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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
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今回の主人公は火災査定人。なんでも作者ウィンズロウ自身が保険調査員だった時の経験を基に書いたのだそうだ。
そして内容も経験した者でしか書けないディテールに満ちている。特にジャックが火災現場で火元を調査する詳細な件は実に精緻でリアルに満ちている。科学的根拠に基づいたその調査は素人の好奇心を掴んでやまないほど、面白い。 さらに保険に纏わる数々の信じられないようなエピソードが読書の興趣をそそる。 保険会社を変えてはスプーンの盗難を訴え、保険金をせびるオリヴィア・ハサウェイ老婦人のエピソードも面白いが、何といってもアメリカで保険金詐欺が続出している件が非常に興味深かった。 何しろ不景気になると保険金を目当てにした偽装火災が増加するのだそうだ。好景気の時に将来の収入を見込んで、ちょっと背伸びをした金額の家を購入するが、不況の波で給料が削られ、「こんなはずではなかった」状態に陥り、減少する給料に比例せずにローンは一定の金額で出て行く。そんな苦境に陥ったとき、自ら火災を起こし、全てを無に帰し、一からやり直そうとするのだそうだ。その額、なんと1年で80億ドル!80億「円」ではなく、80億「ドル」なのだ。そしてこの手の犯罪は1年に約8,600件起きており、つまり1時間に1件起きていることになる。まさに保険会社はこれら詐欺事件との日々戦いだといっていいだろう。 また保険会社内の力関係についてもウィンズロウは詳らかにしている。契約を取ってくる外務部門。社に利益をもたらすよう保険率の算定を行う引受部門。そして保険金を支払う補償部門。 どこの会社でもそうだが、利益を生み出す部門が社内では発言権が大きく、また優先される。補償部門に所属するジャックは自身の会社の大口契約の顧客であるニッキーの不正を暴こうとするのだが、そうすることで大口の契約を失う外務部門の担当者や引受部門の協力者たちの妨害に逢う。 う~ん、サラリーマンを主人公にしながら、これほどマーロウを想起させる孤高の騎士を生み出す業界があっただなんて、いやはやウィンズロウはいいところに目をつけたものだ。 そして何といっても外せないのはウィンズロウが描くキャラクターの魅力だ。主人公のジャック・ウェイドはカリフォルニア火災生命の中でも腕利きの保険査定人として知られているが、実は過去は郡保安局の火災調査部のトップの調査員だった。しかしある事件をきっかけに職場を離れなければならなくなり、サーフィンと仕事に明け暮れる日々を過ごしている。その正義感の強さが彼の魅力であり、また弱点でもある。 この世渡り下手な男は上にも書いたが私に云わせればフィリップ・マーロウそのもの。以前よりウィンズロウの作風がレイモンド・チャンドラーに近づきつつあることを云っていたが、本作でその思いをさらに強めた。減らず口を叩くところはデミルのジョン・コーリーに類似しているが彼ほど型破りでもなく、また女たらしでもない。 そして敵役のニッキー・ヴェイルの造形も見事。KGBの工作員でアメリカにロシア・マフィアの一味になって不法に外貨を流出させることを命令され、マフィアの元締まで昇りつめたが、アメリカの自由に魅了され、アメリカ人の実業家となることを決意した男。彼の歪んだ心理構造が彼の想像を絶する過酷な生立ちを語ることで肉付けされていく。 その他、ジャックを保安局から追い出す要因となった天敵のブライアン・<失火>ベントリー、良き理解者である上司の<こんちきしょう>ビリー。元恋人のレティ・デル・リオ、そしてジャックが義憤を燃やす被害者のニッキーの妻パミラ・ヴェイル、その他登場人物表に名前が記載されていない人物も実に個性的で読者に感情移入を否応なくさせられる。 特に今回はウィンズロウが主要登場人物の過去にページ数をかなり割いて丹念に掘り下げているため、これまでの諸作よりもさらに登場人物たちの造形は深みを増している。 ウィンズロウの作品の根底に流れるテーマに“父性”がある。ニール・ケアリーシリーズでは彼を探偵に育て上げたグレアムがその象徴だし、ノンシリーズでも『ボビーZの気怠く優雅な人生』では主人公のティムが実の子供ではないキットを我が子のように扱い、父子の絆を築き上げていく。また先だって読んだ『歓喜の島』でも主人公ウォルターの回想にモノローグの如く、父親の訓示が挿入されていた。 すなわち作者ウィンズロウにとって父親という存在は自己を形成する上でかなり影響を受けた人物であり、また自身の息子に対し、こうありたいという理想像を作品に投影しているのではないだろうか。そして単に説教になりがちな父親の存在と言葉が全く騒音にならず、寧ろそれがあるために登場人物に深みが増し、読者の親近感を誘うのはこの作者の上手いところだ。 しかし本作では父親の蔭はそれまでの作品に比べると成りを潜めているようだ。主人公ジャックの頭に過ぎる父親の言葉は物語の冒頭部分にしか現れない。 これは父性からの脱却なのだろうか?つまりジャックを今までの主人公とは違う、より自立し、独りで考え、直面した問題を克服する男として描きたかったのだろうか? 確かにこのジャックは保険査定人として一流でありながら、“自分”が有りすぎるために妥協せず、そのために罠に嵌り、巨大な壁に何度も直面する。それを粘りと不屈の精神で乗り越えていく。 このジャックの姿勢を見ると、確かに上に考えたようなことが当て嵌まるように思える。これは後の作品でも注目していこう。 そしてウィンズロウの十八番である読者の予想の斜め上を行く意外な真相は本書でも健在。訴訟社会と云われるアメリカの立証第一主義の裁判が明らかな殺人の痕跡を“血の粛清”でもみ消し、またそれを逆手に取って莫大な損害賠償を求める訴訟を生み出す。そんな自縄自縛な保険業界のジレンマをまざまざと見せ付けられる哀しい結末だ。 これほどまでに絶賛しておきながら評価が8ツ星なのは、物語の閉じ方に不満を感じるからだ。 なぜだか解らないが、ウィンズロウの作品にはハッピーエンドが少ない。そして本書もなんとも報われなさを醸し出す読後感をもたらすのだ。 あのニール・ケアリーも最後は孤独だった。これはウィンズロウの人生観なのだろうか?男はすなわち行き着くところは孤独なのだ、と。それとも次の再開を仄めかす終わり方なのだろうか? 最後に苦言。 こんなに面白い作品なのに、表紙で大いに損をしている。この生っちょろいイラストではこれが不屈の男の生き様を描いた作品だということは想像つかないだろう。表紙に引かず、是非とも手にとって欲しい。保険業界の仕組みや裏側も判り、なによりもジャック・ウェイドという、この上ない魅力ある主人公に出逢えるのだから。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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建築探偵桜井京介シリーズ第3作。
本作にてようやく京介が所属している研究室の主である、神代宗教授が登場する。名探偵の師匠とはいえ、快刀乱麻を断つが如くの、八面六臂の活躍を見せるわけではなく、かといえば、迷える京介に道を示す標の役割をするわけでもない。京介を取り巻く蒼、栗山深春のコンビに新たな脇役が加わっただけの役割でしかない。そのため、絵に描いた英国紳士を髣髴させる三つ揃えが似合うダンディの風貌に、べらんめえ調の下町言葉を使うという戯画化された人物像となっている。 この作者のこの辺りの安易なキャラクター造形にどうしても馴染めないのだが。 そしてなぜか毎回のめり込めない作品世界に加え、今回は非常に複雑な姻戚関係の一族の内紛が物語の中心であったため、いつもよりもさらに作品世界に入れなかった。登場人物の中には姻戚でありながら、冒頭に附せられた家系図に乗っていない人物もあり、途中で理解するのを投げ出してしまった。 しかしやはりそれよりもこの作家の登場人物の描き分け方に問題があると思う。上に書いた神代教授に繋がることだが、どこかで見たようなマンガの登場人物のような感じがして、なんとも印象に残らないのだ。つまり貌が想像できない登場人物が多すぎる。 したがって本書のように複雑な家系を持つ同じ苗字を持つ者たちの区別がつかず、それぞれの人物に関わる因果関係が頭に描けなかった。またもや記憶の残らない本を読んでしまったという感じだ。 またミステリの根幹を成す事件とその謎も読書の牽引力としては非常に弱い。登場人物がどれも同じに見えるから、誰が犯人でも全く驚きをもたらさないし、とりわけ酷いのはこの物語は何を解決しようとしているのか、しばしば失念してしまうほど、無駄に長いと思わされてしまった。 特に今回は専門分野の小さな勘違いがそんな悪印象に拍車を掛けた。 建築探偵という通常の名探偵物とは一線を画し、事件そのものよりも建物に纏わる謎を解くことを目的としているこのシリーズ。当然のことながら建物に関する専門的な知識が求められるわけだが、やはり図書館やネットで調べられる範囲のことしか書かれていないというのが正直な感想。 細かい仕上げの部分などは素人目を通じての解釈が見られ、記述の間違いが散見させられた。この辺のリサーチは近くの工務店とかに訊けばすぐにわかるのだが、なまじっか門外漢よりも知っているだけに、自分だけの論理が形成されてしまい、その正誤性の裏付けを取ることなく、公的な作品として記述してしまったようだ。 「砕石をまぜて粗く仕上げた大柱~」という件が特にそれを裏付けている。「砕石をまぜて」という表現がすでにコンクリートが何で出来ているのか知らないことを公言しているし、建築物の作り方の本質を机上でしか理解していないことを露見させている。 なんともミステリとして読むべきなのか、キャラクター小説として読むべきなのか、非常に判断の困るシリーズである。どっちの方向にも中途半端な印象を受けるため、読む側も軸足をどちらに置くべきか非常に迷う。 はっきり云ってミステリとしては凡作である。 したがってコミケで桜井京介らの同人誌が一時期隆盛を誇ったという背景からやはりこのシリーズはキャラクター小説として読むべきなんだろう。好きな人は好きなんだろうな、この少女マンガ的探偵譚が。 3作読んで今のところ、しっくり来る作品は皆無である。とにかく早く手元にあるシリーズ作品を読み終えてしまいたいというのが現在の本音だ。今後の作品でこれがプラスの方向に変わることを祈る。 |
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ウィンズロウのノンシリーズ物の長編だが、本書の主人公ウォルター・ウィザーズは実はニール・ケアリーシリーズの『ウォータースライドをのぼれ』に登場した落ち目の探偵。
あの時の凋落振りからは想像も出来ないほどのやり手の調査員として登場。なにしろ腕利きの元CIA工作員であり、調査会社に転職しても、FBI、イタリアンマフィア、その他アメリカの暗部に顔が利く人物たちにも対等に渡り合うほどの人物なのだ。 そして文体も1950年代の夜霧の雰囲気漂うハードボイルド調と、またしてもウィンズロウの新たな一面に触れられる作品である。古き良きアメリカ。まだ夢が夢として存在し、誰もが成功する可能性を秘めていた時代がセピア色の文体で語られる。行間には常にジャズが流れ、男と女は本心を揺蕩わせながらその日を生きるムードが漂っている。 そして事件はやはり男と女の間で起きる。マルタ・マールンドという女優で上院議員の浮気相手を軸に上院議員婦人のマデリーンはもとより、ウォルターの恋人アンまでもが関わっていることを知らされる。 魔性のような男には抗い難い女の周りで起こる不協和音。そして次期大統領候補を落としいれようとするスキャンダルの渦。 探偵ニール・ケアリーシリーズならばニールの減らず口をメロディに軽快に語られていた同種の事件が、ウォルターが主人公の本書では哀切と退廃を伴って語られる。 レイモンド・チャンドラーを意識しているのか、物語はウィンズロウの作品らしく常に核心に触れながら展開するのではなく、色んな登場人物をウォルターが渡り歩き、なすべきことが明確になってもそこに急進していかない。寧ろ彼は自らの恋人アンとのことが気がかりで、仕事よりも彼女との関係に腐心することが多い。 そして物語のアクセントとして使われるのが酒。夜の酒場をウォルターは彷徨する。 しかしそんな回り道も全てが一連の事件に収束していくのが最後の方で判明する。いやあ、この手際にはちょっと驚いた。 また折に触れ、ところどころに挿入されるウォルターの父親からの警句がまた実に効いている。豊かな人生経験に裏打ちされた含蓄溢れるその言葉はいちいち頷くことしきり。 全てノートにメモって自身の人生の教訓、または道標にしたいくらいだ。 やがてウォルターは次期大統領候補をスキャンダルの汚辱にまみれる決定的な証拠を摑むがゆえに、敵味方から襲われる存在になる。この絶対的な状況を打破する最後のカードが実に巧妙。 これはまさにエドガー・フーヴァーなるFBI長官という影の大物の脅威に50年代のアメリカが包まれていたことを示すわけだが、いやあ、本当に最後までどうなるんだろうと思いました。 そんなウィンズロウの新境地を切り開く作品だが、それでもやはり今までの作品と同様に政治家のスキャンダルが物語の要素だというのもそろそろ飽きてきた。 思えば第1作の『ストリート・キッズ』もこの次期大統領候補と目される上院議員の、スキャンダルを未然に防ぐだめに不肖の娘を確保するという内容だった。この政治的スキャンダルはウィンズロウ作品にはけっこう取り扱われているテーマであり、純粋にスラップスティック・アクションに徹した『砂漠で溺れるわけにはいかない』からウィンズロウの新境地への幕開けと思っていただけに本書のプロットは期待とは違ってしまった。 しかしこれは私の捻くれた感想であることを忘れないでいただきたい。本書はそんな政治的策略が巧妙に絡んだ、ハードボイルドを主体とした優れた作品であることは間違いない。ただこちらが期待した物が違ったというだけなのだ。 ウィスキー片手に50年代の煙る街ニューヨークを舞台にジャズが漂う男と女が交錯するハードボイルド小説を読んで、浸りたい方にはお勧めの1作だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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エラリイ・クイーンが敬愛するドイルが生んだ稀代の名探偵シャーロック・ホームズの1944年当時世の中に流布していたパスティーシュ、パロディ小説の数々を集め、1冊に纏めたアンソロジー。巻頭言によれば本書が世界で初めてのホームズパロディ短編集だそうだ。
全部で4部構成となっており、第1部が探偵小説作家編で、ミステリ作家の手によるホームズのパロディ物。 第2部が著名文学者編でその名の通り、今なお文学史に名を残す偉大な作家達がなんとホームズのパロディを書いていたという物。 第3部がユーモア作家編、そして第4部が研究家その他編とかなりコアな内容になっている。 さてまず第1部探偵小説作家編。 1作目はロバート・バーの「ペグラムの怪事件」。ここで出てくるのはシャーロー・コームズに友人のホワトスン。ロンドンからペグラムに向かう列車で死体となって発見されたバリー・キプスン氏の事件の謎を解くというもの。 依頼人のジャーナリストの話から全てを看過してフィールドワークでその裏付けを取り、推理を強固なものにするといった趣向で、当時まだ本家の最初の短編集が出た翌年に発表された作品とされている。そのためストーリー展開、主人公シャーローの振る舞いや性格付けはかなりシャーロック・ホームズに近いものがある。 しかしせっかくの列車内での殺人事件という魅力的な謎を設定しながら、真相はなんとも腰砕け。 次はアルセーヌ・ルパンシリーズでお馴染みのモーリス・ルブランによる「遅かりしホルムロック・シアーズ」。本書ではホルムロック・シアーズになっているが、後に原典のシャーロック・ホームズに改名されている。 ティベルメスニル館のお宝をルパンが盗み出すというもので、この屋敷に招かれていた名探偵ホルムロック・シアーズが遅れて到着し、最初の邂逅を果たすというもの。ルブランの物語作家としての技巧については認めていたが、イギリス人のホルムロック・シアーズの騎士道精神とフランス人のルパンのエスプリとが対照的に語られているのが上手い。 続く「洗濯ひもの冒険」は探偵小説収集家のキャロリン・ウェルズによるもので、収集家らしく色んな作家の手で生み出された名探偵たちが名探偵協会に所属しており、会長であるホームズからの奇妙な謎について推理合戦を繰り広げるというもの。謎は裏庭を横断する形で窓から窓に張り渡された洗濯ひもになぜ美女がぶら下がっていたのかというもの。これはほとんどお遊びのような作品で、オチもかなり失笑を禁じえないものとなっている。 「稀覯本『ハムレット』」はドイルのホームズ譚のフォーマットに忠実に則った作品で、ドイルの未発表原稿と云われても納得してしまうほどよく出来た作品。 シェークスピア直筆の献辞と署名が入った『ハムレット』の初版本を借り出したシェークスピア収集家が賊に襲われて借用した稀覯本を盗まれてしまうという事件の真相をホームズが解明するというもの。ここに登場するホームズは依頼人の話を聞いて一発で真相を看過するあたりは万能型探偵の典型で、ちょっとホームズからは離れているような印象を受けるが、まあ許容範囲か。 ここからはビッグネームが相次ぐ。 黄金ミステリ時代の推理小説の大家アントニイ・バークリーの手による「ホームズと翔んでる女」も手遊びのような掌編。 プロポーズを受けた女性が一転して相手に婚約破棄された理不尽な行為を覆して欲しいと頼む女性の依頼を受けてホームズが意外な解決をするというもの。これはほとんど冗談のような物語。これってシャーロッキアンはどんな感想を持ったんだろう? アガサ・クリスティーによる「婦人失踪事件」は冒頭でシャーロック・ホームズの推理能力について触れられているものの、内容的には純然たるトミー&タペンスシリーズ物の1編になっている。 北極遠征から帰還した冒険家が婚約者に合わせてくれない隣人達の不審な行動の意図を解明し、婚約者に合わせて欲しいと依頼する話。真相はまあなんともほのぼのとした感じ。 今なお偉大なる書評家として名を残すアンソニイ・バウチャーによる「高名なペテン師の冒険」は隠居したホームズらしき老人が最近新聞で取沙汰されている自分の正体はドイツ軍からの高名な亡命者だと名乗るホルンという老人についての推理を開陳するという物。 これは実際にあった事件について題材が採られているのか寡聞にして知らないが、恐らくそうであろう。その推理にホームズらしき人物を設定したのがこの作品のミソだろうか。 また当時のイギリスミステリシーンを反映して、スコットランドヤードの警官にはホームズの時代とは違って、フレンチやウィルスンといった有能な刑事たちが揃っていると語らせるのは面白い。 そして編纂者のエラリイ・クイーン自身が著したのが「ジェイムズ・フィリモア氏の失踪」。原典であるホームズの短編「ソア橋」に少しだけ触れられている、“雨傘を取りに自宅に引き返したジェイムズ・フィリモア氏なる男がそれ以来二度と姿を現さなかった”という事件を扱ったもの。 クイーンが面白いところはその同姓同名の末裔がこのホームズ譚で触れられている事件と同じ事件を起こしたという趣向を採っているところだろう。なぜか叙述形式は戯曲形式。ラジオドラマで書き下ろされた作品だろうか? やっぱりこういう失踪物のアイデアはこの時代ですでに出尽くした感があるのか?後年クイーンとカーが語り合った結果、人間消失こそが最も魅力的な謎と結論づけ、それに触発されてカーが『青銅ランプの呪』を著したが、クイーンはこの魅力的な謎に対して本作では魅力的な真相を提供していないのが辛いところだ。 続く2編はいずれも10ページ前後と非常に短い掌編。「不思議な虫の冒険」はクイーン同様、「ソア橋」の作中に触れられていた不思議な虫の入ったマッチ箱を凝視して発狂したイザドラ・ペルサノの事件を扱っている。 しかしこれが単なる冗談話。医学的なものがまだ市民にまで知られていなかったからこそのオチだ。 次の「二人の共作者事件」はメタな内容。この作者サー・ジェイムズ・M・バリーがコナン・ドイルと共作したオペラ作品について、皮肉っているといった内容。 したがって依頼の内容もなぜ自分達のオペラに客が入らないのかを探るもので、しかもホームズはその2人に存在を握られているというメタミステリ(?)なのだ。この作品はドイル存命中に書かれたもので、この内容をドイルは当時大絶賛している。・・・それほどのものとは思えないが。 なお構成はこのバリーの作品から第2部になっている。 次はアメリカ文学の大家マーク・トウェインによる「大はずれ探偵小説」。これはある恥辱を元結婚相手から受けた女性が、わが子の、犬並みに人の匂いを嗅ぎ分ける能力を活かして、逃げた元夫を探させ、復讐をさせるという話に突如ホームズが絡むというもの。 正直これにホームズを登場させなくても良いかなというくらい、プロットが面白い。冒頭の言葉でクイーン自身も述べているが、マーク・トウェインはおふざけを目指しているのであり、純然たる探偵小説批判をしているわけではない。したがってこの作品でのホームズの推理は悉く覆される。 しかしその推理が反証されることを前提に書かれているから、逆にホームズらしい鮮やかな推理でないことに注目しなければならない。本書で最も長い70ページ強の作品だが、あまり成功しているとは思えない。 次のブレット・ハートの「盗まれた葉巻入れ」は探偵ヘムロック・ジョーンズの持ち物である葉巻入れが盗まれ、その犯人を推理するもの。 しかしこれがなんと本格推理ではなく、心理小説となっている。 そして第2部の最後を飾るのはなんとO・ヘンリー作の「シャムロック・ジョーンズの冒険」。これもシャムロック・ジョーンズの妄想としか思えない独断的偏見に満ちた推理が開陳されるもの。こうやって読むとアメリカ文学の権威たちは推理小説を下に見ており、揶揄はすれどまともに書く気になっていないような感じを受けた。 第3部はR・C・レーマンの「アンブロザ屋敷強盗事件」から始まる。ここに出てくる探偵ピックロック・ホールズもアメリカ文学の大家の作品同様、狂人的な妄想推理を常としているのが実に気にかかる。ただこちらはユーモア作家の手によるものだから、ユーモアであることは判るが。 続く2作はいずれもJ・K・バンクスなる作家の手によるもの。「未知の人、謎を解く」、「ホームズ氏、原作者問題を解決す」は共に黄泉の国でのシャーロック・ホームズ(後者はシャイロック・ホームズとなっている)の活躍を描いており、前者ではホームズの正体が最後の一撃になっているが、これは非常に解りやすい。 後者はシェイクスピアの戯曲を誰が書いたのかをホームズが解明するものであるが、この2作に共通するのはどれも凝ってて解りにくい点だ。あまり記憶に残らない作品だ。 「欠陥探偵」と「名探偵危機一髪」は共にスティーヴン・リーコックという作家の作品。 前者はブルボン王家の子孫と思われるプリンスの誘拐事件を扱っている。 後者もたった2ページの作品で1本の髪の毛から犯人を捜し出す物。これは逆にオチが効いていて、見事なショートショートになっている。 最後の第4部は研究家たちによる作品だが、その内容はホームズに敬意を表するどころか、その超人的推理をあげつらう作品が多い。 まずゼロ(アラン・ラムジイ)による「テーブルの脚事件」は資産家の婆さんに惚れられた男性の息子がどうにか父親が結婚せずにその財産を手に入れる方法を画策しようとしたのに、誤って父親がプロポーズしてしまった謎について名探偵シンロック・ボーンズに依頼するもの。もうこれも脱力物のオチで、まともに読む方が損をするような作品。 R・K・マンキトリックの「四百人の署名」はある夫人の寝室に賊が押し入りダイヤモンドが盗まれた事件がテーマだが、はっきりいってこれは何が面白いのかよく判らない作品。ホームズが犯人に至った推理を開陳するが、全く意味不明。英国人には解るんだろうけど、日本人向きではない。 オズワルド・クロフォードの「われらがスミス氏」はジョン・スミスなる謎の訪問者について名探偵バーロック・ホーンが正体を推理するもの。これもかなり揶揄しており、ホームズの推理とは妄想と紙一重だとこき下ろさんばかり。けっこうキツイギャグの作品。 「天井の足跡」というクレイトン・ロースンの作品を思わせるタイトルの作品はジュール・キャスティエの作品。 なんとシャーロック・ホームズがドイルのもう1人のシリーズキャラクター、チャレンジャー教授の失踪の謎を推理するという、ドイルファンの耳目を惹く作品だが、内容的には正直訳が解らない。推理になっているのかなっていないのかすらも意味不明だ。 「シャーロック・ホームズの破滅」は正体不明の作家A・E・Pなるものの作品。たった6ページのショートショートだが、出来は一番いい。 オーガスト・ダーレスの「廃墟の怪事件」とウィリアム・O・フラーの「メアリ女王の宝石」はホームズ作品の方程式に則ったような正統派作品。 どちらも依頼人が来るまでにワトスンを驚かす小さな推理が披露され、そして依頼人が来てからはその氏素性を難なく云い当ててしまう。依頼人が到着するタイミングまで推理するのも2作とも同じだ。 さてそんな正統派パスティーシュ作品は前者が最近事業家が買った屋敷の近くの廃墟に謎めいた明かりが灯り、またそれに伴って妻の様子が変だという謎の解明をホームズに依頼する。まあ、なんというかホームズの万能振りばかりが披露される読者には解けない類のミステリになっている。 後者は来英したアメリカ人が手に入れた云われのある宝石がホテル宿泊中に何者かに盗まれる事件をホームズに解明を依頼するもの。残された手がかりは犯人の衣類から引きちぎったボタンのみ。これも唐突なまでに犯人が絞られ、ホームズが傲岸不遜なまでに犯人に近づき、勝手に部屋に忍び込んで証拠品を探し当てるという、今なら噴飯物の作品。とはいえ、やはりこれは時代性か、ホームズならばこれらの犯罪行為が許せてしまうのだから不思議だ。 ヒュー・キングズミルの「キトマンズのルビー」はラッフルズとホームズの対決という長編のうち、最後の結末の2章の抜粋という形を取った、ちょっと変り種の作品。ラッフルズが盗み出したキトマンズのルビーを彼の相棒バニーの返還を条件に返却する一幕を、ホームズ、ラッフルズそれぞれの相棒が変に気を回したことで生じる誤算がテーマ。内容的にはよくある話か。 レイチェル・ファーガスンの「最後のかすり傷」は亡くなった父の財産の相続人である双子の弟からの、兄が戻ってきてから周囲で起こる怪異の謎についてホームズに助けを求めるという話だが、これはドイルが著した数々のホームズ譚のエッセンスが盛り込まれており、その演出をほめるべき作品だろう。有名な「まだらの紐」や「ブナ屋敷」などを髣髴させるエピソードが盛り込まれており、最後の一文までそれが行き届いている。 「編集者殺人事件」の著者フレデリック・ドア・スティールはなんとホームズ譚の挿画を描いていた画家で、内容も本人自らが殺人者となり、それをホームズが今までの作者の仕事に恩を感じて彼の冤罪を晴らすというメタフィクション物になっている。しかし内容はなんというか、作者の積年の編集者達への恨みつらみが爆発した内容になっており、結末も含めてあまり面白いものではない。 この作品をホームズ物というにはいささか疑問が残る。なぜならフレデリック・A・クマー&ベイジル・ミッチェルの「カンタベリー寺院の殺人」はシャーロック・ホームズの娘とされるシャーリー・ホームズとジョン・ワトスンの娘とされるジョーン・ワトスンのコンビが事件解決に当たるからだ。 物語は題名通り、カンタベリー寺院で出くわした一見自殺と思われる死体を巡る殺人事件の謎をシャーリーとジョーンのコンビが追うというもの。内容的にはミステリ短編として構成も巧みだが、いささかキャラクターに弱さを感じ、あまり印象に残らなかった。 医学博士までもがホームズ物を書くことに魅力を感じるらしい。ローガン・クレンデニングは医学書以外に「消えたご先祖」でそれを実現した。 ただ内容はたった2ページのショートショートだが、あの世に逝ったホームズが行方不明になったアダムとイヴの捜索に当たるというもので、医学博士らしいオチで短いながらも笑わせてくれる佳作になっている。 リチャード・マリットの「悪魔の陰謀」は全国でピアノのキーが無くなり、サーカスの象の盗難が増加したという怪事にはある秘密結社の陰謀が絡んでいるという内容の作品だが、いまいち掴み処の解らない作品で、特に最後のオチがよく解らない。 戯曲調で書かれたS・C・ロバーツの「クリスマス・イヴ」は無くなった真珠の行方を捜す話。ホームズの超人型探偵の側面のみが色濃く現れており、結末が唐突に訪れる感は否めない。 最後の作品、マンリイ・ウェイド・ウェルマンによる「不死の男」は隠居したホームズの許に訪れたドイツのスパイとの静かな戦いを描いた作品。これを最後に持ってきたところにクイーンのアンソロジストとしての技量を感じる。 ストーリー展開も読み応えがあり、また登場するホームズがすでに老境に入っておりながらも、題名どおり「不死の男」としてドイツのスパイのブラフを鮮やかに見破る件は、ホームズの偉大なる探偵像を思い浮かばせ、重厚感すら感じる。 冒頭にも触れたが本書は1944年当時に世に散在していたホームズに纏わるパロディ、パスティーシュを1冊に纏めたアンソロジーなのだが、それぞれの作品の冒頭にクイーンのコメントが付されており、それを読むと当時でもかなり希少価値の高い作品が集められているのが解る。 主にそれぞれの作家の短編集やアンソロジーからの収集が多いが、中には雑誌に一回こっきり掲載されてそのままになったものや、私家版で刷られた書物のみ現存する作品もあったりと、収集家クイーンの情報収集能力の高さが実感される、実に資料的価値の高いアンソロジーとなっていることが解る。 こういう仕事振りを見せられると、今日本でマニアックなまでに作品を発掘し、アンソロジーとして出版している某収集家兼書評家の魂はこのクイーンの仕事に影響されていることが解る。いやあミステリ収集の血は海を越えて極東の地日本で色濃く残り続けているのである。 しかしそんな偉業とも云える本書だが、収集された作品の内容の出来はそれほどいいものではなく、寧ろ傑作と呼べる作品はなかったというのが率直な感想だ。 クリスティやバークリー、そして編者のクイーン自身の作品もあるが、あまり出来はよくはなく、寧ろ肩の力を抜いて気楽に書き流している感がある。高名な大家、マーク・トウェイン、O・ヘンリーによる作品はなんだかホームズの人気を妬んでいる節も無きにしも非ず。 特に総じて感じるのは、ホームズのパロディの色が濃く、この偉大なる探偵の高名を利用して戯画化している作品が多いことだ。これは世界一有名な探偵ホームズとその作者ドイルへの親しみと敬意の表れと見えるものの、中には悪意すら感じさせるものもあった。 したがってこの4部構成で計33編にも渡るアンソロジーは歴史に埋もれそうになりつつあったホームズのパスティーシュを残すための文学的功績以外、その価値はないだろう。特に文学史にも名を残す大家マーク・トウェインやO・ヘンリーらがホームズ物を書いていたというのは今に至るに知らなかったし、それを知るだけでも価値はあるだろう。 私はホームズに特別な愛情を感じていないから、作品に対する評価は非常にフラットなのだと思っているが、本書をシャーロッキアンが読めば、どのような感想を抱くのか、興味深いところだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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てっきり学園青春ミステリとは縁を切ったと思っていた東野圭吾氏が久々に学生、しかも高校生を主人公にして書いたミステリが本書。しかもデビュー当時の瑞々しさは失わずに、寧ろ豊かな経験を重ねた分、人物像にさらに厚みが増し、そしてプロットの切れ味が増しているという、東野氏のこの手の作品が好きな人にはまさに堪らない一品となっている。
何しろ主人公の西原荘一はじめ、彼を取り巻く高校生たちがなんとも瑞々しい。親や先生の云うことを聞く、聞き分けのいい生徒ではなく、彼らはすでに自分達の世界を持ち、恋にスポーツに受験に明け暮れているのだ。 この歳になると、高校時代とか大学時代という、世の中のしがらみに囚われずに一所懸命何かに取り組めた頃を懐かしむ傾向に私はあるようだ。 技巧派である東野が本書で主人公西原の一人称叙述を用いたことで学校で起こる恋人の交通事故死と妊娠騒ぎ、そして教師の自殺に同級生の自殺未遂とショッキングな事件が連続する事件の数々を、高校生の青臭さと純粋さを持った視点から同世代の友達との交流も合わせて語らせて、あえて難しくない事件を解りにくく書かせることに成功している。 そしてまた冒頭のエピローグで語られる先天的に心臓に異常を抱える妹春美に纏わるもう一つの物語の軸を煙幕で覆い隠すことにも成功している。 ただ非常に危うい設定の作品であると云わざるを得ない。 主人公の行動に矛盾がありすぎるのだ。 特に恋人宮前の死の真相を明かすべく、クラス全員の前で自分がお腹の子の父親だと公言し、その死因に教師の過剰な生活指導に原因があると糾弾する。しかしこういうことをしながらも自身の所属する野球部が地区大会に出られるように事を大きくすることを危ぶむ。 自分で騒ぎを大きくしておきながら、この心配がどうにもちぐはぐな印象を受ける。高校生の考えること、そう考えれば納得は行くかもしれないが、世を斜に構えた姿勢で見る、あの頃特有の生意気さと背伸びした大人の素振りを見せる主人公がこのような行為をすることがどうしても結びつかない。 しかしこれらは推理小説として捉えればの話であり、青春小説として捉えれば、この主人公の行動も理解が出来る。要するに自分に正直に生きることを信条とするがゆえの若気の至りなのだ。 最後に至って西原の真意が明かされるに当たり、それが明確に見えてくる。これは若さゆえの何物でもないな、と。こういう心情を書ける東野圭吾氏の若さを本作では買いたい。 しかし毎回思うがこの作者の筆致の淀みの無さはいったい何なんだろう?全く退屈を感じさせること無く最後まで読ませる。しかも巧みに物語に謎を溶け込ませ、読者に推理を容易にさせない。推理するためにページを繰る手を止めるよりもストーリーが気になって先に進めることを選択せざるを得ないのだ。 そして最後の一行のカッコ良さ。青臭さを感じる生意気な高校球児である主人公西原荘一のお株をグンと挙げるキメ台詞だ。 人を教育することに信念を持つ先生という大人と、大人と子供の境で日々を生きる高校生という人種が交わる閉鎖空間、高校。 この特異な空間で歪められた人間関係が生み出した悲劇。 個人的には悪人は誰もいなかったように思う。誰もが己の正義を貫こうと、己の護るべき物を護ろうとした結果ゆえに、これほどまでに捩れてしまったのだ。 成熟の域に達した東野氏が久々に放った青春学園ミステリは、やはり上手さの光る逸品であった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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探偵ニール・ケアリーシリーズでデビューしたウィンズロウが、同シリーズを“一旦”終了させて書いたノンシリーズが本書。探偵学入門編という体裁を取りつつ、娼婦の母親に育児放棄された形でストリート・キッドとして生きていかなければならなかったニールの、ちょっと触れれば壊れてしまいそうなナイーヴさを特徴に、潜入捜査を通じて人生の哀しみを知り、成長していく姿を描いていたが、後半はスラップスティックコメディからロードムーヴィーのような追跡劇へと、ニールの内面の掘り下げからユーモアを前面に押し出すような展開を見せていた。
そして本書で選んだのがロードムーヴィーアクション。伝説的サーファー兼麻薬王ボビーZの替え玉に選ばれたティムが、生き残るために、そしてボビーZが遺した子供のためにしつこく手強い追跡者達を迎撃しながら逃走していく。 いやあ、すごいね、これは。 題名は「気怠く優雅な人生」だが、中身は全く正反対。ニール・ケアリーシリーズと違って死体が出るわ出るわ。確かに同シリーズの3作目『高く孤独な道を行け』でもクライマックスにアクション要素をふんだんに織り込んだシーンがあったものの、こちらは全編に渡ってそれ。 特に登場人物表に載せられた人物がバッタバッタと死んでいき、全く先が読めない。たった310ページ強の作品なのに、今までの作品よりも出てくる死人の数が多い。 しかし血生臭さを感じるけれども、それよりもやはりアクションシーンが眼前へ蘇る。それはなんとも迫真に満ちている。 人を殺した者にしか解らない心の機微や感触を実感を伴わせて描写する。 しかし単なる殺し合いのエンタテインメント小説にしていないのがこの作者のいいところ。 ボビーZに成りすましたティムが道連れにするのはボビーZの隠し子であるキットという子供。彼との逃亡劇がキットにとって父親との失われた交流を取り戻す時間となり、ティムは他人の子供ながら我が息子と同様に慕い、やがて親子の絆を築き上げる。 そしてエリザベスというかつてボビーの恋人として振舞うキットの世話役の絶世の美女の存在もこの物語にアクセントを与えている。麻薬王ドン・ウェルテーロの下に入りながらも、ボビーZことティムに加担する彼女は高級娼婦で男性を手玉に取る器量を持ちながら、情に厚いところもあるファム・ファタール的存在だ。 ニール・ケアリーシリーズのヒロイン、カレンといい、本当にウィンズロウの描く女性像は魅力的だ。 上に書いたように物語の構造自体は伝説の麻薬王ボビーZの替え玉となったティムが自らに降りかかる色んな災厄から逃亡するという実にシンプルなのだが、ティムを追う敵たちが多種多様でそれらが見事に絡み合い、アンサンブルを奏でる。 ティムを替え玉にした麻薬取締捜査官グルーザから始まり、過去のある恨みからボビーを亡き者にせんとするメキシコの麻薬王ドン・ウェルテーロ。それにティムの刑務所時代の敵役だったヘルズエンジェルの面々。そしてボビーの腹心であったがボビーの財産に目が眩み、我が物にするため、ボビーを亡き者と画策する“僧侶(ザ・モンク)”。 それらを軸に登場人物表に記載されていないのが不思議なくらい個性的なキャラクターがボビーZことティムに関わってくる。たった320ページ弱の中にこれだけ面白い交錯劇をよくも編込んだものだと、改めてこの作家の技量には感服する。 本書は1997年発表の10年後、ハリウッドでポール・ウォーカー主演で映画化された。確かにこれだけアクションシーンが多く、しかも先を読ませないストーリーと絶妙なプロットを備え持つ作品であれば映画化されてもおかしくはない。 興行成績的にどうだったのかは寡聞にして知らないが、それにして映画化までけっこう長くかかったものだ。 しかしやはりニール・ケアリーシリーズを比べるとくいくい読めるものの、心に何かを残すのには軽すぎたように思う。確かにティムとキットの交流は特に物語の終盤に胸を熱くさせるシーンはあるが、ニール・ケアリーシリーズで見られたほどにはトーンは低く設定してあるようだ。 『砂漠で溺れるわけにはいかない』から続いて出版された本書に共通するのはそれまで上梓された作品に比べて非常にページ数が少ないことだ。この頃の作者は過剰に書き込まずにスピード感持った作品を書くことを目指していた、もしくはそういう物を書けるように訓練していた風にも取れる。前作にも書いたがなんだかエルモア・レナード作品を読んでいるような感じも受けた。 色々書いたがこの作者の作品が面白くないわけでは決してない。寧ろ何も考えずに面白い話を読みたいという人や時には最適の一作だろう。 |
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御手洗・石岡コンビ若き日の事件。やっぱり彼らはこうでなくてはならない。
初期の御手洗シリーズのテンポ、御手洗の奇矯ぶり、そして2人の漫才のような掛け合いが戻ってきた。開巻してすぐ私はこの快哉を挙げた。初期シリーズに見られたユーモアも織り込まれ、一気に御手洗ワールドに引き込まれた。 この頃の島田氏は物語の復興を唱えていた。ミステリはトリック、ロジックも大事だが、まず小説でなければならない、コナン・ドイルの時代から描かれてきた物語がなければならない、確かそのようなことを提唱していたと記憶している。そして本書が出た2006年は月刊島田荘司と銘打たれたように、6ヶ月連続で新刊(一部加筆訂正も含む)が発表され、気炎を吐いていた。 特に本書ではコナン・ドイルへの影響が顕著で、事件の発端となった日の御手洗・石岡コンビの日常が語られるあたりは全くホームズシリーズの導入部と似ている。そして奇妙な依頼と事件発生、解決、そして事件に至るまでの犯人の長いエピソードなど、構成は全くもってホームズシリーズの長編と瓜二つだ。 そう、ミステリ始祖に敬意を表した原点回帰がこの頃の島田氏の活動指針だった。 本書はしかしミステリとしてどうかと云われるとその出来映えについてはやはり首を傾げざるを得ない。御手洗が登場するのは全277ページの物語のうち、たった76ページぐらいで、その後はある野球選手の半生と事件に至るまでの経緯が手記の形で語られるのである。したがって御手洗の推理らしきものはほとんどない。 まあ、確かに御手洗は超人型探偵で事件に遭遇しただけで全て見極めてしまうのだが。しかし事件の真相はこの手記で明かされており、一応御手洗はその手記で出て来はするものの、間接的に事件の真相を見抜いたようにしか書かれていない。つまりこれはもはや推理小説ではないわけで、読者は事件が起きた後、犯行手記を延々と読まされるだけなのだ。 これは構成上、大いに問題だろう。ホームズでも犯人究明の推理はなされていた。それが故に彼は今なおミステリ界に君臨するキング・オブ・ディテクティヴなのだ。 しかし本書ではその推理すら披露されない。全てを見抜いた御手洗の暗示的な台詞が仄めかされるだけなのだ。ちょっと物語に比重を置きすぎたバランスの悪い作品と云える。 しかしそんな構成上の不満はあるものの、やはり島田氏のストーリーテラーぶりは素晴らしい物がある。 少しの才能でプロ野球選手を目指した貧しき男と、天性の才能で見る見るうちに球界を代表する選手にまでなった全てを手に入れた男の友情物語は、はっきり云ってオーソドックスな浪花節以外何ものでもないが、くいくいと読まされる。作者の揺ぎ無い創作姿勢とも云える弱者への優しい眼差しも一貫されている。 つくづくこの作家は物語を語るのが上手いと感じた。 ただ現代本格ミステリ界の巨人としてはやはり上記の理由から凡作といわざるを得まい。100ページ足らずの短編をエピソードで無理矢理引き伸ばした長編、もはやテクニックだけで書いている作品だなぁと一抹の寂しさを感じてしまった。 |
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とうとうこの時が来た。ニール・ケアリーシリーズ最終巻。
元々最終巻は前作『ウォータースライドをのぼれ』だったようだが、本作はファンの要望に応えて書かれた後日譚と云われている。そのせいか、他の作品と比べて総ページも約250ページと約半分の分量である。しかしそれでもやはりウィンズロウ、しっかり仕事をしてくれている。 毎回このシリーズには印象的なキャラクターが登場するが今回は何といってもニールが家へ連れ戻す老人、元コメディアン、ナッティ・シルヴァーことネイサン・シルヴァースタインのキャラが秀逸。 今までの作品でのウィンズロウのウィットに富んだ文体で彼のユーモアのセンスは解っていたつもりだが、コメディアンをメインに据えた本書ではそれが全開。今まで我慢していたギャグを大放出しているかのようだ。そしてそれがほとんど面白い。 それがまたナッティのキャラクターの造形を色濃くしている。そしてその飄々とした好々爺の風格が古き良き時代のアメリカン・コメディアンそのものであり、眼前にナッティがしたり顔でジョークを連発するのが目に浮かぶくらいの存在感を放っている。 この分量であるから、前4作に比べるとすごくシンプルな作りになっていると感じるのは否めないが、内容的には思う存分愉しめた。7ツ星評価は今までのシリーズに比べての相対評価であり、もしこの内容でノンシリーズだったり、第1作目であれば8ツ星を献上しただろう。 3作目から登場したカレンだが、実にいい女性だと思う。大人に成りきれないニールの純粋さを受け入れて愛する姿勢、しかし決して盲目的に献身に徹するのではなく、気風のいい姐御であり、常にニールと対等に振舞う。いやあ、カレンは個人的には今まで読んだ小説でも一、二を争う最高のヒロインだ。 特に今回は作者自身も愉しんで書いていることが窺える。ナッティとニールのやり取りはもちろんのこと、ニールとカレンの会話、時折挿入されるホープの日記、保険会社と弁護士との往復書簡、サミとハインツの通話の記録など、いくつもの文体を駆使して、それらが全て笑いに直結している。 もうウィンズロウは全開でギャグを放り込んでいたんだろうなと容易に想像できる内容だ。 解説によれば作者はシリーズ再開を考えているらしい。 いや1999年時点の話だから、既に出ているかもしれない。実に嬉しいことではないか。一ファンとしてはそれが早く形になり、そしてさほどのタイムラグが生じないように訳出されることを願って、感想の締めとしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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「大富豪殺人事件」と「ペントハウスの謎」の2つの中篇からなる中編集。
まず1編目の表題作は株式仲買人として莫大な富を築き上げたピーター・ジョーダンからエラリイの許へ看護婦の手配を要請する手紙が送られてくるところから始まる。 80ページ足らずの短編とも云うべき作品。大富豪の被害妄想が現実になって殺人事件に発展するという趣向を取ったのだろうが、非常にオーソドックスな内容になっている。大富豪の屋敷の中だけで繰り広げられるという非常に限定された舞台設定であるため、あまり動きがない。 まただからといって閉鎖空間ならではの濃密な人間関係が描かれるわけでもない。本当に小編というべき作品だ。辛辣になるが単純に法律の知識を活かした作者の自己満足に終わっていると云えない訳もない。 続く「ペントハウスの謎」は一度創元推理文庫の『エラリー・クイーンの事件簿Ⅰ』で読んでいたため再読。しかし内容はすっかり忘れていたのだが。 本来この作品は買う予定ではなかった。というのも創元推理文庫の『エラリー・クイーンの事件簿Ⅱ』に表題作は収録されており、それを買えば補完できたからだ。 しかし肝心のその本は長らく絶版状態。じっと待ってても良いが、世のミステリファンの話からこれら短編に出てくるニッキー・ポーターはクイーンシリーズで出てくるそれとは別物のような設定であるから、二度と『~事件簿Ⅱ』は再販する可能性が低いことを知ってしまったからだった。 とにかく今手に入れられる本を買うべきと思って購入したが、内容的には薄味だった。『大富豪殺人事件』がクイーンファンにとってマスト・バイであるとは正直お勧めできない。 とはいえ、ここはこの作品を絶版にせずに今なお目録にその名を留め、書店の棚に収めている早川書房の志を敢えて褒めるべきだろう。 だから早川さん、早く『フォックス家の殺人』とか『最後の一撃』とか『心地よく秘密めいた場所』とか『第八の日』といったクイーン絶版本を復刊して下さいね。頼みます。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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小説家というものは一度長大重厚な作品を物にし、それが当たってしまうともうその呪縛から逃れられないらしい。
この前に書かれ、日本でも話題になった『深海のYrr』も三分冊で合計1600ページもの大作だったが、今回の『LIMIT』はさらにそれを上回る合計約2280ページの四分冊で刊行された。 今回のお話は大きく分けて3つ。 1つは大富豪ジュリアン・オルレイが各界の有力者と共に月面に行き、そこで起こる事件。 もう1つはサイバー探偵オーウェン・ジェリコが依頼された失踪人瑶瑶の捜索と彼女を付け狙う殺し屋ケニー辛との攻防。 そして最後の1つはカルガリーで起きた石油メジャーEMCOの営業戦略本部長ジェラルド・パルスタイン射殺未遂事件を追うジャーナリスト、ロレーナ・ケオワの話。 そしてこのようなモジュラー型小説の定石どおり、3つの事件はやがて関係性を伴って1つに収束する。 ただ長々と読まされた割にはなんともありきたりな真相でがっかりしたというのが正直な話だ。 また毎度この作家の専門分野に関する詳述には唸らされるものだが、今回も例外なく、『深海~』よりもさらに多岐に渡っている。 たとえば宇宙ステーションで初めて遭遇する無重力空間で人間の体に起こりうる事象について事細かに述べていく。 宇宙酔いは知ってはいたが、それ以外にも体液の再分配に応じて脚が冷たく感じたり、汗が噴き出るようになったりすることや無重力では徐々に日々筋力が衰えていく為、筋肉トレーニングやエクササイズが義務付けられていることなど。 また面白いのはラヴバンドという代物。これは無重力空間においてセックスをするときに相手を固定する為にどこかへ縛り付けておく為の物。果たしてこれは実在するのか?私は実在すると思う。なかなか面白いエピソードだ。 また宇宙では当たり前だが真空の為、窓を開けての空気の入れ替えが出来ない。したがって100%空気清浄システムに頼らざるを得ないのだが、クルーに体臭が強い人がいるとかなり不快感を感じることや、また宇宙から地球に戻った人たちはすべからく重力の恩恵によって膀胱と肛門が開いて排泄をしてしまうため、それらを回収する器を装着していることなど、非常にリアリティに富んだ叙述が実に興味深い。 さらには月面では一日の温度変化が激変することからそれにより地震が頻発しているなどという薀蓄もあった。月に関する研究はここまで進んでいるのかと驚嘆したものだ。 さらに興味深かったのは癌や心不全などの病気に対する治療方法や抗生剤の研究がさかんで年々発達していくのに対し、マラリアやデング熱といったある地域限定の病気に対する治療方法や抗生剤がなかなか進まないことについて、前者がいわゆる富裕層にも罹り得る病気であるのに対し、後者が未開の地に多く、富裕層が行かないところの病気で縁がないからと作中人物の口を借りて述べているところだ。 いやあ、これはまさに経済原理の厳しさというかあざとさを見せられた思いがした。確かにこれらの研究開発には莫大な費用がかかり、それらをバックアップするのは財界人や彼らの組織なのだから、自分に降りかからない不幸には全く関心がないのだ。つまりマラリアなどの病気を根絶し打破するには野口英世が黄熱病を根絶したように医療関係者の志に賭けるしかないのだろう。 う~ん、また自分の知らない世界を知らされてしまった。 最先端の科学そして技術情報をふんだんに盛り込んで紡がれたこの近未来SF超大作だが、それでもやはり人間のやることは万能ではない。 例えば月面のホテル、ガイアで供される魚料理を実現させる方法として海水養殖と答える件がある。しかしその後海の環境を月面で生み出す困難さについて得々と登場人物の口から語らせており、それに対する答えをぼやかして処理させている。 思うに現在これは確立されていない技術であり、作者自身もここが弱点だと思っていたような節がある。しかしながら現在では日本の山梨大学が好適環境水という海水魚と淡水魚が同一の水で暮せる環境を生み出す粉を発明しており、恐らくこの問題はこの方法で解決されるだろう。この辺のリサーチは残念ながら甘かったと云わざるを得ない。 その他サブカルチャー的な面についても記述は多い。どうやら2025年になってもビートルズやボブ・ディランはまだ聴かれているようだし、なによりもあの長大河SF小説ペリー・ローダンシリーズは映画化されているようだ。 確かにこれが実現すればかなり息の長い映画シリーズになることだろう。まあ人気があればの話だが。 3つの事件が本書の大きな流れであることは前述したが主流となるのは瑶瑶、屠天とサイバー探偵オーウェン・ジェリコたちと殺し屋ケニー・辛の攻防だ。 特にケニー・辛は影の主役ともいうべき存在感を放ち、再三再四に渡ってジェリコらをつけ狙う。『スターウォーズ』シリーズにおけるダース・ヴェイダー、『マトリックス』シリーズにおけるエージェント・スミス、それほどの存在感を持っている。 しかし長い。長すぎる。不要なエピソードが目立った。例えば赤道ギニアの歴史なぞは要約すれば2ページに収まるくらいの話である。それを起源から詳細に話すものだからどんどん長くなる。 とにかく知りえたことを全て書かなければ気が済まないという思いが行間から滲み出している。全体のバランスをもっと考えて細を穿つところを考えて欲しいものだ。 そして今回も多くの登場人物が登場し、そしてカタストロフィに向かうに従い、次々と死んでいく。 特に今回は月面へ招待された客が財界の著名人だったり、芸能人だったりと個性豊かな人物が勢ぞろいしているだけにキャラクターが立っていて、その悲劇性は増している。主要登場人物40名以上にも上る彼ら彼女らそれぞれにバックストーリーがあるため、ただでさえ長いこの小説がさらに長くなっている。 しかしこの構成は『深海のYrr』そのままだし、特に作者自身が揶揄しているハリウッド映画の手法とそっくりではないか。映画化を狙ったあざとさが非常に気になるのである。 情報小説というジャンルがあるが、これは情報過多小説だ。 物語に関係する全ての分野について事細かな情報を盛り込んでいるがためにこれだけの分量にまで膨らんでしまっている。 月面旅行の実現性やそして石油を取り巻く各国の駆け引きや智謀策略の数々、石油から次世代エネルギーへの転換の展望(『深海のYrr』でさかんに叫ばれていたメタンハイドレードに関する叙述が皆無なのは一体どういったことなんだろう?)、そして2025年にあるべきハイテクマシンの姿や仮想空間を利用した人々の生活様式などなど、自らがその道の専門家から取材し、またおそらく自身の想像も付け加えて詳細に述べたそれらの情報の数々は正直に云えばかなり削ることができたはずだ。 ストーリーの本筋である3つの事件に焦点を当ててこれらの情報をほんの彩り程度に語れば、もっとスピード感も増したことだろう。 恐らく実際取材に当たり、執筆に5年費やした作者にしてみれば、これでも泣く泣く削らざるを得なかったエピソードがあったのだとのたまうことだろうが、それは己が調べて得た知識を披露したいという自己顕示欲に過ぎない。つまりこの1巻平均570ページの4分冊という大作になった時点でこれは読者の目を無視したほとんど自己満足の領域に入ってしまっている。 もし作者がさらに語りたいことがあればそれらはまた別に本書で書けなかった情報を集め、本書を補完する形のガイドブックのような物を出版すればいいのだ。 小説とは物語である。小説を読むことで新たな知識を得るという知識欲の充足を求める人も確かにおり、私もその中の一人だ。 しかし基本は物語なのだ。 従って足し算引き算というのは必要なのだ。 『深海のYrr』の成功以降、シェッツィングは小説家として間違った方向に進んでいるのではないだろうか? 訳者あとがきによれば本書は本国ドイツでベストセラーを記録したそうだが、これは国民性なんだろうか、とても信じられない。 日本の村上春樹作品のようにシェッツィングも出せばベストセラーになるような風潮になっているのかもしれない。 このくらいの長さになるとスティーグ・ラーソンの『ミレニアム』シリーズのように大きく1つの話という括りにしLIMIT4部作としてシリーズ物として出版し、1冊ごとに小さな事件の結末を描いて最終巻で全体を貫く大きな事件の結末を描くという構成にした方が読者にも優しいだろう。 事実、私は途中流し読みした箇所が何箇所もあった。内容の割には意外に心に残らない小説。そういう風に落ち着いた。 失敗作、駄作とまでは云わないが佳作とするには首肯しかねる。 しかし今回はいやにシンプルな題名に落ち着いたものだ。原題と全く一緒。通常ならば今までの傾向からして『宇宙の~』とか『月面の~』とか一見意味の解らないドイツ語と組み合わせて煙に巻くようなタイトルにするかと思ったのだが、今回はそのものズバリで来た。 もしかしたら今までのシェッツィング作品の感想で書いてきた要望が受け入れられたのかしら。まさかね。 しかし重ね重ね云うが、これほど徒労感が残る小説も珍しい。誰かシェッツィングにもっと刈り込むようにアドバイスしてくれ! ▼以下、ネタバレ感想 |
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1904年に発表されたチェスタトンのデビュー長編小説。実にチェスタトンらしく、様々な警句と美意識に満ちた作品だ。
まず冒頭の2章まで読むに限って、この小説をなんと称したらいいだろうか、私には皆目見当が付かなかった。 1907年に著した1984年を舞台にした近未来小説。籤引きで国王が選ばれるイギリスを舞台にした物語。この設定からしてチェスタトン自身がふざけながら楽しんで筆を進めているのが解る。 最初の100ページまではチェスタトンお得意の言葉遊びに満ちており、ストーリーが全く見えてこない。ここら辺は非常に難解で思考があっちこっちに飛び、理解に苦しむ。 しかしやはり奇想の思想人チェスタトン。そこを過ぎると実に面白いストーリーが見えてくる。 ロンドンの一大プロジェクトである3市を貫く大街道建設に異を唱え、たった100人ぐらいしか住まないポンプ・ストリートというちっぽけな通りを守るべく、そこの市長アダム・ウェインが国王と袂を分かち、戦争が勃発するのである。圧倒的数の劣勢は明白でアダムの敗北は十中八九間違いないと思われていたが、そのポンプ・ストリートには戦争マニアである玩具屋の主人がいた。彼はかねてよりその通りが戦火にまみえた時にどう守るかを研究していたのだったという、なんとも喜劇的なお話なのだ。 しかしそんな“ありえない”話が各市長との幾度とない戦いが繰り返されるにしたがって次第に真剣味を帯びてくる。冒険活劇小説としても楽しめるほど、ロンドンの町の一角で繰り広げられる市街戦は迫真的でしかも実に策略に富んだ内容でエンタテインメントとして十分成り立っている。 ブラウン神父シリーズに代表されるチェスタトンの作品は独特の思考と常人を超越した理論で常識に凝り固まった我々を開眼させてくれる思弁小説というイメージが強かったがいやいやカーのそれとも劣らない活劇が書けるものだと感服した。 しかしそれでもやはりチェスタトンはチェスタトンである。 物語とは関係のないところで方々で挿入される言葉遊び。イギリス各地の地名の由来を、その真偽について眉を顰めざるを得ないような駄洒落や冗談で説明する件があったり、オーベロンの、人を笑わすために取る奇矯な振舞いにもっともらしい説明を加えたり、そしてお得意の狂人が登場したり、と展開は天真爛漫、自由奔放だ。 また狂人がほんの数十メートルしかない通りをめぐって国王と連合軍に立ち向かうというこの物語は壮大な冗談小説と取れるだろう。 しかしその冗談に命を賭ける人々がいる。それは愚直なまでに自らの信ずる道を行く、女性から見れば呆れるだけの戦争ごっこのような類にしか映らないだろう。しかしこれこそがジョンブル魂なのだとチェスタトンが鼓舞しているようだ。 これを著した1904年当時、イギリスはまさに世界の王であった。しかしその絶対なる優位もヨーロッパの周辺国が力をつけてその地位を脅かしつつあった時期である。そんな英国に送った応援歌なのではないだろうか。 特に象徴的なのは最初市長がノッティング・ヒルの独立を宣言した時、住民の1人の乾物商は全く妙ちきりんな事として取り合わなかった、その時の自分は一介の乾物商に過ぎなかったが、実は自分は水の生き物を手にいれ、地球の裏側の果実を集める輩どもを従える王であったと気付かされたと述べる件だ。まさに”Everybody’s a HERO”である。ここに私はチェスタトンの真意を見た。 しかしこの小説は初めてチェスタトンを読むにはかなりハードルの高い小説だと思う。 このチェスタトンしか書けないテイストはやはり他の作品、やはりブラウン神父シリーズを導入部として読んでからにして欲しい。もしくは『木曜の男』(光文社古典新訳文庫版は『木曜だった男』)を愉しめた人ならば本書も愉しめるだろう。 私にとって本書は繰り返しになるがチェスタトンはやはり最初からチェスタトンだったと思えただけに嬉しい作品だった。 |
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建築探偵桜井京介シリーズ第2作。前作がスペイン風建築で今回のモチーフはインド。しかしタージ・マハルに代表されるような豪奢な宮殿ではなく、町中にある小さな宿のような建物。
本格ミステリとはその現実離れした特異性ゆえ、いかに物語世界に読者を引き込み、その中でのリアルをいかに感じさせるかが鍵である。 したがって中途半端なことをやるよりもやるならばとことん別の世界の話とまで思わせる、もしくは隔絶された過疎地域のような地域の特殊性が出るような場を提供する方がいい。 さて今回の惨劇の舞台となる恒河館は、本格ミステリで云うところの“嵐の山荘”である。つまり作者は今まで決して本格ミステリ然とした舞台設定を好まなかったが、今回はあえてそれに挑戦している。 しかしなんとも読みにくさを感じる小説だ。特に場面が思い浮かばない。添付された舞台となる恒河館の見取り図と作内で騙られる場面が結びつかないのだ。 見取り図にはない部屋の室名で場面が語られるため、非常にシンプルな構造をしているにもかかわらず、いやそれがゆえにそれぞれの人物がどの部屋にいるのか、どの部屋を指しているのかが解りにくい。 また加えてホテルとして開業するにはこの恒河館という屋敷の部屋数が少なすぎるのもまた気になった。たった2階建てで客室が3部屋しかない構成はまるでドラクエの宿屋のようだ。どうやって経営を成り立たせるのか。このまるで現実味を覚えない設定が物語世界にのめり込むのを阻んでいた。 そういった意味ではせっかくの舞台設定が生きていないと云わざるを得ないだろう。 また物語のテーマが今回はインド神によるところが大きいのも逆にこちらの興味を殺ぐ結果となった。過去の死亡事件に関わった人々にそれぞれインド神を擬えるというのはなんとも漫画的で愕然としたものだ。ミステリアスな死者の言葉がなんとも陳腐なものとして響いてしまった。 恐らく作者自身も自覚的だったのだろう、作中登場人物の間でミステリ談義が交わされるが、そこで持ち上げられるのは中井英夫氏の『虚無への供物』。つまり日本の三大ミステリの1つであり、アンチミステリの代表作だ。あらかじめ今回は観念的な宿命論を持って来ますよということを投げかけていたのだが、その設定にはちょっと違うだろうと思わされてしまった。 こんな絵空事な宿命よりも運命の皮肉という物語の妙で勝負して欲しい。そういう意味では前作の方がよかった。 この作家に期待するのは自分の好きなものを垂れ流し的に書くのではなく、もう少し読者の目を意識した作品を著す事だ。 デビューから一貫して他の新本格ミステリ作家とは一線を画した作風で勝負をしていることは賞賛に値するが、そのマニアックな内容はあまりに排他的で、「好みが合う人だけ付いてきな」とでも云わんばかりの傲慢さを感じる。 桜井京介、蒼、そして今回出演の機会がなかった栗山深春といったレギュラーメンバーの面々は正直嫌いではない。本格推理小説でありながら推理の対象は建物に秘められた謎が主であり、殺人事件はあくまで副次的という主題性も他の本格ミステリ物と一線を画す特徴があって好ましい。 後は物語のパンチ力か。ページを繰る手を休ませないリーダビリティと心に残る物語を期待したい。 |
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ニール・ケアリーシリーズ第4弾。
聞くところによると実質的なシリーズ最終作との事で、次の『砂漠で溺れるわけにはいかない』はおまけのような作品らしい。しかし逆に私は読後の今、この愛すべき人々との別れが実に惜しくてならなく、おまけの1作とはいえ、もう一度この仲間たちと逢えるのがなんとも嬉しい。 さて今回もグレアムの訪問とニールの後悔で幕を開けるが、前3作と違うのはニールの許には愛すべき存在カレンがいること。そして任務も今まではロンドンに中国、ネヴァダ州の山奥と移動に移動を重ねてきたが、今回は前作の舞台だった“孤独の高み”に仕事が舞い込んでくるという設定。したがって登場人物も3作目と重なる人物が多く、お馴染みの顔ぶれが出揃う。物語に挟まれる彼らとのやり取りにニールが彼の地に溶け込み、もはや村の住民の1人として認知されていることに気付かされる。 とうとうニールは安住の地を見つけたのだ。 しかしそんな安息の日々も長くは続かず、ポリーを巡って元FBIで渦中のキャンディ・ランディスに惚れてしまっている私立探偵チャック・ホワイティングに、謎の殺し屋“プレーオフ”、さらに元凄腕の探偵で今は極度のアル中で落ちぶれた生活を送っているウォルター・ウィザースが絡んでくる。さらにジャック・ランディスには悪徳建設業者の隠元豆ジョーイが付きまとっている。 やはり父親代わりのグレアムはまたしても災厄の天使であったわけだ。 本作は定点で繰り広げられる物語と異色な展開であるに加えて、今まで若くナイーヴな探偵ニールを中心にした“男”の物語であったのだが、今回はレイプの告発をした有名人の秘書とカレンの存在、そしてその2人に加わるその有名人の妻キャンディ3人が主導で展開する“女たち”の物語であるように感じた。 まずポリー・パジェットのインパクトが強烈。よくもまあ、訳者の東江氏はこんな読みにくい田舎訛りの文章を案出したものだ。原文がどのように書かれているのか非常に興味をそそる、それほど痛快な仕事だ(なにしろ“ちんちん”の田舎訛り訳語が「でっちぼ」なんだから参る。しかしつくづく金玉系が好きだねぇ、原作者もしくは訳者は)。 この一見脳足りんの尻軽女の風貌で教養の欠片さえも感じさせないポリーに教育を施し、裁判で衆人の同情を惹く人間に育てる過程は映画『マイ・フェア・レディ』、『プリティ・ウーマン』を思わせる。 さらにそのポリーが心に純粋な塊を持っており、次第にカレンの見方が変わっていくのに加え、夫の浮気に憤懣やるかたないキャンディの懐の深さに感服。特にポリーの妊娠が発覚してから敵同士であるべき存在キャンディが共に赤ん坊の名前を考えている様子など、男たちが想像できない女性たちの同族意識ともいうべき不思議な心理構造を見せる展開はまさに女たちの物語というべきシーンだろう。 こんな先の読めない展開と三文悪党どものジャムセッションとも云うべき、題名のとおりウォータースライドを滑るが如く二転三転するストーリー展開はクライムノヴェルの巨匠エルモア・レナードの作品を思い起こさせる。 そしてその本家に勝るとも劣らない痛快な展開が待ち受けている。 エンタテインメント小説を紡ぎ出していたウィンズロウがTVというショービジネス界のスキャンダルとまさにエンタテインメントど真ん中の題材を描いた本作には斯界に蠢く巨額の浮利と思惑が交錯し、それぞれが自縄自縛状態に陥っていることを如実に描く。特にTVで幸せなアメリカ夫婦の象徴という虚像を担ってきた当事者ジャック・ランディスの有名税ともいうべき不自由な暮らしぶりなど考えさせられるものがある。 また逆に虚栄を売っているこの界を揶揄したギャグも盛り込まれている。特にニールが適当にでっち上げたポルノ映画のシリーズが一人歩きし、隠れ蓑として作った偽名が逆に注目を集めるくだりなどは実に面白い。 とにかく本作は前3作に比べると、危機一髪のドキドキハラハラ感よりもスラップスティックコメディ的な予想の斜め上を行く展開が実に面白く、何度も声を上げて笑ってしまった(特に伝説の殺し屋“プレーオフ”の末路が実に悲惨ながら笑ってしまう)。 したがって今までこのシリーズの売りでもあった若き探偵ニールのナイーヴさはほとんど出てこなくなっており、逆に恋人のカレンが正義感を振り回し、ニールの役割を果たしているようだ。しかし私は前作でニールは一皮向け、一人の男として成長したように捉えていたので全く違和感はなかった。 しかしもう残り1冊になってしまったのか。面白い小説というのは本当にクイクイ読めて時間が経つのが早く感じてしまう。残り1作品、物量的には最も薄いがするめを噛みしめるように読み、じっくり味わいたい。 |
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本作のテーマは殺人鬼物。しかし荒唐無稽な殺人鬼ではなく、現代スポーツ医学の歪みから生み出された殺人機械。
そして単純連続虐殺劇というチープな設定を採らないところがこの作家のいいところ。 とにかくまず東野圭吾氏がまさかこのようなモンスター小説を書いているとは思わなかった。 殺し屋タランチュラは狂えるスポーツドクター仙道之則が生み出した七種競技の選手。より高く跳び、より速く走り、より遠く投げ、より長く走れる万能選手のみが出場できる陸上界至高の競技。この競技を制するものはクイーン・オヴ・クイーンズとまで称される。 まずその選手を殺人鬼に仕立てたのが東野氏のアイデアの秀逸さ。そして驚愕させるまで鍛え上げられ、肉体改造されたタランチュラはまさしく女ターミネーター。狂気のスポーツトレーナー仙道が生み出した運動機械。 その完璧に鍛え上げられた肉体は裏返せば人を屠る凶器にもなる。運動機械から殺人機械へ。まさしく題名どおり「美しき凶器」だ。 ターゲットとなるのは元重量挙げ選手で現在会員制スポーツクラブの取締役である安生拓馬。 元陸上短距離選手で現在は化学工場の社会人陸上部のコーチを務める丹羽潤也。 元ハードル選手で現在はフリーのスポーツライターである日浦有介。 そして元体操選手で現在はテレビタレントになっている佐倉翔子。 彼ら4人を結ぶ輪の中心にいるのが仙道之則。彼はスポーツドクターでありながら肉体改造に心を奪われた人間だった。 彼ら4人は現役選手だった頃、仙道の下でドーピングを施され、一線の選手として活躍した者たちだった。自殺したドーピング仲間の元スキー選手だった小笠原彰の自殺を契機にJOCが仙道を調査するにあたり、自分たちの過去が発覚するのを恐れて、それらを抹消する為、自分たちのカルテを処分しようとしたのだった。 通常このような殺人鬼物ならばスプラッターホラーに代表されるようにとにかく凄惨な虐殺シーンを強調するだけに留まり、なぜ彼が無差別に人を殺すのかなどはありきたりの設定で流し、アクションシーンのみを強調するのだが、東野氏の優れた点は彼らがタランチュラに襲われることになった原因があり、しかも彼らにはその殺人鬼から逃げてはならない理由があるところ。 よくよく考えるとこういう連続殺人鬼物は殺されたくないがために必死に逃げ惑い、人数が減って最後に返り討ちにする為、主人公らが勇気を振り絞って殺人鬼を打ち破るという定型があった。そこに自分たちの犯行を絡ませて敢えて殺人鬼と対峙しなければならないというシチュエーションは今までになかった設定でさすがは東野氏!と褒め称えたいところだ。 そして日浦を初めとする4人たちに共通するドーピングという蠱惑的な堕落への道に陥ったスポーツ選手の苦悩。どうしても超えられない選手としての壁に直面した時に自分の弱さゆえに、克己心よりも自己中心的考えを優先して「ばれなければいい」という悪魔の囁きに屈した後の代償が殺人鬼の報復というのはなかなか面白い。 また世界で肉体増強として様々な手法が開発されていることを知らされた。特に運動機械タランチュラを生み出した、妊娠させてわざと中絶をさせることで筋肉を増強させる方法は人命を軽視した悪魔の所業で憤懣やる方ない。妊婦が体力が必要になることから自然に筋肉を増強させる物質を分泌するという性質を利用して、薬で流産させ、筋肉増強を図る方法。しかも何度も妊娠・流産を繰り返すことで無敵のスポーツ選手が出来るという。 ここまで来ると倫理なぞはもうどこかへ消えてしまい、人体実験の領域にまで達し、もはや実験牧場である。 しかしそんな設定の妙がありつつも作品の評価は佳作どまりだろう。疾走感は買うものの、物語、人物設定に膨らみが感じられなかった。逆に疾走感を取るならば読者に考える間を与えず、次から次へと災厄が降りかかる手法を取った方がエンタテインメント性が増して何も考えずに読めて面白かっただろう。 確かにこれは通勤・通学中に読むにはクイクイ読めて面白いが後に残るものがあるかといえばそうでもない。最後にタランチュラが取った意外な行動には胸を打ち、光るセンスを感じたが、総じて軽めの作品だった。 しかし隙のない物語運びとプロットだ。さほど名の知られていないが読んで損はない作品と云っておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ニール・ケアリーシリーズ3作目の舞台はなんと地元アメリカ。西部の山奥でカウボーイたちの暮すオースティンのさらに奥、通称“孤独の高み”と呼ばれる集落だ。
物語は中国の山奥で早朝に伏虎拳の修行に励むニールの姿で幕を開ける。う~ん、なんとも映像的ではないか。映画『ミッション:インポッシブル』を髣髴とさせるようなシーンだ。 このような演出からも私立探偵物というよりも冒険活劇を前提にした諜報物を意識した作りであるのが解る。あざといと思いながらも語り口が絶妙だからこの導入部から既に期待に胸膨らむ自分がいた。 今回の任務はハリウッド映画プロデューサーの前夫に攫われた一人息子の奪還。 そして通常私立探偵物と云えば主人公の事務所に依頼人が訪れるというのが定番だが、このシリーズはニールの父親代わりのグレアムが依頼を告げ、事件を終えたニールの回想を思わせる独白で幕が開く。それは全て後悔の念であるのが特徴的。つまりグレアムはニールにとってかけがえのない父親でありながら災厄の天使でもある。そのとおり、この実にたやすいと思われた任務が、結果的にはニールのみならずグレアム、レヴァインをも巻き込んで絶体絶命の窮地にまで陥れる。 毎回このシリーズにはニールの行き先で出会う人との交流が物語の絶妙なスパイスとなるのだが、今回のゲストは“孤独の高み(ハイ・ロンリー)”の牧場主スティーヴ・ミルズとその一家だ。彼が農業に見切りをつけ、妻と2人で辿り着いた安息の地“孤独の高み(ハイ・ロンリー)”で如何に今のような牧場を経営するまでに至ったかが語られるのだが、西部開拓者精神を象徴するそのエピソードにグッと来る。2人の夫婦が掴んだささやかな成功と、一人娘の成長を見守るささやかな幸せ。 今はその至上主義が諸国の反感を買うアメリカだが、その国でもこんな時代があったのだと気付かされる。もしかしたらウィンズロウは今こそこういう精神が必要なのだと自国の読者に訴えたかったのかもしれない。 そして忘れてはならないのはヒロインの登場だ。いつもニールはターゲットの女性に一目惚れし、任務に逆らって我が道を行くのだが、今回の相手はターゲットでないところがミソ。オースティンで小学校教師をしているカレン・ホーリーがその相手で彼女は脚が長くて背が高く、幼い頃から山野を歩くため出ているところは出て、引き締まっているところは引き締まっているという抜群のプロポーションの持ち主。しかも笑顔で何人もの山の男たちをとろけさせるほどの魅力的な美人だ。まさに掃き溜めの中の鶴といった存在である。 よく考えるとこうも毎回美女が登場するというのもボンドガールのようで、しつこいようだがやっぱりこのシリーズはスパイ物だなぁと思ってしまう。 今回のテーマは西部劇だ。西部の山奥に行ったニールが乗馬を習い、大草原を駆け抜ける。クライマックスは現金輸送車強奪から白人至上主義集団の追っ手から逃れる一連の群馬活劇シーンは実に映像的。スリリングかつ躍動的で手に汗握るとはまさにこのこと。 ホント、ウィンズロウはなんでも書けるなぁ。 そして今回の展開は痛い。実に心が痛む物語だ。毎度毎度の潜入捜査ながら、マンネリに陥らず、物語に深みが増している。1作目に「潜入捜査の終わりは裏切りだと常に決まっている」と書かれていたが、今回はまさにそう。 白人至上主義で反ユダヤ人派の新興宗教グループの一員となった男に攫われた男の子を救出する為にあえてその身をそのグループに属させようとするニール。読者はニールが強盗団のリーダーとして力を発揮していく過程を頭で割り切れても心で割り切れない感情で読まされる。 しかしそれは命の恩人である気のいいカウボーイ夫婦と熱烈な愛情を注いでくれるカウガールを裏切る行為でしかない。減らず口と持ち前の世渡り巧さでどうにかそれを悟られずに済まそうとするニールだったが、狭いコミュニティの中でのこと、その二重スパイ行為が発覚するのは時間の問題だった。そしてその事実が発覚する瞬間。これが本書の白眉とも云うべきシーンだろう。 そして恩人のカウボーイ、ミルズの出自がユダヤ人であるところが実に巧い。自分の主義・真意を偽り、任務を全うしようとするニールの心引き裂かれんばかりの葛藤。 いやあ、3作目にしてこの濃密さ。ウィンズロウ、実に巧い!思わず目蓋に熱を感じてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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篠田真由美氏のシリーズ探偵、その名も建築探偵桜井京介。本書はそのシリーズの記念すべき第1作である。
篠田氏も80年代後半から起こった新本格ブームに乗じてデビューした一群の作家の1人であったが、鮎川哲也賞に応募して最終選考に残って東京創元社から刊行された『琥珀の城の殺人』と続く『祝福の園の殺人』は中世のヨーロッパを舞台にした歴史ミステリであり、他の新本格作家とは毛色は違っていた。 そんな独自の道を行っていた篠田氏が、他の新本格作家同様に所謂名探偵を配して難事件に挑むという新本格のコードに則って、満を持して放ったシリーズ探偵がこの桜井京介だ。 まあ、第1作目ということもあり、起こる事件やキャラクターは実に類型的と云えるだろう。 探偵役の桜井は朝に弱く、建築に造詣の深く、しかも大抵のことでは動じず、しかも通常長い前髪で覆いかぶされている顔は類稀なる美貌を放つ美男子ぶりという、なんとも少女漫画的な設定だ。 さらにある事情から桜井から保護を受け、助手を務める15歳の蒼は一旦見た映像を細部まで記憶するという特殊能力を持つ。そして独自の推理で突っ走る道化役の桜井の友人栗山深春とコマも揃っており、実際コミケでは桜井を主人公にした同人誌―恐らく桜井と蒼との関係を邪推したやおい本が多いと思われるが―が島田荘司氏の御手洗潔や有栖川有栖氏の火村、京極夏彦氏の京極堂といった有名どころのシリーズ探偵と肩を並べるほどの人気だったとも聞く。 そんな桜井が依頼されるのは取り壊しが決まった伊豆にあるスペイン風洋館の保存の手助け。そこでは1年前に主の遊馬歴老人が亡くなり、年末には歴の息子灘男が腹部にナイフを突き立てられ昏倒するという殺人未遂事件があり、そして取り壊してリゾート地として売り出そうとしていた不動産会社々長醒ヶ井が不審死を遂げるという過去の因縁と現在の事件が同一の館で起き、しかも持ち主である遊馬家の夫婦と4姉妹はそれぞれに思惑を秘めているという、推理小説はかくありきとも云うべき設定だ。 しかし本作がそれでも特色を放っているのはやはりサブタイトルにも掲げられているように桜井が建築探偵というところだろう。事件そのものよりも対象となる館そのものこそが桜井の関心の対象なのだ。 したがって人の生死に関わる事件は二の次で館に秘められた設計者、住居者の思い、建築の意図を推理する。そのことによって殺人事件の犯人が炙り出されるという間接的な事件真相へのアプローチが成されているのが最たる特徴だろう。 作中、スペイン文学研究者灘男と桜井の問答で『黒死館殺人事件』について触れられるシーンがあるが、そこで語られる殺人の動機は建物が人間に及ぼした影響なのだと探偵法水が述べる部分こそ本書の、いや本シリーズのメインテーマであると云えるだろう。 従って本書では黎明荘に秘められた主だった遊馬歴の想いを解き明かすのがメインであり、事件の方はそれを装飾するものであり、通常新本格ミステリ作家が第1作目として気合を入れて導入する密室殺人事件などは起きない。 起きる事件は3つあるがそのどれもが椅子からの転落死だったり、腹を何者かに刺されて瀕死の重症を負うという、Howdunitには重きが置かれず、WhodunitやWhydunitに重きが置かれた事件になっている。そのためか事件に派手さはなく、まずは桜井京介お披露目の作品といった印象を受けた。 その犯行の模様が明かされても何のHowdunitの興趣をそそるものは一切なく、Whydunitが述べられるだけだ。 陰鬱な雰囲気を常に湛えた遊馬家が桜井によって、事件の真相と黎明荘に込めた遊馬歴の想いが明かされて、一転して明日への新たな道が開かれる。 といったように新本格ミステリというよりも単なるミステリの趣が強い本作だが、やはり作者の得意とする歴史を絡めているところにこの作家のこだわりを感じる。歴が若かりし頃に渡ったスペインで起きたスペイン革命と歴の運命を絡め、秘められたロマンスを演出している。 う~ん、革命を背景に叶わぬ恋とは、これはまさに『ベルばら』の世界だ。やっぱりこの作家、自覚していないようだが少女マンガ的設定を盛り込む遺伝子を持っているのだ。 館を舞台にしながら密室殺人が起きないというのは本格を期待している輩には物足りないが、やはりそこは建築探偵である。以降の作品でその登場を期待しよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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若き探偵ニール・ケアリーシリーズ第2弾。
今度の舞台は1977年の中国・香港。もちろん香港はまだ返還されておらず英国領のままだ。毛沢東亡き後、次の覇権争いが渦巻きながらも故毛主席の怨念が色濃く翳を落とす時代の物語。 第1作であった前作でも感じたが若き探偵物語という謳い文句で世間に喧伝されているが、本作では私立探偵物というよりも諜報物に近い。 CIAに中国スパイ。 1人の女と1人の男を巡る中国、アメリカの組織入り乱れての攻防。 味方と思っていた者が敵になり、敵と思っていた者が利害の一致から味方になる。 これはまさしくエスピオナージュの物語運びだ。 さらに終盤中国の奥深くの山々に分け入り、そこで繰り広げられる攻防戦有りといった冒険小説の色合いも強くし、もはや1つのジャンルに留まらない非常に贅沢なエンタテインメント娯楽作品になっている。 そして今回ニールは前作に陥った窮状が子供騙しだったと思わされる窮地に陥る。ターゲットでしかも恋に落ちた相手リ・ランに世界で最悪といわれる貧民街九龍に置き去りにされるのだ。 ここでのニールに対する仕打ちはまさに人間の尊厳などは全否定され、生きていることすら苦痛に思わされる境遇に陥る。この辺の件は主人公ニールに好感を抱いている多くの読者にとって息苦しさと悲愴感が痛切に心に響く場面だ。 今回もターゲットの化学者を捕まえるため、中国美術に造詣のある学生に成りすまし、仲間に取り入ろうとするが、ナイーヴな心を持ったニールは仲睦まじいペンドルトン博士と美しい中国女性画家リ・ランにほだされ、任務を放り出して彼らの恋の逃避行を応援しそうになる。 前作も家出娘の捜索のために麻薬の売人に取り入ってターゲットのアリーに心を動かされたが、これはニールが元ストリート・キッドである出自に大いに関係があるだろう。 両親の愛情を知らずに掏摸をして糊口を凌ぐ生活をしていたニールにとって仲のいい仲間たちやコミュニティは人生で体験したことがない心地よさを彼にもたらし、プロの探偵であってはならない感情移入をしてしまい、ミイラ取りがミイラになってしまう危うさがある。しかしこの青さと純粋さが大人になると失ってしまう誠実さを思い起こさせ、彼に共感を覚えてしまう。こういう稼業に仕えるには彼は優しすぎるのだ。 若干24歳の若き探偵ニール。技術は一流ながらも心はまだ純粋という名の宝石を秘めている男。 この手の諜報物では騙し合いの攻防戦は当たり前で、登場人物も歴戦の強者ばかりなので、いちいち傷ついてもいられないというのが定石だが、ニールの若さが探偵の、真実を知ることで自分の中で何かが失われている寂しさを体現しており、やはり私は彼にフィリップ・マーロウを重ねてしまうのだ。 またこのシリーズではあえて現代を扱わず、70年代と激動の政治・世界情勢そしてカルチャー時代を扱っており、当時アメリカが抱えていた危惧と懸念と不安がバックグラウンドとして描かれているが、本書ではまさに今の中国を予見する内容が書かれている。 この世界人口の1/4を占める一大王国が発展することで世界に及ぼす影響、そしてアメリカが中国人のどこでも生活でき、成功を収めることができるパワーを恐れていることが克明に書かれる。したがって当時の中国政治の混乱はアメリカにとって中国の成長を阻むことすれ、促進させるものではないと奨励していたのだった。 本書でCIA工作員シムズが得々と述べる発展した中国のエネルギー消費量の増加、食品消費量の増加と世界の需給バランスの崩壊はまさに現代我々が直面している問題だ。刊行されたのは原書が1992年、訳書が1997年と13年も前の作品だが、ここに語られるテーマは今日的なものだ。 『このミス』1位がきっかけでウィンズロウを手にしたが、出来るだけ多くの人に読んでもらいたいと思った。 また登場人物リ・ランが語る家族に起こった物語、毛政権が国民に当時何をしたのかという粛清の歴史が一家族の視点で語られる部分は、アメリカ人のウィンズロウがよくもこれだけ東洋思想・政治を曲解せずに書いたものだと感心した。歴史の一証言として残しておくに価値ある記述だ。 そしてやはり触れずにいられないのが通訳伍とニールの交流だ。ニールが伍に教えるスラングが物語のアクセントになっており、最後のシーンで実に効果的な演出をかもし出す。思わず「決まり金玉!」とこちらまで云ってしまいそうだ。 そして何よりも毎度書かれるニールの本に対する愛情が本読みの興趣をくすぐる。中国で九龍城から抜け出したニールが読書への渇望をもらし、西洋図書禁制下の中、町の書店に掛け合って表に出ない在庫に隠されたアメリカ文学の数々と遭遇するシーンは本読みならば自身の好きなジャンルに擬えて垂涎の思いを抱くところだ。 さて一見どのような物語なのか想像するのが難しいちょっと奇妙な題名だが、その中でも最も目を引く「仏陀の鏡」とは物語の終盤の舞台になる四川省の奥地にある峨眉山の山頂から深き谷を見下ろすと霧の中に本当の姿を映すという伝説から来ている。そこへ行くことが今回ニールが目指すべき所であり、知るべき真実が待つ所なのだ。 前作の原題「地下に吹く一迅の涼風“A Cool Breeze On The Underground”」も一見語呂が悪い―特に邦訳では―題名だと思うが読み終わってしまうとこれほどぴったり来る題名もないと思わせる。若き文豪、いや決まり文句遣い師ドン・ウィンズロウの絶妙のコピーだ。 しかしW杯中の読書は辛い!いつもは家でじっくり読むのだが、出来る限りW杯中継を見たいがために通勤時、職場での昼休みなど断続的な読書をせざるを得なかった。 ちなみに前作も海外出張中で移動時間や待ち時間を利用しての読書だった。これがもしいつものような読み方だったら評価はもっと上になったかもしれない。 すまん、ウィンズロウ。W杯が終わったらもっと誠実な態度で読みます。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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前作『十日間の不思議』で探偵としての自信を喪失したエラリイが今度対峙したのは、今までの事件とは毛色が異なる連続絞殺魔による無差別殺人事件。そして舞台もライツヴィルではなく、元々のホームフィールドであったニューヨークだ。
とにかく色んなテーマを孕んだ作品である。 一番解決が困難とされるのは動機も関係性もない人物が通りがかりに人を殺す事件だと云われている。本書はエラリイのロジックはこのような無差別通り魔殺人事件にも通用するのかが表向きのテーマであろう。 しかしそれを取り巻いて人種の坩堝と云われるニューヨーク市で起こる様々な移民が殺される状況下で想定される市民の暴動、さらに探偵としての自信を喪失したエラリイの奮起も読みどころの1つである。 そして犯人こと絞殺魔<猫>の正体は意外にも物語半ば、全400ページ弱のうち220ページ辺りで判明する。明確になった犯人対名探偵の対決という構図を描きながら、しかし最後にどんでん返しを用意しているのが実にクイーンらしい。 事件の特色も国名シリーズやドルリー・レーンシリーズ、そしてライツヴィルシリーズなどの作品からガラリと変わってきている。 今までエラリイが遭遇してきた事件は限られた空間・状況で限られた人間の中で起きた殺人事件が語られてきた。したがってエラリイは限定された人物の行動と性格を探り、それを論理的に検証して最も当てはまる人物を堅固なロジックで指し示すというものだった。 しかしライツヴィルシリーズ第1作の『災厄の町』では街の名士一家に起こる事件が小さな町ライツヴィルの民まで影響を与え、スキャンダルと狂乱を生み出す様子を表した。そこから更に事件の及ぼす外部への波及効果を広げたのが本書であろう。しかも殺人の対象は名士一家といった限定されたコミュニティではなく、ニューヨーク市民全員。無差別に絞殺し続ける正体不明の絞殺魔だ。 この影響範囲の拡大・事件の拡張性はクイーンとしても非常に大きな挑戦だったのではないだろうか。 連続絞殺魔対名探偵。これはパズラーでもなく、本格推理小説でもなく、もうほとんど冒険活劇である。 クイーンが古典的本格ミステリから現代エンタテインメントへの脱皮を果たした作品だと云えよう。 しかしそんな特異な事件でもクイーンのロジックは冴え渡るのだから驚きだ。クイーンのロジックの美しさを久々に堪能した。 そして理詰めの犯人追求ではなく、次の事件を予見してからの現行犯逮捕という趣向は今までの諸作でも見られたが、従来の場合はエラリイの意図を悟らせず、エラリイが犯人を罠に掛ける有様さえもサプライズとしていたのに対し、本作ではそのプロセスを詳らかに書くことで臨場感とスリルをもたらしている。 そして本編には戦争の翳が物語の底に流れている。笠井潔氏が提言した本格ミステリが欧米で発展した根底に戦争による大量死があったとされる「大量死体験理論」を裏打ちする内容が書かれている。 つまりこの作品は戦争という災厄によって無駄死にを強いられた多くの人間に対する弔魂歌なのだ。 誰が犯行を成しえたかを精緻なロジックで解き明かしてきたクイーンのシリーズが後期に入り、犯罪方法よりも犯人の動機に重きを置き、なぜ犯行に至ったかを心理学的アプローチで解き明かすように変化してきている。しかしそれは犯人の切なる心理と同調し、時には自らの存在意義すらも否定するまでに心に傷を残す。 最後の一行に書かれた彼がエラリイに告げる救いの言葉、「神はひとりであって、そのほかに神はない」がせめてエラリイの心痛を和らげてくれることを祈ろう。 次の作品でエラリイがどのような心境で事件に挑むのか興味が尽きない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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題名が示すように本書は「嵐の山荘物」であるが、そんな単純な物を東野圭吾という作家は書かない。この本格ミステリお馴染みの設定に劇団員の推理劇というツイストを効かせた味付けを施す。
いやはやさすがは東野圭吾というべきか。 従って「嵐の山荘」でありながらも、実際は雪は降っていないし、殺人も遺体が残らず、事件がどのように起きたかを知らせるメモが残されているのみ。しかし舞台劇を想定しながらその実、劇団員が1人、また1人と消えていくうちに団員たちの中に不信感が生まれ、疑心暗鬼に陥る。 これは芝居なのか現実なのか? この辺のフィクションと現実との境が解らなくなっていく展開が非常に上手い。 また巻頭に収められた一見描き殴られたように見える粗末な見取り図にも謎を解くヒントが隠されているのが心憎い。私は単に登場人物配置を解りやすくするためだけに付けられたのだと思っていたので全く顧みなかったのだが。 しかも読者の目には登場人物が消え去るシーンは恰も殺人がなされているように書かれているため、読んでいる方も本当に殺人が起きているのかいないのか判断に迷わされる。この叙述方法もまたトリックの1つであることに最後には明かされる。 単に奇抜なシチュエーションを用意しただけでなく、色々な仕掛けを施した作品なのだ。 またこの山荘での殺人劇、しかも虚実どちらか解らぬ状態で互いが互いを疑いあう状況からなんとなくゲーム『かまいたちの夜』を思い出させる。 逆に実際に舞台劇として演じられると非常に面白いかもしれない。劇中劇という設定で劇の中の演者がさらに演技を要求され、それが観客に虚実を混同させる効果を生み出し、どこまでが演技でどこからが素なのか解らなくなりそうだ。 いや実際既にどこかの劇団で公演されたのかも。 さて本書では登場人物の口を借りて東野流“ノックスの十戒”が開陳される。 曰く、「人間描写もできない作家が名探偵なんか作ろうとするな」、「警察の捜査能力を馬鹿にするな」 本書ではこの2つのみが書かれたがこれが後に『名探偵の掟』に繋がる着想の萌芽ではないかと考えると、やはり作品は発表順に読んでこそ、その作者の創作姿勢が時系列に垣間見れて楽しい、などとマニアックな悦に浸ってしまうのだった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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依井貴裕氏は1990年に『記念樹』という作品で当時東京創元社が出していたミステリ叢書からデビューした本格ミステリ作家である。つまり新本格ブームの中、数多くデビューした作家の1人と云えるだろう。
そのペンネームを音読みすれば「イイ キユウ」、すなわちエラリー・クイーンのイニシャル「E.Q」になることから、この作家の持ち味はあくまでロジックに徹したミステリであり、同じくクイーンを尊敬する有栖川有栖氏の目指すところは一致している。 さて私にとって彼の作品を読むのは本作が初めてなのだが、実に端正な本格だというのが正直な感想。上に述べたように推理はロジックの積み重ねで整然と解かれていく。 休業中の俳優桜木和巳の許へ送られた手紙には数ヶ月前に旧友たちと山荘に集まり宿泊した3日間に起きた連続殺人事件の顛末が小説風に綴られていた。桜木には当日の記憶が一切ないが人の首を絞める感触が実に生々しく残っていた。そしてその文書には桜木が犯人であると告発していた。 この20世紀末の時期、日本の本格シーンにはこういった手記に隠されたトリックを解き明かす類のミステリが一つのジャンルのように作られた。 法月綸太郎氏の『頼子のために』、島田荘司氏の『眩暈』、そして叙述トリックの雄、折原一氏の一連の作品群・・・。 傑作も多いことからこのような題材は本格ミステリ作家ならば一度は挑戦したいと思うのだろう。依井氏がそのジャンルに挑戦したのが本書である。 確かに一見普通の手記のように読み取れるが、なんだか解らない違和感がある。しかしそれがなんだか解らないまま、190ページ弱読み終わり、読者への挑戦状が挿入される。どうにも解らないまま解決編に行くと思いもよらないトリックに驚かされる。 このトリックはネタバレになるので具体的には挙げないが、同趣向の作品と同様のトリックである。しかし無駄の一切ない内容で実にコンパクトにまとまっており、それが故、疑うことさえも難しくなっている。 また真犯人の正体も実に意外だが、当時のミステリ文壇の流行を取り入れた内容になっている。 しかしこの頃すでにこの題材は手垢にまみれていたからさほどの衝撃はなかったのかもしれない。 また探偵役の多根井理のキャラクターが平凡で単純なロジックマシーンになっているのが惜しいところ。理路整然としたロジックもいいがやはり作品として一歩抜きん出るにはトリックの衝撃はもとより、魅力的な探偵というのが必須であることを痛感させられる反面教師のような作品になっている。 しかしこの作家のクイーンへの傾倒ぶりはかなり熱いものだと感じられる。なんせ「読者への挑戦状」も挿入されているのだ。 また先に述べた自身のペンネームに加え、作品の探偵役であるミステリ作家多根井理の名を見て思わずニヤリとしてしまった。エラリー・クイーンのコンビであるフレデリック・ダネイとマンフレッド・リーのそれぞれのラストネームを当て字にして名前にしているのだ。 他にもバーナビー・ロスの当て字をした登場人物がいるのではないかと目を皿のようにして読んだのだが、さすがにそれはなかったが。 さてこの依井氏、1999年発表の本書以降、新作を発表していない。おそらく公務員との兼業作家であることがその大きな要因であるのだが、数多消えていったミステリ・エンタテインメント作家と違うのは今なお『このミス』で近況報告がされていることだ。そこには次回作のことは一切書かれていないが毎年何がしかの報告がなされているということは再びペンを執る気持ちが残っているからだと推察する。それを期待して新作の発表を待つことにしよう。 それよりも東京創元社ですでに発表された『記念樹』、『歳時記』、『肖像画』といった一連の作品を文庫化してほしいものだ。頼みますよ、東京創元社さん! ▼以下、ネタバレ感想 |
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