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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
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傑作『白夜行』の続編と呼ばれている作品。
本書の主人公の1人新海美冬は東京のブティックで働いていた過去を持つ女。この新海美冬が唐沢雪穂であることを仄めかす描写が本書では見え隠れしている。 例えば以前ブティックに勤めていたこと、自分の人生のためには殺人を犯してまでも邪魔者を排除する強い意志、昼間の道を歩くのではなく、夜の道を行けという台詞、美冬が経営する会社の名前「BLUE SNOW」、そして新海美冬とは全く別の人物がいたこと、以前経営していたブティックの名前が「ホワイトナイト」だったこと、などなど。 そしてもう1人の主人公水原雅也は二代目桐原亮司という役割だ。叔父殺しという犯行を美冬に見られた雅也はしかし美冬に脅迫されるまでもなく、美冬の人生を成功させるために影となって働く。 物語は1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災を皮切りに同年3月20日の地下鉄サリン事件、長野オリンピック、2000年問題と世を騒がせた事件を背景に語られる。 『白夜行』が昭和史を間接的に語った2人の男女の犯罪叙事詩ならば『幻夜』は平成の新世紀を迎えるまでの事件史を背景にした犯罪叙事詩と云えよう。 ただそういう意味では本書は『白夜行』の反復だとも云える。史実を交え、2人の男女の犯罪履歴書のような作りは本書でも踏襲されている。違うのは『白夜行』では亮司と雪穂の直接的なやり取りが皆無だったのに対し、本書では雅也と美冬との交流が描かれることだ。 さらに『白夜行』では雪穂と亮司は絆よりも太い結びつき、魂の緒とでも呼ぼうか、そんな鉄の繋がりで人生を共にしていたのに対し、雅也と美冬の関係はちょっと色合いが違う。 雅也は平凡な生活を夢見ているが、殺人を犯した瞬間を見られた美冬という呪縛に運命を握られ、それに抗えずに魂をすり減らす人生を送っている。 つまり美冬は雅也を使役し、雅也は彼女の従者なのだ。 それが故に雅也は美冬に対して絶対的な信頼を置いていない。美冬に惹かれながら、平凡な生活を夢見ている男だ。そして美冬が自分の人生を変えるため、上のステージに上るために雅也を踏み台にし、殺人まで犯させたことに気付くにあたり、雅也は美冬に復讐を誓う。 ここに『白夜行』との違いがある。『白夜行』では男女2人の共生の物語であったのに対し、本書は女王と奴隷の関係にあった男が女王に背反する物語なのだ。 雪穂、すなわち美冬は以前と同じようにまた彼女の前に立ち塞がろうとする女性どもを排除するために男どもを利用するのに同じ方法を用いたが、それは水原雅也と云う男には通用しなかった。 全ての男が美冬の魔性の魅力に騙されるわけではなく、悪はやはり滅びるということを示した作品なのではないか。 結末を読むまで私は上のように考えていた。 本書のタイトル『幻夜』とはすなわち“幻の夜”のこと。それは震災に見舞われ、着の身着のままで雅也と美冬が出逢った夜の事を指す。 あの時雅也は自分の殺人を見られた美冬とはもう逃れられない強い結びつきを感じて、美冬に全てを捧げる決意をしたが、本物の美冬は別人だと知らされ、あの時の夜が幻に過ぎなかった思いに駆られる。 しかしそれでも雅也は美冬を守ろうと決意を新たにする。理屈では割り切れない感情がそこにはある。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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スキャンダル専門のカメラマン、いわゆるパパラッチの栃尾を主人公にした連作短編集。
最初の「DRIVE UP」では落ち目の女性タレント古谷とすでに忘れられたアイドル歌手佐竹が神妙な面持ちで多国籍料理店で話しているというネタを手にする。 まずは軽いジャブと云った作品。この連作の設定である金貸しの吉井とパパラッチの栃尾の主従関係が形成される導入部的作品。 以後、物語は吉井が取り立てに応じない厄介な客の弱みを掴むために栃尾を利用するという構成が続く。 「DRIVE OUT」では政治の大物重久洋一の孫娘岡本洋子を、「POLICE ON MY BACK」では新宿署の悪徳警官の浅田正次が、「GOING UNDERGROUND」では亡くなった銀行の支店長森脇誠から、。「PRIVATE HELL」では政財界の大物たちが顧客の占い師遠藤和江から借金を取り返すために秘密を探り、そして最後の「SHOULD I STAY OR SHOULD I GO?」では吉井秀人から逃れるために彼の秘密を探る。 吉井の依頼を通じて栃尾が探るこれら顧客の秘密は週刊誌記事で高額で取引される淫靡なスキャンダルの数々だ。 そして標的も落ち目の芸能人と忘れられたアイドル歌手や大物政治家、暴力団を食い物にする悪徳警官、ホモの銀行支店長に、少女買春をする政財界の大物と次第にスケールが大きくなっていく。 判明する事実も行き場の無くなった芸能人たちの醜い争いだったり、近親相姦、ホモのまぐわい、少女買春、更には親殺しと見るも聞くもおぞましい醜悪の極みだ。 また各編の題名は最初の2編以外は主人公栃尾が愛聴するバンドの曲名から取られている。 「POLICE ON MY BACK」はザ・クラッシュの、「GOING UNDERGROUND」はポール・ウェラーの、「PRIVATE HELL」はザ・ジャムの、最後の「SHOULD I STAY OR SHOULD I GO?」は再びザ・クラッシュの曲から取られている。 それらが物語のBGMとしてグルーヴ感を高めている。いや各編に挿入される“Driiiive!”というマンガ的効果音のような単語が物語をシフトチェンジさせ、栃尾の狂気を、出歯亀根性を加速させる。 いや、寧ろ馳氏は物語にロックの持つ躍動感とパンクの放つ破壊的欲望や煽情性を織り込むために積極的に取り込んだのだろう(ただ本書のどこにも著作権使用の断りがないのが気になるが)。 そして面白いのは栃尾がエクスタシーに達するが如く、その覗き見趣味の好奇心が増せば増すほど、吉井への憎悪が募れば募るほど、“Driiiive!”の“i”の数が増えていく。第1編目では4つだったのに対し、2~4編目は6つに、5、6編目は7つに増えていく。 “i”はすなわち“I”、つまり「私」だ。この“i”の数が主人公栃尾の自我が覚醒し、増大するエゴのバロメータを表しているようだ。 本書の中心人物は3人。 スキャンダルこそが自分にエクスタシーをもたらすという覗き見ジャンキーのパパラッチ栃尾と金を取り返すためには他人をとことん利用し、人生を破滅させることも厭わない冷血漢吉井。 この2人は『不夜城』シリーズの主人公劉健一を二分したようなキャラクター造形である。 劉健一は『不夜城』では台湾マフィアのボス楊偉民に云いようにこき使われていたしがない故買屋だったが、その後の『鎮魂歌』、『長恨歌』では影の存在となって人を使い、翻弄する。これはまさに栃尾であり、吉井でもあるのだ。 そしてそこに加わるのが高木舞。3話目の「POLICE ON MY BACK」の標的となる悪徳警官の浅田正次の娘だ。彼女はなんと浅田が親子ドンブリをするために育てられた美少女で、父親に処女を奪われる前に栃尾に体を捧げ、それ以降栃尾の情婦となって付き纏う淫乱女子高生だ。 このように吉井の借金取り立ての相手となる者たちもまともでなければ、主人公たちもとち狂って壊れている。 そんな彼らの関係は近親憎悪とでも云おうか。お互いが忌み嫌っているのに、なくてはならない存在となって依存している。特に吉井と栃尾は先に述べたように劉健一を二分したかのようなキャラクターゆえにお互いが貶めようとしているのに最後はさらに関係は深まって手を組むのだ。 そして彼らは再び秘密を探るため、ポルシェで夜を疾走する。 しかし本書の時代はバブル全盛期。崩壊後の彼らは一体どうなったのか? なんだかんだでこの今でもしたたかに生きているに違いない。 |
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『野蛮なやつら』が還ってきた!
前作で華々しい最期を遂げた彼らの続編はその事件の前日譚。流石に前作に見られたあの鬼気迫る短文と固有名詞の乱れうちのような文体は鳴りを潜めているが、それでも彼ら3人を語るオフビートテイストな、ちょっと特異な文章と短い章で刻んでいくストーリー運びは健在。ちなみに第1章が一行で始まるのもまた同じだ。 その第1章が前作では「ざけんな!」であったのに対し、今回が「あたしとしてよ」だったのには思わずニヤリとしてしまった。 日本語では解らないが、これは前作が“Fuck you!”であり、今回が“Fuck me.”と対語になっているのだ。もうこの1章から一気に彼らの世界に引き戻されてしまった。 今回は二つの軸で物語が展開する。1つは現代の(物語の世界では2005年)ベンとチョンとOの物語が、もう1つは1967年、フラワー・ムーヴメント華やかな時代でのサーファー、ドクが相棒のジョン・マカリスターと共にスタンとダイアン夫妻を交えラグーナに後に“連合”と呼ばれることになる一大麻薬コネクションを作っていくオフビートなビルドゥングス・ロマンが繰り広げられる。 この2つの時代を行き来する物語の仕掛けが解ってくるのは物語の半ばを過ぎてから。ドク、ジョン・マカリスター、スタンとダイアン夫妻、そしてトレーラー生活からその類稀なる美貌でのし上がってきたキムたちが実はベンとチョンとOに密接に関わってくるのが見えてくる。 いわゆる一般市場では市場競争が原則であり、他社の製品よりもシェアを拡大するために品質の追及を行うのが通常だが、麻薬市場は自分たちのシェアを拡大するために常に裏切りと買収、そして自分の地位を脅かす者の排除と非常にネガティヴだ。 これが麻薬が非合法の品物であることに起因しているのならば、オランダのように合法化すればこのような警察と麻薬カルテルとの永遠のイタチごっこは、同業者たちの殺戮の連鎖はもしかしたら終わるのかもしれない。 さてウィンズロウ読者には嬉しいサーヴィスが。 なんとボビーZとフランキー・マシーンが客演するのだ。ボビーZはまだ伝説を作る前の姿でドクの“連合”の一員として、フランキーはドクが組もうとしたメキシコ・マフィアの用心棒として、そしてジョンにドクを殺す方法を教える教師として。 しかし最近のウィンズロウは麻薬をテーマにした作品が多い。しかもそれらは常に血みどろの惨劇になる。また麻薬は関係ないかと思われた作品でも麻薬が絡むことで昏い翳を落とす。『犬の力』を構想中に得た麻薬業界の知識と麻薬捜査の現状の虚しさが作者に怒りを与え、もはやライフワークの感がある。 ファンの1人としてはあまり麻薬に固執せずに物語のアクセントとしてこれからも面白い物語を紡いでほしいと願うのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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シリーズ10作目にしてなお衰えず。
いや巻を出すたびに変わる警察機構と高まる犯罪の複雑さと巧妙さを物語に巧みに織り込み、その情報量とリアリティで他の警察小説と一線を画すステータスを保ち続けている。 警察に復讐を企む正体不明の大男の出現と云うインパクト強烈な導入部から復讐者と鮫島との手に汗握る攻防戦を予想させたが、多様化する日本、特にその中心都市である東京の人種の混在が著しい新宿の犯罪の国際化が否応にもストーリーを複雑化させていく。 銃を求める男が20年以上も刑務所の中にいたことで銃を手に入れるのでさえ、様々な利害関係が絡んだ暴力団と中国系犯罪グループが絡み合い、死屍累々の山を築いていくことになる。 正体不明の大男こと樫原茂の人物像はレイモンド・チャンドラーの『さらば愛しい女よ』の大鹿マロイを想起する読者も多いだろう。斯くいう私もそうだった。登場シーンもいきなり出てきて話しかけるところといい、恐らく作者も意識をして造形したのではないだろうか。 但しチャンドラーがマーロウとマロイを物語の冒頭で邂逅させたのに対し、大沢氏は鮫島が樫原の正体に行き着くまでにかなり筆を費やし、簡単には対決させず、逆に樫原の起こした事件の痕跡を追わせて最後に樫原を邂逅させることで樫原の凶暴性を伝聞的に記述することで、まだ見ぬ大男の恐ろしさを描くことに成功している。 またマロイと樫原が不器用なまでに自分の感情と信念に率直で、瞬間湯沸かし器のように暴力に及ぶのは一緒だが、マロイが女性に女々しいほどに愛情深いのに対し、樫原が家族に注ぐ愛は実にストイックだ。誰にも揺るがせることのない鋼の背骨がある。 私は前作を読んだ時にシリーズ10作目となる次回作がシリーズの最終作となるのではないかと予想したが、それを裏付けるかの如く作中にはそれまでのシリーズを回想するかのごとく、それまでのシリーズで語られたエピソードや事件、鮫島の前から消えた人々の事が触れられる。 新宿鮫も8巻の『風化水脈』を境にレギュラーメンバーが次々と退場していく。真壁に仙田、そして彼らとは違う形で鮫島のライヴァルだった香田もいなくなった。 その流れに倣うかのように本書でもまた新たな別れが語られる。 前作まで積み上がってきた新宿鮫の世界を彩るバイプレイヤーは本書にて一掃されたと云っていいだろう。 しかし最後に鮫島の前に残ったのは警察機構の爆弾として周囲から疎まれたジョーカーだった鮫島の後押しをする仲間たちだった。 そして前作『狼花』同様に最後に残ったのが物語のキーとなる中国人だったというのは今後のシリーズのある種の予兆なのかもしれない。 次作からはまさに新生“新宿鮫”の幕明けとなるだろう。作者の飽くなきチャレンジ精神に敬意を表し、これからも応援していきたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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SF作家の雄クリストファー・プリーストによる本書はハヤカワ文庫FT、つまりファンタジー小説を扱った叢書から刊行された記憶喪失の男を主人公にした物語。
しかしその内容はファンタジーとは程遠く、爆弾テロに巻き込まれたショックで記憶を喪った男が元恋人の来訪を機に記憶を取り戻す努力をしていく物語が綴られる。 本書の原題は“The Glamour”、本書の中で“魅する力”と称されている力を指している。 この物語の2/5辺りで唐突に出てくる言葉の正体はなかなか読者には理解できない。主人公リチャードの恋人スーだけがその力を理解している。 その力とはすなわち不可視人であるという魔法だ。知らず知らずに雲のようなオーラに包まれ、そこにいるのに周囲の人物に気付かれない特性、それが“魅する力”なのだ。そんな彼らの住む世界を彼らは一種の皮肉を込めて“魅力ある世界(グラマラス)”と呼ぶ。 スーザンはその世界でナイオールと云う強烈な不可視の力を持った男と知り合い、同棲することになる。最初は個性的な彼との生活が刺激的だったスーザンだったが、次第に魅力を感じなくなってき、またナイオールの身勝手さが鼻につくようになる。 そんな世界から脱却したがっているスーザンが出逢った男がリチャードだったのだ。彼の特殊な“魅する力”が不可視人の自分を可視の世界へ連れ戻してくれるのだ。 さてこの“魅する力”の正体だが、誰もが気付くことがあるのではないか。即ちクラスや会社の中でも妙に存在感の薄い人がいるが、その存在感の無さこそが“魅する力”なのだろう。 存在感が薄いことは世の中ではネガティヴな意味に捉えられるが、本書では逆にそれこそが万能の力であり、実に魅力的な力なのだとされている。 確かに誰にも気づかれずに他人の家に住むことも出来れば交通機関も無料で利用でき、映画館で無料で観ることも出来るのだ。そして他人に見えないが、いつ気付かれるかというスリルさえも味わえるのだ。 つまり本書では目で見えていることが真実ではないということを訴えているようだ。それは現在の脳科学の分野でも脳が都合の良い物を選択して見せており、あらかじめ像を予想して見せているとまで云われている。 特に350ページ辺りで不可視人の仕組みを脳の認識に関する考察を交えて語る件は非常に面白く読んだ。つまり人は見ているようで見ていない。これは乱歩が好きだった言葉“うつし世はゆめ よるの夢こそまこと”そのものである。 しかし本書をジャンル分けするならば、恋愛小説となろうか。特に記憶を失くした主人公リチャード・グレイが元恋人スーザン・キューリーと出逢ったフランス旅行でのロマンスが語られる第三部の眩しさと切なさと云ったら…。 旅と云う非日常的なシチュエーションで将来一緒に添い遂げるであろう女性と出遭うという素晴らしさ。2人の旅路はただの旅行よりもきらびやかに映ったことだろう。 しかしスーザンの旅は恋人に会いに行くための物。そしてスーザンはリチャードとの新しい恋のためにその男に訣別を告げに行くのだった。 それ以降のグレイの独り旅とはまさにその名の通り、灰色だ。適度に名所に行きながら適度に女性と出遭い、一夜限りの関係を愉しむが、その後に訪れるのはスーザンがいないことの寂しさ。旅をするごとに彼女がいない喪失感が募る。淡々と語られるだけにその思いはひとしおだ。 本書を含め、プリーストの物語は落ち着くべきところに落ち着かず、明かされるべき謎がさらに謎として深まっていくばかりだ。 本書では結局どの記憶が正しかったのかが解らなくなってしまう。つまり我々が立っている世界がいかに不安定なのかを思い知らされるのだ。 答えを知りたいという読者にはこれほど向かない作家はいないだろう。正直私自身またもや放り出されたままの結末にどうしたらよいのかいまだに解らないのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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名アンソロジスト、クイーンの選出眼が光る名短編集第2弾。
まずその口火を切るのはバーバラ・オウエンズの「軒の下の雲」だ。 アリス・ホワイトウッドという女性の日記形式で語られるのは彼女が32歳にして職を得て、一人暮らしを始める顛末だ。しかしその細切れの文体はとても32歳の女性の物とは思えず、次第に彼女は自分が間借りする家の軒下に雲が発生しているのを目にする。そしてその雲は非常に心地よく、次第に彼女に何か煩わしいことが起きると雲が包み込んで紛らわせてくれるようになった。やがて新鮮な面持ちで始まった新生活も次第に暗雲が垂れ込めてくる。 恐らくは精神異常者による手記という形の本作。父親殺しを犯した娘が精神疾患で罪を免れ、リハビリによって社会復帰したところ、彼女は全治していなく、やがて周囲と不協和音を奏でていく。当時としては斬新なミステリだったのだろう。 トマス・ウォルシュによる「いけにえの山羊」は冤罪を仕掛ける男女の物語。 匿名の男女の犯罪計画から一転してホテルに勤め出した貧しい青年に物語はシフトし、やがて彼がなぜか周囲に疎まれ、犯罪者としての汚名を着せられる。その犯罪を計画した犯人が最後の一行で確定するという実にクイーン好みの結末だ。 謎めいた男女の逢瀬というシチュエーションやホテルを舞台にした物語と云い、どこかウールリッチを思わせる作風。 ジョイス・ポーターのドーヴァー警部シリーズと云えばその昔は名シリーズとされていたが、今ではもう絶版の憂き目に遭って見る影もない。そんなドーヴァー警部が登場するのが「ドーヴァー、カレッジへ行く」だ。 今読んでも十分に笑えるユーモア・ミステリ。本格ミステリに徹しているかと云われれば首を傾げざるを得ない真相だが、逆に笑いに徹しているミステリだと解釈すれば実に面白い。本当にシリーズ全てが絶版なのが悔やまれる。 寡作家とされるキャスリーン・ゴットリーブの「夢の家」は短いながらも一種味わい深い作品だ。 小さな町でお巡りをやっているおれの一人称で語られる20ページ足らずの作品だが、小さな町で小さな幸せを見つけようとした男女の哀しい結末が淡々と語られる。その何とも云えない味わいがいいのだ。 クイーンの紹介分によれば寡作家である彼女の作品は待つだけの価値があるとのことだが、確かにその言葉も頷ける出来栄えだ。 ブライアン・ガーフィールドの「貝殻ゲーム」はスパイ対殺し屋の手に汗握る攻防を描いた作品。 スパイと殺し屋の一騎打ちの攻防ながらそのテイストはどことなくユーモラスであり、ドキドキハラハラではなく、スラップスティックのような味わいをもたらす。ガーフィールドのこの作風もまた今に通ずる面白さがある。 この頃の作家は本当に上手い人が多い。なお題名はメキシコに伝わる3つの貝殻のうち、1つだけに豆が入っており、それを選んで当てるゲームに由来している。 E・X・フェラーズの「忘れられた殺人」もまた奇妙な味わいの作品だ。 本作ほどクイーンがこのアンソロジーで提唱する情況証拠というテーマを色濃く打ち出した作品はないだろう。 過去の事件の成り行きを語る人物が現れるが、彼は仄めかすだけで実際にそうだったとは決して云わない。しかしその語り口は明らかにそれが証拠だと云わんばかりの内容。そして最後に明かされる意外な事実。結末を読んで読者はさらに物語の靄の中に放り出されるのだ。 これもなかなか余韻が残る作品だ。 スティーヴン・ワズリックの「クロウテン・コーナーズ連続殺人」は本格ミステリを揶揄したような面白い作品だ。 次々と起こる殺人事件に被害者ならびに関係者の妙に凝った名前となぜか現場に散乱する品物の数々、そして脱力物の真相と本格ミステリをパロディにしたユーモア・ミステリ。 最後の結末もとどのつまり本格ミステリとは変人たちが集まったところで起きた化学反応みたいなものだという作者なりの皮肉なのだろう。 ハロルド・Q・マスアも聞き慣れない作家だが、「思いがけぬ結末」は展開の速いサスペンスフルな作品だ。 召喚状を貰わなければ即ち裁判にも行かなくてもいいわけで、数人の弁護士が召喚状を届けようとして失敗した相手に機転を利かせてまんまと手渡すことに成功する導入部から面白い。そして家庭の不和から始まった事件が次第に大きくなって複数の被害者を出すに至るという展開も上手い。 日本では全く知られていない作家だが、こういう作品を読むと海外作家の裾野の広さを思い知らされる。 収録作唯一のショートショートがアン・マッケンジーの「さよならをいわなくちゃ」だ。 たった6ページの作品だが中身は実に濃く、恐ろしい。 今でいうとアンファンテリブル物になろうか。予知能力のある少女がさよならを告げるとその相手が死んでしまう。彼女が悪いわけではないが、忌み子として周囲は少女を避けるようになるし、彼女を預かっている兄嫁はそれを辞めさせようとする。そして最後の衝撃的な結末。 秀作。 EQMMの常連作家エドワード・D・ホックは秘密伝達局のエージェント、ジェフリー・ランドが主人公を務める「スパイとローマの猫」が収録された。 短編の名手というだけあって、実にそつがなく、手堅い物語を提供してくれる。起承転結全てがしっかりしており申し分ない。たった約30ページの作品なのにサスペンスフルなスパイ小説を読ませてくれる。 アーネスト・サヴェージの「巻きぞえはごめん」は釣りの解禁日に訪れた地で事件に巻き込まれた私立探偵の話。 休暇中の探偵が巻き込まれる殺人事件。休暇中だから厄介事はごめんとばかりに無視しようとするが根っからの詮索好きと探偵の魂ともいうべき職業根性がどうしても事件を忘れようとしてくれない。そしてその後に起こる厄介事も解りながらも容疑者を助けてしまうお人好しさ。自分の馬鹿さ加減に嫌になるといった男の話だ。 リリアン・デ・ラ・トーレの「重婚夫人」は実際にあった事件に題を取った作品だ。 1776年4月にキングストン公爵夫人が重婚罪で裁判にかけられたことは史実のようで、本作はそれから材を得た物。 裁判の様子は現代のそれに比べれば非常に安直な気もするが、18世紀では法律も制度も未成熟だったのだからこんなものだろう。 本書は圧倒的不利と思われた裁判を覆す妙手も面白いが最後に判明するその妙手を授けた相手の正体が実に興味深い。結末はそういう意味では粋だ。 パトリシア・マガーによる「壁に書かれた数字」は『~コレクション1』にも収録された女性スパイ、シリーナ・ミード物。ただ本作は10ページと非常に短い。それもそのはず、暗号解読に特化した作品だからだ。 暗号自体は特段珍しい物ではなく、数字に当てはまる乱数表なり解読のキーとなる物があれば解読できることは容易に想像が付くだろう。これはアイデアの勝利ともいうべき作品。 今では英国女流ミステリの女王として君臨するルース・レンデルも本書刊行時の1970年代後半では新進気鋭の作家だった。しかし既にクイーンの眼鏡には適っていたようで「運命の皮肉」が本書に選出された。 レンデルの長編はとにかく救いがないので有名だが、短編ではその救いのなさを切れ味鋭いどんでん返しとして扱い、読者を驚嘆させるのが非常に上手い。 本作では名作『ロウフィールド館の惨劇』と同じく最初の一行で主人公が一人の女性を殺したことを告白し、彼が殺人に至るまでの経緯とその犯罪計画の一部始終を語っているが、それがまた被害者の女性の性格を読者に浸透させ、また加害者の男性の心理を読者に悟らせることに成功し、またそれらが最後のどんでん返しの伏線となっている見事な技巧を見せてくれる。特に被害者の女性ブレンダの造形は人間観察に長けたレンデルならではのキャラクターでこんな女性が我々の生活圏にもおり、またそんな人ならするであろう行動が上手く物語に溶け込んでいる。 結末はまさに題名どおり運命の皮肉。原題は“Born Victim”、つまり「生まれながらの犠牲者」という意味でこれが虚飾の世界に生きるブレンダの本質を見事に示した物でこちらも素晴らしいがやはり読後感で云えば訳者の仕事を褒めるべきだろう。 最近その短編集が年末ランキングにランクインし、話題となったロバート・トゥーイだが、彼の「支払い期日が過ぎて」は非常に不思議な読み応えがあった。 奇妙な味というよりもよくもまあこのような発想が生まれるものだと感心してしまった。 とにかく借金の取立ての電話のやり取りから読者は変な感覚に放り込まれる。主人公のモアマンという男の想像力というか人をからかって煙に巻く遊び心は本作のように傍で見ている分には楽しいが当事者ならば憤慨してしまうだろう。そしてやたらと怪しい行動を取り、さも妻を殺害したように振舞い、それをだしに不法逮捕、名誉毀損で訴え、賠償金をせしめようという意図が最後に見えて納得する。 しかしその後の行動も非常におかしく、よくもまあこのような男と一緒に暮らせる女性がいるものだと首を傾げざるを得ない。とにかくモアマン氏はネジの外れた狂人か、もしくは周囲の理解を超えた天才詐欺師か? そしてこんな話を思いつくトゥーイの頭はどうなっているのか?色んなクエスションが浮かぶ作品だ。 ジャック・リッチーもまた最近評価が高まっている短編作家でミステリマガジンでも特集が組まれた。彼の作品「白銅貨ぐらいの大きさ」はいわば明探偵の名推理を皮肉った作品だ。 現場の遺留品とそれらの状況からヘンリーとラルフの殺人課刑事コンビが次々と推論を立てて事件の真相と犯人へと迫っていく。しかしそれはある意味刑事2人がそれらをつなぎ合わせて実にもっともらしい解答を案出しているに過ぎないのだと作者は揶揄する。 しかし作中で繰り広げられる推理問答は実に明白で淀みがなく、あれよあれよという間に事件の核心へと迫っていくようだ。 2つの事件の真相からつまりは事件は解決できても人の思惑までは明らかにならない物だという作者ならではの皮肉ではないだろうか?割り算のように答えが出れば全てOKと割り切れるものではない、そんな風に作者がメッセージを送っているように思えた。 さてサスペンスの女王パトリシア・ハイスミスは前巻では「池」という幻想的なホラー小説が収録されたが、本書収録の「ローマにて」のテーマは狂言誘拐だ。 なんとも救われない話。社交界というものがこんなにもつまらないものかと不満を募らせ、しかも容姿端麗の夫は妻がいる前で平然と他の女性と親しくし、またどこかへ消えてしまう。そんな彼女が一計を案じたのが夫の狂言誘拐。しかしお嬢様育ちの彼女は痴漢たちに出し抜かれ、自らも誘拐されてしまい、ひどい扱いを受ける。 作者はとことん主人公を突き落とす。 ジョン・ラッツの「もうひとりの走者」はよくあるサスペンスなのだが、作者の手によって味わい深い作品になっている。 人里離れた別荘地で知り合うようになった夫婦がどうも仲がよろしくなく、夫は何かに悩みを抱えているような苦悶の表情でジョギングをしている。そんな最中に起こる夫の死。もちろん犯人は今の生活に不満を持つ妻だったが、ジョン・ラッツが上手いのは主人公も同じ目に遭わせてちょっとしたトラウマを抱かせること。特に最後の一行の上手さ。この余韻は絶妙だ。 多作でエンタテインメントの雄であるドナルド・E・ウェストレイクの作品も収録された。「これが死だ」はなんと幽霊が主人公の物語。 幽霊が自分の自殺が発覚した捜査とそれを発見した妻の振る舞いの一部始終を観察するという実に奇妙な一編。何とも云えない余韻が残る作品だ。 デイヴィッド・イーリイもまた最近評価が高まっている短編の名手だが、その実力を「昔にかえれ」で発揮した。 前世紀の不便ながらも生き甲斐に満ちた生活を始めた彼ら。最初は精神的充足を求めての行為だったが、次第に周囲の目が向くことで彼らの自意識が過剰になっていく。しかしそれにも増して世間は彼らを見世物パンダのように興味津々に見物しだし、彼らの生活圏を侵していく。そして行く着く結末はなんとも皮肉だ。 人間の集団心理が生み出す残酷さを実にドライに描いている。 ビル・プロンジーニの「現行犯」もなかなか面白い作品だ。 この短編における、男が盗んだものはある意味リアルすぎて怖い。 単なるワンアイデア物の短編に終わらない考えさせられる内容を孕んだ作品だ。 さて最後はEQMMの常連で別のアンソロジー『黄金の13』にも選ばれたスタンリイ・エリンの「不可解な理由」だ。 当時ならばこの内容は非常に斬新だったのだろうが、企業小説が華々しい現代ではもはや珍しい物ではなくなった。実際の会社はこの小説よりももっとえげつないやり方で肩叩きを行う。とはいえ結末は衝撃的。 さすがはエリンといった作品だ。 前回のコレクションに続くパート2という位置づけだが、原題は『~コレクション1』が“Ellery Queen’s Veils Of Mystery”、つまりミステリと云うベールを剥がす作品を集めた物であるのに対し、本書は“Ellery Queen’s Circumstantial Evidence”つまり情況証拠をテーマにしたアンソロジーなのだ。 そのテーマ通り、収録作品は情況でどのようなことが起きているのか、もしくはどんなことが起きたのかを推察する作品ばかりだ。 そしてその情況証拠のために登場人物は恣意的な解釈を行い、ある者は強迫観念に囚われて狂気に走り、ある者は不必要な心配を重ねて自滅の道を辿り、またある者はその後の人生にトラウマを抱え込む。ことに情況証拠とはなんとも厄介な物であることが各作家の手腕でヴァリエーション豊かに語られる。 しかしこれは今この感想を書くに当たり、原点に振り返ったから思うのであって、収録作品は我々が読むミステリとは特別変わりはない。つまりミステリというものは情況証拠によって成り立つ物がほとんどだということだ。 さてそんな2巻両方に収録されている作家はパトリシア・マガー、パトリシア・ハイスミスの2人。ビル・プロンジーニも1ではマルツバーグとの共著で選ばれている。他にスタンリー・エリンは『黄金の13』に選出されている。 一概に云えないがこれらの作家の作風は選者クイーンとは真逆の物ばかりということだ。彼ら彼女らの作風はもしかしたらクイーンが書きたかったミステリなのかもしれない。 さて本書の個人的ベストは「夢の家」。この小さな町のお巡りの一人称叙述で語られる叙情溢れる物語は短編映画を観たような味わいを残す。 さらに題名である「夢の家」の本当の意味が最後に立ち上ってくる余韻はなんともほろ苦い味わいを放つ。 またこんなの読んだことないと思わせられたのはロバート・トゥーイの「支払い期日が過ぎて」。とにかく主人公の狂人とも思える会話の応対は読者を幻惑の世界へ誘い込む。シチュエーションはローンの取り立てとその債務者の会話というごく普通なのにこれほど酩酊させられる気分を味わうとは。とにかく予想のはるか斜め上を行く作品とだけ称しておこう。 とはいえ、本書収録作品の出来はレベルが高く、読後も引き摺る余韻を残す作品が多い。 フェラーズの「忘れられた殺人」やレンデルの「運命の皮肉」、リッチーの「白銅貨ぐらいの大きさ」にハイスミスの「ローマにて」、ラッツの「もうひとりの走者」とウェストレイクの「これが死だ」にイーリイの「昔にかえれ」と最後のエリン「不可解な理由」などは割り切れない結末であり、非常に後を引く。 1巻と比べると評価はどちらも高いが、2冊が抱く感想は違う。 1巻は最初はそれほどの作品とは思わなかったのが読み進むにつれてしり上がりによくなっていたことに対する評価であり、本作ではクオリティが全て水準以上であり外れなしといった趣である。しかし残念ながらミステリ史を代表する抜群の作品がなかったことが☆9つに留まる理由である。 しかし今現在この短編に収められている作品が読める機会があるだろうか? 収録された作家はかつては日本でも訳出がさかんにされ、書店の本棚には1冊は収まっていた作家が多いが、平成の今その作品のほとんどが絶版状態で入手すること自体が困難な作家ばかりである。 そんな作家たちの、クイーンの眼鏡を通じて選ばれた作品を読める貴重な短編集である本書はその時代のミステリシーンを写す鏡でもある。再評価高まるクイーンの諸作品が新訳で訳出されている昨今、この時流に乗って彼の編んだアンソロジーもまた再評価が高まると嬉しいのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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どんでん返しの宝箱と評される傑作短編集『クリスマス・プレゼント』。本書はその第2弾。
まずは「章と節」。 本格ミステリの代表的なトリックにダイイング・メッセージがあるが、本作はそれを逆手に取った物。 死の間際に遺されたメッセージがパソコンのウェブサイトで調べないと解らないくらい複雑な物であるはずがなく、夜を徹して苦闘する刑事の姿が実に滑稽だ。しかも周囲の人物の意見で襲撃者の計画を鵜呑みにする刑事の主体性の無さ。左遷で証人保護プラグラム担当になったという設定の刑事だが、確かにそれだけのことはある。 続く「通勤電車」はある男が直面する転落を描いた話。 さりげないエピソードが主人公を悪夢へ叩きのめすという展開はディーヴァーお得意の物。ただミスディレクションとまでは行かず、これは先が読めた。主人公を傲慢で鼻持ちならない人物にしたことでその破滅ぶりにカタルシスを覚えるのが上手い。 時代物の短編「ウェストファーレンの指輪」ではニヤリとする演出が成されている。 1892年のロンドンを舞台にした窃盗犯と警察との丁々発止のやり取りを描いた作品、と書けば案外普通に思えるが、これにはディーヴァーならではのファン・サービスが詰まった作品だ。 まずこの時代はスコットランド・ヤードが科学の手法を警察捜査に取り入れた頃であり、現場に残された証拠から犯人を特定する高度な捜査が繰り広げられる。しかし敵もさるもので警察が嗅ぎ取るであろう痕跡を巧みに利用し、街の悪党を逮捕する方向へ見事に誘導する。 「監視」も味わいは「ウェストファーレンの指輪」に似ている。 本作におけるオンライン情報の監視はディーヴァー作品では『青い虚空』や『ソウル・コレクター』で見られた手法だが、本作はそれらから生み出された副産物のような作品だ。ミュラーの狡猾な犯人による捜査の誤導は面白いのだが、すでに前に挙げた作品を読んだ身にしてみればさほどの驚きはなかったかな。 「生まれついての悪人」は実に皮肉。 これもディーヴァーならではの反転。しかしこれも案外見え見えの展開だ。 そして裁縫が得意なリズは自分の服に色んな隠しポケットを仕込んでいるが、これはやはり『魔術師』と同類だろう。 「動機」はそのものズバリ、犯人が殺人を犯した動機を探る物語。 先の「通勤電車」と同じ手法の作品。 次の短編「恐怖」の舞台は珍しくイタリアのフィレンツェ。 至極単純なサイコ・ホラーと見せかけて予想外の結末に導く。女性が殺人鬼と思われた男性から逃げるために籠った部屋を予め男性が予想していたのはちょっと出来過ぎだろうと思ってしまうが、この展開は見事。 「一事不再理」は前回の短編集でも収められていた法廷物の1編。 絶対不利と云われた裁判で無実を勝ち取るというのは法廷小説の一種の醍醐味で本書も実に巧妙な切り口で弁護士ポールが四面楚歌状態から優勢に持っていく素晴らしい弁護の過程が存分に楽しめる。 しかし本書では法廷の逆転劇が読書のカタルシスではなく、さらにもう一捻り加えてあるのがミソ。 強引とも云える辣腕弁護士による無実というどこかアンフェアな読後感を一掃する被害者の一手がその不満を浄化してくれる。しかし一事不再理というアメリカ独特の裁判制度は色んな作家が題材にしているということは誰しもがその裁定に納得のいかないことを潜在的に感じているのだろう。 「トンネル・ガール」は老朽化したビルの地下室に閉じ込められた女子高生の救出劇を描いたもの。 テレビの実況中継を髣髴するライヴ感に富んだ作品だが、本書の結末は実に奇抜。 ディーヴァーを語る上で外せないのがリンカーン・ライム。今回も「ロカールの原理」で登場する。 トム、アメリアはもとより、セリットーにデルレイ、そしてクーパーとオールスターキャストで飾る贅沢な1編。そして本作も「トンネル・ガール」に勝るとも劣らない強烈な展開を見せる。 そしてライムの推理がミスリードされるように手掛かりを残しておく周到さも見せるが、さすがはライム。犯人よりも一歩上を行く。 しかしこの偽の手掛かりというのは最近ディーヴァーはよっぽどお気に入りなのだろう。どんでん返しが強烈に決まるからかもしれないが、あざとすぎて少々食傷気味だ。 「冷めてこそ美味」はひょんなことからある陰謀が発覚するという魅力的な導入部から始まる。 一風変わった題名は英語圏独特の云い回しだろうか、“復讐とは冷めてこそ美味い料理である”という慣用句に由来する。 何の繋がりもない人物から命を狙われている可能性があると聞いたら人は疑心暗鬼に陥るのではないだろうか?通常ならば気にも留めない物音や人影も全てが疑わしく思え、あらゆる可能性が自分の死に直結すると考えてしまう。 本作の狙いはそんな疑心暗鬼に陥った人の過剰反応を滑稽に描くところにあるのだろうが、ディーヴァーはそこを逆手に取って、人の恨みの恐ろしさを描く。 確かにトロッターのように犯罪にならない程度の悪戯を施して悦に浸る人ほどたちの悪いものはない。 スティーヴン・キングやクーンツの作品を想起させるのが「コピーキャット」だ。 本に書かれた事件の通りに殺人事件が起こる。 この題材は古くから使われていた手だが、ディーヴァーはそこにメタフィクションの要素を入れた結末を一味加えた。 しかし個人的には犯人を作者と特定せず、リドル・ストーリーのように終える方がよかったかなと思う。まあ、これは好みの問題だが。 女性の縁のない男が出逢った絶世の美女。誰しもそんな女性とはお近づきになりたいと思うだろう。「のぞき」はそんな冴えない中年男の物語。 ストーカーというのはそれ自体非常に恐ろしい物だが、これはそれを逆手に取ったコメディだ。 ギャンブルの世界は実に奥深いが表題作「ポーカー・レッスン」はそんなギャンブラーの思考を垣間見せてくれる好編だ。 映画「ハスラー」を髣髴させるような若い青年とベテランギャンブラーとの交流と勝負を描いた傑作。勝負師ケラーを出し抜いた青年の意外なトリックとさらにその上を行く老人ギャンブラーの狡猾な仕掛けというディーヴァーならではのどんでん返しも楽しいが、たった一夜の物語の中に百戦錬磨のギャンブラーが駆け出しの青年ギャンブラーに大人のギャンブルの世界のルールとマナーを教える様子、そして大勝負の緊張感と勝負師の精密機械張りの読みとフェイクの数々が実に読み応えがある。 長編のクライマックス場面を凝縮したような非常に贅沢な作品だ。これが個人的ベスト。 「36.6度」はこれまた実にディーヴァーらしい作品だ。 あちらが脱獄囚と見せかけて実はこちらが…と見せかけてさらに意外な展開を見せる。しかしやはりあざといな…。 最後の「遊びに行くには最高の街」は先行きの見えないクライム・ストーリーだ。 ニューヨークのダウンタウンを舞台にした悪徳の街のクライムノヴェルと思いきややはり最後はディーヴァー印のどんでん返しが待っている。 しかし本作の文体はそれまでの彼の作品とは違い、安っぽい悪が横行するエルモア・レナード張りのクライムノヴェルとなっている。実は最後に明かされる大仕掛けの種明かしはいらないかもと思ってしまうほど、クライムノヴェルとして面白かった。 これだけ大掛かりじゃなくても少しばかりの引掛けでよかったのになぁと思った作品。 これほど長く待たされたと思わせられる訳出も珍しい。前作『クリスマス・プレゼント』の刊行が2005年。原書刊行が2006年。 だからいつ出るのかいつ出るのかと心待ちにしていたが、これが一向に出ない。 そして2013年。8年の月日を経てようやくの刊行。今や現代アメリカミステリの巨匠となったディーヴァーの超絶技巧が詰まったどんでん返しの宝石箱だ。 この表現は全く以て偽りなし。16編全てにどんでん返しが織り込まれている。そして本書におけるどんでん返しはリンカーン・ライムシリーズで培った技法が大いに下敷きになっている。 特に多いのはわざと状況証拠を並べて警察の捜査をミスリードさせるもの。 しかしこれも行き過ぎれば作り物めいた作品になってしまい、それほど先読み出来るものかと疑ってしまって、存分に愉しめなくなっているのは確か。どんでん返しが高度になり過ぎてもはや訳が分からなくなってしまっている。 そんな中、本書における個人的ベストは表題作。本作ではディーヴァー特有の予想の斜め上を行くどんでん返しも面白いが、何よりも物語の中身が実に濃密。若い駆け出しのギャンブラーと百戦錬磨のギャンブラーの交流と息をつかせぬ大勝負の描写が実に面白い。 そしてディーヴァーはこんなギャンブル小説も書けるのかと脱帽。ディーヴァーの新たな才能の片鱗を見せてくれた。 他には「恐怖」も捨て難い。 逆にどんでん返しが邪魔になったのは最後の「遊びに行くには最高の街」だ。これは逆にクライムストーリーのままで進み、最後にちょっとした仕掛けを施すプロットの方が楽しめたように感じた。 しかし今回は歪んだ社会に潜むどんでん返しというのが目立ったように思う。特に一見普通の市民がその裏では変態的な犯罪者の側面も持っているという隣人に心を許すなかれというメッセージが含まれた作品が多い。 しかし地域交流もこんな話を読むと恐ろしくて気軽に出来ないなぁ。 しかし今回のどんでん返しにはあまり納得がいかない物も多く、正直云って前作より出来は劣る。これだけ物語やシチュエーションにヴァラエティを持ちながら、落ち着くところはどんでん返しという所が設定を変えただけという風に思えてしまうからだ。 前作は語り口でものの見事に騙されたというような鮮やかなどんでん返しがあり、どんでん返しそのものにヴァリエーションがあったように思えた。 今回はほとんどが説明的などんでん返しだったとでも云おうか。 私が好きなどんでん返しはすなわち価値観の逆転。正と思った方が負であり、善が悪に反転するというものだ。 本書にもその趣向に該当する物があるが、前述のようにそれらが非常に説明的だったのが残念。 この辺は語り口の好みの問題なのだろうが、やはり小説を読むのであれば説明的な文は避け、物語の中でさりげなく語り、読者に悟らせるべきだろう。そういう意味では小説の一歩手前のような印象を受けた。 とはいえ、現代気鋭の物語巧者であるディーヴァー、先ほど述べたようにそのシチュエーションのヴァリエーションは実に多彩。さらに一つ一つのディテールが濃く、本当にこの人は何でも書けるという思いを強くした。 特に感心したのはギャンブラーの世界を描いた表題作と最後にクライムノヴェルを読ませてくれた「遊びに行くには最高の街」だ。 更に上に書いたどんでん返しのあざとさはいわばディーヴァー作品を読み慣れた読者の私にとって感じることであり、それはすなわち期待値の高さによる。 ある意味本書は読書の功罪を孕んだ作品集と云えよう。 短編集では全ての短編にどんでん返しが盛り込まれており、特に初めてディーヴァー作品を読む人は読書の至福を感じるだろう。 しかし逆にこれが基準となればその後の読書に多大なる影響を与えることになりかねない。 さて彼ほど読者の期待を一身に受けている作者はいないだろう。次の短編集ではどんな奇手を見せてくれるか、実に楽しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
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1977年に発表された本書は一世を風靡し、映画を変えたとまで云われた『マトリックス』の原型となる作品だろうか。
リドパス投射器という死体安置所の抽斗のようなところに寝かされ、投射された人々はウェセックスという仮想世界でそれぞれの仕事に就き、生活を営むのだ。 それはセカンド・ライフのような仮想空間であるが、催眠状態に陥って自身の意識がその空間に飛び、体感する有様はまさに『マトリックス』のようだ。 仮想空間に飛んだ人々は回収係という人間によって強引に引き戻される。それは鏡を使って誘導されるのだが、これが『マトリックス』の電話と同じ役割のようだ。 ただ『マトリックス』では仮想空間マトリックスにいる間も現実世界の記憶を留めたままなのに対し、本書では投射世界で現実世界での記憶を忘れてしまうところだ。ただ出逢った人間によってお互いが初めて逢う人間ではないといった既視感や懐かしさを感じたりするのだ。 しかしこの投射世界という想定された未来世界に人を投入するウェセックス計画の内容が読者に解るのは150ページを過ぎたところ。つまり物語の約4割を過ぎたあたりからだ。それまではジューリア初め、他の参加者たちが投射される目的が全く分からないまま物語は進行する。 そして特徴的なのは仮想の投射世界と現実世界のやり取りがシームレスで交互に語られることだ。つまり読者には物語の世界が現実世界の事なのか投射世界でのことなのか区別がなかなかできなくなってくるのだ。 特に物語の鍵を握るポール・メイスンが介入してきた後半はその特性が高まる。なぜなら投射世界の中に投射器が出てくるからだ。そして現実世界ですら、投射世界から投射されたもう1つの投射世界ではないかという混乱をももたらす。 そして物語の最終局面に至ってはデイヴィッドのいる投射世界の投射器の中に再び投射されたジューリアの肉体が収容されているというパラドックスが訪れる。そして果たしてどちらが現実でどちらが仮想世界なのか、ますます混乱を来してくるのだ。 逆にこれこそが作者プリーストの狙いなのだろう。2つの世界を行き来する登場人物たちが抱く感覚を読者にも共有することが。そしてこの狙いは成功していると云えよう。 しかしこの物語で登場するポール・メイスンとは何と云う卑劣漢だろう。主人公ジューリアの元恋人でハンサムでカリスマ性のある人物像だが、自己愛が強く、自分の願望を満たすために強引な手も厭わない。そして自分を嫌いになる人などは存在しないと思い、好意を持たない人物には徹底的に苛め、破滅させようと追い込む。 クーンツ作品によく出てくる絶望的なまでな悪意を備えておきながらも当事者以外には好人物として振舞うエゴの権化のような悪党だ。 この2つの区別のつかない世界を与えられた時、そして仮想空間の方が心地よい居場所だった時に、その人にとって現実とは果たしてどちらなのか。これが作者の本書におけるメッセージであると思う。 1977年に書かれた本書は今のネット社会を予見させる内容だ。現にネット社会に耽溺し、廃人となる人々もいる。全く以て余談だが、私もオンラインゲームを嗜んでいるが、日々の雑事で週末の休日ぐらいしか訪れない。しかしそれでも常にそこにいるユーザーが居て、この人たちは一体現実世界ではどのように生活しているのだろうかと訝ることもしばしばだ。 閑話休題。 しかしこの2つの世界を行き来するという設定の基礎となるウェセックス計画と云うのが今いち弱いと感じる。 数年後の想定未来に被験者は行って、どうやって現代の社会問題をクリアしたのかを調査するのがこの計画の目的というのはいささか難がある。なぜなら想定未来自体が作られた物であり、今直面している危難や社会問題のない世界、つまり理想郷だからだ。そうなるべき姿にどうやってなったのかを調べるというのはつまりは人間の意識下における創造の産物にしかならない。 あ、そうか、これは弁護士や経済学者、生化学者などの専門分野の人々を集めて投射世界という理想郷に送り、問題解決の方策が書かれた文献の調査と云う名目でその実、彼らの意識の奥底にある解決への道を考えさせるというのが本来の目的なのかもしれない。 しかし作者がそこまで考えていたのかは甚だ疑問だ。やはりこの設定には苦しさを感じてしまう。 また私は本書を別な方法で物語を閉じる方が良かったように思う。特に360ページ辺りでジューリアが投射世界の投射器に入った自分を発見する件では、世界がひっくり返るような眩暈を覚えたものだ。 結局物語は何も解決せずに終わった。なんとも厭世観濃いこの結末にまだ戸惑ってしまう自分がいるのだった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は80年代のEQMM誌に発表された短編を集めたアンソロジーの第1弾。その顔触れはまさに錚々たるメンバーだ。
口火を切るのはレックス・スタウトのネロ・ウルフ物の中編「殺人鬼はどの子?」だ。 正直いきなり縁のないシリーズ物での事件であるとは思わなかった。3人のうち犯人は誰という趣向は確かに邦題や原題を想起させる知的ゲームの様相を呈しているが、中身はずっと骨太。 3人の弁護士のうち誰が依頼人を殺したのかを探る物だが、内容としては弁護士の倫理を問うものになっている。邦題は原題の持つ雰囲気を忠実に表した好訳だが、そんな牧歌的な題名とは裏腹な深い内容が変なギャップを生んでいる。 次のジョン・D・マクドナルドの「罠に落ちた男」は買い物に出かけた男がいきなりさらわれ、現金強奪用の車として自家用車を奪われ、監禁される一部始終が語られる。 この作品にはあっというトリックもなければロジックもない。ただ事件の顛末が語られるだけだ。輸送会社を経営する男が機転を利かせて危うく命を拾うという話。 エドガー・ウォレスの「ウォーム・アンド・ドライ」はある詐欺師の物語が警視の口から語られる。ニッピイというあらゆる詐欺や軽犯罪を繰り返してきた男の顛末であり、裏切りとそれによる報復があるがサスペンスがあるわけでもない。物語としては実に淡々としている。 ただ題名にある「ウォーム・アンド・ドライ」という慣用句が場面場面で色んな意味に使われており、そこに妙味があると云えるだろう。 時には「誠実で虚飾のない」という意味であり、ある時には「猛りくるって酒はこりごり」であり、「仲良くかつ、割り切って」であり、更には「冷気及び湿気を禁ず」の意もある。言葉遊び好きなクイーンの好奇心をくすぐった作品なのだろう。 サスペンスの女王パトリシア・ハイスミスの「池」は夫を亡くした妻が借りた家の庭にある奇妙な池の話だ。 生き物のように復活する池と意志を持つ手のように近づく物を絡め取る水草や蔓。そこには理屈のない恐ろしさが存在する。 特に仰々しい描写はなく、淡々と物語は進むがそれが反って得体の知れなさを助長している。 期限切れの本の回収や紛失した本の捜索が仕事の図書館専門の探偵という設定が面白いのがジェイムズ・ホールディングの「やっぱり刑事」。 図書館の本の捜索が麻薬売りの犯罪証拠となるマイクロフィルムの発見に繋がり、そこから探偵が危機に陥るという物語の幅が広がるユニークな物語。 しかし図書館専門の探偵は作者の創作によるものだろうか?本当にいれば実に面白いのだが。 リチャード・レイモンの「ジョーに復讐を」は<ジョーの居酒屋>に訪れた突然の訪問者は店主のジョーを撃ち殺しに来たのだという。 わずか10ページ強の単純ながらも最後にツイストが効いている作品だ。正直ネタは途中で解るが、単純なストーリーに銃を持ったおばさんが店内の客まで脅迫するという奇妙なシチュエーションが印象を強めている。 マイクル・ギルバートの「ちびっこ盗賊団」は現代のロビンフッドと呼ばれる未成年たちの犯罪グループを警察が捜し出すというもの。 自ら信じる正義のためなら誘拐や強盗すらも辞さない。しかし盗んだお金は金に瀕して困っている人に全て与えるという義賊。短編でさらりと書いているが、このテーマは膨らますとシリーズ化できるまでに面白くなりそうだ。 L・E・ビーニイによる「村の物語」はある田舎町を舞台にした奇妙な味わいの物語が2編語られる。 1編目の「約束を守った男」は連続殺人の罪で死刑囚となった弟の許を訪れた男の話。 2編目の「どうしてあたしが嫌いなの?」は連続殺人を犯した脱獄囚が街を抜け出したと云う話。 実に奇妙なテイストの結末。死刑囚の兄は弟の面倒を見るという亡き母親への誓いを守るため、死刑直前で自ら弟を射殺する。それまでに淡々と描写される男のストイックさがその決断をゆるぎないものとして読者の心に落とさせる。 2編目は孤独な女が狂気に陥るまでが淡々と語られる。女性の寂しさが彼女に訪れる狂気を見事に納得させる。これは面白かった。 続くダグラス・シーの「おせっかい」は人気推理作家にトリックが非科学的であると作品ごとにアドバイスの手紙を送る大学助教授とその作家のやり取りで構成されている。 これはオチが痛快。特に手紙でこき下ろされる作品のトリックの数々には推理小説4冊分のネタが盛り込まれている。 もしかしたら推理作家はこのようなクレームの手紙を実際に受けているのかもしれない。アイデアの勝利! トリッキーな物語構成で独自の本格ミステリ路線を歩いたパトリック・マガーはなんとスパイ物の作品が収録された。「ロシア式隠れ鬼」はマガーのシリーズキャラクター、女スパイのセレナ・ミードがロシアの友人の頼みで観光客に成りすまして偉大な詩人でさらには共産主義者の唱道者であった友人の父の遺された自筆の詩の原稿を取り戻しに行くというもの。 夫が情報機関Q課のエージェントであり、妻の偽装旅行をあっさり看破し、彼女にあの手この手で忠告を与える。また友人の協力者がどのように接触し、詩を渡すのか、そしてQ課が介入するほどの詩には何が書かれているのか、さらにはKGBが見守る中、どうやってセレナは詩を持って帰るのかとミステリの要素満載の短編。 ポーの有名な短編からヒントを得た詩の原稿の持参方法がユニークで秀逸。結末は大人しめだが物語の起伏に富んだ作品だ。 心胆寒からしめる結末なのがジャック・P・ネルソンの「イタチ」だ。 果たして弁護士は本当に推定無罪の精神で弁護をしているのか?この原理的な問いに衝撃的な報復で疑問を投げかける結末。 なんと同情の余地もない殺人犯の無罪を勝ち取った弁護士の家族の許にその殺人犯を送るという形で被害者は復讐したのだ。これは今でも衝撃的。しかもハリウッド映画が1本作れる秀逸なアイデアだ。これが個人的ベスト。 歴史に残る短編シリーズの中にアイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』があるが、「ロレーヌの十字架」はそのシリーズの1編。 これは夜の車中だからと云うシチュエーションを勘案して納得のできる危うい結末。 その有名シリーズの向こうを張ったパロディがジョン・L・ブリーンの「白い出戻り女の会」だ。 全てにおいてアシモフ印の作品。『黒後家蜘蛛の会』というミステリにアシモフが唱えたロボット三原則を絡めた謎と云うニヤリとせざるを得ないミステリだ。 人の神経を逆撫でする人物とはいるものでデイナ・ライアンの「破滅の訪れ」に登場するエマはその最たるものだ。 人の云うことを聞かず自分のペースと思い込みで物事を進める人がいるがエマもまたその典型。 終始イライラさせられるが上手いストーリー運びだ。 プロンジーニ&マルツバーグの「不幸にお別れ」はたった6ページの最短の物語。 精神異常者とカウンセラーとの往復書簡で構成される本作は異常者がカウンセラーを逆恨みして殺されるが、それには意外な事実が隠されていたというもの。フランスのエスプリに満ちた1編。 シーリア・フレムリンの短編「魔法のカーペット」は実に現代的な作品だ。 育児ノイローゼは現代の社会問題となっているが、本書は高層マンションとご近所問題、そして小さい児を持つ親の育児ノイローゼを扱った物。 ジョン・ボールと云えば黒人刑事ヴァ―ジル・ティップスが登場する名作『夜の熱気の中で』が有名だが、「閉じた環」は仲の良さそうに見える隣人夫婦の見えざる妬みと屈辱を扱った作品。 これは最後の一行の皮肉が実に効いている。 神の見えざる手を感じる結末だ。 次の「仲間はずれ」は編者クイーン自身の作品だが、これは先般読んだ『間違いの悲劇』にも収録されており、ここでの感想は割愛する。 短編の名手であるロバート・L・フィッシュの「秘密のカバン」は実にウィットの効いた作品だ。 凄腕の金庫破りながら変に心配性の所があるクロードの焦り具合が面白い。 流れも自然なのにこれほど計算された作品も珍しい。さすが名手の業だ。 最後は中編とも云うべき長さの物だが、これがまた素晴らしい余韻を残す作品だった。ウィリアム・バンキアの「危険の報酬」は元大リーガー投手の物語だ。 実に味わいのある作品。落ちぶれたかつてのヒーローが行きずりの男女に引き込まれて誘拐の手助けをする。しかし彼は彼らが自分を生贄の山羊にしようとは露にも思わず、罠に嵌る。富豪の息子の殺人犯に仕立てられるのだ。しかし彼はその土壇場で誇りを取り戻す。警察に死体が自分の部屋にあることを告げ、わずかな手掛かりから2人の行方を辿り、2人を捕まえて自首しようとするのだ。 特にところどころに挿入される主人公ミリガンの回想や追憶シーンが読ませる。かつて自分はアメリカ人が誰もが憧れるヒーローだった。そんな輝かしい日々が挿話としてアクセントを加えている。そして彼を犯罪に導くヴェラとノーマンの2人はボニーとクライドをモデルにしたかのような、人生と犯罪を愉しむ享楽主義者だ。特にノーマンは裏切ったミリガンと再会してもそれを喜び、手を差し伸べるという理解に苦しむ性格をしている。前に読んだ東野氏の『殺人の門』の倉持修のような男だ。 最後のミリガンの結末と云い、発端から経過も含めて大人の小説だ。これがベスト。 本書はEQMM誌に収録した短編から選抜された短編集。 エラリイ・クイーンが選出したEQMM誌収録の短編集だからといって必ずしもトリックやロジックが横溢した短編とは限らない。いやむしろそのような本格推理物を期待しない方がいいだろう。 ジャンルはクライムノヴェルに誘拐物、サスペンスにホラーにスパイ小説、サイコ物に奇妙な味と実に多岐に渡る。 本書におけるパズラーはレックス・スタウトの「殺人鬼はどの子?」、アイザック・アシモフの『黒後家蜘蛛の会』シリーズの1編「ロレーヌの十字架」、クイーン自身の「仲間はずれ」の3編。これはてっきり珠玉のパズラーのオンパレードかと思いきや実に意外だった。 しかしこれこそがクイーンが選者として名伯楽であることの証左のように思えてならない。 なぜなら本書にはクイーンが新しい形のミステリを模索し、その可能性を見出した作品が選ばれているように感じる。そのせいかミステリとしてはまだ粗削りであり、正直出来が良いとは思えない作品もある。しかしここには現代に繋がるミステリの原型とも思える作品が揃っているように思えた。 私のお気に入りの作品はジャック・P・ネルソンの「イタチ」、L・E・ビーニイの「村の物語」、ダグラス・シーの「おせっかい」、ジョン・L・ブリーンの「白い出戻り女の会」、ジョン・ボールの「閉じた環」、ロバート・L・フィッシュの「秘密のカバン」が挙げられよう。 これらはアイデアが実に秀逸で短編を読む楽しみに満ちた作品だ。 しかし個人的ベストを挙げるとすれば最後に収録されたウィリアム・バンキアの「危険の報酬」となる。久々に心地よい余韻に浸った味わい深い作品を読んだ。そしてこのような作品をクイーンが選んだことに彼の懐の深さを感じる。 本書は逆にそういう意味ではクイーンが選んだということである種の先入観を抱かせて、損をしているように思える。 現代の本格ミステリ作家が神格化した存在として掲げているクイーンは必ずしもパズラーに特化した作家ではなく、名アンソロジストであったということをミステリ読者は忘れがちなのではないだろうか。何より自身の名前を冠したコレクション(原題もそう)である本書はクイーンが自信を持って提供する短編集なのだ。 これは続く2巻目が実に楽しみになってきたぞ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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人を殺すとはどういうことなのか。
この人間において最も深い罪と云える殺人に東野圭吾氏が深く切り込んだのが本書だ。 初めて死というものを目の当たりにした小学校5年生の時に起きた祖母の死からじっくりと主人公田島和幸の死に対する考察と興味の推移を描いていく。通常ならば彼の5年生の想い出は数ページのエピソードとして書かれる程度で、田島のキャラクターを形成するアクセントとして添えられるようなものだが、本書ではその彼の原体験である祖母の死とそれによって彼の家族にもたらされた死に纏わる町の噂や離婚、歯科医だった父親の凋落ぶり、そして彼の人生に翻弄され、転校や進学の変更を余儀なくされ、その先々でいじめや恋の略奪を経験する田島和幸の成立ちが丹念に描かれていく。 このなんとも遣る瀬無い転落人生の顛末の読み心地は島田荘司氏の作品に見られる濃さを感じさせる。 それは庶民が中流階級だと勘違いして陥る人生の陥穽の数々だ。 ホステスに入れあげては私財を全て失い、借金まで手を出して挙句の果てに破産して蒸発する主人公の父親のダメっぷり。 デカい儲けを夢見て地道に働くよりも善人を食い物にして生きる道を選ぶ主人公の宿敵、倉持修。 結婚してもブランド好き、社交好きの散財癖が抜けきれず、多額の借金を抱えても屁とも思わない関口美晴。 そんな破綻者たちがなぜか田島和幸の人生には立ち塞がる。 その中でも折に触れ田島の人生に関わる倉持修という男が本書の最大のミステリだろう。 なぜか主人公の田島和幸の人生の節々で関わり合い、彼の慎ましい人生を変えていく。それも悪い方向に。それは残った2枚のカードを眼前に突き出したババ抜きの最終局面を再会するたびに差し迫られているようだ。 この倉持と云う男は田島を嵌める悪意はあったのか? いや私は読中、恐らくなかったのだろうと思っていた。倉持という男は田島が好きだったのだろう。だから自分が面白いと思っていることに彼を引き込みたがるのだ。そして田島がそれに夢中になるのを見るのが楽しいのだ。そして自分の利益や保身を優先する性格であり、その犠牲として田島に来るべき災厄を振るのだ。しかしそんな倉持の行為に悪意はないだろう。恐らく彼が困ったとき、面倒事が起きたときに、軽い気持ちで田島に任せるか、ぐらいの気持ちでしかないのだと。 つまり倉持とは知らず知らずに自らが原因で周囲の人に迷惑を掛けてしまう男であり、そのことに自覚的でない人間だ、そう考えていた。 しかし読み進むにつれて次第に上昇志向が強く、他者を踏み台にして成りあがろうとする倉持は自分の人生に田島という踏み台を見つけたのだという風に思うようになった。 倉持にとって田島と云う男はカモなのだ。彼が成り上がるために手元に残ったジョーカーを引かせるための相手なのだろう、と。 それは物語の最終である人物の口から倉持の人となりを明かされる段でそれが間違いではなかったことが明かされる。 一方で田島は倉持の踏み台となるべくして生まれた、そうとしか云えない弱者、負け犬人生を歩む。 それにつけても主人公田島和幸の人生とは面白いほどに不幸だ。 名家だった家は父の浮気で没落し、借金苦から大学進学もままならず、また入学した学校や就職した会社ではなぜか誰かに目を付けられ、いじめを受ける。 そんな負の連鎖の人生で彼が望んだのはつつましいながらも家族を持ち、家を持って普通に暮らすことだ。しかしそんな庶民的な夢でさえ、結婚相手がとんでもない浪費家でコツコツと貯めた貯金を全て使われ、さらにはクレジットローンや街金の借金まで背負わされる。普通に暮らすことさえも望めない男だ。 しかしそれも自分に人を見る目がないこと、人を疑うよりも人の話を容易に信じる性格が災いしている。 何事につけ、そんな悲惨な結果を招いたのが自分の選択眼の甘さだということを知らされながらも同じ間違いを犯す。それは自分の将来を奪ったダメ親父と自分が同じだということに気づかない鈍感さによる。田島が身持ちを崩したのはホステスに入れあげ、破産した親父と全く同類なのだ。 またそんな生い立ちだからか、自分の失敗についての反省の念が強すぎるというのもまた欠点だ。借金を作った妻に浮気がばれ、その事で誓約書を書かされる体たらく。それまで妻が田島に行った仕打ちを考えれば、そこまでする必要がないのに、相手の糾弾に物凄い罪悪感を抱き、詳らかに浮気の状況を妻の云うがままに書くシーンではどこまでお人好しなのだと呆れた。 何をやっても上手くいかない男というのがいるが、田島和幸とはまさにその男だ。 弱肉強食という言葉があるが、本書における田島和幸と倉持修の関係がそれだ。 この両者を比べると面白いことが解ってくる。 まずそれはお互いの仕事だ。 倉持修は常に人の心を利用して一攫千金を狙う、大きな金を動かすことを夢見て人生の成功を目指している男だ。それはネズミ講や詐欺商法といった情報や紙切れといった実体のないものを操って金儲けをしている、いわば楽して儲けることを一義として考えている空虚な男だ。 翻って田島は慎ましいながらも物を作る現場や人と触れ合って家具を売ると云った自らで何かを生み出すような実のある仕事を訥々としながらも、器用な世渡りで常に羽振りのいい倉持に嫉妬しながらも羨望やまない心の弱い男だ。 さらに一目瞭然なのが、危険に対する感度の違いだ。 倉持は自分がやっていることが非合法すれすれのことであるを自覚しているからか、危険に対する感度が高い。危機を察するといち早く逃れ、安全圏から事の事態を見守る。世間の恐ろしさを熟知した男だ。 逆に田島は何かにつけ、自分が納得のいくまで物事に首を突っ込む。倉持の誘いで就職した詐欺会社の被害者訪問や彼の浮気の張本人である“幻の女”寺岡理栄子の捜索に、事の真偽を確かめるための別れた妻の実家への訪問、さらに倉持の会社の捜査に入った警察の尋問を受けたりと、通常ならばあるところで引くところをとことんまでやるのが田島の性分らしい。 そのために知らなければいいことまで知り、身も心もすり減らす。つまり危機に対する感度が実に低いのだ。 「手玉に取られる」という言葉があるが、これほど倉持に手玉に取られる田島の人生も珍しい。 そしてこの倉持は田島が折に触れて殺意を募らす卑しい男なのだが、なぜか田島に職をあてがい、更には売り上げに貢献して恋人まで紹介する。全く何を考えているのか解らない男だ。 そんな訳の解らない彼の考えが最終章で明らかになる。 この最終章を読むに至ってこれは『悪意』の変奏曲だということに気付かされる。人はここまで冷酷になれるものかと戦慄さえ覚えた。 本書のタイトルの殺人の門とはその名の通り、殺意が行為に変わって殺人に至るきっかけを指す。 主人公の田島は小学生の頃から人の死に触れ、時に自分が恨みを買って殺されそうにもなった。特に倉持修には人生の節々で殺意を覚えたのだが、殺人者の門を開けるまでに至らなかった。 また彼の貯蓄を食いつぶされ、更には莫大な借金を背負わされた元妻関口美晴に対しても殺人の一歩手前まで行きながらも思い留まった。 その一方で執念深く人を狙い、本懐を遂げる人間もいる。本書で刑事が人が殺人者の門を開けるのには動機、環境、タイミング、その場の気分で人は人を殺すが、人によっては引金が必要な人もおり、それがないと殺人者の門をくぐることが出来ない人もいると述べる。 彼はある意味殺人が出来ない人間だったのだ。 だからこそ最後はほとんどホラーのような結末になったのだ。 またもや救われない物語を東野圭吾氏は生み出した。読後の今は何とも言えない荒廃感だけが残っている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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葬列。
そのタイトル通り、死屍累々の山が築き上がる。その有様は実に壮絶。 小川勝己氏が横溝正史賞を射止め、その年の『このミス』でも第16位にランクインした鮮烈なデビュー作がこれ。現在の奥田英郎作品の『邪魔』、『無理』のような、社会の底辺で貧困にあえぐ下層社会の人々が一世一代の大勝負に出るピカレスク小説だ。 これは宴である。 狂乱の宴だ。 性格破綻者の小市民たちとやくざとの抗争と云う名の宴だ。 ただただ一攫千金と云う無謀な夢を描くだけのように見えた中年女性2人と若い女性1人の3人組が落ちこぼれやくざの史郎と邂逅するしてから俄然現実味を帯びてき、明日美の勤めるラヴホテルの経営者の街金業者への襲撃からB級ヴァイオレンスアクション小説の色合いを濃くしていく。 そして街金襲撃から史郎の復讐譚へ移る九條組襲撃計画のプロセスの段になってもはや読者の心の中には明日美、史郎、しのぶ、渚4人が生き生きとした人物として刻まれ、彼女たちがもはや無謀な素人犯罪集団ではなく、プロの武装強盗集団に見えてくるから実に面白い。心を閉ざして他者の介入を容易に赦さない謎めいた女性、藤並渚も壮絶な過去が次第に明かされていくうちに稀代の無敵な悪女強盗になってくるのだ。 そして史郎、明日美、しのぶ、渚の4人組がいよいよ九條の別荘に乗り込む420ページからの約40ページは新人の作品とは思えないほどの勢いと迫力に満ちている。息を呑んでページを繰る手が止まらない自分がいたことを正直に白状しよう。 さてやくざが絡む大金を巡る下流社会の人々の抗争と云えば馳作品を想起させるが小川作品と馳作品とではテイストが全く異なる。馳氏の物語は人間の卑しいどす黒い負の衝動を物語が進むにつれて肥大させ、それが破裂して破滅の道を辿るという、終始暗いムードが漂うが、小川作品は登場人物たちの設定ゆえにどこか滑稽でこれら頼りない社会の底辺で生きる面々をいつのまにか応援してしまうのだ。 それは馳作品での殺戮は自業自得で泥沼に嵌ってしまった主人公がキレて自暴自棄になって人を殺しまくるという、同情も共感がどこにも得られない行動理由で起きているので、全くテイストは違うのだ。 小川作品での殺戮はそのゼロ時間へ向けて着々と準備が整えられ、殺された家族への復讐と一攫千金という目的のために動くというベクトルがはっきりしているところにある。 従って惨たらしい殺戮シーンながらもどこか爽快感とカタルシスが残り、主人公と同様のひと仕事を終えた心地よい疲労感が得られる。 それはひとえに小川氏の描く登場人物造形のユニークさがあるからだろう。白いマンションに住むことを夢見て過去にマルチ商法に嵌って夫を身体障害者にしてしまった三宮明日美。 明日美をマルチ商法に誘い、一攫千金を願いながらも上手く行かない人生を儚み、全身整形を施した人造美人の葉山しのぶ。 高校の先輩に誘われて極道の世界に入ったものの、生来の気の弱さからやくざになりきれない小心者、木島史郎。 アメリカ滞在時に両親をミリタリーマニアの学生らにゲームさながらに殺され、自身も輪姦されながらも唯一生き残った心をどこかへ置き忘れた帰国子女、藤並渚。 そして彼らを筆頭に敵役の九條、堺、海渡と云った極道連中と癖のある刑事隅田ら脇を固める面々一人一人が戯画的なキャラクターでありながらドラマを形作る。 どこかマンガを読んでいるような感覚と妙に詳細な銃器の説明と小道具となるラヴホテルの従業員たちの仕事の内容と、パロディとリアルが同居した奇妙なノワールの世界がこの作品にはあり、それが一種独特な雰囲気を醸し出している。 そして最終章に訪れる驚愕の真相と荒廃感漂う仲間共の理不尽な最期。 誰もがどこか狂っている。やはりこれは狂乱者たちの宴の物語だ。 正直、馳作品を読んだ後にまた人が大勢死ぬ作品を読むのはどうにも辟易だったが、案に反して実に面白く読むことが出来た。 馳作品を深作欣二監督の映画のように例えるならば、小川作品はクエンティン・タランティーノ監督作品のようなテイストを持っている。 アクの強い人物たちが最後に華々しく銃撃の花火を放って散りゆく。それは迫真に迫りながらもどこか滑稽で爽快感が漂う。 この鮮烈なデビュー作の後、『彼岸の奴隷』、『眩暈を愛して夢を見よ』といった話題作を放ちながら、昨今ではなかなか世の中の評価が高まらない小川勝己氏だがこのような不思議な読後感が残るパルプ・フィクション小説を書ける作家は非常に貴重なので再起の花火を打ち上げる様な作品を期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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北海道を舞台にした全5編からなる連作短編集。
最初は浦河を舞台にした「ちりちりと……」から始まる。 主人公の堀口が山中へ向かう描写や彼の回想に現れる世捨て人で狩猟と炭作りをして生計を立てていた彼の祖父の生活描写は狩猟小説の雄、稲見一良氏の作品を思わせるような作り。しかしやはりこれは馳作品だから稲見作品の特徴であるそこはかとなく訪れる温かみはなく、荒廃とした荒んだ人の心と救いのない結末。 別の意味で山の厳しさ、冬の山の寒さを感じる読後感だ。 次は堀口の父の愛人と噂されていた未亡人田中美恵子が主役を務める「みゃあ、みゃあ、みゃあ」は富川が舞台。 肉親の介護に疲れる実子のどす黒い思いというのは馳氏の作品ではもう一つのノワールのテーマであり、ここにある美恵子の心の移ろいはさほど目新しい物ではない。 しかし富川と云う町で母の介護と同級生の経営する場末のスナックで生計を立てる美恵子の日常が寂しくて、それこそ北国の寒さのように心に降り積もる。特に美恵子が田舎町によくいる、少し目立った美人であることがその境遇の不幸に拍車を掛けている。 臨月を迎えた母の飼い猫と母三津の美恵子に対する態度が鬱屈を募らせ、最後にカタストロフィと行きたいところを馳氏は本書ではギリギリのところで押えている。 さて次はその美恵子に執心していた土屋の息子が主人公。「世界の終わり」は苫小牧が舞台だ。 これほど最初と最後の作品の印象が異なる作品もないだろう。 中古車ディーラーを経営する、離婚した父の下で暮らす中学生の智也はいじめられた経験のため、心に傷を負い、緊張すると声が発せなくなってしまう。そのため不登校児として愛犬と一緒にサッカーに興じる毎日を送っていたが、そこで将来を有望視されながらバイク事故で足に後遺症が残るほどの怪我を負った憧れの先輩から中古のバイクを売りつけられる。しかしそれは閉じられていた智也の世界を広げる道具となった、という心に傷を負った少年の再生を描く一種の青春ロードノベルのように思われたが、後半はバイクで辿り着いた工場建設予定地で骨を見つけたことでそこが愛犬と自分にとっての最後の地であるとし、全てを骨で覆い尽くすために近くの墓地から骨を掘り出してはばらまいていくというサイコホラー的展開へと移る。 これほどテーマの読めない作品も珍しい。 次の「雪は降る」では智也にバイクを押し売りした雅史先輩こと原田雅史が主人公。 Jリーガーの夢を挫かれ、親の臑を齧ってその日暮らしを続ける男と憧れの先輩でほのかな恋心を抱いていた訳ありの女性との苫小牧から函館への二人行。女は好きだった人に会いに行くと最初は云い、次には友達に会いに行くと云い、そして函館山で夜景を見に行こうと函館への目的は訊くたびに変わっていく。一方で男は女が付き合っていた男と別れていたことを知り、女への恋の炎を少しずつ大きくしていく。そんな中流れる、女の弟の殺人事件の一報。両親が旅行で不在中に発見された受験生の変死体。一緒にいた姉は行方不明。 登場人物2人だけで繰り広げられる儚く寂しい道行き。これは志水辰夫の世界だなぁ。馳作品にありがちな「世界の終わり」のような妙な裏切りとも云える結末もなく、若い2人がただ見えない明日に怯え、途方に暮れる。何をしたらいいか解らないがとにかく動いていたい、留まると気分が滅入ってしまうから。珍しく優しい物語だ。 最後の「青柳町こそかなしけれ」では前篇で雅史がオカマを掘った、名も知らない車の所有者の妻が主人公。 夫によるDV、そしてセックスといつもの馳作品かと半ば落胆したように読み進めたが、夫が妻の友人のDV被害を目の当たりにするという今までにない展開を見せて、いわゆる暴力の連鎖に陥らずに留まっているところに新機軸を感じた。 しかしやはり人は変われない。やり直しや更生といった明日への希望を馳氏は容易に信じない。やはり最後は馳作品そのものだった。 なお本作で登場する焼き肉店の店長がマコっちゃんこと堀口誠。これで一連の物語の環は閉じられる。 相も変わらず人生の落伍者を取り揃えた作品集となった。ただし本書はいつもの短編集とは違い、北海道の浦河、富川、苫小牧、函館を舞台に各短編で登場する脇役が次の短編で主役となるという連作短編集となっている。 今回収録された作品の特徴としては2005年以後の作品が集められたことだ。これは馳氏の鮮烈なデビュー作となった『不夜城』のシリーズ第3部の『長恨歌』を終えた翌年、そして新機軸と評価された『楽園の眠り』が発表された年に当たる。したがってマフィア、やくざ、セックス、クスリ、暴力、殺人に彩られたドロドロのノワールから殺人を排除し、一般の人の心の闇から生まれるノワールに転換した頃の作品だ。 したがってデビュー作に見られた極限までに削ぎ落とした体言止めを多用した文体ではなく、新たな文体を模索していた頃であり、各作品でその違いが窺える。 例えば1作目の「ちりちりと……」では稲見作品を思わせる自然の緻密な描写と漂う静謐感があり、その他にも坂東眞砂子氏、志水辰夫氏、天童荒太氏、風間一輝氏といった作家の作風を思わせる。 そういう意味ではヴァラエティに富んだ文体と内容の楽しめる作品集とも云えるのだが、中身はいつもの馳印。 登場する主人公たちは鬱屈した日々に疲れ、新しい生活や運命を好転させる転機などの希望を抱かず、ただ望まないながらもそうしなければいけない日々の業を成して毎日を過ごす人々ばかり。事業に失敗して死に場所を求める者、親の介護に神経と心をすり減らす者、上手く他者と付き合えず、不登校の日々を愛犬と紛らして過ごす者、自分の失敗で夢を絶たれ、親の臑を齧ってその日暮らしをする者、夫の暴力に怯えながらも別れられない者。普通に生活し、普通に給料を得て、普通に家族を持って普通に終える人生さえも望めない社会の底辺で鬱屈している人々だ。 そしてこれらの人々が各話の登場人物と直接的間接的に関わっているところに考えさせられる。つまりこれは普通の暮らしさえ望めない人が皆の周りに必ず一人はいるということを示唆しているように取れる。 あなたの隣にいる人も何らかの問題を抱えて毎日を生きているのだというメッセージ、いや気付かない事実を教えられたようにも思える。 そしてこれらが今回北海道の南の地を舞台に繰り広げられているのが特徴的だ。 各編に共通するのは凍てつくまでの寒さ。少しばかりの厚着では瞬く間に体が冷え切ってしまう。情熱的な愛を重ねても熱く感じるのはお互いが繋がっている部分だけで、その他はひんやりと冷たい。温まった部屋も少しでも外気に曝されればたちまち寒気のただ中だ。そんな場所である北の地ではなかなか人の温かみや温もりというのが持続しない。だから人は言葉少なに閉じこもって過ごすのだろう。その簡単に命さえも奪ってしまうような極寒の地だからこそ人の事よりもまず自分の事をしなければ生きていけなくなってしまうのだ。 本書のタイトルは『約束の地で』で発表は2007年。馳氏は北海道出身で作家デビューが1998年。つまりこのタイトルには作家生活10周年を迎えた暁にはその記念碑的作品を自らの故郷である北海道を舞台にしてという意味が込められているのではないだろうか? 故郷に錦を飾るという言葉があるが、馳氏は本書を以てそれを成したと云えよう。そして通常ならば自分の生まれ故郷を舞台にした作品を書くならば、それまでの作家の集大成的な作品として感動巨編的な物を書こうと思うのが普通だが、馳氏はあくまで自分の作風にこだわり、敢えて故郷を舞台に不幸な人間の遣る瀬無さが漂う物語を紡いだ。 これが彼の10年間で得た物です、そんな風に云っているように私には思えた。 多分これは私の勝手な思い込みだろうし、馳氏は一笑に付して歯牙にもかけないだろう。しかし私は氏の本心を隠した照れではないかと本書に収められた各編を通じて思ってしまう。 今まで馳氏の短編集は本当に救いのない話ばかりで、むしろ作者がわざと大袈裟に不幸を愉しんで書いているような節を感じて嫌悪感さえ抱いていたのだが、本書においては同じ不幸を描きながら、酒、ドラッグ、暴力、セックスに淫せずに我々市井の人々の中にいる不幸な人をじっくりと、しかし敢えて過剰な抑揚を排したこの物語群はそんな負の感情を抱かずに楽しめた。 これ以降の馳作品もこのような読み応えを期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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<地球市>と呼ばれる都市は軌道上に乗る動く7層からなる都市でその行先の測量をし、軌道を敷設し、断崖があれば橋を架ける。それがギルド員の仕事だった。
1年に約36.5マイル動く都市に住む人々の年齢もまた時間ではなく、距離で表現される。人は650マイル、即ち約18歳になると成人とみなされ、それら複数のギルドの中から自分が就くべき職業を選択する。そして成人になるまで都市の人々は外の世界へでることはないのだ。 クリストファー・プリーストが1974年に発表したSF小説である本書はそんな奇想が横溢する世界が舞台だ。 最適線と呼ばれる位置を目指して軌道の上を北進する都市。しかしそこは目的地ではなく、通るべき道筋に過ぎない。北への進路はすなわち進むべき未来。従ってその進路を測量する職人たちは未来測量ギルド員と呼ばれる。そして進行方向へ敷設する軌道は通過済みの軌道を回収して整備する。通過した軌道は過去と呼ばれる。そう、この移動する都市では過去が具現化して見えるのだ。 しかし物語が進むにつれて、北を未来、南を過去と呼ぶのが単なる通称ではないことが解ってくる。主人公ヘルワードの父は未来測量ギルド員だが、数日後に再会した時にはひどく老いており、また南へ下る旅の連れは次第に背が縮んでいく。 さらには山々や川が谷までもが縮んでいく。やがて地面と平行になって落ちていく感覚になり、南へ引っ張られる、南への張力が強まっていく。それは世界の遠心力によるもの。この遠心力に捉われないために都市は北へ動くのだ。やがてヘルワードは次第にこの世界がどんな仕組みであるのか解ってくる。 それは双曲線をy軸を中心に回転した縦と横に無限に伸びる世界であるとイメージを掴む。最適線とは原点にもっとも近づいた場所のことであり、そこでの1日の時間は24時間となり、もっともバランスの取れた地点なのだ。そして無限の宇宙にある有限の惑星がある地球の世界ではなく、ここでは有限の宇宙に無限の広がりの世界を持つ惑星が複数ある逆転の世界に住んでいるのが彼らなのだ。 むぅ、なんという奇想だ しかしそんな動く都市と歪む世界の摂理は第4部で驚くべき転換を見せる。 しかしこの真相の衝撃はものすごいものだ。 歪みゆく世界から逃れるために動く都市。彼らの行動原理には原因と結果が備わっており、この世を理解するに十分な論理が存在している。そんな安定した世界観を覆す奇想。 まさにコペルニクス的発想転換。当時のガリレオの地動説が発表された衝撃と黙殺しようとした学会の気持ちが実によく解る。 つまり本書の本当の戦慄すべきところは我々の住む世界の現代科学によって理論づけられ、補完されている原理原則が、実は科学者の独断と偏見による解釈によって成されているかもしれないという恐れだ。 地球には重力がある。地球は自転し、太陽の周りを公転している。紛れもなくこの世界に住む人々はこのような原理原則を信じているわけだが、果たしてそれを実際に目の当たりにした者はおらず、科学者や数学者による数式によって理論づけられているに過ぎない。 本書はそうしたことが盲信かもしれないという警句を投げかけているのだ。 しかし色んな要素を含んだ物語だ。都市に住まう人々の中にはなぜ都市は動かなければならないのかと疑問を抱く者も少なくない。しかしギルド員は南に下ることで知ったこの世の原理に基づき、それを他言することを禁じられているがために都市を動かすことを最優先事項として一心不乱に働くだけだ。 これは現代の我々の社会でも同じではないか? 会社の繁栄という大目的の中、大きな組織であればあるほど業務は細分化し、組織の末端になればなるほど自分の仕事が会社の利益にどのように寄与しているのか解らないにも関わらず、日々の仕事をこなさざるを得なくなる。なぜならそれが彼らにとって与えられた仕事、任務だからだ。 そんな社会の縮図がこの都市を動かすことに執心するギルドの仕組みに集約されているように感じた。 さらには都市の創立者のフランシス・デステインの指導書の存在だ。これはまさに聖書のようなものであり、都市の住民にとっては生きるための成すべきことが書かれた指南書だ。 これはまさに宗教であり、住民は信者という構図だ。 この読後感はまさに『猿の惑星』だ。もしこの作品を観ていなかったら本書の結末の衝撃はまさにカタストロフィが訪れたかのような衝撃に見舞われただろう。 しかしそんな先行作と比較することなく、本書の中に横溢する動く都市の業務に従事する一人の男の人生を中心にした奇想の物語にどっぷり浸って、驚いてほしい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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訪米中のソ連外務大臣ポノマレフが何者かに暗殺されるという事件が起こる。ソ連とアメリカ政府の間に緊張が走る。特にポノマレフは合衆国を敵視していた外相でもあり、この暗殺には合衆国側が意図して起こした物だという臆測まで流れる始末だった。
即刻合衆国大統領はFBI、CIA、警察からえりすぐりの精鋭を選出して事件解決へ取り組むよう要請した。そして第2の殺人が起こる。ポノマレフの運転手スロボディンが殺されたのだ。 そして調査の結果、ポノマレフは当日ニュージャージーからニューヨークへ向かう途中で射殺されたことが解る。彼は自ら運転し、ニュージャージーに住む愛人オルガ・キリレンコと逢った帰り道の出来事だったことが解る。 捜査チームはオルガの夫ディミトリイが犯人ではないかと睨むが、それは全く違っていた。そしてチームの中心人物FBI捜査官のビル・パティスンは驚くべき見解を示す。 暗殺者の標的はスロボディンであり、ポノマレフは彼と誤って暗殺されたのだと。 ポノマレフとスロボディンはかつて第二次大戦中、軍隊で上司と部下の関係にあり、スロボディンは捕虜となって収容所を転々とした挙句、ドイツ領内のダッハウに収容され、その後祖国に送還され、無職になったところをポノマレフの専属運転手として雇われたという過去があった。 そんな混迷を極める事件の捜査を務める人間としてCIA長官は以前の部下ソーンダーズに白羽の矢を立てる。これまでの捜査の一部始終を聞いたソーンダーズは早速フロリダで2人を殺害したライフルと同じ銃で起こった殺人事件の報が入るや否やフロリダへ飛ぶ。 フロリダで殺されたのは隠居した元造船会社社長スティーヴン・ドラグナ―だった。彼は元ロシア人で実名をステパン・ドラグンスキーと云った。ソーンダーズは彼の身辺を探るうちに彼もまたスロボディンと同じくダッハウ収容所に収容されていたことを知る。全ての鍵はドイルにあり。ソーンダーズはすぐさま彼のよく知る仕事仲間エゴン・シュナイダーを訪ねる。 そこで判明したのは2人とも収容所の第13号ブロックに収容されていたことだった。第13号ブロックで一体何が起きたのか?しかしシュナイダーは何かを隠しているようだった。ソーンダーズはシュナイダーを詰問したところ、実は彼を訪ねたフランスの出版社の青年に件のロシア人を第13号ブロックの生存者のリストを渡したことを打ち明ける。 その男の名はジャン-マルク・ルソー。ソーンダーズはすぐさまフランスへ飛ぶが、そこには同じ情報を狙う暗殺者の手が迫っていた。 本書はスパイ小説の重鎮マイケル・バー=ゾウハーのデビュー作。 上に書いた長々としたあらすじは実に起伏に富んでいるが実は本書のちょうど半分でしかない。この目くるめく舞台展開の速さとストーリーの移り行くスピードがバー=ゾウハーのスパイ小説の持ち味だ。 舞台は事件の起きたアメリカからドイツ、フランス、イスラエル、ポーランドと実に目まぐるしく変わる。たった280ページの物語にこれだけの舞台転換が込められており、しかも物語は重層的だ。スパイ小説隆盛時期の小説とはこれだ!と云わんばかりの充実ぶりだ。 ソ連外相がアメリカ訪問中に暗殺されるという政治的にショッキングな事件から幕を開ける本書はFBIの捜査で実は外相の暗殺は誤殺で本命は彼の運転手だったという捻りが面白い。 それから派生する連続暗殺事件。彼らを繋ぐミッシングリンクはナチス時代のドイツの収容所ダッハウに繋がる。さらに彼らはその中の第13ブロックに収容されていたという事実に行き当たる。 そこで起きた地獄のような惨劇の正体は物語の中盤の終わりで明かされる。 この重層的な物語こそマイケル・バー=ゾウハーの職人技。デビュー作からこんな物語を見せてくれるとは恐るべし。 そして初期のシリーズキャラクターを務めるソーンダーズも本作から登場している。しかも彼がCIA工作員だった頃に親友ともいうべき有能な工作員を自分の失敗から亡くしてしまうという苦い過去も織り込まれている。 そこにはジェイムズ・ボンドのような任務先で知り合った女性と懇ろになるという優雅なスパイの姿が描かれている。これはバー=ゾウハーによる一種の007シリーズへの皮肉なのかもしれない。 またこれら複雑な物語は世界を股に掛けた大規模な一種の操りのトリックでもある。つまり根っこは本格ミステリ、特に後期のクイーンが取り組み、そして悩むこととなった後期クイーン問題に繋がっている。 スパイ小説の起源がクイーンにあるとまでは云わないが、特に『間違いの悲劇』を読んだ後であったためか、近似性を強く感じた。 しかしデビュー作もナチス時代の復讐譚が絡む物語ならば現時点での最新作『ベルリン・コンスピラシー』もナチス時代の事件の物語。どうやらバー=ゾウハーにとってナチスとは現代社会にも根ざす戦争の亡霊でありながら忘れてはならない過ちであり、生涯語るべきライフワーク的なテーマなのかもしれない。 最近ラドラムのジェイソン・ボーンシリーズの映画化、そしてル・カレの有名な傑作までもが映画化され、かなりの高評価となっている。 本書を読む限りバー=ゾウハーの作品もそれらに比肩するクオリティを持っているし、280ページと云う尺の長さはやはり映画向きだとも云える。もしかしたら近い将来、このシリーズも映画として甦るのかもしれない。そうすれば復刊されたりもするのかと淡い期待と抱きながらこの感想を終えよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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非常勤講師“おれ”が活躍するシリーズ短編6編と小学生の小林竜太が活躍するショートミステリ2編を含む短編集。
まずシリーズ『おれは非情勤』の冒頭を飾るのは「6×3」。 表題の数式の意味があるヒントで蒙が啓かれるかの如く、パッと一気に真相が閃くのは見事。またいじめ問題も物語に絡めるあたり、今日的だ。 2作目の「1/64」は長期病欠の教師の非常勤講師として招かれた二階堂小学校での事件。 この真相は中学校が舞台であればギリギリ理解できるものの、やはり小学5年生の子を持つ親からしてみれば、同学年の子供らがこのようなゲームをしているのは甚だ疑問。しかも学習雑誌に連載されていたことも勘案するとちょっとこれはやり過ぎかと。 ここまでくればもはや題名自体が謎。「10×5+5+1」はおれが派遣された事情が物語の謎となっている。 新任教師の死の裏に新任教師が陥りやすい過ちが明るみに出る皮肉な一編。 教師生活の始まりと云う期待と不安に胸を膨らませて踏み出した一歩が些細なことから生徒との歯車を狂わせ、いつしか生徒に嫌われたくないと主従関係が崩れ、生徒の要求に従う構図が出来上がる。通常我々の社会生活であれば大の大人が10歳前後の子供に手玉に取られること自体が荒唐無稽なのだが、小学校ではこのようなことがあり得るのだ。 続く「ウラコン」では四季小学校が赴任先。 これまた意味不明な題名、「ムトタト」では五輪小学校でおれは運動会の準備に勤しんでいる。 運動会に修学旅行。小学校のみならず学校生活の花形行事。皆が楽しみにしている一大イベントなのだが、必ずしも全ての生徒が楽しみにしているわけではない。斯くいう私も子供の頃は修学旅行は苦手な行事の1つだった。本作の題名になっているムトタトの意味はすんなり解ってしまった。 シリーズ最終作の「カミノミズ」は音楽の授業の後で机のペットボトルの水を飲んだ生徒が急変し、救急車で病院に運ばれてしまうのが事件の発端。 こんな事件は昨今の町内ではどこでもありそうなものである。お互いの事情を優先するがために起きた悲劇。しかしそこに別段特別な関係性は無い。つまり我々の日常にもこのような悲劇の種は潜んでいるのだ。 最後の2編は小学生小林竜太が主人公のショートミステリ。1編目の「放火魔をさがせ」は近所で起きているボヤ騒ぎをきっかけに父親と夜回りすることになった竜太少年が集合場所の家で火事に出くわすという物。 2編目の「幽霊からの電話」は間違って自宅の電話に吹き込まれていた別の母親からのメッセージ。ところが学校に行ってみると同じメッセージが吹き込まれた子供が複数いるという。しかも調べてみるとその母親は1週間前に交通事故で亡くなっていたことを知る。電話は幽霊からかかってきたのか? いずれも竜太少年の1人称叙述で恐らく高学年と思われる竜太少年のぶつくさいう台詞回しが実に面白い。そんなジュヴナイル・ミステリながらしっかりとしたトリックを用意しているのが東野圭吾氏という作家の仕事の質の高さを物語っている。 本書は小学生の学習雑誌に連載された非常勤講師“おれ”が探偵役を務める6編と小学生の小林竜太が活躍するショートミステリ2編を収めた文庫オリジナルの短編集。 まずは「おれは非情勤」について。 25歳独身。ミステリ作家を目指す非常勤講師“おれ”は今日も学校を渡り歩いては事件に出くわし、解決を強いられる。おれにとっては教師と云う職業は単なる生活の糧を得るに過ぎなく、限られた期間をそつなくこなせばいいくらいにしか思っていない。しかしさほど熱心な教師ではないにもかかわらず行く先々で起こる事件で生徒たちと関わらざるを得ない。 通常の常識的観念から見れば首を傾げざるを得ない真相も学校と云う閉鎖空間と意志持つ集団が多く介在するところでは個の力よりも弱者でありながらも小学生と云う集団の力が凌駕する場合がある。特に今の教師は何かにつけ教育委員会に報告され、肩身の狭い思いをしながら教鞭を取っているのが実状。 また大人になった今では遠い記憶の彼方かもしれないが、自分たちが子供の頃に抱いたクラス内の階級制度の存在、学校行事に対する苦手意識、クラス独自のルールや秘密のゲームなどが織り込まれ、実は自分たちの小学校時代を思い出せば本書の謎はさほど難しくないのが解る。 東野氏はこのような特異な学校という空間が持つ集団意識を見事物語に溶け込ませてミステリに仕上げている。 題名は非常勤ならぬ“非情”勤とフィリップ・マーロウを髣髴とさせるサラリーマン教師を想像させるが、実は意外にも熱血漢。 “おれ”の一人称で語られる地の文では素っ気ない無気力な口調でやる気のなさを強調しているが、いざ事件が起こればすぐに駆けつけ、業務時間外でも生徒たちの自宅や病院まで訪問し、ケアもする。そして休み時間の生徒たちの振る舞いを観察し、クラスにおける生徒たちの階級制度を理解し、子供たちの心を掴み、真相に迫る。 また特徴的なのは非常勤の名の如く、一作一作で舞台となる学校は違うところだ。通常学園物は同じ学校の面々をストーリーを追うごとにそれぞれのキャラクターを掘り込み、深化させて濃密な物語世界と読者が経験した学生生活の追体験をさせるのが習いなのに対し、本書は特別だ。 そして短期間しかその学校に属さない非常勤講師だからこそ、学校という空間でいつ知れず形成される異質な常識や通念に囚われずに生徒たちとぶつかり、真実を探求できるというところに主人公の設定の妙味がある。 もう一つの小林竜太少年が活躍する2編も実に興味深い。高学年だと思われる小林竜太少年が大人のやり方に対する不平不満を交えた文章が面白いし、また世の中の仕組みや大人たちのルールが解ってきた年齢だからこそ紡がれる物語がここにはある。 子供の視点や考え方は非常に柔軟で、刑事が介在する事件でさえ小学生の閃きで解決する。しかもそれが不自然でなく東野作品に特徴的な主人公の日常的なエピソードに謎を解くヒントが隠されているのだ。そしてそんな事件を解決する小林少年は決して天才型の少年ではなく、ごく普通の、どこにでもいるちょっぴり悪いガキンチョであり、そんな子供が謎を解くことが全く以て不自然でないストーリー運びが実に上手い。 しかし生き生きとした小学校生活の描写が大人の私にも懐かしく思えるし、現在進行形で学校生活を送っている小学生にもこれらの短編は実に面白く読めるだろう。 本当に何でも書ける作家だなぁ、東野圭吾氏は。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1999年に刊行されたクイーンのシノプシス“Tragety Of Errors”と単行本未収録作品を集めた作品集。
まずノンシリーズ「動機」はアメリカの田舎町ノースフィールドで起きた17歳の少年の殺人事件を発端に、カフェの主人殺害、そして町の独裁者と呼ばれていた老婦人の殺人が立て続けに起きる。 訳も新しいせいなのか、クイーンの諸作の中ではヒロインのスージーと副保安官リンクとの掛け合いなど物語の部分に読み応えを感じる。 続くは「クイーン検察局」シリーズの未収録短編で「結婚記念日」、「オーストラリアから来たおじさん」、「トナカイの手がかり」の3編。 いずれも殺人事件が起き、3人の容疑者の中から犯人を絞り込むという推理クイズ形式になっている。 「結婚記念日」は毒殺された被害者が直後にエラリーに指し示したダイアモンドが示すダイイング・メッセージの意味から犯人を絞り込む物。 いくら宝石商だからとはいえ、死の間際でそんなことを思いつく被害者がいるものだろうか? 「オーストラリアから来たおじさん」は単純明確なミステリ。 「トナカイの手がかり」も英語圏の作品ならではの解法だ。 「クイーン検察局」の次はエラリー・クイーンが所属する「パズル・クラブ」を舞台にした短編群を収録。これはパズル・クラブの設定自身が大学のミステリ・クラブ活動を想起させる、純粋な推理クイズ物。 「三人の学生」は殺された教授の容疑者となった3人の学生から犯人を絞り込むという物。 「仲間はずれ」は3人の中から麻薬密売人を捜し出すという話。 この作品ではパズル・クラブのメンバーが案出した真相以外の第4の真相を逆にクラブ員たちに解かせている所に物語としての変奏曲であると感じた。 さてパズル・クラブシリーズ最後の作品は「正直な詐欺師」。 成功の見込みもないウラニウム探鉱に出資を募った山師が結局鉱泉を見つけられず、一銭も手元に残らなかったのになぜ出資者に出資金全てを返済できたのか?という謎。これは正直簡単だった。まさにクイズのために生み出されたシチュエーションだ。 そして本書の掉尾を飾るのが表題作「間違いの悲劇」。 シノプシスで掲載されたこの作品は物語の骨子だけの削ぎ落とした内容となっており、つまりエラリーの衒学趣味的な台詞や登場人物のやり取りがない、贅肉が全くない読み物なので純粋に作品の内容のみが描かれている。 しかし読後の余韻はなかなかに深く、最後のページに附されたフレデリック・ダネイからマンフレッド・リーへの作品の意図を記した手紙は作者が物語に内包したテーマを指示しており、明確になっている。 単純な事件ながら物語は二転三転、いやそれ以上の反転を繰り返す。 作中に打たれる事件のピリオドを作者はデッドエンド、つまり袋小路と称しているのだがこのデッドエンドが7回も登場する。つまり事件は7回行きづまり、そして解決するのだ。 しかし事件の真犯人は解ってしまった。最後の最後の土壇場になってエラリーは気付くが、私にはその前に示唆した犯人がなぜエラリーがこの男を選んだのか不思議だった。 本書は表題の未完成長編のシノプシスにクイーンの未収録短編作品も織り込んだ贅沢な一冊。解説にもあるが発表当時は本書がクイーン作品翻訳出版の最後の作品集とされたがその後論創社がクイーンのラジオドラマシリーズを次々と訳出し、現在でもまだクイーンの未発表作品の訳出は続いている。 しかしその一連の流れを作ったのはやはり本書が嚆矢だろう。 さてそんな作品集の始まりはノンシリーズの「動機」から始まる。 町の住民が次々と殺されるが犯人は一向に解らない。 その作品以降続くのは「クイーン検察局」シリーズの未収録短編と「パズル・クラブ」シリーズ。どちらも推理クイズと大差ない読者の挑戦状を挟んだ小編ばかりだが、全編通して多いのはダイイング・メッセージ物だということだ。 私はミステリ評論家がクイーンが特に好んだのがダイイング・メッセージという書評を読んでそれほど多いのかと腑に落ちない物を感じていたが、本書を読むと確かにクイーンはダイイング・メッセージがいかに好きだったのかが実感できた。玉石混交の感は否めないが、よくもまあこれほど考え付いた物だ。初期の頃から言葉遊びを嗜んでいたがダイイング・メッセージはこの趣味が高じた物なのだろう。 そして注目の表題作。これは前にも書いたがクイーンの代表作『~の悲劇』の題名を継ぐ作品だけあって、その真相は二転三転し、読者の予断を許さない。 往年の大女優の死は自殺か他殺か? しかもその真相には後期クイーン問題も孕んでおり、読後の余韻は『九尾の猫』や『十日間の不思議』に似たものがある。 作品として完成していれば後期の代表作の1つになっていたのかもしれない。 本作の題名はバックが法律を素人ながらも勉強して得た生半可な法律知識が実は誤りだったことから来ている。 この悲劇をエラリーは間違いから起こった悲劇だと慨嘆する。 ただ私はこう思う。世の中の犯罪全てが間違いから起こった悲劇なのだと。 つまりこの題名は犯罪そのものが「間違いの悲劇」なのだという作者からのメッセージではないか? この梗概はクイーン最後の長編『心地よく秘密めいた場所』の後に書かれたのだという。やはり一連の自作をもトリックに盛り込んだ『心地よく秘密めいた場所』は集大成的な要素を持っていながらもシリーズの最終作ではなかったのだ。 つまり彼らの代表作である悲劇四部作の名を冠した作品を最後にすることでシリーズを終えるべきだったのだろう。 犯罪を扱ったパズラーから始まったクイーンシリーズが最後に行き着くのはダネイからリーへの手紙にあるミステリの枠組みで今日の世界の狂気を描くという試みだ。一種のゲーム小説で始まったシリーズが最後に到達したのはやはり人間の、そして人間が形成する世界の歪みを告発することだった。本作は犯罪を題材にしてそれを生活の糧にしてきたクイーンの贖罪だったのかもしれない。 またよく考えてみると『~の悲劇』の題名がついた作品でエラリーが活躍するのは本作だけである。深みあるテーマとこの題名。もしシノプシスだけでなく、作品として完成していたら貴重な作品となっていただろう。 本書の巻末には実はこのシノプシスを基に有栖川有栖氏が小説化するという企画だったという解説がしたためられている。しかしそれは諸般の事情から適わなかったわけだが、その一部始終と本格ミステリ憧れの存在の遺作を手掛けるということの重圧と意欲、そしてそのための準備が語られており、それが逆にクイーンと云う作家の日本における地位の高さを意味している。 そんなクイーン作品も今や絶版の憂き目に遭っているのは何とも哀しい事実だ。 しかし一方で角川書店や東京創元社からは国名シリーズの新訳出版が続いているという嬉しい状況も見られる。 現在の第一線で活躍する本格ミステリ作家の尊敬止まないこの作家の作品が今後も彼らの作品からクイーンの諸作に容易に手を伸ばせるような状況が保たれることを望んで止まない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は馳氏による初の探偵小説と云えるだろう。
元警官でバブル経済時に土地転がしをして失敗し莫大な借金を抱えたしがない探偵徳永。彼が追うのは警察官僚の娘の失踪。特に冒頭の、高い地位のある、富裕な依頼主を訪れ、失踪した娘の捜索を依頼される件はチャンドラーの『大いなる眠り』を想起させる。 そして文体も全く変わっている。極限まで削ぎ落とし、体言止めを多用した文体から比喩を多用し、諦観と皮肉に満ちた文章はチャンドラーのそれを意識したもののように感じた。 主人公は元警官で今は弁護士事務所に雇われている探偵徳永。バブル時代に機を読み誤り、購入した不動産が値下げし、億単位の借金を抱え、少しずつ返済する日々を送っている。 そんな彼に持ち込まれたのが警察官のキャリアである井口警視鑑。次期警察庁長官と云われている。彼から依頼されたのが失踪した娘を捜し出すことだった。 物語はこの失踪した女性山下菜穂と彼女の趣味仲間田中美代と菜穂の高校時代の友人である和歌子こと菅原舞に彼女の連れ英ちゃん。そしてその趣味の世界では有名な飲食店経営者渡瀬を中心に進んでいく。 そしてまず本書のモチーフにあるのは薔薇。今ではもう幻の存在ではなくなったが、本書で失踪する菜穂は薔薇の生成、それも青い薔薇を生み出すことに執着しているアマチュア栽培家。 題名にもなっている青い薔薇は英語ではありえないことを意味する。 そしてこの薔薇のモチーフは物語半ば過ぎて別の意味を持ってくる。 しかし探偵小説といえどもきちんと馳氏のテイストは盛り込まれている。警察官僚の娘の失踪がいつの間にかキャリア同士の抗争に繋がり、しかもそこには主婦によるSMクラブという淫靡な真実が隠されている。それがやがて警察内部の政治抗争において爆弾のようなスキャンダルに繋がっていく。 なんでも存在する東京と云う都市が生んだ社会の歪みの権化。富裕階級に属する20代後半の若く美しい主婦たちが集う禁断の扉。アマチュア薔薇栽培家が目指していた青い薔薇の実現もいつの間にか2人のSM女王、赤薔薇、黒薔薇というモチーフに変わる。う~ん、実に馳星周氏らしい。 しかし探偵小説の体裁は上巻まで。やはり最後はいつもの馳作品。 人捜しの過程で出逢った人物、菅原舞に惚れてしまった徳永は仕事の途中で舞を喪ってしまう。それが徳永が獣になるトリガーとなった。 狂気と殺戮の宴の始まりだ。 理性と云う箍を外した徳永はもはや味方などは関係なく、己の願望を満たすために他者を利用するだけだ。全てが舞という大切な存在をこの世から消し去った敵としてみなす。 しかしそこから物語が微妙に歪んでくる。 敵側にさらわれた菜穂と英ちゃんを取り戻すために悪鬼の如く、慈悲を捨てて田中美代、渡瀬、公安警察らに挑む徳永だが、依頼元の井口の妻佳代ももはや身の保身のために事件については関心を持たず、徳永を切り捨てるし、肝心の菜穂はスキャンダルの種を恐れた井口にとっては既に敵側の手中に堕ち、出世ゲームからは脱落したものの、警視総監の地位確保のために身の回りの整理をしている。 つまりこの時点で既に徳永は菜穂を奪還する行為自体になんら意味が無くなっているのだ。 彼にあるのはただ単純に舞の命を奪った者への復讐の願望であり、その者たちの正体は解っているのでなぜ菜穂の奪還に固執するのか解らなかった。 つまり理性を失った徳永同様に物語ももはや筋を失い、ただ徳永が暴力を存分に振るうための舞台でしかなくなっているのだ。 作中、主人公の徳永の言葉に暴力への衝動について語られるシーンがある。精神の箍が外れ、暴力それ自身が快感となり、行為を制御できなくなるということだが、それは裏返せば馳氏の創作姿勢の説明ではないか。 どんな舞台、設定、登場人物を使っても行き着くところはどす黒い暴力の渇望。精緻に組立てた物語構造も最後の主人公の狂気の暴走に奉仕する材料にしか過ぎない。それを書きたいがためにそれまで我慢して物語を紡いでいるのだ、と。 また読書中、どうしても拭いきれない違和感があった。 本書の刊行は2006年なのだが、作品の時制は少し前のように感じた。しきりにバブル崩壊の膿やら残滓が謳われ、しかも主人公は携帯電話を使うことも覚束なく、パソコンのインターネットもパソコン通信や電話回線を使ってのネット接続だったり、ポケベルを持っている警官がいたりと、なんとも違和感を覚えることが多かった。 しかもサントリーが生み出した青い薔薇は2004年。つまり本書の刊行前なのだ。作中、いつごろの話か年代が出てこないため、どの時代を想像して物語に没入すべきか最後の最後まで解らなかった。 敢えて苦言を呈せば、本書は実に脇の甘い作品である。徳永が暴力に走る動機となった愛すべき存在、菅原舞を喪うことも、40を過ぎた男に起こった一目惚れからなのだ。 ほんの数時間しか過ごしていない相手にこれほどまでに惚れるのか? 20代の男が年上の女性に惚れるというのなら解るが、人生の酸いも甘いも経験した男が20代後半の女性に一目惚れするというのが実に解せなかった。さらに菜穂を取り戻すことの意味がない中での徳永の決死の任務遂行など物語としての体を成していない。 今までの馳作品らしくない破綻ぶりだ。 正直この結末には唖然とした。もう馳氏にはノワールを構成するネタが枯渇してしまったのだろうか。 先にも書いたがブルー・ローズとは英語で“ありえないこと”という意味でもある。私にしてみればそれは本書の内容こそがブルー・ローズそのものであった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書にはつい最近になって発見された未発表原稿からなる表題作と短編2編が収録されている。
21世紀になってルブランの伝記を著したジャック・ドゥルアールの調査によって発見されたタイプ原稿が本書『ルパン、最後の恋』。正真正銘のルブランの手による最後のルパン物語だ。 なんと作者ルブラン没後70年経ってからの発表である。 そんな出版をされた物語は何ともロマンティック。これだよ、これがルパンだよとかつてルパンシリーズを読んで胸躍らせた読者の期待を裏切らない展開の速さとルパンという男の懐の大きさに満ちている。 高貴なる女性と彼女を守る四銃士。その中の一人こそがアルセーヌ・ルパンであるというドラマティックな設定だ。 しかし予想に反して4人のうち、誰がルパンかは物語の2/5に満たないところで早々に判明する。 つまり今までのルブラン作品では、明らかにルパンと思われる人物が最後の方で正体を明かして、あまり興趣をそそらなかったが、本書では4人のうち誰がルパンかという複数の候補を用意しながら、早々と正体を明かすという読者の予想を裏切る演出を採っている。 これはその後に続くコラ嬢とルパンことサヴリー大尉とのそれぞれが惹かれ合いながらも将来を考えて―特にサヴリーが―遠慮し、本心を隠しつつ幸せを願うという、フランス人らしからぬもどかしい恋模様を描くことを主眼しており、あくまでルパンが誰かなどはその恋愛劇の添え物にしか過ぎないことが解る。このルパンが自らコラ嬢に惹かれていることを自覚しながらも一介の快盗である自分と結婚するよりも正統なるイギリス王家に嫁いでロイヤルウェディングを実現させる方が女性の幸せと願って止まないという、なんとも恋知らぬ男のような純情さとストイックさを頑なに持っているのはちょっと違和感があった。 なんせルパンと云えば彼と一緒に時間を共有した女性なら惚れてしまう男であり、過去の作品でもそのプレイボーイぶりを存分に発揮している。 どの作品か忘れたが、眠っている女性を全身を軽くキスしてあげてリラックスさせるという、21世紀の今でも顔を赤らめてしまうような行為をするのが彼なのだ。 そんな彼がコラ嬢の求愛を悉く拒むのは身分の違いという引け目と、文中で語られる年齢にあるようだ。 本書でのルパンは既に怪盗業(こんな言葉があるとは思わないが、ルパンはやっぱり泥棒稼業と書くよりもこちらの方が合う)を引退し、世界各地にその膨大な財産を保管しては、世の役に立つ事業や運動に100億単位の金を融資するという慈善家となっている。年齢40歳。まだ40歳なのだ。 しかし既に心持は引退した事業家のそれとなっており、若くて活発な眩しいほどの美しさを放つコラ嬢に遠慮をしているようなのだ。 しかしそれでもルパンはルパン。タイトルにあるように最後の恋をして物語は終わる。 従って本書はやはりルパンの人生の終の棲家を得るための最後の恋物語というのがメインなのだが、それを通奏低音としながら本来の物語はコラ嬢へイギリス王侯が贈った400万ポンドの金貨とコラ嬢自身を巡っての悪党とルパンの攻防戦という図式。 かつてのルパン譚には彼の万能性を以てしても窮地に陥る難事件が数多くあったが、それに比べれば今回の敵は彼にとっては掌上の何とやらで、実に容易い相手であった。 しかも彼には世界中に彼を慕う部下が何千人とおり、無尽蔵とも云える財産もあるが、イギリス側の敵と対峙するのはルパンと飲んだくれの親から引き取った才気煥発な兄妹2人という人員構成。 そんな手薄な人員でイギリス政府からの刺客を撃退するのだから、ある意味胸躍る活劇を期待する分にはいささか物足りなさを感じるかもしれない。 しかし今回の邦題がそういった先入観を軽減する一助になっていると私は思う。この題名があるからこそ、本書の方向性が読む前から見え、冒険活劇よりも恋愛劇がメインであることを許しているのだと思う。 こういうのを訳者のいい仕事と云うのだろう。 そして本書には表題作に加え、ルブランのルパン物第1作の短編「アルセーヌ・ルパンの逮捕」、ルブランによるエッセイ「アルセーヌ・ルパンとは何者か?」、そして文庫化に際し、ボーナストラックとして幻の『バーネット探偵社』の1編である「壊れた橋」が収録されている。 正直「~逮捕」は既読であり、ネタも解っていたのでそれに関する新鮮味はなかった。 しかし現在流布する短編集『快盗紳士ルパン』の収録作がアレンジヴァージョンであるようだが、それを比較して批評するのは好事家の方々に任せることにしよう。 エッセイについてはルブランがどうしてこれほどまでに自身が生み出したピカレスク・ヒーローが世界中の読者に親しまれることになったのかを第三者的立場で批評した物。 やはりそこには先達の生み出したヒーロー、シャーロック・ホームズに対してのライバル心が窺えて興味深い。作者自身はホームズ作品は読んだことなかったので全く関係ないのだと述べてはいるが、ホームズとルパンとの比較を2ページ半に亘って記述し、更には自身の作品には事実をも取り入れた謎解きが含まれているのだとその優位性を述べるくだりもあり、言葉とは裏腹にかなり意識していたことが窺える。 そして本書の目玉であるのが長く埋もれていた短編「壊れた橋」の収録。仲のいい隣人同士だったが、お互いを結ぶ橋が壊れ、一方の家主が死ぬに当たり、隣人夫婦間の裏に蠢く泥沼劇が明るみになるという物語。 上のように書くと実に陰険な物語のように思えるがルブランの筆致はあくまで明るく、特にルパン=ジム・バーネットの天真爛漫とも云えるあっけらかんとした謎解きのプロセスが物語に暗さをもたらしていない。逆に同作の概要をまとめるに当たり、ああ、こんな物語だったのだと読書中には感じなかった重さを知らされたぐらいだ。 さてルパンが怪盗でありながら、実はフランスと云う国をこの上なく愛しており、国のピンチであればスパイのように他国へ侵入して自国への害を未然に防ぐことを厭わないヒーローであると最近のルパンに纏わる書評で読んだ記憶があるが、本書ではルパン自らが愛国者であることを宣言している。そして残りの余生を世界平和に役立てるために私財を擲つとまで述べている。 ルパンは元々アンチヒーローとして生まれたが、最後となる本書ではルパンがヒーローであることを作者が強調していたのが興味深かった。 数年前、早川書房はルパン作品を全編訳出すると意気込んでいたが、現在ではその動きは停滞し、半ば消失したかのように思われた。 が、この未発表原稿の訳出が大体的に各書店で行われたのは実に喜ばしいことである。この余勢を買って、再度新訳でのルパンシリーズの訳出に拍車がかかることを願って、筆を措きたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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アル中探偵マット・スカダーは本書から我々の前に姿を現した。ローレンス・ブロックの筆によって我々に紹介されたのだ。
ブロックは存在した探偵を掘りだし、それを文章と云う形で教えてくれたのだ。そんな風に考えてしまうほど、このマット・スカダーという人物が人間臭い。 1作目の本書で既にマットのありのままが語られる。 ライセンスを持った探偵ではなく、人の依頼を受けて便宜を図ってやる商売をしていること。元警官で警官時代に強盗を撃ち損じた弾が誤ってたまたま近くにいた7歳の女の子の命を奪ってしまったこと。それが彼が警察を辞める原因となったこと。彼には別れた妻アニタが居て2人の息子がいること。娼婦エレインとは時々会って寂しさを紛らわすこと。飲み友達のトリナとは何でも話せる関係なのに、なぜか身体は交わさないこと。 そんなスカダーの生活がストーリーを追うにつれ、静かに心に積もっていく。そしていつしかスカダーが心に住まっているのに気付く。 とにかくそれまで読んでいたブロック作品の雰囲気を覆す芳醇なウィスキーのような大人の香りに満ちた文体が非常に心地よい。 ウェンディとリッチー。2人の若者は一緒に暮らしながらなぜ死んだのか? 50代の男性から金を貰ってはデートをし、一夜を供にして金を稼いでいたデート嬢とホモの集まるバーに通っては近寄ってくる男を受け入れるでもなくついていくようなシャイな男が同棲していたのはどうしてなのか? スカダーは彼と彼女の近況、そして過去を探ることで次第にその奇妙な関係に納得のいく理由を突き止めていく。 そしてスカダーの目に映る生前の彼ら2人の像は実に哀しくも寂しい存在だったということだ。 みんな一人は寂しい。だから一夜限りであれ、誰かと共にいることを選ぶ。しかしそんな刹那的な出逢いではなく、純粋な物を欲しがった2人が見つけたのは足りないものをお互い補う関係。 それは父親から幼い頃に影響を受けたがために普通に振舞えなくなった社会的不適合者2人がお互いの傷を舐め合いながらそれでも生きていく姿だった。 事件の当事者の関係者を辿り、質問することで隠された正体を探り当てるスカダーの行為はロス・マクドナルドのリュー・アーチャーを想起させる。しかしリューは全てを知るために相手が嫌がるほどに質問を繰り返すのに対し、スカダーは必要以上のことを知ることで被る迷惑を知っており、それが故に忘れたい過去をほじくり返されて安定した生活を壊される人々がいることをわきまえているからこそ、そこまでの追及はしない。それは彼の優しさなんだろう。 ただし罪を犯した者に対しては容赦はしない。彼は真犯人に自分のやったことを胸に問い、自殺した方がましだと強要する。さもなければ警察に再捜査の依頼をすると。 スカダーは決して恐喝者ではない。ただ彼は優しいのだ。 被害者たちを調べていくにつれ、彼と彼女のこれからの生活を打ち砕いた者が許せなかっただけなのだ。 従って自殺を促すスカダーは冷酷などとは決して感じない。 彼は、そう、純粋なのだ。 久しぶりにじっくり味わうプライヴェート・アイ小説に出逢った。心に傷を負い、トラウマと共に生きる探偵を主人公にしたのがネオ・ハードボイルドというジャンルでこのマット・スカダーシリーズはその中でも代表作とされるものだ。 しかしそんなことよりもまずはマット・スカダーと彼を取り巻く人々の世界にこれからじっくり身を任せ、浸っていこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ネルソン・デミルならぬドミルの1978年の作品である本書は当時最新鋭の飛行機だったコンコルドがスカイジャックされるというルシアン・ネイハムの『シャドー81』を想起させる作品。当時アメリカでは『シャドー81』はほとんど話題にならなかったとのことだが、ドミル自身はその作品を読んでいたに違いない。
しかしスカイジャックのコンコルドだけを舞台に物語は終わらない。テロリストにスカイジャックされたコンコルドの乗員は誘導されたバビロンの地で混成の即席の軍隊としてテロリスト一団と戦いを挑むのだ。 政府要人を含んだ一行は不時着したコンコルドを資材にしてアラブ人テロリストたちの攻撃に対抗すべく、要塞を作る。この辺りは昔ながらの冒険サバイバル小説の風合いがあり、懐かしくも楽しく読んだ。 機内の戦争映画の戦闘シーンのヴォリュームを大きくして、イスラエル側の戦力が多いように偽装したり、エアゾール缶に火をつけて火器に見せかけたり、さらにはブラジャーを投石器代わりにしたり、窒素ボンベの先にコンコルドのシートを付けた爆弾を作ったりと、日用品を使った生活の知恵ならぬ戦闘の知恵がそこここに挟まれていて面白い。 しかしバビロンの遺跡に今なお2000年の悠久の時間を経てもなお住んでいるバビロンの民、ユダヤ人の末裔が住んでおり、その人たちが脱出したドブキン将軍を助けるというのはいかにもハリウッド映画が好みそうな時代と異国のロマンティックな邂逅という演出で失笑を禁じ得なかったが、この流浪の民がそこにいてまだ留まろうとするユダヤ人の血が伝える民族意識の強さを示すのにこの設定は必要だったのだ。 現在でも存在するかは解らないが、イスラエルには帰国法というのがあり、世界各国に散らばるユダヤ人がイスラエルへの帰国を望めば誰であれ受け入れる国策を講じている。砂漠の地バビロンで文明利器の恩恵から程遠い生活を送る彼らがイスラエル政府が差し伸べる手を敢えて拒み、その地に留まろうとするのは遠き地であってもユダヤの精神は受け継がれるという遺伝子レベルで刻まれた民族の絆という強固な繋がりがあるからだ。 日本人である私でもその見えない強き繋がりの存在は理解できる。私が海外赴任していた頃、一緒に働いていた日本人と感じていたのはやはり私たちはどこへ行こうが日本人であり、仕事に対する意識や文化は他国のそれを理解しても根っこの部分は日本人であることを変えられない、そしてそれが誇りになっていた。この時感じた思いはユダヤ人の持つ民族意識に近いものではないだろうか。 従ってそんな全世界に散らばるユダヤ人で構成された代表団であるから一概にイスラエル人と云っても多種多様。アメリカ系ユダヤ人、ドイツ系ユダヤ人と様々だ。 彼らにはそれぞれの国民性が色濃く根付いていて、価値観の違いからしばしば衝突が巻き起こる。そんな混成チームの内部ドラマも本書の読みどころだ。 そしてイスラエルやムスリムなど中東を舞台にしているせいか、アクション大作である本書にはどこか神が介在している翳のような物を行間に感じてしまった。最果ての地にユダヤ人の末裔がおり、将軍を助けるなど、偶然を必然とする見えざる導きの手がイスラエル代表団の周りには存在しているかのように感じられた。 だからといってイスラエル政府が行方知らずとなったコンコルドの行方をまさに天啓とも呼べる、近い神のお告げが降りてきたようなラスコフ准将の根拠なき直感でバビロンと選定する展開にはいささか疑問。もしこの薄弱な根拠でバビロンに進攻していたら本書の面白さは半減していただろう。ドブキン将軍の決死行がなかったら、私は本書を読んだことを後悔していたに違いない。 本書の主人公ハウズナーはエル・アル航空の保安部長でありながらテロリスト、アメド・リシュの因縁の相手でもあるが、本書をハウズナーとリシュの決着の物語とするのはいささか安直に過ぎるだろう。 ではハウズナーとリシュをリーダーにしたアラブ人テロリストと素人武装集団の戦い、つまり代理戦争であるというのもまた足りない。 これは我々イスラムの民でない者が理解できない彼ら民族間の根深い抗争の物語であり、民族の誇りのためには命を投げ出すことも厭わない民族の物語なのだ。アメリカの冒険小説である本書のメインの登場人物がイスラエル人とアラブ人なのも特異だが、この対立が23年後アメリカ人とアラブ人という構造に変わり、全く違和感のない世界になっていることが恐ろしい。 ドミルは9.11以前に既にアラブ人テロリストがアメリカに侵入して次々と元軍人たちを殺害する『王者のゲーム』を著しているがその萌芽は既に本書にあったのだ。 さらに作者がトマス・ブロックと共著で発表した航空パニックの大傑作『超音速漂流』の元ネタも本書には見受けられる。そういった意味で本書は後にベストセラー作家ネルソン・“デミル”になる源泉だと云える。 そして忘れてはならないもう1人の主役がテロに遭うコンコルド機だ。今はもう生産されず営業航行されていない幻のスーパージェット機コンコルドが満身創痍になりながらも再び空へ旅発とうとする姿は映像化すれば魂宿る気高き鳥として映るに違いない。 後世にコンコルドという音速を超えるジェット機が存在したことを知らしめる詳細な資料としても貴重な一冊となっている。 しかし昨今のデミル作品と思えぬほどアメリカン・ジョークの少ない作品だ。確かに本書の登場人物はイスラエル人ばかりだが、作家としての余裕がまだ感じられないことの証左でもある。 初々しさの残る作品だった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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