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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1418

全1418件 21~40 2/71ページ

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No.1398: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

色んなジャンルの詰合わせ

『ドランのキャデラック』、『いかしたバンドのいる街で』に続く短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の3冊目の訳書である。

「かわいい子馬」は祖父から孫への最後の訓示のような話だ。
題名の「かわいい子馬」はその祖父が時間を具現化したイメージであり、アドバイスを受けた孫同様に読者である私も正直云って腑に落ちるものではない。ただそこに書かれている時間に関するこの老人の話は実に興味深い。
かくれんぼで隠れそびれたのは鬼役の子が1分数えるのが早かったからだと云って老人は孫を慰める。それを証明するために自分の懐中時計を与え、かくれんぼ鬼と同じようなペースで60を数えたときに何秒経っているかを確認させて、実際には35秒しか経っていなかったことで決して孫がとろくさくて隠れそびれたわけではないと教える。
そして人間の生涯には3種類の時間があると説く。
子供の頃は時間は長く感じて、例えば新学期が始まった時は夏休みなんて永久に来ないんじゃないかと思い、夏休みが来たら新学期なんてはるか先のことだと思うだろうと。子供時代の時間は、一日は長くてワクワクに満ちている。
そして我々が現実の時間の長さを感じるのが14歳くらいから60歳くらいだと老人は云う。時間の感覚が身に付き、長さを正確に知って行動できる。そしてその現実の時間こそが「かわいい子馬」で仲良く付き合っていけと諭す。
そして年老いてくると時間は早く過ぎていく。朝かと思ったらすぐに昼になり、そして夜になる。それを意識しだすのは40歳くらいで人々は夏になったかと思えばお店ではハロウィンの準備をしだし、そしてすぐにクリスマスの準備をしだすと。
確かにこれはその通りだ。「かわいい子馬」という概念は別にしてもこの時間に対する感じ方はみな同様に抱いていた気持ちではないだろうか。
そして老人はその子に時間の概念を教えたかっただけでなく、今日みたいに友達から虐められるようなことが起きても自分がそばにいると勇気づけたかったのだろう。祖父祖母にとって孫とは何とも可愛くて愛おしい存在なのだから。

次の「電話はどこから……?」は珍しく脚本形式で書かれた作品である。
聞き覚えのある女性の泣き声が受話器から聞こえ、パニックになるが、その声の主が解らない。これはそんな物語だ。

「十時の人々」は奇妙な侵略物である。
一般的には私たちと同じ人間にしか見えないが、ある特定の条件下の人間だけがその蝙蝠人なる異形の怪物の真の姿を見ることができるという侵略者たちの脅威を描いた作品だが、キングはこの特定の条件を何とも細やかな設定にしている。そんな人々を主人公が〈十時の人々〉と呼んでおり、それが題名の由来である。

次の「クラウチ・エンド」もまた「十時の人々」同様、我々の世界と異形の物の住まう世界は隣り合わせだと警告している物語だ。
物語の舞台はキングにしては珍しくイギリスはロンドンの片田舎クラウチ・エンド。そこはしかし異次元との境が最も薄い地域であった。そしてたびたびそこでは異形の物たちが蔓延っては生贄を攫っていく。そこに住んでいる友人宅を訪れた旅行中のアメリカ人夫婦はその異界へと紛れ込んでしまう。そしてそんな体験をした女性は失踪したままの夫を残して帰国し、自殺未遂を図り、療養所で過ごした後、退院してもなおある奇行をしないと落ち着かない日々を送る。

最後の表題作はキングによく登場する家庭を制圧する父親に怯える子供たちが主人公だ。
これはキングらしからぬ痛快な物語だ。不思議な金属が現れ、侵食する話と云えばあの陰鬱な駄作(敢えて云おう)『トミー・ノッカーズ』を想起させるが、本作はあの作品のように迷走せず、実にシンプルに展開する。
自分たちの家の中に金属があり、それが日々広がっていく。訳が分からないまま、カウントダウンを続ける計器が見つかり、“その時”が来るのが判る。
一方で反りの合わない継父との生活に日々心身をすり減らしている母親と子供たちがいる。そんな現状打破のためにこのカウントダウンを利用する。
結末は実に痛快!
敢えて色々な説明を省いて“その時”までを描いたキングの技巧を素直を褒めたい。


キングの短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”も本書で3冊目。その内容はさらにヴァラエティに富むようになった。

初頭を飾る「かわいい子馬」は純文学とまでは云わないが、普通小説である。

祖父はかくれんぼで遊んでいた孫が一人隠れそびれたのを参加していた友達に嘲笑われていたのを見て、彼に自分の懐中時計を託し、そして時間に関する話をする。その内容については既に上の感想で述べているので、ここでは別の話を書こう。

祖父から孫への最後の時間に関する話というテーマながら、作中で祖父が自嘲気味にすぐに横道にそれてしまいがちだと云うようにキング作品らしく、物語は色んなエピソードが含まれている。それは少年の無垢なる心では大人のやることが全て新鮮に見えたことやどこにでもあるアメリカの一般家庭の風景が断片的に挿入されており、何とも瑞々しい。

少年は祖父が親指の爪に擦り付けてマッチに点火するのをまるで手品を見ているかのように驚いて眺め、さらにその火が強風にも関わらず消えないのに、逆に振るだけでマッチが消えることを魔法だと感じる。

6歳年上の姉が男の人とは一生付き合わないと云った2カ月前に彼は姉がバスルームで1人全裸になって鏡で自分の姿を見ていて泣いていたことを彼は知っている。

また姉が悪戯で少年に“ちんちんつねり”をするのを彼は嫌っているが時々姉が愛犬にするように優しく撫でるときは寧ろ気持ちがいいことを黙っている。

父親が出張旅行に行っているとき、母親は病気の友達の見舞いに行くことがあって、少年はどうして父親の出張の時にいつも母さんの友達の病気が重くなるのか不思議がる。

そんなごく普通のアメリカ家庭でありながら、少年が祖母祖父の許で暮らしていることや断片的に語られる両親や姉のエピソードで、はっきりとは書いていないがその家族に何かあったであろうことを悟らせる。

次の「電話はどこから……?」はジャンル的にはホラーだが、なんと脚本形式で書かれている。

しかしなぜこの話を脚本形式で書いたのか?
それはワンアイデアの物語を依頼された枚数まで膨らますためにキングが編み出した一種の荒技だったのか。

「十時の人々」はキングの好きなモンスター小説かと思ったが、侵略物と考えるとSF小説に分類されるか。
人々の知らないうちに通称“蝙蝠人”と呼ばれる怪物たちが人間に化けて社会的地位の高い人間に成りすましていた。通常彼らの姿は人間としか見えないが、ある特定の条件を備えた人物だけが彼らの正体を見ることが出来る。
この設定はある協会に依頼されて書いたような設定が妙なおかしみを感じさせる。

しかしこの蝙蝠人の精緻かつ醜悪な描写はまさにキングの独壇場だ。蝙蝠人というネーミングながら、決して蝙蝠の頭をした人間として描かれているわけではなく、大きな目と牙を備え、頭部には肉塊が蠢いて膨張しては膿を噴き出し、1本の黒くて太い血管が脈打っていると想像するだに気持ちの悪い風貌だ。そして彼らの正体が見えない一般人は普通の人々に見えるので、そのグロテスクな肉塊に頬にキスを交わすという吐き気を催すような描写も出てくる。

「クラウチ・エンド」はキングにしては珍しくアメリカではなくロンドンの片田舎を舞台にした物語。
クラウチ・エンドとはその舞台となる町の名前でセイラムズ・ロットやキャッスルロック、デリーと云ったキングお得意の不穏な雰囲気を孕んだ街の話だが、驚くことにこのクラウチ・エンドは実在する街のようだ。キングの友人ピーター・ストラウヴが住んでいた町で一度訪れたことがあるようだ。

しかし「十時の人々」と「クラウチ・エンド」は表裏一体のような話だ。
前者は希望を残した終わり方だが、後者は諦観が込められている。

最後の表題作はキングの持ち味である高圧的な父親の支配という恐怖を描きながらも、最後はSF的結末に至る作品だが、これはとにかく主人公となる4人兄妹たちがいい。愛情の欠片も感じさせない継父を嫌悪しつつも恐れながら、日々神経を衰弱させる母親を気遣う子供たち。そんな中、自分たちの家の壁の中に金属が入っているのを見つけ、それが次第に広がっているのに気付く。しかもカウントダウンしている計器を発見するに至り、どうやら何かが起こることを察し、彼らはこの怪事を利用して継父を一掃しようと企むのだ。

この4人兄妹はキングの名作「スタンド・バイ・ミー」の少年たちを彷彿させる。

普通小説、ホラー、モンスター小説、侵略物のSF小説、ジュヴナイル。しかし各編は左に書いたジャンルを見事にミックスさせて一括りにできない作品に仕上げている。
いやだからといって全くストーリーは複雑ではない。寧ろシンプルだ。しかしシンプルなストーリーに複数のジャンルを放り込んでいるのだ。

さて本書におけるベストは表題作の「メイプル・ストリートの家」だ。なかなか懐けない継父との確執が募る4人の兄妹たちの鬱屈を、何とも豪快な結末に溜飲が下がった。

あとは「十時の人々」の発想の面白さを挙げたい。

同じ習慣を持つ人々がいつも同じ場所で顔合わせ、顔馴染みであるがお互い挨拶も交わさず、名前も知らない人たち。そんな人たちはみないるのではないか。
本書では休憩時間の10時と3時に一服をしに出てくる人たちだが、例えば同じ通勤電車の同じ車両で乗り合わせる人たちやいつも行く馴染みの店で出くわす人々などなど。
この作品が面白いのはそんな人たちがみな共通して特殊な能力を持っていたという設定だ。この発想が実に面白かった。

また「電話はどこから……?」も過去の過ちを自分が過去の自分に教えてやれたらよかったのにと、これまた誰もが抱く心理に基づいた作品だ。しかしそうは上手く行かないのがキングらしい。

とにかくキングはどんなジャンルの話も書けるのだという思いを強くした。この短編集では普通小説も収録されている。これは逆に他の作品も読める短編だからこそ著したのだろう。さすがにキングのビッグネームでもこの手の普通小説は長編では盛り上がりに欠けて売れ行きも芳しくならないだろう。

さて“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”もあと1冊。次はどんな悪夢が、どんな風景を見せてくれるのだろうか。

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メイプル・ストリートの家 (文春文庫 キ 2-29)
No.1397: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

まるでカードの裏と表のようなおいた男性刑事と若き女性刑事のコラボレーション

『レイト・ショー』で登場した新シリーズ・キャラクター、レネイ・バラードとハリー・ボッシュが早くも共演したのが本書である。

ひょんなことから2人で捜査に当たることになったのは9年前に起きた未解決事件だ。それはデイジー・クレイトンという当時15歳で亡くなった街娼をしていた少女の殺害事件だ。

これがなんと前作『汚名』の囮捜査で知り合った薬物依存症の女性エリザベス・クレイトンの娘が亡くなった事件であることが判明する。
いやあ、まさかあの作品の最後にエリザベスに誓った事件の捜査を読めることになろうとは、コナリーは本当に読者のツボを押さえる術をよく知っている。

しかしそちらは余技的なもので、昼勤のボッシュが担当する事件は14年前に起きたサンフェルナンドを牛耳るギャング、サンフェル団のボス、クリストバル・ベガ殺害事件だ。

このシリーズを読む醍醐味の1つとして警察というものの生態が実に肌身に迫るように感じられることが上げられる。

今回ボッシュが探る未解決事件、エリザベス・クレイトンの娘デイジー殺害の捜査で段ボール箱数個に亘って保管されている当時の職務質問カード、通称シェイク・カードをしらみつぶしに調べるが、その中でバラードはティム・ファーマーという警官が書き記したカードに興味を覚える。
彼が書いたカードの裏には散文詩のような彼の相手への印象が刻まれ、それがバラードの心を打つ。興味を持ったバラードはその警官のことを尋ねるが、ボッシュから3年前に自殺したことを知らされる。しかもそれは退職の1カ月前。
現場にこだわった彼は退職前に内勤をさせられるのを拒み、退職届を出した後、最後のパトロールの最中で自殺する。カードに詩を残した警官は詩人のように自殺した。

また未解決事件の捜査で当時の担当刑事に状況を尋ねると自分が解決できなかったのだから誰も解決できないと決めつけて素っ気なく応対する刑事もいる。

また警察航空隊が勤務時間が一定でしかも危険手当が付くことからベテラン警察官の憧れの部署であることや、SIS、即ち特殊捜査班は犯罪者を“排除”する、いわば超法規的措置を行うロス市警の中でも独自の立場を保持した部署で外部からたびたび非難の対象となるが、警察の中ではむしろそこに加わりたくないと思う警察官はひとりもいないこと。本来ボッシュがいるべき部署なのではないか。

さて“レイトショー”即ち深夜勤務担当のレネイ・バラードにはボッシュと共に共同で捜査するデイジー殺害事件以外にも様々な事件が舞い込み、駆り出される。

バスルームで頭を割られて死んだ遺体があり、殺人事件かと思えるような事件がある。

また後日その家で高価なアンディー・ウォーホルの版画が盗まれる。

女性からレイプ被害の連絡を受け、駆け付けると相手は現在人気上昇中のコメディアンで、風評被害を与えることに配慮して慎重に対処せざるを得なくなる。

連絡のつかなくなった男の父親が市長の友人で高額納税者であることから昼勤刑事の引継ぎで深夜にもその男の許を訪ねるように命じられ、行ってみるとそれが殺人事件だったことが判明する。

バーの喧嘩騒ぎの通報を受けて出動すれば用心棒を殴ったのは4人の学生のうち誰かであるのを探ろうとすればそれぞれが異なる供述をし、しかもそのうちの1人は弁護士の息子だったりする。

そんな彼女と仕事をする警察官は捜査の終りに皆彼女に親しみを覚えるのだ。そのことについては後に触れよう。

物語はバラードの章とボッシュの章が交互に語られる。この構成が2人の刑事を対比させ、そして胸に沁み入りさせる。

レネイ・バラードはまだ若い女性刑事だ。上司に逆らった廉で深夜勤務専門の刑事となっているが、彼女はそれを自分の中で大切なものとしている。
彼女の周りにはしかし彼女を理解する者がいて、彼女を陰ながら応援している。かつてボッシュの相棒だったルシア・ソトもまたその一人だ。
そしてレネイ・バラードはまだ刑事として汚れていない。容疑者を何としても捕まえたいと願うが、あくまで決められた規則に従って創意工夫を凝らして犯人の懐に入り込む。女性刑事につきもののリスクを抱えながら、時に屈強な犯人に取り押さえられそうになり、またはレイプされそうになりながらも彼女は決して屈しず、心折らせることなく悪と立ち向かう。
遺体現場に行けば、腐敗臭が服に沁みつかないかと気にして、何着か着替えを用意し、着替えが無くなると実家に戻って選択するための有休を取るといった女性らしさも垣間見える。また共に捜査して自分を救ってくれた仲間にお礼に食事を奢り、それがきっかけで友人となったルーク・ヘザーは航空部隊の女性観測手で、レネイとのホットラインを持ち、協力し合う。
また深夜勤務担当刑事は勤務が明けると昼勤刑事に事件を受け渡せばそれで終わりなのに、彼女は取り掛かった事件の捜査の手助けを申し出る。それが彼女の周りに理解者を、仲間を作っていくのだ。

プライベートでも前作では良き友人だったライフガードのアーロン・ヘイズと今回恋人になっている。

一方ボッシュは定年を過ぎ、サンフェルナンド市警の予備警察官という無給の刑事だ。
彼もまた悪に対してはそれが世に蔓延ることで次の犠牲者を生むことを良しとせず、取り掛かった事件は必ず犯人を捕まえようと昼夜を問わず捜査に没頭する。彼は常に眠れない。なぜなら寝ている間に悪人が罪を犯すことが判っているからだ。

しかし彼は長年行ってきた規則から逸脱した捜査の仕方が身に沁みついており、その強引さゆえに過ちを犯し、そしていつもクビになるリスクを伴う。

また彼は昔自分が行った上司の名前を騙って行った捜査が許でその上司が誤って拷問にかけられ死に至らしめたことを警察官内では公然の秘密のように知られている。

そして以前の捜査で知り合ったエリザベス・クレイトンを麻薬中毒から救い、自宅へ住まわせ、そして彼女の娘が殺害された未解決事件の捜査を行うが、エリザベスは自分がボッシュの自宅にいることで娘との連絡が途絶えていることを気に揉んで、出ていってしまう。

ボッシュの周りにはいつも仲間が、連れが去り行くのだ。

レネイ・バラードもまた親しい同僚にボッシュと働くことは好きで、先輩刑事として学ぶべきところはあると思うが、その日の終りになるとどこか信用できないところが残ると述べている。

この老いた男性刑事と若き女性刑事の境遇はまさにカードの表と裏のような関係だ。

ボッシュの許からは常に仲間が、連れが去っていくと述べたが、だからこそ娘のマデリンこそが彼にとってかけがえのない存在であることが今回さらに強調される。

しかしこの娘への強い思いを再確認することでボッシュはエリザベスに対して行った自分の行為を悔いる。

今回彼がエリザベスに対して強い思いを抱いていることが今回ひしひしと伝わる。

さて今回の作品の原題は“Dark Sacred Night”、つまり『暗く聖なる夜』だ。それは既にボッシュシリーズ9作目、原題“Lost Light”で使われている。
この原題はルイ・アームストロングの名曲“What A Wonderful World”の歌詞の一節であることから訳者は逆に曲の題名を少し変えて『素晴らしき世界』と名付けたことだろう。しかしこの一節、実は作中にも出てくる。

それはバラードがゴミ集積場の中から行方不明者のバラバラ死体を昼勤の刑事が捜すのを手伝い、無事遺体が見つかった時にお互いに「なんてすてきな世界だ」と言葉を交わすのだ。これが即ち原文ではルイ・アームストロングの題名そのままであり、ここから訳者は邦題を採ったと思われる。
どうもコナリーはこの歌が大好きのようで確か作中でもボッシュがBGMで流した場面があったと記憶している。今後原題が“What A Wonderful World”になったら、訳者はどうするのだろうか。

ボッシュは彼女に刑事としての激しさを、何があっても前に進み続ける強さを彼女に見出す。
ボッシュとバラード、カードの表と裏、そして陰と陽、警察の外側と内側。そんな2人は実は相反することなくいつも背中合わせの存在なのだ。

今まで何人もの相棒と組み、または育ててきたボッシュにとってレネイ・バラードは最後の切り札になるのだろうか。

これから書かれるであろう2人のコンビとしてのシリーズ作を愉しみにしようではないか。


▼以下、ネタバレ感想
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素晴らしき世界(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリー素晴らしき世界 についてのレビュー
No.1396: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

シリーズ読者へのサプライズと思いがけないプレゼントのような短編集

森氏の第5短編集。森氏の短編は長編に比べて抒情的な作品が多く、また作中で解かれない謎が隠されている。
はてさて今回はどうだろうか。

幕開けの「ラジオの似合う夜」はある人物の海外出張で出くわしたある不思議な事件の話だ。
一人称叙述でどこかの会社員の体で語られる本作は物語が進むにつれて、あることが判明する。
彼が相手をした外国の研修生X・Jは1年の研修で主人公に惚れてしまったようでこの研修でもその想いを隠さない。
そして彼が出張に来た彼女の国はやたらと秘密が多く、宿泊先のホテルでは監視カメラで監視され、捜査の見学をしに来たのに警察署にも行けず、そして唐突に帰国させられるといったもの。
事件は一応答えが出されるが、残された別の指紋については正直アンフェア感を拭えない。
なかなか考えられた展開ではあるが、本作の味わいはそんな窮屈な国で優秀な捜査員として生きるX・Jと主人公の間に生まれた愛のようなものがそんな政治事情で引き裂かざるを得なかった悲哀であることだ。やはり森氏の短編はセンチメンタルだ。

次の「檻とプリズム」は観念的な話だ。小さい頃から檻に入れられて育てられた少年はやがて近所の1人の少年と親しくなる。しかし彼に関心を持つ少女が現れ、街で起きている幼女殺人事件の犯人ではないかと彼を疑っていると打ち明けられる。
物語はこの3人のなんとも微妙な関係が語られる。少女は少年の3つ年上の友人を殺人犯として疑い、少年は友人にそのことを打ち明けようか迷う。
少女はもしかしたら彼の友人に気があったのかもしれない。もしくは少年自体に気があり、友人から離そうとしたのかもしれない。少年は友人に結局そのことを話すが、友人は彼女こそ危険な空気をまとっていると少年に話す。
いわば奇妙な三角関係を感じさせる。
少年が友人と交わす会話の中で彼が全ての生き物はかつて植物で動物もそうだったが、大地から離れることを選んだので植物より早く死ぬようになったというなかなか面白い話がある。そして主人公は動物たちが以前持っていた幹や枝や根はどうしたのかと訊くと、学者たちによればそれはすっかり無くなってしまったというが友人はまだあると信じてそれを調べていると話す。。
また一方タイトルの檻は少年が子供の頃に閉じ込められていた檻も指すが、みんなが檻から出たがっているという精神的な檻をも指す。つまり常識でいることは檻に入っているようなものだという意味だ。少女が少年の友人に関心があるのは友人が彼女にとって恐れるものでありながらも興味が尽きない存在であるからでその一歩が踏み出せないのは彼女が檻から、普通という名の檻から出る必要があると少年は説く。
まあ、なんとも観念的な話である。

次からはショートショートが5作続く。
まず「照明可能な煙突掃除人」は星新一作品を想起するショートショート。最後のオチは同氏のある有名作を想起させる。

2つ目の「皇帝の夢」は夢で聞いた囁きが中国の皇帝の名だと知り、その皇帝の墓を訪れた無職の男の話だ。

3つ目の「私を失望させて」は退屈しのぎに面白い話を始めた女ともだちの話。それは桃太郎を題材にした現代風の内容だったのだがというもの。童話桃太郎の話に潜む違和感に突っ込みを入れつつ、またおじいさんとおばあさんをおにいさんとおねえさんに変えたり、桃太郎が必ずしも鬼退治をしに出掛けたわけでなく、たまたま海水浴に行った無人島に鬼がいたのでついでに説教したという現代風(?)にアレンジされているのだが、何とも脱力的なオチ。これなら題材は正直なんでもいいではないか。

4つ目の「麗しき黒髪に種を」は子供会のピクニックの時のある思い出を語ったもの。
この物語は長い黒髪を持つ女性に纏わる苦い思い出について不意に思い出す内容で、なんだか作者の実体験のように感じられる。最後にそんな事態になってしまったことを悔む自身の心情が描かれている。最後のどうでもいいようなオチは作者自身を出し過ぎたゆえの照れだろうか。

5つ目の「コシジ君のこと」は小学生の時のクラスメイトが大人になって毎日夢の中に登場するという話だ。コシジ君というそのクラスメイトは華奢で虐めの対象になっていた。そんな彼が大人になって夢に現れても実に冴えない。そしてある日小学校の建物が取り壊されることになったのでお別れ会が開かれ、そこで久しぶりに当時担任だった先生に逢って、コシジ君の話をしたら、コシジ君はふざけて遊んでいたサッカーゴールの下敷きになって死んだことを思い出す。そしてそれ以来彼は夢に出てこなくなった。この喪失感はグッとくる。

次は短編と云っても少し長めのショートショートと云えるか。「砂の街」は久しぶりに故郷の街に主人公が帰ってみると街中が砂に覆われていたという実に奇妙な設定だ。
家路に至るまでに主人公はどこもかしこも砂だらけな風景を目にする。そして奇妙な砂をまき散らす丸い装甲車みたいな車が通っているのを目にする。そして家に着いてみると鍵が閉まって入れないので裏口から回って入ろうとしたところに隣家の昔馴染みの鎌谷さんというおじさんに見つかり、電話を貸してやると云われてお邪魔するとなぜかそのままお茶を出されて自分と同じように大学院に通っている姪を紹介される、と全く先行きが読めない話が続く。

「刀野津診療所の怪」はGシリーズ物の短編だ。
これはまさに収穫の1作。もやもやしていたGシリーズの中で一番面白い話かもしれない。
島の診療所で起きたと噂される怪異現象について全ては説明されないが、これが読後に話を整理していくとだんだん見えてくるからまた面白い!
ところで「刀つのPQR」の意味は何か?これだけが解らない!あ~、もどかしさが止まらない!

最後の短編「ライ麦畑で増幅して」もまたもどかしさが残る作品だ。
「午前と午後が背中合わせ。それが小川君のものだ」
本書の謎は実は上の遺言の意味にある。そしてそれについては明かされないのだ。このもどかしさが森ミステリの歯がゆくも面白いところだろう。これはネタバレサイトでググるしかない!
ところでこの小川令子とこの後に出てくる美術鑑定士の椙田泰男は自分の記憶ではこれまでの既出作には出てきてないキャラクタだが、今後出てくるかもしれないので記憶しておこう。


森氏5冊目の短編集はシリーズは彼が手掛ける全10作のシリーズの5作目と10作目の次に出される周期になっていたが、4作で完結の四季シリーズからGシリーズ3作目で出版されたもので周期が異なっている。もうその辺にはこだわらなくなってきたのだろうか。

しかし5冊目となる本書は上に書いたように既に4つのシリーズを経ており、従って収録された短編もそれらのシリーズキャラが登場するものが増え、それぞれのシリーズのボーナストラック的な内容となっており、ファンには嬉しい贈り物となるだろう。

従って本書では10作品中シリーズ物の短編が2つ入っており、従来入っていたS&Mシリーズ物はなく、VシリーズとGシリーズ物になっている。但しGシリーズは犀川と萌絵が再登場しているシリーズなのでどちらかと云えばS&MシリーズはGシリーズに移行したと考えるのが妥当だろう。

1作目の「ラジオの似合う夜」は主人公の一人称叙述で始まるため、最初は不明だが物語が進むにつれてVシリーズのある人物が語り手であると解ってくる。

「檻とプリズム」はノンシリーズ物で、云うならばアンファンテリブル物だ。
幼女が殺される事件が連続して起きており、それが主人公の友人ではないかと忠告する少女が現れる。
檻は自分の中にある心の殻であり、プリズムはその少女の瞳を指す。そして少女と2人の少年の関係は疑いを持ちつつも関心を抱く微妙な心模様が読みどころか。

また5つのショートショートが載っている。
「証明可能な煙突掃除人」は亡くした父との邂逅を、「皇帝の夢」は成人した大人のある様子を、「私を失望させて」は桃太郎を現代風にアレンジした内容を、「麗しき黒髪に種を」は長い黒髪を持つ女性に纏わる自分の過去の苦い思い出を、「コシジ君のこと」は小学校の同級生が毎日夢に出てくる話が語られる。
「私を失望させて」は単なる一人の人形劇である、いわば作中作ネタなのだが、それ以外は過去や忘れていた思い出を奇妙な形で思い出させる、もしくは出くわさせられるといった作品である。

そして奇妙なのは「砂の街」だ。これは主人公が帰郷すると故郷の街が砂だらけになっていたというもの。少しでも歩くと砂が立ち上り、口や目の中に入り込んで難儀する。作中でも少し触れられているが鹿児島の桜島付近で住む人たちは火山灰によってこのような生活を強いられているのだろうかと同情してしまう。

ただこの作品は実に奇妙な形で物語が進む。主人公がコンビニの自動販売機で飲み物を買おうとしていると―というかコンビニに自販機があることが奇妙なのだが―店員がネットオークションで前日に競り合った電気機関車のモデルを送り出すところに出くわして忸怩したり、家の中に入ろうとすると昔から知っている隣のおじさんに呼び止められ、お茶を勧められたかと思うと自慢の姪を勧められ、二人きりにさせられたり、その姪は昔からなりたかったので妹と思ってほしいと頼んだりとシュールな展開が繰り広げられる。
また砂をまき散らす砂連隊なるものも出てきて、日本ではないどこかの話のように思わされる。ラストは色々な意味合いを含んで何ともこの作者のやり口が憎たらしいったらありゃしない。

そして「刀津野診療所の怪」はGシリーズ物の短編だが、実はこれには嬉しいサプライズが詰まっていた。これについては後に述べるが、それまで微妙な感じだったGシリーズのキャラクタに一気に親近感を覚える結果となった。

そして最後の「ライ麦畑で増幅して」はネタバレサイトでこれが後のXシリーズに出てくるキャラクタ2人だというのが判明した。またもこの短編集は別のシリーズへの橋渡し的役割を果たしていたわけだ。
そしてあの謎めいた「午前と午後が背中合わせ。それが小川君のものだ」の意味は解らなかった悔しさよりもカタルシスが先に立った。

本書のベストを挙げると「コシジ君のこと」と「刀津野診療所の怪」になる。

前者は実にシンプルで泣かせに来ているのは判っていても、こういう話に私は弱い。コシジ君をかつての自分の同じようなクラスメイトに重ねてしまうからだ。
そして彼が夢の中でも冴えない風貌で冴えない仕事を一生懸命している姿が主人公に自分のことを訴えかけているように思えた。

後者はもうこれまでのシリーズが見事なまでに結びつく、特にまだVシリーズとS&Mシリーズの関係性を知らなかった頃に読んだ短編「ぶるぶる人形にうってつけの夜」が伏線となっていたことが判明するこのカタルシスが堪らなかった。
森博嗣氏はシリーズ読者を裏切らない!
いや寧ろ幸せにしてくれる!
そう感じた短編だ。

あと珍しく犀川の駄洒落が聞いていた。「ふうん」「何ですか、ふうんって」「漢字変換する前」は実に見事!
爆笑してしまったし、佐々木睦子の「カナダの首都みたいな顔をしている」「トロントしている」も誤ってはいるが実に面白い!
またGシリーズの登場人物の素性も少しずつ明かされたのも収穫の1つか。山吹の実家が人口200人くらいの離島で旅館をやっており彼に寛奈という姉がいたこと。そしてそのことで彼らの誕生月と両親の名前の付け方が分かったことなどなかなか面白い肉付けがされていた。

とまあ、さすがに短編集も5集目になると1集目のようなそれぞれの短編に込められた濃度の高さは低くなったが、逆にここまで来るとシリーズ読者、いや森作品読者にとってのサプライズと思いがけないプレゼント、即ち読んできた者だけが判るご褒美をシリーズの短編で感じるようになった。

しかし毎回思うが以前書かれた作品の伏線が数年後に活かされ、そしてそれらが矛盾やパラドックスなく繰り広げられる物語世界の広さと深さを思い知らされる。

森作品は1作1作のミステリの深度は浅いが、作品を重ねるごとに著作全体に仕掛けられた謎やリンクが立ち上り、むしろそちらの深みこそが醍醐味だろう。
森作品は1作1作がコラージュの1片1片に過ぎなく、それらが集まって壮大な絵が描かれるのだ。

読めば読むほど天才性が際立つ作家だ。

▼以下、ネタバレ感想
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レタス・フライ Lettuce Fry (講談社文庫)
森博嗣レタス・フライ についてのレビュー
No.1395: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

登場人物たちの人生遍歴が常人の倍以上では?

江戸川乱歩賞受賞作がそのままその年の直木賞受賞作となる、実にセンセーショナルなデビューを飾った藤原伊織氏。そんな彼のまさに世間が待ちわびていた2作目が本書である。ファン・ゴッホの未公開のひまわりの絵画を巡る美術ミステリだ。

1997年刊行の本書。28年前の、しかも前世紀の作品。その時既に社会人だった私にとってはさほど前の話のように思えなかったが、やはりところどころに時代を感じさせる。

例えば本書ではオリックスではイチローがまだ活躍しており、デザイン会社での記憶媒体ではMOが主流となっている。いやはや懐かしい。
USBメモリーやSDカードが主流になっている現在、MOなんてもう時代の遺物だ。私も当時使用していたが、今の若い子たちはMOなんて知っているだろうか。

更に驚いたのは携帯電話の最初の3桁が030であり、そして番号が10桁であることだ。PHSが050だったっけなどと思い出した。

またタクシーに自動車電話がついてるなどという描写もあり、私もずいぶん昔から生きている者だなぁと思い知らされた。

さてそんな時代性を感じさせる物語の主人公秋山秋二はかつてデザイン会社で新進気鋭のデザイナーとして働いていた男だ。若くして才能を評価され、自身の作った広告が日本アートディレクター協会のJADA賞―なおこれは日本グラフィックデザイナー協会JAGDAがモデルだろう―のグランプリを当時最年少で受賞したほどの才能を持つ。勤め先を若くして独立するまでになる。

そんな彼が全ての名声と才能を放棄し、世捨て人のような生活を送っているのは彼の妻英子が他界したからだ。しかも自殺し、さらにはその時身籠っていたことが判っている。
しかも夫の秋山は大学生の頃に罹ったおたふく風邪の後遺症で無精子症となっている。つまり彼の妻英子は死ぬ前に夫ではない誰かの子供を身籠っていたのだ。

その後彼は渡米し、そこで射撃に夢中になり、腕を磨く。留学ビザも取り、長くいるつもりだったが1年後に父の死をきっかけに日本に戻って現在に至る。

そんな彼を今回の事件に巻き込むきっかけを作ったのはかつて彼が勤めていたデザイン会社の元専務、村林だ。今の社長井上と共にデザイン会社京美企画を立ち上げ、その後将来性のあるインダストリアルデザイナーの道に進むことを選んで京美企画から独立し、今はその方面で一流デザイナーとして名が通るまでになった人物だ。

彼は京美企画在籍時代に秋山が異常な博打の才能を持っていたことを思い出し、彼が手に入れた500万円を摩る為に彼をカジノに誘う。

そして村林に連れられて行ったカジノで遭遇した若い女性加納麻里が本書のヒロインと云えよう。秋山は彼女に亡き妻英子の面影を見出す。

しかし私は今回この加納麻里という人物像に藤原氏らしくない、作り物感を抱いてしまった。

父親と二人暮らしで育ち、しかもその父親は腎不全で臥せっており生活保護を受けながら極貧生活を送っていた。たまたま買った宝くじが当たり、100万円が入ると生活保護を打ち切られるような社会のシステムに嫌気が差し、ヘルスのバイトで自分で金を稼いで生活を支え、そしてその一部を大学の入学金に当て、奨学金をもらって大学に入った苦労人だ。

しかしその大学も中退し、ヘルスを本業にしていたところ、週刊誌に美人ヘルス嬢としてグラビア紹介されたのが仁科老人の目に留まり、スカウトされ秘書になった。そして仁科に連れられたカジノで秋山と出遭ったのだ。

しかしこのたった21歳の彼女に作者はかなりの要素を盛り込んでいる。

全米ライフル協会の帽子を知っていて被っていたことやPC、ポリティカリー・コレクトネス、政治的正当性といった耳慣れない言葉と意味を知っている。さらにはフランス語も理解して書物も読める。

ヘルスのバイトをして学費を稼ぎながら、アメリカ社会における全米ライフル協会の微妙な立ち位置を理解し、さらにフランス語を読める元女子大生。しかも21歳と云えば大学3年、いや4年生かもしれないが、こんな知識を持つ女子大生は東大生や有名私立大といった上位の学生しかいないだろう。
さらにヘルス嬢時代に実の父親が客として訪れた暗い過去をも持っている。
美人過ぎるインテリヘルス嬢でそんな痛々しい過去を持つなんて人物に陰影をつけるとはいえ、理想を押し付けすぎやしていないだろうか。

また途中で秋山に近づき、彼の味方となるカジノのマネージャー原田邦彦もまたミステリアスな男だ。一流ホテルの支配人と見まがうかのような優雅な身のこなしと礼儀を知り、なおかつ記憶力がよく、さらに全体像を見通す視野の広さを持っている。
さらにやくざにも太刀打ちできる戦闘能力もあり、修羅場に置かれても一切動じず、相手が無礼なことをしても、さらには重傷を負っても顔に笑みさえ浮かべる男。
おまけにゲイであり、一流電機会社の役員と大物実業家仁科とで取り合いをさせるほどの魅力を備えている。

この原田と加納麻里を従えるのが仁科忠彦という実業家だ。若かりし頃は画家の道を選んだが、自分の才能に限界を見出し、実業家の道を進み、金融関係の仕事やカジノの経営、画商やさらに民間の美術館まで手広く事業を展開している老人でしかもバイセクシャルでもある。

このように複雑な絵を描きながら展開するこの物語はゴッホの知られざる8枚目のひまわりの絵を巡る美術ミステリであり、冒険小説でもあるが、読み終わった今、実に類型的な作品であるなとの印象が拭えなかった。

まずゴッホの知られざるひまわりの絵の存在を巡るまでの道のりは本格ミステリ的興趣もあり、実に面白い。
主人公秋山秋二のモラトリアムな生活に突如介入してきた、かつての上司村林のカジノへの誘いをきっかけに彼の周りで彼を見張る者たちが現れたり、また自殺した妻に似た女性が絡んできたりと主人公の身に何が起きているのか不明な点が学芸員をしていた亡き妻英子の遺品に遺されていたメモからゴッホの知られざる8枚目のひまわりの存在に至る、この見事な展開はそれまで何が謎なのかが解らなかっただけに、目の前の靄が一気に晴れる思いがした。

さらにゴッホが8枚目のひまわりを書いていた可能性についてもゴッホ生前の創作姿勢から可能性の高い“あり得る話”だと思わされるし、何よりも主人公の亡き妻英子とゴッホ8枚目のひまわりの存在をアメリカ人美術コレクター、ナタリー・リシュレとの交流から繋げていく流れは実に読み応えがあり、まさに歴史秘話的な興趣に満ちている。
恐らく藤原氏は美術が好きで造詣が深いのだろう。でないとこんな話は浮かばない。

ただここからがいけない。登場人物たちやプロットが非常に類型的になっているのだ。

モラトリアムな主人公が事件に巻き込まれ、望むと望まざるとに関わらず、銀座の中心に住みながら家とコンビニの往復でしか毎日を過ごさなかった日々から一転して赤坂のカジノや京都の亡き妻の弟の家まで行く羽目になり、そこから晴海の倉庫で銃撃戦へと展開していく。

原田という謎めいたカジノのマネージャーが味方に付き、記憶力と洞察力が高い上に身なりは優雅、さらに格闘能力も高く、おまけにゲイであるというなんとも作られたような便利な登場人物に、亡き妻の英子に似たヒロイン加納麻里は上述のように21歳の若さにしては世間だけでなく、アメリカ社会のことまで知っており、フランス語まで解する。

敵も不動産投機に失敗し、大量の借金を抱えた融会社の社長田代誠介がやくざと組み、知られざるひまわりの絵を奪おうと執拗に追ってくる。
その社長は秋山が以前勤めていたデザイン会社と取引の厚い一流電機メーカー、アイバ電機工業の社長の息子で元広報宣伝部長で都落ちの身。彼を取り巻くのは元アイバ電機社員の鷺村修で依願退職後、暴力団の八雲会に所属しており、その八雲会で幅を利かせているのが曽根で会の武闘派である。風貌は平凡な男だが、平気で人を撃ち、刃物で人を刺すことのできる男だ。

しかしこの曽根は元々中古車ディーラーをやっており、村林が広告会社時代に私語をしくじった顧客だった。その時、お詫びに上がったのが村林と社長の井上で彼は激昂する曽根に殴られるままに殴られ、瀕死の重傷を負った上に多額の賠償金を支払った過去がある。

一介の元サラリーマンが暴力団と手を組み、さらに一介の零細中古ディーラー元社長が一流の拳銃使いとなっている。

とにかくそれぞれの登場人物に設定を盛り込みすぎなのだ。
年齢と持っている能力の高さ、成熟度が釣り合わない気がした。いわばプロットを成立させるために登場人物たちに設定を押し込めている感じだ。
また人間関係も狭すぎる。このバランスの悪さが読書中、常に頭に付きまとってしまった。

惜しかったのは秋山の妻の英子の肖像だ。
まず主人公秋山と英子の出逢いの場面が何とも瑞々しい。高校2年の秋山に新入生の英子が話しかけるシーンは久々に青春物の恋愛小説を読んだ清々しさを感じた。秋山の才能に惚れ、そして結婚するにまで至った2人の関係はまさに運命が引き合わせた2人だ。
物語のもう1つの謎はそんな彼女の自殺の原因だ。秋山を慕い、才能に惚れ、ついてきた彼女がなぜ自殺したのか。それも他人の子を孕んで。

でもやっぱりどう考えても英子の自殺のエピソードはいらなかったように思う。これは単に枯れた中年男の恋愛願望ではないか。

また導入部で秋山秋二の特殊な博打の才能に関してその後見せ場が出てこなかったのはなんとももったいない。
特に渡米時代に肖像画を描いたお礼としてもらったライフルを帰国の際に預け荷物に入れてそのまま日本に持ち込めることができた件には、いくら分解して詰め込んだといえど、その現実感のなさに驚いた。

このように中の餡子は非常に美味しいのに昔子供の頃に食べた質の悪い外側の皮がパサパサな饅頭のような作品になったのは誠に残念だ。まさに昭和の味わいといった古めかしさを感じた。

既に鬼籍に入っており、今はもう数限りある残された作品を愉しむしか術はないが、江戸川乱歩賞受賞後、直木賞受賞後の1作としてはこのプロットはなんとも類型的すぎる。
刊行年の年末ランキングにランクインしなかったのも頷ける。
彼の作品は全て持っているのでそれらが藤原伊織という名を刻むだけの価値あることを強く望みたい。


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ひまわりの祝祭 (講談社文庫)
藤原伊織ひまわりの祝祭 についてのレビュー
No.1394: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

教科書では学べない西洋史をここで

最近では老境に入ったこともあり、それまでずっと棚上げされてきたシリーズの完結に勤しんでいる田中氏だが、本書はその前に書かれた19世紀のヨーロッパを舞台にした、実在の人物を登場させた冒険活劇が描かれていたが、本書もそのうちの1つ。作者あとがきによればこの後『髑髏城の花嫁』、『水晶宮の死神』と続き、全部で三部作となるようだ。

で、私はこの田中氏の19世紀のヨーロッパを舞台にした冒険活劇は実に楽しみにしている作品である。なんせこの前に読んだ『ラインの虜囚』が無類に面白く、久々に胸躍る童心に帰って冒険活劇の躍動感に胸躍らせたからだ。

さてそんな期待を抱きながら繙いた本書もまた『ラインの虜囚』とまでもいかないまでも実に楽しい冒険小説となっている。

まず本書にはあの有名な文豪チャールズ・ディケンズと童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセンが登場する。デンマークの作家アンデルセンがディケンズの許に遊びに来ているという設定で、なんとこれは作者自身のあとがきによれば史実のようだ。

その2人の冒険に巻き込まれるのは語り手であるエドモンド・ニーダムとその姪メープル・コンウェイの2人だ。
ニーダムはクリミア戦争からの帰還兵で元々ジャーナリストであったが帰還後、彼の勤めていた会社は既に倒産しており、幸いにしてその社長が紹介してくれた貸本会社ミューザー良書倶楽部の社員に姪と一緒に雇われることになる。この2人が実在の人物であるかは不明である。

そんな2人が社長の命でディケンズの世話をすることになり、そしてディケンズのスコットランドのアバディーンへの旅行に随伴することになる。そしてその地でディケンズと因縁深いゴードン大佐と再会し、彼の所有する月蝕島に行くことになる。そしてそこで彼ら街の権力者であるゴードン大佐とその息子クリストルと対決することになるのだ。

まず貸本屋が当時一大産業として成り立っていたというのに驚く。主人公2人が就職するミューザー良書倶楽部は会員制の貸本屋で客層は上流階級で会員費で潤沢な資金を得て話題のある、内容的にも評価の高い本を扱っていた。19世紀当時はまだ本は買うものではなく借りる物だったのだ。

従って作家連中は自作を貸本屋に置いてもらわないと死活問題であったため、貸本屋は売れる本を書くよう作家に指示できる立場であったのだ。いわば編集者も兼ねていたとのことだ。また逆に売れる作家に対しては将来への投資として旅行費の立替なども行い、まさに今の出版会社と変わらぬ役割を果たしていたようだ。

さて今回ニーダム一行が月蝕島を訪れるきっかけとなったのは新聞で氷山に包まれたスペインの帆船が流れ着いたというニュースが入ったからだ。しかもその帆船は16世紀にイギリスに攻め入って返り討ちに遭い、帰国の途中に行方知れずとなったスペインの無敵艦隊の1隻だともっぱらの、しかし確度の高い噂が流れていたからだ。

ここでまた田中氏によってこのスペインの無敵艦隊について蘊蓄が語られるわけだが、イギリス侵略に失敗したスペインの無敵艦隊は西方の英仏海峡にイングランド艦隊が待ち受けていた関係でなんと東からグレートブリテン島を北上し、アイルランドへ回って帰還するしかなかったと述べられている。そしてそれほどの距離を航行する予定ではなかったため、食糧が尽き、おまけに北の暴風と嵐に巻き込まれて130隻中67隻が帰還し、残りの63隻のうち35隻が行方不明のままだったとのこと。
つまり田中氏はこの史実に基づいて氷山に包まれたスペインの無敵艦隊が200年の時を経てスコットランド沖の月蝕島に流れ着くという実に劇的なシーンを演出する。

そしてこの月蝕島の成り立ちがまたすごい。
この島の領主リチャード・ポール・ゴードン大佐は暴君とも云える存在で財力に物を云わせ、農民から土地を巻き上げ、借地料や借金を払えない農民たちを強制移住させて追い出していた。さらに安い賃金で雇い長時間労働をさせて過労で次々と死なせていた。また月蝕島を買い取ると島民たちが生業にしていたガラスの材料となる海藻取りを、海の中まで自分の土地だと宣言して禁じ、貧困にあえがせていた。それは彼の目的のためだった。

やはり都会よりも歪んだ思想を持つ権力者が幅を利かせる田舎の方が怖いというがまさにゴードン大佐の支配するその街はその典型だ。

ちなみに私は昔からイギリスの小説で大佐という肩書の登場人物が出ることに違和感を覚えていたが、今回の田中氏の説明でその疑問が解消できた。

貴族や爵位の持たないが、広大な土地を所有する大地主などを「郷紳(ジェントリー)」と呼ぶらしく、そしてそういう身分の人物が敬称で呼ばれたいときに使うのがコロネルという位であり、これを「大佐」と訳していたわけだ。つまり大佐とは決して軍人の階級を示すわけではないのだ。
しかしこれは今回初めて知ったが、やはり大佐という肩書は軍人を想起させるので解ったと云えど違和感は当分払拭できそうにないだろう。

またこの悪辣な親にして子もまた同じく心底悪党である。
次男のクリストルは長身でハンサムだがプライドが高く、またすぐに女性が自分になびくものだと思っており、メープルに対して異様な執着を持つ。さらに剣の名手であり、力量の劣る敵を自らの剣で思う存分傷つけ、嬲り殺そうとする異常な性格の持ち主だ。
さらには気に入った女性を島まで連れて行ってはお気に入りの服を着させてもてあそび、飽きてしまえば殺してはまた新しい女性を物色して連れてくるを繰り返していた卑劣漢だ。

そんな悪党親子と立ち向かうディケンズ一行の面々もまた個性的だ。

ディケンズは貧しい家庭の出であることにコンプレックスを抱いているが、情に厚く、自分が気に入った者たちへの支援を怠らない人物だ。

翻ってアンデルセンは大人になって子供で少しのことで狼狽え、嘆き、そして喜ぶ。ちょっとした知的障碍者のように描かれている。

そしてメープル・コンウェイはおじのニーダムに憧れ、将来ジャーナリスト志望の若き娘で作家の悪筆を見事に読み取る能力があり、それを買われてミューザー良書倶楽部に雇われる。そして女性の地位向上、識字率向上に努力を惜しまず、また悪党クリストルにも一歩も引かない気の強さを見せつける。

そして主人公のニーダムは案外深みのあるキャラクターであることが次第にわかってくる。
彼は戦争から帰還後貸本屋の従業員として雇われ、また姪に対して気の良い兄的存在のいわば“いいお兄さん”的存在なのだが、クリミア戦争の後遺症で神経症を患っていることが明かされる。

とまあ、ヒーローとヒロイン、ボス的な存在であるディケンズと道化役のアンデルセンと冒険仲間としては典型的でありながらも申し分ない面々以外にも『カラブー内親王事件』の張本人メアリー・ベイカーも加わる。さらに周辺では先に述べた桂冠詩人アルフレッド・テニスンや『月長石』の作者ウィルキー・コリンズなど実在の人物が登場するのもこの田中氏の19世紀冒険活劇の特徴である。

とまあ、実在する人物が実にのびのびと動き、さらに胸をむかむかさせる悪党が登場し、意外な人物の正体が明かされながら、なじみのない西洋の近代史の蘊蓄も散りばめられ、エンタテインメントてんこ盛りの作品だ。

そして本書の隠れたテーマとはやはり教科書で学んだ歴史の裏側や教えられない当時の人々の生活やイギリスの社会や風習などを事細かく盛り込み、そしてその時代の人々に命を与えることだろう。
例えばゴードン大佐は急速に発展したイギリスの産業革命によって生み出された、一大財を成し、その資金力を己のエゴのためだけに使ってきた悪魔のような権力者であり、社会の高度経済成長の暗部でもある。

また教科書では決して学ばない当時の人々の生活様式や風習を書き残すことで読者が興味を持ち、次世代の歴史小説家が生まれることを期待しているのではないだろうか。

本書を書いた当時、作者田中氏は59歳。そしてこれが三部作の第1作目であることを考えると、やはり後続のまだ見ぬ作家の卵たちに向けた花束ではないだろうか。

本書の巻末には本書の登場人物が生まれる1789年から1907年の年表と数えきれないほど膨大な量に上る参考文献が載っている。やはりこのことからも田中氏が自分の趣味だけでこのシリーズを書いているわけではないことが判るというものだ。

このシリーズ、作者あとがきによれば「ヴィクトリア怪奇冒険譚」三部作と銘打たれているようだ。そしてこのあとがきにも本書に登場した実在の人物やイギリスの通貨の単位や長さや面積の単位などについても触れられている。

『銀河英雄伝説』という歴史を紡いだ田中氏が晩年に着手したのは英国の歴史を舞台にした冒険活劇三部作。
それまでの19世紀西洋冒険活劇譚も併せて、彼が遺そうとしている田中芳樹版歴史の教科書。それは単に勉強ではなく、かつて胸躍らせて本を繙いた少年少女の心をくすぐる作品群になるに違いない。
幸いにしてこの後残りの2作も近いうちに刊行されるようだから、楽しみにして待つことにしよう。

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月蝕島の魔物 (ミステリーYA!)
田中芳樹月蝕島の魔物 についてのレビュー
No.1393: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

便利さの裏側に潜む、何とも危険なキス

リンカーン・ライムシリーズ12作目の本書ではリンカーンはNY市警を辞め、大学で鑑識技術の講義を行っている。

従っていつものようにアメリア・サックスとコンビを組んでの捜査とはならず、それぞれがそれぞれの事件を追っている。

アメリア・サックスが追っているのは未詳40号と付けられた、異様に背の高く、痩せた風貌の殺人容疑者だ。しかしリンカーンの手助けを借りれないアメリアは遅々として進まないNY市警の鑑識結果にイライラしながら、それまでの捜査で培ってきた洞察力で容疑者を追っていく。

一方リンカーンはそのアメリアが偶然出くわした容疑者を尾行中に入ったショッピングセンターで起きたエスカレーターの事故の調査を行っている。上りのエスカレーターの上り口の乗降板が開き、そこに落ち込んだ店の従業員がモーターに挟まれて圧死した原因を突き止め、残された家族のために賠償金を請求するための証拠集めを強引に休暇を取らせた相棒メル・クーパーと講義の熱心な聴講生である、同じく四肢麻痺の生涯を持つ、元疫学研究者のジュリエット・アーチャーと共に当たる。

この2つの捜査(調査)はやがて1つへと繋がっていくのだが、これまで読んだリンカーン・ライムシリーズとは異なり、非常にじっくりと時間をかけて進むのだ。

今まで彼らが相手にしてきた犯人は次から次へと犯罪を、殺人を繰り返し、事件を未然に防ぐために証拠類と奮闘するリンカーンとの秒刻みの戦いが醍醐味だったが、アメリアが捜査する未詳40号は、彼の犯罪が発覚した被害者トッド・ウィリアムズ以降の殺人がなかなか起きないでいる。

またリンカーンサイドも自室内に実物大のエスカレーターのモックアップを設けてまで、事故を起こしたメーカーのエスカレーターの調査を行うが、彼らが想定する誤作動の原因探しは試行錯誤の連続で、なかなか捗々しく進まない。

これほどじれったく長く続くこの2人の捜査も珍しい。

この並行する2人の捜査は300ページを過ぎたところでようやく交わる。アメリアの追う未詳40号とライムの調べるエスカレーターの事故が繋がる。
エスカレーターの事故は内蔵されたスマートコントローラーを意図的に遠隔操作した者の仕業だった。その人物こそが未詳40号だった。

いつもながらディーヴァーは色んなテーマを扱い、我々の生活と彼の対峙する敵の犯罪が実に近いところで繋がっていることを知らしめてくれるが、本書ではさらにその距離が縮まっている。
今回の敵、未詳40号が殺人に利用するのは我々の生活を便利する通信技術だ。スマートフォンのアプリで遠隔操作するシステムの穴から潜り込み、誤作動を起こさせて人を殺す、なんとも恐ろしい敵だ。

まずはエスカレーターの乗降板を意図的に開放させ、人を落としてモーターに巻き込んで殺害。

次に家庭のガスコンロを意図的にガス漏れさせ、ガスが室内に充満したところで点火し、住民を丸焼きに。

そして大型テーブルソーを誤作動させて腕をスパッと切るかと見せかけて電子レンジの出力を何倍にも上げておいて温めていた飲み物とマグカップの中に含まれている水分を水蒸気爆発させる。

さらには自動車の制御システムも遠隔操作して猛スピードで逆走させ、衝突事故を起こさせて渋滞を招き、アメリアの追跡を交わす。

生活が発展し、便利になるとそれを悪用する輩も出てくる。スマートフォンのアプリで色んなことができ、色んなものとリンクすることが可能になったが、ウィルスを侵入させて壊したり、スパイウェアを侵入させて個人情報を搾取したりと枚挙にいとまがない。
しかしディーヴァーは過去に『ソウル・コレクター』で他人の情報を奪って成りすまして犯行を行う犯人を描いていたが、今回は便利さを利用して人を殺すという誰もが被害に遭いそうな犯行方法を生み出した。
何とも恐ろしい犯行を、犯罪者を生み出したものである。あまりにリアルすぎて背筋が寒くなる。

更には街ですれ違って自分を罵倒した弁護士の素性を調べ上げ、アパートのセキュリティシステムに侵入して、幼児誘拐まがいの悪戯を仕掛けることもできる。

また恋人との情事を盗み聞きしていた隣人を防犯カメラで捉え、自分たちのプライベートを汚したことで殺害する。

題名の「スティール・キス」とはこれら便利な物たちの誘惑を比喩した“鋼鉄のキス”という未詳40号の比喩に由来する。

また一方でアメリアも刑務所に服役していた元警官で恋人だったニック・カレッリが再び彼女の前に姿を現す事態に出くわす。彼は強盗事件に関わった容疑で逮捕され、服役していたが、実は冤罪でそれは彼の弟のやった事件で彼は弟の身代わりになったというのだった。しかしその弟も今は亡く、彼はやり直すために当時の事件の資料を調べ、潔白を証明したいとサックスに協力を求める。
そしてサックスもかつてと変わらぬニックに心を傾けていく。

またロナルド・プラスキーはプライベートでヤクの売人と接触し、独自の調査を行っている。

そんな複数のエピソードを交え、今回も大なり小なりのどんでん返しを見せてくれた

ディーヴァーだが、ある程度パターン化してきた感は否めない。

行く末が逆に判っているからこそヒヤヒヤさせられることも無くなってきた。そう、免疫がついてきてしまった。

あといささかあざとい仕掛けも感じた。

そんな風に思っていたら、なんと今回の結末は意外にもリンカーンとアメリアにとっても苦いものとなる。

人生全てが順調ではなく、万全ではない。生きていれば一度や二度、挫折もし、苦汁を舐めさせられることもある。
しかしそれを乗り越えて生きてこそ、人はまた成長し、そしていつかは笑って話せる過去へと消化できるよう、心が鍛えられるのだ。

転んでもただでは起きない者もいる。

今回色々な悪が描かれてきた。

巨大企業のビジネス優先主義によって製品の欠陥を隠匿しようとした悪。

その犠牲になり、復讐のために次々と人を殺してきた悪。

自らの犯行を正当化し、かつての友人や恋人を騙してまで大金をせしめようとした悪。

それぞれの悪が円環のように巡り、そして殺しの連鎖を導く。人が利己的にならなくなった時に犯罪は無くなるのだろうか。

スティール・キス。
それは便利さの裏側に潜む甘美な罠。
もう我々はスマートフォンなしでは生活できなくなってきている。我々の便利な生活が危険と隣り合わせであることをまざまざと痛感させられた。便利と危険は比例することを肝に銘じよう。

▼以下、ネタバレ感想
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スティール・キス 上 (文春文庫)
No.1392: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

いかした短編のある本です

『ドランのキャデラック』に続く短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の2冊目の訳書である。

本書は「献辞」で幕を開けるが、これはいわゆる本の冒頭に書かれるそれを指すのではなく、れっきとした短編の題名である。しかしその内容はまさに本の冒頭に掲げられる献辞についてのお話だ。
蛙の子は蛙という言葉もあれば、トンビが鷹を生むという言葉もあるように、時にはこの親にしてこの息子と云った至極当たり前な子供ではなく、突然変異的に秀でた子供が生まれることがある。本書は黒人の最下層の夫婦の間に生まれた子供が小説家になった理由を実にキングらしい生々しさで語る。
本作ではそれ以外にもこのベストセラー作家の創作の苦悩など作家ならではのエピソードに溢れていてなかなか興味深く読んだ。その辺についてはまた後ほど述べることにしよう

次の「動く指」は実にキングらしい奇妙で恐ろしい話だ。
ある日突然排水口から人間の指が現れたら、どうする?
そんなシュールなシチュエーションをホラーにしたのが本作だ。
手指というのは不思議な物で、神経が集中し、細かで繊細な動きが出来ることから、手指の動きだけで感情すらも表現出来る。実際多彩なフィンガージェスチャーがあり、自分の感情を表すのを強調するために手指で補う。例えば映画『アダムス・ファミリー』で登場する手首だけの存在ハンドなんかはその好例だろう。
洗面所からにょっきり飛び出して来る1本の人間の指。いつも見慣れた物で自身も持っている物なのに、なぜそんなところから1本だけ出てくるとこれほどまでに気持ちが悪いのか?
ただそれは神経を逆撫でするようにカリカリと音を立てる。気持ち悪い上に気に障るため、次第に主人公の精神を苛む。しかも意地が悪いことに主人公が洗面所にいるときだけ姿を現し、彼の妻の前には現れない。
主人公は自分だけが見る幻覚かと思うが、やがて劇毒物である排水口クリーナーと電動植木鋏で立ち向かう。
そこからの展開はキングの独壇場だ。もだえ苦しむ薬傷した指はいくつもの関節を持ち、どんどん伸びてくる。このアイデアは実に秀逸。人間の指から異形の物へと変わる瞬間だ。
しかしワンアイデアでよくもここまで凄まじい作品を書くものである、キングは。

「スニーカー」は都市伝説ような作品だ。
アメリカのトイレのブースは扉の下部が大きく空いているのが特徴だが、そこから人の靴を見て使用中かを判断する慣例になっているようだ。
この主人公は3階のトイレの一番手前のブースに1組の薄汚れた白いスニーカーがあることに気付くが、それがいつ行ってもその持ち主が入っているので気になりだす。そしてそれが怪事であることを示唆するように周囲に虫の死骸が増えていく。
今回この奇妙な現象にキングは理由を付けている。
また本作では音楽業界の裏話などもあって、洋楽好きな私にとっては面白く読めた。ショックだったのは本書が発表された1993年の時点で主人公がロックはもうかつての栄光を取り戻す力がないという意味の言葉を放っていることだ。確かに90年代からヒップホップが台頭してきたが、この時点でもうそんな境地だったとは。
更にバンドの中でもベース・ギタリストの存在についての話も面白い。華やかさに欠けるゆえに慢性的に人手不足らしい。
またローリング・ストーンズのビル・ワイマンが演奏中に居眠りしてステージから転げ落ちたという逸話は本当だろうか。そして個人を名指しして大丈夫なんだろうか?
また地味でないベース・ギタリストとしてポール・マッカートニーを挙げているけど、スティングも忘れないように。
トイレのブースからいつも見えるスニーカーからこんな話を紡ぎだすキングの着想の冴えを感じる作品だ。
ところで物語の主要人物のファーストネームがジョンとポールとジョージィなのは意図的なんだろうか?

「スニーカー」は音楽業界が舞台だったが次の表題作はさらにその色を濃くする。
ドライブ旅行で道に迷った挙句に辿り着いた街は普通ではなかった。
これは数あるホラーの中でも使い古された物語で、作中登場人物も意識的に自分たちが『トワイライト・ゾーン』の世界に紛れ込んだんじゃないかと自嘲気味に話す。
しかしこのありふれた物語の設定にキングは実に面白いアイデアを注ぎ込んだ。
それは私にとってはまさに夢のような街なのだが、うまい話は簡単に転がっていなかった。
夢はその瞬間を愉しむから楽しいであって、これが夜ごと続く、しかも強制されると悪夢でしかないのだろうな。

「自宅出産」はその地味なタイトルから全く予想もつかない展開を見せる。
アメリカの、メイン州の沖合に浮かぶ島で暮らす漁師の夫婦の苦難の生活が描かれたと思いきや、いきなり物語は転調する。
そして物語の主人公マディー・ペイスはかつて一家の長として頼りにしていた夫が蘇るに至り、マディーは身籠った子供を護るためにかつて愛した夫を撃退するのだ。寄る辺のない妻から一人逞しく生きていくことを決意した母親の誕生である。
この内容と全くそぐわないタイトルはこんな状況の中だからこそ自宅出産を決意するという一人で生きていくことを選んだ女性の決意表明なのだ。パニック小説とヒューマンドラマをミックスした、なんとも云えない味わいとなっている。

本書の最後はまたもやシュールな作品「雨期きたる」だ。
キングファンである荒木飛呂彦氏の漫画『ジョジョの奇妙な冒険』にも大量のカエルが降ってくるエピソードがあったが、これがネタ元だったのか、それともちょうど連載前公開された映画『マグノリア』がネタ元だったのか、定かではないが、しかしカエル以外にも魚やオタマジャクシなどが空から降ってくる怪異現象は実際に起きているようで、その原因は竜巻で空に巻き上げられたそれらが降ってくると考えられている。
恐らくキングもその怪異現象を聞きつけ、この作品の着想に至ったと思われるが、やはりキング、そんなニュースさえもホラーに変える。
なんとも奇妙な物語である。


短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の2冊目の本書は6作が収録され、総ページ数は330ページ強。1冊目が7作収録で320ページ弱だったから2冊合わせて13作と650ページほどの分量だ。
しかもまだ半分なのだから、キングの短編集の分厚さには驚かされる。

2冊目の本書には貧困層の黒人夫婦の息子が作家になった秘密、洗面所から出てきた動く指に悩まされ、格闘する男の話、トイレの決まったブースに入っている白いスニーカーの持ち主に纏わる話、迷った挙句に辿り着いた街の恐怖、一家の長を喪った女性の一大決心と世界の終末の話、田舎町を訪れた若いカップルを襲った怪異現象の正体などがテーマになっている。

そしてそれぞれの物語のアイデアは単なる思い付きに過ぎないものも多い。

ろくに教育も受けていない両親から生まれた子供が作家になった。

もし排水口から人間の指が覗いていたら怖いなぁ。

いつもあのトイレのブースに同じ靴があるんだよな。

折角の旅行だから知らない道を通って“冒険”しようじゃないか!

我が身に起きた不幸のために世界の終りだと感じた時、本当の世界の終りが来たら?

空から雨じゃない物が大量に降ってきたら気持ち悪いよな。

それらは我々の周囲にもよくある話だったり、またふとしたことで頭に浮かぶふざけ半分のジョークのような思い付きだったりする。

しかしキングがすごいのはその思い付きからその周辺を肉付けしてエピソードを継ぎ足して立派な読み物にすることだ。

そんなことが起こる人々、そんな奇妙なことに直面する人たちはどんな人だったら物語が生きるか、その人たちは職業に就き、どんな生い立ちを辿ってきたのか、独身か結婚しているのか、家族と暮らしている子供か、それとも一人暮らしなのか恋人と同棲しているのか、とどんどん肉付けしていく。そして普通の生活をしている我々同様に彼らは自分たちに襲い掛かる災厄に対して信じようとせず、一笑に附することで最悪な結末を迎えることになるのだ。

また一方で日々を懸命に生きる人々への救済を感じさせるものもある。

例えば最初の1編「献辞」では最下層の黒人夫婦の息子が作家になる話だが、学もない夫婦から生まれた子供がそんな知的階級の仲間入りをするわけがないことに対して、キングはある仕掛けで人生の転機を、チャンスを掴むことを示唆する。
アメリカはチャンスの国と云われており、社会の底辺の人間が子供に自分のようになってほしくないとの理由で教育を施して、立身出世をする話はよくあるが、キングはあるチャンスの素なるものを加えた。

チャンスは誰にでもある、そしてその時に行動することが大事なのだと云っているようだ。
自身が作家を目指し、ごみ箱に捨ててあった原稿を妻が投稿したことでデビューすることになったキングにとってこのチャンスの素は夫人だったのだろう。

あとこの母親が間接的に作家のDNAを受け継ぐベストセラー作家のピーター・ジェフリーズは素晴らしい作品を書くのに、その人物像はろくでなしで人種差別者であると書かれているが、これは実際のモデルがいるに違いないと思っていたら、ちゃっかりあとがきに書かれていた。

また「動く指」はキングには珍しく狂気と正気の境の曖昧さを描いている。排水口から蠢き出てくる複数の関節を持った動く指と格闘して血塗れになる主人公はある瞬間にプツンと神経が切れて狂気に陥ったかと思えば、警官が来た時には自分の名前と職業をきちんと答える冷静さを見せる。

「いかしたバンドのいる街で」に出てくる主人公クラーク・ウィリンガムに自分の姿を重ねてしまった。
遠出をした時についついナビにない道を通って“冒険”したくなる性癖が私にもあるのだ。そんな時、妻は呆れていつも制止しようとする。本作はそんな私にとって戒めなのだろうか。

「自宅出産」は本書における個人的ベストだ。まずは典型的な父長制である家族が頼りにしていた父親が死に、その代わりとなる夫もまた死ぬことで身重である女手一人で生きていくファミリードラマ風の展開から一転して全く予想もつかない展開に思わず声を挙げた。

こんな奇妙な女細腕奮闘記、キングにしか書けないだろう。

また本書でも恐怖のイマジネーションを喚起させるキングならではの描写が目立った。
「動く指」の関節がいくつもある長い指が排水口から蠢き出てくるイメージや「スニーカー」の1つの鳩目に紐を通し忘れている描写も何気ないがトイレに行くといつも見えるスニーカーを気にするとそんな些細な事が気になって仕方なくなる心理状態、そして「自宅出産」の海から蘇った腐乱死体と化した夫の手からお腹の中の子を護るために、その子のために靴下を編んでいた編針を眼窩に刺したことで網かけの靴下が骸骨の鼻先でぶらぶらと揺れるシーンなど、よくもまあ思い付くものである。

「雨期きたる」の次から次へと降っては湧いてくるヒキガエルたちを次々と潰す描写と雨上がり後のヒキガエルが溶けていく様もまたグロテスクである。

これほどまでに物語を紡ぎながらも我々の心の奥底にある恐怖を独特のユーモアを交えて掻き立てるキングの筆致はいささかも衰えていない。

さてようやく半分の折り返し地点である。次はどんなイマジネーションを見せてくれるのだろうか。

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いかしたバンドのいる街で (文春文庫)
No.1391: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

あなたをあなたたらしめているのは本当はあなたではないのでは?

ある日目覚めると女になっており、しかも5年の月日が流れていたというトリッキーな作品『僕を殺した女』でデビューした北川歩実氏の3作目が本書。デビュー作同様に「自分探し」、即ち自分の存在意義そのものがミステリという作品になっている。

本書の謎は1点に尽きる。
それは木野杏菜と名乗る女性は本物なのか?

この木野杏菜という女性は4年前に殺害されたはずの女性なのだが、再び娘を殺された親たちの許に姿を現す。しかもその登場の仕方は10年前と同じで、彼女の育ての親、木野茜によって指定のホテルのレストランで待ち合わせる。

しかし彼女は連続婦女暴行犯江尻静夫によって彼女の友人森島美緒、日田麻夜らと共に殺害されたはずだった。しかし過去を調べていくうちに木野杏菜は江尻の恋人であり、それが原因でクラスの中でも孤立し、親しかった美緒と麻夜たちから避けられていた節があり、彼女はそんな2人に対して復讐するために江尻と狂言誘拐を図り、そして江尻と共に2人を殺し、自分の身代わりを仕立てて杏菜自身も殺されたと見せかけようとしたとの疑いが出る。

しかし一方で事件の4年後に再び木野茜によって美緒と麻夜の親である森島とその息子政人と日田、そしてかつて杏菜が養子として世話に預けられた外川家の長男大樹らに引き合わされた木野杏菜は交通事故で記憶を亡くした別人の三原理香子という女性であると彼女の親で精神科医の西浦義明という人物が出てくる。彼は娘を亡くしたショックで心神喪失状態だった彼女の生みの親、外川円夏の依頼で自分の娘理香子を円夏に与えて彼女を第2の杏菜にしたのだという証言まで出てくる。

そのどれもが信憑性があり、そしてそのどれもが疑わしい。
この1人の女性、木野杏菜の正体が本人なのか、それとも木野杏菜の記憶を刷り込まれて作られたコピー、即ち模造人格を植え付けられた別人なのかがはっきりしないのは渦中の人物である木野杏菜が記憶喪失であるからだ。

謎自体はシンプルながらデビュー作同様、とにかくこの北川歩実という作家はこの1つの謎をこねくり回す。

再び現れた木野杏菜、即ち外川杏菜は本人ではなく、木野茜が外川の遺産を横取りするため外川杏菜の記憶を刷り込ませた別人だ。

いや、4年前に殺された杏菜は別人で、彼女こそは交通事故で記憶喪失になった本当の外川杏菜だ。

この2つの選択肢を行ったり来たりする。

上に書いたようにこの2つの選択肢をそれぞれ真実として補強するために関係者が現れ、新たな事実が判明していく。

しかし驚かされるのはたった1人の女性の正体を突き止めるのにかなり多くの人物が関わっていることだ。

最初は子供に恵まれない夫婦木野茜と鹿島幸平の2人に杏菜という赤ん坊が授けられた。

この赤ん坊は木野茜が懇意にしていた小学校時代の先生だった山内ミサと夫で診療所を経営する順次から紹介された。未成年の少女が身ごもって生んだ子供がその赤ん坊だった。

しかし夫と別れた茜に代わって杏菜を育てる人物が現れる。その人物外川円夏は実は山内夫妻の娘で杏菜の実の親だった。

木野杏菜は外川仁という医者と彼の連れ子である大樹を加えた4人家族の一員となり、外川杏菜となる。

そして外川家と親しい同じく医者の日田昭夫とその娘麻夜、弁護士の森島治郎とその息子政人と娘の美緒が加わり、杏菜は政人に恋をし、麻夜と美緒と友人になる。

そしてこのグループに亀裂が入る原因となったのが森島が弁護を担当していた連続婦女暴行犯江尻静夫が杏菜と美緒と麻夜を誘拐して殺害することで狂ってくる。そしてその中には会田由紀子という別に誘拐された少女もいた。

更に西浦義明という精神科医が加わり、彼の娘で交通事故で記憶喪失になった三原理香子という女性が木野杏菜のコピーか否かという謎へと展開する。

1人の人物の記憶を巡り、その波紋がどんどん大きくなり、そして影響を及ぼしていく。

それは単純に人助けではなく、外川家の資産を巡る金儲けの側面を孕んでくる。

さてこれほどまでにこねくり回された木野杏菜を巡る事の真相は一応解決されるが、我々の記憶というものは何とも薄弱なものだろうかという思いが残る。
これは単に物語の上での話ではない。
例えば仕事でも自分のミスを認めようとしたくないがために、やっていないことをやったと記憶をすり替える。

また声の大きい人が語った根拠もない話を事実だと受け止めようとする。

それほど我々の記憶というのは薄くて弱くて脆いものなのだ。

では自我を形成する人格とはいったい何によって立脚しているのだろうか?
自分が自分であることの根拠はそれまで歩んできた人生という記憶ではないか。

しかしその記憶が薄くて弱くて脆いものであるならば、いとも簡単に人の人格は変えられてるのではないか。

これが本書の語りたかったことだろう。

もし貴方が貴方であると訴えても周囲が信じようとしなかったら、貴方は貴方であることを自分自身が信じていられるだろうか?

結局我々の現実というのは自分だけの確信だけで成り立っておらず、それを支持する他者の意見によって補強され、そして確立しているのだ。

どれだけ自分を信じてもそれを他人が受け入れなければ、そして他人が頑なに信じたことを押し付けれれば、そしてそれが多数を占めれば我々一己の存在などすぐにでも上書きされてしまう。

なんともまあ、恐ろしいことを見せつけてくれたものである、北川歩実氏は。
この作品を読んだ後、貴方は確かに貴方自身であると胸を張って証明できるだろうか。
正直私は自信が無くなってきた。

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模造人格 (幻冬舎文庫)
北川歩実模造人格 についてのレビュー

No.1390:

慟哭 (創元推理文庫)

慟哭

貫井徳郎

No.1390: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

あらゆる意味で新人離れしたデビュー作

1993年の鮎川哲也賞の候補になり落選しながらも刊行されることになった貫井徳郎氏デビュー作である本書はその年の『このミス』で12位にランクインするなど好評を以て迎えられた作品だ。

そんな期待値の高い中で読み進めた本書だったが、最後まで読み終わった感想は微妙というのが正直なところだ。

さて本書は北村薫氏をして「書きぶりは練達、世も終えてみれば仰天」と驚嘆させたと当時評判だったが、確かにその内容と筆致はとても新人の作品とは思えないほどどっしりとした重厚な読み応えを備えた作品だ。

本書は幼女連続誘拐殺人事件の捜査を進める警察の話と心に大きく空いた穴を埋めるために新興宗教へとのめり込む30代の男性の話が並行して語られる構成で進む。

まずメインの警視庁捜査一課のキャリア出身の佐伯課長が陣頭指揮を執る捜査の内容は新人とは思えないほどの抑えた筆致で、キャリアとノンキャリアの確執、もしくはキャリア同士の確執、さらには佐伯の微妙な生い立ちと現在の立ち位置など縦割り文化が顕著な警察組織の中で軋轢を上手く溶け込ませ、よくもデビュー前の素人がここまで書けたものだと感嘆した。

それは後者の新興宗教にのめり込む30代の男、松本の話も同様で、新興宗教の内情とそこに所属する人々の描写は実に迫真性に満ちている。この細やかな内容は経験しないと判らないほどリアリティに富んでいる。

街中で幸せを祈らせてほしいという修業に興味を持った松本が出くわす、マンションの1室で行われる講話、そしてひっきりなしの入会の勧誘、更に合宿と称した監禁状態での洗脳行為に暴利としてか思えない高額な参加費やテキスト料。

これらは作者自身が実際にその手の新興宗教の集会や講習、そして合宿に自腹を切って参加しないと書けないことばかりだ。もし彼が実際に入会したのであれば、新人賞の応募作品でここまで金を掛けて取材したことになり、その気合の入り方には驚かされる。

また新興宗教が実に“おいしい商売”であることも詳らかに書かれる。
本書が刊行された90年代初頭の時点で日本に存在する新興宗教の数は23万にも上っていたことや元手がかからず、出版物やグッズ、財施などでどんどんお金が入ってくること、宗教法人であることから税の優遇措置を受けており、さらに33種類に亘る収益事業を許されていること。
浴場業、料理飲食業、遊技業、遊覧所業、貸席業、理容業、美容業、興行業、不動産販売業、倉庫業、駐車場業、金銭貸付業とほとんどの業種が網羅されている。
これらは巨大な宗教団体が政治内部にも強いコネが古来からあることからこれらの優遇措置が認められてきた悪しき風習と云えるだろう。

ただこれほど読者の共感を得られない主人公も珍しい。
どうにもこの男に対して嫌悪感が先だって罵詈雑言が止まらない。

微妙な読後感の後に訪れたのは一人の身勝手で無能な男に対する大いなる憤りだった。

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慟哭 (創元推理文庫)
貫井徳郎慟哭 についてのレビュー
No.1389: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

恐怖に磨きの掛かった短編集

キングの短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の邦訳を4分冊で刊行した第1冊目。しかし1冊の短編集が4冊に分かれて刊行されるのは出版社の儲け主義だと思われるが、キングの場合、逆にこれくらいの分量の方が却っていいから皮肉だ。

さてその短編集の1作目は本書の表題作「ドランのキャデラック」だ。
妻を殺された相手に復讐するどこにでもいるような中年オヤジの奮闘譚というどこにでもあるような題材である。彼は頭の中に響く亡き妻エリザベス励ましの言葉にほだされて復讐の方法を思い付き、そしてその決行のために典型的な中年太りの身体を鍛え、そして工事現場で修業をして重機の運転を身に着ける。彼が思い付いた復讐とは敵が運転するキャデラックを偽りの工事の迂回路におびき寄せ、大きな落とし穴で敵の愛車キャデラックごと生き埋めにすることだった。
この実に荒唐無稽な復讐を成すために身体を鍛え、重機の運転を身に着けるというのはよくあるが、数学者の友人に自身が創作しているSF小説のためと偽って必要な落とし穴の寸法を割り出してもらうところはキングならではのディテールが細かさだ。いわゆる荒唐無稽な話をリアルにするアプローチの仕方が面白い。
そして復讐成就のために偽りの迂回路案内の看板を用意したり、復讐の相手が通る前までにただ一人でアスファルトを剥ぎ取り、巨大な落とし穴を満身創痍になりながら掘る一部始終は絶対不可能と思われる状況に立ち向かう冒険小説の主人公のようでなかなか面白い。

次の「争いが終わるとき」はハワード・フォーノイというとある作家の手記である。
いやはやこんな話を思い付くのはキングしかいないだろう。
とにかく手記を遺すことに拙速な作家の手記から始まり、やがて自身が超天才であることとさらに弟もまた誰も予想がつかないことを発想する超天才であることが次第にわかり、そしてその弟が発明した世界平和をもたらす蒸留酒へと至る。
何の話をしているのか皆目見当のつかない発端から、超天才兄弟の生い立ちと現在までの経緯、そして手記の体裁で語られることの意味が最後で判明する展開含め、物語自体に謎が含まれており、技術としてはかなり高い作品だ。
それに加えて最後のオチも面白いのだからキングはすごい。しかし繰り返しになるがこんな話、キング以外誰が思い付くだろうか。

次は厳格な教師が登場する「幼子よ、われに来たれ」だ。
生徒に慕われる者、生徒に見下される者、はたまた特に話題にも上らない者など教師にも色々いるが、本書に登場するミス・シドリーは昔気質のいわゆる“教室の支配者”のような厳しい教師で自分の授業中の私語は許さなく、また他の科目の教科書を開くことも許さない、生徒から恐れられている先生だ。
しかしそんな教師も異形の物に対峙すると1人の女性となる。
彼女が見たのは本当に異形の物だったのか、それとも気が触れた彼女の妄想だったのか。
生徒に舐められまいと厳格に振舞う先生が自分を恐れない生徒に出くわすと自身の精神基盤が不安定になることはよくある。自分の教義に生きる者ほど他者にもそれを要求し、それに従うことが当たり前だと思うようになるが、それが適わなくなると意外にも脆く崩れていく。
しかし本作の邦題は内容から外れているように思う。原題は“Suffer The Little Children”、つまり「幼子に苛まれる」だが、なぜ「幼子よ、われに来たれ」としたのだろうか。

次も異形物だ。「ナイト・フライヤー」は地方の小空港で連続する殺人事件を週刊誌記者が追う話。
オカルト専門の週刊誌では吸血鬼などは特別なものではなく、存在して然るべきらしい。私はこの話を読んでいるとき、そんなものをまともに追い求める雑誌があるのか判断つかなかったため、吸血鬼ありきで記者が取材していることになかなかのめりこめなかった。
この手の週刊誌がキングの創作か判らないがこの導入部をすんなり受け止めるか否かで物語の没入度が変わると思う。私はキングの作品を読んでいるにもかかわらず、妙に常識に囚われた頭で読んだのでのめり込むまで時間がかかってしまった。
キングが書きたかったのはこの手のベテラン記者であっても、本当のモンスターには恐怖を覚えることか。そしてその光景を一生抱えて生きていくと述べる記者の独り言は実に説得力ある。これぞ恐怖、これぞトラウマだ。
ちなみにこの週刊誌記者リチャード・ディーズは『デッド・ゾーン』に登場していたというのは作者の作品解説で知った。

またまた異形物が続く。「ポプシー」はギャンブルで多額の借金を抱えた男の悲惨な末路を描いた作品だ。

『ニードフル・シングス』で崩壊したキャッスルロックが再び舞台となるのが「丘の上の屋敷」だ。本書の序文によれば本作が収録作中最も古い作品とのこと。
キングの数あるホラー作品のテーマの1つに“サイキック・バッテリーとしての家”というものがある。それは家そのものが住民やその土地に影響されて負のエネルギーを溜め込み、恰も生きているが如く住民たちに災厄をもたらすと云う考えだ。
本書はその系譜に連なる1編で、財を成すたびに増築を繰り返した住民が遺した屋敷に纏わる話だ。
そして上にも述べたようにその家が建つのはあのキャッスルロック。キングによって作られた町の1つであり、そして崩壊を迎えた町だ。つまり町そのものも忌まわしき因縁があり、さらにそこに建てられた屋敷もまた不穏な雰囲気をまとっている。また崩壊後のキャッスルロックに残された老人たちの物語が集って語るような退廃的な雰囲気も感じられる。キングが親しんだ彼が作った町への鎮魂歌とも云える作品だ。
最初に読み終わった時はこの話はキング特有の丘の上に屋敷を建てた事業家の盛者必衰の歴史を綴ったものかとだけ思ったが読み返すとこれは意志持つ屋敷の話だと気付いた。

本書最後の収録作の題名「チャタリー・ティース」はゼンマイ仕掛けの足がついた入れ歯のおもちゃの名前を指す。私はこの題名で初めて知った。
本作はキング作品のジャンルの1つ、“意志ある機械”のお話だ。機械とはいえ今回はゼンマイ仕掛けのおもちゃで、電気で動くものではない。今まで見たこともないほど大きなゼンマイ仕掛けの歩く歯のおもちゃを譲り受けた男の危機をそのおもちゃが救うと云う思い付いてもキングしか書かないようなお話だ。
読んでいる最中、荒木飛呂彦氏が漫画化したような映像が頭に浮かんだ。


冒頭にも述べたように本書は短編集“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”の邦訳を4分冊で刊行した第1冊目だが、本書だけで320ページ弱ある。これが4冊続くとなると軽く1,200ページは超える分量。本書には7作が収録されているが、これだけで通常の作家ならばこの1冊で十分な分量である。

その内容は妻を殺された男の復讐譚、ある発明をした弟を殺した小説家の告白文、厳格な教師の哀しき末路、吸血鬼の連続殺人事件を追う記者が出くわした真の恐怖、ギャンブルで抱えた多額の借金を返済するために子供の誘拐を請け負った男が辿った悲惨な結末、人を食うと噂される屋敷の歴史、ゼンマイ仕掛けの歩く歯の玩具を貰い受けた男がカージャックに遭う話とこの1巻目だけで実にヴァラエティに富んでいる。

そんな中、収録作中3作が怪物を扱った作品だ。
この頃キングは45歳。この年になるとサイコパスなど人間の怖さを扱う作品が多くなりがちで、なかなか怪物譚などは書かなくなると思うのだが、キングは本当にモンスターが好きらしい。

またキング作品のおなじみのモチーフであるサイキック・バッテリーとしての家の物語や“意志ある機械-正確には今回は器械だが―”の話もあり、初心を忘れないキングの創作意欲が垣間見れる。

しかしそれらおなじみの、いわばパターン化した作品群であるが、成熟味を増しているのには感心した。

「丘の上の屋敷」ではキャッスルロックの数少ない年老いた住民たちの群像劇と彼らの会話が延々と続く中で、彼らの話題の中心となっている丘の上の屋敷を主のいない今誰が増築しているのかと語ることでもはや家自体が自ら増築していることを仄めかされる―この作品は2回読んだ方がいい。1回めではキングの饒舌ぶりも相まってとりとめのなさが先に立ち、作品の意図を掴むのが難しい―。

そして最後の「チャタリー・ティース」ではゼンマイ仕掛けの歩く歯のおもちゃが新しい主を待ち受けていることが判るのだが、なぜそのおもちゃが彼を選んだのかは不明だ。

そう、作家生活19年にしてキングの描く恐怖はさらに磨きがかかっているのだ。しかもそれらが映像的でもあり、また鳥肌が立つような妙な不可解さを感じさせる。

西洋人の恐怖の考え方はその正体の怖さを語るのに対し、日本人は得体の知らなさそのものの恐怖を語る。つまり恐怖の正体が判らないからこそ怖いというのが日本式恐怖なのだが、本書のキング作品もどちらかと云えば後者の日本式の恐怖を感じさせる。

そんな円熟味を感じさせる作品集のまだ4分冊化されたうちの1冊目なのだが、早くもベストが出てしまった。それは「争いが終わるとき」だ。

この作品は最初何を急いで書き残そうとしているのか判らないまま、物語は進む。つまり物語自体が謎であり、メンサのメンバーになっている両親から生まれた兄弟の生い立ちが語られ、どこに物語が向かっているのか判らない暗中模索状態で読み進めるとやがて強烈なオチが待ち受けていたという構成の妙が光る。久々唸らされた作品だ。

まだ3冊も残っているのにここでベストを上げるのは早計かと思われるが、そんなことは関係ない。それぞれを独立した短編集と捉えてとりあえずそれぞれの1冊でベストを挙げることにしよう。

しかしこの頃のキング作品がどんどん長大化しており、饒舌ぶりに拍車がかかっていると思っていたが、それは本国アメリカでもそうらしく、『ザ・スタンド』から『ニードフル・シングス』に至る作品群では書き過ぎだと非難されたとある。
大作家だからこそ、またページ数が増せばその分価格も高くなるからこそ出版社もまた読者も長大化ぶりを歓迎していたかと思ったが、やはり海の向こうでも読者の思いは一緒であったか。

しかしそんな非難を受けてもキングの創作意欲というか頭に浮かぶ物語は減らないようで、短編が売れない昨今の出版事情の中、敢えて短編集を出すのは彼には大小さまざまな物語を書かずにはいられないからだ。そしてそれは今なお続いており、つい先日も『わるい夢たちのバザール』という短編集が分冊で訳出されたばかりである。

ちなみに冒頭にも述べたが本書は“NIGHTMARES & DREAMSCAPES”、即ち“悪夢と夢のような情景たち”と題された短編集の一部である。つまり本書刊行後、28年を経てもなおキングの悪夢は続いているのだ。
それではその悪夢を引き続き共有しようではないか。

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ドランのキャデラック (文春文庫)
No.1388:
(3pt)

流転だらけの人生。彼にとっての幸せとは。

ジェイムズ・ヒルトンといえば代表作は『チップス先生、さようなら』や『失われた地平線』になろうか。前者は一教師の生涯を通じて戦争下の社会情勢を描いた作品であり、後者は今なお使われるシャングリラという理想郷を創出した作品である。

で、本書はといえば趣向は『チップス先生、さようなら』の系譜に連なる物になろうか。
牧師の息子として生まれたエインズリー・ジャーグウィン・フォザギル、通称“A・J・”という男の数奇な運命を通じて日露戦争からロシア革命の頃のロシア情勢を語った作品だ。

このフォザギルという男。特段何か特技や特徴があるわけでもない、ごくごく平凡な男である。
しかしなぜか彼の周りには人が集まり、そしてそのたびに彼は名を変え、身分を変え、そして国籍さえも変えて窮地を脱するのだ。

最初は自分の世話をしてくれた裕福な叔父の秘書フィリッパに惚れるが、彼女は彼の世話人の叔父ヘンリー郷と結婚してしまう。失意のうちにそれまで書評欄を担当していた『彗星』紙に自ら志願して戦争特派員としてロシアに行き、日露戦争の取材をするが、彼はそこで飲んだビールが不衛生なもので体を壊したことで入院し、ロシア語をマスターし、ロシア人とコミュニケーションをとるに至り、戦況よりも戦時下で病院に働く人々や恵まれない生活環境などをテーマに送るようになるが、そんな情報は望んでいない新聞社は彼の代わりの特派員ファーガソンを派遣する。
イギリスに帰る列車の中でたまたま食堂車で隣り合わせた紳士に話しかけると、その人物がとあるロシアのロストフという町の小学校の校長先生で彼の流暢なロシア語に感動して彼に学校の英語教師の職をオファーし、A・J・はそれを受けてロシアに留まることになる。

これが彼のロシアでの数奇な運命の始まりだったのだと云えよう。確かに社に志願して戦争特派員としてロシアの地に赴いたのが彼のロシア生活の始まりではあるが、それは新聞社の社員としてであるため、彼はいわばまだ単に組織の一員に過ぎない。この英語教師への転身がこのA・J・フォザギルという男の運命のスタートラインだ。
しかしこれはまだ端緒に過ぎない。この時の彼はまだ運命という川に翻弄される1艘の笹舟に過ぎないのだ。

そして英語教師に着任した1年後に彼の保護者であったヘンリー卿が亡くなる。つまりこのことが彼を更に束縛から解き放つ。
その後彼はペテルブルグに移って英語の著作物をロシア語に翻訳し、校正する仕事に就く。ただその仕事でロシア皇帝の私生活に触れている箇所があることが見つかり、彼を雇った人物の取り計らいでとりあえず最悪の事態は回避するが、1週間以内にロシアを立ち退くよう通告を受ける。

それ以降も彼の運命は流転する。英国諜報部の嘱託員となり、ペテル・ヴァレシヴィッチ・ウラノフと名乗り、以後ずっとロシアではロシア人として通すことになる。

それから内務大臣暗殺を企ている革命クラブと接触したり、警察に逮捕され、収監されるが、ロシア革命の恩赦で釈放され、移動の列車の中で知り合った大学教授夫妻のために食堂車に紛れ込んで食糧を盗んだところを見つかり、銃殺されそうになったところを返り討ちにして逆にその政府高官に成りすます。
そしてその際に知り合った女囚との出遭いが彼の運命を大きく変える。その女性マリー・アレクサンドリア・アドラクシン伯爵夫人は彼の一生愛すべき存在になるのだ。

ところで人はいつ自分の使命を知るのだろう?
いや自分の生きる使命を知る人間がどれだけいるのだろう?

自分がここに生きる意味、誰かのために生きている、もしくは生かされていると悟る人はそれほどいるとは思えない。

このエインズリー・ジャーグウィン・フォザギルという男は最初は我々のようなごく普通の人物に過ぎなかった。

これが次第に人間味を帯びてくる。彼がそれまでただ成り行きに身を任せ、どうしてか判らないがとんとん拍子に物事がうまく運ぶ、流されキャラだったのがアドラクシン伯爵夫人との邂逅で変わっていく。
最初彼は彼女を赤軍に引き渡すために彼女の旅程の助けをしているだけだったが、次第に彼女の魅力にほだされ、そして彼女と共に生き延びたいとまで思うようになる。
そこから彼は主体性を以て動き出す。彼の生きざまにアドラクシン伯爵夫人と云う軸ができるのだ。

この貴族の出の夫人は達観した考えの持ち主で運命に身をゆだねる人物だった。常に気丈に明るく振舞い、生き延びるために身ずぼらしい農婦の服装を身に着けることをいとわず、むしろその状況を愉しみさえする。
さらにはA・J・が兵士に殺されそうになると銃で彼らを撃つことも躊躇わない度胸を示す。

そして彼女の存在はA・J・の物の見方に彩りをも与える。
それまでの彼は自分のことながらもどこか客観的に物事を見つめ、自分の言動ももう1人の自分が見ているような主体性の欠いた状態で受け入れていたが、初めて彼は彼女のために生き、そして無事にロシアを脱出しようと決意するのだ。
やがてアドラクシン伯爵夫人をダリーと呼び、お互い相思相愛の仲になる。

そんな彼らの逃亡行は貴重な出会いの連続だ。

A・J・とダリーの道行きはそれでもしかし苦難の道のりだった。何度も危ない目にあっては機転や稀有な親切な存在に助けられる。

奥ゆかしくも運命に流されながら、時に抗い、生きてきたエインズリー・ジャーグウィン・フォザギルという男の波乱万丈の人生物語だ。
彼はジャーナリストとして夢を抱いてロシアに飛ぶが、求められた記事を書かなかったことで帰国を命じられる。その後はただ出遭う人の申し出に乗って色んな職に就き、また時には周囲の勘違いから政府の役人になったという偶然の連続で生き延びた男だった。
そう、彼は自ら選んだ道では上手く行かず、周囲の要請や提案に従ったことが彼を生かした。

何とも奇妙な男である。
当時のロシア革命真っただ中の、赤軍と白軍、つまり社会主義派と反革命派がそれぞれの街で拮抗する特異な情勢の中でその場その場を潜り抜けるには流れに身を任せるのが唯一の生存手段だったのかもしれない。

自分の意志を貫こうとすれば叶わず、周囲に流されることで自分が生かされた男フォザギル。
なんと虚しい男であることか。
題名の鎧なき騎士とは彼のことを指すのだろうが、個人的にはいささかピンと来ない。

虚しき騎士の物語、それがこの物語に相応しいと思うがどうだろうか。


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鎧なき騎士 (世界ロマン文庫)
ジェームズ・ヒルトン鎧なき騎士 についてのレビュー
No.1387: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

同じ空を飛び、同じ夢を見たようだ

完結した『スカイ・クロラ』シリーズでは語られなかったエピソードを描いた短編集。

「ジャイロスコープ」はクサナギが既にエースパイロットから会社の宣伝塔になった頃の話だ。
飛行機乗りとして空を飛ぶことが楽しくてしょうがないクサナギに逢える一編だ。それはパイロットとして最高の技術を持つクサナギと整備士としてより速く、性能の良い機体を作り上げることを突き詰めるササクラ2人だけの心の交流の物語だ。それはお互い飛行技術と整備技術と畑は違えど戦闘機散香という共通のアイテムを通じて分かち合える最高レベルでの相通ずるもの分かち合う対話だ。
そして何よりも本作はクサナギからのササクラへのプレゼントであることが解る。
整備士はパイロットが安全に飛べるために機体の整備に余念がないが、ササクラは整備士でありながら飛行機の性能を上げることにもまた貪欲だ。それは整備士としてはある意味冒険である。飛行機が平常通りに安全に飛ぶように整備するのが要求されるのに対し、自分が整備した飛行機が自分の腕と知識でどこまで速く飛べるか手を加えることは失敗するかもしれない実験を伴うからだ。
しかしクサナギはそれをササクラに許し、そして通常ならば遠く離れた地での空中戦でしかササクラの改造の成果が解らないが、PR撮影のために飛行場近くでその成果を披露できる機会を存分に利用して彼女の飛行技術を全て駆使してまでササクラに自身の整備した散香の飛行具合を披露するのだ。初めて自分が仕上げた機体が最高の技術を持つパイロットによって最高の飛行をする様子を見られたササクラの感慨はいかほどだっただろうか。
またPR撮影のために営業スマイルとはいえ、笑顔を見せられるクサナギが新鮮だ。その後どんどん絶望へと沈み、営業スマイルすら見せなくなる彼女の生末を知っているだけに、その笑顔が眩しく感じる。

次の「ナイン・ライブス」はクサナギの許を去り、後に大敵となるティーチャの物語だ。しかし物語と云っても特段ストーリーがあるわけではない。彼が赤ん坊を認知し、扶養手当が認められるところが語られる。そして彼にはモナミという同棲している女性がいるが、もちろんそれまでのシリーズを読んだ者ならその赤ん坊が彼とモナミとの間にできた子でないことは判っている。そう、ここではティーチャとクサナギとの間に生まれた子がどのように育てられたかが判るのだ。
そして最後彼が長じてまで空を飛ぶ理由が語られる。彼は単に命の取り合いをしたい訳ではない。ただ空で戯れたい、自由に空を飛んで遊びたいから飛ぶのだ。そこに命のやり取りが介在しているだけなのだ。そして遊びに行くからこそ死んでもしょうがないかと思えるのだ。なぜなら存分に楽しませてくれたのだから。

「ワニング・ムーン」は空中戦で被弾し、海上へ不時着したパイロットのエピソード。
正直よく判らない物語だ。海のミステリに連なる作品なのか。

「スピッツ・ファイア」は軍人たち御用達のフーコの店での一幕か。
女性はクサナギであることは判るが、男性は誰だろうか?カンナミ・ユーヒチかクリタ・ジンロウか。
とにかくこの2人はフーコの店の前に座っている老人から神の話を聞いて、なぜか基地への道中に神に追いかけられているかのような錯覚を覚える。それはいつもは上空で重力から解放された彼らが地上で飛行機ほどではないが、スピードの出る乗り物に乗っているときに感じる重力の重みなのかもしれない。

「ハート・ドレイン」はクサナギを会社の宣伝塔に仕立て上げたカイが初めてクサナギと邂逅する話だ。
最年少で軍の情報部の階段を上る上昇志向の強いカイの物語。彼女がクサナギと出会ったきっかけの物語だが、出世街道を上るカイの第一歩の物語だ。

「アース・ボーン」はある意味『スカイ・クロラ』シリーズの影の主役かもしれないフーコのエピソードだ。
歴代のパイロットと浮名を流したフーコ。
彼女の新たな門出に乾杯。

シリーズ第1作の謎が解かれるのが「ドール・グローリィ」。
本作はこれまで曖昧になっていたことのほとんどを補完する作品だと云えるだろう。
この言葉でこれまでモヤモヤしていたことが全て判明する。
しかしこのことで再び疑問が生じる。
2つの噂が証明され、そして新たな2つの疑問が生まれた短編だった。

その2つの疑問のうちの1つの回答が得られるのが最後の短編「スカイ・アッシュ」だ。
明確に書かれていないが、クサナギ・スイトの退院後のその後を描いた作品だ。


『スカイ・クロラ』本編では語られなかったエピソードを集めた短編集。その中にはシリーズの内容を補完する物もあれば、他愛のない日常を切り取ったスナップ写真のような作品もある。

そう各編で語られるのは起承転結のない日常風景だ。いわば日記のようなものだ。
しかし登場人物たちの日常を描くことでシリーズには書かれなかった部分が徐々に明らかになってくる。そしてそれまで曖昧なままで閉じられていたシリーズの謎がほとんど解かれることになる、重要な短編集ではある。

一方で飛行機乗りしか判らないようなリアルな描写もある。

例えば空を飛ぶとき、重力から解放されている彼らは少し酩酊状態にある。従って地上に降りて重力を感じるようになると現実感が起こり、そしてもし仲間が亡くなっていたりすると重い失望感に襲われていく。

またパイロットは地上ではケンカしないと述べる者もいるが、これは嘘だ。血気盛んなパイロットは映画でも殴り合いのケンカを繰り広げているではないか。永遠の若さと命を持つキルドレだからこその心情だろう。彼はその永遠の子供であることに絶望しており、唯一死ねる場所、空での交戦を楽しんでいる。それは彼ら彼女らにとってケンカではなく、ゲームであり、ダンスなのだ。
そう命の取り合いや争いをしている感覚はない。ただ単純に戯れているだけだ。
そしてその結果命を落とそうが悔いはない。いや寧ろ死ねるからこそ空を飛ぶことを愛するのだ。

従って空では自分たちが行っている空中戦が命の取り合いだと彼らは思っていない。しかし地上でリアルに人を撃ち殺すと自分が殺人を犯したと暗鬱になる。人を殺すという意味では同じなのに空と地上とでは全く異なる。
それは空では戦闘機という機体を介しての殺人であるのに対し、地上での殺人は生命そのものと相対するからだろう。これはキルドレだけでなく、飛行機乗り全てに共通する感覚なのかもしれない。

あと興味深かったのが整備士ササクラの心情が垣間見れたことだ。パイロットから絶大な信頼を受ける腕を持った整備士のササクラもまた影の主役と云える人物だろう。

彼だけがエース・パイロットのクサナギの散香を整備することができることを知らされる。またそれは自分が整備した機体が戻ってくる確率が高いことを意味する。
丹念に整備した戦闘機が必ずしも無事に生還するかは解らない。どれだけ手を加えても戻ってこなかったら無になるからこそ帰還の確率が高いエース・パイロットの機体の整備や改造は実に遣り甲斐がある仕事であることが解る。

しかしPR撮影に臨むクサナギに眼帯を付けた方が宣伝効果が高いだろうと思ったササクラはエヴァンゲリオンの綾波レイのファンなのだろうか?

さて最初私は本書を『スカイ・クロラ』シリーズを補完する短編集だと書いたが、読み続けるにつれて感じたのは森氏が発見したお話ではないだろうかということだ。

シリーズは完結したが彼の中でクサナギ・スイト、ササクラ、ティーチャ、カンナミ・ユーヒチらは生きており、彼らの語られなかった物語を発見したのだ。そしてそれをここに綴ったのではないだろうか。

正直、中には書かれなくてもよかった話もある。

ただ後半はシリーズの後日譚だ。フーコのその後。成長したクサナギ・スイトの異父妹ミズキのその後。そしてクサナギのその後の物語。

率直に云えば本編を補完するにはこの最後の3編だけがあればいいのではないか。いや「ドール・グローリィ」と「スカイ・アッシュ」2編だけで本編の登場人物たちの謎は氷解する。

森氏が代表作だと意識している『スカイ・クロラ』シリーズだと述べていることは既に知られている。つまりシリーズを補完する2編以外の、それぞれの登場人物の生活の点描や本編で一行、一文だけ書かれた何気ないエピソードについて膨らませて書いたのは作者自身が抱いたこの世界から離れがたい名残惜しさだからではないだろうか。

最後の短編「スカイ・アッシュ」で再会したクサナギとフーコがお互い呟く。
夢みたいだ、夢のようだという言葉はこのシリーズそのものについて作者が抱いている感慨ではないか。

飛行機好きの趣味を思う存分、自分の美意識の中で書き、そして最後まで書けたこと自体に対する思いがまさに「夢のよう」であること。

そして森氏の多くのシリーズ作品では他作品へのリンクが見られるがこの『スカイ・クロラ』シリーズは永遠の子供キルドレという設定ゆえか、全く独立したシリーズである。つまりこのシリーズの物語そのものが作者が見た夢そのものであったのではないか。

独特の浮遊感と力の抜けた、敢えて足さない文章で浮世離れした感のある登場人物たちで織り成されたこのシリーズそのものが常に夢見心地だったように思う。

本書の表紙の色は真っ黒だ。それは星一つない夜空を示しているかのようだ。
夜の訪れは一日の終わりを指す。夢のようなシリーズだっただけにその終わりは夜空が相応しいだろう。

読者も作者もそして登場人物たちも同じ空を飛び、同じ夢を見たようなシリーズだった。

▼以下、ネタバレ感想
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新装版-スカイ・イクリプス-Sky Eclipse (中公文庫 も 25-20)
森博嗣スカイ・イクリプス についてのレビュー
No.1386: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

事件はさらに複雑で面白く、探偵はさらに厚かましくて憎々しく

2019年のミステリランキングを総なめにした『メインテーマは殺人』のコンビが帰って来た。
前作同様本書も作者自身がワトソン役になり、元刑事のダニエル・ホーソーンが探偵役を務める。

彼らが今回捜査する事件は離婚専門弁護士リチャード・プライス殺人事件。自宅でワインボトルで殴られたことが死因だ。さらに壁にはペンキで大きく“182”と数字が書かれていた。事件の直前、ゲイである彼の恋人スティーヴン・スペンサーと電話中だったが、通話中に客が訪れたため、掛け直すと云ったきり電話はかかってこなかったらしい。その時リチャードは知っている人間が訪れたような感じで、「もう遅いのに」と云っていたという。

凶器のワインボトルは2000ポンドもする高級ビンテージワインだが、被害者はお酒が飲めない。そのワインは彼の依頼人エイドリアン・ロックウッドが離婚調停が上手く行ったことに対する感謝の意を込めて贈られたものだった。
そしてその依頼人の離婚相手は作家の日本人の純文学作家アキラ・アンノで彼女は事件前にレストランで出くわしたリチャード・プライスに歩み寄って残っていたワインを彼にぶっかけ、さらにワインボトルがあれば殺してやれたのにと暴言を吐いた人物だった。それがゆえに彼女が最有力容疑者となっていた。

さらにリチャード・プライスの遺言状には相続人としてスペンサー以外にダヴィーナ・リチャードソン夫人という名が挙がっていた。彼女は彼が昔洞窟巡りをしていた時の仲間の1人チャールズ・リチャードソンの元妻だった。
その仲間にはもう1人、ヨークシャー在住で経理の仕事をしているグレゴリー・テイラーがおり、彼らは3人で毎年1週間ほど各地の洞窟探検に行くのが通例になっていたが、2007年の≪長路洞(ロング・ウェイ・ホール)≫と呼ばれているリブルヘッド近くの洞窟で雨に降られ、2人は命からがら逃げ出したものの、ダヴィーナの夫は途中で道に迷い、洞窟を脱けられずそのまま還らぬ人となった。
未亡人となった後もリチャードは彼女を経済的にも支援し、インテリア・デザイナーである彼女の仕事の斡旋も行っていたのだった。さらに彼女の息子コリンの名付け親でもあった。

しかしリチャード・プライスの死の前日、もう1人の仲間グレゴリー・テイラーがロンドンのキングス・クロス駅でホームから落ちて列車に轢かれて死んでいたことが判明する。
ヨークシャー在住の彼がなぜロンドンにいたのか。
そしてリチャードの死に彼は関係しているのか、というのが今回の事件の謎だ。

今まで作家自身が作品の中に登場して探偵役もしくは相棒役を務めるミステリはたくさんあったが、ホロヴィッツのこのホーソーンシリーズはホロヴィッツの実際の仕事や作品が登場するのがミソで現実と隣り合わせ感が強いのが特徴だ。
例えば本書では彼が脚本を務める『刑事フォイル』の撮影現場に訪れるのが物語の発端だが、その内容は極めてリアルで1946年を舞台にしたこのドラマのロケハンから当時の風景を再現するための道具立てや舞台裏が事細かに描かれ、映画ファンやドラマファンの興味をくすぐる。そんな製作者たちの苦心と迫りくる撮影許可時間のリミットの最中にホーソーンが傍若無人ぶりを発揮して現代のタクシーでガンガンにポップスを鳴り響かせながら登場する辺りは、本当に起こったことではないかと錯覚させられる。特に最後に附せられた作者による謝辞を読むに至っては作中登場人物が実在しているようにしか思えない。

今回ホーソーンが担当する事件の警察側の担当者はカーラ・グランショー警部でかなり押しの強い女性警部だ。表面上は協力的だが、ホロヴィッツの許を訪ねたかと思うとホーソーンが事件の捜査に関わることを苦々しく思っていることを口汚く述べて、ホロヴィッツを脅し、逆にホーソーンの知り得た情報をリークするようにスパイ役を命じる。

ただこの警部は単に上昇志向が強いだけでなく、独裁志向も強く、とにかく自分が一番に自分の意に沿わない場合は傍若無人に振舞う。『刑事フォイル』の撮影許可も簡単に取り下げて、ドラマスタッフを狼狽えさせるし、スパイの働きが悪ければ書店ではホロヴィッツのカバンの中に未精算の本を忍ばせ、万引き犯扱いし、書店との関係を悪化させようとする。まさに悪漢警察そのものだ。

特に私が面白いと感じたのはこのホーソーンシリーズをホロヴィッツは自身のホームズシリーズにしようと思っているらしく、その場合、謎に包まれたホーソーンの過去や私生活を徐々に明らかにするには固定した警察側の担当、ホームズ譚におけるレストレード警部やエラリイ・クイーンに対するヴェリー警部と定番の警察官がいたため、彼としては前回登場したメドウズ警部を望んでいたのだが、現実の事件捜査ではそんなことは起きないことを吐露している点だ。
この辺がリアルと創作の歪みを感じさせ、いわゆる普通のシリーズ作品にありがちな固定メンバーによる捜査チームの確立を避けているところにホロヴィッツのオリジナリティを感じる。

他にもワトソン役であるホロヴィッツ自身の扱いが非常に悪く書かれており、警察の捜査に一作家が立ち会うことについて警察が面白く思っていないこと、また自分の捜査の実録本の執筆を頼んだホーソーン自身でさえ、彼の立場を擁護しようとしないこともあり、本書におけるホロヴィッツは正直少年スパイシリーズをヒットさせたベストセラー作家でありながらも至極虐げられているのだ。
特に面白いのは彼らが行く先々でホロヴィッツの名前を聞くなり、彼の代表的シリーズ、アレックス・ライダーの名前を誰もがまともに云い当てることができないことだ。これがホロヴィッツとしてのジレンマを表してもいる。
いかにベストセラーを生み出しても所詮ジュヴィナイル作家の地位はさほど高くはならない現実を思い知らされる。それこそが彼がホームズの新たな正典である『絹の家』を著した動機でもあることは1作目の『メインテーマは殺人』でも書かれている。ちなみに今回の事件はホロヴィッツが次のホームズ物の続編『モリアーティ』の構想を練っている時期に起こっている。

この扱いのひどさがワトソン役であるホロヴィッツにホーソーンやグランショー警部を出し抜いて事件を解決してみせるという意欲の原動力となっている。
つまりこのワトソン、実に野心的なのだ。だから彼はワトソン役にも関らず、警察の事情聴取の場でも自ら関係者に質問する。何度も口出しするなと釘を刺されてもいつもついつい質問していしまうのだ。
1作目では彼の不用意な質問が自身を危険な目に遭わせたにも関わらず、彼は止めない。
しかしそれがまた警察の、ホーソーンの不興を買ってさらに関係を悪化させる。
作家の好奇心がいかに疎んじられているかを如実に示しているかのようだ。

物語は1作目同様、さらに複雑さを増していく。

人間関係の網が複雑に絡み、誰もが何か後ろ暗い秘密を持っていることが判明していく。
いやはや本当ホロヴィッツのミステリはいつも複雑で緻密なプロットをしているものだと思わされた。したがって私もなかなかな犯人が絞れないまま、読み続けることになった。

ところでこのシリーズはホロヴィッツの相棒ダニエル・ホーソーンの謎めいたプライヴェートを探るのも1つの大きな謎だ。
1作目では元刑事の職業とは分不相応な高級マンションに住んでいることの解答が得られたが、プラモデルを作るのが趣味でゲイを嫌悪しているという以外まだよく彼のことをホロヴィッツも読者も知らない。
今回は同じマンションの住人たちで開催されている読書会に彼が参加していることが判明する。
さらにその中の1人でインド系のチャクラボルティ家と親しくしており、特に筋ジストロフィーに罹っている車椅子の少年ケヴィンとは親しいようだ。

この事実がしかしホーソーンの驚くべき情報収集の高さの秘密を露呈することになる。

ただ私がこのシリーズを大手を広げて歓迎できないのはこのホーソーンの性格の悪さとマイペースすぎるところにある。彼は常に自分のためだけに周囲を利用するのだ。
冒頭の登場シーンも自分の仕事のためならばドラマの撮影など邪魔するのはお構いなしだし、本書では食事代やタクシー代は全てホロヴィッツに負担させる。まあ、作家である彼はホーソーンの事件を作品化することで全て取材費として経費に落とせるが、それを当たり前のように振舞うのがどうにも好きになれない。

通常ならばアクの強い登場人物、特に主役は物語が進むにつれて好感度を増していくが、このダニエル・ホーソーンは逆にどんどん嫌な人物になっていく。
行く先々で作家と云う微妙な立場で尋問や事件現場に立ち会うホロヴィッツを周囲の誹謗中傷から擁護もせず、ホロヴィッツが口出しをすると自分から依頼したにもかかわらず、この仕事は間違いだった、もう止めた方がいいとまで云ったりする。
また率直な物の云い方、質問の仕方は相対する人物を不快にさせ、協力的だった相手が次第に顔から笑みを消し、退出するよう促すが、ホーソーンは決してそれを聞き入れない。
自分のその時の気分で周囲に当たり、そして自分のペースで物事を運んでは周囲を困らせる、実に独裁的な男である。

しかし今回も手掛かりはきちんと目の前に出されているがあまりに自然に溶け込んで全く解らなかった。ホロヴィッツのミステリの書き方の上手さをまたもや感じてしまった。

そして本書ではシャーロック・ホームズの影響を顕著に、いや明らさまに出している。『緋色の研究』の読書会しかり、作中の期間でホロヴィッツが『絹の家』を発表し、2作目のホームズ物の『モリアーティ』を構想中であることと述べていることもまたホームズ色を強めている一因かもしれない。ホーソーンもあの有名なホームズのセリフを引用したりもする。

1作目においてもホロヴィッツが自分なりのホームズシリーズとしてこのホーソーンシリーズを書いている節が見られたが、本書において作者自身が明らさまにそれを提示していることからこれはもう宣言したと思っていいだろう。

さて私は1作目の感想でこの小説は探偵を探偵する小説だと書いたが、云い直そう。
このシリーズは探偵を探偵するシリーズなのだと。
解説によればシリーズは10冊の予定でその10冊でダニエル・ホーソーンという探偵の謎が明らかになるということだ。1作目の原題が“The Word Is Murder”、2作目の本書が“The Sentence is Death”、つまり1つの単語から始まり、次にそれらが連なって文章になることを示している。それは即ちシリーズを重ねていくうちに物語が連なり、ダニエル・ホーソーンと云う人間が形成されるという意味ではないだろうか。

しかしこのホーソーンと云う男、ホームズほどには好きになれそうにない。今のところは。
このダニエル・ホーソーンをどれだけ好きになるかが今後のシリーズに対する私の評価に繋がってくるだろう。

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その裁きは死 (創元推理文庫)
アンソニー・ホロヴィッツその裁きは死 についてのレビュー
No.1385: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

介護問題の今こそ読まれる作品

本書は前作の『ジェラルドのゲーム』と同じく皆既日食の時に起きた事件の話だ。
アメリカの東西で皆既日食の時に起きた事件を語る趣向のこの2作はしかし厳密な意味ではあまり関連性がない。

本書は章立てもなく、ひたすらドロレス・クレイボーンという女性の一人語りで展開する。

通常こういう一人称叙述の一人語りは短編もしくは中編でやるべき趣向だが、なんとキングはこれを340ページ強の長編でやり遂げたのだ。
まあ、もともとキングは冗長と云えるほどに語り口は長いので、キングなら実行してもおかしくはないのだが。

さて全くの章立てなしで最初から最後まで通して語られる物語はドロレス・クレイボーンという女性が犯した殺人の告白であり、彼女の半生記でもあり、またセント・ジョージ家の家族史でもあるのだ。
そしてふてぶてしい老女の一人語りはなぜ彼女がふてぶてしくなったのかが次第に判ってくる。彼女は理不尽な日々を耐えるうちにふてぶてしさの鎧を身につけていったことに。

前半はドロレスが長年家政婦として仕えていたヴェラ・ドノヴァンとのやり取りが語られる。

ヴェラ・ドノヴァンにはいわゆる彼女なりの流儀があり、それをきちんとこなさないと家政婦の職を首にされてしまう。2度同じミスをすれば給金が削られ、3度目のミスで首になる。その流儀は以下の通り。

シーツを干すときは洗濯バサミは4つではなく6つ使わなくてはならないこと。

焼き立てのパンを出したら置く棚の場所も決められている。

自分のことはミセス・ドノヴァンと呼ぶこと。

浴槽はスピック・アンド・スパンを使って磨くこと。

ワイシャツやブラウスのアイロン掛けの際、襟に糊をスプレーするときはガーゼをかぶせてから行うこと。

揚げ物するときは台所の換気扇を回すこと。

ゴミ缶はゴミが回収されたら近くにいる者が元の所へ戻すこと。その際ガレージの東側の壁に沿って2個ずつきちんと並べ、蓋は逆さまにして載せること。

ドアマットは週に一度ほこりが舞い上げるぐらい叩くこと。そして元に戻すときは必ず“WELCOME”の文字を外から来た人が読める方向に敷くこと、などなど。

特に凄絶なのは彼女の下の世話だ。キングはこの下の世話の戦いだけで20ページも費やす。
3時間ごとにおまるを持っていけばその都度、小を足し、お昼の排泄の時は大も一緒に足すが、なぜか木曜日だけは不規則でヴェラとの頭脳戦だったと延々と語られる。シーツを汚されるのが先か、見事おまるを用意するのが先か。もよおしていない時にあらかじめおまるをするのはヴェラにとっては言語道断。

そんなドロレスの“糞”闘ぶりが延々と描かれるのである。そして最悪なのはまんまと相手に出し抜かれ、痴呆老人の如くシーツのみならず、ベッドからヴェラ自身、そしてカーテンまでが糞まみれになった時もあった、なんてことまでドロレスは告白するのだ。

このヴェラの世話の一部始終を読んで立ち上るのは介護の問題だ。ドロレスが長年やっていたのは裕福な老女の世話でそこには介護の苦しみが描かれている。
そういう意味では介護問題が社会的問題になっている今こそ読まれるべき作品であろう。

しかしドロレスは見事それをやり遂げる。そして22歳で家政婦になってからこれまでずっと彼女に仕えるのだ。
そこには単なる主従の関係を越えた、お互いの秘密を共有した鉄の絆めいたもので結ばれるのだ。

また彼女にはジョー・セント・ジョージと云う夫がいるが、これがキング作品に登場する家族の例にもれず、問題のある亭主である。

暴力亭主であり、定職を持たず、さらには自分の娘にも性的虐待を行うろくでなしである。

彼女はそんな夫との16年の結婚生活の間に3人の子を儲けた。長女のセリーナ、長男のジョー・ジュニア、次男のピート。これらの子供たちもまた父親に対して抱く気持ちは三者三様だ。

まず長男のジョー・ジュニアは暴力を振るい、怒鳴り散らす父親を恐れている。
逆に次男で末っ子のピートはジョーのお気に入りでジョーのように悪びれてそれを痛く気に入られて褒めてくれる父親を慕っている。

一方、娘のセリーナは少し複雑だ。

夫ジョーは家族に日常的に暴力を振るい、それはドロレスも例外ではなく、しばらくは耐えていたが、ある日抵抗してからジョーはドロレスに手出しをしなくなった。

それをたまたま見ていたのがセリーナで彼女はその時に母に脅され、血を流す父を見て可哀想に思うのだ。そして逆にそんなひどいことをする母親を憎み、彼女の代わりに父親に優しくしようと誓う。そして事あるごとにセリーナは父親の傍にいるようになるのだが、彼女が成長するにつれて父親は娘に“女”を感じるようになり、性的悪戯を仕掛けるようになる。
またセリーナは父親からいかに母親がひどい人かを刷り込まれていたので、そのことを母親にも相談できずに次第に家族の中で孤立していくのだ。

ヴェラ・ドノヴァンは次第にドロレスに心を許すようになる。そして時々、日曜か夜中に彼女は妄想に陥る。綿ぼこり坊主が襲ってくるという幻覚に囚われ、ドロレスに助けを乞うことが多くなるのだ。

最初ドロレスはそれが彼女の幻覚でそんな綿ぼこりはないにも関らず、追い払うふりをしてヴェラを安心させる。しかし彼女もまたその幻覚を見るようになる。
綿ぼこり坊主とは綿ぼこりのような生首で、目が両方ともでんぐり返り、口がポッカリ開いて、ギザギザの長いほこりの歯がびっしり生えている化け物だ。このイメージはまさにキングらしい。

そして弱みを見せられるのは相手を信頼をしているからこそだ。ヴェラが弱みを見せた時、ドロレスは彼女にとってなくてはならない存在となった。それはドロレスもまた同じだ。

皆既日食の日を共通項に2つの異なる密室劇を描いたキング。片や脳内会議が横溢した決死の脱出劇、片や1人の女性の記憶で語られる半生記。
その両者の軍配はどちらも地味ならばやはり余韻が深い本書に挙げる。

さてキング作品は数多く映像化されているが、本書もまたキャシー・ベイツ主演で映画化されている。この65歳の老女の一人語りという実に地味なお話がどのように映像化されたのか実に興味深い。なぜなら上に書いたように結構生々しいシーンばかりがあるからだ。

しかしなかなかテレビ放映がないのは現代の放送コードをクリアできないからだろうか。BSあたりで是非とも放送してほしいものだ。

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ドロレス・クレイボーン (文春文庫)
No.1384: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(3pt)

この本を子供が面白かったと云った時、私はどんな顔をしたらいいのか?

本書は子供向けのミステリ叢書として講談社によって編まれたミステリーランドシリーズの中の1作である。しかしその内容は子供向けと云うにはヘビーなものだ。

物語は僕こと馬場新太少年が夏休みに遭遇した探偵伯爵と共に子供の失踪事件を追い、解決するひと夏の思い出だ。

探偵伯爵ことアールは夏にも関わらず長袖の背広を着てネクタイをした、髭を生やした男性である。まあ現在はクールビズといってYシャツにノーネクタイでジャケット無しで仕事に行くサラリーマンも多いが、一昔前のサラリーマンはみんなこんな風だったからさほど珍しいものでもない。

彼はある事件を追って少年の町に来ていた。それは東京で起きた子供たちばかりを狙った無差別殺人事件であることが判明する。
ジャンケンにちなんだ名前の少年、石田、平手、千代木の3人を殺した犯人がこの町に来ているのを知って訪れたのだった。

彼はアール探偵社の社長だったが、この事件を追うためにその座を辞してこの町に来ていた。その理由は後程判明する。

物語は馬場新太の手記、ワープロの練習を兼ねた事件記録めいた日記、いや素人小説のような体裁で語られる。そこには語彙が豊かでない少年の聞き間違いや勘違いなどが散りばめられている。

テレビに出てくるような悪人は現実社会には存在しない。なぜなら明らさまに怪しいと疑われるからだ。

またどうして正義の味方よりも悪人の方が年寄りなのか。普通は年寄りが若者を叱るのだから逆ではないか。

などなど、聞けばなるほどという子供ながらの着眼点に満ちた独り言が散りばめられている。

私が一番感心したのは伯爵が少年に云う情報交換という言葉のおかしさだ。
交換ならば手元から無くなるはずだが、情報は無くならないから交換にならない。情報共有が正しい言葉だと云う件。思わずなるほどと思った。

子供の手記によるいささか寓話めいた探偵物語は例えば探偵伯爵の宿敵に怪盗男爵がいるなどといったガジェットも散りばめられているが、冒頭に述べたように内容は案外重い。

いやはや何とも暗鬱な物語だ。正直これを少年少女に読ませ、理解させることには躊躇を覚える。
そしてこの本を読んで面白かったと子供が感想を述べた時に親はどんな顔をしたらよいのか。

こんな暗鬱とさせられる子供向けミステリの解説をしているのはなんとアンガールズ田中なのは驚きだ。しかも感じている内容は同じなのだが、解説を引き受けた手前か心地いい余韻に浸れたと書いているのには無理を感じた。
決して心地いいものではない、本書は。

森氏は子供向けのミステリでさえ我々に戸惑いを与える。それは読者と云う立場だけでなく、子を持つ親としての立場としてもだ。
これはさすがにやり過ぎなのでは。

本書に限らずこのミステリーランド叢書は子供に読ませるには眉を顰めてしまうものも多い。出版元はもっと内容を吟味して子供向け作品を刊行してほしいものだ。

▼以下、ネタバレ感想
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探偵伯爵と僕―His name is Earl (講談社文庫)
森博嗣探偵伯爵と僕 についてのレビュー
No.1383: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(8pt)

好きなんだなぁ、こういうの

バラバラ殺人事件ばかりを扱った連作短編集『解体諸因』でデビューした西澤保彦氏はその後特殊な設定の下でのミステリを多く輩出していく。それらは読者の好みを大きく二分し、賛否両論を生むようになるが、作者2作目にしてまさにその特殊設定ミステリ第1弾であるのが本書である。

本書の主人公は山吹みはる。SKGという会社の警備員をしている凡庸とした青年で特徴としては2mに届かんとする巨漢の持ち主。しかし身体は大きいが性格は至って温厚、というかちょっと鈍く、どんな女性も奇麗に見え、また敢えて喋ってはならないことも思わずポロっと喋ってしまう、社会人慣れしていない男である。

しかし彼にはある特殊能力があるのだ。それは話している相手の潜在意識を言語化させることができるのだ。

つまり簡単に云うと山吹みはると話している相手はいつしか自分の記憶の奥底に眠っていた、当時気になってはいたが、そのまま忘却の彼方へと消えてしまったとある出来事を想起させ、案に反してみはるに喋ってしまうことになるのだ。

それは彼と喋ると突然不思議な浮遊感に襲われ、たちまち立て板に水の如く、話してしまう。そして当の山吹みはる当人は相手に異変が起きていることに気付かず、単に話を聞いているだけなのだ。

さらに話し手の方はみはるに話すことで当時の違和感を思い出し、推理を巡らし、相手の隠されていた真意、もしくは当時は気付かなかった事の真相に思い至るのだ。
つまり山吹みはるが相手の話を聞いて事件を解決するわけではなく、あくまで真相に辿り着くのは話し手自身なのだ。つまり山吹みはるは話し手が抱いていながらも忘れていた不可解な出来事を再考させ、新たな結論へと導く触媒に過ぎないのだ。

作中では人は勝負において勝ちたいという願望があるのと同じく負けたいという願望も同時に抱く、それを自己放棄衝動と云い、山吹みはるはその衝動を活発化させる能力を持っていると説明されているが、私としてはもっと解りやすく解釈した。

例えば私の場合、いつもは話そうと思わなかったことを思わず話してしまうことになるのはお酒を飲んでいるときである。思わず酒杯が重なるとついつい口が、いや頭の中の引き出しに掛けていた鍵が開けられ、話し出してしまうことがよくあるが、山吹みはるはそんなお酒のような存在なのだ。

物語の本筋は白鹿毛源衛門の孫娘が高知大学を卒業してもなお高知に留まり、就職した理由を山吹みはるが探ることで、一応長編小説の体裁を取っているが、山吹みはるが遭遇する登場人物たちの抱える過去の不自然な、不可解な出来事が短編ミステリの様相を呈しており、それらが実に面白い。

それらのエピソードの数々は時に忌々しい思い出が思いもよらない善意を知り、逆に胸に仕舞っておいた良き思い出が秘められた悪意を悟らせる。
まさにネガはポジに反転し、ポジはネガに反転するのだ。

そしてこれらのエピソードは次第に蜘蛛の巣に囚われた餌食のように関係性を帯びてくる。

また山吹みはるの能力も万能ではなく、例えば話そうとしていた矢先に他人から話しかけられると意識がそちらに向いて浮遊感は雲散霧消するし、強い意志があればその力に抵抗できるようだ。

一方山吹みはるの登場するメインの物語とは別に1人の少女が登場するfragmentと題されたサブストーリーが節目節目に挿入される。それは一種幻想小説のようで、主人公の少女が慕っていた家庭教師の“彼女”がある日差し入れで持ってきたケーキの箱を開けるとハトの死骸が入っており、その日を境に少女は“彼女”に少しだけ嫌悪感を抱くようになる。そして“彼女”との関係が悪化したハトの死骸をケーキの箱に入れた犯人を捜すことを少女は決意する。

このサブストーリーを間に挟みながら、やがてメインの物語は次第にそれぞれの登場人物たちの繋がりを見せ始める。

本書は日本の本格ミステリの歴史の中でもさほど評価の高い作品ではなく、ましてや数多ある西澤作品の中でも埋没した作品である。しかし個人的には面白く読めた。

それは私がこのような複数の一見無関係と思われたエピソードが最後に一つに繋がっていく趣向のミステリが好きなことも理由の1つだ。

そう、私がこの作品を高く評価するのはデビューして2作目である西澤氏の野心的で意欲的なまでのミステリ熱の高さにあるのだ。それは明日のミステリを書こうとするミステリ好きが高じてミステリ作家になった若さがこの作品には漲っているのだ。

上に書いたように山吹みはるが遭遇する登場人物たちそれぞれのエピソードが1つのミステリとなっている。

この設定が作中のショートショートがメインの殺人事件の解くカギとなっている泡坂妻夫氏の傑作『11枚のとらんぷ』を彷彿させたのだ。

また1つ、私の偏愛ミステリが生まれた。好きなんだなぁ、こういうの。

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完全無欠の名探偵 (講談社文庫)
西澤保彦完全無欠の名探偵 についてのレビュー
No.1382: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)

夜のホテルの窓の灯の数々が織り成すモザイクミステリ

映画化もされ、大ヒットとなった『マスカレード・ホテル』。その後前日譚の短編集『マスカレード・イヴ』を経たが、本書が実質的な続編といっていいだろう。

第1作の時に今流行りのお仕事小説と警察小説2つを見事にジャンルミックスした非常にお得感ある小説と称したが、本書もその感想に偽りはない。2つの持つ旨味を見事にブレンドさせて極上のエンタテインメント小説に仕上がっている。

基本的な路線は全くと云っていいほど変わっていない。
高級ホテル、ホテル・コルテシア東京に犯罪者が訪れることだけが警察側に判っており、正体は不明だ。したがって捜査員をホテルの従業員として潜入させ、容疑者を捜し、事件を未然に防ぐ。そして人を疑うのが仕事の警察とお客様を信用し、信頼を得るのが仕事のホテルとの真逆の価値観が生む軋轢とカルチャーショックの妙が読みどころである。

しかし前作と違って本書の主人公の1人新田浩介は既にホテルのフロント係を経験済みであり、前回ほど息苦しさややりにくさを感じさせない。寧ろ愉しんでいる節さえ見られる。特に今回影の主役ともいうべき厄介な客日下部篤哉のプロポーズ大作戦を野次馬根性で見学させてほしいと云った軽薄さも垣間見える。

さらに前回新田の縁の下の力持ち的存在として捜査に大いに活躍したベテラン刑事能勢も登場する。
彼は品川の所轄から捜査一家へ配属され、今回新田の所属する稲垣班が捜査を手伝う矢口班の一員となっている。そして再び能勢は他の捜査陣とは別に隠密裏に被害者の身辺調査に当たり、別の側面から容疑者を特定していく。つまりホテルに拘束された新田ができない捜査を能勢が一手に引き受けるのだ。
まさに新田にとっては盤石の体制と云えよう。

しかしそんな安寧を持たさないよう、東野氏は今回生粋の厳格なホテルマン氏原祐作を新田の指導員にぶつけることで再び新田に不自由を経験させる。
基本的に前回の指導員山岸尚美は不愉快に思いつつも捜査に協力的で、なおかつ新田を一流ホテルに恥じないようなフロント係に仕立てようと努力をしていたが、今回の氏原はホテルの規律と気品を守るためにあえて新田に何もさせないでおくという主義を取る。いわばホテル原理主義者とも云えるガチガチのホテルマンなのだ。
客の前では満面の笑みを見せるが、新田や他の従業員の前では能面のような無表情で辛辣な意見を放つ。私は俳優の生瀬勝久を想像したが、既に彼は新田のかつての教育実習生として出演していたので多分映像化されたら別の俳優が演じたのだろう(映画は未見)。

しかしこの氏原を単なる嫌味なキャラクターに留めないところに東野氏のキャラクター造形の深みを感じる。これについては後に述べよう。

そして今回もお仕事小説としてのホテルマンのお客様たちの無理難題を解決しようと試行錯誤するエピソードがふんだんに盛り込まれている。

本書の導入部では肖像恐怖症の客がリクエストした東京タワーを見える部屋を用意したが、部屋ではなく、外のビルに掲げられた巨大なポスターが目に入るので何とかしてほしいとの難題を山岸が機転を利かせて解決するエピソードを皮切りに、恋人にプロポーズしたいからホテルのレンチレストランを貸し切りにしたい、デザートの時に2人の思い出の曲を演奏してほしい、レッドカーペットを敷いてさらに薔薇の花で飾ってほしいと云った泣きたくなるような難題を解決したかと思えば、その恋人からプロポーズを断りたいので何かいいアイデアはないかと相談される。

さらには一目惚れした女性がいるから彼女と二人きりになる場を設けてくれという無理難題を押し付ける男がいる。しかもその女性は既婚者のように振舞いながらも夫の影は見えないミステリアスな美人。

その美人は多くの店が閉まっている大晦日に凝ったケーキの写真を見せて、これと同じ模型のバースデイケーキを作ってほしいと頼む。

いつも不倫相手の密会に使っているのに、カウントダウンパーティに出るために家族連れで宿泊し、そこに不倫相手もまた宿泊しに来るニアミスが起こる。

小ネタと大ネタを交互にうまく配することで東野圭吾氏はグイグイと読者を引っ張っていく。
いやあ、巧い!非常に巧い!

しかしこのコンシェルジュ山岸尚美の「無理」や「できない」を決して云わずにできる方法を考える、代替案を考えるというモットーは私の仕事にも通ずるものがあるし、私が常に口にしていることなので非常に共感を覚えた。

また彼女が云った話で印象深かったのが時計のエピソードだ。時計の技術が発達して安物の時計でも時が狂いにくくなったがそのせいで時間に遅れる人が増えた、それは正確な時刻が判るがゆえにぎりぎりまで自分のために時間を使おうとするからだという話だ。
これはまさにその通りで私の会社の人間では実に多い。会議の開始時間に来ないことはざらだ。実に身につまされる話だ。

そして今回東野作品の人気の高さの秘密の一端を改めて悟った。
それは物語の設定が非常にシンプルだということだ。今回の物語は始まって60ページまでに云い尽されている。

即ち一人暮らしの女性が殺され、その犯人がホテルコルテシア東京で開催される年末のカウントダウン・パーティ、通称マスカレード・ナイトに現れると匿名の通報が入る。

正直これだけである。
しかしこれだけで読者は一気に物語への興味を惹かれ、結末までの残り約480ページをぐいぐいと読まされてしまうのだ。
シンプルな構成に魅力的なキャラクター、そして読みやすい文体に読者の興味を惹いてページを繰る手を止まらせないプロット。作家として求めるもの全てを東野氏は持っている。

ホテルマン達が相対する宿泊客と新田達刑事が捜査する殺人事件の被害者、そして容疑者には共通する1つの言葉がある。

それは「仮面」だ。

日常から離れて非日常を楽しむ宿泊客にはそれぞれ様々な事情を抱えてホテルに泊まる。
人生の一大イベントの1つ、プロポーズを決意しに来た者や新たな旅立ちを決意する者、さらには不倫のためにホテルを利用している者、それを家族に気取られないようビクビクする者。高級ホテルに泊まっているのに部屋に籠りきりで出ていかない者。

一方新田達の事件も捜査が進むにつれて被害者女性達の奇妙な私生活が判明してくる。

被害者の和泉春菜はボーイッシュな服装を好んでいたが、タンスの中には少女趣味な、いわゆるゴスロリ系の服も残されていた。また高校時代は成績も優秀で彼女と成績を競い合っていた友人は医大に進んでいるのに彼女は東京に出て大学にも進まず、ただ上京し、トリマーの職業に就いた。さらに彼女には恋人とは別の男性と付き合っていたこと、つまり二股をかけていたことも判明する。

それらは彼ら彼女らが公の舞台では見せないもう1つの別の貌、即ち仮面。
いや逆に彼ら彼女らは公の場で仮面を被り、プライベートでその仮面を脱ぎ捨て本性を晒す。

ここにあるのはいわば数々の人生が交錯する社会の縮図だ。物語の最後に明かされる事件の真相を読むにますますその意を強くした。

社会を、人間関係を円滑に平和裏に継続するために少しばかりの嫌悪や嫉妬や怒りは仮面に隠しておかないと世の中は進んでいかないのだ。自分の云いたいことややりたいように振舞ってばかりではぎくしゃくし、不協和音が生じる。

ホテルのフロントはそんなお客様の清濁併せ吞み、笑顔で迎える。
それらの仮面を知りつつ、大事にするホテル側とそれらの仮面を疑ってはがそうとする警察側のぶつかり合いは今回も描かれる。

容疑者を特定するためにハウスキーピングに同行した刑事がこっそり目を盗んで宿泊客のバッグを調べたことが客側に発覚し、危うく訴えられそうになり、さらに捜査に制限が描けられたり、マスカレード・ナイトの参加者がいきなり仮装してチェックインするために素顔が見えないため、外させてほしいと頼むが、ホテル側はそれもまたパーティの趣向でお客様が愉しみにされていることだからと一蹴する。

特に今回登場したベテランのホテルマン、氏原祐作はホテル側の主張を具現化したキャラクターだ。

当初は単に新田ら警察たちを困らせるホテル原理主義の従業員、いわば敵役のように思われたが、彼のお客に対する観察力と記憶力、そして状況判断に対して、苦々しく思っていた新田も次第に彼の能力の高さを認めるようになり、警察に向いているとまで賞賛する。
氏原のアドバイスは豊かな経験に基づいたもので、説得力がある。そして彼はホテルマンという自負があり、たとえ殺人事件の捜査とはいえ、一流ホテルとしての権威と格調を、そしてお客を守ることを第一主義にする。そのために新田にはフロントでの接客業務をさせないようにする。

従って今回新田とお客とのやり取りの妙は鳴りを潜める。しかしこの設定さえも東野氏はミステリの要素とするのである。

いやはや何とも複雑な構造を持ったミステリである。
全ての客が疑わしく思われながら、それら全てについてカタルシスをもたらして読者の腑に落ちさせる。かなりレベルの高いことを東野氏はやってのける。これほどの大仕掛けを仕組むのにどれほど長く構想を練ったのだろうか。

ホテルコルテシア東京という舞台で交錯し、それぞれがモザイクタイルのピースとなって『マスカレード・ナイト』という複雑なミステリを形成する。それはまさに美しきコラージュの如き絵を描いているようだ。

そしてそれはまたホテルも然り。

ホテルコルテシア東京のような大きなシティホテルは夜景が映える。しかしその夜景を彩るのは一つ一つの窓の明かり、つまり宿泊したお客が照らす部屋の明かりだ。その明かりがまさにモザイクタイルのように夜景を彩る絵を描く。

しかしその1つ1つの明かりの中に宿泊するお客は決して自分たちが作っている夜景のような華やかさがあるとは限らない。

奮発して高級ホテルで家族と一家団欒を楽しむ明かりもあれば、出張で宿泊し、疲れを癒す一人客もいるだろう。
その中には単にそのホテルを常宿としている常連もいれば、初めて利用し、胸躍らせる客もおり、高級ホテルを餌に女性を連れ込んで一晩だけの情事を愉しむ者もいることだろう。

待ち合わせに使う客も待ち人と逢って愛を交わす者もいれば、待ち人が来ず、高級ホテルで寂しい思いを抱いている者もいるかもしれない。

身分不相応に高級なホテルで委縮してただ読書やテレビを見て過ごす者、乱痴気騒ぎを起こす者、かつてそのホテルで宿泊した忘れ得ぬ思い出に浸る者、個人の記念日に取って置きのご褒美として宿泊する者、さらには犯罪を企む者。

こうやって考えると改めてホテルという場所は特別な雰囲気をまとった場所であると認識させられる。

様々な人が行き交い、交錯し、訪れてはまた去っていくホテル。チェックインの時に見せる貌は仮面でその裏には様々な事情を抱え、部屋でそれを解放するお客たちに、それらの事情に忖度して訳を知りながらもスマイルで対応するホテルマンたち。
まさに仮面舞踏会そのものである。

さてこの愛して止まないマスカレードホテルシリーズだが、そのホテルマンと刑事のコンビという構成上、なかなか続編は難しそうだ。正直よくも3作まで書いたものだと感心した。

野次馬根性丸出しだがこのお仕事小説×警察小説の極上ハイブリッドミステリの次回作での主人公2人の動向がますます気になってしまう。

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マスカレード・ナイト
東野圭吾マスカレード・ナイト についてのレビュー
No.1381:
(9pt)

全身刑事としての生き様

コナリー31作目の本書は久々のボッシュシリーズ。前作に引き続きサンフェルナンド市警の予備警察官として無給で働いている。

御年65歳のボッシュが相手にするのは過去。彼が30年前に逮捕した強姦犯が最近のDNA調査により他の強姦犯の精液だったことが判明し、逆にボッシュが損害賠償請求の的になる恐れが生じる。その金額は7桁にも上る見込みで大学に進学中のマデリンを養うボッシュにとって破産宣告とも云える仕打ちが待ち受ける。

いやはや65歳と云えば日本では定年延長も終える年だ。長年働き、社会に尽くしてきた終末の時に逆に自分の仕事で訴えられ、そして余生を生きることもできなくなるような多額の賠償金を背負わされそうになるとは作者コナリーはボッシュを年老いてもなお窮地に陥れる筆を緩めない。

そんなボッシュの許に知らされるのはショッピングモールにある薬局で起きた経営者親子殺害事件。今まで過去の未解決事件ばかりを捜査してきたサンフェルナンド市警にとって久々の殺人事件だ。周囲をロサンジェルス市に囲まれたわずか6.5万km2の自治体サンフェルナンド市。このことからもボッシュが送られてきた市が犯罪都市LAの中でも比較的平穏な場所であることが解るというものだ。

さてまずボッシュにいきなり災厄が降りかかる。
30年前に逮捕した強姦犯プレストン・ボーダーズは当時売れない俳優であったが、そんな俳優の卵にありがちなバイトで生活費を稼ぎながら日々オーディションを受けるような苦労人ではなく、両親からの仕送りで生活しており、さらにクレジットカードの請求先も親の口座という、親のすねかじりのお坊ちゃんだ。

一方彼が殺害したとみられたダニエル・スカイラーは妹ダイナと共にフロリダのシングルマザーに育てられ、地元の美人コンテストでの成功とハイスクールの舞台での称賛から女優を目指してハリウッドに出てきた女性。レストランのウェイトレスをしながら日々際限なくオーディションを受けては落ち、受けては落ちを繰り返し、片手で足りるほどの端役での出演をしただけ。しかし彼女の精力的な活動により幅広い人脈が出来、キャスティング・エージェントの受付係の職を得る。
そんな凡百の苦労人である彼女が無残にレイプされ殺された事件だ。

彼の有罪がひっくり返される結果になったのはボーダーズの証拠品を収めたボックスに入っていた被害者のパジャマのズボンから容疑者のDNAではなく、ルーカス・ジョン・オルマーという他の連続強姦犯のDNAが見つかったためだ。しかも証拠品のボックス開封の模様はビデオに収められており、ボッシュのサイン入りの封印が解かれるのもバッチリ映っているという堅牢さ。

そしてその結果、ボーダーズ違法拘束の申し立ての審理が行われ、和解交渉中だが、それが決裂すれば当時ボーダーズを逮捕し、ムショに送ったボッシュを訴追でき、彼は7桁の賠償金を支払う羽目に陥る。
通常ならば市法務局が糾弾される一個人を保護しようとするが、ボッシュはロサンジェルス市と不当退職の訴訟を起こして莫大な賠償金をせしめたことでそんなことはありそうになかった。そうまたもボッシュは自身の行った正義のために自縄自縛状態になる。

もう1つはショッピングモールの薬局で起きた経営者親子殺害事件は捜査が進むにつれて次第にスケールが大きくなっていく。
そしてその捜査の過程でかつての相棒ジェリー・エドガーと再会する。彼は薬事犯罪の現状を調査するMBCの職員に転職しており、ボッシュとそのパートナー、ルルデスに事件の背後に潜むアメリカ全土に亘る一大薬物犯罪の実情について説明し、サポートする。

そしてボッシュはなんと薬物依存症者に扮して囮捜査員になることになる。それはボッシュが65歳という高齢であることが条件に合致したからだ。

いやはやまだまだ走って戦う姿を見ていただけになかなか意識されなかったが、世間一般ではボッシュは既に高齢者であるのだ。
しかしまだ若いと思っているボッシュは何度も年寄りのように見られることにムッとしだすのが面白い。

しかしいつの間にボッシュシリーズはディック・フランシスの競馬シリーズのような題名をつけるようになったのだろうか。
前作『訣別』に引き続き、本書は『汚名』である。これは今回ボッシュが直面する30年前の事件が冤罪の疑いがあり、ボッシュがその件で訴追される恐れがあることを示しているのだろう。

原題は“Two Kinds Of Truth”と実にかけ離れた邦題である。これは作中に出てくる2種類の真実を意味する。1つは人の人生と使命の変わらぬ基盤となる真実、もう1つは政治屋やペテン師、悪徳弁護士とその依頼人たちが目の前にある目的に合うよう曲げたり型にはめたりしている可塑性のある真実を指す。つまり前者はありのままの真実であり、後者は全てを明らかにせず都合のいい真実だけを並べた恣意性の高い真実、つまり「嘘は云っていない」類の真実だ。

こうやって考えるとやはり本書の題名は原題に即してせめて『それぞれの真実』とか『真実の別の顔』とかにならなかったのだろうか。まあ、後者はシドニー・シェルダンの小説の題名みたいだが。

しかし今まで古今東西の薬物事件を読んできたが、とうとうアメリカはここまで来たかという思いを抱いた。
ウィンズロウは社会に蔓延する麻薬を売りさばく側を描いているのに対し、コナリーは薬物を売りさばく方に利用され、廃人にさせられていく薬物中毒者を色濃く描いている。特にボッシュ自身を囮にして詳細にシステムの一部始終を描いている件は迫真性があり、本書の中盤のクライマックスシーンと云えるだろう。

またその囮捜査の過程でボッシュは自身が囮捜査員になるのを避けていた理由に直面する。
通常の捜査は犯罪は行われた後であり、犯人を捕まえることで己が成した正義を実感できるが、囮捜査は自身が仲間であると演じる必要があるため、犯行が目の前になされても捜査継続のために看過せざるを得ない。それは悪を一刻も早く排除したいボッシュにとっては耐えがたきことなのだ。

さて結局本書でボッシュは結局3つの事件を解決する。

齢65歳にして八面六臂の大活躍を見せるボッシュ。

ボッシュに定年退職はあっても引退はなく、一生刑事であり、そして昼夜を問わず寝食も頓着しない全身刑事であり続けるだろう。

そしてボッシュは今回それらの事件で数々の世の中の不条理に直面する。

信念に基づいて強姦犯を突き止め、有罪にもこぎつけたにも関わらず、己の私欲のために証拠を捏造して誤認逮捕の汚名を着せられる世の中。

人生は皮肉に満ちている。
これまで刑事として数々の割り切れなさ、遣り切れなさを経験しながらもボッシュは改めて人間というものの恐ろしさ、そしてそれぞれの欲望が招いた業の深さを思い知る。

本来生きるべき者が死に、また報われていい働きをした者が謗られる世の中の不条理。企業が嘘をつき、大統領までもが嘘をつく今のアメリカ。そんな不条理の中で未だに己の正義に愚直に生きる気高きヒーローのためにボッシュはまだ戦う決意を固める。

そして実感されるのは時は確実に流れていることだ。

30年前の事件に自身の立場を追われそうになり、さらに15年間行方不明の母親が見つからずにいる一方でかつてボッシュが所属していたハリウッド分署に殺人担当部署はなくなり、ウェスト方面隊の刑事が所轄の殺人事件を担当する。
そしてかつての相棒ジェリー・エドガーも転職し、カリフォルニア州医事当局に勤め、薬剤の消費者問題の担当になっている。

そんな長き時を刑事として生きてきたボッシュが自分の正しい道を歩んできたことを上司のトレヴィーノに称賛されて顔を赤らめるボッシュの姿は、今まで一匹狼として誰にも称賛されずに生きてきた茨の道の長さを感じさせ、可笑しいやら悲しいやら複雑な思いを抱かせる。

今回製本上の都合か訳者による解説と未邦訳作品を含めた作品リストが付されていなかったが、ボッシュは本書の後に発表された2作でも登場し、なんと両作において『レイトショー』に登場した女性刑事レネイ・バラードと共演するそうだ。

本書はコナリー31作目の作品である。これほどの冊数を出しながらもこのハイクオリティ。
そしてさらにそのクオリティを次も凌駕しようと魅力的なアイデアを放り込んでくるコナリーの創作意欲の高さと構成力の確かさにはファン読者になったことへの喜びを常に感じさせてくれる。

あとは訳出が途切れぬよう一読者として願うばかりだ。彼の作品を読み続けるためなら身銭を払って買うだけの価値があり、見返りはある。

ボッシュが一生刑事なら私も一生コナリーファンであり続け、彼の作品を買い続けよう。


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汚名(上) (講談社文庫)
マイクル・コナリー汚名 についてのレビュー
No.1380: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(3pt)

私は多分本書の主人公と同じ事はできない。

もはや監禁物はキングの数ある作品群の中で1つのジャンルを形成したと云えるだろう。
『クージョ』、『ミザリー』に続き、キングが用意したシチュエーションは子供のいない弁護士と元教師の夫婦が別荘で拘束プレイに興じようとして、抵抗した挙句に夫が心臓発作で亡くなってしまい、一人ベッドに手錠につながれた状態で取り残された妻の話だ。まあ、何とも苦笑を禁じ得ない状況であるが、直面した当人にとっては生死にかかわる大問題である。

正直シチュエーションはこれだけだ。これだけのシチュエーションでキングはなんと約500ページを費やす。
妻ジェシーが夫に抵抗して心臓発作を起こして亡くなってしまうのが30ページ目。つまり残りの470ページを使って拘束された妻の必死の脱出劇を語るのだ。
しかしよくこんなことを小説にしようとしたものだ。

この実に動きのない状況の中にもかかわらず、それだけのページを費やしているのはやはりキングの豊富な想像力によって生み出される次から次へと降りかかる危難、困難の数々と拘束されたジェシーの頭の中で巻き起こる妄想や回想の数々だ。

まずは空腹の捨て犬が開いていた裏口から迷い込み、ジェラルドの死体から放たれる肉の匂いに抗えず、なんと亡くなった夫を食べ始めるのだ。
この状況は何とも凄まじい。たとえすでに死んでいるからと云っても死後犬の餌になるなんて最悪の死に様である―というか、犬ってやっぱり人肉も食べるのかとショックだった―。

特に犬がジェラルドの右腕を食いちぎろうと激しく揺さぶるのをベッドの上から見つめるジェシーには夫がダンスを踊る様に見える描写は恐ろしさと共に滑稽さが合わさり、実に妙な気分になった。こういう描写を書かせるとキングは実に上手い。

さらに喉の渇きを覚えたジェシーが夫がセックスの前にベッドの棚に置いた氷の入った水のコップを取り、そして口に運ぶのも大いなる苦行となる。
手錠に繋がれたまま、コップに手を伸ばし、棚を傾けさせて自分の方に引き寄せて取るまでに16ページを費やし、そしてコップを手にしたものの、今度は手錠の鎖のために口にまで持って行けないため、落ちていたDMを拾ってそれを丸めてストロー代わりにして飲むまでに18ページを費やす。このコントでもありそうな様子がジェシーにとっては生きるか死ぬかの死活問題なのだ。

コップの水を飲むだけで30ページ以上も費やされるのはその一部始終のみが語られるだけではないからだ。その試行錯誤を行う際、彼女は常に彼女の内部と対話している。それは彼女の頭の中にいる友人たちとの対話だ。

最も頻繁に登場するのは悪友ルース・ニアリーだ。
人とは違った価値観を持つ彼女は学生時代、たびたびジェシーを怒らせた。したがってジェシーの脳内に登場するルースもまた彼女に期待を抱かせることとは真逆のことを―ある意味現実的な線ではあるが―述べ、彼女を絶望の淵に追いやる。

次によく登場するのがグッドワイフ・バーリンゲーム。
そう、ジェシーが外部の人達に取り繕う良き妻である自身の人格だ。彼女はグッディと呼ばれ、彼女はジェシーの現実逃避をたしなめ、そして時に現実を見定めさせ、また時にいい方向に考えが及ぶようにジェシーを説得する。そう、あくまでジェシーが汚れなき良き妻であろうとするために。

さらに彼女のセラピスト、ノーラ・キャリガンも登場する。
彼女はジェシーが気が触れそうになった時、絶望に陥りそうになった時に呪文のように唱えるマントラを授けた女性でジェシーが正気を保つのに役立つ存在だ。

そしてジェシー自身も登場する。
彼女がまだ少女だった頃の、パンキンと呼ばれていた自身だ。実は彼女がジェシーの、こののっぴきならない状況から脱出するヒントを与える重要な役割を果たすのだ。

登場人物表はこのジェシーとジェラルド夫妻の2名しか記されていないが、実は本書ではこのジェシーの脳内登場人物がたびたび登場し、彼女を悩ませ、混乱させ、そして封印していた記憶を呼び覚ます。

その1つは父親トム・マハウトを巡る母サリーとの確執だ。いやこれは一方的に夫が娘に愛情を注ぐ姿に妻が嫉妬しているだけと云えよう。

しかしその父親も10歳になるジェシー、つまりパンキンと2人で皆既日食を見ていた時に自身の娘に対して性的興奮を覚え、彼女のドレスに射精するという“事件”を起こす。

ジェシーはそんな忌まわしい過去をこの拘束状態で思い出すのだ。

さてこの絶体絶命の中、ジェシーはどうにか与えられた条件の中で状況を打開しようと奮闘する。

本書でキングが描いた、もしくは描きたかったのは次の2点なのではないだろうか。

まずはたった1人で取り残された状況で人の思考はいろんな方面に及び、そして過去を掘り返す。それは封印していた忌まわしい記憶でさえも。本書ではその忌まわしい記憶が主人公を窮地から救う手立てを与えるヒントになっているのが皮肉だが。
いやむしろ思い出したくない記憶にこそ、ヒントがあり、それを乗り越えたからこそこれからも窮地に直面しても乗り越えられるという意味だろうか。

もう1つは自分1人しかいないはずの家の中で誰かがいる気配を感じることはないだろうか。よくあるのは一人暮らしの部屋でシャンプーしているときに誰かが後ろに立っていると感じるというあの感覚。

主人公ジェシーも同様に奇妙な男の存在を感じる。しかし彼女が気を喪って目が覚めると誰もいなくなっており、しかも自分に害が及んでいないことから気のせいだと思い出すが、最後の最後で実際にいたことが判る。

つまり自分1人しかいないはずの部屋に誰かがいるという錯覚を覚えながら、実際に誰かがいたという恐怖だ。
この何とも云えない気持ち悪さがしこりとして残り、そしてジェシーはたびたびその幻影に惑わされる。

最後に1つだけ。
本書の最大の犠牲者はジェシーでもなく、ジェラルドでもない。それはプリンスと名付けられた野良犬だ。そうジェラルドの死体を餌にした野良犬だ。
彼は元々は飼い犬だったが勝手な事情で捨てられ、そして餌も与えられずにカシュウォカマク湖近辺を空腹で彷徨っていた犬だ。結局彼はジェシーの家の捜査に入った警察に撃ち殺される。
コロナ禍の在宅勤務中に寂しさからペットを買う人が増えたが、在宅勤務が終わって世話を出来なくなってペットを捨てる人が増えているという。プリンスは今なお増え続けているのだ、人間たちの勝手な都合で。そういう人達は本書を読んで猛省してほしい。

本書は1963年7月20日に起きた皆既日食を軸にしたもう1作『ドロレス・クレイボーン』と対になる物語らしい。つまり本書に散りばめられ、謎のままに終わった部分についてはそっちで判明するのだろうか。

とにかく『荒地』に続いて放り出された感じで終わった本書の後味は何とも奇妙なものだった。
知名度で云えば本書よりも高い『ドロレス・クレイボーン』を早く読んでこのもやもやを払拭したいものだ。

▼以下、ネタバレ感想
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ジェラルドのゲーム (文春文庫)
No.1379: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(10pt)
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これぞウィンズロウ劇場!

ウィンズロウの本邦初となる中編集。デビュー以来ウィンズロウはナイーヴな私立探偵ニール・ケアリーシリーズを皮切りに多種多彩な作品を著してきたが、本書はそんな彼の多彩ぶりが存分に発揮された作品集となった。

まず開巻の幕を開けるのは表題作だ。

警察官一家の凄まじいまでの復讐譚。警察官の弟を、我が子を殺されたとき、秩序を守る警察官も憎しみの炎に巻かれ、皆殺しの決断を下す。

本作の原題は“Broken”。先に警察官を殺すというルールを「壊した」のは二流の麻薬売人の元締めだった。そしてルールが壊されたとき、警察官の中で法の番人としての意識が「壊れ」、法によって裁かれることを良しとせず、自らの手によって処刑を行う。

それを知りつつも警察官たちは敢えて仲間の暴走を止めなかった。警察官は身内が殺されることに異常に執念を燃やす。彼らは仲間の復讐を是としたのだ。いや彼らも法の番人である前に人間であることを選んだのだ。

しかし事件の後の荒廃感は勝者のない戦いの虚しさを助長する。この世界は真面目にまともに生きていてはもはや壊れてしまうのだ。

さて表題作は警察官が主人公だったが、次の「犯罪心得一の一」は一転して高級宝石専門の強盗が主人公だ。

ハイウェー101号線を縦横無尽に走り、疾風のごとく現れては高価な宝石を盗んで金に換える宝石強盗デーヴィス。彼は盗みの前に念入りにターゲットをリサーチする。数か月前からターゲットのメールのアカウントをハッキングし、家族構成に至るまで情報を手に入れ、相手のルーティンを把握し、そしてベストのタイミングを狙って盗みに及ぶ。その手口は実に鮮やかで1分もあれば事を成す。

そして彼は定宿を持たない。リゾート地特有の富裕層が所有する夏季にしか使わない、貸し部屋に出されている高級コンドミニアムの部屋を借りて部屋から部屋へと渡り歩く。決して足を掴まれようとしないよう常に移動することを心がけている。

そして彼の犯行は年に1,2回しか行われないから同一犯による強盗事件であることに気付かれることはない。

…はずだったが、そこにルーベスニック警部補という切れ者の刑事が一連の事件の繋がりを見出すのだ。

この2人、実に対照的である。

宝石強盗のデーヴィスは女性の目を魅くいわゆるイケメンで、己に課した犯罪心得1の1という教義に従い、常に念入りな調査に基づいた隙のない犯行計画を立て、そして決して足がつかないように犯行現場を分散させるなど、用意周到で用心深い性格だ。

一方の事件を捜査する刑事ルーベスニックは典型的な腹の出た中年オヤジで美しい妻は弁護士との浮気を悪びれもせず、別居することを止めもしない。唯一過去10年間に起きた高級宝石強盗が単独犯による犯行だと見抜くが周囲はそれを聞き入れもしない。刑事として優れてはいるもののなかなかその能力を認められない不遇の人物だ。

しかしそんな彼が妻と別居して偶然デーヴィスと同じ海岸沿いの高級コンドミニアムに住むことで人生観を変える。

今まで仕事一辺倒だった彼が周囲に感化され、ボディボードやヨガといった趣味を持ち、余暇を楽しむことになる。それはまさに彼にとって180度人生観を変えることになる。

これはまさにレナード張りのツイストの妙だ。

サーファー、スムージー、カフェでの朝食、美しい女たちと男たち。そんなものが集うカリフォルニアの海には刑事さえも人生を楽しむことを覚える良さがあるのだろう。

人生を楽しむことを選んだ刑事ルーベスニックの車のナンバープレートが最後に明かされるに至るまで最後の最後まで気の利いたウィットに富んだクライムノヴェルの快作である。

レナードを彷彿させる作品だと宣っていたら、次の「サンディエゴ動物園」にはエルモア・レナードへの献辞が捧げられていた。

いやはやこんな面白い幕開けの警察小説がかつてあっただろうか?
なんとパトロール警官が受信した通報は動物園から銃を持って武装したチンパンジーが脱走したという知らせだ。

動物が動物園や牧場から逃げ出すというのは我々はニュースで目の当たりにするが、なんとウィンズロウはそこに武装しているというツイストを仕掛ける。そしてこの何とも珍妙な事件が主人公のパトロール警官クリス・シェイの人生を変えることになる。

この実に魅力的な導入である事件は20ページ弱で解決するが、その後クリスが銃の出どころを探るところが実は本作の読みどころなのだ。

とはいえ最初の武装したチンパンジー脱走事件の顛末も面白く、チャンピオンという名のチンパンジーが脱走したのは求愛したメスのチンパンジーに相手にされなかったからかもしれないという動機やマスコミ、SWATまで駆け付ける大騒動になり、そんな衆人環視の中でクリスが麻酔銃を手にしてチンパンジーを追い詰めた時に、明らかにテレビで学んだであろう降伏のポーズを取って、銃を取り落としてそれがクリスの顔面に直撃し、落下するという映像がYouTubeで流れ、バズるという展開は現代の世相を強く反映していて面白い。

従ってクリスはその後銃の出どころを独自で捜査するのだが、行く先々でモンキーガイと揶揄される、不名誉な有名人となってしまう。特に仲間の警察官には一介のパトロール警官である彼がテリトリーを侵して事件を解決したこと、あまつさえ警官に恥をかかせるような映像を世界中に流したことで彼にとって冷たい態度を取る。誰も彼に協力的になろうとしないのだ。

そんな彼の支えとなるのが動物園の霊長類部門の美しき担当者キャロリン・ヴォイトだ。お互いが惹かれあっているのになかなか本心を打ち明けられず、やきもきする付き合いが続く。

本書では2作目に登場した優秀ながらもうだつの上がらない刑事ルーベスニックが皆の憧れの伝説の刑事として登場することだ。本作の主人公クリスも人生を好転させたがルーベスニックもまた変えた人生をうまく送っているようだ。

またクリスの捜査の過程では奇妙な犯罪者が数々登場する。そんなスパイスも含めてこんな珍妙で軽快で楽しい警察小説はウィンズロウ以外誰が書けると云えようか。

しかし何といってもウィンズロウ作品読者にとって最高のご褒美となるのは次の「サンセット」だ。

ウィンズロウ作品シリーズキャラクター夢の共演である。
デビュー作でウィンズロウの名を不動のものにした『ストリート・キッズ』に登場し、初期作品のシリーズキャラを務めたナイーヴな探偵ニール・ケアリーと『夜明けのパトロール』のサーファー探偵ブーン・ダニエルズが登場する。そしてそれに本書で2作に登場するサンディエゴ警察伝説の刑事ルーベスニックが絡む。

いやはや何とも心憎い演出ではないか。まるで懐かしい友と再会したかのような嬉しさに包まれてしまった。

特にウィンズロウ読者ならば誰もが続編と再会を待ち望んだニール・ケアリーに逢える喜びはこの上ないものだろう。実際私がそうだっただけに。

ニールは既に65歳になり、カリフォルニア大学サンディエゴ校の文学部の教授になって教鞭を執っている。そして妻はなんとカレン。一度別れた2人はニールが探偵業を辞めたと同時に復縁して夫婦になり、今に至っている。

そんな彼らが一堂に会して事に当たるのは伝説のサーファー、テリー・マダックスの行方だ。麻薬所持の容疑で拘留された彼は保釈金30万ドルを払った後、失踪してしまう。

テリーは今では誰もが一目置くサーファー、ブーン・ダニエルズ憧れの人物だ。そして身持ちを崩した彼を懲りずに世話してきたのもブーンである。

本作の題名が「サンセット」なのは象徴的だ。伝説のサーファーとして皆に慕われ、そしてヒーローだったテリー・マダックス。しかし麻薬に溺れ、身持ちを崩し、かつてのようには波に乗れなくなった堕ちた英雄。つまり人生の黄昏を迎えた彼こそがサンセットだ。

それをドーン・パトロール、つまり夜明けのサーファー、ブーン・ダニエルズが捕まえに行く。ターゲットはかつて彼が憧れ、面倒を見てきたヒーローだった男だ。人生を下る者と未だ上る者の追跡劇。
何とも物悲しい。

そしてサンセットが訪れるのはテリーだけではない。

ニールももう探偵の真似事をすることはないと仄めかされている。

そして依頼人のデューク・カスマジアンもまたサンセットが訪れる。

本作はレイモンド・チャンドラーへ献辞が捧げられている。テリー・マダックスは『長いお別れ』のテリー・レノックスがモデルだろう。そしてあの物語がそうであったように本作の結末も甘くほろ苦い。最後にデュークが飲むワインのように。

さてここまでウィンズロウ作品のシリーズキャラが出てくるならば当然あいつらも登場する。次の「パラダイス」は副題にも書かれているように『野蛮なやつら』、『キング・オブ・クール』に登場した麻薬売人ベンとチョンとOが登場する作品だ。

あの4人組のうち、チョン、ベン、Oの3人がハワイでひと悶着起こすのが本作。物語の舞台はハワイのカウアイ島。
ハワイといえば一大リゾート地で日本人にも人気の高い観光都市。私も2回旅行に行ったが大好きな都市だ。しかしそんな温暖湿潤な気候はサトウキビ、パイナップル、米、タロイモの産地として適していたが、大麻もまたそうで、実入りのいい大麻の栽培が増えているとのこと。この辺は複雑な心境で読んでしまったが実際カカオやバニラといったあまり高価に取引されない穀物よりも大麻やマリファナなどを栽培する後進国も多いらしい。

本書は陽気な3人が新たなビジネスを展開するためにハワイを訪れるのだが、ハワイアンのいわゆる島国根性気質が邪魔をし、外部の者との取引を許さない連中との抗争が始まり、彼らと彼と取引相手ティム・カーセン一家が否応なくその渦中に引き込まれてしまう。

で、このティム・カーセン。実は『ボビーZの気怠く優雅な人生』に登場したボビーZの替え玉ティム・カーニーなのだ。彼はあの事件で一緒になったエリザベスとキットと共にハワイに逃れ、いろんな職業を経て大麻栽培で生計を立てていることが判明する。

そしてキットは17歳にして既にスポンサーがつくほどの凄腕サーファーとなっており、よそ者ながらそのサーフィンの腕で周囲の仲間入りを果たし、一目置かれる存在となっていた。

さらにはキットが大事に作り上げていたツリーハウスが地元の麻薬組織<ザ・カンパニー>の一味であり、彼の友人でもあったゲイブに放火された現場に現れる保険会社の男は『カリフォルニアの炎』の主人公ジャック・ウェイドである。彼はハワイ火災生命の社員となっていた。

チョン、ベン、パク、Oの彼らがまだ生きていた頃のおそらくこれが最後のエピソードか。彼らが変わらぬ陽気さと優しさのままでまた会えて本当に良かったと思える作品だ。

そして最後の「ラスト・ライド」はトランプ政権が生み出した膿に対するウィンズロウ怒りの物語だ。

本中編集最後の物語はメキシコとアメリカの国境で起こった、ある警備隊のたった1人の戦いの物語だ。

しかし彼キャルが戦うのは捜査陣の連中ではない。彼が戦うのはアメリカが生んだ忌むべきシステムだ。
トランプ大統領が設定したメキシコとアメリカとの国境に建てられたフェンスを隔てて裂かれた親子の絆を取り戻すために孤軍奮闘する。

彼がシステムとの戦いに臨むようになったのはアメリカの杜撰な移民管理システムとそれによって娘の捜索を妨害された親と、強烈な印象を残す少女の熱い眼差しだ。

そしてそんな杜撰な管理で犠牲になった娘の親を見つけたキャルが直面するのはかつての親友で今は密入国者の手引きをして悪銭を稼ぐ“渡り屋”ハイメの魔手だ。

密入国者を取り締まる国境警備隊のキャル、その捜査の目をかいくぐって密入国者を渡米させる渡り屋のハイメ。かつての親友は今では利害関係にある敵同士。そして目の上のタンコブであるキャルをハイメは殺したがっていた。そこに迷い込んできたのがキャルが捜していた娘の母親。

これはいわばもう1つのアート・ケラーとアダン・バレーラの物語とも云えるだろう。
そしてウィンズロウはこの作品に彼ら2人のもう1つのエンディングを授けたのではないかと思える。

一方でキャルに少女の素性を調べる手助けをしたトワイラは容姿はそれほどいい女ではないが、キャルが自分に気があることに気付いている。しかし彼は軍隊にいた頃に爆弾に吹き飛ばされ、人工股関節を入れられ、除隊して国境警備隊に入隊した女性で自分が負った醜い傷跡と一生背負っていかねばならない不細工な歩き方にコンプレックスを抱き、キャルへの想いに応えるのに躊躇している。

彼女は娘の情報を手に入れる手助けをしたのは今のシステムが間違っていると思っていたからだ。
しかし彼女は正しいことをするのに一歩踏み出せなかった。一歩踏み出したのはキャルだった。

これが政府のやり方だ!とばかりの作者の憤りが込められた展開が繰り広げられる。

題名の「ラスト・ライド」は主人公キャルの実家が経営する貧乏牧場にいる老馬ライリーへの最後の騎乗と疾走を意味する。
メキシコの国境を目前にしてあらゆる交通手段を封じられたキャルが選んだのはいつか安楽死させようと思いながらもできなかった老馬に乗って国境を越えるというものだった。もはやただの穀潰しでしかなかった老いぼれ馬が最後の灯を燃やす疾走は彼がかつて名馬であったことを存分に発揮させる目の覚めるような走りっぷりだった。そしてそれはまさに命を燃やす走りだった。


ウィンズロウ初の中編集はいわばウィンズロウの過去と現在を映し出す鏡のような作品群である。

始まりと終わりは作者が怒りの矛先を向ける麻薬組織への報復の物語とトランプ政権が生み出した社会の歪みに対する怒りの物語だ。

そしてそれらの物語に挟まれるのは実にヴァラエティに富んだ作品たちだ。

エルモア・レナード張りの軽妙なクライムノヴェルもあり、またレナードのように先の読めない展開の軽妙な警察小説もある。人捜しの探偵小説やハワイを舞台にした麻薬組織との闘いとテーマも様々。

その中には過去のウィンズロウ作品の登場人物が一堂に会するファンのための作品もある。ウィンズロウ作品に登場した人物たちのその後が語られ、そして活躍が再び垣間見れる、ウィンズロウ読者にとってはご褒美のような作品。

そのうちの1つ、「パラダイス」では特に驚かされた。それは『野蛮なやつら』のあの軽妙な文体を再現しているからだ。
本書のように複数の作品が一堂に並べられると同一作家の作品とは思えない軽妙な文体で改めてウィンズロウの芸達者ぶりが窺える。

そして様々な人生観が語られる。

この世界はもうすでに壊れているという思いを抱き、そしてそんな世界に生れてきた我々はやがて壊れてその世界を出ていくのだという絶望に浸った者もいれば、眩しい陽光と青い海の傍の生活を得て生真面目に生きてきた人生を一転させ、人生一度の犯罪に手を染め、再生を目指す者もいる。
また映画スター、スティーヴ・マックイーンに憧れ、ハイウェー101号線沿いに生涯住む家を買う人生プランのまま、己の教義に従うクールな宝石泥棒もいる。

身内を殺された警察官が隠密裏に復讐を重ねる物語もあれば、同様に身内の不名誉を隠すために下々の警官の捜査を妨害する一面も垣間見れる。

聡明な動物園の霊長類専門家は美人でありながらも恋愛に奥手で恋愛婚活リアリティ番組を好んで見て自分の生活の空虚さを忘れようとする。

そして人生といえば、かつてウィンズロウの作品で登場してきたシリーズキャラクターのその後の人生が垣間見れる作品もある。

今私は並行して大沢在昌氏の小説講座をまとめた本、その名も『売れる作家の全技術』を読んでいるのだが、そこで大沢氏が何度も強調しているのがとにかく個性の強いキャラクターを作ることだということだ。

ウィンズロウ作品を読むと確かにその通りだと納得させられる。

ここに収められた作品のストーリーは読み終わった後纏めてみるとシンプルなものばかりだ。
身内を殺された家族の復讐譚、長年尻尾を掴ませなかった宝石強盗を追う話、一介のパトロール巡査が憧れの刑事に成り上がる話、かつて憧れの存在だった逃げたサーファーを追う話、ハワイで麻薬抗争に巻き込まれる家族の話、そして国境で引き裂かれた子供を親に引き渡そうとする話。

しかしそれらが実に読ませ、そして読書の愉悦に浸らせてくれるのはウィンズロウが生み出したキャラクターの個性が強いからに他ならない。

特にそれまでウィンズロウ作品に出てきたシリーズキャラクターが複数登場する「サンセット」、「パラダイス」の面白さはどうだ。私がワクワクして読まされたのは彼らの個性の強さゆえだ。

もちろんよくもまあこんなことを思い付くものだといった作品、予想外の展開を見せる作品もある。
しかしそれもそこに登場するキャラクターならそう取るであろう行動や選択肢が読み手の意識にするっと入り込んで違和感無しで読まされるからだ。つまりキャラクターがそうさせたのだと云っても過言ではないだろう。

そしてそんな後日譚を読むことで時は確実に流れ、彼ら彼女らが未だ作者と読者が過ごしてきた時間の中で生きてきたことが感じられた。

本書のような中編集を読むことで改めてドン・ウィンズロウという作家の引き出しの多さを思い知らされた。

しかし最後に行きつくのはウィンズロウの社会へ怒りだ。
特に本書では大なり小なり麻薬に関わる物語が6編中5編もある。つまり麻薬及び麻薬組織への怒りが今でも燻っていることが行間から読み取れる。

そしてもう1つはトランプ政権に対する怒りだ。それまで仄めかすような内容でトランプ政権を批判してきたがウィンズロウだったが本書収録の最後の中編「ラスト・ライド」では自分の置かれた国境警備隊の任務を通じて、アメリカに対する配慮はあっても、周辺の国々には全く頓着しないトランプ政権への怒りを明らさまにぶつけている。
その主人公は大統領選挙にトランプに投票し、そして彼が生み出した政策によって苦悩させられている。そして彼の同僚はアメリカのために従軍してイランに行ったのに気づいてみれば違和感だけが残り、自分の内面が壊れてしまったと吐露する。

それはつまりこれらこそが彼の書くべきテーマ、ライフワークなのだと云わんばかりだ。

そうやって考えると本書で登場したそれまでのシリーズキャラクターの再演は彼ら彼女らの“それ以後”を描くことで読者たちに引導を渡したかのように思える。

続編を願ったキャラクターたちはニール・ケアリーをはじめ、すでに歳を取り過ぎていることが判明する。つまりこれは本書における彼らの活躍が最後であり、今後彼らはウィンズロウ作品に出てこないことの決意表明ではないだろうかー伝説のサーファー、ブーン・ダニエルズのみまだ若いのでその後がこれからも書かれるかもしれないが―。

また「ラスト・ライド」に登場するキャルとハイメはかつて少年時代に親友だった者が前者が国境警備隊に入隊し、後者はメキシコから密入国者を手引きする“渡り屋”となって、取り締まる側と取り締まられる側に運命が分けられている。
これは先般シリーズに幕を下ろした『犬の力』シリーズのアート・ケラーとアダン・バレーラ2人の関係の類似型だ。そして本作こそはウィンズロウが書きたかったアートとアダン2人の結末ではなかっただろうか。

そう考えるとやはり『ザ・ボーダー』で決着をつけた2人のシリーズを本作で心の底からけりを着けたのではないかと思われる。

もっと穿った見方をすれば表題作は警察官が隠密裏に警官であった弟を殺した麻薬売人の仲間を次から次へと殺害する悪徳警官物だ。それはつまりもう1つの『ダ・フォース』とも云える。
そしてこれもまた『ダ・フォース』もう1つの結末なのかもしれない。

これまでの作品へ決着をつけた感のある中編集。彼が献辞に挙げたのは我々読者に対する「ありがとう」という言葉。

今まで読んでくれた読者への感謝のプレゼントでもある本書は作者が全てを清算し、そして新たなステップに向かうためのマイルストーンのように思えた。

ナイーヴで感傷的な探偵物語でデビューし、軽快なサーフィンを楽しむが如く、陽気でありながら残酷で現実的でもあった作品群が麻薬との戦いに憤りを感じ、ライフワークとも云えるメキシコの麻薬カルテルの長きに亘る戦いを怒りのままに描いてきたウィンズロウが本書の後、どんなテーマを我々読者にぶつけるのか。

興味は尽きないが、今はただこの作者による極上のプレゼントの余韻に酔いしれることにしよう。

▼以下、ネタバレ感想
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壊れた世界の者たちよ (ハーパーBOOKS)