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Tetchy さんのレビュー一覧

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レビュー数1418

全1418件 601~620 31/71ページ

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(4pt)

渇きを癒すために買ったが…

「大富豪殺人事件」と「ペントハウスの謎」の2つの中篇からなる中編集。

まず1編目の表題作は株式仲買人として莫大な富を築き上げたピーター・ジョーダンからエラリイの許へ看護婦の手配を要請する手紙が送られてくるところから始まる。
80ページ足らずの短編とも云うべき作品。大富豪の被害妄想が現実になって殺人事件に発展するという趣向を取ったのだろうが、非常にオーソドックスな内容になっている。大富豪の屋敷の中だけで繰り広げられるという非常に限定された舞台設定であるため、あまり動きがない。
まただからといって閉鎖空間ならではの濃密な人間関係が描かれるわけでもない。本当に小編というべき作品だ。辛辣になるが単純に法律の知識を活かした作者の自己満足に終わっていると云えない訳もない。

続く「ペントハウスの謎」は一度創元推理文庫の『エラリー・クイーンの事件簿Ⅰ』で読んでいたため再読。しかし内容はすっかり忘れていたのだが。

本来この作品は買う予定ではなかった。というのも創元推理文庫の『エラリー・クイーンの事件簿Ⅱ』に表題作は収録されており、それを買えば補完できたからだ。
しかし肝心のその本は長らく絶版状態。じっと待ってても良いが、世のミステリファンの話からこれら短編に出てくるニッキー・ポーターはクイーンシリーズで出てくるそれとは別物のような設定であるから、二度と『~事件簿Ⅱ』は再販する可能性が低いことを知ってしまったからだった。
とにかく今手に入れられる本を買うべきと思って購入したが、内容的には薄味だった。『大富豪殺人事件』がクイーンファンにとってマスト・バイであるとは正直お勧めできない。
とはいえ、ここはこの作品を絶版にせずに今なお目録にその名を留め、書店の棚に収めている早川書房の志を敢えて褒めるべきだろう。

だから早川さん、早く『フォックス家の殺人』とか『最後の一撃』とか『心地よく秘密めいた場所』とか『第八の日』といったクイーン絶版本を復刊して下さいね。頼みます。


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大富豪殺人事件 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-25)
エラリー・クイーン大富豪殺人事件 についてのレビュー
No.817:
(3pt)
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足し算ばっか

小説家というものは一度長大重厚な作品を物にし、それが当たってしまうともうその呪縛から逃れられないらしい。
この前に書かれ、日本でも話題になった『深海のYrr』も三分冊で合計1600ページもの大作だったが、今回の『LIMIT』はさらにそれを上回る合計約2280ページの四分冊で刊行された。

今回のお話は大きく分けて3つ。
1つは大富豪ジュリアン・オルレイが各界の有力者と共に月面に行き、そこで起こる事件。
もう1つはサイバー探偵オーウェン・ジェリコが依頼された失踪人瑶瑶の捜索と彼女を付け狙う殺し屋ケニー辛との攻防。
そして最後の1つはカルガリーで起きた石油メジャーEMCOの営業戦略本部長ジェラルド・パルスタイン射殺未遂事件を追うジャーナリスト、ロレーナ・ケオワの話。

そしてこのようなモジュラー型小説の定石どおり、3つの事件はやがて関係性を伴って1つに収束する。
ただ長々と読まされた割にはなんともありきたりな真相でがっかりしたというのが正直な話だ。

また毎度この作家の専門分野に関する詳述には唸らされるものだが、今回も例外なく、『深海~』よりもさらに多岐に渡っている。

たとえば宇宙ステーションで初めて遭遇する無重力空間で人間の体に起こりうる事象について事細かに述べていく。
宇宙酔いは知ってはいたが、それ以外にも体液の再分配に応じて脚が冷たく感じたり、汗が噴き出るようになったりすることや無重力では徐々に日々筋力が衰えていく為、筋肉トレーニングやエクササイズが義務付けられていることなど。
また面白いのはラヴバンドという代物。これは無重力空間においてセックスをするときに相手を固定する為にどこかへ縛り付けておく為の物。果たしてこれは実在するのか?私は実在すると思う。なかなか面白いエピソードだ。

また宇宙では当たり前だが真空の為、窓を開けての空気の入れ替えが出来ない。したがって100%空気清浄システムに頼らざるを得ないのだが、クルーに体臭が強い人がいるとかなり不快感を感じることや、また宇宙から地球に戻った人たちはすべからく重力の恩恵によって膀胱と肛門が開いて排泄をしてしまうため、それらを回収する器を装着していることなど、非常にリアリティに富んだ叙述が実に興味深い。

さらには月面では一日の温度変化が激変することからそれにより地震が頻発しているなどという薀蓄もあった。月に関する研究はここまで進んでいるのかと驚嘆したものだ。

さらに興味深かったのは癌や心不全などの病気に対する治療方法や抗生剤の研究がさかんで年々発達していくのに対し、マラリアやデング熱といったある地域限定の病気に対する治療方法や抗生剤がなかなか進まないことについて、前者がいわゆる富裕層にも罹り得る病気であるのに対し、後者が未開の地に多く、富裕層が行かないところの病気で縁がないからと作中人物の口を借りて述べているところだ。
いやあ、これはまさに経済原理の厳しさというかあざとさを見せられた思いがした。確かにこれらの研究開発には莫大な費用がかかり、それらをバックアップするのは財界人や彼らの組織なのだから、自分に降りかからない不幸には全く関心がないのだ。つまりマラリアなどの病気を根絶し打破するには野口英世が黄熱病を根絶したように医療関係者の志に賭けるしかないのだろう。
う~ん、また自分の知らない世界を知らされてしまった。

最先端の科学そして技術情報をふんだんに盛り込んで紡がれたこの近未来SF超大作だが、それでもやはり人間のやることは万能ではない。
例えば月面のホテル、ガイアで供される魚料理を実現させる方法として海水養殖と答える件がある。しかしその後海の環境を月面で生み出す困難さについて得々と登場人物の口から語らせており、それに対する答えをぼやかして処理させている。
思うに現在これは確立されていない技術であり、作者自身もここが弱点だと思っていたような節がある。しかしながら現在では日本の山梨大学が好適環境水という海水魚と淡水魚が同一の水で暮せる環境を生み出す粉を発明しており、恐らくこの問題はこの方法で解決されるだろう。この辺のリサーチは残念ながら甘かったと云わざるを得ない。

その他サブカルチャー的な面についても記述は多い。どうやら2025年になってもビートルズやボブ・ディランはまだ聴かれているようだし、なによりもあの長大河SF小説ペリー・ローダンシリーズは映画化されているようだ。
確かにこれが実現すればかなり息の長い映画シリーズになることだろう。まあ人気があればの話だが。

3つの事件が本書の大きな流れであることは前述したが主流となるのは瑶瑶、屠天とサイバー探偵オーウェン・ジェリコたちと殺し屋ケニー・辛の攻防だ。
特にケニー・辛は影の主役ともいうべき存在感を放ち、再三再四に渡ってジェリコらをつけ狙う。『スターウォーズ』シリーズにおけるダース・ヴェイダー、『マトリックス』シリーズにおけるエージェント・スミス、それほどの存在感を持っている。

しかし長い。長すぎる。不要なエピソードが目立った。例えば赤道ギニアの歴史なぞは要約すれば2ページに収まるくらいの話である。それを起源から詳細に話すものだからどんどん長くなる。
とにかく知りえたことを全て書かなければ気が済まないという思いが行間から滲み出している。全体のバランスをもっと考えて細を穿つところを考えて欲しいものだ。

そして今回も多くの登場人物が登場し、そしてカタストロフィに向かうに従い、次々と死んでいく。
特に今回は月面へ招待された客が財界の著名人だったり、芸能人だったりと個性豊かな人物が勢ぞろいしているだけにキャラクターが立っていて、その悲劇性は増している。主要登場人物40名以上にも上る彼ら彼女らそれぞれにバックストーリーがあるため、ただでさえ長いこの小説がさらに長くなっている。
しかしこの構成は『深海のYrr』そのままだし、特に作者自身が揶揄しているハリウッド映画の手法とそっくりではないか。映画化を狙ったあざとさが非常に気になるのである。

情報小説というジャンルがあるが、これは情報過多小説だ。
物語に関係する全ての分野について事細かな情報を盛り込んでいるがためにこれだけの分量にまで膨らんでしまっている。

月面旅行の実現性やそして石油を取り巻く各国の駆け引きや智謀策略の数々、石油から次世代エネルギーへの転換の展望(『深海のYrr』でさかんに叫ばれていたメタンハイドレードに関する叙述が皆無なのは一体どういったことなんだろう?)、そして2025年にあるべきハイテクマシンの姿や仮想空間を利用した人々の生活様式などなど、自らがその道の専門家から取材し、またおそらく自身の想像も付け加えて詳細に述べたそれらの情報の数々は正直に云えばかなり削ることができたはずだ。
ストーリーの本筋である3つの事件に焦点を当ててこれらの情報をほんの彩り程度に語れば、もっとスピード感も増したことだろう。

恐らく実際取材に当たり、執筆に5年費やした作者にしてみれば、これでも泣く泣く削らざるを得なかったエピソードがあったのだとのたまうことだろうが、それは己が調べて得た知識を披露したいという自己顕示欲に過ぎない。つまりこの1巻平均570ページの4分冊という大作になった時点でこれは読者の目を無視したほとんど自己満足の領域に入ってしまっている。
もし作者がさらに語りたいことがあればそれらはまた別に本書で書けなかった情報を集め、本書を補完する形のガイドブックのような物を出版すればいいのだ。

小説とは物語である。小説を読むことで新たな知識を得るという知識欲の充足を求める人も確かにおり、私もその中の一人だ。
しかし基本は物語なのだ。
従って足し算引き算というのは必要なのだ。

『深海のYrr』の成功以降、シェッツィングは小説家として間違った方向に進んでいるのではないだろうか?
訳者あとがきによれば本書は本国ドイツでベストセラーを記録したそうだが、これは国民性なんだろうか、とても信じられない。
日本の村上春樹作品のようにシェッツィングも出せばベストセラーになるような風潮になっているのかもしれない。

このくらいの長さになるとスティーグ・ラーソンの『ミレニアム』シリーズのように大きく1つの話という括りにしLIMIT4部作としてシリーズ物として出版し、1冊ごとに小さな事件の結末を描いて最終巻で全体を貫く大きな事件の結末を描くという構成にした方が読者にも優しいだろう。
事実、私は途中流し読みした箇所が何箇所もあった。内容の割には意外に心に残らない小説。そういう風に落ち着いた。
失敗作、駄作とまでは云わないが佳作とするには首肯しかねる。

しかし今回はいやにシンプルな題名に落ち着いたものだ。原題と全く一緒。通常ならば今までの傾向からして『宇宙の~』とか『月面の~』とか一見意味の解らないドイツ語と組み合わせて煙に巻くようなタイトルにするかと思ったのだが、今回はそのものズバリで来た。
もしかしたら今までのシェッツィング作品の感想で書いてきた要望が受け入れられたのかしら。まさかね。

しかし重ね重ね云うが、これほど徒労感が残る小説も珍しい。誰かシェッツィングにもっと刈り込むようにアドバイスしてくれ!


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LIMIT〈1〉 (ハヤカワ文庫NV)
フランク・シェッツィングLIMIT についてのレビュー
No.816:
(7pt)

真面目に不真面目なチェスタトンデビュー作

1904年に発表されたチェスタトンのデビュー長編小説。実にチェスタトンらしく、様々な警句と美意識に満ちた作品だ。

まず冒頭の2章まで読むに限って、この小説をなんと称したらいいだろうか、私には皆目見当が付かなかった。
1907年に著した1984年を舞台にした近未来小説。籤引きで国王が選ばれるイギリスを舞台にした物語。この設定からしてチェスタトン自身がふざけながら楽しんで筆を進めているのが解る。
最初の100ページまではチェスタトンお得意の言葉遊びに満ちており、ストーリーが全く見えてこない。ここら辺は非常に難解で思考があっちこっちに飛び、理解に苦しむ。

しかしやはり奇想の思想人チェスタトン。そこを過ぎると実に面白いストーリーが見えてくる。

ロンドンの一大プロジェクトである3市を貫く大街道建設に異を唱え、たった100人ぐらいしか住まないポンプ・ストリートというちっぽけな通りを守るべく、そこの市長アダム・ウェインが国王と袂を分かち、戦争が勃発するのである。圧倒的数の劣勢は明白でアダムの敗北は十中八九間違いないと思われていたが、そのポンプ・ストリートには戦争マニアである玩具屋の主人がいた。彼はかねてよりその通りが戦火にまみえた時にどう守るかを研究していたのだったという、なんとも喜劇的なお話なのだ。

しかしそんな“ありえない”話が各市長との幾度とない戦いが繰り返されるにしたがって次第に真剣味を帯びてくる。冒険活劇小説としても楽しめるほど、ロンドンの町の一角で繰り広げられる市街戦は迫真的でしかも実に策略に富んだ内容でエンタテインメントとして十分成り立っている。
ブラウン神父シリーズに代表されるチェスタトンの作品は独特の思考と常人を超越した理論で常識に凝り固まった我々を開眼させてくれる思弁小説というイメージが強かったがいやいやカーのそれとも劣らない活劇が書けるものだと感服した。

しかしそれでもやはりチェスタトンはチェスタトンである。
物語とは関係のないところで方々で挿入される言葉遊び。イギリス各地の地名の由来を、その真偽について眉を顰めざるを得ないような駄洒落や冗談で説明する件があったり、オーベロンの、人を笑わすために取る奇矯な振舞いにもっともらしい説明を加えたり、そしてお得意の狂人が登場したり、と展開は天真爛漫、自由奔放だ。
また狂人がほんの数十メートルしかない通りをめぐって国王と連合軍に立ち向かうというこの物語は壮大な冗談小説と取れるだろう。

しかしその冗談に命を賭ける人々がいる。それは愚直なまでに自らの信ずる道を行く、女性から見れば呆れるだけの戦争ごっこのような類にしか映らないだろう。しかしこれこそがジョンブル魂なのだとチェスタトンが鼓舞しているようだ。
これを著した1904年当時、イギリスはまさに世界の王であった。しかしその絶対なる優位もヨーロッパの周辺国が力をつけてその地位を脅かしつつあった時期である。そんな英国に送った応援歌なのではないだろうか。

特に象徴的なのは最初市長がノッティング・ヒルの独立を宣言した時、住民の1人の乾物商は全く妙ちきりんな事として取り合わなかった、その時の自分は一介の乾物商に過ぎなかったが、実は自分は水の生き物を手にいれ、地球の裏側の果実を集める輩どもを従える王であったと気付かされたと述べる件だ。まさに”Everybody’s a HERO”である。ここに私はチェスタトンの真意を見た。

しかしこの小説は初めてチェスタトンを読むにはかなりハードルの高い小説だと思う。
このチェスタトンしか書けないテイストはやはり他の作品、やはりブラウン神父シリーズを導入部として読んでからにして欲しい。もしくは『木曜の男』(光文社古典新訳文庫版は『木曜だった男』)を愉しめた人ならば本書も愉しめるだろう。
私にとって本書は繰り返しになるがチェスタトンはやはり最初からチェスタトンだったと思えただけに嬉しい作品だった。

新ナポレオン奇譚 (ちくま文庫)
G・K・チェスタトン新ナポレオン奇譚 についてのレビュー
No.815: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)

読者を突き放した、趣味に淫した作品

建築探偵桜井京介シリーズ第2作。前作がスペイン風建築で今回のモチーフはインド。しかしタージ・マハルに代表されるような豪奢な宮殿ではなく、町中にある小さな宿のような建物。

本格ミステリとはその現実離れした特異性ゆえ、いかに物語世界に読者を引き込み、その中でのリアルをいかに感じさせるかが鍵である。
したがって中途半端なことをやるよりもやるならばとことん別の世界の話とまで思わせる、もしくは隔絶された過疎地域のような地域の特殊性が出るような場を提供する方がいい。

さて今回の惨劇の舞台となる恒河館は、本格ミステリで云うところの“嵐の山荘”である。つまり作者は今まで決して本格ミステリ然とした舞台設定を好まなかったが、今回はあえてそれに挑戦している。

しかしなんとも読みにくさを感じる小説だ。特に場面が思い浮かばない。添付された舞台となる恒河館の見取り図と作内で騙られる場面が結びつかないのだ。
見取り図にはない部屋の室名で場面が語られるため、非常にシンプルな構造をしているにもかかわらず、いやそれがゆえにそれぞれの人物がどの部屋にいるのか、どの部屋を指しているのかが解りにくい。

また加えてホテルとして開業するにはこの恒河館という屋敷の部屋数が少なすぎるのもまた気になった。たった2階建てで客室が3部屋しかない構成はまるでドラクエの宿屋のようだ。どうやって経営を成り立たせるのか。このまるで現実味を覚えない設定が物語世界にのめり込むのを阻んでいた。

そういった意味ではせっかくの舞台設定が生きていないと云わざるを得ないだろう。
また物語のテーマが今回はインド神によるところが大きいのも逆にこちらの興味を殺ぐ結果となった。過去の死亡事件に関わった人々にそれぞれインド神を擬えるというのはなんとも漫画的で愕然としたものだ。ミステリアスな死者の言葉がなんとも陳腐なものとして響いてしまった。
恐らく作者自身も自覚的だったのだろう、作中登場人物の間でミステリ談義が交わされるが、そこで持ち上げられるのは中井英夫氏の『虚無への供物』。つまり日本の三大ミステリの1つであり、アンチミステリの代表作だ。あらかじめ今回は観念的な宿命論を持って来ますよということを投げかけていたのだが、その設定にはちょっと違うだろうと思わされてしまった。
こんな絵空事な宿命よりも運命の皮肉という物語の妙で勝負して欲しい。そういう意味では前作の方がよかった。

この作家に期待するのは自分の好きなものを垂れ流し的に書くのではなく、もう少し読者の目を意識した作品を著す事だ。
デビューから一貫して他の新本格ミステリ作家とは一線を画した作風で勝負をしていることは賞賛に値するが、そのマニアックな内容はあまりに排他的で、「好みが合う人だけ付いてきな」とでも云わんばかりの傲慢さを感じる。

桜井京介、蒼、そして今回出演の機会がなかった栗山深春といったレギュラーメンバーの面々は正直嫌いではない。本格推理小説でありながら推理の対象は建物に秘められた謎が主であり、殺人事件はあくまで副次的という主題性も他の本格ミステリ物と一線を画す特徴があって好ましい。
後は物語のパンチ力か。ページを繰る手を休ませないリーダビリティと心に残る物語を期待したい。

玄い女神 建築探偵桜井京介の事件簿 (講談社文庫)
篠田真由美玄い女神 についてのレビュー
No.814:
(8pt)

極彩色な面々と女たちの共闘と

ニール・ケアリーシリーズ第4弾。
聞くところによると実質的なシリーズ最終作との事で、次の『砂漠で溺れるわけにはいかない』はおまけのような作品らしい。しかし逆に私は読後の今、この愛すべき人々との別れが実に惜しくてならなく、おまけの1作とはいえ、もう一度この仲間たちと逢えるのがなんとも嬉しい。

さて今回もグレアムの訪問とニールの後悔で幕を開けるが、前3作と違うのはニールの許には愛すべき存在カレンがいること。そして任務も今まではロンドンに中国、ネヴァダ州の山奥と移動に移動を重ねてきたが、今回は前作の舞台だった“孤独の高み”に仕事が舞い込んでくるという設定。したがって登場人物も3作目と重なる人物が多く、お馴染みの顔ぶれが出揃う。物語に挟まれる彼らとのやり取りにニールが彼の地に溶け込み、もはや村の住民の1人として認知されていることに気付かされる。
とうとうニールは安住の地を見つけたのだ。

しかしそんな安息の日々も長くは続かず、ポリーを巡って元FBIで渦中のキャンディ・ランディスに惚れてしまっている私立探偵チャック・ホワイティングに、謎の殺し屋“プレーオフ”、さらに元凄腕の探偵で今は極度のアル中で落ちぶれた生活を送っているウォルター・ウィザースが絡んでくる。さらにジャック・ランディスには悪徳建設業者の隠元豆ジョーイが付きまとっている。
やはり父親代わりのグレアムはまたしても災厄の天使であったわけだ。

本作は定点で繰り広げられる物語と異色な展開であるに加えて、今まで若くナイーヴな探偵ニールを中心にした“男”の物語であったのだが、今回はレイプの告発をした有名人の秘書とカレンの存在、そしてその2人に加わるその有名人の妻キャンディ3人が主導で展開する“女たち”の物語であるように感じた。

まずポリー・パジェットのインパクトが強烈。よくもまあ、訳者の東江氏はこんな読みにくい田舎訛りの文章を案出したものだ。原文がどのように書かれているのか非常に興味をそそる、それほど痛快な仕事だ(なにしろ“ちんちん”の田舎訛り訳語が「でっちぼ」なんだから参る。しかしつくづく金玉系が好きだねぇ、原作者もしくは訳者は)。
この一見脳足りんの尻軽女の風貌で教養の欠片さえも感じさせないポリーに教育を施し、裁判で衆人の同情を惹く人間に育てる過程は映画『マイ・フェア・レディ』、『プリティ・ウーマン』を思わせる。

さらにそのポリーが心に純粋な塊を持っており、次第にカレンの見方が変わっていくのに加え、夫の浮気に憤懣やるかたないキャンディの懐の深さに感服。特にポリーの妊娠が発覚してから敵同士であるべき存在キャンディが共に赤ん坊の名前を考えている様子など、男たちが想像できない女性たちの同族意識ともいうべき不思議な心理構造を見せる展開はまさに女たちの物語というべきシーンだろう。

こんな先の読めない展開と三文悪党どものジャムセッションとも云うべき、題名のとおりウォータースライドを滑るが如く二転三転するストーリー展開はクライムノヴェルの巨匠エルモア・レナードの作品を思い起こさせる。
そしてその本家に勝るとも劣らない痛快な展開が待ち受けている。

エンタテインメント小説を紡ぎ出していたウィンズロウがTVというショービジネス界のスキャンダルとまさにエンタテインメントど真ん中の題材を描いた本作には斯界に蠢く巨額の浮利と思惑が交錯し、それぞれが自縄自縛状態に陥っていることを如実に描く。特にTVで幸せなアメリカ夫婦の象徴という虚像を担ってきた当事者ジャック・ランディスの有名税ともいうべき不自由な暮らしぶりなど考えさせられるものがある。

また逆に虚栄を売っているこの界を揶揄したギャグも盛り込まれている。特にニールが適当にでっち上げたポルノ映画のシリーズが一人歩きし、隠れ蓑として作った偽名が逆に注目を集めるくだりなどは実に面白い。

とにかく本作は前3作に比べると、危機一髪のドキドキハラハラ感よりもスラップスティックコメディ的な予想の斜め上を行く展開が実に面白く、何度も声を上げて笑ってしまった(特に伝説の殺し屋“プレーオフ”の末路が実に悲惨ながら笑ってしまう)。
したがって今までこのシリーズの売りでもあった若き探偵ニールのナイーヴさはほとんど出てこなくなっており、逆に恋人のカレンが正義感を振り回し、ニールの役割を果たしているようだ。しかし私は前作でニールは一皮向け、一人の男として成長したように捉えていたので全く違和感はなかった。

しかしもう残り1冊になってしまったのか。面白い小説というのは本当にクイクイ読めて時間が経つのが早く感じてしまう。残り1作品、物量的には最も薄いがするめを噛みしめるように読み、じっくり味わいたい。

ウォータースライドをのぼれ (創元推理文庫)
No.813:
(7pt)

ただの連続殺人鬼物ではない

本作のテーマは殺人鬼物。しかし荒唐無稽な殺人鬼ではなく、現代スポーツ医学の歪みから生み出された殺人機械。
そして単純連続虐殺劇というチープな設定を採らないところがこの作家のいいところ。

とにかくまず東野圭吾氏がまさかこのようなモンスター小説を書いているとは思わなかった。
殺し屋タランチュラは狂えるスポーツドクター仙道之則が生み出した七種競技の選手。より高く跳び、より速く走り、より遠く投げ、より長く走れる万能選手のみが出場できる陸上界至高の競技。この競技を制するものはクイーン・オヴ・クイーンズとまで称される。
まずその選手を殺人鬼に仕立てたのが東野氏のアイデアの秀逸さ。そして驚愕させるまで鍛え上げられ、肉体改造されたタランチュラはまさしく女ターミネーター。狂気のスポーツトレーナー仙道が生み出した運動機械。
その完璧に鍛え上げられた肉体は裏返せば人を屠る凶器にもなる。運動機械から殺人機械へ。まさしく題名どおり「美しき凶器」だ。

ターゲットとなるのは元重量挙げ選手で現在会員制スポーツクラブの取締役である安生拓馬。
元陸上短距離選手で現在は化学工場の社会人陸上部のコーチを務める丹羽潤也。
元ハードル選手で現在はフリーのスポーツライターである日浦有介。
そして元体操選手で現在はテレビタレントになっている佐倉翔子。
彼ら4人を結ぶ輪の中心にいるのが仙道之則。彼はスポーツドクターでありながら肉体改造に心を奪われた人間だった。
彼ら4人は現役選手だった頃、仙道の下でドーピングを施され、一線の選手として活躍した者たちだった。自殺したドーピング仲間の元スキー選手だった小笠原彰の自殺を契機にJOCが仙道を調査するにあたり、自分たちの過去が発覚するのを恐れて、それらを抹消する為、自分たちのカルテを処分しようとしたのだった。

通常このような殺人鬼物ならばスプラッターホラーに代表されるようにとにかく凄惨な虐殺シーンを強調するだけに留まり、なぜ彼が無差別に人を殺すのかなどはありきたりの設定で流し、アクションシーンのみを強調するのだが、東野氏の優れた点は彼らがタランチュラに襲われることになった原因があり、しかも彼らにはその殺人鬼から逃げてはならない理由があるところ。
よくよく考えるとこういう連続殺人鬼物は殺されたくないがために必死に逃げ惑い、人数が減って最後に返り討ちにする為、主人公らが勇気を振り絞って殺人鬼を打ち破るという定型があった。そこに自分たちの犯行を絡ませて敢えて殺人鬼と対峙しなければならないというシチュエーションは今までになかった設定でさすがは東野氏!と褒め称えたいところだ。
そして日浦を初めとする4人たちに共通するドーピングという蠱惑的な堕落への道に陥ったスポーツ選手の苦悩。どうしても超えられない選手としての壁に直面した時に自分の弱さゆえに、克己心よりも自己中心的考えを優先して「ばれなければいい」という悪魔の囁きに屈した後の代償が殺人鬼の報復というのはなかなか面白い。

また世界で肉体増強として様々な手法が開発されていることを知らされた。特に運動機械タランチュラを生み出した、妊娠させてわざと中絶をさせることで筋肉を増強させる方法は人命を軽視した悪魔の所業で憤懣やる方ない。妊婦が体力が必要になることから自然に筋肉を増強させる物質を分泌するという性質を利用して、薬で流産させ、筋肉増強を図る方法。しかも何度も妊娠・流産を繰り返すことで無敵のスポーツ選手が出来るという。
ここまで来ると倫理なぞはもうどこかへ消えてしまい、人体実験の領域にまで達し、もはや実験牧場である。

しかしそんな設定の妙がありつつも作品の評価は佳作どまりだろう。疾走感は買うものの、物語、人物設定に膨らみが感じられなかった。逆に疾走感を取るならば読者に考える間を与えず、次から次へと災厄が降りかかる手法を取った方がエンタテインメント性が増して何も考えずに読めて面白かっただろう。
確かにこれは通勤・通学中に読むにはクイクイ読めて面白いが後に残るものがあるかといえばそうでもない。最後にタランチュラが取った意外な行動には胸を打ち、光るセンスを感じたが、総じて軽めの作品だった。
しかし隙のない物語運びとプロットだ。さほど名の知られていないが読んで損はない作品と云っておこう。


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美しき凶器 新装版 (光文社文庫)
東野圭吾美しき凶器 についてのレビュー
No.812:
(9pt)

“孤独の高み”を乗り越えた先にあるものは…

ニール・ケアリーシリーズ3作目の舞台はなんと地元アメリカ。西部の山奥でカウボーイたちの暮すオースティンのさらに奥、通称“孤独の高み”と呼ばれる集落だ。

物語は中国の山奥で早朝に伏虎拳の修行に励むニールの姿で幕を開ける。う~ん、なんとも映像的ではないか。映画『ミッション:インポッシブル』を髣髴とさせるようなシーンだ。
このような演出からも私立探偵物というよりも冒険活劇を前提にした諜報物を意識した作りであるのが解る。あざといと思いながらも語り口が絶妙だからこの導入部から既に期待に胸膨らむ自分がいた。

今回の任務はハリウッド映画プロデューサーの前夫に攫われた一人息子の奪還。
そして通常私立探偵物と云えば主人公の事務所に依頼人が訪れるというのが定番だが、このシリーズはニールの父親代わりのグレアムが依頼を告げ、事件を終えたニールの回想を思わせる独白で幕が開く。それは全て後悔の念であるのが特徴的。つまりグレアムはニールにとってかけがえのない父親でありながら災厄の天使でもある。そのとおり、この実にたやすいと思われた任務が、結果的にはニールのみならずグレアム、レヴァインをも巻き込んで絶体絶命の窮地にまで陥れる。

毎回このシリーズにはニールの行き先で出会う人との交流が物語の絶妙なスパイスとなるのだが、今回のゲストは“孤独の高み(ハイ・ロンリー)”の牧場主スティーヴ・ミルズとその一家だ。彼が農業に見切りをつけ、妻と2人で辿り着いた安息の地“孤独の高み(ハイ・ロンリー)”で如何に今のような牧場を経営するまでに至ったかが語られるのだが、西部開拓者精神を象徴するそのエピソードにグッと来る。2人の夫婦が掴んだささやかな成功と、一人娘の成長を見守るささやかな幸せ。
今はその至上主義が諸国の反感を買うアメリカだが、その国でもこんな時代があったのだと気付かされる。もしかしたらウィンズロウは今こそこういう精神が必要なのだと自国の読者に訴えたかったのかもしれない。

そして忘れてはならないのはヒロインの登場だ。いつもニールはターゲットの女性に一目惚れし、任務に逆らって我が道を行くのだが、今回の相手はターゲットでないところがミソ。オースティンで小学校教師をしているカレン・ホーリーがその相手で彼女は脚が長くて背が高く、幼い頃から山野を歩くため出ているところは出て、引き締まっているところは引き締まっているという抜群のプロポーションの持ち主。しかも笑顔で何人もの山の男たちをとろけさせるほどの魅力的な美人だ。まさに掃き溜めの中の鶴といった存在である。
よく考えるとこうも毎回美女が登場するというのもボンドガールのようで、しつこいようだがやっぱりこのシリーズはスパイ物だなぁと思ってしまう。

今回のテーマは西部劇だ。西部の山奥に行ったニールが乗馬を習い、大草原を駆け抜ける。クライマックスは現金輸送車強奪から白人至上主義集団の追っ手から逃れる一連の群馬活劇シーンは実に映像的。スリリングかつ躍動的で手に汗握るとはまさにこのこと。
ホント、ウィンズロウはなんでも書けるなぁ。

そして今回の展開は痛い。実に心が痛む物語だ。毎度毎度の潜入捜査ながら、マンネリに陥らず、物語に深みが増している。1作目に「潜入捜査の終わりは裏切りだと常に決まっている」と書かれていたが、今回はまさにそう。

白人至上主義で反ユダヤ人派の新興宗教グループの一員となった男に攫われた男の子を救出する為にあえてその身をそのグループに属させようとするニール。読者はニールが強盗団のリーダーとして力を発揮していく過程を頭で割り切れても心で割り切れない感情で読まされる。
しかしそれは命の恩人である気のいいカウボーイ夫婦と熱烈な愛情を注いでくれるカウガールを裏切る行為でしかない。減らず口と持ち前の世渡り巧さでどうにかそれを悟られずに済まそうとするニールだったが、狭いコミュニティの中でのこと、その二重スパイ行為が発覚するのは時間の問題だった。そしてその事実が発覚する瞬間。これが本書の白眉とも云うべきシーンだろう。
そして恩人のカウボーイ、ミルズの出自がユダヤ人であるところが実に巧い。自分の主義・真意を偽り、任務を全うしようとするニールの心引き裂かれんばかりの葛藤。
いやあ、3作目にしてこの濃密さ。ウィンズロウ、実に巧い!思わず目蓋に熱を感じてしまった。


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高く孤独な道を行け (創元推理文庫)
ドン・ウィンズロウ高く孤独な道を行け についてのレビュー
No.811:
(7pt)

少女漫画的シリーズ探偵初登場

篠田真由美氏のシリーズ探偵、その名も建築探偵桜井京介。本書はそのシリーズの記念すべき第1作である。

篠田氏も80年代後半から起こった新本格ブームに乗じてデビューした一群の作家の1人であったが、鮎川哲也賞に応募して最終選考に残って東京創元社から刊行された『琥珀の城の殺人』と続く『祝福の園の殺人』は中世のヨーロッパを舞台にした歴史ミステリであり、他の新本格作家とは毛色は違っていた。
そんな独自の道を行っていた篠田氏が、他の新本格作家同様に所謂名探偵を配して難事件に挑むという新本格のコードに則って、満を持して放ったシリーズ探偵がこの桜井京介だ。

まあ、第1作目ということもあり、起こる事件やキャラクターは実に類型的と云えるだろう。

探偵役の桜井は朝に弱く、建築に造詣の深く、しかも大抵のことでは動じず、しかも通常長い前髪で覆いかぶされている顔は類稀なる美貌を放つ美男子ぶりという、なんとも少女漫画的な設定だ。

さらにある事情から桜井から保護を受け、助手を務める15歳の蒼は一旦見た映像を細部まで記憶するという特殊能力を持つ。そして独自の推理で突っ走る道化役の桜井の友人栗山深春とコマも揃っており、実際コミケでは桜井を主人公にした同人誌―恐らく桜井と蒼との関係を邪推したやおい本が多いと思われるが―が島田荘司氏の御手洗潔や有栖川有栖氏の火村、京極夏彦氏の京極堂といった有名どころのシリーズ探偵と肩を並べるほどの人気だったとも聞く。

そんな桜井が依頼されるのは取り壊しが決まった伊豆にあるスペイン風洋館の保存の手助け。そこでは1年前に主の遊馬歴老人が亡くなり、年末には歴の息子灘男が腹部にナイフを突き立てられ昏倒するという殺人未遂事件があり、そして取り壊してリゾート地として売り出そうとしていた不動産会社々長醒ヶ井が不審死を遂げるという過去の因縁と現在の事件が同一の館で起き、しかも持ち主である遊馬家の夫婦と4姉妹はそれぞれに思惑を秘めているという、推理小説はかくありきとも云うべき設定だ。

しかし本作がそれでも特色を放っているのはやはりサブタイトルにも掲げられているように桜井が建築探偵というところだろう。事件そのものよりも対象となる館そのものこそが桜井の関心の対象なのだ。
したがって人の生死に関わる事件は二の次で館に秘められた設計者、住居者の思い、建築の意図を推理する。そのことによって殺人事件の犯人が炙り出されるという間接的な事件真相へのアプローチが成されているのが最たる特徴だろう。

作中、スペイン文学研究者灘男と桜井の問答で『黒死館殺人事件』について触れられるシーンがあるが、そこで語られる殺人の動機は建物が人間に及ぼした影響なのだと探偵法水が述べる部分こそ本書の、いや本シリーズのメインテーマであると云えるだろう。

従って本書では黎明荘に秘められた主だった遊馬歴の想いを解き明かすのがメインであり、事件の方はそれを装飾するものであり、通常新本格ミステリ作家が第1作目として気合を入れて導入する密室殺人事件などは起きない。

起きる事件は3つあるがそのどれもが椅子からの転落死だったり、腹を何者かに刺されて瀕死の重症を負うという、Howdunitには重きが置かれず、WhodunitやWhydunitに重きが置かれた事件になっている。そのためか事件に派手さはなく、まずは桜井京介お披露目の作品といった印象を受けた。

その犯行の模様が明かされても何のHowdunitの興趣をそそるものは一切なく、Whydunitが述べられるだけだ。
陰鬱な雰囲気を常に湛えた遊馬家が桜井によって、事件の真相と黎明荘に込めた遊馬歴の想いが明かされて、一転して明日への新たな道が開かれる。

といったように新本格ミステリというよりも単なるミステリの趣が強い本作だが、やはり作者の得意とする歴史を絡めているところにこの作家のこだわりを感じる。歴が若かりし頃に渡ったスペインで起きたスペイン革命と歴の運命を絡め、秘められたロマンスを演出している。
う~ん、革命を背景に叶わぬ恋とは、これはまさに『ベルばら』の世界だ。やっぱりこの作家、自覚していないようだが少女マンガ的設定を盛り込む遺伝子を持っているのだ。

館を舞台にしながら密室殺人が起きないというのは本格を期待している輩には物足りないが、やはりそこは建築探偵である。以降の作品でその登場を期待しよう。


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未明の家 (講談社文庫―建築探偵桜井京介の事件簿)
篠田真由美未明の家 についてのレビュー
No.810:
(8pt)

やっぱり「決まり金玉!」ですわ

若き探偵ニール・ケアリーシリーズ第2弾。
今度の舞台は1977年の中国・香港。もちろん香港はまだ返還されておらず英国領のままだ。毛沢東亡き後、次の覇権争いが渦巻きながらも故毛主席の怨念が色濃く翳を落とす時代の物語。

第1作であった前作でも感じたが若き探偵物語という謳い文句で世間に喧伝されているが、本作では私立探偵物というよりも諜報物に近い。
CIAに中国スパイ。
1人の女と1人の男を巡る中国、アメリカの組織入り乱れての攻防。
味方と思っていた者が敵になり、敵と思っていた者が利害の一致から味方になる。
これはまさしくエスピオナージュの物語運びだ。

さらに終盤中国の奥深くの山々に分け入り、そこで繰り広げられる攻防戦有りといった冒険小説の色合いも強くし、もはや1つのジャンルに留まらない非常に贅沢なエンタテインメント娯楽作品になっている。

そして今回ニールは前作に陥った窮状が子供騙しだったと思わされる窮地に陥る。ターゲットでしかも恋に落ちた相手リ・ランに世界で最悪といわれる貧民街九龍に置き去りにされるのだ。
ここでのニールに対する仕打ちはまさに人間の尊厳などは全否定され、生きていることすら苦痛に思わされる境遇に陥る。この辺の件は主人公ニールに好感を抱いている多くの読者にとって息苦しさと悲愴感が痛切に心に響く場面だ。

今回もターゲットの化学者を捕まえるため、中国美術に造詣のある学生に成りすまし、仲間に取り入ろうとするが、ナイーヴな心を持ったニールは仲睦まじいペンドルトン博士と美しい中国女性画家リ・ランにほだされ、任務を放り出して彼らの恋の逃避行を応援しそうになる。

前作も家出娘の捜索のために麻薬の売人に取り入ってターゲットのアリーに心を動かされたが、これはニールが元ストリート・キッドである出自に大いに関係があるだろう。

両親の愛情を知らずに掏摸をして糊口を凌ぐ生活をしていたニールにとって仲のいい仲間たちやコミュニティは人生で体験したことがない心地よさを彼にもたらし、プロの探偵であってはならない感情移入をしてしまい、ミイラ取りがミイラになってしまう危うさがある。しかしこの青さと純粋さが大人になると失ってしまう誠実さを思い起こさせ、彼に共感を覚えてしまう。こういう稼業に仕えるには彼は優しすぎるのだ。
若干24歳の若き探偵ニール。技術は一流ながらも心はまだ純粋という名の宝石を秘めている男。
この手の諜報物では騙し合いの攻防戦は当たり前で、登場人物も歴戦の強者ばかりなので、いちいち傷ついてもいられないというのが定石だが、ニールの若さが探偵の、真実を知ることで自分の中で何かが失われている寂しさを体現しており、やはり私は彼にフィリップ・マーロウを重ねてしまうのだ。

またこのシリーズではあえて現代を扱わず、70年代と激動の政治・世界情勢そしてカルチャー時代を扱っており、当時アメリカが抱えていた危惧と懸念と不安がバックグラウンドとして描かれているが、本書ではまさに今の中国を予見する内容が書かれている。

この世界人口の1/4を占める一大王国が発展することで世界に及ぼす影響、そしてアメリカが中国人のどこでも生活でき、成功を収めることができるパワーを恐れていることが克明に書かれる。したがって当時の中国政治の混乱はアメリカにとって中国の成長を阻むことすれ、促進させるものではないと奨励していたのだった。
本書でCIA工作員シムズが得々と述べる発展した中国のエネルギー消費量の増加、食品消費量の増加と世界の需給バランスの崩壊はまさに現代我々が直面している問題だ。刊行されたのは原書が1992年、訳書が1997年と13年も前の作品だが、ここに語られるテーマは今日的なものだ。
『このミス』1位がきっかけでウィンズロウを手にしたが、出来るだけ多くの人に読んでもらいたいと思った。

また登場人物リ・ランが語る家族に起こった物語、毛政権が国民に当時何をしたのかという粛清の歴史が一家族の視点で語られる部分は、アメリカ人のウィンズロウがよくもこれだけ東洋思想・政治を曲解せずに書いたものだと感心した。歴史の一証言として残しておくに価値ある記述だ。

そしてやはり触れずにいられないのが通訳伍とニールの交流だ。ニールが伍に教えるスラングが物語のアクセントになっており、最後のシーンで実に効果的な演出をかもし出す。思わず「決まり金玉!」とこちらまで云ってしまいそうだ。
そして何よりも毎度書かれるニールの本に対する愛情が本読みの興趣をくすぐる。中国で九龍城から抜け出したニールが読書への渇望をもらし、西洋図書禁制下の中、町の書店に掛け合って表に出ない在庫に隠されたアメリカ文学の数々と遭遇するシーンは本読みならば自身の好きなジャンルに擬えて垂涎の思いを抱くところだ。

さて一見どのような物語なのか想像するのが難しいちょっと奇妙な題名だが、その中でも最も目を引く「仏陀の鏡」とは物語の終盤の舞台になる四川省の奥地にある峨眉山の山頂から深き谷を見下ろすと霧の中に本当の姿を映すという伝説から来ている。そこへ行くことが今回ニールが目指すべき所であり、知るべき真実が待つ所なのだ。
前作の原題「地下に吹く一迅の涼風“A Cool Breeze On The Underground”」も一見語呂が悪い―特に邦訳では―題名だと思うが読み終わってしまうとこれほどぴったり来る題名もないと思わせる。若き文豪、いや決まり文句遣い師ドン・ウィンズロウの絶妙のコピーだ。

しかしW杯中の読書は辛い!いつもは家でじっくり読むのだが、出来る限りW杯中継を見たいがために通勤時、職場での昼休みなど断続的な読書をせざるを得なかった。
ちなみに前作も海外出張中で移動時間や待ち時間を利用しての読書だった。これがもしいつものような読み方だったら評価はもっと上になったかもしれない。
すまん、ウィンズロウ。W杯が終わったらもっと誠実な態度で読みます。


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仏陀の鏡への道 (創元推理文庫)
ドン・ウィンズロウ仏陀の鏡への道 についてのレビュー
No.809: 4人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(9pt)
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探偵の苦悩、さらに深まる

前作『十日間の不思議』で探偵としての自信を喪失したエラリイが今度対峙したのは、今までの事件とは毛色が異なる連続絞殺魔による無差別殺人事件。そして舞台もライツヴィルではなく、元々のホームフィールドであったニューヨークだ。

とにかく色んなテーマを孕んだ作品である。
一番解決が困難とされるのは動機も関係性もない人物が通りがかりに人を殺す事件だと云われている。本書はエラリイのロジックはこのような無差別通り魔殺人事件にも通用するのかが表向きのテーマであろう。

しかしそれを取り巻いて人種の坩堝と云われるニューヨーク市で起こる様々な移民が殺される状況下で想定される市民の暴動、さらに探偵としての自信を喪失したエラリイの奮起も読みどころの1つである。

そして犯人こと絞殺魔<猫>の正体は意外にも物語半ば、全400ページ弱のうち220ページ辺りで判明する。明確になった犯人対名探偵の対決という構図を描きながら、しかし最後にどんでん返しを用意しているのが実にクイーンらしい。

事件の特色も国名シリーズやドルリー・レーンシリーズ、そしてライツヴィルシリーズなどの作品からガラリと変わってきている。

今までエラリイが遭遇してきた事件は限られた空間・状況で限られた人間の中で起きた殺人事件が語られてきた。したがってエラリイは限定された人物の行動と性格を探り、それを論理的に検証して最も当てはまる人物を堅固なロジックで指し示すというものだった。
しかしライツヴィルシリーズ第1作の『災厄の町』では街の名士一家に起こる事件が小さな町ライツヴィルの民まで影響を与え、スキャンダルと狂乱を生み出す様子を表した。そこから更に事件の及ぼす外部への波及効果を広げたのが本書であろう。しかも殺人の対象は名士一家といった限定されたコミュニティではなく、ニューヨーク市民全員。無差別に絞殺し続ける正体不明の絞殺魔だ。
この影響範囲の拡大・事件の拡張性はクイーンとしても非常に大きな挑戦だったのではないだろうか。

連続絞殺魔対名探偵。これはパズラーでもなく、本格推理小説でもなく、もうほとんど冒険活劇である。
クイーンが古典的本格ミステリから現代エンタテインメントへの脱皮を果たした作品だと云えよう。

しかしそんな特異な事件でもクイーンのロジックは冴え渡るのだから驚きだ。クイーンのロジックの美しさを久々に堪能した。

そして理詰めの犯人追求ではなく、次の事件を予見してからの現行犯逮捕という趣向は今までの諸作でも見られたが、従来の場合はエラリイの意図を悟らせず、エラリイが犯人を罠に掛ける有様さえもサプライズとしていたのに対し、本作ではそのプロセスを詳らかに書くことで臨場感とスリルをもたらしている。

そして本編には戦争の翳が物語の底に流れている。笠井潔氏が提言した本格ミステリが欧米で発展した根底に戦争による大量死があったとされる「大量死体験理論」を裏打ちする内容が書かれている。
つまりこの作品は戦争という災厄によって無駄死にを強いられた多くの人間に対する弔魂歌なのだ。

誰が犯行を成しえたかを精緻なロジックで解き明かしてきたクイーンのシリーズが後期に入り、犯罪方法よりも犯人の動機に重きを置き、なぜ犯行に至ったかを心理学的アプローチで解き明かすように変化してきている。しかしそれは犯人の切なる心理と同調し、時には自らの存在意義すらも否定するまでに心に傷を残す。
最後の一行に書かれた彼がエラリイに告げる救いの言葉、「神はひとりであって、そのほかに神はない」がせめてエラリイの心痛を和らげてくれることを祈ろう。
次の作品でエラリイがどのような心境で事件に挑むのか興味が尽きない。


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九尾の猫〔新訳版〕
エラリー・クイーン九尾の猫 についてのレビュー
No.808: 5人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

Is this real ?

題名が示すように本書は「嵐の山荘物」であるが、そんな単純な物を東野圭吾という作家は書かない。この本格ミステリお馴染みの設定に劇団員の推理劇というツイストを効かせた味付けを施す。
いやはやさすがは東野圭吾というべきか。
従って「嵐の山荘」でありながらも、実際は雪は降っていないし、殺人も遺体が残らず、事件がどのように起きたかを知らせるメモが残されているのみ。しかし舞台劇を想定しながらその実、劇団員が1人、また1人と消えていくうちに団員たちの中に不信感が生まれ、疑心暗鬼に陥る。
これは芝居なのか現実なのか?
この辺のフィクションと現実との境が解らなくなっていく展開が非常に上手い。

また巻頭に収められた一見描き殴られたように見える粗末な見取り図にも謎を解くヒントが隠されているのが心憎い。私は単に登場人物配置を解りやすくするためだけに付けられたのだと思っていたので全く顧みなかったのだが。

しかも読者の目には登場人物が消え去るシーンは恰も殺人がなされているように書かれているため、読んでいる方も本当に殺人が起きているのかいないのか判断に迷わされる。この叙述方法もまたトリックの1つであることに最後には明かされる。
単に奇抜なシチュエーションを用意しただけでなく、色々な仕掛けを施した作品なのだ。

またこの山荘での殺人劇、しかも虚実どちらか解らぬ状態で互いが互いを疑いあう状況からなんとなくゲーム『かまいたちの夜』を思い出させる。

逆に実際に舞台劇として演じられると非常に面白いかもしれない。劇中劇という設定で劇の中の演者がさらに演技を要求され、それが観客に虚実を混同させる効果を生み出し、どこまでが演技でどこからが素なのか解らなくなりそうだ。
いや実際既にどこかの劇団で公演されたのかも。

さて本書では登場人物の口を借りて東野流“ノックスの十戒”が開陳される。

曰く、「人間描写もできない作家が名探偵なんか作ろうとするな」、「警察の捜査能力を馬鹿にするな」

本書ではこの2つのみが書かれたがこれが後に『名探偵の掟』に繋がる着想の萌芽ではないかと考えると、やはり作品は発表順に読んでこそ、その作者の創作姿勢が時系列に垣間見れて楽しい、などとマニアックな悦に浸ってしまうのだった。


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ある閉ざされた雪の山荘で (講談社文庫)
東野圭吾ある閉ざされた雪の山荘で についてのレビュー
No.807: 2人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

作者唯一の文庫化作品

依井貴裕氏は1990年に『記念樹』という作品で当時東京創元社が出していたミステリ叢書からデビューした本格ミステリ作家である。つまり新本格ブームの中、数多くデビューした作家の1人と云えるだろう。

そのペンネームを音読みすれば「イイ キユウ」、すなわちエラリー・クイーンのイニシャル「E.Q」になることから、この作家の持ち味はあくまでロジックに徹したミステリであり、同じくクイーンを尊敬する有栖川有栖氏の目指すところは一致している。

さて私にとって彼の作品を読むのは本作が初めてなのだが、実に端正な本格だというのが正直な感想。上に述べたように推理はロジックの積み重ねで整然と解かれていく。

休業中の俳優桜木和巳の許へ送られた手紙には数ヶ月前に旧友たちと山荘に集まり宿泊した3日間に起きた連続殺人事件の顛末が小説風に綴られていた。桜木には当日の記憶が一切ないが人の首を絞める感触が実に生々しく残っていた。そしてその文書には桜木が犯人であると告発していた。

この20世紀末の時期、日本の本格シーンにはこういった手記に隠されたトリックを解き明かす類のミステリが一つのジャンルのように作られた。
法月綸太郎氏の『頼子のために』、島田荘司氏の『眩暈』、そして叙述トリックの雄、折原一氏の一連の作品群・・・。
傑作も多いことからこのような題材は本格ミステリ作家ならば一度は挑戦したいと思うのだろう。依井氏がそのジャンルに挑戦したのが本書である。

確かに一見普通の手記のように読み取れるが、なんだか解らない違和感がある。しかしそれがなんだか解らないまま、190ページ弱読み終わり、読者への挑戦状が挿入される。どうにも解らないまま解決編に行くと思いもよらないトリックに驚かされる。

このトリックはネタバレになるので具体的には挙げないが、同趣向の作品と同様のトリックである。しかし無駄の一切ない内容で実にコンパクトにまとまっており、それが故、疑うことさえも難しくなっている。

また真犯人の正体も実に意外だが、当時のミステリ文壇の流行を取り入れた内容になっている。
しかしこの頃すでにこの題材は手垢にまみれていたからさほどの衝撃はなかったのかもしれない。

また探偵役の多根井理のキャラクターが平凡で単純なロジックマシーンになっているのが惜しいところ。理路整然としたロジックもいいがやはり作品として一歩抜きん出るにはトリックの衝撃はもとより、魅力的な探偵というのが必須であることを痛感させられる反面教師のような作品になっている。

しかしこの作家のクイーンへの傾倒ぶりはかなり熱いものだと感じられる。なんせ「読者への挑戦状」も挿入されているのだ。

また先に述べた自身のペンネームに加え、作品の探偵役であるミステリ作家多根井理の名を見て思わずニヤリとしてしまった。エラリー・クイーンのコンビであるフレデリック・ダネイとマンフレッド・リーのそれぞれのラストネームを当て字にして名前にしているのだ。
他にもバーナビー・ロスの当て字をした登場人物がいるのではないかと目を皿のようにして読んだのだが、さすがにそれはなかったが。

さてこの依井氏、1999年発表の本書以降、新作を発表していない。おそらく公務員との兼業作家であることがその大きな要因であるのだが、数多消えていったミステリ・エンタテインメント作家と違うのは今なお『このミス』で近況報告がされていることだ。そこには次回作のことは一切書かれていないが毎年何がしかの報告がなされているということは再びペンを執る気持ちが残っているからだと推察する。それを期待して新作の発表を待つことにしよう。

それよりも東京創元社ですでに発表された『記念樹』、『歳時記』、『肖像画』といった一連の作品を文庫化してほしいものだ。頼みますよ、東京創元社さん!


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夜想曲(ノクターン) (角川文庫)
依井貴裕夜想曲(ノクターン) についてのレビュー
No.806:
(9pt)

一迅の涼風とはよく云ったもの

93年に出版され、今なお評判が高く版を重ねているドン・ウィンズロウのデビュー作にして探偵ニール・ケアリーシリーズ第1作が本書である。
本書が斯くも高く評価されているのは、探偵物語としても上質でありながら主人公ニールの成長物語として実に爽やかな読後感を残すからだろう。

父なし児として売春婦の母親と一緒に劣悪な環境下で暮らし、掏摸で糊口をしのぎながらストリート・キッドとして生きていたニールが初めてしくじった相手が探偵のジョー・グレアム。二度目に遇った時はジョーが窮地に陥っているときで、ニールは咄嗟の機転を利かせてジョーを助ける。そこから探偵とストリート・キッドの師弟関係が始まる。
まずこの邂逅のエピソードが実にいい。

さらにニールが渋々引き受ける家出人探しの上院議員の娘アリーがお嬢様から転落していく一部始終、そして売女に身をやつしてしまいながら、母親から明かされるアリーの悲惨な境遇と心の叫び―父親である上院議員に幼い頃から性的嫌がらせを受けていた。しかも実の娘ではないことが解る―。
この衝撃の事実は本来ミステリ・エンタテインメント小説であれば物語の後半に持って来るべき真相だが、作者は早くもニールが捜索する前の家族への聞き込みの段階で明かす。それは物事は必ずしも一つの方向で見るべきではなく、多面的に見つめることで隠された真実が浮かび上がるのだと本書を読むにあたってあらかじめ注意を喚起しているかのように思える。

この予想は当たっていて、物語は二転三転して進行する。特にニールがアリーを見つけてからの展開はレナードの作品を思わせるような全く先の読めない展開で誰も予想できないだろう。
実際私は何度も予想を裏切られた。それもいい意味で。

また次期大統領候補の娘の捜索というメインのストーリーの合間に断片的に挟まれるグレアムがニールを教育し、一人前の探偵に育てていく探偵指南の挿話が実に面白い。
まずは部屋の掃除から始まり、料理の指導と人間として基本的なことから教え、その後尾行の仕方、顔の覚え方、探し物の探し方、姿の隠し方など、プロフェッショナルな探偵術を微に入り細を穿って教授する。これらの内容は実際作者は探偵をやっていたのではないかと思わせるほど専門的である。
訳者あとがきによれば作者の職業遍歴は実に多種多様で、履歴から人生を推測するだけでも実に様々な物語が展開しそうなほどだ。そしてその経歴の中にはその手のノウハウを身を以って経験するものがちらほらと散見される。

そして物語の各登場人物のエピソードの内容は実は社会の暗い世相を反映し、多様化する現代の病とも云える売春や近親相姦、麻薬密売に中国マフィアの台頭と気の滅入るような内容がふんだんに盛り込まれているのだが、上に述べたニールとジョーの師弟関係の挿話や“生きた”言葉を話す登場人物たちの会話のためもあって実に爽やかな読後感をもたらす。

リアルとフィクションのおいしい要素を上手くブレンドしたその筆致はレナードのそれとは明らかにテイストが違い、デビュー作にしてすでに自分の文体を確立している筆巧者なのだ。

さて本書の原題は“A Cool Breeze On The Underground”、直訳すると『地下に吹く一迅の涼風』とでもなろうか。
作中ニールがロンドンでアリーを捜索中、地下鉄を乗り渡る場面がある。そこでロンドンの地下鉄の暑苦しさについて語られており、涼風の可能性、存在自体をも否定するほどの暑さと述べられている。つまり存在しうる物でない物、一つの希望を表しているようだ。
また“Underground”は「地下」という意味に加え、「裏社会、暗黒街」という意味もある。すなわちこの一迅の涼風とは主人公ニールを指しているに違いない。裏ぶれた社会に青さと甘さを持ちながらも自らの道徳を大事に事件に当たる若き探偵ニール。このニールはチャンドラーのフィリップ・マーロウを現代に復活させた姿としてウィンズロウが描いた人物であるように思える。

ストリート・キッドから育てられた若き探偵ニール。若さゆえに自分の感情をコントロールするのに未熟なため、私立探偵小説でありながら青春小説特有のほろ苦さを醸し出す。
そして舞台はニューヨークからロンドンへ渡り、ヤクの売人にまぎれながらアリーを救出する活躍の様は探偵小説というよりもスパイ小説のような読み応えも感じさせる。
いやあ、これは版を重ねるわけだと頷かざるを得ない、本当の良作だ。

ストリート・キッズ (創元推理文庫)
ドン・ウィンズロウストリート・キッズ についてのレビュー
No.805:
(7pt)

意外と本格ミステリ?

オッド・トーマスシリーズ3作目。
前回の事件の後、オッドは元恋人ストーミーの伯父が司祭を務めるシエラネヴァダ山脈にあるセント・バーソロミュー大修道院に住み込むようになる。本書はそこでオッドが遭遇した怪事件について書かれている。

前回はダチュラという悪役がオッドの敵であったが、今回は骨の化け物と修道院の学校の生徒の1人ジェイコブに“いなかった”と呼称される顔の無い修道士の出現と、クーンツお得意のモンスターパニック小説の趣が強い。特に人間に寄生して生まれる骨の化け物はエイリアンを想起させた。

前2作での舞台ピコ・ムンドを出たオッド。従って彼の良き理解者だったピコ・ムンド警察署長ワイアット・ポーターもいなければその妻カーラもいない。さらに彼の心の支えでもあったベストセラー作家のリトル・オジーもいない。つまりお馴染みのメンバーがいないわけだが、それでも今回登場する修道士たちも個性豊かな者たちばかりである。

世界でもっとも優秀な物理学者とタイム誌に賞賛されながら、セント・バーソロミュー大修道院で隠遁生活を送るブラザー・ジョン。
ブラザー・ナックルズは元マフィアの用心棒で、修道院の中でオッドの理解者であり、一番親しい人物でもある。
そして今回の惨事の第一犠牲者となるのはキットカット中毒と揶揄されているブラザー・ティモシー。
LAでソーシャルワーカーとして働き、幾人もの若い少年少女を構成させたシスター・ミリアムは、一部の心無い者たちからその遣り方を非難され、否応無く解雇された過去を持つ。

しかし今回の影の主役は得体の知れないロシア人ロジオン・ロマーノヴィッチになるだろう。眼光鋭い眼差しを持ったクマのような男で決して他者と交わろうとはしないが美味いケーキを焼くことに長けている、となんだか訳が解らないとにかく怪しいロシア人なのだが、物語の終盤で彼の役割が明らかにされるに至り、キャラが非常に立ってくる。

このオッド・トーマスシリーズは死者が見えるというスーパーナチュラルな要素を盛り込みながらも物語の語り口にミステリ的手法を取り入れているのが興味深い。

つまりファンタジー的な約束事を前提にした物語を紡ぎながら、ミステリ的サプライズも用意しているという非常に贅沢な作品なのである。
よくよく考えると舞台設定も本格ミステリでは王道とされる「嵐の山荘」である。

そしてこの手法はこの前に読んだ『一年でいちばん暗い夕暮れに』でも見られた複数の事象が一転に収束する鮮やかさを髣髴させる。どうやらクーンツは特殊な能力・状況・現象を前面に押し出したスーパーナチュラル作品にミステリ技巧を施すジャンルミックス的創作法が非常に効果的であることに気づいたのかもしれない。
個人的にはこの試みは成功していると素直に認めたい。

しかし一点苦言を呈するならば、この広大な修道院を舞台にするならば、やはり見取り図が欲しかった。
聖堂に図書館に学校に寮と広大な敷地を東奔西走するオッドの様子がなかなか頭に入ってこない。位置関係が解らないため、オッドが今どこにいるのかが非常に把握しにくい。
本格ミステリ作家でないデミルでさえ、『ニューヨーク大聖堂』では大聖堂の見取り図が付けられていたのだから、これはやはり出版社の怠慢だろう。次作の舞台設定が解らないが、この辺の配慮はお願いしたい。ミステリを専門に出版する会社としたら当然の配慮だと思うからだ。

ところでクーンツの犬好き、レトリーヴァー好きは最近になってますます拍車が掛かったようだ。
本書でもブーという名の雑種ながらもラブラドル・レトリーヴァーの血を引く犬が登場する。そして最後に意外な正体が判明するのだが、彼のトリクシーという愛犬を喪ったバックグラウンドを知っているものの、昨今の犬好き露出振りにはちょっと辟易してしまう。

そんな理由もあり、本書は裏表紙の紹介文にあるほどには傑作とは感じなかった。バカミスと賞される可能性大だが標準作だといえる。やはり1作目のインパクトが大きすぎた。

今回で1作目から連れ添ってきたエルヴィスも成仏し、オッドの許を去り、シリーズとして一段落着いたような趣がある。しかしエルヴィスに変わり、最後にサプライズ・ゲストが現れ、物語は次作への続きがほのめかされて終わる。このサプライズ・ゲストがどういう風にオッドと絡み合うのか、興味が非常にある。
それを期待して次作を待つことにしよう。


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オッド・トーマスの救済 (ハヤカワ文庫 NV ク 6-10) (ハヤカワ文庫NV)
No.804: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(7pt)

クイーンの敗北宣言!?

ライツヴィルシリーズ3作目。本作ではかなり意識的にライツヴィルという町がエラリイにとって運命的な何かを持っている存在として描かれる。

シリーズ1作目『災厄の町』同様、本書では手紙が重要な役割を担う。『災厄の町』では夫が妻の毒殺計画をほのめかす3通の手紙だったが、本書では息子が母への恋情を認めた4通の手紙だ。
『フォックス家の殺人』が未読なので手紙が出てくるのか解らないが、本書は共通する手紙の内容がまったく正反対でしかもスキャンダル性を両者とも帯びている。

そして本書では『靴に棲む老婆』と同じ示唆殺人がテーマとして扱われている。『靴に棲む老婆』がマザーグースに擬えていたのに対し、本作では聖書の十誡がモチーフ。
したがって『靴に棲む老婆』のテーマ性に『災厄の町』の味付けを施した作品という印象を持った。

そしてそれら2作のエッセンスをさらに凝縮したかのような濃さがここにはある。特に本書の主要人物はエラリイと彼の友人ハワード、そしてその父親ディードリッチにその妻サリー、ディードリッチの弟ウルファートのたった5人というのが驚きだ。
そんなごくごく少ない人間関係の間で起きる殺人事件だから、必然的にドラマ性が濃くなる。

まずエラリイの友人ハワードは突発的に短時間の記憶喪失症に陥るという特異性を持っている。さらに彼の父親ディードリッチは捨て子だった彼を養子に迎え、さらには若き妻サリーも彼が支援していた貧しい家庭の娘を妻として引き取った経緯がある。
このハワードとサリーが姦通し、その内容を記した手紙が謎の脅迫者の手に渡ってしまうというのが物語の骨子といえよう。
本書におけるエラリイの役回りは謎の脅迫者を突き止める探偵役、ではなく、このハワードとサリーの2人に翻弄される哀れな使い走りであることが異色。前にも述べたがこういう役回りを配される辺り、国名シリーズ以降のクイーンシリーズはパズラーから脱却してストーリーを重視し、ドラマ性を持たせることに重きを置いているように感じる。
特に驚くのは事件の真相が解明するのは一旦落着した1年後であることだ。これほどまでに事件を引っ張ったことは今までなかったし、これがエラリイのに初めて犯人に屈服する心情を吐露させる。

しかしライツヴィルという町はなんとも問題を抱えた家族が多い町だ。事件に関わるたびに人間不信に陥りそうになり、探偵クイーンも気が滅入るのも無理はない。

また本書ではクイーン作品の弱点とも云うべき点が自己弁解気味に書かれているのが面白い。

華麗なるロジックを前面に押し出しているクイーンの諸作だが、そのロジックの美しさには惚れ惚れとするものの、いかんせん情況証拠の列挙に留まっていることが多々あり、実際私も感想にその事に触れ、苦言を呈しているときもある。本書ではその事に対し、エラリイが言い訳めいた理由を述べる。

曰く、「証拠集めは、証拠集めを仕事としている人たちに委せることにしている、(中略)ぼくの任務は犯罪者を発見することで、彼等を罰することではありません」

う~ん、なんとも苦しい弁解だ。つまり殺人事件など刑事事件を扱いながら警察捜査にはまったく自信がないと告白しているようなものである。
リアリティがないとチャンドラーたちハードボイルド作家連中にこき下ろされたことに対し、ほとんど屈服しているように思える。

エラリイが探偵業に自信を喪失したこと、そして上の台詞から読み取れる、作者のリアリティの追求を放棄したことを併せると本書は作者クイーンの敗北宣言とも取れる作品かもしれない。


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十日間の不思議〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エラリー・クイーン十日間の不思議 についてのレビュー
No.803:
(7pt)

自動車教習所の必修課題本にしてはいかがかと

92年に『交通警察の夜』という題名で刊行された短編集。元の名が示すように本書に収められた短編は交通事故を題材にしたミステリである。

まずは改題された書名にもなっている「天使の耳」。
交差点での出会い頭の事故という題材に、盲目の目撃者をあしらい、信号機の色が変わる時間を秒刻みでロジックとして展開するところに実に面白く読めた。
被害者である女性を美少女に配し、加害者の疑いがある外車の運転手を軽薄なフリーターに設定しているところがミソ。最後に背筋が寒くなるどんでん返しが用意されているが、果たしてそれが真相か否かは解らない。

次の「分離帯」も午後11時過ぎと深夜の時間帯に起きた事故を扱っている。
これは非常に巧い。登場人物のエピソードとプロットが見事に呼応しており、それが最後のうすら寒さを感じさせる結末に見事に結実している。
そして「分離帯」という題名もテーマと溶け合い、もう1つの意味を最後に醸し出している。法律が時に見せる弱者への容赦ない仕打ちを逆手に取って復讐する彩子の執念がすさまじい。

誰でも一度は経験するだろう、初心者マークをつけた車の運転にいらいらすることは。「最後の若葉」はそんな経験が思いもよらない結末を迎える一編。
いやはやこれもよくある光景でしかもかつてそんな経験があったなぁと思わされた。

もし当て逃げされ、後日加害者から連絡が入り、修理しますと持ち出したらどうするだろうか。もちろんラッキーだと思って頼むだろう。「通りゃんせ」はそんな状況から始まる。
「分離帯」同様、路上駐車を扱った一編。このあまりにも身近な軽犯罪は一般的過ぎて罪の意識すら感じない人が多いが、本編ではその軽率な行動が復讐にまで発展する恐怖を扱っている。

続く「捨てないで」では実は警察はあまり介入してこない。そういう意味では元の『交通警察の夜』として編まれた本書では異色の作品とも云える。
実に上手い。小道具である缶コーヒーの空き缶が実に効果的に皮肉な結末に寄与している。
空き缶から犯人を突き止めるのかと思いきや、結局被害者側の役には立たないのだが、完全犯罪が深沢の知らないうちに放置された空き缶のために綻ぶという展開は秀逸。
仕返しをしていたことに気づかない被害者の2人もなんだか微笑ましい。

最後の「鏡の中で」はもっとも東野氏らしい作品と云えよう。
スポーツの世界ではスキャンダルが最も恐ろしい敵であるが、この作品はそれを扱ったもの。オリンピック出場が有力視される会社の選手が起こした事故をコーチが身代わりになって加害者となる。この手の真相の隠し方と物語運びはまさに東野圭吾氏の真骨頂だろう。

本書は今までの短編集と違い、交通事故という、通常のミステリで起こる殺人事件よりも読者にとって非常に身近な事件にクローズアップしており、それが非常に新鮮だった。従って諸作品で起こる事故が読者にとっても起こりうる可能性が高く感じ、私を含め特に車を運転する人々には他人事とは思えないほどのリアルさがある。

扱っている事件も交差点での信号の変わり目での出会い頭の事故、中央分離帯がある道路での急な飛び出し、初心者マークの車を脅かす煽り運転、雪の日の路上駐車中での当て逃げ、高速道路での空き缶の投げ捨て、交差点でのハンドルミスと、非常に日常的である。

そして事故に遭った人ならば誰もが一度は抱くと思うだろうが、交通事故の解決というのは被害者・加害者双方が納得いくようなものではなく、道交法に忠実に則って処理されるため、一種理不尽な扱いを受けたような思いを抱き、不平等感といったしこりが残る。つまり法律的には正当性が証明されても、感情的にはどちらが被害者か解らないといった感情を抱いたりする。
また交通事故の多い日本では機械的に処理する警察官もいるくらいだし、本書でも出てくるが、偶然起こった事件などは警察も捜査しても犯人が挙がる可能性が低いから、被害者の心情を慮らずに投げやりに応対したりもする。

そんな交通事故で遭遇する理不尽さが本書では語られている。特に前半の3編は泣き寝入りするしかない被害者側の、加害者に対する怨念が最後のサプライズとして用意されている。しかしそれは決して胸の空くような清々しいものではなく、弱者と思っていた者が最後に見せる狂喜や冷徹さが立ち上るようになっており、うすら寒さを覚える。

また他の3編でも被害者が実は間接的に加害者へ被害を加えていた、知らないうちに被害者が加害者へ仕返しをしていた、などとヴァリエーションに富んでいる。

個人的に好きな作品は「分離帯」、「通りゃんせ」、「捨てないで」の3編。特に「捨てないで」は先が読めないだけに最後の皮肉な結末にニヤリとしてしまった。

いやあ、しかし交通事故だけに絞ってもこれほどの作品が書けるのかとひたすら感服。
その読みやすさゆえに物語のフックが効きにくく、平凡さを感じてしまうが、実は完成度は非常に高い。この人はどれだけ引き出しがあるのだろうと、途方に暮れてしまう。この軽い読後感が私を含め本書の評価をさほど高くしていないのがこの作家の功罪か。

しかし東野作品を読んだことのないミステリ初心者がいたら、『犯人のいない殺人の夜』かもしくは本書を勧めるだろう。東野氏のエッセンスが詰まった、非常に損をしている作品集とだけ最後に云っておこう。


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天使の耳 (講談社文庫)
東野圭吾天使の耳 についてのレビュー
No.802:
(8pt)

ところで映画化の話はどうなった?

重厚長大とはまさにこのこと。
しかし単に長くて厚いだけなら退屈を促すだけだが、驚くべきことに本書とはそれは無縁の言葉だ。一言で云うならば、圧巻。この言葉に尽きる。

日本のミステリシーンにその名を留めさせたのが本作『深海のYrr』。上中下巻の三分冊で合計1,600ページ以上もありながら、刊行された2008年の年末の『このミス』では11位に食い込んだ。

深海に埋蔵されているメタンハイドレードの氷塊に巣食う大きな顎を持ったゴカイの発現を皮切りに、クジラやオルカたちが人間を襲い、世界中で猛毒性のクラゲが異常発生する。そしてフランスの三ツ星レストランではロブスターがゼリー状の物質に侵食され、人間にも害を及ぼす。

さらにゴカイはメタンハイドレードを侵食し、とうとうノルウェー沖の大陸棚の崩壊を招き、大津波がヨーロッパに起き、数万人もの命を奪う。そして被害の外だったアメリカにも白くて眼のないカニが数百万匹という単位で上陸し、病原菌を撒き散らし、ニューヨークを死の街にしてしまう。

地球全体の7割を占める海だが、その正体はほとんど謎に包まれており、作中でも語られているがメタンハイドレードなる次世代エネルギー資源が地球規模で埋蔵されているのが発見されたのもつい最近の事だ。
この未知なる神秘の世界で起こる世界的変事を大部のページを費やし、詳らかに作者は語っていく。神秘であるが故にそれが起こりえると納得してしまうような内容だ。

さてこのイールと名づけられた太古からの単細胞生物の襲撃はもちろんこれには人類が地球に及ぼした環境破壊が根底になっているのだが、それにも増して強調されるのは人間がイルカやクジラ、オルカなどの海棲類にしてきた仕打ちに対する怒りが込められている。

本当かどうか解らないが、本書ではアメリカ軍がイルカやオルカの脳に電極を入れて思考回路を解明しようとし、動物兵器を作る計画があったことが語られる。その仕打ちは正に人類のエゴ以外何物でもなく、動物愛護者でなくとも憤懣やるかたない所業だ。

しかし裏返せばこれほど西洋人の自然に対する保護意識を高める内容もないなと気付かされる。最近のマグロ漁獲規制やシーシェパードによる蛮行とも思える捕鯨反対運動など、こと海の生き物に対する西洋人の反発の強さは最近日に日に強さを増している。
本作が書かれたのは2004年だから現在に続くそれらの運動に繋がっているように感じる。作者シェッツィングはドイツ人だが、彼も海棲類にはそれらのグループに共通する愛着以上の感情を抱いているのかもしれない。

またパニック小説でありながら、登場人物のキャラクターにも彫り込んでおり、そこにもページを随分割いている。

主役の1人、レオン・アナワクは自身がネイティヴ・アメリカンの出自である事をひたすらに隠そうとする。翻って彼が忌み嫌うジャック・グレイウォルフはアイルランド人の父親とネイティヴ・アメリカンの混血児である母親の間に生まれたが故に、自身がネイティヴ・アメリカンであるアイデンティティがないのだが、逆に彼はオバノンという姓を使わず、グレイウォルフと名乗り、ネイティヴ・アメリカンたろうとする。
この両者の二律背反な位置づけは、逆にレオンをして近親憎悪を抱かせている。つまり彼はジャックが鏡に映った自分のように感じられてならなく、それがかえって彼の反感を買っているのだ。

またもう1人の主役シグル・ヨハンソンもスタットオイル社の社員で友人であるティナ・ルンを愛していると知りながら、恋人がいることを知るが故、本心を隠す。
そしてティナも恋人がいて初めてヨハンソンへの恋慕に気付かせられるのだ。

彼ら以外の脇役にも人物造形にはページを割いており、中編から陣頭指揮を執るジューディス・リーは真の天才である人生が語られ、くじけることがない強靭な精神が起因するところまでしっかりと描かれる。

ティナの退場で新たなヒロインとなるジャーナリストのカレン・ウィーヴァーもまた、どんな僻地や未踏の大地まで恐れずに身体を張って取材する姿勢が過去両親を幼い頃に亡くした際に心が折れ、転がるように堕落していった人生がある日入水自殺からの生還を期にタフな心と身体を持つに至る経緯が語られる。
彼女の造形には『砂漠のゲシュペンスト』の主役ヴェーラを想起させるものがあった。

本書3冊で登場人物表に挙げられた人数は37名。それらのほとんどにエピソードが織り込まれているからこれだけ長くなるわけだ。

さらに加えて様々な分野に関した詳細な情報がふんだんに盛り込まれており、読者の知的好奇心をそそる。
最新の深海調査内容については前述したとおりだが、他にもジョディ・フォスター主演の映画『コンタクト』で取り上げられた地球外知的文明探査機関、通称SETI―おそらく実在するのだろう。数万年後に返事が返ってくる地球外知的生命体との情報交換を生業としている国の機関があるというのはアメリカという国の懐の深さに感服する。日本ならばかつて話題となった事業仕分けで真っ先に切り捨てられることだろう―や石油会社の台所事情、津波のメカニズムについての詳細な記述、最新鋭空母についての詳細な説明、などなど、通常我々が触れることのない分野の情報が事細かに書かれている。
本書を著すにこの作者が費やした労力を考えると気が遠くなるような思いがする。

それらの中でも特に興味深かったのが、長年枯渇が叫ばれている原油について実はそれが全てではないことが書かれている。
本書によれば原油はあるにはあるのだが、それを採掘するコストと売上の採算が合わなくなってきているというのが実情らしい。自噴する油井がやがて圧力低下により、人工的に汲み上げるしかなくなったとき、莫大なコストがかかり、ここでコストバランスが崩れてしまうため、撤退せざるを得ないらしい。従って石油採掘会社は現在オートメーション化を推し進めているが、それにより従業員の大幅な解雇が問題になってきているというのだ。

また産業界と学術界の価値観の相違についても興味深く読んだ。
曰く、学術界は不明な点について明らかになるまでゴーサインは出さないが、産業界は不明点が致命的と判断されないならば、すぐさまゴーサインを出すというもの。この辺は学術探求者集団と資本主義者集団の意識の違いが如実に表されていて面白かった。

そしてこれまでの著作ではドイツ、しかもケルンと、自身の熟知したフィールドを舞台に作品を著してきたシェッツィングだが、本作ではノルウェー、カナダのバンクーバー、ニューヨークからはたまたイヌイットの住む北極、そして空母の上まで舞台がワールドワイドに展開する。なにしろ最初のプロローグの舞台はペルーの沖である。
開巻と同時に今まで読んだ彼の作品とは一味も二味も違うことが一目瞭然なのだ。

そして各地で語られる内容もまた濃密である。舞台となる場所の名所やレストランはもとより、そこに生活する人々の独特な風習や生活様式まで書き込まれている。個人的にはアナワクが父親の死を悼むために帰郷する北極圏のイヌイットでのエピソードがとりわけ印象に残った。

特に本書はイールに対抗する国として全てのディザスター作品の例に漏れずアメリカ合衆国を中心に据えており、そして例によって世界のリーダーシップを取りたがるアメリカ人の醜いエゴが揶揄的に描かれている。
この辺はフリーマントルの諸作でも常に見られる傾向だ。欧州人はやはり似たような反米感情を持っているだろうか。

とにかく派手派手しく大規模なカタストロフィを次から次へと繰り出しながらも内容は全く荒唐無稽さを感じさせない。それは上述したように作者はその1つ1つに現代科学の最新情報を織り込み、専門知識を詳細に説明しながら、それらが起こりうるべくして起こったのだと納得させる。

上に挙げたような構成だから各々ページの上中下巻という大部になるのはもう致し方ないか。しかし不思議な事に全くだるさを感じない自分が居た。むしろ毎日読むのが愉しみでパニック小説でありながらも結末を早く知りたいといった性急さにも焦がれなかった。ただこの作品に出てくる人物達の生き様や世界が崩壊していく行く末をじっくりと読みたい自分がいた。
今までシェッツィングの作品を読んできた私の感想は決して好意的ではなかっただけにこれは今までになかった感情である。

正にフランク・シェッツィングが作家として全身全霊を傾けた渾身の一作である本書。『砂漠のゲシュペンスト』で見せたエンタテインメント作家としての洗練さが花開いた感のある大作だ。
しかしだるさを感じないとはいいながらもやはり1,600ページ強はやはり長く、再読するには躊躇ってしまう。次作はもっとコンパクトにさらにエンタテインメントに徹した作品を期待したい。


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深海のYrr〔新版〕 1 (ハヤカワ文庫NV)
フランク・シェッツィング深海のYrr についてのレビュー
No.801: 1人の方が下記のレビューは「ナイスレビュー!!」と投票しています。
(4pt)
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作者の熱意が暑苦しい

冒険小説のあらたな旗手として第44回江戸川乱歩賞受賞した本作によってデビューした福井晴敏氏。その後『亡国のイージス』のヒットを皮切りに更にその道の第一人者としての地位を固めていくが、現在の活動は自らの夢だったのだろう、機動戦士ガンダムシリーズの原作者としての活躍が目立つ。

物語の構造はデビュー作にしては実に複雑でかなり情報量の多い作品となった。従って通常の小説の3/4くらいのスピードでしか読めなかった。

また文体は三人称叙述だが、各登場人物の斜に構えた心情が地の文にはさまれており、ほとんど一人称に近い。
上に述べた情報量の多さも含め、この辺は推敲しているのだろうが、書きたいことが多すぎて削除してもこれだけになってしまったような未熟さがあり、行間を読ませる文章を綴る、引き算の出来ない作家だという風に受取った。

そして怒りの文体とでも云おうか、全編にわたって横溢する日本という国に対する感情を包み隠さずに表している。特に自衛隊が抱える存在意義の矛盾に対する怒りと自嘲がほぼ全編を覆っている。

こういう情念にも似た熱き物語を紡ぐ文体は好きなほうなのだが、乗り切れない自分がいた。
登場人物を形成するエピソードや物語が進むにつれて意味合いが変わるストーリー、そしてハリウッド映画を想起させる物語の節目節目に挿入されるアクションやクライマックスの敵との対峙シーンから世紀末的終局に向けて主人公らが命を賭けて挑み、ど派手な爆発シーンが展開するなど、ツボは押さえてはいる。
が、しかしこの感情に任せて先走ったような文体が作者の貌を色濃く想像させて読者の感情移入の障壁となっているような感じを受け、それに加えてやはり軍事用語を主にした専門用語の応酬が映像的なアクション描写とは方向を異にするベクトルを持って、ページを捲るべく所でページを捲らせなかった。
またこちらが齢を取ったせいかもしれないが、クライマックス近くで明らかにされる題名の意味も含め、青臭さを感じてしまった。

しかし粗探しをしてもいけない。確かに過剰に過ぎる内容と文体だが、日本を舞台に国際テロを描くという志の高さは買える。そして題材として最新鋭の軍事兵器を持ちながら、安保条約という制約に縛られ、米軍と共に存在するわが国の国防組織、自衛隊を扱ったところがこの作家特有の着想の冴えだろう。
この憲法と行政の狭間で常に居心地の悪い自縄自縛状態を強いられる自衛隊、作中でもその存在意義について作者は自嘲気味に日本を守るためでなく、在日基地を防護するためのみに存在していると述べている。

しかし彼はこの自衛隊をテーマに作品は書かれているそうで、本書で登場した「DAIS(ダイス)(Defence Agency Information Service(防衛庁情報局)」も登場するようで、デビュー作にして既に後の構想がなされていたようだ。

しかし本書が発表されて数年が経つ現在、ここで語られている沖縄の普天間基地の移転はまだ大きな懸案となっている。
これより以前に問題視されていたこの案件が今なお尾を引いている事実に日本の政治の稚拙さを感じずにいられない。


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Twelve Y.O. (講談社文庫)
福井晴敏Twelve Y. O. についてのレビュー
No.800:
(7pt)
【ネタバレかも!?】 (1件の連絡あり)[]   ネタバレを表示する

物語の裏にアイリッシュの境遇が垣間見える作品

アイリッシュ=ウールリッチお得意のサスペンス。1人の女性の運命が翻弄されるプロットが実に心憎い。やはりアイリッシュは、こうでなくてはならないという期待に必ず応えてくれる信頼できる作家だ。

アイリッシュの作品の登場する女性には悪女という冠がつくことが多いが、本書の主人公ヘレン・ジョーゼッソンは列車転覆事故がきっかけで実業家の息子と結婚した女性に成り代わるのに、彼女は決して悪女ではないのが特徴的だ。

彼女は運命に翻弄されるか弱い女性であり、常にいつ自分のついた嘘がばれないか、怯えている。しかも彼女を受け入れてくれたハザード家がこれまた善人たちの集まりであり、そんな善良な人たちを騙す行為に常に罪悪感が抱いているのだ。

しかし彼女は決して真実を話そうとはしない。なぜならば折角得た幸福を逃したくないという願望が強いからだ。
冒頭で語られる人生が変わるまでの彼女の人生はなんとも悲惨なものだ。8ヶ月の胎児を孕んだ身重でありながらその父親は賭博師で認知もせず、彼女にたった5ドルと彼女の故郷までの切符を郵送で送りつけただけ。貧乏のどん底に逢った彼女のよすががこのろくでなしの彼スティーヴンだけだったのだ。
そんな彼女に降って湧いたような豊かな生活。これは誰しもそう簡単に手放せるわけでないだろう。

アイリッシュのプロットはよくよく考えると非現実的だ。本書でも実業家の息子ヒューの花嫁パトリスが相手の両親に逢った事もないのに結婚をしている。これは今では考えられないシチュエーションだ。
しかし詩的な文体が織成す前時代性的雰囲気、そして行間に流れる登場人物の哀切な心情が読者の共感を誘い、一種の酩酊感すら覚え、これが一種荒唐無稽な設定に疑問を抱かせず、流麗な筆致で語られる物語へ没入させられるのだろう。

しかし私が本書で語りたいのは本来の幸せの形ということではなく、作者アイリッシュに対する母親という存在についてだ。
本書が発表されたのは1948年。『暗闇へのワルツ』、『喪服のランデヴー』と同時期に書かれ、正にアイリッシュが作家として爛熟期にあった頃だが、実はこの頃アイリッシュは同居していた母親が重病となるという不幸に見舞われている。恐らく彼女の看病をしながらの執筆活動だったと思われるが、本書でも義母グレースが重病に瀕しており、いつ死んでもおかしくない状況であり、ヘレンを含めた家族はとにかく刺激を与えるような事を知らせないように神経質に動いている。
まさにこれこそ当時のアイリッシュの状況を髣髴とさせる。

そんな意味からも本書は今まで読んだアイリッシュ作品の中でも、実に彼の素顔が色濃く現れており、それが悲痛な叫びと感じられる、物語の外側が妙に意識させられる珍しい作品だった。


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死者との結婚 (ハヤカワ・ミステリ文庫 9-3)
ウィリアム・アイリッシュ死者との結婚 についてのレビュー
No.799:
(7pt)

21世紀になってもナチスの翳は色濃い

いやあ、バー=ゾウハーの新作がまさか読めるとは思わなかった。なんと原書刊行2008年。正真正銘の新作だ。

私がこの作家が好きなのはエスピオナージュを書きながらもストーリーやプロットにミステリマインドが溢れているからだ。私が好んで読む同じジャンルの作家フリーマントルも同様だが、バー=ゾウハーの場合はスピード感と緊張感に溢れている。
さて本作ではどうだろうか。

まず冒頭、ロンドンで宿泊していた男がベルリンのホテルで警察に叩き起こされ、そのまま逮捕されてしまうという、いきなり窮地から始まる。その逮捕もなんと60年以上も前に犯した元ナチス将校殺害事件の容疑者としてだから驚きだ。
作中人物の話によればドイツには殺人罪には時効がなく、市民が訴えれば捜査は開始されるらしい。

そこから長らく絶縁状態だった息子ギデオンが登場し、ルドルフがロンドンにいた事実を探ろうとする。しかし何かを恐れるかの如く、ルドルフに関わった人たちは彼と逢ったことを否定する。
この辺はアイリッシュの『幻の女』を髣髴する。

更にネオナチの狂信者たちのルドルフに対する感情は募り、やがて魔の手が迫り行く。

今回の主役は逮捕されたルドルフと疎遠だった息子ギデオン・ブレイヴァマン。父親の意向に背き、世界中を旅した後、民俗学者になった男だ。
彼が拘束中の父親の許を訪れ、久方ぶりに邂逅するシーンは2人の間に広がる溝が明らかにまだ存在している事を感じさせ、ぎこちない。しかしギデオンは父親が訃報逮捕された証拠を掴もうと躍起になる。

そして彼の前に立ち塞がるのがベルリン州女性上級検察官マグダ・レナート。
今回の任務に賭ける意欲は並々ならぬものがあることを知らされるのだが、それも無理もないことが物語半ばで判明する。なんと彼女の祖父はユダヤ人のパルチザンだったルドルフによって殺されたSS将校の1人だったのだ。
しかしその事実もある事実で彼女にとって屈辱に代わる。親しかった祖母から教えられた亡き祖父像は第2次大戦で英雄的な戦死を遂げた将校ではなく、ユダヤ人収容所でのホロコースト実行の中心的人物だったからだ。

このくだりを読むと、やはりドイツ人はナチスが第2次大戦で行ったホロコーストを忌むべき過去とし、歴史の汚点としているのが解る。自分の先祖が大量虐殺行為に関わっていた事はやはり不名誉であり、隠したい過去なのだろう。この憶測が裏打ちされるのは、ルドルフ逮捕に隠れた陰謀が明かされる段になってからだ。

ルドルフが今回の陰謀に巻き込まれる引鉄となったのはかつて愛した女性をロンドンで見たという戦友からの手紙である。第2次大戦の恐怖を伴う呪わしき記憶が残る彼の地ヨーロッパを踏ませた原動力が愛する人に一目逢いたいという想いだったのはなんともロマンチックではあるが、これが実に共感できる。
もし私にも同じ報せが入れば、どうにかしてそこを訪れ、再会したいと思うだろう。私もそんな齢になってきたのかと苦笑してしまった。

北上次郎氏も云っていたが率直に云ってかつての名作から比較すれば冒頭に述べたスピード感は減じている。
しかしそれを補う物語はここにはある。
傑作とは云えないまでもやはり続けて読みたくなる作家である事は確か。
バー=ゾウハー御齢80歳。同年代のフリーマントルが旺盛な執筆活動を見せている今、この作家にも次作を期待したい。


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ベルリン・コンスピラシー (ハヤカワ文庫NV)