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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1426

全1426件 81~100 5/72ページ

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(7pt)

題名は非常に魅力的なのだが…。

先日読んだ『ランゴリアーズ』と併せて“Four Past Midnight”と名付けられた中編4編を収めた中編集の後半の2作を収めたのが本書。

まずタイトルにもなっている「図書館警察」も「ランゴリアーズ」同様、約380ページもある、もはや長編の域に達する中編である。

図書館の本を期日までに返さなかったら、図書館警察がやってくる。
キングはこの作品の創作ノートで自分の息子が図書館で本を借りたがらない理由についてそう述べたことから本書の着想を得たと語っている。そしてそれはキング本人もまた子供の頃に云われた、いわば戒めの都市伝説であったと述べている。

この図書館警察の着想から想像した物語はしかしどこか歪に変化していく。そしてそれは私の本作への期待を図らずも裏切る形になった。

読み進んでいって気付かされるのは本書はもう1つの『IT』の物語だということだ。それは主人公サム・ピープルズが少年時代に遭遇し、そして恐怖の対象となった図書館警官という過去のトラウマとの対峙と克服の物語であり、そしてアーデリア・ローツという怪物との戦いの物語であるからだ。

ジャンクションシティがその歴史から葬り去ろうとしている図書館司書アーデリア・ローツは『IT』のピエロ、ペニーワイズのような存在だ。彼女は、いやもはや人ではない“それ”としか呼べない存在だ。
通常は人間の女性の形をしており、しかも実に魅力的な女性の姿であるため、図書館を利用する子供たちのみならず彼女の周囲の大人の男性をも魅了する。そしてその標的に選んだのがサム・ピープルズだった。

彼は図書館に対してトラウマを持つ少年であり、その恐怖こそがアーデリア・ローツには必要な要素だった。

サムが恐れる図書館警官とは一体何者なのか?

この図書館警官のトラウマとそれを利用して取り込もうとする怪物アーデリア・ローツの戦いが物語の軸の1つである。

そしてもう1つの軸はサム・ピープルズが1人の女性と結ばれるまでの物語であることだ。

彼の講演を口述から原稿に書き写したタイピストナオミ・ヒギンズはかつて彼がデートし、口説いたものの恋愛まで発展しなかった女性だ。しかしサムと彼女とを再び結びつけるきっかけとなったのが浮浪者のデイヴ。このデイヴがかつてアーデリア・ローツに憑りつかれた男であり、自分と同じ境遇に陥ったサムのために一肌脱ぐ。
それはサムが返却しなければならない本を誤って回収処分してしまった彼の贖罪でもあったわけだが、この奇妙な結び付きがサムとナオミの2冊の本を巡る冒険へと導き、そして2人の仲をより深くする。

このデイヴこそは本作の物語の導き手である。

『IT』では7人の少年少女、そして大人になった6人の男女が怪物に立ち向かったが本作で立ち向かったのは2人の男女と1人の浮浪者の老人。
キングはどうもこの仲間たちで怪物と立ち向かう話が好きなようだ。本作がその系譜に連なるとは思いもしなかった。それが本作の題名の大きな罪なのかもしれない。

長大な中編集“Four Past Midnight”の掉尾を飾るのはキングが想像した街キャッスルロックを舞台にした「サン・ドッグ」だ。

キングの創作ノートによればとうとう自身が創造した街キャッスルロックに向き合い、決着を付ける時が来たと感じ、そして本書の次に刊行する『ニードフル・シングス』でこの街の歴史に終止符を打つことになったようで、それまでに書かれていなかったキャッスルロックの住民たちのエピソードの1つとして書かれたのが本作のようだ。

15歳の誕生日に送られたポラロイドカメラで撮影すると写るのは被写体ではなく、どこかの庭の風景でそこにいる巨大な黒い犬がシャッターを押すたびにどんどん近づいてくる。
本作は極端に云えばたったそれだけの話である。

この巨大な犬は近づいていくにしたがって犬という存在から異形の獣へと変容していく様が写真に写り込んでおり-恐らく地獄の番犬ケルベロスのようなイメージ―、明らかに撮影者に襲い掛かろうとしている。
そしてその犬が写真の中で撮影者に襲い掛かった時に一体何が起きるのか?
それだけの話を延々と約280ページに亘って書くのである。

そしてこのワンアイデアに織り込んだのは町で有名な詐欺師の哀れな末路と1人の15歳の少年の精神的成長である。

本書に登場する骨董商ポップ・メリルは高利貸しも商っており、街で最も忌み嫌われた詐欺師とも呼ばれている。彼は不思議な被写体が写るポラロイドカメラを15歳の少年ケヴィン・デレヴァンから騙し取り、そういった曰く付きの品物を好きな連中、<マッドハッター>と呼ばれる心霊現象に傾倒する者達に異界が写るカメラとして売り込もうとするが、案に反して全ての顧客から断られる。
彼にとって確かに写っているのはここではないどこかで巨大な犬が徐々に迫ってくる風景なのだが、それが彼らの欲する心霊現象を表しているわけではないと驚きこそはすれ、大枚をはたいて買おうとまでは思わないのだ。

悪行は必ず報いを受けるという教訓と少年が青年へと成長する乗り越えなければならない壁、そして息子が大人になろうとしている時に父親はどう振る舞い、対処しなければならないのか、異界を写すポラロイドカメラをモチーフにそんな人生訓を盛り込んだと思った作品はそんな読者の予想、いや着陸点を裏切るようにキングならではの来たるべき恐怖を残して幕を閉じる。


中編集“Four Past Midnight”を二分冊化して刊行されたうちの後半部が本書であるのは既に述べたが、世間の評判は1冊目の『ランゴリアーズ』の方が高く、同書は97年版の『このミス』で18位にランクインしているのに対し、本書は圏外にも入っていない。
私はその題名から『ランゴリアーズ』よりも本書の方への興味が高かったが、今回読んでみて世間の評判が正しいことに残念ながら気付いてしまった。

それはやはり「図書館警察」に対して期待値が高すぎたことによるだろう。

正直に云えば図書館警察という題材から想像した物語がこんな話になるとは思わなかったのだ。もっと図書館の大切さを、必要性を絡めたホラーとなることを期待したのだが、キング特有の物語に落ち着いたのがつくづく残念でならない。

それは恐らくこの題名から私は有川浩氏の『図書館戦争』のような物語を創造してしまっていたのだと思う。
そちらは図書館を護る自衛隊のような存在、図書隊がメディア良化法という悪法を強要する同委員会が送る軍との戦いを描いた作品だが、それと同じように図書館のルールを取り締まる警察の話だと思ってしまったからだった。

もう1つは最初に主人公のサム・ピープルズが図書館を訪れた時に、図書館の雰囲気に恐怖し、一刻も離れたい場所だと称したことだ。それはつまりサイキック・バッテリーとしての建物というキングがよく用いる題材として図書館自身が恐怖の舞台であるかのように思ってしまったのも一因だ。
そこが最後まで違和感を拭えなかったのである。

次の「サン・ドッグ」を読んですぐに想起したのはキングの息子ジョー・ヒルの中編集『怪奇日和』に収録された「スナップショット」だ。
記憶を奪うポラロイドカメラを持った男が女性に付きまとう物語だが、「サン・ドッグ」は目の前にない物が写るポラロイドカメラを持った少年の話だ。

両者に共通するのはキングの妻であり、ヒルの母であるタビサがポラロイドカメラを購入したことだ。そこにそれぞれがこのカメラに対してインスピレーションを得て、ポラロイドカメラをモチーフにしながら異なる作品を描いたことに興味を覚えた。

この作品も今振り返ればキングが初期から題材にしている“意志ある機械”の怪異譚である。この異界を写すポラロイドカメラがやがて使い手の心を侵食し、そして異界から怪物を呼び出させる。しかしカメラが写し出す風景に関する逸話については触れられない。
ただ巨大な犬が近づき、やがてその犬が怪物へと変容していく様、そしてこのままいけば撮影者は間違いなく殺されるだろうことがカウントダウン的に語られる。
シンプルな話ほど怖いと云うが、それ故に色んな説明の長さが目立った。単純な話を余計なぜい肉で太らせたような作品になったのはつくづく残念である。

また以前も述べたが漫画家の荒木飛呂彦氏は熱心なキングファンで、自身のマンガでキングの作品からヒントを得たような設定が見られるが、まず「サン・ドッグ」ではクライマックスで写真の中の黒い巨大な犬がそこから這い出ようとしているモチーフは同じマンガの第4部に登場する、息子吉良吉影を写真の中からサポートする吉良吉廣を彷彿とさせる。

あと本書で見られる他作品とのリンクはまず「図書館警察」では『ミザリー』の主人公の作家ポール・シェリダンがナオミ・ヒギンズが図書館で借りる本の作家の1人の名前として登場する。

もう1つ「サン・ドッグ」はキャッスルロックが舞台とあって逆にリンクを意識的に盛り込んでいるようだ。
まずこの作品での悪役となるポップ・メリルの甥は中編「スタンド・バイ・ミー」に登場する不良のエース・メリルであり―彼がその後強盗を行い、ショーシャンク刑務所に4年服役していたことも明かされる―、更には『クージョ』の話もエピソードとして出たりもする。
しかしこのキャッスルロックも次作で幕が閉じられるとのことだ。なんだか勿体ない思いがする。

あとなぜかキングでは玉蜀黍畑が不安を掻き立てる場所として登場する。玉蜀黍畑を舞台としたアンファンテリブル物、その名もズバリの「トウモロコシ畑の子供たち」から「秘密の窓、秘密の庭」でも作中で登場する盗作疑惑の小説で登場するのが玉蜀黍畑。
そして本書「図書館警察」でもデイヴがアーデリア・ローツに誘われ、かくれんぼをして魅了されてしまうのが玉蜀黍畑だ。
それはまさに彼が踏み入ってはならない領域の入口として書かれている。

このように本書はキングの作品のモチーフや実に彼らしい恐怖の対象について描かれているのだが、こちらの勝手な先入観もあってか期待に反して特に面白みを感じなかった。いや寧ろキングの異常なまでの書き込みに途中辟易してしまった。

これからのキングは恐らくどんどん話が長くなっていくのだろう。それは創作の設定材料としてノートに書かれるメモの内容のほとんどを作品に盛り込んでいるからではないか。
私は1冊の本に登場する人物に対してこれほどまでに緻密な性格設定と生活設定を考えているのだと誇示しているかのようにも見える。しかしそれは作家として読者に語るべきではない裏方作業のことだ。
この創作の裏側まで書かれていることに興味を覚えるか、逆にそこまで語らなくてもいいのにと幻滅するかがキングのファンとしてのバロメータとも云える。
今現在の私はここまで書く必要はあるのかと疑問を覚える方なのだが、これが物語の妙味として、もしくはこれぞキングだとキング節として味わえるようになるのかが今後変わっていくのかが私のキング作品に対する評価のカギとなることだろう。

但し本書のような作品を読んだ今は本棚に並べられた各作品の分厚い背表紙を眺めながら、どれだけ私がのめり込めるのだろかと思案せずにはいられない心境なのである。


▼以下、ネタバレ感想
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図書館警察―Four Past Midnight〈2〉 (文春文庫)
スティーヴン・キング図書館警察 についてのレビュー
No.1345: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

冬の寒さがこの遣る瀬無い結末を一層身に染入らせる

ウールリッチお得意のファム・ファタール物のサスペンス。謎の美女による連続殺人事件を描いた作品だ。

被害者はそれぞれ株式仲買人に年金暮らしのホテル住まいの男、そして普通の会社員、画家に作家とそれぞれバラバラだが、殺人犯のジュリーとだけ名前の判明した女性には彼らが持つある共通項に基づいて殺害を行っている。

それぞれの被害者と謎めいた女性殺人者ジュリーとのエピソードはまさにそれ自体が短編のような読み応えで、これぞまさにウールリッチ・タッチだと存分に堪能した。

まず最初の餌食となる株式仲買人のジョン・ブリスの前に黒いドレスを身に纏った周囲の目を惹く金髪美人として登場し、スカーフをバルコニーから落としてそれを取らせて身を乗り出したところを突き落として殺害する。

次の犠牲者ミッチェルでは彼の住むホテルの部屋を予めチェックし、彼が飾る女性遍歴の写真を見て、彼の理想の女性のタイプを突き止め、赤毛の理想の女性として登場し、お酒を愉しみながら毒を盛って毒殺する。

次の一介の会社員フランク・モランは彼の5歳の子供から家族構成や家庭の情報を聞き出し、彼の妻マーガレットを偽の手紙で実家に帰らせ、その間子供の世話を頼まれた幼稚園の先生に成りすまし、彼の部屋で子供の相手をしながら、かくれんぼに参加するよう誘い込み、一度入ってしまったら外から開けないと出れない階段下の部屋に彼を閉じ込め、窒息死させる。

次の画家ファーガスンには絵のモデルとして登場し、彼が正規に手配されたモデルを断るほど見事に取り入ることに成功する。しかし夜な夜な行われるパーティーで面が割れることを恐れる綱渡りの中、ブリスの友人コーリーが現れる。彼はジュリーに逢ったことがあると思いながらも思い出せないでいると、狩りの女神ダイアナに扮した彼女は矢で彼を射ち殺す。

最後のターゲット、作家のホームズには彼の口述記録のタイピストに成りすまし、暖炉の熱でライフルの弾が暴発してお決まりの位置に据えられている書斎の椅子に座る作家に命中するよう工作するが…。

ある時は金髪の黒衣の女性、またある時は赤毛の理想の美人、またある時は赤みがかった金髪の化粧っ気のない幼稚園の先生、またある時は黒髪の画家のモデル、そしてある時は白髪交じりの髪をした中年の婦人に扮して標的となる男たちの前に姿を現す美と知性と度胸を兼ね備えた稀代の悪女ジュリー。

しかし彼女は決して自分の復讐に他者を巻き込ませようとしない。年金生活者のミッシェルを殺害した後にたまたま彼の許を訪れた彼の恋人メイベルを偽の容疑者に仕立てず、逆に自分が彼をたった今殺害したから、巻き込まれたくなかったらすぐに去るように命じる。

更にモランに近づくために息子の幼稚園の先生ミス・ベイカーに成りすまして殺害し、その後の捜査でベイカー本人が嘘のアリバイを供述したために本当に容疑者になろうとしたところを匿名の電話を警察に掛けて誤認逮捕であることを告げる。

自分の殺人に責任をもって行っている、気高さすら感じる公平さを持っている。

彼女がなぜ彼らの命を取ろうとするのか。

姿を変え、危険を承知で近づき、そして復讐を果たす。
しかし決して被害者周囲の関係のない者達には迷惑を掛けずに、時に自分が殺人を犯したことさえ話して現場から追い払い、または冤罪を掛けられそうになった者を救うために匿名で電話さえもする。

しかし周囲が振り返るほどの美貌を持ち、そして貴婦人、幼稚園の先生やタイピストなど千変万化の変身・変装ぶりを遂げるこのジュリー・キリーンという女が、殺人を犯さない間は何をしていたのか?

現在社会ではこのジュリーの犯行は計画的に見えてかなり危ない橋を渡ったもので、顔も隠していないどころか複数の目撃者もおり、逮捕されるのも時間の問題のように思えてならないだろう。

しかしウールリッチの抒情的かつ幻想的な語り口がそんな偶然性、現実性を霧散させ、まるで復讐を遂げようとするか弱き美女の死の魔法が成功する様を酔うが如く堪能するような作りになっている。

愛ゆえの女性の復讐譚である本書が女性がまだ男から軽んじられている時代に書かれたことを我々は知らなければならない。
作中でもプレイボーイの男がジュリーにあしらわれたのを根に持ち、憤慨する様に刑事は同情し、好感さえ覚える、そんな時代だ。そんな時代に女性の強さを強調した本書は母親と一緒に暮らしていた作者だからこそ書けたのだろう。
それでもこの徒労感漂わせる結末は何とも遣る瀬無い。冬の寒さが身に染みる夜だけにこの女性の虚しさが一層胸に迫った。

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黒衣の花嫁 (ハヤカワ・ミステリ文庫 10-4)
コーネル・ウールリッチ黒衣の花嫁 についてのレビュー
No.1344: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

いや、こういうの好きなんです、ホント

東野氏は実業之日本社文庫でスキー場シリーズという瀬利千晶と根津昇平がシリーズキャラとして活躍する作品を書き下ろしで出しているが、本書はスキー場を舞台にした短編集でしかも単行本で出ている。順番としては上の2人に幸せの結末が訪れる『雪煙チェイス』が本書より後に出ている。

さて開巻1発目の「ゴンドラ」はスキー場のゴンドラで繰り広げられるあってはならない苦痛のひと時を語った1編。
東野氏は『夜明けの街で』で不倫中の男を主人公にしたミステリを書いているが、本作に登場する広太もその系譜に連なる尻軽男だ。
彼女との婚約が決まった後で自分好みの女性で出逢ったらと実に心憎い演出をし、そこから案の定、婚約者に隠れて浮気を重ね、そして出張と偽って浮気相手とスノボ旅行まで行く始末。そんなところに内緒にしていた彼女となんとスキー場のゴンドラで一緒になるという地獄のようなシチュエーション。
実は私も彼女が出来、結婚を決める前に合コンに行ったことがある。それは彼女と本当に結婚していいものかという決断を下すためだった。幸いにして彼女との付き合いを解消するような女性に出逢わなかったのでそのまま結婚するに至った。それが今の嫁さんである。
とまあ、男という物は一途になれないところがあり、他の女性へと目が移り気味になるのだが、広太の前で繰り広げられる美雪の女友達との会話は女性の恐ろしさを思わせる凄みのようなものを感じた。物語の結末は何とも皮肉。

次の「リフト」は職場仲間の男女5人組のスノボ旅行の一場面が語られる。
これはいわゆる男女親しい仲間で繰り広げられる恋の鞘当て話。誰と誰が実は付き合っているがそれは秘密にされており、しかし一方その恋人は彼氏を疑っていると、男と女の勘繰り合戦が繰り広げられる。

その日田に春が訪れようとするのが次の「プロポーズ大作戦」だ。
いい人だが、なぜか結婚に縁のない日田へ春を訪れさせようと「リフト」の面々が彼のためにサプライズプロポーズ作戦を行う前作からの続編のような話になっている。
そしてこれが1作目の「ゴンドラ」とリンクする。
日田のために色々尽くす仲間たちの友情は実に心地よく、またそれが日田の人柄によるものであろうことが解る。
ああ、この報われない男日田に春は訪れるのだろうか?

日田の恋のチェレンジは次の「ゲレコン」へと続く。
「結婚できない男」日田が再び登場。今度は水城とゲレンデで開催されるゲレコンに参加することになるのだが、彼が狙った相手はなんと「ゴンドラ」で登場した広太の浮気相手、桃実だった。
そしてゲレコン中の日田の会話の冴えないこと。報われない男ではなく、その空気の読めない感は正真正銘の結婚できない男ぶりを発揮。桃実の心の声が不器用な日田には悪いが実におかしく、何度も笑い声が出た。
さて次の短編では一体どうなってる?

という想いで臨んだ次の「スキー一家」では日田の話ではなく、彼のスノボ仲間の2人、結婚した月村春紀・麻穂夫妻の話で肩透かしを食らってしまう。
スキー好きとスノボ好きが犬猿の仲、いや寧ろスキーヤーが後発のスノーボーダーを一方的に嫌っている感のあるこの関係性はよく聞く話だ。そして月村夫婦のようにスノボ好きなのに親がスキー好きで尚且つスノボを毛嫌いしているためにスノボ好きを封印しなければならないカップルは日本のどこかには本当にいるのかもしれない。
このような現状を打破すべく麻穂が企んだのはプロ級の腕前を持つ、礼儀正しいスキーヤーが実は本業はスノーボーダーだったことをスキー一辺倒の父親に見せることで凝り固まった考え方を改めさせ、そして自分たち夫婦のスノボ好きを認めさせようという作戦だった。
しかしスキー場シリーズの根津がここで登場して重要な役割を果たす東野氏のサーヴィス精神が心憎い。千晶が出なかったのは少し残念だが。

さていよいよ日田に春が訪れるのか?「プロポーズ大作戦 リベンジ」では再び日田のために水城が一肌脱ぐ。
これは上手い!題名も含めてのミスディレクションとなっている。まだ付き合ってもいない日田にプロポーズをけしかける水城の強引さに違和感を覚えたが、なるほどそういうことか。
またこの作戦に一役買うのが根津だ。月村夫妻への協力といい、広太の恋人捜索にも協力するなど、根津もまたなんとサーヴィス精神の高い男だこと。

今回の文庫化の際に収録された書下ろしの1編がこの「ニアミス」だ。
日田栄介が「結婚できない男」であるなら、もう1人の影の主人公広太は「懲りない男」だ。
本短編集の冒頭を飾る「ゴンドラ」で浮気が婚約者にバレ、「プロポーズ大作戦」で坊主頭になって詫び、そして結婚に至ったにも関わらず、結婚も10カ月が過ぎるとまたぞろ浮気の虫が起きてきて、別の女性と定期的に逢うようになる。しかも既婚者であることを明かさずに。

さて最後を飾る「ゴンドラ リプレイ」はそのタイトル通り、再び広太と桃実、そして美雪がゴンドラで鉢合わせする。
悪夢は繰り返される。この短編集の1作目の「ゴンドラ」と同じ状況が再度発生する。しかもまた違ったシチュエーションで。
広太自身の風貌はこれまで不明だったが、桃実の目から見た話ではどうもいい男らしい。逆に云えばいい男で女性が寄ってくるからこそ、自分に対して甘いのだろう、この男は。


本書は雪山を舞台にした連作短編集だが、ミステリというよりもシチュエーションコメディといった方が適切な、笑いに満ちた内容になっている。

そしてメインとなるのは日田栄介と同じホテルで働く遊び仲間水城直也、木元秋菜、月村春紀、土屋麻穂たちのエピソードと並行してリフォーム会社に勤める浮気男広太の話だ。

さてこの日田栄介という男、風貌については描写がないが、いいヤツだと皆が口を揃えて云うが、女性から見ると結婚の対象としては考えにくい存在と評される、私も含め読者の身の回りに実際のモデルが思いつく男である。

そんな彼を応援するのがプレイボーイの水城直也はじめ、後輩の月村春紀と収録作の中で彼と結婚する土屋麻穂ら、同じシティホテルで働くスノボ仲間たちだ。

そしてこの日田栄介を取り巻く面々に間接的に絡み合うように浮気男、広太のエピソードが加わる。

また忘れてならないのは各編に登場する人物が共通してスノボの愉しさを満喫していることだ。可愛い女の子と二人で滑るスノボ、職場の親しい仲間たちと滑るスノボ、ゲレンデでスノボを愉しみながらの合コンまで登場する。

そんな中で繰り広げられる各短編は非常に読みやすく、また愉しめるものばかりだ。

婚約者に隠して浮気相手とスノボ旅行に行く男が待ち受けていた意外な展開。

スノボ仲間たちのそれぞれの思惑と意外な関係。

モテない男のために仕掛けるプロポーズ大作戦の意外な結末。これは哀しい結末と幸せな結末2編が収録されている。

ゲレンデ合コン、通称ゲレコンで出逢った男女の恋の行方。

生粋のスキー好き、スノボ嫌いである結婚した相手の父親にスノボを趣味とすることを認めさせるための作戦。

ゲレンデで出逢った美人と思わぬ再会を果たし、結婚しているにも関わらず食事を一緒にする、懲りない男の話。

なかなか付き合う決意が固まらない女性が、相手と向き合うために参加したスノボ旅行で偶然にしては悪戯すぎる元カレ(?)の再会。

とこのように我々読者の周りにネタとして語られるような男女の恋愛に纏わる、どこにでもありそうな話が東野氏に掛かると非常に面白い読み物に仕上がっているのだ。

特に上手いと感じたのは浮気男の2人を登場させ、見事に対比させているところだ。

一方は広太で仕事は真面目でそんな姿勢に女性が惹きつけられるのか、案外モテるようで女性を食事に誘っても断られないタイプ。しかし脇が甘いのか、それとも運に見放されているのか、自分の浮気が原因で修羅場を引き寄せるタイプだ。

もう1人はプレイボーイの水城直也。高身長のイケメンでホテルのブライダル担当で、口も上手く、手も速い。そして飽きると捨てて次の女性に走るが、なぜか後腐れがないようだ。

そして2人の違いは広太は橋本美雪との交際を隠して浮気するのに対し、水城は自分に恋人がいることを公言しながら堂々と女を口説くこと。そして前者はそれが元で失敗し、後者は修羅場も招かない。

しかし共通しているのは自分勝手な解釈で平気で複数の女性と関係を持つことだ。広太はあれだけ手ひどい目に遭ったのにも関わらず、結婚してしまったからこそ他の女性に目が映るのは当然だとか、美雪は「結婚している女性」であり、「付き合っている女性」ではないと自分の疚しさを消し去るための苦しい言い訳をしては女性と付き合う、更に自分を正当化するためには自分には婚約者がいると云っているのに女性の方から積極的にモーション(死語?)を掛けてきて困ってしまったなどと嘯く、女性の敵とも云える男なのだ。

また水城は堂々と一緒にお泊りしようと誘うのも違いか。
広太は流れに身を任せるタイプだが、水城は流れを作るタイプだ。

そして恐らく読者のほとんどが期待していた「結婚できない男」日田栄介の結婚までの道のりは…。

しかしこの日田栄介という男。典型的な同性にはモテるが異性にはモテない男だ。いやあ、この男のダメっぷりが実に面白い。

同じ話を繰り返す芸の無さ、雰囲気や秘密を平気でぶち壊す空気が読めない感、そしてファッションセンスの無さ。仕事の時は女性が惚れ惚れするほどの洗練さを見せるのにプライベートではとことんダサい男。

この日田という男を創造した東野氏がやっぱり偉いのだ。

いや寧ろ容姿も悪くなく、仕事もできるのになぜか長らく独身な男はこの日田栄介のエピソードを読んで自らを振り返ると、自分が結婚でない理由が解るのかもしれない。

果たしてこの作品のネットでの評価はどのようなものなのかは解らないが、私は非常に楽しく読めた。
いやこういう話が私が好きなのだ。

このスキー場シリーズはスノボ好きの東野氏が集客数が減退しつつあるスキー場に少しでもお客さんが多く来るようにとそれまでスキーやスノボをやったことのない人、もしくは長らくそれらから離れている人たちにその面白さを伝えるために広い範囲の読者に読まれるよう、ミステリ色を抑え、あくまでエンタテインメントに徹し、更にキャラクター達におかしみを持たせた非常に読みやすい作品ばかりが揃っている。

その軽快さを生粋の東野ファンやミステリ好き読者がクオリティが低いだの、東野圭吾にはこんな作品ではなく、『白夜行』や『容疑者Xの献身』などの重厚な作品をもっと書いてほしい、といった原理主義的なコメントが目立つのに失望感を覚える。

逆に私はベストセラー作家であり、読者が求める東野作品が上に挙げられた作品であることを知りながらもこのような軽快なコメディミステリを著す東野氏の創作姿勢に尊敬を禁じ得ない。
東野氏は今やかつて赤川次郎氏が担った初心者が日本のミステリを読むいい窓口であり、その売り上げからも宮部みゆき氏と並ぶ日本ミステリ界の第一人者となったと云っても過言ではないだろう。
寧ろ今多くのミステリ作家が採算を取れないほどの発行部数でありながらも新作を刊行できるのは東野作品の売り上げによるところが大きいのではないか。

もはや国民的ミステリ作家となった東野氏自身がその役割を自覚しているからこそ、幅広い作風やテーマを扱って作品を著し、そして重厚な作品から軽妙なものまでを今なお出しているのではないだろうか。

とにかく本書は面白かった。上に書いたようにミステリというよりもシチュエーションコメディ的な作品集だが、そこは東野氏、ミステリ風味も加味され、サプライズも用意されているし、またスノボ愛を筆頭としたウィンタースポーツへの愛情も織り込まれている。

東野圭吾読みたいんだけど、どれから読んだらいいと訊かれたら、その人があまり本を読まない人であれば間違いなく本書を勧めたい。
本書はそれほどとっつきやすく、また思わずにやけてしまう面白さと人間模様が詰まった作品集だ。

しかし東野氏が帯で述べているように、男とはこういう生き物なのだ、とは思われたくないなぁ。


▼以下、ネタバレ感想
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恋のゴンドラ (実業之日本社文庫)
東野圭吾恋のゴンドラ についてのレビュー
No.1343: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

前作以上に007シリーズのオマージュ盛り沢山

14歳の少年スパイ、アレックス・ライダーシリーズ第2作。
今回のアレックスの任務はある実業家の息子に成りすまして、世界有数のエレクトロニクス会社々長と元KGB将軍2人の不審死の謎を探ることだ。

他人の息子に成りすまして謎多き寄宿学校に潜入するというホロヴィッツは今回もこの14歳の少年スパイという特殊設定を存分に活かしたストーリーを用意したというわけだ。

そしてエンタテインメント・ジュヴナイル小説として実に王道を行く内容でそこここに少年少女をくすぐるようなアイテムが織り込まれている。

例えば本家007同様にMI6の武器開発者のスミザーズから今回も秘密兵器がアレックスに渡される。断熱効果抜群の防弾、衝撃吸収機能を備えたスキー・スーツに赤外線暗視機能付きのスキー・ゴーグル。あとCDが電動ノコに変わって何でも切断でき、更にはSOS信号も送れるCDプレーヤー(流石にこれは時代を感じるが)に小型爆弾機能付きのピアス。そしてとどめは麻酔銃になる特装版『ハリー・ポッターと秘密の部屋』だ。

更には007の本歌取りは今回も踏襲されており、上に書いたようにアレックスが渡されるアイテムの中にスキー・スーツがある時点でお馴染みの雪山でのアクションがお約束通り繰り広げられる。スノーモービルを操る警護兵にアレックスがスキーではなく手製のスノーボードで逃げるのは現代風だ。

更にはヘリコプターで逃げるグリーフ博士も007シリーズではもはや定番と云っていいだろう。それを阻止するためにアレックスがジャンプ台を利用してスノーモービルを逃げようとするヘリコプターにぶつけて爆破するのも007のみならず多数のアクション映画で観たシーンであり、この辺りはあまりに定型的すぎるとは感じたが。

また私が感心したのは冒頭のアレックスが麻薬の売人を警察に突き出すのに彼らが麻薬製造に使っている艀を大型クレーンで吊って近くの警察署まで運ぼうとする場面で、きちんと艀の重さがクレーンのブーム長さによって決められる許容吊り荷重を越えていないと書かれている点だ。
単純にクレーンを使って艀を吊り上げて警察署まで吊り上げると云う、いわば物語の掴みの派手なシーンにおいて単純な発想に終始したものでなく、現実的に可能であることを説明している作者の姿勢には感心した。これは専門知識を知っているか、もしくはきちんと取材していないと書けない内容だ。

また007のオマージュと云えばジョーズとかオッド・ジョブやニック・ナックといった個性的な怪人が現れるが、本書ではポイントブランク・アカデミーの女性副校長エバ・シュテレンボッシュ女史がそれにあたる。なんせ女性でありながら風貌はゴリラそのもので5年連続南アフリカの重量挙げチャンピオンである怪力を誇る。つまり通常の男性は格闘では歯が立たず、アレックスもまた手も足も出ないほどに叩きのめされる。

またキャラクターと云えば主人公に仲間が増えていくのがシリーズ作品の面白さの1つであるが前作でアレックスがスパイの訓練のために入ったSASのキャンプで虐め役となったウルフが再登場する。訓練の最後ではアレックスがウルフを救ったことで2人は友情を深めることになったが彼がポイントブランク・アカデミー殲滅作戦の指揮を採る。

またアレックスのいわば目の上のタンコブ的存在のMI6局長アラン・ブラントが相変わらずスパイに対して非情な態度を示すのに対して―アレックスがSOSを送ってもしばらく様子を見ようとして、半ば見捨てるような発言をする―、秘書のジョウンズ夫人がアレックスに同情を示すようになったのが大きな変化だ。今後ジョウンズ夫人がアレックスの隠れた支援者としてどのように関わってくるのかも気になるところだ。

冒頭の麻薬売人の派手な捕物シーン、他人への成りすましのための訓練とそこで出遭ったお嬢さまとの恋愛ニアミス、そして悪の巣窟への潜入捜査、そこからの脱出に巣窟への襲撃と囚われの息子達の救出と敵たちとの戦いと殲滅。更に意外なところで再び現れた敵との戦いと頭から尻尾までぎっしりと餡子が詰まったエンタメ小説。
本当にホロヴィッツは本家007を忠実に擬えてこのアレックス・ライダーの物語を綴っている。読書好き、アクション映画好きの少年少女たちがこのアレックス・ライダーシリーズが思い出の作品になっているのかは不明だが、彼ら彼女らを愉しませようと計算して作られているのは解る。
しかしその教科書通りの展開は水準ではあるが突出した何かを残すものではないのが残念だ。

さて本書のタイトルだがPOINT BLANCというフランス語から来ており、英語のPoint Blankもこれに由来しているとのこと。意味は「至近距離からの直射」、「直撃」、「あからさまな」、「率直な」という意味のようだ。

スパイという身分を偽り、時には非情な判断を下す稼業を14歳という若さで就くことになったアレックス・ライダーがいつまでその実直さを保てるのか。死と隣り合わせのスパイという職業をカッコいいだけでなく、道具のように扱う上司もあしらうことで大人の世界の汚さも見せるこの作品はある意味思春期の少年少女達の大人への通過儀礼の意味合いもあるかもしれない。

いややはりそれは考え過ぎだろう。この明らさまなまでにエンタテインメントに徹したアレックスの活躍をただただ愉しむのが吉だ。

純なスパイ、アレックスの次回の活躍を愉しみにしていよう。


▼以下、ネタバレ感想
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ポイントブランク (集英社文庫)
No.1342: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

作家の潜在的な恐怖を暗喩したかのような作品2つ

キングの『恐怖の四季』に続く中編集。しかし1編の分量はその比ではなく、例えば1編目の「ランゴリアーズ」は425ページもあり、正直長編だ。
本書は“Four Past Midnight”と名付けられた中編4編を収めた1冊を2作ずつに分けて刊行された作品で本書はその1作目と2作目が収録されている。

まず本書のタイトルにもなっている「ランゴリアーズ」は国内線の中で睡眠から覚めると乗客の大半が消え失せてしまった奇怪事を扱った話だ。

飛行中の飛行機からほとんどの乗客が消え失せ、それだけでなく彼ら10人の乗客以外全米の人がいなくなった世界の中の話。作中にも出てくるが実際にあった有名な怪事件乗客含め、船員たちが恰もついさっきまで働き、また食事を用意中もしくは既に食べている途中の様相を呈して忽然と消え失せたマリー・セレスト号の事件を客船ではなく飛行機に置き換えたような作品になっている。

物語は飛行機の中からメイン州のバンゴア空港へと移るが、そこも無人の空港であることが判明する。つまりこの10人の乗客以外の人間が世界中から消え失せてしまったかのような様相を呈するが、乗客の1人ミステリ作家のロバート・ジェンキンズは空港にある物、マッチやサンドイッチやビールが全く使い物にならない、食べられない、気の抜けた飲み物になっていることから、自分たちこそが乗客の中から消え失せ、異次元の世界に行った人間たちなのだと推理する。

この10人の乗客がそれぞれ個性的で、物語の中心人物はアメリカン・プライドという航空会社のパイロットであるブライアン・エングルであり、彼をサポートするのは自称英国大使館員のニック・ホープウェルで彼は下級館員と云いながら、大きな取引のためにボストン行きを主張するクレイグ・トゥーミーをねじ伏せる敏捷さを持ち、コクピットの鍵のかかったドアを蹴り破る膂力の強さを見せ、更には暴力をも辞さない態度を示す謎めいた男だ。

その彼と恋に落ちるのは女性教師のローレル・スティーヴンスン。彼女は文通相手の男性に逢いに行くために休暇を取ってボストンへ向かっていた。彼女は異次元世界の異様な事態に陥ってる最中にニックに恋心を抱き、触れ合いたいと欲望を募らす恋に飢えた女性である。

アルバート・コスナーは天才ヴァイオリン少年で本格的に音楽を学ぶためにバークリー音楽院に向かう途中だった。彼は自分のヴァイオリンの才能が特別であると自覚しており、そしてそれが彼をあの少年よりも優れた人物であり、腕っぷしも強く、機転も利く万能少年として自らをエースと名乗っている。まあ、いわゆる中二病的キャラクターだが、要所要所で17歳の少年とは思えないほどの機転と知恵を発揮する。

その彼と恋仲になるのはヤク中の少女べサニー・シムズ。なんだかシンディ・ローパーを想起させるキャラだ。

ロバート・ジェンキンズはミステリファンの大会で講演するためにボストンに向かっていたミステリ作家で持ち前の推理力を発揮して、この10人の乗客が陥った異常現象の謎を解き明かし、取るべき行動を示唆する先導者的存在だ。

ボストンで目の手術をするために叔母と一緒に29便に乗ったダイナ・ベルマンは本書のキーを握る存在へとなる。

キングの作品では異常な状況に耐え切れず、そして己のルールに固執するがゆえに狂気に陥るキャラがよく登場するが、本作ではクレイグ・トゥーミーがそれ。彼は大銀行の重役だった父親によって幼少の頃からスパルタ教育で育てられた銀行の重役で常に完璧を求められていた。それ故に常にプレッシャーに晒され、そのプレッシャーを彼はランゴリアーズと名付け、恐れていた。

本書における登場人物はそれぞれに存在意義を備えているが、1人だけそこに加わらない人物がいる。それは終始睡眠中の黒髭の男だ。
但しこの人物もまた意味を持っているようにも思える。後ほど述べよう。

そして彼ら10人がなぜ異世界に紛れ込んだのか、そしてなぜこの10人なのかをミステリ作家のロバート・ジェンキンズが一つ一つ推察していく。

この“トワイライトゾーン”を思わせるB級ホラー的な設定だが、私はこの作品にかなり強い意味合いがあるように思えた。それについては後ほど詳しく述べていこう。

キングには作家物とも云うべき小説家を主人公にした作品があり、実はこの時期『ミザリー』と『ダーク・ハーフ』という長編を続けて出している。
2編目の「秘密の窓、秘密の庭」はこの系譜に連なる中編だ。

作家に纏わる、いわば有名税とも云うべき実害を盛り込みつつ、更にそれを狂気の領域まで発展させた作品だ。

本作に書かれているシチュエーションは作家にとってよくある弊害だろう。
ある日いきなり全くの赤の他人が訪れてきて、貴方は私の作品を盗んだ、正直にそれを世間に告白して私に賠償金を払ってほしい、なんていう輩はキングほどの有名な作家になれば現れてくるに違いない。

あくまで戯言だとあしらっていたが、その人物は自分がオリジナルを書いたと信じて疑わず、認めなければ危害を及ぼすぞと脅し、ペット殺しから放火、そして殺人にまで発展する。この狂えるフリークがエスカレートしていく様はキングの真骨頂とも云うべき作品だが、本作はそこに一味加えている。

それは本作がサイコスリラーであることだ。作家が生み出した人物が狂えるファンを生んだ『ミザリー』や独り歩きするペンネームの別人格が生まれる『ダーク・ハーフ』と双方を併せ持つ狂気が本作には盛り込まれている。

本作もまた当時のキングの創作に対する不安が露見したかのような作品のように捉えることができる。これについては後述しよう。

本書は上にも書いたようにキングの中編集“Four Past Midnight”に納められた4編の内、2編を収めた作品集。
しかしこの先に書かれた中編集“Different Seasons”が『恐怖の四季』として訳されているのに対し、どうして本書は原題のままなのかがよく解らない。直訳すれば「真夜中4分過ぎ」となるが、例えば『未明の悪夢四夜』なんて付けられなかったのだろうか。

本書に付された序文によれば『恐怖の四季』がそれまでに思いつくままに綴った作品を収録した物であったのに対し、本書はキングが不調で引退したと思われていた2年間に書かれたホラーであることが異なっている。

余談だが、映画『スタンド・バイ・ミー』が大ヒットした映画監督のロブ・ライナーは自分の設立したプロダクションを<キャッスルロック・プロダクション>と名付けたらしい。

また本書では各編に創作ノートが付けられているのも特徴だ。そこにはキングはそれぞれの物語の着想を得た時の状況やあるアイデアから物語が膨らみ、各編へと至った経緯が語られており、興味深い。

特に私が驚いたのはキングが「アイディア・ノート」を一切作っていないこと。
彼は良いアイディアはすぐには忘れられるものではないとし、自然消滅するようなアイディアはつまらないものだと思っている。そしてよいアイディアは折に触れ頭に浮かび上がり、次第に形になっていくものだと述べている。

「ランゴリアーズ」では旅客機の隔壁の亀裂を必死に抑え込んでいる女性のイメージが浮かび、ベッドに就いている時にその女性が亡霊であることに「気付き」、そこから物語が出来ていったそうだ。

このようなエピソードを読むとやっぱりキングは全身小説家とも云うべき常に物語が頭にある稀有な作家なのだと思い知らされる。

そんなキングが生み出した本書2編に私は作者の作家としての苦悩と恐怖を感じた。

本書の表題作である「ランゴリアーズ」。

読んでいる途中にある既視感を覚えたが、それは登場人物の推測によって確信に変わった。それは東野作品の『パラドックス13』が本書の本歌取りになっていることだ。
3月13日13時13分13秒に死に直面し、異次元の東京に飛ばされた登場人物たちは本作の、LA発ボストン行きの29便でたまたま睡眠に陥り、異世界のアメリカへと飛ばされた10人の乗客と同じである。

キングは本書を『恐怖の四季』とは異なり、全てホラーを書いたと述べた。しかし本書は確かに異世界に迷い込み、そこで発狂する人間が登場し、それによって殺人が起こるパニック・ホラーではあるが、結末は何とも清々しい。
つまりこの「ランゴリアーズ」という作品そのものがスランプを脱し、再びモダンホラーの世界に戻りながらも、それまでの作品とは違った風合いを持った作品を放つ新生キングの誕生の声高の宣言書のように読み取れるのだ。

そしてこの物語で唯一何もしない登場人物がいる。それは終始寝たままの黒髭の男だ。異世界に迷い込み、どうにかそこから生還しようと知恵を絞りながら、迫りくる脅威に怯える他の登場人物たちを尻目に彼はひたすら惰眠を貪る。登場人物の1人アルバート・コースナーは彼のように何の心配もなく眠れたらいいのにと羨望の眼差しを向ける。

これもキング自身の心情吐露のように思える。黒髭の男はいわば一般人だ。スランプで小説が書けなくなったキングが普通の人を見て、私も彼らみたいに悩まされない職業に就けばよかったと云っているかのように思える。

しかし一方次の「秘密の窓、秘密の庭」は逆に小説家という職業に付きまとう根源的な恐怖を描いている。
自分が紡ぎ、世に送り出した小説が実は今まで自分が読んだ他者の小説の影響を潜在意識下で受け、模倣、剽窃したのではないかという恐れだ。

スランプに陥り、新たな出発を誓いつつ、その一方で今から書くものは本当に自分のオリジナルなのだろうかと自らを苛むキングの姿が見えるようだ。

従ってある日知らない人が訪ねてきて、「あなた、私の作品、真似したでしょ!」と糾弾され、次第に狂っていくモート・レイニーの姿はキングの根源的な恐怖の象徴なのかもしれない。

またこの作品では映画化される予定の作品が昔の作品に類似していることから頓挫したエピソードが出てくるが、これもまた作者の実体験のように思われる。
人間が生まれてそれほど数えきれない数の物語が語られ、書かれてきた現在、完全なオリジナルの作品は皆無と云えるだろう。同じパターンの話を設定と語り口を変えてヴァリエーションを増やして生み出しているというのが現状だ。例えばこの「秘密の窓、秘密の庭」の話自体、今やそれほど驚かされる話ではない。しかしこの作品が映画化までされたのはそこに作家キングの影や彼自身が抱く潜在的な恐怖が滲み出ているからだ。

スティーヴン・キングという作家は『ミザリー』で数年後に訪れる自分の災厄を予言し、『ダーク・ハーフ』とこの「秘密の窓、秘密の庭」で作者の頭の中で生み出された人物が作者自身に襲い掛かる、超越した存在を示した。

この時期のキング作品には彼自身の創作意欲が放つエネルギーがもはや虚構に留まらず、現実世界にまで及んでいると感じさせられるほどの凄みがある。

さてこのもはや中編集と呼ぶには厚すぎる作品集の後半『図書館警察』ではどんなキングの懊悩が垣間見れるのだろうか。
もしくは全く異なる、純然たるホラー作品なのか。
本書で感じ取った作家の業を念頭に置きながら手に取ることにしよう。


▼以下、ネタバレ感想
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ランゴリアーズ (文春文庫―Four past midnight)
スティーヴン・キングランゴリアーズ についてのレビュー
No.1341: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

悪事と代償の作用反作用の法則を見せつけられた

この何とも云えない気持ち、読後感。レンデルのミステリを、物語を読むといつもそんな気持ちにさせられる。さてこの思いをどうやって言葉に綴ろうかと。

殺人衝動を持つ男フィンと独身の会計士マーティン・アーバンの話が並行して語られる本書は最初どのような方向に話が進むのか皆目見当がつかなかった。

特にフィンのパートは不気味で暗鬱である。

幼い頃にポルターガイストを発生させる、超常能力を持つ彼はその後ハシシを吸いだしてその能力を失うがそれでも不思議と常人には見えない何かを見通す能力を持っていた。しかし一方で人間らしい感情が欠けている。
彼の最初の殺人は15歳の時だ。父親を亡くして母子家庭となった自分たちを引き取って持ち家に同居させてくれた母の従妹のクイニーが最初の犠牲者だった。それはまさに思春期の少年が持つ、過干渉が鬱陶しく感じるゆえに自分の前から消し去りたいと願う誰もが一度は抱く思いを実行に移した殺人だった。
しかし普通の人間と殺人者の境は心に抱いているそんな恐ろしい願望を実行するか否かにある。それは理性がその衝動を抑え込んでいるわけだが、このフィンは冷静沈着の感情下で殺人を行う。しかもその最初の殺人を母親に見られ、それが原因で母親は精神を病んでしまう。
そしてその後もその衝動はたびたび起こり、母親は息子がどこかで殺人事件や事故死が起きると息子を疑うようになり、そしてまた狂気の世界へと旅立つのだ。

一方、マーティン・アーバンのパートは全く異なる。
会計士という堅実な仕事に就く彼は事務弁護士のエイドリアン・ヴォウチャーチと不動産鑑定士のノーマン・トレムレット2人の友人がいるが女っ気のない独身者で両親の許を毎週木曜日の夜に訪れ、夕食を食べながら父親と税金対策について議論を交わすのが習慣となっている。この全く以て普通の青年が本書の物語のメインパートとなる。

ある日彼はサッカーくじで約10万5千ポンドもの大金を当てるが、その内の5万ポンドを生活に困っている人たちに寄付することを考えつく。ただそのサッカーくじは「ポスト」紙の記者で友人のティム・セイジのアドバイスに従って買ったのが当たったものだったが、なぜか彼は友人にはそのことを知らせず、しかも誘われたパーティーをキャンセルすることで半ば絶縁状態となってしまう。

そして彼の5万ポンドを使った慈善事業は1組のインド人親子のシドニーでの手術費拠出以外は悉く裏切られてしまう。
突然見知らぬ人から大金を寄付しようと云われれば、確かに詐欺ではないかとか危険な話ではないかと疑うのが常だ。そういった状況を想定せずに自分の善意を押し付けるマーティンは少しばかり世間知らずのおぼっちゃんのようだ。
しかしこの寄付行為、つまりチャリティはイギリス人のみならずアメリカ人も積極的に行うようで、『csi:NY』でも特許で大金を手にした監察医が匿名で1万ドルを不特定多数の人々に寄付するエピソードがあった。

正直ここまでのパートは一体この話はどの方向に向かっていくのかまさに暗中模索の雰囲気があったのだが、フランチェスカという女性の登場で一気に方向性が見えてくる。

ある日彼の許に花束を届けてきた花屋の女性が現れる。届主が誰だか解らないその花束を例のインド人親子からの物だと解釈するマーティンはその花屋の女性に一目惚れしてしまう。その女性こそがフランチェスカなのだが、彼女もマーティンのことが満更でもなく、夕食の誘いに応じるが、彼女は作家のラッセル・ブラウンという夫がいることをマーティンは新聞の記事で知る。
しかしフランチェスカはラッセルとの結婚生活を解消したがっているが、彼女には1人娘のリンジイがいて容易に離婚できないので、マーティンとは彼女の都合のいい時に逢う、不倫の関係が続く。

しかしマーティンはフランチェスカをどんどん好きになり、彼女と一緒に暮すことを考え、自分の家に一緒に暮らすことを提案するが、フランチェスカは彼の狭い家では娘と一緒に暮らせないと云って断る。

この時初めて彼は2人の生活にリンジイが存在することを悟る。そしてその娘も含めた家を提供しなければ一緒になれないことに腹を立てる。
この辺りは苦笑物の自己中振りだが、ますます彼が世間知らずであることを思わせるエピソードだ。

しかし彼は思い直してフランチェスカに娘とも一緒に暮らせる家を与えるように考える。サッカーくじで当てた10万5千ポンドの残金半分をその費用に充てることを思い付く。

一方でなかなか進展しなかった慈善事業も3万5千ポンドまで費やし、あとは1万ポンドを寄付しようと考える。そして母親が今も時折様子を見に行っているかつての掃除婦リーナ・フィンに新しい住まいを提供するために寄付しようと思いつく。

しかしそう上手く行かないのがレンデルの物語だ。
この全く交じり合わないであろう2人がマーティンの母親の言葉で交錯し、そしてマーティンにフィンが関わりいくその様はまさに詰め将棋を観ているような美しさを感じた。
しかしそれはロジックの美しさに感動する類ではなく、運命の皮肉がカッチリ嵌り過ぎて怖くなる物語としての美しさだ。寒気が背中に走るほどの。

これぞレンデル。この容赦なさこそレンデルだ。
よくもまあここまで運命の皮肉という詰め将棋を思い付いたものだ。悪事が大きくなればなるほど払う代償もまた大きくなる。
悪事と代償の作用反作用の法則、もしくは等価交換の原理をまざまざと見せつけられたかのような思いがした。

最後の最後の最後までレンデルの残酷劇場は止まらない。こんな物語を読まされた後では、もはやありきたりな運命の皮肉という言葉ばかりが浮かんでしまう。
しかし私が今抱いているのはそんな5文字には収まらない何とも云えない感情なのだ。

そう、もはやこの世は純真では生きていけないのだ。強かさを備えていないと生きていけないほど世界は汚れてしまっているのだ。

新聞記者のティムが云う。
「新聞記事なんて人間が書くものさ。正真正銘の真実を伝えているわけではない」

人の書くものはその人に意思が宿る。それが公に出て、そして売れていく。
このティムの言葉の新聞記事を小説に置き換えると、レンデルの言葉そのままにならないだろうか。

これは小説さ。人間が書くものさ。正真正銘の真実を伝えているわけではない。

つまりここに書かれている悲劇は人の書いたものだから、そんなに世を悲観するのではないよと読者に向けた慰めの言葉なのではないか。

だからこそ彼女は数々の皮肉を書く。人が救われない、報われない物語を書くのは正真正銘の真実を伝えているわけではないのよ、と云いながら。

本書のタイトル『地獄の湖』は原題も“The Lake Of Darkness”とほぼそのままだ。それはつまりこの世はこの地獄の湖ばかりであるという風に取れるのである。そしてその湖こそがレンデルが覗く闇であり、描く人の闇なのだ。

たった286ページに凝縮された残酷劇場。またもレンデルにはやられてしまった。
絶版作品は無論のこと、まだ見ぬ未訳作品が将来読めることを強く望む次第だ。
年を取るとレンデル作品はかなり面白い。


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地獄の湖 (角川文庫)
ルース・レンデル地獄の湖 についてのレビュー
No.1340: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

人の心を操る者と人の心を見抜く者との闘い

キャサリン・ダンスシリーズ第4作の本書はいきなりダンスのミスで容疑者を盗り逃すシーンから始まり、その責任を負って民事部へと左遷させられるというショッキングな幕開けで始まる。

このダンス左遷の原因となった<グズマン・コネクション>の捜査と悪戯に騒ぎを起こして死傷者が発生する煽動者の事件、そしてダンスの息子と娘たちのエピソードの3つが並行して語られる。

本書の脅威は暴動、いやパニックと化した集団だ。
正気を失い、パニックとなった人々はそれが恰も大きな1つの生き物のように動き出す。しかしそれは決して秩序だったものではなく、我先にと自分の命を、安全を確保するためならば他人の命をも、文字通り踏みにじってまで助かろうとする執着心が、理性を奪い、人間から獣へと変えさせる。DNAに刻み込まれた生存本能が人を変えるのだ。

そして更に人は自分の命を脅かした存在を知るとそれを排除しようとして、いや寧ろそんな危険に目に遭わせた仕返しをしようとして、再び理性を失い、攻撃性が高まる。やらずには済ませない、子供の頃に芽生えた感情が復活し、本性がむき出しになる。

しかもそれはたった数分のことに過ぎない。人間が理性を失うのが危険を察知し、スイッチが入るのもすぐならば、そのスイッチが切れるのも、例えばパトカーの回転灯が見えた、そんなことで人は理性を取り戻し、人間性を取り戻す。この僅か数分、人間が暴徒と化すだけで多くの犠牲者が生まれる。

そして今回ダンスが対峙する敵は人間の群集心理を利用してパニックを引き起こして不特定多数の人間を死に至らしめる、一生背負う疵を負わせることに喜びを見出している者だ。本書のタイトル「煽動者」はそこから来ている。

しかもそのプランは実に巧みだ。

ナイトクラブでわざと非常口を閉鎖し、大挙する、火事だと思い込んだ避難客を閉じ込め、パニックを助長させたかと思えば、次の作家の講演会ではその事件を逆手に取り、わざと非常口を開放させた上で自ら銃を乱射して敵が入り込もうとしていると見せかけてパニックを煽る。

その有様はまさに地獄絵図。
人の荒波に揉まれた人たちは腕をあらぬ方向へ曲げられる者もいれば、人の圧力で肋骨が折れ、灰に刺さる者もいる。更に酷いのはバランスを崩して倒され、我先にと逃げようとする人々に足蹴にされ、頭蓋骨や首の骨を折られ、そのまま命を落とす者もいる。

また海近くの会場では銃を恐れ、窓を破ってわざわざ海へ飛び込み、岩礁にその身を叩きつけて絶命する者も多数現れる。

更に自分の足取りを追ってきたダンス達に捕まりそうになるとテーマパークに逃げ込み、テロリストが紛れ込んだとデマを流し、更にはTwitterなどのSNSを駆使し、更にはテレビ局や警察、その他関係各所に電話をし、パーク内外から来場客の不安を煽り、千人単位の人々をパニックに陥れ、出口に大挙させ、その群衆に紛れてまんまと逃げおおす。

最初のナイトクラブの事件では死者3人を出し、重傷者数十名を出し、次の作家の講演会では死者4名に負傷者33名を出す。
テーマパークはその場に立ち会ったダンスの機転で死者も重傷者も出さずに済ませ、負傷者が30余名出したに過ぎなかった。
自分が生み出した偽りの騒ぎで慌て慄き、自滅する人々を見て愉しむ煽動者。なんとも性根の曲がった敵だ。

しかもダンスの愛車に侵入し、彼女の身元を調べて、ダンスの捜査の進行を妨げるために彼女の恋人ジョン・ボーリングの自転車に細工して事故を引き起こそうとし、あわよくば死なそうとまで考える。

しかし世の中にはほんの些細なきっかけで大パニックに陥った史実があることも本書では紹介される。
ライブハウスやクラブハウスなどの閉鎖された場所で起きた火災が元で起きたパニックに、パーティ会場で起きてもない火事の騒ぎで70名以上の人々が亡くなった事件に、サッカーの試合会場で興奮したファンたちによる暴動では百名単位の死者が出ている。

それらは全てイベントという非日常で起きた悲劇だ。その日を、その雰囲気を楽しみに来ていたいわばハレの場が惨状に変わるパニックの恐ろしさを思い知らされる。

しかしよくよく考えるとこの犯罪は人命を奪うにしては少々奇妙に思わされる。作中でもダンスが云うように、無差別に人に危害を加えるならば、ナイトクラブでは火事に見せかけるのではなく、実際に火を付ければトレーラーで封鎖された非常口から逃げ出すことができずに客たちは灼熱地獄の中で苦しみながら更に多数の犠牲者を出したはずであるし、銃の乱射事件と見せかけながらも、その実誰一人実際には銃で撃たず、不安を煽っただけである。

つまり犯人は多数の人間を殺すことが目的ではなく、どうも騒動を起こしてパニックに陥る群衆の有様を観て悦に浸ること、もしくは自分の仕掛けで多数の人々が恐れ慄くさま、つまり操る行為を愉しんでいるだけのように思えるのだ。

ところでディーヴァーの作品には警察捜査の色んな知識がそこここに散りばめられていてそれが物語のスパイスとなっている。

例えば放火事件で一番目多い動機は保険金詐欺だが、二番目は夫の不倫相手の復讐でカッとなった妻による犯行が多いとのこと。

またキャサリン・ダンスといえばボディ・ランゲージから相手の嘘を見抜くキネシクスが専売特許だが、本書でもそれに関する色々な知識が開陳される。

例えば嘘をついていることを見抜く兆候の1つとして話すスピードがゆっくりになることが挙げられている。それは頭の中で嘘の話を作ると同時にそれまで話したことに矛盾が生じないか確認しながら話すためであるからだ。また急に声が微妙に高くなるのもその兆候の1つで、それはストレスで声帯の筋肉が固くなるためだからだとのこと。

ただリンカーン・ライムシリーズでは快刀乱麻を断つが如くダンスのキネシクスが大いに活躍するが、なぜかダンス本人が主人公のシリーズになるとほとんどこれが機能しなくなる。これがとても違和感を覚えてしまうのだ。

まず物語の冒頭で大物ギャングによる殺人事件の重要参考人として召喚した相手が実はそのギャングの手下の殺し屋で実行犯であることを見抜けずに眼前で取り逃し、それが原因で彼女は民事部に左遷させられる。

更に今回最もキネシクスのダンスが盲目になるのは自分の子供たちに対して隠し事を全く見抜けないことだ。

娘のマギーが学校の発表会で『アナと雪の女王』の主題歌“レット・イット・ゴー”を歌う大役を下りたくなった心境もそうだし―本書ではこの主題歌のタイトルがキャサリンの心を切り替えるための合言葉としてやたらと出てくる。ディーヴァーはよほどこの歌が気に入ったのかもしれない―、特に息子のウェスが友達のドニ―とつるんで各地で落書きを行うヘイトクライムを行っていることやかつての友達ラシーヴを虐めていることに気付かずにいる。ウェスは突然父親を喪ったことのショックから立ち直れず、尾を引いている一方で母親のキャサリンがジョン・ボーリングという新たな恋人を見つけ、今にも再婚しそうなことに行き場のない怒りを覚えており、それが故に“グレて”しまったのだが、キャサリンの前では普通の子ぶっており、それを見抜けないでいるのだ。

「うちの子に限って」という先入観が、またキャサリンの母親としての母性がキネシクスの目を曇らせているように書かれているが、これが何とも合点がいかないのである。

蛇足だが、本書では上に書いた『アナと雪の女王』の他にもなんと日本のマンガ『デスノート』が最高に面白いとのエピソードもあり―ただしそれは作者サイン入りの日本語版のコミックを手に入れたラシーヴをかつての友人ウェスがカツアゲするという何ともイヤなシーンで出てくるのが玉に瑕だが―、ディーヴァーも“デスノ”に嵌ったのかとニヤリとしてしまった。

さてディーヴァ―作品といえばどんでん返しが付き物だが、読者の側もそれは想定済み。

しかしディーヴァーはこなれた読者の裏の裏をかいたようだ。

以前も感想に触れたが、キャサリン・ダンスシリーズはリンカーン・ライムシリーズよりも家族や恋愛面に筆が割かれているのが特徴的だ。それはダンスが優秀な捜査官でありながら二児の母親であり、更に夫を亡くした寡婦であることが大きな理由だが、それが私にしてみれば物語のいいアクセントになっていると感じている。

FBI捜査官だった夫を亡くし、女手1つで息子と娘を育てている彼女は、ケイト・ブランシェット似の美人で一時期妻と別れたばかりの同僚のマイケル・オニールといい仲になったが、その後コンピュータ・エンジニアのジョン・ボーリングと出逢い、彼との関係が続き、再婚も時間の問題となっている。
しかしこの2人の男はお互いにその人間性を認め合いながらもダンスへの想いが時折頭に過ぎり、心を乱す。そしてダンスもまたかつて恋に落ちそうになったパートナーと今の恋人との狭間でどうにかいい人間関係を保とうと必死になる。
現代のシャーロック・ホームズ・シリーズとも呼ばれるリンカーン・ライムシリーズは彼を取り巻くキャラクターにそれぞれ特徴がありながらもこういったチームの間での感情の揺れがなく、危機または危機、どんでん返しに次ぐどんでん返しといったクリフハンガースリルとジェットコースターサスペンスにサプライズを織り交ぜた、いい意味でも悪い意味でもエンタテインメントに徹した作品である。
しかしキャサリン・ダンスシリーズも連続的に犯行を起こす犯人を追いつつもその捜査の中で家族のイベントや男女関係に揺れる心情が挟まっており、理のみならず情の部分についても触れられ、それが読み物として私にとって読み応えを感じている。正直メインのリンカーン・ライムシリーズよりもこのキャサリン・ダンスシリーズの方が最近は読むのが愉しみになっている。

またダンスがかつてミュージシャンを志した過去が明らかになる。プロの道を目指してかなりの努力をしたが、アマチュアとプロの壁を越えることができなかったため、キネシクスを学び、今に至ったとのこと。
これはまさにディーヴァ―そのものではないか。彼もまたかつてはフォークミュージシャンを目指したが、大成せず、ミステリ作家になってベストセラー作家になった。

大黒柱のリンカーン・ライムシリーズにはなかった家族や恋愛事情も加え、作者自身の過去さえもこのキャサリン・ダンスシリーズには投影されていることが上に書いたような気持ちを抱かせるようだ。

ウィキペディアによれば本書以降、キャサリン・ダンスシリーズは書かれていないようだが、私としては是非とも次作を期待したいところだ。
作家には決して書き走らず、1作1作をその年の代表作とすべき作品があるというが、リンカーン・ライムシリーズとキャサリン・ダンスシリーズがディーヴァーにとってそれに当たるだろう。
しかし前者が毎年コンスタントに書かれるものであるのに対し、このキャサリン・ダンスシリーズは2、3年に書かれるシリーズであることを考えると、彼の中でも熟成期間が長い大切なシリーズなのではないか。

本書では最後にダンスの恋愛に決着が着く。

このエンドを迎えるとシリーズも大団円を迎えたように感じるが、私は上述のように再び彼女の活躍が見たいのである。彼女のキネシクスを存分に活かしたシリーズの集大成とも云える作品にはまだ逢っていないと思っているのだから、これで終わりにはしないでほしい。

しかしそれも“レット・ヒム・ゴー”。ディーヴァーに任せるしかないのだが。


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煽動者 上 (文春文庫)
ジェフリー・ディーヴァー煽動者 についてのレビュー
No.1339: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

東野版『渡る世間は鬼ばかり』

疎遠になっている弟の妻と名乗る女性から連絡があり、夫が失踪したと知らされる。しかしその妻は積極的に夫を捜すわけではなく、本来夫がすべき親族の紹介をする手伝いをするようになる。そして自分が縁を切った金満家の矢神家に関わるうちに、次第に亡くなった母親の見知らぬ一面に接し、謎が深まっていく。

弟の妻と名乗る女性が突然現れる。
このウールリッチの諸作を思わせる展開は実情を知らなくてもその対象となる人物のことをネットなどでリサーチすれば成りすませることが可能となる昨今だからこそ妙にリアルに感じる設定だ。

そして不思議なのは夫矢神明人が失踪したのにも関わらず、積極的なのは夫の捜索ではなく、矢神家の過去や因縁を探ろうとする妻楓の存在だ。彼女は夫が相続することになっている矢神家の全財産を不在の明人に代わって宣言し、既に家族の縁を切って疎遠となっている手島伯朗をパートナーにしてどんどん矢神家の過去へ迫ろうとする。

特に殺人事件が起こるわけでもなく、失踪した異父弟の新妻のために行動し、そして少しばかり複雑な事情の自分の親族たちと向き合うという地味な話なのになんと読ませるのだろう。

その要因としてまず挙げられるのは主人公手島伯朗の親族の複雑な関係だ。手島伯朗の父一清は売れない画家で生計はほとんど妻の禎子の看護師の仕事で賄っていた。しかし彼が脳腫瘍を発症し、しばらく治療を続けていたが、間もなく死に至った。

その後は母親との2人暮らしで、彼女が働いている間は近くに住む禎子の妹順子の兼岩家に預けられるという生活をしばらく続いていた。順子は専業主婦で夫の憲三は大学で数学の教授をしていた。

そしてしばらくして禎子は病院などを経営する名家矢神家の一人息子康治に見初められ、再婚し、そして2人との間に明人という子供、即ち伯朗の異母弟が生まれるが、矢神家の当主康之介は彼を矢神家の跡取りとして育て、禎子の連れ子である伯朗にはますます見向きもしなくなる。そして彼は20歳の時に矢神姓ではなく手島姓を選び、そして矢神家とは縁を切ることにしたが、母親の禎子は伯朗が大学4年の時に実家の風呂で転倒して頭を打って湯舟で溺死してしまう。

つまり伯朗と矢神家にはもはやしがらみはないのだが、そこに明人の失踪が絡むことで彼は否応なしに明人の妻矢神楓に半ば振り回されるような形で矢神家に関わるようになる。その過程で彼は今まで知らなかった親族の一面を垣間見るのである。

複雑に入り混じった親族の、しかも矢神家という伏魔殿の如きプライド高い名家の軋轢に伯朗が惑わされる、いわば東野版『渡る世間は鬼ばかり』とも云うべき作品だ。

しかし伯朗を見下すそんな名家の人々が出てきながらも読んでいる最中はさほど不快感を抱かない。
それは矢神楓という女性の存在が際立っているからだ。美人で元JALのCAをしていた彼女は臨機応変に物事を対処する機転の持ち主(ただ真の正体は最後に明らかになるのだが)。そして自分の容貌が武器になることを理解して、男たちに媚を売って籠絡させることを全く厭わない。
十分に強かな女性なのだが、陽気かつ親しみやすさを感じる性格ゆえに嫌味を感じない。最も女性の目からは憧れの存在だった明人を独り占めした女性という敵のように映る一方で、海千山千の人物を見てきたクラブのママを務める矢神佐代からは只者ではないと感じさせる。

更に彼女が偽りの妻ではないかと疑問が頭をもたげるような事実が発覚し、それを問い質しても実に淀みなく説得力のある回答をすらすらと立石に水の如く応える頭の回転の速さ。30手前の女性で間延びした言葉遣いから相手は彼女を下に見がちだが、それも計算の内のようだ。
独身貴族で結婚願望なしの主人公手島伯朗も次第に彼女に魅かれ、彼女が他の男性と楽しく談笑しているのを見ると嫉妬し、そして彼女に頼られたいとまで思うようになる。傍から読んでて手玉に取られていくのが解っていて、笑えて来てしまう。

一方そんな彼女に翻弄される手島伯朗の人物像が次第に何とも頼りない男に見えてくる。一緒に行動するうちに楓のことが気になって仕方なくなり、笑顔を見せられたり、同情されたりすると気分が良くなり、彼女に頼られたいと思うようになる。その思いは次第にエスカレートし出し、終いには逐一行動をチェックするようになる。
弟の妻であることを半ば忘れて、自分の恋人のように彼女が他の男と仲良く談笑するのを、自分ではなく他の男性と一緒に過ごすのが我慢ならなくなってくるのだ。

機転の利く矢神楓と鈍感男の手島伯朗2人が辿る今や没落の一途を辿りつつある名家矢神家の面々と過去の因縁が謎が謎を呼ぶ展開を見せ、ページを繰る手を止まらせない。

また主人公の手島伯朗は獣医師という設定だが、本筋である失踪した異母弟の妻矢神楓の夫捜索と彼女の謎めいた様子が語られる一方で並行して伯朗の生い立ちと獣医としての日常が語られるが、後者のエピソードが実に愉しく読めた。特にペットの飼い主が連れてくる様々な動物たちに纏わるエピソードに加え、ペットを通じて憶測するペットを飼っている人間たちの私生活の話などが実にリアルで面白く、物語のアクセントになっている。
例えば珍しい猿を飼っている女性はパトロンになっている男性がいるクラブのママであることが多いとか、猿用の餌にモンキーフードなるものがあること、ミニブタを飼うとやがて80~100キロまで成長して手に負えなくなることなどといったペットトラブルあるあるに加え、また獣医は動物だけを相手にするのではなく、その飼い主とも付き合っていかなければならない、などと興味深い教訓めいた話も織り交ぜられる。
これらは取材していないと書けないリアリティがあり、『ミステリーの書き方』にも色んな事に興味を持ち続けていることが作家の秘訣だと述べていたが、今も実践しており、そしてそれが作品の幅を広げ、ベストセラー作家の地位に胡坐をかいていないことが解る。

またトリビアだが、本書の登場人物の1人、矢神家の異母弟の矢神牧雄は泰鵬大学医学部の神経生理学科で研究をしているが、この泰鵬大学、実は東野作品ではやたらとここの関係者が登場し、実はかなり微妙なリンクがあることに気付く。

しかし題名『危険なビーナス』はちょっと浅薄でピント外れな印象を受ける。題名が示すビーナスは矢神楓のことだろうが、彼女は確かに口頭では目的のためには女を武器にして籠絡させると公言したが、それでも危険な香りはしない。寧ろ彼女の魅力に主人公手島伯朗が勝手に魅了され、そして翻弄されただけなのだ。
そう、危険だったのは伯朗の惚れっぽい性格なのだ。

しかし開巻時からは思いもかけない着地点を見せつけてくれた。
まだまだ当分彼の作品の水準は下がりそうにない。まさに品質保証の東野印。ベストセラー作家として数々の読者の財布を緩ます東野作品こそ危険な魅力に満ちている。


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危険なビーナス (講談社文庫)
東野圭吾危険なビーナス についてのレビュー
No.1338: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

少年版007シリーズは忠実なる本家のパロディ…だけじゃないぞ!

2018年のミステリシーンの話題をかっさらい、年末の各詩で行われるベストランキングで第1位を総ナメにした『カササギ殺人事件』。その作者の名はアンソニー・ホロヴィッツ。その後現在に至ってまで年間ミステリランキングを制している、今や海外本格ミステリの第一人者の趣さえある。
本書はそのホロヴィッツが本邦初紹介された時の第1作目の作品であり、少年スパイ、アレックス・ライダーシリーズの第1作目である。

ホロヴィッツの特徴はかつての名探偵や名作ミステリの舞台を中心とした数々のパロディ作品が多いことで、本書もまたその例外に漏れない007シリーズの少年版とも云うべきハイテクスパイ小説になっている。
ちなみに007シリーズを大いに意識していることを示すためか、アレックスがスパイの訓練のために入隊するSAS(英国陸軍特殊部隊)で付けられる綽名はダブルオー・ゼロである。

銀行員だった叔父が交通事故で亡くなったが、その死は明らかにおかしかった。そして判明した事実は実は叔父はMI6の工作員で潜入捜査中に殺害されたことを知らされる。弱冠14歳のアレックス・ライダーはその叔父の後釜として若きスパイとして育てられる。

そして叔父を消したコンピュータ会社セイル・エンタープライズを経営する大富豪ヘロッド・セイルが自社で開発した最新鋭コンピュータ、ストームブレイカーの全英の中学校を対象にした無料配布の影に隠れた野望を暴き、阻止するのが与えられた任務だ。

例えかつて凄腕の工作員だった叔父から将来のために鍛えられていた14歳の中学生がMI6のスパイになるとは実に荒唐無稽な話で、これは児童向けの娯楽小説として読むのが正しいだろう。

そしてホロヴィッツはそれを意識して色んな仕掛けを施している。それはさながらスパイ映画を観ているかのような映像的演出に溢れている。

例えば007のQに当たるスパイの秘密道具を開発するスミザーズという技術者が登場する。アレックスに与える秘密道具は特別なナイロンの紐が出てモーターによって巻き取ることの出来るヨーヨーであり、ニキビ治療用のスキンクリームに見せかけた金属溶解剤にニンテンドーならぬブリテンドーのゲームボーイではなく、プレイパームでゲームソフトを入れ替えると通信機器になったり、X線カメラや集音マイクに盗聴機器に発煙装置になったりすると子供が好きそうなアイテムが登場する。

またこれも潜入捜査のお約束で敵の本拠地は個人の軍隊とも云うべき武装集団によって護られているかと思えば、敵の自宅には大きな水槽があり、そこには巨大なカツオノエボシという毒クラゲが泳いでいる―確かにスパイ映画の悪党にはなぜか巨大水槽が付き物だ―。

また潜入捜査中にクォッド・バイクに乗った警備員に追いかけられるシーンもあり、007シリーズの映画を観たことがある人ならばすぐに映像が浮かぶほど、本家のストーリー展開に実に忠実に物語は運ぶ。

とはいえ、ホロヴィッツは単なる勧善懲悪物にしていなく、例えばアレックスが叔父の跡を継いでスパイになるのも自ら望んでではなく、唯一の肉親を喪って天涯孤独の身となったアレックスにMI6の特殊作戦局長アラン・ブラント、即ち叔父イアンの上司はそうせざるを得ない条件を突きつける。

ライダー家の家政婦でアレックスの身の回りの世話をしているジャック・スターブライト―ちなみに彼女は女性である―をビザの有効期限が切れると同時にアメリカに強制送還させ、家も売り払い、児童養護施設に入れると脅すのである。

つまり正義の側は時刻を脅威から救う任務を追いながらも必ずしも清廉潔白ではないこと、また悪の側にもそれを実行するための背景が織り込まれており、単純な二極分化するような構造としていない。

このヤッセンのようなキャラクターは例えるならば『機動戦士ガンダム』のシャア・アズナブルのような存在でクールで危険な雰囲気を纏った人物であり、押しなべて少年少女の人気を掴むのが常で、調べてみるとこのヤッセンを主人公にしたスピンオフ作品まで書かれているようだ。

但し少年少女向け娯楽小説であることを意識してホロヴィッツはこのアレックス・ライダーとヘロッド・セイルの境遇を同一化して、その心の持ちようで人生が変わることを示している。

実はアレックスもまた何不自由なく育てられたわけではない。叔父イアンは小さい頃からアレックスを一流のスパイにするためにありとあらゆる訓練を施していたし、彼をスパイとして引き入れるMI6も苛酷な条件を突きつければ、SASでの入隊訓練で彼は周囲の大人の退院達、特にウルフと呼ばれる隊員から様々な嫌がらせを受ける。最たるものは弱冠14歳の少年に全英の危機から国を救えと任務を与えるMI6の無茶ぶりだ。

しかしアレックスは時折減らず口と愚痴を交えながら、どうにか状況を打破しようとする。一方ヘロッド・セイルは蓄えた巨万の富で壮大な仕返しを行おうとし、それをアレックスによって阻止されるのだ。

つまりこれから君たちは人生において様々な困難や逆境に出遭うだろうが、セイルのように捻じ曲がるのではなく、アレックスのようにどんな苦難にも立ち向かってほしいとホロヴィッツは述べているのだ。

このメッセージ性こそ美女と拳銃に彩られた娯楽物の本家007シリーズとこのシリーズの大きな違いではないだろうか。

しかしそれはこのように本書の感想を書く時に物語を振り返ってみて気付くことだろう。本書を読んでいる最中はただただアレックスの冒険に没入して読むだけでいい。

確かに眉を顰めるような御都合主義的な展開もある。それはたかが14歳の小僧だと敵が見くびった結果と捉えて看過すべきだろう。

先にも書いたが14歳の英国スパイという荒唐無稽さゆえに上に挙げたような瑕疵も見られるが、このシリーズは2011年まで書かれており、全9作のシリーズとして完結したが、日本では6作目の『アークエンジェル』までで訳出は止まっている。

昨年の『カササギ殺人事件』の高評価に続き、今年出版された『メインテーマは殺人』が続けて好評であればもしかしたらシリーズの続きが訳出されるかもしれないがそれはそれ。

まずはホロヴィッツ初紹介となったこのシリーズを読んで彼の作品に馴染んでいこう。


▼以下、ネタバレ感想
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ストームブレイカー (集英社文庫)
No.1337: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

異常“気性”な人々

ジョー・ヒルの久々の作品集。
各編ページ以上のボリュームがある中編であり、4編が収録されているが、総ページ数730ページと実に分厚い。従って各編にヒル独特の世界観が濃厚に盛り込まれていると期待して巻を開いた。

最初を飾る「スナップショット」は1988年が舞台のある奇妙なカメラを巡る話だ。
昔写真機が出て間もない頃、まことしやかに写真に写されると魂が盗られると云われていたと聞くが、この作品もそんな噂話から生まれたのではないように思える。
フェニキア文字を刻んだタトゥーを両腕に施した男が持っていた“ソラリド”と聞いたことのないブランドが銘記されたポラロイドカメラはそれで写真を撮られた時に浮かんだ人の記憶が写真に吸い取られる災いのカメラだった。その人のある人に対する記憶が写真に“撮られる”ことで“盗られる”のだ。

デジタルカメラが生まれ、そしてカメラ付き携帯電話が生まれ、そして今スマートフォンで写真を撮り、ウェブサイトにアップする我々。それは“その時”を記憶だけでなく記録に留め、そして半ば自己顕示欲を混在させて世界に向けて発信させたいがために行っている。

しかしこのソラリドというポラロイドカメラは撮られることで記憶が無くなるのだ。記録は写真のみに留まり、その人の記憶からは消し去られる。

ポラロイドカメラというツールを使って認知症の老人が日々物事を忘れ、老いさらばえていく哀しさと消したい記憶を持つ男と記憶を残したいのに奪われる恐怖と哀しさを描いた本作はジョー・ヒルらしい切なさに満ち溢れた好編だ。

次の「こめられた銃弾」は本書で最長の物語だ。
何とも救われない話だ。

妻への家庭内暴力を振るった廉で差し止め命令が下され、妻と我が子と連絡を取ることと150メートル圏内に近づくことを禁じられていた警官志願の警備員が宝石店で起きた痴情絡みの殺人事件で、誤って人質を殺害したのにも関わらず、そしてそれを目撃した人間をも射殺したにも関わらず、一躍市井の英雄に祭り上げられる。

彼は湾岸戦争に従軍し、その後警官になろうとしたが選考から落ちて警備員に落ち着いた男。彼は白人でその時マイノリティ問題で警察が白人よりも黒人をはじめとする有色人種の国民を積極的に警察官に採用していた時期で、その余波を受け彼は落選した、と思っている。

それだけではなく、黒人であるだけで蔑み、そして虐げられる人々と白人との間にある深い溝が物語の根底にはある。

更に本作で頻りに飛び交うのは銃だ。誰もが銃を欲しがり、そしていつか憎たらしい相手にそれをぶっ放すことを夢見ている。そして銃がないと不安を感じて仕方がない。もはや銃なしで生きることに恐怖を覚えるようになったアメリカ人の病理がここには描かれている。

題名の「こめられた銃弾」とは即ちこのサイコパスがいつも抱えながらも社会生活を送るために忍耐強く秘匿していた殺戮への渇望を表している。しかし何とも報われない話だ。

さて次の「雲島」はファンタジーとセンチメンタルを孕んだ一品。
雲の中に現れた雲で出来た島。思わず不時着してしまった男オーブリー・グリフィンが孤独の中でバンド仲間の女性ハリエットとジューンとの出逢い、評判が良くなり、忙しくなる中、やがて恋い焦がれるようになったハリエットとの関係、そして亡きジューンが遺したアドバイスなどが断片的に語られる。それはまさに青春と呼ぶべき青さと若さと純粋さに満ちている。

そして物語の焦点はやがて雲島の正体とオーブリーがどうやってそこから脱出するかへと向かう。孤独なオーブリーの前に現れる雲で出来たハリエットは彼が望んだことをしてくれ、そして彼のことを気にかけてくれるが、それでもそれは本物のハリエットではない。

奇妙な漂流譚に若いバンド仲間の青春グラフィティを絡めるとは、ジョー・ヒルならではの発想だ。

最後の一編はまたもや怪異現象を扱った「棘の雨」。
タイトルが示すように突然棘が降る雨に見舞われたアメリカをデンヴァーに住むレズビアンのハニーサックル・スペックという女性の視点で描いた作品。

いきなり降ってきたのはただの雨ではなく棘の雨。主人公の女性ハニーサックル・スペックはレズビアンでその日彼女のヨランダが引っ越してくる記念すべき日だったが、その最愛の恋人は目の前で棘の雨に打たれ、亡くなってしまう。

そして彼女を送りに来た彼女の母親も同様に亡くなり、主人公は連絡の取れない彼女の父親に妻と娘の死を伝えるのと同時に安否を確認するため、デンヴァーへと旅立つ。その旅路で彼女は色んな人と出会い、そして別れる。

棘の雨に打たれて虫の息の愛猫を抱えて泣き叫ぶ総合格闘家マーク・デスポット。ハニーサックルは彼の代わりに愛猫の首を捻って安楽死させるが、彼の怒りを買ってしまう。

その後なぜか彼女をつけ狙う新興宗教<七次元のキリスト教会>の信者たちに襲われる。彼らは教祖エルダー・ベントが今回の雨のことを予言したこと、雨が降ることを知っていたのをハニーサックルがFBIに報せに行こうとしていると思い込み、それを阻止しようと彼女を付けていたのだった。しかしその窮地に先ほどのマークが現れ、彼らを一網打尽にする。

ハニーサックルが次に出逢ったのは大家を殺した囚人ティーズデイル。彼は亡くなった人々を乗せたトラクターに警官と同乗し、処分場へ着いた途端に隙を見せた警官を襲い、トラクターを強奪して逃走する。自由を掴むために。

しかし人間とは不可解な生き物ではある。
災害に巻き込まれた家畜の安否を気遣いながら、それを牛肉や豚肉、鶏肉を食べながらテレビで観るような矛盾を平気で行うからだ。このアーシュラの行いは自分がしたことで起こりうる無垢な人間の死には心を痛めるが、一方でアメリカ人全てを一つの悪として罰を与える断固たる決意を持ち、そして息子のシッターを頼んでいた隣人のハニーサックルが恋人の父親の許を訪ねに旅立つのを見て、自分の行為がFBIに発覚するのではないかと恐れ、新興宗教の信者に襲わせようとするのだ。
寧ろこれが人間の不可解さであることを逆に理解させてくれるアーシュラの行動原理だとも取れる。

雨が我々の生活を脅かし、そして死者まで出る。この棘の雨が降ることでアメリカ人が出くわす光景はさながら今我々日本人が出くわした台風19号、そして追い打ちをかけるように襲った豪雨によって被災した人々の境遇を想起させる。
彼らはお互いに助け合い、また時にこの非常時に便乗して罪を犯そうとする、もしくは平時では隠していた感情を爆発させ、本能の赴くままに行動する。気に食わない輩を殺そうとし、金品を奪おうとする。また困難に乗じて台頭しようとする宗教家が出てくる。少しでも平穏というバランスが崩れるとそこに本性が現れる。それはもはや少しばかりの理性を残した獣なのだ。
そして主人公のハニーサックルもまた人間として清廉潔白であろうとしない。自分の身を守るために彼女は相手を傷つけることを厭わない。殺すまでのことはしないが、後で自分を追ってこないよう戒めを施すまではする。
やったらやり返す。やられる前にやる。
ハニーサックルはデンヴァーまでの旅路で人の優しさと人の理不尽さの両方を知り、そして生きるためには容赦しないことを学んだのだ。

先に書いた台風被害の被災者たちの振る舞いを考えるとこの始末の付け方は隔世の違いを感じる。やはり我々は日本人であり、彼らはアメリカ人なのだ。そう、これがアメリカなのだ。


元々私は本邦初紹介となった短編集『21世紀の幽霊たち』に魅せられてヒルの読者になったが、その後訳出された長編はいずれもさほど高い評価が得られておらず、『このミス』のランキング外であった。

そして本書は好評価を得た『21世紀の幽霊たち』以来の中編集。ヒルの本領は長編よりも短編や中編にあると思い、そんな期待を込めて読んだ。

そのカメラで写真を撮られた人はその写真に写った人の記憶を無くすポラロイドカメラ、“ソラリド”に纏わる話を描いた「スナップショット」。

湾岸戦争帰りのサイコパスが出くわした事件で犠牲者を最小限に留めたとして英雄として祭り上げられ、その真相を探る地方紙記者の話「こめられた銃弾」。

ひょんなことで雲で出来た島に独り取り残された男が、もう1人のバンド仲間で恋をしてしまったハリエットとの関係を、バンド仲間のジューンが亡くなるまでの足取りを回想する「雲島」。

棘の雨により多数の死傷者を出す大惨事になったアメリカで引っ越して来た恋人とその母親が棘の雨によって亡くなったことを彼女の父親に伝えに行くレズビアンの女性ハニーサックル・スペックが遭遇する人々との出逢いと別れ、そして棘の雨の真相までを描いた「棘の雨」。

怪異譚、悲劇、青春恋物語にロードノヴェル。種類は違えどそのどれもにジョー・ヒルならではのテイストが満ちている。

被写体にカメラを向けるとそこには被写体ではなく、別の人物が写るがその人物の記憶が被写体から取り除かれるポラロイド・カメラに空に存在する雲島、そして突然降ってきて無数の死傷者を出した棘の雨。それら奇想のアイデアを用いてヒルは人間ドラマを紡ぐ。ありもしない、起こりもしない道具や現象に出くわした時の人の心の在り様を丹念に描く。だからヒルの小説は文章量も多く、そして長くなるのだ。

邦題『怪奇日和』は正確ではない。本書に書かれているのは怪異ではあるが怪奇ではないからだ。
各編に織り込まれるのは人の心の奇妙さ、生々しいまでの人間たちの本音。他者を犠牲にしてまでも自分を守ろうとする、もしくは自分勝手な理屈で他者を攻撃する人々の姿や心情だ。

原題は“Strange Weather”、即ち『異常気象』だ。
そう、ここに書かれているのは人々の異常“気性”なのだ。
ヒルはこれまでの作品で我々が心の中で、奥底で抱いている不平不満、本音を我々読者に曝け出してきた。それらはあまりにストレート過ぎるので時々目を背けたくなる。なぜならそこにある意味“自分”を見出してしまうからだ。

常日頃は仮面を被って隠している本心が非日常へと誘う出来事に直面することで仮面が外れ、剥き出しの自分が零れ出す。

例えば「スナップショット」では記憶を消去されるポラロイドカメラによって痴呆症のようになっていく妻のサポートを面倒見切れなくなった夫の嘆きが出てくる。その夫は妻を世界中の誰よりも愛して止まないが、愛だけでは克服できない限界を悟らされ、涙する。

「こめられた銃弾」は、もう人間の生々しい本性のオンパレードだ。
自分のミスで誤った黒人の容疑者を撃ち殺してしまった白人警官はあらゆる言い訳で自らの行為を正当化する。黒人への嫌悪を隠さず、彼らが対等に振る舞うことはおろか、過ちを犯した自分の行為を暴こうとする憎き存在として侮蔑し、嫌悪するサイコパスが出るかと思えば、街の警察署長は有色人種差別の中傷被害を免れるため、一般の黒人を警官と偽らせて積極的に多様な人種から警察官を採用しているかのように振る舞う。

「雲島」では仲間からやがて異性と意識する男女混成バンドのメンバー間のすれ違いが描かれる。まあ、これは典型的だけど、やっぱり男女の間は友情だけに留まらなくなってくる展開は痛々しいものがある。

そして「棘の雨」は未体験の災害に見舞われたアメリカ人の姿とそんな危機的状況で露呈する本性にレズビアンの主人公が出くわす。

本書におけるベストは該当作品無しだ。どれもがどこか哀しく、清々しさがないためだ。但しどの作品もなにがしか心に残るものはあるが、それらは喪失感であり、虚無感である。そんな感情が心の中を揺蕩う。

このモヤモヤとした心の中に留まるどんよりとした重い雲のような感慨を素直に文章にするのは何とも難しい。深い霧の中で一片のメモを見つけるような感じだ。
本書の感想を的確に示す晴れ間までしばらく時間がかかりそうだ。



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怪奇日和 (ハーパーBOOKS)
ジョー・ヒル怪奇日和 についてのレビュー
No.1336: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

さようならの裏側

2017年3月に第1作を手に取り、2年7カ月を経てようやくここまで辿り着いた。
しかしその道のりは長いなんて全然思わなかった。なぜならこのシリーズはそのどれもが私に最高の読書体験をもたらし、そして読み終わるとすぐに次の作品を手に取らさせたからだ。

今回ボッシュが追うのは2つの事件。1つは免許再取得によって再開させた私立探偵稼業において、大富豪のホイットニー・ヴァンスから若き頃に別れることになった大学食堂の女性との間に生まれたと思われる子供の正体と行方を捜す依頼。

もう1つは嘱託の刑事として勤務するサンフェルナンド署の未解決事件、<網戸切り>と名付けられた連続レイプ犯を追う事件だ。

コナリーはこの2つの話を実にバランスよく配分して物語を推し進める。
これら2つの話はよくあるミステリのように意外な共通点があるわけではなく、平衡状態、つまり全く別の物語として進むが、コナリーは決してそれら2つの話に不均衡さを持たせない。どちらも同じ密度と濃度で語り、読者を牽引する。
そう、本書はボッシュの私立探偵小説と警察小説を同時に味わうことができる、非常に贅沢な作りになっているのだ。

さて、まず私立探偵のパートではチャンドラーへのオマージュが最初からプンプン匂う。それもそのはずで本書の原題“The Wrong Side Of Goodbye”そのものがチャンドラーの『長いお別れ』、原題“The Long Goodbye”へのオマージュが明確であり、大金持ちの家への訪問とこれまたフィリップ・マーロウの長編第1作『大いなる眠り』を髣髴とさせる導入部。

その富豪の依頼は親によって別れさせられた、かつて愛した女性が宿した自分の子供探し。この内容だけがチャンドラーには沿っていないが、私立探偵小説としては実に魅力的な内容だ。

そしてこの1950年に別れた女性の足跡を辿る、つまり約70年も前の過去の足取りを、それまで培ってきた未解決事件捜査のノウハウと刑事の直感で切れそうな糸を慎重に手繰り寄せるように一つ一つ辿っていくボッシュの捜査はなかなかにスリリングで、しかも人生の綾をじっくりと味わわせる旨味に満ちている。

一方連続レイプ犯<網戸切り>を追う警察パートもまたこれに勝るとも劣らない。事件の捜査の歩みは遅いが、レイプ未遂の事件が起きるとそこからの展開は警察捜査と犯人の不可解な行動から推測される現場に残された手掛かりを辿るきめ細やかさはボッシュが閃きと優れた洞察力を持った一流の刑事であることを示すに十分な内容だ。

そして同僚のベラの消息が不明になった後の怒濤の展開はまさにコナリーならではの疾走感に満ちている。

また一方でボッシュは非常勤の嘱託刑事という立場とロス市警を訴え、賠償金を勝ち取った、いわば売国奴的な目で警察官たちに見られている四面楚歌状態にある。特に署の内務のトップであるトレヴィーノはボッシュが公務ではなく私立探偵の立場で警察の施設を、データを利用していないかとボッシュがボロを出すところを虎視眈々と狙っている。

しかしボッシュはそれまでの経験と直感で自ら周囲の尊敬を得て、サンフェルナンド署の正規雇用の警官として雇われるまでになる。

そして大富豪ヴァンスの隠し子の捜索も紆余曲折を経てようやく血の繋がった孫に辿り着く。
ヴァンスと別れた後、シングルマザー用の養護施設で自分の子供を産みながらも、養子に出さなければならない苦痛から自ら命を絶ったビビアナ。

その息子ドミニク・サンタネロはボッシュ自身も従軍したヴェトナム戦争で戦死し、既にその存在はない。そんな絶望の中で彼のカメラの中に納まっていた写真から彼に未婚の子がいることが判明。

そう、これは血の物語なのだ。それについてはまた後で述べよう。

ボッシュが関わった2つの事件に共通点があるとすればそれは報われなさによる感情の歪みが起こした犯行だろう。

人は長い間、何かを抱えて生きている。それはまたボッシュもまた同じだ。
今回探していた人物が自身と同じヴェトナム戦争に従軍し、もしかしたら同じ船に乗っていたかもしれない奇妙な繋がりをボッシュは感じる。そして彼の思いはヴェトナム戦争へと向いていく。

息子ドミニクが鉄鋼王で航空産業も手掛けていたヴァンスの会社が製作に関わったヘリコプターによって墜落死した運命の皮肉。

戦場の現実から逃避するために自身もまたトールキンの『指輪物語』を読んでいたこと。

悪天候にも関わらず、慰安に訪れたジャズプレイヤーの粋な計らいと数年後そのうちの一人と再会した時の胸温まるエピソード。

一方トンネル兵士として敵を斃すため、匂いで悟られぬようアメリカ人の食事ではなく、ヴェトナム料理を食べて体臭を敵と同じにしてきたこと。それがゆえにヴェトナム料理が食べられなくなったこと。

そんな過去を抱えてボッシュはそれでもなお犯行を起こす側でなく、犯罪者を捕まえる側にいる。その理由は彼が最後に述べる。それについては後述しよう。

さてヴァンスの忘れ形見を巡る物語は血縁のビビアナ・ベラクルス発見後、ヴァンスの遺産を狙う会社重役連中から彼女を守るためにボッシュはミッキー・ハラーと組み、追手を出し抜いてDNA鑑定、遺言状の保管を行う一方、ヴァンスの死の真相を突き止め、犯人逮捕の引導まで行う。

よくよく考えると本書は警察小説に私立探偵小説だけでなく、これにリーガルミステリも加わった、1粒で3度美味しい、非常に豪勢な作品ではないか。

彼が最後に同僚のベラ・ルルデスを鼓舞するように話す、自身の血に刻まれた警官というDNA。
やはりこのヒエロニムス・ボッシュことハリー・ボッシュは全身刑事なのだという想いを強くした。

彼は我々とは訣別しなかった。
原題“Wrong Side Of Goodbye”。
それは物語のエピローグに登場するヴァンスの忘れ形見で彫刻家のビビアナ・ベラクルスの作品のタイトル『グッドバイの反対側』でもある―しかしこの訳はどうにかならなかったのか。私なら『さようならの裏側』と付けるのだが―。この訳に従えばそれは別れではなく出逢いを意味する。

しかしもう1つ考えられるのは“Born on the wrong side of the blanket”で「非嫡出子として生まれる」という意味があり、それは即ちホイットニー・ヴァンスとビビアナ・デュアルテとの間に生まれたドミニク・サンタネロとその子供ビビアナたちを意味する。
色んな意味を含んだ、言葉の匠コナリーらしいタイトルだ。


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訣別(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリー訣別 についてのレビュー
No.1335: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(3pt)

作家殺しの作品

作者森氏の日常と心情と思考が最も反映された作品集といっても過言では無い、水柿助教授シリーズ。本書はその第2弾に当たる。
本書では水柿助教授がミステリィ作家としてデビューする顛末を描いている。

1話目「「まだ続くのか?」「命ある限り(高笑)」的な悪ふざけからいかにしてミステリィに手を染めたのか着メロを鳴らす」は作者≒水柿助教授が小説を書くに至った経緯が語られている。

それは珍しく水柿氏の札幌で行われる学会に奥さんの須磨子氏が同行することになり、そこで須磨子氏が持ってきた本がミステリィだったことから2人でミステリ談義が始まる。正直この作品は2人のミステリに関するやり取りで構成されており、札幌出張はそれがなされるための舞台装置に過ぎない。従って札幌の描写や2人の札幌行に関するエピソードは皆無に等しい。

2人の会話で交わされるミステリについては有名なものであり、例えば須磨子氏が持参したミステリィはクレーンの単語1つで赤川次郎氏の『三毛猫ホームズの推理』であることが解るし、その他エラリイ・クイーンの『チャイナ橙の謎』や法月綸太郎氏の『密閉教室』も出てくる。

また物理的謎と心理的謎、物理的解決と心理的解決といったミステリ区分について語られたり、またミステリィとは納得の度合いが大きいオチ、更に意外性がありつつもこれはなかなか盲点だったと読者を感心させる絶妙な匙加減が必要であると云った記述は単なるトリックやロジックの展覧会に興じる素人ミステリィ作家に是非とも読んでもらいたい件である。

そして妻須磨子氏にほだされて水柿氏は小説を書くことになる。これが作家水柿氏(森氏?)の第一歩になるようだ。

しかし本書で出てくる単語「着メロ」はさすがに時代を感じてしまった。今はもうこんな風には呼ばないもんな。

さて続く第2話「いよいよやってきた人生の転機を脳天気に乗り越えるやいなやラットのごとく駆け出してだからそれは脱兎でしょうが」では第1話からの続きで水柿助教授が本格的にミステリィを創作を始める話。

うーん、まさに森氏デビュー実録といった内容だ。まず森氏≒水柿君の世間知らずぶりが物凄い。

原稿用紙〇枚という募集要項に対して、この原稿用紙の定義が解らないと来ている。また工学部助教授であり、それまでいくつか専門書を発表していたので出版に関しては経験済みであったが、その弊害で原稿は全て横書き。しかし水柿君は横書きのまま出版社にファイルして送りつけるのだ。

そんな自由な間口を開いたのが本書でK談社と称される講談社。そしてその雑誌こそはメフィストだ。この自由度の高さが稀代の作家森氏を生み出すことになったのだ。
天才は普通のことができない。
だったらそれをこっちで補ってやろうではないか、このスタンスがその後も話題の作家を生み出す要因となったのだろう。

また本作で興味深く読んだのが出版社独特の文化だ。彼らの云う締切はかなりタイトな物ばかりだが、それは締切通りに原稿が収められないことが多々あるためのサバを読んでいるためだ。逆に締切をきっちり守っていると暇人だとみなされるとのこと―この辺は作者のジョークかも―。

この前読んだ井上夢人氏の『おかしな二人』ではかなり無理を強いられた締切に追われたためにコンビ解消に至った彼らがこのような慣習をもっと前に知っていたらまた結果は違ったものになっただろうと思うと何とも哀しい。
いやはや出版社とは作家を食い物にする企業であると少し憤りを感じたエピソードである。

今回面白かったのは「滝に打たれたかのようなショック」についての記述。いやまさか滝という人にホームランを打たれたショックと置き換えるとはね。思わず笑ってしまった。

さて今回の収穫は水柿君のフルネームが水柿小次郎であることが判明したこと。これって今作が初紹介だと思うのだけど。

さて続く「小説家として世界に羽ばたくといって本当に羽ばたいていたら変な人になってしまうこの不思議な業界の提供でお送りします」では物語はほとんどないといっていいだろう。

中身は作者森氏が小説のネタとして浮かびながらもボツとなった話が2つほど挿入されているが、ボツにするだけあって大したものではない。

今回最も興味を惹いたのは小説家以前の水柿夫妻の生活の模様だ。趣味にお金を惜しみなく費やす水柿君を尻目に須磨子さんは欲しい服も買わず、気に入った服を見かけたらそれを凝視して記憶し、家に帰って自分で縫製して出来得る限り再現して拵えてきたのだった。更には奥様連中で買い物に行った際に途中で喫茶店に寄ろうものならば、用事があるからと断って切り上げなければならなかった。更に水柿君は家計簿をエクセルで付けてていて、消費傾向を折れ線グラフで示して、増加傾向にある項目について須磨子さんにもっと節約するように促す。しかもその中には水柿君自身の趣味に使う費用は含まれていないのだ。

まあ、何とも献身的な妻ではないか。それまでの須磨子さんは自由奔放で思ったことをそのまま夫に云うだけの天然キャラとしか描かれていなかったが実は陰で夫に尽くしていたことが本作で明かされる。天然奥様を持った、どんな失礼や無理難題を云われても決して怒らないニュートラルな夫として描かれていた水柿君のあまりのマイペースぶりにそれまでの印象を変えさせられるエピソードだ。
婦唱夫随ならぬ夫唱婦随だったのね。おっ、これってある意味叙述トリックなのかも。

次の「サインコサインタンジェント マッドサイエンティストサンタクロース コモエスタアカサカサントワマミー」では(しかしタイトルはますます意味不明になってきているな)小説家となった水柿君に初めて講演とサイン会の依頼が来る。しかも場所は京都。そしてこの京都行にまたもや須磨子さんが同行することになる。大学助教授で講演はお手の物と思っていた水柿君はしかしいつも行っている講義とは異なる熱量に圧倒される。そしてまだまだ新人作家の自分にはそれほどサインを求める人はいないだろうと高を括っているとなんと講演出席者のほとんどの人々が列をなして待っているのに更に驚く。そして水柿君ははたと気付く。作家用のサインなど準備していなかったことに。どうする、水柿君!?

一市民がプロの作家になったことで次から次へと訪れる初体験のエピソードを実に忠実になぞって描かれている。本作では講演とサイン会がメインのテーマであるが、大学で行う講義では約1/3の人間が寝ており、起きている学生も眠たいのを我慢して死んだ目をしているのがほとんどで真面目に聴いているのは全体の1割程度であることを経験してきた水柿君にとって出席者の大半が熱心に自分の講演に聴き入っていることにまず驚く。

更にサイン会ではそれまで色紙や自著にサインなどしたことがない水柿君が初めてそれなりのサインを書くことを真剣に考える。
彼が思い付いたアイデアは相手の名前と日付、そしてトレードマーク的に羽根のイラストを添えることだった。正直云って前段はサイン会の常識だが世間知らずの水柿君はそんなことも知らなかった。またサイン会に須磨子さんの姉妹も訪れるというあるある的エピソードも織り込まれる。

水柿君は大学の講義でOHP(今ならパワポだろう。この辺歴史を感じる)を使っているので今回の講演でもOHPを作成して講演するのだが、逆にOHPなしで講義すると相手の顔を見なければならないので敢えて使っているらしく、研究者の中には結婚披露宴のスピーチをOHPを使ってやったのもいるらしい。ホントかね。

本書で最も興味深かったエピソードは須磨子さんとの“読者への挑戦状”についての談義。挑戦状を出すということは作者は挑戦者であり、格としては読者の方が上なのかという水柿君の理論とミステリィは真相を当てる方が面白いのか、上手く騙される方が面白いのか、もし上手く騙される方が面白いのだったら挑戦状に対して真剣に検討しない方がいいのではといった内容。

読者と作者、どちらが格上かという議論は非常に面白い視点だが、読者も考えて読めよという作者からの警告であると同時にやはり読者はお金を払って買っていただくお客様だから立場としてはやはり上ではないだろうか。
また私は自分で推理して真相を見抜けた方が面白い。
確かに上手く騙されるのも楽しいがミステリィは考える文学だと思っているので私は絶対に謎を解きたい方だ。

また水柿君≒森氏は私よりも年上なのだが、手紙を書くという習慣がないのでファンからのメールには返信するが手紙には返事を書かないとのこと。
ここでは基本的に文字を手で書く習慣がないと書いているが、年賀状では宛先を手書きにしている拘りがあり、矛盾が見られる。ほとんど推敲せずに書いているな、こりゃ。編集者もチェックをきちんとしてないようだし、ますますいい加減になってきている。

最後の「たまには短いタイトルにしたいと昨夜から寝ないで考えているうちに面白い夢を見てしまった。ああ、そろそろ秋だなあ。そこで一句。短めにタイトルつけたら秋かもね」では更に小ネタに走る。

更にエピソードの他愛の無さは拍車がかかる。そして意外なことに出す小説が売れに売れたことで水柿君夫婦は金持ちになり、車を買い、土地と家を買い、それでもまだ金が余ったので更に土地を買った。子供のいない水柿夫婦はそれぞれ気の向くまま趣味に没頭する日々が綴られる。

それに加えて森氏の小ネタ集が延々と続く。一発ギャグの応酬であるそれはなんと16ページも続くのだ。もはややりたい放題である。編集者は一体何をやってんだ!

本書ではサイン会をその後一切行わなくなったことが明かされる。本作の前話で初めての体験だったサイン会の大変さに嫌気が差したのだ。水柿君、つまり森氏は趣味で小説を書いているようなもので職業としての作家では―まだこの時点では―ないため、本来行うべきファンサーヴィスについては全く無頓着なのだ。それでも本が売れているのだから、まさに悠々自適である。ちょっとこの辺については思うことがあるのでまた後ほど触れよう。


水柿助教授シリーズ第2作目。
前作に劣らず、本書でも森氏は自分の思いの丈を存分に語っている。これほど作者の嗜好が、思考がダダ洩れしている作品もないだろう。まさに気の向くまま、思いつくままに書かれている。これは作者に全てを委ねることを許した幻冬舎だからこそ書けた作品集である。
いやあ、実際作者に好き勝手やらせ過ぎである。本書の出版に際して編集会議がきちんとなされたのか甚だ疑問だ。
いやもしくは当時そんな反対意見を差し込めないほどに森氏の作家としての権威が既に高かったということなのか。

今回全体を通して読むと、やはり本書は森氏の私小説と云えるだろう。第1話では理系思考の作者がなぜミステリィ作家になったのか、そのギャップを埋めようと云う意図で書かれているとさえ吐露している―しかしあまりに自由奔放に書き過ぎて全く成功していないようだが―。

結局この企みは成功せず、物語の主軸は一大学の一助教授だった森氏が経験した小説家になったことでの生活のギャップが綴られていく。

締切を平気で破りながらもきっちりパーティーは出て、趣味に興じる作家たちの常識と逆に締切を護って書いていることで暇人扱い、更にはバカにされたりもするという、社会人としての常識が非常識に転じる文壇界の不思議への戸惑い。
また作家になって出版社の人と行動するようになってそれまで電車やバスを利用していたのに少しの移動でもタクシーを利用するようになったこと。これは車内で打合せが出来るというメリットかららしい。

また自分の作品に対する様々な感想。昔ながらのファンレターからネット書評に水柿君自身に届くメール。またまた社会人である水柿君はこのメール全てに律義に返信していたら100通余りになってしまったが、ある上限に達すると増えなくなる不思議になんだかよく解らない内容や主旨の感想の類。

そして作品の若い女性ファンが来ることで妻の機嫌が悪くなったり、また印税が沢山転がり込んでそれまで貧乏暮らしが続いていた水柿家が潤い、奥様の須磨子さんは好きな服が買えるようになり、そして念願のミニクーパーまで買うことになり、更に水柿君は趣味にお金をかけることが出来るようになり、何百万円もする模型をいくつも買うことが出来るようになり、庭には人を乗せて走ることのできる機関車用のレールを引ける家も購入し、それでもなおお金が余ったので更に広大な土地を買うことがで来たりとこの第2編目では水柿君≒森氏が小説家になったことで訪れた環境の変化が主に描かれている。それは恰も森氏自身の私小説でありながら備忘録でもあるかのようだ。

こんなハイペースで作品を著し、更に大学助教授の仕事もこなしていた森氏、いや水柿君は小説はあくまで家に帰ってから書き、大学で書くことはなかったとも云っている。それはモードが違うから出来ないらしい。つまりスイッチを場面で切り替えているのだ。この辺はかなり解る。私も仕事とプライヴェートはきちっと分ける方だからだ。一方が他方を侵食すると思考が混ざり合ってしまうのだ。

また本書の中での水柿君のある心境の変化が興味深い。助手時代は好きなことをして賃金ももらえるなんて幸せだと思っていたのに、助教授になって研究以外の仕事が増え、特に会議が増えたことで苦痛を覚え、これだけ我慢して嫌な時間を過ごしているのだからお金を貰えて当然だと思うようになったこと。
ただ助手時代は好きなことができたが給料は安かったのに対し、助教授では助手時代の2倍以上の給料をもらうようになったのは嫌なことをしなければならない対価が増えたのだと考えているところだ。

私は労働報酬とは嫌なことを我慢してやったことへの対価であり、生活のためにその我慢をしているのであるという考えの持ち主なのでこの水柿君の後半の考えには全く同意だ。
一方で社会人になって一度も好きなことをさせてもらってその上給料まで貰って幸せだ、なんて思ったことは一度もない。かつて勉強させてもらった上に給料も貰っているんだから幸せだと云っていた上司がいたが、当時はサーヴィス残業当たり前の風潮だったので何云ってんだ、コイツと思ったものだ。

おっと作者の心情ダダ洩れの作品だっただけに私の心情も思わず露出してしまったようだ。

さて上に書いたように本書は大学の助教授だった水柿君が奥様の須磨子さんの何気ない提案から小説を書くようになり、それが出版社に認められ、あれよあれよという間に売れっ子作家になって貧乏から脱け出し、お金持ちになったところで幕が引く。

しかし私はこの件を読んで、売れる作家と売れない作家の境界とは一体何なのだろうかと考えてしまった。

ここではもう敢えて水柿君と呼ばず森氏と呼ぶことにするが、森氏が特に小説家になりたいと願ったわけでもなく、偶々手遊びで小説を書いたらそれが編集者の目に留まって一躍売れるほどになった。しかも森氏は自分が小説を書きたいと思って書いてるわけではなく、依頼が来るから書いていると非常にビジネスライクだ。

一方で小説が好きでいつか自分も小説家になりたいと願い、何度も複数の新人賞に応募して落選を繰り返し、ようやくその苦労が実を結び、晴れて作家になれて、自分の創
作意欲が迸るままに作品を書いて発表しながらもさほど売れない作家もいる。

熱意があってもその作家の作品が売れるとは限らないが、逆にさほど熱意もないのに書いたら売れている作家がいるというのは何とも人生とはアンフェアだなと感じざるを得ない。それは森氏は天才であり、このような書き方は森氏しかできないことなのだ。つまり一般人が、いや少しばかり才能があっても天才には敵わない現実を知らされた思いが本書を読んでするのである。

確かに森氏のデビュー作『すべてがFになる』が店頭に並んだときのインパクトは強かった。しかしそれ以降、一定のファンを獲得し、1つのシリーズに固執せず、次から次へとシリーズを生み出し、そして壮大な仕掛けを仕掛けているのが読めば読むほど分かってくる、この凄さこそが森氏の非凡さなのだろう。

だからこそこんな、およそ小説とは呼べない水柿助教授シリーズでさえも書物として刊行され、そして売れるのだろう。

本書を冷静に読める作家は果たして何人いるのだろうか。私が同業者ならば自分の境遇と照らし合わせて身悶えするはずだ。ある意味本書は作家殺しのシリーズだ。
さて残りはあと1冊。しかし宣言通りに3作書き、それがきちんと刊行されたということはそれなりに売れたということか。売れる作家は何書いても売れる。やはり作家殺しだ、この本は。


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工学部・水柿助教授の逡巡 (幻冬舎文庫)
森博嗣工学部・水柿助教授の逡巡 についてのレビュー
No.1334: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

麻薬は果たして“魔”薬なのか?それとも麻“薬”なのか?

『犬の力』から始まる、かつての義兄弟だった麻薬王アダン・バレーラと麻薬取締官アート・ケラーの因縁の物語最終章である。しかしアダン・バレーラは前作『ザ・カルテル』でセータ隊との最終決戦の場で命を喪い、既に退場している。
しかしこの男の権力の影響がいかに大きかったか、それを彼の死によって再び麻薬戦争の混沌が激化するメキシコを描いたのが本書である。

『ザ・カルテル』では3.5ページに亘って殺害されたジャーナリストの名が連ねられていたが、本書でも同様で実に細かい文字で2ページに亘って2014年に拉致され殺害された43名の学生たちの名前が書き連ねられている。更に2017年に殺害されたジャーナリスト、ハビエル・バルデス・カルデナスと世界中のジャーナリストの献辞が捧げられている。

時代は下り、犠牲者の数は減ったのかもしれないが、実情は全く変わっていないのだと思わされる献辞である。

さてアダン・バレーラとアート・ケラーの数十年に渡る抗争に終止符が打たれた前作で私も含め、読者の皆はこの2人の戦いは集結を迎えたと思っていただろう。
しかし「死せる孔明生ける仲達を走らす」という言葉をそのまま体現するかのように死んだアダン・バレーラはその後もアート・ケラーを奔らせる。なぜならアダン・バレーラという巨大な存在を喪ったメキシコのカルテルはポスト・バレーラの座を勝ち取るべく、戦国の世に陥るからだ。

しかし今回ケラーが戦う舞台はメキシコではない。彼の舞台はアメリカ本土。メキシコの麻薬を食い物にし、もはや政財界にドラッグマネーが蔓延り、表面的にメキシコの麻薬カルテル撲滅を謳いながら、その背中に手を回して巨万の金を動かしている歪みが今回の敵なのだ。自分が所属している麻薬取締局、アメリカ上院、そして合衆国大統領らがケラーの相手なのだ。

つまりアメリカという病理との戦いがこのサーガの最終幕となっている。

まだ子供だった頃、麻薬という言葉を初めて聞いた時、その恐ろしさからてっきり「魔薬」と書くものだと思っていた。本書の中でもアメリカが参戦した最も長い戦争はヴェトナム戦争でもなくアフガニスタンでもなく、麻薬戦争なのだと書かれている。もう50年も経ち、今なお続いている。私が生まれる前から続いているのだ。

そしてケラーにとってそれは40年にも及ぶ戦いだ。裏切りと違法捜査、そして殺戮の連続の40年。

何とも不毛な戦いだ。ちぎってもちぎっても雨後の筍のように出てくるカルテル達。カルテルのボスを狩ることは虎視眈々とその名を狙う№2達にその空きを提供しているに過ぎないとケラーは作中で述べる。

なぜ人々は麻薬に手を出すのか?

作中ケラーはこう答える。

麻薬は痛みへの反応だからだ、と。

肉体的な痛み、感情的な痛み、金銭的な痛みへの。

生きていくことが辛い、格差社会の現実の中、無理をして身体を酷使して働き、苦痛を常に共にしている人がいる。
その辛さゆえに心を塞ぐ人がいる。
最低の賃金で生活もままならない人がいる。

そんな人たちが一時の快楽を、いや魂の開放を求め、または一獲千金を夢見て手を出すのが麻薬、そして麻薬ビジネスだ。

麻薬は人の心を蝕んで生きるビジネスなのだ。

アダンの跡を継いだヌニェスがこう述べる。

麻薬ビジネスは他じゃ絶対あり得ないような給料をもらえる仕事を作り出している、と。

コーヒーやカカオを作るより、大麻や芥子を栽培する方が金になる。今、そんなコーヒー産出国、カカオ産出国ではそう考える農家が増えているという。合法的な市場で売られるコーヒーやチョコレートが我々市民の手に届く価格であるのに対し、麻薬はその非合法性から破格の値段で取引され、莫大な金を手に入れることができる。多少のリスクは負ってもそんな人参を目の前にぶら下げられれば、手を出すのは生産者の良心に掛かっていると云える。
後進国ではそんな現実がゴロゴロしており、我々先進国の人間が豊かな生活圏から彼らを糾弾することが果たして出来ようか?
彼らもまた食っていかないといけないのだから。

しかし麻薬ビジネスはもはや巨大化、いや肥大化しすぎてしまっている。なぜならこれほどの大金が動きながら、取引は現金で行われ、それがどんどん増えていき、次第に金の置き場に困るようになる。

いやはや資金繰りでヒイヒイ云っている企業が多いのに、何とも滑稽で贅沢な悩みだろうか。

しかしその多すぎる金は汚い金でもあるため、使うために洗浄しなければならないがなんとメキシコの銀行でも捌けないほどの量となり、アメリカの銀行も1万ドルを超えると“疑わしい取引に関する届け出”をする必要があり、報告する義務がある。

そこで白羽の矢が立つのは不動産投資だ。巨額な金が動き、尚且つ利益を生む、これほどうってつけの方法はない。
そして本書のジョン・デニソン大統領は元不動産王。明らかにモデルは現大統領のトランプ氏。何とも現実味を孕んだ話だし、よくこの物語を今この時に書き、そして刊行したものだと驚かされる。

正義対悪の構造を持ちながら、肥大する麻薬カルテル達に立ち向かう政府機関の連中ももはや綺麗ごと、正攻法では彼らに敵わなくなっている。
毒を以て毒を制す。
従って巨大な麻薬カルテルの息の根を止めるには正義の側も悪に染まる必要があるのだ。

麻薬取締局長アート・ケラーの麻薬カルテルとの徹底抗戦の姿勢に賛同したニューヨーク市警麻薬捜査課のトップ、ブライアン・マレンは腹心の部下ボビー・シレロに囮捜査官になれと命じる。但し彼に麻薬の売人になるのではなく、賄賂を貰い、もしくは悪党たちに金をせびって便宜を図る汚職警官になって彼らの信用を得てトップまで辿り着くように命じる。

このボビー・シレロの囮捜査のエピソードが特に胸を打つ。汚職警官に成りすますことは即ちそのレッテルを警察内に貼られることだ。
囮捜査であるからごく一部の人間にしかその真意を知られてはならない。そして彼が悪徳警官と記録されるとそれは警察官としてのキャリアが終ったことを示す。
人生そのものに大きなリスクを背負った彼が上司のマレンの期待通りに応えてマフィアの中枢、カルテルの上層部に近づいていきながら、自分の心が荒み、演技ではなく本当に汚職警官になってしまいそうになっていく危うさが哀しみを誘う。

巨悪を斃すための代償は人としての尊厳を失ったこと。

彼が利用した中毒者に罪滅ぼしのために更生施設に入れるが、すぐに麻薬の売人にヤクを売りつけられ、元の中毒者に戻ってしまう、この不毛さ。

…読書中、こんな思いが頻りに過ぎる。

ここまで人生を賭けて、生活を犠牲にして、心を病んで戦わなければならないものなのか、麻薬戦争というものは?

しかしウィンズロウはそれを読者に見事に納得させる。
彼は麻薬ビジネスに関わる人たちの点描を描くことで麻薬に手を出したことでいかに彼ら彼女らが不幸になっていくか、悲惨な末路を丹念に描いていくのだ。

作る側、売る側だけでなく、それを運ぶ側、知らないうちに巻き込まれてしまう側、そして使う側それぞれの変化を描くことで上の切なる疑問に対する回答をウィンズロウは我々読者に与えていく。

いや正確には我々読者の良心に問いかけているのだろう。

こんな人たちが現実に起こっているのにそれでも貴方は見て見ぬふりができますか?

そしてその問いに隠されているウィンズロウの痛烈なメッセージは次のようなものだろう。

もしそれが出来るならば貴方もまたカルテルの仲間なのですよ、と。

しかし麻薬戦争撲滅を己の正義として、信念として貫いたアート・ケラーという男の生涯はすさまじいものだった。

余りにも多くの罪を犯し、そして犠牲を伴った戦い。それはまさに現代の修羅道だ。
麻薬を撲滅するには綺麗ごとでは済まされない、自らの手も汚さなければ悪には立ち向かえない。清濁併せ吞み、毒を以て毒を制す。それはケラーのみならず、それまでのシリーズで共に戦ってきた男たちが抱えた必要悪だ。

やっていることは麻薬カルテル達の連中と同じなのか。麻薬という物を介して悪と正義に分かれるこの奇妙な二極分離。
ただそれだけしかケラーの側には正当性がないように思える。麻薬を作り、売りさばく側と麻薬を奪い、葬り去る側の違いだけで行っていることはもはや何も変わらないのかもしれない。半ば狂気に陥るところをギリギリの淵で留まるよすがが麻薬を撲滅させると云う正義感だったに過ぎない。

私がこの本を読みながら思ったことはこの場面でケラーの口から提案される。

上下巻合わせて1,545ページを費やされて書かれた最終章。しかしそれだけの紙幅を費やしてもウィンズロウがまだまだ書き足らないと感じていたことが行間から読み取れる。それだけ麻薬戦争の闇は深く、まだまだ我々には知らされてないことが沢山あるのだろう。

しかし予想はしていた通り、ウィンズロウのこの麻薬戦争サーガは重かった。
正直云って私はこのシリーズは好きではない。読んだ後に必ず陰鬱な気持ちに晒されるからだ。
他のウィンズロウの作品に比べてこの作品がかなりページを割いて書かれているのはウィンズロウの怒りの捌け口にも一部なっているからだ。その時の彼は筆を緩めない。書くべきことはしっかり書く。
本書もそれまでの作品同様、血を血で洗うカルテル達の闘い、とても人間の所業とは思えない残虐な拷問シーン、更に裁く側も、正気を保つのが困難とされる独居房の生活が事細かに書かれる。読んでいる側は終始悪夢にうなされる様な思いでそれを読む。

しかしその中にあってグアテマラからアメリカへ不法入国した少年ニコ・ラミレスのエピソードが実に愉しく読めた。
グアテマラからメキシコを経てアメリカに辿り着く冒険行、更にその後の少年拘置所での日々の物語は、アメリカの不法入国者に対する対応への問題提起として書かれており、彼の取り巻く環境は決して明るいものではないにしろ、その瑞々しさに溢れた筆致こそウィンズロウの真髄であり、やはり一ファンとしては早くこのようなウィンズロウ作品を読みたいと強く感じた。

冒頭に記したように今回のケラーの敵はメキシコの麻薬カルテルよりもアメリカ合衆国そのものだ。

ドラッグマネーによる不動産投資金が大統領へと繋がるスキャンダラスな内容だ。つまりとうとう麻薬はアメリカ政府をも買収してしまったことを意味する。
麻薬ビジネスは作る側に否があるだけでなく、それを使う側、買う側にも否がある。そしてそれはアメリカ合衆国その物の問題なのだ。

本書の題名『ザ・ボーダー』。それは即ち境界線を指す。
この境界線、つまりあちらとこちらを切り離す線は一体何を二分しているのだろう?

本書のジョン・デニソン大統領が掲げる、メキシコとアメリカを分断する“壁”もまたその1つ。

麻薬というボーダーを境に売る側とそれを取り締まる側もまた1つだし、売る側が悪だとすれば取り締まる側は正義となろう。

しかし麻薬戦争はそんな単純な二分化は出来ない。時に悪になり、そして正義になる。正義を貫くために悪になり、そうしなければ正義は成し得ない。

そしてやはりウィンズロウが我々に痛烈に訴えるボーダーとは即ち麻薬を使う側に行くなという境界線だろう。つまり越えてはいけない“その一線”を指すのではないか。
それはしかし無駄な遠吠えに聞こえるだろうと作者自身も思ったのかもしれない。

繰り返しになるが本書はメキシコの麻薬カルテルとアート・ケラーの戦いを描いた壮大なるサーガの最終章と云われている。

それを示唆するかように本書の結末は麻薬戦争に人生を投じたアート・ケラーのそれまでの歩みが最後公聴会の席で彼の口から述懐される。

しかし私はそれを信じない。

本書は献辞を捧げた2014年にメキシコのイグアラ市で起きた学生バス大量虐殺事件が一部材に採られている。ウィンズロウがこのサーガを描く原動力はこういった麻薬に関わったがために理不尽なまでに蹂躙した無法の輩どもへの憤りと犠牲になった無垢の魂への追悼だ。
従ってもし同じようなことが起きれば、ウィンズロウは再び憤怒の筆を握り、制裁を加える迸りを紙面に落とすだろう。

アート・ケラーの物語はウィンズロウにとってライフ・ワークとなる作品で、もはやこのシリーズが彼の代表作であることは万人が認めるだろう。

断言しよう。
アート・ケラーは再び我々の前に姿を現すだろうことを。

しかしそれは即ち裏返せば麻薬戦争が終わらない、麻薬カルテルが一掃されないメキシコの惨状が続くことを意味している。
それならばたとえウィンズロウの一読者としてもケラーとの再会は望まない。一人の人間として本書が本当に最終章になることを望むばかりだ。


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ザ・ボーダー 上 (ハーパーBOOKS)
ドン・ウィンズロウザ・ボーダー についてのレビュー
No.1333:
(10pt)

小説が、物語が書かれ、読まれる意味がここにある

今回もコナリーにはやられてしまった。もはやページを捲ればそれが傑作だと約束されているといっても過言ではない。

前作『燃える部屋』で図らずも停職処分を受けたボッシュは本書では再びハラーとタッグを組む。それは停職処分中に定年延長選択制度への支払いが停止し、その状態で異議申し立てをするとその手続きの間で退職を迎えてしまい、そうなると退職金も定年延長選択制度資金も貰えなくなることから、刑事を退職し、それらを得て処分が不当であると訴えを起こし、その弁護士にハラーを雇った。

一方ハラーは有名な市政管理官補レクシー・パークス殺害事件の容疑者ダクァン・フォスターの弁護を請け負っており、調査員のシスコがバイク事故で重傷を負って動けないことからボッシュに調査員になるように依頼する。

ボッシュの停職処分から余儀なくされた早期退職に対する訴訟、それを弁護するのが異母弟のミッキー・ハラー。そしてハラーはボッシュに自分の仕事の調査員になるように依頼する。
この2人の職業と関係性を十分に活用しながら実に淀みなくシリーズが展開する様にいつもながら感心する。コナリーはハリー・ボッシュ、ミッキー・ハラーという2人の男の人生を知っており、それを我々読者に提供している、そんな気がするほどの事の成り行きの自然さを感じさせられる。

しかし殺人課の刑事をしていたボッシュにとっていわば刑事弁護士は自分たちが捕らえた悪人の味方をする、忌まわしき存在で云わば敵対関係にある。そんな弁護士の手伝いをする調査員の仕事をすることは刑事仲間を裏切る行為になる。作中ではダークサイドに渡る(クロッシング)とまで書かれている。これはボッシュが調査員になるようになって初めて知った感覚だ。なぜならハラーのかつての調査員ラウル・レヴンもまた元警官で彼はその昔のコネを活かした調査能力でハラーの信頼を得ていたからだ。つまりラウルもまた刑事たちにとっては裏切者であり、それでありながら警察内に有力なコネを持っていたという実に優れた調査員だったことが解る。なぜならボッシュは調査員となることで刑事たちの不興を買うからだ。

一旦ボッシュが刑事弁護士の調査員になったことが知れ渡ると元同僚や不特定の警官から次から次へとボッシュの携帯に非通知の電話が掛かり、またテキストが送られてくる。彼をよく知っている刑事仲間はボッシュが一時的なものだという言葉を頼みの綱として信じようとするが、その他の警察官は彼を裏切り者として罵倒する。
やがてボッシュ自身も自分が向こう側に渡ってしまったことを意識し、背徳の念に苛まれる。

また本書ではそれまでと異なる描き方がされている。それは事件の犯人の行動が物語の冒頭から同時並行的に描かれていることだ。しかも彼らが刑事であることも判明しており、予め悪徳警察官であることが判っている。
これは非常に珍しい。なぜならコナリーはこの手法をサプライズに用いることが多いからだ。

しかしこの新しい手法はまた物語に新たな魅力を生み出している。この2人の行動が不穏過ぎて物語に常に緊張をもたらしているからだ。
彼らに監視されるハラーとボッシュ、そしてその他事件関係者たち。彼らが何をしようとしているのか読者は不安の中でページを捲らされる。その先を知りたくて。

今回久々にボッシュは『暗く聖なる夜』、『天使と罪の街』以来、刑事ではない立場にある。従って彼もまた警察の脅威を感じ、いや特権的立場を失っている状態にあることで正しい市民であろうとする。

例えば刑事時代では運転中であっても携帯電話で通話し、シートベルトの着用も疎かだったが、一介の市民となった今ではシートベルトはきちんと着用し、携帯電話はイヤピースを嵌めて通話する。

刑事時代では駐禁など気にしなかったのに今では普通に切符を切られてしまう。

ボッシュは今更ながらに刑事であったことの利点を痛感させられる。そしてそれは今回の事件の真犯人に繋がるファクターでもあった。それについては後述しよう。

前科者は必ず犯行を再発する。それは彼らが根っからの悪だからだと悪に対して執着的な怒りを覚えるボッシュ。

一方で人は変われる、やり直せる、だからそんな更生した人を偽りの犯行から護らなければならないと、かつての悪人の贖罪を信ずるハラー。

元刑事と弁護士の価値観の違い。それがいつしかこの異母兄弟の間に乖離を生む。

ハラーは弁護士として裁判に不利益や予断を与えるような情報をボッシュが警察側に与えるのを抑えようとし、警察側に対して非協力的であるのに対し、元刑事のボッシュは真犯人を捕まえるために自分の情報を与えたいと思う。ハラーにとって警察側は裁判での敵であるのに対し、ボッシュは元々そちら側にいた人間で仲間意識が強いからだ。

従ってボッシュはレクシー・パークス殺害事件の真相究明に積極的で刑事の血が騒ぎながらも、一時的でありながら弁護士の調査員という対立の立場にあることに苦痛をしばしば感じるのだ。

さて調査員として臨んだレクシー・パークス殺害事件の行方はスキャンダラスな事件へと繋がっていく。
この妙味。そしてボッシュという男の刑事としての勘の鋭さを感じさせる事件だった。

終わってみればエリスを含め8人もの死者が出た陰惨な事件となった。

私欲のために大勢の人の立場と人生を利用し、そして危なくなればゴミのようにその命を葬り去る。人の死を扱う仕事に就くことで人の死に対して鈍感になり、そして自分の仕事が庶民に対してある種の特権を持つことに気付き、いつしか王にでもなったかのような尊大な男が生んだ悲劇の産物が今回の事件だった。
一介の市民となったボッシュが刑事でないことの不便さは即ち彼ら2人の悪徳警官が刑事であるがゆえに覚えた特権だったのだ。

コナリーはシンプルなタイトルに色んな意味を、含みを持たせるのが特徴だが、本書の原題“The Crossing”もまた様々な意味で使われている。

まずは元刑事が刑事弁護士の調査員になることをダークサイドに渡る(クロッシング)という裏切り行為という意味で使われ、次は被害者レクシー・パークスが有名な市政管理官補であり、メディアにも多く登場していたことで不特定多数の人間に遭遇(クロッシング)していたことで容疑者特定の困難さを示す言葉として。更に被害者と加害者の動機と機会とを結びつける交差(クロッシング)する瞬間をも意味する。

しかし私はその言葉は次の一言に集約されると感じた。

The Crossing、それは即ち一線を越えること。

まずボッシュは元刑事としてはタブーとされる弁護側の調査員となる一線を越えた。
それは逆に彼が別の人間に冤罪を着せ、のうのうと生きている悪を野放しにしてはいけないという刑事の信念に駆られたが故であるのが皮肉なことに一線を越えさせた。

そして一連の事件の主犯であるハリウッド分署風俗取締課の刑事ドン・エリスとケヴィン・ロングは職務を濫用することが甘い汁を吸えることに気付き、刑事としての一線を越えた。

一線を越えた者たちの内、正しい方への一線を越えたのはボッシュだった。
しかしそれがゆえに彼は元仲間たちの警察官から裏切者のレッテルを貼られることになった。なぜなら彼は刑事を犯人として告発したからだ。

正しいことをしながら元仲間たちに蔑まされる。ボッシュの歩んだ道のなんと痛ましいことよ。
そしてその正しさを認めることのできない警察官たちの何とも愚鈍なことよ。
正義を司る者たちが仲間意識を優先して正しき進むべき道を見誤るようになってしまっている。コナリーは今までも正義を裁く側の人間を犯罪者として物語を紡いできたが、それをアウトサイダーになったボッシュによって裁くことでより一層警察組織そのものの歪みが浮かび上がらせることに成功したように思える。

この原題が非常に本書の本質を掴んでいるがゆえに今回は邦題の『贖罪の街』がなんともちぐはぐに感じてしまう。訳者はあとがきでその理由について述べているが、正直苦しい。
私ならば原題をそのままカタカナにして『クロッシング』にするか、それともボッシュも常に吐露している、事件の被害者たちが陥った『ダークサイド』もしくは『アザーサイド』か。
簡潔にして多種多様な意味を持つ言葉だけに日本語でそれを成そうとすると実に難しい題名だ。

さてここいらで本書に関して思ったことを書いていきたい。

まずシリーズ恒例のエピソードの進展について触れておこう。

まず私が本書のサブストーリーの中でも関心が高い、ボッシュの娘マディとの関係だが、ボッシュは思春期の微妙な年頃の娘の素っ気ない態度に苛立ちと戸惑いを覚えながら、メールのやり取りに一喜一憂しているという相変わらず不器用な父親振りを見せる。マデリンはボッシュが唯一敵わない相手にもはやなっている。

更に今回亡き母親エレノア・ウィッシュについて2人で話す機会があり、初めてマディが母親が恋しいと吐露する。同性として、そして少女から女性になりつつあるマデリンにとって良き相談相手となる母親の不在がここにきて響き、ボッシュも胸を痛める。

またロサンジェルスという映画産業の街を舞台にしたエピソードが多く盛り込まれているのもこのシリーズの特徴だが、本書で触れられているのは知事となったある映画俳優が行った権力濫用とも思える措置に対するエピソード。これはもうあのシュワルツェネッガー以外何物でもないが、彼が映画復帰してさほどヒットがないのもむべなるかなと思えるエピソードだった。

また事件の関係者である形成外科医のジョージ・シュバートによって明かされるキャッシュ・コールも興味深い。
有名人が整形をするのに、プライバシーを守るため、証拠を残さないために医療保険を利用せずにキャッシュで払う習慣があるとのこと。その中でマイケル・ジャクソンの死について触れられているが、まさかマイケルが自宅で整形治療の最中に死んだとは知らなかった。

そして本書の献辞はサイモン・クリステンスンなる人物に捧げられている。
今までコナリーは自分の創作の協力者や家族に献辞を捧げていたが、この人物はコナリーとの所縁はない。
では誰なのか?

それは書中で明かされる。その内容は本書を当たって頂くとして、色々含みを感じる献辞である。

さて何度目かのボッシュとハラーのコラボレーションとなった本書は双方の持ち味が十分に反映された作品となった。

ボッシュは刑事の職を離れ、一介の民間人というハンデを負いながらも生まれながらの刑事とも云うべき執念の捜査を続け、真犯人に辿り着き、そしていくつもの危難を乗り越えた。

一方ハラーはボッシュが集めた証拠とアドヴァイスを存分に活かし、法廷でハラー劇場とも呼ぶべき鮮やかな弁護を披露し、見事依頼人の無実を勝ち取った。

被害者は保安官補の妻でマスコミにも多く登場し、人望厚い市政管理官補。
被告人が黒人の元ギャング、一方真の悪は悪徳警察官。
つまりクリーンな立場の人間が無残に殺され、捜査上に浮上してきたのが悪人の先入観を余儀なく与える人物。
一方暗躍して悪事を重ねる警察官が真犯人であることが半ば自明でありながら面子を保つために司法の側の捜査は遅々として進まなく、このまま被告人を生贄の山羊として備えることを望むような雰囲気さえ漂う状況を覆す、四面楚歌の中での勝利はドラマとしても出来過ぎだろう。

しかし我々はもはや何が正しく何が間違っているのか解らない世界に生きている。
社会に秩序をもたらすために作られた精巧なシステムが正しくなければならない、誤作動するなどあり得ないと断じる、それを扱う側の人間たちによっていつしかその信頼性を守るために、いやミスを認めようとしないつまらぬプライドのために、正しいことがなされず、いつしか過ちがうやむやに葬り去ろうとされる、もしくは落としどころを付けるために弱者に標的を定め、犠牲として捧げる、そんな歪みが蔓延していた世界にいつしかなってしまった。

そんな世界だからこそ小説の、物語の中だけでも正しいことが正しく落着する結末であってほしい。そのために小説は、物語は書かれ、読まれるのではないか。

コナリーの描くボッシュサーガは正義を貫くことの困難さとそれを乗り越えた人々の、人生の充実を常に与えてくれる。
ハラーの物語はいつも結末は苦いが、今回はさすがに爽快感をもたらしてくれた。

さて未だ異議申し立て中で元刑事の一介の市民のままのボッシュ。しかも刑事から蔑まれる弁護士の調査員の仕事に手を染めてしまった彼の次の去就が気になるところだ。

そしてそれを描いた作品は既に出ている。次作『訣別』を手に取るのに何の障害があろうか。
ただ今は少しばかりこの最高の物語の結末の余韻に浸り、心を落ち着けて次作を手に取ろうか。


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贖罪の街(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリー贖罪の街 についてのレビュー
No.1332: 5人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

怪異も超常現象も起きない極上ホラーがここにある

第4回日本ホラー大賞受賞作で貴志氏の本質的なデビュー作となり、そして映画化もされた本書。
ホラーと云えば怪異現象、超常現象を扱った物が多い中、保険会社員が顧客の訪問先で子供の首吊り死体に出くわし、更にその保険金を巡って遺族であるその両親との陰湿で執拗な催促に取り乱される、そんな風にストーリーの概要を理解していた私

本書は正真正銘のホラーである。それもとても他人事は思えないほどの迫真性を孕んだ怖さがある。それはどこかにはいるであろう、少し変わった隣人が本書の元凶であるからだ。

まず題材が実に一般的だ。怪我や入院、そして人の死を日常的に取り扱う保険会社が舞台。

自殺した子供の保険金を巡ってその両親との確執にて主人公に降りかかる災厄が本書の内容で、従って物語の細部に保険会社の業務や保険業界の裏話などが丹念に織り込まれており、非常にそれが読み応えのある内容となっている。

主人公の若槻慎二は入社当初は東京本社の外国債券投資課に配属になり、投資関係の仕事を扱っていたが、昨年春の人事異動で大学の時に住んでいた京都に異動になり、そこで本来の仕事である保険業務に携わるようになった。その日常はまず人の死に纏わる死亡保険金の請求書類といった類の書類のチェックから始まる。彼は入社5年しか経っていないが、早くもそんな暗鬱な内容で業務が幕を開ける保険会社の仕事に嫌気が差してきている。

次から次へと送られる保険請求の書類の詳細な内容のチェック、保険の窓口にいつもクレームを付けに来る客への対応の仕方、自殺で保険は下りるのかといった一般人が抱くような疑問に対する応対、わざと異なる印鑑を持ってこさせ、貸付が断られると、そのことで手形が不渡りになって会社が倒産したと賠償金を請求されたり、または交通事故でムチ打ち症でずっと入院して給付金を貰い続けて、期限が切れそうになると新たな症状で診断書を書いてもらって更に延長する、病院とグルになって詐欺を行う者、また一方でそんな詐欺に対抗すべく保険会社でも「潰し屋」と呼ばれるヤクザまがいの人間を雇っていたりすること、毎年11月は『生命保険の月』と云って過大なノルマが課され、それによって審査のチェックが甘くなること、などなど、生命保険会社に勤務していた作者が知る業界の内輪ネタに事欠かない。

そんな保険会社の裏事情が放り込まれ、我々読者の眼前に本書メインの事件の発端となる主人公若槻への災厄の始まりを告げる事件が幕を開けるのは物語が始まって70ページが過ぎてから。それは副長の葛西が受けた1本の電話が若槻を指名したことから始まる。

自分を名指しで指名してきた顧客。しかしその菰田幸子と重徳という名前には心当たりが全くない。不思議に思いながら家を訪ねてみると嵐山付近という高級住宅街にありながら周囲に全くそぐわない黒い家で荒れ放題で中には異臭が漂っている。案内されるとなんとそこで…。

恐らくはこのショッキングな展開もまた生命保険会社時代に聞いたエピソードの1つであろう。それを貴志氏はサイコパスと結び付け、ホラーへと昇華させたのだ。

つまり自分の顧客が次から次へと身内を殺し、また傷をつけ保険金を請求するサイコパスであった。本書はこのワンアイデアのみと云っていいだろう。
しかし物語はシンプルなものこそ面白い。本書はまさにそれを具現化した作品だと云える。

公共の場での対面が対会社ではなく一個人を標的にしてどんどん私生活へと侵入してくる怖さがここにはある。

作者は真綿で首を絞めるように主人公若槻を、読者を恐怖の底へと導く。

そんな具合に実に計算尽くしで書かれた本書は、日本ホラー小説大賞の受賞作であることから、その内容はいわゆる賞を獲るために必要不可欠な小説の要素が教科書通りに放り込まれていることが解る。

まず作者自身が生命保険会社に勤務していた強みを活かし、保険業界のエピソードをふんだんに盛り込み、その業界ならではの内輪話、蘊蓄で読者の興味を惹きつけながら、更に忌まわしい過去を設定している。
主人公若槻はあるトラウマを持っており、そのトラウマが顧客に対して不信感を抱き、調べる原動力となっているのだ。

原因と結果という因果をきちんと設定し、物語を淀みなく進める磐石さを持っている。

更に物語に心理学、生物学などの専門知識を放り込み、読者の知的好奇心を刺激し、次から次へと事件を連続させ、ページを繰る手を止めさせない見事な筆捌きを見せる。
もう、受賞のためのファクターが過不足なく盛り込まれており、戦略と戦術を立てて応募されたことが如実に判るのである。

そんな作者の恣意的な創作作法が見えながらもやはり本書は実に面白い。あざとさの一歩手前で踏み止まるバランス感覚に優れているのである。

しかし保険業界とはまさに世に蔓延る魑魅魍魎共を相手にするような職業であることが本書でよく解る。お金が人間の欲望と直結して駆り立てるものであるがために人の生死をお金で取引するシステムに人はどうにか旨い汁を吸ってやろうとたかるのだ。
また生保業界も契約を取れれば天国、取れなければ虫けらのように扱われる極端な成果主義となっていることも慈善事業ではなく金満事業となっている歪みが生じているのだ。

本来突然の死に見舞われた時に遺された者が安心して生活を続けられるように作られたシステムであるのにそこに蓄えられた金をどうにか騙して手に入れようとする詐欺師たちが横行するからこそ保険会社もまた支払いにはより一層慎重となり、そしてなかなか支払いが行われなくなるのだろう。

通常その業界に身を置いている者はそういった業界の特異な状況が常識となり、奇異に感じなくなってくる。
しかし貴志氏は保険業界に身を置きながらも一般人の感覚を持ってそのおかしさ、恐ろしさに気付いたのだ。そして彼は自分たちの日常業務こそホラーそのものだと発見したのだ。

但しそれでもまだ小説としては疵も目立つ。

前作『十三番めの人格―ISOLA―』でも気になった男女の関係の書き方だ。若槻慎二と黒沢恵の2人の関係がなんとも稚拙すぎる。
繊細で傷つきやすい性格である黒沢恵が菰田幸子に襲われ、危うく一命を取り留めた後、両親に庇護されることについて自分を2人の思い通りに動く人形のようにならないと決意するくだりがあるが、これも思春期の子の台詞ではないかと思ったくらい成熟味がない。また若槻が彼女を欲するあまりにその思いをぶつけるのもいつの頃の話だと思ったくらいだ。

この辺の男女関係の機微をもう少し違和感なく書くと引っかかることはないのだが。いや寧ろ物語の彩りのために無理矢理恋愛のエピソードを入れる必要もないのだ、物語が面白くさえあれば。

第1作目が多重人格、大賞受賞の第2作の本書がサイコパスと貴志氏がホラーの題材として選んでいるのは常に人間そのものが持つ怖さだ。その後の諸作のテーマを見ても常に作者が人間の心に潜む悪意や宿る狂気に目を向けてその怖さに注目しているのが解る。
本書はまさに受賞するための法則に則って書かれたような教科書的作品であり、怖さを感じる反面、その端正さが逆に気になった。

しかし受賞する目的のために書かれた作品は本書にて終わった。これ以降の作品は貴志氏が思う存分自分の書きたいテーマを扱い、型にはまらない面白さを追求した作品があると信じたい。それまで5つ星の評価はとっておこう。

▼以下、ネタバレ感想
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黒い家 (角川ホラー文庫)
貴志祐介黒い家 についてのレビュー
No.1331: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

そして刑事魂は受け継がれていく

コナリー作品25冊目で作家生活20年目の記念碑的作品『ブラック・ボックス』からミッキー・ハラー物の『罪責の神々』を挟んで、前作から2年経った本書では色々とボッシュの身の回りに変化が訪れていた。

既に前作のパートナー、デイヴィッド・チューと目の上のたん瘤だった上司クリフ・オトゥールもいなくなり、ボッシュは新人の刑事メキシコ系アメリカ人のルシア・ソトを相棒に迎えている。ボッシュにとっても定年延長制度最後の年であることもあって、残り少ない刑事人生をルシアに自分の経験と知識を十分教え込むことを使命として良きパートナーかつ良き師として彼女に接している。ボッシュのこの対応は一匹狼で単独行動ばかりしては上層部の悩みの種となっていた彼からは隔世の感を感じさせる。

また変化と云えば前作まで付き合っていたハンナ・ストーンとの関係も既に終わっていた。彼女の息子ショーンはレイプの有罪判決を受け、刑務所に入っていたが、仮釈放審査でボッシュが彼の味方をするのを拒んたことがきっかけでそれで関係がすっぱりと終わったことが知らされる。前作でも彼女の息子の件がボッシュの出張費を私用目的で使ったと疑問を与えたのが母親との仲を嫉妬したショーンからの訴えであったことから彼女との関係は険しいものになると予想されたが、意外にもあっさりと幕を閉じたようだ。

さて刑事生活最後の年を迎えるのは前作から引き続いて未解決事件班で、10年前に起きた射殺未遂事件の真相を追うというもの。しかし事件は10年前に起きたが、被害者が亡くなったのはつい前日。被害者であるオルランド・メルセドは銃弾を体内に残したまま一命をとりとめ、下半身不随になり、更に体内に残った銃弾の影響で両脚と片手をも失いながら、10年間生き長らえた人物で、世間では英雄視された人物、つまりちょっとした有名人だったのだ。

彼の死後、ようやく解剖によって彼の背骨に埋まっていた1発の銃弾を手掛かりに事件の再捜査が始まるという実にドラマチックな幕開けを見せるのである。

しかしコナリーは銃弾がよほど好きなようで人の運命を決定付ける絆を例えるにも使っている。そして本書もその銃弾にて10年前の事件が再度幕を開けるのだから。

ただ追う事件はそれだけでなく、もう1つある。
それは1993年に起きたボニー・ブレイ放火事件だ。当時大半の子供を含めた9名の死者を出した放火事件で、なんと被害者の1人がボッシュの新相棒ルシア・ソトだったのだ。彼女はこの事件で亡くなった保母と5名の仲間たちのためにこの未解決事件を解決するために刑事になったとも述べる。

但しこの事件は他のチームが扱っており、通常ではそれはテリトリー侵害に当たるため、そのチームから横取ることをしないのだが、ボッシュはかつて自分も母親殺しの事件を単独で捜査した過去を思い出し、ルシアの意図を組んで自ら事件の通報者に模してメルセド襲撃事件とボニー・ブレイ放火事件2つの事件に関係があると仄めかせてボッシュ達に捜査を当たらせるように仕向ける心憎い配慮を示す。

本書のタイトル『燃える部屋』、原題“The Burning Room”はルシアがこのボニー・ブレイ放火事件で生き長ら得ることができた地下の無許可託児所のことを示す。
火災によって煙が充満していく部屋の中、濡れたエプロンを鼻と口に当てて、しのぎながらも更に進入してくる煙を避けるためにクロゼットに入り、助けを待っていた彼女。クロゼットに入れずに外でひたすら助けを求め叫び続けながら死んでいった保母のエスター・ゴンザレス。

そしてもう1つの意味は事件の核心に近づいた時、それが思わぬ権力者や社会的重要人物に突き当たった時には慎重に物事を当たらなければならないことを云い表す際にボッシュが火事で燃えている部屋はドアを決して開けてはならないと表現したことによる。

バックドラフト。内部で燻ぶり続けた炎は部屋の中の空気を全て使い果たし、次の空気を待っている状態だ。迂闊にそのドアを開けようものなら急激に入り込んだ空気によってドアを開けた者は一瞬にして炎に包まれる。
パンドラの箱は無暗やたらに開けてはならない。慎重に動かないと自分たちが怪我をするという意味だ。

本書では刑事事件の捜査に各種の検索エンジンが活用されていること、容疑者との尋問はスマートフォンの録音アプリが使われており、グーグルマップで行き先を検索したり、はたまたウェブ新聞の勢いに押され、閑散としたLAタイムズの事務所の様子が描かれていたりとIT化による利害がやたらと目に付くようになっている。そしてウェブ上では自分の意見を自由に発言できるようになったことで注目が増し、多くのシンパを得てムーヴメントが巻き起こしやすくなる一方で、リテラシーを理解しない人間がその発言で世界中から袋叩き状態になる、いわゆる炎上することも多くなってきている。

つまり本書の『燃える部屋』とは我々ウェブを活用する人々が持っているブログやSNSのアカウントのことを示しているのではないかとまで考えるのは少し穿ち過ぎだろうか。

そうそう、忘れてはならないのはボッシュシリーズのもう1つの関心事、娘マデリンの成長だ。既に彼女は17歳になり、警察官になるための準備を着々と整えているようで、ハリウッド分署で行われている警察体験班に参加し、更には身体の不自由な老人へのボランティア活動を行って大学進学の申請書に箔を付けるのに勤しむ毎日。しかも警察体験班の連中との付き合いも出来、ボッシュは嬉しい反面、娘に悪い虫がつかないかとハラハラしている状況だ。

しかし何といっても本書の一番の読みどころはボッシュと相棒の新任刑事ルシア・ソトの師弟関係だ。

上にも書いたようにボッシュは定年延長制度最後の年でルシアにそれまでの刑事生活で培ってきた自身の捜査技術とノウハウ、そして刑事という生き方とも云うべき心構えを教えるべく良き師となって彼女に付き添う。そこにはもはや一匹狼として単独行動が常であったボッシュの姿はなく、去り行く老兵が手取り足取り若者に戦い方を教え、歩むべき刑事の道へと導く先達の姿があるのみだ。恐らくボッシュはルシアに警察官志望の将来の娘の姿を見出していたのではないだろうか。

そしてボッシュの教えを頂くルシアもまた自分が将来刑事の道を歩む強い意志を示し、ボッシュの期待に応える。もし自分だったらそうするであろうことを云わずとも行うルシアにボッシュは自分に似た部分を感じる。

そしてルシアもまたある信念をもって警察官になった女性だった。
彼女は1993年に起きたボニー・ブレイ共同住宅放火事件の被害者の1人で当時7歳だった。彼女はそこの地下にあった無認可託児所におり、大半の子供を含む9名の人命が亡くなった陰惨な事件で奇跡的に生き残った児童の1人だった。彼女を助けて亡くなった保母のエスター・ゴンザレスとその他5名の友達の無念を晴らすために警官になり、そして未解決事件班でこの事件を独自で捜査しようと決意したのだった。

そしてボッシュは次第にこのルシアの信念と刑事の資質に感心するようになる。
誰よりも早く出勤し、そして誰よりも遅く退社する。休日であっても署に出向いて事件について調べる。
それはボッシュがいまだに行っていることだが、いつもそれを先んじて彼女が行っている。最後の方はボッシュがついていくのがしんどくなってきたと吐露するほどだ。

更に彼女はラッキー・ルーシーの異名があるように運にも見舞われている。まだ市警に入って5年目にも関わらず、酒屋での武装強盗の事件で、4人を相手にし、彼女のパートナーは撃たれて死亡したものの、彼女は2人を倒し、残り2人をSWATが駆け付けるまで釘付けにしたことで有名になった。その功績を買われ、彼女はいきなり刑事となり、未解決事件班に配属され、ボッシュの相棒となった。

ボッシュはこのルシアの話を聞いており、彼女が相棒となることを喜んだ。彼は若くして職務遂行中に人を殺し、相棒を喪った彼女の気持ちが同じ境遇を経験した自分には解ると思ったからであり、それを知っているからこそ彼女を上手く育て上げることができるだろうと思ったからだ。

つまりボッシュは自分を彼女に投影し、そして彼女を自分と同じような刑事、いやもしくは自分を超える刑事に育てようとしているのが文面からひしひしと伝わってくる。そしてそれを理解し、ボッシュの期待に応えようとするルシアの姿もまた健気に映り、なんともこの2人のやり取りが今までにない爽快感をもたらす。
なかなか相棒に恵まれなかったボッシュが退職間際でようやく自分と同じ価値観を持つ相手を得たことが読んでいるこちらも嬉しく思わされてしまう。

そしてそんな刑事の運はボッシュにも働く。捜査令状は自分に好意的な当番判事だったことで容易にもらえ、出張先のタルサでは地元警察に協力的で有能な捜査官に恵まれ、帰りのフライトはファーストクラスにアップグレードされるという幸運を得る。

私はしかしルシア・ソトが幸運の星の下にいるのではないと思う。
人は努力をすれば報われることを単に証明しているだけなのだと思うのだ。信念をもって何事にも取り組めば自ずと運はついてくることをルシアとボッシュの2人の捜査を通じてコナリーはメッセージとして載せているのではないか。
それは常に作品に真摯に向き合い、上質なミステリを読者に提供し、楽しませることに心を砕き、ボッシュという刑事を中心にして緻密な作品世界を描いてきたことが現在のベストセラー作家の地位まで自分を押し上げることになったことを作者自身がそれとなく述べているように思える。

メルセド襲撃事件。ボニー・ブレイ放火事件。この2つの事件は結局結び付きがないまま終わるがどちらもボッシュ×ルシアのコンビで真相に行き着くがその結末はいつものように苦いものだった。

どれも完全に割り切れない。特にその後の続きを読むに至っては。

悪はきちんと裁かれなければならないと云う信念をこの男は決して曲げない。それはルシアに告げることで彼は自分の信念を、刑事としての魂を引き継ごうとするかのようだ。

今回の結末は前途ある有望な刑事ルシア・ソトに事件解決の現実を教えるための物だったように思う。

ボッシュ2人が辿り着いた事件の結末についてルシアは複雑な思いを描く。彼女は自分を含め友人と保母を悲惨な目に遭わせた放火犯を何年経っても自分の手で探し出し、そして罪を償わさせること。それが彼女が警察官になった時に描いていた図だった。

悪は暴かれ、裁かれなければならない。

しかし物事はそんな単純に割り切れる物ではなかったことを彼女は悟らされる。胸の中に燃えていた思いの行き先は一気に燃え立ち、そして消失する者だと思っていたが、燻ぶり続け、心に熾り続けていくことを彼女は経験した。たとえそれが事件を解決したことになっても。

我々読者がミステリや物語に求める物は何か。
それはその時その人によって違うだろうが、明らかに大きな1つの共通項としてあるのは物事が解決し、爽快感をもたらされることだろう。

事件が起き、そこに謎があり、もしくは主人公がのっぴきならない境遇に陥って先行きが読めない状態にあり、それが主人公たちの行動によって見えなかった部分が明らかになり、収まるところに収まって物語が閉じられる。

それは我々の日常生活において起こること、世間で起こる現実の事件が物語で語られるようにすっきりとした形で終わらないからだ。

小説とは、物語とは率直に云えばその中身にどんなにリアルが伴っても、作り事、虚構に過ぎない。
しかしだからこそそこに割り切れる結末を求め、読者は日常生活で抱える鬱屈を解消するのだ。

しかしコナリー作品は決して100%の結末を我々に提供しない。なにがしかのしこりを常に残して物語は終わる。それはある意味リアルであり、もしくはある意味イーヴンであれば申し分ないと云う妥協、いや物事への折り合いをつける着地点を示しているかのようだ。

それが逆に読後感に余韻を残し、しばらく読者の胸に留まるのだ。言葉を変えれば読者の胸の中に物語が、登場人物たちが生き続けるのだ。

ボッシュがこの後も登場するのは我々は判っている。どのような形で我々の前に姿を現すのかは不明だが、再会するボッシュは、頭の先から爪先まで変わらぬボッシュであることだろう。


▼以下、ネタバレ感想
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燃える部屋(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリー燃える部屋 についてのレビュー
No.1330: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ダーク・ハーフ(暗黒面)は我々にもあるのだよ

文庫裏の粗筋を読んだ時、キングはなんということを考えつくのだろうと、その奇抜さと着想の斬新さに驚いてしまった。
まさか作家の別のペンネームが独り歩きして現実世界に現れ、作家周辺に脅威を及ぼすとは。しかもその<邪悪な分身(ダーク・ハーフ)>はおおもとの作者と同じ指紋、声紋を持つ、全くの生き写しのような存在なのだ。
キング版『ジキル博士とハイド氏』とも云える1人の人物から生まれた2つの人格の物語はしかし本家における二重人格とは異なる、全く新しい趣向で語られる。

まず本書の着想の基となったのがキング自身の経験によるものだ。キングはその迸る制作意欲を止められず、当時出版業界にまかり通っていた1作家は1年に1冊だけ出版するという風潮からリチャード・バックマンという他のペンネームを使って作品を2作以上発表することにしたのだが、やがてバックマン=キングという説が流れ出し、公表するに至ったという経緯がある。

本書の始まりもその実体験をそのまま擬えたかのようにワシントン市の法科学生がたまたま売れない作家サド・ボーモントの作品とベストセラー作家ジョージ・スタークの両方の作品を読んでいたことでボーモント=スタークではないかと疑問を持ち、暴露されそうになったところを敢えてサド・ボーモントの方からジョージ・スタークの葬式を行う、つまり今後ジョージ・スターク名義の作品は書かないという宣言をした記事を『ピープル』誌に載せたところから始まる。

本書はある意味メタフィクションと云っていいだろう。なぜならサド・ボーモントを通じてキングがバックマンとして作品を書いていた時の心理が描かれているように捉えることのできる描写が見られるからだ。

サド・ボーモントがジョージ・スターク名義で犯罪小説を書き始めたのは自身がすごいスランプに陥って新作が書けなくなった時に全く逆の、自分が書かないであろう作品を書いた時にそれが上手くカチッとハマったこと。

サドがスタークの作品を書いている時、自分が本当は何者か解らなくなること。

またジョージ・スタークの名の由来となった実在の作家ドナルド・E・ウェストレイクの別名義リチャード・スタークのエピソードを交え、彼のように自分の中のジョージ・スタークが目を覚まして自ら語り出したということ。

最初は単に金を稼ぐために生み出したもう1つのペンネーム。しかしその正体を秘密にすることで作者はばれないよう、文体を変え、そして書くテーマも変える。しかしそううすることで次第に自分の中で別の人格が生まれてきた、つまりキングの中でバックマンは単に名前だけの存在ではなくなったことが暗に仄めかされるのだ。

そこから出たアイデアがもう1つのペンネームが別人格となって実在し、本家の作家の脅威となるというものだ。本書はこのワンアイデアのみだと思われがちだが、色んなテーマを内包している。

まずは双子の奇妙な繋がりだ。

物語の冒頭は主人公サド・ボーモントの少年時代に起きた偏頭痛の手術のエピソードが描かれている。その頭痛の原因は脳に出来た腫瘍による圧迫だとされ、緊急手術が行われるが、なんとそこで出てきたのは目玉と鼻の一部と歯だった。生まれるであろうもう1人の双子の片割れが消滅し、サドの頭の中に断片が残っていたのだ。

そして大人になって結婚したサド・ボーモントには双子の兄妹が生まれる。片方が泣けばもう一方も泣き、その逆もまた然り。そして奇妙なことにもう一方が転んで痣を作れば、もう一方も同じような痣が同じ場所に出来る。その妙なシンクロニシティはそのままサド・ボーモントとジョージ・スタークにも繋がっていく。
スタークはサドの少年時代に処分された双子の断片であり、サドが作家になってもう1つのペンネームで捜索をした時が再生のきっかけであり、そしてスタークを葬るのに架空の葬式を行ったことで彼が具現化したのだ。そしてサドはトランス状態に陥ることでスタークと精神的に繋がる。
未だにこの双子特有のシンクロニシティもしくは親和性については研究が行われている。我々の世界にはまだ解明できない生命の不思議があるようだ。

もう1つはたびたび登場するスズメの群れ。

私は最初このフレーズを読んだ時、ヒッチコックの『鳥』を想起した(作中にも同様のことが書かれている)。
とにかく理由もなく突然町に蔓延する鳥の大群。やがてそれらは大きな1つの意志を持つかのように次々と人間たちを襲っていく。なぜ彼らはそうするのかは解らないまま、映画は終わる。

サド・ボーモントの夢、幻覚に現れるスズメの群れもまた何かの象徴で、それは物語の半ば過ぎで言及される。

そして物語の最終局面の舞台、サドの妻と双子の子供をさらったスタークがサドを待ち受けるキャッスル・ロックの別荘には何億羽というスズメの大群に覆われる。ハリー・ポッターの映画の一シーンのように実に映像的だ。

ところでこの頃のキングは物語の主人公を作家にしたものが目立つ。
『ミザリー』は狂的なファンによって監禁されたポール・シェリダン、次の『トミーノッカーズ』でもウェスタン小説家のボビ・アンダーソンを、そして本書ではサド・ボーモントと連続している。

更にいずれも作中で『ミザリーの帰還』、『バッファロー・ソルジャーズ』という作中作が断片的に織り込まれており、本書でももう1つのペンネーム、ジョージ・スターク名義の作品『マシーンの流儀』、『バビロンへの道』、更にサド・ボーモントのデビュー作『ふいの踊り子』の抜粋が各章の冒頭で引用されている。更に物語の終盤ではスタークとサドが共に書く新作『鋼鉄のマシーン』が断片的に挿入される。

これら3作続いて架空の作家による架空の作品について文章まで挿入しているのは溜まりに溜まった創作メモを一旦整理するためだったのだろうか?

80年半ば、キングはスランプ状態に陥り、前作『トミーノッカーズ』は自身のアルコールと薬物依存を基に書かれている内容が多々あり、それに当時起こったチェルノブイリ原発事故を宇宙人の影響による怪事に見立てた非常に冗長な作品であった。
『ミザリー』の時に既にスランプ状態にあり、その後前作を経て書かれたのが本書である。
そんな状態だったからこそ、今まで書き溜めてきたアイデアを作品にするまでに自信がなかったのでこの際、作中で消費してしまおうと考えたのではないか?
特に『ミザリー』における作中作『ミザリーの帰還』の分量は意外なまでに多かった。このファンタジー系の作品はもしかしたら直前に発表された『ダークタワー』シリーズ2作目の後に構想されていたアイデアかもしれないが、当時のキングにはそれを基に続きを書く自信がなかったのではないだろうか。

そして本書におけるジョージ・スタークの小説は内容としてはかなり残酷な犯罪小説で純文学作家のサド・ボーモントの作風とは全く異なる、真逆の作品らしい。
しかしこれもまたキングの内から出でた作品の断片なのだ。
とにかくとことんのワルを書くために温められてきたアイデアを本書のジョージ・スタークが行う数々の殺人描写に使ったように取れる。それほどまでにこのスタークの殺人シーンは映像的迫真性に満ちており、陰惨で生々しくそして痛々しい―特に被害者の一人が剃刀で喉を切られそうになるところを左手で庇ったために3本の指が根元から切れて、折れ曲がり、薬指だけが付けていた指輪のために被害を免れたせいで、まるで中指を立てて相手を侮辱するのに立てる指を間違えたかのようだと云う描写はユーモアと痛々しさが同居したキングしかできない表現だ―。

この一連の作品群において作中作を盛り込んでいるのは迸る創作への意欲とアイデアがありつつも一作品として仕上げるにはアイデアが煮詰まっていないもどかしさ、つまりスランプに陥ったキング自身の足掻きが行間から見えるようだ。
そして“書く”ことへの業を作家は背負っているのだと仄めかしているようにも思える。

書かない作家はただの人であり、そしてほとんどの作家は存命中にその功績を認められ、ベストセラーになったとしても、死後ずっとその作品が残り続けるのは非常に稀だ。

それはまさに歴史に埋もれていった没後作家たちが人々の記憶から風化していくかのように。

人は誰しも二面性を持っている。陽の部分の陰の部分だ。
「ダーク・ハーフ」とは即ち誰しもが備える陰の部分、暗黒面であり、それは別段異常なことではない。

普通我々一般人は犯罪や戦争などとは無縁の生活を送り、朝起きて仕事に行き、夜帰って家族と束の間の時間を過ごし、休日は家族サービスや趣味に興じる。

しかしその一方このキング作品のようなホラー、本格ミステリ、その他犯罪小説、サスペンスといった殺人やまたそれを行う殺人犯の物語を好んで読む人もいる。
それはある意味それら普通の人々に中に潜む悪を好む部分、≪邪悪な分身(ダーク・ハーフ)≫なのかもしれない。

つまり全てが清らかで普通であることは実に退屈であり、人は常に何かの刺激を求める。しかし犯罪に手を染めることができないからこそ、人はその代償を物語に求める。
己のダーク・ハーフを充足させるために。

現在我々はネット空間という新たな場所を手に入れ、そこでは日中、学校や職場では見せない別の自分の側面をさらけ出す。そしてネット空間は匿名性ゆえに自分の内面をより率直に露出することができるのだ。
そんな匿名の世界にはしばしばネット社会でのマナーを逸脱して素の自分をさらけ出し、ダークな一面を見せる人たちもいる。

全ての人が常に善人であるわけではない。しかしその暗黒面は他者に迷惑を掛けず、我々作家が紡ぎ出すミステリで満たしなさい。
そんなことを作者が告げているような気がした。

朝起きた時、スズメがいつもより多いと感じたら、自分のダークサイドが多めに出てないか、気に留めるようにしよう。

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ダーク・ハーフ〈下〉 (文春文庫)
スティーヴン・キングダーク・ハーフ についてのレビュー
No.1329: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(3pt)

とりあえずお仕事こなしました的な

軽めの題名に軽めの登場人物とポップなイラストがふんだんに盛り込まれた作品だが、描かれている物語はなかなか凄惨で重苦しい。

某国立大学を舞台に起きる連続殺人事件。その大学の化学工学科の面々を中心に物語は進む。

スージィこと内野智佳はアルバイトで雇われた秘書だが仕事が早くて有能。彼女は自分が同じ大学の情報工学科助教授の三枝と結婚していることを周囲に隠している。

ホリこと堀江尚志は同学科の助手。しかし彼はいわゆるロボットオタクで自己中な性格。しかもシステム管理者という立場を悪用して学科内のメンバーのメールを盗み見ている。

イエダこと家田恒雄は同学科の教授。教授という立場上、単位を欲しがる女子大生が彼の許を訪れることもあり、それを彼は一応拒まない。

サトルこと遠藤学は同学科の助教授。この中では最もまともな人間で堅実ゆえに最も目立たない。

サエグサこと三枝洋侑は先にも述べたように情報工学科の助教授で、まだ34歳。どうもモテる風貌をしているよう。

最後がルナこと鈴木奈留子。彼女は化学工学科の図書室の司書をしているが、今回一番の被害者である。なんと3度も襲われるのだから。

それに加えて謎のXという人物が学内に暗躍し、次から次へと大学の人たちを襲っていき、とうとう殺人事件にまで発展する。

上に書いたように装丁から登場人物設定などポップな印象だが、各章はほとんど各登場人物を中心に書かれ、そこに書いてある心情が実に暗鬱で内省的。
この頃は『四季』4部作を発表した時期と重なり、同4部作で見られた観念的な記述が本書でも踏襲されている。詩的で抽象的で観念的で、独善的。自分の世界に入り込み、ますます排他的になっている印象を持つ。

内容は一応ミステリでサプライズもある。

インターネットの普及によりいわゆるネット人格が叫ばれてきたことだ。二重人格、三重人格という人たちはかつて精神異常者の中でも最上級の物として恐れられてきたが、インターネットが普及することでほとんどの人が匿名性のあるハンドルネームを持つことになり、それによってネット社会という非日常を手に入れることで内面から湧き出る新たな人格が生まれた。

つまり本書はこの新たなツールによって誰しもがネット人格という別人格を持つことができ、それがサイコパスに発展する危うさを描いていた作品と捉えることも可能だろう。

当時森氏の人気は絶大でまさに引く手数多の状態。そんな状況で流石に筆の早い森氏でもやっつけ仕事の1つや2つはあったことだろう。本書はそんな感じを受ける作品だ。
内容の薄さと恐らく何でもいいから書いてくださいと云う編集者の言葉を真に受けて自分の好きなように文章を綴り、そして自分の好きなイラストレーターに頼んでふんだんにイラストを盛り込んだように思える。

カラー印刷を多用し、それを存分に活かす上質の紙で作られた本書はまさに森氏の趣味が横溢した1作だろう。
恐らく森氏個人は出来栄えに満足しただろうが、私にとって創作者と読者との埋まりようのないギャップを感じた作品となった。


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奥様はネットワーカ
森博嗣奥様はネットワーカ についてのレビュー
No.1328: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

記念館は隠したい過去まで曝け出すのか?

今や葉村晶シリーズで『このミス』ランキングの常連となった若竹七海氏。
その彼女の評価は鮮烈なデビュー作『ぼくのミステリな日常』以降、このようなランキングで取り上げられるほどではなかった。しかしその実力は織り込み済みで常に一定レベルの作品を残しており、1991年デビュー以降、コンスタントに作品を出し続け、そして昨今の好評価に繋がっている。もともと地力のある作家と思っており、私も先述のデビュー作以来2作目の若竹作品となったわけだが、いやあ、地味な作品ながら実に読ませる。そして面白い。

物語は架空の都市新国市。そこで生れ育ち、そして夭折した架空の作家高岩青十の功績を遺すために建てられた高岩青十記念館が舞台。そこに勤める嘱託の学芸員、佐島才蔵とその妹のミステリ作家でもある楓を通じてそこで起こる殺人事件の謎を解き明かすといった内容だ。

こう書くと実にオーソドックスなのだが、実は殺人事件は物語の中でも約半分くらいのウェートしか占めない。残りの50%は才蔵たち学芸員たちの日常と、架空の作家高岩青十と、彼を取り巻く人々の隠された過去の謎だ。
そしてこの残りの50%が実に面白い。

まず才蔵たちの日常を通じて語られる学芸員の仕事について私は実に興味深く読んだ。

彼が勤めていた会社が倒産したことがきっかけで親戚の伝手で働くことになった記念館の日常は、我々サラリーマンのそれと違い、実にゆったりとして牧歌的だ。
一応才蔵は大学で学芸員過程を履修した、学芸員志望の青年なのだが、彼の採用理由はお茶を淹れるのが上手であることと、記念館の創設者高岩佐吉氏が才蔵という名前から霧隠才蔵を連想し、自身の従兄弟で先代の総裁佐助の名と縁を感じたというものだ。

そんなどこか浮世めいた世界で、正直私なんかはこのような施設に勤務する人たちの一日はどんな風に過ぎていくのだろうと思っていただけに本書に書かれている内容は新鮮だった。

とはいえ、正直云って彼らの平素の業務は日常の管理と印刷物の発注ぐらいで本書のメインとなっている特別展の企画の準備の様子が知的好奇心をそそるのだ。

特別展のパンフレットの校正の様子はもとより、特に青十が趣味で集めていた絵葉書の内容から日記に記載されているものを探し出す作業が面白い。

特に当時の切手を頼りに昭和12年に葉書の郵送費が値上がりした史実に基づいて時系列に並べて関連性を繋げたり、また日記の記述から当時の貨幣価値を探るといった歴史探偵的興趣に溢れている。そこで参考にされていた『値段の風俗史』という本は個人的にも興味を覚えた。いつかは手元に置きたい書物だ。

また著作権が切れると出版社は遺族に金を支払う義務が発生しなくなるので一気に復刊やリメイクが進むことになることも昨今の昭和の名作の復刊ブームや映像化の現状を見ているようで興味深い。
なお本書では著者の没後50年が期限と書かれているが、令和元年現在では没後70年まで延長されている。

また当時の記述から流行や風物を問答で探るなども実に面白い。私がやりたい仕事とはまさにこのようなものだ。

そんな業務を通じて佐島才蔵はじめ、先輩学芸員の浅木知佳と岡安鶴子、アルバイトで高岩家の遠縁でもある笹屋夕貴、記念館の市の担当課長三田朝日、カメラマンの品川たちのキャラクターが次第に読者に浸透していく。

彼ら彼女らが実に人間的であるがために後半の殺人事件が起きてからのギャップが激しい。

殺されるのは才蔵の憧れの存在でもあった岡安鶴子。
彼女の死を調べていくうちに次々と不審な事実が発覚する。

鍵のかかった鶴子の机の引き出しにはどこかには存在すると思われながら発見されてなかった青十の姉涼子の日記のコピーと展示資料の絵葉書が隠され、また貯金も2,300万円もあり、一介の学芸員にしてはかなりため込んでいたこと。

そして400万円が最近になって振り込まれていたこと、更に妊娠3ヶ月だったこと。
更には青十の持ち物である中国の古墨で売れば30万円もする高級なものを学芸員の立場を利用して勝手に持ち去っては転売しようとした節が見られたこと。

更に市の担当課長である三田朝日も不倫の疑惑があり、才蔵たちはその相手が誰かと思案し始める。そんな時に受付の女性遠山修子が目に痣を作り、それが不倫がバレて夫に殴られたようだと噂される。

才蔵をして春の陽だまりのようなのんびりとした穏やかな職場だと云わせた記念館が一転人間不信の塊の伏魔殿のように変わっていくのは物語に、登場人物たちに没頭していただけに何とも切ない思いがした。

またデビュー作『ぼくのミステリな日常』が会社の社内報という印刷物という位置付けであったことで各編にその月の内容を記載した目次が挿入されていたのが特徴的だったように、本書でも若竹氏は色んな資料を物語に取り入れている。

まずは高岩青十記念館のパンフレット。よくこのような施設に行くと入館料と共に渡される冊子だが、記念館のある公園と記念館そして青十が生まれ育った旧館の見取り図が付されているという懲り様。きちんの記念館設立の経緯、高岩青十の生い立ちまで記載されており、恰も実在した作家のような錯覚を覚える。

更に文学館の存在意義について語った中村たかを氏の『概論博物館学』からの抜粋、記念館で開かれる特別展『隠された青十展』の企画書とその特別展の目次と続く。

そしてこの実に一般的な、何の変哲もない無味乾燥とした書類にきちんと若竹氏は事件の手掛かりを入れているのだから大したものである。

更にはこの架空の作家の代表作『蔦騒ぎ』の粗筋もきちんと作り、それを物語に有機的に繋げる手法も素晴らしい。
まさに印刷され、そこに字が書かれて読まれるものであれば全てミステリに取り込む、それが架空の物であってもという若竹氏の刊行物や小説を含む書物への思いの深さを思い知る一端だ。

事件の真相が判るとこの物語の舞台を記念館としたのはなんとも皮肉に思える。

記念館とは故人を偲び、その功績を、足跡を遺したいという想いから成り立っている。大抵の人は生きていた痕跡はその周囲の人の記憶に留まり、そしてそれらの人が亡くなることでやがて消えていく。

しかし記念館は形として、記録として残すことでその館が存在する限り、故人の記録や記憶は無くならない。

本書は思慕や想い出を遺したい、後世へと引き継ぎたいという一途な思いと過去を葬り去りたいと望んだ人たちが招いた悲劇。

画家は慕った女性の面影を遺すために絵を描き、そして密かに持っていた愛しの君の日記を託す。

生きていた証を残したいというのは誰もが抱く願望だ。
しかし皮肉なことにそれらの人の思いとは裏腹に残したい物は全て消え去る。

そして案外故人の生前の痕跡を残す記念館は当の故人にとって葬り去りたい過去まで晒される、実に迷惑な代物なのかもしれない。

しかしこの題名『閉ざされた夏』は作者のどういった思いが込められているのだろう。
上に書いたように文字が書かれたものに対しては貪欲なまでに物語に取り込む、いわばこれほど文章に鋭敏な作者だけに、一連の物語とこの何とも云えない寒々とした題名が結びつかないのだ。
唯一想起させられるのは先にも書いた佐島才蔵が述べた記念館の職場の雰囲気、「春の陽だまりのよう」といった記述だ。

つまり温かい春のような職場がいつの間にか起こった事件で佐島才蔵1人になってしまった、閉館に追い込まれた冬が一気に訪れ、来るべき夏は来なかった、つまり夏は閉ざされてしまったということを指しているのだろうか。

しかしこの佐島才蔵とミステリ作家楓のコンビは親近感を覚える兄妹だった。残念ながら本書はノンシリーズ、つまり彼らが活躍するのは本書限り。
寂しいがこの後の若竹作品ではまた別の愛すべきキャラクターに逢えるに違いない。それを期待してまたいつか彼女の作品を手に取ろう。


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閉ざされた夏 (光文社文庫)
若竹七海閉ざされた夏 についてのレビュー
No.1327:
(9pt)

もやもやしつつもカタルシス

リンカーン弁護士シリーズも5作目を数えるようになった。前作『証言拒否』では民事訴訟を扱い、最後は地方検事長選に出馬するとの決意表明をして物語は閉じられた。
本書はその選挙の1年後に当たる。結局ハラーは選挙には破れ、再び刑事裁判を扱うようになった。いわば振出しに戻ったような形だ。

今回ハラーが扱う事件はアンドレ・ラコースというデジタルポン引きの殺人容疑の弁護で、奇妙なことに彼は殺害された娼婦当人からハラーが優秀な弁護士だと勧められたという。そしてその娼婦の名はジゼル・デリンジャー。ハラーは全く心当たりがなかったが調べていくうちにかつての依頼人グローリー・デイズことグロリア・デイトンであることが判明する。

私はこの名前をかすかに覚えていた。第1作『リンカーン弁護士』の中で麻薬所持で起訴されそうになっていたのをハラーによって助けられた売春婦でトラブルメイカー的な存在として書かれていた。そしてその後ハワイに送ってそこで過去と断ち切った生活を送っていると思われていた女性。しかし彼女は名を変え、アメリカ本土に戻り、また売春婦の仕事をしていた。

それがきっかけでハラーはラコースの弁護を引き受けることになる。そして調査を進めていくうちにこのラコースが無実であり、嵌められたことが明らかになってくる。グロリアが麻薬取締捜査官ジェイムズ・マルコのタレコミ屋、そして手先として飼われていたことが明らかになる。そしてグロリアによって身に覚えのない火器を自分の物だと証拠づけられ、終身刑で服役することになった麻薬王ヘクター・モイアの存在も浮かび上がりつつも、事件はこのマルコによって仕組まれた罠だったことが判明する。
つまり法の番人である麻薬取締局が今度の相手という巨大な相手をハラーはしなければならなくなる。

コナリーの作品の特徴の大きな1つとして過去の作品の因果が新たな事件に大きな要因として作用してくることが挙げられるが、今回もまたその例に漏れない。

上に書いたようにグロリアの初登場シーンは麻薬所持で起訴をされそうになったところをハラーに助けを求めるシーンだ。つまりグロリアは既に麻薬取締局の手先になっていたことが仄めかされている。
この何気ないエピソードの1つでこのような壮大な物語を描くコナリーの着想にまたもや唸らされた。

そればかりでなく、今回は原点回帰であるかのように第1作の登場人物がやたらと出てくる。

まずハラーの元調査官で事件の調査中に殺害されたラウル・レヴンの名。その名を想起させたのはその事件を当時捜査していたグレンデール市警殺人課の刑事リー・ランクフォードが再登場する。彼は刑事を辞め、検察側の調査官となっており、ラコース事件を担当する検察官ウィリアム・フォーサイスの調査官となり、ハラーの前に立ち塞がる障壁という重要人物になっている。

また運転手も2作目で雇われた元サーファー、パトリック・ヘンスンではなく、1作目に登場したアール・ブリッグスだ。彼は今回運転手以上の働きを見せ、ハラーのミーティングにも参加するようになる。

そしてハラーが1作目に使っていた保釈保証人フェルナンド・バレンズエラも登場する。

なぜこれほど1作目の登場人物が登場するのか?
それはハラーが前作の最終で立候補した地方検事長選に敗れたことに起因する。一旦は弁護士から検事の側へ移ることを決意しながらも叶わなかったハラーは民事弁護士ではなく再び刑事弁護士として再出発する。そしてこの地方検事長選の敗北で被った被害がハラー自身に留まることではなかったことも明かされる。これについてはまた後で述べよう。

一方でこれまでのシリーズで新たに加わったメンバーも更にキャラクターが濃くなり、シリーズとしての醍醐味も増してきた。

頼れる調査官シスコはもうハラーには無くてはならない存在でその有能ぶりを遺憾なく発揮する。高度な調査能力と腕っぷしを誇る彼はしかし、裏切者を容赦なく制裁する麻薬カルテルのボス、そして自分の利益のためならば無実の人でさえ罪を着せる冷酷な悪徳捜査官を相手にする今回の裁判で妻ローナはこの屈強な夫もラウル・レヴンのような危難に遭うのではないかと心配する。それはラウル殺害事件を捜査したランクフォードの登場が起因しているのだろう。

そしてブロックスことジェニファー・アーロンスンもハラーの片腕として申し分ない一人前の弁護士となっている。ハラーも自分を超えるのもさほど遠くないと云わしめるほど頼りになる存在だ。

そして今回初登場のデイヴィッド・“リーガル”・シーゲルを忘れてはならない。彼はハラーの父親の弁護士事務所の共同経営者で弁護の戦略を立てていた人物であり、またハラーの弁護士としての師匠でもあった。
50年近いキャリアを持つ彼はまさに生きる伝説の弁護士であり、あらゆる手法に精通した人物だ。『スター・ウォーズ』で云うところのヨーダ的存在だ。

またハラーの家族も出てくるが、あまりよろしくない状態となっている。
ボッシュとマデリンの親子がシリーズを経るにつれ、信頼を深めている一方、ハラーとヘイリーの親子関係は悪化の一途を辿っていることが書かれている。ヘイリーは悪人を弁護する父親の職業に嫌気が差し、またそれによって彼女自身も学校の友達から中傷を受けるようになって転校する被害を被るに至り、今まで隔週で水曜日と週末にハラーの家に泊る取り決めも事実上なくなっていた。更に地方検事長選で落選したために、ハラーを支援していた元妻のマギーは文書整理担当という閑職に追いやられ、心機一転ヴェンチュラ郡地区検事局に転職することになり、ますますハラーの住むLAから間遠になってしまう。

ハラーも悪人を刑務所に送り込む刑事のボッシュと悪人―といっても無実の人かもしれない人―を刑務所から釈放する弁護士という職業の自分とを比較し、その差について落胆をする始末だ。

しかしボッシュが刑事という職業に誇りを持ち、悪に制裁を加えることを使命と感じているように、ハラーも無実なのに刑に処されようとしている人を救う職業だと誇りを持って、仕事に臨めばこのような罪悪感に苛まれることはないのだ。

今回の事件でハラーが対峙する麻薬取締局捜査官ジェイムズ・マルコと彼と組む元刑事で検察側の調査員リー・ランクフォードは自分の目的のためならば平気で凶器や麻薬を仕掛け、恰もそれをターゲットの人物が所持していたかのように見せかけて不当逮捕を平気で行う悪徳捜査官だ。このような正義の名の下で自分の利己心を優先して無実の人に刑を与えようとする法の番人がいるからこそ、弁護士もまた必要なのだ。

本書は原点回帰のような作品だと上にも書いたが、それを踏襲するかのように本書ではラウル・レヴンに匹敵する犠牲者がハラーの仲間に出てしまう。

コナリーの作品には以前も書いたが3つの大きな要素がある。

1つは警察やその他捜査機関の連中が決して清廉潔白な人物ではなく、彼らもまた犯罪者になりうると謳っていること。

もう1つは娼婦が関わる事件が多い事。

そして最後の1つは過去の作品の因果が大きく作用していることだ。

正直3つ目の過去の因果については既に述べたのでここでは書かない。

やはり特徴的なのは1つ目と2つ目だ。1つ目はこの要素を作品に持ち込んだことでコナリーはいつも我々に驚きと何とも云えない荒廃感漂う読後感を与え続けていることだ。パターンと云えばパターンだが、これがまた不思議と盲点となり、そして常に苦い気持ちを抱かせてくれる。

もう1つの娼婦についてはボッシュが娼婦の息子であると云う設定から事あるごとに物語に登場する職業だと云っていいだろう。この頻度の高さは正直異常である。
前にも書いたかもしれないが、娼婦という職業を選ばざるを得なかった生活に貧窮した女性たちを描くことと、そんな社会の底辺でも逞しく強かに生きていく彼女たちを描くことでアメリカ社会の現実を知らしめようとしているようにも取れる。特に今回ハラーが裁判の調査の過程で知り合ったケンドール・ロバーツは元高級エスコート嬢から足を洗い、ヨガ教室の先生として生計を立てた女性で、過去を捨てて生きていく彼女の姿勢と美しさに魅かれ、彼は彼女と付き合うようになる。

また一方でケンドールと一緒に働き、今もエスコート嬢をしているトリナ・ラファティとの対比させることで変われる女性と変われなかった女性の有様をまざまざと見せつける。誰もがチャンスに恵まれていることではないことも現実的に突き付ける。

しかしコナリーがハラーをして娼婦のグロリアを「放っておけない女性」とし、また彼の新恋人に元娼婦を選んだのも彼なりにこの職業の女性たちにどこか親近感を抱き、そして亡くなっても歯牙にもかけられることのない彼女たちへエールを送っているのかもしれない。

さてここでちょっと話題を変えて私の心に留まったエピソードを書き留めておきたい。

ハラーによれば自身を主人公にした映画がヒットしたことでリンカーンに乗る弁護士が増えたようだ。従って自分の車がどれか解らなくなり、誤って他の車に乗り込むシーンさえもある。本当ならば実に面白いことだ。

また右脳と左脳との関係で人は自分の左手にいる人の意見に賛成するものらしい。これはちょっと試してみようと思う。

またハラーが日本酒好きになっていたことも明かされる。世界で日本酒が好まれ、現在消費が拡大しているが、まさかハラーまで飲んでいるとは。
いやこれは正確には作者コナリー自身の話ではないか。彼の写真は酒焼けしているかのように顔が赤いからかなりの酒飲みではないかと私は睨んでいるのだが。

さて本書のタイトル「罪責の神々」はハラーの父親が陪審員たちに与えた呼称だ。彼らは自分たちの生活基盤に基づいて罪を決める。従ってその判断基準は多種多様だ。いかにこの神々を説得し、納得させるかが裁判の鍵となるのだと。
それを意識してかハラーは陪審員の中のキーパーソンを意識して裁判を進める。自分の意を組む神を見つけ、そしてあるべき結果に導くようにと。

しかし今までの例に漏れず、今回の裁判も苦い結果に終わる。

しかし裁判も恐ろしいものだ。本来悪を罰するために行われる裁きが、弁護士、検事の口八丁手八丁で歪められていく様、また証拠不十分であれば罰せられない現実から、証拠を捏造して狙った獲物を刑務所に送り込もうとする捜査官も存在する。

またそれを隠匿するために麻薬を無実の人の家に忍ばせ、不当逮捕を企む。更には裁判で敗色が濃厚になると他の服役囚に襲わせ、無効化させようとする。

罪を裁くために行われる裁判が高等なロジックの上に成り立ち、また公平さを重んじるあまり、法律や規則にがんじがらめになって罰せられるべき者が罰せられず、無実の人が罪を着せられ、刑務所に送られるようになる。
手段が目的となっており、悪を征するために正義が悪を成すと云う本末転倒な社会に、システムになり、そしてそんな危険な思想が横行している。それが現代社会なのだ。

世の中全てが正しく解決されることは限らない。寧ろ現実世界はうやむやになって人々の記憶から忘れ去られる事件ばかりだ。
そんな世の中だからこそ我々は答えが出るミステリを読むわけだが、コナリーは実に現実のシビアさを突きつける。まあ、今日はこれくらいで良しとしようといった具合にはカタルシスを与えるかのように。

さてリンカーン弁護士という非常に特徴的なキャラクター設定で登場したミッキー・ハラーを通じてコナリーは時に弁護士側、検事側、刑事裁判に民事裁判と多面的にアメリカの法曹界を描いてきたが、ここに来てようやくシリーズの本流を刑事裁判に絞ることに決めたようだ。
本書の結びにはかつてのように刑事裁判を続けることへのハラーの疑問や悪を裁く側の検事長への立候補するなどと云った意外な展開、悪く云えばハラーの心情のブレがない。最後の決意表明はボッシュ同様に弁護士としての使命感に溢れ、まさに決意表明と云った感がある。

次作はまたボッシュと組んで事件に取り組むようだ。色んな犠牲の上に今の自分があると悟ったハラーの次の活躍が非常に愉しみだ。


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罪責の神々 リンカーン弁護士(上) (講談社文庫)