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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
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エラリイ・クイーンのノンシリーズ物。
ギャングの大物が遺した二百万ドルもの莫大な遺産を巡って遺産の相続人ミーロ・ハーハなる男を捜しにアメリカ、オランダ、スイス、オーストリアそしてチェコスロヴァキアと探索行が繰り広げられる。 痴呆症となりかつての鋭さの影すらも見えないほど落ちぶれたギャングのボス、バーニーの殺害事件はクイーンでは珍しく、犯罪の模様が書かれている。 本格ミステリ作家であることから倒叙物かと思っていたがさにあらず。これがエラリイ・クイーンの作品かと思うほど、冒頭の事件は全く謎がなく、エスピオナージュの風味を絡めた人探しのサスペンスだ。 したがって本作には全く探偵役による謎解きもない。純粋に遺産を巡ってミーロ・ハーハなる男を殺そうとする輩と政治的影響力のあるハーハを利用せんとする者達との思惑が交錯するサスペンスに終始する。 痴呆症でかつての冴えが成りを潜め、しかし二百万ドルもの莫大な遺産を持っているギャングのボスの遺産相続人から奪還する為に相続人を探し出し、暗殺しようとする企みがやがてチェコスロヴァキアの政敵同士の構想にまでに発展していく。 それはミーロ・ハーハという男がチェコスロヴァキア人でありながら第二次大戦中にドイツ軍に入り功を成した英雄で、しかもその父親ルドルフもまたかつて国で勢力を持ったカリスマ政治家。ミーロはその血を色濃く継いでおり、政界に乗り出すと現政権を揺るがす危険な存在だからだ。 しかしそんな彼もチェコスロヴァキアのザンダー警察長官に反乱分子の掃討作戦に利用され、クーデターを起こすことなく葬られてしまう。そしてミーロを殺そうと画策したバーニーの妻エステルもまた野望半ばで命を失い、エステルに命じられてミーロを追っていたスティーヴもまた政敵同士の紛争に巻き込まれ、再び故郷の地を踏むことはなくなってしまう。ミーロに関った人たちがそれぞれの思惑の中で命を失っていく。 先にも書いたが最後の最後まで全くどんでん返しや意外な犯人といったものはなく、それぞれの思惑が最後の舞台にて相対すると全くクイーンらしくない作品。 それもそのはずで、Wikipediaによれば本書はクイーン名義による別作家の手になる作品とのこと(ある筋の情報によればスティーヴン・マーロウという作家らしい)。だとするとこのロジックもトリックもない作品をどうしてクイーン名義で出版したのか、そちらの方に疑問が残る。 というのもミーロ・ハーハの追跡の道中でスティーヴとアンディのロングエーカー兄弟がオランダ、スイス、オーストリアで出会う人々との話も各章が短編の趣があり、長編でありながらも連作短編のようになっているのもクイーンというよりもこの手の手法を好んで使っていたウールリッチに近いからだ。さらに各地で起こる事件も解決がなされるわけでもなく、事実とスティーヴとアンディが訪れたことで起こることのみが語られ、置き去りにされる。 特にミーロの隠し子であるカトリナとその養父の爺さんの話はその後も語られるべきなのだが、最後にバーニーの遺産の行く末が語られる際にちらっと触れられるだけである。 これをクイーンの作品とするには作風の変化として受け入れるにしてもかなり違和感がある。逆になぜクイーンはこの作品を自身の名で出すことに承知したのだろうか。 クイーン作品として読むと鮮やかなロジックで解かれる本格ミステリを期待するせいで肩透かしを食らわされるが、通常のサスペンスとして読めば佳作と云える作品だろう。 ただやはりこの違和感は拭えない。作品としての正当な評価ではないだろうが、個人の感想なので感じるままに書いておこう。 |
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アーロン・エルキンズは私の好きな作家の一人で、彼の代表作は云わずと知れたスケルトン探偵ことギデオン・オリヴァーシリーズである。
その彼が新たに書いたシリーズ作品がこの女子プロゴルファー、リー・オフステッドシリーズだ。ただしこれは彼単独の作品ではなく、奥さんのシャーロットとの共作になっている。 今回は第1作ということでまずは自己紹介といった色合いが強く、事件もごくごく普通のミステリに仕上がっている。 ツアーに参加するはずのスター選手ケイト・オブライエンが現れずにツアーが開催される。誰もがケイトを探していたが彼女と連絡が取れない。初日のラウンドの調子が悪かったリーは試合後ショットの練習をしていると、池の中にケイトの死体を発見する。おまけに彼女のクラブの1つがすり替えられ、そのクラブには血糊がついていた・・・というまさに巻き込まれ型の典型というべき作品だ。 さらに主人公リーはプロ1年目でゴルフもアメリカ陸軍時代の配属先のドイツの空軍基地で覚えたという変り種。そして彼女が遭遇するのは地元の警察署に勤めるグレアム・シェリダン警部補という好漢。事件を通じてリーとグレアムは互いに惹かれ合っていくというこれまたロマンス小説の王道。 訳者あとがきによればシャーロット夫人はロマンス小説作家とのことで、エルキンズ作品よりもこの色合いが濃い。このリーとグレアムの関係はスケルトン探偵シリーズのギデオンとジュリーの馴れ初めを想起させるが、キャラクター造形はまだ本家の方が上か。 さらにエルキンズ夫妻はグレアムをゴルフのゴの字も知らない素人と設定することで読者にプロゴルフ界の世界やエピソードを教えることに違和感なく作品に溶け込ましている。 特にそれらのエピソードの中でも女子ゴルファーの生活の厳しさがつぶさに書かれており、まだプロ1年目のリーの、決して裕福でない、いや寧ろ貧困生活の只中で頑張る女性像に胸を打たれるものがあり、感情移入してしまう。 ただハングリーだけでなく、リーの良きゴルフ仲間ペグなどは経営コンサルタントを経営するセミプロであり、ゴルフはあくまで生活の糧でなく趣味の延長に過ぎない。 ゴルフとは金持ちの道楽、そしてプロゴルファーは押しなべて金持ちの子供がやるもんだと先入観を持っていた私にとってこの辺の話は面白かった。 またエルキンズの小説は世界各地をギデオンが色んな形で行く機会を得てその土地のエピソードをふんだんに盛り込んだ観光小説の側面もあるが、このシリーズもまた女子プロゴルファーという各地をツアーで回る職業だから今後のシリーズも同じような特色を持つのだろう。 リーは今はまだ下位の貧乏ツアープロだが、シリーズを重ねるにつれて国外ツアーにも招待され、日本を舞台にした事件に巻き込まれる、なんてこともあるかもしれない。 前にも書いたが起承転結ときっちりと踏まえた普通のミステリだ。リーが窮地に陥るところもスケルトン探偵シリーズの定型を髣髴させる。 しかし当然と云っては失礼だが、まだまだ物語やキャラクター造形に深みが感じさせないので総合的に判断すると普通よりもやや劣る出来栄えに感じてしまう。 『世界ミステリ作家事典』によればこのシリーズは夫人のシャーロットが原稿を書いて夫のアーロンが手を入れるというスタイルを取っているとの事。 スケルトン探偵の新作が心待ちになるほど、いつも彼の世界観とキャラクター造形の巧みさに魅了されるが、次作、次々作と徐々に親近感を増すことを期待したい。 |
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打海文三氏は今はもう亡き作家だ。2002年に発表した『ハルビン・カフェ』で注目され、その後『裸者と裸者』に始まる近未来の日本での戦争を描いた『応化戦争記シリーズ』で将来を嘱望されたが2007年に心筋梗塞で夭折。まだ59歳という若さだったから、これはやはり不遇ということになるだろう。
彼の小説はなかなか文庫化にならず、デビュー作で横溝正史ミステリ大賞を受賞してから3作発表したが、初めて文庫化されたのが5作目の本書だった。 なおデビュー作の『灰姫 鏡の国のスパイ』は文庫化されていない。 デビュー作は題名から国際問題を題材にしたエスピオナージュのようなものを得意とする作家かなと想像したが本書は所謂プライヴェート・アイ小説。この作家独自の味付けがされている。 まず鈴木ウネ子(どうやら本名ではないらしい)は60過ぎの元結婚詐欺師という経歴を持つ女探偵。いつも男に飢えているが仕事はデキる。 探偵仲間の野崎は元警官で背の低さと容姿にコンプレックスを抱いているが心に獣を飼っている男。 彼らが追うのは元巡査で元探偵だった阪本尚人。人の人生に関らずにはいられず、仕事と私生活の境界線を引くことが出来ない不器用な男。 そしてもう1人の探偵が13歳の登校拒否児、戸川姫子だ。物語は渋谷の公園で見つかった全裸死体に阪本が関っていることが解り、彼を警察、鈴木ウネ子と野崎、戸川姫子の3組が阪本を巡って奔走するといったもの。 しかしこれは単なる人探しの探偵物語ではない。 これは女の戦いの物語である。 渋谷の公園で見つかった全裸の女性死体の事件に隠された警察の犯罪を描いたこの作品は実は阪本尚人という男を軸にした女同士の激しい戦いなのだ。 戦闘に立つ女性は4人。本書の主人公13歳の戸川姫子は登校拒否児であるが既に精神は大人であり、大人に同等に渡り合う知恵を備えている。 そして阪本の探偵仲間の鈴木ウネ子。 そして被害者の南志保。かつて自分の妹を殺された犯人が阪本の命令を逸脱した行為によって引き起こされたものと思い、糾弾していたがそのうちに阪本に惚れ、同棲していた女。 そして最後は高木伊織。キャリアで阪本の元上司だが、周囲と違う雰囲気を備えた巡査の阪本に惚れ、南志保と三角関係に陥ってしまう。 そう彼女たちの中心に位置する阪本尚人という男は冷めた顔に愛くるしい笑顔が似合うが、一旦仕事でも自分の人生に関ればその後の生き様まで目を見晴らせ、道を誤っていれば更正を促すという、いまどき珍しいほど情に厚い男。警官だったが上に書いた命令違反行為によって懲戒免職になり、その後探偵に身をやつし、その生活に疲れ、山梨の山奥で農家を始めて隠遁生活を送るようになった、一風変わった男。 彼がこの4人に嵐を生み出し、人が死ぬまでになった、いわば災厄の男なのだ。 つまりこれは追われる者阪本が現代版光源氏ともいうべき、出会う女がどうしても恋に、いや欲望に駆られざるを得ないようなフェロモンを漂わせている男なのだ。彼を追う警察の動機はもちろん警察上層部が女性刺殺事件に関った事実のもみ消しだが、他の女性たちはそんな利害よりも阪本という男を我が物にしたいと焦がれる欲望で突っ走っているようだ。 このプロットを可能にしたのが打海氏の設定の妙だろう。前述の姫子とウネ子は割愛するとして被害者の南志保は阪本が警官時代のミスがもとで妹を失い、阪本を社会的に抹殺しようと恨みを募らせていたが、いつの間にか阪本に惹かれてしまうし、高木伊織にいたっては阪本のかつての上司。このキャリアの警官が30代前半の女性だったという設定は他に見たことがなく、意外に盲点で感心した。 しかし本書に出てくる女性は老いも若きも互いの相手を年下、年増と侮らず同等の女性として扱っているのに感心する。特にウネ子の姫子に対する眼差しが温かく、清々しい。いいライバルとして機能していて読んでいて気持ちよかった。 傑作とまではいかないが読後感に一迅の涼風が吹く好編だ。 しかしもう少し題名はどうにかならなかったかなぁ。この題名から想像するのはすさまじいまでの撃合いとか暴力と血の物語だ。 先入観で読むのはいけないことだが、題名のつけ方も逆に云えば読者に先入観を与えるのだから大事なものだ。 もはや新作が読むことの出来ない作家だから、この声は届かないが、遺された作品に期待しよう。 |
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いきなりデビュー作にて2000年版の『このミス』で10位ランクインという快挙を成し遂げた短編集がこの本多孝好氏の『MISSING』。それから約19年を経てようやく読んでみた。
まず本多氏が作家になるきっかけとなった小説推理新人賞を受賞した作品が1編目の「眠りの海」である。 この短編、当時はけっこう話題になった作品だったので興味深々で読んだが、率直に云ってミステリとしての謎は弱い。デビュー作をベテラン作家と比べては悪いが、それでも同じように初期には学園を舞台にした短編も著している東野氏のクオリティに比べれば、真相が透けて見えてしまっている。 しかし本多氏は本書を単なるミステリに留まらせずに最後に一味加えることで幻想小説へと昇華させている。これがこの作品を一段上の高みに押し上げているのだろう。導入部として最も適切な一編だ。 次の「祈灯」は部屋に入ると見知らぬ女性が普通にいたという奇妙な導入部が印象的だ。 続く「蝉の証」は老人ホームが舞台となった作品。老人ホーム『緑樹荘』に入っている祖母から奇妙な依頼をされる。 変則的プライヴェート・アイ小説とでもいうべき好編。 相川老人の許を訪れる孫と思しき、およそ堅気の人物とは思えぬ巨躯で金髪に染めた首にチェーンをぶら下げた男の正体を突き止めるために主人公が捜査で出会う人々から知らされる相川老人の意外な過去。老人ホームでくたばるのを待っているだけと見なされている人たちが生きた道程とは実は波乱に満ちていたのだと気付かさせられていく。確かこれが次作『ALONE TOGETHER』の原点となった作品ではなかったか。 しかし本編にはこの短編集に通底するあるテーマが主人公の口を借りて語られる。それについては後述しよう。 しかしなぜ当時20代の本多氏がこれほどまでに老人ホームに住まう老人達を活写できたのか、それを驚くべきだろう。 ミステリというよりもほろ苦い初恋物という趣のある「瑠璃」は4つ年上のルコと僕の2人の交流を描いたもの。小学校6年生の頃、高校生の頃、そして大学生の頃に僕とルコとのエピソードが綴られる。 この短編では他の作品と違い、ルコがなぜ自殺したかが主人公の中で理論付けられない。その答えが、もしくは手掛かりが残されているルコが遺した手紙の内容についてあえて作者は触れずに物語を閉じる。ある意味、これは作者の中で冒険であったのではないか?また一つここに魅力的な女性を描いた青春小説の傑作が生まれた。 最後の一編「彼の棲む場所」は味わいがガラリと変わった作品だ。 人間の、心の奥底に抱く殺人願望、破壊衝動。そんな昏い情動を実は高校時代から優等生でテレビでクリーンを絵に描いたような有名タレント教授が抱いていたら…。 彼が固執する誰も知らない同級生サトウとは、もう彼の暗黒面に他ならないのは自明の理だろう。そんな読んでいて吐き気の出るような話を聞き手である私が飄々として受け止め、日常に戻るギャップが印象的だ。 MISSING。それは喪失感。 MISSという単語は日本語で云われている「誤り」とか「間違い」という意味は全くなく(日本語のミスはMistakeの省略)、「誰かのことを思って寂しくなる」という意味だ。 本書に収録された5編に共通するのはまさしくこの「誰かのことを思って寂しくなる」、即ち喪失感だ。 そしてこの喪失感ほど残酷なものはない、という作者の主張が行間から見えるほどここにはある特殊な思いが全編に共通して流れている。 それは3編目の「蝉の証」の中で主人公が考える次のことだ。 「欺き、騙され、そうまでして人は自分が生きた証をこの世界に留めずにはいられないものだろうか」 まさしくそうだろう。喪失感という心に与える巨大な負のエネルギーが却って残された人々の心に存在感を浮かび上がらせる。 あの時確かに君はいたのだ、と。 この喪失感について作者は3編目の「蝉の証」で答えを出したかのように、死の間際に取った人間の不可解な行動の意味を探る趣向から、喪失感そのものにスポットを当てて書いているように思える。4編目の「瑠璃」は失った憧れの従姉のお姉さん、5編目の「彼の棲む場所」ではちょっと変わった喪失感だ。 そう、本書の中で異色なのが最後の「彼の棲む場所」。今までの短編が人を失うことの喪失感―恋人、妹、娘、堕胎した赤子、事故の被害者、憧れの年上の女性―を扱っているのに対し、この作品では「人を殺す機会」を失ったことを惜しむ心の暗部を語っている。他の4編が感傷的なのに対し、この作品だけが実に欲望的だ。 また本書の特徴として収録作全てが一人称叙述で書かれ、主人公が全て「僕」と匿名であることが挙げられる。このことで読者は物語の世界に自分を重ね合わせることが出来、したがって主人公が抱く喪失感が密接に感じられるようになっている。 しかしこの本多孝好という作家の人間を描く力、落ち着いた筆致には正直恐れ入った。これがデビュー作だというのだから驚きだ。語り口や時折挟まれるユーモア交じりの比喩など、無理を感じさせなくほどよくストーリーに溶け合っている。 特に感服するのは各編に収められたエピソードの上手さ。 老人の貯金を当てにして、嘘をついて手に入れたお金で旅行に行ったがために、その老人は一文無しになり老人ホームを出ざるを得なくなり、挙句の果てに講演で野垂れ死に同然に死んでしまった話や終業式の日に無免許で買い換えたばかりの新車を運転してすぐにボコボコにし、プールで泳いで遊んだこと。野球部のエース争いに敗れ、マネージャーを任された部員がわざと煙草を吸って甲子園予選出場停止になったことがきっかけでクラスから爪弾きにされ、自殺にいたった話、などなど。 どれもがボタンを掛け違えたことで誰の人生にも起こってもおかしくないような話だ。これらが物語に実に有機的に関わって傷みを伴う結末に深みを与えている。 案外「○○年版『このミス』第×位の傑作」という惹句は当てにならないものが多いが、本書はその数少ない中の例外であった。 特に大切な誰かや守っていた何かをなくした時に読むとこの作品を読んで去来する感慨は殊更だろう。ちょっと泣きたい夜にお勧めの一冊だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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澤木喬という作家がいる。この作家が現在著している作品はこの『いざ言問はむ都鳥』という1990年に出版した4編の短編を収めた短編集1作のみ。しかしこの短編集、一読忘れがたい印象を残す。
本書の主役は分類学者、沢木敬。とある大学の植物学科の平井主任教授の下で助手として働いている。平井教授の周囲には同じく助手の樋口陽一、博士課程の院生で平井教授の研究室に所属しているマドンナ梅咲久美子がおり、この4人が物語の中心となっている。 それぞれの短編で提示される謎とは一見なんともないようなものだ。 まず表題作はご近所の宮本さんの庭に咲いていた季節はずれの都忘れの花びらがなぜ点々と落ちていたのかという謎。 次の「ゆく水にかずかくよりもはかなきは」では沢木の意外な趣味が明かされる。彼はアマチュア・オーケストラに所属しており、そこでヴァイオリンを弾いている。ここでの謎は彼が遭遇した釣り人はなぜ駅の券売機でひたすら子供用の切符をいくつも買い続けるのか。 「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」では平井教授の講座、生態学講座のアイドルお桂ちゃんこと、篠崎桂子の部屋で起きた小火の謎。 最後の「むすびし水のこほれるを」では梅さんこと梅咲久美子が見た死んだはずの猫が再び生きて歩いているのを見たという謎に沢木のコンサートにいつも来ている矢部という学生がなぜコンサートもないのに花束を買っていたのか、そして沢木のオーケストラ仲間の宮本さんがなぜヤブツバキをサザンカだと強調して平井教授宅から苗木を貰ったのかという複数の小さな謎。 こうやって紹介すると一見「日常の謎」系の短編集だと思うだろう。そのジャンルの仕掛け人である東京創元社から出版されているから尚更だ。 しかし本書はそうではない。人の死が、犯罪が介在するミステリなのだ。 沢木敬が語り手となって進む物語は、上に書いた平井教授とその仲間達の日常風景と大学の学生達のエピソードと沢木の植物に関する薀蓄などが上手く絡み合って実にほのぼのしたタッチで語られる。その話に挟まれる小さな事件、もしくは事件とはいえない、ちょっと変わった出来事の裏に隠された真相は実に魂の冷えるような手触りをもっている。 これらストーリーの牧歌的雰囲気と予想もしていなかった陰鬱さを含んだ暗い真相のギャップが各編に強烈な印象を残していく。この落差はかなり強力で思わず驚愕の声が漏れそうになった。 またそれらの真相を看破するのは実は沢木ではない。彼の友人樋口なのだ。 このように悉くこちらの予想をいい意味で裏切る構成からして一筋縄でいかない作品だというのが解るだろう。 解説の巽昌章氏が一番冒頭に語っているように、このたった220ページ強の短編集に込められた時間は実に濃密だ。 なぜこれほどまでに濃密なのだろうか? 本書の構成は沢木敬が春に経験し、またその翌年の春にいたるまでの1年間での出来事を綴ったもの。作中、沢木が云うように確かに1人の人間が1年の間でこれほど人の生死に関る事件に遭遇するのはおかしいと思えるだろう。 しかしそれ故に濃密だとは私は思わない。私は本書で語られる沢木の日常が実に自分達の生活空間に似ているが故に隠された犯罪が樋口の口から明かされた瞬間、実にリアルに感じられてしまうのだ。 つまり我々の平凡な日常生活にもいつ負の変化が訪れてもおかしくないと思わされてしまうのだ。このことが読者に登場人物に流れる時間を追体験させ、我が身になぞらえることで濃密に感じられる、私はそんな風に思うのである。 さてここで各編の題名に使われている和歌について言及してみたい。 まず表題作は在原業平の有名な短歌、「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」から取られている。この短歌の意味は「その名の通りならば問いかけよう、都鳥よ。都に住む私の想い人は今どうしているのか、と」という物。 これは恐らく落ちた花びらが恋占いを予想させるところから来ているのではないだろうか?そう考えると実は題名それ自体がミスディレクションだと云えるだろう。 次の「ゆく水にかずかくよりもはかなきは」は古今和歌集の詠み人知らずの歌「ゆく水にかずかくよりもはかなきはおもはぬ人を思ふなりけり」から。この意味は「流れいく水に数字を書いても書く先から消えていく。それでももっと儚い物は、自分へ振り向いてくれない人をひそかに思うことなのだ」というもの。 これは恋患いの歌なのだが、本編の真相を考えると題名に引用された部分のみを取り出して考えるのが妥当だろう。 「飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」は山上憶良の「世の中を憂しと恥しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」からの引用。「世の中を嫌な所、身が細るような耐え難い所だと思っても、鳥のように飛んで逃げ去ることなど適わないのだから」と現状を受け入れ、頑張っていくしかないと詠っている。 これはまさにその物ズバリ。小火事件から推理される驚愕の真相に対するある家族へ向けての励ましの言葉か。 最後の「むすびし水のこほれるを」は紀貫之の「袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ」から。「立春の日の今日の風は、袖を浸して掬ったあの水が凍っているのを融かすのだろうか」という意味。 これもまさに沢木が経験したこの一年に身の回りに起きた様々な災禍で変わってしまった周囲の人々の状況を春が来ることでいくらか元通りになるのだろうかという沢木の思いが反映されているように思う。 各編は40~80ページといった分量だが、実は謎とそれへの推理に関するページ数は実に少ない。それ以外は沢木の日常や彼の身の回りのことを語ったエピソードと植物に関する知識などに割かれている。 しかしこれらの謎とは関係のない話は決して無駄ではなく、実はそれらに謎を解き明かす手掛かりが散りばめられているのだ。 しかしこれらの描写や情報を謎への推理の材料として活用するのは読者には困難だろう。本書では作者が見せる謎解きの手捌きの美しさに見惚れれば(読み惚れれば?)いいのだ。 久々に誰かに紹介したい作品に出逢った。冒頭にも書いたように作者澤木喬氏が発表した作品はこのたった1冊だけ。恐らく作者の名もこの作品の存在すらも知らないミステリファンもいることだろう。ぜひとも多くの読んでもらいたい。現在絶版状態であること自体、勿体無い。 再び書店の棚に陳列されるためにも適わぬことかもしれないが澤木氏には20数年ぶりに新作を発表してもらいたいものだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『チップス先生さようなら』で有名なヒルトン。彼の作品は彼のミステリ『学校の殺人』を読んだのみだが、このたび久しぶりに新刊文庫にその名前を見つけたのが本書。
歴史的傑作冒険小説とまで云われているのに惹かれ、読んでみた。 本書は作家ラザフォードが学友コンウェイから船上で聞いた話を著した物語という体裁を取っている。 容姿端麗、学業優秀、おまけに運動神経も抜群で性格も明朗と絵に描いたような好青年でオックスフォードでも名を馳せていたコンウェイをラザフォードは中国の修道院で再会する。その彼の姿はかつての栄光はいずこかと思われるほど、憔悴したものだった。そのコンウェイを介抱し、快復してから日本を経由してサンフランシスコへ向かう汽船上でコンウェイが話した彼が体験した数奇な冒険の内容が本書の物語だ。 政情不安定な地を飛行機で脱出する際、パイロットが何者かに倒され、見知らぬ者が操縦する飛行機で連れてこられたのがチベットと思しき極寒の山中。近くにあるのは寺院シャングリ・ラ。そこでは誰もが年を取るのを忘れ、自らの欲する物を追求し、極めることの出来る楽園。チベットの山奥という環境ながらあらゆる作物が実る渓谷があり、時折訪れる中国からの運送屋から近代的な物も入ってくる。 好むと好まざるとに関らず、そんな辺境の地に連れてこられた4人の男女は当初は一刻も早い帰国を望んでいたが、次第にこの楽園を律する中庸という考え方とある程度の不便を我慢すれば、己の欲するところに心を向け、没頭でき、衣食住には困らず、悪人もいないシャングリ・ラに定住しようと心変わりしていく。 本書の主人公コンウェイは4人の中でもシャングリ・ラの最高位に当たる大ラマにも認められ、次期大ラマへと推挙されるほどになるのだが、同僚のマリンソンに説得され、考えを180度変え、シャングリ・ラを後にする決意をする。 いち早くシャングリ・ラの環境に適応し、魅了されていくコンウェイと、世俗の考えを捨てきれず、ひたすらにシャングリ・ラからの脱出を願う若きマリンソン。 本書の読みどころはこの対照的な2人の考え方がぶつかり合うところだと云っていいだろう。 先に書いたが、そういう意味ではこれは冒険小説ではなく、思想小説の類に近いのではないだろうか。物語の導入部こそハイジャックされるというサスペンスがあるものの、物語の大半は楽園シャングリ・ラで繰り広げられる。 西洋人の面々が東洋の仏教の考えに直面し、次第に感化されていくさまは、作者ヒルトン自身の趣向が反映されているのかもしれないが、発表当時は斬新だっただろう。 この不思議な感覚の物語。読後の今、まだ自分の中で纏まらない想いがある。ちょっとしばらく考えてみよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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リンカーン・ライムが現代に甦ったシャーロック・ホームズ、即ちアナログ型探偵―最新鋭の分析機器で証拠の特性を探るという手法はあるが―だとすると、本作の主人公ワイアット・ジレットは電脳空間(本書では青い虚空(ブルー・ノーウェア)と呼んでいる)を自由に行き来するデジタル型探偵だ。
彼はかつてハッカーの中でも名を馳せたハッカー中のハッカーであったが、犯罪と紙一重のその行為で刑務所に入れられていた。そんな彼が相手をするのはかつて同じハッカーとして同様の実力を持っていた相手フェイトことジョン・パトリック・ホロウェイだ。 殺人鬼フェイトはかつては誰からも好かれる好青年だったが、悪質なハッカー行為をジレットに告発されて逮捕された経験を持つ。それを契機に彼はジョン・パトリック・ホロウェイという人格を捨て、オンラインゲーム「アクセス」の一戦士となって、現実の人間を殺戮し、ポイントを稼ぐようになる。 つまりもはや彼にとってはオフラインの日常とオンラインの日常の区別がつかなくなっており、現実の人間も作られたキャラクターだとみなしているのだ。また古いコンピュータに愛着を抱く点でもオタク中のオタクだと云っていい。物質主義社会にどっぷり漬かった人間だ。 しかしここに書かれている犯罪の完璧さに戦慄を覚える。なんせ容疑者発見の際に掛けた携帯電話がジャックされて犯人へ繋がり、援助が呼べなくなるのだ。さらには堅牢だと思われた学園のセキュリティシステムにも潜入し、得たい情報を得るとそれを元に身分証明書も作成し、身元照合に役立てるなど、また新聞や雑誌の記事で匿名化された取材対象者に対しても、取材した記者のパソコンへ侵入して個人情報を得るなど、もう何が安全でどうやったら個人情報が無事に守られ、平穏な生活が得られるのか不安になってしまう。 この作品を読むと、自分のパソコンが既に誰かに侵入されていると考えても不思議ではなくなってくる。いや逆に安全なパソコンなんて存在しないのではないだろうか? そんな世界中のパソコンに侵入し、情報を自由自在に操るフェイト。さらに彼はソーシャル・エンジニアリングの名手。ソーシャル・エンジニアリングとはいわば本当の自分を隠し、実在する人間、もしくは架空の人間を演じて成りきってしまう技術だ。彼は少年時代に演じることで周囲の注目を集めることを知り、ソーシャル・エンジニアリングの名手となった。これはもう史上最高のシリアルキラーといっても云いだろう。 しかしハッカーという仕事ほど私生活を、家庭を犠牲にするものはない。なにしろ常にウェブにアクセスし、世界中に広がる電脳空間を彷徨い続けるのだから。主人公のジレットは39時間ぶっ通しでアクセスしていたという記録を持っている。しかも彼らにとってその行為は甘美な毒であり、強烈な中毒性を備えているから、離れようとは思わないのだ。逆に少しでも離れてしまうと禁断症状のようにさもキーボードがあるかのように宙を指で叩く仕草をしてしまう。これはもうほとんど病気だ。 そして物語巧者ディーヴァーは今回もあれよあれよとどんでん返しを畳み掛ける。 特に今回は匿名性がまかり通った電脳空間での戦いであるがゆえに、本名とハンドルネームの二重の仕掛けとソーシャル・エンジニアリングという他者を偽る技術が三重四重のどんでん返しを生み出している。後半は読んでて誰が誰だか解らなくなってくるくらいだ。 しかし残念ながら今回の物語はパソコンの専門用語がどんどん出てくるし、特にハッカー、クラッカー連中のスラングが頻出しているのでなかなか理解するのに時間がかかってしまった。つまりページターナーであるディーヴァーの巧みな物語展開に上手く乗ることが出来なかった。 これは私だけでなく多くの読者がそうだろう。常にその道のプロを描くことで物語にリアルをもたらし、その上で読者の予想の常に斜め上を行くサスペンスを提供するディーヴァーだが、今回はそのリアルさがかえって仇になったようだ。 さて次はどのような物語で我々を酔わせてくれるのだろうか。まだまだ未読作品があることがこの上もない愉しみとさせてくれる作家だ。 |
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奇想と民族対立という社会的問題のコラボレーション。
本書を読む際、本格ミステリか民族問題提起の社会派小説か、どちらかに比重を置くことで評価も変わってくるだろう。 本書は大きく分けて3つの構成で成り立っている。 まず表題作の前編があり、その後に『クロアチア人の手』という中編が挿入され、最後にまた表題作の後編が始まるという、そう『帝都衛星軌道』と同じ長編の中に中編が挟まっているという構成だ。 表題作はボスニア・ヘルツェゴヴィアで起きた奇妙な猟奇殺人事件とオンライン・ゲームの話が平行して語られる。 メインの殺人事件は4つの惨殺死体のうち、3つが首を切られ、そのうち1つは心臓以外の内臓が全て取り出され、その代わりに飯盒の蓋やパソコンのマウスなどが内臓に見立てられて入れられているというおぞましい物。しかもクロアチアにはリベルタスという子供の大きさの金属人形の伝説があり、その死体はまさにリベルタスを擬えているという趣向だ。 もう1つの中編『クロアチア人の手』もこれまた奇妙な事件だ。ユーゴスラビアで起きた民族紛争の模様を通奏低音として流しながら、日本で起きた奇妙な密室殺人事件が語られる。 俳句国際コンクールで優秀賞を受賞したクロアチア人ドラガン・ボジョヴィッチとイワン・イヴァンチャンの2人が深川の芭蕉記念会館に宿泊した翌朝、イヴァンチャンの部屋はもぬけの殻となっており、もう1人のボジョヴィッチの部屋では男が密室状態で死んでいた。奇妙なことに部屋の水槽にはロビーの水槽にあったピラニアが入れられ、そこに手と顔を突っ込んだ状態で死んでいたのだ。遺体は右手と瞼と上唇を食いちぎられており、最も奇妙だったのは被害者はボジョヴィッチではなくイヴァンチャンだったということだ。 しかも逃亡したと見られたボジョヴィッチはなんと記念館の前の道路でタクシーに轢かれ、その拍子に持っていたトランクが爆発して死んでしまったというのだった。 いやあ本当に島田氏はとことん奇妙で理解不能な謎をどんどん放り込む。全然衰えないその奇想力に感服する。 この不可解な事件を解決するのがなんと石岡。彼は捜査を担当した寄居刑事が『占星術殺人事件』で知り合って以来御手洗と親交のある竹越刑事の伝手を頼って電話したのをきっかけに捜査に関っていく。 そして御手洗は、というとスウェーデンの大学にいてまたもや電話での出演となる。しかし今回は御手洗の推理が案外長く聞けるので、今までのような不満はないが、やっぱり彼の天才ぶりに現実味を感じないところがあるなぁ。 しかしクロアチアで俳句が盛んだったり、芭蕉記念会館にピラニアを詠んだ近代俳句が傑作だった理由でピラニアが飼われているなんて豆知識が投入されているが本当だろうか?しかしピラニアを詠んだ傑作俳句って一体…。 また余談になるが島田荘司氏の謎のモチーフには生命のないものが血肉を経て奇跡を起こすという幻想的な謎が多い。 デビュー作の『占星術殺人事件』のアゾートがそうだし、それをアレンジした『眩暈』も然り、『龍臥亭幻想』の森考魔王も然り、『ネジ式ザゼツキー』も機械仕掛けの人形が取り上げられている。とまあ一人の作家がこれほど人造人間、人形をテーマに取り上げるのも珍しい。 本書リベルタスもまた同じくブリキで出来た子供人形がクロアチアの前身とされるドゥブロブニクを救ったという寓話がテーマになっている。しかし作者あとがきによればこのリベルタスは全くの作者の創造によるもの。やはり島田氏はこのような人形の持つミステリアスな雰囲気が好きなのだろう。 しかし手垢がついているとはいえ、またこのテーマかと一度は思ってはみてもやはり面白い。 ただ本書はそんなギミックと驚愕の真相のみを評価するには十分ではないだろう。 本書で書きたかった島田氏の主張とはやはり旧ユーゴで起きた民族紛争が落とした暗く深い翳、セルビア人、クロアチア人たちの大きく深い暗黒のような溝にある。一緒の町に住み、一緒に遊んでいた子供達と親、仕事仲間が紛争が起きることでいきなり敵と味方に別れてしまう。それもそれまで深めた親交が全く意味がなかったかのように憎悪の炎を燃やし、家族同士が殺し合い、破壊し尽くし合い、レイプしあう、まさに地獄絵図のような状況に陥るのだ。それを民族の血がそうさせるのだという。 さらに紛争が終わった後も、レイプした者とされた者が以前と同じように同じ町に住み、働いており、顔も合わせるというのだから信じられない。 この民族の神経というものは一体何なのだろうか?感情の針の振り幅が大きすぎ、どうにも理解が出来ない。遠い日本の地でテレビや新聞、週刊誌を通じて伝えられる事実がいかに薄められて我々に提供されているのか、思い知らされた。 しかしそれでいいのだと思う。 世の中には知らなくていいこともあるし、もしありのままにメディアに情報が垂れ流しされていれば恐らくPTSDや人間不信に罹る日本人は増えたであろう。このような書物に触れた人間だけが知ればいいのであろう。 島田氏の世界残酷紀行は今なお続いている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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更科ニッキシリーズの第1作がこの作品。
前回読んだ『だれもがポオを愛していた』はこれに続く作品となるが、一致する登場人物は主人公の更科ニッキのみで、『誰もが~』ではこの事件については触れもされないから単独で楽しめる作品となっている。 実業家の邸宅で起こる3つの殺人事件。現場は全て同じ部屋でしかもジグソーパズルがばら撒かれていたというシチュエーションが一緒というのが本書の事件。 作者は各章及び犯行現場の見取り図をそれぞれパズルのピースに見立て、102片のピースが出揃った時点で読者への挑戦状を提示する。久々にトリックとロジックに特化した本格ミステリを読んだ。 そしてやはりこのシリーズ探偵更科丹希の性格には反感を覚えずにはいられない。殺人事件の謎解きが好きだという点は甘受してもいいが、事件の捜査の過程で人の秘密を暴いてバラすのが好きだと云ったり、犯人の仕業、例えば今回の事件では殺人現場にジグソーパズルがばら撒かれていることに意味がないと嫌だと云ったり、ましてや謎解きの材料がもっと集まるために誰かもう一人死なないかな、などと人の命を軽視する考えを示すに至っては、例え才色兼備であっても、こんな探偵なんかには助けてもらいたくない!と思わざるを得ない。 エキセントリックなキャラクターを案出するのはいいが、本格ミステリが殺人事件を題材にした読者との知恵比べ的要素を前面に押し出した小説とは云っても探偵が人非人であってはならないと思うからだ。人道的、道徳的な感性が欠如しているこの更科丹希という女性がどうしても好きになれない。 そして彼女の推理方法というのが動機には頓着せず、現場に残された証拠と事実のみを重視してトリックを解き明かし、犯人を限定するというもの。 これはつまり裏返せば読者への挑戦状を提示しているが故に、本書に散りばめられた各登場人物の裏側に隠された事情は推理の材料には一切ならないと公言していることになる。 確かに純粋な作者と読者との推理ゲームに徹する姿勢はいいとは思うが、それを極端に演出する為に探偵役の性格を上記のように設定するのはいかがなものか。 そしてやはり推理小説は小説であるから、理のみならず情にも訴えかけるが故に驚愕のトリックやロジックもまた読者の心の底にまで印象が残るのでは、と個人的な見解だ。 「小説を読むことは人生が一度しかないことへの抗議だと思います」 という名言を残したのは北村薫氏だが、この言葉が表すように心に何か残るものがなければ小説ではないのだと私は思う。 自分には起きない出来事を知りたいから、疑似体験したいからこそ人は物語を書き、読むのだ。だからパズルだけでは今の時代では認められないのではないだろうか? こういう作品を読むと私はもはや本格ミステリを読むことは出来ないのではないだろうかと懸念する。読書を重ねるうちに嗜好が変わってしまうのは否めないだろうが、本格ミステリから読書の愉しさに目覚めた私にしてみればこれはすごく寂しいことである。 この真偽については次に小学生の頃からミステリに離れていた私を再び読書好き、ミステリ好きに開眼させてくれた島田荘司氏の作品を読むことで再度確認したいと思う。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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すこぶる腕の立つ私立探偵なのだが、三度の飯よりもサーフィンが好きなせいでそのためにはどんな依頼よりもサーフィンを優先する。そんな魅力的な探偵ブーン・ダニエルズがウィンズロウの新シリーズの主役だ。
まずもうのっけから作品世界にのめり込むほどの面白さ。ところどころに織り込まれるエピソードが面白く、一気に引き込まれてしまった。 恐らく亡くなった児玉清氏が存命で本書を読んだなら快哉を挙げること、間違いないだろう。 まずブーン・ダニエルズの造形が素晴らしい。 両親ともにサーファーで母親が妊娠六ヶ月の頃から波に乗っていた、「海から生まれた子」。2歳で親父のサーフィンボードに乗せられ、7歳で初サーフィン、11歳で新米サーファーとなり、14歳になる頃には数多のプロサーフチームからスカウトを受ける―この件で登場するブーンの両親たちが実に愛情に満ち溢れていて素晴らしい―。 しかし純粋にサーフィンを愉しみたかった彼はその道を選ばず、刑事になり、その職を辞し、私立探偵業を営む。 そして彼を取り巻くサーフィン仲間“ドーン・パトロール”の面々の造形もまた実に魅力的なのだ。 日系人でサンディエゴ市警殺人課刑事のジョニー・バンザイは仲間のブレイン的存在。 水難救助員のデイヴ・ザ・ラブゴッドはギリシア彫刻のモデルになるほどの美男子でナンパ成功率100%。 チームで一番の若手ハング・トゥエルブはサーファーショップの店員でいいムードメーカー。その仇名の由来がまた実にウィンズロウらしい―なんと足の指が12本あるのだ!―。 海に入ると水位が上がるとまで云われている160キロの巨漢ハイ・タイドはサンディエゴ公共事業課作業監督だが、何しろ食べ物に詳しい。 そして紅一点サニー・デイはブーンを凌ぐサーフィンの腕前でウェイトレスをしながらプロサーファーを目指している、夢に出てくるような“カリフォルニア・ガール”。 もうこの彼らの人物設定だけでこの物語が面白いものになると確信してしまった。 そして彼らがいかにブーンと関りあうことになったのか、それらのエピソードがどれもキラキラとして美しい。 幼馴染の頃からブーンと親しい者や決して幸せでなかった者が彼に声をかけられることでサーフィンというやり甲斐を見つけ、“ドーン・パトロール”の仲間になっていく。 とまあ、ご機嫌な奴らが繰り広げられる物語はオフビートな語り口で軽快に流れていくのだが、ブーンが捜査していくうちに判明する真実は重い。 カリフォルニアの燦々たる陽光の下で繰り広げられた物語に、光が強ければ影もまた濃くなるという犯罪社会の現実をウィンズロウは痛烈に投げかける。 本音を云えば、前作『フランキー・マシーンの冬』のように痛快に物語を突っ走って欲しかった。最後の展開はあまりに重く、なかなかページを繰る手が進まなくなるような描写もあった。 『犬の力』でメキシコの悲惨な社会状況を教えてくれたが、人身売買、少女買春のエピソードが頻出する後半のテイストはそれに似ている。 しかし『カリフォルニアの炎』、『フランキー・マシーンの冬』と(間に『犬の力』を挟むものの)ここ最近訳出された作品には共通してサーファーが主人公になっている。 しかしこれらの作品と決定的に違うのは今回はサーフィンが人生を彩るスパイスに留まらず、サーフィンの申し子のような男であり、また彼の仲間とサーフィンチームを作っており、それぞれも個性的な面々であるという点でサーフィンに対する想いが一層強くなっていることだ。 本書は新シリーズの1作目だと謳われている。恐らく今後もブーンたち“ドーン・パトロール”のメンバー達はサーフィンに興じながら一致団結して事件を、降りかかる災厄を解決していくことだろう。 特にブーンは過去警官時代に解決できなかった少女誘拐事件の犯人の追跡が残っており、これが今後シリーズにどう絡むのか興味深いところだ。 そして今回ビッグ・ウェーヴに見事に乗り、一躍時の人となったサニーの今後もまた非常に気になる。彼女がいるのといないのとではシリーズの彩りが変わることは必定だから、この展開はまさに痛し痒しである。 最後に忘れてはならないのはやはりウィンズロウは名文家だということ。読んでいて思わず心に留めたくなる言葉に満ちている。 “波に乗るのは、水に乗る行為ではない。水は媒介にすぎず、じつはエネルギーに乗っている” “家系というものはあくまで土台であり、錨であってはならない” なんと魅力的な言葉たちではないか。 そして今回最もジーンと残る文章は最後の一行にある(“何であろうと、トルティーヤにのっけりゃ旨くなる”)。それがどんな文章かは読んで確かめて欲しい。 しかし今回訳者が東江氏から中山宥氏に代わったが、全く違和感がなかった。ウィンズロウ作品の読みどころを実によく捉えた文章だ。東江はやはり仕事を多く抱えて、手が回らなかったのだろう。 さて中山氏という優秀な訳者を得たことだし、これからもっと短いサイクルでウィンズロウ作品が訳出されることを期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ジョン・ペラムシリーズ3作目。なんと前作『ブラッディ・リバー・ブルース』から9年ぶりの刊行だ。
これほどブランクが空いたのはやはりリンカーン・ライムシリーズが受けたため、そちらにかかりっきりになっていたからだろう。 今回の事件は放火。放火事件では日本と違い、警察だけでなく、それを専門にした火災調査官という職業の人間が現地調査に当たる。 ドン・ウィンズロウの『カリフォルニアの炎』でも詳細に語られていたが、アメリカの火災を装った保険金詐欺の現状はかなり深刻で、調査官はまず起きた火災が所有者の仕業ではないかを疑うらしい。したがってそれを裏付ける証拠や状況が見られるものならば、即座にその前提で調査を進めるのだ。 ペラムが撮っているヘルズ・キッチンのドキュメント映画のメイン・キャストになる女性エティ・ワシントンが自分のアパートを保険金詐欺を図ろうと放火した容疑で逮捕される。彼女の無実を証明するため、ペラムはヘルズ・キッチンを駆け巡る、というのが物語の骨子。 ジョン・ペラムはディーヴァーの他の作品のキャラと違い、女性関係が奔放である。映画産業に関わる人間ということで彼に接近する女性も多いのは確かだが、事件のたびに登場人物の1人と寝る。実にアメリカ的エンタテインメント作品の典型的な主人公だと云えよう。 ディーヴァー初期のシリーズであるこの作品が今や彼の看板作品となったリンカーン・ライムシリーズを経て、どのように生まれかわったのかが興味を惹くところだったが、意外にもディーヴァーはライムシリーズやその他のノンシリーズで売り物にしている息を吐かせぬ危機また危機の連続やタイムリミットサスペンスといったような展開を取らず、このシリーズの前2作同様に主人公のジョン・ペラムがじっくりと訪れた町を彷徨し、町に隠された貌を知っていく作りになっている。 登場人物一覧表に記載されてない人物のなんと多いことか。ディーヴァーはそれまでに培った上記の手法を敢えて取らずにシリーズ全体のバランスを優先したようだ。 しかしこれはディーヴァー作品を読んできた者にすれば、逆行した形になって不満が残るかもしれない。 でも長らく中断していたこのシリーズが、ライムが異郷の地で捜査をした『エンプティー・チェア』の後にこの作品が書かれたことは興味深い。もしかしたら『エンプティー・チェア』を書いている最中にペラムシリーズとの類似性に気付いたのかもしれない。 また真相もどんでん返しというよりも通常のミステリが放つサプライズといった感じだ。 ヘルズ・キッチン―なお現在は正式にはクリントンという名前らしい。これはやはりあの大統領に由来するのだろうか―は裏切りの町。誰もが自分を少しでも幸せにするため、出し抜こうとする。そんな町でまたもやペラムは裏切られる。 今回ペラムがどうして赤の他人の人間のために命を奪われそうになるまで捜査をするのか、その理由が判らなかったが、最後の最後で判明する。 これで恐らくこのシリーズは終わりだろう。彼の売れない作家時代を支えたこのシリーズの終焉を素直に祝福しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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シリーズの主人公エラリイは全く登場せず、純粋にその父親リチャード警視―本作では既に定年退職しているので正確には元警視―が事件解決に当たる物語。
これは現在世間ではエラリイ・クイーンシリーズの1つとして扱われているが、現代ならばスピンオフ作品とするのが妥当だろう。 クイーン元警視が主人公ということで物語の趣向は従来のパズラーから警察小説、いやプライヴェート・アイ小説に変わってきているのが興味深い。つまり証拠を元に推理するプロセスではなく、足と刑事の勘で捜査を進めていき、容疑者を犯人と断定する決定的な証拠がない時点でも直接的に自身の推理を披瀝し、容疑者にプレッシャーをかけるという手法を取っている。これがクイーンのシリーズ作品としては実に珍しいことだ。 そして警察小説ではなく、プライヴェート・アイ小説と訂正したのは既に警察を退職したリチャードがなかなか口を割らない容疑者を落とすため、警察が踏むべき手順を逸脱した捜査方法を取るからだ。 捜査令状を抜きにした不法侵入に証拠捏造。エラリイが活躍する作品では良識という存在だったリチャードがこれほどまでぶっ飛んだことをやるとは思わなかった。 これは思うに作者クイーンが私立探偵小説なるものを書きたかったに違いない。そこで理詰めで考えて行動するエラリイではその趣向には合わないとしてリチャードを退職警官と設定して著したのではないか。 だから肝心の事件の真相は私の予想したとおりだった。これは恐らく当時としてはショッキングな真相かつ驚愕の真相だったかもしれないが、現在となっては別段目新しさを感じないし、恐らく読者の半分くらいは真相を見破ることが出来るのではないだろうか。 もしかしたらそれ故に本書が長らく絶版の憂き目に遭っているのかもしれない。 しかし本書でもっとも面白いのは物語のサイドストーリーとしてリチャード・クイーンとハンフリイ家の保母ジェッシイ・シャーウッドの恋物語が語られることだ。前妻を亡くして30年後に訪れた我が世の春。熟年男女の恋愛が物語の横軸になろうなんてかつてのクイーン作品では考えられなかった演出だ。 63歳という年齢でありながら50代の夫人を魅了するリチャード。やもめが長かっただけになかなか本意を伝えず、不器用で拙い付き合い方を示す彼と看護婦一筋で人生を送ってきたジェッシイのようやく訪れた春を受け入れようか入れまいかと葛藤する熟年同士の恋模様は、今では稀有な純情恋物語としても読め、物語の絶妙なスパイスとなった。 とまあ、今回はリチャードが実は無頼派の気質を持っていることや老境に至ってなお女性を魅了する雰囲気を備えていることなど、シリーズでは垣間見れなかった意外な一面が見れたことで個人的には面白かった。そしてジェシイ・シャーウッドとの関係が次回作以降、どのようにシリーズに関ってくるのか非常に愉しみである。 今までどおり何もなかったかのようにいつもの様子で物語が展開するかもしれないが・・・。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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どうやらシリーズ物らしく、『オレたちバブル入行組』の続編に当るようだ。なぜこんな書き方をするのかと云えば、実はこの作家の作品を読むのは本書が初めて。
乱歩賞作家で名前は認知していたが、食指が伸びず、私の読書人生の線上には乗らないだろうと思っていたが、上司から出張先で頂き、そのまま捨てるにはもったいないということで読んだ次第。 率直な感想としては面白かったといえるだろう。銀行を舞台にした経済小説というよりも企業小説で、主人公の半沢の反骨精神が本書のキモだ。 次長の身分で自らの上司、他部署の部長のみならず、各支店の支店長はおろか常務取締役や頭取までにも食いつく。いくら仕事がデキルからといって、こんなあちこちに自分の道理を通して我が道を行き、歯に衣を着せない言動を行うサラリーマンなんているわけがない。ましては旧弊的な風習の残る銀行業界だから何をかいわんや。 一般企業に勤める私でさえ、読みながらこれは夢物語だ、日本とよく似た世界での出来事だと思ってしまう。 しかしこういう風に思ってしまうこと自体、私が年取ってしまったのだろう。 20代の頃は自分の理想に少しでも近づけようと時に横暴にふるまって意志を通してきた。それがカッコいいと思っていた節もあるし、俺がやらなきゃ誰がやるんだ?といった妙な正義感に駆られていたように思う。半沢を見ているとかつての自分がいるかのように思えた。 しかしこの年になってくると自分を通すことがいかに周囲の理解と協力の下に成り立ってきたのかが解り、またそれによって犠牲にさせてしまったことも少なからずあることを知ってしまった。 だから若いころのように純粋な気持ちで自分を貫くよりも周囲への配慮を優先してしまうようになっていた。 正直云って主人公の半沢は会社という組織の中では異端分子であり、同じ部署で同僚にしたくもないし、もちろん部下にも持ちたくない人物だ。 作者は銀行マンから作家に転向した人だから、銀行マン時代に云いたくても云えなかったことを彼に代弁させていると容易に推測できる。つまり半沢こそ作者の理想像なのだろう。 そして本書を読むサラリーマン全てが自分ではできない言動をわが身を省みずに行う半沢に日頃の鬱憤を晴らすヒーローとして重ね合わせていることだろう。 さて物語だが、半沢を中心に大きく分けて3つのエピソードから成り立っている。 1つは冒頭から展開する融資した伊勢崎ホテルという老舗ホテルの莫大な損益をいかに解決するかという話。 そしてもう1つは半沢のいる銀行からタミヤ電機という会社に出向になった近藤直弼の再生の話。 そして最後は金融庁の黒崎検査官という凄腕の検査官の検査をいかにしのぐかという話だ。 これらは最初は独立していながらも徐々に漸近していき、密接に関わってくる。しかもそれらは有機的に関係を持ち、一方が一方において致命的な原因になったり、また他方では絶体絶命の窮地を打開する切り札になったりと実にうまく絡み合っていく。この辺のストーリーの運び方とプロットの巧みさには感心する物があった。 特に金融業という一般の人にはなかなか入り込みにくい題材を平易に噛み砕いて淀みなく語って読者に立ち止まらせることなく進行させるのだから、この読みやすさは実は驚異的だと云ってもいいだろう。 この面白さに気付くのは本書を手に取った人のみだというのは至極当たり前のことだが、そういう意味では本書は実に題名で損をしていると思う。 実際私がそうだったのだが、バブルを経験していない社会人はバブル入社組に色眼鏡をかけて見ているところがある。戦後まれに見る好景気で名前さえ書ければ馬鹿でもアホでも入社できた時代、そんな認識があるのだ。 特にその頃もてはやされたのはオツムは足りなくても体力に自信のある、いわゆる体育会系の人物で、実際私の勤める会社にもバブル入社の人間は妙に体格のいい人間がそろっており、しかもそういった人種の例に洩れず、尊大で傲慢な人も見受けられる。そんな偏見と先入観を持っていたため、「バブル組」=「バカ集団」という図式があった。しかし本書を読んで認識を改めた。 実は彼らこそ会社における犠牲者なのだということに気付かされた。作中、登場人物の一人で半沢の相棒渡真利が云うには彼らの世代は全共闘世代が何も考えずに金融業を迷走させたツケを払わされており、しかも同期が大量にいるからずっと出世競争に晒され、戦々恐々としているのだと。 今まで私は彼らをそんな風に思ったことはなかった。確かに競争の厳しい世代であるだろうことは解るが、ここまで逼迫した世代だとは思わなかった。 確かにこれがまるまる私の会社に当てはまるとは思わないが、上に書いたような先入観が長らく私の中にあっただけに、この事実は新鮮だった。 今後この作家の小説を読むとは解らないし、おそらくはないだろうが、本書は読んで良かったと思える作品だった。 やはり本を読むということ、その作品をその時に読むということは何か見えざる者に導かれているように以前から感じていたが、今回も同様の思いだ。 さて次に上司はどんな本を勧めてくれるのか。本書を読んでそれが楽しみの1つとなってきた。 |
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リンカーン・ライム3作目はライムのテリトリーであるニューヨークを離れたノースカロライナ州のパケノーク郡なる異郷の田舎町での捜査。
ニューヨークのどこにどんな土があり、どんな建物が建っているか、手に取るように熟知していたライムだが、やはり異郷の地ではそれが通用せず、また現地捜査官の捜査レベルの低さに失望を禁じえない。 作中で例えられているように世界一の犯罪学者と称された彼もそこでは“陸に上がった魚”で、いつものような調子が出ない。 さらにライムとアメリアに捜査協力を頼んだ保安官ジム・ベル―なんと『コフィン・ダンサー』で活躍したローランド・ベルのいとこ!―が殊更に彼ら2人を優遇するものだから、地元の保安官連中は面白くない。そんな軋轢との戦いも今回は要素に加わっている。 さらに今回は今まで師弟関係と愛情を分かち合う強い絆で結ばれていたライムとアメリアの関係に変化が訪れる。なんとアメリアがライムの意見を疑問視し、犯人と思われる少年を留置場から逃がして独自の判断で捜査に臨むのだ。 証拠が全てだという現代に甦ったシャーロック・ホームズとも云えるライムの考えと容疑者に直に対峙したアメリアの直感が錯綜する。云わば理と情の錯綜だ。 そして読んでいるこちらはどちらが正しいのかハラハラしながら読むようになる。 そして今回も追うべき犯人の素性は判っている。ただ前作はライムたちにとって未詳であったが、読者たちにとっては犯人の身元は判っていた。今回はライムたちも判っているところに違いがある。 これがまた曲者で、はてさてどんなサプライズがあるのかと身構えてしまう。 その追われる犯人とはギャレット・ハンロンという16歳の少年。養子として迎えいられたものの馴染めず、浮浪少年のように気に食わない人間がいれば暴力に訴え、拉致したりするという癌ともいうべき存在である。 彼はまた昆虫を愛でる“昆虫少年”と呼ばれており、その知能は年齢にそぐわない専門書を読解するくらい高い。彼はその仇名のとおり、昆虫に関する知識を基に行動し、大人達を手玉に取る。特にハチを味方につけて、生物トラップとして活用し、彼を追う者達へ容赦ない痛手を負わせる。 やはり今回もどんでん返しがあった。それは一概にこれだ!と云えるものではなく、あらゆる要素に亘って読者の予想の上をいく展開を見せていると思う。 特に今回は事件の本質自体が変わっている。前2作が連続殺人鬼対名探偵というシンプルな構成にその正体にサプライズを仕込んでいた。そして今回はライムが協力を依頼されたのは誘拐事件で犯人の居所およびその獲保と監禁されている被誘拐者の救出だったのが、捜査が進むにつれ、本当の巨悪が見えてくるという構図になっている。 しかしなによりも今回のどんでん返しは警官殺しの罪に問われたサックスの処分だろう。これは私も凄いと思った。 どうにもならない事実をひっくり返すのにこれほど得心のいく新事実もない。いやあ、やはりディーヴァーはディーヴァーなのだなぁと感嘆した次第。 またシリーズ3作目になっても更なる鑑識に関する知識を提供しながら、今回は“昆虫少年”ギャレットが作中で色んな昆虫に纏わる習性や特殊な能力について薀蓄を傾ける。 しかし上に述べた様々な手法や技法を駆使してはいるものの、物語としてはいささか盛り上がりにかけるように思えた。 シリーズ物でありながらも作品ごとに趣向を変えるディーヴァー。今回はリアルタイムで殺人が起きるというものでなく、追う者と追われる者の頭脳合戦という構図を描きながら、それを包含する大きな構図を徐々に展開するという趣向だったが、個人的にはライムの唯我独尊ぶりが低減され、逆にこの話ではライムよりも他の人物の方がよかったのではないかと思わされた。 今回は証拠が語る事実を重視する捜査方法よりも捜査経験豊富なベテラン刑事が直感に頼って捜査を進める手法の方が適していたように思う。 さて今回の題名ともなっているエンプティ・チェアーとは「エンプティ・チェアー療法」に由来する。これは空っぽの椅子を患者の前に置き、患者にそこに座っている者を想像させ、色んな質問を投げかけ、それを椅子に向かって応えさせることで、患者の深層心理で抱えている感情を引き出し、更生させるという方法だ。 しかし果たして今回それが題名になるほど物語に大きな役割を果たしていたかというと甚だ疑問だ。私が読んだのは文庫本だが、文庫本の表紙にあるように今回の影の主役は蜂だし、またメインとなるのはギャレット・ハンロンという“昆虫少年”がメインだから、それに倣った題名の方が的を射ていると思う(原文が不明だから憶測でしかないが、やはり『インセクト・ボーイ』か『バグ・ボーイ』なのだろうか?)。 また『悪魔の涙』に引き続いてファンサービスというべき一文があった。ライムがギャレットの隠れ家に来たときに心中でもらす人物、元FBI交渉人アーサー・ポターは『静寂の叫び』の主人公。ここにもまたディーヴァーの作品世界の膨らみを感じさせてくれる演出があった。今回は一行で、しかもライムの心情吐露の部分での名のみでの登場なので気付かない人もいたのではないだろうか。 ということで前作『コフィン・ダンサー』が1作目を超えるエンタテインメント性とどんでん返しの意外性を備えた稀有の傑作だっただけに今回の作品はどちらかといえば“静”のディーヴァーだったように感じた。 しかしこの先の彼の作品がさらに盛り上がりを見せることを知っているがゆえに彼の作品の期待感は高まるばかりだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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全てのモチーフがポオの作品に繋がっていた。そんなポオ尽くしの奇妙な事件。
本書は数あるガイドブックで時折取り上げられる作品。それほど評価が高いのであれば食指が動くというもの。どれどれといった感じで読んでみた。 本書では捜査に当たったボルティモア市警のナゲット・マクドナルド警部の私記という体裁を取っている。そのため、創元推理文庫特有の国内作品の英題表記のページにわざわざその旨が謳われているという芸の細かさにニヤリとしてしまった。 しかも“読者への挑戦状”付のど真ん中の本格ミステリ。久々にこの挑戦状を見た。 だが哀しいかな、この頃には私は既にこの作品に対する興味を失っていた。 あいにく私はポオに疎く、読んだ作品は『モルグ街の殺人』、『黄金虫』、『黒猫』の3作品しかない。本書でメインモチーフとして扱われている『アッシャー家の崩壊』は未読の為、十分に愉しむことが出来なかったのだ。 そのため、作中で繰り広げられるポオの作品に擬えた犯罪の数々と登場人物が折に触れ語るポオ作品との関連性に逆に辟易としてしまった。 こういった作品とはやはりモチーフとなるものに読者もある程度の造詣を持っていないと、乱痴気騒ぎを窓の向こうから見ているような冷めた目線で読んでしまいがちだ。それはある種その仲間に入っていけないものにとってパーティとは騒音以外なにものでもなくなってしまうのと同様に、作中で出てくるポオ作品のモチーフの数々が作品の進行を妨げているようにしか、思えなかったのが辛い。 確かに明かされる一連の事件の流れは確かに理路整然とした本格ミステリなのだが、謎を魅力的にするファクターに乏しかった。それもそのはずで、作者は作中で主人公のニッキに動機や陰謀などは興味がなく、誰がどのように動いたら一番合理的かを推理する方法を探り当てるのが彼女の推理作法だと云わせている。つまり人間の“情” ではなく、あくまで“理”を追及する作品であるのもこの要因の1つだと考えられる。 しかしそれでもなお本書の面白さがあまり伝わらなかった。特に本書ではエピローグの作者の分身ともいえる人物にポオの『アッシャー家の崩壊』に関する新解釈が収録されているが、原作を読んでいない私にとって全く以ってどうでもいいような内容だった。 こんな趣向も含めてもしも私がポオを読んでいたらこの評価もガクンと上がるのではないだろうか? ともあれ久々に自分に合わない本を読んだ。それほどこだわりのない人ならばポオ経験なしでも十分楽しめるが、経験者の盛り上がり様はいかほどだろうか。 次に読む本が読書の愉悦に浸れる作品であることを祈りつつ、この感想を閉めよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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今回はノンシリーズの1作だが、嬉しいことにリンカーン・ライムが脇役で登場する。シーンは短いがその後の捜査に関する手掛かりを提示するので友情出演といった趣がある。
ワシントン市を相手取り、市を相手に身代金を要求する恐喝犯。4時間ごとに無差別殺人を起こすと宣言する男はしかし、殺人を犯すのは別の暗殺者と周到な計画で臨む。 この磐石と思われた犯罪計画が、トラックの運転手のわき見運転による信号無視で脆くも崩れ去る。明晰な脅迫者が突然死を迎えることで斯くも素晴らしいノンストップアクション作品が生まれるのか。 この見えない暗殺者に対抗するのが元FBI科学犯罪文書研究室の捜査官で離職後の今は文書検査士として自宅勤務をしているパーカー・キンケイド。彼の文章に隠された秘密を見抜く力、そしてそれらを分析・解析するプロセスは非常に面白い。直筆の文書も書中に掲載され、その中に隠された犯人の意図や性格を作中の彼の言葉を借りれば、パズルを解くが如く、あれよあれよと解明されていく。 例えば本書の題名は恐喝犯が遺した手紙の筆跡のある特徴に由来する。「i」の点が上に尻尾を伸ばし、水滴のような形を残していて、それをパーカーは「悪魔の涙」と呼んでいたのだ。これら文書に纏わるエピソードはたくさんあるが、特にビックリしたのはインクについて一部のメーカーは製造場所が判るように化学的なタグをつけていること。こんな薀蓄が私の知的好奇心をくすぐってしまう。 さらに取り調べ相手に与えた飲み物を入れたマグの表面に圧力を感知する仕掛けがあって、取っ手にマイクロチップ、バッテリーと送信機が仕込まれていて指紋がその場でデジタルデータとしてパソコンに送信されるなどという驚異のシステムがあることを初めて知った。 ディーヴァーはよく息をつかせぬスピーディな展開とどんでん返しが専売特許のように巷間では賞賛されているが実はそれだけではない。彼の精緻を極める取材力が登場人物たちを実在する人物であるかのごとく、読者の眼前に浮かび上がらせるからだ。 彼の作品に登場するFBI、市警の面々の捜査と彼らが交わす会話のディテールはまさしくその道のプロフェッショナルが放つ言葉そのものだ。だからこそ読者は普段垣間見れない世界を彼の作品を通じて教えられ、実際の捜査がものすごく高度な知的労働であることを思い知らされる。 さらに挙げるならば組み合わせの妙。前述したように本書では世界一の犯罪学者と称されるリンカーン・ライムも登場するが、彼は脇役に過ぎない。あくまで主役は文書検査を生業とするパーカー・キンケイドだ。 思うに今回のプロットはライムシリーズとしても全然損色なく最上のエンタテインメントが作れただろう。しかしあえて作者は文書検査士という職業の者を選んだ。この普段我々が接することのない職業の崇高さ、高度な技術と知識を要することを上手く物語に溶け込ませることで彼が主役であるべきだと説得している。 大晦日のワシントンを襲った無札別殺人テロに対抗する相手が文書検査士なんて発想はなかなか、いやめったに浮かばないだろう。この一見ミスマッチといえる組み合わせを用いながら、さも彼が捜査に加わって中心人物となることが必然であるかのように見せる文章運びの巧みさ。これらがディーヴァーを現代アメリカミステリの第一人者として知らしめているのだ。 さらにモチーフとなる業界や専門分野を登場人物たちの心情に絡ませるのも上手い。 『コフィン・ダンサー』では航空業界の人間をターゲットにしつつ、飛行機に対する思いをロマンスに上手く擬え、さらにライムの窓際に巣食っていたハヤブサのエピソードまでも因子として組み込んでいたが、本書でも同じく文書分析を登場人物の心情に上手く絡ませている。特に捜査班のリーダー、女傑のマーガレット・ルーカスの亡き息子が残した手紙から偲ばれる人柄について一度パーカーは筆跡は人柄を示さないと一蹴して、反感を買いながらも、打ち解けるにつれて「筆跡は精神の指紋だ」と述べ、二人の距離を縮めさせるあたりは非常に上手い。 最初はプロとして腕を買われたパーカーが気概もあったのだろう、あくまで感情をはさまずにプロとして放った言葉を、共に修羅場を経験するにつれて同族意識と愛に似た感情を抱くにつれ、本当の感情を吐かせる、この段階的に親和性を深めさせるプロセスが上手いと思うのだ。 しかしとはいってもディーヴァーを語るにどんでん返しを抜きには語れない。今回も大晦日が明ける夜の0時までの殺人予告というタイムリミットサスペンスを展開しながら、どんでん返しが待っていた。技法としてはけっこう、いやかなりあざとい感じがした。 彼が独白する一連の事件の背後に隠れた計画は、どうにもこじつけのように感じてしまった。 また折に触れ物語の表層に浮上するゲリー・モスの存在が逆に事件との関連がないままだったのが残念だった。議員汚職を告発し、テロに遭って家を失い、自身も重症を負って入院中の身である彼のこの事件がなんらかの因子となるのではと思っていたのだが。逆にこういうところがディーヴァーらしくないと思った。 作品の質としては悪くはない。寧ろ標準以上だろう。先に述べたように直筆の脅迫状を掲載してそれについて主人公パーカーに分析させるなど、読者の眼前で実際のFBIの捜査が繰り広げられているようなリアリティをもたらせている。 だからこそ逆に本書はストレートに終息する方がよかったように思う。どんでん返しが逆に仇になってしまった。また既にディーヴァーに高いハードルを課した自分に気付かされた一冊でもあった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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僅か270ページの分量に18もの作品が収録されたクイーンのショートショートミステリ集。しかもそれぞれ犯罪別の課に割り当てられた事件だという懲りようだ。
まずは恐喝課の事件「金は語る」。 イギリスから移住してきたミス・アルフレードというのが推理の鍵だが、イギリス英語とアメリカ英語の違いは日本人には解らないだろう。英語母国圏の人に通ずるミステリではある。 次は偽装課の事件「代理人の問題」は世紀の対決と云われるボクシングのタイトルマッチを控えた1時間半前に挑戦者が誘拐されるという事件が起きる。 身代金引渡しの代理人として指名されたエラリイは何とか犯人を捕まえようと明晰な頭脳を働かせる。これは少し注意をして読めばわかったであろう真相だ。 ネタ的には「金は語る」同様、物に関する呼び方の違いが事件解決の手掛かりになっている。 不可能犯罪課の事件「三人の寡婦」は遺産相続を待つ姉妹の障害となる義理の母親が毒殺されるのだが、その毒がいかに盛られたかを探る問題。 これは一見あざといと思われるが、よくよく考えると作者は細かいところまで仕掛けを施している。 こんな課があるのか寡聞にして知らないが珍書課が手がけた事件「変わり者の学部長」はシェイクスピア研究の権威であるニューヨークのとある大学の教授ホープ博士が見舞われたある災難のお話。 これは個人的ベスト。謎は比較的易しく、正直一瞬にして犯人は解った。 しかし何よりもホープ博士が無意識に発するスプーナリズムという2語以上の単語の最初の音を互いに入れ違って発音する癖が非常に面白い。この癖で通常の言葉がかなり変わった内容になってしまうというのだ。もちろん真相もそれを見事に手掛かりにした物で、さらに題名の原題さえもその言葉遊びに徹しているクイーンの遊び心が憎めない。泡坂妻夫氏が書きそうな一編だ。 ミステリと云えば必ず登場するのが殺人課。彼らの事件「運転席」は鉱山会社の共同経営者である3兄妹が亡き長男の妻に株を買い占められ、退任せざるを得なくなった状況下で起きた未亡人殺人事件の犯人を探るもの。 本書では明記はされていないものの、解決場面の前に一行、間が開けられており、これが暗に問題編と解決編の分水嶺になっていることを示しているのだが、本書においてはそれが機能していない。 公園巡視課という実在するか判らない部課の事件が「角砂糖」だ。 日本のドラマに出てきそうな未解決事件課の事件「匿された金」は強盗が仲間から騙し取ったお金を巡る事件を扱っている。 チェスタトンのある有名な短編を想起させる真相だが、あまりに唐突過ぎる。たった10ページで語らずにもっと分量を割いてほしいところだ。 ここまで来ると何でもあり感が漂う横領課の事件を扱ったのが「九官鳥」。 クイーンでは初ではないかと思われる倒叙物のテイストを含んだ作品。しかし推理の材料が犯行直前に行われたトランプによるくじ引きで誰が指名されたかで糾弾されるのはなんとも非現実的。もっと調べることがあるだろう!と思わされる作品だ。 これは絶対ないだろう、自殺課は。そんな課が扱った事件が「名誉の問題」。 過去の手紙が事件の引き金となる。これは正に『災厄の町』の原型、もしくは同じ主題を扱ったアレンジ作品だ。しかしやはりショートショートゆえに醜聞となりうる手紙の内容そのものには触れず、バークの犯人探しに終始する。バークが遺した文章が手掛かりとなり、犯人が特定されるが、冒頭の1篇「金は語る」同様、アメリカ英語と英国英語の違いが推理の鍵となるのは二番煎じの感が否めない。こちらの方が解りやすいのはあるが。 エラリイが久々にライツヴィルに還って活躍するのが「ライツヴィルの盗賊」。担当は強奪課だ。 本書中、最長の作品(とはいっても30ページ強だが)。やはりクイーンはライツヴィルが舞台となると熱くなるのだろうか。あとやたらと登場人物が頻出し、途中で訳が判らなくなってしまった。 詐取課の事件は「あなたのお金を倍に」という詐欺の事件。 詐欺師の事件を扱いながらも密室消失事件が謎というのはいかにもクイーンらしい。そしてこのトリックはシンプルがゆえに効果的だ。また詐欺の手口もシンプルなゆえに21世紀の今でも行われていると言う意味では今日的ではある。 ここまで来るともう驚かなくなってくる。埋宝課の事件「守銭奴の黄金」はポーの「盗まれた手紙」へのオマージュだ。 壁一面、もしくは床一面に貼りめぐらすという至極単純な解答を予想していたが、作中でも云われているようにこれはポーの「盗まれた手紙」へのオマージュ。つまりいつも目のつくところほど気付きにくいという盲点を利用したトリック。 もはやハリー・ポッターの領域である、続く魔術課の事件は「七月の雪つぶて」。 列車消失という大ネタを用意しながらいささか内容が弱い1作。最後の台詞も効果的だとは思えない。 すごく限定された犯罪の課、儀相続人課の事件「タイムズ・スクウェアの魔女」はタイムズ・スクウェアの魔女と称される女性が疎遠になった唯一の血族である彼女の甥に遺産を相続しようとした途端、甥だと名乗る2人の男性が現れるという話。 唯一“読者への挑戦状”が挿入された1編だが、その謎解きはフェアとは云い難い。 不正企業家の事件「賭博クラブ」もまた詐欺事件がテーマだ。 これも事件の真相よりも詐欺の手口の方が面白い。正直犯人が誰なのかはどうでもよくなってしまった。 ここまで来ると噴飯物の課、死に際の伝言課の事件は「GI物語」。老人が残したダイイングメッセージ、“GI”の意味を解き明かす。 GI=軍隊上がりというのはあまりに陳腐だからさすがにそれを作者はしない。クイーンはダイイングメッセージ物を数多く著しているが、本書もそのヴァリエーションの1つ。 最後から2番目にして久々に実在する課が現れた。麻薬課の事件「黒い台帳」は有力な麻薬売人を記した黒い台帳の移送を頼まれたエラリイが拉致され、丸裸にされたにもかかわらず、件の台帳が見つからなかった謎が挙げられている。 最後、誘拐課の事件「消えた子供」は利発でありながら家庭環境に恵まれない子ビリー・ハーパーの誘拐事件を扱ったもの。 これは誘拐事件の新聞記事を見て覚えていた書面をそのまま書いたというエラリイのロジックの妙に感心した。しかもたった7歳の子が犯罪を犯すというのは彼自身のある傑作を想起させる。 本書はクイーンによるミステリ小ネタ集と云っていいだろう。恐らく長編に成りえなかった事件のトリックを上手く料理して、正味10ページぐらいのミニミステリにしている。確かにそれぞれの事件は小ネタ感は拭えないものの、アイデア一つでは長編になりうるネタも揃っている。 本書における個人的ベスト作品は「変わり者の学部長」だ。とにかく物語の設定にも使われていた単語の一番上の子音と母音を入れ替えて話をするスプーナリズムという症状が非常に面白く、ためになった。 またミステリ界の巨匠とも云える有名な作品へのオマージュがそこここに見られるのも特徴的か。 「匿された金」はG・K・チェスタトンの「見えない男」の影響を感じるし、「守銭奴の黄金」はポーの盗まれた手紙の主題そのままだ。他にもどちらが卵で鶏か知らないか、クイーン自身の作品をモチーフに扱ったものもあった。例えば「名誉の問題」は「災厄の町」、「消えた子供」は「Yの悲劇」といったように。 ただ『犯罪カレンダー』でも感じたことだが、収録された作品のアイデアに非常に似通った物が複数あり、どうも一つのアイデアをヴァリエーションを変えて使用しているように感じた。やはりクイーンは意外と手札が少ないのではと思ってしまう。本書でもその傾向があったのは否めない。 そして今回は日本人にはいささかピンと来ない、解りにくい真相が多かった。 特に英国と米国の文化の違い、言葉の違いが推理のきっかけになっているものが散見され、せっかくの真相がやや腰砕け気味になったのは残念な思いがした。 あとページ数が少ないがゆえに1編あたりの情報量が多かったのも気になった。おかげで6割ぐらいの話がよく読み取れなかった。 恐らくはクイーンは『ミニ・ミステリ傑作選』というアンソロジーを出していることからも、彼自身がこの手のショートショートミステリに興味を持ち、且つ自身でも創作してみようと思ったことが本書の基となったのではないかと推察できる。 ただやはり今の日本本格ミステリは長編、短編共にクオリティが高い為、完成度という点ではやはり劣ってしまう。私の場合はもう免疫が出来ているせいもあって、こんなものだろうと済んでしまうのだが。なかなか人には勧めようと思わない1冊であることが残念だ。 ただ多少、いやかなり強引かと思われる警察の担当課をあてがって検察局の犯罪記録として編んだ構成はやはりただの短編集では面白くないという作者の稚気が見えて、やはりこの作家は晩年になってもとことんミステリが好きだったのだなと思うと、憎めないわけではあるのだが。 しかし挙げられた課の名称は大仰で脱線気味の感が強かった。逆にそれが制約となって注目すべき謎よりも、その周辺の瑣末なことが推理の対象になってしまったのではないかという勘繰りもしてしまう。 やはりたった約270ページで18編は多かった。もっと精選した短編集を次回は望みたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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殺人事件が起きずにこれほどハラハラさせられるミステリは最近読んだことがない。そう、“ラブストーリー”と題名に附されながら、これは極上のミステリなのだ。
本書での謎というのは実に上手い語り口で徐々に紐解かれる。 物語はまず2つの平行世界で繰り広げられる。共通するのはバーチャル・リアリティ(作中ではバーチャル・リアリティをさらに発展させた次期型リアリティという設定)をそれぞれの分野で外資系総合コンピューターメイカー、バイテック社のMAC技科専門学校で研究している敦賀崇史と三輪智彦と津野真由子の三人。 一方の世界では崇史と智彦は入社して2年目の社員で、智彦に新恋人が出来、崇史に紹介する。しかしそれは彼が学生時代に彼が乗っていた山手線に並行して走る京浜東北線に乗っていた憧れの君、津野麻由子だった。崇史は親友の幸せを祝いながらも、激しい嫉妬に襲われ、真由子を手に入れたいという恋情に駆られる。 もう一方の世界ではMAC技科専門学校での研修を終え、入社3年目の崇史は麻由子と同棲していた。しかし智彦が麻由子の恋人だったという夢を頻繁に見るようになり、深層心理で智彦に対して罪悪感を抱くようになる。そして当の智彦はバイテック社の本社、ロサンゼルスに赴任していたというもの。 この2つの世界の設定が交互に語られ、まずはどちらが現実でどちらがバーチャル・リアリティなのか、読者は混乱に注意しながら読み進めることになる。 やがて読み進むにつれてそれら2つの異なる時間軸で語られる話が1つのある謎に収束していく。 それは即ち、「記憶は改編できるか?」という謎だ。 『宿命』以後の東野作品を中期とすると、この頃のテーマに頻発するのが「記憶」ということになろう。『宿命』然り、『変身』然り、『分身』然り。そして本書然り。 これらの作品に共通するのは近い未来に成立し得るであろう医療技術が物語の発端になっていることだ。前掲の3作品については未読の方の読書の興を殺ぐといけないので敢えて触れないが、本書では現実と見紛うほどの非現実体験、即ちバーチャル・リアリティの研究から発展した記憶改編が技術として挙げられている。 記憶というのは果たしてなんだろうか?東野氏は『変身』で主人公成瀬にこんな台詞を云わせている。 「脳はやっぱり特別なんだ。あんたに想像できるかい?今日の自分が、昨日の自分と違うんだ。(中略)長い時間をかけて育ててきたものが、ことごとく無に帰す。(後略)」 「それは死ぬってことなんだよ。(中略)かつて自分が残してきた足跡を見ても、それが自分のものだとはとても思えない。二十年以上生きてきたはずの成瀬純一は、もうどこにもいないんだ」 自分が自分である為の証拠。それこそが記憶だと成瀬は激白している。 その記憶を改編することとは自分の足跡を消し、新たな自分を生み出すことではないか? そんな記憶は果たして自分の存在意義を示すのか? 特にこの記憶改編の仕組みを東野氏はぼやかさずに実に合理的に説明している。詳細は本書に当たられたいが、その方法論は実現可能ではないかと思わせるほど論理的だ。 本書では不良に2人囲まれてどうにか逃げ出したという事実を5人に囲まれてどうにか撃退したという風に大袈裟に誇張して語る行為を例に挙げている。 人は年を取るにつれ、現実と理想が乖離していくのを痛感し、理想が適わぬ夢であることを知り、諦めてしまう。だから人は少しでも理想に近づけたくてついつい嘘をついてしまうのだ。 年を取るにつれ、本書の登場人物が抱えるこの想いは痛切に心に響く。そしてそれ以外にも本書には私のツボとも云える設定が盛り込まれている。 まず冒頭の一行目からグッと物語に引き込まれた。山手線と京浜東北線というある区間では双子のように並走するこの路線をパラレルワールドに擬えるところが秀逸。 そしてそれぞれの電車に乗る人々はそれぞれの空間だけで完結し、同じ方向に進むのに何の関係性も生まれないという主人公敦賀崇史の独白がさらにツボだった。 そして毎週火曜日に路線を跨いで同じ車両の同じ位置に立つ女性に恋心を抱くという設定もツボだし、さらに親友の彼女がその女性だったなんてベタにもほどがあるが、好きなんだなぁ、こういうの。 多分これからあの区間を山手線、京浜東北線に乗るたびにこの物語を思い出しそうな気がする。 このような「運命の相手」が目の前に立ち、しかもそれが親友の恋人だったら?実に憎らしい設定ではないか? 主人公敦賀崇史が直面したのはこのような狂おしいまでのシチュエーションだ。親友との友情を取るか、それとも自分の恋情に従い、親友の恋人を獲るか?このなんとも先行きが気になる設定に加え、その本願が成就された1年後の崇史の姿が並行して語られ、そこでは次第に気付かされていく自らの記憶の誤差について崇史が独自に調べていくというミステリが繰り広げられる。 しかし何よりも本書はある一人の人物に尽きる。それは敦賀崇史の親友、三輪智彦だ。幼い頃の病気で右足を引きずるというハンデを背負った彼は明晰な頭脳を持ちながら、不遇な人生を歩んできた。そんな彼に訪れた大きな幸せ。それが恋人津野麻由子だった。 冒頭に私は本書はラブストーリーだと銘打ちながら実は極上のミステリだと書いたが、最後にいたってこれはなんとも切ない自己犠牲愛に満ちたラブストーリーなのだと訂正する。 こんなに心に残る話は無条件で星10を献上したいところだが、『魔球』同様、犠牲を被る相手に不満が残ってしまう。 特に今回は社会的弱者の立場の人間が自ら犠牲になるというのがどうしてもしこりとして残ってしまう。上にも書いたが、不遇な境遇を強いられた彼がようやく手に入れた唯一無二の幸せ。それさえも身障者という理由で諦めなければならないのだろうか? 誰もが幸せになるために選んだ道は実は誰もが不幸になる道であった。 謎は解かれなければならないのがミステリだが、本書においては知らなくてもいいことがあり、それを知ってしまうことが不幸の始まりであった。 『変身』では記憶を自らの存在意義の証と訴えた東野は本書では記憶のまた別の意味を提示してくれた。次は何を彼は問いかけるのだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
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建築探偵桜井京介シリーズ第8作目。8作目にして舞台は初の海外。イタリアのヴェネツィアである。
本書の前に編まれた初の短編集には桜井の海外放浪時代の事件が書かれていたが、それはこの作品への手馴らしといったものか。元来海外、特にヨーロッパ建築に造詣の深い作者だから、京介が大学を卒業して輪をかけて融通のつく立場になったことも含めてこの舞台は満を持しての物だと云えよう。 やはり海外が舞台になると観光小説の色が濃くなるのか、作者が取材で得たイタリアの風習や各所名所についての薀蓄が施され、実際殺人事件が起きるのは344ページあたり。最後のページが489ページだから、約3/5を過ぎたあたりなので、これは非常に遅いといえよう。アーロン・エルキンズのスケルトン探偵シリーズを読んでいるような感じを受けた。 さらに異色なのは建築探偵シリーズでありながら今回は対象となる建築物がないことだ。羚子が住まう島に京介、神代教授、蒼の一行は向かい、ブランドメーカーの前社長の遺した屋敷に滞在するがその建物に関する衒学的知識を披瀝する場面は一切ない。 今まで事件の真相よりも建物に込められた人の想いを解き明かすのがシリーズの主眼だったのだが、今回は全くそれが見られず、逆に殺人事件に主眼を置いた本格ミステリになっている。 しかしそれでも篠田氏の騙りは浅いなぁと思う。特に賊が襲ってきて無差別に人を撃ち殺すところなんかはその時点で真意が透けて見えるほどバレバレだ。やはり驚愕の真相やどんでん返しをこの作家に求めるのは酷なんだろう。 そしてやはりこの作家、自分の美学に酔っているとしか思えない。最後で明かされる本書の真犯人の動機はなんとも観念的で独りよがりだし、最後に自決するのも昭和の頃の少女マンガを読まされているような感じがした。毎度毎度酷評を連ねて恐縮だが、このような自己陶酔ミステリはどうにも苦手で斜に構えて読んでしまいがちになる。 さらに二十歳になった蒼は成人しても京介とじゃれ合うことを止めない。この辺のBLテイストをどうにかしてほしいものだ。この2人の関係性、特に蒼の同性愛的親愛の情にはついていけなかった。 とどのつまり、シリーズを親しむのは読者がそのキャラクターにどれだけ感情移入し、友好関係を築けるかが鍵なのだ。申し訳ないが女性がハッとするほどの美貌を持つ探偵桜井京介にしろ、成人しても幼稚さと同性愛的愛情表現が抜けない蒼は嫌悪感を招きこそすれ、また逢いたいと思わせるキャラではなかった。ある意味私にはBL小説は向かないことが解っただけでも収穫かもしれない。 これでこのシリーズは打ち止めにしたいと思う。というよりも篠田氏の諸作からは本書を最後の一切手を出さないことにしよう。 他の本格ミステリ読者同様、探偵を擁立しながら本格テイストが薄かったこのシリーズと上に書いた付加的要素が私の求めるものとは違ったようだ。シリーズ当初から仄めかされている京介が抱える闇の正体など気になるエピソードは残るものの、それが今後私をしてシリーズを読ませるだけの魅力を放っているわけではない。 さらば桜井京介。シリーズ半ばだが、我、君の許を去らん。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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クーンツ版フランケン・シュタインシリーズ第2弾。実は最近のクーンツ作品ではとびきりに面白い作品だと感じ、新刊が出るのを愉しみにしていた。
物語は前作からの続き。時系列的にもハーカーの死の直後から始まる。つまり連続ドラマを見ているような構成になっている。 本書では前作のハーカーに当たるようなカースンとマイクルのコンビに敵として立ちはだかるキャラクターとしてはヴィクターが生み出したレプリカントの夫婦の殺し屋ベニーとシンディのラブウェル夫妻が登場する。この2人のキャラクターが出色の出来だ。 ハンサムな夫に美しい妻で常に太陽のような笑顔を浮かべている、所謂アメリカの良心とも云うべきような理想のカップルなのだが、その役割が示すように微笑を浮かべながら殺しを履行するのだ。さらにシンディは培養によって生み出された生物でありながら出産願望が常にある。よくもまあこんなキャラクターを次から次へとクーンツは思い浮かべるものだと感心する。 1話完結で紡がれたオッド・トーマスシリーズと明らかに創作作法が違うが、逆に私はこのシリーズの手法の方が先が読めない展開だけに面白く感じた。 またところどころに挿入される小ネタも面白く、その中の1つに登場人物の口から古今東西の小説の名前が出てくる点が非常に楽しく感じた。 例えば前作で読書好きのヴィクターの妻エリカ4に後妻として登場するエリカ5が秘密の培養室に潜り込むときには少女探偵ナンシー・ドルーのように云いながら、いやノラのように勇ましいと訂正する。 前者は恐らく日本の読者でも知っているだろうが、後者は「?」が点灯することだろう。実は私もピンと来なかった。なんとノラとはハメットの『影なき男』に登場する私立探偵ニック・チャールズの妻なのだ。なんともマニアックな選択だ。既読の私でさえ思い出せなかった。 他にもデュカリオンの相棒である映画館オーナーのジェリー・ビッグズがミステリ好きであり、自身の好みを開陳する。曰く 「刑事が先住民だったり半身不随だったり、強迫神経症だったりする話は好きじゃないんだ。それに探偵が料理上手なのも」 それぞれ該当するシリーズが思いつくのではないだろうか。思わずニヤリとしてしまうシーンだ。 また古典『フランケン・シュタイン』の時代から生きてきたヴィクター。彼が今まで生きてきたことで歴史の裏側で時の権力者に関ってきたことがエピソードとして語られる。 スターリンもその中の1人で、彼が行った大量虐殺はヴィクターが自分の意のままに操れる新人類を生み出すことを見越しての行為だったと記される。こういったアクセントは小説好きの興趣をそそる。 そしてやはりキャラクターの妙味を忘れてはならない。 正直に云って主人公のカースン、マイクルのコンビは存在よりもヴィクターと彼が創造したレプリカントや新人種のキャラが立ちまくっている。彼らはヴィクターにあらかじめ人間を殺してはいけない、命令に背いてはいけないというプログラムが施されており、しかも本書では担わされる役割でアルファ、ベータ、ガンマ、エプシロンといった階級分けがされていることが判明する。彼らが旧人種と呼ぶ人間に成り替わって社会生活を営む者からヴィクターの身の回りの世話や研究所の掃除をするだけの役割の者でダウンロードされる情報量が違うという設定だ。 しかし何といってもヴィクターのプログラムゆえに発生するその特異な思考や性癖が彼らのキャラを際立たせているといっていい。前述した夫婦の殺し屋ラブウェル夫妻はもとより、人間の死体を処理する廃棄処理場長、警備主任など、クーンツの奇想のオンパレードだ。 元々クーンツには物語ごとに狂人やフリークを生み出しては読者をハラハラさせていたが、ここに至ってさらにその枠を大きく振り払って、嬉々として健筆を揮っているかのようだ。 しかしその中のキャラクターでも物語を鍵を握ると思われたヴィクターの実験場ハンズ・オブ・マーシーを抜け出した新人種ランドル6が早くも退場するとは思わなかった。しかも主役のカースンの弟に会いに行くという役割的には重要だっただけに、あっさり殺されたのはなんとも呆気ない。 本書を読むとやはりクーンツは三部部作構想だったようで、ヴィクターとデュカリオンの対決を早々に着けようとしているようなせっかちさを感じた。 本書ではレプリカント、新人種の生みの親ヴィクターの制御が徐々に崩壊し、カタストロフィへ向けて様々な事象が描かれる。 細胞分裂を起こし、異形の存在へ変身する者。 抑えていた旧人種すなわち人間への嫌悪感への箍がはずれ、殺人衝動のままに殺戮を起こそうとする者。 レプリカントである自分の存在に絶望し、死を乞う者。 そして前作ハーカーから分離した存在は創造主ヴィクターへの反逆を促し、殺すよう促す。研究所を制御していたコンピュータはバグを起こし、怪物を世に解き放とうとする。 そしてとうとうヴィクターと対面したデュカリオンはどう彼に対抗するのか。色んな謎や不吉な予感を孕みつつ物語は閉じられた。 一刻も早い次巻の刊行を望む。枯れてもクーンツと思わせる次が気になる作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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