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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1433件
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東京創元社が新しいミステリレーベル、ミステリ・フロンティアを創設し、それまで聞いたことのない作家たちの作品が累々と出され、あっという間に『このミス』や『本格ミステリ・ベスト10』が週刊文春のミステリベスト10などの各種ランキングを騒がせるようになり、一躍ミステリ読者注目の叢書となった。
伊坂幸太郎氏、米澤穂信氏、道尾秀介氏など今のミステリ界にその名を連ねる新しい才能が次々とこのレーベルからは出ていったが、それまでライトノベルの分野で作品を発表していた桜庭一樹氏が初めてミステリ界でその作品を発表したのが本書である。そして本書をきっかけにミステリ界にその名が知られるようになり、それ以降の活躍はご存知の通りである。 物語の舞台は山口は下関市の沖合にある離島で下関とは橋で繋がっており、島の人々は漁業で生計を立てる者がほとんどで、中学までは島の学校に通い、高校からは下関市の学校に通うのが一般的になっている。そして橋が出来たことで島民たちは中学生たちも含め下関市にショッピングや娯楽を愉しみに出かけるのが通例で、また島民の流出が始まっており、さびれかけている。最近できたマクドナルドが老若男女問わず島民たちの憩いの場となっている。 そんな地方のどこにでもある町に住む女子中学生2人、大西葵と宮乃下静香の、中学2年に体験した、青くほろ苦い殺人の物語。この2人はそれぞれの家庭に問題を抱えている。 美人でかつて東京で働いていた母親を持つ大西葵は学校ではいつも周囲を笑わせるムードメーカー的存在だが、父親を5歳の時に病気で亡くし、再婚した漁師の義父は1年前に足を悪くして以来、漁に出なくなり、毎日酒浸りの日々。もはや酒を飲むか、酒を買いに行くか、寝るかしかしない大男で狭心症を患っている。従って生計は母親の、漁港での干物づくりパートで賄っている。葵はこの義父がとても嫌いで死ねばいいのにと思っている。 宮乃下静香はその島の網元の老人の孫で従兄の浩一郎の3人暮らし。中学生になった頃から島に住み始め、それまでは祖父に勘当された母親の許で暮らしていたが、祖父がその行方を捜していたところを見つけられて引き取られることになった。彼女の母はその時既に亡くなっていたため、彼女のみ島に帰ることになった。そして浩一郎は祖父から嫌われており、なんとかなだめてその莫大な遺産を相続しようと画策している。そして遺言状が書き替えられ、遺産を相続することになった時こそ、自分が浩一郎に殺される番だと恐れている。 バイトで稼いだ小遣いをゲームに費やす大西葵、読書家でいつも鞄がパンパンに膨れ上がるほどの本を持ち歩いている、図書委員の宮乃下静香は作者本人の分身のように思える。 桜庭氏がかなりの読書家であることが知られており、また別名義でゲームシナリオも書いていることから恐らくゲーム好きであろうことが窺える。 この2人のうち、語り手の大西葵を中心に物語は進むわけだが、これが何とも実に中学生らしい青さと清さを備え、あの頃の自分を思い出すかのようだった。 私は男だが、彼女たちの女子中学生の世界観はそれでも理解できる。子供だった小学生から、肉体的・精神的にも大人へと変わっていくこの年頃の複雑な心境、そして理解されたい一方で、大人を嫌う、愛憎入り混じった感情、そしてもう日常を生きるのに精一杯で我が子を表層的にしか捉えていない大人の無理解に対する憤りなどが織り交ぜられている。 少女たちの日常は虚構に満ちている。 それは辛い現実から少しでも忘れたいからだ。 そして少女たちは今日もセカイへ旅に出る。 中学生になった彼女たちはバイトして自由に使えるお金も増え、そして身体も大きく成長し、自転車でそれまで行けなかった距離も延々とこぎ続ける体力を持ち、それまで親の付き添い無しでは乗れなかった公共交通機関も、恐れることなく、乗れるようになる知識を備えている。 それまでできなかったことがどんどん出来てくる彼女たちは世界がどんどん広がるのを実感し、万能感と無敵感を覚えていく。 一方で小学生までは一緒にゲームで遊んでいた男子もからだの発育と共に大人びていき、異性を意識し出して、これまでのように話しかけることが出来なくなる。特に女性の方が精神面の成長は早く、男性は遅いので、男子はいつものように話しかけるのに対し、女子はいつの間にかできた心のハードルを飛び越えて、決意を持って話さなければならないようだ。 この辺は私もなんだか思い出すなぁ。 小学生の頃によく話していた女子に中学になって一緒のクラスになったので以前のように話しかけようとすると素っ気なく、無口になってしまっているのに、何スカしてんだろうと気分を悪くしたが、あれはもしかしたら大西葵が抱いていたような異性を意識する心のハードルが合ったのかもしれない。 また学校では明るく振る舞う大西葵が家では母親と上手く話せず、無口であるのも思わず同意してしまう。 既に中学生は社会性を備えてTPOに合わせて仮面使い分けているのだ。友達用の自分と家用の自分。それはどちらも自分でありながら、作った自分でもある。そんな自分を大人たちは知らない、昔は自分も中学生だったのに。 そしてそんな仮面がふと外れて巣の自分が現れる時、ずっと同じように続いていくと思っていた友人との関係に罅が入る。他のことに気を取られて生返事したり、メールした後にその内容と違うところをたまたま見られたり。そんな他愛もないすれ違いで彼女たちの友情は壊れたりする。そんな脆さを含んだ世代だ。 こうでなければならないと小学生の頃に叩き込まれたルールを愚直なまでに守り、一方でそれを逸脱することに面白みを感じる、矛盾を内包した彼らは自分の行為で生じる矛盾を許せはするが、他人の矛盾行為は許せない。なぜなら万能感を手に入れた彼ら彼女らは自分こそが正義だと思うからだ。相手に合わせることを知りながらも、一方で自分の規範から外れた者を排除することを厭わない純粋であるがゆえに不器用な心の在り方が、全編に亘って語られる。 夏休みの終わりはまた日常の始まり。非日常の毎日だった夏休みに掛けられていた魔法は不思議なほどに解ける。 ゴシック趣味の服装をした宮乃下静香は再びクラスの目立たない女子となり、殺人幇助をした彼女を恐れていた大西葵は次第に自分を取り戻していく。 学校という基盤が少女たちをまた中学生に引き戻す。日常と非日常を繰り返す。それは非日常のダークサイドを日常の学校生活で浄化しているかのようだ。 学校生活という現実から逃れるためにゲームや読書と虚構世界の中を生きる彼女たちにとって殺人自体もまた虚構の出来事として捉えることで消化する。だからこそ宮乃下静香は古今東西の物語をヒントにした殺人シナリオを作り、大西葵は殺人をテレビで観たマジックとゲームに出てくる武器バトルアックスで実行する。それはどこか彼女たちにとって白昼夢の出来事。 しかし違いは身体性、肉体性があること。 そして彼女たちの生身の身体が傷つき、血を流すとき、ゲームは終わりを告げる。世界に絶望した自分たちが血を流すことで生を意識したのだ。 ゲームの世界ではHPという数値でしか見えなかった敵を斃すということ、傷を負うということが実際に血を流すことでリアルに繋がったのだ。 つまりそれは彼女たちが生きていたセカイからの脱却。 本書は自分たちの障壁となる人物を排除することでリアルを体験し、そしてセカイから世界へ向き合うことを示した物語なのだ。 義務教育という庇護下に置かれた状態で自分を獲得していくのが中学生活とすれば、そこに何を見出すかはそれぞれによる。 大西葵はゲームの世界に逃げ込み、ネットワークで東京や大阪といった中心都市に住む人たちとバトルを挑むことで自分の居場所を実感する。 しかしそれも虚構に過ぎなかった。彼女が得ていた万能感は限られたセカイの中での物でしかない。 宮乃下静香は本の世界、物語の世界に没入することで知識を得、それを実行に移すことにする。大西葵という自分と価値観を共有できると確信した同志を引き込むために彼女は今まで蓄積してきた虚構の物語を自分流にアレンジし、そして本で得た知識と方式を自己薬籠中の物にして、葵を引き込んで未来を拓こうとする。 しかしそれも現実に照らし合わせれば、ただの物語好きな子供のゲームに過ぎなかったことを思い知らされる。 彼女たちが成し得た事、大西葵が成し得たことは偶然の産物に過ぎない。しかしそれを成し得たことで彼女たちにはもう一度同じことが出来ると錯覚した。 彼女たちは失敗を経験することでまた一歩大人の階段を登ったのだ。 これは彼女たちにとっては非常に良かったことだと思う。もしこの失敗がなければ彼女たちの虚構の万能感はエスカレートしていっただろうから。 現実の厳しさに耐えるため、敢えて虚構に身を置き、それに淫することで自らの居場所と万能感を得た彼女たち。それは思春期を迎える我々全てが経験する通過儀礼のようなものだろう。 そこから脱け出して現実を知る者、未だに抜け出せず、虚構の主人公となろうと振る舞う者。 今の世の大人は大きく分ければこの2種類に分かれているように思える。 彼女たちが認識した世界は実に苦いものだった。これはそんな少女たちの通過儀礼のお話。 リアルを知った彼女たちは今後、一体どこへ向かうのだろうか。 もし彼女たちが虚構に生きることを望んでいたのなら、確かにこの殺人計画は「少女には向かない職業」だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2000年代初期に祥伝社から400円文庫として250~300ページ前後の作家書下ろしの文庫がいくつか刊行された。これはそのうちの1編で、ものの1時間で読めた。
本書は戯曲の体裁で書かれており、文章魔王というこの世から小説を無くしてしまおうと企んでいる電脳世界に住む魔王を小説家志望の女性がノートパソコン片手に戦いを挑むというストーリーである。 とにかく全編鯨氏独特のユーモア、そしてちょっぴりエロに満ちている。 まず主人公2人の設定が人を食っている。小説家デビューを目指し、日々創作しては新人賞に応募するミユキはそれまで1冊も本を読んだことがない。しかし文章が無尽蔵に湧き出る才能の持ち主。 一方彼女が師事する小説家大文豪は物語が無尽蔵に浮かぶのだが、文章を書くのが苦手でこれまで1編も小説を書いたことのない自称小説家。 この実に胡散臭い小説家とミユキのやり取りが実に面白く、さらに明らかにミユキに欲情している中年のいやらしさがにじみ出ており、まさに鯨印といったところ。 そして大文のケータイ小説と世の小説家たちをスランプに陥れている文章魔王が住む電脳世界へアクセスする文章魔界道への行き方も数々のエロサイトを潜り抜けなけれならないというバカバカしさ。当時はまだ電話回線によるインターネット通信で、携帯電話を介しての接続と時代を感じさせる場面もあり、懐かしさを覚える。 ミユキが文章魔界道に入りこんで、旅のお供となるのが漫才師の青空球児・好児の2人。実名で登場する2人はお馴染みのギャグを披露しながらミユキと行動を共にする。 なぜこの実在の漫才コンビが登場するのかは不明。鯨氏と親交があるのだろうか? ミユキが文章魔王とその部下である第一の番人と第二の番人と対決するのは文章による対決だ。 この対決の数々はまさに鯨氏の文章遊びをふんだんに盛り込んだ内容となっている。前の400円文庫で刊行された『CANDY』でも当て字やダジャレが横溢しており、文章遊びの嗜好の強さを感じたが、本書では更に拍車がかかり、存分にアイデアを、いや趣味の世界を繰り広げている。 例えば第一の番人との戦いは同音異義語を使って彼が繰り出す問題に回答する戦い。つまり「たいせい」という言葉ならば、「体制」、「耐性」、「大成」といった具合に、同じ音で意味の異なる単語を使って文章を作成して回答する、因みに第一の番人は『古事記』の編纂者である太安万侶。鯨氏はどうもこの太安万侶が好きらしい。これで何度この人物と鯨作品で出逢ったことだろうか。 そしてさらに最後に蒟蒻問答での戦いもある。これは作中の例を挙げれば、「パンを食べてても米国とはこれ如何に」という問いに対して同様に「米を食べててもジャパンというが如し」と同種の洒落を切り返すもの。 次の第二の番人は井原西鶴。彼との戦いは回文で問題に答えるという物。古今東西の作家をテーマに回文で切り返す。 そして最後の文章魔王との戦いは彼が書いたミステリを読んで、その内容の質問に同音異義文で応えるという物。例えば<今日は基地に帰る>に対して、<凶は吉に返る>と同じ発音でありながら意味の異なる文章で回答するゲームである。 驚くべきはこれらの戦いの分量の多さである。 第一の番人との戦いである同音異義語はさすがに4問程度だが、それ以降はとにかくすごい数だ。 蒟蒻問答では9つの問答が、回文ではなんと45個の回文が登場し、そして最後の魔王との戦いでは21の同音異義語文が応酬される。もはやこれは趣味の世界だろう。 最も面白かったのは回文対決。作家をモチーフにした問いの内容が非常に面白い。特に現代ミステリ作家では作家間で知られている内輪ネタを存分に披露しており、かなり笑わせてもらった。中には無理矢理回文にしたものもいくつかあるが、何よりもこれだけの物を作り出した鯨氏の執念に敬意を表しよう。 ジャンルを問わず書下ろしで中編程度の分量で400円文庫として刊行するこのシリーズでは『CANDY』の時もそうだったが、鯨氏は敢えて実験的な小説を意図的に書いているように感じる。こういう企画でしか刊行されないであろう小説を、昔からある日本語を使ったゲームを自ら創作して愉しんで書いているようだ。 しかし内容はふざけていながらも案外書かれている内容は深いものを読み取ることが出来る。 例えば本書で数々の敵を討ち斃す作家志望のミユキが武器にしているのはノートパソコンで、つまりパソコンの文章ソフトとインターネットがあれば色んな問題も回答し、さらに文章も作ることができる、つまりパソコンこそが文章作成の最良の便利ツールであることを暗に示している。 作中、大文豪が人間には三大欲の他にストーリィ欲というのがある。インターネットが普及して無限の小説が書けることになった。人々はストーリィを欲し、またストーリィを書くことを欲している。 かつて森村誠一氏も同様のことを云っていたことを記憶している。人々には表現欲という物があり、みな何かを表現したがっている。簡単にケータイやパソコンで文章が作れる現在はその欲望が一気に爆発している、と。 だが一方でその安直さこそが文章の乱立を助長しているとも云える。ミユキはまさにそんな現代の作家志望者のステレオタイプとして描かれた人物だろう。 また作中作として盛り込まれている大文豪の『小説とは何か』の内容も意味深い。 200年に小説が無くなり、ストーリィを作れなくなった人たちの社会で夢を売り物にしている会社を経営する2人の男女の会話で展開する物語だが、どんな物語も自分の想像で登場人物を設定できる夢があれば十分であり、ストーリィは小説でなく、これからは夢が代行すると書かれている。 これは恐らく当時問題になっていた活字離れに対する作者の考えを語った物だろうと思える。夢を見ることでストーリィ欲を満足させる社会は将来来ないと思うが、この2020年の現代で小説が無くなるという表現で思い至るのは昨今の電子書籍の普及である。 「小説」が無くなるのではなく、「紙媒体としての本」が無くなることを予見した内容とも取れる。厚みを手で感じ、ページを指で捲り、そして紙の匂いを感じ、目で文章を追い、読み終わった後も本棚でその書影を眺めるという五感で味わう読書をデータでしか行わなくなった味気なさを夢に置き換えると、まさにこの内容の未来が来ているように感じる。 流石に以前ほど全ての書物が電子書籍に取って代わられるという危機感は薄らいだものの、毎年減っていく全国の書店の数の恐ろしいまでのスピードを考えると果たして出版界の未来は?と不安に駆られてならない。 戯曲というスタイルもあって文章量も少なく、小一時間で読める内容と電脳世界での文章対決というあらゆる意味で軽い内容の本書だが、作中に収められたそれまで一編も小説を書いたことのない男が書いた小説を内容に照らし合わせれば、文章の持つ面白さ、そして小説が読まれることの意義などが暗に含まれており、なかなか考えさせられる内容である。単純に読み飛ばすだけに留まらない作品であると云っておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(3件の連絡あり)[?]
ネタバレを表示する
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コナリーの3作目のノンシリーズである本書はこれまでのコナリー作品とは色々と異なっているのが特徴だ。
まず主人公がなんと女性である。元窃盗犯で仮釈放の保護観察の身であるキャシー・ブラックが主人公だ。 そして今までは刑事ボッシュを筆頭に、新聞記者のジャック・マカヴォイ、元FBI捜査官のテリー・マッケイレブが主人公を務めたシリーズ物、ノンシリーズ物も含めて犯人を追う捜査小説だったが、今回の主人公キャシー・ブラックは女泥棒。つまりクライム・ノヴェルであることだ。 そして書き方や物語の進め方も以前の作品とは異なっている。このキャシーが女泥棒と判るのは案外物語が進んでからだ。それまでは彼女は一体何者で、どんな過去があったのかがなかなか語られず、仮釈放の身でハリウッドのポルシェのディーラーに勤める、人の目を惹く美人であることが解っているだけである。 前情報と知識がないまま物語は進む。そしてその中で断片的ながらキャシーの過去が浮かび上がってくるという、ちょっと変わった書き方をしているのが特徴だ。 今までのじっくり読ませる文体と違い、どこか軽やかな印象でクイクイと物語が進み、やもすれば物語の動向を十分に理解しないままにキャシーが物語のメインであるギャンブラーの持ち金掠奪計画まで一気に進んでいってしまうほどだ。訳者が今までの古沢嘉通氏と異なり木村二郎氏であるのも一因かもしれないが。 そのせいだろうか、どうも物語が浅いように感じられる。 故殺罪で刑務所に入った過去のある元泥棒の女性が、仮釈放でポルシェのディーラーに勤め、普通の生活を送っていたところにある事情から大金が必要になり、再び根城にしていたラス・ヴェガスで高額ギャンブラーをターゲットにしたハイローラー強盗を計画するが、その男はマフィアの金の運び屋で、その大金を持って帰ったことからトラブルに巻き込まれる。敵はホテルが雇った私立探偵だが、人格障害者である彼は凄腕の殺し屋でもあり、彼女を追う先々で次々と関係者を殺害していく。そしてその毒牙は彼女の大切な存在にも伸び、意を決した彼女はそれを救うために対決に臨む。そこはかつて自分の恋人が死んだホテルの部屋だった。 とまあ、実に映像向けのストーリーであり、起伏に富みながらもどこか深みを感じさせない。 コナリー作品の特徴と云えばハードボイルドを彷彿とさせる緊張感と暗さを伴った重厚な文体に、事件に関わらざるを得ない宿命のような物を感じさせる主人公がどこまでも謎を追いかけていく、泥臭さを匂わせる文体で物語を勧めながら、いきなり頭をドカンと殴られるような驚きのサプライズが仕込まれているという読書の醍醐味を感じさせる味わいなのだが、本書はなかなか主人公キャシーの氏素性と過去が明かされぬまま、物語が進み、訪れるべき終幕に向けて一気呵成に突き進む、疾走感がある文体で逆にそれが特徴である深みや味わいを逸している。 ただコナリー作品独特のテイストもないわけではない。占星術における十二宮のどこにも月が入らない時間帯は不吉なことが起きるヴォイド・ムーンというモチーフを用いて上手くいくはずの犯行を絶望的なトラブルに主人公たちを巻き込む。 また女泥棒のキャシーの造形も印象的ではある。 恐らくは男たちの目を惹く容姿をしている女性で、ヴェガスでブラックジャックのディーラーをしていたが、そこで出逢った強盗マックス・フリーリングと恋に落ち、そして彼の仕事を手伝ううちに一流の強盗の技術を身に着ける。出所後に大金が必要になり、仕事を紹介してもらうと、生活リズムを変え、必要な道具を揃え、万全の準備で臨む。 仕事もやるべきことを心得て躊躇がなく、不測の事態についてもあらゆる手段を熟知している。例えば隠しカメラでなかなか金庫のナンバーが見えなければ、もう一度金庫を開けざるを得ない状況を作るために、小火を引き起こして、ホテルの従業員に成りすまして避難を促し、金庫を開けざるを得ない状況を作り出すなど。これら一連の手口が詳らかに語られることでキャシーの凄腕ぶりが印象付けられていく。 更に仲介屋のレオ・レンフロのキャラクターもなかなか興味深い。迷信好きで古今東西の色んなまじないやジンクスを信じ、実践している。中国の風水、易経に占星術。ヴォイド・ムーンについて教えたのもこの男だ。 ジャック・カーチはキャシーの恋人マックスを罠に嵌め、死に至らせた私立探偵。そのことがきっかけで彼はホテルの当時警備課長で今は支配人となっているヴィンセント・グリマルディによって専属の探偵となり、色々な後始末を命じられ、どうにかこの状況から脱したいと願っている。 しかしこのようなキャラクターにありがちなうだつの上がらない男ではなく、躊躇いなく引き鉄を弾いて人を殺すことも厭わない。勿論証拠を残さないように細心の注意を払った上で。しかも車を見られた場合はナンバープレートを付け替え、追われないようにする。そして敵が手強いほど燃える男で常に人の優位に立って弄ぶことに喜びを覚える、人格障害者だ。 このしつこいまでに残虐な探偵もまた敵としては実に申し分ない。 これほどお膳立てがされながらもどこかB級アクション映画を観ているような感覚はなぜだろうか? やはりそれはコナリー作品の持ち味である、サプライズに欠けるところにあるだろう。 上述したように今回はキャシーが服役するようになった過去、そして仮釈放して真っ当な仕事に就きながらもいきなり大金が必要になる動機などが明確にされないながら物語が進み、次第にそれらが徐々に明かされていくというスタイルを取っている。 従って五里霧中で読み進めながら次第にキャシーの動機という霧が晴れ、全体像が明らかになっていくという謎が解かれていく面白みはあるのだが、正直インパクトはさほど強くなく、驚きよりも納得のレベルに落ち着いている。 一方でラス・ヴェガスという享楽の都に縛られた人々の話でもある。 キャシーは幼い頃からここに住み、そしてブラックジャックのディーラーとなって泥棒のマックスと知り合い、高額ギャンブラー相手の泥棒になった。 ジャック・カーチもまた父親がアメージング・カーチと呼ばれた、フランク・シナトラやサミー・デイヴィス・Jrとも何度も共演したことのある名のある手品師で、自身も子供の頃に父親のアシスタントとしてステージに立っていた男。 しかし彼の父親は酔っ払ったマフィアによって両手の指を粉々に折られ、再起不能のマジシャンにされる。また6年前のマックス死亡の事件で、《クレオパトラ》の専属の探偵となり、逆に当時警備課長で支配人に乗りあがったヴィンセント・グリマルディにいいように扱われる身となる。 ラス・ヴェガスで育ち、そしてラス・ヴェガスをこの上なく憎んだ男なのだ。 全てが6年前のあの日へと収斂する。因縁の過去が彼ら彼女らを引き寄せていく。 コナリー作品はこのように限定された人物たちが過去の因縁によって再び引き寄せられるプロットが好みのようだ。 あれほど広大なラス・ヴェガスでもう一度会いまみえる過去の因縁たち。それはどうやっても切っても切れない鎖のような絆で結ばれた運命の人々のように描かれる。 その宿命的な繋がりを断ち切ってこそ、過去に縛られた人たちに未来は訪れるのだというメッセージが込められているようにも思える。 その因縁に抗えない人たちはそのまま飲み込まれ、そこで死に絶える。犯罪に手を染めた者たちにとって因縁の鎖は容赦なくその身を縛り、そしてあの世へと誘う。そんな冷徹さが垣間見える。 やはりコナリーはコナリーだった。 だからこそ邦題の軽薄さが目に付く。 『バッドラック・ムーン』は本書のモチーフとなっている悪運に見舞われるヴォイド・ムーンを示しているが、本書ではそのままの名前で使われている。つまり原題と同様に『ヴォイド・ムーン』でよかったのではないだろうか?なぜならVoidという単語には他に虚ろなとか中身のないとかいう、空虚さ、虚しさが込められているからだ。 全てが虚しい享楽の夜の塵となった。 しかし唯一虚しい戦いに生き残ったキャシー・ブラックは孤独の道を行く。 彼女が目指すのは砂漠。しかし砂漠が海になるところだ。かつての恋人と幸せな時を過ごした場所へ。 キャシー・ブラック。彼女もまた壮大なボッシュ・サーガの一片であればいつかまたどこかで逢うことになるだろう。それまでこの哀しき女泥棒のことを覚えておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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私は死を意識したのはそう、中学生の頃だっただろうか。
自宅にいてなぜかふと突然、死を意識し、一人その恐ろしさに身悶えした記憶がある。 どうして人は死ぬのか。死ぬのであれば生きていることは意味がないのではないか。 この世からいなくなるとどうなるのか。 そんな無意味さ、無力感、そして虚無感に見えない死の先の暗黒を想像して一人悩んだ時期があった。 メイン州を舞台にした本書のテーマは誰しにも訪れる死。ペット・セマタリーという地元の子供たちで手入れがされている山の中のペット霊園をモチーフにした作品だ。 この作品も映画化されており、何度かテレビ放送されたが、なぜか私は観る機会がなく、従って全く知識ゼロの状態で読むことになった。 シカゴから大学付属病院の所長の職を得てメイン州の田舎町に引っ越してきたクリード一家。新しい家は申し分なく、しかも隣人のクランドル老夫妻は好人物で何かと助けてくれ、そしてすぐさま夜中の晩酌を共にするほど親しくなる。おまけに関節炎に悩まされているノーマ夫人の心不全の発作を適切な処置によって一命を取り留めることができ、ますます家長のルイス・クリードとジャド・クランドルの絆は深まるばかり。 そして職場の連中も気のいい連中ばかりでルイスに信頼を置いていると新生活としては順風満帆でこれ以上望むべくもない環境にある中、唯一の懸念は家の裏山に町の子供たちが世話をするペット霊園があることだった。 正直に云って題材は特段珍しいものではない。 引っ越してきたところの奥に山があり、そこにはペットの霊園がある。但しそこはかつてインディアンの種族の1つが埋葬地として使っていた霊的な場所で、そこにペットを埋めると生き返る。そんな矢先、最愛の息子が死に、悲嘆に暮れた父親は息子を取り戻したいがためにそのペット霊園に埋葬する。 典型的な死者再生譚であり、そして過去幾度となく書かれてきたこのテーマの作品が押しなべてそうであったように、ホラーであり悲劇の物語だ。 実際に本書の中でもそのジャンルの名作である「猿の手」についても触れてもいる。 そんな典型的なホラーなのにキングに掛かると実に奥深さを感じる。登場人物が必然性を持ってその開けてはいけない扉を開けていくのを当事者意識的に読まされる。 読者をそうさせるのはそこに至るまでの経緯と登場人物たちの生活、そして過去、とりわけ今回は死に纏わる過去のエピソードが実にきめ細やかに描かれているからだろう。それについては後で詳しく述べることにしよう。 さて一口に死と云っても色々ある。 大往生と呼べる自然死。 突然の災禍に見舞われる事故死。 重病に罹って苦しみながら死ぬ病死。 そんな色んな死についてキングは登場人物たちが体験したエピソードで死を語らせる。 主人公のクリード夫妻の妻レーチェルがたった6歳という幼き頃に直面した髄膜炎で亡くなった姉ゼルダの壮絶な死。半ば開かずの間のような部屋に寝たきりで、健常者である妹に対して逆恨みめいた憎悪を見せるモンスターに成り果てた姉の看病で疲弊し、そして最後に舌を喉に巻き込んで窒息死した姉の断末魔を目の当たりにしたために死に対してトラウマを抱える。 ルイスとレーチェルの娘エリーは隣人ジャドに連れられて裏山にあるペット霊園に行ったことで初めて死を意識する。手作りの墓碑に書かれたペットの名前と献辞を見て愛する猫チャーチが神の御許に行くことに強く反発する。 いつかは訪れる死を見つめる時。ジャドはあの霊園こそがラドロウの町の子供たちにテレビや映画で観る死を超越してリアルに感じさせる場であると説く。それはあたかもラドロウに住む子供たちにとっての通過儀礼であるかのように。 しかし一方でエリーは年老いた隣人ジャドの妻ノーマがハロウィンの夜に心不全の発作を起こしてルイスが適切な処置を施して一命を取り留めた時、ノーマの死に対してはいつか訪れるものだと、既定の事実のように受け止める。 更に娘に内緒で死なせた猫のチャーチをミクマク族の埋葬地の不思議な力で蘇らせた時、どこか生前と異なるチャーチを見て、それがいつ死んでも受け入れられると話す。 そしてクリード家をペット霊園に案内した隣人ジャドは子供の頃に飼っていた愛犬を喪った哀しみを知っている。その深い哀しみゆえに彼が犯した過ちもまた。 だからこそ彼は最愛の妻ノーマが亡くなった時に、その運命を受け入れ、あるがままにしたのだ。しかし一度禁忌の扉を開いた者はそれを誰かに教え、協力するようになる。その相手こそがルイス・クリードだった。しかしそれは自然の摂理に逆らった人間の傲慢さゆえの過ち。犯していけないタブーの領域に踏み入った時にさらなる災厄が降りかかる。 しかし最愛の息子を亡くした深い悲しみと喪失感からルイスがペット霊園に埋葬して再生しようとする展開にキングは安直に持って行かない。 ルイスの導き手として、また時には悪魔の囁きを施し、または神のように善意の忠告を行うジャドを介して、昔ラドロウで戦争で亡くなった息子を蘇らせたある男の話をする。それを延々20ページに亘って実におぞましくも恐ろしいエピソードとして語る。それはまさに人ならぬ道に足を踏み入れようとするルイスを留まらせるのに十分なほどの抑止力を持つ話だ。 しかしそれを以てしても禁忌の領域に足を踏み入れるルイスを実に丹念に描く。その心の葛藤の様に多くの筆をキングは費やす。 実際に息子を蘇らせた男が迎えた不幸。実際に甦った愛猫の変わり様。失敗することが目に見えているのにルイスはとうとう息子ゲージの再生に取り組む。 今度は上手く行くのではないか。先人が失敗したのは時間が経ち過ぎていたからだ。 猫のチャーチは確かに以前とは変わってしまったが、我慢できないほどではない。確かに蘇った動物たちは以前とは少し違う。少しばかりバカになり、少しばかり愚鈍になり、そして少しばかり死んだように見える。 しかしそれが何だと云うのだ。たとえ息子がそんな風になっても、知的障害者を育てると思えば問題ないではないか。 問題は息子がいないことだ。生きてさえいれば困難も乗り越えられる。もし失敗したら、その場で撃ち殺せばいい。 情理の狭間で葛藤する父親が、愛情の深さゆえに理性を退け、禁断の扉を開いていく心の移ろう様をこのようにキングは実に丁寧に描いていく。 判っているけどやめられないのだ。 この非常に愚かな人間の本能的衝動を細部に亘って描くところが非常に上手く、そして物語に必然性をもたらせるのだ。 つまりこの家族の愛情こそがこの恐ろしい物語の原動力であると考えると、これまでのキングの作品の中に1つの符号が見出される。 それはキングのホラーが家族の物語に根差しているということだ。家族に訪れる悲劇や恐怖を扱っているからこそ読者はモンスターが現れるような非現実的な設定であっても、自分の身の回りに起きそうな現実として受け止めてしまうのではないか。だからこそ彼のホラーは広く読まれるのだ。 デビュー作『キャリー』の悲劇はキャリーの母親が狂信的な人物だったことが彼女の生い立ちに影響を及ぼしていた。 『シャイニング』は癇癪持ちだが、それでも大好きな父親が怨霊に憑りつかれて変貌する恐怖を描いていた。 『ファイアスターター』は図らずも特赦な能力を持つことになった親子の逃走の日々の中、追われる者の恐怖の中でも強く持ち続ける親子の絆を描き、『クージョ』も狂犬に襲われた親子の、噛まれた息子を助けたい母親の強さを描いている。 『クリスティーン』はいつかは訪れる息子と両親との別離を車に憑りつかれて変貌していく息子というモチーフで恐怖を以て描いた。 超能力者、幽霊屋敷、怨霊といわゆるホラー定番のお化けや超常現象を現代風に描いたと云われているキングの本質は、普遍的な家族にいつかは訪れる避けられない転機そして悲劇を超常現象を織り交ぜて色濃く描いているところにあると私は考えている。それはどこの家族にもあり得る悲劇や凶事だからこそ、キングのホラーは我々の生活に迫真性を以て染み入るのだ。 仲睦まじい家庭に訪れた最愛のペットが事故で亡くなるという不幸。 同じく最愛のまだ幼い息子が事故で亡くなるという深い悲しみ。 本書で語られるのはこの隣近所のどこかで誰かが遭っている悲劇である。それが異世界の扉を開く引き金になるという親和性こそキングのホラーが他作家のそれらと一線を画しているのだ。 愛が深いからこそ喪った時の喪失感もまたひとしおだ。それを引き立たせるためにキングはルイスの息子ゲージが亡くなる前に、実に楽しい親子の団欒のエピソードを持ってくる。 初めて凧揚げをするゲージは生まれて初めて自分で凧を操ることで空を飛ぶことを感じる。新たな世界が拓かれたまだ2歳の息子を見てルイスは永遠を感じた事だろう。人生が始まったばかりのゲージ、これからまだ色んな世界が待っている、それを見せてやろうと幸せの絶頂を感じていた。 美しい妻、愛らしい娘と息子。全てがこのまま煌びやかに続き、将来に何の心配もないと思っていた、そんな良き日の後に突然の深い悲しみの出来事を持ってくるキング。物語の振れ幅をジェットコースターのように操り、読者を引っ張って止まない。 過去作品を並べたついでに本書における他作品とのリンクについても触れておこう。 メイン州を舞台にした本書では妻のレーチェルが車でローガン空港からラドロウに戻る道すがらに通り過ぎるのが『呪われた町』のジェルサレムズ・ロットであり、『クージョ』で起きたセントバーナード、クージョが狂犬病に罹って何人も死なせた事件が忌み事のように語られる。あの事件は『デッド・ゾーン』に出てきた殺人鬼フランク・ドットに由来するものだから、これらメイン州を舞台にした物語は1つのサーガのようになっているのだ。 それを証明するかのように、本書においてもある不可解なことをキングは潜り込ませている。 それは死者が生き返るミクマク族の埋葬地のことではない。ルイスの息子ゲージが亡くなった事故についてである。 ゲージを轢いたトラックの運転手は自分の犯した罪の重さに自殺を図ろうとする。彼はそれまで飲酒運転もしたことなくスピード違反もしたことがない模範的なドライバーだったのに、なぜかあの時は急にアクセルを思い切り踏み込みたくなったと述懐している。そのことを聞いてルイスはあの場所には力があると理解する。その力こそはフランク・ドッドの力ではないか。クージョを経て今度はラドロウの、クリード家の前の道路に地縛霊のように居座り、そしてペットを殺してはラドロウの人々たちに禁忌の領域に足を踏み入れさせているのではないだろうか。 そんなキング・ワールドの悪意に魅せられた不幸な主人公ルイスとレーチェル・クリード夫婦は5歳の娘と2歳の息子を持つことからも解るようにまだ若い。 一方隣人のジャド・クランドル夫妻は80歳を超えた老夫婦の2人暮らし。 片やまだ死の翳など見えもしない、未来ある家族。片やささやかな日課を愉しむ老夫婦でいつか近いうちに訪れる死が安らかであることを願う2人。 この2組の家族の対比構造によって死というものの重さを全く異なる風にキングは描く。 2組の夫婦はそれぞれお互いに対する愛情は深いのが共通項だが、クランドル夫妻は残りの人生の旅路のパートナーといった風情であるのに対し、クリード夫妻はまだ若いだけあって、愛情は求め合う欲望と等しく、従って夜の生活もお盛んだ。 この2人の夜毎のセックスをキングが述べるのは単にルイスとレーチェルの夫婦愛を示すだけではなく、セックスが新たな生を生み出す行為だからだろう。死を語ったこの物語においてこのルイスとレーチェルのセックスは生を意味しているのだ。 この新たな生をもたらす行為に対し、自然の摂理に逆らって取り戻した生に対して何も代償はないかと云えばそうではない。愛猫チャーチを取り戻したルイスは代わりに最愛の息子ゲージを亡くす。それはやはり神の理に逆らった天罰ゆえの代償だったのではないかとジャドは云う。 そう、これは自分の犯した過ちのために、人として踏み入れてはいけない領域に入ってしまったために代償を払い続ける物語なのだ。 最初は可愛い愛娘に嫌われまいという思いから死んでしまった愛猫を隣人の指示に従うままにその領域に踏み入り、生き返らせるという自然の摂理に逆らった行為をしてしまった。医者という人の命を扱い、そして死に直面することが日常的な職業に就きながらもそれが我が身に降りかかると理不尽さを覚えてしまう。それがルイスの弱さだった。 そして死せるものが甦る、その手法を、その禁断の扉を知ってしまったがためにルイスは坂を転がり続けることになる。 人はやはり本来あるべき方法で生を得るべきなのだというのがこのクリード夫妻のセックスが示していたのではないだろうか。 そうやって考えると本書は見事なまでに対比構造で成り立った作品である。 生と死。 若い夫婦と老夫婦。 死を受け入れるクランドル夫婦と受け入れらないクリード夫妻。 本来命を救う医者であるルイスが行うのは死者を弔う埋葬。 そして過去と未来。 ルイスはゲージをミクマク族の埋葬地に埋めて家に戻った時に、そこがかつて在ったクリード家を温かく包んでいた家とは思えなかった。既にもう何かが変わってしまったことに気付き、自分が取り返しのつかないところまで来ていることに気付かされていたのだ。 彼がもう戻れなくなってしまったのはいつだったのか。 ゲージを蘇らせようと決心した時? 愛猫チャーチを蘇らせてしまった時? 隣人ジャドと出逢ってしまった時? ラドロウに引っ越しした時? 我が身を振り返ると同じような感慨が時折起きることがある。どうしてこうなってしまったのだろうか、と。 本書の半ば、ジャドの妻ノーマの葬式で不意にルイスはこう願う。 神よ過去を救いたまえ、と。 せめて美しかった過去だけは薄れぬものとして残ってほしい。死んだ者は忘れ去られていく者であることに対するルイスの悲痛な願いから発したこの言葉だが、一方で今が苦しむ者がすがるよすがこそが美しかった過去であるとも読めるこの言葉。 しかし人は過去に生きるのではない。未来に生きるものだ。 彼が選んだ未来はどうしようもない暗黒であることを考えながらも、果たして自分が同じような場面に直面した時、もしルイスのように禁忌の扉を開くことが出来たなら、彼のようにはしないと果たして云えるのか。 キングのホラーはそんな風に人の愛情を天秤にかけ、読後もしばらく暗澹とさせてくれる。実に意地悪な作家だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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Vシリーズもいよいよ終盤に差し掛かり、とうとうS&Mシリーズの西之園萌絵と国枝桃子が登場する、2つのシリーズが一堂に会することになった。その記念的作品が第8作の本書。
そしてこのVシリーズに仕掛けられた大きな謎について仄めかされる、森氏としても大いに踏み込んだ作品だ。 但しいつものメンバーが西之園萌絵らと逢うわけではなく、保呂草潤平のみが邂逅する。そしてこの3人が出逢う場所が保呂草がずっと追っている美術品エンジェル・マヌーヴァの所有者熊野御堂譲氏のその美術品を保管している別荘である。 今回の事件は2つの密室殺人事件に1つの盗難事件。1つの密室殺人事件と盗難事件はメビウスの輪をモチーフにした棙れ屋敷で起き、もう1つの密室殺人事件は別荘から棙れ屋敷の間にあるログハウスで起きる。 本書で最も目を惹くのはなんといってもメビウスの輪を巨大なコンクリート構造物として作った棙れ屋敷だろう。 36の4メートルの部屋で区切られた全長150メートルにも及ぶ棙れ屋敷。しかもそれぞれ部屋は傾いて作られ、折り返し地点の部屋は床が左の壁となる90度傾いた構造となっている。更にそれらはドアで繋がっており、入ってきたドアが施錠されると他方のドアが解錠される仕組み、つまり必ず1つのドアが各々の部屋で施錠されている状態になる。 そんなパズルめいた趣向を凝らした屋敷で事件が起こらぬはずがない。 そしてもう1つは何の変哲もないログハウスでの密室殺人。しかもそこで殺された熊野御堂譲氏は「この謎を解いてみろ」と発見者に挑戦状を叩きつけているくらいだ。 しかし予想に反してこれら2つの密室は物語のメインではない。謎とされた密室殺人は実にあっさりと解かれる。 そして今回これらの謎解きには推理がない。冒頭のプロローグの保呂草の独白に「探偵が犯人を言い当てる原理として、これほど風変わりな手法によるものはかつてなかったのではないか」と述べているが、確かに今までのミステリにはないかもしれない。 これらの密室殺人が上記の手法によって解かれるということから実は本書における主眼ではない。 本書のメインは保呂草がずっと追い求めていたエンジェル・マヌーヴァがいかにして持ち去られたかという謎だ。 鎖で棙れ屋敷最奥部の部屋の柱に繋ぎ留められた美術品の短剣エンジェル・マヌーヴァ。その鎖自体もエンジェル・マヌーヴァ本体の一部でそれだけでかなりの美術的価値がある代物。それを引きちぎらずに持ち去るのはやはり大盗賊保呂草潤平だった。この時の保呂草の気持ちは正確には書かれていないが、恐らく物凄く感慨深かったのではないか。 その美術品が出てきたのはシリーズ5作目の『魔剣天翔』からで、この8作目にしてようやく手に入れたことになるが、単に間に3作を挟んだだけの年月ではなく、実に長い年月で…と危ない、危ない。このくらいにしておこう。 しかし色々と惑わせてくれる森氏である。この保呂草潤平が今回偽る名前は1作目に保呂草潤平と称して登場した殺人犯の名前である。そして近くの刑務所から殺人犯が脱走したことがニュースで報じられている。 冒頭の保呂草による独白めいたプロローグが無ければ今回の保呂草はいつもの保呂草なのかそれとも1作目の保呂草、秋野秀和なのか、惑わされてしまう。これもシリーズに隠されたある謎を知らなければ素直に保呂草の茶目っ気と受け止めるのだが、知っていることが逆に不穏さを誘うのだ。 特に今回の保呂草の行動が案外いかがわしく、そして危険な香りを漂わせているだけに。 しかしこうやって読み終わってみると森氏にとって密室トリックや犯人やらは本当に些末なことであることが解る。 メビウスの輪を館として実物にした棙れ屋敷。この36の部屋で仕切られ、180度部屋が反転し、しかも両側に扉を設え、一方が施錠されないと他方が解錠されないという特殊な機構を持つ屋敷を提示しながらそこで起こる事件の真相は実に呆気ない物。 ログハウスの密室トリックは建築学の教授である森氏ならではの奇抜なアイデアが光るが犯人については寧ろ明確に語られずじまい。 エンジェル・マヌーヴァ掠奪の顛末は実にスリリングだが、柱に埋め込まれた美術品の持ち出し方法は案外拍子抜けするほどの内容だ。 つまり本書で語りたかった、もしくは読者に仕掛けたかった、もしくは明かしたかった謎は別のところにあるのだ。それについては後述することにしよう。 さて上にもちらっと書いたが、流石は建築学教授の森氏と思わされる内容が随所にあるが、一番感じ入ったのはこの棙れ屋敷が建築基準法に適っていないことが明確に示されていることだ。 二方向避難、無窓階など色々同法をクリアするのに必要な設備や開口が必要であるのだが、それを敢えて排除し、適法でないことを明確に示している。つまりはこれは建築物ではないことになるのだが、しかし部屋はあることで単なるオブジェとして扱われない。つまり違法建築のまま熊野御堂譲氏はこれを置いていることになる。個人の持ち物だから、建築基準法などどこ吹く風といった感じなのだろう。 またS&Mシリーズファンなら喜ぶであろうシリーズ後の近況が解るのも本書の特徴だ。 国枝桃子はN大学から異動になり、那古野市の私立大学の助教授になっていることが本書で明かされる。西之園萌絵はまだ大学院生だからシリーズが終わってすぐのことなのだろう。 また小ネタとして萌絵が国枝桃子に語る山小屋4人の話。寒さで眠らないように4人が四隅に立って真っ暗な部屋の中を壁沿いに歩いて次の角の人にタッチして、タッチされた人が同じように次の角まで歩いてそこに立っている人にタッチして、を延々と繰り返して寒さをしのぐ話が怖いと萌絵は云うが、国枝桃子はピンとこない。これは本当に起きたら怖いです、実際に。 さて本書の題名の英訳は“The Riddle In Torsional Nest”、つまり「捩れ屋敷の謎」という意味だが、HouseやResidenceとせずにNestとしたところに森氏の建築学教授としての矜持を感じる。 また邦題の「利鈍」は「刃物が鋭いか、鈍いかということ。賢いことと愚かなこと」という意味。 捩れ屋敷そのものは果たして聡い者による造形物なのかそれとも愚か者が作った役立たずの代物なのか。それは本書を読むことでそれぞれの読者が判断することなのだろう。 たった250ページ強のシリーズ中最も短い長編である本書を最後まで読んだ時、森氏がこのシリーズに仕掛けられた大きな謎について大いに踏み込んだことが解る。 実は私は既読者によってネタバレされているのでその驚愕を味わえない不幸な人間なのだが―頼むから森博嗣ファンの方々、そういうネタバレは止めましょうね―、逆にそれを知っていることで本書が実に注意深く書かれていることに思わずほくそ笑んでしまった。 まずこの棙れ屋敷が愛知県警管轄外の岐阜県にあること。今回なぜ小鳥遊練無と香具山紫子たちは出ずに保呂草と瀬在丸紅子だけなのか? そしてなぜ瀬在丸紅子は西之園萌絵を知っているのか、いや西之園家を知っているのか? それはあと残り2作となったシリーズ作で明らかにされることだろう。保呂草によって綴られたエピローグに書かれた驚愕の事実。それが解るのももうすぐである―だからネタバレは止めようね、森博嗣ファンの方々―。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2016年、『涙香迷宮』で『このミス』1位を獲得した竹本健治氏。それをきっかけに今過去の絶版となった作品や未文庫化の作品が次々と復刊、文庫化されてきている。
そしてその『涙香迷宮』でも探偵役を務めた牧場智久の初登場作が本書である。これと第2作の『将棋殺人事件』、第3作の『トランプ殺人事件』を合わせて「ゲーム三部作」と呼ばれている。 ちなみに私が読んだのは第2作の『将棋殺人事件』の方が先。なぜなら当時そちらが先に文庫で刊行されたからだ。角川文庫のやることはよく解らん。 さて『涙香迷宮』では数々のいろは歌を用いた超絶技巧の暗号ミステリが展開されるそうだが、最初期の作品である本書も題名に掲げているように囲碁の盤面が暗号になっているという凝りようだ。 本書が発表されたのが1980年。その時竹本氏は26歳でまだそんな年齢にも拘らず囲碁に精通している。 第1作の『将棋殺人事件』でも確か詰将棋の碁盤が出てきたように思うが、本書の囲碁の対局場面といい、珍瓏という盤面全体に及ぶ詰碁に鬼の意匠を凝らしたり、また盤面に暗号を隠す、更には2ページのみだが「囲碁原論・試論」と題した囲碁に関する考察論文を挟むなど、テーマに対して貪欲なまでにミステリを加味し、またそれを可能にする深い造詣を持っていることが窺われる。 本書のあとがきによれば大学時代に囲碁研究会にせっせと通い、10級で入部し、大学を辞める時には5段の腕前になっていたとのこと。その代わりに大学5年間在籍して取得単位はゼロというのだから、実に親不孝な学生である。 さて『ゲーム三部作』の第1作目である本書の探偵役は今に続く竹本作品で探偵役を務める牧場智久であるが、この時はまだ12歳ながらIQ208を誇る天才少年で囲碁の天才少年、昭和の小川道的と呼ばれるほどの人気ぶり、さらに周囲が振り返るほどの美少年ぶりというから天は二物も三物も与えたような誰もが羨む理想の探偵役として登場する。このシリーズは彼と姉のミステリ小説マニアの典子、そして彼女が助手を務める大脳生理学者須堂信一郎の3人が主要メンバーとして殺人事件に挑む。 今回彼らが出くわすのは棋幽戦という囲碁のタイトル戦の最中に首なし死体として発見された対局中の槇野九段と神奈川の村で発見された池袋で眼科医院を開業している斎藤敝二殺害事件。一見関係のない2つの事件と思われたが、後者の遺体の首に裂傷があったことから犯人が首を切断しようとしたところを誰かに見つかったため、途中で投げ出したと推理し、2つの事件を結び付ける。しかしこの2人に共通するのは囲碁をしている、その1点のみ。一方は名人。一方は玄人はだしの腕前を持つアマチュア棋士と普段は何の接点もない。こんな細い糸の連続殺人事件の真相は実に意外。 まず本書で驚いたのは12歳の牧場智久が犯人から危害を加えられることだ。あたかも犯人が被害者のように首を切って殺してやろうかとばかりに棋院で居眠りをしている間に首の周りに赤ペンで線を入れられたり、一人残された棋院で犯人に追いかけられたり、また街を歩いているところを犯人に追いかけられ、真夏の廃工場に閉じ込められたりと容赦ない洗礼を受ける。天才少年と持て囃されて殺人事件にまで手を出していい気になるなよという犯人の、いや世間一般の常識からのお仕置きとばかりの仕打ちである。 これはつまり世間の流布する素人探偵が殺人事件に容易に首を突っ込むことに対する警告とも云えるだろう。人の死が介在する事柄は自身もまたその渦中に入ること。つまり犯人を暴こうとする行為はその者自身もまた犯人の標的となり、そして狙われる危険を呼び寄せることを意味するのだ。 こんな死に目に遭うほどの仕打ちは12歳の少年にとってはトラウマになるだろう。これに懲りず探偵役を仰せつかっている牧場智久にとってこのエピソードは今後何か影響を与えているのだろうか? 盛り込まれた囲碁の歴史に残る名人たちのエピソード、ルールを巡った騒動など単にゲームに留まらない囲碁を取り巻く人間模様が実に面白い。 囲碁の正式ルールが昭和24年まで明文化されていなかったとは驚きだった。歴史が深い競技だと思いきや意外と近代囲碁の歴史は浅かったことが解る。それは囲碁が昔から日本人の生活と共に発展してきたことで口伝で、もしくは暗黙の理解的にルールが形成されてきたことを表しているのだが、それ故に地方性が色濃くなり、それぞれのルールが出来たことで統一ルールが必要になったのだ。それだけ囲碁の世界が発展してきたことの証だ。 本書で感心したのは大脳生理学の視点から犯人を解き明かすこと。 実はこれは第2作の『将棋殺人事件』でもなされていたが―すっかり忘れていた―、島田荘司氏が21世紀本格として2000年以来、御手洗潔をウプサラ大学の大脳生理学教授としてこの脳のメカニズムをミステリの題材に持ち込むことに積極的なのだが、既に1980年の段階でそれを竹本氏が実践していることに驚いた。つまり21世紀どこから20世紀に彼は島田氏が積極的に取り込む新しいミステリの先鞭をつけていたのだ。 正直囲碁に明るくない私にとって詰碁や囲碁の知識を謎解きに盛り込んだ本書を余すところなく楽しめたとは云えない。 本書には囲碁はたった5つの原則で成り立っているから実は覚えるのは簡単と書かれているが、その後に出てくる「石の死活」、「月光の活」、「仮生」などなどちんぷんかんぷんだった。 また槇野九段最後の名勝負の碁石の配置の妙味などもその凄さを全く理解できなかった。やはりまだまだ五目並べが私にとっては関の山のようだ。 しかしそれでも本書は上に書いたようにミステリとして小説としてなかなかに面白く読めた。たった1つの碁石で部分的には否とされていた物が全体的に見ることで有と反転する碁の深さは知識がなくとも解る。首を切られたかのように見えた鬼を模した珍瓏が全体を見ることで生を得る。それは即ちたった1つの手掛かりから全てが反転する美しいミステリを見ているかのようだ。それこそが竹本氏が本書でやりたかったことなのだろう。 さて続く第2作『将棋殺人事件』については既に今から約12年前の2006年に読了しているが、既に忘却の彼方だったので当時の感想を紐解いてみたところ、酷評だった。 私の感想によれば幻想小説風味が加えられており、案外文体も凝っていて私の嗜好に合わなかったようだ。大脳生理学者須堂による脳が人に及ぼす弊害によるミステリでもあるのだが、それは高く評価しているようだ。島田氏の21世紀本格として発表された同趣向の作品も同時期に読んでいながらこの評価をしているということはよほど合わなかったのだろう。しかし今読むとまた評価も変わるかもしれない。 とにかくこの須堂信一郎という「ゲーム三部作」ならびにそれに続く短編「チェス殺人事件」、「オセロ殺人事件」、「麻雀殺人事件」のみに登場する探偵には今回改めて興味を持った。この後の『トランプ殺人事件』もまたいつか読むことにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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人間は感情の動物であるとかつて誰かが云った。本書はそんなことを強く思い知らされる作品である。
リンカーン・ライムシリーズ記念すべき10作目となる本書の敵はなんとアメリカ政府機関の1つ、国家諜報運用局(NIOS)の長官。バハマで隠遁中の政治活動家を暗殺した共謀罪で逮捕しようと計画するNY地方検事補のナンス・ローレルに協力する。 さらにコードネーム“ドン・ブランズ”で呼ばれる凄腕のスナイパーも捜査の対象だ。なんと2000メートルという驚異的な距離から標的を暗殺したほどの腕を持つ。 しかしアメリアによればスナイパーの最長狙撃記録は2500メートルらしい。まだ上の人物がいるのだ。 そしてライムたちの捜査の前に立ち塞がるのが殺し屋ジェイコブ・スワン。彼は秘密裡に情報を盗み取る技術に長けている。従って極秘裏に捜査していると思っているローレル地方検事補率いるライムチームの行動は既に筒抜けなのだ。しかも彼らはサックスの3Gのスマートフォンを盗聴し、ライムたちの捜査の先回りをする。 被害者ロベルト・モレノお抱えのリムジン運転手を先回りして殺害し、NIOSの密告者が情報をリークしたメールを送信したチェーン店のコーヒーショップを突き止めれば、先行してプラスチック爆弾を仕掛け、店内の防犯カメラの録画データをパソコンとサーバーごと破壊し、モレノお抱えの通訳を警察を装って訪ね、アメリアが訪問する前に拷問して殺害する。それはバハマでも同様で、事件のあったホテルの部屋はいつの間にか改修工事がされ、ライムたちが捜査を止めるよう、人を雇って脅したりもする。 更にサックス自身にもその魔の手を伸ばそうと尾行を続ける。 ジェイコブ・スワンは貝印の“旬”ナイフ―これはKAIという日本のブランドらしい―を愛用し、殺害対象を一気に殺さず、まず手刀で喉を潰し、声が出せなくなった状態で拘束し、料理をするようにじわりじわりと痛めつける殺し屋だ。料理を得意とする彼はまさに一流の高級料理を調理するが如く、対象者の肉を丹念に切り下ろす。 今回特徴的なのは犯行現場がバハマということで現場捜査を担当するアメリアもすぐには現場に行くことが出来ず、ライムと共に部屋で捜査を担当し、情報収集に徹する。 一方ライムは現場の遺物の情報を得ようとバハマ警察の捜査担当者に連絡を入れるが、これが南国の後進国特有の悠長さと捜査能力の不足から非常に不十分でお粗末な状況であり、全く有効な手掛かりが得られない。現場検証も事件が起きた翌日に成されているため、新鮮なほど有力な情報が集まる物的証拠が失われた可能性が高く、ライムはその捜査のずさんさに悶々とさせられるのである(しかしこのバハマ警察の担当者マイケル・ポワティエの愚鈍さはそのすぐ後に解消されるようになるのだが、それはまた後述しよう)。 このようにいつものように遅々として進まない捜査に読者はライム同様にストレスを感じさせられるようになる。 従っていつものようにお得意のホワイトボードに次々と新事実を埋めていくそのプロセスも滞りがちだ。しかも書かれた情報は人づてに教えられた情報と憶測ばかり。通常のライムシリーズとは異なる進み方で読者側もなんともじれったい思いを抱く。 そんな膠着状態を作者自身も察したのか、ライム自身がバハマに赴くことになる。 前作の『シャドウ・ストーカー』でライムはキャサリン・ダンスの捜査の手助けをするために自らフレズノに赴いたが、今回は更に海外まで進出する。リハビリと手術により指だけだった可動範囲も右手と腕が動かせるようになったことでずいぶんと活動的になったことが解る。 最新型の電動車椅子ストームアローに乗って野外活動に励むライムの進歩は同様の障害に悩む人々にとって希望の姿でもあるだろうし、また最新鋭の補助器具があれば重篤な障害者でも、介護士の補助が必要であるとはいえ、外に出て行動することが出来ることを示している。 優れたアームチェア・ディテクティヴのシリーズだった本書もまた科学と医学の進歩に伴い、その形式を変えようとしているのが解る。 しかし一方で現実はそんなに甘くないこともディーヴァーは示す。バハマ警察の上層部の意向に背いてライムに協力するポワティエ巡査部長と共に独自で捜査するライムたちを暴漢達が襲い、なんとライムはストームアローごと海に放り出されるのだ。 事件捜査という犯罪と紙一重の活動は健常者にも危害が及ぶ。まして障害者にとっては過分なことだと示すエピソードだが、それでもライムは屋外に、数年ぶりに海外に出たことが非常に楽しいようで、これからも外出したいと述べる。それほどまでに日がな一日屋内生活を強いられるのは苦痛だからだ。 ライムはニューヨークの自宅に戻り、新たな電動車椅子メリッツ・ヴィジョン・セレクトを手に入れる。それはオフロード走行機能も付いた機種で今回のバハマ行で外出の醍醐味を占めたライムの行動範囲が今後もっと広がることだろう。 さてこのバハマ行で彼らの有力な協力者となるのが愚鈍と思われていた捜査担当者マイケル・ポワティエ。経験が浅いながらも刑事という誇りを大事に上司の目を欺いてライムたちに協力する。それが上司にバレて異動を命じられるが、ライムの機転によってそれも解消される。ライムがアメリカに招待して自分のチームの一員に加えたいとまで思わせる好人物だ。 しかし一方でライムの手足となり、フィールドワークを担当していたアメリア・サックスは逆に今回のチームに加わった特捜部のビル・マイヤーズ部長から持病の関節炎を見透かされ、更に健康診断の不備により、捜査を外れることを通告される。 ライムの身体能力の向上と反比例するかのようにアメリアの関節炎は悪化してきており、逆に捜査活動に支障を来たす様になってきている。何とも皮肉な話だ。 またナンス・ローレルとライムたちが対峙するNIOSの長官シュリーヴ・メツガーはいつにも増して短気な人物である。自分の意にそぐわなければ怒鳴り散らし、物を投げつける。気分を害しただけでなく、その人物が気分を害するようなことをすると想像しただけで怒りが沸々と沸き起こる、異常なまでの癇癪持ちだ。店で買ったコーヒーが思いのほか熱すぎれば、店に車で突っ込んで営業できなくしてやろうかと本気で思い、軍人時代では自分たちを罵る酔漢を徹底的に傷めつけ、性的な快感を覚える。 従って他の職員は彼の姿を見ると視線を合わせようとしないし、ある者は方向転換をしさえもする。また家族はその怒りに怯え、離婚し、時たま会ってもソワソワし通しといった具合だ。 その怒りを抑えるために彼は沸き起こる憤怒を精神科医のアドバイスに従って具体的な物としてイメージする。その象徴が“スモーク”。かつて中学生の、まだ太っていた頃にキャンプファイアで隣に立っていた女子に煙から逃れるふりをして近づいて話しかけた時に、無碍に断られたことから想起したイメージである。この“スモーク”がメツガーの怒りのバロメーターとなっている。 キングの作品や他の海外作家の作品にはよくメツガーのような怒りを抑えきれない人物、衝動的な怒りに取り込まれ、我を失う人物というのは必ず出てくる。 どうもこのような癇癪を欠点とする人物はアメリカ人にとっては共通の特徴のようだ。テレビでも大きな声で怒鳴る姿をよく見るし、いい大人がテレビの前で怒りに駆られ暴力を振るい、喧嘩沙汰になったりするのを目の当たりにしたこともあるだろう。感情豊かな国民性は逆に怒りに対しても率直であり、おまけにそんな人たちが合法的に銃の所持を認められているのだから、やはり非常に物騒な国だ。 さて相変わらず真相は二転三転、三転四転する。 ただ振り返ってみれば非常におかしい部分もある。さすがにこれはどんでん返しを考えすぎて物語が破綻したとしか云えないだろう。 さらにディーヴァーはどんでん返しを仕掛ける。 価値観の反転はミステリとしては読書の愉悦を味わえるが、実際面としては実に恐ろしいと思わされる。 高度な情報を扱う仕事は常にその情報に隠された意味を考え、判断することに迫られている。しかしそこに感情が加わるとその情報は右にも左にも容易に傾く。それこそが本書のテーマであろう。 これらの人々は共に自らの信条に従い、正しいことをしていると思っていながら、実は好き嫌いという子供の頃から抱く非常に原初的な感情にその判断を左右されていることに気付いていない。そのことが彼ら彼女らをして情報を読み誤り、また読み誤ったと勘違いしたりする。そんな権力を持つ一個人の感情のブレで対象となる人間の生死をも左右されることが実に恐ろしい。 思えば本書は鑑識の天才リンカーン・ライムが現場から採取した証拠という事実だけを信じ、緻密に推理を重ね、論理的に事件を解決するところが魅力であるのだが、その実理屈っぽく終始不平不満を呟くライムの感情っぽいところ、つまり人間臭さがシリーズの魅力でもある。 そしてそのパートナー、アメリアもまたとにかく動き続けることで自分の生を感じ、またライムからそれを求められていることを生き甲斐にしている。そして気に食わない人には容赦なく冷たく当たる。 特に本書では感情の起伏を見せないナンス・ローレルに嫌悪感を示す。ライムの部屋に自分のパソコンを持ってきて仕事をするその姿を見て、自分の居場所の一部を取られたように感じ、その嫌悪感をますます募らせていく。丁寧な言葉が自分をかえって見下しているように感じる。そんな感情の起伏がローレルのアメリアに対する配慮を見誤り、衝突を繰り返すことになる。 そしてまた本書ではライムがバハマに赴いて地元の警察と捜査をしている間、アメリアはアメリカで捜査を続け、その距離がお互いを強く意識し合い、そしていつも以上に求め合うことになる。 緻密な論理を売りにしているこのシリーズは実は人の感情を実に豊かに捉えた作品であることを再認識させられる。またその感情ゆえに生れる先入観が登場人物のみならず読者の感情を動かし、どんでん返しへと導かれていくのだ。 実は本書は人気シリーズの第10作と記念的な作品ながらシリーズ作で唯一『このミス』で20位圏内から漏れた作品だった。ランキングがその面白さと比例しているわけではないとは解っているが、それはこのシリーズの特色である、ある分野に精通した悪魔的な頭脳の持ち主や超一流の技能を持つ殺し屋が登場しないことが他の作品に比べて魅力がないように思われる。 もしライムの敵が超長距離狙撃を完遂させる技能を持った殺し屋だとすれば、いつどこからでも狙撃する恐れがあるというサスペンスが味わえたはずだが、今回は政府機関のNIOSが相手ということもあって情報戦に終始し、いわゆるいつも感じるヒリヒリとした緊迫感に欠けたように感じた。 当時この作品のランキングを見た時にとうとうこのシリーズも終わりが来たかと、どんな作家でもいつかは訪れるアイデアの枯渇、品質の低下を想像した。 しかしその翌年ディーヴァーは復活する。ライムシリーズ次回作『スキン・コレクター』で『このミス』1位を獲得するのである。 確かに本書では上に書いたような不満を抱いたが、まだまだディーヴァーの筆は衰えていないことは既に立証済み。 どんなシリーズにもある谷間の作品として記憶するにとどめ、次作に大いに期待することにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キングは過去の短編で機械が意志を持ち、人間を襲う話を描いてきた。クリーニング工場の圧搾機、トラック、芝刈り機など我々が日常に使う機械の、抗いようのない恐るべき力に対する畏怖をモチーフに恐怖を描いてきたが、この『クリスティーン』もこれら“意志持つ機械”の恐怖譚の系譜に連なる作品となるだろう。しかもこれまでは短編であったがなんと今回は上下巻併せて約1,020ページの大作である。
アメリカ人と自動車との関係の深さは日本人のそれよりももっと深いように思える。今でこそ日本車が世界中に輸出され、一大勢力となっているが、フォードが20世紀初頭に自動車の量産化に成功してから、巨大な自動車産業国となった。20世紀からのアメリカ人は自動車と共に成長し、繁栄してきたのだ。 更にガソリンが安いこともあり、広大な国土を持つアメリカを移動するのに、アメリカ人にとって自動車は無くてはならない生活必需品となった。特に日本と違い、アメリカではカーディーラーに行って気に入った車があると、そのまま乗って帰れるほど手軽に買えるようだ。 今までキングが“意志持つ機械”をモチーフに書いてきた物語においてその対象が自動車になるのはそんな背景を考えると必然的であり、そして満を持して発表した作品だと云えよう。ある意味本書は“意志持つ機械”譚のこの時点での集大成になる作品と云えるだろう。 但しそこはキング、意志を持った車が暴れ、人間たちを襲うと云った陳腐な展開をしない。このクリスティーンと名付けられた1958年型の赤と白の2色に塗り分けられたプリマス・フューリーがその本性を表し、人間に牙を剥くのは上巻の490ページの辺りだ。そこまでの展開は寧ろ少年と車との運命的な出逢いという少々色合いの違った話で物語は進む。 何の前知識もなく、最初にこの作品を読んだ時、これはトップの5%圏内に入るほどの頭を持ちながらも、優等生グループにも入れない、スクールカーストの最下層に位置する17歳の少年アーニー・カニンガムが1台の古びた車と出遭うことで負け犬的人生を変えていく物語であると思うに違いない。彼の自動車のメカに関する優れた知識は天からの授かりものになるだろうが、彼が出遭う58年型のスクラップ同然のプリマス・フューリー、愛称をクリスティーンという車もまた彼の人生を変える天からの授かりものになる。 そのおんぼろ車を自身で少しずつ再生していくうちにいわゆる負け組に属していたアーニーもまた生まれ変わっていく。ピザ顔とまで呼ばれていた吹き出物でいっぱいの顔は次第に綺麗になり、男ぶりも増していく。更に以前よりも度胸が増し、町の不良たちに絡まれても一歩も引かないようになる。更には学校で評判の美人の心も掴み、恋人にすることに成功する。 一人で一台の車を再生することが即ち彼の人生を再構築させていくことに繋がっていく。これはそんな一少年の人生を変えていく青春グラフィティなのだ。 また一方で主人公のアーニーが車中心の生活になっていくことで家族や親友との軋轢が生まれる。クリスティーンに一目惚れしたアーニーは少しでも早くその車を再生させ、走れるようにし、自分のパートナーとすることに執着する。しかしそれは親友であるデニスと過ごす時間が少なくなること、そして両親の懸案を増やすことになる。 大学進学のための貯金は目減りし、上位だった成績も下がっていく。大学講師である両親は自分の息子がいい大学に進学することを望んでおり、自動車の整備に執心して学業や疎かになる息子に不安と不満を抱く。 それらはいつまでも続くだろうと思われた友人関係、親子関係が、実は幻想であり、いつかそんな安定した関係が終わるその時が、アーニーとクリスティーンとの出逢いなのだ。 親友のデニスは子供の頃から一緒だったアーニーが、それまではフットボールの選手でそれなりにモテていた自分の引き立て役のように見えていた親友が、古びれた車をたった一人の力で再生し、そしていつしか犯罪者のような自動車整備工場のオーナーとも信頼関係を築き、更には不良グループにも一歩も引かない度胸を身に着け、終いには学内一の美人と付き合うようにもなり、それに羨望と嫉妬を覚える。 親は子供が自分の手を離れ巣立つことがまだ少し先のことだと思っていたが、実はもう息子はその時を迎えていたことを知らされる。今まで自分の云う通りに従っていた息子がだから車のことに関しては強く反発し、一歩も引かないことに驚きと失望を覚える。一方父親は夜、彼の整備した車でドライヴし、父と息子だけの男同士の対話をし、息子の成長を認めつつ、父として忠告をする。 アーニーの成長を通して変わりゆく生活の変化をそれぞれの心情を交えてキングは訪れるべき変化の時を鮮やかに語る。 それもただ彼の修理する車クリスティーンが命ある車であることを除けばのことだ。 キングが他の作家と比べて一段優れているのは、通常の作家ならば子供の成長時期に訪れる親子と親友との変化のキー、メタファーとしてスクラップ同然の車の修理の過程を使うのに対し、キングはその車自体をも生ある物、持ち主に嫉妬するモンスターとして描いているその発想の素晴らしさにある。 物に魂が宿るのは正直に云って子供の空想の世界だろう。女の子は人形を生きている自分の妹のように扱い、男の子は車の玩具やロボットの玩具に生命があるかのように自ら演じて興じる。 そんな子供じみた発想もキングの手に掛かれば実に面白くも恐ろしい話に変るのだから驚きだ。 更に『恐怖の四季』に収録されているキングの自伝的小説「スタンド・バイ・ミー」で培った青春グラフィティストーリーの手法が、見事に合わさっている。 どこをどうやって考えてもこの異質な2つの成分が合わさるようには思えないのだが、これがキングの手に掛かると実に見事に融合し、奇妙な味わいを持ちながらもほろ苦さを感じさせる小説へとなるのだから実に不思議だ。 さて物語がアーニーの思春期の通過儀礼とも云える親からの自立と反発というムードからホラーへと転じるのはクリスティーンがアーニーを目の敵としているバディー・レパートンたち不良グループにスクラップ同然にさせられるところからだ。そこから前の持ち主であるルベイとアーニーは無残なクリスティーンの姿を見て同調し、以前より増して2人の魂の親和性は強まり、アーニーはルベイの憑代となっていく。そしてクリスティーンもその怪物ぶりをようやく発揮し出すのだ。 そこからのアーニーとクリスティーン=ローランド・ルベイの独壇場だ。 最初は無人の状態で復讐を成していたクリスティーンだが、やがて亡くなった前所有者のルベイの屍が具現化して現れてくる。そこでようやく本書は『呪われた町』、『シャイニング』などのキング一連のモンスター系小説の系譜に連なる作品であることが解るのである。それは本書の献辞がジョージ・ロメロに捧げられていることからも解るように、ゾンビをモチーフにした怪奇譚であるのだ。 ところで今回キングは2つの叙述を使っている。まず第一部は主人公アーニーの親友デニス・ギルダーの一人称叙述で語られるが、第二部は三人称叙述、そして最後の第三部は再びデニスの一人称叙述に戻る。 まずこれは語り手であるデニスが途中フットボールの試合で重傷を負い、入院してしまうことからアーニーと一緒にいる時間がなくなるためであるが、このアーニーとデニスがしばらく疎遠になることがクリスティーンとアーニーの親和性を高めることになり、つまりアーニーが破滅への道を辿っていくのに大いに拍車がかかることになる。 つまりこれはデニスこそがアーニーが狂気に至る、いやクリスティーンに憑りつかれていくことを防ぐ護符のような役割を示しているように思える。 それを示すかのようにデニスが再びアーニーと対峙する第三部ではクリスティーンに魅せられ、そしてその前の所有者のローランド・ルベイの亡霊に憑りつかれ、性格どころか人格までもが変わっていくアーニーがルベイとクリスティーンの支配に抗って自分を取り戻そうとする。理解ある親友こそが墜ちていく自分を取り戻す最後の砦なのだ。 これは怨霊に憑りつかれたアーニーだけに限らず、我々の人生にも関係する部分でもある。自分の人生に躓いた時、支えとなってくれる存在を1人は持つこと。それを描くのにこの3部構成は必要だったのだ。 そういう意味では物宿る怨霊によって自分が自分で無くなっていくアーニーの姿は昔からある幽霊譚の1つのパターンであるが、また一方で私はこのアーニーの変化については我々の日常において非常に身近な恐怖がテーマになっているように思える。 例えばあなたの周りにこんな人はいないだろうか。 普段は温厚でも車を運転している時は人が変わったようになる、という人だ。それはある意味その人の意外な側面を表すエピソードとして、時に笑い話のように持ち出されるが、ある反面、これはその人の二重性が露見し、またそれを他者が目の当たりにする機会でもある。そしてその変貌が極端であればあるほど、それも恐怖の対象となり得る。 つまり本書の恐怖の根源は実は我々の生活に実に身近なところに発想の根源があるのではないかと私は思うのだ。 これはあくまで私の推測に過ぎないのだが、キングがこのエピソードを本書の発想の発端の1つにしていたのは間違いない。なぜなら同様の記述が本書にも見られるからだ。 上巻の406ページにアーニーがこの車に乗るとなぜか人が変わったようになると書かれている。そのことからもキングが本書を著すにこんな身近で、どちらかというとギャグマンガの対象になるような性格の変貌―マンガ『こち亀』に出てくる本田のような―を恐怖の物語のネタとしたであろうことは推察できるし、そのことからもキングの非凡さを感じる。 人の物に対する執着というのは物凄いものがある。 例えば私は読書が最たる趣味なのだが、気に入った作家の本は是非とも前作、それも発表順に読みたいと思うので、一時帰国のたびに古本屋に出向いては求める本がないか探している(家族はもうそれが当然のこととして諦めてくれているのが有難いが)。 私の場合はある1点物に対する執着ではないので、クリスティーンに対する執着とは性質が違うとは思うが、古来死者が生前愛でていた物に所有者の情念が宿るという怪奇譚は枚挙にいとまがない。その対象を58年型のプリマス・フューリーという実に現代的なアイテムに持ち込んだことにキングの斬新さがあると云えよう。 既に述べたが、自動車愛好家たちにとって本書の車に対する執着の深さは頷けるところが多々あるのではないだろうか。自動車産業国アメリカが生んだ意志宿る車による恐怖譚。 しかし車に対する愛情の深さはアメリカ人よりも深いと云われる日本人にとっても無視できない怖さがあった。たかが車、そんな風に一笑できない怖さが本書にはいっぱい詰まっている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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デビュー作である奇想天外な歴史観を綴った連作短編集『邪馬台国はどこですか?』を読んでその面白さを堪能し、その後読んだのは古事記を下地にした鯨版古事記伝の2冊と、異色の近未来小説『CANDY』と、どこかキワモノ感が濃い鯨作品を経て、読んだ本書は比較的まともなミステリであったことにほっとした。宮沢賢治の諸作と生涯をモチーフにした誘拐ミステリである。
私が抱いていた宮沢賢治は死後評価された童話作家・詩人というイメージで、有名な『雨ニモマケズ』の詩のイメージから朴訥かつ誠実な、清貧の人と思っていたが、それは全く違った。 質屋の息子として生まれ、裕福な暮らしをしながら、一方でそんな人に借金をさせて取り立てて生計を立てている父親の仕事を忌み嫌っていた。その明敏な頭脳で鉱石の研究から農業指導者、学校の先生に童話作家と様々な分野に手を伸ばし才能を発揮する。しかし農業指導では農家の有機肥料の設計書を無償で作成して渡したり、羅須地人協会なる農民のための勉強会を開いて土壌学、肥料学、植物生理化学から宇宙論にエスペラント語などを無料で教えていたりしていた。更に右翼に傾倒したり、浄土真宗の父親に対抗して熱心な日蓮の法華経信者になったりと特に父親に対しての反抗心が強い一方で逆に東京に出てからは宝石商を始めるために忌み嫌っていた父親から金の無心を何度もしていたというかなり矛盾の孕んだ人物である。 また禁欲主義者で、特に抑えきれない性の衝動と戦っており、代表作『春と修羅』は春、即ち回春、売春といった性欲との戦い、“修羅”をテーマにしているとの解釈がなされる。性欲を抑えるために童話を次々と書いていったが、晩年は禁欲主義は誤りだったと認めている。 そんな宮沢賢治の暗黒面がつぶさに描かれていく。 本書では宮沢賢治とは自分の理想と常に戦っている人と読み解かれる。父からデクノボーと呼ばれ、そのことを自覚しながら、不器用ながらも正直で誠実でありたいと書いた『雨ニモマケズ』は実はデクノボーである自分を讃えた詩であると解釈され、そして父親の強欲に対抗しながらも父のお金に頼る、禁欲と戦いながらも最後はそれを後悔する、童話を次々と発表するが世間には認められない、といった具合に常に内なる自分と戦いながらも結局敗れていった男なのだ。 明晰な頭脳で色んな分野に深い造詣を持ちながらもそれを活かさないばかりに不遇に見舞われた天才。その溢れる才能の使い道を間違った男というのが生前の宮沢賢治だろう。 今や国民的詩人、国民的童話作家と評されているがそれは彼の死後のこと。今なお彼の諸作が読み継がれ、信奉者を生み出していることから最終的にはその才能の使い道は間違っていないようだったが、当時生きていた宮沢家誰一人知らない事実である。 そして思うのはそんな多才ぶりを発揮するほどに昔の人は斯くもよく働いたものだということだ。常に知識に対して貪欲でそれを人に啓蒙することに情熱を燃やす宮沢賢治の意欲たるや、寝る時間をも惜しんで生きていた、そんなヴァイタリティに溢れている。 タイトルにある隕石は宮沢賢治が知っていたとされる七色のダイヤモンドの鉱脈は隕石ではないかという推察による。つまり隕石が持っているだろう幻のダイヤモンドを巡る誘拐事件、隕石誘拐というわけである。隕石から採れる鉱石・宝石は実際にあるようで、本書も一概に夢物語と一蹴できない真実性を孕んでいる。 その誘拐のターゲットにされる中瀬稔美の境遇はなかなか同情すべきところがある。 山師の父親に育てられ、上京して就職した損保会社で中瀬研二と社内恋愛の末、結婚し、主婦業に専念するが、突然童話作家になりたいと夫は会社を辞め創作講座にアルバイトをしながら通う。勿論それだけでは生計が成り立たないからSOHOでホームページ作成などを行っているが、生活は苦しく、下着も変えずにすり切れてボロボロになった物をずっと使っている。しかしその容姿は周囲が振り返るほど美しい。 そんな毎日に嫌気が差し、夫とは口論が絶えない。そんな中、宮沢賢治を信奉するカルト集団に拉致され、監禁され、潜在意識下に刷り込まされた七色のダイアモンドの在処を打ち明けるよう強要され、拉致グループにクスリを打たれ、レイプされてしまう。 ここまで書くと中瀬稔美の境遇には憐みを覚えてならないが、数々の薬を打たれ、性の奴隷に堕しながらも人一倍強きな性格で、どこかあっけらかんとした明るさを保っている不思議なキャラクターである。 そんなどこかエロティックで艶めかしい展開は昔の土曜ワイド劇場のような俗物的サスペンスドラマを彷彿させる。 その一方で稔美を拉致する十新星の会の面々は宮沢賢治を信奉し、<オペレーション・ノヴァ>というアルミニウムを摂取させることで全国民にアルツハイマー病にし、痴呆化を図り、日本全国民を支配下に置くという、秘密結社物のテイストもありと、なんともいびつな設定の下で物語が進んでいく。 いびつと云えば主人公の中瀬研二を助ける面々もまたいびつだ。 彼の隣人で妻稔美にコンピュータの扱い方を教えていた在宅勤務の児玉恭一、中瀬と同じ創作童話講座に通う白鳥まゆみは宮沢賢治に詳しいがゆえにメンバーに加わるが、夫を別れる決意をし、一方で中瀬研二に惚れている。 高校時代の同級生でフリーライターの伊佐土茂は昔中瀬の妻稔美を取り合った仲であり、稔美の窮地に助太刀を買って出る。 そしてもう1人の藤崎優次郎は昔からケンカが強く、今は武術の達人で忍者ショーの忍者を演じるほどの運動神経の持ち主で手裏剣で敵を攻撃する腕前を持つ。彼は中瀬の窮地に仕事を辞してまで協力する。 つまり中瀬を中心に隣人、片想いの女、かつての恋敵、そして仁義に厚い忍者と、通常ならば考えられないメンバー構成で話が進む。 本作が発表されたのは世紀末の1999年。つまりこのような世間に不安感が漂っている時代にオウム真理教に代表される新興宗教が蔓延っていたように、本書もそんな宮沢賢治を信奉し、国民総痴呆化を企むカルト集団による犯行というのは今読めば荒唐無稽だと思われるが、当時の世相を実は如実に反映した作品であると云える。 特に童話作家、詩人として名高い宮沢賢治の諸作を紐解くことで内なるコンプレックスを読み解き、そこから彼を神と崇める<十新星の会>なる狂信集団を案出したアイデアは鯨氏ぐらいしか思いつかないものではないだろうか。 誘拐物でありながら、宮沢賢治の文献から隠された秘宝の在処を読み解く冒険小説的妙味、さらに秘密結社による日本征服計画、そして拉致された人妻の凌辱劇とサスペンスにアドヴェンチャーにオカルトにエロと思いつくものをどんどん放り込んで物語を作った鯨氏の離れ業。その全てが調和し、バランスを保っているとは云い難いがこのような芸当に挑んだ鯨氏のチャレンジ精神は評価に値するだろう。 もう1つ忘れてはならないのは夢を追いかけて家族に貧乏を強いた夫婦の不和からの再生の物語であることだ。現在単身赴任中の我が身に照らし合わせても思うのだが、案外夫婦は距離を置くことでお互いの存在に改めて思いを馳せ、そして大切さに気付かされるのだ。いつも一緒にいると、やはり人間同士、どこか疲れて嫌なところばかりが目に付くようになる。中瀬夫婦のように誘拐されるような事態はごめんだが、離れることで絆が深まる気持ちは実に今ならよく解る。 そしてやはり鯨作品の妙味は過去の文献、史実から読み解かれる鯨流新事実の開陳にある。 本書で描かれる我々の知らない宮沢賢治の世界は本書のサブタイトルにあるようにまさに迷宮である。自由な発想と突飛な設定。次回もこの作者独特の物語を期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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とある国立大学の工学部建築学科の、建築材料を専門としている、どっかで聞いたことのあるような水柿助教授が出くわす、日常の謎系のミステリ短編集。
「ブルマもハンバーガも居酒屋の梅干しで消えた鞄と博士たち」は水柿助教授が奥さんの須磨子さんとの会話、そして学会出席のために訪れた金沢で起きたある出来事について語るミステリである。 例えばまずブルマの謎は家の地区にある中学・高校一貫教育の私学、S女学園がこのたびブルマを廃止して短パンにしたことについて奥さんとの間に齟齬が生まれる話であり、ハンバーガの話は2つ買ったはずのハンバーガが家に帰るといつの間にか無くなっていたという謎、出張先の金沢で学生たちと入った居酒屋では呼んでもいないのに注文を取りに来る店員と逆に呼出ボタンを押したのになかなか店員が来ない奇妙な状況について語られ、梅干しは水柿助教授の上司、高山教授が昔ホテルで起こしたロビーに梅干しを散乱させた顛末が語られる。そして最後の消えた鞄は高山教授の鞄がホテルの部屋から忽然と姿を消した謎のことだ。 そのどれもがミステリの謎としては実に弱く、例えばブルマとハンバーガの件はミステリにもなっていないネタだ。 とまあ、実に散文的な話で、誰かの一人語りのような地の文からしてまだ当初は連作ミステリとして書かれることを想定していなかったようにも取れる内容だ。とりあえず書いてみて、また機会とネタがあれば続きを書いてみるか、そんな具合の、イントロダクション的作品。 第2話「ミステリィ・サークルもコンクリート試験体も海の藻屑と消えた笑えない津市の史的指摘」は水柿君がまだ三重県にあるM大学の助手だった頃の話で物語の舞台は題名にも謳われている津市である。 本作でも色んな謎となり得るエピソードが書き連ねてあるが、メインの謎は水柿君が修論のテーマにしていた鋼繊維補強コンクリートの試験体を使っての海水暴露実験がなぜ成功しなかったかというものだ。 海の近くに旧水門跡に置かれた試験体は嵐の日にそのまま海に流されてしまったが、大学の研究等の屋上にも置かれた100個もの試験体が無意味になるという事件が起こる。 その他学校の実験室の前にある空き地に突如現れたミステリィ・サークルの謎、はたまた好立地の水柿君の借家の家賃がなぜ破格に安かったのか、そんな大小、いや小さな謎が散りばめられている。 因みに本作のテーマは物理トリック、化学トリックとのこと。訊いてみれば他愛のないことだが、上の謎を提示された時に、この他愛のない真相に気付いた人はどれだけいるだろうかと森氏は投げかけている。 そうそう、酒豪の高山先生がいきなり生徒の目の前で自転車に乗ったまま消え失せたトリックはすぐに解りました。同じような風景を私も見たことがあるので。 はてさて困ったことにここに書かれているのは微罪や重罪にもなる犯罪の証拠だ。 しかし最後に森氏は書いている。あくまでも、これは小説なのだと。ウソつけ! とここまではどうにかミステリ風味が施されていたが、次の「試験にまつわる封印その他もろもろを今さら蒸し返す行為の意義に関する事例報告及び考察(『これでも小説か』の疑問を抱えつつ)」にはそのミステリ風味すらなく、水柿君が試験担当になったそれらにまつわるエピソードが語られる。 試験と云っても色々ある。通常の中間・期末試験、センター試験、そして二次試験。大学側の人間である水柿君が体験したそれらの試験で割り触られる諸々の役割、担当についてのお話だ。 試験の監督官になった時は大勢の受験者が思っている以上にカンニングしている様子が手に取って解ること、大学入試の監督官は事前に予行演習があり、ありとあらゆることを想定してケーススタディが行われていること。しかしそれでも想定外の事態が起こること。 試験監督者には2種類あり、教室で問題用紙の配布と監視を行う役ともう1つは控室で待機し、いざというときに出向く役があること。 採点委員というのがあり、試験問題の解答を作ることが要請されたり、また受験者たちの回答用紙を採点するが、筆記問題では回答の妥当性について話し合ったりして配点を決めたりすること。 そして問題作成委員があり、試験問題を作る役割があること。これは6月から始まり、決して秘密厳守でいなければならないこと、等々、我々一般人の多くが体験する大学受験、定期試験にまつわる、学校側のエピソードのそれらは、誰もが受ける側として経験しているのに試験を出す側のことは解らないものだなぁと案外面白い。 特に奇妙な受験者の話はどこまでが本当なのかと目を疑うものもあった(試験中に暑いといって服を脱ぎ出し、下着になって受けようとするのを止められて別室で受けたのは作戦だろうか。また着ぐるみを着ないと受験できない受験者はカンニングを隠すためなのでは?などと考えるのも面白い。私が()の中でこのように語るのは本作が故意にこのように演出している影響なのかもしれない)。 他には案外カンニングが成されていることに驚く。大学の先生というのはいい加減で、試験中に自分の論文を書いたりする先生や助手もいるようだが、自分の大学にもそんな人はいたかしらと思い出してみれば、確かにひたすら読書をしている教授がいたような記憶がある。堂々とノートと教科書を持ち込んでいい試験もあったりするらしいが自分の時はなかったと思う。 あとは現国の長文読解の問題の長文に妙に読み耽ってしまう、なんてあるあるネタは思わず同意してしまう。私は志賀直哉の「出来事」がいまだに印象に残っている。 だがしかし、全然ミステリがない。ほとんどエッセイである。「これでも小説か」と思わず自分で書くほどに何やら奇妙な話である。 更にミステリ風味は薄まっていく。次の「若い水柿君の悩みとかよりも客観的なノスタルジィあるいは今さら理解するビニル袋の望遠だよ」では若かりし頃の水柿君と妻須磨子との新婚時の話が出てくる。 今の妻須磨子さんが7番目に付き合った女性であること、それまでに付き合った女性のエピソードも語られる。その中の1人は大手貴金属商の娘で大金持ち。それがS&Mシリーズの西之園萌絵のモデルらしい。 更に合コンのエピソードにそれにまつわる大学の研究室のおかしな面々の話、そして須磨子との新婚の話が語られる。これらはもはや水柿君=森氏の懐かし話である。ミステリとしては先輩の鞄が合コンの夜、大学付近の歩道の真ん中になぜか置かれていたという謎が提示されるが、これが実話らしく、結局その原因は解らない。 最後の「世界食べ歩きとか世界不思議発見とかボルトと机と上履きでゴー(タイトル短くしてくれって言われちゃった)」では森氏、もとい水柿君の出張にまつわるエピソードに触れられている。 海外でも模型屋によることは欠かせなかったり、自分のお土産はすぐ開封するのに、妻への土産は1週間も放置したままだったり(こんなことあり得る?)、はたまた学校にまつわる全国の不思議事が紹介されたりしているが、もはや雑談と化している。 これら5話を通じて思うのは本書は森氏による、ちょっとしたミステリ風味を加えた自伝的小説なのか(これは反語表現である)。某国立大学工学部建築学科の水柿助教授はそのまま森氏に当て嵌まりそうな人物像である。 何しろ専門が建築材料であり、模型工作を趣味とし、読書とイラストを趣味にしている奥さん須磨子さんがおり、更に後々ミステリ作家になってデビューすることまでが1話目から語られるのだ。 これほど作者自身と類似した設定の人物は他にないのではないか。そして話が進むごとにミステリ風味も薄まり、どんどん水柿君と森氏が同化していく。 つまり本書は自分の教授生活の周囲で起きる出来事や見聞きしたエピソードの類を盛り込み、時々それらのエピソードに日常の謎系ミステリの味付けを加えた小説なのだ。 しかしその内容は、思いつくまま気の向くまま、取り留めのない日々雑感と云った趣で、建築学科の助教授水柿君の日常に起こっていることにミステリの種は結構あるんじゃないの?と書き連ねている体の話である。 しかしその傾向は正直第2話までで、第3話からはどんどん内容が水柿君の内側に、過去のエピソードに潜っていく。それらはミステリでは無くなり、本当に水柿助教授の日常話になってくるのだ。それは作者も確信的で最終話ではミステリィと見せかけてどんどんミステリィ風味を薄めていく、そういう「どんでん返し」を仕掛けていると述べている。 そして作中作者は事あるごとに「これは小説だ」、「これはフィクションだ」と述べているが、嘘つきが「嘘はついていない」というのと同様の信憑性しかない(と作者自身も書いていたような)。 つまり本当のことを語りつつ、それらの中には未だ事項になっていない軽犯罪、微罪、そして重犯罪になり得る危うさを孕んでいるからこそ、そのように作り話だと主張しているようにも取れる。その割に固有名詞が多く、イニシャルもほとんど本当の場所が特定できるほど安易な物であるのだが。そのあまりの自由闊達ぶりに正直苦情など来ていないのだろうかと思ったり。特に津市に関する記述はここまでこき下ろして大丈夫なのだろうかと無用の心配すらしてしまう。 やはりこれは水柿君の日常としながら、これらは全て同じN大学の建築学科の教授である作者自身が助手、助教授時代に経験した大学生活の思い出話、エピソード集なのだろう。従って水柿君の日常は「すべてが森になる」のだ。 ファンならば水柿君を通して森氏の過去が垣間見れるエピソードを愉しめるだろう。 しかしそうでない者にとっては文体、構成含め、単なる作家の悪乗りにしか取れない。この時期はS&Mシリーズで確固たるファン層を築き、そして続くVシリーズも好調で、おまけにブログも閲覧者数が凄かったから、何を書いても許されるだろう、何を書いても売れるだろうと思っていたのではないか。しかし書く方も書く方だが、それを許し、出版した幻冬舎の商業主義丸出し感にも腹が立つ。 既に本書において三部作構想も書かれており、恐らくは冗談だったのだろうが、それは形になっている。つまりこの後2つも続編が書かれたということはこの作風が世間に受け入れられたことだろう。商業ベースで成り立ったということである。 そう考えると作品の質よりも信奉者を作れば、その作者の全てを知りたいと思う読者が日本にはいることを示している。斯く云う私も注目作家の作品は全て買う、読む気質で、無論続編の2作も購入済みなので何も云えない立場なのだが。 小説ともエッセイとも判断しかねる奇妙な本書。従って読み方についてはかなり戸惑ったが、このテイストであることが解った今、次作からはそれなりに愉しめるかもしれない。 あくまでそれなりに。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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作者と同姓同名の登場人物が登場する有栖川有栖氏のシリーズ作品は、その趣向の祖であるエラリー・クイーンと同じくクイーン信奉者で同趣向をシリーズキャラクターにしている法月綸太郎氏と異なり、探偵役は作者と同姓同名の人物ではなく、別の人物が務める。それはデビュー作『月光ゲーム』で登場した英都大学の学生有栖川有栖が登場する、いわゆる学生アリスシリーズでは推理小説研究会の部長江神二郎であり、もう1つが本書がその第1作となる推理作家有栖川有栖が登場するシリーズ、作家アリスシリーズの、臨床犯罪学者の火村英生である。このシリーズはそのまま探偵の名で呼ばれているようだ。
このシリーズは先に文庫書下ろしで出版された2作目の『ダリの繭』を先に読んでいたので、前後したが、これでようやくシリーズの最初から触れることが出来た。 1作目であることから有栖川有栖の自己紹介、火村英生の氏素性、そして2人が出逢ったエピソードなどが語られている。本当に久しぶりの有栖川作品だったので『ダリの繭』に書かれていたかどうかも定かではないが、このシリーズでは有栖川有栖が本名であること(因みに有栖川の姓は日本に1世帯だけ。このことを知っていたら本当にこの設定にしただろうかと訝しむが)、元印刷会社に勤めていたサラリーマンで脱サラして専業作家になったこと、火村英生の肩書、臨床犯罪学者という呼称は有栖川氏の造語であること、2人の出逢いは英都大学学生時代で講義中にミステリの賞への応募作への執筆をしていた有栖川の作品を偶々横に座っていた火村が勝手に読み始め、授業後もその後を続きが気になると云ってそのまま一緒に昼食を食べたのがきっかけであったことが語られている。 この時のアリスが学生アリスシリーズと同設定なのかはまだほとんど2つのシリーズ作品を読んでいない私には不明だが、学生アリスシリーズで江神と学生時代の火村が邂逅するシーンは今後あるのだろうかと期待をしてしまう設定ではある。 そんなシリーズ第1作は日本ミステリの巨匠の別荘に新人の推理作家と担当編集者が訪れ、一堂に会するという何とも既視感を覚える設定で、そして「日本のディクスン・カー」、「密室の巨匠」と称されたその作家の別荘で密室殺人が起こるという本格ミステリの王道を行くシチュエーション。さらにその場所は北軽井沢という寒冷地。嵐の山荘物の様相を呈しているが、流石にそこまでの孤絶感はなく、警察も事件に介入する。 まず推理作家の面々がベテラン推理作家の家に集まる設定から想起されるのは私が読んでいる中では綾辻氏の『迷路館の殺人』だ。あれは家の中が迷路になっており、その中で創作活動を行って師匠であるベテラン推理作家が最も優れた作品と認めた者に遺産の半分を相続するという特殊な状況であったが、本書はそこまで特別な状況ではなく、恒例のクリスマス・パーティーに招かれた若手推理作家と担当編集者がそこで起きた密室殺人事件に巻き込まれる、と実にオーソドックスだ。 まずやはりこの推理作家の巨匠という設定は、本格ミステリをこよなく愛する有栖川氏にとって自身ミステリの知識と興趣をふんだんに盛り込むために用意されたような趣で、作者の夢と理想が散りばめられている。 現在日本のミステリは英訳の他にも各国の言葉に翻訳されて紹介されて好評を得ているが、本書が発表された1992年当時は勿論そんな状況は願うべくもなかった。しかしここに出てくる真壁氏の諸作は英訳されて英米に出版され「日本のディクスン・カー」の称号を頂いており、その名を証明するかのように23の長編全てが密室物と32の短編中22編が密室物とこれまで45本の密室ミステリを書いているという設定だ。 まず世界において「ディクスン・カー」と称されるほど、世界のミステリ界でカーの名が今なお喧伝されているかはかなり微妙でここはまさに有栖川氏の古典ミステリ好きが起こした勇み足のように思えて、思わず苦笑してしまう。 そしてその密室の巨匠が次の作品を持って最後の密室ミステリにすると宣言してから密室殺人が実際に自身の別荘で起きる。それこそは彼が最後の密室ミステリとすると述べていた最後のトリックなのか、つまり「46番目の密室」なのかというのが本書の設定であり、また題名の意味でもある。 そしてその事件を皮切りに表面上は普通に接している彼らの間に男女関係の縺れが実は隠されていたことが判明し、次第にドロドロとした雰囲気を伴ってくる。 まず独身のまま命を絶つことになった別荘の主で推理小説の巨匠真壁聖一の女性遍歴が彼ら彼女らの関係にある翳を落としていると云えよう。 推理作家の高橋風子と男女の関係だったこと、そしてブラック書院の担当編集安永彩子を単なるお気に入りの担当者以上の好意、もしくは関係があったかもしれないこと、そして後輩作家の石町と安永が交際していることを知らされて、嫉妬心が芽生えたこと、石町は実は安永と真壁の関係をそれとなく知っていたかもしれないこと、更に担当編集者の杉井の元妻との間にも男女の関係があり、それが原因で杉井は元妻と離婚したこと、と彼を中心に男女関係の縺れが露見していく。 それに加えて妹の佐智子が多額の負債を抱えた実業家と付き合っており、真壁の資産を目当てにしていたかもしれないこと、そして真壁の遺産はその娘の真帆に相続されることが決まっていることなど金に纏わる諍いの種も次第に解ってくる。 つまり全ては別荘の主、真壁聖一に対して有栖川と火村を除く全ての関係者が何らかの問題を抱えていたことが判明していく。密室の巨匠、日本本格推理小説の先駆は人格的にはなんとも問題のある人物だったのだ。 そしてそれはそのまま真相に繋がる。 私がここで面白いと思ったのはこれはいわゆる雪の足跡トリックの変奏曲であることだ。 セロテープとテグスによって掛けられる掛け金のトリックについては昔山村美紗氏が数多く考案され、もはや化石とみなされている「糸と針金のトリック」と揶揄される機械的なトリックであることは有栖川自身も自覚的で、作中でも「お前がそんなトリックを小説で使えば四方八方から石が飛んでくるんだろうが、」と火村の口から云わせている。 しかし私はこれこそ古今東西の本格ミステリを読んできた有栖川氏のミステリ愛ゆえのトリックだと感じる。彼は廃れゆく、この「糸と針金のトリック」を敢えて復活させたかったのだと。だからこそ探偵役の火村に上のように云わせてでも、敢えて採用したのだと思うのだ。 だからこそだろうか、本書にはまだ若かりし頃の本格ミステリに対して無限の可能性を信じて止まない有栖川氏の本格ミステリへの理想と夢が随所に込められているように思える。 まずやはり冒頭の真壁聖一の存在。世界に認められた日本本格ミステリの巨匠というのは日本の本格ミステリが世界にいつか通じるだろうと信じ、そんな未来を夢見ていた有栖川氏の理想の存在、いや自身が目指すべき目標であるように思える。先にも書いたがそれは現在実現しており、アメリカのエドガー賞に日本のミステリがノミネートされるまでになっている。 次に真壁氏が次の密室物を最後にまだ見ぬ「天上の推理小説」を書くと云った件だ。 これこそ有栖川氏自身の未来への宣言ではないだろうか。 「新本格」という目新しい呼称で十把一絡げに括られているまだ駆け出しの本格推理小説家ではあるが、いつかはかつて書かれてことのない物語を書いてみせる、といった若者の主張のように思える。そして今なお精力的に本格ミステリを著しては発表し、年末のランキングに作品が名を連ねている現状から見ても、この時抱いた有栖川氏の、高みへと目指す心意気はいささかも衰えていないように思える。 巷間に流布する既存のミステリとは異なる次元に存在する天上の推理小説。有栖川氏の定義する天上の推理小説をいつか読みたいものだ。 そして最後はやはり犯人だけが見た、真壁氏が遺した最後の密室「46番目の密室」だ。 犯人は云う。それは「まるで世界が、世界を守るためによってたかって一人の人間を抹殺するかのようなもの」だと。 これもまた有栖川氏が抱く、いつか書くべき最後の密室ミステリなのではないか。そんなミステリを読んでみたいと彼は思い、そして出来れば自分で書いてみたいと思っているのではないだろうか。 と、このようにデビューしてまだ3年の時に書いたこの作家アリスシリーズには本格ミステリ作家となった有栖川氏の歓びとミステリ愛と、そして野心が込められている、実に初々しくも若々しい作品なのだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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これはいわゆるよくある記憶喪失物のミステリを最新の脳医学の知識と技術の方向から光を当てた、島田氏の持論である21世紀ミステリを具現化する作品である。
島田荘司氏が特に2000年代に入って人間の脳について興味を持ち、それについて取材を重ね、次作のミステリにその最新の研究結果を盛り込み、21世紀本格ミステリとして作品を発表しているが、本書もその系譜に連なる作品で、タイトルが示すように幻肢、つまり実在しないのに恰も実在しているかのように感じられる欠損した手足の存在を足掛かりにそれが引き起こす脳の仕組みを解き明かし、そして最新の医療方法によって、失われた記憶を呼び覚ましていく。 まずこの幻肢、つまりファントム・リムよりも幻痛、ファントム・ペインとして以前より知られており、私も興味があったが、本書ではその幻痛、いや現在では幻肢痛と呼ばれるこの現象についても最新の研究結果が盛り込まれており、大変興味深く読むことが出来た。 幻肢痛とは生まれながらに手足が欠損した人々も含めて、事故や病気で手足を喪った人々がその後もないはずの手足に痛みを感じる現象のことを指すが、これは脳が手足がないことを認識していないために起こる現象であると本書では説明されている。手足を動かす指令は脳から出されるが、それらを喪っても脳はそれを感知せずに通常と変わらぬ指令を出すためにこのような現象が起きる。この治療法として鏡を据えた箱に健全な方の手足を入れ、鏡に映った手足を無いはずの側の手足、例えば右手があれば右手をその箱に入れれば右手の鏡像が左手の代わりとなり、右手を動かすことで恰も左手が存在して動いているかのように認識され、その後このような幻肢痛は起こらないことが証明されているらしい。つまり視覚によってようやく脳がそれを感知するのだ。視覚から得る情報は8割にもなるというが、それを実証するかのようなエピソードだ。 しかし島田氏はそこからさらに幻肢の解釈を拡げていく。 幻肢とは即ち手足のみを示すのではなく、人の全身さえも幻視させることが出来るというのだ。心霊現象を人間に見せると云われている側頭葉と前頭葉の間にある溝、シルヴィウス溝に刺激を与えることで幻視が起こるというのが本書での説だ。 このシルヴィウス溝はアレキサンダー大王、シーザー、ナポレオン、ジャンヌ・ダルクといった歴史上の英雄やゴッホ、ドストエフスキー、ルイス・キャロル、アイザック・ニュートン、ソクラテスといったその道の天才らが癲癇もしくは偏頭痛を持っており、それがシルヴィウス溝に強い刺激を与えて、常人にはない閃きや神の啓示などを聞いたとされている。ここに蓄えられているのは過去に経験した、忘れられた記憶も呼び覚ますことになり、それがかつて存在した手足があるように錯覚させたり、もしくは人そのものをも存在しているかのように思わせたりする、そんな仮説から本来ならば鬱病の治療としてその原因とされている左背外側前頭前野のDLPFCに、経頭蓋磁気刺激法、即ちTMSという脳に直接磁気を当てて刺激して血流を促し、脳の働きを活性化させる治療法をシルヴィウス溝に適用させるという方法で遥は雅人の幻を見ようと試み、そして成功するのだ。それはまた遥が失った事故当時の記憶を呼び覚ますことにも繋がる。遥は雅人の幻とのデートを重ねるうちに雅人への愛情が甦り、「あの日」の記憶を懸命に呼び覚まそうとする。 彼女は今日も幻とデートする。 それは大学から自宅までのほんの数キロのデート。 彼女しか見えない彼はいつも彼女のアパートの前で消え去る。 その短い逢瀬が楽しければ楽しいほど、彼女の寂しさは募っていく。 それでも彼女は亡くした彼に逢いたいがために今日も自分の脳を刺激する。 そしてまた刹那のデートを繰り返す。 そんなペシミスティックなコピーが思いつきそうな感傷的な展開を見せるが、そんな切ない幻との恋愛も次第に様相が変わっていく。その展開についてはまた後ほど語ることにしよう。 上述のように遥が失った事故当時の記憶をTMSでの治療を重ね、雅人の幻との逢瀬を重ねることで徐々にその内容を明かしていくのが本書のメインの物語であるが、それ以外にも随所に織り込まれる最新の脳科学の知識のオンパレードが実に興味深く、素人でも理解できるよう非常に解りやすく書いており、内容は実に面白い。 例えば脳はそれ自体が電気を発するので絶縁体である脂肪で出来ていること、そして最も頑丈な骨、頭蓋骨で守られていること、記憶に不可欠な物質グルタミン酸は非常に興奮をもたらしやすい性質があり、神経細胞をも破壊する恐れがあるため、過剰分泌を抑えるため、アデノシンが分泌され、一時的に活動がストップされること、それが恰も電力使用量を超過した際に自動的に遮断される電気のブレーカーと実に似ていることなど、知的好奇心が促される。 そして脳の秘密を解き明かすことで、即ち昔から怪奇現象と思われていた不可解事の正体や上にも書いた神の啓示や天才の閃きなども解き明かすことに繋がる。つまり広い意味で古来から不思議とされていた事象の謎を解いていくことでもあるのだ。 それは脳という複雑でしかもコンピュータのように精緻な仕組みを持った特殊な機関が我々人間たちに負荷をかけないようにそれ自体が人間から都合の悪い事を見せないように騙し、また故意に忘れさせようと自己防衛機能を備えていることが興味を尽きさせないからだ。 記憶でも思い出の記憶であるエピソード記憶、体得した生活やスポーツでの動きを司る手続き記憶、そして物事の意味を覚える意味記憶と3種類に分かれ、エピソード記憶は海馬に送られ、2年程度保存された後、ある程度、出入力が反復されると大事な記憶として大脳皮質や小脳に送られ、手続き記憶や意味記憶として忘れらない記憶となると述べられている。 この忘れやすいエピソード記憶は即ち我々読書好きの人間にとっては常にその維持との戦いを強いられる。 私がこのように感想を書くのは読み終えた本を極力覚えておきたいからだが、無論それでも忘れてしまう。正直感想を読み返してもどんな話だったか思い出せない作品も確かにある。 だが一方で内容が衝撃的すぎる、もしくは大いに感動した物語は細部は忘れてもその強い印象はずっと残っているのだ。しかもそんな作品でもいつも誰かと話したり、ウェブで感想を読んだりしているわけではなく、インプット・アウトプットの頻度はさほどインパクトの強くない作品のそれとは変わらないように思えるのに、なぜいつまでも覚えているのか。そこの説明が上の内容では成立しないように思えるのだ。 まあ、とにかく読み終わった本を極力覚えているには、どうにか2年の間、海馬にある段階で頻繁にインプット・アウトプットしていくように努めなさいということになるだろうか。 と、このように記憶1つ取ってもこれだけ話が生み出される脳について語られる。従って、通常ミステリならば例えば館の見取り図が欲しくなったりするが、本書では脳のそれぞれの部位が成す役割を詳らかに語るため、脳の各部位を示した図が欲しいと思った。 海馬、大脳皮質、小脳、シルヴィウス溝、側頭葉、前頭葉とここに至るまでにそれだけの脳の部位が出てきた。更には記憶のルートは頭頂葉、側頭葉、帯状回を経由する、恐怖心や不安感をもたらす扁桃体、その中にある背外側前頭前野のDLPFC、等々が続々と登場する。これらそれぞれの部位を示した図があれば、それをもとに自分の頭に照らし合わせて読むとまた格別に理解できただろう。 さて遥が次第に事故当時の記憶を思い出していくごとに不穏な空気が漂ってくる。特に主人公の遥だ。どんどん感情的になっていき、周囲の目を気にせずに幻の彼、神原雅人に嫉妬心を募らせていく。そしてTMSによって思い出した事故当時の記憶はなんとも自己嫌悪に陥るしかない最悪の結果だった。 なんともバカげた真相である。島田氏の女性観はある種、独断と偏見を感じるところがあるが、この主人公糸永遥の性格と行動はまさにその独特の女性観が悪い方向に出たような形だ。 この糸永遥という女性、女性読者から見れば、確かに周囲にいそうな女性ではあるのだけれど、どんな感じで捉えられるのだろうか? しかしそんな真相の後にどうにか救いはあった。 しかし島田作品初の映画化作品として選ばれた本書。いや映像化を前提に書かれたのかもしれないが、亡くなった彼の幻との短いデートという儚げなラヴストーリーが、一転して事故の真相を知った途端に視聴者はどんな思いを抱くだろうか? 私は前述したようにもっとどうにかならなかったのかと思って仕方がない。機会があれば映画の方も見てみよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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キングが怪奇コミックスの鬼才バーニ・ライトスンと組んで著したヴィジュアル・ホラーブック。
キングにしては珍しく、全編でたった200ページにも満たない。しかもその中にはふんだんにライトスンによるイラストが挟まれているため、文章の量もこれまでのキング作品では最少だ。 そんな試みで書かれた作品のモチーフは人狼。つまり狼男の物語だ。実にオーソドックスな題材である。 かつて『呪われた町』で吸血鬼を、お化け屋敷をモチーフに『シャイニング』をキングは書いたが、そのいずれもが上下巻の長編だったのに対し、人狼を扱った本書は上に書いた中編の部類に入る分量である。 物語も実にシンプルでメイン州の田舎町に突如現れた人狼による被害について月ごとに語られる。 鉄道の信号手、本屋の経営者、名も知らぬ流れ者、凧揚げに夢中になって犠牲となった11歳の少年、教会の掃除夫、食堂の主人、町の治安官、豚舎の豚、妻に暴力を振るう図書館員。毎月決まって満月の夜に惨劇は起きる。 その中で唯一の生存者が車椅子の少年マーティ。彼はおじから貰った爆竹で抵抗して命からがら逃げだすことに成功する。 1月から12月までの1年間を綴った人狼譚。キングにしてはシンプルな物語なのは話の内容よりもヴィジュアルで読ませることを意識したからだろうか。その推測を裏付けるかのようにバーニ・ライトスンはキングが文字で描いた物語を忠実に、そして迫力あるイラストによって再現している。 1月から12月まで、それぞれの月の町の風景と、人狼が関係する印象的なシーンを一枚絵で描いている。特に後者はキングが描く残虐シーンを遠慮なく描いており、背筋を寒からしめる。特に人狼の巨大さと獰猛さの再現性は素晴らしく、確かにこんな獣に襲われれば助かる術はないだろうと、納得させられるほどの迫力なのだ。 この小説で教訓があるとすれば、まず大人に対しては、子供の話にきちんと耳を傾けるべきであるということだろう。往々にして子供は大人が知らない世界を見ることが出来、そして真実を語ることがあることを忘れてはならない。 一方子供に対しては、大人に頼らず、子供には自分で始末を着けなければならない時があるということだろうか。人狼というまともに立ち向かえば勝ち目がない相手、つまり途方に暮れてしまうほどの困難に直面した時も知恵と勇気を使えば克服できる、既に少年はその能力を秘めているというメッセージが込められているともとれる。 小さな町に訪れた災厄を群像劇的に語り、そしてその始末を一介の、しかも車椅子に乗った障害を持つ少年が成す、実にキングらしい作品でありながら、決して饒舌ではなく、各月のエピソードを重ねた語り口は逆にキングらしからぬシンプルさでもある。そしてキングにしてはふんだんにイラストが盛り込まれているのもまたキングらしからぬ構成だ。 それもそのはずで、解説の風間氏によれば当初イラスト入りカレンダーに各月につけるエピソード的な物語として考案された物語だったようだ。しかしそんなシンプルさがかえってキングにとって足枷になり、7月以降はマーティを登場させ、人狼対少年という構図にしてカレンダーに添えられる物語ではなく、中編として最終的には書かれたようだ。 だからキングらしくもあり、またらしからぬ作品というわけだ。 一方シンプルな語り口と秀逸なイラストの組み合わせということで考えると、少年少女向けのキング入門書とも云うべき作品としても考えられるが、それにしては暴力夫が出てきたり、女性との性行為についても語られるので正直子供に読ませるには抵抗がある。いやはやなんとも判断に困る作品である。 しかしそんな考察は無用なのかもしれない。文章とイラストで存分に狼男の恐怖を味わうこと。それが本書の正しい読み方と考えることにしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ケーブルカーと云えばLAではなくサンフランシスコのそれが有名だが、LAにもあり、それが本書で殺人の舞台となるエンジェルズ・フライトだ。実は世界最短の鉄道としても有名だったが、2013年に運行を停止していたらしい。しかし2016年の大ヒット映画『ラ・ラ・ランド』の1シーンで再び脚光を浴びて運行が再開したようだ。
1冊のノンシリーズを挟んでボッシュシリーズ再開の本書は奇遇にも最近再開されたケーブルカー内で起きた、LA市警の宿敵である強引な遣り口で勝訴を勝ち取ってきた人権弁護士の殺人事件に突如駆り出されたボッシュが挑む話だ。 作者はやはりボッシュに安息の日々を与えない。今度のボッシュはまさに否応なしにジョーカーを引かされた状況だ。 警察の天敵で、何度も幾人もの刑事が苦汁と辛酸を舐めさせられた弁護士の殺人事件を担当することで、世論は警察による犯行ではないかと疑い、刑事も当初はその疑いを免れるために強盗によって襲われたものとして偽装する。現場の状況は警察が偽装した痕跡が認められた上に、射撃の腕前がプロ級であることから容疑者が射撃の訓練をしてきた人間である可能性が高いため、警察関係者にいる可能性も高まる。そしてボッシュはそんな事件を担当する刑事たちに嫌悪され、刑事と思しき人物から脅迫電話まで受け取る。 おまけに被害者は黒人であるのが実は大きな特徴だ。本書はスピード違反で逮捕された黒人をリンチした白人警官が無罪放免になったいわゆるロドニー・キング事件がきっかけで起きた1992年のロス暴動がテーマとなっている。作中LA市警及びハリウッド署の面々にとってもその記憶もまだ鮮明な時期で、エライアス殺人事件がロドニー・キング事件の再現になることを恐れており、少しでも対応を間違えば暴動になりかねない、まさに一触即発の状況なのだ。 作者自身もこのロドニー・キング事件を強く意識した物語作りに徹している。上に書いたように黒人であるロドニー・キングをリンチした白人警官が無罪放免になったのには陪審員が全て白人で構成されていたことが要因として挙げられている。一方エライアスが担当していたマイクル・ハリス事件もまた、事件に関わった警察及び検察官が全て白人であった。コナリーは実際の事件をかなり意識して書いていることがこのことからも窺える。 従って本書では特に白人と黒人の反目が取り沙汰されている。ボッシュ達がこの微妙な、いや敢えて地雷を踏まされたような事件を担当するのも、ボッシュのチームに黒人の男女の刑事がいることが一因であることが仄めかされている。しかしボッシュはそんな市警の上層部の意向に嫌悪感を示し、記者会見に彼の部下を同席することを良しとしない。2回目の記者会見でLA市警の誠実さを示すためだけに同席を強いられたエドガーとライダーはそうすることを命じたボッシュに対して反発心を見せる。彼らは1人の刑事であり、決して特別な「黒人の」刑事ではない。しかしそれを世間に示さなければならないほど、世紀末当時のLAはまだ根深い人種差別が横たわっていたことが描かれている。 ついでに云えば被害者の弁護士ハワード・エライアスの息子の名が黒人解放運動の牽引者である人物の名前がそのまま入ったマーティン・ルーサー・キング・エライアスであることも象徴的だ。 ところで本書ではエピソードとして2つの事件が挿入されている。1つは最近ボッシュが解決して有名になったハードボイルド・エッグ事件。もう1つはエライアスがLA市警強盗殺人課相手に裁判を控えていたブラック・ウォリアー事件だ。 前者の事件は自殺と思われた事件が冷蔵庫に冷蔵されていた固ゆで卵に書かれた日付によってそんなことをする人間が自殺するわけがないと閃いて犯人を捕まえた事件でそれはロサンジェルス・タイムズにシャーロック・ホームズ張りの名推理として紹介され、有名になったのだ。そして犯人だったストーカーは自分の犯行の証拠となる被害者の手記を後生大事に持っていた。 後者は誘拐された自動車販売王として有名なジャクスン・キンケイドの息子サムの一人娘ステーシーが捜査の甲斐虚しく、遺体として発見され、その発見場所がかつて住居侵入と暴行の罪で前科のあるマイクル・ハリスの近くだったことから容疑者として逮捕されたもの。当初はこの被害者家族に世間の目は同情的だったが、裁判でサム・キンケイドがサウス・セントラル地区に販売代理店がない理由を、1992年に暴動が起きた場所に店を構えるつもりなど毛頭ないと応えたことで黒人差別の気運が高まり、無罪判決で釈放された後、ハリス側が今度は自身がが不当な拷問を捜査官から受けたことに対してLA市警を訴えた事件である。そしてこの事件の裁判の直前に担当弁護士で辣腕を誇るエライアスが殺害されるのである。 この事件が実はエライアス殺害事件に大いに関わってくる。むしろボッシュはこの事件を解くことがエライアス殺害事件を解く鍵と信じ、捜査に協力するFBIの方にエライアス殺害事件の方を任せて、自分たちはその事件を追う。 余談になるが、アーヴィングと本部長の取り計らいでこのエライアス殺害事件の捜査はFBIと合同で行うようになる。それに派遣されるFBI捜査官がロイ・リンデルであるのが今回のサプライズでもある。彼はシリーズ前作『トランク・ミュージック』で登場したあの潜伏捜査官。なるほど、こんな手をコナリーは繰り出してくるのかと驚いたものだ。 もう1つFBIで云えば、本書では前作『わが心臓の痛み』が映画化されたことにも触れられており、しかもテリー・マッケイレブはかつてボッシュも一緒に仕事をしたことがあると述べている。これも思わずニヤリとするコナリーの演出だ。 話は変わるがネオ・ハードボイルド小説の代表作の1つにアル中探偵ローレンス・ブロックのマット・スカダーシリーズがある。1976年に始まったこの次世代ハードボイルドシリーズも90年になるとIT化の波には逆らえず、スカダーの仲間の1人TJがパソコンを駆使して彼をサポートするが、このボッシュシリーズでも同様に本書ではボッシュのチームのメンバーの1人、女性刑事のキズミン・ライダーが買春のウェブサイトから隠れサイトであった小児ポルノのサイトへのアクセスし、事件が急転回する。 しかしデビュー作ではまだポケベルで連絡を取り合い―それは本書でもまだ続いている―、その後携帯電話をボッシュが使うようになるが、とうとうインターネットまで登場するようになったとは。 本書は1999年発表だからそれは全くおかしなことではないのだが、ボッシュとインターネットというのがなんともそぐわなく、本書でもボッシュはネット音痴でキズミンがかなり噛み砕いてインターネットのウェブサイトの仕組みについて説明しているのに隔世の感を覚える。世紀末のあの頃のインターネットの認知度はまだそんなものだったのだ。 また今まで色んな苦難に直面させられてきたボッシュだが、『トランク・ミュージック』で新たなチームのリーダーとなり、またグレイス・ビレッツという理解ある上司に恵まれ、しかも運命の女性と感じていたエレノア・ウィッシュと結ばれ、ようやく人生の春を迎えつつあった。しかし本書でまたもや危難に見舞われる。 警察の敵を殺害した犯人の捜査だ。しかも犯人は警察の中にいるかもしれず、お互い理解しあったとされたかつての宿敵アーヴィン・アーヴィングは昔に戻ったかのようにボッシュをマスコミの生贄の山羊に捧げるかのように管轄外にも関わらず呼び出し、特別任務として捜査のリーダーに命じる。 味方の中にも敵がいるかもしれない、そんな四面楚歌の状況にボッシュはいきなり追いやられる。 更にエレノアとの結婚生活もまた破綻しかけている。元FBI捜査官でありながら、前科者という経歴で彼女はなかなか新たな職に就けないでいた。ボッシュも人脈を使って逃亡者逮捕請負人の仕事を紹介したりするが、エレノアはかつて捜査官として抱いていた情熱をギャンブルに向けていた。ラスヴェガスでギャンブラーとして生計を立てていた頃に逆戻りしていたのだ。 ボッシュはエレノアに安らぎと全てを与える思いと充足感を与えられたが、エレノアはボッシュだけでは充たされない空虚感があったのだ。 本書で特に強調されているのは「すれ違い」だろうか。事件の舞台となったケーブルカー、「エンジェルズ・フライト」をコナリーは上手くボッシュの深層心理の描写に使っている。 彼が夢でこのケーブルカーに乗っている時、まず最初に反対側のケーブルカーに乗っていたのはエレノア・ウィッシュだった。しかし夢の中の彼女はボッシュの方を見向きもしないまま、そのまま下っていく。 2回目の夢の時は反対側のケーブルカーではなく、同じケーブルカーに通路を挟んで相手は乗っている。それはブラック・ウォリアー事件の被害者ステーシー・キンケイドだ。彼女は悲しげで虚ろな目でボッシュを見つめている。 一度は近づきながらもやがて離れていくケーブルカー。これを出逢いと別れを象徴している。 一方同じ車両に通路を隔てて乗っている2人の関係性。これは同じ方向に進みつつも2人には何か見えない隔たりがある。 ケーブルカーをボッシュが関わる女性との関係性に擬えるところにコナリーの巧さがある。 夢で見たようにエレノアはボッシュを十分愛せない自分に耐え切れなくなり、しばらく距離を置くため家を出る。ボッシュはエレノアといることに至上の幸せを見出していたのに、それが一方通行でしかなかったことを知り、心が引き裂かれそうになる。 上に向かっていくケーブルカーに乗っていたボッシュとは裏腹にエレノアの心は下降線を辿って行ったのだ。 そしてステーシー・キンケイドもまた同様だ。今度は同じ車両に乗りながら通路を挟んで見つめ合う2人。 我々は同じ車両に今乗っている。ただまだそちらのシートには近づけない。そこにはまだ通路分の隔たりがあるのだと。 すれ違いと云えば、被害者エライアスの家族もそうなのかもしれない。 人権弁護士として貧しき黒人たちの救世主として名を馳せた辣腕の黒人弁護士。しかし彼はその名声ゆえに近づいてくる女性もおり、それを拒まなかった。元人権弁護士でLA市警の特別監察官となっているカーラ・エントリンキンもまたその1人だった。 しかしエライアスの妻ミリーは女性関係については夫は自分に誠実であったと信じていますと告げる。決して誠実だったとは云わず、自分は信じているとだけ。 これはつまりすれ違いをどうにか防ごうとする妻の意地ではないだろうか。世間に名の知れた夫を持つ妻の女としての矜持だったのではないだろうか。つまり彼女とハワード・エライアスのケーブルカーはそれぞれ上りと下りと別々の車両に乗ってはいたが、行き違いをせずにどうにかそのまま同じところに留まっていた、そうするように妻が急停止のボタンを押し続けていた、そんな風にも思える。 今回も多くの人々がボッシュの目の前から消え去る。 娘を亡くした忌まわしい過去を一刻も早く消し去りたいがために引っ越しながら、移転先では2人の死体が残され、そして以前の家では1人の死体が残され、そして誰もいなくなってしまった。 皆が集まる家もあれば、なぜか人が居着かない家もある。ずっと孤独を抱えていたボッシュの家は後者になるのか。 そしてアメリカの政財界にまで影響を与える自動車販売王の家もまた張り子の家庭だけが存在する、不在の家なのか。 事件を調べる者と調べられる者と対照的な2つの家に私はなんとも奇妙な繋がりを覚えずにはいられなかった。 コナリーは刑事を主人公としながら実は警察小説を書くのではなく、あくまでハードボイルドで警察に盾突く卑しき街を行く騎士としてボッシュを描いていることに今ようやく思い至った。 世紀末を迎えたアメリカの政情不安定な世相を切り取った見事な作品だ。 実際に起きたロス暴動の残り火がまだ燻ぶるLAの人々の心に沈殿している黒人と白人の間に跨る人種問題の根深さ、小児に対する性虐待にインターネットの奥底で繰り広げられている卑しき小児ポルノ好事家たちによる闇サイトと、まさしく描かれるのは世紀末だ。 では新世紀も17年も経った現在ではこれらは払拭されているのかと云えば、更に多様化、複雑化し、もはやモラルにおいて何が正常で異常なのかが解らなくなってきている状況だ。人種問題も折に触れ、繰り返されている。 そういう意味ではここで描かれている世紀末は実は2000年という新たな世紀が孕む闇の始まりだったのかもしれない。 そう、それは混沌。 死に値する者は確かに制裁を受けたが、それは果たして正しい姿だったのか。そして友の死の意味はあったのか。向かうべき結末は誰かが望み、そしてその通りになりもしたが、そこに至った道のりは決して正しいものではない。 結果良ければ全て良しと云うが、そんな安易に納得できるほどには払った犠牲が大きすぎた事件であった。 自分の正義を貫くことの難しさ、そして全てを収めるためには嘘も必要だと云うことを大人の政治原理で語った本書。その結末は実に苦かった。 そして本書では解かれなかった謎がもう1つある。それはマスコミ、TV屋のハーヴィー・バトンとそのプロデューサー、トム・チェイニーに警察の内部情報をリークしていた人物についてだ。つまり今後も警察内部に情報源を抱えて仕事をしていかなければならないことを強いられるわけだ。 ボッシュの息し、働き、生活する街ロス・アンジェルス。天使のような美しい死に顔をして亡くなったステーシーがいた街ロス・アンジェルス。 まさに天使の喪われた街の名に相応しい事件だ。 その街にあるケーブルカーの名前は「エンジェルズ・フライト」、即ち「天使の羽ばたき」。 しかし天使の喪われた町での天使の羽ばたきは天に昇るそれではなく、地に墜ちていく堕天使のそれ。 最後にボッシュは呟く。チャステインの断末魔は堕天使が地獄へ飛んでいく音だったと。 エンジェルズ・フライトの懐で亡くなったエライアスはこの堕天使によって道連れにされた犠牲者。 世紀末のLAは救済が喪われたいくつもの天使が墜ちていった街。そんな風にLAを描いたコナリーの叫びが実に痛々しかった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『千年紀末古事記伝ONOGORO』に続く、鯨統一郎版古事記伝である。前作では稗田阿礼が巫女の力で感じ取る物語を綴る体裁であったが、続編にあたる本書ではヤマトタケルは“世界”を創るために根源へと遡る。
前作ではコノハナサクヤ姫とニニギとの間に火照命、火遠理命、即ち海幸彦、山幸彦が生まれて、古事記伝は閉じられるが、本書はその続きでこの2人の兄弟の話から始まる。 ちなみにこの山幸彦と海幸彦の話は浦島太郎の原型となったとされる。そこから物語は卑弥呼と邪馬台国の話になり、その後彼女とその仲間イワレビコとイツセノ命兄弟の反乱とナガスネビコとの戦い、そしてイワレビコと卑弥呼が和解し、お互い協力して新しい国を創る。それがヤマトの国の始まりだ。 その後、ヤマトの国の変遷が語られる。ミマキイリヒコは世の中を襲った疫病から蛇神の子を捜し出して国民を救い、眉目秀麗の王イクメイリヒコはその愛妻サホビメを愛するが、サホビメは仲の良い兄サホビコに王を討ち斃すことを頼まれ、兄と夫との愛情の狭間で苦しみ、兄と共にその身を業火に焼かれて死んでいく。イクメイリヒコは遺されたサホビメとの児ホムチワケが成長しても口が利けないことを心配し、博識のタジマモリに頼んで食すれば言葉が喋れるようになると云われている時じくの香の木の実のことを聞く。その実は一方で食すれば時を自由に操る力を得るという人智を超えた霊力も備わる危険性があった。しかしその懸念も取り越し苦労でホムチワケは話すことが出来るようになる。 そしてオオウスとオウスという双子を持つオオタラシヒコの時代では大らかだが、女に目がない兄オオウスと美しい顔立ちをし、剣の達人でもある弟オウスのいずれかに王位を継がせることに悩んでいた王はいつも微笑みを絶やさないオウスを得体のしれない危険な男とみなし、オオウスに継がせることに決めるが、オオウスは自分が妻に迎えようとしていた美人姉妹のエヒメとオトヒメに一目惚れし、父に内緒で自分の妻にしてしまう。それを知ったオオタラシヒコは弟のオウスに何とかするように命令し、兄の許に向かわすが、オオウスは父にその娘たちを返すように云われると断るや否やオウスに首と両手両足を一瞬にして切られてしまう。それを知ったオオタラシヒコは最愛の息子を殺したオウスに決して王位を継がせないよう、無茶な任務を命ずる。 それは無敵の大男と名高いクマソタケルを討つことだった。そしてオオタラシヒコは彼にたった10人の兵を与えて出兵させる。しかしオウスは女装してクマソタケルに近づき、討伐に成功する。その手際に感心したクマソタケルは自分の名前を授け、オウスはヤマトタケルと名前を変える。 ここでようやく冒頭に出てきた主人公ヤマトタケルの登場である。 その後もヤマトタケルは出雲の国の強者イヅモタケルの討伐、東方十二か国の平定を父より命ぜられ、その都度智略と大胆さで切り抜け、次々に任務を果たす。 それだけの功績を成しながらもヤマトタケルは父のオオタラシヒコからは賞賛の言葉が貰えなかった。オオタラシヒコは最愛の長男オオウスを始末したヤマトタケルをどうしても許せなかったのだ。 やがてヤマトタケルは今の三重県に当たる伊吹山に人々を苦しめている荒々しい猪の出現の話を聞いて退治しに出かけるが、猪は今まで国の平定のためとは云え、智略、策略を弄して様々な人を殺してきたヤマトタケルそのものだと述べる。そしてヤマトタケルはかろうじて妻の美夜受姫の助けを借りて猪を退治するが、それまでに吸った瘴気にやられて助からないことを悟り、時を遡る実、時じくの香の木の実を食べ、息を引き取り、白鳥に転生する。 しかしヤマトタケル退場後もその後も子々孫々の物語が綴られていく。今の韓国に当たる新羅と百済を攻めていった後の神功皇后となるオオナガタラシ姫の話、後の応神天皇となるホムダワケのエピソード、現在日本最大の古墳として教科書にも記載されている仁徳天皇となるオホサザキが美しく、身体つきも見事でなおかつ聡明なイワノ姫という妻を持ちながらも漁色家で浮気性で妻の目を盗んでは各地の女や女官に手を出していたという話、その息子イザホワケノ王と兄の座を虎視眈々と狙うスミノエとの戦いの話、等々、後のヤマト時代の天皇となる人物たちのエピソードが語られていく。 歴代の大王たちがなんとも本能の赴くままに振る舞うことよ。 前作では男と女の交合いこそが国創りだと云わんばかりにセックスに明け暮れるという話が多かったが、本書は神々から人間に登場人物が変わっただけあって、神々よりも理性はあるため、自重する面も見られるが、それでも妻がありながらも美しく若い女性、また熟れた肢体を持った女性を見ると見境なく交合う話が出てくる。 東に行っては美しい娘に永遠の契りを誓いつつも西に行ってまたも美しい女性に出会えば后として迎えるとうそぶく。男のだらしなさが横溢している。更には自分こそが一番強いことを証明するため、各地の強者たちと戦い合う。それは身内も同様で王の兄の座を虎視眈々と狙って討ち斃そうとする兄弟げんかも繰り返される。 昔から男は欲望のままに生きる子供っぽい生き物であるのだと殊更に感じる一方、昔の女性の一途さに感銘した。 はっきり云えばそれら歴代の統治者たちの物語にミステリの要素は全くない。前作ではアマテラスと交合うために天の岩屋戸に籠ったスサノヲがアマテラスの背中に短剣を突き立てて殺害しながらも密室の中から忽然と消える密室殺人が盛り込まれていたが、本書ではそんな要素も全くない。せいぜいヤマトタケルが各地の強者を成敗するのに智略や奸計を用いたくらいだ。 従って単純に古事記の解説本のように読んでいたが最後になって本書の意図が判明する。 前作の復習になるが本書の内容は現在伝えられている古事記のそれと微妙に異なる点がある。本書に記載された物語について私はさほど詳しくないのでどこまでが嘘で真実かが解らないのだが、その旨を問い質すと、この世は邪悪な意志を持ったヤマトタケルによって創られた世界だからそのまま真実を書くと邪悪なものになってしまうので太安万侶によって稗田阿礼が口伝えした話を少し改変したものであるというのが本書でも改めて述べられている。 しかし本書ではさらに続きがあり、あるオチ(あえて真相とは云わない)が明かされる。 このオチを是と取るか否と取るかは読者次第。ただ本書における鯨氏の意図は理解できる。 歴史とはずっと研究が続き、その都度生じる新たな発見で内容が改変されていく学問である。従って100人の学者がいれば100通りのの解釈が生まれる。鯨氏はこの歴史の曖昧さ、あやふやさこそがそれぞれの読者が学んできた歴史という先入観を利用してひっくり返すことをミステリの要素としていたのだ。 デビュー作の『邪馬台国はどこですか?』はまさにそれをストレートに描いたもので、本書は逆に古事記のガイドブックのように読ませて、それぞれが知っている古事記との微妙な差異を盛り込むことでミステリとしたのだ。 ただ正直に云って本書は古事記をもとにした黎明期の日本の統治者たちのエピソードを綴り、それをヤマトタケルが造った世界であるという一つの軸で連なりを見せる連作短編集として読むのが正解だろう。 私は1つの長編、そしてミステリとして読んでいたため、どんどん変遷していく時の治世者たちのエピソードの連続に、果たしてどこに謎があるのだろうと首を傾げながら読んだため、読中は作者の意図を汲み取るのに実に理解に苦しんだ。 もしかしたら本書の妙味とはこれを読んで古事記の内容が解ったと思ってはならない、古事記とは異なる点が多々あるからそれは自分で調べなさいと読者に調べて知ることの歓びを与えることなのだろう。だからこそ巻末に記載された参考文献一覧に、「本文読了後にご確認ください」と作者が注釈を入れているのだろう。 解らないことは自分で調べよう、じゃないと嘘をそのまま鵜呑みにするよ。 それが今まで4冊の鯨作品を読んできて感じたこの作者の意図であり、警告であると思うのである。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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宮部みゆき氏最初期の短編集。私が彼女の短編を読むのは『我らが隣人の犯罪』以来。宮部氏の実質的なデビュー作であるオール讀物推理小説新人賞が収録されたその短編集には「サボテンの花」という、今なお忘れられない短編が入っており、長編のみならず、短編の巧さは実証済み。そんな期待値の高い中で読んだ本書は実に軽々と私の期待を超えてくれた。
冒頭を飾るのは表題作「返事はいらない」。 作品から時代が平成元年であることが読み取れるが、恐らく本作に書かれている銀行のキャッシュカードによる現金引き落としのシステムはその当時からあまり変わっていないのではないだろうか?本作ではそのセキュリティの甘さが詳らかに説明され、利用者である私たちの背筋に寒気を感じさせる。 主人公の千賀子と森永夫妻が行う犯罪は偽造キャッシュカードを使った現金横領で、それに関しては新味はないものの、果たしてこれほどまでに事細かくATM(作中ではCD機と書かれているところに時代を感じる)のシステムを語った作品はないのではないか?読書量の少ない私がたまたまそのような作品に出くわしていないだけかもしれないが、大抵のミステリでは偽造カードを使った犯罪が横行している、ぐらいの記述ではないだろうか。 本作ではあくまで銀行業界に対して警鐘を鳴らすために元銀行員と女性たちが犯罪を行うが、この安易さには各金融機関に本気でセキュリティに取り組んでもらいたいと痛感した。 本作はそんな銀行の現金引き落とし機に潜む罠が際立って印象に残るが、それだけに終始した話ではなく、ストーリーテラーの宮部氏ならではの、心がどこかほっこりする話になっているのが救いだ。 最後に判明する滝口の真意は罪を憎んで人を憎まずという彼の刑事時代の主義が表れているように思った。 次の「ドルネシアへようこそ」の舞台は六本木。 駅の伝言板に誰宛てでもなく、書いた伝言に見知らぬ相手から返事がある。しかも待ち合わせ場所は今評判のディスコ。 駅の伝言板、六本木のディスコ。まさにバブル臭漂う時代を感じさせる物語だ。今ならば自分のSNSに突然送られてきたメールがモチーフになるだろうか。それと比べると漫画『シティハンター』世代の私にとって駅の伝言板の方が実に魅力あるアイテムだ。 主人公が速記士を目指す専門学校生と、決して華やかな人物でないことに加え、対照的に常に有名人が毎夜集い、毎日がパーティのような六本木という場所が実に対照的であるのに加え、ドルネシアという名前の由来がこのミスマッチに有機的に結びつくところに宮部氏の上手さを感じる。 ドン・キホーテの妄想に出てくる姫の名前がドルネシア。その実態は単なる酒場女。しかしドン・キホーテはそんな彼女に憧れの君を見出す。それは見た目はみずぼらしくても実直な篠原伸治を指しているようだ。そしてまた店のオーナーでもある守山喜子もまた。 最後の一行で温かい気分にさせてくれる筆巧者ぶりが本作でも愉しめるのはさすがだ。 「言わずにおいて」は会社でつい課長に対して暴言を吐いてしまった女性がある事故に巻き込まれる。 上司に暴言を吐いて休職中のOLが自分を誰かに間違えたがために運転していた男が目の前で死んでしまう。その誰かがどうしても気になり、探しだそうとする物語だが、その過程が実に面白い。 一介のOLが果たしてここまでできるだろうかという疑問はあるだろうが、その捜査が女性ならではの視点で繰り広げられ、私には新鮮だった。自分と見間違えた時の写真のヘアスタイルから美容院を特定する辺りは男の私にしてみれば偶然にすぎると思いがちだが、案外流行りの髪型に固執する若い女性ならば評判の美容院へ通い、それがある意味ステータスとなるのだから、決しておかしな話ではないのかもしれない。 そしてようやく辿り着いた自分とよく似た女性の部屋に置かれていた手紙。そこに書かれた一連の事件の真相よりも長崎聡美は上司が自分のことをどのように思っていたかを知ったことが嬉しかったに違いない。こういう事件の核心とは別の部分にハッとさせる要素を入れるところが宮部氏は実に巧い。 しかしそれでも冗談とはいえ、経理課の課長が長崎聡美に放った台詞は今ならばセクハラで訴えられてもおかしくない内容だ。この時代はまだこんなことが自由に云えたのだと思うとさすがに隔世の感を覚える。 宮部作品の特徴の一つに登場する少年の瑞々しさが挙げられるが「聞こえていますか」はそんな長所が存分に活きた作品だ。 引っ越した先に残された電話に盗聴器が仕掛けられていた。こんな経験をすると誰もがぞっとするだろう。 そして前の住人を調べると特高に追いかけられていた経験もある人物。もしかしてスパイだったのではと、頭のいい小学6年生の峪勉が想像をたくましくし、知り合った大学生、鬼瓦健司の助けを借りて事の真相を解明していく過程が実に面白い。 この元三井邸の周囲の住民とそしてその息子夫婦たちを結び付ける数々の糸が有機的に絡んで、ある老人の寂しい気持ちが浮かび上がってくる結末に、なんだか遣る瀬無さを感じた。 師範学校の教師をしていた三井老人が息子に厳しかったこと。勉の母と祖母の間でお互いの価値観のぶつかり合いでなかなか折り合いがつかなかったこと。それぞれの人生で築かれた価値観を崩さないがゆえに生じる衝突。 しかし敢えて離れてみると、今まで一緒にいるのが当たり前だった存在が目の前からいなくなることで逆に相手のことが見え、優しくなっていく。 この人間のある種の滑稽さが起こした行動が勉にはスパイや幽霊のように見えていく。 老人の心境の変化が関わった人、そして後の住民にも予想もしない妄想や現象を引き起こす。まさにこれこそ人間喜劇だ。 ある女性の転落死を追う「裏切らないで」ではようやく刑事が主人公となる。 巨大都市東京に生きる若者の孤独と美しくあろうと努力する女性たちの虚飾の虚しさを扱った作品だ。 多額の借金を重ねながら、高級ブランドの服とバッグ、時計に装飾品に身を固め、綺麗であることが存在意義とした長崎から夢を求めて出てきた女性は、そんな煌びやかな装飾品に包まれながらも、実の無い空虚な人間になっていた。いつしか借金も自分の金と思うようになり、そして身分不相応の持ち物を持つことが自分を表現する手段だと錯覚した女性。そんな女性の末路が歩道橋からの転落死。 彼女の身辺調査を行う刑事の一人がその女性の部屋を見て「なにもない。あるのは借金の匂いだけだ」と呟く。その大量に抱え込んだ借金こそが彼女の正体だった。 しかし外から彼女を見る人たちはそんな彼女の中身のなさに気付かず、男たちは綺麗な女性だといい、女性たちの中には異邦人みたいな女性で、ただただお金を貰い、美味しいものを食べ、着飾り、見てくれのいい仕事に就いて金持ちの男を捕まえることだけを考えている人だといい、ある女性は世間知らずの女性だったという。 しかし若くて綺麗なだけのその女性を羨む女性がいた。その女性もまたかつては彼女のように着飾り、綺麗に見せ男たちの目を惹くことを自分の生きがいだとしていた。しかし30を過ぎて男たちが見向きもしなくなったこと、週末を一人で過ごすことが多くなったことで自分はもう終わった女性だと感じる。 全ては都会のまやかし。しかしそんなまやかしから覚めきれない女性たちが数多くいる。都会の、いや東京という都市の特異性を謳った力作だ。 最後の短編の主人公も宮部氏お得意の未成年。高校一年生の男子が従姉妹の悩みを解決する顛末を描いたのが「私はついてない」だ。 高校生の僕の一人称で語られる本作は語り口もユーモラスで読んでいて楽しかった。 浪費癖のある従姉のOLを助けるために両親の指輪を貸し出したところ、それも盗まれてしまう。しかしそれにはある女性の思惑が潜んでいた。 この裏切られた感はよく解るものの、その女性が自分の役回りはそんなものだと自嘲して諦観の域に達しているのが情けない。 実は私も似たような感情を抱くことがよくあるが、それでも悪意から何らかの報復はしたりしない。それをやれば自分はもう終わりだと思うからだ。周りがどう思おうと、それでも前を向く、そんな風に考えるようにしている。 しかし女性の強かさに溢れた1編だ。玉の輿に乗りながらも、婚約者には内緒で男友達と競馬に興じ、晴れの舞台を取り繕うとする従姉、金遣いの荒い後輩にお灸を据えると見せかけて自分への悪口の仕返しを知り合いを雇ってまで行ったその先輩。しかし実は最も強かなのは最後に出てくる主人公の母親だ。 唯一ほっこりとさせられるのは主人公の彼女だ。主人公よ、既に君は彼女の掌の上で踊らされているぞ! だから最後の一行が色んな意味合いを伴って胸に飛び込んでくる。ホント、男と女って「おかしいよね?」 いやはや脱帽。久しぶりに宮部作品を、それも短編集を読んだが、流石と云わざるを得ない。犯罪や人の妬み、嫉みという負のテーマを扱いながら、読後はどこか前向きになれる不思議な読後感を残す佳品が揃っている。 偽造カード詐欺と狂言誘拐を組み合わせた表題作、後の『火車』でも取り上げられるカード破産をテーマにした「ドルネシアへようこそ」、店の金を持ち逃げされた従業員を追ったレストラン経営者のある決意を語った「言わずにおいて」、盗聴器が仕掛けられた引っ越し先の前の住人の正体を探る「聞こえていますか」、ブランドや装飾品に自分の存在価値を見出した女性の借金まみれの生活を扱った「裏切らないで」、そして最後は借金のカタに婚約指輪を取られた従姉のために一肌脱ぐ高校生の活躍を描く「私はついてない」。 そのどれもが読後、しっとりと何かを胸に残すのである。 80年代後半から90年代に掛けて、狂乱の時代と云われたバブル時代の残滓が起こした当時の世相を映したような事件の数々。そんな世相を反映してか、6編中5編が金銭に纏わるトラブルを描いている。しかしそれらは過ぎ去った過去ではなく、今なお起きている事件でもある。 例えば表題作の偽造カード事件はもはや国際化してきており、ATMは日本に不法滞在している外国人のいいカモとなっており、同種の事件が後を絶たない。既に29年前に刊行された本書で詳らかにATMのシステムとその欠点を指摘されているのに、同様に本書に書かれている、膨大な設備投資のために金融機関の対策が後手後手になっているからだろう。 私は読んでいて他人事ではない恐ろしさを感じた。まずはATMでは絶対伝票は発行しないか、その場で捨てないようにしよう。 またクレジットカード破産や物欲に囚われた女性が多大の借金を抱えるのも現代と変わらない。現代はさらに多様化して仮想コインなども登場し、更に複雑化してきている。 しかし大量に物が溢れた時代だったことが顕著に解る。 誰もが着飾り、そして毎夜パーティーに繰り出すことをステータスにしていた時代。今でもそんな人たちはいるが、やはりバブル時代はじっとしていられない、魔力のようなものが潜んでいた時代だったのだろう。 そしてそんな時代では若さこそが武器だ。当時女性は夜な夜な出かけるための服を勝負服とか戦闘服とか表現していた。そしてもちろん同じ物を着ていては相手にバカにされるので新たに服を買い続けるしかない。しかしバブルとは云え、OLの収入は限られているから、借金が膨らむわけだ。しかしそうまでしても相手に勝たなければいけないという不文律があった。それは若さという武器があってこそだからだ。 彼女たちが周囲から持て囃される時間は実に短い。この頃の結婚適齢期は25歳前後だったそうだ。従って30を過ぎてからは見向きもされない。女性たちはそれまでに高学歴、高収入、高身長のいわゆる「三高」の相手を捕まえて結婚して幸せになるのに躍起になっていた。 こうやって書いていると実に懐かしさを覚えつつ、今になってみれば何もそこまでと思うが、それが彼女たちのステータスだったのだ。 そんな女性たちが牙を剥き、強かさを見せつけた頃の生き様が描かれている。それも宮部氏の優しさというオブラートに包まれているから、全く殺伐とした感じがしない。 返事はいらない。 これは本書の題名でありながら、冒頭に収録された短編の題名である。通常短編集の題名に選ばれる短編はその中でも最も優れた作品である場合が多いが、本書はそれに勝るとも劣らない粒揃いの短編集。そしてこの1編の短編の題名がそのまま収録作全体を通してのコンセプトのようになっている。 表題作では別れを持ち出された元恋人に対して未練を断ち切れない主人公が、自分からさよならという返事無用の言葉を元恋人に投げ掛けるために犯行の片棒を担ぐ。 「ドルネシアへようこそ」では誰に宛てるでもない駅の伝言板に残した待ち合わせ場所を記した伝言に、ある日誰かが返事を残す。それはバブルという虚飾に踊らされた女性だった。そして彼がその正体を知り、その女性を捕まえるために知らぬ間に協力をさせられたことを知った後、駅の伝言板に残されていたのは返事無用の招待の伝言。 「言わずにおいて」に出てくるのは自分を誰かと見間違って目の前で事故死した夫婦。その誰かの許に辿り着いた時に置かれていたのは一通の手紙。それは自分の探し求めていたことに対する答えと自分が暴言を吐いた上司が自分をどのように思っていたかを知らせる内容だった。それを知っただけでその女性にとって、自分の暴言に対して詫びたことに対して、上司からはそれ以上の返事はいらなかったのだ。 「聞こえていますか」では真意を知るために盗聴器を仕掛けようとしたのに、本音を聞くことが怖くて、結局できなかった1人暮らしの老人の寂しさ。厳この知りたいのに聞くのが怖いという心理は心に突き刺さる。 「裏切らないで」は返事をしたがために殺された女性がいる。返事をしなければ、彼女は生き、そしてもう一人の彼女も殺さずに済んだのに。 唯一これに反するのが最後の「私はついてない」か。主人公の僕は恋人からの返事を待っていた。そしてそれは最後に最高の形で返事が貰えるのだ。 返事はいらないというネガティヴな表現で始まり、返事が貰えた物語で閉じられるのはやはり意識してのことだろうか。 こんな出来栄えの短編集だからベストの作品が選べるわけがない。全てがそれぞれにいい味を持った短編だ。 だから敢えてベストは選ばないが、唯一刑事を主人公にした「裏切らないで」が作者がこの時代の特異性を能弁に語っているのでちょっと書いておきたい。 地方から出てきて若さを武器に借金をしながらもいい仕事に就いていい男を見つけようとしていた女性が殺される。その彼女を殺した女性は東京の北千住から引っ越してきた女性なのにそこは「東京」ではないという。当時煌びやかで華やかさを誇ったバブル時代は実際は中身のない好景気で、その正体が暴かれた途端に弾けてしまい、しばらく世の中はその後始末に追われた。そんな上っ面の時代の東京もまたメディアに創り上げられた幻に過ぎなかったのではないかと刑事は述懐する。それは彼女たちの生き方も見た目を着飾ることに終始して、やりたいことがなく、ただ「貰う」だけ、手に入れるだけを目指していた。その中に中身があるかないかも分からずに。 本書はそんな時代の、東京を映した短編集。 しかしバブル時代のそんな空虚さを謳っているのに、時代の終焉を迎え、乗り越えようとする人たちに向けての応援の作品とも取れる。 こんな作品、宮部氏以外、誰が書けると云うのだろうか? 解っている。だから勿論、この問いかけに対する「返事はいらない」。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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これは誰かの死によって生を永らえた男が、その誰かを喪った人のために戦う物語。しかしその死が自分にとって重くのしかかる業にもなる苦しみの物語でもある。
コナリーのノンシリーズ第2作はクリント・イーストウッド監督・主演で映画化もされた、現時点で最も名の知られた作品となった。 何しろ導入部が凄い。コンビニ強盗で殺された女性の心臓が移植された元FBI捜査官の許にその姉が訪れ、犯人捜しの依頼をするのである。 これほどまでに因果関係の深い依頼人がこれまでの小説でいただろうか。 もうこの設定を考え付いただけで、この物語は成功していると云えよう。 心臓を移植された元FBI捜査官テリー・マッケイレブはまだ静養中の身であるため、従来の探偵役と違い、長時間労働が出来ないのが一風変わっている。定期的検査のために病院に通い、拒絶反応が出ないように朝に18錠、晩に16錠もの薬を飲まなければならない、虚弱な探偵だ。 しかし彼にはFBI捜査官時代の人脈と明敏な頭脳、そして捜査のノウハウを熟知しているというアドバンテージがあり、停滞していた同一犯と思われるコンビニ強盗・ATM強盗の捜査を一歩一歩着実に進展させる。 しかし驚くべきはコナリーのストーリーテリングの巧さである。 例えばボッシュシリーズではこれまでパイプの中で死んでいたヴェトナム帰還兵の事件、麻薬取締班の巡査部長殺害事件、ボッシュを左遷に追いやった連続殺人犯ドールメイカー事件、そして母親が殺害された過去の事件、車のトランクで見つかったマフィアの制裁を受けたような死体の裏側に潜む事件、更にノンシリーズの『ザ・ポエット』ではポオの詩を残す“詩人”と名付けられた連続殺人鬼の事件と、それぞれの事件自体が読者の胸躍らせるようセンセーショナルなテーマを孕んでいたが、本書では心臓を移植された相手を殺害した犯人を追うというこの上ないテーマを内包していながらも、その事件自体はコンビニ強盗・ATM強盗と実にありふれたものである。 日本のどこかでも起きているような変哲もない事件でさえ、コナリーは元FBI捜査官であったマッケイレブの捜査手法を通じて、地道ながらも堅実に事件の縺れた謎を一本一本解きほぐすような面白みを展開させて読者の興味を離さない。これは即ち巷間に溢れた事件でさえ、コナリーならば面白くして見せるという自負の表れであろう。 また主人公のテリー・マッケイレブの造形も全くボッシュと異なりながら、魅力的であるところも特筆すべきだろう。 ハリー・ボッシュは事件解決に対する執着が強すぎて、違法すれすれ、もしくはほとんど違法とも云える強引な捜査で自分を辞職の危機に追いやりながらも、ハングリー精神と粘り強さ、そして事件のカギを嗅ぎつける特異な直感力で解決してきた、正直に云えば野獣性を備えたアウトローな刑事である。 一方テリー・マッケイレブはFBIで捜査のノウハウを教わり、それを実に巧く活用して事件を解決に導く誠実さが備わった男である。一方で心臓移植手術のためにリタイアし、今はTシャツと短パンで父親から譲り受けた船で暮らす、自由人的な雰囲気をも兼ね備えた好人物だ。 しかしそれでも悪人に対する底なしの憤りを備えた熱血漢であり、彼にとって事件の解決は被害者に対する敵討ちを行うものとして捉えられており、従って事件が未解決に終わると無力感に苛まれる傾向が強かった。それがゆえにストレスで心臓発作を起こした経緯がある。つまり彼もまた紳士の顔をしながらも悪に対しては人一倍強い憎しみを抱く人物なのだ。 そして2人の決定的な違いは個で戦うボッシュに対し、マッケイレブは仲間の協力を借りて戦うところにある。 ボッシュには一応ジェリー・エドガーという相棒がいるものの、副業の不動産業で定時で帰る彼を放っておいて一人で捜査するのを好む。そして平気で時間に遅れ、約束は破り、勝手に人の名前を使って私有地に立ち入ると云った無頼漢で、部下にするには願い下げの男だ。 一方テリー・マッケイレブはFBIの分析官という職業柄、規則や手順を重視し、それを逸脱することに抵抗を感じる男だ。そしてFBI時代のその堅実な仕事ぶりとその人柄から周囲の信頼も得て、退職後も彼の頼みを快く聞いてくれる仲間がいる。ロサンジェルス・カウンティ保安官事務所刑事のジェイ・ウィンストン、FBI捜査官のヴァーノン・カルターズ。更に退職後の船上生活の“隣人”バディ・ロックリッジもまた彼の人柄に魅かれて親しくなった男である。 この対照的なキャラクターを設定しつつ、またその双方を魅力的に描くコナリーの筆もまた素晴らしいと云わざるを得ないだろう。 やがて事件はただの行きずりの強盗殺人事件からマッケイレブの細かい観察によってそして不特定多数の犠牲者と思われたグロリア・トーレスとジェイムズ・コーデルに犯人がある意図を持っていたことが判明する。 更にコーデルの事件で回収された銃弾をマッケイレブの根回しでFBI独自の検索システムに掛けたことでその銃弾が重詐欺罪で有罪となった元銀行頭取ドナルド・ケニヨン殺害に使われた銃弾と一致したことが判明する。 行きずりの強盗殺人事件が、被害者に対する異常な執着心による犯罪へ、そしてそれがまた詐欺師を殺害したヒットマンと思しき人物の犯行へと繋がっていく。しかも水道会社の技師、新聞の印刷会社社員、そして多くの人の財産を奪った貯蓄貸付銀行の元頭取の殺害を結ぶ線とはいったい何なのかと俄然興味が増してくる。 このミッシング・リンクにコナリーは驚くべき答えを用意している。 さてノンシリーズと云いながらもコナリーの作品はそれまでの作品とのリンクが張られているのは周知のとおりで、本書も例外ではない。 まず出てくるのは先のノンシリーズ『ザ・ポエット』でも登場したロサンジェルス・タイムズの記者ケイシャ・ラッセルだ。彼女はマッケイレブがFBI捜査官時代に良好な関係を保ち、その縁で彼が心臓発作で倒れ、手術後の引退生活を描いたコラムを書いた間柄でもある。 さらにやはり元FBI捜査官だっただけに『ザ・ポエット』に登場した女性FBI捜査官のレイチェル・ウォリングとも一緒に仕事をしたことがあることも触れられている。その事件、オーブリー=リンという少女を含むフロリダ旅行に行ったショーウィッツ家族が惨殺される事件は彼の未解決事件の1つだ。 また評判の弁護士としてマイケル・ヘイラー・ジュニアの名前が出てくる。その父親の名前が伝説の名弁護士ミッキー・ヘイラーと紹介されるが、これは後のリンカーン弁護士ミッキー・ハラーのことだろう。 かつてボッシュシリーズの『ブラック・ハート』でもこのハラーがボッシュの父親であったことを明かされるエピソードがあったが、このノンシリーズでもその名が出てきていたとは。しかし自分で手掛けた『ブラック・ハート』ではきちんと「ハラー」と書いているのに、なぜ本書では「ヘイラー」と誤読したのか、首を傾げざるを得ない。 そしてテリー・マッケイレブが分析官として手掛けた事件の1つが『ザ・ポエット』の事件であったことも明かされる。しかし私の記憶では彼の名前はこの作品には登場しなかったように思うのだがなぁ。 それ以外にもマッケイレブが現役時代に担当していた事件名は他に「コード」、「ゾディアック」、「フルムーン」、「ブレマー」と4つある。解決・未解決を問わずにそれらの資料のコピーを持ち出したとあり、しかも本書でそのうちの1つの事件が解決する。そのことには後に触れるが、その他の事件についても今後のコナリー作品で登場するのかもしれない。記憶に留めておこう。 というのもマッケイレブの捜査に協力する保安官事務所の刑事ジェイ・ウィンストンが彼と親しくなったエピソードに彼らがチームとなって解決した連続殺人犯「墓場男」が紹介されているが、6ページで語るには非常に惜しい内容なのだ。 こういう1編の長編になり得るネタをサラッと書くと云うことはコナリーは恐らく記者時代やもしくはその時から懇意にしている警察関係者やFBI関係者からもっと面白い、長編のネタになり得る話を多く得ているように推察される。 そのことを裏付けるように元FBI捜査官であるマッケイレブの捜査内容は実に詳細に書かれている。FBIが独自で編み出した検索システムやそれぞれの捜査方法の意義と手法、例えば銃弾のデータベース、ドラッグファイアシステムや地理的交差照合と云った地図を使った犯人の絞り込み、催眠術を駆使した証言の引き出し方などが実に論理的かつ詳細に語られる―しかもそれらの描写の中に真犯人への手掛かりが隠されているというミステリ通を唸らせる演出!―。それも本当にここまで書いていいのかというぐらいに。 もしくはこれらの手法がコナリーによって詳らかにされる以上に既にFBIの捜査方法はさらに進歩して先に行っているからこそ許されているのかもしれない。 またテリー・マッケイレブを取り巻く人物たちもノンシリーズと思えないほど強烈な個性を放つ。 まずはマッケイレブの担当医ボニー・フォックス。彼の捜査復帰に反対し、自分の忠告を聞かないマッケイレブの担当を外れることを忠告する、医師としての立場を貫く強い意志の持ち主ながらも、彼の捜査の協力に一肌脱ぐ気風の良さを示す女性だ。登場回数は少ないながらも、印象に残るキャラクターだ。 手術後まもないために車を運転できないマッケイレブが運転手を依頼する、同じマリーナに停泊する「隣人」バディ・ロックリッジもなかなか面白い。 ミステリ小説好きで元FBI捜査官だったマッケイレブの過去の捜査の話が大好きな年老いたサーファーで、事あるごとに捜査のことを聞きたがる疎ましい存在ながら、要所要所でマッケイレブを助けるなど、見事なバイプレイヤーぶりを発揮する。 余談だが彼がマッケイレブを待っている際に読むのが英訳版の松本清張の『砂の器』であることに驚いた。この作品がアメリカで読まれていることが驚きだし、またそれをコナリーが知っているのもまたそうだ。そして英訳版のタイトルが『今西刑事捜査す』となんとも普通で、全然興味をそそられないのが残念。やはり邦題通り“The Vessel of Sand”とすべきだろう。 また事件の依頼者グラシエラ・リヴァーズも鮮烈な印象を残す。コナリー作品の常として主人公と関わる美女は恋に落ちるというのが定番だが、このグラシエラも例に洩れない。しかし30代前半の魅力的な女性として描かれる彼女の職業は看護婦。この男の妄想を具現化したようなヒロインはまた時にマッケイレブを出し抜くほど大胆な行動に出て、病院のシステムに入り込んで貴重な患者のデータを提供する、なかなかに心臓の太い女性でもある。 そして彼女の妹グロリアの遺児レイモンド。彼の行動でそれまで父親との思い出がないまま、優しい母親と暮らしてきた彼の境遇は、マッケイレブでなくとも守ってやりたいという気にさせられる。 またマッケイレブの良き協力者となる保安官事務所刑事のジェイ・ウィンストンと彼女と対照的に尊大で無能な刑事として描かれるエディ・アランゴもある意味忘れ難い存在だ。この2人の捜査資料の内容で刑事としての熱意をマッケイレブは読み取る。たとえ行きずりのATM強盗事件でも被害者のことを思って犯人逮捕にこぎつけようと手を尽くす前者とただの行きずりのコンビニ強盗として形だけの捜査を行う後者の資料の厚みによって。 こんな細部がそれぞれのキャラクターに血肉を与えている。 本書の原題は“Blood Work”と実にシンプルだが、これほど確信を突いている題名もないだろう。 本来血液検査を表すこの単語、作中ではFBI捜査官のうち、仕事として割り切れぬ怒りを伴う連続殺人担当部門の任務のことを「血の任務」と呼ぶことに由来を見出せるが、本質的にはマッケイレブの体内を流れる依頼人グラシエラの妹グロリアの血が促す任務と云う風に取るのが最も的確だろう。映画の題名も『ブラッド・ワーク』とこちらを採用している。 そして物語が進むにつれて、この血の繋がりが一層色濃くなっていく。 例えば手掛かりの少ない強盗殺人犯を突き止めるために、敢えて次の犯行を待つという手段があるが、それを本書では「あらたな血を必要としていた」と述べている。 そして今回全く関係のない被害者を結ぶミッシング・リンクもまた血の繋がりこそが答えなのだ。 話は変わるが、マッケイレブが父親から譲り受けた船の名前の由来について事件の依頼人のグラシエラから訊かれ、答える場面がある。この<ザ・フォローイング・シー>号という一風変わった名前は<追い波>という意味で追い波は船の背後から迫り、やがて追いつくと船にぶつかり船を沈没させてしまう。つまりそうならないために船は追い波より速く進まなければならないのだ。沈没しないようにいつも背後に気を付けろ、それがその名の由来なのだが、まさにマッケイレブはいつの間にかこの容疑者という追い波に捕まってしまう。 “Blood Work”という原題が指し示すように、まさに本書は血の物語だ。血は水よりも濃いと云われるが、これほど濃度の高い人の繋がりを知らされる物語もない。 同じ血液型という縛りでごく普通の生活をしていた人たちが突然その命を奪われる。 こんなミステリは読んだことがない!私はこの瞬間コナリーのキャラクター設定、そしてプロット作りの凄さを思い知らされた。 なんという罪深き救済だろう。今までこれほどまでに業の深い主人公がいただろうか? 我々の幸せの裏には誰かの犠牲が伴っていると云われる。しかし間接的であれ臓器移植ほど、密接に他者の不幸で成立する幸せはないのではなかろうか。 そして本書が1998年に書かれたことを私は忘れていた。それはつまり世紀末に書かれた作品であると云うことだ。 その時期に多く書かれていたのはサイコパス。世紀末と云うどこか不安を誘うこの時期にミステリ界に横行していたのが狂える殺人者による犯罪の物語。極上の捜査小説を描きながらも当時流行のサイコパス小説へと導く。 繰り返しになるが、いやはやなんとも凄い物語だった。コナリーはまたもや我々の想像を超える物語を紡いでくれた。そして何よりも凄いのは犯人へ繋がる手掛かりがきちんと提示されていることだ。 元FBI分析官だったマッケイレブは捜査に行き詰ると最初に戻り、証拠を一から検証する。そしてその過程で気付いた違和感を見つけ、新たな手掛かりとするのだが、それらが意図的に隠されているわけでもなく、読者にも明示されているのである。 つまり読者はマッケイレブと同じものを見ながら、新たな手掛かりに気付く彼の明敏さに気付くのだ。特に真犯人にマッケイレブが気付く大きな手掛かりは明らさまに提示されているのに、驚かされた。コナリー、やはり只のミステリ作家ではない。 わが心臓の痛み。数々の残酷な事件で分析官としてプロファイリングに明け暮れた彼が最初に感じた痛みは激務と人間の残虐さに耐え切れなくなって疲弊した心臓が起こした心臓発作だった。 そして術後60日しか経っていないことからあまり長く動けないマッケイレブが抱える身体的な痛みとなり、やがて愛してしまった人の妹の命を奪い、生き長らえたことを知らされた深き悲痛へと変わった。 しかしその抱えた業を振り払い、残された人生を前に進めるためにマッケイレブは犯人を自ら粛清した。そして最後に彼が感じた心臓の痛みはグラシエラとレイモンドという最愛の人たちの笑顔を見て心臓が収縮する幸せのそれへと変えた。 最後にマッケイレブがその最愛の者たちと共に向かったのは自分の生まれ故郷。そこから始める彼らの新しい生活はまた同時にテリー・マッケイレブという男の生き様の新たな船出であると期待しよう。 既に私は知っている。この深き業を抱えながらも再生した素晴らしい男と一連のコナリー・ワールドで再会できることを。 まずはそれまでマッケイレブとグラシエラに安息の日々が続くことを願ってやまない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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先頃読んだ『ゴールデンボーイ』に収録された2編と合わせて『恐怖の四季』として編まれた(原題は“Different Seasons”とニュアンスが異なるのだが。正しくは本書収録の前書きに書かれている『それぞれの季節』が正しいだろう)中編集の後編に当たるのが本書。
この四季をテーマにした中編集で「秋の目覚め」と副題がつけられたのがかの有名な作品である表題作「スタンド・バイ・ミー」だ。 本作については詳細を語る意味はないほど、有名な映画で知られている内容だ。 しかし当時映画で観た時よりもキング作品を順に読んでいったことで気付かされたことがある。これはやはり今までキングが書いてきた作品の系譜に連なる作品なのだと。 キングの作品の系列の1つにロード・ノヴェルがある。それはある設定の下にただ単純に歩くだけ、走るだけ、移動するだけの作品だ。 『死のロングウォーク』や『バトルランナー』が有名だが、超大作『ザ・スタンド』も新型インフルエンザのパンデミックで大半が死に絶えたアメリカを安住の地を求めて生存者が旅をする箇所が盛り込まれていることからその系譜に連なる作品になるだろう。 そしてこの「スタンド・バイ・ミー」はそれらの系譜に連なる作品であり、実はキング作品の中ではありふれたものなのだが、その内容の瑞々しさが他の作品よりも高く評価され、抜きんでいるように思える。発表されたのは上記の作品以後だが、本書の収められた作者の前書きでは脱稿したのは2作目の『呪われた町』の後だからずいぶんと早い段階である。 ただ『死のロングウォーク』はキングが大学時代に書いた作品なので、ロードノヴェルとしては2番目に当たるだろう。まだ作家になりたてのキングのフレッシュさがここには満ち満ちている。 映画の時には細部まで気付かなかったが冒険に旅立つ4人の少年たちの境遇は決して幸せではなく、問題を抱えた家庭で強かに、そして逞しく生きる姿が描かれている。 物語の主人公であるゴーディはキング自身を投影したかのような、物語を書くのが大好きな少年で、他の3人とは違った比較的裕福な家庭の子供だ。しかし両親は次男の彼よりも学内のスターであり、軍へ新兵として入隊した兄デニスに関心を大いに抱いていたが事故で亡くなったことにショックを受け、それ以来茫然自失の毎日を送り、「見えない子」になってしまっている。 4人のうち、最もゴーディと親しいクリスは頭がいいが、乱暴で飲んだくれの父親に殴られる毎日を送っており、2人の兄は町で札付きの不良として有名で、彼らが酒を飲んで狂暴になるのを目の当たりにしているがゆえに、酒を飲むことを頑なに恐れている。 眼鏡をかけたテディはどこかネジの外れた大胆さと口の悪さを誇るが、第2次大戦から帰ってきた父親にストーブに10回側頭部を打ち付けられたせいで耳が爛れ、補聴器無しでは聞こえなくなってしまっている。目は自然に悪くなったがほとんど見えないらしく、それなのにいつも度胸試しのため、道路の真ん中に立ってギリギリ当たるか当たらないかのスリルを味わうゲームに興じている。そして彼は自分にひどい仕打ちをした父親をノルマンディ上陸を果たした兵士として尊敬し、彼の送られた精神病院に定期的に母親と見舞いに行っている。 彼ら3人に死体を見に行く旅を持ち掛けたバーンもまた兄が町で有名な札付きの不良で、彼らはクリスの兄たちとつるんでは悪いことをやって幅を利かせている。しかし彼は兄と違って弱虫で、それを知られているにも関わらずタフを装っている。 そんな愛すべきバカたちの冒険はかつて少年であった私たちの心をくすぐり、離さない。映画も名作だったが、原作の小説もまた名作であることを認識した。 本作は誰もが一度は経験する大人になるための通過儀礼として描かれているのもまた読者の胸を打つ。 少年・少女から大人の階段を登り始めるために訪れる大きな変化。それがゴーディ、クリス、テディ、バーンにとって死体を見に行くことだったのだ。 私も子供の頃に経験したある思いがここには再現されている。案外子供たちは大人たちの知らない間に大人になっているということに。 子供たちだけの冒険は彼らを自然と精神的に成長させる。そして時に思いもかけないことを話したりするのだ。 クリスはゴーディに自分たち3人とは別のクラスに進んで真っ当な人生を歩めと告げる。クリスは旅の途中で話してくれたゴーディのパイ早食い事件の創作物語を聞き、いつか訪れる友との別れを今回の旅で悟ったのだ。 クリスが死体を見つけ、そして不良たちに立ち向かいながらも無事に済んだことを評して「おれたちはやった」という。 しかしその言葉から感じた意味はそれぞれで違っていた。それは彼らにとって少年期の終わりを示すことになったのだろう。 そして本作には映画にはなかった“その後”が描かれているのも興味深い。 とにかく色々な思いが胸に迫る物語である。後ほどまた本作については語ることにするが、何よりも本作が自分にとってかけがえのない人生の煌めきのようなものを与えてくれた作品になった。 最後の冬は「マンハッタンの奇譚クラブ」。マンハッタンの一角にあるビルで知る人のみ参加できる紳士のクラブの物語。 いやあ、なんとも云えない、物凄いものを読んだという思いがひしひしと込み上げてくる作品だ。 マンハッタンの一角のビルで毎夜開かれているクラブでは会員の誰かがいつの間にか煖炉の前に集まり、話をし始める。自らの戦争体験や若かりし頃に出くわした驚きの事件など。弁護士の1人はある日血塗れになった上院議員が狂ったように上司を呼び出すよう指示してきたという、いかにもありそうな非常時の物語から女子教師が移動式トイレに嵌って出られなくなり、そのまま運ばれてしまうと云った笑い話まで様々だ。 そして主人公がクラブに通うようになって10年経ったとき、古参の常連が初めて皆の前で話を披露する。その話とは医者である彼が若かりし頃に出逢った若く美しい妊婦の話だった。 今ではシングルマザーに対する理解は深まったものの、物語の舞台となる1935年ではそれは教義、道徳、倫理に反した不浄の者として蔑まされていた時代だ。そんな厳しい時代に遭って、マキャロンの前に現れたサンドラ・スタンスフィールドは毅然とした態度で左の薬指に指輪がないことを隠さず、彼に出産の協力をお願いする。 俳優を目指してニューヨークに出てきた彼女は演技教室で知り合った男性と関係を持ち、妊娠が発覚した途端、相手の男が去ってしまう境遇に置かれた。しかしそれでもなお自身の赤ん坊を産むことを決意した彼女の強さにマキャロンは女性としても魅かれながら、人間として魅かれていく。そしてマキャロンはまだ当時一般的でなかった独自の出産法をサンドラに勧める。そのうちの1つが今ではラマーズ法と呼ばれる呼吸法だった。 しかし彼女に訪れたのは悲劇だった。 陣痛が始まったクリスマス・イヴで雪の降りしきる中、病院の外で出産をするシーンは今まで私が読んできたどの物語よりも想像を超えた、凄まじく、そして感動的な場面だった。 収録された4編の中で比較的無名の存在だった本編も他の3編に負けない物語の強さを誇っている。 それは奇跡というには凄惨で、母の生まれてくる子供に対する力強い愛情の物語というには悲愴すぎる。クリスマス・イヴに誕生した赤ちゃんの物語としてはこれ以上の物はないだろう。 こんな状況で生まれながら、健在であるハリソンという苗字だけ解る人物のことを私は胸に刻んでおこうと思う。今後のキング作品に出てくることを期待して。 更にこのクラブとしか称せない富裕層の老人たちの憩いの場所も不気味な不思議に満ちている。どこの図書館にもなく、また文学名鑑にも記載されていない作品や作家の作品が多く収められ、そのどれもが傑作。そんな夢のような空間で語られるのはこれまた百戦錬磨の老人たちによる、夢にまで出てくるような印象深い話。 最後に語り手のデイビッド・アドリーが世話役のスティーヴンスにそれらの秘密を尋ねるが、彼は世話役の表情を見て踏み留まる。 彼が代わりに聞くのは他にも部屋はたくさんあるのかという問い。その問いにそれはもう迷ってしまうほどたくさんあると世話役は答える。そして最後にここにはいつも物語があるとスティーヴンスは答えるのだった。 世話役スティーヴンスはその名前が示す通り、スティーヴン・キングその人であり、クラブ自体がキングの頭の中を指しているのだろう。 彼の頭の中はいつでも物語が詰まっている。それもこの話で語られた老いた医者が語るような、読者の想像を超えた恐怖とも感動とも取れるまだ読んだことのない極上の物語が、いつでもそのペン先から迸るのを今か今かと待ち受けているかのように。 『恐怖の四季』後半はかの有名な映画『スタンド・バイ・ミー』の原作が収められている。しかし本書の題名に冠せられている作品が映画化され、大ヒットを記録したため、日本ではこちらが先に刊行されたことでこの秋・冬編がVol.1とされており、収録順が前後している。 従って本来前半部に当たる『ゴールデンボーイ』に収録されるべきであろうキング自身の前書き「はじめに」が本書に収録されており、なんとも奇妙な感じを受ける。 なお本書は1985年3月に刊行されており―私が手にしたのは50刷目!―、『ゴールデンボーイ』はちょうど1年遅れの1986年3月に刊行されているから、当時の読者はなかなか刊行されないこの前書きに既に書かれている2編を待ち遠しく思ったことだろう。 この前書きには既に『ゴールデンボーイ』に収録されている2編の、原題とは大いに異なる邦題にて触れられているが、これは同書が刊行されてから修正されたのかは寡聞にして知らない。 さてその前書きには本書の成り立ちが書かれている。これはやはり前半の『ゴールデンボーイ』を読む前に読みたかった。 ここに収録された作品群はキングが長編を脱稿した後にその勢いのまま書かれた作品で、順番としては「スタンド・バイ・ミー」(長編2作目『呪われた町』の直後)、「ゴールデンボーイ」(長編3作目『シャイニング』の2週間後)、「刑務所のリタ・ヘイワース」(キング名義長編5作目『デッド・ゾーン』直後)、「マンハッタンの奇譚クラブ」(キング名義長編6作目『ファイアスターター』の直後)となっている。 正直、上に挙げた長編のどれもが日本では上下巻で1,000ページ以上もあろうかと思える作品ばかりの後にこれらの中編が書かれたことが驚きだ。 いや逆にこれほどの長編を書くと、頭の中に色んな物語が生まれ、それらを物語の構成、進行上、泣く泣く削除しなければならなくなった話、もしくは副産物として生まれた物語が出来たために、それらが消えてしまわないうちに書き留めようとしたのがこれらの産物なのだろう。 そしてこれらはキング自身が語るように、彼の専売特許であるモダンホラーばかりではなく、ヒューマンドラマや自叙伝的な作品もあり、また1冊の本として刊行するには短編には長すぎ、長編としては短すぎる―個人的には300ページを超える「ゴールデンボーイ」と「スタンド・バイ・ミー」は日本では1冊の長編小説として刊行しても申し分ないと思うが―ために、この―当時の―キングにとって扱いにくい“中編”たちを1冊に纏めて、その纏まりのなさを逆手に取って“Different Seasons”と銘打ってヴァラエティに富んだ中編集として編まれたのが本書刊行の経緯であることが語られている。 そして4作品中3作品が映像化され、しかも大ヒットをしていることから、本書は結果的に大成功を収めた。そしてその作品の多様さが“キング=モダンホラー”のレッテルを覆し、むしろその作風の幅の広さを知らしめることになった。 小説に原作のある映画は元ネタの小説を読んでから観るのが私の性分だが、1986年に公開された映画はさすがにそちらが先。私は劇場でなく確かビデオを借りて観たので中学生か高校生ぐらいだったように思う。その時、出演していた少年たちは当時の私よりもちょっとだけ年下だったが、タバコを吸って女の子の話に興じる彼らは私よりも大人びて観えたものだ。その内容は私にとって鮮烈であり、今回の読書はその映画の画像を追体験するように読んだ。 もう30年近く前に見た映画なのに、本作を読むことで鮮明に画像が蘇ってくる。 犬に追いかけられて必死に逃げるゴーディの姿。 鉄橋を渡っている時に現れた列車から轢かれまいと死に物狂いで逃げる2人の少年たち。 後に小説家となるゴーディが語るパイ食い競争の創作物語の一部始終。 池に入ってたくさんのヒルに咬まれ、更にゴーディは股間にヒルが吸い付いて卒倒する。 ゴーディが心底心を許すクリスが自分がとんでもない家族に生まれついたことで将来を儚み、ゴーディに未来を託すシーン。 そして町の不良たちと死体の第一発見者の権利を賭けて対決する場面、などなど。 それらは映像で見たシチュエーションと全く同じであったり、細かい部分で違ったりしながらも脳裏に映し出されてくる。当時観た時もいい映画だと思ったが、今回改めて読み直して自分の心にこれほどまでに強く焼き付いていることを思い知らされた。 開巻後にまず驚いたのはその原題だ。邦題の「スタンド・バイ・ミー」に添えられた原題は“The Body(死体)”と実に素っ気ない。このあまりに有名な題名は実は映画化の際につけられたものだった。この題名と共にリバイバルヒットとなったベン・E・キングの名曲“Stand By Me”がどうしても頭に浮かんでしまい、読書中もずっと映像と曲が流れていた。それほど音と画像のイメージが鮮烈なこの作品の映画化はキング作品の中でも最も成功した映画化作品として評されているのも納得できる。 そして映画の題名こそが本作に相応しいと強く思わされた。 “友よ、いつまでもそばにいてくれ”。 それは誰もが願い、そして叶わぬ哀しい事実だから胸に響く。別れを重ねることが大人になることだからだ。そんな悲痛な願いが本書には込められている。 だからこそ本書では12歳の夏の時の友人が最も得難いものだったことを強調するのだろう。 もう1編の「冬の物語」と副題のつく「マンハッタンの奇譚クラブ」は紹介者だけが参加できるマンハッタンの一角にあるビルで毎夜行われる集まりの話。そこは主に老境に差し掛かった年輩たちが毎夜煖炉に集まって1人が話す物語を聞く、云わばキング版「黒後家蜘蛛の会」とも云える作品だ。 『ゴールデンボーイ』の感想に書いたように、この『恐怖の四季』と称された中編集に収められた作品のうち、唯一映像化されていないのがこの作品だが、だからと云って他の3作と比べて劣るわけではなく、むしろ映像化されてもおかしくない物凄い物語だ。 それは今まで物語を語らなかった男が語る昔出逢った若き美しき妊婦の話。1935年当時ではまだ知られていなかったラマーズ法と呼ばれる呼吸法を教えたがゆえに招いた悲劇の物語。ちなみに原題はこの呼吸法がタイトルになっている。 その美貌ゆえに俳優を目指しニューヨークに出てきたものの、右も左も解らない大都会で生きるために演技教室で知り合った男性と肉体関係を持ったがために夢を断念し、シングルマザーの道を歩まなければならなくなったある女性の話だ。この実にありふれた話をキングはその稀有な才能で鮮明に記憶される強烈な物語に変えていく。 自分のボキャブラリーの貧弱さを承知で書くならば、少なくとも10年間は何も語らなかった男がとうとう自分から話をすると切り出しただけに、読者の期待はそれはさぞかし凄い物語だろうと期待しているところに、本当に凄い物語を語り、読者を戦慄し、そして感動させるキングが途轍もなく凄い物語作家であることを改めて悟らされることが凄いのだ。 そして2012年にはこの最後の1編も映画化されるとの知らせがあったが、2020年現在実現していない。 「ゴールデンボーイ」は未見だが、残りの2作の映画は私にとって忘れ得ぬ名作である。もし実現するならばそれら名作に比肩する物を作ってほしいと強く願うばかりだ。 さて前作でも述べた他のキング作品へのリンクだが、まず私が驚いたのは「スタンド・バイ・ミー」の舞台がかのキャッスル・ロックだった点だ。 前半の「刑務所のリタ・ヘイワース」に登場したレッドも関係しているが、やはり何よりも『デッド・ゾーン』や『クージョ』の舞台にもなった町で、作中でも狂犬のクージョについて触れられている。 そして町のごろつき達が行き着く先はショーシャンク刑務所―本書では“ショウシャンク”と綴られている―と先の短編へと繋がる。キャッスル・ロックはキング自身を彷彿とさせるゴードン・ラチャンスが住んでいる町でもあり、キングにとってのライツヴィルのような町であるかのようだ。 春と夏、秋と冬。 それぞれ2つの季節に分冊された2冊の中編集はそれぞれの物語が陰と陽と対を成す構成となっている。 春を司る「刑務所のリタ・ヘイワース」と秋を司る「スタンド・バイ・ミー」が陽ならば、夏を司る「ゴールデンボーイ」と冬を司る「マンハッタンの奇譚クラブ」が陰の物語となる。それは中間期は優しさの訪れであるならば極端に暑さ寒さに振り切れる季節は人を狂わす怖さを持っているといったキングの心象風景なのだろうか。 そして各編に共通するのは全てが昔語り、つまり回想で成り立っていることだ。キング本人を彷彿させる小説家ゴードン・ラチャンスを除き、残り3編は全て老人の回想である。それはつまりヴェトナム戦争が終わった後のアメリカが失ったワンダーを懐かしむかの如くである。 田舎の一刑務所で起きたある男の奇蹟の脱走劇、元ナチスの将校だった老人の当時の生々しい所業、少年期の終わりを迎えた12歳のある冒険の話、そしてまだ若かりし頃に出逢ったある妊婦の哀しい物語。それらは形はどうあれ、瑞々しさを伴っている。 本書の冒頭に掲げられた一文“語る者ではなく、語られる話こそ”は最後の1編「マンハッタンの奇譚クラブ」に登場するクラブの煖炉のかなめ石に刻まれた一文である。 この一文に本書の本質があると云っていいだろう。モダンホラーの巨匠と称されるキング自身が語る者とすれば、本書はそんな枠組みを度外視した語られる話だ。 つまりキングが書いているのはホラーではなく、ワンダーなのだ。 キングはモダンホラー作家と云うレッテルから解き放たれた時、斯くも自由奔放に物語の世界を羽ばたけるのだと証明した、これはそんな珠玉の作品集である。 春夏秋冬、キングの歳時記とも呼べる本書は『ゴールデンボーイ』と併せて私にとってかけがえない作品となった。 永遠のベストの1冊をこの歳になって見つけられたキングとの出逢いを素直に寿ぎたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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折原一氏のデビュー作『七つの棺』(デビュー時は『五つの棺』)のシリーズキャラ黒星警部の『鬼面村の殺人』に続く長編第2弾が本書。但し次作の『丹波家殺人事件』を先に読んでいるので私にとっては長編3作目に当たる。
本格ミステリ好きが高じて密室好きになり、どんな事件も密室に結びつけてしまう変わり者の警部が主人公とあってやはり今回も密室殺人事件がテーマになっている。しかも横須賀の沖に浮かぶ猿島に唯一ある西洋風住居、猿島館で起きた密室殺人事件だ。 まず第1の密室殺人は館の主人猿谷藤吉郎が自身の書斎で額を割られて絶命する事件。部屋は内側から鍵が掛かっており、唯一部屋から行き来できるのは部屋にある暖炉の煙突のみで、それも小柄な人間しかできない。そして死に際に主人は「猿が殺した」と云い遺して絶命する。 第2の殺人は密室では無いが、第3の殺人は密室状態の同じ書斎で2人の男、藤吉郎の息子誠一と不動産屋の水野がショック死する事件。藤吉郎の遺言状を探すため、書斎に鍵を掛けて籠っていた2人。目立った外傷もない死体だったが、暖炉にはとぐろを巻いたマムシが2匹いた。どうやら2人はマムシに咬まれて絶命したようだった。 これらの内容から連想するのはある有名なミステリ作品だ。これについては後ほど述べることにしよう。 この黒星警部シリーズはカッパノベルスから刊行されたシリーズであり、当時のカッパノベルスが駅のキオスクにも置かれ、出張もしくは長時間通勤のサラリーマンや普段ミステリを読まない大人の旅行のお供という色合いが濃いことから、折原氏も自覚的に書いているように感じる。 ただ他の本格ミステリ作家に比べて年輩の折原氏は自身サラリーマン生活を送っているだけに、それらの読み物に多生のお色気があった方がいいと思っている節があり、本書でも遠慮なくヒロインの葉山虹子のヌードが何度となくお披露目される。さらに本書では虹子がお世話になる猿島館の主人猿谷藤吉郎が美女好きの好色家として描かれており、自身の書いたポルノ小説が登場したり、また酔っ払った虹子があわや藤吉郎に襲われそうになったりと、色物の要素が以前にも増して導入されている。前作比1.5倍程度にはあるのではないだろうか。 まあ、『鬼面村の殺人』を読んだ時は学生であったが既に私も40代になっているので読者のターゲットに入っているので、1作目を読んだ時よりは寛容に受け止めることが出来たのだが、果たしてこのサーヴィスは必要かなとこの歳になっても違和感は多少覚えたことを正直に云っておこう。 また折原一氏と云えば叙述トリックの雄として知られているが、翻ってこの黒星警部シリーズは密室物ミステリを扱う、本格ミステリど真ん中の設定である。上に書いたように本書もまた密室ミステリであるが、以前より作者は新しい密室ミステリは生まれず、これからは過去のトリックをアレンジした物でしかないと公言しており、密室物を売りにしたこのシリーズではいわゆる過去の名作ミステリの本歌取りが大きな特徴となっている。 先にちらっと触れたが、本書ではまずポオの「モルグ街の殺人」がメインモチーフになっているが、その後もドイルの「まだらの紐」をモチーフにした密室殺人が起きるなど、複合的に過去のミステリのトリックがアレンジされて導入されている。 しかしさすがに3作目ともなると作者もこの設定自体にミスディレクションを仕掛けており、上に掲げたミステリをモチーフにしながら、実はもう1つクイーンの名作の本歌取りでもあったことが最終章で明かされる。1作目はクイーンの中編「神の灯」であったことを考えるとやはりこの作者は根っからのクイーン好きらしい。 しかしこの過去の名作ミステリから本歌取りすることを明言し、そこから新たなミステリを生み出すことに対しては異論はないのだが、黒星警部シリーズの一番困ったところは本歌取りした原典のトリックや犯人を明らさまにばらしていることだ。 本書でもいきなり「モルグ街の殺人」の犯人を明かし、更に「まだらの紐」のトリックも躊躇いもなく明かしているし、更には上に書いたクイーンの原典についても伏字ではあるが、伏字の意味がないほど明確に書かれている。また前作『鬼面村の殺人』でも「神の灯」のトリックを図解で説明している。 これらは恐らくあまりにも有名過ぎて本書の読むミステリ読者ならば既知の物だろうと作者自身が判断した上の記述だろうが、やはりどんな判断に基づこうがミステリのネタバレは厳禁である。特に他のミステリのネタバレを公然とすることに大いに抵抗を感じるのだ。 現代のミステリ読者は島田荘司氏の作品や新本格と呼ばれる綾辻氏の作品以降のミステリから触れることが多く、過去の名作、特に黄金期の海外ミステリを読まない傾向にあると云われて久しい。そんな背景も考慮して折原氏は今の読者が読まないであろう過去のミステリのネタバレをしているのかもしれないが、それでもやはりそれはミステリを書く者が読者に対して決して犯してはいけない不文律であると私は強く思うのである。 特にこの黒星警部シリーズは上に書いたようにカッパノベルスから刊行されたサラリーマンがキオスクで気軽に出張中に読むような類いのものであるから、そんな一般読者にさえネタバレをしているのである。 本歌取りをすることに是非はない。しかしその内容に問題がある。ネタバレをするのであれば、まずはその断りを書くべきだし、いやもしくはネタ元を明かす必要もないのではないかと思う。解る人には解ればいいのであって、別に明確にネタ元を示す必要もないと思う。 恐らく作者は無類の密室好きという黒星警部のキャラを際立たせるために、すぐに事件が起これば彼が耽溺している過去の密室ミステリに擬えることを強調するがために明らさまにネタ元を書いているのだと思うが―あとは作者自身がそうしたがっているか―、それも例えば“密室ミステリ好きな黒星警部は事件の状況からある有名な密室ミステリを思い起こしたが”とか作者の名前まで出して作品まで言及しないとか、そういった配慮をすべきであると私は考える。 そしてそんな私の不満を見越していたかのように本書の真相はこれらミステリ好きの志向が作用したものとなっている。 ただ原典ほど鮮やかであるかどうかはまた別の話なのだが。従って副題のモンキー・パズルもパズルと云うほどロジックを愉しめたかというと微妙なところだ。 ミステリのネタバレを事件の真相に組み込んでいることからも折原氏自身もネタバレに対して激しい抵抗感と嫌悪を示すミステリファンの心理が解っているはずである。であるにも関わらず、このシリーズで思い切りネタバレをするところに作者の創作姿勢に疑問を強く覚えてしまう。 あと最後にそもそも埼玉県白岡署の黒星警部が神奈川県の江の島動物園から逃げたチンパンジーを探す担当になることが実におかしい。 神奈川県警の所轄なのになぜ埼玉県の警部が担当するのか? 書中では白岡には東武動物公園があるからと理由になっていない理由で駆り出されているが。この辺の非現実的な設定も気になった。現在のミステリならば必ず突っ込まれるところだろう。 さて本書の舞台となった猿島は実は実際に存在し、刊行時は無人島で大蔵省(刊行当時)関東財務局の管理地であり、立入禁止で渡し船もないと書かれているが、実は今では猿島公園として開放されている。最近は昔の軍の要所の史跡としてよりもジブリ作品の『天空の城ラピュタ』を彷彿とさせる風景として人気のスポットとなっており、案外今回の葉山虹子の取材は時代を先駆けた現実味のある話だったようだ。 また本書に書かれている猿島の由来となった日蓮に纏わる伝説も実際に伝えられており、元宮司の一族だった猿谷家のような血筋もどこかにいるかもしれないと、案外荒唐無稽な話でないところが面白い。 本当に久々の黒星警部シリーズだったが、本格ミステリ風味はさほど感じられないものの、この密室好きの巨躯の警部とお色気担当の葉山虹子のコンビはちょっと時代遅れの感があるにせよ、改めて読むと独特の味わいがある。本書では2人がお互いに悪く思っていないような節も見受けられ、今後2人がくっつくのかというミーハー的な面白さも孕んでいるようだ。 とはいえ、本書が刊行されたのが1990年ともう30年も前であることが驚きで、自分の積読本の多さを再認識し、我ながら呆れてしまった。 しばらくはこんなペースなのだろうが、シリーズ読破は生きているうちに果たしていきたいと思わされた作品だった。 但し次回からはネタバレ無しでお願いしたいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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