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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1418

全1418件 141~160 8/71ページ

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No.1278:
(1pt)
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作者の冒頭の言葉に従ってください

結論から云うと時間の無駄だった。
あまりに広げすぎた内容は収束しないまま終わる。むしろ物語の決着をつけるのを作者が放棄したようだ。

突如悪魔の姿が見えるようになった26歳の若者、牧本祥平が同様の能力を持つ者たちを集め、悪魔の侵略に立ち向かうといった内容だが、作者はその単純なプロットに、一捻りも二捻りも加えることで複雑化し、先の読めないストーリー展開を拵えようとしているが、逆にそのために収集がつかなくなってしまったようだ。

悪魔が見える者たち、本来の姿を隠して人間の姿になり、各界の著名人に成りすまして日本を、いや世界を征服しようと企む悪魔たち。
この二局分離した設定が二転三転、四転五転と立ち替わる。

大企業、自然農法団体、右翼団体、新興政党、新興宗教団体ら、次々と現れる企業、団体があるときは悪魔の巣窟として、または悪魔の対抗組織として主人公の前に現れる。

祥平の話を聞いて賛同し、悪魔と立ち向かう決意をしたかと思えば、彼を精神病者とみなして警察に連絡を入れる者。いつの間にか悪魔となり、祥平を捕まえようとする者。

今日の味方は明日の敵。誰もが信じられない世界へと変わっていく。

これは恐らく何冊か書き続けられる伝奇サスペンス小説として書かれれば、また違った読み応えとなったかもしれない。先の読めない展開に次第に強まっていく悪魔の勢力。侵略物の小説としては定番ながら世界が広がる要素を備えている。
しかし脚本のようにあくまでシンプルで紋切り型な文体に展開が早く、また登場人物もじっくり描写されることもなく、物語を進めるためのキャラクターとして書かれているかのように鯨氏の扱いは実に淡泊だ。

ただ言葉に拘る鯨氏のエッセンスもないわけでない。鯨ミステリの仕掛けも随所に挟まれている。

作者としては自分なりのミステリの特色も出し、依頼の仕事はそれなりに果たしたと思っているかもしれないが、読み手側としては編集者に催促されてささっと書き上げた作品という印象だけが残ってしまう。
書き方によってはもっと面白く書けたと思えるだけに、この結末はまるで某有名少年誌の不人気で連載打切りを云われたマンガのように、唐突で投げやりだ。

最後に語られる読んではいけない悪魔の本の定義。鯨氏のこと、ある実際の本を指して皮肉っていることが推測されるのが、どの本を指しているのか、今のところ思い至らない。

ただし本書もその条件を十分に満たした作品である。

本書の冒頭には作者からのメッセージでこう書かれている。

「あなたにはこの本を読まない権利があります」

実際その通りで、この本は読まないでいい本だった。

本書は書き下ろし作品である。この原稿を受け取った担当者はどのような感慨を抱いたことだろうか。私はある意味冒険だったのではないかと思う。作者の意図が読者に通じるかを試すための。

しかしもしそうだとしてもそんな作者の意図は別にして小説として問題の作品だ。

これを手に取る人は作者の云う権利を行使することを強くお勧めする。


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悪魔のカタルシス (幻冬舎文庫)
鯨統一郎悪魔のカタルシス についてのレビュー
No.1277: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

梟と云うより鼠か

2014年第60回江戸川乱歩賞を受賞した下村敦史氏の『闇に香る嘘』は全盲者を主人公にした斬新なミステリとして選考委員の満場一致で決定した作品だが、それに遡ること約20年前に香納諒一氏によって全盲者を主人公にした作品があった。それが本書『梟の拳』である。

但し下村作品の主人公村上和久はいわゆる一般市民であったのに対し、本書の主人公桐山拓郎は元ミドル級のボクシングチャンピオンで、網膜剥離によって全盲を余儀なくされた人物。勝負の世界に生きてきた彼は勝ち気で短気な性格であり、まだ若い彼は言葉遣いもぞんざいである。桐山は引退後その経歴を活かして妻をマネージャーにしてタレント生活を送っている。

そんな彼が巻き込まれる事件は明らかに日本テレビの『24時間テレビ 愛は地球を救う』をモデルにしたチャリティー番組に出演した折に出くわす、久岡昌樹の死に端を発した、原子力業界に絡む政治と金の、そして過去日本が行ってきた非道徳的な行為に纏わる、日本の暗い闇だ。

こう書いただけでも一介の引退した盲目のタレントボクサーが巻き込まる事件としては実にスケールが大きいことが解るだろう。
2人だけの面会を頼まれた相手、久岡昌樹という人物が≪原子力エネルギー推進公団≫の重役でありながら、もう1つ≪日本原子力平和研究センター≫の専務理事という半官半民の組織の上役、即ち日本原発界の中心的人物であり、桐山は彼の死に不運にも立ち会ったこと、そして現役時代のマネージャー永井康介が原発建設に絡む利権問題を追っていたことで否応なく複数の組織の思惑が絡む暗闘に巻き込まれてしまう。

関わる組織は永井がかつて所属していた右翼団体≪愛魂連合≫、その総裁と組長が兄弟分の関係にある暴力団≪戸川組≫、前掲の原子力がらみの組織に、原発建設を計画しているI県の県知事争いをしている≪民自党≫の現県知事、保科武一とその対抗馬、蒲生善之に蒲生を推すI県出身の代議士、通称≪寝業の馬場≫こと馬場啓志。更に桐山が出演した24時間のチャリティー番組を企画している≪平和テレビ≫のプロデューサー亀山にその会場となった、一度大火災で廃業したホテルを買い取り、近日営業開始予定の≪ホテル・ビューポイント≫のオーナー≪須藤グループ≫といったきな臭い連中が絡んでくる。
そして桐山をしつこくつけ狙うのは正体不明の組織に属する巨漢の男、それとは別の組織に属する柴山なる人物、更には亡くなった久岡の娘静香。そしてかつて永井の友人であった≪呼び屋の金≫こと金円友が桐山夫妻と行動を共にする。更にはかつて桐山が障害者の両親と共に過ごしていた横須賀の施設≪あけぼの荘≫まで絡んでくる。

とにかく次から次へと出てくる、利権を貪ることを一義とした団体、組織が次から次へと出てくることで、最初はかなり目まぐるしく変わるストーリー展開に戸惑いを覚えた。

やがて調査するうちにチャリティー番組に隠された不穏な金の動きが発覚する。毎年3千万ものお金が寄付金に水増しされ、そのお金が≪日本原子力平和研究センター≫から出てきており、そして≪朝日荘≫、≪ひなげし学園≫、≪あけぼの荘≫といったいずれも障害者の面倒を見る福祉施設に寄付されている。

チャリティーのお金が福祉施設に寄付されていること自体は何もおかしな話ではない。しかしこのうちの1つ≪あけぼの荘≫が桐山の両親が入れられ、そして彼が生まれた施設であることが更に彼の事件への関わりを強める。

桐山の両親が障害者同士だった。この事実は何とも私には辛い。私も障害者の子供を抱える身であるからとても他人事とは思えなかった。
しかも桐山はいわゆる人並みの行動が出来ない両親を嫌っていた。勿論人付き合いなどは出来ず、終始人前ではおどおどしている両親、社会的弱者である2人から切り離されるように桐山は会津の父親の兄夫婦に引き取られ、そこでは決して毛嫌いされていたわけではないが、余所余所しさが常に伴い、従って桐山は体が大きかったこともあって喧嘩が強く、荒れた生活を送るようになる。
しかし私は両親が社会的弱者であったことが桐山を喧嘩好き、不良にしたのではないかと思う。社会に対して怯えながら暮らしていた両親とは違う自分、力こそ全て、強い者こそが正しい、周囲には決して舐められない、誰も俺をバカにできない、そんな絶対的な強さを求めた結果がケンカの毎日となり、プロボクサーの道に進むようになった、そんな風に思える。

つまり元チャンピオンという矜持で上から目線で他者に振る舞っていた桐山が初めて見せる彼の弱点、これがこの≪あけぼの荘≫であり、両親なのだ。

その桐山の弱点が最高潮に達するのが病院で入院中の父親を見舞った時だ。目の見えない桐山でさえ想像できる、何とも云えない無力な父親の姿。病院のベッドに暴れないよう両手を柵に縛られ、点滴を受けながら、オムツをされて寝ている父親。もはや息をしているだけの存在。そんな無力な存在が強くなった自分の原点、しかもそれを妻に見られることの羞恥心が最高潮に達する。

幸いにして私はまだ両親が寝たきりになっていないし、入院生活を続けているわけでもない。だからこの気持ちはよく解らない。子供の頃、絶対的存在だった親が、誰かの助けがないと生きてもいられない無力な存在と成り果てた時、私も桐山のような惨めな気持ちに苛まれるのだろうか。

やがてチャリティー番組の製作会社である≪平和テレビ≫のプロデューサー亀山から久岡、そして永井の周辺を探っていた組織たちが探していたのがあるデータの入ったフロッピーだった事が判明する。

何ともおぞましい事実。

いきなり宇宙の彼方へと飛ばされたかのような真相である。

しかし私も齢40も半ばを過ぎて世間に擦れてしまったのだろうか、この手の話にリアリティを感じなくなってしまった。

主人公は一介の元プロボクサー、その妻は元雑誌記者。男は勝ち気で短気でチャンピオンにもなったことから腕に覚えがあり、網膜剥離で盲目ながらも相手と拳で事を構える度胸を持つ。

妻は記者時代の人脈を活かしてあの手この手で一連の謎を探りつつ、昔取った杵柄で上手く相手から話を聞き出す術を持っている。

しかしとはいえ、彼らの相手に立ち塞がるのは巨漢の男や剣呑な雰囲気を湛えた謎めいた人物、大物政治家にテレビ局のプロデューサー、右翼団体に暴力団と、一般人にとって出来れば関わりたくない人物ばかりだ。
しかも彼らが謎を追ううちに、関わっていた人物が事故死していたり、そんな怪しい輩たちが手を下したと思われる死体が現れたりする。しかもいつもどこで調べたかも解らず、知らない人物から携帯電話にかかってきては脅迫の言葉が残される。

正直、普通の感覚を持っていれば寧ろ知らない方が身のためと思ってこんなヤバい仕事からは手を引くのが普通だろう。

彼ら、特に主人公の桐山拓郎の行動原理は自分が逢うことになっていた久岡なる人物がホテルの部屋で亡くなっていたことと、かつて自分のマネージャーだった友人の永井康介が突然交通事故死したことである。
この明らかに何かきな臭い事情が隠されている一連の事故の真相を知りたいというのが最初の動機であった。

そして次第に物事が桐山自身が育った施設≪あけぼの荘≫が絡んでいることが解ってくるのだが、それでも私だったら早々に手を引き、元の平穏な生活に戻るのが普通だろう。

作中妻の和子が3,4日の約束で、危険だと自分が判断したら調査は辞めると云ったのに、それを聞かないこと、そして行く先々で人が縛られたり、暴力沙汰が起き、終いには自分の夫も瑕を負って見つかること、得体のしれない大男と対峙したことが恐ろしくて堪らないと述べる。

これこそ真実だろう。
しかしそれでもなおこの夫婦は友人の死の背後に潜む陰謀を暴こうとするのである。

もはや市井の人々が関わる範囲を超えてしまっている。上に書いた理由があるとはいえ、なぜここまで彼らがしなければならないのか、終始疑問に思いながら読んでいた。

巨大企業、右翼団体、政治家、暴力団と蓋を開けてみれば実に危ない世界の面々が絡んだ事件だったことが明かされる。
そんな組織に盲目のボクサーが挑むとは何とも無謀な物語だったことか。

しかし本書で一番解せなかったのが桐山の妻和子という女性だ。
結婚前はある総合雑誌の編集記者をやっており、桐山とは彼への取材で知り合い、そして結婚に至った。当時チャンピオンとして、自分に云い寄ってくる女性は選り取り見取り、相手もその気で来るせいか、ちょっと誘えばすぐベッドインが出来る、つまり世界が自分の思いのままになっている無敵感を備えていた桐山の誘いを素っ気なく断った、度胸ある性格。

桐山が盲目になり、ボクサーを引退してからはタレント業に移行した彼をマネージャーとして支え、不具者特有の傲慢さを桐山が出してもグッと押し黙って耐え、桐山の意向に沿うように行動する献身な妻となっている。

正直主人公の桐山は上に書いたようにまだ若く、ボクサー時代の勝ち気で短気な性格が抜けきれず、敬語は使わず、しかも考えるより先に口が出る性格で、情報を極力与えずに相手の話を聞き出し、自分の切り札は最後まで取っておくのが定石の調査活動には全く不向きな男。盲目になっても自分一人でもどうにかなることを見せたがり、勝負の世界に生きてきただけに勝ち負けにこだわり、更には自分が障害者の両親の子であることを恥じて隠し、そんな過去を忘れたいがために親のことを何十年も顧みないという、読者の共感を得られるような人物ではない。

そんな自分勝手で大人になりきれない男にどうして才色兼備の和子が夫唱婦随の関係で桐山に連れ添っているのかが解らなかった。
前述したように、桐山が、自分の友人が亡くなり、また逢おうとした人物が何者かに殺されていたというだけの理由で命をも奪われそうになる危険な橋を渡り、事件の関係者たちから、貴方は関係ないからこの件から手を引くようにと何度も念押しされているにも関わらず、知らないでいること、門外漢に晒されることに我慢がならず、首を突っ込むのを止めないがために、和子自身も人の死にも遭遇し、また夫が暴力を受け、傷つくのを目の当たりにし、それに恐怖する。勿論そのことを夫に告げて止めるように促すが、結局は付いていく。

ここまでするほど、桐山という男に魅力があるとは思えない。
確かに世の中にはなぜこんな女性があんな男と付き合っているのか、結婚しているのかという組み合わせはある。この桐山夫妻もそのうちの1つであり、それは女でないと解らないからだろうか。つまり、放っておけない、私がいないとあの人は駄目だから、そんな理由なのかもしれない。
もしそうだとしても雑誌記者という、いわば理詰めで仕事を進める女性が、理屈でなく感情で桐山に献身的に連れ添う理由が不明で、読んでいる最中どうしても割り切れなかった。

桐山に連れ添うと云えば、親友の永井の妹留美もそうである。突然兄を亡くした彼女は桐山が姿を見せるなり、飛び込むように抱き着く。そして和子は留美の態度から彼女が桐山のことを好きなのではないかと推察する。つまりどこか桐山には母性本能をくすぐる魅力があるのかもしれないが、同性の私には彼がそれほど魅力的とは思えなかった。

タイトルに示す『梟の拳』は盲目のボクサー桐山が幾度となく彼らの前に立ち塞がった≪須藤グループ≫が放った刺客、名もない大男との決戦で、絶対不利の中、留美の機転で照明が消された中で見事にノックダウンしたその拳を指していることと思われる。
梟は夜目が利くが盲目の彼は目が見えない、しかし目以外の耳、その他五感で見て、拳を放つ。過去の栄光に縋って、失うことばかり恐れていた彼。勝つことのみに固執しながら、暗くなかったら俺の方が勝っていたと相手に云われ、それを認めたその時、桐山は変わったのだ。彼が得たのは盲目でも勝てるという矜持ではなく、勝ち負けなどはいらないという境地だったのだろう。

1995年に発表された本書。読み始めは盲目になった元ボクシングチャンピオンが徒手空拳で個人が組織と戦う、ハードボイルド小説を想像していたが、最後に明かされるのは原発建設に隠された国家的陰謀という実に重たい内容だった。

舞台となる24時間のチャリティー番組について例えば恰も寄付に駆け付けたかのように見える芸能人たちが企画の段階でスケジュールに織り込まれていること、寄付で集まる金額と同じくらい番組制作費にお金がかかっており、単に売名行為に過ぎないこと、など作者はあくまでフィクションであると断っているが、案外信憑性の高い話かもしれないと思わされる。

そして現在その安全性と存在意義が問われている原発とこちらもまた23年経った今もまだタイムリーな話題で、しかも内容はかなりセンシティブだ。

今読んだからこそ、響くものがある。またも私は読書の不思議な繋がりに導かれたようだ。


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梟の拳 (講談社文庫)
香納諒一梟の拳 についてのレビュー
No.1276:
(10pt)

誰がための決着か

ボッシュシリーズ新章の開幕である。何度この言葉を書いたことだろうか。
刑事を辞し、私立探偵を営んでいたボッシュはロス市警が新設した復職制度を利用し、刑事に復帰する。配属先はロス市警未解決事件班。ドラマにもなっているいわゆる「コールド・ケース」と呼ばれる未解決事件を取り扱う部署で過去の事件に取り組むことになる―因みに当時既にCBSで放映されていたドラマ『コールドケース』について登場人物がその番組を担当しており、ボッシュに取材を申し出るのはコナリーなりのサーヴィスか。それともこの番組を観て着想を得たコナリーが読者から何かを云われる前に敢えてこの番組に触れたのだろうか―。

相棒は元部下のキズミン・ライダーで、班長は年下ながらボッシュに深い理解を示しながら、チームを掌握し、団結心を鼓舞するリーダーシップを持つエーベル・プラット。更に班内は署の精鋭ばかりが集まっている。
つまりボッシュはこれまでに比べて恵まれたチームで働くことが出来、そして捜査も自然チームワークが主体となる。一匹狼として独断捜査をしていたそれまでのボッシュとは異なっている。

しかし未解決事件を扱う班に配せられたというのは皮肉なことだ。なぜならこのボッシュシリーズは過去の闘いの物語だからだ。
彼は常に過去に向かい、そして新たな光を当てることに腐心している。失われた光をそこに見出そうと過去という闇の深淵を覗く。そしていつも闇からも自身が覗かれていることに気付き、取り込まれそうになるところを一歩手前で踏みとどまる。

自身が抱える闇と対峙し、そして事件そのものが放つ闇に向き合う。何年も前に埋められた骨が出てきても諦めずその過去に挑む。それがこのハリー・ボッシュという男の物語だ。

そしてボッシュはこの部署に配属されたことで自分が最初に手掛けた事件が未解決となっている両手首を犬用の革紐で縛られ、飼い犬と一緒に浴槽で殺されていた老女殺害事件も再捜査しようと考えている。

そしてこのシリーズの特徴の1つに確実にそれぞれの人物に時間が、歳月が訪れていること、そしてそれが各々の登場人物に深みを与えている。

ボッシュは勿論ながら、彼に関わった登場人物、例えば当初彼の相棒だったジェリー・エドガーはまだハリウッド署の強盗殺人課におり、後から来たキズミンに追い抜かされた形で、彼女との関係は上手くいっていない。

キズミンはハリウッド署からLA市警の強盗殺人課に、そして本部長室付を経た後、ボッシュの復帰を機に強盗殺人課の未解決事件班に異動となり、かつてのボスだったボッシュとまた組むようになる。

ボッシュの宿敵アーヴィン・アーヴィングは戦略的計画室という閑職に異動されたが、必ずボッシュがミスを犯すと信じ、虎視眈々とそのミスに付け込んで復活の機会を窺っている。

またボッシュの妻エレノアは娘マデリンを連れて香港に1年間の契約で行っているようだ。

また一方でノンシリーズの『バッドラック・ムーン』に登場したキャシー・ブラックの仮釈放監察官セルマ・キブルが、銃で撃たれる重傷から復帰した姿を見せる。そして当時はふくよかだったのが事件の後ではすっかり痩せてしまい、おまけにボーイフレンドまでいるようだ。
そしてそこでまたボッシュはキャシー・ブラックの姿を写真で見るのである。ボッシュがどこか運命的な物を感じている女性としてキャシーは今後も登場するのかもしれない。

そんな時の流れの中、刑事復帰後早々の事件の捜査において自分の捜査のテクニック、スキルが3年ものブランクで錆び付いたことを痛感する。
相手の事情聴取で踏み込み過ぎ、相手を揺さぶるためのテクニックを看過され、ガードを固くさせてしまったり、夜中に尾行をして相手の家の周辺にいる時に携帯電話を切るのを忘れて受信してしまったりと以前の自分なら信じられないポカミスに自己嫌悪に陥るのだ。

ボッシュは本書で1972年に警官になったとあるから、本書の中の時間が原書刊行時と同様であれば32、3年のキャリアだ。未解決事件班のボス、エーベル・プラットが50手前でボッシュより2,3歳下と書かれているので、つまり51、2歳ぐらいか。しかもパソコンも使えず、事件の調書はタイプライターで作成するアナログ刑事。前時代的な刑事になりつつある。

1988年の事件の調書を読んで当時の担当者であるガルシアとグリーンが当初家出と見なした初動捜査のミスに憤りを感じる反面、自身すら単純なミスを犯してしまう情けなさ。

そしてこのボッシュの衰えぶりは最近の自分と照らし合わせても痛感させられる。実にしょうもないミスが多くなり、そしてよく忘れてしまうのだ。私もずいぶん歳を取ったと思わされる昨今。ボッシュに共感する部分が多々あった。

もう1つ忘れてならないのはアメリカに根深い人種差別問題がテーマになっていることだ。
1988年の事件を掘り起こし、証拠の1つだった押収された凶器の銃の中に残されていた皮膚片をDNA検索を掛けたところ、ローランド・マッキーなる容疑者が浮上する。そして彼が身体に入れている刺青が白人至上主義者である特徴を十分に備えていることから、事件に新たな光が当てられる。

コナリーは黒人に暴行を加えた白人警官が無実となったことで勃発したロス暴動を扱った『エンジェル・フライト』以降、同じくロスを舞台に刑事として働くボッシュの活躍を通じて人種差別根強いロスを描いてきた。そしてそのネガティヴなイメージを払拭させようと躍起になっているロス市警を舞台に1988年というまだ差別の風潮が根強いロスを描くことで、コナリーは人種差別によって引き起こした事件を深堀している。
それは浄化という名の下で、不名誉をリセットしようとしているロス市警、いやロサンジェルスと巨大都市自体を風刺しているかのようだ。根本的に変わらないと悲劇はまた起きると痛烈に警告するかのように。

偶然と云うにはあまりにも多すぎる手掛かりが事件の本当の姿を目くらませ、そして未解決のまま17年もの歳月を眠らせることになったのだ。

未解決の殺人事件が当事者に及ぼす影響とはいかなものだろう。ボッシュとライダーが当時の関係者に事情聴取のために訪ねると、一様に彼ら彼女らはまだレベッカの事件のことを覚えており、開口一番に犯人が見つかったのかと尋ねる。つまりそれは皆の中で事件が終っていないことを示しているわけだが、それがまたそれぞれの人生の転機となっていることが見えてくる。

例えばレベッカの友人の1人ベイリー・コスターは教師となって母校に戻り、二度と同じような目に遭う生徒を出さないよう気をつけながら、事件解決の朗報を待っている。

自分の盗まれた銃が犯行に使われたサム・ワイスはそのことがずっと頭に残り、警察から電話が掛かってきただけで、すぐにその事件を連想する。

本書の原題“The Closers”とはクローザー、つまり野球で勝敗が掛かっている時に投入される、あのクローザーを意味している。
つまり未解決事件、即ち今なお終わっていない事件に決着を着ける刑事たち、彼らこそが終決者たちなのだ。

そのタイトルに相応しいこれまでのシリーズにおいてボッシュの枷となってきた者たちが粛清されていき、まさに一旦幕引きされるかのようだ。

しかし上に書いたようにいくら犯人が捕まろうがその事件の当事者たちには終わりはないのだ。
区切りはつくだろう。
しかし彼ら彼女らはその人の理不尽な死を抱えて生きていかなくてはならない。

罪を憎んで人を憎まずというが、本当に愛する者を奪われた人たちがそんな理屈では割り切れない感情を抱えて生きていけるわけがないと大声で訴えかけてくるが如く、結末は苦い。

ボッシュとライダーはその事実を知らされ、自分たちの成果に水を刺され、虚しさを覚える。未解決事件を解決することは関係者に復讐相手を特定するだけではないか、そんな虚しさを。

読んでいる最中は今回は純然たる警察小説として終わるかと思っていたが、流石はコナリー、そんな簡単に物語を終わらせない。

今までのシリーズ作は常に過去に対峙するボッシュシリーズの特徴を踏襲しており、ボッシュ自身の過去から今に至る因果が描かれていた。

ボッシュに関わった人物たちが過去に犯した罪や過ちが現代に影響を及ぼし、それがボッシュ自身にも関わってくる、もしくはボッシュの生い立ちに起因する様々な事柄が事件に思わぬ作用をもたらす、そこにこのシリーズの妙味と醍醐味があると思っていた。

しかし本書の読みどころは過去の事件に縛られた人たちの生き様だ。そしてそれ自体がそれまでのシリーズ同様の読み応えをもたらしている。

ボッシュ自身の過去に固執することなくボッシュが事件を通じて出遭う人たちを軸に濃厚な人間ドラマが繰り広げられることをコナリーは本書で証明したのだ。

但しシリーズを通じて一貫しているテーマがある。それは今なお根強い人種差別問題、警察の汚職と横暴、法の目をかいくぐる悪への制裁だ。
悪はすべからく罰せなければならない、そうしないとまた悪が野に放たれるだけだ。それこそがボッシュの信条であり、それはコナリー自身の信条なのだろう。だからこそ過去に埋もれて忘れ去られようとしている悪をも掘り返すのだ。

しかしこれだけの巻を重ねながら毎度私にため息をつかせ、物思いに浸らせてくれるコナリーの筆とストーリーの素晴らしさ。

物語の最後、容疑者の殺害に意気消沈するボッシュにライダーが次のように云う。

「あなたがなにをするつもりであろうと」(中略)「わたしはあなたについていくわ」

私もコナリーが何を書こうともずっと付いていこう。そう、決めた。


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終決者たち(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリー終決者たち についてのレビュー
No.1275:
(7pt)

当時の不透明な世相が色濃く表れているかのよう。

本書はキングが1985年に発表した短編集。しかし例によってその分量が多いため、3分冊で日本では刊行された。本書はその第1冊目に当たる。そしてこの奇妙な題名はこの短編集を総じて表されたもので、この題名の作品があるわけではない。序文にあるようにキングが案内人となり、死に纏わる話を見せる旅に出る読者そのものを指しているように解釈できる。

まずその口火を切る「握手をしない男」はなんと『恐怖の四季』シリーズで最後を飾った「マンハッタンの奇譚クラブ」で登場した紳士クラブが舞台。しかもその時の鮮烈な妊婦の話があった後の話だ。但し前者ではマキャロンとなっていた語り手の名はマッカロンと表記されてはいるが。
握手を徹底的に拒む男。なんと魅力的な謎だろう。握手どころか他人と触れることすら拒む男。重度の潔癖症のように思えるこの不思議な男に隠された謎がまた実にキングらしい奇想に満ちている。
今回も実に不思議なお話だった。前作同様、今回も冬の夜に語られる物語。不思議な、そしてどこか忘れ難い物語を語り、聞くには寒い日の煖炉の前がよく似合う。
そしてこの紳士クラブを取り仕切るスティーブンスもまた時空を超えた存在であることを仄めかす終わり方が味わい深い。名前からして作者の分身を指しているのではないだろうか。
このマンハッタンの紳士クラブの奇譚、シリーズとして1冊に纏めてくれるといいのだが。

続く「ウェディング・ギグ」は1927年のイリノイ州はモーガンのジャズバンドの物語。
古き良きアメリカの物語。田舎で評判のバンドの許に妹の結婚式での演奏を頼む男。しかし彼はシカゴのやくざで妹はデブでブス。しかしこの兄は妹をこの上なく愛し、妹も兄を慕った。
1920年代のアメリカにはそんな伝説がゴマンとあったことだろう。これはキングによる、そんなゴマンとあっただろう物語の1つ。
何だろうなぁ、この何とも云えない余韻は。こういうのが書けるからキングは只者ではないのだろうな。

次の「カインの末裔」はなんとも云えない読後感を残す。
キングは決して彼の動機については語らない。
題名の示すカインとは旧約聖書に登場するアダムとイブの間に生まれた兄弟の、兄の方の名。神ヤハウェに供物に関心を持たれた弟アベルを憎み、殺害した兄の名だ。
今なお問題を抱えるアメリカ銃社会が引き起こす、未成年の衝動的な銃発砲事件が30年以上も前に理不尽な殺戮シーンとして描かれている。

次の「死神」は本書に付せられた序文によれば18歳の時に書かれた短編らしい。
鏡はホラーやオカルト話によく使われる小道具で単に物を映すというその道具が放つ蠱惑的な魅力は古今東西の創作者の興味を抱いて止まないモチーフのようだ。
そしてキングが鏡を使って書いたのは死神が見える鏡という物。但し、キングが上手いのは不思議な余韻を残す形で終わっていることだ
しかしこの話を書いた時、キングは18歳である。18歳と云えば思春期で、大人たちがはっきりと答えを出さないこと、また正しいことをするのが決して正解ではないという大人の世界を知り出す時期。そんな白黒はっきりさせたい青年期にこのような不思議な余韻を残す、その才能にひたすら感心してしまった。

次の「ほら、虎がいる」も奇妙な話だ。
この主人公は学級の中ではいわゆるスクールカーストの中では下の方に位置する生徒として描かれている。従って他の生徒だけでなく、悪意ある先生にもバカにされている。
突然学校のトイレに現れた虎はそんな鬱屈した毎日に嫌気が差した彼の願望が生み出した産物なのだろうか?
潜在意識下で彼が望んだ、自分の天敵を抹殺するために生み出した妄想の動物なのか?
この不条理さゆえに色々と考えさせられる作品である。

最後を飾るのは本書において最長の中編「霧」。
映画にもなった本作は霧という自然現象を得体のしれない不定形の生命体の如く描き、見えない何かに襲われる恐怖として描いている。何よりも舞台をショッピングセンターの店内という不特定多数の人間が訪れる限られた空間にしているところが面白い。
次第に霧の中に蠢く物が正体を現してくる。
そしてこの得体のしれない霧と異形の生物の謎を裏付けるものとして政府保有地でアローヘッド計画なる、正体不明の実験が行われていることが示唆されている。
未曽有の嵐が訪れた土地の翌日に現れた霧はその謎めいた施設で生み出された新型兵器なのか、それとも全く新しい生命体なのか。もしくは核を使った実験中に異次元に通じる穴を開けてしまったのか。
80年代当時、今もそうかもしれないが、アメリカでは政府による隠密裏に行わている実験施設が各所にあると噂されており、特に宇宙人、グレイを捕獲しているという話は有名だ。1985年と云えば私は中学1年生。小学生の高学年時にはそういった陰謀物が流行っており、私も図書館でそういった類の本をたくさん読んだ覚えがある。
そんな背景を盛り込ませた上で、嵐から一夜明けて倒木や断線の被害に遭った街をこの得体のしれない霧が迫ってくるという着想が素晴らしい。普段の生活ができない不自由な時と場所において、それまで見たことのない脅威が襲ってきたときに人はどのように振る舞い、またどうやって立ち向かうのか。それが群像劇として生々しく描かれている。
いや群像劇というよりも閉鎖された空間で起きる人々の変容を描いていると云った方が正確か。ショッピングセンターを囲む異形の物たちの存在を信じず、家に帰ろうとする者また外の異常に対して慎重に振る舞い、どうにか生還する方法を模索する人々―主人公のデイヴィッド・ドレイトンもこのうちの1人―、一方非現実的な事態に目を背け、ただひたすらビールを飲み、現実から逃避する者など様々だ。
その中でも常日頃終末論を唱えているがために変人扱いされていたミセス・カーモディは、ここぞとばかりに神の裁きを唱え、徐々に信者を増やしてく様は狂信的な信者を増やす怪しげな新興宗教が蔓延していく様を観ているようだ。
そう、このショッピングセンターの中で、一種のコミュニティ社会が形成されていく様が描かれているのも本書の特徴の1つである。
ただ決してキングは新しいことをやっているわけではない。ショッピングセンターに閉じ込められた人々が異形の物たちの脅威に晒されるという設定は70年代後半に一世を風靡したジョージ・A・ロメロ監督作『ゾンビ』と設定が酷似している。
キングが自身の恐怖、そして影響を受けた映画などを存分に語ったエッセイ『死の舞踏』でもこの作品については触れられており、明らかにその影響が見られる。
しかし私はもう1つの作品を想起した。それは楳図かずお氏が1970年代前半に発表した『漂流教室』だ。突然の大地震でどこか次元の異なる世界へと学校丸ごと移動してしまった生徒と教師たちが、外の世界で蠢く地獄絵図のような異形の怪物たちに囲まれる中、困難に立ち向かう者、自己保身に奔る者、狂気に陥る者などを描いたこの作品が常に頭をよぎっていた。
今でこそ日本のマンガ・アニメは海外にも普及し、広く知られているが、この80年代当時は勿論そんな状況ではなく、全くキングにはこの作品の存在は知られていなかっただろう。
あとがきによればキングがこの作品を発表したのは1980年。10年未満のスパンで東西それぞれの恐怖作品の作り手が類似した作品を書いているシンクロニシティに不思議なものを感じる。
シンプルな設定な物語なのにいくつもの要素が入った小説である。モンスター物、パニック物、そしてディストピア小説。最後の読み応えはかの大長編『ザ・スタンド』から派生した物語のように感じられた。


キング自身による序文によれば本書に収められている短編の書かれた時期は様々で18歳の頃に書かれた物もあれば、本書刊行の2年前に書かれた作品もあったりとその時間軸は実に長い。
勢いだけで書かれたようなものもあれば、じっくりと読ませる味わい深い作品もあったりと様々だ。

そして今でもその傾向は更に拍車がかかっているが、アメリカでは特に短編に対しては作者にとっては非常にコストパフォーマンスが低い仕事となっており、そのことについてキングは序文で自身言及している。周囲の友人からはなぜこんなに割の悪い仕事をするのか、と。

その割の悪さを具体的にこの短編集に収められた「神々のワードプロセッサー」の原稿料を実例として詳らかに語られている。既にビッグネームとなったキングでさえ、短編1作で得られる実質的な収入はエージェントやビジネス・マネージャーの手数料、所得税などを差っ引くと同じ期間で仕事をした配管工の手当と変わらないらしい―その後、友人がバカにしていた短編のおかげで1冊の本に纏められることでどれだけの収入が得られたかをキングは書き、その友人に仕返しをしている―。

しかしキングは短編を書くことは自分の文章練習のようだと述べている。年々長編を書くごとにストーリーが肥大化してきていることから、その悪い傾向をリセットするために短編の創作は必要なのだという―しかしそういっておきながら、この短編集の次に発表した長編はキング長編の中でも大部を誇る作品の1つである『IT』である。全然リセットされていないところが可笑しく、またキングらしい―。

さてそんなキングのリセットすべくために書かれた短編だが、そのことを裏付けるかの如く、本書に収められた6編のうち、5編は短いものでは8~12ページのショートショートと云えるものや、20~30ページの短編の中でも短いものが収録されている。しかし最後の1編「霧」は220ぺージを超える中編であり、やはりどうしても抑えきれない物語への衝動が感じさせられる―しかしこの作品も含めて残り3冊を1冊の短編集として刊行するアメリカ出版界の短編集不振が根深いことが想像させられる―。

しかしこの6編、実に多彩である。

まずはマンハッタンのとあるクラブで話される各メンバーが語る奇妙なお話「握手しない男」。冒頭にも書いたように中編集『恐怖の四季』の最後に収録された『マンハッタンの奇譚クラブ』と舞台を同じにする、キング版現代百物語。

握手を頑なに拒む男の奇妙なまでの振る舞い、そしてその隠された理由の恐ろしさ―これは先に読んだ『瘦せゆく男』を想起させる―は荒木飛呂彦氏が大いに影響を受けていることを想わされる。読んでいて荒木氏が描く奇妙な短編を読まされている気がした。
そして最後の一節が示唆する不思議な味わい。まさにこれは奇妙な味とも云うべき作品で、繰り返しになるが、ぜひともこれはシリーズ化して1冊の本に纏めてほしいものだ。

そして古き良きアメリカの、ある田舎バンドが遭遇した事件とその後を伝聞風に描いた「ウェディング・ギグ」。とても最高のカップルとは云えない醜男と並外れたデブでブスの女の結婚式とその後の物語は無法の時代のアメリカの、無数ある伝説を語ったウェスタン風の作品。

学校生活を扱ったものが「カインの末裔」と「ほら、虎がいる」の2編だが、そのどちらもが実に驚く展開を見せる。

前者は優等生と思しき生徒がいきなり寄宿学校の寮の自室に帰るや否や部屋の窓から銃で次々と人を殺しまくる。

後者は授業中に小便を我慢しきれなくなった生徒がトイレに行くとそこに大きな虎がいたという話だ。

どちらもあまりに唐突な展開に面食らう内容だ。

前者はまったく唐突に人を撃ちまくり、後者は彼が立ち往生しているところに同じクラスの生徒と先生が現れて、虎がいるトイレの中に入ってしまう。

これらに共通するのは自分のいる世界を壊してしまいたいという思春期特有の暴走を示しているかのようだ。
普段は大人しい彼らも、心の中で貯め込んだ鬱屈はある日突如爆発して、ある者は殺戮の衝動に駆られ、自ら手を下し、またある者はあるべきところでないところに虎という異質な存在を生み出し、邪魔者を消そうとする。

この不条理さが10代の若者が抱える暴動のエネルギーを具現化しているように思える。

そして収録作品中最も古い「死神」は十代に書かれたとは思えないほどの余韻を残す。それを覗いたものは押しなべて神隠しに遭ったかのように消え失せてしまうという逸話を持つ鏡を骨董美術の専門家が見た後の、あの余韻はもはやヴェテラン作家の域だろう。

そして最後の「霧」。三分冊されたこの短編集で大部を成す本作はまさにキングの独壇場だ。

奇妙な実験をしている施設が近くにあることを仄めかし、嵐の明けた翌朝に突如現れた奇妙な霧。そこからその得体のしれない、まるでそれ自体が一個の生命体のように徐々に町全体を包み込む霧によってショッピングセンターに閉じ込められる人々。そしてその霧の中には異形のモンスターたちが跋扈している。
この辺りはまさに作者自身のB級ホラー趣味を存分に盛り込んでいるのだが、それだけではなく、ショッピングセンター内で起こる人間ドラマも濃密だ。
閉鎖空間で生まれる人同士の軋轢、異常な状況で首をもたげてくる人々の狂気を描いたパニック小説の様相を成し、やがて最後は決して安息をもたらさない霧から逃げきれないままの主人公たちを描いたディストピア小説として終わる。まさに力作である。

特にその中で徐々に権力を持って行くミセス・カーモディなる老婆。骨董品店を営む彼女は普段は何でも神に擬えて物事を語る、いわゆるちょっと頭のおかしなおばあさんなのだが、この異常な状況が彼女を教祖のように仕立てていく。
主人公は普段は誰も歯牙にもかけない頭のおかしな老婆が斯くもカリスマのように巧みな弁舌を振るう力を与え、彼女を神格化しようとしているのはこの霧なのだという。これはまさに当時冷戦下にあったアメリカの先行き不透明な不安な空気をそのまま語っているようだ。即ち霧とは当時のアメリカの見えない将来そのものだったのではないか。

このように全く以て1つに括って語れないキングならではの短編集。
本書に収められた「カインの末裔」の如く、思わぬ不意打ちを食らい、「死神」のように見てはいけない物を覗き、そして「ほら、虎がいる」のようにページを捲った先には虎に遭遇するかもしれない。それはまさに「霧」のように、残された2冊の内容も全く先が読めないようだ。
キングの云うことに従って彼の手を離さぬよう、次作も彼の案内されるまま、奇妙で不思議な、そして恐ろしい世界へと足を踏み入れよう。


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スケルトン・クルー〈1〉骸骨乗組員 (扶桑社ミステリー)
No.1274:
(7pt)

空以外何もない

キルドレという永遠の子供たちの戦闘機乗りたちが主役を務める『スカイ・クロラシリーズ』の第2作。
本作の主人公は前作の主人公カンナミ・ユーヒチが配属された基地の教官だったクサナギこと草薙水素が主人公。彼女がまだ戦闘機乗りだった頃の話。つまり前作から時代が遡った物語となっている。

この『スカイ・クロラシリーズ』、前作同様、端的な描写と独特の浮遊感を湛えた文章で紡がれる。それはクサナギの一人称を通じた戦闘機乗りの、そしてキルドレという特殊な人間の思いだ。その思いは断片的で、実に恣意的だ。つまりこのシリーズはミステリではなく、ジャンル的には純文学に近い。

それらは戦闘シーンと同僚たちとの交流と云った日常的な出来事が淡々と流れるように語られる。
町へ繰り出し、上手いものを食べ、女を抱く同僚たちの日常に、笹倉のバイクを初めて運転させてもらうクサナギの様子など青春グラフィティさながらだ。

その中でもやはり中心となって描かれるのはクサナギが任務に就いている時の戦闘シーン。
短文と改行を多用し、極力無駄を配したリズミカルな文章で紡がれるそれは、数ページに亘り、ページの上部のみに文字が集約され、そして短文であるがために下部が白紙であることで、さながら文章自体が空の雲と空を飛ぶ様子を表しているような感覚を与え、読者が実際に空を飛び、そしてクサナギの感じるGすらも体感するように思える。

また戦闘機乗りの独特の死生観も実に興味深い。
前作では寿命がないために、事故や殺人に遭わなければ永遠に死ぬことのないキルドレの、厭世観や虚無感が全面的に押し出されていた感じがあり、彼らは死ぬことに対して抵抗感がなく、むしろ死ぬ唯一の方法が撃墜されることなのだと云わんばかりに空を飛び、そして敵を戦っていた。また死地である空を飛んでいる時にだけ、彼らは生への充実感を覚え、いつまでも飛んでいたいという矛盾を抱えていた。

本書に登場するクサナギはまだそれほど自分がキルドレであるという運命に対して悲観していない。彼女は純粋に飛行機に乗るのが楽しく、また戦闘機乗りとして空で死ぬのが本望だと思っている。つまりまだ人間の戦闘機乗りの持つ人生観と同じなのだ。

彼らは相手と戦うために飛ぶ。そして実際に相手を撃墜して還ってくる。そのまた逆も然り。
しかしそれが彼らの仕事であり、人生であると悟っている。
命を賭けた仕事という重い職責を負いながらも死と生とは切り離し、純粋に飛行機に乗って戦うことをゲームのように楽しんでいる。ゲームに敗れて死ぬことは任務を、与えられた人生を全うしたことであり、だから飛行機に乗らない人たちになぜ死ぬかもしれないのに戦闘機に乗るのか、怖くないのか、なぜ戦うのか、相手を撃墜することに躊躇いはないのかと、いわゆる一般的な生殺与奪の観点で職務について問い質されること、そして撃墜した死んだことに対して可哀想だと同情されることを嫌う。
自分たちはやるべきことをやって死んだのだからこれほど幸せなことはないと誇りを持っているのだ。唯一残る悔いは相手よりも自分が未熟であったという事実を突きつけられること。
命を賭けた勝負の世界に生きる戦闘機乗りの心情とは本当にこのような物なのだろう。

しかし本書においての草薙水素は飛行機に乗ることが大好きな戦闘機乗りだ。今日も空へと飛び立ち、敵と戦い、帰ってくる。そのために生きているかのように、彼女はその瞬間を愉しむ。

前作の感想では第1作はシリーズの序章と云ったところだろうと私は書いたが、時間軸で云えば2作目の本書は過去へと向かっている。
ミステリが既に起きてしまった事柄の謎を探る、つまり過去に遡る物語であることを考えれば、確かに第1作は序章だ。

しかし今回2作目を読んでこのシリーズは人物を覚えていることが重要であることに気付いた。備忘録のために今回出てきた人物を挙げておくのが肝要だろう。

草薙と同時期に配属されたメカニックの笹倉は前作にも登場。

チームのエースでティーチャはかつての綽名がチータ。

チームの上司合田。既に撃墜された同僚薬田、辻間。キルドレの比嘉澤に栗田。栗田は1作に出てくるクリタ・ジンロウのことだろう。

そうそう娼婦頭と思しき女性フーコもまた前作に登場していたのではないか。

草薙の元同僚赤座に指揮官の毛利、本部の人間甲斐に草薙が不時着した基地にいたのが本田。そして草薙の知り合いの医者が相良。

これらの登場人物は前作から引き続いて登場した者もいる。今後のシリーズでどのように関わってくるのか、そのためにここへ刻んでおこう。

このシリーズは過去へと向かうシリーズだと聞いた。つまりカンナミ・ユーヒチのその後の物語ではなく、第1作目に至るまでの物語だ。特にカンナミという名は重要かもしれない。

このシリーズは基本的に主人公の一人称で物語が進む。従ってクサナギと親しくしていた笹倉が彼女のことをどのように思っていたかは解らない。もしかしたら今前作を読むと何か読み取れるものがあるかもしれない。

私は文庫版で読んだがその橙一色に染め上げられた表紙は黄昏時の空を示しているのかもしれない。草薙水素が絶望に暮れる夜に至る前の物語だという意味が込められての色なのか。
夕暮れ時はどこか切なく哀しい思いにさせられるが、本書の中の草薙水素はまだ元気だ。
None but Air。空以外何もない。
今日も草薙水素は空を飛ぶ。絶望に明け暮れるその日が来るまで。


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新装版-ナ・バ・テア-None But Air (中公文庫, も25-16)
森博嗣ナ・バ・テア についてのレビュー

No.1273:

震源 (講談社文庫)

震源

真保裕一

No.1273:
(7pt)
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知ることの恐ろしさと虚しさを感じた

本書はまだ真保氏が、自身が傾倒するディック・フランシスの作品に倣って、二文字タイトルの、そしてどこかの公的機関に所属する人物を主人公にしたいわゆる「小役人シリーズ」の3作目に当たる。主人公を務めるのは気象庁の研究官、江坂慎一だ。

そして本書はそのタイトルに示すように地震をテーマにしているのだが、それはまだ物語の冒頭に描かれるプロローグのエピソードのみで、本編に入ってからは門倉司郎という男が水面下で動いている国家的規模の機密計画の準備と、主人公江坂が海洋科学技術センターの無人潜水調査船「ドルフィン」を使用しての吐噶喇列島と薩摩硫黄島周辺海域の鬼界カルデラの海上保安庁との合同観測で鹿児島を訪れるも、海上保安庁の一方的な回答による測量船の不備による度重なる順延とその空いた時間を利用したプロローグで描かれる津波地震観測ミスによって転勤になった元同僚の森本の捜索に専ら話は費やされる。

しかし気象庁と地震とは真保氏はまたもや何とも地味な主人公の職業とテーマを選んだものだ。こんな地味な題材を用いながらしかし、真保氏はエンタテインメントを紡ぐことに成功している。

とにかく話が進むうちに新たな謎が次から次へと出てくるため、全く先が読めない。

さて上にも書いたように物語は大きく2つに分かれる。

1つは主人公江坂慎一が登場するメインストーリーのパートと警視庁から出向し、内閣情報調査室調査官を務める門倉司郎のパートである。

江坂のパートでは以下のように謎が彼が調べていくうちにどんどん謎が深まっていく。

鹿児島へ現地入りした江坂達の調査を測量船の故障という理由以外詳しいことを説明しようとしない海上保安庁は何を隠しているのか?

更に元同僚の森本は何故辞職したのか?

その答えは彼によって直接答えが出される。明日の見えない仕事に嫌気が差したと。そして新たな会社を興したのだが、その手掛けている仕事は一体何なのか?

彼の会社に出資ししているスポンサーとはどこなのか?

また彼の来訪をきっかけに休職願を出し、姿を消した南九州工業大学の佐伯教授は森本の事業と何か関係しているのか?

それも森本の電話から彼も現在の大学、しかも一地方のさほど権威があるわけでもない大学では出来ることに限界を感じ、森本と志が一致したことによる。

しかし森本が現れてから大学の最新鋭の地震計が壊され、観測データが全て消去されたのか?

福岡大学の物理学教室の日下部修と名乗る男の正体が不明なこと。

そして何者かによって江坂の荷物が物色されていたこと。

更に森本が自動車事故で焼死し、その際警察関係が警護についていたこと。しかもなぜ彼はVIP扱いだったのか?

そして森本が調査していた奄美大島西の沖合で多くの海上保安庁の船が行っている演習とは一体何なのか?

もう1つの門倉司郎のパートはこの門倉という男の計画、思惑や真意自体が謎となっている。彼は大学の同級生の伝手を使って色んなものを調達する。

石油公団からは信頼ある採掘業者を。

防衛庁技術研究本部からは武器装備の最新技術を。

特に特殊塗料と各種光電波欺瞞システム、いわゆるステルス技術に関する技術提供を。

そして内閣総理大臣にはアメリカ諜報機関への情報漏洩を防ぐ、ある計画について実施の意向を取り付ける。

更にかつての部下の1人を警護役に雇い、低レベル放射能参拝物を乗せて失踪した海上保安庁の巡視船を追って鹿児島へと飛ぶ。

そして彼は森本の娘のマークを福岡県警の公安課に依頼する。

とにかくやること全てが謎めいている。

江坂が秘密を探る側ならば、門倉は秘密を持つ側。この2つの側面が交互に語られ、やがて東シナ海沖の奄美大島西の沖縄トラフで交差する。

さて真保作品の特徴の1つに綿密な取材に裏付けられたきめの細かい描写が挙げられるが、それは本書でも健在だ。本書では気象庁の人間と火山活動を研究している大学がメインとなって登場するが、これが実に現実的に描かれている。

例えば冒頭の福岡管区気象台のシーン1つにおいても当直する人員配置から津波予報の迅速な発令へのプロセスやその判断基準に至るまで専門性が高い内容で事細かに説明がされる。もうこのプロローグだけで一気に読者は気象庁の人間たちの住む世界へと引きずり込まれるのだ。

それからも随所に気象庁に勤める人間ならではの描写が続く。各所に配備された地震計による地震観測網による震源地の特定方法、地震計のデータを使った震央分布や深度別の震源分布図の作成のプロセスなど、それらを読者は江坂の作業を通じて専門的な解析作業のみならず、それが謎解きのアプローチにも同時になっているという愉悦に浸れるのである。

それだけではなく、先に述べた火山活動を研究している大学の研究室を訪ねた時に応対する人間の指先が震源分布図を作成中で色分け作業しているため、迷彩色になっているといったディテールに唸らされた。
こういったディテールを疎かにせず、積み重ねることでそれぞれの登場人物がリアルに感じられるのである。

また無論の事ながら随所に挟まれる豆知識もまた興味をそそられる。日本海溝に沿って阿蘇や桜島などが綺麗な直線で結ばれることを火山フロントと呼称していることや九州が阿蘇山、雲仙岳、霧島、桜島など含め、8つもの活火山を有する島であることなど、改めて九州が火の国であることを思い知らされた。先だってハワイ島が噴火したこともあり、早速それに因んだ雑談で使わせてもらった。

しかし本書は1993年発表の作品。25年も前の作品だ。従って描かれるツールがパソコン通信だったり、フロッピーディスクだったりと一昔感があるのは否めない。従ってここに描かれている観測技術は四半世紀前のものであることは仕方ないだろう。
技術を扱う小説の内容が古びていくのは時の流れに抗えない宿命であるが、それでもなお門外漢である業界の内容を知ることは知的好奇心がくすぐられ、実に面白い。
ただその道の人にここに描かれている内容をさも知っているかのように開陳して恥をかかないように気を付けなければならないのだが。

またそれらの謎に加えて多数の登場人物たちへの掘り下げが濃厚であるのも特徴だ。

主人公江坂は父親の事業を継ぐことに反発して気象庁へ就職した男だ。そして大学時代に付き合っていた女性と結婚するつもりで就職したが、あっさりと彼女が自分の許を去っていった過去、そしてそのことを見事に父親に云い当てられていたことがあり、そのことで父親に対して蟠りがまだ残っている。地方の気象台に勤務することを望んだのも父親のいる東京に行きたくないという頑なな思いからだ。

また彼が探す森本俊雄は50にして愛人が出来、それが元で仕事にミスが多くなり、それが原因で鹿児島に飛ばされた男だ。

監視業務一筋で生きてきながら、鹿児島へ左遷されるや2ヶ月で辞職し、自分の会社を興してもっと専門的なことに専念するようになる。しかしどこか投げやりな態度はかつての森本ではないと江坂は思っている。明日を信じて一歩一歩足元を見ながら実直に仕事をしてきた男が、自分の歩みがいかに遅く、そして到達すべき距離が到底間に合いそうにないことから仕事に嫌気が差し、逃げ出した男と変り果てていた。

その娘靖子も紹介した結婚相手を拒否され、そして父親が黙って興信所で相手の身元調査をしていたことで婚約が破綻した過去を持つ。しかし親子の確執は深く、自分もまた興信所を雇って父親の愛人の存在を調べ、そして暴き、一家崩壊へと導いてしまったことを後悔している。

もう1人の主人公とも云える門倉は大学時代から人と群れるのを嫌う、一匹狼的性格で感情を表に出さずに振る舞える男だが、交通事故で息子を一生杖が必要な身体にしてしまい、夫人とも離婚。おまけに出世コースだった警視庁外事課の課長の職を更迭され、内閣府へ出向した身である。

その他の登場人物にもそれぞれ苦い過去があり、それを抱えて今の姿があることが描かれる。

そしてそれは主要登場人物にとどまらず、登場人物表に記載されていない一シーンだけの端役たちについてもそれぞれの抱える背景が書かれており、1人として駒だけの人間として描かれていない。
家を留守がちな主人に愛想を尽かし、家を出た妻、会話の無くなった夫婦、プライドが高くて周りと打ち解けられないベテランの漁師、等々。

「人間を描けていない」とこの当時数多発表されていた新本格ミステリ作品に対して書評家たちは口を揃えるように評していたが、それを意識してのことか、真保氏は1人1人の人生を語ることでそんな評価を出させないようにしていると思えるほど、徹底している。

しかしどこかそれらのエピソードにはもう一歩踏み込められていない浅さを感じたのもまた事実だ。

まず江坂の行動原理に対して設定の甘さを覚えてしまう。
一介の気象庁の人間である彼が森本を執拗に追うのは、彼がかつては気象研究所への席を争った相手であり、愛人問題で仕事のミスが多かったことで当直しないように忠告しながら、それをさせてしまったことが、彼をその椅子から蹴落とすことになったことで責任を感じている思いからである。

しかしそれは森本も云うように彼自身の自己責任の問題であり、江坂には全く非がない。それにも関わらず自身にも責任の一端はあるとしてそれに固執して森本の世話を焼くのは単に自分に酔っているとしか思えない。

江坂は自分が納得したいから行動するというが、それも自分の辞職を掛けてまで行うことかと首肯せざるを得なかった。江坂がここまで執心する性格付けとして火山の観測業務は地味な作業の積み重ねで手間暇かけて調べることに慣れているからだとなされているが、この執念はちょっと異常だ。

更に森本のプライヴェートに介入し過ぎである。
元仕事仲間が家庭崩壊の原因となった愛人問題について別れた家族に訊くという不躾さに、更にその愛人の居所をその家族から訊くという厚顔さ。また森本の娘靖子に、頑なな心を少しでも柔らかくするためとは云え、やたらと自分の過去を話すところは、下心も透かして見えるほどである。
しかも亡くなった森本の身元確認を行った翌朝にも自分と父親とのことを持ち出して話をするところによほどこの男は靖子に好かれていると自信があるのだなと思ったくらいだ。

また上に書いたように35にもなって独身で父親への反抗心が残っている彼はどこか幼い感じを覚えてしまう。特に上に書いたように辞職を決意してまで、納得したいからと云って人の苦い過去を掘り起こしてまで、プライヴェートに介入するやり方はちょっと度が過ぎる。しかも彼が自身の好奇心を満たせば満たすほど、当事者は傷ついていく。

さらに後半は奄美大島の西の東シナ海沖で海上保安庁と海上自衛隊が合同で行っている秘密の演習の謎を探るために気象庁へ辞表を提出してまでそれを取材している雑誌記者と行動を共にして、かつて趣味でやっていた登山の経験を活かして、怪しいと思われる硫黄鳥島に潜入しようとまでする。
もはや一介の気象庁の職員というレベルを超えた行動力と活躍を見せる。正直ここまで人生を賭けてまで調査する江坂の行動は度が過ぎると思った。

しかしそんなことを云っていると本書の物語自体が成り立たないのだが。

また物語の渦中にある森本俊雄が50にもなって愛人を作った理由が明かされなかったのも心残りだ。
家庭のある身でありながら、なぜこの歳で若い女性に溺れたのか。実直な仕事ぶりを見せていた彼なりの理由が知りたかった。それが十分語られず、自らの過ちで家族が取り返しのつかないことになり、離婚するまでに至った彼の行動の真意が知りたかった。

さて釣瓶打ちの如く連発する謎の真相はなんとも不思議な読後感を残すものだった。

この物語の終盤、2人の主人公、江坂慎一と門倉司郎が対面し、それぞれの主義主張をぶつけ合う。

江坂の、組織に属する身でありながら自分が納得したいという理由だけで行動し、そして上司の制止も聞かず、辞表を出してまで、己の欲するところを突き進む愚直さ。そして国益のためという大義名分を振りかざしてまで隣国を欺いてまで事を成そうとする国に対して示す純粋な正義感。
こういった江坂の言動はかつての私ならば手放しで愉しんだだろう。

しかし私も40半ばになってみると江坂の考えが実に甘く、子供じみたように思える。
誰も好き好んで悪い事をしようと思ってなどなく、それが必要だからこそ自らが手を黒く染めることを選んだ門倉の方を私は指示してしまう。彼は日本という国を護るために自ら計画し、敢えて悪役になることを選んだのだ。

どちらに正義があるかと云えば正直明確な答えは出ないだろうが、少なくとも私は門倉の方に正義を感じる。
中国や韓国が独自の論法で、主義主張で東シナ海の領有権を振りかざしていることを考えると、純粋な者ほど、真面目な者ほどバカを見る、そんな世の中に、国際社会になってきている。

気象庁という閉じられた世界で過ごしてきた江坂は生のデータを解析し、地震の予測や火山活動の予測を立ててきた人間だ。つまり彼には嘘をつかないデータ、つまり事実を相手に、自らの考えを構築してきた男だ。そして自分なりの答えを出すためにとことん調べることを止めないできた男だ。

しかし門倉は警視庁の外事一課から出発し、諜報活動という騙すか騙されるかの世界で生きてきた男だ。そこで素直に人を信じることは即ち死を意味してきた。しかしだからこそ唯一信じられる仲間への信頼が強かった。鉄面皮と呼ばれていた男は実は熱い心を持った人間だったことが最後に解るのだ。

江坂のエピソードをプロローグにした物語は最後門倉の話で終わる。

海外のことわざにこのような言葉がある。

「1回目は騙す方が悪い。2回目は騙される方が悪い」

世界は複雑化してきている。

読み終えた今、感じるのは実に複雑な構成の物語だったということだ。
脇役に至るまで細かな背景を描き、1人の行方知れずの人物を捜すために福岡と鹿児島を往復し、人から人へと訪ね歩いて、細い一本の糸を辿るような私立探偵小説の様相を呈しながら、一転して東シナ海沖で隠密裏に動いている海上保安庁、海上自衛隊の演習の謎を探るためにセスナを使っての調査、そして夜間の硫黄鳥島への潜入行と冒険小説へと転身させる。
目まぐるしく変わる小説のテイストに戸惑いを隠せない。

そして何よりも一抹の割り切れなさを抱えて終わることが実に勿体ないと感じる。

1人の男の辞職の真意を自分が納得したいからという理由で追い求めた男が始めた行動によって失われた代償はあまりに大きかったと思うのは私だけだろうか。

少なくとも日本の隠されたもう1つの貌を知った江坂の明日は今までのそれとは違うはずだ。
それを彼が本当に望んだことなのか、それを考えると彼は知り過ぎてしまったのかもしれない。知ることの恐ろしさと虚しさを感じた作品だった。


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震源 (講談社文庫)
真保裕一震源 についてのレビュー
No.1272:
(9pt)

悪の側と善の側を隔てる線

ボッシュシリーズ記念すべき10作目はこれまでコナリーが発表してきたノンシリーズが、本流であるボッシュシリーズと交わる、いわばボッシュ・サーガの要をなす作品となった。恐らく作者も10作目という節目を迎え、意図的にこのようなオールスターキャスト勢揃いの作品を用意したのだろう。

ノンシリーズで登場した連続殺人鬼“詩人(ポエット)”が復活し、その捜査を担当したFBI捜査官レイチェル・ウォリングが再登場し、また『わが心臓の痛み』で登場して以来、『夜より暗き闇』で共演した元FBI心理分析官テリー・マッケイレブが交わる。しかしなんとそのテリー・マッケイレブは既に亡く、ボッシュが彼の死の真相を探る。

とにかく全てが極上である。
味のある登場人物たち、物語の面白さ、謎解きの妙味。
ミステリとしての謎解きの味わいを備えながら、シリーズ、いやコナリー作品全般を読んできた読者のみ分かち合えるそれぞれの登場人物の人生の片鱗、そして先の読めない、ページを繰る手を止められない物語自体の面白さ、それらが三位一体となって溶け合い、この『天使と罪の街』という物語を形成しているのだ。

まず触れておきたいのは自作の映画化についてのことだ。

テリー・マッケイレブと云えばクリント・イーストウッド監督・主演で映画化された『わが心臓の痛み』(映画題名『ブラッド・ワーク』)が想起され、今までコナリー自身が作中登場人物にその映画について再三触れているシーンがあったが、本書では更にそれが加速し、随所に、なんとそれぞれ映画で配役された登場人物がこの映画について触れている。

また本書は前作に引き続き、ボッシュの一人称叙述が採られているが―レイチェル・ウォリングのパートは三人称叙述とそれぞれの章で使い分けがされている―、その中でも映画がさほどヒットしなかったこと、イーストウッドとテリー・マッケイレブの歳が離れすぎていたことなどが吐露されている。これは作者自身の不満であると思え、なかなか面白い。

私は幸いにして『わが心臓の痛み』読了後、BSで放送のあったこの映画を観ていたのでこれらのエピソードを実に楽しく読めた。
ボッシュ(=コナリー)が云うように、私自身大きな賛辞を贈った原作が映画になると何とも淡白な印象になるものだなと残念に思っていたからだ。

更にFBI捜査官側のモハーヴェ砂漠で見つかった大量死体の謎にテリー・マッケイレブが絡んでいることが発覚すると、しきりに「あの映画を観ていたら解るのだが」といった映画での引用が所々出てくる(さすがにマッケイレブの葬式にクリント・イーストウッドが出席していたという件はやり過ぎかと思ったが)。

もう1つ加えるならば砂漠に埋められた遺体の1つから発見されたガムの噛み跡があの稀代のシリアルキラー、テッド・バンディの物と発覚し、更にロバート・バッカスとレイチェル・ウォリングが彼の聴取をしていたという件も登場する。

この自作が映画化された事実、さらに実在のシリアルキラーと自作の登場人物を絡ませてメタフィクショナルな作りになっているのが本書の大きな特徴の1つと云えるだろう。

上に書いたように本書はレイチェル・ウォリングと新聞記者のジャック・マカヴォイが挑んだシリアルキラー“詩人”に、レイチェル・ウォリングが再戦し、そこにテリー・マッケイレブとハリー・ボッシュが挑むという実にサーヴィス精神旺盛な作品となっている。

例えるならば東野作品で稀代の悪女が登場する『白夜行』、『幻夜』の犯人に加賀恭一郎と湯川学の2人が挑む、それくらいのサーヴィスに匹敵する内容だ。

更にボッシュがラスヴェガスに長期間滞在しているモーテルの隣人ジェーン・デイヴィスはその様子から『バッドラック・ムーン』の主人公キャシー・ブラックだと思われ、繰り返しになるが、これまで以上にオールスターキャスト登場の趣を見せる。

そしてそれがサーヴィスに留まらず、物語の、いや本書の謎解きの主軸となっているところがまた凄いのである。

詩人に敗れ、命を落としたマッケイレブの遺品と遺したメモを手掛かりにボッシュは犯人の足取りを辿るのだが、それらは断片的に遺された、ほとんど暗号に近い内容だ。
それをじっくりと読み解いていくプロセスはまさにミステリにおける謎解きの醍醐味に満ちている。物語の中盤、上巻から下巻にかけて詩人がどのように被害者たちを狩っていたのか、その足取りを辿る件は久しぶりに胸躍る思いがした。

そうそう、忘れてはならないのが、テリーの相棒バディ・ロックリッジ。彼もまた例によって例の如く、自身が好むミステリの登場人物たちのようなヒーロー願望を前面に押し出し、ボッシュの捜査に絡んでいく。

しかしこのバディ・ロックリッジが、ボッシュにとっても面倒な男だと思われているのは思わず苦笑いしてしまった。彼はやっぱり誰にとってもうざい存在のようだ。

また気になるのはボッシュとエレノアのその後の関係だ。

前作では長く別居生活を送っていたエレノアとの再会し、更には実の娘がいたという、実に晴れやかなラストを迎え、本書ではてっきり幸せな結婚生活が再開されているものと思われた。

それを裏付けるかのようにボッシュはとにかく愛娘にぞっこんで、彼女と電話して話をしたり、また寝顔を見るためだけにエレノアの家を訪れる。
そう、彼は娘と逢いにエレノアの家に通っているのだ。つまり再び別居生活を送っているのだ。

前作では警察を辞め、LAに留まる理由が無くなり、エレノアへの渇望感、愛情再燃の様相さえあったボッシュ。実際彼が自身をLAに留めているのが単に再会することで失うものを恐れていたのだが、LAを捨て、エレノアのいるラスヴェガスに向かい、同居生活を試みたものの、上手くいかなかった。
それはエレノアがもはやラスヴェガスで名うてのギャンブラーとして生計を立てているため、そこを離れられないのだが、ボッシュはこのギャンブルとエンタテインメントを生業にする町は娘を育てるのにいい環境だとは思わなかったため、そのことでエレノアとは衝突を繰り返し、関係がぎくしゃくしていたのだった。

男と女。その考えは常に異なる。それは古来から伝わる世の常である。
世の夫婦はお互い、それぞれの価値観との相違によって生じる衝突を繰り返し、時にはぶつかり、そして時には妥協し、折り合いを付けて共に人生を歩んでいく。それが夫婦なのだ。

しかしボッシュとエレノアはそれが出来ない。彼らはお互いに愛し合いながらもそれぞれの主張が、主義が強すぎ、折り合いを付けられてないのだ。
愛し合いながらも離れていた方がいい男女の関係と云うのは確かにある。それは時には強い斥力で以ってお互いを突き放すが、時間が来るとお互いどうしようも抗えない引力によって引き合う、磁石のような存在となる。
元刑事のボッシュと元FBI捜査官のエレノア。それぞれ強くなくてはいけない世界で生きていたことで、相手に譲歩することが出来なくなってしまっているのだ。

そのボッシュとタッグを組むレイチェル・ウォリング。『ザ・ポエット』では活躍した彼女はしかし、8年前のその事件を解決した後のFBIでの道のりは決していいものではなかった。

その事件の後、ノースダコタのマイノットという捜査官1人、つまりレイチェル唯一人の部署に異動させられ、その後も、いわゆるお荷物捜査官の巣窟へと異動させられた、出世街道の梯子を外された存在である。

彼女がそのような左遷を繰り返される閑職に追いやられたのは詩人の事件がきっかけだった。自分の上司が連続殺人鬼でそれを取り逃がしたことも一因だが、それよりも彼女はその事件の捜査の最中でFBIの天敵である新聞記者ジャック・マカヴォイと寝たことが知れ、FBIの厄介者になってしまったのだった。

この似た者同士の2人が手を組み、お互いを認め合う。背中を預けられる存在として。特にボッシュは無意識のうちに彼女をエレノアと呼び間違えるまでになる。

バッカスの仕掛けた爆弾で危うく吹き飛びそうになった2人は、恐怖を共有した者同士が生き長らえたことで共通の生存意識が芽生え、お互いを求め合う。
死を乗り越えた人間は生きている歓びとそして死んだかもしれない恐怖を分かち合い、性にしがみつくために将来の生を残そうとするかのように躰を求め合うのだ。レイチェルはエレノアとの関係が上手くいかないボッシュの新たなパートナーとなりそうな雰囲気を醸し出して物語は進む。

邦題の『天使と罪の街』はボッシュが住むLAとエレノアと最愛の娘マデリンが住むラスヴェガスを指している。前者が天使の街で後者が罪の街とボッシュは語る。

いやそうではないのかもしれない。天使と罪の街とは即ちLAとラスヴェガス両方を指すのかもしれない。

ボッシュが罪の街と呼ぶギャンブルが主な収入源となっているラスヴェガスはしかし彼にとっての天使マデリンが住んでいる。一方その名に天使を宿すLAは文字通り天使の街だが、長年そこで刑事をやってきたボッシュにとっては彼が捕らえるべき犯罪者が巣食う街だ。
罪を犯す者が住む天使の街、そして天使が住む罪の街。その両方を行き来するボッシュは再び刑事としてLAへ還っていく。

一方原題の“The Narrows”は「狭い川」を指す。普段は小川だが、暴風雨が降るとたちまちそれは濁流と化し、人を飲み込む大蛇へと変貌する。このナローズこそは普段はFBI捜査官の長として振る舞いながらも実は連続殺人鬼だったバッカスそのものを指し示しているのだ。
彼に対峙する直前ボッシュは母が頻りに云っていた「狭い川には気を付けなさい」の言葉を思い出す。

相変わらずコナリーは含みのある題名を付けるのが上手い。

なおコナリーは2003年から2004年に掛けてMWA、即ちアメリカ探偵作家クラブの会長を務めていた。本書は前作『暗く聖なる夜』と本書がまさに会長職にあった頃の作品だが、ウィキペディアによれば前作がMWAが主催するエドガー賞にノミネートされたものの、会長職にあるとのことで辞退している。

また本書ではイアン・ランキン、クーンツのサイン会が書店で開かれたことや、初期のジョージ・P・ペレケーノスの作品は手に入れにくい、などとミステリに関するネタが盛り込まれている。これはやはり当時会長としてアメリカ・ミステリ普及のために、細やかな宣伝行為を兼ねていたのではないだろうか。
そういえば前作ではロバート・クレイス作品の探偵エルヴィス・コールが―その名が出ていないにしても―カメオ出演していた。こういったことまで行うコナリーは、自分の与えられた仕事や役割を、個性的なアイデアで遂行する、几帳面な性格のように見える。

物語の冒頭、ボッシュの語りでこう述べられている。

真実が人を解放しない。

その真実とはマッケイレブの死の真相のことだろう。

そのことに気付いていたレイチェルはマッケイレブの遺族のために隠すことにしたのだが、それをボッシュに悟られたことでレイチェルは敢えてボッシュと決別する。
その直前まで彼女はボッシュが移り住んだLAの自宅を訪れ、自分の異動先をLAに希望するとまで云っていたくらい、彼女はボッシュが気に入っていたのだった。しかし似た者同士はあまりに似ているため、同族憎悪をも引き起こす。相手に自分の嫌な部分まで見てしまうがゆえに、一度嫌悪を抱くとそれは過剰なまでに肥大する。

似ているがゆえに共になれない。ボッシュとレイチェルはボッシュとエレノアの関係によく似ている。

読み終えて思うのは本書はハリー・ボッシュ、レイチェル・ウォリング、テリー・マッケイレブ、そしてロバート・バッカス4人の物語だったということだ。そして彼らは人生に訪れた困難・苦難を乗り越えて生きてきた人たちでもあった。

ボッシュはそのアウトローな独断的な捜査方法ゆえに検挙率はトップでありながら常に辞職の危機に晒されてきた。その都度ギリギリのところで踏み留まり、困難をチャンスに変えてきた男だ。

レイチェル・ウォリングは8年もの長きに亘って島流しに晒されたFBI捜査官だったが、彼女はいつかの再起を信じ、決して腐ることはなかった。以前よりも生気が失われたと思われた目にはまだ野心が残っており、そして部外者扱いされながらも捜査の中心に我が身を置いて、8年前に自分を閑職に追いやった因縁の相手に決着をつけた。

テリー・マッケイレブはFBI引退後も過去の事件に向き合い、未解決の事件の犯人逮捕に執念を燃やし続けた。彼は心臓病という大きな病を抱えながらもそれを続けた。

そしてロバート・バッカス。彼の苦難は幼少時代に途轍もない暴力を父親から振るわれ、それを母親が助けてくれなかった過酷な境遇だ。
しかし彼はそれを乗り越える、最悪な方法で。
彼は父親からの暴力の鬱憤を小動物を殺すことで晴らし、やがてその行為が父親に及んで事故死に見せかけることに成功する。その歪な成功体験が彼を稀代の殺人鬼へと変えた。FBIの行動分析課の長として捜査に携わりながら、その地位を利用して自分に捜査の手が及ばないように犯行を重ねた。
彼も困難をバネに生きてきた男だ。ただ彼はダークサイドに陥ってしまったのだが。

ボッシュとレイチェル、そしてマッケイレブ。彼らは人間の闇の深淵を覗いてきた人々だ。しかし彼らはバッカスにならなかった。ただそれは、今はまだ、というだけの差しかないのかもしれない。
悪の側と善の側を隔てる線。その線引きを自ら行えるうちは大丈夫だろう。しかしその一線を超えたら、彼ら彼女らもまたバッカスになり得るのだ。

今回もコナリーは期待を裏切らなかった。

ただ惜しむらくは本書はあまりに『ザ・ポエット』の続編の色を濃く出しているため、作者が明らさまに『ザ・ポエット』の内容と真相、真犯人を語っている。従って『ザ・ポエット』の内容を知りたくないならば本書を読む前に是非とも読んでおきたい。
まあ、実に入手が難しい作品であるのだが。


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天使と罪の街(下) (講談社文庫)
マイクル・コナリー天使と罪の街 についてのレビュー
No.1271: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

この題名を覚えておくこと!

Vシリーズ最終作。このシリーズは今までの森作品同様、密室殺人が多いのだが、本書は一風変わった連続殺人事件が描かれる。色を含んだ名前の被害者がその色一色に塗りたくられて死ぬという実に奇怪な事件である。

さてS&Mシリーズでもシリーズ1作目の犯人が最終作で再登場したように、このVシリーズでも同様の趣向が採られている。

保呂草潤平に成りすました殺人鬼、秋野秀和が拘置所の中で瀬在丸紅子と面談するのだ。この辺は『羊たちの沈黙』のレクター博士とクラリスの面会シーンを思わせる。

S&Mシリーズでの犯人真賀田四季が警察に捕まらず、自由の身であることの違いはあれど、犀川創平と邂逅し、議論を戦わせているという点で、犯人と名探偵の再会という同じようなシチュエーションを使っているのが面白い。

これだけのミステリアスな道具立てをしながら、その動機やトリックが実に呆気ないのが森作品の特徴。むしろ動機なんて犯人しか解らないとばかりに端折る傾向さえあるドライさが見られる。

本書でも犯行のトリックはさほど詳しく語られない。

第1~3の殺人に関してはその方法についてはほとんど語られないから、普通に彼らの前に現れ、普通に殺したようだ。

問題は第4の殺人。そのトリックは何ともしょうもない。

このトリックが明確に書かれないところが、森ミステリの甘いところで私はいつも欲求不満を持ってしまう。

この犯行動機、この現代社会においては実に多い動機だ。

昨今の犯罪の動機は稚拙の動機がいかに多い事か。何度もこのような理不尽な理由で殺人が行われている報道を耳にする。
ストレス社会と云われる現代社会の闇。逆にこのドライさ、単純さ、無邪気さを森作品ではミステリに敢えて取り込んでいるように思う。

ミステリのようにいつも理由があって、意外な動機があって人を殺すわけでなく、案外人を殺すのは至極単純な理由でしょ?
そんな風に森氏が片目をつぶってニヤリとする顔が目に浮かぶようである。

それもあってかこのシリーズにはS&Mシリーズにはない不穏な空気がある。

表向きは私立探偵兼便利屋稼業の保呂草が実態は泥棒と云う犯罪者の空気を纏っていることが更にミステリアスかつ危険な香りを感じさせているのだが、それにも増して瀬在丸紅子と云う探偵が次第に自身も殺人者としての素養が、資質があること、そしてその衝動を実は紅子自身が押さえていることが明かされる。

常に犯人を突き止める名探偵こそが、犯罪者、とりわけ殺人者の心理を理解している、即ち名探偵も殺人者の心の持ち主である、つまり悪は悪を持って制される、そんな不穏さを感じさせる。

さらに瀬在丸紅子と祖父江七夏の林を巡る女の闘い。ドライな森作品には珍しく嫉妬や愛情への渇望感など、ウェットな部分が書かれているのがS&Mシリーズの、どこか新本格ミステリの流れを継承した、パズルに徹した作風と異なり、大人の読み物としての色合いを濃くしたように感じていたが、本書では既にそれらは薄まり、むしろ紅子が七夏に歩み寄るような姿勢を見せているのが驚きだった。

しかしそんな冷戦も犯人との最終決戦で破られる。林の捜査に協力した紅子が犯人と対峙する時に明らかに七夏は嫌悪感を示し、さらに真犯人との対面に対してははっきりと拒絶する。
これは民間人が犯行現場に土足に立ち入ることへの窘めでもあるが、女性として同じ男性を愛する相手に対する女の意地である。この2人の女の感情的な行動もまた本シリーズの特徴だ。

そう、犯行の動機も含めてこのシリーズの登場人物は実に感情的で衝動的、いや本能に忠実なのだ。保呂草の美術品盗みもまた彼の美しいものが好きという衝動によるものだ。

本書でも保呂草による関根朔太の初期の作品≪幼い友人≫の盗難事件がサイドストーリーとして出てくる。その方法はサイドストーリーというほどには勿体ないくらい凝っており、むしろメインの殺人事件よりも緻密である。

この犯行方法は瀬在丸紅子によって見破られ、未遂に終わるのだが、この盗みを働いた保呂草の動機もただ単純に関根朔太が書いた≪幼い友人≫の裏に書いた絵がどんなものなのか見たかったからだけである。
過去にも保呂草はそれがあるべきところに収まるべきだと盗んだ物を無償で誰かに渡したり、美しいから手元に置いておきたいという理由で盗んだりと至極単純な動機で犯行を行っている。美術品を盗んで大金を稼ぐことは二の次なのがほとんどだ。

我々が罪を犯さないとはこの欲望とか衝動を理性で抑えているからだ。そして罪を犯した後で生じることの重大さを想像することで踏み留まらせている。
つまりこの理性と云う壁が破れ、後先の想像をしない時に本能的に人は犯罪を起こすのだ。

作中保呂草は云う。例えば殺人はドライに云えば排除なのだと。自分を確立するために障害となるものを排除する、それが人間だ。
戦争も然り、政治的画策も然り。権力もない人間が邪魔者を排除するために取る方法が犯罪であり、その1つが殺人なのだ。

その排除はまた1つの木から彫刻を作ることにも似ている。余分な部分を削ぎ落し、形を作る。その余分な部分が人ならば殺人であり、そして犯罪は出来上がった作品とも云える。犯罪者の中には犯罪行為にそんな美しさを見出して敢えてする者もいる。

更に保呂草は云う。カラースプレーを手にして色を塗ると実に楽しく、すっきりすることを感じる。
しかし通常しないのはそうすることで後片付けが大変、勿体ない、という倫理、経済的な観念が一般人にあるからそうしないだけで、それを考慮しなければ誰でもできるはずだ。

自分なりの作品を作りたい、人を殺したい。そんな実に無邪気な動機が一連の犯罪の動機である。しかしただの子供ではないかと歯牙にもかけない人はいるだろうが、私は非常に現代的だと感じた。

他にも練無が紫子に語る生贄の話なども興味深い。
命を粗末にしたくないから、死者への感謝の気持ちになり、それが逆に天に命を捧げて天災やら幸せを願うと云う生贄の発想へと繋がったというものだ。これも小さな排除で大きな幸運を得るという行為。

本書は人を殺す、罪を犯すことについてそれぞれの人物が深い考えを述べているのもまた興味深かった。

さて哀しいかな、瀬在丸紅子、保呂草潤平、小鳥遊練無、香具山紫子ら楽しい面々ともこれでお別れである。
S&Mシリーズでもそうだったがシリーズの幕切れとは思えないほどただの延長線上に過ぎないような締め括りであるが、一応それぞれの関係に終わりはある。

そして練無と紫子の関係にもなんだか微妙な空気が流れていた。この2人の関係の今後は明らかになるのだろうか。

新たな謎を残してVシリーズ、これにて閉幕。

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赤緑黒白―Red Green Black and White (講談社文庫)
森博嗣赤緑黒白 についてのレビュー

No.1270:

秋の花 (創元推理文庫)

秋の花

北村薫

No.1270: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)

高校生たちに贈るこれからの人生への餞の物語

日常の謎系ミステリ、即ち日常生活における些細な違和感の裏に隠された謎を解き明かすミステリを生み出した北村薫氏。それは「人の死なないミステリ」とも呼ばれていたこの「円紫師匠と私」シリーズだが、シリーズ初の長編にして3作目の本書で初めて人の死が扱われた。それも女子高生という若い命が喪われる事件。文化祭の準備の最中に起きた屋上からの墜落死に潜む謎に私と円紫師匠が関わるミステリだ。

人の死というのは押しなべて非常にショッキングな印象を与えるが、特に若い命が喪われるそれは殊更に人の心に響く。
本書では3つも年が違い、中学、高校時代には一緒の学校にいることのなかった後輩の死が扱われるわけだが、それでも「私」にとって小学生時代に同じ登校班にいた記憶がいまだに鮮明であり、そして何よりも自分より若い子の死が心に響いてくる。

幸いにして私は高校生の頃に友人の死に直面したことがない。大学生の時にも経験がないわけだが、就職して2年目の頃に私は友人の死をニュースで知った。
大学を卒業して就職の道を選んだ私と違い、成績優秀で実直かつ努力家の彼は当然の如く大学院に進んだ。皆が認める勤勉家だった彼が、卒業旅行先の台湾で落石事故に遭遇し、朝のニュースで報道されたのだ。私は当時同姓同名の人物かと思ったが彼のことだった。

その時初めて同世代の近い死を知り、そして世の無情さを思い知ったのだ。何か偉業を成し遂げるほどの才能を持った人物が、いつも勉強ばかりしていた友人がほとんどしない旅行、しかも卒業旅行でそんな目に遭う、この世の不条理さに茫然とした覚えがある。
本書の津田真理子の死も主人公の私にとって同じように思ったことだろう。特に人格者である津田真理子の造形が私のその亡くなった友人とダブらせるかのようだった。

更に誰もが経験したであろう高校生活。だからこそ事件が起きた高校の描写は私を含めて読者をその時代へと引き戻してくれることだろう。特にテーマが文化祭と云うのが憎らしい。あの特別な時間は今なお記憶に鮮明に残っている。

進学校に進んだ私は高校時代は登下校に1時間以上費やしたため、敢えて部活動をすることを選ばなかった。従っていわゆる帰宅部の一員だったわけで、その日の就業が終れば友人たちと家路に帰っていた。
しかし私の通っていた高校は文化祭やら体育祭などのイベントに力を入れる校風であり、帰宅部であった私もその頃になると必然的に学校に居残って皆と一緒に準備に明け暮れていた。その時のもうすでに暗くなっているのに、各教室にはまだ明りが点いて、一生懸命に何かを作っている、もしくは息抜きに歓談している、あの独特の風景を未だに思い出す。あの雰囲気は何ものにも代え難い思い出だ。
本書はそんな雰囲気を纏って私の心に飛び込んでくるから、なんとも云えないノスタルジイに浸ってしまうのである。

本書に描かれる高校生活は何とも瑞々しく、読んでいる最中に何度も自身の思い出に浸らせられた。それは良き思い出もあれば、後悔を強いる悪い思い出もある。読中、何度自分のやらかしたことを思い出し、読む目を止めたことか。

高校時代に大学時代、それぞれの時代が本書を読むことでシンクロし、とても冷静に読めなかった。理系の工業大学に進んだ私は主人公の「私」ほど本を読んでたわけではないが、専攻した学問を突き詰めるという意味ではやはり似ている何かを感じた。

そんな「私」を通じて得られる色んな含蓄はもはや北村作品の定番と云っていいだろう。

子供の頃の読書のいかに楽しかったことか。知識がない時代に読む本はいつも発見の毎日だったこと。

誰かの話を聞いてさも自分が体験したかのように錯覚し、誰かの評判を鵜呑みにしてそれを食べ、その通りだと盲目的に信じることを耳食ということ。これは何とも頭の痛い話だった。

そして文学部専攻の彼女の毎日はいつも本があり、いつも彼女は本を読む。
確かに普通に生活して日々を過ごすのもまた生き方の1つだろう。しかし本書の主人公の「私」のように自分の興味の赴くまま、文学の世界に身を委ね、そして時に喜び、感心し、そして時に思いもよらなかった価値観に怯えるのもまた生き方だ。
同じ時間を過ごすのにこの差は非常に大きいと思う。そんな読書生活の日々で得られる日常のきらめきが詰まっているのも本書の最たる特徴だ。

さて日常の謎系のミステリにおいて初めて人の死が扱われたわけだが、だからと云ってそのスタンスはいつもと変わらない。

探偵役を務めながらも「私」はごく普通の女子大学生だ。だから探偵や警察のように事故の起きた現場、つまり津田真理子が墜落した場所へは怖くて行きたいと思わないし、身分を偽って学校を訪れ、ずかずかと人の心のテリトリーに分け入るわけでなく、あくまで自然体に接する。彼女は昔から知っている子の先輩として憔悴する和泉利恵を助けたいがために行動しているに過ぎないのだ。

そんな本書の焦点となる津田真理子の死。

いきなり彼女の死で始まる本書は死後彼女を知る人物から彼女の為人を聴くことで彼女のキャラクターが形成される。それは包容力を持ちながらも芯の強さを持った女子高生の姿だった。

まだセカイが狭い高校生活の中で、自分が生きている時間が長い人生の中の一片に過ぎないことを自覚し、その時その時を生きること、そしてどんなに辛いことに直面してもそれは月日が経てば思い出として「いつかきっと」消化されること、そんな達観した視座の持ち主、それが津田真理子の肖像だ。

しかし運命はそんな彼女にいつか来る将来をもたらさなかった。彼女が信じた「いつかきっと」は来なかった。

高校生は忙しい。勉強に部活、そして友達関係。小学校、中学校に比べて断トツに生徒数が多く、従って人間関係も広がる世界である。
だから彼ら彼女らはその日を、そして目前にある中間・期末試験を乗り切るのに精一杯だ。少なくとも私はそうだった。

進学校に進んだ私はきたる試験で絶対に取りこぼさないよう、更に上に、最低でも現状維持を目指して常に勉強をしていた。最もきつかったのが高校生活であったが、同時に最も楽しく、印象に残っているのもまた高校時代である。なぜなら彼ら彼女たちはそんな見えない明日を生きる同志だったからだ。
そんな近視眼的な高校生においてこの津田真理子の視座は特殊と云えよう。

彼女はいつか来る遠い未来を信じたが、それ以外の高校生は今を、そして明日をどうするかのみに生きた人々だ。そんな時間軸の違いがこの悲劇を生み、そして彼女はその犠牲者となったのだ。

秋は夏に青く茂った葉が色褪せ、散り行く季節である。そして木々たちは厳しい冬を迎える。
しかしそんな秋にも咲く花はある。秋桜しかり、そして秋海棠もまた。

本書の題名となっている秋の花とは秋海棠を指す。その別名は断腸花と何とも通俗的な感じだが、人を思って泣く涙が落ちて咲く花と最後に円紫師匠から教えられる。
津田家の秋海棠は親友の和泉理恵の涙を糧にして美しく咲くことだろう。それが既にこの世を絶った津田真理子の意志であるかのように。

秋海棠の花言葉を調べてみた。
片想い、親切、丁寧、可憐な人、繊細、恋の悩みと色々並ぶ中、最後にこうあった。

未熟。

高校生とは身体は大人に変化しながらも心はまだ大人と子供の狭間を行き交う頃だ。大人びた考えと仕草を備えながら、一方で大人になることを拒絶している、そんな不安定で未熟な人々。

津田真理子と和泉利恵。

亡くなった津田真理子はいつか来る明日を信じて、今の苦しみを乗り越えられる強い女子高生だった。そしてその力を和泉理恵にも分け与え、彼女たちの直面する困難を、先が見えない未来を一緒に克服しようとする、女神のような子。

一方和泉利恵は明るい性格だが、脆さを持ち、誰かの支えを必要としている子。彼女にとって津田真理子は親友であり、そして心の大きな支えだった。

ただ彼女たちはまだあまりにも若すぎた。若すぎるゆえに先生たちに怯え、そして若すぎるゆえにまだ子供だった。そんな幼さが起こした過ちは取り返しのつかない物になってしまった。

若くして親友を亡くす、和泉利恵の将来は「その日」の前とこれからとは異なるだろう。

我々は大人になる過程で色んなことを味わう。
楽しい事、辛い事、孤独、哀しみ。

日常の謎を扱いながらもそんな日常に潜む些細な齟齬から生じる悪意を浮かび上がらせ、あくまで優しさのみで終わらないこのシリーズの、人生に対する冷ややかな視線を感じた。
例えば思わず「私」が出くわす中学の時の同級生のバイクの後ろに乗ったことを正ちゃんに話した際に、正ちゃんがその無防備さを非難し、どこまでも悪い解釈をして無邪気な私を問い詰めるシーン。普通に見れば中学の頃の同級生の成長と、既に大人の男と女になった2人がぎこちないながらも交流する温かなシーンでさえ、疑ってみれば実に冷ややかな物へと変貌することを示唆している、印象的なシーンだ。
そんなことが本当に起きないとは限らない世の中になってしまったことの作者の嘆きとも取れるこのシーンは単純にこの世は優しさだけでは成り立たないことを突き付けているかのようにも思える。

そんな人の心の脆さを嘆きながらも、やはり最後は人の善意を信じて、いつか会う良き人が自分の生まれた場所を実に素敵で美しいと褒めてくれることを信じて生きていいのだと円紫師匠は私に伝える。

最後に和泉利恵が眠りに就いたことを津田真理子の母から告げられて物語は終わる。少女はようやく苦しみから解放され、眠りに就いたのだ。
彼女にどんな将来が待っているかは解らないが、目が覚めた後の世界は、決してあの頃には戻れない世界だろうけれどもきっとその前よりもいいはずだ。津田真理子ならばそう云うに違いない。

この作品は是非とも高校生に読んでほしい。貴方たちの世界はまだまだ小さく、そして未来は無限に広がっていること、そして「生きる」とはどういうことかを知ってほしい。

若くして亡くなった津田真理子は明日を無くしただけだったのか?彼女が生きた証はあるのか?という問いに対する答えがここに書いてある。

ただ生きると云うだけでその人の言葉や表情、仕草が心に残るのだ、と。

そしてそれは真実だ。私には前述の夭折した友人のことが今でも記憶に鮮明に残っている。

だから精一杯生きて青春を、人生を謳歌してほしい。苦いけれど哀しいけれど、本書は高校生たちに贈るこれからの人生への餞の物語だ。


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秋の花 (創元推理文庫)
北村薫秋の花 についてのレビュー
No.1269:
(10pt)

堂々たる新ボッシュシリーズの幕開け

ハリー・ボッシュシリーズ9作目はボッシュがハリウッド署を、刑事を辞めて私立探偵になった初めての事件。
ボッシュ自身の過去の事件に決着をつけた後の『トランク・ミュージック』がシリーズ第2期とすれば、本書はボッシュシリーズ第3期の始まりの巻だと云えるだろう。

そして本書はボッシュの一人称叙述で語られる。つまりこれはボッシュが私立探偵となったことでこのシリーズが今までの警察小説ではなく、私立探偵小説となったことを宣言するために意図的にコナリーが選択したことだろう。

さて登場人物紹介を見て思ったのは、やたらと「元~」と付く人物が多いことだ。
まず主人公のボッシュからして元ハリウッド署刑事だし、キズミン・ライダーは元相棒、エレノア・ウィッシュは元妻であり、さらにボッシュが捜査を始めた自身の関わったお蔵入り事件の1つ、アンジェラ・ベントン殺害事件の当時の捜査官ロートン・クロスも強盗事件に遭って全身不随の車椅子生活を強いられている元刑事である。

かつて北村次郎氏が述べたように、ボッシュの物語とは過去と対峙する物語である。デビュー作の『ナイトホークス』でヴェトナム戦争時代の過去と対峙し、その後もハリウッド署へ左遷させられることになったドールメイカー事件、そして自身の母親を殺害した事件と過去へ過去へと突き進む。
その後『トランク・ミュージック』から始まる第2期では現在進行形の事件を扱うが、刑事を辞職する『シティ・オブ・ボーンズ』では20年前に起きた虐待を受けた少年の死の真相を探り、そして第3期の始まりとなる本書では再び自分の刑事時代の未解決事件という過去の事件と対峙する。

その過去の事件とは4年前の1999年に起きた映画会社女性社員アンジェラ・ベントン殺害事件。この僅か3日後に映画の撮影現場に持ち込まれた200万ドル強奪事件が起き、お蔵入りした事件を別の観点から調べようとこの事件についても調べていくうちに3年前のFBI女性捜査官失踪事件に行き当たる。
しかしなぜかお蔵入りしたアンジェラの事件は現在積極的に捜査中であると元部下のキズミン・ライダーから警告を受け、そしてまたFBI女性捜査官事件にも厳重な戒厳令が敷かれているようで、刑事を辞め、一介の私立探偵となったボッシュはロス市警、FBIから圧力を掛けられ、捜査を幾度となく妨害される。

ハリウッド署の刑事という鎧を自ら剥いだボッシュはその鎧が自分にとって拠り所であり、いかに護られていたかを痛感する。そしてかつては部下であり、チームの一員だったキズミンはボッシュの異動する予定となっていたロス市警強盗殺人課から異動し、市警本部長室とキャリアの道を歩んでいる。そしてかつてのアーヴィングのように彼に圧力を掛ける立場にいる。

そして刑事を辞めたボッシュの物語であるせいか、今までのシリーズとは異なり、様々な引退した警官・刑事の生き様が描かれる。

まずはボッシュにアンジェラ・ベントン事件の協力をするロートン・クロスのその後の生活が最も色濃い。
仕事中に見舞われた強盗事件で負った傷が元で全身不随の身となり一生車椅子の生活を強いられることになった彼は、テレビを見ることだけが日常となり、もはやこれは生きているとは云えないと折に触れ、ボッシュに零す。そして自分は妻から虐待を受けていると嘆き、その妻ダニーは献身的に夫に尽くしながらも日々の介護で疲弊し、しかも夫の被害妄想に更に苦労を募らせている。かつての美貌を残しながら訪れるボッシュを訝しげに睨む彼女の笑顔をボッシュは見たことがない。

またボッシュが再捜査を始めたアンジェラ・ベントン殺害事件は担当していた刑事2人を1人は死亡し、1人は全身不随の車椅子生活を強いられるという事態になったことから他の刑事たちが関わりの持ちたくない事件になる。それは刑事たちが縁起を担ぐ傾向にあるからだ。

またロス市警の警官は引退後は大半がロスを去り、アイダホ州で田舎暮らしを愉しみ、もしくはラスヴェガスでカジノのパートタイムの警備仕事をする者や年金でメキシコで家を買い、悠々自適の生活を送り、引退後に留まるにはロスは逆にかつての刑事時代の苦い思い出が多すぎる場所であることが綴られる。
また一方で引退してからも刑事時代のヒリヒリした日常が忘れられない者もいる。ボッシュはそんな縁故を伝手にして自分の捜査を続けていく。

また何よりも本書では刑事を辞職したボッシュが殊更にエレノア・ウィッシュのことを想うシーンが多いことに気付かされる。彼の生涯の“一発の銃弾”、つまり心に刻まれ、そして傷を残した銃弾こそがエレノアであることを自覚しながらも、未だ離婚届を出していない、法的には夫婦である2人なのに、本書では既にウィッシュのことをボッシュは元妻と呼び、エレノアとは呼ばず、「かつて妻とは」とか「元妻」といった呼称が多くなる。そして彼女を1月前にラスヴェガスで見かけたことをFBI捜査官のロイ・リンデルから知らされる。

もはや刑事でもないボッシュは自由の身でいつでも彼女の許へと飛んでいけるのに、拒まれる恐怖に怯え、それが出来ないでいる。

一方でボッシュは往年のジャズの名プレイヤー、クェンティン・マッキンジーがいる老人ホームに週二回通ってはサックスの演奏のレッスンと話し相手をするようになっているのだが、同じくそこに母親を入居させているバツイチ40代の女性と食事をする機会を設けて、何か思わせぶりな素振りを見せたりもする。
更には夜中にクロス宅を訪れたボッシュを妻ダニーが思わせぶりに誘ったりする素振りがあったりとボッシュは本書でも女性に対して何かと縁がある。52歳にしてなお女性を惹きつける魅力がボッシュにはあるようだ。

そしてとうとうボッシュはエレノアと再会する。彼はFBIのマークを外すため、エレノアの許を訪れ、彼のカードをわざと使わせ、ラスヴェガスにいるように仕向けるよう協力を求める。その時のボッシュはエレノアの仕草や笑顔1つ1つにときめいたり、変えた髪型に惚れ直したりとまるで初々しい恋人のように述懐する。

しかし一方でどうも彼女には他の誰かがいることを察する。読者の側にもエレノアにとってボッシュはかつての夫であり、今では友達以上恋人未満の存在であると片を付けているように思え、一方のボッシュは一発の銃弾である彼女に踏ん切りが付けられず、彼女の乗っている車のナンバープレートの所有者を、目的を明かさずにリンデルに調査を依頼したりとなんとも未練たらたらのどうしようもなさを見せるのである。

本書の冒頭は次の一節で始まる。

心に刻まれたものは決して消えない。

これはエレノア・ウィッシュがボッシュに呟いた言葉である。彼の生涯の“一発の銃弾”がエレノアだったように、他にも“一発の銃弾”を抱える人物が登場する。

それはFBIの囮捜査官ロイ・リンデルだ。彼こそは当時失踪した女性捜査官マーサ・ゲスラーの捜査の担当者であり、恋人でもあったのだ。彼の心に刻まれたものとはゲスラーその人だった。つまり本書は2人の男が消えない“一発の銃弾”を再度得ようとする物語でもある。

上で本書はボッシュシリーズ第3期の幕開けと書いたが、それぞれのシリーズの幕開けには常にこのエレノア・ウィッシュが登場する。デビュー作は無論のこと、『トランク・ミュージック』はエレノア再会の作品で、結婚を決意する物語。そして本書は別れた妻と再会する物語だ。
つまりボッシュの人生の節目にエレノアは綱に現れる。いやボッシュがエレノアを見つけ出すと云った方が正確か。何にせよエレノア・ウィッシュはこのシリーズの“運命の女”だ。

今回の原題“Lost Light”は前作『シティ・オブ・ボーンズ』で登場した言葉だ。“迷い光―個人的には“迷い灯”の方がしっくりくると思うのだが―”と訳されたその言葉はボッシュがヴェトナム戦争でトンネル兵士として暗いトンネルの中にずっと潜んでいた時に見た光のことを指す。つまりそれは埋もれた過去の未解決事件という暗闇に新たな光が指すことを意味しているのだろうが、今回は邦題の方に軍配を挙げたい。

ルイ・アームストロングのあまりに有名な曲“What A Wonderful World”の一節“Dark And Sacred Night”から採られているが、この曲が本書では実に有効的に、いやそんな渇いた表現はよそう、実に胸を打つシーンで使われているからだ。

ボッシュの捜査がFBIの妨害に遭い、その協力者として情報提供者の元警官で捜査中に遭った銃撃事件によって全身不随の車椅子生活を強いられているロートン・クロスのところにFBI捜査官が押し入り、その高圧的で半ば拷問に似た捜査によって元刑事の尊厳を傷つけられ、涙に暮れるシーンがある。元刑事の彼は流す涙を誰にも見られたくないが全身不随のため、拭うことすらできず、部屋に入ってきた妻が彼の姿を見て、バスローブの前をはだけ、乳房を彼の顔に引き寄せ、ひたすら抱きしめながら、この有名な歌を口ずさむのだ。

動けぬ身体と医者から止められた大好きな酒を止められ、日がな一日テレビを観て過ごすしかない毎日を悲嘆する夫ロートンと、献身的な介護をしながらも夫の非難を浴び、それに耐えつつも、時折殺意めいたものを抱く妻ダニー。
2人が抱える明日をも解らぬ絶望的な毎日がお互いを反目させているように見せながらも、その実、心の底では2人は支え合い、そして求め合っていることを示す、実に胸を打つシーンだ。私は思わず涙を浮かべてしまった。

絶望の中にも聖なる夜はある。暗いながらもそこには希望がある。そんなことを想わせる、実にいい邦題である。

さて紆余曲折を経てボッシュはようやく犯人へと辿り着く。

余りに安く軽んじられた若い女性の死。そして反目しながらもお互いを必要としている愛情の深さを見せたクロス夫妻の絆の美しさも夫ロートンの愚かな過ちで一転してしまう。
夫婦の絆に隠された醜さを見せつけられながらもこの物語が実に心地よい読後感を得られるのはやはりエレノアとボッシュの関係の回復が最後に見られるからだ。

やはり本書は堂々たる新しいボッシュシリーズの幕開けだった。
原題“Lost Light”は前述したように暗いトンネルの中で見える“迷い光”という意味だが、ボッシュが見つけた“迷い光”は刑事を辞めたボッシュが明日をも知れぬ暗闇の中で見出した光を指すのだろう。

しかし毎度のことながらこのシリーズのストーリーの緻密さには恐れ入る。物語に散りばめられたエピソードが有機的に真相に至るピースとなって当て嵌まっていくのだ。
刑事の使用する車が特殊仕様の大型の燃料タンクが備え付けられている件など、単なる蘊蓄かと思っていたら、これがある些細な違和感を解き明かすカギとなるのだから畏れ入る。

いつもながら勝手気まま、傍若無人ぶりな捜査で周囲を傷つけ、そして仲間を得ては失っていくボッシュが愛し、護るべき存在を新たに得たことでどんな変化が訪れるのか。

私の心には既にボッシュシリーズが深く刻まれている。そしてそれは当分消えそうにない、エレノアが云ったように。


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暗く聖なる夜(下) (講談社文庫)
マイクル・コナリー暗く聖なる夜 についてのレビュー
No.1268:
(7pt)

今に至るファンタジーの要素が詰まっている

キングが初めて共作した作品が本書『タリスマン』。キングとストラウヴがその豊富なアイデアを惜しみもなく注ぎ込んだファンタジーとロードノヴェルとを見事に融合させた1000ページを超える大著だ。
解説によればキングとストラウヴがそれぞれ交互に話を書く、リレー方式で書かれたらしい。それぞれがそれぞれの文体とは解らぬように意識的に文体を真似て書いたようだ。

2人が初めて共作した作品はいわば典型的なファンタジー小説と云えるだろう。女王の命を狙う敵から守るためにタリスマンを手に入れる旅に少年が旅立つ。

ただ異世界だけを舞台にしているのではなく、我々の住む現実世界とテリトリーと呼ばれる異世界とを行き来しながら冒険するところが特徴だ。そしてテリトリーに分身者と呼ばれる第二の存在を持つ人間が10万人に1人の割合でこの世には存在し、ジャックの父親フィリップ・ソーヤーと母親リリーが共に分身者を持つ存在であること、そしてフィリップがリリーに遺した会社の半分の持株を狙い、そして親子の命まで狙う父親の会社の共同経営者モーガン・スロートもまた分身者を持つ者であること、ジャックが移転先で知り合った放浪の黒人ミュージシャン、スピーディ・パーカーもまた分身を持つ存在であり、ジャックは唯一2つの世界を自由に行き来できる存在であるという設定だ。

しかしこの設定も2018年現在では全く新しいものではない。むしろ現実世界と異世界を行き来する話は既にいくらでもあり、例えば現実世界とは地続きであるが、世界的大ベストセラーとなった『ハリー・ポッター』シリーズもまたその系譜に繋がるだろう。

またこの現実世界と異世界という設定は我々が日常で利用しているウェブ社会と考えれば親近性を持った設定である。分身者は即ち、今でいうアバターである。

ただ本書は1985年に書かれた作品である。当時はインターネットすらなく、パソコン通信の創成期といった時代である。キングとストラウヴ両者がこの新しい技術を当時知っていたかは不明だが、そんな時代にこのような二世界間を行き来する作品を描いていたことは実に興味深いし、先見性があると云えるだろう。

ただ現実世界から異世界へ現実世界の人間が紛れ込むという設定は今では田中芳樹氏の『西風の戦記』が1987年、小野不由美氏の『十二国記』シリーズが1991年からで、海外のSF、ファンタジーに疎いため、そちらは不明ながらもいずれも後発作品であることを考えると、当時としても斬新な設定だったのではないかと思われる。

読み進むにつれて次第にこれは2人が紡いだ新たな『指輪物語』だと云うことが解ってくる。

最初にジャックがテリトリーで襲われるのはエント。これは『指輪物語』に出てくる木の巨人だ。そして作中何度でも『指輪物語』が主人公ジャックから語られる。
ジャックが母、即ちテリトリーを統べる女王の命を救うために手に入れるのがタリスマン。『指輪物語』は諸悪の根源、冥王サウロンを滅ぼすため、ホビットのフロドたちが彼の持つ「一つの指輪」を破壊する物語。更にその指輪を破壊するために「滅びの山」へと向かう。
一方本書ではタリスマンを手に入れるため、世にも恐ろしい土地「焦土(ブラステッド・ランド)」へと向かう。どちらも灼熱の土地でそこに行くのでさえ苦難を伴う。そして本書では「焦土」は火の玉が飛んできては転がり、その日の弾に近づけば髪が抜け、皮膚が爛れ、吐き気をもよおし、内臓もやられ、死に至るという過酷な場所。
ジャックはその話を聞いて当時アメリカ西部で行われていた核実験のことだと気付く。一方『指輪物語』の「一つの指輪」も原子爆弾を象徴していると云われている。斯くも共通項が多いこの2つの物語だが、『指輪物語』がホビット、エルフ、ドワーフ、人間といった異種族の代表チームで旅を続けるのに対し、本書は若干12歳のジャックが孤独に旅を続けることが違う。また現実世界と異世界テリトリーを行き来できるところもまた異なっている。つまりこれは『指輪物語』と現実とを結びつけて語るファンタジーなのだ。

そんなキングとストラウヴが創った異世界テリトリー。それは科学の代わりに魔術が使われる農業王国だ。

テリトリーと現実世界を魔法のジュースで行き来することが出来るジャック。他方で危機に陥ればジュースを飲んで別の世界に逃れることが出来る、もはや万能の能力のように思えるが、移動のたびにジャックは頼みの綱の魔法のジュースを零してしまい、そのため自由自在に行き来できなくなっている。
従ってジャックは現実世界ではヒッチハイクをして移動し、荒くれたちの住む町オートリ―では酒場のバイトをして金を稼ごうとするが、ずる賢い主人に給料の半分を天引きされたり、ちょっとしたミスで殴られたりと、酷い仕打ちを受ける。

そのうちテリトリーと現実世界との境界が曖昧になってくる。

例えばジャックを旅から戻らせようと執拗に酒場には電話が掛かってくるし、人の姿をした黄色い眼の山羊男エルロイがジャックに襲い掛かる。

ジャックの父フィリップと共同経営者モーガンはテリトリーを自分たちの商売に利用して成功してきた。しかし慎重派のフィリップはあくまで大きな変化を与えることを望まぬ一方、会社を一刻も早くもっと大きくしたいモーガンはテリトリーにない電気や近代兵器、いわば現代科学という魔術を持ち込んで、荒稼ぎをしようと企む。

しかしテリトリーと現実世界は相互に作用しあい、片方で起こった出来事が他方に何らかの形で影響する。
例えば国王の暗殺がきっかけで起きた3週間の戦争がテリトリーで起きたその日は現実世界では第2次大戦が勃発した日。それは6年間も続いた。そして他方で人が死ねば片方でも人が死ぬ。つまり大きな変化をもたらせばそれは更に大きな形で現実世界に作用するのだ。

その片鱗が恐らく山羊男の現実世界への侵略だろう。既に双方の世界の境が壊れつつあるのが物語の状況だ。

その後も旅は続く。テリトリーでは市場町に向かって、そこで初めてその世界の通貨の使い方を―詐欺に遭いながらも―学び、西方街道を行く途中では塔に上ってそこから羽を広げて宙を優雅に羽ばたく人たちの姿を見て、そこに人生の喜びを見出す。

エージェントの父と女優の母親を持つジャック・ソーヤーはいわばサラブレッドといった普通の子とは異なる洗練された家庭の生まれである。彼はいつの間にか、母親の女優の血を受け継いだかの如く、現実世界とテリトリーとの間を行き来しながら、出逢う人々を持ち前の想像力と演技力で引き込みながらアメリカ横断の旅を続ける。

しかしジャックに協力する人たちはジャックが嘘をついていることに薄々気づいている。つまり世間の大人もそう馬鹿ではないということだ。しかし嘘をつかれながらもジャックに協力したくなる魅力が彼には備わっている。

ヒッチハイクをしているジャックを拾ったあるバディー・パーキンズはジャックの笑顔を見て美しいとさえ思う。彼の内面から輝き出すものが、経験を積み重ねた者が見せる苦難に打ち克ってきた者の強さを垣間見たのだ。

一方で彼の風貌ゆえに小児愛者の、男児性愛者の興奮を掻き立てることもあり、ジャックを拾ったドライヴァーの中には故意に性的行為を求める人物も少なからず出てくる。そんな輩に対しても上手く対処する方法をジャックは身に着けるようになる。
しかし少年の旅を描くのに、現代アメリカの暗部をきちんと描く辺り、実にキングらしい。もしくはストラウヴによる演出なのかもしれないが。

可愛い子には旅させよ。
12歳のジャックの旅はまさに彼の成長の物語である。この旅でジャックは色んな人々と出逢い、年齢以上の人生経験を積むことになる。

何度も挫け、何度も泣き言を云いながらもジャックは母親を救いたい一心で旅を続ける。しかしテリトリーと現実世界を行き来することが影響して奇妙な地震が起き、アンゴラで7名もの死者が出る建設中のビル倒壊事故に責任を感じ、自分の旅で数多くの関係のない人が亡くなるのではないか、母親1人の命を救うために多くの犠牲者が出るのではないかと絶望する。

そんな時に出遭ったのが彼の支援者である放浪の黒人ミュージシャン、スピーディの分身とも思えるスノーボールという盲目の黒人ギタリスト。彼があるメッセージをジャックに告げる。

誰かが何かをしたために人が死ぬこともある、だけど何かをしなかったからもっとずっと大勢の人が死んだかもしれない。

つまりやって後悔する方がやらずに後悔するよりもはるかにましだと諭す。

そして物語の中盤、テリトリーで父親のことを知るウォーウルフのウルフと出逢い、彼とジャックは旅を共にする。ウォーウルフでありながら、山羊たち家畜の世話をする、実にミスマッチな役割を宛がわれたウルフの設定が実に面白い。

しかしウルフと知り合うや否や、ジャックの旅を食い止めようとするモーガンがようやく彼の居所を突き止め、彼を殺害しようとするが、その時、モーガンの魔の手から逃れようとウルフと共に現実世界へと舞い戻る。狼男のウルフが未知なる現実世界でジャックと行動を共にする辺りは本書の読みどころの1つである。
彼が狼男で満月の夜3日間は狼になり、その本性を剥き出しのまま、ジャックすらをも獲物として食らおうとする、この信用ならぬ共存関係のスリルはまさにこの2人の巨匠の独壇場とも云うべき、特殊な設定だ。
ウルフが守る『良き農耕の書』というテリトリーに伝わる農業の指南書には満月の日には家畜を襲ってはいけないと書かれ、それを一身に守ろうとする。獣の本性を剥き出しにしながらもウルフはジャックを家畜として扱い、そしてこの鉄則を守ろうと努力する。

やがて彼らはケイユガという町で不審者として逮捕され、そこにあるサンライト・ホームという更生施設に入れられる。そこはなんとテリトリーでモーガンの腹心の部下であるオズモンドの分身者サンライト・ガードナーが経営する、悪しき更生施設だった。

ここは本書における最初の山場だ。

ジャックがヒッチハイクを再開して目指す場所は、宿敵モーガン・スロートの息子でありながら大の親友であるリチャード・スロートがいるセア・スクール。そこで昔と変わらぬ親友と出逢ったジャックはリチャードにこれまでのことを打ち明ける。全てを信じないながらも一応リチャードが理解を示した頃、学校では奇妙なことが起きる。いつの間にかクラスメイト達は消え失せ、代わりに上級生によく似た半獣の人間がジャックを突き出せとリチャードを脅す。リチャードは幼い頃、父親がいなくなった時に体験したあるトラウマからそれは現実ではなく悪夢であると思い込もうとする。しかしジャックへの魔の手はどんどん迫り、やがてセア・スクール校長のミスター・ダフリーまでもが人狼と化して2人に襲い掛かる。

間一髪、とうとうジャックはリチャードと共にテリトリーへ跳躍し、そこから西へと向かう。昔列車の停車場だったセア・スクールはテリトリーでは汽車の乗り場であり、そこの番人アンダースから世にも恐ろしい土地「焦土(ブラステッド・ランド)」が広がる西に向けて走り、モーガンの依頼で彼の荷物を黒い館(ブラック・ホテル)まで翌朝運ぶことになっていたことをジャック達に教える。ジャックはそこにタリスマンがあると確信し、モーガンたちを一歩出し抜いて彼の列車を借りて黒い館へと向かう。

この焦土の風景は楳図かずお氏のマンガ『漂流教室』を想起させる、醜悪な生き物たちの巣窟だ。放射能を帯びていると思われる火の玉が終始飛び交い、足が退化したミュータントの犬、それらを食らう巨大な地虫、猿のような革製の翼をもった小鳥、悪いウォーウルフ、半人半蛇、半人半鰐の異形の者たちやらが次々と登場する。

とこのように次から次へとジャックの旅は不思議な出来事と人たちと出逢い、あるいは巻き起こしていく。

この1985年に書かれた物語は上に書いたように今でも続く現実世界と異世界とを舞台にしたファンタジーに影響を与えたと思われる節が見られる。

なんといってもまずは宿敵モーガンと主人公ジャックの父親フィリップとの関係だろう。ジャック親子の前に立ち塞がる敵モーガンは太って髪の薄くなった冴えない風貌である。彼はエール大学在籍時にジャックの父親フィリップと知り合うが、その冴えない風貌から常に彼を見下し、小バカにしているように見えた。これがモーガンの心中に澱のように溜まる劣等感による殺意を募らせることになる。

この2人の関係性は『ハリー・ポッター』シリーズのセブルスとハリーの父親ジェームズとの関係によく似ている。この2人の関係性は本書に原形があるのではないだろうか。

テリトリーと現実世界とを自由に行き来できるジャックは自分こそがただ1つの存在であることに気付く。かつてテリトリーを発見し、行き来していた彼の父親フィリップはテリトリーの他にも別のテリトリーがあることを感じていた。
その通り、無数のテリトリーが存在し、その全てが自分の世界のブラック・ホテルに入り、そしてタリスマンを手にしなければ得られない。そんなことは不可能だが、ただ1つの存在であるジャックのみがそれを可能となる。なぜならジャックは唯一無二の存在だからだ。

毒にも薬にもなる存在、タリスマン。私は核爆弾を象徴していると思った。
癌に侵され、死にかけた母親を救うためにジャックが求めたのはこのタリスマン。強大な力を持つこの球体が核爆弾を象徴しているというのは荒唐無稽に思われるが、自分なりの解釈を以下に述べたい。

本書が書かれた1985年は各国が競って核爆弾を所有し、アメリカでは頻繁に核実験が行われていた頃だ。

他国が持っているから自国も所有して他国からの侵略に対して備え、安心しようとする。それは国にとっては防御力ともなるが、暴発すれば自国をも滅ぼす死の兵器である。
そしてそれを各国が手放すことで真の平和が訪れる。そして黒い館に至る道のりにある焦土は火の玉が飛び交い、それに触れると放射能に侵されたような症状になることもまたそれを裏付けている。

ちょうど非核化対策が注目された米朝首脳による初会談の行われた時にこの作品を読んだからそう思ったのかもしれないが、いやそれだけではないだろう。私はまたも本に引き寄せられたのだ。

最後のむすびの文章が実に憎い演出だ。主人公の名前から私の中にはある物語の主人公のことが浮かんでいたのだが、それはこの2人の作家が意図したことらしい。
最後にあの有名な作品―マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』―のむすびをそのまま使い、またそれが実にこの物語を結ぶのに似合っている。

2人の稀代のホラー作家が紡いだファンタジー・アドヴェンチャー・ノヴェルは彼らによる新たな『指輪物語』でありながら、少年少女文学不朽の名作へのオマージュだったのだ。
読み終えて冒頭を見てみるとそこには『ハックルベリイ・フィンの冒険』からの抜粋があることに気付かされる。キングとストラウヴによるトムとハックの物語。しかしそれにしてはちょっぴり、いやかなり辛口の味付けだったのはご愛嬌か。

しかしマーク・トウェインが後にハックを主人公にした『ハックルベリイ・フィンの冒険』を書いたように、2人がリチャード・スロートを主人公にした物語を紡ぐかと云えばそれはないだろう。
なぜならジャックとリチャードには決定的な違いがある。それは異世界を知る喜びを持つジャックに対し、リチャードは異世界に恐怖を抱き、目を背け現実のみを頑なに信じようとしたからだ。幼い頃に消えた父親を追ってテリトリーに迷い込んだリチャードはそこで異形の者に遭遇し、命からがら逃げだし、それがトラウマとなって、一切の物語を遮断することにし、超常現象全てに現実的な答えを見出すようになる。
物語の面白さを愉しむジャックと物語を愉しめないリチャードという2人の差は本を読む人、読まない人の心の豊かさの違いを示唆しているようにも思える。

はてさてこの感想を挙げるにあたり、思いつくままに本書から想起される物語を挙げてきた。
『ハリー・ポッター』、『十二国記』、『西風の戦記』、『指輪物語』、『漂流教室』、そして『トム・ソーヤーの冒険』。
古今東西の小説やマンガのエッセンスが本書にはそこここに詰まっている。さらにブラック・ホテルでの対決でモーガンが見せる、両手の拇指を耳の奥深く突っ込んで残りの指をひらひらさせて「アッカンベー」をし、その後で舌を噛み切る、滑稽ながらも恐ろしい仕草や彼の腹心の部下ガードナーが呂律の回らない状態で狂い叫んでジャックに襲い掛かるところなどはまんま『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくる個性的な悪党そのものだ。

2人のホラーの大家がタッグを組んだ本書には物語を愛し、その力を信じる2人の情熱が込められている。
色々書いたが、本書は愉しむが勝ち。それだけのアイデアが、多彩なイマジネーションが溢れている。
そう、本書そのものがタリスマン―本を読む者へのお守りであり、読者を飽きさせない不思議な力を持っている。


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タリスマン〈上〉 (新潮文庫)
スティーヴン・キングタリスマン についてのレビュー
No.1267: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

土井超音波研究所の真の姿

Vシリーズもとうとう9作目。シリーズのセミファイナルとなる本書では7作目に登場した土井超音波研究所が再び物語の舞台となる。従って付された平面図は『六人の超音波科学者』同様、土井超音波研究所のそれとなっている。
2作で同じ平面図を使うミステリは私にとっては初めての経験だ。

そして今回の謎は飛び切りである。
まず研究所の地下室に二重に施錠された部屋から死体が見つかる。どちらも船室で使われる密閉性の高い中央にハンドルのついた重厚な鉄扉で、最初の扉は内側からフックのついた鎖で止められ、外側からは解錠できないようになっている。次の扉は床にあり、開けると昇降設備がなく、梯子か何か上り下りできるものがないと降りられず、更に入る部屋からしか閉めることが出来ない。その床下の部屋に白骨化した死体が横たわり、その死体は何か強い衝撃で叩きのめされたかのように周囲には血が飛び散っている。

さらに1年4ヶ月前にNASAの人工衛星の中で男女4人が殺される密室殺人が起きる。男3人は小型の矢のような物で無数に刺され、女性は絞殺されていた。

しかもこの人工衛星の密室殺人事件と研究所の地下の密室事件には関係があるという、島田荘司氏ばりの奇想が繰り広げられる。

更に今回土井超音波研究所の地下室に潜入することを依頼した藤井苑子こと纐纈苑子も物語の背後で暗躍する。
テロリストの藤井徳郎の妻であった彼女がN大学の周防教授の部屋に忍び込み、なぜ教授の友人が送ったNASAの資料を盗んだのか?

また今回はNASAの事件に関係した国際的なテロリストが絡んでいることもあり、他国の国際機関が事件に介入し、偶然当事者と間違えられた瀬在丸紅子たちが危害に遭うというスリリングな展開を見せる。レスラーを思わせる体格の中国系アメリカ人リィ・ジェンと小鳥遊練無の緊張感ある格闘シーンと、小鳥遊練無の少林寺拳法の師匠で紅子の世話役である根来機千英の達人ぶりを目の当たりにできる。格の違いを見せつけながらも紅子への忠誠を失わないその姿勢は根来の信念の深さを思い知らされるワンシーンだ。
彼が紅子の元妻林とその部下で恋人の祖父江七夏に対して嫌悪感を露わにするのを大人気ないと感じていたが、このシーンは彼こそが男であり、林が実に芯のない男であるかという格下げせざるを得なくなるほどの日本男児ぶりである。

祖父江七夏と瀬在丸紅子の潜在意識での格闘は続くが、その大いなる原因は2人の女性に手を出した林なのだから、彼が読者から嫌われて当然なのは今に始まったことではないのだが。

更にこの件で紅子の息子へっ君の誘拐騒動が起き、紅子のへっ君への溺愛ぶり、愛情の深さを読者は思い知らされる。七夏が云うようにかつては林のためなら息子も殺すことをできると云う冷淡なまでの林への執念を見せた彼女はその実、本当に息子に危難が訪れると普段の冷静さが吹き飛んでしまうほどの母性愛の持ち主だったことが解る。

そんな起伏が激しく、そして謎めいた物語。それぞれの謎はある意味解かれ、ある意味解かれないままに終わる。

この辺が森ミステリの味気なさなのだが。

更に私が感嘆したのは前々作『六人の超音波科学者』の舞台となった土井超音波研究所が本書のトリックに実に有効に働いていることだ。
いやはや同じ館で異なる事件を扱うなんて、森氏の発想は我々の斜め上を行っている。

そしてシリーズの過去作に纏わると云えば小鳥遊練無が初登場したVシリーズ幕開け前の短編「気さくなお人形、19歳」でのエピソードを忘れてはならない。『六人の超音波科学者』も纐纈老人との交流が元でパーティに小鳥遊練無は招待されたが、本書では更に纐纈老人との交流が物語の背景として密接に絡んでくる。
読んだ当時はただの典型的な人生の皮肉のような話のように思えたが、練無が代役を務めた纐纈苑子、即ち藤井苑子が本書でテロリストのシンパで妻となって登場することで全くこの短編の帯びる色合いが変わってくる。もう一度読むと当時は気付かなかった不穏さに気付くかもしれない。

そしてこの纐纈苑子が小鳥遊練無にそっくり、いや小鳥遊練無が纐纈苑子にそっくりなことが最後の最後まで実に効果的に活きてくるのである。

ところで本書のタイトルは朽ちる、散る、落ちると3つの動詞で構成されており、これまでの森作品の中でも非常に素っ気ないものだが、各章の章題は「かける」で統一されながら、それぞれ「欠ける」、「架ける」、「掛ける」、「賭ける」、「駆ける」、「懸ける」、「翔る」と7つの同音異句動詞で構成されており、まさに動詞尽くしの作品である。

ただあまりそれまでの森作品と比べて題名の意味はよく解らない。

朽ちるとはまさに死のこと。肉体は朽ちても残るものがある。

落ちるとは藤井徳郎の行った犯罪とその死を指すのか。

しかし散るとは?
もしかしたら藤井のテログループが散開したことを示しているのだろうか。

このシリーズは保呂草の手記によって書かれていることがあらかじめプロローグに提示されているのが特徴だ。そして物語を読み終えた時、このプロローグを読むと浮かび上がってくるものがある。

本書では奇跡的な偶然が示唆されている。それはやはり小鳥遊練無が纐纈苑子に酷似していたことだ。
彼女と彼が似ていたからこそ、全ては始まったのだ。シリーズが始まる前のエピソードから全てが始まったのだ。

さてとうとうVシリーズも残り1作となった。S&Mシリーズの時には全く感じなかったのだが、このシリーズに登場する面々は実に愛らしく、別れ難い。もっと続いてほしいくらいだ。

西之園萌絵がお嬢様然とした世間知らずな学生であるのに対し、瀬在丸紅子もまたかつてお嬢様で常識を超越した存在であるのだが、彼女は祖父江七夏と元夫である林を取り合う、人間としての嫉妬や女としてのプライドと云った人間らしさを感じるからだ。
特に祖父江七夏と逢うのは嫌いではない、なぜならその間彼女は林と一緒にはいられないからだ、という凄い考え方の持ち主だ。

そして何よりも物語を引き立てるコメディエンヌ(?)小鳥遊練無と香具山紫子の2人の存在、そして危うい香りを放つ食えない探偵保呂草といったキャラが立った面々が前シリーズの登場人物たちよりも親近感を覚えさせる。森氏の文章力、キャラクター造形の力が進歩したこともあろうが、やはりこのキャラクターたちは実に愛すべき存在だ。

本書でとうとう紅子の息子のへっ君のイニシャルがS.S.であることも判明し、最後の最後で明かされるサプライズへ助走の状態であるーいや本音を云えば何も知らないで最終作まで読みたかったが、世間一般の森ファンはどうも作品間のリンクを吹聴したがる傾向があり、ネタバレを逃れるのは至難の業なのだ—。

さて心して次作を待つこととしよう。


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朽ちる散る落ちる―Rot off and Drop away (講談社文庫)
森博嗣朽ちる散る落ちる についてのレビュー
No.1266:
(7pt)

我々の正気の立脚点はなんとも脆いものか

残念ながら2013年に亡くなった作者の、元々は『「通りゃんせ」殺人事件』という凡百なタイトルで発表された作品。本書はモチーフの童謡を「通りゃんせ」から「子取り鬼」に変えて加筆・修正されている。
日本のとある地方都市、昨今の都市開発による都会化と昔ながらの田舎の風景が残る夜坂で起きる子供たちの連続殺人を扱っている。

その町に昔から伝わる平安時代末期に桜姫という公家の娘に纏わる子取り鬼の伝承、それに由来する廃寺に祀られた子取り観音。その伝承を擬えるような幼い子供の殺人事件。これらは見事なまでに本格ミステリの見立てである。

今邑氏はそれまでの作品でカーの『火刑法廷』を彷彿とさせる、本格ミステリとホラーを融合した作品を書いてきた。怪奇現象としか思えない事件を本格ミステリとして解き明かした後に、不可思議な現象が起き、なんとも云えない余韻を残した作風が特徴であった。従ってそれまでの作品を読んでいる読者は平安時代から纏わる鬼女の伝説を擬えた怪奇的な見立て殺人と思わされながらも、ホラー文庫から出た作品ということもあり、やはりホラーなのでは、と実に不安定な状況の中、読み進むことになる。これが実に効果的であった。

本書のホラー要素とは前掲にもある子取り観音の逸話だ。

自分の娘を鬼にさらわれ、腸を切り開かれて殺されたことから絶世の美女と謳われながら、我が子を喪った苦しみから鬼女と化し、墓から自分の子の亡骸を掘り出して食らい、そして山奥に逃れて、時折人里に降りてきては里の子供をさらっては腸を食らっていたとされる桜姫の伝承から由来する子取り観音。子取り鬼の一節、「赤いべべ」はべべ、つまり着物ではなく、服を真っ赤に染めた幼女の血を指す。

そんな逸話が残る子取り観音を祀る廃寺で22年前幼い頃に子取り鬼をして遊んでいた千鶴たちと一緒に遊んで置き去りにされたことで、何者かによって我が娘を殺された妾、加賀道世とその息子史朗が再び夜坂に戻ってきてから起きた同様の幼女殺害事件。

この22年という歳月を経て再現される奇妙な符号。

東京で夫と死別し、夜坂に千鶴を連れて出戻る母と全く同じ状況で娘紗耶と出戻る千鶴。

夜坂を離れずにいる当時の幼馴染たち。

その幼馴染たちと廃寺で遊んでいる後に起きた幼女殺害事件。

幼馴染の1人は娘がその幼馴染たちと廃寺で遊んでいる時に首を絞められて亡くなっているのを発見される。

そして22年前に娘を亡くした妾の女性が老女となって再び夜坂に戻り、一人息子と以前住んでいた洋館に住んでいる。

全てが夜坂に残る暗い歴史、22年前の事件を再現するかのように全てが集まる。

大人になった幼馴染たちは今度は22年ぶりに自分たちの子供が殺されていくのを目の当たりにし、当時の忌まわしい事件の再現度を高めた千鶴の帰郷とこの加賀親子の再来こそが全ての元凶であると糾弾するようになる。そしていつの間にか周囲には加賀親子こそが、犯人である、22年前に殺された娘の事件を自分たちのせいにした恨みから復讐しているのだと思うようになる。
一方で子供たちが殺された晩に決まって掛かってくる子取り鬼の歌を歌う老女の声。一連の事件は子取り観音の仕業ではと千鶴は疑ったりもする。

人間の手になるものか、それとも不気味にほほ笑む観音像による人智を超えたものの仕業か。

何とも人の業の深さを痛感させられる物語であった。

結局一連の幼女殺害事件は、人智を超えたものによる仕業ではなく、狂える人たちによる凶行であった。
つまりはミステリであったが、ホラーではなかったかと云えばそうではない。本書はミステリでありながらやはりホラーであったと云えるだろう。

では本書における怖さとは何か?
次々と何者かによって我が子を殺される未知の恐怖。それも確かに恐ろしい。

しかし事件が起こることで起きる友人たちとの軋轢。いや一枚岩だと思われた友情が脆くも崩れ去り、謂れのない憎悪を向けられること、これが最も怖い。

その対象となるのが東京から出戻ってきた主人公の相馬千鶴だ。

幼い頃に妾として町中の大人から疎まれていた加賀道世。相手にしてはいけないと親から云われていた子供たちは彼女の兄妹とは遊ばなかった。町の廃寺で子取り鬼をしているところを訪れた道世から、うちの子と遊んでくれないかと頼まれ、周りの子供たちは拒む中、夫と死別して東京から出戻り、兄夫婦の許でぎこちなく暮らす千鶴はその兄妹にシンパシーを感じ、周囲の反対を押し切って妹のルリ子を仲間に入れてあげる。

しかしその後仲間たちは別の遊びをしに行くが付いてこなかったルリ子だけが後に首を絞められて廃井戸の中で遺体となって見つかる。

ルリ子を殺害したのは犯人なのに、誰とも解らぬ相手よりも顔を知っている子供たちに娘の仇と認めた道世は土屋裕司、髙村滋、山内厚子、深沢佳代、松田尚人、柏木千鶴らの家を訪れ、お前らが娘を殺したと罵倒する。そしてとりわけ仲間に引き入れた千鶴を最も憎悪をしていたことを22年後に兄の史朗から伝えられる。

更に娘紗耶の失踪をきっかけに実の子を亡くす山内厚子と深沢佳代は、同じく犠牲者がなぜ事件の素を作った千鶴の娘紗耶ではなく自分の娘なのかと世の理不尽さに憎悪し、その刃を千鶴に向ける。
つい先ほどまで22年ぶりの再会を喜び、娘がいなくなればお互いに励まし合い、一緒に探してもくれた幼馴染が災厄が自分に降りかかることで一変する恐怖。近しい人たちの裏切り。人間の心の弱さこそが本書において最も大きな恐怖だと感じた。

更に我が子を亡くすことで憔悴し、狂人のように変わっていく母親。さらに自分たちの都合のいいように解釈し、証拠もないのに怪しいと云うだけで殺そうと企む集団心理の怖さ。

本書の前に読んだ『ダ・フォース』も悪漢警察物とホラーと全く異なるジャンルながら、物語の根底にあるのは厚い友情で結ばれた者たちがあるきっかけで脆くも崩れていく弱さと共通している。
片や2017年に刊行され、こちらは1992年刊行と25年もの隔たりがあるが、いつの世も人間の根源と云うのは変わらず、そして進歩がないものだと思わされる。

洋の東西、そして古き新しきを問わず、我々の正気と云うのはいわゆる安心の上で成り立っていることがよく解る。
しかしその安心はいつまでも続く、つまり今日無事だったから明日も、1年後も、5年後も、10年後も、いや死ぬまでそうであると思いながら、実は実に脆い薄い氷のような物であることが知らされる。そしてその安心という支えが、基盤が無くなった時、なんと我々は文化人から野蛮人へと豹変するものかと痛感させられる。
友情や愛情はすぐに疑心暗鬼、憎悪に変り、不安定な地盤に立つ自分と同じように人を引き摺り込もうと企む。

それは単に資産が無くなったり、家族が喪われると云った大きな危難に留まらず、例えば子供が云うことを聞かない、試験に自分の子だけ受かっていない、なぜうちのところに他所の家族を住まわせなければならないのかというちょっとした日常の不具合から容易に生じる。今邑氏はそんな日常にこそ狂気の種が既にあると仄めかしている。

以前も思ったが今邑氏の作品には常に無駄がない。
人の悪意、心の根底になる妬み、嫉みと云った負の感情を、殺人によって表層化させ、全てが物語に、そしてミステリの謎に寄与し、登場人物たちの行動もさもありなんと納得させられるエピソードが散りばめられている。
しかもそれぞれの登場人物たちが抱く負の感情が的確な表現で纏められ、人が大なり小なり些細なきっかけで容易に罪を犯すことを悟らされるのだ。

特に上手いと思ったのは主人公の相馬千鶴の造形だ。

夫に先立たれ、幼い娘を連れて帰郷し、いとこ夫婦のところに居候することになった彼女。しかし余計なお荷物を預けられたと疎まれ、娘はなかなか自分の云うことを聞かない。更に幼女の殺害事件が起きるとたまたま娘の紗耶が失踪したことがきっかけだったことから自分のせいで娘が死んだと犯人扱いされ、そのことが町の噂になり、いとこ夫婦も家を出ていってほしいと望むようになる。
そんな環境の犠牲者と思われた千鶴が彼女も郁江から根無し草のような人生を送っている女性として悟らされることで、生活力のない女性、そのことで彼女もまた運がないだけでなく、自らも他者に頼ってばかりの、自立していない女性であることが解ってくるのである。
そして心のどこかで自分の美貌を誇り、初恋の男性だった高村滋が子供の産めない体になった妻の郁江を捨て自分に走ってくれるのではないかと期待していた甘さも判明する。それが単に思い上がりであったことを知った彼女が娘と逃げ出し、加賀邸に向かうラストは、彼女が裸足であることが象徴的だ。

300ページにも満たない長編ながら、幼馴染という最初のコミュニティの絆の脆さ、我が子を喪うことで容易に陥る人間の狂気、1つの母子家庭の自立など、色んなテーマを孕んだ濃い内容の作品だった。評価は☆7つだが、☆8つに近いと云っていいだろう。

既に夭折して新刊が望めない作者であるが、幸いにして私の手元には彼女の全著作が揃っている。3作読んでやはりこの作家は私に合っていると確信した。
恐らくは近い将来、昨今の出版事情を考えれば、ほとんど全ての作品が絶版となり、限られた作品のみが電子書籍化として残るだろうことを考えれば、これらの蔵書はまさに貴重。
まあ、そんな収集家的愉悦よりもまだまだ読める作品が沢山あることが素直に嬉しい。次作を読むのはまたしばらく後になるが、その時も期待通りのミステリが読めると思えると愉しみでならない。


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赤いべべ着せよ… (中公文庫)
今邑彩赤いべべ着せよ… についてのレビュー
No.1265:
(9pt)

毒を以て毒を制しても、毒は毒

『犬の力』、『ザ・カルテル』で犯罪のどす黒さを存分に描いたウィンズロウが次に手掛けたのはニューヨーク市警特捜部、通称“ダ・フォース”と呼ばれる荒くれ者どもが顔を連ねる市警のトップ中のトップの野郎たちの物語。つまりは昔からある悪漢警察物であるが、ウィンズロウが描く毒を以て毒を制す特捜部“ダ・フォース”には腐った現実を直視させるリアルがある。

従って通常の警察小説とは異なり、文体や雰囲気はハードボイルド然としておらず、オフビートなクライム小説の様相を呈している。
音楽に例えるなら、同じ警察を描いているマイクル・コナリーがジャズの抒情性を感じさせるとすれば、ウィンズロウの本書はどんどん速さを増すアップテンポの、畳み掛けるような怒りにも似た激しいヒップホップのビートを感じさせる。だから原題“The Force”をそのまま日本語にした邦題が『“ザ”・フォース』でなく、『“ダ”・フォース』なのだ。

そう思っていたら、やはり主役のマローンはジャズよりもラップを、ヒップホップを好む男だと描かれる。彼の生きている世界には抒情よりも本音をぶつけてくる攻撃的な音楽が似合うからだ。

ノース・マンハッタンで王として君臨する“ダ・フォース”の面々。その王たちを仕切る王の中の王デニー・マローンは、悪人には容赦しない暴力を平気で振るうが弱者にはとことん優しい男で、上層部の弱みや市長に関しても脅迫の材料を持った、“顔役”である。9・11のツインタワー崩壊時に消防士だった弟リアムを亡くしている。

その彼の親友で“ダ・フォース”の一員であるフィル・ルッソは幼い頃から兄弟のように共に生きてきた男だ。お互いに人生の節目には相談し合い、そして支え合った魂の友。リアムが亡くなった時も真っ先に崩れ行くツインタワーに駆け付けて捜し出そうとした男。死に目に遭ってもマローンにはルッソが、ルッソにはマローンがいるから死なずに済んだ。そしてお互いのためなら命を惜しまずに捨てることが出来る、強い絆で結ばれている。

ビッグ・モンティことビル・モンタギューもデニーとフィルが絶大の信頼を置く、巨躯の黒人刑事だ明晰な頭脳を持つ、大学教授然としたエリート風の服装を好む男。しかしプライヴェートでは息子と妻を愛する良き家庭人だ。

もう1人のメンバー、ビリー・オーことビリー・オニールはチーム最年少だが、動きは敏捷でガッツもある恐れ知らずの男。しかし犬が大好きだった彼は麻薬ディーラーへの手入れの際、犬がいたためばかりにピットブルを殺すことが出来ず、傷だらけの顔にヘロインを浴びてそのまま殉職した男。彼には妊娠した未婚の妻がおり、マローン達が妻と一緒に面倒を見ている。

そんな彼らは決してクリーンではない。先の事件で大きな話題となったドミニカ人麻薬組織の親玉ディエゴ・べニーナから押収した100キロものヘロインと駄賃ついでにせしめた300万ドルを等分して着服している。彼らにとって何かあった時の担保として隠し持つようにしたのだ。

更に彼らは賄賂は受け取らないが、ヤクの売人の上前をはねたりはする。我々にとって悪人からお金をもらっていることには変わりはないが、彼らにとっては賄賂を貰うことは下請けになることで、上前をはねることは支配する側であることの違いがある。

前述したようにデニー・マローン率いる“ダ・フォース”は社会の毒を浄化するための毒だ。必要悪とも云える。
濃度の高い酸は濃度の高いアルカリでないと中和できない。それはどちらも人体にとって毒となる。それが彼ら“ダ・フォース”だ。

彼らには法を超えた法がある。単に悪人を逮捕するだけではダメなのだ。
彼らが相手にしている悪は道徳的観念に欠けた正真正銘のワルばかりだ。無学でヤクを売りさばくことでしか、人を安い金で殺すことでしか生活できないチンピラから、商売敵、無能な部下、いや有能すぎて自分の地位を虎視眈々と狙う部下を疑い、殺すことでしか生きていけない無法のディーラーたちこそが彼らの相手。そんな人の命をクズとしか思わないやつらに道徳は通じない。

だから彼らは逮捕した時に徹底的にボコボコにする。顔の形が変形するほどに。そうしないと舐められるからだ。なんだ、逮捕されてもこの程度か、と。全然大したことないな、と。

“ダ・フォース”の面々が生きる世界は力こそが正義であり、そして治安のみならず自分の身を護る鎧なのだ。そんな世界をウィンズロウは色々なエピソードを交え、語っていく。

だからまたこの“ダ・フォース”の仲間たちは警察バッジを持ったマフィアのように描かれる。“ザ・カルテル”で描かれた麻薬カルテルファミリーたちを語る雰囲気と彼らのそれはほとんど同義だ。
しかし唯一違うのは彼らがそんな力で制する正義を誇示しながらも、一方で悪のために亡くなった人々を哀しみ、そして正義を守るための暴力がマスコミに槍玉にあげられないか、細心の注意を払っているところだ。自分の法律、流儀に従い、街を守る彼らを街の住民たちは褒め称えるが、その方法が過剰すぎると上層部やマスコミ、政府のお偉い方達は眉を潜め、しっぽを掴もうとする。FBIは警察の不法な取り締まりに対して目を光らせ、いつでも手ぐすね引いて挙げようと狙っている。

マフィア、麻薬ディーラーといった外部の敵と、上層部、マスコミ、FBIと内部の敵。
“ダ・フォース”は無敵に見えて実はとんでもない敵と常に戦っている。

『ザ・カルテル』の時も衝撃を受けたが、本書でも冒頭で5ページに亘って警察官の名前が連ねられている。それはウィンズロウが本書を執筆中に亡くなった警察官の名前である。
これほどの警官が命を落とすアメリカ。アメリカでは警察官になることは戦争に行く兵士同様、いつ死ぬか解らない命を賭けた職業であることがまざまざと見せつけられる。

それを裏付けるかの如く、本書には実に荒んだ現実が次々と述べられる。

コナリーのハリー・ボッシュシリーズでも取り上げられた黒人の不当逮捕と過剰暴力を振るった警官が無罪放免になったことで、街中が警官の敵になったこと。440人もの警官が殺害され、しかもそれには9・11で犠牲になった警官の数は含まれていない。

警察官は被害者に同情し、犯人を憎む。しかし憎しみすぎるとほとんど犯人と変わらなくなる。
やがて2つに分かれる。
被害者を守れなかった自分を責め苛むか、被害者に対して憎悪するようになるか。
無防備すぎる、弱すぎる、みなクソ野郎ばかりだ…。

肥大化する麻薬ビジネス撲滅のために麻薬ディーラーに潜伏する囮捜査官たちは次第に自身がヤクに溺れるようになる。

ジュリアーニ市長によるニューヨーク浄化政策により、マフィアが一掃されそうになった時に起きた9・11事件。その瓦礫撤去工事に絡んでいたマフィアが法外な費用を吹っかけ、それを資金にしてマフィアが復活する皮肉。

そんな国だからこそ、警察もクリーンなだけでは太刀打ちできないのだと、安全にはコストがかかるのだとマローンは述べる。それを裏付けるのが冒頭の犠牲になった実際の警察官の名前たちだ。

しかし毒はどんな理由であっても毒に過ぎない。

これは王の凋落の物語。
しかしその王は汚れた血と金でその地位を築き、恐怖で支配していただけの王だった。従ってその恐怖に亀裂が入った時、堅牢と思われた牙城は脆くも崩れ去る。

デニー・マローン達は確かに正義の側の人間。彼が取り締まっていたのは通常の遣り方では捕まえることの出来ない者ども。
しかし上にも書いたように、ただ捉え方が違うだけで実質的にはやっていることは同じ。同じ穴の狢だったのだ。

それからの展開は非常に辛い。最高の、そして最強のチーム“ダ・フォース”は分解をし始める。

昨日の友は明日の敵。友情は厚ければ厚いほど、裏切られた時の失望と怒りもまた深い。
作用反作用の法則。命を預けられるほどの信頼で結ばれた仲間の絆は深く、そのために絆が剥がれる時、お互いの命を蝕むほどに根深く、そして傷つけるのだ。

やはり悪い事はできないものだと思いながらも、それまでどうにか切り抜け、ネズミになりながらも矜持を失わないように踏ん張るマローンを応援する自分がいた。
そして彼が自分の悪行を悟って初めて彼もまた悪人である、毒であったことを知らされた。つまりはそれまで彼らの悪行を正当化するほどにこのデニー・マローン初め、フィル・ルッソ、ビッグ・モンティ、デイヴ・レヴィンの面々が魅力的だったということだ。

いやそれだけではない。

汚いことをやりながらもマローン達は自分たちの正義を行ったことだ。マローンはこの町が大好きで、人を愛し、空気を、匂いを愛したのだ。だからこそどんなことをしてでも町の平和を護ってやる、それが王の務めだと思っていたからだ。

後悔先絶たず。そんなことはいつも自分の心を隙間を突かれて堕ちていく人間が最後に行き着く凡百の後悔の念に過ぎず、謂わば単なる言い訳である。
しかしそんな弱さこそがまた人間なのだ。

作中、マローンの恋人クローデットがこんなことを呟く。

「人生がわたしたちを殺そうとしている」

生きると云うことは苦しく、厳しいものだ。いっそ死ねたらどんなに楽か。
本書では登場人物たちの生死によってその後の運命を見事に分っている。

悪行の報いと云ったらそれまでだろう。自分たちだけの正義を貫き、まさに生死の狭間に生きている警察官という仕事。そんな彼らに対する待遇が恵まれていないからこそ、このような負の連鎖に陥るのだ。

悪い事をしている奴らが使いきれないほどの金を持っており、一方それを捕まえる側は子供の養育費でさえヒイヒイ云いながら賄っている、この割の合わなさ。

そんな現実が良くならない限り、この“ダ・フォース”達は決してなくならないのだ。

それでも自分の正義を信じて生きていく彼らはまさに人生の殉教者。

いや警察官だけではなく、我々にも当て嵌まるこの言葉。
我々は生きているのか生かされているのか。今自分の足元を見て、ふとそんなことを思った。

人種の壁、どんどん町に蔓延る大量の麻薬、捕まえても捕まえても次々と出てくる大物麻薬ディーラーたち、そしてディーラー間の抗争。

ニューヨークの、いやアメリカの平和は少しでも衝撃を与えれば壊れてしまう薄氷の治安とバランスの上で成り立っている。そんな現代の深い絶望を感じさせる異色の警察小説だった。

そして私の中に流れる音楽がヒップホップからいつしか胸に染み入るバラードへと変わっていたことに気付いた。


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ダ・フォース 上 (ハーパーBOOKS)
ドン・ウィンズロウダ・フォース についてのレビュー
No.1264:
(7pt)

TVでは描かれなかったサイドストーリーが強烈すぎて

本書は2011年にNHKで放映された『探偵Xからの挑戦状』という番組のために書き下ろされた作品。これは現代の本格ミステリ作家たちによる視聴者参加型の推理番組で、そのうちの1つとして放映された。
従ってまず先に映像化があり、その3ヶ月後に刊行された、島田作品では唯一映像化先行の作品である。

従って映像化を意識してか、その導入部はかなりのインパクトを持って始まる。なんせ霧の中からゴーグルを掛けた男が現れて、巡査の前を疾走して消え去る。しかもその男のゴーグルの中の目は血走っており、さらにその顔は真っ赤で爛れているように見えたという、何とも映像的なシーンである。

ゴーグル男はその後も福来市の至る所に姿を現す。しかもゴーグルをつけた状態で。

つまり本来ならば犯罪者が自らの顔を隠す覆面としてゴーグルを着けていると思われるのに、このゴーグル男は犯行を行うときのみならず普通の生活をしている時にもゴーグルを着けているところが異なっている。スーパーでの買い物、定食屋での食事、更には銭湯での入浴時でもゴーグルをしている。
想像しただけでもシュールな光景で、しかも笑える。

日常生活でゴーグルをなぜしているのか?
その理由を示唆するサイドストーリーが交互に語られる。

このサイドストーリーはNHKの番組にはなかったもので、小説化に当たり、加えられたものだ。

島田氏はその作品のサイドストーリーに社会的弱者の生い立ちを絡め、豊かな国日本で社会の底辺でままならぬ生活を強いられている人物、もしくはある出来事・事件がきっかけで人生を狂わせてしまった人物のエピソードをかなりの紙幅を割いて語るのが特徴となっているが、本書では母子家庭で育った、幼い頃にその女の子のような風貌からある大人に性的虐待をされた男の話が添えられている。

ただその男に関してはその性的虐待の過去だけが人生に暗い翳を落とすだけでなく、彼が大人になって勤める住吉化研という原子炉の燃料を製造している会社の話が絡められている。
その会社が臨界事故を起こし、その場に自分もいたが、鉛スーツを着てゴーグルを掛けていたため、直接的に放射能を受けたのはゴーグル部分のみであることが示唆される。そしてウラン溶液を直接扱っていた作業者が2名が被曝し、その惨たらしい死に様が克明に書かれる。

さてこの住吉化研の臨界事故と、聞けばすぐにある会社が思い浮かぶだろう。日本のみならず世界をも騒がせた1999年9月30日に起きた茨城県東海村での臨界事故。この作品のサイドストーリーは実に読むのが辛かった。
舞台は東京都の福生市をモデルにしたであろう架空の市福来市と場所は変えているが、起こった事故の詳細は当時の事故の話とほぼ同じである。特に至近距離で被曝した被害者の生々しい描写には暗鬱にさせられる。当時の事故のことを知っている私でも改めてこんなひどい死に方があるものかと思うくらいだ。

ただ近くの公園で奇形の犬の死骸が沢山掘り出されたり、敷地内の森では自殺した家族の幽霊が出たりと、いかにも秘密主義の会社で不安を煽る描写が続くのには眉をひそめる。
その後の会社の対応については被害者サイドの話、もしくはこの事故のことを書いた文献—参考文献が書かれていないのでどの書物なのかは不明だが—を元に構成されたようで、一方的に会社側が悪者になっているように書かれている。町の至る所に現れ、都市伝説化したゴーグル男の棲み処とまで名指しで称されるようになる。

この辺の件については、いかにフィクションであれ、実際に起きた事故を、そしてモデルになっている会社があることを考えると不快でならなかった。そしてこの内容は場所や名前は異なるが明らかに特定の会社を示唆しているので、番組放映ではカットされても止むを得なかっただろう。放映時点で構想はあったかは解らないが。

そして今回の事件の真相—つまりゴーグル男がなぜゴーグルをしているのか?-については当時の番組を観ていたこともあり、記憶に残っていた。もう7年も前になるが、やはり島田氏の奇想は刺激的で、こんなこと思いつくのはこの作家しかいないと思えるほどインパクトの強いものだった。

しかしその番組を観ていてもそこに盛り込まれていないサイドストーリーの内容が強烈で、番組の時とは全く違うのではないかと思わされた。特にゴーグルの中は赤く爛れて血が流れていたと何度も繰り返されているところが不安を掻き立てられたように思える。映像を観た人も更に読み応えが得られるようにかなり肉付けしたのだろうが、私には少し、いやかなり刺激が強すぎた。

しかし覚えていたのはそこまで。

私が特に面白く思ったのは3軒目の煙草屋のお婆さんが見たくねくね動いていた若い男の真相。

本書は最盛期の島田氏の奇想溢れるミステリとしてまさにこの作家しか考えつかないアイデアと驚き、そして納得に満ちたミステリであり、最近の作品の中でも本格ミステリ度の高い快作なのだが、上に書いたようにミステリ性を装飾するサイドストーリーが私にとっては非常に辛い内容だっただけに島田氏の健在ぶりを素直に喜べなかった。
そのサイドストーリーについても事件の悲惨さを掻き立てる内容に終始しているのが残念でならない。

そして当事者性を排除して読むと、会社の決まり事というのは部外者にとっては実に奇妙に映ることがよく解った。何とも会社というのは世間一般と離れた独自の文化を持つ共同体であることかと改めて気付かされた。


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ゴーグル男の怪 (新潮文庫)
島田荘司ゴーグル男の怪 についてのレビュー
No.1263:
(7pt)

いやはや男だねぇ

2008年に『ホット・キッド』と『キルショット』の文庫化以来、翻訳が途絶え、2013年に逝去したレナードの作品はもう訳出されることはないだろうと諦めていた。だからまさに青天の霹靂だった。
10年ぶりに未訳作品が刊行される、しかも訳者は村上春樹氏!何がどうしてこんな奇跡が起こるのかと不思議でしょうがなかったが、兎にも角にもそれは実現した。

しかも村上春樹氏が数あるレナード作品から選んだのは既出の作品の新訳版でもなく、はたまたレナードがベストセラー作家となった以後の作品でもなく、彼がまだデビュー間もない頃に書いていたウェスタン小説というのもまた驚きだ。特にこの手の作品はレナードが犯罪小説の大家として名を成していたために初期の作品については決して訳されないだろうと思っていただけに、三重の驚きだった。

そんな本書『オンブレ』には中編の表題作と短編の「三時十分発ユマ行き」の2編が収められている。

表題作は白人とメキシコ人の混血で、3年間アパッチと共に暮らした“オンブレ”の異名を持つジョン・ラッセルの物語。
“オンブレ”とはスペイン語で「男」という意味でトイレにも男子トイレを意味する言葉として書かれているほど一般的な名詞だ。確かディズニー・シーのどこかのトイレにも書かれていたはずだ。

このジョン・ラッセルと旅に同行することになった一行が同行者の1人、インディアン管理官のドクター・フェイヴァーが横領した牛肉の上積み金を追ってきた強盗一味と戦いを繰り広げる物語だ。

但しこのジョン・ラッセル、まだ21歳ながら、蛮族として白人連中に忌み嫌われていたアパッチと3年間共に生活をしていた経験から、白人たちとは異なった価値観、考え方を持つ。人の命を優先しがちな白人たちと違い、彼は常に自分の命を優先して物事に当たる。というよりも最大限に仲間の命が助かる道を選ぶ。
従って1人のために皆に危機が訪れることは選択しない。それが時には非情に映るようになる。

例えば少ない水を巡って昼に飲むとすぐに干上がるから夜に飲むことを仲間に強いるが、その約束を破って率先して水を飲んだ者を、仲間たちに災いをもたらすとして同行を禁じる。

灼熱の暑さに苦しんでいる者を助けようとする者をそうすることが敵に居所を知られる罠であると見破ると敢えて手を出さずに見殺しにする。

つまり彼は無法の地で生きていくために身に着けることになった考え方、そしてアパッチたちとの生活で培ったサヴァイバル術を実践し、自分の考えに従って行動しているだけなのだ。

その一方でアパッチに対する敬意も深く、野蛮だ、忌まわしいと一方的に忌み嫌う人々には容赦ない眼差しを向ける。

彼は決して気高い男ではない。但し常に冷静な頭で考え、行動する。そうやって生きてきた男だ。作中こんな言葉が出てくる。

 “ラッセルは何があろうと常にラッセルなのだ”

これほど彼を的確に表現している言葉もないだろう。誰にも干渉されず、従わない。しかしなぜか皆が頼りにしてしまう男、オンブレがジョン・ラッセルなのだ。

法という道理が通用せず、ただ生き残った者が正義である荒野。そんな最悪の環境下でインディアン管理官の横領した金を奪おうと追ってくる強盗達から逃亡と対決。
そんな極限状態の中で金と水の誘惑に人は惑わされ、自身にとって最も都合のいい解釈に従って行動するようになる。

そんな人の心の弱さを見せつけられる中、一人正論を吐き、常に気高くあろうとするマクラレン嬢の存在はある意味、本書における良心だ。
アパッチに襲われ、1カ月以上行動を共にした17、8歳の女性は、恐らくはその地獄のような生活で凌辱の日々を過ごしながらも道徳心を保ち、そしてそれに従って生きようとする。

今にも息絶えそうな人間に早く水を飲ませなくてはならない。
人を見殺しに出来ない。
皆で協力すればどうにかなる。

それは現代社会においても見習うべき前向きな姿勢だし、そして人として守らなければならない教義だろう。

しかしこの荒野や悪党どもとの戦いの中ではそれらが実に偽善的で自己満足に過ぎない戯言のように響く。
正しいことをすることで被る犠牲や危機がある、それがこの無法の地であることをこの正しき女性マクラレン嬢を通じて我々読者は痛感するのである。

そして正しきことをすることで訪れるのは哀しい結末だ。それが西部開拓時代のアメリカの姿なのである。

もう1編の短編「三時十分発ユマ行き」は3時10分に訪れる列車に乗せる囚人を預かった保安官が孤軍奮闘して囚人を救出しようと町に訪れる彼の仲間たちの襲撃を退け、無事列車に乗せるまでの顛末を語った物語だ。

援軍もなく、ただ1人の囚人の護送のためにホテルの一室で息が詰まる見張りを命じられた保安官補スキャレン。彼には3人の子供と女房がいて、月給150ドルで養っている。
強盗のジム・キッドは彼よりも若く、ともすれば10代の青年のようにしか見えないが彼は強盗稼業で彼以上の金を稼いでいる。彼にはなぜそんな150ドルぽっちの安月給で割に合わない仕事をしているのかとスキャレンを揺さぶる。

正直スキャレンにもはっきりした答えはできないのだろう。ただ彼は今までそうやって生きてきたのだから。
アパッチの反乱鎮圧のために組織された自警団に参加し、それが縁で保安官に気に入られ、月給75ドルから保安官補として働き出したスキャレンは150ドルまで月給が上がったことが誇りであった。堅実に生きることが当然のことだと思っていたに過ぎない。

しかしそんな彼に訪れたのが今回の災難。囚人護送のために囚人たちの仲間に囲まれた状況で無事に彼を列車まで届けなければならない。
そんな窮地に陥った時に不意に浮かんだ家族との風景。それはまさに彼にとって死を迎える前に走馬灯のように見えた過去だったことだろう。

そして彼はどうにか無事に囚人を列車に乗せることに成功する。生きるか死ぬかの境でどうにか生き延びたスキャレン。囚人のジムも感心して月給分の仕事を間違いなくしていると賞賛する。

それが仕事なのだ。手応えのある仕事をしているからこその代価。
そんな男の達成感がこの短い話の中に詰まっている。


レナード最初期の作品であるこの2編はブレイクしたレナード作品に登場する悪役ほどの個性はないが、その萌芽は確実にみられる。

白人とメキシコ人の混血であり、更にアパッチと共に暮らした経験を持つ“オンブレ”ことジョン・ラッセル。

牛肉の代金を水増しして請求し、その上澄み金を横領して私腹を肥やしていたインディアン管理官ドクター・フェイヴァーは自分の金を護るためならば若い妻をも見殺しにする、情理のうち理性の部分で物事を考える合理的な人物。

そしてアパッチにさらわれて1ヶ月間行動を共にさせられた気高き女性マクラレン嬢はどんな窮地に陥っても人として正しいと思ったことを貫こうとする。

翻って彼らを迎える悪人はさほど印象が強くない。乗客の1人だった除隊兵を押しのけ、彼の切符を横取りしてまで馬車に乗り込んだフランク・ブレイデンはフェイヴァーの横領金を狙った強盗団の一味だった。しかし彼は度胸はあるものの、タフではない。彼は自分より若いオンブレに最終的には恐れをなす男だった。

その他彼の仲間も大同小異と云った印象だ。やはり本書では主人公のオンブレが群を抜いている。

陸軍への物資補給を請け負う馬車隊の仕事をしていたジェームズ・ラッセルという男に拾われた虜囚イシュ・ケイ・ネイがやがてジョン・ラッセルという名を与えられる。5年後ジェームズ・ラッセルの許を離れ、インディアンの自治警察に入ってそこでチャトとチワワの部族との戦いで3人分もの活躍を見せたことから「トレス・オンブレス」の異名を貰い、“オンブレ”と呼ばれるになる。

21歳ながらそんな波乱万丈の人生が彼に年不相応の落ち着きと雰囲気を纏わせ、何物にも動じない、自分の芯を持った男として常に生き残ることを考えて行動する。

しかし彼が最後に起こしたのは1人の女性の訴えに応える、決して自分ではやらないことだった。

西部開拓時代にいくつもあったであろう“男”の短い人生の1つ。まさに西部の男である。

そしてもう1編の保安官補スキャレンもまた西部の男の1人。彼は任務のため、仕事のために命を張る。その頭に過ぎるのは3人の子供と女房。家族のことを思いながら家族のために命を賭ける。死ねば何も意味はなくなることは解っていながら、そう簡単に割り切れない。
なぜならそれを彼が求められたからだ。そんな不器用さが滲み出てて実に好感が持てる。

この2編を読んで思わず出たのは「男だねぇ」の一言である。

村上春樹氏が今更ながらにレナード作品を訳出することにしたのかはあとがきに書かれている。ただ単純に読み物として面白く、小説として質が高く、全く古びないからだと。
それは本書を読む限り、本当のことだ。
そして村上氏がこれほどまでにレナード作品のファンであるとは思わなかった。レナード作品のみならず映画化作品まで触れており、レナード作品がなかなか日本で人気の出ないことに不満を持ち、少しでもレナードファン開拓のために西部小説を翻訳したと書かれている。

いやはや一レナード読者としてこれほど嬉しいことはない。しかもあの村上春樹氏がこのように述べているのである。

チャンドラーに続き、これが村上氏によるレナード作品訳出の足掛かりとなって今後もコンスタントに氏の訳で出版されることを望みたい。
私はそれにずっと付いていくとここに宣言しておこう。


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オンブレ (新潮文庫)
エルモア・レナードオンブレ についてのレビュー
No.1262:
(7pt)

コナリー版『幻の女』

コナリーのノンシリーズである本書はIT業界の若き社長ヘンリー・ピアスを主人公にした、消えたエスコート嬢の行方を追うミステリだ。

まず本書の題名はそのままピアスに間違い電話が掛かってくる原因となったエスコート嬢に電話番号を変えてもらうために探す内容そのままだが、原題は“Chasing The Dime”。直訳すれば「十セント硬貨を追って」となるが、これは将来高性能コンピュータが十セント硬貨ぐらいの大きさになることが予想されており、それを実現させたものが次世代のコンピュータ産業を制することになることから、コンピュータ技術者たちが鎬を削っていることを示している。それがIT産業でナノコンピュータの分野である分子コンピュータ開発で一足先に抜きんでいるピアスを取り巻く現状を表している。

まず驚くのがコナリー作品とは思えぬほど、全体的に軽みがあることだ。それは本書の主人公ヘンリー・ピアスはこれまでのコナリー作品では考えられないほど、浅薄で未成熟な人物として映ることに起因していると思われる。

34歳の新進のIT企業の若き代表は会社の部下の1人だったニコールという女性と別れ、未練たらたらな状況を変えようと彼女と住んでいた家を出て新しいアパートメントに移るが、新しい電話番号にはひっきりなしにエスコート嬢のことを尋ねる電話が掛かってくる。気になって調べたところ、これが飛び切りの美人で、自分と同じ電話番号をサイトから削除してもらうよう頼むためと口実にして消えた彼女の行方を追う。
若くしてIT業界の寵児となったために女性経験が浅い男の、実に青く身勝手な捜査なのだ。そしてその我儘な捜査に周囲の人間も巻き込まれて辟易する。

つまり他者との距離感に対して非常に鈍感で、自分の目的達成のためにどんどん他人のプライヴェートな部分にも踏み込んでいく。特にリリーの行方を追うために情報提供と協力をお願いするロビンは彼の行動が原因で自分も手ひどい目に遭う。それに責任を感じるピアスは何もできやしないのに助けると親切の押し売りのように何度も連絡を取り、終いには相手の怒りを買ってしまう。

更には過去に犯した悪戯半分の犯罪歴によって逆に刑事に失踪者捜しを装った失踪者殺人の容疑者として目を付けられ、窮地に陥ることになる。

更にはロビンとリリーがエロサイトに掲載したSMシーンを会社のPCで食い入るように見ているところを秘書に見られて、秘書の解任を求められるなど、いわゆる社会人としての常識に欠けた所が多々見られる。

このように技術オタクの若造が社会不適合者ぶりを発揮して自己中心的に振る舞い、周囲の目に気付かずに狼狽する様子がアクセントとして織り込まれ、ユーモアを醸し出しているため、私はてっきり彼が追っているリリーも元締めによってどこかで消されたと思わせつつ、物語の最終で元気な姿で登場し、そしてこのサエナイ君と最後は恋人となる予感をはらませてハッピーエンドを迎えると云うお気楽ミステリのように考えていたが、やはりコナリー、そんな非現実的なロマンティック・コメディを一蹴する。

リリーは結局遺体となって発見される。しかも何者かによってピアス名義で借りていたトランクルームの中に置かれた冷蔵庫の中に保存されるような形で。しかもそのトランクルームは6週間も前に借りられていた。
つまり一連の電話番号がエスコート嬢のそれと同じであることから始まる騒動はピアスを陥れるために仕組まれた罠だったことが判明するのだ。

窮地に陥ったピアスはこれが姉の死を模したものだと察し、その死について知る者こそが今回の一連の工作を実行した者だと推理する。

さてコナリー作品にはハリー・ボッシュシリーズを軸にしたいわゆるボッシュ・サーガが繰り広げられるが、ノンシリーズである本書も例外でなく、まずリリー殺害の容疑を掛けられた主人公のヘンリー・ピアスが紹介される弁護士はジャニス・ラングワイザーである。
彼女は『エンジェル・フライト』でボッシュと組んだ後、『夜より深き闇』でボッシュが手掛けた事件の次席検事補として登場し、華々しい活躍を見せ、読者に強い印象を残した人物。その後彼女は検事を辞め、刑事弁護士に転職したことが判明。そして彼女からは前作『シティ・オブ・ボーンズ』でのボッシュの―具体的に名前は出ないにせよ―退職も明かされる。

しかしシリーズのリンクはそれだけでなく、もっと驚くのピアスがなんとドールメイカー事件と関わりがあったことが判明することだ。

このことから本書はその他大勢として片付けられる人物にも一つの人生があり、そしてその人の死によって人生を変えられた人がいることを1つの作品として描いていることが判る。
やはりこれは9・11の同時多発テロで多くの尊い命が奪われたことに対する、コナリーなりの追悼の書と云えるだろう。大量死の中に埋もれた人々に名を与え、そしてその人の人生と遺族の人生を語ることを強く意識していると思われる。

インターネットが普及した時代でも幻の女を探すのは非常に困難であることが解る。しかし昨今のウェブ事情、町全体に仕掛けられた監視カメラやGPSなどの位置情報システムを駆使すればもっとたやすくなっており、ドラマ『CSI』を観ると実に鮮やかにミスター/ミスXの身元は明かされていく。
本書はインターネットが普及し始めた頃だからこその『幻の女』だった。
美しさを武器に大金を稼ぎ、母親に仕送りをしていた娘の結末にコナリーはあくまでも現代アメリカの残酷な現実を突きつける。

チャンドラーを敬愛し、その影響を包み隠さず自作に反映し、そしてロス・マクドナルドばりのアクロバティックなサプライズを物語に取り込む、まさに現代ハードボイルド小説の雄コナリーがノンシリーズで挑んだのはアイリッシュの変奏曲。
しかもそれを現代風にアレンジし、いささか軽めのテイストで信仰させながらも、やはり最後はコナリー独特の苦みを残す。

本書を最後にノンシリーズは書かれていない。いわばボッシュシリーズを幕を下ろそうとして新たな作風を模索していた頃の作品だ。
この後リンカーン弁護士シリーズという新たな地平を見出し、ボッシュシリーズと並行して書いていく。
本書はコナリーがそこに至るまで暗中模索、試行錯誤しながら著した非常に珍しい作品だ。現代ハードボイルド小説の第一人者として名高いコナリーもそんな時期があったことを示す貴重な作品としてファンなら読むべきであろう。


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チェイシング・リリー (ハヤカワ・ミステリ文庫)
No.1261:
(7pt)

謀略のダンスに踊らされた哀しき人々の物語

髙村薫氏は前作『神の火』で元原発技術者でスパイだった男、島田を主人公に原発襲撃を企てるクライムストーリーを描いたが、本書ではとうとう本格的な国際謀略小説を書いた。《リヴィエラ》というコードネームを持つ白髪の東洋人を巡るIRA、MI5、MI6のみならずCIAすらも加わってくる一大謀略小説だ。

物語の冒頭、日本の汐留インターで転がっていたIRAのテロリスト、ジャック・モーガンの死体、その事件前に見つかった東洋人女性の射殺体と、その直前に警察に入った女性の声でジャック・モーガンが捕まり、リヴィエラに殺されるとの一報から警視庁外事一課、手島修三がこの事件を捜査が始まる。

しかし物語はそこから様々な国の諜報機関が追う謎の人物リヴィエラの捜査に向かうのではなく、手島がかつてイギリス大使館時代にリヴィエラを通じて知り合ったスコットランド・ヤード副総監のジョージ・F・モナガンの手紙を辿るように、このIRAのテロリスト、ジャック・モーガンの生い立ちへと飛ぶ。

ジャック・モーガンの一生はリヴィエラという名の殺し屋との戦いに費やされたといっていいだろう。しかし彼は父親の仇であるリヴィエラに憎悪の炎を滾らせているわけではない。彼は自分が生きていくためにIRAのテロリストとなり、いつしか自分の存在意義を確認するために人生の目標をリヴィエラを討つこととした人間だ。

従って彼は父親を喪いながらも打倒リヴィエラを鼓舞しながら一流のテロリストとして日々腕を磨く復讐の鬼ではなく、同じくIRAの工作員だった父親の血を持つためか、持って生まれたテロリストの資質に気付いていくのである。どことなく冷めたテロリスト、それがジャック・モーガンの印象だ。

しかし彼は冷めていながらも最後の詰めで秘めていた感情が迸り、ミスをする。暗殺の任務で仲間だった1人が重傷を負い、足手まといになるので殺さなければ自分も捕まり、ましてやそのままにしては情報が漏洩するというテロリストの鉄則を、その仲間が昔親しかったピアニストと同じ目の色をしているというだけでそのまま放置してしまい、その後の任務に支障をきたし、自らがスコットランドヤードで指名手配され、IRAのテロリストから落伍する憂き目に遭う。

その後もCIAに雇われ、《リヴィエラ》をおびき出すためにIRAの残党の暗殺を頼まれる殺し屋になるが、任務は果たすものの、友人のピアニストとの再会で衆人環視の中で派手な殺人を犯し、逃亡の身となる。

子供の頃から愛を誓った女性ウー・リーアンとの平穏な暮らしを望み、それが目前まで迫りながら、その直前で自分の感情にほだされて行動する衝動が捨てきれない若さ、ナイーヴさを持つ男なのだ。

そんな流転する人生だから、しばしば彼は自分の存在意義を見失う。唯一のよすががウー・リーアンなのに破滅的な行動でいつも手の先から滑り落ちてしまう代わりに彼が見つけたよすがこそが父親を殺した《リヴィエラ》という白髪の東洋人。
そう彼が、自分が何のために生きているかを常に確認するために追い求める存在が《リヴィエラ》なのだ。

物語の中心は《リヴィエラ》という白髪の東洋人とだけが判明している謎の人物である。しかしこの謎の人物は姿を見せず、この殺害されたジャック・モーガンの、死に至るまでがメインに語られる。
つまり彼の死から始まるこの物語は詰まるところ、主人公の死から始まる物語と云っていいだろう。東京の高速で見つかった異国人の波乱万丈の人生に昔彼に関わった男がその過去へと踏み込んでいく。《リヴィエラ》という名を手掛かりにして。

複雑に絡み合った人物相関。それらは最初には明かされず、上に書いたようにジャック・モーガンの生い立ちに沿って現れてくる数々の登場人物がジャックに語ることで次第に明らかになってくる。

まずジャックの父親イアン・パトリック・モーガンはIRAのテロリストであり、彼は《リヴィエラ》の画策によってベルファストに亡命してきた中国人ウー・リャンを爆殺する。

この暗殺があらかじめ仕組まれた物だと気付いたイアン・パトリック・モーガンは息子を連れてベルファストを離れ、息子を義兄夫婦の許に預け、自分はパリでの潜伏生活に入るが、《リヴィエラ》によって殺害される。

IRAベルファスト司令部参謀本部長ゲイル・シーモアはこの仕組まれた暗殺とその後のイアン・パトリック・モーガンの殺害に《リヴィエラ》と通じていると思しきノーマン・シンクレアに疑いの目を向けるが、彼は白をきり、そしてゲイル・シーモアはジャックの伯父による密告で逮捕される。

ウー・リャンは中国政府のある秘密の資料を持っていた男で彼は香港のイギリス領事館にいた時、そこに居合わせていたのは世界的ピアニストでMI6のスパイでもあるノーマン・シンクレアと彼の音楽活動のマネジメントをしている《ヘアフィールド・プロモーション》のオーナーであり、しかも同じくMI6のスパイであるダーラム侯エードリアンの2人。

そしてダーラム侯の妻レディ・アン。中国人女性である彼女はかつて2人が愛した女性。しかし彼女は中国のスパイ。ダーラム侯は彼女と結婚することで自らの人生を棒に振った。

ウー・リャンの姪リーアンはジャック・モーガンが幼い時から好きだった女性。そして東京で偽名を使って恵比寿のアパートに住んでいたが、何者かによって殺される。

CIA職員の《伝書鳩》ことケリー・マッカンは中国と台湾の事情にCIAの中で最も詳しい人物。彼は自分の父親が《リヴィエラ》の工作の援助をしたという事実を知った時から《リヴィエラ》の正体を探ることに執念を燃やす。そのためには手段を選ばず、IRAのテロリストであろうと手を組み、姿を現さない《リヴィエラ》を炙り出そうと躍起になっている。

スコットランドヤード警視監ジョージ・F・モナガンはジャック・モーガンが起こした数々の事件を警察側から追う人物。MI5、MI6それぞれの強者とやり合いながら、IRAのテロリスト、ジャックを捕まえようと躍起になっている。

MI5職員のキム・バーキンは元スコットランドヤードの警官でモナガンの部下だった男だ。優秀だった彼はしかしテロリストのアジトを襲撃した事件で、アジトにいた少女の目の前で敵を射殺し、自分も重傷を負い、その事件で少女が精神病院に送られた。その事件が大々的にマスコミに取り上げられ、その責任を負う形で警察の職を辞した男。その後MI5にスカウトされ今に至るが、妻との関係も冷え切り、夜な夜な酒を飲み歩く虚無な日々を送っている。

その上司M・Gは最も得体のしれない男だ。親しみやすい風貌と仕草にも関わらず、全てを見通す“眼”を持っている。彼はモナガンとも親しく、そしてCIAのケリー・マッカンとも親しい、実に食えない男である。

そんな海千山千の諜報のプロ達が追う《リヴィエラ》の正体は物語半ばで明かされる。
田中壮一郎。かつてワシントンの日本大使館参事官だった男。今は大学教授をしている老人こそが長年追い求めていた《リヴィエラ》だったのだ。

しかし当時中国の機密文書に関与したダーラム侯とシンクレアが事の真相を話すと、それまで幾人もの人々が追い求めていたこの男よりも手島や《リヴィエラ》に古くから接触してきたMI6職員の《ギリアム》の強かさが立ち上ってくるのだ。

髙村氏の描く諜報の世界で生きる者たちは物語当初は第三者の目を持って物事を見つめ、決して主体的になるわけではなく、覚めた視座で物事を見、分析をする、そんな冷静冷徹な様子を醸し出している。平常心を保つために、ある者はユーモアを常に持ち、またある者は折り目正しい姿勢を保ち続ける。

しかしそんな男たち女たちも人間であるかのように次第に感情を露わにしてくる。
露わにしてくるといっても、彼ら彼女らは決して本意を悟られないように表に出さない。表面は凪いだ海のように平静を装いながら、心中は嵐のように波立たせて。

友情、そして愛情。諜報の世界に住む人々にとって決して抱いてはいけない人間的感情だ。しかし彼らは正気を保つためにそれを大事にする。

読んでいくうちに結局彼らが諜報の世界に生きているのはひとえに誰かを愛し、また慕うがゆえに逃れられない楔のような宿命を背負った代償であることが解る。
深く入り込んでしまった関係は秘密を共有するようになり、それが自身の運命すらも絡み取られてしまい、気付いた時にはどっぷり諜報の世界という沼に嵌り込んでしまってもはや抜けられなくなってしまっているのだ。

特にジャック・モーガンは不思議な雰囲気を湛えた人物だ。彼と関わり合った人物は決して状にほだされず、理で以って行動しなければならない諜報の世界で生きる人たちがどこか放っておけないと思わせる。
テロリストとして殺し屋として凄腕の殺人技術を持ち、何人もその手で屠り、血にまみれていながら、ピュアな部分を失わないジャック・モーガンは彼らが無くしてしまったものを持っているからこそ、心を、感情を動かされ、それまで思いもしなかった行動に出させるのだ。

IRAのボスだったゲイル・シーモアはテロリストを辞めたいという彼に恩赦を与える形で粛清せず、両足に2発銃弾を見舞えただけで彼を解雇し、その後彼を殺し屋として雇った《伝書鳩》ことケリー・マッカンはジャックが自分の想定外の行動を取り、その都度自身の計画を狂わせていくのに、なぜか彼と行動を共にする。それまで培ったキャリアでも見通せない性格、心情を持つ、若きテロリストに魅かれる自分がいることに気付くのだ。

ノーマン・シンクレアも元MI6のエージェントながら、まだテロリストに身を落としていない時のジャックに日がなピアノを聞かせていた蜜月の日々を思い出に、その後テロリストとなった彼にその時の純粋な面影、芯に残るピュアな部分を見出す。

スパイやエージェントたちが常に客観的に物事を見据え、死と隣り合わせの世界で生きていくために冷静を強いられるのは、逆に云えばプライヴェートな部分で冷静さをかなぐり捨てたがゆえに既に過ちを犯したことを教訓にしているからかもしれない。だからこそ任務で私情を交えた時、それは彼の諜報の世界で生きる人間の運命の終焉になるのだろう。

清濁知り尽くした諜報の猛者たちがジャック・モーガンと関わることで私情に囚われてはいけないという絶対的原則を侵し、身持ちを崩していく。

そして『神の火』でもあったが、男同士の酒を酌み交わしての語らう、手島、キム・バーキン、ダーラム侯、そしてシンクレアの時間の親密かつ濃密さ。
東京でのコンサートに現れた《リヴィエラ》の前で演奏したシンクレアが最後に彼の目の前に立って1本のユリの花と共に、最後通告を突きつけた後、宇都宮のホテルまで逃亡し、そこでそれぞれがお互いの立場を無くしてざっくばらんにそれまでのいきさつを話すのだが、その語らいのなんと和やかなことよ。
そこにいる4人はそれまでの諜報活動でのヒリヒリとした緊張感から互いに解放されて、本音を打ち明ける、血の通った交流がある。こういうシーンを女流作家である高村氏が書けるところに驚きを感じるのである。

またロンドンの市街を中心に舞台となる外国の描写が実に微に入り細を穿っており、驚く。髙村氏は取材せずに資料のみから想像して書くのが常だが、流石にこれらの町並みは実際に過去自身が訪れた場所らしい。
聖ボトルフス教会やシンクレアが中国人諜報員に拉致されそうになるミドルセックス通りの露天街の喧騒、郊外にあるダーラム侯の所有するスリントン・ハウスの田園風景、ドーヴァー駅の雰囲気どう考えてもロンドンの交通事情やその他イギリスの土地鑑など、その時の体験が存分に発揮されていて実に瑞々しい。

政府の政治原理に踊らされ、利用されていった人々が、愛情や友情に厚い人間臭さを持っていただけに、喪失感が殊更胸に染み入ってくるのを抑えきれなかった。

東京で起こった1人の外国人の死。そこから派生したのは72年に起きたある機密文書を巡っての中国、アメリカ、イギリス3国の攻防だった。その秘密のカギを握るとされていた白髪の東洋人《リヴィエラ》。

政治家、諜報機関はなんとも些末な事実を隠すために事を荒立て、多くの命を犠牲にしてきたのか。
そして恐らく21世紀の今も更に多くの国を巻き込んで、こんな不毛な命のやり取りを伴った諜報戦が繰り広げられているのに違いない。
髙村氏の作品は今回もまた私を憂鬱にさせてくれた。


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リヴィエラを撃て〈下〉  新潮文庫
高村薫リヴィエラを撃て についてのレビュー
No.1260: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

超越者たちのララバイ

受験生だった頃、また仕事に行き詰り、先行きに不安を覚えた時、こんな風に思ったことはないだろうか?

全てが見通せる、全知全能の神になりたい、と。

本書はまさにそんな能力を持った人間の物語である。

その人物の名は羽原円華。
不思議な能力を持った彼女と温泉地で起きる不可解な硫化水素中毒事故の謎を扱ったミステリだが、この羽原円華がどこか他の人間とは違った特殊な能力を持っていることが物語の冒頭でも仄めかされ、いわゆるミステリなのか超能力者が登場するファンタジーなのか、リアルとファンタジーの境を平均台の上を歩くかのようにふら付きながら読まされていく。

そんなミステリとファンタジーの境界線上にある物語を主軸にして複数のストーリーが同時進行していく。

まずは元警察官の武尾徹が過去の警護の仕事で知り合った開明大学の事務員、桐宮玲から羽原円華という10代後半と思しき女性の警護を依頼される話。
彼女を警護していくうちに羽原円華の周囲に不思議な現象が起きることに武尾は気付く。やがてある事件を境に羽原円華は武尾と桐宮たちの前から姿を消してしまう。

もう1つは温泉街で起きた硫化水素中毒事故の話。2件起きる話のうち、年の離れた夫を事故で喪った水城千佐都を計画的犯行と疑っている麻生北警察署の中岡が単独で捜査を進めていく。

もう1つは泰鵬大学教授の青江修介がこれら2件の不審な硫化水素中毒事故をそれぞれ地元の警察からと地元の新聞社から専門的見地から調査を依頼される話。
その2つの温泉地で青江は羽原円華と邂逅する。

これら3つの話がやがてそれぞれ関係する人物との共通項が見出されて、複雑に絡み合っていく。

とにかくこの同時並行して進む物語は一転も二転も三転もして読者を謎から謎へと導き、離さない。
最近の東野氏はこのようなモジュラー型のミステリを好んで書くようだが、そのどれもが先が読めずに抜群のリーダビリティーを持っている。特にそれぞれが独立しているように思える登場人物との意外なリンクが明かされていく手際は熟練の妙というよりも、物語の構築美を感じさせ、思わず嘆息してしまう。

そんな複合するエピソードのうち、本書の読みどころの1つとして作中登場人物の1人、映画監督の甘粕才生のブログを挙げたい。自宅で娘の硫化水素を使った自殺によって妻と娘を喪い、息子が意識不明の重体で発見されるという不幸のどん底から、息子の謙人が植物人間状態から奇跡的に回復していく一部始終を綴ったその内容はそれだけでもう1つの小説の題材として申し分ないものだ。

特に感じ入ったのは家族が亡くなって初めて家族が自分のことをどれだけ愛し、尊敬してくれたかを気付かされていく過程を綴った箇所。家族を亡くしたことで初めて家族を知る父の悲しみに溢れ、そして家族のことを知るために生前親しかった者たちを訪ねていく甘粕の道行は単なるエピソードの1つとして片付けるには勿体ないリーダビリティーと感銘を受けた。
逆に云えばこれだけのエピソードさえも東野劇場にとっては物語に奉仕するファクターの1つに過ぎない、つまりそれ以上の物語を提供する自信と自負に溢れていると云うことなのかもしれない。

このように東野氏は1つの小説になり得る題材を見事にミステリのツイストとして活用する。何とも贅沢な作家である。

この新鋭の映画監督として将来を期待されていた甘粕才生、そして主人公の羽原円華の父親で脳科学医療の権威、羽原全太朗も含め、その分野の先駆者、パイオニアといった常人を超えた偉業や功を成し得た人物がそれ故に陥る狂気が本書の隠れたテーマであろう。

本書の題名に冠されている耳慣れない言葉「ラプラス」、私はこの名前を中学生の頃に発売されたゲームソフト『ラプラスの魔』で初めて知った。ホラー系のゲームだったため、従ってそのタイトルに非常に似た本書もホラー系の小説かと思ったくらいだ。
この両者で使われているラプラスとはフランスの数学者の名前で全ての事象はある瞬間に起きる全ての物質の力学的状態と力を知ることが出来、それらのデータを解析できればこれから起きる全ての事象はあらかじめ計算できる決定論を提唱した人物で、それを成し得る存在を“ラプラスの悪魔”と呼ばれている。

羽原全太朗博士が中心となって手掛けている、人間の脳が備え持つ予測能力を最大化させる謎とその再現性を目的にしたラプラス計画はこの数学者から採られており、そして突出した予測能力をこの計画によって得た甘粕謙人が「ラプラスの悪魔」であり、羽原円華こそがタイトルになっている「ラプラスの魔女」なのだ。

冒頭に書いたように私もかつて全ての理を知る「ラプラスの悪魔」になりたかった。未来を知ることで不安がなくなるからだ。
しかし本当に全ての流れが見えることは人にとって本当に良い事なのかを改めて考えさせられてしまう。この件についてはまた後で述べよう。

物語は青江修介を狂言回しとしながら、やがてもう1人の能力者甘粕謙人にシフトしていく。

島田荘司氏のミステリでも大脳生理学を題材に人間の感情や精神についてそれぞれ大脳で司る部位などが詳らかに語られ、人間の意志が実はプログラム化された機能の一部であることが語られ、衝撃を受けたが、本書もまた同様である。
脳の研究が進むことは即ち人間の感情や意志をシステム的に解明することになり、それはプログラミングによって系統化され、そして人間は自分の意志で選択していると思いながら、実はプログラムによって動かされていたことを知らされるという、なんだか夢も希望も無くなる暗鬱な結論に達する不毛な荒野が目の前に広がっていくようでうすら寒さを感じてしまう。

そんな最先端の脳研究によって生み出された類稀なる予測能力を持つことになった甘粕謙人と羽原円華。
そんな2人が観ている世界は、風景について最後ボディガードの武尾は円華に尋ねる。
その答えは未来を知る者だけが放てる言葉だろう。既に40半ばの不惑の年ながらいまだに未来に不安を抱える私は安心を得るために未来を知りたいと思うが、解らないからこそ人生は面白いと云い聞かせるべきだろうか。

また一方で狂気の男甘粕才生についても理解できる部分がある自分がいる。映画という虚構を最高の形で作ることに尽力した男。そして書き上げたブログには彼の理想とする家族の姿があった。

青江修介は正直云って全くの部外者だった。彼は学者特有の好奇心を満たすためにこの事件に関わってきただけだ。
彼が知ったのは公表できない事実。好奇心が満たされた時、現実の虚しさに襲われたのではないだろうか。

それぞれの登場人物に私の一部が備わった作品であった。そしてそのどれもが迎える結末は苦い。
まだまだ未知なるものが多い世界。しかしそれらが徐々に解明されつつある。
しかし全てが解明された果てに見える景色は決して幸せなものでないことを本書はまだ10代後半の女性を通じて語っている。
我々の見知らぬ世界に一人立つ彼女がどことなく厭世的で諦観的なのが心から離れない。
悪に転べば誰も捕まえることの出来ない究極の犯罪者となる、実に危うい存在。
見えている風景がどんなものであれ、羽原円華は生き、そして立っている。その強さをいつまでも持っていてほしいと願いながらも、危うくも儚さを感じる彼女の前途が気になって仕方なかった。


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ラプラスの魔女 (角川文庫)
東野圭吾ラプラスの魔女 についてのレビュー
No.1259:
(7pt)

タイトルの真の意味はどんでん返しの限界点を意味するのか?

久々のディーヴァーのノンシリーズ作品である本書は警護のプロと<調べ屋>と称される殺し屋との攻防を描いたジェットコースター・サスペンスだ。

主人公は連邦機関<戦略警護部>の警護官コルティ。6年前の事件で師であるエイブ・ファロウを殺害された警護のプロ。

対する敵はヘンリー・ラヴィング。凄腕の<調べ屋>でコルティの師ファロウを拷問の末に殺害した男。

<調べ屋>とはターゲットの人物の家族構成、仕事、交友関係、趣味などを徹底的に調べ、通信機器を傍受し、予定や行動を調べ、完全包囲してミッションをやり遂げる殺し屋。ヘンリー・ラヴィングはターゲットのみならず、その関係者、隣人などの交友関係の弱点やかけがえのない人物や物を利用して―コルティはこれらを“楔”と呼んでいる―、自分のミッションに組み込んで協力を余儀なくさせることを得意とする。
例えば普段から交流のある隣人の奥さんを人質に取り、命を助ける代わりにターゲットの家に銃弾の雨を放たせるなど、護る側、護られる側が予想もしていない方向から不意打ちを食らわせるといったものだ。

一方コルティはかつての因縁からラヴィングのやり口を熟知しており、あらゆる可能性を想定してターゲットの警護に当る。それは彼の同僚や上司であっても、与えられる情報が、ラヴィングによって楔を打ち込まれて恣意的に誤報を流していないか疑うほどの慎重ぶりだ。

そんな2人の極限の攻防はまさにターゲットの死を賭けた精緻なチェスゲームのようだ。
ディーヴァー作品の特徴に専門家と違わぬほどのその分野の専門的知識が豊富に物語に盛り込まれることが挙げられるが、本書でもこの警護ビジネスに関する知識がコルティの独白を通じて語られる。いくつか挙げてみよう。

サインカッティングという追跡技術は、森林の中で人を追跡する際に注目する微妙な変化を読み取る技術だ。例えば人が通ることで普段は日の光に向いている枝が裏返っていたり、小石やシカの糞が妙な場所に落ちていたり、落ち葉があるはずのないところに敷かれていたりという人為的な痕跡を見つけ、辿る方法だ。

ハリウッド映画の世界では出来栄えが気に入らなかった作品に自分の名前を出したくない時に使うアラン・スミシーという架空の映画監督の名前があるが、諜報活動の世界でもマスコミの目を欺くための架空の犯罪者の名前―エクトル・カランソと本書では述べているが、恐らくこれは偽名だろう。でないと本書でその存在がバレてしまうからだ―があるとは知らなかった。

また意外にも警護する側も敵に弱みを握られたり、拷問を受ければ警護対象者の情報を明かすらしい。任務よりも自分の命が大事であるのがこのビジネスの信条。
但しもしそうすれば会社の信頼は落ちるだろうから、それを覚悟した上での救済措置なのだろうが。

また本書がこの敵と味方の攻防をチェスゲームのように描いているのは作者も意図的である。
コルティの趣味はボードゲーム。プレイのみならず古今東西のボードゲームの蒐集も行なっている。さらにコルティは大学院で数学の学位を取得中にゲーム理論をかじっており、これを自分の仕事に活かしている。本書ではこのゲーム理論がところどころに挿入され、それがさらに本書のゲーム性を高めている。

囚人のジレンマ、合理的な選択、合理的な不合理、等々。

ディーヴァーのシリーズ作品であるリンカーン・ライム物、キャサリン・ダンス物が複数の手掛かりが示唆する方向性を見出す、いわば推理物の定型の中に数々のミスディレクションを散りばめ、サスペンスやどんでん返しの要素を盛込んでいるのに対し、本書ではコルティが想定する数々の選択肢から最良の物を選び、それをさらに敵が凌駕するコンゲームの要素を成しているのが大きく異なるところだろう。
複数の手掛かりから唯一解を導く、複数の選択肢から最良の手を選ぶ。
この2つは近似していながらも受動的、能動的という面で異なり、特にコルティはどちらかと云えば、追う側から逃れる側であることから、ライム物やダンス物での犯人側に心理に通ずるものがあるように感じる。

また追う者と追われる者のハンターゲーム以外にも、もう1つの謎としてライアン・ケスラー刑事を標的にした依頼人の目的が不明なことだ。金融犯罪を担当する彼が扱っている2件の事件について調べていくうちに、意外な展開を見せていくのもまたミステリの妙味となっている。

1件目はペンタゴンに勤める民間アナリスト、エリック・グレアムが遭った小切手詐欺事件。4万ドルもの大金を盗まれた彼はしかしコルティのライアン警護の最中、突然刑事訴訟を取り止めることになる。子供の学費のために大金が必要な彼がなぜ突然翻したのか?
それには“さる大物”から警察に捜査の取り止めを行う指示もあった。そしてグレアムはペンタゴンが定期的に行っている嘘発見器テストも風邪を理由に休んでいると、謎は深まっていく。

もう1つは牧師クラレンス・ブラウンによる貧民層へのねずみ講詐欺事件。しかし彼の身元を調べていくうちにこれも新たな事実が判明してくる。

更にはケスラーの車には彼の署でも使われている追跡装置が仕込まれていたことも判明する。

敵から身を護るためにケスラー夫妻と妻の妹マーリーはほぼ監禁状態を強いられるわけだが、そんな変化に乏しい生活ではストレスの溜まり、あらゆることが疑わしく思えてくる。特にコルティたちはそれを職業としており、あらゆる可能性を想定しなければならないから、情報量から推測されるパターンは膨大な数になるわけで、このような仕事はよほど精神的にタフでないとできないなと痛感させられる。文章からも制約された場所や行動による圧迫感がひしひしと伝わってくる。

これら疑わしい存在は下巻になって次々とその真相が明らかになっていく。

どんでん返しが専売特許のディーヴァー作品だが、本書におけるそれはどこかちぐはぐな印象を受ける。

しかし本書でディーヴァーが見せたかったどんでん返しがまだあったことに驚かされた。

色んな情報を盛り込み、読者を翻弄して追う者と護る側の攻防を見せながらも専売特許であるどんでん返しを盛り込んだディーヴァー印の作品でありながら、至る結末が尻すぼみであるがゆえに浅薄でちぐはぐな印象が残る作品だった。
残念。



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限界点
ジェフリー・ディーヴァー限界点 についてのレビュー