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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1433件
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今なお珠玉の短編集として名高い本書。その評価は読んでみるとだてではなかったことが解る。
第1編目「食いついた魚」は湖で釣りをする男が出逢った見知らぬ男を描く。 背筋が寒くなってくる1編。鍛えられた体格の大男。釣った魚を食糧にして旅して暮らしている男が唐突に話したある時の殺人の話。それは実は大男にとって人の道を踏み外す禁断の扉を開ける行為だった。 「成功報酬」は短編のみ登場するシリーズキャラクター、悪徳弁護士エイレングラフ物の1編。 この男、どこまで本当なのか?と読者の興味をそそる非常に魅力的な悪徳弁護士エイレングラフ。 一気にこの1編でエイレングラフという弁護士が頭に刻み込まれてしまった。 その題名はある有名な作品をモチーフにしている。「ハンドボール・コートの他人」は原題を“Strangers On A Handball Court”という。そう“Strangers On The Train”、パトリシア・ハイスミスの作品であり、ヒッチコック映画の傑作でもある『見知らぬ乗客』だ。 上に書いたように本編はパトリシア・ハイスミスの作品をモチーフにした交換殺人物。ただしそこはブロック、一捻りした皮肉な結末が用意されている。 「道端の野良犬のように」は国際テロリストを扱った話。 ただこのオチは正直なんでもよかったのではないか? ブロック作品での泥棒と云えばバーニイ・ローデンバーが殊の外有名だが、この短編に登場する泥棒は彼ではない。「泥棒の不運な夜」では忍び込んだ家で主に見つかり、逆に命を狙われてしまう。 なおこの作品はブロックの前書きによれば本編は『泥棒は選べない』より前に書かれた物でバーニイの原型かもしれないとのこと。泥棒の最中に他の犯行に巻き込まれるシチュエーションからすれば確かにそうかもしれない。 「我々は強盗である」はアメリカ映画でよく見る砂漠の中にポツンとあるガソリンスタンドとドライヴインを舞台にした1編だ。 これは前書きによればブロック自身が実際に出くわした悪質なガソリン・スタンドでのぼったくりに着想を得た作品とのこと。つまり作者はこの作品を著すことで溜飲を下げたわけだが、本作には色々な教訓が込められている。 まずはぼったくるのもほどほどにすべきであり、度が過ぎると痛い目に遭ってしまうという教訓。もう1つは人間腹が据わればどんなことでも出来るという教訓だ。 しかしブロック、ただでは起きない。 「一語一千ドル」は作家の多くが思っていることだろう。 窮鼠猫を噛む。どんなに気の弱い人も追い詰められれば何をするか解らない。 「動物収容所にて」はある意味、共感を覚えると云ったら驚かれるだろうか? 目には目を、歯には歯を。この思い。完全に否定できない自分がいる。 再び悪徳弁護士エイレングラフ登場。「詩人と弁護士」では無一文の詩人を救うために一肌脱ぐ。 「成功報酬」では高額の報酬の為には犯罪も厭わないとばかりの悪徳弁護士ぶりを見せつけたエイレングラフだが、なんと本編では無報酬で無名の詩人の釈放に一役買う。 何か裏があるのだろうと思っていると、実に意外なことに気付かされる。 いやはやこのエイレングラフと云う男、実に奥深いではないか。この男のシリーズ物が読みたくなった。 「あいつが死んだら」は奇妙な味の短編だ。 神が降りてきたかのような1編。 突然見知らぬ者から送られてくる手紙。そこに書かれているのは見知らぬ男の名前で彼が死ねば金をくれるという物。しかし主人公が手を下さずとも標的の男たちは病死し、金が転がり込む。しかも男にとってその報酬は自分の年収の数分の一もの金額。さらに手紙が来るたびに報酬が上がっていく。そんな手紙が来れば人間はどうなるのか? よくもこんなことが思いつくものだ。 本格ミステリのおける連続殺人事件をブロックが書くとこうも素晴らしいものになる見本のような作品が次の「アッカーマン狩り」だ。 ニューヨークでアッカーマンと云う名の人物が次々と殺される。犯人の動機は皆目見当がつかない。 物語は犯人の独白で終わるわけだが、ゲームの内容が公表された犯人は次の新たなゲームを考え出す。その時のさりげない台詞のなんと恐ろしいことよ! 実に上手い! 語り手が珍妙な兄弟2人の顛末を語る異色の1編、「保険殺人の相談」はスラップスティックコメディの傑作だ。 作者と思しき語り手が実に軽妙な語り口でこの間抜けで愛らしき兄弟たちの顛末を語るストーリー運びはチャップリンの喜劇を観ているような錯覚を覚えて実に面白い。 歯車がちぐはぐに絡み合うかの如く、常に兄弟のやることは裏目に裏目に出て、とにかく上手く行かない。しかしなぜか2人には高額な保険金が掛けられている。終わり方は実にこの間抜けな兄弟らしい玉砕で、作者が云うように収まるところに収まり、一件落着! 表題作はたった10ページの物語ながら無駄を削ぎ落としたような切れ味を持つ。 う~ん、まさに都市伝説。世の中には色々疑問に思っていることがあるが、恐らくアメリカでは誰もが一度は思っているのだろう、古着のジーンズはどうやって仕入れるのか?という疑問をモチーフにブロックが紡いだのは実にブラックな解答だった。 しかし物語でははっきりとその答えが書かれていない。しかしもう雰囲気と行間、そしてある決定的なある単語で読者に恐ろしい想像を掻き立てるのだ。 これは秀逸かつ切れ味抜群の上手さを誇る1編だ。 そしてとうとうバーニイ登場。「夜の泥棒のように」は三人称で語られる泥棒探偵バーニイの短編だ。 ロマンティックな男と女の奇妙な出逢いを描きながら、最後に意外な真相を持ってくる実に贅沢な逸品。再登場してほしいものだ、このアンドレアという女性は。 「無意味なことでも」は友人の子供が誘拐されるお話。 かつて一人の女性を取合った男達。今では友人同士で何でも相談し合える仲。そんな相棒の娘が誘拐される。 ディーヴァー作品のようなどんでん返しがある作品なのだが犯人の一人称で物語が展開されるゆえにアンフェアなところがあるのが気になる。 ちょっと技巧に走り過ぎたか。 「クレイジー・ビジネス」とは殺し屋稼業の事。新進気鋭の殺し屋が伝説の殺し屋に彼の逸話を聴きに行くというお話。 これは先が読めてしまった。 「死への帰還」はハートウォーミングな話。 子供は大きくなり、実業家として会社を運営し、一応の成功を収めた男。しかし実情は妻との関係は冷え切り、愛人がおり、しかも会社の資産は減りつつあった。そんな矢先に訪れた災難。その犯人捜しをするため、男は妻、共同経営者、愛人、子供たちと逢っていく。 正直この物語の犯人が誰であろうが、そこに主眼はないだろう。 最後はマット・スカダーが登場する「窓から外へ」はお馴染みアームストロングの店のウェイトレスに纏わる話だ。 ポーラと云うウェイトレスは本編で出てきたのか、記憶は定かではないが、マットにとって彼の人生に関わった知り合いが死に、そしてその死の真相を突き止めたい依頼者が現れたならば彼の腰も挙げざるを得ない。 50ページほどの分量だが、その内容はシリーズ1編の読み応えがある。 死に携わる人間に対する眼差しは相変わらず厳しい。 今や短編集ではジェフリー・ディーヴァーが挙げられるが、それまではブロックのこの短編集が非常に完成度の高い短編集として挙げられており、今なお本書を読むべき作品として挙げる作家もいるほどだ。 ジェフリー・ディーヴァーの短編集がどんでん返しに重きを置いているものとすれば、ローレンス・ブロックのそれはどんでん返しにホラーにサイコ、クライム、悪徳弁護士、対話物、連続殺人鬼、ファンタジー、ネオ・ハードボイルドと実にヴァラエティに富んでいるのが特徴的だ。特に「食いついた魚」や「成功報酬」、表題作などは想像を掻き立て、その何とも云えない余韻が印象的。 またどんでん返しを加えながらも心温まる、思わず微笑みを浮かべてしまう余韻を残す「夜の泥棒のように」や「死への帰還」もこの作家ならではだろう。 個人的ベストは「あいつが死んだら」、「アッカーマン狩り」、「保険殺人の相談」、表題作、「夜の泥棒のように」。 「あいつは死んだら」はその着想の妙を買う。 「アッカーマン狩り」は最後3行目の台詞に、そして表題作は古着のジーンズ卸し会社の本当の社名が秀逸。それらが暗示する恐ろしさといったら…。 「夜の泥棒のように」はバーニイが登場する作品だが、他人の目から見たバーニイが新鮮で、しかもストーリーもきちんとオチが付いているという絶妙な作品。 とにかく精選された単語、言葉遣いを短いセンテンスで入れるため、一言に凝縮されたその意味が実に濃厚。表題作の会社名、「アッカーマン狩り」の犯人がふと漏らす一言など実に効果的。しばらくこれらは私の脳裏から離れられないだろう。 短編と云うのはこういうことを云うのだと云わんばかりの名品揃い。ブロックと云う作家の全ての要素を出し切った作品集と云えよう。 特に作家たちはこの本をお手本にすべきだろう。ストーリーの語り口に運び方、言葉選びなど多く学ぶべきエッセンスに満ちている。 しかしどうして本書も絶版なのだろう。本書こそプロ、アマチュア全てに読まれるべき作品であるのに。実に勿体ない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『赤い指』が作者自身60作目の作品で、これだけ数々の作品を著した東野圭吾氏だが、意外にも医療ミステリというのは本書が初めて。
大学病院を舞台に脅迫犯による大動脈瘤切除手術の妨害工作と医師たちの必死の救命劇、そして刑事と犯人との息詰まる攻防を描いたサスペンス作品となっている。 刑事と医師と脅迫犯の三つ巴の攻防を描いた本書はミスによる死が生んだ奇妙な復讐劇である。 万引きをしたところを警察に見つかった少年は追いかけられたパトカーから逃げようとして交通事故に遭い、亡くなった。 大動脈瘤を患った父親は簡単な手術だと聞かされ、名医と云われている執刀医を迎えたが、手術に失敗して亡くなってしまった。 仕事中に瀕死の重傷を負った彼女は搬送中の救急車が欠陥車による渋滞で病院に運ばれるのが遅れ、治療が間に合わず、亡くなった。 それらは間接的に命を奪う行為であり、その過程に問題はなかったか、なぜそんなことが起きたのかという原因などが焦点になる。しかし命を奪われた被害者に関わる人々は亡くなった人を思い、問題が解決されても心にしこりを残し、一生消えない傷を負う。 加害者側は論理的に問題を分析し、正当性を見出そうとするが、人を亡くした人には論理よりも感情が先に立つ。そこがこういった外的要因による人の死の加害者と被害者に横たわる深い溝なのだろう。 そしてそれら情念の炎が消えないままで、自分の大切な人の命を間接的に奪った人が目の前に、手の届くところに現れたら、その人はどうするだろうか? 息子の命を喪うことになった事故の当事者が目の前に患者として、現れる。 重傷を負った彼女が病院に搬送するのが遅れた原因を作った欠陥車を作った会社の社長が手術を受けようとしている。 そんな時、その人はどうするだろうか? 本書はそんな心のしこりを抱えた人々が奇妙な縁で絡み合う物語だ。 その心のしこりを霧消させるのもまた人の誠意ある言動だろう。物語の最後で判明する西園医師による氷室健介の執刀ミスの真相は、手術前に西園から氷室に息子の件の事を告げ、お互い話し合うことで心のしこりを溶かした。 翻って直井穣治によるアリマ自動車社長島原総一郎への復讐は島原が到底実現できそうにないノルマを従業員に課して品質管理を省略化させ、商品の安全を不十分な状態にしたまま市場に流通したがために再燃した。つまり誠意のない言動を取ったがための事件だった。 『殺人の門』、『さまよう刃』、『容疑者xの献身』と東野圭吾氏はやむにやまれず殺人を犯さずにいられなかった人々の姿を描く。そのいずれも大事な物を奪われた者に対する復讐だったり、自らの安心を得るために思わず犯してしまった殺人だったりと、よんどころない事情で犯さざるを得なかった犯罪だ。 そのため、その物語を読む読者は犯罪者側が捕まらずに本願成就することを望むかのように応援するような心理に陥ってしまう。 本書の直井穣治もそんな復讐者の一人だ。 但し一方で復讐が成就されることを望みながら、彼の行う犯罪で犠牲になろうとする患者がいることで読者に迷いを生じさせる。つまり犯罪はどんな動機であれ、許されるべきではないことをきちんと東野氏は描く。この辺の微妙な匙加減が非常に上手い。 ところで本書ではいくつか疑問点がある。 まずは脅迫者直井穣治が病院に2度目の脅迫状を受付の診療申込書に紛れて来客に見つけさせるシーンだが、なぜ警察は監視カメラをチェックしないだろうか?監視カメラがないわけではなく、実際に脅迫犯が小火騒ぎを起こした時は監視カメラを増やして強化するという記述があるくらいだ。しかも小火騒ぎの時でさえ、監視カメラを見ようとしない。これは警察の捜査としては明らかに手抜かりだろう。 次の疑問点はネタバレになるのでそちらに書く。 とまあ、少々の疑問は残るものの、しかし東野圭吾氏の作劇術には頭が下がる。 動脈瘤手術で命を喪った氷室夕紀の父親健介。その医者は自分の母親となぜか親しげだった。そんな疑惑から当時の執刀医である西園を疑い、自ら医師となって西園医師の執刀がミスではなかったのかを調べるのが夕紀の目的だった。 そして脅迫騒ぎが起きて捜査に携わることになった七尾という刑事は健介が刑事だった頃の部下でもあった男で、夕紀は初めて父親が警察を辞めるきっかけとなった事件を聞かされる。それは万引きをした少年たちがバイクで逃げた際にパトカーで追いかけ、バイクの少年が交通事故に遭って亡くなったというものだった。 そしてさらに西園には昔亡くなった息子がおり、その息子が実はバイクで逃走中にパトカーで追いかけられている最中に亡くなってしまったという事実。 つまりここで西園が息子の敵とばかりに健介を故意のミスで死なせたのではないかという疑惑が沸々と起こってくる。このあたりの物語の展開が非常に上手く、特に西園の息子が亡くなったエピソードを読んだところで思わずアッと声に出してしまった。 果たして医師は故意に父親を殺したのかという疑惑が夕紀の中でさらに強まってくるが、その答えをクライマックスの手術シーンに持ってくるあたりが実に上手いのだ。 いくら口で云っても理解されないことはある。ましてや心に残るしこりというのは頭で解っても心の底から納得できないことが多い。 心に残るしこりは行動で態度で示し、目の当たりにするのが一番の回答になる。百の説得よりも一の行動こそが真の和解を生む。 だからこそ本書では普段我々が意識する事のない「使命」という言葉が頻繁に出てくる。 人は何かの使命を持って生まれ、それを信じて全うする事こそが人生なのだと夕紀の父健介は娘や部下に説き、また夕紀の上司西園も医師と云う職業に患者の命を救う使命という旗印の下で懸命に全力を尽くす。 私達の日常で使命と云う二文字を頭に描くことがあるだろうか?しかし目的や目標を持ってそこに向かう人こそ、強く、また人から尊敬されるのだ。 私はどんな使命を持って日々生きているのか。改めてこの重い二文字に考えさせられてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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第一次大戦中、パレスチナで活躍したユダヤ人諜報組織NILIの中にトルコ軍の情報をイギリス軍に流し続けた1人の女性スパイがいた。バー=ゾウハーがこの隠れた史実を元に構成したのが本書である。
モデルとなった女性スパイ、サラ・アーロンソンとなるのは考古学者の娘ルース・メンデルソン。彼女はイギリス軍のスパイである元ロシアのレジスタンスという経歴を持つサウル・ドンスキーのために自身もまたイギリス軍へトルコ軍の情報を送っていた。 しかし彼女はスパイであることをトルコ軍に知られ、父親の命と引き換えにイギリス軍の進攻を阻止するために逆にスパイとなってカイロに派遣される。 そして一方のサウルはルースらメンデルソン一家がトルコ軍の司令官ムラドによって惨殺されたことを知らされる。そしてトルコ軍がカイロに女性スパイを送ったことを知り、報復とばかりにその女性スパイの正体を暴いて捕らえる事に執念を燃やす。 本書が史実に基づいていることもあってか、第一次大戦中に名を馳せた実在の人物たちが登場し、登場人物たちと絡み合う。 例えば映画にもなって今なお伝説視されている“アラビアのロレンス”ことロレンス少佐はサウル・ドンスキーとイギリス軍のパレスチナ進攻作戦で論を交わす。 また図らずも女スパイに仕立て上げられたルースの連絡係エンマ・アルトシラーはかつて稀代の女性スパイ、マタ・ハリと共にコンビを組んでいたスパイであり、新任のルースを事あるごとにマタ・ハリと比較して毒づく。 特にロレンスについてはかなり筆が割かれ、また物語のサブキャラクターとしても重要な位置を占めている。 その中で驚いたのはルースによってロレンスがガザへ攻め入ることを知らされ、それを聞いたムラドが彼を捕らえ、カマを掘られるという映画『アラビアのロレンス』でも描かれたシーンがきちんと描かれていることだ。 これは今ではロレンスによるデマだと云われているが、それでもかなりセンセーショナルなシーンであり、やはり作者も避けては通れなかったのだろうか。 この国を跨る巨大な宗教、民族が複雑に絡み合う状況こそ、パレスチナ問題やアラブ諸国が抱える紛争の数々の火種なのだ。 大学時代にこの複雑なイスラム諸国の状況については講座を取ったが、やはりいまだに十分に理解できない。それは信仰に対してさほど意識が薄い日本人には次元の違う問題なのだろう。なんせ第二次大戦では大量にユダヤ人を虐殺するドイツがユダヤ人保護を訴えているくらいなのだ。 そんな複雑な中東諸国の抗争の巻き添えとなったのがルースらメンデルソン家だ。単なる考古学者を家長としているこのユダヤ人の一家がロシア人の諜報員と懇意になった娘がイギリス軍のスパイ活動の手伝いをしたことで、数奇な運命に翻弄される。 そのために弟は目の前でトルコ軍によって銃殺され、父親は囚われの身となり、獄中死する。そしてまだ男を知らない娘はスパイに仕立て上げられ、望まぬまま男に体を与え、処女を喪う。家族を救う、それだけのために。 大義という大きなことをなすために多少の犠牲は必要だというが、その大義のために人生を狂わされた家族がある。ルースたちもまた歴史の犠牲者なのだ。 ところで本編で登場するオーストラリア軍のジェフリー・ソーンダース中佐だが、作者の初期2作で主役を務めていたCIA工作員ジェフ・ソーンダースとは無縁なのだろうか?各登場人物のその後を語るエピローグにそのことについては触れられていないものの、冷戦時に活躍したスパイの父親が実は歴史的な出来事に関わっていたというのは作者のファンサービスだと捉えているがどうだろうか? 主にナチスにまつわる歴史の暗部を描いてきたバー=ゾウハーだが、本書では第一次大戦を舞台にし、自身が政治にも携わった中東諸国について描き、もはや歴史上の出来事とされているイギリス軍のエルサレム侵攻の裏側に隠されたある女スパイの物語を描いた。敵同士に別れた男と女というハーレクインロマンスを髣髴とさせる設定には面喰いつつも、それでもやはりそれぞれの国々が抱える複雑な情勢を的確にとらえる筆致は見事だ。 しかしこの作家の良さはスピード感とスパイという職業が抱える業のようなものを陰影深く描くところに定評があると思うので、次作は恋愛は別にしてもっと魂震える作品を期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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稀代の目利きと名高い、通称“佛々堂先生”に纏わる古美術をテーマにした連作短編集。
まず「八百比丘尼」は椿画で一躍名の売れた関屋次郎という画家のエピソード。 彼の代表作“八十八椿図屏風”は彼の代表作であり、まだ在野の素人画家であった関屋次郎の許に訪れた画商によって頼まれて製作した作品だった。一躍その大作で世に知られるようになった関屋は今や京阪神の女将連中が訪れては作品をたくさん頼まれるほどの人気画家となっていたが、関屋はある絶望を抱えていた。 元々“八十八椿図屏風”は百椿図として頼まれたが依頼人からの知り合いの米寿のお祝いに送りたいという突然の変更により、八十八になった経緯があった。そのことに不満を覚えた関屋は当時内縁の妻であり、送られてきた椿を生けて絵のモデルに仕立て上げていた可津子と別れてしまった。そしてそれ以来彼は同じ椿を構図を変えて書いているだけなのだと告白する。そして最後に書かれた白寿という椿は依頼人だった佛々堂先生への当て付けの意味を込めて書いたのだと、品評会に来た美術雑誌の記者、木島直子に話すのだった。 その話をそのまま佛々堂先生に伝えると先生はある一計を案じる。 続く「雛辻占」はある離島の小さな和菓子屋で幕が開く。 とある神社の門前町で和菓子屋を営んでいた「もろたや」は数年前の火事で店を焼失し、漁師町のある離島で小さな店舗を開いては細々と商いを続けていた。 そんなある日古いワンボックス・カーで訪れた客が店の看板商品である蛤辻占3/1~4にかけて一日200袋収めてほしいと奇妙な依頼があった。既に老境に入った父が焼く蛤の最中は以前の店でも好評だったが、島に移ってからは火事のショックで気力も萎え、一日売れる分だけを焼くのみだったが、その父の後押しで引き受けることにした。 一方新進気鋭の陶芸家小布施千紗子は父親であり高名な陶芸家でもある康介の2世だと云われることに嫌気が差していた。その満ち溢れるエネルギーは創作意欲を沸々と滾らせるほどに十分なのにその作品はどこか父親の作風に似てしまうのだった。 そんな矢先友人で彫金をしている小松啓子から3/1に大阪のとある某所へ一緒に行かないかと誘われる。しかもきちんとした和装で来るようにと念を押されてしまった。 当日駅で待ち合わせをしていると、続々と和装の女性の姿が行き交っているのに千紗子は気付く。駅にいた一人の男に何があるのかと尋ねると佛々堂先生という風流人の家が3/1~4の間、一般開放され、がらくたフェアが開かれているのだという。これらはみなそこに向かう人波だった。 飛騨高山で料亭を営む「かみむら」は店を切り盛りしていた兄の死で急遽東京の会社を辞め、店を引き継ぐようになった上村寛之。3編目の「遠あかり」では佛々堂先生によってこの料亭が盛り返す。 店を引き継いだものの、右も左も解らぬ独身者である寛之は父と兄が遺した数々の工芸品や着物をどのように活用したらよいか解らない。そんな折、店を訪れた上客が寛之に着物の着付の指南を買って出る。 客の云われるままに和装をしたため、蔵に眠る飾り物の印籠を身につけられるうちに寛之は垢抜けた粋な料理人に早変わりする。その後も手紙や電話で客のアドバイスを訊いては店の調度品や自身の着こなしが洗練されるにつれ、口コミで客が増え、「かみむら」は危難を脱出することが出来た。 寛之は客にお礼をしたいと申し出るが、決してその客は受け取らず、強引に品物を送っても、それ以上の高価な物で還ってくるのだった。 そんなある日、客から着付けをした時の印籠を貸してほしいと依頼される。寛之はすぐさま送るが、それはまたすぐに送り返されるのだった。年に一回、そんなことが幾年か続いた後、今度は寛之に印籠をつけてこちらに来てほしいと云われるのだった。 最後を飾る「寝釈迦」は実に気持ちのいい作品だ。 和田家は信州の旧家角筈家が所有する山の手入れを任されている山守りで民宿も経営している。和田克明は脱サラをして親の手伝いをするうちにこの山守りという仕事にのめり込んでいった。 そんなある時、角筈家の当主が土地の一部を手放して家を美術館に改装するという噂が立っており、その中にどうやら謂れのある山が入っているというのだった。その山は克明の父が1人で手入れをしている山だったが、昔松茸が取れると云われて買わされた不毛の土地だった。しかしその噂が立ってから克明の父は腰が悪いと云って急に母親と湯治に出たまま、なかなか帰ってこなかった。 そしてなぜか佛々堂先生がこの土地に乗り込んできた。どうやら角筈家が美術館に改装するのに一肌脱ぎに来たらしいのだが…。 服部真澄氏と云えば国際謀略小説やコン・ゲーム小説、そしてビジネスの世界に焦点を当てたエンタテインメント小説のジャンヌ・ダルク的存在だが、古美術や骨董品の目利きとして名高い通称“佛々堂先生”が登場する連作短編集はそれまでの彼女の作風を180°覆す、日本情緒溢れる古式ゆかしい物語だ。 佛々堂の由来は仏のような人だから佛の字をあてたとも、いつもぶつぶつと文句を云っているからと2つの説があり、どちらが正しいかは先生と関わった人によって違うだろう。 扱われる題材は日本画、和菓子、焼き物、和食に山守りと日本に昔から伝わる伝統の物や仕事。そしてそれらが抱える問題は先細りする産業であることだ。 いい腕やセンスを持っているのにそれに気付かない製作者がいる、才能はあるのに一皮剥け切れない芸術家がいる、止むを得ない事情で店をたたまざるを得ない名店がある、 佛々堂先生はその本質を見極める目を持って、彼ら自身ではどうしようもできない見えない壁を突き抜けるお手伝いをする。 ある意味再生の物語であると云えるだろう。 そして話中に挟まれる名品の数々に目が奪われる。殊更に贅を尽くしているわけでもないのに、手に入れるのさえ難しいとされる名品が実にさりげなく佛々堂の広大な自宅には配置されており、その筋の目を持った人でないと気付かないほどの自然さだ。 しかもきちんとそれらが使われていることがこの佛々堂先生が粋人である証拠だ。元々使われることを目的に生み出された工芸品や陶芸品が、いつの間にか目の保養とばかりに飾られ、触るのさえ憚れるようになり、それを鼻高々で己の権力の具現化した物のようにしたり顔で来客に見せびらかすような厭味ったらしいことは一切しない。道具は使われることが本望であり、素晴らしいものは使われてこそ活きることを知っている物事の本質を見極めた人物なのだ。 そして各話に挟まれる薀蓄がこれまた面白い。椿が品種改良しやすく、1万を超える品種があるとは初めて知ったし、木の実を指で潰して残った香りと共に盃の日本酒を飲むという飲み方のなんと粋なことか。 しかしこれほどまで作風がガラリと変わるものだろうか? 作者名を知らずに読むと、例えば泡坂妻夫氏あたりの作品だと思う読者がいることだろう。 元々作者には海外を舞台にした作品が多いため、作品にはカタカナが多用されているが、本書ではそれらを封印するかの如く、漢字とひらがなで表記することで情緒やわびさびと云った粋な世界を感じさせる。 泡坂作品を例に挙げたのは2編目の三角籤に関するトリックが披露されたマジシャンでもあった泡坂氏の作風そのものに感じたからだ。 ただ違う点があるとすれば、泡坂氏が江戸の粋を描いたならば、服部氏は上方の粋を描いたところだ。 この違いは例えば泡坂氏の描く登場人物はどこか衰退しつつある職人の道を愚直なまでに突き通し、それが女性に対する思いを正直に伝えらない不器用さに繋がっているような、いわば熱き思いを胸に秘めた人物が特徴的に語られるように思えるが、本書の佛々堂先生は古びれたワンボックス・カーに道具や資材を積み込んで、とにかく「これは!」と思った物を手に入れ、または廃れさせぬよう自ら動いて後押しする、能動的で行動的なところが特徴的だ。最後の1編では自分が守ろうとしている場所に立ち入ろうとする悪徳鑑定人を一喝するほどの気負いをみせるほどだ。 そして作者が本書のような作品を綴ったのには恐らく佛々堂先生が溢す言葉にもあるように、昔なら常識とされたことが世代間の伝達が途切れてしまったために、物事を知らない人が多すぎることに危機感を抱いたからだろう。私も実は年配の方が常識と思っていることを知らないことに気付かされ、失笑を買うことがある。日本人が古来、その知恵によって生み出した機能美を21世紀に残すため、伝えるためにこの作品を著したと私は思ってしまうのである。 服部作品では約260ページと最も分量が少ないのに、実に濃厚で深みを感じさせる短編集。そして今まで服部作品で弱みとされていたキャラクターの薄さが本書の佛々堂先生で一気に払拭されてしまった。 これはまさに掘り出し物の逸品だ。 作家服部真澄氏が扱う主題からストーリー、プロットを丹精込めて練り込んだそれこそ一級の工芸品のような物語の数々である。 正直に告白しよう。 私は本書が服部作品の中で一番好きな作品である。既に手元にある続編を読むのが非常に愉しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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泥棒探偵バーニイ・ローデンバーシリーズ2作目の本書でまたまたバーニイは泥棒に入った家で殺人事件に出くわしてしまう。
行きつけの歯科医クレイグ・シェルブレイクから突然頼まれた元妻クリスタルの所持する宝石類を盗み出してほしいという依頼を受けたバーニイはクリスタルが男漁りに外出している安心感からか、思わず長居をしたために(なんと1時間17分もの盗みに没頭していた)、当人が帰ってきたためにタイトルが示す通り、クロゼットに隠れて情事の最中に出くわし、更には殺人事件にも居合わせてしまうという何ともおかしな巻き込まれ方だ。 そして事件はバーニイが想定する悪い方向に動いていく。クレイグは自身の釈放の為にバーニイを警察に売ったのだ。 そしてバーニイは今回の事件が贋札事件に関わってくることを突き止める。 いやはや実に読ませる作品だ。 典型的と云えば典型的、マンネリと云えばマンネリだが、それでも安心印で面白く読めるのがこのシリーズのいい所。 しかしそれでも本格ミステリの妙味がこの作品には溢れている。 スラップスティックな調子なのに、そんな状況でさえ本格ミステリの妙味に変えてしまうシェフ、ローレンス・ブロックの腕前。なんて素晴らしいんだ。 そして今さらながらだが、泥棒探偵バーニイは自身が犯罪者である故に、いつも警察に睨まれているマイナス面がある。そのため、自身の身に降りかかった災難を自ら潔白を証明する必要があるところに従来の名探偵と一線を画する面白味があることに気付いた。 正直この着想はなかなか生まれるものではない。 さて数あるブロックの諸作の中でも、泥棒探偵バーニイ・ローデンバーシリーズはその全てが絶版状態であり、今では新刊では手に入れることは不可能でブックオフなどで古本で買うしかなかったのだが、シリーズ2作目の本書は手に入れることが適わず、渋々飛ばして3作目以降を読んでいたが、電子書籍で読めることを突き止め、このたび楽天koboのアプリでiPhoneにて読んでみた。私自身初めての電子書籍が本書となったわけだ。 基本的に私は感想を纏めるためにところどころ付箋を貼っていくのだが、電子書籍ではこれが出来ない。 Kindleではそういった場所に付箋を貼る機能があるようだが、楽天koboではそれがなく、指でなぞったところをハイライト機能を使ってメモするという方法で代用した。これがなかなか馴れず、初日はもういつ投げ出そうかとイライラすること終始だった。 しかし絶版のスピードが加速する昨今、特に海外小説の絶版スピードの速さは凄まじい物があるので、これら貴重な資産を電子書籍と云う形で買えるようにするというのは一つの策であろう。 しかし電子書籍の開発者たちはもっと読書を趣味とする人々の嗜好や読書方法を研究する必要があるのではないか。正直本書を読む限りではよほどのことがない限り、電子書籍での読書は控えたいというのが本音だ。電子書籍が想定したよりもはるかに普及していないことが体感したことで解ったのはある意味意義のある読書だったと思う。 ただやはり電子書籍でしか読めない絶版作品があれば今後も読んでいきたいと思う。 でもやっぱり紙の本の方が読みやすいなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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人にとって家族とは何なのだろうか?
そして人にとって死に際に何が胸に去来し、そして残された者たちはその人にしてやれる最良の事とは一体何なのだろうか? 『容疑者xの献身』で直木賞を受賞し、ミステリ界のみならず出版界全体の話題になった後の第1作目。それはもう1つのシリーズ、加賀刑事物の本書だった。 そんな期待値の高い中で発表された作品はそれに十分応えた力作だ。 まず驚くのは最初に出てくるのは加賀恭一郎ではなく、父親の隆正であり、しかも病床にいて明日をも知れぬ命だという状況。しかも彼の世話をしているの甥の松宮という警察官。 そして場面は変わり、いきなり登場人物は照明器具メーカーに勤めるサラリーマンの前原昭夫のある1日について語られ始める。 家族を省みず、なんとなく結婚した夫婦で一人息子と実家をリフォームした家に帰る日々。中学生の息子とは会話もなく、しかも痴呆症を患った母親の世話で妻はストレスを溜めている。 そんなどこにでもある、会話や家庭の温かみのない冷え切った家庭で、もはや父親は給料を運んでくるだけの役割でしかない一家に訪れる突然の災厄。 それは息子が幼い児を家で殺害したという事件だった。 そしてその後の夫婦の会話、息子の実に自分勝手な言い分が繰り広げれ、読み進めば進むだけ、この一家に腹を立て、あまりの自分勝手さ、特に妻の八重子の言動の独善さに、救いようのなさに情けなくなってくる。 読む最中、様々な思いが頭を駆け巡る。 まず本書が中学生による幼女殺害事件、即ち未成年による犯行だということだ。東野圭吾氏は未成年によって我が娘を蹂躙された上、殺害された父親の側からの復讐を描いた『さまよう刃』という何とも遣る瀬無い作品があるが、本書では逆に殺人を犯した未成年の息子をどうにか捜査の手から守ろうと奮闘する普通の家庭を描いている。 但し東野氏は今回を同情の余地のある犯行とせず、犯罪者の直巳をあくまでどうしようもない身勝手な社会不適合者とし、さらにその愚息を守ろうとする母八重子も実に身勝手で自己中心的な人物として描き、読者に感情移入をさせない。 更に犯行隠蔽のために父昭夫が思いついたあるトリックは先の『容疑者xの献身』のそれの変奏曲と云える。 もしかしたら本書は『容疑者xの献身』の批判的な意見に対しての作者なりのアンサーノヴェルなのかもしれない。 慎ましいながらもひとかどの幸せな家庭を築き、息子を立派に就職させ、家庭も持たせ、孫も生まれ、もう一人の娘も無事結婚し、奮闘しながら立派に生活している。 そんなごくごく普通の人生を歩んできた老婆が認知症の夫を介護し、痩せ衰えながらもその最期まで看取ることが出来、その後は息子の家庭に引き取られることになったが、そこで直面した息子夫婦の家庭は何とも冷え切り、温かみのないことか。 そんな環境で人生の最期まで過ごさざるを得なくなった老婆がよすがとしたのは幸せだったころの想い出とその品。 そしてもはや人として大事な物さえ失いつつある息子夫婦のまさかの行為。 老婆の想いはいかほどのことだったのだろう。 しかし善悪や好き嫌いで単純に割り切れない、長年連れ添った家族の絆という人生の蓄積が人の心にもたらす、当人しか解りえない深い愛情に似た感情を、東野氏は加賀の父親との関係を絡ませて見事に描き切った。 今までのシリーズで断片的に加賀と父親隆正の不和は加賀の若い頃にあった父の母親に対する仕打ちが原因だということは語られていたが、本書では松宮という正隆の甥でしかも同じ警察官の目を通じてその根が思いの外、深いように知らされる。しかし最後の最後で上に書いた当人同士しか解りえない絆や理解を披露してくれたことで、この陰鬱な物語が実に心が晴れ渡るような読後感をもたらしてくれた。 こんなたった300ページの分量で、しかもどこにでもありそうな事件からどうしてこんなに深くて清々しい物語が紡ぎ出せるのか。 東野圭吾氏はまだまだ止まらない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今度のアリステア・マクリーン作品はイギリス情報部員ジョン・ベンタルが挑む潜入捜査だ。オーストラリアで起こっている技術者たちの謎の失踪事件をベンタル自身が燃料工学の専門家に扮して一連の事件の謎を探るという話だ。
舞台は南国の島国フィジー。オーストラリア渡航の乗換のため、宿泊したフィジーのホテルで拉致されるが、機転を利かせて脱出したベンタルとマリーの男女の情報部員が流れ着いたのは考古学者が研究のため逗留する小さな島ヴァルドゥ島。 ヤシの実に白い砂浜、肌を撫でる貿易風に揺られながらハンモックで昼寝をする。およそ諜報活動とは無縁の世界で繰り広げられるのは楽園に隠されたイギリスの秘密基地。しかも今回は男女の情報部員による任務ということでどこか007を思わせる設定だ。 作者マクリーンも意識的なのか、偽装した夫婦として任務を課せられたマリーとベンタルが当初は反目し合いながらも次第にお互いを想いあうようになる。下手をすればハーレクインロマンスと見紛うかのような内容だ。 それもそのはずであとがきによれば本書はイアン・スチュアート名義で書かれた作品とのこと。つまり従来のマクリーン作品とは一線を画した舞台設定と登場人物を想定した作品なのだ。 そんな中で深手を負った科学者を装いながら島の周囲を探るベンタルが察知した真の任務とはイギリスがフィジーの小島で隠密裏に “黒い十字軍(ダーク・クルーセイダー)”という最新式のロケット開発を進めている科学者たちが連れて行った妻たちの行方を探るという物。 真相を読むに至って私はますますこれはマクリーンがスパイアクション小説を想定して書いた作品だという思いを強くした。 それを裏付けるかの如く、今まで硬質な文体で、読む者にさえ苦難を強いることを感じさせられたマクリーンの文体が本書では実に軽みを帯びている。特にベンタルの独白は凄腕の情報部員ながらもグチと減らず口を叩き、特にパートナーのマリーに対する感情をところどころ吐露する辺りは今までのマクリーン作品の主人公とは思えない優男ぶりが垣間見える。 そんなマクリーンの手によるスパイアクション小説はしかし突飛な小道具や秘密兵器といった物は一切出ず、ベンタルが次第に傷を負い、ボロボロの身体で満身創痍になりながらもどうにか新型兵器ダーク・クルーセイダーの持ち出しを阻止しようと奮闘する。 主人公が何でも一流の腕でこなすスーパーマンのような男ではなく、敵と味方の反感を買いながら、自分が死ぬことなど厭わない不屈の心を持っているところがマクリーンらしい。 珍しく軽さを感じる文章でクイクイ読ませる作品だったが、結末はかなり苦いものだった。 しかしこの読みやすさは今後もあってほしい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1984年5月28日、アーリントン国立墓地にヴェトナム戦争無名戦士の葬儀が当時のレーガン大統領の弔辞を伴って行われた。
マイケル・バー=ゾウハーが選んだ本書の題材はこの史実に基づく無名戦士の身元を探る物語である。 しかしそこはバー=ゾウハー、単に身元不明の遺体の正体を探るだけの話にはしない。その遺体に残された弾丸と手榴弾がアメリカ製であるという仕掛けを施す。つまりこの兵士が味方に殺されたのではないかというスキャンダラスな謎を放り込むのだ。 その調査に挑むのが国防総省の行方不明兵士(MIA)事務局の局長ウォルト・メレディスだ。 彼は自身の息子をもヴェトナム戦争で亡くし、その遺体が行方不明になったままだという過去を持つ。息子の死を知った矢先、当時勤めていたCIAを辞め、国防総省に移り、自ら行方不明兵士の調査に携わることにしたのだった。 しかし妄執的なまでに調査に没頭する彼を恋人であるバーバラは息子の影を追っているだけだと糾弾する。しかし彼は国の為に命を投げ出した戦士たちが名も無き死体として葬り去られることの虚しさと、息子もしくは夫の帰りを待つ家族にきちんと区切りをつけ、ヴェトナム戦争を終わらせるために必要なことだと説く。つまり無名戦士の葬儀とはまだ同地に残るアメリカ兵士を歴史の翳に葬り去る行為なのだ。 そして物語の渦中にある無名戦士の正体は物語中盤で判明する。 海兵隊第37連隊の隠された8番目の兵士アンディ・カニンガム一等兵だった。彼の父親は第2次大戦のノルマンディ上陸作戦で活躍した英雄だった。 そんな彼がなぜ無残に殺されなければならなかったのか?物語の後半はその謎の解明に費やされる。 謎の解明に当たるウォルト・メレディスの前に立ち塞がるのが元第37連隊々員だったスティーヴ・レイニー。ある時は先回りして同士に連絡して協力しないように手を回し、中には既に自らの手でその命を奪った同胞もいる。それほどまでにして隠すアンディ・カニンガムの死とは一体どんなスキャンダルなのかと俄然興味が増してくる。 しかしアンディ・カニンガムの死を巡る捜査は屍の山を累々と築いていく。第37連隊の生き残り、リンドン・ヒューズは自殺に見せかけて殺害され、と今回の事件の張本人スティーヴ・レイニーもまたウォルト殺害に失敗し、自ら死を選ぶ。そしてウォルトの捜索の良き理解者であり協力者であったMIA家族の会もまたウォルトから袂を分かつようになる。 それほどまでアメリカが守りたかったアンディの死とは一体何なのか?最後の最後でようやく明かされる。 しかし今なおヴェトナム戦争については語られることが多い。特にデミルはライフワークとしているようにも感じられる。 そのどれもが異口同音に語るのが初めてアメリカが正義ではなくなった戦争だということだ。そんな無益な戦争で犠牲になった兵士たちが人間性を喪い、狂気に駆られてもはや普通の生活さえも送れなくなった戦争の惨たらしさが本書でも書かれているが、それは本当に人間のやることなのかと背筋に寒気が起きるようなことばかりだ。 そんな戦争だったからこそ無名で死ぬようなことはあってはならない。無名戦士の名を明らかにすることはすなわち兵士を一人の人間として尊厳を取り戻すことに繋がるのだ。 しかし、だ。 本書を読んだ後では事はそう簡単ではないことに気付かされた。 そういった意味では最後にカバーストーリーを仕立て上げたブリグズ大佐の行為は欺瞞ではあるものの、誰もがあるべきところに落ち着く結末ではある。 正義と悪、敵と味方、そんな単純に割り切れない物を孕んでいるがゆえに真実は明かされない方がいいときもある。 本書は戦争が決して英雄的行為ではなく、人間が生んだこの世で一番愚かな行為であることを示してくれた。従って英雄などいないのだ。そこにあるのは戦争を美化するための神話や伝説があるだけだ。真実は常にそんな美談とは対極の位置にある、バー=ゾウハーは静かに我々に教えてくれた。 ミステリ以上の味わいをまたもやもたらしてくれた。しかし今回は殊の外、考えさせられ、苦かった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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常に我々の想像を超える世界を見せてくれるジョー・ヒルが今回描いた世界は特殊能力者たちの世界。
主人公ヴィクは自転車に乗って近道橋を渡り、失った物を取り戻す能力を持つ。 彼女の宿敵となるのは「NOS4A2」、ノスフェラトゥ、つまり吸血鬼の名をナンバープレートに冠するロールスロイス・レイスを駆り、子供たちを自分の世界<クリスマスランド>へさらう連続誘拐魔チャールズ・タレント・マンクスⅢ世。 そしてヴィクの良き理解者で相棒として力を貸すのはシンディ・ローパーを想起させるエキセントリックな風貌の図書館司書マーガレット・リー。彼女はスクラブルの文字で未来を予知する能力を持つ。 しかし本書は単純な対決の物語に作者はしなかった。ヴィクとチャールズ・マンクスとの戦いはなんと数十年にも及ぶのだ。 1986年に能力が発現したヴィクが初めてチャールズと対峙したのは1990年。そこから現代に至る約四半世紀もの間、2人の戦いは続く。そしてその戦いはヴィクの息子ブルース・ウェインをも巻き込み、ヴィクは母親としてチャールズ・マンクスと対峙するのだ。 いつもそうだが、ジョー・ヒルの描く物語の主人公は決して聖人君子のような素晴らしい人間でもなく、また愛すべき人柄を備えた人物ではない。 例えば本作の主人公ヴィクは暴力を振るう父親とヒステリックに自分の正当性を主張する、精神障害を抱えた母親の下に生まれ、二人の諍いを聞くのがこの上なく嫌いな女の子として登場するが、その後成長するに当たり、酒に溺れた精神障害を持つ母親となって、内縁の夫と別れてしまう。ただヴィクの狂気は高校生の時に出遭った殺人鬼チャールズ・マンクスから逃れられぬ悪夢によるものであり、必ずしもヴィク自身に責めがあるわけではない。 翻ってヴィクの内縁の夫ルーはお人好しなのだが、その性格が災いしてい事業には失敗し、人に騙されて借金を背負わされ、返済に四苦八苦している、何とも頼りない男だ。 しかし彼の包容力こそヴィクには必要で、ルーはヴィクにとって良い夫なのだ。 そんな2人の間に生まれたブルース・ウェイン・カーモディはそんなダメな両親を愛したい、喜ばせたいと思っている、なんとも健気な男の子だ。 つまり読者の求む主人公像に近いのはこのブルースだと云える。 ただそんな破綻した家族でありながら、それぞれが危難に陥れば協力し合う。つまり家族愛は不変なのだということをヒルはこの物語で示してくれる。 絶体絶命のピンチに陥った時に耳元で囁かれるのはどこか遠くにいる父親のアドバイスであり、また孫が絶望的な不安に陥れば、祖母は死の世界からでも舞い戻って傍に座って元気づけてくれる。 それは勿論ヴィクもそうだ。 息子も含め、他者から見れば全身にタトゥーを施した未婚の母で、誰も聞くことのできない電話の呼び出し音に怯え、常軌を逸脱した行動で家を全焼させ、精神病院に入れられた、どうしようもない母親なのだが、息子と内縁の夫をこの上なく愛し、特殊な能力を持つ自分と関わらさせないようにした上の結果であり、息子がマンクスにさらわれればどんな目に遭おうが諦めずに敵に立ち向かう。それは一途なまでの家族に対する愛ゆえに。 どんなに破綻しているように見えながらも、それぞれの家族も子供を愛する気持ちは強く持っていることをこの物語は強く訴える。 子供を平気で虐待し、または自分の好きなことをするために育児放棄する親の許にいるよりは、毎日がクリスマスである、自分の夢想が創り上げた<クリスマスランド>にいて、楽しく過ごす方が子供たちにとってはいいではないかと子供たちをさらうチャールズ・マンクスは腐った現代社会において闇の救世主のように映る。 しかしダメな親であっても子を愛する気持ちはかけがえのない物だと必死にマンクスの魔手から我が子ブルースを救おうと奮闘するヴィクとルーの姿は喪われつつある親子の絆の深さの象徴だ。他者から見れば不幸としか映らない家庭環境が実は当人たちにとってはそれもまた幸せの1つの形なのであることを投げかける。だからこそヴィクとルーはわが子を救うためならば不法侵入に逃亡、爆弾製作といった犯罪行為を厭わないのだ。 瀕死の重傷を負いつつも、鋼鉄の馬トライアンフを駈るヴィクの姿は物語の前半に出てくる昔のアメリカドラマ、「ナイトライダー」の主人公マイケル・ナイトのようなヒーローのようだ。まさに女だてらの「Knight Rider」ではないか!手負いの母親ほど手強いものはない。母の愛こそ最強の武器なのだ。 さて毎回ユニークなアイデアを物語に持ち込んでくるジョー・ヒルだが、本書の最たる特徴はハイテクとファンタジーホラーの見事な融合にある。 チャールズ・マンクスによってロールスロイス・レイスでさらわれた息子ウェインを探るのにiPhoneの探索機能を使って地図上でウェインの居場所を探るシーンが出てくるが、そこに出てくる地図はアメリカでありながらアメリカではない地。「アメリカ内界国」という名の奇妙な場所が現れ、ウェインの居場所が示される。現代技術の最先端が異界を見せるというこの怖さ。このアイデアは実に素晴らしい。 さて今までとにかく戯言のように主人公のとめどない思考を全て文字にしたかの如き回りくどい文章だったのが、本書では実にシンプルに整理されて読みやすくなっているのが特徴的だった。とはいえ、ヒル特有のユーモア、特に音楽に関するサブカル要素も盛り込まれているのだから、文章がさらに洗練されたと考えるべきだろう。 しかしそれでも上下巻合わせて1,120ページもの分量が必要だったのかは甚だ疑問だ。300ページくらいは余裕で削れるのではないだろうか。 抜群の奇想とそれを物にする技量はあるものの、長編小説となると妙に饒舌になるヒルは率直に云って短編向きのような気がする。作品を重ねるにつれ、長大化が進むヒルだが、向こうのエージェントならびに出版社はヒルにもっと文章を削ぎ落とすようアドバイスすべきではないだろうか? この長さがなければ手放しで傑作と太鼓判を押そう。それほどまでに爽快な読後感を抱かせてくれる物語なのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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服部真澄は常に時代を先行する。
数々の時代を先取りしたセンセーショナルな題材を扱ってきた彼女が本書でテーマに挙げたのはもはや世界的に巨大な産業へと発展したアグリビジネスの実態だ。 物語は3本の柱で構成される。 1つは蓮尾の親友であった少年アダムが焼死したシングルトン一家放火殺人事件の謎。 もう1つは時代の寵児と呼ばれる科学ジャーナリスト、レックス・ウォルシュが一大センセーションを巻き起こすであろうと思われる次作を巡っての謎。 最後の1つは世界のワイン事情を左右すると云われているワイン・ジャーナリスト、シリル・ドランの新作の訳出を巡る物語。 これら3つの物語は1つの大きな軸に収束していく。 それは世界の農業事業を牛耳る巨大コングロマリット「ジェネアグリ」の存在だ。そしてそのジェネアグリが率先して開発しているのが遺伝子組み換え作物、GMOと呼ばれるキメラ作物だ。 害虫に強い品種を開発するために魚のある遺伝子を交配して新種を作り出す、農薬に強い品種を作るために特殊なバクテリアと配合する、旱魃に強い品種を作って農家に提供するが、種が出来ない品種のため、その農家は永久に会社から翌年の収穫の為に種を買い続けなければならなくなる、といったように世界中の作物を牛耳るための手段としてGMOは開発される。 さらに物語の舞台は南米へと移る。しかもその地はボリヴィアだ。 サッカー先進国である南米諸国の中でも本戦進出したことがないと思われるほど、マイナーな国を舞台に話題の中心はやがて新種ワインの開発からコカノキ、つまりコカ茶とコカインの原料となる木へと繋がっていく。 ただこの真相は今までの服部作品を読んでいれば想像するに難くはない。 服部氏にとってアメリカという巨大な鷲は恐るべき存在なのだろう。 デビュー作『龍の契り』からアメリカが香港返還に絡むところから始まり、その後の『鷲の驕り』、『ディール・メイカー』とアメリカが世界を牛耳ろうと画策しようと企む構造を一貫して描いてきている。圧倒的な取材力で世界の最先端技術をテーマに作品を綴ってきた服部氏が取材過程で目の当たりにした光景なのか、それは定かではないが、アメリカという国が持つ底知れぬ恐ろしさを知るがゆえに同国が与える世界への脅威は氏にとって決して離れる事の出来ないテーマなのかもしれない。 翻って服部氏が日本政府に対する筆は容赦がない。作中で2000年に日本政府がいともあっさりとGM稲の輸入と栽培を認めた事実が紹介されるが、アメリカの深謀に比べて日本の浅はかさを知らしめる実に滑稽なエピソードだ。恐らく世間ではまだよく知られていないGMOの脅威―私も本書でその実態を知った―ゆえに政府もその後展開されるであろう恐ろしい陰謀には思い至らなかったのかもしれない。そう考えると本書は服部氏による迂闊な日本政府へのGMOの脅威の啓発の書であると取れる。 さて先の読めない展開が売りの服部作品だが、本書に関しては案外明瞭過ぎて、逆にかつて有能な科学ジャーナリストであった蓮尾の鈍感さにイライラさせられた。 この人物造形の浅さこそが服部作品の弱点だと私は考える。 真相が明らかになるにつれ、さらにその奥に隠された真相が一枚一枚、ヴェールを剥がされるように明らかになり、やがて与えられていた真相はひっくり返り、正義が悪に、悪は道化師に、囮に、と価値観が覆される物語構成は一級のスパイ小説、エスピオナージュを髣髴とさせるのだが、そんな重層的なストーリーを引っ張る強烈なキャラクターが氏の作品にいないのも事実。 それについては今後の服部作品に期待しよう。 物語の最後は服部氏が抱く未来の夢か、願望なのか。それとも麻薬ビジネスに頼らざるを得ない南米諸国に対する新たな道を辿れという叱咤激励なのか? アジアへの利権、特許、IT産業にアニメ産業、さらにアグリビジネスへと様々な分野で世界市場を乗っ取ろうと知恵を絞るアメリカ。これら服部作品に書かれている事象はそう遠くない未来に起こりうるであろうアメリカによる世界経済侵略なのかもしれない。 次は我々に服部氏はどのような衝撃を与えてくれるのか。グローバリゼーションという明るい価値観の影に咲く仇花をまたその筆で描いてくれることを楽しみにしていよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書こそローレンス・ブロックという作家の名を世に知らしめ、そしてマット・スカダーシリーズを一躍人気シリーズにした作品だ。私立探偵小説大賞受賞作。
ブロック作品では常に印象的な登場人物が出てくるが、本書ではコールガールのヒモ、チャンスの造形が実に素晴らしい。 娼婦のヒモから想像するのは口から先に生まれてきたようなチンピラ風情だったり、暴力で女を支配するような男や自分は稼がず、女にヤクをさせて廃人になるまで働かせるような人非人、または酒に溺れた自堕落な男を想像するのが相場だが、ブロックはチャンスを黒人実業家のような洗練された男として登場させる。そして感情を波立たせることを滅多にせず、常に冷静に物事を考える男として描く―この性格を自動車の運転の描写だけで読者の頭に浸透させるブロックの筆の素晴らしさ!―。 またマットはAA(アルコール中毒者自主治療協会)の会合に出席するようになっていた。 前作まではアル中であることを認めなかった彼は事件を通じて知り合ったジャン・キーンと苦い思いで別れたことが堪えたのかもしれない。ただマットは皆の話を聞くだけで自分のことは何も語ろうとはしない。キムが死んだその夜も集会に出て、色々な思いが去来し、誰かに話したい衝動に駆られるが、出てきた言葉はいつもの通り、「今日は聞くだけにします」だった。 しかしマットの禁酒はキムの死を知ることで途絶える。そこからはアル中独特の“都合のいい解釈”で歯止めが効かなくなり、ついには意識不明の状態で病院に運ばれてしまう。 これまでの作品でマットは酒を浴びるように飲みこそすれ、入院するまで酷い事態には陥らなかった。記憶を失くすことはあっても、翌日二日酔いで頭痛と酩酊感に苛まれながらも、生活は出来ていた。 しかし本書では前後不覚の状態に陥り、しかも全身痙攣しながら病院に運ばれ、ドクターストップまでかけられるという所までになる。エレインの友人キムの死がマットに与えたショックの重さゆえか。たった数日間の付き合いだったマットは前述のジャンとの別れの辛さを引き摺り、人恋しかったのかもしれない。そこに現れたキムが、やり直しの相手と映ったのかもしれない。 そして自分を取り巻く人から記憶喪失の際の自分の言動を知らされ、マットは戦慄する。今までアル中ではなく、単なる酒好きの酒飲みだと思っていたマットは初めて自分が重度のアル中であると自覚せざるを得なくなる。 そう、チャンスの依頼を受けることは自身の再生へのきっかけ、決意表明なのだ。この隙のない物語構成の妙。こういう所に唸らされる。なんて上手いんだ、ブロックは! 作中、市井の事件がマットが毎朝読む新聞の記事から挙げられる。それはどれもが奇妙な諍いの記事。どこかで誰かが誰かを傷つけ、また争っており、そこに死が刻まれている。 キムの事件を担当する刑事ジョー・ダーキンと酒場でお互いが見聞きしたそれらの事件を挙げ合う。そして最後にジョーは昔あったTV番組を挙げる。“裸の町には八百万の物語があります。これはそのひとつにすぎないのです”それは警官たちにとっては八百万の死にざまがあるだけなのだという言葉で締め括られる。 その後マットはその言葉を意識し出す。新聞を読むたびに出くわす不条理とも云える死にざま。単なる比喩としか思えない八百万もの死にざまは、マットの中で本当にそれだけの死にざまがあるのではないかと思えてくる。 そんな八百万の死にざまのうち、マットが扱うのはキムの死は1つにしか過ぎない。八百万のうちの1つにしか過ぎないのだが、その1つは自分にとって途轍もなく大きな意味を持っているのだ。 また本書では今までのシリーズと違うことが2つある。 1つは今までの事件は過去に起きた事件を掘り起こすことがマットの依頼だったのに対し、今回の事件は進行形で起きることだ。依頼人だったキムの死から始まり、彼女のヒモ、チャンスが抱える街娼の1人サニー・ヘンドリックスの死、そしてクッキーと云う名のオカマの街娼の死と続く。 連続殺人鬼を扱いながら過去の事件を題材にしたのが前作『暗闇にひと突き』なら、本書では連続殺人事件そのものをマットが扱う。前作が静ならば本作は動の物語であると云えよう。 もう1つは上にも書いたが本書では前作『暗闇にひと突き』で登場したジャン・キーンが登場することだ。今までのシリーズでは警官のエディ・コーラーを除く全ての登場人物がスカダーにとって行きずりの人々だったが、このジャンは初めてスカダーの心に巣食う忘れえぬ人物として刻まれている。 そしてスカダーは本書で初めて禁酒を行うが、ある時暴漢に襲われ、過剰な暴力で撃退し、酒にまた救いを求めようとする。しかし以前酒に飲まれた彼はそれを心の底から怖れるのだ。そして彼が見出した唯一の救いの光がジャンになる。 このシリーズに広がりが生まれた瞬間だ。 最後の一行に至り、これは実はマットの自分との闘いの物語だというのが解る。 上に書いたようにマットは今回毎日の如くAAの集会に参加する。しかしそこでマットは参加者の話を聴きこそすれ、自分の話は決してしない。いつもパスしてばかりだ。酒を飲んで入院し、一命を取り留めた後では自分がいつまた酒に手を出して、今度こそ助からなくなるのではないかと恐れている。事件の捜査はマットが酒に手を出す時間をなくすための手段にすぎないのだ。 つまり本書はニューヨークという大都会に溢れる八百万の死にざまと1人の男の無様な生き様を描いた作品だったのだ。 今までこのシリーズ1冊に費やされたページ数は270ページほどだったが、本書は480ページ以上にもなる。つまりマットが自分の弱さに向き合うのにそれだけの物語が必要だったのだ。 正直私はこの最後の一行がなければ評価は他の作品同様7ツ星のままだった。 しかしこの最後の一行で物語の真の姿とマットが抱えた苦悩の深さが全て腑に落ちてきたことで2つ上のランクに上がってしまった。 幾度となく物語に挟まれるAAの集会のエピソードが最後これほど胸を打つ小道具になろうとは思わなかったが、そんな小説技法云々よりもやはりここはマットが今までのシリーズよりもさらに人間臭いキャラクターへと昇華したことが本書をより高みへ挙げたことになるだろう。 さて本書で鮮烈な印象を残したヒモのチャンスは子飼いのコールガールを次々と失う。ある者は自殺し、ある者は仕事から足を洗うために旅発ち、ある者は夢を実現するためにチャンスから離れる。チャンスは廃業し、美術鑑定家として新たな道を歩き始めようとする。恐らく彼は今後のシリーズでマットの前に再び姿を現すのではないだろうか。 自分の弱さを認めたマットは無関心都市ニューヨークの片隅で起きる事件に今後どのように関わっていくのか。今まで人生の諦観で自分を頼る人たちに便宜を図っていた彼が自分の弱さと向き合いながら事件とどのように向き合うのか。 さらに評価が高まっていくこのシリーズを読むのが楽しみで仕方がない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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マクリーン5作目の作品はなんとある犯罪者が巻き込まれる数奇な運命を語った話だ。
主人公のジョン・タルボはサルベージ会社を転々とし、そこで引き上げた財宝を盗んだり、または宝石泥棒と組んでダイヤモンドを盗んだりと悪行の限りを尽くした男が警察の追跡から逃げまくる逃亡劇が始まるかと思いきや、それは100ページほどで終わりをつげ、次は海底油田の採掘ステーションへの侵入劇、そしてヴァイランドと云う悪党によって潜水艦の技師として雇われ、ある仕事を頼まれる。 とまあ、このように実に先が読めない事極まりない物語が読者の眼前で繰り広げられる。 しかもその行動の真意が明らかにされないまま物語が進行するため、読者はタルボが何をしようとしているのかが解らない。とにかく読んでいて実に気持ちが悪い物語展開なのだ。 例えばタルボがいきなり警察に捕まるのも突然食事をしていた彼の許に警察が現れ、有無を云わさずに連れていくところから始まり、そこから機転と隙を見て、その場にいた女性を人質に逃亡し、モーテルに隠遁するが、そこに突如殺し屋が現れ、女性の親である石油富豪のラスヴェン将軍邸に連れられる。 更に将軍がタルボに自分の石油採掘ステーションに忍び込むよう依頼する。が、その後タルボは隠密裏に屋敷を抜け出して単独でステーションに忍び込む。何らかの目的があるのかは判るものの、それが何のためなのか明らかにされないまま、行動に移るのである。 とにかく登場人物それぞれが秘密を抱いていることを仄めかしながらも、それが明確にされずに物語は進行する。これほど靄の掛かったままで進む小説も珍しい。 本格ミステリならば殺人の犯人や殺害方法、動機など不明なままで物語は進行するが、それはそれを突き止めるための物語であるから、逆に云えば目的がはっきりしているのだが、本書においては主人公のタルボを筆頭に、彼に依頼をするラスヴェン将軍の仕事の内容も不明で、ヴァイランド一味の目的も不明で何が目的なのかがはっきりせず、焦点が絞れずに進行するため、実にもどかしい思いをしながらページを繰らなければならなかった。 そしてそれら物語の靄は最終章、タルボの口から明かされる。 専門家と見紛うような石油採掘ステーションの技術的な説明と描写はマクリーンの専売特許とも云うべき精緻かつ精密で作家が付け焼刃的に浅く薄く専門書を読んで物語に挟み込んだような代物ではない。 そこは認めるものの、本書における作者の企みは決して効果的なサプライズを生んでいるとは云えない。プロローグで起きた事件が物語の布石であることは容易に知れるものの、そこから展開する物語は焦点が掴みにくく、さらに殺人犯として知らされる主人公タルボの不可解な行動の数々には上で書いたようにとにかくどこへ進むのかがはっきりとせず、終始やきもきさせられた。 私はある明確な目的に向けて登場人物が生死の境で苦しみながらも前に進もうとする極限状態での苦闘を描き、その中で挟まれる意外な人間関係や本性がサプライズとして有機的に働くことで生まれる心震わせる人間ドラマこそがマクリーンの真骨頂だと思うが、物語全体を仕掛けにするという器用な創作は似つかわしいと本書を読んで思ってしまった。 しかし上にも書いたようにマクリーンはどの分野を書いても専門はだしの詳細な内容を技術者が読んでも眉を潜めないほどの正確さをもって書けることが今回も解った。 次はどのような舞台で専門知識と人間ドラマが絶妙に絡み合った作品を提供してくれるのかを期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東京中野駅は白戸修にとってまさに鬼門だった。平凡な大学生白戸修の日常を脅かす事件は決まって中野駅から起こる。そんな彼が巻き込まれる事件5編。
白戸修初登場の「ツール&ストール」では就職先が決まり、卒業を控えた最後の破産法の試験を3日後に控えた時に突然事件に巻き込まれる。 第20回小説推理新人賞を受賞したのが本作。受賞作に相応しいなかなか趣向の凝った作品だ。 まずは真犯人捜しの元スリ専門の捜査官と共に行動して色々なスリの手口を目の当たりにするのが非常に面白い。電車内での典型的なスリの手口から、駅構内のトイレで2人一組で行われる巧妙な手口、更には混んだ店内で予約ミスと見せかけて集団で行うスリと、実にヴァラエティに富んでいる。 さらに最後に明らかになるタイトルの意味。 そして平凡な男に過ぎなかった白戸修がいつの間にかお人よしの頼りない好青年として刷り込まれていることに気付く。白戸修の紹介状として申し分ない好編だ。 続く「サインペインター」では白戸修は犯罪の片棒を担ぐことになる。 巻き込まれ好青年白戸修が、友人の為に何やら怪しげなバイトに巻き込まれ、強引かつ無神経な男に振り繰り回される顛末を描きながらも、実はその中に謎が隠されていたという構成の上手さが光る1編。 物語も半ばが過ぎないと何が謎なのか解らないという、実は技巧としては高度な物語なのだ。それを2作目で行うあたり、大倉氏が既に本格ミステリ作家としてのサムシング・エルスを持っていることが解る。 「セイフティゾーン」でまたもや事件に巻き込まれる。 事件の最中で意外な事実が判明していくという、ジェフリー・ディーヴァ―の『静寂の叫び』を思わせるような物語。 さて昨今では殺人事件にまで発展するストーカー被害。間違い電話に出た白戸修はこの被害の捜査に巻き込まれるのが「トラブルシューター」。 ストーカー事件が世に知られるようになった現在では、そうと解らない読者の為に門外漢の白戸の目を通して語られる被害者杉本恵の奇妙な日常風景の描写は逆にまどろこっしく感じた。 とにかく世にあるストーカーの卑劣な仕打ちが被害者の日常を通じて一部始終が語られる辺りは特に陰鬱。短編集の中でも最もダークでシリアスな展開。 「ショップリフター」とは万引き犯と云う意味。最後の短編で白戸修が出くわす犯罪は身近でありながら深刻な被害となっている万引きだ。 第1編「ツール&ストール」を髣髴とさせる仕掛けとサプライズに満ちた1編だ。 身に覚えのない万引きの濡れ衣を着せられた白戸はマイペースな保安員深田によって万引き犯捜索の手伝いをさせられて、デパートの上から下まで引き摺り回されてしまう。と思いきやそれが白戸を犯罪者に仕立てる一連の計画だったことが明らかにされる。万引き犯を追いながら店を出た途端に逆に万引きの現行犯に仕立て上げられてしまうというこのサプライズはなかなか強烈。久々に「えっ!?」となってしまった。 また作品で開陳される様々な万引きの手口は実に興味深く、これも「ツール&ストール」で披露された様々なスリの手口と同じような薀蓄に満ちている。 刑事コロンボを髣髴とさせる福家警部補シリーズがドラマ化された大倉氏の数あるシリーズのうち、最も平凡なキャラクターである白戸修作品初登場の短編集。 平凡な学生白戸修が巻き込まれるのはスリにステ看貼りに銀行強盗、そしてストーカー被害に最後は万引き。軽犯罪だけでなく命に係わる事件にも巻き込まれる受難男。 しかもここに収められた5つの事件は就職先も決まり、大学卒業を目前に控えた最後の単位取得の試験の時期、その1月後、そして卒業式も終わって入社式を迎える猶予期間、入社式前日までの大学生活最後の年の後半に起こっており、白戸修はこの短期間でドミノ倒しの如く次々と事件に巻き込まれていくという濃密な数ヶ月を送っている。 しかもそのいずれも中野駅界隈であるのが面白い。作者は中野駅にどんな恨み(?)があるのだろうか。 物語の最初はいつも頼みごとを断りきれない気の弱いお人よしの青年という、いささか頼りない男と映る白戸修が、物語の最後ではそのお人よしぶりがこの上ない善人になり、稀に見る好青年となって読者の心に印象づけられていき、どの作品も読後は爽やかな涼風が心に吹く思いを抱かせる。 特に巻き込まれながらも目の当たりにする犯罪の有様に白戸自身の考えもやる気の無いものから、どうにか犯人を捕まえたい、事件を解決したいという前向きな物に変わっていくのもこの頼りない主人公に好感を持つ大きな要素になっている。 白戸修が出くわす犯罪では必ずしも犯罪者が悪人ということではないのが面白い。 また身を隠す犯罪者が必ずしも悪人ではないことも語られている。 個人的ベストは「ツール&ストール」、「サインペインター」、「ショップリフター」の3編。 「ツール&ストール」と「ショップリフター」は姉妹編とも云うべき好編でそれぞれスリと万引きと云う軽犯罪を扱っており、その手口のヴァリエーションも紹介され、その奥の深さに唸らされるが、最後に明らかになる事件全体に仕掛けられたトリックが判明するところは久々に不意打ちを食らった感があった。 「サインペインター」は単なる巻き込まれ騒動の1編と思わせつつ、実は意外な謎が隠されていたという読者がその真相を探るのがほとんど不可能な構成の妙を買う。ホント、何が謎なのか全く解らなかった。 とはいえ、まだまだ特色のあるシリーズとはこの段階では云い難い。逆に最後の短編でシリーズキャラクターとなりそうな人物が再登場した事でこれからシリーズとしての奥行きと幅が出てきそうな予感がする。 次回からは出版社に就職した社会人として白戸修がまたもや事件に巻き込まれていくことになるのだろうが、どんな形で事件に関わるのか暖かい眼で見守ってやりたい。白戸修にはそんな魅力がある。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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シリーズ4作目の本書ではスカダーは彼が警官時代に担当した連続殺人事件の被害者の真犯人を捜そうとする。それは彼の過去との対峙でもあった。
アイスピックを使って女性ばかりを襲う連続殺人魔。8人もの犠牲者が出た後、ぱったりと事件は沈静化する。それは当の犯人が長期強制入院させられていたからだった。 そして9年後の今、その犯人が捕まり、解った事実が8人の犠牲者のうち、その1人バーバラ・エッティンガーは自分が殺したのではないということ。その父親は彼女を殺した真犯人捜しを当時警官で事件を担当していたマットに依頼するというのが今回の話だ。 しかし9年もの歳月の変化はマットの捜査を困難にする。しかし時の流れで消え去った証拠をマットは捜すのではなく、当時事件に関係していた人たちを訪ね、その人となりに触れることで事件の真相を掴もうとする。 これは警察の捜査ではできないことだ。私立探偵の免許もなく、依頼された者たちに少々の報酬を頂いて便宜を図る男マットだからこそ、自分の直感とやり方に従って人と人の間を逍遥する。 それは警官の誰かが云った、炭鉱の中で黒猫を探すようなことだ。 それがまた否が応にも自分の警官時代の事を思い出させることになる。マットは事件を捜査することでかつて警官だった自分についても思いを巡らせるのだ。 しかし連続殺人犯をテーマに扱いながら、ブロックはなんとも地味に物語を展開させるのだろう。通常ならば連続殺人犯による犯行がリアルタイムで起きている状況下で物語を紡ぐことだろう。その方がサスペンスも盛り上がるし、また何より物語に起伏も出る。 しかし敢えてブロックはそれをある女性の過去の殺人の真相を探るモチーフとして扱うだけに留めるのだ。しかも連続殺人事件は9年も前の事件にして。 従って物語は数少ない当時を知る人を探り当てるところから始まり、また当時を知る者も既に記憶が曖昧になって実に心許ない。つまり読者は過去を探るスカダーと共に何とも手ごたえの感じない捜査の一部始終を体験するのだ。 なにゆえこのような展開をブロックは選んだのか。 やはりそれがスカダーの向き合う仕事に相応しいからだということだろう。連続殺人犯と云う敵と戦うマットはどうしても武闘派にならざるを得ないが、マットにはそんなポジティブな行為は似合わず、過去の疵を抱いて時々自分に仕事を頼む人から少しばかりの報酬を貰ってその日暮らしの生活をする、人生の落伍者には過去を辿る行為こそがお似合いなのだろう。 それを裏付けるかのようにスカダーは過去と向き合う。 当時もう1人ブルックリンで殺人鬼ルイス・ピネルの毒牙にかかった女性の捜査に携わった巡査に逢った時、自分を重ねる。その巡査バートン・ハヴァーメイヤーもまた警官を辞めた男だった。彼はまだ経験浅い頃に出くわした陰惨な事件の犠牲者と彼女の死に様を発見した彼女の子らの泣き叫ぶ声が耳に焼き付いて離れないがために。それは誤って少女を撃ち殺したことで職を辞した自分のもう1つの姿だった。 そして物語も半ば、依頼人であるチャールズ・ロンドンから事件の捜査の打ち切りを申し出られるが、スカダーはそれを拒否する。9年もの前の事件を調べるのに四苦八苦しながらもスカダーは何かが動き出していることを感じていた。しかしロンドンは過去をほじくり返すことで知らなくてもよかった娘の過去が白日の下に曝されるのを怖れていた。 前作でも抱いたのはなぜスカダーは敢えて寝た子を起こすような行為をするのかということだ。しかしその疑問について私はある一つの答えを得たような気がした。 それは自身が抱える過去の闇を忘れずに酒に溺れ、半ば死んでいるような日々を送っているからこそ、過去を忘れ去ろうとする人々が許せないのだろう。 しかし過去を抱えて今を生きるマットの生き方は決して誉められたものではない。『一ドル銀貨の遺言』では過去の過ちを消し去ろうと努力し、それぞれが成功を収めている人々がいる。過去を抱え、定職にすらつこうとしない男と過去を消し、いまを生きようとする人々。この二律背反な構図は決してスカダーが真っ当な人間ではないことを指す。 しかしこれこそが正義を貫くことの代償なのだろう。正しいことをすることは何かを捨てる事なのだとブロックはスカダーを通して我々に示しているようだ。 このマット・スカダーの物語は上昇志向の人々にはそぐわないものだろう。誰でも失敗はするし、それを糧にして今をもっと頑張ろうと生きる。マットの生き様はそんな前向きの生き方とは真逆なものだ。 しかしなぜか彼の持つペシミズムは誰もが持つ過去の疵にしみいるように響くのだ。もしかしたら一つ間違えれば自分もまた彼のような境遇に落ちていたのかもしれないと思うからだろうか。そしてその時の自分はマットのように自らの正しいと思う事の為にこれほど一途になれないだろうとまた思うのだ。だからこそマットのやり方を全否定できない自分がいるのだ。 事件の真相は実に意外なものだった。 原題は“A Stab In The Dark”。Stabという単語には「突き刺すこと」という意味以外に「人の心を傷つける事」という意味も持つ。 暗闇にひと突き。暗闇は9年前の事件のことを指す。すなわち忘れ去られようとする過去でもある。 その暗闇を突き、人の心を傷つけたのはマットその人であった。すなわちこの題名は過去を掘り起こすマットのことを指しているのだ。 読後に立ち上るもう1つの意味。実に上手い題名だ。 そして今回マットは事件で知り合った保健所の元経営者ジャニス・キーンといい仲になるが、アル中を治そうとAAの集会に出るといってそのままジャニスはマットに別れを告げる。 かつて結婚して保健所を経営しながら、好きになった女性の許へ走って子供と夫を残して失踪した過去を持つジャニスはその後9年もの間1人だった。そんな彼女に訪れたマットという安らぎは逆に心地よすぎてまた失う時が来るのを怖れたのかもしれない。アル中を断ち切る行為はすなわちマットと過ごす楽しいひと時との別れだ。まだ関係が浅いうちにいずれ訪れるであろう辛い別れを迎えないための別れだったのかもしれない。 そしてマットはまた夜の街に、アームストロングの店に向かって、酒を飲む。彼に訪れる安寧はまだまだ先のようだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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人生を変えた1冊とは通常読み手が出逢った本の事を指すが、東野圭吾氏は本書を著すことで長年逃していた直木賞に輝き、一躍ベストセラー作家に躍り出て人生を変えた。
そしてまたそれまで東野作品の読者ではなかった私が彼の作品を読むことを決めたのもこの作品だった。 その作品が探偵ガリレオこと湯川学が主人公を務めるシリーズ初の長編作品だったのはその後のこのシリーズの在り方を変えたのかもしれない。 短編集で始まった探偵ガリレオシリーズは人智を超える超自然現象としか思えない事件を現代科学の知識と理論で湯川学が解き明かすというのがそれまでの作品の趣向だったが、初の長編では湯川に匹敵する天才をぶつけ、一騎打ちの構図を見せる。 天才科学者と天才数学者の戦い。論理的思考を駆使する男とこの世の理を知る男。最強の矛と最強の盾の戦いはどちらに軍配が上がるのか。 しかしこの戦いは非常に哀しい。 それは湯川が唯一天才と認めた石神と再会した時の語らいが実に濃密であるからだ。このシーンがあるからこそ2人の先にある運命の悲劇を一層引き立てる。 天才数学者の石神は事件の捜査過程を予測し、警察の捜査の常に先を行く。それはさながら高度な詰将棋を見ているかのようだ。 しかしそんな鉄壁の論理の牙城を崩すのは意外にも当事者の情。計算式では表せない感情の縺れだった。この件については後に述べよう。 しかしなんという、なんという献身だ。 正直今まで愛する人のために自らを捧げる献身の物語は東野作品にはあった。『パラレルワールド・ラブストーリー』に『白夜行』、これらを読んだ時もなんという献身なのかと思った。 そしてそんな献身の物語を紡ぎながらも敢えて「献身」の名をタイトルに冠したこの作品の献身とはいかなるものかと思ったが、そのすさまじさに絶句してしまった。 論理を至上のものとした2人が行き着くのはなんと論理を超越した感情だったというのは何とも皮肉だ。 いやだからこそこの物語はそれまでの東野作品が適えられなかった直木賞受賞と大ブレイクをもたらしたのか。 『名探偵の掟』で本格ミステリを揶揄した後に発表された探偵ガリレオシリーズは最先端の現代科学の知識で犯罪を論理的に解き明かすという紛れもない本格ミステリだった。 つまり自身で本格ミステリに対する高いハードルを設定したのが『名探偵の掟』であり、そのハードルを超える敢えて挑んだ本格ミステリが探偵ガリレオシリーズだった。 そして東野ミステリのもう1つの軸が『人の心こそが最大のミステリ』とする流れを汲む諸作品だ。トリックやロジックではなく、心を持つ人だからこそ起こり得る運命の悪戯や人生の機微を物語のスパイスとして紡ぐ『宿命』から連なる一連の作品群。 これら東野ミステリの2つの軸が融合した結晶が本書になるのだろう。つまり本書はそれまでの東野ミステリのある意味集大成というべき作品と云えよう。 ただ東野氏が凄いのはブレイクを果たした本書が作家人生の頂点ではなく、それ以降も続々と面白い作品を放っていることだ。本書で初の『このミス』1位を獲得し、そのたった4年後にもう1つのシリーズ加賀恭一郎作品『新参者』で1位を再び獲っているのだから畏れ入る。 そもそもは素行の悪い元夫から逃れるために起こした殺人事件が端を発した哀しい事件。事件そのものは靖子が富樫と云う男と結婚したことから始まったのかもしれない。 東野氏は一度誤った人生は容易に取り戻せないと諸作品で語るが、本書もその1つである。 しかしこれほど哀しい物語に対して本書が本格ミステリか否かという一大論争が起きたことが実に馬鹿馬鹿しい。 本書は推理小説なのだ。それ以下でも以上でもないではないか。 暇人だけがジャンル分けに勤しんでいる。もっとこの作品を超えるような作品を切磋琢磨して世のミステリ作家は生み出してほしいものだ。それが作家としての本分だろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(3件の連絡あり)[?]
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今なお小説の題材として語られるキム・フィルビー事件。
イギリス秘密情報機関の切れ者であり、高官の座に一番近いと云われていた男がソ連のスパイだったという衝撃的な事件は恥ずかしながら私も最近になって知ったのだが、本書はこの稀代のスパイを育て上げた伝説のKGB部員オルロフが自身を暗殺しようとする謎の人物を追って国を跨って捜査をするという物語だ。 それは同時にKGBがイギリスに、いや世界各国の共産主義思想を持つ人物たちをどのようにスパイに仕立て上げたかを語ることにもなるのだ。 この虚と実が入り混じった物語展開は一方でフィクションと思いながらも、もう一方では実話ではないかと錯覚してしまう。この錯覚は物語の終盤でさらに加速する。 なんとキム・フィルビー本人が登場するのだ。一連の事件を捜査するオルロフは当時イギリスに潜んだモールたちを束ねていた自分以外にこの男が別の諜報部員を組織していたのではないかと疑って密会するのだ。しかしフィルビーはそれを否定しながら、事件を解くある重要なカギをオルロフに与えて退場する。 この作品にはフィルビー以外にもいわゆる「ケンブリッジ・ファイヴ」と呼ばれたスパイたちも実名で登場する。主人公オルロフが彼らを仕立て上げた伝説のスパイとされているため、彼らの為人を詳細に語るシーンが出てくるのだが、不思議なのはどうやってバー=ゾウハーはここまで人物を掘り下げることが出来たのかということだ。 まるで実際に逢ったかのようだ。それほどまでにリアルに描写している。 これは老境に入ったスパイたちが過去を清算する物語だ。イギリス政府上層部にスパイ網を作り上げた伝説のスパイ、アレクサンドル・オルロフはアメリカのフロリダで隠居生活を送っていたところをわざわざイギリスに赴き、彼が現役時に成した諜報行動を語ることにしたのはひとえに彼の前妻ヴァージニアの娘に逢うためだった。 しかしそれが眠っていたかつてのスパイたちの安寧を揺さぶる。忘れ去られようとしている各国間の情報戦の最前線にいた彼らが数十年も経って過去をほじくり返されることを怖れ、消し去ろうと躍起になる。当初それは秘密を墓場まで持っていくことを強要するKGBによる粛清かと思われたが、実はスパイであったことを知られたくない元工作員による過去の清算ではないかとオルロフは推理する。 しかし真相はさらにその予想を上回るものだった。 スパイ活動に時効はない。特にそれを今の政府高官が指揮していたとなると国の国際的信用を揺るがすスキャンダルに発展する。バー=ゾウハーは現時点での最新作『ベルリン・コンスピラシー』でも歴史の惨たらしい暗部に携わった人々の罪が決して時間によって浄化されることはないと痛烈に謳っているのだ。 しかしなんという深みだろう。 最後はオルロフが述懐する、この物語の本質を実に的確に云い表した言葉を添えて、この感想を終えよう。 “諜報活動のからくりは、じつに複雑怪奇だ” ▼以下、ネタバレ感想 |
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デビュー以来戦争物を書き、冒険小説作家としての地位を不動のものとしたマクリーンが4作目で書いたのはスパイ小説。ロシアに囚われた弾道学の権威である博士をイギリスに取り戻す任務を与えられた特別工作員マイケル・レナルズの物語だ。
しかしこの特別工作員レナルズ、最初に説明があるようにあらゆる感情に左右されずしかも格闘術に長け、人殺しの技を身に着けた危険な男とされているが、協力者ジャンシの部下サンダーに致命的な一撃を与えるものの、びくともしないし、博士と接触した時は盗聴器に気付かずにそれが元で作戦成功に大きな打撃を与える困難を生みだし、さらにジャンシの娘に惑わされたりと、どこが凄腕のスパイなのか解らないほど、間が抜けているのだ。しかも幾度となく彼の前に現れるAVOことハンガリー秘密警察の一員である巨漢のココとの最後の対決では打ちのめされ、サンダーにいいところを持って行かれてしまう。 これが不屈の魂で満身創痍の中、人間の極限を超えて任務を遂行した『女王陛下のユリシーズ号』や『ナヴァロンの要塞』を描いた作者によって創作されたヒーローとはとても思えないのだが。 かえって不屈の魂を垣間見せるのがレナルズの協力者ジャンシだ。 ウクライナ国民軍の司令官であった彼は母と姉と娘と、そして妻を喪い、さらに拷問に次ぐ拷問の日々を耐え、両の掌はもはや原形を留めぬほど変形しているが、そんな人生を歩みながら人類みな兄弟とばかりに人間を狂気に追いやる政府と宗教と、そして犯したその人の罪を憎むさえすれ人そのものには温情を抱く。さらに刑務所で敵の陥穽に嵌り、これまでにない精神崩壊を招く自白剤を摂取されながらも強靭な精神でそれを耐え抜き、軍門に陥ろうとするレナルズを叱咤激励する心の強さを持つ男だ。 彼こそマクリーンが描いてきた極限を超える負荷を与えられながらも明日を信じて乗り越えようとする男の肖像だ。 しかも彼ジャンシの両手に刻まれた凄惨な傷痕は彼の昏い人生を行間で語らせている。して実際に彼が受けた仕打ちは残酷ここに極まれりと云うべき極悪非道の所業がこれでもかこれでもかと語られる。およそ人間が思いつく限りの、いやそれ以上の拷問方法だ。 最近昔のヨーロッパ諸国のスパイ小説を読む機会が増えたのだが、こういう歪んだ社会の構図が生み出した、この世界の歴史の暗部の惨たらしさには心底震えあがらせられる思いが読むたびにする。 しかし今回は久々に苦痛を伴う読書だった。というのも、ハンガリーとロシアの極寒の地の中で時には敵の追手をかいくぐりながら博士奪還のために吹雪の中を疾駆する列車の屋根に上り、連結器を外すというアクションも盛り込みながらも、ところどころに挟まれるジャンシがレナルズに語る政治論が実に濃密過ぎて物語のスピード感を減速してしまったのは否めない。この内容の濃さはほとんど作者マクリーンが抱く政治論そのものであろうが、3ページに亘って改行も一切なく語られてはさすがに疲れを強いるものであった。 マクリーン初のスパイ小説ということもあって作者の独自色を出すための構成なのかもしれないが、国家の原理原則論についてこれほどまでに弁を揮うとなると、もはや小説ではなく大説である。作家としての気負いが勝ってしまったのかもしれないが、これはいささかやり過ぎ。この手の主張は小説ではなく、また別のノンフィクションなどで語るべきだろう。 次作はマクリーンらしい人間ドラマと我々の想像を絶する逆境の中で極限状態に陥りながらも歯を食いしばり、自身の教義を貫いて使命を果たす迫力ある小説であることを望みたい。 |
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光文社が鮎川哲也氏を選者として一般公募した作品で編まれた本格ミステリ短編集『本格推理』シリーズの11巻で石持浅海氏は見事応募作品が選出され、デビューを飾った。そしてその一般公募者から選り抜かれた新人作家がKAPPA ONEというシリーズ叢書でデビューを飾る。その中の1人が石持氏で本書こそがその1冊であった。
そして氏が選んだ舞台はなんとアイルランド、しかも扱う題材はアイルランドの武装勢力NCFが殺し屋に依頼するある幹部の暗殺劇。このどうにもエスピオナージュ色濃い設定で本格ミステリを成立させるという異色な意欲作だ。 上に書いた物語のシチュエーションから本書が本格ミステリのいわゆる「嵐の山荘物」だと誰が想像するだろうか? 石持氏はこの本格ミステリの典型とも云える、警察が介入できず、しかも外部との連絡が絶たれた状況の密室状況を、あくまで現実的で起こりうるだろう状況で実現させるためにアイルランドの武装勢力NCFの一味が宿泊先で何者かに殺害され、警察への介入を許さないというこれまでにない特異なアイデアで設定した。 アイルランドはスライゴーにある有名な湖畔に立つペンション(本書ではB&B(ベッド・アンド・ブレックファスト)と呼ばれている)に集まったアメリカ人、日本人、アイルランド人、オーストラリア人ら観光客に交じって武装勢力NCFの幹部たちが集う。しかもNCFは和平反対派である幹部の一人を自然死に見せかけて暗殺するため、刺客を差し向けている。その中で起こるターゲットの殺人。しかしそれは当初NCFが望んだ形ではない明らかに殺人と思える不審死だったというもの。誰が幹部の一人を殺したのか、そして滞在客に紛れている刺客は一体誰かという2つの謎が読者に提供される。 また舞台がアイルランド、そして名のみこそ聞くがあまり馴染みのないIRA、NCFといった武装勢力を題材に扱っているため、その成り立ちや北アイルランドの今に至る歴史的背景が語られる。 話が横に逸れるが、私は本格ミステリ、社会派、ハードボイルド、冒険小説、スパイ小説にエスピオナージュといわゆるミステリ、エンタテインメントと称される小説のジャンルは広く読むのだが、ミステリ系のオフ会に参加した時は本格ミステリ、しかも新本格の作品からミステリに触れ、そればかりを読んでいる人が多いことに驚くことがしばしばある。またミステリ系感想サイトでもいわゆるハードボイルド系、プライヴェート・アイ小説、冒険小説にエスピオナージュの感想に対して、ミステリではないからそのようなサイトで感想を挙げること自体に違和感を覚える読者がいて、びっくりしたりもする。 私は本書を読むことで本格ミステリしか読まない方々が世界の情勢について触れ、また関連した小説に読書の範囲を広げる一助になるのではないかと思った。 が、逆にカタカナばかりの登場人物でなかなか読書にのめり込めなかったという感想があれば結局本書で試みたエスピオナージュの題材で本格ミステリを書くという斬新な試みが理解されない懸念もあるのだが。 そして舞台の特殊性に加えて本書には他の本格ミステリには見られない特異性がある。それは物語の状況が政治的に大事な交渉を控えていることから、NCFが納得のいく事件の解決しなければならないのだが、それは真犯人が違っていても構わないから論理的に誰もが納得のいく解答を見つけさえすればよいというものだ。 これは実は本格ミステリが抱えるある問題について作者が自覚的でもあることを示している。 謎が現場の手がかりをもとに論理的にきれいに解かれるのが本格ミステリであり、醍醐味であるが、それは一番納得のいく解答が示されただけで犯人による誤導であり、実は別の真相がある可能性がある問題だ。つまり後期クイーン作品によく見られる操りのトリックであり、真犯人がある特定の人物にたどり着くように故意に手がかりをばらまき、誤導する、もしくは実行犯を仕立てあげ、実際には手を下さずに目的を果たすといったものだ。 つまり本書では本格ミステリ作家がいつか直面するこの本格ミステリのジレンマをなんとデビュー作の時点ですでに取り入れているのだ。とても新人とは思えない達観した考えを持った作家である。 ただ石持作品に対して書評家の方々が口を揃えて述べている欠点として、登場人物の心情が理解できないという特徴があるのだが、それは私も本書を読んで感じたことだった。 特にそれが顕著なのは2人目の犠牲者としてペンションのコックであるフレッドが庇から転落して首の骨を折って即死してしまうのだが、そのすぐ後に探偵役のフジが陰鬱な雰囲気を紛らわせようと死んだコックの代わりに滞在客みんなで料理に興じるという場面だ。 目の前で人が亡くなっているのに、料理をしようという意欲が出るのだろうか?ましてや心的ショックから食欲など湧かないのではないだろうか?しかもみな嬉々として料理を楽しむのである。これにはさすがに違和感を覚えずにはいられなかった。 さてタイトルにある薔薇だが、それはイエイツが自身の詩でアイルランドの自由を薔薇の木に例えていることに由来する。つまり南北アイルランド統一が薔薇ならば和平交渉成立はその礎となるのだ。つまりアイルランドに薔薇を咲かせるために謎は解かれなければならないという意味だ。 この辺のセンスからも他の本格ミステリ作家とは違ったものを感じる。 本格ミステリのコードに淫するあまり、本格ミステリ作家の多くが特殊な因習や人里離れた奇怪な人物が主を務める館といった、日本と思しき「ここではないどこか」を構築し、その自ら作った箱庭の中で登場人物を駒のように動かし、パズラーという知的ゲームを披露するのに対し、石持氏は本格ミステリのコードをいかに現実レベルで成立させるか、我々が新聞で目にする事件や会社生活で目の当たりにする異常事態を巧みに題材にしてさもありなんとばかりに読者に腑に落ちさせてくれるのが実に特徴的だ。 逆になぜこのようなシチュエーションが今までありそうでなかったのかと思わされるぐらい、実に自然な状況なのだ。 また他の本格ミステリ作家が本格ミステリを知的ゲームの最高峰として心酔しているように創作しているのに対し、デビュー作の時点から論理的解決の万能性に懐疑的であることから他の本格ミステリ作家とは一歩引いた視座で本格ミステリを捉えているようにも思える。これこそ氏の本格ミステリ作家としての強みであろう。 当時KAPPA ONE1期生としてデビューしながら唯一『このミス』常連作家となっていることが本書を読むことで実に納得できる。 本格ミステリに新しい角度から光を当てた石持氏。次はどんなシチュエーションを見せてくれるのか、非常に楽しみだ。 |
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今回服部氏が選んだのは一大メディア企業の買収劇。一頃日本でも話題になったM&Aがテーマとなっている。
その劇には2つの主役がある。 一つは世界中で有名なアニメキャラクター「くまのデニー」を抱え、そこから映画部門を創設して世界にテーマパークを持つまでになったハリス・ブラザーズ社。 これはまんまディズニーそのものだ。特に作中で描写される「くまのデニー」の風貌はミッキー・マウスそのままのようだ。 もう一つはコンピューター・ビジネスの巨大企業『マジコム』社。天才的カリスマ会長兼CEOのビル・ブロックはビル・ゲイツを髣髴させる。 こちらは恐らくマイクロソフト社がモデルだろう。つまりアメリカきっての二大大型企業、ディズニーとマイクロソフトの仮想一騎打ち買収対決が本書であると云えよう。 しかもハリス・ブラザーズ社の最高執行責任者(COO)のノックス・ブレイガーとビル・ブロックがかつての学友でライバル関係であり、しかもノックスの前妻が今のビルの妻であるという2人の天才同士の仮想対決でもある。 そんな2人によって繰り広げられる仕手戦はやがてある情報によって一気に流れが変わる。それはハリス・ブラザーズ社に隠れた財産があるという事実。 その正体が創設者ジェイク・ハリスが遺した新キャラのデザインだった。数十年前の記念行事で埋められたタイムカプセルにそれは封印されている。 さてこれが現実のディズニーに擬えるとどうだろうか?確かにこれは魅力的ではないだろうか?今なお生まれる新キャラクターたちが世紀を超えた我々をなぜか夢中にする魔力。例えば日本オリジナルのキャラクター、ダッフィーが世界中に波及して人気を博す、こんな不思議な力がディズニーと云うブランドには宿っている。この現実を考えるとこの隠し財産の威力は実にリアルな秘密であると云えよう。 そしてこの秘密のデザインを暴こうとするシェリルと反、そして特撮技師のレイモンド・スプーンが描いた作戦がなかなかに面白い。 緻密に企てた作戦は特撮技師と云う特殊技能を持つレイモンドの存在がなければ成り立たない計画だ。この辺は実に映像的でしかもサプライズもあり、これが本書のクライマックスとしてもいいくらいの出来栄えだ。 そしてこの秘密のデザインを手に入れたことで『マジコム』側は隠し財産の途轍もない価値に気付き、一気に買い上げ価格を吊上げ、攻勢に出る。 しかし宿敵ブレイガーはそんな窮地に陥っても、ウィンストンの隠し子を手に入れることで泰然自若としている。このウィンストンの隠し子、チャイニーズ・マフィアのデイヴィッド・ウーに何が隠されているのか、Xデイに向けて緊張感は募っていく。 服部氏が凄いのはこの買収劇にアメリカのある法律を絡ませていることだ。 以前、某企業が発明した権利は会社の物か発明者の物かという問題が起きたが、本書の問題もそれに近い。 「くまのデニー」の作者であるジェイク・ハリスによって生まれたハリス・ブラザーズ社。当然ながらその権利は会社に帰属すると思われるが、会社が設立する前に得た権利であるがゆえにそれは作者に帰属するのだ。 これは今の出版社でもあり得る話ではないだろうか。これは天才によって創立された会社が抱える盲点であり、その歴史が古ければ古いほど起こり得る事態ではないだろうか? しかしながら服部氏の広範な知識と緻密な取材力には全く以て脱帽だ。何しろアメリカを舞台にアメリカの法律下で買収戦争を描き、さらにそこにアクションシーンも盛り込んでキチッとエンタテインメントしているのだから畏れ入る。 600ページを超える大著だが、そのページ数が必要なだけの情報量、いやそれ以上の情報量を含みながらアメリカの法律に疎い我々一般読者に噛み砕いて淀みなく物語を進行させる筆の巧みさ。作品を重ねるごとにこの著者の作品はますますクオリティの冴えを見せてくれている。 しかし今回は主人公である反健斗の親を知らないという暗い出自と自身が日本人なのかアメリカ人なのかというアイデンティティの揺らぎがあまり物語に寄与していないのが気になった。逆に例え精子提供者と人工授精児という間柄であっても親子の絆の深さが何物にも代えがたい貴重な物であることが単なる復讐劇の駒として見ていなかったノックスに引導を渡す誤算に繋がった点が印象に残った。 しかしそのデイヴィッド・ウーでさえ薄くしか物語に介入していないのだから、中国人であるという設定だけでその心理を悟らせるというのはちょっと乱暴だったように感じてしまった。 とはいえそれは瑕疵に過ぎないだろう。とにもかくにも数ある企業小説、金融エンタテインメント小説とは明らかに一線を画して面白いことは間違いない。 我々の知らない世界を次作でも見せてくれることを大いに期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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