、後者は自分の行った陰惨な所業ゆえに悪夢を見続けた。 次の後編はあの名作「スタンド・バイ・ミー」が控えている。 キングが綴った四季折々の物語。全て読み終わった時に心に募るのはその名の通り恐怖なのか。それとも感動なのか。 その答えはもうすぐ見つかることだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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河出文庫が未紹介短編を中心に独自で編んだ短編集。とはいえ幕開けはハメットの長編デビュー作である「ブラッド・マネー」が飾る。
ハメットの長編デビュー作は『血の収穫』であることは広く知られているが、訳者の小鷹信光氏の解説によれば、『血の収穫』の前の習作として本書に掲載された「ブラッド・マネー」が書かれたようだ。この題名、原題もそのままで直訳すれば「血まみれの金」となるが、『血の収穫』とも訳せる。内容は異なるが、題名の近似性からも理解できる。 さて町に全国から悪党どもが訪れ、何と150人による二つの銀行の同時襲撃が起こる。そこからは事件に関わった悪党たちが自分たちの分け前を得るために殺戮ショーを繰り広げるという実に派手で映像的な作品である。 なんとも荒廃した幕切れだ。これが正義の本当の姿なのだと無慈悲な筆でハメットは語った。 真の初長編作は手習いとは思えないほど躍動感と抑揚に満ちたストーリー、そして登場人物たちが織り成す血まみれの祭りだった。 さて次からは短編、いや短さから云ってほぼショートショートのような作品が並ぶ。 訳者の小鷹氏の解説によると「帰路」はハメットの正真正銘のデビュー作らしい。2年間追い求めた男を中国の雲南省でようやく捕えた男と逃げた男のやり取りを描いた6ページの作品。 次の「怪傑白頭巾」は変わった話だ。 なんだかよく解らない作品。 次の「判事の論理」は実際にあった話だろうか。 正直これはアメリカの法律をある程度知っておかないと解らない面白さだろう。 続く「毛深い男」はフィリピンの島々を舞台にした物語。 平和な島に訪れた異分子によって起こる不協和音。これはよくある展開だ。 人間の拠り所について語った作品と云えるだろう。 「ならず者の妻」ならば日常もまた我々のそれとは違うようだ。 強盗稼業で生計を立てている男を夫に持つ妻マーガレットはよくある悪い男に魅力を感じる女性。だから周囲のゴシップの種になっても全然気にならず、むしろそんじょそこらの旦那と違う夫に誇りを持っていた。 そんな彼女が夫の犯罪仲間に自分の取り分を強要され、屈服するところを見た時、彼女の、夫に抱いていた8年間の誇りの塊が消え失せてしまう。 複雑な女心をこんな形で描くハメットは、やはり人間を知り尽くした男だったことが解る1編である。 最後はたった5ページの掌編「アルバート・バスターの帰郷」で締めくくられる。 悪党の世界のどうしようもなさを描いている。息子を誇りに思った父親が息子の仕事を知るとどのように思うのだろうか。 荒くれどものジャムセッション。 ハメットの作品群を読むといつもそんな思いを抱く。 当時殺人や犯罪を扱った小説、ミステリがパズル小説ばかりだった時に、ハメットは悪党どもの犯罪をリアルに描いた。金目当てや怨恨で犯罪を行う人たちの本当の世界を生々しく描いたのだから当時の読者にとってはかなり衝撃的だったことだろう。 そんなハメットの筆は淀みなく、ストーリー展開もスムーズでありながらもサプライズを仕込んでいるところにミステリの妙味がある。しかもそれは単なるミステリとしての仕掛けではなく、闇社会で生きる者たちが生き延びるために行ってきた権謀詐術がサプライズに繋がっているところに本格ミステリと一線を画したリアリティがある。 生き延びるためには平気で嘘をつき、そしてまた自分を殺そうとする人たちを平然と殺す者たち。そんな生き馬の目を抜く輩たちの世界ではいかに一歩先んじて出し抜くかが彼らにとって死活問題になるわけだ。 そんな世界をミステリに持ち込んだハメットの功績はかなり大きいと再認識した。 もう少し踏み込んで書くと、本格ミステリを読んだハメットは本当のワルはこんなまどろっこしい方法で人を殺害しない、ハジキ1つをぶっ放すだけ。そして相手を騙すことに頭を使うのだと思ったことだろう。 そんなリアルをミステリとして描いたのだ。いやワルの生き様の中にミステリがあったことを教えてくれたのだ。 また登場人物たちの心境も非常に深い。特にワルに魅かれる女性たちが生き生きとしている。 品行方正、実直な男よりも少し影があり、危ない雰囲気を纏った男に魅かれる女の心情を描いている。それは恐らくハメットの妻リリアン・ヘルマンの存在が大きいだろう。探偵稼業に身を置いていた彼に魅かれたリリアンこそが彼の作品に登場する女性全てなのかもしれない。 ワルに憧れて共にするが、自分が置かれている境遇の危うさに気付くと逃れようともがくが既に手遅れになってしまっていることに気付く浅はかな女性、突如現れた無類の強さを誇る男に、夫を捨てて走る女性もいれば、絶対のワルと信じて尽くしてきたのに、夫の弱さを見ることで何かが変わってしまった女性もいる。 ハメットの小説に出てくるワルたちをそんな複雑な心理を持つ女性たちが補完していると云っていいだろう。 私がハメットを読んだのは17年前でまだ20代だった頃。その時は正直彼の小説を十分理解したとは云えなく、当時の感想がそれを証明している。 今回十数年ぶりにハメットを読むと、小鷹氏の訳の巧さもあってか、実に愉しく読めた。 いつかまたハメットは読み直さないといけないだろう。 その時がいつ来るかは未定だが、読後、今とは違った思いを抱くことだろう。その時の私がどんな感想を持つか、それもまた愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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御歳81歳のフリーマントルが2015年に発表したのはなんとサイバー空間を利用した対テロ工作を駆使するNSAのエリート局員ジャック・アーヴァインが率いる面々の活躍を描いた本作だ。当時79歳の高齢にもかかわらず、最先端の情報端末を駆使したこのような作品を書くフリーマントルの創作意欲の旺盛さにまず驚いた。
冒頭でも語られているがオサマ・ビン・ラディンが率いていたアルカイダが情報交換のツールとして使用していたのは今や誰もが利用しているSNSのフェイスブックだった。この全世界数億人が利用するSNSは彼らにとって絶好の隠れ蓑になっていたことが本書でも語られている。 なんとアメリカの一企業が、正確には一青年が開発したSNSが敵対者であるアラブ系テロリストにとってこの上ない便利な通信手段になっていたとはなんとも皮肉なことである。 さて今回の物語の中心人物はアメリカの若きエリートであり、コンピュータの天才でテロリスト同士を相討ちさせる<サイバー・シェパード作戦>の立案者であるジャック・アーヴァインと、ヨルダン人の母とイギリス人の父親との混血でアラビア語にも長けているMI5の切れ者でありながらモデル並みのスタイルと美貌を持つサリー・ハニングの2人だ。これら2人のエリートにありがちな高慢で不遜な性格を持ち、常に優位に立とうとしているところが共通で、今回の米英共同のテロ阻止計画を通じてお互いが魅かれ合うという、なんとも典型的な展開が繰り広げられる。 このありきたりな、いやセオリーにのっとり過ぎる展開はどうにかならなかったものだろうか。 しかしこの2人には意外な繋がりがあり、大使だったアーヴァインの父親はレバノン赴任時に強引な外交が基で部下をテロリストで死なせ、危うく中東戦争を引き起こしかけた過去を持ち、そしてサリーの両親もまた外交官で彼が死なせた部下だった。つまりアーヴァインは一種サリーの両親の仇の息子であるのだが、その辺についての微妙な心の揺れ動きについてはあまり言及が成されない。そういったことを割り切って考えられる人たちだとも云える。 さて物語の中心に据えられている<サイバー・シェパード作戦>。これはサイバー空間でテロリストの一味に成りすまし、テロリスト同士を情報操作によって戦わせて共食いさせるという、いわば現代版『血の収穫』である。しかしそのためには政府の職員であるNSA職員が隠密裏にハッカー行為をして他国のサーバーに侵入するという違法行為を犯すという実に危うい作戦であり、その事実が発覚すれば各国からの非難は免れない代物だ。 本書ではイランの諜報機関のサーバーに侵入してテロリストの動向を監視し、CIAが取り逃がしたテロリスト、アル・アスワミーの足取りを探っているが、これは実際に起きたCIA、NSA局員であったエドワード・スノーデン―ジャック・アーヴァインのモデル?―による2013年にNSAや英国のGCHQがマイクロソフト、グーグル、フェイスブックを監視していたことが発覚した<プリズム計画>、<テンポラ作戦>事件に着想を得ていることだろう。作中でもそのことについては言及されているが、それを踏まえながらも同様のことをしていることが結局米英政府は懲りていないということで、我々は今なお監視下に置かれていることが仄めかされている。 ただそれも致し方ないかなと思ったりもする。テロリストの足取りを追ってサイバー空間を逍遥するNSAの連中にアクセスするのは下位サイトに誘って武器の密売を促す者がいたり、自爆テロの志願者を募っていたりと不穏この上ない。実際、中国が日本政府の尖閣諸島を領土として主張してすぐにデモの呼びかけが成され、中国国内のデパートを破壊する煽情的な投稿が相次いだりした。 我々の知らないところで世界ではこんな恐ろしいやり取りが簡単に、気軽に行われているのだ。 しかしこんなにも短気な連中ばかりが出てくる小説だっただろうか、フリーマントルの作品は。 ディベートや会議のシーンでは常に自分の保身のために相手を罵倒し、責任転嫁の怒号が飛び交う。会話文にはエクスクラメーション・マークが散見され、心中で悪づく地の文が必ずと云って挟まれている。ほとんど建設的な意見が見られず、失敗が起きた時のために着かず離れずの状態にしておきたい連中ばかりだ。 それはアメリカ側のみならずイギリス側も同様で、自分を通さずに話が上に成されることに腹を立て、足を引っ張ろうと画策する。外部に敵あれば内部にも敵ありの状態。更にお決まりの如くCIA中心の捜査にFBIも介入してきて水を差し、更にCIAの面々の頭に血を登らせ、怒鳴り声が乱舞する。 そんな中、失敗の責任を取らされ、無能の烙印を押され、権力の座から落とされる者、有事の時の責任転嫁のためだけに事務屋として窓際にいることを強いられる者と落伍者たちが増えていく。 内部抗争と、ライバル視する国同士の争いに筆が注がれ、本来の敵であるアルカイダのリーダーはなかなか捕まらないという、なんとも不毛な展開が続く。 フリーマントルも歳を取って癇癪が過ぎるようになったのだろうか。とにかくページを捲ればケンカや諍いばかりで、正直読んでいて気分が良くなかった。 昔のスパイ行為として行われていたのが盗聴ならば現代ではサーバー内の情報を入手するスパイウェアである。冷戦時代からスパイ小説を書いてきた作者が時代の潮流に遅れずに最先端の諜報工作をきちんと描いていることに感服する。 しかし本書ではそんな最先端のスパイ技術を扱いながらも一方で冒頭で出てきた暗号の解読に難儀する様子が延々と描かれる。最初に現れ、スンニ派のテロリストと共食いさせられたシーア派のテロリスト、イスマイル・アル・アスワミーを取り逃がしてから、彼の足取りをイラクに仕込んだスパイウェアを手がかりに探るのだが、一向に足を出さず忸怩するNSAとCIA、そしてMI5とGCHQの、アメリカ側とイギリス側の情報争奪戦の様子がずっと描かれている。 そしてその暗号解読のとっかかりが判明するのが下巻の180ページ目辺り、つまり終盤に差し掛かった頃だ。これは私も物語の半ばで気付いていた。 さらに暗喩で繰り広げられるテロリストたちとのメールのやり取りについてもその内容については意に介さなかったことが解せない。 サリーがその内容に注目するのはサイバー空間で取り逃がしてしまうアスワミーの計画を暴くための最後の手段としてなのだ。そのメールの内容に計画の鍵があることが判明するのだが、裏返せば答えは既に出ていたことになる。これらことわざや警句に最終段階で注目するとは正直に云って米英の頭脳の精鋭たちが集う情報部員たちの頭も大したことないなと思ってしまった。 イギリスとアメリカとの間の優位性の天秤が左右に触れながらアメリカでのCIAとNSAの合同チームとFBIとの内部抗争、また自身の組織内での権力ゲームも繰り広げられながら、寄せては返す波のように一進一退するテロリストとの接触は上に書いたように最終的にアスワミーの奸智に長けた策略によって失敗するが、一連のメッセージと最後にアスワミーが残した嘲笑めいたメッセージからサリーはアラブ人の思考形態に即して、テロ実行の日を特定する。 題名の『クラウド・テロリスト』はクラウドコンピュータのあるサイバー空間を利用したテロリストであるという意味でありながら、最後にクラウドサーバーそのものを破壊するテロリストであるというダブルミーニングが解る辺り、巨匠の矜持を感じる。 行く行くはアメリカ政府の最高機関に上りつめるであろう若き天才の末路はなんとも遣る瀬無い。フリーマントルの皮肉は今回も一切揺るがない。 しかしサイバー空間での諜報活動とテロリストとの攻防を描きながらも、上に書いたように内部抗争の権謀詐術の数々に筆が割かれているのはいつもと同じである。いや逆に今回は情報戦であるがゆえにいつもよりも情報が多く、それに下らない抗争が上乗せされている分、かなり苦痛を強いられた。 敢えて苦言を呈するならば、やっていることは同じで題材と登場人物を替えただけであるとの思いが強く残ってしまった。 このサリー・ハニングとジャック・アーヴァインの2人、もしくはいずれか1人が今後新たなシリーズ・キャラクターとして登場するのかは解らないが―作者の年齢を考えるとほぼあり得ないと思うが―、若さゆえの融通の利かなさと、サリー自身が独白しているように何の根拠もなく、その明敏な頭脳で組み立てた論理をごり押ししようとする強引さとヒステリックな性格はあまり読者の、いや私の好感を得られなかった。 また色んな事が置き去りに、棚上げされたままのような読後感である。情報が多すぎて作中でも処理しきれなかった印象がある。 テロとの戦いには終わりがなく、本書の結末は長いテロとの戦いの単なる1章にしか過ぎない。 80歳を迎えて健筆を振るうフリーマントルの創作意欲には感服するが、もし次作があるなら、爽快な、もしくは少しは心温まる結末を迎える物語を読みたいものである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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かつて東野圭吾氏は『手紙』で殺人犯の家族の物語を描き、『さまよう刃』で娘を殺害された父親の復讐譚を描いた。
本書『虚ろな十字架』ではその両方を描き、償いがテーマになっている。 本書では2つの家族を中心に物語が進む。 まず最愛の娘を強盗に殺害され、犯人に死刑の判決が下り、刑が成された後に離婚した中原道正と浜岡小夜子の夫婦。 もう1つは浜岡小夜子を殺害した町村作造を父に持つ花恵とその夫仁科史也の夫婦。 被害者側の夫婦と加害者を家族に持つ夫婦双方が同時進行的に描かれる。そのどちらの家族も決して幸せではなく、何がしらの問題を抱えている。 この浜岡小夜子の死を軸に不幸な、だがしかしどこにでもいそうな夫婦の抱える問題が次第に浮き彫りになってくる。 物語の主旋律は娘を殺害され、更に別れた妻を殺害された中原道正のパートであるが、次第に対旋律であった仁科史也のパートが重みを帯びてくる。特に仁科史也という人物の気高いまでの誠実さに隠された謎に俄然興味が増してくる。 本書のプロローグで描かれるのは井口沙織という父子家庭で育つ女子中学生が1年先輩の仁科史也と出逢い、相思相愛が成就する場面が描かれている。 しかし本編で出てくる、医者となった仁科史也の結婚相手は花恵という女性で井口沙織ではない。しかも花恵の父親は浜岡小夜子を殺害した町村作造であることが判明する。 更に井口沙織は逆に浜岡小夜子が万引き依存症の記事を書くのに取材した対象者であることが解ってくる。この2人の接点が浜岡小夜子に収束していく。 義理の父親の犯した罪に深く反省の念を込め、小夜子への遺族に手紙を認め、直接お詫びをしたいと告げる仁科史也。一方で町村作造の生涯は実に取るに足らない男として描かれる。 偽造ブランド品を売って東京と富山を往復しているうちに花恵の母と知り合い、そのまま結婚してしまうが、会社が警察に摘発されると職にも就かずに家に居つくが、しばらくすると女を作っていなくなる。とにかく怠けることしか考えない男だ。 そんなどうしようもない男の犯した罪のために代わって遺族へお詫びをしたいという。しかも花恵が生んだ息子翔は史也の実の子でなく、結婚詐欺師によって孕まされた子供であることも判っている。史也が花恵と出逢ったのは花恵が将来を絶望し、富士の樹海で自殺しようとしていたところを史也が思い留まらせたことがきっかけだ。そしてその後の10日間、史也はお金を与え、晩御飯を食べに行くようになって花恵に結婚を申し込む。 このもはや聖人としか思えないほどの精神性はどこから来るのかと非常に興味を持たされた。 そして今の仁科史也を形成する事件が明かされるのは物語の終盤だ。 結婚とは、夫婦になると云うのは、家族になると云うのは、知らない者同士が縁あって一緒になるということだ。一緒に住んでいくうちにお互いのそれまでの人生で培われた性格や癖、足跡などを知り、生活を作っていく。 しかし何十年過ごしても知らない一面があったことを気付かされるのもまた事実だろう。本書にはそんな家族という最小単位の共同体に隠された謎が描かれている。 愛する娘を喪ったことで共に裁判と戦いながらも最終的に離婚という道を選ばざるを得なかった中原道正と浜岡小夜子の夫婦は、地獄のような苦しみの中で共に戦った戦友でありながら、離婚後は相手のことを実は本当に解っていなかったことに気付かされる。 娘を自分の不注意で死なせたと自責の念に駆られていた小夜子はその後犯罪者と被害者について取材を重ね、死刑について自分なりの考えを持ち、原稿を書くまでのライターとなった、ペンを武器にした女闘士の如き女性だった。 しかしそんな彼女がなぜ穀潰しとも云われていたしようのない老人に殺されたのか。 一方有名大学の医学部に入り、そのまま附属病院に就職して順風満帆な人生を送っているかに見える仁科史也は、結婚詐欺師によって孕まされた元工員の女性を偶々自殺を踏み留まらせた経緯で結婚し、他の男の子供を自分の子供として育てる。穀潰しの妻の父が犯した罪を一身に背負い、家族を守ろうとする。 血の繋がった子供を持ちながらも、その実本当の姿を知らなかった夫婦。 血の繋がらない子供を持ちながらも、自ら降りかかった不幸に立ち向かおうとする夫婦。 血の繋がりこそが家族の絆ではないこと、それ以上の絆があることをこの2つの家族の生き様は象徴しているかのようだ。 そしてどうしようもない父親だった町村作造が小夜子を殺害したことは彼が娘夫婦を守ろうとした最後の父親らしい行動だったのだろう。これもまた親と子の不思議な絆の形だ。 タイトルになっている「虚ろな十字架」とは中原の元妻小夜子が生前ライターをしていた時に認めた原稿『死刑廃止論という名の暴力』の中にある一節に由来する。 人を殺害した人間に有罪判決を下して懲役○○年と罰しても、出所すれば再発の確率が高い現実を顧みればその罰はなんと虚ろな十字架を縛り付けているのだろうかと書かれている。 つまり人を殺した人間を罰するには死刑しかないのだと娘を喪った小夜子は訴えているのだ。 娘を殺害された被害者となった彼女がこのような極端に針の触れた結論を出したことは解る。 しかし一方で死刑は単なる通過点に過ぎないことも解っている。なぜなら中原たちの娘を殺害したしがない窃盗犯は最終的には裁判に疲れ、死刑になったことを拒まなかった。 しかしそこには贖罪の念はなく、ただ自分の決定された運命を受け入れただけだったのだ。もはや彼にとって死刑は自分の人生を諦めた行く末に過ぎなかったことが語られる。 そして一方で中原夫妻も死刑になったことで最愛の娘の死が浮かばれたとは思っていなかった。ただ事件が終った、それだけだったと述べる。 しかしそのことを経験しながらもやはり一つの命を奪った人は同じようにその命を死刑によって罰せられるべきだと元妻の小夜子は決意したのだった。 彼女もまた娘を一人家に残したことを後悔し、その後再婚して子供を産もうとは考えられなかった。自分は子供を産んではいけない女性だという罪の意識に苛まれながら、事件や依存症などと向き合う人々を取材してきたのだ。 まだ若い妻の人生のやり直し、殺された娘の代わりの子を産むチャンスを与える意味で離婚を決意した中原の思惑とは全く別のことを小夜子が考えていたとは皮肉だ。 仁科史也は町村花恵を家族として迎えることで過去の罪を償おうと生きてきた。 死刑もまた贖罪であるが、この仁科史也もまた贖罪だろう。 そして作者はどちらが罪の償いとして正しいのかと読者に問いかける。更に法律は矛盾だらけだ、人間に人は裁けないとまで述懐する人物もいる。 お母さんの留守番をしていて殺された子供。 留守番をさせて娘を死なせたことを抱えて生きていく母親。 娘を殺害された虚しさゆえに離婚を選んだ父親。 一文無しで空腹だったために小銭を稼ごうと泥棒に入った家に子供がいたことで通報されるとまずいからと短絡的に子供を殺した男。 他人の子供でありながら我が子として育て、また金に卑しい義理の父親を受け入れながら日々小児科医として子供を救う男。 男に騙され、絶望して死を選ぼうとしていたところを今の夫に救われた女。 無職で怠けることしか考えていないが、ある日人を殺害した父親。 犯罪者の義理の父親を持つことを大いに案ずる母親。 父子家庭で育ち、美容師になって上京し、結婚に失敗し風俗嬢となった暗い過去を持つ女。 男手一つで娘を育て、多忙な日々を送る中でも娘に気を配りながら、事故で死んでしまった父親。 様々な人があれば様々な人生、様々な事情、そして生き様や考え方がある。上に並べた今回登場した人物の人生が等価であるとは決して云えないだろう。 それを人を殺したから罰せられるべきなど単純化したルールで果たして杓子定規的に人を断ぜられるものかとこれまで作者は問いかけてきた。結局人は道理で生きているのではなく、人情で生きているのだとこのような作品を読むと痛感させられ、何が正しくて間違っているのかという我々の既存概念を揺さぶられる。 死刑に値する愚かな犯罪者もいれば、刑に罰せられると等価の償いをし、周囲から必要とされる人もいる。罪を裁くとき、このように違った人生を歩んできた人々を一律のルールで裁くことが本当に正しいのかと考えさせられる。 しかし一方で近しい人を殺されたことで人生が変わってしまった人もおり、その喪失感を思えば加害者側の事情などは関係ないとも思える。 更に死んで当然だった、死んでよかったと思われる人もいる。そんな世の中の秩序を保つためにまた法律も必要なのだ。いやはや難しい。 深く深く考えさせられる作品だった。決して全てにおいて正しい考えなどないことをまた思い知らされた。 人は過ちを犯してもやり直して生きていられる、そんな世の中が来ることを望むのは夢物語なのか。そんな思いが押し寄せてくる作品だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キングが若かりし頃に読んだトールキンの『指輪物語』と映画館で観たセルジオ・レオーネ監督の『夕陽のガンマン』に触発されて書かれた全7部からなるダーク・ファンタジー小説が<ダーク・タワー>シリーズである。本書はその記念すべき1作目。
この度映画化が発表され、それに伴い、かつて刊行されていた角川文庫から再び新刊として現在毎月刊行されているが、私が読んだのはシリーズ完結を機にキングによって手が加えられたヴァージョンであり、2004年に新潮文庫から刊行された版である。 その第1作目である本書の前書きによれば1970年に着手して2004年に完成したとあるから30年以上に亘って描かれたシリーズだ。 一旦4巻まで書かれた後、長らく中断されていたが、キング自身にある大きな転機が訪れる。それは1999年に散歩中にライトバンに跳ねられて交通事故に遭うのだ。それは回復した現在までも片足が不自由になるほどの後遺症を遺すが、その事故で一命を取り留めたキングはファンの声にも支えられてシリーズ完結を目指し、2004年に完結を見せる。 長い前書きには事故に遭った際、シリーズ未完にしてキングがこの世を去るのではないかというファンの言葉や、結末を催促するキングの祖母の手紙、更には自分が刑を執行されるまでには決着をつけてほしいと催促する死刑囚からの手紙を受け取ったというエピソードが盛り込まれている。 それほどまでにファンを、読者を魅了するこのシリーズは果たしてどのような物なのかと興味津々でページを捲った。 物語は主人公である最後のガンスリンガー、ローランド・デスチェインの過去と旅の道連れになった白髪頭の少年ジェイク・チェンバーズが来た別の世界の話とが時折挟まれながら、黒衣の男を追う旅が語られる。途中、夢魔のスキュプスやスロー・ミュータントに襲われながらも黒衣の男に辿り着くのだが、長大な物語の序章である本書ではまだはっきりとしたことがよく解らない。黒衣の男を追い、暗黒の塔を目指すガンスリンガーの物語というだけがはっきりとしている。その目的もまだよく解らない。 物語を形成する世界独特の言葉が時折挿入されるが、それらについての説明は語られない。 ガンスリンガーが話すハイ・スピーチ語、ロー・スピーチ語、邪な抱かせるように思える<カ>の力、烏頭の人間タヒーン、<内世界>、メジスやギリアドという国。 ただそんなファンタジックな世界でありながら、我々の住む世界とはどこか地続きで繋がっているようで、例えばガンスリンガーが訪れる<タル>の町のピアノ弾きが奏でる音楽はビートルズの『ヘイ・ジュード』であり、ジェイクが来た町はニューヨークでタイムズスクエア、ゾロといった映画の登場人物も出てくる。 我々の住んでいる世界とは少し位相の異なる世界がこのガンスリンガーたちが住まう世界のようだ。 本書の訳者であり、書評家でもある風間賢二氏の解説によれば、この<ダーク・タワー>シリーズはキングの作品世界の中心となる壮大なサーガであるとのこと。つまり今まで読んできた作品、そしてこれから読む作品に何らかの形で影響し、また繋がりがあるとのことである。 そして本書はまだ物語の序の序に過ぎないとのこと。従ってまだ作品世界のほんの入り口に立っただけに過ぎず、次の第Ⅱ巻からが本格的な幕開けとなるらしい。 この解説を読んでキングの一読者となり始めた私にとってこのシリーズはやはり読むべき物語であると確信した。 ガンスリンガーが目指す<暗黒の塔>には一体何があるのか。そして本書で登場したローランドが愛した女性スーザンとは何者なのか? 数々の謎を孕んだ壮大なキングのダーク・ファンタジーはたった今始まったばかりだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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紀田順一郎氏と云えばビブリオミステリだが、今回は今までの神保町を舞台にした古書収集に纏わるミステリではなく、大学の図書館で起きた殺人事件を扱っている。しかも狂的な古書収集趣味を持っているのは学長の和田凱亮のみで、周囲の人間は大学の費用を稀覯本収集に公私混同して費やす学長に反発する教授たちが取り囲み、学内では派閥争いが起こっているという珍しい設定だ。
しかし事件はなかなか起きない。 主要人物の図書館運営主任の島村、誠和学泉大学の創設者和田凱亮、その養子で図書館情報学部助教授の和田宣雄、そして事件の犠牲者である結城明季子らの関係がじっくりと描かれ、事件が起こるのは100ページを過ぎたあたりだ。それまでは彼らの関係性に加え、大学の図書館の実情と誠和学園大学々長のコレクションが陳列された第三閲覧室なる秘密の図書空間について語られる。この第三閲覧室は大学の施設なのにその閲覧室は学長の許可がないと入れないという、まさに巨大な私的書庫となっている。 まず面食らったのは本書の被害者となるのが結城明季子であることだ。通常上述されたような人物構成の場合、アクの強い人物が殺害されるというのがミステリの定石だろう。つまり本書ならば大学の施設を一部私物化している学長が第三閲覧室で殺害されるという流れになるのが普通ではないか。 しかし被害者は結城明季子。彼女は妻を亡くし、娘が外国で暮らし、そして不肖の息子を抱える島村が大学の図書館運営主任となったことを機に鶴川の自宅から聖和学園大学の教員寮に引っ越しするのに、彼の有する約1万5千冊もある蔵書の梱包と運搬を手伝うために大学の助教授で島村を引っ張ってきた和田宣雄によって派遣された元司書の女性。アラフォーだが、容姿端麗で障害者の子供を持つ母親に過ぎない彼女が燻蒸後の図書館で遺体となって発見される。 一見事故死に見えるこの事件に不審な点を警察が見出したことを聞きつけた新聞記者が古書店主である岩下芳夫に調査を依頼するというのが本書の流れだ。 今回の探偵役を務める岩下の登場も実に遅く、100ページ辺りで登場する。それからは古書に纏わるエピソードと共に事件の調査が進む。 この独特の世界の話がまた面白いのだがそれについては後述するとしよう。 密室殺人、ダイイング・メッセージと本格ミステリの要素を放り込みながらも新本格ミステリ作家たちが描くようなトリックやロジックの追求といったガチガチの本格という空気は実に薄く、正直私自身はそれらのトリックについては読書中ほとんど考慮しなかった。 なぜかと云えば登場人物たちのディテールの方が実に濃密で面白かったからだ。 例えば岩下の調査が進むにつれて、単なる一介の元司書だと思われた結城明季子の存在に謎が生まれてくる。 島村が大学から借り受けて論文をしたためようとしていた『現代日本文学全集』がいつの間にかすり替えられていたこと。そして有休を利用して梱包を手伝っていたはずなのになぜか梱包作業当日も勤務先である福祉科研修センターに出勤していたことなどが明らかになってくる。 一体結城明季子とは何者だったのか? 幻の古書を巡る殺人事件の謎を探る一方で被害者である結城明季子についても謎が深まってくる。 また主要人物たちに関するディテールがとにかく濃い。 容疑者である島村が誠和学園大学の図書館運営主任になった島村が現職に至るまでの和田宣雄との縁について書かれた内容や和田凱亮の生い立ちなどは、かなりのページが割かれて描かれ、一種実在の人物の伝記かと見紛うほどの濃さがある。昭和の混乱期を生きてきた人間の逞しさや強かさを行間から感じるのである。この濃度は戦前生まれである紀田氏のように戦前戦後の混乱期を知る作家の強みというものだろうか。 また本に纏わる蘊蓄も豊かで知的好奇心をそそる。稀覯本の真贋鑑定に関係して紙博士なる府川勝蔵なる人物が登場するが、そこで披瀝される紙やインクに関する知識は実に興味深い。戦前戦後それぞれの時代背景からパルプ材として使用されていたのが針葉樹から広葉樹に替わったこと、繊維と繊維を繋ぐ方法などそれら技術の進歩により、例えば昔の書物の紙は経年変化で茶色に変色しやすいが現在ではそれも解消されつつあること、光に透かして見ることでムラがあるなどの豆知識が得られる。 また書物に淫した人々の話であるから、私も数々の本を所有する者のはしくれとして大いに共感するところもあった。 例えば書庫を見た時に陳列された書物以上に空きスペースがあることを羨ましくなったり、もしくは新しい書庫を手に入れた時の空きスペースの多さに驚喜するといったこと、さらに引っ越しの時に家にある蔵書をいかに理想的に移すかなど、身に覚えのある事柄もあり、面白い。 また昔の文庫などを読んでいると非常に字が細かいことに気付かされるが、作中人物の島村が昔は高齢の読者が少なかったからではないかと述懐するところがあるが、これもなるほどと思わされた。つまり時代が下るにつれ、教育を受けた高齢者が増えてきた今だからこそ高齢者も活字を読むのが当たり前だろうが、昔の人々はまだ教育が不十分であったから書物を読むという習慣がなかったため、出版社は老眼などを気にする必要などなかったのだろうとも推測される。 更にこの作者ならではの古書購入に関する意外な知識も今まで同様に盛り込まれ、例えば昔大ベストセラーになった全集などは古書として出回っているため、高価で取引されない上に嵩張るため、反って古書店が積極的に取り扱わないこと、また全集は後期になればなるほど発行部数が少なくなるため、揃えにくいことなど、私自身がその分野に今後手を付けることはなくとも、興味を覚える内容が盛り込まれている。 さて結城明季子を殺害したのは誰か? これは意外な人物だった。 曖昧と云えばもう1つ。本書のメインの登場人物である島村の私生活の問題だ。 生前の妻が勝手に不動産の名義を夫婦両名にしたことでやくざ者となった放蕩息子から遺産分配を強要され、おまけに彼の一味の者と思われる地上げ屋に付きまとわれ、電気なども勝手に切られる始末。今回の事件解決に駆り出されたものの、これら私生活の問題は一切解決しない。 正直このエピソードは島村が最有力容疑者として連絡不通になった理由のための話であるのだが、それが意外にも重くて無視できないほどの内容になっている。 これらを踏まえると意外な犯人を設定しては見たが動機はさほど練られてなく、またミスディレクションの演出のために余計な設定を持ち込んでしまったように思えてならない。上にも書いたようにディテールが濃いだけに逆にミステリとして犯人の動機という肝心な部分や登場人物のエピソードがなおざりになってしまった感があるのは正直勿体ない。 私も本好きで、できれば図書館などで借りるのではなく、自分で所有したい人間。しかも新刊であることに拘り、読むために手に入れた古本は読了後手放している。従って本とは読むために所有する物と考えており、決して集めて悦に浸る物として考えていないから、これらコレクターの境地が解りかねる。 本は読まれてこそ本であり、保管されているだけでは書物本来の意義がないではないかと思っているので、逆に云えばまだこのような境地に至っていない自分は正常であると改めて認識できた次第である。 ただ絶版を恐れて買ってはいるものの、読むスピードとつり合いが取れていないため、関心のない人から見ると私も大同小異だと思われているのかもしれないが。 紀田順一郎氏のビブリオミステリは一ミステリ読者として自分がまだごく普通のミステリ読み、書物購入者であることを再認識させられるという意味でも良著だ。 このような本に魅せられ本に淫した人々のディープな世界を見ることはしかしなんと面白い事か。どんな世界でも人を狂わせる魔力はあろうが、書物に関しては派手さがないだけに闇の如き深さがあるように思われる。 最近絶版の本は古本を購入して読むようになってきた私も本書に描かれた人々のような闇に囚われないよう気を付けねば。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ノンシリーズの『ザ・ポエット』を経て再びボッシュ登場。時はまだ野茂がドジャースで現役で投げていた時代。
シリーズ再開の事件はハリウッドの丘で遺棄されたロールスロイスのトランクから頭を撃ち抜かれた遺体が見つかるという不穏なムードで幕を開ける。その死体は映画プロデューサーのトニー・アリーソ。 さらに舞台はラスヴェガスに移り、カジノに纏わるマフィア犯罪の捜査へと進展していく。映画産業、カジノと復帰したボッシュが手掛ける事件は実に派手派手しい。 そしてこの事件がボッシュが殺人課に戻ってから初めての事件であることが明かされる。 前回『ラスト・コヨーテ』で自身の母親に纏わる事件を解決した後、強制ストレス休暇を取らされ、亡くなったパウンズの後任として配属されたグレイス・ビレッツ警部補からリハビリ期間として盗犯課に配属されるが、過去最低の殺人事件解決率を記録するとその梃入れとしてボッシュは殺人課に返り咲き、そして迎えたのが今回の事件である。 またかつてはジュリー・エドガーを相棒としながらもほとんど一匹狼状態で捜査をしていたボッシュだが新しい上司が組んだ制度、三級刑事をリーダーとした3人1組のチームとして捜査を進めるようになる。三級刑事のボッシュはリーダーとなり、彼の部下に相棒のジュリーとビレッツが古巣から引っ張ってきたキズミン・ライダーが加わっている。 自分自身の過去と因縁を前作で振り払ったボッシュの、シリーズのまさに新展開に相応しい幕開けと云えよう。 といいながらもやはり前作までの影は相変わらずボッシュを離さない。今回は1作目でパートナーとなった元FBI捜査官のエレノア・ウィッシュが再登場する。 私はエレノアが再びボッシュの前に現れると1作目の感想で述べたが、新しいシリーズの幕開けで合間見えるとは思わなかった。ボッシュの始まりには彼女がどうしても付きまとうらしい。 そして前科者となったエレノアは当然のことながら法を取り締まる側に戻れず、ラスヴェガスでギャンブルをしながらその日を暮らしている身である。さらに彼女にはある繋がりがあり、それがために彼女との再会は少なからずボッシュを再び窮地に陥れることになる。 今回ボッシュが手掛ける事件は明らかにマフィアの手口による、通称“トランク・ミュージック”と呼ばれる制裁方法によって殺された映画プロデューサー、トニー・アリーソ殺害の犯人捜しに端を発し、やがて彼が遊びで訪れていたラスヴェガスに舞台を移すと、そこから映画産業を利用したマネー・ロンダリングが発覚し、アリーソを洗濯屋として利用していたマフィアが浮上する。 更にそのアリーソが国税庁に目を付けられていたことが解り、自分たちの犯罪の痕跡を消すため、マフィアが放った刺客によって殺害された、それがこの事件の背景であることが解ってくる。 一方でメトロ市警はこれを機に長年目をつけていたマフィアの大物ジョーイ・マークスの手に縄を掛ける一世一代のチャンスだとしてボッシュに先駆けて行動し、さらにエレノアもまたジョーイの手下と関係があることが発覚して、そのことがボッシュを苦しめる。 さらには一度今回の事件について連絡した組織犯罪捜査課がアリーソをマークしていて盗聴器を仕掛けていたことも判り、一プロデューサー殺害の事件は各署、各課の思惑を色々と孕んで複雑化していく。 正直これだけでも十分お腹いっぱいになる内容だが、更にコナリーは爆弾級の仕掛けを投じる。 ボッシュが辞職の危機に置かれるのはもはやこのシリーズの定番でもあるが、これは実に驚くべき展開だった。それがゆえにこのボッシュの危機もまた引き立つわけだが、いやはやコナリーの物語構成力には毎回驚かされる。 話は変わるが今回の事件で使われている映画制作を利用したマネー・ロンダリングはいかにもありそうな話である。映画制作費自体がブラックボックスであるがために資金を集めて実際その1/10程度しか使っていなくても帳簿上に恰も全額使ったように膨らませて記載すればなかなか発覚しない隠れ蓑である。 最近の政治資金問題と云い、まだまだこの世には色んな抜け穴が存在するようだ。 新生ボッシュシリーズの大きな特徴はやはりチームプレイの妙味にある。これまで孤立無援、一匹狼の無頼刑事として誰も信じず、頼らずに捜査を続けていたボッシュだが、亡くなったパウンズに替わって新しい上司グレイス・ビレッツは相変わらず綱渡り的なボッシュの強引な捜査に一定の理解を示し、後押しする。 またボッシュがリーダーとなったジェリー・エドガーとキズミン・ライダーのチームは個性的で有能で、尚且つ自身のキャリアを危険に晒すことになりながらもボッシュの捜査の正当性を信じ、付いていく忠義心を見せている。 今までボッシュの昏い過去に根差された刑事という生き方といったような重々しさから解放された軽みというか明るみを感じさせる。それは単に久々の殺人事件捜査に携わることからくるボッシュの歓喜に根差したものだけでなく、やはり理解者を得たこと、そして仲間が出来たことに起因しているに違いない。 また忘れてならないのはアーヴィン・アーヴィング副本部長の存在だ。彼もまた警察の規範の守護者として振る舞いながらボッシュに対して理解を示し、彼をサポートする。実に味のあるバイプレイヤーぶりを本書でも発揮している。 私は1作目の『ナイトホークス』の感想でエレノア・ウィッシュはボッシュの救いの女神であったと書いた。それを裏付けるかの如く、エレノアと再会したボッシュにとって彼女はもはや人生の伴侶だと、ただひとりの女性であると述懐する。 前作『ラスト・コヨーテ』で知り合ったジャスミン・コリアンは過去に人を殺したという謎めいた女性で命懸けでしがみつく存在であると云っていたが、その関係は遠距離恋愛のために長く続かなかったと片付けられている。 知り合った時の心情の深さに対して呆気ない幕切れにもしかしてエレノアとの関係もそんな風に終わるのでは?という懸念も拭えないが、自分の手で両手に手錠をかけた女性に対しては他の女性とは違った思いの強さがあるようだと信じたい。 やはり彼女はボッシュにとってウィッシュ、つまり希望だったことを確信した。前作で過去を清算したボッシュが前に一歩踏み出したのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キングがリチャード・バックマン名義で出した4作目の作品はアーノルド・シュワルツェネッガーで映画化もされた本書。
その映画が公開されたのが1987年。なんともう30年も前のことだ。当時中学生だった私はテレビ放映された高校生の時にテレビで観た記憶がある。但し細かい粗筋は忘れたが賞金のために1人の男が逃げ、それを特殊な能力を備えたハンターたちが襲い掛かるのを徒手空拳の主人公であるシュワルツェネッガーがなんとか撃退しつつ、ゴールへと向かうと朧げながら覚えている。恐らくこの<ハンター>という設定と制限時間内で逃げ切るという設定は現在テレビで放映されている番組「逃走中」の原型になったように思える。 そんな先入観で読み進めていた本書だが、映画とはやはり、いやかなり趣が違うようだ。 Wikipediaで補完した映画の内容では主人公のベンは警察官で、上司の命令に従わなかったことで逮捕され、脱獄を果たすが、弟のアパートへ訪れるとそこには既に弟はいなく、次の住人が住んでいた。この住人はテレビ局員であり、彼女を伴って空港から脱出しようとするところを機転を利かせた彼女が大声で叫んだことで捕まり、そのままデスレース番組として人気の高い『ランニング・マン』(この表記は解説のまま)に出場させられる羽目になる。 しかし本書の主人公のベンは貧民街に住む男。2025年のアメリカは富裕層と貧困層で二極分離した社会で空気中には汚染物質が漂い、富裕層はそれらの影響のない高い土地で暮らし、貧困層はたった6ドルの材料費で200ドルで売られている安っぽいフィルターを付けないと肺が侵されてしまうような環境で暮らさなければならない。そんな苦しい環境から目を逸らすために政府はフリーテレビを支給し、出場者が脱落して命を喪うゲームを観ては満足する毎日。ベンも1日中働いても雀の涙ほどでしかない稼ぎのため、妻は売春をして日銭を稼いでいる。電話などはもちろんなく、アパートの前にある公衆電話を使って連絡を取るような状況。そんな毎日だからまだ1歳半の娘のインフルエンザの治療費などは到底なく、それを稼ぐためにテレビ局のオーディションを受けるが、その知性と身体能力を買われ、番組『ラニング・マン』に出場するというのが導入部である。 このベンの設定も映画では正義感溢れる警察官だが、本書では知性もあり、体力もありながら反抗的な性格が災いして先生に暴力を働いたかどで退学させられた男。つまりキング作品によく出てくる癇癪を抑えきれない男として描かれている。 また番組『ラニング・マン』の内容もいささか異なる。映画では地下に広がる広大なコースを舞台にそれを3時間以内に各種のタラップやハンターたちの追跡(なお映画ではストーカーという呼称)から逃れてゴールすれば犯罪は免除され膨大な賞金を得ることが出来るという設定。 原作では舞台はアメリカ全土。1時間逃げ切るごとに100ドルが与えられる。ハンターが放たれるのは12時間後、そして最大30日間生き延びれば10億ドルが賞金として得られるという、時間と行動範囲のスケールが全く違う。そのため更にテレビ放送用にビデオカセットを携え、それを自身で録画してテレビ局に送らなければならない。 従って映画のようにまず次々と必殺の武器を備えたハンターが出てくるわけではなく、ベンは犯罪の逃亡者が行うように、闇の便利屋を通じて偽装の身分証明書を作り、ジョン・グリフェン・スプリンガーと名を変え、変装し、ニューヨーク、ボストン、マンチェスター、ポートランド、デリーへと国中を渡り歩いていく。周りの人間が自分を探しているのではないかと疑心暗鬼に怯える日々を暮らしながら。 つまりどちらかと云えば昔人気を博したアメリカのドラマ『逃亡者』の方が設定としては近い。というよりもキングは1963年に放映されていたこのドラマから着想を得たのではないかと考えられる。 四面楚歌状態のリチャーズは逃亡の中で数少ない協力者たちを得る。ボストンでブラッドリーという18歳の青年は図書館でこの世の社会の歪みを知り、そのシステムを打ち砕く希望をベンに託して協力する。 彼の友人の1人、ポートランドのエルトン・パラキスもベンを匿おうとするが、息子の反社会的行動を理解しない母親によって通報され、そのパトカーからの逃走劇の最中、重傷を負う。 そんな協力者の庇護を得る中、やがてベン・リチャーズの中でもこの『ラニング・マン』へ参加する目的が変わっていく。 最初は自分の赤ん坊の治療費を得るためという利己的な目的だった。しかし汚染される空気の中、フリーテレビという娯楽を与えられることでそれらの社会問題から目をそらされ、やがて灰を患い、死に行くだけの人生を余儀なくされている低下層の人々の反逆として彼は行動するようになる。 そのため毎日送る2本のテープには政府の欺瞞に満ちた政策を暴露するメッセージを盛り込むが、これも巧妙にアフレコによって改ざんされ、単にベンが口汚く罵倒するシーンになってしまっている。映像による情報操作により、国民はベンへの怒りを盲目的に募らせるのだ。 また最も大きな違いとして映画で出てきた個性豊かな特殊技能と武器を備えたハンターは実は全く出てこない。警察との命を賭けた逃走劇が何度も繰り返されるだけで、深手を負い、満身創痍になりながらひたすら逃げるリチャーズの様子が描かれる。 さて物語は今までのキング作品と異なり、短い章立てでテンポよく進む。改行も多く、登場人物たちの主義主張や思想などが語られてはいるものの、通常の作品のようにページを埋め尽くすかのようにびっしりと書かれているわけではない。 また特徴的なのはマイナス100から始まる章が進むにつれて1つずつ減っていることだ。つまりこれはゼロ時間に向けてのカウントダウンとなっている。 果たしてこの数字が0となる時に何が起こるのか? それもまた読み手の興味をそそる。 本書の設定は2025年の未来。従って2020年現在よりもまだ5年先の時代だが、1982年に刊行された当時のキングの想像力によって補われた未来像はやはり今の世の中と比べればいささか限界を感じる。 それはやはりウェブの存在が大きいだろう。この新たな通信の画期的な発明はやはり想像力豊かなキングをしても発想しきれなかったようだ。 ベンが逃走中の模様をテレビで放送するためにビデオカメラとビデオテープを携えなければならないというのはやはりどうしても無理が感じる。作中では技術の進歩でかなり軽量化されていると書かれているが、60巻ものビデオテープを持ちながら逃走し、毎日2巻を投函しなければならないというのは滑稽としか思えない。 今ならばウェアラブルカメラやスマートフォンなどで撮影もでき、そのままメールで送付すれば済むことだ。 もう1つはエアカーが登場することだ。このドラえもんにも登場する未来を象徴する宙に浮いて移動する自動車とタイヤのついた自動車の2種類がこの世界では活用されており、カーチェイスにはこの特性を活かした演出が成されている。 とはいえ、恐らく未来において今ではこのエアカーは実用化しないのではないかと個人的には思っている。自動運転技術の方に技術の核心はシフトしているからだ。 またタイヤが不要になる車を発明することはタイヤ業界が黙っていないだろう。 完全なる悪対正義の構図を描きながら、映画は制限時間内で特殊能力を持つハンターたちとの戦いを描いた徹底したエンタテインメント作品となった。そして原作である本書は絶対不利な状況でしたたかに生きる、ドブネズミのようにしぶとい男の逃走と叛逆の物語として描いた。 どちらもメディアによる情報操作され、完全に管理された社会の恐ろしさを描きながら、こうもテイストが異なるとはなかなかに興味深い。 私は高校生の頃に観た映画を否定しない。作者は設定だけを拝借した、いわばほとんど別の作品と化した映画に対して批判的かもしれないが、逆に別の作品として捉えれば娯楽作品として愉しめたからだ。逆にそれから30年以上経った今、大人になって本書を取ったことは両者を理解するのにいい頃合いだったと思う。 公害問題を扱った本書をパリ協定から離脱したトランプ大統領はいかにして読むのだろうか。『デッド・ゾーン』の時にも感じたがキングがこの頃に著した作品に登場する圧政者たちが現代のトランプ大統領と奇妙に重なるのが恐ろしくてならない。 実は今こそ80年代のキング作品を読み返す時期ではないか。アメリカの暗鬱な未来の構図がまさにここに描かれていると思うのは私だけだろうか。 シュワルツェネッガーの昔の映画の原作という先入観に囚われずに一読することをお勧めしたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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Vシリーズ7作目の舞台は奥深い山中にある怪しい研究所。しかもそこにアクセスする橋は何者かによって爆破され、電話線も断ち切られ、外部への連絡も遮断された状態となる、まさに陸の孤島物ミステリ。
更にその研究所の創設者は不治の病に侵され、仮面を被り、車椅子に乗ってそこにあるボタンでコミュニケーションを交わす老人と本格ミステリのガジェットに包まれた作品だ。 そして例によって例の如くそんな閉鎖された空間で起きる殺人事件にお馴染みの瀬在丸紅子と保呂草潤平、小鳥遊練無と香具山紫子の面々が挑む。 まず本書において小鳥遊練無が今回パーティに招待されるきっかけとなった纐纈老人との交流は短編集『地球儀のスライス』に収録された小鳥遊練無初登場作「気さくなお人形、19歳」に描かれている。直接的には纐纈老人とのエピソードは本書とは関係ないが、単なるイントロダクションだけでなく短編としてもまた小鳥遊練無の魅力を知る上でもいい短編なのでぜひ一読を勧める。 今回陸の孤島でありながらもなぜか陰惨さが募らず、常にドライな雰囲気なのはこれが森ミステリだからかもしれないが、舞台が一流の科学者の集まる研究所であり、みな自分の研究以外のことにあまり関心を持たない人物ばかりだからだ。同じ同僚でも死んでしまえばただの物とばかり、関心を寄せず、ただ自分の研究する時間を貰えれば刑事の云う通りに研究所の中に留まることを全く厭わない、いやむしろそれが日常である人々の集団。そして彼らの中で超音波という共通のテーマはあれど、それぞれ重なる研究はなく、とにかく研究が大好きな人々たちであるため、金や権力よりも研究ができる環境と時間と予算があれば欲しいものがないのだ。殺人事件なんかのために自分の貴重な時間が取られることを心底嫌う人々、つまりいわゆる一般的な欲求のために犯罪を起こすという動機がない連中というのが面白い。 面白いのだがしかし本書は今までのシリーズの中でもかなり重苦しい雰囲気を持っている。特に紅子たち一行に危難が及ぶところが珍しい。 捜査を共にした瀬在丸紅子と小鳥遊練無、そして祖父江七夏が何者かによって無響室に閉じ込め、睡眠ガスによって昏倒させられるのだ。しかもその上、小鳥遊練無命を奪われそうな危機に見舞われる。彼は人工呼吸で息を吹き返されなければならないほどの窮地に陥る。 また紅子が無響室に閉じ込められた時に幼き頃に愛犬を亡くした記憶を想起させ、打ち震えるところなんかもいつも超然とした彼女にしては実に珍しい光景だ。 そして第1の殺人の次に起こる第2の殺人は前出の仮面の車椅子老人こと土井博士が自室で首なし死体となって発見されるというショッキングな展開。しかもその死体にはさらに両手首が切断され持ち出されていた。 事件の陰惨さとは裏腹に自分たちの研究に没頭する科学者たちという古典的な設定の中に現代的なモチーフが持ち込まれた奇妙な雰囲気のミステリの真相はまたも鮮やかに紅子によって解き明かされる。 いつも思うことだが、真相を聞かされるとなぜこんな簡単なことに気付かなかったのかと思わされる。 また森ミステリ特有の事件のトリック以上のトリックが隠されている趣向は本書でも踏襲されている。 この隠れメッセージが今回一番驚いてしまった。これぞ森ミステリの醍醐味だろう。 今にして思えばこの土井超音波研究所はデビュー作で登場する真賀田研究所の原型だったのかもしれない。 共に自分たちの研究に没頭する科学者たちの楽園であるが、前者は相続という実に詰まらない問題でそれを手放さなければならなくなった砂上の楼閣であったのに対し、後者は大天才真賀田四季によって潤沢な資金によって支えられた理想の楽園となった。 超音波の分野で天才の名を恣にした土井博士は真賀田四季のプロトタイプだったと考えてもおかしくはないだろう。 なぜならプロローグで保呂草は次のように結んでいる。 未来は過去を映す鏡だ。 心配する者はいつか後悔するだろう。 自分が生まれ変わるなんて信じている奴にかぎって、ちっとも死なない。 もしかしたら土井博士は真賀田四季の前世かもしれない。そんな想像をして愉しむのもまた森ミステリの醍醐味の1つだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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宝引きの辰捕者帳も本書で第4集目。辰親分の人情味溢れる裁きは本書でも健在だ。
まずは幕開けの表題作。 悪人の出ない物語。 権威を振るった鷹匠の一行は宿泊した宿の従業員の話では非常に礼儀が正しく、ほれぼれするような男ぶりだったという。そんな一行のうちの1人が貴重な鷹を死なせてしまったことで罰を受けようとなっている。 しかし一方で辰親分は事の真相を見破ってしまう。辰親分の一計は江戸っ子ならではの味な采配。 自分の厄を心配する妻のお柳の不機嫌を番の鷹に擬えた、なんとも粋な1編である。 続く「笠秋草」は神田鈴町で紫染屋を営む内田屋で起きる怪事に辰親分が挑むお話。 妊娠中の妻を置いて夜な夜な出歩く若旦那と云えば江戸の風俗である吉原への女郎屋通いというのは誰もがピンと来る展開だろう。 なお題名の『笠秋草』は紫染屋の若旦那の清太郎が遊女に上げようとデザインした紋を指す。いやはやしかし男は昔も今も懲りないものだねぇ。 紋章上絵師でもある作者の本領発揮とも云えるのが次の「角平市松」。 身体と首を挿げ替えられた男女の死体という本格ミステリならではの奇妙な死体が登場するものの、本作のメインの謎は江戸で流行った角平市松を創った職人角平の行方を探るところがメインだ。しかもそれを探るのが宝引きの辰ではなく、語り手である仕立屋の若旦那であるところが面白い。 彼が一介の職人を調べに神田川にある船宿、新シ橋こと新橋にある古着屋日本橋馬喰町の紺屋と渡り歩き、はたまた板橋で行われる縁日に行ったりとなんとも江戸風情に溢れた道行が興味深い。 自身が職人である泡坂氏のある時は小説を書き、またある時は新たな柄や紋を考える、当時の自由気ままな生活がにじみ出ている作品だ。 次の「この手かさね」も着物に纏わる話だ。 着物に纏わる因縁が同じような悲劇を再発させる。同じような事件が15年前に起き、その事件の犯人が見つからなかったが、可也屋が形見分けで貰った帯がその事件を解決する。 一転して怪奇じみた装いで幕を開けるのが「墓磨きの怪」。 闇夜に乗じていつの間にか墓が綺麗に磨かれているという悪戯か親切かよく解らない珍事が魅力的であり、またその犯人を辰親分ではなく語り手の長二郎が見抜くところも珍しい。 しかし何よりも本作の魅力は物語の中心となる「だからの昇平」というキャラクターにある。 役者の父親を持ちながらも口下手で何よりも馬鹿が付くほどの正直者。従って芝居であっても役名ではなく、その人の名前で呼んでしまうという実に愛すべきキャラクター。そのお人よしな性格を利用されて、馬鹿の上に超が付くほどの正直ぶりを発揮されてはもう愛さずにはいられないではないか。 次の「天狗飛び」では辰親分一行は江戸を離れて大山詣りの道中にある。 昔から信心深い人、迷信もしくは云い伝えを重んじる人はいるもので、本書で登場する建具屋の平八は何かつけて縁起を担ぐ人物。何か誰かに不具合あればどれそれとあれそれを一緒に食べるからだ、この季節にはこの食べ物を食べるとこういう病気になりにくくなる、縁起のいい名前の店には必ず立ち寄る、云々。 一方でお札を高いところに貼ればご利益があると信じている松吉もまた濡れた手拭に札を貼り付けて投げて貼る、投げ貼りなどをし、上手く貼れないがために算治に肩車をしてもらって貼り直そうとしたところ、バランスを崩して足を挫いてしまう無様を見せる。自らに不幸が降りかからぬよう縁起を担ぐのにそのために無茶をして逆に不幸を呼び込んでしまう滑稽な人々を描いたのが本作だ。 特に日本人は数字には敏感で4とか9とかは特に嫌う。そんな日本人の性質がこの天狗にさらわれるという戯れ事を生み出した。個人的にはこのような関係のないところに関係を見出す日本人の言霊信仰は嫌いではなく、むしろ好きな方なので平八が殊更に説く数々の縁起事は非常に興味深く読めた。しかし何事も程々にってことですな。 ダジャレのような題名「にっころ河岸」はそのユーモアな題名とは裏腹にホラー色が強い作品である。 この不思議な話に対する謎解きはない。つまりこの話があるからこそ、勇次はいつも不思議な出来事に遭遇すると思わせられるのだ。 しかし男と女の間とはいつになっても割り切れぬものよのぉ。 最後の「面影蛍」は他の短編とは異なる展開の物語。江戸川に家族とともに蛍狩りに来た宝引きの辰はそこにいた駿河屋という乾物屋を営む主人、弥平と親しくなり。酒を酌み交わすことに。杯が進むにつれ、弥平は自分が若き頃に経験したある女性との恋物語の顛末を語るのだった。 最終話の本作は全て語り手である弥平の独白で物語が進むため、宝引きの辰との会話が一切ない異色作となっている。 酒を飲みながら弥平が語るのは蛍に纏わる彼の若き頃の恋話。江戸川に蛍狩りに行った夜に出遭ったのは牛込矢来下の米屋島村屋の娘お由。ほんの一時を過ごした2人はそのまま恋に落ちるが、家業が乾物屋で頑固な江戸っ子の弥平の親父は島村屋の番頭が三顧の礼を持って弥平とお由を結び付けたいと頼むが頑として首を縦に振らない。弥平はお由の想いを真摯に受け止め、どうにかこの恋が成就するためにある一計を案じる。その企みは狙い通りで晴れてお由と一緒になったはずだったが、そこには哀しい結末が待っていた。 何とも哀しい江戸の商人のつまらぬ意地っ張りが招いた悲劇の物語。 宝引きの辰も実に久しぶりで前作の『凧をみる武士』を読んだのがなんと約16年前。しかしそんな月日もひとたび捲れば粋な江戸の世界へ迷い込み、ご用聞きの辰親分の人情味溢れる采配に思わずひゅうと口笛を吹きたくなる。 1話ごとに語り手が変わる手法も相変わらずで、1話目は辰親分の子分算治、2話目は事件の舞台となる内田屋の使い伊吉、3話目は仕立屋の沼田屋の若旦那、4話目は噺家の可也屋文蛙、5話目が経師屋の名川長二郎、6話目が木挽町の建具屋の久兵衛の弟子の新吾、7話目は神田鈴町の畳屋現七の弟子勇次、最終話は小日向水道町で駿河屋という乾物屋をやっている弥平と算治を除いて全て商人の目線で語られる。 そのいずれもが宝引きの辰の評判を褒め称えていることで辰が腕利きの岡っ引きであることが解るのである。特に本書では娘のお景のお転婆ぶりと妻の柳の器量が垣間見え、この親分にしてこの母娘ありとどんどん人物像が厚くなっていくところがいいのだ。 さてこれら8編の中には過去の因果が関係している話が少なくない。 「笠秋草」では身籠り中の妻の嫉妬から起こした小火騒ぎの事件を『源氏物語』で六畳御息所の人魂のエピソードを用いて真相をごまかしたり、「この手かさね」では15年前に起きた元役者で玉の輿に乗った笠屋の主人が女房の連れ子と姦通していたことで娘から殺される事件の真犯人が見つかることで現代の事件も暴かれる。「墓磨きの怪」では30年前に起きた江戸中の墓が何者かによって磨かれるという珍事にヒントを得て起こした骨董屋の騒動であり、「天狗飛び」では昔富士登山であった天狗にさらわれるという事件が縁起担ぎというつまらぬ慣習ゆえに大山詣りにも波及する。 つまり今もそうであるが日本人というのは過去の因果というのをいつまでも大事にし、またそれを信じることで目の前に起きている不吉事を擬えて安心を得ようとする民族であることが解る。特に様々な事柄や屋号についても掛詞に興じていた江戸町人などはその最たるものだったのではないだろうか。 しかしほとんどが男と女の恋沙汰に絡む因縁に絡んだ事件である。現代とは異なり、言葉や柄、そして因習や慣習を重んじ、更に家業が宿命とばかりに人生を束縛するこの時代、色んなことを諦めざるを得ないのが通例だった中で、どうしてもそれが諦めきれなかった人々がこのような事件を起こす。 しかしそれは人間が生きる上でごく普通に主張されるべき権利だったのだ。 泡坂氏の各短編には江戸の町人文化と当時の地名や風習が実に色鮮やかにしかも丹念に描かれ、江戸の風流を感じさせるが、一方でその風流さが生きにくい時代の中で見出した娯楽であったこと、そんな中でもがき苦しむ人々がいた事。しかしまた生きにくい時代を愚直に生きる人々にまた素晴らしさを感じるのだ。そんな光と影を映し出している。 さて本書における個人的ベストは「墓磨きの怪」を挙げたい。闇夜に乗じて方々の寺が墓が磨かれているという奇妙な導入部と一連の怪事が骨壺に使われた値打ち物の壺を手に入れるための策だったという謎よりもこの話で出てきた正直者の「だからの昇平」が実に魅力的。騙されているのを知らずに最後まで愚直に墓磨きを続ける、間の抜けた、しかしお人よし。こういう男は放っておけないのだ。 次点は「角平市松」。これもまた商売などは二の次でとことん新しい柄を創作することに意欲を燃やし、最初から最後の工程まで自分でしないと気が済まないという根っからの職人である角平のキャラクターが強い印象を残す。泡坂氏は角平の為人を事細かに描写するわけでなく、その仕事ぶりを語ることで彼の愚直さを語るところが上手い。 この角平の創作した柄がその他の作品でも垣間見えるところも粋な趣向だし、そして何よりも私が驚いたのはこの作品で話題になる「角平市松」という架空の柄を紋章上絵師である作者が実際に創作しているところだ。この柄は本書には収録されていないものの、WEBで調べれば出てくるのでぜひともご覧になって頂きたい。こういう手間が物語に風味を与え、創作上の人物角平への存在感を色濃くするのだ。 幽霊騒ぎに縁起担ぎ、そして迷信。そんな現代人から忘れ去られようとしている昔ながらの云い伝えを物語に見事に溶かし込む。なおかつそんな文化の中で生きてきた明るくも、時に心の闇に取り込まれてしまう町人たちを、時には厳しく、時には優しく守る宝引きの辰。 彼がいるから今日のお江戸も安泰だ。そんな言葉が思わず出るような辰親分の活躍をまたいつか読みたい。また15年後ぐらいかなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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コナリー初のノンシリーズである本書は双子の兄の警察官の自殺の真相を調べる弟の新聞記者が探偵役を務める。従って今までのボッシュの破天荒な捜査とは違った事件のアプローチが描かれ、興味深い。
自分の双子の兄で殺人課の刑事だったショーンが自殺したというショッキングなニュースを知り、そのことを記事にしようと決意した弟ジャック・マカヴォイが事件を調べるうちに他の事件にも似たような符号があることに気付き、一連の警官の自殺事件の背後に潜む連続殺人犯の存在を突き止め、その正体を探ると云うのが大方の物語だ。 しかしコナリーは連続殺人犯“ザ・ポエット”をすぐには出さず、あくまで新聞記者ジャック・マカヴォイの取材を通じて一歩一歩その犯人の存在を浮き彫りにしていく。 そしてこれまで刑事、しかもハリウッド警察という地方の一警察署の一介の殺人課刑事の捜査を描いてきたハリー・ボッシュシリーズとは違い、複数の州にまたがった広域的連続殺人犯の捜査をFBIと共に同行する形が採られており、行動範囲、捜査の質ともに今までよりも濃い内容となっている。 ハリー・ボッシュシリーズが足で稼ぎ、またほとんど違法とも思われる強引な捜査で絶えず警察のバッジを回収されそうになる危うい捜査の中から集めた数々の情報と証拠を長年の刑事の勘による閃きによって事件を解決する、一匹狼の刑事の過程を愉しむ物語ならば本書はFBIという最先端の操作技術を持つ組織がプロファイリングや警察機構の更に上を行く情報システム、鑑識技術を駆使してそれこそ全米にまたがって多数の捜査官によって事件を同時並行的に捜査する、質、量ともに警察を凌駕する広域捜査の妙を愉しむ作品が本書である。 主人公ジャック・マカヴォイは社会部の新聞記者で、一般的な新聞記者と違い、じっくりと取材をしたドキュメントめいた記事を書くのを専門としている。扱うのはいつも殺人について。殺された人の周囲とその人が殺された事件を丹念に調べ、記事にする。そして新聞記者をしながらいつか作家としてデビューすることを夢見ている男だ。 コナリー自身新聞記者からミステリ作家に転身した経歴の持ち主なだけにこれまでの登場人物にも増して作者自身が最も投影された人物のように思える。 物語の合間に挿入される新聞記者としての心情の数々。 大きなスクープを当てて注目され、ピュリッツァー賞を獲り、それを手土産に地方新聞社からLA、ニューヨーク、ワシントンのビッグ・スリーの一つへ移り、名新聞記者へと名を馳せた後、犯罪実録作家としてデビューする。町へ行けばそこで起きた過去の事件を思い出し、その現場にまるで観光名所のように訪れて、その時の事件について思いを馳せ、自分を重ねる。興味があるのはそんな事件現場ばかり。 自分の行動範囲で発行される新聞には全て目を通し、自分が記事にするに足りうる殺人事件を毎日探している。自分の記事の載っている新聞は自宅に取っておく。ただいつも自分も事件の最前線にいたいという思いが募っていた。自分も彼らの捜査に加わることで事件をもっと臨場感持って感じたかった。事件の起きた“後”を追うのではなく、事件をリアルタイムで捜査官と共に追いかけ、一員になりたかったと願っていた。 ジャックのこの心の吐露はハリー・ボッシュシリーズでデビューし、好評を以って迎えられた1作『ナイトホークス』を皮切りに立て続けに3作出して作家としての地歩を固めたコナリーがデビュー前の自分を重ねているかのように読めて非常に興味深かった。 そして本書ではボッシュシリーズとのリンクも見られる。 小児性愛者ウィリアム・グラッデンについて書いたLAタイムズの記者ケイシャ・ラッセルは前作『ラスト・コヨーテ』でボッシュに協力した若手の女性記者である。前作では披露されなかった彼女の記事が本書では読める。ボッシュシリーズから登場するのがこのケイシャの記事だけということから考えても刑事よりも新聞記者にスポットを当てたかったからだろう。 またジャックには幼き頃に姉を亡くした苦い過去がある。 家族で湖に出かけた時に凍った湖の上を走った際に、それを引き留めようとした姉が、体重がジャックよりも重いばかりに氷が割れ、湖に落ちてしまったのだ。それを引き起こしたのが自分であるとその頃から悔恨の念に駆られている。だからこそ兄のショーンを再び喪った彼は犯人に対する強い憎しみを抱き、今度こそ兄弟の無念を晴らそうと躍起になっているのだ。 そして彼にはもう1つの理由があった。それはショーンの妻ライリーがかつての初恋の相手だったことだ。それも自分の不注意で相思相愛になりかけたチャンスを逃したためにその思いはジャックの中で途切れず、今もまだどこかライリーのことが気にかかっている。新聞記者としての名誉、ノンフィクション作家への足掛かり、姉、兄、そして義姉への贖罪、色んな要素が複雑に絡んでジャックの原動力となっている。 その連続殺人犯がエドガー・アラン・ポオの詩を現場に残しているところが文学的風味を与えている。特にジャックが過去の殺人課刑事自殺事件のファイルとポオの詩篇を比べるためにポオの全集に読み耽る件は実に興味深い。ポオの詩はジャック自身の過去の忌まわしい記憶を想起させ、心の深淵を抉り、そこに潜んでいる冷たいものを鷲掴みしてポオその人の心の憂鬱と同化していく。 その様子はなんとも文学的香味に溢れ、深くその詩の世界、いや死の世界へと沈み込んでいくかのようだ。その詩は人々の記憶に眠る死の恐怖を喚起させるとジャックは述べる。 しかし次から次へと矢継ぎ早に妙手を打ってくるものだ、コナリーは。 今回ジャックが一緒に行動を共にすることになったFBI捜査官の主だったメンバーはレイチェル・ウォリング、ボブ・バッカス、ゴードン・トースンの3人。 レイチェルとゴードンは元夫婦の関係で反発し合う関係である。レイチェルは最初は女ながらの凄腕の捜査官として登場し、ジャックを手玉に取ろうとしていたが、兄が殺されたことを知り、捜査に加わるようになってからジャックの世話役となり、やがてお互い恋仲になるまで発展する(逢って間もないのにすぐにベッドインする関係が実にアメリカ人らしいと思うのだが。やはりストレスの溜まる仕事をしている女性はどこかで発散させないといけないのだろうか)。 一方ボブ・バッカスはレイチェルたちの上司で良識派の人物。冷静に物事を判断しながらもジャックを、捜査官にありがちなように見下したような態度を取らず、むしろ今回の連続殺人事件を発見してくれた功労者として対等に扱う紳士だ。 そして最後のゴードン・トースンは典型的な高圧的なFBI捜査官で新聞記者であるジャックを目の敵にしている。おまけに元妻といい仲にあることを気にしてか、いつも嫌味をいい、そして見下した態度をジャックに向ける。ジャックはウォレンに今回の記事が先んじられた原因はこのトースンにあると信じて疑わず、いわば犬猿の仲である。 しかしコナリーは物語の中盤、反発し合う2人をパートナーと組ませて話を展開させていく。共に行動することでジャックはトースンが優秀なFBI捜査官であることに気付かされ、見方を変えるようになる。 このようにコナリーは登場人物をステレオタイプに描かず、意外な側面とミスマッチの妙を用いることで人物と物語に膨らみをもたらすのだ。次第にお互いの有能さに気付いていく展開は実に読んでいて面白かった。 さて物語は小児愛者であるウィリアム・グラッデンの話を合間に挟みながら展開する。<詩人>の特徴である子供を対象にした殺人事件、自分が誰よりも頭がいいと思っている優越感に満ちた人物、そして催眠術を掛ける能力を有していることなど、これらの条件が全てこのウィリアムに当て嵌まるが、私はこれこそ作者の巧みなミスリードであると思った。 人は何かを得ようとすると何かを失う。そして得た物か失った物かいずれかが本当に欲しかったものなのかはその後の人生で答えが出るものだ。 コナリーの紡ぐ壮大なボッシュ・サーガの世界でまた今後ジャックとレイチェルの2人がなんらかの形で登場し、その後の2人を知ることが出来ることを期待して、また次の作品を手に取ろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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モダンホラーの巨匠キング初期の傑作と云われる本書は一般的に狂犬病に罹った犬が車に閉じ込められた人を襲うだけで1本の長編を書いたと評されている物語だが、もちろんそんなことはない。
ただ物語の始まりはちょっと異様な雰囲気に満ちている。 物語の舞台はメイン州キャッスル・ロック。そこは『デッド・ゾーン』でジョン・スミスによって正体が暴かれた連続殺人鬼フランク・ドッドが住んでいた町だ。そして連続殺人鬼の自殺は町に安全と安心をもたらしたが、同時に恐怖と悪夢の影を残し、今なお夜更かしする子供たちを寝かすときに「早く寝ないとフランク・ドッドが来るよ」という脅し文句が生まれるまでになっている。 そんな名残がまだ残る年に物語の主人公一家トレントンの子供タッドの押し入れにフランク・ドッドの幽霊が住まい、夜毎タッドを脅すという怪奇現象が語られる。 更に物語の中心となる対照的な夫婦の関係もクライマックスに向けて実に読ませるアクセントとなっている。 一方のヴィク・トレントンとドナの裕福な夫婦はしかし夫の独立でニューヨークからキャッスル・ロックという田舎町に引っ越した妻が日々の退屈を持て余して、家具修理業の男と浮気をし、それを浮気相手からバラされるという夫婦間の問題を抱えている。 もう一方のジョー・キャンバーとチャリティ夫婦は腕のいい自動車修理工だが、高圧的で暴力を振るう夫を恐れる妻が宝くじで5千ドル当てたのをきっかけに初めて夫抜きで友人宅へ愛する息子を連れて旅行に行く顛末が描かれる。 クージョに関わる二家族のそれぞれの事情を丹念に描き、下拵えが十分に終わったところでようやく本書の主題である、炎天下の車内での狂犬との戦いが描かれる。それが始まるのが233ページでちょうど物語の半分のところである。そこから延々とこの地味な戦いが繰り広げられる。 しかしこの地味な戦いが実に読ませる。 町外れの、道の先は廃棄場しかない行き止まりの道にある自動車修理工場。旅行に出かけた妻と子。残された夫とその隣人は既にクージョによって殺されている。更に閉じ込められた親子の夫は出張中で不在。 そして、これが一番重要なのだが、携帯電話がまだ存在していない頃の出来事であること。またその夫は会社の存亡を賭けた交渉に臨み、なおかつ出発直前に妻の浮気が発覚して妻に対する愛情が揺れ動いていること。 この狂犬と親子の永い戦いにキングは実に周到にエピソードを盛り込み、「その時」を演出する。 これはキングにとってもチャレンジングな作品だったのではないか。 今までは念動力やサイコメトリーなど超能力者を主人公にしたり、吸血鬼や幽霊屋敷といった古典的な恐怖の対象を現代風にアレンジする、空想の産物を現実的な我々の生活環境に落とし込む創作をしていたが、今回は狂犬に襲われるという事件をエンストした車内という極限的に限定された場所で恐怖と戦いながら生き延びようとするという、どこかで起こってもおかしくないことを恐怖の物語として描いているところに大きな特徴、いや変化があると云える。更に車の中といういわば最小の舞台での格闘を約230ページに亘って語るというのはよほどの筆力と想像力がないとできないことだ。 しかし彼はそれをやってのけた。 本書を書いたことで恐らくキングは超常現象や化け物に頼らずともどんなテーマでも面白く、そして怖く書いてみせる自負が確信に変わったことだろう。 だからこそデビューして43年経った2017年の今でもベストセラーランキングされ、そして日本の年末ランキングでも上位に名を連ねる作品が書けるのだ。 これは単なる狂犬に襲われた親子の物語ではない。物語の影に『デッド・ゾーン』で登場した連続殺人鬼フランク・ドッドの生霊がまだ蠢いているからだ。 私は本書の結末にキングとクーンツの違いを見る。 どんなに絶望的な状況に陥っても、必ずハッピーエンドをもたらすクーンツの作品はどんな困難でも必ず克服できると物語の裏にメッセージとして込めているからだろうが、逆に云えば結末が容易に付いてしまうのだ。 しかしキングは違う。彼は決して登場人物に容赦をしない。だからこそ物語の先行きが予想不可能で読者は終始心を揺さぶられ続けられるのだ。 こうなるとキングの作品はただ読んでいるだけでは済まない。各物語に散りばめられた相関を丁寧に結びつけることで何か発見があるのかもしれない。 キングの物語世界を慎重に歩みながら、これからも読み進めることとしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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飛行機好きの森氏がとうとうパイロットを題材にした作品を描いたのが本書。シリーズ物となっており、短編集を含む5作が発表されている。
何処とも知れない、しかし世界のどこかであることは間違いない場所でいつの頃なのかも解らない時代を舞台にいつも以上に仄めかしが多い文章で、世界観を理解する説明めいた文章はなく、主人公カンナミ・ユーヒチの一人称叙述で物語は断片的に淡々と進んでいく。 その内容はまさに空を飛んでいるかのように掴みどころがない。 それぞれが何か秘密を抱えているようだが、カンナミ・ユーヒチの一人称叙述で進むこの作品では全てが雲を掴んでいるかのようになかなか手応えが感じられない。それは主人公のカンナミをはじめ各登場人物たちがあまり人に関心を持たない性格だからだ。 戦時下の前線にいるパイロットや整備士などにとって今いる仲間はいつ死んでもおかしくない、つまり今日は逢えても明日は逢えるか解らない境遇であるため、他人と距離を置き、ほどほどに付き合う程度の人間関係を構築しないからだろう。だからカンナミが色々質問しても「それを知って何になる?」と云わんばかりに沈黙で応える。 しかし日数が経つと次第に打ち解けて断片的に自分のことや他人のこと、そして過去のことが断片的に語られていく。 まあ、現代の人間関係と非常に似通っていてある意味リアルでもあるのだが。 そんな独特の浮遊感を持ちながら進む作品はしかし、カンナミたちが飛行機に乗って空を飛ぶとたちまち澄み渡る空の青さと雲の白さとそして眩しい太陽の日差しの下で自由闊達に躍動する飛行機たちの姿とカンナミ・ユーヒチが機体と一体になって空を飛ぶ描写が瑞々しいほど色鮮やかに浮かび上がる。そして敵と相見える空中戦ではコンマ秒単位に研ぎ澄まされた時間と空間把握能力が研ぎ澄まされた皮膚感覚を通じて語られる。 それは人の生き死にを扱っているのになんとも美しく、空中でのオペラを奏でているようだ。飛行機乗りでしか表現できないようなこの解放感と無敵感をなぜ森氏がこれほどまでに鮮やかに描写できるのか、不思議でならない。 また飛行機の設備に関する詳細な説明や整備士の笹倉が話す種々の改造の件などは森氏が欣喜雀躍しながら書いているのが目に浮かぶぐらい微に入り細を穿っている。 淡々と進む物語は随所にそんな美しい飛行戦をアクセントに挟みながら、カンナミ・ユーヒチの日常と彼の仲間たちの日常、そして変化が語られ、そして徐々に物語が形を表していく。 カンナミの前任者クリタ・ジンロウは果たして本当に上司の草薙水素が殺したのか? カンナミ、そして草薙が属するキルドレとは一体何なのか? 飛行機乗りの一人湯田川が任務中に行方不明になり、メンバーは他の基地に合流し、合同作戦に参加した三ツ矢碧とその仲間鯉目新技、彩雅が加わり、元の基地へと戻っていく。そこで初めてカンナミが赴任した基地が兎離洲という土地にあることが判明する。そして物語の終盤にようやくキルドレの正体が明かされる。 キルドレ、それは永遠に生きる存在。遺伝子制御剤の開発の途中で突然生まれた存在。そんないつ終わるかもしれない生にもはや記憶などは必要なく、そこには終わりなき日常を生きるだけの日々は浮遊感を抱えているだけだ。 死なない彼らは飛行機乗りとして戦場に駆り出される。それは永遠に続く生をどうにか終わらせるために。 彼らは何と戦っているのかも知らない。しかし目の前に敵があり、それが彼らが飛ぶ理由だ。空にいる時だけ生を感じることが出来るからこそ死と隣り合わせの世界で生きるために敵を殺しながら、死に憧れつつも生き長らえる矛盾を抱えて彼らは今日も空を飛ぶ。 南国の僻地で生活していた頃に読んだ私にとって、この変わり映えのない日常を生きる彼らの物語を読むには実に最適だった。 月曜日が始まったかと思うといつの間にか金曜日を迎え、そして土曜日になり一週間が終る。1日の休みを経てまた月曜日が始まるが、さしてテレビ番組を見るわけでなく、また塀に囲まれた中で暮らすだけの毎日ではどこかに行くことさえも許されない。 朝起きて仕事をして帰って日本から持ってきた録画を観て、読書をし、ウェブ鑑賞した後は床に就き、そしてまた朝が始まるだけの日常。そんな同じことの繰り返しを生きる私の生活と彼らの生活は非常に似通ったものを感じた。 この奇妙な世界での飛行機乗りたちの物語はまだ序章といったところだろう。 途中でカンナミたちの同僚となったエースを自負する三ツ矢碧は果たしてキルドレなのか? かつて草薙の上司であった凄腕の敵パイロット黒豹との対決は? などまだまだ語られるべき話は残っている。 地面から5センチほど宙に浮いたような感覚で読み進めた本書だったが、最後になってどうにかその世界へと着陸することが叶った。 森氏が開いた新たな物語世界。次作からじっくり読み進めていくことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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まだ法月綸太郎氏が後期クイーン問題に頭を大いに悩ませていた頃に放ったロジック全開の短編集。
まずホテルの一室で男女の切断死体が発見される「重ねて二つ」はただの2つの死体ではなく、上半身が女性、下半身が男性という衝撃的なシチュエーションで幕が上がる。 冒頭から実に奇妙な事件の登場である。上半身女性、下半身男性の死体。しかももう片方は見つからない。こんな奇妙な状況で刑事は見事に看破する。 ただ密室といい、男女混合の死体といい、それらが犯人の自己顕示欲の強さだけでこんな奇妙な死体を生み出したという動機がなんとも弱い。 単に密室を作りたい、衝撃的な死体を作りたいという脆弱な動機を法月氏は成功していない。第一、死体から流れ出る血の問題とか死臭のことを考えるとトリックありきの作品としか思えない。 「懐中電灯」は倒叙ミステリ。 ギャンブル場でしか繋がりのない男2人による現金強奪事件。ATMへの入金の機会を狙って借金で銀行の金を横領した行員が手引きし、見事強奪に成功するが現金の独り占めを企んで一方がもう一方を山中で殺害する。事件としては実に典型的な展開。 このいわばどこにでもあるがしかし犯人逮捕が難しい事件をある小道具が完全な証拠となって発覚する一連のロジックは実に小気味よい。 葛城警部の尋問もミスリーディングの妙を思わせる様は、右手に集中させながら左手に注意を背ける、見事なマジックを見ているかのよう。見事な佳品である。 3編目の「黒いマリア」はカーの作品を彷彿させるようなオカルトめいた作品。 鍵のかかった事務所のソファで亡くなった男、その中の金庫に閉じ込められた窃盗犯の死体、鍵のかかったキャビネットに閉じ込められた女性事務員。 三重密室の状況でさらに夜中の警視庁に訪れた黒づくめの婦人と実にオカルトチックな設定だが事件の真相そのものはさほどでもない。 事件そのものもさほどオカルトめいてないし、また七森映子との面談も葛城が仮眠中に起きたような状況だが、雰囲気としてはそぐわない事件だったと思わざるを得ない、ちょっと背伸びした感のある作品である。 「トランスミッション」は葛城警部が登場しない誘拐事件に巻き込まれた男の物語。 児童誘拐の間違い電話というシチュエーションの妙が面白い。電話を受け取った僕はそのまま本来の相手に伝えるメッセンジャーに成りすます。しかし単なるメッセンジャーに終わらず、事件に興味を持ってしまったことが彼の人生を変えてしまう。 何とも不思議な話である。 続く「シャドウ・プレイ」も「トランスミッション」で登場した推理小説家と思しき男、羽島彰が登場する奇妙なミステリ。 小説家の友人が電話越しに語るドッペルゲンガーを扱ったミステリの話をし出す。その小説には作者と同名の人物が登場し、おまけに聞き手の友人も同名で登場する。この新作の話が登場人物が同名であるがために次第に創作の世界と現実の世界の境が曖昧となってくる。 もはや何が真実で何が虚構なのか。乱歩の有名なあの夢と現の反転を謳った名句が浮かぶような作品だ。 もはやこれはロスマクの隠れざる新作かと思わされるほどの筆達者ぶりを見せるのは「ロス・マクドナルドは黄色い部屋の夢を見るか」だ。 金満家の家庭に纏わる忌わしい家族の過去に本格ミステリの定番である密室を絡め、そして題名が著すようにフィリップ・K・ディックを彷彿とさせる妄想的SF作家が登場し、さらにはロスマクの本名ミラーやチャンドラーと云った名前が出てくるなど法月氏のパロディ精神が横溢した1編。 畳み込むような意外な真相の乱れ打ちの末、明かされる密室トリックはもはやギャグ以外何ものでもない。 さてこの真相を読んで本書を壁に投げつけるか、予想外のアイデアだとして苦笑いするかは分かれるところだろう。 本書で最も長い「カット・アウト」は2人の画家を巡る物語だ。 2人の画家と1人の舞踏家の女性の若き日の出逢いから既にこの世からいなくなった2人の男女の死の真意を1人の残された画家が遺された作品から悟る物語。 本書の題名は本書の中でも語られるジャクスン・ポロックというアクション・ペインティングという全く新しい技法を編み出した前衛画家の代表的な作品だ。 色とりどりの絵具をランダムな飛沫で何重にも塗り込み、時にはチューブから直接絵具を捻り出して塗りたくる。その塗りたくったキャンパスを人の形に切り取ったのがこの「カット・アウト」という作品だ。つまり本来作品である極彩色の絵が逆に背景になり、切り取られたキャンパスの地が強調されて主従が逆転するのだ。つまり不在であるからこそ実在性が強調されるジレンマを抱えた作品である。 本書はそれがモチーフになっていることを考えると桐生正嗣の最後の作品も容易に想像がつく。 他の作品以上に書かれた記述の密度の濃さは濃厚な芸術家たちの波乱に満ちた人生が凝縮されており、実に読ませる。 また芸術を極めんとする画家が狂気の先に行ったかと思いきや、人間性の豊かさに行き着いたという事実もなかなかである。 ただ今まで読んだ法月氏のいわゆる人間の心が織り成す精神の極北を辿るミステリ群の中にあっては上に書いたようにモチーフがあまりに明確過ぎたため、サプライズに欠けた。しかし力作であることは間違いない。 最後の「・・・・・・GALLONS OF RUBBING ALCOHOL FLOW THROUGH THE STRIP」に登場するのは法月綸太郎。ある場末のバーでの物語。 本編はミステリではない。ただその中に込められた暗喩は実に興味深い。この短編の感想は後に述べるとしよう。なお題名はNirvanaのアルバム“In Utero”のボーナストラックの曲名だ。 パズルそしてロジックに傾倒する法月綸太郎氏の短編集だが題名はパズル崩壊。しかしこの短編集を指すにこれほど相応しい題名もないだろう。 法月綸太郎氏の短編集には『法月綸太郎の~』と謳われていることが通例だが、本書はそれがない。つまり本書は探偵法月綸太郎が登場しない本格ミステリの短編集かと思いきや彼は最後の短編に登場する。しかしその登場は実に思わせぶりである。そのことについては後で述べよう。 各短編を読むとどこかいびつな印象を受ける。 例えば最初の3編は警視庁捜査一課の刑事葛城警部が探偵役を務める純粋な本格ミステリなのだが、これもどこか不自然さが伴う。 例えば「重ねて二つ」はその動機と密室の必然性、そして犯人が警察の捜査中の現場に死体と共にいるなど、遺体の血液や死臭の問題など普通思いつくような不自然さを全く無視して、男女の遺体が上半身と下半身とで繋がれた死体が密室で見つかるという謎ありきで物語を創作したことが明確だ。 次の「懐中電灯」は完全犯罪が切れた電池を手掛かりに瓦解するミステリでこれは実に端正なミステリであるのだが、その次の「黒いマリア」になると、亡くなった女性が葛城の許を訪れて解決した事件の再検証を求める、オカルトめいた設定になっているのだが、事件の内容とオカルト的設定がどうにも嚙み合っていない。これもカーの某作をモチーフにして強引に書いたような印象が否めない。 次は推理小説家の羽島彰が登場する2編について。1編目の「トランスミッション」は―これが厳密にいえば明確に羽島彰の名前が出ているわけではなく、推理小説家で探偵羽佐間彰シリーズを書いている作家と称されているだけだが―自身が誘拐事件に巻き込まれるのだが、最後の結末はなんとも奇妙な味わいを残す。どこか地に足が付かない浮遊感を覚えてしまう。 そして2編目の「シャドウ・プレイ」はドッペルゲンガーをテーマにした自分の新作について友人に語っていくのだが、次第に虚実の境が曖昧になっていく。この辺からミステリとしての境界もぼやけてくる。 そして「ロス・マクドナルドは黄色い部屋の夢を見るか」ではパズラーの極北とも云える密室殺人が扱われているが、アーチャーシリーズやその他周辺の諸々を放り込んだそのパロディはその真相においてはもはやパロディどころかパズラーの域を超え、いや崩壊してしまっている。 かと思えば本書で最も長い「カット・アウト」は2人の作家とその間にいた1人の女性を巡る物語でなぜ死体をアートにしたのかという謎について語られる。ここには本来のロジックを重ねて法月氏独特の人の特異な心の真意を探るミステリが見事に表されている。 しかし問題なのは最後の短編「・・・・・・GALLONS OF RUBBING ALCOHOL FLOW THROUGH THE STRIP」だ。これはミステリではなく、法月綸太郎のある夜の出来事を綴った物語である。しかし本作こそ本書の題名を象徴しているようにも思える。 まず編集者による法月綸太郎の創作態度に対する批判が3ページに亘って書かれている。懇々と説教される内容は当時の彼の姿を正直に投影しているように見えて実に興味深い。 この頃の法月作品は作者と同名の探偵役を出すことで自分の心情と苦悩を必要以上に吐露させ、そして自身の目指すミステリについて思い悩む様が殊の外多いのだが、それが明らさまに揶揄されている。当時後期クイーン問題に直面し、自身のミステリの方向性を模索し、悩みに悩んで創作が覚束なかった法月氏を第三者の目で明らさまに批判し、探偵法月綸太郎とは訣別すべきだとまで云われる。そんな回想に耽っている時に女に世話を任される一人の男。女は終電に間に合うために法月に男の後始末を頼むのだ。 終電に間に合うように去る女。女優の卵である彼女は物にはならないだろうとマスターは云う。「終電に間に合う」女とは陰りを見せる新本格ブームにどうにか間に合う形でデビューした新人作家を指すのか。そしてそんな斜陽のブームに乗っかろうとする新人は長続きしないと云っているのだろうか? そして去った女が置いていった男は工藤俊哉。このデビュー作の主人公工藤順也と小鷹信光が生み出した探偵工藤俊作を思わせる男の風貌と為人はチャンドラーの『長いお別れ』に登場するテリー・レノックスを彷彿とさせる。 つまりこれはミステリ作家法月綸太郎が本格ミステリからハードボイルドへ移行しようとする宣言とも取れるのだ。つまり工藤俊哉と法月が初めて出逢った夜とは本格ミステリへの惜別の夜とも読み取れる。 この頃の法月氏は確かチャンドラーの後継者と評された原尞氏の作品に没頭していたはずだ。彼の目指す道は原氏が書くような作品だと思っていた頃で、つまり法月綸太郎から工藤俊哉という新しい探偵へ移行し、作風も変えようと思っていたのではないだろうか? はてさてこれは悩める作者の世迷言か? それともミステリの可能性を拡げる前衛的ミステリ集なのか? もしくはパズラーへの惜別賦なのか? ともあれ奇書であることは間違いない。 パズル崩壊とは正しく評するならば法月崩壊か。悩める作者は本書を書くことでそこから脱却しようとしているが、更なる深みに嵌っているようにも思える。一作家として何を書くべきか。その方向性はこの時点ではまだ定まっていない。 ただ現在の法月氏の作品から解るように、彼は本格ミステリの道を進むことを決めたようだ。 そして彼ならでは本格ミステリを追求し、昨年も『挑戦者たち』という様々な文体模写による「読者への挑戦」を数多用いた作品を著し、注目を集めたばかりである。 現在の活躍ぶりと創作意欲の旺盛さから顧みると、本書は一旦法月綸太郎を崩壊させ、ロス・マクドナルドやチャンドラーなどの諸作をも換骨奪胎することで彼の本格ミステリを再構築させたのだ。つまり本書は現在の法月氏への通過儀礼だったのだ。 今ではその独特のミステリ姿勢から出せば高評価のミステリを連発する法月氏だが、この世紀末の頃は悶々と悩んでいた彼の姿が、彼の心の道行が作品を通じて如実に浮かび上がってくる。これほど作者人生を自身の作品に映し出す作者も珍しい。 一旦崩壊したパズルを見事再生した法月氏。つまり本書はその題名通り、本格ミステリの枠を突き抜けて迷走する法月氏が見られる、そんな若き日の法月氏の苦悩が読み取れる貴重な短編集だ。 こんな時代もあったんだね。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『ブラック・ハート』ではボッシュがハリウッド署に島流しされることになった事件、ドールメイカー事件の真相を探る物語であったが、シリーズ4作目である本書ではさらに彼の歴史を遡り、迷宮入りとなった娼婦だった母親マージョリー・ロウ殺害事件を休職中のボッシュが再捜査する物語となっている。
そして本書は様々な暗喩に満ちた作品でもある。 例えばボッシュが休職中に相棒のジェリー・エドガーが解決した事件は銃による殺人事件かと思って捜査すれば、単にエアバッグ修理中に起きた死亡事故に過ぎなかったことが判るのだが、事故当時にもう1人の人間がいた痕跡があったことから調べてみると7年前に起きた2人の女性が殺害された事件の犯人の指紋と一致し、犯人逮捕に至るエピソードが出てくる。 実はこの何気ないエピソードが物語の最終、真犯人を突き止める最後の決め手になる指紋への暗喩となっている。 さらに本書のタイトルにもなっている1匹のコヨーテの存在。ボッシュは事件関係者で母親と親友だった当時メリディス・ローマンと名乗り、今はキャサリン・リージスタとなっている女性と逢った帰り道に1匹のコヨーテと遭遇する。その痩せ細り、毛がばさばさになった風貌に今の自分を重ねる。 地震前、ボッシュの自宅の下の崖には1匹のコヨーテがいたが、震災後それはいなくなった。そしてボッシュもまた今は刑事休職中の身でシルヴィアにも去られ、酒を手放せず、目の下の隈がなかなか取れないほど疲れ果てた表情をしている。そんなくたびれた自分は昔気質の古い刑事であり、出くわしたコヨーテももしかしたらLAの住宅地を徘徊している最後のコヨーテではないか、つまりいついなくなってもおかしくない存在だと思うのである。 孤独で育った少年は大人になりコヨーテになった。しかも最後のコヨーテに。本書の原題にはそんな寓意が込められている。 またボッシュの捜査自体も実に危うい。今回休職中の身であるから拳銃もなければ警察バッジもない。しかも上司パウンズの反感を大いに買っていることから警察が支給する車も取り上げられる。 刑事から初めて一己の市民となったボッシュはバッジと拳銃がいかに自分を守る鎧となっていたかを知らされる。 しかし彼はそんな不利な状況でも持ち前の強引さでことを進めていく。 パウンズの名を騙って警察のデータベースに記録を照合したり、勝手にロス市警に入り込んで指紋照合を頼んだり、母親の事件の捜査資料を持ち出したり、更にはパウンズの警察バッジを盗んだり、更には容疑者と目される、今では街の有力者となっている大手法律事務所経営者のゴードン・ミテルのパーティーに潜り込んで―この時もパウンズの名を借用する!―、揺さぶりを掛けたりと、そのアウトローな捜査ぶりは確かにコヨーテを彷彿させる。 しかしこのアウトローな行動が意外な展開を及ぼす。この展開にはかなり驚いた。そして同時にハリーの疫病神ぶりがこの展開によっていっそう際立つ。 いやはやコナリーの構成の上手さには唸るしかない。 また本書では次々に登場するキャラクターが実に魅力に溢れている。 シリーズを重ねるにつれてレギュラーキャラクターの存在感が増すのは当たり前だが、ちょっとした端役にも瑞々しい存在感を感じさせるほどコナリーの筆致は熟練されている。 まずボッシュが母親殺しの調査のために最初に訪れる母親の親友だったキャサリンの造形が強烈な印象を与える。娼婦という暗い過去を持ち、名前も変えて今の生活を手に入れたこの女性はしかし、警察連中にも容赦と引き替えに自分の身体を売り物にしてきた自分の過去に対して恥じず、人生最悪の時期であった娼婦としてのプライドも今も持ち、泰然自若としてボッシュに向き合い、そして語る。彼女の気高さこそが今の生活を手に入れる原動力になっていたことが実に深く心に沁み込んでいくのである。 また当時事件を担当した元ハリウッド署殺人課刑事のマッキトリックも忘れ難い。残された資料の内容の薄さからボッシュは彼を愚鈍な警官かチンピラどもに小銭をたかる腐敗警官かと思っていたが、実際は事件を道半ばで取り上げられた優秀な警官だったこと、そして彼自身マージョリー・ロウ殺害事件が迷宮入りしたことに悩まされている男だと気付かされる。休職中のボッシュが身分を偽り、近づくが簡単にその偽装を見破り、逆に返り討ちにしようとする老練ぶり。 またボッシュが当時の被害者の子供だと知ると一転して協力的になり、一緒に魚釣りへ乗り出す―このシーンは個人的にはかなり気に入っている―。彼がボッシュに事件の顛末を話すのは彼の悔恨をボッシュに託したかったからなのだろう。 そして何よりも本書において特筆なのはボッシュの母マージョリー・ロウの造形だ。ボッシュが母親殺しの捜査を進めていくうちにこの母親のボッシュに対する深い愛がひしひしと滲みだしてくる。 娼婦という仕事で女手一つで息子を育てようとしていたが母親不適格として子供を養護施設に入れられ、毎週通っては慈しんでいた母親。いつか親子2人で暮らせるよう、ボッシュの父親である弁護士に手助けを頼んでいたが、その願いが叶う前に路上で遺体となって発見されてしまう。 一介の娼婦の殺人事件はいつそんな目に遭ってもおかしくない数多ある最下層の人間に起こる事件として片付けられ、十分な捜査が成されないまま、今日に至る。 しかしそんな風に片付けられた事件の背後には今では街の各界の有力者たちとなった人々のある暗い過去と母親への繋がりがあったことが次第に見えてくるのだ。 それと同時にボッシュは今まで直視しなかった母親について事件を調べることで思い出を手繰り寄せ、母の大いなる愛を知らされ、また悟る。 「どんな人間でも価値がある。さもなければ、だれも価値がない」 これがボッシュの信条だ。 しかし彼は母親に対してはその信条に従わなかった。 しかし彼は母親殺害事件の捜査資料を当たるうちに当時の警察が彼女の価値をおざなりにしていたことを知る。それはまた自分もまた同類であったと悟り、信条に従い、母親の死の真相に向き合うことを決意したのだった。 そして捜査が進むにつれて法曹界の大物へと事件は繋がっていく。 また今回物語の重要なファクターの1つとしてボッシュのカウンセリングを担当している精神科医カーメン・イノーホスの存在がある。ストレスによる強制休職中であるボッシュは精神科医のカウンセリングを受け、復帰が可能であることを証明してもらわなければならないのだが、その相手がカーメンである。 しかし彼女こそが本書におけるボッシュの行動を後押しする存在となっているのが興味深い。 現在のボッシュを形成する原初体験をその不遇な過去に見出し、彼の過去を語らせることでボッシュは殺害された母親に向き合い、そして未解決であるその事件の調査を始めることを思いつく。定期的に行われるカウンセリングはボッシュに内面と対峙させ、またそのことで彼もまたそこからヒントと自分の存在意義をも悟っていく。 さらに彼女は物語の最終でボッシュに事件の真相を突き止める、女性ならではの視点を提供することにもなるキーパーソンとして機能する。 そしてこのカーメンとの面談は今まで断片的に語られてきたボッシュの生い立ちを1本の線として繋いで読者に示すことにもなる。 娼婦であった母親と暮らしていたボッシュは彼女が行政によって不適格とみなされて養護施設に入れられ、離れ離れになる。いつか一緒に暮らすことを夢見ていた母親はボッシュの父親であった弁護士に助けを借りてことを進めていくがその願いが叶う前に殺害されてしまう。 ボッシュはその後も養子に出されるが、引き取った家族から何度か養護施設に戻され、そして16歳になって、ボッシュがサウスポーでいい球を投げるという理由で大リーグ選手を育てたいと願う男の許に引き取られるが、その願いには従わず、ボッシュは陸軍へ入隊しベトナム戦争へ出兵する。 帰還後警察官となり、ロス市警で優秀な成績を修めて、メディアにもたびたび登場するヒーロー刑事となるが、ドールメイカー事件の責任を取らされて停職処分を受けた後、現在のハリウッド署勤務となる。 そんな生い立ちで孤独を幾度となく経験しながらもボッシュには常に女性が近寄ってくる。 1作目ではFBI捜査官で相棒を務めたエレノア・ウィッシュが、2作目は死亡した麻薬捜査官の元妻シルヴィア・ムーアと同棲していたが、彼女が去った後、本作ではマッキトリックの許を訪れた出先のフロリダで亡き父の家を売りに出して面倒を見ている画家志望の女性ジャスミン・コリアンと食事と一夜を共にするようになる。 確かにデビュー作においてテレビにも出演していたスター刑事で見た目も悪くないと書かれていたが、なんというモテぶりだろうか。 ボッシュが彼女に魅かれたのは彼女の中に自分と同種の暗闇を見出したからだが、また同時に彼女もまたボッシュが他の警官とは違う人間臭さを感じ、そこに魅かれていく。父親の遺産で暮らし、画家を目指す彼女は実は過去に人を殺したことのある女性だったことが判明する。実に謎めいた女性だ。 ところで書評家の池上冬樹氏が指摘しているように作者コナリーは過去の名作を取り込み、自分というフィルターを通じて物語へと消化している。 例えばチャンドラーを敬愛するコナリーだが、先にも書いたボッシュの信条、 「どんな人間でも価値がある。さもなければ、だれも価値がない」 を読んでニヤリとしたのは私だけではあるまい。これはまさにマーロウのあの有名な台詞へのオマージュであろう。 またボッシュが母親の当時の親友に話を聞きに行った帰りに立ち寄ったバーで出くわす、ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」を口ずさむ25歳くらいの女性のエピソードもチャンドラーが『長いお別れ』で書いたバーでマーロウが浸る女性に関するエピソードを想起させる。 更に本書の核を成す娼婦の母親殺しは作家ジェイムズ・エルロイの半生がモデルとなっているのは明確で―池上氏はこの作家の心酔者であり、その特異な過去、つまり情念の作家としてのエルロイの特異性を借り物のように取り込んでいるコナリーの創作姿勢が気に入らないようだが―、作中でも娼婦だったエルロイの母親が殺害された実際の事件『ブラック・ダリア事件』にも触れている。 そして私が思うに、最たるオマージュは本書は実は『マイ・フェア・レディ』や『プリティ・ウーマン』の裏返しの物語であったということだ。 身分違いの男と女が出逢い、男はその屈託ない女の魅力に惹かれ、結婚まで誓う。それは実に素敵なシンデレラ・ストーリーだったが、それがお伽話に過ぎなく、現実の世界は利害関係によってそんなものは抹殺される。それが現実なのだ。 本書は実に現実的な『マイ・フェア・レディ』だったのだ。 そしてもう1つ物語がある。事件の真相に纏わる2人の女のエピソードだ。 しかし人の死の多い事件だった。 葬り去られたマージョリー・ロウ殺害事件の真相を探っていくうちに現れる容疑者たち、関係者たちが次々と死んでいく。 誰もが過去に隠した罪に苛まれて生き、いつそれが暴かれるかを恐れながら生きてきた。 ハリーが現れることでその時が来たと悟り、ある者は観念して、またある者は必死にそれに抗おうとして、またある者は更なる秘密を暴かれるのを防ぐために死出の旅に発つ。 過去に縛られ、過去を葬り去り、忘れさせようとした人たち。しかし同じく過去に縛られながらもその過去に向き合い、克服しようとした1匹のコヨーテに彼らは敗れたのだ。 ハリーの母親の事件を解決したことでハリー・ボッシュの物語はここで第一部完といったところか。 デビュー作の時点で盛り込まれていたハリーに纏わる数々の謎は本書で一旦全て解決を見た。さらに彼はかつてスター刑事としてテレビ出演していた時に得た収入で購入した家も地震によって失った。 カウンセラーのカーメン・イノーホスはボッシュに母親の事件を解くために彼が警察官になったのだと示唆する。つまり母親の事件を解決した今、彼は警察官であることの意味が無くなったのだ。だからこそ最後ボッシュが警察を辞めることを決意したのだ。 実際、当時作者はここでハリーを永遠に退場させようと思ったのかもしれない。 ただ彼に新しく現れたジャスミン・コリアンという新たな謎がまた生まれた。彼女が過去に犯した殺人については結局詳しく語られないままだった。 アーノウ・コンクリンはボッシュに自分に合う人がいたら、過去はどうあれ命懸けでしがみつけと説く。 ボッシュはジャスミンこそが今の自分に合う者であり、命がけでしがみつく存在であると確信した。 ただ自分と同類と感じていたシルヴィア・ムーアとも結局は別れてしまったボッシュ。自分と同じ暗闇を持つと目を見て確信したジャスミンもまた行きずりの女となるのだろう。 母親の愛の深さを知り、また過去に葬り去られた母親殺害の事件を解決したことで母親の無念を晴らしたボッシュ。しかし彼の捜査によって犠牲となった者達の死は一生背負うことになる十字架になるだろう。 しかしジャスミン・コリアンという新たなパートナーを得たボッシュの再登場を期待して待ちたい。今までとは違ったボッシュと逢える気がしてならないからだ。それはきっといい再会になるだろうとなぜか私は確信している。しばらく私はボッシュに、いやコナリー作品にしがみついていくことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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どうにも煮え切らない小説である。いわゆるダメ男小説、人生の落伍者のお話である。
主人公ドーズは高速道路の延伸工事のため、自分の自宅と自身の勤めるクリーニング工場の立ち退きを迫られるが、頑なにそれを拒む。移転のための費用も出るし、また工場もいい条件を提示する不動産会社もあるのに、ドーズはそれに一切関与しようとしない。 彼は高速道路の延伸自体を認めたくないのだ。そして移転することは政府の勝手な申し出に屈することになる、そうドーズは考えている。 しかし彼の行動は正直褒められたものではない。妻には移転先の物件を探しているふりをして、いつも嘘を云って誤魔化し、会社の上司にも不動産会社が紹介する物件に多数の不備があり、購入後は多額の修繕費が掛かると、調べてもいないのに嘘八百を並べ、終いには期限が過ぎればもっと価格を下げて提示してくるとまで云いのける。 更に勝手に保険を解約して3,000ドルの保険金を受け取り、妻に内緒で銃を買い込み、爆薬まで闇ルートで手に入れようとする。そして会社を辞めるのも唐突で妻に何の相談もしない。 確たる根拠もないのに全てが自分の思い通りに事が運ぶと信じる。いや現実から目を背け続けている弱い男なのだ。 しかし長らく勤めていたクリーニング工場の責任者という地位と職業も失い、更には妻にも逃げられながらも、一体何がこのバート・ドーズをそうさせるのか? 土地に固執する人々の大きな特徴として帰属意識の強さが挙げられる。先祖代々の土地を人様に渡すことを極端に嫌う、昔からその土地で生きている人たちにその特徴は顕著だ。 ドーズは先祖代々住み着いた土地ではないが、彼にとってウェストフィールドは思い出の地なのだ。時折挟まれる妻メアリーとの思い出が非常に眩しいのもそのためだ。 まだ食うのもやっとな若い2人が内職してテレビを購入するエピソード、一人目の子の死産を乗り越えて、ようやくできた2人目の息子チャーリーとの思い出とその死。 そんな困難もありながら、ささやかだけど幸せな時間を妻と共に過ごしてきた思い出の家を法律を盾に奪おうとする行為が許せなかったのだろう。ドーズは思い出に生きる男なのだ。 そして恐らくドーズは一方で安定を壊したかったのではないか。 自宅のみならず自分の勤める工場の移転も強いられ、意のそぐわぬことをしてまでの安定に何の意味があるのかと常に自問自答していたのではないか。常人であれば普通に選択すべきことを敢えてしなかったのはそんな鬱屈した日常を破壊したかったのではないだろうか。 つまり伸びてくる高速道路は彼の鬱屈した心の象徴でそれを壊すこと、もしくは誰もが従った土地買収に抗うことが彼にとって一皮剝けた新たな自分を生み出すことだと信じていたのではないだろうか? だから工場閉鎖を機に他の仕事を宛がわれた元同僚の安定した職について変なアドバイスをする。 映画館の館長となった元同僚が自分で上映したい作品を選ぶことすらせず、ただ食料品の注文と管理のみで映画館を経営していると述べ、優越感に浸るさまを見て、一生飼い殺しになるくらいなら今のうちに辞めた方がいいと助言し、殴られる。 このことからも解るように彼バート・ドーズは単に上司の云う通りに仕事をするのを嫌い、自分の考えと意見を主張して、自分の色を出したがる男である。それは正しいが逆に彼の場合は自分の考えに固執しすぎてそれに同調できない人を癇癪のあまり、こき下ろして罵倒する感情のバランスが崩れやすい人物でもあるのだ。 彼にとって高速道路の延伸工事に屈することはもう「どうにもたまらなかった」ことなのだ。 彼バートン・ジョージ・ドーズにはもはや世界など意味がなかった。 独りよがりな理屈と自分勝手な行動と自分のことを棚に上げて人を怒鳴り、または訳の分からない説教をしようとする男バート・ジョージ・ドーズ。どうやっても共感を得られる人物像ではない。狂える、そして女々しい男だ。 キングは本書を「もっとも愛着のある作品」と称しているらしいが、私にはやはり単なる狂人が迷い彷徨い、そして崩壊するだけの話としか読めなかった。 本書の時代はベトナム戦争が終わった後の1973年だ。アメリカという国中にどこか鬱屈した空気が流れていた時代だろう。だからこそ戦争に負けた政府に従わない男をキングは書こうとしたのかもしれない。 本書を著すことがベトナム戦争に負けたアメリカに対するキングのささやかな「最後の抵抗」だったのではないだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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Vシリーズ第6弾は豪華客船の上で起こる密室での人間消失と絵画盗難を扱った、これまた本格ど真ん中の作品である。
前作『魔剣天翔』ではアクロバットショーの飛行機のコクピットという、恐らく世界最小の密室での殺人事件だったが、前回の舞台が空なら今度は海。なかなかヴァラエティに富んだ舞台設定である。 そんな非日常の舞台で起きる事件は次の通りだ。 たった3部屋しかない宿泊エリアの一番端の部屋から銃声が響いて何かが鉄に当たる様な音がして海に男が落ちる。現場にはピストルが落ちているが、その部屋から出入りしたのは隣室の男のみ。しかもその男は事件の後に部屋に入ったと証言しており。その宿泊エリアから出た人はいないことはフロントで確認済みである。更に真ん中の部屋の宿泊客が持っていたスーツケースには絵画が入っていたが、鍵が掛かっていたにも関わらず忽然と消えてしまう。 つまり密室状態の船室から落ちた男の謎と消えた絵画の謎がごく狭いエリアで繰り広げられる。しかもそのエリアにいたのはまず男が落下した部屋S3室には被害者の建築家の羽村怜人とその恋人の大笛梨絵のみ。隣のS2号室には保呂草が絵画を盗もうと狙っている鈴鹿幸郎と息子の明寛とさらにその息子の保と秘書の村松直美の4人。そして残りの一番大きなS1号室には鈴鹿幸郎の取引相手でフランスの富豪のクロウド・ボナパルト氏とボディガード3人に保呂草に盗みを依頼した各務亜樹良の計5人という非常に狭い範囲での事件である。 こんな限定された状態でかつ謎としても比較的なシンプルな状況でどんな真相が待ち構えているのか興味が高まった。 なんせ前作『魔剣天翔』ではたった2人しかいない曲芸飛行機のコクピットの中での密室殺人で意外な真相を展開した森氏である。今回もどんな真相が現れるのか、期待したくなるのも当然ではないか。 さて今回は今まで道化役でしかなかった香具山紫子にスポットが当てられる。背の高い女性であまり風貌については取り立てた記述はなかった紫子はコメディエンヌとしてとにかく三枚目を演じることが多く、読んでいる当方も同情が禁じ得なくなるほど不遇なキャラクターであったが、今回は、保呂草の本職である泥棒稼業の手伝いとはいえ、とうとうヒロインの役を仰せつかる。口は達者だが、本番に弱いメンタリティの弱さを持つ彼女が一念発起して保呂草の妻役に挑む。 てっきり香具山紫子のシンデレラ・ストーリーになるかと思いきや、さにあらず、やはり小鳥遊練無と瀬在丸紅子のマイペースに翻弄されて結局いつも役割に。 保呂草との甘い夜を過ごすはずの船室は紅子の独断で、恋人が船から落とされて傷心中の大笛梨絵の部屋に女性3人で泊まることになり、保呂草と練無が元々の船室に泊まって寸断される。しかも今回の自画像略奪計画の相棒として保呂草の手伝いをさせられるのだが、その目的は知らされず、事件そのものについても一切関わることはなく、結局はただの付き添いで済んでしまい、その後は自棄酒に溺れ、結局いつもの冴えない役回りを仰せつかるのであった。 恐らく保呂草としては想定外の事態に備えての保険的役割として紫子を配したのではないか。保呂草自身も紫子が自分にほのかな想いを寄せているのに気付いているはずだが、それを敢えて利用する冷静冷徹さに不満と紫子への報われなさに同情を禁じ得ない。 「マイ・フェア・レディ」になり損ねた紫子が報われる日はいつ来るのか。それともずっとこのままなのだろうか。「わたしの人生っていったいなんやろ」と一人気落ちせずに頑張れ、紫子! さてミステリとしては標準並みの謎の難易度で全てではなくとも謎の一部は私にも途中で解ってしまうほどの物だったが、今回は事件の謎よりも物語の謎、いや保呂草という男の行動こそがメインの謎だったように思う。 この考えの読めない探偵兼泥棒の、常に客観的に物事を冷静に見つめ、目的のためには人を利用することも全く厭わない(その最たる犠牲者が香具山紫子なのだが)、あまり好感の持てない人物だが、彼の信念というか、信条が本書では意外な形で明らかになる。 恐らくそれまで保呂草嫌いだった読者の彼に対する評価は本書で大なり小なり好感を増したのではないだろうか。実際私はそうなのだが。 今回はミステリのためだけに作られた無理のある事件だったという感想は変わらないが、この保呂草の意外な温かさが最後胸に響いた。 ところで題名『恋恋蓮歩の演習』とはどういった意味だろうか? まず目につくのは「演習」の文字。これは前作で保呂草が盗み出すように依頼された幻の美術品「エンジェル・マヌーヴァ(天使の演習)」から想起されるのは当然だし、登場人物も各務亜樹良と関根朔太と共通していることからも繋がりを連想させる。事実その通り、物語の最後は現在の関根朔太に行き当たる。 一方「恋恋蓮歩」という四文字。これは森氏独特のフレーズで造語かと思ったら実は「恋恋」は「思いを断ち切れず執着すること」、「恋い慕って思い切れない様」、「執着して未練がましい様」という意味で、一方の「蓮歩」は「美人の艶やかな歩み」という意味らしい。 この2つの単語を繋げたのは森氏の言葉に対する独特のセンスなのだが、つまり「恋恋蓮歩の演習」は「恋い慕って思いが募る女性が行う艶やかに歩く訓練」ということになる。 う~ん、そうなるとこれはやはり大笛梨絵、瀬在丸紅子ではなく、今回保呂草の計画に一役買った香具山紫子を表した題名になるのだろうか。 しかし一方で英題“A Sea Of Deceit”は“偽りの海”という意味。邦題と英題を兼ね合わせる人物はとなると大笛梨絵になるだろうか。 いずれにしても色んな解釈ができる題名ではある。 最後に読み終わった後に保呂草自身のプロローグに戻ると、文字に書かれた時点で現実から乖離し、全ては虚構となる、そして全てが書かれているわけではなく、敢えて書かないで隠された事実もあるし、今回はその時点における意識をそのままの形で記述することを避けるとも謳われている。知っているのに知らないふりをすると云うのは現実によくあることだ。 森作品、特にこのシリーズにおいてこの「書かれていること全てが本当とは限らない」というメッセージが通底しているように思われる。それはやはり保呂草潤平という謎多き人物がメインを務めているからかもしれない。 それはつまり、自分の直感を信じて読めばおのずと真実が見えてくるとも告げているように思える。ただ読むだけでなく、頭を使いなさい、と。 だからこそ森ミステリには敢えて答えを云わない謎が散りばめられているのかもしれない。それこそが現実なのだからだ、と。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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誘拐ミステリも数あるが、今回歌野氏が仕掛けたのは狂言誘拐。それも夫の愛情を確かめたいがための誘拐という、ちょっと浮世離れしたお嬢様育ちの容姿端麗の人妻の変わった依頼で幕を開ける。
1992年というバブルの名残ある時期に書かれた本書。そこここに時代を感じさせる記述が散見されて懐かしさを覚えた。 偽装して現れた誘拐の捜査をする警察官が来ていたのがアルマーニ調のスーツ(となぜかアタッシェ・ケースにクマのぬいぐるみを携えての登場と、逆に目立つような恰好なのがよく解らないのだが。とにかくパーティーや女性へのプレゼントが横行していた当時こんなアンバランスな恰好が普通だったのか?)だったり、まだ携帯電話は普及しておらず、自動車電話やショルダーフォンがセレブの持ち物となっていた時代だ。そんなまだアナログ社会で狂言誘拐を頼まれた便利屋が立てた方法がなかなか機知に富んでいて面白い。 警察からの逆探知を逃れるために今では災害時に使われるようになったNTTが提供する伝言ダイヤルサービスや今は無き悪名高いダイヤルQ2を利用して、録音やパーティラインによるやり取りで直接電話を繋げないようにしたり、自宅ではなく会社の方に電話したりするなど、工夫が凝らされていて読み手の予想の斜めを行く展開でどんどん読まされてしまった。 しかしそんなコミカルなムードも物語半ばで一転する。 若奥様の旦那への嫉妬から悪戯心で起こした狂言誘拐、それを利用して大金をせしめた便利屋、それが殺人事件に発展するという展開は悪事が雪だるま式に転がって肥大していく様を思い描かされる。 最初はほんの悪戯だったのが、金が絡み、そして人の命を奪うまでに発展する。本書の中でも云っているが悪い事はできないものだ。そして悪い時には悪い事が重なるものだ。そんな人生転落劇のような様相を呈してくる。 便利屋が負うことになった死体遺棄の一部始終は息詰まる内容であり、更に自分に捜査の手が及ぶまでにその後事件の発覚を恐れて殺人者を見つけ出して殺害することを決意するなど、物語のトーンはどんどん暗くなっていく。 しかし便利屋による犯人捜査の顛末は私立探偵による人捜しの面白さを彷彿させる。 さらにその後の展開も読者をさらに迷宮に誘う。 誘拐する側とされる側の側面で描きながら、いつしか殺人の罪を着せられ、やがて殺人事件の捜査へと転じるツイストの効いた作品。 そう、本書は誘拐あり、殺人あり、人捜しありの実に贅沢なミステリなのだ。 しかしこの頃歌野氏は本書の前に『ガラス張りの誘拐』という同じく誘拐を扱った作品を書いている。誘拐ミステリはなかなか数多く書かれるものではないのでこれは非常に珍しいと思える。 そしてそちらも本書同様意表を突く展開でなかなか事件の様相が掴めなかった。しかしその反面アイデアに走り過ぎて作品としてのバランスに欠けるような印象も拭えなかった。 しかし好評を以って迎えられた乱歩の文体を模した『死体を買う男』を経た本作は『ガラス張りの誘拐』で覚えた消化不良感を払拭する出来栄えでとにかく謎から謎の展開でクイクイ読まされてしまった。 ただやはり結末の付け方は慌ただしく、読書の余韻としては物足りなさを感じた。アイデアはいいものの、物語としては不十分。つまりこの頃の作品には『葉桜~』に至る以後の歌野晶午作品の萌芽が見られる貴重な作品群といえるだろう。 信濃譲二というシリーズ探偵物でデビューした歌野晶午氏の本質はそういった典型的な本格ミステリよりもこのように二転三転して読者の思いもかけなかった事件の様相が明らかになる、サスペンス風本格ミステリの方にあるように思えてならない。現代の歌野ミステリのルーツは『ガラス張りの誘拐』や『死体を買う男』と本書へと連なっていると思われるのでまずは『長い家の殺人』以降の3作品よりもこちらを読むことをお勧めしたい。 まあ、私が信濃譲二をあまり好きではないことも一因としてあるのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キング長編6作目はまたもや超能力者の話だ。その題名が示すように念力放火の能力を備えた少女チャーリー・マッギーが主人公である。
彼女は生まれながらの能力者であるのだが、今まで登場してきた『シャイニング』のダニー、『デッド・ゾーン』のジョンと異なるのは両親が共に超能力者であり、しかもその両親も秘密組織≪店≫によって特赦な薬物を投与されて能力が開花した人たちであることだ。 そして人工的に作られた超能力者であるアンディとヴィッキー。前者の持つ力は“押す”力、即ち相手を自己催眠に掛けて思い通りに操ることが出来る能力で後者は物を離れた場所から動かすことの出来る念動力である。 この2人が結ばれて念力放火の能力を持つチャーリーを生んだときのエピソードがまた壮絶だ。 生まれながらの超能力者だったチャーリーはお乳を欲しがって泣くと発火し、お気に入りのぬいぐるみが燃え始める、おしめが濡れて泣くと衣類が燃え上がる、また不機嫌になって泣くと赤ん坊自身の髪が燃える。家の各所にはいつ何時何かが燃えてもいいように消火器と煙感知器が備えられている。通常の子育てでもストレスで大変なのに、それ以上に命の危険と隣り合わせの子育てが彼らは強いられていた。 このような生活に密着したエピソードが単なる超能力者の物語という絵空事を読者にリアルを感じさせる。 組織によって作り出された超能力者が組織の魔の手から逃げ出し、逃亡の日々を続ける。そして追いつめられた時に超能力者はその能力を発動して抵抗する。しかし組織は新たな刺客をまたもや送り込む。 ふと考えるとこれは日本のヒーロー物やアメコミヒーローに通ずる題材だ。 つまりキングは既に昔から世に流布している子供の読み物であった題材をもとにそこに逃亡者の苦難と生活感を投入することで大人の小説として昇華しているのだ。これは従来のキング作品が吸血鬼や幽霊屋敷と云った実にありふれた題材を現代のサブカルチャーや読者のすぐそばにいそうな人物を配して事象を事細かに書くことによって新たなホラー小説を紡ぎ出した手法と全く同じである。つまりこれがキングの小説作法ということになるだろう。 物語は≪店≫にチャーリーの念力放火の能力が発覚してさらわれるのをどうにか防ぎ、追手からの逃亡生活を1年経た時点から始まる。 このチャーリーの誘拐劇の顛末は衝撃的だ。 妻が拷問の末、殺害された死体を見つけて既に連れ去られたチャーリーを血眼になって探す様子、その後も銀行の口座を閉鎖され、自分の“押す”力で1ドル紙幣を多額の紙幣に思わせてタクシーに乗ったりモーテルに泊まったりするなどしてどうにか逃亡生活を続けている辺りは開巻するや否やクライマックスが訪れているほどの迫真性を湛えている。 一方チャーリーは幼い頃から発動した能力を父親と母親から“いけないこと”だと云い聞かされ、念力放火をするのを嫌がっているが、一旦発動してしまうとそれがこの上もなく楽しいことだと感じ始めている。 そんなアンディとチャーリーのマッギー親子の前に立ち塞がるのは≪店≫が差し向けたインディアンの大男ジョン・レインバード。生きた妖怪、魔神、人食い鬼と評され、上司のキャップさえも恐れるこの大男はベトナム戦争で地雷によって抉られた一つ目の顔を持つ異形の殺し屋だ。彼はどこか超然とした雰囲気を備えており、チャーリーに異様な関心を示す。そして凄腕の評判通り、彼は見事にマッギー親子を手中に収めることに成功する。 しかしその後の彼は圧倒的な支配力を発揮するわけではない。雑役夫としてチャーリーが監禁されている部屋の掃除を毎日行って彼女の閉ざされた心を開かせようとする。それはまるで一流の心理学者が行うアプローチのようで、チャーリーの信頼を得るために同調と共感を時間を掛けて構築して徐々に彼女の頑なな精神の壁を開かせようとする。 作中ではそれは金庫破りで例えられている。一流の錠前・金庫破りの名人からレクチャーを受け、師を超えるほどの技量を持つようになったレインバードは師が彼に与えた言葉、「金庫は女に似ている。道具と時間さえあれば絶対に開けられない金庫はない」を忠実に守り、実に粘り強くチャーリーという金庫に鑿をこじ入れていく。それもあくまで慎重に。 そして彼は≪店≫が望むようにチャーリーに念力放火の実験に協力させた後、事態が収拾付かなくなる前に親しい友人、雑役夫のジョンとしていつものように接し、彼女を和ませた瞬間に鼻柱に拳を食らわせ、脳髄まで骨片を叩き込んで死に至らすことを至上の目的として任務に就いている生粋の歪んだサディストだ。 このレインバードのような、心細い時に親身になってくれたと見せかけて実はいつでも命を落としてやろうと虎視眈々と狙っている相手が一番恐ろしい。 しかし一方でこのレインバードのような殺し屋が実は≪店≫にとっても一縷の望みであるのだ。それは実験するごとに増してくるチャーリーの念力放火の能力である。どのような耐火施設を建て、また零下15℃まで冷やすことの出来る工業用の大型空調施設を備えてもチャーリーの能力が発動すればたちまちそこは灼熱の地となり、全てを燃やし、もしくは蒸発させ、気化させ、雲散霧消させてしまうのだから。チャーリーの発する温度は既に3万度にも達しており、ほとんど一つの太陽と変わらなくなってきており、このまま能力が発達すれば地球をも溶かしてしまう危険な存在だからだ。 日増しに能力が肥大していく彼女を抹殺することは実は世界にとって正しい選択肢であるとさえ云えるだろう。 しかしこのマッギー親子が望まずに超能力者になった者であるがために、チャーリーやアンディが危険な存在だと解っていてもどうしても肩を持ってしまう。常に監視され、実験道具にされたこの不幸な親子に普通の生活を与えてやりたいと思うのだ。 物語のクライマックスは宿敵レインバードとマッギー親子の対決に端を発し、そこから自らの能力を存分に発動したチャーリーの≪店≫の施設の破壊劇となる。 キングの作品が特徴的なのは通常の物語ならこれらの破壊劇で幕を閉じるところなのに、その後があることだ。 しかし終始どこかしら哀しい物語であった。 上にも書いたように通常ならば人の心を操るアンディと無限の火力を発し、核爆発までをも容易に起こすことの出来る少女チャーリーはまさに人類にとって脅威である。しかしそんな脅威の存在を敢えて社会に遇されないマイノリティとして描くことで同情を禁じ得ない報われないキャラクターとして描いているのだ。 特に今回は望まずにマッド・サイエンティストが開発した脳内分泌エキスを人工的に複製した怪しい薬品にて開花した超能力ゆえに安楽の日々を送ることを許されなかった家族の物語として描いていることに本書の特徴があると云えるだろう。 アンディの生計は自らの能力を生かした減量講座教室の講師である。減量できずに悩む生徒を少し“押す”ことで食欲を減退させ、ダイエットに成功させることを商売にしている。何とも超能力者にしては慎ましい生活ではないか。 思えばデビュー作の『キャリー』以来、『呪われた町』とリチャード・バックマン名義の作品を除いてキングは終始超能力者を物語に登場させていた。 キャリーは凄まじい念動力を持ちながらもスクールカーストの最下層に位置するいじめられっ子だった。 『シャイニング』のダニーは自らの“かがやき”を悟られないように生きてきた。 ジョン・スミスは読心術ゆえに気味悪がれ、厭われた。 キングは超能力者の“特別”を負の方向で“特別”にし、語っているのだ。一方でそれらの特殊能力を“かがやき”と称し、礼賛をもしている。 このどこか歪んだ構造がキングの描く物語に膨らみをもたらしているのかもしれない。 しかしチャーリーに関しては念力放火よりも彼女が最後に大人たちを魅了するとびきりの笑顔こそが“かがやき”だとしたい。これからのチャーリーの将来に幸あらんことを願って、本書の感想の結びとしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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