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バイバイ、エンジェル
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【この小説が収録されている参考書籍】
バイバイ、エンジェルの評価:
書評・レビュー点数毎のグラフです | 平均点4.22pt |
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Amazonサイトに投稿されている書評・レビュー一覧です
※以下のAmazon書評・レビューにはネタバレが含まれる場合があります。
未読の方はご注意ください
全27件 1~20 1/2ページ
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満足 | ||||
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実りある小説 | ||||
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笠井潔「バイバイ、エンジェル」読了。現象学を駆使して難題を克服する矢吹のキャラクターに魅了された。また、ミステリーの真相に潜むまさかの展開に強く引き込まれた。とてもおもしろかった。 | ||||
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ヴィクトル・ユゴー街のアパルトマンの広間で、血の池の中央に外出用の服を着け、うつぶせに横たわっていた女の死体は、あるべき場所に首がなかった。こうして幕を開けたラルース家を巡る連続殺人事件。司法警察の警視モガールの娘ナディアは、現象学を駆使する奇妙な日本人矢吹駆とともに事件の謎を追う。 | ||||
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Amazonで購入させていただきました。 笠井潔さんの矢吹駆シリーズ第1作目です。 ぼくの笠井さん歴は比較的短めで、『オイディプス症候群』(光文社、2002)からです。 『オイディプス症候群』(2002)→『吸血鬼と精神分析』(2011)→『青銅の悲劇』(2010)と来て、第1作である本書に戻りました。かなり変則的です。 本書の内容についてはネタバレになるためあまり詳しくは書けませんが、いやぁ、いい意味でやられました。 こんなに「深くておいしい小説」(©︎三田誠広さん)を読んだのは久しぶりだな、と。 ミステリという意匠と笠井さんの思想がうまく融合しているんですよね。 そして、その「笠井さんの思想」というのが地に足がついている。ご自身の体験=全共闘運動から来ているのでしょう。 「始まりの赤い印」というタイトルの解説で、巽昌章さんはこう書いていらっしゃいます。 「笠井潔は日本の左翼運動が連合赤軍に帰結したことに衝撃を受け、大著『テロルの現象学』で、革命をめざした人間がなぜ虐殺をひきおこしてしまうのかという問題を追求した。作者自身の回想によれば『バイバイ、エンジェル』は、一九七四年から七六年にかけてパリの地でこの長編評論の課題と格闘していた時期に書かれ、ともに「連合赤軍事件という経験の意味をに読み解くためにこそ企てられた」、双子の関係にある小説なのだった。(中略)処女作に作家のすべてが含まれているというのは俗説かもしれないが、この『バイバイ、エンジェル』一篇に笠井潔と推理小説の今日までの関係が畳み込まれているように見えるのは事実である」 どうぞ読んでみてください。魂が震えます。 ぼくはいまから『テロルの現象学』を読んでみることにします。 | ||||
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スペイン動乱のレジスタンスに身を置いていた旧家の名主イヴォン・デュ・ラブナンと彼の小作人である ジョセフ・ラルース。行方不明となったイヴォンを残しフランスに帰国したジョセフはイヴォンから鉱山を 譲られたと主張し、それをもとに巨万の富を築き、ラルース家は戦後のパリで裕福な生活を送っていたが、 ある時スペインからイヴォンを暗喩するイニシャルIから『帰国は近い。裁きは行なわれるだろう。心せよ』 という手紙が届き、パリの高級アパルトマンでラルース家の次女であるオデットと思われる首なし死体が 発見される。 警視の娘であるナディア・モガールは警察とは別に、現象学の覚えがある不思議な日本人の 青年・矢吹駆と競うように事件の真相を調べ始めるが、長男であるアンドレもまた、ホテルの部屋で 爆発物に巻き込まれてしまい……というストーリー。 作者および本作のことはまったく知らなかったのだが、米澤穂信を作った「100冊の物語」に挙げられた 中の一冊に挙げられていたのを機に入手。 描かれる事件の根の深さもさることながら、十代を終え大学生として知識や知恵もつき、いい大人 からしたら滑稽な全能感により、『名探偵皆を集めてさてと言い』という有名な川柳よろしく 自説を披露するナディアの目論見が矢吹駆によって粉々に砕かれるさまは、米澤穂信の 『愚者のエンドロール』に多大なる影響を与えたことを窺い知ることができる。 本作は基本的にナディアの視点で描かれており、矢吹駆が知性溢れたミニマリストという 今まで出会ったことがないタイプの人物ということのみならず、日本人という本来自分たちの 社会に存在せず、かつよく分からない存在がいとも簡単に自分たちの世界を理解し、 本質を見抜く姿に登場人物たちが一種の気味悪さを覚える姿が巧みに描かれている。 | ||||
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推理小説としてはリアルタイムに進行していくものではなく、矢吹が結末を知っており、それが終盤で語られるというものです。 登場人物の見え方がたびたび変わってくるのですが、作品中で何度かおさらいが入り(ヴァンパイヤー外伝2のように)また、本の最初に登場人物の一覧があるのでわかりやすかった。 終盤は推理小説から離れ、革命の意味を登場人物に語らせています。おそらく、これこそ作者が語りたかったものであり、連合赤軍のリンチ事件の真の解釈を狙ったのでしょう。 推理小説としては直接的な証拠はなく、もしも現実でこのようなことをいっても逮捕は出来ないのではないだろうか。(知識不足のため断言は出来ないが) また、熾天使の夏で矢吹は革命を行っていましたが、それゆえの最後の問答なのでしょうか。作者にとって革命に対する答えは得たのか、そこが疑問に残りますね。 | ||||
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現象学に秀でた学生である矢吹駆と、 司法警察の警視モガールの娘であるナディアが、 パリのヴィクトル・ユーゴー街で発生した死体をきっかけに、 謎を解いていくミステリー小説。 とても緻密に書き込まれたロジックは、 なかなか引き込まれました。 本格、と呼ばれるミステリー小説が好きなら、 私よりももっと楽しめる一冊なのかもしれません。 抽象的な概念の話が苦手な読者には、 おすすめでない一冊ですが、 本質直観、などの言葉に好奇心を掻き立てられる読者には、 逆に一読をおすすめできます。 | ||||
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ミステリといえば、海外か?・・・そうかもしれない。 「言ってしまわない美しさ」たしかに海外の小説にはそれがある。 僕はある意味で、日本古来のわびさびの概念は、海外のハードボイルド作家の感覚と通じるところがあるかもしれない、と考えている。 残念ながら昨今の日本の小説、いや娯楽のほとんどがそれと反する「言ってしまう」スタイルに終始している事は、周知すぎる事実だろう。 あまりに言葉的すぎる人間たちが、具体的にすぎる人間たちが、これだけ蔓延しているのである。 短歌や俳句を見ても、自転車、空、生きる、などなどなどなどと言ったあまりに使い古された概念ばかりが酷使され、はっきりとそのまま言ってしまうのかよ、という感想しか抱けない。 浅ましすぎて、この人たちは視えるものしか観ていないのだな、と消沈させられる。 その程度の人間がプロフェッショナルなどと言われ、それなりに給料をもらっているのだ。 この国には自身の時間と命を安月給という名のカンナで削りながら、生きている人間はこれだけ多いというのに、彼ら広義の意味での芸能人は、その中身のない虚無の名前を見せびらかし、芸術家と崇められ甘んじてその蜜を舐めているのである。 その姿は四速歩行動物のそれに似ており、写真機を向けられているというのに、平気でカメラ目線でそれを舐めまわしているという始末なのだ。 「言わない美しさ」「見せない美しさ」 それは一個の孤独が見せる、悲しみの美しさである。 ここに果てしなく豊かで、しかし羊たちにとって永久に所在不明なかくなる城を建設しているのが、何を隠そう「矢吹駆」なのだ。 これをミステリとして読むのはもちろんよろしい。 しかし僕はミステリというジャンルは、いや、あらゆる物の境界を分ける条件は、無いと考える。 ミステリ?そんなものないのだ。その他のものも無い。 あるのは、おもしろさだけだ。 僕は本に、読書にそれしか求めていない。 僕はミステリが好きだ。 しかし、面白いミステリだけだ。 面白い、ということが好きなら、では面白いものはミステリと言えるか? 僕はそう言う。 僕は面白いと思うものをミステリだ、と感じる。 ありがたいことに、今の日本には小池龍之介という仏僧がいる。 そして並びに矢吹駆がいるのだ。 (書くのがめんどうくさくなったので、もう適当に終わらせるとしよう) この本は満点だ。 これに匹敵する本格ミステリ小説は、日本には数える程も無い。 わけのわからない芸能人よりも、僕は笠井潔にお金を回したい。 そう思いませんか? これがおもしろくない、という人間とは、仲良くなりたくない。 では君は何が面白いのだ? 伊坂幸太郎か?村上春樹か? それがわからなければ君自身、何か簡単に詩でも創作してみるといい。 その距離がわかる。 笠井潔も夢野久作も谷崎も、君からは遠くにいるのがわかるだろう。 その一方で、近い場所にいる人間のこともわかるはずだ。 創作とはそれ自体の行為で、あらゆることが「わかる」こと、なのである。 | ||||
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>舞台はパリ。 一度でもその街角をそぞろ歩いた人には懐かしいあのパリが舞台のミステリー小説です。 森有正さんが、あるいは辻邦生さんが語るパリもありますが、 笠井潔さんは奥に隠れて見えにくいフランス上流社会のパリをあらわにします。 そこで、 あの鼻持ちならぬパリジャンたちを痛快にもなで斬りする日本の青年名探偵、 矢吹カケルくんが登場し、猟奇的殺人事件を現象学的直観でみごと解決するのです。 いわく、 <span style="color:#0000FF">「犯罪という事実は、実に複雑な事実が見分け難いほどに絡み合ったひとつの混沌です。 けれども、迷路のように錯綜した意味の連鎖が、どこかある一点に向かって不可避に収斂されているときには、そこに向かって現象学的直観をはたらかせてみるのが有効かもしれません。」 </span> では現象学的直観とは?と問えば矢吹カケル君は、 <span style="color:#0000FF">「それは、どんな人間であってもほとんど無自覚のうちに日常的にはたらかせているような、対象を認識するための機構の秘密をあきらかにしただけのものです。」 </span> といい、三才のの子供でも円の概念を知っていると巧みな例えで現象学を説明します。 事件はパリ十六区の高級アパルトマンで首なしの婦人の死体が発見されるという猟奇的殺人。 名探偵矢吹カケルくんの活躍やいかに、というところですが、 1984年3月の登場以来今日までまさかの三十年におよぶ活躍になろうとは、当時の作者も思い至らなかったでしょう。 | ||||
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出版時期から考えて、試みは早いといえる。 でも、外国にランドセルってあったけ? ランセルがなまったものがランドセル。 もとはリュックのようなもの。 当時そんな細かいことは調べられなかったかもしれない。 そこに著者の性格が表れているようで悲しい。 | ||||
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ミステリ好きで、著者の名前を知らない方は、まずいないと考えてよいでしょう。 ミステリに興味を持ち始めると、必ず著者の名前に突き当たります。 ──などと言いつつ、その著者が、1979年にデビューした本作品を、オジサン化する今日まで読んでいなかったのですから、あまり褒められた話ではないですが、読んでみて、さすが有名なミステリ作家のデビュー作だけのことはあるな、というのが正直な感想。 本作品は、著者の代表的な「矢吹駆シリーズ」の第1作でもあるわけで、なぜか、第2作「サマー・アポカリプス」、第3作「薔薇の女」を読んだことのある私は、この機会にこれらも近く再読しようと考えています。 有名ミステリ作家──と、書いたものの、どこかとっつきにくい印象を持たれてしまうのは、この矢吹駆が、いわゆる「哲学探偵」で、作品内で、別の登場人物と、哲学的論争を繰り広げるという趣向があるからでしょう。 しかし、今回読んだ感触では、そうした「哲学」の部分は、全体的な比率としては、そう多くなく、その部分を完全に理解できなくても、「ミステリ小説」としての面白味は十分に味わえると感じました。 むしろ、「哲学」の部分を除けば、これはれっきとした「本格ミステリ」であり、「本格もの」が好きならば、必ずや満足できるものと思っています。 複数起こる殺人事件のうち、「首無し死体の殺人」と「爆弾による殺人」のふたつの事件に、本格ミステリらしい、トリックが凝らされ、「何故、首無し死体なのか?」や「どうやって爆殺したのか?」といった謎が、説得力のある推理で解明されていきます。 思えば、1970年代は、今では考えられないけれど、推理小説と言えば、「社会派推理」で、「本格もの」は、古臭い探偵小説のイメージを持たれていた時代。 島田荘司が、のちに「占星術殺人事件」と改題した「占星術のマジック」で、江戸川乱歩賞候補になったのが、1980年であることを考えると、本作品が角川小説賞を受賞した1979年というのは、日本に「本格ミステリ」が復活する兆しとして、ミステリ界に大きな意味のある年であったと言えるのではないでしょうか。 | ||||
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矢吹が作中で語られるとおり、様々な事件は大きく2つに分けられる。「自らの欲を満たすための事件」と「憑かれた観念を正当化するための事件」だ。そして事件の真相は後者である。 思想、政治、宗教。あらゆる「観念による犯罪」は、古今東西、いつでも、どこでも、更に虚実も差別することなく起きている。しかし、「観念」には罪もあれば功もある。観念による「犯罪」をこの世から一掃することは、その観念による「芸術」も一掃することになり、ゆえに、「人間」である限りは観念による犯罪は無くならないと矢吹は言っている。 犯罪者に憑いた観念を、矢吹は「悪魔」と称した。ミステリ好きを公言する者なら、「悪魔」を「憑き物」と言い換える者もいるだろう。憑き物と言えば「憑き物落とし」――そう、古本屋の主、中善寺秋彦である。彼もまた、犯罪者に罪を犯させた「概念」を解体することで、事件を考察している。 だが二人には相違点がある。中善寺の周りには人と物があるのに対し、矢吹の周りには必要最低限の人と物しかない。 事件への一貫した立場も異なる。中善寺は、自分が関わることで起こる悲劇を望まない。だが矢吹は、自分の関心に沿って事件を考察し判断し、事件の方向性によっては、関係者に苦渋の選択をさせる立場に追い込むこともする。 まだ『バイバイ、エンジェル』を読んだだけなので、感想はここで一旦終わらせることとする。私の中ではこの時点で、矢吹は事件を解決する「探偵」ではなく、現象学を実践する者――行動する「哲学者」となっている。ゆえに、あらゆる剰余を纏って日々を暮らしている人間にとって、矢吹駆を真に理解することは難しい。だが、矢吹が論じる「現象学」は、現代にも通ずるであろうとは思う。 | ||||
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五月革命の熱が残る陰鬱な70年代のパリ…。 哲学を専攻するフランス人女学生と謎めいた日本人青年の出会い。 ヴィクトル・ユゴー街の不可解な首なし遺体。 洗練された言葉と小細工なしの精緻に仕組まれたトリック。 パリの寒空の下で語られる重圧で観念的な哲学的会話。 単なる脇役にとどまらないパリ警視庁のリアルな描写。 そして・・・最後まで暗示的な言葉を静かに語るミステリアスな探偵役。 およそ本格ミステリに必要な全ての魅力が惜しげもなく詰め込まれたまぎれもない傑作である。 森博嗣は本書を「まるで海外の名作が翻訳されたかのようだ」と絶賛しているが、 正直ジャンルを限って言えば日本人でこれほどの作品が書けるのは笠井をおいて他にはいないだろう。 日本の本格ミステリの優秀な先行作品でありながら、既に規格外とも言える異彩を放っている。 一つ間違えばキャラクターが先行するライトノベルの烙印を押されそうなほどあらゆる登場人物が過剰に際立っていて魅力的だが、 それをさせないほどに推理小説としてのプロットが緻密かつ本格的に仕組まれており、 かつ重圧な哲学的観念がパリの街全体を覆うように深刻な悲壮感を漂わせている。 また、このシリーズの大きな魅力は探偵役である矢吹駆が現象学を用いて事件の本質を直観することにあり、 そしてその過程で実際にポストモダンのフランス系哲学者が登場し、60年代ラディカリズムを継承する矢吹と思想対決を行うことにある。 物語の冒頭からミステリアスな殺人事件とこれら思想面が交差しながら調和していき、 次第に読者は70年代のパリの情景へと誘われていくだろう。 もちろんこのシリーズのハイライトはハイデガーが登場する『哲学者の密室』だろう。 だが、ナディアの語りから始まる冒頭のシーン、 謎めいた矢吹駆の登場シーン、 現象学的推理の披露というシーン展開は第一作目でしか味わえない独特の緊張感があり、 ある意味ではこの作品がシリーズで最も魅力的ではないかと思う。 ヤブキカケルの現象学は観念的なテロリズムを乗り越え、解脱の境地へと到達できるのだろうか。 同時期に書かれた評論『テロルの現象学』と平行して読むことで、 ミステリとしての世界観に厚みが増すだけではなく、60年代から21世紀まで続く社会的問題を一考することも可能な名著である。 読むべき。 | ||||
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マーラーの交響曲『大地の歌』を愛する者には,その引用の存在が興味を引くでしょう。それは福永武彦の『告別』におけるような,重苦しく深刻な主題としてではなく,カケルの性格描写のひとつとして,むしろ戯画的な笑いを誘う要素になっています。どう使われるのかは,読んでからのお楽しみとしますが,その皮肉さと嫌味さ加減に笑わされること請け合いです。文中の『大地の歌』についての説明も的を射ており,笠井氏のマーラー理解の確かさが窺えます。ドストエフスキーの『悪霊』〜埴谷雄高の『死霊』に連なる,革命の理想と陰惨な内ゲバが表裏一体であるとする物語そのものも楽しんで読むことができました。 | ||||
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厳冬のパリ、ラルース家を巡る連続殺人事件に、現象学を駆使する矢吹駆(ヤブキカケル)とルネ・モガール警視の娘ナディアが立ち向かう。 本書の面白さを端的に紹介する上での要点を三つ挙げてみようか。 まず第一点は、情感の豊かさ。語り手ナディアの少女でもなく大人の女性にも成りきれていない瑞々しくもほろ苦い心情描写と、事件が渦巻く 舞台冬空パリの寂寥感抱かせる風景描写の両方があまりに抜群で巧い。一種それが絡み合って行間から滲み出る様なモノを感じさえする。 二点目は、本格推理小説としての十分な顔。アパルトマンで見つかる血の池に転がる首なし死体。従来ある首切断の概念を覆してしまう驚きの 真意や、ホテルでの爆破事件で魅せる二重の意味で堅牢な不在証明が演出する《不可能》などを、読者にしっかり材料を提示した上で《可能》 にしてしまうので、緻密に謎解きに挑戦したい本格ファンも納得の出来。 最後に一番重要なファクターとして存在する、読み手の脳を汗だくにするように横溢する思想。無愛想でいつも憂鬱な微笑を浮かべる東洋人の 青年が語る現象学。小難しい理屈を並べるのでなく絶望的に解り易い例えが沢山あるのが良い。そして革命とは何か?とゆう犯人との思想対決 での息詰まる緊張感も見事。 ただ、もっと端的に素晴らしさを語るなら導入部の妙。現象学の本質直観を論じる序章の件。駆は言う、名探偵は推論の組み立てによって犯人像 を限定する訳ではない。ナディアは問う、では論理的整合性なしに指摘する事が可能なのは何故か。問いの答え「初めから知っていたのさ」... ......最高。。 | ||||
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矢吹駆(やぶきかける)という青年主人公が素晴らしい。一見、少年漫画に出てくるニヒルでハンサムなハードボイルドの探偵を髣髴とさせる。それが、読み進むにつれ、そのイメージが修行中の行者とも、哲学者ともとれるもののように変貌し、更には常軌を逸した審判者のごとき顔さえ見せる。マーラーの大地の歌の口笛を響かせながら、彼は、パリの街を歩む。 ミステリーの側面からいえば、ナディアという魅力的な語り手によって導かれていく推理劇である。ミステリーとして間違いなく、高い水準にある作品である。事件に対する哲学的考察のただなかに、悪魔が相貌を現す。 カケルは、殺人という行為は、生物的な殺人と観念的な殺人に大別される、とする。前者は、自己保存本能に駆られて犯す、巷にありふれた殺人である。観念的な殺人について、観念を悪魔に譬えて、カケルは次のように言う。 これに憑かれて行われる殺人は、人間を生きた道具に使って、なにか人間以外のものが犯す殺人です。つまり、犯人は、彼ではない。彼に憑き、彼を操っているものこそ真の犯人なのです この本の全体が、観念の殺人の解明を目指して書かれたものだとも言える。執筆当時の作者の念頭に置かれたのは、政治的な党派性であった。だが、現在、観念という言葉によって多くの人の脳裡に浮かぶのは、世界の様々な原理主義、あるいは、カルト的な宗教だろう。また、ウルトラ化したエコロジー運動もその一つに違いない。 この本は、当時の作者の思惑を越えて、現在の観念の考察にも大きな示唆を与えてくれる。観念の持つ自己運動性について、些かなりとも懸念を覚えている人にとっては一読の価値がある。 | ||||
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大衆への強い嫌悪から革命家をこころざす者。 そして、現象学的に誰よりも大衆であろうとする矢吹駆。 双子のような存在の両者は、出会い、すれちがい、やがて永遠の別れを迎える運命です。 一方、裏でそのような物語が展開されているとも知らず、表の主人公と言うべきナディア・モガールは、無邪気な探偵ごっこに熱を上げたり、新しい恋人に夢中になったり、スキー行ったりパーティー行ったりと、青春を満喫していました。 しかし物語の裏と表が合流するとき、彼女もまた、少女ではいられなくなるのです。 なにより残酷なのは、矢吹駆を事件にかかわらせることで、ある意味最悪の結末を導いてしまったのが、ほかならぬナディア自身であるという事でしょう。彼女は、自分の目に映るだけの世界に、満足できなかったのです。苦い話だと思う。 女の子探偵がこっぴどくしてやられるという構図は、アンチ赤川次郎のようにも思えました。 | ||||
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〈首無し屍体〉=犯人と被害者の入れ替わり、という推理に対し、 探偵小説風の臆断と一蹴する探偵役の矢吹駆。 ミステリのガジェットに対する「意味沈殿」を指弾されるのは、 マゾヒスティックな快感があります。 そして、本作のクライマックスである駆と犯人との思想対決の場面。 自己内対話の具象化ともいえるこのシーンでは、正義や理想といった 理念が、いかに倒錯していくかの過程が自己解体されていきます。 〈この世界では天使だからこそ地獄に堕ちることになる〉 駆が最後に残すこの言葉は、失われていく彼の「半身」に向けた弔辞なのです。 | ||||
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〈首無し屍体〉=犯人と被害者の入れ替わり、という推理に対し、 探偵小説風の臆断と一蹴する探偵役の矢吹駆。 ミステリのガジェットに対する「意味沈殿」を指弾されるのは、 マゾヒスティックな快感があります。 そして、本作のクライマックスである駆と犯人との思想対決の場面。 自己内対話の具象化ともいえるこのシーンでは、正義や理想といった 理念が、いかに倒錯していくかの過程が自己解体されていきます。 〈この世界では天使だからこそ地獄に堕ちることになる〉 駆が最後に残すこの言葉は、失われていく彼の「半身」に向けた弔辞なのです。 | ||||
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