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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1426

全1426件 101~120 6/72ページ

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No.1326: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(3pt)

刊行当時の人類を襲った未曽有の危機を彷彿させる問題作

数々のホラー作品、近未来小説、ダークファンタジーを書いてきたキングが今回手を伸ばしたのはSF。なんと地下に埋まっていた空飛ぶ円盤が掘り起こされたことで町が侵略されていく話だ。

しかし題名のトミーノッカーズはそんなSF敵設定とは程遠い内容だ。
キングの前書きによればその名の“トミー”がイギリスの昔の兵士の糧食を指す俗語であることからイギリスの兵卒を指す言葉となっており、トミーノッカーズはそこから食料と救助を求めて壁を叩き続けながら餓死した坑夫の亡霊を指すようだ。その他トンネル掘りの人喰い鬼といった意味もあるようで、いわゆる幽霊とか化け物に類いする怪物を指す言葉であり、空飛ぶ円盤とは全く真逆の物だ。

一方でキングが本書で語るのは宇宙から来た存在が徐々にアメリカの田舎町の住民たちの頭の中に侵入し、意のままに操っていく侵略の恐ろしさだ。

この得体のしれない未知の存在を人々は古来から伝わる亡霊トミーノッカーズと名付けた。

SFと亡霊譚という全く真逆なものを結び付けたことがキングのアイデアだろう。

人が見ていぬ間に悪戯を仕掛けるレプラコーンという妖精の話があるが、この目に見えない妖精のような存在の宇宙人は題名ともなっている上に書いたトミーノッカーズという亡霊に擬えられているが、私は本書で初めて知ったその亡霊よりも子供の頃からファンタジーで親しんでいるレプラコーンの方が実にしっくり来る。

そしてこの宇宙人たちが人間たちに施す悪戯は何とも残酷だ。

3Dのイエスの肖像画が突然動き出し、浮気の夫を懲らしめるために妻にお仕置きの装置を作らせるが、それが感電死に繋がる代物であることに気付いた妻は夫もろとも亡くなってしまう。

IQテストで高得点を獲った、少し変わった少年ヒリー・ブラウンは祖父からプレゼントされたマジックセットでマジックショーを行うが、完璧ではなかったので天啓を得て物体を消失し、元に戻す装置を発明するが、マジックショーの最中、その装置で弟を消してしまうが、その弟は二度と戻ってこなくなる。

これら物語のエピソードの中心人物に共通するのはトミーノッカーズによって閃きを得て何かを得体のしれない機械を作ることだ。

空飛ぶ円盤を掘り出したボビ・アンダーソンは太陽のように輝く光球と空飛ぶ(かもしれない)トラクター、そして頭に浮かんだことを自動的に文章にするタイプライターを作り出す。

郵便配達人の妻ベッカ・ポールソンは夫の浮気を懲らしめるため、テレビを電源を付けると電流が流れるようなお仕置き装置に改造する。

その浮気相手である郵便局員のナンシー・ヴォースは郵便物の自動仕分け機を発明する。それはトミーノッカーズによって意図的に町外から来た配達したくない物を削除する機械だとも知らずに。

ヒリー・ブラウンは物体消失し再度出現させる装置を発明。

ジャスティン・ハードは近くに高周波振動を起こさせる装置を発明。

現実世界に穴を開け、どこかの異世界へ転送するラジオで町を訪れた部外者たちを次々に“転送”する人々。

町をトミーノッカーズの支配から救おうとした治安官ルース・マッコースランドは公会堂時計塔が吹っ飛ぶほどの爆弾を作り、トミーノッカーズたちが憑依した自分のコレクションである人形たちと共に自害する。

そしてボビ・アンダーソンは人間を動力源にする人間電池を発明し、愛犬のピーター、ヒリー・ブラウンの祖父でトミーノッカーズの支配から免れたエヴ・ヒルマンと彼女の実の姉で宿敵でもあるアン・アンダーソンを電池の水溶液に浸して動力を吸い取る。

そして物語の最終はこれらの機械たちと町を救おうとするジム・ガードナーとの戦いが繰り広げられる。

人を襲う芝刈り機、火を発射するテレビ受像機、炎を周囲に放ち、一瞬にして焼け野原にするパラソル、フリスビーのように空中を飛んで殺傷能力のある超音波を発する煙感知器、などなど。
これらはキング初期の短編に登場した“意志ある機械”のオンパレードだ。

またトミーノッカーズが町の人たちに憑依するとそれぞれの思考が読み取れるようになる。つまりテレパシーで会話が出来るようになる。
更にはなぜか次々と歯が抜けていく。彼らはそれを“進化”の過程だと告げる。

人々は抜けた歯を見せるように笑顔を見せる。歯の抜けた人が笑うとき、我々はどこかその人が白痴のように見えてしまう。そしてそれはどこか狂人めいた感じも受ける。
この何気ない設定が街の人々が徐々に侵略され、狂人へと変わっていく様子を如実に描いているように思われる。こういう何気ない設定を持ち込むのがキングは抜群に上手い。

やがてヘイヴンの町の人々はお互いの考えが読み取れるようになり、“進化”を阻もうとする町民たちを排除しようとする。

それはさながらウイルスの蔓延のように急激に広がっていく。いやある意味、カルト宗教の信者のように実に排他的になり、トミーノッカーズを受け入れない者たちを粛正するのも厭わなくなる。

都会よりも田舎の町の方が恐ろしいと云う。それは1人の権力者によって牛耳られ、そこに独自の法が成り立ち、町民たちはそれに従わざるを得なくなる。
その権力者が町民たちを恐怖で縛る場合と、絶大な信頼を得て確固たる支持を得て権力の座を維持する場合の二通りがあるが、厄介なのは後者の方だ。なぜならその場合は町民からの反発がない。つまり反抗勢力が生まれず、その権力者が外部にとって敵であったも町民たちにとっては外部からの圧力を退ける英雄としか映らない。
トミーノッカーズの侵略はまさに後者に当て嵌るだろう。彼らはボビ・アンダーソンという1人のリーダーの許に来たるべき“進化”を成し遂げるために他を排除しようとする。この異変に気付いた者は懐柔されようとするか、異分子として排除されるかいずれかだ。前半の治安官ルース・マッコースランドの抵抗はこの田舎の町の集団意識の恐ろしさをむざむざと知らしめている。

そして物語の後半は外部の人間は立ち入りさえも出来なくなってくる。
ヘイヴンを訪れた人たちは青い顔し、嘔吐し、頭痛を感じ、体調がどんどん悪くなっていく。町民たちが何ともないのとは対照的に。これが宇宙船の掘り出しが進むにつれてどんどんひどくなっていき、終いには人間だけでなく車両から飛行機までも変調を来たし、全く以て侵入が出来なくなる。

本書はキングのキャリアの中でも不調であった頃に書かれた作品としてつとに有名なのだが、それを裏付けるように妙にバランスを欠き、かつ妙に粘着質に長々と語るエピソードが織り込まれている。

例えば主人公ボビ・アンダーソンの元恋人ジム・ガードナーがスポンサーの女性の前で大失態を演じるシーンで語られる原発の恐ろしさを泥酔しながらも滔々と語るシーンは異常なまでに長く、そしてしつこすぎるほど内容がくどい。なんと20ページ以上に亘って語られるのである。悪酔いした酔っ払いの戯言の体を装いながらその内容は政府の陰謀論といった狂人めいた発言になっており、妙な迫真性がある。
本書が発表されたのは1987年。そして世界を震撼させた旧ソ連のチェルノブイリ原発事故が起きたのが前年の1986年4月であるから作者もこの事故にはかなり関心を持ち、そして衝撃をもたらされたに違いない。

とここまで書いて私は本書における宇宙船の登場により、人々が“進化”と呼ぶ変化が訪れる諸々の事象はどこか既視感を覚えた。

即ち歯が突然ポロポロと抜け出すこと、目から出てくる血の涙、耳から血が出る、主人公の1人でヘイヴンの異変に取り込まれず、頭の中を読まれることなく、抵抗できる外から来た人物ジム・ガードナーがしかし嘔吐物の中に血が混じっていること、髪の毛が抜けだすなどの描写から連想されるのはボビ・アンダーソンが掘り出した宇宙船とは即ち放射能漏れを起こす原子力発電所のメタファーである。つまり原子力発電所こそは人間が手を出してはいけないパンドラの箱なのだという作者のメッセージが読み取れる。

上に書いた異常現象はそのまま被爆者の症状に繋がる。そして目に見えないが確実に人々に蔓延っているトミーノッカーズは放射能その物のようだ。

更にヘイヴンの町に訪れる人たちが一様に頭痛を訴え、身体の各所に異変を覚える。さながら原発事故が起きたチェルノブイリのように。

つまりキングの本書におけるテーマとは核の、原発の恐ろしさを訴えているのだ。

そしてキングは物語の終盤で明らさまに臨界、チェルノブイリという原子力に纏わる用語を使っている。やはりこの推察は正しかったのだ。

そしてチェルノブイリの原発事故がどんどん拡大し、刊行当時も収束の目途が立っていない、世界の終わりを暗示させる不安感をそのまま作品に持ってきたかのように、キングはどんどんヘイヴンの町を孤立させ、他所からの来訪者を排除する。

しかしこの上下巻併せて1,240ページにも及ぶ大著である本書は、それまでの大作と異なり、やはりかなり困難を感じた読書になった。

先に書いたようにキングが本書でやりたかったこと、訴えたかったメッセージは判るものの、それがスムーズに物語に結実していなく、また鬱病患者特有の長々とした説教めいた、狂人の主張が折々に挟まれていることでバランスを欠き、物語としてなんともギクシャクとした印象を受けるのだ。

例えば物語の主人公の2人、ボビ・アンダーソンとジム・ガードナー。それぞれ2人の設定はウェスタン小説家と詩人であること、またジム・ガードナーは離婚歴があり、これが酒を飲んだ挙句に口論となった妻の頬を拳銃で撃ち抜いたという凄まじい過去がある。しかしこれらがあまり物語に寄与していない。

ガードナーが唯一トミーノッカーズの侵略を免れた理由は頭に手術によって金属板が埋め込まれていることで思考を周囲から読み取られることができないからだが、この設定も唐突に表れ、違和感を誘う、というのもガードナーは一度はボビ・アンダーソンとテレパシーで会話が出来るようになっているからだ。

このように何とも後付けされたかのような設定が続く。

恐らくは、私も記憶しているがチェルノブイリ原発事故は未曽有の危機だった。原子力という未知のエネルギーが及ぼす影響を、恐ろしさを初めて知った事故だった。
そしてまだ事故の収束が見えなく、被害が拡大し、我々の生活にどのような影響があるのかも見えない刊行当時、作者自身も今まで経験したことのない不安と恐怖を覚えたことだろう。
その動揺が本書には垣間見れる。だからこそ纏まりに書けるのかもしれない。

キングはとにかく書かなければならなかったのだろう。この未知なる恐怖を克服するためにも。
いや作中にガードナーがボビに云うように彼は何かによって書かされたのかもしれない。天から降ってきたアイデアによって。そんな衝動と動揺の産物が本書なのかもしれない。

さて本書の舞台メイン州のヘイヴンはキングに創作による架空の田舎町だが、他の作品で登場した町とのリンクがあり、例えば『IT』の舞台となったデリーはこの田舎町の住人が時折遊びに行く繁華街となって描かれる。また“IT”ことペニーワイズもカメオ出演するというサーヴィスぶりだ。

また昏睡状態から目覚めたら超能力者になっていたジョン・スミスという青年のエピソードが出てくるがこれも『デッド・ゾーン』の内容だ。そして異変が起きているヘイヴンの記事を書く新聞記者デイヴィッド・ブライトはジョン・スミスのことを記事にした男である。

そして物語の終盤に出てくる“店(ショップ)”という政府機関は『ファイアスターター』でチャーリー親子が逃げ出した超能力者たちの研究所である。

つまり過去の作品へのリンクをこれほど導入し、これだけのページを費やした本書はある意味キングが紡ぎ出してきた世界観を継承する大作という位置付けだと思われるのだが、キングにしては珍しく精彩を欠いた内容になった。

しかし本書に書かれている物は後のメディアやキング自身の作品に影響を与えた萌芽が見られる。

例えばボビ・アンダーソンが作り出したおぞましい人間電池の機器は後の映画『マトリックス』で出てくる人間電池そのものを想起させるし―世間では『攻殻機動隊』からのインスパイアと書かれているが、多分に本書も影響していると思われる。なぜならこの映画の主人公ネオの最初の登場時の名前はトーマス・“アンダーソン”だからだ!―、町の外側からの来訪者を徹底して拒むため、一旦入ってくると頭痛と吐き気などを及ぼす“障壁(バリア)”を張るヘイヴンの町は町の人がドームによって外に出ることが出来なくなる後のキングの大著『アンダー・ザ・ドーム』の裏返しだ。

また物語のクライマックスでボビ・アンダーソンの住まいの森から火事が発生するのは小野不由美氏の『屍鬼』のそれを想起させる。

本書はキングのキャリアの中でも絶不調だった時期に書かれた作品と云われているだけに確かに今までの作品に比べると冗長な語り口が目立ち、そしてチェルノブイリ原発事故に影響された記述が過剰な熱を帯びて空回りしているきらいがあり、作品としての纏まりに欠ける部分は否めない。

確かに本書よりも長い作品はあった。
しかしそこに書かれているエピソードはキャラクター達に、物語に深みを与え、実に有機的に機能していたように思える。寧ろそれらエピソードを読むことが楽しかった。

しかし本書はとにかく書きたいことが整理される前にマシンガンの如く書き連ねられているだけで、ストーリーとしても一貫性に欠けるきらいがある。引き算が全くなされてないのだ。

しかしそれでも本書は上に書いたように後の映画や小説に与えた影響―キング自身の作品も含めて―を考えるとそれなりに無視できない作品ではある。

今は2021年。
チェルノブイリ原発事故や東海村の臨界事故、1999年のノストラダムスの大予言、それらを経験しながらも我々は今、世紀末を乗り越え、ここにいる。

しかし1987年に刊行された本書は世界の終わりを感じたキングの絶望と恐怖が如実に表れた作品となった。

あの事故が起きた時、人々はどう思ったのか。

そんな歴史の足跡の、証言として本書を捉えるとまた違って見えるが、しかしキングの名を冠するのであれば、やはり改稿して再刊すべきではとの思いが拭えない、そんな思いを抱いた作品であった。


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トミーノッカーズ〈上〉 (文春文庫)
スティーヴン・キングトミーノッカーズ についてのレビュー
No.1325: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(3pt)

森全作品の到達点か

四季シリーズ最終作。遥かな未来に向けての物語か。
本書はVシリーズとS&Mシリーズへの橋渡しとなった『秋』を経て、そこから未来の世界を描いた百年シリーズへと繋がっていくのが本書。

つまり百年シリーズの主人公サエバ・ミチルがいかにして生まれたか、そして彼(彼女?)が生まれることになった真野強矢による殺人事件の捜査の協力を真賀田四季が依頼されていたことが書かれている。

しかしとはいえ、私が粗筋を書いていないように、本書のストーリーはよく解らない。時代もいつの頃を描いているのかもよく解らない。
物語の構成はそれぞれのエピソードが断片的に語られ、シリーズ1作目の『春』同様、四季と其志雄の対話、四季の思弁的な述懐が続く。

そして真賀田四季の傍にはパトリシアというウォーカロンが既に存在しており、彼女の世話をしている。そのパトリシアも試作品ではなく、人と見分けがつかないアンドロイドとなっている。

また真賀田四季を狙う謎の組織も現れ、彼らの名前はイニシャルで書かれるのみ。

彼女にとって生きることとは病気であり、死こそが安らぎであるからだ。
彼女は云う。
「死を恐れている人はいません。死に至る生を畏れているのよ」と。
そして眠ることは心地よく、起こされることは不愉快、生まれてくる赤ちゃんは不快だから泣くのよ、と。彼女は彼らに安らぎを与えたに過ぎないのだ。

ウィキペディアによれば本書からこの後に書かれるGシリーズ、Xシリーズ、Wシリーズへと繋がっていくとのことだ。

つまり本書は一旦『秋』でそれまでのシリーズとの結び付きを語ったことでリセットされ、これからの物語のための序章というべき作品として位置づけられるようだ。

従って今まで本書までに刊行されてきた森作品を読んだ私でさえ、本書に描かれている内容は曖昧模糊としか理解できていない。
本書が刊行されて15年経った今だからこそ上に書いたシリーズへと繋がっていくことが解るのだが、刊行当初は読者は全く何を書いているのか戸惑いを覚えたことだろう、今の私のように。

真賀田四季が望んだ犀川創平との再会。

100歳を超える天才科学者久慈昌山。

これらが今後のシリーズのファクターとなり、徐々にまたその詳細が明らかになってくるのだろう。

冬は眠りの季節。
ほとんどの動物が冬眠に入り、春の訪れを待つ。本書もまた新たなシリーズの幕開けを待つ前の休憩といったことか。英題「Black Winter」は眠るための消灯を意味しているように私は思えた。
そして真賀田四季。『四季 春』で生を受けたこの天才はしかし以前のような無機質な天才ではなくなっている。いっぱいやらなくてはならないことがあるために人への関与・興味をほとんど持たなかった天才少女は娘を生み、外の世界に飛び出して自分で生活をしたことで感受性、母性が備わり、慈愛に満ちた表情を見せるようになっている。

頭の中の演算処理が上手く行っている時にしか笑わなかった彼女が人の死に可哀想と思い、花を見て綺麗と感じ、空を見て色が美しいと思うようになっている。

そして真賀田四季研究所で娘が死んだ時に腕を切断した際のことを語る四季は突然涙を流す。彼女にとって死んだ人はもはや物でしかないはずなのに、やはり心の奥底では娘の死を悼んでいたのだ。

犀川は四季に問う。「人間がお好きですか」と。
そして四季は「ええ……」と答える。綺麗な矛盾を備えているからと。
論理的であることを常に好む彼女が行き着いたのは愛すべき矛盾の存在。それこそが人だったのだ。

真賀田四季はまだその生命を、いや存在を残してまだまだ色々とやることがあるようだ。
但しその彼女は今までの彼女ではなく、人への興味を持ち、そして自らにその人格を取り込んで生きている。もはや時間を、空間をも超越し、終わりなき思弁を重ねる1人の類稀なる天才が神へとなるプロセスを描いたのがこのシリーズなのだ。
そしてそれはまだ途上に過ぎない。

但し解るのはそこまでだ。それは仕様がない。なぜなら私のような凡人には天才の考えることは解らないのだから。

今後のシリーズで本書で生れた数々の疑問が解かれていくのだろう。その時またこの作品に戻り、意味を理解する。
ある意味本書が全ての森作品が行き着く先なのかもしれない。

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四季 冬 (講談社文庫)
森博嗣四季 冬 についてのレビュー
No.1324: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

貴方にとっての美とは?美人とは?

篠田節子氏の初期のホラー作品で第8作目に当たる本書は完璧な美を手に入れた整形美人と完璧な美を愛でるデザイナーの異常な関わり合いを語った作品だ。

登場人物はわずかに2人というまさにぜい肉をそぎ落とした作品で僅か220ページにも満たない中編とも云える作品だが、なかなか読み応えがあった。

まず主人公の名は麗子。苗字はない。幼い頃から器量が悪いために恋人はおろか、実の親からも疎まれてきた女性。

自分を生んだことで心臓病を患い、寝たきりの生活を強いられるようになった母親。それによって独立の夢を捨てた大手建設会社に勤めていた父からは「お前さえ生まれてこなかったら」と呟かれる。

高校2年の時に美術科教員に恋し、友人の一人がモデルをして抱きしめられたと聞き、自分も同じようにしてもらおうと教員の許を訪ねるが碌に見られもせずに相手にされなかったこと。

30を目の前にしてバンド仲間から求婚されるがその時の言葉が「俺もぜいたく言っていられない歳になった」だったこと。

そんな誰からも相手にされず、相手にされても常に見下されていた存在だった彼女は一念発起して大整形に踏み切り、完璧な美人顔を獲得する。

しかしそれがあまりに完璧すぎたため、人間味がなく、逆に畏怖と困惑の表情で迎えられてきた。とにかく何をしても裏目に出てしまう幸運に恵まれない女性、それが麗子だ。

その麗子を初めてまともに見てその美しさを礼讃したのが平田一向。新進気鋭の若手デザイナーで世間の注目を集めている彼は医学部を中退し、工学部に入り直し、在学中にイタリアのデザインコンクールで入選したことをきっかけに工学部も中退してデザイン事務所に就職し、今は独立して仕事を直接受けている。

彼はしかし完璧な美を愛でる男性だが、彼にはそこに生命の美しさを求めない。彼にとって人間の血や涙と云ったものは汚らわしいものであるため、即物的な美を常に求めるのだ。それには幼い頃に伯父がベネチアで買ってきた『解体できるヴィーナス』と呼ばれる完璧な美女を模した医学用の人体模型に魅せられたからだ。

それはまるで生きているかのように精巧かつこの世の中で最も美しいと思われる顔と姿を持ち、しかも人体模型であるから肌が外れ、その中にはきちんと内臓も備わっており、更に子宮と胎児すら収まっているという代物だ。それは血も膿も流さず、全く綺麗にその中身をも手で触れ、愛でることができるため、いつしか平田はそんな完璧で汚れなき美の存在だけを愛でるようになった。

しかし彼の前に現れたのが整形された麗子だった。彼は今まで人形だったその人体模型がリアルな人間として現れたと感じ、彼女に興味を持つ。

一方で麗子はそれまで畏怖と困惑でしか自分を見てくれなかった人たちばかりの中で初めて自分を見つめ、愛でる平田こそ自分が求めていた男だと思い、全てを擲ってまでも彼と一緒にいることを決意する。

平田はしかし麗子を求めはするが、求められると冷たく突き放す。
それは平田にとって麗子は完璧な美の存在であり、生きた人形であっていたかったからだ。彼にとって麗子が自分を愛すると云う感情は不要だった。彼は麗子の美に興味があり、そして金髪の腎臓模型のようにその中身に興味があったのだ。こんな完璧に美しい女性の中身をどうしても見たくて堪らなかったのだ。

はっきり云って平田は大いなる矛盾を抱えた存在である。
完璧な美を追求し、そんな人間を見つけて興味を覚え、その中身を見たいと熱望するが、そうすることで人体から出血し、生臭い臓物が出て、しかも食べた物が発する悪臭を最も嫌悪するのだから。

それはつまり好きな物は欲しくて、好きなことはやりたいが、汚れるのはいやという実に子供じみた我儘と大差ないと云える。

一方麗子もただ屈辱に甘んじていた女性ではない。
高校の時に全く相手にもされなかった美術科教員を逆恨みし、その教員と身体の関係を持ったと嘘をつき、その噂がもとでその美術科教員は転勤を余儀なくされ、その後もその噂が消えず、とうとう教員を辞め、婚約破棄になり、アルコール中毒で入院することになる。

また平田が夢中になっている人形に嫉妬し、平田を自分の物にするために地下室でその人形の服をはぎ取り、配管工事に来た人間にわざと見させ、平田の評判を貶めさせることを企むが、修理屋はそれをダッチワイフか何かと勘違いして性行為にまで及ぶのだ。

そう麗子もまた独占欲の強い人間なのだ。彼女は自分の手に入らないと思ったら嘘を平気でつき、更に運命と思えた男を手中に入れるためにはどんな手を使ってでも自分の方に目を向けさせるために罠を企むことをする。

それは彼女が平田一向との出逢いに運命を感じ、彼を最初で最後の男性だと強く思っているからだ。従って彼と世を捨てて2人だけで暮すことや、もしくはこのまま雪の中の山荘で2人で死ぬことも厭わない女性だ。
つまり彼女もまた盲目的に1人の男性を愛してしまう、ストーカー気質の危ない女性であるのだ。

この正常から逸脱した男女2人の出逢いはしかし最後価値観の違いからすれ違ってしまう。

ところで不気味の谷というのを御存じだろうか。

人型ロボットやCGアニメなどの技術が発展し、より人間に近い造形にしていくと人は徐々に好感を増していくが、あるところに達すると嫌悪感を覚えるようになる。その領域のことを不気味の谷と云うが、麗子の容姿はまさにその不気味の谷に位置する領域にあった。

それは彼女が単に外面的な美しさに囚われ、内面を磨かなかったからだ。いつも劣等感を抱き、時に強い嫉妬を抱いて復讐行為をする彼女は云わば心の無い人形に過ぎなかった。

人は見た目が9割だと云う。そして現実に美人の方が得するようになっている。
従って人は自分の容姿をできるだけよく見せることに努力をする。恵まれた容姿を持つ人の、自分の容姿に対する思いは様々だが、容姿に恵まれない人の思いは常に一緒で、より美しく、より端正になりたいと願う。だからこそ美容産業は衰退せず、今なお隆盛であり、毎年新たな化粧テクが生まれ、今や男性用の化粧品も市場が拡大してきていると聞く。

斯く云う私も美人が好きであることは正直に認めよう。
だがやはり人が惹かれるのは性格である。その人が纏う雰囲気こそが一緒にいたいと思わせるファクターであり、それが愛なのだ。容姿は出来れば美人であることに越したことがないという程度の方がいい。

とはいえ毎年世界各所ではミスコンテストが行われ、美を競い合う。また芸能界でも次から次へその世代を代表する美しい女性たちが現れ、世を魅了する。歴史の中でも1人の美人によって滅んだ国や美人によって身持ちを崩した偉人も数多くいる。

美の追求、それは永遠に終わらない世の理だ。
ただ幸いにして私は自分の人生を擲ってでも一緒にいたいと思った美人に逢ったことがない。それこそが幸せなことなのかもしれない。それほどまでに美は人を狂わせるのだから。


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美神解体 (角川文庫)
篠田節子美神解体 についてのレビュー
No.1323: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

コナリー版白雪姫の結末はあまり苦い

ハリー・ボッシュシリーズに関してもはやシリーズ何作目と書くことは意味をなさなくなってきたようだ。
というのもコナリー作品は複数のシリーズが交錯しており、しかも主人公もシリーズキャラクターが、初期はサブキャラとして描かれていたが、最近では同じ比重で書かれてることからもはや1つの作品がそれぞれのシリーズの1作品として見なされるようになった。従って訳者である古沢氏もシリーズ○作目という表記をせずにコナリー作品25冊目という表記に変えているので私もそれに倣うことにしよう。

とかなり前置きが長くなったが、コナリー25作目である本書は作家デビュー20年目という節目の作品となった。

それを意識してか、内容も20年前にボッシュが関わったロス暴動に巻き込まれた女性外国人記者殺害事件の再捜査になっている。

しかしそこはコナリー、物語はそれだけに留まらない。20年目の25作目と作品数も数を重ねているにも関わらず、その精緻なプロットには全く以て舌を巻いてしまった。

いつもながら物語の発端はシンプルながら、事件の捜査が進むうちに判明してくるプロットは複雑で実に混み入っているが、謎が謎を呼ぶ展開は全く以て飽きさせない。

ロス暴動の最中の女性外国人ジャーナリストの死。20年後その未解決事件(コールドケース)に着手したボッシュは唯一の手掛かりだった現場で拾った薬莢からストリートギャングによる犯行であると焦点を絞り、決定的な証拠に欠け、解決の糸口が掴めないまま、ボッシュは上層部から捜査中止の圧力を受ける。

一縷の望みを被害者の記事を採用していたデンマークの新聞社と遺族である兄弟に託すが彼女が休暇ではなく、取材でアメリカに来ていたことが解るのみ。渡米するまでに彼女はドイツ、クウェートを経てニューヨークに入り、そこからアトランタを経てロスアンジェルスに辿り着き、そこで亡くなったことが判明するが、そこに何の手がかりも見出せない。

やがて一人の容疑者が浮かび上がるがそれも外れ。しかしそこからようやく凶器の銃が見つかり、それがやがて湾岸戦争の最中に起きたある犯罪へと繋がっていく。

たった1つの薬莢から切れそうな手掛かりの糸を辿り、そして事件の真相へと繋がっていく展開はまさにスリリングだ。

ここで注目したいのが事件の動機が湾岸戦争へと繋がっていくことだ。ボッシュシリーズの幕開けはヴェトナム戦争時代の戦友の一人ウィリアム・メドーズ殺害事件だった。つまりそれはハリー・ボッシュという男がヴェトナム戦争のトンネル兵をしていた帰還兵であることを強く意識した幕開けであり、その後もこの元ヴェトナム従軍兵という過去はボッシュの中のトラウマでありつつ、闇を見つめ続ける宿命として描かれる。

そしてこの20年目の作品で再び扱われるのは戦争に纏わる忌まわしい過去。しかし既に21世紀になった今、戦争はもはやヴェトナム戦争ではなく湾岸戦争なのだ。この20世紀末に起きた湾岸戦争に従軍したある一隊、カリフォルニア州兵部隊が起こしたスキャンダルが事件の正体なのだ。それはやはり20年目の25作目という節目を意識した原点回帰的作品ことの証左でもある。

本書のタイトルは原題と全く同じ。このシンプルな題名は今では航空機に内蔵された事故が起きた際のフライト・データ全てが記録されている機器、ブラックボックスで有名だが、本書もそれに擬えられている。

ボッシュが作中で述べるように、かつて彼が若き頃ロス市警の強盗殺人課の刑事だった時の相棒フランキー・シーハンがたびたび漏らしていた、殺人事件の捜査に全てが明るみになるものの存在を指し、それを見つけることが解決のカギとなる。
それまでの作品でも色々なブラックボックスが登場したが、本書のそれは実に意外な形で登場する。それについては後でまた述べることにしよう。

さて私が本書のタイトルを刊行予定で見た瞬間に思ったのは、久々にコナリー作品のタイトルに「ブラック」の文字が躍ったということだ。

初期のコナリー3作品は原題、邦題それぞれに意識してこの「ブラック」が使われていた。

1作目の『ナイトホークス』の原題が“The Black Echo”、2作目が邦題、原題ともに『ブラック・アイス』、3作目は邦題が『ブラック・ハート』と、原作者、訳者ともにボッシュの持つ、ヴェトナム戦争帰還兵という経歴に由来する、心の奥に蟠る暗い情念を意図してこの「ブラック」が使われていた。

そしてそれから18年(原書では19年)を経て久々にこの「ブラック」の文字を冠したのは勿論作者としても意識的だったことは間違いない。

なぜなら本書は作家生活20年目の集大成的な作品の趣を備えたオールスターキャスト登場と上に書いたようにボッシュの原点回帰的な内容になっているからだ。

まず物語の冒頭ではハリーがハリウッド分署で働いていた時のシーンだ。従って元相棒ジェリー・エドガーとの捜査が語られ、懐かしさを覚える。

また上に書いたように題名の基になっているのはハリーがハリウッド分署に移る前にロス市警の強盗殺人界にいた時の相棒フランキー・シーハンであり、彼は『エンジェル・フライト』の事件で陰謀に嵌められ、もう既にこの世にいない。

また元未解決事件班の班長だったラリー・ギャンドルは強盗殺人課を統括する警部に昇進しており、ボッシュは彼にかつてデンマーク語を翻訳した警官について問い合わせをする。

またキズミン・ライダーは前回のアーヴィングの事件で出世し、ウェスト・ヴァレー分署の警部となっていることが明らかになる。そしてその事件の後、一切口を利いていないことも。

亡き父親J・マイクル・ハラーの墓参りにも行き、そこで『シティ・オブ・ボーンズ』で虐待死したアーサー・ドラクロワの墓へも行く。レイチェル・ウォリングに銃のシリアルナンバー特定のために助けを乞い、とまさにそれまでのボッシュシリーズの足跡を辿るような趣を所々感じる。

一方で前作で知り合ったハンナ・ストーンとの仲も続いているようで、既に娘のマデリンとは面会済みで今回ボッシュはスタニスラウス郡の単独捜査で数日留守にしている間、ハンナに娘の面倒を見ることすら頼んでいる。
しかし一方強姦罪で服役中の彼女の息子ショーンと刑務所で面談したことで2人の関係に暗い翳が落ちそうな予兆を孕んで物語は終わる。

そう、そしてもはやシリーズのオアシス的エピソードとなっているのがボッシュと娘マデリンとのやり取りである。
ボッシュは更に着々とマデリンに刑事としてスキルと心得を伝授していることが描かれる。今回はポリス・アカデミーで行われているフォース・オプション・シミュレーターで実際の現場さながらの緊迫した状況の中での警察としての判断と狙撃の正確さを問われる訓練を行う。狙撃の腕前と判断はもはや凡百の警察官をしのぐ技能をマデリンは見せるが、唯一謝ってキャビンアテンダントを狙撃してしまったケースに意気消沈する。
やはりまだティーンエイジャーの彼女には実際さながらの命のやり取りを行うシミュレーションを行うのには早すぎたようだが、その時に抱いた思いは今後彼女が警察になった時には決して忘れない教訓として活きることだろう。

他にもボッシュが娘をいじめている男子がいることに心を痛めていることや娘が自分の誕生日にビールを買っていたことに対して娘が偽造IDで成人だと偽って買ったのではないかと勘繰り、勝手にバッグを調べているところを見咎められ、気まずくなるところなど、親子の少し不器用で子煩悩なボッシュとのやり取りが実に面白い。このエピソードが胸に心地よく響くのは娘マデリンがボッシュを父親として好いていることが解るからだ。野獣のようだったボッシュにとってマデリンはこの上もなく大切な存在であり、そしてマデリンも父親を一人の刑事として尊敬していることが更に物語に厚みをもたらしたように思える。

そして今回掘り起こされる事件はこのロドニー・キング事件で暴徒と化したロスアンジェルスの只中で殺害された女性外国人記者の死だ。
もはやコナリーにとってロドニー・キング事件について語ることはライフワークと化しているようだ。この事件が起きたのは1992年でコナリーが作家デビューした年でもある。そういった意味でも今もアメリカ社会に蔓延る人種差別問題を語るためにもコナリーにとってこの事件は忘れずに語るべき事件となっているのかもしれない。
今回もそのロス暴動から20周年の年にギャングに殺された白人女性の捜査をしているボッシュを快く思わない元同僚の本部長マーティン・メイコックに捜査の一時保留を命ぜられる。これもまた一種の人種差別だ。

そしてやはり昨今のテレビ刑事ドラマを意識してか、今回もCSIばりの最先端の科学捜査が紹介される。それは削られた銃のシリアルナンバーを浮かび上がらせる方法だ。
いやあ読者を愉しませるためには貪欲なまでに昨今の流行までをも取り入れるコナリー。全く卒がない。

そして本書が原点回帰的作品であることのもう1つ大きな理由は今回の犯罪が湾岸戦争帰還兵によるものだからだ。

粘り強いボッシュが事件を解決できるのは一旦原点に戻ることを厭わないからだ。彼が事件を再検証する時はもう一度原点に戻って事件のファイルをつぶさに読み返す。それはまさしくコナリー自身そのものを指しているように思える。

コナリーの作品が面白いのは過去の因果がボッシュの現在に及ぼしていることだ。それはつまり過去にこそ作品の種は蒔かれており、それを忘れずにコナリーは育つのを待ち、そして時が来た時に刈り取っているからだ。そうすることで物語と作品の世界に厚みが生まれ、そしてハリー・ボッシュを、登場人物たちに血肉を与えることに繋がっている。それがシリーズに濃いドラマを生み出し、そして常に傑作レベルの水準を保っているように思える。
こう書くとコナリーと同じようにすれば誰もが傑作を掛けるのかと勘違いしてしまうが、そうではない。そういう眼を持っているからこそ、このコナリーという作家は優れているのだろう。

また遅まきながら25作目において今回痛烈に気付いたのはボッシュが相手にしているのは法ではなくあくまで人だということだ。

無慈悲なまでに殺された人がいる。
自分の都合で人を殺した奴がいる。
その人が殺されたことで哀しむ人がいる。
そんな人達を目の当たりにし、相手にしてきたからこそ、ボッシュは正義に燃えるのだ。

彼は悪に対して異常なまで憎悪する。悪事を働きのうのうと生きている輩に対して鉄槌を落とすことを心から願っている。
従って犯人を捕まえるためには多少のルール違反も厭わない。そうしないと捕まえることのできない悪人がこの世にいるからだ。

今回の捜査も際どい行為を行う。
休暇を取り、当時の事件関係者が住まうスタニスラウス郡のモデストに単独捜査をするために。そして彼は容疑者一味の中でウィークポイントと思われる、事件のことを後日電話で偽名で尋ねてきたレジー・バンクスに焦点を当て、ホテルに監禁し自白を強要する。

そんな綱渡りをするのも全て殺された人の、そして遺された人たちの無念を晴らすためだ。

今回新しく未解決事件班の班長になったオトゥールが上司からの圧力をそのまま部下に伝え、世間体を重んじ、部下の出張や必要経費について厳しい目を配り、そして過剰なまでにルールから逸脱しようとする行為を取り締まるのに対してボッシュは強く反発する。警察は上司への点数稼ぎや報告するために存在するのではなく、被害者や彼らの家族のために現場で事件を解決するためにいるのだと。

最後事件が解決したことを報告するために被害者の遺族のいるデンマークへの出張をオトゥールから断れる。もう20年も前のことだから必要ないとの理由で。

しかしボッシュは電話越しにその被害者を殺された無念の怒りを感じとる。事件はまだ終わっていないのだと云うことを。

ボッシュは事件を解決する。それは犯人が解らないまま事件が葬り去られる遺族の無念を晴らすためであると同時に悪がのさばっている現実を良くしようとするためだ。
しかし犯人が逮捕されても被害者遺族の無念は続いたままであることをボッシュはその都度思い知らされるのだ。
それでも彼が犯人を追う。“それが私たちのしていること”という信念に従って。

その被害者の北欧人特有の色の白さから白雪姫事件と名付けられた今回の事件。毒リンゴで眠らされた白雪姫は七人の小人に連れられた王子様のキスで目覚めるが、彼女アンネケ・イエスペルセンは逆に消されてしまった。
そんな彼女の事件を掘り起こし、5人の兵士たちに目覚めさせたのはボッシュという王子と呼ぶには泥臭い刑事だった。

事件は解決したが童話のように幸せな結末とはならなかった。
無念が、犯人への怒りが遺族とボッシュ自身にも残ったままだった。
これがコナリー版白雪姫。殺人事件にハッピーエンドはないと痛烈に突き付けられた思いがした。


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ブラックボックス(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリーブラックボックス についてのレビュー
No.1322: 5人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

ファン、怖い…

私も映画化作品を観たこともあり、またガーディアン紙が読むべき1000冊の1作に選ばれた、数あるキング作品の中でも1,2を争うほど有名な作品。
映画も怖かったが、やはり小説はもっと怖かった。

説明不要のサイコパスによる監禁物であるが、驚かされるのが作品のほとんどが監禁状態で語られることだ。しかも物語の舞台は95%以上が狂信的なファン、アニー・ウィルクスの家で繰り広げられている。

限られたスペースで物語が繰り広げられるキング作品は先に書かれた『クージョ』が想起されるが、あの作品もメインの舞台となる車の中での監禁状態に至るまでの話があった。
しかし本書は始まって5ページ目には既にアニー・ウィルクスの部屋にいるのである。文庫本にして500ページもの分量をたった1つの部屋で繰り広げるキングの筆力にまず驚かされる。

とにかく主人公ポール・シェルダンを監禁し、自分だけの新作を書かせる熱狂的なファン、アニー・ウィルクスが怖い。

元看護婦でもある彼女は夫と離婚して1人ひっそりと町の外れの一軒家に住む女性。彼女はポール・シェルダンの小説の熱狂的なファンだが、彼が書いているミザリー・チャステインという女性を主人公にしたシリーズ物だけを愛読している。彼女がかなりの躁鬱症であることが次第に解ってくるが、それだけでなく非常に残酷で厄介なサイコパスであることが物語が進むにつれて明らかになってくる。

彼女は雪嵐に見舞われて、交通事故に遭って瀕死の状態だったポール・シェルダンを助ける。彼は事故によって両足に重傷を負い、歩くのもままならない。彼女は元看護婦であり、治療となぜか大量に薬を所有しているため、献身的に看病する。
九死に一生を得たポールは感謝しつつもしかし主人公はなぜこの女性が一向に病院に連絡しないかを訝しむ。いや、意識を取り戻し、彼女と最初に話した時点でこの女性がまともではないことを悟る。

そこからはポールの災難、いや災厄の日々の始まりだ。

このアニー、とにかく自分の思い通りにならないとすぐに癇癪を起す女性だ。
そして彼女は狂人でありながら理性も備えており、ある一定の自分なりのルールに従って生きていることも解ってくる。

例えば彼女は無断でポールの鞄の中を物色し、そこに彼が2年がかりで仕上げたばかりの渾身の新作『高速自動車』の原稿を勝手に読むが、その中にある財布の中の金は取らない。

また一ファンとしてミザリーの続編についてアイデアを出すが、それを強要したりしないし、また早く続きが読みたくなっても、鞭打って書かせるわけでなく、作者ポールが作品を書きやすいように色々と世話を焼いたりする。

しかし上に書いたように彼女はサイコパス。それも長続きはせず、突然虚ろになったかと思うと、憮然としてポールを見捨てたり、またポールが笑うと自分が嘲笑われているように勘違いし、ポールに嫌がらせ、もしくは体罰を施すのだ。その拷問とも云える仕打ちがまたすさまじい。

もう痛々しいどころの騒ぎではない。これほどまでに人に執着し、自分の思い通りにならないことに癇癪を立てる人がいただろうか。
いや、いるのだ、実際この世には。

愛。
それは何ものにも代え難い感情で困難に打ち克つ力として愛をテーマに人は物語を書き、詩を書いて歌にする。人が誰かと一緒になるのも愛あればこそだ。

しかしこの強い感情が実は最も人間の怖さを発揮することになることを本書は知らしめる。

アニー・ウィルクスはポール・シェルダンの書くミザリーシリーズという小説が大好きで大好きで次作が出るのを待ち遠しくしていたのに作者がこの主人公を殺してしまったから、それが許せなかった。
自分の好きな作品を返してほしい。そして彼女にはそれが出来た。なぜならその作者が満身創痍の状態で自分の家にいたからだ。

彼女は献身的に重傷の作者を介護し、自分に逆らうとどういう目に遭うかを知らしめるために彼を支配した。

それもこれも自分の大好きなミザリーシリーズの、自分のためだけに作者が書いてくれる続きを読みたかったからだ。

ファンというものは有難いものだが、一方で恐怖の存在にもなりうる。
そしてこれはただの作り話ではない。キングが遭遇したある狂信的なファンの姿なのだ。

そして面白いのはこの事実に基づいて書かれた作品でありながら、本書でも他の作品とのリンクが見られることだ。
まず主人公ポール・シェルダンの母親が彼が12歳の頃に一緒にボストンに行く隣人ミセス・カスプブラクは『IT』に出てくる喘息持ちの少年エディのあの過干渉の母親のことだろう。

またアニーが殺害したアンドルー・ポムロイが絵に描こうとしたホテルは『シャイニング』の舞台になったオーヴァールックで『シャイニング』の事件のことが触れられる。

つまりキングは自らの実体験に基づいた話もまた彼の作り上げたキング・ワールドに取り込むのである。それは恐らく自らの経験を現実から切り離す必要があったからかもしれない。

これがもしキング自身が抱いたトラウマだったら、彼は本書を著すことでトラウマを克服し、解消しようとしたのではないか。
つまり彼は自分の紡ぐキング・ワールドに狂信的なファンの幻影を封じ込めようとしたのではないか。

そう、忘れてはならないのは本書がサイコパスによる監禁ホラー物だけの作品ではなく、小説家という職業の業や性を如実に描いた作品でもあることだ。

上述したように本書は95%がアニー・ウィルクスの家で繰り広げられるが、この長丁場を限られた空間で読ませるのは狂えるアニーのエスカレートするポールへの仕打ちとそれに対抗するポールの生への執着だけではなく、ポール・シェルダンという作家を通じて小説家の異様なまでの創作意欲、ならびに創作秘話が語られることも忘れてはならない。

とてつもなく非人道的な仕打ちをうけながら、なおもミザリーの新作を完成させようとする彼は作者キングの生き写しだ。

最初はどうにか助かりたいと思って苦痛を抑えるために屈辱的なことも敢えて行った彼が次第に回復するにつれ、自分の命を繋ぎ留めるミザリーの新作に次第にのめり込んでいく。今までファンのためだけに書き、自身では早く終わらせたくて仕方がなかったミザリーがアニーという狂信者によって続編を書くことを強要され、文字通りその身を削って命懸けで案を練るうちに彼の中に今までになく充実したミザリーの物語が展開するのだ。それはさながら極限状態から生まれたアイデアこそが傑作になりうるといった趣さえある。

一度始めた物語は最後まで書きあげたい、自分の頭にある物語を形あるものとして残したい。
満身創痍の中、必死に『ミザリーの生還』に取り組むポールはキングそのもの。

そしてそこここに挿入されるポールが小説を書くことに纏わるエピソードもまたキング自身のそれだろう。

ある駐車場でそこの係員が鉄梃で車のドアを開けようとしたのを見て2,3ブロック歩くと頭の中に1人のキャラクターが生まれていた、物を書くときには目の前にある向こう側の世界の穴に入り込む、昼寝をしているといきなり爆弾めいた閃きが起こり、メモを書き留める手ももどかしくなるほどアイデアが泉のように沸く、本当は他人のために小説を書くわけではない、全ては自分が書きたいから書くのだ、そんな自己本位な態度が空恐ろしいから本の初めに献辞をつけるのだ、等々。

本書を著した1987年頃、キングはアルコール依存に加え、薬物依存症に陥っていたと云われている。アニーがくれる痛み止めを欲するポール、そして最後に涙を流しながらインスピレーションに従い、タイプを打つポールの姿はキングそのものといっていいだろう。
話を続けること、それしか小説家は前に進めないのだ、と自身に云い聞かせているように思える。

そしてアニーが獲得した状況はまたファンにとって理想的な物だろう。

自分だけにポール・シェルダンという作家が自分の好きなミザリー物の新作を書いていること、新しいページが出来るたびにそれを読む恩恵にあずかっていること、そして早く続きが読みたいこと、時に自分からアイデアを出し、それが採用される喜びなどからポールを繋ぎ留める。
それは一種彼女にとっての愛情であり、恐らく同様のことを思うファンもいることだろう。

支配欲の強い彼女は相手が自分に逆らうことを忌み嫌う。
自分がこれほどしてやっているのに何が不満なのか?
なぜこうまでしているのに自分の許から離れようとするのか?
彼女はいつも自分の行為に対して相手に代償を求めているのだ。それも自分がした以上の代償を。
だから自分の意に反することを相手がやられると裏切られた気持ちになり、それによって生じる憎悪が生じる。
しかしこれはごく普通の人間が抱く感情でもある。ただ彼女の場合はそれが強すぎ、そして普通の人が超えられない一線を超えることが出来るだけなのだ。

作中で頻りに語られるようにポール・シェルダンとアニー・ウィルクスの関係は自分の命を繋ぎ留めるために王へ千夜一夜話を続けたシェヘラザードのそれと同じなのだ。つまりこれはキング版アラビアン・ナイトなのだ。

そのアラビアン・ナイトに相当するのが作中でポールが書くミザリーの新作『ミザリーの生還』。本書ではこの新作もまた断片的に作中作として挿入される。

本書のタイトル『ミザリー』はこのポール・シェリダンが続編を強要されるシリーズ作品の主人公の名前ミザリー・チャステインから採られているように思えるが、やはりポール・シェルダンが出逢ったこの途轍もない悲惨な状況を示していると云える。
この決していい意味では使われない単語を名前に冠する主人公の物語は本書では再生の物語として書かれる。それは今まで書けなかった傑作となるミザリーの新作。悲惨な状況が傑作を生む皮肉を表している。
そして当時薬物依存という最悪の状況に陥っていたキング自身の心理状態をも表しているようだ。

またアニーのような人物を生まれるのは物語に対して人が感情移入をするからだ。物語の主人公、つまり虚構の存在であるのに、それが次第にそれぞれの読者の心に住まい、恰も現実の世界の住民となっていくことが作中ポールの独白で語られる。

シャーロック・ホームズを葬り去った時にファンたちのみならず実の母親からも猛抗議に遭い、結果、ホームズを蘇らせ、その後数十年間シリーズを続けたコナン・ドイルの話から自分の好きなシリーズキャラクターが死んで喪に服したファンの話―そういえば日本でも力石徹が死んで葬式を行ったファンがいた―、作品の中で強烈に印象付けられたシーンのせいで眠れなくなる、云々。

単に一人の人間が想像した人物・世界がもはやその作者のみものではなく、共有されることで作者の手を離れた1つの人格、世界として認識されてしまい、そしてそれぞれの心の中にそれぞれの世界が築かれるのだ。それが物語のマジックである。
つまりこのマジックにアニーは取り込まれてしまったのだ。そしてそれをマジックの生みの親である作者が逆にファンによって虐げられる皮肉が描かれているのだ。

狂信的なファンによる監禁ホラーというシンプルな構造の本書は上に書いたようにファン心理の怖さ、そして自己愛が強すぎる者の異常さと執念深さのみならず、小説家という人間の業、更に物語が人から人へと広がっていくマジックなど、非常に多面的な内容を孕んでいたが、それだけでは終わらない。

実はここに書かれていることが現実となるのである。

交通事故に遭い、満身創痍になったポール・シェルダンは本書を著した12年後のキング自身の姿である。彼自身も車に撥ねられ、重傷を負い、そして片脚に障害を負う。

この作品が他のキング作品と異なる怖さを秘めているのは、そんな現実とのリンクが―しかも未来を暗示していた!―あるからこそなのかもしれない。

キングは本書をフィクションとしてキング・ワールドに封じ込めたのではなく、実はキング・ワールドが現実にまで侵食してしまったのだ。

一人の作家が描いた世界がとうとう現実世界へ波及した稀有な作品として本書は今後私の中で忘れらない作品となるだろう。


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ミザリー (文春文庫)
スティーヴン・キングミザリー についてのレビュー
No.1321: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

秋は実りの季節

四季シリーズ第3作目の本書は森作品ファンへの出血大サービスの1作となった。

今まで真賀田四季を主人公に彼女の生い立ちを描いてきたこのシリーズだが、3作目に当たる本書はそれまでと異なり、なかなか真賀田四季本人が登場せず、寧ろ犀川創平と西之園萌絵とのやり取りと保呂草潤平と各務亜樹良の再会とそれ以降が中心に語られ、S&Mシリーズの延長戦もしくはVシリーズのスピンオフといった趣向で、主人公である真賀田四季は全283ページ中たった10ページしか登場しないという異色の作品だ。

ファンにとって嬉しいのは両シリーズのオールキャスト勢揃いといった内容になっていることと今まで断片的であったS&MシリーズとVシリーズのリンクがもっと密接に結びつく内容になっていることだ。更に両シリーズのみならず、それまでの森作品のほとんどが結びつくようなものになっている。

本書の主題とは犀川が『有限と微小のパン』で語られたユーロパークで起きた事件以後、真賀田四季とコンタクトを取ったことが明かされ、それによりさらに真賀田四季への理解と疑問が深まった犀川があれほどの天才が娘を殺害してまで妃真賀島を脱出した目的を探ることである。

そしてそれを探るべく犀川は当時四季の部屋に残されていたレゴブロックに手掛かりがあると睨む。そして残されたパーツに不足分があること、ブロックで作られた兵隊の人形に隠されたメッセージに従い、イタリアのモンドヴィに萌絵と飛ぶ。

一方保呂草は各務亜樹良の行方を探るために彼女が接触していると思われる真賀田四季の足取りを追っており、彼も同じブロックの兵隊に隠されたメッセージを見つけ、イタリアに飛ぶ。そしてミラノで各務を見つけることに成功するが、四季からメールを受け取った各務と共に同じくモンドヴィに向かう。

その地こそが犀川と萌絵、そして保呂草と各務、即ち両シリーズのランデヴーポイントとなる。

しかし常々思っていたことだが、S&MシリーズとVシリーズ、やはり意識的に森氏はその趣を変えていたことが両シリーズが邂逅する本書で如実に判った。

S&Mシリーズが西之園萌絵の生い立ちに暗い翳を落としつつもその天然な天才少女とこれまた浮世離れした大学の助教授という組み合わせでライトノベル風に語られているのに対し、Vシリーズが小鳥遊練無と香具山紫子というコメディエンヌ(?)を配しつつも、登場人物間の関係に纏わる恋愛感情の縺れや諍いを描き、更に保呂草という犯罪者の暗躍も描いた少し大人風なダークの色合いを湛えており、それがそれぞれのパートで見事に対比できるのである。

まず犀川と萌絵の登場パートはシリーズ終了以降の2人が描かれる。それには短編集『虚空の逆マトリクス』に収録されていた「いつ入れ替わった?」で語られた犀川が婚約指輪を渡すエピソードも語られ、犀川と萌絵の結婚生活が始まりそうで始まらない状態で物語は進む。真賀田四季を追ってイタリアへと飛ぶが萌絵は婚前旅行と思い、嬉々としているが、犀川はようやく真賀田四季に逢えると思い、喜んでいるといったギャップがあり、結局そこでは何も恋愛沙汰は起きない。

一方保呂草と各務のパートは犯罪者の2人らしく大人のムードで話は進む。まあこれが実にスマートで、一昔前のトレンディドラマを観ているかのように台詞、仕草どれをとっても洒落ている。

そして保呂草は各務との再会を果たすために色んな人物と出逢ったことを後悔する。特に愛知県警の本部長を叔父に持つ西之園萌絵との再会は彼に日本の地を踏むことを半ば諦めさせるほどに。

ジャーナリストである各務が書くべき記事や原稿が沢山あると述べ、保呂草が自分でも何か書こうかなと零すシーンは彼がその後自分の一人称で始まるVシリーズを執筆することを仄めかしているようで面白い。

そしてやはり触れなければならないのは西之園萌絵と瀬在丸紅子、2大シリーズのヒロイン同士の邂逅だろう。

瀬在丸紅子は無言亭からどこかにある、ある金持ちによって移築された歴史建造物に管理人として住んでおり、使用人だった根来機千英は既におらず、1人で暮らしているようだ。

萌絵は犀川から婚約指輪を貰ったことで挨拶に行くために訪れたのだが、そこで萌絵は彼女から人生訓を授かる。

犀川創平が好きでたまらず、自分の物にし、自分の方だけを向いてもらいたい萌絵は、つまり若い女性にありがちな独占欲とも云うべき愛情を強く抱いている。

それに対し、紅子は一方向にしか風が来ない扇風機を愛するよりも全てに光を当てる太陽を愛でるように愛しなさい、それが許すということですと諭す。

私はこれを読んだ時にかつて祖父江七夏と犀川林を巡って醜い女の争いを繰り広げていた紅子がここまでの悟りの境地に至ったのかと驚き、そして感心した。

その言葉によって西之園萌絵は少し救われた気持ちになる。

面白いのは西之園萌絵よりも年上で大人の女性である各務亜樹良もまた同じように独占欲が強いことだ。
彼女はモンドヴィの教会堂の壮麗さに感心する保呂草に自分はこれが自分の物にならないから駄目だと云う。つまり彼女は欲しい物は手に入れたく、そしてそれが出来た人間だったからだ。そして彼女が今欲しいと思うのは保呂草潤平と名乗るこの危険な男だ。西之園萌絵と各務亜樹良は似て非なる女性でありながら実は根っこの部分では同じ精神性を持った女性といえるだろう。

しかし各務はこの後どのように変わるかは解らない。彼女は彼女のままで、いや少し保呂草という支えを欲する弱さを感じているのを自覚しながらも強い女性であり続ける芯を備えた女性として生き続けるのに対し、西之園萌絵はこれから世間知らずの天才少女から脱皮し、1人の女性としての成長していくことが語られる。

まず印象的だったのが西之園萌絵が真賀田四季を畏れており、そしてまた嫌っていることが明かされる。

彼女の物語の始まりである『すべてがFになる』の始まりは西之園萌絵と真賀田四季の会談である。彼女は現代最高の天才と称される真賀田四季と逢うことを愉しみにし、そしてその会談を愉しんだ女性だ。しかしその後シリーズ最終作『有限と微小のパン』で再び彼女と対面した時に四季の凄まじいまでの天才性に慄いてしまったのだ。

それまで高速の計算能力を持っていることが自分の才能であり、それを自覚しながらもそれを拠り所にしているとは考えていなかったが、全てにおいて自分を凌駕する存在である真賀田四季と逢ってから自分がその長所にしがみついていたことを自覚させられるのである。
つまりそれは自分がそれだけの存在であると卑小化することに繋がり、彼女は挫折を味わう。そしてその天才が関心を持つのがもう1人の天才犀川創平であり、犀川もまた真賀田四季に並々ならぬ関心を寄せていることが嫌で堪らないのだ。それを乗り越えさせてくれたのが前述の瀬在丸紅子との邂逅だった。

そして彼女が修士課程を終え、ドクタとなり、犀川や助手の国枝桃子から指示を受けて研究を続けていた立場から自分でテーマを決め、大学生や院生に指示を出す立場に変わったことで自分の立場、立ち位置を理解し出したことだ。
それは即ち集団から1つ抜け出た存在になることを自覚し、それによって彼女に責任が生まれる。それは即ち仕事に向き合うということだ。ようやく彼女は社会人としてスタートラインに立ったと云える。

また犀川が好きなことをしていたら仕事ではない、嫌なことをするからお金が貰えるのだと云う件はまさしく私が常日頃思っていることだ。
好きなことをするにはお金が必要。それが嫌であるけど、それを乗り越えるのは好きなことをやるという原動力があるからだ。

しかしこれに対して余りある財産を持つ萌絵がすべて面倒を見るから働く必要はないと云うと犀川はそれなら大学を辞めるという。

これについては私も同じ心情だったが、最近では変わってきている。
多分本当に好きなことばかりやると飽きてくるのではないかと思い始めている。何か外に出て誰かのために働き、そして終わった後、自分のために時間を使う。これが退屈せずに生きることではないかと思っているのだ。

しかしこの西之園萌絵の足取りを通じて森氏は1人の人間の成長の軌跡を語ると同時に、我々読者に人生訓を説いているようだ。本書は大学教授という社会人でありながら執筆活動を続けていた森氏ならではの示唆に富んだ内容が盛り込まれている。

さて秋はやはり実りの秋と呼ばれる収穫の季節だ。まさにその季節が示す通り、収穫の多い作品となった。

前作で保呂草の許に飛んだと思われた各務は逆に保呂草に捕まり、その秘めたる恋を始まらせる。

西之園萌絵の収穫はやはり犀川との婚約だろう。そして彼の母親瀬在丸紅子との会談で得られた人生訓もまた大きな収穫だ。

犀川創平は妃真賀島の事件に隠された真賀田四季の動機がようやく明かされた。

まさに収穫の1冊である。

本書はシリーズ中異色の作品と書いたが、春編と夏編で全ての始まりとなった作品『すべてがFになる』の“それまで”の四季を描き、本書から“それから”の四季を描いていることから、もしかしたら最終作もまた犀川と萌絵の2人を中心にして、そこに保呂草たちが絡む展開になるのかもしれない。

ともあれ起承転結の転に当たる本書は確かにシリーズにおける大転換を見せた作品だった。これは最終作の冬編にますます期待値が上がるというものである。愉しみにしていよう。


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四季 秋 (講談社文庫)
森博嗣四季 秋 についてのレビュー
No.1320: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

物語のゲシュタルト崩壊

奇作『翼ある闇』でデビューした麻耶雄嵩氏の第2長編が本書。文庫本にして700ページを誇る大著である。当時はとにかく重厚長大な作品が多く刊行され、皆競うように原稿用紙○千枚の超大作と云った文句が帯に踊っていたものである。
更に本書は当時も今も読んだ人が一様に真相にぶっ飛んだと述べていた曰く付きの作品でもある。原著刊行後26年経った今、幸いにしてその“驚愕の真相”を知らないまま、本書を紐解くことができた。

そして読後の今、正直なんと評したらよいか解らない。物語のゲシュタルト崩壊とも云うべき結末に大きな戸惑いを覚えている。
一旦これは整理して受け入れるべきものは受け入れて物語を再構築していかなくてはならないだろう。

まず登場人物から整理していこう。

真宮和音という伝説の女優を崇拝し、和音島で20年前に1年間の共同生活をした6人。
京都の呉服屋の次男、結城孟、貿易商を営む村沢孝久とその妻尚美。元医学生でその後カソリックに帰依して神父となっているパトリク神父。そして使用人の真鍋夫妻の3人で和音島にある洋館和音館を護っている大富豪、水鏡三摩地。尚美の兄で全てを真宮和音に捧げた武藤紀之は20年前に亡くなった真宮和音の後を追って亡くなっている。

そして20年ぶりにその島に集まって行われる真宮和音を偲ぶ会とも云うべき同窓会で和音の命日である8月10日に彼らが作った真宮和音の唯一の主演映画『春と秋の奏鳴曲』を観賞するのがメインイベントである。

それを取材するのが京都の出版社に準社員として勤める如月烏有とアルバイト生で烏有にその出版社を紹介した不登校の高校生舞奈桐璃。ただ舞奈桐璃は彼らが信奉する真宮和音に瓜二つだった。

しかしメインイベントを待たずに館の主、水鏡三摩地が真夏に降り積もった雪の只中で首無死体として館から50メートル離れたテラスで見つかる。しかもそこに至る足跡はない、いわば密室状態だった。そしてその事件が起きた時点で使用人の真鍋夫妻は島に碇泊していた小型ランチで逃亡していなくなる。

更に結城孟も溺死体として見つかり、舞奈桐璃もまた左の眼球を抉られるという被害に遭う。更に村沢尚美もクロゼットの中で喉を切られた遺体として見つかる。

事件が続くにつれ、第三者の存在を、20年前に死んだ真宮和音、もしくは武藤紀之が生きていて復讐をしているのではという疑惑が生まれてくる。

でその真相はと云うと・・・・。

これを素直に受け入れられる読者は果たしてどのくらいいるだろうか?
私は正直認めない。今回はいくらなんでもといった感じは否めない。

これが麻耶氏のミステリなのだ。
豪快な論理的展開を重視するあまり、犯行の現実性や発生の確率の低さなどは全く頓着しない。

この規格外の本格ミステリに通底するテーマは偶像崇拝ということになるだろうか。
ただ1作の主演映画を遺して若くして夭折した女優、真宮和音。彼女に心酔した6人の若者がとある島に渡り、1年間の共同生活をした後、女優の死によってそのコミュニティは解散となるが、20年後に再び同窓会という形で再会する。彼ら及び彼女はこの真宮和音のために1編の主演映画『春と秋の奏鳴曲』を作った仲間たちで、ファン以上に彼女を慕い、そして崇拝していたのだった。

彼らにとって真宮和音は“神”に近い存在、いや“神”そのものだった。
今でもネットでカリスマ性のあるアイドルや女優に対して“神”と呼ぶ風潮があるが、まさにそれと同じようなものだ。というか26年前と今でもさほどこの偶像崇拝という趣向は変わっていないようだ。

ところで麻耶氏はカラスがよほど好きなのだろうか。デビュー作『翼ある闇』の舞台となるのは蒼鴉城と鴉の文字があしらわれており、この如月烏有もその名に烏を冠す。

その後もそのものズバリ『鴉』という長編を著している辺り、どうもカラスは麻耶氏にとって何か特別なモチーフであるようだ。この漆黒の羽根と毛に覆われた闇を司る、どちらかといえば忌み嫌われている鳥を麻耶氏が好む理由を今後麻耶作品を読みながら考えるのも一興かもしれない。

とにかく色んなテーマを孕んだ作品であることは理解できるが混乱が先に立ち、上手く整理が出来ない。

実存主義、偶像崇拝、時空を超えたシンクロニシティ、ドッペルゲンガー、虚像と実像、運命論、因果応報、そんなものがふんだんに盛り込まれていることは頭にあるのだが、作品としてミステリとして考えた場合、これらは破綻しているが幻想小説として読めば本書の理解は更に深まり、また変わってくるだろう。

本書にやたらと取り上げられているキュビスムで描かれた肖像画は時間の連続性をも描いた手法だと語られている。このキュビスムで描かれた真宮和音はしかし書けば書くほど相対して空虚なものがあることを認めざるを得なくなることに気付く。つまり彼らの頭の中にある真宮和音を措定していくうちに彼女が実在しないという空虚さをも措定していくことになると解釈すればいいのだろうか。
従っていつまで経っても彼らの中の真宮和音はまだ完成していかなかった。だから彼らは1年後島を捨て共同生活に終止符を打ったのだ。

しかしそこに舞奈桐璃という彼らの真宮和音を具現化した女性が登場した。それは彼らが肖像画のみに表した存在が3次元で“展開”したのだ。3次元の存在である舞奈桐璃こそ真宮和音であり、それを2次元に“展開” するために彼女が必要だったのだ。

私の解釈は以上の通りになる。正直これが合っているかどうかは解らないし、もっとこのキュビスムについて知り、学ばないと十全に理解したとは云えないだろう。

しかし想像上の理想の女性が実際に現れた時、人はどうするのかというのがそもそも本書が内包するテーマであると思う。
夢で見た女性、常に頭に描いている女性の理想像。それをどうにか具現化するために1年間共同生活を送った彼らが20年後にその存在に出くわした時、どうするだろうか。

やはりそれは独り占めにしよう、他の誰にも触られたくない自分のためだけの唯一無二の存在にしたいと思うのではないか。

ただしかし麻耶氏は最後の最後でこの解釈をも覆す。

また本書の英題は“Parzival”となっており、これはワーグナーの楽劇“パルツィファル”に出てくる英雄の名前だ。“汚れを知らぬ愚か者”の騎士と称される。しかしその純真さと無智ゆえに彼は敵の誘惑を乗り越え、使命を全うする。つまり取り立てて取り柄の無い如月烏有を指しているのだ。

うーん、真と偽のスパイラル。この物語の決着はまだまだ着きそうにない。当分私の頭を悩ませそうだ。
どこかで辻褄を合わそうとするとどこかが合わなくなる。それはこの一見直線的に見えながら歪んでいる本書の舞台和音館そのもののようだ。

麻耶雄嵩、なんという捻くれた作家だ。
正直好きにはなれないが、拒みようのない魅力を孕んでいることも確かだ。
孤高の本格ミステリ作家の作品はまだ2作目。この後の彼の作品はどんな幻惑を施しているのだろうか。楽しみよりも不安が先に立つ作家だ。


▼以下、ネタバレ感想
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夏と冬の奏鳴曲 新装改訂版 (講談社文庫)
麻耶雄嵩夏と冬の奏鳴曲 についてのレビュー
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(7pt)

惨劇のヴェールとは数々の因果律が織り成すタペストリー

久々にウェクスフォードシリーズを手にした。シリーズ14作目となる本書は比較的コンパクトなシリーズの中でも比較的長めの460ページに亘る作品だ。

事件自体はショッピング・センターの駐車場で見つかったごく普通の夫人の絞殺死体の犯人を巡る地味なものだが、なんとウェクスフォードは途中で爆弾事故に巻き込まれて重傷を負うという派手な展開を迎える。

しかもそれが女優である次女のシーラのポルシェに仕掛けられていた爆弾だったことから一転して不穏な空気に包まれる。折しもシーラは自身が主演を務めるドラマが好調であったが、≪反核直接行動演技者連盟≫なる反核を推し進める俳優たちで構成された10人からなる小集団の活動の一環で英国空軍基地のフェンスのワイヤーを切ったことがニュースになっており、また離婚騒動の渦中でもあった。

さらにその後も彼女に手紙爆弾が送られ、更に不穏な空気は募る。

しかし爆発に巻き込まれながらも—というよりほとんど直撃と云ってもいいくらいだが—ウェクスフォードはタフな不死身ぶりを見せる。なんとその週の週末には退院して仕事復帰しているのだ。ページ数にして僅か80ページ。いやはやどれだけ頑丈なんだ。

そしてもう1つ大きなエピソードがあり、それは遺体の第一発見者でありながら、警察に通報せずに現場から逃走したクリフォード・サンダースと彼を容疑者とみなすマイク・バーデンの捜査を巡るうちに異様な方向へと向かう意外な展開だ。
このバーデンのクリフォードに対する執着は初めてウェクスフォードとの対立を生み出す。それについては後述しよう。

またメインの事件も実はウェクスフォードは目と鼻の先に遺体があったことを見逃す。事件現場であるショッピング・センターに妻のドーラの誕生日プレゼントを買いに行き、遺体の見つかった地下駐車場と同じ階に車を駐車していながら、そのまま素通りして家路につくのだ。つまりウェクスフォードはその時間に犯人に出くわした可能性もあるのだ。

遺体発見者と被害者を調べていくうちにそれぞれ特殊な事情を持っていたことが解る。

被害者のグウェン・ロブスンは関節炎持ちで自宅療養生活中の夫を抱えながらせっせと働く献身的な妻の様相を見せるが、これが次第に変わっていく。

彼女が働く理由は身体の不自由な夫の生活のためで、その世話好きの性格を買われ、隣人たちから色々所用を頼まれていた。足の爪を切るだけで5ポンドもの大金を与える老人もいれば逆に週100ポンド払うから家の面倒を見てくれと頼む金持ちの老人もいたが、その依頼は断っていた。

一方ですごいゴシップ魔でご近所の話をのべつまくなしにしゃべっていたという者もいれば、さほど近所付合いもしなかったのにある富裕な老人が遺言で自分に3000ポンドを譲ると云っていてそれには証人が3名必要だからサインしてほしいなどと厚かましく要求する。

これらの話からバーデンは被害者のグウェン・ロブスンが金に汚い人間であり、亭主のためだという口実でその行為を正当化していたと断じる。そして遺体の第一発見者のクリフォード・サンダースがかつて学生時代にフォレスト・ハウスという屋敷で庭師のバイトをしており、その同時期にグウェン・ロブスンがその家の世話をしていたことを知り、接点を見出す。

遺体の第一発見者であるクリフォード・サンダースはグウェン・ロブスンの遺体を発見したことで動転して自分の車に積んであったカーテンを掛けてそのまま車を置いて逃走し、家まで歩いて帰ってしまう。その理由はそれを母だと思ったからだという。

一方遺体の発見者として近所の老人に警察へ通報することを要請したその母ドロシーはカーテンで隠された遺体を息子の遺体ではと思ったという。

バーデンの捜査を通じてこの親子が少し変わった人物であることが判ってくる。
クリフォードはいわゆる大人になり切れない大人で心理療法士の診断を定期的に受けている。そして母親ドロシーは元々名家であったサンダース家に掃除婦として働いていたところを見初められ、玉の輿に乗ったのだが、その夫は実母と共に息子と妻を残して屋敷を出て離婚し、実母もほどなく病死した後、ドロシーはその後女手一つで息子を育て上げたのだった。
しかしそれは息子を寂しさゆえに自分の許へ繋ぎ留めておく執着が強くなったためにクリフォードは母親から自立できない大人になってしまった。

また被害者ロブスン家に世話をしに来る姪のレズリー・アーベルもまた捜査が進むにつれて不審な点が出てくる。

イギリスで広く読まれている雑誌≪キム≫で人気の人生相談のコーナー、サンドラ・デールの秘書をやりながら、関節炎を患った伯父さんの世話のために毎週ロンドンから通う姪。一聴すると実に献身的な娘を想起させるが、その外見は派手派手しい服装を好む美人で、おおよそ料理も得意でなく、料理に邪魔になるであろうマニキュアを塗った長い爪をした、当世風の娘である。

しかも事件当時のアリバイも綻びが出てくる。更に事件直前に彼女らしき若い女性と被害者がショッピング・センターで話しているのを目撃した店員や客が出てくるに当たり、そのメッキが剥がれていく。

とまあ、レンデルの人間に対する眼差しの強さはいささかも衰えない、実に読ませる作品に仕上がっている。

さて本書の原題“The Veiled One”は作中に出てくる容疑者の1人クリフォードの心理療法士サージ・オールスンが話す“ヴェールで顔を隠した人”、≪エンケカリムメノスの虚偽≫というエピソードに由来する。即ちいつも見ている人物もヴェール1枚包めばその人と認識できない別人になるという意味だ。

カーテンを掛けられた遺体はそれを発見した親子はそれぞれそれが母親だと思い、息子だと思ったと述べる。

人は皆仮面を被って生活している。いやここは本書のタイトルに合わせてヴェールを被っていると表現しよう。

外向けの貌と内向けの貌。外向けの顔が虚構に彩られたさながらヴェールを被った貌は自宅に戻るとそのヴェールをはぎ取り、本当の貌をさらけ出す。
いや、さらに秘密を持つ者は自宅においても他の家人たちに外向けのヴェールの下にもう一枚被ったヴェールのまま、相対する。これはそんな物語だ。

レンデルの紡ぎ出す物語はさながら様々な因果律が描くタペストリーのようだと今回も感じ入った。それぞれの人物が糸のように絡み合い、編み物のように丹念に織り込まれながら、惨劇という大きなタペストリーを見せるのだ。

ショッピング・センターの駐車場で起きた1人の婦人の死。

そこは様々な種類の店が並んだ複合施設。いわば複数の店という糸が寄り集まって出来たタペストリーだ。

そこにはいろんな店があるがゆえに色んな人も集まっていく。

それらの人たちが糸のように寄り集まり、やがて駐車場での絞殺死体へと収束する。

そしてその場に居合わせた人たちにはそれぞれ隠している過去があり、秘密がある。ヴェールを被って外に出ながら、そのヴェールを無理矢理剥がそうという人がいる。それが被害者のグウェン・ロブスンだった。

そしてそれらの過去や秘密によって新たな因果律が生まれ、惨劇へと発展していく。

この事件の容疑者について426ページからウェクスフォードが様々な事件関係者を容疑者に見立てて開陳する推理は誰もが動機があったことを思い知らされる。因果律の応酬だ。
それらを全て感想には書かないでおく。

事件とは即ち人生の変化点だ。それに関わった人物はもうそれ以前の人生とは異なる何かが起きるのだ。
勿論その関わり方の深さによってその何かの大きさは異なるだろう。
しかしそうであってもどうにか普通の暮らしを続けていた者たちにとってその些細な変化が多大なる影響を及ぼし、大きく人生を狂わせていく者もいる。

失敗を恐れ、自分自身のみの必然性に従ったために起きたのが今回の事件だ。いや、事件とは押しなべてそのように起きるものなのだが、レンデルの筆致はその当たり前のことを鮮烈に思い知らされる。それだけ登場人物たちが息づいているからだろう。あ

ああ、やはりレンデルは読ませる。まだまだ未読の作品があり、そして未訳の作品がある。
人生劇場とも云えるレンデル=ヴァインの諸作がいつの日かまた復刊され、訳出されることを願う。


▼以下、ネタバレ感想
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惨劇のヴェール (角川文庫)
ルース・レンデル惨劇のヴェール についてのレビュー
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(10pt)
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色んな“DROP”の物語

またしても過去がボッシュを苛む。
今回ボッシュが担当するのは彼の宿敵で目の上のタンコブだったアーヴィン・アーヴィングの息子の墜落事件。しかもアーヴィングが強権を発動してボッシュを捜査担当に指名する。

この水と油の関係の2人。
これほどシリーズを重ねながらもアーヴィングの影はなかなか消えない。振り子のようにボッシュとアーヴィングはお互い離れ近づきを繰り返す。

しかもアーヴィングは市議会議員としてロス市警の残業代の予算を大幅カットするのに成功していた。何らかの取引を本部長にしたことでボッシュを捜査官に指名したことが判ってくる。

相変わらずだが、アーヴィングという男は何を考えているか解らない男だ。唯一解っているのは自分の得になるためだったらどんなことでもやる男だ。
その行動原理は独特で、実に政治家に向いていると云えるだろう。微笑と寛容で近づいてきたかと思えば次の時点では冷徹なまでに突き放し、もしくは職さえも奪おうとする。己の考えが全て正しいと思っている、何ともイヤなヤツなのだ。

そしてボッシュはもう1つ事件を担当する。いや本来ならばそちらが担当する事件だったのをアーヴィングによって強引にねじ込まれたのだが。

1989年に起きた未成年女性強姦殺人事件に残された血痕のDNAがヒットし、クレイトン・ペルという男が浮上したが、なんと事件当時彼は8歳に過ぎなかった。
この鑑定が担当刑事の証拠取り扱い不注意によって生じた結果なのか、それとも本当にそれがクレイトン・ペルの物であるのか、そして彼が事件の犯人なのかを探るのがボッシュの任務だ。

さて今回の原題“The Drop”は色んな意味を含んでいる。

最初のDROPはボッシュが申請を認められる定年延長選択制度(DROP)の略称だ。
つまりボッシュは定年を迎えながら更に刑事を続けることが出来るようになる。但し彼が申請したのは遡らずに5年であったが、遡っての4年。即ち定年を9カ月過ぎてからの承認であり、残り39ヶ月がボッシュの刑事人生となることが明示される。

次のDROPはボッシュとチューが担当することになったコールドケース、リリー・プライスという女性強姦殺人事件だ。彼女の首に付着していた滴下血痕(DROP)のDNA鑑定により、クレイトン・ペルという性犯罪者が浮上するが、事件当時彼はたったの8歳だった。

第3のDROPはそのものズバリでボッシュが図らずも担当することになるアーヴィン・アーヴィングの息子ジョージの墜落事件だ。
アーヴィン直接指名での担当となることでその事件を担当していたハリウッド分署の刑事からも白い目で見られる。そして一見自殺と思われた墜落死が調べていくうちに他殺の線が濃くなる。しかもそれが警察関係者である線も濃厚になっていく。

つまりまたもボッシュは警察同士の軋轢に巻き込まれるのだ。まさにアーヴィン・アーヴィングはボッシュの人生にとってのジョーカーのようだ。

さて私がシリーズ継続に当たって懸念していたマデリンとの関係はどうにか上手く行っているようだ。本書ではボッシュなりの娘との関わり合い、いやボッシュ流子育てが垣間見れる。

職業柄、家庭にも危険が及ぶ可能性があるため—実際、『判決破棄』ではハラーの裁判相手がボッシュの自宅の前で待機するという事態が発生した—、ボッシュは娘に自分で自身を護る術を教える。

自宅に鍵を掛けるのを念押しするのは勿論のことながら、自宅に拳銃を置いて、それをいざというときに扱えるよう射撃場で練習もさせている。しかも射撃コンテストにエントリーするまでにもなっている。

また1年前にマデリンがボッシュのような刑事になりたいと云ったことから事件に関するビデオを一緒に見せて観察眼を養ったりしている。勿論ショッキングなそれは避けているようだが。

更にはロス市警の無線で使われるアルファベット暗号クイズも行ったり、一緒にドライヴしている時はナンバープレートを無線コードで答えさせていたりもしている。

つまりリトル・ボッシュを着々と育てているようだ。それは即ち自分が以前のように事件に没頭できる環境を整える意味もある。

そしてマデリンもまたボッシュ並の刑事としての才能の片鱗を覗かせる。
例えば上に書いたボッシュが見ていたジョージ・アーヴィングが自殺した夜のホテルの監視カメラの映像でジョージが大して金額を確認せずにチェックインのサインをしている様子から自殺するつもりだと推察したり、一番面白いのはもう1つの事件で知り合ったクレイトン・ペルの担当医であるハンナ・ストーンと一夜を過ごしたことをワイングラスに口紅が残っていたとかまをかけてボッシュに女性を泊まらせたことを白状させたりもする。

このやり取りは実に微笑ましく、ボッシュの娘に対する愛情と、そして娘のボッシュに対する親愛の情を十二分に感じさせる。

しかしマデリンの学校の課題図書がスティーヴン・キングの『ザ・スタンド』だったのには驚いた。
あんな重厚長大なデストピア小説を中学生に読ませるとは。
しかもそれを面白いと読むマディもまたかなり大人びている。

そう、このマデリンは実に大人びているのだ。ボッシュが刑事を辞めるのを最初に切り出す相手がマデリンならば、父親に適切な回答をするのもまた彼女なのだ。
その内容はボッシュをしてとても15歳の少女を相手に話しているとは信じがたいと思わせているが、まさにその通り。
私の懸念は見事に吹っ飛び、マデリンはこのシリーズにとってなくてはならない存在までになった。

そしてそんなシングルファーザー、ハリー・ボッシュにも相手が現れる。それは担当するコールドケースで浮上した容疑者クレイトン・ペルの担当医ハンナ・ストーンだ。

ボッシュは彼女に繋がりを見出す。それは彼女の中に自分と同じような暗闇を抱えているのを見出したからだ。

彼女のそれが犯罪者の息子、性犯罪で服役中の息子がいることが彼女の口から明かされる。そして彼女はそのことについてボッシュに性急に意見を求める。それがボッシュにとって戸惑いを覚えさせる。
時間をかけて進めたい60歳を過ぎたボッシュ、40歳を過ぎ、女性としての幸せを得るのに時間がないと思い、次の幸せを早く得ようとするハンナ。

この2人の価値観の違いは一旦ボッシュを引かせるが、結局再び寄りを戻す。
しかし彼にとっての“一発の銃弾”はエレノア・ウィッシュだけだったし、シリーズで出逢った女性とは長続きしなかっただけにハンナ・ストーンとボッシュとの関係が今後どのように続くかは現時点ではあまり期待しない方がいいだろう。
しかし60を超えてもなおお盛んでモテ振りを発揮するなあ、ボッシュは。

悪に対して絶対的な執着心、己の正義を貫くことを曲げないボッシュ。しかし彼はその悪と対峙して今回自分自身を揺らがせる。

まずはアーヴィングの事件で判断を見誤り、危うく冤罪者を作るところを寸前に回避したことでかつての自分の刑事としての能力の衰えを感じさせられることだ。悪人を追いながら、もっと大きな悪が描いたシナリオ通りに動かされ、泳がされた自分に気付き、ボッシュは一度バッジ返上を考える。

しかし彼の心に刑事としての使命感を燃やさせたのもまた悪人だった。彼は改めて絶対的な悪を目の前に刑事を続けること、出来る限り続けることを決意する。
4年だった定年延長が5年になることを喜んで受け入れる。

ヒエロニムス・ボッシュ。まさに彼こそ人生の全てを刑事という職業に捧げた、全身刑事ともいうべき存在だろう。
彼の娘マデリンが将来ボッシュみたいな刑事になりたいと云ってから彼は娘を刑事の訓練を行うが、それは第二のボッシュを育てるというよりも、彼亡き後も悪を罰する使命を娘に託しているのだろう。
ボッシュサーガはこのハリー・ボッシュという男の刑事の血を継いでいく物語になる、そんな一大叙事詩のように感じた。

そして私がこのボッシュシリーズ、いやコナリー作品に強く惹かれるのは欺瞞と本音のぶつかり合いが見事に描かれているからだ。

事件の発端、ボッシュが事情聴取する関係者は協力しながらも見事に仮面を被っている。表面上はどこにでもいる一般人、ごく普通の家庭であり、なぜこんな事件が起きたのか全く解らないと滔々と述べる。

しかしボッシュが掘り下げていくことで隠された真実や本音が見えてくる。そしてボッシュは自分が掴んだ疑念を容赦なくぶつけ、本音を引き出す。そこにドラマが生まれるのだ。

そしてやはり触れなければならないのがクレイトン・ペルという男だ。最後は彼の暗黒の深さを思い知らされた。

また今までのシリーズでも生々しく描かれていたように、本書に登場する刑事・警察官は決して清廉潔白ではない。

本書でもボッシュの相棒デイヴィッド・チューが自分たちの事件の捜査情報をLAタイムズ紙の記者エメリー・ゴメス=ゴンズマートにリークしていたことが発覚する。
彼は彼女と付き合う代償として捜査情報を彼女に与えていた。それをボッシュは許せずにチューとのコンビ解消を切り出す。

チューは全てを掌握するが、相棒に情報を全て渡さないボッシュのやり方が気に食わなかったのだ。ボッシュがこのまだ若い刑事の将来を慮って、キャリアを棒に振るような政治の汚い世界を知らさない方が身のためだと思った配慮が仇になった結果だ。

そんなエピソードも含め、今回強く感じたのはハリー・ボッシュシリーズとは刑事・警察の生き方を描いた物語であることだ。

刑事を続けることの能力の限界を悟り、一度はその職を辞しようと揺るいだボッシュの心を繋ぎ留めたのはキズミンが放った怪物たちを捕まえ、止めることこそが気高い我々の仕事なのだという言葉。
「これこそ、わたしたちがやっていることの理由」
それがボッシュの刑事としての生き様なのだ。

そしてそんな暗鬱な作業の実態を敢えて省かず書いたコナリーの仕事もまた見事だ。彼は警察とは、刑事とはこういう人たちなのだと示したかったからこそこの場面を敢えて詳細に書いたのだ。

大きな正義に小さな正義、そして法を超えた正義。
それぞれの立場で異なる正義が主張し、そして実行される。その渦中にいるのがハリー・ボッシュという男だ。

物語の最後は実に苦い。

作用・反作用の法則。
悪が巨大ならば逆に英雄視する者が出てくる。ボッシュはそれを避けるために本音では犯人は葬り去らされねばならないと感じていた。
しかしそれを止めたのは刑事という生き方によって備わった反射神経だ。刑事である限り、犯罪者は法で裁かれなければならないという原理原則が身に沁み込んでいたために彼は止めてしまったのだ。

それでもボッシュは刑事を続ける。キズミン・ライダーが彼に投げ掛けた言葉、「これこそ、あたしたちがやっていることの理由」を心の支えにしながら。

見事だ、コナリー。またも心に染み入る仕事をしてくれた。
またもやハードルが高くなったが次もまたそれを越えてくれるだろう。我々の期待以上に。


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転落の街(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリー転落の街 についてのレビュー
No.1317: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

なんとも奇妙な運命の三人衆

ダークタワーシリーズ2作目。<暗黒の塔>を目指すガンスリンガーの旅路は彼と運命を共にする仲間を見つける物語だ。

この物語はどこか我々の世界との共通項を持つ不思議な世界を舞台、特に西部劇に触発されただけに西部開拓時代のアメリカを彷彿とさせるファンタジー色が強かったが、本書ではなんと我々の住む現実世界へガンスリンガーは現れる。

つまり単純なダークファンタジーに終わらず、本書の全般では<西方の海>に辿り着き、北へと向かったガンスリンガーが出くわす奇妙な扉を開けて、我々の住む現実世界の住民たちを<暗黒の塔>を目指す旅の仲間に選び、引き込むのだ。

彼の前に立ち塞がる黒衣の男ことウォルター・オディム、またの名を魔導師マーテン。この敵に立ち向かうために3人の仲間を集める。
なんというベタな展開か。少年バトルマンガの王道とも云うべきプロットである。

しかしそこはキング。この仲間が非常に個性的。いや通常の物語ならば恐らくは厄介過ぎて仲間になんかしたくない、清廉潔白とは程遠い素性の人物ばかりが登場する。

まず最初にガンスリンガーが引き入れるのは現代社会のニューヨークで麻薬の運び屋をやっているエディ・ディーン。彼は自身もヘロイン中毒者である。

次の仲間はケネディ大統領がダラスで暗殺されたのが3ヶ月前という1964年のニューヨークで当時としては珍しい裕福な育ちの黒人女性オデッタ・ホームズ。しかし彼女は地下鉄の事故で両足を切断し車椅子生活を強いられており、なおかつデッタ・ウォーカーという別人格を宿している。

3人目も実に曲者だ。成功した公認会計士でありながら、無差別殺人愛好者、つまりシリアルキラーのジャック・モート。そして彼の時代はオデッタがまだ幼い頃の時代に遡る。

ヘロイン中毒者でヤクの運び屋、両足を失くした二重人格の黒人女性、そして社会的に成功したシリアルキラー。どう考えても旅の仲間にはふさわしくない、いや寧ろ避けたいか、敵の配下にいるような人物たちがローランドが我々現代世界から選び出すことのできる仲間なのだ。
こんなことを考えつくのがキングが凡百の作家を凌駕する、突出した才能の持ち主であることの証左であるのだが、果たしてこんなまとまりのないメンバーを伴にしてどうやってこの先長大な作品を描くのかと読んでいる最中はモヤモヤさせられた。

しかしキングはこのあり得ない仲間たちを引き入れる結末を実に鮮やかに結ぶ。

このなんとも扱いにくい輩、もとい仲間たちの引き入れ方が実に変わっている。

この現実世界の対象人物たちがガンスリンガーの仲間になっていくそれぞれのエピソードがまた実に濃い。

例えば一番手のエディ・ディーンのエピソードはさながらギャング小説のようだ。

次のオデッタ・ホームズの場合はまだ黒人差別が顕著な60年代のアメリカで、両親の事業―歯科医療の技術開発事業―で裕福な生活を送る黒人女性の日常と、裏に隠された白人の黒人たちへの蔑視、更には陰険な嫌がらせがされる社会の様子が描かれる。

但しその嫌がらせの対象となっているオデッタが、デッタ・ウォーカーという悪意の塊のような性格のもう1つの人格を備えた二重人格者であるところがミソ。

そして白眉は最後の1人ジャック・モート。彼のエピソードではローランドが彼の身体を借りて1940、50年代のニューヨークを縦横無尽に駆け抜ける。

とまあ、三者三様の毛色の異なる短編が収められたような内容はまさに自由奔放なファンタジー。どんな方向へ物語が進むのか全く予断を許さない。
キングは頭の中に浮かぶ物語を思いつくままに紙面に書き落としているかのようだ。そしてそれを見事に<暗黒の塔>という大きな幹を持つ物語へと繋げる。

冒頭私はこのダークタワーシリーズを少年バトルマンガの王道のような作品だと述べた。
しかし読後の今はそのコメントがいかに浅はかなものだったと気付かされた。

この何ともミスマッチな仲間が最終的に強い絆を備えた3人の仲間へと着陸する物語運びには脱帽。
これがキングであり、やはり並の作家ではなく、少年バトルマンガの王道と断じようとした私の想像を遥かに超えてくれた。

そしてそれは人それぞれに生きている意味や役割があることを示しているようにも感じた。

さてこの<ダークタワー>シリーズはキングの小説世界の根幹をなす作品と云われているが、本書でも他作品とのリンクが見られる。

まずニューヨークのイタリア・マフィアのボス、エンリコ・バラザーと双璧を成すマフィアとしてジネッリの名が出てくるが、これはキングがリチャード・バックマン名義で刊行した『痩せゆく男』に登場した、主人公の手助けをするリチャード・ジネリ(同書表記)だろう。

私が今回気付いたのはこれだけだが、これからキング作品を読んでいけば、いやもしくは既に読んだ作品の中で私が見落としたキャラクターやリンクが既に盛り込まれているのかもしれない。特に気になったのはジャック・モートの章でローランドが押し入った銃火器店のオーナー、ジャスティン・クレメンツの存在だ。

また本書で覚えておかねばならないのはダークタワーの世界で使われる<カ>の定義だ。義務とか運命、人が行かねばならない場所を指す言葉だ。つまり人生における「決して避けては通れぬ」ものの意味だろう。

1巻目はイントロダクションとも云うべき内容で正直このダークタワーの世界の片鱗の中の片鱗が垣間見れただけで正直展開が想像もつかなかったが、本書においてようやくその世界観や道筋が見えてきた。そうなるとやはりキングが描くダークファンタジーは実に面白い。

これから<暗黒の塔>へ共に旅する運命の三人。彼らの運命がハッピーエンドに終わらないであろうことを示唆して物語は閉じられる。
絆は強まったが盤石の結束を持った三人ではない。そんな危うさを秘めた3人の旅はようやく始まったばかりだ。


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ダーク・タワー〈2〉運命の三人〈上〉 (新潮文庫)
No.1316: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

地上に降りたエースの悲哀

『スカイ・クロラ』シリーズ第3作。
時系列的には『ナ・バ・テア』の後日譚であり、『スカイ・クロラ』の前日譚である。まだシリーズは残っているのでそれらがどの位置に来るのかは不明だが。

さて本書は前作同様草薙水素が主人公で、前作でティーチャの指導の下、パイロットとして頭角を現した草薙水素はエースになっており、前作で仄めかされた指揮官への道が示唆される。

そしてそれは一介の戦闘機乗りとして空を飛ぶことを謳歌していた草薙に次第にその自由を奪っていくことになる。

草薙が本書で辿る道筋は我々社会人、いや大人全てに当て嵌ることだ。

夢を抱いてやりたいことを実現するために入社し、最初は上司の許で手法を学び、社会人として成長していく。
そしてめでたく頭角を現し、上層部から注目を浴びるようになると上に立つ立場の人間へと押しやられる。しかしそこは会社の経営や政治的な仕事が多くなり、次第に本来やりたかった仕事からは遠ざけられ、相手との折衝や腹の探り合いなどの毎日が続く。

理想と現実のギャップ。
本書における草薙水素はまさに大多数の社会人が抱く、いつしか夢を喪失し、現実に直面せざるを得なくなった社会人たちの姿だ。

恐らくこれは森氏の心情そのものなのだろう。建築を学びたいと大学に入り、そして更にその道を究めたいとそのまま大学で研究を続け、その成果が認められて助教授になるが、やることは学生たちや後進への指導と会議ばかり。なかなか研究に没頭できなくなる。

何かをやりたいというのは子供の頃から持つ願望だ。だからこそ森氏は本書においてキルドレという永遠の子供を設定したのではないか。

本書の中でも草薙水素が吐露する心情の中に、「もう子供ではないのだから」という理由で搾取されてきた数々の想いや物が述べられる。
楽しいだけで過ごす毎日が子供の時代でそれを終えるのが大人の時代の始まり。子供の小さい世界が大人になるにつれて大きく広がっていくのに逆にやりたいことや出来ることは狭まっていく。

子供の頃、「それは大人になってからね」と云い聞かされ、大人になったら色んな事が出来るのだ、早く大人になりたいと願いながら、実際に大人になってみると周囲に合わせ、自我を通そうとすると疎んじられ、望まれもしないことを出来るから、挑戦だという理由でやらされ、やりたいことが出来なくなり、やらなければならないことばかりが増えていく、この大いなる矛盾。

しかしでは永遠の子供キルドレは純然たる自由を愉しんでいるのかと云えばそうではない。子供でありながら、大人の世界に生きる彼らは次第に純粋さを奪われていく。
草薙水素のようにただ飛行機に乗り、敵と戦い、勝つことだけが楽しくて続けてきたキルドレ達もやがてこの単純なサイクルに嫌気が差してくるようだ。来る日も来る日もやりたいことを続けるのもまた苦痛であるらしい。
不死の存在でありながら命のやり取りである空中戦に望む彼ら彼女らはその無限のサイクルを止めるために無謀な戦いに挑み、そして散っていく。そうすることしかそれを止められないからだ。

大人になることの不自由さを謳いつつ、一方で子供であり続けることの絶望も描く。
そのどちらも備えた草薙水素はなんと可哀想な存在なのだろうか。前作では人生の苦みと空に飛ぶことの愉しさを知った草薙が本書で第1作に繋がる絶望への足掛かりを付けるのが何とも痛々しい。

そして本書では第1作の主人公カンナミ・ユーヒチと草薙水素の邂逅が語られる。この2人のシーンは実に意味深でしかもまた官能的でもある。

またカンナミ・ユーヒチはまさにパイロットのサラブレッドだ。これを知った上で再び『スカイ・クロラ』を読み返せば、草薙水素の第1作での厭世観の本当の意味が立ち上ってくるに違いない。

また本書では上司の甲斐の心情も大いに語られる。前作の後半で出てきた彼女は草薙の精神的支柱となっている。

若い女性でありながら本社の上層部との調整役を担っている彼女は男性社会の中で女性というハンディを感じ、悔しい思いを抱きながら、今に見ていろの精神でのし上がってきたことを述べる。そしてエースパイロットとして徐々に一介の戦闘機乗りから指揮官への道を歩まされる草薙に対し同じ女性として良き理解者であろうとする。

草薙は逆に上に上がりたくなく、このままずっと戦闘機に乗り、戦いたいのだから。
会社の中で上に上がることを諭した甲斐は草薙から自由を奪っていくことを促したのとさえ云えるだろう。
大人と子供の世界の齟齬がここには表れている。

また本書では草薙たちが所属しているのが軍ではなく会社であることが判明する。つまり一介の民間企業が戦闘を行っているわけだ。テロでもなく国から雇われて敵国との戦いを行っているということだ。つまりもはや軍隊も民営化され、そしてその強さを見せることで多くの国にアピールし、契約を勝ち取ることが出来る、そんな世界のようだ。だから会社は腕の立つパイロットを重用するのだ。

また私がいつも不思議だと思うのはどうして飛行機乗りでもないこの作家がこれほどまでに戦闘機乗りの心情や飛行シーンをパイロットの皮膚感覚で描写できるのかということだ。

例えば命のやり取りをしている戦闘機乗り草薙は相手を撃ち落とそうという気持ちはあるのだが、それが相手の命を奪うことに直結していない。彼女にとって戦闘は命のやり取りではなく、己の技量を試すゲームなのだ。ほとんどTVゲームの感覚と云っていいだろう。このことについてはまた後ほど語ることにする。

一方で物語の冒頭で出くわす敵のパイロットは自機が損傷を負いながらも執拗に戦いを止めず、奇策を弄して草薙機に一矢報いる。このように単に技量の比べ合いに終始せず、命の取り合い、戦いに勝つことに執念を賭けるパイロットも出てくる。

また草薙がパイロットの卵たちに講習をするシーンで語られるコクピットの様子は実に生々しい。
一見カッコよく見える戦闘機乗りはその実コクピットの中では敵機を見つけるために左右上下に終始首を振り、時には風防に顔を押し付けて空を凝視する。そんな泥臭さが戦闘機乗りの仕事であり、そしてそうやって彼らは生還してきたのだ、と。
よほど綿密な取材をされたのか、はたまた知り合いに自衛隊のパイロットがいるのか解らないが、まさに“それ”を知っているものでないと書けない叙述だ。

そして最たるのは飛行シーン、戦闘シーン。それらの描写で短文と改行を多用し、ページの上半分のみを文字で埋めた書き方だ。
前作、前々作の感想でも述べているがそれがまさに読んでいるこちらが主人公と共に戦闘機に乗っている感覚が得られる。しかもその内容は実に専門的で実際のところ、どんな技術が行われ、どんな風に飛んでいるのかはマニア含め、その道に通じている者にしか十分に理解できないはずなのに、なぜか頭の中にその一部始終が映像として浮かぶのだ。この筆致はまさに稀有。

草薙が行った講習の聴講生の中にかつての同僚、比嘉澤無位の弟がいた。彼は草薙の講習が終った後、最後に握手をする。目に涙を浮かべながら。

草薙はその意味が解らない。逆にその距離感に嫌悪感すら覚える。

既に書いたように彼女に戦闘と命のやり取りは別物である。従って戦闘に敗れ、それによって墜落し、死に至ることはゲームに負けた結果に過ぎないのだ。
それは空中戦が首を絞めるとかナイフで刺すといった直接的に人を殺すような行為でなく、ミサイルを放ち、機銃を撃って対象を撃破するという物体の破壊であるからかもしれない。破壊された物は血が噴き出るわけでもない。命を奪う行為でありながら罪悪感から切り離されているのは単に戦いという意味だけでなく、この距離感に由来しているからではないか。

一方で姉を喪った草薙の弟は貴重な人である。彼が草薙に涙を浮かべながらも握手を求めたのは彼女の講習にパイロットとしての凄さを感じ、こんなすごい人に最期を看取られた姉は幸せだと感じたからではないか。エースパイロットとして卓越した技量を持つ彼女と共に戦闘に挑んだ姉は草薙ほどには達していなかったからその死は仕方がなかったと諦めがついたからではないか。

だから彼は草薙に感謝し、握手を求めたのだ。

しかしキルドレである草薙は死もまた憧れであり、死を悼むという感覚が解らない。それが解るのはティーチャに実際に自分の手で引導を渡した時だろう。

ティーチャの戦闘機に黒猫のマークがあることが解った時にこの戦闘の結果が解ったのだが、もし第1作でカンナミがこの戦闘機を撃ち落としていたら、そしてそれを草薙が知ったらと考えるとちょっと戦慄を覚えてしまう。

本書でまた新たなキャラクタが登場した。

最初に草薙と戦闘を交え、奇策で草薙を射止めたジョーカの異名を持つリバーという名のかつてのトップ・エースパイロット。
勝つことに執着する彼は今後また草薙の前に現れるのだろうか。

そして新聞記者の杣中。マスコミという忌み嫌われる商業に就きながら、一途に草薙の身と立場を案ずる彼は草薙も好感を抱く。彼はキルドレである草薙が会社に、政治に利用されようとしているのを察知し、記者であることを度外視して彼女を追いかける。

Down To Heaven。天は上るものであるのに草薙水素にとって天は墜ちていく先に辿り着くところであるらしい。
本書の表紙の色グレイは草薙が墜ちていく空の雲の色を指す。戦闘機乗りの草薙が死ぬべきところは地上ではなく空。空に墜ちて死ぬことこそが本望。

しかしその時の空は雲に覆われた灰色の空で希望はない。希望が無くなった時に墜ちる空は灰色。空を泳ぎ(スカイ・クロラ)、全き空の只中(ナ・バ・テア)に辿り着き、そしてそこへと墜ちていく(ダウン・ツ・ヘヴン)。
草薙水素が絶望に明け暮れる序章の巻。その時が訪れるまで草薙水素よ、ただただ楽しく飛び続けてほしい。


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新装版-ダウン・ツ・ヘヴン-Down to Heaven (中公文庫 も 25-17)
森博嗣ダウン・ツ・ヘヴン についてのレビュー
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ひげが特別だった頃の時代のミステリ

直木賞作家でハードボイルドの先駆者と呼ばれながら、数々のジャンルで傑作を物にしている昭和を代表する作家の1人、結城昌治氏。その彼のデビュー長編である本書は意外にもユーモアミステリであった。

しかも本書は数少ない結城作品の中でも貴重なシリーズキャラクター、郷原刑事が登場する1編なのである。
郷原刑事物は本書を含めて3作あるとのこと。デビュー長編に登場した刑事を主人公に書き継いだというのが結果かもしれないが、本書における郷原刑事は立派なひげを蓄えた名刑事として名の知られている事や家に拾ってきた野良犬を17匹飼っているといった特徴づけがなされていることから当初からシリーズ化する意向はあったのだろう。

さてユーモアミステリと云っても扱っているのは殺人事件であり、多数の刑事が登場する警察小説でもある。しかし名刑事と呼ばれている主人公の郷原刑事の、ところどころに挟まれる吐露する心情などが非常に人間臭いところ、そして何よりも捜査の対象となる独身女性殺人事件の容疑者がおしなべてひげを生やしているという妙味にある。
そして上述のように捜査を担当する郷原刑事もまたひげを蓄えた刑事であり、とにかくひげ尽くしのミステリとなっているのだ。

さてこのひげ、男性にあって女性にないものの1つである。

ひげ。
この男性性の象徴ともいえるものに対し、結城氏はまず物語の冒頭で簡単なひげの歴史とひげに纏わるエピソード、そしてひげが内包する意味などを語る。

最近私は平成における男性がひげを生やすことに対する意識の変化について書かれたウェブ記事を偶然ながら読むことができた。そこにはおおむね次のように書かれていた。

戦国武将の時代ではその威光を示すために生やしたとされるひげは高度経済成長を迎え、サラリーマン社会となった昭和では身だしなみを整えなければならないという観点から男性はひげを剃り、常に清潔であることを強要された。
しかし平成になり、無精ひげを生やしても清潔感が滲み出るタレントが多く出たことからひげを生やすことに抵抗がなくなり、無精ひげも違和感なく受け入れられるようになったという。

しかし最近では男性も女性のように美しくあることを求めるようになり、再びひげを剃る風潮になってきたが、以前と異なるのはひげを剃る道具類に美肌効果やひげが生えにくくなる成分が加味され、常につるつるの美しい肌をキープできるのが若者の間で流行っている、といった内容だった。

まあ、この記事の内容の是非についてはそれぞれ異論はあろうが、だいたいの流れは掴んでいると考えられる。
従って本書においてひげを生やした男がいやに強調されるのは上の記事でも語られているように、男にひげを剃ることが求められていた時代だからこそ、事件の関係者・容疑者がひげのある男たちであるところが面白いのであろう。

また男はひげに対して特別な思いを抱きがちだ。
例えばスポーツ選手は調子がいい時はそれが続くことを願ってわざとひげを剃らないでいるし、また逆も然りで調子が悪いとトレードマークと云われるまでに伸ばしていたを心機一転とばかりにばっさりと剃る者もいる。

また出世して要職に就くと威厳と自身の心構えを変えるためにひげを蓄える人もいれば、ひげがあることで男ぶりが上がるのでわざとひげを生やす人もいる。
またある人は相手から表情を読み取りにくくするためにひげを生やすことを選択する。

本書もその例に漏れず、ひげを生やす人物は転職をして心機一転する者やチンピラの親分となって若いながらに威厳を保つために生やす者など出てくるし、出所して新生活のために逆にそれまで生やしたひげを剃る人物も出てくる。

さてひげ、ひげ、ひげと自分で書いていてもしつこくなってきたので本書の感想に戻ろう。

アパートの一室で亡くなった女性の部屋を訪れた男を目撃者はべレエ帽をかぶり、灰色のコートを着たひげの男だと証言するが、なぜか歩き方についての証言が人によって異なっていた。

更にひげを蓄えた被害者の周囲に浮上する3人の容疑者達。物語の終盤、その3人を尾行する警察は悉く巻かれるに当たり、俄然容疑は濃くなっていく。

しかし犯人は意外なところから出てくる。

結城氏は作家になる前は東京地方検察庁に事務官として働いていた経験があるからだろうか、本書に描かれる郷原刑事たち捜査陣たちがやけに人間臭く感じるのは、それを目の当たりにした経験が存分に活かされているのだろう。

特に捜査会議にマスクをした身元不明の人物が紛れながら、警察側、検察側それぞれがどちらかの関係者だろうとして放置するシーンは今までのミステリでも前例のない奇妙な展開でありながら、妙なリアルさを感じる。ちなみにその正体は探偵の香月栗介だったわけだが、当時の警察の一風景を切り取った珍エピソードではないだろうか。

しかし昭和を代表するミステリ作家結城氏もさすがにデビュー作はまだまだ粗さが目立った。ひげのある男たちが登場しながら、もう少しひげについてガジェットを豊富にしてほしかったし、郷原刑事の猫好きもあまり物語に寄与しているとは思えない。

そして最たるものは延々25ページに亘って香月栗介による事件解明の講釈が書かれていることである。しかも見開き目いっぱいに文字が埋め尽くされ、ずっと事件の発端から犯人断定に至るまでの推理の道筋が続くのである。
これは今では作品を応募する新人でもしないことだろう。大作家も人の子であったと思わされた場面であった。

さて令和最初の読書はなんと平成でもなく昭和34年に書かれた昭和を代表する作家の1人のデビュー長編となった。しかも意図してこの作品を選んだものではなく、たまたま読む順番にこの本が巡ってきたのだ。

元号昭和と同じ漢字が使われた新元号令和の1冊目に本書を読むことになったのは何かの啓示だろうか?
私も50に近づいたことだし、まずはひげでも生やしてみようか。


▼以下、ネタバレ感想
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ひげのある男たち: 1 (郷原部長刑事シリーズ)
結城昌治ひげのある男たち についてのレビュー
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(7pt)

愛の深さを知る

2000年発表の本書はあの怪作『ダブルイメージ』の後に書かれた作品であったので、こちらも変な捻りが加えられた作品かと思ったが、さにあらず、絶大な力を持つ悪の首領に囚われの身となった美貌の姫を救いに悪の巣窟へ乗り込む、昔ながらの英雄譚をモチーフにした潜入及び脱出行の物語だ。

デリク・ベラサーという武器商人をCIAが挙げるべく、かつて軍のヘリコプター操縦士で名の知れた画家であるチェイス・マローンがその巣窟に潜り込み、彼が依頼された肖像画のモデル、ベラサーの妻シェンナを救出する。しかしそこからは絶大な権力を持つ男からの男女2人の果てしない逃亡が繰り広げられる。

このデリク・ベラサーという男が実に強烈だ。
圧倒的な威圧感を持ち、先祖代々からの武器商人で決して足を出さず、世界中にコネクションを持ち、武器を売りさばいて戦争を起こしている男。そして自分の欲望を満たすためには手段を選ばない。妻の肖像画作製の依頼をマローンが断ると、家と土地を買い取り、彼のお気に入りのレストランも買い取り、更に彼の作品を扱う画商も作品ごと丸ごと買い取り、マローンの作品を世に出さぬために倉庫に入れようとする。

更に彼が異常なのは美しいものに異常な執着を持ち、妻が年齢によって美貌の衰えを見出すと肖像画と裸体画を残して事故死を装って殺害し、新たな美しい妻を手に入れる。まさに現代の青ひげである。

彼のこの異常な執着は彼の妹で、30歳の時にホテルのバルコニーから転落死したクリスティーナ・ベラサーに起因している。

またこの男、61歳でありながら40歳後半ぐらいにしか見えない若々しさと、反動の大きく、元軍人のマローンでさえ扱うのが困難な威力の強い機関銃をやすやすと使いこなし、逆に銃が壊れるまで撃ち続けることが出来る頑強な肉体を持つ。

更に気に食わない者には簡単に暴力を振るう、しかも徹底的に。

ただしそんな完璧主義の彼も唯一弱点があり、それはインポテンツであるということだ。従って美しい妻を持ちながらも決して夜の生活は共にしない。男性性を遺憾なく発揮する精力溢れるこの男がなぜこのような弱点があるのかは明示されないが、恐らくは上に書いた妹クリスティーナが原因のようだ。

ベラサーは両親を早くに亡くし、14歳で1つ下の妹クリスティーナと愛人関係になる。毎日パーティ三昧の日々を送るが、クリスティーナは自由奔放な女性でベラサー以外の男とも寝ており、それを発見したベラサーが怒りのあまりにホテルのバルコニーから彼女を突き落としたのだ。愛が深すぎるがゆえに裏切られたことを知った時の怒りは倍増だ。彼は感情が強すぎるため、愛情も深く、また憎しみも深くなる。

だから彼は妻が美しくなくなるとその反動で憎しみが増し、殺してしまうのだ。

そしてもう1人鮮烈な印象を残すのはその妻シェンナだ。本書の原題“Burnt Shenna”は彼女の肌の色、赤褐色を指す。

このマローンをして、今まで見た中で最も美しいと称されるこの妻はかつてはトップモデルであったが、その境遇は不遇だ。

イタリア系アメリカ人の両親の許で生れた彼女はイリノイ州にいたが12歳で両親を亡くし、引き取られた叔父のところではセックスを強要され、ある日それが嫌で家を飛び出し、シカゴでモデル学校に入り、モデルの仕事を始め、一躍トップモデルになる。暴力を振るうボーイフレンドとコカインでボロボロのところをベラサーに引き取られ、病院で手当てを受けた後、結婚したが、初夜でベラサーが上手く行かなかったときから、彼女は単なる彼にとっての威光と商談をまとめるためのマスコットに成り下がった。一人で外出は許されず、ベラサーとのみ外出が出来る、まさに城に囚われた美しき姫君だ。

そしてその絶大なる美貌ゆえにマローンとの逃亡行においても常に注目を浴びることになり、逃亡先ではメキシコ軍人の大佐に目を付けられ、身体を求められたりもする。

そして主人公のチェイス・マローン。
元軍用ヘリコプターの操縦士で、小さい頃から絵を描いていたことから退役後画家になり、その独特な生命力溢れる風景画はたちまち世間の耳目を集め、作品が高額で取引されるようになり、絶大なファンも生まれ、その1人クリント・ブラドックは彼の逃亡のために気前よく100万ドルを貸し与える。

元軍人であるから銃火器の扱いにも長け、また格闘術も心得ている、まさに絵に描いたようなヒーローなのだが、人に利用されたり、人から命令されたりすることが嫌いで、CIAの作戦協力のみならずベラサーと、とりわけその部下アレクサンダー・ポッターとも常に反目する。

この辺はいわゆる聖人君子ではない男をヒーローにする作者のキャラクター造形だろうが、いちいち素直に話を聞かない、指示に従わない彼の姿にいささか辟易させられた。

またマレルは彼を設定上の画家にせず、彼の作風や創作風景を丹念に描いている。私はそこが実に興味深く読めた。

シェンナの肖像画を描く前に何百枚ものスケッチを描き、キャンパスではなく薬液を塗りつけたベニア板に絵を描くテンペラという画法、卵の黄身からモデルの最たる特徴である赤褐色の絵の具を作る一部始終など実に専門的で面白い。

また人の絵を描くことはそれ自身無言の対話だ。画家は絵筆に対象の内面を描こうとまるで心の中まで見透かすかのようにじっと見つめる。
一方モデルはたった1人の男にそれまで経験したことがないほどじっと見つめられる。今まで隠していた心の在り様すらも見られるかのように。
それはいわば直接的接触のないセックスに似ているのではないか。純粋に対象を見つめ合い、お互いを理解し合う、この絵を描くという行為は精神的に最も深く愛情を感じるひと時なのかもしれない。

従ってマローンとシェンナもまた恋に落ちる。
ヘリコプターを奪い、しつこく追ってくるベラサーを振り切り、ニースまで出て指定されたカフェに入るが既にCIAはいなかった。なぜならベラサーによってマローンによく似た体格の身元不明の死体が打ち上げられ、更にマローンの家は既に跡形もなくなっていたからだ。

しかしどうにか元相棒のジェブに連絡が付き、アメリカへ渡り、CIAの隠れ家で一息つくが、そこにベラサーの追手が駆け付け、再び逃亡が始まる。CIAの中にベラサーへの内通者がいると睨んだマローンはしばらく隠遁生活を送るためにバハカリフォルニアに辿り着くが、そこのメキシコ軍の大佐に目を付けられ、身元調査をされた痕跡から再びベラサーに居所を知られるところになり、リンチに遭った後、シェンナは連れ去られる。

満身創痍の中、ジェブに拾われたマローンは自分のファンから貰った100万ドルを元手にジェブとその傭兵仲間を雇い、ニースのベラサー邸へシェンナを救いに向かうのだ。

なんとも目まぐるしい展開だ。いや寧ろこのような展開こそが今の小説には必要なのかもしれない。
マレルの描く冒険小説は上に書いたように昔からよくある英雄による美しき姫君の救出劇であり、悪人は現代の青ひげとも云える精神異常者なのだ。この古来からある設定に冒険活劇と起伏あるストーリー展開を肉付けした、純然たる冒険小説と云えるだろう。

少年ジャンプの三原則は友情、努力、勝利だったが、このマレルの作品はまさにこの三原則に沿って書かれた物語だ。
友情は即ちマローンをCIAの作戦に誘った元副操縦士で戦友のジェブ・ウェインライトだ。彼はどんな時もジェブを見捨てず、最後はCIAの身分を離れてマローンの一私兵としてベラサー殲滅に協力する。最後にマローンの許を訪れるのも彼だ。

そしてこの三原則に大人の読み物であるので、ここに男女の愛情が加わるわけだが、実はこの愛情こそが本書では最も濃い。

ベラサーの美しい妻に対する強い執着は自分で亡き者にしてしまった妹に対する終わらぬ愛情が歪んだ形で残ってしまったゆえの物である。

そして主人公のチェイスがシェンナに抱いた愛情はこの上なく濃いものとして終わる。

題名に冠せられたシェンナの美しさはただマローン一人だけのもの、そしてその美しさは、ベラサーが30歳で期限を切ったが、マローンにとって永遠なのだ。

本書が平成最後に読み終わった本となった。
評価は7ツ星だが実は7.5ツ星と少し高い。典型的な冒険活劇の中にちょっぴり苦く切ない男女の恋の結末が含まれていたのが収穫だった。


▼以下、ネタバレ感想
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赤い砂塵 (ハヤカワ文庫NV)
デイヴィッド・マレル赤い砂塵 についてのレビュー
No.1313: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

“もし”の選択肢の行く末は…

いつものように出社し、その日もいつもように仕事を終え、家に帰って家族といつものように変わらぬ会話と小言を繰り返し、寝床に就いてまた同じような朝を迎える。
そんな日常が繰り広げられるはずだったところに突然転機となる事件が起こったら、貴方はどうするだろうか?

レンデルのノンシリーズ作品となる本書はそんな日常から突如切り離された4人の男女の話だ。銀行強盗がきっかけで人生が変わりゆく男女4人の人生の転機の物語だ。

イギリスで一番小さい銀行支店で働く、1人の妻とその義父、そして自分と同じくらい所得のある不動産会社に勤める息子と15歳なのに夜な夜な出歩いては、しかしきちんと門限の10時半に戻ってくる娘をもつ38歳の男アラン・グルームブリッジ。アングリア・ヴィクトリア銀行のチルトン支店に勤める銀行員。

もう一人の銀行員は20歳のジョイス・M・カルヴァという女性。どちらかと云えば自由気ままな毎日だが、それは退屈の裏返しでもある。

アラン・グルームブリッジは人生が決められたことを成すためだけに存在しているかのような平凡な男だ。

18歳の若さで結婚したのは妻パムと一夜の過ちで子供が出来たために結婚し、愛情を感じる前に一緒になった間柄。しかも妻以外の女性とそれまでに性交渉をしたことがない。お客が来たらいつでも振る舞う酒を飾っているが、そうしたことはなく、その酒を飲みたいのだが、寸でのところでいつも留まる。

庭に植えた花を愛で、詩を読むのを好み、その後は男は宵に新聞を読むものだから新聞を読み、結婚したら子供を産むものだとしたからそうした、そんな風に思っている男だ―実際は子供が結婚の動機なのだが―。

その銀行の話をあるきっかけで知り、銀行強盗を企てるのはマーティ・フォスターとナイジル・サクスビイの2人。

マーティは農業労働者の子供で母親の駆け落ちがきっかけで家を出て色んな職を転々とし、ロンドンに出てナイジルと知り合う。

ナイジルは医者の一人息子であり、長身でハンサムで見た目は教養ある青年に見えるが、将来に陰りが見えるとロンドンに出て、コミューンのようなところに潜り込み、その日暮らしをしているところをマーティと知り合った。いわば2人は人生の落伍者である。

この2人の行き当たりばったりの銀行強盗が4人の人生を変える。

ごくごく平凡な男だったアラン・グルームブリッジは灰色だった人生が一転してバラ色に変わる。

ジーパンすら履いたこともなかった彼は手に入れた金を元手に若さを取り戻すかのように今まで銀行員ゆえの常にスーツを着ていたアランはカジュアルな服装に着替え、「変身」する。

そして美術館や劇場に入り、豪華な食事を採り、行ったことのないパブで酒を愉しみ、偶然出会った女性に声を掛け、生まれて初めてタクシーに乗り、下宿人を募集していた家を訪れ、新たな生活を始める。それまでの借りを返すかのように人生を謳歌するのだ。

銀行で目にした男の名前ポール・ブラウニングと名乗り、そこで家主のユーナ・イングストランドと同じく間借り人のシーザー・ロックスリーとの共同生活を始める。

やがてアランは家主のユーナを愛するようになり、アラン・グルームブリッジの人生を捨て、2人で暮らすことを決意する。

一方ジョイスの方はアランに比べるといささか不幸だ。

人生の落伍者2人に監禁された状態が続く。
一方は最下級の出身で学もなく、その日暮らしをしているマーティ・フォスターともう一方は医者の息子と上流階級の出身でありながら社会のシステムに則って生きることを良しとせず、大学を飛び出し、コミューンでの暮らしを続けているうちにマーティと出逢ったナイジル・サクスビイ。彼は見た目もハンサムで知的に見えることから相棒のマーティを、いや周囲を常に見下して生きている。

こんな倫理観の欠けた2人にジョイスは小汚いアパートの一室に閉じ込められたままの生活を強いられる。最初は持ち前の明るさと気の強さでこの2人を手玉に取り、虎視眈々と脱出の機会を窺う大胆さを見せていたが、ナイジルが持っていた銃が本物であることが解ると急に心が萎え、彼ら、特にナイジルに従うようになる。

銃。
それは即ち圧倒的な暴力の象徴だ。
ジョイスにとって最初この2人は自分に手出しの出来ない臆病者だと見下していたことが、ナイジルの隙を見て弄んでいた銃から弾丸が出てしまったことから、ジョイスはこの暴力の象徴に圧倒されてしまうのだ。彼女の気の強さはそれまでそんな野蛮な物とはかけ離れた生活をしていた環境によって築かれたものであり、銃という生命与奪の権利を有する、それまでの人生にはなかった暴力が介入することでジョイスは初めて犯罪の恐ろしさを知るのである。

この2人の対照的な境遇は王子と乞食、天と地の開きを感じ、人生の皮肉を感じざるを得ない。これこそレンデル節たる所以なのだが。

そしてこの2人の人生の転機はしかし急展開を迎える。

それは天国を手に入れかけた男アラン・グルームブリッジその人によってだ。彼が自分の上向きの人生を変えたのは彼自身が持っていた真面目さゆえの罪悪感だった。


そして忘れてならないのはアランが惚れたユーナ・イングストランド。
ハンサムで女性遊びに奔放な夫スチュアートに半ば捨てられるような生活で、そんな夫に赤ん坊を不注意で亡くされ、失意のどん底にいたところを夫の父親に拾われ、自宅を間借りして生計を立てている、まだ32歳の女性。彼女はアランことポール・ブラウニングの求愛に応え、新たな人生に踏み出そうとするが…。

私はこのユーナ・イングストランドという女性のことを思うとどうしても切なくなってくる。
けなげに生きながらもなぜか幸福に恵まれない女性がいる。ユーナ・イングストランドはそんな女性だ。

ハンサムすぎるがために女性たちが次から次へと寄ってき、そしてまたそれに応えるがために家を離れて他の女性と暮らす夫。そんなだらしのない夫の女性遊びのせいでかけがえのない1人娘を火事で亡くし、絶望に苛まれ、義父の助けによって立ち直った彼女は一旦は人生を諦めたのだろう。だから彼女はまだ32という女の盛りなのに化粧もせず、余所行きの服にも着替えず、擦り切れ、くたびれた服装で出かけても何も思わなくなっていた。

しかし彼女は人を嫌いになったわけではなかった。だから部屋を貸して生計を立てることにしたのだ。人と関わることを捨てなかった彼女の前に現れたアランは最初ただの、身なりの正しい男に過ぎなかったのだろう。しかし彼から求愛された時に彼女は女を取り戻したのだ。

しかしそれもまたアラン・グルームブリッジという男によって作り出された幻に過ぎなかった。
恐らく彼女は再び殻に籠って生きていくのだろう。今度こそ何も期待せずに生きることを誓いながら。

原題“Make Death Love Me”、「死神が私に惚れるほどに」という題名は実は主要人物4人を指すのではなく、このユーナの心情を指すのではないか。彼女が辿り着いた心の叫びのように聞こえてならない。

そしてまたユーナをこのような状況に招いたアラン・グルームブリッジがまた悪い人間ではなく、いい人だから困ったものだ。

彼は最初ローズという女性に恋をする。彼にイングストランドの家を知らせることになった店を紹介した魅力ある女性。アランはそのお礼として彼女を食事に誘い、彼女はそれを快諾するが、彼女の美しさに身分不相応だと恐れをなし、なんと彼女を自分が間借りしている家に招待し、女家主のユーナを紹介がてら夕食を共にしたいと誘うのだ。
勿論彼女はそれを断り、それによってローズとの縁は切れる。それが逆にアランの目をユーナに向けるようになり、彼はユーナと恋に落ちるのだ。

人生に“もし”はないが、本書はその“もし”の連続の物語だ。

“もし”アランの娘が夜遊び好きでなかったら?

“もし”その娘の友達が悪人でなかったら?

“もし”アランがここではないどこかへ行きたいと思わなかったら?

“もし”アランがローズと付き合っていたら?

“もし”ジョイスが銃を弄ばずにこっそりと脱出していたら?

この“もし”の選択肢の中で我々は生きている。
本書はその選択肢の1つを選び間違えたが故の歩むべきでなかった人生の道筋の物語。平凡な毎日は選択を一歩間違えばこんな悲劇が待っている。心にずっと痛みが残るような出来事はちょっとしたタイミングや心に差す魔によって起こるのだ。

実にレンデルらしい皮肉に満ちた作品だ。最後にある有名な曲の一節を引いてこの感想を終えよう。

「誠実さ、なんて寂しい言葉なんだろう」


▼以下、ネタバレ感想
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死のカルテット (角川文庫 (6256))
ルース・レンデル死のカルテット についてのレビュー
No.1312: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

正しきことをしようとしたハラーだったが…

リンカーン弁護士ミッキー・ハラーシリーズ第4作目。
今までハリー・ボッシュシリーズを主に書き継ぎ、その合間にノンシリーズ物やスピンオフ物、そしてこのミッキー・ハラーシリーズが書かれていたが、このシリーズが連続して刊行されたのは本書が初めて。よほどコナリーの中で弁護士を主人公とした取り扱いたいテーマがあったのか、はたまた『ナイン・ドラゴンズ』以降、娘を引き取ることになったボッシュの動かし方を模索している最中なのか、いずれにせよコナリーにとってこのミッキー・ハラーシリーズはもはや作家として新たな地平に立つために必要なシリーズとなったようだ。

それを証明するかのように本書では刑事弁護士であるミッキーが民事も扱うようになる。当時世間を騒がしたサブプライムローン問題で住宅ローンが支払えなくなり、多くの差し押さえが発生したこの事件にミッキーはビジネスチャンスを嗅ぎ取り、差し押さえ訴訟を多数扱うようになる。

しかしやはり常に災厄を抱えるこの弁護士は自身の依頼人の一人リサ・トランメルが住宅ローンの責任者であった副社長のミッチェル・ボンデュラント殺害の容疑を掛けられることで久々に刑事裁判を取り扱うようになるのである。

ただこれまでと違い、不当な差し押さえ案件を扱うことで不当に虐げられ、不利な立場を強いられている人々を救うことになり、救世主的な存在となっていることがハラーの中で今まで刑事裁判を扱っていた時の疚しさを和らげていることが救いとなっている。それは娘のヘイリーから母親が犯罪者を刑務所に送る検事であるのに対し、本来は無実の人を冤罪から救うための正義の使途であるはずの弁護士が犯罪者の味方をする職業のように見られていたことからも改善する一助なっていることが多分に大きいのだろう。

このヘイリーの想いはそのまま私の想いにも繋がる。
ミッキー・ハラーの物語を読むといつもこう思うのだ。一体正義とは何なのだろうか、と。

今回ハラーの“事務所”は1人の新人を雇っている。ブロックスことジェニファー・アーロンスン。彼女は裁判が無実を証明するためのものだと信じている方に携わる人間で彼女を配置することでアメリカの裁判がもはや正義を証明するものではなく、被告人がその犯罪を行うのに妥当であることを証明しているに過ぎなく、従って弁護士は検察側が繰り出す数々の証拠や証言の矛盾点を突くこと、もしくは別の方向から攻め立て、捜査事態が正当な手続でなされていない、もしくは違法に行われたことであることを立証して事件自体を無効化することに腐心する。
従ってハラーは決して依頼人が無実であるとは信じていない。寧ろやったかやっていないかを聞きもしない。彼は父親の教えから依頼人が潔白でないことに立脚して事を進めるのだ。

そんなアメリカの裁判にまだ浸っていないアーロンスンは恐らく全ての弁護士がかつてそうであった、正義を重んじ、あらぬ罪を掛けられた依頼人を護る正義の使途としての純粋さを持ったルーキーで、事あるごとにハラーのやり方に疑問を挟む。

なぜ依頼人の話を聞かないのか?
単に目くらましだけで他の容疑者を召喚するのか?
なぜ証人を誤魔化すためにありもしなかったことを訊くのか?
実際に起こってないかもしれないのに陪審員の注意をそらせるために偶然かもしれないことを利用するのか?

ハラーと調査員のシスコがその都度アーロンスンを諭す。
我々は弁護の手段を模索し、依頼人に最良の弁護を施す方策を、戦略を作るのだ、と。

このアーロンスンとハラーのやり取りはそのまま今のアメリカの裁判が抱えている、いや世界の裁判が抱えている正義を成すことに対する矛盾を見事に示唆している。
我々一般人が常に弁護士や検察官たちが下す判定に違和感を覚えることをこの新人とベテランのやり取りを通じて教えてくれる。アーロンスンがまだ感情というものに寄りかかっている我々に近い立場の人間であり、ハラーたちは徹底して論理を追及する法律を扱う側の人間である。ここにかなり大きな溝があることを知らしめされるのだ。

そしてそれは訴追する検事側も同様だ。
やり手の女性検事アンドレア・フリーマンは次から次へと奇手を繰り出してハラーを翻弄する。物的証拠を二度に亘って裁判の大事な局面の直前に提出し、ハラーに検証する余地を与えようとしない。フェアであるべき裁判はいかに相手を出し抜くかのゲームに終始するのだ。アングラな場所で行われる違法な高額で行われるポーカーゲームと大差がないほどに。

こういった裁判の実情を思い知らされるとボッシュが正しいことが為されるべきとして自ら制裁を加えたくなる衝動に駆られるのも無理もない、むしろそちらの方が正しいのではないかと思わされてしまう。

さてそのハリー・ボッシュも本書でカメオ出演する。ハラーが二人組に襲われ重傷を負い、その快気祝いのメンバーとして娘のマデリンと駆け付けるのだ。
前作でお互いの娘を引き合わせ、それまでビジネスライクだった関係から親戚付合いへと発展する兆しを見せた両者だが、それ以降の発展はないことが語られる。今回の事件は前作から1年後とされており、日本人ならまだしも親戚同士の付き合い、事あるごとにパーティーを開く慣習のあるアメリカ人にとってこの疎遠ぶりは珍しいことだろう。それはハリーが孤独、いや孤高であろうとすることへの拘りの強さから来ているのだと思う。
犯罪者と向き合う仕事は常に家庭を、もしくは親類を危険に晒すようなもので、特に犯罪者に対して徹底的に容赦を見せないボッシュにとって前作でもそうであったように娘マデリンだけでも足枷、弱点になっている。ボッシュの性格もあるだろうが、根っからの刑事であるボッシュがハラーとの付き合いに発展を見せないのはそういった配慮もあるのではないだろうか。

前作の感想で私はハラーとマギーが知の戦士でボッシュが力の戦士を担うと書いた。
これは実際に犯罪者と立ち向かうのがボッシュであることから来ているが、本書ではその役割を担うのが調査員のシスコことデニス・ヴォイチェホフスキーだ。

1作目で殺害されたラウル・レヴンの後釜でハラーに雇われるようになった元武闘派ハーレー集団の1人だったこの調査員は有能ではあるものの、いわゆるその腕っぷしを披露する機会はさほどなかった。しかし今回はハラーの守護天使ぶりを存分に発揮する。

2作目で秘書のローナ、3作目で元妻マギー、4作目でシスコとシリーズごとにそれぞれのキャラクターに厚みを持たせている。このシリーズは単に作者の気分転換のための物でなく、もう私も含めコナリー読者が待ちわびる、ボッシュシリーズと比肩するほどの人気と実力を備えているといっても過言ではないだろう。

今回驚いたのがハラーがハリウッド・エージェントと契約していることだった。
これまでコナリーは作中で自作の映画化について登場人物に語らせており、本書の中でも第1作の『リンカーン弁護士』が映画化されていることが触れられているが、話題性のある裁判が映画化され、ヒットする可能性を秘めていることからハラーは単にその裁判の弁護を務めるだけでなく、映画化の際に映画会社にその権利を売ることができ、しかも本を書いて売ることも出来るようになっている(ところでコナリーは映画でミッキー・ハラー役を務めたマシュー・マコノヒーがよほど気に入ったようで本書のみならず何度も引き合いに出しているのが面白い)。

リサ・トランメルの裁判の映画化権を巡るハリウッド・ゴロと呼ばれるハーバート・ダールとの丁々発止のやり取りもこの裁判に掛かる副次的な戦いとして描かれており、もはや弁護士は単に裁判の弁護や法律相談役といった法的関係の仕事のみでなく、メディア関係にも手を伸ばして多角経営をしないと生き残れないのかと感じ入った。

裁判はもはやショーであり、法廷の中にドラマがあるのだ。

あとやはり触れておかねばならないのはSNSが犯罪に利用されやすいということだ。
リサは銀行の不当な差し押さえに抗議する活動団体の代表を務めており、フォロワーが1000人以上もいるが、その大半は彼女が自分たちの活動を支援する人々だと思って、申請を許可した人ばかりだ。

まさに現代のIT社会が招く恐ろしさを本書では扱っている。私がこのFacebookのみならずLINEやインスタグラムをしないのは、そのネタのために話題作りをしたり、まめにアップするのが煩わしいからもあるが、自分の行動を他者に伝えることで自ら禍を招くことを恐れてのことでもある。今回の事件はまさに私の懸案が扱われたものとして興味深く思った。

さて今回のタイトルである証言拒否だが、これは物語の終盤になってようやく登場する。証言を証人に拒否させることで自分に有利に裁判を運ばせる。
私は裁判のことをよく知らないが、究極のテクニックではないか。証人がこの権利を行使するよう、追い詰め、そうさせたハラーはメンタリストとしても超一流のように思える。原題の“The Fifth Witness”は「証言拒否をさせられるための証人」を意味するらしい。

また今回特に元妻マギー・マクフィアスとの再婚を熱望する彼がいた。
しかし弁護士と検事の夫婦は真逆の立場で仕事を家庭に持ち込まないようにしないと夫婦生活が成り立たないのだ。やり手の2人はそれが出来なくて結婚が破綻した。

このリンカーン弁護士シリーズの結末はいつも苦い。

ボッシュシリーズが彼が悪と信じる人間をとことん追求し、そして捕えるまでを描くため、そこでいかなる形にせよ終止符が打たれるのに対し、このシリーズは容疑者が捕まり、それが果たして本当の犯人なのかを証明する物語であるが、もはや法廷が無実を証明する場所でなく、無罪か有罪かを勝ち取るゲームになっているからだ。
裁判とは証拠に基づいて裁かれることで、一抹の割り切れなさを残して終わるものとなり、それが決して万人を満足させるものになっていないのだ。

そこに正義はない。あるのは有罪であると証明できるか否かしかない。たとえ被告人が犯罪者であろうがなかろうが。

正しいことが出来なくなってきているこの複雑になり過ぎた社会の苦さを痛感させられる物語だった。


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証言拒否 リンカーン弁護士(上) (講談社文庫)
No.1311: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

文庫版の表紙はいい仕事をしている

山口氏が本格ミステリ界のボブ・ディランと称した巨匠島田荘司氏は御手洗シリーズ第50作目にしてもその奇想度が全く衰えない。
今回は曰く付きの盆栽が置かれた屋上から突然人が飛び下りる不思議な事件を解決する。

いやはやよくもまあこんな話を思い付いたものだと感心した。先の山口氏のキッド・ピストルズの短編集の感想で私は偶然や予想外の出来事が起こることで不可能的状況が生まれるインプロビゼーションの妙が面白いと評したが、流石は巨匠島田氏、そんな山口氏の作品を遥かに凌駕する想像を超えた偶然をこれでもかとばかりに導入し、我々読者を上に書いた不可解事の世界へと誘うのだ。

物語のパートは大きく6つに分かれる。

まず物語の舞台となるU銀行の屋上に敷き詰められた盆栽の経緯について語る、夭折した若き盆栽家安住淳太郎の生涯。

そして田辺信一郎という青年のまるで階段を転げ落ちるかの如く、人生が転落していく様を描いた“苦行者”の章。

そして次から次へと行員が不審な飛び降り自殺を遂げるU銀行の“屋上の呪い”の章。

更にこれまた人生の落伍者である菩提裕太郎という40の独身男がたまたまサンタクロースの衣装を着たままU銀行に入り、銀行強盗に間違えられるまでを描いた、喜劇のような勘違いが連続する“サンタクロース”の章。

そしてU銀行員である“行き遅れ”OL岩木俊子が田辺信一郎と奇妙なシチュエーションで出逢う“宇宙人”の章。

そしてようやく御手洗潔が事件に乗り出し、真相を解明する“馬車道”の章。

いつもながら島田氏は社会の底辺で生活苦を強いられている人々や社会に馴染めない青年の話を事件に絡めて単なるミステリで終わらぬ、格差社会の矛盾など社会問題への提起を物語に含め、半ば作者の主張のような内容を盛り込むが、今回事件に関係する田辺信一郎と菩提裕太郎の2人は正直云って自業自得とも云える自分勝手な振る舞いと解釈とで生きていったがために社会から転落した男たちである。彼らは物事が上手く行かないことに自身の性格や考え方に問題があるのに、社会や他者のせいにすることで溜飲を下げ、そして脇の甘さから物事を悪化させていく。

例えば田辺信一郎。彼は大卒でありながら落研に所属し、碌に授業に出ず、寄席通いに精を出していたことで就活に失敗し、Y家電という量販店に入ったものの、典型的なブラック企業でその悪環境から逃げ出すように辞職し、その後転々と友人たちの家に泊めてもらう流浪生活を送った後、偶々見つけた社員募集のチラシに惹かれて入った不動産会社にルックスの良さでその女社長に気に入られ、就職したような人間だ。

しかも辞職後の放蕩生活の時によく見ていたピンク映画の影響で図らずも電車の中で痴漢を働き、捕まりそうになったので逃げ出し、更には時間つぶしに入ったショッピングビルで便意をもよおして誤って女子トイレに入り、危うく痴漢に間違えられそうになったところを必死で窓から飛び降りて逃げ出すという体たらく。

一方菩提裕太郎も生まれつき大きな身体を持っていたことで高校・大学と柔道である程度名を馳せ、その勢いで大手貿易会社に就職し、実業団柔道を続けていたがアキレス腱断裂で柔道選手の将来を絶たれ、体育会系の社員にありがちな横暴な生活が災いして上司とぶつかりそのまま辞職。
その後は自分が柔道だけが取り柄だったことに気付き、何もしても上手く行かず、40になっても独身で安アパート暮らし、バイトで日々の生計をようやく繋いでいるといった社会的弱者でありながら、大酒喰らいに粗暴な性格を直せず、社会に順応できずにいる。

いずれも大学まで出ていながらその後の人生を破綻してしまい、社会の底辺で管を巻き、不平不満と鬱屈した思いを抱きながら生きている底辺の人々だ。

また一方で岩木俊子のように容貌に恵まれず、行かず後家として銀行内の男性社員のみならず女性社員からも白目で見られながら、大阪出身のマイペースで明るい性格で周囲を感化する女性の心情も描く。
人前では明るく振る舞いながら、人一倍結婚願望が強いのに自分の容貌ゆえにそれが叶わず、男性に対して押しの強さを見せるものの、いつも付き合いまで発展せず、約束も反故にされることに慣れ、異性が自分に興味を持つことを期待しないようになった健気な一面が妙に心を打つ。

それら事件に関わる市井の人々を詳らかに、そしてやや饒舌に描く。その内容はいずれも我々の周囲に見かける普通の人々であり、読んでいる最中読者それぞれにモデルが浮かび上がることもしばしばだろう。

モデルと云えば最近の島田氏はモデルが特定できるような実在する企業をモチーフにしてこれら登場人物たちの背景を語ることが多くなってきている。

この前読んだ『ゴーグル男の怪』に登場する臨界事故を起こした住吉化研はもろJCOだし、今回登場する製菓会社プルコはその発展の礎となったおまけ付きキャラメルからグリコであることが容易に想起され、また登場人物の1人田辺信一郎が辞職する体育会系の家電量販店Y家電はヤマダ電機がモデルであろうことは容易に想像がつく。

思わず脱線してしまったので話を戻そう。

死にそうにもない社員が次々と会社の屋上から身を投げ、自殺することで呪われた銀行とまで云われるようになったこの怪異な事件を御手洗は快刀乱麻の如く解決する。

しかも本書は久々の、実に久々の読者への挑戦状が付いており、今回はそこで作者自身(語り手の石岡自身?)が述べているように、事件の背景となったそれぞれの登場人物の背景について語られており、今までの挑戦状付き作品よりも推理する材料は与えられていると感じた。
従って私もこの挑戦状を読み流さず、敢えて受けて立つことにした。

さてその真相は90%合っていたと云っていいだろう。豪腕島田ならではの、アクロバティックな事件の真相は本書でも健在。

しかし本書では文庫版の表紙が全てを物語っている。読み進めるうちにこの表紙も絵解き物として理解が増してくるのだ。

しかしそれでもU銀行とあさひ屋など隣接する2つのビル、そしてこの大型看板の位置関係は簡単な平面図が欲しかった。U銀行の屋上からは大型看板の裏側が見えるだけという一文でそれまでモデルとなった道頓堀のグリコの大型看板をイメージしていた私に混乱が生じた。
実在する看板のようにビルの壁一面に貼り付けられているようにイメージしていたのでその裏側が見えることに違和感を覚えたのだ。

また重箱の隅をつつくようで恐縮だが、以下の2点について触れておこう。

本書は短編集『御手洗潔のメロディ』所収の短編「SIVAD SELIM」の後の事件、つまり1991年の1月ごろの話となっている。しかしその時代だと、例えば田辺信一郎のエピソード“苦行者”の章で彼がY家電に入社し、労働省が「過労死ライン」を設定し、通達したとあるが、この通達は2001年12月に行われており、1991年の時点ではそれがなされていないため、時制が異なるのだ。

またプルコの看板を点検する際に御手洗が小鳥遊刑事にクレーンを呼ばせて道路を一部通行止めにするが、この場合は事前に警察に道路使用許可を申請して許可を得なければならないので、本書に書かれているようにはできないので注意が必要だ。

本書は冒頭に若き盆栽家の不遇な一生とそれに纏わるある大女優の悲惨な末路と遺された盆栽に纏わる連続する怪死事件と云う幻想的なエピソードを排し、更にそこに田辺信一郎という男と菩提裕太郎という社会的落伍者の不遇な歩みを彼らによって引き起こされる奇妙な出来事、更に事件の舞台となるU銀行界隈で起こるしがないラーメン屋と仏具店の主人が相次いでロールスロイスを買い、デパートのレストランのシェフが急に羽振りが良くなるという奇妙な状況、そしてそのデパートの4階の女子トイレで幽霊騒ぎが起きるなど、色んな噂話を放り込んでどんどん読者を引き込んだ後、それらが全て合理的に解決するというかつての御手洗シリーズの従来のスタイルを復刻させた作品であったことは喜ばしい。
しかも新作が刊行されるたびに重厚長大化が増していた頃と違い、導入されるエピソードもほどよい分量である(それでも540ページほどはあるが)。

この原点回帰のような健筆ぶりは評価したいが、先にも述べたように特定の企業をモデルにしたエピソードが正直事件に寄与しているとは云い難く、作品の怪異性、もしくは読者の興味を他へ逸らすためのミスリードのために盛り込まれているようにしか感じられないのは正直不満だ。書かれている内容は決して好意的な物でないため、実在する企業に対してそれは失礼であろう。

また元々の題名『屋上の道化たち』から『屋上』と非常に素っ気ないタイトルに変更したのも気になるところだ。

島田流本格ミステリが味わえるのは大歓迎だが、上に書いたような些末なミスや創作作法にいささか不満が残った。
特に上に書いたような時代考証の齟齬や公共機関への届け出の不備などは校閲の段階で指摘すべき点であろう。それは寧ろ出版社の務めだ。

島田氏が巨匠になり過ぎたために意見できないようになったのか。もしそうならばそれはそれで出版界も衰退していくだけだろう。本作品は単行本からノベルスを経て既に3度目の刊行でありながらこのようなミスが見られるのは何とも情けない限りだ。

しかし読者への挑戦状、幻想的な謎に合理的な解決と島田本来の本格ミステリが戻ってきたことは非常に喜ばしい。更に島田氏はその後も精力的に作品を刊行している。

御歳70歳でありながらなお意欲的な創作を続ける島田氏の作品のこれからが非常に楽しみだ。


▼以下、ネタバレ感想
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屋上 (講談社文庫)
島田荘司屋上(屋上の道化たち) についてのレビュー
No.1310: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

本格ミステリにおける不自然さを見事にクリアした本格ミステリ

最近光文社にてシリーズが復刊されたキッド・ピストルズシリーズの第1作が本書。
警察機構が腐敗し、堕落した世で探偵士の称号を与えられた民間探偵が活躍するパラレルワールドのイギリスを舞台にしたシリーズ。探偵士は警察よりも先に72時間だけ優先して捜査権を行使できる世の中にあって、キッド・ピストルズとその相棒ピンク・ベラドンナはロンドン警察庁の警官であり、奇妙な事件を取り扱う国家特異事件処理課(National Unbelievable Trouble Section)、通称<そんな馬鹿な(ナッツ)>事件処理課に所属するパンク警官である。つまり彼らは愚鈍と見なされている警察機構の人間でありながら、探偵士を出し抜く知能を誇る名探偵であるのだ。

そして本書に収録されている4編は全てマザーグースに擬えられているのが特徴だ。

第1作「『むしゃむしゃ、ごくごく』殺人事件」は≪むしゃむしゃ、ごくごくのお婆≫が擬るような事件をキッド・ピストルズたちが解決する。
キッド・ピストルズとピンク・ベラドンナ初お目見えの本作は実にスマートな短編となっている。大食漢の女優が毒を盛られて亡くなったがその日に限って胃は空っぽだったという実に奇妙なシチュエーションを扱っている。
女優が引退し、50年間も家に閉じこもって食べるだけの人生になった背景、彼女を取り巻く人間関係、そして事件解決までに至るキッド・ピストルズやピンク・ベラドンナたちの行動が真相に結びつくようほどなく配置されており、実に無駄がない。
インプロビゼーションの妙がかえって奇妙な状態を生む面白さはカーの作品に通じるものがある。

次の「カバは忘れない」は≪ウェールズ人の狩の唄≫がモチーフとなっている。
部屋にある2つの死体。1つは人間、もう1つはカバ。
こんな奇妙なシチュエーションの殺害現場がかつてあっただろうか?
そして一見このおふざけにしか見えない状況がそれまでになかったダイイングメッセージ物の新機軸を生み出すことになる。
ダイイングメッセージ“H”を巡ってキッド・ピストルズたちは色々推理を巡らす。
本作は価値観の相違がテーマになっている。
こういう価値観の転換というのはやはり面白い。世界に出るとこういったその国独自の文化や思想に触れることができ、理解もしやすくなる。そういう意味では海外赴任した後に読んだこのタイミングは良かったのだろう。

3番目の事件「曲がった犯罪」のモチーフは≪曲がった男≫。
カーの某長編のパロディと思しき題名にヴァン・ダインを彷彿とさせる美術評論家の登場、そしてチェスタトン張りの逆説が炸裂する、まさに黄金期の本格ミステリのガジェットに満ちた作品。
芸術家の心理は芸術家にしか解らぬという特殊な論理展開で事件が解決されるかと思いきや、真相はまたもや不測の事態が起きることによって生じた完全犯罪の穴をキッド・ピストルズがこじ開ける鮮やかな展開を見せる。
特に冒頭のキッドが参加するポーカー勝負のエピソードが後半推理に重要な要素を秘めている展開は実に見事。

本書最長の最後の1編「パンキー・レゲエ殺人(マーダー)」のモチーフとなるマザーグースはあのクリスティの名作『そして誰もいなくなった』と同じ「10人のインディアン」だがもう1つのヴァージョンである黒ん坊(黒人)をモチーフとしている。
本書収録の各短編には作者による巻頭言が書かれているのだが、それによれば山口氏が今回マザーグースでインディアン版ではなく黒人版を採ったのが黒人が大勢登場する本格ミステリを書きたかったため。
云われてみれば確かに黒人が登場人物の大半を占める本格ミステリは記憶の限りでは読んだことはない。警察小説やノワールといったジャンルならばあるが。
一方で中国人に代表されるアジア圏の人々が多数登場するミステリは案外ある。それはコナリーの『ナイン・ドラゴンズ』の感想でも書いたように西洋文化と考え方も成り立ちも異なる東洋文化はエキゾチックな魅力を感じるようだからか。
さて前置きが長くなったが、本作では本格ミステリの花形とも云える密室殺人事件が扱われている。但し全てが鍵が掛けられた部屋ではなく、海に向いたテラスの扉は解錠されているが、そこには事件当時麻薬課の刑事が張り込みをして見張っていたという視覚による密室状態が設定されている。
そして本作では上にも書いたように黒人が多数登場しており、しかもレゲエミュージシャンばかりが登場する。つまり黒人と云ってもジャマイカンでレゲエ文化独特の論理が展開する。
レゲエ・ミュージシャンであるラスタファリアンたちはジャマイカ独自のラスタファリズムと云う旧約聖書に基づいた宗教の戒律に従って厳格な生活を守っており、ドレッドヘアは剃刀に対する戒めから髪を切らず、梳かさず、伸ばしっぱなしにしている。それが次第にラスタファリアンの誇りや勇気の印を象徴するようになり、神のエネルギーを具現化している風に考えている、etc。
そんな独特なジャマイカ文化の中で事件に対応する探偵士はこれまでのシャーロック・ジュニアではなく、カーの2大シリーズ探偵のうち、ギデオン・フェル博士を彷彿とさせるヘンリー・ブル博士。そしてカー作品の特徴であるオカルト趣味はジャマイカの伝承をベースにしており、しかも主人公のキッド・ピストルズたちはイギリスで発展したパンクスであり、いわばWhite meets Blackの妙味が味わえる。
レゲエテイストを横溢させながら、ジャマイカ文化をロジックの背景にした本作はまさに音楽に造詣が深い山口氏ならではの作品だ。


全4編が収録されたキッド・ピストルズシリーズ第1作はそれぞれ毒殺、ダイイング・メッセージ、見立て殺人、密室殺人と本格ミステリの本質的なテーマを扱っている。

そしてそれぞれの短編には古典ミステリをパロディにしたネタが放り込まれており、ミステリに造詣が深ければ深いほど愉しめる内容となっている。

少なくとも3人はシャーロック・ホームズと称する探偵士がいたり、S・S・ヴァン・ダインをパロディにした『《にやにや笑い》(グリン)殺人事件』や『蔵相殺人事件』を著しているS・S・フォン・ダークのペンネームを持つウィラード・ハンティントン・ライトならぬウィラード・カールトン・ライトが登場すれば、ヘンリー・ブル博士はジョン・ディクスン・カーの創作したヘンリー・メリヴェール卿とギデオン・フェル博士を彷彿とさせる。
更に一旦探偵士によって開陳される事件の解決をキッド・ピストルズシリーズが更に整然とした推理で覆す構造は複数の解決を駆使するアンドリュー・バークリーを想起させるし、またチェスタトン張りの逆説や形而上学的な観念的な論理展開は先に挙げたヴァン・ダインのそれだ。

それ以外にも古典ミステリの名作のタイトルをパロディにした、いやそのものズバリを物語のあちこちに施し、その都度ニヤリとさせられる。

そんなパラレル・ワールドの英国を舞台にしたキッド・ピストルズシリーズ。
警察が堕落し、腐敗したその世界では民間の私立探偵が活躍し、<探偵士>なる称号が設立され警察より優先的に捜査を行使できるその世界は一見破天荒に思えるが実はこのパラレル・ワールドを設定することで山口氏は本格ミステリに付きまとうある不自然さを見事にクリアしているのだ。

本格ミステリにおいて最も不自然なこととはいったい何だろうか?

密室殺人?
人智を超えた不可能犯罪?
まだるこしいほどに手の込んだアリバイトリック?

確かにそれは不自然さを感じるだろうが、世の中には色んな人がおり、また予想もつかないことが起きるのが世の常であることを考えれば、上に挙げた内容も許容範囲だ。

では最も不自然なものとは何か?
それは探偵が捜査に介入することだ。

この本格ミステリでは当たり前に起きている素人探偵や私立探偵が殺人事件を始めとする刑事事件の捜査に介入することは現実世界においてまず、ない。

従って世のミステリ作家たちは自ら創案した探偵たちを捜査に関わらせるために様々な工夫をして不自然を自然に見せることに腐心している。

難航した事件を偶々事件に関係した探偵が解決した。

警察の上層部が父親、もしくは親戚である。

警察の相談役となり、既に捜査に携わることを認められている、などなど。

しかし本書では無効化した警察の代わりに探偵士が捜査を行うという世界を設定することでその不自然さを見事にクリアしているのだ。

しかも事件を解決するのはそれら探偵士でなく、堕落した警官であるキッド・ピストルズであるというパラドックス。

つまり本来事件を解決すべき警察が、探偵が登場する本格ミステリにおいて道化役もしくは物語の進行役になっている不自然さを更に本書では探偵士ではなく道化役であるはずの警察が事件の謎を解くというあるべき姿になっているところに妙味がある。
あり得ない世界を設定したことであるべき捜査の在り方を描く。パラドックスに満ちながら、実は正統な事件の解き方を描くことになっていることが非常に面白い。

また同時にこのパラレル・ワールドを設定することで恐らく作者の嗜好であるパンクルックの警察官が横行する世界、それこそ山口氏が脳内で展開した新たな探偵小説、かつてないほどクールで破天荒な警官キッド・ピストルズとピンク・ベラドンナを生み出すことに成功したのだ。

デビュー作では死者が甦る世界における殺人事件の意義を問い、そして本書では探偵が警察よりも権威を持つパラレル英国を舞台に、しかも作者自身のあとがきによれば世界初のマザーグース・ミステリ連作シリーズを著した山口氏。
誰も書いたことのないミステリを、もしくは自分だけが想像する世界におけるミステリを書く、孤高のミステリ作家山口雅也氏は極北のミステリを目指しているが、それが結果的に純粋に本格ミステリにおいて探偵の存在を不自然にならないようになっている。

そして探偵の存在を肯定しながらその実、事件を警察に解決させるこのシリーズは山口氏独特のパラドックスに満ちた作品であると云えよう。

本格ミステリの異端児が放つミステリは異端な世界を描くことで実は至極真っ当な世界を描く、つまり―(マイナス)に―(マイナス)を掛けると+(プラス)になることを証明した作品なのだ。

かつて山口氏は本格ミステリの巨匠島田荘司氏を本格ミステリ界のボブ・ディランと称した。

それに倣って私は山口氏を本格ミステリ界のなんと称しようか。それはもうしばらく氏の作品を読んでから判断することにしよう。


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キッド・ピストルズの冒瀆 パンク=マザーグースの事件簿 (光文社文庫)
No.1309: 3人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

黄金期の本格ミステリ再び!

リンカーン・ライムシリーズ11作目で2016年版『このミス』第1位を獲得した作品である。
シリーズ10作目の『ゴースト・スナイパー』が初の圏外だったことでシリーズに翳りが見えたかと思えた矢先の1位獲得。俄然期待が高まった。

10作目という節目を終え、新たなシリーズの幕開けを意識したのか、本書は題名からも解るように1作目の『ボーン・コレクター』を意識しており、内容も同じくボーン・コレクター事件の影響を受けた犯人との戦いを描いている。まさに原点回帰の1作だ。

ボーン・コレクターは骨への執着が強い犯罪者だった。かつて楳図かずおのマンガでも嫌らしいのは骨の上についている肉で骨こそ美しいと述べていたが、本書のスキン・コレクターはその皮膚に執着する犯罪者だ。

さて今回の敵スキン・コレクターはなんと犯罪実話集でリンカーン・ライムについて語られたボーン・コレクター事件の項目を読み、ライムのことを熟知した敵だ。従って彼はライムが行うであろうことを想定して常にそれを出し抜く。そう、今回ライムチーム自身もまたこのスキン・コレクターの標的になっているのだ。

更に本書のテーマは毒殺である。
とにかくこのスキン・コレクター、色んな毒を駆使して被害者に襲い掛かる。

ドクゼリが採取されるシクトキシン、フグ毒のテトロドトキシン―なんとまだ治療薬がないらしい―、南米産の植物エンジェルストランペットから採れるブルグマンシア、ストリキニーネ、煙草にも含まれているニコチン、ヒ素、即死に至るホワイトコホシュという植物から採れる毒、致死量に達しなくても後遺症で精神障害と認知症を患うことになるトレメトール、タマゴテングダケという毒キノコから採取できるアマトキシンαアマニチン、ボツリヌス菌にアンチモン。

毒殺はジョン・ディクスン・カーなどが良く好んで使っていた殺害方法でつまり黄金時代のミステリの主要な殺人方法だったが。現代では廃れてしまっている。犯人がわざわざ毒殺に固執することにライム自身疑問を呈すが、私は逆にこの古典的な殺害方法を本書で用いたことで改めてディーヴァーが現代のシャーロック・ホームズシリーズと呼ばれているリンカーン・ライムシリーズの原点に回帰したことを示しているメッセージだと受け取った。

またスキン・コレクターが遺体に施す、もしくは施そうとしたメッセージもまた意味深だ。“the second”から始まり、その後“forty”、“17th”、“the six hundredth”と続く。それらは全て数を意味しているが、全くその関連性が見えない。ダイイングメッセージならぬ犯行声明であるが、これに加えて今回は各犯行現場の平面図が本書にはきちんと挿入されており、これらの趣向が本格ミステリ志向ど真ん中なのである。

さてこれらのお膳立てが整ったところでスキン・コレクターことビリー・ヘイヴンの<モディフィケーション計画>は決行へと向かう。

しかしミスリードさえも上回るリンカーン・ライムの洞察力。
しかしこれは読んでいるこちらもあまりに明敏過ぎて超天才型探偵を彷彿させて、逆に苦笑してしまうが、逆にライムはスキン・コレクターを欺く。

相変わらず怒濤のようにサプライズを仕掛けるディーヴァー。それはあまりに突飛すぎて、その場面に直面した瞬間は頭に「?」が飛び交い、理解に少々時間を要してしまう。そしてそれが本当に成り立っているのか、どうしても後でその場面を振り返る必要に駆られる。

そして本書が2016年版の『このミス』で第1位に輝いた理由が最後になって判明する。

さて今回も非常に複雑に入り組んだストーリー展開を我々読者にディーヴァーは提供してくれた。しかも2015年発表の本書では上に書いたようにかつての黄金時代のミステリを彷彿とさせる、暗号を思わせる犯罪者からのメッセージ、各種取り揃えた毒による毒殺という古典的な殺害方法といった本格ミステリ風味が前面に押し出されている。

更に昔から都市伝説のように云われていたNYの地下に網の目のように張り巡らされた地下通路を犯罪者スキン・コレクターが暗躍し、マスコミからアンダーグラウンド・マンと名付けられ、現代に甦ったオペラ座の怪人のような様相を呈している。
そしてこの“アンダーグラウンド”が民間武装組織といった米国内に数多あるテロ組織を暗示しており、彼らが掲げる白人原理主義は現在のトランプ大統領が掲げているメキシコとの国境の壁建設やイスラム教徒の入国制限といったような選民主義的主張を象徴しているようで現代に通じるものを感じる。

また本書では言葉遣いに対する描写が特に多いと感じた。ライムが“ルーキー”プラスキーにきちんとした云い回しを教えたり、ラテン語を駆使して会話を成立させたり、またアドバイザーとしてライムの捜査に協力するタトゥー・アーティストTT・ゴードンのきちんとした言葉遣い―タトゥー・アーティストはクライアントに一生残るメッセージを書かなければならないため、言葉にはかなり気を遣うそうだ―を褒めたりと折に触れ、言葉に対してライムがセンシティヴに振る舞うのが目に付いた。
更にはライムが字体の特徴についても得々と述べ、過去に脅迫状に使われていた字体から犯人を特定したエピソードまで披露されている。これはディーヴァー自身が作家として言葉の乱れを感じていることをライムに代弁させているのかもしれない。字体もまた小説の読み応えの印象を与えることで作者自身が興味を持っているのではないだろうか。

とまあ、本書もまたいつもの、いやそれ以上に様々な仕掛けを施し、読者の頭をそれこそ作者ディーヴァーが両手で掴んで前後左右へぐるぐる回しているかのような目まぐるしい展開を見せるのだが、エンタテインメントに徹しすぎて深みに欠けるように感じてしまう。
特に今私が連続して読んでいるコナリー作品に比べると、各登場人物が抱く心情に深みを感じないのだ。ボッシュの異常なまでの悪に対する執着、ハラーの何が何でも裁判に勝つためのがむしゃらさといったような灰汁の強さや登場人物たちがその選択をした、せざるを得なくなった性や背負った業というものを感じないのだ。

確かにディーヴァーの描くプロットは最後見事なまでに整然としたロジックの美しさを感じさせる。特に本書は全てが繋がり、最後の一滴まで飲み干せる美酒のようなそつのなさを感じさせるが、そこにコクを感じないのだ。

シリーズを重ねるうちに各登場人物たちが抱える問題やエゴなどがもっと前面に出てもいいのにそれがない、いや全くないわけではないが、しこりが残らない分、印象に残らない、それほど綺麗に物事が解決する、物語が完結するのである。

コナリー作品のように次はどんな風になるのだろうと読者が一種不安めいた感情を抱えて読み終わる危うさがないのだ。

これは全く以て私のディーヴァー作品を読む姿勢が間違っていると云えよう。ディーヴァー作品を読むには彼の作風を想定してそれに自分の頭を切り替えて読むべきなのだろう。だからディーヴァーにはディーヴァー作品の、コナリーにはコナリー作品の読み方をしないとこのような読後感に陥ってしまうのだ。

しかし『このミス』1位の作品は危険だ。どうしても期待値が高くなってしまい、感想も辛めになってしまう。もっと純粋に物語を愉しめるよう初心に戻った読み方をしなければと反省した次第だ。
いや、面白かったんですよ、ホントに。


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スキン・コレクター 上 (文春文庫)
No.1308: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

ある意味21世紀本格ミステリの実状を示す予言の書か

さて全3集から成るこのアンソロジーもとうとう最終巻を迎えることになった。本書の編集序文には第1,2集が日本側からの提案だったのに対し、この第3集がクイーンから自発的に編纂の申し出があったことが記されている。クイーン自身の序文でも日本のミステリが英仏作家に影響を与える日はそう遠くないとまで述べているから、クイーンも日本ミステリ作家の実力を認めたことになる。

そしてそれまでの編集方針と異なり、本集では前2集と『日本文芸推理12選&ONE』に選ばれなかった作家の作品を意図的に選出してクイーンの眼鏡に適った物を集めるという方式が採用されている。その内、仁木悦子氏は辞退をしたらしいが。

しかし松本清張氏だけは当時のミステリ界の第一人者であり牽引者として別格扱いとして彼の作品だけが選ばれている。つまり清張作品のみが全3集に収められていることになる。

まあ恐らくは社会派推理小説という新たなジャンルを創設者であり、それによってカッパノベルスが爆発的に売れたため、版元の光文社は松本氏に足を向けて寝られないのだろう。それだけでなく、松本氏の当時の推理文壇における影響力の強さも窺える内容ではある。

さて前講義はこれくらいにして選出された12編の感想に移ろう。

本書の冒頭を飾るのはやはり件の松本清張作品。「箱根初詣で」は年の離れた夫と共に箱根へ泊りがけで初詣に行った夫婦のあるエピソードが語られる。
清張作品にしてはそれまでの収録作と比べても16ページと比較的短い作品で、内容も警察の捜査が絡まない、ある女性が過去に遭遇した前夫を亡くした海外出張での事件の真相についての回想録である。
会社から出張中の夫が交通事故に遭ったと連絡を受け、他の2人の妻と現地へ飛ぶ。対応した部長や社員たちの面持ちから事態は思った以上に深刻であると受け止めた3人は一方でもし亡くなっていた場合は業務中での死亡ということで賠償金などを大量にせしめてやりましょうなどと話す。
現在海外赴任中の我が身にとってもこれは身につまされる話だ。この手の話が海外ではゴマンとあるからだ。海外出張者が出くわした事件に人間心理の綾を巧みに混ぜ込むあたりに清張氏の作家性を感じさせる。
ただ前の2つの収録作に比べると佳作ではあるが、選出されるほどの出来かというとそうでもないような気がする。もっといい短編があったと思うのだが。

さて次からが全て初収録の作家たちである。
まず先陣を取るのは生島次郎氏。日本ハードボイルド界の巨匠による「時効は役に立たない」は皮肉の効いた1編だ。
成功者の暗い過去。忘れかけた頃にそれは再び甦る。よくある話だ。10年の歳月は今ではそう遠くない話で私は昨日のことのように思い出せる。悪いことはできないものだ。
結末は実に皮肉で上手い。悪は結局栄えないのだ。

そういえば今まで収録されていなかったのが不思議なくらいの大御所、赤川次郎氏の登場だ。「沿線同盟」は“奇妙な味”系のミステリだ。
さすがは大御所。実に上手い。郊外で念願のマイホームを建てた中小企業のサラリーマンという典型的な郊外族の夫婦を主人公に、周囲の住民の、どこか忌避されているような不審な行動や腑に落ちない嫌がらせめいたお節介。更に何者かから掛かってくる新居を出る様に脅す電話と読者を謎から謎へと牽引する。
これはいわゆる村社会では起こりうる話なのかもしれない。典型的な日本人の姿を描き、そして誰もが心の奥底に抱いているような不平不満を動機としているところ、つまり我々読者に似た人たちが登場することで物語の妙味が増すのである。
最後に明かされる住民たちの意外な真意と余韻を残す結末も含めて21世紀の今でも『世にも奇妙な物語』でドラマ化されてもおかしくない出来栄えの1編である。

次もそういえばこの作家を忘れていたと思わされた。栗本薫氏である。多才な作風の彼女の作品の中で選ばれたのは意外にも「商腹勘兵衛」という時代小説だ。
何とも切ない話である。主君への忠義心を示すために腹を切る追腹。その一員に選ばれた50過ぎの男やもめの侍。
しかしそんな矢先に現れた16歳の小娘は彼の生活に潤いをもたらす。
年の離れた男と女の純愛と戒律の厳しい侍たちの選ばざるを得なかった追腹と云う風習。そんな時代が生んだ悲劇。
そして何よりも本作は51歳の侍、原田勘兵衛に惚れる16歳の腰元奈美に尽きる。恐らく原田勘兵衛は母性本能をくすぐるタイプなのだろう。そんな年の離れた男に惚れた若い腰元は一緒になりたいがために自ら口説かれたと噂を広め、そして本願を成就する。勘兵衛がこの奈美と一緒に暮らした1ヶ月間はそれまでの人生を凌駕するほど楽しかったと云うがこれは本当だろう。夫への愛を最後まで貫こうとする一途さ。私はホントこんな女性が出てくる作品に弱いのだ。
しかしクイーンはこの作品を十分に理解したのだろうか。
理解していてほしい。

短編の名手である戸板康二氏もまた今回が初選出。「山手線の日の丸」はある老人の復讐譚だ。
中学の元習字の先生で週3回書写のアルバイトをして娘と2人で暮らしている、どこにでもいる老人と娘の父子家庭。そんな素朴な家族に突然訪れる娘の死。今まで普通の暮らしをしていた老人が娘の復讐のために娘の自殺の原因となった男の復讐を胸に誓う。
こう書けばノワール的な物語を想起するが戸板氏の筆致はあくまで素朴であり、復讐を誓う父親も炎を滾らせるような情念を見せるわけでもない。そう、これはごく普通の男の不器用な完全犯罪物語なのだ。

次も短編の名手である。阿刀田高氏の「趣味を持つ女」は読者の予断を軽く上回ってみせる。
さすがショートショートから長編まで器用にこなす技巧派阿刀田氏。何処かへの葬式に参列する奇妙な中年女性を香典泥棒と見せかけておいて、読者の想像の斜め上を行く真相を用意してくれた。
しかしこの野口京子の風情があまりに淡々としているので最後に彼女の狙いが明かされるとどこか薄ら寒い気配を感じてしまった。やはり女性は恐ろしい。

本書で選ばれた作品のうち、女流ミステリ作家の手になるものは栗本氏とこの小泉喜美子氏2人のみである。「被告は無罪」は都会風の香りを感じさせるミステリだ。
私は世評高い小泉氏の作品をさほど高く買っていないことをまず正直に告白しよう。彼女の作品を直接読んだことはないがP・D・ジェイムズやレンデル作品を翻訳を通じて読んだ彼女の文体がどうも素人に毛が生えた程度にしか感じなかったからだ。
そんな先入観で読んだ本作は今までこのアンソロジーで読んだ作品の中で一番軽く感じた。
見開き2ページに渡って過不足なく情報が、登場人物の心情が語られる他の作家たちの熱量に比べ、2時間サスペンスを感じさせる90年代のトレンディドラマのような軽さを覚えるカタカナを多用した本作は重みに欠け、すっと流れてしまった感がある。
例えば日本を舞台にしながらジャズバンドのメンバーを登場人物にしているだけでそれぞれの名前を外国人のファーストネームで呼び合う趣味の悪さ、作者自身がお酒好きで新宿のゴールデン街に通っていたこと、さらに酒に酔って階段を踏み外し、落ちてそのまま絶命してしまったことを知っているだけに殊更酒が作品の中心になっている事。
それらを含めても他の作品と一段落ちると云わざるを得ない。もっと他にいい作品があっただろうにと思われた作品だった。

この人を忘れてはならないという作家がいる。それは都築道夫氏だ。「小梅富士」は彼の代表作「なめくじ長屋のセンセー」シリーズのうちの1作である。
実はこの作品、今読んでいる北村薫氏のエッセイ『ミステリ十二か月』でつい最近紹介されたばかりだった。実に奇遇である。そしてその北村氏の評判通り、本作は傑作である。
わざわざ部屋の中に大人が複数抱えないと持てないほどの大きさの庭石を担ぎ込んで寝たきりの老人を殺すと云う実に不可解な謎が鮮やかに論理的に解かれるのである。
全てが綺麗に落ち着くところに落ち着く、ロジックの美しさ。本家クイーンもこれには満足したに違いない。
栗本氏に続く時代物で、その作品雰囲気を十分楽しめるほどの翻訳がなされたかは不明だが、そんなことも些末に思えるほどのロジックの妙味を味わえる作品だ。

次はどちらかと云えば本格ミステリよりも国際謀略小説家の傾向が強い伴野朗氏の「草原特急の女」は作者らしく北京とモスクワを結ぶ草原特急の車内が舞台だ。
ユーラシア大陸を横断する長距離列車内で起こる事件は伴野氏ならではの反政府組織から託されたある荷物を届けることだった。一介の歴史学の講師がこのような事件に巻き込まれるのは現在海外で赴任している私にしてみれば非常に浅慮としか思えないのだが、よほど彼に荷物を託した中国人女性が美人なのだろう。
この大陸間鉄道に中国人、ロシア人、トルコ人、ドイツ人、チェコ人といった様々な国の人物が乗り合わせているのは面白いが、日本への観光意識が高まった昨今の外国人旅行客が多数新幹線に乗り合わせているのを目の当たりにしている現代では容易に想像がつく。そう、今の日本もそんな状態だ。
作者的には不穏な国際情勢の只中に放り込まれ、KGBからも睨まれることになった歴史学講師の責任の重さをミスリードにしたのかもしれないが、想像の範疇であった。
このような作品もクイーンは選ぶのだなあと感心した次第。

かつて小学生の頃、私は藤原宰太郎氏の推理クイズ本をよく読んでいたが、そこに多く語られていた作家の1人が斎藤栄氏だった。彼の「天女脅迫」が12席の1席を占めることになった。
相模原市と千葉市の市外局番が非常に似通っていることに着目したアリバイトリックの秀作だ。これに気付いた時の作者の喜びようが目に浮かぶようだ。
ただ本作は登場人物に好感が持てない欠点を抱えている。探偵役を務める市長秘書の徳井はかつての上司に辛酸を舐めさせられた恨みから、犯人であることを突き止めて元上司が焦り、恐怖する様子を見たいという不純な動機が占めており、しかも被害者の姪の女性が美人であることに気付くと、どうにか手籠めにしたいと欲望を剥き出しにする。
本書は刊行は82年だが、その頃の推理小説に蔓延していた下世話なエロスを盛り込んだ大衆小説という風合いが色濃く、トリック及び真相には驚かされたものの、登場人物の誰もが自己本位で自分勝手であることで全く好感が得られなかった。

次は菊村到氏の「妻よ、安らかに」はよくある浮気相手と夫が妻の殺害計画を目論む話だ。
よくある男女の愛の縺れから殺人計画に発展する典型的なワイド劇場的内容のミステリである。
しかし愛人が死に、自分を脅迫する者が現れても、その男もほどなく死ぬと云う風になぜか主人公の都合のいいように事態は転がっていく。この辺の展開は意外で面白い。
この主人公、しがない安月給のサラリーマンでありながら、逆玉の妻を娶ったり、バーのホステスほどの美貌を持つ若い看護婦に惚れられて愛人を持ったり、更には邪魔者が悉くいなくなったりと実に運がいい男なのだ。
しかし菊村到氏という作家は寡聞にして知らなかった。芥川賞作家でもあるが、今ではほとんどその作品は絶版状態で入手不可なのだろう。ここにも1人、消えてしまった作家がいた。

最後を飾るのは巨匠小松左京氏の「共食い―ホロスコープ誘拐事件」。どちらかと云えばSF作家の印象が強い氏だが本書は入り組んだ特殊な誘拐事件を扱っている。
恋人を誘拐された男が強要されて富裕な実業家の息子を誘拐するが、その家族全員が誘拐されていたという実に奇抜な設定。しかもそこから更に展開は複雑になっていく。
どんでん返しを繰り返すあまり、どうにも訳が分からなくなってしまったきらいがある。
個人的にはどうにも不可解な謎がある一言で明快になると云うシンプルかつ爽快な謎解きが好みなので単純に作者の趣味に走った感があり、残念な読後感が残った。


前巻の感想で私は12作家中6人が第1集の選出者と重なっていることから当時のミステリ作家の実力差がかけ離れていたのではないかと書いたがそれはあながち間違いではなかったようだ。

今回読んで率直に第1、2集の方が総合的に質が高かったという思いを強くした。

上に書いたように、今回は選者であるEQJM委員会が松本清張氏を別格として他の11人の作家全てを初選出の作家に選んで本書が編まれているわけだが、全てが上の評価に落ち着くものではなく、勿論実力が拮抗している作家も存在する。それらについては後述するが、それは片手に数えるほどしかいなかったと云うのが本音だ。
前2集で見られた物語の濃密さや登場人物の泥臭さ、体臭さえも感じさせる灰汁の強さが非常に薄く感じられたのだ。

本書での短編の選出方法は前2集が対象期間内の全短編から厳選された作品を翻訳してクイーンに送った手法を取っていたのに対し、今回は作家別に1975年以降の発表作から作者本人の自選も参考にして委員会が最も優れたものと思った作品を翻訳して随時クイーンの許に送り、同意を得た作品が収録されている。
つまり本集ではまず作家ありきで始まっているところと、随時送られている作品がクイーンにとって面白ければOKというところが異なるのである。
この方法はやはり全体としての質を下げたように思える。やはり一時に候補作を送って、そこから絞り込んで選出するやり方、つまり相対評価が必要なのではないか。1つ1つの作品の出来を認めるのみではある程度の瑕疵があっても許容範囲ということで点数が甘くなってしまうと思うからだ。それは収録作の出来と質を見れば明らかであろう。

さてそんな第3集でも恒例どおり本書におけるお気に入りを挙げることは出来る。それは赤川次郎氏の「沿線同盟」、都築道夫氏の「小梅富士」の2作だ。

赤川氏の作品はその読みやすさと21世紀の今でも通じる普遍性を伴っており、全然時代性を感じさせない。せいぜい挙げるとすれば携帯電話がない時代であるくらいだ。

片道約2時間かけてまで欲しかった念願のマイホーム。同じ町内に住む限られた人々。そしてそこに住む人たちがいつの間にか共有するようになった同族意識と排他主義。典型的なサラリーマンの都心生活形態を描きながら、地方の村社会を思わせる閉鎖性を歪んだ形でミステリへと味付けした手際は実に素晴らしい。

「小梅富士」はアメリカ人のクイーンにとって造詣が浅いであろう時代物だが、大きな庭石の下敷きになって寝たきりの老人が圧死しているという奇抜な謎とそれを実に違和感なく論理的に解き明かす本格ミステリの妙味を存分に味わえる傑作だ。いやあ都築氏の作品はさほど読んだことないが俄然興味が沸いてきた。

そして今回の個人的ベストは栗本薫氏の「商腹勘兵衛」だ。

栗本氏の作品は意外や意外の時代物だが、その文体や作品が醸し出す雰囲気はもはや時代小説作家そのものといっていいほどの出来栄えだ。その才能のマルチぶりに驚かされるが、本書は何よりも内容がいい。
とても微笑ましく、そして哀しいのである。私は常々健気な女性が出てくる話に弱いと云っているがまさにこの作品はど真ん中だった。16歳の腰元が51歳の侍に惚れるという設定とそのために自ら口説かれたと噂を流す茶目っ気など、私の心をくすぐる内容満載なのだ。そして切腹する夫よりも先に自害する愛情の深さを見せる純粋さも兼ね備えている。久々に泣けた。

しかしそれでもこうやって挙げてみると物足りなさを感じてしまう。第1集ではお気に入りを3作、ベストを1作挙げ、第2集ではお気に入り3作、ベスト3作と豊作だったのに比べるとやはりトーンダウンは否めない。
このアンソロジーが第4集を編めなかったのは恐らく選者のフレデリック・ダネイ氏が1982年に亡くなってしまったからだろうが、最後を飾るにはその出来は少しばかり寂しい限りだと思わざるを得なかった。

ところで本書を読んで少しばかり気になったことをここでは挙げていこう。

伴野朗氏の「草原特急の女」によればモンゴルの法律では男女とも18歳になっても独身の場合と結婚して1年以上子供がない場合では月収の2%が罰金として徴収されるらしい。これは日本でも是非とも導入してほしい制度だ。
18歳になっても独身は生き過ぎだが、せめて30歳になっても独身の場合は同様の制度を強いるべきだ。
子供についてもそうだ。少子化社会、高齢化社会を促進させ、社会制度の歪みを生み出しているのにもかかわらず、今日、日本は生活と価値観の多様性を盾に子供を作らない家庭や独身主義を貫く男女を承認する傾向がある。
多様的な考えを認めるのは是だが、それにはある程度痛みを、リスクを伴う必要があると考える。誰もが自分さえよければの精神が強すぎるのではないか。
こういう昔の作品を読むことで現代の社会問題を解決する術も見つけられることに気付かされる。

あとクイーンの序文に日本ミステリの現在が示唆されていることに驚きを感じた。
クイーンは本書の冒頭で、シャーロック・ホームズがポーの生んだ名探偵オーギュスト・デュパンの影響を受けているように、シャーロック・ホームズもまた後世の刑事物、素人探偵物からハードボイルドに至るまで影響を与えており、そしてフランスのミステリから英国の作家は影響を受け、アメリカの作家は英国の作家から影響を受け、更に英仏の作家はそのアメリカから影響を受け、と環を成してミステリはお互いに影響を与えながら発展してきたと書いている。そしてそれら海外のミステリの影響を受けて発展した日本のミステリもまた将来米英仏の作家に影響を与えるに違いないと断言している。

まさにこれが21世紀の今起こっているのだ。本格は“Honkaku”という英語にまでになり、黄金期のミステリを彷彿とさせるトリックとロジックを駆使した本格ミステリが逆輸入的に今世界のミステリシーンで復興しようとしているのだ。

本書は1982年刊行のアンソロジー。つまりそれから37年を経てこのクイーンの予言が実現しているのだ。

昔の小説を読むことの意義を感じた次第だ。
そしてまた第2のクイーンとなる新たな選者を海外に見出し、また日本の優れた短編を紹介する機会を作るべきではないか。
平成の時代に本書のような海外のミステリ作家による日本人作家のアンソロジーが編まれなかったのは今更ながら悔やまれるが、新しい元号を迎える今こそ相応しい時なのかもしれない。

21世紀の日本ミステリ作家たちが更に世界に羽ばたく一助をどこかの出版社が担ってほしいものだ。それだけの作品が既に蓄積されているのだから。


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日本傑作推理12選 (第3集) (カッパ・ノベルス)
No.1307: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

子を持つ親たちの戦い

リンカーン弁護士シリーズも早や3作目である。
前作がボッシュとの共演だったら、なんと本書ではそれに加えて彼の元妻マギー・マクファーソンとも共同で仕事をする。更になんと今回ハラーは弁護士でなく特別検察官として雇われ、DNA鑑定によって判決破棄された24年前の犯罪で逮捕された少女殺害犯の有罪を勝ち取るためにマギーを補佐官、ボッシュを調査員として雇い、チームとして戦うのだ。しかもそれぞれの関係が元夫婦、異母兄弟と微妙な繋がりがある奇妙な混成チームであるところが面白い。
しかし彼らに共通するのは年頃の娘を持つ親であること。ミッキーとマギーは2人の間に生まれたヘイリーがおり、ボッシュは前作『ナイン・ドラゴンズ』で一緒に暮らすようになったマデリンがいる。彼らのこの同族意識が勝ち目のないとされる少女殺害犯の有罪判決への道を歩ませたと云える。

前作でボッシュを中国警察から救ったミッキーはお互いの娘を逢わせることを提案し、それをボッシュは保留していたが、一緒に出張に行ったマギーからも同様の提案をなされ、その押しの強さとボッシュが幸せな人生を送ってきていないことを見透かされ、とうとう2人を引き合わすことを約束させられる。

しかしよくもまあこれほど面白い設定と行動原理を考え付くものである。全くいつもながらコナリーの発想の妙には驚かされる。

しかもこのチーム、実にチームワークがいいのだ。
ボッシュはそれまで培った刑事の勘を存分に発揮し、24年前の事件関係者を次々と捜し出す。マギーは女性ながらの心遣いとベテラン検事のスキルで以ってミッキーをサポートし、ミッキーもまた百戦錬磨の弁護士生活で培ったノウハウを検察側に持ち込み、裁判を有利に持ち込むことに腐心する。
お互い我の強い性格でイニシアチブを取るのが通常の3人であったので、自分の主張を通すことに執着し、常に意見が割れて反発ばかりするかと思いきや、実にバランスよく裁判の準備が進んでいく。この過程は読んでいて実に面白かった。

刑事弁護士であるミッキーが慣れない検察側の立場で振る舞うとき、元妻マギーのサポートが心の支えになる。第1作目ではこのマギーとミッキーの2人の物語が大半を占めていたが、第2作目では2番目の元妻で秘書のローナとのやり取りがかなりのウェイトを占めており、マギーはほとんど出なかったが、ミッキーとの相性はどちらも甲乙つけがたい。奇数巻と偶数巻でコナリーはミッキーの相棒を今後も務めることを考えているのだろうか。

また本書では我々一般市民に馴染みがない法曹界や警察の業界裏話を知ることも読みどころの1つとなっているが、本書で特に印象深かったのはボッシュとマギーが飛行機で被害者の姉セーラの許へ向かう際、キャビンアテンダントからファーストクラスへのアップグレードを促されるシーン。これには驚いた。警察関係者や検事はその正体が知られると実際にこのような優遇措置があるのだろうか。なかなか興味深いシーンだった。

しかしなんといってもやはり本書の読みどころは上述のように共通して子を持つ親、娘を持つ親であるところだろう。従って通常ならば被告人の弁護側の人間であるミッキーが少女殺しの疑いのある依頼人を娘を持つ身でありながら無罪を証明する立ち位置を強いられるのに対し―それはそれで大いなる葛藤を呼び、ドラマとしては面白いのだが—、特別検察官として雇われるというアクロバティックな設定ゆえに原告側の代理人となり、検察官の元妻マギーと異母兄弟のボッシュと同じチームとしておぞましい犯罪者の手から娘を守ると云う強い意志を共有しているところが読んでいて非常に楽しく、面白いのである。

しかしボッシュも変わったものだ。メカ音痴であったのに、今では娘に習ってパソコンも使い、検索機能で行方知れずとなった被害者の姉を捜し出し、そして娘には定期的に携帯でメールを送って会話するようになっている。

ただ前作の終わりに懸念したように、本書は『ナイン・ドラゴンズ』の事件から4ヶ月が経過しているとの設定だが、既にボッシュとマデリンとの生活はギクシャクしたものを覚えており、ボッシュは忙しいながらも娘といる時間を増やそうと腐心している。もう夜中に暗い部屋でただ1人でジャズを聴きながらベランダで黄昏るようなことはしないのだ。

そしてそれは前作を読了後に懸念したように更にボッシュにとって足枷となる。護る者を持ったボッシュはそれまでのように自分1人だけを護ればいいのではなく、娘マデリンも脅威から護らなければならなくなったからだ。

連続少女殺人鬼と目されるジェイスン・ジェサップ。彼がDNA鑑定の結果で一旦釈放された後、ボッシュを含めミッキー達は必ず刑務所に戻すことを誓う。悪人はすべからく罰せられなければならないと常に思うボッシュは自分の娘が同じ目に遭わされることを思うとその思いも一入で、ジェサップに対して明らさまに攻撃的な態度を取る。

しかしそのジェサップが自分の家の前にいたことを知るとパニックに陥る。なぜならそこには娘マデリンがいるからだ。
つまり常に狩る側にいたボッシュが娘という護るべきものを得たことで狩られる側にもなることになったのだ。
それはある意味初めてボッシュが得た弱さかもしれない。
犯罪者どもを相手に心を、魂をすり減らす仕事の中で娘との電話やメールのやり取りは癒しであるが、同時にそれを喪う怖さを得たことになったのだ。ジェサップが自宅に来たことを知ってからのボッシュの戸惑いと疑心暗鬼ぶりは尋常ではない。一匹狼で我が道を行く無双のボッシュを我々はこれまで見てきたが、親としての弱さを持つようになった新たなボッシュの今後が気になるところだ。私は同じ子を持つ親として彼に今まで以上に親近感を覚えるようになった。

この同じ価値観を所有する3人は実に絶妙なチームワークを見せ、手練手管で迫る練達の弁護士クライヴ・ロイスの攻撃を一歩一歩クリアしていく。

このコナリーが描くリーガル・サスペンスはロジックや裁判での検察側、弁護側そして判事たちを取り巻くロジックと巧みな人心操作術による天秤の傾きを愉しむだけでなく、評決間際で突然アクションの味付けが濃くなるところに特徴がある。

そしてそこからはボッシュの独壇場だ。悪を野放しにすることを許さないボッシュは獲物を追うコヨーテと化す。
娘のことを案じながらも絶対悪と信じていたジェサップにプレッシャーをかけ、そしてその正体を現せばその心理を読み解き、地の底まで追いかける。ミッキーとマギーが知の戦士ならばボッシュはまさに力の戦士だ。

そんな柔と剛を併せ持つチームが辿る結末はしかし苦いものだった。

奇妙な縁で結ばれた3人は再びそれぞれの道へと歩む。ボッシュは犯罪者を追いかけ、マギーは犯罪者に引導を渡し、ミッキーは被告人を無罪にするためにリンカーンで奔走する。

しかし再びこのチームはまた戻ってくるに違いない。それぞれの立ち位置は本書とは異なるかもしれないが、今やお互いの娘を引き合わせた縁で結ばれた絆はそう簡単には断ち切れないだろう。

悪が成敗されたのにこれほど爽快感がない物語も珍しい。コナリーはアメリカ法曹界が孕む歪みを巧みに扱って我々読者を牽引しながら、最後は渇いた地平へと導いた。

しかしそれでも本書は清々しい。それは子を持つ親たちがそれぞれの立場で最大限に尽力し、真摯に悪に立ち向かった物語だったからだ。

父親と母親は子を護るためなら必死になる。子供たちの知らないところで親たちはこんな戦いをしているのだ。
同じ娘を持つ親であるコナリーはもしかしたら自分の娘にこの話を届けたかったのかもしれない。


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判決破棄 リンカーン弁護士(下) (講談社文庫)