■スポンサードリンク
Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1418件
閲覧する時は、『このレビューを表示する場合はここをクリック』を押してください。
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
2018年のミステリシーンの話題をかっさらい、年末の各詩で行われるベストランキングで第1位を総ナメにした『カササギ殺人事件』。その作者の名はアンソニー・ホロヴィッツ。その後現在に至ってまで年間ミステリランキングを制している、今や海外本格ミステリの第一人者の趣さえある。
本書はそのホロヴィッツが本邦初紹介された時の第1作目の作品であり、少年スパイ、アレックス・ライダーシリーズの第1作目である。 ホロヴィッツの特徴はかつての名探偵や名作ミステリの舞台を中心とした数々のパロディ作品が多いことで、本書もまたその例外に漏れない007シリーズの少年版とも云うべきハイテクスパイ小説になっている。 ちなみに007シリーズを大いに意識していることを示すためか、アレックスがスパイの訓練のために入隊するSAS(英国陸軍特殊部隊)で付けられる綽名はダブルオー・ゼロである。 銀行員だった叔父が交通事故で亡くなったが、その死は明らかにおかしかった。そして判明した事実は実は叔父はMI6の工作員で潜入捜査中に殺害されたことを知らされる。弱冠14歳のアレックス・ライダーはその叔父の後釜として若きスパイとして育てられる。 そして叔父を消したコンピュータ会社セイル・エンタープライズを経営する大富豪ヘロッド・セイルが自社で開発した最新鋭コンピュータ、ストームブレイカーの全英の中学校を対象にした無料配布の影に隠れた野望を暴き、阻止するのが与えられた任務だ。 例えかつて凄腕の工作員だった叔父から将来のために鍛えられていた14歳の中学生がMI6のスパイになるとは実に荒唐無稽な話で、これは児童向けの娯楽小説として読むのが正しいだろう。 そしてホロヴィッツはそれを意識して色んな仕掛けを施している。それはさながらスパイ映画を観ているかのような映像的演出に溢れている。 例えば007のQに当たるスパイの秘密道具を開発するスミザーズという技術者が登場する。アレックスに与える秘密道具は特別なナイロンの紐が出てモーターによって巻き取ることの出来るヨーヨーであり、ニキビ治療用のスキンクリームに見せかけた金属溶解剤にニンテンドーならぬブリテンドーのゲームボーイではなく、プレイパームでゲームソフトを入れ替えると通信機器になったり、X線カメラや集音マイクに盗聴機器に発煙装置になったりすると子供が好きそうなアイテムが登場する。 またこれも潜入捜査のお約束で敵の本拠地は個人の軍隊とも云うべき武装集団によって護られているかと思えば、敵の自宅には大きな水槽があり、そこには巨大なカツオノエボシという毒クラゲが泳いでいる―確かにスパイ映画の悪党にはなぜか巨大水槽が付き物だ―。 また潜入捜査中にクォッド・バイクに乗った警備員に追いかけられるシーンもあり、007シリーズの映画を観たことがある人ならばすぐに映像が浮かぶほど、本家のストーリー展開に実に忠実に物語は運ぶ。 とはいえ、ホロヴィッツは単なる勧善懲悪物にしていなく、例えばアレックスが叔父の跡を継いでスパイになるのも自ら望んでではなく、唯一の肉親を喪って天涯孤独の身となったアレックスにMI6の特殊作戦局長アラン・ブラント、即ち叔父イアンの上司はそうせざるを得ない条件を突きつける。 ライダー家の家政婦でアレックスの身の回りの世話をしているジャック・スターブライト―ちなみに彼女は女性である―をビザの有効期限が切れると同時にアメリカに強制送還させ、家も売り払い、児童養護施設に入れると脅すのである。 つまり正義の側は時刻を脅威から救う任務を追いながらも必ずしも清廉潔白ではないこと、また悪の側にもそれを実行するための背景が織り込まれており、単純な二極分化するような構造としていない。 このヤッセンのようなキャラクターは例えるならば『機動戦士ガンダム』のシャア・アズナブルのような存在でクールで危険な雰囲気を纏った人物であり、押しなべて少年少女の人気を掴むのが常で、調べてみるとこのヤッセンを主人公にしたスピンオフ作品まで書かれているようだ。 但し少年少女向け娯楽小説であることを意識してホロヴィッツはこのアレックス・ライダーとヘロッド・セイルの境遇を同一化して、その心の持ちようで人生が変わることを示している。 実はアレックスもまた何不自由なく育てられたわけではない。叔父イアンは小さい頃からアレックスを一流のスパイにするためにありとあらゆる訓練を施していたし、彼をスパイとして引き入れるMI6も苛酷な条件を突きつければ、SASでの入隊訓練で彼は周囲の大人の退院達、特にウルフと呼ばれる隊員から様々な嫌がらせを受ける。最たるものは弱冠14歳の少年に全英の危機から国を救えと任務を与えるMI6の無茶ぶりだ。 しかしアレックスは時折減らず口と愚痴を交えながら、どうにか状況を打破しようとする。一方ヘロッド・セイルは蓄えた巨万の富で壮大な仕返しを行おうとし、それをアレックスによって阻止されるのだ。 つまりこれから君たちは人生において様々な困難や逆境に出遭うだろうが、セイルのように捻じ曲がるのではなく、アレックスのようにどんな苦難にも立ち向かってほしいとホロヴィッツは述べているのだ。 このメッセージ性こそ美女と拳銃に彩られた娯楽物の本家007シリーズとこのシリーズの大きな違いではないだろうか。 しかしそれはこのように本書の感想を書く時に物語を振り返ってみて気付くことだろう。本書を読んでいる最中はただただアレックスの冒険に没入して読むだけでいい。 確かに眉を顰めるような御都合主義的な展開もある。それはたかが14歳の小僧だと敵が見くびった結果と捉えて看過すべきだろう。 先にも書いたが14歳の英国スパイという荒唐無稽さゆえに上に挙げたような瑕疵も見られるが、このシリーズは2011年まで書かれており、全9作のシリーズとして完結したが、日本では6作目の『アークエンジェル』までで訳出は止まっている。 昨年の『カササギ殺人事件』の高評価に続き、今年出版された『メインテーマは殺人』が続けて好評であればもしかしたらシリーズの続きが訳出されるかもしれないがそれはそれ。 まずはホロヴィッツ初紹介となったこのシリーズを読んで彼の作品に馴染んでいこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
ジョー・ヒルの久々の作品集。
各編ページ以上のボリュームがある中編であり、4編が収録されているが、総ページ数730ページと実に分厚い。従って各編にヒル独特の世界観が濃厚に盛り込まれていると期待して巻を開いた。 最初を飾る「スナップショット」は1988年が舞台のある奇妙なカメラを巡る話だ。 昔写真機が出て間もない頃、まことしやかに写真に写されると魂が盗られると云われていたと聞くが、この作品もそんな噂話から生まれたのではないように思える。 フェニキア文字を刻んだタトゥーを両腕に施した男が持っていた“ソラリド”と聞いたことのないブランドが銘記されたポラロイドカメラはそれで写真を撮られた時に浮かんだ人の記憶が写真に吸い取られる災いのカメラだった。その人のある人に対する記憶が写真に“撮られる”ことで“盗られる”のだ。 デジタルカメラが生まれ、そしてカメラ付き携帯電話が生まれ、そして今スマートフォンで写真を撮り、ウェブサイトにアップする我々。それは“その時”を記憶だけでなく記録に留め、そして半ば自己顕示欲を混在させて世界に向けて発信させたいがために行っている。 しかしこのソラリドというポラロイドカメラは撮られることで記憶が無くなるのだ。記録は写真のみに留まり、その人の記憶からは消し去られる。 ポラロイドカメラというツールを使って認知症の老人が日々物事を忘れ、老いさらばえていく哀しさと消したい記憶を持つ男と記憶を残したいのに奪われる恐怖と哀しさを描いた本作はジョー・ヒルらしい切なさに満ち溢れた好編だ。 次の「こめられた銃弾」は本書で最長の物語だ。 何とも救われない話だ。 妻への家庭内暴力を振るった廉で差し止め命令が下され、妻と我が子と連絡を取ることと150メートル圏内に近づくことを禁じられていた警官志願の警備員が宝石店で起きた痴情絡みの殺人事件で、誤って人質を殺害したのにも関わらず、そしてそれを目撃した人間をも射殺したにも関わらず、一躍市井の英雄に祭り上げられる。 彼は湾岸戦争に従軍し、その後警官になろうとしたが選考から落ちて警備員に落ち着いた男。彼は白人でその時マイノリティ問題で警察が白人よりも黒人をはじめとする有色人種の国民を積極的に警察官に採用していた時期で、その余波を受け彼は落選した、と思っている。 それだけではなく、黒人であるだけで蔑み、そして虐げられる人々と白人との間にある深い溝が物語の根底にはある。 更に本作で頻りに飛び交うのは銃だ。誰もが銃を欲しがり、そしていつか憎たらしい相手にそれをぶっ放すことを夢見ている。そして銃がないと不安を感じて仕方がない。もはや銃なしで生きることに恐怖を覚えるようになったアメリカ人の病理がここには描かれている。 題名の「こめられた銃弾」とは即ちこのサイコパスがいつも抱えながらも社会生活を送るために忍耐強く秘匿していた殺戮への渇望を表している。しかし何とも報われない話だ。 さて次の「雲島」はファンタジーとセンチメンタルを孕んだ一品。 雲の中に現れた雲で出来た島。思わず不時着してしまった男オーブリー・グリフィンが孤独の中でバンド仲間の女性ハリエットとジューンとの出逢い、評判が良くなり、忙しくなる中、やがて恋い焦がれるようになったハリエットとの関係、そして亡きジューンが遺したアドバイスなどが断片的に語られる。それはまさに青春と呼ぶべき青さと若さと純粋さに満ちている。 そして物語の焦点はやがて雲島の正体とオーブリーがどうやってそこから脱出するかへと向かう。孤独なオーブリーの前に現れる雲で出来たハリエットは彼が望んだことをしてくれ、そして彼のことを気にかけてくれるが、それでもそれは本物のハリエットではない。 奇妙な漂流譚に若いバンド仲間の青春グラフィティを絡めるとは、ジョー・ヒルならではの発想だ。 最後の一編はまたもや怪異現象を扱った「棘の雨」。 タイトルが示すように突然棘が降る雨に見舞われたアメリカをデンヴァーに住むレズビアンのハニーサックル・スペックという女性の視点で描いた作品。 いきなり降ってきたのはただの雨ではなく棘の雨。主人公の女性ハニーサックル・スペックはレズビアンでその日彼女のヨランダが引っ越してくる記念すべき日だったが、その最愛の恋人は目の前で棘の雨に打たれ、亡くなってしまう。 そして彼女を送りに来た彼女の母親も同様に亡くなり、主人公は連絡の取れない彼女の父親に妻と娘の死を伝えるのと同時に安否を確認するため、デンヴァーへと旅立つ。その旅路で彼女は色んな人と出会い、そして別れる。 棘の雨に打たれて虫の息の愛猫を抱えて泣き叫ぶ総合格闘家マーク・デスポット。ハニーサックルは彼の代わりに愛猫の首を捻って安楽死させるが、彼の怒りを買ってしまう。 その後なぜか彼女をつけ狙う新興宗教<七次元のキリスト教会>の信者たちに襲われる。彼らは教祖エルダー・ベントが今回の雨のことを予言したこと、雨が降ることを知っていたのをハニーサックルがFBIに報せに行こうとしていると思い込み、それを阻止しようと彼女を付けていたのだった。しかしその窮地に先ほどのマークが現れ、彼らを一網打尽にする。 ハニーサックルが次に出逢ったのは大家を殺した囚人ティーズデイル。彼は亡くなった人々を乗せたトラクターに警官と同乗し、処分場へ着いた途端に隙を見せた警官を襲い、トラクターを強奪して逃走する。自由を掴むために。 しかし人間とは不可解な生き物ではある。 災害に巻き込まれた家畜の安否を気遣いながら、それを牛肉や豚肉、鶏肉を食べながらテレビで観るような矛盾を平気で行うからだ。このアーシュラの行いは自分がしたことで起こりうる無垢な人間の死には心を痛めるが、一方でアメリカ人全てを一つの悪として罰を与える断固たる決意を持ち、そして息子のシッターを頼んでいた隣人のハニーサックルが恋人の父親の許を訪ねに旅立つのを見て、自分の行為がFBIに発覚するのではないかと恐れ、新興宗教の信者に襲わせようとするのだ。 寧ろこれが人間の不可解さであることを逆に理解させてくれるアーシュラの行動原理だとも取れる。 雨が我々の生活を脅かし、そして死者まで出る。この棘の雨が降ることでアメリカ人が出くわす光景はさながら今我々日本人が出くわした台風19号、そして追い打ちをかけるように襲った豪雨によって被災した人々の境遇を想起させる。 彼らはお互いに助け合い、また時にこの非常時に便乗して罪を犯そうとする、もしくは平時では隠していた感情を爆発させ、本能の赴くままに行動する。気に食わない輩を殺そうとし、金品を奪おうとする。また困難に乗じて台頭しようとする宗教家が出てくる。少しでも平穏というバランスが崩れるとそこに本性が現れる。それはもはや少しばかりの理性を残した獣なのだ。 そして主人公のハニーサックルもまた人間として清廉潔白であろうとしない。自分の身を守るために彼女は相手を傷つけることを厭わない。殺すまでのことはしないが、後で自分を追ってこないよう戒めを施すまではする。 やったらやり返す。やられる前にやる。 ハニーサックルはデンヴァーまでの旅路で人の優しさと人の理不尽さの両方を知り、そして生きるためには容赦しないことを学んだのだ。 先に書いた台風被害の被災者たちの振る舞いを考えるとこの始末の付け方は隔世の違いを感じる。やはり我々は日本人であり、彼らはアメリカ人なのだ。そう、これがアメリカなのだ。 元々私は本邦初紹介となった短編集『21世紀の幽霊たち』に魅せられてヒルの読者になったが、その後訳出された長編はいずれもさほど高い評価が得られておらず、『このミス』のランキング外であった。 そして本書は好評価を得た『21世紀の幽霊たち』以来の中編集。ヒルの本領は長編よりも短編や中編にあると思い、そんな期待を込めて読んだ。 そのカメラで写真を撮られた人はその写真に写った人の記憶を無くすポラロイドカメラ、“ソラリド”に纏わる話を描いた「スナップショット」。 湾岸戦争帰りのサイコパスが出くわした事件で犠牲者を最小限に留めたとして英雄として祭り上げられ、その真相を探る地方紙記者の話「こめられた銃弾」。 ひょんなことで雲で出来た島に独り取り残された男が、もう1人のバンド仲間で恋をしてしまったハリエットとの関係を、バンド仲間のジューンが亡くなるまでの足取りを回想する「雲島」。 棘の雨により多数の死傷者を出す大惨事になったアメリカで引っ越して来た恋人とその母親が棘の雨によって亡くなったことを彼女の父親に伝えに行くレズビアンの女性ハニーサックル・スペックが遭遇する人々との出逢いと別れ、そして棘の雨の真相までを描いた「棘の雨」。 怪異譚、悲劇、青春恋物語にロードノヴェル。種類は違えどそのどれもにジョー・ヒルならではのテイストが満ちている。 被写体にカメラを向けるとそこには被写体ではなく、別の人物が写るがその人物の記憶が被写体から取り除かれるポラロイド・カメラに空に存在する雲島、そして突然降ってきて無数の死傷者を出した棘の雨。それら奇想のアイデアを用いてヒルは人間ドラマを紡ぐ。ありもしない、起こりもしない道具や現象に出くわした時の人の心の在り様を丹念に描く。だからヒルの小説は文章量も多く、そして長くなるのだ。 邦題『怪奇日和』は正確ではない。本書に書かれているのは怪異ではあるが怪奇ではないからだ。 各編に織り込まれるのは人の心の奇妙さ、生々しいまでの人間たちの本音。他者を犠牲にしてまでも自分を守ろうとする、もしくは自分勝手な理屈で他者を攻撃する人々の姿や心情だ。 原題は“Strange Weather”、即ち『異常気象』だ。 そう、ここに書かれているのは人々の異常“気性”なのだ。 ヒルはこれまでの作品で我々が心の中で、奥底で抱いている不平不満、本音を我々読者に曝け出してきた。それらはあまりにストレート過ぎるので時々目を背けたくなる。なぜならそこにある意味“自分”を見出してしまうからだ。 常日頃は仮面を被って隠している本心が非日常へと誘う出来事に直面することで仮面が外れ、剥き出しの自分が零れ出す。 例えば「スナップショット」では記憶を消去されるポラロイドカメラによって痴呆症のようになっていく妻のサポートを面倒見切れなくなった夫の嘆きが出てくる。その夫は妻を世界中の誰よりも愛して止まないが、愛だけでは克服できない限界を悟らされ、涙する。 「こめられた銃弾」は、もう人間の生々しい本性のオンパレードだ。 自分のミスで誤った黒人の容疑者を撃ち殺してしまった白人警官はあらゆる言い訳で自らの行為を正当化する。黒人への嫌悪を隠さず、彼らが対等に振る舞うことはおろか、過ちを犯した自分の行為を暴こうとする憎き存在として侮蔑し、嫌悪するサイコパスが出るかと思えば、街の警察署長は有色人種差別の中傷被害を免れるため、一般の黒人を警官と偽らせて積極的に多様な人種から警察官を採用しているかのように振る舞う。 「雲島」では仲間からやがて異性と意識する男女混成バンドのメンバー間のすれ違いが描かれる。まあ、これは典型的だけど、やっぱり男女の間は友情だけに留まらなくなってくる展開は痛々しいものがある。 そして「棘の雨」は未体験の災害に見舞われたアメリカ人の姿とそんな危機的状況で露呈する本性にレズビアンの主人公が出くわす。 本書におけるベストは該当作品無しだ。どれもがどこか哀しく、清々しさがないためだ。但しどの作品もなにがしか心に残るものはあるが、それらは喪失感であり、虚無感である。そんな感情が心の中を揺蕩う。 このモヤモヤとした心の中に留まるどんよりとした重い雲のような感慨を素直に文章にするのは何とも難しい。深い霧の中で一片のメモを見つけるような感じだ。 本書の感想を的確に示す晴れ間までしばらく時間がかかりそうだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
2017年3月に第1作を手に取り、2年7カ月を経てようやくここまで辿り着いた。
しかしその道のりは長いなんて全然思わなかった。なぜならこのシリーズはそのどれもが私に最高の読書体験をもたらし、そして読み終わるとすぐに次の作品を手に取らさせたからだ。 今回ボッシュが追うのは2つの事件。1つは免許再取得によって再開させた私立探偵稼業において、大富豪のホイットニー・ヴァンスから若き頃に別れることになった大学食堂の女性との間に生まれたと思われる子供の正体と行方を捜す依頼。 もう1つは嘱託の刑事として勤務するサンフェルナンド署の未解決事件、<網戸切り>と名付けられた連続レイプ犯を追う事件だ。 コナリーはこの2つの話を実にバランスよく配分して物語を推し進める。 これら2つの話はよくあるミステリのように意外な共通点があるわけではなく、平衡状態、つまり全く別の物語として進むが、コナリーは決してそれら2つの話に不均衡さを持たせない。どちらも同じ密度と濃度で語り、読者を牽引する。 そう、本書はボッシュの私立探偵小説と警察小説を同時に味わうことができる、非常に贅沢な作りになっているのだ。 さて、まず私立探偵のパートではチャンドラーへのオマージュが最初からプンプン匂う。それもそのはずで本書の原題“The Wrong Side Of Goodbye”そのものがチャンドラーの『長いお別れ』、原題“The Long Goodbye”へのオマージュが明確であり、大金持ちの家への訪問とこれまたフィリップ・マーロウの長編第1作『大いなる眠り』を髣髴とさせる導入部。 その富豪の依頼は親によって別れさせられた、かつて愛した女性が宿した自分の子供探し。この内容だけがチャンドラーには沿っていないが、私立探偵小説としては実に魅力的な内容だ。 そしてこの1950年に別れた女性の足跡を辿る、つまり約70年も前の過去の足取りを、それまで培ってきた未解決事件捜査のノウハウと刑事の直感で切れそうな糸を慎重に手繰り寄せるように一つ一つ辿っていくボッシュの捜査はなかなかにスリリングで、しかも人生の綾をじっくりと味わわせる旨味に満ちている。 一方連続レイプ犯<網戸切り>を追う警察パートもまたこれに勝るとも劣らない。事件の捜査の歩みは遅いが、レイプ未遂の事件が起きるとそこからの展開は警察捜査と犯人の不可解な行動から推測される現場に残された手掛かりを辿るきめ細やかさはボッシュが閃きと優れた洞察力を持った一流の刑事であることを示すに十分な内容だ。 そして同僚のベラの消息が不明になった後の怒濤の展開はまさにコナリーならではの疾走感に満ちている。 また一方でボッシュは非常勤の嘱託刑事という立場とロス市警を訴え、賠償金を勝ち取った、いわば売国奴的な目で警察官たちに見られている四面楚歌状態にある。特に署の内務のトップであるトレヴィーノはボッシュが公務ではなく私立探偵の立場で警察の施設を、データを利用していないかとボッシュがボロを出すところを虎視眈々と狙っている。 しかしボッシュはそれまでの経験と直感で自ら周囲の尊敬を得て、サンフェルナンド署の正規雇用の警官として雇われるまでになる。 そして大富豪ヴァンスの隠し子の捜索も紆余曲折を経てようやく血の繋がった孫に辿り着く。 ヴァンスと別れた後、シングルマザー用の養護施設で自分の子供を産みながらも、養子に出さなければならない苦痛から自ら命を絶ったビビアナ。 その息子ドミニク・サンタネロはボッシュ自身も従軍したヴェトナム戦争で戦死し、既にその存在はない。そんな絶望の中で彼のカメラの中に納まっていた写真から彼に未婚の子がいることが判明。 そう、これは血の物語なのだ。それについてはまた後で述べよう。 ボッシュが関わった2つの事件に共通点があるとすればそれは報われなさによる感情の歪みが起こした犯行だろう。 人は長い間、何かを抱えて生きている。それはまたボッシュもまた同じだ。 今回探していた人物が自身と同じヴェトナム戦争に従軍し、もしかしたら同じ船に乗っていたかもしれない奇妙な繋がりをボッシュは感じる。そして彼の思いはヴェトナム戦争へと向いていく。 息子ドミニクが鉄鋼王で航空産業も手掛けていたヴァンスの会社が製作に関わったヘリコプターによって墜落死した運命の皮肉。 戦場の現実から逃避するために自身もまたトールキンの『指輪物語』を読んでいたこと。 悪天候にも関わらず、慰安に訪れたジャズプレイヤーの粋な計らいと数年後そのうちの一人と再会した時の胸温まるエピソード。 一方トンネル兵士として敵を斃すため、匂いで悟られぬようアメリカ人の食事ではなく、ヴェトナム料理を食べて体臭を敵と同じにしてきたこと。それがゆえにヴェトナム料理が食べられなくなったこと。 そんな過去を抱えてボッシュはそれでもなお犯行を起こす側でなく、犯罪者を捕まえる側にいる。その理由は彼が最後に述べる。それについては後述しよう。 さてヴァンスの忘れ形見を巡る物語は血縁のビビアナ・ベラクルス発見後、ヴァンスの遺産を狙う会社重役連中から彼女を守るためにボッシュはミッキー・ハラーと組み、追手を出し抜いてDNA鑑定、遺言状の保管を行う一方、ヴァンスの死の真相を突き止め、犯人逮捕の引導まで行う。 よくよく考えると本書は警察小説に私立探偵小説だけでなく、これにリーガルミステリも加わった、1粒で3度美味しい、非常に豪勢な作品ではないか。 彼が最後に同僚のベラ・ルルデスを鼓舞するように話す、自身の血に刻まれた警官というDNA。 やはりこのヒエロニムス・ボッシュことハリー・ボッシュは全身刑事なのだという想いを強くした。 彼は我々とは訣別しなかった。 原題“Wrong Side Of Goodbye”。 それは物語のエピローグに登場するヴァンスの忘れ形見で彫刻家のビビアナ・ベラクルスの作品のタイトル『グッドバイの反対側』でもある―しかしこの訳はどうにかならなかったのか。私なら『さようならの裏側』と付けるのだが―。この訳に従えばそれは別れではなく出逢いを意味する。 しかしもう1つ考えられるのは“Born on the wrong side of the blanket”で「非嫡出子として生まれる」という意味があり、それは即ちホイットニー・ヴァンスとビビアナ・デュアルテとの間に生まれたドミニク・サンタネロとその子供ビビアナたちを意味する。 色んな意味を含んだ、言葉の匠コナリーらしいタイトルだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
作者森氏の日常と心情と思考が最も反映された作品集といっても過言では無い、水柿助教授シリーズ。本書はその第2弾に当たる。
本書では水柿助教授がミステリィ作家としてデビューする顛末を描いている。 1話目「「まだ続くのか?」「命ある限り(高笑)」的な悪ふざけからいかにしてミステリィに手を染めたのか着メロを鳴らす」は作者≒水柿助教授が小説を書くに至った経緯が語られている。 それは珍しく水柿氏の札幌で行われる学会に奥さんの須磨子氏が同行することになり、そこで須磨子氏が持ってきた本がミステリィだったことから2人でミステリ談義が始まる。正直この作品は2人のミステリに関するやり取りで構成されており、札幌出張はそれがなされるための舞台装置に過ぎない。従って札幌の描写や2人の札幌行に関するエピソードは皆無に等しい。 2人の会話で交わされるミステリについては有名なものであり、例えば須磨子氏が持参したミステリィはクレーンの単語1つで赤川次郎氏の『三毛猫ホームズの推理』であることが解るし、その他エラリイ・クイーンの『チャイナ橙の謎』や法月綸太郎氏の『密閉教室』も出てくる。 また物理的謎と心理的謎、物理的解決と心理的解決といったミステリ区分について語られたり、またミステリィとは納得の度合いが大きいオチ、更に意外性がありつつもこれはなかなか盲点だったと読者を感心させる絶妙な匙加減が必要であると云った記述は単なるトリックやロジックの展覧会に興じる素人ミステリィ作家に是非とも読んでもらいたい件である。 そして妻須磨子氏にほだされて水柿氏は小説を書くことになる。これが作家水柿氏(森氏?)の第一歩になるようだ。 しかし本書で出てくる単語「着メロ」はさすがに時代を感じてしまった。今はもうこんな風には呼ばないもんな。 さて続く第2話「いよいよやってきた人生の転機を脳天気に乗り越えるやいなやラットのごとく駆け出してだからそれは脱兎でしょうが」では第1話からの続きで水柿助教授が本格的にミステリィを創作を始める話。 うーん、まさに森氏デビュー実録といった内容だ。まず森氏≒水柿君の世間知らずぶりが物凄い。 原稿用紙〇枚という募集要項に対して、この原稿用紙の定義が解らないと来ている。また工学部助教授であり、それまでいくつか専門書を発表していたので出版に関しては経験済みであったが、その弊害で原稿は全て横書き。しかし水柿君は横書きのまま出版社にファイルして送りつけるのだ。 そんな自由な間口を開いたのが本書でK談社と称される講談社。そしてその雑誌こそはメフィストだ。この自由度の高さが稀代の作家森氏を生み出すことになったのだ。 天才は普通のことができない。 だったらそれをこっちで補ってやろうではないか、このスタンスがその後も話題の作家を生み出す要因となったのだろう。 また本作で興味深く読んだのが出版社独特の文化だ。彼らの云う締切はかなりタイトな物ばかりだが、それは締切通りに原稿が収められないことが多々あるためのサバを読んでいるためだ。逆に締切をきっちり守っていると暇人だとみなされるとのこと―この辺は作者のジョークかも―。 この前読んだ井上夢人氏の『おかしな二人』ではかなり無理を強いられた締切に追われたためにコンビ解消に至った彼らがこのような慣習をもっと前に知っていたらまた結果は違ったものになっただろうと思うと何とも哀しい。 いやはや出版社とは作家を食い物にする企業であると少し憤りを感じたエピソードである。 今回面白かったのは「滝に打たれたかのようなショック」についての記述。いやまさか滝という人にホームランを打たれたショックと置き換えるとはね。思わず笑ってしまった。 さて今回の収穫は水柿君のフルネームが水柿小次郎であることが判明したこと。これって今作が初紹介だと思うのだけど。 さて続く「小説家として世界に羽ばたくといって本当に羽ばたいていたら変な人になってしまうこの不思議な業界の提供でお送りします」では物語はほとんどないといっていいだろう。 中身は作者森氏が小説のネタとして浮かびながらもボツとなった話が2つほど挿入されているが、ボツにするだけあって大したものではない。 今回最も興味を惹いたのは小説家以前の水柿夫妻の生活の模様だ。趣味にお金を惜しみなく費やす水柿君を尻目に須磨子さんは欲しい服も買わず、気に入った服を見かけたらそれを凝視して記憶し、家に帰って自分で縫製して出来得る限り再現して拵えてきたのだった。更には奥様連中で買い物に行った際に途中で喫茶店に寄ろうものならば、用事があるからと断って切り上げなければならなかった。更に水柿君は家計簿をエクセルで付けてていて、消費傾向を折れ線グラフで示して、増加傾向にある項目について須磨子さんにもっと節約するように促す。しかもその中には水柿君自身の趣味に使う費用は含まれていないのだ。 まあ、何とも献身的な妻ではないか。それまでの須磨子さんは自由奔放で思ったことをそのまま夫に云うだけの天然キャラとしか描かれていなかったが実は陰で夫に尽くしていたことが本作で明かされる。天然奥様を持った、どんな失礼や無理難題を云われても決して怒らないニュートラルな夫として描かれていた水柿君のあまりのマイペースぶりにそれまでの印象を変えさせられるエピソードだ。 婦唱夫随ならぬ夫唱婦随だったのね。おっ、これってある意味叙述トリックなのかも。 次の「サインコサインタンジェント マッドサイエンティストサンタクロース コモエスタアカサカサントワマミー」では(しかしタイトルはますます意味不明になってきているな)小説家となった水柿君に初めて講演とサイン会の依頼が来る。しかも場所は京都。そしてこの京都行にまたもや須磨子さんが同行することになる。大学助教授で講演はお手の物と思っていた水柿君はしかしいつも行っている講義とは異なる熱量に圧倒される。そしてまだまだ新人作家の自分にはそれほどサインを求める人はいないだろうと高を括っているとなんと講演出席者のほとんどの人々が列をなして待っているのに更に驚く。そして水柿君ははたと気付く。作家用のサインなど準備していなかったことに。どうする、水柿君!? 一市民がプロの作家になったことで次から次へと訪れる初体験のエピソードを実に忠実になぞって描かれている。本作では講演とサイン会がメインのテーマであるが、大学で行う講義では約1/3の人間が寝ており、起きている学生も眠たいのを我慢して死んだ目をしているのがほとんどで真面目に聴いているのは全体の1割程度であることを経験してきた水柿君にとって出席者の大半が熱心に自分の講演に聴き入っていることにまず驚く。 更にサイン会ではそれまで色紙や自著にサインなどしたことがない水柿君が初めてそれなりのサインを書くことを真剣に考える。 彼が思い付いたアイデアは相手の名前と日付、そしてトレードマーク的に羽根のイラストを添えることだった。正直云って前段はサイン会の常識だが世間知らずの水柿君はそんなことも知らなかった。またサイン会に須磨子さんの姉妹も訪れるというあるある的エピソードも織り込まれる。 水柿君は大学の講義でOHP(今ならパワポだろう。この辺歴史を感じる)を使っているので今回の講演でもOHPを作成して講演するのだが、逆にOHPなしで講義すると相手の顔を見なければならないので敢えて使っているらしく、研究者の中には結婚披露宴のスピーチをOHPを使ってやったのもいるらしい。ホントかね。 本書で最も興味深かったエピソードは須磨子さんとの“読者への挑戦状”についての談義。挑戦状を出すということは作者は挑戦者であり、格としては読者の方が上なのかという水柿君の理論とミステリィは真相を当てる方が面白いのか、上手く騙される方が面白いのか、もし上手く騙される方が面白いのだったら挑戦状に対して真剣に検討しない方がいいのではといった内容。 読者と作者、どちらが格上かという議論は非常に面白い視点だが、読者も考えて読めよという作者からの警告であると同時にやはり読者はお金を払って買っていただくお客様だから立場としてはやはり上ではないだろうか。 また私は自分で推理して真相を見抜けた方が面白い。 確かに上手く騙されるのも楽しいがミステリィは考える文学だと思っているので私は絶対に謎を解きたい方だ。 また水柿君≒森氏は私よりも年上なのだが、手紙を書くという習慣がないのでファンからのメールには返信するが手紙には返事を書かないとのこと。 ここでは基本的に文字を手で書く習慣がないと書いているが、年賀状では宛先を手書きにしている拘りがあり、矛盾が見られる。ほとんど推敲せずに書いているな、こりゃ。編集者もチェックをきちんとしてないようだし、ますますいい加減になってきている。 最後の「たまには短いタイトルにしたいと昨夜から寝ないで考えているうちに面白い夢を見てしまった。ああ、そろそろ秋だなあ。そこで一句。短めにタイトルつけたら秋かもね」では更に小ネタに走る。 更にエピソードの他愛の無さは拍車がかかる。そして意外なことに出す小説が売れに売れたことで水柿君夫婦は金持ちになり、車を買い、土地と家を買い、それでもまだ金が余ったので更に土地を買った。子供のいない水柿夫婦はそれぞれ気の向くまま趣味に没頭する日々が綴られる。 それに加えて森氏の小ネタ集が延々と続く。一発ギャグの応酬であるそれはなんと16ページも続くのだ。もはややりたい放題である。編集者は一体何をやってんだ! 本書ではサイン会をその後一切行わなくなったことが明かされる。本作の前話で初めての体験だったサイン会の大変さに嫌気が差したのだ。水柿君、つまり森氏は趣味で小説を書いているようなもので職業としての作家では―まだこの時点では―ないため、本来行うべきファンサーヴィスについては全く無頓着なのだ。それでも本が売れているのだから、まさに悠々自適である。ちょっとこの辺については思うことがあるのでまた後ほど触れよう。 水柿助教授シリーズ第2作目。 前作に劣らず、本書でも森氏は自分の思いの丈を存分に語っている。これほど作者の嗜好が、思考がダダ洩れしている作品もないだろう。まさに気の向くまま、思いつくままに書かれている。これは作者に全てを委ねることを許した幻冬舎だからこそ書けた作品集である。 いやあ、実際作者に好き勝手やらせ過ぎである。本書の出版に際して編集会議がきちんとなされたのか甚だ疑問だ。 いやもしくは当時そんな反対意見を差し込めないほどに森氏の作家としての権威が既に高かったということなのか。 今回全体を通して読むと、やはり本書は森氏の私小説と云えるだろう。第1話では理系思考の作者がなぜミステリィ作家になったのか、そのギャップを埋めようと云う意図で書かれているとさえ吐露している―しかしあまりに自由奔放に書き過ぎて全く成功していないようだが―。 結局この企みは成功せず、物語の主軸は一大学の一助教授だった森氏が経験した小説家になったことでの生活のギャップが綴られていく。 締切を平気で破りながらもきっちりパーティーは出て、趣味に興じる作家たちの常識と逆に締切を護って書いていることで暇人扱い、更にはバカにされたりもするという、社会人としての常識が非常識に転じる文壇界の不思議への戸惑い。 また作家になって出版社の人と行動するようになってそれまで電車やバスを利用していたのに少しの移動でもタクシーを利用するようになったこと。これは車内で打合せが出来るというメリットかららしい。 また自分の作品に対する様々な感想。昔ながらのファンレターからネット書評に水柿君自身に届くメール。またまた社会人である水柿君はこのメール全てに律義に返信していたら100通余りになってしまったが、ある上限に達すると増えなくなる不思議になんだかよく解らない内容や主旨の感想の類。 そして作品の若い女性ファンが来ることで妻の機嫌が悪くなったり、また印税が沢山転がり込んでそれまで貧乏暮らしが続いていた水柿家が潤い、奥様の須磨子さんは好きな服が買えるようになり、そして念願のミニクーパーまで買うことになり、更に水柿君は趣味にお金をかけることが出来るようになり、何百万円もする模型をいくつも買うことが出来るようになり、庭には人を乗せて走ることのできる機関車用のレールを引ける家も購入し、それでもなおお金が余ったので更に広大な土地を買うことがで来たりとこの第2編目では水柿君≒森氏が小説家になったことで訪れた環境の変化が主に描かれている。それは恰も森氏自身の私小説でありながら備忘録でもあるかのようだ。 こんなハイペースで作品を著し、更に大学助教授の仕事もこなしていた森氏、いや水柿君は小説はあくまで家に帰ってから書き、大学で書くことはなかったとも云っている。それはモードが違うから出来ないらしい。つまりスイッチを場面で切り替えているのだ。この辺はかなり解る。私も仕事とプライヴェートはきちっと分ける方だからだ。一方が他方を侵食すると思考が混ざり合ってしまうのだ。 また本書の中での水柿君のある心境の変化が興味深い。助手時代は好きなことをして賃金ももらえるなんて幸せだと思っていたのに、助教授になって研究以外の仕事が増え、特に会議が増えたことで苦痛を覚え、これだけ我慢して嫌な時間を過ごしているのだからお金を貰えて当然だと思うようになったこと。 ただ助手時代は好きなことができたが給料は安かったのに対し、助教授では助手時代の2倍以上の給料をもらうようになったのは嫌なことをしなければならない対価が増えたのだと考えているところだ。 私は労働報酬とは嫌なことを我慢してやったことへの対価であり、生活のためにその我慢をしているのであるという考えの持ち主なのでこの水柿君の後半の考えには全く同意だ。 一方で社会人になって一度も好きなことをさせてもらってその上給料まで貰って幸せだ、なんて思ったことは一度もない。かつて勉強させてもらった上に給料も貰っているんだから幸せだと云っていた上司がいたが、当時はサーヴィス残業当たり前の風潮だったので何云ってんだ、コイツと思ったものだ。 おっと作者の心情ダダ洩れの作品だっただけに私の心情も思わず露出してしまったようだ。 さて上に書いたように本書は大学の助教授だった水柿君が奥様の須磨子さんの何気ない提案から小説を書くようになり、それが出版社に認められ、あれよあれよという間に売れっ子作家になって貧乏から脱け出し、お金持ちになったところで幕が引く。 しかし私はこの件を読んで、売れる作家と売れない作家の境界とは一体何なのだろうかと考えてしまった。 ここではもう敢えて水柿君と呼ばず森氏と呼ぶことにするが、森氏が特に小説家になりたいと願ったわけでもなく、偶々手遊びで小説を書いたらそれが編集者の目に留まって一躍売れるほどになった。しかも森氏は自分が小説を書きたいと思って書いてるわけではなく、依頼が来るから書いていると非常にビジネスライクだ。 一方で小説が好きでいつか自分も小説家になりたいと願い、何度も複数の新人賞に応募して落選を繰り返し、ようやくその苦労が実を結び、晴れて作家になれて、自分の創 作意欲が迸るままに作品を書いて発表しながらもさほど売れない作家もいる。 熱意があってもその作家の作品が売れるとは限らないが、逆にさほど熱意もないのに書いたら売れている作家がいるというのは何とも人生とはアンフェアだなと感じざるを得ない。それは森氏は天才であり、このような書き方は森氏しかできないことなのだ。つまり一般人が、いや少しばかり才能があっても天才には敵わない現実を知らされた思いが本書を読んでするのである。 確かに森氏のデビュー作『すべてがFになる』が店頭に並んだときのインパクトは強かった。しかしそれ以降、一定のファンを獲得し、1つのシリーズに固執せず、次から次へとシリーズを生み出し、そして壮大な仕掛けを仕掛けているのが読めば読むほど分かってくる、この凄さこそが森氏の非凡さなのだろう。 だからこそこんな、およそ小説とは呼べない水柿助教授シリーズでさえも書物として刊行され、そして売れるのだろう。 本書を冷静に読める作家は果たして何人いるのだろうか。私が同業者ならば自分の境遇と照らし合わせて身悶えするはずだ。ある意味本書は作家殺しのシリーズだ。 さて残りはあと1冊。しかし宣言通りに3作書き、それがきちんと刊行されたということはそれなりに売れたということか。売れる作家は何書いても売れる。やはり作家殺しだ、この本は。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
『犬の力』から始まる、かつての義兄弟だった麻薬王アダン・バレーラと麻薬取締官アート・ケラーの因縁の物語最終章である。しかしアダン・バレーラは前作『ザ・カルテル』でセータ隊との最終決戦の場で命を喪い、既に退場している。
しかしこの男の権力の影響がいかに大きかったか、それを彼の死によって再び麻薬戦争の混沌が激化するメキシコを描いたのが本書である。 『ザ・カルテル』では3.5ページに亘って殺害されたジャーナリストの名が連ねられていたが、本書でも同様で実に細かい文字で2ページに亘って2014年に拉致され殺害された43名の学生たちの名前が書き連ねられている。更に2017年に殺害されたジャーナリスト、ハビエル・バルデス・カルデナスと世界中のジャーナリストの献辞が捧げられている。 時代は下り、犠牲者の数は減ったのかもしれないが、実情は全く変わっていないのだと思わされる献辞である。 さてアダン・バレーラとアート・ケラーの数十年に渡る抗争に終止符が打たれた前作で私も含め、読者の皆はこの2人の戦いは集結を迎えたと思っていただろう。 しかし「死せる孔明生ける仲達を走らす」という言葉をそのまま体現するかのように死んだアダン・バレーラはその後もアート・ケラーを奔らせる。なぜならアダン・バレーラという巨大な存在を喪ったメキシコのカルテルはポスト・バレーラの座を勝ち取るべく、戦国の世に陥るからだ。 しかし今回ケラーが戦う舞台はメキシコではない。彼の舞台はアメリカ本土。メキシコの麻薬を食い物にし、もはや政財界にドラッグマネーが蔓延り、表面的にメキシコの麻薬カルテル撲滅を謳いながら、その背中に手を回して巨万の金を動かしている歪みが今回の敵なのだ。自分が所属している麻薬取締局、アメリカ上院、そして合衆国大統領らがケラーの相手なのだ。 つまりアメリカという病理との戦いがこのサーガの最終幕となっている。 まだ子供だった頃、麻薬という言葉を初めて聞いた時、その恐ろしさからてっきり「魔薬」と書くものだと思っていた。本書の中でもアメリカが参戦した最も長い戦争はヴェトナム戦争でもなくアフガニスタンでもなく、麻薬戦争なのだと書かれている。もう50年も経ち、今なお続いている。私が生まれる前から続いているのだ。 そしてケラーにとってそれは40年にも及ぶ戦いだ。裏切りと違法捜査、そして殺戮の連続の40年。 何とも不毛な戦いだ。ちぎってもちぎっても雨後の筍のように出てくるカルテル達。カルテルのボスを狩ることは虎視眈々とその名を狙う№2達にその空きを提供しているに過ぎないとケラーは作中で述べる。 なぜ人々は麻薬に手を出すのか? 作中ケラーはこう答える。 麻薬は痛みへの反応だからだ、と。 肉体的な痛み、感情的な痛み、金銭的な痛みへの。 生きていくことが辛い、格差社会の現実の中、無理をして身体を酷使して働き、苦痛を常に共にしている人がいる。 その辛さゆえに心を塞ぐ人がいる。 最低の賃金で生活もままならない人がいる。 そんな人たちが一時の快楽を、いや魂の開放を求め、または一獲千金を夢見て手を出すのが麻薬、そして麻薬ビジネスだ。 麻薬は人の心を蝕んで生きるビジネスなのだ。 アダンの跡を継いだヌニェスがこう述べる。 麻薬ビジネスは他じゃ絶対あり得ないような給料をもらえる仕事を作り出している、と。 コーヒーやカカオを作るより、大麻や芥子を栽培する方が金になる。今、そんなコーヒー産出国、カカオ産出国ではそう考える農家が増えているという。合法的な市場で売られるコーヒーやチョコレートが我々市民の手に届く価格であるのに対し、麻薬はその非合法性から破格の値段で取引され、莫大な金を手に入れることができる。多少のリスクは負ってもそんな人参を目の前にぶら下げられれば、手を出すのは生産者の良心に掛かっていると云える。 後進国ではそんな現実がゴロゴロしており、我々先進国の人間が豊かな生活圏から彼らを糾弾することが果たして出来ようか? 彼らもまた食っていかないといけないのだから。 しかし麻薬ビジネスはもはや巨大化、いや肥大化しすぎてしまっている。なぜならこれほどの大金が動きながら、取引は現金で行われ、それがどんどん増えていき、次第に金の置き場に困るようになる。 いやはや資金繰りでヒイヒイ云っている企業が多いのに、何とも滑稽で贅沢な悩みだろうか。 しかしその多すぎる金は汚い金でもあるため、使うために洗浄しなければならないがなんとメキシコの銀行でも捌けないほどの量となり、アメリカの銀行も1万ドルを超えると“疑わしい取引に関する届け出”をする必要があり、報告する義務がある。 そこで白羽の矢が立つのは不動産投資だ。巨額な金が動き、尚且つ利益を生む、これほどうってつけの方法はない。 そして本書のジョン・デニソン大統領は元不動産王。明らかにモデルは現大統領のトランプ氏。何とも現実味を孕んだ話だし、よくこの物語を今この時に書き、そして刊行したものだと驚かされる。 正義対悪の構造を持ちながら、肥大する麻薬カルテル達に立ち向かう政府機関の連中ももはや綺麗ごと、正攻法では彼らに敵わなくなっている。 毒を以て毒を制す。 従って巨大な麻薬カルテルの息の根を止めるには正義の側も悪に染まる必要があるのだ。 麻薬取締局長アート・ケラーの麻薬カルテルとの徹底抗戦の姿勢に賛同したニューヨーク市警麻薬捜査課のトップ、ブライアン・マレンは腹心の部下ボビー・シレロに囮捜査官になれと命じる。但し彼に麻薬の売人になるのではなく、賄賂を貰い、もしくは悪党たちに金をせびって便宜を図る汚職警官になって彼らの信用を得てトップまで辿り着くように命じる。 このボビー・シレロの囮捜査のエピソードが特に胸を打つ。汚職警官に成りすますことは即ちそのレッテルを警察内に貼られることだ。 囮捜査であるからごく一部の人間にしかその真意を知られてはならない。そして彼が悪徳警官と記録されるとそれは警察官としてのキャリアが終ったことを示す。 人生そのものに大きなリスクを背負った彼が上司のマレンの期待通りに応えてマフィアの中枢、カルテルの上層部に近づいていきながら、自分の心が荒み、演技ではなく本当に汚職警官になってしまいそうになっていく危うさが哀しみを誘う。 巨悪を斃すための代償は人としての尊厳を失ったこと。 彼が利用した中毒者に罪滅ぼしのために更生施設に入れるが、すぐに麻薬の売人にヤクを売りつけられ、元の中毒者に戻ってしまう、この不毛さ。 …読書中、こんな思いが頻りに過ぎる。 ここまで人生を賭けて、生活を犠牲にして、心を病んで戦わなければならないものなのか、麻薬戦争というものは? しかしウィンズロウはそれを読者に見事に納得させる。 彼は麻薬ビジネスに関わる人たちの点描を描くことで麻薬に手を出したことでいかに彼ら彼女らが不幸になっていくか、悲惨な末路を丹念に描いていくのだ。 作る側、売る側だけでなく、それを運ぶ側、知らないうちに巻き込まれてしまう側、そして使う側それぞれの変化を描くことで上の切なる疑問に対する回答をウィンズロウは我々読者に与えていく。 いや正確には我々読者の良心に問いかけているのだろう。 こんな人たちが現実に起こっているのにそれでも貴方は見て見ぬふりができますか? そしてその問いに隠されているウィンズロウの痛烈なメッセージは次のようなものだろう。 もしそれが出来るならば貴方もまたカルテルの仲間なのですよ、と。 しかし麻薬戦争撲滅を己の正義として、信念として貫いたアート・ケラーという男の生涯はすさまじいものだった。 余りにも多くの罪を犯し、そして犠牲を伴った戦い。それはまさに現代の修羅道だ。 麻薬を撲滅するには綺麗ごとでは済まされない、自らの手も汚さなければ悪には立ち向かえない。清濁併せ吞み、毒を以て毒を制す。それはケラーのみならず、それまでのシリーズで共に戦ってきた男たちが抱えた必要悪だ。 やっていることは麻薬カルテル達の連中と同じなのか。麻薬という物を介して悪と正義に分かれるこの奇妙な二極分離。 ただそれだけしかケラーの側には正当性がないように思える。麻薬を作り、売りさばく側と麻薬を奪い、葬り去る側の違いだけで行っていることはもはや何も変わらないのかもしれない。半ば狂気に陥るところをギリギリの淵で留まるよすがが麻薬を撲滅させると云う正義感だったに過ぎない。 私がこの本を読みながら思ったことはこの場面でケラーの口から提案される。 上下巻合わせて1,545ページを費やされて書かれた最終章。しかしそれだけの紙幅を費やしてもウィンズロウがまだまだ書き足らないと感じていたことが行間から読み取れる。それだけ麻薬戦争の闇は深く、まだまだ我々には知らされてないことが沢山あるのだろう。 しかし予想はしていた通り、ウィンズロウのこの麻薬戦争サーガは重かった。 正直云って私はこのシリーズは好きではない。読んだ後に必ず陰鬱な気持ちに晒されるからだ。 他のウィンズロウの作品に比べてこの作品がかなりページを割いて書かれているのはウィンズロウの怒りの捌け口にも一部なっているからだ。その時の彼は筆を緩めない。書くべきことはしっかり書く。 本書もそれまでの作品同様、血を血で洗うカルテル達の闘い、とても人間の所業とは思えない残虐な拷問シーン、更に裁く側も、正気を保つのが困難とされる独居房の生活が事細かに書かれる。読んでいる側は終始悪夢にうなされる様な思いでそれを読む。 しかしその中にあってグアテマラからアメリカへ不法入国した少年ニコ・ラミレスのエピソードが実に愉しく読めた。 グアテマラからメキシコを経てアメリカに辿り着く冒険行、更にその後の少年拘置所での日々の物語は、アメリカの不法入国者に対する対応への問題提起として書かれており、彼の取り巻く環境は決して明るいものではないにしろ、その瑞々しさに溢れた筆致こそウィンズロウの真髄であり、やはり一ファンとしては早くこのようなウィンズロウ作品を読みたいと強く感じた。 冒頭に記したように今回のケラーの敵はメキシコの麻薬カルテルよりもアメリカ合衆国そのものだ。 ドラッグマネーによる不動産投資金が大統領へと繋がるスキャンダラスな内容だ。つまりとうとう麻薬はアメリカ政府をも買収してしまったことを意味する。 麻薬ビジネスは作る側に否があるだけでなく、それを使う側、買う側にも否がある。そしてそれはアメリカ合衆国その物の問題なのだ。 本書の題名『ザ・ボーダー』。それは即ち境界線を指す。 この境界線、つまりあちらとこちらを切り離す線は一体何を二分しているのだろう? 本書のジョン・デニソン大統領が掲げる、メキシコとアメリカを分断する“壁”もまたその1つ。 麻薬というボーダーを境に売る側とそれを取り締まる側もまた1つだし、売る側が悪だとすれば取り締まる側は正義となろう。 しかし麻薬戦争はそんな単純な二分化は出来ない。時に悪になり、そして正義になる。正義を貫くために悪になり、そうしなければ正義は成し得ない。 そしてやはりウィンズロウが我々に痛烈に訴えるボーダーとは即ち麻薬を使う側に行くなという境界線だろう。つまり越えてはいけない“その一線”を指すのではないか。 それはしかし無駄な遠吠えに聞こえるだろうと作者自身も思ったのかもしれない。 繰り返しになるが本書はメキシコの麻薬カルテルとアート・ケラーの戦いを描いた壮大なるサーガの最終章と云われている。 それを示唆するかように本書の結末は麻薬戦争に人生を投じたアート・ケラーのそれまでの歩みが最後公聴会の席で彼の口から述懐される。 しかし私はそれを信じない。 本書は献辞を捧げた2014年にメキシコのイグアラ市で起きた学生バス大量虐殺事件が一部材に採られている。ウィンズロウがこのサーガを描く原動力はこういった麻薬に関わったがために理不尽なまでに蹂躙した無法の輩どもへの憤りと犠牲になった無垢の魂への追悼だ。 従ってもし同じようなことが起きれば、ウィンズロウは再び憤怒の筆を握り、制裁を加える迸りを紙面に落とすだろう。 アート・ケラーの物語はウィンズロウにとってライフ・ワークとなる作品で、もはやこのシリーズが彼の代表作であることは万人が認めるだろう。 断言しよう。 アート・ケラーは再び我々の前に姿を現すだろうことを。 しかしそれは即ち裏返せば麻薬戦争が終わらない、麻薬カルテルが一掃されないメキシコの惨状が続くことを意味している。 それならばたとえウィンズロウの一読者としてもケラーとの再会は望まない。一人の人間として本書が本当に最終章になることを望むばかりだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
今回もコナリーにはやられてしまった。もはやページを捲ればそれが傑作だと約束されているといっても過言ではない。
前作『燃える部屋』で図らずも停職処分を受けたボッシュは本書では再びハラーとタッグを組む。それは停職処分中に定年延長選択制度への支払いが停止し、その状態で異議申し立てをするとその手続きの間で退職を迎えてしまい、そうなると退職金も定年延長選択制度資金も貰えなくなることから、刑事を退職し、それらを得て処分が不当であると訴えを起こし、その弁護士にハラーを雇った。 一方ハラーは有名な市政管理官補レクシー・パークス殺害事件の容疑者ダクァン・フォスターの弁護を請け負っており、調査員のシスコがバイク事故で重傷を負って動けないことからボッシュに調査員になるように依頼する。 ボッシュの停職処分から余儀なくされた早期退職に対する訴訟、それを弁護するのが異母弟のミッキー・ハラー。そしてハラーはボッシュに自分の仕事の調査員になるように依頼する。 この2人の職業と関係性を十分に活用しながら実に淀みなくシリーズが展開する様にいつもながら感心する。コナリーはハリー・ボッシュ、ミッキー・ハラーという2人の男の人生を知っており、それを我々読者に提供している、そんな気がするほどの事の成り行きの自然さを感じさせられる。 しかし殺人課の刑事をしていたボッシュにとっていわば刑事弁護士は自分たちが捕らえた悪人の味方をする、忌まわしき存在で云わば敵対関係にある。そんな弁護士の手伝いをする調査員の仕事をすることは刑事仲間を裏切る行為になる。作中ではダークサイドに渡る(クロッシング)とまで書かれている。これはボッシュが調査員になるようになって初めて知った感覚だ。なぜならハラーのかつての調査員ラウル・レヴンもまた元警官で彼はその昔のコネを活かした調査能力でハラーの信頼を得ていたからだ。つまりラウルもまた刑事たちにとっては裏切者であり、それでありながら警察内に有力なコネを持っていたという実に優れた調査員だったことが解る。なぜならボッシュは調査員となることで刑事たちの不興を買うからだ。 一旦ボッシュが刑事弁護士の調査員になったことが知れ渡ると元同僚や不特定の警官から次から次へとボッシュの携帯に非通知の電話が掛かり、またテキストが送られてくる。彼をよく知っている刑事仲間はボッシュが一時的なものだという言葉を頼みの綱として信じようとするが、その他の警察官は彼を裏切り者として罵倒する。 やがてボッシュ自身も自分が向こう側に渡ってしまったことを意識し、背徳の念に苛まれる。 また本書ではそれまでと異なる描き方がされている。それは事件の犯人の行動が物語の冒頭から同時並行的に描かれていることだ。しかも彼らが刑事であることも判明しており、予め悪徳警察官であることが判っている。 これは非常に珍しい。なぜならコナリーはこの手法をサプライズに用いることが多いからだ。 しかしこの新しい手法はまた物語に新たな魅力を生み出している。この2人の行動が不穏過ぎて物語に常に緊張をもたらしているからだ。 彼らに監視されるハラーとボッシュ、そしてその他事件関係者たち。彼らが何をしようとしているのか読者は不安の中でページを捲らされる。その先を知りたくて。 今回久々にボッシュは『暗く聖なる夜』、『天使と罪の街』以来、刑事ではない立場にある。従って彼もまた警察の脅威を感じ、いや特権的立場を失っている状態にあることで正しい市民であろうとする。 例えば刑事時代では運転中であっても携帯電話で通話し、シートベルトの着用も疎かだったが、一介の市民となった今ではシートベルトはきちんと着用し、携帯電話はイヤピースを嵌めて通話する。 刑事時代では駐禁など気にしなかったのに今では普通に切符を切られてしまう。 ボッシュは今更ながらに刑事であったことの利点を痛感させられる。そしてそれは今回の事件の真犯人に繋がるファクターでもあった。それについては後述しよう。 前科者は必ず犯行を再発する。それは彼らが根っからの悪だからだと悪に対して執着的な怒りを覚えるボッシュ。 一方で人は変われる、やり直せる、だからそんな更生した人を偽りの犯行から護らなければならないと、かつての悪人の贖罪を信ずるハラー。 元刑事と弁護士の価値観の違い。それがいつしかこの異母兄弟の間に乖離を生む。 ハラーは弁護士として裁判に不利益や予断を与えるような情報をボッシュが警察側に与えるのを抑えようとし、警察側に対して非協力的であるのに対し、元刑事のボッシュは真犯人を捕まえるために自分の情報を与えたいと思う。ハラーにとって警察側は裁判での敵であるのに対し、ボッシュは元々そちら側にいた人間で仲間意識が強いからだ。 従ってボッシュはレクシー・パークス殺害事件の真相究明に積極的で刑事の血が騒ぎながらも、一時的でありながら弁護士の調査員という対立の立場にあることに苦痛をしばしば感じるのだ。 さて調査員として臨んだレクシー・パークス殺害事件の行方はスキャンダラスな事件へと繋がっていく。 この妙味。そしてボッシュという男の刑事としての勘の鋭さを感じさせる事件だった。 終わってみればエリスを含め8人もの死者が出た陰惨な事件となった。 私欲のために大勢の人の立場と人生を利用し、そして危なくなればゴミのようにその命を葬り去る。人の死を扱う仕事に就くことで人の死に対して鈍感になり、そして自分の仕事が庶民に対してある種の特権を持つことに気付き、いつしか王にでもなったかのような尊大な男が生んだ悲劇の産物が今回の事件だった。 一介の市民となったボッシュが刑事でないことの不便さは即ち彼ら2人の悪徳警官が刑事であるがゆえに覚えた特権だったのだ。 コナリーはシンプルなタイトルに色んな意味を、含みを持たせるのが特徴だが、本書の原題“The Crossing”もまた様々な意味で使われている。 まずは元刑事が刑事弁護士の調査員になることをダークサイドに渡る(クロッシング)という裏切り行為という意味で使われ、次は被害者レクシー・パークスが有名な市政管理官補であり、メディアにも多く登場していたことで不特定多数の人間に遭遇(クロッシング)していたことで容疑者特定の困難さを示す言葉として。更に被害者と加害者の動機と機会とを結びつける交差(クロッシング)する瞬間をも意味する。 しかし私はその言葉は次の一言に集約されると感じた。 The Crossing、それは即ち一線を越えること。 まずボッシュは元刑事としてはタブーとされる弁護側の調査員となる一線を越えた。 それは逆に彼が別の人間に冤罪を着せ、のうのうと生きている悪を野放しにしてはいけないという刑事の信念に駆られたが故であるのが皮肉なことに一線を越えさせた。 そして一連の事件の主犯であるハリウッド分署風俗取締課の刑事ドン・エリスとケヴィン・ロングは職務を濫用することが甘い汁を吸えることに気付き、刑事としての一線を越えた。 一線を越えた者たちの内、正しい方への一線を越えたのはボッシュだった。 しかしそれがゆえに彼は元仲間たちの警察官から裏切者のレッテルを貼られることになった。なぜなら彼は刑事を犯人として告発したからだ。 正しいことをしながら元仲間たちに蔑まされる。ボッシュの歩んだ道のなんと痛ましいことよ。 そしてその正しさを認めることのできない警察官たちの何とも愚鈍なことよ。 正義を司る者たちが仲間意識を優先して正しき進むべき道を見誤るようになってしまっている。コナリーは今までも正義を裁く側の人間を犯罪者として物語を紡いできたが、それをアウトサイダーになったボッシュによって裁くことでより一層警察組織そのものの歪みが浮かび上がらせることに成功したように思える。 この原題が非常に本書の本質を掴んでいるがゆえに今回は邦題の『贖罪の街』がなんともちぐはぐに感じてしまう。訳者はあとがきでその理由について述べているが、正直苦しい。 私ならば原題をそのままカタカナにして『クロッシング』にするか、それともボッシュも常に吐露している、事件の被害者たちが陥った『ダークサイド』もしくは『アザーサイド』か。 簡潔にして多種多様な意味を持つ言葉だけに日本語でそれを成そうとすると実に難しい題名だ。 さてここいらで本書に関して思ったことを書いていきたい。 まずシリーズ恒例のエピソードの進展について触れておこう。 まず私が本書のサブストーリーの中でも関心が高い、ボッシュの娘マディとの関係だが、ボッシュは思春期の微妙な年頃の娘の素っ気ない態度に苛立ちと戸惑いを覚えながら、メールのやり取りに一喜一憂しているという相変わらず不器用な父親振りを見せる。マデリンはボッシュが唯一敵わない相手にもはやなっている。 更に今回亡き母親エレノア・ウィッシュについて2人で話す機会があり、初めてマディが母親が恋しいと吐露する。同性として、そして少女から女性になりつつあるマデリンにとって良き相談相手となる母親の不在がここにきて響き、ボッシュも胸を痛める。 またロサンジェルスという映画産業の街を舞台にしたエピソードが多く盛り込まれているのもこのシリーズの特徴だが、本書で触れられているのは知事となったある映画俳優が行った権力濫用とも思える措置に対するエピソード。これはもうあのシュワルツェネッガー以外何物でもないが、彼が映画復帰してさほどヒットがないのもむべなるかなと思えるエピソードだった。 また事件の関係者である形成外科医のジョージ・シュバートによって明かされるキャッシュ・コールも興味深い。 有名人が整形をするのに、プライバシーを守るため、証拠を残さないために医療保険を利用せずにキャッシュで払う習慣があるとのこと。その中でマイケル・ジャクソンの死について触れられているが、まさかマイケルが自宅で整形治療の最中に死んだとは知らなかった。 そして本書の献辞はサイモン・クリステンスンなる人物に捧げられている。 今までコナリーは自分の創作の協力者や家族に献辞を捧げていたが、この人物はコナリーとの所縁はない。 では誰なのか? それは書中で明かされる。その内容は本書を当たって頂くとして、色々含みを感じる献辞である。 さて何度目かのボッシュとハラーのコラボレーションとなった本書は双方の持ち味が十分に反映された作品となった。 ボッシュは刑事の職を離れ、一介の民間人というハンデを負いながらも生まれながらの刑事とも云うべき執念の捜査を続け、真犯人に辿り着き、そしていくつもの危難を乗り越えた。 一方ハラーはボッシュが集めた証拠とアドヴァイスを存分に活かし、法廷でハラー劇場とも呼ぶべき鮮やかな弁護を披露し、見事依頼人の無実を勝ち取った。 被害者は保安官補の妻でマスコミにも多く登場し、人望厚い市政管理官補。 被告人が黒人の元ギャング、一方真の悪は悪徳警察官。 つまりクリーンな立場の人間が無残に殺され、捜査上に浮上してきたのが悪人の先入観を余儀なく与える人物。 一方暗躍して悪事を重ねる警察官が真犯人であることが半ば自明でありながら面子を保つために司法の側の捜査は遅々として進まなく、このまま被告人を生贄の山羊として備えることを望むような雰囲気さえ漂う状況を覆す、四面楚歌の中での勝利はドラマとしても出来過ぎだろう。 しかし我々はもはや何が正しく何が間違っているのか解らない世界に生きている。 社会に秩序をもたらすために作られた精巧なシステムが正しくなければならない、誤作動するなどあり得ないと断じる、それを扱う側の人間たちによっていつしかその信頼性を守るために、いやミスを認めようとしないつまらぬプライドのために、正しいことがなされず、いつしか過ちがうやむやに葬り去ろうとされる、もしくは落としどころを付けるために弱者に標的を定め、犠牲として捧げる、そんな歪みが蔓延していた世界にいつしかなってしまった。 そんな世界だからこそ小説の、物語の中だけでも正しいことが正しく落着する結末であってほしい。そのために小説は、物語は書かれ、読まれるのではないか。 コナリーの描くボッシュサーガは正義を貫くことの困難さとそれを乗り越えた人々の、人生の充実を常に与えてくれる。 ハラーの物語はいつも結末は苦いが、今回はさすがに爽快感をもたらしてくれた。 さて未だ異議申し立て中で元刑事の一介の市民のままのボッシュ。しかも刑事から蔑まれる弁護士の調査員の仕事に手を染めてしまった彼の次の去就が気になるところだ。 そしてそれを描いた作品は既に出ている。次作『訣別』を手に取るのに何の障害があろうか。 ただ今は少しばかりこの最高の物語の結末の余韻に浸り、心を落ち着けて次作を手に取ろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
第4回日本ホラー大賞受賞作で貴志氏の本質的なデビュー作となり、そして映画化もされた本書。
ホラーと云えば怪異現象、超常現象を扱った物が多い中、保険会社員が顧客の訪問先で子供の首吊り死体に出くわし、更にその保険金を巡って遺族であるその両親との陰湿で執拗な催促に取り乱される、そんな風にストーリーの概要を理解していた私 本書は正真正銘のホラーである。それもとても他人事は思えないほどの迫真性を孕んだ怖さがある。それはどこかにはいるであろう、少し変わった隣人が本書の元凶であるからだ。 まず題材が実に一般的だ。怪我や入院、そして人の死を日常的に取り扱う保険会社が舞台。 自殺した子供の保険金を巡ってその両親との確執にて主人公に降りかかる災厄が本書の内容で、従って物語の細部に保険会社の業務や保険業界の裏話などが丹念に織り込まれており、非常にそれが読み応えのある内容となっている。 主人公の若槻慎二は入社当初は東京本社の外国債券投資課に配属になり、投資関係の仕事を扱っていたが、昨年春の人事異動で大学の時に住んでいた京都に異動になり、そこで本来の仕事である保険業務に携わるようになった。その日常はまず人の死に纏わる死亡保険金の請求書類といった類の書類のチェックから始まる。彼は入社5年しか経っていないが、早くもそんな暗鬱な内容で業務が幕を開ける保険会社の仕事に嫌気が差してきている。 次から次へと送られる保険請求の書類の詳細な内容のチェック、保険の窓口にいつもクレームを付けに来る客への対応の仕方、自殺で保険は下りるのかといった一般人が抱くような疑問に対する応対、わざと異なる印鑑を持ってこさせ、貸付が断られると、そのことで手形が不渡りになって会社が倒産したと賠償金を請求されたり、または交通事故でムチ打ち症でずっと入院して給付金を貰い続けて、期限が切れそうになると新たな症状で診断書を書いてもらって更に延長する、病院とグルになって詐欺を行う者、また一方でそんな詐欺に対抗すべく保険会社でも「潰し屋」と呼ばれるヤクザまがいの人間を雇っていたりすること、毎年11月は『生命保険の月』と云って過大なノルマが課され、それによって審査のチェックが甘くなること、などなど、生命保険会社に勤務していた作者が知る業界の内輪ネタに事欠かない。 そんな保険会社の裏事情が放り込まれ、我々読者の眼前に本書メインの事件の発端となる主人公若槻への災厄の始まりを告げる事件が幕を開けるのは物語が始まって70ページが過ぎてから。それは副長の葛西が受けた1本の電話が若槻を指名したことから始まる。 自分を名指しで指名してきた顧客。しかしその菰田幸子と重徳という名前には心当たりが全くない。不思議に思いながら家を訪ねてみると嵐山付近という高級住宅街にありながら周囲に全くそぐわない黒い家で荒れ放題で中には異臭が漂っている。案内されるとなんとそこで…。 恐らくはこのショッキングな展開もまた生命保険会社時代に聞いたエピソードの1つであろう。それを貴志氏はサイコパスと結び付け、ホラーへと昇華させたのだ。 つまり自分の顧客が次から次へと身内を殺し、また傷をつけ保険金を請求するサイコパスであった。本書はこのワンアイデアのみと云っていいだろう。 しかし物語はシンプルなものこそ面白い。本書はまさにそれを具現化した作品だと云える。 公共の場での対面が対会社ではなく一個人を標的にしてどんどん私生活へと侵入してくる怖さがここにはある。 作者は真綿で首を絞めるように主人公若槻を、読者を恐怖の底へと導く。 そんな具合に実に計算尽くしで書かれた本書は、日本ホラー小説大賞の受賞作であることから、その内容はいわゆる賞を獲るために必要不可欠な小説の要素が教科書通りに放り込まれていることが解る。 まず作者自身が生命保険会社に勤務していた強みを活かし、保険業界のエピソードをふんだんに盛り込み、その業界ならではの内輪話、蘊蓄で読者の興味を惹きつけながら、更に忌まわしい過去を設定している。 主人公若槻はあるトラウマを持っており、そのトラウマが顧客に対して不信感を抱き、調べる原動力となっているのだ。 原因と結果という因果をきちんと設定し、物語を淀みなく進める磐石さを持っている。 更に物語に心理学、生物学などの専門知識を放り込み、読者の知的好奇心を刺激し、次から次へと事件を連続させ、ページを繰る手を止めさせない見事な筆捌きを見せる。 もう、受賞のためのファクターが過不足なく盛り込まれており、戦略と戦術を立てて応募されたことが如実に判るのである。 そんな作者の恣意的な創作作法が見えながらもやはり本書は実に面白い。あざとさの一歩手前で踏み止まるバランス感覚に優れているのである。 しかし保険業界とはまさに世に蔓延る魑魅魍魎共を相手にするような職業であることが本書でよく解る。お金が人間の欲望と直結して駆り立てるものであるがために人の生死をお金で取引するシステムに人はどうにか旨い汁を吸ってやろうとたかるのだ。 また生保業界も契約を取れれば天国、取れなければ虫けらのように扱われる極端な成果主義となっていることも慈善事業ではなく金満事業となっている歪みが生じているのだ。 本来突然の死に見舞われた時に遺された者が安心して生活を続けられるように作られたシステムであるのにそこに蓄えられた金をどうにか騙して手に入れようとする詐欺師たちが横行するからこそ保険会社もまた支払いにはより一層慎重となり、そしてなかなか支払いが行われなくなるのだろう。 通常その業界に身を置いている者はそういった業界の特異な状況が常識となり、奇異に感じなくなってくる。 しかし貴志氏は保険業界に身を置きながらも一般人の感覚を持ってそのおかしさ、恐ろしさに気付いたのだ。そして彼は自分たちの日常業務こそホラーそのものだと発見したのだ。 但しそれでもまだ小説としては疵も目立つ。 前作『十三番めの人格―ISOLA―』でも気になった男女の関係の書き方だ。若槻慎二と黒沢恵の2人の関係がなんとも稚拙すぎる。 繊細で傷つきやすい性格である黒沢恵が菰田幸子に襲われ、危うく一命を取り留めた後、両親に庇護されることについて自分を2人の思い通りに動く人形のようにならないと決意するくだりがあるが、これも思春期の子の台詞ではないかと思ったくらい成熟味がない。また若槻が彼女を欲するあまりにその思いをぶつけるのもいつの頃の話だと思ったくらいだ。 この辺の男女関係の機微をもう少し違和感なく書くと引っかかることはないのだが。いや寧ろ物語の彩りのために無理矢理恋愛のエピソードを入れる必要もないのだ、物語が面白くさえあれば。 第1作目が多重人格、大賞受賞の第2作の本書がサイコパスと貴志氏がホラーの題材として選んでいるのは常に人間そのものが持つ怖さだ。その後の諸作のテーマを見ても常に作者が人間の心に潜む悪意や宿る狂気に目を向けてその怖さに注目しているのが解る。 本書はまさに受賞するための法則に則って書かれたような教科書的作品であり、怖さを感じる反面、その端正さが逆に気になった。 しかし受賞する目的のために書かれた作品は本書にて終わった。これ以降の作品は貴志氏が思う存分自分の書きたいテーマを扱い、型にはまらない面白さを追求した作品があると信じたい。それまで5つ星の評価はとっておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
コナリー作品25冊目で作家生活20年目の記念碑的作品『ブラック・ボックス』からミッキー・ハラー物の『罪責の神々』を挟んで、前作から2年経った本書では色々とボッシュの身の回りに変化が訪れていた。
既に前作のパートナー、デイヴィッド・チューと目の上のたん瘤だった上司クリフ・オトゥールもいなくなり、ボッシュは新人の刑事メキシコ系アメリカ人のルシア・ソトを相棒に迎えている。ボッシュにとっても定年延長制度最後の年であることもあって、残り少ない刑事人生をルシアに自分の経験と知識を十分教え込むことを使命として良きパートナーかつ良き師として彼女に接している。ボッシュのこの対応は一匹狼で単独行動ばかりしては上層部の悩みの種となっていた彼からは隔世の感を感じさせる。 また変化と云えば前作まで付き合っていたハンナ・ストーンとの関係も既に終わっていた。彼女の息子ショーンはレイプの有罪判決を受け、刑務所に入っていたが、仮釈放審査でボッシュが彼の味方をするのを拒んたことがきっかけでそれで関係がすっぱりと終わったことが知らされる。前作でも彼女の息子の件がボッシュの出張費を私用目的で使ったと疑問を与えたのが母親との仲を嫉妬したショーンからの訴えであったことから彼女との関係は険しいものになると予想されたが、意外にもあっさりと幕を閉じたようだ。 さて刑事生活最後の年を迎えるのは前作から引き続いて未解決事件班で、10年前に起きた射殺未遂事件の真相を追うというもの。しかし事件は10年前に起きたが、被害者が亡くなったのはつい前日。被害者であるオルランド・メルセドは銃弾を体内に残したまま一命をとりとめ、下半身不随になり、更に体内に残った銃弾の影響で両脚と片手をも失いながら、10年間生き長らえた人物で、世間では英雄視された人物、つまりちょっとした有名人だったのだ。 彼の死後、ようやく解剖によって彼の背骨に埋まっていた1発の銃弾を手掛かりに事件の再捜査が始まるという実にドラマチックな幕開けを見せるのである。 しかしコナリーは銃弾がよほど好きなようで人の運命を決定付ける絆を例えるにも使っている。そして本書もその銃弾にて10年前の事件が再度幕を開けるのだから。 ただ追う事件はそれだけでなく、もう1つある。 それは1993年に起きたボニー・ブレイ放火事件だ。当時大半の子供を含めた9名の死者を出した放火事件で、なんと被害者の1人がボッシュの新相棒ルシア・ソトだったのだ。彼女はこの事件で亡くなった保母と5名の仲間たちのためにこの未解決事件を解決するために刑事になったとも述べる。 但しこの事件は他のチームが扱っており、通常ではそれはテリトリー侵害に当たるため、そのチームから横取ることをしないのだが、ボッシュはかつて自分も母親殺しの事件を単独で捜査した過去を思い出し、ルシアの意図を組んで自ら事件の通報者に模してメルセド襲撃事件とボニー・ブレイ放火事件2つの事件に関係があると仄めかせてボッシュ達に捜査を当たらせるように仕向ける心憎い配慮を示す。 本書のタイトル『燃える部屋』、原題“The Burning Room”はルシアがこのボニー・ブレイ放火事件で生き長ら得ることができた地下の無許可託児所のことを示す。 火災によって煙が充満していく部屋の中、濡れたエプロンを鼻と口に当てて、しのぎながらも更に進入してくる煙を避けるためにクロゼットに入り、助けを待っていた彼女。クロゼットに入れずに外でひたすら助けを求め叫び続けながら死んでいった保母のエスター・ゴンザレス。 そしてもう1つの意味は事件の核心に近づいた時、それが思わぬ権力者や社会的重要人物に突き当たった時には慎重に物事を当たらなければならないことを云い表す際にボッシュが火事で燃えている部屋はドアを決して開けてはならないと表現したことによる。 バックドラフト。内部で燻ぶり続けた炎は部屋の中の空気を全て使い果たし、次の空気を待っている状態だ。迂闊にそのドアを開けようものなら急激に入り込んだ空気によってドアを開けた者は一瞬にして炎に包まれる。 パンドラの箱は無暗やたらに開けてはならない。慎重に動かないと自分たちが怪我をするという意味だ。 本書では刑事事件の捜査に各種の検索エンジンが活用されていること、容疑者との尋問はスマートフォンの録音アプリが使われており、グーグルマップで行き先を検索したり、はたまたウェブ新聞の勢いに押され、閑散としたLAタイムズの事務所の様子が描かれていたりとIT化による利害がやたらと目に付くようになっている。そしてウェブ上では自分の意見を自由に発言できるようになったことで注目が増し、多くのシンパを得てムーヴメントが巻き起こしやすくなる一方で、リテラシーを理解しない人間がその発言で世界中から袋叩き状態になる、いわゆる炎上することも多くなってきている。 つまり本書の『燃える部屋』とは我々ウェブを活用する人々が持っているブログやSNSのアカウントのことを示しているのではないかとまで考えるのは少し穿ち過ぎだろうか。 そうそう、忘れてはならないのはボッシュシリーズのもう1つの関心事、娘マデリンの成長だ。既に彼女は17歳になり、警察官になるための準備を着々と整えているようで、ハリウッド分署で行われている警察体験班に参加し、更には身体の不自由な老人へのボランティア活動を行って大学進学の申請書に箔を付けるのに勤しむ毎日。しかも警察体験班の連中との付き合いも出来、ボッシュは嬉しい反面、娘に悪い虫がつかないかとハラハラしている状況だ。 しかし何といっても本書の一番の読みどころはボッシュと相棒の新任刑事ルシア・ソトの師弟関係だ。 上にも書いたようにボッシュは定年延長制度最後の年でルシアにそれまでの刑事生活で培ってきた自身の捜査技術とノウハウ、そして刑事という生き方とも云うべき心構えを教えるべく良き師となって彼女に付き添う。そこにはもはや一匹狼として単独行動が常であったボッシュの姿はなく、去り行く老兵が手取り足取り若者に戦い方を教え、歩むべき刑事の道へと導く先達の姿があるのみだ。恐らくボッシュはルシアに警察官志望の将来の娘の姿を見出していたのではないだろうか。 そしてボッシュの教えを頂くルシアもまた自分が将来刑事の道を歩む強い意志を示し、ボッシュの期待に応える。もし自分だったらそうするであろうことを云わずとも行うルシアにボッシュは自分に似た部分を感じる。 そしてルシアもまたある信念をもって警察官になった女性だった。 彼女は1993年に起きたボニー・ブレイ共同住宅放火事件の被害者の1人で当時7歳だった。彼女はそこの地下にあった無認可託児所におり、大半の子供を含む9名の人命が亡くなった陰惨な事件で奇跡的に生き残った児童の1人だった。彼女を助けて亡くなった保母のエスター・ゴンザレスとその他5名の友達の無念を晴らすために警官になり、そして未解決事件班でこの事件を独自で捜査しようと決意したのだった。 そしてボッシュは次第にこのルシアの信念と刑事の資質に感心するようになる。 誰よりも早く出勤し、そして誰よりも遅く退社する。休日であっても署に出向いて事件について調べる。 それはボッシュがいまだに行っていることだが、いつもそれを先んじて彼女が行っている。最後の方はボッシュがついていくのがしんどくなってきたと吐露するほどだ。 更に彼女はラッキー・ルーシーの異名があるように運にも見舞われている。まだ市警に入って5年目にも関わらず、酒屋での武装強盗の事件で、4人を相手にし、彼女のパートナーは撃たれて死亡したものの、彼女は2人を倒し、残り2人をSWATが駆け付けるまで釘付けにしたことで有名になった。その功績を買われ、彼女はいきなり刑事となり、未解決事件班に配属され、ボッシュの相棒となった。 ボッシュはこのルシアの話を聞いており、彼女が相棒となることを喜んだ。彼は若くして職務遂行中に人を殺し、相棒を喪った彼女の気持ちが同じ境遇を経験した自分には解ると思ったからであり、それを知っているからこそ彼女を上手く育て上げることができるだろうと思ったからだ。 つまりボッシュは自分を彼女に投影し、そして彼女を自分と同じような刑事、いやもしくは自分を超える刑事に育てようとしているのが文面からひしひしと伝わってくる。そしてそれを理解し、ボッシュの期待に応えようとするルシアの姿もまた健気に映り、なんともこの2人のやり取りが今までにない爽快感をもたらす。 なかなか相棒に恵まれなかったボッシュが退職間際でようやく自分と同じ価値観を持つ相手を得たことが読んでいるこちらも嬉しく思わされてしまう。 そしてそんな刑事の運はボッシュにも働く。捜査令状は自分に好意的な当番判事だったことで容易にもらえ、出張先のタルサでは地元警察に協力的で有能な捜査官に恵まれ、帰りのフライトはファーストクラスにアップグレードされるという幸運を得る。 私はしかしルシア・ソトが幸運の星の下にいるのではないと思う。 人は努力をすれば報われることを単に証明しているだけなのだと思うのだ。信念をもって何事にも取り組めば自ずと運はついてくることをルシアとボッシュの2人の捜査を通じてコナリーはメッセージとして載せているのではないか。 それは常に作品に真摯に向き合い、上質なミステリを読者に提供し、楽しませることに心を砕き、ボッシュという刑事を中心にして緻密な作品世界を描いてきたことが現在のベストセラー作家の地位まで自分を押し上げることになったことを作者自身がそれとなく述べているように思える。 メルセド襲撃事件。ボニー・ブレイ放火事件。この2つの事件は結局結び付きがないまま終わるがどちらもボッシュ×ルシアのコンビで真相に行き着くがその結末はいつものように苦いものだった。 どれも完全に割り切れない。特にその後の続きを読むに至っては。 悪はきちんと裁かれなければならないと云う信念をこの男は決して曲げない。それはルシアに告げることで彼は自分の信念を、刑事としての魂を引き継ごうとするかのようだ。 。 今回の結末は前途ある有望な刑事ルシア・ソトに事件解決の現実を教えるための物だったように思う。 ボッシュ2人が辿り着いた事件の結末についてルシアは複雑な思いを描く。彼女は自分を含め友人と保母を悲惨な目に遭わせた放火犯を何年経っても自分の手で探し出し、そして罪を償わさせること。それが彼女が警察官になった時に描いていた図だった。 悪は暴かれ、裁かれなければならない。 しかし物事はそんな単純に割り切れる物ではなかったことを彼女は悟らされる。胸の中に燃えていた思いの行き先は一気に燃え立ち、そして消失する者だと思っていたが、燻ぶり続け、心に熾り続けていくことを彼女は経験した。たとえそれが事件を解決したことになっても。 我々読者がミステリや物語に求める物は何か。 それはその時その人によって違うだろうが、明らかに大きな1つの共通項としてあるのは物事が解決し、爽快感をもたらされることだろう。 事件が起き、そこに謎があり、もしくは主人公がのっぴきならない境遇に陥って先行きが読めない状態にあり、それが主人公たちの行動によって見えなかった部分が明らかになり、収まるところに収まって物語が閉じられる。 それは我々の日常生活において起こること、世間で起こる現実の事件が物語で語られるようにすっきりとした形で終わらないからだ。 小説とは、物語とは率直に云えばその中身にどんなにリアルが伴っても、作り事、虚構に過ぎない。 しかしだからこそそこに割り切れる結末を求め、読者は日常生活で抱える鬱屈を解消するのだ。 しかしコナリー作品は決して100%の結末を我々に提供しない。なにがしかのしこりを常に残して物語は終わる。それはある意味リアルであり、もしくはある意味イーヴンであれば申し分ないと云う妥協、いや物事への折り合いをつける着地点を示しているかのようだ。 それが逆に読後感に余韻を残し、しばらく読者の胸に留まるのだ。言葉を変えれば読者の胸の中に物語が、登場人物たちが生き続けるのだ。 ボッシュがこの後も登場するのは我々は判っている。どのような形で我々の前に姿を現すのかは不明だが、再会するボッシュは、頭の先から爪先まで変わらぬボッシュであることだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
文庫裏の粗筋を読んだ時、キングはなんということを考えつくのだろうと、その奇抜さと着想の斬新さに驚いてしまった。
まさか作家の別のペンネームが独り歩きして現実世界に現れ、作家周辺に脅威を及ぼすとは。しかもその<邪悪な分身(ダーク・ハーフ)>はおおもとの作者と同じ指紋、声紋を持つ、全くの生き写しのような存在なのだ。 キング版『ジキル博士とハイド氏』とも云える1人の人物から生まれた2つの人格の物語はしかし本家における二重人格とは異なる、全く新しい趣向で語られる。 まず本書の着想の基となったのがキング自身の経験によるものだ。キングはその迸る制作意欲を止められず、当時出版業界にまかり通っていた1作家は1年に1冊だけ出版するという風潮からリチャード・バックマンという他のペンネームを使って作品を2作以上発表することにしたのだが、やがてバックマン=キングという説が流れ出し、公表するに至ったという経緯がある。 本書の始まりもその実体験をそのまま擬えたかのようにワシントン市の法科学生がたまたま売れない作家サド・ボーモントの作品とベストセラー作家ジョージ・スタークの両方の作品を読んでいたことでボーモント=スタークではないかと疑問を持ち、暴露されそうになったところを敢えてサド・ボーモントの方からジョージ・スタークの葬式を行う、つまり今後ジョージ・スターク名義の作品は書かないという宣言をした記事を『ピープル』誌に載せたところから始まる。 本書はある意味メタフィクションと云っていいだろう。なぜならサド・ボーモントを通じてキングがバックマンとして作品を書いていた時の心理が描かれているように捉えることのできる描写が見られるからだ。 サド・ボーモントがジョージ・スターク名義で犯罪小説を書き始めたのは自身がすごいスランプに陥って新作が書けなくなった時に全く逆の、自分が書かないであろう作品を書いた時にそれが上手くカチッとハマったこと。 サドがスタークの作品を書いている時、自分が本当は何者か解らなくなること。 またジョージ・スタークの名の由来となった実在の作家ドナルド・E・ウェストレイクの別名義リチャード・スタークのエピソードを交え、彼のように自分の中のジョージ・スタークが目を覚まして自ら語り出したということ。 最初は単に金を稼ぐために生み出したもう1つのペンネーム。しかしその正体を秘密にすることで作者はばれないよう、文体を変え、そして書くテーマも変える。しかしそううすることで次第に自分の中で別の人格が生まれてきた、つまりキングの中でバックマンは単に名前だけの存在ではなくなったことが暗に仄めかされるのだ。 そこから出たアイデアがもう1つのペンネームが別人格となって実在し、本家の作家の脅威となるというものだ。本書はこのワンアイデアのみだと思われがちだが、色んなテーマを内包している。 まずは双子の奇妙な繋がりだ。 物語の冒頭は主人公サド・ボーモントの少年時代に起きた偏頭痛の手術のエピソードが描かれている。その頭痛の原因は脳に出来た腫瘍による圧迫だとされ、緊急手術が行われるが、なんとそこで出てきたのは目玉と鼻の一部と歯だった。生まれるであろうもう1人の双子の片割れが消滅し、サドの頭の中に断片が残っていたのだ。 そして大人になって結婚したサド・ボーモントには双子の兄妹が生まれる。片方が泣けばもう一方も泣き、その逆もまた然り。そして奇妙なことにもう一方が転んで痣を作れば、もう一方も同じような痣が同じ場所に出来る。その妙なシンクロニシティはそのままサド・ボーモントとジョージ・スタークにも繋がっていく。 スタークはサドの少年時代に処分された双子の断片であり、サドが作家になってもう1つのペンネームで捜索をした時が再生のきっかけであり、そしてスタークを葬るのに架空の葬式を行ったことで彼が具現化したのだ。そしてサドはトランス状態に陥ることでスタークと精神的に繋がる。 未だにこの双子特有のシンクロニシティもしくは親和性については研究が行われている。我々の世界にはまだ解明できない生命の不思議があるようだ。 もう1つはたびたび登場するスズメの群れ。 私は最初このフレーズを読んだ時、ヒッチコックの『鳥』を想起した(作中にも同様のことが書かれている)。 とにかく理由もなく突然町に蔓延する鳥の大群。やがてそれらは大きな1つの意志を持つかのように次々と人間たちを襲っていく。なぜ彼らはそうするのかは解らないまま、映画は終わる。 サド・ボーモントの夢、幻覚に現れるスズメの群れもまた何かの象徴で、それは物語の半ば過ぎで言及される。 そして物語の最終局面の舞台、サドの妻と双子の子供をさらったスタークがサドを待ち受けるキャッスル・ロックの別荘には何億羽というスズメの大群に覆われる。ハリー・ポッターの映画の一シーンのように実に映像的だ。 ところでこの頃のキングは物語の主人公を作家にしたものが目立つ。 『ミザリー』は狂的なファンによって監禁されたポール・シェリダン、次の『トミーノッカーズ』でもウェスタン小説家のボビ・アンダーソンを、そして本書ではサド・ボーモントと連続している。 更にいずれも作中で『ミザリーの帰還』、『バッファロー・ソルジャーズ』という作中作が断片的に織り込まれており、本書でももう1つのペンネーム、ジョージ・スターク名義の作品『マシーンの流儀』、『バビロンへの道』、更にサド・ボーモントのデビュー作『ふいの踊り子』の抜粋が各章の冒頭で引用されている。更に物語の終盤ではスタークとサドが共に書く新作『鋼鉄のマシーン』が断片的に挿入される。 これら3作続いて架空の作家による架空の作品について文章まで挿入しているのは溜まりに溜まった創作メモを一旦整理するためだったのだろうか? 80年半ば、キングはスランプ状態に陥り、前作『トミーノッカーズ』は自身のアルコールと薬物依存を基に書かれている内容が多々あり、それに当時起こったチェルノブイリ原発事故を宇宙人の影響による怪事に見立てた非常に冗長な作品であった。 『ミザリー』の時に既にスランプ状態にあり、その後前作を経て書かれたのが本書である。 そんな状態だったからこそ、今まで書き溜めてきたアイデアを作品にするまでに自信がなかったのでこの際、作中で消費してしまおうと考えたのではないか? 特に『ミザリー』における作中作『ミザリーの帰還』の分量は意外なまでに多かった。このファンタジー系の作品はもしかしたら直前に発表された『ダークタワー』シリーズ2作目の後に構想されていたアイデアかもしれないが、当時のキングにはそれを基に続きを書く自信がなかったのではないだろうか。 そして本書におけるジョージ・スタークの小説は内容としてはかなり残酷な犯罪小説で純文学作家のサド・ボーモントの作風とは全く異なる、真逆の作品らしい。 しかしこれもまたキングの内から出でた作品の断片なのだ。 とにかくとことんのワルを書くために温められてきたアイデアを本書のジョージ・スタークが行う数々の殺人描写に使ったように取れる。それほどまでにこのスタークの殺人シーンは映像的迫真性に満ちており、陰惨で生々しくそして痛々しい―特に被害者の一人が剃刀で喉を切られそうになるところを左手で庇ったために3本の指が根元から切れて、折れ曲がり、薬指だけが付けていた指輪のために被害を免れたせいで、まるで中指を立てて相手を侮辱するのに立てる指を間違えたかのようだと云う描写はユーモアと痛々しさが同居したキングしかできない表現だ―。 この一連の作品群において作中作を盛り込んでいるのは迸る創作への意欲とアイデアがありつつも一作品として仕上げるにはアイデアが煮詰まっていないもどかしさ、つまりスランプに陥ったキング自身の足掻きが行間から見えるようだ。 そして“書く”ことへの業を作家は背負っているのだと仄めかしているようにも思える。 書かない作家はただの人であり、そしてほとんどの作家は存命中にその功績を認められ、ベストセラーになったとしても、死後ずっとその作品が残り続けるのは非常に稀だ。 それはまさに歴史に埋もれていった没後作家たちが人々の記憶から風化していくかのように。 人は誰しも二面性を持っている。陽の部分の陰の部分だ。 「ダーク・ハーフ」とは即ち誰しもが備える陰の部分、暗黒面であり、それは別段異常なことではない。 普通我々一般人は犯罪や戦争などとは無縁の生活を送り、朝起きて仕事に行き、夜帰って家族と束の間の時間を過ごし、休日は家族サービスや趣味に興じる。 しかしその一方このキング作品のようなホラー、本格ミステリ、その他犯罪小説、サスペンスといった殺人やまたそれを行う殺人犯の物語を好んで読む人もいる。 それはある意味それら普通の人々に中に潜む悪を好む部分、≪邪悪な分身(ダーク・ハーフ)≫なのかもしれない。 つまり全てが清らかで普通であることは実に退屈であり、人は常に何かの刺激を求める。しかし犯罪に手を染めることができないからこそ、人はその代償を物語に求める。 己のダーク・ハーフを充足させるために。 現在我々はネット空間という新たな場所を手に入れ、そこでは日中、学校や職場では見せない別の自分の側面をさらけ出す。そしてネット空間は匿名性ゆえに自分の内面をより率直に露出することができるのだ。 そんな匿名の世界にはしばしばネット社会でのマナーを逸脱して素の自分をさらけ出し、ダークな一面を見せる人たちもいる。 全ての人が常に善人であるわけではない。しかしその暗黒面は他者に迷惑を掛けず、我々作家が紡ぎ出すミステリで満たしなさい。 そんなことを作者が告げているような気がした。 朝起きた時、スズメがいつもより多いと感じたら、自分のダークサイドが多めに出てないか、気に留めるようにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
軽めの題名に軽めの登場人物とポップなイラストがふんだんに盛り込まれた作品だが、描かれている物語はなかなか凄惨で重苦しい。
某国立大学を舞台に起きる連続殺人事件。その大学の化学工学科の面々を中心に物語は進む。 スージィこと内野智佳はアルバイトで雇われた秘書だが仕事が早くて有能。彼女は自分が同じ大学の情報工学科助教授の三枝と結婚していることを周囲に隠している。 ホリこと堀江尚志は同学科の助手。しかし彼はいわゆるロボットオタクで自己中な性格。しかもシステム管理者という立場を悪用して学科内のメンバーのメールを盗み見ている。 イエダこと家田恒雄は同学科の教授。教授という立場上、単位を欲しがる女子大生が彼の許を訪れることもあり、それを彼は一応拒まない。 サトルこと遠藤学は同学科の助教授。この中では最もまともな人間で堅実ゆえに最も目立たない。 サエグサこと三枝洋侑は先にも述べたように情報工学科の助教授で、まだ34歳。どうもモテる風貌をしているよう。 最後がルナこと鈴木奈留子。彼女は化学工学科の図書室の司書をしているが、今回一番の被害者である。なんと3度も襲われるのだから。 それに加えて謎のXという人物が学内に暗躍し、次から次へと大学の人たちを襲っていき、とうとう殺人事件にまで発展する。 上に書いたように装丁から登場人物設定などポップな印象だが、各章はほとんど各登場人物を中心に書かれ、そこに書いてある心情が実に暗鬱で内省的。 この頃は『四季』4部作を発表した時期と重なり、同4部作で見られた観念的な記述が本書でも踏襲されている。詩的で抽象的で観念的で、独善的。自分の世界に入り込み、ますます排他的になっている印象を持つ。 内容は一応ミステリでサプライズもある。 インターネットの普及によりいわゆるネット人格が叫ばれてきたことだ。二重人格、三重人格という人たちはかつて精神異常者の中でも最上級の物として恐れられてきたが、インターネットが普及することでほとんどの人が匿名性のあるハンドルネームを持つことになり、それによってネット社会という非日常を手に入れることで内面から湧き出る新たな人格が生まれた。 つまり本書はこの新たなツールによって誰しもがネット人格という別人格を持つことができ、それがサイコパスに発展する危うさを描いていた作品と捉えることも可能だろう。 当時森氏の人気は絶大でまさに引く手数多の状態。そんな状況で流石に筆の早い森氏でもやっつけ仕事の1つや2つはあったことだろう。本書はそんな感じを受ける作品だ。 内容の薄さと恐らく何でもいいから書いてくださいと云う編集者の言葉を真に受けて自分の好きなように文章を綴り、そして自分の好きなイラストレーターに頼んでふんだんにイラストを盛り込んだように思える。 カラー印刷を多用し、それを存分に活かす上質の紙で作られた本書はまさに森氏の趣味が横溢した1作だろう。 恐らく森氏個人は出来栄えに満足しただろうが、私にとって創作者と読者との埋まりようのないギャップを感じた作品となった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
今や葉村晶シリーズで『このミス』ランキングの常連となった若竹七海氏。
その彼女の評価は鮮烈なデビュー作『ぼくのミステリな日常』以降、このようなランキングで取り上げられるほどではなかった。しかしその実力は織り込み済みで常に一定レベルの作品を残しており、1991年デビュー以降、コンスタントに作品を出し続け、そして昨今の好評価に繋がっている。もともと地力のある作家と思っており、私も先述のデビュー作以来2作目の若竹作品となったわけだが、いやあ、地味な作品ながら実に読ませる。そして面白い。 物語は架空の都市新国市。そこで生れ育ち、そして夭折した架空の作家高岩青十の功績を遺すために建てられた高岩青十記念館が舞台。そこに勤める嘱託の学芸員、佐島才蔵とその妹のミステリ作家でもある楓を通じてそこで起こる殺人事件の謎を解き明かすといった内容だ。 こう書くと実にオーソドックスなのだが、実は殺人事件は物語の中でも約半分くらいのウェートしか占めない。残りの50%は才蔵たち学芸員たちの日常と、架空の作家高岩青十と、彼を取り巻く人々の隠された過去の謎だ。 そしてこの残りの50%が実に面白い。 まず才蔵たちの日常を通じて語られる学芸員の仕事について私は実に興味深く読んだ。 彼が勤めていた会社が倒産したことがきっかけで親戚の伝手で働くことになった記念館の日常は、我々サラリーマンのそれと違い、実にゆったりとして牧歌的だ。 一応才蔵は大学で学芸員過程を履修した、学芸員志望の青年なのだが、彼の採用理由はお茶を淹れるのが上手であることと、記念館の創設者高岩佐吉氏が才蔵という名前から霧隠才蔵を連想し、自身の従兄弟で先代の総裁佐助の名と縁を感じたというものだ。 そんなどこか浮世めいた世界で、正直私なんかはこのような施設に勤務する人たちの一日はどんな風に過ぎていくのだろうと思っていただけに本書に書かれている内容は新鮮だった。 とはいえ、正直云って彼らの平素の業務は日常の管理と印刷物の発注ぐらいで本書のメインとなっている特別展の企画の準備の様子が知的好奇心をそそるのだ。 特別展のパンフレットの校正の様子はもとより、特に青十が趣味で集めていた絵葉書の内容から日記に記載されているものを探し出す作業が面白い。 特に当時の切手を頼りに昭和12年に葉書の郵送費が値上がりした史実に基づいて時系列に並べて関連性を繋げたり、また日記の記述から当時の貨幣価値を探るといった歴史探偵的興趣に溢れている。そこで参考にされていた『値段の風俗史』という本は個人的にも興味を覚えた。いつかは手元に置きたい書物だ。 また著作権が切れると出版社は遺族に金を支払う義務が発生しなくなるので一気に復刊やリメイクが進むことになることも昨今の昭和の名作の復刊ブームや映像化の現状を見ているようで興味深い。 なお本書では著者の没後50年が期限と書かれているが、令和元年現在では没後70年まで延長されている。 また当時の記述から流行や風物を問答で探るなども実に面白い。私がやりたい仕事とはまさにこのようなものだ。 そんな業務を通じて佐島才蔵はじめ、先輩学芸員の浅木知佳と岡安鶴子、アルバイトで高岩家の遠縁でもある笹屋夕貴、記念館の市の担当課長三田朝日、カメラマンの品川たちのキャラクターが次第に読者に浸透していく。 彼ら彼女らが実に人間的であるがために後半の殺人事件が起きてからのギャップが激しい。 殺されるのは才蔵の憧れの存在でもあった岡安鶴子。 彼女の死を調べていくうちに次々と不審な事実が発覚する。 鍵のかかった鶴子の机の引き出しにはどこかには存在すると思われながら発見されてなかった青十の姉涼子の日記のコピーと展示資料の絵葉書が隠され、また貯金も2,300万円もあり、一介の学芸員にしてはかなりため込んでいたこと。 そして400万円が最近になって振り込まれていたこと、更に妊娠3ヶ月だったこと。 更には青十の持ち物である中国の古墨で売れば30万円もする高級なものを学芸員の立場を利用して勝手に持ち去っては転売しようとした節が見られたこと。 更に市の担当課長である三田朝日も不倫の疑惑があり、才蔵たちはその相手が誰かと思案し始める。そんな時に受付の女性遠山修子が目に痣を作り、それが不倫がバレて夫に殴られたようだと噂される。 才蔵をして春の陽だまりのようなのんびりとした穏やかな職場だと云わせた記念館が一転人間不信の塊の伏魔殿のように変わっていくのは物語に、登場人物たちに没頭していただけに何とも切ない思いがした。 またデビュー作『ぼくのミステリな日常』が会社の社内報という印刷物という位置付けであったことで各編にその月の内容を記載した目次が挿入されていたのが特徴的だったように、本書でも若竹氏は色んな資料を物語に取り入れている。 まずは高岩青十記念館のパンフレット。よくこのような施設に行くと入館料と共に渡される冊子だが、記念館のある公園と記念館そして青十が生まれ育った旧館の見取り図が付されているという懲り様。きちんの記念館設立の経緯、高岩青十の生い立ちまで記載されており、恰も実在した作家のような錯覚を覚える。 更に文学館の存在意義について語った中村たかを氏の『概論博物館学』からの抜粋、記念館で開かれる特別展『隠された青十展』の企画書とその特別展の目次と続く。 そしてこの実に一般的な、何の変哲もない無味乾燥とした書類にきちんと若竹氏は事件の手掛かりを入れているのだから大したものである。 更にはこの架空の作家の代表作『蔦騒ぎ』の粗筋もきちんと作り、それを物語に有機的に繋げる手法も素晴らしい。 まさに印刷され、そこに字が書かれて読まれるものであれば全てミステリに取り込む、それが架空の物であってもという若竹氏の刊行物や小説を含む書物への思いの深さを思い知る一端だ。 事件の真相が判るとこの物語の舞台を記念館としたのはなんとも皮肉に思える。 記念館とは故人を偲び、その功績を、足跡を遺したいという想いから成り立っている。大抵の人は生きていた痕跡はその周囲の人の記憶に留まり、そしてそれらの人が亡くなることでやがて消えていく。 しかし記念館は形として、記録として残すことでその館が存在する限り、故人の記録や記憶は無くならない。 本書は思慕や想い出を遺したい、後世へと引き継ぎたいという一途な思いと過去を葬り去りたいと望んだ人たちが招いた悲劇。 画家は慕った女性の面影を遺すために絵を描き、そして密かに持っていた愛しの君の日記を託す。 生きていた証を残したいというのは誰もが抱く願望だ。 しかし皮肉なことにそれらの人の思いとは裏腹に残したい物は全て消え去る。 そして案外故人の生前の痕跡を残す記念館は当の故人にとって葬り去りたい過去まで晒される、実に迷惑な代物なのかもしれない。 しかしこの題名『閉ざされた夏』は作者のどういった思いが込められているのだろう。 上に書いたように文字が書かれたものに対しては貪欲なまでに物語に取り込む、いわばこれほど文章に鋭敏な作者だけに、一連の物語とこの何とも云えない寒々とした題名が結びつかないのだ。 唯一想起させられるのは先にも書いた佐島才蔵が述べた記念館の職場の雰囲気、「春の陽だまりのよう」といった記述だ。 つまり温かい春のような職場がいつの間にか起こった事件で佐島才蔵1人になってしまった、閉館に追い込まれた冬が一気に訪れ、来るべき夏は来なかった、つまり夏は閉ざされてしまったということを指しているのだろうか。 しかしこの佐島才蔵とミステリ作家楓のコンビは親近感を覚える兄妹だった。残念ながら本書はノンシリーズ、つまり彼らが活躍するのは本書限り。 寂しいがこの後の若竹作品ではまた別の愛すべきキャラクターに逢えるに違いない。それを期待してまたいつか彼女の作品を手に取ろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
リンカーン弁護士シリーズも5作目を数えるようになった。前作『証言拒否』では民事訴訟を扱い、最後は地方検事長選に出馬するとの決意表明をして物語は閉じられた。
本書はその選挙の1年後に当たる。結局ハラーは選挙には破れ、再び刑事裁判を扱うようになった。いわば振出しに戻ったような形だ。 今回ハラーが扱う事件はアンドレ・ラコースというデジタルポン引きの殺人容疑の弁護で、奇妙なことに彼は殺害された娼婦当人からハラーが優秀な弁護士だと勧められたという。そしてその娼婦の名はジゼル・デリンジャー。ハラーは全く心当たりがなかったが調べていくうちにかつての依頼人グローリー・デイズことグロリア・デイトンであることが判明する。 私はこの名前をかすかに覚えていた。第1作『リンカーン弁護士』の中で麻薬所持で起訴されそうになっていたのをハラーによって助けられた売春婦でトラブルメイカー的な存在として書かれていた。そしてその後ハワイに送ってそこで過去と断ち切った生活を送っていると思われていた女性。しかし彼女は名を変え、アメリカ本土に戻り、また売春婦の仕事をしていた。 それがきっかけでハラーはラコースの弁護を引き受けることになる。そして調査を進めていくうちにこのラコースが無実であり、嵌められたことが明らかになってくる。グロリアが麻薬取締捜査官ジェイムズ・マルコのタレコミ屋、そして手先として飼われていたことが明らかになる。そしてグロリアによって身に覚えのない火器を自分の物だと証拠づけられ、終身刑で服役することになった麻薬王ヘクター・モイアの存在も浮かび上がりつつも、事件はこのマルコによって仕組まれた罠だったことが判明する。 つまり法の番人である麻薬取締局が今度の相手という巨大な相手をハラーはしなければならなくなる。 コナリーの作品の特徴の大きな1つとして過去の作品の因果が新たな事件に大きな要因として作用してくることが挙げられるが、今回もまたその例に漏れない。 上に書いたようにグロリアの初登場シーンは麻薬所持で起訴をされそうになったところをハラーに助けを求めるシーンだ。つまりグロリアは既に麻薬取締局の手先になっていたことが仄めかされている。 この何気ないエピソードの1つでこのような壮大な物語を描くコナリーの着想にまたもや唸らされた。 そればかりでなく、今回は原点回帰であるかのように第1作の登場人物がやたらと出てくる。 まずハラーの元調査官で事件の調査中に殺害されたラウル・レヴンの名。その名を想起させたのはその事件を当時捜査していたグレンデール市警殺人課の刑事リー・ランクフォードが再登場する。彼は刑事を辞め、検察側の調査官となっており、ラコース事件を担当する検察官ウィリアム・フォーサイスの調査官となり、ハラーの前に立ち塞がる障壁という重要人物になっている。 また運転手も2作目で雇われた元サーファー、パトリック・ヘンスンではなく、1作目に登場したアール・ブリッグスだ。彼は今回運転手以上の働きを見せ、ハラーのミーティングにも参加するようになる。 そしてハラーが1作目に使っていた保釈保証人フェルナンド・バレンズエラも登場する。 なぜこれほど1作目の登場人物が登場するのか? それはハラーが前作の最終で立候補した地方検事長選に敗れたことに起因する。一旦は弁護士から検事の側へ移ることを決意しながらも叶わなかったハラーは民事弁護士ではなく再び刑事弁護士として再出発する。そしてこの地方検事長選の敗北で被った被害がハラー自身に留まることではなかったことも明かされる。これについてはまた後で述べよう。 一方でこれまでのシリーズで新たに加わったメンバーも更にキャラクターが濃くなり、シリーズとしての醍醐味も増してきた。 頼れる調査官シスコはもうハラーには無くてはならない存在でその有能ぶりを遺憾なく発揮する。高度な調査能力と腕っぷしを誇る彼はしかし、裏切者を容赦なく制裁する麻薬カルテルのボス、そして自分の利益のためならば無実の人でさえ罪を着せる冷酷な悪徳捜査官を相手にする今回の裁判で妻ローナはこの屈強な夫もラウル・レヴンのような危難に遭うのではないかと心配する。それはラウル殺害事件を捜査したランクフォードの登場が起因しているのだろう。 そしてブロックスことジェニファー・アーロンスンもハラーの片腕として申し分ない一人前の弁護士となっている。ハラーも自分を超えるのもさほど遠くないと云わしめるほど頼りになる存在だ。 そして今回初登場のデイヴィッド・“リーガル”・シーゲルを忘れてはならない。彼はハラーの父親の弁護士事務所の共同経営者で弁護の戦略を立てていた人物であり、またハラーの弁護士としての師匠でもあった。 50年近いキャリアを持つ彼はまさに生きる伝説の弁護士であり、あらゆる手法に精通した人物だ。『スター・ウォーズ』で云うところのヨーダ的存在だ。 またハラーの家族も出てくるが、あまりよろしくない状態となっている。 ボッシュとマデリンの親子がシリーズを経るにつれ、信頼を深めている一方、ハラーとヘイリーの親子関係は悪化の一途を辿っていることが書かれている。ヘイリーは悪人を弁護する父親の職業に嫌気が差し、またそれによって彼女自身も学校の友達から中傷を受けるようになって転校する被害を被るに至り、今まで隔週で水曜日と週末にハラーの家に泊る取り決めも事実上なくなっていた。更に地方検事長選で落選したために、ハラーを支援していた元妻のマギーは文書整理担当という閑職に追いやられ、心機一転ヴェンチュラ郡地区検事局に転職することになり、ますますハラーの住むLAから間遠になってしまう。 ハラーも悪人を刑務所に送り込む刑事のボッシュと悪人―といっても無実の人かもしれない人―を刑務所から釈放する弁護士という職業の自分とを比較し、その差について落胆をする始末だ。 しかしボッシュが刑事という職業に誇りを持ち、悪に制裁を加えることを使命と感じているように、ハラーも無実なのに刑に処されようとしている人を救う職業だと誇りを持って、仕事に臨めばこのような罪悪感に苛まれることはないのだ。 今回の事件でハラーが対峙する麻薬取締局捜査官ジェイムズ・マルコと彼と組む元刑事で検察側の調査員リー・ランクフォードは自分の目的のためならば平気で凶器や麻薬を仕掛け、恰もそれをターゲットの人物が所持していたかのように見せかけて不当逮捕を平気で行う悪徳捜査官だ。このような正義の名の下で自分の利己心を優先して無実の人に刑を与えようとする法の番人がいるからこそ、弁護士もまた必要なのだ。 本書は原点回帰のような作品だと上にも書いたが、それを踏襲するかのように本書ではラウル・レヴンに匹敵する犠牲者がハラーの仲間に出てしまう。 コナリーの作品には以前も書いたが3つの大きな要素がある。 1つは警察やその他捜査機関の連中が決して清廉潔白な人物ではなく、彼らもまた犯罪者になりうると謳っていること。 もう1つは娼婦が関わる事件が多い事。 そして最後の1つは過去の作品の因果が大きく作用していることだ。 正直3つ目の過去の因果については既に述べたのでここでは書かない。 やはり特徴的なのは1つ目と2つ目だ。1つ目はこの要素を作品に持ち込んだことでコナリーはいつも我々に驚きと何とも云えない荒廃感漂う読後感を与え続けていることだ。パターンと云えばパターンだが、これがまた不思議と盲点となり、そして常に苦い気持ちを抱かせてくれる。 もう1つの娼婦についてはボッシュが娼婦の息子であると云う設定から事あるごとに物語に登場する職業だと云っていいだろう。この頻度の高さは正直異常である。 前にも書いたかもしれないが、娼婦という職業を選ばざるを得なかった生活に貧窮した女性たちを描くことと、そんな社会の底辺でも逞しく強かに生きていく彼女たちを描くことでアメリカ社会の現実を知らしめようとしているようにも取れる。特に今回ハラーが裁判の調査の過程で知り合ったケンドール・ロバーツは元高級エスコート嬢から足を洗い、ヨガ教室の先生として生計を立てた女性で、過去を捨てて生きていく彼女の姿勢と美しさに魅かれ、彼は彼女と付き合うようになる。 また一方でケンドールと一緒に働き、今もエスコート嬢をしているトリナ・ラファティとの対比させることで変われる女性と変われなかった女性の有様をまざまざと見せつける。誰もがチャンスに恵まれていることではないことも現実的に突き付ける。 しかしコナリーがハラーをして娼婦のグロリアを「放っておけない女性」とし、また彼の新恋人に元娼婦を選んだのも彼なりにこの職業の女性たちにどこか親近感を抱き、そして亡くなっても歯牙にもかけられることのない彼女たちへエールを送っているのかもしれない。 さてここでちょっと話題を変えて私の心に留まったエピソードを書き留めておきたい。 ハラーによれば自身を主人公にした映画がヒットしたことでリンカーンに乗る弁護士が増えたようだ。従って自分の車がどれか解らなくなり、誤って他の車に乗り込むシーンさえもある。本当ならば実に面白いことだ。 また右脳と左脳との関係で人は自分の左手にいる人の意見に賛成するものらしい。これはちょっと試してみようと思う。 またハラーが日本酒好きになっていたことも明かされる。世界で日本酒が好まれ、現在消費が拡大しているが、まさかハラーまで飲んでいるとは。 いやこれは正確には作者コナリー自身の話ではないか。彼の写真は酒焼けしているかのように顔が赤いからかなりの酒飲みではないかと私は睨んでいるのだが。 さて本書のタイトル「罪責の神々」はハラーの父親が陪審員たちに与えた呼称だ。彼らは自分たちの生活基盤に基づいて罪を決める。従ってその判断基準は多種多様だ。いかにこの神々を説得し、納得させるかが裁判の鍵となるのだと。 それを意識してかハラーは陪審員の中のキーパーソンを意識して裁判を進める。自分の意を組む神を見つけ、そしてあるべき結果に導くようにと。 しかし今までの例に漏れず、今回の裁判も苦い結果に終わる。 しかし裁判も恐ろしいものだ。本来悪を罰するために行われる裁きが、弁護士、検事の口八丁手八丁で歪められていく様、また証拠不十分であれば罰せられない現実から、証拠を捏造して狙った獲物を刑務所に送り込もうとする捜査官も存在する。 またそれを隠匿するために麻薬を無実の人の家に忍ばせ、不当逮捕を企む。更には裁判で敗色が濃厚になると他の服役囚に襲わせ、無効化させようとする。 罪を裁くために行われる裁判が高等なロジックの上に成り立ち、また公平さを重んじるあまり、法律や規則にがんじがらめになって罰せられるべき者が罰せられず、無実の人が罪を着せられ、刑務所に送られるようになる。 手段が目的となっており、悪を征するために正義が悪を成すと云う本末転倒な社会に、システムになり、そしてそんな危険な思想が横行している。それが現代社会なのだ。 世の中全てが正しく解決されることは限らない。寧ろ現実世界はうやむやになって人々の記憶から忘れ去られる事件ばかりだ。 そんな世の中だからこそ我々は答えが出るミステリを読むわけだが、コナリーは実に現実のシビアさを突きつける。まあ、今日はこれくらいで良しとしようといった具合にはカタルシスを与えるかのように。 さてリンカーン弁護士という非常に特徴的なキャラクター設定で登場したミッキー・ハラーを通じてコナリーは時に弁護士側、検事側、刑事裁判に民事裁判と多面的にアメリカの法曹界を描いてきたが、ここに来てようやくシリーズの本流を刑事裁判に絞ることに決めたようだ。 本書の結びにはかつてのように刑事裁判を続けることへのハラーの疑問や悪を裁く側の検事長への立候補するなどと云った意外な展開、悪く云えばハラーの心情のブレがない。最後の決意表明はボッシュ同様に弁護士としての使命感に溢れ、まさに決意表明と云った感がある。 次作はまたボッシュと組んで事件に取り組むようだ。色んな犠牲の上に今の自分があると悟ったハラーの次の活躍が非常に愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
数々のホラー作品、近未来小説、ダークファンタジーを書いてきたキングが今回手を伸ばしたのはSF。なんと地下に埋まっていた空飛ぶ円盤が掘り起こされたことで町が侵略されていく話だ。
しかし題名のトミーノッカーズはそんなSF敵設定とは程遠い内容だ。 キングの前書きによればその名の“トミー”がイギリスの昔の兵士の糧食を指す俗語であることからイギリスの兵卒を指す言葉となっており、トミーノッカーズはそこから食料と救助を求めて壁を叩き続けながら餓死した坑夫の亡霊を指すようだ。その他トンネル掘りの人喰い鬼といった意味もあるようで、いわゆる幽霊とか化け物に類いする怪物を指す言葉であり、空飛ぶ円盤とは全く真逆の物だ。 一方でキングが本書で語るのは宇宙から来た存在が徐々にアメリカの田舎町の住民たちの頭の中に侵入し、意のままに操っていく侵略の恐ろしさだ。 この得体のしれない未知の存在を人々は古来から伝わる亡霊トミーノッカーズと名付けた。 SFと亡霊譚という全く真逆なものを結び付けたことがキングのアイデアだろう。 人が見ていぬ間に悪戯を仕掛けるレプラコーンという妖精の話があるが、この目に見えない妖精のような存在の宇宙人は題名ともなっている上に書いたトミーノッカーズという亡霊に擬えられているが、私は本書で初めて知ったその亡霊よりも子供の頃からファンタジーで親しんでいるレプラコーンの方が実にしっくり来る。 そしてこの宇宙人たちが人間たちに施す悪戯は何とも残酷だ。 3Dのイエスの肖像画が突然動き出し、浮気の夫を懲らしめるために妻にお仕置きの装置を作らせるが、それが感電死に繋がる代物であることに気付いた妻は夫もろとも亡くなってしまう。 IQテストで高得点を獲った、少し変わった少年ヒリー・ブラウンは祖父からプレゼントされたマジックセットでマジックショーを行うが、完璧ではなかったので天啓を得て物体を消失し、元に戻す装置を発明するが、マジックショーの最中、その装置で弟を消してしまうが、その弟は二度と戻ってこなくなる。 これら物語のエピソードの中心人物に共通するのはトミーノッカーズによって閃きを得て何かを得体のしれない機械を作ることだ。 空飛ぶ円盤を掘り出したボビ・アンダーソンは太陽のように輝く光球と空飛ぶ(かもしれない)トラクター、そして頭に浮かんだことを自動的に文章にするタイプライターを作り出す。 郵便配達人の妻ベッカ・ポールソンは夫の浮気を懲らしめるため、テレビを電源を付けると電流が流れるようなお仕置き装置に改造する。 その浮気相手である郵便局員のナンシー・ヴォースは郵便物の自動仕分け機を発明する。それはトミーノッカーズによって意図的に町外から来た配達したくない物を削除する機械だとも知らずに。 ヒリー・ブラウンは物体消失し再度出現させる装置を発明。 ジャスティン・ハードは近くに高周波振動を起こさせる装置を発明。 現実世界に穴を開け、どこかの異世界へ転送するラジオで町を訪れた部外者たちを次々に“転送”する人々。 町をトミーノッカーズの支配から救おうとした治安官ルース・マッコースランドは公会堂時計塔が吹っ飛ぶほどの爆弾を作り、トミーノッカーズたちが憑依した自分のコレクションである人形たちと共に自害する。 そしてボビ・アンダーソンは人間を動力源にする人間電池を発明し、愛犬のピーター、ヒリー・ブラウンの祖父でトミーノッカーズの支配から免れたエヴ・ヒルマンと彼女の実の姉で宿敵でもあるアン・アンダーソンを電池の水溶液に浸して動力を吸い取る。 そして物語の最終はこれらの機械たちと町を救おうとするジム・ガードナーとの戦いが繰り広げられる。 人を襲う芝刈り機、火を発射するテレビ受像機、炎を周囲に放ち、一瞬にして焼け野原にするパラソル、フリスビーのように空中を飛んで殺傷能力のある超音波を発する煙感知器、などなど。 これらはキング初期の短編に登場した“意志ある機械”のオンパレードだ。 またトミーノッカーズが町の人たちに憑依するとそれぞれの思考が読み取れるようになる。つまりテレパシーで会話が出来るようになる。 更にはなぜか次々と歯が抜けていく。彼らはそれを“進化”の過程だと告げる。 人々は抜けた歯を見せるように笑顔を見せる。歯の抜けた人が笑うとき、我々はどこかその人が白痴のように見えてしまう。そしてそれはどこか狂人めいた感じも受ける。 この何気ない設定が街の人々が徐々に侵略され、狂人へと変わっていく様子を如実に描いているように思われる。こういう何気ない設定を持ち込むのがキングは抜群に上手い。 やがてヘイヴンの町の人々はお互いの考えが読み取れるようになり、“進化”を阻もうとする町民たちを排除しようとする。 それはさながらウイルスの蔓延のように急激に広がっていく。いやある意味、カルト宗教の信者のように実に排他的になり、トミーノッカーズを受け入れない者たちを粛正するのも厭わなくなる。 都会よりも田舎の町の方が恐ろしいと云う。それは1人の権力者によって牛耳られ、そこに独自の法が成り立ち、町民たちはそれに従わざるを得なくなる。 その権力者が町民たちを恐怖で縛る場合と、絶大な信頼を得て確固たる支持を得て権力の座を維持する場合の二通りがあるが、厄介なのは後者の方だ。なぜならその場合は町民からの反発がない。つまり反抗勢力が生まれず、その権力者が外部にとって敵であったも町民たちにとっては外部からの圧力を退ける英雄としか映らない。 トミーノッカーズの侵略はまさに後者に当て嵌るだろう。彼らはボビ・アンダーソンという1人のリーダーの許に来たるべき“進化”を成し遂げるために他を排除しようとする。この異変に気付いた者は懐柔されようとするか、異分子として排除されるかいずれかだ。前半の治安官ルース・マッコースランドの抵抗はこの田舎の町の集団意識の恐ろしさをむざむざと知らしめている。 そして物語の後半は外部の人間は立ち入りさえも出来なくなってくる。 ヘイヴンを訪れた人たちは青い顔し、嘔吐し、頭痛を感じ、体調がどんどん悪くなっていく。町民たちが何ともないのとは対照的に。これが宇宙船の掘り出しが進むにつれてどんどんひどくなっていき、終いには人間だけでなく車両から飛行機までも変調を来たし、全く以て侵入が出来なくなる。 本書はキングのキャリアの中でも不調であった頃に書かれた作品としてつとに有名なのだが、それを裏付けるように妙にバランスを欠き、かつ妙に粘着質に長々と語るエピソードが織り込まれている。 例えば主人公ボビ・アンダーソンの元恋人ジム・ガードナーがスポンサーの女性の前で大失態を演じるシーンで語られる原発の恐ろしさを泥酔しながらも滔々と語るシーンは異常なまでに長く、そしてしつこすぎるほど内容がくどい。なんと20ページ以上に亘って語られるのである。悪酔いした酔っ払いの戯言の体を装いながらその内容は政府の陰謀論といった狂人めいた発言になっており、妙な迫真性がある。 本書が発表されたのは1987年。そして世界を震撼させた旧ソ連のチェルノブイリ原発事故が起きたのが前年の1986年4月であるから作者もこの事故にはかなり関心を持ち、そして衝撃をもたらされたに違いない。 とここまで書いて私は本書における宇宙船の登場により、人々が“進化”と呼ぶ変化が訪れる諸々の事象はどこか既視感を覚えた。 即ち歯が突然ポロポロと抜け出すこと、目から出てくる血の涙、耳から血が出る、主人公の1人でヘイヴンの異変に取り込まれず、頭の中を読まれることなく、抵抗できる外から来た人物ジム・ガードナーがしかし嘔吐物の中に血が混じっていること、髪の毛が抜けだすなどの描写から連想されるのはボビ・アンダーソンが掘り出した宇宙船とは即ち放射能漏れを起こす原子力発電所のメタファーである。つまり原子力発電所こそは人間が手を出してはいけないパンドラの箱なのだという作者のメッセージが読み取れる。 上に書いた異常現象はそのまま被爆者の症状に繋がる。そして目に見えないが確実に人々に蔓延っているトミーノッカーズは放射能その物のようだ。 更にヘイヴンの町に訪れる人たちが一様に頭痛を訴え、身体の各所に異変を覚える。さながら原発事故が起きたチェルノブイリのように。 つまりキングの本書におけるテーマとは核の、原発の恐ろしさを訴えているのだ。 そしてキングは物語の終盤で明らさまに臨界、チェルノブイリという原子力に纏わる用語を使っている。やはりこの推察は正しかったのだ。 そしてチェルノブイリの原発事故がどんどん拡大し、刊行当時も収束の目途が立っていない、世界の終わりを暗示させる不安感をそのまま作品に持ってきたかのように、キングはどんどんヘイヴンの町を孤立させ、他所からの来訪者を排除する。 しかしこの上下巻併せて1,240ページにも及ぶ大著である本書は、それまでの大作と異なり、やはりかなり困難を感じた読書になった。 先に書いたようにキングが本書でやりたかったこと、訴えたかったメッセージは判るものの、それがスムーズに物語に結実していなく、また鬱病患者特有の長々とした説教めいた、狂人の主張が折々に挟まれていることでバランスを欠き、物語としてなんともギクシャクとした印象を受けるのだ。 例えば物語の主人公の2人、ボビ・アンダーソンとジム・ガードナー。それぞれ2人の設定はウェスタン小説家と詩人であること、またジム・ガードナーは離婚歴があり、これが酒を飲んだ挙句に口論となった妻の頬を拳銃で撃ち抜いたという凄まじい過去がある。しかしこれらがあまり物語に寄与していない。 ガードナーが唯一トミーノッカーズの侵略を免れた理由は頭に手術によって金属板が埋め込まれていることで思考を周囲から読み取られることができないからだが、この設定も唐突に表れ、違和感を誘う、というのもガードナーは一度はボビ・アンダーソンとテレパシーで会話が出来るようになっているからだ。 このように何とも後付けされたかのような設定が続く。 恐らくは、私も記憶しているがチェルノブイリ原発事故は未曽有の危機だった。原子力という未知のエネルギーが及ぼす影響を、恐ろしさを初めて知った事故だった。 そしてまだ事故の収束が見えなく、被害が拡大し、我々の生活にどのような影響があるのかも見えない刊行当時、作者自身も今まで経験したことのない不安と恐怖を覚えたことだろう。 その動揺が本書には垣間見れる。だからこそ纏まりに書けるのかもしれない。 キングはとにかく書かなければならなかったのだろう。この未知なる恐怖を克服するためにも。 いや作中にガードナーがボビに云うように彼は何かによって書かされたのかもしれない。天から降ってきたアイデアによって。そんな衝動と動揺の産物が本書なのかもしれない。 さて本書の舞台メイン州のヘイヴンはキングに創作による架空の田舎町だが、他の作品で登場した町とのリンクがあり、例えば『IT』の舞台となったデリーはこの田舎町の住人が時折遊びに行く繁華街となって描かれる。また“IT”ことペニーワイズもカメオ出演するというサーヴィスぶりだ。 また昏睡状態から目覚めたら超能力者になっていたジョン・スミスという青年のエピソードが出てくるがこれも『デッド・ゾーン』の内容だ。そして異変が起きているヘイヴンの記事を書く新聞記者デイヴィッド・ブライトはジョン・スミスのことを記事にした男である。 そして物語の終盤に出てくる“店(ショップ)”という政府機関は『ファイアスターター』でチャーリー親子が逃げ出した超能力者たちの研究所である。 つまり過去の作品へのリンクをこれほど導入し、これだけのページを費やした本書はある意味キングが紡ぎ出してきた世界観を継承する大作という位置付けだと思われるのだが、キングにしては珍しく精彩を欠いた内容になった。 しかし本書に書かれている物は後のメディアやキング自身の作品に影響を与えた萌芽が見られる。 例えばボビ・アンダーソンが作り出したおぞましい人間電池の機器は後の映画『マトリックス』で出てくる人間電池そのものを想起させるし―世間では『攻殻機動隊』からのインスパイアと書かれているが、多分に本書も影響していると思われる。なぜならこの映画の主人公ネオの最初の登場時の名前はトーマス・“アンダーソン”だからだ!―、町の外側からの来訪者を徹底して拒むため、一旦入ってくると頭痛と吐き気などを及ぼす“障壁(バリア)”を張るヘイヴンの町は町の人がドームによって外に出ることが出来なくなる後のキングの大著『アンダー・ザ・ドーム』の裏返しだ。 また物語のクライマックスでボビ・アンダーソンの住まいの森から火事が発生するのは小野不由美氏の『屍鬼』のそれを想起させる。 本書はキングのキャリアの中でも絶不調だった時期に書かれた作品と云われているだけに確かに今までの作品に比べると冗長な語り口が目立ち、そしてチェルノブイリ原発事故に影響された記述が過剰な熱を帯びて空回りしているきらいがあり、作品としての纏まりに欠ける部分は否めない。 確かに本書よりも長い作品はあった。 しかしそこに書かれているエピソードはキャラクター達に、物語に深みを与え、実に有機的に機能していたように思える。寧ろそれらエピソードを読むことが楽しかった。 しかし本書はとにかく書きたいことが整理される前にマシンガンの如く書き連ねられているだけで、ストーリーとしても一貫性に欠けるきらいがある。引き算が全くなされてないのだ。 しかしそれでも本書は上に書いたように後の映画や小説に与えた影響―キング自身の作品も含めて―を考えるとそれなりに無視できない作品ではある。 今は2021年。 チェルノブイリ原発事故や東海村の臨界事故、1999年のノストラダムスの大予言、それらを経験しながらも我々は今、世紀末を乗り越え、ここにいる。 しかし1987年に刊行された本書は世界の終わりを感じたキングの絶望と恐怖が如実に表れた作品となった。 あの事故が起きた時、人々はどう思ったのか。 そんな歴史の足跡の、証言として本書を捉えるとまた違って見えるが、しかしキングの名を冠するのであれば、やはり改稿して再刊すべきではとの思いが拭えない、そんな思いを抱いた作品であった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
四季シリーズ最終作。遥かな未来に向けての物語か。
本書はVシリーズとS&Mシリーズへの橋渡しとなった『秋』を経て、そこから未来の世界を描いた百年シリーズへと繋がっていくのが本書。 つまり百年シリーズの主人公サエバ・ミチルがいかにして生まれたか、そして彼(彼女?)が生まれることになった真野強矢による殺人事件の捜査の協力を真賀田四季が依頼されていたことが書かれている。 しかしとはいえ、私が粗筋を書いていないように、本書のストーリーはよく解らない。時代もいつの頃を描いているのかもよく解らない。 物語の構成はそれぞれのエピソードが断片的に語られ、シリーズ1作目の『春』同様、四季と其志雄の対話、四季の思弁的な述懐が続く。 そして真賀田四季の傍にはパトリシアというウォーカロンが既に存在しており、彼女の世話をしている。そのパトリシアも試作品ではなく、人と見分けがつかないアンドロイドとなっている。 また真賀田四季を狙う謎の組織も現れ、彼らの名前はイニシャルで書かれるのみ。 彼女にとって生きることとは病気であり、死こそが安らぎであるからだ。 彼女は云う。 「死を恐れている人はいません。死に至る生を畏れているのよ」と。 そして眠ることは心地よく、起こされることは不愉快、生まれてくる赤ちゃんは不快だから泣くのよ、と。彼女は彼らに安らぎを与えたに過ぎないのだ。 ウィキペディアによれば本書からこの後に書かれるGシリーズ、Xシリーズ、Wシリーズへと繋がっていくとのことだ。 つまり本書は一旦『秋』でそれまでのシリーズとの結び付きを語ったことでリセットされ、これからの物語のための序章というべき作品として位置づけられるようだ。 従って今まで本書までに刊行されてきた森作品を読んだ私でさえ、本書に描かれている内容は曖昧模糊としか理解できていない。 本書が刊行されて15年経った今だからこそ上に書いたシリーズへと繋がっていくことが解るのだが、刊行当初は読者は全く何を書いているのか戸惑いを覚えたことだろう、今の私のように。 真賀田四季が望んだ犀川創平との再会。 100歳を超える天才科学者久慈昌山。 これらが今後のシリーズのファクターとなり、徐々にまたその詳細が明らかになってくるのだろう。 冬は眠りの季節。 ほとんどの動物が冬眠に入り、春の訪れを待つ。本書もまた新たなシリーズの幕開けを待つ前の休憩といったことか。英題「Black Winter」は眠るための消灯を意味しているように私は思えた。 そして真賀田四季。『四季 春』で生を受けたこの天才はしかし以前のような無機質な天才ではなくなっている。いっぱいやらなくてはならないことがあるために人への関与・興味をほとんど持たなかった天才少女は娘を生み、外の世界に飛び出して自分で生活をしたことで感受性、母性が備わり、慈愛に満ちた表情を見せるようになっている。 頭の中の演算処理が上手く行っている時にしか笑わなかった彼女が人の死に可哀想と思い、花を見て綺麗と感じ、空を見て色が美しいと思うようになっている。 そして真賀田四季研究所で娘が死んだ時に腕を切断した際のことを語る四季は突然涙を流す。彼女にとって死んだ人はもはや物でしかないはずなのに、やはり心の奥底では娘の死を悼んでいたのだ。 犀川は四季に問う。「人間がお好きですか」と。 そして四季は「ええ……」と答える。綺麗な矛盾を備えているからと。 論理的であることを常に好む彼女が行き着いたのは愛すべき矛盾の存在。それこそが人だったのだ。 真賀田四季はまだその生命を、いや存在を残してまだまだ色々とやることがあるようだ。 但しその彼女は今までの彼女ではなく、人への興味を持ち、そして自らにその人格を取り込んで生きている。もはや時間を、空間をも超越し、終わりなき思弁を重ねる1人の類稀なる天才が神へとなるプロセスを描いたのがこのシリーズなのだ。 そしてそれはまだ途上に過ぎない。 但し解るのはそこまでだ。それは仕様がない。なぜなら私のような凡人には天才の考えることは解らないのだから。 今後のシリーズで本書で生れた数々の疑問が解かれていくのだろう。その時またこの作品に戻り、意味を理解する。 ある意味本書が全ての森作品が行き着く先なのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
篠田節子氏の初期のホラー作品で第8作目に当たる本書は完璧な美を手に入れた整形美人と完璧な美を愛でるデザイナーの異常な関わり合いを語った作品だ。
登場人物はわずかに2人というまさにぜい肉をそぎ落とした作品で僅か220ページにも満たない中編とも云える作品だが、なかなか読み応えがあった。 まず主人公の名は麗子。苗字はない。幼い頃から器量が悪いために恋人はおろか、実の親からも疎まれてきた女性。 自分を生んだことで心臓病を患い、寝たきりの生活を強いられるようになった母親。それによって独立の夢を捨てた大手建設会社に勤めていた父からは「お前さえ生まれてこなかったら」と呟かれる。 高校2年の時に美術科教員に恋し、友人の一人がモデルをして抱きしめられたと聞き、自分も同じようにしてもらおうと教員の許を訪ねるが碌に見られもせずに相手にされなかったこと。 30を目の前にしてバンド仲間から求婚されるがその時の言葉が「俺もぜいたく言っていられない歳になった」だったこと。 そんな誰からも相手にされず、相手にされても常に見下されていた存在だった彼女は一念発起して大整形に踏み切り、完璧な美人顔を獲得する。 しかしそれがあまりに完璧すぎたため、人間味がなく、逆に畏怖と困惑の表情で迎えられてきた。とにかく何をしても裏目に出てしまう幸運に恵まれない女性、それが麗子だ。 その麗子を初めてまともに見てその美しさを礼讃したのが平田一向。新進気鋭の若手デザイナーで世間の注目を集めている彼は医学部を中退し、工学部に入り直し、在学中にイタリアのデザインコンクールで入選したことをきっかけに工学部も中退してデザイン事務所に就職し、今は独立して仕事を直接受けている。 彼はしかし完璧な美を愛でる男性だが、彼にはそこに生命の美しさを求めない。彼にとって人間の血や涙と云ったものは汚らわしいものであるため、即物的な美を常に求めるのだ。それには幼い頃に伯父がベネチアで買ってきた『解体できるヴィーナス』と呼ばれる完璧な美女を模した医学用の人体模型に魅せられたからだ。 それはまるで生きているかのように精巧かつこの世の中で最も美しいと思われる顔と姿を持ち、しかも人体模型であるから肌が外れ、その中にはきちんと内臓も備わっており、更に子宮と胎児すら収まっているという代物だ。それは血も膿も流さず、全く綺麗にその中身をも手で触れ、愛でることができるため、いつしか平田はそんな完璧で汚れなき美の存在だけを愛でるようになった。 しかし彼の前に現れたのが整形された麗子だった。彼は今まで人形だったその人体模型がリアルな人間として現れたと感じ、彼女に興味を持つ。 一方で麗子はそれまで畏怖と困惑でしか自分を見てくれなかった人たちばかりの中で初めて自分を見つめ、愛でる平田こそ自分が求めていた男だと思い、全てを擲ってまでも彼と一緒にいることを決意する。 平田はしかし麗子を求めはするが、求められると冷たく突き放す。 それは平田にとって麗子は完璧な美の存在であり、生きた人形であっていたかったからだ。彼にとって麗子が自分を愛すると云う感情は不要だった。彼は麗子の美に興味があり、そして金髪の腎臓模型のようにその中身に興味があったのだ。こんな完璧に美しい女性の中身をどうしても見たくて堪らなかったのだ。 はっきり云って平田は大いなる矛盾を抱えた存在である。 完璧な美を追求し、そんな人間を見つけて興味を覚え、その中身を見たいと熱望するが、そうすることで人体から出血し、生臭い臓物が出て、しかも食べた物が発する悪臭を最も嫌悪するのだから。 それはつまり好きな物は欲しくて、好きなことはやりたいが、汚れるのはいやという実に子供じみた我儘と大差ないと云える。 一方麗子もただ屈辱に甘んじていた女性ではない。 高校の時に全く相手にもされなかった美術科教員を逆恨みし、その教員と身体の関係を持ったと嘘をつき、その噂がもとでその美術科教員は転勤を余儀なくされ、その後もその噂が消えず、とうとう教員を辞め、婚約破棄になり、アルコール中毒で入院することになる。 また平田が夢中になっている人形に嫉妬し、平田を自分の物にするために地下室でその人形の服をはぎ取り、配管工事に来た人間にわざと見させ、平田の評判を貶めさせることを企むが、修理屋はそれをダッチワイフか何かと勘違いして性行為にまで及ぶのだ。 そう麗子もまた独占欲の強い人間なのだ。彼女は自分の手に入らないと思ったら嘘を平気でつき、更に運命と思えた男を手中に入れるためにはどんな手を使ってでも自分の方に目を向けさせるために罠を企むことをする。 それは彼女が平田一向との出逢いに運命を感じ、彼を最初で最後の男性だと強く思っているからだ。従って彼と世を捨てて2人だけで暮すことや、もしくはこのまま雪の中の山荘で2人で死ぬことも厭わない女性だ。 つまり彼女もまた盲目的に1人の男性を愛してしまう、ストーカー気質の危ない女性であるのだ。 この正常から逸脱した男女2人の出逢いはしかし最後価値観の違いからすれ違ってしまう。 ところで不気味の谷というのを御存じだろうか。 人型ロボットやCGアニメなどの技術が発展し、より人間に近い造形にしていくと人は徐々に好感を増していくが、あるところに達すると嫌悪感を覚えるようになる。その領域のことを不気味の谷と云うが、麗子の容姿はまさにその不気味の谷に位置する領域にあった。 それは彼女が単に外面的な美しさに囚われ、内面を磨かなかったからだ。いつも劣等感を抱き、時に強い嫉妬を抱いて復讐行為をする彼女は云わば心の無い人形に過ぎなかった。 人は見た目が9割だと云う。そして現実に美人の方が得するようになっている。 従って人は自分の容姿をできるだけよく見せることに努力をする。恵まれた容姿を持つ人の、自分の容姿に対する思いは様々だが、容姿に恵まれない人の思いは常に一緒で、より美しく、より端正になりたいと願う。だからこそ美容産業は衰退せず、今なお隆盛であり、毎年新たな化粧テクが生まれ、今や男性用の化粧品も市場が拡大してきていると聞く。 斯く云う私も美人が好きであることは正直に認めよう。 だがやはり人が惹かれるのは性格である。その人が纏う雰囲気こそが一緒にいたいと思わせるファクターであり、それが愛なのだ。容姿は出来れば美人であることに越したことがないという程度の方がいい。 とはいえ毎年世界各所ではミスコンテストが行われ、美を競い合う。また芸能界でも次から次へその世代を代表する美しい女性たちが現れ、世を魅了する。歴史の中でも1人の美人によって滅んだ国や美人によって身持ちを崩した偉人も数多くいる。 美の追求、それは永遠に終わらない世の理だ。 ただ幸いにして私は自分の人生を擲ってでも一緒にいたいと思った美人に逢ったことがない。それこそが幸せなことなのかもしれない。それほどまでに美は人を狂わせるのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
ハリー・ボッシュシリーズに関してもはやシリーズ何作目と書くことは意味をなさなくなってきたようだ。
というのもコナリー作品は複数のシリーズが交錯しており、しかも主人公もシリーズキャラクターが、初期はサブキャラとして描かれていたが、最近では同じ比重で書かれてることからもはや1つの作品がそれぞれのシリーズの1作品として見なされるようになった。従って訳者である古沢氏もシリーズ○作目という表記をせずにコナリー作品25冊目という表記に変えているので私もそれに倣うことにしよう。 とかなり前置きが長くなったが、コナリー25作目である本書は作家デビュー20年目という節目の作品となった。 それを意識してか、内容も20年前にボッシュが関わったロス暴動に巻き込まれた女性外国人記者殺害事件の再捜査になっている。 しかしそこはコナリー、物語はそれだけに留まらない。20年目の25作目と作品数も数を重ねているにも関わらず、その精緻なプロットには全く以て舌を巻いてしまった。 いつもながら物語の発端はシンプルながら、事件の捜査が進むうちに判明してくるプロットは複雑で実に混み入っているが、謎が謎を呼ぶ展開は全く以て飽きさせない。 ロス暴動の最中の女性外国人ジャーナリストの死。20年後その未解決事件(コールドケース)に着手したボッシュは唯一の手掛かりだった現場で拾った薬莢からストリートギャングによる犯行であると焦点を絞り、決定的な証拠に欠け、解決の糸口が掴めないまま、ボッシュは上層部から捜査中止の圧力を受ける。 一縷の望みを被害者の記事を採用していたデンマークの新聞社と遺族である兄弟に託すが彼女が休暇ではなく、取材でアメリカに来ていたことが解るのみ。渡米するまでに彼女はドイツ、クウェートを経てニューヨークに入り、そこからアトランタを経てロスアンジェルスに辿り着き、そこで亡くなったことが判明するが、そこに何の手がかりも見出せない。 やがて一人の容疑者が浮かび上がるがそれも外れ。しかしそこからようやく凶器の銃が見つかり、それがやがて湾岸戦争の最中に起きたある犯罪へと繋がっていく。 たった1つの薬莢から切れそうな手掛かりの糸を辿り、そして事件の真相へと繋がっていく展開はまさにスリリングだ。 ここで注目したいのが事件の動機が湾岸戦争へと繋がっていくことだ。ボッシュシリーズの幕開けはヴェトナム戦争時代の戦友の一人ウィリアム・メドーズ殺害事件だった。つまりそれはハリー・ボッシュという男がヴェトナム戦争のトンネル兵をしていた帰還兵であることを強く意識した幕開けであり、その後もこの元ヴェトナム従軍兵という過去はボッシュの中のトラウマでありつつ、闇を見つめ続ける宿命として描かれる。 そしてこの20年目の作品で再び扱われるのは戦争に纏わる忌まわしい過去。しかし既に21世紀になった今、戦争はもはやヴェトナム戦争ではなく湾岸戦争なのだ。この20世紀末に起きた湾岸戦争に従軍したある一隊、カリフォルニア州兵部隊が起こしたスキャンダルが事件の正体なのだ。それはやはり20年目の25作目という節目を意識した原点回帰的作品ことの証左でもある。 本書のタイトルは原題と全く同じ。このシンプルな題名は今では航空機に内蔵された事故が起きた際のフライト・データ全てが記録されている機器、ブラックボックスで有名だが、本書もそれに擬えられている。 ボッシュが作中で述べるように、かつて彼が若き頃ロス市警の強盗殺人課の刑事だった時の相棒フランキー・シーハンがたびたび漏らしていた、殺人事件の捜査に全てが明るみになるものの存在を指し、それを見つけることが解決のカギとなる。 それまでの作品でも色々なブラックボックスが登場したが、本書のそれは実に意外な形で登場する。それについては後でまた述べることにしよう。 さて私が本書のタイトルを刊行予定で見た瞬間に思ったのは、久々にコナリー作品のタイトルに「ブラック」の文字が躍ったということだ。 初期のコナリー3作品は原題、邦題それぞれに意識してこの「ブラック」が使われていた。 1作目の『ナイトホークス』の原題が“The Black Echo”、2作目が邦題、原題ともに『ブラック・アイス』、3作目は邦題が『ブラック・ハート』と、原作者、訳者ともにボッシュの持つ、ヴェトナム戦争帰還兵という経歴に由来する、心の奥に蟠る暗い情念を意図してこの「ブラック」が使われていた。 そしてそれから18年(原書では19年)を経て久々にこの「ブラック」の文字を冠したのは勿論作者としても意識的だったことは間違いない。 なぜなら本書は作家生活20年目の集大成的な作品の趣を備えたオールスターキャスト登場と上に書いたようにボッシュの原点回帰的な内容になっているからだ。 まず物語の冒頭ではハリーがハリウッド分署で働いていた時のシーンだ。従って元相棒ジェリー・エドガーとの捜査が語られ、懐かしさを覚える。 また上に書いたように題名の基になっているのはハリーがハリウッド分署に移る前にロス市警の強盗殺人界にいた時の相棒フランキー・シーハンであり、彼は『エンジェル・フライト』の事件で陰謀に嵌められ、もう既にこの世にいない。 また元未解決事件班の班長だったラリー・ギャンドルは強盗殺人課を統括する警部に昇進しており、ボッシュは彼にかつてデンマーク語を翻訳した警官について問い合わせをする。 またキズミン・ライダーは前回のアーヴィングの事件で出世し、ウェスト・ヴァレー分署の警部となっていることが明らかになる。そしてその事件の後、一切口を利いていないことも。 亡き父親J・マイクル・ハラーの墓参りにも行き、そこで『シティ・オブ・ボーンズ』で虐待死したアーサー・ドラクロワの墓へも行く。レイチェル・ウォリングに銃のシリアルナンバー特定のために助けを乞い、とまさにそれまでのボッシュシリーズの足跡を辿るような趣を所々感じる。 一方で前作で知り合ったハンナ・ストーンとの仲も続いているようで、既に娘のマデリンとは面会済みで今回ボッシュはスタニスラウス郡の単独捜査で数日留守にしている間、ハンナに娘の面倒を見ることすら頼んでいる。 しかし一方強姦罪で服役中の彼女の息子ショーンと刑務所で面談したことで2人の関係に暗い翳が落ちそうな予兆を孕んで物語は終わる。 そう、そしてもはやシリーズのオアシス的エピソードとなっているのがボッシュと娘マデリンとのやり取りである。 ボッシュは更に着々とマデリンに刑事としてスキルと心得を伝授していることが描かれる。今回はポリス・アカデミーで行われているフォース・オプション・シミュレーターで実際の現場さながらの緊迫した状況の中での警察としての判断と狙撃の正確さを問われる訓練を行う。狙撃の腕前と判断はもはや凡百の警察官をしのぐ技能をマデリンは見せるが、唯一謝ってキャビンアテンダントを狙撃してしまったケースに意気消沈する。 やはりまだティーンエイジャーの彼女には実際さながらの命のやり取りを行うシミュレーションを行うのには早すぎたようだが、その時に抱いた思いは今後彼女が警察になった時には決して忘れない教訓として活きることだろう。 他にもボッシュが娘をいじめている男子がいることに心を痛めていることや娘が自分の誕生日にビールを買っていたことに対して娘が偽造IDで成人だと偽って買ったのではないかと勘繰り、勝手にバッグを調べているところを見咎められ、気まずくなるところなど、親子の少し不器用で子煩悩なボッシュとのやり取りが実に面白い。このエピソードが胸に心地よく響くのは娘マデリンがボッシュを父親として好いていることが解るからだ。野獣のようだったボッシュにとってマデリンはこの上もなく大切な存在であり、そしてマデリンも父親を一人の刑事として尊敬していることが更に物語に厚みをもたらしたように思える。 そして今回掘り起こされる事件はこのロドニー・キング事件で暴徒と化したロスアンジェルスの只中で殺害された女性外国人記者の死だ。 もはやコナリーにとってロドニー・キング事件について語ることはライフワークと化しているようだ。この事件が起きたのは1992年でコナリーが作家デビューした年でもある。そういった意味でも今もアメリカ社会に蔓延る人種差別問題を語るためにもコナリーにとってこの事件は忘れずに語るべき事件となっているのかもしれない。 今回もそのロス暴動から20周年の年にギャングに殺された白人女性の捜査をしているボッシュを快く思わない元同僚の本部長マーティン・メイコックに捜査の一時保留を命ぜられる。これもまた一種の人種差別だ。 そしてやはり昨今のテレビ刑事ドラマを意識してか、今回もCSIばりの最先端の科学捜査が紹介される。それは削られた銃のシリアルナンバーを浮かび上がらせる方法だ。 いやあ読者を愉しませるためには貪欲なまでに昨今の流行までをも取り入れるコナリー。全く卒がない。 そして本書が原点回帰的作品であることのもう1つ大きな理由は今回の犯罪が湾岸戦争帰還兵によるものだからだ。 粘り強いボッシュが事件を解決できるのは一旦原点に戻ることを厭わないからだ。彼が事件を再検証する時はもう一度原点に戻って事件のファイルをつぶさに読み返す。それはまさしくコナリー自身そのものを指しているように思える。 コナリーの作品が面白いのは過去の因果がボッシュの現在に及ぼしていることだ。それはつまり過去にこそ作品の種は蒔かれており、それを忘れずにコナリーは育つのを待ち、そして時が来た時に刈り取っているからだ。そうすることで物語と作品の世界に厚みが生まれ、そしてハリー・ボッシュを、登場人物たちに血肉を与えることに繋がっている。それがシリーズに濃いドラマを生み出し、そして常に傑作レベルの水準を保っているように思える。 こう書くとコナリーと同じようにすれば誰もが傑作を掛けるのかと勘違いしてしまうが、そうではない。そういう眼を持っているからこそ、このコナリーという作家は優れているのだろう。 また遅まきながら25作目において今回痛烈に気付いたのはボッシュが相手にしているのは法ではなくあくまで人だということだ。 無慈悲なまでに殺された人がいる。 自分の都合で人を殺した奴がいる。 その人が殺されたことで哀しむ人がいる。 そんな人達を目の当たりにし、相手にしてきたからこそ、ボッシュは正義に燃えるのだ。 彼は悪に対して異常なまで憎悪する。悪事を働きのうのうと生きている輩に対して鉄槌を落とすことを心から願っている。 従って犯人を捕まえるためには多少のルール違反も厭わない。そうしないと捕まえることのできない悪人がこの世にいるからだ。 今回の捜査も際どい行為を行う。 休暇を取り、当時の事件関係者が住まうスタニスラウス郡のモデストに単独捜査をするために。そして彼は容疑者一味の中でウィークポイントと思われる、事件のことを後日電話で偽名で尋ねてきたレジー・バンクスに焦点を当て、ホテルに監禁し自白を強要する。 そんな綱渡りをするのも全て殺された人の、そして遺された人たちの無念を晴らすためだ。 今回新しく未解決事件班の班長になったオトゥールが上司からの圧力をそのまま部下に伝え、世間体を重んじ、部下の出張や必要経費について厳しい目を配り、そして過剰なまでにルールから逸脱しようとする行為を取り締まるのに対してボッシュは強く反発する。警察は上司への点数稼ぎや報告するために存在するのではなく、被害者や彼らの家族のために現場で事件を解決するためにいるのだと。 最後事件が解決したことを報告するために被害者の遺族のいるデンマークへの出張をオトゥールから断れる。もう20年も前のことだから必要ないとの理由で。 しかしボッシュは電話越しにその被害者を殺された無念の怒りを感じとる。事件はまだ終わっていないのだと云うことを。 ボッシュは事件を解決する。それは犯人が解らないまま事件が葬り去られる遺族の無念を晴らすためであると同時に悪がのさばっている現実を良くしようとするためだ。 しかし犯人が逮捕されても被害者遺族の無念は続いたままであることをボッシュはその都度思い知らされるのだ。 それでも彼が犯人を追う。“それが私たちのしていること”という信念に従って。 その被害者の北欧人特有の色の白さから白雪姫事件と名付けられた今回の事件。毒リンゴで眠らされた白雪姫は七人の小人に連れられた王子様のキスで目覚めるが、彼女アンネケ・イエスペルセンは逆に消されてしまった。 そんな彼女の事件を掘り起こし、5人の兵士たちに目覚めさせたのはボッシュという王子と呼ぶには泥臭い刑事だった。 事件は解決したが童話のように幸せな結末とはならなかった。 無念が、犯人への怒りが遺族とボッシュ自身にも残ったままだった。 これがコナリー版白雪姫。殺人事件にハッピーエンドはないと痛烈に突き付けられた思いがした。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
私も映画化作品を観たこともあり、またガーディアン紙が読むべき1000冊の1作に選ばれた、数あるキング作品の中でも1,2を争うほど有名な作品。
映画も怖かったが、やはり小説はもっと怖かった。 説明不要のサイコパスによる監禁物であるが、驚かされるのが作品のほとんどが監禁状態で語られることだ。しかも物語の舞台は95%以上が狂信的なファン、アニー・ウィルクスの家で繰り広げられている。 限られたスペースで物語が繰り広げられるキング作品は先に書かれた『クージョ』が想起されるが、あの作品もメインの舞台となる車の中での監禁状態に至るまでの話があった。 しかし本書は始まって5ページ目には既にアニー・ウィルクスの部屋にいるのである。文庫本にして500ページもの分量をたった1つの部屋で繰り広げるキングの筆力にまず驚かされる。 とにかく主人公ポール・シェルダンを監禁し、自分だけの新作を書かせる熱狂的なファン、アニー・ウィルクスが怖い。 元看護婦でもある彼女は夫と離婚して1人ひっそりと町の外れの一軒家に住む女性。彼女はポール・シェルダンの小説の熱狂的なファンだが、彼が書いているミザリー・チャステインという女性を主人公にしたシリーズ物だけを愛読している。彼女がかなりの躁鬱症であることが次第に解ってくるが、それだけでなく非常に残酷で厄介なサイコパスであることが物語が進むにつれて明らかになってくる。 彼女は雪嵐に見舞われて、交通事故に遭って瀕死の状態だったポール・シェルダンを助ける。彼は事故によって両足に重傷を負い、歩くのもままならない。彼女は元看護婦であり、治療となぜか大量に薬を所有しているため、献身的に看病する。 九死に一生を得たポールは感謝しつつもしかし主人公はなぜこの女性が一向に病院に連絡しないかを訝しむ。いや、意識を取り戻し、彼女と最初に話した時点でこの女性がまともではないことを悟る。 そこからはポールの災難、いや災厄の日々の始まりだ。 このアニー、とにかく自分の思い通りにならないとすぐに癇癪を起す女性だ。 そして彼女は狂人でありながら理性も備えており、ある一定の自分なりのルールに従って生きていることも解ってくる。 例えば彼女は無断でポールの鞄の中を物色し、そこに彼が2年がかりで仕上げたばかりの渾身の新作『高速自動車』の原稿を勝手に読むが、その中にある財布の中の金は取らない。 また一ファンとしてミザリーの続編についてアイデアを出すが、それを強要したりしないし、また早く続きが読みたくなっても、鞭打って書かせるわけでなく、作者ポールが作品を書きやすいように色々と世話を焼いたりする。 しかし上に書いたように彼女はサイコパス。それも長続きはせず、突然虚ろになったかと思うと、憮然としてポールを見捨てたり、またポールが笑うと自分が嘲笑われているように勘違いし、ポールに嫌がらせ、もしくは体罰を施すのだ。その拷問とも云える仕打ちがまたすさまじい。 もう痛々しいどころの騒ぎではない。これほどまでに人に執着し、自分の思い通りにならないことに癇癪を立てる人がいただろうか。 いや、いるのだ、実際この世には。 愛。 それは何ものにも代え難い感情で困難に打ち克つ力として愛をテーマに人は物語を書き、詩を書いて歌にする。人が誰かと一緒になるのも愛あればこそだ。 しかしこの強い感情が実は最も人間の怖さを発揮することになることを本書は知らしめる。 アニー・ウィルクスはポール・シェルダンの書くミザリーシリーズという小説が大好きで大好きで次作が出るのを待ち遠しくしていたのに作者がこの主人公を殺してしまったから、それが許せなかった。 自分の好きな作品を返してほしい。そして彼女にはそれが出来た。なぜならその作者が満身創痍の状態で自分の家にいたからだ。 彼女は献身的に重傷の作者を介護し、自分に逆らうとどういう目に遭うかを知らしめるために彼を支配した。 それもこれも自分の大好きなミザリーシリーズの、自分のためだけに作者が書いてくれる続きを読みたかったからだ。 ファンというものは有難いものだが、一方で恐怖の存在にもなりうる。 そしてこれはただの作り話ではない。キングが遭遇したある狂信的なファンの姿なのだ。 そして面白いのはこの事実に基づいて書かれた作品でありながら、本書でも他の作品とのリンクが見られることだ。 まず主人公ポール・シェルダンの母親が彼が12歳の頃に一緒にボストンに行く隣人ミセス・カスプブラクは『IT』に出てくる喘息持ちの少年エディのあの過干渉の母親のことだろう。 またアニーが殺害したアンドルー・ポムロイが絵に描こうとしたホテルは『シャイニング』の舞台になったオーヴァールックで『シャイニング』の事件のことが触れられる。 つまりキングは自らの実体験に基づいた話もまた彼の作り上げたキング・ワールドに取り込むのである。それは恐らく自らの経験を現実から切り離す必要があったからかもしれない。 これがもしキング自身が抱いたトラウマだったら、彼は本書を著すことでトラウマを克服し、解消しようとしたのではないか。 つまり彼は自分の紡ぐキング・ワールドに狂信的なファンの幻影を封じ込めようとしたのではないか。 そう、忘れてはならないのは本書がサイコパスによる監禁ホラー物だけの作品ではなく、小説家という職業の業や性を如実に描いた作品でもあることだ。 上述したように本書は95%がアニー・ウィルクスの家で繰り広げられるが、この長丁場を限られた空間で読ませるのは狂えるアニーのエスカレートするポールへの仕打ちとそれに対抗するポールの生への執着だけではなく、ポール・シェルダンという作家を通じて小説家の異様なまでの創作意欲、ならびに創作秘話が語られることも忘れてはならない。 とてつもなく非人道的な仕打ちをうけながら、なおもミザリーの新作を完成させようとする彼は作者キングの生き写しだ。 最初はどうにか助かりたいと思って苦痛を抑えるために屈辱的なことも敢えて行った彼が次第に回復するにつれ、自分の命を繋ぎ留めるミザリーの新作に次第にのめり込んでいく。今までファンのためだけに書き、自身では早く終わらせたくて仕方がなかったミザリーがアニーという狂信者によって続編を書くことを強要され、文字通りその身を削って命懸けで案を練るうちに彼の中に今までになく充実したミザリーの物語が展開するのだ。それはさながら極限状態から生まれたアイデアこそが傑作になりうるといった趣さえある。 一度始めた物語は最後まで書きあげたい、自分の頭にある物語を形あるものとして残したい。 満身創痍の中、必死に『ミザリーの生還』に取り組むポールはキングそのもの。 そしてそこここに挿入されるポールが小説を書くことに纏わるエピソードもまたキング自身のそれだろう。 ある駐車場でそこの係員が鉄梃で車のドアを開けようとしたのを見て2,3ブロック歩くと頭の中に1人のキャラクターが生まれていた、物を書くときには目の前にある向こう側の世界の穴に入り込む、昼寝をしているといきなり爆弾めいた閃きが起こり、メモを書き留める手ももどかしくなるほどアイデアが泉のように沸く、本当は他人のために小説を書くわけではない、全ては自分が書きたいから書くのだ、そんな自己本位な態度が空恐ろしいから本の初めに献辞をつけるのだ、等々。 本書を著した1987年頃、キングはアルコール依存に加え、薬物依存症に陥っていたと云われている。アニーがくれる痛み止めを欲するポール、そして最後に涙を流しながらインスピレーションに従い、タイプを打つポールの姿はキングそのものといっていいだろう。 話を続けること、それしか小説家は前に進めないのだ、と自身に云い聞かせているように思える。 そしてアニーが獲得した状況はまたファンにとって理想的な物だろう。 自分だけにポール・シェルダンという作家が自分の好きなミザリー物の新作を書いていること、新しいページが出来るたびにそれを読む恩恵にあずかっていること、そして早く続きが読みたいこと、時に自分からアイデアを出し、それが採用される喜びなどからポールを繋ぎ留める。 それは一種彼女にとっての愛情であり、恐らく同様のことを思うファンもいることだろう。 支配欲の強い彼女は相手が自分に逆らうことを忌み嫌う。 自分がこれほどしてやっているのに何が不満なのか? なぜこうまでしているのに自分の許から離れようとするのか? 彼女はいつも自分の行為に対して相手に代償を求めているのだ。それも自分がした以上の代償を。 だから自分の意に反することを相手がやられると裏切られた気持ちになり、それによって生じる憎悪が生じる。 しかしこれはごく普通の人間が抱く感情でもある。ただ彼女の場合はそれが強すぎ、そして普通の人が超えられない一線を超えることが出来るだけなのだ。 作中で頻りに語られるようにポール・シェルダンとアニー・ウィルクスの関係は自分の命を繋ぎ留めるために王へ千夜一夜話を続けたシェヘラザードのそれと同じなのだ。つまりこれはキング版アラビアン・ナイトなのだ。 そのアラビアン・ナイトに相当するのが作中でポールが書くミザリーの新作『ミザリーの生還』。本書ではこの新作もまた断片的に作中作として挿入される。 本書のタイトル『ミザリー』はこのポール・シェリダンが続編を強要されるシリーズ作品の主人公の名前ミザリー・チャステインから採られているように思えるが、やはりポール・シェルダンが出逢ったこの途轍もない悲惨な状況を示していると云える。 この決していい意味では使われない単語を名前に冠する主人公の物語は本書では再生の物語として書かれる。それは今まで書けなかった傑作となるミザリーの新作。悲惨な状況が傑作を生む皮肉を表している。 そして当時薬物依存という最悪の状況に陥っていたキング自身の心理状態をも表しているようだ。 またアニーのような人物を生まれるのは物語に対して人が感情移入をするからだ。物語の主人公、つまり虚構の存在であるのに、それが次第にそれぞれの読者の心に住まい、恰も現実の世界の住民となっていくことが作中ポールの独白で語られる。 シャーロック・ホームズを葬り去った時にファンたちのみならず実の母親からも猛抗議に遭い、結果、ホームズを蘇らせ、その後数十年間シリーズを続けたコナン・ドイルの話から自分の好きなシリーズキャラクターが死んで喪に服したファンの話―そういえば日本でも力石徹が死んで葬式を行ったファンがいた―、作品の中で強烈に印象付けられたシーンのせいで眠れなくなる、云々。 単に一人の人間が想像した人物・世界がもはやその作者のみものではなく、共有されることで作者の手を離れた1つの人格、世界として認識されてしまい、そしてそれぞれの心の中にそれぞれの世界が築かれるのだ。それが物語のマジックである。 つまりこのマジックにアニーは取り込まれてしまったのだ。そしてそれをマジックの生みの親である作者が逆にファンによって虐げられる皮肉が描かれているのだ。 狂信的なファンによる監禁ホラーというシンプルな構造の本書は上に書いたようにファン心理の怖さ、そして自己愛が強すぎる者の異常さと執念深さのみならず、小説家という人間の業、更に物語が人から人へと広がっていくマジックなど、非常に多面的な内容を孕んでいたが、それだけでは終わらない。 実はここに書かれていることが現実となるのである。 交通事故に遭い、満身創痍になったポール・シェルダンは本書を著した12年後のキング自身の姿である。彼自身も車に撥ねられ、重傷を負い、そして片脚に障害を負う。 この作品が他のキング作品と異なる怖さを秘めているのは、そんな現実とのリンクが―しかも未来を暗示していた!―あるからこそなのかもしれない。 キングは本書をフィクションとしてキング・ワールドに封じ込めたのではなく、実はキング・ワールドが現実にまで侵食してしまったのだ。 一人の作家が描いた世界がとうとう現実世界へ波及した稀有な作品として本書は今後私の中で忘れらない作品となるだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
四季シリーズ第3作目の本書は森作品ファンへの出血大サービスの1作となった。
今まで真賀田四季を主人公に彼女の生い立ちを描いてきたこのシリーズだが、3作目に当たる本書はそれまでと異なり、なかなか真賀田四季本人が登場せず、寧ろ犀川創平と西之園萌絵とのやり取りと保呂草潤平と各務亜樹良の再会とそれ以降が中心に語られ、S&Mシリーズの延長戦もしくはVシリーズのスピンオフといった趣向で、主人公である真賀田四季は全283ページ中たった10ページしか登場しないという異色の作品だ。 ファンにとって嬉しいのは両シリーズのオールキャスト勢揃いといった内容になっていることと今まで断片的であったS&MシリーズとVシリーズのリンクがもっと密接に結びつく内容になっていることだ。更に両シリーズのみならず、それまでの森作品のほとんどが結びつくようなものになっている。 本書の主題とは犀川が『有限と微小のパン』で語られたユーロパークで起きた事件以後、真賀田四季とコンタクトを取ったことが明かされ、それによりさらに真賀田四季への理解と疑問が深まった犀川があれほどの天才が娘を殺害してまで妃真賀島を脱出した目的を探ることである。 そしてそれを探るべく犀川は当時四季の部屋に残されていたレゴブロックに手掛かりがあると睨む。そして残されたパーツに不足分があること、ブロックで作られた兵隊の人形に隠されたメッセージに従い、イタリアのモンドヴィに萌絵と飛ぶ。 一方保呂草は各務亜樹良の行方を探るために彼女が接触していると思われる真賀田四季の足取りを追っており、彼も同じブロックの兵隊に隠されたメッセージを見つけ、イタリアに飛ぶ。そしてミラノで各務を見つけることに成功するが、四季からメールを受け取った各務と共に同じくモンドヴィに向かう。 その地こそが犀川と萌絵、そして保呂草と各務、即ち両シリーズのランデヴーポイントとなる。 しかし常々思っていたことだが、S&MシリーズとVシリーズ、やはり意識的に森氏はその趣を変えていたことが両シリーズが邂逅する本書で如実に判った。 S&Mシリーズが西之園萌絵の生い立ちに暗い翳を落としつつもその天然な天才少女とこれまた浮世離れした大学の助教授という組み合わせでライトノベル風に語られているのに対し、Vシリーズが小鳥遊練無と香具山紫子というコメディエンヌ(?)を配しつつも、登場人物間の関係に纏わる恋愛感情の縺れや諍いを描き、更に保呂草という犯罪者の暗躍も描いた少し大人風なダークの色合いを湛えており、それがそれぞれのパートで見事に対比できるのである。 まず犀川と萌絵の登場パートはシリーズ終了以降の2人が描かれる。それには短編集『虚空の逆マトリクス』に収録されていた「いつ入れ替わった?」で語られた犀川が婚約指輪を渡すエピソードも語られ、犀川と萌絵の結婚生活が始まりそうで始まらない状態で物語は進む。真賀田四季を追ってイタリアへと飛ぶが萌絵は婚前旅行と思い、嬉々としているが、犀川はようやく真賀田四季に逢えると思い、喜んでいるといったギャップがあり、結局そこでは何も恋愛沙汰は起きない。 一方保呂草と各務のパートは犯罪者の2人らしく大人のムードで話は進む。まあこれが実にスマートで、一昔前のトレンディドラマを観ているかのように台詞、仕草どれをとっても洒落ている。 そして保呂草は各務との再会を果たすために色んな人物と出逢ったことを後悔する。特に愛知県警の本部長を叔父に持つ西之園萌絵との再会は彼に日本の地を踏むことを半ば諦めさせるほどに。 ジャーナリストである各務が書くべき記事や原稿が沢山あると述べ、保呂草が自分でも何か書こうかなと零すシーンは彼がその後自分の一人称で始まるVシリーズを執筆することを仄めかしているようで面白い。 そしてやはり触れなければならないのは西之園萌絵と瀬在丸紅子、2大シリーズのヒロイン同士の邂逅だろう。 瀬在丸紅子は無言亭からどこかにある、ある金持ちによって移築された歴史建造物に管理人として住んでおり、使用人だった根来機千英は既におらず、1人で暮らしているようだ。 萌絵は犀川から婚約指輪を貰ったことで挨拶に行くために訪れたのだが、そこで萌絵は彼女から人生訓を授かる。 犀川創平が好きでたまらず、自分の物にし、自分の方だけを向いてもらいたい萌絵は、つまり若い女性にありがちな独占欲とも云うべき愛情を強く抱いている。 それに対し、紅子は一方向にしか風が来ない扇風機を愛するよりも全てに光を当てる太陽を愛でるように愛しなさい、それが許すということですと諭す。 私はこれを読んだ時にかつて祖父江七夏と犀川林を巡って醜い女の争いを繰り広げていた紅子がここまでの悟りの境地に至ったのかと驚き、そして感心した。 その言葉によって西之園萌絵は少し救われた気持ちになる。 面白いのは西之園萌絵よりも年上で大人の女性である各務亜樹良もまた同じように独占欲が強いことだ。 彼女はモンドヴィの教会堂の壮麗さに感心する保呂草に自分はこれが自分の物にならないから駄目だと云う。つまり彼女は欲しい物は手に入れたく、そしてそれが出来た人間だったからだ。そして彼女が今欲しいと思うのは保呂草潤平と名乗るこの危険な男だ。西之園萌絵と各務亜樹良は似て非なる女性でありながら実は根っこの部分では同じ精神性を持った女性といえるだろう。 しかし各務はこの後どのように変わるかは解らない。彼女は彼女のままで、いや少し保呂草という支えを欲する弱さを感じているのを自覚しながらも強い女性であり続ける芯を備えた女性として生き続けるのに対し、西之園萌絵はこれから世間知らずの天才少女から脱皮し、1人の女性としての成長していくことが語られる。 まず印象的だったのが西之園萌絵が真賀田四季を畏れており、そしてまた嫌っていることが明かされる。 彼女の物語の始まりである『すべてがFになる』の始まりは西之園萌絵と真賀田四季の会談である。彼女は現代最高の天才と称される真賀田四季と逢うことを愉しみにし、そしてその会談を愉しんだ女性だ。しかしその後シリーズ最終作『有限と微小のパン』で再び彼女と対面した時に四季の凄まじいまでの天才性に慄いてしまったのだ。 それまで高速の計算能力を持っていることが自分の才能であり、それを自覚しながらもそれを拠り所にしているとは考えていなかったが、全てにおいて自分を凌駕する存在である真賀田四季と逢ってから自分がその長所にしがみついていたことを自覚させられるのである。 つまりそれは自分がそれだけの存在であると卑小化することに繋がり、彼女は挫折を味わう。そしてその天才が関心を持つのがもう1人の天才犀川創平であり、犀川もまた真賀田四季に並々ならぬ関心を寄せていることが嫌で堪らないのだ。それを乗り越えさせてくれたのが前述の瀬在丸紅子との邂逅だった。 そして彼女が修士課程を終え、ドクタとなり、犀川や助手の国枝桃子から指示を受けて研究を続けていた立場から自分でテーマを決め、大学生や院生に指示を出す立場に変わったことで自分の立場、立ち位置を理解し出したことだ。 それは即ち集団から1つ抜け出た存在になることを自覚し、それによって彼女に責任が生まれる。それは即ち仕事に向き合うということだ。ようやく彼女は社会人としてスタートラインに立ったと云える。 また犀川が好きなことをしていたら仕事ではない、嫌なことをするからお金が貰えるのだと云う件はまさしく私が常日頃思っていることだ。 好きなことをするにはお金が必要。それが嫌であるけど、それを乗り越えるのは好きなことをやるという原動力があるからだ。 しかしこれに対して余りある財産を持つ萌絵がすべて面倒を見るから働く必要はないと云うと犀川はそれなら大学を辞めるという。 これについては私も同じ心情だったが、最近では変わってきている。 多分本当に好きなことばかりやると飽きてくるのではないかと思い始めている。何か外に出て誰かのために働き、そして終わった後、自分のために時間を使う。これが退屈せずに生きることではないかと思っているのだ。 しかしこの西之園萌絵の足取りを通じて森氏は1人の人間の成長の軌跡を語ると同時に、我々読者に人生訓を説いているようだ。本書は大学教授という社会人でありながら執筆活動を続けていた森氏ならではの示唆に富んだ内容が盛り込まれている。 さて秋はやはり実りの秋と呼ばれる収穫の季節だ。まさにその季節が示す通り、収穫の多い作品となった。 前作で保呂草の許に飛んだと思われた各務は逆に保呂草に捕まり、その秘めたる恋を始まらせる。 西之園萌絵の収穫はやはり犀川との婚約だろう。そして彼の母親瀬在丸紅子との会談で得られた人生訓もまた大きな収穫だ。 犀川創平は妃真賀島の事件に隠された真賀田四季の動機がようやく明かされた。 まさに収穫の1冊である。 本書はシリーズ中異色の作品と書いたが、春編と夏編で全ての始まりとなった作品『すべてがFになる』の“それまで”の四季を描き、本書から“それから”の四季を描いていることから、もしかしたら最終作もまた犀川と萌絵の2人を中心にして、そこに保呂草たちが絡む展開になるのかもしれない。 ともあれ起承転結の転に当たる本書は確かにシリーズにおける大転換を見せた作品だった。これは最終作の冬編にますます期待値が上がるというものである。愉しみにしていよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
奇作『翼ある闇』でデビューした麻耶雄嵩氏の第2長編が本書。文庫本にして700ページを誇る大著である。当時はとにかく重厚長大な作品が多く刊行され、皆競うように原稿用紙○千枚の超大作と云った文句が帯に踊っていたものである。
更に本書は当時も今も読んだ人が一様に真相にぶっ飛んだと述べていた曰く付きの作品でもある。原著刊行後26年経った今、幸いにしてその“驚愕の真相”を知らないまま、本書を紐解くことができた。 そして読後の今、正直なんと評したらよいか解らない。物語のゲシュタルト崩壊とも云うべき結末に大きな戸惑いを覚えている。 一旦これは整理して受け入れるべきものは受け入れて物語を再構築していかなくてはならないだろう。 まず登場人物から整理していこう。 真宮和音という伝説の女優を崇拝し、和音島で20年前に1年間の共同生活をした6人。 京都の呉服屋の次男、結城孟、貿易商を営む村沢孝久とその妻尚美。元医学生でその後カソリックに帰依して神父となっているパトリク神父。そして使用人の真鍋夫妻の3人で和音島にある洋館和音館を護っている大富豪、水鏡三摩地。尚美の兄で全てを真宮和音に捧げた武藤紀之は20年前に亡くなった真宮和音の後を追って亡くなっている。 そして20年ぶりにその島に集まって行われる真宮和音を偲ぶ会とも云うべき同窓会で和音の命日である8月10日に彼らが作った真宮和音の唯一の主演映画『春と秋の奏鳴曲』を観賞するのがメインイベントである。 それを取材するのが京都の出版社に準社員として勤める如月烏有とアルバイト生で烏有にその出版社を紹介した不登校の高校生舞奈桐璃。ただ舞奈桐璃は彼らが信奉する真宮和音に瓜二つだった。 しかしメインイベントを待たずに館の主、水鏡三摩地が真夏に降り積もった雪の只中で首無死体として館から50メートル離れたテラスで見つかる。しかもそこに至る足跡はない、いわば密室状態だった。そしてその事件が起きた時点で使用人の真鍋夫妻は島に碇泊していた小型ランチで逃亡していなくなる。 更に結城孟も溺死体として見つかり、舞奈桐璃もまた左の眼球を抉られるという被害に遭う。更に村沢尚美もクロゼットの中で喉を切られた遺体として見つかる。 事件が続くにつれ、第三者の存在を、20年前に死んだ真宮和音、もしくは武藤紀之が生きていて復讐をしているのではという疑惑が生まれてくる。 でその真相はと云うと・・・・。 これを素直に受け入れられる読者は果たしてどのくらいいるだろうか? 私は正直認めない。今回はいくらなんでもといった感じは否めない。 これが麻耶氏のミステリなのだ。 豪快な論理的展開を重視するあまり、犯行の現実性や発生の確率の低さなどは全く頓着しない。 この規格外の本格ミステリに通底するテーマは偶像崇拝ということになるだろうか。 ただ1作の主演映画を遺して若くして夭折した女優、真宮和音。彼女に心酔した6人の若者がとある島に渡り、1年間の共同生活をした後、女優の死によってそのコミュニティは解散となるが、20年後に再び同窓会という形で再会する。彼ら及び彼女はこの真宮和音のために1編の主演映画『春と秋の奏鳴曲』を作った仲間たちで、ファン以上に彼女を慕い、そして崇拝していたのだった。 彼らにとって真宮和音は“神”に近い存在、いや“神”そのものだった。 今でもネットでカリスマ性のあるアイドルや女優に対して“神”と呼ぶ風潮があるが、まさにそれと同じようなものだ。というか26年前と今でもさほどこの偶像崇拝という趣向は変わっていないようだ。 ところで麻耶氏はカラスがよほど好きなのだろうか。デビュー作『翼ある闇』の舞台となるのは蒼鴉城と鴉の文字があしらわれており、この如月烏有もその名に烏を冠す。 その後もそのものズバリ『鴉』という長編を著している辺り、どうもカラスは麻耶氏にとって何か特別なモチーフであるようだ。この漆黒の羽根と毛に覆われた闇を司る、どちらかといえば忌み嫌われている鳥を麻耶氏が好む理由を今後麻耶作品を読みながら考えるのも一興かもしれない。 とにかく色んなテーマを孕んだ作品であることは理解できるが混乱が先に立ち、上手く整理が出来ない。 実存主義、偶像崇拝、時空を超えたシンクロニシティ、ドッペルゲンガー、虚像と実像、運命論、因果応報、そんなものがふんだんに盛り込まれていることは頭にあるのだが、作品としてミステリとして考えた場合、これらは破綻しているが幻想小説として読めば本書の理解は更に深まり、また変わってくるだろう。 本書にやたらと取り上げられているキュビスムで描かれた肖像画は時間の連続性をも描いた手法だと語られている。このキュビスムで描かれた真宮和音はしかし書けば書くほど相対して空虚なものがあることを認めざるを得なくなることに気付く。つまり彼らの頭の中にある真宮和音を措定していくうちに彼女が実在しないという空虚さをも措定していくことになると解釈すればいいのだろうか。 従っていつまで経っても彼らの中の真宮和音はまだ完成していかなかった。だから彼らは1年後島を捨て共同生活に終止符を打ったのだ。 しかしそこに舞奈桐璃という彼らの真宮和音を具現化した女性が登場した。それは彼らが肖像画のみに表した存在が3次元で“展開”したのだ。3次元の存在である舞奈桐璃こそ真宮和音であり、それを2次元に“展開” するために彼女が必要だったのだ。 私の解釈は以上の通りになる。正直これが合っているかどうかは解らないし、もっとこのキュビスムについて知り、学ばないと十全に理解したとは云えないだろう。 しかし想像上の理想の女性が実際に現れた時、人はどうするのかというのがそもそも本書が内包するテーマであると思う。 夢で見た女性、常に頭に描いている女性の理想像。それをどうにか具現化するために1年間共同生活を送った彼らが20年後にその存在に出くわした時、どうするだろうか。 やはりそれは独り占めにしよう、他の誰にも触られたくない自分のためだけの唯一無二の存在にしたいと思うのではないか。 ただしかし麻耶氏は最後の最後でこの解釈をも覆す。 また本書の英題は“Parzival”となっており、これはワーグナーの楽劇“パルツィファル”に出てくる英雄の名前だ。“汚れを知らぬ愚か者”の騎士と称される。しかしその純真さと無智ゆえに彼は敵の誘惑を乗り越え、使命を全うする。つまり取り立てて取り柄の無い如月烏有を指しているのだ。 うーん、真と偽のスパイラル。この物語の決着はまだまだ着きそうにない。当分私の頭を悩ませそうだ。 どこかで辻褄を合わそうとするとどこかが合わなくなる。それはこの一見直線的に見えながら歪んでいる本書の舞台和音館そのもののようだ。 麻耶雄嵩、なんという捻くれた作家だ。 正直好きにはなれないが、拒みようのない魅力を孕んでいることも確かだ。 孤高の本格ミステリ作家の作品はまだ2作目。この後の彼の作品はどんな幻惑を施しているのだろうか。楽しみよりも不安が先に立つ作家だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
久々にウェクスフォードシリーズを手にした。シリーズ14作目となる本書は比較的コンパクトなシリーズの中でも比較的長めの460ページに亘る作品だ。
事件自体はショッピング・センターの駐車場で見つかったごく普通の夫人の絞殺死体の犯人を巡る地味なものだが、なんとウェクスフォードは途中で爆弾事故に巻き込まれて重傷を負うという派手な展開を迎える。 しかもそれが女優である次女のシーラのポルシェに仕掛けられていた爆弾だったことから一転して不穏な空気に包まれる。折しもシーラは自身が主演を務めるドラマが好調であったが、≪反核直接行動演技者連盟≫なる反核を推し進める俳優たちで構成された10人からなる小集団の活動の一環で英国空軍基地のフェンスのワイヤーを切ったことがニュースになっており、また離婚騒動の渦中でもあった。 さらにその後も彼女に手紙爆弾が送られ、更に不穏な空気は募る。 しかし爆発に巻き込まれながらも—というよりほとんど直撃と云ってもいいくらいだが—ウェクスフォードはタフな不死身ぶりを見せる。なんとその週の週末には退院して仕事復帰しているのだ。ページ数にして僅か80ページ。いやはやどれだけ頑丈なんだ。 そしてもう1つ大きなエピソードがあり、それは遺体の第一発見者でありながら、警察に通報せずに現場から逃走したクリフォード・サンダースと彼を容疑者とみなすマイク・バーデンの捜査を巡るうちに異様な方向へと向かう意外な展開だ。 このバーデンのクリフォードに対する執着は初めてウェクスフォードとの対立を生み出す。それについては後述しよう。 またメインの事件も実はウェクスフォードは目と鼻の先に遺体があったことを見逃す。事件現場であるショッピング・センターに妻のドーラの誕生日プレゼントを買いに行き、遺体の見つかった地下駐車場と同じ階に車を駐車していながら、そのまま素通りして家路につくのだ。つまりウェクスフォードはその時間に犯人に出くわした可能性もあるのだ。 遺体発見者と被害者を調べていくうちにそれぞれ特殊な事情を持っていたことが解る。 被害者のグウェン・ロブスンは関節炎持ちで自宅療養生活中の夫を抱えながらせっせと働く献身的な妻の様相を見せるが、これが次第に変わっていく。 彼女が働く理由は身体の不自由な夫の生活のためで、その世話好きの性格を買われ、隣人たちから色々所用を頼まれていた。足の爪を切るだけで5ポンドもの大金を与える老人もいれば逆に週100ポンド払うから家の面倒を見てくれと頼む金持ちの老人もいたが、その依頼は断っていた。 一方ですごいゴシップ魔でご近所の話をのべつまくなしにしゃべっていたという者もいれば、さほど近所付合いもしなかったのにある富裕な老人が遺言で自分に3000ポンドを譲ると云っていてそれには証人が3名必要だからサインしてほしいなどと厚かましく要求する。 これらの話からバーデンは被害者のグウェン・ロブスンが金に汚い人間であり、亭主のためだという口実でその行為を正当化していたと断じる。そして遺体の第一発見者のクリフォード・サンダースがかつて学生時代にフォレスト・ハウスという屋敷で庭師のバイトをしており、その同時期にグウェン・ロブスンがその家の世話をしていたことを知り、接点を見出す。 遺体の第一発見者であるクリフォード・サンダースはグウェン・ロブスンの遺体を発見したことで動転して自分の車に積んであったカーテンを掛けてそのまま車を置いて逃走し、家まで歩いて帰ってしまう。その理由はそれを母だと思ったからだという。 一方遺体の発見者として近所の老人に警察へ通報することを要請したその母ドロシーはカーテンで隠された遺体を息子の遺体ではと思ったという。 バーデンの捜査を通じてこの親子が少し変わった人物であることが判ってくる。 クリフォードはいわゆる大人になり切れない大人で心理療法士の診断を定期的に受けている。そして母親ドロシーは元々名家であったサンダース家に掃除婦として働いていたところを見初められ、玉の輿に乗ったのだが、その夫は実母と共に息子と妻を残して屋敷を出て離婚し、実母もほどなく病死した後、ドロシーはその後女手一つで息子を育て上げたのだった。 しかしそれは息子を寂しさゆえに自分の許へ繋ぎ留めておく執着が強くなったためにクリフォードは母親から自立できない大人になってしまった。 また被害者ロブスン家に世話をしに来る姪のレズリー・アーベルもまた捜査が進むにつれて不審な点が出てくる。 イギリスで広く読まれている雑誌≪キム≫で人気の人生相談のコーナー、サンドラ・デールの秘書をやりながら、関節炎を患った伯父さんの世話のために毎週ロンドンから通う姪。一聴すると実に献身的な娘を想起させるが、その外見は派手派手しい服装を好む美人で、おおよそ料理も得意でなく、料理に邪魔になるであろうマニキュアを塗った長い爪をした、当世風の娘である。 しかも事件当時のアリバイも綻びが出てくる。更に事件直前に彼女らしき若い女性と被害者がショッピング・センターで話しているのを目撃した店員や客が出てくるに当たり、そのメッキが剥がれていく。 とまあ、レンデルの人間に対する眼差しの強さはいささかも衰えない、実に読ませる作品に仕上がっている。 さて本書の原題“The Veiled One”は作中に出てくる容疑者の1人クリフォードの心理療法士サージ・オールスンが話す“ヴェールで顔を隠した人”、≪エンケカリムメノスの虚偽≫というエピソードに由来する。即ちいつも見ている人物もヴェール1枚包めばその人と認識できない別人になるという意味だ。 カーテンを掛けられた遺体はそれを発見した親子はそれぞれそれが母親だと思い、息子だと思ったと述べる。 人は皆仮面を被って生活している。いやここは本書のタイトルに合わせてヴェールを被っていると表現しよう。 外向けの貌と内向けの貌。外向けの顔が虚構に彩られたさながらヴェールを被った貌は自宅に戻るとそのヴェールをはぎ取り、本当の貌をさらけ出す。 いや、さらに秘密を持つ者は自宅においても他の家人たちに外向けのヴェールの下にもう一枚被ったヴェールのまま、相対する。これはそんな物語だ。 レンデルの紡ぎ出す物語はさながら様々な因果律が描くタペストリーのようだと今回も感じ入った。それぞれの人物が糸のように絡み合い、編み物のように丹念に織り込まれながら、惨劇という大きなタペストリーを見せるのだ。 ショッピング・センターの駐車場で起きた1人の婦人の死。 そこは様々な種類の店が並んだ複合施設。いわば複数の店という糸が寄り集まって出来たタペストリーだ。 そこにはいろんな店があるがゆえに色んな人も集まっていく。 それらの人たちが糸のように寄り集まり、やがて駐車場での絞殺死体へと収束する。 そしてその場に居合わせた人たちにはそれぞれ隠している過去があり、秘密がある。ヴェールを被って外に出ながら、そのヴェールを無理矢理剥がそうという人がいる。それが被害者のグウェン・ロブスンだった。 そしてそれらの過去や秘密によって新たな因果律が生まれ、惨劇へと発展していく。 この事件の容疑者について426ページからウェクスフォードが様々な事件関係者を容疑者に見立てて開陳する推理は誰もが動機があったことを思い知らされる。因果律の応酬だ。 それらを全て感想には書かないでおく。 事件とは即ち人生の変化点だ。それに関わった人物はもうそれ以前の人生とは異なる何かが起きるのだ。 勿論その関わり方の深さによってその何かの大きさは異なるだろう。 しかしそうであってもどうにか普通の暮らしを続けていた者たちにとってその些細な変化が多大なる影響を及ぼし、大きく人生を狂わせていく者もいる。 失敗を恐れ、自分自身のみの必然性に従ったために起きたのが今回の事件だ。いや、事件とは押しなべてそのように起きるものなのだが、レンデルの筆致はその当たり前のことを鮮烈に思い知らされる。それだけ登場人物たちが息づいているからだろう。あ ああ、やはりレンデルは読ませる。まだまだ未読の作品があり、そして未訳の作品がある。 人生劇場とも云えるレンデル=ヴァインの諸作がいつの日かまた復刊され、訳出されることを願う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|