青銅の悲劇 瀕死の王
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青銅の悲劇 瀕死の王の総合評価:
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全1件 1~1 1/1ページ
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矢吹駆日本編第1作!駆の代わりに日本に来たナディアが探偵役に。「誰が鷹見澤家当主、信輔にアコニチンを混入することができたのか?」という単純にして難解な問題を徹底的に推論を重ねていく「論理小説の臨界」!駆不在でも傑作! | ||||
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この本は、分厚い。 700ページくらいだろうか。 前作の「哲学者の密室」も同じくらいだったような気がする。 知っている人は知っているが、知らない人は知らない「矢吹駆」シリーズの、日本バージョン第一作に位置付けられている。 矢吹駆シリーズは、第一作の「バイバイエンジェル」、第二作の「サマーアポカリプス」以来、すべて読んでいる。 第一作が1980年代初期であったことを考えれば、このシリーズもすでに30年近く続いているいことになる。 この小説は、いわゆる「本格派」に属する。 本格的とは何かといえば、本格派の探偵小説ということである。 本格派とは、いわゆるトリックなどを駆使した謎解き型の探偵小説のことで、最近の宮部みゆきや大沢在昌などのいわゆるミステリーとはことなるジャンルに属する。 コナン・ドイルのシャーロックホームズや、エラリー・クインの作品、そしてアガサ・クリスティなどの作品が古典とされる。 ぼくも中学生から高校生までは夢中に読んだ。 ただ、成人するに従い、あまり本格派は読まなくなった、 緻密で論理を駆使したトリックとその謎解きよりも、人の世の現実を描いた方が謎が多い、という現代ミステリーの立場に惹かれたからに他ならない。 けれども、唯一、読み続けてきたのが、この笠井潔の矢吹駆シリーズなのである。 理由は、さて、何だろう。 そこで展開される観念劇に、同じ元左翼として何かしら共感というか、引き込まれるものがあったのかもしれない。 それはともかく、本作品は矢吹駆シリーズと銘打ちながら、矢吹本人はまったく登場しない。 思わせぶりな、巻頭言とともに、この分厚い著作が、さらに大きな物語の一部であることが示唆されている。 そして、この作品の中で、探偵小説論が語られているのが興味深い。 というか、もともと、矢吹駆は、現象学的本質直観で、謎の多い殺人事件を解決してきたということになっている。 それらの作品群を読み続けながら、現象学的本質直観が、推理の手法として有効というのは、どうしても理解できなかったのだけれども、それ自体が小説的手法にしかすぎなったと思わせるような記述も見られ、そこが興味深かった。 種明かしを少し、という感じだろうか? ただ、この種明かしが、また次の大きな物語の伏線になっている可能性もあって、そこがこの作者の油断ならない性格でもあるのだけれど。 この作品、以前の作品を読んでいなければ、面白さは半減以下。 何とも因果な小説であることだけは間違いない。 | ||||
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この本は、分厚い。 700ページくらいだろうか。 前作の「哲学者の密室」も同じくらいだったような気がする。 知っている人は知っているが、知らない人は知らない「矢吹駆」シリーズの、日本バージョン第一作に位置付けられている。 矢吹駆シリーズは、第一作の「バイバイエンジェル」、第二作の「サマーアポカリプス」以来、すべて読んでいる。 第一作が1980年代初期であったことを考えれば、このシリーズもすでに30年近く続いているいことになる。 この小説は、いわゆる「本格派」に属する。 本格的とは何かといえば、本格派の探偵小説ということである。 本格派とは、いわゆるトリックなどを駆使した謎解き型の探偵小説のことで、最近の宮部みゆきや大沢在昌などのいわゆるミステリーとはことなるジャンルに属する。 コナン・ドイルのシャーロックホームズや、エラリー・クインの作品、そしてアガサ・クリスティなどの作品が古典とされる。 ぼくも中学生から高校生までは夢中に読んだ。 ただ、成人するに従い、あまり本格派は読まなくなった、 緻密で論理を駆使したトリックとその謎解きよりも、人の世の現実を描いた方が謎が多い、という現代ミステリーの立場に惹かれたからに他ならない。 けれども、唯一、読み続けてきたのが、この笠井潔の矢吹駆シリーズなのである。 理由は、さて、何だろう。 そこで展開される観念劇に、同じ元左翼として何かしら共感というか、引き込まれるものがあったのかもしれない。 それはともかく、本作品は矢吹駆シリーズと銘打ちながら、矢吹本人はまったく登場しない。 思わせぶりな、巻頭言とともに、この分厚い著作が、さらに大きな物語の一部であることが示唆されている。 そして、この作品の中で、探偵小説論が語られているのが興味深い。 というか、もともと、矢吹駆は、現象学的本質直観で、謎の多い殺人事件を解決してきたということになっている。 それらの作品群を読み続けながら、現象学的本質直観が、推理の手法として有効というのは、どうしても理解できなかったのだけれども、それ自体が小説的手法にしかすぎなったと思わせるような記述も見られ、そこが興味深かった。 種明かしを少し、という感じだろうか? ただ、この種明かしが、また次の大きな物語の伏線になっている可能性もあって、そこがこの作者の油断ならない性格でもあるのだけれど。 この作品、以前の作品を読んでいなければ、面白さは半減以下。 何とも因果な小説であることだけは間違いない。 | ||||
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昔新左翼の理論的指導者だった為に、今でもアメリカの入国に苦労するそうですが、 数少ない本物の小説家だ。 | ||||
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率直に言って退屈である。出来事の発生や登場人物の行動よりも、その出来事についての検討の方に大半の紙幅が費やされて、読者は誰がどのようにして毒殺を試みたかの小田原評定に否応なく付き合わされる破目になる。およそ文字で表現するには不適当な犯罪状況が、瓶AだのBだの、αだのβだのという記述において果てしもなく考察され続けるくだりには心底うんざりする。 その考察の過程が「論理」であることは認めるが、読者は「学ぶ」つもりで本書を手にしたわけではない。エンタテインメント性に背を向けたこのような物語を、一体全体なぜ笠井は書こうと思ったのか。小森健太朗の解説によれば、これは〈後期クイーン問題〉に挑戦したものであり、「探偵の解決が真の解決であるということは証明不可能である」という問題への挑戦であるらしいが、で? それがどうしたの? という感想しか持てない。 「物語」は「現実の記述」ではないし、「作者の頭の中にしか存在しない世界についての報告」でもない。したがって探偵の解決以外の「真の解決」なるものがどこかにあるわけではない。あるとすればそれは、読み終えた読者の「物語を巡る思い」の中にのみ、である。「もしかしたら真相は……ではなかったか」という感想は、唯一読者のものである。作者がそうした思いを抱いたならば、それは物語中に(たとえ暗示的にであるにせよ)示されねばならないからだ。また逆に、探偵が「真の解決」をできないのであればそれはもはや探偵小説の体を成していない。 それゆえ〈後期クイーン問題〉などありはしない。この問題はひとえに、作中の世界を確固とした存在世界と混同するところに生じる。 であるから、緻密ではあるが退屈な論理の構築においてその問題を突破しようとした笠井の試みは、小森の言うように「壮大なる論理の大伽藍」ではあるがしかし、その基礎部分は砂でできているのである。 加えて「事件とは関係の薄い、学生運動に関する告白と懺悔」も鬱陶しい。笠井も含めて、その渦中にいた人々は機会を捕まえては「あの情熱とその崩壊」について口にしたがるのだが、そこに欠けているのは「行動主義」「体験主義」への反省であろう。経緯を見れば学生運動と1995年のあの宗教団体の事件は見事に相似形である。その相似性を形作っているのは上記主義であるだろうからだ。 | ||||
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本書の帯には、日本篇の第一作と記されている。しかし、印象としては、第一章というほうが適当なように見える。 語り手は、作者を想わせる小説家宗像。関東地方の鈷室山に出自を持ち、深い繋がりを持つ鷹見澤と北澤の二家。鷹見澤家は、古来一族の祀る鈷室神社の代々の神主を務め、北澤家は、現在日本有数の財閥を支配している。そこに一族の、かつての前衛画家にして現役の警察キャリア官僚、警察署長の蜜野、大学の教員となるナディア・モガール、画家にして北澤家の娘雨香と息子響が絡む。小説家宗像の作家となった経緯も語られる。雨香の双子の風視の周囲から立ち昇ってくる矢吹駆の影。その他登場人物には事欠かず、その人間像は未だ語られざる側面が多い。 昭和が終わる、天皇が死ぬ、ということも、これだけ? の感がある。「鈷室」という名辞も、天啓教も、まさかこれだけが出番だということはないと思うが。ありとあらゆることに、これはどうなるの? という思いが湧く。 事件がらみの部分では、時刻表トリックと同じで、とてもいちいちの事実を追う気にはならなかった。前提の設定で、推論はいくらでも成り立つということは自明であるし、前提の繰り込みの制限がなければ確定的な結果が得られないということも当然のことと思う。この小説中の推論の部分の量は、類書中最大に近いに違いない。『虚無への供物』を思い出した。とはいえ、推理を楽しめなかったわけではない。論理代数のような部分ではない、いくつかの発想の点では、面白かった。 シリーズものとして考えると、主人公が登場しない点に関して、? と感じるが、総てが導入部と考えると、日本篇の大きさに大いに期待して、まあ、いいか、と思ってしまった。 | ||||
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