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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1433件
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その題名からいわゆる“嵐の山荘”物を連想するが、確かに本書はそのジャンルに類いする物である。
が、しかし館の関係者が外部に出られない状況というのが突然の強盗の襲撃と篭城という非常に特異なシチュエーションであるのが、この作家を他のミステリ作家と一線を画する存在にしている。そんな緊張状態の中での殺人劇という、実にアクロバティックな手法を繰り出す。 強盗襲撃という心的疲労に加え、殺人事件の勃発とさらに関係者の心労は募る。従って次第に人格者であった彼ら・彼女らの精神状態も脆くなり、泥沼のやり取りが繰り広げられる。 まさしく「仮面」を被った者たちの饗宴だ。 しかしそれらは典型的な密室劇のフォーマットに則った展開とも云える。 しかし東野氏はさらに読者の想像の上を行く。最後10ページ弱の中で明かされる大どんでん返しに読者はしばし呆然とするに違いない。 最初私は、“嵐の山荘物”といい、題名といい、あまりに本格ミステリど真ん中の内容にちょっと面食らった。 というのもこの前に発表した『宿命』から人の心の謎に焦点を当てた第2期東野ミステリの幕開けを確信しており、それ故、今回も人間関係の綾と心の謎がメインのミステリになると思ったからだ。 しかし最後の真相に至り、やはり東野氏の興味はそこにあるのだということを再度確信した。 正に「嵐の山荘物東野風変奏曲」とも云えるこの作品。ここは素直に作者の入念な企みに拍手を贈ろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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建築探偵桜井京介シリーズで知られる篠田真由美氏による、ヴラド・ツェペシュの生涯を語った歴史小説。
『吸血鬼ドラキュラ』のモデルとして有名な東ヨーロッパのハンガリーの国境に位置するワラキアの公王ヴラド・ツェペシュ。彼の血塗られた人生はしばしば小説やマンガのモチーフとなり、それらは全て忌むべき怪物や残虐王という風に描かれていた。つまりは悪の象徴である。 本書はそのヴラド・ツェペシュがオスマン・トルコの捕虜であった青年期からワラキア国奪還を果たし、王に返り咲き、勇名を馳せるに至る道筋を描いた物語だ。 しかし本書で描かれるヴラドはこの手の歴史小説にありがちな、後世に伝えられている人物像を覆すというものではない。やはり彼に纏わる数々の忌まわしい伝説は事実として述べられる。 祭りを愉しむ人々をいきなり攫って奴隷にし、鞭打って城を建てさせる、生木の杭による串刺し刑、建物に何百人もの人間を閉じ込め、生きたまま建物ごと焼き尽くしたり、云う事を聞かないジプシーの長を斬殺し、その肉を仲間への料理として提供し、食べさせる。またはかつての宿敵の息子を捜し出し、自らの墓穴を掘らせて殺す。トルコの使者が自身の前で脱帽しなかった無礼を咎め、釘で頭蓋に縫いつけ送り返す、等々。 本書では今まで単なる大量虐殺を好んだ狂人という側面で描かれていたヴラドがなぜこのような残虐行為を行ったのかというところを語っているところが他の関連書と一線を画する。 彼には従者だった老人を見せしめのために杭で串刺しにされた過去があったこと。捕虜として各地を転々とし、その都度クーデターや戦争に巻き込まれ、逃走を強いられたこと。そして民と家臣を統率するには恐怖を以ってするのが一番だということ。更に小国ワラキアを強くするためには兵を増やし、強化する必要があったこと。 これらの行動原理に基づき、彼は臣下の者も含め、絶対服従を求めた。 しかしそれでもやはりこれらの行為は過剰だったと思う。人の命を弄ぶかの如き残酷な仕打、処刑の数々をしてもなお、ヴラドが自分を見誤らず、正気を保ち、己の信条を貫けたのはシャムスという従者の存在だ。 アラビア語で太陽を意味する名を与えられた彼はオスマン・トルコの侵略で故郷を奪われ、逃げ延びた1人の青年。死に場所を求め、馴れない剣を振って、兵士になろうと志願したところをヴラドに拾われる。彼は女のような風貌と体格を持ち、戦闘で役に立つわけではないが、ヴラドと同じ心を持つ。つまりヴラドの考えを一番理解できるのが彼なのだ。ヴラドは己の心が暗黒面に落ちぬための楔として太陽たる彼を常に連れゆくのだ。 しかしやはり恐怖は嫌悪を生み、離反の種となる。たった3万に満たない戦力で20万のトルコ軍を追い払った歴史上名高い彼の功績は彼の絶頂期であったがために、それ以後は下るだけだった。盛者必衰の言葉の如く、龍の息子、悪魔の子として恐れられて小国の梟雄にも栄光の黄昏が訪れる。 彼の生涯はずっと強国オスマン・トルコへの復讐一筋だったと云える。 東ヨーロッパの小国ワラキア公の父と共にオスマン・トルコの捕虜となり、戦場に駆り出されて憤死した父と兄の無念。従者であり、眼の前で串刺し刑で殺された老爺。そして保身のために男娼としてトルコの司令官に取り入り、スルタンの側近となった弟ラドゥ。 そしてその道は正に死屍累々が連なる血道だった。その静かなる激情の凄さは織田信長を感じさせると、作者は述べる。両者とも栄光の半ばで命を落としたことは共通している。しかしその生き様は今なお語り継がれている。 ヴラド・ツェペシュがこのような悲劇の梟雄であったのか、はたまた現在流布している拷問と虐殺を好む血まみれの狂王だったのか、真実は定かではない。 作者あとがきによれば、ヴラドを讃えるのはルーマニアに伝わる昔話のみでドイツやロシアの文献ではやはり残虐な側面や裏切り者というレッテルを貼られて伝えられているようだ。これはいかにヴラドをモデルにしたブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』のインパクトが強かったかを知らしめる証左でもある。それ故、吸血王とまで呼ばれ、今に伝わる彼に新たな側面から物語を紡いだ篠田氏の仕事の意義が高く思える。 この中世ヨーロッパのゴシック風の物語を当時の風俗と慣習を丹念に調べ上げ、しかもそれらを一切説明口調でなく物語に溶け込む形で読者に理解させる上手さは田中芳樹氏の作風と異なり、実に自然だ。 どっちが彼女の本道か解らないが、次は著作の多くを占めるミステリを読んでみる事にしよう。 |
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これは傑作!正に掘り出し物だ。
予想以上に面白かった!ドキドキハラハラの連続活劇だ。 エニグマ強奪の任を受けてドイツ支配下のパリ潜入行を行うベルヴォアールが、盗賊時代の仲間達の協力を得ながらドイツの包囲網を常に相手の想定の斜め上を走りながら潜り抜けていく。 一歩遅れれば囚われの身となり、拷問に晒される状況下、時には鮮やかに、時にはギリギリの所で、はたまた敵の目前で包囲網をかいくぐるスリリングな展開が目白押しだ。 そんな物語を彩る登場人物たちの個性が際立っている。 まず主人公の盗賊、自らを男爵と名乗るフランシス・ド・ベルヴォアールの造形が素晴らしい。 フランス人で大泥棒の父と駆け落ちした鉄道王の娘との間に生まれたこの男は幼い頃から父の稼業を手伝いながら盗賊としての腕を着々と磨き、世界中で盗みを働く。サイゴン、マカオ、香港の東南アジアで活躍し、その後エチオピア、コンゴ、アルジェリアと西アジアから北アフリカを蹂躙。そして生まれ故郷のヨーロッパに戻り、大仕事を幾度と無く成功させ、ゲシュタポの金塊強奪事件で英国で捕まるまで一度も逮捕された事がない。変装を得意とし、人殺しは無論の事、銃器を使わぬことを信条とし、大胆不敵さと情の厚さを兼ね備えたその性格は、周囲の人物を魅了し、次々と仲間―女性の場合は恋人―に引き込み、協力者のネットワークを世界中に築き上げている。 彼の標的である暗号機エニグマを所有するドイツ軍にあって、彼の宿敵とされるのはルドルフ・フォン・ベック大佐。厳格なる職業軍人の血筋に生まれた生粋の軍人である彼は34歳にして軍情報部の大佐の地位にあり、ドイツ軍の本道を進むエリートである。 しかし彼は幼き頃からジュール・ヴェルヌの冒険小説を好み、バイロン卿やラファイエットといった自由のために戦ったロマンティックな勇士に憧れる心を持ち、またフランスの華やかな文化を愛でるロマンティストでもある。そして彼はベルヴォアールの波乱万丈の人生を読んで、かつて叶えられなかった理想の人生を彼に見る。敵でありながら憧れであるベルヴォアールを尊敬の心でもって相見える。 さらにパリでベルヴォアールを助けるブリュノー・モレールを中心としたかつての仲間たちも個性的であり、彼らは敵のドイツ軍、特にゲシュタポのパリ本部長クルト・リマーの残酷さが物語の闇の部分を際立たせ、陽と陰が適度にブレンドされ、読者のハートをゆすぶる。 彼リマーの残忍な手口によって拷問に晒され、命を落としていくレジスタンスにイギリス軍の協力者達。第2次大戦時のドイツ占領下におけるパリの明日をも知れない緊迫したムードが、このコンゲームにスリルをもたらしている。 さて、上に書いたベルヴォアールの経歴を読んで、何か連想しないだろうか。 そう、フランス人の大泥棒ベルヴォアールはもうルパンそのものである。これはバー=ゾウハーの手による怪盗ルパン譚、パスティーシュでもあるのだ。 本家ルパンが書かれた時代は第1次大戦から第2次大戦時の動乱の最中である。作者ルブランは篤い愛国者であり、実際ルパン物で自国フランスを救うエスピオナージュを書いている。しかしそれはあくまで怪盗ルパンの活躍を中心にした創作であり、全面的に政治的側面を押し出したものではない。 翻ってバー=ゾウハーによる本書はまずV-2ミサイルというドイツの脅威の新兵器がありきで、その侵攻を阻止するために暗号機エニグマの強奪という側面が浮かび上がってくる。つまりルブランの創作姿勢とは全く逆なのだ。 従ってバー=ゾウハーの書く怪盗ベルヴォアールの活躍は非常に現実的であり、緊張感溢れるスパイ小説としても読めるのだ。 いやあ、スパイ小説でありながら、ピカレスク小説でもあり、さらにルパンのパスティーシュでもあるという、非常に贅沢な作品だ。そしてそれを難なく作品として纏めているバー=ゾウハーの手腕に改めて感服する。 そして明かされる事実は情報戦の非情さを象徴するが如く、皮肉な物だった。 大局的勝利のために少数の犠牲を出すことも厭わない戦時中の歪んだ闘争原理。バー=ゾウハーはそんなパワー・ウォーに巻き込まれた尊い命の数々を描いたのだ。 しかしこの邦題はなんとも魅力がない。このガチガチの国際謀略小説を思わせる堅苦しい題名を見てこのようなドキドキハラハラの冒険譚を想像するだろうか。 バー=ゾウハーの多くの作品が絶版になった中で、なぜ1980年に訳出された本書が21世紀も18年過ぎた今なお刊行されているにはやはりそれなりの訳があるのだ。 それを想像させるにはこの題名が足を引っ張っているように思えてならない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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京極夏彦氏と同時期にデビューした、今や超人気作家となった森博嗣氏のデビュー作。
この犀川・西之園萌絵が登場する通称“S&M”シリーズが森の人気を不動の物にし、話題作を連発している講談社のメフィスト賞は本書を刊行するために創られたとまで云われている。 今までの本格ミステリ作家と森氏が決定的に違うのは、彼が理系の人間であり、現役の大学助教授であることだ(当時)。 さらにその専攻が建築学であることから、物語で語られる館については建築基準法に則した書き方がされ、奇抜でありながらも荒唐無稽ではない。特にガラスが1枚も無い真賀田研究所の避難経路に関する説明など、建築に精通した人間が配慮する書き方になっており、同じ建築の仕事に携わる身としては好感が持てた。 本書に登場する人物は恐らく森氏の知人、同僚、もしくは作者自身の断片が散りばめられているのだろう。研究所に住まう人間達は年相応に老けておらず、どこか子供の心を持った稚拙さがあるという描写があるが、これもやはり研究者という人間が社会の風に対して免疫が無い事から来る性癖なのだろうし、頷けるところがある。特に研究所の人間の個室にはレーシングカーの模型があったり、動物の模型があったり、はたまたアニメオタクにガンダムオタクがいたりと、何かに執着する性質があることが書かれている。 また主人公の犀川の研究室にはアクロバット機の写真が飾られているという描写があり、これも作者の航空機好きが反映されている。 さらに作中で出てくるヴァーチャルリアリティ空間内でカートに乗って一堂に会するシーンは森氏のカート好きとコンピューター好きが嵩じた当時の理想を描いた物だろう。21世紀の今の「セカンドライフ」を髣髴させて、なかなか興味深い。 そしてそれは主人公たちにとっても例外ではない。特に犀川教授は非常に合理主義的な人間である。とにかく委員会、会議といったものが嫌いで、人と係わり合いをもたずに研究に没頭する環境に憧れており、正にその環境が整った真賀田研究所を理想郷であると嘆息するのだ。 しかしこの教授が例えば生物学とか薬学、もしくは数学の研究者であればそれは構わないだろうが、建築学科の助教授がこのような個人主義、孤立主義的な環境を望むのはお門違いではないだろうか。建築とはいわば人間の居住空間であり、生活空間なのだ。人間との触れ合いを持たずして何が研究者だろうかと、私は憤慨する。 恐らくこれは同じく建築学科の助教授である作者の心境を代弁したものだろう。叶わぬ理想とは云え、なんとも大人気ない発言だと思う。しかしこういう普通では云えない事を云いたいがためにこういった小説内人物を通じて本音を吐露したのかもしれない。 そして最も鮮烈なイメージを残すのは真賀田四季という天才。数年後にその名も『四季』という作品が春夏秋冬の4部作として著されているほど、森氏のお気に入りのキャラクターのようだ。 情報工学の第一人者、真賀田左千朗博士と言語学の最高権威の1人だった真賀田美千代博士の娘で9歳でプリンストン大学のマスターを授与され、11歳でMITの博士号を取得し、12歳からMF社の主任エンジニアを務め、14歳の時に両親を殺害した罪を問われたが、心神喪失状態だったという事で無罪となり、以来、孤島にある真賀田研究所に15年間外出せずに地下2階の自室で天才プログラマーとして活躍しているという、マンガのような設定の人物。 しかし私はこの類い稀なる天才の描き方について私はどうも物足りなさを感じる。天才、天才と作中で謳われている割には目から鱗が取れるような思いもよらない発想とか考え方が開陳されるわけでもなく、そういう考え方もあるわなといったレベルの思考でしかなかったからだ。 具体的なことははぐらかされ、全てが曖昧のまま、思わせぶりに結論付けずに終わってしまう。天才の考える事は常人には解らない、そんな持ち味を出したかったのだろうが、それは成功しているとは思えず、先に書いたように、誰もがそういう風に考えてはいるが、人道的・道徳的に口に出すことを憚っている類いの合理主義的思想を述べられているに過ぎないように感じた。 例えば、西之園萌絵などはお嬢様育ちで世間、社会に馴れていないせいか、嫉妬すること、腹を立てていることの理由が解らず、第三者的な視線で自分がそうしていることを自覚する描写が時折挿入されるが、この辺は確かに理解できる。 が、彼女が天才である描写で3桁、4桁の暗算を素早くするというシーンが何回か織り込まれるが、これを以って彼女を天才だと演出するにはなんとも稚拙なのだ。しかも犀川はその天才西之園が初めて自分より頭のいい人がいると意識した人物と書かれているが、上に書いたような人とちょっと変わった考え方をする人物とでしか思えなかった。 この齢にもなると、小説におけるキャラクター設定に関して穿った見方をしてしまうので、おいそれと書かれている説明を記述どおりに鵜呑みに出来なくなってしまっている。従ってもう少し彼らが本当に天才であるなぁと感嘆するようなエピソードが欲しかった。 本書では1つの密室殺人と2つの殺人が盛り込まれている。特に1つ目の密室殺人の謎がメインと云えるだろう。365日24時間記録し続ける監視カメラが見張っている上に、コンピューター制御されたセキュリティシステムで管理された室内で起きた密室殺人。しかもカメラには誰も部屋を出入りした人物が映っていない。 この堅牢なる密室殺人の謎解きは完璧と思いがちなコンピューターの盲点を突く真相で、実に鮮やかだったが、犯行に関しては私が推理していた範疇だった。 本書はこれから続くこのシリーズの序章に過ぎないことが最後に解る。毀誉褒貶折混ぜて感想を書いたが、彼ら真賀田四季と犀川・西之園という天才たちの造形もこれからシリーズを重ねていくに連れて厚みを増していくのだろう。 とどのつまり、作品を好きになるか否かはキャラクターを気に入るかどうかによる。現時点ではまだこの3人は戯画化されてて、またその考え方も首肯し難いところがあるので、手放しで好きだとは云えないが、今後この3人の物語がどのように展開していくのかこれからシリーズを追って確認していく事にしよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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自身、戦争の闘士であったイスラエル作家マイケル・バー=ゾウハー1975年の作品で本書が私にとって初めての彼の作品である。
実に淀みが無いエスピオナージュ作品。正味250ページ強という薄さながら、舞台はイタリア、イギリス、ハイチ、スペイン、フランス、ソ連、オーストリアと目まぐるしく移り変わる。 それに加え、次から次へ現れる謎に、それに呼応して判明する諜報工作の数々。しかしどこまでが本当でどこからが虚偽なのか判らない。 現代エスピオナージュ小説の巨匠ブライアン・フリーマントルと違うのはこのスピード感だろう。 フリーマントルの作風は数カ国間に跨る国際犯罪、または第二次戦時下の亡霊の如く湧き上がってくる死体などをモチーフにどの国が主導権を握り、優位性を保つかという政治戦略的駆引きと上昇志向の高いエリートたちの高度な騙し合いに筆が費やされる。そのためあらゆるケース・スタディがなされ、自然厚みは増してくる。 しかしバー=ゾウハーは次から次に解ってくる事実が謎を呼び、その謎の鍵を握る土地、人物へと向かう。そしてその先には主人公の命を狙う影が潜んでおり、主人公の行く手には屍が転がっていく。つまり非常にオーソドックスなエスピオナージュだと云える。 このように実に淀みなく物語が進むのは、この物語が書かれた1975年当時が米ソの冷戦下という国際的な緊張関係あった事がもっとも要因として高いだろう。つまりその頃は敵の存在は明らかであり、物語はその敵とどのように戦い、もしくは逃れるかを焦点にしていたからだ。本書でも物語の発端となる「二度殺された男」の犯人は早々にKGBであると明かされる。 しかしソ連崩壊後の現代ではこの敵が明確ではなくなった。従って世のエスピオナージュ作家は敵を作り出すのに尤もらしい理由を考えなければならなくなったのだ。また先進国と他国との差が縮まってきた事により、国家間の政治的交渉も単純なパワーゲームでは済まされなくなり、高度な駆引きが要求され、そのためにプロットは複雑化し、物語は増大していったのだろう。 と、ここまで書いて気付くのは、実際のところ、物語の長大化を招いているのはワープロ、パソコンの普及もあるだろう。原稿用紙に手書き、もしくはタイプライターで書いていた頃は修正するにも大変であり、加筆もまた困難であった。しかしこの技術革新の賜物はそれらを容易にし、書いている最中、執筆が終盤に至っても、また校正後も手軽に追記・修正が出来る。しかしこれではなんとも味気ない理由ではあるのだが。 閑話休題。 先に物語は淀みなく進み、最初の死体の犯人も早々と明かされると書いたが、事件の構造は実に複雑で重層的だ。 本作で多用されるこのような価値観の逆転というミスディレクションはほとんど本格ミステリその物である。つまりこの諜報員たちの騙し合いというのは虚実交えた情報操作の応酬であり、それらの情報の中から正しい物をいかに摘み取って判断するか、そしてその判断が間違えば、全く違う話になってしまうという高度な情報ゲームである。 これは正に本格ミステリの創作作法ではないか。表と思っていたことが裏で、裏だと思っていたことが表となって反転する。つまり彼らはミステリの世界に常に身を置いているのだと云える。従ってインテリジェンスの世界に身を置いた人物がミステリを書くことは必然だったのだろう。 現在新作の声が聞かれないマイケル・バー=ゾウハー。その著作も絶版が多く、今、書店で入手できるのはわずか3作しかない。冷戦下のスパイ小説は確かに21世紀の今、時代錯誤的な感触を持つかもしれないが、本書を読んだ限りでは全くそうではなく、本格ミステリに通じる味がある。 今回は海外の赴任先の本棚に埃まみれになっていた本書を見つけて読んだが、なにかの切っ掛けで彼の諸作が復刊されることを強く望む。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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『エラリー・クイーンの冒険』に続く第2短編集。まずクイーンの傑作中編とされる「神の灯」から始まる。
これは確かに傑作。ワンアイデア物だがクイーンの特徴が実によく表れている。また120ページ強という長さの中編だったことも良かった。逆にこれが長編であればこのアイデアで延々引っ張るには冗長さを感じさせるものとなったろう。確かにこれは忘れえぬ作品だ。 「宝捜しの冒険」は元軍人バレット少将宅で起きた真珠の首飾り盗難事件をエラリーが捜査するもの。使用人を全て元部下で固め、さらに軍隊時代の風習を守っているというこの特異な状況を利用した隠し場所だ。 しかしこれはまさかこれではないだろうなと思っていた方法がほとんど当っていたのでびっくりした。 「がらんどう竜の冒険」は在米日本人宅で起きたドアストップ盗難事件をクイーンが捜査するもの。題名はこのドアストップが竜の形を模した物であることから由来する。 ドアストップが小さいものであるから片手で摘んでおくようなものを想像していたら、なんと死体を海に沈めるための重しの代用となるほど大きな物だというのが解り、これもびっくりした。確かに寸法と重さが書かれているが、日本人にはフィートとポンドは馴染みが薄く、なんとも想像しがたい。しかしこれは逆にドアストップという単語から連想する先入観をあえて利用したのかもしれない。 『ニッポン樫鳥の謎』でも披瀝したエラリーの日本人観が本作でも開陳される。どうもエラリーは日本人の考え方は自身のロジックには当て嵌め難いらしく、苦手意識があるように思える。あと作中に出てくるシントーなる日本人独特の道徳観というのは一体何を指すのだろうか? 「暗黒の家の冒険」は遊園地にある真っ暗な部屋、通称「暗黒の家」の中で起こった殺人事件を扱っている。 何も見えない暗闇で犯人はどうやって離れた場所から銃弾を撃ち込めたのか?典型的な推理クイズ的作品。複数の容疑者がいて、その中から犯人を搾り出す。これは容易に解った。 異空間のような貴族の屋敷のある島で繰り広げられるのが異色作「血をふく肖像画の冒険」だ。 なんとも評し難い作品。有閑貴族の邸宅で繰り広げられる気だるい雰囲気の中で起きる言い伝えを擬えたような事件。 しかし真相はなんとも珍妙。幻想的な謎を準備してそれに都合のいい事件と真相を当て嵌めた、そんな歪な感じを受けた。 「人間が犬をかむ」からはなんと『ハートの4』で知り合ったポーラ・パリスと付き合っているエラリーの事件簿だ。 衆人環視の中での殺人というのは『アメリカ銃の謎』でもあったが、作中の注釈にも書かれているようにいつかヤンキースタジアムを舞台に同趣向の作品を書きたいというのがクイーンにはあったようで、それを叶えた一編。観客席でサイン会の後での毒殺事件を扱っている。 一見至極トリックと犯人は簡単に解りそうだが、そこはクイーン、一筋縄ではいかない。特にエラリーから明かされる真相は蓋然性の面からしても、ホット・ドッグに仕込む方が高いので、疑問に思っていたが、最後の皮肉がそれを帳消ししている。 次の「大穴」ではタイトルどおり競馬場が舞台。 これも衆人環視での事件で、状況的にはあからさまに犯行は見えるが、一捻りがやはりある。これはマジックで使われるミスリードの一種だと考えればこの犯行方法はギリギリ許容範囲か。また結末が題名とマッチして洒落ている。 続いて「正気にかえる」ではボクシングのタイトルマッチが舞台。 この真相は見抜けなかった。 最後の「トロイヤの馬」はアメリカン・フットボールの大学対抗試合での事件だ。 盗品の隠し場所については解ってしまった。 まず本作の大きな特徴は2部構成になっていることだ。 前半の「~冒険」という名の付けられた一連の作品は第一短編集からの流れをそのまま受け継ぐ純粋本格推理物だが、後半の「人間が犬をかむ」からの4編はクイーン第2期のハリウッドシリーズに書かれた物でエラリーは『ハートの4』で知り合ったポーラ・パリスとコンビを組む。 まず第1部とも云うべき前半部は、傑作と名高い「神の灯」から始まり、これが正に本格ミステリど真ん中の奇想を扱った作品。それ以降も元軍人のみが住まう館を舞台にした「宝捜しの冒険」、「ニッポン樫鳥の謎」の流れを引き継ぐような在米日本人宅で起こる事件を扱った「がらんどう竜の冒険」など、国名シリーズの衣鉢を継いだようなロジックに特化した作品が続く。 しかし「人間が犬をかむ」以降の後半から物語の舞台も球場、競馬場、ボクシングヘビー級タイトルマッチの会場、フットボール競技場とエンタテインメント性が高い場所になり、しかも物語の彩りとしてそれら試合の模様も書かれ、更に当時の著名人、有名人なども続出し、印象は実に華やかだ。 つまり本作を読むことで、第1期クイーンと第2期クイーン作品のそれぞれの特色が目に見えて解るのだ。 謎の要素としては「神の灯」を除いて各編の難度はそれほど高くない。トリックは案外解りやすい。しかしそれを成す犯人を焙り出すまでのロジックはやはりさすがはクイーンといったところだ。特に最後の2編に至る犯人が上着を着なければならなかった理由と、宝石の隠し場所から導き出されるロジックはこちらの想像を超えた物があり、感心してしまった。 個人的には純粋本格推理小説に特化した前半の5編よりも、後半のハリウッドシリーズの延長線上にある4編の方が好みである。 例えば「人間が犬をかむ」では野球観戦に夢中になるというエラリーの人間くさい一面が見られるし、何よりも各編でパートナーを務めるポーラ・パリスの存在が物語に彩りを添えている。 今までクイーン作品に登場する女性たちは容姿は端麗でも、どうにもステレオタイプでクイーンの男性的主観が大いに入った頼りない女性像が描かれ、個性が全く感じられなかった。唯一主役を務めたペイシェンス・サムが、男性社会で孤軍奮闘する女性として描かれていたくらいだ。 このポーラも初登場の『ハートの4』ではエラリーがこの世の美しさとは思えないと一目惚れするほどの容姿を持っていたが、作中で「人混み恐怖症」と書かれた軽い群衆恐怖症を患っているキャラクターであった。そのため、浮世離れしたイメージがあり、現実味に乏しいキャラクターであったのだが、ここではクイーンの恋人としての地位で振る舞い、なんとも躍動感に満ちたキャラクターになっていたので驚いた。 この2人が織成すやり取りは物語にコミカルさと男女の化学反応を感じさせ、エラリーが今までの作品に比べてもかなり人間くさく感じて好感が持てる。単なる気取り屋、頭でっかちの素人探偵というイメージを覆して、なかなか新鮮である。長編では『ハートの4』の次作となる『ドラゴンの歯』で既にポーラの姿は無いことから、恐らく本書がポーラの見納めになるようだ。なんとも勿体無い話だ。 第1短編集では純粋なロジックの面白さを堪能させてくれたクイーンだが、この第2短編集はそれに加え、エラリーの新たな側面を見せてくれた。 よく考えると法月綸太郎の第1短編集『法月綸太郎の冒険』も全く同じ構成だ。あの短編集も前半はロジック一辺倒の作品で後半は沢田穂波とのコンビであるビブリオ・ミステリシリーズだった。ここにクイーンの意志を継ぐ者の源泉があったのか。ここでまた私は現代本格ミステリに繋がるミステリの系譜を発見したのかと思うと感慨深いものがある。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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東野氏の短編集はこれまでにも『浪花少年探偵団』、『犯行現場は雲の上』、『探偵倶楽部』などが発表されていたが、それらは全て連作短編集で意外にもノンシリーズの短編集はこれが初である。
そんな短編集の幕を明けるのが高校を舞台にした「小さな故意の物語」だ。 東野氏得意の学園ミステリ。事件はシンプルでたった50ページの短編ながら図解を加えたトリックを入れ、更にどんでん返しをも含ませているのはこの作者ならではのサービス精神だ。 人の心の謎まで踏み込んだ真相はなかなか読ませる。この動機も昔の日本人女性ならば思いも付かなかったことだろう。現代女性の独立心ゆえに抱く一瞬の魔。単なる駄洒落のように見える題名も二重の意味―片思いの笠井の悪戯心と佐伯洋子が一瞬抱いた悪意―を持たせ、題名に無頓着だと思っていた偏見を覆すような見事さだ。 続く「闇の中の二人」も中学生とその担任教師が物語の中心。 この真相は解った。お昼のメロドラマが好んで採用したがるような内容だ。 物語に散りばめられたさり気ない伏線は実に作者らしいが、ちょっと単純だったか。それでもなお戦慄を抱くような冷たい肌触りを感じるのは巧い。 「踊り子」もまた中学生が主人公の作品。 なんともほろ苦い真相。「闇の中の二人」同様、思春期の衝動が運命に悪戯をしたかのような皮肉である。 「エンドレス・ナイト」からは学生から一般人に主要人物はシフトする。 真相も普通で、1時間の刑事ドラマを思わせるほどのベタな内容。ま、中にはこういうのもあるのは仕方ないか。 「さよならコーチ」はデビュー作『放課後』で扱われたアーチェリー部が舞台。しかし『放課後』が高校の部活であったの対し、こちらは社会人クラブである。 凄いシンプルな導入部でどこに謎が潜んでいるのか解らないほど自然な流れで進むうちに、隠された真相が見えるという技巧の冴えを感じる一編。 直美というアーチェリー一筋に若い時間を捧げた女性の絶望と愛情は同じようにスポーツの第一線で活躍した女性らには身に沁みるものがあるだろう。哀しい物語だ。 最後の表題作は凝った叙述が特徴的だ。 事件当夜と隠蔽工作を貫こうとする今の2つの時間軸で構成される作品。一人称叙述が非常に効果的に活きた作品。 冒頭にも述べたように、統一キャラクターで繰り広げられる連作短編集はキャラクター偏重の趣きが強いが、本作ではそれらを排し、トリックよりもロジック、さらに理論よりも理屈では割り切れない感情、人間の心が生み出す動機について焦点を当てているように感じた。 「小さな故意の物語」では嫉妬心から来る悪戯心と与えられる愛情に対する疲労感を、「闇の中の二人」では思春期にありがちな欲望と嫉妬心を、「踊り子」では淡い恋心を、「エンドレス・ナイト」はトラウマを、「白い凶器」は現実逃避から来る狂気を、「さよならコーチ」は人生を捧げたよすがを失った女性の絶望を描く。 唯一表題作が実にトリッキーな作品で動機も今までの東野ミステリにありがちな天才肌の犯罪者による、利己心だ。 ただ短編であるからか書込みが少なく、それ故それらの動機についてはちょっと踏み込みが足りないように感じた。「踊り子」、「エンドレス・ナイト」、「白い凶器」あたりは「小さな故意の物語」や「闇の中の二人」のような解決の後の真相をもたらすような二重構造が欲しかったところだ。 今回の作品集を読んで浮かんだ作家は連城三紀彦氏だ。特に表題作で明かされる真相には頭に描いていた既成概念を覆され、眩暈に似た感覚を覚えた。 以前にも書いたが、東野氏の最大の特徴は読みやすい文体にある。開巻して一行目からすっと違和感無く物語に入っていける透明感がある。従って読者はするりと物語の流れるままに身を委ね、登場人物と同化し、作中で起こる出来事をありのままに受け入れてしまい、気づいた時には思いもよらない展開の只中に晒されるような感覚を抱く。これはこの作家の最たる長所だろう。 個人的良作は「小さな故意の物語」と「さよならコーチ」。次点で表題作となるが、後日思い起こして話題に出るほどではない。技巧の冴えが目立つ故に軽く感じてしまう諸刃の剣のような短編集だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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【ネタバレかも!?】
(1件の連絡あり)[?]
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瀬名秀明氏が『パラサイト・イヴ』で通称“理系ホラー”で鮮烈にデビューし、理科系作家によるミステリ・ホラーのブームの引鉄となったのが1995年。それに先駆けて1993年、既に梅原氏は本書を以って理系ホラーを世に出していた。
しかし版元が朝日ソノラマと認知度がさほど高くない会社であったためか、この作品は一部の読書通のみ知られる存在に留まり、彼の作家としての評価は次作『ソリトンの悪魔』が発表される瀬名氏デビュー同年の1995年まで待つ事になる。それも恐らく瀬名氏そして角川ホラー大賞が起こしたホラームーヴメントに牽引される形だったのではないだろうか。 ともかくも本書はなぜ発表当時に注目されなかったのかが不思議なくらい、よく出来た理系エンタテインメント作品である。 本書は端的に云えば、最新のバイオテクノロジーの知識をふんだんに盛り込んだ、仮面ライダーや秘密戦隊ゴレンジャーなどに繋がる、イントロンから生み出された生命体GOOと超人間UB、即ちアッパー・バイオニックで組織された部隊との戦いの物語だ。それを上下巻併せて1,000ページ以上の厚みで語りつくす。 作者梅原氏が考案した、人間を超人化するNCS機能、即ち<神経超伝導>という現象は壮大な嘘なのだが、それを裏付ける専門的科学知識が精緻に詳細に説明され、読者にさもありなんと思わせる。この一連の創作作法は瀬名氏の『パラサイト~』も同じ。本書はそれと相似形を成す作品だといえる。 瀬名氏はミトコンドリアを、梅原氏はイントロン配列と双方とも怪物の根源を元々人間が、生物の中に備わっていたある組織に着目しているところが全く同じだ。だが、梅原氏は瀬名氏よりもエンタテインメントに徹しており、とにかく次から次へ読者を愉しませるアイデアを放り込み、読者にページを繰る手を休ませようとはしない。 野心溢れる科学者の挫折から端を発したイントロンから生み出された怪物GOOとC機関という隠密部隊の闘い。そしてUBという超人の誕生から、更にはUBとGOOとのお互いの存続を賭けた世界規模での戦いへと物語はどんどんスケールアップする。 従って本書に挙げられる専門的知識は遺伝子工学、生命工学の分野に留まらず、軍事兵器・銃火器にも渡り、しかもそれぞれが詳細かつ緻密である。生半可な知識では到底書けない類いの物ばかりで、この梅原克文という作家の懐の深さ・資質をこの1作で存分に思い知る事ができる。 途轍もない大きな球体が転がり、触手を伸ばして次々に生物を捕まえては同化し、吸収していくという、この地獄絵図のような様子を読んで思い出したのは石ノ森正太郎の『幻魔大戦』だ。他にもまだ本作に繋がるモチーフは見つかるのかもしれない。 恐らくこの作品にはクトゥルー神話と『幻魔大戦』といった梅原氏の好きな作品がいっぱいモチーフとして詰め込まれているのだろう。 逆に本書から後世の複数のジャンルに渡って影響を与えたのではないかと思われる作品がいくつか連想される。 1つは発売されるたびに人気を博し、ハリウッドで映画化もされたTVゲーム『バイオハザード』だ。 本書でもこの単語は使われているが、この「生物災害」という意味のこの単語は本来ならば、感染性の強い開発中のウィルスによる災害を指し、本書でもこのGOOとの闘いはバイオハザードとは見なされていない。しかしゲームは本書で取り上げられた実験で生み出された未知の生命体によって起こされる災厄そのものを示している。本書の内容の近似性と両社に共通する「バイオハザード」という単語から類推するに、恐らくあの大ヒットゲームはこの小説に着想を得ているのかもしれない。 サイバースペースでの戦いは映画『マトリックス』を想起させる。特に超人間UBという、人間の限界を超越した存在は同映画の主人公たちがダブる。 そんな本書だが、一貫してモチーフとして作中にも登場するのがちらっと触れたがラヴクラフトのクトゥルー神話だ。生命体GOOはかつて“CTHULHU”の頭文字を取って“C”と名づけられており、深尾の前に何度も立ち塞がるGOOのコードネームはダゴン102。サイバーホラーに古典ホラーであるクトゥルー神話をハイブリッドした作品なのだ。 元々クトゥルー神話自体、その世界観を複数の作家で共有し、物語世界を広げていくシェア・ワールド構想が成された物であるから、この作品もまたクトゥルー神話大系の一作品となるのだろうし、恐らく作者の意図もそこにあるに違いない。 さてこの未曾有のエンタテインメント作品で梅原氏が採用した文体はなんと主人公深尾による一人称叙述。このようなパニックホラーを描くとすればこの選択は非常に珍しい。多面的構造を採用せず、主人公深尾を常に戦場の第一線に置くという設定だからこそ、この文体を採用したのだろう。 その判断は正しかったようで、主人公の逡巡、苦悩が直截に響き、また常に闘いの最前線に置かれる深尾と共に一寸先に潜む危険を探る臨場感に溢れている。 この深尾という男は、作中でも語られるようにいつか1人で会社を興し、成功者を夢見る野心に満ちた遺伝子科学者だったが、自ら引き起こした惨劇を苦に政府の機関である遺伝子操作監視委員会に所属するエージェントに身を窶している。そのようなエリートにありがちな自分の実力に絶大な自信を持つナルシスト的側面と周囲を見下す視線を持ち、一匹狼を気取り、上司に歯向かう姿勢を備えて、また過去の過ちに常に自責の念を抱き、自ら危険に踏み込む自殺的思考―本書ではアープ症候群と呼ばれている―の持ち主だ。一緒に仕事をするにはいわゆる「イヤな奴」なのだが、その性格に合わせたハードボイルド調の語り口がマッチしていて嫌味を感じずに物語を読むことが出来る。 この文体は大いにチャンドラーを意識した物と思われる。多用される比喩がそれを特に裏付けている。しかしチャンドラーのそれとは違い、深尾が元科学者という特徴を出すためか、使われる例えも例えば「出会っただけで超伝導マイスナー効果のように反撥する」とか「全身のシナプスがアセチルコリンの分泌を停止したみたいだった」といった理系的専門用語を意図的に多用しているようだ。 この辺は物書きとして第一歩を踏み出した作家にありがちな、肩に力の入りすぎた感じが否めないのだが、私個人としてはそれほど悪くは感じなかった。 逆によくもこれほどのパニックホラーを一人称叙述で書き切ったものだと感心した。破綻無く進むストーリーテリングは重ねて云うが、梅原氏が既に作家としての実力を備えていることを見事証明している。 最新(1993年当時に構想のみされていたものも含めた)のバイオテクノロジーからダーウィンの進化論、そして恐竜の絶滅から新約聖書、サイバースペースなどなど、多種多様なジャンルを盛り込み、壮大なスケールで描いたスペクタクルホラー。 一言で云おうとすると、修飾語が多く付きすぎて収拾が付かなくなるほど、盛り沢山のエンタテインメント作品。 先に述べたように、本書の影響を受けたと思われる作品が好評を博している今、少し早すぎた作品だったのかもしれない。勿体無い。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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絶賛を持って迎えられた短編集『20世紀の幽霊たち』の作者ジョー・ヒルの初の長編は幽霊の復讐譚を扱ったホラーだ。
主人公は54歳のロックスター、ジュード・コイン。彼は厳格なる父親からの反発からロックスターになり、そして成功を収めて、今では半隠居状態だ。それはバンドメンバー3人のうち、2人を事故と病気で亡くしたことが彼から音楽活動の火を絶やしてしまったようだ。そして娘ほど歳の離れたゴスロリ系のファンを捕まえては同棲生活を送るという生活を送っている。 そしてジュードが今付き合っている女性がジョージアことメアリベス・キンブル。ストリッパーの身からジュードに拾われ、同棲している。この2人に降りかかる災厄が、過去ジュードの付き合った女フロリダことアンナの姉から送られてきた霊能力者だった義父の幽霊が取り憑いたスーツから始まる。 家族を間接的に失った遺族の復讐が動機と思われた怪異はしかし意外なバック・ストーリーが後半明かされる。 ジュードとジョージアの幽霊との闘いという図式で展開する物語はその実、別れた元彼女フロリダことアンナ・マクダーモットの物語でもあることに気付かされる。 またもう1つ、この小説が内包しているのはロックスターという特異な職業を持ち、人とは違った半ば自堕落な生活を送った男の回想だ。 父親に反発する事で家を飛び出し、ロックスターとして名を馳せ、生活に困らない金を既に稼ぎ、4年も新曲を発表していないのに未だにコンサートやTV出演の依頼が来る、人間として成功したという現状に翳を指すのは、自分の前を去っていった、あるいは自分から去っていった人々に対する喪失感だ。 自分のコレクションの1つ、スナッフ・フィルムを観たことで離婚した元妻が持っていた、自分勝手な行動に不平不満を云うことなく常に許してくれていたその包容力。 アメリカ全土のほか、世界をライヴツアーで一緒に駆け巡った今は亡き元バンド仲間。 とっかえひっかえベッドに誘ったグルーピーたち。 その中で数ヶ月間一緒に生活を共にした過去の女たち。 ずっと質問ばかりし、別れた後、浴槽の中で手首を切って死んだフロリダ。 恐らくこれらはロックスターには付き物のゴシップの数々だろう。人の数倍もの早いスピードで文字通り人生を駆け抜けるが如く、生きるスター達の心情とはいかなるものか。 来る者拒まず、去る者追わず。 ジュードは今まで護るということを求められるとその結果を考えず、なんでも受け入れすぎてきたのではないかと述懐する。一般人には想像できないスターの心境に対するこの心理描写は1つの解答例のようだ。 『20世紀の幽霊たち』の感想にも書いたが、読んでいる間、クーンツ作品を読んでいる既視感を感じた。主人公の心情と信条をくどいまでに細かく叙述する語り口、登場人物が幼少の頃に親から受けた迫害というトラウマ、そして何よりも物語のキーを握る存在が犬という共通性。 父キングの作品は読んだ事が無いので一概に比べられないが、クーンツの影響がそこここに見られた。 特に幼児虐待、家庭内暴力、近親相姦、親の死に立ち会わない子供ら・・・。 本書に挙げられる現代社会が抱える家族問題の問題はクーンツが最近よく取り上げる題材だ。そしてどの登場人物に関係するのは父親という存在に対する畏怖。これもクーンツが昔からトラウマの如く語り続けてきたテーマだ。 特にヒルの父親がキングである事実から類推するとこの登場人物たちが抱く父親への思いに注目していたが、意外にもジュードが幼い頃に抱いた父という障壁を乗越える手段はなんとも直接的であり、肉体的であった。二度と帰らないと決めた実家に戻って対峙した父親という精神的な壁の克服という側面をあえて避けたのか、それとも物語の都合上、ああいう形になってしまったのか解らないが、期待していただけにあの決着のつけ方は残念だった。 そして主人公に脅威をもたらす幽霊クラドックはクーンツが生み出す、主人公に絶望的なまでの無力感を感じさせる悪魔のような怪物ほど怖くは無い。共通するのは異常なまでの執着心と蛇が蛙をいたぶるが如き醜悪さ。それでも悪役の造型にはやはりクーンツに一日の長がある。 まあ、デビュー仕立ての作家をホラーの大御所クーンツと比べる事自体が過大な要求なのだろうけれど。 また本書の献辞は父親に捧げられている。アメリカ現代文学を代表する作家となった父キングを『20世紀の幽霊たち』を著す事でその呪縛から逃れ、改めて父親に向き合い、初の長編作品を世に、父に届ける事が出来たという自負が窺える。 とはいえ、私の感想としてはいささか饒舌すぎ、あと一滴のエモーションが欲しかったところだ。 本書は娘の自殺の逆恨みから生じた幽霊の復讐譚と、ホラーとしてはオーソドックスな題材だったが、『20世紀の幽霊たち』で見せたようにこの作家の持ち味は物語のヴァリエーションが非常に豊かなところだ。 その最たる特徴を活かして今後この作家でしか書けない長編ホラーが現れることを強く期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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島田荘司氏、数年の沈黙を破っての大作。文庫版670ページ強を費やして語られる事件は御手洗シリーズの新作を待望していた読者の渇きを癒すのに十分な内容だ。
なんせ事件がすごい。 舞台はニューヨークのアパート、セントラルパーク・タワー。物語の導入部で語られる元女優が死の間際に話したたった15分のうちに34階の部屋から停電中に1階の住民を拳銃で殺して戻ってくる不可能状況から始まり、スーツを着た骸骨の顔を持った男が、ロックされたゲートを通り抜けて住民を射殺する事件。 さらに物語は53年前に遡り、そこで起こる不可解な連続殺人事件。3つの密室内で自殺したとしか思えない事件。さらに時計塔の大時計の長針の針を利用しての演出家の断頭殺人。そしてハリケーンの夜に突如起こったアパートのほとんどの窓が爆発した最中の建築家の転落死。貨物用エレヴェータに佇み、奇声を発する骸骨。それらの事件の陰に蠢くファントムという名の仮面を付けた怪紳士。 往年の島田氏のセンス・オブ・ワンダーが溢れんばかりに盛り込まれた奇想の応酬である。 そして本書に登場するのは若き日の御手洗潔。まだ石岡と出逢う前の、アメリカのコロンビア大学に留学していた頃の彼だ。 従ってここに出てくる彼は全知全能の神ではない。不可能状況・夢幻としか思えない奇妙な現象に惑わされ、思考する一個の探偵なのだ。石岡が主役を務める『龍臥亭事件』、『龍臥亭幻想』やレオナが主役を務める『ハリウッド・サーティフィケイト』などのスピンオフ作品に電話のみで登場して全てを解き明かしてヒントを与えるような超天才型探偵でまだないところがいい。 したがって非常に若々しい。『眩暈』までの作品でよく見られたフィールドワークに嬉々として没頭する彼の姿がここにはある。 なんとも嬉しいではないか。やはり御手洗はこうでないといけない。 さらに本書では舞台であるマンハッタンに纏わる様々な都市伝説が開陳される。マンハッタンの摩天楼が巨大な岩盤に作られていることは有名だが、その摩天楼が出来るに至った高層ビル競争の歴史、その地下には摩天楼に勝るとも劣らない巨大空間が広がっている都市伝説、そしてセントラルパークに纏わる逸話の数々。歴史の浅い国アメリカの中で最も急激に発展し、ロンドン、パリをも凌ぐ大都会となったマンハッタンという特殊な都市の秘密がストーリーに絡めて語られていく。 これこそ島田ミステリの真骨頂。本当に久々の本家御手洗シリーズを堪能した。 特にマンハッタンの地下王国についてはかなり信憑性が高いようで、マンハッタン界隈のホームレスの数が年々減っているようだ。しかもこれについては『モグラびと』なる本も出版されており、それに詳しく記載されている。 さて島田作品には従来からシャーロック・ホームズの影響が強く見られるのは知られているが、もう1つ特徴的に見られるのは乱歩の影。 今回は特に連続殺人事件の1つ、セントラルパーク・タワーの大時計の長針を利用した断頭殺人は乱歩作品でも幾度となく使われた殺人方法であった。 そして題名、連続殺人事件に現れては消える謎の存在ファントム、さらには物語の中心となるのが女優であることから容易に連想されるある有名な作品がある。そうガストン・ルルーのあの名作だ。これは島田流『オペラ座の怪人』なのだ。 ただあとがきにも述べられているが、本家が怪人と美女との悲恋の物語であるのに対し、本書はあくまでも不可能趣味、怪奇趣味を前面に押し出していること。従ってファントムが恋焦がれて止まないジョディ・サリナスなる女優がそれほど生涯を賭して守るほどの愛らしさ、崇高さを備えているとは思えなかったきらいはある。 とはいえ、さすが島田氏、最後に忘られぬ驚愕の真相を用意してくれる。 確かに摩天楼を形成するビルの頂上にはガーゴイル像など意匠を凝らした装飾が成されているのは映画でもよく見られたが、これを更に一歩押し進めたこの島田の奇想はなんともロマンティックだ。 そして物語全体に散りばめられた謎は今回も御手洗の閃きによって暴かれるが、果たしてこれを本格ミステリと呼んでいいものか疑問が残る。 確かに手掛かりとなる暗号もあれば、事件現場の見取り図も読者に提示されている。が、しかしそれでもこの真相を看破できる読者は皆無であろう。 また今回のメインの謎とされるたった15分間―その後物語が進むにつれてそれは10分間と更に短縮されるが―で1階から34階までいかに移動して殺人を成しえたかという謎の真相もまたある専門知識、いや薀蓄を知っていないと解けないものだ。唯一おぼろげながら真相が解ったアパートの窓が一斉に爆発した謎の真相もまた専門知識が必要であり、門外漢には全く解けないものだろう。 こうして振り返ってみると、もはや御手洗シリーズは読者との推理合戦の領域を超越し、作者の奇想の発表の場になってしまったのだなと一抹の寂しさを感じる。 しかしその作者の奇想が読者の予想をはるかに超え、実にファンタスティックである故に、私のような固定ファンがいつまでもいるのだ。この作風が許せる島田氏はやはり日本の本格シーンの中では唯一無二の別格的存在だといえよう。 久々の重厚長大の御手洗シリーズ。本作は往年の物と比べると勢いはやや劣る物の、その豪腕ぶり、斬新な奇想はまだまだ健在だと証明するに十分すぎる作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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スティーヴン・キングの息子である新進気鋭のホラー作家の短編集。
まずシークレット・トラックとして謝辞に「シェヘラザードのタイプライター」が収録されている。 この短編集に対する暗示めいた作品だ。果たしてこれは作者不詳のタイプライターが紡いだ作品がこれから披露される短編なのだろうか、そんな謎めいた予感をももたらす小品だ。 「年間ホラー傑作選」はホラー小説アンソロジストが出くわす悪夢の物語。 ホラーを読み尽くした編集者がいつの間にかホラー映画の主人公になり、自滅の道を歩んでいくという内容でプロットとしては実にオーソドックスだが奇妙な肌触りの読後感がある。作中に梗概のみ語られる「ボタンボーイ」のグロテスクさとピーターを始めとするキルルー兄弟のフリークたちの饗宴ともいうべき邂逅のひと時は悪夢のような幻想味に満ちている。 「二十世紀の幽霊」は街の映画館に現れる幽霊の話。 名作映画『ニューシネマパラダイス』を髣髴とさせるようなセピア色に彩られた郷愁を誘う物語。幽霊が出るといってもホラーではなく、その幽霊イモージェンは『オズの魔法使い』公開中に脳内出血で死亡した女性であり、映画好きな幽霊。そして何よりも最後にアレックがイモジェーンと再会するシーンが美しい。絶妙にラストシーンへの伏線が効いている、実にアメリカ的なロマンティック・ホラーだ。 粗筋が書けないストーリーもこの中には収められていて、それは「ポップ・アート」と「うちよりここのほうが」がそれに当る。この2つに共通するのは親密な2人の交流を綴った内容だということだ。 「ポップ・アート」は個人的ベストだ。風船人アーサー・ロスことアートと主人公「おれ」が過ごした十代の楽しかった日々を描いた短編。これについては粗筋を書くよりも素直に読んでそしてジョー・ヒルの描くおかしく奇妙ながらも清々しく美しい友情譚に浸るべし。風船人という実にマンガ的なアイデアが見事に少年時代のキラキラした出逢いと別れの物語に昇華した傑作。 片や「うちよりここのほうが」は大リーグの監督アーニー・フィルツとその息子ホーマーの日常を描いた短編。事件らしい事件として公園で散歩中に浮浪者の死体をホーマーが見つける件があるが、そこはなんともするりと交わされている。なんとなく作者の父親キングとヒルの幼き頃の思い出といった感じがしないでもない。 小説や物語が書かれて幾千年も経った今、未だ読んだ事のない作品を生み出すということは太平洋に落とした結婚指輪を見つけ出す以上に不可能に近い。そんな現在でも傑作と呼ばれる作品が生み出されているのはひとえに小説家たちが既存の物語や過去の名作を独自にアレンジした新しい視点、趣向を取り入れて、可能性を広げているからだ。例えば本書で云うならば「蝗の歌をきくがよい」と「アブラハムの息子たち」がそれに当るだろう。 前者は朝起きたら巨大な昆虫になっていたフランシス・ケイの奇妙な2日間を描いた作品。この設定を聞いただけでほとんどの読者がカフカの名作『変身』を想起するに違いない。 しかしカフカが昆虫になり、戸惑いながら生きるグレゴールと突然の変異がありながらも日常を保とうとする不条理を描くことを主眼にしているの対し、ヒルは主人公フランシスが逆にこの事実を好意的に受け入れ、周囲がパニックに陥るという全く逆に設定で物語を切り出す。つまりカフカは不条理小説として人が巨大な虫になる設定を用い、ヒルは凡百の怪物が出てくるパニック小説に人が巨大な虫になる設定を用いているところが違う。現代の感覚ならばヒルのプロットの方が至極当然だろう。 しかしヒルが本家のオマージュとしてこの物語を捧げていると確実に云える。なぜならカフカのファーストネームはフランシスだからだ。 後者の「アブラハムの息子たち」は吸血鬼を扱った物語。主人公である2人の子供マックスとルーディの父親アブラハムはオランダから逃げるようにアメリカに移住した家族で、ラストネームはヴァン・ヘルシング。そう有名なヴァンパイア・ハンターのその後の物語をヒルなりに創造した作品だ。 しかし本書は吸血鬼が出てくるわけではなく、またヒーローだったヴァン・ヘルシング教授は厳格で戒律を守らない子供らに容赦なく暴力を振るう恐ろしい父親として描かれている。つまりドメスティックヴァイオレンス物として描いているのが斬新なところ。ヒーローの末期が必ずしも幸せとは限らないという実に皮肉な物語。 「黒電話」は監禁物だ。 本書の中では比較的定型的な作品と云えるだろう。失踪事件の多いアメリカの世相を反映した作品と云え、ある意味同様の事件に遭遇した大人たち、そして将来同様の事件に巻き込まれる可能性のある同世代の子供たちに向けるエールのような作品と見るのはいささか穿ちすぎか。 本作には最後に削除された最終章が併録されている。作者はこの作品を極力削ぎ落として完成させたかったようで、30ページに収めるべく、終いに最終章を丸々削除したようだ。 個人的な感想を云えば、この最終章があった方が好きだ。物語が引き締まる。削除前の作品では黒い風船を姉が見つける件が全くストーリーに寄与していないのも気になっていたので、この最終章はあってしかるべきだと思う。 いかに素晴らしい短編集といえども、全てが全て良作であるとは限らない。例えば「挟殺」と「マント」がそうだ。 「挟殺」はレンタルビデオ屋のバイトで母と2人暮らしをしているワイアットという青年が、バイトを馘になった直後に出くわすある事件現場での顛末を描いた小編。「マント」は子供の頃に母親に作ってもらったマントを着ていたら実際に宙に浮かぶ事が出来た男が、数年後マントと再会する話。 両方の短編の主人公は共に定職に就かずブラブラしているニートが主人公であること。彼らには思想も無く、従ってモラトリアム人間ではない。事件は起こるが、なんとも収まりの悪い締め方がされ、読者はどのような感慨を抱いていいのか、しばし途方に暮れる。 不思議な話続きでは次の「末期の吐息」の方が私の好みだ。死者の末期の吐息を集めた博物館の話。そこを訪れた家族に降りかかる災難と最後のセリフが絶妙。星新一のショートショートに似た質感を持ちながら、味わいは星氏の作品ほどドライではなく、叙情に満ちている。 で、次の「死樹」はわずか3ページのショートショートだ。樹木の幽霊について主人公の語りから始まり、最後になんともいえない余韻を残す。 「寡婦の朝食」は一読、トム・ソーヤの冒険、もしくはジェームス・ディーンの映画を想起させる話だ。 なんというか、この作品も特に何か起こるわけでもない作品なのだが、妙に心に残る。長編の1シーンを切り取った作品といった方が適切だろう。この後キリアンの旅にこの女性がどんな影響を及ぼすのか、逆にその後の話が読みたくなる作品だ。 「ポップ・アート」がベストなら、次の「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」はそれに次ぐ作品と云えるかもしれない。 アメリカン・グラフィティに彩られた在りし日の青春に戻るセンティメンタルな一編。映画『ゾンビ』の撮影現場でお互い死人の特殊メーキャップをしたままで再会するというシチュエーションがアイデアとして素晴らしい。よくこんな事考え付くものだ。 そしてこの作品がいいのは最後のセリフが絶妙だからだ。映画撮影という場面設定と2人の関係が見事にマッチしたセリフ。いや、好きだ、こういうの。 ここに収められている作品の多くは幻想小説の類いだが、その中でも「おとうさんの仮面」は読後、不安に掻きたてられる云い様の無い得体の知れなさを感じる。 旅に出て、いつもと違うところで過ごすというのは日常から逸脱した非日常性からどこか足元が宙に浮いているような落ち着かない感覚が付き纏う物だが、この作品は現実なのにどこか現実の位相とはずれた世界にいらされている旅先で抱くその落ち着きの無さを終始感じさせられる。 子供の視点から語ることで大人だけの間で交わされる密約のような物が行間から立ち昇り、表現のしようのない不安が胸にざわめく。森で出逢った2人の子供は恐らく僕の母親と父親の若かりし頃の姿だろうし、骨董品の鑑定士は冗談交じりに語られていたトランプ人間なのだろう。置き去りにされた父親は子供心に底知れぬ喪失感を抱かせるし、その理由は母親しか知らないというのも、誰もが子供時代に経験する知らないままにされていた事を連想させる。 約100ページと収録作品中最も長い「自発的入院」は本書の冒頭を飾った「年間ホラー傑作選」に似たようなホラーだが、出来は数段上。 ジョナサン・キャロルの作品に似た味わいと云えるだろうか、大人になった主人公が今なお忘れられない事件とそれに纏わる友と弟の不思議な失踪事件の顛末を告白した手記という体裁の作品。モリスによって地下室に築かれる段ボールの地下迷宮が独特の魔力を持ち、現実から異世界へ結ぶ入り口となるのも、モリスという不思議なキャラクターのせいか、説得力がある。乱歩の『パノラマ島奇譚』にも一脈通じる物があると感じるのは私だけだろうか。 実質的に最後の短編となる「救われしもの」はそのタイトルとは裏腹に読後、心に寂寥感が差し込むような作品だ。 結局「救われた」のは一体誰だったのか?非常に疑問の残る作品だ。誰もが不幸を抱えたままで物語は閉じられる。 そして「黒電話」の削除された最終章を経て、作者自身の手によるこれらの短編の創作秘話が語られ、この本は終わる。 結論から云えば、玉石混淆の短編集で、総体的な出来映えとしてはやはり佳作と云えるだろう。実質的な収録作品数が17作品というのが多すぎて、逆に総体的な評価を下げているとも云える。 個人的に好きな短編を挙げると、「二十世紀の幽霊」、「ポップ・アート」、「蝗の歌をきくがよい」、「アブラハムの息子たち」、「末期の吐息」、「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」、「自発的入院」の7編。次点として「うちよりここのほうが」、「黒電話」―但し最終章も含んだ―、「寡婦の朝食」、「おとうさんの仮面」の4編。そうつまりこれら11編で本書が編まれたとするとこの作品の評価はもう1つ、いや2つは挙がるかもしれない。 ここに述べられた作品群を読むに当たり、読者はある程度の知識が必要である。しかしその知識というのは決して学問的、専門的な分野に関した内容ではなく、映画や音楽、ホラー小説といった大衆文化、ポップカルチャーに親んでいれば自ずと得られる知識である。 例えば「年間ホラー傑作選」ではある程度ホラー映画やホラー小説を読んで、お決まりのパターンを知っている事が前提としてあるし、「20世紀の幽霊」では過去の名作映画、特に『オズの魔法使い』が最後のシーンになくてはならないエッセンスとなっている。また「ボビー・コンロイ~」もロメロ監督を知らなくても楽しめるが、知っている人にとってはゾンビ映画撮影の内幕とロメロ監督の人となりを知ることができ、楽しめるだろう。 が、しかし逆に云えば、これらが未経験であったとしても本書を読むことでこの物語の真の結末のカギがそれらの実作に込められている事から本書の後でそれらに当る事で更に本書の味わいが増すとも云える。前知識として知っておくに越した事はないが、逆に本書でそれを知ってフィードバックして見る・読むのもまた一興だろう。 しかし、このジョー・ヒルという作家、非常に独特な雰囲気を持っている。最初の「年間~」を読んだ時は、世間の評価に対し、眉を潜めたものだが、続く「20世紀~」、「ポップ~」と読むうちに、尻上がりに良くなっていき、この微妙に最後を交わす語り口が堪らなくなってくるのだ。全てを語らない事で逆に読者に胸に迫る物を与えてくれる。カエルの子はカエルというが正にそれは真実であると云えよう。 しかしヒル自身はそのあまりに偉大な父親の名声がかえって足枷になっているような節が本作からも見られる。まずあえて「キング」という苗字を使わずにデビューした事が父親に阿っていない事を示している。が、しかしこれはヒルの一作家としての矜持だといえよう。父親の名声に頼らず、まず自分が作家として世に通用するのか試したいという挑戦意欲の発露というのは容易に受取れる。 が、しかしやはりヒルには父親の影に疎ましさを感じていることが窺える象徴的な1編がある。それは「アブラハムの息子たち」だ。 この物語は有名なヴァンパイア・ハンター、ヴァン・ヘルシング教授と息子との軋轢を描いた1編であり、その物語の終わり方がヒルとキングとの親子関係を暗示させる。有名な父親をどの子供らも尊敬しているとは限らない、むしろそれが永年の苦痛であったという告白文書として読み取れるところが非常に興味深い。 そしてこの作品を著すことで、さらにこの作品が世に賞賛を以って迎えられたことでヒルはキングの呪縛から解き放れたと解釈できよう。この作品は彼が書かなければならなかった物語なのだ。 また物語の語り手にティーンネイジャーが多いのが特徴的だ。純然たるティーンネイジャーが語り手を務める作品を挙げてみるとシークレット・トラックの「シェヘラザードのタイプライター」から始まり、「ポップ・アート」、「蝗の歌をきくがよい」、「アブラハムの息子たち」、「うちよりここのほうが」、「黒電話」、「寡婦の朝食」、「おとうさんの仮面」、そして成長した主人公が10代の頃を回想して語る話として「二十世紀の幽霊」、「挟殺」、「マント」、「ボビー・コンロイ、死者の国より帰る」、「自発的入院」と収録作品17作中13作品と実に大半を占める。 それらに共通するのはちょっと現実とは少しずれた感覚・世界だという事だ。子供の頃というのは毎日が冒険であり、全てが新しく瑞々しかった。そういう風に映るフィルターを通して日々を過ごしていた、そんな感覚がある。 翻って大人になって過ごす日々は現実そのものであり、そこには何の不思議も新鮮味も無いのが大半である。このジョー・ヒルという作家は子供が抱く大人とは違って見える毎日の風景と子供が大人の世界から感じる違和感を表現するのが非常に巧みだ。子供だった私が知らないところで進行している何か、その解らなくてもいいのだが、知らないことがなんだかとてもむず痒くなるような云い様の無い焦燥感、不安を実に上手く言葉に表す。 いや正確にはそうではない。このむず痒さの根源となる「一体なんなのか、はっきりしてくれ」という答えを知りたがる読者の性癖を巧みに操作するような書き方をするのだ。だから作品によっては読者の抱く感慨というのは実に様々だろう。 特に「マント」、「死樹」、「おとうさんの仮面」なんかは中高生に読ませて読書感想文を書かせると色んな解釈の仕方が生まれてよいテキストになるのではないか。そういった意味ではエンタテインメント系の作家としてはこの人は文学よりだと云えるだろう。 ただ饒舌さを感じさせる文体はまだまだ刈り込める要素が多く、1作品における登場人物や舞台背景に対して非常に雄弁である。これは近年のクーンツ作品を連想させる。日本人作家が敢えて語らない事で怖さを助長させるのに対し、この作家は雄弁に語り、最後に語るべき内容をさらりと交わすことで読者への想像力に委ねるという手法を取る。ただ読み直すとまだまだページ数は減らせると思う。少なくともあと100~150ページは減らせるのではないか。 昨年のミステリシーンに一躍注目を浴びる存在となったジョー・ヒル。確かに彼は“書ける”作者である事は認めよう。ただ未完の大器だという感が強い。この後、彼がどのような奇想を提供してくれるのか、非常に興味深いところだ。 また追いかけたくなる作家が増えてしまった。困った物だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ハリウッドシリーズ第3弾の本作は『ハートの4』でも精力的に導入されていた恋愛が事件に大いに絡んでいる。
従ってまずは事件ありきでその後探偵による捜査が続く本格ミステリの趣向とは違い、2人の遺産相続人の一方に起こる殺人未遂事件の数々が同時進行的に語られ、物語の設定はサスペンスになっている。 今回の主役はエラリーよりもその代役として活躍するボー・ランメルだろう。弁護士の資格を有する知性を持ちながら、ロンドンきっての伊達男ボー・ブランメルと名がそっくりだということでからかわれ続け、その都度腕っぷしに物を云わせて相手を黙らせ、職を転々とした無頼漢だ。 その彼がエラリーと組んで探偵事務所を設立する、『静』のエラリーに対し、『動』のボーという名コンビが生まれた。 また久方ぶりにクイーン警部とヴェリー部長が登場する。『悪魔の報酬』が未読なのでそこで登場しているかは解らないがもしそうでないとすると、『ニッポン樫鳥の謎』以来の登場だ。 そして本書にしてようやくクイーンは事件現場に対する常識的な配慮をしている。手袋をして現場検証に臨む事だ。しかしそれでも犯人の存在を証明する証拠を秘匿しようとしたり、犯行現場に自身の煙草の吸殻を置いたままにしたり―理由が吸殻だけではクイーンが現場にいた事は判らないというが、唾液の付いたフィルターが残っていたら判るんですけど―とまだまだ常識外れなところがあるのだが。 こういうシーンを読むと、探偵が警察と犬猿の仲になったのかが解るという物だ。 勝手に現場に入り込んで、傍若無人にやたらめったら触りまくり、あまつさえ有力な証拠を隠そうとする。現状保存を第一とする警察の捜査とは全く相反する行動であり、迷惑極まりない事この上ないだろう。これ以来、日本の本格ミステリでも探偵が同様の行為を現在に至ってなお行っているのはもしかしたらこのクイーンの影響が大きいからではないだろうか? 本作の奇妙な題名『ドラゴンの歯』とはギリシャ神話に出てくるカドマスという青年が蒔いたドラゴンの歯に起因している。恐らくこのドラゴンの歯とは災いの種という意味だろう。それは遺言状を作るときにデ・カーロスを大いにからかったカドマスの所業に起因し、これが基で今回の事件が起こったということになっているが、どうもしっくりこない。 やはり全体的にバランスの悪い作品だと云わざるを得ないだろう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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ロボットが人間の生活に入り込んだ、今より少し先の世界をテーマにした短編群に「WASTELAND」という、ロボットのみが生存する近未来の地球を描いた短編が間奏曲のように語られる。
表題作「ハル」は愛玩用ペットロボットの名前が題名になっており、これにヒューマノイドが絡んだちょっと不思議な手触りのする作品だ。 人間が作った人工物が理論を超えた進化を遂げるというのは瀬名氏の過去の作品でも取り上げられていたが、これもそのテーマに沿った一編。ここではロボットに魂は宿るかという命題に取り組んでいる。近い将来、ロボットが単なる玩具や客寄せパンダではなく、一大産業として社会に本格的に盛り込まれていくであろう未来への警告か。 「夏のロボット」は子供の頃にロボットと不思議な人物と出会った出来事が語られる。 ロビタという人工知能を備えた学習型ヒューマノイドと娘の菜都美とのコミュニケーションで次第にロビタが人間に近くなっていくことに気付いた恵が至る真理が「ハル」とは同じなのにその受取り方が逆なのは面白い。片や畏怖や嫌悪感を抱くのに対し、恵は新たなる知性の出現の萌芽に地球上の唯一の知的生命体である人間が孤独感から解放されると喜びを示す。この感覚は理解できる。 個人的に好きなのは「見護るものたち」と次の「亜希への扉」だ。 前者の舞台はタイ。災害救助ロボット、地雷探査ロボットなど前2編にもまして現実味を帯びている題材である。リーというタイの寒村に住む女の子と犬とロボットの交流という、泣かせる要素を全て盛り込んだ作品である。読んでいる途中でリーの行く末が解ってしまった。 しかしここで語られるのはその悲劇を超えて尚且つロボット開発に挑むのかという杵島の覚悟を確認する物語。主人公はあくまで杵島というロボット技術者の挫折と再生の物語なのだ。 彼は災害救助にロボット技術者として携わるたびに、自分の開発したロボットが想像していた以上に役に立たない事に直面し、挫折感と徒労感を味わう。果たして自分は社会に貢献しているのだろうか、人間の役に立っているのだろうかと。しかし最後にパートナー岡田がかける言葉に救われる。 ロボットというのは希望の装置なのだという。誰もがロボットに希望を抱く。それは未来の象徴だからだ。だからその分失敗すると挫折感も大きい。恐らくロボット開発というのはその繰り返しだろう。しかしそれでもなお貴方はロボット開発は止めないだろう。それこそが大事だ。その努力を続ける事こそ理想に近づけく唯一の道なのだ。 このメッセージは瀬名氏がロボット技術者全てに送る励ましの言葉と私は受取った。 余談だが、地雷探査犬の名前アインシュタインに思わずニヤリとしてしまった。クーンツファンである瀬名氏の茶目っ気だろう。 そして「亜希への扉」はなんとも甘いラヴストーリー。 物語の冒頭で断っているようにこの作品はメルヘンだ。といっても模型が生命を宿してしゃべったり、動物がしゃべったりするような類いのものではなく、出来すぎたラヴストーリーと云えるだろう。 しかしこういうベタな作品もまたいいのではないか。それよりもこの作品で述べられる、成長期にある子供がロボットと交流して育ち、やがてロボットのAIを凌駕して成長してしまったときに直面する魔法が解けたときのような喪失感、そして永久的に動き続けるロボットに死のプログラムが必要になるというある人物の考えなど、実に興味深い。そこまで瀬名氏は考えているのかと驚嘆した。 また題名だがこれはハインラインの傑作をもじった物。これも作者の茶目っ気か。 そして本書の主題ともいうべき作品が最後の「アトムの子」だ。 各短編、そして幕間で挿入される掌編「WASTELAND」、これらに共通する1つの軸とも云うべき存在がある。それは鉄腕アトムである。マンガの神様手塚治虫が創作した人型ロボットこそ、日本のロボットの研究の始まりであり、究極形であり、ロボット研究者が至る道だという風に瀬名氏は述べている。その思いが結実したのがこの最後の短編だろう。ここで語られるのは非常に哲学的な話だ。 果たしてロボットに正義を教える事が出来るのか? そしてまた正義とは一体何なのだろうか? 本書の登場人物の一人の口から語られるロボットが正義を信じる理由が実に哀しいながらも腑に落ちる。人間でも機械でもない継子である彼らがアイデンティティを失う代わりに彼らは正義をアイデンティティとして生きるのだというのは実に興味深い考察だ。 これらの短編群は直接的には関わりは持たないものの、全てが地続きであり、同一の世界で語られ、呼応している。ファンタジックな装いの幕間劇「WASTELAND」もまた最終編「アトムの子」で地続きとなる。 そして本書に挙げられているロボットは実に多彩。愛玩用ロボット、学習型ヒューマノイド、対話型AIを備えた受付ロボット、災害救助ロボットに地雷探査ロボットなどなど。 これらのロボットと人間が共存する世界、そしてロボットを介して築かれる人間同士の絆がまずテーマの1つと云えよう。ロボットがコミュニケーションツールとして、生活のサポーターとして、はたまたパートナーとして人間の生活の中に介入する世界が描かれている。そしてそれらロボットを通じて得られる人間同士の新しい絆もまたそうだ。人間が作ったロボットによって生かされる人間もまたあること。ロボットがいたからこそ知り合えた人々の物語がここには綴られている。 そしてもう1つは人造物がある日突然人間の理解を超えた行動をするだろうという予見だ。特にある日突然飛躍的に発達・進化するという発想はデビュー作の『パラサイト・イヴ』以来、瀬名氏が必ず作品のテーマに盛り込んできた内容だ。 本書では人口の産物ロボットが人間が持ちうる雰囲気、気配といったプログラムできない、抽象的な部分を次第に身に付けていくこと、そして自らの死に際を求め、いずこへと消えてしまうといった都市伝説的事象などが語られている。 ここが瀬名氏という作家の面白いところと云えよう。自身博士号を持つ科学者であるのに、彼の面白いところは論理や理屈では説明できない存在を受け入れている。理科系作家でありながら精霊などといった超常現象を導入するファンタジーを創作するところにこの人の特異性があると思う。 しかし瀬名氏は2002年時点でのロボット工学の最新技術を取材し、それから類推される人々の生活への影響、意識の変化などをしっかり足が地に着いた物語を紡ぎ、ロボットを扱った作品にありがちな人間がロボットに支配される社会を描くデストピア型の作品を書いていないところが素晴らしい。 しかしそれでもロボットが発展する上で直面するだろう云い様の無い畏怖を抱くこともきちんと描いている。 本書に収められたメッセージはそのまま瀬名氏からロボット研究者たちへのエールと云っていいだろう。ロボットが果たして未来に役立つのか、単なる道楽で終わってしまうのか、研究者たちは絶えずその悩みと直面しているに違いない。瀬名氏は現在のロボット技術の進捗とその未来を作品として著す事で彼らの後方支援をしているのだ。 本書の舞台は2001~2030年という近未来。2002年に発表された当時、瀬名氏はこの頃既にロボットは人間生活に入り込み、無くてはならない物と想像していたようだが、2018年の今、残念ながらその予兆はあるものの、この予見はまだ先のことになりそうだ。 果たしてここに語られるような未来は来るのか、まだ先は見えないが、こんな未来はまんざら悪くないなぁと思わせる、心温まる作品群だ。 |
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【ネタバレかも!?】
(16件の連絡あり)[?]
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旅先での一人旅の女性とのアヴァンチュール。そんな珍しくもない、誰にでも起こりそうな情事が思いもよらぬ災厄をもたらす。
そんなありきたりな設定に被害者を身分詐称を生業とする詐欺師に持ってきたところにフリーマントルのストーリーテラーとしての巧さがある。 特に今回はアメリカでももはや死滅状態であるクリミナル・カンヴァセーションという特殊な法律を持ってきたことが大きい。アメリカの州でもほとんどの州が既にこの法律を撤廃しているが、たまたま情事の相手の出生地がノースカロライナ州でそこにまだ現存していた事が主人公ハーヴェイに更なる災いをもたらしている。 よく他国の法律でこんな物を見つけたものだと感心した。 そして新聞であれば数行で済まされるような事件が当事者達には先進的苦痛を伴い、煩雑で不安な毎日を強いられる事をフリーマントルは事細かく書いていく。これこそ記事の裏側にある本当の事実なのだ。 そして法廷に突き出された者はそのプライヴェートが白日の下に晒され、何もかもが真っ裸にされる。私生活は無論の事、隠しておきたい過去、信条、既往症に他人に対する秘めたる思いまで、全てが暴露されていく。 特に本書で論点となっているのはクラジミアという性病である。どちらかといえばこれは密室で医者と患者のみで話されるべき内容であり公に開けっ広げに話されるようなことではない。しかし裁判では被告側の4人と原告側の4人、更には裁判官に陪審員に傍聴者らに自らの隠しておきたい恥ずべきプライヴェートを大の大人が誰がどのように性病を移したのかと熱弁が振るわれる。その様子は想像するだに滑稽である。こうなると裁判というのはもし勝訴したとしても、後に残るのは全てを世間に知られた個人であり、果たしてそれで何を得るのか、疑問に思ってしまう。 アメリカは訴訟王国と云われて久しいが、気に食わないことがあったからと云って、社会的制裁を加えるために容易に訴えを起こすより、それによって被る不利益、失う物を考えた方がいいのではないか、法廷ミステリではそう警鐘を鳴らしているようにも取れる。 しかし皮肉な事にその法廷シーンが実に面白い。下巻冒頭から繰り広げられる裁判シーンは本書の白眉と云えるだろう。 とどのつまり、一時期法廷ミステリが活況を呈したのは、一般人にはなじみが無い世界である珍しさもさることながら、他人のプライヴェートがどんどん暴露されてしまうことを知る読者の野次馬根性を大いに刺激している事も認めざるを得ないだろう。結局のところ、他人の不幸ほど面白い物はないということか。 本書でもその例に洩れず、法廷シーンで繰り広げられる原告側、被告側双方がやり取りする揚げ足の取り合い、トラップの仕掛け合いはものすごくスリリングである。言葉の戦争だとも云えよう。 元々フリーマントル作品には上級官僚が自らの保身、自国の保身のために行う高度なディベートが常に盛り込まれており、すごく定評がある。このフリーマントルのディベート力が裁判という舞台に活かされるのは当然であった。逆に云えばなぜ今までフリーマントルが法廷物を書かなかったのかが不思議なくらいだ。 さて読んでいて思ったのは、今回の主人公ハーヴェイ・ジョーダンはチャーリー・マフィンに非常に似ているということだ。身分窃盗という詐欺師を生業にしているが故に、公に顔を知られてはならないところはチャーリーがスパイであるという職業柄、同様の禁則を持っているのと同じだし、自ら保身のために自分が雇った弁護士以上の分析力を発揮し、逆に弁護士に突破口の糸口のアドバイスを送る。それは自分だけではなく、情事の相手アリスを守るためでもある。この点はチャーリーが英国のスパイでありながら、内縁の妻であり、ロシア民警の総元締め的立場にあるナターリアを同時に救うことに腐心するところを非常に似ている。 そして自らの生活を脅かす人物に必ず復讐を持って制裁することもチャーリーと非常に似ている。双方に共通するのは共に英国人であるということ。つまりこの自らの保身だけでなく、愛する女性を守らなけらばならないという騎士道精神が根底にあるからではないだろうか。 本書のタイトルであるネーム・ドロッパーとは有名人の名前を借りて、恰も自らが非常に親しい友人のように振舞う人を差す言葉らしく、ここでの意味は他人の名前を自分の名前のように使い、その存在を他者に認めさせるように使う人として使用されているようだと訳者は述べている。 ここで思い当たるのは果たして名前とはなんだろうかという事だ。 他人の名を借りて身分を偽り、それが偽造パスポートや偽造運転免許証、さらに社会保障番号を知ることで他人に成りすます事が出来る社会。しかしそれは結局他人の人生でしかなく、非常に空虚な物であると私は思う。なぜなら他人に成りすまし、それが社会で認められ、金融取引も出来てしまう反面、では一体本当の自分とは何なのだというアイデンティティが揺るぐような根本的な命題に行き着くからだ。 本書は身分窃盗であるジョーダンが本人であるハーヴェイ・ジョーダンとして訴えられることで、改めて借り物の人生を過ごしてきた自らについてアイデンティティの再認識が成される。だからこそのあの最後のセリフが活きるのであろう。 最近のフリーマントルは長く生きてきたせいか、人生に対して斜に構えた見方をしがちで、最後に英国人流の皮肉を以って物語を閉じる傾向があったが、本書は主人公が詐欺師という犯罪者にもかかわらず、非常に胸の空くエンディングが用意されている。 私はフリーマントルにこういう小説を書いて欲しかったのだ。 世間では全く俎上に上がることが無かった本書だが、それが不思議でならない。『殺人にうってつけの日』もフリーマントルを最初に手にするのに適していると書いたが、本書はこの結末も含めて、更にお勧めの1冊だ。近年のフリーマントル作品の中でもベストだとここに断言したい。 |
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第2期クイーンシリーズと云われているハリウッドシリーズの1冊である本作はきらびやかな映画産業を舞台にしているせいか、物語も華やかで今まで以上に登場人物たちの相関関係に筆が割かれ、読み応えがある。恐らくこれは作者クイーン自身が遭遇したハリウッドという特異な世界に触発されたものであろう。
『中途の家』や『ニッポン樫鳥の謎』でも登場人物間の愛憎が描かれていたが、そのぎこちない筆致は頭で想像して書いたようにしか思えず、居心地の悪さを感じてはいた。しかし本書の中心人物であるロイル親子とスチュアート親子の罵詈雑言の応酬とそれに相反する素直になりきれない愛情の断片が垣間見える仕種や台詞にはそれまでの不器用な人間描写から一転して瑞々しさを感じる。 今回はこの両家、とりわけそれぞれの息子、娘であるタイ・ロイルとボニー・スチュアートの、お互いに惹かれあっているのに素直になれない関係が事件に関係しているという、“恋愛”をテーマにした事件を更に掘り下げている。 そして登場人物の描き方も今までの作品に比べ、随分印象が違い、物語に躍動感がある。 ハリウッドの天才児ジャック・ブッチャー、放蕩脚本家リュー・バスコム、宣伝部長のサム・ヴィクスなど脇を固める映画産業にどっぷり浸かった、興行のためならばどんなアイデアも拵え、金に糸目をつけず実行する常識外れの持ち主から、ハリウッドのゴシップに精通している絶世の美女でありながら群衆恐怖症であるポーラ・パリスに、登場人物表にも名前が記載されていないながらも印象を残すジューニアス医師にグリュック警視。そんな中でも何よりも特徴的なのは本作で事件の渦中に置かれるジャックとタイのロイル親子とブライズ、ボニーのスチュアート親子だろう。 上に述べたように今回は“恋愛”が事件に大いに関わっている。お互い長い間、反目していた両家が突然起きた化学反応のように惹かれあい、結婚を決意する。そのために起きた殺人事件。そして双方の親を亡くした後、歴史が繰り返されるようにその子供らも長年の確執が反転して愛に変わり、結婚を決意するが故にまた命を狙われる。 憎しみというのは愛情と裏表の関係にあるのはもはや周知の事実だが、クイーンがこのような物語を、ページを多く費やして書くことが驚きであった。 この頃、実作者のクイーン自身、ハリウッドに招かれ、脚本家として働いていたが、そこで要求されるのは緻密なロジックよりも面白おかしい登場人物たちが織成す人間喜劇というドラマ性である。 結末もそれまでの作品で人が人を裁くことに対し、苦悩していたクイーンが独りごちてシリアスに終わる閉じられ方から一転している。 このシーンが象徴するように、ハリウッドの経験が作品に大いに影響を与えたのはまず間違いない。 既に述べたが、何しろ登場人物の性格描写、また主人公クイーンの人に対する思いの強さが今までと断然違う。人を犯罪というゲームの駒の一要素としてしか考えていないような節のあった従来の作品群と比べると雲泥の差だ。 台詞も古典からの引用が極端に減り、ウィットに富んでいるのも注目すべき点であろう。 演出という意味では今回犯罪予告として使われたトランプのカード。これこそ非常にエンタテインメント性が強い。江戸川乱歩の『魔術師』で使われたカウントダウンやルパンの犯罪予告状といった、推理小説というよりも通俗犯罪小説という趣きが強いのも本作の特徴であろう。 特に第2の犯行ではそれを逆手にとってクイーンが罠を仕掛け、その瞬間に犯人と、しかも飛行機の機内という映像的な舞台で対決する辺り、今までにない凝りようである。 個人的にはこういう趣向は好きである。しかしクイーン=緻密なロジックというフィルターが邪魔をして、本作の評価を辛くしている。 本作で見られるドラマ性高い演出と事件の意外性、驚愕のどんでん返しが一体となれば、更にその評価は増すに違いない。非常に贅沢な要求なんだろうけれど。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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上手い。実に上手い。
相手に嵌められ、妻まで奪われて刑務所に入れられた男が出所を機に全てを取り戻すため、復讐を企む。今まで何度も使い古されたプロットであるが、そこはフリーマントル、普通の設定にしない。 なぜなら復讐者ジャック・メイスンこそ、元妻の安定した生活を脅かす悪の存在だからだ。彼はCIA勤務中はロシアに情報を流す売国奴であり、私生活では女を買うのは勿論の事、公然と浮気をし、妻に暴力を振るっていた最低の男なのだ。 この通常ならば主人公の宿敵となるべく恐怖の存在を逆に主人公として設定したところにフリーマントルの作家としての一日の長がある。 また逆を云えば、かつて自らの手で刑務所に送った男が出所し、主人公に復讐するという話もあるが、本書の特異な点は物語をこの同情すべからぬ復讐鬼側から描いたところにあると云えよう。 そしてこの復讐鬼ジャック・メイスンが通常設定されるようなサイコパス、性格異常者ではなく、元CIA諜報員であり、模範囚として減刑され、刑期を5年も縮めて仮出所した男であるという社会的常識を備え、かつ特殊な訓練を受けた男という点に注目したい。 元○○工作員、元グリーンベレーといった殺人能力に長けた復讐者という設定も往々にしてあるが、ほとんどの物語はその特殊性のみ取り沙汰され、復讐鬼=モンスターのような扱い方をされていたように思う。しかしフリーマントルはジャックをそう描かず、15年も刑期を勤めた出所者からスタートし、そこから社会への順応、徐々に復讐の計画を積み上げる過程、そして復讐を成すために積み上げる男として、元諜報員としての自信の回復、そして一方ではいざ実施となった段に逡巡する心理状態などを細かく描く。つまり復讐鬼が社会的不適合者という異常者というような定型を採らないところに本書の読みどころがある。 そして今回復讐を受ける側、ドミートリイ・ソーベリことダニエル・スレイターとアン、そして息子のデイヴィッド一家側の設定もまた巧みだ。 ジャックが出所する段になって、突然彼らに幸運が紛れ込む。ダニエルは自らが経営する警備会社に新規契約と大きな取引が次々と来るようになり、アンは自分たちの住む地方都市フレデリックで営む自らの画廊に有名な画家の個展を開く話が舞い込み、それを成功させたことでメディアの取材に引っ張りだこになり、街の名士となりつつあり、息子のデイヴィッドもバスケットの才能を買われ、大学からスカウトが来る。 こういった人もうらやむサクセスストーリーが、復讐を恐れ、証人保護プログラムの庇護を受ける彼らには災厄の種でしかならない。この大きな幸運がさらに大きな不運を呼び込むストーリー展開の妙と、証人保護プログラムの盲点を付くこのフリーマントルの着想に思わず唸った。 主題がはっきりしているだけに、物語の行き着く所は実に明確だ。即ち復讐は成されるか、成されないかだ。 こういう単純な構造の物語はそのゼロ時間に向かうまでのプロセスに読みどころがあると云えるだろう。同じ復讐譚を扱ったP.D.ジェイムズの傑作『罪なき血』が正に好例と云える。 フリーマントルの場合はと云えば、云わずもがなで、復讐する側とされる側の双方を丹念に描き、全く飽きさせず、“その瞬間”まで双方を振り回す。 またフリーマントルはアメリカの証人保護プログラムに警鐘を鳴らしている。この堅牢と思われたシステムが、実はいくつもの欠点があり、その成功実績は薄氷の上に立つ危うさ、いや逆に情報が隠されているだけに絶対安心という虚像でしかないかもしれないのだ。 エルモア・レナードもこのプログラムには『キルショット』でかなり辛辣な評価を作中で下しており、アメリカ国民(フリーマントルは英国人だが)の中でもその信頼性を疑われているのが解る。 しかし本書を読んでいるときはそんなことは考える必要はない。CIA、KGBは出てくるものの、従来のフリーマントル作品と違い、政治的駆け引きが一切なく、物語がジャックの復讐のプロセス1点に絞られて進むのが非常に読みやすい。 彼のスパイ物に横溢するディベートの応酬も醍醐味だが、こういうシンプルな構成であるが故に、彼のストーリーテリングの素晴らしさが引き立つ。ぐいぐい引き込まれる物語に委ねるだけでいいのだ。 一般的に国際謀略小説の重鎮と呼ばれ、その格調の高さから敬遠されがちなフリーマントルの作品だが(それでも毎年コンスタントに訳出されているのは売れているからだろうが)、本書は彼の本を初めて読む人にはそういった意味ではまさに“うってつけの”一冊ではないだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書は単純な構成ではない。実は作者自身と思われる理科系作家が上野の国立博物館でフーコーの振り子に出会ったことから小学校の頃の不思議な体験を思い出しながら物語を綴るという入れ子構造的な作品となっている。その物語はその小説家が小学校6年生の夏休みに出会った不思議な博物館の思い出、そして実在の人物であるフランスの考古学者オーギュスト・マリエットを主人公とした歴史小説であり、この3つの話が交錯し、お互い共鳴し合うという凝った作りになっている。
また語り手である小説家はほとんど瀬名氏の分身であるようだ。従って、この作家の私の心情はそのまま瀬名氏の言葉といっていいだろう。自分の創作手法と編集者が求める物との齟齬、物語の創作と人を感動させる手法、そして小説論など小説家としての苦悩が色々書かれている。 そして作中の小説家が吐露しているように本書は瀬名氏が物語作家になることに挑戦した作品だと云える。 では瀬名氏の小説は物語ではなかったかというとそうではない。起承転結があり、登場人物もステレオタイプ的でありながらも善玉・悪玉がきちんと描き分けられていた。ただそれらは主題となる専門的な学術分野の内容をふんだんに盛り込んだプロットを軸にして、動かされていたような様があり、あくまで主眼は最新科学をベースにした自らのアイデアだったように思う。従って読者はその専門性の高さに半ば驚嘆し、半ば難解さに理解を放棄していたようだ。実際『BRAIN VALLEY』は途中で挫折した読者も多かったと聞く。 その事を作中の小説家の口を借りて、自身が目指していた感動とは一般の物語で得られるものではなく、論理への感動、技術への感動、概念への感動であったと述べている。つまりあるべき物があるべき姿で収まる事、その完璧な世界が映し出す美しさを瀬名氏は感動と捉え、それを自身の作風とした。 しかし本作ではその学術的内容は極力抑えられ、登場人物の心情描写や、行間から匂いや温度までが感じられそうな風景描写に筆が割かれている。その結果、本作は片やノスタルジー溢れるジュヴナイルでもあり、はたまた19世紀のパリの万国博覧会のシーンや発掘ラッシュの19世紀のエジプト、もしくは紀元前のエジプトを精緻に描いた歴史小説の貌をも持つ、多彩な作品となっている。 前後したが前に読んだ『虹の天象儀』は本書の刊行後に著された物であり、『虹の~』が一人称叙述で語られ、主人公の心情描写に多く筆を費やしていることからも、本書が瀬名氏にとって作風の転換期となった作品であると云っても過言ではないだろう。プロット・構成・人物配置など計算し尽くして創作された物語よりも、作者の制御を離れて作中人物が勝手に動き出す、熱を持った物語へシフトする事に挑戦したのだ。 とはいえ、やはりこの作家の持ち味であるテクノロジーに関する内容は従来の作品と比べれば少ないものの、きちんと織り込まれている。特に亨が遭遇する謎の博物館が持つ人口現実世界と名づけられたシステムは今で云う仮想空間世界を更に発展させた物であり、これが恐らく近い将来実現する物ではないかと思われる。そこに加えた瀬名氏の物語としての嘘、仮想空間を現実に近づけることで計算の域外で起こる「同調」という現象が本作の肝だ。この「同調」を利用して、悠久の歴史に埋もれた事実や遺産を復活させる事がこの博物館の主目的であり、それが物語のクライマックスへの呼び水となっている。 この科学を超越した現象は『BRAIN VALLEY』で取り上げた形態共鳴という不可解な現象が下敷きにあると思われる。単に知識として蓄えたままにせず、それを換骨奪胎して新たな超自然現象を想像するこの手腕はやはりこの作家の特質と云えるだろう。 一方で作中に織り込まれた小学6年生が初めて手にした創元推理文庫に対する思い、エラリー・クイーンやルパン三世、ドラえもんといった実在の固有名詞が郷愁を誘う。特に本作の舞台となる博物館は人工現実世界が現実世界の物と同調し、融合しているところなどはドラえもんのどこでもドアに代表されるひみつ道具の発想と非常に似通っており、非常に影響が強く感じた。実際、最後に藤子・F・不二雄へ献辞が書かれている。 野心的な作品であることは疑いないが、語りたい事、試したい事が多すぎたためにちょっと凝りすぎたか。誠に惜しい作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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2001年、祥伝社が400円文庫と銘打って、当時文壇で活躍していた作家達に200ページ弱の書下ろし作品を依頼するという企画があった。本書はその企画にて書き下ろされた瀬名氏のSF中編である。
瀬名氏といえばデビュー作が角川ホラー大賞を受賞した『パラサイト・イヴ』であることは有名だが、その後もSFサスペンス大作『BRAIN VALLEY』を上梓している。それらに共通するのは絶対的な専門的知識に基づいたフィクションの制作であり、どこか現代と地続きである事を感じさせていた(『BRAIN VALLEY』はあの結末が飛躍しすぎているきらいがあるが)。 しかし本書では現代科学では当面空想上の物と考えられているタイムスリップを扱い、大人のメルヘンともいうべき1編となっている。 しかし本書でのタイムスリップの扱い方はいささか趣が異なる。といいながらも斯くいう私も論じるほどタイムスリップ物を読んだ事がないのだが、その少ない知見に基づいて書くならば、通常タイムスリップというのは個人的な忌まわしい過去を清算する、もしくは過去の過ちを正すために奮闘するという流れでストーリーが運ぶと思うが、本作では主人公が好きな実在の作家織田作之助の夭折を防ぐこと、そして空襲で焼け落ちる毎日天文館からプラネタリウム投影機と日本の天文学界において貴重な資料である格子月進図を守るという、実在の歴史を改変することを目的にしている。 シミュレーション小説などでよくあるテーマかもしれないが、瀬名氏が書くタイムスリップ物と構えて手に取った私にしてはけっこう思い切った事をするなぁと思った。 勿論、これらの目的は達成されないのだが、代わりに主人公が得るものはある。それは五島プラネタリウムを勇退したその後の人生の目標だ。彼はそれを夢見て今後の人生を過ごす事が出来るのである。 そしてなぜこのような作品を瀬名氏が書いたのか。私が思うにそれはたびたび引用される織田作之助の末期の言葉、「思いが残る」というこの一言にインスパイアされたのではないだろうか? 「思い出が残る」ならば解るが「思いが残る」とはどういう意味だろう?そして織田作之助にとって残る「思い」とは一体何なんだろうか?そこからこの物語が紡ぎだされたのではないだろうか? しかしこの言葉に対する瀬名氏の思いが強すぎて、いささかくどいところがある。理系作家とされる瀬名氏だが、その作風はドライではなく非常に熱い。 たださすが博識の作家瀬名氏、未知の知識を今回も与えてくれた。カール・ツァイスⅣ型プラネタリウム投影機に関する詳細な内容はもとより、ムーンボウという月の明りで出来る夜の虹なども教えてくれた。 また戦中の東京についても精緻に描かれており、書下ろし中編といえども手を抜かない創作姿勢が嬉しい。 しかしなんとも云えない読後感が残る小説である。具体的に云えないが、なんだかこそばゆい限りだ。 作者として思い入れを強く入れすぎ、読んでいるこちらが気恥ずかしさを感じるところがある。それとも少年の心とか夢とか清い愛とかに私が恥ずかしさを感じるように変わったのか。まあ、ちょっとしばらく考えてみよう。 |
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フリーマントルが自身のノンフィクションルポルタージュ作品『ユーロマフィア』で述べていた、複数の国に君臨するそれぞれのマフィアによる犯罪ネットワークの構築、これが本書の主題である。一応本書では今回がまだその計画の端緒に過ぎないことが謳われている。
それはそうだろう。なぜなら私にはどうしても納得できない事があったからだ。 それはアジアと中南米の市場に関して何ら触れられていないからだ。 中国マフィアがアジアに、そしてアメリカに及ぼす影響力は無視できる物ではなく、特にアジアでの勢力は強大である。しかも人口が膨大であるから、莫大な利益を上げるには無視できないマーケットである。 また中南米も縦横無尽に張り巡らされた麻薬カルテルが多数存在し、定量的な麻薬の確保にこの地方のマフィアと協定を結ぶのは必要不可欠だろう。そこの詰めの甘さを上述のように、本作では取っ掛かりに過ぎないという表現で上手く逃げているように取れる。 これは西洋人の作家と日本人作家との違いもあるだろう。やはり西洋人であるフリーマントルはアジア圏内よりも欧米圏に精通しており、マフィアといえばロシア、イタリア、アメリカとすぐに浮かぶのだろう。 これが日本人作家ならば、例えば大沢在昌氏や馳星周氏ならばすぐさま中国系マフィア、韓国系マフィア、台湾系マフィアと近隣アジア諸国の勢力を題材に扱う事が多い。この辺が住む世界での違いだと感じた。 そしてこのマフィアの世界のなんとも恐ろしい事。敵・味方内部では裏切りの連続で腹の探りあいの毎日。そして誰もが一番上の地位を虎視眈々と狙っている。笑顔で右手で握手しながら左手は後ろに隠してナイフを持っている、そんないつも心を許さない日々を送る。今日の信頼が明日まで続くとは限らず、いつ自分も他の仲間と同様に報復の道を辿るかわからない。 かつて『ユーロマフィア』でフリーマントルは「犯罪はペイする」と述べたが、得られる富が莫大なだけにこのリスクと人間不信に満ちた世界から逃れられない輩が常にいるのだろう。私はこんな世界、御免だが。 我々が日々の暮らしの中で常に求めるのは何だろう?それは「安心」ではないだろうか。今の生活を続けられるよう、人は働き、糧を得る。それは「安心」を得るためだ。 しかし彼らマフィアはその「安心」が自らの地位向上、権力の拡大、更なる利益に特化しており、それが更に彼らの「不安」を助長し、どんどん排他的になっていく。「安心」を得るために続けた事が自らの「不安」を掻き立てるのだからなんとも皮肉な稼業である。 シリーズも4作目になって、今まで抜群のコンビネーションで二国間に跨る犯罪を解決してきたダニーロフとカウリーの2人にある変化が訪れる。 まずダニーロフは私怨からくる復讐を抱え、1人の警察官ではなく、己の正義のための死刑執行人として捜査に携わる。そしてこの復讐が本作のもう1つのテーマになっている。 なんと前々作でロシア・マフィアに爆死させられた愛人ラリサの仇が本作で出てくるのである。いつもは沈着冷静に行動するダニーロフが今回は右腕ともいえる部下のパヴィンや相棒のカウリーの忠告も聞かず、傲慢に捜査を進める。そのせいだろうか、ロシア独特の原理主義で巻き起こる上司との軋轢や彼らの“椅子取りゲーム”に翻弄されるダニーロフの微妙な立場に関していつも多く筆を裂かれているのに、本作では全くといっていいほど、ない。 そしてカウリーは、本作ではなんと下巻も100ページ辺りになってようやく自らが捜査に乗り出すのだ。なぜならば今回彼は作戦の統括管理官という立場になり、下院議長の甥である野心家ジェッド・パーカーが彼に代わって現場での指揮を執る事になるからだ。 これはチャーリー・マフィンシリーズでもナターリヤが同様の立場に任命され、作戦の成否の責任を一身に担う、云わばジョーカーを引かされた役を務めていたが、今度はカウリーがその役を負わされることになっている。従ってカウリーは自身の能力から来る失敗ではなく、部下の過信から来る失敗の責任をも負わされるのだ。つまりカウリーは今まで無縁だった中間管理職の危うい立場と長官の政治的駆け引きをも強いられることになっている。 これはチャーリーならばお手の物だが、カウリーは現場主義者なので、今まで上役との駆け引き、長官がホワイトハウスに向けて行う声明などには忖度する必要はなく、己が築き上げた地位を守るために自らの能力に頼み、事件に専心していた。この馴れない業務に対する彼の苦渋が今回はほとんどを占めているのが特徴的だろう。 従って彼は以前身を滅ぼすことになったアルコールに手を出す事になる。それの歯止めとして前回パートナーとなったパメラが生きてくるのだ。 彼の心の支えとなるのがパメラの役割だが、カウリーはまだパメラに全てを委ねてはいない。本当に愛しているのか、それとも単なる恋愛に終わるのか、まだはっきりしない。この2人の関係は今後も引き続き書かれることだろう。 そして今回の敵役のオルロフを忘れてはいけない。 ロシアの一介のマフィアから№1マフィアを葬る事でのし上がってきた男。しかし彼はコンプレックスの塊で誰も信用しない。自分がそうであったように、彼の取巻きが自分の地位を狙って、いつ寝首を掻かれるか、恐れている反面、拷問で人が苦しむ姿を見ることにエクスタシーを感じる男である。そしてそれが用心深さを生み、不安要素となる人間を容赦なく排除する。そして自分の犯罪ネットワークの構築にも周到な注意を払い、常にロシア民警、FBI、さらにドイツ警察の先回りをし、裏を欠き、更には爆弾を仕掛けて爆死させるという残忍さを披露する。 さて複数の国に跨る国際犯罪に対して関係諸国の諜報機関、警察機構が協力して合同特別捜査班を組むという趣向はこれまでチャーリー・マフィンシリーズでは何度も取り上げられたが、そのシリーズがイギリスの諜報機関に属するチャーリー側から描かれているのに対し、本作ではカウリーが属している関係上、FBI側から描かれているが、どちらもFBIが捜査の主導権を握りたがるというのは変っていないところが面白いではないか。 これは英国人フリーマントルの偏見なのか、それともやはり一般的なイメージどおり、アメリカとは常に世界のリーダーシップを取りたがる事に関する証左なのか解らないが。 しかしこれほど国際的な犯罪を扱ったシリーズ作品を手がけているのに、フリーマントルは自らの作品世界をリンクさせない。つまりチャーリー・マフィンシリーズにはカウリーやダニーロフは出ないし、逆もまた然り。 マイケル・コナリーやエルモア・レナードは積極的に行っているのに、なぜだろう?私はチャーリーとカウリー、ダニーロフ、更にはユーロポールのプロファイラーであるクローディーン・カーターが一同に会して捜査を行う小説を読みたいと思うのだが。 もしそれが実現すれば一個人読者としてはかなり胸踊る作品である。今年で御齢82歳のフリーマントルが存命中にどうかこの願いを叶えてくれる事を密かに願っている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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