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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1418件
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ルブランと云えばやはり怪盗紳士ルパンシリーズが最も有名だが、本書はノンシリーズ。しかもSF長編だ。
ある時突然発明家の研究室の壁に現れた3つの目のような三角円。まるで生身の目のように脈動するそれは歴史上の有名な出来事を映画のように映しだす。 この3つの目を巡って金儲けを企む輩が現れ、博士は殺害され、彼の代子の女性もさらわれてしまう。 この不思議な現象は博士の長年の太陽熱に関する研究の副産物でありながらも金を生む卵となりえたのだが、同時に悪党どもの群がる餌にもなってしまったことを考えると災いの種でしかないように思える。 この歴史上のシーンを再現する3つの目の正体はある若き技師の手によって暴かれる。 しかしこの荒唐無稽さも21世紀の今に照らし合わせてみるとあながち人智を超えた発想ではないことが分る。 こんな理論を1920年に想像していたルブランに驚愕せざるを得ない。そして本書が訳出された1987年当時でも本書の突飛な発想に読者や書評家は理解する頭を持っていなかったのではないだろうか?そんなことを考えると本書は実に早すぎた書なのだと云える。 本書の物語はこの3つの目を核にしてその秘密を乗っ取ろうとする悪党どもと発明した博士の代子である娘と主人公である東洋学者がせめぎ合う冒険活劇となっている。やはりルブランはルパンの手法をSFでも用いているのだ。 しかしだからいわゆる一般的なSFとはどこか味わいが違う。ルブラン作品には欠かせない主人公とヒロインの恋物語も盛り込まれており、それがバランスよく溶け合っていればいいのだが、どうもごった煮のような印象しか残らなかった。 この物語を語るにはどうしても奇異な3つの目に興味が行きがちだが、一方でその目が映し出す歴史上の出来事や過去の世紀に生きた人々の営みが実にリアルに、生き生きと活写されていることにも注目しておきたい。ルブランはSFの手法を用いて、歴史をリアルに映し出すことに挑戦しているのだ。 しかしドイルも数々のSF長短編を著しているが、ホームズシリーズに匹敵する人気を誇り、今なお読み継がれているルパンシリーズを著したルブランもまた同様にこのようなSF作品を残していたのは決して驚くべきことではないだろう。 しかしドイルのSF作品は未知なる存在との戦いや恐怖を描いた作品が多く、至極単純な構図であるのに対し、本書は上にも書いたようにルブランならではの創作手法を取り入れたことでもやもやとした読書感が残ってしまう。特に3つの目の謎を解き明かす手法として技師の研究論文という体裁で15ページも亘って説明しているのは小説としてのバランスの悪さを感じてしまう。 ルブランの描く物語は単純なジャンル小説に留まらず、恋あり冒険あり活劇ありと読者を愉しませる要素を惜しげもなく投入するところに魅力があるのだが、本書は逆にそれが仇になってしまったようだ。 しかし21世紀の今でこそ解るルブランの先見性も垣間見られ、なかなか捨て難い作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ローレンス・ブロックのシリーズ物は数あれど、アル中探偵マット・スカダーシリーズと泥棒バーニイ・ローデンバーシリーズこそが2大シリーズキャラクターと云えるだろう。本書は後者の第1作目だ。
まず驚くのはその軽快な筆致。とてもマット・スカダーシリーズと同じ作家が書いたとは思えないほど、軽妙でユニークだ。 特に絶妙なのは会話だ。突然話があらぬ方向に向かうバーニイと、彼を取り巻く人物たちのやり取りは洒落た漫才のようで実に面白い。しかもジョークを持ち味にするキャラクター―例えばネルソン・デミル作品のジョン・コーリー―にありがちな嫌味が全くなく、逆にバーニイの人柄の良さが滲み出てくる。 初登場作である本書でバーニイが出くわす事件とは、謎の小男からある部屋に忍び込んで革張りの小箱を盗んできてほしいという物だった。しかし仕事中になぜか巡回中の警察官が部屋に入ってき、しまいには家の主の死体がベッドに転がっていて、バーニイは危うく殺人犯にさせられそうになるという物。 バーニイの小気味良い会話はもちろんながら彼を取り巻く面々もなかなかに面白い。 まず何といってもいきなり潜伏中のバーニイの許に突如現れる美女ルース・ハイタワーことエリー・クリストファーが実にいい。 とにかく指名手配中で外出ができないバーニイの代わりに捜査を買って出て、しかも謎の依頼人探しにあらゆる方面から手を尽くして情報を手に入れる凄腕。しかし何かを隠してバーニイに協力しているところがあって、それが事件の真相に繋がっている。 またバーニイのへらず口として語られる彼の過去の失敗談や逃亡中に間借りする知り合いの俳優についての解説が巧みに事件の要素として関わってくるのは驚いた。単なるエピソードとして読み過ごしていると読者は何のことだっけ?と呆気に取られてしまうだろう。 これは謎の依頼人がハリウッド映画によく出てくる名もない脇役を務める俳優だったことも関係しているのかもしれない。 数ある映画を観ていて見過ごしがちな存在ながらも、ある人やある場面では特定の意味を持った存在となるというのは、この単なるエピソードも事件の重要な情報になり得る、つまり不要な物などはないのだということを暗示しているように私は感じた。 正直第1作目の本書は最初の導入部が実に面白かったせいもあり、途中バーニイが身動きとれずにいる辺りは中だるみを感じてしまったのは否めない。が、さりげない手がかりや伏線と云った意外に本格ミステリな趣向が凝らされており、最後の真相には感心してしまった。 陰鬱で重厚なマット・スカダーシリーズとは対極にあるような軽妙で洒脱なミステリ。この後のシリーズの展開が非常に愉しみ。 しかしなぜこれも現在絶版なのか?どうにかしてほしいものだ、早川書房。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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人を殺すと云う事についてその意味を問う問題作だ。
ここでは二種類の殺人が描かれる。 1つは未成年の男性2人による、遊び半分で女性を襲い、クスリを打って強姦したはずみでの殺人。 もう1つは大事な愛娘を殺害された恨みを晴らすための殺人。 どちらも人を殺すことでは同じながらもその動機は全く以て異なる。 今まで数々のミステリが書かれる中で、数多く書かれた復讐のための殺人について、改めて実に遣る瀬無い理由によって殺人を犯そうとすることの意味を問う。 物語は長峰が菅野快児を探す物語と長峰を追う警察の捜査の模様、そして菅野にいいなりになって犯罪に加担した中井誠の3つの視点で語られる。 長峰のパートでアクセントとなって加わるのが丹沢和佳子という女性だ。長峰が菅野捜索の過程で滞在するペンションの経営者の娘だ。しかし彼女には最愛の息子を目を離した隙に公園の滑り台から転落させて亡くしたという位過去を持ち、その事故が原因で離婚をし、いまだに哀しみから抜け切れない日々を送っている。その彼女が長峰の協力者となり、一緒に菅野快児を探す手伝いをする。 この彼女の心情が実に上手い。同じ子供を亡くした親同士という共通点があり、片や事故で亡くしながら、その割り切れなさで蟠りを抱えて生きている。そこに娘を非人道的な所業によって殺害された男が犯人に復讐するという目的を持って現れる。それは彼女にとって長年抱えていた蟠りを別の形で晴らすことに繋がると見出したのだろう。 しかし殺人はよくないという理屈と感情のせめぎ合いの中で半ば衝動的に手を貸す、心の移り変わりが、決して明確な理屈で語られるわけではないのだが、行間から立ち上ってくるのだ。 尤も、彼女が長峰に協力しようと思ったのは実の息子を幼くして亡くしただけではない。彼女は長峰の娘が犯人に凌辱されるVTRを目の当たりにしたからこそ、ただ同情するだけではなく、何が正しいのか見つけるために行動したのだ。 そのことを父親へ告げる408ページの台詞を私はすっと読み流すことが出来ずにしばらく何度も噛みしめてしまった。 毎日報道される数々の事件。それらをただのニュースの一つとして捉えて、我々は時に関心を持ち、職場や家族で話題にしながらも数分後には次の話題に移っている。 それは無関心というわけでなく、事件そのものを深く知らないからゆえに他ならない。新聞でたった数行で語られる事件、TVのワイドショーで数分取り上げられる事件の中枢を知らないからこそ、毎日を平穏に過ごせるのかもしれない。 事件の本質を知らされると世間がどうなるのか? 本書では長峰の手紙が公開されて、世論は長峰擁護に傾くようになる。長峰の邪魔をするなと警察に多くの抗議の電話が鳴り響くようになる。 法治国家だからどんな理由であれ、殺人はよくない、こんなことを許せば秩序が無くなる。確かにそうだろう。 しかし犯人が我が子になした悪魔のような行為を見ると果たして誰もがそんな言葉を口にするのを躊躇うことだろう。 作中、長峰がこう述べる。「法律は人間の弱さを理解していない」と。秩序を守るために論を以て判断し、判定を下すのだ。人の命を奪うのではなく、罪を憎んで人を憎まず、更生させてその人の人生を変えるのだと。 しかし長峰が云うように残された遺族はそこまで大人になれない。人間が感情で生きる動物だからこそ、そんなに簡単に割り切れないのだ。 1+1は確かに2だろう。しかしその1はそれぞれ過ごした時間と関わった人によって込められた背景がある。だから人間関係とは1+1は2ではなく、3にでも5にでも、10でも100や1000にもなり得るのだ。 長峰は復讐を成就できるのか。 それとも菅野が先に警察に保護されるのか。 ただこんな二者択一のような単純な構図の物語においても東野圭吾氏はサプライズを忘れない。 長峰事件の後、辞職願を出して退職した久塚は最後にこう述べる。我々警察は市民を守っているのではなく、不完全な法律を守っているのだ、と。 これはまさに東野圭吾氏が持っている考えそのものではないだろうか。 それは殺人という行為についてこの頃の東野氏は色んなアプローチで語っていることからも推察される。 『手紙』では殺人を犯した兄が被る弟の人生について語り、『殺人の門』では折に触れ人生を狂わされる男がその張本人に殺意を抱き、その最後の境界線を越えるまでを描いた。そして本作では2種類の殺人が描かれる。 1つは家庭も持ち、仕事もありながら、周囲に迷惑をかけることを解りつつも亡き娘の為に敢えて殺人を犯そうとする男。 もう1つは自らの快楽の為に心が壊れるまで蹂躙し、寧ろ死ぬことで自らの犯罪が露見しないことを悦ぶ獣たち。 殺人と云う非人道的な行為を通じてこの2者が社会に下す裁きは全く異なる。前者は成人男性の為、刑法が適用され、後者は未成年ゆえにが少年法という保護下に置かれるからだ。 法によってその残虐な行為が軽減され、護られる者。法によって満足な裁きが成されず、最愛の者を亡くした哀しみを一生抱えなければならない者。そして法によって裁かれることで自身の復讐を重い刑罰で継ぐわなければならない者。 人は法の下では平等であるというが、何とも虚しい響きだと感じてしまう。このような胸に残る割り切れなさを表したのが久塚の言葉であり、東野氏の言葉のように思えるのだ。 最愛の娘を亡くした恨みを晴らすために犯人を追う。この私怨を晴らす物語はハリウッド映画などで山ほど書かれた物語だ。 しかし東野圭吾氏にかかるとこれが非常に考えさせられる物語に変わる。それは通常アクション映画のような活劇ではなく、復讐を誓う一介のサラリーマンとそれを取り巻く警察、犯人、協力者たちが我々市井のレベルでじっくり描かれるからだろう。 つまりアクション映画のようにどこか別の世界で起こっている物語ではなく、いつか我々の狭い世間でも起こり得る事件として描かれているから臨場感があるのだ。 自らの正義を成就すべきか、それとも復讐のための殺人は決して許される物ではないという世の道徳を採るべきか。物語の舵を取った時からどちらに落ち着いてもやりきれなさが残ると想像される物語の行く末を敢えて選び、そしてそれを見事に結末に繋げるという作家東野圭吾氏の技量は改めて並々ならぬ物ではないと痛感した。 このような「貴方ならどうしますか?」と問われ、ベストの答が決して出ない、論議を巻き起こす命題について敢えて挑むその姿勢は単にベストセラー作家であるという地位に甘んじていないからこそ、読者もついていくのだろう。 さて次はどのような問題を我々に突付け、彼ならではの答を見せてくれるのか。とにかく興味は尽きない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書のテーマはアメリカ大統領選挙戦である。
アメリカの石油不足と年々高騰する原油価格という負のスパイラルを打破すべく、OPECに軍事的介入を辞さないと主張する新進気鋭の議員とOPECと友好関係にある現副大統領との一騎打ちにOPECの議長がその地位の安泰とOPECの地歩を盤石にすべく、アメリカの石油会社の社長と共に新進の議員の失墜を画策するという政治的紛争を描いた作品だ。 そして本書でもナチスが関わってくる。特に本書ではOPECによる石油生産抑制にて価格高騰に苦しむアメリカを背景にした次期大統領選挙戦で次々と相手方のスキャンダルとお互いの政治的活動を引金した種々の事件を引き合いに足の引っ張り合いを繰り広げる精神の削り合いのような攻防と合わせて、かつての栄光を再びと再起を図るノンフィクションライターのクリント・クレイグが次回作の題材にとナチスの元帥ゲーリングの死と彼が指揮したファントム作戦なる、ドイツの各地に隠匿し、今なおその大半が見つからない略奪された欧州各国の財宝や美術品の行方を探る物語が並行して語られるが、クリントのゲーリングに関する取材の内容はこれだけで1冊のノンフィクションが物に出来るような実に深く、しかも面白い読み物となっているのが凄い。 さらにこのゲーリングの謎が本筋である怒涛の攻勢を見せる次期大統領候補の隠された過去に関わってくるのが実に心憎い。アメリカ大統領選挙とOPECとアメリカの争い、そこにナチスの昏い翳を投げかける。 バー=ゾウハーにとって果たしてナチスとはどれほど根深いテーマなのだろうか? しかし1980年に発表された当時ではまだ第二次大戦がそれほど遠い過去ではなく、あの大戦で何らかの任務に携わった人々が当時それぞれの道で功を遂げている、または政界へ乗り出そうとしていること、つまり1980年現在と地続きであったことが知らされ、隔世の感を覚えてしまった。 バー=ゾウハー作品初期のソーンダースシリーズは少ないページ数の中でとにかく場面展開が目まぐるしく、危機また危機の連続で謎が明らかになるごとにさらに別の謎が深まり、実に複雑な事件の構図が最後になって明らかになるというスピード感と国際謀略の奥深さを思い知る内容だったが、本書ではそれらの作品の約1.5倍の分量がありながらも事件の構図は明確で、逆にその目的に向かってタイムリミットが迫るというサスペンスが盛り込まれている。しかも当時の石油問題やアラブ諸国の特異な勢力争いと思想、さらにゲーリングの自殺に纏わる数々のエピソードが盛り込まれ、単純な活劇ではなく、情報小説としての読み応えが実にある。 その中で最もなぜか忘れられないエピソードが本書で初めて知った男性のみならず女性にも割礼の儀式があるアラブの風習。男性のそれと比べて女性へのそれは永遠にオルガスムスへの歓びを剥奪し、姦通に走らないようにするためだと思われるが、しかしあまりに非人道的すぎる。 またOPECが蹴落とそうとする次期大統領候補の1人ジェファーソンがゲーリング殺害に関わっていた疑惑がじわりじわりと濃厚になっていくのが実にスリリングだ。 またジェファーソンの人物像が自信家であり、典型的なアメリカン・エリートの肖像を持っていることも、読者に共感を得るキャラクターとなっていないことで逆にクリントにジェファーソンが悪人であることを証明してほしいという思いにさせられる演出が上手い。それを決定づけるような342ページの1行もまた印象的だ。全くバー=ゾウハーの小説作劇は何とも読者の興趣をそそらされるのだ。 彼に加え、主人公のノンフィクション作家クリント・クレイグ、彼に偶然を装って近づきながら父親ジェファーソンの間者となりながらもクリントに惹かれるという複雑な立場に苦悩するジリアン・ホバースなど本書の数ある登場人物の中で最もミステリアスなのは敵役であるOPEC議長アリ・シャズリだ。OPEC議長と云う現在の地位を固執するために勢いのある次期大統領候補ジェファーソンを目の敵にして蹴落とそうとしながらも、OPEC内部の政治抗争に勝つための手段としてその作戦を利用し、更に目的が果たせないことが分るや、その懐の深さでジェファーソンを取り込み、煙に巻く。さらにアラブ人でありながら民族衣装を身に纏わず、高級スーツに袖を通し、常に身ぎれいに洗練された西洋人然として佇むその造形はどこか作者であるバー=ゾウハー自身を思わせる。 さてカタカナ名詞に二字熟語を重ねた題名はもはやこの頃のバー=ゾウハー作品の代名詞ともなっているが、本書のファントムとは第二次大戦中にナチスのゲーリング元帥が指揮した各国の財宝・美術品の隠匿作戦が<ファントム作戦>と呼ばれていたことに由来する。主人公のクリントが未だにその大半がその在処が不明となっているナチス時代の財宝・美術品の謎を探るノンフィクションを著すためにその痕跡を辿る、まさに邦題は作品のテーマを実に的確に表している。これは訳者の仕事を素直に褒めたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1961年に発表された本書の舞台は1907年のイギリス。しかもHM卿やフェル博士と云ったシリーズ探偵が登場しないノンシリーズのミステリ。
物語の主人公、つまり探偵役はデイヴィッド・ガースと云う最近売り出し中の精神科医。さらに副業で覆面作家「ファントム」を名乗り、ミステリをシリーズで出版している。 そして彼と張り合うように捜査を担当するのはトウィッグ警部。ネチッこい尋問と勿体ぶったやり口が鼻につく嫌な警官だ。 物語の中心となる謎は2つ。1つはセルビー大佐の家政婦であるモンタギュー夫人の首を絞めていた女性は地下室に逃げ込み、いかにしてそこから脱出したのか? もう1つは砂浜に囲まれた脱衣小屋で起きた殺人、しかし周囲には犯人と思しき足跡がなかったという物。 この2つの謎に関わる女性が本書のヒロインであるベティ・コールダーの姉であり、数ある男と浮名を流しては財産を略奪する悪女グリニス・スチュークリーだ。 まず引き潮の只中で周囲が濡れた砂浜に覆われた家の中で女性を殺した犯人は周囲に足跡を残さずにいかにして犯行を実行したのかという謎は『白い僧院の殺人』の変奏曲のように感じる。 犯人だけを見れば実にシンプルな事件だが、ただこの真相は実に複雑すぎる。 そして本書でなぜHM卿やフェル博士と云ったシリーズ探偵を使わずにデイヴィッド・ガースという精神科医を探偵役にしたのかは真相が明らかになって初めて分る。 しかし未読の方に注意していただきたいのは本書を読むにはある条件を満たしておく必要があることだ。 それはガストン・ルルーの『黄色い部屋の謎』を読んでいること。なぜなら本書ではその真相が詳らかに明かされているからだ。本書では『黄色い部屋~』の謎解きが真相解明に一役買っているように語られるためだが、正直ここまで他の作家の傑作と云われている作品の真相をここまで詳しく書く事はミステリの作法として正しいのかが甚だ疑問だ。 とにかく場面転換が唐突過ぎて戸惑う事しきりだ。行動していたかと思えばいきなり回想シーンに入って昔のことを語り出すし、会話をしていたと思えば、これまた突然の電話や来客で打ち切られ、結局何をしていたのかが分らなくなる。ストーリーを時系列的に追うのにかなり困難だった。 かてて加えて真相の複雑さ。これは二度読みが必要なのかもしれない。 今回なかなかハヤカワ・ミステリ文庫で復刊されないことに業を煮やして図書館に所蔵されていたポケミス版で読んでみたが、訳や仮名遣いが古く感じたので、カーの新訳出版が続く現在、今度はぜひとも新訳で読みたいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ディーヴァーのシリーズキャラクターと云えば、リンカーン・ライムだが、そのシリーズから派生した、相手の仕草や言動から嘘を見抜く、“人間噓発見器”、キネシクス分析の名手キャサリン・ダンスシリーズの第2作が本書。
このシリーズもライム作品同様、日本のミステリ読者に好評を以て受け入れられ、その年の『このミス』でも9位に選ばれた。 今回のテーマは年々過熱するSNSの書き込みに対する誹謗中傷だ。 ネット炎上という言葉が一般的になって久しいが、匿名性ゆえの舌に衣を着せない、読むに堪えない悪意の塊のような批判がその人の人生を狂わせることも珍しくなくなってきた。 本書でも2ちゃんねるを思わせるチルトン・レポートなるブログが数々のスレッドを立ち上げ、そこから不特定多数の人間が、ある人のご近所で起きた事件について自由気ままに語り、対象者を槍玉に挙げる。さらにそこから更なる中傷が生まれ、拡散していく。そんな騒動の渦中にいつの間にか担ぎ出された人は現実世界でも周囲から嫌がらせを受け、日々の生活に昏い翳を落とすようになる。 まさにネットが生んだ現代的なイジメだ。しかもその範囲が自分の居住圏という限られたコミュニティではなく、世界中に広がっていくのがこの上なく恐ろしい。 またディーヴァー作品に特有の薀蓄は今回も健在。特に『青き虚空』や『ソウル・コレクター』以来、ウェブ社会の現在を反映したような、電脳世界での犯罪を主題にしているが、今回もこの世界での新語について薀蓄が語られる。 ブログ日記を書く人々を“escribitionist”、ブログに書いたことがばれて会社を解雇されることを“dooce”、就職面接で以前の上司についてブログに書いたことがある云々を訊かれる事を“predoocing”と云ったりと様々だ。 しかし2009年に発表された本書で書かれたこれらの言葉が4年後の現代でも生きているかどうかは定かではないので使用については注意が必要なのだが。 また今回はさらに踏み込んでオンラインゲームの世界にもダンスは介入する。容疑者であるトラヴィスが現実の学校生活では冴えないオタクの青年だとみなされているが、ネットの世界、本作に登場するオンラインゲーム『ディメンション・クエスト』では神と呼ばれるほどの有名人であることが判明する。 昨今ではネトゲ廃人なる言語も生まれたように、日がな一日中ゲームの世界に浸って世俗との交流を絶つ者や、ウェブマネーを巡ってのトラブルなど、決してポジティヴに捉えられることのないオンラインゲームだが、ディーヴァーの筆致は決して否定的でなく、寧ろそういう世界の存在を認めている節がある。 しかしまさかゲームの登場人物の戦い方をキネシクスで判断して、性格を把握するとは思わなかったが。 このシリーズの前作『スリーピング・ドール』の感想に私は「物質のライム、精神のダンス」と2つのシリーズの特徴について述べたが、本書では図らずもそれを裏付ける記述があった。 ライムの鑑識能力は物証による推測であるが、ダンスのキネシクスは話す相手がいないと発揮できないのだ。ライムが人物よりも物証を最大に重視するのに対し、ダンスは人を、話す相手を最大に重視する。それぞれのシリーズの特徴が実によく表れている。 しかし前作でも思ったが“人間噓発見器”の異名を引っ提げて『ウォッチメイカー』で登場したダンスの前では誰もが嘘を付けないと思わされていたが、彼女のシリーズになるとなぜかその万能性が損なわれる。特に今回の事件の引き金となっているブログ、チルトン・レポートの主、ジェームズ・チルトンの前で説得を試みるも、逆に云いように操られて逆上するダンスがいて、思わず驚いてしまった。 特にこのシリーズではダンスの過去や生活に筆を割いており、それが逆にダンスを尋問の天才という偶像から、どこにでもいる再婚をどこかで願っている二児の母であることが強調されている。 つまりダンスも冷徹な人間ではなく、間違いもする人なのだということを再認識させてくれるのだ。 本書ではまたもう1つの事件が語られる。それは前作『スリーピング・ドール』の事件で殉職した刑事を安楽死させた容疑でダンスの母イーディが逮捕されるというものだ。この家族に起こった突然の災禍がロードサイド・クロス事件を追うキャサリンの人間性を揺るがす。 そう、今回のダンスはいつにも増して人間臭いのだ。マシーンのような敏腕ぶりを発揮するのではなく、素人にも見透かされ、切り返されるようなミスを犯す。 さらに未亡人である一人の女性として2人の男性に心を揺さぶられる。1人は長年仕事のパートナーとなってお互いを知り尽くしている保安官事務所刑事のマイケル・オニール、そしてもう1人は今回の事件をサポートするために捜査に協力することになったコンピューターの専門家であるカリフォルニア大学教授のジョン・ボーリング。 ダンスが女性であることが、2人の子供を抱えて働く女性であることが父親不在の不安に心惑わされて、それが捜査にも影響を与えていくようにもなる。 しかしライムが感情的になってさえも冷静な頭で数々の証拠物件から犯人を割り出すのに対し、ダンスは感情に突っ走るきらいがあり、それが時に冷静な判断を誤らせているのも確か。特に不意な一報に弱く、常に最悪のケースを想定し、心泡立たせて、焦燥感を駆り立てて、妙な先入観を抱いていらぬ心配をしたり、ヒステリックに怒鳴ったりする。 この辺のギャップに実に戸惑ってしまうのだ。 『ウォッチメイカー』の時の彼女とシリーズに登場する彼女にはその有能ぶりという面ではかなりの格差を感じる。シリーズではダンスは決して万能ではなく、キネシクスの専門家という看板を持ちながらも自身の振る舞いが相手に自分の感情を悟られないように自制しているわけでもなく、また妙な先入観で判断を鈍らせることも一度だけではない。その欠点を補うのが先述のオニールであり、TJやレイ・カラネオなのだ。 さてもはや専売特許ともなったどんでん返しだが、本書でもそれはあった。 最初にこの件を読んだ時は、どんでん返しを強烈にするためのあざとさを感じ、正直ガッカリしたが、読み進むにつれてその妥当性が理解でき、今ではまたもやディーヴァーにしてやられたという思いでいっぱいだ。 ディーヴァー作品の大黒柱的存在であるライムシリーズの犯罪が個人ではなく、もはや不特定多数を標的にしたテロ事件へと次第にスケールが大きくなっているのに対し、ダンスのこのシリーズはまだ2作目と云う事もあるせいか、1人の人間がある個人に対して行った犯罪と、限られた範囲での物語であることが同じ殺人事件を扱いながらも種類の異なる特色になるだろう。 恐らくダンスのシリーズも回を重ねるうちに殺人事件から無差別テロへ発展していくかもしれないが、そうであったとしても物証解析のライム、精神解析のダンスという区分けがある限り、その深みは増すに違いない。 さて今回はウェブ社会がもたらした誰もが情報発信者となり、評論家となり、またはご意見番となるこのご時世に起こる情報による冤罪や苛めについて手痛い警告が成されている。それは悪意をもって誹謗中傷し、騒動を煽るようなことをしてはならないという数億人のブロガーに対する警鐘であると同時に、個人の主観で語られるがゆえに記事を読む人々は決してそれを鵜呑みにせず、自分の頭で判断し、考えることが必要だということをも強く促している。 こうやって読んだ本の感想をウェブで挙げている我々も同じような過ちを犯さぬよう、感想を挙げる時は感情的にならずに、また他者の感想はあくまで参考程度に読むなど、気を付けていきたいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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上下巻合わせて1,600ページに亘って繰り広げられるあのテロの物語。重厚長大が売りの馳作品の中でもこれまでで最高の長さを誇る物語は新興宗教<真言の法>の栄華と狂乱を描く。
そんな物語は教団の№2の男が狂える教祖によって人生を狂わされる一部始終を、一介の、ただし凄腕である公安警察官児玉が<真言の法>を利用して警察権力の中枢へ迫っていく道のりを、そして高校を卒業してすぐに<真言の法>に入信した若者がある事件をきっかけに狂信者へ染まっていく、この3つの軸で進んでいく。 物語は3部で構成されている。 第一部は1989年にあった坂本弁護士一家殺害事件を想起させる教団を糾弾する弁護士一家殺害計画の一部始終、そして教祖の十文字源皇が選挙に立候補するまでが語られる。 第二部は欲望が肥大し、次第に制御が効かなくなる十文字を見限り、自分の保身を進める幸田と十文字との対立、そしてもはや狂気のテロ集団リーダーと化した十文字が太田を軸に武闘派集団を形成していく有様、そしてサリンが開発され、あの事件が発生するまでが語られる。 そして第三部はサリン撒布後の幸田、児玉、太田の末路までが語られる。 とこのようにこれはかつて世間を騒がせたオウム真理教の悪行を綴った小説の意匠を借りたノンフィクションと云ってもいいだろう。 その物語の語り手となる3人の男たち。 かつて有能な弁護士として鳴らしながらもある事件をきっかけに周囲からの総攻撃を食らい、十文字源皇と共謀して<真言の法>を創設し、教団お抱えの弁護士となりながら、私腹を肥やす№2に成り上がった幸田。 かつて中野学校を卒業した<サクラ>の一門であるノンキャリアの公安警察官児玉は警察上層部のくだらない出世競争の暗闘に巻き込まれ、その職を追われる。しかしそんなときにかつてのアカの弁護士としてマークしていた幸田を見つけ、<真言の法>が犯した殺人を目撃し、彼を金蔓に自分を嵌めた警察上層部とそれらと癒着している政治家と渡り合い、のし上がっていく。 幸田も児玉もそれぞれの組織でジョーカー、つまり周囲に疎まれながらも、その力が必要なために権威を持っているという立場であるが、2人の成り行きは異なっている。 幸田は組織で侍従長という№2の立場にありながら、教祖十文字との確執が広がり、次第に教団内での立場が危うくなっていくのに対し、児玉は警察の権力抗争の中で足切りを受けながらも、<真言の法>を金蔓にしてノンキャリアながら公安課の中枢部へとのし上がっていく。 どちらも大金を操っているのだが、その道行きは真逆なのだ。 幸田と児玉が<真言の法>をビジネスとして、そして自身の贅沢な生活を保つために利用しているのに対し、もう1つの物語の軸である太田慎平はいわゆる一人の社会不適合者が教祖を崇拝し、物事の道理から外れ、狂信者となってサイコパスへと至る話であるのが興味深い。あの事件を目の当たりにしていた我々にとって、何故胡散臭さしか感じない教祖に心酔して身も心も捧げたのかが常に疑問をしてあったが、太田慎平の話はそれを我々に解らせる1つのプロセスを示しているのだ。 そしてその太田は3つの軸の中で最も複雑なキャラクターだ。十文字の教義に入れ込み、十文字の言葉を信じながらも自分の手を血で濡らしていくことに苦悩し、それを好意を持っていた吉岡凛を喪うことで俗世への憎悪に変え、十文字の望むように行動する。しかしそれも児玉に全てを看破されていることを知らされるに当たり、今の過激な十文字の提案に反発し、幸田と組みながら十文字の出す殺人計画を阻止することを画策する。しかしそれもこれも教団を基の姿に戻すためだと信じ、十文字を裏切れないでいる。 狂信者になり、児玉によって蒙を開かれ、それでいて十文字を、<真言の法>を捨てきれない、そんなジレンマに惑わされる実に複雑なキャラクターだ。 しかしそんな3つの軸を担う三人はやがて一つの目的に向かって共闘する。教団を存続させるためにサリンによる大量虐殺を防ぐことだ。しかし目的は同じにしながらもそれぞれの思惑は違っている。 幸田は教団の金を自由に使える現在の地位を、生活を守るために。児玉は自分を嵌めた輩に復讐するため、その隠れ蓑として教団にお金を貢がせ、キャリアや政治家連中への自分の必要性を保つために。太田はかつて信じたグルと教団を取り戻すために。 それぞれがそれぞれの思惑を嘲笑し、罵倒し、唾棄しながらもサリン阻止へと向かっていく。 そんな3人の思惑を上回るのが教祖十文字源皇の力だ。絶大なるカリスマ性を誇る彼は幸田、太田、児玉らの仕掛けた阻止工作を都度乗り越え、その心を掌握していく。それは戦時下の特高警察が暗躍した日本、第二次大戦下のナチスが横行するドイツの縮図だ。 これがつい先ごろの平成の世に起きていたことに驚愕を覚える。 そしてやはり同時代を生きてきた私にとって、ここに書かれているオウム真理教に纏わる事件の数々がフラッシュバックして脳裏に甦り、いつもよりも臨場感を持って物語に没入できた。 この狂気のテロ集団の物語はあまりに有名になったオウム真理教がモデルになっているが、もしかしたら今ここでさえ、第2のオウム真理教が生まれている可能性がある。 この物語は一介の新興宗教がテロ集団になっていくプロセスを語ることで、我々にこのように人間は操作され洗脳されていくのだということを眼前に示し、警告を促しているようにも思えるのだ。 馳氏が本書を著した目的は<真言の法>という新興宗教団体を通じて一連のオウム真理教事件を緻密に描き出そうとしていることなのだが、少々解せないのは微妙に事実と異なる点があることだ。 特に物語の始まりが実在の呼称を避けつつも、実在の新興宗教、企業や当時の政治家のスキャンダルを擬えているだけに、後半の実際の事件との微妙なずれが作品の方向性をぶれさせてしまったようだ。 こんなことならいっそノンフィクションを書いた方が良かったような気がする。 これほど読書に費やした時間を浪費したと痛感させられたのは久々である。もっとコストと時間に見合ったパフォーマンスを作者は提供すべきである。全く以て残念だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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アル中の無免許探偵マット・スカダーシリーズ第2作。殺された娼婦と警官の悪行を検察官に売ろうとした悪徳警官のために警官たちの反感を買いながら真相を探る。
誰もが憎む相手の無実を証明しようと奮闘する探偵と云えば、最近ではドン・ウィンズロウの『紳士の黙約』が思い浮かぶ。しかし本書では同書よりも四面楚歌ではない。 ウィンズロウ作品では主人公の許を仲間が一旦離れ、しかも親友が敵となる絶妙な設定だったが、本書では嫌われているのは依頼者であり、主人公ではないため、それほど阻害されているような印象は受けない。 ただとにかくこの本を読むのが今の私には実にマッチしていた。色んな人に捜査を辞めるよう諭されながらも真実を知りたいという一心で妨害に抗い捜査を進めるマットの心情が今の私の心情に重なったのだ。周囲に理解されずとも己の信ずる道を歩むスカダーの姿に今の私を写したように感じた。 またマットが依頼人ブロードフィールドの妻ダイアナと逢瀬を重ねるのが実に興味深い。恋とか愛とかを期待することの無くなった男が一時の迷いから留置場に夫を入れられ、怯える女性にほだされてしまう。それはお互いが孤独を怖れたからだ。 マットは長い孤独に嫌気が差しており、ダイアナは子供を抱えてこれからどうすればいいのか不安に駆られている。そんな状況で生まれた恋情はしかしマットに余計な犠牲者を増やすという過ちを犯させてしまう。酒に溺れるだけでなく、今回は女に溺れることで有力な手がかりを持つであろう男を喪うマットはこのように有能でないからこそ、実存性をリアルに感じさせる。 さらにマットが娼婦エレインと今のような関係になった経緯についても語られている。 元警官が娼婦と懇意になる、このことは確かに悪意ある取引を連想させるが、この2人はそんな下世話な部分とはかけ離れた、純粋に人間同士の付き合いという美しさと潔さを感じていたが、やはりそうだった。 時に一人の客とその相手として、時にそれぞれ一人の男と女として、そして時に友人同士として協力し合う関係。彼ら2人の関係はことさらドラマチックな化学反応があったわけではないのだが、それが逆に私達読者が持つ人間関係の始まりと実に似通っていて、腑に落ちるのだった。 真相と真犯人は実に意外だ。というよりもこの真相を読者は当てることが出来ないのではないか。それほどそぐわないように感じた。 今回はこの素晴らしい邦題を褒めたい。この物語にはこの題名しかないとしか思えない絶妙な仕事だ。 原題は“In The Midst Of Death”、『死の真っただ中に』とでもなるだろうか。これが“Deaths”と複数形ならば今回出てくる3つの死人の中心にある物という意味になるのだろうが、恐らくはそれが正解なのだろう。しかしやはり本書では冒頭マットと出逢い、すぐに死んでいくポーシャ・カーが印象的だからだ。1章の最後でふとこぼれる台詞が非常に強く印象に残るからだ。そしてマットもまた冬を怖れる理由を探る。この実に詩的な謎が本書に深みをもたらしている。 短いながらもこんな風に大人の心の機微を考えさせられる作品だ。そしていまだに私は彼女が怖れた冬とは何だったのかと考えに耽っている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書の謎は2つ。
まずは犯罪方法としての物だ。それは衆人環視下における凶器のすり替えはいかにして成されたか? もう1つは催眠術下にある人物は殺人を教唆されたら術者の云う通りに実行するのかという物だ。 まずは後者の謎は本編を彩るガジェットとして使われている。催眠術といういかがわしい代物に懐疑的な人々はその存在をなかなか認めようとはしない。それでは百聞は一見にしかず(なおこれが本書の原題となっている)とばかりに実演してみせることになる。 その内容は催眠術で人に殺人を犯させることは可能かと云うかなり過激な物だ。現代ではそれは不可能とされているが、それと悟られないように指示することで殺人も自殺も可能とされている(宮部みゆきの『魔術はささやく』がそんな話だった)。 カーが巧みなのは、この前段に夫が浮気の末に若い娘を殺害したことを妻が知らされていることが冒頭で読者に知らされていることだ。果たして不貞を働いた夫を妻は許せるのかと云うバックグラウンドを盛り込んで、この催眠術による殺人教唆のスリルを盛り立てている。 その設定から一転、明らかに人を殺せない凶器がいつの間に本物にすり替わって、被験者が皆の目の前で殺人を犯してしまうというショッキングな謎にすり替わるのだ。この辺の謎から謎への移り変わりの巧みさはまさにカーならではだろう。 さて本書のメインとなるこの不可能犯罪、一室に集められた人々の目の前に置いてある凶器がすり替えられたという謎だが、殺人の目撃者が一様に凶器が目の前にあり、誰もそれに触れた者はいないと証言しているとさらに不可能性を強化させていく。そんな実にシンプルかつ難しい謎にどんなトリックがあるのかと実に興味深く読んだ。 そして本書の原題“Seeing Is Believing”は邦訳では前述のとおり、「百聞は一見にしかず」という意味だが、本来ならば最後に“?”が付くことが本書における意味を最も示しているように思う。 見ていることが必ずしも真実ではないのだと、カーは本書に仕掛けられたミスディレクションの数々で示しているように思えてならない。 さてこのシリーズではいつもH・M卿の奇妙な振る舞いがアクセントとしてユーモアを醸し出しているが、本書では口述による自叙伝の内容が実に面白かった。いつもながらH・M卿のドタバタぶりには笑わせてもらえるが、本書も幼年時代の破天荒ぶりには心底笑わせてもらった。 H・M卿を描くカーの筆はいつも躍動感があって実に楽しい。 こんなに楽しい名探偵が活躍する作品群が、そしてこんな本格ミステリの巨匠の作品が数多く絶版だった状況は非常に好ましくない。 カー作品を後世に伝えるためにも今後の永続的な新訳・復刊を望みたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は一種変わったクライム小説だ。救急救命士という真っ当な職業に就く人物が主人公であると変化球を見せれば、新宿に蔓延る中国マフィア連中によって翻弄されるいつものパターンもある。そして最後には都知事爆破を企むというクライムノヴェルの様相を呈していく。
しかし根っこにあるのは家族を喪った心に獣を飼う男と貧しくも逞しく生きる、東京に親を剥奪された子供達との適わなかった幸せだ。 この救急救命士の織田と云う主人公は暗黒小説の雄である馳氏の作品とは思えないほど、クリーンだ。昔消防士だった頃に地下鉄サリン事件で妻と子を亡くしたという苦い過去を持つ男だ。 彼は今までの馳作品の主人公のようにドス黒い憎悪の塊や業深き欲望のような負の要素を持たない男でもある。未成年で、しかも日本国籍のないファッションヘルスで働く儚げな美少女笑加を前にしても性的欲求が頭をもたげずに通常通り振舞う。 こんな普通な主人公は初めてではないだろうか? しかしそこは馳氏。作風転換と見せかけてやはり織田は他の馳作品のようにドス黒い感情を孕んだ人物であることが明かされる。 地下鉄サリン事件を契機に日常がいかに危ういバランスの上で成り立っているかを思い知り、疑心暗鬼に陥り、自分の身を守るために武器をまとうようになった。 殺る前に殺る。心に獣を飼いながらそれを押し隠して救命士の職を務めていたが、笑加たちとの出逢いで彼らの不遇とこの世の理不尽さに、鎖で繋いでいた獣を解き放とうとする経過が刻々と語られる。 とはいえ、この織田の情念は今までの主人公たちに比べれば常識人でもあり、我々一般人が一種理解し難い狂気ではないことが特徴的だ。 云いたいことが云えない世の中で誰もが抱えるストレスに近い物を感じ、織田がいつキレるのかを待ち受ける読者はどこか自分を重ねて見ることが出来るようなキャラクターのように思える。 その証拠に織田は道を踏み外そうと決意し、中国人の暗黒街のボス李威の下で犯罪に手を染める手助けをさせられるが、自分がどんな犯罪に加担しているのか知ろうとし、また李威によって利用され食い物にされる人々と接するごとに罪悪感に苛まれる。なかなか悪の道に踏み入ることが出来ない善人なのだ。 これも馳作品では異色のキャラクターと云えよう。 特に織田の人生が破綻していく動機が他者のためであるのが特徴的だ。 今までの馳作品の主人公は己のエゴや黒い欲望のために他人を出し抜き、一攫千金を夢見て、のし上がる、もしくは理想の楽園へ逃れようと実に利己的な動機だったのに対し、織田は親を祖国へ強制送還され、自分たちだけの力で生きていかざるをえなかった明たち不法就労者の残留児たちの生活を守るために、悪事に手を染め、安定した救急救命士という職を擲ち、窮地に陥っていくのだ。 彼が求めたのはかつて持っていた家庭と云う温もりと長きに亘った孤独への別離。明や笑加を筆頭にしたたかにも逞しく生きる子供らとの生活が長く続くことを願ってやまなかったことだ。 従って本書ではそれら壊れやすい貴重な宝石のような物が次第に失われていくような儚さがある。危ういバランスの上で成り立っていた疑似家族と云う幸せという薄氷、その象徴が再生不良性貧血という重病で弱っていく笑加の存在だ。 たった15歳で風俗に身を落とし、生活費の大半を稼いで彼らを養っている母親役の少女。しかしそんな気丈なところがあるようには思えないほどその存在感は儚げなのだ。 彼女の容態の推移が本書の抗えずに向かう悲劇へのカウントダウンとなっている。 さらに文体もまたかつての馳作品とは全く違う。抑制の効いた文章で新宿界隈の忌まわしい事件を語る。その抑えた筆致が逆に新宿の荒廃感を醸し出している。 そこにはラップのようなリズムもなく、刻むような体言止めも存在しない。淡々と事実を、風景を、織田の心情を語る文章があるだけだ。 そしてさらには呪詛の羅列のような唾棄すべき内容の文章だったのが、ここでは織田と笑加、明たち少年たちの交流を瑞々しく描いている点だ。 彼らは生き抜くために犯罪に手を染め、大人を出し抜き、更には自分たちの不遇を呪って都庁爆破と云うテロを企てているという、いわばとんでもないアウトローの集団なのだが、実の素顔は日々不安を抱えて生きている少年少女であり、それが子供と妻を地下鉄サリン事件で亡くした織田にとっては何物にも代えがたい宝石となっているのだ。 その心温まる交流が随所に挿入され、テロを計画するという陰謀とは裏腹に家族愛を感じさせるのが皮肉だ。 まさにこれは馳流大家族ドラマとも云えよう。 そしてその家族愛と双璧を成すのが新宿都庁爆破と云うテロ計画だ。 本書では新宿都庁のセキュリティの甘さが衝撃的に描かれている。展望室へ至るエレヴェーターが実は全ての階に停まり、容易に各階へ侵入できることが書かれている。そしてこれが地下鉄サリン事件を経験し、アメリカの9・11を目の当たりにした国の中枢のセキュリティなのかと警告を発している。 私が件の場所を訪れたのは2011年だったが、その時は本書のような状態ではなく、エレヴェーターにはきちんと案内人が乗っていたように記憶しているが、もしかしたら本書がきっかけで改善されたのかもしれない。 つまり本書は日本のセキュリティの甘さを痛烈に批判する警告の書という側面もあるのだ。 また地下鉄サリン事件という未曽有の都市型テロで家族を喪った織田が、明たちと共に都庁爆破と云うテロに手を染めていくとはなんと皮肉なことだろうか。 テロの仇はテロで返す、そんな不毛な原理主義が実に虚しく響く。 これは家族を守ろうとする一人の男の愛の強さを描いた物語だ。しかし馳氏の手に掛るとその愛の強さはテロをも生むのだ。安定した生活を擲って家族のために犯罪に手を染めていく不器用で愚直な織田に、どこか昭和の男の香りを感じてしまった。 |
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かつて書評家諸氏より涙なくしては読めないと云われた冒険小説の傑作が本書。アリステア・マクリーンの代表作にしてデビュー作でもある。
ここにあるのは極限状態に置かれた人々の群像劇。筆舌に尽くしがたいほどの自然の猛威と狡猾なまでに船団を削り取るドイツ軍のUボートとの戦いもさながら、それによって苦渋の決断を迫られる人々の人間ドラマの集積なのだ。 総勢25名にも上る登場人物一覧表の面々についてマクリーンはそれぞれにドラマを持たせ、性格付けをしている。 故郷で待つ家族を爆撃で喪った上に、同じユリシーズ号で従業員として働いていた弟を喪った者。 社会の低層部でケチな犯罪者として生きてきた過去があり、艦長に叛乱を企てようとする不満分子。 自分の力不足に気付かず、そのプライドの高さと逸る功名心ゆえに部下の命よりも手柄を立てることを至上として部下の反感を買い、任務後に審問を掛けられ、降格を余儀なくされた者。 自分のミスで艦体のみならず乗組員を多数死なせて自責の念から自殺する者。 死と隣り合わせの場所でもはや正常な心を保つことさえ困難になり、ロボットのように索敵のために海をひたすら凝視する者。 自分の職責の重圧に耐えきれず、任務半ばで自我を喪失する者。 それら数多く語られる各登場人物の痛切なエピソードの中でとりわけ強烈な印象を残すのは一介の水雷兵ラルストンだ。 先の任務でユリシーズ号に同乗していた弟を亡くし、更には故郷に遺した母親と妹を空襲で亡くし、唯一残された父親を、自らの手で葬ることになる男。物語半ば過ぎで訪れる輸送船団の1つヴァイチュラ号の撃墜を躊躇う理由が明かされた時の衝撃は今まで読書歴の中でも胸にずっしりと圧し掛かるほど重いものだった。 また彼らの敵は当時最強と云われたUボートを率いるドイツ軍だけではない。それは自然だ。 北極海を航行する戦艦にとってその極寒の環境は生きることさえ困難であると云わざるを得ないほど過酷を極めている。 いつの間にか甲板に降り積もる氷。それは乗組員の足元を滑らせるだけでなく、戦艦たちに多大なる重量を与え、艦体にきしみを与え、航行のバランスをも崩す。除去しても除去しても上からのみならず、下方から乗り上げてくる荒波もまた氷の素となるため、乗組員は勝ち目のないレースを強いられる。 さらに風の驚異も凄まじい。氷点下の温度で空気中の水分が凍りついた海上では風は乗組員の肌を切り裂く刃と化す。そして強風は大波を起こさせ、右へ左へ薙ぎ倒すかのように揺さぶり、強固な鉄皮を軋ませ、疲労させる。もちろん中にいる人々は我々の想像を超えた船酔いの餌食となるのだ。 そんな苦難を乗り越えた乗組員を襲うのはドイツ軍の猛襲だ。コンドルという戦闘機が昼夜の境なく空爆を行い、船団はその勢力を削られていく。ユリシーズもさらに深手を負い、その船体に敵機をめり込ませた状態で航行を続ける。 そして彼らの一縷の望みを絶望に変えるのが無敵と呼ばれた当時世界最強の戦艦ティルピッツの影だ。この容赦なき敵の出陣の情報にもしかし、英国軍は援軍を送らない。 そんな四面楚歌状態で作者はユリシーズ号の属するFR77船団をどんどん過酷な状況に追い込んでいく。 とにかく過酷な状況の連続だ。 疲労困憊、満身創痍の船員たちに対し作者は徹底的なまでに嬲るかのように苦難を与える。そして惨たらしいまでの精緻極まる描写が拍車を掛ける。特に200ページ目前後で実に6ページに亘って描写される爆撃によって撃沈した空母から、流出し引火した油の混じる海へ投げ出された船員たちの死に様の凄惨さは、なんとも云いようがない苛烈さに富み、絶句するのみであった。 そして満身創痍なのは船員たちのみではない。巡洋艦ユリシーズ号もまた度重なる極寒の地の風雪に曝され、また相次ぐドイツ軍の急襲に遭い、その姿を変形させていく。 艦の姿が朽ちていくたびにまた船員たちも1人また1人と命を失くし、また五体満足ではなくなっていく。ユリシーズ号の姿はそれを操る乗組員たちの姿のメタファーとも云える。 そしてもはや航行すら危うい姿になりながらもユリシーズ号は任務を遂行せんと突き進む。出発時から既に病に侵された身でありながら任務に向かうヴァレリー船長はすなわちユリシーズ号そのものと云っていいだろう。手負いの虎の如く、最終目的地ムルマンスクに向け、突き進む。さながらそれは自分の相応しい死に場所である墓場に向かう巨象のようだ。 正直このような物語の結末は開巻した時から読者にはもう解っているようなものである。とりわけ精緻を極めた実に印象的なイラストが施された表紙画が饒舌に先行きを物語っている。しかしその来たるべき結末に至るまでの道行きが実に読み応えがあるのだ。 例えば本書に使われている単語には技術者の専門用語が多用されているのが特徴的なのだが、このマクリーン自身が巡洋艦にて勤務した経験の裏付けによるものだ。 更に過去の英国艦隊に纏わるエピソードと事実を交えることで、ユリシーズ号が、FR77艦隊がいかに不遇な状況であったのかを如実に知らせてくれる。 しかしそれらにも増して魅力的だったのはユリシーズ号、その他FR77船団の面々が見事に活写されていることだ。 上述のように極上の群像劇を実現した作者の経験に裏打ちされた乗組員の描写や性格付けは実に忘れがたい印象を残す。730名が住まうユリシーズ号という小社会にいるのは老いも若きも皆むくつけき船乗りたちであるが、その性格は十人十色。そのことについては既に上に書いているので重複を避けるが、特段煽情的な筆致でもないのにやたらと印象に残る輩が多く、彼らが1人また1人と去りゆくにつれて目頭が熱くなるのを抑えられなかった。 涙が無しでは読めぬとまではいかないまでも目頭は熱くなるであろう本書は確かに傑作であった。 海洋冒険物だから、戦争物だからと苦手意識で本書を手に取らないのではなく、昔の男どもの生き様と死に様を存分に描いたこの物語にぜひ触れてみてほしい。 |
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19世紀末から20世紀初頭にかけて一世を風靡した二大奇術師の対決の物語。
しかしそこはプリースト、単純な話にはならず、得体のしれない双子の存在が物語の物陰から見え隠れする。それはまたプリースト特有の、自身の存在、そして住まう世界が揺らぐ感覚でもある。 今回は死んだと思われていた子供が成人して生きていた。さらには世界のどこかにまだ見ぬ双子の兄弟がいるという感覚に付き纏われるという、どこが地に足がつかない感覚が物語を包み込む。 更には稀代の奇術師たちが挑んだ瞬間移動奇術の謎とその因縁が主人公たち2人の男女の現在に纏わるという重層的な構造を持っている。 しかし物語の大半を占めるのはこの2人の奇術師アルフレッド・ボーデンが生前遺した自伝とルパート・エンジャの日記という手記だ。その中心にあるのはそれぞれが発案した瞬間移動奇術の正体だ。 アルフレッドの「新・瞬間移動」は完璧な奇術であり、まずはルパートがその謎を探るべく、彼の許に自分の愛する女性を助手として送り込む。しかしアルフレッド側に寝返った助手の女性から偽の情報を渡されたルパートはそこに書かれたアメリカの発明家ニコラ・テスラの許を訪れ、アルフレッドから全く違う方法で瞬間移動奇術「閃光の中で」を編み出す。 ここからがファンタジーの領域になっていく。 そしてそこから物語は双子、いや二通りのもう一人の自分の存在について語られる。 瞬間移動奇術の謎を解く話がいつの間にか一人の人物の存在というものへの疑問へと変わっていく。 瞬間移動奇術を通じてアルフレッド・ボーデン、ルパート・エンジャという名前を持つ存在は一人の男だけの物なのかを問う物語、というのは大袈裟な表現だろうか。 さらに物語は混迷を極めていく。それはプリースト独特の語り口故に。 語り手は「わたし」という一人称叙述に変わり、これがどの「わたし」を指しているのか解らなくなってくる。さらにはこの「わたし」は自分の死を語り、生者なのか死者なのかも不透明になっていく。 ここで思うのは名前という物の重要性だ。しかし名前という確定要素さえもプリーストにかかれば存在意義を揺るがすものとして扱う。 貴方の名前は誰の物?本当に貴方だけの物だろうか? 貴方の名前を名乗って貴方の人生を生きる存在がいる、などという人は皆無に等しいだろうが、同姓同名の人と出逢って、妙な違和感を抱いた経験がある人はいるだろう。その時に感じる自分の名前を横取りされたような感覚。本書のテーマはその違和感が肥大した物なのかもしれない。 なぜこのように感じるのか? それは2人の奇術師の手記で構成された内容でさえ、作中の登場人物によって改竄させられたものだからだ。 そして驚愕の真相が明かされるのは最終章。 正直この真相は分かりにくい。なぜなら上に書いたようにこの顛末を語るのは誰なのか解らない「わたし」だからだ。 この私はルパートなのか、それともアンドルーなのか最後まで解らないからだ。 プリーストの、存在という基盤が揺らぐ書き方はさらに曖昧になってきている。読者もその理解力を試される作家だと云えよう。 二度目に読むとき、違和感を覚えた記述の意味が解る、二度愉しめる作品の書き手でもある。 しかしこれほど頭を揺さぶられる読書も久しぶりだ。次は読みやすい本でも手にしよう。 後日、本書を原作にした映画『プレステージ』を観たが、複雑なストーリーが換骨奪胎されており、実に解りやすく、かつ傑作だった。本書の場合は最初に映画を観てから読むことをお勧めする。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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傑作『白夜行』の続編と呼ばれている作品。
本書の主人公の1人新海美冬は東京のブティックで働いていた過去を持つ女。この新海美冬が唐沢雪穂であることを仄めかす描写が本書では見え隠れしている。 例えば以前ブティックに勤めていたこと、自分の人生のためには殺人を犯してまでも邪魔者を排除する強い意志、昼間の道を歩くのではなく、夜の道を行けという台詞、美冬が経営する会社の名前「BLUE SNOW」、そして新海美冬とは全く別の人物がいたこと、以前経営していたブティックの名前が「ホワイトナイト」だったこと、などなど。 そしてもう1人の主人公水原雅也は二代目桐原亮司という役割だ。叔父殺しという犯行を美冬に見られた雅也はしかし美冬に脅迫されるまでもなく、美冬の人生を成功させるために影となって働く。 物語は1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災を皮切りに同年3月20日の地下鉄サリン事件、長野オリンピック、2000年問題と世を騒がせた事件を背景に語られる。 『白夜行』が昭和史を間接的に語った2人の男女の犯罪叙事詩ならば『幻夜』は平成の新世紀を迎えるまでの事件史を背景にした犯罪叙事詩と云えよう。 ただそういう意味では本書は『白夜行』の反復だとも云える。史実を交え、2人の男女の犯罪履歴書のような作りは本書でも踏襲されている。違うのは『白夜行』では亮司と雪穂の直接的なやり取りが皆無だったのに対し、本書では雅也と美冬との交流が描かれることだ。 さらに『白夜行』では雪穂と亮司は絆よりも太い結びつき、魂の緒とでも呼ぼうか、そんな鉄の繋がりで人生を共にしていたのに対し、雅也と美冬の関係はちょっと色合いが違う。 雅也は平凡な生活を夢見ているが、殺人を犯した瞬間を見られた美冬という呪縛に運命を握られ、それに抗えずに魂をすり減らす人生を送っている。 つまり美冬は雅也を使役し、雅也は彼女の従者なのだ。 それが故に雅也は美冬に対して絶対的な信頼を置いていない。美冬に惹かれながら、平凡な生活を夢見ている男だ。そして美冬が自分の人生を変えるため、上のステージに上るために雅也を踏み台にし、殺人まで犯させたことに気付くにあたり、雅也は美冬に復讐を誓う。 ここに『白夜行』との違いがある。『白夜行』では男女2人の共生の物語であったのに対し、本書は女王と奴隷の関係にあった男が女王に背反する物語なのだ。 雪穂、すなわち美冬は以前と同じようにまた彼女の前に立ち塞がろうとする女性どもを排除するために男どもを利用するのに同じ方法を用いたが、それは水原雅也と云う男には通用しなかった。 全ての男が美冬の魔性の魅力に騙されるわけではなく、悪はやはり滅びるということを示した作品なのではないか。 結末を読むまで私は上のように考えていた。 本書のタイトル『幻夜』とはすなわち“幻の夜”のこと。それは震災に見舞われ、着の身着のままで雅也と美冬が出逢った夜の事を指す。 あの時雅也は自分の殺人を見られた美冬とはもう逃れられない強い結びつきを感じて、美冬に全てを捧げる決意をしたが、本物の美冬は別人だと知らされ、あの時の夜が幻に過ぎなかった思いに駆られる。 しかしそれでも雅也は美冬を守ろうと決意を新たにする。理屈では割り切れない感情がそこにはある。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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スキャンダル専門のカメラマン、いわゆるパパラッチの栃尾を主人公にした連作短編集。
最初の「DRIVE UP」では落ち目の女性タレント古谷とすでに忘れられたアイドル歌手佐竹が神妙な面持ちで多国籍料理店で話しているというネタを手にする。 まずは軽いジャブと云った作品。この連作の設定である金貸しの吉井とパパラッチの栃尾の主従関係が形成される導入部的作品。 以後、物語は吉井が取り立てに応じない厄介な客の弱みを掴むために栃尾を利用するという構成が続く。 「DRIVE OUT」では政治の大物重久洋一の孫娘岡本洋子を、「POLICE ON MY BACK」では新宿署の悪徳警官の浅田正次が、「GOING UNDERGROUND」では亡くなった銀行の支店長森脇誠から、。「PRIVATE HELL」では政財界の大物たちが顧客の占い師遠藤和江から借金を取り返すために秘密を探り、そして最後の「SHOULD I STAY OR SHOULD I GO?」では吉井秀人から逃れるために彼の秘密を探る。 吉井の依頼を通じて栃尾が探るこれら顧客の秘密は週刊誌記事で高額で取引される淫靡なスキャンダルの数々だ。 そして標的も落ち目の芸能人と忘れられたアイドル歌手や大物政治家、暴力団を食い物にする悪徳警官、ホモの銀行支店長に、少女買春をする政財界の大物と次第にスケールが大きくなっていく。 判明する事実も行き場の無くなった芸能人たちの醜い争いだったり、近親相姦、ホモのまぐわい、少女買春、更には親殺しと見るも聞くもおぞましい醜悪の極みだ。 また各編の題名は最初の2編以外は主人公栃尾が愛聴するバンドの曲名から取られている。 「POLICE ON MY BACK」はザ・クラッシュの、「GOING UNDERGROUND」はポール・ウェラーの、「PRIVATE HELL」はザ・ジャムの、最後の「SHOULD I STAY OR SHOULD I GO?」は再びザ・クラッシュの曲から取られている。 それらが物語のBGMとしてグルーヴ感を高めている。いや各編に挿入される“Driiiive!”というマンガ的効果音のような単語が物語をシフトチェンジさせ、栃尾の狂気を、出歯亀根性を加速させる。 いや、寧ろ馳氏は物語にロックの持つ躍動感とパンクの放つ破壊的欲望や煽情性を織り込むために積極的に取り込んだのだろう(ただ本書のどこにも著作権使用の断りがないのが気になるが)。 そして面白いのは栃尾がエクスタシーに達するが如く、その覗き見趣味の好奇心が増せば増すほど、吉井への憎悪が募れば募るほど、“Driiiive!”の“i”の数が増えていく。第1編目では4つだったのに対し、2~4編目は6つに、5、6編目は7つに増えていく。 “i”はすなわち“I”、つまり「私」だ。この“i”の数が主人公栃尾の自我が覚醒し、増大するエゴのバロメータを表しているようだ。 本書の中心人物は3人。 スキャンダルこそが自分にエクスタシーをもたらすという覗き見ジャンキーのパパラッチ栃尾と金を取り返すためには他人をとことん利用し、人生を破滅させることも厭わない冷血漢吉井。 この2人は『不夜城』シリーズの主人公劉健一を二分したようなキャラクター造形である。 劉健一は『不夜城』では台湾マフィアのボス楊偉民に云いようにこき使われていたしがない故買屋だったが、その後の『鎮魂歌』、『長恨歌』では影の存在となって人を使い、翻弄する。これはまさに栃尾であり、吉井でもあるのだ。 そしてそこに加わるのが高木舞。3話目の「POLICE ON MY BACK」の標的となる悪徳警官の浅田正次の娘だ。彼女はなんと浅田が親子ドンブリをするために育てられた美少女で、父親に処女を奪われる前に栃尾に体を捧げ、それ以降栃尾の情婦となって付き纏う淫乱女子高生だ。 このように吉井の借金取り立ての相手となる者たちもまともでなければ、主人公たちもとち狂って壊れている。 そんな彼らの関係は近親憎悪とでも云おうか。お互いが忌み嫌っているのに、なくてはならない存在となって依存している。特に吉井と栃尾は先に述べたように劉健一を二分したかのようなキャラクターゆえにお互いが貶めようとしているのに最後はさらに関係は深まって手を組むのだ。 そして彼らは再び秘密を探るため、ポルシェで夜を疾走する。 しかし本書の時代はバブル全盛期。崩壊後の彼らは一体どうなったのか? なんだかんだでこの今でもしたたかに生きているに違いない。 |
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『野蛮なやつら』が還ってきた!
前作で華々しい最期を遂げた彼らの続編はその事件の前日譚。流石に前作に見られたあの鬼気迫る短文と固有名詞の乱れうちのような文体は鳴りを潜めているが、それでも彼ら3人を語るオフビートテイストな、ちょっと特異な文章と短い章で刻んでいくストーリー運びは健在。ちなみに第1章が一行で始まるのもまた同じだ。 その第1章が前作では「ざけんな!」であったのに対し、今回が「あたしとしてよ」だったのには思わずニヤリとしてしまった。 日本語では解らないが、これは前作が“Fuck you!”であり、今回が“Fuck me.”と対語になっているのだ。もうこの1章から一気に彼らの世界に引き戻されてしまった。 今回は二つの軸で物語が展開する。1つは現代の(物語の世界では2005年)ベンとチョンとOの物語が、もう1つは1967年、フラワー・ムーヴメント華やかな時代でのサーファー、ドクが相棒のジョン・マカリスターと共にスタンとダイアン夫妻を交えラグーナに後に“連合”と呼ばれることになる一大麻薬コネクションを作っていくオフビートなビルドゥングス・ロマンが繰り広げられる。 この2つの時代を行き来する物語の仕掛けが解ってくるのは物語の半ばを過ぎてから。ドク、ジョン・マカリスター、スタンとダイアン夫妻、そしてトレーラー生活からその類稀なる美貌でのし上がってきたキムたちが実はベンとチョンとOに密接に関わってくるのが見えてくる。 いわゆる一般市場では市場競争が原則であり、他社の製品よりもシェアを拡大するために品質の追及を行うのが通常だが、麻薬市場は自分たちのシェアを拡大するために常に裏切りと買収、そして自分の地位を脅かす者の排除と非常にネガティヴだ。 これが麻薬が非合法の品物であることに起因しているのならば、オランダのように合法化すればこのような警察と麻薬カルテルとの永遠のイタチごっこは、同業者たちの殺戮の連鎖はもしかしたら終わるのかもしれない。 さてウィンズロウ読者には嬉しいサーヴィスが。 なんとボビーZとフランキー・マシーンが客演するのだ。ボビーZはまだ伝説を作る前の姿でドクの“連合”の一員として、フランキーはドクが組もうとしたメキシコ・マフィアの用心棒として、そしてジョンにドクを殺す方法を教える教師として。 しかし最近のウィンズロウは麻薬をテーマにした作品が多い。しかもそれらは常に血みどろの惨劇になる。また麻薬は関係ないかと思われた作品でも麻薬が絡むことで昏い翳を落とす。『犬の力』を構想中に得た麻薬業界の知識と麻薬捜査の現状の虚しさが作者に怒りを与え、もはやライフワークの感がある。 ファンの1人としてはあまり麻薬に固執せずに物語のアクセントとしてこれからも面白い物語を紡いでほしいと願うのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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シリーズ10作目にしてなお衰えず。
いや巻を出すたびに変わる警察機構と高まる犯罪の複雑さと巧妙さを物語に巧みに織り込み、その情報量とリアリティで他の警察小説と一線を画すステータスを保ち続けている。 警察に復讐を企む正体不明の大男の出現と云うインパクト強烈な導入部から復讐者と鮫島との手に汗握る攻防戦を予想させたが、多様化する日本、特にその中心都市である東京の人種の混在が著しい新宿の犯罪の国際化が否応にもストーリーを複雑化させていく。 銃を求める男が20年以上も刑務所の中にいたことで銃を手に入れるのでさえ、様々な利害関係が絡んだ暴力団と中国系犯罪グループが絡み合い、死屍累々の山を築いていくことになる。 正体不明の大男こと樫原茂の人物像はレイモンド・チャンドラーの『さらば愛しい女よ』の大鹿マロイを想起する読者も多いだろう。斯くいう私もそうだった。登場シーンもいきなり出てきて話しかけるところといい、恐らく作者も意識をして造形したのではないだろうか。 但しチャンドラーがマーロウとマロイを物語の冒頭で邂逅させたのに対し、大沢氏は鮫島が樫原の正体に行き着くまでにかなり筆を費やし、簡単には対決させず、逆に樫原の起こした事件の痕跡を追わせて最後に樫原を邂逅させることで樫原の凶暴性を伝聞的に記述することで、まだ見ぬ大男の恐ろしさを描くことに成功している。 またマロイと樫原が不器用なまでに自分の感情と信念に率直で、瞬間湯沸かし器のように暴力に及ぶのは一緒だが、マロイが女性に女々しいほどに愛情深いのに対し、樫原が家族に注ぐ愛は実にストイックだ。誰にも揺るがせることのない鋼の背骨がある。 私は前作を読んだ時にシリーズ10作目となる次回作がシリーズの最終作となるのではないかと予想したが、それを裏付けるかの如く作中にはそれまでのシリーズを回想するかのごとく、それまでのシリーズで語られたエピソードや事件、鮫島の前から消えた人々の事が触れられる。 新宿鮫も8巻の『風化水脈』を境にレギュラーメンバーが次々と退場していく。真壁に仙田、そして彼らとは違う形で鮫島のライヴァルだった香田もいなくなった。 その流れに倣うかのように本書でもまた新たな別れが語られる。 前作まで積み上がってきた新宿鮫の世界を彩るバイプレイヤーは本書にて一掃されたと云っていいだろう。 しかし最後に鮫島の前に残ったのは警察機構の爆弾として周囲から疎まれたジョーカーだった鮫島の後押しをする仲間たちだった。 そして前作『狼花』同様に最後に残ったのが物語のキーとなる中国人だったというのは今後のシリーズのある種の予兆なのかもしれない。 次作からはまさに新生“新宿鮫”の幕明けとなるだろう。作者の飽くなきチャレンジ精神に敬意を表し、これからも応援していきたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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SF作家の雄クリストファー・プリーストによる本書はハヤカワ文庫FT、つまりファンタジー小説を扱った叢書から刊行された記憶喪失の男を主人公にした物語。
しかしその内容はファンタジーとは程遠く、爆弾テロに巻き込まれたショックで記憶を喪った男が元恋人の来訪を機に記憶を取り戻す努力をしていく物語が綴られる。 本書の原題は“The Glamour”、本書の中で“魅する力”と称されている力を指している。 この物語の2/5辺りで唐突に出てくる言葉の正体はなかなか読者には理解できない。主人公リチャードの恋人スーだけがその力を理解している。 その力とはすなわち不可視人であるという魔法だ。知らず知らずに雲のようなオーラに包まれ、そこにいるのに周囲の人物に気付かれない特性、それが“魅する力”なのだ。そんな彼らの住む世界を彼らは一種の皮肉を込めて“魅力ある世界(グラマラス)”と呼ぶ。 スーザンはその世界でナイオールと云う強烈な不可視の力を持った男と知り合い、同棲することになる。最初は個性的な彼との生活が刺激的だったスーザンだったが、次第に魅力を感じなくなってき、またナイオールの身勝手さが鼻につくようになる。 そんな世界から脱却したがっているスーザンが出逢った男がリチャードだったのだ。彼の特殊な“魅する力”が不可視人の自分を可視の世界へ連れ戻してくれるのだ。 さてこの“魅する力”の正体だが、誰もが気付くことがあるのではないか。即ちクラスや会社の中でも妙に存在感の薄い人がいるが、その存在感の無さこそが“魅する力”なのだろう。 存在感が薄いことは世の中ではネガティヴな意味に捉えられるが、本書では逆にそれこそが万能の力であり、実に魅力的な力なのだとされている。 確かに誰にも気づかれずに他人の家に住むことも出来れば交通機関も無料で利用でき、映画館で無料で観ることも出来るのだ。そして他人に見えないが、いつ気付かれるかというスリルさえも味わえるのだ。 つまり本書では目で見えていることが真実ではないということを訴えているようだ。それは現在の脳科学の分野でも脳が都合の良い物を選択して見せており、あらかじめ像を予想して見せているとまで云われている。 特に350ページ辺りで不可視人の仕組みを脳の認識に関する考察を交えて語る件は非常に面白く読んだ。つまり人は見ているようで見ていない。これは乱歩が好きだった言葉“うつし世はゆめ よるの夢こそまこと”そのものである。 しかし本書をジャンル分けするならば、恋愛小説となろうか。特に記憶を失くした主人公リチャード・グレイが元恋人スーザン・キューリーと出逢ったフランス旅行でのロマンスが語られる第三部の眩しさと切なさと云ったら…。 旅と云う非日常的なシチュエーションで将来一緒に添い遂げるであろう女性と出遭うという素晴らしさ。2人の旅路はただの旅行よりもきらびやかに映ったことだろう。 しかしスーザンの旅は恋人に会いに行くための物。そしてスーザンはリチャードとの新しい恋のためにその男に訣別を告げに行くのだった。 それ以降のグレイの独り旅とはまさにその名の通り、灰色だ。適度に名所に行きながら適度に女性と出遭い、一夜限りの関係を愉しむが、その後に訪れるのはスーザンがいないことの寂しさ。旅をするごとに彼女がいない喪失感が募る。淡々と語られるだけにその思いはひとしおだ。 本書を含め、プリーストの物語は落ち着くべきところに落ち着かず、明かされるべき謎がさらに謎として深まっていくばかりだ。 本書では結局どの記憶が正しかったのかが解らなくなってしまう。つまり我々が立っている世界がいかに不安定なのかを思い知らされるのだ。 答えを知りたいという読者にはこれほど向かない作家はいないだろう。正直私自身またもや放り出されたままの結末にどうしたらよいのかいまだに解らないのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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名アンソロジスト、クイーンの選出眼が光る名短編集第2弾。
まずその口火を切るのはバーバラ・オウエンズの「軒の下の雲」だ。 アリス・ホワイトウッドという女性の日記形式で語られるのは彼女が32歳にして職を得て、一人暮らしを始める顛末だ。しかしその細切れの文体はとても32歳の女性の物とは思えず、次第に彼女は自分が間借りする家の軒下に雲が発生しているのを目にする。そしてその雲は非常に心地よく、次第に彼女に何か煩わしいことが起きると雲が包み込んで紛らわせてくれるようになった。やがて新鮮な面持ちで始まった新生活も次第に暗雲が垂れ込めてくる。 恐らくは精神異常者による手記という形の本作。父親殺しを犯した娘が精神疾患で罪を免れ、リハビリによって社会復帰したところ、彼女は全治していなく、やがて周囲と不協和音を奏でていく。当時としては斬新なミステリだったのだろう。 トマス・ウォルシュによる「いけにえの山羊」は冤罪を仕掛ける男女の物語。 匿名の男女の犯罪計画から一転してホテルに勤め出した貧しい青年に物語はシフトし、やがて彼がなぜか周囲に疎まれ、犯罪者としての汚名を着せられる。その犯罪を計画した犯人が最後の一行で確定するという実にクイーン好みの結末だ。 謎めいた男女の逢瀬というシチュエーションやホテルを舞台にした物語と云い、どこかウールリッチを思わせる作風。 ジョイス・ポーターのドーヴァー警部シリーズと云えばその昔は名シリーズとされていたが、今ではもう絶版の憂き目に遭って見る影もない。そんなドーヴァー警部が登場するのが「ドーヴァー、カレッジへ行く」だ。 今読んでも十分に笑えるユーモア・ミステリ。本格ミステリに徹しているかと云われれば首を傾げざるを得ない真相だが、逆に笑いに徹しているミステリだと解釈すれば実に面白い。本当にシリーズ全てが絶版なのが悔やまれる。 寡作家とされるキャスリーン・ゴットリーブの「夢の家」は短いながらも一種味わい深い作品だ。 小さな町でお巡りをやっているおれの一人称で語られる20ページ足らずの作品だが、小さな町で小さな幸せを見つけようとした男女の哀しい結末が淡々と語られる。その何とも云えない味わいがいいのだ。 クイーンの紹介分によれば寡作家である彼女の作品は待つだけの価値があるとのことだが、確かにその言葉も頷ける出来栄えだ。 ブライアン・ガーフィールドの「貝殻ゲーム」はスパイ対殺し屋の手に汗握る攻防を描いた作品。 スパイと殺し屋の一騎打ちの攻防ながらそのテイストはどことなくユーモラスであり、ドキドキハラハラではなく、スラップスティックのような味わいをもたらす。ガーフィールドのこの作風もまた今に通ずる面白さがある。 この頃の作家は本当に上手い人が多い。なお題名はメキシコに伝わる3つの貝殻のうち、1つだけに豆が入っており、それを選んで当てるゲームに由来している。 E・X・フェラーズの「忘れられた殺人」もまた奇妙な味わいの作品だ。 本作ほどクイーンがこのアンソロジーで提唱する情況証拠というテーマを色濃く打ち出した作品はないだろう。 過去の事件の成り行きを語る人物が現れるが、彼は仄めかすだけで実際にそうだったとは決して云わない。しかしその語り口は明らかにそれが証拠だと云わんばかりの内容。そして最後に明かされる意外な事実。結末を読んで読者はさらに物語の靄の中に放り出されるのだ。 これもなかなか余韻が残る作品だ。 スティーヴン・ワズリックの「クロウテン・コーナーズ連続殺人」は本格ミステリを揶揄したような面白い作品だ。 次々と起こる殺人事件に被害者ならびに関係者の妙に凝った名前となぜか現場に散乱する品物の数々、そして脱力物の真相と本格ミステリをパロディにしたユーモア・ミステリ。 最後の結末もとどのつまり本格ミステリとは変人たちが集まったところで起きた化学反応みたいなものだという作者なりの皮肉なのだろう。 ハロルド・Q・マスアも聞き慣れない作家だが、「思いがけぬ結末」は展開の速いサスペンスフルな作品だ。 召喚状を貰わなければ即ち裁判にも行かなくてもいいわけで、数人の弁護士が召喚状を届けようとして失敗した相手に機転を利かせてまんまと手渡すことに成功する導入部から面白い。そして家庭の不和から始まった事件が次第に大きくなって複数の被害者を出すに至るという展開も上手い。 日本では全く知られていない作家だが、こういう作品を読むと海外作家の裾野の広さを思い知らされる。 収録作唯一のショートショートがアン・マッケンジーの「さよならをいわなくちゃ」だ。 たった6ページの作品だが中身は実に濃く、恐ろしい。 今でいうとアンファンテリブル物になろうか。予知能力のある少女がさよならを告げるとその相手が死んでしまう。彼女が悪いわけではないが、忌み子として周囲は少女を避けるようになるし、彼女を預かっている兄嫁はそれを辞めさせようとする。そして最後の衝撃的な結末。 秀作。 EQMMの常連作家エドワード・D・ホックは秘密伝達局のエージェント、ジェフリー・ランドが主人公を務める「スパイとローマの猫」が収録された。 短編の名手というだけあって、実にそつがなく、手堅い物語を提供してくれる。起承転結全てがしっかりしており申し分ない。たった約30ページの作品なのにサスペンスフルなスパイ小説を読ませてくれる。 アーネスト・サヴェージの「巻きぞえはごめん」は釣りの解禁日に訪れた地で事件に巻き込まれた私立探偵の話。 休暇中の探偵が巻き込まれる殺人事件。休暇中だから厄介事はごめんとばかりに無視しようとするが根っからの詮索好きと探偵の魂ともいうべき職業根性がどうしても事件を忘れようとしてくれない。そしてその後に起こる厄介事も解りながらも容疑者を助けてしまうお人好しさ。自分の馬鹿さ加減に嫌になるといった男の話だ。 リリアン・デ・ラ・トーレの「重婚夫人」は実際にあった事件に題を取った作品だ。 1776年4月にキングストン公爵夫人が重婚罪で裁判にかけられたことは史実のようで、本作はそれから材を得た物。 裁判の様子は現代のそれに比べれば非常に安直な気もするが、18世紀では法律も制度も未成熟だったのだからこんなものだろう。 本書は圧倒的不利と思われた裁判を覆す妙手も面白いが最後に判明するその妙手を授けた相手の正体が実に興味深い。結末はそういう意味では粋だ。 パトリシア・マガーによる「壁に書かれた数字」は『~コレクション1』にも収録された女性スパイ、シリーナ・ミード物。ただ本作は10ページと非常に短い。それもそのはず、暗号解読に特化した作品だからだ。 暗号自体は特段珍しい物ではなく、数字に当てはまる乱数表なり解読のキーとなる物があれば解読できることは容易に想像が付くだろう。これはアイデアの勝利ともいうべき作品。 今では英国女流ミステリの女王として君臨するルース・レンデルも本書刊行時の1970年代後半では新進気鋭の作家だった。しかし既にクイーンの眼鏡には適っていたようで「運命の皮肉」が本書に選出された。 レンデルの長編はとにかく救いがないので有名だが、短編ではその救いのなさを切れ味鋭いどんでん返しとして扱い、読者を驚嘆させるのが非常に上手い。 本作では名作『ロウフィールド館の惨劇』と同じく最初の一行で主人公が一人の女性を殺したことを告白し、彼が殺人に至るまでの経緯とその犯罪計画の一部始終を語っているが、それがまた被害者の女性の性格を読者に浸透させ、また加害者の男性の心理を読者に悟らせることに成功し、またそれらが最後のどんでん返しの伏線となっている見事な技巧を見せてくれる。特に被害者の女性ブレンダの造形は人間観察に長けたレンデルならではのキャラクターでこんな女性が我々の生活圏にもおり、またそんな人ならするであろう行動が上手く物語に溶け込んでいる。 結末はまさに題名どおり運命の皮肉。原題は“Born Victim”、つまり「生まれながらの犠牲者」という意味でこれが虚飾の世界に生きるブレンダの本質を見事に示した物でこちらも素晴らしいがやはり読後感で云えば訳者の仕事を褒めるべきだろう。 最近その短編集が年末ランキングにランクインし、話題となったロバート・トゥーイだが、彼の「支払い期日が過ぎて」は非常に不思議な読み応えがあった。 奇妙な味というよりもよくもまあこのような発想が生まれるものだと感心してしまった。 とにかく借金の取立ての電話のやり取りから読者は変な感覚に放り込まれる。主人公のモアマンという男の想像力というか人をからかって煙に巻く遊び心は本作のように傍で見ている分には楽しいが当事者ならば憤慨してしまうだろう。そしてやたらと怪しい行動を取り、さも妻を殺害したように振舞い、それをだしに不法逮捕、名誉毀損で訴え、賠償金をせしめようという意図が最後に見えて納得する。 しかしその後の行動も非常におかしく、よくもまあこのような男と一緒に暮らせる女性がいるものだと首を傾げざるを得ない。とにかくモアマン氏はネジの外れた狂人か、もしくは周囲の理解を超えた天才詐欺師か? そしてこんな話を思いつくトゥーイの頭はどうなっているのか?色んなクエスションが浮かぶ作品だ。 ジャック・リッチーもまた最近評価が高まっている短編作家でミステリマガジンでも特集が組まれた。彼の作品「白銅貨ぐらいの大きさ」はいわば明探偵の名推理を皮肉った作品だ。 現場の遺留品とそれらの状況からヘンリーとラルフの殺人課刑事コンビが次々と推論を立てて事件の真相と犯人へと迫っていく。しかしそれはある意味刑事2人がそれらをつなぎ合わせて実にもっともらしい解答を案出しているに過ぎないのだと作者は揶揄する。 しかし作中で繰り広げられる推理問答は実に明白で淀みがなく、あれよあれよという間に事件の核心へと迫っていくようだ。 2つの事件の真相からつまりは事件は解決できても人の思惑までは明らかにならない物だという作者ならではの皮肉ではないだろうか?割り算のように答えが出れば全てOKと割り切れるものではない、そんな風に作者がメッセージを送っているように思えた。 さてサスペンスの女王パトリシア・ハイスミスは前巻では「池」という幻想的なホラー小説が収録されたが、本書収録の「ローマにて」のテーマは狂言誘拐だ。 なんとも救われない話。社交界というものがこんなにもつまらないものかと不満を募らせ、しかも容姿端麗の夫は妻がいる前で平然と他の女性と親しくし、またどこかへ消えてしまう。そんな彼女が一計を案じたのが夫の狂言誘拐。しかしお嬢様育ちの彼女は痴漢たちに出し抜かれ、自らも誘拐されてしまい、ひどい扱いを受ける。 作者はとことん主人公を突き落とす。 ジョン・ラッツの「もうひとりの走者」はよくあるサスペンスなのだが、作者の手によって味わい深い作品になっている。 人里離れた別荘地で知り合うようになった夫婦がどうも仲がよろしくなく、夫は何かに悩みを抱えているような苦悶の表情でジョギングをしている。そんな最中に起こる夫の死。もちろん犯人は今の生活に不満を持つ妻だったが、ジョン・ラッツが上手いのは主人公も同じ目に遭わせてちょっとしたトラウマを抱かせること。特に最後の一行の上手さ。この余韻は絶妙だ。 多作でエンタテインメントの雄であるドナルド・E・ウェストレイクの作品も収録された。「これが死だ」はなんと幽霊が主人公の物語。 幽霊が自分の自殺が発覚した捜査とそれを発見した妻の振る舞いの一部始終を観察するという実に奇妙な一編。何とも云えない余韻が残る作品だ。 デイヴィッド・イーリイもまた最近評価が高まっている短編の名手だが、その実力を「昔にかえれ」で発揮した。 前世紀の不便ながらも生き甲斐に満ちた生活を始めた彼ら。最初は精神的充足を求めての行為だったが、次第に周囲の目が向くことで彼らの自意識が過剰になっていく。しかしそれにも増して世間は彼らを見世物パンダのように興味津々に見物しだし、彼らの生活圏を侵していく。そして行く着く結末はなんとも皮肉だ。 人間の集団心理が生み出す残酷さを実にドライに描いている。 ビル・プロンジーニの「現行犯」もなかなか面白い作品だ。 この短編における、男が盗んだものはある意味リアルすぎて怖い。 単なるワンアイデア物の短編に終わらない考えさせられる内容を孕んだ作品だ。 さて最後はEQMMの常連で別のアンソロジー『黄金の13』にも選ばれたスタンリイ・エリンの「不可解な理由」だ。 当時ならばこの内容は非常に斬新だったのだろうが、企業小説が華々しい現代ではもはや珍しい物ではなくなった。実際の会社はこの小説よりももっとえげつないやり方で肩叩きを行う。とはいえ結末は衝撃的。 さすがはエリンといった作品だ。 前回のコレクションに続くパート2という位置づけだが、原題は『~コレクション1』が“Ellery Queen’s Veils Of Mystery”、つまりミステリと云うベールを剥がす作品を集めた物であるのに対し、本書は“Ellery Queen’s Circumstantial Evidence”つまり情況証拠をテーマにしたアンソロジーなのだ。 そのテーマ通り、収録作品は情況でどのようなことが起きているのか、もしくはどんなことが起きたのかを推察する作品ばかりだ。 そしてその情況証拠のために登場人物は恣意的な解釈を行い、ある者は強迫観念に囚われて狂気に走り、ある者は不必要な心配を重ねて自滅の道を辿り、またある者はその後の人生にトラウマを抱え込む。ことに情況証拠とはなんとも厄介な物であることが各作家の手腕でヴァリエーション豊かに語られる。 しかしこれは今この感想を書くに当たり、原点に振り返ったから思うのであって、収録作品は我々が読むミステリとは特別変わりはない。つまりミステリというものは情況証拠によって成り立つ物がほとんどだということだ。 さてそんな2巻両方に収録されている作家はパトリシア・マガー、パトリシア・ハイスミスの2人。ビル・プロンジーニも1ではマルツバーグとの共著で選ばれている。他にスタンリー・エリンは『黄金の13』に選出されている。 一概に云えないがこれらの作家の作風は選者クイーンとは真逆の物ばかりということだ。彼ら彼女らの作風はもしかしたらクイーンが書きたかったミステリなのかもしれない。 さて本書の個人的ベストは「夢の家」。この小さな町のお巡りの一人称叙述で語られる叙情溢れる物語は短編映画を観たような味わいを残す。 さらに題名である「夢の家」の本当の意味が最後に立ち上ってくる余韻はなんともほろ苦い味わいを放つ。 またこんなの読んだことないと思わせられたのはロバート・トゥーイの「支払い期日が過ぎて」。とにかく主人公の狂人とも思える会話の応対は読者を幻惑の世界へ誘い込む。シチュエーションはローンの取り立てとその債務者の会話というごく普通なのにこれほど酩酊させられる気分を味わうとは。とにかく予想のはるか斜め上を行く作品とだけ称しておこう。 とはいえ、本書収録作品の出来はレベルが高く、読後も引き摺る余韻を残す作品が多い。 フェラーズの「忘れられた殺人」やレンデルの「運命の皮肉」、リッチーの「白銅貨ぐらいの大きさ」にハイスミスの「ローマにて」、ラッツの「もうひとりの走者」とウェストレイクの「これが死だ」にイーリイの「昔にかえれ」と最後のエリン「不可解な理由」などは割り切れない結末であり、非常に後を引く。 1巻と比べると評価はどちらも高いが、2冊が抱く感想は違う。 1巻は最初はそれほどの作品とは思わなかったのが読み進むにつれてしり上がりによくなっていたことに対する評価であり、本作ではクオリティが全て水準以上であり外れなしといった趣である。しかし残念ながらミステリ史を代表する抜群の作品がなかったことが☆9つに留まる理由である。 しかし今現在この短編に収められている作品が読める機会があるだろうか? 収録された作家はかつては日本でも訳出がさかんにされ、書店の本棚には1冊は収まっていた作家が多いが、平成の今その作品のほとんどが絶版状態で入手すること自体が困難な作家ばかりである。 そんな作家たちの、クイーンの眼鏡を通じて選ばれた作品を読める貴重な短編集である本書はその時代のミステリシーンを写す鏡でもある。再評価高まるクイーンの諸作品が新訳で訳出されている昨今、この時流に乗って彼の編んだアンソロジーもまた再評価が高まると嬉しいのだが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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どんでん返しの宝箱と評される傑作短編集『クリスマス・プレゼント』。本書はその第2弾。
まずは「章と節」。 本格ミステリの代表的なトリックにダイイング・メッセージがあるが、本作はそれを逆手に取った物。 死の間際に遺されたメッセージがパソコンのウェブサイトで調べないと解らないくらい複雑な物であるはずがなく、夜を徹して苦闘する刑事の姿が実に滑稽だ。しかも周囲の人物の意見で襲撃者の計画を鵜呑みにする刑事の主体性の無さ。左遷で証人保護プラグラム担当になったという設定の刑事だが、確かにそれだけのことはある。 続く「通勤電車」はある男が直面する転落を描いた話。 さりげないエピソードが主人公を悪夢へ叩きのめすという展開はディーヴァーお得意の物。ただミスディレクションとまでは行かず、これは先が読めた。主人公を傲慢で鼻持ちならない人物にしたことでその破滅ぶりにカタルシスを覚えるのが上手い。 時代物の短編「ウェストファーレンの指輪」ではニヤリとする演出が成されている。 1892年のロンドンを舞台にした窃盗犯と警察との丁々発止のやり取りを描いた作品、と書けば案外普通に思えるが、これにはディーヴァーならではのファン・サービスが詰まった作品だ。 まずこの時代はスコットランド・ヤードが科学の手法を警察捜査に取り入れた頃であり、現場に残された証拠から犯人を特定する高度な捜査が繰り広げられる。しかし敵もさるもので警察が嗅ぎ取るであろう痕跡を巧みに利用し、街の悪党を逮捕する方向へ見事に誘導する。 「監視」も味わいは「ウェストファーレンの指輪」に似ている。 本作におけるオンライン情報の監視はディーヴァー作品では『青い虚空』や『ソウル・コレクター』で見られた手法だが、本作はそれらから生み出された副産物のような作品だ。ミュラーの狡猾な犯人による捜査の誤導は面白いのだが、すでに前に挙げた作品を読んだ身にしてみればさほどの驚きはなかったかな。 「生まれついての悪人」は実に皮肉。 これもディーヴァーならではの反転。しかしこれも案外見え見えの展開だ。 そして裁縫が得意なリズは自分の服に色んな隠しポケットを仕込んでいるが、これはやはり『魔術師』と同類だろう。 「動機」はそのものズバリ、犯人が殺人を犯した動機を探る物語。 先の「通勤電車」と同じ手法の作品。 次の短編「恐怖」の舞台は珍しくイタリアのフィレンツェ。 至極単純なサイコ・ホラーと見せかけて予想外の結末に導く。女性が殺人鬼と思われた男性から逃げるために籠った部屋を予め男性が予想していたのはちょっと出来過ぎだろうと思ってしまうが、この展開は見事。 「一事不再理」は前回の短編集でも収められていた法廷物の1編。 絶対不利と云われた裁判で無実を勝ち取るというのは法廷小説の一種の醍醐味で本書も実に巧妙な切り口で弁護士ポールが四面楚歌状態から優勢に持っていく素晴らしい弁護の過程が存分に楽しめる。 しかし本書では法廷の逆転劇が読書のカタルシスではなく、さらにもう一捻り加えてあるのがミソ。 強引とも云える辣腕弁護士による無実というどこかアンフェアな読後感を一掃する被害者の一手がその不満を浄化してくれる。しかし一事不再理というアメリカ独特の裁判制度は色んな作家が題材にしているということは誰しもがその裁定に納得のいかないことを潜在的に感じているのだろう。 「トンネル・ガール」は老朽化したビルの地下室に閉じ込められた女子高生の救出劇を描いたもの。 テレビの実況中継を髣髴するライヴ感に富んだ作品だが、本書の結末は実に奇抜。 ディーヴァーを語る上で外せないのがリンカーン・ライム。今回も「ロカールの原理」で登場する。 トム、アメリアはもとより、セリットーにデルレイ、そしてクーパーとオールスターキャストで飾る贅沢な1編。そして本作も「トンネル・ガール」に勝るとも劣らない強烈な展開を見せる。 そしてライムの推理がミスリードされるように手掛かりを残しておく周到さも見せるが、さすがはライム。犯人よりも一歩上を行く。 しかしこの偽の手掛かりというのは最近ディーヴァーはよっぽどお気に入りなのだろう。どんでん返しが強烈に決まるからかもしれないが、あざとすぎて少々食傷気味だ。 「冷めてこそ美味」はひょんなことからある陰謀が発覚するという魅力的な導入部から始まる。 一風変わった題名は英語圏独特の云い回しだろうか、“復讐とは冷めてこそ美味い料理である”という慣用句に由来する。 何の繋がりもない人物から命を狙われている可能性があると聞いたら人は疑心暗鬼に陥るのではないだろうか?通常ならば気にも留めない物音や人影も全てが疑わしく思え、あらゆる可能性が自分の死に直結すると考えてしまう。 本作の狙いはそんな疑心暗鬼に陥った人の過剰反応を滑稽に描くところにあるのだろうが、ディーヴァーはそこを逆手に取って、人の恨みの恐ろしさを描く。 確かにトロッターのように犯罪にならない程度の悪戯を施して悦に浸る人ほどたちの悪いものはない。 スティーヴン・キングやクーンツの作品を想起させるのが「コピーキャット」だ。 本に書かれた事件の通りに殺人事件が起こる。 この題材は古くから使われていた手だが、ディーヴァーはそこにメタフィクションの要素を入れた結末を一味加えた。 しかし個人的には犯人を作者と特定せず、リドル・ストーリーのように終える方がよかったかなと思う。まあ、これは好みの問題だが。 女性の縁のない男が出逢った絶世の美女。誰しもそんな女性とはお近づきになりたいと思うだろう。「のぞき」はそんな冴えない中年男の物語。 ストーカーというのはそれ自体非常に恐ろしい物だが、これはそれを逆手に取ったコメディだ。 ギャンブルの世界は実に奥深いが表題作「ポーカー・レッスン」はそんなギャンブラーの思考を垣間見せてくれる好編だ。 映画「ハスラー」を髣髴させるような若い青年とベテランギャンブラーとの交流と勝負を描いた傑作。勝負師ケラーを出し抜いた青年の意外なトリックとさらにその上を行く老人ギャンブラーの狡猾な仕掛けというディーヴァーならではのどんでん返しも楽しいが、たった一夜の物語の中に百戦錬磨のギャンブラーが駆け出しの青年ギャンブラーに大人のギャンブルの世界のルールとマナーを教える様子、そして大勝負の緊張感と勝負師の精密機械張りの読みとフェイクの数々が実に読み応えがある。 長編のクライマックス場面を凝縮したような非常に贅沢な作品だ。これが個人的ベスト。 「36.6度」はこれまた実にディーヴァーらしい作品だ。 あちらが脱獄囚と見せかけて実はこちらが…と見せかけてさらに意外な展開を見せる。しかしやはりあざといな…。 最後の「遊びに行くには最高の街」は先行きの見えないクライム・ストーリーだ。 ニューヨークのダウンタウンを舞台にした悪徳の街のクライムノヴェルと思いきややはり最後はディーヴァー印のどんでん返しが待っている。 しかし本作の文体はそれまでの彼の作品とは違い、安っぽい悪が横行するエルモア・レナード張りのクライムノヴェルとなっている。実は最後に明かされる大仕掛けの種明かしはいらないかもと思ってしまうほど、クライムノヴェルとして面白かった。 これだけ大掛かりじゃなくても少しばかりの引掛けでよかったのになぁと思った作品。 これほど長く待たされたと思わせられる訳出も珍しい。前作『クリスマス・プレゼント』の刊行が2005年。原書刊行が2006年。 だからいつ出るのかいつ出るのかと心待ちにしていたが、これが一向に出ない。 そして2013年。8年の月日を経てようやくの刊行。今や現代アメリカミステリの巨匠となったディーヴァーの超絶技巧が詰まったどんでん返しの宝石箱だ。 この表現は全く以て偽りなし。16編全てにどんでん返しが織り込まれている。そして本書におけるどんでん返しはリンカーン・ライムシリーズで培った技法が大いに下敷きになっている。 特に多いのはわざと状況証拠を並べて警察の捜査をミスリードさせるもの。 しかしこれも行き過ぎれば作り物めいた作品になってしまい、それほど先読み出来るものかと疑ってしまって、存分に愉しめなくなっているのは確か。どんでん返しが高度になり過ぎてもはや訳が分からなくなってしまっている。 そんな中、本書における個人的ベストは表題作。本作ではディーヴァー特有の予想の斜め上を行くどんでん返しも面白いが、何よりも物語の中身が実に濃密。若い駆け出しのギャンブラーと百戦錬磨のギャンブラーの交流と息をつかせぬ大勝負の描写が実に面白い。 そしてディーヴァーはこんなギャンブル小説も書けるのかと脱帽。ディーヴァーの新たな才能の片鱗を見せてくれた。 他には「恐怖」も捨て難い。 逆にどんでん返しが邪魔になったのは最後の「遊びに行くには最高の街」だ。これは逆にクライムストーリーのままで進み、最後にちょっとした仕掛けを施すプロットの方が楽しめたように感じた。 しかし今回は歪んだ社会に潜むどんでん返しというのが目立ったように思う。特に一見普通の市民がその裏では変態的な犯罪者の側面も持っているという隣人に心を許すなかれというメッセージが含まれた作品が多い。 しかし地域交流もこんな話を読むと恐ろしくて気軽に出来ないなぁ。 しかし今回のどんでん返しにはあまり納得がいかない物も多く、正直云って前作より出来は劣る。これだけ物語やシチュエーションにヴァラエティを持ちながら、落ち着くところはどんでん返しという所が設定を変えただけという風に思えてしまうからだ。 前作は語り口でものの見事に騙されたというような鮮やかなどんでん返しがあり、どんでん返しそのものにヴァリエーションがあったように思えた。 今回はほとんどが説明的などんでん返しだったとでも云おうか。 私が好きなどんでん返しはすなわち価値観の逆転。正と思った方が負であり、善が悪に反転するというものだ。 本書にもその趣向に該当する物があるが、前述のようにそれらが非常に説明的だったのが残念。 この辺は語り口の好みの問題なのだろうが、やはり小説を読むのであれば説明的な文は避け、物語の中でさりげなく語り、読者に悟らせるべきだろう。そういう意味では小説の一歩手前のような印象を受けた。 とはいえ、現代気鋭の物語巧者であるディーヴァー、先ほど述べたようにそのシチュエーションのヴァリエーションは実に多彩。さらに一つ一つのディテールが濃く、本当にこの人は何でも書けるという思いを強くした。 特に感心したのはギャンブラーの世界を描いた表題作と最後にクライムノヴェルを読ませてくれた「遊びに行くには最高の街」だ。 更に上に書いたどんでん返しのあざとさはいわばディーヴァー作品を読み慣れた読者の私にとって感じることであり、それはすなわち期待値の高さによる。 ある意味本書は読書の功罪を孕んだ作品集と云えよう。 短編集では全ての短編にどんでん返しが盛り込まれており、特に初めてディーヴァー作品を読む人は読書の至福を感じるだろう。 しかし逆にこれが基準となればその後の読書に多大なる影響を与えることになりかねない。 さて彼ほど読者の期待を一身に受けている作者はいないだろう。次の短編集ではどんな奇手を見せてくれるか、実に楽しみだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
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1977年に発表された本書は一世を風靡し、映画を変えたとまで云われた『マトリックス』の原型となる作品だろうか。
リドパス投射器という死体安置所の抽斗のようなところに寝かされ、投射された人々はウェセックスという仮想世界でそれぞれの仕事に就き、生活を営むのだ。 それはセカンド・ライフのような仮想空間であるが、催眠状態に陥って自身の意識がその空間に飛び、体感する有様はまさに『マトリックス』のようだ。 仮想空間に飛んだ人々は回収係という人間によって強引に引き戻される。それは鏡を使って誘導されるのだが、これが『マトリックス』の電話と同じ役割のようだ。 ただ『マトリックス』では仮想空間マトリックスにいる間も現実世界の記憶を留めたままなのに対し、本書では投射世界で現実世界での記憶を忘れてしまうところだ。ただ出逢った人間によってお互いが初めて逢う人間ではないといった既視感や懐かしさを感じたりするのだ。 しかしこの投射世界という想定された未来世界に人を投入するウェセックス計画の内容が読者に解るのは150ページを過ぎたところ。つまり物語の約4割を過ぎたあたりからだ。それまではジューリア初め、他の参加者たちが投射される目的が全く分からないまま物語は進行する。 そして特徴的なのは仮想の投射世界と現実世界のやり取りがシームレスで交互に語られることだ。つまり読者には物語の世界が現実世界の事なのか投射世界でのことなのか区別がなかなかできなくなってくるのだ。 特に物語の鍵を握るポール・メイスンが介入してきた後半はその特性が高まる。なぜなら投射世界の中に投射器が出てくるからだ。そして現実世界ですら、投射世界から投射されたもう1つの投射世界ではないかという混乱をももたらす。 そして物語の最終局面に至ってはデイヴィッドのいる投射世界の投射器の中に再び投射されたジューリアの肉体が収容されているというパラドックスが訪れる。そして果たしてどちらが現実でどちらが仮想世界なのか、ますます混乱を来してくるのだ。 逆にこれこそが作者プリーストの狙いなのだろう。2つの世界を行き来する登場人物たちが抱く感覚を読者にも共有することが。そしてこの狙いは成功していると云えよう。 しかしこの物語で登場するポール・メイスンとは何と云う卑劣漢だろう。主人公ジューリアの元恋人でハンサムでカリスマ性のある人物像だが、自己愛が強く、自分の願望を満たすために強引な手も厭わない。そして自分を嫌いになる人などは存在しないと思い、好意を持たない人物には徹底的に苛め、破滅させようと追い込む。 クーンツ作品によく出てくる絶望的なまでな悪意を備えておきながらも当事者以外には好人物として振舞うエゴの権化のような悪党だ。 この2つの区別のつかない世界を与えられた時、そして仮想空間の方が心地よい居場所だった時に、その人にとって現実とは果たしてどちらなのか。これが作者の本書におけるメッセージであると思う。 1977年に書かれた本書は今のネット社会を予見させる内容だ。現にネット社会に耽溺し、廃人となる人々もいる。全く以て余談だが、私もオンラインゲームを嗜んでいるが、日々の雑事で週末の休日ぐらいしか訪れない。しかしそれでも常にそこにいるユーザーが居て、この人たちは一体現実世界ではどのように生活しているのだろうかと訝ることもしばしばだ。 閑話休題。 しかしこの2つの世界を行き来するという設定の基礎となるウェセックス計画と云うのが今いち弱いと感じる。 数年後の想定未来に被験者は行って、どうやって現代の社会問題をクリアしたのかを調査するのがこの計画の目的というのはいささか難がある。なぜなら想定未来自体が作られた物であり、今直面している危難や社会問題のない世界、つまり理想郷だからだ。そうなるべき姿にどうやってなったのかを調べるというのはつまりは人間の意識下における創造の産物にしかならない。 あ、そうか、これは弁護士や経済学者、生化学者などの専門分野の人々を集めて投射世界という理想郷に送り、問題解決の方策が書かれた文献の調査と云う名目でその実、彼らの意識の奥底にある解決への道を考えさせるというのが本来の目的なのかもしれない。 しかし作者がそこまで考えていたのかは甚だ疑問だ。やはりこの設定には苦しさを感じてしまう。 また私は本書を別な方法で物語を閉じる方が良かったように思う。特に360ページ辺りでジューリアが投射世界の投射器に入った自分を発見する件では、世界がひっくり返るような眩暈を覚えたものだ。 結局物語は何も解決せずに終わった。なんとも厭世観濃いこの結末にまだ戸惑ってしまう自分がいるのだった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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