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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1426

全1426件 181~200 10/72ページ

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No.1246:
(7pt)

シリーズ10作目という節目の作品ではあるのだが…。

人間は感情の動物であるとかつて誰かが云った。本書はそんなことを強く思い知らされる作品である。

リンカーン・ライムシリーズ記念すべき10作目となる本書の敵はなんとアメリカ政府機関の1つ、国家諜報運用局(NIOS)の長官。バハマで隠遁中の政治活動家を暗殺した共謀罪で逮捕しようと計画するNY地方検事補のナンス・ローレルに協力する。

さらにコードネーム“ドン・ブランズ”で呼ばれる凄腕のスナイパーも捜査の対象だ。なんと2000メートルという驚異的な距離から標的を暗殺したほどの腕を持つ。
しかしアメリアによればスナイパーの最長狙撃記録は2500メートルらしい。まだ上の人物がいるのだ。

そしてライムたちの捜査の前に立ち塞がるのが殺し屋ジェイコブ・スワン。彼は秘密裡に情報を盗み取る技術に長けている。従って極秘裏に捜査していると思っているローレル地方検事補率いるライムチームの行動は既に筒抜けなのだ。しかも彼らはサックスの3Gのスマートフォンを盗聴し、ライムたちの捜査の先回りをする。
被害者ロベルト・モレノお抱えのリムジン運転手を先回りして殺害し、NIOSの密告者が情報をリークしたメールを送信したチェーン店のコーヒーショップを突き止めれば、先行してプラスチック爆弾を仕掛け、店内の防犯カメラの録画データをパソコンとサーバーごと破壊し、モレノお抱えの通訳を警察を装って訪ね、アメリアが訪問する前に拷問して殺害する。それはバハマでも同様で、事件のあったホテルの部屋はいつの間にか改修工事がされ、ライムたちが捜査を止めるよう、人を雇って脅したりもする。

更にサックス自身にもその魔の手を伸ばそうと尾行を続ける。

ジェイコブ・スワンは貝印の“旬”ナイフ―これはKAIという日本のブランドらしい―を愛用し、殺害対象を一気に殺さず、まず手刀で喉を潰し、声が出せなくなった状態で拘束し、料理をするようにじわりじわりと痛めつける殺し屋だ。料理を得意とする彼はまさに一流の高級料理を調理するが如く、対象者の肉を丹念に切り下ろす。

今回特徴的なのは犯行現場がバハマということで現場捜査を担当するアメリアもすぐには現場に行くことが出来ず、ライムと共に部屋で捜査を担当し、情報収集に徹する。

一方ライムは現場の遺物の情報を得ようとバハマ警察の捜査担当者に連絡を入れるが、これが南国の後進国特有の悠長さと捜査能力の不足から非常に不十分でお粗末な状況であり、全く有効な手掛かりが得られない。現場検証も事件が起きた翌日に成されているため、新鮮なほど有力な情報が集まる物的証拠が失われた可能性が高く、ライムはその捜査のずさんさに悶々とさせられるのである(しかしこのバハマ警察の担当者マイケル・ポワティエの愚鈍さはそのすぐ後に解消されるようになるのだが、それはまた後述しよう)。

このようにいつものように遅々として進まない捜査に読者はライム同様にストレスを感じさせられるようになる。

従っていつものようにお得意のホワイトボードに次々と新事実を埋めていくそのプロセスも滞りがちだ。しかも書かれた情報は人づてに教えられた情報と憶測ばかり。通常のライムシリーズとは異なる進み方で読者側もなんともじれったい思いを抱く。

そんな膠着状態を作者自身も察したのか、ライム自身がバハマに赴くことになる。
前作の『シャドウ・ストーカー』でライムはキャサリン・ダンスの捜査の手助けをするために自らフレズノに赴いたが、今回は更に海外まで進出する。リハビリと手術により指だけだった可動範囲も右手と腕が動かせるようになったことでずいぶんと活動的になったことが解る。
最新型の電動車椅子ストームアローに乗って野外活動に励むライムの進歩は同様の障害に悩む人々にとって希望の姿でもあるだろうし、また最新鋭の補助器具があれば重篤な障害者でも、介護士の補助が必要であるとはいえ、外に出て行動することが出来ることを示している。
優れたアームチェア・ディテクティヴのシリーズだった本書もまた科学と医学の進歩に伴い、その形式を変えようとしているのが解る。

しかし一方で現実はそんなに甘くないこともディーヴァーは示す。バハマ警察の上層部の意向に背いてライムに協力するポワティエ巡査部長と共に独自で捜査するライムたちを暴漢達が襲い、なんとライムはストームアローごと海に放り出されるのだ。
事件捜査という犯罪と紙一重の活動は健常者にも危害が及ぶ。まして障害者にとっては過分なことだと示すエピソードだが、それでもライムは屋外に、数年ぶりに海外に出たことが非常に楽しいようで、これからも外出したいと述べる。それほどまでに日がな一日屋内生活を強いられるのは苦痛だからだ。

ライムはニューヨークの自宅に戻り、新たな電動車椅子メリッツ・ヴィジョン・セレクトを手に入れる。それはオフロード走行機能も付いた機種で今回のバハマ行で外出の醍醐味を占めたライムの行動範囲が今後もっと広がることだろう。

さてこのバハマ行で彼らの有力な協力者となるのが愚鈍と思われていた捜査担当者マイケル・ポワティエ。経験が浅いながらも刑事という誇りを大事に上司の目を欺いてライムたちに協力する。それが上司にバレて異動を命じられるが、ライムの機転によってそれも解消される。ライムがアメリカに招待して自分のチームの一員に加えたいとまで思わせる好人物だ。

しかし一方でライムの手足となり、フィールドワークを担当していたアメリア・サックスは逆に今回のチームに加わった特捜部のビル・マイヤーズ部長から持病の関節炎を見透かされ、更に健康診断の不備により、捜査を外れることを通告される。
ライムの身体能力の向上と反比例するかのようにアメリアの関節炎は悪化してきており、逆に捜査活動に支障を来たす様になってきている。何とも皮肉な話だ。

またナンス・ローレルとライムたちが対峙するNIOSの長官シュリーヴ・メツガーはいつにも増して短気な人物である。自分の意にそぐわなければ怒鳴り散らし、物を投げつける。気分を害しただけでなく、その人物が気分を害するようなことをすると想像しただけで怒りが沸々と沸き起こる、異常なまでの癇癪持ちだ。店で買ったコーヒーが思いのほか熱すぎれば、店に車で突っ込んで営業できなくしてやろうかと本気で思い、軍人時代では自分たちを罵る酔漢を徹底的に傷めつけ、性的な快感を覚える。

従って他の職員は彼の姿を見ると視線を合わせようとしないし、ある者は方向転換をしさえもする。また家族はその怒りに怯え、離婚し、時たま会ってもソワソワし通しといった具合だ。

その怒りを抑えるために彼は沸き起こる憤怒を精神科医のアドバイスに従って具体的な物としてイメージする。その象徴が“スモーク”。かつて中学生の、まだ太っていた頃にキャンプファイアで隣に立っていた女子に煙から逃れるふりをして近づいて話しかけた時に、無碍に断られたことから想起したイメージである。この“スモーク”がメツガーの怒りのバロメーターとなっている。

キングの作品や他の海外作家の作品にはよくメツガーのような怒りを抑えきれない人物、衝動的な怒りに取り込まれ、我を失う人物というのは必ず出てくる。
どうもこのような癇癪を欠点とする人物はアメリカ人にとっては共通の特徴のようだ。テレビでも大きな声で怒鳴る姿をよく見るし、いい大人がテレビの前で怒りに駆られ暴力を振るい、喧嘩沙汰になったりするのを目の当たりにしたこともあるだろう。感情豊かな国民性は逆に怒りに対しても率直であり、おまけにそんな人たちが合法的に銃の所持を認められているのだから、やはり非常に物騒な国だ。

さて相変わらず真相は二転三転、三転四転する。

ただ振り返ってみれば非常におかしい部分もある。さすがにこれはどんでん返しを考えすぎて物語が破綻したとしか云えないだろう。

さらにディーヴァーはどんでん返しを仕掛ける。

価値観の反転はミステリとしては読書の愉悦を味わえるが、実際面としては実に恐ろしいと思わされる。
高度な情報を扱う仕事は常にその情報に隠された意味を考え、判断することに迫られている。しかしそこに感情が加わるとその情報は右にも左にも容易に傾く。それこそが本書のテーマであろう。

これらの人々は共に自らの信条に従い、正しいことをしていると思っていながら、実は好き嫌いという子供の頃から抱く非常に原初的な感情にその判断を左右されていることに気付いていない。そのことが彼ら彼女らをして情報を読み誤り、また読み誤ったと勘違いしたりする。そんな権力を持つ一個人の感情のブレで対象となる人間の生死をも左右されることが実に恐ろしい。

思えば本書は鑑識の天才リンカーン・ライムが現場から採取した証拠という事実だけを信じ、緻密に推理を重ね、論理的に事件を解決するところが魅力であるのだが、その実理屈っぽく終始不平不満を呟くライムの感情っぽいところ、つまり人間臭さがシリーズの魅力でもある。
そしてそのパートナー、アメリアもまたとにかく動き続けることで自分の生を感じ、またライムからそれを求められていることを生き甲斐にしている。そして気に食わない人には容赦なく冷たく当たる。
特に本書では感情の起伏を見せないナンス・ローレルに嫌悪感を示す。ライムの部屋に自分のパソコンを持ってきて仕事をするその姿を見て、自分の居場所の一部を取られたように感じ、その嫌悪感をますます募らせていく。丁寧な言葉が自分をかえって見下しているように感じる。そんな感情の起伏がローレルのアメリアに対する配慮を見誤り、衝突を繰り返すことになる。

そしてまた本書ではライムがバハマに赴いて地元の警察と捜査をしている間、アメリアはアメリカで捜査を続け、その距離がお互いを強く意識し合い、そしていつも以上に求め合うことになる。

緻密な論理を売りにしているこのシリーズは実は人の感情を実に豊かに捉えた作品であることを再認識させられる。またその感情ゆえに生れる先入観が登場人物のみならず読者の感情を動かし、どんでん返しへと導かれていくのだ。

実は本書は人気シリーズの第10作と記念的な作品ながらシリーズ作で唯一『このミス』で20位圏内から漏れた作品だった。ランキングがその面白さと比例しているわけではないとは解っているが、それはこのシリーズの特色である、ある分野に精通した悪魔的な頭脳の持ち主や超一流の技能を持つ殺し屋が登場しないことが他の作品に比べて魅力がないように思われる。
もしライムの敵が超長距離狙撃を完遂させる技能を持った殺し屋だとすれば、いつどこからでも狙撃する恐れがあるというサスペンスが味わえたはずだが、今回は政府機関のNIOSが相手ということもあって情報戦に終始し、いわゆるいつも感じるヒリヒリとした緊迫感に欠けたように感じた。

当時この作品のランキングを見た時にとうとうこのシリーズも終わりが来たかと、どんな作家でもいつかは訪れるアイデアの枯渇、品質の低下を想像した。
しかしその翌年ディーヴァーは復活する。ライムシリーズ次回作『スキン・コレクター』で『このミス』1位を獲得するのである。

確かに本書では上に書いたような不満を抱いたが、まだまだディーヴァーの筆は衰えていないことは既に立証済み。
どんなシリーズにもある谷間の作品として記憶するにとどめ、次作に大いに期待することにしよう。


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ゴースト・スナイパー 上 (文春文庫 テ)
No.1245:
(8pt)

車への憧憬を織り交ぜた青春ホラー

キングは過去の短編で機械が意志を持ち、人間を襲う話を描いてきた。クリーニング工場の圧搾機、トラック、芝刈り機など我々が日常に使う機械の、抗いようのない恐るべき力に対する畏怖をモチーフに恐怖を描いてきたが、この『クリスティーン』もこれら“意志持つ機械”の恐怖譚の系譜に連なる作品となるだろう。しかもこれまでは短編であったがなんと今回は上下巻併せて約1,020ページの大作である。

アメリカ人と自動車との関係の深さは日本人のそれよりももっと深いように思える。今でこそ日本車が世界中に輸出され、一大勢力となっているが、フォードが20世紀初頭に自動車の量産化に成功してから、巨大な自動車産業国となった。20世紀からのアメリカ人は自動車と共に成長し、繁栄してきたのだ。
更にガソリンが安いこともあり、広大な国土を持つアメリカを移動するのに、アメリカ人にとって自動車は無くてはならない生活必需品となった。特に日本と違い、アメリカではカーディーラーに行って気に入った車があると、そのまま乗って帰れるほど手軽に買えるようだ。

今までキングが“意志持つ機械”をモチーフに書いてきた物語においてその対象が自動車になるのはそんな背景を考えると必然的であり、そして満を持して発表した作品だと云えよう。ある意味本書は“意志持つ機械”譚のこの時点での集大成になる作品と云えるだろう。

但しそこはキング、意志を持った車が暴れ、人間たちを襲うと云った陳腐な展開をしない。このクリスティーンと名付けられた1958年型の赤と白の2色に塗り分けられたプリマス・フューリーがその本性を表し、人間に牙を剥くのは上巻の490ページの辺りだ。そこまでの展開は寧ろ少年と車との運命的な出逢いという少々色合いの違った話で物語は進む。

何の前知識もなく、最初にこの作品を読んだ時、これはトップの5%圏内に入るほどの頭を持ちながらも、優等生グループにも入れない、スクールカーストの最下層に位置する17歳の少年アーニー・カニンガムが1台の古びた車と出遭うことで負け犬的人生を変えていく物語であると思うに違いない。彼の自動車のメカに関する優れた知識は天からの授かりものになるだろうが、彼が出遭う58年型のスクラップ同然のプリマス・フューリー、愛称をクリスティーンという車もまた彼の人生を変える天からの授かりものになる。
そのおんぼろ車を自身で少しずつ再生していくうちにいわゆる負け組に属していたアーニーもまた生まれ変わっていく。ピザ顔とまで呼ばれていた吹き出物でいっぱいの顔は次第に綺麗になり、男ぶりも増していく。更に以前よりも度胸が増し、町の不良たちに絡まれても一歩も引かないようになる。更には学校で評判の美人の心も掴み、恋人にすることに成功する。
一人で一台の車を再生することが即ち彼の人生を再構築させていくことに繋がっていく。これはそんな一少年の人生を変えていく青春グラフィティなのだ。

また一方で主人公のアーニーが車中心の生活になっていくことで家族や親友との軋轢が生まれる。クリスティーンに一目惚れしたアーニーは少しでも早くその車を再生させ、走れるようにし、自分のパートナーとすることに執着する。しかしそれは親友であるデニスと過ごす時間が少なくなること、そして両親の懸案を増やすことになる。

大学進学のための貯金は目減りし、上位だった成績も下がっていく。大学講師である両親は自分の息子がいい大学に進学することを望んでおり、自動車の整備に執心して学業や疎かになる息子に不安と不満を抱く。

それらはいつまでも続くだろうと思われた友人関係、親子関係が、実は幻想であり、いつかそんな安定した関係が終わるその時が、アーニーとクリスティーンとの出逢いなのだ。

親友のデニスは子供の頃から一緒だったアーニーが、それまではフットボールの選手でそれなりにモテていた自分の引き立て役のように見えていた親友が、古びれた車をたった一人の力で再生し、そしていつしか犯罪者のような自動車整備工場のオーナーとも信頼関係を築き、更には不良グループにも一歩も引かない度胸を身に着け、終いには学内一の美人と付き合うようにもなり、それに羨望と嫉妬を覚える。

親は子供が自分の手を離れ巣立つことがまだ少し先のことだと思っていたが、実はもう息子はその時を迎えていたことを知らされる。今まで自分の云う通りに従っていた息子がだから車のことに関しては強く反発し、一歩も引かないことに驚きと失望を覚える。一方父親は夜、彼の整備した車でドライヴし、父と息子だけの男同士の対話をし、息子の成長を認めつつ、父として忠告をする。

アーニーの成長を通して変わりゆく生活の変化をそれぞれの心情を交えてキングは訪れるべき変化の時を鮮やかに語る。

それもただ彼の修理する車クリスティーンが命ある車であることを除けばのことだ。

キングが他の作家と比べて一段優れているのは、通常の作家ならば子供の成長時期に訪れる親子と親友との変化のキー、メタファーとしてスクラップ同然の車の修理の過程を使うのに対し、キングはその車自体をも生ある物、持ち主に嫉妬するモンスターとして描いているその発想の素晴らしさにある。

物に魂が宿るのは正直に云って子供の空想の世界だろう。女の子は人形を生きている自分の妹のように扱い、男の子は車の玩具やロボットの玩具に生命があるかのように自ら演じて興じる。

そんな子供じみた発想もキングの手に掛かれば実に面白くも恐ろしい話に変るのだから驚きだ。

更に『恐怖の四季』に収録されているキングの自伝的小説「スタンド・バイ・ミー」で培った青春グラフィティストーリーの手法が、見事に合わさっている。

どこをどうやって考えてもこの異質な2つの成分が合わさるようには思えないのだが、これがキングの手に掛かると実に見事に融合し、奇妙な味わいを持ちながらもほろ苦さを感じさせる小説へとなるのだから実に不思議だ。

さて物語がアーニーの思春期の通過儀礼とも云える親からの自立と反発というムードからホラーへと転じるのはクリスティーンがアーニーを目の敵としているバディー・レパートンたち不良グループにスクラップ同然にさせられるところからだ。そこから前の持ち主であるルベイとアーニーは無残なクリスティーンの姿を見て同調し、以前より増して2人の魂の親和性は強まり、アーニーはルベイの憑代となっていく。そしてクリスティーンもその怪物ぶりをようやく発揮し出すのだ。

そこからのアーニーとクリスティーン=ローランド・ルベイの独壇場だ。

最初は無人の状態で復讐を成していたクリスティーンだが、やがて亡くなった前所有者のルベイの屍が具現化して現れてくる。そこでようやく本書は『呪われた町』、『シャイニング』などのキング一連のモンスター系小説の系譜に連なる作品であることが解るのである。それは本書の献辞がジョージ・ロメロに捧げられていることからも解るように、ゾンビをモチーフにした怪奇譚であるのだ。

ところで今回キングは2つの叙述を使っている。まず第一部は主人公アーニーの親友デニス・ギルダーの一人称叙述で語られるが、第二部は三人称叙述、そして最後の第三部は再びデニスの一人称叙述に戻る。

まずこれは語り手であるデニスが途中フットボールの試合で重傷を負い、入院してしまうことからアーニーと一緒にいる時間がなくなるためであるが、このアーニーとデニスがしばらく疎遠になることがクリスティーンとアーニーの親和性を高めることになり、つまりアーニーが破滅への道を辿っていくのに大いに拍車がかかることになる。
つまりこれはデニスこそがアーニーが狂気に至る、いやクリスティーンに憑りつかれていくことを防ぐ護符のような役割を示しているように思える。

それを示すかのようにデニスが再びアーニーと対峙する第三部ではクリスティーンに魅せられ、そしてその前の所有者のローランド・ルベイの亡霊に憑りつかれ、性格どころか人格までもが変わっていくアーニーがルベイとクリスティーンの支配に抗って自分を取り戻そうとする。理解ある親友こそが墜ちていく自分を取り戻す最後の砦なのだ。
これは怨霊に憑りつかれたアーニーだけに限らず、我々の人生にも関係する部分でもある。自分の人生に躓いた時、支えとなってくれる存在を1人は持つこと。それを描くのにこの3部構成は必要だったのだ。

そういう意味では物宿る怨霊によって自分が自分で無くなっていくアーニーの姿は昔からある幽霊譚の1つのパターンであるが、また一方で私はこのアーニーの変化については我々の日常において非常に身近な恐怖がテーマになっているように思える。

例えばあなたの周りにこんな人はいないだろうか。
普段は温厚でも車を運転している時は人が変わったようになる、という人だ。それはある意味その人の意外な側面を表すエピソードとして、時に笑い話のように持ち出されるが、ある反面、これはその人の二重性が露見し、またそれを他者が目の当たりにする機会でもある。そしてその変貌が極端であればあるほど、それも恐怖の対象となり得る。
つまり本書の恐怖の根源は実は我々の生活に実に身近なところに発想の根源があるのではないかと私は思うのだ。

これはあくまで私の推測に過ぎないのだが、キングがこのエピソードを本書の発想の発端の1つにしていたのは間違いない。なぜなら同様の記述が本書にも見られるからだ。
上巻の406ページにアーニーがこの車に乗るとなぜか人が変わったようになると書かれている。そのことからもキングが本書を著すにこんな身近で、どちらかというとギャグマンガの対象になるような性格の変貌―マンガ『こち亀』に出てくる本田のような―を恐怖の物語のネタとしたであろうことは推察できるし、そのことからもキングの非凡さを感じる。

人の物に対する執着というのは物凄いものがある。
例えば私は読書が最たる趣味なのだが、気に入った作家の本は是非とも前作、それも発表順に読みたいと思うので、一時帰国のたびに古本屋に出向いては求める本がないか探している(家族はもうそれが当然のこととして諦めてくれているのが有難いが)。

私の場合はある1点物に対する執着ではないので、クリスティーンに対する執着とは性質が違うとは思うが、古来死者が生前愛でていた物に所有者の情念が宿るという怪奇譚は枚挙にいとまがない。その対象を58年型のプリマス・フューリーという実に現代的なアイテムに持ち込んだことにキングの斬新さがあると云えよう。
既に述べたが、自動車愛好家たちにとって本書の車に対する執着の深さは頷けるところが多々あるのではないだろうか。自動車産業国アメリカが生んだ意志宿る車による恐怖譚。
しかし車に対する愛情の深さはアメリカ人よりも深いと云われる日本人にとっても無視できない怖さがあった。たかが車、そんな風に一笑できない怖さが本書にはいっぱい詰まっている。


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クリスティーン〈下巻〉 (新潮文庫)
スティーヴン・キングクリスティーン についてのレビュー
No.1244: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

昭和要素満載の伝記ミステリ

デビュー作である奇想天外な歴史観を綴った連作短編集『邪馬台国はどこですか?』を読んでその面白さを堪能し、その後読んだのは古事記を下地にした鯨版古事記伝の2冊と、異色の近未来小説『CANDY』と、どこかキワモノ感が濃い鯨作品を経て、読んだ本書は比較的まともなミステリであったことにほっとした。宮沢賢治の諸作と生涯をモチーフにした誘拐ミステリである。

私が抱いていた宮沢賢治は死後評価された童話作家・詩人というイメージで、有名な『雨ニモマケズ』の詩のイメージから朴訥かつ誠実な、清貧の人と思っていたが、それは全く違った。

質屋の息子として生まれ、裕福な暮らしをしながら、一方でそんな人に借金をさせて取り立てて生計を立てている父親の仕事を忌み嫌っていた。その明敏な頭脳で鉱石の研究から農業指導者、学校の先生に童話作家と様々な分野に手を伸ばし才能を発揮する。しかし農業指導では農家の有機肥料の設計書を無償で作成して渡したり、羅須地人協会なる農民のための勉強会を開いて土壌学、肥料学、植物生理化学から宇宙論にエスペラント語などを無料で教えていたりしていた。更に右翼に傾倒したり、浄土真宗の父親に対抗して熱心な日蓮の法華経信者になったりと特に父親に対しての反抗心が強い一方で逆に東京に出てからは宝石商を始めるために忌み嫌っていた父親から金の無心を何度もしていたというかなり矛盾の孕んだ人物である。

また禁欲主義者で、特に抑えきれない性の衝動と戦っており、代表作『春と修羅』は春、即ち回春、売春といった性欲との戦い、“修羅”をテーマにしているとの解釈がなされる。性欲を抑えるために童話を次々と書いていったが、晩年は禁欲主義は誤りだったと認めている。
そんな宮沢賢治の暗黒面がつぶさに描かれていく。

本書では宮沢賢治とは自分の理想と常に戦っている人と読み解かれる。父からデクノボーと呼ばれ、そのことを自覚しながら、不器用ながらも正直で誠実でありたいと書いた『雨ニモマケズ』は実はデクノボーである自分を讃えた詩であると解釈され、そして父親の強欲に対抗しながらも父のお金に頼る、禁欲と戦いながらも最後はそれを後悔する、童話を次々と発表するが世間には認められない、といった具合に常に内なる自分と戦いながらも結局敗れていった男なのだ。
明晰な頭脳で色んな分野に深い造詣を持ちながらもそれを活かさないばかりに不遇に見舞われた天才。その溢れる才能の使い道を間違った男というのが生前の宮沢賢治だろう。
今や国民的詩人、国民的童話作家と評されているがそれは彼の死後のこと。今なお彼の諸作が読み継がれ、信奉者を生み出していることから最終的にはその才能の使い道は間違っていないようだったが、当時生きていた宮沢家誰一人知らない事実である。

そして思うのはそんな多才ぶりを発揮するほどに昔の人は斯くもよく働いたものだということだ。常に知識に対して貪欲でそれを人に啓蒙することに情熱を燃やす宮沢賢治の意欲たるや、寝る時間をも惜しんで生きていた、そんなヴァイタリティに溢れている。

タイトルにある隕石は宮沢賢治が知っていたとされる七色のダイヤモンドの鉱脈は隕石ではないかという推察による。つまり隕石が持っているだろう幻のダイヤモンドを巡る誘拐事件、隕石誘拐というわけである。隕石から採れる鉱石・宝石は実際にあるようで、本書も一概に夢物語と一蹴できない真実性を孕んでいる。

その誘拐のターゲットにされる中瀬稔美の境遇はなかなか同情すべきところがある。
山師の父親に育てられ、上京して就職した損保会社で中瀬研二と社内恋愛の末、結婚し、主婦業に専念するが、突然童話作家になりたいと夫は会社を辞め創作講座にアルバイトをしながら通う。勿論それだけでは生計が成り立たないからSOHOでホームページ作成などを行っているが、生活は苦しく、下着も変えずにすり切れてボロボロになった物をずっと使っている。しかしその容姿は周囲が振り返るほど美しい。

そんな毎日に嫌気が差し、夫とは口論が絶えない。そんな中、宮沢賢治を信奉するカルト集団に拉致され、監禁され、潜在意識下に刷り込まされた七色のダイアモンドの在処を打ち明けるよう強要され、拉致グループにクスリを打たれ、レイプされてしまう。

ここまで書くと中瀬稔美の境遇には憐みを覚えてならないが、数々の薬を打たれ、性の奴隷に堕しながらも人一倍強きな性格で、どこかあっけらかんとした明るさを保っている不思議なキャラクターである。

そんなどこかエロティックで艶めかしい展開は昔の土曜ワイド劇場のような俗物的サスペンスドラマを彷彿させる。
その一方で稔美を拉致する十新星の会の面々は宮沢賢治を信奉し、<オペレーション・ノヴァ>というアルミニウムを摂取させることで全国民にアルツハイマー病にし、痴呆化を図り、日本全国民を支配下に置くという、秘密結社物のテイストもありと、なんともいびつな設定の下で物語が進んでいく。

いびつと云えば主人公の中瀬研二を助ける面々もまたいびつだ。
彼の隣人で妻稔美にコンピュータの扱い方を教えていた在宅勤務の児玉恭一、中瀬と同じ創作童話講座に通う白鳥まゆみは宮沢賢治に詳しいがゆえにメンバーに加わるが、夫を別れる決意をし、一方で中瀬研二に惚れている。
高校時代の同級生でフリーライターの伊佐土茂は昔中瀬の妻稔美を取り合った仲であり、稔美の窮地に助太刀を買って出る。
そしてもう1人の藤崎優次郎は昔からケンカが強く、今は武術の達人で忍者ショーの忍者を演じるほどの運動神経の持ち主で手裏剣で敵を攻撃する腕前を持つ。彼は中瀬の窮地に仕事を辞してまで協力する。
つまり中瀬を中心に隣人、片想いの女、かつての恋敵、そして仁義に厚い忍者と、通常ならば考えられないメンバー構成で話が進む。

本作が発表されたのは世紀末の1999年。つまりこのような世間に不安感が漂っている時代にオウム真理教に代表される新興宗教が蔓延っていたように、本書もそんな宮沢賢治を信奉し、国民総痴呆化を企むカルト集団による犯行というのは今読めば荒唐無稽だと思われるが、当時の世相を実は如実に反映した作品であると云える。
特に童話作家、詩人として名高い宮沢賢治の諸作を紐解くことで内なるコンプレックスを読み解き、そこから彼を神と崇める<十新星の会>なる狂信集団を案出したアイデアは鯨氏ぐらいしか思いつかないものではないだろうか。

誘拐物でありながら、宮沢賢治の文献から隠された秘宝の在処を読み解く冒険小説的妙味、さらに秘密結社による日本征服計画、そして拉致された人妻の凌辱劇とサスペンスにアドヴェンチャーにオカルトにエロと思いつくものをどんどん放り込んで物語を作った鯨氏の離れ業。その全てが調和し、バランスを保っているとは云い難いがこのような芸当に挑んだ鯨氏のチャレンジ精神は評価に値するだろう。
もう1つ忘れてはならないのは夢を追いかけて家族に貧乏を強いた夫婦の不和からの再生の物語であることだ。現在単身赴任中の我が身に照らし合わせても思うのだが、案外夫婦は距離を置くことでお互いの存在に改めて思いを馳せ、そして大切さに気付かされるのだ。いつも一緒にいると、やはり人間同士、どこか疲れて嫌なところばかりが目に付くようになる。中瀬夫婦のように誘拐されるような事態はごめんだが、離れることで絆が深まる気持ちは実に今ならよく解る。

そしてやはり鯨作品の妙味は過去の文献、史実から読み解かれる鯨流新事実の開陳にある。
本書で描かれる我々の知らない宮沢賢治の世界は本書のサブタイトルにあるようにまさに迷宮である。自由な発想と突飛な設定。次回もこの作者独特の物語を期待したい。


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隕石誘拐―宮沢賢治の迷宮 (光文社文庫)
鯨統一郎隕石誘拐-宮澤賢治の迷宮- についてのレビュー
No.1243:
(3pt)

別題『すべてが森になる』

とある国立大学の工学部建築学科の、建築材料を専門としている、どっかで聞いたことのあるような水柿助教授が出くわす、日常の謎系のミステリ短編集。

「ブルマもハンバーガも居酒屋の梅干しで消えた鞄と博士たち」は水柿助教授が奥さんの須磨子さんとの会話、そして学会出席のために訪れた金沢で起きたある出来事について語るミステリである。

例えばまずブルマの謎は家の地区にある中学・高校一貫教育の私学、S女学園がこのたびブルマを廃止して短パンにしたことについて奥さんとの間に齟齬が生まれる話であり、ハンバーガの話は2つ買ったはずのハンバーガが家に帰るといつの間にか無くなっていたという謎、出張先の金沢で学生たちと入った居酒屋では呼んでもいないのに注文を取りに来る店員と逆に呼出ボタンを押したのになかなか店員が来ない奇妙な状況について語られ、梅干しは水柿助教授の上司、高山教授が昔ホテルで起こしたロビーに梅干しを散乱させた顛末が語られる。そして最後の消えた鞄は高山教授の鞄がホテルの部屋から忽然と姿を消した謎のことだ。

そのどれもがミステリの謎としては実に弱く、例えばブルマとハンバーガの件はミステリにもなっていないネタだ。

とまあ、実に散文的な話で、誰かの一人語りのような地の文からしてまだ当初は連作ミステリとして書かれることを想定していなかったようにも取れる内容だ。とりあえず書いてみて、また機会とネタがあれば続きを書いてみるか、そんな具合の、イントロダクション的作品。

第2話「ミステリィ・サークルもコンクリート試験体も海の藻屑と消えた笑えない津市の史的指摘」は水柿君がまだ三重県にあるM大学の助手だった頃の話で物語の舞台は題名にも謳われている津市である。

本作でも色んな謎となり得るエピソードが書き連ねてあるが、メインの謎は水柿君が修論のテーマにしていた鋼繊維補強コンクリートの試験体を使っての海水暴露実験がなぜ成功しなかったかというものだ。

海の近くに旧水門跡に置かれた試験体は嵐の日にそのまま海に流されてしまったが、大学の研究等の屋上にも置かれた100個もの試験体が無意味になるという事件が起こる。
その他学校の実験室の前にある空き地に突如現れたミステリィ・サークルの謎、はたまた好立地の水柿君の借家の家賃がなぜ破格に安かったのか、そんな大小、いや小さな謎が散りばめられている。

因みに本作のテーマは物理トリック、化学トリックとのこと。訊いてみれば他愛のないことだが、上の謎を提示された時に、この他愛のない真相に気付いた人はどれだけいるだろうかと森氏は投げかけている。
そうそう、酒豪の高山先生がいきなり生徒の目の前で自転車に乗ったまま消え失せたトリックはすぐに解りました。同じような風景を私も見たことがあるので。

はてさて困ったことにここに書かれているのは微罪や重罪にもなる犯罪の証拠だ。

しかし最後に森氏は書いている。あくまでも、これは小説なのだと。ウソつけ!

とここまではどうにかミステリ風味が施されていたが、次の「試験にまつわる封印その他もろもろを今さら蒸し返す行為の意義に関する事例報告及び考察(『これでも小説か』の疑問を抱えつつ)」にはそのミステリ風味すらなく、水柿君が試験担当になったそれらにまつわるエピソードが語られる。

試験と云っても色々ある。通常の中間・期末試験、センター試験、そして二次試験。大学側の人間である水柿君が体験したそれらの試験で割り触られる諸々の役割、担当についてのお話だ。
試験の監督官になった時は大勢の受験者が思っている以上にカンニングしている様子が手に取って解ること、大学入試の監督官は事前に予行演習があり、ありとあらゆることを想定してケーススタディが行われていること。しかしそれでも想定外の事態が起こること。
試験監督者には2種類あり、教室で問題用紙の配布と監視を行う役ともう1つは控室で待機し、いざというときに出向く役があること。
採点委員というのがあり、試験問題の解答を作ることが要請されたり、また受験者たちの回答用紙を採点するが、筆記問題では回答の妥当性について話し合ったりして配点を決めたりすること。
そして問題作成委員があり、試験問題を作る役割があること。これは6月から始まり、決して秘密厳守でいなければならないこと、等々、我々一般人の多くが体験する大学受験、定期試験にまつわる、学校側のエピソードのそれらは、誰もが受ける側として経験しているのに試験を出す側のことは解らないものだなぁと案外面白い。
特に奇妙な受験者の話はどこまでが本当なのかと目を疑うものもあった(試験中に暑いといって服を脱ぎ出し、下着になって受けようとするのを止められて別室で受けたのは作戦だろうか。また着ぐるみを着ないと受験できない受験者はカンニングを隠すためなのでは?などと考えるのも面白い。私が()の中でこのように語るのは本作が故意にこのように演出している影響なのかもしれない)。

他には案外カンニングが成されていることに驚く。大学の先生というのはいい加減で、試験中に自分の論文を書いたりする先生や助手もいるようだが、自分の大学にもそんな人はいたかしらと思い出してみれば、確かにひたすら読書をしている教授がいたような記憶がある。堂々とノートと教科書を持ち込んでいい試験もあったりするらしいが自分の時はなかったと思う。

あとは現国の長文読解の問題の長文に妙に読み耽ってしまう、なんてあるあるネタは思わず同意してしまう。私は志賀直哉の「出来事」がいまだに印象に残っている。

だがしかし、全然ミステリがない。ほとんどエッセイである。「これでも小説か」と思わず自分で書くほどに何やら奇妙な話である。

更にミステリ風味は薄まっていく。次の「若い水柿君の悩みとかよりも客観的なノスタルジィあるいは今さら理解するビニル袋の望遠だよ」では若かりし頃の水柿君と妻須磨子との新婚時の話が出てくる。

今の妻須磨子さんが7番目に付き合った女性であること、それまでに付き合った女性のエピソードも語られる。その中の1人は大手貴金属商の娘で大金持ち。それがS&Mシリーズの西之園萌絵のモデルらしい。
更に合コンのエピソードにそれにまつわる大学の研究室のおかしな面々の話、そして須磨子との新婚の話が語られる。これらはもはや水柿君=森氏の懐かし話である。ミステリとしては先輩の鞄が合コンの夜、大学付近の歩道の真ん中になぜか置かれていたという謎が提示されるが、これが実話らしく、結局その原因は解らない。

最後の「世界食べ歩きとか世界不思議発見とかボルトと机と上履きでゴー(タイトル短くしてくれって言われちゃった)」では森氏、もとい水柿君の出張にまつわるエピソードに触れられている。

海外でも模型屋によることは欠かせなかったり、自分のお土産はすぐ開封するのに、妻への土産は1週間も放置したままだったり(こんなことあり得る?)、はたまた学校にまつわる全国の不思議事が紹介されたりしているが、もはや雑談と化している。


これら5話を通じて思うのは本書は森氏による、ちょっとしたミステリ風味を加えた自伝的小説なのか(これは反語表現である)。某国立大学工学部建築学科の水柿助教授はそのまま森氏に当て嵌まりそうな人物像である。

何しろ専門が建築材料であり、模型工作を趣味とし、読書とイラストを趣味にしている奥さん須磨子さんがおり、更に後々ミステリ作家になってデビューすることまでが1話目から語られるのだ。
これほど作者自身と類似した設定の人物は他にないのではないか。そして話が進むごとにミステリ風味も薄まり、どんどん水柿君と森氏が同化していく。

つまり本書は自分の教授生活の周囲で起きる出来事や見聞きしたエピソードの類を盛り込み、時々それらのエピソードに日常の謎系ミステリの味付けを加えた小説なのだ。

しかしその内容は、思いつくまま気の向くまま、取り留めのない日々雑感と云った趣で、建築学科の助教授水柿君の日常に起こっていることにミステリの種は結構あるんじゃないの?と書き連ねている体の話である。

しかしその傾向は正直第2話までで、第3話からはどんどん内容が水柿君の内側に、過去のエピソードに潜っていく。それらはミステリでは無くなり、本当に水柿助教授の日常話になってくるのだ。それは作者も確信的で最終話ではミステリィと見せかけてどんどんミステリィ風味を薄めていく、そういう「どんでん返し」を仕掛けていると述べている。

そして作中作者は事あるごとに「これは小説だ」、「これはフィクションだ」と述べているが、嘘つきが「嘘はついていない」というのと同様の信憑性しかない(と作者自身も書いていたような)。
つまり本当のことを語りつつ、それらの中には未だ事項になっていない軽犯罪、微罪、そして重犯罪になり得る危うさを孕んでいるからこそ、そのように作り話だと主張しているようにも取れる。その割に固有名詞が多く、イニシャルもほとんど本当の場所が特定できるほど安易な物であるのだが。そのあまりの自由闊達ぶりに正直苦情など来ていないのだろうかと思ったり。特に津市に関する記述はここまでこき下ろして大丈夫なのだろうかと無用の心配すらしてしまう。

やはりこれは水柿君の日常としながら、これらは全て同じN大学の建築学科の教授である作者自身が助手、助教授時代に経験した大学生活の思い出話、エピソード集なのだろう。従って水柿君の日常は「すべてが森になる」のだ。

ファンならば水柿君を通して森氏の過去が垣間見れるエピソードを愉しめるだろう。
しかしそうでない者にとっては文体、構成含め、単なる作家の悪乗りにしか取れない。この時期はS&Mシリーズで確固たるファン層を築き、そして続くVシリーズも好調で、おまけにブログも閲覧者数が凄かったから、何を書いても許されるだろう、何を書いても売れるだろうと思っていたのではないか。しかし書く方も書く方だが、それを許し、出版した幻冬舎の商業主義丸出し感にも腹が立つ。

既に本書において三部作構想も書かれており、恐らくは冗談だったのだろうが、それは形になっている。つまりこの後2つも続編が書かれたということはこの作風が世間に受け入れられたことだろう。商業ベースで成り立ったということである。

そう考えると作品の質よりも信奉者を作れば、その作者の全てを知りたいと思う読者が日本にはいることを示している。斯く云う私も注目作家の作品は全て買う、読む気質で、無論続編の2作も購入済みなので何も云えない立場なのだが。

小説ともエッセイとも判断しかねる奇妙な本書。従って読み方についてはかなり戸惑ったが、このテイストであることが解った今、次作からはそれなりに愉しめるかもしれない。
あくまでそれなりに。


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工学部・水柿助教授の日常 (幻冬舎文庫)
森博嗣工学部・水柿助教授の日常 についてのレビュー
No.1242: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

いつか書かれるであろう究極のミステリを求めて

作者と同姓同名の登場人物が登場する有栖川有栖氏のシリーズ作品は、その趣向の祖であるエラリー・クイーンと同じくクイーン信奉者で同趣向をシリーズキャラクターにしている法月綸太郎氏と異なり、探偵役は作者と同姓同名の人物ではなく、別の人物が務める。それはデビュー作『月光ゲーム』で登場した英都大学の学生有栖川有栖が登場する、いわゆる学生アリスシリーズでは推理小説研究会の部長江神二郎であり、もう1つが本書がその第1作となる推理作家有栖川有栖が登場するシリーズ、作家アリスシリーズの、臨床犯罪学者の火村英生である。このシリーズはそのまま探偵の名で呼ばれているようだ。

このシリーズは先に文庫書下ろしで出版された2作目の『ダリの繭』を先に読んでいたので、前後したが、これでようやくシリーズの最初から触れることが出来た。

1作目であることから有栖川有栖の自己紹介、火村英生の氏素性、そして2人が出逢ったエピソードなどが語られている。本当に久しぶりの有栖川作品だったので『ダリの繭』に書かれていたかどうかも定かではないが、このシリーズでは有栖川有栖が本名であること(因みに有栖川の姓は日本に1世帯だけ。このことを知っていたら本当にこの設定にしただろうかと訝しむが)、元印刷会社に勤めていたサラリーマンで脱サラして専業作家になったこと、火村英生の肩書、臨床犯罪学者という呼称は有栖川氏の造語であること、2人の出逢いは英都大学学生時代で講義中にミステリの賞への応募作への執筆をしていた有栖川の作品を偶々横に座っていた火村が勝手に読み始め、授業後もその後を続きが気になると云ってそのまま一緒に昼食を食べたのがきっかけであったことが語られている。
この時のアリスが学生アリスシリーズと同設定なのかはまだほとんど2つのシリーズ作品を読んでいない私には不明だが、学生アリスシリーズで江神と学生時代の火村が邂逅するシーンは今後あるのだろうかと期待をしてしまう設定ではある。

そんなシリーズ第1作は日本ミステリの巨匠の別荘に新人の推理作家と担当編集者が訪れ、一堂に会するという何とも既視感を覚える設定で、そして「日本のディクスン・カー」、「密室の巨匠」と称されたその作家の別荘で密室殺人が起こるという本格ミステリの王道を行くシチュエーション。さらにその場所は北軽井沢という寒冷地。嵐の山荘物の様相を呈しているが、流石にそこまでの孤絶感はなく、警察も事件に介入する。

まず推理作家の面々がベテラン推理作家の家に集まる設定から想起されるのは私が読んでいる中では綾辻氏の『迷路館の殺人』だ。あれは家の中が迷路になっており、その中で創作活動を行って師匠であるベテラン推理作家が最も優れた作品と認めた者に遺産の半分を相続するという特殊な状況であったが、本書はそこまで特別な状況ではなく、恒例のクリスマス・パーティーに招かれた若手推理作家と担当編集者がそこで起きた密室殺人事件に巻き込まれる、と実にオーソドックスだ。

まずやはりこの推理作家の巨匠という設定は、本格ミステリをこよなく愛する有栖川氏にとって自身ミステリの知識と興趣をふんだんに盛り込むために用意されたような趣で、作者の夢と理想が散りばめられている。

現在日本のミステリは英訳の他にも各国の言葉に翻訳されて紹介されて好評を得ているが、本書が発表された1992年当時は勿論そんな状況は願うべくもなかった。しかしここに出てくる真壁氏の諸作は英訳されて英米に出版され「日本のディクスン・カー」の称号を頂いており、その名を証明するかのように23の長編全てが密室物と32の短編中22編が密室物とこれまで45本の密室ミステリを書いているという設定だ。
まず世界において「ディクスン・カー」と称されるほど、世界のミステリ界でカーの名が今なお喧伝されているかはかなり微妙でここはまさに有栖川氏の古典ミステリ好きが起こした勇み足のように思えて、思わず苦笑してしまう。

そしてその密室の巨匠が次の作品を持って最後の密室ミステリにすると宣言してから密室殺人が実際に自身の別荘で起きる。それこそは彼が最後の密室ミステリとすると述べていた最後のトリックなのか、つまり「46番目の密室」なのかというのが本書の設定であり、また題名の意味でもある。

そしてその事件を皮切りに表面上は普通に接している彼らの間に男女関係の縺れが実は隠されていたことが判明し、次第にドロドロとした雰囲気を伴ってくる。

まず独身のまま命を絶つことになった別荘の主で推理小説の巨匠真壁聖一の女性遍歴が彼ら彼女らの関係にある翳を落としていると云えよう。

推理作家の高橋風子と男女の関係だったこと、そしてブラック書院の担当編集安永彩子を単なるお気に入りの担当者以上の好意、もしくは関係があったかもしれないこと、そして後輩作家の石町と安永が交際していることを知らされて、嫉妬心が芽生えたこと、石町は実は安永と真壁の関係をそれとなく知っていたかもしれないこと、更に担当編集者の杉井の元妻との間にも男女の関係があり、それが原因で杉井は元妻と離婚したこと、と彼を中心に男女関係の縺れが露見していく。

それに加えて妹の佐智子が多額の負債を抱えた実業家と付き合っており、真壁の資産を目当てにしていたかもしれないこと、そして真壁の遺産はその娘の真帆に相続されることが決まっていることなど金に纏わる諍いの種も次第に解ってくる。

つまり全ては別荘の主、真壁聖一に対して有栖川と火村を除く全ての関係者が何らかの問題を抱えていたことが判明していく。密室の巨匠、日本本格推理小説の先駆は人格的にはなんとも問題のある人物だったのだ。

そしてそれはそのまま真相に繋がる。

私がここで面白いと思ったのはこれはいわゆる雪の足跡トリックの変奏曲であることだ。

セロテープとテグスによって掛けられる掛け金のトリックについては昔山村美紗氏が数多く考案され、もはや化石とみなされている「糸と針金のトリック」と揶揄される機械的なトリックであることは有栖川自身も自覚的で、作中でも「お前がそんなトリックを小説で使えば四方八方から石が飛んでくるんだろうが、」と火村の口から云わせている。
しかし私はこれこそ古今東西の本格ミステリを読んできた有栖川氏のミステリ愛ゆえのトリックだと感じる。彼は廃れゆく、この「糸と針金のトリック」を敢えて復活させたかったのだと。だからこそ探偵役の火村に上のように云わせてでも、敢えて採用したのだと思うのだ。

だからこそだろうか、本書にはまだ若かりし頃の本格ミステリに対して無限の可能性を信じて止まない有栖川氏の本格ミステリへの理想と夢が随所に込められているように思える。

まずやはり冒頭の真壁聖一の存在。世界に認められた日本本格ミステリの巨匠というのは日本の本格ミステリが世界にいつか通じるだろうと信じ、そんな未来を夢見ていた有栖川氏の理想の存在、いや自身が目指すべき目標であるように思える。先にも書いたがそれは現在実現しており、アメリカのエドガー賞に日本のミステリがノミネートされるまでになっている。

次に真壁氏が次の密室物を最後にまだ見ぬ「天上の推理小説」を書くと云った件だ。
これこそ有栖川氏自身の未来への宣言ではないだろうか。
「新本格」という目新しい呼称で十把一絡げに括られているまだ駆け出しの本格推理小説家ではあるが、いつかはかつて書かれてことのない物語を書いてみせる、といった若者の主張のように思える。そして今なお精力的に本格ミステリを著しては発表し、年末のランキングに作品が名を連ねている現状から見ても、この時抱いた有栖川氏の、高みへと目指す心意気はいささかも衰えていないように思える。
巷間に流布する既存のミステリとは異なる次元に存在する天上の推理小説。有栖川氏の定義する天上の推理小説をいつか読みたいものだ。

そして最後はやはり犯人だけが見た、真壁氏が遺した最後の密室「46番目の密室」だ。
犯人は云う。それは「まるで世界が、世界を守るためによってたかって一人の人間を抹殺するかのようなもの」だと。
これもまた有栖川氏が抱く、いつか書くべき最後の密室ミステリなのではないか。そんなミステリを読んでみたいと彼は思い、そして出来れば自分で書いてみたいと思っているのではないだろうか。

と、このようにデビューしてまだ3年の時に書いたこの作家アリスシリーズには本格ミステリ作家となった有栖川氏の歓びとミステリ愛と、そして野心が込められている、実に初々しくも若々しい作品なのだ。

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46番目の密室 (講談社文庫)
有栖川有栖46番目の密室 についてのレビュー

No.1241:

幻肢

幻肢

島田荘司

No.1241:
(7pt)

愛もまた幻?

これはいわゆるよくある記憶喪失物のミステリを最新の脳医学の知識と技術の方向から光を当てた、島田氏の持論である21世紀ミステリを具現化する作品である。

島田荘司氏が特に2000年代に入って人間の脳について興味を持ち、それについて取材を重ね、次作のミステリにその最新の研究結果を盛り込み、21世紀本格ミステリとして作品を発表しているが、本書もその系譜に連なる作品で、タイトルが示すように幻肢、つまり実在しないのに恰も実在しているかのように感じられる欠損した手足の存在を足掛かりにそれが引き起こす脳の仕組みを解き明かし、そして最新の医療方法によって、失われた記憶を呼び覚ましていく。

まずこの幻肢、つまりファントム・リムよりも幻痛、ファントム・ペインとして以前より知られており、私も興味があったが、本書ではその幻痛、いや現在では幻肢痛と呼ばれるこの現象についても最新の研究結果が盛り込まれており、大変興味深く読むことが出来た。

幻肢痛とは生まれながらに手足が欠損した人々も含めて、事故や病気で手足を喪った人々がその後もないはずの手足に痛みを感じる現象のことを指すが、これは脳が手足がないことを認識していないために起こる現象であると本書では説明されている。手足を動かす指令は脳から出されるが、それらを喪っても脳はそれを感知せずに通常と変わらぬ指令を出すためにこのような現象が起きる。この治療法として鏡を据えた箱に健全な方の手足を入れ、鏡に映った手足を無いはずの側の手足、例えば右手があれば右手をその箱に入れれば右手の鏡像が左手の代わりとなり、右手を動かすことで恰も左手が存在して動いているかのように認識され、その後このような幻肢痛は起こらないことが証明されているらしい。つまり視覚によってようやく脳がそれを感知するのだ。視覚から得る情報は8割にもなるというが、それを実証するかのようなエピソードだ。

しかし島田氏はそこからさらに幻肢の解釈を拡げていく。
幻肢とは即ち手足のみを示すのではなく、人の全身さえも幻視させることが出来るというのだ。心霊現象を人間に見せると云われている側頭葉と前頭葉の間にある溝、シルヴィウス溝に刺激を与えることで幻視が起こるというのが本書での説だ。
このシルヴィウス溝はアレキサンダー大王、シーザー、ナポレオン、ジャンヌ・ダルクといった歴史上の英雄やゴッホ、ドストエフスキー、ルイス・キャロル、アイザック・ニュートン、ソクラテスといったその道の天才らが癲癇もしくは偏頭痛を持っており、それがシルヴィウス溝に強い刺激を与えて、常人にはない閃きや神の啓示などを聞いたとされている。ここに蓄えられているのは過去に経験した、忘れられた記憶も呼び覚ますことになり、それがかつて存在した手足があるように錯覚させたり、もしくは人そのものをも存在しているかのように思わせたりする、そんな仮説から本来ならば鬱病の治療としてその原因とされている左背外側前頭前野のDLPFCに、経頭蓋磁気刺激法、即ちTMSという脳に直接磁気を当てて刺激して血流を促し、脳の働きを活性化させる治療法をシルヴィウス溝に適用させるという方法で遥は雅人の幻を見ようと試み、そして成功するのだ。それはまた遥が失った事故当時の記憶を呼び覚ますことにも繋がる。遥は雅人の幻とのデートを重ねるうちに雅人への愛情が甦り、「あの日」の記憶を懸命に呼び覚まそうとする。

彼女は今日も幻とデートする。
それは大学から自宅までのほんの数キロのデート。
彼女しか見えない彼はいつも彼女のアパートの前で消え去る。
その短い逢瀬が楽しければ楽しいほど、彼女の寂しさは募っていく。
それでも彼女は亡くした彼に逢いたいがために今日も自分の脳を刺激する。
そしてまた刹那のデートを繰り返す。

そんなペシミスティックなコピーが思いつきそうな感傷的な展開を見せるが、そんな切ない幻との恋愛も次第に様相が変わっていく。その展開についてはまた後ほど語ることにしよう。

上述のように遥が失った事故当時の記憶をTMSでの治療を重ね、雅人の幻との逢瀬を重ねることで徐々にその内容を明かしていくのが本書のメインの物語であるが、それ以外にも随所に織り込まれる最新の脳科学の知識のオンパレードが実に興味深く、素人でも理解できるよう非常に解りやすく書いており、内容は実に面白い。

例えば脳はそれ自体が電気を発するので絶縁体である脂肪で出来ていること、そして最も頑丈な骨、頭蓋骨で守られていること、記憶に不可欠な物質グルタミン酸は非常に興奮をもたらしやすい性質があり、神経細胞をも破壊する恐れがあるため、過剰分泌を抑えるため、アデノシンが分泌され、一時的に活動がストップされること、それが恰も電力使用量を超過した際に自動的に遮断される電気のブレーカーと実に似ていることなど、知的好奇心が促される。

そして脳の秘密を解き明かすことで、即ち昔から怪奇現象と思われていた不可解事の正体や上にも書いた神の啓示や天才の閃きなども解き明かすことに繋がる。つまり広い意味で古来から不思議とされていた事象の謎を解いていくことでもあるのだ。

それは脳という複雑でしかもコンピュータのように精緻な仕組みを持った特殊な機関が我々人間たちに負荷をかけないようにそれ自体が人間から都合の悪い事を見せないように騙し、また故意に忘れさせようと自己防衛機能を備えていることが興味を尽きさせないからだ。
記憶でも思い出の記憶であるエピソード記憶、体得した生活やスポーツでの動きを司る手続き記憶、そして物事の意味を覚える意味記憶と3種類に分かれ、エピソード記憶は海馬に送られ、2年程度保存された後、ある程度、出入力が反復されると大事な記憶として大脳皮質や小脳に送られ、手続き記憶や意味記憶として忘れらない記憶となると述べられている。

この忘れやすいエピソード記憶は即ち我々読書好きの人間にとっては常にその維持との戦いを強いられる。
私がこのように感想を書くのは読み終えた本を極力覚えておきたいからだが、無論それでも忘れてしまう。正直感想を読み返してもどんな話だったか思い出せない作品も確かにある。

だが一方で内容が衝撃的すぎる、もしくは大いに感動した物語は細部は忘れてもその強い印象はずっと残っているのだ。しかもそんな作品でもいつも誰かと話したり、ウェブで感想を読んだりしているわけではなく、インプット・アウトプットの頻度はさほどインパクトの強くない作品のそれとは変わらないように思えるのに、なぜいつまでも覚えているのか。そこの説明が上の内容では成立しないように思えるのだ。
まあ、とにかく読み終わった本を極力覚えているには、どうにか2年の間、海馬にある段階で頻繁にインプット・アウトプットしていくように努めなさいということになるだろうか。

と、このように記憶1つ取ってもこれだけ話が生み出される脳について語られる。従って、通常ミステリならば例えば館の見取り図が欲しくなったりするが、本書では脳のそれぞれの部位が成す役割を詳らかに語るため、脳の各部位を示した図が欲しいと思った。
海馬、大脳皮質、小脳、シルヴィウス溝、側頭葉、前頭葉とここに至るまでにそれだけの脳の部位が出てきた。更には記憶のルートは頭頂葉、側頭葉、帯状回を経由する、恐怖心や不安感をもたらす扁桃体、その中にある背外側前頭前野のDLPFC、等々が続々と登場する。これらそれぞれの部位を示した図があれば、それをもとに自分の頭に照らし合わせて読むとまた格別に理解できただろう。

さて遥が次第に事故当時の記憶を思い出していくごとに不穏な空気が漂ってくる。特に主人公の遥だ。どんどん感情的になっていき、周囲の目を気にせずに幻の彼、神原雅人に嫉妬心を募らせていく。そしてTMSによって思い出した事故当時の記憶はなんとも自己嫌悪に陥るしかない最悪の結果だった。

なんともバカげた真相である。島田氏の女性観はある種、独断と偏見を感じるところがあるが、この主人公糸永遥の性格と行動はまさにその独特の女性観が悪い方向に出たような形だ。
この糸永遥という女性、女性読者から見れば、確かに周囲にいそうな女性ではあるのだけれど、どんな感じで捉えられるのだろうか?

しかしそんな真相の後にどうにか救いはあった。

しかし島田作品初の映画化作品として選ばれた本書。いや映像化を前提に書かれたのかもしれないが、亡くなった彼の幻との短いデートという儚げなラヴストーリーが、一転して事故の真相を知った途端に視聴者はどんな思いを抱くだろうか?
私は前述したようにもっとどうにかならなかったのかと思って仕方がない。機会があれば映画の方も見てみよう。


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幻肢
島田荘司幻肢 についてのレビュー
No.1240:
(7pt)

キングのお話と迫力あるイラストを楽しもう!

キングが怪奇コミックスの鬼才バーニ・ライトスンと組んで著したヴィジュアル・ホラーブック。
キングにしては珍しく、全編でたった200ページにも満たない。しかもその中にはふんだんにライトスンによるイラストが挟まれているため、文章の量もこれまでのキング作品では最少だ。

そんな試みで書かれた作品のモチーフは人狼。つまり狼男の物語だ。実にオーソドックスな題材である。
かつて『呪われた町』で吸血鬼を、お化け屋敷をモチーフに『シャイニング』をキングは書いたが、そのいずれもが上下巻の長編だったのに対し、人狼を扱った本書は上に書いた中編の部類に入る分量である。

物語も実にシンプルでメイン州の田舎町に突如現れた人狼による被害について月ごとに語られる。
鉄道の信号手、本屋の経営者、名も知らぬ流れ者、凧揚げに夢中になって犠牲となった11歳の少年、教会の掃除夫、食堂の主人、町の治安官、豚舎の豚、妻に暴力を振るう図書館員。毎月決まって満月の夜に惨劇は起きる。
その中で唯一の生存者が車椅子の少年マーティ。彼はおじから貰った爆竹で抵抗して命からがら逃げだすことに成功する。

1月から12月までの1年間を綴った人狼譚。キングにしてはシンプルな物語なのは話の内容よりもヴィジュアルで読ませることを意識したからだろうか。その推測を裏付けるかのようにバーニ・ライトスンはキングが文字で描いた物語を忠実に、そして迫力あるイラストによって再現している。
1月から12月まで、それぞれの月の町の風景と、人狼が関係する印象的なシーンを一枚絵で描いている。特に後者はキングが描く残虐シーンを遠慮なく描いており、背筋を寒からしめる。特に人狼の巨大さと獰猛さの再現性は素晴らしく、確かにこんな獣に襲われれば助かる術はないだろうと、納得させられるほどの迫力なのだ。

この小説で教訓があるとすれば、まず大人に対しては、子供の話にきちんと耳を傾けるべきであるということだろう。往々にして子供は大人が知らない世界を見ることが出来、そして真実を語ることがあることを忘れてはならない。

一方子供に対しては、大人に頼らず、子供には自分で始末を着けなければならない時があるということだろうか。人狼というまともに立ち向かえば勝ち目がない相手、つまり途方に暮れてしまうほどの困難に直面した時も知恵と勇気を使えば克服できる、既に少年はその能力を秘めているというメッセージが込められているともとれる。

小さな町に訪れた災厄を群像劇的に語り、そしてその始末を一介の、しかも車椅子に乗った障害を持つ少年が成す、実にキングらしい作品でありながら、決して饒舌ではなく、各月のエピソードを重ねた語り口は逆にキングらしからぬシンプルさでもある。そしてキングにしてはふんだんにイラストが盛り込まれているのもまたキングらしからぬ構成だ。
それもそのはずで、解説の風間氏によれば当初イラスト入りカレンダーに各月につけるエピソード的な物語として考案された物語だったようだ。しかしそんなシンプルさがかえってキングにとって足枷になり、7月以降はマーティを登場させ、人狼対少年という構図にしてカレンダーに添えられる物語ではなく、中編として最終的には書かれたようだ。
だからキングらしくもあり、またらしからぬ作品というわけだ。

一方シンプルな語り口と秀逸なイラストの組み合わせということで考えると、少年少女向けのキング入門書とも云うべき作品としても考えられるが、それにしては暴力夫が出てきたり、女性との性行為についても語られるので正直子供に読ませるには抵抗がある。いやはやなんとも判断に困る作品である。

しかしそんな考察は無用なのかもしれない。文章とイラストで存分に狼男の恐怖を味わうこと。それが本書の正しい読み方と考えることにしよう。


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人狼の四季 (学研M文庫)
No.1239:
(9pt)

警官による黒人虐待による暴動が起きた今だからこそ読まれるべき作品

ケーブルカーと云えばLAではなくサンフランシスコのそれが有名だが、LAにもあり、それが本書で殺人の舞台となるエンジェルズ・フライトだ。実は世界最短の鉄道としても有名だったが、2013年に運行を停止していたらしい。しかし2016年の大ヒット映画『ラ・ラ・ランド』の1シーンで再び脚光を浴びて運行が再開したようだ。

1冊のノンシリーズを挟んでボッシュシリーズ再開の本書は奇遇にも最近再開されたケーブルカー内で起きた、LA市警の宿敵である強引な遣り口で勝訴を勝ち取ってきた人権弁護士の殺人事件に突如駆り出されたボッシュが挑む話だ。

作者はやはりボッシュに安息の日々を与えない。今度のボッシュはまさに否応なしにジョーカーを引かされた状況だ。
警察の天敵で、何度も幾人もの刑事が苦汁と辛酸を舐めさせられた弁護士の殺人事件を担当することで、世論は警察による犯行ではないかと疑い、刑事も当初はその疑いを免れるために強盗によって襲われたものとして偽装する。現場の状況は警察が偽装した痕跡が認められた上に、射撃の腕前がプロ級であることから容疑者が射撃の訓練をしてきた人間である可能性が高いため、警察関係者にいる可能性も高まる。そしてボッシュはそんな事件を担当する刑事たちに嫌悪され、刑事と思しき人物から脅迫電話まで受け取る。
おまけに被害者は黒人であるのが実は大きな特徴だ。本書はスピード違反で逮捕された黒人をリンチした白人警官が無罪放免になったいわゆるロドニー・キング事件がきっかけで起きた1992年のロス暴動がテーマとなっている。作中LA市警及びハリウッド署の面々にとってもその記憶もまだ鮮明な時期で、エライアス殺人事件がロドニー・キング事件の再現になることを恐れており、少しでも対応を間違えば暴動になりかねない、まさに一触即発の状況なのだ。

作者自身もこのロドニー・キング事件を強く意識した物語作りに徹している。上に書いたように黒人であるロドニー・キングをリンチした白人警官が無罪放免になったのには陪審員が全て白人で構成されていたことが要因として挙げられている。一方エライアスが担当していたマイクル・ハリス事件もまた、事件に関わった警察及び検察官が全て白人であった。コナリーは実際の事件をかなり意識して書いていることがこのことからも窺える。
従って本書では特に白人と黒人の反目が取り沙汰されている。ボッシュ達がこの微妙な、いや敢えて地雷を踏まされたような事件を担当するのも、ボッシュのチームに黒人の男女の刑事がいることが一因であることが仄めかされている。しかしボッシュはそんな市警の上層部の意向に嫌悪感を示し、記者会見に彼の部下を同席することを良しとしない。2回目の記者会見でLA市警の誠実さを示すためだけに同席を強いられたエドガーとライダーはそうすることを命じたボッシュに対して反発心を見せる。彼らは1人の刑事であり、決して特別な「黒人の」刑事ではない。しかしそれを世間に示さなければならないほど、世紀末当時のLAはまだ根深い人種差別が横たわっていたことが描かれている。

ついでに云えば被害者の弁護士ハワード・エライアスの息子の名が黒人解放運動の牽引者である人物の名前がそのまま入ったマーティン・ルーサー・キング・エライアスであることも象徴的だ。

ところで本書ではエピソードとして2つの事件が挿入されている。1つは最近ボッシュが解決して有名になったハードボイルド・エッグ事件。もう1つはエライアスがLA市警強盗殺人課相手に裁判を控えていたブラック・ウォリアー事件だ。

前者の事件は自殺と思われた事件が冷蔵庫に冷蔵されていた固ゆで卵に書かれた日付によってそんなことをする人間が自殺するわけがないと閃いて犯人を捕まえた事件でそれはロサンジェルス・タイムズにシャーロック・ホームズ張りの名推理として紹介され、有名になったのだ。そして犯人だったストーカーは自分の犯行の証拠となる被害者の手記を後生大事に持っていた。

後者は誘拐された自動車販売王として有名なジャクスン・キンケイドの息子サムの一人娘ステーシーが捜査の甲斐虚しく、遺体として発見され、その発見場所がかつて住居侵入と暴行の罪で前科のあるマイクル・ハリスの近くだったことから容疑者として逮捕されたもの。当初はこの被害者家族に世間の目は同情的だったが、裁判でサム・キンケイドがサウス・セントラル地区に販売代理店がない理由を、1992年に暴動が起きた場所に店を構えるつもりなど毛頭ないと応えたことで黒人差別の気運が高まり、無罪判決で釈放された後、ハリス側が今度は自身がが不当な拷問を捜査官から受けたことに対してLA市警を訴えた事件である。そしてこの事件の裁判の直前に担当弁護士で辣腕を誇るエライアスが殺害されるのである。

この事件が実はエライアス殺害事件に大いに関わってくる。むしろボッシュはこの事件を解くことがエライアス殺害事件を解く鍵と信じ、捜査に協力するFBIの方にエライアス殺害事件の方を任せて、自分たちはその事件を追う。

余談になるが、アーヴィングと本部長の取り計らいでこのエライアス殺害事件の捜査はFBIと合同で行うようになる。それに派遣されるFBI捜査官がロイ・リンデルであるのが今回のサプライズでもある。彼はシリーズ前作『トランク・ミュージック』で登場したあの潜伏捜査官。なるほど、こんな手をコナリーは繰り出してくるのかと驚いたものだ。

もう1つFBIで云えば、本書では前作『わが心臓の痛み』が映画化されたことにも触れられており、しかもテリー・マッケイレブはかつてボッシュも一緒に仕事をしたことがあると述べている。これも思わずニヤリとするコナリーの演出だ。

話は変わるがネオ・ハードボイルド小説の代表作の1つにアル中探偵ローレンス・ブロックのマット・スカダーシリーズがある。1976年に始まったこの次世代ハードボイルドシリーズも90年になるとIT化の波には逆らえず、スカダーの仲間の1人TJがパソコンを駆使して彼をサポートするが、このボッシュシリーズでも同様に本書ではボッシュのチームのメンバーの1人、女性刑事のキズミン・ライダーが買春のウェブサイトから隠れサイトであった小児ポルノのサイトへのアクセスし、事件が急転回する。

しかしデビュー作ではまだポケベルで連絡を取り合い―それは本書でもまだ続いている―、その後携帯電話をボッシュが使うようになるが、とうとうインターネットまで登場するようになったとは。
本書は1999年発表だからそれは全くおかしなことではないのだが、ボッシュとインターネットというのがなんともそぐわなく、本書でもボッシュはネット音痴でキズミンがかなり噛み砕いてインターネットのウェブサイトの仕組みについて説明しているのに隔世の感を覚える。世紀末のあの頃のインターネットの認知度はまだそんなものだったのだ。

また今まで色んな苦難に直面させられてきたボッシュだが、『トランク・ミュージック』で新たなチームのリーダーとなり、またグレイス・ビレッツという理解ある上司に恵まれ、しかも運命の女性と感じていたエレノア・ウィッシュと結ばれ、ようやく人生の春を迎えつつあった。しかし本書でまたもや危難に見舞われる。
警察の敵を殺害した犯人の捜査だ。しかも犯人は警察の中にいるかもしれず、お互い理解しあったとされたかつての宿敵アーヴィン・アーヴィングは昔に戻ったかのようにボッシュをマスコミの生贄の山羊に捧げるかのように管轄外にも関わらず呼び出し、特別任務として捜査のリーダーに命じる。
味方の中にも敵がいるかもしれない、そんな四面楚歌の状況にボッシュはいきなり追いやられる。

更にエレノアとの結婚生活もまた破綻しかけている。元FBI捜査官でありながら、前科者という経歴で彼女はなかなか新たな職に就けないでいた。ボッシュも人脈を使って逃亡者逮捕請負人の仕事を紹介したりするが、エレノアはかつて捜査官として抱いていた情熱をギャンブルに向けていた。ラスヴェガスでギャンブラーとして生計を立てていた頃に逆戻りしていたのだ。
ボッシュはエレノアに安らぎと全てを与える思いと充足感を与えられたが、エレノアはボッシュだけでは充たされない空虚感があったのだ。

本書で特に強調されているのは「すれ違い」だろうか。事件の舞台となったケーブルカー、「エンジェルズ・フライト」をコナリーは上手くボッシュの深層心理の描写に使っている。

彼が夢でこのケーブルカーに乗っている時、まず最初に反対側のケーブルカーに乗っていたのはエレノア・ウィッシュだった。しかし夢の中の彼女はボッシュの方を見向きもしないまま、そのまま下っていく。

2回目の夢の時は反対側のケーブルカーではなく、同じケーブルカーに通路を挟んで相手は乗っている。それはブラック・ウォリアー事件の被害者ステーシー・キンケイドだ。彼女は悲しげで虚ろな目でボッシュを見つめている。

一度は近づきながらもやがて離れていくケーブルカー。これを出逢いと別れを象徴している。
一方同じ車両に通路を隔てて乗っている2人の関係性。これは同じ方向に進みつつも2人には何か見えない隔たりがある。
ケーブルカーをボッシュが関わる女性との関係性に擬えるところにコナリーの巧さがある。

夢で見たようにエレノアはボッシュを十分愛せない自分に耐え切れなくなり、しばらく距離を置くため家を出る。ボッシュはエレノアといることに至上の幸せを見出していたのに、それが一方通行でしかなかったことを知り、心が引き裂かれそうになる。
上に向かっていくケーブルカーに乗っていたボッシュとは裏腹にエレノアの心は下降線を辿って行ったのだ。

そしてステーシー・キンケイドもまた同様だ。今度は同じ車両に乗りながら通路を挟んで見つめ合う2人。
我々は同じ車両に今乗っている。ただまだそちらのシートには近づけない。そこにはまだ通路分の隔たりがあるのだと。

すれ違いと云えば、被害者エライアスの家族もそうなのかもしれない。
人権弁護士として貧しき黒人たちの救世主として名を馳せた辣腕の黒人弁護士。しかし彼はその名声ゆえに近づいてくる女性もおり、それを拒まなかった。元人権弁護士でLA市警の特別監察官となっているカーラ・エントリンキンもまたその1人だった。

しかしエライアスの妻ミリーは女性関係については夫は自分に誠実であったと信じていますと告げる。決して誠実だったとは云わず、自分は信じているとだけ。
これはつまりすれ違いをどうにか防ごうとする妻の意地ではないだろうか。世間に名の知れた夫を持つ妻の女としての矜持だったのではないだろうか。つまり彼女とハワード・エライアスのケーブルカーはそれぞれ上りと下りと別々の車両に乗ってはいたが、行き違いをせずにどうにかそのまま同じところに留まっていた、そうするように妻が急停止のボタンを押し続けていた、そんな風にも思える。

今回も多くの人々がボッシュの目の前から消え去る。

娘を亡くした忌まわしい過去を一刻も早く消し去りたいがために引っ越しながら、移転先では2人の死体が残され、そして以前の家では1人の死体が残され、そして誰もいなくなってしまった。

皆が集まる家もあれば、なぜか人が居着かない家もある。ずっと孤独を抱えていたボッシュの家は後者になるのか。
そしてアメリカの政財界にまで影響を与える自動車販売王の家もまた張り子の家庭だけが存在する、不在の家なのか。
事件を調べる者と調べられる者と対照的な2つの家に私はなんとも奇妙な繋がりを覚えずにはいられなかった。

コナリーは刑事を主人公としながら実は警察小説を書くのではなく、あくまでハードボイルドで警察に盾突く卑しき街を行く騎士としてボッシュを描いていることに今ようやく思い至った。

世紀末を迎えたアメリカの政情不安定な世相を切り取った見事な作品だ。
実際に起きたロス暴動の残り火がまだ燻ぶるLAの人々の心に沈殿している黒人と白人の間に跨る人種問題の根深さ、小児に対する性虐待にインターネットの奥底で繰り広げられている卑しき小児ポルノ好事家たちによる闇サイトと、まさしく描かれるのは世紀末だ。

では新世紀も17年も経った現在ではこれらは払拭されているのかと云えば、更に多様化、複雑化し、もはやモラルにおいて何が正常で異常なのかが解らなくなってきている状況だ。人種問題も折に触れ、繰り返されている。
そういう意味ではここで描かれている世紀末は実は2000年という新たな世紀が孕む闇の始まりだったのかもしれない。
そう、それは混沌。
死に値する者は確かに制裁を受けたが、それは果たして正しい姿だったのか。そして友の死の意味はあったのか。向かうべき結末は誰かが望み、そしてその通りになりもしたが、そこに至った道のりは決して正しいものではない。

結果良ければ全て良しと云うが、そんな安易に納得できるほどには払った犠牲が大きすぎた事件であった。

自分の正義を貫くことの難しさ、そして全てを収めるためには嘘も必要だと云うことを大人の政治原理で語った本書。その結末は実に苦かった。

そして本書では解かれなかった謎がもう1つある。それはマスコミ、TV屋のハーヴィー・バトンとそのプロデューサー、トム・チェイニーに警察の内部情報をリークしていた人物についてだ。つまり今後も警察内部に情報源を抱えて仕事をしていかなければならないことを強いられるわけだ。

ボッシュの息し、働き、生活する街ロス・アンジェルス。天使のような美しい死に顔をして亡くなったステーシーがいた街ロス・アンジェルス。
まさに天使の喪われた街の名に相応しい事件だ。

その街にあるケーブルカーの名前は「エンジェルズ・フライト」、即ち「天使の羽ばたき」。
しかし天使の喪われた町での天使の羽ばたきは天に昇るそれではなく、地に墜ちていく堕天使のそれ。

最後にボッシュは呟く。チャステインの断末魔は堕天使が地獄へ飛んでいく音だったと。
エンジェルズ・フライトの懐で亡くなったエライアスはこの堕天使によって道連れにされた犠牲者。
世紀末のLAは救済が喪われたいくつもの天使が墜ちていった街。そんな風にLAを描いたコナリーの叫びが実に痛々しかった。


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エンジェルズ・フライト〈下〉 (扶桑社ミステリー)
No.1238:
(5pt)

歴史を信じちゃいけないよ

『千年紀末古事記伝ONOGORO』に続く、鯨統一郎版古事記伝である。前作では稗田阿礼が巫女の力で感じ取る物語を綴る体裁であったが、続編にあたる本書ではヤマトタケルは“世界”を創るために根源へと遡る。

前作ではコノハナサクヤ姫とニニギとの間に火照命、火遠理命、即ち海幸彦、山幸彦が生まれて、古事記伝は閉じられるが、本書はその続きでこの2人の兄弟の話から始まる。
ちなみにこの山幸彦と海幸彦の話は浦島太郎の原型となったとされる。そこから物語は卑弥呼と邪馬台国の話になり、その後彼女とその仲間イワレビコとイツセノ命兄弟の反乱とナガスネビコとの戦い、そしてイワレビコと卑弥呼が和解し、お互い協力して新しい国を創る。それがヤマトの国の始まりだ。

その後、ヤマトの国の変遷が語られる。ミマキイリヒコは世の中を襲った疫病から蛇神の子を捜し出して国民を救い、眉目秀麗の王イクメイリヒコはその愛妻サホビメを愛するが、サホビメは仲の良い兄サホビコに王を討ち斃すことを頼まれ、兄と夫との愛情の狭間で苦しみ、兄と共にその身を業火に焼かれて死んでいく。イクメイリヒコは遺されたサホビメとの児ホムチワケが成長しても口が利けないことを心配し、博識のタジマモリに頼んで食すれば言葉が喋れるようになると云われている時じくの香の木の実のことを聞く。その実は一方で食すれば時を自由に操る力を得るという人智を超えた霊力も備わる危険性があった。しかしその懸念も取り越し苦労でホムチワケは話すことが出来るようになる。

そしてオオウスとオウスという双子を持つオオタラシヒコの時代では大らかだが、女に目がない兄オオウスと美しい顔立ちをし、剣の達人でもある弟オウスのいずれかに王位を継がせることに悩んでいた王はいつも微笑みを絶やさないオウスを得体のしれない危険な男とみなし、オオウスに継がせることに決めるが、オオウスは自分が妻に迎えようとしていた美人姉妹のエヒメとオトヒメに一目惚れし、父に内緒で自分の妻にしてしまう。それを知ったオオタラシヒコは弟のオウスに何とかするように命令し、兄の許に向かわすが、オオウスは父にその娘たちを返すように云われると断るや否やオウスに首と両手両足を一瞬にして切られてしまう。それを知ったオオタラシヒコは最愛の息子を殺したオウスに決して王位を継がせないよう、無茶な任務を命ずる。

それは無敵の大男と名高いクマソタケルを討つことだった。そしてオオタラシヒコは彼にたった10人の兵を与えて出兵させる。しかしオウスは女装してクマソタケルに近づき、討伐に成功する。その手際に感心したクマソタケルは自分の名前を授け、オウスはヤマトタケルと名前を変える。

ここでようやく冒頭に出てきた主人公ヤマトタケルの登場である。

その後もヤマトタケルは出雲の国の強者イヅモタケルの討伐、東方十二か国の平定を父より命ぜられ、その都度智略と大胆さで切り抜け、次々に任務を果たす。

それだけの功績を成しながらもヤマトタケルは父のオオタラシヒコからは賞賛の言葉が貰えなかった。オオタラシヒコは最愛の長男オオウスを始末したヤマトタケルをどうしても許せなかったのだ。
やがてヤマトタケルは今の三重県に当たる伊吹山に人々を苦しめている荒々しい猪の出現の話を聞いて退治しに出かけるが、猪は今まで国の平定のためとは云え、智略、策略を弄して様々な人を殺してきたヤマトタケルそのものだと述べる。そしてヤマトタケルはかろうじて妻の美夜受姫の助けを借りて猪を退治するが、それまでに吸った瘴気にやられて助からないことを悟り、時を遡る実、時じくの香の木の実を食べ、息を引き取り、白鳥に転生する。

しかしヤマトタケル退場後もその後も子々孫々の物語が綴られていく。今の韓国に当たる新羅と百済を攻めていった後の神功皇后となるオオナガタラシ姫の話、後の応神天皇となるホムダワケのエピソード、現在日本最大の古墳として教科書にも記載されている仁徳天皇となるオホサザキが美しく、身体つきも見事でなおかつ聡明なイワノ姫という妻を持ちながらも漁色家で浮気性で妻の目を盗んでは各地の女や女官に手を出していたという話、その息子イザホワケノ王と兄の座を虎視眈々と狙うスミノエとの戦いの話、等々、後のヤマト時代の天皇となる人物たちのエピソードが語られていく。

歴代の大王たちがなんとも本能の赴くままに振る舞うことよ。
前作では男と女の交合いこそが国創りだと云わんばかりにセックスに明け暮れるという話が多かったが、本書は神々から人間に登場人物が変わっただけあって、神々よりも理性はあるため、自重する面も見られるが、それでも妻がありながらも美しく若い女性、また熟れた肢体を持った女性を見ると見境なく交合う話が出てくる。
東に行っては美しい娘に永遠の契りを誓いつつも西に行ってまたも美しい女性に出会えば后として迎えるとうそぶく。男のだらしなさが横溢している。更には自分こそが一番強いことを証明するため、各地の強者たちと戦い合う。それは身内も同様で王の兄の座を虎視眈々と狙って討ち斃そうとする兄弟げんかも繰り返される。
昔から男は欲望のままに生きる子供っぽい生き物であるのだと殊更に感じる一方、昔の女性の一途さに感銘した。

はっきり云えばそれら歴代の統治者たちの物語にミステリの要素は全くない。前作ではアマテラスと交合うために天の岩屋戸に籠ったスサノヲがアマテラスの背中に短剣を突き立てて殺害しながらも密室の中から忽然と消える密室殺人が盛り込まれていたが、本書ではそんな要素も全くない。せいぜいヤマトタケルが各地の強者を成敗するのに智略や奸計を用いたくらいだ。

従って単純に古事記の解説本のように読んでいたが最後になって本書の意図が判明する。

前作の復習になるが本書の内容は現在伝えられている古事記のそれと微妙に異なる点がある。本書に記載された物語について私はさほど詳しくないのでどこまでが嘘で真実かが解らないのだが、その旨を問い質すと、この世は邪悪な意志を持ったヤマトタケルによって創られた世界だからそのまま真実を書くと邪悪なものになってしまうので太安万侶によって稗田阿礼が口伝えした話を少し改変したものであるというのが本書でも改めて述べられている。

しかし本書ではさらに続きがあり、あるオチ(あえて真相とは云わない)が明かされる。

このオチを是と取るか否と取るかは読者次第。ただ本書における鯨氏の意図は理解できる。

歴史とはずっと研究が続き、その都度生じる新たな発見で内容が改変されていく学問である。従って100人の学者がいれば100通りのの解釈が生まれる。鯨氏はこの歴史の曖昧さ、あやふやさこそがそれぞれの読者が学んできた歴史という先入観を利用してひっくり返すことをミステリの要素としていたのだ。
デビュー作の『邪馬台国はどこですか?』はまさにそれをストレートに描いたもので、本書は逆に古事記のガイドブックのように読ませて、それぞれが知っている古事記との微妙な差異を盛り込むことでミステリとしたのだ。

ただ正直に云って本書は古事記をもとにした黎明期の日本の統治者たちのエピソードを綴り、それをヤマトタケルが造った世界であるという一つの軸で連なりを見せる連作短編集として読むのが正解だろう。
私は1つの長編、そしてミステリとして読んでいたため、どんどん変遷していく時の治世者たちのエピソードの連続に、果たしてどこに謎があるのだろうと首を傾げながら読んだため、読中は作者の意図を汲み取るのに実に理解に苦しんだ。

もしかしたら本書の妙味とはこれを読んで古事記の内容が解ったと思ってはならない、古事記とは異なる点が多々あるからそれは自分で調べなさいと読者に調べて知ることの歓びを与えることなのだろう。だからこそ巻末に記載された参考文献一覧に、「本文読了後にご確認ください」と作者が注釈を入れているのだろう。

解らないことは自分で調べよう、じゃないと嘘をそのまま鵜呑みにするよ。
それが今まで4冊の鯨作品を読んできて感じたこの作者の意図であり、警告であると思うのである。


▼以下、ネタバレ感想
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新千年紀(ミレニアム)古事記伝YAMATO (ハルキ文庫)
鯨統一郎新千年紀末古事記伝 YAMATO についてのレビュー
No.1237:
(8pt)

時には答えなくてよい返事もある

宮部みゆき氏最初期の短編集。私が彼女の短編を読むのは『我らが隣人の犯罪』以来。宮部氏の実質的なデビュー作であるオール讀物推理小説新人賞が収録されたその短編集には「サボテンの花」という、今なお忘れられない短編が入っており、長編のみならず、短編の巧さは実証済み。そんな期待値の高い中で読んだ本書は実に軽々と私の期待を超えてくれた。

冒頭を飾るのは表題作「返事はいらない」。
作品から時代が平成元年であることが読み取れるが、恐らく本作に書かれている銀行のキャッシュカードによる現金引き落としのシステムはその当時からあまり変わっていないのではないだろうか?本作ではそのセキュリティの甘さが詳らかに説明され、利用者である私たちの背筋に寒気を感じさせる。

主人公の千賀子と森永夫妻が行う犯罪は偽造キャッシュカードを使った現金横領で、それに関しては新味はないものの、果たしてこれほどまでに事細かくATM(作中ではCD機と書かれているところに時代を感じる)のシステムを語った作品はないのではないか?読書量の少ない私がたまたまそのような作品に出くわしていないだけかもしれないが、大抵のミステリでは偽造カードを使った犯罪が横行している、ぐらいの記述ではないだろうか。

本作ではあくまで銀行業界に対して警鐘を鳴らすために元銀行員と女性たちが犯罪を行うが、この安易さには各金融機関に本気でセキュリティに取り組んでもらいたいと痛感した。

本作はそんな銀行の現金引き落とし機に潜む罠が際立って印象に残るが、それだけに終始した話ではなく、ストーリーテラーの宮部氏ならではの、心がどこかほっこりする話になっているのが救いだ。

最後に判明する滝口の真意は罪を憎んで人を憎まずという彼の刑事時代の主義が表れているように思った。

次の「ドルネシアへようこそ」の舞台は六本木。
駅の伝言板に誰宛てでもなく、書いた伝言に見知らぬ相手から返事がある。しかも待ち合わせ場所は今評判のディスコ。
駅の伝言板、六本木のディスコ。まさにバブル臭漂う時代を感じさせる物語だ。今ならば自分のSNSに突然送られてきたメールがモチーフになるだろうか。それと比べると漫画『シティハンター』世代の私にとって駅の伝言板の方が実に魅力あるアイテムだ。

主人公が速記士を目指す専門学校生と、決して華やかな人物でないことに加え、対照的に常に有名人が毎夜集い、毎日がパーティのような六本木という場所が実に対照的であるのに加え、ドルネシアという名前の由来がこのミスマッチに有機的に結びつくところに宮部氏の上手さを感じる。
ドン・キホーテの妄想に出てくる姫の名前がドルネシア。その実態は単なる酒場女。しかしドン・キホーテはそんな彼女に憧れの君を見出す。それは見た目はみずぼらしくても実直な篠原伸治を指しているようだ。そしてまた店のオーナーでもある守山喜子もまた。

最後の一行で温かい気分にさせてくれる筆巧者ぶりが本作でも愉しめるのはさすがだ。

「言わずにおいて」は会社でつい課長に対して暴言を吐いてしまった女性がある事故に巻き込まれる。
上司に暴言を吐いて休職中のOLが自分を誰かに間違えたがために運転していた男が目の前で死んでしまう。その誰かがどうしても気になり、探しだそうとする物語だが、その過程が実に面白い。
一介のOLが果たしてここまでできるだろうかという疑問はあるだろうが、その捜査が女性ならではの視点で繰り広げられ、私には新鮮だった。自分と見間違えた時の写真のヘアスタイルから美容院を特定する辺りは男の私にしてみれば偶然にすぎると思いがちだが、案外流行りの髪型に固執する若い女性ならば評判の美容院へ通い、それがある意味ステータスとなるのだから、決しておかしな話ではないのかもしれない。

そしてようやく辿り着いた自分とよく似た女性の部屋に置かれていた手紙。そこに書かれた一連の事件の真相よりも長崎聡美は上司が自分のことをどのように思っていたかを知ったことが嬉しかったに違いない。こういう事件の核心とは別の部分にハッとさせる要素を入れるところが宮部氏は実に巧い。

しかしそれでも冗談とはいえ、経理課の課長が長崎聡美に放った台詞は今ならばセクハラで訴えられてもおかしくない内容だ。この時代はまだこんなことが自由に云えたのだと思うとさすがに隔世の感を覚える。

宮部作品の特徴の一つに登場する少年の瑞々しさが挙げられるが「聞こえていますか」はそんな長所が存分に活きた作品だ。
引っ越した先に残された電話に盗聴器が仕掛けられていた。こんな経験をすると誰もがぞっとするだろう。
そして前の住人を調べると特高に追いかけられていた経験もある人物。もしかしてスパイだったのではと、頭のいい小学6年生の峪勉が想像をたくましくし、知り合った大学生、鬼瓦健司の助けを借りて事の真相を解明していく過程が実に面白い。
この元三井邸の周囲の住民とそしてその息子夫婦たちを結び付ける数々の糸が有機的に絡んで、ある老人の寂しい気持ちが浮かび上がってくる結末に、なんだか遣る瀬無さを感じた。
師範学校の教師をしていた三井老人が息子に厳しかったこと。勉の母と祖母の間でお互いの価値観のぶつかり合いでなかなか折り合いがつかなかったこと。それぞれの人生で築かれた価値観を崩さないがゆえに生じる衝突。

しかし敢えて離れてみると、今まで一緒にいるのが当たり前だった存在が目の前からいなくなることで逆に相手のことが見え、優しくなっていく。
この人間のある種の滑稽さが起こした行動が勉にはスパイや幽霊のように見えていく。
老人の心境の変化が関わった人、そして後の住民にも予想もしない妄想や現象を引き起こす。まさにこれこそ人間喜劇だ。

ある女性の転落死を追う「裏切らないで」ではようやく刑事が主人公となる。
巨大都市東京に生きる若者の孤独と美しくあろうと努力する女性たちの虚飾の虚しさを扱った作品だ。
多額の借金を重ねながら、高級ブランドの服とバッグ、時計に装飾品に身を固め、綺麗であることが存在意義とした長崎から夢を求めて出てきた女性は、そんな煌びやかな装飾品に包まれながらも、実の無い空虚な人間になっていた。いつしか借金も自分の金と思うようになり、そして身分不相応の持ち物を持つことが自分を表現する手段だと錯覚した女性。そんな女性の末路が歩道橋からの転落死。
彼女の身辺調査を行う刑事の一人がその女性の部屋を見て「なにもない。あるのは借金の匂いだけだ」と呟く。その大量に抱え込んだ借金こそが彼女の正体だった。

しかし外から彼女を見る人たちはそんな彼女の中身のなさに気付かず、男たちは綺麗な女性だといい、女性たちの中には異邦人みたいな女性で、ただただお金を貰い、美味しいものを食べ、着飾り、見てくれのいい仕事に就いて金持ちの男を捕まえることだけを考えている人だといい、ある女性は世間知らずの女性だったという。

しかし若くて綺麗なだけのその女性を羨む女性がいた。その女性もまたかつては彼女のように着飾り、綺麗に見せ男たちの目を惹くことを自分の生きがいだとしていた。しかし30を過ぎて男たちが見向きもしなくなったこと、週末を一人で過ごすことが多くなったことで自分はもう終わった女性だと感じる。
全ては都会のまやかし。しかしそんなまやかしから覚めきれない女性たちが数多くいる。都会の、いや東京という都市の特異性を謳った力作だ。

最後の短編の主人公も宮部氏お得意の未成年。高校一年生の男子が従姉妹の悩みを解決する顛末を描いたのが「私はついてない」だ。
高校生の僕の一人称で語られる本作は語り口もユーモラスで読んでいて楽しかった。
浪費癖のある従姉のOLを助けるために両親の指輪を貸し出したところ、それも盗まれてしまう。しかしそれにはある女性の思惑が潜んでいた。

この裏切られた感はよく解るものの、その女性が自分の役回りはそんなものだと自嘲して諦観の域に達しているのが情けない。
実は私も似たような感情を抱くことがよくあるが、それでも悪意から何らかの報復はしたりしない。それをやれば自分はもう終わりだと思うからだ。周りがどう思おうと、それでも前を向く、そんな風に考えるようにしている。

しかし女性の強かさに溢れた1編だ。玉の輿に乗りながらも、婚約者には内緒で男友達と競馬に興じ、晴れの舞台を取り繕うとする従姉、金遣いの荒い後輩にお灸を据えると見せかけて自分への悪口の仕返しを知り合いを雇ってまで行ったその先輩。しかし実は最も強かなのは最後に出てくる主人公の母親だ。

唯一ほっこりとさせられるのは主人公の彼女だ。主人公よ、既に君は彼女の掌の上で踊らされているぞ!

だから最後の一行が色んな意味合いを伴って胸に飛び込んでくる。ホント、男と女って「おかしいよね?」


いやはや脱帽。久しぶりに宮部作品を、それも短編集を読んだが、流石と云わざるを得ない。犯罪や人の妬み、嫉みという負のテーマを扱いながら、読後はどこか前向きになれる不思議な読後感を残す佳品が揃っている。

偽造カード詐欺と狂言誘拐を組み合わせた表題作、後の『火車』でも取り上げられるカード破産をテーマにした「ドルネシアへようこそ」、店の金を持ち逃げされた従業員を追ったレストラン経営者のある決意を語った「言わずにおいて」、盗聴器が仕掛けられた引っ越し先の前の住人の正体を探る「聞こえていますか」、ブランドや装飾品に自分の存在価値を見出した女性の借金まみれの生活を扱った「裏切らないで」、そして最後は借金のカタに婚約指輪を取られた従姉のために一肌脱ぐ高校生の活躍を描く「私はついてない」。
そのどれもが読後、しっとりと何かを胸に残すのである。

80年代後半から90年代に掛けて、狂乱の時代と云われたバブル時代の残滓が起こした当時の世相を映したような事件の数々。そんな世相を反映してか、6編中5編が金銭に纏わるトラブルを描いている。しかしそれらは過ぎ去った過去ではなく、今なお起きている事件でもある。

例えば表題作の偽造カード事件はもはや国際化してきており、ATMは日本に不法滞在している外国人のいいカモとなっており、同種の事件が後を絶たない。既に29年前に刊行された本書で詳らかにATMのシステムとその欠点を指摘されているのに、同様に本書に書かれている、膨大な設備投資のために金融機関の対策が後手後手になっているからだろう。
私は読んでいて他人事ではない恐ろしさを感じた。まずはATMでは絶対伝票は発行しないか、その場で捨てないようにしよう。

またクレジットカード破産や物欲に囚われた女性が多大の借金を抱えるのも現代と変わらない。現代はさらに多様化して仮想コインなども登場し、更に複雑化してきている。

しかし大量に物が溢れた時代だったことが顕著に解る。
誰もが着飾り、そして毎夜パーティーに繰り出すことをステータスにしていた時代。今でもそんな人たちはいるが、やはりバブル時代はじっとしていられない、魔力のようなものが潜んでいた時代だったのだろう。

そしてそんな時代では若さこそが武器だ。当時女性は夜な夜な出かけるための服を勝負服とか戦闘服とか表現していた。そしてもちろん同じ物を着ていては相手にバカにされるので新たに服を買い続けるしかない。しかしバブルとは云え、OLの収入は限られているから、借金が膨らむわけだ。しかしそうまでしても相手に勝たなければいけないという不文律があった。それは若さという武器があってこそだからだ。
彼女たちが周囲から持て囃される時間は実に短い。この頃の結婚適齢期は25歳前後だったそうだ。従って30を過ぎてからは見向きもされない。女性たちはそれまでに高学歴、高収入、高身長のいわゆる「三高」の相手を捕まえて結婚して幸せになるのに躍起になっていた。
こうやって書いていると実に懐かしさを覚えつつ、今になってみれば何もそこまでと思うが、それが彼女たちのステータスだったのだ。

そんな女性たちが牙を剥き、強かさを見せつけた頃の生き様が描かれている。それも宮部氏の優しさというオブラートに包まれているから、全く殺伐とした感じがしない。

返事はいらない。

これは本書の題名でありながら、冒頭に収録された短編の題名である。通常短編集の題名に選ばれる短編はその中でも最も優れた作品である場合が多いが、本書はそれに勝るとも劣らない粒揃いの短編集。そしてこの1編の短編の題名がそのまま収録作全体を通してのコンセプトのようになっている。

表題作では別れを持ち出された元恋人に対して未練を断ち切れない主人公が、自分からさよならという返事無用の言葉を元恋人に投げ掛けるために犯行の片棒を担ぐ。

「ドルネシアへようこそ」では誰に宛てるでもない駅の伝言板に残した待ち合わせ場所を記した伝言に、ある日誰かが返事を残す。それはバブルという虚飾に踊らされた女性だった。そして彼がその正体を知り、その女性を捕まえるために知らぬ間に協力をさせられたことを知った後、駅の伝言板に残されていたのは返事無用の招待の伝言。

「言わずにおいて」に出てくるのは自分を誰かと見間違って目の前で事故死した夫婦。その誰かの許に辿り着いた時に置かれていたのは一通の手紙。それは自分の探し求めていたことに対する答えと自分が暴言を吐いた上司が自分をどのように思っていたかを知らせる内容だった。それを知っただけでその女性にとって、自分の暴言に対して詫びたことに対して、上司からはそれ以上の返事はいらなかったのだ。

「聞こえていますか」では真意を知るために盗聴器を仕掛けようとしたのに、本音を聞くことが怖くて、結局できなかった1人暮らしの老人の寂しさ。厳この知りたいのに聞くのが怖いという心理は心に突き刺さる。

「裏切らないで」は返事をしたがために殺された女性がいる。返事をしなければ、彼女は生き、そしてもう一人の彼女も殺さずに済んだのに。

唯一これに反するのが最後の「私はついてない」か。主人公の僕は恋人からの返事を待っていた。そしてそれは最後に最高の形で返事が貰えるのだ。
返事はいらないというネガティヴな表現で始まり、返事が貰えた物語で閉じられるのはやはり意識してのことだろうか。

こんな出来栄えの短編集だからベストの作品が選べるわけがない。全てがそれぞれにいい味を持った短編だ。
だから敢えてベストは選ばないが、唯一刑事を主人公にした「裏切らないで」が作者がこの時代の特異性を能弁に語っているのでちょっと書いておきたい。

地方から出てきて若さを武器に借金をしながらもいい仕事に就いていい男を見つけようとしていた女性が殺される。その彼女を殺した女性は東京の北千住から引っ越してきた女性なのにそこは「東京」ではないという。当時煌びやかで華やかさを誇ったバブル時代は実際は中身のない好景気で、その正体が暴かれた途端に弾けてしまい、しばらく世の中はその後始末に追われた。そんな上っ面の時代の東京もまたメディアに創り上げられた幻に過ぎなかったのではないかと刑事は述懐する。それは彼女たちの生き方も見た目を着飾ることに終始して、やりたいことがなく、ただ「貰う」だけ、手に入れるだけを目指していた。その中に中身があるかないかも分からずに。

本書はそんな時代の、東京を映した短編集。
しかしバブル時代のそんな空虚さを謳っているのに、時代の終焉を迎え、乗り越えようとする人たちに向けての応援の作品とも取れる。
こんな作品、宮部氏以外、誰が書けると云うのだろうか?

解っている。だから勿論、この問いかけに対する「返事はいらない」。


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返事はいらない (新潮文庫)
宮部みゆき返事はいらない についてのレビュー
No.1236: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

悪魔的なほどにその痛みは深く

これは誰かの死によって生を永らえた男が、その誰かを喪った人のために戦う物語。しかしその死が自分にとって重くのしかかる業にもなる苦しみの物語でもある。

コナリーのノンシリーズ第2作はクリント・イーストウッド監督・主演で映画化もされた、現時点で最も名の知られた作品となった。

何しろ導入部が凄い。コンビニ強盗で殺された女性の心臓が移植された元FBI捜査官の許にその姉が訪れ、犯人捜しの依頼をするのである。

これほどまでに因果関係の深い依頼人がこれまでの小説でいただろうか。
もうこの設定を考え付いただけで、この物語は成功していると云えよう。

心臓を移植された元FBI捜査官テリー・マッケイレブはまだ静養中の身であるため、従来の探偵役と違い、長時間労働が出来ないのが一風変わっている。定期的検査のために病院に通い、拒絶反応が出ないように朝に18錠、晩に16錠もの薬を飲まなければならない、虚弱な探偵だ。
しかし彼にはFBI捜査官時代の人脈と明敏な頭脳、そして捜査のノウハウを熟知しているというアドバンテージがあり、停滞していた同一犯と思われるコンビニ強盗・ATM強盗の捜査を一歩一歩着実に進展させる。

しかし驚くべきはコナリーのストーリーテリングの巧さである。
例えばボッシュシリーズではこれまでパイプの中で死んでいたヴェトナム帰還兵の事件、麻薬取締班の巡査部長殺害事件、ボッシュを左遷に追いやった連続殺人犯ドールメイカー事件、そして母親が殺害された過去の事件、車のトランクで見つかったマフィアの制裁を受けたような死体の裏側に潜む事件、更にノンシリーズの『ザ・ポエット』ではポオの詩を残す“詩人”と名付けられた連続殺人鬼の事件と、それぞれの事件自体が読者の胸躍らせるようセンセーショナルなテーマを孕んでいたが、本書では心臓を移植された相手を殺害した犯人を追うというこの上ないテーマを内包していながらも、その事件自体はコンビニ強盗・ATM強盗と実にありふれたものである。
日本のどこかでも起きているような変哲もない事件でさえ、コナリーは元FBI捜査官であったマッケイレブの捜査手法を通じて、地道ながらも堅実に事件の縺れた謎を一本一本解きほぐすような面白みを展開させて読者の興味を離さない。これは即ち巷間に溢れた事件でさえ、コナリーならば面白くして見せるという自負の表れであろう。

また主人公のテリー・マッケイレブの造形も全くボッシュと異なりながら、魅力的であるところも特筆すべきだろう。
ハリー・ボッシュは事件解決に対する執着が強すぎて、違法すれすれ、もしくはほとんど違法とも云える強引な捜査で自分を辞職の危機に追いやりながらも、ハングリー精神と粘り強さ、そして事件のカギを嗅ぎつける特異な直感力で解決してきた、正直に云えば野獣性を備えたアウトローな刑事である。

一方テリー・マッケイレブはFBIで捜査のノウハウを教わり、それを実に巧く活用して事件を解決に導く誠実さが備わった男である。一方で心臓移植手術のためにリタイアし、今はTシャツと短パンで父親から譲り受けた船で暮らす、自由人的な雰囲気をも兼ね備えた好人物だ。
しかしそれでも悪人に対する底なしの憤りを備えた熱血漢であり、彼にとって事件の解決は被害者に対する敵討ちを行うものとして捉えられており、従って事件が未解決に終わると無力感に苛まれる傾向が強かった。それがゆえにストレスで心臓発作を起こした経緯がある。つまり彼もまた紳士の顔をしながらも悪に対しては人一倍強い憎しみを抱く人物なのだ。

そして2人の決定的な違いは個で戦うボッシュに対し、マッケイレブは仲間の協力を借りて戦うところにある。

ボッシュには一応ジェリー・エドガーという相棒がいるものの、副業の不動産業で定時で帰る彼を放っておいて一人で捜査するのを好む。そして平気で時間に遅れ、約束は破り、勝手に人の名前を使って私有地に立ち入ると云った無頼漢で、部下にするには願い下げの男だ。

一方テリー・マッケイレブはFBIの分析官という職業柄、規則や手順を重視し、それを逸脱することに抵抗を感じる男だ。そしてFBI時代のその堅実な仕事ぶりとその人柄から周囲の信頼も得て、退職後も彼の頼みを快く聞いてくれる仲間がいる。ロサンジェルス・カウンティ保安官事務所刑事のジェイ・ウィンストン、FBI捜査官のヴァーノン・カルターズ。更に退職後の船上生活の“隣人”バディ・ロックリッジもまた彼の人柄に魅かれて親しくなった男である。

この対照的なキャラクターを設定しつつ、またその双方を魅力的に描くコナリーの筆もまた素晴らしいと云わざるを得ないだろう。

やがて事件はただの行きずりの強盗殺人事件からマッケイレブの細かい観察によってそして不特定多数の犠牲者と思われたグロリア・トーレスとジェイムズ・コーデルに犯人がある意図を持っていたことが判明する。

更にコーデルの事件で回収された銃弾をマッケイレブの根回しでFBI独自の検索システムに掛けたことでその銃弾が重詐欺罪で有罪となった元銀行頭取ドナルド・ケニヨン殺害に使われた銃弾と一致したことが判明する。

行きずりの強盗殺人事件が、被害者に対する異常な執着心による犯罪へ、そしてそれがまた詐欺師を殺害したヒットマンと思しき人物の犯行へと繋がっていく。しかも水道会社の技師、新聞の印刷会社社員、そして多くの人の財産を奪った貯蓄貸付銀行の元頭取の殺害を結ぶ線とはいったい何なのかと俄然興味が増してくる。
このミッシング・リンクにコナリーは驚くべき答えを用意している。

さてノンシリーズと云いながらもコナリーの作品はそれまでの作品とのリンクが張られているのは周知のとおりで、本書も例外ではない。

まず出てくるのは先のノンシリーズ『ザ・ポエット』でも登場したロサンジェルス・タイムズの記者ケイシャ・ラッセルだ。彼女はマッケイレブがFBI捜査官時代に良好な関係を保ち、その縁で彼が心臓発作で倒れ、手術後の引退生活を描いたコラムを書いた間柄でもある。

さらにやはり元FBI捜査官だっただけに『ザ・ポエット』に登場した女性FBI捜査官のレイチェル・ウォリングとも一緒に仕事をしたことがあることも触れられている。その事件、オーブリー=リンという少女を含むフロリダ旅行に行ったショーウィッツ家族が惨殺される事件は彼の未解決事件の1つだ。

また評判の弁護士としてマイケル・ヘイラー・ジュニアの名前が出てくる。その父親の名前が伝説の名弁護士ミッキー・ヘイラーと紹介されるが、これは後のリンカーン弁護士ミッキー・ハラーのことだろう。
かつてボッシュシリーズの『ブラック・ハート』でもこのハラーがボッシュの父親であったことを明かされるエピソードがあったが、このノンシリーズでもその名が出てきていたとは。しかし自分で手掛けた『ブラック・ハート』ではきちんと「ハラー」と書いているのに、なぜ本書では「ヘイラー」と誤読したのか、首を傾げざるを得ない。

そしてテリー・マッケイレブが分析官として手掛けた事件の1つが『ザ・ポエット』の事件であったことも明かされる。しかし私の記憶では彼の名前はこの作品には登場しなかったように思うのだがなぁ。

それ以外にもマッケイレブが現役時代に担当していた事件名は他に「コード」、「ゾディアック」、「フルムーン」、「ブレマー」と4つある。解決・未解決を問わずにそれらの資料のコピーを持ち出したとあり、しかも本書でそのうちの1つの事件が解決する。そのことには後に触れるが、その他の事件についても今後のコナリー作品で登場するのかもしれない。記憶に留めておこう。

というのもマッケイレブの捜査に協力する保安官事務所の刑事ジェイ・ウィンストンが彼と親しくなったエピソードに彼らがチームとなって解決した連続殺人犯「墓場男」が紹介されているが、6ページで語るには非常に惜しい内容なのだ。
こういう1編の長編になり得るネタをサラッと書くと云うことはコナリーは恐らく記者時代やもしくはその時から懇意にしている警察関係者やFBI関係者からもっと面白い、長編のネタになり得る話を多く得ているように推察される。

そのことを裏付けるように元FBI捜査官であるマッケイレブの捜査内容は実に詳細に書かれている。FBIが独自で編み出した検索システムやそれぞれの捜査方法の意義と手法、例えば銃弾のデータベース、ドラッグファイアシステムや地理的交差照合と云った地図を使った犯人の絞り込み、催眠術を駆使した証言の引き出し方などが実に論理的かつ詳細に語られる―しかもそれらの描写の中に真犯人への手掛かりが隠されているというミステリ通を唸らせる演出!―。それも本当にここまで書いていいのかというぐらいに。
もしくはこれらの手法がコナリーによって詳らかにされる以上に既にFBIの捜査方法はさらに進歩して先に行っているからこそ許されているのかもしれない。

またテリー・マッケイレブを取り巻く人物たちもノンシリーズと思えないほど強烈な個性を放つ。

まずはマッケイレブの担当医ボニー・フォックス。彼の捜査復帰に反対し、自分の忠告を聞かないマッケイレブの担当を外れることを忠告する、医師としての立場を貫く強い意志の持ち主ながらも、彼の捜査の協力に一肌脱ぐ気風の良さを示す女性だ。登場回数は少ないながらも、印象に残るキャラクターだ。

手術後まもないために車を運転できないマッケイレブが運転手を依頼する、同じマリーナに停泊する「隣人」バディ・ロックリッジもなかなか面白い。
ミステリ小説好きで元FBI捜査官だったマッケイレブの過去の捜査の話が大好きな年老いたサーファーで、事あるごとに捜査のことを聞きたがる疎ましい存在ながら、要所要所でマッケイレブを助けるなど、見事なバイプレイヤーぶりを発揮する。
余談だが彼がマッケイレブを待っている際に読むのが英訳版の松本清張の『砂の器』であることに驚いた。この作品がアメリカで読まれていることが驚きだし、またそれをコナリーが知っているのもまたそうだ。そして英訳版のタイトルが『今西刑事捜査す』となんとも普通で、全然興味をそそられないのが残念。やはり邦題通り“The Vessel of Sand”とすべきだろう。

また事件の依頼者グラシエラ・リヴァーズも鮮烈な印象を残す。コナリー作品の常として主人公と関わる美女は恋に落ちるというのが定番だが、このグラシエラも例に洩れない。しかし30代前半の魅力的な女性として描かれる彼女の職業は看護婦。この男の妄想を具現化したようなヒロインはまた時にマッケイレブを出し抜くほど大胆な行動に出て、病院のシステムに入り込んで貴重な患者のデータを提供する、なかなかに心臓の太い女性でもある。

そして彼女の妹グロリアの遺児レイモンド。彼の行動でそれまで父親との思い出がないまま、優しい母親と暮らしてきた彼の境遇は、マッケイレブでなくとも守ってやりたいという気にさせられる。

またマッケイレブの良き協力者となる保安官事務所刑事のジェイ・ウィンストンと彼女と対照的に尊大で無能な刑事として描かれるエディ・アランゴもある意味忘れ難い存在だ。この2人の捜査資料の内容で刑事としての熱意をマッケイレブは読み取る。たとえ行きずりのATM強盗事件でも被害者のことを思って犯人逮捕にこぎつけようと手を尽くす前者とただの行きずりのコンビニ強盗として形だけの捜査を行う後者の資料の厚みによって。
こんな細部がそれぞれのキャラクターに血肉を与えている。

本書の原題は“Blood Work”と実にシンプルだが、これほど確信を突いている題名もないだろう。
本来血液検査を表すこの単語、作中ではFBI捜査官のうち、仕事として割り切れぬ怒りを伴う連続殺人担当部門の任務のことを「血の任務」と呼ぶことに由来を見出せるが、本質的にはマッケイレブの体内を流れる依頼人グラシエラの妹グロリアの血が促す任務と云う風に取るのが最も的確だろう。映画の題名も『ブラッド・ワーク』とこちらを採用している。

そして物語が進むにつれて、この血の繋がりが一層色濃くなっていく。

例えば手掛かりの少ない強盗殺人犯を突き止めるために、敢えて次の犯行を待つという手段があるが、それを本書では「あらたな血を必要としていた」と述べている。

そして今回全く関係のない被害者を結ぶミッシング・リンクもまた血の繋がりこそが答えなのだ。

話は変わるが、マッケイレブが父親から譲り受けた船の名前の由来について事件の依頼人のグラシエラから訊かれ、答える場面がある。この<ザ・フォローイング・シー>号という一風変わった名前は<追い波>という意味で追い波は船の背後から迫り、やがて追いつくと船にぶつかり船を沈没させてしまう。つまりそうならないために船は追い波より速く進まなければならないのだ。沈没しないようにいつも背後に気を付けろ、それがその名の由来なのだが、まさにマッケイレブはいつの間にかこの容疑者という追い波に捕まってしまう。

“Blood Work”という原題が指し示すように、まさに本書は血の物語だ。血は水よりも濃いと云われるが、これほど濃度の高い人の繋がりを知らされる物語もない。
同じ血液型という縛りでごく普通の生活をしていた人たちが突然その命を奪われる。

こんなミステリは読んだことがない!私はこの瞬間コナリーのキャラクター設定、そしてプロット作りの凄さを思い知らされた。

なんという罪深き救済だろう。今までこれほどまでに業の深い主人公がいただろうか?
我々の幸せの裏には誰かの犠牲が伴っていると云われる。しかし間接的であれ臓器移植ほど、密接に他者の不幸で成立する幸せはないのではなかろうか。

そして本書が1998年に書かれたことを私は忘れていた。それはつまり世紀末に書かれた作品であると云うことだ。
その時期に多く書かれていたのはサイコパス。世紀末と云うどこか不安を誘うこの時期にミステリ界に横行していたのが狂える殺人者による犯罪の物語。極上の捜査小説を描きながらも当時流行のサイコパス小説へと導く。

繰り返しになるが、いやはやなんとも凄い物語だった。コナリーはまたもや我々の想像を超える物語を紡いでくれた。そして何よりも凄いのは犯人へ繋がる手掛かりがきちんと提示されていることだ。
元FBI分析官だったマッケイレブは捜査に行き詰ると最初に戻り、証拠を一から検証する。そしてその過程で気付いた違和感を見つけ、新たな手掛かりとするのだが、それらが意図的に隠されているわけでもなく、読者にも明示されているのである。
つまり読者はマッケイレブと同じものを見ながら、新たな手掛かりに気付く彼の明敏さに気付くのだ。特に真犯人にマッケイレブが気付く大きな手掛かりは明らさまに提示されているのに、驚かされた。コナリー、やはり只のミステリ作家ではない。

わが心臓の痛み。数々の残酷な事件で分析官としてプロファイリングに明け暮れた彼が最初に感じた痛みは激務と人間の残虐さに耐え切れなくなって疲弊した心臓が起こした心臓発作だった。
そして術後60日しか経っていないことからあまり長く動けないマッケイレブが抱える身体的な痛みとなり、やがて愛してしまった人の妹の命を奪い、生き長らえたことを知らされた深き悲痛へと変わった。
しかしその抱えた業を振り払い、残された人生を前に進めるためにマッケイレブは犯人を自ら粛清した。そして最後に彼が感じた心臓の痛みはグラシエラとレイモンドという最愛の人たちの笑顔を見て心臓が収縮する幸せのそれへと変えた。

最後にマッケイレブがその最愛の者たちと共に向かったのは自分の生まれ故郷。そこから始める彼らの新しい生活はまた同時にテリー・マッケイレブという男の生き様の新たな船出であると期待しよう。
既に私は知っている。この深き業を抱えながらも再生した素晴らしい男と一連のコナリー・ワールドで再会できることを。

まずはそれまでマッケイレブとグラシエラに安息の日々が続くことを願ってやまない。


▼以下、ネタバレ感想
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わが心臓の痛み〈下〉 (扶桑社ミステリー)
マイクル・コナリーわが心臓の痛み についてのレビュー
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(10pt)

斯くも自由奔放に物語の世界を羽ばたく珠玉の作品集

先頃読んだ『ゴールデンボーイ』に収録された2編と合わせて『恐怖の四季』として編まれた(原題は“Different Seasons”とニュアンスが異なるのだが。正しくは本書収録の前書きに書かれている『それぞれの季節』が正しいだろう)中編集の後編に当たるのが本書。

この四季をテーマにした中編集で「秋の目覚め」と副題がつけられたのがかの有名な作品である表題作「スタンド・バイ・ミー」だ。

本作については詳細を語る意味はないほど、有名な映画で知られている内容だ。
しかし当時映画で観た時よりもキング作品を順に読んでいったことで気付かされたことがある。これはやはり今までキングが書いてきた作品の系譜に連なる作品なのだと。

キングの作品の系列の1つにロード・ノヴェルがある。それはある設定の下にただ単純に歩くだけ、走るだけ、移動するだけの作品だ。
『死のロングウォーク』や『バトルランナー』が有名だが、超大作『ザ・スタンド』も新型インフルエンザのパンデミックで大半が死に絶えたアメリカを安住の地を求めて生存者が旅をする箇所が盛り込まれていることからその系譜に連なる作品になるだろう。

そしてこの「スタンド・バイ・ミー」はそれらの系譜に連なる作品であり、実はキング作品の中ではありふれたものなのだが、その内容の瑞々しさが他の作品よりも高く評価され、抜きんでいるように思える。発表されたのは上記の作品以後だが、本書の収められた作者の前書きでは脱稿したのは2作目の『呪われた町』の後だからずいぶんと早い段階である。
ただ『死のロングウォーク』はキングが大学時代に書いた作品なので、ロードノヴェルとしては2番目に当たるだろう。まだ作家になりたてのキングのフレッシュさがここには満ち満ちている。

映画の時には細部まで気付かなかったが冒険に旅立つ4人の少年たちの境遇は決して幸せではなく、問題を抱えた家庭で強かに、そして逞しく生きる姿が描かれている。

物語の主人公であるゴーディはキング自身を投影したかのような、物語を書くのが大好きな少年で、他の3人とは違った比較的裕福な家庭の子供だ。しかし両親は次男の彼よりも学内のスターであり、軍へ新兵として入隊した兄デニスに関心を大いに抱いていたが事故で亡くなったことにショックを受け、それ以来茫然自失の毎日を送り、「見えない子」になってしまっている。

4人のうち、最もゴーディと親しいクリスは頭がいいが、乱暴で飲んだくれの父親に殴られる毎日を送っており、2人の兄は町で札付きの不良として有名で、彼らが酒を飲んで狂暴になるのを目の当たりにしているがゆえに、酒を飲むことを頑なに恐れている。

眼鏡をかけたテディはどこかネジの外れた大胆さと口の悪さを誇るが、第2次大戦から帰ってきた父親にストーブに10回側頭部を打ち付けられたせいで耳が爛れ、補聴器無しでは聞こえなくなってしまっている。目は自然に悪くなったがほとんど見えないらしく、それなのにいつも度胸試しのため、道路の真ん中に立ってギリギリ当たるか当たらないかのスリルを味わうゲームに興じている。そして彼は自分にひどい仕打ちをした父親をノルマンディ上陸を果たした兵士として尊敬し、彼の送られた精神病院に定期的に母親と見舞いに行っている。

彼ら3人に死体を見に行く旅を持ち掛けたバーンもまた兄が町で有名な札付きの不良で、彼らはクリスの兄たちとつるんでは悪いことをやって幅を利かせている。しかし彼は兄と違って弱虫で、それを知られているにも関わらずタフを装っている。

そんな愛すべきバカたちの冒険はかつて少年であった私たちの心をくすぐり、離さない。映画も名作だったが、原作の小説もまた名作であることを認識した。

本作は誰もが一度は経験する大人になるための通過儀礼として描かれているのもまた読者の胸を打つ。
少年・少女から大人の階段を登り始めるために訪れる大きな変化。それがゴーディ、クリス、テディ、バーンにとって死体を見に行くことだったのだ。

私も子供の頃に経験したある思いがここには再現されている。案外子供たちは大人たちの知らない間に大人になっているということに。
子供たちだけの冒険は彼らを自然と精神的に成長させる。そして時に思いもかけないことを話したりするのだ。

クリスはゴーディに自分たち3人とは別のクラスに進んで真っ当な人生を歩めと告げる。クリスは旅の途中で話してくれたゴーディのパイ早食い事件の創作物語を聞き、いつか訪れる友との別れを今回の旅で悟ったのだ。

クリスが死体を見つけ、そして不良たちに立ち向かいながらも無事に済んだことを評して「おれたちはやった」という。
しかしその言葉から感じた意味はそれぞれで違っていた。それは彼らにとって少年期の終わりを示すことになったのだろう。

そして本作には映画にはなかった“その後”が描かれているのも興味深い。

とにかく色々な思いが胸に迫る物語である。後ほどまた本作については語ることにするが、何よりも本作が自分にとってかけがえのない人生の煌めきのようなものを与えてくれた作品になった。

最後の冬は「マンハッタンの奇譚クラブ」。マンハッタンの一角にあるビルで知る人のみ参加できる紳士のクラブの物語。

いやあ、なんとも云えない、物凄いものを読んだという思いがひしひしと込み上げてくる作品だ。
マンハッタンの一角のビルで毎夜開かれているクラブでは会員の誰かがいつの間にか煖炉の前に集まり、話をし始める。自らの戦争体験や若かりし頃に出くわした驚きの事件など。弁護士の1人はある日血塗れになった上院議員が狂ったように上司を呼び出すよう指示してきたという、いかにもありそうな非常時の物語から女子教師が移動式トイレに嵌って出られなくなり、そのまま運ばれてしまうと云った笑い話まで様々だ。

そして主人公がクラブに通うようになって10年経ったとき、古参の常連が初めて皆の前で話を披露する。その話とは医者である彼が若かりし頃に出逢った若く美しい妊婦の話だった。

今ではシングルマザーに対する理解は深まったものの、物語の舞台となる1935年ではそれは教義、道徳、倫理に反した不浄の者として蔑まされていた時代だ。そんな厳しい時代に遭って、マキャロンの前に現れたサンドラ・スタンスフィールドは毅然とした態度で左の薬指に指輪がないことを隠さず、彼に出産の協力をお願いする。
俳優を目指してニューヨークに出てきた彼女は演技教室で知り合った男性と関係を持ち、妊娠が発覚した途端、相手の男が去ってしまう境遇に置かれた。しかしそれでもなお自身の赤ん坊を産むことを決意した彼女の強さにマキャロンは女性としても魅かれながら、人間として魅かれていく。そしてマキャロンはまだ当時一般的でなかった独自の出産法をサンドラに勧める。そのうちの1つが今ではラマーズ法と呼ばれる呼吸法だった。
しかし彼女に訪れたのは悲劇だった。

陣痛が始まったクリスマス・イヴで雪の降りしきる中、病院の外で出産をするシーンは今まで私が読んできたどの物語よりも想像を超えた、凄まじく、そして感動的な場面だった。

収録された4編の中で比較的無名の存在だった本編も他の3編に負けない物語の強さを誇っている。
それは奇跡というには凄惨で、母の生まれてくる子供に対する力強い愛情の物語というには悲愴すぎる。クリスマス・イヴに誕生した赤ちゃんの物語としてはこれ以上の物はないだろう。
こんな状況で生まれながら、健在であるハリソンという苗字だけ解る人物のことを私は胸に刻んでおこうと思う。今後のキング作品に出てくることを期待して。

更にこのクラブとしか称せない富裕層の老人たちの憩いの場所も不気味な不思議に満ちている。どこの図書館にもなく、また文学名鑑にも記載されていない作品や作家の作品が多く収められ、そのどれもが傑作。そんな夢のような空間で語られるのはこれまた百戦錬磨の老人たちによる、夢にまで出てくるような印象深い話。
最後に語り手のデイビッド・アドリーが世話役のスティーヴンスにそれらの秘密を尋ねるが、彼は世話役の表情を見て踏み留まる。
彼が代わりに聞くのは他にも部屋はたくさんあるのかという問い。その問いにそれはもう迷ってしまうほどたくさんあると世話役は答える。そして最後にここにはいつも物語があるとスティーヴンスは答えるのだった。

世話役スティーヴンスはその名前が示す通り、スティーヴン・キングその人であり、クラブ自体がキングの頭の中を指しているのだろう。
彼の頭の中はいつでも物語が詰まっている。それもこの話で語られた老いた医者が語るような、読者の想像を超えた恐怖とも感動とも取れるまだ読んだことのない極上の物語が、いつでもそのペン先から迸るのを今か今かと待ち受けているかのように。


『恐怖の四季』後半はかの有名な映画『スタンド・バイ・ミー』の原作が収められている。しかし本書の題名に冠せられている作品が映画化され、大ヒットを記録したため、日本ではこちらが先に刊行されたことでこの秋・冬編がVol.1とされており、収録順が前後している。

従って本来前半部に当たる『ゴールデンボーイ』に収録されるべきであろうキング自身の前書き「はじめに」が本書に収録されており、なんとも奇妙な感じを受ける。
なお本書は1985年3月に刊行されており―私が手にしたのは50刷目!―、『ゴールデンボーイ』はちょうど1年遅れの1986年3月に刊行されているから、当時の読者はなかなか刊行されないこの前書きに既に書かれている2編を待ち遠しく思ったことだろう。
この前書きには既に『ゴールデンボーイ』に収録されている2編の、原題とは大いに異なる邦題にて触れられているが、これは同書が刊行されてから修正されたのかは寡聞にして知らない。

さてその前書きには本書の成り立ちが書かれている。これはやはり前半の『ゴールデンボーイ』を読む前に読みたかった。
ここに収録された作品群はキングが長編を脱稿した後にその勢いのまま書かれた作品で、順番としては「スタンド・バイ・ミー」(長編2作目『呪われた町』の直後)、「ゴールデンボーイ」(長編3作目『シャイニング』の2週間後)、「刑務所のリタ・ヘイワース」(キング名義長編5作目『デッド・ゾーン』直後)、「マンハッタンの奇譚クラブ」(キング名義長編6作目『ファイアスターター』の直後)となっている。
正直、上に挙げた長編のどれもが日本では上下巻で1,000ページ以上もあろうかと思える作品ばかりの後にこれらの中編が書かれたことが驚きだ。
いや逆にこれほどの長編を書くと、頭の中に色んな物語が生まれ、それらを物語の構成、進行上、泣く泣く削除しなければならなくなった話、もしくは副産物として生まれた物語が出来たために、それらが消えてしまわないうちに書き留めようとしたのがこれらの産物なのだろう。

そしてこれらはキング自身が語るように、彼の専売特許であるモダンホラーばかりではなく、ヒューマンドラマや自叙伝的な作品もあり、また1冊の本として刊行するには短編には長すぎ、長編としては短すぎる―個人的には300ページを超える「ゴールデンボーイ」と「スタンド・バイ・ミー」は日本では1冊の長編小説として刊行しても申し分ないと思うが―ために、この―当時の―キングにとって扱いにくい“中編”たちを1冊に纏めて、その纏まりのなさを逆手に取って“Different Seasons”と銘打ってヴァラエティに富んだ中編集として編まれたのが本書刊行の経緯であることが語られている。

そして4作品中3作品が映像化され、しかも大ヒットをしていることから、本書は結果的に大成功を収めた。そしてその作品の多様さが“キング=モダンホラー”のレッテルを覆し、むしろその作風の幅の広さを知らしめることになった。

小説に原作のある映画は元ネタの小説を読んでから観るのが私の性分だが、1986年に公開された映画はさすがにそちらが先。私は劇場でなく確かビデオを借りて観たので中学生か高校生ぐらいだったように思う。その時、出演していた少年たちは当時の私よりもちょっとだけ年下だったが、タバコを吸って女の子の話に興じる彼らは私よりも大人びて観えたものだ。その内容は私にとって鮮烈であり、今回の読書はその映画の画像を追体験するように読んだ。

もう30年近く前に見た映画なのに、本作を読むことで鮮明に画像が蘇ってくる。
犬に追いかけられて必死に逃げるゴーディの姿。
鉄橋を渡っている時に現れた列車から轢かれまいと死に物狂いで逃げる2人の少年たち。
後に小説家となるゴーディが語るパイ食い競争の創作物語の一部始終。
池に入ってたくさんのヒルに咬まれ、更にゴーディは股間にヒルが吸い付いて卒倒する。
ゴーディが心底心を許すクリスが自分がとんでもない家族に生まれついたことで将来を儚み、ゴーディに未来を託すシーン。
そして町の不良たちと死体の第一発見者の権利を賭けて対決する場面、などなど。
それらは映像で見たシチュエーションと全く同じであったり、細かい部分で違ったりしながらも脳裏に映し出されてくる。当時観た時もいい映画だと思ったが、今回改めて読み直して自分の心にこれほどまでに強く焼き付いていることを思い知らされた。

開巻後にまず驚いたのはその原題だ。邦題の「スタンド・バイ・ミー」に添えられた原題は“The Body(死体)”と実に素っ気ない。このあまりに有名な題名は実は映画化の際につけられたものだった。この題名と共にリバイバルヒットとなったベン・E・キングの名曲“Stand By Me”がどうしても頭に浮かんでしまい、読書中もずっと映像と曲が流れていた。それほど音と画像のイメージが鮮烈なこの作品の映画化はキング作品の中でも最も成功した映画化作品として評されているのも納得できる。

そして映画の題名こそが本作に相応しいと強く思わされた。
“友よ、いつまでもそばにいてくれ”。
それは誰もが願い、そして叶わぬ哀しい事実だから胸に響く。別れを重ねることが大人になることだからだ。そんな悲痛な願いが本書には込められている。
だからこそ本書では12歳の夏の時の友人が最も得難いものだったことを強調するのだろう。

もう1編の「冬の物語」と副題のつく「マンハッタンの奇譚クラブ」は紹介者だけが参加できるマンハッタンの一角にあるビルで毎夜行われる集まりの話。そこは主に老境に差し掛かった年輩たちが毎夜煖炉に集まって1人が話す物語を聞く、云わばキング版「黒後家蜘蛛の会」とも云える作品だ。
『ゴールデンボーイ』の感想に書いたように、この『恐怖の四季』と称された中編集に収められた作品のうち、唯一映像化されていないのがこの作品だが、だからと云って他の3作と比べて劣るわけではなく、むしろ映像化されてもおかしくない物凄い物語だ。

それは今まで物語を語らなかった男が語る昔出逢った若き美しき妊婦の話。1935年当時ではまだ知られていなかったラマーズ法と呼ばれる呼吸法を教えたがゆえに招いた悲劇の物語。ちなみに原題はこの呼吸法がタイトルになっている。

その美貌ゆえに俳優を目指しニューヨークに出てきたものの、右も左も解らない大都会で生きるために演技教室で知り合った男性と肉体関係を持ったがために夢を断念し、シングルマザーの道を歩まなければならなくなったある女性の話だ。この実にありふれた話をキングはその稀有な才能で鮮明に記憶される強烈な物語に変えていく。

自分のボキャブラリーの貧弱さを承知で書くならば、少なくとも10年間は何も語らなかった男がとうとう自分から話をすると切り出しただけに、読者の期待はそれはさぞかし凄い物語だろうと期待しているところに、本当に凄い物語を語り、読者を戦慄し、そして感動させるキングが途轍もなく凄い物語作家であることを改めて悟らされることが凄いのだ。

そして2012年にはこの最後の1編も映画化されるとの知らせがあったが、2020年現在実現していない。
「ゴールデンボーイ」は未見だが、残りの2作の映画は私にとって忘れ得ぬ名作である。もし実現するならばそれら名作に比肩する物を作ってほしいと強く願うばかりだ。

さて前作でも述べた他のキング作品へのリンクだが、まず私が驚いたのは「スタンド・バイ・ミー」の舞台がかのキャッスル・ロックだった点だ。
前半の「刑務所のリタ・ヘイワース」に登場したレッドも関係しているが、やはり何よりも『デッド・ゾーン』や『クージョ』の舞台にもなった町で、作中でも狂犬のクージョについて触れられている。
そして町のごろつき達が行き着く先はショーシャンク刑務所―本書では“ショウシャンク”と綴られている―と先の短編へと繋がる。キャッスル・ロックはキング自身を彷彿とさせるゴードン・ラチャンスが住んでいる町でもあり、キングにとってのライツヴィルのような町であるかのようだ。

春と夏、秋と冬。
それぞれ2つの季節に分冊された2冊の中編集はそれぞれの物語が陰と陽と対を成す構成となっている。
春を司る「刑務所のリタ・ヘイワース」と秋を司る「スタンド・バイ・ミー」が陽ならば、夏を司る「ゴールデンボーイ」と冬を司る「マンハッタンの奇譚クラブ」が陰の物語となる。それは中間期は優しさの訪れであるならば極端に暑さ寒さに振り切れる季節は人を狂わす怖さを持っているといったキングの心象風景なのだろうか。

そして各編に共通するのは全てが昔語り、つまり回想で成り立っていることだ。キング本人を彷彿させる小説家ゴードン・ラチャンスを除き、残り3編は全て老人の回想である。それはつまりヴェトナム戦争が終わった後のアメリカが失ったワンダーを懐かしむかの如くである。
田舎の一刑務所で起きたある男の奇蹟の脱走劇、元ナチスの将校だった老人の当時の生々しい所業、少年期の終わりを迎えた12歳のある冒険の話、そしてまだ若かりし頃に出逢ったある妊婦の哀しい物語。それらは形はどうあれ、瑞々しさを伴っている。

本書の冒頭に掲げられた一文“語る者ではなく、語られる話こそ”は最後の1編「マンハッタンの奇譚クラブ」に登場するクラブの煖炉のかなめ石に刻まれた一文である。

この一文に本書の本質があると云っていいだろう。モダンホラーの巨匠と称されるキング自身が語る者とすれば、本書はそんな枠組みを度外視した語られる話だ。

つまりキングが書いているのはホラーではなく、ワンダーなのだ。
キングはモダンホラー作家と云うレッテルから解き放たれた時、斯くも自由奔放に物語の世界を羽ばたけるのだと証明した、これはそんな珠玉の作品集である。

春夏秋冬、キングの歳時記とも呼べる本書は『ゴールデンボーイ』と併せて私にとってかけがえない作品となった。
永遠のベストの1冊をこの歳になって見つけられたキングとの出逢いを素直に寿ぎたい。


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スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)
No.1234: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(3pt)

古典ミステリを躊躇なくネタバレする要注意ミステリ!

折原一氏のデビュー作『七つの棺』(デビュー時は『五つの棺』)のシリーズキャラ黒星警部の『鬼面村の殺人』に続く長編第2弾が本書。但し次作の『丹波家殺人事件』を先に読んでいるので私にとっては長編3作目に当たる。
本格ミステリ好きが高じて密室好きになり、どんな事件も密室に結びつけてしまう変わり者の警部が主人公とあってやはり今回も密室殺人事件がテーマになっている。しかも横須賀の沖に浮かぶ猿島に唯一ある西洋風住居、猿島館で起きた密室殺人事件だ。

まず第1の密室殺人は館の主人猿谷藤吉郎が自身の書斎で額を割られて絶命する事件。部屋は内側から鍵が掛かっており、唯一部屋から行き来できるのは部屋にある暖炉の煙突のみで、それも小柄な人間しかできない。そして死に際に主人は「猿が殺した」と云い遺して絶命する。

第2の殺人は密室では無いが、第3の殺人は密室状態の同じ書斎で2人の男、藤吉郎の息子誠一と不動産屋の水野がショック死する事件。藤吉郎の遺言状を探すため、書斎に鍵を掛けて籠っていた2人。目立った外傷もない死体だったが、暖炉にはとぐろを巻いたマムシが2匹いた。どうやら2人はマムシに咬まれて絶命したようだった。

これらの内容から連想するのはある有名なミステリ作品だ。これについては後ほど述べることにしよう。

この黒星警部シリーズはカッパノベルスから刊行されたシリーズであり、当時のカッパノベルスが駅のキオスクにも置かれ、出張もしくは長時間通勤のサラリーマンや普段ミステリを読まない大人の旅行のお供という色合いが濃いことから、折原氏も自覚的に書いているように感じる。
ただ他の本格ミステリ作家に比べて年輩の折原氏は自身サラリーマン生活を送っているだけに、それらの読み物に多生のお色気があった方がいいと思っている節があり、本書でも遠慮なくヒロインの葉山虹子のヌードが何度となくお披露目される。さらに本書では虹子がお世話になる猿島館の主人猿谷藤吉郎が美女好きの好色家として描かれており、自身の書いたポルノ小説が登場したり、また酔っ払った虹子があわや藤吉郎に襲われそうになったりと、色物の要素が以前にも増して導入されている。前作比1.5倍程度にはあるのではないだろうか。
まあ、『鬼面村の殺人』を読んだ時は学生であったが既に私も40代になっているので読者のターゲットに入っているので、1作目を読んだ時よりは寛容に受け止めることが出来たのだが、果たしてこのサーヴィスは必要かなとこの歳になっても違和感は多少覚えたことを正直に云っておこう。

また折原一氏と云えば叙述トリックの雄として知られているが、翻ってこの黒星警部シリーズは密室物ミステリを扱う、本格ミステリど真ん中の設定である。上に書いたように本書もまた密室ミステリであるが、以前より作者は新しい密室ミステリは生まれず、これからは過去のトリックをアレンジした物でしかないと公言しており、密室物を売りにしたこのシリーズではいわゆる過去の名作ミステリの本歌取りが大きな特徴となっている。

先にちらっと触れたが、本書ではまずポオの「モルグ街の殺人」がメインモチーフになっているが、その後もドイルの「まだらの紐」をモチーフにした密室殺人が起きるなど、複合的に過去のミステリのトリックがアレンジされて導入されている。

しかしさすがに3作目ともなると作者もこの設定自体にミスディレクションを仕掛けており、上に掲げたミステリをモチーフにしながら、実はもう1つクイーンの名作の本歌取りでもあったことが最終章で明かされる。1作目はクイーンの中編「神の灯」であったことを考えるとやはりこの作者は根っからのクイーン好きらしい。

しかしこの過去の名作ミステリから本歌取りすることを明言し、そこから新たなミステリを生み出すことに対しては異論はないのだが、黒星警部シリーズの一番困ったところは本歌取りした原典のトリックや犯人を明らさまにばらしていることだ。

本書でもいきなり「モルグ街の殺人」の犯人を明かし、更に「まだらの紐」のトリックも躊躇いもなく明かしているし、更には上に書いたクイーンの原典についても伏字ではあるが、伏字の意味がないほど明確に書かれている。また前作『鬼面村の殺人』でも「神の灯」のトリックを図解で説明している。

これらは恐らくあまりにも有名過ぎて本書の読むミステリ読者ならば既知の物だろうと作者自身が判断した上の記述だろうが、やはりどんな判断に基づこうがミステリのネタバレは厳禁である。特に他のミステリのネタバレを公然とすることに大いに抵抗を感じるのだ。

現代のミステリ読者は島田荘司氏の作品や新本格と呼ばれる綾辻氏の作品以降のミステリから触れることが多く、過去の名作、特に黄金期の海外ミステリを読まない傾向にあると云われて久しい。そんな背景も考慮して折原氏は今の読者が読まないであろう過去のミステリのネタバレをしているのかもしれないが、それでもやはりそれはミステリを書く者が読者に対して決して犯してはいけない不文律であると私は強く思うのである。
特にこの黒星警部シリーズは上に書いたようにカッパノベルスから刊行されたサラリーマンがキオスクで気軽に出張中に読むような類いのものであるから、そんな一般読者にさえネタバレをしているのである。

本歌取りをすることに是非はない。しかしその内容に問題がある。ネタバレをするのであれば、まずはその断りを書くべきだし、いやもしくはネタ元を明かす必要もないのではないかと思う。解る人には解ればいいのであって、別に明確にネタ元を示す必要もないと思う。

恐らく作者は無類の密室好きという黒星警部のキャラを際立たせるために、すぐに事件が起これば彼が耽溺している過去の密室ミステリに擬えることを強調するがために明らさまにネタ元を書いているのだと思うが―あとは作者自身がそうしたがっているか―、それも例えば“密室ミステリ好きな黒星警部は事件の状況からある有名な密室ミステリを思い起こしたが”とか作者の名前まで出して作品まで言及しないとか、そういった配慮をすべきであると私は考える。

そしてそんな私の不満を見越していたかのように本書の真相はこれらミステリ好きの志向が作用したものとなっている。

ただ原典ほど鮮やかであるかどうかはまた別の話なのだが。従って副題のモンキー・パズルもパズルと云うほどロジックを愉しめたかというと微妙なところだ。

ミステリのネタバレを事件の真相に組み込んでいることからも折原氏自身もネタバレに対して激しい抵抗感と嫌悪を示すミステリファンの心理が解っているはずである。であるにも関わらず、このシリーズで思い切りネタバレをするところに作者の創作姿勢に疑問を強く覚えてしまう。

あと最後にそもそも埼玉県白岡署の黒星警部が神奈川県の江の島動物園から逃げたチンパンジーを探す担当になることが実におかしい。
神奈川県警の所轄なのになぜ埼玉県の警部が担当するのか?
書中では白岡には東武動物公園があるからと理由になっていない理由で駆り出されているが。この辺の非現実的な設定も気になった。現在のミステリならば必ず突っ込まれるところだろう。

さて本書の舞台となった猿島は実は実際に存在し、刊行時は無人島で大蔵省(刊行当時)関東財務局の管理地であり、立入禁止で渡し船もないと書かれているが、実は今では猿島公園として開放されている。最近は昔の軍の要所の史跡としてよりもジブリ作品の『天空の城ラピュタ』を彷彿とさせる風景として人気のスポットとなっており、案外今回の葉山虹子の取材は時代を先駆けた現実味のある話だったようだ。
また本書に書かれている猿島の由来となった日蓮に纏わる伝説も実際に伝えられており、元宮司の一族だった猿谷家のような血筋もどこかにいるかもしれないと、案外荒唐無稽な話でないところが面白い。

本当に久々の黒星警部シリーズだったが、本格ミステリ風味はさほど感じられないものの、この密室好きの巨躯の警部とお色気担当の葉山虹子のコンビはちょっと時代遅れの感があるにせよ、改めて読むと独特の味わいがある。本書では2人がお互いに悪く思っていないような節も見受けられ、今後2人がくっつくのかというミーハー的な面白さも孕んでいるようだ。

とはいえ、本書が刊行されたのが1990年ともう30年も前であることが驚きで、自分の積読本の多さを再認識し、我ながら呆れてしまった。
しばらくはこんなペースなのだろうが、シリーズ読破は生きているうちに果たしていきたいと思わされた作品だった。

但し次回からはネタバレ無しでお願いしたいものだ。


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猿島館の殺人―モンキー・パズル (光文社文庫)
折原一猿島館の殺人 についてのレビュー
No.1233:
(7pt)
【ネタバレかも!?】 (2件の連絡あり)[]   ネタバレを表示する

歪みに歪んだ兄弟の戦い

これは喪った物を取り戻そうとして奪った男と、奪われた物を取り戻そうとして奮闘し、奪還したが、喪った物までは取り戻せなかった男たちの、哀しき兄弟の話だ。

ランボーと云う戦闘マシーンのような主人公、CIA捜査官、暗殺組織・秘密結社の工作員と常人よりも戦闘に長けた能力を持つ、映像向きな主人公を添えることが多いマレルだが、本書の主人公ブラッド・デニングは一介の建築家。アウトドアもしたこともなければ銃も撃ったこともない、ごく普通の妻子持ちの男である。
そんな男が家族を奪った男に家族の奪還と復讐を誓うのが本書だ。しかもその相手は実の弟となかなかツイストの効いた設定である。

小さい頃、野球を友達としに行くのについてくるのを鬱陶しいと思ったことで追い返した弟がそのまま何者かによってさらわれてしまうという、悔いの残る傷を心に負った男ブラッド。しかしその彼は建築家になり、自分の設計した家がテレビ番組で紹介されたことでその弟と数十年ぶりに再会する。

その空白の時間を埋め合わせるために彼とその妻と息子との心温まる交流が実に眩しい。そしてそんな不遇の時代を過ごした弟ピーティも自らの境遇によって心を病んでいる様子でもなく、むしろどんな状況をも愉しむかのような磊落な性格を見せ、ブラッドの息子ジェイソンの良き遊び相手にもなっていた。

そんなごく普通の家庭に新たに加わった家族との微笑ましいエピソードが続く中、突然災厄が訪れる。
この反転は正直かなり衝撃的だった。裏表紙の紹介文を読まなかったらもっと驚いていただろう。

神隠しに遭っていた弟が数十年ぶりに出逢ったら復讐者となっていた。
この設定だけでも衝撃的なのに、マレルはさらに物語にツイストを仕掛ける。即ちブラッドが弟と思っていた男は実はレスター・ダントという犯罪常習者だったという物だ。
しかしブラッドは自分がテレビに出た時に失踪した弟のことを紹介されたがために数多くの嘘つき電話に悩まされていたが、そんな不埒な輩とは違う、弟しか知り得なかった情報を知っていたことでそれを容易に信じない。写真がレスターであることや周囲の人間がそれを証言しようとも頑なに信じず、弟の仕業であると固執する。それは赤の他人の犯罪者ならば連れ去った妻と子供が邪魔になって容赦なく殺害することを恐れていたからだ。まだ妻子が生きていることを信じるために彼は誘拐者の男を弟と信じるのだ。

FBIと警察による捜査が捗々しくなくなり、そして捜査チームが解散して事件から1年経ったときにブラッドはようやく自分で犯人を、弟と妻子を探すことを決意する。自分の経営する会社を畳み、フィットネスクラブで体を鍛え、射撃の教室に通って銃の腕を磨き、護身術のクラスにも通う。そして腕利きの元FBI捜査官の探偵に捜査術と偽りの身分を手に入れる方法を学ぶ。

通常ならばその件は一介の建築家が凄腕の復讐者に生まれ変わるシーンだが、マレルは意外にあっさりと描く。ほんの20ページにも満たない。従って読者はブラッドが生まれ変わったようには思えないのだ。

それを裏付けるかのようにブラッドのその後の捜索もどこか空回りしているように思える。犯人が弟のピーティであることを想定して当時の足取りを探るのだが、それも彼が弟に成り切ったように振る舞って自分の考えで進むだけである。
そこには何の根拠もなく、現場に漂う雰囲気で、もし自分が弟だったらそうしたであろうという薄弱な根拠で突き進むだけなのだ。

おまけに否定していたレスターの存在も意識し、彼の生家のある町に向かう。それはブラッドが弟と生まれ育ったオハイオ州の町の近くであったことから立ち寄ることにするのだが、そこで昔のことに詳しい神父に聞かされるダント家の異常な家庭環境が目を惹く。


このレスター・ダントのおぞましい過去もかなり衝撃的だが、この一見単なる回り道と思われたエピソードが実は意外な物語に意外な展開をもたらす。

物語の結末は苦い。

数十年ぶりに行方知れずとなった実の弟を家族の一員として温かく迎えたブラッドとその妻と息子の末路がこれほどまでに悲惨な変容を遂げたことがなんとも哀しい。

またピーティを無くしたデニング一家も、ブラッドの父親が酒浸りになって会社を首になり、交通事故で亡くなり、母親と2人になったブラッドは他の市へ引っ越して小さなアパートで暮らすようになる。毎年失踪者の絶えないアメリカではこんな悲劇が幾度も繰り返されているのかもしれない。

しかしこのような話を読むと、子供の頃の何気ない弟への仕打ちが起こした代償の重さを感じてしまう。こんなことが起こり得るアメリカの治安の悪さが恐ろしく感じる物語だった。

さて本書は2002年の作品で1972年にデビューしたマレル作品では後期に当たる。その頃の作品に該当するのは本書の2作前が『ダブルイメージ』で本書の次の作品が『廃墟ホテル』とどちらも奇妙な展開を見せる異色の作品なのだ。

『ダブルイメージ』も何が本当の敵かがなかなか解らない、一言で云い表せない非常に特異な作品であったが、『廃墟ホテル』はマレルにとっては全くの異色作でありながら、実に面白い作品であった。

主人公が凄腕のエージェントや元軍人でもない一介の建築家であることも『ダブルイメージ』の主人公が同じく一介のカメラマンであることに通ずるものがある。

この意外に一筋縄でいかないマレル作品、久しぶりに読むと他の作家では味わえない奇妙な味わいがある。
既に彼の作品が訳出されなくなって久しいが、この独自のテイストは年一冊のペースで読むとなかなか面白く感じる。特に後期の『廃墟ホテル』、奇妙な味の短編集『真夜中に捨てられた靴』などは『このミス』にランクインするほど再評価の気運が高まっていただけにこのブランクはさみしい限りである。
『苦悩のオレンジ、狂気のブルー』をまずは文庫化してほしいとしつこく述べてこの感想を終えよう。


▼以下、ネタバレ感想
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ブラッド/孤独な反撃 (ハヤカワ文庫NV)
No.1232: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

キング版枕草子

『恐怖の四季』と題して春夏秋冬それぞれの季節をテーマにキングが綴った中編集が春夏編と秋冬編の2分冊で刊行された。本書はそのうちの前編に当たる春夏編である。

冒頭を飾るのは『ショーシャンクの空に』(傑作!)として映画化された「刑務所のリタ・ヘイワース」だ。
あまりにも映画が有名なため、そして私がベストの映画の1つとして挙げることもあって、物語は既に解っていたが、改めて読むとアンディーというエリートと調達屋のレッド2人の囚人の友情がなんとも眩しい。
妻と愛人殺しの冤罪に問われ、刑務所に入れられることになった元銀行の副頭取のアンディー・デュフレーン。入所したのが1948年。そして脱獄して出所するのが1975年だから、何と28年間も囚人生活を強いられていたことになる。
いつも穏やかな笑みを浮かべ、ほど良い距離感を保って囚人たちと接する彼は、刑務所名物の男色家たちの的になりながらも必死で抵抗し、やがて看守を味方につけることで完全に自分の身を護ることに成功する。
そんな彼の囚人生活を刑務所特有の異様な文化や風習、そして劣悪な環境で行われる囚人たちへの惨たらしい仕打ちなどが折に触れて挟まれながら、180ページもの分量を費やして語られる。
1人の男が入所して28年後に脱獄するまでの刑務所生活を語るキングの筆致は、舞台が固定されているにも関わらず、全く退屈せずに読み進めさせられる。魅力的な登場人物と刑務所と云う特異な空間。このたった2つのアイテムでぐいぐい読者を引っ張る。囚人たちに纏わる色んなエピソードを絡め、停滞しがちな話に見事に抑揚をつけて飽きさせない。
アンディーが刑務所に入れられることになった裁判の一部始終、彼がレッドと知り合う顛末。彼が刑務所内でひとかどの人物として成り上がっていく劇的な事件とその過程、更にそれまで常に泰然自若としていた彼が自分が冤罪となった事件の真犯人を知ることで取り乱し、手に入れた刑務所内の安定生活を失っていく様、そしていつか出所した時にメキシコの海沿いの町で小さなホテルを建てて過ごす夢を語り、その夢にレッドを誘うエピソード、そして訪れる脱獄の日。
アンディーの過ごした28年が彼の親しいムショ友達だったレッドの手記の形で語られていく様は不器用ながらも味わいがある。
アンディーの28年は常に理不尽と絶望との戦いだったことだろう。若くして銀行の副頭取にまで登り詰めたエリートが図らずも冤罪によって刑務所に入れられてしまう。自分の無実を信じながらもささくれだった劣悪な環境下でも自分を保っていた彼が、なぜ自分を見失ずにいられたかが脱獄方法1つで腑に落ちていく辺りはキングが物語巧者であることを感じずにはいられない。
しかし自分の信念だけがアンディーの精神的支柱だったわけではない。やはりレッドの存在もまた彼が彼であり続けるために必要不可欠だっただろう。
最初は恐らくただの何でも調達屋で、自分の脱獄を実現するために利用しただけかもしれない。しかしやがてレッドはアンディーの中で存在感を増していったことだろう。
人間、なかなか自分の胸に秘める思いを隠してはおけないものだ。それも20年以上となれば尚更だ。そんなアンディーが唯一心を許し、夢をも語ることを許したのがレッドだったのだ。この2人の男の友情物語のなんと美しいことか。なかなか余韻が冷めない。

夏を司る次の表題作「ゴールデンボーイ」もまた映画化された作品だ。私は未見だが旧ナチスの老人と少年の異常な交流を扱った作品というのだけは知っている。
元ナチスの老人と少年の奇妙な交流を描いた作品だ。ひょんなことから第2次大戦中のナチスが行った数々の所業に興味を持った少年トッド・ボウデンが偶然町で見かけた老人が戦争実話雑誌に掲載されていた写真に写っていたアウシュビッツ収容所の副所長クルト・ドゥサンダーであることに気付き、警察に通報しない代わりにナチス時代の話を話すよう強要する。
老人にとってナチス時代は悪夢であり、彼自身世界中をユダヤ人の追手から逃れてきた末に今のアメリカのカリフォルニアの町サント・ドナートに辿り着き、株の配当金で細々と隠遁生活を送っていたところだった。しかしやがて老人も自分の過去を話すことでかつて収容所の副所長として鳴らした威厳が蘇ってくるようになる。その引き鉄となったのがドットが興味本位で持ってきたレプリカのSSの制服を着せられたときだった。
やがてドットも老人の戦争時代の話に没入するにつれ、悪夢を見るようになり、勉強に集中できなくなり、瞬く間に成績が下がっていく。それをもはやかつて数多くのユダヤ人やドイツの同胞を見てきたドゥサンダーは見逃さずに逆に少年を支配し出す。
少年の成績が下がったことが親にバレることは避けたい。しかし一方でそのことは否応なく老人の正体を話すことに繋がる。つまり二人は運命共同体となるのだ。
そして老人は少年の祖父に成りすましてカウンセラーの面談に赴き、少年の両親の仲たがいが成績不振の原因であると吹き込み、少年が5月に落第点のカードを貰ったらカウンセリングを受けることを約束する。つまり老人は自らの進退も賭けて少年の成績を上げることを決意し、彼の家庭教師を務めるのだ。
このいびつな主従関係、いや共棲関係が実に自然に展開する辺り、キングの筆の凄さを感じる。しかし何よりもよくもこんな物語を思いつくものであると感心してしまう。
そして一方でドットはドゥサンダーの指導によって成績が上がっていくものの、それが彼の自尊心を傷つけ、老人に殺意を覚える。思春期真っ只中の権威への反抗心が、老人の過去に魅了されながらも憎悪するという複雑な心境を描き出す。
1人の老人のナチス時代の過去を共有することで2人が同じ行動を取っていくのが興味深い。つまり2人は非常に似た者同士であり、彼らの関係は近親憎悪なのだ。それも針の振り切った。
それを裏付けるかの如く、それぞれの正体が明かされていくのも同時だ。
お互いの運命がシンクロし合うように破滅へと進んでいくのだ。
少年の老人の交流をキングが描くとこれほど不思議な話になるのかと読了後、思わずため息が出た。
敵対し、互いに支配しようと相克し合っていた2人がいつの間にか同調し、奇妙な形で支え合う。それはお互いの心に眠る殺人への限りない衝動が老人の陰惨なナチス時代の話を通じて首をもたげ、そして発動する。ナチス時代の話を共有することと、お互いが殺人を犯している行為もまた2人にとって共通の秘密となり、2人でしか成立しない世界を作り上げたことだろう。


キングの中編集『恐怖の四季』はその名の通り、それぞれの四季がテーマになっている。キング版枕草子とも云える本書は4編中3編が映画化され、しかもそのいずれもが大ヒットしていることが凄い。それほどこの中編集には傑作が揃っていると云っていいだろう。

まず物語の四季は春から明ける。この季節をテーマに語られるのは「刑務所のリタ・ヘイワース」。副題に「春は希望の泉」と添えられている。まさしくその通り、これは希望の物語である。

この作品に対して私は冷静ではない。上にも書いたように本作を原作として作られた映画『ショーシャンクの空に』は私の生涯ベスト5に入るほどの名作だからだ。
静謐なトーンでじんわりと染み入るように進む物語に私は引き込まれ、そして最後の眩しいばかりの再会のシーンにこの世の黄金を見るような気になったからだ。本作でレッドが仮釈放され、アンディーの跡を追う一部始終は、人生の大半を刑務所で過ごした人たちが身体に染み付いた刑務所の厳格な生活リズムという哀しい習性とそれを逆に懐かしむ危うさに満ちていて、思わずレッドの平静を願わずにはいられない。
そして希望溢るるラスト5行のレッドの祈りにも似た希望は映画のラストシーンとはまた違った余韻を残す。その希望が叶うことを本作の副題が証明しているところがまた憎い。

さて次は「転落の夏」と添えられた表題作。元ナチス将校の老人と誰もが思い描くアメリカの好青年像を備えた少年の奇妙で異様な交流を描いた作品だ。

その副題が示すように一転して物語はダークサイドへ転調する。アメリカの善意を絵に描いたような少年が元ナチス将校の老人の過去を共有することで心に秘められていた殺人衝動を引き起こす話だ。
少年は老人を支配しようとするがかつてユダヤ人を大量虐殺してきた百戦錬磨の老人もまた逆に少年を支配し出す。やがて2人にはナチスの陰惨な過去の所業の話を共有することで奇妙な親近感を覚えていく。悪夢を呼び起こされた老人は夜な夜なうなされるようになるが、そこに昔の、全てを掌握していたかつての自信ある自分の姿を見出し、まだまだやれるのだと浮浪者たちを殺していく。

一方少年もまた老人の話から思春期特有の想像力を働かせて悪夢にうなされながらも内に眠る殺人への強い衝動を目覚めさせ、同じように浮浪者たちを狩っていく。

転落していく2人はやがてお互いが生き長らえるために必要な不可欠な存在へとなっていく。成績が下降した少年は老人の助けを借りて再生を果たす。その後の彼は優秀な成績を修め、更にスポーツでも万能ぶりを発揮し、地区の代表選手にも選ばれるようになる。転落から一気に運命は上昇するかに思えたが過去の過ちは決して彼らを逃さず、やがて破滅へと向かっていく。

逢ってはいけない2人が逢ってしまったことで転落していく、実に奇妙な老人と少年の交流を描いた作品はキングしか描けない話となった。前にも書いたが、よくもまあこんな話を思いつくものだ。

ところでこの2つの作品には繋がりがある。表題作に登場する元ナチス将校の老人アーサー・デンカーが生計を立てているのは株の配当金。その株の手続きをしたのが銀行員時代のアンディー・デュフレーンなのだ。こうやって考えると残りの2編もこれら2編と何らかの繋がりがあるのは間違いないだろう。

また「刑務所のリタ・ヘイワース」で語り手を務めるレッドが刑務所に入ることになった事件の記事が書かれている新聞の会社はキャッスル・ロックにある。これは『デッド・ゾーン』で登場した連続殺人鬼フランク・ドッドがいた町であり、また『クージョ』の舞台となった町だ。
それ以外にもリンクがあるのか、次の後編はそれを見つけるのもまた一興だ。

さてそれぞれの原題だが、まず「刑務所のリタ・ヘイワース」は原題をそのまま訳すと「リタ・ヘイワースとショーシャンクの救済」となり、逆にこれは邦題のシンプルさを買う。映画の題名もまたあれはあれで映画の雰囲気とマッチしているが、やはり小説ではこちらの方が合っているだろう。

表題作の方は「利発な生徒」とシンプルながら含蓄な題名である。これは確かに作品の本質を表しているが、ちょっと地味すぎるだろう。トッドの利口さとそして老人の心理へも同調してしまい、共に奈落へ堕ちるほど彼は利発だったということだ。

一方で邦題の「ゴールデンボーイ」もまた色々と考えさせられる。これはトッドの風貌、金髪の好青年をそのまま表しているようにも思えるし、金の卵という、輝かしい未来に満ちた少年という風にも取れる。
このあまりに煌びやかな題名と内容とのギャップが読後の暗鬱な余韻を助長しているように思えるので、私は邦題に軍配を捧げたい。

『恐怖の四季』と冠せられた中編集の前半の2編はそれぞれ二律背反な関係にあると云えるだろう。

「刑務所のリタ・ヘイワース」は28年もの長きに亘って冤罪で自由を奪われた男が自由を勝ち取る物語。
一方「ゴールデンボーイ」は30年近く逃亡生活を続けてきた老人が最後に自由を奪われ、自決する物語。
彼らが重ねた歳月は苦しみの日々だったが、その結末は見事に相反するものとなった。前者は自由への夢を見続けたが、後者は自分の行った陰惨な所業ゆえに悪夢を見続けた。

次の後編はあの名作「スタンド・バイ・ミー」が控えている。
キングが綴った四季折々の物語。全て読み終わった時に心に募るのはその名の通り恐怖なのか。それとも感動なのか。
その答えはもうすぐ見つかることだろう。


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ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編 (新潮文庫)
No.1231:
(7pt)

ワルの生き様にこそミステリが潜むことを知らしめたハメットの功績

河出文庫が未紹介短編を中心に独自で編んだ短編集。とはいえ幕開けはハメットの長編デビュー作である「ブラッド・マネー」が飾る。

ハメットの長編デビュー作は『血の収穫』であることは広く知られているが、訳者の小鷹信光氏の解説によれば、『血の収穫』の前の習作として本書に掲載された「ブラッド・マネー」が書かれたようだ。この題名、原題もそのままで直訳すれば「血まみれの金」となるが、『血の収穫』とも訳せる。内容は異なるが、題名の近似性からも理解できる。
さて町に全国から悪党どもが訪れ、何と150人による二つの銀行の同時襲撃が起こる。そこからは事件に関わった悪党たちが自分たちの分け前を得るために殺戮ショーを繰り広げるという実に派手で映像的な作品である。
なんとも荒廃した幕切れだ。これが正義の本当の姿なのだと無慈悲な筆でハメットは語った。
真の初長編作は手習いとは思えないほど躍動感と抑揚に満ちたストーリー、そして登場人物たちが織り成す血まみれの祭りだった。

さて次からは短編、いや短さから云ってほぼショートショートのような作品が並ぶ。

訳者の小鷹氏の解説によると「帰路」はハメットの正真正銘のデビュー作らしい。2年間追い求めた男を中国の雲南省でようやく捕えた男と逃げた男のやり取りを描いた6ページの作品。

次の「怪傑白頭巾」は変わった話だ。
なんだかよく解らない作品。

次の「判事の論理」は実際にあった話だろうか。
正直これはアメリカの法律をある程度知っておかないと解らない面白さだろう。

続く「毛深い男」はフィリピンの島々を舞台にした物語。
平和な島に訪れた異分子によって起こる不協和音。これはよくある展開だ。
人間の拠り所について語った作品と云えるだろう。

「ならず者の妻」ならば日常もまた我々のそれとは違うようだ。
強盗稼業で生計を立てている男を夫に持つ妻マーガレットはよくある悪い男に魅力を感じる女性。だから周囲のゴシップの種になっても全然気にならず、むしろそんじょそこらの旦那と違う夫に誇りを持っていた。
そんな彼女が夫の犯罪仲間に自分の取り分を強要され、屈服するところを見た時、彼女の、夫に抱いていた8年間の誇りの塊が消え失せてしまう。
複雑な女心をこんな形で描くハメットは、やはり人間を知り尽くした男だったことが解る1編である。

最後はたった5ページの掌編「アルバート・バスターの帰郷」で締めくくられる。
悪党の世界のどうしようもなさを描いている。息子を誇りに思った父親が息子の仕事を知るとどのように思うのだろうか。


荒くれどものジャムセッション。
ハメットの作品群を読むといつもそんな思いを抱く。
当時殺人や犯罪を扱った小説、ミステリがパズル小説ばかりだった時に、ハメットは悪党どもの犯罪をリアルに描いた。金目当てや怨恨で犯罪を行う人たちの本当の世界を生々しく描いたのだから当時の読者にとってはかなり衝撃的だったことだろう。

そんなハメットの筆は淀みなく、ストーリー展開もスムーズでありながらもサプライズを仕込んでいるところにミステリの妙味がある。しかもそれは単なるミステリとしての仕掛けではなく、闇社会で生きる者たちが生き延びるために行ってきた権謀詐術がサプライズに繋がっているところに本格ミステリと一線を画したリアリティがある。
生き延びるためには平気で嘘をつき、そしてまた自分を殺そうとする人たちを平然と殺す者たち。そんな生き馬の目を抜く輩たちの世界ではいかに一歩先んじて出し抜くかが彼らにとって死活問題になるわけだ。
そんな世界をミステリに持ち込んだハメットの功績はかなり大きいと再認識した。

もう少し踏み込んで書くと、本格ミステリを読んだハメットは本当のワルはこんなまどろっこしい方法で人を殺害しない、ハジキ1つをぶっ放すだけ。そして相手を騙すことに頭を使うのだと思ったことだろう。
そんなリアルをミステリとして描いたのだ。いやワルの生き様の中にミステリがあったことを教えてくれたのだ。

また登場人物たちの心境も非常に深い。特にワルに魅かれる女性たちが生き生きとしている。
品行方正、実直な男よりも少し影があり、危ない雰囲気を纏った男に魅かれる女の心情を描いている。それは恐らくハメットの妻リリアン・ヘルマンの存在が大きいだろう。探偵稼業に身を置いていた彼に魅かれたリリアンこそが彼の作品に登場する女性全てなのかもしれない。

ワルに憧れて共にするが、自分が置かれている境遇の危うさに気付くと逃れようともがくが既に手遅れになってしまっていることに気付く浅はかな女性、突如現れた無類の強さを誇る男に、夫を捨てて走る女性もいれば、絶対のワルと信じて尽くしてきたのに、夫の弱さを見ることで何かが変わってしまった女性もいる。
ハメットの小説に出てくるワルたちをそんな複雑な心理を持つ女性たちが補完していると云っていいだろう。

私がハメットを読んだのは17年前でまだ20代だった頃。その時は正直彼の小説を十分理解したとは云えなく、当時の感想がそれを証明している。
今回十数年ぶりにハメットを読むと、小鷹氏の訳の巧さもあってか、実に愉しく読めた。
いつかまたハメットは読み直さないといけないだろう。
その時がいつ来るかは未定だが、読後、今とは違った思いを抱くことだろう。その時の私がどんな感想を持つか、それもまた愉しみだ。


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ブラッド・マネー (河出文庫)
ダシール・ハメットブラッド・マネー についてのレビュー
No.1230:
(4pt)

三つ子の魂百まで。いや80まで?

御歳81歳のフリーマントルが2015年に発表したのはなんとサイバー空間を利用した対テロ工作を駆使するNSAのエリート局員ジャック・アーヴァインが率いる面々の活躍を描いた本作だ。当時79歳の高齢にもかかわらず、最先端の情報端末を駆使したこのような作品を書くフリーマントルの創作意欲の旺盛さにまず驚いた。

冒頭でも語られているがオサマ・ビン・ラディンが率いていたアルカイダが情報交換のツールとして使用していたのは今や誰もが利用しているSNSのフェイスブックだった。この全世界数億人が利用するSNSは彼らにとって絶好の隠れ蓑になっていたことが本書でも語られている。
なんとアメリカの一企業が、正確には一青年が開発したSNSが敵対者であるアラブ系テロリストにとってこの上ない便利な通信手段になっていたとはなんとも皮肉なことである。

さて今回の物語の中心人物はアメリカの若きエリートであり、コンピュータの天才でテロリスト同士を相討ちさせる<サイバー・シェパード作戦>の立案者であるジャック・アーヴァインと、ヨルダン人の母とイギリス人の父親との混血でアラビア語にも長けているMI5の切れ者でありながらモデル並みのスタイルと美貌を持つサリー・ハニングの2人だ。これら2人のエリートにありがちな高慢で不遜な性格を持ち、常に優位に立とうとしているところが共通で、今回の米英共同のテロ阻止計画を通じてお互いが魅かれ合うという、なんとも典型的な展開が繰り広げられる。

このありきたりな、いやセオリーにのっとり過ぎる展開はどうにかならなかったものだろうか。

しかしこの2人には意外な繋がりがあり、大使だったアーヴァインの父親はレバノン赴任時に強引な外交が基で部下をテロリストで死なせ、危うく中東戦争を引き起こしかけた過去を持ち、そしてサリーの両親もまた外交官で彼が死なせた部下だった。つまりアーヴァインは一種サリーの両親の仇の息子であるのだが、その辺についての微妙な心の揺れ動きについてはあまり言及が成されない。そういったことを割り切って考えられる人たちだとも云える。

さて物語の中心に据えられている<サイバー・シェパード作戦>。これはサイバー空間でテロリストの一味に成りすまし、テロリスト同士を情報操作によって戦わせて共食いさせるという、いわば現代版『血の収穫』である。しかしそのためには政府の職員であるNSA職員が隠密裏にハッカー行為をして他国のサーバーに侵入するという違法行為を犯すという実に危うい作戦であり、その事実が発覚すれば各国からの非難は免れない代物だ。
本書ではイランの諜報機関のサーバーに侵入してテロリストの動向を監視し、CIAが取り逃がしたテロリスト、アル・アスワミーの足取りを探っているが、これは実際に起きたCIA、NSA局員であったエドワード・スノーデン―ジャック・アーヴァインのモデル?―による2013年にNSAや英国のGCHQがマイクロソフト、グーグル、フェイスブックを監視していたことが発覚した<プリズム計画>、<テンポラ作戦>事件に着想を得ていることだろう。作中でもそのことについては言及されているが、それを踏まえながらも同様のことをしていることが結局米英政府は懲りていないということで、我々は今なお監視下に置かれていることが仄めかされている。

ただそれも致し方ないかなと思ったりもする。テロリストの足取りを追ってサイバー空間を逍遥するNSAの連中にアクセスするのは下位サイトに誘って武器の密売を促す者がいたり、自爆テロの志願者を募っていたりと不穏この上ない。実際、中国が日本政府の尖閣諸島を領土として主張してすぐにデモの呼びかけが成され、中国国内のデパートを破壊する煽情的な投稿が相次いだりした。
我々の知らないところで世界ではこんな恐ろしいやり取りが簡単に、気軽に行われているのだ。

しかしこんなにも短気な連中ばかりが出てくる小説だっただろうか、フリーマントルの作品は。
ディベートや会議のシーンでは常に自分の保身のために相手を罵倒し、責任転嫁の怒号が飛び交う。会話文にはエクスクラメーション・マークが散見され、心中で悪づく地の文が必ずと云って挟まれている。ほとんど建設的な意見が見られず、失敗が起きた時のために着かず離れずの状態にしておきたい連中ばかりだ。
それはアメリカ側のみならずイギリス側も同様で、自分を通さずに話が上に成されることに腹を立て、足を引っ張ろうと画策する。外部に敵あれば内部にも敵ありの状態。更にお決まりの如くCIA中心の捜査にFBIも介入してきて水を差し、更にCIAの面々の頭に血を登らせ、怒鳴り声が乱舞する。
そんな中、失敗の責任を取らされ、無能の烙印を押され、権力の座から落とされる者、有事の時の責任転嫁のためだけに事務屋として窓際にいることを強いられる者と落伍者たちが増えていく。

内部抗争と、ライバル視する国同士の争いに筆が注がれ、本来の敵であるアルカイダのリーダーはなかなか捕まらないという、なんとも不毛な展開が続く。
フリーマントルも歳を取って癇癪が過ぎるようになったのだろうか。とにかくページを捲ればケンカや諍いばかりで、正直読んでいて気分が良くなかった。

昔のスパイ行為として行われていたのが盗聴ならば現代ではサーバー内の情報を入手するスパイウェアである。冷戦時代からスパイ小説を書いてきた作者が時代の潮流に遅れずに最先端の諜報工作をきちんと描いていることに感服する。

しかし本書ではそんな最先端のスパイ技術を扱いながらも一方で冒頭で出てきた暗号の解読に難儀する様子が延々と描かれる。最初に現れ、スンニ派のテロリストと共食いさせられたシーア派のテロリスト、イスマイル・アル・アスワミーを取り逃がしてから、彼の足取りをイラクに仕込んだスパイウェアを手がかりに探るのだが、一向に足を出さず忸怩するNSAとCIA、そしてMI5とGCHQの、アメリカ側とイギリス側の情報争奪戦の様子がずっと描かれている。
そしてその暗号解読のとっかかりが判明するのが下巻の180ページ目辺り、つまり終盤に差し掛かった頃だ。これは私も物語の半ばで気付いていた。

さらに暗喩で繰り広げられるテロリストたちとのメールのやり取りについてもその内容については意に介さなかったことが解せない。
サリーがその内容に注目するのはサイバー空間で取り逃がしてしまうアスワミーの計画を暴くための最後の手段としてなのだ。そのメールの内容に計画の鍵があることが判明するのだが、裏返せば答えは既に出ていたことになる。これらことわざや警句に最終段階で注目するとは正直に云って米英の頭脳の精鋭たちが集う情報部員たちの頭も大したことないなと思ってしまった。

イギリスとアメリカとの間の優位性の天秤が左右に触れながらアメリカでのCIAとNSAの合同チームとFBIとの内部抗争、また自身の組織内での権力ゲームも繰り広げられながら、寄せては返す波のように一進一退するテロリストとの接触は上に書いたように最終的にアスワミーの奸智に長けた策略によって失敗するが、一連のメッセージと最後にアスワミーが残した嘲笑めいたメッセージからサリーはアラブ人の思考形態に即して、テロ実行の日を特定する。

題名の『クラウド・テロリスト』はクラウドコンピュータのあるサイバー空間を利用したテロリストであるという意味でありながら、最後にクラウドサーバーそのものを破壊するテロリストであるというダブルミーニングが解る辺り、巨匠の矜持を感じる。

行く行くはアメリカ政府の最高機関に上りつめるであろう若き天才の末路はなんとも遣る瀬無い。フリーマントルの皮肉は今回も一切揺るがない。

しかしサイバー空間での諜報活動とテロリストとの攻防を描きながらも、上に書いたように内部抗争の権謀詐術の数々に筆が割かれているのはいつもと同じである。いや逆に今回は情報戦であるがゆえにいつもよりも情報が多く、それに下らない抗争が上乗せされている分、かなり苦痛を強いられた。
敢えて苦言を呈するならば、やっていることは同じで題材と登場人物を替えただけであるとの思いが強く残ってしまった。

このサリー・ハニングとジャック・アーヴァインの2人、もしくはいずれか1人が今後新たなシリーズ・キャラクターとして登場するのかは解らないが―作者の年齢を考えるとほぼあり得ないと思うが―、若さゆえの融通の利かなさと、サリー自身が独白しているように何の根拠もなく、その明敏な頭脳で組み立てた論理をごり押ししようとする強引さとヒステリックな性格はあまり読者の、いや私の好感を得られなかった。

また色んな事が置き去りに、棚上げされたままのような読後感である。情報が多すぎて作中でも処理しきれなかった印象がある。

テロとの戦いには終わりがなく、本書の結末は長いテロとの戦いの単なる1章にしか過ぎない。

80歳を迎えて健筆を振るうフリーマントルの創作意欲には感服するが、もし次作があるなら、爽快な、もしくは少しは心温まる結末を迎える物語を読みたいものである。


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クラウド・テロリスト(上) (新潮文庫)
No.1229: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

またもや東野圭吾は私を身悶えさせる

かつて東野圭吾氏は『手紙』で殺人犯の家族の物語を描き、『さまよう刃』で娘を殺害された父親の復讐譚を描いた。
本書『虚ろな十字架』ではその両方を描き、償いがテーマになっている。

本書では2つの家族を中心に物語が進む。

まず最愛の娘を強盗に殺害され、犯人に死刑の判決が下り、刑が成された後に離婚した中原道正と浜岡小夜子の夫婦。

もう1つは浜岡小夜子を殺害した町村作造を父に持つ花恵とその夫仁科史也の夫婦。

被害者側の夫婦と加害者を家族に持つ夫婦双方が同時進行的に描かれる。そのどちらの家族も決して幸せではなく、何がしらの問題を抱えている。

この浜岡小夜子の死を軸に不幸な、だがしかしどこにでもいそうな夫婦の抱える問題が次第に浮き彫りになってくる。

物語の主旋律は娘を殺害され、更に別れた妻を殺害された中原道正のパートであるが、次第に対旋律であった仁科史也のパートが重みを帯びてくる。特に仁科史也という人物の気高いまでの誠実さに隠された謎に俄然興味が増してくる。

本書のプロローグで描かれるのは井口沙織という父子家庭で育つ女子中学生が1年先輩の仁科史也と出逢い、相思相愛が成就する場面が描かれている。

しかし本編で出てくる、医者となった仁科史也の結婚相手は花恵という女性で井口沙織ではない。しかも花恵の父親は浜岡小夜子を殺害した町村作造であることが判明する。

更に井口沙織は逆に浜岡小夜子が万引き依存症の記事を書くのに取材した対象者であることが解ってくる。この2人の接点が浜岡小夜子に収束していく。

義理の父親の犯した罪に深く反省の念を込め、小夜子への遺族に手紙を認め、直接お詫びをしたいと告げる仁科史也。一方で町村作造の生涯は実に取るに足らない男として描かれる。
偽造ブランド品を売って東京と富山を往復しているうちに花恵の母と知り合い、そのまま結婚してしまうが、会社が警察に摘発されると職にも就かずに家に居つくが、しばらくすると女を作っていなくなる。とにかく怠けることしか考えない男だ。

そんなどうしようもない男の犯した罪のために代わって遺族へお詫びをしたいという。しかも花恵が生んだ息子翔は史也の実の子でなく、結婚詐欺師によって孕まされた子供であることも判っている。史也が花恵と出逢ったのは花恵が将来を絶望し、富士の樹海で自殺しようとしていたところを史也が思い留まらせたことがきっかけだ。そしてその後の10日間、史也はお金を与え、晩御飯を食べに行くようになって花恵に結婚を申し込む。
このもはや聖人としか思えないほどの精神性はどこから来るのかと非常に興味を持たされた。

そして今の仁科史也を形成する事件が明かされるのは物語の終盤だ。

結婚とは、夫婦になると云うのは、家族になると云うのは、知らない者同士が縁あって一緒になるということだ。一緒に住んでいくうちにお互いのそれまでの人生で培われた性格や癖、足跡などを知り、生活を作っていく。
しかし何十年過ごしても知らない一面があったことを気付かされるのもまた事実だろう。本書にはそんな家族という最小単位の共同体に隠された謎が描かれている。

愛する娘を喪ったことで共に裁判と戦いながらも最終的に離婚という道を選ばざるを得なかった中原道正と浜岡小夜子の夫婦は、地獄のような苦しみの中で共に戦った戦友でありながら、離婚後は相手のことを実は本当に解っていなかったことに気付かされる。

娘を自分の不注意で死なせたと自責の念に駆られていた小夜子はその後犯罪者と被害者について取材を重ね、死刑について自分なりの考えを持ち、原稿を書くまでのライターとなった、ペンを武器にした女闘士の如き女性だった。
しかしそんな彼女がなぜ穀潰しとも云われていたしようのない老人に殺されたのか。

一方有名大学の医学部に入り、そのまま附属病院に就職して順風満帆な人生を送っているかに見える仁科史也は、結婚詐欺師によって孕まされた元工員の女性を偶々自殺を踏み留まらせた経緯で結婚し、他の男の子供を自分の子供として育てる。穀潰しの妻の父が犯した罪を一身に背負い、家族を守ろうとする。

血の繋がった子供を持ちながらも、その実本当の姿を知らなかった夫婦。

血の繋がらない子供を持ちながらも、自ら降りかかった不幸に立ち向かおうとする夫婦。

血の繋がりこそが家族の絆ではないこと、それ以上の絆があることをこの2つの家族の生き様は象徴しているかのようだ。

そしてどうしようもない父親だった町村作造が小夜子を殺害したことは彼が娘夫婦を守ろうとした最後の父親らしい行動だったのだろう。これもまた親と子の不思議な絆の形だ。

タイトルになっている「虚ろな十字架」とは中原の元妻小夜子が生前ライターをしていた時に認めた原稿『死刑廃止論という名の暴力』の中にある一節に由来する。
人を殺害した人間に有罪判決を下して懲役○○年と罰しても、出所すれば再発の確率が高い現実を顧みればその罰はなんと虚ろな十字架を縛り付けているのだろうかと書かれている。

つまり人を殺した人間を罰するには死刑しかないのだと娘を喪った小夜子は訴えているのだ。

娘を殺害された被害者となった彼女がこのような極端に針の触れた結論を出したことは解る。
しかし一方で死刑は単なる通過点に過ぎないことも解っている。なぜなら中原たちの娘を殺害したしがない窃盗犯は最終的には裁判に疲れ、死刑になったことを拒まなかった。
しかしそこには贖罪の念はなく、ただ自分の決定された運命を受け入れただけだったのだ。もはや彼にとって死刑は自分の人生を諦めた行く末に過ぎなかったことが語られる。

そして一方で中原夫妻も死刑になったことで最愛の娘の死が浮かばれたとは思っていなかった。ただ事件が終った、それだけだったと述べる。
しかしそのことを経験しながらもやはり一つの命を奪った人は同じようにその命を死刑によって罰せられるべきだと元妻の小夜子は決意したのだった。

彼女もまた娘を一人家に残したことを後悔し、その後再婚して子供を産もうとは考えられなかった。自分は子供を産んではいけない女性だという罪の意識に苛まれながら、事件や依存症などと向き合う人々を取材してきたのだ。
まだ若い妻の人生のやり直し、殺された娘の代わりの子を産むチャンスを与える意味で離婚を決意した中原の思惑とは全く別のことを小夜子が考えていたとは皮肉だ。

仁科史也は町村花恵を家族として迎えることで過去の罪を償おうと生きてきた。

死刑もまた贖罪であるが、この仁科史也もまた贖罪だろう。
そして作者はどちらが罪の償いとして正しいのかと読者に問いかける。更に法律は矛盾だらけだ、人間に人は裁けないとまで述懐する人物もいる。

お母さんの留守番をしていて殺された子供。

留守番をさせて娘を死なせたことを抱えて生きていく母親。

娘を殺害された虚しさゆえに離婚を選んだ父親。

一文無しで空腹だったために小銭を稼ごうと泥棒に入った家に子供がいたことで通報されるとまずいからと短絡的に子供を殺した男。

他人の子供でありながら我が子として育て、また金に卑しい義理の父親を受け入れながら日々小児科医として子供を救う男。

男に騙され、絶望して死を選ぼうとしていたところを今の夫に救われた女。

無職で怠けることしか考えていないが、ある日人を殺害した父親。

犯罪者の義理の父親を持つことを大いに案ずる母親。

父子家庭で育ち、美容師になって上京し、結婚に失敗し風俗嬢となった暗い過去を持つ女。

男手一つで娘を育て、多忙な日々を送る中でも娘に気を配りながら、事故で死んでしまった父親。

様々な人があれば様々な人生、様々な事情、そして生き様や考え方がある。上に並べた今回登場した人物の人生が等価であるとは決して云えないだろう。
それを人を殺したから罰せられるべきなど単純化したルールで果たして杓子定規的に人を断ぜられるものかとこれまで作者は問いかけてきた。結局人は道理で生きているのではなく、人情で生きているのだとこのような作品を読むと痛感させられ、何が正しくて間違っているのかという我々の既存概念を揺さぶられる。

死刑に値する愚かな犯罪者もいれば、刑に罰せられると等価の償いをし、周囲から必要とされる人もいる。罪を裁くとき、このように違った人生を歩んできた人々を一律のルールで裁くことが本当に正しいのかと考えさせられる。
しかし一方で近しい人を殺されたことで人生が変わってしまった人もおり、その喪失感を思えば加害者側の事情などは関係ないとも思える。
更に死んで当然だった、死んでよかったと思われる人もいる。そんな世の中の秩序を保つためにまた法律も必要なのだ。いやはや難しい。

深く深く考えさせられる作品だった。決して全てにおいて正しい考えなどないことをまた思い知らされた。
人は過ちを犯してもやり直して生きていられる、そんな世の中が来ることを望むのは夢物語なのか。そんな思いが押し寄せてくる作品だった。


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虚ろな十字架 (光文社文庫)
東野圭吾虚ろな十字架 についてのレビュー
No.1228:
(7pt)

壮大なる物語のほんの序章

キングが若かりし頃に読んだトールキンの『指輪物語』と映画館で観たセルジオ・レオーネ監督の『夕陽のガンマン』に触発されて書かれた全7部からなるダーク・ファンタジー小説が<ダーク・タワー>シリーズである。本書はその記念すべき1作目。
この度映画化が発表され、それに伴い、かつて刊行されていた角川文庫から再び新刊として現在毎月刊行されているが、私が読んだのはシリーズ完結を機にキングによって手が加えられたヴァージョンであり、2004年に新潮文庫から刊行された版である。

その第1作目である本書の前書きによれば1970年に着手して2004年に完成したとあるから30年以上に亘って描かれたシリーズだ。
一旦4巻まで書かれた後、長らく中断されていたが、キング自身にある大きな転機が訪れる。それは1999年に散歩中にライトバンに跳ねられて交通事故に遭うのだ。それは回復した現在までも片足が不自由になるほどの後遺症を遺すが、その事故で一命を取り留めたキングはファンの声にも支えられてシリーズ完結を目指し、2004年に完結を見せる。

長い前書きには事故に遭った際、シリーズ未完にしてキングがこの世を去るのではないかというファンの言葉や、結末を催促するキングの祖母の手紙、更には自分が刑を執行されるまでには決着をつけてほしいと催促する死刑囚からの手紙を受け取ったというエピソードが盛り込まれている。
それほどまでにファンを、読者を魅了するこのシリーズは果たしてどのような物なのかと興味津々でページを捲った。

物語は主人公である最後のガンスリンガー、ローランド・デスチェインの過去と旅の道連れになった白髪頭の少年ジェイク・チェンバーズが来た別の世界の話とが時折挟まれながら、黒衣の男を追う旅が語られる。途中、夢魔のスキュプスやスロー・ミュータントに襲われながらも黒衣の男に辿り着くのだが、長大な物語の序章である本書ではまだはっきりとしたことがよく解らない。黒衣の男を追い、暗黒の塔を目指すガンスリンガーの物語というだけがはっきりとしている。その目的もまだよく解らない。

物語を形成する世界独特の言葉が時折挿入されるが、それらについての説明は語られない。
ガンスリンガーが話すハイ・スピーチ語、ロー・スピーチ語、邪な抱かせるように思える<カ>の力、烏頭の人間タヒーン、<内世界>、メジスやギリアドという国。

ただそんなファンタジックな世界でありながら、我々の住む世界とはどこか地続きで繋がっているようで、例えばガンスリンガーが訪れる<タル>の町のピアノ弾きが奏でる音楽はビートルズの『ヘイ・ジュード』であり、ジェイクが来た町はニューヨークでタイムズスクエア、ゾロといった映画の登場人物も出てくる。
我々の住んでいる世界とは少し位相の異なる世界がこのガンスリンガーたちが住まう世界のようだ。

本書の訳者であり、書評家でもある風間賢二氏の解説によれば、この<ダーク・タワー>シリーズはキングの作品世界の中心となる壮大なサーガであるとのこと。つまり今まで読んできた作品、そしてこれから読む作品に何らかの形で影響し、また繋がりがあるとのことである。
そして本書はまだ物語の序の序に過ぎないとのこと。従ってまだ作品世界のほんの入り口に立っただけに過ぎず、次の第Ⅱ巻からが本格的な幕開けとなるらしい。
この解説を読んでキングの一読者となり始めた私にとってこのシリーズはやはり読むべき物語であると確信した。

ガンスリンガーが目指す<暗黒の塔>には一体何があるのか。そして本書で登場したローランドが愛した女性スーザンとは何者なのか?
数々の謎を孕んだ壮大なキングのダーク・ファンタジーはたった今始まったばかりだ。


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ダーク・タワー1 ガンスリンガー (新潮文庫)
No.1227:
(7pt)

書物に魅せられし者たちの闇

紀田順一郎氏と云えばビブリオミステリだが、今回は今までの神保町を舞台にした古書収集に纏わるミステリではなく、大学の図書館で起きた殺人事件を扱っている。しかも狂的な古書収集趣味を持っているのは学長の和田凱亮のみで、周囲の人間は大学の費用を稀覯本収集に公私混同して費やす学長に反発する教授たちが取り囲み、学内では派閥争いが起こっているという珍しい設定だ。

しかし事件はなかなか起きない。
主要人物の図書館運営主任の島村、誠和学泉大学の創設者和田凱亮、その養子で図書館情報学部助教授の和田宣雄、そして事件の犠牲者である結城明季子らの関係がじっくりと描かれ、事件が起こるのは100ページを過ぎたあたりだ。それまでは彼らの関係性に加え、大学の図書館の実情と誠和学園大学々長のコレクションが陳列された第三閲覧室なる秘密の図書空間について語られる。この第三閲覧室は大学の施設なのにその閲覧室は学長の許可がないと入れないという、まさに巨大な私的書庫となっている。

まず面食らったのは本書の被害者となるのが結城明季子であることだ。通常上述されたような人物構成の場合、アクの強い人物が殺害されるというのがミステリの定石だろう。つまり本書ならば大学の施設を一部私物化している学長が第三閲覧室で殺害されるという流れになるのが普通ではないか。

しかし被害者は結城明季子。彼女は妻を亡くし、娘が外国で暮らし、そして不肖の息子を抱える島村が大学の図書館運営主任となったことを機に鶴川の自宅から聖和学園大学の教員寮に引っ越しするのに、彼の有する約1万5千冊もある蔵書の梱包と運搬を手伝うために大学の助教授で島村を引っ張ってきた和田宣雄によって派遣された元司書の女性。アラフォーだが、容姿端麗で障害者の子供を持つ母親に過ぎない彼女が燻蒸後の図書館で遺体となって発見される。

一見事故死に見えるこの事件に不審な点を警察が見出したことを聞きつけた新聞記者が古書店主である岩下芳夫に調査を依頼するというのが本書の流れだ。

今回の探偵役を務める岩下の登場も実に遅く、100ページ辺りで登場する。それからは古書に纏わるエピソードと共に事件の調査が進む。
この独特の世界の話がまた面白いのだがそれについては後述するとしよう。

密室殺人、ダイイング・メッセージと本格ミステリの要素を放り込みながらも新本格ミステリ作家たちが描くようなトリックやロジックの追求といったガチガチの本格という空気は実に薄く、正直私自身はそれらのトリックについては読書中ほとんど考慮しなかった。

なぜかと云えば登場人物たちのディテールの方が実に濃密で面白かったからだ。

例えば岩下の調査が進むにつれて、単なる一介の元司書だと思われた結城明季子の存在に謎が生まれてくる。
島村が大学から借り受けて論文をしたためようとしていた『現代日本文学全集』がいつの間にかすり替えられていたこと。そして有休を利用して梱包を手伝っていたはずなのになぜか梱包作業当日も勤務先である福祉科研修センターに出勤していたことなどが明らかになってくる。
一体結城明季子とは何者だったのか?
幻の古書を巡る殺人事件の謎を探る一方で被害者である結城明季子についても謎が深まってくる。

また主要人物たちに関するディテールがとにかく濃い。
容疑者である島村が誠和学園大学の図書館運営主任になった島村が現職に至るまでの和田宣雄との縁について書かれた内容や和田凱亮の生い立ちなどは、かなりのページが割かれて描かれ、一種実在の人物の伝記かと見紛うほどの濃さがある。昭和の混乱期を生きてきた人間の逞しさや強かさを行間から感じるのである。この濃度は戦前生まれである紀田氏のように戦前戦後の混乱期を知る作家の強みというものだろうか。

また本に纏わる蘊蓄も豊かで知的好奇心をそそる。稀覯本の真贋鑑定に関係して紙博士なる府川勝蔵なる人物が登場するが、そこで披瀝される紙やインクに関する知識は実に興味深い。戦前戦後それぞれの時代背景からパルプ材として使用されていたのが針葉樹から広葉樹に替わったこと、繊維と繊維を繋ぐ方法などそれら技術の進歩により、例えば昔の書物の紙は経年変化で茶色に変色しやすいが現在ではそれも解消されつつあること、光に透かして見ることでムラがあるなどの豆知識が得られる。

また書物に淫した人々の話であるから、私も数々の本を所有する者のはしくれとして大いに共感するところもあった。
例えば書庫を見た時に陳列された書物以上に空きスペースがあることを羨ましくなったり、もしくは新しい書庫を手に入れた時の空きスペースの多さに驚喜するといったこと、さらに引っ越しの時に家にある蔵書をいかに理想的に移すかなど、身に覚えのある事柄もあり、面白い。
また昔の文庫などを読んでいると非常に字が細かいことに気付かされるが、作中人物の島村が昔は高齢の読者が少なかったからではないかと述懐するところがあるが、これもなるほどと思わされた。つまり時代が下るにつれ、教育を受けた高齢者が増えてきた今だからこそ高齢者も活字を読むのが当たり前だろうが、昔の人々はまだ教育が不十分であったから書物を読むという習慣がなかったため、出版社は老眼などを気にする必要などなかったのだろうとも推測される。

更にこの作者ならではの古書購入に関する意外な知識も今まで同様に盛り込まれ、例えば昔大ベストセラーになった全集などは古書として出回っているため、高価で取引されない上に嵩張るため、反って古書店が積極的に取り扱わないこと、また全集は後期になればなるほど発行部数が少なくなるため、揃えにくいことなど、私自身がその分野に今後手を付けることはなくとも、興味を覚える内容が盛り込まれている。

さて結城明季子を殺害したのは誰か?
これは意外な人物だった。

曖昧と云えばもう1つ。本書のメインの登場人物である島村の私生活の問題だ。
生前の妻が勝手に不動産の名義を夫婦両名にしたことでやくざ者となった放蕩息子から遺産分配を強要され、おまけに彼の一味の者と思われる地上げ屋に付きまとわれ、電気なども勝手に切られる始末。今回の事件解決に駆り出されたものの、これら私生活の問題は一切解決しない。
正直このエピソードは島村が最有力容疑者として連絡不通になった理由のための話であるのだが、それが意外にも重くて無視できないほどの内容になっている。

これらを踏まえると意外な犯人を設定しては見たが動機はさほど練られてなく、またミスディレクションの演出のために余計な設定を持ち込んでしまったように思えてならない。上にも書いたようにディテールが濃いだけに逆にミステリとして犯人の動機という肝心な部分や登場人物のエピソードがなおざりになってしまった感があるのは正直勿体ない。

私も本好きで、できれば図書館などで借りるのではなく、自分で所有したい人間。しかも新刊であることに拘り、読むために手に入れた古本は読了後手放している。従って本とは読むために所有する物と考えており、決して集めて悦に浸る物として考えていないから、これらコレクターの境地が解りかねる。
本は読まれてこそ本であり、保管されているだけでは書物本来の意義がないではないかと思っているので、逆に云えばまだこのような境地に至っていない自分は正常であると改めて認識できた次第である。
ただ絶版を恐れて買ってはいるものの、読むスピードとつり合いが取れていないため、関心のない人から見ると私も大同小異だと思われているのかもしれないが。

紀田順一郎氏のビブリオミステリは一ミステリ読者として自分がまだごく普通のミステリ読み、書物購入者であることを再認識させられるという意味でも良著だ。
このような本に魅せられ本に淫した人々のディープな世界を見ることはしかしなんと面白い事か。どんな世界でも人を狂わせる魔力はあろうが、書物に関しては派手さがないだけに闇の如き深さがあるように思われる。
最近絶版の本は古本を購入して読むようになってきた私も本書に描かれた人々のような闇に囚われないよう気を付けねば。


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