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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
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女子プロゴルファー、リー・オフステッドシリーズ第5作にして最終巻。
グレアムとリーの関係が前作で急接近し、さらに前作の国対抗のゴルフ大会で大活躍したリーも有名になったことでまさに大団円に向けての最後の1作となった。 前作のエンディングで述べられていたグレアムとの結婚式を兼ねたハワイでのゴルフイベントの参加が本書の物語。 つまりリーはスチュワート・カップで起きた殺人事件に続いてすぐのイベントで殺人事件に巻き込まれたことになる。一介のプロゴルファーが訪れる先々でこんなに頻繁に殺人事件に出くわすなんて、いやあ、これは何でも無理があるでしょ。 とはいえこんなのはシリーズ物には付き物の設定。そこら辺は気にせず読むのが吉。 さて前述したように今回はいつものようにツアーではなくゴルフイベントが舞台となっている。歴史あるハワイのロイヤル・マウナケア・ゴルフ&カントリー・クラブの記念すべき百年祭のイベントの手伝いを任される。そこで行われるイベントがまた実に興味深い。 屋内パット大会はなんとクラブハウス内の廊下やバーなどをパットゴルフの会場に見立てて行われるというもの。それもただ単純にボールを所定の位置からカップへ運べばいいわけではなく、例えば燭台を当てなければならないとか足乗せの下をくぐって箱時計に当てなければならなければ点数が低いとか面白いルールが施されている。特にリーの親友のペグが最初は奇矯なパットゴルフの内容に面喰いながらも大会当日には完璧にルールを理解して参加者に説明している件は実に面白い。 さらにホースレースは33人の女性が全員一度にショットしてカップまで誰が一番に入れることが出来るかを競い、“プロをやっつけよう”大会は参加者全員とプロゴルファーが対戦して4つの基準でプロより少ない打数を競うもの。“ぴかぴかボール”は光るゴルフボールをみんなで追いかけるゲーム。 ロイヤル・マウナケア・ゴルフ&カントリー・クラブは恐らく例によってエルキンズの創作だろうが、上に述べたおかしなイベントはどこかに実在するに違いない。 さてそんないつものエルキンズのユーモア溢れる舞台設定の中に織り込まれた謎はクラブの会長ハミッシュの殺人事件の真相とその犯人捜しに加え、クラブに伝わる誓いの詞の意味、そして“母なる火山の女神ペレの平和会”(<フイ・マル・マクアヒネ・ペレ>)なる団体が探しているカンバーランド・メモリアル・カップの在処だ。しかも誓いの詞がメモリアル・カップの在処を示す暗号になっているという宝探しの趣向が織り込まれている。 この暗号解読の過程はなかなかに面白い。単なる伝統あるクラブの古式ゆかしい呪文のような詩かと思いきや、きちんと意味が通じる暗号になっているのには驚いた。 ところで今回のタイトルは『悲劇のクラブ』なのに読中、なかなかゴルフクラブについて言及されないなぁと思っていたら実は道具のゴルフクラブではなく、カントリークラブの“クラブ”だったのかと3/4を過ぎたあたりで気付いた。これもある意味叙述トリックかも。 そして残念なのは愛すべきサブキャラクターのリーの相棒キャディのルー・サピオが締めくくりの本作に出てこないことだ。 エルキンズの有名シリーズのスケルトン探偵でも名サブキャラクターのFBI捜査官のジョン・ロウの登場が少なくなったりと、魅力あるキャラクター作りに長けているのに、エルキンズはそれを上手く活用できていない感じがする。 しかしたった280ページの作品の分量にミステリ興趣をくすぐるネタをふんだんに盛り込んでいる。 その読みやすさと親しみやすいキャラクターゆえにコージーミステリと軽んじられているエルキンズだが、そのミステリマインドと本格スピリットは筋金入りだ。 どうやら未訳の短編も数あるようだし、いつかまた新作を読めることを期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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バングラデシュの密林など世界の自然を舞台に冒険・スパイ小説を繰り広げていたマレルが21世紀に選んだ冒険の舞台はなんと廃墟。
資金難で打ち捨てられたホテルやオフィスビル、デパートに忍び込む。彼の行動は彼ら曰く「写真以外は何も取らない、足跡以外は何も残さない」。しかしそれは立派な不法侵入と云う犯罪。それ故彼らは自らの素性を語らない。従って紹介もファーストネームもしくはニックネームだけだ。 まさか廃墟探索がこれほどスリリングだとは思わなかった。 暗闇に巣食う動物たち。不衛生的な環境で育ったそれらは攻撃的でもあり、傷つけられると病原菌に感染してしまう。さらに長年風雨に曝され、老朽化が進み、床が突然抜けたり、階段が崩落したり、思いもかけない危難が待ち受けているのだ。そんな状況で機転を働かせて仲間の救出を行うところなど、手に汗握るスペクタクルになっている。機能を失った建物が未知なるジャングルの如き迷宮に見えてくる。 そんな危険を冒してまでも廃墟侵入を止めないのはそこに魅力があるからだ。当時の時間を体験することが出来るからだ。 原作者のあとがきによれば彼らのようなグループは世界中に実在するとのこと。いやあ、マレルは実に面白い題材を見つけたものだ。 そして挿入されるかつての宿泊客たちのエピソードも興味深い。 亡き夫と思い出のために訪れ、自殺する者。 ホテルに荷物を残して失踪したまま行方知れずになった者。 不治の病に侵され、最後の記念にホテルに泊まり、自害する者。 さらには各登場人物のエピソードも面白い。特に主人公のバレンジャーの軍隊時代の恐ろしい捕虜体験は読み応え十分。この辺はランボーの原作者たる所以か。 そして物語は暗闇の中の廃墟探索という冒険物から不測の訪問者である窃盗グループによる拘束を受けるというサスペンス物に変わり、さらに廃墟のホテルに住まう異常殺人鬼の登場で次々と仲間が殺されていくホラーへと転調していく。 『ダブルイメージ』ではあまりに物語の転調が激しく、読後はなんといったらいいか解らないほど戸惑いを覚えたが、本作では舞台設定が廃墟と固定されており、その不気味なムードが冒険、サスペンス、ホラーを包含しているため、上に書いた物語の転調が非常にスムーズで、逆に先の展開に好奇心が募る思いがした。 正直云って本書は私が今まで読んだマレル作品で一番面白い長編となった。作家生活30年以上も経って物語力の感じる作品を生みだす、まさに円熟味のなせる業か。 前回読んだ短編集『真夜中に捨てられる靴』でも感じたが、マレルは21世紀になって作風がガラリと、しかもいい方に変わった。これほど味が出るとは思わなかった。 こうなると近年発表されたマレルの作品が実に気になる。本書は2005年の作品。しかも版元のランダムハウス講談社は武田ランダムハウスジャパンに経営を移した後、本書は絶版の憂き目にあっている。 どこかマレルの未訳作を訳出してくれる寛大な出版社はないだろうか? ▼以下、ネタバレ感想 |
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クイーンシリーズとしては最後から二番目の長編となる本書。
なんとその舞台はライツヴィル。そして本書は『顔』で語られたグローリー・ギルド事件の続きから始まる。つまり本書はエラリイ・クイーン自身が書いた作品だ。 『真鍮の家』でリチャード・クイーンはジェシイ・シャーウッドと結婚したが、本書ではそれは無かったことになっているらしい。同書の事件を飛び越して『顔』の事件の後、しかもエラリイの復調のためにクイーン警視はライツヴィルの保養所にて一緒に過ごす。しかもそれについて妻に断りを入れる云々の件はない。その後自宅に戻ってもジェシイの影など少しも見かけられない。確かにあの作品はエイブラハム・デイヴィッドスンの手になる物だからそれも致し方ないのだろう。 従って本書でのクイーン警視は案外俗物っぽい。エラリイを裸映画(ポルノ?)に誘ったり、ジョニー・Bの遺産相続人のレスリーに対して「あと30年若かったら…」などとのたまう。長い間やもめ暮らしをしていた老人の悲哀を感じる。 また本書ではノンシリーズの『ガラスの村』の舞台となった<シンの辻>が意外と近くにあることが明かされる。事件の舞台となったジョニー・Bの別荘はライツヴィルと<シンの辻>の間に位置するのだ。 そんな物語の中心人物は何度も結婚を繰り返すジョニー・B。父親の莫大な遺産で何不自由なく暮らし、毎月世界中のどこかのイベントに参加する自由人。 そんな彼だから結婚に縛られるような人物ではないと思っていたが、実は信託財産で年間30万ドルが支給されるようになっているが、それでは彼の生活では足らないので遺言状にある「私の息子ジョンが結婚した時には500万ドル与える」というのを「私の息子ジョンが結婚する時にはいつも500万ドル与える」と読み替え、それが故に結婚、離婚を繰り返すことになったという仕組みだった。 しかしそんな暮らしに終わりを告げる予定だった第4の妻ローラの存在を探し、またジョニー・Bを殺害した犯人を見つけるのが本書の謎。 3人の元妻たちに囲まれた中でそれら元妻には遺産は相続しないと宣言したその夜に起きた殺人事件。こんなシチュエーションであれば必然的に犯人はその3人に絞られてくる。そんな中に不協和音を奏でるのが前日に紛失した3人の女性たちのそれぞれの持ち物であったイヴニング・ドレスに緑のかつら、そして手袋。 それらが見事に論理的に解明されるラストは実に鮮やか。たった1つの解で全てがピタリと収まるべきところに収まる鮮やかな手際にやはり本家クイーンは凄いと唸らされた。 まさに長年の沈黙を破る会心の一作だ。 正直に云えばクイーン全盛期の作品と比べれば地味な物語でありサプライズの度合い、地味な物語などやや落ちるのは否めないものの、他作家のクイーン名義を読んだ後ではこの作品がやけに眩しく感じてしまう。 そういった意味でちょっと甘めに8ツ星としたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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狂乱の時代バブル絶頂期を舞台に億単位の金が躍る世界を描いた作品。金を動かし、金の魔力に憑りつかれ、金に溺れる人々の虚構のダンスが繰り広げられる。
莫大な金を手に入れるには人を騙し、嘘を平気でつけられるようにならなければならない。善意のお手伝いと見せかけ、二束三文で土地を買占め(とはいえ、バブル期の二束三文は億単位なのだが)、その10倍、100倍の利益を上げる。 作中お金を儲ければ儲けるほど感覚が麻痺してくるものだと齋藤美千隆が述べる。かつて感動した美味しい食事が味気なくなり、高級な服やバッグや宝石も驚きをもたらさなくなる。途方もない金額のやり取りが数字としてしか見えなくなってくる。それに従い、嘘をつくことにも全然罪悪感を感じなくなってくる。 つまり金を儲ければ儲けるほど人は外道に堕ちていくのだ。 そんな金の亡者たちの物語の中心にいるのは4人。 1人目は齋藤美千隆。30半ばにして新進の不動産会社で気焔を吐く不動産業界の寵児。 人に対して決して本心を見せず、利用する者は利用し、役に立たない者は容赦なく切り捨てる。謎めいた魅力はカリスマ性を伴い、周囲を引き付ける。人間を見る目に長け、穏やかな表情と口調で人心操作を容易にするが、地上げの神様と呼ばれる波潟を失墜させようと虎視眈々と隙を窺っている。 2人目は波潟昌男。東北弁が残る田舎者の風貌ながら地上げの神様と云われ、政財界のみならず日本を陰で牛耳る極道にも太いパイプを持つ。 最近業績を急速に上げている齋藤美千隆を警戒視しながらも表面上は友好的で、彼の腹心堤彰洋を自社に限定社員として取り込む度量も見せる。風体の上がらない親父然としながらも周囲の人間に対して冷徹に評価し、自分の足手まといになる者、将来強大な敵となり得る者、そして自分に歯向かう者に対して凄まじいまでの報復を行う。 3人目は堤彰洋。しがないディスコの黒服をしていたところ、幼馴染でかつて恋人だった麻美と再会し、彼女に齋藤美千隆を紹介してもらったところでバブル全盛期の金の亡者どもが跳梁跋扈する不動産業へ乗り込む。 若さとよく回る頭を駆使し、心酔する齋藤美千隆と共にいつか創る「王国」を夢見て。21歳の若さゆえの純粋さと情熱、そして祖父から繰り言のように叩き込まれた誠実であれ、正直であれという家訓に縛られながら、齋藤美千隆のスパイとして波潟の会社に潜り込み、さらにその娘早紀に惚れてしまうことで運命の糸に自縄自縛に絡め取られていく。 4人目は三浦麻美。貧しい母子家庭に育ったことでお金に対する執着が強く、お友達の父親である波潟の愛人となるに至る。 その美貌と身体を武器にどんな男でも陥落させるが、美千隆だけは思い通りに操ることが出来ず、実は彼に惚れていることに気付きながらも“バブルと寝る女”を演じる。常に自分が一番でなければならないという性分の持ち主で、自身を貶めようとする人物には一生消えない傷を肉体的・精神的に付ける。その反面、自分が波潟にいつ捨てられるのか不安に思っている。 この一癖も二癖もある人物たちの関係が複雑に絡み合い、欺瞞と憎悪と裏切りの黒いゲームが繰り広げられる。 それは人心操作のヒエラルキーとでも云おうか。 麻美は波潟を操り、美千隆に操られる。美千隆は麻美と彰洋を操り、波潟に真意を悟らせない。波潟は美千隆に大いに疑念を抱きながら彰洋を受け入れ、利用する。その3人に翻弄される彰洋。わずかに残っていた純粋さはすり減り、自己嫌悪の沼にずぶずぶと嵌っていく。自我崩壊が進んでいく。 さらに後半関わってくる関西の地上げ屋金田義明にも弱みを握られ、波潟と美千隆の動向を常に報告するよう脅される。 今までの馳作品の主人公と同じように堤彰洋は全てが悪い方向に働き、どんづまりに陥ってしまう。 ただ彰洋が他作品の主人公と違うのは彼が若輩者で齋藤美千隆に魅せられて一緒に成り上がっていきたいという若者であり、詐欺紛いの手法で老人たちから土地を巻き上げてはいるものの、犯罪者とまでは行かない人物だということだ。 おまけに混血児でもない。一つだけ特徴的なのは敬虔なクリスチャンであった祖父から常に嘘をついてはいけない、人を騙してはいけない、人から物を盗んではいけないと云いきかされていたということだ。幼き頃に叩き込まれた教訓は相反することをしている現在の彰洋の心に歪みを少しずつ、だが着実に生じさせていく。それが彼にとっての呪縛なのだ。 馳作品の主人公たちは心の奥底に持っている生い立ちに由来する心の暗黒を持っているのが特徴だが、彰洋のそれは彼らに比べてもさほど重い物ではない。 逆に彰洋が自身を食い物にしている奴らを出し抜くために地面に這いつくばって犬のように振舞うところに彰洋がいつか成功することを夢見ていた普通の若者だったことが強調される。 成り上がっていく者たちは元々の出自が貧しいだけに真の富豪たちのような余裕や度胸がない。つまり自分が稼いだ金の上に胡坐をかき、それを崇める者たちに傲慢に振舞うばかりなのだという事実に気付いた彰洋の強さ。それがこの物語の大きなターニングポイントだ。 上下巻合わせて1,050ページ強の大作。 彼ら4人が破滅に至るまでのプロセスがじっくりと事細かに語られる。それぞれを縛るための因果をところどころに織り込ませ、それらが物語の最後に一気にカタストロフィとして連鎖反応的に爆発していく。 しかし果たしてこれだけのページを費やす必要があったのかとも思う。巨万の富を得ながら、金のために金を遣い、金を稼ぐ者たちの終わりなき修羅の道行。 全てが破滅へと収束していくように紡いだ物語はしかし、いつもながらの呪詛の連続で途中だれてしまったのは否めない。恐らくこの半分の分量で同様の物語を紡ぐことはできたのではないか。 そしてバブル全盛期の不動産業界を舞台にしたとはいえ、とどのつまり物語を彩るのは金、暴力、セックスだ。 こうまでテーマが同じだと、馳氏はこの3つのテーマが必要不可欠なモチーフを探して物語を書いているようにも思える。 そしてバブル全盛期の不動産業界を舞台にしたことで結末が解っているだけに波潟、美千隆、金田、市丸ら地上げ屋、株屋のひりつくような金のやり取りが途中空虚になっていく。誰が成功しても全てが砂上の楼閣のように灰燼と化していくことが解っているからだ。 文字通り命と魂の削り合いのような駆引きを一歩引いて眺めている私がいた。 しかし前述のようにもう金と暴力とセックスまみれの話は読み飽きた。もっと違う一面の馳作品を期待したい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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アクション冒険小説の雄デイヴィッド・マレルの手による短編集。
意外や意外。内容は奇妙な味の短編集だ。 冒頭を飾る「まだ見ぬ秘密」はクーデターによって国を追われた某国の指導者のために腹心の部下が木箱を命令のまま運ぶという話。 マレルによる解説では本作は実話らしい。まさに現実は小説よりも奇なりである。 続く「何も心配しなくていいから」はホラーテイストの話。 娘を亡くした父親の狂気とも云える執念を描いた作品なのだが、それに加えて娘の霊が抱く恐怖の謎を上手く絡めている。この霊が存在することを前提にしているのが本書のミソだろう。この辺の仕掛けは実に上手い。 さらに娘を助けるために特別高圧電流の流れる鉄塔に登って娘を救おうとする父親の狂気の姿を描いた最後まで全く気が抜けない作品。上手いなぁ。 全編会話文で構成されているという特殊な作品が「エルヴィス45」。エルヴィスマニアの教授がエルヴィスの講義を開講したが次第に狂っていくという物語。 正直これはマニアックすぎてよく解らない作品だ。会話が次第に狂気を帯びていくことは解るのだが。 「ゴーストライター」はハリウッドの歪みを描いた作品だ。 冒頭のマレルの説明にモートと同じ境遇の脚本家がいたことが告白される。恐らくはその脚本家がモートのモデルなのだろうが、マレルの姓名を逆転させてもじったような名前なのが興味深い。 次は感動の一作「復活の日」。 マレル自身がライナーノーツで書いているように彼自身初めて書いたSF小説。放射能事故で現代医療では治す手立てのない父親を冷凍保存してその方法が確立する未来まで延命させるというのは使い古されたテーマだが、本書が特別なのは父親の維持費を払う遺された家族の苦難を詳細に、そしてドラマチックに描いた点にある。 本作に書かれたように残されたまだ女盛りの過ぎていない母親にとっていつ訪れるかもしれない“その日”のために一人息子を育て、孤独を凌ぐのは並大抵の苦労ではない。しかも法律上はその間でさえ夫婦であり、再婚さえできないのだ。 加えてその維持費。当初は事故を起こした研究所の負担だったが、世論が冷凍保存技術に疑問を投げかけるや、研究所はもはや可能性は無いとして維持費の支払いを拒否する。しかし父親の復活を信じるアンソニーは大学生ながら働いてその維持費を工面し、そして自ら父親の治療法まで編み出すのだ。 物語の設定はシンプルなほど素晴らしい物になるというが本書はまさにそのお手本のような作品だ。 プロットは別段珍しいものでもなく、恐らく誰もが思いつくような内容だが、シンプルさゆえに感動を誘う。これが個人的ベストだ。 次の「ハビタット」は低予算TVドラマ用にマレルが書いた脚本のようだ。とにかく主人公の女性の「約束が違う!」という狂気の繰り言と挟まれるブザー音とサイレンとが行間から実際に鼓膜に響き渡るようで神経的にもささくれ立ってくる作品だ。 世紀末の1990年代に“Millennium”という1900年代から10年代、20年代、と特定の年代を舞台に世界の終末を描くというテーマのアンソロジーのため、ダグラス・E・ウィンターという作家が様々な作家に依頼したそうだが、マレルがそのために1910年代をテーマに書いたのがこの「目覚める前に死んだら」だ。 最近新型インフルエンザで話題にもなったスペイン風邪の猛威をモチーフに作られた作品。次から次へ急速に広がっていく殺人風邪の恐ろしさをマレルは一医者を主人公に克明に描く。 パンデミック物はその見えない脅威という意味で鉄板の怖さを見せるが本書もまたその例外に漏れず、実に恐ろしい作品だ。 実際当時は死ぬか生きるかの瀬戸際で生き残った人々の意識に選民思想が浮かぶのもおかしくないほどのすごい病気だったことが解る。ここに書かれていることは決して誇張ではない。 そして一医者のスペイン風邪との苦闘の日々として描くことで実に読み応えがあった。そしてその医者も極限状態に曝され、狂気の淵に立たされてしまうのはマレルの持ち味か。 最後は表題作。 原題は“Rio Grande Gothic”。毎夜靴が道路に落ちている日常の奇妙な謎が恐ろしい殺人鬼兄弟の巣窟へと辿り着く。 読み終われば原題が的確に内容を要約していると感じるが、何が起こるか解らない発端を抑えた邦題もまた興味を誘う。しかし邦題は実にシンプルすぎてインパクトに欠けるか。 毎夜落ちている靴に関心を持った一警官が周りの理解を得ずに孤立していく様、そして家族が離れ、孤独の中、自分を信じて真実を追いかける様、危難に陥り、命を奪われようとする様など典型と云えば典型だが、読ませる。特に敵役の農場兄弟よりもヒーロー然としておらず、どこかどん臭く、不器用な主人公のロメロの方が狂気を感じさせるのが特徴的。 マレルといえば数々のアクション、スパイ物が有名で、その派手派手しい演出はあざといまでに映像化を狙ったような作品が多いが、短編では趣を変えた奇妙な味と云える不思議な味わいを持った作品ばかりだ。 とはいえ長編に比べると刊行されている短編集はわずかに2作。しかも1作目『苦悩のオレンジ、狂気のブルー』は文庫化されておらず、単行本も既に絶版状態。従って彼の短編を読むには本書を読むことで渇望を癒すことになる(しかし本書も既に絶版状態なのが哀しい)。 さて収録された物語は歴史物、ホラーにSFとヴァラエティに富んでいるが、共通するのは自失と狂気の物語だろうか。しかもライナーノーツのように全編の冒頭にマレル自身による作品に関する説明が施されており、そのどれもが実際に彼の身の回りで見聞きし、経験したことがその作品のアイデアに繋がっているという中身となっている。 そして著者あとがきで語られるマレルの母親のエピソードが実に興味深い。決して幸せではなかった彼女の人生を目の当たりにしてきたマレルが幼少時代の彼の心に落としたのは何かを盲信しないと人は生きていけないという翳ではなかったか。 不幸な生い立ちを辿った母親に育てられ、成人して作家として成功しながらも最愛の息子を亡くすという大きな不幸に見舞われたマレル。そんな彼だからこそ一風変わった余韻を残す物語がこれほど生まれたのではないか。 特に息子を亡くしてからのマレルの作風はガラリと変わったと聞く。彼が襲われた最大の不幸のために彼の中に一種狂気に似た感情が宿ったに違いない。 ここに書かれた作品に登場する不屈の精神を持つ主人公たちはその執着心の強さゆえにどこか壊れた印象を受ける。 アクション物の長編では短い章立てでテンポよく物語を展開する作品であるが、短編ではじっくり書き込んで読み応えを促す真逆の作風であるのが特徴的だ。 そして長編のイメージを持っていた私はマレルがこれほどヴァラエティに富んだアイデアを持ち、濃密な話を書けるとは思えなかった。恐らく誰もが思うようにマレルは長編よりも短編の方が面白い。 こうなると『このミス』ランクインした前述の『苦悩のオレンジ、狂気のブルー』の復刊が望まれる。どこかの出版社で文庫化してくれないだろうか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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題名に『超~殺人事件』と各編に冠したパロディ短編集。副題に「推理作家の苦悩」とあるように推理作家が常日頃抱いている不平不満をテーマにした作品とも読み取れる。
まず最初は「超税金対策殺人事件」はたまたま売れたがためにドカッと税金を納めなければならなくなった推理作家が各種領収書を必要経費と税務署に認めさせるようにあの手この手で作品にどうにか織り込もうと苦心する作品だ。 常々作家は取材旅行と称して色んな所に旅し、また車や高級な服なども自分のために買っても作中に登場させれば必要経費として落とせる、なんて優雅な商売だと思っていたが、ここにはそのために手練手管を尽くす作家の足掻きが書かれている。逆に云えば作家たるもの、年末の確定申告に向けて買い物や娯楽に費やしたお金をいかに上手く作品に活かすかに腐心しているとも取れる。 本書には物品ごとや行楽費をどのように活用すれば必要経費として落とせるかが細かに書かれているが、これは東野氏自身の経験だろう。翻せば新人作家は本書を読めば必要経費への落とし方が解る、いいマニュアルとして活用できるわけである。 ところで東野氏は本書を書くためにハワイ旅行や旭川の旅行費用を必要経費として落としたのだろうか?だとすればなんと狡猾な人なのだろう。 続く「超理系殺人事件」は本屋に立ち寄った男が佐井円州なる見知らぬ作家の書いた『超理系殺人事件』なる本を手に取る。そこには中学の理科の先生である男でさえ知らない最先端科学の話がふんだんに盛り込まれており…。 タイトルの下に「この小説が肌に合わない方は飛ばし読みして下さい」の一文が付されているように本書は量子力学、宇宙物理学、生物学、医学、遺伝子工学など、大卒の私でさえ専攻したことのない難関な最先端学問の知識がこれでもかと云わんばかりに織り込まれている。 東野氏の作品では自身がエンジニア出身ということもあってか、科学関係の知識が盛り込まれた作品が少なくないが、それでも文巧者の東野氏だから非常に読みやすいのが特徴的だった。 しかしながら本作では逆にそれを放棄し、延々と小難しい専門用語を敢えて多く使うことで特異性を出している。そして最後に至る似非理系人間摘発のオチ。思わず本書から手を放したくなる演出だ。 意表を突かれたのが「超犯人当て小説殺人事件」だ。 懸賞付き犯人当て小説を当てるために集められた編集者たちが一夜を作家邸で明かすと当の作家が何者かに殺されていて、さらにその殺人事件が実は犯人当て小説の中身だったという入れ子構造になった作品。確かに読者にとってはそれもまた作品なのだから正しいが、作品世界に没頭すればするほど眩暈が起きるような作品だ。 今後の出版界の暗い未来像を予見しているかのような作品が「超高齢化社会殺人事件」だ。 高齢のミステリ作家担当の編集者とは本当にこんな苦労をしているのだろうかと一種実話のように受け取れる作品だ。 そして東野氏は読書離れが進んでもはや読書をするのは以前の読者であり、そして作品もまたネームバリューのある作家の物しか売れないためにほとんどの作家が高齢だという未来像をここでは設定している。幸いなことに本書刊行から数十年経った今では逆にメールやブログ、ツイッターが流行した現在では一般人の表現欲が開花し、作家になりたがる人は増えている。しかし一方で出版不況が叫ばれているのはこの予想通りなのだが。 ともあれ、作家も編集者も出版に携わる人々が高齢化し、それぞれがボケているというブラックユーモアの効いた一編だ。 「超予告小説殺人事件」は実に東野氏らしいツイストの効いた一編だ。 推理小説に書かれた内容のとおりに実際に殺人が起きるというモチーフは使い古された手法だが、そこに東野氏は実に人間臭い味付けを施す。 庶民である我々ならば当然そうなるよなぁと展開で全く不自然さがないのがこの作品の魅力。逆に云えば最後のオチはそれが故に予想通り、落ち着くべきところに落ち着いたとも感じてしまうのが玉に瑕なのだが。 本書で一番笑ったのが次の「超長編小説殺人事件」。 本書が書かれたのは2001年で作品の長厚壮大化が蔓延っており、実際『このミス』でもそれら2000枚超の大作が上位を占めるという風潮があった。 実際2001年までの代表的作品を見てみると、髙村薫氏の『レディ・ジョーカー』に真保裕一氏の『奪取』や京極夏彦氏の京極堂シリーズ。夢枕獏氏の『神々の山嶺』、小野不由美氏の3500枚の『屍鬼』に、とどめは4000枚超の二階堂黎人氏の『人狼城の恐怖』とどんどんエスカレートしていっているのが解る。 そもそもミステリの長大化は島田荘司氏の御手洗潔シリーズや船戸氏の諸作品がその先鞭だったように記憶しており、そこから自然派生的に他の作家たちも長大化したように感じている。 そんな当時の出版界の世相を皮肉ったのが本作だ。特に本筋とは全く関係のない情報を織り込んで水増ししているのを作中作で過剰に実践しているところは笑いが止まらなかった。また本作では実作家の名前や作品名のパロディが多いのも特徴的だ。 「魔風館殺人事件(超最終回・ラスト5枚)」は箸休めのようなショートショートだ。連載最終回に至っても解決策のアイデアが浮かばない作家が最後に取った手は…という趣向だが、これも時折見られる手法だ。しかし実際連載小説はバランスが悪い作品が多いように感じる。 最後の「超読書機械殺人事件」は書評家の許に代わりに書評を書いてくれる機械ショヒョックスなる機械を売りに来る男の話。 日々本を大量に読んではその感想を書くことで生業にしている書評家にとって苦笑せざるを得ない作品だ。 元々一読者として本を読むのが大好きでいつしか感想を書き、そしてそれをウェブや同人誌で挙げていくうちに知らぬ間に書評家となっていたという方々が多いことだろう。そして大半の書評家がいつしか好きで読んでいた本が単に収入を稼ぐための目的として本来の本好きから乖離していっていることだろうと思う。なぜなら仕事のために読みたくもない本も読んで、抱いた感想とは裏腹にその本を売るために褒めなければならない文章を書かされるからだ。 まさに本作はそんな歪んだ読書を痛烈に皮肉った作品だ。しかし『名探偵の掟』から東野氏の読者に対する不信感はますます増すばかりだなぁ。 古くは『浪花少年探偵団』や『殺人現場は雲の上』で垣間見れ、『怪笑小説』や『名探偵の掟』で花開いた東野氏のユーモアが横溢した短編集。 『超・殺人事件』の名が示す通り、過剰なまでに特化されたテーマを突き詰めることでギャグに徹している。 そして常に描かれるのは作家や編集者など出版に携わる者たち、作家もミステリ作家と決まっている。つまりこれは業界の内幕をコミカルに描き、半ば暴露した短編集なのだ。 しかし単に面白いだけでなく、各編には出版業界の暗い側面が描かれていることに気付かなければならない。 例えば「超税金対策殺人事件」はまさに現役の作家ならば一度は直面する問題ではないだろうか?作家業とは無縁の我々にとっては実に面白おかしい喜劇であり、現実味のない話だが、作家の方々は逆に笑えない作品かもしれない。 そして東野氏自身がこの作品を書くことで作中に登場する物品や資産、旅行などの行楽費を経費で落としたのかもしれない、とまで思ってしまう。もしそうだとしたらなんて賢いのだろうか、東野氏は! 「超理系殺人事件」は内容が極端だが、現在では一定の部数を売るため、読書に縁のない人々にも手に取れるように平易で安易な内容、文章を書くように作家たちは強要されているのかもしれない。しかし作家の中には自分の書きたいテーマを深く追求し、濃い内容で書きたいと思っている人もおり、そういった意味ではこの作品はそんな作家たちの恨み節とも取れる。 恐らく自分が書きたい濃い内容を書くことが出来るのは島田荘司氏とか京極夏彦氏とか大沢在昌氏とか巨匠と呼ばれる一部の作家だけなのだろう。 「超犯人当て小説殺人事件」はゴーストライターに死なれたために作家当人が遺した作品の犯人が解らないという皮肉な内容だが、これももしかしたら実際に業界では有名な実話なのかもしれないし、「超高齢化社会殺人事件」は先細り感のある出版界への一種の警鐘として、そして「超予告小説殺人事件」は作品が売れ、生活が出来ている作家とはごく一部であるという業界の厳しい現実を突き付けており、また売れるためには作家は何でもするという凄みも感じさせる。 「超長編小説殺人事件」ではエスカレートする小説の長大化を皮肉っているが、実際当時は作中に書かれているように出版社から1000枚のみならず2000枚クラスの作品を多くの作家が要求されていたのであろう。限られた書店の本棚のスペースを占有するために、そしてページ数を増やすことで単価を引き上げるために。 作中で書かれている「文字のフォントを大きくする」、「改行を増やす」、「字間、行間をできるだけ開ける」などはまさに出版社の苦肉の策であり、実際に行われていることだ。本当に最近の見開きページのスカスカ感にはガッカリさせられる。 また本書は東野氏の超大作『白夜行』以後に書かれた作品だから、もしかしたらここにはその時の恨み節も入っているのかもしれない。 「魔風館殺人事件(超最終回・ラスト5枚)」のように結末まで決めずに書き始めて収拾がつかなくなった作品もあるのだろう。特に新人作家、売れない作家は急な連載を断れず見切り発車で進めた作品も多いことだろう。 そして最後の「超読書機械殺人事件」は実に痛烈だ。この作品ではどんな作品であろうと書き方次第で欠点も美点となり得ることが書かれている。そしてその内容には浅薄なものもあり、作者が読み取ってもらいたかったことに触れられていない書評も多いに違いない。また作者自身も他作家の作品で一種強要された解説を書かされた経験も織り交ぜられているのかもしれない。 とこのように各編には「作家はつらいよ」と云わんばかりのアイロニーに満ちている。「推理作家の苦悩」と副題にあるように本書を読めば文筆業に携わる方々の苦労が偲ばれる。物語を生みだし、創作するということがいかに大変か、そして日夜いかに苦しんでいるかが本書を読めば解る。 本書の内容はかなりユーモアに満ちているがその8割は作家が日常に孕んでいる苦労や苦悩であるに違いない。 つまりこれらには実際の作家たち、評論家たち、編集者たちの生の声が収められている業界裏話でもある。 そして作家たちの心からの悲痛な叫びであろう。恐らく一般読者は面白く読めたが、作家たちの多くは身につまされるエピソードや共感し、快哉を挙げた話が多く、単純に笑って済まされない物語が多いに違いない。 果たしてこれは東野氏からの作家を目指す全ての作家予備軍たちに対する警鐘の書ではないだろうか? 該当する方々にとって本書は必読の書と云えよう。決して笑い事として済まさないように。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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トレヴェニアンの傑作『シブミ』を現代きってのストーリーテラー、ドン・ウィンズロウが受け継ぎ、続編を書く。このニュースを聞いた時に私の嬉しさと云ったらなかった。
『シブミ』は私が現代ミステリを読み始めた頃に読んで驚きとスリルを味わった作品。そしてウィンズロウは2年前から読み出した作家でとにかく発表される作品すべてが痛快で外れなしの作家だ。 これはまさに私に読むべしと告げているようなものではないか! そして早くも文庫化された。最近の早川書房の文庫化の早さは文庫派の私にとって何とも嬉しくて堪らないものがある。 そんな期待の中、繙いた本書は一読して一気に『シブミ』の世界に舞い戻らされた。 ここにはいつもの軽妙でポップなウィンズロウ節はなく、あるのはトレヴェニアンが築いたニコライ・ヘルの物語だ。日本の侘び寂びを筆頭に中国などの東洋文化に深く分け入った描写。『シブミ』を読んだ時に感じた「これは本当にアメリカ人が書いたのか?」という驚嘆の世界が次々に繰り広げられる。 冒頭の茶会のシーンで描かれる茶道の細かな作法とさりげない所作の数々。中国人との文化の違いによる交渉の仕方、またニコライが囲碁に擬えて戦局を探り、最善の道を模索する思考などなど、単に日本の物を並べたような浅い描写ではなく、文化と国民性まで踏み込んだ深みのある洞察に至っている。 確かに本書には『シブミ』の世界があるのだ。 また原典に登場した人物が本書でも出てきてニコライと深く関わり合うのがいい。憎き大敵ダイアモンド大佐を筆頭に情報ブローカー、モーリス・ド・ランドなど、ニコライにどのように関わりあったかが本書できちんと描かれているのが実に楽しい。本書の後にもう一度『シブミ』を読み返したくなる粋な演出だ。 さらに物語の翳で暗躍する<コブラ>なる暗殺者の正体には実にフランス的趣味が施されている。 忠実に原典の世界を再現させつつも作家ウィンズロウとしての矜持も忘れない。まさに今最も脂の乗り切った作家の1人だ。 さてそんな東洋文化を織り交ぜ、日本、中国、ヴェトナムへと舞台を展開し、スパイ小説のみならず冒険小説のスリル―ニコライがギベールとしてヴェトナムまでロケットランチャーを届けにジャングルや急流を渡るシーンのスリリングなこと!―も味わうことの出来る、まさにエンタテインメントのごった煮のような贅沢な作品だが、一つ納得のいかないのは本書の題名にもなっているサトリの内容だ。 ニコライがヴォロシェーニンへのミッションで傷つき、療養生活を送っている間に出逢う雪心なる僧侶との会話でサトリというものの境地を教わるのだが、それがいわゆる高僧が開く悟りの境地とはいささか異なるように思える。 これからの道行きの全てが見えることを“サトリを得る”と書いてようだが、悟りとは日蓮や親鸞などの話からすれば、いわゆる“真理”を悟るということだと私は認識している。そしてその悟りの教えを広く伝えるために伝道師として行脚しているのが彼らである。 従ってニコライが本書で得ているサトリとはいわゆる“見切り”であり、囲碁や将棋で何手先まで見通す“見極め”のことではないだろうか? その点を日本人が認識する“悟り”と誤認しているように思えたのが大きなマイナスとして私には働いた。 とはいえ、34年も前の作品を前日譚を描いて見事甦らせたウィンズロウの功績は大きい。名作と云われた原典が本国アメリカでは今どのようなステータスにあるのか寡聞にして知らないが少なくとも日本では新版として再販され現在も絶版せずに書店の棚に並んでいる。 恐らく今後長らく『シブミ』は古典の名作として数ある巨匠の作品と共に並び続けるだろう。それは本書が一役買っているのは間違いない。 そして本書もまたその横に共に並び、いつまでも誰もが手に取れ、ニコライ・ヘルの世界に浸れるようになるよう、望んで止まない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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エラリイ・クイーンのノンシリーズ物。
舞台は人口約16,000人の小さな町ニュー・ブラッドフォードで主人公はそこの警察署に勤めるウェズリー・マローン。物語は彼が製紙会社の給料強奪殺人事件を起こしたギャングたちに犯罪の片棒を担ぐよう強要されるところから始まる。 物語は娘の救出、金の紛失、強盗一味の自宅占拠に失った金の在処の捜索、そして再び娘の誘拐と一転二転三転とする。 物語の終盤は強盗一味と警察側の裏のかき合いの応酬だ。結束の弱い一味の弱みにつけ込み、裏切者を作って内部崩壊を目論む警察側。警官の娘を人質に金をどうにか取り戻そうとする一味たち。その駆引きはスリリングで緊張感に溢れている。 そして原題が示す“Cop Out”の名の通り、とうとうマローンはわが娘のために警官の職から離れ、一味に力を貸すことになる。 この作品にクイーンの端正なロジックやサプライズは一切ない。片田舎の小さな町で起こった犯罪に巻き込まれる人々の荒んでいく姿があるだけだ。 全く従来のクイーン作品とは趣も文体も味わいも違う作品だ。テイストとしてはハメットやチャンドラーが書いた冷酷無比な悪党の登場するハードボイルドを感じさせる。 本書はクイーン作家生活40周年を記念して書かれた作品だが、晩年のクイーン作品の多くがそうであったように、本書もまた他の作家の手によるクイーン名義の作品だと思っていた。 しかし調べてみるにどうも本書は実際にクイーン自身が著した作品のようだ。しかし逆にそれが本書の魅力を減じていると私は思う。 なぜなら前述したようにクイーン=本格という図式が強く根付いているため、本書でもそれを期待してしまうからだ。その先入観が強すぎて本書の世界に浸れない自分がいた。 これがもし別の作者の手による作品だったら、公平な判断を下せたかもしれない。もしくは前知識あった方が作品を読むにあたっての構えが出来ていたのかもしれない。 最晩年期のクイーン作品はタイトルのみ挙がり、作品の内容にまで触れられる機会がほとんどない。そんなことも今回の読書の弊害になったのではと思わずにはいられない読後感だった。 |
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リンカーン・ライムシリーズ8作目の敵は他人の情報を自在に操るソウル・コレクター。彼は他人の趣味趣向を調べ上げ、その人の持ち物と日々の行動範囲などから証拠を捏造し、犯人に仕立て上げる連続殺人鬼だ。
通常殺人事件の犯人となれば自身を特定する情報を失くすために慎重に痕跡を消し去るものだが、今回のソウル・コレクターは逆に他者を特定する証拠を残すことで捜査の眼から自身へつながるルートを誤操作させる。それはデジタル化した個人情報を巧みに操ることで可能とする。まさに過剰化する情報化社会が生んだモンスターなのだ。 リンカーン・ライムのシリーズではしばしば「ロカールの原則」というのが引用される。すなわち犯罪が発生した際、犯人と犯行現場と被害者との間には例外なく証拠物件が移動するという原則だ。 本書の連続強姦殺人鬼ソウル・コレクターはこの「ロカールの原則」を逆手に取って捜査を誘導する、まさに鑑識にとって天敵なのだ。 それに加えて前作の宿敵ウォッチ・メイカーの追跡も行われる。彼と思われる人物がイギリスへ逃亡したことを知り、ロンドン警視庁と共同で捕獲作戦を行う。 さて本書の題名ソウル・コレクターだが、実は一度も作中に登場しない。作中では未詳522号もしくは素っ気なく522号と呼ばれるだけ。5月22日に発生した(発覚した)事件の容疑者だからと由来も素っ気ない。 つまりソウル・コレクターとは訳者の創作による命名なのだろうと思ったら、実はディーヴァー本人が訳書のために挙げた候補の中から選ばれたそうだ。なんというサーヴィス精神か。 ちなみに原題は“The Broken Window”。作中でも語られるがいわゆる「割れ窓理論」を指す言葉だ。 窓ガラスが割れたままだとその状態が当たり前になり、人の心も荒んで犯罪が増えるという理論だ。これはニューヨーク市長がスラムの割れた窓を補修し、建物の落書きを消して綺麗に整備したことで犯罪発生率が激減したことからも証明されている。実に有名な話だ。 しかし本書ではもう1つの意味を持っている。それは人々のプライヴェートを割れた窓から覗くというものだ。そうすることで個人の情報を白日の下に曝し、その人の行動を先読みし、誘導していく。趣味嗜好まで把握し、また個人的な悩みも知らされる。人相が似ている犯罪者を捜し出して、逆に警察官を犯罪者として通報し、誤認逮捕を行わせようとまでする。 それらの情報は今我々が使っているインターネットは勿論の事、クレジット・カード、銀行のATM、日本で云うところのETCの通過記録、市街に設けられた監視カメラ、警察の免許証更新記録などなど通信機能を備え、電脳空間を介する行為が蓄積されたデータバンクから引用されるのだ。しかも記録されることを逆手に取り、盗んだ個人情報を悪用して買い物をし、精神カウンセラーの案内を取り寄せたり、出退勤記録も改竄して、さも冤罪者が犯罪者であるかのように誤導するのだ。 これは堪らない。 なんせいつもと変わらぬ朝を迎えたところにいきなり警察が乗り込んでくるような事態に陥るのだから。まさに情報化社会の恐ろしさをまざまざと思い知らされた。 さらに敵の氏素性が解ると今度は情報を操作し、あらぬ罪を被せ、身の覚えのない借金を抱えさせられる。 アメリアは父親から譲り受けたカマロを没収され、ライム宅は電気料金未納で電気を止められ、ロン・セリットーは麻薬所持の罪で停職処分にさせられ、プラスキーは妻と子供が不法滞在者として拘留させられる。 いやはや情報というものがこれほど我々の生活を脅かす存在になるとは思わなかった。 本書に出てくるデータ・マイナーというあらゆるデータを保存する会社は存在している。知らないうちに我々も番号化され、趣味嗜好、思想や人間関係の繋がりなどがどこかでデータ化され蓄積されているのだろう。いわば見知らぬ誰かに丸裸の自分を把握されている状況だ―何しろ長らく秘密とされていた介護士トムのラストネームでさえ判明する―。 だからこそこのような個人情報を扱う会社はセキュリティを絶対無比の物にしなければならないし、また情報を扱う社員も人格者でなければならない。情報化社会と一口に云うが、その重大性や脅威について本書でその本質を知らされた次第だ。 しかし本書は真犯人が誰かとかウォッチメイカーは捕まったのかよりも情報の持つ恐ろしさをまざまざと思い知らされたことが大きい。 モバイル機器のCMで「いつもどこかで誰かとつながっている」なんてコピーが温かみを持って流されるが、その裏に潜む怖さが本書を読むことで先に立つ。 便利になった現代社会の歪みを見事エンタテインメント小説の題材に昇華したディーヴァー。まだまだその勢いは止まらないようだ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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一言では云い表せない作品だ。
今まで元グリーンベレーやCIA工作員、はたまた秘密結社の凄腕テロリストと、殺しの技術を極めた男を主人公に据える物語を作ってきたマレルが今回選んだのは一介の戦場カメラマン。 このカメラマン、ミッチェル・コルトレーンが自分が撮ったイスラム教徒大量虐殺者ドラゴン・イルコヴィッチの魔手から逃れるという、まさにマレルの真骨頂とも云うべき作品なのだが、実は本書ではそこに至るまでにコルトレーンが伝説のカメラマン、ランドルフ・パッカードの遺志を継いでロサンゼルス各地の家々を撮影しに回るエピソードに面白さを見出していた。 そしてアクション小説家のマレルのこと、大量虐殺者イルコヴィッチの魔の手から逃れるためにコルトレーンが色んな策を凝らすという構図を想定していたが、意外にもこの宿敵との決着は上巻の300ページ辺りであっさりと着いてしまう。 私は思わずこの時本書が上下巻だったことを再確認し、さてこの後下巻1冊かけての展開はどうなるのだろうと訝ったものだ。 なんとそこから物語は購入したパッカードの家の資料室の隠し部屋で発見した絶世の美女の正体、そしてその家の元オーナーたちの失踪の謎を探る物語になるのだ。 そしてそこからまた物語は絶世の美女に瓜二つの女性ターシャとの邂逅から彼女に付き纏うストーカーとの戦いになる。やはりアクション作家マレルが落ち着くところはアクションだったということか。 しかしそこからまた物語は色を変える。ストーカーとの戦いから謎の失踪を遂げるターシャの捜索の物語へと。それはそれまでターシャの身の回りの人々が彼女のことを知らされなく、また身辺保護をしていた警官たちも知らぬ存ぜぬを貫く。まるでアイリッシュの『幻の女』のようなサスペンスへと転じるのだ。 そして最後になってターシャ・アドラーと云う女性がそれまでたびたび名前と住居を変えては彼女の周囲に死体の山を築く、いわゆる魔性の女であることが明かされる。つまり行く着くところは悪女物サスペンスなのだ。 しかし冒頭のイルコヴィッチとの戦いといい、途中から登場するナターシャに付き纏うストーカーといい、そしてコルトレーンがナターシャとの愛欲に溺れ、彼女の行先を執拗に追い求める行為といい、本書はストーカーとの戦いの物語と云える。 奇しくもこの前に読んだ東野氏の『片思い』もストーカーが物語に関係していた。特に意識して作品を読む時期を選んでいるわけではないのだが、えてして読書と云うのはこのような不思議な繋がりを読み手にもたらす。 今まで息の詰まるような緊張感溢れるアクションを売りにしていたマレル。それは一躍彼を有名にした『ランボー』のようにどこか映画化を意識した作りだったのは否めない。 しかし本作ではそのアクションテイストを前菜にし、遺志を継いだ伝説のカメラマン、ランドルフ・パッカードの痕跡を追い、また彼に縁のあった絶世の美女のその後と人の過去を探る物語へ変わる。つまり極論すれば人を殺すだけの物語から、人そのものを浮き彫りにして描く物語に変わったのだ。 それは名もなき死者を大量に生み出す物語ではなく、個としての人間に向き合う物語へと変わったと云えよう。そこに本書の最大の特徴があるように思う。 しかし最後にマレルはターシャを次々と男たちを手玉に取っては命を奪う稀代の悪女に仕立て上げ、最終的にサスペンス小説に仕上げてしまった。 これが非常に残念でならない。コルトレーンというカメラマンが尊敬する伝説のカメラマンの足跡を追う人生の物語に仕上げればこの作品は印象深いものになっただろう。 というのも作中、次のような忘れられない言葉があったからだ。それはコルトレーンがカメラマンを志すきっかけとなった経緯を語るシーンでの次の言葉だ。 カメラは何も奪わない。それどころか永遠を与えるものだ。 本書はマレルが実の息子を亡くしたことを語ったノンフィクション作品『蛍』の10年後に発表されたものだが、この言葉は彼が亡き息子を思い出すためのよすがとなった写真への思いではないだろうか。肉体を伴った息子は既にないが、その姿形は写真の中では永遠であり、そしてその肖像は心に残る息子を永遠に留まらせてくれる。私はコルトレーンのこの言葉に私はマレルの本心を見た。 狂える大量虐殺者との戦い、伝説のカメラマンの過去の捜索、その最中に巡り合う絶世の美女とのロマンスに、その女性に付き纏うストーカーの正体の謎、さらにその美女と伝説のカメラマンとの奇妙な関係、そして突然失踪する美女の行方、最後に男を狂わす悪女の物語と、実に多彩な展開を見せる本書。 題名はダブルイメージ、つまり二重像と云う意味で、恐らくこれは後半物語の中心となる絶世の美女ターシャ・アドラーの二面性を指しているのだろうが、物語としては二重三重、いやそれ以上の像を浮かび上がらせる。いやあ、こんな物語だったとは全く予想がつかなかった。 特に深く愛し合ったターシャがメキシコの件から戻るといきなり住所と電話番号を変えてコルトレーンの目の前から消えていなくなり、更には新しい男と愛し合う場面を目の当たりにするコルトレーンの信条などはかつて私が遠距離恋愛で失敗した苦い思い出を想起させ、非常にいたたまれない気分に陥った。 男は本気で愛している時、その愛は永遠であると思うのだが、その実女性はあるところで冷めていていつでも袖にすることが出来るのだ。いやはや女性とは本当に恐ろしい。 コルトレーンの痛切な過去―夫の暴力に耐えかねて逃亡生活を送った母親が居所を突き止めた父親に目の前で射殺され、そして父親自身も自殺する―が彼が写真家を目指すきっかけになったエピソードなど読みどころもあったが、短い章の連続が物語を味わう余韻を損なっているのを今回も感じてしまった。テンポよく進む作品の功罪だろう。 発表当時全く話題にならなかった本書だが、意外にも物語としてはヴァラエティに富んでいて一種忘れられない何かを残す。それだけに物語の方向性を読み誤った感が否めない。 実に惜しい作品だ。 |
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今回東野圭吾氏が扱ったテーマはトランスジェンダー。まず大学のアメフト部の女子マネージャーが男に性転換して現れるところから始まる。
つまり彼女、日浦美月は性同一性障害だったわけだが、他にも男性の性器と女性の性器を併せ持つ真性半陰陽や女性なのにY染色体を持つ女性がいることなどが語られる。 これには2つのケースがあって、1つは精巣性女性化症。これは精巣を持っていながらもそれを受け入れる受容体がないため、男性ホルモンは出ても肉体が男性化しない女性のことだ。 もう1つは性腺形成異常症。これは胎児期の早い時期に精巣が死んでしまう病気で、逆に男性ホルモンが分泌されないが染色体は男性であるというもの。特に両性具有体である真性半陰陽が実在するとは驚きだった。 そしてそれらの女性がスポーツ界で男性顔負けの体格を得てオリンピックなどに出場している事実。確かにアメリカや中近東の選手に男かと見紛うような選手がいるが、もしかしたらこの類かもしれない。いやあ、実に勉強になるなぁ。 そしてこれらの人間の謎こそが今回のミステリと云えよう。最初は男として生活していた日浦がストーカーを殺した事件を探る話だったが、哲郎たちの捜査は性同一障害者たちのある壮大な計画へと繋がっていく。 男と女。 二つの性があるからこそ愛が生まれ、またお互いの考え方が違い、文化が生まれる。男には男の、女には女の世界があり、価値観がある。 だからこそ世界は面白いのだが、一方でその狭間で苦しむ人間たちもいる。男の身体に宿る女の心を持つ者。女の身体に男の心を宿す者。遺伝子は女なのに両方の生殖器を持つ者。そんな彼ら彼女らに男と女の定義は空しい限りだ。しかしその定義が彼ら彼女らの世界を縛り付けている。 それ故彼ら彼女らは過去を消し去り、新たな自分を、真になりたかった自分の人生を生きようとする。お姉系キャラとして性同一障害者がTVで堂々と振舞っている現在からみれば、隔世の感を覚えるかもしれないが、本書が発表された2001年は確かにまだ認知度が低く、異端として見られていた。 物語に幾度となく登場する、知らない方がいい、そっとしておいてやれ、という言葉はまさに本来取るべき方法だろう。 しかし本書はミステリ。謎は解かれなければならない。読んでいる最中、行き着く結末は決してカタルシスをもたらすものではなく、寧ろやはり知るべきではなかったという思いが去来する結末に向かうだろうことは予想できた。 毎回東野作品の結末は何とも云えない切なさを感じてしまうが本書もまたそうだった。 そして男だからこうだとか、女だからこうだとか、また男の心を持っているから女を好きになるだとか、その逆もまたそうだとか、単純に二元化できないのも事実。男が男らしさに憧れ、理想に近い同性に惚れるように性同一性障害の人々もまたそうなのだ。 本書で男と思っていたら実は女だった、または女だと思っていたら実は男だったというジェンダーが反転する趣向が繰り返されるにつれ、一体男とは女とは何なのだろうと思わざるを得ない。 さらに東野氏が上手いのはこの男と女の話を、すれ違いを繰り返して夫婦生活が冷え切った主人公西脇夫妻のサイドストーリーと絡めていることだ。 お互いの職業を尊重しながらもいつしか夫婦として機能しなくなり、ただ一緒に暮らしているだけになった2人。その心の行き違いが実は二人が付き合いだした大学生の頃のある事件から起因していたことを明かされる部分はお互いがそれぞれ抱いていた男性観、女性観にいかに縛られていたのかをまざまざと思い知らされる。 これが本書の主題と上手く絡み合って実に上手いなぁと感じるのである。 そしてこの西脇夫妻は当時女性の社会進出が台頭し、結婚適齢期が遅くなり、また共働きで子供を作らなくなった夫婦の典型でもある。それが今に至り、少子化問題に繋がっているわけだが、これも当時の世相を反映していて興味深い。 その他巨乳ブームなども触れられていて実に懐かしくも感じたのだが。 そして本作の題名『片想い』の意味。正直云って物語の序盤は全くこの題名が頭を過ぎらなかった。つまりこの言葉とは無関係の内容で物語が進むからだ。しかしその意味は物語の1/3辺りで唐突に出てくる。 東野圭吾は何とも切ないテーマを持ってきたものだ。 また特徴的なのは本書で頻繁に挿入される哲郎たちアメフト部のエピソード。大学を卒業して13年にもなるのに毎年11月の第三金曜日に集まっては酒宴を開いている。そんな仲間たちのエピソードと、美月の問題に何時でも駆けつける絆の深さが心に響く。 つまり彼らは同じ時間を共有し、ともに汗を流し、苦楽を共有した者たちだけが持つ繋がりを随所に感じさせてくれる。 哲郎はフリーライターで決して捜査のプロではない。そんな彼を助けるのが元アメフト部の仲間たち。そして哲郎の捜査の前に立ちはだかるのもまた同じ仲間の1人であり、さらに事件の中心人物も仲間なのだ。 選手とマネージャーと云う関係で付き合っていた哲郎と理沙子、そして中尾と日浦。一歩引いた立場で哲郎を手伝う須貝。日浦の窮地を救う哲郎たちに立ちふさがるのが早田。 最後まで読むに至り、この物語は帝都大アメフト部たちの物語なのだと解る。 だからこそこの物語は始まりも終わりもOBたちの飲み会なのだ。 心の解放と一抹の寂しさ。得た物の代償として喪った物は大きく、そして喪っただけの者もいる。 男と女の幸せとは一体何なのだろうか? そんな他愛もないことを読後考えてしまった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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クイーンはクイーンでも本書の主役はエラリイではなく、父親リチャード・クイーン警視だ。
まず驚きなのがリチャード・クイーン警視が結婚したという幕開けだ。退職した警視のお相手は『クイーン警視自身の事件』で慕うようになったジェシイ・シャーウッド! いやあ、あの結末から7作目で結婚だとはまさに想定外。その間の作品でジェッシイとの付き合いが書かれていなかっただけに驚きだ。 その妻ジェシイにハネムーンから帰ったところに送られていた招待状。それは全く面識のない老富豪からの招待状だったという実に魅力的な導入から始まる。 一方のエラリイは世界中を股にかけた豪遊旅行中の身でトルコにいた。 この奇妙なシチュエーションの謎を解き明かそうとクイーン警視は退職警官の元同僚たちを雇って老富豪ブラス氏の素性調査を行う。ここら辺はさながらホームズのベイカー・ストリート・イレギュラーズを髣髴させる。 さてこのリチャード・クイーン警視とその仲間たちが挑む謎は3つ。 1つはヘンドリック・ブラス氏は何故面識のない6人の人物に遺産を相続しようと決めたのか? 2つ目はブラス氏が云った600万ドルの遺産とはいったい何処にあるのか? 3つ目は一体誰がブラス氏を殺したのか? そして今回鳴りを潜めていたエラリイは最終章で登場し、一気に事件の真相と真犯人を突き止める。 『クイーン警視自身の事件』ではエラリイの登場無しで警視のみで解決していただけに今回も同趣向だと思っていただけにこれには驚いた。つまり作者はシリーズそのものをミスディレクションに用いたとも云える。 そう思うと本当にクイーンは本格ミステリの鬼だな。 さて本書のタイトル『真鍮の家』。原題では“House Of Brass”とそのままだが、実は色んな意味を含んだ題名である。題名通りまさに真鍮尽くしの物語なのだが、“brass”には本書の冒頭に引用されているように色んな意味がある。 さらに物語終盤、集められた人々の意外な一面が明かされる。そんな意味からもなかなか深いタイトルだと云えよう。 ただ識者による情報によれば本書もまた代作者の手による物らしい。『第八の日』、『三角形の第四辺』を手掛けたエイブラハム・デイヴィッドスンが書いたとのことだが、全く違和感を覚えなかった。 プロットはダネイを纏めているとはいえ、リチャード・クイーン警視を主役に物語を進める技量はよほどクイーンの諸作に精通していないと書けないだろう。特に『クイーン警視自身の事件』のエピソードを膨らませてクイーン警視が本作で結婚をするという長きシリーズの中でも大きなイベントがあり、しかも終章でようやくエラリイが登場して事件の真相を解き明かすという憎い演出など晩年期のクイーン作品の中でも非常に特徴ある作品だと思う。 また5Wで表現される各章の章題もまさにクイーンならではではないか。 個人的にこの作品は魅力的な導入部といい、エラリイでなくリチャードを物語の中心に据えているところといい、そして最後にエラリイが登場して一気に解決する演出といい、また事件や扱っているテーマ―特に最後解散せざるを得ない退職警官たちが直面している、働きたくても職がないという社会的側面なども含めて―から見ても、クイーン諸作の中でも上位に来る作品である。 もはやライツヴィルシリーズを読み終えてこれからの作品は全作読破に向けて、消化試合的読書になるかと思っていたが、こんな佳作があるからクイーンは全くもって侮れないと思いを新たにした作品だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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当時週刊少年ジャンプ誌上でも募集がされていた「ジャンプ小説・ノンフィクション大賞」を若干16歳の若さで受賞したのが乙氏の「夏と花火と私の死体」だった。その作品を含んだ2作の中編集が本書。
さてそのあまりに鮮烈なデビューとなった表題作はどこかの田舎町を舞台に繰り広げられるあるひと夏の出来事だ。 一言、上手い! いわゆるアンファンテリブル物だが、ことさらに恐ろしさを強調するわけでもなく、あくまで静かに淡々と語ることで恐ろしさを助長しているのがすごい。わずか16歳でこの文体で子供による死体遺棄事件の顛末を語る着想に至った乙氏の才能に戦慄する。 とにかく弥生の兄健の造形がすごい。いつも笑顔を絶やさず、周りの大人からはいい子として認知されている人気者。しかしそれでいて人が死んでも眉一つ動かさず、度重なる窮地に動揺する素振りは一つも見せず、寧ろその状況を愉しみ、いかにやり過ごすことが出来るかを考えている。つまり健にとってこれらはゲームに過ぎないのだろう。 当事者でありながらも第三者的に物事を見据え、冷静に判断する頭脳と胆力の持ち主。まさに恐るべし16歳が描いた末恐ろしい10代だ。 そして周到に散りばめられた伏線が最後の何とも云えない虚無的なラストに繋がる。私は子供の企みなぞは目端の利く大人にしてみれば全てお見通しなのだという戒めを説いた皮肉な結末を予想していただけにこの結末は意外だった。 しかし語り手である犠牲者の五月とその母親が何とも浮かばれない。 それらを淡々とした描写で語る乙氏の文体。正直語り手となる私こと犠牲者の五月が知りえないことも地の文で語るなど、文体としてはおかしな部分も散見させられるが、それを若さゆえの過ちと寛大に捉え、ここは素直にその才能を称賛したい。 なお、小野不由美氏の解説、五月の一人称叙述が彼女が亡くなることで神の視点になったという解釈はこの文体の欠点を補った素晴らしい名解説と云えるだろう。 もう1編は「優子」という。 あまりに淡々と語る文体は本編でも健在で、あくまで静かに狂気を描く。 相変わらずその筆致は時間の流れをゆっくりと感じさせる独特の雰囲気に満ちている。 しかし本書では逆にそれが物語の深さを減じているように感じた。 坂東眞砂子氏ならばもっと土着的な濃厚な物語を繰り広げただろう。主題と文体が結びつかなかった、そんな印象を受けた。 2002年の『GOTH』でいきなりミステリシーンに躍り出た乙氏の驚異のデビュー作所収の中編集。 当時週刊少年ジャンプ読者だった私はリアルタイムで乙氏のデビューを目の当たりにした。今は亡き栗原薫氏が審査員を務め、絶賛の上、強烈に推挙したのを鮮明に記憶している。 その話題作を16年を経てようやく読んだ。 いやあ、天才は本当に存在するんだなぁと思わされた。繰り返しになるがとても16歳が書いたとは思えない着想と文体。 するする読めるがもっと味わいたくなる抒情性に溢れている。誰もが心に抱く風景を事細かに、しかしくどくなく適度な量で映し出す。私が読んでいた終始浮かんだのは夕焼けの色だった。 そんなノスタルジイを感じさせながらも語られる話はサスペンスだったり、ホラーだったりと実は穏やかではない。 しかし実は世の中の出来事とはこのように我々がいつも見ている風景の中で、人知れず行われているのだということを再認識させられる。ふと足を踏み外すとそこにはある種の狂気が潜んでいる。マンションの住民の一人がある日姿を見せなくなってしまうように、犯罪はドア一枚隔てた、なんとも薄っぺらい防御の外で起きている。笑顔の中に隠された企みや秘密を知られないように、明日もまた同じような日が始まると思わせておいてその背後では死体が一つ隠蔽されようとしている。 つまり我々の日常の紙一重の場所で犯罪や狂気は存在するのだと知らされるのだ。そんなシチュエーションが乙氏は面白く感じるのだろう。 この後乙氏は作品を着々と発表し、『GOTH』に至るわけだ。そしてその後の『ZOO』でその実力を不動の物とし、次々と旧作が映像化されていく。 久々に語るべき物語を持った作家に出逢った思いがした。 現在40歳の乙氏。次に我々に見せてくれるのはどんな物語なのだろうか。 同郷の者として実に誇らしく思うこの作家のこれからの活躍に注目していこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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女を陸路でバンコクからシンガポールへ連れて行く、この設定を読んだ時にこれは馳版『深夜プラスワン』かと思った。
作者がまだ坂東齢人名義で書評家だった頃、新宿ゴールデン街でバーテンをしていたのが、内藤陳がオーナーの『深夜プラスワン』というバー。やはり彼としてはこのテーマは避けては通れないものだったのではないかとまで想像したが、物語はそんな風に簡単にはいかず、主人公の十河将人とメイはバンコク内を迷走する。 やがてメイの持つ仏像に隠された地図の正体を探るにあたって、本作のメイン・テーマは女をシンガポールに送ることではなく、実は仏像に隠された日本軍が遺した莫大なお宝を探し当てるというものであることが解る。 つまりこれは馳版『マルタの鷹』なのだ。歴史に残る冒険小説2作を相手にするあたり、馳氏のしたり顔が目に浮かぶようだ。 さて冒険小説の名作のモチーフを国産ノワールの雄が料理するとどうなるかというのが専ら私のこの作品を読む上での焦点であった。つまり舞台と登場人物を変えただけで、いつも物語は破滅に向かうという構成がこの味付けでどう変わるのかを注目していた。 しかしやはり馳氏は馳氏。変わらない。 一度落ちぶれた人間がどうにか安楽の地を、生活を求めるために大金を手に入れようと足掻き、這いつくばる物語。人生の落伍者と貧困の犠牲者、2人の男女が日本軍の遺した宝を求める道行きに屍が転がっていく。 こんな2人だから出てくる台詞は怨嗟の連続。セックス、金、暴力、そして時々ドラッグ。馳作品の諸要素が今回も織り込まれている。 タイトルのマンゴー・レインとは現地タイで雨季の訪れを伝える夕立のことを指す。つまりはスコールなのだが、マンゴーと云えばタイよりもフィリピンの趣がある。しかしフィリピンではこのようには呼ばなかった。 馳氏はこのマンゴー・レインを罪を、過ちを、全てを洗い流してくれる激しい雨だと語る。かつての幼馴染たちが大金を目に、裏切り、命を奪い合う、そんな凄惨な状況をマンゴー・レインは洗い流す。 さて冒険小説の設定をモチーフにノワールを語った本作で最も印象に残る人物は十河が幼馴染の富生からシンガポールまでの移送を頼まれる女メイ。中国からさらわれて娼婦として生きてきて、エイズを患ってから男どもを、全てを憎悪し、信用しなくなった女だ。 彼女は人を殺すことも躊躇わないし、平気で嘘をつき、仲間でさえ欺こうとする。騙される方が悪いのだ、と云わんばかりに。それはメイの行動原理が至極単純だからに他ならない。それは自分が幸せになること。そのために利用する者は利用し、自分を脅かす存在は撃ち殺す。 作中十河は彼女の眼を魔女の眼と評し、その眼で睨まれると異様の無い恐れを抱き、従わざるを得なくなる。人買いとしてタイから日本へ若い女を何百、何千と密入国させてきた十河だったが、メイだけはいつものように振舞えない。修羅場を潜り抜けてきた者の覚悟の前にタイと日本を人買いのために往復する浮世暮らしのような十河は頭を垂れるしかないのだ。 このメイの存在を象徴するように、今回の物語はメイによって終止符が打たれる。これは実に珍しい。 今までの馳作品では登場する女性はおろかな男たちに翻弄され、利用され、圧倒的な暴力に屈して凌辱されるだけの存在としてぞんざいに扱われてきた。本作のメイも境遇としては過去の馳作品に登場してきた女性とは変わらない。おまけに彼女はエイズまで患っている。 しかしメイには強靭な精神を持っていた。別に男を捻じ伏せる腕力があるわけではなく、逆に街を歩けば10人のうち8人が振り返るほどの美貌とスタイルの持ち主だ。そんな彼女が他の女性と違ったのは己の不幸をバネにのし上がろうとするハングリー精神があったことだ。つまりこの作品はメイの物語だったのだ。 読後に残るのは荒廃感、寂寥感とでも云おうか、燃え尽きてしまった狂気の果てだ。 そう、今回も次々と死人が生まれた。またもや遣り切れなさが残る作品であった。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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エラリー・クイーンは数多のアンソロジーを編んでいるが、本書は詩人が書いたミステリ短編を集めた物。
本書は作者の生年順に作品が収録されており、冒頭を飾るのは『カンタベリー物語』で有名なジェフリー・チョーサーの「免罪符売りの話」だ。 本編は『免罪符売り』という作品からの抜粋だが、非常に上手く抜き取られており、確かに1編の短編のように読める。 2作目はオリヴァー・ゴールドスミスの代表作『ウェイクフィールドの牧師』からの抜粋。書かれたのはなんと1766年! 同書を読んでいないので詳細は解らないが、題名からして詐欺に遭った牧師は恐らく本書の主人公なのだろう。その後の彼らの運命が流転していく余韻を残して物語は閉じられる。年代は18世紀だが、読み物としては21世紀の今読んでも遜色ない。 サー・ウォルター・スコットは「歴史小説の父」として名を馳せているようだ。本書に収められた「ふたりの牛追い」はハイランド人のロビン・オイグとイングランド人ハリー・ウェイクフィールド2人の牛追いたちの友情が崩れる物語。 イングランド人とハイランド人、つまりスコットランド人の人種間の深き溝を感じさせる一編だ。わずかなボタンのかけ違いで悲劇が生まれる。物語冒頭の老婆の予言がスパイスとして効いている。 ジョージ・ゴードン、ロード・バイロンによる「ダーヴェル」はたった9ページの小編。 正直よく解らない話。 次はまさに巨匠、ヘンリー・ワズワース・ロングフェローの「ペリゴーの公証人」はミステリと云うよりも喜劇だ。 医者が教える猩紅熱の症状、「右脇腹に鋭く焼けるような痛み」の正体が笑える。伏線もあるし、やはりこれもミステリ…かな? 次も巨匠ウォールト・ホイットマンの作品「一度きりの邪な衝動!」は亡き父の財産を管理し、それを盾に妹エスターに結婚を迫る悪徳弁護士を殺す兄フィリップの話。話はこのたった一文で済むが、最後の結末が非常に奇妙な味わいを残す。老境に差し掛かって改訂されたらしい本編は作者の達観を示しているようでもある。 W・S・ギルバートはオペラの台本作家とのこと。彼の作品「弁護士初舞台」はなんだか奇妙な話である。 敵は味方にありとはまさにこのこと。何とも不思議なお話である。 トマス・ハーディは詩人というよりも小説家として知られていると思うが、後年はもっぱら詩の制作に勤しんだようだ。彼の「三人のよそ者」は雨天の最中、次女の誕生祝と命名式のパーティを人里離れた一軒家で祝う羊飼いの所へ3人の来客が訪れるというもの。 チェスタトンの短編のような味わいを残す1編。真相を知った上で読み返すと2人目の男が現れた後の彼の振る舞いと旅人の反応がまた違った風に読めるから面白い。実にミステリらしい作品だ。 次はノーベル賞作家のウィリアム・バトラー・イエーツの初期の作品「宿無しの磔刑」だが、これは何とも奇妙な味わいだ。 さすらいの歌人が一夜の宿として立ち寄った大修道院でのもてなしの酷さは確かに同情すべき物がある。パンは黴ており、水は悪臭がして飲めやしない。おまけに布団には蚤が蔓延っていると散々だ。しかしそのために修道士たちに迷惑をかけるというのはいささか子供じみている。磔刑にさせられる道中で色々な小細工をする歌人と取り巻きのようについてくる乞食が布石のように見えるが真相は意外。実に皮肉な結末。 『ジャングル・ブック』は私が小学生の頃、自宅にあった少年少女文学全集に収録されていた作品の一つだったが、その作者ラドヤード・キプリングの作が「インレイの帰還」だ。 ミステリとして比較的定型を成しているのがこの作品。一人の男の失踪が殺人事件へと発展する。しかしトリックの意外性があるわけではなく、あくまでキプリングは未開の地インドの風習と風土ゆえに起こった現地人と白人の価値観の相違が事件を起こしたことをテーマにしている。 ジョン・メイスフィールドの「レインズ法」はいわゆる世間の渡り方を扱った作品。 一行で済む内容だが、これを当事者が成した事を細かに書いたことが新しいか。 ジョイス・キルマーの「恐喝の倫理」は新聞社で働く男の告白の物語。 これはラストが効いている。 コンラッド・エイケンの「スミスとジョーンズ」は奇妙な味わいを残す。なんとも奇妙でちょっと背筋が寒くなるお話だ。こういった普通に振舞っていた関係からふと殺意を抱き、行為に至るというのは唐突過ぎて何とも云えない怖さがある。 マーク・ヴァン・ドーレンの「死後の証言」とオグデン・ナッシュの「三無クラブ」はちょっと理解に苦しむ物語だ。 それぞれの作品は理解できるものの、結末が腑に落ちない。いずれも何かもう一つ上の次元で語られている話と云った理解を超えた展開であり、呆然としてしまった。 ロバート・グレイブズの「シュタインピルツ方式」は何とも珍妙な話ながらも好きな話。 とにかく盲目的に博士の指示に従い、肥料の材料を集めまくる夫婦と云うのが滑稽。しかも材料はおよそ誰もが手を出さないゴミやら動物の死骸やら、とても想像をしたくない物ばかり。最後の結末も効いている。 スティーヴン・ヴィンセント・ベネの「いかさま師」は引退したいかさま師が老人ホームを抜け出して世間のいかさまを暴いていくお話。祭りの夜、花火を見たいがために抜け出した老人がその一夜で遭遇する事件を解決するという老練さに満ちた一編。 最後のミュリエル・ルーカイサーの「仲間」も『世にも奇妙な物語』向けの奇妙な作品。 殺人を過去に犯した者は特別な連鎖に取り込まれてしまうというちょっとオカルト風味でもある。 エラリー・クイーンが詩人たちの創作したミステリ短編を集めたアンソロジー。 最も古いのがチョーサーの作品でなんと1300年代の作品!日本の歴史で云えば鎌倉時代の頃で中国では明王朝の頃と、まさに隔世の感がある。 そのチョーサーの作品「免罪符売りの話」は死神と呼ばれているこれまで千人は人を殺している泥棒を3人の放蕩者が退治してしまおうと乗り出す話から一変して金貨の奪い合いに転じるというお話。同題の長編からの抜粋のため、本筋が解らないきらいはあるものの、たった7~8ページの分量で目的がガラッと変わるというには何とも奇妙な味わいがあった。 続くオリヴァー・ゴールドスミスの作品も彼の代表作『ウェイクフィールドの牧師』からの抜粋で牧師が詐欺に遭う話を書いている。これも1766年の話で日本はその頃徳川幕府で田沼意次が老中だった頃。その頃イギリスは産業革命の真っただ中という激動の時代。 18世紀の詩人はこの次のウォルター・スコットやジョージ・ゴードン・バイロン、ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー、ウォールト・ホイットマン、W・S・ギルバート、トマス・ハーディと並ぶ。まさしく錚々たる面々である。 その後もノーベル賞作家イエーツ、『ジャングル・ブック』のキプリングといった大家の作品が並ぶ。 とにかく最初は読みにくいことこの上なく、また見開き2ページに小さなフォントでぎっしりと文字が詰まった体裁を久しぶりに読んだのでかなり時間を要した。先に進むにつれて、時代が下ってくるので読みやすくはなったが、久々に古典を読んでいるという気分にさせられた。 個人的にはこの古式ゆかしい体裁は大好き。 しかし詩人と云うのはどこか通常の作家と視座が違うのか、収録されている作品は奇妙な後味が残る物が多く、いわゆるミステリと呼べる作品はそれほどあるわけではない。何か事件が起こってその不可解事を解決する、といった定型を取る作品はほとんどといって無い。意外な結末という意味合いでクイーンは有名詩人諸氏の作品を集めたのではないだろうか。 また先だって読んだ『犯罪文学傑作選』もそうだったが、クイーンの他ジャンル作家の手によるミステリ作品のアンソロジーは文学史の勉強になる。今回もウィキペディアを参考にしながら各著者の代表作を知ることが出来た。 逆に云うと自身の不勉強さを露呈することになったわけだが。 さて本書の序文でクイーンはこのアンソロジーが不作為の犯行を犯していると述べている。 この不作為の犯行とは編者曰く、編者としてはアンソロジーとしては完璧を臨んで作品を集めたが編者の目が行き届かずに埋もれた詩人の手によるミステリ短編の傑作が選から漏れていることを指す。それをあらかじめ認めており、そして本書が「決して完成しない」アンソロジーであると述べている。 なるほどある意味これは自分のアンソロジーが不興を買った時に備えての保険のようにも取れるが、編者として潔さを感じる話だ。つまりアンソロジーは編者の権威を恐れず更新されなければならないと説いているのだ。 この詩人たちが書いた小説の意味が全て理解できたかとは云えないが、雰囲気はどこか通ずるものがあった。 先にも書いたがどこか超越した視座で綴られた諸作品。これらを集めたクイーンの偉業をこのたび復刊して確認することが出来た。 東京創元社の志の高さに改めて拍手を贈りたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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あの“ドーン・パトロール”のメンバーが帰ってきた!
いや、我々がまた彼らの許を訪れたというのが正しいのかもしれない。“ドーン・パトロール”、そして彼らが住んでいるサンディエゴのパシフィック・ビーチは読んでいる我々が再びその地を訪れたかのような懐かしい思いを抱かせる、不思議な雰囲気を備えている。 さて今回彼らが関わる事件は3つ。 メインはブーンがペトラから依頼される伝説のサーファーK2殺しの容疑者サーファー・ギャングの未成年コーリー・ブレイシンガムの、事件当夜の調査。 そして彼が請け負うもう一つの依頼が“紳士の時間”仲間のダン・ニコルズの妻の浮気調査。 そしてもう一つはジョニー・バンザイが関わる麻薬組織バハ・カルテルの抗争。 バハ・カルテルといえば先だって訳出された『野蛮なやつら』でベンとチョンとOが対決した麻薬組織だ。ん~、こんなところで彼らとブーンの物語がつながるとは、まさにファン冥利に尽きる演出だ。 さて今回ブーンは渋々ながらもペトラの依頼、世界中のサーファーが慕う伝説のサーファー、K2殺人事件の容疑者である金持ちの道楽不良息子のコーリー・ブレイシンガムの事件の真相を探ることでパシフィック・ビーチ界隈の人間はおろか、“ドーン・パトロール”のメンバーからも裏切り行為だとみなされ、四面楚歌状態に陥る。しかし調べていくうちにつまらないアホだと思えたコーリーの境遇を知るにつけ、彼もまた環境の犠牲者だったことを知る。 しかもみんなのアイドル、サニー・デイは前作のクライマックスでの大波のサーフィンで有名になり、プロサーファーとしてツアーに参加し、オーストラリアに行っている。理解者は友達以上恋人未満状態の弁護士補ペトラ・ホールのみ。 そんな状況からか仕事よりもサーフィンを愛する探偵ブーンが、今回はサーフィンよりも仕事優先と次第になっていく。コーリー・ブレイシンガム事件の再調査のお蔭で“ドーン・パトロール”のメンバーからは疎遠となり、その後に行われる“紳士の時間”のメンバーとの交流が増えていく。 この本書の原題にもなっている“紳士の時間”とは皆が仕事へ行った後、引退生活者や医師や弁護士、さらには実業家連中が集まるサーフィン時間のこと。つまり年齢的に上の連中、階級的にも上流階級の人間たちの集いだ。 さて前述した3つの事件がなんと複雑に絡み合って驚くべき事件の構図を描き出す。この辺のプロットが上手く組み合わさる味付けと云うか筆捌きは見事としかいいようがない。 また本書に散りばめられた薀蓄もまた読み応えがある。 地盤の話は私の職業にも大きく関わることで、熟知しているため、門外漢の読者にも解るように丁寧かつユーモアあふれる説明がなされていると感心したし、ボクシングと空手から始まった最強格闘技伝説が現在の総合格闘技までに至った経緯の話も楽しく読ませていただいた―グレイシー柔術の件はニヤニヤしながら読んでしまった―。 その中で最も恐ろしいと思ったのはタクシー運転手が空き巣を副業でやっている輩が少なくないといったエピソードだ。この一文を読んだだけでは恐らく多くの方が「?」と思うだろうが、何気ないタクシーの会話にその秘密が隠されていることを知り、戦慄を覚えた。いやあ、迂闊にタクシーの運転手とも会話ができないなぁと思わされたエピソードだ。 さてウィンズロウの描く物語は常々何らかの喪失感を伴うものだと感じていた。前作のブーンも変わらなく続く生活や仲間たちの関係が実は危ういバランスの上で成り立っていることを知らされた。 今回もブーンは色んな物を喪う。探偵とは事件の真相を解き明かす代わりに何かを喪うことだと某作家の作品にあったが、まさにブーンはそのものだ。 大人になると自分の信ずる正義よりも他者との調和を重視する方に傾きやすくなる。丸く収めることを美徳とし、信条を貫いて仲間に不快感を抱かせてまで真実を突き止めることを悪徳とする、組織に属するとなるとその傾向は顕著になる。 しかしブーンは敢えて茨の道を取った。何よりも代えがたい“ドーン・パトロール”のメンバーの不興を買っても、当事者の父親の納得を得ても、当事者のその後の人生を考えると妥協した自分がその後の人生で後悔しないか、自問を繰り返しながら生きることになるのではないかと思い、敢えて同調しない道を選ぶ。 彼を後押しするのは亡くなった被害者のK2の言葉。彼を知るからこそ彼の言葉が頭を過ぎる。 ウィンズロウは読者が永遠に続いてほしいと願う仲間たちとの付き合いや心から通じ合える恋人といった関係に躊躇わらずメスを入れる。前作もそうだったが南国のお気楽ムードで始まった物語は次第にブーンの周囲に不穏な影を差していく。 特に残り100ページから始まる殺戮や拷問の数々は作品のイメージをガラッと変えるものだった。 しかし今回はまさに再生を予兆させる終わり方である。 喧嘩のいいところはその後に仲直りできるところだ、そして喧嘩をするほど仲のいいというのは喧嘩をする前よりも本音で語り合える関係になるからだ。まさに本書はそんな爽やかな読後感を残してくれる。 最後に分裂状態だったドーン・パトロールの面々が一堂に会して浜辺で戦いを繰り広げる様は痛快以外なにものでもない。 全く上手いなぁ、ウィンズロウは。 それぞれに変化が訪れ、ドーン・パトロールのメンバーも以前のような関係にはならないかもしれないが、今回の苦境を乗り越えたその先が実に楽しみで今仕方がない。 また必ず彼らの住まうパシフィック・ビーチを訪れよう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本書もまた映画化され有名になった『ランボー3/怒りのアフガン』の原作本である。当時この映画でアフガニスタンのことをアフガンと呼ぶということを初めて知ったなぁ。
作者マレルによるランボーシリーズは本書までで2008年の映画『ランボー/最後の戦場』は関与していない。 2作目の『~怒りの脱出』同様、ランボーは孤独な戦いをするわけではなく、今回も仲間と共に戦う。前作ではコーという現地CIAの女性連絡員がパートナーとなり、2人での戦いだったが、本作ではアフガン・ゲリラがランボーに協力することになり、チームとして戦うことになる。 1作目はランボー対警察と題名通り「一人だけの軍隊」だったが2作、3作と回を重ねるにつれ、ランボーの協力者の人数が増えているところが新味だろう。 前2作までに共通するのはランボーが拷問されるということ。 1作目は理不尽とも思える警察の取り調べでヴェトナム捕虜時代の悪夢が甦り、それが事件の契機となった。 2作目ではかつて捕虜となったヴェトナムで再び捕えられ、ヴェトナム軍とソヴィエト軍(この頃はまだソ連だった)両方の拷問を受けるランボーだったが、本書ではなんと彼の師であるトラウトマン大佐が捕えられ、ソ連軍から過酷な拷問を受ける。この拷問が半端なく、肉体的だけでなく精神的にも過酷な仕打ちが事細かに書かれており、老齢のイメージがあったトラウトマンは果たして大丈夫なのだろうかといらぬ心配をしてしまった。文庫カバーの袖につけられた映画のシーンのスナップショットで見られるトラウトマンは本書で描かれているほど手酷い傷を負っているようには見えないので、映画ではソフトに抑えられたようだが。 そして本書では宗教観が色濃く出ている。物語の冒頭ではランボーはタイのバンコックで前回の任務で喪ったコーに対する罪悪感に苛まれ、人生は苦悩の連続だという仏陀の教えに浸かって日々を贖罪の行為として生きている。この苦痛の果てに訪れる平穏を求め、ランボーは鍛冶場で働き、己の肉体を痛めつけるが如く、金属を打ち続ける。 そんなところに現れたのが彼の師トラウトマン。しかしもう自分が戦場に赴くことで関わる人が死ぬことを恐れるランボーはトラウトマンの要請を断る。 任務を断ったことで逆に師であるトラウトマンが捕虜となり、手酷い拷問を受ける羽目になり、さらにはその救出作戦にアフガン・ゲリラたちの助けを借りることでソ連軍の報復の的になったことをランボーを悔やむ。それは自分が運命に逆らったからだとランボーは自分を責める。 仏陀の教えにある人生は苦悩に満ちているという思想のために自分を責めるランボーに、今回彼に協力するアフガンたちのイスラム教の思想、全てはアラーの神の思し召しなのだという、運命論に次第にランボーは傾いていく様が語られる。 彼が任務を拒んだことでトラウトマンが捕虜となり、彼が師を救出するためにアフガニスタンの地を踏み、ソ連軍と戦うこと、それら全てが定められたことだというアフガンたちの言葉でランボーは物語の最後に自分の人生の意味を悟る。人生は確かに苦悩に満ちているがそれこそ神が自身に与えた宿命、神は自分に戦士になり、人々の苦悩を引き受けることを課した、と。 1作目では他者の介入を拒み、自分のテリトリーを守るがために戦いを起こさざるを得なかったランボー。2作目ではヴェトナム戦争での捕虜時代の悪夢ゆえに人との接し方が解らなかったランボーが彼の地で得た協力者に初めて自分の師以外に心を許すが、その協力者を失い、さらには味方にも見放されたことで無力感に襲われるランボー。 彼の人生に対する諦観が本書でようやく結論が出される。前2作の結末はいずれも喪失感で終わったが、本書でようやく彼は悟りを開いたのだ。 しかし前作でも触れたが、改めて戦争は狂気の温床だと感じられる。アフガニスタンという不慣れな土地でゲリラの殲滅を命じられたソ連軍のザイサン大佐とその部下たちも自分たちの戦争ではないと一刻も早く任務が終わることを望む。 そんな過酷な環境は彼らに虐げられているという被害妄想を生み、やがて仲間や上司の失敗や醜態を期待するような屈折した精神状態を生み出す。軍律という厳しい戒律の中で上司命令が絶対的な状況の中では、その実こんなおぞましい感情が渦巻いている。 上にも書いたように本書でマレルの手によるランボー作品は終わりだろう。しかし映画は確かに観たが1作目、2作目に比べてイメージの想起がなく、こんな話だったかなぁと首を傾げることが多かった。アクションもあるが、宗教観を絡めたランボーの内面を語ることにウェイトが置かれていたのも映画との結びつかなかった原因の一つかもしれない。 映画を既に観ていたことが今回は逆に仇になったようだ。やはり映画は映画、小説は小説と全く別物として捉えて読まなければならないのだが、いやはや難しいものだ。 |
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お馴染みガリレオこと物理学者湯川学が活躍する短編集第2弾。
まず「夢想(ゆめみ)る」はある男の家宅侵入の話。 運命の人というのは誰もが抱くロマンティックな願望だが、本書はその運命の人が生まれる前から知っていたという証拠があるというなんとも不思議な関係を論理的に解き明かす。 あまりにも不思議な現象なので、これを論理的に解明するにはものすごいアクロバティックなことで、下手をすれば壁本の如き仕打ちになるようなトンデモ論理になるかと不安を抱いていたが、いやはやさすが東野氏、綺麗に解き明かしてくれました。 しかしこの年にもなると案外人間って単純に思考すると解っているから妙に納得してしまう。 次の「霊視(みえ)る」は恋人の死を友人の家で見た恋人の亡霊で知った事件の話。 複雑な犯行計画がある一つの不測の事態によって崩れていくというのは先般読んだ『嘘をもうひとつだけ』収録の「狂った計算」を思わせる。 「騒霊(さわ)ぐ」は誰もいない家で家具などがひとりでに突然動き出す家の話。 今回は論理的に説かれてもやはり死者の意志が働いたとしか思えない余韻があとを引く。 「絞殺(しめ)る」はホテルの一室で絞殺死体として発見された男の謎を湯川が解き明かす。 最後の「予知(し)る」は目の前で起きた自殺を隣人の娘が3日前に見たというお話。 個人的にこれがベスト。しかしこのシリーズの約束事を逆手に取った結末に思わずニヤリとしてしまった。カーの某有名作品を想起した。 探偵ガリレオシリーズ第2弾。今回も不可能趣味に満ちている。 本書に収められている不思議は予知夢、虫の報せ、ポルターガイスト現象、火の玉、予知視といったオカルト風味の不可解な現象であるのが特徴的だ。 そんな謎に湯川学は少ない証拠から閃いて真相を推理する。その様子はシャーロック・ホームズやブラウン神父といった古典本格ミステリ時代の探偵諸氏を髣髴させる。現代ならば東野版御手洗潔というのが妥当か。 今気付いたが、湯川学も御手洗潔も両方とも大学教授である。しかも御手洗シリーズの作者島田荘司氏も吉敷竹史という刑事のシリーズがあり、東野圭吾氏も刑事加賀恭一郎のシリーズがある。しかも両者に共通するのは刑事物とは思えないほど本格ミステリ風味に満ちているところだ。 なんだか合わせ鏡のような両者だ。 話が逸れたが、本書では謎の強さで云えば、冒頭の「夢想る」が強烈。なんせ女子高生の許へ家宅侵入した27歳の男がその娘が生まれる前からの小学生の頃から運命の人だと名前まで触れ回っていたという謎だ。これを東野氏は危ういながらも論理的に解き明かす。非常にアクロバティックだが一応納得はできる。 謎の強さで次点では「霊視る」と「騒霊ぐ」が並ぶ。前者は事件現場から離れた場所で彼女の亡霊らしき姿が見え、直後に調べてもらうと彼女が死んでいたという謎で、これも非常に複雑な構成な事件を上手く超常現象的謎へ繋げている。後者は誰もいない部屋で決まった時間にいきなり家具類が震えだすという謎は、自分も知っていた現象だっただけに謎解きまで解らなかったのが悔しい。 逆にシンプルながらも余韻が残るのが最後の「予知る」だ。隣の自殺を3日前に見たという娘の謎が逆に単純だと思われた事件の真相を明らかにするという、今までの構成とは逆のパターンを取っているのが面白い。しかし何よりもラストの余韻が抜群だろう。 また各編に書かれた科学的薀蓄も本書の読み所になっている。 さて昨年はガリレオ・イヤーともいうべき年。何しろ久々にガリレオの新作が出たのだ。 これからのガリレオ・ワールドの広がりを楽しみにしておこう。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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古惑仔と書いて“チンピラ”と読む。馳作品にはお馴染みの呼称。中国語での呼び方。
本書は表題作を含む短編集。 最初の「鼬」は中国から来た売春婦に惚れた男の話。彼女の元締めを殺し、彼女を解放して一緒に暮らそうと決意をするが…。 これはまさに日本人とは違う民族性を上手く使った作品。しかし結末の虚無感と云ったら。 続く表題作は日本のやくざの娘の香港観光案内を任されたチンピラの話。云われるままに毒づきながらも従う古惑仔、家健。 流れるままの観光案内のように物語は進んでいくが、一転意外な結末を迎える。これまた何とも云いようのない話だ。 「長い夜」は大久保でアジア系の友人たちとつるんでいる日本人女性の話。 今でこそ大久保界隈は韓流ファンの聖地となっているが、昔から彼の地は在留外国人のメッカだったらしい。 そんな場所で遊ぶ日本人女性涼子。彼女は心は許しても金銭は許さない関係を貫いていたが、明日をも知れない容態のミャンマー人女性のミーナのためになんとパスポートまで売り渡してしまう。 こういった短編集にはクリスマスにちなんだ作品がつきものだが、本書では「聖誕節的童話」がそれに当たる。 いやあ坂道を転がり落ちるが如くの転落人生。全てが悪い方向に働いていく。やはり密入国と云う不法行為から始まった者には幸せの道など残されていないと馳氏は断じるのか。 ちなみに題名は「クリスマス・ストーリー」と読む。何とも皮肉なタイトルである。 「笑窪」もまた皮肉な物語だ。 普通に働いていれば身持ちもしっかりした手に職持った料理人だが、酒癖の悪さとギャンブル好きの血が災いをもたらすという阿藤良は典型的な馳作品の転落人生キャラ。しかもメグと云うマレーシア女性に嵌ってしまうという「飲む、打つ、買う」の三拍子揃った転落人生劇場。 最後の「死神」はまさに馳作品に相応しい題名と内容だ。 運命論的な縛りに抗えずに導かれるまま破滅への道を進む。それは親の虐待に起因する業が多いのだが、本編の主人公阿扁は偶々街中で逢った密入国仲間がその直後に死ぬという偶然が続いたがためにそれを真に受けてしまった男だ。 カラオケでの福建省からの密入国者たちの仲間の壮行会の最中にモノローグとして挿入される死んでいった仲間たちのエピソードと主人公阿扁が堕ちていくまでの模様が語られる。またもや虚しい結末だ。 人生の敗残者たちの宴。 6編全てがアンハッピーエンドという馳氏らしい短編集。日常から非日常へ足を踏み出した人々の不穏な行く末、あるいは悲惨な末路を綴った物語集だ。 相変わらず容赦がない。 一編目の「鼬」の虚無感にため息をついたがその後の表題作の何とも悲惨な結末を筆頭に「聖誕節的童話」と「笑窪」の主人公らの転げるような転落人生模様はもう呆れるしかない。 さらに「長い夜」は親切が仇になってしまうという何ともいいようがない結末だ。ラストの「死神」も何かに引き寄せられるように死へ向かう連鎖に絡め取られていく男達の顛末だ。 各編に共通するのはアジア系民族が絡んでいること。そのほとんどが日本に不法滞在している者たちで、彼らのすさんだ生活と性格が短文を連発する文章ながらも詳らかに語られる。このテンポの良さでサクサクと読めるのにしっかりと彼らの堕ち様が腑に落ちるようになっているのは馳氏ならではの職人技だ。 しかし馳氏のメッセージは徹底している。6編全てに共通するのはあの有名な言葉だ。 「同情するなら金をくれ」 貧しいアジア諸国で生まれた人間は金はあるところから貰う、取るのが当たり前だ。同情や愛情などは何も生まれやしない。日々の生活が苦しいだけに楽して暮らしたいという願望が強すぎるのだ。 そんな人間の剥き出しの欲望を馳氏は徹底して訴える。愛などクソ食らえだ!と嘲笑うかの如く。 この救いのない人間たちの物語を読者はどんな気持ちで読むだろう。そして何故にこれほどまでに容赦なく主人公たちを貶めるのだろうか? どうしようもない現実が存在すること、我々の住む世界の紙一重の所にはこんな無残な人生と世界が潜んでいること。それを馳氏は見せたいのか? 暗鬱になるだけの物語6編。ここにもあそこにも不幸な奴がいることを知らされる。 頑張っていれば、努力していればいつか報われる、などは脆くも崩れ去る物語群。ゆめゆめ爽快感など期待して読まないように。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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若き女子プロゴルファー、リー・オフステッドのシリーズも早や4作目。4作目にもなるとシリーズの世界も広がってきて、一層面白味を増してくる。
2作目で出演したスキップ・コクランとメアリー・アン・クーパーの2人がテレビの解説と進行役で再登場することも世界の広がりを感じさせるシーンだ。この2人は今回登場人物表に名前が記載されていないのでまさにシリーズ読者のみぞ知る演出だ。 さらに作中で登場するゴールドスタインの詐欺の相関性の法則とは、これはもしかしてスケルトン探偵シリーズの名脇役だったエイブ・ゴールドスタインのことか!?と思わず笑みがこぼれたが、どうも実在の人物でしかも実際にある法則らしい。う~ん、さすがにそこまでのファン・サーヴィスはないか。 さて今回の謎はアメリカチームのキャプテンを務めるロジャー・フィンリーのキャディの殺人事件と、ロジャーのショットの不振の原因である。 実は殺人事件の捜査に関してはいわゆる通常のミステリにありがちな緻密な警察捜査が語られるわけではない。あくまで本書はプロゴルファーのリーが中心になって物語が動いていくため、終始彼女の周囲にいるプロゴルファーたちとのやり取りやゴルフの試合のこと、そしてロジャーの不振の原因探しがメインになってくる。 とこのようにミステリ部分については薄口だが、このシリーズで興味深いのはやはりゴルフにまつわるエピソード。 例えば古参のキャディは専属のゴルファーが調子悪くても決して陰でバカにしてはならないという鉄則があるようだ。それはゴルファーが彼らを食わしてくれているからだ。日本のサラリーマンは上司の陰口を酒の肴にして溜飲を下げる風潮があるのに、なんという気高さだろう。 またスチュワートカップに出場するゴルファーには色々な“特典”があることが明かされる。 プレイ時に使用するゴルフの服装はもとより、スチュワートカップのロゴ入りの旅行鞄にスーツケース、ユニフォームと思しきスーツにシルクのブラウス。さらにドレスシューズにイブニングドレスまでまさに至れり尽くせり。さらには必要経費として5千ドルのトラベラーズチェックまで送られてくる。 いやあ、こんなセレブな世界が本当にあるのだなぁとビックリした。…と思ったら、訳者あとがきによればこれは作者の創作らしい。な~んだ。 そしてようやくリーの恋人グレアムがゴルフに興味を持つようになるのも特筆すべきことだ。それを悟らせるのにリーのティーショットの詳細な描写が大いに寄与している。 ゴルフのショットの美しさと精度の高さ。それが集約された一瞬の断片。この部分を読んでゴルフを楽しむプロアマの人々はゴルフの本質を触れてくれたことに拍手を贈ったのではないだろうか。今まではプロゴルフ業界の裏話を小出しに著されたシリーズがようやく4巻目にしてゴルフという競技そのものを語った思いがした。 しかもリーはスチュワートカップのアメリカチームに勝利をもたらした中心人物として一躍名を馳せ、有名人となった。 これはもう本書でこのシリーズは打切りか?と思いきや、あとがきによれば次作もあるとのこと。 しかし2011年9月に1作目が訳出されてからちょうど1年で4作に上る。これほど頻繁に出版されるってことは人気があるのだろうなぁ。実際書店にこれまでのシリーズ本が陳列されていたし。 個人的にはアーロン・エルキンズ単独のスケルトン探偵シリーズの新訳を読みたいのだが、なんと新作が発表されていないようだ。 う~ん、しばらくはこのシリーズで渇きを癒すか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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