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Tetchy さんのレビュー一覧
Tetchyさんのページへレビュー数1433件
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カール・スタンフェウスことスリム・マッケンジーは「薄明眼(トワイライト・アイズ)」という不思議な眼を持っていた。彼は人間に化けたゴブリンの正体を見破る事が出来るのだ。
彼は14歳の時に村で次々と村人を殺していた伯父に化けたゴブリンを殺害し、それ以来ゴブリンを退治する旅を続けていた。やがて彼は旅の途中で見つけたカーニバルに潜り込み、そこの従業員となる。カーニバルの見世物のオーナーの一人である美少女ライアの許で働く事になった彼だが、カーニバルはやがて移動のときを迎える。 次なる街はヨンツダウン。そこはゴブリンが市長、警察本部長を勤めるゴブリンの巣窟だった。ゴブリンどもがカーニバル一行の殺戮をたくらむのを肌身に感じたスリムはゴブリンを一匹、また一匹と殺し、カーニバルを守ろうとするのだが。 4年前に上巻のみ手に入れて、ずっと本棚に眠っていた本作品。このたびようやく絶版となっていた下巻を手に入れて喜び勇んで読んだのだが、4年も待った甲斐が全く無い駄作だった。 物語はゴブリンを見分ける特殊な眼を持つ主人公スリムの一人称で語られるのだが、これが17歳の言葉とは思えないほど、格式張っており、しかも回りくどい表現が多くて、かなり疲れた。作者としてはイメージ喚起を促したつもりだろうが、読み手の方としては感情移入を許さない文体だなと思うことしばしばで、なかなかのめりこめなかった。 ゴブリンが人間に化けて人間を殺していくエピソードの数々はなかなか面白いのだが、これがやはり文体のせいでなかなかのめり込めない。 ゴブリンが戦争時代の生物兵器であるという設定はファンタジーだと思っていた矢先のSFへ転換でおっと思ったが、しかしそれまで。 カーニバルの三つ目の巨人ジョエル・タックを始めとしたフリークスたち、カーニバルの総支配人ジェリイ・ジョーダン、ヨンツダウンに住む老人ホートン・ブルイットなど魅力的な人物が出てくるのだが、物語にどうも活かしきれていない。 しかしこのような結末を迎えるのなら、あえて2部構成にする必要はないのではないか。1部のみで十二分にゴブリンとスリム含めたカーニバル一行との全面戦争を語ることに専念すれば、中途半端な物語にならなかったように思うのだが。 しかし、この内容を是として出版したクーンツもすごいと思うが、版元もすごいと思うわ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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メアリー・ヒュームと婚約したジェイムズ・アンズウェルは彼女の父親に逢いにグロヴナ街の家を訪れた。メアリーの話から、自分に好意を抱いている感触を得ていたジェイムズは、しかしなぜか父親のエイヴォリーから素っ気無い態度で応対されていた。エイヴォリーから出されたグラスに注がれたウィスキー・ソーダを飲んだすぐ後、強烈な眠気に襲われ昏倒してしまう。
約20分後、眼が覚めたジェイムズはそこで矢を突き立てられ、絶命したエイヴォリーを発見する。しかもその部屋には彼ら二人しかいず、窓にはシャッターが下ろされ、扉には戸締りのボールトが掛けられていた。 身に覚えの無い殺人の罪で逮捕された彼を弁護に乗り出すのは、われらがヘンリー・メリヴェール卿。しかし死体発見の状況は彼が犯人である事を示していたが、HM卿は唯一「ユダの窓」が開いていたと云うのだ。果たしてユダの窓とは何か?HM卿は彼の無罪を証明できるのだろうか? まず、今回は物語の展開が非常に面白い。 冒頭の、非常にシンプルな密室殺人について、今までの事件現場に名探偵が登場して、関係者の証言、周囲の状況から推理して犯人を解き明かすのではなく、今回は既に容疑者は逮捕され、起訴されている状況で、裁判で無罪であるのを証明するというスタイルを取っている。しかも被告人側弁護人がHM卿というのが面白いではないか! そして各章の末尾で明らかになっていく新事実。単純に思えた事件が裏では実に複雑に絡み合っていたのを1枚1枚薄衣を剥ぎ取るかのごとく、読者の眼前に示していくストーリー展開は胸躍らされながら読まされた。 その中でも特に印象的なのは10章以降からの展開だ。10章の最後で、被害者のエイヴォリーが娘の婚約者のアンズウェルだけでなく、彼のいとこのレジナルドとも知り合いであり、呼び名の聞き間違いであったという箇所から物語が一気呵成に明らかになっていく。まるで長くだらだらと続いていたトランプゲームの神経衰弱が一気に終末に近づいていくような感覚を覚えた。 ただ不満もある。この物語のテーマである「ユダの窓」の正体がなんともチープだったことだ。本来、刑務所の留置所の看守が覗くシャッター付き窓の事を示すこの言葉だが、期待していただけに肩透かしを食らった感が正直ある。 犯人も今回は意外だった。しかも物語上、この犯人である必然性もかっちりしており、十分納得がいった(今回、話中で登場人物の一人に「どうせ今回も犯人は予想も付かない人物で解るはずのない人なんでしょ」みたいな台詞を吐かせているのがセルフパロディで面白かった)。 『白い僧院の殺人』では読みにくい事件経過にいきなりズドンと打ち込まれた真相にびっくりして、9ツ星だったが、今回は逆にワクワクする事件経過に唸らされ、ユダの窓の正体に失望したために8ツ星という評価だ。 まあ、これがカーらしいといえばカーらしいんだけど。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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1996年7月17日、ニューヨークのロングアイランド沖でTWA800便の旅客機が空中爆発を起こして墜落する陰惨な事故が発生する。当初発表された事故の原因は燃料タンクの給油ゲージの電線から火花が走り、燃料に引火したというものだった。
2001年、ジョン・コーリーは妻のケイトと共にTWA800便墜落事故の5年目の追悼式に出席していた。ケイトは事故当時、調査に当たったFBI捜査官の1人であり、それゆえにこの事故に対する思い入れが深かった。 その席でケイトは200人以上の目撃者の証言の多くが海面から飛行機に向かって走るミサイルのような光の筋を見たと云っていると告げる。それは公の場でCIAの手によって燃料タンクからの爆発による物だと説明はされていたが、目撃者や捜査に当たったケイトを含むFBI捜査官でも腑に落ちない点だった。そして当時、その模様をビデオカメラに撮っていたカップルが存在するとの噂があった。 追悼式の後、ケイトに事件の関係者たちに逢わされたジョンは、ビデオテープを持つカップルの捜索に極秘裏に乗り出す。 題名の意味は『黄昏』。物語の結末にあの事件を持ってきたこの作品にはそれがよく似合う。 今回は1996年に起きたTWA800便の旅客機が墜落した事故の一部始終を収めたと云われるビデオテープの在り処とそれを撮った不倫カップルを捜し当てるのがメイン・テーマとなっている。確かにジョン・コーリーのへらず口は健在で、ページの捲る手がクイクイ進むのだが、物語の牽引力としては設定がいささかパワー不足。 今回もデミルは冒頭の第一部で不倫カップルが存在する事、そしてその撮影にいたる顛末を事細かく描いており、ジョンがそのカップルになかなか行き着かないのに非常にやきもきさせられた。 『王者のゲーム』の時にも書いたが、やはりこの辺のデミルの物語の創作作法に疑問が残るのである。不倫カップルのエピソードは、ジョンがジルに行き着いた時に語れば、効果が高いと思う。ジョンがジルに逢った時はジルの解説付きで、セックスシーンからビデオを見せられるという形で第一部の内容が再度語られるのだが、これが同じ話を二度も読まされているという感じが拭えなかった。 これはやっぱりデミルの失敗だと思う(担当編集者、注意しろよ!というよりも、巨匠過ぎて出来ないのか?)。 物語はこの後の展開を予告するような形で終わるため、非常に興味深い。どうも今作はその次回作のための長大なプロローグのような気がしてならない。でないと、あまりに単調すぎる。 次回作こそ、ベトナム戦争に区切りをつけたデミルが21世紀にして新たに出会った驚異に立ち向かう渾身の作品になるに違いない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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本作は2002年に当初『吉敷竹史の肖像』として刊行された短編集からエッセイや対談などを取り除き、純粋に吉敷シリーズの短編集として編み直した物で、文庫化に際して新作の「電車最中」という短編が書き加えられている。
まず冒頭の「光る鶴」はかつて島田氏が物したノンフィクション大作『秋好事件』をモチーフにした吉敷シリーズの中編だ。 吉敷はかつて逮捕した元やくざの藤波の葬儀に出席するため、福岡の久留米市に赴いた。その告別式で昭島悟と名乗る藤波の生前に親しくしていた若者と出逢う。 26年前に久留米市に近い稲塚という街で一家3人を惨殺した「昭島事件」という殺人事件が起き、彼はその犯人の息子だという。実は父、昭島義明は義父であり、世話になった藤波の頼みで養子縁組を組んでいた。今まで昭島義明は自らが犯人だと認めており、死刑も確定していたが、藤波の強い説得の末、再審請求をしているという。そこで彼は吉敷に父の冤罪を証明して欲しいと頼む。 26年も前の事件の再捜査に難色を示していた吉敷だったが、亡き藤波の熱意に押されるが如く、再捜査に乗り出す。 秋好事件が同じく福岡の飯塚での事件、そして一家惨殺事件である事からかなり類似性が高い。題名の「光る鶴」とは事件当時、駅のホームに捨てられていた赤子の悟の胸に置かれていた銀の折鶴に由来する。これが冤罪の証拠となるのは自明の理だが、相変わらずの吉敷の粘りの捜査が描かれている。 事件の真相は物語中盤で早くも吉敷と昭島との面接から明らかになるが、この作品の意図は昭島義明の冤罪をいかに証明するかに主眼が置かれているので当然だろう。この事件解明は島田の秋好事件に対する願望に外ならない。 続いて「吉敷竹史、十八歳の肖像」は吉敷がいかに警察官になるに至ったかを描いた物語だ。 広島は尾道市の町工場の息子である吉敷竹史は昔から権力を嵩に威張り散らす人間が嫌いだった。C大に合格し、東京に出てきた18歳の吉敷だったが、時は折りしも大学紛争たけなわの時代で吉敷の通う大学も例外ではなかった。 吉敷は学内闘争には加わらなかったが、闘争学生の中の1人、桧枝という学生と親しくなる。桧枝は同い年とは思えぬほどの博識でしかも社会の仕組みを裏側まで知り尽くしているような感じだった。その桧枝がある日、学校のロッカーでリンチ死体となって発見される。学生紛争の混乱から単なる一犠牲者としか扱わない警察に愛想を尽かし、吉敷は単独で犯人の捜索に当たる。 執拗な聞き込みの末、事件前日に犬猿の仲の佐々木という学生に会っていたとの情報を得る。吉敷は佐々木の住所を調べ、実家に赴くのだが・・・。 幼稚園児が快刀乱麻の名探偵振りを発揮する御手洗シリーズを書いた同じ作者とは思えぬほど、この物語は対極にある。つまりここに作者の二つのシリーズの創作姿勢が現れているように思う。吉敷シリーズが極力現実の警察の捜査に即して描く事を主眼にしたリアルなシリーズにあるのに対し、御手洗シリーズは幻想味と奇想をテーマに掲げた一種のファンタジーだという事だ。 あとラストに出てくる最後の宮沢賢治の詩、『雨にも負けず』は、確かに吉敷の人と成りを語るにこれほど雄弁な物はないと感心した。 そしてラストの「電車最中」。 鹿児島県の天文館通りのマンションで市役所の建設企画課長が射殺されるという事件が起きた。鹿児島県警刑事課の留井は捜査を進めるにつれ、一人の容疑者が浮上する。地元の暴力団K山会の幹部、福士健三だった。 彼の犯行である証拠として、死体のズボンの折り返しの裾に入っていた食いかけの電車の形をした最中を福士が買ったことを立証すれば、逮捕は目前だった。しかし、九州中の市電のある県を当たってみたが、そんな物はないという知らせ。捜査を中国・四国地方に拡大したが、同じ結果だった。 焦った留井は捜査を東京を除く市電のある全国各地の都市に広げたが、すべて空振りに終わった。途方にくれた留井はふと数年前の捜査で東京から鹿児島に訪れていた吉敷という刑事の事を思い出す。 まさにこれこそシリーズを読み通した者が得る醍醐味というものだろう。留井が語る数年前の事件とは私の好きな『灰の迷宮』である。電車型をした最中を探す、これだけ単純な捜査にこれほどまでに物語性を持たせる島田氏の手腕に改めて脱帽。いやはやどこからこんな話を拾ってくるのだろうか? そしてこの作品でも御手洗シリーズとの相違がはっきりと書き分けられている。御手洗シリーズのスピンオフ作品では御手洗が電話や手紙での出演だけなのに、あっさりと事件の真相に迫るヒントなんかをアドバイスする超人ぶりを描いているのに対し、本作では吉敷は留井の捜査のお手伝いをするのみで助手に徹している。あくまで事件を解くのは留井である。この辺の身のわきまえ方が私をして御手洗よりも吉敷の方を好きにさせているところなのだ。 そして最後の蛇足ともいえる留井の若かりし頃の東京での恋愛話もまた昭和を語る一つの因子となっている。 今後の島田氏はこういった情の部分を積極的に取り入れるらしい。なんとも嬉しい話ではないか! ▼以下、ネタバレ感想 |
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時は大正時代。まだ西洋文化が日本に入りだして間もない頃、高知市の高等学校で学んでいた健士郎はある決意を胸に夏休みを利用して故郷の櫻が浦に帰省した。
そんな中、1隻の真っ白な異人船が舞い込んできた。それは村の中では災い事の兆候だと云われていた。村で海女をしているりんはいつもの漁の最中に異人船の船長イタリア人エンゾと知り合う。彼は桃色珊瑚を求めて櫻が浦までやってきたと告げ、実際に彼女の眼の前で一財産作れるほどの大きな桃色珊瑚を捕獲する。 一方、櫻が浦の外れにある古びた寺、月夜見寺では流浪の僧侶、映俊が住みついていた。彼はかつて流れ着いた紀州熊野の補陀落山寺で聞いた南にある楽園、補陀落浄土に辿りつくと言い伝えられている補陀落渡海を決行しようと日夜修行に励んでいた。 ある日、りんはいつものように海に潜っていると、海中に漂う白骨を発見する。それは彼女が幼い頃に溺死した母の亡き骸だった。長い間探し求めていた母の骨を引き上げようとしたが、その先にある珊瑚に宿る亡霊の姿を見て、溺れそうになる。 間一髪でりんを助けたのはエンゾだった。しかし、それこそが珊瑚を取り巻く人間の欲望と愛憎が織り成す悲劇の始まりだった。 物語の海原に呑み込まれる、そんなダイナミズムを感じた作品だった。今までの作品が文庫本にして約300ページ強だったのに対し、本作は600ページ弱と約2倍の長さを費やされているが、全く無駄が無い。全てが物語に寄与されている。 全ての登場人物、エピソードが濃厚なため、上の梗概を書くのにどれを語らずにいればよいのかものすごく迷い、かなり時間が掛かった。 物語の主軸となるのはやはり健士郎とりん、イタリアから来た海の男エンゾ、そして櫻が浦の若い漁師連中を束ねる多久馬の4人か。 鰹節工場で一財を成した父親の庇護の下で学問に勤しみながら、父の望む代議士ではなく世界を見ることを望む健士郎。 村で唯一の海女をしながらもやがては誰かの妻となり家を守る将来に違和感を感じつつ、村を捨てる決心がつかないりん。 イタリアの商人に雇われ、世界の港を転々とする人生に嫌気がさし、終の棲家を南の島に求めるために珊瑚を探すエンゾ。 村の若者漁師連中の長としてりんと櫻が浦の海を牛耳ろうと野心を燃やす多久馬。 これらのキャラクターの生命力が行間から溢れ、躍動している。 本作の主人公とされる健士郎は、聖人君子ではなく、己の主張とわがままの境が曖昧な青さの残る若者であり、今回の物語のメインとなる悲劇の原因を起こすのもまた彼だ。決して読者の共感を得られるような人物ではない。 この小説は一種、彼の成長小説だとも云えるが、あくまで若さゆえのエゴ―親の金を使って学問に励み、海外へ出ることの夢を実現しようとしたり、憧れの君であるりんをどうにかして自分の方へ目を向けさせようとする―に任せて突っ走る。特にりんが慕う燻製となったエンゾの死骸を打ち砕くところは、己の愛情の深さとはいえ、決して許される、他人の共感を得られるものではない。しかし、だからこそ、ここにリアルがある。 そして死もまた運命と云うエンゾ―かなりの確率でこのキャラクターは映画『グラン・ブルー』の主役2人をミックスさせてるに違いない―は、個人的にはもっと物語で動いて欲しかったキャラクターだ。しかし、作者はこの人物を後の悲劇のファクターとして使い、再三再四に渡り、かなり酷い使い方をする。 溺れた女性を助けたのを、強姦したと勘違いされ、それがきっかけとなって自身の船を襲われ、仲間を全て殺され、瀕死の重傷を負い、傷が癒えそうになったら、介抱されていた健士郎の嫉妬で逆上した攻撃を受け、傷が再発し、坊主の代わりに海に生贄に出され、終いには死体すら燻製にされ、その死体も健士郎にバラバラにされるのである。ここまで物語の“道具”として使うのかと終始驚いた。 二人の関係の中心となるりんもまた強い女性である。男に負けないほどの気性を持ちながらも男の魅力に負けるりんが、エンゾに対してあれほど深い愛を持つのも頷ける。強い女ほど、惚れた男に尽くすのだ。 そしてこの物語の悪の首領ともされる多久馬。漁師として自然の弱肉強食の摂理を自らの信条として行動する多久馬。他人の物であろうが手に入れれば自分のものであると欲望のままに動く彼もまた印象強い。彼がいたからこそ、この物語がこれほどまでに濃厚となったのだろう。 しかし、忘れてはならないのは本作の陰の主役とも云うべき破戒僧、映俊である。補陀落渡海にかこつけて村人から施しを受け、いざとなったら生贄を差し出し、まんまと逃げ出すしたたかさを持つ。 このキャラクターを最後まで生き残らせたのは作者としてもどこか憎めない性格を気に入っていたのではないだろうか。皆の周りに必ずいる誰かであるとも云うべき存在。そしてこの物語のテーマである浄土の鍵を握る人物である。彼が最後に本当に改悛したのかは怪しいが、またそれも彼の魅力である。 他にも健士郎の父、喜佐衛門や映俊との情事に耽るさえ、りんの父親で船大工の寅蔵など脇を固めるキャラクターも魅力的で、本作はキャラクターに尽きるといってもいい。 もちろん坂東得意のドラマ作りの技量はますます冴え渡っている(特に嵐の中を映俊が多久馬から逃げまどう最中に多久馬の家に迷い込み、妹の八重に見つかるシーン、そして嵐の中で遭難しかかった多久馬が健士郎に打ち砕かれたエンゾの燻製の生首に遭遇するシーンなどはその構成の見事さに唸らされた)。 しかしこれらも全てこのキャラクター達が縦横無尽に動き出したからこの物語が出来たのだと思わずにいられない。題名ともなっている補陀落渡海の方法など、もちろん作者の取材の賜物なのだろうが、まるで物語があり、それを坂東氏が掘り当てたのだとさえ思わずにはいられない。それほど全てが有機的に結びついている。 今まで坂東氏がテーマとして掲げていた伝奇色は確かにある。海で不慮の事故、または虐殺され、無念の思いで死んだ遺体たちが亡霊となって珊瑚にしがみつき、漁師達へ復讐を狙っているという話だ。 しかし今回はそれはあくまで物語の終焉へと向かうべきメインテーマではなく、登場人物たちの行動原理の一因になっているに過ぎない。だから怪奇小説という色合いは薄い。今回は珊瑚が織り成す人生劇場、そういう風に呼びたい。 |
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姉の七回忌で婚約者とともに故郷の奈良は田原本町に帰省した玲は、実家の蔵の中から銅鏡を見つける。それには裏に尻尾を咥え、花びら形にくねらせた蛇が浮き彫りにされていた。
ある日、父親の史郎がその鏡を見て、憤った。七年前、姉が蔵で自殺した時に傍らにその鏡が落ちており、それ以来、禍物(まがもの)として忌み嫌っていたのだった。史郎は古物商をしている玲の婚約者広樹に売り払うよう頼む。しかし玲はなぜかその鏡を手放せなかった。 一方、大学で考古学の助教授をしている田辺一成は田原本町のある斗根遺跡の発掘に従事していた。昔のお堀の痕跡を掘り当てた一成だったが、その花びらが開いたような形のお堀の形からただの集落の跡ではないと直感する。 調査しているうちに田原本町にある鏡作羽葉神社に行き着いた一成はそこで玲と再会する。かつて二人はお互いに恋を抱きながらも恋愛に結びつかずに別れた仲だった。 さらに鏡作羽葉神社では神主の東辻高遠は境内の鏡池から沸き立つような波が発生しているのを発見する。それは過去に2回発生した凶事であり、言い伝えでは蛇神が復活する凶兆とされていた。そんな中、町では蛇神を奉る地方祭が近づいていた。 この人の小説は一筋縄ではいかない。予定調和で決して幕を閉じないのだ。人間の業はまだ終わらないというメッセージが共通して感じられる。 そして、『死国』、『狗神』、この作品と3作品通して共通しているテーマが、死者の再生。失われた者たちが生者の心の隙間を利用して甦ってくるという設定が一貫して、ある。 生を営む者たちが心の奥底に潜ませている愛という名の傲慢さを発揮した時に、再生を虎視眈々と狙っている死せる者達が牙を剥く。そして坂東眞砂子氏はこの生者たちが己の感情の赴くままに犯す過ちを描くのが非常に巧い。 私を含め、すぐ隣にいる誰かが心に孕んでいる感情、それは凡人であるがゆえに説明できない気持ちや想いをこの人は実に的確に表現する。その心理描写は読中、ページを捲る手、文字を追う眼をはたっと止めるほどストレートに心に飛び込んでくる。恰もページから手が出てきて心臓を鷲掴みにされる、そんな感じだ。 今回も読中、思い惑う表現がいくつかあった。いくつかピックアップしてみよう。 ①主人公、玲が自身の性格について語るシーン。 「多弁なのは、(人と喋るのが好きなのではなく)沈黙に耐え切れないからだ」 ②同じく玲が婚約者広樹の性格について語るシーン。 「この人は私を見ようとしていないのだ。(中略)それぞれ、相手への自らの愛情の深さをいとおしんでいるだけ」 ③そして玲が親類の美佳伯母さんの性格を語るシーン。 「気はいいのだが、自分の言動がどんなに他人を傷つけるのかがわからない女だった」 これらを読むとドキッとする。そうそう、こういう人たちっているんだよなぁと思う反面、これは私のことを客観的に表現しているのではないかと。 特に①は私にかなり当てはまる。こういう文章に遭遇するとき、この作者の人間観察の眼の確かさに感心するとともに戦慄が奔る。出来れば逢いたくない、とまで思ってしまう。 またこの作者は実にドラマ作りが巧い。玲が一成と契りを交わした直後に、なかなか電話を掛けてこない婚約者広樹から電話が掛かってくる。そしてその台詞「ひどいな、玲ちゃん」の巧さ!そして首を吊った玲を助けに入るのが一成ではなく、想いが離れつつある広樹である所なんかも巧いなぁと思ってしまった。人物配置と小道具の使い方が非常に巧く、何一つ不自然さが無い。 そして玲と一成の鏡池でのキスシーンの官能的な事!泥にまみれた二人の指が絡まるところは二人の止まらない愛情の激しさが行間から匂い立つようだった。 これほどまでに構成がしっかりしているのに、結末をああいう形で終わらす事に実は私自身、戸惑いを感じているのだ。これこそこの作者の資質なんだろうが、個人的には余計な味付けだと思った。レストランに食事に行き、おいしい料理を堪能した後で、最後に出てきたデザートが陳腐だった、そんな感じがするのである。やはりここはあるべきところに収まって欲しかったなぁ。残念。 あと最後に1つ。人が首吊り自殺した縄を腰に巻くと陣痛が軽くなるというエピソードが作中出てくるのだが、これは本当なのだろうか?もし嘘だとしたら、死と生を弄ぶがごときこの作者の想像力は恐ろしい。 |
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高知の山村、尾峰で和紙職人として暮らす坊之宮美希は41歳にもなるのに、独身だった。彼女にはかつて高校の時に妊娠し、産んだ赤子を死なす辛い経験をしており、それ以来、恋愛や結婚とは無縁の生活を送っていた。
そんな中、隣村の中学校に教師として赴任してきた奴田村晃という青年が美希の前に姿を現す。10以上も歳の離れた二人だったが、似たような孤独感を抱いており、やがて激しい恋の炎が燃え上がる。 しかし、それは「狗神筋」と呼ばれる坊之宮一族が今まで保ってきた村の平穏を打ち破る悪夢の始まりでもあった。 なんとも業の深い物語である。前作『死国』と同じく作者の故郷、高知の山村、尾峰という閉じられた空間を舞台に、昔ながらの風習が息づき、「狗神」を守る坊之宮家とそれらに畏怖の念を抱く村の人々の微妙な関係をしっかりした文体で描いている。 前作『死国』でも感じた日本の田舎の土の匂いまでも感じさせる文章力はさらに磨きがかかっていると感じた。後に『山妣』で直木賞を獲るその片鱗は十分に感じられた。 そして今回は物語の語り方が『死国』よりも数段に上達したように感じた。 まず主人公の美希の人物造形である。この41歳の薄幸の美人の境遇に同情せざるを得ないような形で物語は進んでいくのだが、次第に明かされていく美希の過去のすさまじさには読者の道徳観念を揺さぶられる事、間違いないだろう。 結婚を諦めざるを得ない原因となった高校時代での妊娠。しかしその相手が従兄である隆直だという事実。そしてその隆直が実の兄だったという三段構えで、この美希の業の深さをつまびらかにしていく。 その他にも、物語の前半で美希の人と成りを彩る色んな小道具が、実は美希の業の深さを知らしめるガジェットであることを知らされる。特に美希が毎日手を合わせる地蔵の真相には胸の深い所を抉られる思いがした。この坂東眞砂子という作家は、人間が正視したくない心の奥底に潜む悪意というものを眼前に突き出すのが非常に上手い。「これが人間なのだ」と決して声高にではなく、静かに読者に語りかける。云うなれば、そう、人間が獣の一種なのだという事実、獣が持つ残忍さを秘めている事を改めて思い知らされる、そんな感じがした。 そして坂東眞砂子氏の文学的素養というのも今回確認できた。 まず美希が晃と山中での雨宿りの最中に初めて交わるシーン。これは歴代の日本純文学から継承される恋愛シーンの王道だろう。三島由紀夫氏の『潮騒』を思い出してしまった。 私自身が一番好きなのは晃が美希と結婚することを決意した際に、不審な目で二人を見つめる村人の視線に真っ向から対峙したときに美希が晃を頼もしく思うシーンだ。これは私が結婚を決意する時の心情に似ていたからだ。 「もし世界中の人が俺の敵になっても、こいつだけが俺の味方だったら、それで十分だ」 この思いと等価だからだ。これはストレートに我が胸に響いた。 他にも美希に対しては住みよいとは云い難い尾峰を、美希が好きだというところの台詞、 「ここにおったら・・・、空に飛びだせそうな気がするき」 なんていうのも胸に響いた。 前作『死国』では物語のメインテーマ「逆打ち」を中心に色んな人々が状況に取り込まれていく様を描く、いわゆるモジュラー型の構成を取っているのに対し、今回は美希からの視点のみでしかも尾峰で起こることのみを語っている。このような構成上、前作よりも単調になりがちだと思うのだが、全く物語がだれることなく、終末へ収束していく。全く退屈する事が無かった。 それは前にも書いたように、手品師が一枚一枚、布を捲りながら種明しをするように、徐々に事実を明かしていくその手法によるところが大きい。この構成からも坂東眞砂子氏が格段に進歩したのが如実に解る。 構成といい、文章といい、もっと評価されてもいいのだが、子猫を殺すなんていうスキャンダルのせいで変なところで話題になった作家である。実に勿体無い話だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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カーター・ディクスン名義で発表された作品だが、主人公はおなじみのH・M卿ではなく、短編でおなじみのマーチ大佐の前身であるマーキス大佐。発表当時、エラリー・クイーンの片割れ、フレデリック・ダネイが大幅に削除したそうだが、今回はそれらを含めた完全版である。
引退した元判事チャールズ・モートレイクが自宅の離れで殺害されるという事件が発生した。犯人はモートレイクに重刑を科せられた犯罪者ゲイブリエル・ホワイトだった。仮出所したホワイトが判決の恨みのため、モートレイク宅に押し入り、銃で殺害したというのだった。 現場を現認したペイジ刑事はしかし、事件に不思議な不適合性を発見していた。銃声は2回鳴ったのにもかかわらず、ホワイトから発射された銃弾は1発のみ。しかも室内の花瓶の中から別の銃が見つかり、もう1発の銃声はこの銃からの物と思われるが、室内に銃弾が見つからなかった。そして解剖の結果、モートレイクの体内から発見された銃弾は、2つの銃のどちらでもなく、全く別の空気銃から放たれた銃弾だった。 物語の謎自体、シンプルながら、どこか辻褄の合わない論理の違和感でどんどん話を膨らませていく作品で、読中、セイヤーズの作品を想起した。 今回は登場人物たちがそれぞれ何らかの嘘をついていることがテーマか。嘘をついていることで殺人計画が予想外の方向転換を余儀なくされた結果、2発の銃声に3種類の銃弾が発生するという奇妙な事件を招く。この、どうにもすわりが悪い状況設定を最後に論理で解き明かしていくのは素晴らしい。 今回の作品の特徴として、新たな事実が発覚するにつれ、また新たな謎が生まれる畳み掛けの手法が挙げられる。カーの持ち味とも云うべきこの手法だが、今回はこの畳み掛け方が絶妙だった。 銃声2発に対し、犯人から発射された銃弾は1発→現場で発見された別の銃の意外な持ち主→遺体から摘出された銃弾がその2丁の拳銃のどれでもない第3の銃弾だった→第3の銃の意外な発見場所→奇妙な窓の足跡→第2の殺人の発生、と謎また謎の連続である。 しかも220ページの薄さでこれだけの状況展開を繰り広げられるから物語のスピード感が違う。今までのカー作品の中でも随一の速さを誇っていると思う。 そして今回嬉しかったのが部屋の見取り図がちゃんと付いていた事。コレがあるのと無いのとでは物語の理解度が違う。そして田口氏による改訳により、いつもの時代がかった大仰な表現が鳴りを潜め、非常に読みやすかった。 犯人は今回も意外だった。しかしこれについて衝撃を受けるようなほどでもなかった。ただし、状況は整然と整理され読者の前に提示された。 しかし、やはり窓の足跡については蛇足であると感じた。他者へ疑惑の目を向けるための工作だったが、開かない窓から脱出する足跡という謎は魅力的だったものの、その存在を十分に納得させるだけの論理性は薄弱だと感じた。恐らくダネイはこの部分を削除したのではないだろうか(後で解説を読むと、どうやら削除されたのは登場人物の描写が中心らしい)? しかし御大カーの作品を削除して発表させる事が出来るのはこの人ぐらいだろう。この2人による贅沢なコラボレーションは当時、かなり話題だったに違いない。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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逆打ち―四国霊場八十八ヶ所を最後の礼所から最初の礼所へ逆回りに死者の死んだ歳の数だけ回ると死者が甦ると伝えられている儀式。日浦照子は若くして亡くなった我が子莎代里を甦らせようとこの逆打ちを行った。
一方、幼い頃に高知の矢狗村に住んでいた明神比奈子は矢狗村にある実家の整理という名目で東京での生活に疲れた心身を癒しに訪れた。幼馴染みの日浦莎代里に会おうとしたが、不幸にも亡くなっている事に気付く。 同窓会が行われた際に秋沢文也と再会し、かつての恋心が再燃する。しかしその二人を見つめる“眼”があることにその時はまだ気付かなかった。 当時自分の住んでいる四国を舞台にこれほどまでの土俗ホラーが繰り広げられるのにまず驚いた。寒風山トンネルとか石鎚山とか馴染みのある地名が出てくるので、自分の住んでいるところがとんでもなく恐ろしい死者の地のように感じた。 しかし、この死者を甦らせる逆打ちという儀式、これが本当にあるのか、または言い伝えとして残っているのかは寡聞にして知らないが、このアイデアは秀逸。実際、ありそうだもの。そして素直にお遍路さんを感心して見る事が出来ないようになりそうだ。 この逆打ちを中心に、四国が死者と生者が同居する“死国”となる展開、そして比奈子の実家の管理人、大野シゲの若かりし頃の不倫の話、儀式として四国霊場八十八ヶ所巡りを村の男が順番に行う男の話、植物人間状態で入院している郷土研究家の莎代里の父と介護する看護婦の話、これら全てが逆打ちに同調して収斂する手際は見事だ。 今回読書中、『八つ墓村』とかの昔の日本の映画の雰囲気を思い出した。あの独特の日本人の魂の根源から揺さぶられる恐怖がここにはある。日本の田舎が持つお化け屋敷的な怖さを感じさせる文章力は素晴らしい。 そして映画は未見だが、恐らく莎代里=栗原千秋なのだろう。このキャスティングは見事。イメージぴったりだ。映画も観たくなった。 |
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『占星術殺人事件』を解決した数ヵ月後の話。御手洗の許に高沢秀子という妙齢の女性が訪れる。その人が話すには、友人の折野郁恵という女性が、五稜郭で有名な榎本武揚が当時ロシア皇帝から頂いたダイヤモンドの靴を所有しているという。
最近その折野郁恵さんの様子がおかしくなり、相談に乗っていた時に、雨が降り出したのを見て、突然倒れ、そのまま入院してしまったのだ。郁恵さんの容態が気になり、最近息子夫婦に尋ねたところ、雨が降ったから十字架が無くなり、とんだことになってしまったという謎の答えが返ってきた。そして息子夫婦が最近、教会の前の道路沿いの花壇を衆目の中、掘り出すという奇行をしていたとの事だった。 この一連の奇妙な出来事について、御手洗は大事件が起きていると云うのだった。 御手洗シリーズの、短編小説のような意匠を凝らしたエピソードや、最近の科学技術の話など、そういった肉付けが一切無い、事件のみを語った生粋の本格推理小説だ。 セント・ニコラスのダイヤモンドの靴を巡って『占星術殺人事件』の竹越刑事と事件をもたらした高沢秀子を交え、右往左往する物語で、中身は簡単なのに、なかなか目的のダイヤモンドの靴までに行き着かない。まるで乱歩の通俗小説を読んでいるかのようだった。 事件を第三者の目から当事者の行動を、理解し難い奇行の数々として描くという技法を凝らしており、思わずポンと膝を叩いてしまった。そして逆に島田氏の本格推理物の作り方というのが解ってしまった。 それは、ある行動について、無知の人の目を通して情報の少ない形で語るというスタイル。これが後の説得力ある御手洗の解明に一役買っているのだ。だから読者は作者(ほとんどの場合、それはある登場人物の台詞によって語られる)が語る事象を鵜呑みにせず、その行動そのものを実際に試してみるとよいだろう。特に今回のダウジングなんかはその典型だ。 御手洗物入門書として、長さといい、ストーリーといい、最適の1冊かな。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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スコットランド・ヤードのマスターズ警部宛にある手紙が届く。それはバーウィック・テラス4番地に10客のティー・カップが出現するので、警察の出席を願うという不思議な内容の手紙だった。しかし、2年前、同様の手紙が届いた際、当該場所の建物は空家であるにもかかわらず、什器類が雑然と詰め込まれており、そしてその中に死体があったという事件が起きており、未解決のままでいた。果たしてこの手紙はあの事件の再現なのか?
マスターズは部下を引き連れ、バーウィック・テラスに赴き、張り込みをしていると銃声が2発轟いた。急いで部屋に駆け込んでみると、当日部屋を購入したヴァンス・キーティングの死体が転がっていた。しかも死体には至近距離から撃たれた痕跡があったが、部屋には誰もいず、そして張っていた部下からは誰もその部屋から出て行った者はいないという話だった。 そして二つの事件に共通するのはどちらも前の持ち主がジェレミー・ダーウェントという老弁護士であり、しかもダーウェント氏が云うには、キーティングの遺産相続人は彼の妻になっているとの事だった。果たして犯人はダーウェント夫妻なのか?密室から消えた犯人の謎と奇妙に絡まる人間関係の糸を解きほぐすべくH・M卿の捜査が始まる。 謎は今回も非常に魅力的で、カー独特のオカルト色は希薄だったが、相変わらず右往左往するストーリー展開に眩まされ、しばし五里霧中に陥った。 読後、しばらくして色々考えると色んな瑕疵があることに気付く。それらをネタバレの欄に思いつくまま書いてみた。 前回の『パンチとジュディ』で推察した、カーなりの読者への挑戦状ではなかったのかについてはその推察が当たっていた事を本作において、更に補強することが出来た。 章の題名に、「この章には、重要な記録が読者の前に提供される」なんて付いているのは初めてだし、しかも最終章に至っては32もの手掛かりについてそれぞれが文中で表現されているページ数まで記載する懲りよう。これはもう読者が云々というよりも、カーの向上心・サービス精神によるところだろう。 しかし本作の事件を推理して当てられる読者がいるのかは不明。私個人としてはまず無理!カー、懲りすぎ!! ▼以下、ネタバレ感想 |
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ロシアの民警ダニーロフとアメリカのFBI捜査官カウリーが国境を越えてコンビを組むダニーロフ&カウリーシリーズ第2弾。不幸な事に第1弾である『猟鬼』は絶版で手に入れることが叶わず、未読。そして本書はその『猟鬼』の真相に存分に触れているというシリーズ読者には親切な作品。
前回の事件で活躍をしたダニーロフはロシア国民には英雄視される一方、モスクワ民警では“便宜には便宜を”図らない清廉潔白な捜査官であったため、約束されていたと見込んでいた本部長の座を格下のメトキンに奪われ、憤懣やるかたない日々を送っていた。 一方、アメリカではロシア大使館員が銃殺されるという事件が起き、続いてスイスの投資会社社長が同様の手口で銃殺される事件が連続して起きていた。事件解明にはロシアの協力が必要と感じたFBIはカウリーを捜査の担当者に任命し、またダニーロフを協力者としてロシア政府に要請した。 アメリカに飛んだダニーロフは再びカウリーとコンビを組む事になったが、意外にも捜査は一向に進まなかった。ロシア大使館の監視の中、ダニーロフは被害者セロフのメモ帳にある符号を見出す。果たしてそれは暗号で、7人のロシア人の名前が浮かび上がる。ようやく得た手掛かりに沸き立つ捜査陣。しかし事件はこの後、ロシアマフィアの恐怖に彩られた戒厳令の下、更に混迷を深めていく。 ダニーロフの人物造形がまず面白い。不当な扱いを受けながらもそれを糧に有能振りを発揮し、上司をいいようにあしらう辣腕ぶりは痛快だ。そしてそれが強固な背骨を持った、やわな虚勢でない事をロシアマフィアとの対話で知る事になる。 またストイックな性格のカウリーは心理学に基づいた尋問をしたり、FBIの最新捜査技術を駆使して、ロシア側だけなら何ヶ月もかかる捜査をあれよあれよという間に進めていく。 無骨ながらも少ない頭髪を気にしたり、友人の妻と浮気をしているロシアの警察官、酒を控え、ストイックなまでに任務を遂行するFBI捜査官。ロシア人とアメリカ人とで比べれば、大方その人物設定は逆になるであろうと思われる。これこそフリーマントルならではの味付けといったところか。 事件の真相はゴルバチョフの時代に起きたクーデターで紛失した2,000万ドルにもなる共産党資金についての争奪戦の様相を深めていく。 ロシアの大使館員とスイスの投資会社社長のパイプ、そしてマフィアネットワークの構築など、話が進めていくにつれ、事は大きくなっていく。 この辺は後に読むノンフィクション『ユーロマフィア』で培った取材に基づくところによるものだろうが、よく考えられている。何しろ破綻が無い。 かつて天敵であったロシアとアメリカがチームを組むが、やはり冷戦の頃の根は深く、お互いが大団円で利益を分け合うようにはいかない。この辺のリアルさが作者の誠実さなのだろう。 ロシアの大使館員が被害者という事で両者のうちダニーロフに関する描写・挿話の比重が高く、カウリーの印象が薄かった。前作『猟鬼』が未読なので不明だが、カウリーについては前作で語られたのかもしれない。もしそうでなければ作者はダニーロフの方が好きなのかも。 色々思うところは他にもある。 例えば上巻のラストでダニーロフがロシア高官の歴々の面前で上司を伴いながら公然と批判するところ。批判だけでなく、証拠無しで本部長罷免の要請をするのだ。ここを読んでたら映画『ア・フュー・グッド・メン』を思い出した。畳み掛ける挑発で証拠無しで自供を勝ち取るあの緊迫感。こういう手法もロシアならではなのか。 あとやはりダニーロフの私生活について、特に愛人と妻との間で揺れる感情の機微について感銘を受けた。歳を取るにつれ、肉体を求める事が無くなり、じわじわと蝕まれるように愛情が損なわれ、破綻していく二人の関係。一方で魅力を増す友人の妻。どきりとするところがあり、思わず我が身を振り返る。幸いな事に自分には浮気や不倫などという事には縁がないが、ふとした時に過ぎるセックスレスの心情などは胸が痛くなる思いがした。 そして意図せず自らが行った親切に無邪気に喜ぶ妻を見た時に訪れる憐憫の情。これは解るなぁ。私自身、大学当時、毛嫌いしていた親父がTVのつまらないギャグで大笑いしているのを見て、「こんなことぐらいしか楽しい事がないのか」と感じたあの感覚。忘れていたあの時のことをふと思い出してしまった。 しかし、全体的に冗漫だと感じた。特にマフィアと繋がっているダニーロフの悪友コソフや上巻で道化師役を割り当てられるメトキンの二人の狂言回しが長すぎる。これもダニーロフの人物像を深めるためのエピソードなのだろうが、なかなか核心に行かず、焦れた。 こういう冗漫さを感じるところが傑作と佳作の壁なのだろう。面白いがその面白さが突き抜けなかったなあ。 |
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日本推理作家協会賞受賞のこの短編集。しかし私は1作の『空飛ぶ馬』の方を推す。
今回も主人公私が出くわすのは日常の謎だ。それもいつもとちょっとだけ違う違和感に似た現象だ。それらを円紫師匠と私が問答を行うように解き明かすと、人間の心の暗部が浮き上がる。 今回収められた作品は3編。第1編「朧夜の底」では友人正ちゃんのバイト先の神田の大型書店で遭遇する国文学書に対して行われる些細な悪戯が、悪を悪と思わない都合主義な利己心に行きつく。 2編目の「六月の花嫁」はもう1人の友人、江美ちゃんの誘いで軽井沢の別荘に行ったときに起きた、連鎖的消失事件について語った物。チェスのクイーンの駒→卵→脱衣室の鏡と続く消失劇は「私」の推理でその場は一応解決されるが、1年後、江美ちゃんの結婚へと結実する。しかしそこには江美ちゃんが「私」を利用したやましさがあった。 最後は表題作「夜の蝉」。「私」の姉の交際相手、三木さんが新入社員の沢井さんと浮気しているという噂を聞いて、姉は歌舞伎のチケットを三木さんに渡し、待ち合わせをするとそこに現れたのは沢井さんだった。後日喫茶店で3人で話し合ったときに三木さんに「なぜあのような意地悪をするのだ」と叱責される。誰が姉の手紙を沢井さんへ送ったのか?女のしたたかさを感じさせる1編。 今回特徴的なのは『空飛ぶ馬』よりも各編が長くなり、事件が起きるまでに「私」を取り巻く人々の知られていない部分について語ることにページが費やされている。1、2作目はそれぞれ「私」の友人の正ちゃんと江美ちゃんのサークル活動について。3作目は今までほとんど語られる事のなかった「私」の姉との関係について。そして各編で事件が起きるのは1作目では全91ページ中39ページ目、2作目では全80ページ中36ページ目、3作目では全91ページ中37ページ目で。つまり今回の謎は各登場人物を描き出す因子の1つとして添えられているようだ。 純粋に推理だけに終始する物語は好きではないものの、このように謎そのものがメインでない物語も好きではない。逆にもどかしさを感じずにいられなかった。だから私は今作よりも前作の方が日本推理作家協会賞に相応しいと思うのだ。 確かに各編で語られる人間模様、「私」の感性豊かな主張、落語や日本文学について語られる侘び寂び溢れる薀蓄、日本の良さを強く感じさせる品の良い自然描写などどれをとっても一級品でそれら「寄り道」は確かに面白い。 しかし、それらをメインで語るならばミステリでなくて良いわけで、やはりミステリと謳うからには物語の主柱に謎があって欲しいのである。 ところで1作目で「私」にも恋の訪れがあるのかと思わせたがその後の2編では全く出てこない。代わりに2作目では江美ちゃんの結婚、3作目では姉の失恋と続く。 そうか、これはミステリの意匠を借りた恋愛短編集なのかもしれない。しかしそれらは惚れた、振られただのを声高に叫ぶど真ん中の恋愛ではなく、昔の日本人の美徳とされた慎み深く、他人に見せびらかすことない、忍ぶ恋愛だ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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マンションの9階から女性が飛び降りる事件が起きた。ドアには鍵がかかっている上にチェーンも掛けられ、完全な密室状態だった。捜査をしていた警察は自殺もしくは事故だとして片付けようとしていた。
しかし向かいのマンションでこの部屋を覗くのが習慣となっていた車椅子の女性、坪田純子は事件が起きた午後9時ごろに室内に男がいるのを目撃していた。 事件が混迷を極める中、女子大生連続殺人事件が発生する。そして飛び降り事件を殺人事件と主張して止まない坪田の家には無言電話が掛かってくるようになっていた。 一切の無駄がない作品。どの事件、エピソードも余すところなくミステリの因子として活用される。おまけに文章も上手く、読み物としてのコクもある。 特に推理の肝となる時間差トリックや犯人の供述の綾などがごくごく自然に書かれており、すっと読まされるために驚きも大きかった。なるほど!と膝を思わず叩いてしまった。この辺の文章の自然さは女子大生の同居人、久保まことの正体や坪田の部屋をノックする人物の消失などの小技トリックにも驚きをもたらす事に成功している。こういう小技が本格ミステリには読書の牽引力として必要なのである。 本作は題名から察するにウィリアム・アイリッシュをモチーフにしており、各章の章題もウィリアム・アイリッシュ(コーネル・ウールリッチ)作品を思わせる(というかその物ズバリもあるが)物ばかりだ。詩のような美麗な文章とまではいかないが、足が地に着いた堅実な筆致は読んでて、信頼めいたものを感じた。 今邑作品は数年前に『i 鏡に消えた殺人者』を読んだが、そちらでも盛り込まれていた最後のオカルト趣向が本作にも盛り込まれているのが嬉しい。 今回は闇へと開かれた古びた扉が描かれた油絵。ここから何者かが飛び出し、所有者を死へいざなうのだ。しかし、やはり『i』を読んでいるだけに二番煎じ感は拭えないのは確か。 この作家、『このミス』や『本格ミステリ・ベスト10』や『週刊文春』など各種年間ミステリランキングにランキングされなかったので、そろそろ離別しようかと思っていたが、作品に漂うミステリ色は私好みのそれなので、考えを改め、今後も付き合っていく事に決めた。 世間よ、今邑彩氏を読むべし!と声高に叫びたい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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イギリスの対外情報機関。その建物が四角張った赤レンガ造りのビルで正に工場を想起させる事から通称「ザ・ファクトリー」と呼ばれていた。
「ザ・ファクトリー」の情報工作員が立て続けに潜入先で捕まるという事件を発端に情報工作本部長であるサミュエル・ベルは組織内に二重スパイ(もぐら)がいると睨む。通常ならば内部監察を受けるべきなのだが、そうすれば個人秘書との愛人関係、職務中の度重なる飲酒など自らの乱れた生活が暴かれるのは必至で、地位を追われることは間違いなかった。そこでサミュエルは自ら立てた計画に基づき、「もぐら」を炙り出そうと試行錯誤する。 本作はこの「ザ・ファクトリー」に潜入した二重スパイの捕縛をテーマにした12の連作短編集。その内容は二重スパイの誤認、ロシアからの亡命者の話、潜入中の工作員の救出、ロシアへのスパイ派遣、首相のインサイダー取引疑惑事件、世界的経済壊滅事件、ロシア皇帝の末裔の話などヴァラエティに富んでいる。 それぞれの短編を通して、「ザ・ファクトリー」に勤務する人物達を活写する手際はフリーマントルの職人技が冴え渡っている。財政のスペシャリスト、度胸満々のアラビア語を操るエージェント、暗号解読のスペシャリストなど、実に魅力的。こういった微に細に渡ったエージェントの諜報活動を読むのは、非常に胸を躍らさせ、これぞ読書の醍醐味というのを味わった。 しかし、これら12の短編が1つのテーマを下に語られている割には前半の4編は散文的である。5編目の「もぐら」でとうとうサミュエルがロシアへスパイを潜り込ませるという背水の陣の攻めの一手を打つのだが、それ以降もイギリス首相のインサイダー取引疑惑の話や世界的な経済壊滅危機の話や、テロリストの武器調達源の捜索など、枝葉の話に移るのがバランスを書いているように感じた。確かにこれらは面白い。1つの作品として面白いが連作短編と謳っているのにもかかわらず、最終的に「もぐら」の抽出に寄与していないのが物足りなかった。 作品として面白かったのは「マネー・チェンジャー」、「テロリスト・ルート」、「皇帝の密書」、「尋問」、「暗号破り」の5編。つまり最後の6編中、5編が面白かった。 「マネー・チェンジャー」は先進各国は資源の確保のため、発展途上各国に行う資金投入がエスカレートして債務国の支払能力をはるかに上回るほどの過剰投資となっているという悪循環の内容が非常に興味深かった。これは恐らく事実なのだろう。本当に起こりうる話だというのが怖い。 「テロリスト・ルート」はアラビア語を自在に操る工作員ヘンリー・ミリントンというキャラクターの魅力に尽きる。ヘンリーのスパイとしてのプロフェッショナルさが際立っており、最後の皮肉なラストも小説としてのレベルが高い。 「皇帝の密書」はよくある設定なのだが、こういう始まり方は好き。しかし皇帝の末裔が語る「天下の一大事」の正体がいささか弱い気が。 「尋問」はスパイ活動の非情さを克明に書いた一編。ロシアに侵入したジェレミー・ディーデスに行われる拷問についての詳細な内容は痛々しいし、また「もぐら」で潜入したスパイ、ウィリアム・デイビスの末路も哀しく、ここで打つ手がなくなったと思わせるフリーマントルの小説作法が心憎い。 しかし最後から2番目の「暗号破り」で暗号解読のスペシャリスト、ヘンリー・アクストンの活躍で一気に好転する。これはヘンリーの人物を上手く描くと共に連作短編としての展開も見事だ。 このようにクオリティの高い短編もあるが、今回の評価が低くなったのはやはりラストのどんでん返しによる。サプライズのために用意されていたのだろうが、あれは余計な設定だった。こういうところが職人作家のいらぬサービス精神なんだよなぁ。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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結婚式を明日に控えたケン・ブレイクは突然H・Mの要請により、隠密活動を頼まれる。予てより情報部が追いかけていた国際的ブローカー“L”の居場所を現在イギリスに滞在中の元ドイツ・スパイ、ホウゲナウアが知っており、二千ポンドでその情報を売ろうとしているので、その前にホウゲナウアの家に忍び込み、それらの情報を手に入れて欲しいというのだ。
ホウゲナウアの住む町モートン・アボットへ向かい、手違いから現地の警察に追われる身になったケンは苦労の末、ホウゲナウアの住む<カラマツ荘>に辿り着く。しかしその中で観たのは顔に微笑を湛えたまま、息を引き取ったホウゲナウアの姿だった。 道化役を演じたケンの東奔西走する姿が描かれる前半は今までのカー作品と違うドタバタスパイ劇のようで、読者はH・M卿の意図が解らぬまま、ケンと一緒に迷走させられる。やがて物語は大規模な偽札事件へと発展していくのだが、この辺の話は複雑すぎて頭に入りにくかった。 題名の「パンチとジュディ」はドタバタ喜劇の人形劇の名前に由来する。 もう一度読めば、それぞれの事柄について犯人の作為を思い浮かべながら読めるかもしれないが、それは遠慮したい。 ところで18章にて登場人物にさせられる犯人当てはもしかしたらカーなりの“読者への挑戦状”だったのかもしれない。その挑戦に私は敗れてしまったが、果たしてこの犯人を当てられる読者はいるのだろうか?恐らくカーは見破られない自信があったからこそ、今回あえてこのような挑戦状を盛り込んだのはないだろうか。だとしたら、かなりの負けず嫌いだなぁ、カーは。 しかしホウゲナウアとケッペルの殺人事件の真相はちょっとがっかりした。遠距離で起きた2つの同種殺人(どちらもストリキニーネによる毒殺)の謎が非常に魅力的だっただけに残念だった。 この二つの殺人は本作のもっとも際立つ場面であるのに、真相が明かされたら実は単なる物語の末節に過ぎなかったというのが驚いた。これがカーのケレン味なのか?いやはや・・・。 しかし本作で災難なのはケンとイヴリンの二人である。親戚とはいえ、結婚式の前日にこんな困難な仕事を頼むかね~、普通? ▼以下、ネタバレ感想 |
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ネス湖畔の村ティモシーで頭を犬の胴体に縫い付けられている死体が発見された。やがて両手両足、胴体などの他の部位が発見され、それらは巨人が引きちぎったような痕跡があった。
その後第2、第3、第4の殺人事件が起きたが、すべて同じ痕跡のバラバラ死体であった。事件発生では魔神の咆哮が鳴り響く事からモーゼの十戒に登場する魔神ヤーハエの仕業かと思われた。偶々現地に居合わせたスウェーデンはウプサラ大学に留学中のミタライ教授がこの連続殺人事件の謎に挑む。 しかし今回の御手洗物は読書の牽引力が小さく、なかなか読み進めなかった。これは語り役が石岡からバーニーという街の飲んだくれアマチュア作家の手によるものだという手法を取っており、文体も変えていたのが大きかったように思う。 今回も島田氏が提唱する21世紀本格としての大脳生理学と本格の融合がなされている。昏睡状態から目覚めた時の記憶の初期化でそれを基に手記を書いた者の錯覚を上手く利用しているのだ。この辺のアイデアは正に島田氏の独壇場とは思すwうのだが、やはり御手洗が大人しく事件に追従するのが退屈で、カタルシスに届かなかった。 こうして考えてみると、御手洗シリーズは事件の奇抜さや驚天動地のトリックよりも御手洗の強烈な個性が作品の魅力の大半を担っているのだなぁと再認識させられた。 しかし今の本格作家でこのようにシリーズ探偵が海外で活躍し、しかも登場人物が主人公以外全て外国人なんてミステリを書くのは島田氏しかいないだろう。 そう考えるとやはり島田氏は双肩する者のいない孤高の存在なのだ。山口雅也氏の云う「日本本格ミステリのボブ・ディラン」は正に的を射ている。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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H.M卿の元に訪れた甥のジェームズ・ベネットはハリウッド女優マーシャ・テートらが集う「白い僧院」と呼ばれる屋敷でクリスマスを過ごす事になったと告げる。その館の主、モーリス・ブーンの脚本がこのたび映画化されることになり、それを祝ってのパーティだった。
その三週間前にマーシャ・テートに毒入りチョコレートが贈られ、あわや毒殺されそうになるという事件が起きていたため、ベネットはこのパーティに不穏な空気を感じていた。 果たして彼が屋敷に着くと、昨晩から降り続いた雪が積もっている中に、別館に向かう足跡が一筋あるのに気付いた。別館の玄関の陰に立っていたモーリスの弟ジョン氏は、別館でマーシャが殺されていると告げた。死亡推定時刻は雪の止んだ午前3時15分なのに、そこには発見者であるジョン以外の足跡はなかった。この奇妙な謎にH.M卿が挑む。 どうして解らなかったんだろう!こんなに簡単な事だったとは。 カーの代表作としてあまりにも有名な本作。確かこの雪の足跡のトリックは数々の推理ゲームの本にも取り上げられていたと思うが、まんまと引っかかってしまった。 18章の最後の一行は靄の中を訳も解らず歩いていたら、すっと一筋の光が差し込んできた感じがして、思わず声を出して唸ってしまった。 そして今までキャサリンかルイーズかどちらか解らない女性が別館を訪れる件も整然と説明され、久々に本格の美しさを感じた。 犯人役は正直納得行かないが、それを補って余りあるロジックの美しさだ。これほどシンプルな内容を11人の登場人物で捏ね繰り回して複雑にするとは、カーは根っからドタバタ喜劇が好きなようだ。 しかし、やはり文章は読みにくい。しかしそれは訳文が悪いというよりもカーの文体それ自体が、回りくどく、しかも改行が少ない1ページ当たりの文字密度の濃さによるところが大きいように思った。上の要約文を書くのに、かなりの付箋を要したのがその証左だろう。 世にはびこる傑作・名作は数あるが、これは確かに傑作の部類に入る。カー最盛期の作品はやはり凄かったと今回認識を改めた。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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アメリカ在住のレオナから石岡の許に送られてきた一通の手紙。それは倉持ゆりという女性からのファンレターだった。それは普通のファンレターと違い、亡き祖父倉持平八がレオナにヴァージニア州に住むアナ・アンダーソン・モナハンという女性に謝罪をしていたと伝えて欲しいという内容だった。
暇を持て余していた御手洗と石岡はファンレターに書かれていた箱根の富士屋ホテルのマジック・ルームに飾られていた写真について調査を始める。そこで二人が支配人に見せられた写真は大正8年に山中の湖、芦ノ湖にロシアの軍艦が現れたという不思議なものだった。御手洗は軍艦が現れた謎とその裏に隠された歴史的悲劇を解き明かすことになる。 『暗闇坂の人喰いの木』から『アトポス』まで続いた長厚壮大な御手洗シリーズとは打って変わって、初期の御手洗作品を思わせるような文庫本にして340ページ弱のコンパクトな作品。しかも今回は今まで冒頭で延々と語られていた事件に纏わるエピソードを作品の後半に持ってきたスタイルで、御手洗シリーズの源流であるドイルのホームズシリーズの構成を想起させた。 今回の謎は見え見えであると云ってもいい。幽霊軍艦の謎も物語の2/3の部分に当たる224ページで早くも明かされてしまう。 つまり今回の主題はこのロシア幽霊軍艦の謎を解き明かすことよりも島田氏が21世紀本格として提唱している脳の秘密と本格の融合についての実践にあると感じた。 『眩暈』では悪夢のような実際にありえそうもない手記の内容について論理的にそれら一つ一つを合理的に解決していったが、今回アナという女性が繰り広げる奇行―髪の毛をむしり取る、衝動的な暴力的行為、糞公害やゴミ屋敷―について大脳生理学上の見地から説明を行っている。過去の実例を挙げて非常に理路整然としていて読みやすく、興味深く読んだのだが、今後の本格の行く末について危惧したのも確か。知識ではなく知恵で解き明かす知的ゲームとしての本格が専門的な知識も動員しないと解けなくなるのは寂しい感じがした。 また御手洗の特徴として常人には理解できない奇行があるが、今回もレオナの知人でロマノフ王朝について調べていた在野の研究家ジェレミー・クラヴェルが御手洗の許を訪れて一緒に食事に行く際に馬の毛で作ったブラシを突然買い、頭の薄いクラヴェルに勧めるシーンがある。非常に面白いエピソードだが、これが実に後半有機的に働くのだ。 今までならば御手洗の人物描写として味付けがなされていた奇行さえも本作の真相解明に一役買っていることからも今回の作品が実に贅肉をそぎ落とした作品かが解る。 しかし、このまま行けば本格がますます解けないパズルゲームになってしまいそうだ。これが島田氏の本懐なのだろうか。 知的ゲームとしての本格か、それとも本格の意匠を纏った物語か、うーん、悩ましい。 ▼以下、ネタバレ感想 |
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前作『屍泥棒』で活躍したユーロポールの心理分析官(プロファイラー)クローディーン・カーターを主役に据えた初の長編。
ヨーロッパ各地で起こる連続バラバラ殺人事件。この事件を解決すべくユーロポールは心理分析官クローディーン・カーターを特捜班の一員として抜擢する。特捜班にはフランスのプラール、ドイツのジーメン、卓越たるコンピューターの技術を持つフォルカーとで結成された。 主任担当官であるアングリエは自らの名声を高めるべく、これら特捜班の功績を利用とするのだが、クローディーンの才能が自らの制御力を凌駕している事を認めざるを得ず、忸怩たる思いをしていた。内外ともに敵を作りながらも、それと気付かないクローディーンは着々と事件を解決へと導いていく。 率直に云えば、可もなく不可もない作品。職業作家としてのフリーマントルの職人技で作られた作品という印象が強い。それはこの小説で語られる事象が、ヨーロッパ各地で起こる凄惨な事件と平行して、自殺した夫に関するインサイダー取引疑惑、サングリエのユーロポールにおける自らの優位性を高めるための権謀術数など、色んな要素が絡み合っていることによる。現代の小説では1つの事件について集中的に語り、解決まで至るのはお得感もなく、また単調とみなされがちで、評価も低いだろうが、今回はかえって事件への視点がぶれ、散漫な感じを強く受けた。 あと加えて傲岸不遜なクローディーンのキャラクターがどうしても共感を得ず、辟易してしまった。つまり、主人公に魅力を感じなかったのだ。 それでは小説としての愉悦はないかといえばそうではなくて、特に時折挿入されるクローディーンの母親モニクのエピソード、クローディーンの亡父でインターポールの捜査員だったウィリアムの話などは面白く読めた。 が、ここでクローディーンが気付かされる大人の慎み深さ、謙虚さなどが稚拙すぎた。仲が悪いと思っていた父母の隠された絆の深さ、父親が家族を守るためにどんなに気高かったのか、それらを気付かされるにはクローディーンは歳をとり過ぎているのだ。 というのも心理分析官たるクローディーンがこと父母のことになると彼らの視点で物事を考えられないというアンバランスさが納得いかないのだ(もしかしたらこれが作者の狙いかもしれないが)。 バラバラ殺人事件の真相、アングリエが仕掛けるクローディーンへの罠、クローディーンの母モニクの癌闘病記、亡き父の生き様。 これらこの小説を彩る内容は小説として非常に贅沢な感じを思わせるが、一読者としてはこのうちのどれか一つに黄金が隠されていればその小説の評価は高くなる。しかし冒頭にも述べたように、フリーマントルはこれらについてあまりに職人的すぎた。感銘を受けるには内容が薄いと感じた。 次回以降は、逆に小説巧者としてのフリーマントルの旨みを感じさせて欲しいものだ。 |
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