■スポンサードリンク
Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1426件
閲覧する時は、『このレビューを表示する場合はここをクリック』を押してください。
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
カーター・ディクスン名義で発表された作品だが、主人公はおなじみのH・M卿ではなく、短編でおなじみのマーチ大佐の前身であるマーキス大佐。発表当時、エラリー・クイーンの片割れ、フレデリック・ダネイが大幅に削除したそうだが、今回はそれらを含めた完全版である。
引退した元判事チャールズ・モートレイクが自宅の離れで殺害されるという事件が発生した。犯人はモートレイクに重刑を科せられた犯罪者ゲイブリエル・ホワイトだった。仮出所したホワイトが判決の恨みのため、モートレイク宅に押し入り、銃で殺害したというのだった。 現場を現認したペイジ刑事はしかし、事件に不思議な不適合性を発見していた。銃声は2回鳴ったのにもかかわらず、ホワイトから発射された銃弾は1発のみ。しかも室内の花瓶の中から別の銃が見つかり、もう1発の銃声はこの銃からの物と思われるが、室内に銃弾が見つからなかった。そして解剖の結果、モートレイクの体内から発見された銃弾は、2つの銃のどちらでもなく、全く別の空気銃から放たれた銃弾だった。 物語の謎自体、シンプルながら、どこか辻褄の合わない論理の違和感でどんどん話を膨らませていく作品で、読中、セイヤーズの作品を想起した。 今回は登場人物たちがそれぞれ何らかの嘘をついていることがテーマか。嘘をついていることで殺人計画が予想外の方向転換を余儀なくされた結果、2発の銃声に3種類の銃弾が発生するという奇妙な事件を招く。この、どうにもすわりが悪い状況設定を最後に論理で解き明かしていくのは素晴らしい。 今回の作品の特徴として、新たな事実が発覚するにつれ、また新たな謎が生まれる畳み掛けの手法が挙げられる。カーの持ち味とも云うべきこの手法だが、今回はこの畳み掛け方が絶妙だった。 銃声2発に対し、犯人から発射された銃弾は1発→現場で発見された別の銃の意外な持ち主→遺体から摘出された銃弾がその2丁の拳銃のどれでもない第3の銃弾だった→第3の銃の意外な発見場所→奇妙な窓の足跡→第2の殺人の発生、と謎また謎の連続である。 しかも220ページの薄さでこれだけの状況展開を繰り広げられるから物語のスピード感が違う。今までのカー作品の中でも随一の速さを誇っていると思う。 そして今回嬉しかったのが部屋の見取り図がちゃんと付いていた事。コレがあるのと無いのとでは物語の理解度が違う。そして田口氏による改訳により、いつもの時代がかった大仰な表現が鳴りを潜め、非常に読みやすかった。 犯人は今回も意外だった。しかしこれについて衝撃を受けるようなほどでもなかった。ただし、状況は整然と整理され読者の前に提示された。 しかし、やはり窓の足跡については蛇足であると感じた。他者へ疑惑の目を向けるための工作だったが、開かない窓から脱出する足跡という謎は魅力的だったものの、その存在を十分に納得させるだけの論理性は薄弱だと感じた。恐らくダネイはこの部分を削除したのではないだろうか(後で解説を読むと、どうやら削除されたのは登場人物の描写が中心らしい)? しかし御大カーの作品を削除して発表させる事が出来るのはこの人ぐらいだろう。この2人による贅沢なコラボレーションは当時、かなり話題だったに違いない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
逆打ち―四国霊場八十八ヶ所を最後の礼所から最初の礼所へ逆回りに死者の死んだ歳の数だけ回ると死者が甦ると伝えられている儀式。日浦照子は若くして亡くなった我が子莎代里を甦らせようとこの逆打ちを行った。
一方、幼い頃に高知の矢狗村に住んでいた明神比奈子は矢狗村にある実家の整理という名目で東京での生活に疲れた心身を癒しに訪れた。幼馴染みの日浦莎代里に会おうとしたが、不幸にも亡くなっている事に気付く。 同窓会が行われた際に秋沢文也と再会し、かつての恋心が再燃する。しかしその二人を見つめる“眼”があることにその時はまだ気付かなかった。 当時自分の住んでいる四国を舞台にこれほどまでの土俗ホラーが繰り広げられるのにまず驚いた。寒風山トンネルとか石鎚山とか馴染みのある地名が出てくるので、自分の住んでいるところがとんでもなく恐ろしい死者の地のように感じた。 しかし、この死者を甦らせる逆打ちという儀式、これが本当にあるのか、または言い伝えとして残っているのかは寡聞にして知らないが、このアイデアは秀逸。実際、ありそうだもの。そして素直にお遍路さんを感心して見る事が出来ないようになりそうだ。 この逆打ちを中心に、四国が死者と生者が同居する“死国”となる展開、そして比奈子の実家の管理人、大野シゲの若かりし頃の不倫の話、儀式として四国霊場八十八ヶ所巡りを村の男が順番に行う男の話、植物人間状態で入院している郷土研究家の莎代里の父と介護する看護婦の話、これら全てが逆打ちに同調して収斂する手際は見事だ。 今回読書中、『八つ墓村』とかの昔の日本の映画の雰囲気を思い出した。あの独特の日本人の魂の根源から揺さぶられる恐怖がここにはある。日本の田舎が持つお化け屋敷的な怖さを感じさせる文章力は素晴らしい。 そして映画は未見だが、恐らく莎代里=栗原千秋なのだろう。このキャスティングは見事。イメージぴったりだ。映画も観たくなった。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
『占星術殺人事件』を解決した数ヵ月後の話。御手洗の許に高沢秀子という妙齢の女性が訪れる。その人が話すには、友人の折野郁恵という女性が、五稜郭で有名な榎本武揚が当時ロシア皇帝から頂いたダイヤモンドの靴を所有しているという。
最近その折野郁恵さんの様子がおかしくなり、相談に乗っていた時に、雨が降り出したのを見て、突然倒れ、そのまま入院してしまったのだ。郁恵さんの容態が気になり、最近息子夫婦に尋ねたところ、雨が降ったから十字架が無くなり、とんだことになってしまったという謎の答えが返ってきた。そして息子夫婦が最近、教会の前の道路沿いの花壇を衆目の中、掘り出すという奇行をしていたとの事だった。 この一連の奇妙な出来事について、御手洗は大事件が起きていると云うのだった。 御手洗シリーズの、短編小説のような意匠を凝らしたエピソードや、最近の科学技術の話など、そういった肉付けが一切無い、事件のみを語った生粋の本格推理小説だ。 セント・ニコラスのダイヤモンドの靴を巡って『占星術殺人事件』の竹越刑事と事件をもたらした高沢秀子を交え、右往左往する物語で、中身は簡単なのに、なかなか目的のダイヤモンドの靴までに行き着かない。まるで乱歩の通俗小説を読んでいるかのようだった。 事件を第三者の目から当事者の行動を、理解し難い奇行の数々として描くという技法を凝らしており、思わずポンと膝を叩いてしまった。そして逆に島田氏の本格推理物の作り方というのが解ってしまった。 それは、ある行動について、無知の人の目を通して情報の少ない形で語るというスタイル。これが後の説得力ある御手洗の解明に一役買っているのだ。だから読者は作者(ほとんどの場合、それはある登場人物の台詞によって語られる)が語る事象を鵜呑みにせず、その行動そのものを実際に試してみるとよいだろう。特に今回のダウジングなんかはその典型だ。 御手洗物入門書として、長さといい、ストーリーといい、最適の1冊かな。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
スコットランド・ヤードのマスターズ警部宛にある手紙が届く。それはバーウィック・テラス4番地に10客のティー・カップが出現するので、警察の出席を願うという不思議な内容の手紙だった。しかし、2年前、同様の手紙が届いた際、当該場所の建物は空家であるにもかかわらず、什器類が雑然と詰め込まれており、そしてその中に死体があったという事件が起きており、未解決のままでいた。果たしてこの手紙はあの事件の再現なのか?
マスターズは部下を引き連れ、バーウィック・テラスに赴き、張り込みをしていると銃声が2発轟いた。急いで部屋に駆け込んでみると、当日部屋を購入したヴァンス・キーティングの死体が転がっていた。しかも死体には至近距離から撃たれた痕跡があったが、部屋には誰もいず、そして張っていた部下からは誰もその部屋から出て行った者はいないという話だった。 そして二つの事件に共通するのはどちらも前の持ち主がジェレミー・ダーウェントという老弁護士であり、しかもダーウェント氏が云うには、キーティングの遺産相続人は彼の妻になっているとの事だった。果たして犯人はダーウェント夫妻なのか?密室から消えた犯人の謎と奇妙に絡まる人間関係の糸を解きほぐすべくH・M卿の捜査が始まる。 謎は今回も非常に魅力的で、カー独特のオカルト色は希薄だったが、相変わらず右往左往するストーリー展開に眩まされ、しばし五里霧中に陥った。 読後、しばらくして色々考えると色んな瑕疵があることに気付く。それらをネタバレの欄に思いつくまま書いてみた。 前回の『パンチとジュディ』で推察した、カーなりの読者への挑戦状ではなかったのかについてはその推察が当たっていた事を本作において、更に補強することが出来た。 章の題名に、「この章には、重要な記録が読者の前に提供される」なんて付いているのは初めてだし、しかも最終章に至っては32もの手掛かりについてそれぞれが文中で表現されているページ数まで記載する懲りよう。これはもう読者が云々というよりも、カーの向上心・サービス精神によるところだろう。 しかし本作の事件を推理して当てられる読者がいるのかは不明。私個人としてはまず無理!カー、懲りすぎ!! ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
ロシアの民警ダニーロフとアメリカのFBI捜査官カウリーが国境を越えてコンビを組むダニーロフ&カウリーシリーズ第2弾。不幸な事に第1弾である『猟鬼』は絶版で手に入れることが叶わず、未読。そして本書はその『猟鬼』の真相に存分に触れているというシリーズ読者には親切な作品。
前回の事件で活躍をしたダニーロフはロシア国民には英雄視される一方、モスクワ民警では“便宜には便宜を”図らない清廉潔白な捜査官であったため、約束されていたと見込んでいた本部長の座を格下のメトキンに奪われ、憤懣やるかたない日々を送っていた。 一方、アメリカではロシア大使館員が銃殺されるという事件が起き、続いてスイスの投資会社社長が同様の手口で銃殺される事件が連続して起きていた。事件解明にはロシアの協力が必要と感じたFBIはカウリーを捜査の担当者に任命し、またダニーロフを協力者としてロシア政府に要請した。 アメリカに飛んだダニーロフは再びカウリーとコンビを組む事になったが、意外にも捜査は一向に進まなかった。ロシア大使館の監視の中、ダニーロフは被害者セロフのメモ帳にある符号を見出す。果たしてそれは暗号で、7人のロシア人の名前が浮かび上がる。ようやく得た手掛かりに沸き立つ捜査陣。しかし事件はこの後、ロシアマフィアの恐怖に彩られた戒厳令の下、更に混迷を深めていく。 ダニーロフの人物造形がまず面白い。不当な扱いを受けながらもそれを糧に有能振りを発揮し、上司をいいようにあしらう辣腕ぶりは痛快だ。そしてそれが強固な背骨を持った、やわな虚勢でない事をロシアマフィアとの対話で知る事になる。 またストイックな性格のカウリーは心理学に基づいた尋問をしたり、FBIの最新捜査技術を駆使して、ロシア側だけなら何ヶ月もかかる捜査をあれよあれよという間に進めていく。 無骨ながらも少ない頭髪を気にしたり、友人の妻と浮気をしているロシアの警察官、酒を控え、ストイックなまでに任務を遂行するFBI捜査官。ロシア人とアメリカ人とで比べれば、大方その人物設定は逆になるであろうと思われる。これこそフリーマントルならではの味付けといったところか。 事件の真相はゴルバチョフの時代に起きたクーデターで紛失した2,000万ドルにもなる共産党資金についての争奪戦の様相を深めていく。 ロシアの大使館員とスイスの投資会社社長のパイプ、そしてマフィアネットワークの構築など、話が進めていくにつれ、事は大きくなっていく。 この辺は後に読むノンフィクション『ユーロマフィア』で培った取材に基づくところによるものだろうが、よく考えられている。何しろ破綻が無い。 かつて天敵であったロシアとアメリカがチームを組むが、やはり冷戦の頃の根は深く、お互いが大団円で利益を分け合うようにはいかない。この辺のリアルさが作者の誠実さなのだろう。 ロシアの大使館員が被害者という事で両者のうちダニーロフに関する描写・挿話の比重が高く、カウリーの印象が薄かった。前作『猟鬼』が未読なので不明だが、カウリーについては前作で語られたのかもしれない。もしそうでなければ作者はダニーロフの方が好きなのかも。 色々思うところは他にもある。 例えば上巻のラストでダニーロフがロシア高官の歴々の面前で上司を伴いながら公然と批判するところ。批判だけでなく、証拠無しで本部長罷免の要請をするのだ。ここを読んでたら映画『ア・フュー・グッド・メン』を思い出した。畳み掛ける挑発で証拠無しで自供を勝ち取るあの緊迫感。こういう手法もロシアならではなのか。 あとやはりダニーロフの私生活について、特に愛人と妻との間で揺れる感情の機微について感銘を受けた。歳を取るにつれ、肉体を求める事が無くなり、じわじわと蝕まれるように愛情が損なわれ、破綻していく二人の関係。一方で魅力を増す友人の妻。どきりとするところがあり、思わず我が身を振り返る。幸いな事に自分には浮気や不倫などという事には縁がないが、ふとした時に過ぎるセックスレスの心情などは胸が痛くなる思いがした。 そして意図せず自らが行った親切に無邪気に喜ぶ妻を見た時に訪れる憐憫の情。これは解るなぁ。私自身、大学当時、毛嫌いしていた親父がTVのつまらないギャグで大笑いしているのを見て、「こんなことぐらいしか楽しい事がないのか」と感じたあの感覚。忘れていたあの時のことをふと思い出してしまった。 しかし、全体的に冗漫だと感じた。特にマフィアと繋がっているダニーロフの悪友コソフや上巻で道化師役を割り当てられるメトキンの二人の狂言回しが長すぎる。これもダニーロフの人物像を深めるためのエピソードなのだろうが、なかなか核心に行かず、焦れた。 こういう冗漫さを感じるところが傑作と佳作の壁なのだろう。面白いがその面白さが突き抜けなかったなあ。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
日本推理作家協会賞受賞のこの短編集。しかし私は1作の『空飛ぶ馬』の方を推す。
今回も主人公私が出くわすのは日常の謎だ。それもいつもとちょっとだけ違う違和感に似た現象だ。それらを円紫師匠と私が問答を行うように解き明かすと、人間の心の暗部が浮き上がる。 今回収められた作品は3編。第1編「朧夜の底」では友人正ちゃんのバイト先の神田の大型書店で遭遇する国文学書に対して行われる些細な悪戯が、悪を悪と思わない都合主義な利己心に行きつく。 2編目の「六月の花嫁」はもう1人の友人、江美ちゃんの誘いで軽井沢の別荘に行ったときに起きた、連鎖的消失事件について語った物。チェスのクイーンの駒→卵→脱衣室の鏡と続く消失劇は「私」の推理でその場は一応解決されるが、1年後、江美ちゃんの結婚へと結実する。しかしそこには江美ちゃんが「私」を利用したやましさがあった。 最後は表題作「夜の蝉」。「私」の姉の交際相手、三木さんが新入社員の沢井さんと浮気しているという噂を聞いて、姉は歌舞伎のチケットを三木さんに渡し、待ち合わせをするとそこに現れたのは沢井さんだった。後日喫茶店で3人で話し合ったときに三木さんに「なぜあのような意地悪をするのだ」と叱責される。誰が姉の手紙を沢井さんへ送ったのか?女のしたたかさを感じさせる1編。 今回特徴的なのは『空飛ぶ馬』よりも各編が長くなり、事件が起きるまでに「私」を取り巻く人々の知られていない部分について語ることにページが費やされている。1、2作目はそれぞれ「私」の友人の正ちゃんと江美ちゃんのサークル活動について。3作目は今までほとんど語られる事のなかった「私」の姉との関係について。そして各編で事件が起きるのは1作目では全91ページ中39ページ目、2作目では全80ページ中36ページ目、3作目では全91ページ中37ページ目で。つまり今回の謎は各登場人物を描き出す因子の1つとして添えられているようだ。 純粋に推理だけに終始する物語は好きではないものの、このように謎そのものがメインでない物語も好きではない。逆にもどかしさを感じずにいられなかった。だから私は今作よりも前作の方が日本推理作家協会賞に相応しいと思うのだ。 確かに各編で語られる人間模様、「私」の感性豊かな主張、落語や日本文学について語られる侘び寂び溢れる薀蓄、日本の良さを強く感じさせる品の良い自然描写などどれをとっても一級品でそれら「寄り道」は確かに面白い。 しかし、それらをメインで語るならばミステリでなくて良いわけで、やはりミステリと謳うからには物語の主柱に謎があって欲しいのである。 ところで1作目で「私」にも恋の訪れがあるのかと思わせたがその後の2編では全く出てこない。代わりに2作目では江美ちゃんの結婚、3作目では姉の失恋と続く。 そうか、これはミステリの意匠を借りた恋愛短編集なのかもしれない。しかしそれらは惚れた、振られただのを声高に叫ぶど真ん中の恋愛ではなく、昔の日本人の美徳とされた慎み深く、他人に見せびらかすことない、忍ぶ恋愛だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
マンションの9階から女性が飛び降りる事件が起きた。ドアには鍵がかかっている上にチェーンも掛けられ、完全な密室状態だった。捜査をしていた警察は自殺もしくは事故だとして片付けようとしていた。
しかし向かいのマンションでこの部屋を覗くのが習慣となっていた車椅子の女性、坪田純子は事件が起きた午後9時ごろに室内に男がいるのを目撃していた。 事件が混迷を極める中、女子大生連続殺人事件が発生する。そして飛び降り事件を殺人事件と主張して止まない坪田の家には無言電話が掛かってくるようになっていた。 一切の無駄がない作品。どの事件、エピソードも余すところなくミステリの因子として活用される。おまけに文章も上手く、読み物としてのコクもある。 特に推理の肝となる時間差トリックや犯人の供述の綾などがごくごく自然に書かれており、すっと読まされるために驚きも大きかった。なるほど!と膝を思わず叩いてしまった。この辺の文章の自然さは女子大生の同居人、久保まことの正体や坪田の部屋をノックする人物の消失などの小技トリックにも驚きをもたらす事に成功している。こういう小技が本格ミステリには読書の牽引力として必要なのである。 本作は題名から察するにウィリアム・アイリッシュをモチーフにしており、各章の章題もウィリアム・アイリッシュ(コーネル・ウールリッチ)作品を思わせる(というかその物ズバリもあるが)物ばかりだ。詩のような美麗な文章とまではいかないが、足が地に着いた堅実な筆致は読んでて、信頼めいたものを感じた。 今邑作品は数年前に『i 鏡に消えた殺人者』を読んだが、そちらでも盛り込まれていた最後のオカルト趣向が本作にも盛り込まれているのが嬉しい。 今回は闇へと開かれた古びた扉が描かれた油絵。ここから何者かが飛び出し、所有者を死へいざなうのだ。しかし、やはり『i』を読んでいるだけに二番煎じ感は拭えないのは確か。 この作家、『このミス』や『本格ミステリ・ベスト10』や『週刊文春』など各種年間ミステリランキングにランキングされなかったので、そろそろ離別しようかと思っていたが、作品に漂うミステリ色は私好みのそれなので、考えを改め、今後も付き合っていく事に決めた。 世間よ、今邑彩氏を読むべし!と声高に叫びたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
イギリスの対外情報機関。その建物が四角張った赤レンガ造りのビルで正に工場を想起させる事から通称「ザ・ファクトリー」と呼ばれていた。
「ザ・ファクトリー」の情報工作員が立て続けに潜入先で捕まるという事件を発端に情報工作本部長であるサミュエル・ベルは組織内に二重スパイ(もぐら)がいると睨む。通常ならば内部監察を受けるべきなのだが、そうすれば個人秘書との愛人関係、職務中の度重なる飲酒など自らの乱れた生活が暴かれるのは必至で、地位を追われることは間違いなかった。そこでサミュエルは自ら立てた計画に基づき、「もぐら」を炙り出そうと試行錯誤する。 本作はこの「ザ・ファクトリー」に潜入した二重スパイの捕縛をテーマにした12の連作短編集。その内容は二重スパイの誤認、ロシアからの亡命者の話、潜入中の工作員の救出、ロシアへのスパイ派遣、首相のインサイダー取引疑惑事件、世界的経済壊滅事件、ロシア皇帝の末裔の話などヴァラエティに富んでいる。 それぞれの短編を通して、「ザ・ファクトリー」に勤務する人物達を活写する手際はフリーマントルの職人技が冴え渡っている。財政のスペシャリスト、度胸満々のアラビア語を操るエージェント、暗号解読のスペシャリストなど、実に魅力的。こういった微に細に渡ったエージェントの諜報活動を読むのは、非常に胸を躍らさせ、これぞ読書の醍醐味というのを味わった。 しかし、これら12の短編が1つのテーマを下に語られている割には前半の4編は散文的である。5編目の「もぐら」でとうとうサミュエルがロシアへスパイを潜り込ませるという背水の陣の攻めの一手を打つのだが、それ以降もイギリス首相のインサイダー取引疑惑の話や世界的な経済壊滅危機の話や、テロリストの武器調達源の捜索など、枝葉の話に移るのがバランスを書いているように感じた。確かにこれらは面白い。1つの作品として面白いが連作短編と謳っているのにもかかわらず、最終的に「もぐら」の抽出に寄与していないのが物足りなかった。 作品として面白かったのは「マネー・チェンジャー」、「テロリスト・ルート」、「皇帝の密書」、「尋問」、「暗号破り」の5編。つまり最後の6編中、5編が面白かった。 「マネー・チェンジャー」は先進各国は資源の確保のため、発展途上各国に行う資金投入がエスカレートして債務国の支払能力をはるかに上回るほどの過剰投資となっているという悪循環の内容が非常に興味深かった。これは恐らく事実なのだろう。本当に起こりうる話だというのが怖い。 「テロリスト・ルート」はアラビア語を自在に操る工作員ヘンリー・ミリントンというキャラクターの魅力に尽きる。ヘンリーのスパイとしてのプロフェッショナルさが際立っており、最後の皮肉なラストも小説としてのレベルが高い。 「皇帝の密書」はよくある設定なのだが、こういう始まり方は好き。しかし皇帝の末裔が語る「天下の一大事」の正体がいささか弱い気が。 「尋問」はスパイ活動の非情さを克明に書いた一編。ロシアに侵入したジェレミー・ディーデスに行われる拷問についての詳細な内容は痛々しいし、また「もぐら」で潜入したスパイ、ウィリアム・デイビスの末路も哀しく、ここで打つ手がなくなったと思わせるフリーマントルの小説作法が心憎い。 しかし最後から2番目の「暗号破り」で暗号解読のスペシャリスト、ヘンリー・アクストンの活躍で一気に好転する。これはヘンリーの人物を上手く描くと共に連作短編としての展開も見事だ。 このようにクオリティの高い短編もあるが、今回の評価が低くなったのはやはりラストのどんでん返しによる。サプライズのために用意されていたのだろうが、あれは余計な設定だった。こういうところが職人作家のいらぬサービス精神なんだよなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
結婚式を明日に控えたケン・ブレイクは突然H・Mの要請により、隠密活動を頼まれる。予てより情報部が追いかけていた国際的ブローカー“L”の居場所を現在イギリスに滞在中の元ドイツ・スパイ、ホウゲナウアが知っており、二千ポンドでその情報を売ろうとしているので、その前にホウゲナウアの家に忍び込み、それらの情報を手に入れて欲しいというのだ。
ホウゲナウアの住む町モートン・アボットへ向かい、手違いから現地の警察に追われる身になったケンは苦労の末、ホウゲナウアの住む<カラマツ荘>に辿り着く。しかしその中で観たのは顔に微笑を湛えたまま、息を引き取ったホウゲナウアの姿だった。 道化役を演じたケンの東奔西走する姿が描かれる前半は今までのカー作品と違うドタバタスパイ劇のようで、読者はH・M卿の意図が解らぬまま、ケンと一緒に迷走させられる。やがて物語は大規模な偽札事件へと発展していくのだが、この辺の話は複雑すぎて頭に入りにくかった。 題名の「パンチとジュディ」はドタバタ喜劇の人形劇の名前に由来する。 もう一度読めば、それぞれの事柄について犯人の作為を思い浮かべながら読めるかもしれないが、それは遠慮したい。 ところで18章にて登場人物にさせられる犯人当てはもしかしたらカーなりの“読者への挑戦状”だったのかもしれない。その挑戦に私は敗れてしまったが、果たしてこの犯人を当てられる読者はいるのだろうか?恐らくカーは見破られない自信があったからこそ、今回あえてこのような挑戦状を盛り込んだのはないだろうか。だとしたら、かなりの負けず嫌いだなぁ、カーは。 しかしホウゲナウアとケッペルの殺人事件の真相はちょっとがっかりした。遠距離で起きた2つの同種殺人(どちらもストリキニーネによる毒殺)の謎が非常に魅力的だっただけに残念だった。 この二つの殺人は本作のもっとも際立つ場面であるのに、真相が明かされたら実は単なる物語の末節に過ぎなかったというのが驚いた。これがカーのケレン味なのか?いやはや・・・。 しかし本作で災難なのはケンとイヴリンの二人である。親戚とはいえ、結婚式の前日にこんな困難な仕事を頼むかね~、普通? ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
ネス湖畔の村ティモシーで頭を犬の胴体に縫い付けられている死体が発見された。やがて両手両足、胴体などの他の部位が発見され、それらは巨人が引きちぎったような痕跡があった。
その後第2、第3、第4の殺人事件が起きたが、すべて同じ痕跡のバラバラ死体であった。事件発生では魔神の咆哮が鳴り響く事からモーゼの十戒に登場する魔神ヤーハエの仕業かと思われた。偶々現地に居合わせたスウェーデンはウプサラ大学に留学中のミタライ教授がこの連続殺人事件の謎に挑む。 しかし今回の御手洗物は読書の牽引力が小さく、なかなか読み進めなかった。これは語り役が石岡からバーニーという街の飲んだくれアマチュア作家の手によるものだという手法を取っており、文体も変えていたのが大きかったように思う。 今回も島田氏が提唱する21世紀本格としての大脳生理学と本格の融合がなされている。昏睡状態から目覚めた時の記憶の初期化でそれを基に手記を書いた者の錯覚を上手く利用しているのだ。この辺のアイデアは正に島田氏の独壇場とは思すwうのだが、やはり御手洗が大人しく事件に追従するのが退屈で、カタルシスに届かなかった。 こうして考えてみると、御手洗シリーズは事件の奇抜さや驚天動地のトリックよりも御手洗の強烈な個性が作品の魅力の大半を担っているのだなぁと再認識させられた。 しかし今の本格作家でこのようにシリーズ探偵が海外で活躍し、しかも登場人物が主人公以外全て外国人なんてミステリを書くのは島田氏しかいないだろう。 そう考えるとやはり島田氏は双肩する者のいない孤高の存在なのだ。山口雅也氏の云う「日本本格ミステリのボブ・ディラン」は正に的を射ている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
H.M卿の元に訪れた甥のジェームズ・ベネットはハリウッド女優マーシャ・テートらが集う「白い僧院」と呼ばれる屋敷でクリスマスを過ごす事になったと告げる。その館の主、モーリス・ブーンの脚本がこのたび映画化されることになり、それを祝ってのパーティだった。
その三週間前にマーシャ・テートに毒入りチョコレートが贈られ、あわや毒殺されそうになるという事件が起きていたため、ベネットはこのパーティに不穏な空気を感じていた。 果たして彼が屋敷に着くと、昨晩から降り続いた雪が積もっている中に、別館に向かう足跡が一筋あるのに気付いた。別館の玄関の陰に立っていたモーリスの弟ジョン氏は、別館でマーシャが殺されていると告げた。死亡推定時刻は雪の止んだ午前3時15分なのに、そこには発見者であるジョン以外の足跡はなかった。この奇妙な謎にH.M卿が挑む。 どうして解らなかったんだろう!こんなに簡単な事だったとは。 カーの代表作としてあまりにも有名な本作。確かこの雪の足跡のトリックは数々の推理ゲームの本にも取り上げられていたと思うが、まんまと引っかかってしまった。 18章の最後の一行は靄の中を訳も解らず歩いていたら、すっと一筋の光が差し込んできた感じがして、思わず声を出して唸ってしまった。 そして今までキャサリンかルイーズかどちらか解らない女性が別館を訪れる件も整然と説明され、久々に本格の美しさを感じた。 犯人役は正直納得行かないが、それを補って余りあるロジックの美しさだ。これほどシンプルな内容を11人の登場人物で捏ね繰り回して複雑にするとは、カーは根っからドタバタ喜劇が好きなようだ。 しかし、やはり文章は読みにくい。しかしそれは訳文が悪いというよりもカーの文体それ自体が、回りくどく、しかも改行が少ない1ページ当たりの文字密度の濃さによるところが大きいように思った。上の要約文を書くのに、かなりの付箋を要したのがその証左だろう。 世にはびこる傑作・名作は数あるが、これは確かに傑作の部類に入る。カー最盛期の作品はやはり凄かったと今回認識を改めた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
アメリカ在住のレオナから石岡の許に送られてきた一通の手紙。それは倉持ゆりという女性からのファンレターだった。それは普通のファンレターと違い、亡き祖父倉持平八がレオナにヴァージニア州に住むアナ・アンダーソン・モナハンという女性に謝罪をしていたと伝えて欲しいという内容だった。
暇を持て余していた御手洗と石岡はファンレターに書かれていた箱根の富士屋ホテルのマジック・ルームに飾られていた写真について調査を始める。そこで二人が支配人に見せられた写真は大正8年に山中の湖、芦ノ湖にロシアの軍艦が現れたという不思議なものだった。御手洗は軍艦が現れた謎とその裏に隠された歴史的悲劇を解き明かすことになる。 『暗闇坂の人喰いの木』から『アトポス』まで続いた長厚壮大な御手洗シリーズとは打って変わって、初期の御手洗作品を思わせるような文庫本にして340ページ弱のコンパクトな作品。しかも今回は今まで冒頭で延々と語られていた事件に纏わるエピソードを作品の後半に持ってきたスタイルで、御手洗シリーズの源流であるドイルのホームズシリーズの構成を想起させた。 今回の謎は見え見えであると云ってもいい。幽霊軍艦の謎も物語の2/3の部分に当たる224ページで早くも明かされてしまう。 つまり今回の主題はこのロシア幽霊軍艦の謎を解き明かすことよりも島田氏が21世紀本格として提唱している脳の秘密と本格の融合についての実践にあると感じた。 『眩暈』では悪夢のような実際にありえそうもない手記の内容について論理的にそれら一つ一つを合理的に解決していったが、今回アナという女性が繰り広げる奇行―髪の毛をむしり取る、衝動的な暴力的行為、糞公害やゴミ屋敷―について大脳生理学上の見地から説明を行っている。過去の実例を挙げて非常に理路整然としていて読みやすく、興味深く読んだのだが、今後の本格の行く末について危惧したのも確か。知識ではなく知恵で解き明かす知的ゲームとしての本格が専門的な知識も動員しないと解けなくなるのは寂しい感じがした。 また御手洗の特徴として常人には理解できない奇行があるが、今回もレオナの知人でロマノフ王朝について調べていた在野の研究家ジェレミー・クラヴェルが御手洗の許を訪れて一緒に食事に行く際に馬の毛で作ったブラシを突然買い、頭の薄いクラヴェルに勧めるシーンがある。非常に面白いエピソードだが、これが実に後半有機的に働くのだ。 今までならば御手洗の人物描写として味付けがなされていた奇行さえも本作の真相解明に一役買っていることからも今回の作品が実に贅肉をそぎ落とした作品かが解る。 しかし、このまま行けば本格がますます解けないパズルゲームになってしまいそうだ。これが島田氏の本懐なのだろうか。 知的ゲームとしての本格か、それとも本格の意匠を纏った物語か、うーん、悩ましい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
前作『屍泥棒』で活躍したユーロポールの心理分析官(プロファイラー)クローディーン・カーターを主役に据えた初の長編。
ヨーロッパ各地で起こる連続バラバラ殺人事件。この事件を解決すべくユーロポールは心理分析官クローディーン・カーターを特捜班の一員として抜擢する。特捜班にはフランスのプラール、ドイツのジーメン、卓越たるコンピューターの技術を持つフォルカーとで結成された。 主任担当官であるアングリエは自らの名声を高めるべく、これら特捜班の功績を利用とするのだが、クローディーンの才能が自らの制御力を凌駕している事を認めざるを得ず、忸怩たる思いをしていた。内外ともに敵を作りながらも、それと気付かないクローディーンは着々と事件を解決へと導いていく。 率直に云えば、可もなく不可もない作品。職業作家としてのフリーマントルの職人技で作られた作品という印象が強い。それはこの小説で語られる事象が、ヨーロッパ各地で起こる凄惨な事件と平行して、自殺した夫に関するインサイダー取引疑惑、サングリエのユーロポールにおける自らの優位性を高めるための権謀術数など、色んな要素が絡み合っていることによる。現代の小説では1つの事件について集中的に語り、解決まで至るのはお得感もなく、また単調とみなされがちで、評価も低いだろうが、今回はかえって事件への視点がぶれ、散漫な感じを強く受けた。 あと加えて傲岸不遜なクローディーンのキャラクターがどうしても共感を得ず、辟易してしまった。つまり、主人公に魅力を感じなかったのだ。 それでは小説としての愉悦はないかといえばそうではなくて、特に時折挿入されるクローディーンの母親モニクのエピソード、クローディーンの亡父でインターポールの捜査員だったウィリアムの話などは面白く読めた。 が、ここでクローディーンが気付かされる大人の慎み深さ、謙虚さなどが稚拙すぎた。仲が悪いと思っていた父母の隠された絆の深さ、父親が家族を守るためにどんなに気高かったのか、それらを気付かされるにはクローディーンは歳をとり過ぎているのだ。 というのも心理分析官たるクローディーンがこと父母のことになると彼らの視点で物事を考えられないというアンバランスさが納得いかないのだ(もしかしたらこれが作者の狙いかもしれないが)。 バラバラ殺人事件の真相、アングリエが仕掛けるクローディーンへの罠、クローディーンの母モニクの癌闘病記、亡き父の生き様。 これらこの小説を彩る内容は小説として非常に贅沢な感じを思わせるが、一読者としてはこのうちのどれか一つに黄金が隠されていればその小説の評価は高くなる。しかし冒頭にも述べたように、フリーマントルはこれらについてあまりに職人的すぎた。感銘を受けるには内容が薄いと感じた。 次回以降は、逆に小説巧者としてのフリーマントルの旨みを感じさせて欲しいものだ。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
ケンウッド・ブレークの友人ディーン・ハリディが彼に持ちかけた話とは、自身の邸プレーグ・コートで行われる、亡き兄ジェームズを呼ぶために伯母が呼んだ心霊学者ダーワースが開催する降霊会に参加して、彼のトリックを暴いて欲しいという依頼だった。プレーグ・コートとは1710年にロンドンに蔓延した黒死病の時代に、その病に感染した家族の間で凄惨なやり取りが繰り広げられた呪われた邸で、現在は幽霊屋敷と評されていた。
数々の降霊会でトリックを暴いたと云われるスコットランド・ヤードの警部マスターズとともにプレーグ・コートに赴いたケン・ブレークは降霊会の最中、主催者であるダーワースの殺人事件に出くわす。離れの石室で密室状態の中、殺されたダーワースの傍らには、プレーグ・コートの名の由来となった絞刑吏ルイス・プレージの短剣が落ちていた。捜査は混迷を極める中、ケンは風変わりな役人、ヘンリー・メリヴェール卿に助けを求めるのだった。 HM卿デビュー作の本書。正直、例によって読みにくい文章のため、中盤まではほとんど読後の結果については諦めていた。しかし、世評に名高い本書は、最後に至って複雑な絵図を読者の眼前に晒してくれた。 石室という離れで起こった密室殺人については、実のところ、あまり驚きをもたらさない。これを知らされただけでは本書は凡百のミステリに過ぎない。 しかし、この事件で最も読ませるのは真相で明らかになる複雑な人間関係だ。単純な事件の表層の裏に、かくも込み入った役割分担があったというのが驚き。 最後の真相は面白いが、そこに至るまでの内容・文体にどうしてもノレなかったのでそれを差し引いて評価は7ツ星。もはや私自身がカー作品の(翻訳の)文体に忌避感を抱いているのかもしれない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
読中、この人は一体何者?という思いが頭を覆っていた。
冒頭のプロローグでの原子力発電所の建築現場のシーンにおける建設専門用語の正確さから始まり、原子炉制御システムの専門的な説明はまだしも、科学専門雑誌・専門書の取次会社の業務や、潜入した大学で新しい原子炉のデータを抜き取る際のコンピュータ関係の専門用語、ウラン濃縮技術の話や操船技術、時限爆弾の作り方などそれらこの小説では余技である部分でさえ、微細に渡って描写し、説明するのにはひたすら脱帽。普通の作家なら、それらは省略するテクニックで上手く処理するのだが、この人にはそれがない。しかもそれらが全て専門家と同一レベルの知識なのだからものすごい。更に加えてこれらの知識を一切取材せず、専門書や自らの空想で描くというのだから、ほとんど天才である。 しかし、それらは裏返せば小説としての力の抜きどころがないわけで、読者もずっと力の入った読書を強いられる事になる。この辺が万人になかなか受け入れられにくいところではないかと思う。 さて、物語は三人称の文体を取りつつも、基本的に主人公島田浩二の視点で語られる。 島田はソ連側のスパイ、江口彰彦によって日本に連れてこられたロシア人と日本人とのハーフだった。日本では江口の知人、島田海運の社長、島田誠二郎の息子として育てられ、成長するにつれて江口の弟子としてスパイとして育てられつつも、原発の技術者としても知られるようになっていた。一時期疎遠になっていた二人を再び引き合わせたのは父誠二郎の葬儀の場だった。そこで島田は明らかにロシア人の顔つきをした高塚良と名乗る青年と幼馴染みの日野との再会を果たす。スパイを引退した島田はその日を境にCIA、KGB、北朝鮮、日本公安4つ巴の原発襲撃プラン「トロイ計画」の情報戦の渦中に引きずり込まれるのだった。 髙村氏は書きながらストーリーやプロットを考えるという。この小説はそういう作者の癖が如実に表れているように思った。詳細な日常な描写が続くし、各国スパイの島田への接触が断続的だし、次々と出てくる登場人物の使い方が使い捨てすぎるのが気になった。 特筆すべきはこの作家の脳みその構造の凄さである。まず専門家が素人の発言に驚かされるという描写。この小説では「世界の原子力発電所は戦争・破壊活動を想定して作られていない」、「原子炉の蓋を開けて見てみたい」という発想の斬新さを述べているが、こういう描写は専門家の頭を持っていないとまず思い浮かばない。この作家の経歴には商社勤務の経験しか書かれていず、技術者としての経験はないはずだが、何ゆえこのような発想が思いつくのか、想像を絶する。 それともう一つは隠遁中の江口が島田と行う暇つぶしの方法について。ホテルに篭ってマッサージをしてもらい、お酒をちびりちびりやりながら読書をする、このだらしなさこそが男の至福の寛ぎなのだとのたまうが正にその通り。 これを女性作家に述べられるともう敵わない。作者は男ではないかと疑うのも解る気がする。 あと原子炉の温度制御の数値入力において不適当な数値を入れたとしても1つ1つ綿密に潰していけばシステムは機能するという話はかつて問題になった建屋の構造計算書偽造問題を想起させ、興味深かった。 しかしこれほど緻密な説明や描写、血肉の通ったキャラクターを用意してもその内容はというと、首を傾げざるを得ない。結局原発襲撃は男二人の我侭による壮大な悪戯に過ぎないし、そのために犠牲になった各機関や人生を破滅させられるであろう登場人物が出る事を考えると簡単にこの小説に同意できないのだ。 世にその名が知られる前の作品だからこの辺の浅はかさは目をつぶるべきなのかもしれないが。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
勤めていた水産会社を辞め、田舎で隠遁し、農業で生活する越智省二の許に警察が現れる。越智が前の会社でフィリピンに勤めていたときに一緒に働いていた青年ヒラリオが現地のゲリラの密命を帯び日本に潜入し、水産会社各社を脅迫して大金をせしめているという。
越智にはヒラリオに貸しがあった。命を助けてもらいながら、姉ベラを匿う事が出来ずにフィリピン兵士に捕らえられ、獄中死させたことを悔やんでいたのだ。さらに亡き妻恭子の敵、印南の存在。越智は過去を清算するため、東京へ向かう。 不器用な昭和の男の話である。今の平成の世になかなかいない自分の戒律に忠実に生きる男、越智。彼は常に安直な道よりも茨の道を進む。 久々のシミタツの筆致に酔わせていただいた。ビシビシと胸に残るフレーズ、そして愚直なまでの男と女を書かせたら、抜群に巧い。 苦難の末、印南を捕らえ、亡き妻の墓前で打ちのめす彼の、妻とその両親との話。単なる興味本位で付き合う男女、弘美とヒラリオとの関係に関する述懐―「夢だけ残して気持ちよく別れるには、深く結びつき過ぎているような気がする」は名言だなぁ―。好きな女と結ばれるのにも、過去のしこりを残したままではふんぎれない越智のやるせなさ。これらの越智の台詞にはもうたまらないものがある。平成の現代に忘れられようとしている信義とか仁義がここにある。 とにかく老人と一途な愛、忍ぶ愛に生きる女、そして不器用で決して富裕でないストイックな男がシミタツ作品には極上のスパイスとなっているのだ。 そして携帯電話が無い時代であるがゆえに生まれるサスペンス。こういう不便さが熱い物語を生み出すのだなあとも思った。 そして主人公の視点から見せる訪れるであろう危機に対する客観的な描写も健在。周辺に停まった車、自分が顔を向けると同時に顔を背ける女、よそよそしい管理人の態度などでこれから起こるであろう危機の予兆を見せ、主人公同様の鬱屈とした不安感を誘う筆致を久々に堪能した。 タイトルの『散る花もあり』。散った花は思いの外、大きかった。通常ならばこの言葉は反語表現として使われ、その前には「咲く花もあれば」となるだろう。しかし、ここではあえて逆にしてこう云いたい。 「散る花もあり。やがて咲く花もあり。」 越智は旅立つ。その先にきっと咲く花、美世が待っているはずだ。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
イングランドに点在する数少ない古城。弓弦城もその1つだった。
その主、レイル卿が甲冑が数多く並ぶ甲冑室で殺される。しかも出入り口には城を訪れた複数の客が見守っており、裏口は卿自らが当日釘を打ちつけ、開かないようになっていた。 さらに女中のドリスが部屋から転落死するという事件が起き、終いにはレイル卿夫人も自身の部屋で銃殺されてしまう。偶々旅行で近くに訪れていた希代の犯罪学者ゴーント氏がこの連続殺人事件の謎に挑む。 う~ん、冗長すぎるなぁ。まず物語がイメージとして頭に入り込まない。これは作中でも出てくる城の見取り図がこの小説で示されないことによるところ大きく、大いに問題だ。謎解きもこの見取り図がなければ、作者が語るがままに頷くしかなく、全くカタルシスが得られない。 捜査も回り道が多く、一向に進まない。特に狂言回しとして設定されていた城主の息子フランシスが物語を迷走させ、進行を大いに妨げ、忸怩たる思いがした。 カー作品でもかなり初期の本作。唯一の救いは初期の作品からして、カー独特の語り口と物語設定とオカルト趣味が垣間見えたことか。しかし、それも単に物語を冗長にしているのに過ぎなく、切れを無くしていると思えて仕方がないのだが。 今回のカーの狙いはうだつの上がらない人物が実は極悪非道な人物だったという人間の裏面を見せたことか。しかし、物語の引力が弱いのは否めないなぁ。 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
EU版FBI、ユーロポールに所属するプロファイラー、クローディーン・カーターの活躍を収めた短編集。プロファイリングがテーマとなっているので事件はおのずと猟奇性を帯びたものばかりになってしまう。
スペインを舞台に闘牛を模した連続殺人事件が起こる「最後の被害者」。 パリのセーヌ川に次々と浮かぶダウン症患者の溺死体の犯人を追う「屍泥棒」。 オランダで起きた十字架に磔にされたキリストのような十代の若者の死体が連続する「猟奇殺人」。 コペンハーゲンで行われるプロファイリング捜査の国際会議に出席中に起きるハイジャック事件と直面する「天国への切符」。 ベルリンで続発するセックス産業の元締めとその恋人の惨殺事件を扱った「ロシアン・ルーレット」。 フランスのリヨンの山奥でコミュニティを形成する聖人を自称する男と対決する「神と呼ばれた男」。 ロンドンで起きた切り裂きジャック事件を髣髴する婦女強姦事件を捜査する「甦る切り裂きジャック」。 イタリアで続発する麻薬過剰摂取による若者の死の謎を追う「モルモット」。 世界的に有名な興行主の息子が誘拐された事件を元FBIの私立探偵チームと競い合いながら解決に向かう「誘拐」。 ドイツで相次いだ老人宅への強盗犯罪がナチの亡霊を浮かび上がらせる「秘宝」。 獄中の大実業家が自分の身の潔白を証明するために検察に殴り込みをかけ、事件の洗い出しを要請する「裁かれる者」。 そしてベルギーの富豪の息子である人喰い魔を追う「人肉食い」 これらヴァラエティに富み、しかもヨーロッパ諸国にそれぞれ舞台を変えて展開する物語。こうやって書くとかなり面白く思えるのだが、さにあらず、正味30ページ前後の短編では、シナリオを読まされているような淡白さでストーリー展開に性急さを感じた。なぜこのように淡白に感じるかというと、被害者の描写が単なる結果としか報告されないからで、あまりに省略された文章は読者の感情移入を許さないかのようだ。 あと、ちょうど島田荘司氏の『ハリウッド・サーティフィケイト』を読んだ後では、これら猟奇的事件の衝撃がさらに薄まって、驚きに値しなかった。 全12作の中でよかったのはリアルタイムで事件が進行し、タイムリミットが設定された「天国への切符」と真相が意外だった「モルモット」ぐらいか。 現在ではほとんど手垢のついた題材で新味がないというのは事実。 とにかく読中は小説を読んでいるというより、1話完結のプロファイリングをテーマにした連載マンガを見ているかのようだった。仕事仲間のロセッティとフォルカーと主人公クローディーンとの関係が進展しそうでしないのもちょっと肩透かし。このシリーズはまだあるみたいなので今後に期待するか。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
御手洗シリーズのスピンオフ作品で、今回はハリウッド・スター、レオナ・マツザキが主人公。
LAPDに寄せられた1つのビデオテープ。そこにはハリウッド・スターのパトリシア・クローガーを凌辱し、惨殺する模様が写されていた。このスナッフ・フィルムを取った犯人を探し出すべく、彼女の親友レオナ・マツザキが捜査に乗り出す。しかし、それは光輝く華やかなりしエンタテインメントの頂点ハリウッドとアメリカ合衆国の想像を絶する暗部を垣間見る捜査行の始まりでもあった。 まず最初に云いたいのは、本作は読んでいて気持ちがいいものではない。むしろ読後は食欲と性欲を著しく減じるほどのグロテスクな内容だ。読中、しきりに頭をよぎったのは、「なぜこんな作品を島田氏は書いたのだろう?」という疑問文だ。この疑問に対して自分なりの答えを以下に書いてみる。 恐らく島田氏はエッセイ『聖林輪舞』で取材したハリウッドの内幕と、世紀末から新世紀にかけて関心を抱いて取材を続けている脳科学やDNAなどの遺伝子工学の分野で得た知識を総動員してこの作品を物したものだと思われる。この作品で数多く語られる神の冒涜とも云えるクローン技術やアメリカのアンダーグラウンドで繰り広げられる異様なポルノ・グラフィティの世界は正直云って、読者の食指を動かすものでは決して、ない。知らずにいてもいいことだろうし、恐らく日本のみならず、世界大半の人がその世界の一端にも触れる事なく人生を終えることだろう。 つまり、この作品において島田氏は読者へ娯楽を提供しているのではなく、許されざる悪行が皆の知らないところで繰り広げられている事を啓蒙しなければならないという使命感のみで書き上げたということだろう。 作品の形態は一応ミステリという形をとってあり、サプライズも含んであるから本格の部類に入るのだろうと思うが、個人的には真相は最初の方で解ってしまった。作者が仕掛けたミスリードも惑わすほどの効果はなく、作者の手法の構造が透けて見えたほどだ。しかし、上にも述べたようにこの作品の要素はこのミステリ部分にはなく、作者がミステリ作家であるがゆえにこの形態を採ったに過ぎない。そして、この時期の島田作品の特徴である御手洗潔のカメオ出演(今回も電話の声のみ)もしっかりとあるからファン・サービスも忘れてはいない。 また『暗闇坂の人食いの木』以降の御手洗シリーズの特徴に本筋の話を彩る膨大なエピソードがあるが、今回はケルト民族の神話とあのコナン・ドイルも関係したコティングリー村の妖精騒動がそれに当たる。この辺の物語は今回も無類に面白い。コナン・ドイルに至っては晩年の心霊・神秘研究の話はもとより、かの名作『バスカーヴィル家の犬』が盗作で、本当の作者はドイルが殺したなんていう話も盛り込まれており、今回も非常に愉しめた。 あと気になったのが島田氏の英単語の発音表記。カメラの「ナイコン」、車の「ディムラー」はそれぞれ「ニコン」、「ダイムラー」ではないのかと思う。 それぞれ本当にアメリカではそのような云い方をするのかはこちらが無知で知らないが、「レジュメ」を「レザメ」というのは明らかに間違いだろう。どっかの訛りではないだろうか。あと「ストゥディオ」は「スタジオ」でも十分だろう。 とにかく、この作品は読者を選ぶ作品だ。万人に勧められるものではない。島田作品が好きでなおかつ彼のスピリットに共感できるものでしか勧められない、少なくとも私は。それでもその人が女性ならば勧めないだろうなぁ、絶対。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|
|
||||
|
||||
---|---|---|---|---|
耕平&来夢シリーズ最終巻。第3巻を読んだのが1年前なので、ほとんど主人公以外の設定、登場人物を忘れてしまっていた。作者が作中で過去の作品における登場人物の役割を解説していたので記憶を辿る一助となったが、それでもなお完全には思い出せなかった。
これも作者がシリーズを一気呵成に仕上げない事、そしてこのシリーズのキャラクターや設定に魅力がないことが要因だろう。なぜなら同じ作者の銀英伝シリーズや創竜伝シリーズやアルスラーン戦記シリーズ(うっ、これは間が空きすぎてちょっと自信がないかも・・・)では期間を置いてでもキャラクター、設定が蘇るからだ。 本作は最終巻ということで来夢の忌まわしい因縁に決着をつけるストーリーとなっている。来夢が北本氏と失踪する事件が発生し、耕平の携帯電話に正体不明の人物からの黄昏荘園への誘いを受けて耕平がそこへ向かう。道中で一緒になった小田切亜弓と手を組んで来夢と北本氏の救出劇が始まる。 やはりバランスが悪い作品だと改めて思った。ごく普通の大学生としか思えない耕平に能力以上の設定を授けているという印象が拭えず、ご都合主義的なストーリー展開であると思えずにいられなかった。 なぜこのシリーズがこれほどまでにこちらの意識に浸透せず、浅薄なままで読み終わってしまったのか?この疑問について今回1つの答えを見出した。 作者が絶賛する本シリーズのキャラクターデザインを務めたふくやまけいこの絵と田中氏のキャラクター描写が全くマッチングしないからだ。かなりの美少女で描かれている来夢がふくやま氏の絵だと普通の女性キャラで下手をすれば単なる少年にしか見えない。この辺のアンバランスさが非常に居心地が悪かった。 思えば挿絵のない銀英伝シリーズは置いておくとしても、アルスラーン戦記シリーズの挿絵を手がけた天野喜孝氏、文庫版の創竜伝シリーズのキャラクターデザインを手がけたCLAMPはそれぞれ非常に田中氏の描写に対して忠実であり、いや田中氏の描写を凌駕してかなり強い印象を読者に植え付けているように思うのだ。小説に挿絵をするのなら、この辺の先行するイメージというのがいかに大事かを再認識した。 で、結末はなんとも煮え切らないものとなった。特に今まで問いかけてきた田中氏がこのシリーズで書きたかったジャンルというのはなんだったのかも解らず仕舞い。 こんなの書くより、創竜伝シリーズやアルスラーン戦記シリーズをはよ書いて完結せぃ!というのが正直な感想かな。 ▼以下、ネタバレ感想 |
||||
|
||||
|